タミシエ著の「アラビアでの航海」
「アラビアでの航海(ヒジャーズ滞在とアシールでの戦闘)」
モーリス タミシエ(Maurice
O, Tamisier)著
1840年パリで出版
(TAMISIER, M.O. Voyage en Arabie.
Sèjour dans le Hedjaz. Campagne d'Assir Paris 1840.)」
この本には通りの記述的散策を含め、ジェッダ市についての幾つかの章が含まれている。タミシエは「ジッダの市は砂の多い浜辺に建てられている」と書き出し、「その高い家々と細いミナレット(minaret)は青い空にクッキリと刻まれている。毎晩、住人は自分達の家の平屋根に座り、平らな海面に反射する星を愛でたり、北からの微風が起こす波のつぶやきを聞きながら眠りに落ちたりしている。日中は市と遠くに錨をおろした船を結ぶコンベアーの様に小さな舟の群が港と湾を行き来している」と記述している。
(注) 上の絵はタミシエとは直接関係無いが当時のジェッダの風景
遙か遠くに入植させられたヨーロッパ人の態度に対する幾つかの所見の後、タミシエはこの町の基礎が造られた不思議な事情に関する言い伝えを物語っている。それがタミシエのガイドが語った「伝道の初めの頃にメッカの住人(Meccan)の敵意によってにがにがしい気持ちにさせられた預言者はアビシニア(Abyssinia)へ移住しようと決意したが、2人のこの地方の漁師の思いやりと助けとなる善意に動かされ、翻意した。そして航海の対岸のアフリカ側に渡るのを待っていた場所であるこのジッダに一つの市の基礎を建設しようと預言者は決意した」との言い伝えである。
タミシエはこの市のガイドをメディナ門(Medina Gate)から始め、イブラヒム パシャ(Ibrahim Pasha)によって、アレクサンドリア(Alexandria)にあるのと同じ型の幾つかの風車(windmill)が高台に建っているのを紹介している。タミシエは「4羽根のヨーロッパの風車と異なり、8羽根を持っていた」と記述している。ガイドはタミシエに「これらの風車はその操作に熟練した操作員が居ない為に見捨てられた」と告げた。次の場所はメッカ門(Mecca Gate)である。「この門を通り抜ける巡礼の数は大洋を形成する水滴の数と同じ位に多い」とガイドは述べる。その側面にある2つの塔はト-ルクチェ ビルメズ(Turkche Bilmez)の敗北の後でカイロから運ばれた武器を装備している。聖なる本の概念への忠実を絶え間なく思い出させるクルアーン(Koran)の文章でこの壁は被われている。通る人が非常に少ないイエメン門(the Yemen Gate)はしばしば閉じられている。メッカ門やメディナ門には護衛がいるがここには護衛は常駐してはいない。市の南であるここには果てしない潮の動きによって残された緑の藻の断片で被われた陰気な沙漠を除いて浜辺は全くない。ジッダ(Jiddah)の住人はこの地区に浅い穴を掘る。その穴で海水が蒸発した時に市の需要を十分に賄うだけの量の塩を採取する。
この市の壁は東に向けてかなり良好に保たれた溝で保護されているが、北に向かっては廃墟である。この市を取り巻く城壁は異なった形の塔が脇に設けられ、その多くが砲門を備えている。2つの小さく、小綺麗な砦が港の両側の先端に監視の為に設けられている。南側の砦は比較的最近の建築で埠頭に沿って建てられた壁が北側の砦とつないでいる。このジッダ要塞システムを完成させている壁に沿って、4つの門が海に向かって開いている。北砦の脇には護衛無しで4門の18口径の大砲が海に向かっておかれている。敵にとってこれらの大砲を抵抗無しに確保するのは簡単だろう。
ジッダにはもっとも注目すべき5つもモスク(mosque)がある。一番目はジャッマ スルタン
ハッサン(Jamaa Sultan Hassan)と名付けられている。このモスクは四角形で丁寧に切り出された珊瑚礁石で完全に造られている。その南端には隔離されたミナレット(minaret)があり、その上部は著しく傾いている。東へおおまかにカーブした階段がモスクの内部へと導く。それ以外はこの建築には特別な事は何もない。
二番目はイスラム(Islam)の4つの大きなスンニ学校の創立者の一人であるシャフィイ(Safi'i)に捧げられたモスクでメッカ門の近くに位置している。海岸に面した場所にある三番目はアカシュ モスク(Akash Mosque)と呼ばれている。市の中心部に向かってはイスラム(Islam)の4つの大きなスンニ学校のもう一人の創立者の名前が付けられた四番目のハネフィ モスク(the Hanefi Mosque)がそびえ立っている。五番目のモスクはマハンマール(Mahammar)と呼ばれている。さらに幾つかのもっと小さなモスクもある。もはやモスクとして使われて居ないその他の幾つかのモスクはムハンマド アリ(Muhammad Ali)の命令で倉庫に転用されている。ジッダ(Jiddah)には子供達の為に幾つかのクルアーン学校があり、モスクで受業を行っているイマム(Imam)或いはシェク(Shekh)によって管理されている。
大バザール(the great bazzar)が広く整然として通りを造りだしている。家々は上層階にあり、全て同じ意匠のムシャラビヤス(musharabiyas)で飾られている。ちっぽけな店は通りから2フィート(60cm)高くなった床を持つ小さな売店で構成されている。売り子は自分達の商品の見本をここに並べる。その他の商品は低く狭い開口部を通って行ける裏店に貯蔵されている。展示されているのは持ち主の貯蔵品の中のほんのわずかなだけであり、総督の強欲を刺激する恐れがこの習慣の起源である。
店は商品を強い太陽光から守る為にゴザの日よけで覆われている。商人達は小さな隅に屯し、そこで絨毯の上にまじめに座り、足を組み、キンマ(betel)を噛んだり、長いホースの付いた水ギセル(narghileh))を吸ったりして時を過ごす。バザール(the bazaar)のそれぞれの区画では異なった交易が行われ、ヨーロッパでは殆ど見られない秩序が支配している。(ヨーロッパでは鍛冶屋の区画がしばしば薄いフェンスでのみ流行の仕立屋の婦人室と隔てられている。)北にはパン屋と小銭で出来合の食事の買える食堂がある。その向こうには鉄砲鍛冶、陶器やガラス製品の商店そして喫茶店(cafés)がある。南へ行くと乾果物、食用油、バター、薬草(herbs)、新鮮な果物、空豆(broad-beans)、大麦(barley)、レンズ豆(lentils)、米およびその他全ての種類の穀物(cereals)を売る店がある。これとは別に、2本の丸天井に覆われ通路で衣類を売っているこれより小さなバザールもある。仕立屋、ブリキ商人、銅鍛冶、パイプと煙草の売人がここに店を出している。
毎日、宣誓公共競売人が入札者達に全ての種類の物件を売っている。興味のある人々のにぎわいは相当な物で、巡礼の時は特別に賑わう。競売人は売り物件に波打つ群衆に分け入り、値段が適切であれば一番札をいれた入札者に物件を渡す。競売人は5%の手数料を徴収するが、競売人も政府への税金を支払わなければ成らなかった。それにもかかわらず、競売人が肥満し洗練した服装をしていることから競売人は非常に良い職業である様だ。
バザール全体に土地の人達と外国人達が会合する多くの喫茶店(cafés)があった。そこでは砂糖の入らないがシナモン(cinnamon)、丁香(clove)、ショウガ(ginger)で香り付けしたコーヒー、異なった香料を溶け込ました冷たい煎じ汁(tisane)の一種が供された。水売りが常に傍に来て素焼きの壺に入った冷たい水を売っている。壁は帆走したり、投錨したりしている船の絵で飾られている。金持ちの喫茶店主は天井から帆やロープを付けた完全な船の模型を吊している。床屋も集会所としての役割を果たしている。そこから風聞が流れたり、流されたりしている。
ジッダには幾つかの比較的正確に四角な広場がある。もっとも印象的なのが海岸に面した広場でその一方の側はアカシュ モスク(Akash Mosque)である。比較的正確に四角な広場はもう2ヶ所、メッカ門(Mecca Gate)と市中心部にあるが、これらには注意を引くような記念物は含まれて居ない。ジッダ(Jiddah)はエジプトの都市よりもずうと良く計画され道路は広く一直線に並び驚くほど清潔で特に断食月の間は汚れて居ない。
家々は一般的に2階建てで時に3階建てもあり、海から採り、驢馬の脊に積んで運んできたイシサンゴ(madrepore)で造られている。イシサンゴは軽過ぎて具合が悪く、イシサンゴの建造物は決してがんじょうとは言えなかった。イシサンゴは風化で白くなり、家々に優雅で清潔な雰囲気を与えている。ムシャラビヤス(musharabiyas)と扉が最も繊細な趣を持って彫られた何軒かの家がある。この家々の装飾はアラビアでは他に無い程の洗練さと優雅さとを具体的に表現している。自分は時々、全ての時間を無分別と思われる危険を冒して、この市の或る区域を歩き回って費やした。そこには最も建築的に注目すべきハーレム(harem)が設けられている。珊瑚礁の家々と市の壁の空間にはアラビア人のエシェ(esheh)と呼ばれる掘っ建て小屋で占拠されていた。これらの掘っ建て小屋にはジッダ(Jiddah)の人口の半分が住んでいた。脇をアサ(hemp)で被った粗末な(coarse)骨組みで造られている。屋根は四角形(quadrangular)のピラミッド型で厚いキャンバス或いは単純なマットで覆われており、それは所有者の持っている手段によって異なる。幾人かのアラビア人は幾つかの掘っ建て小屋を所有しており、この場合には小屋は中庭に向いて開放されており、そこでしばしば楽しみな実演のショーが行われる。そのショーは演技者に知られる事無く近くの住居の屋根から観劇できる。
タミシエ(Tamisier)はそれから1章をジッダの人々と民族にささげたが、そのコメントの多くは皮相的観察に基づいており、もう片方は時代遅れである。それからタミシエは次の章を注目すべき所感と共に続けている。
ジッダの住人が自分達の家でヨーロッパ人を接待する時に、同じ敬意を持って、ヨーロッパ人がまるでモスリムであるかの様に扱う。自分は幾人かのお金持ちを訪問する機会があり、次の様な方法で迎えられた。窓際の長椅子(divan)に座るや否や召使いがペルシア水ギセル(Persian narghileh)のホースを解き、お辞儀している間にそれを差し出される。数回それを吸い込む間にもう一人の召使いが真鍮のポットと陶器の茶碗を載せたコーヒー盆を持って現れる。三番目の召使いがコーヒーを注いでそこに居る全ての来客に順番にそてを供して行く。更にもう一人が顔やその他の体の部分をこする為の薔薇水を来客の手に注ぎ、余分な水を拭き取る為のこの家の主のハーレム(harem)で豊かに刺繍したインド産のモスリンの小さなタオルを渡す。奴隷が炭と沈香(aloe)で満たした銀の香炉を持って客の傍に立っち、家中が沈香の香りに溢れている。この人達が自分達よりも遙かに客をもてなしの良いのは確かである。自分達が誰かをもてなす時には椅子か肘掛け椅子をすすめ、最上の礼儀作法に従って自分達が振る舞う事を納得している。
この章の残りは殆ど興味の無い歴史的不況について述べて居り、ここで省略されて居るのは航海の視点からのジッダ港に関する記述である。最後の章はイブの墓(the Tomb of Eve)の訪問に関する記述と壁の外側の住居に関する描写を紹介している。