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2008月8月31日
 マッカ・ムカッラマ(メッカ州)

(サウジアラビア王国西部地方)

その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ

1-4大航海時代とジェッダ)

目次

序文

前書き




 

目次

前書き

緒言

1. 東西交易へのポルトガルの侵入

1.1 喜望峰まわりインド航路の開闢

1.2 重武装艦隊の残虐な海賊行為

1.3 カリカット艦隊との海戦(15032月)

1.4 チョウルの戦い(15081月)

1.5 ディウ沖の交戦(15092月)

1.6 インド洋全体へのポルトガル覇権確立

1.7 マムルーク朝遠征艦隊によるジッダ要塞化

1.8 新造マムルーク朝艦隊による再攻勢

1.9 優柔不断なポルトガル国王

2. マムルーク朝滅亡とオスマントルコの覇権確立

2.1ポルトガル艦隊の無能さとエジプト艦隊の内部不和

2.2 オスマントルコの攻撃によるマムルーク朝滅亡

2.3失意のポルトガル艦隊とマムルーク朝艦隊自滅

2.4 オスマントルコ支配へのポルトガルの挑戦

2.5 インド洋のポルトガル勢力一掃とその挫折

2.6 喜望峰航路によるジェッダの衰退

3. 大航海時代のジェッダ訪問者

3.1 ジョセフ ピッツ(Joseph Pitts)

3.2 ルイス デル マルモル カールヴァジャ(Luis del Mármol Carvaja)

4. 大航海時代を開いたポルトガル王国

4.1 後ウマイヤ朝(Caliphate of Córdoba)

4.2国土回復運動とポルトガル王国建国

4.3 アヴィシュ朝設立と大航海時代開闢

5. 大航海時代に使われた帆船

5.1 アラブ船(Arab Ship)

5.1.1 バッガラ(Baggalah)

5.1.2 ブーム(Boom)

5.1.3 サンブーク(Sambuk)

5.1.4 ザルク(Zaruk)

5.1.5 その他のアラブ船

5.2. ガレー船の系列

5.2.1 バイリーム ガレー船(bireme galley)

5.2.2 トライリーム(trireme galley)

5.2.3 フスタ船(fusta)

5.3 西洋式帆船

5.3.1 キャラック船(carrack)とナオ船(nao)

5.3.2 キャラベル船(carvel)

5.3.3 ガレオン船(galleon)

5.3.4 コルベット艦(corvette)

5.3.5 スクーナー(schooner)

5.3.6 ブリガンティン型帆船(brigantine)

5.3.7 スキフ(skiff)

5.3.8 バーク帆船(barque)

6. 大航海時代に使われた硬貨および貨幣単位

6.1 アラビアの硬貨

6.1.1 ディルハム銀貨(silver dirham)

6.1.2 半ディナール(half a dinar)

6.1.3 パース(purses)

6.1.4 ピアストル(piastres)

6.1.5 デュアニー(duanee)

6.1.6 パラ(para or párá)

6.2 西洋の硬貨

6.2.1英国ポンド(Pound Sterling)

6.2.2 オーストリア銀貨(Austrian thalers)

6.2.3 クルザード(cruzado)

6.2.4 ゼッキーノ(sequins, zecchino or zechin)

6.2.5 ダカット金貨(gold ducat)

6.2.6 ターラー銀貨(thaler)

6.2.7 テストン銀貨(testoon)

6.2.8 ドゥカトーン(Ducatoons)

6.2.9 ピスタレーン(Pistareens of Philip V)

6.2.10 ファージング(farthing)

6.3 植民地で鋳造された硬貨

6.3.1 新鋳ルピー(シッカルピー)(sícca rupée)

6.3.2 ペルードル又はコブ ドル(PeruCobb Dollars)

6.3.3 メキシコ ドル(Mexican Dollars)

6.4 金銀交換レート

6.4.1 イスラム法での規定

6.4.2金銀交換レートの実績

6.5 各硬貨の現在価値の推定

7. 大航海時代に使われた度量衡

7.1 長さの単位

7.1.1 キュービット(cubit)

7.1.2 サタディア (Stadia)

7.1.3 ファゾム(fathoms)

7.1.4 ファールサング (farsang)

7.2 重量の単位

7.2.1 ヴァキア(Vakia)

7.2.2 キンタル(quintal)

7.2.3 ドラム(drachm or dram)

7.2.4 バハール(Bahars)

7.2.5 ファジル(Frazils)

7.2.6 ファランズラ(faranzulas)

7.2.7 ペニーウェイト(dwts. or pénny-wèight)

7.2.8 マイム(Mime)

7.2.9 マウンド(Maunds)

7.2.10 ミナ(mina)

7.2.11 ラトル(rattle)

7.2.12 ロトロ(rotolo)

7.3 容積の単位

7.3.1 アルダッブ(ardeb)

後書き

参考資料



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前書き

 

   

ポルトガルのヘンリー航海王子(Prince Henry the Navigator or Infante Dom Henrique)は探検事業家や航海者たちを指導・援助し、それまで未知だったアフリカ西岸を徐々に南下する航路を開拓し、15世紀末にはついに喜望峰周りのインド航路を発見し、大航海時代の幕を開いた。17世紀に入るとオランダ商人や英国商人が価格競争で最終的にはポルトガル人達の独占を打ち破り、遠回りではあるが、喜望峰回りの航路で中近東・アラビアに覇権をもったオスマントルコ(Ottoman Empire)(1299–1923)の支配を全く受けずに堂々と東インド会社のインド貿易船(East Indiamen)で東西貿易の交易品を直接ヨーロッパ市場に運んだ。この15世紀から17世紀半ば過ぎまでの東西貿易の変遷の時代を大航海時代と呼んでいる。大航海時代以前は東西交易の中継港として栄えていたジェッダ(Jeddah) がその変遷に与えた影響と大航海時代以降でのジェッダの役割変化についてここでは述べてみたい。

 

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緒言

   

西暦646年(ヒジュラ歴26年)に第3代正統派カリフ ウスマーン(the Caliph Uthman)によって定められた巡礼の受け入れ港の役目をジェッダは担って来た。960年頃からメッカの宗教行事の世話、巡礼(Hajj)の安全確保およびヒジャーズの行政は世襲でシェリフ家(the Sharif of Mecca)のメッカ太守(Sharif of Mecca)が担うようになり、1201年からはシェリフ庁(Sharifate)が設けられた。ジェッダは東西交易の中継貿易への関税でシャリフ家およびシェリフ庁(Sharifate)にとって重要な歳入源であった。エジプトのマムルーク朝(Mamuluk) (1250 - 1517)1425年メッカに定住の守備隊を駐屯させ、ジッダ港からの関税歳入も一部収得し、シャリフを従属させた。喜望峰まわりインド航路の開闢とポルトガルのアラブ船の交易禁止措置はジェッダの扱う東西交易に打撃を与え、シェリフ庁(Sharifate)のみならず、その宗主国であるマムルーク朝の関税歳入を激減させた。伝統的東西交易とその関税歳入を守る為の新興勢力ポルトガルとのマムルーク朝の戦いにジェッダは巻き込まれていった。そのマムルーク朝支配は1517122日にカイロ(Cairo)がオスマントルコ(Ottoman Empire) (1299–1923)側の手に落ちて滅亡した。オスマントルコは総督(Vizier)をメッカ(Mecca)に置き、州総督(Wali)をジッダ(Jiddah)に置いたが、総督等の役目は主として関税を徴収する為の行政であり、ヒジャーズ(Hejaz)の支配は従来どおりメッカのシェリフ庁(Sharifate)を通じて行った。

 

アンジェロ ペセ博士著「ジッダ(或るアラビアの町の描写)(Portrait of an Arabian City, Jiddah )」はこの状況について様々な史料やジェッダ訪問者の記述を参照しながら大航海時代におけるジェッダとその関連事項を説明している。ただ、読み進む内に中世の捕虜に対する扱いは現在と比べて非人道的なのは一般的であるとしても「ポルトガル人のアラビア人への攻撃が余りにも残忍である」との注釈が随所に見られる。その理由を知る為に、ポルトガルについてその成り立ちや大航海時代への飛躍について少し調べてみた。又、大航海時代に使われた帆船についてその美しさと浪漫に心が引かれたので、出来るだけ画像を集めて掲載した。「ジッダ(或るアラビアの町の描写)」では各所に様々な硬貨や貨幣単位や度量衡を示した金額表示があるが、その実際価値や硬貨同士の相互関係や度量衡が分からない為、金換算で現在価値を推計し、参考の為に添付した。

 

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