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2008 年10月25日 高橋 俊二
メディアおよびメッカへの個人的巡礼記

( A Personal Narrative of a Pligrimage to al-Madinah and Meccah)


 

 

バートン卿のメディアおよびメッカへの個人的巡礼記

 

「メディアおよびメッカへの個人的巡礼記(記念版)」

 

リチャード フランシス バートン卿(Sir Richard Francis Burton)

1885 -1886年ロンドンで出版

 

BURTON, R.F. A Personal Narrative of a Pligrimage to al-Madinah and Meccah, London 1893.

 (Memorial Edition)

 

 

リチャード フランシス バートン卿(Sir Richard Francis Burton) (1821 - 1890)は英国の探検家、オリエント学者、ヨーロッパ人として始めてタンガニーカ湖(Tanganyika)を発見、「千夜一夜物語(The Arabian Nights)」の全訳を成し遂げた。

 

 

(注)千一夜物語(The Arabian Nights)はインド・イラン起源や近東諸地方の物語集でシェヘラザードという才女が面白い物語を千一夜にわたって続けるという型式をとっている。はじめパフラビー語に訳され、8世紀後半にアラビア語に訳され、以後増補、著者は不明。アラビア夜話、千夜一夜物語ともいう。

 

「メディアおよびメッカへの個人的巡礼記」よりジェッダに関する記述の抜粋

 

 

自分の長逗留も終わろうとしている。ジェッダ(Jeddah)の町の外側には人類の母であるシッティナ ハウワ(Sittna Hawwa)よりも有名な人物は居なかった。自分は少年モハンメド(Mohammed)と或る晩、驢馬に乗ってメッカ門(the Mecca gate)から出て砂っぽい平地を越えて北東へ向かった。半時間の騎乗の後、汚い掘ったて小屋とみずぼらしいコーヒー小屋の中の郭(enceinte)に着き、扉が閉まっているのが分かった。ほどなく、1人の男が力強く走って来た。この男は2人を従えていた。自分達がのろで白く塗られた壁の囲みに入る為にこの男達は特有の温かいおもいやりで鍵をあてがい、尋常では無い低いえぐり繰形(congés)を造った事がその時は印象的であった。。

 

 

47頁の挿し絵): リチャード フランシス バートン(Richard Francis Burton)1853年に描いたジッダの四角い広場である。)

 

「母」は多分、回教徒(Moslemah)の様にカアバ(Ka'abah)に向かってその足を北にその頭を南にし、その右の頬を右手で支えて横たわっている。白華(whitewashed)を生じ、遠くから航海や旅をして来た者達には目立つ小さなドームは西に入り口があった。このドームはヒジャーズ(Al-Hijaz)のその様な場所の通例である様に造作されていた。その下の中心に四角い石があり、真っ直ぐに立ち、奇抜にも人体の臍の部分が描かれ刻まれていた。この石と共にドームもスッラ(Al-Surrah)すなわち臍(the navel)と呼ばれていた。案内人(cicerone)は自分に象形文字(hieroglyph)の作風にキスしろと指示した。この情況では挨拶は余り必要ないとは多少思いながらもその様にした。ここと幾つかの若木の育っている頭部でお祈りを終え、体の輪郭を示す2つの平行した小さな壁に沿って歩いた。二つの壁はおよそ6(six paces)離れており、その間のイヴ(Eve)の首の上に2つの墓がある。「これら2つは「母」の聖墓を修理したオスマン パシャ(Osman Pasha)とその息子の墓だ」と告げられた。我々の最初の祖先が頭から腰まで120歩あり、腰から踵まで80歩あるとすれば彼女はアヒルのように見えるに違いない事を自分はモハンメド少年についてコメント出来なかった。この少年は軽々しく「自分の星である偉大な母が地下に居るのに感謝する。さもなければ男達は恐怖で正気を失ってしまうだろう」と答えた。

 

12世紀にイブン ジュバイル(Ibn Jubayr)はドームについて「イヴがメッカへ向かう途中で休んだ場所に建てられている」とのみ述べている。しかしながら、1154年にイドリーシー(Al-Idrisi)は「イヴの墓はジェッダにある」と宣言した。アブド カリム(Abd al-Karim)1742年にそれを小さなドームを真ん中に持ち、断崖の境界で終わる末端を持つパルテール庭(parterre)と比較した。「周囲はカリムの歩幅で190歩であった」と云う。「ルックの旅行記(Rooke's Travels)」では「この墓は20フィートの長さである」と述べている。ジェッダ(jEDDAH)2回訪れたアリーベイ('Alī Bey)はイヴの墓に間接的な言及(allusion)もしていない。従って、「ワッハーブ派(Wahhabis)に破壊されてしまったのだ」と結論できるだろう。

 

http://www.moasel.com/jeddah/fls/JedOld1.jpg

 

「ブルクハルト(Burckhardt)は有名な著者達によって注意深く写されてきた」等と自分としては殆ど言う必要はないが、そのブルクハルト(Burckhardt)は「この墓はシリア(Syria)のブカア谷(the Valley of Al-Buka'a)で見られるノア(Noah)の墓に似て、粗雑な石の構造物で長さが4フィート、高さが23フィートそして幅が大きい」と告げている。

 

ブルース(Bruce) は「この場所(メッカ或いはジェッダ)から2日間の旅で緑の芝生の50ヤード(yard)長さのイヴの墓が今日の姿で見えてくる」と書いているが、この偉大な旅行者は恐らく町の門から出ていないのだろう。

 

W. ハリス卿(Sir W. Harris)は聖なる場所を訪れられなかったが、1840年に「緑芝生のイヴの墓はいまだに紅海の不毛な海岸に見られる」と繰り返した。現在の構造物は明らかに新しい。昔はジェッダで「この聖墓は頭に1つの石、足に2つ目の石および臍のドームで構成されている」と云われた。

 

アラブの石崇拝(Arab litholatry)の時代にはジェッダの偶像はサクラ タウィラ(Sakhrah Tawilah)と呼ばれる長い石(the Long Stone)であった。イヴの石がこの古い偶像崇拝(idolatry)のイスラム化した復帰ではないのか?もし、この墓が証拠として認められるならば、アラブ族は族長的信望の範囲に一貫性を欠く事が分かる。

 

マスジド カイフ(Masjid al-Khayf)にあるアダム(Adam)の聖墓(the sepulcher)はイヴの聖墓の様に巨大である。ブカ(Al-Buka'a)にあるノア(Noah)の聖墓は水道橋の一部で38歩の長さで、その1.5歩の幅である。フラ(Hulah)に近く、ケルベラ(Kerbela)から7パラサング(parasang3 - 3.5 マイル)にあるヨブ(Job)の墓は小さい。自分は紅海の東南にあり、巡礼にそこで売っている瀝青のカップで有名に成ったモーゼズ(Moses)の墓は見た事は無い。しかしながら、シナイ半島にあるアアロン(Aaron)の聖墓(the sepulcher)は適当な大きさである。

 

墓場を離れる時に、自分は墓守に1ドルを渡した。墓守は「貴方の様な地位の男は僅かな謝礼で良い」と忠告して受け取った。或いは墓守は「敬虔さ(pious)以外にアフガニスタン ダールウィシュ(Afghan Darwish)から何も期待できない」との確信に少しも満足していなかった。次の日にモハンメド少年は男の温かい心づかいと失望を説明してくれた。自分はマディナ(Al-Madinaj)のパシャ(Pasha)と思い違いされていた。

 

 

「クルアーンの中の祈りの言葉やその一部を額に入れて壁に飾ってある緑の覆いの下の霊廟(shrine)の中には四角い形で、人間の体付きで臍の部分(the omphalic region)を示す様に奇妙に彫られている神聖な石がある」と.バートン (R. F. Burton)は述べ、ジェッダの名の意味は「水の欠乏した平原」であるとも述べている。

 

付属書VII 「アブド エル ワヒドによるメッカ巡礼」

 

「アブド エル ワヒドによるメッカ巡礼」はリチャード フランシス バートン卿 (Sir Richard Francis Burton)著で1893年ロンドンで出版された「メディアおよびメッカへの個人的巡礼記(記念版)」の付属書VIIBURTON, R.F. A Personal Narrative of a Pligrimage to al-Madinah and Meccah (Memorial Edition). London 1893. Appendix VIII. The mecca Pligrimage by El Ha abd El Wahid.)であり、1862825日付けのロンドンタイムズ(The Times)は回教徒に改宗したハーマン ビックネル(Herman Bicknell)からのアブド エル ワヒド(Abd El Wahid)と云う回教徒名で行った巡礼について述べた手紙を掲載している。(本文の3.4 ハーマン ビックネル(Herman Bicknell)」を参照。)


リチャード フランシス バートン卿(Sir Richard Francis Burton)はこの手紙の送付人エル ハッジ アブド エル ワヒド(El Haj Abd El Wahid)の本当の人格について何の説明も無く、同じ事項に関連し、この記事を自分の著書「メディアおよびメッカへの個人的巡礼記(記念版)」の付属書VIIに掲載している。

 

ビックネルは外科医でカイロから巡礼を行う前に、ジャヴァ(Java)、チベット(Tibet)、ヒマラヤ(the Himalaya)、ペルシア(Persia)及びアンデス(Andes)を探検した。ビックネルはジッダ(Jiddah)に関して、付属書VIIの中で

 

1862526日に我々はジェッダ(Jeddah)に到着した。そこでは砂丘や岩山を伴いアラビアの全く不毛地帯が明確に現れてくる。しかしながら、海からのこの町の眺めは非絵画的では無い。多くのヨーロッパ船が沖合に停泊して居り、我々が港に入った時には全ての方向から数え切れない多くの小さな漁船が突き進んで来た。それらの漁船の帆はもはや白くは無くないが水の強い反射でエメラルドグリーンをしていた。その多くの小さな漁船は我々の船を全ての方向から取り囲み、そして、まぶしい色およびすばやい動きによって喜望岬(the Cape)周りの航海でしばしば見掛けるネズミイルカ(porpoise)の群の動きを思い出させた。下船する際に、我々は幾人かのアラビア語ではムスタウワフ(Mustawwafと呼ばれる巡回監視の男達に声を掛けられた。一般的に宗教的案内人として仕える他に、彼等の特別な責務は巡礼を率いてカバ(Kabah)の周りを7回の廻る儀式を行わせる事である。我々は町に外に野営し、我々の母イヴの墓を訪問し、メッカに向かう為に駱駝に乗った。」

 

と述べている。

 

Return to Jeddah Visitors 3.4 Herman Bicknell

 

この事がバートン卿夫人イザベル(Lady Isabel)1890年に死去したバートン卿の巡礼の「思い出版(Memorial Edition)」を1893年に出版した時に、ビックネル(Bicknell)の兄弟と巡礼する事の利点についての論争を引き起こす発端と成った。ビックネルが1875年に亡くなるまで1855/1856年に出版されたバートン卿の初版本はビックネル自身およびその親戚には気が付かれずに済んだのは明らかである。

 

 

「ミディアンの土地(the Land of Midian)

 

レウケ コメ(Leuke Kome)は白い村を意味し、レウケ コメの正しい位置は明確では無い。リチャード フランシス バートン(R.F. Burton)は「ミディアンの土地(the Land of Midian) London 1879, t. II, p. 133-140」の中で「紅海のアラビア岸北緯25°6'(現在のウンム リッジ(Umm Lijj)の位置)にあるハウラ(al-Haura)である」と見なしている。この記述のためにバートンは実際にこの地域を訪れてはいるが「この様な場所が『古代に繁栄した商業港の跡である』と考えさせる証拠は無かった」と強調している。航海記(ペリプラス (Periplus) 初期の注釈者達は或る程度はal-Hauraも白を意味していた事もあってバートンの発見を支持する傾向にあった。そしてこのアラビア語の名前はプトレマイオス(Ptoplemy)(スコフ(W.H. Schoff)の引用書中 (op. cit.opere citatoin the work cited) 101頁参照)にやはり白を意味するアウアラ(Auara)としてあらわれている。ハウラ(Al-Haura)は現在の地図には記載されて居ないが、その緯度からはイェンボ (Yenbo) の北西135kmにあるウンム ルッジ(Umm Lujj)と一致する。

 

(注)ミディアンの土地(the Land of Midian) パレスティナ南部から現在のサウジアラビア北西海岸付近と推定されるミディアン人の住んだ土地。

 

「中央アフリカの湖沼地帯(The Lake Regions of Central Aftica)

付属書、第2巻(1858年のジッダ事件の当時の評価)

 

この評価は1858715日付けのロンドン タイムス(the London times)185884日付けBombayのテレグラフ クーリエ紙(the Telegraph Courier)18591231日外務省文書(1858/1859年のジッダの騒乱)、トメス八世(Tomes VIII)とトメス四世(Tomes IX)の二人の年代記に示されている。個人的な考察を伴う簡潔な記事はバートン(R.F Burton)1860年にロンドンで出版した「中央アフリカの湖沼地帯(The Lake Regions of Central Aftica)」の付属書、第2巻の428 - 429頁にも示されており、全体の記述は後にアヴリル(A. d'Avril)によって1868年にパリで「メッカへの巡礼の記述を伴うアラビアの同時代」が出版され、その76 - 82頁にこの評価が掲載されている。

 

フレ(Ferret)とガリニエ(Galinier)について

 

リチャード F. バートン卿(Sir Richrad Francis Burton)著「Personal Narrative of a Pilgrimage to al-Madinah and Meccah (Memorial Edition)1893年ロンドンで出版、第II263-269頁にはフレ(Ferret)とガリニエ(Galinier)についてリチャード F. バートンは「この二人の著者は高名な(celebrated)アラビアの専門家フルジャンス フレネル(Fulgence Fresnel)が権威として引用されているジッダ交易の現状の表を出版した。そしてこれらの表は『アビシニアの生活(Life of Abyssinia) 』の著者によって翻訳されている」と言っている。

 

1853年にロンドンで出版された「アビシニアの生活(Life of Abyssinia)」の無名の著者はマンスフィールド パーキンス(Mansfiled Parkins)であり、そして、たまたまパーキンス(Parkins)は異なる港から輸入される商品の年間取り扱い額のみを記載した集計表を翻訳していた。これらの表の翻訳の中で、これらを図式化する方が簡単ではあるけれどもここでは原文の儘に固執した。数字の中で2ヶ所の明きらかな間違いは修正してあり、既に使われなくなった単位については出来るだけ換算を示してある。

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