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20081225日 高橋 俊二
 マッカ・ムカッラマ(メッカ州)

(サウジアラビア王国西部地方)

その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ

1-6 近代のジェッダ




 

 

索引

前書き

緒言

1 地勢的環境(Physical Setting)

1.1 紅海とアラビア半島の地勢・地質

1.2 ジッダ(Jiddah)市の地勢的輪郭

1.3 気候と洪水時用の排水溝

2 地域的環境(Regional Setting)

2.1旧西部州の1主要都市としてのジェッダ

2.2 ジッダの本来の役割と経済活動

3 都市環境(Urban Setting)

3.1 ジッダ(Jiddah)市の防護壁

3.1.1旧市内の境界

3.1.2 十九世紀半ばまで保たれた良好な状態

3.1.3 市内への出入りの為の開口した狭間(門)

3.1.4 防御壁内の建物、広場、通り等

3.1.5 防御壁内の生命の鼓動

3.1.6 スーク(市場)

3.1.7 防御壁外の定住地ナカツ(Nakatu)

3.2 防護壁の撤去(1947年)と主要な市部の形成

3.2.1 防護壁の歴史的役目終了と市成長の阻害物としての撤去

3.2.2 防護壁の撤去直後のジェッダ市内

3.2.3 現在のジェッダの主要な形を作った目覚ましい発展

3.3 ジェッダ再開発と特徴を持つ幾つかの地域の形成

3.3.1 統制された緩やかな再開発

3.3.2 1の地域

3.3.3 2の地域

3.3.4 3の地域

3.3.5 4の地域

3.3.6 5の地域

4 ジッダの家屋(Jiddah Houses)

4.1 ジッダ様式の建築

4.2 偉大な創造力と技巧で仕上げられた木製設備

4.3 ジェッダ様式を代表する建物

4.4 ジッダ(Jiddah)でもっとも有名なバグダディ館 (Beit al-Baghdadi)

4.5 ジェッダ様式の粋「ナシフ邸(Nasif House)

5 ジッダのモスク(Jiddah Mosques)

5.1 シャーフィイ モスク(Masjid ash-Shaf'i)

5.2 ハニファ モスク(Masjid abu Hanifah or Masjid al-Hanafi)

5.3 バシャ モスク(Masjid al-Basha or Masjid Sultan Hassan)

5.4 ミマール モスク(Masjid al-Mimar)

5.5 アカシュ モスク(Masjid al-Akash or Masjid al-Akashah)

5.6 ウスマン ビン アッファン モスク(Masjid Uthman bin Affan)

5.7 王立モスク(the Royal Mosque)

6 イヴの墓(The Tomb of Eve)

6.1 半世紀前まではジッダ(Jiddah)でもっとも尊ばれた場所

6.2 イヴ埋葬の伝説と地理学者

6.3 「イヴの墓」の構造と大きさ

6.4 霊廟(shrine)とスーラ石(the surrah stone)

6.5 ワッハーブ派(Wahabis)による「イヴの墓」の破壊

7 巡礼(Pilgrimage)

7.1 預言者モハンマへの啓示と巡礼

7.2 大量の通過巡礼客

7.3 巡礼への空路の旅の導入

7.4 霊感 (inspiration)と感動(excitement)の海路での巡礼

7.5 聖地(the Holy Places)へ出入りする巡礼の受け入れ

7.6 ヒジュラ1392年(西暦1972年)に到着した国別巡礼の数

8 領事館の町(The Town of The Consuls)

8.1 外国領事を接遇すると言う特別な役割を持つ町

8.2 ジッダでの外交員生活

8.3 英国領事リーダー バッラード卿(Sir Reader Bullard)

8.4 国毎の外交関係樹立と公館の設置

8.5 外交公館のメディナ道路への偏在

9 給水(Water Supply)

9.1 水の危機的な不足と地下水槽(cisterns)

9.2 ワジリヤ泉(Ain al-Waziriyah)と呼ばれる公共の泉

9.3 オスマントルコ帝国政府が据え付けた凝縮器

9.4 涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)の水源としての利用

9.5 アジジヤ泉行政局(Ain Aziziyah administration)

10 教育(Education)

10.1 アラビア半島で最初の学校 マドラサ ファラ(the Madrasat al-Falah)

10.2 政府によって整えられた完全一貫教育

10.3 最高教育機関としてアブドゥルアジズ大学(King Abdulaziz University)

11 医療(Medical Service)

11.1 何処ででも無料で受けられる入院加療

11.2 適正な援助を提供する利用可能な施設の拡張と改造

12 (The Port)

12.1 ジッダが発展した場所

12.2 古い検疫埠頭(Old Quarantine Pier)

12.3 突き出した突堤埠頭と埋め立て地

12.4 ジッダ港主要開発計画(196710月開始)

12.4.1 九つの接岸バース(berth)

12.4.2 通過貨物小屋(transit sheds)

12.4.3 起重機、艀、曳き船等

12.4.4 巡礼専用のホール

12.4.5 港管理局等の建物

12.4.6 その他の港湾施設

12.4.7 ジッダ市の間の土手道(the causeway)の拡張

12.4.8 来航船隻、旅客、貨物、家畜の取扱量と輸出入センターとしての役割

13 空港(The Airport)

13.1 旧空港

13.2 現在の空港

14 ジッダ市役所とこの市の将来(Jiddah Municipality and the Future of the City)

14.1 オスマン帝国政権時代継承していた古い市政

14.2 内務省管轄の行政への組み込み

14.3 建築家である知事に率いられた専門家グループ

14.4 劇的な人口増加に対応する為の都市開発計画

後書き

参照資料

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前書き

 

「ジェッダはイブン サウド(Ibn Saud)がシャリフ フッセイン(Sharif bin Hussein)19251223日に征服し、支配下においた。それ以前は『1-3 サラセン帝国から大航海時時代幕開け2.1』で記載したナセル クスロウ(Naser Khusrow)がこの町を訪れた1050年から防壁で囲まれた町の特徴は殆ど変化して居らず、ジェッダの近代化の歴史はこの日(19251223日)から始まった」と「1-1 中継港ジェッダの紹介」で述べた。それ以降、この町の発展は目覚しく、21世紀前半にはメッカ(Mecca)、タイフ(Tayf)およびラビグ(Rabigh)を含む一大都市域に発展しようとしている。ここではジェッダを囲む防壁が取り除かれ、北のサルマン湾(Gulf of Salman)から南はアスワド岬(Ras Al-Aswad)まで海岸に沿って広がっているジェッダの現在の市街地が形作られた時代を紹介し、今では殆ど認識する事も無くなっている防壁に囲まれた旧市街を見直している。

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緒言

 

ラッペル著の1829年フランクフルトで出版された「ヌビア、コルドファンおよびアラビア旅行記(E, RÜPPEL Reise in Nubien, Kordofan und Arabien Frankfurt 1829.)」に「ジッダは紅海で一番美しく、多分、最も豊かな市である(Djetta ist unstretig die schönete und vermuthlich die reichste Stadt am ganzen rothen Meer.)」と書かれている。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は挿し絵をふんだんに使ってジェッダのこの様なイメージを紹介している。私も及ばずながら出来るだけ手持ちの写真に加え、WEBから映像も入手して参考の為に挿入したので、ジェッダのこの時代を少しでも感じて戴ければ幸いに思う。

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1 地勢的環境(Physical Setting)

 

1.1 紅海とアラビア半島の地勢・地質

 

ジッダ(Jiddah)は地球表面の自然地理学的に重要な特徴である紅海の東海岸に位置している。 紅海は長さ2,250km、最大幅400km、最深部は2,359mの舟型海盆構造(a tectonic trough)である。その北端はアカバ湾(the Gulf of Aqaba)とスエズ湾(the Gulf of Suez)2つに分岐している。アラブ・ヌビア盾状地(the Arabo-Nubian shield)と呼ばれる高原が南西部を除く紅海の両岸から海側に向かって険しく立ち上がっている。その傾斜は舟型海盆構造から遠くなるほど緩やかである。アラビア半島側ではティハマ(the Tihama)と呼ばれる狭い海岸平原がヒジャーズからアシールを抜けてイエメンへと伸びる山脈(Hejaz-Asir-Yemen mountain sysytem)の殆どを縁取りしている。

 

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アラブ・ヌビア盾状地(the Arabo-Nubian shield)はもともとは堆積岩(sedimentary)と火成岩(igneous)等多くの種類の岩石で構成されていたが、それらはその後の数億年の間に、変成作用を受け、断層や破砕のよって破壊され、そして岩漿(magma)の侵入で横断された。古生代(Palaeozoic)570 - 245百万年前)の時代に海は古い地表に広がり、そして現在も見られる堆積層の連続を作り出した。アラビア半島ではナフド堆積盆(the Nafud basin)である。後にこの陸塊は現在の紅海の地域と砂岩の地表の上に弓なりに広げられた。砂岩の地表は非常に浸食を受け易く、変成岩と火成岩から成る先カンブリア時代(the Precambrian) 570百万年前以前)の基盤構造を再び地表に晒した。

 

始新世(the lower Eocene) 56 - 35百万年前)前期の終わりまでに圧縮の力が北部に蓄えられた一方で引っ張りの力がこの地方のドームの軸の南部分に沿って蓄えられた。2つの相対する地殻の塊が互いに離れて引き起こされた紅海の陥没が始まったのがおそらくこの段階である。引き延ばされて出来た断層群の複雑な連続が様々な高度で起き、中新世(the Lower Miocene) 23 - 5百万年前)前期に「アフリカの角(Horn of Africa)」がアラビア半島から離れ始めた。紅海とアデン湾が鮮新世(the Pliocene)5.00 - 1.60百万年前)の間につながった。

 

溝の浸食の反対側の端では側面が徐々にすり減らされて現在では崖地(escarpment)が立っている場所に成っていった。沖積土層の堆積は海と関連のある陸地の上向きの動きと結びついてアラビア岸のティハマ海岸平原(the Tihama coastal plain)の起源となった。この平原の平均の幅はジッダ付近でおよそ12kmである。砂利、砂、沈泥(silt)および粘土がティハマ海岸平原を取り巻く山々から流れ出る涸れ谷の沖積扇状地に堆積した。この様な水で運ばれる堆積が化石になった珊瑚礁の上に積もり、ところどころ風成の砂(aeolian sands)或いは玄武岩の流れで覆われた。

 

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大アラビア地塊の離層である山麓の丘陵地帯(foothill)のどちらかと言えば続いた線が位置的にティハマ(the Tihama)やジッダ市の東に向かっての背景となっている。更に東には山岳山稜から成るもう一つの遙かに大きな線がメッカ市に着く前にはさまっている。風化した水晶、変成岩(metamorphic rocks)および古代の噴出岩(effusive rocks)は山麓の丘陵地帯(foothill)に露頭として出ている。

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1.2 ジッダ(Jiddah)市の地勢的輪郭

 

涸れ谷シャリル(Wadi Shalil)の浸食された筋を作り、メッカと海岸の交通を容易にしているこの自然の障害の切れ目(gap)と紅海岸を縁取る珊瑚礁の三重の線の中にあるもう一つの切れ目(gap)がジッダ(Jiddah)市の輪郭と主要な港としての存在を生み出している。ジッダが位置している一般的な地域には地形的に目立った起伏(releif)は無い。ただ、穏やかなうねりがあるのみで、浸食や人口的な切り取りがある場所では珊瑚礁の岩が地表に表れている。

 

(注)涸れ谷シャリル(Wadi Shalil)との名称はFarsi Mapsには記載がないが、この説明から涸れ谷ファティマ(Wadi Fatimah)だと私は解釈している。

 

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更新世(1.60 - 0.01百万年前)の氷河作用(the Pleistocene glaciations)を伴う多雨期(Pluvial period)には緯度が高い地方では深い渓谷が今日の深さよりもかなり浅かった紅海まで削られた。この様にして水深の深く狭い湾曲部(bight)で囲まれ、海岸を或る程度の距離で垂直に浸食し、今日、多くの卓越した港を提供している紅海岸の様々な小湾(sharms)は形成された。ジッダ(Jiddah)の北40kmにあるオブホール小湾(Sharm Obhor)もこの様な過程で作り出された。ジッダの北方および南方の平原は普段は砂の荒れ地であるが、冬の豪雨の後ではかなりの厚さの植生、草の茂みおよび棘のある薮に覆われた場所が出現する。

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1.3 気候と洪水時用の排水溝

 

空調設備の無かった時代の不慣れな人々にとっては著しく不快であったジッダの気候はこの市が地中海気候と季節風気候の間の紅海に位置している事に関連している。

 

降雨は不規則で定まらず、突然の激しい土砂降りに特徴つけられる。この市の東の丘陵地帯には流れを抑制する植生の被いが無いので降雨はそこを急速に流れ下ってしまう。この激しい土砂降り(通常10月から4月の間)が起きた時、この市の様々な低い地区は洪水で埋まってしまう。しかしながら、丘陵地帯から地中に吸収されないで流れる流去水を抑制し、そらす適切な対策が採用されれば、市内での障害の原因を防げる。1本は北東に向かい、もう一本は南西に向かう2本の洪水時排水溝が1970年代初頭に完成し、脅威である流去水を紅海に運び、その一方で空港のから東のこの市の背後の涸れ谷マシュワブ(Wadi Mashwab)の中のダムは地表流を遮断し、その流れを一定に整えた。

 

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卓越風向は北北西(330o - 360o)であり、ティハマ(Tihama)を横断して吹いてくる風によって沙嵐が起こされ、この市を毎年30日程度の頻度で包み込む。相対湿度は平均月間最高値は80% - 85%の間の範囲である。平均月間気温がおよそ30℃である事と対になって悪名高い暑苦しい地方気候の原因となっている。

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2 地域的環境(Regional Setting)

 

2.1旧西部州の1主要都市としてのジェッダ

 

1963年にサウジ政府は地域行政の総合的法律を決めた。サウジアラビア王国は閣僚会議(the Council of Ministers)と内務省(the Minister of Interior)によって、ナジド(NajdI(中央州(Central))、ハサ(al-Hasa)(東部州(Earstern))、ヒジャーズ(Eastern)(西部州(Western))、アシール(Asir)(南部州)と北部国境州(the Northern Frontier Region)5州に分割された。

 

ジッダ(Jiddah)はメッカ(Mecca)、メディナ(Medina)、タイフ(Taif)、タブク(Tabuk)およびエンボ(Yembo)と共に西部州にある6つの主要都市の1つである。この州は西側を紅海に縁取られ、東側はアカバ湾の先端(the head of the Gulf of Aqaba)から下り、タブク(Tabuk)、タイマ(Taima)、ハイバール(Khaibar)およびメディナ(Medina)を通る線で縁取られている。メディナ(Medina)からはこの線はアフィフ(Afif)およびランヤ(RanyaRaniya)を含む広い弓形を描いて東に張り出して居り、それから南西に折れて、クンフンダ(al-Qunfundah)の南海岸に達している。この中にはアシール(Asir)州のビシャ(Bishah)やハリ(Hali)は含まれて居ない。

 

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2.2 ジッダの本来の役割と経済活動

 

ジッダの本来の役割はメッカ(Mecca)市の為の港であり、その歴史的な役割は東洋貿易の中継地であったけれども、その現在の役割は西部州の主要な輸入、配送センターであると同時にサウジアラビアの商業および外交の首都としての地位を得ている。

 

勿論、ジッダはメッカへの巡礼の門戸としての伝統的な役割も保持し強化してきている。これは海路到着する巡礼の97%、空路到着する半数は外国人である巡礼の98%がジッダに上陸すると云う事実によってもっとも良く表されている。

 

西部州で発展している消費物資、主要食料品、建設資材および技術的業務的役務提供の巨大な需要が途方もないはずみをこの市の経済活動に与えている。このはずみの実際の触媒はジッダから放射状に広がる近代的な道路網である。これがこの市の配送基盤にこの地方の依存度を高める上で非常に寄与している。もっと多くの道路が建設され、完全に連結されるに連れ、ジッダの経済的な後背地は州境を越えて広がった。既にリヤドを含むナジド(Najd)の大部分の輸入は主に紅海のこのサウジ主要港を通じて行われている。これはサウジアラビア全輸入量の約半分に相当する。道路建設の進行が遅まる徴候は無いので、今の所は道路網での出入りが難しく隔離された地区も次第にジッダの影響下に組み込まれると思われる。

 

しかしながら、この大きく広がった市は新鮮な果物、野菜および飼料を半径500kmの範囲から引き付ける農産物の主要市場を代表しているのでこれは両方向に作用する。市の需要が高まるに連れて、この州の農業地帯から主要産物の流入はこの市に向かい、サウジアラビアのこの地区の農村社会に収益をもたらし、経済効果を刺激し、大きな可能性を与えた。

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3 都市環境(Urban Setting)

 

3.1 ジッダ(Jiddah)市の防護壁

 

3.1.1旧市内の境界

 

ジッダの訪問者達は昔からこの市の目立った特徴に感銘を受けてきた。フサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)が建設した防御壁よりも前の物は16世紀であったが、400年に渡ってこの市の境界を示し、最も顕著な形であったのはフサインが建設した防御壁であった。周囲を囲む壁に制限され、ジッダは海や陸からこの市に近づいてくる人々に永続する印象を作り出す壁できちんと範囲を定められた密集集団を形造り、典型的な高い、鎧戸の着いた建物の集合体に発展した。

 

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ニーブール(C. Niebuhr)の原文では南が上になっているこの平面図に付随した注意書きにはニーブール(C. Niebuhr)は「海岸に面した部分だけが直接測量した結果である」と強調している。壁の方向は磁石で測り、その長さは歩幅測定の結果である。ニーブールは町全体を歩き回る事やメッカ門に近づく事を許可されて居なかった。従って、通りの測量は不十分であり、ニーブールが麦藁で造られた小屋だけだと印した町の内部は今では石造りの家も含んでいる。

 

ニーブールは測量の専門家でそのジッダの町図には一般的な線が非常に正確に描かれている。唯一紛らわしい要素はバブ シャリフ(Bab al -Sharif)(高貴の門(Noble Gate))の位置である。この門はパシャ(the Pasha)の家の直ぐ北の開口部の様に描かれており、(この位置は現在の紅海宮ホテル(the Red Sea Palace Hotel)の敷地に関係している。)この市の南の境界線上では無い。

 

ニーブールの図面ではやがてメディナ門と呼ばれる門がバブ ジャディド(Bab al-Jadid)(新門(New Gate))と呼ばれている。ジッダに自動車が導入されメディナ門が自動車の通行に狭すぎると証明された後で、もう一つのバブ ジャディド(Bab al-Jadid)(新門(New Gate))が北壁に開けられている事は興味深い。

 

凡例(Legend)

 

1) パシャの家(The house of the Pasha)

2) バブ シャリフ(Bab al -Sharif)(高貴の門(Noble Gate))。

3) バブ ジャディド(Bab al-Jadid)(新門(New Gate))。

4) バブ メッカ(Bab Mecca)(メッカ門(Mecca Gate).

5) メッカ道路の監視塔(Watchtowers on the Mecca Road)

6) 含塩平地(海水が蒸発し、塩が溜まっている)

(Salt Flat, where salt is collected when the seawater evaporates)

7) キリスト教徒の墓地(ChristianCemetery)

8) 砲台だけ残して完全に破壊された塔(An entirely destroyed tower with battery)

9) ガレー船の港と呼ばれる入江(The so-called Port of the Galleys)

10) ニーブール(C. Niebuhr)の家(Niebuhr's house)

11) 税関(The Customs House)

12) パシャの副官の家(The house of the Kiaya (the Pasha's lieutenant))

13) イヴの墓(Eve's Tomb)

14) 珊瑚礁と頁岩の大きな丘(Large hill of coral-rock and shells)

15) インド船とスエズ船の投錨地(Anchorage of Indian and Suez ships)

 

アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)著「ジッダ或るアラビアの町の描写(Portrait of an Aranian City, Jiddah )(1977)」に掲載されている歴史、地理および旅行等の出典での記述は過ぎ去った幾世紀にもわたるこの市に関する概念を得る助けにはなる。この市が以前はどの様な姿であったのかを想像するのには1947年に境界壁を壊した事でその姿があまりにも急激に変わってしまった。又、それに対する関心についても同様である。

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3.1.2 十九世紀半ばまで保たれた良好な状態

 

19世紀の初めに3mから4m高さを増す、大規模な修理を行ったこの壁は1940年に向かっても良好な状態を保っていた。この壁は大きな石で造られ、所々に小さく、半壊した小塔が残されていた。計画ではその輪郭は不規則な六角形であった。

 

3.1.3 市内への出入りの為の開口した狭間(門)

 

両方が開口した狭間(銃眼付きの胸壁)を通って町への出入りをした。北に向かうバブ メディナ(Bab al-Medina)(メディナ門(Medina Gate))は短い距離で東に向かうバブ ジャディド(Bab al-Jadid)(新門(New Gate))が側面に配置されている。新門はメディナ門が自動車の通行に狭すぎると判断された時にのみ開かれる。従って、メディナ門は歩行者と騎乗者のみに使われていた。東側にはバブ メッカ(Bab Mecca)(メッカ門(Mecca Gate))が有り、そこが聖なる市に向かう道路の起点になっている。メッカ門も又、自動車の通行には狭すぎ、自動車は新門(Bab al-Jadid)を通ってのみ、この市を離れられる。この目的の為に、メッカ道路(the Mecca Road)は北壁を鋭い角度で周り、新門(Bab al-Jadid)の前で終わっている。

 

南側の中間にはバブ シャリフ(Bab al -Sharif)(高貴の門(Noble Gate))がある。こちらの側では通常は海岸は解放され、1920年頃には明らかにヨーロパ人墓地への出入りが容易な様に配慮されていた。

 

海側にはバブ ブント(Bab al-Bunt)があり、この門は税関棟と一体化しており、スーク(suq)に向かって開けられている。海側のもう一つの門はバブ マガリバ(Bab al-Magharibah)(マガレビ人(Maghrebi)、西洋人或いは北アフリカ人達の為の門(Maghrebi, or Westerners or North Africans) )で、少し前から閉鎖されている。

 

海に面した側の各々の角には砦が立っており、その中の北側の砦は監獄として使われていた。

 

古いメッカ門(The old Mecca Gate)(ジッダ壁の東側に開いており、写真は外からの眺め) 

 

昔は数え切れない程の人数の巡礼がこの門を通ってメッカ(Mecca)へ向かっていた。この門にはメッカ知事(オスマン帝国)の紋章(the Sharifian coat of arms))が掲げられていた(surmount)。この紋章は1925年にサウド家がジッダを占領した後、暫くして取り払われた。門そのものは1947年に町を拡張する為に全ての防護壁を撤去した際にそれらと共に倒された。(実際には古いメッカ門、メディナ門(the Medina Gate)と近くの新門(the Bah al-Jadid)は壁が完全に取り壊されるまでもう少しの間、残されていた)。

 

 

アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は古い写真をもとにサッカルド(G. Saccardo)によって描かれた1940年のメディナ門(the Medina Gate)を挿し絵として使い、「門の左に見える傑出した建物がカイマカマト(Qaimaqamat)である」と注釈しているが、ここでは同じ時期に撮影したと思われるフランス政府提供の写真を挿入した。

 

(注)カイマカマト(Qaimaqamat)はオスマントルコでは地方行政事務所を意味していた様である。

 

歩哨は門の見張りについていた。門は夕暮れ時に閉められ、夜間の通行は禁止ないし厳しく制限されていた。

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3.1.4 防御壁内の建物、広場、通り等

 

壁の内側の建物は特定の配置には整えられては無く、単に密集して詰め込まれていた。その結果、通りは幅が不規則で方向も定まって居らず、狭い小路から小さな四角い広場に広がっていた。唯一の大きな広場は税関の建物に近い長方形のものであった。市の北東の角の小さめな広場は青空市場として機能していた。今は両方の広場とも殆ど建物が建てられている。広い車道が大部分は壁の内側に沿って拡張され、旧市内を外側の家並みと区分している。通りは耐久性のある石が不足して居たので舗装されて居なかった。その代わりに通りは細かい沙が引き詰められ、踏み固められており、太陽光で白くきらめいている。ジッダはしっかりした造りの、静かで清潔な市であるとの永続的な印象を作り出している。

 

1938年のジッダ市の地図、この地図の原図はC.A. ナリノ(C.A. Nallino)が描いた アラビア サウヂアナ(L'Arabia Saudiana)M. ナリノ(M. Nallino)が編纂し描き直し、1939年にローマで出版した。原図のイメージは入手出来なかったのでここでは簡単に写本した図を掲載した。

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凡例

 

.1) 英国公使館(British Legation)

.2) 警察(Police)

.3) イタリア領事館(Italian Cosular Chancery)

.4) イタリア公使館(Italian Legation)

.5) 英国領事館(British Consulate)

.6) オランダ公使館(Dutch Legation)

.7) カリフの邸宅で後にアラビア スタンダード石油従業員宿舎(House of Calif,  Ar. Standard Oil employees)

.8) カイマカマト(Qaimaqamat)

.9) エジプト公使館(Egyptian Legation)

10 ミスル(エジプト)ホテル(Misr Hotel)

11 ジョン フィルビィ卿の邸宅(House of H. St. John B. Philby)

12 ファラ学校(Al-Falah School)

13 パシャのモスク(Pasha Mosque)

14 市庁舎(Municipality)

15 アカシュ モスク(Akash Mosque)

16 郵便局(Post Office)

17 ブント門(Bab al-Bunt)

18 ミマール モスク(Mimar Mosque)

19 バール知事邸(House of the Amir al-Bahr)

20 サウジアラビア鉱山企業連合従業員宿舎(House of the Saudi Ar. Mining Syndicate employee)

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3.1.5 防御壁内の生命の鼓動

 

この市の生命の鼓動は一番顕著にスーク(the suk)に感じられる。スーク(市場)はほぼ直角に交わる2つの道路の脇に発展した。シャラ カビル道路(Shara Qabil)は税関建家東側のバブ ブント(Bab al-Bunt)を起点とし、東に向かって旧市内のミマール モスク(Mimar Mosque)付近でで途絶える。シャラ カッラティン(Shara al-Kharratin)はターナー道路(Turner's Street)とも呼ばれ、海岸とほぼ平行である。細かい網の目状の小道が延びるこれらの腕の間には通路と小道が数え切れない交易の為の表を開いた小さな店に接している。椰子の繊維の日覆い、キャンバス地や木材がそれらに覆われた通りに薄明かり効果を作り出し、この緯度での情け容赦のない太陽光から通りを遮蔽している。

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3.1.6 スーク(市場)

 

ジッダののんびり歩く群衆と共に、内陸のベドインの首長達が部下達とゆったりと闊歩している。その一方でタクルリ人(Takhruri)のポーターが全ての有望な(perspective)買い物客の後に従っている。駱駝隊がもっと大きな通りを抜けてゆっくりと重い足取りで歩いたり、その積み荷を扱うのに十分な空間のあるホールの中にひざまずいている。山羊や驢馬がほったらかされて、暗い小路を歩き回り、何か食べれる物を見つけると立ち止まって、それを吟味し、ついにはムシャムシャ食い始める。女の水売りの頭に乗せたブリキ缶から「モヤ キンダサ(moya kindasa)(濃縮された水)」を売る為の鋭い叫びがガヤガヤした雑踏を貫いている。中東(the Orient)のバザール(the bazzars)(市場)の古い習慣に従って、店は交易によって集まる傾向がある。それらの店の殆どは数m幅の床の一段の高くした隙間で構成されている。香辛料の区画では小豆蔲(しょうずく)(cardamom)、肉豆蔲(にくずく)(nutmeg)、肉桂皮(cinnamon)、ショウガ (ginger)、胡椒 (pepper)および数えきれないその他の珍しい香草、根茎、種および樹皮の開けた袋から強い芳香が壁を通り抜けて滲み出している。これらの屋台店の売場はアーモンド(almond)、ピスタシオ(pistachio)、ハシバミの実(hazelnut)、メロンの種(melon kernels)および松の実(pine seeds)の一杯入った真鍮の皿と場所を分け合っている。金細工と銀細工スークのガラスに陳列箱の中には繊細な金銀線細工、優雅なベドイン風の腕輪(bracelets)、飾り輪(腕輪、足首飾り)(bangles)、首飾り(necklaces)、耳飾り(earrinds)および銀硬貨のバンドの留め具(belt buckles)を並べてある。後にヨッセール(yosser)として知られ、ジッダ湾の海中から採集された赤や黒の珊瑚は数珠や滴状の飾り玉に加工され、広くこの市の宝石商で使われていた。

 

1940年頃の古いスーク(suk)の通りの光景

 

(注)アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)著「ジッダ或るアラビアの町の描写(Portrait of an Aranian City, Jiddah )(1977)」ではアラムコワールド誌提供のトンプソン(D. Tompson)の描写が挿し絵として使われているが、ここでは同じ時期に撮影したと思われるフランス政府提供の写真を挿入した。

 

絨毯商人はお茶を啜り、水煙草を吹かしながらペルシア(Persian)、ブカリ(Bukhari)およびアフガン(Afghan)の巡礼達から最後に購入した絨毯を重ねた上にアグラをかいて座っていた。何とか安全が確保出来る壁の穴みたいに引っ込んだ狭い両替店は世界の貨幣鋳造所で造られた金貨銀貨をキチンと積み上げ展示している。まばゆい色の繊細な広幅のブロード地(broadcloths)がスークの織物売場に豊富にあった。ここでは衣服が販売する為に吊されていた。衣服は裁縫師の創意には欠けるが様々な色や模様の物があった。かつては重要なこの地の産物であった染め物の通りではインディゴ(藍色染料)(indigo)で染められたばかりの布地が天日で乾かす為に紐でジグザグに延ばされている。ピカピカの真鍮製のコーヒーポット、念入りな細工の水ギセル(elaborate narghilehs)、青や銀をちりばめて飾られた革製の締め具を付けた木製のサンダル、色彩に富んだイエメン風の弾帯等全ての種類の職人が自分達の屋台店で製作し、顧客の為に製品を広げている。

 

中古品販売の店では異種の商品の埃っぽい山がギュウギュウに詰め込まれている。銅製のお盆(copper trays)、鍵(keys)、カンテラ(lanterns)、偃月刀(えんげつとう)(scimitars)、曲がった短剣(curved daggers)、錆びた鎖(rusty chains)、古い形の南京錠(oldfashioned padlocks)、石製の鉢(stone bowls)、色あせた鏡(faded mirrors)、古めかしい短銃(archaic pistols)、ベドウインが造った床尾を付けた銃(Beduin-butted guns)、使用済み薬莢(spent cartridges)、金属の半端な小片(odd bits of metal)等が何時か必要に成ると思われる何かを見つける為に寄せ集めを引っかき回して捜すのを好む全ての人達に提供できる様に揃えられている。曲がりくねった通りの全ての曲がり角での予期しない範囲は稀な西洋人訪問者達の心をうっとりさせられ程である。

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3.1.7 防御壁外の定住地ナカツ(Nakatu)

 

市の壁の外で書き留めるべきである唯一の定住地がナカツ(Nakatu)である。ナカツ(Nakatu)は葦で造った小屋(reed hovels)の村で、この市の南門(Bad ash-Sharif) (高貴の門(Noble Gate))を越えて広がっている。ナカツ(Nakatu)はタクルリ人(Takhruri)のたまり場(haunt)である。タクリール人達(Takharir)は巡礼の後、或いはヒジャーズ(Hejaz)の都市に住処を探して来た後でジッダを自分達の故郷にしようと決心していた。タクリール人の男達は町中での水運搬人や港での港湾労働者(stevedore)として働き、女達はバザアール(bazaar)で売っている陶器を作っていた。これが1940年前後のジッダのおおよそを示す光景である。

 

(注)タクルリ人(Takhruri)の複数形はタクリール人達(Takharir)であり、ナイジェリア人(Nigerians)或いは、もっと一般的に西アフリカの黒人(West Afriacn Negroes)を意味する。

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3.2 防護壁の撤去(1947年)と主要な市部の形成

 

3.2.1 防護壁の歴史的役目終了と市成長の阻害物としての撤去

 

政治的情況が安定し、アブドゥルアジズ(Abdulaziz)王の治世下で治安が確立するに連れて、市の防護壁はその歴史的役目を終え、すたれかかった姿に成って来た。その上、第二次大戦以降の急激な石油歳入の増加はこの市の経済的発展を促し、人口も増加して、防護壁はその成長を妨げる障害遺物と成って来た。こうして、幾世紀にも渡ってこの市を防御する為に拡張して来たこの壁はジッダが近代的な都市に発展する余地を得る為に取り壊される事が決定された。

 

この壁の取り壊しについてサンガー(R.H. Sanger)は出所の怪しい次の様な逸話を報告してる。

 

1947年半ばまでジッダしは泥と石で造られた高い壁で囲まれていた。この壁は何代にも渡って攻撃から守ってくれたが、夏の月の間ここで何とか生きて行ける唯一の手段である紅海のそよ風も遮断してしまった。この経過は次の通りである。

 

1947年の春遅いある日にベクテル(Bechtel)の米人副社長イングリッシュ氏(Mr. Emglish)がジッダを財務大臣のシェイク アブドッラ スレイマン(Sheikh Abdullah Suleiman)とドライブしていた。二人はシェイク アブドッラが長い間、胸に秘めていた計画を議論していた。それは外航船が接岸できる桟橋をジッダ港に建設する事であった。「どこから盛り土材料を手に入れれば良いのか?」と財務大臣は車がジッダの市壁の門を通りすぎる時に尋ねた。技師は一瞬考えて、それから壁に向かって仕草をしながら「ここに我々が必要とする種類の材料がある」と言うと、財務大臣は「それでは壁を取り壊してそれを使いなさい」と指示した。

 

しかしながら、壁はもう少し長く立っており、「壁はベクテルに取って多過ぎた」との噂が広まった。しかし、ある日、24時間以内でダイナマイトが基礎に沿って仕掛けられ、一群のブルドーザーで平らにし巨大トラックで運搬する為に、ジェリコ(Jericho)の壁の様に全体の構造が倒された。ジッダをアラブ、エジプトおよびポルトガルの侵略から守った泥と岩は訪問者が上陸する埠頭として使われている。

 

() サンガー(R.H. Sanger)は「アラビア半島(Arabian Peninsula)」を著作し、1954年ニューヨークで出版した。

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3.2.2 防護壁の撤去直後のジェッダ市内

 

サンガー(R.H. Sanger)の逸話は事実では無く噂に基づいているのは1948年のこの地域の写真で示されている。これらの写真が撮られた時には壁は無くなっていたが、喫水の深い桟橋はまだ存在してなかった。海岸線に見られるそれに代わる唯一の場所は今、紅海パレスホテル(the Red Sea Palace Hotel)の残っている地点である。この場所は疑いなく「壁の瓦礫は近くの海岸に捨てられた」のを示しているが、この場所の地形的な窪み或いは元々壁を囲って居た溝の残っている跡を平にする為にこの瓦礫をこれらの周りに撒く様な処理は行っていない。いずれにしても、数回に渡って起きた最初の本格的で急激な建設ブーム以前にこの爆破で出来た砂埃を処理するのが難しかった。

 

 

(注)アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce 「この航空写真は1940年頃にジッダのシリア地区を斜角で撮影した珍しい映像で、これまでに出版された事の無い写真であり、主要な特徴ある建物はこの中に示されている(oblique aerial view of Jiddah's Mahallat ash-Shami ("Syrian" Quarter))。この写真の中で星印(asterisk marks)した建物はは197411日現在に存在する幾つかの著名なビルである」と述べて、コリン クロー卿(Sir Colin Crowe)によって撮影された航空写真を掲載している。この写真の代わりに、ここでは1938年にジェッダ市を南側から撮影した航空写真と防壁が撤去されてから3年後の1950年に外務省のあった北側から撮影した航空写真の2葉を掲載してある。

 

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(注)アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce1947年の後半に防壁が取り壊された直後の1948年に撮られたジッダの航空写真をつなげて作った連続画像を使って当時を説明している。この連続画像の上部左端近い角には当時のアミール(Amir)で後に国王になったファイサル(Faysal)の宮殿の庭園が見られる。故ファイサル国王はジッダに滞在する時はこの宮殿に居住するのを好んだ。この連続画像の縮尺は約1,900分の1である。空中写真は切り張りされて連続画像を作っている過程はドッジング(Dodging)がその仕上げも含めて責任を持ってる。ここではこの連続画像の代わりに「現在の地図に書き加えた1948年のジェッダ」を作成し、掲載した。

 

ジェッダ旧防壁地区の詳細図(市内中心部)

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防護壁が取り壊される前まで、この市の概観は実質的には4世紀以上も変わらず保たれていた。例外としてはもともと海岸地区だけに制限されていた石造りの家々が完全に椰子の葉(palm frond)小屋と置き換わてしまった。かつて、この市の東部分では椰子の葉(palm frond)小屋が圧倒的に多かった。(1762年のニーブール(Niebuhr)の平面図を参照)

 

4つある郊外の中心地は1948年までに市街地の外に発展してきた。これらが北のバグダディヤ(al-Baghdadiyah)、北東のカンダラ(al-Kandarah)、南東のヌズラ(Nuzla)、南のヒンダウィヤーナカツ(Hindawiyah-Nakatu)である。ヒンダウィヤ・ナカツ(Hindawiyah-Nakatu)がもっとも古く、タクリール人達(Takharir)が住んで来た。タクリール人達(Takharir)は西アフリカのニグロ(Negroes)であり、これまでの数世紀に渡り、巡礼した後、ジッダに定住して来た。

 

今では、これらの郊外全てがこれまでに無く広がった市街地に含まれて来ている。1948年に舗装されていたのはメッカ道路だけであった。この道路は連続画像の中央右の沙漠を一気に横切っている。連続画像の右下に目立って隔離されている砦の様な建物は旧いコザム宮殿(Qasr Khozam)である。これは王宮でアブドゥルアジズ王(King Abdulaziz)がジッダ滞在の際に逗留する。王の宿舎は大きな村ヌズラ(Nuzla)を生み出している。この村は連続画像からはみ出して南へと広がっている。コザム宮殿(Qasr Khozam)は新しい王宮を同じ敷地に建設する為に1950年代の初期に撤去された。王宮は現在、それを取り巻く広大な庭園を含めて拡張された市内の範囲の中にはおさまっている。ファイサル国王(King Faysal)のご意志で、コザム宮殿庭園は公共の公園になっている。

 

コザム宮殿から北び向かう良く踏み固められた轍跡がメッカ道路(the Mecca Road)と交差し、連続画像の右上に近いもう一つの浮き彫りに成った建造物(すこし古風な空港)の前で終わっている。ハンガーの隣に一列でキチンと並んだ3機のC47(Douglas D.C. 3)が認識できる。4機目はハンガーの北側に止まっている。空港と王の宿舎を結ぶ轍跡が今では空港ー王宮道路に発展した。

 

空港からはもう一つの轍跡が市の方向に向かっていた。この轍跡は1930年代にここを訪れる王家の人々の宿舎として建てられた旧いカンダラ ホテル(al-Kandarah Hotel)と持ち主所有を示す一群の杭を打たれた連続する四角い区画に沿って延びていた。それからこの轍跡はカブル ウンミナ ハッワ(Qabr Ummina Hawwa)あるいは人類の母イヴ(Eve)の墓と呼ばれる壁囲いを抜けて、ギシュラ(Ghishla)も抜けて、その後直ぐの交差点(road junction)で終わっている。

 

この1948年の轍跡は今日の空港道路(Airport Road)であり、この交差点は戴冠広場ロータリー(the Coronation Square roundabout)である。これから北へ向かい、まるみをおびたマンカバ入江(al-Manqabah Inlet)を左にバグダディヤ(Baghdadiyah)郊外地区を右にして、その間に割り込んでいる轍跡がメディア道路(the Medina Road)である。

 

メッカ道路(the Mecca Road)で描かれた広い凹面(concavity)の右にある、目だって、ゆったりしたトラペーズドレス(trapeze-shaped)の様な形の区画がムサッラ(the Musalla)である。ムサッラ(the Musalla)は壁で囲まれ、南西の端にミナレット(minaret)のある区域(compound)で、断食明けの祭り(Aid al-Fitr)の最初の日に礼拝者達を集めるのに使われる。そのメッカ道路(the Mecca Road)を挟んで反対側にある壁に囲まれた区画がアッサド墓地(al-Assad Moslem cemetry)である。有名なメッカ門(the Mecca Gate)はアッサド墓地の尖った北端の西側近くにかろうじて認識出来た。(前年のこの市の城壁の取り壊しにもかかわらず、メディナ門(the Medina Gate) および新門(Bab al-Jadid)と共にメッカ門(the Mecca Gate)はこの写真を撮影したときにはまだ残って立っていた。)

 

この市の南の暗い部分は塩湿地帯で海水を蒸発させジェッダの住民の消費する塩を生産(Salt Works)していたが、大きく干拓され、埋め立てられている。塩を積み上げた塁がもっとも南の暗い二つの地域を良く見ると検知出来る。

 

塩湿地帯と砂州の点在する海の間の少し高くなったてっぺんに辛うじて見られる四角い囲みがムキビラト ナサラ(the Muqbirat an-Nasara)即ちキリスト教徒墓地又はヨーロッパ人墓地である。ここにはこれまで回教徒以外でこのアラビアの海岸で亡くなった人々が納められている。

 

もともとトルコの弾薬庫と武器庫のあったこの市の北東の広い空き地は内陸の村や谷からジッダへ運ばれる野菜、薪、家畜等の青空市場(the open-air market)として使われている。連続画像の中央の他に類を見ない建物は今は使われていないミスル ホテル(the Misr Hotel)である。ミスル ホテル(the Misr Hotel)の南東には2つの壁に囲まれた区画がある。下にある方の区画は建物を含んでおり、1909年に建てられた有名なマドラサ ファラ(the Madrasat al-Falah)(幸運の学校(School of Success))であり、今でもサウジアラビア内外で運営されている。

 

この市の東の広範囲な土工事は丘陵地帯から流れ下る雨水をダムで堰き止めた場所での小さな区画の耕作や家畜への水遣りに利用している。

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3.2.3 現在のジェッダの主要な形を作った目覚ましい発展

 

市役所の記録から引用すると「1949年から1956年までの8年間にジェッダ(Jeddah)はこの市の現在の主要な形を作った目覚ましい発展を経験した。この時も又その他の時にも人口数に関する正確な情報は無いが、写真に記録されている実体から見ると人口の大多数がこの時期に増加している。この時期は最初の石油ブームからの歳入によって道路、軍事施設(installation)および宮殿等の制限の無い投資に特徴付けられる。

 

1956年までに検疫病院、石油製油所、空港、コザム宮殿(Khozam Palace)が完成或いは完成間近であった。メディナ道路(Medina Road)、空港道路、環状道路(バグダディア-空港-宮殿-港 (the Baghdadiyah-Airport-Palace-Port ring road))およびその他の主要道路がアスファルト舗装され、近代的なビルが建ち並んだ。これらの施設の建設や管理、途方もない住民の増加および都市経済に及ぼすこれらの相乗効果がこの時期に大きな雇用を創設した。実質的には環状道路(the Baghdadiyah-Airport-Palace-Port ring road)内の全地域が建物で塞がれ、この市の既存の郊外の大部分が完成あるいは現在に形に近づいていた。

 

1956年から1964年の間には、結果として生じた厳しい耐乏政策を伴う、度重なる経済危機があった。これがジェッダ(Jeddah)の急速な成長を終わらせた。もっとも卓越した公共事業は空港および港湾の小さな拡張と市中心のキングファイサル通り(the King Faysal Street)の着工であった。既存の郊外の幾つかの地域に適当な空き地があるにもかかわらず、主要な建築は郊外では着工されなかった。

 

3.3 ジェッダ再開発と特徴を持つ幾つかの地域の形成

 

3.3.1 統制された緩やかな再開発

 

1964年にファイサル ビン アブドゥル アジズ王(King Faysal bin Abdul Aziz)が実権を握ると、ジェダの成長は進行したが、先の成長時期に較べると、もっと緩やかなもっと統制されたペースであった。他の事業の中では空港が拡張され、港湾が近代化され拡張された。キングファイサル通り(the King Faysal Street)が完成し、この地域と市中心全体で、相当な数のビルディングが活動を開始した。脱塩プラントが市の水道・電力供給を増やす為に建設された。新しい工場が建設され、既存の工場は拡張された。防空施設が設置され、石油製油所は拡張された。以前に確立された枠組みの中で住宅建設が主に市の北地域で続けられた。統制や計画されてない不法占拠の集落が市の南周辺部で相当な規模で広がった。新しい開発や再開発が市の中心部では続けられていた。建設の技術は変わり、市中心の歴史的位置に大きく残されていた市中心機能の外へ向かっての大きな成長に代わって縦型の成長が始まった」。

 

集落、道路網および活動分布の種類や密集度を考慮して今日のジェッダ(Jeddah)の多かれ少なかれハッキリとした特徴を持つ幾つかの地域をそれぞれに踏査することが出来る。

 

(注)アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「ジッダの地区区分(Jiddah Haras)(Quarters)」が挿し絵として使われているが同じ地図が見つからないので「1964年からのジェダ再開発での地域区分」を作成した。

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3.3.2 1の地域

 

最初の第1の地域は今ではほとんど環状道路の内側に囲まれた旧市街で壁の内側部分に沿って敷かれていたもともとの道路から発展した。これは市の歴史的活動の中枢(hub)であり、家々が密集した地域で、全体としてこの市の中心であると共に西部州での商業中心の地位も確保してきた。バザアール(bazaars)、銀行、商社(commercial houses)、一流ホテル、高級品店、ショールーム、役務業務(service activities)等、住宅が主体であるこの地域の第二の主な要素を代表している。高層アパートが古く美しいフラット(tenements)と次第に交替してきた。これはこの市で一番高価な土地の経済的価値を最大に引き出す為の再開発である。この市に独特の景観を与えている石と木製格子戸の高く古い建物の大部分が残念ながら姿を消し、数年以内にこの地域が完全に再開発されるのは簡単に予測できる。

 

3.3.3 2の地域

 

旧市街は内と外の環状道路によって区切られた外環帯(第2の地域)に囲まれている。再び言うが、旧市街はこの市の人口の3分の1を収容する卓越した住宅地域であるが、商業活動および役務業の堅く根ざした基盤もある。最大の数の都市病院、港に隣接した巡礼都市、海岸道路(corniche road)にある外務省はこの区域の中に位置している。この市の人口の半分はこれまでに記述した合体した2つの地域に住んでいる。

 

3.3.4 3の地域

 

3の地域は市の南部に輪郭が示されている。この地域は海岸、外環状道路およびメッカ街道で囲まれる地域である。ここにはこの市の石油製油所、鋼鉄圧延工場(steel rolling mill)等の重工業活動と工業団地が置かれている。工業団地は長期賃貸での僅かな費用で109の初期の工場単位の中小企業を収容するのを念頭に設計されている。やがてそこで雇われる労働者の為の幾つかの経済基盤を整えられている。

 

ジッダ(Jiddah)の日量4.8万立方米の能力を持つ、新しい下水処理プラントもこの南部地域内の市から14kmで海岸から3kmの場所にある。ところで最終処理水は灌漑に適した水質であり、養羊場の飼料栽培に使われるので公害は一切海には排出されない事には注目すべきである。この工場で生産される汚泥(sludge)は肥料として使われるので南部地域は何の不都合もなくこの近代的なプラントから恩恵を受けるだけである。南部地域で顕著な景観は情報省であり、13階建ての事務所棟とテレビ塔等の一群の建物である。隔離病院もこの地域にある。この地域の住宅構成はサビール(Sabeel)およびゴレアル(Gholeal)と呼ばれる低所得者の2つの密集居住集落で明示される。

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3.3.5 4の地域

 

4の地域はメッカ道路(the Mecca Road)の両側で外環状道路と丘陵地帯の間である。この地域には一戸建て(detached villa)の高額所得者の住居が際だって目立つ。主要道路前面の土地では目覚ましい工業および商業活動の発展が見られる。メッカ道路地域はこの市に置かれた32の政府省庁の殆どと幾つかの外国大使館を収容している。

 

ここで単一のもっとも重要な目標となる構造物はコザム宮殿(the Khozam Palace)と合計128ヘクタールにおよぶ地所を占める付属公園である。堂々とした正門と少し小さな婦人用門だけがかつてはこの敷地全体を囲んでいた壁の遺構である。ファイサル国王の決裁で宮殿の敷地は公共の公園としてジッダの住民に開放されている。今日、改善の必要からこの公園とその様々な緑および木陰のある通りがジッダ住民に必要な憩いの場を提供している。

 

メッカ道路の北部で市に隣接した地域が空港であり、その地上の面積は非常に大きく1,770ヘクタールに達しており、今の所、非常に明確な理由で空港としての本来の開発以外は除外されている。しかし、空港が間もなく市から約24km北に移転され、この10年期の末までには操業される予定なので、これは暫定的な情況であり、現在、占有されている土地は住宅地や他の形の都市開発に当てられる事に成っている。空港の巡礼月(Hajj)受付設備およびアブデュルアジズ王大学(King Abdulaziz University)のみがこの地域の設置される主要な機関である。アブデュルアジズ王大学は空港の敷地の東南の角近くに位置している。

 

3.3.6 5の地域

 

5番目の都市開発の地域は外環状線の北のマディナ道路(the Medina Road)をその主要軸にしている。この地域は主に住宅地としての性格であり、西は海岸に向かって、東は空港と丘陵地帯に向かって広がっている。大使館、公使館や大使公邸が一番多くマディナ道路地域(the Medina Road area)に置かれている。ファイサル王宮殿(King Faysal's palace)とハムラ城(Qasr Hamra)2つの王族の宮殿および知事の館(Amir's houses)、豪華な一戸建て(中には1ヘクタール以上の敷地を念入りに造園した中に広がっている邸もある)、高所得者用アパート等がこの市の北部に見られる。大理石加工場、瓶詰め工場やフォームラバー工場等の幾つかの隔離される工場プラントが都市圏の縁に置かれている。もっとも外側にあるのがセメント工場で、市の北約20kmの市の領域を越えた場所に置かれている。粗末な家の群落が河床区(the Runway)やバニ マリク区(Bani Malik)に存在している。

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4 ジッダの家屋(Jiddah Houses)

 

4.1 ジッダ様式の建築

 

ジッダ様式の建築は紅海岸の他の市の建築と似ており、或る程度はメッカ(Mecca)、タイフ(Taif)およびメディナ(Medhina)にも似ている。その様式はこの地方での建材の特徴や気候への要求によって自然と物語られている。建材に関しては海岸に沿って持ち上げられた暗礁から採れる珊瑚石灰岩を除いて、近傍周辺には石切場がジッダには無かった。マンカバ潟湖(al-Manqabah lagoon)の浅い底から掘り出される暗い茶色の粘土が石製のブロックを繋げるモルタルとして使われた。しかしながら、珊瑚製の粗硬岩は建材としては非常に多孔富み、柔らか過ぎたので、ジッダの水蒸気の多い空気の中では長くは持たなかった。多層階構造物は層に成ったチーク材の梁(tieres teak beam)を平行に壁に埋め込み、床を構成する桁と結ぶ等補強しなければ成らなかった。チーク材はインドやジャワ(Java)から輸入され高価であり、費用の面でこの方法が採用されないと、この都市の地表の共通の構成要素である瓦礫(rubble)の土塁にくずれ落ちる貧弱に敷かれた土台や安定しない土壌の問題もあり、家は崩壊する恐れがある。

 

家々はほとんど水性白色塗料(石灰)で仕上げられるか、淡くやわらかな人目につかない黄色、クリーム色、青、ピンク等の静かな色(subdued colours)で塗られている。その他の環境要素である気候は昔も今も強烈な暑さ、湿度および日照に特徴付けられる。古いジッダの建築家達は気象の構成要素(meteorological ingredients)の組み合わせられた苛酷な(oppressive)効果を熟知しており、多くの工夫に富んだ(resourceful)解決策を適用して、生活がこの市の住民にとって凌ぎやすい様に励んできた。彼等は入手できる材料の性質を良く考えて眞に高い家々を建てたので、最上階は常に海からの微風を受られ、温度差で建物に沿って上昇する通風を作り出した。まぶしい太陽光を遮光し、空気が自由に部屋中を循環できる様に、張り出したよろい戸のある窓を彼等は取り付けた。彼等は木の格子で平らなテラスを取り囲み、暑い夏に人々が屋上で寝る時に冷たい気流が循環できる様にしていた。

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4.2 偉大な創造力と技巧で仕上げられた木製設備

 

ジッダの建築家達は偉大な創造力と技巧を表現した場所は、正面扉とバルコニー等、彼等が建築した中の木製設備であった。

 

チーク材の重厚に彫刻された扉は豪華な家々ではありふれており、その豊かさ、複雑さ、緻密な設計で最高に魅力的であった。その中の幾つかは残っており、今日では称賛の的になるだろう。

 

バルコニーは幾つかの様式があり、簡単なムシャラビヤ(musharabiyah)窓枠から信じられないほどに飾り立てたベランダ(verandah)や張り出し窓(baywindow)等がある。ハリー オールター(Harry Alter)が最近、ジッダのバルコニーに関する今後、書かれるどんな論文も虚しい物にする程、すばらしい論文を書いた。ここにその論文の一節を引用する。

 

殆どのジッダのバルコニーは東インドの赤色木材(redwood)で作られ、虫くいや湿気に対する耐久性で評価されている。多くの場合、ワニス(varnish)や塗料の恩恵無しに手細工で図形要素を飾らなければ成らなかったので、加工するのは難しいけれども大工達はこの強靱な材料を好んだ。

 

ラワシン(rawashin)(張り出し窓(bay window))はジッダの典型的町家の外見(façade)で最も印象的な(striking)特徴である。壁から突き出した受材(corbels)又は構造材の上に建てられた、これらの建築装飾構造(gingerbread structure)は伝統的にその施工者の意図で品質や数は様々である。これらの入り組んだ壁板(panels)、蛇腹(cornices)、ひさし(eaves)およびよろい戸(shutters)はこの木工工芸に最高の領域を与えている。しかし、洗練された職人芸(fine craftsmanship)はタカアト(taqaat)(開き窓の窓枠(casement))の様な他の特徴にも表現の場を見出している。タカアト(taqaat)は壁から突き出しては居ないけれども、しばしば同じ様に洗練された職人芸を見せている。その他では、海からの涼しい風を入れながら隣家から覗かれるのを排除する為に使われるもっと一般的な片側焼き煉瓦に代わって、格子細工の手すり(latticework balustrades)が時折、テラス又は屋根(sutub)の縁に使われていた。

 

恐らく、もっとも一般的な造作(feature)はこの地方ではシシュ(shish)と呼ばれ、居住者が外部から眺められない様に設計された格子仕切り(lattice screen)付きの小さなバルコニーであった。本物の張り出し窓(ラウシャン(rawshan))を建てるのに必要な輸入木材と長時間に渡る骨の折れる労働は安くは成らなかったので、簡単で容易に建てられるこれらのバルコニーが貧しい家々や立派な邸宅でも側壁(sidewall)等に好んで使われた。これらがジッダの町家の正面の主要な要素があり、そして通常は家の内部設計と美しさへの考慮の両方が左右対称の配置とさせていた。

 

外国人の訪問者が時々、想像する「排他的なバルコニーはハーレム(harem)専用に使われる」と云うのは単純化し過ぎである。ラワシン(rawashin)(張り出し窓(bay window))はしばしば、家族の居間に使われるし、親しい友人の接待にも使われる。更に、窓側の座席は普通には快適な枕が備え付けられ、ベッドとしても使われた。これは典型的な古い町家には寝室専用の部屋は無かったし、この半分閉じられたバルコニーが往々にしてその家で一番涼しい場所であった為である。

 

この様に装飾され、格子を付けられたラワシン(rawashin)は、私生活を守ると共に家の外観を整え、特に通風を良くすると云う、少なくとも三つの機能を持っていた。それにもかかわらず、バルコニーはロマンティクな連想を伴わなかった訳では無い。時として、バルコニーは昔は左官、大工や駱駝追い(cameleer)が歌った次の様な恋歌に登場する。

 

お祝い、オウ、貴女は格子付きのバルコニーに座っている。

そして、他の皆の上の高貴な身分である。

眼を醒まし、頭飾り(tiara)と花嫁の外衣を身に着けて欲しい。

貴女が他の全ての女性の上に君臨する様に。

(注)ハリー オールター(Harry Alter) ジッダのバルコニー(Jiddah's Balconies)の著者で同書は「 華麗な輝き(Splendid Bright)」としてアラムコワールルド(Aramco World Magazine)の第2259月・10月号(Vol. 22, No.5, Sept. - Oct. 1971, p. 29 - 32.)に掲載。同書の29 - 32頁参照。

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4.3 ジェッダ様式を代表する建物

 

製造元から遙か遠くまで運ぶのを保証できない壊れ易さを考え、ガラスはこれらの枠組みには全く使われていなかった時代に、或る市がそのバルコニーと窓で有名になったは驚くべき事である。

 

旧いジッダの典型的な商人の家の内装は次のような基準に沿って居た。一階には来客を迎入れる為の広い玄関ホールがあった。暑い日にはその部屋の温度を多少とも涼しくする為に、その敷石舗床には常に散水されていた。家の主人の事務所又は仕事場は来客用や召使い用の宿舎と共に、通常、一階にあった。

 

上の階は家主の居住空間で占められ、しばしば、その結婚した息子達の家族が同居していた。各々の一戸分の区画(apartment)は大きな応接間を含んでおり、この家に住む婦人達は別個に自分達の親戚や友達と会う事が出来た。最上階の大きな部屋は全ての婦人とその知人の共同の会合に使われた。この階の別の部屋はこの建物のどこよりも風通しが良く、涼しいので温度の高い季節の慣習的な寝所(大きなくぼみの様な一郭(alcove)が格子のバルコニーで通りの上に突きだしている)では不可欠な快適さを確保出来なくなった夏の夜には家族全員がここで寝た。

 

(注)アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesceは美しいジッダの建築様式の失われた例として1960年の写真からサッカルド(G. Saccardo)によって描かれた建物の絵を挿入しているが、ここではWebから入手した築50年の建物の写真を挿入した。

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(注)アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)はジッダの住宅の珍しく、旧い外観は壁の漆喰の上に直接詳細に描かれた唐草模様(arabesque)図案を1962年に撮影された写真からサッカルド(G. Saccatd)が描いた絵で例証しているが、ここでも博物館(The museum of Abdul Raouf Hasan Khalil)の写真を変わりに掲載した。

 

(注)アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は美しく彫刻されたジッダの玄関の例を古い写真からサッカルド(G. Saccatd)が描いた絵で例証しているが、ここでもWebから入手した写真を掲載した。

 

クッション入りの台で構成された脊付きの長椅子(settee)は全ての応接室の壁一杯に置かれていた。天井は高く、階段は広々としていた。ナシフの家(Nasif House)の場合の様に主人が馬から下りずに上階に行ける様に階段は低く広かった。

 

しばしば念入りに仕上げられ、魅力的なシリアやペルシア様式の木製の間仕切りやついたてが置かれていた。壁にはたまに精密で、鏡や金箔をちりばめた細工の飾り棚がはめ込まれていた。絨毯の唐草模様が床をにぎやかせて居た。

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4.4ジッダ(Jiddah)でもっとも有名なバグダディ館 (Beit al-Baghdadi)

 

多分、全てのジッダ(Jiddah)の家々でもっとも有名なのはバグダディ館 (Beit al-Baghdadi)と呼ばれる海岸にある大きな宮殿であった。1950年代後半に解体されるまで、アブドゥルアジズ王通り(King Abdulaziz Street)に建っていた。その場所は今ではアリタリア航空(Alitalia)の事務所のある宮殿に占有されている。

 

「バグダディ館(Beit al-Baghdadi)は見応えのあるジッダ建築のもっとも洗練された例である。手彫りのよろい戸が窓を覆い、一連の荒れ果てた仕切のあるバルコニーで分断され、手彫りされ、そして塗料を塗られていないその壁はトルコの総督(the Turkish Governor)が住んでいた頃から受け継がれてきた使い古した壮麗さの気配を伝えている。著名なアラビア探検家ジョン フィルビィ卿(H. St. John B. Philby)もかつてバグダディ館(Beit al-Baghdadi)に住んでおり、アラムコ(Aramco)のジッダでの最初の宿舎でもあった」。既に取り壊しの決まっていた1953年にサンガー(R.H. Sanger)はバグダディ館を見たのがこの記述であった。しかしながら、その20年前のバグダディ館(Beit al-Baghdadi)はそのみごとさの絶頂にあった1933年にフィルビィ卿の招きで訪れた回教徒に改宗した英国ゴボルド令夫人(Cobbold)の短く、部分的な説明からは全く異なった印象を得ている。

 

フィルビィ卿の家、即ちバグダディ館はこの町でもっとも大きく、もっともみごとな建造物の1つである。この家は屋上庭園があり、両側に丸く延び、その中には鉢植えが注意深く栽培されている。その多くは大きなピンク色のツルニチニチソウ(periwinkle)(キョウチクトウ科)であり、この花は四季咲きで、自ら種を播き、効果的である。建物の中には幾つかの浴場があり、殆どは丸天井(cupola)で大理石の床をしており、穴の開いたドーム型の屋根は丹念に唐草模様(arabesque)が刻まれている。屋上庭園の一部にかぶさる様に建てられたロッジア(loggia)柱廊があり、その下では陽光を避けられ、そこからの海を見渡す西側の眺めに魅了される。

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4.5 ジェッダ様式の粋「ナシフ邸(Nasif House)

 

ナシフ邸(Nasif House)には6,000冊のアラビア語の蔵書が収められいる。その中には多くのきわめて貴重な記述、1924年以来の古い地方新聞の収集および稀少本が含まれている。

 

この蔵書はムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)よって蒐集(put together)された。ムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)1884年ジッダに生まれた高名な学者(scholar)で、蔵書家(bibliophile)で、新聞の編集者で、数年前に亡くなるまでもてなし心豊かで交際好きなジッダ住人であった。

 

すでにムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)の曾祖父の父親(grand-grandfather)が生存中に多くの貴重な写本(manuscript)を収集していた。これらはムハンマドが生まれた時には戸棚に封印してしまわれており、そこにおよそ40年間も残されていた。この期間にこれらの写本は虫食い(moths)によって破棄せざる得ない状態にまで傷められてしまった。

 

 

 

(注)アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesceはアラムコワールド誌の好意での提供のウィリアムズ(P. Williams)が描いた「ジッダーの古いスークのナシフ邸(Nasif House)」の絵を掲載しているが、ここではWeBから入手した同邸の写真を掲載した。

 

ムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)の祖父(grandfather)であるオマール エッフェンディ ナシフ(Omar Effendi Nasif)は自らは学者では無く、3歳で孤児になったので自分が世話した甥の興味を援助していた(second)だけであった。

 

裕福な商人で地主であったこの家族の経済状態は本に対して多大な金を費やすのは可能にしていた。ムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)は若い時から宗教、言語および法律学に没頭して居り、ジッダ出身の何人かの家庭教師についていた。成年になってからは次第に自分の好みの勉強や市民運動(civic causes)に集中するよりも自分の家で高い地位のジッダ訪問者の全てをもてなしたりする事に日常の(mundane)の興味が向く様に自分自身で気持ちをそらせて行った。高い地位のジッダ訪問者としてはアブドルアジズ国王(King Abdulaziz)とローレンス(T.E. Lawrence)がムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)の客の中では有名であった。ムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)は今でも多くのつつましい巡礼達によって良く覚えられている。彼は多くの巡礼を世界中から巡礼を行ったり、ムハンマド ナシフと意見を交わしたりする為にジッダにやって来ていた著名なイスラムの学者やアラブ学者(Arabist)と同じ様に援助した。

 

これらの図書の散逸を避け、この芸術的な建物を保存する事が国家にとって重要であるのを認識したサウジ政府の決定でナシフ邸(Nasif House)1970年代初めに公共図書館になった。

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5 ジッダのモスク(Jiddah Mosques)

 

1973年に数えたところでは、様々な大きさや重要さの72モスクがジッダ住民の宗教的必要性を満たす為に利用できる。

 

大部分のモスクは簡素で、単純で直接的であり、装飾芸術に対するこの地方の保守的な姿勢が常に意匠と建設にまじめさを与えてきた。語るべき様なドームは無く、ミナレット(Minarret)は常に1つであり、内装は通常、中庭で構成され、そのメッカ方向の東には列柱を備え、マットが敷かれたお祈りの広間があった。外壁は非常に地味に水性白色石灰塗料で塗られ、幾つかの小さな漆喰の繰り型(moulding)と幾何学模様の透かし細工(openwork)の装飾(adornment)を除けば、完全に飾りが無かった。時には優美に芸術的に装飾されるモスクの唯一の部分はミフラブ(mihrab)であるが、贅沢は常にこの地方の建築業者の禁欲的な語彙から除かれているので、やはり単純な方法と材料である。

 

しかしながら、ジッダのモスクのそびえ立つミナレット(minaret)はかつてこの市のもっとも目立った特徴であった。たった、数年前の1967年まではジッダ港への入出港を述べた「紅海とアデン湾の水先案内(Red Sea and Gulf of Aden Pilot)」には「この町の白いミナレットは11マイル(17.6km)沖合からも眺められ、横たわる危険から3マイル(4.8km)の距離にある」と書かれている。多くの場合、周囲の建物に圧倒されて、もし残っていても今でもジッダへ向かう船員が見る陸近くの水平線を引き裂いているこの市のミナレットは殆ど無い。従って、この「水先案内」は改訂されなければならない。

 

歴史的な見地からはもっとも重要なジッダのモスクは6つあり、6つ共、古い城壁の内側にある。ジッダのモスクはモスリム(Moslems)にしか公開されていないが、出来るだけ詳しく述べる事とする。

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5.1 シャーフィイ モスク(Masjid ash-Shaf'i)

 

この名はスンニー派(Sunni)宗教法の4つの学校(シャフィイ(Shaf'i)、ハニファ(Hanifah or Hanafi)、ハンバリ(Hanbali)およびマリキ(Maliki))の内の一つの創始者の名に因んで付けられている。シャーフィイ モスク(Masjid ash-Shaf'i)は建設に関してはジッダのモスクの中でもっとも古く、もっとも美しい。シャーフィイ モスク(Masjid ash-Shaf'i)はマズルム地区(Mahallat al-Mazlum)に建っている。言い伝えによればシャーフィイ モスク(Masjid ash-Shaf'i)はウマル(the Caliph Umar ibn al-Khattab)(A.D. 634 - 644)の時代に建築された。これはジッダがメッカの港となる以前に作られた事を意味する。

 

 

ジッダ市の数少ない歴史的出所の1つである資料の著者でによって述べられている様に言い伝えではムダッファール王(King al-Mudhaffar)が建てたのではないかとの示唆もしている。この著者はアブド カディール イブン ファラジ(Abd al-Qadir ibn Faraj)であり、その著作には「スライマンに関する小史(as-silab wa'l-uddah fi tarikh bandar Judaah)」がある。イブン ファラジ(ibn Faraj)は又、「ヒジュラ歴940年(西暦1532年)にコジャ ムハンマド アリ(Khoja Muhammad Ali)と云う名のインド商人がインドから直ぐに使えるイエメンの建材、板材、磨かれた柱等を持ってジッダに到着した。このインド人はモスクを取り壊し、もっと進歩的な方法で再建したがミナレットには手を付けなかった。恐らく、このミナレットは今日そこに立っているものと同じである」と報告しており、それはこのモスクの扉の上の彫刻された銘板で確認されている。

 

イブン ファラジ(ibn Faraj)は又、「その商人はこのモスクを優雅な説教壇(minbar)で装飾した。勿論、インドの当局はこの商人に多額の金を任せていた。この商人はこの金で商店や住宅を建てるのに使った。しかしながら、この商人はこれらが完成する前に没した。その娘は『父親がこれらを自分の金で建てた』と宣言したのでその娘を相続人であると考えなければ成らなかった。その反証が無かった為にこの娘は商店や住宅を自分の物にして、モスクに付随する墓地の費用の為に残された金はなかった」とも記述している。

 

同じ著者は「モスクはムダッファール王(King al-Mudhaffar)が建てた大きな貯水池(cistern)を持っていた」と想起させているが、それはその時には廃墟であった」と嘆いていた(16世紀に書かれている)。今日ではその時の墓場の痕跡も無いが、大きく深い貯水池がモスクの地下の大部分を占める様に貯水池は後に修理され、アジジヤの泉(Ain Aziziyah)の水がこの市に持ってこられるまでは一般的な使用の為に残されて居り、ジッダでの最高の貯水池の1つとなっていた。アブド クッデュス アンサリ(Abd al-Quddus al-Ansari)1963年の記述で「貯水池が淡水の雨水で満たされている時には井戸の様に木製の蓋がされ、今でも時々は飲み水として使われている」と述べている。

 

実質的にモスクの図面に含まれて居たのは4階建ての家である。この家はアブド カディール イブン ファラジ(Abd al-Qadir ibn Faraj)によれば、著名なジッダ商人アブ イイド(Abu 'I-Id)によって建てられた。

 

シャーフィイ モスク(Masjid ash-Shaf'i)は旧市内の中央に位置しており、その目立たないミナレットとそれを取り囲む狭い通りの迷路の為に簡単には見つからない。年数が経っている為にこのモスクの床は通りよりも低く、現在は四角い白っぽい灰色の大理石のタイルが並べられている。内部はポルチコ(portico)によって囲まれた小さな開放された中庭で構成されている。ポルチコは東に延びて列柱を備えた(colonnaded)礼拝堂を形成している。ほっそりした木柱は緑に塗られ、上部は十字形の(cruciform)木製柱頭になっている。ミフラブ(mihrab)はあざやかに装飾、彫刻され、オスマントルコ皇帝(Ottoman Sultan)が建立したとの銘板を帯びている。

 

モスク建物の南西近くの小さな中庭に建てられた短いミナレットは三階立てである。一階は八角形の断面で、二階も少し小さいが八角形であり、上部はてっぺんに普通の青銅製の三日月を載せた繊細なふくれた尖塔である。2つのバルコニーがこの塔を3つの部分に分けている。一つは真ん中当たりにある木製菱形格子(wood-terllis)の付いたバルコニーで、もう一つはその上の鉄格子の付いたバルコニーである。

 

浅い浮き彫り(bas-relief)模様の付いた尖ったアーチ型の対になった窓がミナレットの下層二段の一面おきに開けられている。

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5.2 ハニファ モスク(Masjid abu Hanifah or Masjid al-Hanafi)

 

この名はスンニー派(Sunni)宗教法の4つの主要な学校のもう一人の創設者に因んで名付けられた。このモスクはシャム地区(the ash-Sham quarter)のファイサル王通り(King Faysal Street)北部の西側に位置しており、記念石に刻まれている様にヒジュラ歴1240年に建てられた。

 

 

ハニファ モスク(Masjid abu Hanifah or Masjid al-Hanafi)は高い、鉛筆の様な形の八角形のミナレットに特徴付けられている。このミナレットは下側に鍾乳石(stalactite)模様が刻まれた2つバルコニーで縮小した区分の3層に分かれている。モスクの南西の端近くに位置する独立したミナレットは黄色い屋根で覆われ、下2層は八面の一つ一つに狭い縦の隙間2本が開けられている。

 

このモスクの平面は長方形である。西半分は大きく屋根が無くのに対して、東半分は列柱を備えた(colonnaded) 大きな礼拝堂で占められている。柱は石灰を塗った漆喰で固めた石で造られている。石柱の形は円形で、屋根を載せる為の丸いアーチを支えている。モスクの床はほぼ周囲の通りよりも高く内部へは段の付いた2つの扉を通って出入りする。1つは北に開いており、もう1つは南に開いている。ファイサル王通り(King Faysal Streetの側には門が無い。スーク(suk)に向いたこのモスクの西側は建物と店で一杯である。この西側からの唯一の出入りは短く狭い通りの端にあり、かつては正面入り口であった鉄の門が閉められている。

 

このモスクの重厚な外壁は上に向かって先細の助材(rib)で補強され、その周囲には2列の窓が開けられている。ファイサル王通り側の下列の窓は四角形で木製の鎧戸が付けられており、上列の窓は先端が尖ったアーチ型で鎧戸は無い。ハニファ モスクはジッダ政府のアウカフ(Awqaf)と呼ばれる宗教基金(Pious Foundation)に帰属している。

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5.3 バシャ モスク(Masjid al-Basha or Masjid Sultan Hassan)

 

パシャ モスク(Masjid al-Basha or Masjid al-Pasha)もしくはスルタン ハッサン モスク(Masjid Sultan Hassan)と呼ばれるモスクはシャム地区(Mahallat ash-Sham)のアブドゥルアジズ王通り(King Abdulaziz Street)の東側にあり、通り自体から直ぐの距離である。その主な特徴はずんぐりした八角形の傾いた、中程をバルコニーでぐるりと巻かれたミナレットである。このバルコニーは多少すり切れた鍾乳石模様(stalactite decorations)で下側を飾られ、黄土色をしている。単純な細工の鉄の手すりを持った二重の階段がアーチ型の正面入り口へと導く。そのまぐさ石(lintel)は化粧漆喰(stucco)およびその他の幾何学的な造りで飾られている。したがって、このモスクの床は通りよりも高くなっている。1つしか無い出入り口は開放された中庭と云うよりはテラスへと導き、そこから覆いのある礼拝堂へと導かれる。この礼拝堂の平面は四角であり、その平らな屋根は3本の南北に延びる石造りのアーケードで支えられている。この石造りのアーケードは四角い柱の上に載っており、石灰塗料を塗られ、それぞれ3つのアーチを持っている。ミフラブ(mihrab) は碑文(inscriptions)と尖ったアーチ型の文様(motives)で飾られ、暗い緑色に塗られている。礼拝堂の南側と東側では4つの窓が2列に並んでいる。(その他の2つ側はテラスに向いている。)上の窓はアーチ型の開口部を持っているのに対して、下の窓は四角形で緑の木製鎧戸と単純な鉄棒で作られた欄干(parapet)を備えている。

 

パシャ モスク(Masjid al-Basha or Masjid al-Pasha)はオスマントルコのジッダ州総督(the Ottoman Wali of Jiddah)であったバクル パシャ( Bakr Pasha)によって、ヒジュラ歴1137年(西暦1735年)に建てられ、それに因んでこのモスクの名が付けられている。このモスクもジッダ政府のアウカフ(Awqaf)と呼ばれる宗教基金(Pious Foundation)に帰属している。

 

(注)アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)はサッカールド(G. Saccardo)によって描かれた絵でパシャ モスク(Masjid al-Basha or Masjid al-Pasha)の装飾された表玄関と傾いたミナレットを説明しているが、1978年に取り壊され、新しいモスクに建て替えられている。

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5.4 ミマール モスク(Masjid al-Mimar)

 

ミマール モスク(Masjid al-Minar)はマズルム地区(Mahallat al-Mazlum)のキングファイサル通り(King Faysal Street)とアラウィ通り(Shara Alawiex Shara Qabil)の交差点の角に近い古いスーク(suk)の中にある。

 

アブド クッデュス アンサリ(Abd al-Quddus al-Ansari)は「このモスクはムスタファ ミマール(Mustafa Mimar)によって建てられ、その名に因んで命名された」と述べ、「トルコの出典によればその名のオスマントルコ総督がヒジュラ歴1284年(西暦1867年)にジッダを統治していた」と暫定的に付け加えている。しかしながら、これは1834年に作成されたタミシエ(Tamisier)の一覧表にマハンマール(Mahammar)と綴りを間違えてはいるけれども「ミマール モスク(Masjid al-Minar)がこの町の5つの歴史的モスクの1つである」として含まれている事と矛盾している。従って、このモスクの建設された日付はアンサリが暫定的に提案した物よりも古い事になる。

 

ミマール モスク(Masjid al-Minar)は縮小した部分の幾つかの層を持ち、礎石(socle)から立ち上がる違った形の高いミナレットを持っている。モスクの外壁の近くで半分礎石で囲まれた四角い層にはモスクの屋根から立ち上げる八角形の部分が被さっており、代わる代わる2つの円筒が上に置かれている。退色した簡単な装飾が彫刻された2つの茶碗の様な形のバルコニーが残りの3層を分けている。ミナレットの屋根は円錐形である。

 

ミマール モスク(Masjid al-Minar)はその建家の中に2つの井戸を持っている事で有名である。1つの井戸は塩水で、もう1つの井戸は真水を湧き出している。イエメン人の労働者が朝早く、2つの5ガロン ブリキ缶の水を天秤棒で担いで井戸と市の水道線とつながれてない幾つかの家の間を往復する姿は失われつつある風習である。

 

これまで述べた他のモスク同様にミマール モスク(Masjid al-Minar)もジッダ政府のアウカフ(Awqaf)と呼ばれる宗教基金(Pious Foundation)に帰属している。

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5.5 アカシュ モスク(Masjid al-Akash or Masjid al-Akashah)

 

アカシュ モスク(Masjid al-Akash)はカビル通り(Shara Qabil)、即ちジッダの主要市場であるナダ スーク(Suk an-Nada) をアブドゥルアジズ王通り(King Abdulaziz Street) からキングファイサル通り(King Faysal Street)へ横切る通りの北側に建っている。(キングファイサル通りが開通する前はカビル通りはもっと東まで延びていた。現在では、旧市内を横切るキングファイサル通りよりも東の部分はアラウィ通り(Shara Alawi)と呼ばれ、ミナール モスク(Minar Mosuque)、アシュール館(Ashur House)およびナシフ館(Nasif House)を結ぶ通りと成っている。)

 

アカシュ モスク(Masjid al-Akash)はタミシエ(Tamisier)の作成した表にジッダの歴史的5つのモスクに1つとして掲載されて居るので、もともとはアカシャ アバザ(Akashah Abazah)家の誰かによって1834年以前に建立又は修復されていた。(タミシェールの本には恐らく誤植によってAkashでは無く、Akatと綴れられているけれども、海岸広場の片方に正しく置かれている。)

 

アブド クッデュス アンサリ(Abd al-Quddus al-Ansari)は「このモスクはヒジュラ歴11世紀にこのモスクを海岸に建立した商人の名に因んでダマガニ モスク(Masjid al-Damagani)と呼ばれていたモスクと同じである」と思索している。

 

けれども、1959年に行われた徹底的な修復でアカシュ モスク(Masjid al-Akash)はその考古学的な痕跡を全て失ってしまっている。古い八角形の二層のバルコニーを持つミナレットは特に近代的な書きようもない型式にの物に立て替えられてしまっている。

 

 

このモスクは通りより高く成っており、出入りには南側と東側にある、短い階段を通らなければならない。アカシュ モスク(Masjid al-Akash)は四角い平面をしている。これはキブラ (qibla)のある壁まで延びるポルチコ(portico)に周囲を囲まれた大きな祈りの場を成す屋根の無い中庭を持っている。ミナレットは南西の隅にあり、アブドゥルアジズ王通り(King Abdulaziz Street)から通り抜けて主スークに入ると直ぐに見つけられる。

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5.6 ウスマン ビン アッファン モスク(Masjid Uthman bin Affan)

 

このモスクはアバヌス モスク(Majid al-Abanus)・黒檀モスク(Ebony Mosque)とも呼ばれ、マズルム地区(Mahallat al-Mazlum)にある短い、がっしりしたミナレットを持つ小さなモスクである。このミナレットには完全に昔の様式を残す特徴がある。この事実は1183年にジッダに居たイブン ジュバイル (Ibn Jubayr)1330年にジッダを訪問したイブン バットゥータ(Ibn Battutah)によって記述されている。イブン ジュバイル(Ibn Jubayr)は「この市には神が寛大さで包むウマル イブン カッターブ('Umar ibn al-Khattab)の物であったありがたいモスクともう一つ同じくウマルの物であった2本の黒檀の柱を持つモスクがある。けれども、ありがたいモスクは神のお慈悲をさずかるハールーン ラシード(Harun al-Rashid)の物であったと言う人達もいる」と記述している。イブン バットゥータ(Ibn Battutah)は「ジュッダ(Juddah)には黒檀モスク(Ebony Mosque)と呼ばれ、お祈りのご利益(ごりやく)があるありがたい力のある事で知られている大聖堂のモスクがある」と述べている。

 

 

アブド クッデュス アンサリ(Abd al-Quddus al-Ansari)は「ヒジャーズ地方の市(Hejaz cities)のモスクの間での様式の類似性の基づくと現在の建物はヒジュラ歴9世紀から10世紀(おおよそ西暦15世紀から16世紀)の時期に所属する」と提言している。ミフラブ(mihrab) の側面に建つ2本の黒檀の柱(the ebony columns)に関してはアブド クッデュス アンサリはヒジュラ歴11世紀(西暦17世紀)にアブド カディール イブン アハマド ビン ファラジ(Abd al-Qadir ibn Ahmad bin Faraj)が書いた「その時代に2本の柱の1本がまだ存在していたがもう1本はすでに無くなっていた」と云う記述を引用している。

 

更にアブド クッデュス アンサリはシェイク ムハンマド ナシフ(Sheikh Muhammad Nasif) が自分に「今の時代の前で、キニーネ(quinine)がマラリアの特効薬として発見される以前にはこの柱から小さな木片を切り出し、それを用いて治療法として病人をその芳香で満たした」と告げていたと付け加えた。イブン ジュバイル(Ibn Jubayr)の憶測と反して、このモスクは通例はカリフ ウスマン ビン アッファン(Caliph Uthman bin Affan)(どうしてこの名前なのか?)に帰属していたと云われている。現在はアバヌス モスク(Majid al-Abanus)はジッダ政府のアウカフ(Awqaf)と呼ばれる宗教基金(Pious Foundation)に所有されている。

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5.7 王立モスク(the Royal Mosque)

 

多くの近代化されたジッダのモスクの中でも素晴らしいのはメディナ通り(the Medina Road)の王立モスク、外環状道路のコザム王宮(Khozam Palace)のモスクおよび内環状道路のバブ シャリフ総合病院(Bab ash-Sharif)近くのサレム ビン マフド モスク(Salem bin Mahfud Mosque)である。サレム ビン マフド モスクは町中で一番高いミナレット(minaret)と珍しい大理石、タイルおよびモザイック模様の防壁で目立っている。

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6 イヴの墓(The Tomb of Eve)

 

6.1 半世紀前まではジッダ(Jiddah)でもっとも尊ばれた場所

 

半世紀前まではジッダ(Jiddah)でもっとも尊ばれる場所は有名なイヴの墓(The Tomb of Eve)であった。この墓はそれ以後のこの市に関する殆どの参照文献に一様に記載されている。幾つかの文献はこれはこの市の名前の由来であるともみなしている。10世紀のハムダニ(Hamdani)の文章にイヴのジッダとの連合の最初の典拠を示した言及を見出した。ハムダニは「アダム(Adam)がイヴ(Eve)に会いたいと思慕を感じた時にアダムはミナ(Mina)に居た事、・・・、イヴがジュッダ(Juddah)から来た事およびアダムがアラファト(Arafat)でイヴを知った事には関係ある」と述べている。

 

6.2 イヴ埋葬の伝説と地理学者

 

最初に「イヴの墓(Eve's sepulchre)がジッダにある」と言ったのはイドリーシー(Idrisi)であり、それは12世紀中頃の事であった。しかしながら、12世紀後半にイドリーシーと異なり巡礼の為にジッダに行ったイブン ジュバイ(Ibn Jubayr)は自分の経験から「ジッダは古代の堂々としたドームのある場所で、そのドームはイヴがメッカ(Mecca)への途中で宿泊した場所である」と述べている。

 

13世紀にイブン ムジャウィール(Ibn al-Mujawir)はジッダのイヴの墓(Tomb of Eve)に関する明確な参照文献を作り、イブン カッリカン(Ibn Khallikan)も同様である。14世紀にイブン バットゥータ(Ibn Battutah)はこの件を全く無視した。バットゥータと同じ考えを持つ数人のアラブ地理学者も居る。タバリ(Tabari)、マスディ(Masudi)およびその他のアラブの歴史学者は「伝説によればイヴはジッダに埋葬されているが、その墓の詳細について伝承されていない」と述べている。

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6.3 「イヴの墓」の構造と大きさ

 

数世紀の間に人類の先祖の埋葬されている思われる場所で崇拝が発展してきた事は事実である。このには相応するドーム(qubbadoom)が建てられていた。ドームとそれに付随する構造は修復や経年変化を受けており、その形や大きさは19世紀の文献や図像からなんとか理解出来るに過ぎない。形についてはバートン(Burton)による記述やデッサンから「19世紀半ば頃のドームは四角い建物の上に重ね合わされ、そこから2つの低く長い平行な壁が南北方向に延びていた」のが分かる。この絵はアンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)が例証した挿し絵が示す様に19世紀の後半に描かれたのが刻まれた日付で確認される。

 

(注)アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)1882年の版画(engraving)の中で、メディナ門の銃眼付きの胸壁(battlement)から見たイブの墓(the Tomb of Eve)を参照しているが、ここではWEBからの写真を掲載した。

 

(注)写真は頭(Head) (shehed)と呼ばれる正面からの写真で、中央のドームがへそ(Navel) (surrah)まで約87mで中央のドームから反対側の足(Feet) (shehed)まで約59mとイブの墓は極端に細長い構造をしている。

 

大きさについてはすこぶる推定の範囲であり、明確に著者の肉眼での査定であり、正確さからは程遠い。これに関してはスタニスラス ラッセル中佐(Commander Stanislas Russel)が自分の測定結果を示しているので、同中佐だけがこの構造を実際に測定した唯一の訪問者であったと我々は推測した。同中佐はファーロング(furlong220yards)、フィート、ペース(paces、歩幅)およびヤード(yards3ft)では無く、メートルおよびセンチメートルを使って測定していた。

 

幾つかの資料をチェックしてもサレ ソウビヒ(Saleh Soubhi)、ジャハン ベガム(Jahan Begam)、ゴーティエ(E.F. Gauthier)、フィルビー(H.St. John B. Philby)およびイブラヒム リファト(Ibrahim Rifat)の著書に現れるのは隠れた部分を明らかにするには程遠い写真ばかりであり、これら資料では少し長い側があるのは分かるだけなので、イヴの墓(Tomb of Eve)の大きさについての推定はラッセル中佐の測定に基づいて行った。しかしながら。これらの写真には「19世紀末から20世紀初めのある時期に緑のドームの西側に新しい建物が建てられた」のが示されている。入門はもはやドーム(qubba)の西の扉からでは無く、これに隣接した新しい建物の南北の開放されたアーチからであった。

 

ラッセル中佐の測定に基づくと頭部の印(shehed)から臍部(surrah)まで86.87mであり、臍部(surrah)と足の印(shehed)の間の距離は59mである。これらの測定結果はほぼアラビア人著者ムハンマッド ラビブ バタヌニ (Muhammad Labib al-Batanuni)が頭から足まで150mと述べ、有名なアフリカ探検家のゴーティエ(E.F. Gauthier)1917年にこの墓を訪問し、頭から足まで205歩即ち約130mと述べている事とほぼ一致している。エジプト副王カディーブ(Khediveh)の巡礼に従い、それを自分の著書に書いたバタヌニ(al-Batanuni)は「ノワの洪水(the Universal Deluge)がこの墓を洗い流した筈である」と言って、伝えられているイヴ(Eve)の偉大さについて長い余談(digression)を作文し、その埋葬について幾つかの疑惑(disbelief)を表している。

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6.4 霊廟(shrine)とスーラ石(the surrah stone)

 

クルアーンの中の祈りの言葉やその一部を額に入れて壁に飾ってある緑の覆いの下の霊廟(shrine)の中には四角い形で、.バートン(R. F. Burton)の言によれば人間の体付きで臍の部分(the omphalic region)を示す様に奇妙に彫られている神聖な石がある。

 

(注)スーラ石(the surrah stone) 菊の紋章を時計回りに多少捻った様な臍部(surrah) (the omphalic region)を示す様に奇妙に彫られている神聖な石。

 

ここでは、母親に成れる様に祈りを捧げる子の出来ない女性達、この場所の伝えられている祝福によって引き付けられた巡礼、神のお助けを探し求める貧しいベドウインおよび軽々しく信じやすい人達が神のお告げを求めて、数世紀に渡ってやって来ていた。この様な信心に対するシールダール イクバル アリ シャー(Sirdar Ikbal Ali Shah)のコメントを回想するのは興味深い。シールダール イクバルアリ シャーは1928年より少し前に巡礼に訪れたアフガニスタン人のモスリム(回教徒)である。

 

自分に告げられた最初の墓は約8フィートあったので、イヴはすばらしいプロポーションの女性であったに違いない。従って、「自分達回教徒は堂々としたプロポーションの女性に興味(欲情)がある」との噂ではあるせよ、自分達は巨大な線を描いたので、イヴは生きた姿で自分達を迎える為には生存して居なかった事もそれ故である。しかし、「自分がそこに着いた時までに、この墓は不可思議な事に現在の巨大な大きさまでそれ自身が延びたのだ」と告げられた。「料金の支払えば、神のお告げを受難の埋められた女祖先から受け取る事ができる」と自分は知った。これは勿論、地下聖堂に居る共謀者によって与えられる。共謀者は1シリングか2シリングを払えば、単調な声で神のお告げ(prophecy)を言う。幸い、この邪悪な風習はワッハーブ派(Wahabis)の到来(advent)で止められてしまっている。

 

6.5 ワッハーブ派(Wahabis)による「イヴの墓」の破壊

 

1925年のワッハーブ派(Wahabis)のジッダ占拠に続き、クルアーンの教えに一致しないこの様な迷信を終わらせる為にこの墓は破壊された。物事を歴史的に展望する為に1882年から1905年までヒジャーズ(Hejaz)を支配した改革志向のシャリフ アウン ラフィック(Sharif, Aun ar-Rafiq)はこの墓を取り壊そうとした。この動きはこの地方の人々の間だけでは無く、エヴは全人類の母であり、その墓を破壊するのはすべてに人の宗教的感情を傷つけると主張するジッダ在住の外国人領事の間にも厳しい非難を巻き起こした。「アウン ラフィックは『しかしながら、人類の母がこんなに背が高いか?もし、馬鹿さが国際的ならば、墓はそのままにしておこう』と言い返した」とアミーン リハニ(Ameen Rihani)はその著書「アラビア海岸を巡って(Around the Courts of Arabia)」に報告している。こうしてアウン ラフィックは圧力に屈し、この墓の事は忘れてしまった。しかし、墓や頼みもしないのに与えられた助言を全く使わないワッハーブ派(Wahabis)は違った行動をした。アブドゥルアジズ王(Abdulaziz)1928年に自らカイマカム(the Qaimaqam)にこの墓を取り壊す様に命じ、鋤とシャベルの数日間の作業で地上に出ているこの墓の全てはほとんど平にされてしまった。墓場を取り巻く壁だけが残されたが、入り口は封印された。

 

(注)カイマカム(the Qaimaqam)はオスマントルコで「地方の下級官吏」を意味した様である。

 

これが現在におけるイヴの墓の状況である。壁の上をじっと眺めるとぼんやりと高くなった盛り土や幾らかの灌木が見える。ワッハーブ派(Wahabis)のふるまいの説明として、唯一神のみが信仰の相応しい考えられているのでワッハーブ派の正統な教義はメディナのモハンマッドの墓を除いて、どの様な形であれ、預言者(prophets)、教主(caliphs)、聖者(holy men)や一般の死の墓への尊敬の念を強く否定している事を明確にしなければならない。この様にワッハーブ派は最終的にはクルアーン(Koran)に基づく信仰(belief)に従って行動した。サウジアラビアの建国者であり、全ての人が大切に思い続けている故アブドゥルアジズ王(Abdulaziz)はリヤドの無名の墓に埋葬されて居り、その上には見事な大理石の霊廟(mausoleum)等は建てられず、記念式典も催されず、墓に飾りつけ(wreathes)もされない事がこの観点からは相応しい。

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7 巡礼(Pilgrimage)

 

7.1 預言者モハンマへの啓示と巡礼

 

ヒジュラ(the Hijra)から数年(おそらく3から4年)後に預言者モハンマドは次の様な啓示を得た。

 

人類の為の最初の神殿はバッカ(Bakka)(メッカ(Mecca))の神殿であり、それは神聖な家で世界の為のガイダンスであった。その中にはアブラハムとその警護がそこに入った痕跡と証拠がある。この家への巡礼は101(tithe)(モスクおよび聖職者の生活を維持する為の物納)を徴収できる人達の中からアッラー(Allah)のおぼしめし次第で決まる。(クルラーン 390から92頁)

 

7.2 大量の通過巡礼客

 

やがて、敬虔な指図(this pious injunction)はイスラムの5番目の柱となり、回教徒人生での最高の経験に発展する。これは又、大量の通過客の主要な動機ともなっていた。これらの通過客はジッダが毎年経験する陸路、海路および空路で到着し、この市に溢れる聖なるメッカ(Mecca)およびメディナ(Medina)への向かう巡礼達であった。この市が存在した早い時代から船旅の巡礼達の受付センターとしての役割をジッダは持っていた。この為、ジッダは手頃な小舟や大型船を用意しなければ成らなかった。困難さにもかかわらず、上陸地点から巡礼達は駱駝に騎乗するか徒歩で自分達の目的地へと旅をし、規定の儀式を行い、帰国の為に再びそこで船に乗り込む。

 

海岸に立地して居た為に、南から来る巡礼達の一部を除いてジッダは駱駝隊商や徒歩でメッカを目指す巡礼達の通り道には成らなかった。しかしながら、それにもかかわらず、巡礼達の大多数が有名なイブの墓を訪れていた。

 

今ではほとんどの巡礼達が駱駝騎乗や徒歩で到着出来ないが、北や東から車やバスで旅行してくる巡礼達はほとんどメッカ(Mecca)からジッダ(Jiddah)までの両市を結ぶ近代的な77kmの高速道路をドライブする機会を逃すことは無い。他の事の中でも巡礼達がサウジに持って来た品物を交易出来るジッダでの可能性は魅力的である。

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7.3 巡礼への空路の旅の導入

 

空路の旅の導入で、全ての新しい要件はこの市の役割に加えられた。即ち、空路で訪れる巡礼達の歓迎である。それは飛行場が初歩的な滑走路と格納庫だけで構成されていた1938年に始まった。ラマダン月27日に翼のある馬が預言者をエルサレム(Jerusalem)に連れて来た後、エジプト航空(Misr Airwayas) の航空機が草分けの空旅を行い、満席の巡礼達と共にジッダに着陸した。

 

1956年に現代の空港設備が落成し、それに伴い、毎年、航空機で到着する巡礼達の数が急上昇した。1938年には20名内外の巡礼達だったのが、1969年に13万人、1970年に14.5万人そして1971年には23万人になった。この数字からだけでもたった3年間で43%増加している。その様な隠しきれない傾向を持って、ジッダには政府がまさに決めた完全に新しい空港の建設を急ぐ以外の方法は無かった。空路での利便性とスピードの為、航空機で旅行する巡礼達は増加した。それと平行して、海路で訪れる巡礼達は1960年に15万人、1970年に8.6万にと著しく減少したが、それでも年間10万人程度に安定すると思われる。

 

7.4 霊感 (inspiration)と感動(excitement)の海路での巡礼

 

航空機での到着が時代の傾向であるとしても、霊感 (inspiration)と感動(excitement)については海路でのゆっくりした到着の様にはならない。海路では朝日に鋭く、形をハッキリと照らされたヒジャーズ山脈の厳しい輪郭および太陽が起伏の険しい山の峰から現れた時の目をくらますような光の洪水の後の数瞬と共に夜明け前に見られる柔らかく、薄く透き通った光を浴びた青っぽい陸地を見られる。それから昼下がりの間に移り変わる光景の中で太陽が景色を動かしている暑い地表のから熱波を震わせながら次第に上って行く。もっと後で、下がって行く太陽は今と反対側の山にぶつかる。その光は黄金、琥珀および緋色よりも豊かであり、その色が光り自身の色に加えて山腹から反射しており、その時がそれ以前のどの時よりも素晴らしい。それから太陽は姿を消すが、暫くの間、ぞっとするような拡散した黄昏の光がなおも、峰峰や海と抗しがたい魅力を醸し出す。直ぐに暗くなり、空は星で一杯になる。月の光が波を包み、巡礼達の魂を含めて全ての物が深遠な静寂に包み込まれる。

 

巡礼達がジッダ「紅海の花嫁」(乱用された陳腐な決まり文句をもう一度売り込む)を既に見ていれば、巡礼達は湾のけだるい水面に映る数千に及ぶ、色とりどり光、確かに永遠に巡礼達の記憶に刻まれる光景を称賛できる。これはこの段階で巡礼達は自分達の生活の希望と夢の行き先を達成してしまっている為である。巡礼達は今や混み合った定期便の貨物室から直接に新しい港の波止場に吐き出される。この港はアラビアの近代化と共に維持されているが、巡礼船が港外の停泊地(roadstead)に錨を降ろして、浅い水路を通って埠頭に着く為に小さなボートに乗り移り、昔のやり方で陸に近づくのは旅客に取ってはやや興奮する出来事であった。この様な経験の多くの記述の中でもムハンマド アサド(Muhammad Asad)の記述がもっとも魅力的であった。

 

そしてそれから、本土から自分達に向かって、突進して来た白い翼の接待役を見た。アラビア風の沿岸用ボートである。古代ローマ風の帆で平らな水面すれすれをなめらかにに航行していた。柔らかく、音も無く、見えない珊瑚礁の間の浅瀬を抜けている航路を素早く移動している。自分達を受け入れる為のアラビアでの最初の特使である。これらのボートが滑る様に近づき、最後に船の片側に帆柱を立てた儘で群がるにつれて、これらのボートの帆は慌ただしく11つたたまれ、まるで巨大な鷺が捕食の為に舞い降りた様にヒューと風を切って動き、パタパタとはためく。一瞬前の静寂の中から金切り声と叫び声が高まる。それは船子の叫びで、船子はボートからボートへ飛び移り、船ベリの梯子へ巡礼者達の荷物を確保する為に突進する。そして巡礼達も聖なる土地の光景に興奮しており、自分自身を守ろうともせず、自分達に起こる事を受け入れている。

 

(注)アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「巡礼達が昔の検疫波止場に降り立った光景」を古い写真からサッカルド(G. Saccardo)が描いた絵で説明しているがここではWEBから入手した写真を掲載した。

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7.5 聖地(the Holy Places)へ出入りする巡礼の受け入れ

 

無事に上陸すると殆どの巡礼達は既に巡礼用の衣であるイハラム(Ihram)に着替えており、辛抱強く、様々な公式手続きの履行を待って、それからジッダの通りへと繰り出す。駱駝運送を待たなければ成らない者達は指定された家に向かうか、市の宿泊所(hostels)であるカン(Khans)に泊まるか、或いは町の中又は直ぐ外の空き地にキャンプする。資力の有る者達はシュクデュフ(shuqduf)と呼ばれる不格好な(cumbersome)輿(litter)を備えた駱駝を雇う。このシュクデュフ(shuqduf)と呼ばれる輿(litter)は駱駝の背中の瘤(hump)を跨いで2つで釣り合い、太陽の熱から乗客を守る為にナツメヤシの葉を編んだ覆いを備えている。しかし、巡礼達の多くは、荷物が陸揚げされると直ぐにメッカ門(Mecca Gate)に急いで向かい、それから沙漠を越えてメッカまでの全道程を暑さ、寒さや風の強さを忘れて早足で歩いて行く。

 

1970年代初めにはの巡礼達の数は50万人を越え、その全てが短期間に来るのでジッダがその全ての手段(resources)を動員して解決しなければならない大きな補給の問題を引き起こしている。巡礼達の到着に対して、この市が準備しなければならない最初の服務は受付、検疫、入国審査、手荷物検査およびムタッウィフ(mutawwif)との連絡である。

 

この手続きが終わると、巡礼達は水、食糧の補給を受け、聖地(the Holy Places)への輸送を待つ間の臨時の宿舎をあてがわれる。宿舎には港や空港の巡礼センター、町のホテル、貸部屋を持つ民家、戸外のやなぎ細工のベンチで寝る茶屋(café)および主要路沿いの様々な場所での野営および駐車設備が当てられる。主要路沿いの様々な場所としては外務省の向かいの大きな広場やメディナ道路とハムラ道路(Hamra Road)の交差点等がある。巡礼達はメッカに到着する前に平均2日間はジッダに滞在する。巡礼の少なくとも10日前に到着した者達にはメディナへの通行が許可され、巡礼達はメディナから直接、メッカに旅行できる。そして、巡礼が終わり、帰国する前にも2日間ジッダに滞在する。海路や空路で訪れる数十万人をスムーズに周遊させるのは簡単な仕事ではない。車、バスおよび貨物自動車(lorries)が用意され、この時にこの市の周りの広い範囲のセンターから全ての適当な車両がジッダに集中する。

 

巡礼達(ジッダの住人達も含め)の健康要件と警備の為に港と空港の受付センターの隔離病院や検診施設はキチンと組織化された方法で効率的に機能を果たさなければならない。回教国の間で同意した精神に基づき巡礼地域の健康基準保持に協力し、この地方の施設の負担を軽減し、自国の巡礼達の健康維持を援助する為に、幾つかの外国大使館は医療使節を動員している。特に余り豊かではない或る巡礼達が聖なる土地での宿泊費を支払う資金の代わりに自分達の故郷から物資を携えて来る様な古い習慣は著しく減少している。確かなのは巡礼達が今でも絨毯、真珠、貴石、手工芸品、絹製品、敷物等を携えて来てメッカ巡礼(Hajj)の前か後にそれらの製品の交易をジッダで行うが、その売り上げよりも巡礼達がサウジアラビアで購買できる機会に支出する金額の方が多いのはハッキリしている。

 

巡礼達は家に留まっている家族に記念品やおみやげを購入し、宝飾り品類、写真機、時計、ラジオ。テープレコーダー等、ジッダで魅力的価格で買える品を輸入するのでこの地方の商業活動は毎年、メッカ巡礼(Hajj)の季節に刺激を受けている。しかしながら、ヒジャーズ地方の町々の市場(suk)の繁栄はかつては巡礼貿易に特徴があったが、現在ではこの地方自身の売り上げに大きく依存している。

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7.6 ヒジュラ1392年(西暦1972年)に到着した国別巡礼の数

 

ヒジュラ1392年(西暦1972年)に到着した国別巡礼の数

宗教基金省(Ministry of Prigrimage and Awqaf of KSA)」発表の国別巡礼調査(人)

1972年の外国人巡礼者の総数

アラブ諸国(Arab Countries)

320,793

アジア諸国(Asian Countries)

240,235

アフリカ諸国(African Countries)

81,845

ヨーロッパ諸国(European Countries)

2,063

米国その他(Americas and Other Countries)

246

 

645,182

 

内訳(アラブ諸国、アジア諸国、アフリカ諸国、ヨーロッパ諸国、米国その他)

 

アラブ諸国(Arab Countries)

アブダビ(Abu Dhabi)

814

アジュマン(Ajman)

143

アルジェリア(Algeria)

25,864

バハレイン(Bahrein)

2,265

ドゥバイ(Dubai)

320

エジプト(Egypt)

39,606

イラク(Iraq)

24,681

ヨルダン(Jordan)

25,819

クウェート(Kuwait)

8,094

レバノン(Lebanon)

6,715

リビア(Libya)

23,774

モロッコ(Morocco)

22,425

オマーン(Oman)

3,518

パレスティナ(Palestine)

1,556

カタール(Qatar)

1,346

ラス アル ハイマ(Ras Al Khaimah)

59

シャルジャ(Sharjah)

61

南イエメン(South Yemen)

2,046

スーダン(Sudan)

29,506

シリア(Syria)

31,777

チュニジア(Tunisia)

10,126

イエメン(Yemen)

60,250

ウム アル クワイン(Umm Al Quwain)、フジャイラ(Fujairah)

28

アラブ諸国(Arab Countries) 合計

320,793

 

アジア諸国

アフガニスタン(Afganistan)

17,447

カンボジア(Cambodia)

1

セイロン(CeylonSri Lanka)

67

インド(India)

18,306

インドネシア(Indonesia)

22,659

イラン(Iran)

45,298

マレーシア(Malaysia)

10,395

パキスタン(Pakisutan)

95,968

フィリピン(Philippines)

7

シンガポール(Singapore)

761

南ベトナム(South Vietnam)

12

台湾(Taiwan)

18

タイ(Thailand)

2,057

トルコ(Turkey)

27,235

その他のアジアの国々

4

アジア諸国(Asian Countries) 合計

240,235

 

アフリカ諸国

カメルーン(Cameroons)

1,751

中央アフリカ共和国(Central African Republic)

359

チャド(Chad)

4,002

ダオメー(Dahomey)

479

エチオピア(Ethiopia)

2,843

ガーナ(Ghana)

860

ギニア(Guinea)

1,810

ハイ ヴォルタ(High Volta)

1,117

コートジヴォアール(象牙海岸)(Ivory Coast)

930

ケニア(Kenya)

734

リベリア(Liberia)

39

マダガスカル(Madagascar)

26

マリ(Mali)

1,569

モーリタニア(Mauritania)

867

モーリシャス(Mauritius)

205

ニジェール(Niger)

3,978

ナイジェリア(Nigeria)

48,981

セネガル(Senegal)

2,719

シエラレオネ(Sierra Leone)

133

ソマリア(Somalia)

2,032

南アフリカ(South Africa)

2,959

タンザニア(Tanzania)

1,312

トーゴ(Togo)

161

ウガンダ(Uganda)

856

ザイール(Zaire)

44

ザンビア(Zambia)

316

その他のアフリカの国々

763

アフリカ諸国(African Countries) 合計

81,845

 

ヨーロッパ諸国

英国(England)

1,053

フランス(France)

497

ギリシャ(Greek)

286

ポルトガル(Portugal)

61

スパイン(Spain)

123

ユーゴスラヴィア(Yugoslavia)

18

その他ヨーロッパの国々

25

ヨーロッパ諸国(European Countries) 合計

2,063

 

米国その他

米国(Americas)

160

その他アメリカ大陸の国々

86

米国その他(Americas and Other Countries) 合計

246

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8 領事館の町(The Town of The Consuls)

 

8.1 外国領事を接遇すると言う特別な役割を持つ町

 

ビラド カナシル(Bilad al-Kanasil)すなわち領事館の町(The Town of The Consuls)、この呼び名はかつてアラビアの殆どが回教徒以外に厳しく踏み込みを禁止されていた時代にジッダが外国領事を接遇すると言う特別な役割を持って居た為に如何にあだ名されたかを示している。

 

最初にジッダに代表部を置く特権を得たのはフランス(France)と英国(Great Britain)であった。この2ヶ国は18世紀初めからそれぞれの東インド会社の在外商館が既に置いていた通商実績に続いて、1825年までに領事館を設置した。少し遅れて暫定的にオランダもこの特権を得て、巡礼の時期にジッダに数千人規模で溢れるオランダ東インド領(the Dutch East Indies)の回教徒住民を保護し、援助する為に毎年、領事官を派遣していた。1910年までには次のような各国の領事代表部がジッダに置かれていた。

 

英国総領事と副領事(副領事は通常、回教徒のインド人であった。)

フランス領事

オランダ領事

オーストリアーハンガリー副領事(the Austro-Hungarian vice-consul)

ベルギー領事兼ケディーヴ海運会社代理人

(the Compagnie de Navigation Khediveh)

イタリア副領事

ペルシャ総領事

露西亜総領事兼露西亜汽船会社臨時代理人

(the Russian Steamship company)

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8.2 ジッダでの外交員生活

 

カゼム ザデー(Kazem H. Zadeh)と云うペルシャ人が1910 - 1911年に巡礼を行い、この時代のジッダでの外交員生活に関する幾つか興味深い洞察を提供している。

 

全ての領事館(consulates)はシリア居住区(the Shami (Syrian) quarter)に置かれていた。これら家屋敷の賃貸料は1,000から2,000フランであった。英国総領事館はその本拠としてもっとも高い賃貸料120ステアリング ポンドを支払い、全ての領事館の中で一番大きかった。領事達は一般的にジッダで一年の半分を過ごしていた。巡礼達の発った後、強烈な熱さが近づくと領事達は夏を過ごす為にそれぞれの母国に帰国した。娯楽や散策の場所は無かったので、領事達は互いに訪問し合いながら余暇を一緒に過ごした。現地人館員が時々、トルコ式ピクニックに誘い、それがもっとも楽しめる娯楽であった。

 

オスマン帝国(Ottoman Empire)と居住特権等の政府間協定(capitulation)を締結した国々ではヨーロッパと非常に異なる領事団(the Consular Corp.)の為の接見儀式があった。ジッダでは他のトルコの市には見られない特殊性を領事団は明らかにした。

 

新任の領事や領事代理人が到着する時に、副領事や代理大使(Chargé d'Affaires)は到着時に全ての領事団にそれを通知する。この通知は手紙では無く、回覧で行われ、各々の領事は署名捺印した後、それを戻した。

 

仲間の到着をこの様な方法で通知されると各々の領事は2人のカワス(Kawas)を歓迎の為に港に送る。カワス達はこの様な場合には土地の住人の様に特別な縞の入った膝までの衣服を纏い、ベルトで締めた。カワス達の手の中には長い警棒(baton)が握られていた。特別な手紙で通知された地方政府もその官吏、通常は警部補(Police Inspector)を新しい赴任者の歓迎の為に送った。

 

この随行団(retinue)全ては埠頭の床に展開し、新しい領事が上陸した時には特殊なやり方で歓迎され、領事館まで付き添わられる。カワス達はその中の年長者によって導かれ、その他の者はその追従する。その後、領事の部下や友人が側面に立ち領事館まで行進する。行列(cortège)が領事館に着く否や、カワス達は領事に再び挨拶して、退出する。新任の領事がカワス達11人に最低1/4トルコ ポウンド(51/2フラン)の心付けを与えるのが普通であった。

 

これらのカワス達全てや領事館の要員および警備員(watchman)は領事館を代表するこの地方の住民或いは領事が代表する国の国民であり、共に回教徒であった。同じ様な儀式がカワスが永久に(for good)ジェダを離れる時にも見られた。この様な場合、領事館は一日中、自国の旗を掲げていた。(これは領事館の誰かが到着した時でさえも行われた。)

 

虚飾や環境を脇に置くと高貴なジッダ(Shariffian Jiddah)の生活は領事団の団員とその関係者に取って難しくは無かった様だ。居住施設は旧式で、市の娯楽(resouces)は非常に限られ、気候は不健康であり、飲み水でさえ、海水凝縮装置と雨水水槽(cistern)があるにもかかわらず、週毎の定期船でスエズ(Suez)から輸入していた。外国人に許される唯一の気晴らしは自由時間の殆どを互いの仲間の中で過ごしたり、入港しているヨーロッパ船の船長を訪ねたり、たまにメディナ門の外に海岸での乗馬やピクニックをする為に思い切って出掛けたりする事であった。

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8.3 英国領事リーダー バッラード卿(Sir Reader Bullard)

 

1923年から1925年まで自分の経歴の早い時期をジッダで過ごした英国領事リーダー バッラード卿(Sir Reader Bullard)はここでの自分の夜の生活を特に機知と愉快な経過を記述している。

 

まるで夏の夜は十分に耐えのが辛くは無いかの様にパリア犬(pariah dog)によって、そしてしばらくはフクロウによって悩まされた。フクロウ達はシッシッと云う音を2秒立て、2秒止める雑音を何時間も作り続ける。領事館は町の端に建っており、領事館と沙漠の間には町の城壁が立っているだけである。その沙漠ではフクロウ達は捕食するネズミ(rats)やトビネズミ(jerboas)を見つけ、食べ終わった後でフクロウ達は領事館の何処か突き出した角にとまって満足気にシッシッと音を立てる。

 

これへのイライラは散弾銃を借りてくる程の迫害であり、ほの暗い部屋から部屋へおびただしいサファリの後、もし幸運で有れば、空に輪郭を描いたフクロウを見つけ、止まっている所を撃った。フクロウの巣(lair)がバルコニーの穴で見つかった時には、34羽をこの方法で始末していた。その巣の中には1つがいと9羽の幼鳥がおり、小さいほど新しく孵化した幼鳥である。このフクロウ達を取り除いた後でさえ、1羽の特に不快なこの生き物に数晩も悩まされた。このフクロウは気まぐれで前のシッシッを止める前に新たなシッシッを作り出す事が出来、このフクロウの作り出す雑音はまるでトラファルガル広場(Trafalgar Square)の大きさがある砥石の上を広場から議事堂に至るホワイトホール通りの長さのナイフを研いで居る様に感じられた。しかしながら、このフクロウは自分から居なくなり、不快感は和らげられた。

 

8.4 国毎の外交関係樹立と公館の設置

 

ロシアは1926年にアブドゥルアジズ(Abdulaziz)をナジド(Najd)とヒジャーズ(Hejaz)の王として認めた最初の国々の1つであったが、その公館は1938年に融和しがたいイデオロギーの違いの為に閉鎖された。(1938年はメッカにしばらく公館が移された後であった。)

 

英国(Great Britain)1915年のクウェート条約(the Kuwait treaty)の全ての条項を放棄した1927年に完全な外交関係をこの新しい王国との間に樹立し、アブドゥルアジズ国王(King Abdulaziz)の外交関係における完全な独立を承認した。

 

米国は193151日に初めてサウジアラビア王国を承認したが、代理大使を長とする米国外交代表部をジッダに開館したのはその11年後であった。この米国使節団が大使館級に昇格したのは1949年であった。

 

1953年までにジッダにはエジプト(Egypt)、フランス(France)、英国(Great Britain)、イラク(Iraq)、シリア(Syria)および米国(the United States)の大使館があった。その内、イラク(Iraq)とシリア(Syria)は担当大使がカイロ(Cairo)に住んで居たので代理大使(Charge d'Affaires)が代表を務めていた。更にインドネシア(Indonesia)、イラン(Iran)、イタリー(Italy)、ヨルダン(Jordan)、レバノン(Lebanon)、パキスタン(Pakistan)およびトルコ(Turkey)7ヶ国が使節団によって代表されていた。アルゼンチン(Argentina)、ベルギー(Belgium)、エチオピア(Ethiopia)、インド(India)およびオランダ(the Netherlands)がジッダに領事館を維持していた。

 

1950年代の終わりまでには上記の使節団および領事館の幾つかは大使館に格上げされ、アフガニスタン(Afghanistan)、中国台湾(Taiwan)、スペイン(Spain)、スーダン(Sudan)、スイス(Switzerland)およびチュニジア(Tunisia)6ヶ国がサウジアラビアと外交関係を樹立した新しい国々であった。

 

それ以降、1970年代初頭までに外交関係を樹立した国は着実に増えて居り、外交の首都となったジッダは追加された以下の大使館および使節団を収容している。

 

アルジェリア(Algeria)、オーストラリア(Australia)、オーストリア(Austria)、バハレイン(Bahrain)、バングラディシュ(Bangladesh)、ブラジル(Brazil)、カメルーン(Cameroun)、カナダ(Canada)、チャド(Chad)、デンマーク(Denmark)、フィンランド(Finland)、ガボン(Gabon)、ガムビア(Gambia)、ドイツ(German)、ガーナ(Ghana)、ギリシャ(Greece)、ギニア(Guinea)、日本(Japan)、ケニア(Kenia)、韓国(Korea)、クウェート(Kuwait)、リビア(Libya)、マレーシア(Malaysia)、マリ(Mali)、モーリタニア(Mauritania)、メキシコ(Mexico)、モロッコ(Morocco)、ニジェール(Niger)、ナイジェリア(Nigeria)、ノルウェー(Norway)、オマーン(Oman)、パキスタン(Pakistan)、フィリピン(Philippine)、カタール(Qatar)、セネガル(Senegal)、ソマリア(Somalia)、スウェーデン(Sweden)、タイ(Thailand)、ウガンダ(Uganda)、アラブ首長国連邦(United Arab Emirates)、ウルグアイ(Uruguay)、ベネズエラ(Venezuela)、イエメン(Yemen)

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8.5 外交公館のメディナ道路への偏在

 

もっとも大きなのは英国と米国の大使館であり、両方ともメディナ道路と海岸の間の通路の様な郊外で市の北部に位置している。その他の大使館は市の一面に散らばっているが、メディナ道路には大きく偏在している。

 

サウジ政府の大使クラスの外交連絡は外務省を通じて行われる。外務省は歴史的に外交使節団はジッダに基地を置いてきて居るので、その本省は首都リヤドでは無くジッダにある。

 

外務省は近代的アラブ様式正面を持つ美しいビルに入っている。良く計画された庭からはマンカバ潟湖(the Manqabah lagoon) と見晴らしの良い広場(the Corniche Square)を眺められる。

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9 給水(Water Supply)

 

9.1 水の危機的な不足と地下水槽(cisterns)

 

・・・・・ジッダ、乏しい給水   甘く、透明な泉の水で

 

叙情詩ウス ルジーアダス(Lusiadus) の一節

 

韻文(verse)や散文(prose)の中でジッダ(Jiddah)について述べた文章ではこの市の水が危機的に不足している事を必ず触れている。実際問題として、この市の城壁の中では幾つかの塩水の井戸と多くの地下水槽(cisterns)が暑くそして一年中渇いた市の貴重な要素である水の唯一の供給源であった。

 

「最初の地下水槽(cisterns)は故郷を棄てたペルシャ商人達によって掘られた」と言い伝えられている。少なくとも、これは手に入れられる中では一番古い歴史的出典で示されている。市内の屋根に降った雨水を集めた幾つかの地下水槽(cisterns)とは別に、多くの地下水槽(cisterns)が市の城壁の直ぐ外にあり、かなりの距離の場所には珊瑚石灰岩の中をミツバチの巣箱状に掘ったものがある。地下水槽(cisterns)は石灰で塗られ、覆われている。全ての注意がたまに起きる雷雨の一粒一粒を如何に集めるかに向けられている。すべての地下水槽(cisterns)には持ち主が居て、地下水槽を清掃したり、保全したりしていた。持ち主は地下水槽の鍵を持っていた。水は驢馬車や駱駝でジッダに運ばれ、水を買える財力のある住人に売られていた。

 

存在した最後の地下水槽(cisterns)の型は1938年にジッダを訪問していたナリノ(C.A. Nallino)が観察して「地下水槽(cisterns)は余り熟練した石造りの構造では無い。壇になった屋根には大きさによって低い壁の縁のある1ヶ所以上の四角い開口部がある。地下水槽の底の部分には底より低い空洞(cavity)への穴が開いており、最初の降雨で地下水槽は清掃され、汚くなった水は底より低い空洞へ排出される。それからこの穴は塞がれ、雨水はその上の槽に貯えられる。小さな蓋の無い水路で幾つかのグループの地下水槽をお互いにつながっている」と記述している。

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9.2 ワジリヤ泉(Ain al-Waziriyah)と呼ばれる公共の泉

 

公共用の水の一部は19世紀の末にトルコ人達が11km内陸のワジリヤ泉(Ain al-Waziriyah)2つの井戸から導管を通してこの市に運んでいた。導管は最初の3分の1はトンネルで、残りの部分は5インチの素焼き粘土のパイプ(terracitta pipe)であった。後に使われなくなったが、1934年に復旧された。放水口もワジリヤ泉(Ain al-Waziriyah)と呼ばれる公共の泉であった。しかし、2つの大戦の間の飲料水の主要な水源は近代的な塩水脱塩プラントの前身の2つの大きな凝縮器であり、現在の市庁舎の南の海岸にあった。今でも棄てられた錆び付いた部品がこの地域で見られる。

 

9.3 オスマントルコ帝国政府が据え付けた凝縮器

 

最初の凝縮器は世紀の変わり目にオスマントルコ帝国政府(the Ottoman administration)によって建てられた。後に2つの新しい装置がサウジ政府によってスコットランド(Scotland)から購入され、オスマントルコ帝国政府が据え付けた凝縮器と交換された。双子の機械が作る蒸留水の日産量は150トンから200トンで、政府によりその生産費より少し高値で売られ、驢馬車で町中に配られた。しかしながら、すべての伝統的水源と目新しい水源は明らかに発展する市の水需要にとっては単に一時凌ぎに過ぎず、新たな根本的な方法が考えられなければ成らなかった。

 

(注)アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「クッバト アシャラ(Kubbat Asharah)の脱塩装置群」をリナルディ(E. Rinaldi)が古い写真から驢馬の給水車群等、操業状況も含め、生き生きと描いた絵で説明しているが、ここではWEBから入手した写真を掲載した。

 

近代的な海水脱塩プラントの先駆けであるクッバト アシャラ(Kubbat Asharah)のトルコ製の海水凝縮装置は数十年間にわたり穏当な量の飲料水をジッダに供給していた。これらの凝縮器は涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)からの給水がこの市に届いた1940年代後半まで操業され、成功裏に撤去された。この海水凝縮装置は昔の英国大使館で現在の市庁舎のある場所の直ぐ南の海岸に建っていた。

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9.4 涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)の水源としての利用

 

涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)の渓谷はジッダの東北東70km余りの距離にあるジュムム(Jumum) およびアブ アルワ(Abu Arwa)辺りにもっとも肥沃な区域を持っている。涸れ谷の河床の砂利の堆積では地下水が豊富で、この水は泉から渓谷にある広大な果樹園を灌漑する為に導かれている。導水路は地下に埋設された暗渠で構成され、暗渠は水を使う場所で地表に流れ出している。次の研究は1942年に行われ、ジッダ市に水を供給する為に涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)の水源を利用する事が決められ、15インチのアスベストセメントの圧力送水管とその付帯工事が建設された。この近代的システムは19471118日に大きな祝賀会が催され、操業が開始された。祝賀会が催されたのはこの送水管の終点であり、現在の戴冠広場にあたるこの市の北門の外の泉であった。これは又、古くなった凝縮器を廃棄させ、これらの先駆的機械を最終的に取り除かせた。

 

9.5 アジジヤ泉行政局(Ain Aziziyah administration)

 

現在ではジッダへの給水は完全に故アブドゥルアジズ国王(Abdulaziz)が寄付した宗教的信託基金(waqf)で設立されたアジジヤ泉行政局(Ain Aziziyah administration)の責任である。この市の主要な水資源は涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)に加えて、ジッダの北約70km余りに涸れ谷カライス(Wadi Khalais)とクッバト アシャラ(Kubbat Asharah)の脱塩装置である。

 

1971年にこの市に供給された水の量は合わせて2,000m3と推定される。全体で85,600 m3の貯水量を持つ、多くのサービス貯水槽が巡礼月(Haj)等の消費のピークや抽出の故障等の場合に供給量を維持していた。涸れ谷(Wadi Khalais)パイプラインの水の方が涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)パイプラインの水よりもかなり水質が高かった。脱塩プラントで生産される著しく純粋な水が涸れ谷カライス(Wadi Khalais)パイプラインの水に混ぜられ、家庭用としてより受け入れやすい水質が作り出されていた。ジッダはもはや「渇きの市」として今に至るまで水の確保が重要課題と成っている。

 

(注)これまで繰り返し造水装置の増強が図れて来ており、直近では2008121日にサウジ水電力省がジェッダの海水淡水化プラント(日産24万トン)をHydro Technology Doosan Heavy Industries & Construction およびWETICO3社コンソーシアムと契約した。

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10 教育(Education)

 

10.1 アラビア半島で最初の学校 マドラサ ファラ(the Madrasat al-Falah)

 

ジッダでは1909年にアラビア半島で最初の学校の1つを開設された。これがマドラサ ファラ(the Madrasat al-Falah)であり、ジッダの指導的な家族の物惜しみしない寄贈で整備され、それ以来、上手く運営されて来ている。マドラサ ファラは「成功の学校(School of Success)」の意味で、緑の木製ドームの聳えるアジアホテル(the Asia Hotel)の近くにあり、かよわい、優雅な建築である。同じ様な学校がメッカ(Mecca)、バハレイン(Bahrain)およびボンベイ(Bombay)に作られた。

 

10.2 政府によって整えられた完全一貫教育

 

ジッダの教育施設は全くサウジ政府によって決められたひな形と政策に従っていた。授業料は初等教育から総合大学までこの国の住民全てに対して無料であった。

 

今日、完全一貫教育が政府によって整えられ、それは基本教育(小学校、中学校および高等学校)、師範学校(Teacher Training Colleges)、専門学校(Specialist Education)および総合大学(University Education)で構成される。(但し、高等学校までは男女とも私的選択がある。)

 

下記の表にこの市で整備された教育施設の概要が示されている。

 

ジッダの教育機関(1970年)

教育機関名

女(公立)

女(私立)

男子

幼稚園(Nursery)

 

10

 

小学校(Primary)

34

13

31

中学校(Intermediate)

 4

 7

11

(Private Day)

 

 

 9

高等学校(Secondary)

 1

 2

 5

師範学校(Teacher's Training College)

 1

 

 1

家庭学校(Domestic Sciences)

 1

 

 

専門学校(Special Education)

 

 

 2

私立タイプ学校(Private Institutes for Typing)

 

 

若干

工業学校

 

 

 2

成人教育(Adult Literacy)

 

 

31

総合大学(King Abdulaziz University)

 1

 

 1

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10.3 最高教育機関としてアブドゥルアジズ大学(King Abdulaziz University)

 

最高教育機関としてアブドゥルアジズ大学(King Abdulaziz University)が特別な意味を持っていた。

 

19649月にサウジアラビア西部での総合大学設立の公共的要請に応えて、計画を綿密に立案する為の25人委員会が組織された。

 

当時は皇太子であった故ファイサル国王(the late King Faysal)の承認を得て、様々な技術的、財務的、管理的な問題を検討する分科会を持つ執行委員会が作られた。豊富な民間の寄付と当時財務大臣(Minister of Finance)であった故シェイク アブダラ スライマン(Sheikh Abdullah Sulayman)によるメッカ道路(the Mecca Road)の市北方郊外の土地1.5平方キロ寄進を受けて、この計画は始められた。

 

僅か3年後の1967107日に西部州で緊急に必要とされていた単科大学であった経済・商務学部(the Faculty of Economics and Business)が最初の学生を受け入れた。

 

故ファイサル国王(the King Faysal)

 

開校の祝辞でヒジャーズ(Hejaz)総督時代の若き日の故ファイサル国王は公民の間の協力での指導力に言及し、「この総合大学の建設は長い間、科学と教育を大切に思う貴方達の何人もが抱いてきたアイディアであった。貴方達は世界中に我々の国が自分達のアイディアを単に語るだけでは無く、実現させる人達が居る事を証明したいと望んでいた。我々の国では政府が出来る以外には何も実現しないと云うのが一般的な考え方である。この総合大学はこの考え方が如何に間違っていたかを証明するに十分であり、我々の国には自分達で決心した事をやり遂げる事の出来る人々が入るのも示した」と述べた。

 

アブドゥルアジズ大学(King Abdulaziz University)は図書館、実験室、体育設備や入学者数が充実してきており、現在、7,000名の男子と3,000名の女子をそれぞれ別々施設に収容できる合計10,000名分の学生数規模に増員する目的での総合計画を準備している最中である。この総合計画では次の様な単科大学や学部が学士水準(B.A. Degree)まで整備される。

 

経済・商務学部(Faculty of Economics and Business Administration)

芸術学部(Faculty of Arts)

女子教育大学(College of Education for Girls)

理学部(Faculty of Science)

農学部(Faculty of Agriculture)

薬学部(Faculty of Pharmacy)

工学部(Faculty of Engineering and Architecture)

医学部(Faculty of Medicine)

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11 医療(Medical Service)

 

11.1 何処ででも無料で受けられる入院加療

 

医療と入院加療は教育同様にサウジアラビアの何処ででも無料で受けられる。ジッダは5つの私立病院を含み、それぞれ異なる医療サービスを行う10の病院がある。

 

市の古い南門近くにあるので、時にはバブ シャリフ病院(Bab ash-Sharif Hospital)と呼ばれる国立中央病院は地域治療に当たり、特別病院は市全体に対する医療サービスや病床を提供しそれを補っている。加えて、一般的な治療、救急看護および患者が政府病院へ移れるまでの間の暫定病床の提供を整えた10ヶ所の医務室や診療所がある。患者の輸送、救急車および応急手当ては赤色月社(the Red Crescent Society)が担当する。赤色月社は1962年に国際赤十字・赤色月社をモデルに組織された。

 

11.2 適正な援助を提供する利用可能な施設の拡張と改造

 

現在の計画ではこの生死にかかわる重要な分野でジッダの住民へのより良く、より適正な援助を提供する利用可能な施設の拡張と改造を求めている。

 

主として巡礼達の為に用意されているのは大きな隔離病院であり、この病院は1956年に古い検疫所と置き換えに市の7km余り南に建てられた。古い検疫所(the old Qaurantine installations)は港の南の内海の錨地の中にあるアブ サアド島(Abu Saad island)とワシタ島(al-Wasitah)にあった。この大きな隔離病院は自立した150病棟で構成され、金網のフェンスで囲まれ、3,400病床が使用可能であった。全ての巡礼達希望者は巡礼ビザ(Hajj visa)が発行される前での有効な健康証明書の取得が要求されたが、もし、何らかの理由でその書類がジッダ到着時に規則に従って居ない場合、または巡礼達の間に病気の徴候が見られた場合にはこれらの巡礼達は医学的に問題の無い事が証明されるまでこの隔離病院に収容された。この手順が効果的に疫病(epidemics)の発生を抑えていた。多くの巡礼達が天然痘(smallpox)やコレラ(cholera)等の病気がいまだに蔓延している発展途上国から来ると誰かが考えた場合に大きな成果を挙げた。

 

巡礼達の健康管理のすばらしい成功にジッダでのこの特別医療サービスの効率と徹底が大きく貢献した。

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12 (The Port)

 

12.1 ジッダが発展した場所

 

歴史的にジッダ(Jiddah)は港として機能で現在のように成って来た。ジッダはアラビア海岸を訪れる商船にメッカ(Mecca)から便利な距離での訪問者、食糧や商品を陸揚げする場を提供していた。

 

ジッダが発展した場所は湾の北部で陸から突き出した低い砂州に位置していた。この湾の幅は殆ど20kmも無く、湾の北の入り口であるジャハッズ岬(Ras al-Jahhaz)からアスワド岬(Ras al-Aswad)まで南北に延び、海に向かって3つのほぼ平行な列を成す暗礁群で閉じられていた。この暗礁群は狭く、ねじ曲がった水路でのみ途切れており、入港する船が町の南北数kmに広がる良好な投錨地を作る安全な水域に着く為にはこの水路を上手く通り抜けなければ成らなかった。ここではどの様な方向からどの様な強さの風が吹こうと水域は比較的穏やかであった。

 

(ここをクリックすると図が拡大します。)

(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)

 

岸に向かって航行するには遅すぎる時間に着いた船が使用する第1投錨地は海岸から3番目の一番外側の列上の暗礁群の陸側であった。それから西側には多くの他の大きな浅瀬、浅堆および暗礁があった。これは外投錨地(Oute anchrage)として知られていた。この投錨地の水深は11mから35mであった。

 

内投錨地(Inner anchorage)は海岸から最初の沖の障壁の更に東にあった。幾つかの既存の水路の内でジッダ港に入るのに一般的に使われる水路がハリク(al-Hariq)と呼ばれていた。

 

波止場への水路を少しずつ動く船は一番外側の障壁を通過するにはUターンをしなければ成らなかった。中間の水路を通り抜けるには強い潮流と戦いながら注意深くオールで水をかかなければならず、第2列目の暗礁の隙間を抜けるには狭いS字ターンの回転をしなければならず、そこでは船体は角から10mも離れて居なかった。そして最後に旋回して指定された埠頭に到着する。

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12.2 古い検疫埠頭(Old Quarantine Pier)

 

内投錨地に北部から1つの水路(a boat passage)が東へと古い検疫埠頭へと導いている。(検疫埠頭はアブドゥルアジズ王広場(King Abdulaziz Square)の西側にあった封印されたアーケイドを持つ建物で、1973年の終わりに解体された。)この水路は暗礁の間にあり、低潮位の時期には座礁を防ぐのが難しいほど浅かった。

 

船客が検疫埠頭に上陸する口径の1950年の写真で左側に見える目立った建物がバガダディの家(Beit al-Baghdadi)である。

 

水路(the ship's passage)は両側の暗礁の目立った場所に置かれ、塔頂の印を付けられた3mから5mの高さの航路標識(beacons)でハッキリと示されている。

 

現在では小さな漁船が使っているに過ぎないが、昔は内投錨地に停泊する船からの船荷と船客全てを運搬する帆のあるはしけでこの水路はいつも賑わっていた。ジッダは来港する船をいつでも援助できる様に積載量約12 tの数百隻のダウ船(dhow)の現地船団を維持していた。遠い回教世界の海岸からやって来た数万人の巡礼達が船で到着し、陸と船の間を往復するダウ船に乗って、検疫埠頭に上陸する時のジッダ港のもっとも熱狂した様子を思い描いてみるのは難しくは無い。

 

前のスケッチの様な記述から難しい港としてのジッダの世評は受け入れなければ成らないのは明らかである。半ダースもの大きな船の難破した残骸が暗礁の上に散らばっており、これらの船の入港が容易ではなかった事を思い出させる。

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12.3 突き出した突堤埠頭と埋め立て地

 

1948年にサウジ政府はジッダが提供できる基本的施設を改善する緊急な必要性を認識した。1949年から1951年の間に一つの埠頭(pier)が建設される一方、補助的な施設はその後の年に作られた。この埠頭(pier)は突き出した突堤で構成されていた。突堤の幅は30mで長さは170mあり、海岸との長い接続は8m道路を含む全長392mの架台(trestle)の上に載った出入りのための土手道(causeway)である。埠頭(pier)全長562m (392m+170m)の半分は東南東へ向いており、残り半分は東へと走り、この町の南端に向かった暗礁の上に作られた埋め立て地とを結んでいる。もう1つの土手道(causeway)がこの埋め立て地と本土を結んでいる。

 

埠頭の突端(pierhead)10m喫水の中型船2隻分の接岸場所を与えた。能力50tのデリッククレーン(derrick crane)が重たい船荷を吊り上げる為に埠頭の西端に位置している。埋め立て地の西側には小さな波止場(marginal wharf)がある。この波止場は158mの長さで、6mの水深があり、小さな舟や家畜運搬船を横付けするのに使われていた。加えて、長さ360mで水深2.5mの艀用波止場(barge wharf)があり、艀(barges)で運ばれる貨物の陸揚げに使われていた。屋根の無い(野天の)貯蔵波止場(storage warf)11棟の屋根付きの貯蔵所(covered warehouses)、通過貨物小屋(transit sheds)、税関、造船台(shipways)および管理棟等必要な施設が完成した。

 

適正な年間取り扱い貨物量は埠頭(pier)27.5万トン、小さな波止場(marginal wharf)11.3万トンそして艀用波止場(barge wharf)21.2万トンであり、全体の年間貨物取り扱い量は60万トンであった。

 

1966年には既にこの港の年間貨物取扱量は103万トンを記録しており、その拡大した貨物扱い量が来港する運送量に対して不十分であるのを明らかに示していた。貨物運送(freight)の混雑は毎日の問題(the order of the day)となり、船会社は輸入船賃に45%の課徴金を上乗せし、何社かは長期間の滞船が不経済な為に定期航路からジッダ港を外す事を検討し始めてさえいた。

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12.4 ジッダ港主要開発計画(196710月開始)

 

この様にして、ジッダ港を増大するこの国の必要性に合わせる主要開発計画が決定された。調査事項(the terms of reference)では50年毎の幾つかの開発段階を設けるべきであると規定された。全体計画は手順に従って提出され、慎重に検討された後、政府の承認を得た。政府はそれから細部計画を詳しく立て始めた。最初の10年段階での作業が196710月に始められ、予定通りに完了した。

 

1952年に「イヴの墓」方面から撮影したジッダの航空写真

(注)イブの墓の左上の四角い区画がムサッラ(the Musalla)で、右上の交差点が戴冠広場(the Coronation Square)であり、その右下が外務省のジェッダ時代の本省であり、中央上部の海岸線中央左寄りに突き出した突堤埠頭が遠く眺められる。

 

197321日に、後にこの港の名前と成った故ファイサル国王(the Late King Faysal)が公式に港施設の拡張・改善を竣工した。次に述べるのがこの実施された計画の構成の概要である。

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12.4.1 九つの接岸バース(berth)

 

最新型船舶の大型化に合わせ、この港には9つの接岸バース(berth)が設けられ、その内に2つは長さ200mで、残りはそれぞれ180mである。どの様な将来の必要性にも答えられる様に、この計画は16基以上の接岸バースが増設出来る様に考慮した。接岸バースの前面の水域は浚渫され、10m喫水で、長さ200mの船まで接岸できる様に成った。

 

12.4.2 通過貨物小屋(transit sheds)

 

各々の接岸バース(berth)の後には船から降ろされた貨物を貯蔵する通過貨物小屋(transit sheds)があった。通関手続きの為に数日間は輸入業者がここに貨物を置いておくのを許されていた。それから貨物は長期間用の貯蔵倉庫(warehouse)に移された。これを実践する事で通過貨物小屋(transit sheds)空けて置くことが出来、それが貨物船の遅れを除去する助けとなった。

 

12.4.3 起重機、艀、曳き船等

 

最新式の国際港に適合する電動の固定式や移動式起重機類も整備された。この港には全体で8,000トン27隻の艀(barge)2隻の喫水の深い曳き船が揃えられていた。

 

艀使用による運送(lighterage)はまだ使用できたが、必要によっての最盛期の運送および1ヶ所から他に貨物を配送するのに限られていた。

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12.4.4 巡礼専用のホール

 

この新しい港の顕著な特徴は巡礼専用のホールであった。埠頭(quay)の最前部(the fore end)に建てられ、この港に入港する船舶の眺める最初の大建造物であった。この2階建てのホールはイスラム様式の意匠を採用されていた。到着した船から入国審査や検疫等のおきまりの手続きを扱う上階に直接入れる様に設備されていた。荷物の税関検査や通関手続きは地上階で行われた。このホール近くには巡礼達を町まで運ぶ車両の駐車場も備えられていた。

 

12.4.5 港管理局等の建物

 

港管理局(the Port Administration authorities)は近代的な6階建ての建物で港に出入りする幹線道路に面していた。連結された2階建ての建物が税関であった。その他には水先案内人、沿岸警備隊、入国管理者、消防、警察および検疫(health authorities)の為の建物があった。既存の港および税関の建物はその他の役務や旅行業者を収容する為に改造された。

 

12.4.6 その他の港湾施設

 

さらに、この港には次の施設が整備されていた。

 

港湾用船舶(sea craft)を修理・保全し、来港船の簡単な修理をする為の造船所、

その上に置かれた信号塔は港湾管理当局が来港船舶、サウジ水先案内人のランチや喫水の深い曳船(the deepwater tug)と交信する海上無線所、

全ての必要な電子機器を揃えた気象台、

十分な緊急医療設備を揃えた小さな病院で構成される隔離区、

消防車両や訓練設備の敷地を持つ消防士用の建物、

積み込み・積み降ろし設備の修理工場と倉庫、

3.75m2の家畜検疫区(ジッダ港は年間100万頭近くの家畜を輸入している。)、

十分な給配電網を持つ自家発電所(an autonomous source of power)

水道給水網を備えた高架水槽(この水道は埠頭に停泊している来港船に給水する為の延長部も備えている。)、

プレキャスト コンクリート製の防護フェンス、鉄筋コンクリートで舗装された埠頭エプロン(この舗装はた通過貨物小屋(transit sheds)の間にも施工されている。)、

主要2車線道路、

ロータリー(roundabout)

片道通行道路および全舗装の駐車場等。

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12.4.7 ジッダ市の間の土手道(the causeway)の拡張

 

この港とジッダ市の間の土手道(the causeway)は広げられ、二車線を分ける分離帯(lightend islands)を設けて舗装がやり直された。

 

12.4.8 来航船隻、旅客、貨物、家畜の取扱量と輸出入センターとしての役割

 

交通省(the Ministry of Communication)によって現在は管轄されているこの港は年間1,200隻から1,300隻の来港船を受け入れ、最高200万トンの貨物、14万人の巡礼達を含む15万人の船客および150万頭の家畜を取り扱っている。

 

新しい柔軟性のある港湾施設を与えられたジッダは今では十分に近代的な方法で海路で訪れる巡礼達のメッカ(Mecca)への歴史的出入り口(gateway)およびサウジアラビアの多くの地方に対する輸出入センターの役割を果たしている。

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13 空港(The Airport)

 

13.1 旧空港

 

ジッダ国際空港は現在は町の中心から3km東に位置しており、空港道路と呼ばれる外環状道路に隣接している。この外環状道路はメッカ道路(Mecca Road)とメディナ道路(Medina Road)を結び、2つの聖なる都市とジッダの通行には重要な幹線道路(rout)である。空港の海抜は11mであり、主滑走路は長さ3,000mで幅45mである。

 

1970年には14.5万人の巡礼達を含む60万人の国際線の旅客と20万人以上の国内線の旅客がこの施設を利用した。

 

13.2 現在の空港

 

1956年以来、統合的計画への恩恵も無く、更なる拡張への配慮も無く、段階的に改造された現在の設備の不十分さは随分昔から認識されていたが、完全に新しい国際空港の意匠と仕様への最終的決定が行われる前には数年間の検討を要した。予備的な調査を全て終え、この空港を現代的な設計図(lines)に沿ってこの市の北18kmから26kmのメディナ道路を跨いだ敷地で建設が始まった。

 

建築図は一連の繋げられた皿状の屋根部に特徴があり、その設計図は支柱に反映されていた。巡礼ターミナル、国際線ターミナルおよび国内線ターミナル等の建物は2階建てであったが、これらは低く、自由に地上に広がっている。それぞれのターミナルは中心に泉を持つ、巨大な芝生の中庭の1辺を成していた。2つの車用傾斜路(car ramp)がそれぞれ建物に導き、そして中庭のもう2方向の辺を成している。4番目の辺にはモスクと日除けのある場所であった。ターミナルの地上階には税関と航空会社事務所があり、上部階には食堂と待合室があった。駐機エプロンがターミナルを分けている。ここには待機航空機60機分のスペースがある。

 

 

巡礼ターミナルでは1時間に2,000人の乗客或いは280機分の取り扱いが出来、16,703m2の空調された地区である。この地区の外にもう1つの15,083m2の地区があり、それ自体が中庭、噴水およびモスクを含む6,355m2景観に囲まれていた。国際用および国内用ターミナルは内部が空調された17,851 m2の空間を持ち、その外側に18,368 m2の周囲環境があり、それの外側に29,920 m2の景観が広がる。一番のピーク時にはこのターミナルは1時間当たり60機を取り扱う事が出来る。

 

しかしながら、飛行場全体で航空機の更なる発展にも対応出来る様に設計されている。2000年までにはこの同じターミナルで同じ時間内で2倍の航空機を取り扱えられ、そして航空機全ての未来が想像でき、エアーバスや超音速機(supersonic airlines)等がここに着陸できる予定であった。2本の3,300mの滑走路が互い違いに配列され、2つのターミナルで分かられている。滑走路の1つは自動着陸システムに適応して居り、それに加えて、もう1つの航空貨物ターミナルがあった。

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14 ジッダ市役所とこの市の将来(Jiddah Municipality and the Future of the City)

 

14.1 オスマン帝国政権時代継承していた古い市政

 

ジッダ市役所機関はヒジャーズ(Hejaz)のオスマン帝国政権(the Ottoman administration)の時代に遡る古いものである。帝国の州(ヴィラーイェト)(the vilayets or the provinces)に関する1864年および1871年のトルコの法律はその主要都市の間にライス バラディヤ(Rais al-Baladiyah)(知事(Mayor))に率いられる町のマジルス バラディヤ(Majlis al-Baladiyah)(諮問会議(Town Counsil))によって代表される地方政府機関としてのヒジャーズ州を設立した。1926年のヒジャーズのサウジ併合は(the 1926 Saudi Constitutionof the Hejaz)はこの州(the region)の既存の実践を取り入れた。しかしながら地方の事柄に関する事実上の市役所の権限は残されたが大分制限された。

 

14.2 内務省管轄の行政への組み込み

 

近年ではサウジアラビア中の市役所は内務省の管轄する行政に組み込まれ、警察、沿岸警備隊や都市計画(Town Planning)等の他に部門同様にその部局と成り、そして市の行政とその将来構想に非常に積極的な役割を獲得した。

 

ジッダ市役所は、英国大使館がジッダ市役所建設用地を除いて1971年に走路地区(Runways)の中の大きく新しいコンパウンドに移された時に、英国大使館が明け渡した現在の海岸地区を占有した。特別に意匠された市庁舎の為のジッダ市役所建設用地は外務省からメディナ道路の始点を横切った場所が充当された。

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14.3 建築家である知事に率いられた専門家グループ

 

市役所は計画、行政、財務、監査、保健、衛生、市場等幾つかの部局に分かれて居り、そして各々の部門に専門家を雇用している。これらの中で卓越しているのは自分自身が建築家である知事に率いられた若く、有能で、献身的な建築家のグループであり、彼等が内務省の都市行政部の一般的な政策の枠内でジッダの都市開発計画を管轄していると見なされていた。このグループが担当する前はジッダの発展は急速で広範囲であったが、厳密な全体計画や様々な段階での調整が行われて居なかったので自制が無く、ゆきあたりばったりであった。もはやそう云う事は無くなった。継承してきた問題のコンクリートの迷宮から逃れる工夫から離れてジッダの建築家達はこの市の秩序正しい巧みに立案された発展を期待した。建築家達はそうしなければ成らなかった。

 

14.4 劇的な人口増加に対応する為の都市開発計画

 

ジッダは感銘する程、発展しつつあり、前例の無い程の速度で発展し続けるだろう。1970年代初めの人口は全体で38.1万人であったが、この調子で増えれば1990年代の初めには少なくても80万人、多ければその倍にまで人口は増えると予想された。あきらかに、この市はその様な劇的な人口増加に備えなければならず、そしてその資源と能力の過剰な負担から生じるどの様な危機も避けられる様に前もって十分に計画しなければならない。

 

この市の拡張の為に用地は自然や人間の作った制限の為に完全には自由にならない。他方、その位置とその周囲は多くのさい先の良い機会を与えている。マイナス要素の緩和とプラス要素の開発は都市計画担当者達の最終的な成功如何である。

 

物理的な制限要素は西は海に、東は山麓に代表されている。海岸線の美しい景観を破壊する海側のかなり大きな埋め立てを制限したり、不毛で涸れ谷に削られた東側の山麓を受け入れられる開発への些細な意図への配慮をしたりすると、この市は北と南に優先的に拡張の余地があるのが明確になる。人為的な制限は「豪雨での洪水用の溝」と「空港」によって代表される。洪水用の溝は居住区を定期的に水浸しにする洪水からこの町を守るために設けられ、三方からジッダを囲んでいる。現在の空港の位置は今の所はもう一つの考慮すべき制限要素であるが、これはあきらかにこの10年の間にセメント工場より市に北に移転しなければならないだろう。現在の空港用地の使用が終わると1,770ヘクタールの土地が使え、これに洪水用の溝の内側で開発可能な土地4,420ヘクタールを考慮に入れ、平均60名の住人に対して1ヘクタールの土地が必要であるとすれば37.3万人の住人を追加して洪水用の溝の内側に収容できる。この人数を現在の人口38.1万人に加えると洪水用の溝の範囲を越えないで市内に収容できる人口は75.4万にとなり、1991年の人口予測の下限の80万人に近い数字である。しかしながら。ジッダの成長は予測した最低人口増加を上回ったので、この市が南と特に最高の環境が期待される北へ拡張できるように、洪水用の溝には幾つかの箇所で橋を架けなければならなかった。

 

市の直ぐ南は住宅地開発の範囲を或る程度は制限しなければならなかったけれども工業用地としての可能性が増大した。大きな面積の土地がラジオ・テレビ局、軍事施設、隔離病院、下水処理施設等の政府が使用する為に占有される事と相俟って、この様な風潮は一般的な住宅地として土地の望ましさを減ずる傾向があり、そして都市計画を阻害している。さらに南では新しい郊外地区は高度に自立している限りにおいては何も問題無かったが、この市がシャーム オブホール(Sharm Obhor)までとそれよりも北に拡張する無制限の可能性を考えると南への拡張は緊急でも無かったし、恐らく全く必要も無かった。

 

拡張への無制限な可能性を考えるとこの市はシャーム オブホール(Sharm Obhor)或いはそれ以上に北へと発展すべきであり、シャーム オブホール(Sharm Obhor)はとても重要な要素を代表していた。シャーム オブホール(Sharm Obhor)はジッダ(Jiddah)北方約40kmにある狭い入江で、紅海岸から北東に9km入り込んでおり、幅は200mから1,400mである。この岸辺はきっちりと広い海岸保養地、ホテルの付属施設、倶楽部、海岸別荘(villas)、小別荘(cottages)、海岸小屋(cabins)を収容し、ジッダ住民の多くが度々訪れに来る。この市の拡張を展望するとこの周囲には衛星拠点が最適に展開出来るのでこの自然の地形の利用価値は大きい。

 

   

 

 

腕ほどの深さで海岸に押し込まれる紅海の澄んだ、青い水が自然の景観と休養できる恵まれた環境での近代都市建設のすばらしい条件を作り出している。メディナ道路(the Medina Road)の西側のオブホール(Obhor)とジッダの間の海岸線は同じ様な地形でジッダ市の中心とオブホール地区(Obhor district)間の融合要素であり、ジッダが運命つけられている偉大な都市の形作りの初期機能として投資されている。

 

ジッダが今後20年間に発展の程度が予測に対して低いかろうと高かろうと市当局と都市計画評議会に取っては重大な関心事である。しかし、誰にとっても重要な関心事は近代化に大渦巻きの中にあるジッダがその建築的伝統と都市の枠組みを表現しつつ、その独自性を維持できるかどうかであった。

 

明らかにやむにやまれぬ経済的な要求と住人の満足いく状態の達成に直面しているこの古い市にとって、残された全ての保存を期待するのは現実的では無いだろう。しかし、もし、多くが連続の概念を後世に伝え、将来の世代に先祖達の生活に対して振り返らえる様にしておければ、それは称賛に値する妥協である。

 

加えて、そこには少なくとも建築学的な傑作と評価され、歴史的に普及した傾向がしみ込んだ建物を保護する為の文化的な規範が残っている。ファイサル国王のナシフ館(Nasif House)の保存の決定はこれを啓発となる模範であり、啓蒙する指標となった。

 

この市の何処ででも彼等の仲間の様に、保存と発展の時として対照的な急迫した事情の間の適正な均衡を突き当てる事はジッダの建築家達と都市計画担当者達が遭遇した大きなやりがいのある仕事(challenge)であった。これは又、世間と後代の人達が彼等の業績を評価する尺度でもあった。

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後書き

 

私が最初にジェッダを訪れたのは1969年であった。当時でもセントジョージ(Saint Jorge)フェニシア(Phenicia)等の五つ星のホテルがあり、カジノではレビューショウも興行されていたベイルートから空路直接、到着した。受け入れ先の駐在員には「この地は辺鄙である上に猛烈に蒸し暑く、日本人商社マンが駐在する場所としては世界中でも最悪の環境の町である」と紹介され、実際にベイルートとの余りの違いを実感した。次に訪れたのは駐在していたカフジ(Al Khafji)湾岸戦争で1991117日にイラク軍の砲撃を受け、鉱業所に残っていた50余名の日本人職員とダンマンから合流した若干の家族でクウェイトとのアラビア湾岸北部国境からの1,500km自ら運転してそのジェッダに避難し、そこから特別機でギリシャへ出国した時であった。そのジッダでは宿舎となったハイヤット リージェンシー ホテル(Hyatt Regency)やショッピング モールのジャムジュム等を初め、ジェッダの外面と内面を大きく変化させた革命的な近代化の結果を目の当たりに目にする事となり、強い感銘を受けた。その後、リヤドに駐在していた時にジャリール(Jarir Bookshop)と云う本屋でジッダの歴史的過去を詳しく見直し、このダイナミックな発展を見渡し、描写したアンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)著のッダ(或るアラビアの町の描写(Jiddah, Portrait of An Arabian City)を入手した。

 

この本は大判で分厚いばかりでは無く、文字も小さく紙面に余白が無い程、びっしりと文字が印刷されており、なかなか読む気になれなかった。しかしながら、「ジェッダを語るにはこの本を読まずには片手落ちになる」と思い20050823日から読み始めて、一時中断していたが、「遠い渓谷と遙かなる砂丘地帯(ナジラン)」の掲載を20070530日に終えた後、本格的に読み進めた。英語で書かれたこの文章はフランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、ドイツ語、トルコ語、アラビア語等多くの言語の文章も引用していたので辞書が手元に無い言語もあり、それでもなんとか解釈するまでに時間が掛かり、読み終えたのは20080403日になってしまった。

 

アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)がこの本で著述したのは蒐集した史料のうち一部だと思われるが、それでもその文書量は非常に多かった。その為か、限られた紙面に出来るだけ多くの情報を取り込もうとして索引も殆ど無く、添付資料も含め、余白を節約し過ぎて居た。私はこの貴重な情報は参照資料として有効に使うには抄訳して引用するのでは無く、むしろ資料も出来るだけ揃え、索引も付け、語彙集(Lexicon)も用意し、容易に検索できる様にすべきだろうと考え、これらの情報を「サウジアラビア紹介シリーズ」へ掲載する作業を開始した。これはアンジェロ ペセ博士が著名なサウジ人歴史家で、詩人で、教師であり、現在ジッダ新聞の編集者であるシェイク アンサリ氏(Abd  al Quddus al Ansari)が書き、1963年にジッダで最初に出版された「ジュッダーの町の歴史」(History of the city of Jiddah)をサウジアラビア人によって著作されたこのテーマに最も相応しい内容の本として引用していた事に通じる物がある様に思われる。アンジェロ ペセ博士が参考資料としてこの本に挿入している写真や図等が手元に無い場合にはWEBからイメージを取り込んだ。取り込み先は各イメージに添え書きで明記してあるので必要に応じて参照して戴きたい。

 

1-1 中継港ジェッダの紹介」ではジェッダやアンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)の引用・参照した参考文献の紹介にとどまらず、将来の鉄道網やジェッダ国際空港の拡張事業を含むジェッダの将来についても言及した。「1-2 古代の西アラビア」では調べてゆく内にイエメンやエチオピアや古代王国群についても紹介する事になった。「1-3 サラセン帝国から大航海時時代幕開け」では「喜望峰まわりのインド航路開拓」についても詳しく述べた。「1-4大航海時代とジェッダ」ではポルトガル人のアラブに対する残虐性には何か理由があるのでは無いかと疑問に思い、コルドバ(Córdoba)を首都とする後ウマイヤ朝(Emir of Córdoba)樹立から国土回復運動(レコンキスタ)(Reconquista)展開からの「ポルトガルについてその成り立ち」ついて言及し、その後の「大航海時代への飛躍」、「大航海時代に使われた帆船」や当時の「硬貨や貨幣単位や度量衡」についても掲載した。「1-5ヨーロッパ人による近代ジェッダの紹介」では個々の訪問者の参考となる記述を出来るだけ引用できる様に工夫した。本章の「1-6 近代のジェッダ」では旧防護壁に囲まれた旧市内と現在のジェッタ市の関係に留意して掲載した。この様にアンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)の記述に必ずしもとどまらず、ジェッダに関係する事項について出来るだけ調べ、掲載したのは東西交易の要所であったジェッダに関する史料・資料を広く、検索しやすい形でまとめたかったからである。

 

全体の作業の完了は2009年まで掛かると思っていた。満足できる内容では無いにせよ、何とか2008年末までに終わらせられ、ホッとしている。資料に使われている言語が多いので、音訳については特に色々問題もあると思う。お気づきの点等あれば、是非ともご指摘戴きたい。ジェッダの紹介の次はメッカ州のタイフ、メッカ或いはラビグの何れにするか現在検討中であるが、資料と整えるので書き出しまで少し時間が掛かると思う。

 

(注)「1-1 中継港ジェッダの紹介3. ジェッダの近代」の中で「オイルブームが現在も続いており、・・・・既に代替えエネルギー調達コストを超す高値と成っているので長期的にこれ以上の値上がりは期待できないものの、新興国の発展による資源不足を考えると値下がりする可能性も少ない」と述べたがその後も原油価格は上昇を続け、200ドル説も出る程で、711日には147.27ドルの最高値を付けた。その後、徐々に値下がり続け、特に9月の金融危機以降は暴落に近く、125日には40.81ドルと40ドルを割り込む程、急落している。アブドラ サウジ国王は「この水準は余りにも安すぎで、原油の適正価格を75ドルと査定する」と発表されている。代替エネルギーの生産コストを考えるとこの価格帯が私にも適正なのでは無いかと思われるが、原油市場に対する投機資金流入が排除出来ない限り、過剰な乱交高は今後も続くと思う。

 

参照資料

 

広辞苑

アンジェロ ペセ博士著「ジッダ(或るアラビアの町の描写)(Jiddah, Portrait of An Arabian City)」

Wikipedia(ウィキイペディア)http://en.wikipedia.org/wiki/Main_Page

その他

 

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