|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マッカ・ムカッラマ(メッカ州)
(サウジアラビア王国西部地方) その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ (1-5 ヨーロッパ人による近代ジェッダの紹介)
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
目次 1. 十八世紀探検家および旅行者の記述 1.1 ウィリアム ダニエル(William Daniel) 1.2 チャルル ジャック ポンセ(Charles Jacques Poncet) 1.3 コジャ アブドル カリム(Khoja Abdul Karim) 1.4 モロッコ人の巡礼アイヤシ(al-Ayyashi) 1.5 カルステン ニーブール(Carsten Niebuhr) 1.6 ジェームズ ブルース(James Bruce) 1.7 チャールズ ニューランド船長(Capt. Charles Newland) 1.8 ヘンリー ルック(Henry Rooke) 1.9 東インド会社操業から得た情報による記述 2. 十九世紀前半の探検家および旅行者の記述 2.1 ジェームス ホルスバーグ(James Horsburgh) 2.2 ヴァレンシア卿(Lord Valentia) 2.3 ドミンゴ バディア イ レブリシュ(Domingo Badía y Leblich) 2.4 ウルリヒ ヤスパー ゼーッツェン(Ulrich Jasper Seetzen) 2.5 イタリア人ジョバンニ フィナティ(Giovanni Finati) 2.6 ジェームズ シルク バッキンガム(James Silk Buckingham) 2.7 ヨハン ラドウィグ ブルクハルト(Johann Ludwig Burckhardt) 2.8 ジョージ ファースター サドラー大尉(Captain George Forster Sadleir) 2.9 ドイツ人科学者のエドウアルト ルッペル(Eduard Rüppel) 2.10 ジェームス R. ウエルステッド中尉(Lieut. James R. Wellsted) 2.11 モーリス タミシエ(Maurice Tamisier) 2.12 セオフィル ルフェーヴル(Thèophile Lefebvre) 2.13 ガリニエ大尉(Captain A. Galinier)とフェレ大尉(Ferret) 2.14 ロシェ デリクール(Rochet d'Héricourt) 3. 十九世紀後半の探検家および旅行者の記述 3.1 リチャード フランシス バートン(Richard Francis Burton) 3.2 シャルル ディディエ(Charles Didier) 3.3 フランス陸軍少佐スタニスラフ ラッセル(Stanislas Russel) 3.4 ハーマン ビックネル(Herman Bicknell) 3.6 ジョン フライヤー キーン(John Fryer Keane) 3.7 チャールズ モンタギュー ダウティ(Charles Montague Doughty) 3.8 デニ ドゥ リボワール(Denis de Rivoyre) 3.9 ゲルハルト ロールフス(Gerhard Rohlfs) 3.10 シャルル ウベール(Charles Huber) 3.11 クリスチアン スノウク フルグロニェ(Christian Snouck Hurgronje) 3.12 エジプト医師サーレ ソウッビ(Saleh Soubby) 3.13 ジェルヴェ クールテルモン(Jules Courtellemont) 3.14トーマス エドワード ローレンス(Thomas Edward Lawrence) 付属書 ポンセ(Poncet)のジェダ(Jiddah)に関する記録 ニーブールの旅の物語 ヘンリー ルックの幾つかの手紙 ミルバーン著の「東洋交易(Opriental
Commerce)」からの抜粋 ヴァレンシア卿の航海・旅行記 アリ ベイ(Ali Bey)の1803年から1807年の間の旅行記 ブルクハルトのアラビア・ヒジャーズ地方の旅 エドウアルト ルッペルのジッダに関する簡潔な所見 タミシエ著の「アラビアでの航海」 ルフェーヴル著の1839年から1843年の間に行ったアビシニア(Abyssinie)の旅 フレとガリニエのアビシニアへの航海 バートン卿のメディアおよびメッカへの個人的巡礼記 ディディエのメッカの大総督邸での滞在 ラッセル少佐のアビシニアと紅海での或る任務 チャルル
ウベールのジッダ港交易の統計的資料 ローレンスの知恵の七柱
(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)
近世になって特に18世紀と19世紀に多くの旅行家がアラビアを旅行・探検した。その内の何人かがジェッダを訪れており、それを記述した旅行家をアンジェロ ペセ博士(Dr. Angelo Pesce)が紹介している。その数は次の表に年代順に示した様に18世紀に8名、18世紀前半に17名、18世紀後半に13名である。その多くは彼ら自身の別の旅行・探検の途中で立ち寄っているが、回教徒以外の立ち入りを禁止されている聖都メッカおよびメディナを訪れる為に回教徒を装い、偽名を使ってジェッダを訪問した西洋人も少なくない。
一覧表にすると同列に見えるが、それぞれの旅行者・探検者が紹介しているジェッダの内容と文書量は大きく異なり、その記述を本文に入れると相当に煩雑なので付録文書とし、文中から適宜呼び出せる様にアレンジした。又、文章だけでは印象が薄いので出来るだけウェッブや私の撮った映像を挿入した。文章とは時代が異なり、イメージも正確では無い映像も少なくないが、アラビアを余り訪れていない方にはご参考になると思う。それぞれの旅行者・探検者が著述した記述内容の正確なイメージについてはウェッブに掲載されている著書も多いので原文を直接お読み戴きたい。アンジェロ ペセ博士(Dr. Angelo Pesce)は20世紀に属するトーマス エドワード ローレンス(Thomas Edward Lawrence)をジェッダの最後の訪問者に入れている。ペセ博士にとってはローレンスが大きな意味を持つのだろうが、英国のスパイであったローレンスの記述が正確であるかどうかについては「古代文明の後背地タブク」の「 アラビアのローレンス」で述べた様に私は疑念を持っている。 1. 十八世紀探検家および旅行者の記述 1.1 ウィリアム ダニエル(William Daniel) 18世紀初頭にジェッダに滞在していたウィリアム ダニエル(William Daniel)は当時のジェッダの様子を記録に残していた。 1701年フランス人医者ジャック ポンセ(Charles Jacques Poncet)がアビシニア帰路ジェッダに立ち寄った際にウィリアム ダニエル(William Daniel)と会って居る。その両人の記録はジョセフ ピッツ(Joseph Pitts)の記録と共にハクルート協会(Hakluyt Society)のウィリアム フォスター卿(Sir William Foster)によって編集され、「17世紀末の紅海とその周辺の国々(The Red Sea and Adjacent Countries at the close of Seventeen Century)」として1949年にロンドンで発行されている。 1.2 チャルル ジャック ポンセ(Charles
Jacques Poncet) 1700年12月5日にチャルル ジャック ポンセ(Charles Jacques Poncet)と云うフランス人の医者がジッダ(Jiddah)に着いた。ポンセ(Poncet)はこの町で数週間過ごし、1701年1月12日にこの町から出発した。ポンセ(Poncet)はカイロで有名な内科医であり、薬剤師でもあり、アビシニア皇帝(the Negus of Abysinia)の密使が接触し、密使と共に皇帝に病気を治療する為にアビシニアに招待された。ポンセ(Poncet)はその招待を受け、1700年4月22日に帰還の為にゴンダル(Gondar)からカイロに出発する前にその依頼された役割を無事に果たしていた。ポンセ(Poncet)はマッサワ(Massawa)に着き、現地の船でシナイ(Sinai)に向けて航海に乗り出した。ポンセ(Poncet)はシナイ(Sinai)からカイロに向かうつもりであった。この船はジッダ(Jiddah)に立ち寄り、この港でポンセ(Poncet)はウィリアム ダニエル(William Daniel)と云う別のヨーロッパ人に出会った。ダニエルはジッダに全く別の理由で滞在していた。二人はそれぞれの経験を記録に残しているが、我々が求めているポンセ(Poncet)のジッダ(Jiddah)に関する記録は再版されており、それはこの英国人の記録よりも遙かに興味深く、完璧である。 「ポンセ(Poncet)のジッダ(Jiddah)に関する記録」参照 1.3 コジャ アブドル カリム(Khoja
Abdul Karim) ナディール シャー(Nadir Shah)の宮廷のカシミール人(Kashmiri)貴族のコジャ アブドル カリム(Khoja Abdul Karim)は航海の記録(a récit de voyage)を残したもう一人のモスレム(moslem)の巡礼者であった。カリム(Karim)はデリー(Delhi)を1739年5月に出発し、バグダッド(Baghdad)およびアレプ(Alep)(アレッポ(Aleppo)の仏名)経由でダマスカス(Damascus)に着いた。それからダーブ ハッジ(Darb al-Hajji)に沿って進んだ。ダーブ ハッジ(Darb al-Hajji)はヒジャーズ(Hejaz)を経由してメディナ(Medina)およびメッカ(Mecca)への普通の巡礼路であり、安全の為にアラビア半島を横断する近道は避けるように助言された。カリム(Karim)はメッカ(Mecca)の三ヶ月滞在し、1742年にジッダ(Jiddah)から船で出発した。カリム(Karim)の旅行記は最初に英語に翻訳され、次いでフランス語に翻訳された。これらはヒジャーズ(Hejaz)に関する新たな詳細に関してはどちらかと言えばお粗末であり、フランス語翻訳者のラングレ(Langlès)がニーブール(Niebuhr)から得たメッカ(Mecca)とメディア(Medina)の記述を加えた。 (注)「コジャ アブドル カリム(Khoja Abdul Karim)の航海の記録の英訳」は ペルシャ語からF. グラドウィン(F. Gladwin)によって英訳され、カルカッタ(Cakcutta)で1783年に出版された(The Memoirs of Khojeh Abdul-Kurreem tr. from the original Persian by F. Gladwin. Calcutta 1783)。「同書の仏訳」は L. ラングレによって翻訳され、1709年にパリで「旅の逸話の収集」として出版 ((a récit de voyage) ABDUL KERYM Voyage de I'Inde à la Merque tr. by L. Langlè. Collection Portative des Voyages, Vol 1, Paris 1797.)されている 。 1.4 モロッコ人の巡礼アイヤシ(al-Ayyashi) 自分の旅の印象を記録した17世紀後半のモロッコ人の巡礼はアイヤシリラ フェズ(Al-Ayyashi Rihla Fez)である。その印象記は1898年に「アイヤシの旅の印象記(Al-Ayyashi Rihla Fez 1316H or 1898A.D.) 」として出版されたが、そのジッダに関する幾つかの所感はあまり興味の湧く内容では無い。 1.5 カルステン ニーブール(Carsten Niebuhr) アラビア南西地方の山地で育ち、モカ港(the port of Moka)から輸出されるコーヒーがヨーロッパに伝わり、一般的に広まり、ヨーロッパでイエメンが非常にポピュラーに成った。その18世紀にデンマーク政府は、最も肥沃な部分のアラビアすなわちイエメンを科学的に調査する使命を帯びた探検隊を派遣した。 ドイツの旅行家で測量士兼天文観測者でもあったカルステン ニーブール(Carsten (Karsten) Niebuhr (1733 - 1815)は公式にはデンマーク政府に雇われて、このアラビア探検隊に参加した。この探検隊の使命もイエメン(Yemen)以外の情報の収集に変わり、5人の科学者と1人の召使いの6人で構成された。
探検隊のデンマーク人達(the Danes)は1761年にコペンハーゲン(Copenhagen)を出発し、1762年にジッダ(Jiddah)に上陸した。ジッダ(Jiddah)で、一行はモカ(Moka)行きの船を待つ為に、二ヶ月遅れた。一行のこの市での逗留に関するニーブール(Niebuhr)の記録は非常に興味深く、その全文を「第IV章 ジッダとその近傍」と「第V章 ジッダの政府と交易」としてここに添付した。 1.6 ジェームズ ブルース(James Bruce) ニーブール(Niebuhr)の7年後にスコットランド貴族(Scottish nobleman)のジェームズ ブルース(James Bruce)がジッダ(Jiddah)にやって来た。1763年にアルジェ(Al-giers)の英国領事としてブルース(Bruce)は北アフリカの古代の遺物に興味を持つ様に成り、1768年にはバルバリー海岸(the Barbary coast)を調査し始め、この調査はブルース(Bruce)が旅したエジプトにも及んだ。この国で、ブルース(Bruce)はエチオピア(Ethiopia)への考古学的調査の遂行する前に紅海岸を調査しようと決めた。ブルース(Bruce)は1773年にイギリスに英国に戻った。ブルース(Bruce)の本のやや長い目の章は1769年5月3日から6月8日まで滞在したジッダ(Jiddah))に捧げられているが、この本の詳細には主として税関長や仲間のイギリス人等、そこに滞在する人達との個人的な交流が主に書かれている。この市に関してはブルース(Bruce)は次の様に述べている。 ジッダ(Jiddah)は紅海の全ての東海岸とまさに同じ様に健康には非常に悪い。東側は門も無く、直ぐに沙漠の平地である。そこはベドウィーン(Bedoweens)或いはこの地方のアラブ族のスパータム(spartum)或いはベントグラス(bent grass)の長い束で作られたあばら小屋で埋まっていた。これらのベドウィーン(Bedoweens)達はジッダ(Jiddah)にミルクやバターを供給していた。偉大なインド貿易の関税はすべてメッカ(Mecca)にいる貧しい君主や飢えた扶養家族に直ちに送られるのでこの町には少しも恩恵を施しては居なかった。 貿易の利益全ては異邦人に握られていた。異邦人達は6週間以上続く事は無い交易市が終わるとイエメンやその他の隣国に戻って行った。ジッダでは食糧が時として法外な値段に成るのに対して、これらの国々では全ての種類の食糧が豊富であった。 1.7 チャールズ ニューランド船長(Capt. Charles Newland) 王立協会(the Royal Society)のthe Phil. Trans. Vol. LXIIは「モカ(Mocha)およびジュッダ(Juddah)の停泊地・錨地の喫水を含む新しい海図、およびチャールズ ニューランド船長(Capt. Charles Newland)によるこの海の航海中の幾つかの観察記録が添付された牧師(the Rev.)マスケリン氏(Mr. Maskelyne)、王立天文台長(Astronomer Royal)およびF.R.S宛の手紙」を含んでいる。この手紙は1772年に書かれているが、チャールズ ニューランド船長(Capt. Charles Newland)の航海が行われたのは1769年であった。ニューランド船長(Capt. Newland)がジッダに居たのはこの年の7月30日であり、港への入港について幾らかの短い解説を記録している。しかし、この手紙の題名から分かる様に、ニューランド船長は「紅海の南部分の海図(a map of the southern part of the Red Sea)」と「メッカへの道(Mocha Road)」と「ジュッダへの道(Juddah Road)」と云うこれら二つの町の概要スケッチも描いている。 1.8 ヘンリー ルック(Henry
Rooke) ヘンリー ルック(Henry Rooke)と云う名の歩兵連隊の少佐が1781年3月13日にジョンソン提督(Admiral Johnson)指揮でインドに向かう海軍の小艦隊(a naval squadron)と共に英国を出発した。 大西洋でのフランス艦隊との交戦と幾つかの不都合による遅延の後にこの小艦隊はインドへの横断には遅すぎる時期に南アラビア海岸に到着した。逆風のモンスーン(monsoon)が艦船をハドラマウト海岸(the Hadramaut coast)に押しつける為にこの小艦隊は紅海に避難せざるを得なかった。モカ(Moka)の南に上陸するとルック(Rooke)は次の季節風(monsoon)を待たずに紅海を北へ帆走してカイロに行こうと決めた。ルック(Rooke)はアラビア船の船長から合意を取り付けるとその様に計画した。 ルック(Rooke)の紅海での紅海にはモカ(Moka)からスエズ(Suez)の途中でジッダ(Jiddah)での暫時停泊(1782年)を含んでいたが、ルック(Rooke)が放浪した他の場所同様にここもほとんど外面を見たに過ぎない。ルック(Rooke)はロンドンに戻ると旅の間に名の無い友に宛てた手紙を本にして出版した。ジッダについてルック(Rooke)は次の様に述べている。 1.9東インド会社操業から得た情報による記述 ウィリアム ミルバーン(William Milburn)は東インド会社(the East Indian Company)に長年勤務し、東インド業務(the East Indian Service)に携わり、インドと中国へ7回航海をした。その航海の途中で集めた資料および広範囲にわたる東インド会社の操業に携わる他の人達から集めた正確な情報や指針を「東洋交易(Opriental Commerce)」としてまとめ、1813年に出版した。 (注)「東洋交易又は 東インド貿易要覧(Opriental Commerce)」は「東インド貿易の徹底指針(the East Indian Trader's complete Guide)」とも呼ばれている。 この「東洋交易」にはヨーロッパからの航海の途中にある東洋の島々(the Eastern Islands)および交易港(the Trading Stations)を含むインド、中国、日本およびその近隣の国々に海辺の地理的および航海に関する記述も含まれている。さらにこの本にはそれぞれの国々での交易、産物、貨幣、度量衡(weights and measures)、入港規則、関税(Duties)、料率(Rates)、料金(Charges)等の記事およびこれらの国々からの英国への輸入商品とそれに掛かる関税についても記述している。 この本に記載された大量の情報は18世紀後半の東洋(the East)での広く一般的な状況を紹介しており、そしてジッダ港の活動に関する早期の資料の1つとして特に価値があると思われる。土着の習慣に対するミルバーン(Milburn)の観察は当時に関する貴重な情報源である。例えば港の交易詳細には州知事(the Pasha)から「門の4人の番人(Peons)」まで少なくとも23職種以上のの異なった当局者の現状に対する貴重な資料となる一覧表が含まれている。 この本の一般的な体裁に従いジッダの節には来港船に対する実際的な助言が詰まって居り、そして訪問者達には「どの様なジルマボブ(Zirmabobs)、ミッシリー(Missirees)またはジンゲリー(Gingelees)も買うな、これらは利益にはならない」と敏感な両替率に関する助言が与えられている。しかしながら論じられている内容は細心な計算や与えられた両替率の注意深い使用を含めて、スタンボル(Stamboles)、ゼロッタ(Zelottas)、ラジーン(Razeenz)、テュラブ(Turabs)、ペスタリーン(Pestareens)、デュカトーン(Ducatoons)、グッベール(Gubbers)等に対しそれぞれ違っている。ラットル(Rattles)、マウンド(Maunds)、ヴァキア(Vakias)およびフラジル(Frazils)の重量換算表も初めての訪問者達が混乱(perplex)しない様に紹介している。 ここに掲載した内容はウィリアム ミルバーン(William Milburn)自身によって1813年に出版されている初版をその遺言執行人のもとに残された報告書からトーマス ソートン(Thomas Thornton)が入念に抄訳、改訂、増補し、1825年ロンドンのM.R.A.Sから出版した第2版からアンジェロ ペセ博士が(Dr. Angelo Pesce)抜粋したジェッダに関する記述である。 2. 十九世紀前半の探検家および旅行者の記述 2.1 ジェームス ホルスバーグ(James Horsburgh) シリル ノースコート パーキンソン(Cyril Norhtcote Parkinson) が1937年にケンブリッジ(Cambridge)で出版した「東の海の交易(Trade in the Eastern Seas)1793 - 1813年」の110頁にジェームス ホルスバーグ(James Horsburgh)が書き、ロンドンで1809 - 11年に出版した「東インド諸島、中国、新オランダ、喜望峰岬等を往復航海する為の心得書、(Directions for sailing to and from East Indies, China, New Holland, Cape of Good Hope, etc. by James Horsburgh, London, 1809 - 11.)」を引用し、パーキンソンは「ホルスバーグは1800 - 1801年の探検の途中で確認したジッダ(Jidda)の正確な位置を示し、この町の付近にある特定の暗礁についても述べている。この暗礁の位置も同じ時に確認しているが、英国のフリゲート艦(frigate)が完全にこの暗礁に座礁する前ではなかった。ホルスバーグは風と潮の複雑なシステムについて説明し、結論として航行の為には現地水先案内人を雇うべきであるとの助言をしている」と述べている。ホルスバーグの独創的な業績を調べる事は出来ないが、1800 - 1年の遠征についてもっと知る事は出来ると思われる。 2.2 ヴァレンシア卿(Lord Valentia) 紅海の西岸の探検と地図作製(cartography)はヴァレンシア卿(Lord Valentia)の旅行の主な目的であった。東インド会社はヴァレンシア卿が使える様に一隻の船を用船(charter)したので、ヴァレンシア卿はスエズ(Suez)からインドへの商業航海が紅海の東海岸の港に寄港せずにそのアフリカ海岸だけに沿っての航海が可能かどうかを確認する事が出来た。 フルネームがマウント ノリス伯爵ジョージ アンスレイの嗣子ヴァレンシア(George Annesley, Earl of Mount Norris, Viscount Valentia)のヴァレンシア卿(Lord Valentia)は1809年に自分の任務について、不必要に冗長で、一般的にほとんど興味を持たれない個人的な逸脱や盛衰(vicissitudes)に満ちた三つの大巻を出版した。ヴァレンシア卿は1805年末から1806年頭の間、ぐずぐずジッダ(Jiddah)に長居していた。 ヴァレンシア卿(Lord Valentia)は1809年にロンドンで出版した「1802年から1806年のインド、セイロン、紅海、アブシニア及びエジプトへの航海・旅行記(Voyages and Travels to India, Ceylon, the Red Sea, Abysinia and Egypt in the Years 1802, 1803, 1804, 1805 and 1806)」の第2章にこの市に関しての記述を掲載している。 2.3 ドミンゴ バディア イ レブリシュ(Domingo Badía y Leblich) ドミンゴ バディア イ レブリシュ(Domingo Badía y Leblich)はスペインのアストリア州(Asturias)で生まれ、医学、天文学および鉱物学を学んだ。彼もアラビア語の完全な知識を習得した。1801年、レブリシュ(Leblich)は帰郷の際にモスリム服でアッバース朝(the Abbasid dynasty、750 - 1258)のカリフ(caliph)の子孫でアレッポ(Aleppo)生まれのアリ ベイ アッバッシ(Aly Bey al-Abbassi)と云う偽名でフランスと英国を訪問した。 バディア(Badía)を最終的にはメッカ(Mecca)への巡礼を果たさせ、付随的にジッダ(Jiddah)へも訪問させた旅はジブラルタル(Gibraltar)からタンジール(Tangier)へと旅立つ事で始まった。モロッコ(Morocco)からバディア(Badía)はトリポリ(Tripoli)へ向かい、それからアレクサンドリア(Alexandria)そしてカイロ(Cairo)に向かった。1806年12月23日にバディア(Badía)はスエズ(Suezu)をダウ船(dhow)で出発し、恐ろしい紅海を横断した後、1807年1月13日にジッダに到着した。 バディア(Badía)の記録の主要な利点は大モスクの測量計画と天文学的観察でのその位置の特定を伴ったメッカについての始めての真に系統的な記述であるが、バディア(Badía)の仕事は恐らくもっと有用で綿密ある事は注目されて来た。バディア(Badía)は虚栄さや壮大さを押さえて旅をしていた。(召使いの集団の周りを動き回ったり、高価な贈り物を自分と出会った全ての人に惜しみなくあげたりして、バディア(Badía)は自分の装った性格に従って行動した。しかしながら、バディア(Badía)の富の源は分からなかった。「バディア(Badía)はユダヤ人(Jew)であり、ナポレオン(Napoleon)に仕えるスパイであった」と言う作家もいた。 バディア(Badía)のジッダ(Jiggah)での逗留についてはその著書の中でのモスク(Mosque)の中で起きた取るに足らない出来事のぶっきらぼうな記述に(旅の間にバディア(Badía)が遭遇した人々に印象つけようとしたのと同じ方法でバディア(Badía)は読者に印象つけようとしている。)続いて、アラビア人船乗りの能力についての根拠の無い幾つかの評言および幾つかの過激な考察のみを除き、この市について「アリ ベイ(Ali Bey)の1803年から1807年の間の旅行記」にはもっと内容のある記述が述べられている。 「アリ ベイ(Ali Bey)の1803年から1807年の間の旅行記」参照 バディア (Badía) は1807年2月26日にワッハーブ派(Wehhabi)によって数人の巡礼、トルコ兵とシャリーフ(Sharif)の護衛と共にメッカ(Mecca)から追放された。バディア (Badía) はメディナ(Medina)へ行こうとしたが、ワッハーブ派(Wehhabi)によって隊商の進路を阻まれ、旅を継続するのを禁止された。バディアはイェンボ(Yenbo)およびカイロ(Cairo)経由でヨーロッパに戻った。 2.4 ウルリヒ ヤスパー ゼーッツェン(Ulrich Jasper Seetzen) ウルリヒ ヤスパー ゼーッツェン(Ulrich Jasper Seetzen)はドイツ人の内科医(physician)で植物学(botany)、動物学(zoology)および地質学(geology)に素晴らしい知識を持っており、1802年に一連の東方旅行を計画した。指導的な科学者や貴族の後援を得て、ゼーッツェン(Seetzen)は一連の小アジア(Asia Mínor)の旅に出発し、1809年にカイロ(Cairo)に居た。ゼーッツェン(Seetzen)のこの日までの日記はクルーゼ(F. Kruse)によって編集され、出版されている。その続きは失われており、その後の旅行の展開はゼーッツェン(Seetzen)の友達や後援者への手紙で分かるのみである。 ゼーッツェン(Seetzen)は既に本物のモスリム(Moslem)あるいはそのふりをしていたと思われる。カイロではゼーッツェン(Seetzen)は巡礼を行う為にヒジャーズ(Hejaz)を訪問する計画を隠していた。ゼーッツェン(Seetzen)は1809年6月27日にスエズ(Suez)を出発し、ジッダ(Jiddah)に到着した。ジッダにはメッカ(Mecca)に旅立つ、10月まで滞在した。メッカには1ヶ月滞在し、それから再び、ジェッダに戻り、メディナ(Medina)に巡礼で訪問する前までの時間を資料集めに活用した。ゼーッツェン(Seetzen)は1810年1月にもう一度ジッダ及びメッカに戻り、そこで巡礼の儀式を行い、その後、再び科学的資料を集めたり、この市とその周囲の地図を描たりするために2ヶ月滞在した。 ゼーッツェン(Seetzen)はメッカ(Mecca)を1810年3月26日に離れ、ジッダ(Jiddah)から海路でクンフダア(Qunfudhah)およびマッサワ(Massawa)を経由してホディイダ(Hodeida)に到着した。ゼーッツェン(Seetzen)はそれからサヌア(San'a)、アデン(Aden)およびモカ(Mokha)へ旅行した。そこで、ゼーッツェン(Seetzen)は陸路マスカット(Muscat)へ抜け、そこからバスラ(Basrah)へ行こうと計画したが、ゼーッツェン(Seetzen)はタイズ(Taiz)付近で暗殺された。「ゼーッツェン(Seetzen)の運命は謎ではあったが、「サヌア(San'a)のイスラム指導者(Imam)の命令で暗殺された」と一般的には信じられている。ゼーッツェン(Seetzen)の会話の誠実性に対して疑いが持ち上がり、ゼーッツェン(Seetzen)は魔術的な実践の疑いを持たれた。とりわけワインのアルコールの中に保存された蛇の集団は猜疑の目で見ていた。この蛇達によって、「ゼーッツェン(Seetzen)は天候に影響している様で、旱魃を引き起こす事件を企てた」と信じられた。 2.5 イタリア人ジョバンニ フィナティ(Giovanni Finati) フェラーラ(Ferrara)出身のイタリア人ジョバンニ フィナティ(Giovanni Finati)は強制的に徴兵されたフランス陸軍からダルマティア(Dalmatia)で脱走し、アルバニア(Albania)に避難し、そこでモスリム(Moslem)になった。 幾多度かの冒険の後、エジプトでムハンマド アリ(Muhammad Ali)の軍隊に入隊し、1811年のワッハーブ派(the Wahhabi)に対するアラビアのツスン ベイ(Tusun Bey)の遠征に参加した。1814年、メッカ(Mecca)に入城した後、ムハンマド アリ自身に会う為に、フィナティ(Finati)は最終的に自分の要求で名誉ある現職を退いた。その後、メッカからエジプトに戻る途中でフィナティ(Finati)はジッダ(Jiddah)へ向かった。ジッダでは疫病が発生しており、フィナティ(Finati)はこの時のこの市の恐怖についての疫病におかされた何処の市の記録とも似ていない概要記述を残している。
フィナティ(Finati)自身が病に冒され、その後の550名居た仲間のうち341名が死亡したスエズへの海峡横断の艱苦にもかかわらず、フィナティ(Finati)はカイロ(Cairo)に辿り着き、その冒険は終わった。「フィナティ(Finati)の人生と冒険の物語(Vita ed adventure di Giovanni Finati )」は有名な東方旅行家バンクス(William John Bankes)との面談を通じて編集され、出版された。 2.6 ジェームズ シルク バッキンガム(James Silk Buckingham) 1814年にジッダ(Jiddah)にはジェームズ シルク バッキンガム(James Silk Buckingham)とヨハン ラドウィグ ブルクハルト(Johann Ludwig Burckhardt)も居た。バッキンガム(Buckingham)は旅行家でジャーナリストであり、アテナイオン ジャーナル(Athenaeum journal)の創立者である。
2.7 ヨハン ラドウィグ ブルクハルト(Johann Ludwig Burckhardt) ブルクハルト(Burckhardt)はヒジャーズ(Hejaz)の卓越した探検家で、この時までに広くヌビア(Nubia)を旅行し、失われたナバテア(Nabataean)の首都ペトラ(Petra)を発見していた。ローザンヌ(Lausanne)で1784年に生まれたブルクハルト(Burckhardt)はライプツイヒ(Leipzig)およびゲツティンゲン(Göttingen)の有名な大学で学びそしてアフリカの内陸を探検する為に、自分の勤務先を英国アフリカ協会(the British African Association)に求めた。ブルクハルト(Burckhardt)の求職は受け入れられ、ブルクハルト(Burckhardt)はアラビア語、化学、天文学、鉱物学および医学の勉強を開始し、シェイク イブラヒム(Sheikh Ibrahim)と云うモスリム(Moslem)の名前を得て、イスラム教義の専門家となった。
ブルクハルト(Burckhardt)は1809年に英国を出発し、シリア(Syria)で更に三年間をアラビア語の習熟に費やした後、アラビアのペトラ(Arabia Petraea)を訪問し最後にエジプトに移り、そこからヌビア(Nubia)の探検を行った。 スワイキン(Suwaikin)から船出し、1814年7月15日にジッダ(Jiddah)へ上陸した。これは丁度、ムハンマド アリ(Muhammad Ali)と同じ時であり、このエジプトの独裁者を既に知っていたブルクハルト(Burckhardt)は独裁者とタイフ(Taif)で会った。ムハンマド アリ(Muhammad Ali)はブルクハルトのイスラム(Islam)への改宗に疑問を抱き、ブルクハルトが英国のスパイの任務を帯びていると疑って居たのもかかわらず、ブルクハルトはメッカ(Mecca)巡礼の許可を得た。ブルクハルトはこの巡礼に関する優れた、もっとも詳細な記録を残している。 ワッハーブ派(Wahhabi)に対する軍事行動でのエジプトの勝利でブルクハルトのメディナ(Medina)への海岸からの経路での旅の安全が確保された。メディナでブルクハルトは激しい熱病にかかり、そこからのアラビア旅行を中止しなければ成らなかった。ブルクハルトはイエンボ(Yenbo)からエジプトに向けて出港し、1815年6月24日にカイロに戻った。 ブルクハルトが元々目指していたアフリカ内陸部へ旅する隊商(caravan)にやっと参加しようとした時に赤痢(dysentery)におかされ、1817年10月15日に死亡した。ブルクハルトは病気におかされていたエジプトで骨を折ってまとめた記述はその死後に出版された。ブルクハルトのメッカ(Mecca)、メディナ(Medina)、ジッダ(Jiddah)およびイエンボ(Yenbo)に関する記述はその後の数十人におよぶ作者に影響を与え、時代の評価に逆らい通した。どんな詳細でもこのスイス人旅行者の観察を逃れられなかったし、習俗、風習、ならわし、生き方に関するどんな事もブルクハルトが見逃す事は無かった。19世紀前半のこの町の標準的な様子を把握する為にブルクハルト(Johana Ludwig Burckhardt)が著述し1829年にロンドンで出版した「アラビア・ヒジャーズ地方の旅(Travels in The Hedjaz of Arabia)」のジッダに関する章をここに紹介する。 2.8 ジョージ ファースター サドラー大尉(Captain George Forster Sadleir) アラビアでのエジプトの軍事行動はもう一人のヨーロッパ人をジッダ(Jiddah)に魅了した。そのヨーロッパ人はジョージ ファースター サドラー大尉(Captain George Forster Sadleir)で海岸から海岸までアラビア半島を最初に横断した西洋人である。イブラヒム パシャ(Ibrahim Pasha)がディライヤ(Diraiyah)を占領し、破壊した時(1818年)に、ボンベイ(Bombay)に駐在していた英国人達はこの展開を歓迎しない筈は無かった。アラビア半島における英国利権を担当し、ワッハーブ派(Wahhabi)勢力を誰かが抑えるのを見たいと思っていたインド政府はこの展開に満足していた。インド政府はとっては「アラビア湾の英国海軍力とイブラヒム パシャの陸軍の共同努力で英国船の大きな悩みの元凶であったアラビア海岸の海賊への致命的な打撃を加える事が出来るだろう」と云う理由もあった。イブラヒム パシャにその勝利を祝い、そしてワッハーブ派(Wahhab派勢力の完全な弱体化を視野に入れ、同パシャとそれに必要な共同努力の協定を協議する為にインド政府はジョージ ファースター サドラー(Captain George Forster Sadleir)大尉をアル ハサ(al-Hasa)へ派遣した。カティーフ(Qatif)に到着すると、サドラー(Sadleir)は「エジプト軍は東部州から退却中である」と告げられので(イブラヒム パシャへの)自分の任務を遂行しようと決意し、サドラーはホフーフ(Hofuf)から退却中の縦隊に加わった。 エジプト軍と共にヤママ(Yamama)経由でナジド(Najd)沙漠を横断し、破壊されたばかりのディライヤ(Diraiyah)を訪問し、カッシーム(al-Qassim)へと進み、ラッス(Rass)でエジプト軍の主力部隊に合体した。しかしながら、イブラヒム パシャは既に早くメディナ(Medina)へと出立しており、サドラーが遂にエジプトの指導者と会えたのはメディナの近傍であるが、イブラヒム パシャから「外交事項は父親であるムハンマド アリの特権であり、自分は個人的にはインド政府とどの様な特定の交渉を行う事は出来ない」と告げられた。サドラーはそれ以上、何も出来ず、インドに帰還する以外は無かった。 サドラーはイエンボ(Yenbo)で土着の舟を雇い、ジッダ(Jiddah)に1819年10月23日に着いた。「自分はヤムボ-(Yamboo)に1819年10月19日まで拘禁されており、その時に自分は甲板の無い舟で出港し、ジェッダ(Jeddah)へ向かい、4日間掛かって到着した。そこで、イブラヒム パシャと何度か会見した。イブラヒム パシャは陸海軍の礼砲が鳴る中、11月16日に船出した。イブラヒム パシャは18日にコッセイル(Cosseir)に向かった。イブラヒム パシャの出発と独裁者からの解放に対し、ジェッダ(Jeddah)の住民が経験した喜びはその態度で明らかであったばかりでは無く、全ての階層で公に表明された。自分はインドへわたる不安のある期待を持ちながら、ジェッダに接近してくる英国艦を十分な喜びを持って見た1820年1月23日までここに留まる事が出来た。その艦は栄光会社(the Honourable Company)所有の巡洋艦プリンス オブ ウェールズ(cruiser Prince of Wales)であるのが証明された。その艦上に自分は直ちに乗り込み、退屈な航海の後、1820年5月8日にボンベイ(Bombay)に着いた」。 サドラー(Sadleir)の公式な任務はこの様に失敗に終わったが、サドラーの未知の国を横断しての旅行の簡潔な記録、部族や訪れた土地に対する所見およびサドラーの正確な方位の経路はアラビア探検者達の中でサドラーについて言及するだけの価値がある。 2.9 ドイツ人科学者のエドウアルト ルッペル(Eduard Rüppel) ドイツ人科学者のエドウアルト ルッペル(Eduard Rüppel)はヌビア(Nubia)、センナール(Sennaar)、コルドファン(Kordofan)およびアラビア(Arabia)を1822年から1827年に渡って旅行し、地理学的、地質学的および気候学的資料を蒐集していた。ルッペルが最初にジッダ(Jiddah)に滞在したのは紅海からアカバ湾(Aqaba)まで航海した間の1826年末から1827年始めまであり、ドイツに帰国すると直ぐに自分の観察を「ヌビア、コルドファンおよびアラビアの旅 (Reise in Nubien, Kordofan and Arabien 1822 - 1827)」としてまとめ、出版した。この本の233 - 240頁にジッダに関する簡潔な所見があり、それから最も興味深い記述を取り出した。 ルッペル(Rüppel)がジッダ(Jiddah)に二回目の訪問に戻って来たのは1831年にスエズ(Suez)からエチオピア(Ethiopia)に向かう途中であった。ルッペル(Rüppel)はこの市に暫く滞在し、もっと詳しい情報を蒐集し、その著書「1831 - 1835年のアビシニア旅行記(Reise in Abyssinien)」の中に記述している。ルッペル(Rüppel)はこの機会に自分が以前の訪問の時に推定した人口は実際の数を遙かに越えており、この数を2万2千人に修正した。ルッペル(Rüppel)はタイフ(Taif)まで旅して、その経路の自然環境を調べたいと思っていたが、この望みは叶えられなかった。 2.10 ジェームス R. ウエルステッド中尉(Lieut. James R. Wellsted) オマーン(Oman)での輝かしい探検と発見の前にインド海軍のジェームス R. ウエルステッド中尉(Lieut. James R. Wellsted)は暫くの間、パリヌールス号(Palinurus)でのアラビア半島西海岸測量に勤務した。ウエルステッド中尉はジッダ(Jiddah)に1831年に訪れ、その著書「アラビアの旅(Travels in Arabia)」の第II巻264 - 290頁「紅海の海岸と交易の包括的記述」の一部としてこの市に関する幾つかの簡単な所見を残している。 2.11 モーリス タミシエ(Maurice Tamisier) 1818年のディライヤ(Diraiyah)陥落後にエジプト軍の分派隊は紅海の南海岸平野のワッハーブ派(Wahhabi)残党を始末する為にティハマ(Tihama)へ転進させられた。ワッハーブ派との戦闘の後、エジプト軍はサナ(Sana)のイマム(Imam)に敬意を示して、その名目上の権威をこの地方へ復活させた。しかしながら、1832年にト-ルクチェ ビルメズ(Turkche Bilmez)(彼はトルコ語を話せない)として知られるヒジャーズ軍将校(Hejazi officer)がイマム(Imam)とムハンマド アリ(Muhammad Ali)に反抗し、ホデイダ(Hodeida)、ゼビド(Zebid)およびモカ(Moka) を占拠した。この機会をとらえて、アシール地方の高地族はエジプト軍に対し問題を起こし始め、それに対してムハンマド アリは治安を回復する為に懲罰遠征軍を組織せざるをえなかった。1万8千人がスルタンの代理人アハメド パシャ(Ahmed Pasha)の指揮下に編入された。少なくとも6名のヨーロッパ人がこの遠征に参加した。すなわち5人のフランス人(Vayssière、Chedufau、Tamisier、PlanatおよびMari)および1人のイタリア人(Gatti)である。チェドウーフォ(Chedufau)は医療を担当し、モーリス タミシエ(Maurice Tamisier)はその秘書であった。この戦闘の結果についてタミシエ(Tamisier)は自分の経験の記録を1840年に「アラビアでの航海(ヒジャーズ滞在とアシールでの戦闘)」として出版し、その出版された本からタミシエが1834年にジッダ(Jiddah)に居た事が分かる。 モーリス
タミシエ(Maurice O, Tamisier)著、1840年パリで出版された「アラビアでの航海(ヒジャーズ滞在とアシールでの戦闘) (TAMISIER, M.O. Voyage
en Arabie. Sèjour dans le 2.12 セオフィル ルフェーヴル(Thèophile Lefebvre) フランスの正規の使節は1838年にジッダを通過している。この使節はセオフィル ルフェーヴル(Thèophile Lefebvre)に先導され、A. プティ(A. Petit)、カールタン-ディロン(Qaurtin-Dillon)および製図工のヴィニャード(Vignard)で編成されていた。この使節の目的はアビシニア(Abyssinia)の科学的探検であり、後に出版されて資料で証明されているすばらしい方法で行われた。ジッダについてセオフィル ルフェーヴル(Thèophile Lefebvre)は「1839年から1843年のアビシニア旅行(Voyage en Abyssinie executé pendant les années 1839 - 1843)」の中で次の様に述べている。 この町は四方を城壁(rampart)で囲まれた中に建設されている。城壁は二歩分の幅の壁であり、散らばって設けられている六角形の稜堡(bastion)で守られ、湾からの眺めは印象に欠けては居ない。灰色がかった山並みを背にした家々のまばゆい白さは最高の絵の様な景観を作り出している。
(挿し絵はセオフィル ルフェーヴル(Thèophile Lefebvre)が先導するアビシニア(Abyssinia)探検の製図工が描いた1838年のジッダの景観である。)船着き場は大砲の置かれた旋回砲台を組み込まれた2ヶ所の壁から突き出た翼壁である(Not Available)。 更に詳細についてルフェーヴル次の様に述べている。 アラビアでは宿泊施設(hostela)はキャラバンサライ(caravanserais)と呼ばれているのが全ての人が知っている。キャラバンサライは一種の公共施設であり、そこでは全ての人が支払い無しに滞在し、楽しめた。中庭を取り巻く丸屋根で作り出される日陰は倉庫付き1部屋として請求される。それにもかかわらず、自由な出入りはキャラバンサライの最大の原則であった。ジェッダのキャラバンサライは大きく、空気に良く曝されていた。巡礼の期間にはキャラバンサライは商人で一杯であり、この後は相当に活気があった。日が暮れると、音楽家が来て客を楽しませてくれ、様々な国から来た巡礼の間で会話が弾んだ。それらがアラビアの地理的道順と成った。 しかしながら、ルフェーヴルの本(「1839年から1843年のアビシニア旅行」)で興味深いのはジッダの交易について蒐集した情報である。それは積み荷目録への興味に基づいている。 ルフェーヴル(Lefebvre)著「1839年から1843年の間に行ったアビシニア(Abyssinie)の旅」の第II巻の付属書「紅海とアビシニアの交易の紹介」参照 2.13 ガリニエ大尉(Captain A. Galinier)とフェレ大尉(Ferret) 1839年にフランス政府外務省は2人の参謀将校A. ガリニエ大尉(Captain A. Galinier)とフェレ大尉(Ferret)を風習、宗教、政治制度および自然資源を調べる為にアビシニアに派遣する事を決めた。二人の大尉はフランス商船アンコベ(Ankober)が紅海岸でアビシニア商人と行う交易取引を支援する任務も帯びていた。二人はその年にマルセイユ(Marseille)出発し、カイロに到着した。二人はアラビア船「東洋の真珠号(The Pearl of the Orient)」でスエズ(Suez)から出港しイエンボ(Yenbo)経由で1840年9月24日にジッダ(Jiddah)に上陸した。そこで、二人はフランス領事で著名な東洋通のフルジャンス フレネル(Fulgence Fresnel)と二人のエジプト陸軍フランス人将校に会った。 フレネルは1837年から1850年までジッダ(Jiddah)に住んで居た。マリ大佐(Mari)と軍医長M.シュデュフォ(M. Chedufau)はモハンマド アリ(Mihammad Ali)のアラビア遠征に参戦した。二人のエジプト陸軍将校は地理的資料とヒジャーズ(Hejaz)の住民に関する情報を提供してくれ、ガリニエ大尉とフェレ大尉はこれらの資料や情報を自分達の著書に組み込んでいる。ジッダに関する彼等の評価は不十分であったが、フレネルが蒐集しまとめたこの市の交易に関する情報は間違いなく大変重要であり、「フレとガリニエのアビシニアへの航海(Ferret-Galinier Voyage en Abyssinie)」の中に「ジッダ交易の小論文(Notes in the Jiddah Trade)」としてまとめられている。 フレとガリニエのアビシニアへの航海(Ferret-Galinier Voyage en Abyssinie)」の中の「ジッダ交易の小論文(Notes in the Jiddah Trade)」参照 2.14 ロシェ デリクール(Rochet d'Héricourt) 1839年2月22日には、南アビシニア(Abyssinia)地方のショア王国(the Kingdom of Shoa)の探検の為にもう一人のフランス人がカイロを出発した。このフランス人の名はロシェ デリクール(Rochet d'Héricourt)と云い、トール(Tor)、イエンボ(Yembo)、ジッダ(Jiddah)(4月13日)、ホデイダ(Hodeida)およびモカ(Moka)を経由して目的地に着いた。デリクールは「ジッダはどちらかと云えば海から眺めると美しい。その停泊地は船舶の安全を守る防波堤となる波の猛威を和らげる長い珊瑚礁で囲まれている」とその著書「アデル国とショア王国へ向かう途上の紅海東洋岸の航海(Voyage sur la côte orientale de la mer Rouge, dans le pays d'Adel et le Royaume de la Choa)」の中で述べている。 (注)ショア王国(the Kingdom of Shoa): 10世紀から16世紀にかけて回教徒の住む紅海の港とキリスト教徒の住む高原の間を交易していた伝説のエチオピア回教王国である。この王国のあった場所は定かでは無いが、2007年フランスの国立科学院(the National Centre for Scientific Research)が「エチオピア(Ethiopia)のリフトバレー(Rift Valley)にある3つの町(Asbari, Masal, and Nora)でモクク、墓場、アラビア語碑文等を発見した」と発表している。(http://www.dailygalaxy.com/my_weblog/archeology/) この市は壁で囲まれて居いるが、もし攻撃されても脆弱な防御にしかならないだろう。デリクールはこの市の人口を1万5千人から1万8千人の間と推定している。この港の美しさと安全性に加え、ヒジャーズ(Hejaz)の殆どの地方に物資を供給すると云う利点を与えている有利な位置がジッダを紅海随一の交易都市の一つにしている。 デリクールは更に、奇妙にも「ジッダの水は非常に美味く豊富である」と述べ、この市の交易に関する幾らかの資料を示している。加えて、デリクールはM.シュデュフォ(M. Chedufau)との会見についても記述している。シュデュフォはデリクールを市の北にある自分が管理する立派な軍病院に伴っている。デリクールはイブの墓(the Tomb of Eve)についての慣例的記述で自分の説明を終わらせている。 デリクールがフランスの戻ると、フランス学会は「もし、デリクールが科学的な道具を持つならば、その能力と冒険心はもっと優れた結果を生むだろう」と判断し、幾つかの貴重な装備や他の手段を用意した。フランス政府もデリクールにショア王国(the Kingdom od Shoa)への数々の豪華な贈り物を授けた。ロシェ デリクール(Rochet d'Héricourt)は1842年1月1日にマルセイユ(Marseilles)から第二の航海に出発した。デリクールは4月21日にジッダに居り、9日間の滞在の後にモカ(Moka)に向けてこの市を出発した。 たた3年間しか経ていないのに、デリクールはジッダ(Jiddah)では国際政治情勢の変化の結果として物事が急進的に変わった事を見出した。トルコ政府(the Porte)は実際にトルコの世襲の支配力を認めなければ成らなかったにもかかわらず、独立志向であるエジプト総督(Viceroy of Egypt) ムハンマド アリとの対決で支配を復活しヒジャーズの覇権を取り戻していた。 ロシェ デリクール(Rochet d'Héricourt)にはこの様にしてジッダが無政府状態に近い情況にあるのが分かった。(しかしながら、フランス人であり、デリクールの判断はフランスがムハンマド アリの主たる擁護者である為からの偏見の可能性はある。)そして、この市のトルコ総督オスマン パシャ(Osman Pasha)の貪欲と略奪が原因でその交易は急激に減少していた。トルコ総督が荷物を開ける様に要求し、その荷物に重税を課したので、デリクール自身が問題を経験した。デリクールは「自分の木枠貨物がフランス国王からショア国王(the King of Shoa)に対する贈り物である。もし、オスマン パシャがこれらの貨物を開けるように要求するのであれば、デリクールは直ちにコンスタンティノープル(Constantinople)に赴き、そこに駐在するフランス大使を介して強行に抵抗する」と宣言する事でのみ、この支払いを免れる事が出来た。後にこの措置をトルコ側が思い出して、ロシェ デリクール(Rochet d'Héricourt)がジッダのフランス領事として承認されるのをトルコ側が妨げなかったのは興味深い。 2.15 レオン ロシュ(Léon
Roches)、トマス ジョゼフ アルノー(Thomas Joseph Arnaud)およびアドルフ フォン ヴレーデ(Adolf von Wrede) 1842年にジッダに来て、政治的な使命からメッカ(Mecca)へ行く必要があり、数時間しか留まらなかったレオン ロシュ(Léon Roches)および1843年にイエメン(Yemen)へジッダ経由で行ったが、その著書にこの市について何も触れていないトマス ジョゼフ アルノー (Thomas Joseph Arnaud)およびアドルフ フォン ヴレーデ (Adolf von Wrede)について述べる必要は余り無いだろう。しかしながら、アルノーとフォン ヴレーデはジッダでフルジャンス フレネル(Fulgence Fresnel)と会っており、フレネルはアジア ジャーナル(the Journal Asiatique)に書いた記事に2人との出会いを記述している。 3. 十九世紀後半の探検家および旅行者の記述 3.1 リチャード フランシス バートン(Richard Francis Burton) 19世紀の偉大な探検家リチャード フランシス バートン(Richard Francis Burton)がメディナ(Medina)を訪問し、そしてメッカ(Mecca)へ見せかけの巡礼を行った後、ジッダ(Jiddah)を訪れたのは1853年になる。この時にバートンはアフガニスタン ダールウィシュ(Afghan darwish)のシェイク ハジ アブダッラ(Shaykh Haj Abdallah)を詐称していた。バートンが行った多くの旅の最初は32歳の時で、その旅はバートンをイスラム(Islam)の聖地へと導いた。その時までにバートンはシンド(Sind)で或る時期を過ごして、その後でインド回教の中心を訪問し、そこでバートンは東洋的な生き方および流暢で正しいアラビア語を驚異的に取得した。(バートンに取ってのアラビア語は取得した東洋の語学の1つでしか無かった。)そして、バートンが巡礼に行こうと最初に考えたのもここであった。バートンは1849年に英国に戻った後、自分の計画を実行に移し、1853年4月3日にカイロに向けて出発し、カイロからスエズに向かい、そこで黄金の針金(Golden Wire)と呼ばれるサンブーク(Sambuk)に乗船し、7月6日にメディナの港エンボ(Yenbo)に向け出航した。 「これはこの本の範囲を越えているので、バートンのメディナとメッカの探検の記述は他の旅行者の場合と同じ様にざっと目を通すだけにしている。バートンは最終的にはジッダに9月に到着しているが、バートンのこの市での住居の記録にはがっがりさせられる。実際に引用出来るイブの墓(the Tomb of Eve)の記述くらいである」とアンジェロ ペセ博士(Dr. Angelo Pesce)は述べている。 「メディアおよびメッカへの個人的巡礼記(記念版)(A Personal Narrative of a Pligrimage to al-Madinah and Meccah)」参照 3.2 シャルル ディディエ(Charles Didier) バートン(Burton)のフランス人の友人であるシャルル ディディエ(Charles Didier)は1年後にジェッダに上陸した。ディディエ(Didier)は1854年1月にジッダ(Jiddah)およびタイフ(Taif)に向けてエジプトを出発した。タイフでディディエ(Didier)はメッカのシャリフ(Sharif)と会った。ディディエ(Charles Didier)の著書「メッカの大総督邸での滞在(Séjour chez Grand-Cherif de la Mecque)」のジッダ(JIddah)に関する章はとても興味深いのでここに引用した。 「メッカの大総督邸での滞在(Séjour chez Grand-Cherif de la Mecque)」参照 3.3 フランス陸軍少佐スタニスラフ ラッセル(Stanislas Russel) 紅海での英国の覇権を容認する事になるアビシニアの英国影響下への編入を防ごうと切望していたフランス政府はスタニスラフ ラッセル(Stanislas Russel)陸軍少佐に紅海の探検とアビシニアとの関係樹立を命じた。この任務は1859年から1860年に遂行された。ラッセルはその著書「アビシニアと紅海での或る任務(Une Mission en Abyssinie et dans la Mer Rouge)」の中にイヴの墓について述べ、殆どの著者が想像や推定で示していたその寸法の正確な測定を示している。 「アビシニアと紅海での或る任務(Une Mission en Abyssinie et dans la Mer Rouge)」参照 3.4 ハーマン ビックネル(Herman Bicknell) 1862年8月25日付けのロンドンタイムズ(The Times)は回教徒に改宗したハーマン ビックネ(Herman Bicknell)からのアブド エル ワヒド(Abd El Wahid)と云う回教徒名で行った巡礼について述べた手紙を掲載している。 バートン卿著「メディアおよびメッカへの個人的巡礼記」の付属書VII 「アブド エル ワヒドによるメッカ巡礼」参照
メッカの中心へのキリスト教徒の立ち入り禁止令を避ける為にモスレム巡礼の振りをした西洋人の偉業の見直しでは「南アラビアへの旅(Reise nach Südarabien」の著者ハインリヒ フライヘール フォン モルツアン(Heinrich, Freiherr von Maltzan)については余り述べられていないが、モルツアンがアルジェ(Algiers)のムーア人(Moor) 扮して旅をする事でそこに到達する貢献を行った。彼はカイロ(Cairo)からコッセイール(Kosseir)へ向かい、それから紅海をイエンボ(Yenbo)へ横断し、海岸に沿ってジッダ(Jiddah)まで航海した。そこで彼が下船したのは1870年であった。アウグストウス ラリ(Augustus Ralli)の話の中に「ジェッダ(Jeddah)での彼の主な冒険はゆとりがあった。このゆとりを持って、期待と反対に、彼はこの混み合った港の中に宿舎を見つけた。それは美しいアパートであり、バークリー広場(Berkeley Square)にある家の様にその選りすぐった条件にもかかわらず、長期に渡って借り手を探していた。その理由は見つけにくくは無かった。かきむしる様な泣き叫びで、彼は最初の眠りから目覚め、自分の隣人が泣き叫ぶダルウィーシュ(dervish)であるのを知った」と云う記事がある。 3.6 ジョン フライヤー キーン(John Fryer
Keane) ジョン フライヤー キーン(John Fryer Keane)は1877年終わりから1878年初めの間にジッダ(Jiddah)を訪れたもう一人の巡礼であるがその報告「ヒジャーズでの6ヶ月(Six Months in the Hejaz)」にはこの市について余り述べられては居ない。 3.7 チャールズ モンタギュー ダウティ(Charles Montague Doughty) 同じ事が「アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta)」の著者チャールズ モンタギュー ダウティ(Charles Montague Doughty) (1843 - 1926)についても実質的には本当である。ダウティはその近代的の古典的な旅行記を自分の北西および中央アラビアの放浪の終点であるジッダ(Jiddah)に関しての幾つかのさりげない、ささいな句で終わらせていた。 「アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta)」参照 3.8 デニ ドゥ リボワール(Denis de Rivoyre) フランス人旅行者のデニ ドゥ リボワール(Denis de Rivoyre)は1880年以前にジッダ(Jiddah)に来ている。1880年はリボワールの著書「紅海とアビシニア(Mer Rouge et Abyssinie)」が出版された年であるが、リボワールはその著書の中に実際に何時、旅行したかについては述べて居ない。又、リボワールはジッダに関して簡単な章を記述してはいるがその中には興味を引くような記述は見られない。 3.9 ゲルハルト ロールフス(Gerhard Rohlfs) アビシニア(Abyssinia)に向かう途中で、ドイツ人アフリカ探検家のゲルハルト ロールフス(Gerhard Rohlfs)が1881年に一時的にジッダに足を止めたが、ロールフスの著「アビシニアでの任務について(Meine Mission nach Abessinien)」の記述ではジェッダについて殆ど何も書いていない。 3.10 シャルル ウベール(Charles Huber) 1878年にシャルル ウベール(Charles Huber)はフランス公共教育省(Ministry of Public Instruction)からナジド(Najd)の探検を依頼された。ウベールのダマスカス(Damascus)の住居はアラビアの風習や言葉に親しましてくれた。ウベールは最初に沙漠を横断してジャウフ(Jawf)に着き、それからハイル(Hail)に向かい、幾つかの古代の碑文を発見し、ウベールがドイツ人オリエント学者ジュリウス ユティング(Julius Euting)による1881年の第二次探検に参加する動機がそれであった。 ダマスカスから互いにあまり間に合わない二人の男はジャウフに着き、ハイルそしてテイマ(Teima)へと石に刻まれた碑文を複写する目的で探検した。ダウティ(C. M. Doughty) もこれらの碑文について聞いては居たが、目撃してはいない。二人の男は複写に成功し一緒に石を購入した。(但し、ユティングが大半を支払った。)二人は石をハイルに送り、分かれて、ユティングはアル ワジ(al-Wajh)経由でエルサレム(Jerusalem)に向かい、ウベールはハイルからジッダ(Jiddah)に向かった。 今はルーブル博物館に保管されているこのテイマ石(Teima stone)は最も重要なセム族碑文の一つである。この石はその正面にテイマに持ち込まれた新しい宗教崇拝を記録し、側面に神の前に立つ聖職者の姿を描いている。 助言を無視して、それと反対にウベールは石を取り戻す為に再びジッダからハイルに出発したが、1884年7月29日にラビーグ(Rabigh)近くで自分の案内人に殺された。ウベールの手記「アラビア旅行日誌(Journal d'un voyage en Arabie)」はその死後、日記が最終的に回収されて出版された。 この手記にはこの地方の情報源から蒐集した資料に基づくジッダ港の交易に関する幾つかの統計的資料の表が含まれていた。 3.11 クリスチアン スノウク フルグロニェ(Christian Snouck Hurgronje) 回教徒に改宗したオランダの偉大なアラビア学者クリスチアン スノウク フルグロニェ(Christian Snouck Hurgronje)はメッカに向かう前に、この地方の方言を学ぶ為、1884年から1885年にかけて、ジッダのオランダ領事館に5ヶ月間居住した。フルグロニェはクルアーン学習の学生としてメッカにも6ヶ月滞在した。フルグロニェの聖なる市についての見事な作品「19世紀後半のメッカ(Mekka in the later part of the 19th Century)」はいまだに標準参考書であるがフルグロニェのジッダでの逗留の痕跡は数枚の写真の様な木版画以外は無い。 3.12 エジプト医師サーレ ソウッビ(Saleh Soubby) エジプト医師サーレ ソウッビ(Saleh Soubby)は1891年に巡礼を行い、殆ど所見の無いジッダに関する十数ページを含む本「メッカとメディナの巡礼 (Pèlerinage à la Mecque et à Medine)」を書いた。 (注)アンジェロ ペセ博士がアラムコの好意で提供されたと引用している「ウィリアムズ(P. Williams)が描いたジッダの彫刻を施された扉の挿し絵」は見つけられなかったが幾つかの美しい扉のイメージをウェッブから抜き出した。 3.13 ジェルヴェ クールテルモン(Jules Courtellemont) フランス系アルジェリア人写真家ジュレ クローダン ジェルヴェ クールテルモン(Jules Claudin Gervais - Courtellemont)は暫くの間、メッカの写真を撮りこの市の写真集を作ろうと云う企画を育んでいた。ジェルヴェ クールテルモンは回教徒に改宗し、アルジェリア人の友人からの積極的な援助で1894年に帆船に乗ってアルジェ(Algiers)からジッダ(Jiddah)に向かって旅立った。ジェルヴェ クールテルモンはメッカへの旅を終わらす事が出来、自分の意図通りに成功したが、ジェルヴェ クールテルモンはアルジェリア人の友人が重病に成った為に、イエンボ(Yenbo)で計画していたメディナ(Medina)への訪問を中止しなければ成らなかった。ジェルヴェ クールテルモンが撮影した写真はその著書「メッカへの旅(Mon voyage à la Mecque)」を飾った。その本にはジッダの市の幾つかの陰気な映像が掲載されて居り、それはトルコ官憲に見つかり追放される事を恐れていた著者の憂鬱な心情を映し出して居る。 3.14トーマス エドワード ローレンス(Thomas Edward Lawrence) アンジェロ ペセ博士(Dr. Angelo Pesce)は「ジェルヴェ クールテルモン(Gervais Courrtelle- mont)および世紀の変わり目と共に、旅行者、征服者、冒険家および巡礼者のページでのジッダ市の記録の評論を我々の自由裁量で終了させたい。20世紀の到来と共に特に政治情勢の安定による旅行の制限緩和で付随的にジッダに関する書物や記事は急激に増加し、そして、それらの幾つかはいまだに歴史的情報源として有用であったけれども、空虚な旅行者の話や殆ど或いは全く価値のないありふれた蒐集がその数では余りにも少なくなかった。それでも我々の勝手な時間制限に対して1つの例外が避けられなかった。それは『アラビアのローレンス(Lawrence of Arabia)』と呼ばれるローレンス(T.E. Lawrence)の熟達した散文を無視してジッダの旅行記の評論は完了し受け入れる事は出来なかった為である」と述べ、その著「知恵の七柱(The Seven Pillars of Wisdom)」の65頁を抜粋している。
ローレンスまで入れるとアンジェロ ペセ博士(Dr. Angelo Pesce)が紹介した18世紀と19世紀にジェッダを訪問した旅行家・探検家は39余名であり、それぞれの記述では違いもあり、固有名詞や地名で特定できないものもある。しかしながら、全体を通して読んで戴ければ、当時のジェッダの状況を把握することが出来ると思う。特にブルクハルト(Johana Ludwig Burckhardt)が著述し1829年にロンドンで出版した「アラビア・ヒジャーズ地方の旅(Travels in The Hedjaz of Arabia)」には当時のジェッダの様子が仔細に述べられている。この時代に交易に携わったインド船および地元以外のアラブ船の殆どは英国船籍であり、直接スエズと交易することは可能ではあった。しかしながら、航行の難所である紅海の奥にあるスエズ等の港への交易の殆どはインド船から沿岸航行するアラブ船に積み替えられて行われた事と、即金で取引を行う商習慣を保持していた事からジェッダは中継貿易港としての地位を確保していた。ジェッダは東西交易の主要な経路ではなくなっており、その交易品の中心は乳香ではなく、コーヒーであった。そして英国同様に表だってはいないが奴隷貿易が大きな割合を占めていた。これは地元のアラビア人が交易か駱駝放牧で生計を立て、「物乞いしても召使になるな」と云うほど肉体労働を嫌う気質があり、労働力が不足していた為ではないかと私には思える。この風潮はサウジアラビアでは今でも続いており、3Kを中心とした農業労働者、駱駝・羊の牧童、清掃、女中等肉体労働者のすべてを外国からの出稼ぎ労働者に頼っている。ここ4半世紀位に各種の技能養成所が設立され、石油・電力・造水等基幹産業ではサウジ人の技能者も育って居るが、少なくとも近い将来、外国からの出稼ぎ労働者が減る事は考え難い。
広辞苑 アンジェロ ペセ博士著「ジッダ(或るアラビアの町の描写)」 Wikipedia(ウィキイペディア) その他
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||