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ブルクハルトのアラビア・ヒジャーズ地方の旅 ( Travels in The Hedjaz of Arabia) |
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ブルクハルトのアラビア・ヒジャーズ地方の旅
「アラビア・ヒジャーズ地方の旅」 ヨハン ラドウィグ ブルクハルト(Johana Ludwig Burckhardt)著 1829年ロンドンで出版 (Travels in The Hedjaz of Arabia)
(注)ここに挿入した図や写真はヨハン ラドウィグ ブルクハルトの原文ともアンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)が引用した英訳とも関係なく、私(高橋)が参考の為にウェッブサイトや自分のファイルから挿入した。又、索引は原文には無いが、文章が長いので私(高橋)が書き加えた。
ジッダ(Djidda)に関する章
索引(Index) 1. ヒジャーズ到着時の好ましくない状況 1.1 受け入れ先の冷淡な対応 1.2 猛烈な発熱 1.3 忠実な奴隷の売却 1.4 最低限の生活の糧確保 1.5 太守のモハンメド アリへの要請 1.6 ヤハヤ エフェンディとの出会い 1.7 ヤハヤ エフェンディによる約束手形引き受けでの現金提供 1.8 太守からのタイフへの招待 2. ジッダとその住人対する幾つかの所見 2.1 アラビアで難攻不落の要塞としての名声 2.2 町への入り口 2.3 ジェッダ内部の異なった地区 2.4 町の作りと家屋の特徴 2.5 メッカの港としての機能と主な建物 2.6 地下貯水タンクの利用等の飲料水確保 2.7 臨時の住居との考えと井戸への警戒無視 2.8 掘っ建て小屋群とイヴの墓を含む主要埋葬地 2.9 ジェッダの人口 2.10 もっぱら外国人かその子孫である住人 2.11 ジッダの混血人種 3. ジッダの交易 3.1 船乗り、航海による貿易商人あるいはアラビアの通運業者である住人 3.2 現金取引での売買 3.3 コーヒー貿易 3.4 インド貿易 3.5 スエズがインド交易に直接参加しなかった理由 3.6 エジプト太守によるジッダ税関のスエズへの移動 3.7 商人達と太守との2度目の協定 3.8 シェリフ ガレブとインド交易 (Index-2) 3.9 ジッダに属する船 3.10 紅海の限られた港での船建造 3.11 太守による多くの船の拿捕 4. ジェッダ港での荷揚げと陸上交易 4.1 入出港管理 4.2 メディナへの隊商 4.3 メッカへの隊商 4.4 イエメンやモコワ方面への隊商 5. ジッダで一番大きな商業街にある異なった店 5.1 コーヒー店(coffee shop)(27軒) 5.2 バター売り(butter seller)(21軒) 5.3 野菜あるいは果物の露店(vegetable or fruit stand)(18軒) 5.4 デイツ売り(date seller)(8軒) 5.5 パンケーキ作り(pancake maker)(4軒) 5.6 豆売り(bean seller)(5軒) 5.7 菓子売り(seller of sweetmeats)(5軒) 5.8 ケバブの店(kebab shop)(2軒) 5.9 スープ売り(soup seller)(2軒) 5.10 魚の揚げ物売り(seller of fish fried)(1軒) 5.11 パン売り屋台(stand where bread is sold)(10、12軒) 5.12 ラバン売り(seller of leben)(2軒) 5.13 カンマレッディンの店(kammared'din, & C)(2軒) 5.14 大きな穀物商の店(large shop of corn-dealer)(11軒) 5.15 タバコ店(tobacco shop)(31軒) 5.16 薬屋(druggists)(18軒) 5.17インド産の小物を売る店(shop to sell Indian small articles)(11軒) 5.18 衣料品店(clothes shop)(11軒) 5.19 測り売りされる反物の大きな店(large shop of piece-goods)(6軒) 5.20 銅製容器売店(seller of copper vessels)(3軒) 5.21 理髪店(barber shop)(4軒) (Index-3)5.22 仕立屋(tailor)(4軒) 5.23 サンダル作り(maker of nâl or sandals)(5軒) 5.24 水を入れる皮袋の店(shop to sell water skins)(3軒) 5.25 ろくろ師(turner)(2軒) 5.26 香料の売店(seller of sweet oils or essence, civet, etc.)(3軒) 5.27 時計屋(watchmaker)(1軒) 5.28 煙管売り(seller of Turkish and Persian tobacco pipes)(1軒) 5.29 両替商 (seráfs) (money dealer)(7軒) 5.30 大きなオカレ(okales)(10軒) 5.31 芸術職人(artisans) 5.32 鍛冶屋(blacksmith) 5.33 銀細工師(silversmiths) 5.34 大工(carpenters) 5.35 屠殺屋(butchers) 6. 交易と駱駝放牧しか職業としないヒジャーズ住民 6.1 輸入頼りの必需品 6.2 肉体的な努力無しにに生活できる有利な取引に投資しようする努力 6.3 単純労働者やかつぎ人夫等の肉体労働者確保の難しさ 6.4 賤しい召使いとなるよりは助長された乞食生活 7. トルコの3人の末輩中の1人である州知事 7.1 ジッダは栄誉であるよりはむしろ追放された場所 7.2 名誉職としてだけのパシャリクの存在 7.3 シェリフによる関税の横領 7.4ヒジャーズからのトルコ権威失墜(1811年) 8. シェリフの政府の終焉 8.1ワッハーブ派への太守モハンメド アリの作戦開始 8.2 シェリフの官吏ビジィールに代わった守備隊司令官 8.3 ジッダの公共の歳入(十分の一税)の徴収 8.4 利を得ているにもかかわらずトルコ人に従わないアラビア人 8.5 トルコ人達を非常に劣った人々であるとして見る習慣 8.6 トルコ人達のアラビア人種に対する憎悪 8.7 流血の惨事の中で終わるだろうオスマン帝国のヒジャーズ支配 1. ヒジャーズ到着時の好ましくない状況 1.1 受け入れ先の冷淡な対応 私のヒジャーズ(Hedjaz)到着は余り好ましい状況下では無かった。1814年7月15日の朝にジッダ(Djidda)の町へ入ると直ぐに、私が信用状を持っている相手先の人物の家に行った。私が私の旅をアラビアまで延長するのをまだ決めて居なかった1813年1月に私がカイロを出発する時にはこの信用状は既に届いていた。この人物から私は非常に冷たい応対を受けた。この手紙は通知を受けるには日付が余りに古い上に、私のみすぼらしい外見は誰にでも「自分の口座から大金を私に支払う事に遠隔地の取引先をどの程度信用できるか?」注意深くさせると思われた。その上、請求書や信用状は東洋の商人の互いの取引の中でもしばしばいい加減な扱いを受けていた。そして私はこの様にきっぱりとした拒絶を経験した。しかしながら、その男の家での宿舎の提供の申し出はあった。もっと親しくなれば「私が山師(adventurer)でも詐欺師(impostor)でも無い事を納得させられるだろう」と考えて、私は最初の2日間この申し出を受諾した。しかし、この男が頑なであるのが分かっただけだった。 1.2 猛烈な発熱 私はこの町の数ある公共の隊商宿(Khans)に移った。私の持ち金は腕に巻いた魔除けに縫い込んだ2ドルと数ゼッキーノ(sequins)だけだった。私が到着して4日目に猛烈な熱に襲われたので、私は自分の境遇をふさぎ込んで振り返る時間はほとんど無かった。この熱は恐らく余りにも自由にジッダの市場で売っている見事な果物に満喫し過ぎた為だと思われる。この12ヶ月の間に続けてきた私の節制した食事から出た軽率な行為は、恐らく言い訳の立たなくは無いにせよ、間違いなく最悪の結果を招いた。私は数日間、半狂乱(delirious)であり、そして、ソウアキン(Souakin)からの私の旅仲間であるギリシャ人船長からの助けては貰えなかったら、体力(nature)を恐らく消費し尽くして居ただろう。ギリシャ人船長は私の意識がハッキリしていた間の一つに付き添ってくれ、私の頼みで床屋或いはこの国の医者を連れて来てくれた。不本意であったけれども彼等は私から夥しい(copiously)血を抜き出した。彼の主張する所によればショウガ(ginger)、ナツメグ(nutmeg)およびシナモン(cinnamon)で作った水薬(potion)が私の症状に合う唯一の薬であった。2週間の間に私は歩き回れる程には十分に快復したが、熱が引き起こす(occasioned)虚弱感(weakness)と倦怠感(languor)はこの町の環境の湿気の多い暑さ(damp heat)に負けない程には成らなかった。私の完全な回復はタイフ(Tayf)の気候温度のお陰であった。タイフはメッカの裏の山脈の中に位置しており、後に私はそこを訪れた。 1.3 忠実な奴隷の売却 ジッダ(Djidda)の市場は1ドル(a sigle dollar)で2、3週間分のドウラ(dhourra)やバターが購入できるニグロ市場(Nigro markets)とは殆ど似て無い。全ての物の値段がここでは並はずれて高騰している。アラビア半島内陸部からの移入は完全に止まっているのにヒジャーズの全人口は今やトルコ陸軍と多くのその多くの軍属のよって増えており、毎日やってくる巡礼達の宿の主人はその供給をエジプトからの輸入品に全く依存している。従って、私の病気が歩き回れる様になる程、完全に回復する前に、私の僅かな蓄えは費やされてしまった。ギリシャ人の船長は慈悲の常識の範囲では私の費用を負担してはくれたけれども自分の知り合いの男の名誉や尊厳を守るために完全に欠乏した金までは処理させられなかった。私は自分の毎日の費えを支払う為に十分な額を早急に必要としており、それを手に入れる為には自分の奴隷を売ることを余儀なくされていた。私はその奴隷が私に親愛の情を持ち、私と共にするのを非常に望んでいるのを知っていたので、私はその奴隷と別れなければ成らない必要性を大変残念に思っていた。これまでの私の旅の間、この奴隷は忠実で役に立つ仲間であるのを証明しており、私はその奴隷の他に数人の奴隷を所有していたが、私はこれまでこの奴隷に匹敵する奴隷を見たことが無い。ギリシャ人船長はジッダ(Djidda)の奴隷市場でこの奴隷を48ドルで売って来た。私はこの奴隷にシェンディ(Shendy)で16ドル支払ったので、奴隷一人の売却益は私がその春に行ったヌビア(Nubia)を4ヶ月旅行する全費用にほぼ匹敵した。 1.4 最低限の生活の糧確保 ヒジャーズ(Hedjaz)の現在の状況はそこを通って旅行するのは乞食を装うか、或いは少なくとも私の様な外国の外見の人間に取っては現実的では無くさせていた。そして、回復の遅さは私に快適さを得たいと望ませた。従って、私は余儀なくエジプト紳士の服装で私自身を新たに装い、そして直ぐにカイロに送金する様に手紙を書いたが、私がそれを3、4ヶ月以内の受け取るのは殆ど不可能であった。しかしながら、次の11月の巡礼の時期までヒジャーズ(Hedjaz)に留まるのを決める為に私の資金が到着するまで最低限の生活の糧(subsistence)を調達する方法を見つける事が必要に成ってきた。全ての私の望みを挫かれていたので私は多くの貧しい巡礼(Hadjis)の例に倣わなければ成らなかった。まともな家族の巡礼でさえ、巡礼の為の逗留の間、肉体労働(manual labour)で毎日の最低限の生活の糧を得ていた。しかし私はこの最後の手段に頼る前に私は別の手段を取ろうと考えた。実際に私はカイロ一番の商人サイード モハンマド エル マフロウキィ(Seyd Mohammed el Mahrouky)からジッダ(Djidda)でもっとも金持ちの商人アラビィ デイラニィ(Araby Djeylany)宛の紹介状を持参していた。しかし、これは信用状ではなかったので何の役にも立たない事を私は知っており、それを提出しないで居た。 1.5 太守のモハンメド アリへの要請 従って、最後に私は太守のモハンメド アリ(the Pasha Mohammed Aly)に個人的に手紙を書いた。モハンメド アリは1813年の春近くにヒジャーズ(Hedjaz)に到着しており、今はワッハーブ派(Wahabis)の拠点を攻撃する為の軍隊の司令部を設けたタイフ(Tayf)に居を構えていた。私は上エジプトに出発する前にモハンメド アリにカイロで数回会っており、私の旅行への熱狂(travelling madness)の概要を伝えてあった。
上エジプト商人は一般的に貧しく、そして誰もが即刻支払いによって請求や債務を厳密に支払い(strictly honour)はして居なかったので私がそこに滞在している間にお金の供給を確保する為にカイロの私の取引先に私の必要な金額を太守(the Pasha)の財源へ支払う様に依頼し、太守からその息子で上エジプトの知事であるイブラヒム パシャ(Ibrahim Pasha)へその額を私に支払う様に指示した命令を取り付ける事がここで必要であるのを私は気が付かなくては成らなかった。
従って、私は既に太守と幾らかの金の取り引きした事があり、太守が私の人格と遂行に比較的好意的な意見を公式に表明しているのを私は知っているので、非常に厚かましいと気がとがめる事無く、私は今、ヒジャーズ(Hedjaz)でそれを更新し、もっとそうする様に努力すべきだろうと思った。従って、私の熱の猛威が治まるや否や、私は太守の医師に手紙を書いた。その医師はボサリ(Bosari)と云う名のアルメニア人で、「私が気に入られている」と聞いているカイロでも知り合いであり、今は主人と一緒にタイフ(Tayf) に滞在している。私はその医師に不幸な状況の私に代わって「太守に対して私の信用状はジッダ(Djidda)では通用しない事を知らせて、太守がカイロの私の代理人の約束手形(bill)を受け入れて太守の財務人にその額をジッダ(Djidda)で私に支払うように命じてくれるかどうか聞いて欲しい」と懇願した。 1.6 ヤハヤ エフェンディとの出会い タイフ(Tayf)はジッダ(Djidda)から僅か5日行程であるけれども、この国の状態は個人の旅行者でメッカとタイフの間の山を越える冒険をする者はめったに居らず、この国の人々の手紙を運ぶ隊商は8日か10日に1度出発するのみであった。従って、私の手紙に対する返事を20日以内に受け取る事は期待できなかった。この期間の間、ヌビア(Nubia)での私の旅行日誌を文章化しながらジッダ(Djidda)で暇な時間を過ごしていた。しかしながら、この季節の暑さは特に私の弱った体に対しては午前中の数時間を除いて私がゆとりを持てない程に暑苦しかった。私が宿泊しているカーン(Khan)の大きな出入り口の涼しい影はその例外であり、私は1日の大半をそこで過ごし、石のベンチの上に手足を伸ばしていた。私のタイフ宛の手紙を託したジッダ(Djidda)でのボサリ(Bosari)の取引先(correspondent)はその間に現在のジッダ(Djidda)の知事でモハンメド アリ(Mohammed Aly)の息子であるトウソウン パシャ(Tousoun Pasha)の医者(the Physician)であるヤハヤ エフェンディ(Yahya Effendi)に私の名前を告げた。ヤハヤ エフェンディは私が上エジプトに居た時にそこに居たが私は彼には会っては居ない。この医者はカイロで旅行家として私の名前を聞いており、今、私が暗黒大陸(the Black countries)から戻って来た事を理解して、私に会うのに好奇心を持ち、そしてボサリ(Bosari)の友達(correspondent))に私を紹介するように依頼した。 1.7ヤハヤ エフェンディによる約束手形引き受けでの現金提供 ヤハヤ エフェンディは私を穏やかに迎え、繰り返し私を自分の家に招き、そして更なる説明をするうちに、私の必要としている物と私がそれらを回復しようとしている手段を知るようになった。この時、たまたまヤハヤ エフェンディはトウソウン パシャに従ってメディナ(Medina)へ旅行する準備をしており、自分の不必要な荷物をカイロへ送り返していた。これらと一緒に3,000ピアストル(piastres)(約100ポンド)に達する最後の年での蓄えを家族に送金しようとして居り、そしてヤハヤ エフェンディは親切にも私にカイロで提示の有り次第に支払う約束手形(bill)での現金提供を申し出てくれた。この申し出の利点はヤハヤ エフェンディは良く知っている様に、ジッダ(Djidda)の商人達は約束手形(bill)を持つ人達に決して保証をしてはくれなかった事である。この様な申し出はヨーロッパの商業都市では如何なる義務も付与するとは考えられて居ないが、東洋での私が置かれている環境ではそれは並はずれていた。
ヤハヤ エフェンディ(Yahya Effendi)は「或る自分の友人がカイロで私に実物以上の人物評をくれた」そして「したがって、自分は私の支払い能力(solvency)と尊敬出来る人物である事(respectability)に僅かな疑いも心に抱けない」と付け加えた。この見解はヤハヤ エフェンディが私の持参した信用状(the Letter of Credit)を読んで確認していた。タイフにいる太守(the Pasha)への私の申請の発行がハッキリしていなかったので私は躊躇無く、喜んでヤハヤ エフェンディの申し出を受け入れた。金は直ぐに私に支払われ、約束手形(bill)が渡された。そして数日後に私の協力的な友はトウソウン パシャ(Tousoun Pasha)と共にメディナに向けて出発した。メディナでは翌年早々にヤハヤ エフェンディと喜びの再開を果たした。 1.8太守からのタイフへの招待 私の太守(the Pasha)への申請の結果がどうであろうとエジプトから新たな送金を届く前に、窮乏から被る全ての懸念を払い除けるのに十分な金を私はその時に持っていた。しかし、ヤハヤ エフェンディ(Yahya Effendi)は私がタイフ(Tayf)へ書いた手紙への多少は好意的な答えを受け取るより早く行ってしまった。ボサリ(Bosari)は私の懇請を太守(the Pasha)にせき立てるのをむしろ望んで居らず、「私が私の言葉を取り消さないのなら自分自身が犠牲者になる」と思い、多分に恐れていた。しかしながら、太守(the Pasha)は太守の随行員のもう一人から私がジッダ(Djidda)いるのを聞いていた。この人物は私とはジェッダで会い、タイフに着いていた。
そして太守(the Pasha)は私が騒動の中を歩き回っているのを聞き、直ちに使者と2頭のヒトコブラクダ(dromedary)をジッダ(Djidda)の税関の徴税官サイード アリ オジャクリ(Seyd Aly Odjakly)の元に派遣して来た。(このサイード アリ オジャクリの手でこの町の全ての業務が行われている。)この使者はそれと共に「私の衣服を整え、旅費として500ピアストル(piastres)入りの財布を用意せよ」との命令の手紙と同時に「手紙を運んで来たのと同じ使者と共に私に直ちにタイフ(Tayf)に来る様に」との要求をもたらした。追伸に基づきサイード アリ オジャクリ(Seyd Aly Odjakly)はこの手紙を運んで来た使者に私をタイフ(Tayf)への高地の道によって連れて行く様に命令した。タイフ(Tayf)はメッカ(Mecca)から南であり、低くもっと通常の道がこの町の真ん中を突っ切っている。
トルコ太守(Turkish Pasha)の招待は穏やかな命令であった。従って、この時期にタイフ(Tayf)へ行くのは不承不承であろうと、現在の状況にあっては太守(the Pasha)の望みに沿わない訳には行かなかった。ひそやかな反感にも拘わらず、私は融資の代わりに太守(the Pasha)のお陰のプレセントを受け取らなければ成らなかった。私は太守の誇りを傷つけ、怒りをかき立て無い様に、衣服も金も受け取るのを拒否は出来なかった。この太守の好ましい温雅を得るのが今は私の主要な目的であった。
恐らく、太守(the Pasha)からの贈り物を受け取るのは名誉だと考える人達も居るが、私は違った考えを持っていた。トルコ人が贈り物をする本当の動機は倍の価値を得るか(これは私の場合では無いだろう。)、或いは地位や財産で果てしなく自分より下に扱う者に対する寛大さを自分の廷臣に示す自分自身の誇りを満足させる為である。私はしばしば寄贈者の冷笑とその様な贈り物をする太守側の人達を見て来ている。そしてこの人達の志向は時々「見ろ、この犬に餌が一口投げられた」と云う事で表現される。恐らく、ヨーロッパ人はこの件に関して私にほとんど同意しないが、私の知識が私がこの考えを持つのを是認して居り、そしてトルコの高官の評価で自分達がへりくだれ無い旅行者達に私が与える唯一の助言はこの様な場合は好意とみられる行為に対して常に2倍にして返す事である。私自身について言えば、私は自分の旅行中にはまれにしか贈り物をしないし、今回は私が受け入れざるを得ない唯一の場合である。
この様に、サイード アリ(Seyd Aly)はこれを知らなかったけれども、私は追伸の意味を理解した。しかし、この時点で私は自分自身を太守(the Pasha)とその人々に合わせなければ成らないと言い聞かせた。
この招待は非常に急がれていたので、私はジッダ(Djidda)を使者が到着した同じ日の夕方出発する事にした。断食月は既に始まって居り、この月の間は全ての人が特に日没後の夕食には出来る限りの歓待と卓越(splendeour)を示すので、私はサイード アリ(Seyd Aly)と夕食を共にした後に私は出発し、世界中のあらゆる所から来た夥しい人数のハジ達(Hadjis)に混じった。太守(the Pasha)の意図を全ては信頼できないので私は財布一杯の金をタイフ(Tayf)に持参した。この為に私はヤハヤ エフェンディ(Yahya Effendi)から受け取って居た 3,000ピアストル(piastres)全てを黄金に変え、それを私の帯びに入れた。金を持っている人間はオスマン帝国の臣民(Osmanlis)の間ではその金を失う以外は恐れる事は殆ど無かった。しかし、賄賂か、私のタイフからの出発を容易にする為に必要であると私は思っていた。しかしながら、幸運にもこれらに憶測(conjecture)の両方とも私の間違いであった。 2. ジッダ(Djidda)にその住人対する幾つかの所見 2.1 アラビアで難攻不落の要塞としての名声 私はここでジッダ(Djidda)とその住人に対する幾つかの所見を加えて置かなければならない。この町は多少盛り上がった土地に建てられており、その一番低い側は海に洗われている。海岸に沿ってこの町は1,500歩(paces)の最大長を持ち、幅は何処でもこの半分にも成らない。この町の陸側は強度を除いてまあまあ修復された状態の壁で囲まれている。もともと、エジプトのスルタンであったカンソウエ エル ゴウリ(Kansoue el Ghoury)によってヘブライ紀元917年に建てられた古代の半分廃墟化した壁あったが、これではワッハーブ派(the Wahabis)に対して何の防御にも成って無い事を住民達はわかっていたので、現在の壁は住人達自身の共同作業によってわずか数年前に作られた。その構造でも火砲(artillery)を持たないベドウイン達(Arabs)に対する防壁としては十分であった。40歩あるいは50歩毎に壁は幾つかのさびた火砲(gun)を持つ監視塔で補強されていた。防御を固める為に狭い溝が壁の全長にわたって設けられて居た。この様にジッダ(Djidda)はアラビアで難攻不落(impregnable)の要塞としての名声を得ていた。
町の前面の海岸には古代の壁が残っているが、老朽化した状態である。新たらしい壁が海に洗われている地点に近い北端では知事の公邸があり、南端には8門か,10門の火砲を備えた小さな城郭がある。ほかにも海側からの入り口を守る為の砲台があり、港全体を見渡していた。そこには500ポンドの弾丸を含む膨大な旧式の兵器(ordnance)が装備されおり、ジッダ(Djidda)の防御としての名声は紅海中に知れ渡っていた。 2.2 町への入り口 海から町に入るのは2つの埠頭が使われており、そこでは小舟が岸から2マイル離れた錨地(roadstead)に停泊した大きな船の積み荷を降ろしていた。但し、サイ(say)と呼ばれる紅海を航行するもっとも小さな船だけが岸近くまで接近出来た。埠頭は日没頃に毎晩閉鎖され、この為に夜間は町と船との全ての交通は止められた。
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ジッダ(Djidda)の陸側には二つの門があった。東側がバブ メッカ(the Báb Mekka)で、北側がバブ エル メディナ(Báb el Mrdina)である。南の壁には後に小さな門が付けられた。周囲約3,000歩(paces)の新しい壁と海で囲まれた地区は完全には建物で埋められては居なかった。広い空き地が壁の内側を全長にわたって延びており、その他にもバブ エル メディナ(Báb el Mrdina)や壁の南端付近には適当な大きさの荒れ地があった。この門から入って来て、この空き地を横断すると、葦(reeds)、藺草(イグサ(rushes))および灌木(brushwood)で作られた掘っ建て小屋で構成された町の周辺部に入る。周辺部は石造りの建物で構成される町の中心を囲んでいる。掘っ建て小屋には主としてベドウイン或いはベドウインと完全に同じ服装の貧しい農民や労働者が住んでいる。この様な種類の人間達の住む同じ様な地区はアラビアの全ての町で見受けられる。
(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。) 2.3ジェッダ内部の異なった地区 ジッダ(Djidda)の内部は異なった地区に分けられている。この場所に常に集まるソワキン(Sowakin)の人々はバブ エル メディナ(Báb el Mrdina)に近くに住んで居り、この地区はハレト エ ソワキニ(Haret è Sowakiny)と呼ばれている。ここではソワキンの人々は原則的に掘っ建て小屋を除いて幾つかの貧しい家に住んでいる。掘っ建て小屋にはここに住む多くの売春婦達(public women)やボーサ(Boosa)と呼ばれる酩酊させる((intoxicate)飲み物を売る人々の様にもっとも貧しい階層の人々が滞在している。もっともまともな住人達は海に近い地区に住んでいる。この地区には海岸と平行に延びる通りに商店が並び、多くの隊商宿(khans)を常に供給され、もっぱら商人達が頻繁に訪れていた。 2.4 町の作りと家屋の特徴 私がこれまでに見てきた同じ大きさのどのトルコの町よりもジッダ(Djidda)は実に立派に建設されている。通りは舗装されては居ないけれども広く風通しが良い。家々は高く、全体が石作りである。この石の大部分は海岸から運んで来ており、イシサンゴ(madrepores)やその他の海洋性動物の化石から出来ていた。殆どの家は二階建てで多くの小さな窓と木製のよろい戸を備えている。幾つかの家には張り出し窓(bow-windows)が設けられている。
張り出し窓は指物師(joiner)或いは大工の作品の偉大な展示を披露している。一般に玄関には大きなホールがあり、そこで外国人が迎え入れられる。このホールは日中の暑いさなかにはその床が常に湿らせて有るので家中の何処よりも涼しかった。部屋の配置はエジプトやシリアの家々とほぼ同じである。しかしながら、ジッダ(Djidda)ではそれほど多くの大きく堂々としたアパートがそれらの国々の様には無かったのが違いである。これらの国々では少なくとも現地人用の僅かな家々を除けば二階建てで地上レベルの部屋は時として非常に高かった。この様にヒジャーズ(Hedjaz)の多くの家では涼しい唯一の場所が玄関ホールであり、ここで正午に主人と雇った召使いや奴隷等の取り巻きと共にシエスタ(the siesta)を楽しんで居る様な事が起きていた。
この国では建物は非常に高価であったので張り出し窓(bow-windows)の格子作り(the lattice-work)越えに外が見える様にしている者は殆どおらず、しばしば内側も外側ももっともケバケバしい色で塗られた。多くの家々では男の正統な妻が一部を占有し、その男のアビシニア人(Abyssinian)の女奴隷達は彼女達自身の物とハッキリ分かるアパートに泊まっていた。そのために建物の便利さが大きさ或いは美しさよりも検討されていた。依然としてエジプトでは多くの普通の家は幾つかの広く美しい部屋を持っていた。
建築の統一性はジッダ(Djidda)では見られなかった。幾つか家は小さな四角い石で、残りの家は大きな四角い石で建てられ、滑らかな外側と泥で塗られた内側をしていた。時々、壁全体が石で作られ、多くは3フィートの間隔で壁にはめ込まれた板材の薄い層を持っており、アラビア人の考えではこの層が強度を増すのに役立っている。壁に漆喰が塗られると木材はその自然の色のまま残るので、まるで多くの帯びで飾られて居る様に建物に陽気で心地よい外観を与えている。しかし陽光に照らされたまぶしい白は目に極端な苦痛を与える。出入り口の殆どは尖ったアーチ型でまれには円型をして居る。円形の出入り口は多くは無いが、エジプトの全ての地方の個人の家の門に見られる。古代の建物はジッダ(Djidda)では見られ無いのは、ここでは多い雨や湿った環境に晒されると急速に朽ちてしまうイシサンゴ(madrepore)の性質の為である。 2.5 メッカの港としての機能と主な建物 ジッダ(Djidda)一番古いアラビアの歴史の中でメッカの港として知られてはいるけれども印度の物産の市場としての重要性が辿れるのはやっと15世紀初めまでなので、一般的にジッダ(Djidda)は近代的な町だと言えるだろう。
多くの小さなモスクの他に、相当な大きさのモスクが2つある。その中の1つは最後の統治者シェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb)の前任者であるシェリフ セロウル(Sherif Serour)によって建てられた。シェリフ(Sherif)自身もしばしば住んでいた知事公邸(the Governor's habitation)はつまらない(paltry)建物である。同様に関税徴税官もその中に住んでいる。町には幾つかの立派な宿泊設備を持つ、しっかりした造りの公共隊商宿があり、外国人商人がここでの短い滞在の間に利用していた。これらの隊商宿はアーチ型の覆いのある通路を持つ大きな四角い広場を持っていた。アーチ型の覆いは殆ど一日中商人達に涼しい日陰を提供していた。
(注)シェリフ セロウル(Sherif Serour)とシェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb):Sharifs of Mecca; Surour bin Musa'ed (1773–-1788) and Ghalib Efendii bin Musa'ed (1788–-1803).
ジッダ(Djidda)が人々で極端に混み合う貿易風の季節を除いて、私的な宿泊は町から一番遠い地区では簡単に調達出来た。ジッダ(Djidda)で最高の個人の邸宅はジェイラニ(Djeylani)の偉大な商業組織に属していた。ジェイラニ(Djeylani)は家族と共に主要通りの裏の小さな区画を占めていた。この区画は3つの大きな建物で構成されており、ヒジャーズ(Hedjaz)全体の中でももっとも広く、高価な個人住宅であった。 2.6 地下貯水タンクの利用等の飲料水確保 程々の大きさの全ての家は地下貯水タンク(cisterns)を備えているが、家々の屋上から地下貯水タンクに満たすほど雨が十分に規則的で豊富では無かったのでシリア(Syria)でも行われている様に雨期に町の外に造られた水貯まりからしばしば供給を受けていた。
これらの地下貯水タンク(cisterns)では水はジッダ(Djidda)の消費に対して大変に不十分であり、きめ細かさが必要であると思われる。飲料水の殆どは町の南側から1.50マイル(2.4km)離れた幾つかの井戸からくみ出されている。実際、水は15フィート(4.6m)の深さであれば何処からでも見つけられるが、その水は一般的には味が悪く、そして場所によっては殆ど飲めなかった。真水(sweet)と呼べる水を産出するのは井戸の中からでもたった2つの井戸であるが、それでもこれは重いと考えられていた。
水に適用されていた重いと軽い(heavy and light)は東洋の殆どの言葉で共通した表現である。東洋では先住民達(natives)と外国人達は共に消費する膨大な量から我々が住む北方気候の人々よりも味覚が洗練されてきていた。
そしてそれを容器に入れて24時間置くと、虫で一杯になってしまう。少なく貴重なこの2つの井戸の良質な水は有力な友人の助けが無いといつも手に入れるられはしない。実際に200或いは300人を越えない人達にしか常にはこの水を手には入れられ無く、残りの人々は他の井戸から供給される水で満足しなければならず、人々の慢性的な不健康さがこの水に起因している様だ。 2.7 臨時の住居との考えと井戸への警戒無視 ジッダ(Djidda)はトルコの要塞都市の名前を持つので井戸は要塞で守られて来たと思われるが、トルコはこの警戒を無視して来ており、1814年の12月にワッハーブ派(Wahabis)がゴンファディ(Gonfady)方面まで進撃した時に人々にはそれが分かった。全ての水汲みラクダが知事の手にあったのでジッダの知事(the Governor of Djidda)は大慌てで政府の建物に付随する地下水槽(cisterns)を井戸から水を汲んで満たし、数日間は全ての住人にこの生活必需品を与えずに居た。幾つかの井戸は私有されていたのでその持ち主は少なからぬ利益を得た。
ジッダ(Djidda)の町には庭園や植生はモスクの1つに添えられた数本のナツメヤシを除けば全く無かった。町の外でさえ全部不毛の沙漠であり、海岸は含塩土壌で高まった場所は砂で覆われている。ここには幾つかの灌木(shrubs)と数本の背の低いアカシアの木が見られるだけである。町の周囲の井戸の数や灌漑用の水は少なからず増加してはいる様であるが、ジッダ(Djidda)の住人達は自分達の住居をヒジャーズの他の人々同様に単に臨時であると考え、全ての関心を交易と富の獲得に向けている。この為にジッダ(Djidda)の住人達は私がこれまで見てきたモスリム(Moslems)のどの人種よりも田舎での楽しみや時間の過ごし方に関心が無い。 2.8 掘っ建て小屋群とイヴの墓を含む主要埋葬地 バブ メッカ(the Báb Mecca)門を越え、町に近づくと、幾つかの掘っ建て小屋(huts)があり、その中央にメッカへの道路が延びている。これらの掘っ建て小屋にはこの市とジッダ(Djidda)の間を往来しているラクダを使い、少なからぬ距離の山中から薪を切り出して生計を立てている貧しいベドウイン(Bedouins)および同じ様な方法でジッダ(Djidda)に滞在している間の糧を得ている黒人巡礼者達が住んでいる。ここでは家畜、薪と炭、果物と野菜の卸し市がたっている。毎朝夜明け後直ぐにメッカから届くニュースを聞きにここに集まる下層商人達で混み合っていた。早い時間の短い間にもコーヒーがこの場所の多くの屋台(booths)で売られている。
これらの掘っ建て小屋からおよそ1マイル(1.6km)の町から東側に幾つかのシェイク(sheikhs)の墓を含む主要な埋葬地があり、それ以外にも壁に囲まれたもっと小さな墓地が幾つかある。この町から北へ2マイル(3.2km)の場所には人類の母であるホワ(Howa)(イヴ(Eve))の墓は見られる。私が聞いたところでは「これは長さ4フィートで2、3フィートの高さで幅が広く、石で出来た未加工の構造物であり、シリア(Syria)のベッカ谷(the valley of Bekka)に見られるノア(Noah)の墓に似ている」と云う。
2.9 ジェッダの人口 ワッハーブ派(Wahabis)が圧倒している間、ジッダ(Djidda)は衰えた状態で、多くの建物は廃墟になり、新しい家を建てる者も居らず、トルコからの巡礼が途切れ、商人達が売る為に物資をここへ運びたがら無く成った結果、取引は大きく落ち込んでしまった。しかしながら、聖なる市が復活し、巡礼が毎日到着する兵隊達、多くの商人達や陸軍の随員達と共に回復すると、この町は以前の状態にすぐに戻り、今では以前と同じ様に繁栄している。その住人の数は一般的に12,000人から15,000人と推定されるが、巡礼に先立つ月や季節風の吹く夏の月には外国人が殺到し、人口はこの1.5倍に膨れ上がる。 2.10 もっぱら外国人かその子孫である住人 メッカやメディナ同様にジッダ(Djidda)の住民は殆どがもっぱら外国人であった。かつてはここに住んでいた古代アラビア人の子孫達は知事(the governors)の手で窮乏させられたり、他の地方に撤退したりしてしまった。本当に原住民と呼べるのは僅かな数家族のシェリフ(sherifs)だけであり、全員が教育を受け、モスクや裁判に従事している。その他の全てのジッダウィ(Djiddawys)(ジッダの人々)は外国人かその子孫であった。子孫の中でもハドラマウト(Hadramaut)とイエメン(Yemen)の出身者がもっとも多かった。これらの国々の全ての町や地方の集団がジッダ(Djidda)に定住し、自分の出身地との活発な交易を維持していた。主としてスラト(Surat)とボンバイ(Bombay)から100家族以上の印度人達もここに自分達の共同体を確立し、それにマレー人(Malays)およびマスカト(Maskat)の人々も加わっていた。エジプト、シリア、バルバリー(Barbary)、ヨーロッパ部分のトルコおよびアナトリア(Anatolia)(小アジア)からの定住者達は今でもこれらの人々の子孫である特徴を認識できる。これら末裔達は混ざり合って1つの集団となり、生活も服装もアラビア人と同じになっている。インド人達だけが作法、服装および職業において識別される人種として残っている。
ジッダ(Djidda)に定住しているキリスト教徒は居ないが、多島海(the Archipelago)の島から来た数人のギリシャ人が時々、エジプトから商品を運んでくる。シェリフ(the sherifs)の時代にはギリシャ人は妨害され、特殊な服装をするのを余儀なくされ、そしてメッカ門(the Mekka gate)へ近づくのを禁止されていた。しかし、トルコがヒジャーズ(Hedjaz)を支配する様になるとその様な制限は廃止され、いまではキリスト教徒もここでの完全な自由を享受出来る様になった。もし、キリスト教徒が死ぬと聖なる都市に属する生贄としてささげられた土地なので陸地には埋葬されずにジッダ(Djidda)の湾に浮かぶ小さな島々の或る1つに埋められた。ユダヤ人も以前からこの町の仲買人であったが、約30年から40年前にユダヤ人の或る者達が違法行為を犯した為にガレブ(Ghaleb)の前任者であるセロウル(Serour)によって追い出されていた。彼等は全て、イエメンかサナア(Sanaa)に移住した。季節風の間にはバンヤン達(Banians)が印度船でジッダ(Djidda)を訪れるがバンヤン達は常に乗って来た船で戻って行き、ここに定住する者達は居なかった。 2.11 ジッダの混血人種 ジッダ(Djidda)の混血人種は巡礼の影響もあった。巡礼の時期には豊かな商人達が商品の大きな投機を伴ってヒジャーズを訪れる。その中の或る物はその勘定を直ぐには清算できず、次年度まで待たなくては成らなかった。この期間に商人達はこの国の慣習に従って何人かのアビシニア人(Abyssinian)の奴隷達と同棲した(cohabit)。商人達は直ぐにアビシニア人奴隷と結婚し、その結果で商人達は家族を持ち、家族はこの国に定住する様に勧められた。この様にして巡礼の毎にジッダだけでは無く、メッカにも新しい人口が加わった。これは死者の数が生まれて来る子供の数よりも遙かに多い両方の市では実際に非常に必要とされた。
3. ジッダの交易 3.1 船乗り、航海による貿易商人あるいはアラビアの通運業者である住人 ジッダの人々は殆どが完全に商業に従事し、直ぐに必要性が或る物を除いて製造したり、商売したりはしなかった。ジッダの人々は全て、船乗り(seafaring)、航海による貿易商人あるいはアラビアの通運に携わるかの何れかであった。ジッダ(Djidda)はその裕福さ(opulent)をメッカ(Mekka)の港としてからだけでは無く、エジプト、印度およびアラビアの港として生み出して居る。これらに国々の全ての輸出品はエジプトを目指し、先ずはジッダ(Djidda)商人の手を通っていた。従って、ジッダは恐らくトルコの支配権の及ぶ同じ大きさのどの町よりも豊かであった。この為、「裕福」を意味するジッダのアラビア語の名前は申し分なく良く適合していた。この地の2人の偉大な商人はジェイラニ(Djeylany)とサッカト(Sakkat)で両人とも祖父達が最初にここに定住したマグリブ(Maggrebin)の出身者であり、15万から20万英ポンド(pounds sterling)の富を有する事で知られている。幾人かのインド人達はほとんどそれに近い資本を持ち、さらに4万から5万英ポンドを持つ12以上の家族がいた。 3.2 現金取引での売買 大規模な交易(wholesale trade)はここでのよりすぐれた腕前(facility)と利益をもって行われ、私がレヴァント(Levant)で見た何処よりも策謀も詐欺も少なかった。この主な理由は殆どすべての売買は現金取引で信用取引は殆どあるいは全く行われて居ない為である。しかしながら、これは大きな富を持てば持つほど信用出来ない事で悪名が高い商人達の性格が何か好意的であるのを意味するとは理解できないが、交易の現実(nature)と確立した慣習(usage)が交易を他の東方のどこの国(地方)より策謀を巡らす商売の面倒さを少なくしている。
(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。) 3.3 コーヒー貿易 ジッダ(Djidda)の交易(commerce)は2つの主要な分野に分けられる。即ちコーヒー貿易とインド貿易であり、両方共にエジプトと結びついている。どの季節でも制限無く、一年中、コーヒーを積んだ船がイエメンから到着する。航海の間はこれらの船は岸近くを常に航行する事で、北からの風が圧倒的に多い季節の間は陸からの微風を利用出来たが,海峡の真ん中での航行は難しかった。これらの貨物はイエメン商人が見返りに受け取る殆ど唯一の物品であるドル(dollars)と交換されていた。コーヒー交易は大きく変動しがちであり、富み籤の1種と考えられていた。この為、この交易では自分の自由なる大きな資本を持ち、たまにある大きな損失に耐えられる者だけが投資出来た。カイロからの助言で調整されているジッダ(Djidda)でのコーヒーの値段は殆どスエズから船が到着する毎に変化している。トルコ国内のモカ コーヒー(Mocha coffee)の需要次第でスエズでのコーヒーの値段は同じように変動した。
私がジッダ(Djidda)に到着した時にはコーヒー豆の値段はハンドレッドウェイト(hundred- weight)が35ドル(dollars)であり、その3週間後には英国と米国の間の和平の結果と西インドのコーヒーがスミルマ(Smyrna)とコンスタンティノープル(Constantinople)へ再び大量に輸入されるとの思惑から24ドル(dollars)まで値下がりした。この取引の運まかせの性質から代理業として以外にはこの取引にかかわらない多くの商人達が居た。他の者はコーヒーを自分自身の費用でカイロに送り、そこではこの取引の大部分がそこに住むヒジャーズ(Hedjaz)の商人達の手の中にあった。この6年間の中にアラビアと地中海の間のコーヒー交易はトルコの港への西インドコーヒーの輸入で大きく損害を被った。以前はモカ コーヒー(Mocha coffee)が独占的に供給されていたが、その需要はヨーロパ部分のトルコ、小アジアおよびシリア(Syria)で殆ど完全に西インド産に取って代わられてしまったが、エジプト太守(the Pasha of Egypt)は自分の支配地域への西インド産の輸入をこれまで厳しく禁止してきた。 3.4 インド貿易 インドの商品の交易はより安全で等しく、収益が多い。主としてカルカッタ(Calcutta)、スラト(Surat)およびボンバイ(Bombay)からの商船隊はジッダ(Djidda)に5月始めに到着した時には商人達が事情が許す限り多くのドル(dollars)とゼッキーノ(sequins)を集め、商船隊の出来るだけ早く到着した船から大量に好条件で売買しようと既に準備しているのが分かる。大量の資金もこちらへカイロの商人達によってその口座に品物を買い付けようと送られて来るが、貨物の大部分はジッダの商人達によって買い上げられ、その後、ジッダの商人達は自分達に有利に売ろうとその貨物をカイロに送る。インド商船隊は自分達が運んできた全ての商品の値段が直ぐに上がった6月ないし7月に戻って行く。
ベンガル(Bengal)から来た商船隊は6月に、スラト(Surat)とボンバイ(Bombay)からの商船隊は7月ないし8月始めにジッダを出発する。マスカット(Maskat)およびバッソラ(Bassora)からの船およびモザンビーク(Mozambique)海岸から来た奴隷船団は同じ時期に到着する。
最後の船が出港する日には最初の価格から10%の利益が得られるのが常であった。しかしながら、商人達は金に困って無い限りはこの時点では売らずに商品を倉庫に4、5ヶ月しまって置き、その間に値段は上がり続ける。もし、商人達が次の1月あるいは2月まで待てば30%から40%の利益は確実に得られた。もし、商人達がこれらの商品の一部をメッカ(Mekka)へ巡礼に売る為に運べば、その利益はさらに大きく成った。商船隊が滞在している間はジッダが余りにも混雑すると言うのがこの商売の性格である。紅海の全ての港から人々は最初に買い付ける為にこちらに集まってくる。メッカ、イエンボ(Yembo)およびジッダの商人達はこの購入に並ぶ為に持て居る全てのドル(dollars)をかき集める。
インド商船隊がジッダから船出してしばらく後に、大きな財産と社会的地位のある商人が私の知り合いから100ドルを借る為に訪ね、その商人は「全てのファージング(farthing)小銅貨に至るまで今は売りたく無いインド商品の購入に使い、毎日の生活費が全く残っていない」と言った。その場に、私はその場のたまたま居合わせ、この様な事はしばしば起きている事が私には理解出来た。
ジッダのインド交易でもっと安全で利益があるもう一つの方法は商船(the merchant ships)の到着であるが、これは年に1度、全部で数週間以内の決めた期間であった。その為に市場を害する物は何も無く、商品の値段は認められた需要と輸入品の品質で決められた。次の商船隊が戻ってくるまで値が下がる事もいまだかって無かった。コーヒーの交易ではこれは反対であった。
シリアとエジプトでは数千ドルまでの額の2人の商人の間の売買が結論に達するのは数日の作業であり、3、4の仲買人仕事でもある。ジッダ(Djidda)での売買では船一杯の積み荷を半時間位で決め、次の日には代金が支払われる。この様にして買われた商品の大部分はスエズへ積み出され、カイロで売られる。そこから商品は地中海へと運ばれる。
報酬はヒジャーズ(Hedjaz)で主として使われる物資あるいはドル(dollars)やゼッキーノ(sequins)で支払われた。大量のドル(dollars)やゼッキーノ(sequins)が毎年、インド商船隊によって運ばれた。これはエジプトにおける銀不足の原因にも成った。イエメンからのコーヒー船隊は帰路にはメッライ(Mellayes)(青いストライプのはいった綿衣料)、シャツ用の亜麻布、ガラスのビーズ等エジプトで製造された幾つかの商品を持ち帰ったが、主な清算手段は殆ど現金であった。 3.5 スエズがインド交易に直接参加しなかった理由 もし、スエズが直接、インド交易に参加するとジッダの現在の繁栄は疑いも無く、大きく衰亡し、この町は今のエジプトの港としての機能を失い、その位置から単にヒジャーズの港と成ってしまう。自らの手で税関を持っているメッカのシェリフ(the sherifs of Mekka)が自分達の収入の主な財源となっているインド交易の関税を確保する為にジッダ(Djidda)をインド交易の中心に置きく様に自分達の力の限り、あらゆる手段を使って努力するのは当然である。
しかしながら、スエズ(Suez)は購入が可能な様に大資本が準備できる場所では無く、カイロ(Cairo)でさえ、この交易を有利にする為にに少なくとも直ぐに資金を調達し、スエズに送金する事は出来なかった。東洋人(Orientals)が殆ど止めようとして居ない古い慣習に基づく、即金決済がこの市の商取引では不確定であったので、結果としてインドの物産は非常に長い信用取引を除いてスエズで売られる事は無かった。疑いも無く、ジッダで現在行われている様に、現金はいずれはスエズへ送られる。しかし、この交易の流通ルート(the channel)はインドからスエズに直接やって来た商船隊がその積み荷で利益を得るか、支払いが期日以内かのどちらかで決済するのを難しくしていた。
もう一つの要因もジッダ(Djidda)に有利に働いていた。インド船の殆どは英国国旗の下で航海していたけれども、完全にアラビアおよびラスカル(Lascars)等この地方の人々が乗り組み、指揮して居り、紅海の全ての場所で行われていると同じ沿岸航行術を採用して来ている。その為に、これらの船は決して沖合には出ず、ジッダ(Djidda)とイエンボ(Yembo)を通る必要があった。両港ともシェリフ(the Sherief)の港であり、シェリフはイエメンからスエズに直接向かおうとする多くのコーヒー船に対し、容易く自分の港へ投錨させ、納税させる事が出来た。
(注)ラスカル(Lascars)は喜望峰より東の印度やその他の国々を指しているが、今では使われる事は無い。
3.6 エジプト太守によるジッダ税関のスエズへの移動 ヒジャーズの港と税関を所有しているエジプト太守モハンメド アリがジッダにある税関をスエズに移動し、それからインドとの直接交通を開いたので、これらの要因はもはや存在していない。今までの所はシェリフ達に及んだこの変化による主な阻害要因はジッダの商人達のそねみと間違った陳情(reperesentations)あり、太守自身の現実の利益への無視が太守の統治を喜ばない恐れを多分付け加えていた。それにもかかわらず、アレクサンドリア(Alexandria)にある非常に立派な英国商館(an English house)はそのボンベイの取引先に関心を持ち、太守とヒジャーズがまだ太守の統治下では無かった1812年に英国船籍の船が直接スエズに来られ、沙漠を越えてカイロまで商品を運ぶ警護を保証する為の協定を結んだ例の後、太守は体制を変える為に熟考の中であった。
ワッハーブ派との戦争(the Wahabi war)の報告書と紅海の敵性巡洋艦(hostile cruisers)の報告書が、1815年に大型船がボンベイからスエズ目指して出発する迄の間は商人達にこの協定の恩恵を得るのを妨げていた。しかしながら、この船がジッダに寄港した時に、メッカに居た太守は疫病がこの町に蔓延していたので、自分の約束に違反してこの船を止め、スエズに向かうのを禁止し、船長に積み荷を損失を被って売却するのを余儀なくさせた。その上、大英帝国とトルコ政府(the Porte)の間に取り交わした条文に違反して、この国の船に課すると同じ税を当てはめた。エジプト在住のヨーロッパ人の間に大きな嫌悪感(disgust)を生み出したこの出来事はマルタ(Malta)島交易にかかわって太守の船に仕返しすることで簡単に癒され、これが太守に何処で会っても英国国旗に敬意を表する様に教えた。 3.7商人達と太守との2度目の協定 英国士官達は太守に関する恐らく力と重要性の間違った概念からと太守と友好的な関係を保ちたいとの希望からトルコの支配者の好意が懐柔によっては決して買えず、公然たる挑戦によってのみ得られる事を忘れ、不快さを示す代わりに不法行為を静かに提示するのを好んだ。全てこの結果として商人達は太守と2度目の協定を結ばざるを得ず、それが公式に批准された。
太守の最初の要求は商船(the ships)はスエズでこの港とジッダを合わせた関税を支払わなければならない事であった。これは約12%に相当したが、太守はついにインドからスエズへの全ての輸入品について9%を約束する事で満足した。9%は大シニョール港(the ports of the Grand Signior)でヨーロッパの商人が支払う通常の関税(duty)より6%も多かった。この協定(this arrangement)は活発な取引の開始を導くと思われた。太守(the Pahsa)自身が自分自身の口座で投機する気にさせられた。太守が1816年の春にボンベイ(Bombay)に送った最初の投機(the adventure)は太守にその見返りとしてコンスタンティノープル(Constantinople)での太守の支配への贈り物として予定された豪華に飾る付けられた象をも運んで来た。しかしながら、未だに私は「太守が第1の協定に示したのと同じ様にはこの第2の協定を殆ど尊重して居ない」のを恐れていた。もし、希望通りにならなければ、太守の強欲(avarice)は拘束を受けずに、この新しい交易ルートの利益がこれらに耐えられる限りは周囲の沙漠に住むベドウイン(the Bedouins)が完全に太守に指揮下にあるスエズからカイロへの交通路の警備上の安全を脅かすことでいつでも追加の関税(imposts)を課す事が出来た。 3.8 シェリフ ガレブとインド交易 ジッダ(Djidda)の前の支配者であったシェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb)は積極的にインド交易に従事していた。シェリフ ガレブはこの交易に従事させる各400トンの2艘の船を持ち、その他にもイエメンとのコーヒー交易の為の多くの小さな船を持っていた。シェリフ ガレブは実際に紅海交易のあらゆる分野で抜け目の無い投機家(speculator)であった。シェリフ ガレブはジッダの商人達を重税と自分自身の圧倒的な競争力によって抑圧していたが、商人達から強奪する様な事は決して無かった様である。もし、シェリフ ガレブが借金をしても約定(stipulated)した期間に返済したし、シェリフ ガレブは地域社会全体に税を課したけれども、自由裁量によって各個人に法外な税を課する無茶を冒すことは決して無かった。
シェリフ ガレブがワッハーブ派(the Wahabis)によって大変難儀させられて居た時でさえ、外国人商人のジッダの港訪問を啓発していたのは広く知られた治安の良さであり、その恩恵(property)はシェリフ ガレブの政府に下に享受されていた。しかしながら、もっとも独裁的(despotical)な統治していたシェリフ ガレブのこのやり方を採用したのは公正に対する敬愛の為では無く、もし、商人を怯え上がらせると自分の町は取るに足らない状況に沈み込んでしまうのを良く承知して居る為であった。
シェリフ ガレブの政府の終焉に向けて、コーヒーに対する関税はキンタル(quintal)当たり2.5ドルから5ドルあるいは約15%に上げられた。インド産の物資に対する関税は品質によって6%から10%に上げられた。もし、シェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb)が自分の口座で輸入したコーヒーやインド産の物資が直ぐに売れ無ければ、シェリフ ガレブはこの土地出身の商人達に自分の持ち船の貨物を即金で支払わされる各々の商人の推定される財力に比例して分配し、現在の市場価格で売り渡した。この件に関してはシェリフ ガレブは珍しくは無かった。エジプトにおいては現在の太守(the Pasha)は度々、自分のコーヒーを商人達に分配していた。しかしながら、シェリフ ガレブの実践との違いは太守が適用する値段は常に市場価格を上回っていた。 3.9 ジッダに属する船 ジッダの商売は殆ど小資本で評判の悪いインド人の仲買人の介入を通して行われていた。この為、 ジッダに属する船の数は非常に多かった。紅海交易に使われる全ての小さな船舶を数えてみるとこの町の商人ないし船を自ら操り、港を自分達の主要な母国と考える船主のどちらかに属する船は恐らく250隻が計上されるだろう。これらの船は大きさによって、サイ(Say)、セウム(Seume)、メールケブ(Merkeb)、サンボウク(Sambouk)、ダウ(Dow)等と異なった名前が与えられていた。最大級のダウだけがインドへの航海を行った。船は主としてイエメン出身の人々、アビシニア(Abyssinia)とグラルダフィ岬(Cape Guardafui)間のアデン(Aden)とは向かい側のソマウリ海岸(Somawly)出身の人々および昨今では全ての船で3、4人は見つかる奴隷によって運行されていた。
(注)サイ(Say)、セウム(Seume)、メールケブ(Merkeb)、サンボウク(Sambouk)、ダウ(Dow)については「1-4 大航海時代とジェッダ)5. 大航海時代に使われた帆船」を参照戴きたい。但し、セウム(Seume)、メールケブ(Merkeb)についてはどの型のダウ(Dow)かを私は特定出来ないでいる。
乗組員は航海毎に一定額の報酬を受け取っており、全ての船員が同時に自分自身の口座を持つ小規模交易者でもあった。これは貿易風の吹く季節の間、外国人がジッダに滞在する(resort)もう1つの理由であり、もっとも少額の資金しか持たない人達は先ずは小売でこれらの船の乗組員から商品を購入できた。 3.10 紅海の限られた港での船建造 どの様な型の船舶もジッダでは今は建造されて居なかったので、船作り用の木材は不足していた。実際に船を修理する方法を見つけるのは難しかった。イエンボ(Yembo)も同じ不便さを被っていた。スエズ(Suez)、ハデイダ(Hadeyda)およびモッカ(Mokha)が紅海での限られた港で船も建造されていた。
(注)ヨハン ラドウィグ ブルクハルト(Johana Ludwig Burckhardt)が旅行した19世紀始めに紅海で造船が可能であった港はスエズ(Suez)、モカ(Mokha)およびソマリア(Somalia)のハデイダ(Hadeyda)の3港のみであった。
スエズで使われる木材はカイロから陸路でここに運ばれた。この木材はもともとは小アジアの海岸(the coast of Asia Minor)が原産地であり、ハデイダ(Hadeyda)およびモッカ(Mokha)で使われる木材は一部はイエメンで一部はアフリカ海岸から来た。多くの船はボンバイとマスカットで購入されて居るが、スエズで建造された船がイエメンから北の海ではもっとも一般的であった。紅海中で使われている帆布はエジプト製であった。ロープ類(cordage)はナツメ椰子の木から造られた。東インドから来る船はココナツの木から造られたロープ類(cordage)を備えて居り、数量的には売却する為にも十分に運ばれてきた。 3.11 太守による多くの船の拿捕 太守(the Pasha)は非常に多くの船を拿捕し、船主に糧食、武器および手荷物をエジプトからヒジャーズ(Hediaz)に運ばせ、その対価としては非常に低い運送賃しか払わなかったので、最近の3年間はジッダでは船舶(shipping)が払底(want)していた。私がジッダに滞在している間で海からの数艘の船が到着し無かったのは僅かに1日であった。これら船は主としてイエンボとコッセイール(Cosseir)からやって来ていた。そして港には常に40、50艘の船が入っていた。 4. ジェッダ港での荷揚げと陸上交易 エミール バハル(Emir al Bahhr)の称号を持つ官僚が港長(a habour master)を務め、全ての船から或る額の投錨代を徴収していた。エミール バハルは時のシェリフ(the sherif)の相当な威厳を示す役所であったが、今では見る影も無くなってしまっている。
この様に多くの船が出入りするジッダ(Djidda)の様な港に港内に全ての種類の通船(Pleasure- boat)が無い、もしくはどの様な正規の船頭・船子(boatmen)が居ないのを見つけて私は少なからず驚かされた。しかし、これは税関官吏達のそねみに由来しているのが私は分かった。税関官吏達はこの種類(description)の全ての船舶を禁止し、さらに本船のボートにも日没後は本船に戻る様に命じていた。 4.2 メディナへの隊商 ジッダはメディアとメッカを除いて、陸上交易は行って居なかった。メディナへの隊商(caravan)は40日ないし50日毎に主としてインド産の物資と薬品を持って出発し、モハンメドの墓に詣でたい巡礼の群衆で常に膨らんでいた。これらの隊商(caravan)は60頭から100頭の駱駝で構成され、ハルブ(Harb)族のベドウイン(the Harb Bedouin)に引率されていた。しかしながら、ジッダとメディナの間の交通はもっと一般的に海路で物資が運ばれるイエンボ(Yembo)への中継ルートとして使われていた。
4.3 メッカへの隊商 この隊商路(the caravan route)とは別に、他の隊商はメッカを目指して殆ど毎夕出発し、少なくとも週に2回は物資や糧食を運んでいた。巡礼(Hadj)の前の4ヶ月間は到着する全ての船がジッダへ巡礼を運んで来るのでこの交通量はさらに増加し、そしてそれから隊商(caravan)はバブ メッカ(Báb Mekka)と呼ばれる門から毎夕、日没後に定期的に出発した。荷を背負った駱駝は日中は中間のハッダ(Hadda)で休憩し、この旅に2日を要した。これらの隊商(caravan)に加えて、軽い荷物を担った驢馬(asses)の小さな隊商(caravan)も毎晩出発し、一晩で15時間から16時間も旅を続けて、定期的に早朝、メッカに到着していた。
駱駝がたくさんいる時にジッダからメッカまで1頭を雇うのは20から25ピアストル(piastres)であった。駱駝が不足している時や巡礼月が近づくと60から70ピアストル(piastres)が支払われた。私が滞在していた間には驢馬(ass)をジッダからメッカまで雇うと20ピアストル(piastres)であった。これらの値段はレヴァント(the Levant)の他の何処と較べても法外であると考えられていた。ジッダとメッカの距離の倍あるカイロからスエズまで駱駝を雇うのに僅か15ピアストル(piastres)しか払われなかった。 4.4 イエメンやモコワ方面への隊商 両市の間の手紙を運ぶのは驢馬の隊商(the ass-caravan)であった。平和の時には隊商は稀には海岸と出会い、イエメンやティハマ(Tehama)地方の内陸部や穀物(corn)が移入されていたモコワ(Mokhowa)へ向かった。 5. ジッダで一番大きな商業街にある異なった店 ジッダで一番大きな商業街にある異なった店を示した次の一覧表はこの町の住人達の生活流儀およびこの町の交易に光を浴びせる事になるだろう。トルコの全ての地方同様に店は地表よりも数フィート高くなって居り、その前に通りに向かって買い手が座る為の石造りのベンチが置いてあった。このベンチは日除け(awning)によって太陽から遮られていた。日除けは通常、高いポールに縛り付けられた マットで作られていた。多くの店は正面が僅か6から7フィートであり、奥行きは一般的に10から12フィートであり、小さな個室や倉庫(magazine)を後に備えている。
ジッダで一番大きな商業街にある店の一覧表
5.1 コーヒー店(coffee shop)(27軒)
ここには27軒のコーヒーの店がある。コーヒーはヒジャーズでは過剰に飲まれていた。一日に20から30杯のコーヒーを飲む人も稀では無かった。貧しい労働者達は3、4杯以上は飲まなかった。幾つかの店では豆の皮(the skin of the bean)から作ったケシュレ(keshre)を提供していた。ケシュレ(keshre)がコーヒー豆から淹れられたコーヒーの風味よりも劣るのは稀である。それらの店の1軒はハシーシ(the hashysh)や一種の陶酔を作り出す煙草(tabacco)と大麻の花(hemp-flowers)の混合物を吸う人達が頻繁に出入りしている。ハシーシ(the hashysh)は今でもエジプトでは特に農民を中心に良く使われている。
これら全ての店で喫煙に使われているペルシャパイプ(Persian Pipe)には3つの種類がある。
1. ケドラ(the Kedra)は最大で三脚の上に置かれている。これは常にキチンと磨かれ、個人の家の中でしか見掛ける事は無い。
2. シシャ(the Shishe)はシリアではアルギル(Atgyle)とも呼ばれ、ケドラよりも小さいサイズであるが同じようにリーフ(lieh)と呼ばれる長い蛇の様な(serpentine)管と接合されている。この管を通って喫煙される。
3. ブリ(the Bury)は磨かれていないココナッツ(the cococnut)の実の殻で作られており、水が貯えられている。太い葦が蛇管の役割をしている。このパイプは下層民や紅海の船員達全てによって常用されている。紅海の船員達はこの使用にもっとも尋常で無く耽っている。
ケドラパイプとシシャパイプで喫煙されるタバコはペルシア湾から運ばれて来る。最良のタバコはシラズ(Shiraz)産である。トムバク(tombak)と呼ばれる少し質の落ちる種類のタバコはバスラ(Basra)とバグダッド(Baghdad)から運ばれる。トムバク(tombak)の葉は薄い黄色であり、普通のタバコに較べて味が濃い。従って、味をまろやかにする為に前もって洗われる。埋葬(the Bury)に使われるトムバク(tombak)はイエメンから運ばれ、他のタバコと同じ種類であるが、質が落ちる。この商品(this article)の交易は非常に多く、そのヒジャーズでの消費は殆ど信じられ無い程に多い。大きな量がエジプト向けに船積みされる。共通のパイプはトルコ軍兵士とベドウイン(Bwdouins)を除いて、ヒジャーズ(Hedjiaz)では使われていない。タバコ(the tabacco)はエジプトで栽培されるか、センナール(Sennar)から運ばれる。センナールからタバコはソワキン(Sowakin)に運ばれる。ほんの僅かな良質のシリア産のタバコは紅海を横断する方法を見出している。
コーヒーハウスは日長、人々で一杯になっており、その前には一般的には小屋が建てられ、その中でも人々が座っていた。部屋、ベンチおよび小さく低い椅子は全て汚らしく、キチンとして優雅に見えるダマスカス(Damascus)と好対照を成す。立派な商人達をコーヒーハウスで見掛ける事は決して無かったが、三流の人々、船乗りはコーヒーハウスを恒久的な集会所(resort)とした。全ての人々は自分の為の特別な家を持ち、その家で自分と商売する相手と会っていた。
友達に夕食を接待出来ないアラビア人は友達が通るのを見るとコーヒーハウスに入って、カップを取る様に招待した。もし、この招待が拒絶されると非常に不快に思った。アラビア人の友達がコーヒーハウスに入ってくるとアラビア人は給仕にこの友達に1パイ持って来る様に注文した。給仕はそれを渡しながら大声で叫ぶのでこの場に居合わせた全ての人は給仕が「無料(garatis、djebba)」と云うのを聞くだろう。アラビア人は債権者を騙したり、取引の中で信義を裏切ったしても公の譴責(censure)を免れるが、もしコーヒーハウスの給仕を代金の支払いで騙そうとした事が知られると汚名を着せられてしまう。
トルコの兵隊達はアラビア人に持たれている軽蔑感をこの点に置いてもっとも増してしまっている。私はヒジャーズのコーヒーハウスでエジプトでは一般的で、シリアではもっと多い、語り人を見たことが無かった。マンガル(Mangal)は一般的に彼等全てが戯れ、そしてヨーロッパのゲームとは少し違うドラフトの一種(a kind of draughts)であるダマ(the Dama)も戯れられた。ヒジャーズでチェスが対局されているのを見たことが無かったけれどもチェスはまれでは無く、特定のシャリフ達(the sherifs)はチェスを好んでいると聞いた。
殆ど全てのコーヒーショップで小さな香水を満たした壺(jars)に入れた冷たい水を売る水売りがスタンドを持っていた。東洋人(the orientaks)はコーヒーを飲む前にしばしば水を飲むが、決してコーヒーの後直ぐには水を飲まなかった。シリアではコーヒーを飲んだ直ぐ後に水を頼んだ結果、私は外国人あるいはヨーロッパ人として認識された。給仕は「もし、貴方がこの国の出身者であれば貴方の口に残ったコーヒーの味を水で洗い流して台無しにはしないだろう」と言った。 5.2 バター売り(butter seller)(21軒)
21人のバター売りは同じ様に蜂蜜、油および酢を小売りしている。バターはイタリア料理よりも更に脂っこいアラビア料理では主要な材料である。アラビア語でズブデュ(Zebde)と呼ばれる新鮮なバターをヒジャーズで見掛けるのは非常に珍しい。コーヒーカップ1杯の溶かしたバターまたはギー(ghee)を毎朝飲み、その後でコーヒーを飲むのは全てに階層で一般的に行われて居た。ヒジャーズの人々はこれを力の付く強壮薬と考え、この使用を中断するのは非常に不都合であると感じる程に若者に成ったばかりからの習慣としていた。上層階級は多くの量のバターを飲む事で満足していたが、下層階級はもう半杯追加する様に命令し、このチャンネルによって汚れた空気が体に入り込むのを防ごうと目論み、彼等はこれを鼻孔で嗅いだ。
(注)ギー(ヒンディー語、ghee)は、インドやアフガニスタンなどで古くから作られ、食用にされている乳脂肪製品。澄ましバターの一種。バターに似ているが、加熱する過程で独特の香ばしい香りが生まれる。語源はサンスクリット語で「ふりかけられた」を意味する。(ウィキペディア)
この習慣は一般的でこの町の住民達ばかりで無く、ベドウインも持っていた。更に、下層階級は黒人と同じ様に皮膚を新鮮に保つ為に胸、肩、腕および足をバターで擦るのを習慣にしていた。戦争の間は内陸から入ってくるこの物資の交易は殆ど途絶えてしまうが、平和の時でさえ、バターの移入量はジッダの消費量には十分でなかった。この為にソワキン(Sowakin)から運んで来る者達もいた。しかしながら、最高の種類で大量なのはマッソワ(Massowah)から運ばれ、ここではダラクバター(Dahlak butter)と呼ばれている。そこから到着する全ての貨物の殆どは再びメッカへと運ばれた。バターはこの様にコッセイール(Cosseir)から輸入されている。これは上エジプト(Upper Egypt)から運ばれ、水牛のミルクから作られている。ソワキン(Sowakin)とダラク(Dahlak) 産のギー(ghee)は羊のミルクから作られる。
ヒジャーズ(Hedjaz)の山間部は何処でも蜂蜜が豊富である。最高の蜂蜜はノワスゼラ ベドウイン(Nowaszera Bedouins)の住む場所からタイフ(Tayf)の南に運ばれてくる。下層階級の普通の朝食は竈でかなり暖めたパンくず(crumbs of bread)の上にギーと蜂蜜を混ぜた物を注いだ食物である。ゼリー状の菓子(paste)を非常に好むアラビア人は蜂蜜無しでは決してこれを食べない。
ランプに使われる油はセサムン(Sesamum)の物である。アラビア人は魚を揚げるか、貧者に与えるゼリー状の菓子(paste)に混ぜる以外に油を調理用には使わない。北部トルコで好まれるサラダはアラビア人の食卓では決して見る事は無い。
(注)Sesamum mulayanum NAIRはゴマ栽培種(S.indicum L.)の野生近縁種でインド亜大陸に分布する。(河瀬真琴先生)詳細は(http://ci.nii.ac.jp/naid/110003709752/)参照。 5.3 野菜あるいは果物の露店(vegetable or fruit stand)(18軒)
野菜をたくさん食べるトルコ軍のお陰でこれらの露店は今では大変多くなった。全ての果物はメッカの後背地で果樹園の豊かなタイフ(Tayf)から運ばれてくる。私はここで7月に最高の葡萄を見つけた。それと共にメッカ(Mekka)の後背地の山々では中級品質のザクロ(pomegrarnates)、ヨーロッパ産ほど刺激が強い味では無く恐らく生で食べられるマルメロ(quinces)、桃(peaches)、カイロ産の様に小さな大きさのみのレモン(lemons)、苦いミカン(oranges)、タイフ(Tayf)では育たないがメディナ道路沿いの主としてサフラ(Safra)やジェデイダ(Djedeyda)およびコレイス(Kholeys)から運ばれてくるバナナ(bananas)等が豊富であった。これらの果物は11月まで続いた。3月には西瓜(water melons)が涸れ谷ファトメ(Wady Fatmé)から運ばれて来た。この西瓜は小さいと言われるが良い風味である。
アラビア人達は葡萄以外の果物は殆ど食べない。アラビア人達は「果物は胆汁(bile)を作り、時々胃腸にガスの貯まる鼓腹(flatulence)を作り出す」と云うがこれは多分間違ってはいないだろう。ジッダ(Djidda)で売られている果物は特に品質が悪かった。これは熟さないまま、タイフで梱包され、輸送の途中で発酵に寄って人為的に熟させる為であった。トルコ人達は毎朝、店の前で少量で非常に高価な果物を買う為の努力から口論し、揉めている。
野菜もジッダの6、8マイル北にある涸れ谷ファトメ(Wady Fatmé)からジッダ(Djidda)に運ばれ又、メッカ(Mekka)へも供給されている。普通の種類はメロウキェ(Meloukhye)、バムイェ(Bamye)、ポルツファカ茄子(Portulaca eggplants)あるいはバディンガン(Bardingans)、キュウリおよび大変小さい蕪(turnips)である。蕪は葉っぱが食用にされ、根は無用の物として棄てられてしまう。アラビア人の調理で毎日適当に(regularly)使われる野菜は二十日大根(radishes)とニラ葱(leeks)だけである。調理する人は少なく、普通の人達はパンと一緒に生で食べている。一般的にアラビア人は野菜を殆ど食べず、アラビア人の料理は肉、米、小麦粉およびバターで構成されている。
これらの果物店ではホマール(Homar)と呼ばれるタマリンド(tamarind)も売られている。タマリンドは東インド諸国から運ばれ、黒人の国みたいにケーキ(cakes)には入れられず、もっと分解させて自然のままで食される。水に入れて煮沸すると清涼飲料となり、病人にはシチューに入れて肉と一緒に煮て供される。 5.4 デイツ売り(date seller)(8軒)
アラビア人が使う全ての食品の中でデイツ(dates)はもっとも好まれており、預言者が全ての他の種類の食料に対してデイツの傑出さを示した様に多くの伝統を持っている。デイツの重要性は一年を通じて途切れない事である。6月の終わりにルテブ(ruteb)と呼ばれる新しい実が出て、2ヶ月続き、その後の残りの年の間、アドジョウエ(adjoue)と呼ばれるデイツペーストが売られる。これは圧縮されたデイツで作られている。デイツが熟すと大きなバスケットに入れて堅く固形のペーストあるいはケーキに成るまで圧縮する。各々のバスケットはおよそ2ハンドレッドウェイト(hund- redweight)である。この状態でベドウイン(the Bedouins)はアドジョウエ(adjoue)を売り出す。市場ではこのバスケットを切り分けてポンド単位で売っている。アドジョウエ(adjoue)は全ての階層の人達が毎日食べる常食の一部である。旅行中は水に溶かされ、甘い清涼飲料と飲まれる。12種類以上のアドジョウエ(adjoue)があり、最高級品は今ではワッハーブ派(the Wahabis)が占拠しているタイフ(Tayf)の後背地タラバ(Taraba)から運ばれる。現在、市場で一番一般的な種類はファトメ(Fatmé)から運ばれ、更に高級な種類はメディナ道路のケレイス(Kheleys)、ジェデイデ(Djedeyde)から運ばれて来る。季節風の吹く間はペルシャ湾から来た船がバスラ(Basra)産のアドジョウエ(adjoue)を運んで来て、約10ポンドの小さなバスケットに入れて売り出す。この種類は他の全ての人達に好まれている。東インドの商船は帰途に相当多量のペーストを持ち帰り、それをヒンドスタン(Hindostan)の回教徒に売って大きな利益を得ていた。
5.5 パンケーキ作り(pancake maker)(4軒)
パンケーキ屋は朝食として好まれるバターで揚げたパンケーキ早朝に売っている。 5.6 豆売り(bean seller)(5軒)
豆売りも又、早い時間には朝食を売って居り、エジプト産のソラマメ(horsebean)を水で茹でて、ギー(ghee)と胡椒を混ぜて食べさせる。茹でた豆はムダンメス(mudammes)と呼ばれ、エジプトの人々の好む料理であり、それをアラビア人達は取り入れていた。 5.7 菓子売り(seller of sweetmeats)(5軒)
スウィートミート(sweetmeats) (砂糖漬け、ケーキ、砂糖菓子、練り粉菓子等)、砂糖漬けのプラムやその他の菓子類を売っており、ヒジャーズの人々は私の見たどの東洋人(Orientals)よりも菓子類を好む。ヒジャーズの人々は夕食後に菓子を食べ、夕方には菓子売りの露店は大勢の顧客で囲まれる。インド人が一番上手に作る。私がエジプトで見掛けないような商品はここでも見ていない。バクラワ(Baklawa)、グナフェ(Gnafe)およびゲレイベ(Ghereybe)はカイロ(Cairo)やアレッポ(Aleppo)同様に一般的である。
5.8 ケバブの店(kebab shop)(2軒)
ここでは焙った肉が売られている。ケバブ(kebab)はアラビアの料理では無いのでここにはトルコ人が居る。 5.9 スープ売り(soup seller)(2軒)
ここでは茹でられた羊の頭や足が売られて居り、日中に顧客の多くはやってくる。 5.10 魚の揚げ物売り(seller of fish fried)(1軒)
油で揚げた魚を売る店にはトルコ人とギリシャ人の船員が繁くやってくる。
5.11 パン売り屋台(stand where bread is sold)(10、12軒)
パンは一般的には女性によって売られている。パンはいやな風味を持ち、料理がキチンと清潔にされず、パン種(leaven)が悪い。同じ大きさの一塊りのパン(loaf)はカイロでは2パラ(paras)で売られているのに、ここでは相当質が悪いのに8パラもする。
(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。) 5.12 ラバン売り(seller of leben)(2軒)
ラバン(leven)あるいは酸っぱいミルク(sour milk)はヒジャーズの何処でも非常に貴重で好まれている。「羊飼いの間でさえ、ミルクが欠乏し、今なおジッダやメッカでもそうであるが、事実これらの町の直ぐ近傍は極端に不毛であり、殆ど牛の放牧には向いて居らず、非常に僅かな人達がミルク代を負担できるだけである」と云う不思議な事が起きている。私がジッダに居た時に、重量で売られるミルクがロトロ(rotolo)あるいはポンド(pound)当たり、1.5ピアストル(piastre)で、好意によってのみ手に入れられた。北部トルコの人達がヨーグルト(yoghort)、シリア人達やエジプト人達がラバン ハメド(leven-hamed)と呼ぶ物は土着のアラビア人の料理には現れなかった。少なくともアラビアのベドウインは決して作る事は無かった。 5.13 カンマレッディンの店(kammared'din, & C)(2軒)
トルコ人達が経営し、ギリシャのチーズ、乾し肉、乾し林檎、イチジク、葡萄、アンズ等カンマレッディン(kammared'din, & C)をカイロの三倍の値段で売っている。このチーズはクレタ島(Crete)北岸のカンディア(Candia)から輸出され、トルコ軍全体から非常に愛好されていた。ヒジャーズでは異なった種類のチーズが作られていた。このチーズは極端に白く、塩を加えてあるのに長くは保管できず、どちらにせよ栄養価が高くは無かった。ベドウイン自身は余りチーズにこだわって居なかった。ベドウインはミルクとして飲むかバターを作るかの何れであった。
これらの店で売られている乾し肉は小アジア(Asia Minor)産の塩漬けした燻製の牛肉でトルコ中でバストルマ(bastorma)の名で知られて居り、旅行者達に大変好まれた。トルコ兵達や巡礼達(Hadjis)は特にこれを好んだが、アラビア人達にはそれを味見させる事は出来なかった。アラビア人達の多くはバストルマが自分達の知っている他の全ての肉と違って見えたので、豚肉では無いかと見なし、トルコ軍の兵隊に持っている(悪い)評価に固執し、その宗教的原則がこの頭の偏見を取り去る事は無さそうである。
アンズを除いて上記全ての乾燥果物はエーゲ海(Archipelago、Aegean Sea)から輸入され、アンズはダマスカスからアラビア全土に送られた。そこではアンズをアラビア人特にベドウインが贅沢と考えていた。種は抜き取られ、ペーストに圧縮され、太陽で乾かす為にその葉の上に広げられた。これは水に溶かすと非常に風味の良い汁(a pleasant saurce)を作った。ヒジャーズ中の行進を通じて、トルコ軍は殆ど完全にビスケットとこの果物で凌いでいた。
5.14 大きな穀物商の店(large shop of corn-dealer)(11軒)
ここではエジプトの小麦、大麦、豆、レンズ豆(lentils)、アズキモロコシ130(dhourra)、インド産とエジプト産の米、ビスケット等が購入出来た。今はヒジャーズで売られている小麦だけがエジプトから運ばれている。平和になり、相当量の輸入品がイエメンからメッカとジッダ、ネジド(Ndjied)からメディナへ運ばれているが、エジプトからの輸入が断然もっとも多く、ヒジャーズは実際に穀物についてはエジプトに頼っていると言える。
穀物貿易は以前には個人の掌中にあり、シェリフ ガレブ(the Sherif Ghaleb)もこれに投機していたが、現在では太守モハンメド アリ(Mohammed Aly Pasha)がそれを完全に自分の掌中にしており、スエズ(Suez)やコッセイール(Cosseir)で私人に売る事は出来ず、全ての穀物は太守の勘定で船積みされている。これは同じ様に米、バター、ビスケット、玉葱等の後に大量に輸入される様に成った糧食ついても同じである。
私がヒジャーズに住んでいた時にはこの国は十分に生産できず、太守はジッダでエルデブ(erdeb)当たり130から160ピアストル(piastres)で売っていた。その他全ての糧食はこれに比例して値が付けられていた。例えばトウモロコシ(corns)は上エジプトでエルデブ (erdeb)当たり12ピアストル(piastres)で買い、ジェンヌ(Genne)からコッセイール(Cosseir)への運搬費、そこからジッダまでの船賃を含んで25から30ピアストル(piastres)が原価であった。
この莫大な利益はこれだけでワッハーブ派(the Wahaby)との戦争を行う費用を支払う(defray)のに十分であったが、これには人々の善意を宥める(conciliate)為の計算はほとんどされて居なかった。しかしながら、ベドウイン達は糧食をメッカとジッダに依存しており、この様に困窮を免れる為に太守の職務につかざるを得ず、太守から報酬を受け取っていたので、太守の支持者達(partisans)は穀物の値段を高く維持した状態でも「ヒジャーズのベドウイン達に自分の利益の為に安全を保障している」と言い立て、太守の弁解をした。
ヒジャーズの普通の人々は殆ど小麦を使わなかった。この人達のパンは小麦よりも1/3安いアズキモロコシ (dhourra)か大麦の粉の何れかで作られ、さもなければこの人達は完全に米とバターで生活していた。これは海岸のテハマ(Tehama)地方のベドウイン達も殆どが同じであった。ジッダ(Djidda)のイエメン人はアズキモロコシ (durra)しか食べなかった。
ジッダで使われる米の殆どはインドから底荷(ballast)として船積みされてきた。最高の種類はグゼラート(Guzerat)とカッチ(Cutch)から運ばれて来た。これがヒジャーズの人々の主食を成していた。ヒジャーズの人々はエジプトの米に対してこちらを好んだ。それはこの米の方がエジプト米よりも健康に良い(wholesome)と考えていたからである。エジプト米は殆どトルコ人達と北方来た外国人達によって専用に使用されていた。インド米の粒は一般的な種類のエジプト米よりも大きくて長く、黄色をしていた。エジプト米は赤いシミがあった。しかしながら、両方の米とも最上の物は雪の様に白かった。インド米は炊きあげるとエジプト米よりも膨れ上がり、この為、少ない量で皿を満たせるとしてアラビア人に好まれたが。エジプト米の方が栄養価は高かった。インド米の方が比較的安く、ジッダからメッカ、タイフ、メディナそしてそこからネジド(Nedjed)へと運送された。
私はヒジャーズのあらゆる所でベドウインが旅行する時には米、レンズ豆、バターとデイツ以外の糧食は持たないのが分かった。エジプトからのビスケットの輸入は後にトルコ軍が使うので非常に多くなった。アラビア人はビスケットを好まず、船上でもめったに食べなかった。アラビア人は船上でも小さな竈で毎朝、酵母の入って無いケーキ(unleavened cake)を焼いている。この小さな竈は紅海を航行する全ての大きさの各船に備え付けられている。
塩は穀物商(the corn dealers)が扱っている。海塩はジッダの近くで集められて居り、シェリフの手に独占されていた。メッカの住人達はタイフ(Tayf)の近くの或る山からベドウインによって運ばれてくる岩塩を好んだ。 5.15 タバコ店(tobacco shop)(31軒)
タバコ店ではペルシャ製の煙管(pipe)の為のシリア製およびエジプト製のタバコ(tobacco、tombac or tobacco)、煙管(pipe)の頭部、煙管の蛇管、ココナッツ(cocoa-nuts)、コーヒー豆(coffee-beans)、ケシュレ(keshre)、石鹸(soup)、アーモンド(almonds)、ヒジャーズ干し葡萄(Hedjaz raisins)およびその他の食品雑貨(grocery)の幾つかの商品を売っていた。
時にはセンナール(Sennar)のタバコ(tobacco)と混ぜられるエジプト製のタバコは一番安く、ヒジャーズ(Hedjaz)全体で大きな需要があった。これには2種類があった。一方の葉は乾かしても緑であり、リッベ(ribbé)と呼ばれ、上エジプトから運ばれてくる。もう一方のタバコは茶色の葉で、その最高級品はタタ(Tahta)付近からスート(Siout)の南にかけて成長する。ワッハーブ派(Wahabys)が力を持っていた間はタバコ(tobacco)は公には売れなかったが、ヒジャーズのベドウイン達は熱烈にタバコを好み、タバコ(tobacco)又はドカン(dokan)としてでは無く、男の嗜好品と云う名で、自分の店で内密に売る者達が居た。大変に美しく(prettily)仕上がられたペルシャ煙管(Persian pipe)の長い蛇管はイエメンから輸入された。ココナッツ(Cocoa-nuts)は東インドおよびアフリカの南東海岸およびソマウリ(the Somawly country)から持って来られ、季節風の吹く時期にはとても新鮮で値段も安かった。ジッダとメッカの人々はココナッツを非常に好む様だった。大きなナッツは既に述べた様にボウリ(boury)又は普通のペルシャ煙管に使われ、もっとも小さいのはかぎタバコ入れ(snuffbox)に使われた。
石鹸はスエズから運ばれ、スエズへはシリアから運ばれた。シリアは紅海の全ての海岸に石鹸を供給していた。石鹸交易は相当に大きく、そしてその大部分はヘブロン(Hebron)の商人達の掌中にあり、ヘブロン商人達が石鹸をジッダへ運んできており、ジッダでは幾つかの種類が常に見つけられた。
アーモンド(almonds)および干し葡萄(raisins)はタイフ(Tayf)とヒジャーズ(Hedjaz)の山々から運ばれて来る。両方とも大量に東インド(East Indies)にまで輸出されていた。アーモンドは最高に優秀な品質であり、干し葡萄も小さく、大変黒かったが、非常に甘かった。酩酊させる(intoxicating)蒸留酒(liquor)がそれから作られる。 5.16 薬屋(druggists)(18軒)
薬屋は皆、東インド諸国(the East Indies)の出身で殆どがスラト(Surat)からやって来ている。全ての薬に加えて、蝋燭(wax candles)、紙、砂糖、香水類(oerfumery)および香(incenses)を売っている。香はこの町の住人が大量に使っている。この町では地位のある家族(the respectible families)は毎朝、最高の部屋は香りで満たした(perfume)。炭火の上で燃やされる乳香樹の樹脂(mastic)と白檀(sandal-wood)がもっとも一般的にこの用途に使われる。
全ての種類の香辛料(spices)と暖める為の薬(heating drugs)はヒジャーズでは一般的にに使われている。個人の家で小豆蔲(しょうずく)(cardamoms)又は丁字(cloves)を混ぜないでコーヒーを飲む事はめったに無かった。そしてインド又はエジプトから来る赤唐辛子(red peppers)は全ての料理に使われた。
ジッダおよびメッカの薬屋(druggists)の取引で多い商品はタイフの果樹園から運ばれるバラの蕾である。ヒジャーズの人々、特に婦人はバラの蕾を水に浸し、後で体を洗う(ablutions)のに使った。人々は又、バラを砂糖と共に煮沸し、砂糖漬け(conserve)を作った。
薬屋で売られている砂糖はインドから運ばれ、黄色じみた白い色をしており良く精製されているが、粉であった。エジプト産の砂糖も少量ながら輸入されていたが、人々は好まなかった。一般的に人々はインド産の方が優れた品質であると考えて、全てインドから来る物を好んだ。これは英国で生産・加工されている商品がヨーロッパ大陸で好まれたのと同じであった。
インド人の薬屋は皆、豊かな財産を持つ男達であった。この男達の交易は非常に儲かるが、アラビア人は誰も対抗出来なかった。メッカで又、タイフ、メディナおよびイエンボで全ての薬屋はインド人の子孫である。このインド人達は数世代に渡って、この国の中で自分達の地位を確立し、完全に国民と成って来ているけれども、ヒンドゥー語で話す習慣は続けており、「自分達を一般的に非常に嫌い、貪欲(avarice)でインチキ(fraud)である」と非難するアラビア人と区別している。 5.17 インド産の小物を売る店(shop to sell Indian small articles)(11軒)
インド産の小物を売る店では陶磁器(chinaware)、煙管の頭、木製スプーン、ガラスのビーズ、ナイフ、数珠(rosaries)、鏡、カード等を売っている。この様な店は多くはボンベイ(Bombay)から来たインド人が経営している。針、ハサミ、指ぬき(thimbles)および書類挟みを除いてこのやり方ではここにヨーロッパ製品は殆ど見当たらなく、それ以外のその他全ての製品はインドから来ている。
中国製陶器(earthenware)はヒジャーズでは非常に尊ばれる(prized)。シリアでも見られる様に裕福な住民は中国製陶器の非常に高価な収集を居間の棚に並べて展示している。私はメッカとジッダの両方で、テーブルに運ばれた中国製の皿を見ている。これらの皿の大きさは直径が少なくとも2.5ftあり、二人ではないと持てず、焙り焼き(roasted)にした羊1頭を載せていた。
ジッダから輸出されるガラスのビーズ玉は主としてソウアキン(the Souakin)市場用およびアビシニア(Abyssinian)市場用であった。ガラスのビーズ玉は一部はベネティアン(Venetian)製で一部はヘブロン(Hebron)製である。ヒジャーズのベドウインの女性は黒い角の腕輪(bracelets)で琥珀の首輪(amber neckleces)しているけれども同じ様にビーズ玉を身に着け、彼女達の間ではもっと流行っている様だ。
ボンベイから持って来られ、アフリカのまさに中心で使われるレイシュ(reysh)と呼ばれる瑪瑙のビーズ(the agatebeads)を売っているのもこれらの店である。蝋から作られる赤いビーズの一種もここでは大量に見られる。これはインドからアビシニア向けに輸入される。数珠(rosaries)については多くの種類が売られている。ヨッセール(yosser)から作られたのが一番高価である。これは紅海で育つ珊瑚の一種である。最高の種類はジッダ(Djidda)とゴンフォド (Gonnfode)の間で見つかり、深い黒い色をしており、素晴らしく磨き上げられる。100粒のビーズを吊した紐がその大きさによって1から4ドル(dollars)で売られている。これらのビーズはジッダのろくろ師によって作られ、マレー(Malays)に大きな需要がある。インドから運ばれて来るその他の数珠(rosaries)は芳香のあるカラムバク(odoriferous kalambac)および白檀(the sandal wood)で作られており、エジプトからシリアにかけて大きな需要がある。故郷の友達へのお土産としてこれらの数珠を聖なる都市から持たずにヒジャーズを離れる巡礼はほとんど居ない。
5.18 衣料品店(clothes shop)(11軒)
ここでは様々な種類の衣裳(dress)が毎朝、公共のセリで売られている。これらの衣裳の大部分はトルコ風で、第1級か第2級の商人達に衣料の裁断に幾つかのわずかなこの国風の手直しをして着られている。巡礼(Hadj)の期間の間、これらの店には主としてイーラム(the Hiram or Ihram)の買う為に客が大勢集まり、これを着て巡礼(pilgrimage)を行う。イーラム(the Hiram or Ihram)は一般的に白いインド製のキャンブリック(cambric)の2つ長い布で構成されている。
ここでも又、ヒジャーズのベドウイン達がエジプトから運ばれた毛織り物 (woollen) のアバー(abba)やベドウイン用の袖無し外套(cloak)を買いにやってくる。この商品は完全にエジプトからの輸入に頼っている。ヒジャーズのベドウイン達は自分達自身のアバー(abba)を作るのを他のベドウイン達の妻達に委ねるのが習慣なので、このようにヒジャーズ(Hedjaz)のほとんどの人達と同じに怠惰な性格(the indolent character)を持っている様だ。
ここではシェイク(Sheikh)のテントの備品として不可欠である粗悪な品質のトルコ製絨毯も売られている。これらの店ではこの様にエジプトから輸入される衣裳に必要な他の全ての商品を小売りしている。これらには、メッライエ(mellayes)、綿のキルト(cotton quilts)、シャツ用の亜麻布(linen)、農民が着る青く染められたシャッ、もっと豊かな商人や全ての女性が穿く赤や黄色のスリッパ、赤い縁なし帽(caps)、全ての種類の布の衣裳(dresses)、古着のカシミヤ ショール(cashmere shawls、Kashmir shawls)、平織の柔らかい綿織物(muslin)のショール等々があった。 5.19 測り売りされる反物の大きな店(large shop of piece-goods)(6軒)
立派な商人達に所有されるフランス製の布、カシミヤ ショール等はその商人達の店員によってここで小売りされる。インド製の測り売りされる反物しか扱わないここに土着した大きなインド商人達を除く殆どの全ての主要な商人達は自分の邸で小売も行っている。ジッダのその他の商人達は交易の全ての部門に従事している。かつて、私はイエンボ(Yembo)の行商人(pedlar)とメッライエ(mellaye)の価格を巡って僅か15シリング(shillings)で口論しているジェイラニ(Djeylany)の兄弟を見たが、これはエジプトとシリアも同じで、そこではもっとも裕福な現地人商人達が小売を行い、この商売のやり方では殆ど必要の無い店員や会計の大きな組織を持たずに商売の微細な詳細にまで入り込んだ。
トルコ人商人達は決して1冊以上の会計帳簿持つ事は無く、この中に手帳から週毎の売る上げや仕入れを写していた。トルコ人商人達はヨーロッパ商人達が保管しなければ成らない広範囲な往復文書(correspondence)は持って居なかった。トルコ人商人達はヨーロッパ商人達よりも書く事はすくなかったが、目的の為には一層その様にしていた。トルコ人商人達が交易する全ての町には1人の友達が居て、その友達と、毎年帳尻を合わせていた。港町に住む者達を除いてトルコ人商人達は一般的に交易の1部門を追求していた。町との文通を維持し、そこから商品知識を得て、それに基づきそこに商品を輸送した。この様にして、例えば3万から4万ポンド(pounds)の資本を持つアレッポ(Aleppo)の大きなバクダッド商人達は商品をバクダッドの友達から受け取り、アレッポ(Aleppo)からコンスタンティノープル (Constantinople)へ送る。私は店員を使わず、商売全てを自ら取り仕切っているトルコ人商人達を多く知っている。
カイロ(Cairo)ではシリア人商人達はダマスカス(Damascus)やアレッポ(Aleppo)の反物(stuffs)を交易し、全体ではマグリブ(Maggrebin)、シリア(Syria)およびジッダDjidda)商人達と無関係である。更に商業上の取引(Mercantile transaction)は主として自分自身の資本を使う貿易業者達やヨーロッパよりもっと狭い範囲の委託事業によって単純化されている。
商人が相当な量の商品をある場所へと発送する時に商人は自分の友達(partner)がその場所に居なければ自分の友達或いは自分の親族を商品と共に派遣した。関係する銀行業および為替手形(billa of exchange)は現地人達の間では全く知られて居らず、これが現地人達を多くの面倒(troubles)から救って居た。ヨーロッパの在外商館(factory)が設立された町では手形が見つかるが、指定がただの習慣である現地人達の間では手形は殆ど通用しなかった。
東洋で等しくイスラム教徒(Mahomedam)、キリスト教徒(Cheistian)およびユダヤ教徒(Jewish)の商人達によって踏襲されていた資本の実際の状態の正確な差し引き勘定が決して引き出され無い慣習(practice)がヨーロッパより詳しい帳簿が必要とされなかった事のもう一つの理由である。
同じ理由でベドウイン達は自分達のテントや所有する羊の正確な数を数えなかったし、軍司令官は兵士の正確な数を数えなかったし、知事も自分の町の人口を調べなかったし、商人も自分の財産の正確な額を確認しようと決してしなかった。これら全部のだいたいの額だけが商人の知りたい全てであった。これは「天が急激な減少で罰するだろう財産の仰々しい表示が集計である」との信条から生まれた。
東洋の商人達は稀に冒険的な投機(hazardous speculations)に陥るが、自分の資本の及ぶ範囲に取引を制限している。個人の営み(affair)は一般的にヨーロパよりもっと公に知られて居るので、大きな額の掛け売り(credit)して貰うのは難しかった。従って、支払い不能(failure)は稀にしか起きず、投機の失敗や免れない損失から金銭的に困った(embarrass)時には債権者達(creditors)は請求を強要するのを控え(forbear) 、一般的には数年の辛抱で債権は支払われるので結果的に破産を防いでいる。
しかしながら、その一方で東洋の商人達はしばしば期日に遅れる支払いに関しては不確定であるとの汚名(imputation)があるのは免れない(liable)。一番信用出来る商人でさえ借金(debt)の支払いを数ヶ月遅らすのを躊躇しない。「割り当ては指定された期限の2倍近く経過するまでは決して全額支払わない」とエジプトやシリアでは一般的規則として述べられているのだろう。しかしながら、私がここでもっとも学識のある(informed)人々からは多くの場合、「これはたったこの20、30年の慣例(practice)であり、レヴァント(Levant)での商業の全般的な腐敗と資本の減少の結果である」と確信させられている。ジッダにおいては私が既に見てきた様に、殆ど全ての値引きでの売買は現金取引である。 5.20 銅製容器売店(seller of copper vessels)(3軒)
見事に錫メッキをした銅製容器の種類は全てのアラビアの家の台所で見られる。ベドウイン達でさえ少なくとも天幕毎に大きな湯沸かし器を持っている。これら全てはエジプトから運ばれて来ている。この種類(description)でもっとも目立つ商品(conspicuous article)はアブリク(abrik)すなわち水容器(water-pot)であり、これを用いてミュセル人(the Muselman)は体を洗う(ablution)。トルコ人巡礼はヒジャーズにこの様な容器を1つも持たずに到着する者は居ないし、少なくともジッダで1つは購入する。市場ではここへとマレー人達によって運ばれて来た中国製の幾つかの銅製容器も見掛けるが、これらには錫メッキはされておらず、カイロから運ばれて来た小アジア(Anatolia)製の銅製容器よりももっと素晴らしい品質の様に見えるけれどもアラビア人達はそれを使うのを好まない。
5.21 理髪店(barber shop)(4軒)
床屋はかつてはこの国の外科医および内科医であった。床屋達はどの様にすれば血を出せるか、どの様にすれば穏やかな薬(aperient medichines)の異なった種類の調合ができるかを知っている。この国の普通の人達よりもあごひげ(beards)を長く厚い数人のアラビア人達はそれを小綺麗に刈り込み、頭の毛があごひげの前に出ない様にに非常に苦労している。口ひげ(mustachios)は常にぴったりと切られ、唇の上に垂れ下がる事は決して無い。これによってアラビア人達はまれにしか厚くもじゃもじゃの口ひげをハサミで当たる北部トルコ人達と違っていた。床屋には下層階級のぶらぶらしている人達が常に出入りして、新しいニュースを聞き、自分達も会話して楽しんでいた。
この様な店の1つで私はペルシャ出身の印鑑彫刻師(seal-engraver)が開業しているのを見つけた。巡礼が聖なる土地の訪問を終えた後、普通はその印鑑に巡礼者(El Hagjy)の1語を加えるので印鑑彫刻師の商売には好条件であった。 5.22 仕立屋(tailor)(4軒)
この町の様々な場所に住む多くの他の者達はほとんど外国人である。トウソウン パシャ(Tousoun Pasha)の宮廷仕立て師(court-tailor)はボスニア(Bosnia)出身のキリスト教徒で、この町の全ての他の仕立屋達に権威を及ぼしていた。仕立屋達は命令や侮辱のみならず、このキリスト教徒の時折の棒打ち刑に従うのに怒りのおさまらない思いでの不満を持った。 5.23 サンダル作り(maker of nâl or sandals)(5軒)
ヒジャーズ(the Hedjaz)には靴屋は1人も居なかった。靴やスリッパを穿く者はエジプトからそれらを輸入している商人達から買っている。
アラビア中で使われているサンダルの形は州毎に異なって居り、ニーブール(Niebuhr)が詳細に記述している(delineate)形にさらに1ダースの他の形を加えられるだろう。幾つかは或る階層の特有であり、例えば商人は決して船員のサンダルは穿かないだろう。これはトルコでの靴と同じで各州と階層で特別な形をしている。エジプトとアビシニアではサンダル造りには厚いなめし革が用意される。 5.24 水を入れる皮袋の店(shop to sell water skins)(3軒)
この3軒ではソワキン(Sowakin)とエジプトから運ばれた水を入れる皮袋(water-skin)が売られ、修理されている。ヒジャーズの大部分ではソワキンから来た皮袋が使われている。非常に軽く、こぎれいに縫われて居たので大きな需要が有った。ソワキン(Sowakin)製の革袋は毎日使っても3、4ヶ月は長持ちした。
5.25 ろくろ師(turner)(2軒)
ろくろ師はパイプチューブに穴をあけたり、ビーズを作ったりしている。 5.26 香料の売店(seller of sweet oils or essence, civet, etc.)(3軒)
この3軒ではオリーブ油(sweet oil)、香水(essences)、霊猫香(レイビョウコウ)(civet)、沈香(ジンコウ)(aloe-wood)、メッカバルサム(balsam of Mekka)およびエジプトのファユーム(Fayoum)から運ばれて来たバラ水(rose-water)を売っている。霊猫香 (civet)とメッカバルサム(balsam of Mekka)は直接仕入れ(first-hand)以外は純粋なままではめったに買えなかった。ハベシュ人(Habesh)又はアビシニア人(Abyssinian)の商人達は霊猫香 (civet)を大きな牛の角に入れて持って来て、1814年にドラム(drachm)当たり4ピアストル(piastres)で売っていた。麝香(ジャコウ)(Musk)もこれらの店で売って居り、最高の物はメトカル(metkal)当たり2ドル(dollars)した。麝香はここへはインド人やペルシア人の巡礼達(Hadjys)が運んで来ていた。 5.27 時計屋(watchmaker)(1軒)
時計屋はトルコ人である。メッカおよびジッダ商人達は皆、時計をはめて居り、多くは良質な英国製であった。時計はインドから持ち込まれるか、コンスタンティノープル(Constantinople)からの巡礼達(Hadjys)によって運ばれて来た。トルコからの巡礼達(pilgrims)がヒジャーズ(Hedjaz)で金が入用な事はしばしば起き、その時には自分達のもっとも大切な品を手放さなければ成らない事はしばしばあった。その様な折りには時計は常に最初で、それから拳銃、サーベル(sabre)そして最後には見事な細工の煙管とクルアーン(Korán)の最高の写本の順に手放された。その結果、これらの品物はジッダ(Djidda)やメッカ(Mekka)の競り市では非常に一般的な商品と成っていた。 5.28 煙管売り(seller of Turkish and Persian tobacco pipes)(1軒)
ペルシア製の煙管(tabacco-pipes)はほとんどバクダッドから来た。裕福な者達の中には自分の居間に1本が100ドル(dollar)もする全ての種類の見事な細工の水ギセル(nargils)を展示する者も居た。 5.29 両替商 (seráfs) (money dealer)(7軒)
両替商は自由に通行できる通りに置いたベンチに座り、その前には金を入れた大きな箱を持っている。以前は両替商(seráfs)はすべてユダヤ人であり、僅かな例外を除き、カイロ(Cairo)、ダマスカス(Damascus)、アレッポ(Aleppo)では今でもそうであるが、シェリフ セロウト(the Sherif-Serout)がユダヤ人達をヒジャーズから追い出してからはジッダウィ(the Djiddawys)が本来の気質と慣習から自分達自身が行いたいと思っているこの専門分野に進出した。ここでは各両替の各屋台が半ダース程の個人で構成されるパートナーと組んでいるのが普通であった。商売を行うには大きな額の現金が必要であったが、それは非常に儲かった。私が知っている東洋のどの地域よりも迅速であるのがここの両替の価値である。ドル(dollar)およびゼッキーノ(sequins)の価格は殆ど毎日、変動し、そして両替商(seráfs)は常に確実に利得者であった。インドの商船隊が入港している間はドルの価値は非常に上がる。私がジッダに滞在している間にドル(dollar)は11、12ピアストル(piastres)に上がった。インドの商船隊が出発した後はドルに差し迫った需要が無いのでドルの価格は下落した。1815年1月にドルは9ピアストル(piastres)であった。
金貨もこの割合で変化する。以前はヒジャーズの古い流通コインはベニス(Venetian)とハンガリー(Hungarian)のゼッキーノ(sequins)、スペインのドル(Spanish dollar)およびコンスタンチノープル(Constantinople)で硬貨にされた貨幣である。エジプトの通貨は全く除外されていたが、太守モハンメド アリ(Mohammed Ali Pasha)の軍隊が到着してからはカイロの全てのコインが強制的に流通させられ、カイロ銀貨が今ではスペインドル(Sapnish dollar)の次に評価されている。
メッカの歴史学者によれば、ここのシェリフ達(sherifs)は17世紀まで自分達の通貨をコンスタンチノープル(Constantinople)のトルコ皇帝(the Sultan)の名の下で貨幣化する特権は当然の事と決め込んでいたが、今ではこれは放棄されている。
トルコ皇帝(the Sultan)の名の下で通貨を貨幣化する(coining money)権利を享受していたエジプト太守(the Pahsa of Egypt)は近頃はこの特権を乱用する様になった。1815年に太守は貨幣鋳造所(mint)に年間7百万ピアストル(piastres)の鋳造を請け負わせた。これは現在の交換レートで換算すると約20万英国ポンド(pomds sterling)に相当し、このピアストル(piastres)貨幣は22、23枚で1ドル(dollar)の価値しか無いのが良く知れ渡っているにも拘わらず、8枚でドル貨幣1枚と交換する様に人々に強制した。
ヒジャーズ(the Hedjaz)において太守は自分の権力の及ぶ範囲全域にその横暴な施策(his despotic measures)を強制する手段を持って居なかったので、同じ国の内部でもトルコ軍が駐在する地域ではドルは18、19ピアストル(piastres)の価値があった。しかしながらベドウイン達(the Bedouins)は貨幣価値を低下させてもエジプト ピアストル(the Egyptian piastres)を受け入れるのを拒否し、ドル(dollar)以外は受け取らず、この解決の為に太守自身がたびたび譲歩しなければ成らなかった。
ここではディワニ(diwany)と呼ばれるトルコのもっとも少額の貨幣パラ(párá)はヒジャーズ全体に流通しており、同じ様にカイロで鋳造されているのも拘わらずピアストル(piastres)よりも本来そなわっている価値が高かったので大きな需要があった。40パラ(párá)が1ピアストル(piastre)であったが、巡礼(Hadj)の季節には少額のお釣りが巡礼達の限りない毎日の往来の為に必要であり、シェリフ(the seráfs)は25パラ(párá)で1ピアストル(piastre)とのレートを決めていた。幾らかのインドルピー(Indian rupees)はジッダの市場でも見かけられたが、通用する通貨では無かった。私は一度もイエメンのイマム(Imán)によって鋳造されたどの様なお金にも出会わなかった。 5.30 大きなオカレ(okales)(10軒)
店の並ぶ同じ大きな通りには10軒の大きなオカレ(okales)があり、常に外国人と商品で一杯であった。オカレ(okales)の殆どが以前はシェリフ(the sherif)の所有物であり、今は太守(the Pasha)に属して居り、太守は年間の賃貸料を商人達に課した。シリアではこの様な建物はカーン(khans)と呼ばれ、ヒジャーズ(Hedjaz)ではエジプト方言で中庭(courtyard)を意味するホシュ(hoshu) と呼ばれていた。 5.31 芸術職人(artisans) 5.32 鍛冶屋(blacksmith)
5.33 銀細工師(silversmiths)
5.34 大工(carpenters)
5.35 屠殺屋(butchers)
大きな市場のある場所に隣り合う通りには数軒の芸術職人(artisans)、鍛冶屋(blacksmith)、銀細工師(silversmiths)、大工(carpenters)および幾つかの屠殺屋(butchers)等があり、その殆どが土着のエジプト人である。 6. 交易と駱駝放牧しか職業としないヒジャーズ住民 6.1 輸入頼りの必需品 ジッダ(Djidda)は必需品(commodity)を完全にエジプト(Egypt)あるいは東インド(the East Indies)からの輸入に完全に頼っており、そしてこれはどんなにくだらない小さな商品に当てはまっている。人手不足(want of hand)と手作業労働の高さに加えて、ヒジャーズ(Hedjaz)原住の人々の本質的な怠惰(indolence)および勤勉さの欠乏が今までのところはどうしても欠かせない品物を除いてどの様な種類の製造所(manufactory)の開設も妨げて来た。この点に関してヒジャーズ(Hedjaz)原住の人々はシリア人やエジプトのアラビア人とは対称的であった。シリア人やエジプトのアラビア人達は一般的に勤勉であり、時として政府によってその行動に妨害が行われても幾つかの製造業を確立しており、その国の幾つかの地域では完全に外国からの供給に頼らず独立している。 6.2 肉体的な努力無しにに生活できる有利な取引に投資しようする努力 ヒジャーズ(Hedjaz)の住民達は交易(commerce)と駱駝放牧のたった2つの職業しか持たない様であった。交易はオレマ(the olemas)即ち学識のある人も含めて例外なく殆ど全ての町在住者の心を夢中にさせた。皆んなが自分の持っている限りの財産を肉体的な努力(exertion)をせずに生活できる何か有利な取引(traffic)に投資しようと努力している。これらの人々は交易には付き物の不安とリスクの全てに耐えるのを熱望する程、駱駝放牧で生計をたてるのを嫌っている様に見える。 6.3 単純労働者やかつぎ人夫等の肉体労働者確保の難しさ 単純労働者やかつぎ人夫などにつく人間を見つけるのはいっそう難しい。この様な職業につくのはエジプト、シリアおよび黒人巡礼者達等多くは外国人であり、彼等は十分な生計費を稼ぎ、ジッダでの一時的な逗留ではあるにせよ普通に生活出来た。
アラビア人の中で私が他の種族よりも勤勉であるのを見出したのはハドラマウト(Hadramaut)出身の人々であり、エル ハダレム(El Hadáreme)と呼ばれている。彼等の多くは商人の邸で玄関番(doorkeepers)、メッセンジャー(messengers)やかつぎ人夫(porters)等の召使いの仕事についている。その正直さと勤勉さで他の者達よりも好まれている。
東洋の殆どすべてのかなりの規模の町ではそれぞれ特有のかつぎ人夫(porters)の種族を持っていた。アレッポ(Aleppo)では小アジア(Asia Minor)山岳部のアルメニア人(the Armenians)に、ダマスカス(Damascus)ではリバヌス山脈(Mount Libanus)の人々に、カイロ(Cairo)ではヌビアのベルベル族173(the Berábera Nubians)に、メッカ(Mekka)とジッダ(Djidda)ではシリア(Syria)と同じ様に山岳部族(mountaineers)のハダレーム(Hadáreme)にこの役目が要求されている。私の国でもアルプスの山岳民(the Alpine mountaineers)と呼ばれる田舎の人々にパリ(Paris)での同じ役目(the office)の資格が与えられている。これら全ての国々の間ではもう一つの印象的な類似性がある。彼等は一般的には稼ぎと一緒に故郷に戻り、彼等の残された日々を家族と共に過ごす。 6.4 賤しい召使いとなるよりは助長された乞食生活 この供給源にも拘わらず、ヒジャーズでは大きく、殆ど絶対的に召使いが不足していた。聖なる市の1つで生まれた者は食糧不足で死の危険に晒されない限りは賤しい召使いとしては働かなかった。生活が良く成るや否や労働を中止し、行商人(pedlar)もしくは物乞いに成った。メッカとジッダでの物乞いの数は非常に多く、そしてジッダの商人の間では一般に「ジッダの住人(Djddawy)は乞食をして糊口を満たしても決して労働はしない」と言われている。この地では聖なる土に最初に触れた時の慈悲心を見せるのを好んだ巡礼達によって乞食生活(mendicity)は大いに助長されていた。
ジッダの人々とその性格に関して、私は一般的にはジッダの人々と良く似ているメッカの住人を記述する中で更に観察する機会を持った。実際に全ての地位のある家族は両方の市に家を持ち、頻繁に行き来している。
7. トルコの3人の末輩中の1人である州知事 7.1 ジッダは栄誉であるよりはむしろ追放された場所 ジッダは3人の末輩中の1人の州知事(pasha)によって統治されており、この土地の聖なる市との繋がりから殆ど他の2人の州知事よりも上に立っている。しかしながら、この政府はトルコの高官達(the Turkish grandees)によっては殆ど尊ばれていない名誉でしか無く、高官達は「ジッダを栄誉であるよりはむしろ追放された場所だ」と見なして居り、実際にジッダは度々不名誉な政治家が任命された。知事(the Pasha)も自分自身をジッダのワリ(Wály)だけ称せずにソワキン(Sowakin)とハベシュ(Habesh)のワリ(Wály)と称した。そしてこの称号を擁護する為に税官吏(custom-house officers)をモハンメド アリ(Mohammed Aly)の政府が出来る以前は完全にシェリフ(the sherif)に頼って、ソワキン(Sowakin)とマッソウア(Massoua)に置いていた。
7.2 名誉職としてだけのパシャリクの存在 ジッダのパシャリク(pashalik)は完全に取るに足らない程までメッカのシェリフ(the sherif)の勢力によって削られ、その称号は単に名誉職となり、その称号を授けられた個人が自らの政府を持とうと企てる事も無く、トルコの何処かの地方の町あるいはコンスタンチノープル(Constantinople)に住んでその称号に満足するだけの存在となった。しかしながら、1803年のフランスによるエジプトの完全撤退の後、シェリフ パシャ(Sherif Pasha)がジッダ(Djidda)に4、5百人の部隊と共に行ったのが唯一の例外であった。しかしながら前任者すべてと同じ様にシェリフ パシャも単にシェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb)の手先となってしまい、ジッダとメッカの両市の多くのこれまでの知事(Pasha)と同じ様な突然死で1804年にその生涯(career)を終えた。 7.3 シェリフによる関税の横領 ワッハーブ派(the Wahaby)による最後の征服までヒジャーズの名目上の主権者(nominal supremacy)と認識されていたスルタン(the Sultan)の命令に従って、ジッダで徴収された関税からの歳入は州知事(the Pasha)とメッカのシェリフ(the sherif of Mekka)の間で均等に分けられてはいるが、町の支配は州知事(the Pasha)が完全に掌握していた。トルコがアジアを征服し始めた時にはシェリフ(the sherif)はこの歳入の1/3しか受け取って居らず、それはシェリフが1/2を受け取れる様に成ったヒジュラ暦(the Hedjira)1042年(およそ西暦1632年)まで続いた。しかしながら、その後、シェリフはジッダ政府を強奪した(usurp)ばかりで無く、関税も全部横領してしまい、敬意を払われるだけの州知事(the Pasha)はシェリフの寛大さにまるきり頼るしかなかった。 7.4ヒジャーズからのトルコ権威失墜(1811年) シェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb) はシェリフ パシャ(Sherif Pasha)の死後直ぐ、その前の年からサウード(Saoud)にジッダ(Djidda)を包囲されたままで、ワッハーブ派(the Wahabys)にメッカ(Mekka)を開城(serrender)せざるを得なかった。シェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb)は自分が未だにジッダと自分の収入の主要部分を占めるジッダ生み出す関税をを完全に領有したにも拘わらず、シェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb)は公式に「自分自身がワッハーブ派(the Wahabys)への改宗者(proselyte)であり、ワッハーブ派首長に臣従する」と宣言した。ワッハーブ派(the Wahabys)はうわべはその教義に賛成を宣言したこの町には入らなかった。トルコ兵は今やエジプトか何処かに退却しなければ成らならず、この時から1811年までにトルコの権威はヒジャーズから完全に失われてしまった。
8. シェリフの政府の終焉 8.1ワッハーブ派への太守モハンメド アリの作戦開始 1811年に太守モハンメド アリ(Mohammed Aly Pasha)はワッハーブ派(the Wahabys)に対する自分の作戦(operations)を開始し、その息子のトウソウン ベイ(Tousoun Bey)指揮下で軍事部隊(a body of troops)を送った。トウソウン ベイはイエンボ(Yembo)とメディナ(Medhina)の峠で敗北した。1812年の第二次遠征はもっと成功し、トウソウン ベイがこの年の9月にメディナを奪回し、太守(the Pasha)の義理の兄弟のムスタファ ベイ(Mustafa Bey)がその指揮下の騎兵隊を率いてジッダ(Jidda)、メッカ(Mekka)およびタイフ(Tayf)に直接進軍し、殆ど無血で開城させた。
シェリフ ガレブ(the Sherif Ghaleb)は太守モハンメド アリの遠征がまずは成功すると察知した瞬間からエジプトとの秘密連絡を行って居り、今は「自分自身が公にジッダに友達として入城して来たトルコの友人である」と宣言した。ジッダ知事の称号(the title of Pasha of Djidda)は間もなくトウソウン ベイ(Tousoun Bey)に対する貢献の褒美としてトルコ政府(the Porte)よってトウソウン ベイに与えられた。この戦争に関する詳細は別の節に記する。従って、ここではオスマン帝国(the Osmanlys)即ちトルコ(Turks)がジッダに入城した後、知事(the Pasha)とシェリフ(the sherif)の間で分けられるべき関税を現在の勢力の優位性から知事(the Pasha)が全てを取った為に両者の間で争いが起きた事だけを述べるに留める。知事(the Pasha)はシェリフ(the sherif)を囚人としてトルコに送り、そしてこの事件以降、この町は全て知事(the Pasha)の裁量下となり、新しいシェリフのヤーヤ(Yahya)はトウソウン(Tousoun)から給料を貰う使用人の1人でしかなかった。 8.2 シェリフの官吏ビジィールに代わった守備隊司令官 シェリフ ガレブ(the Sherif Ghaleb)の時代にはジッダ(Djiddah)の統治はガレブが在住の時は自分自身で行い、留守の時には警察を束ねるビジィール(Vizir)と呼ばれる官吏によって任されていた。一方、グムルク(gumruk)の徴収はグムルクジイ(the gumrukdjy)と呼ばれる官吏に任せられ、港の警察権はエミール エル バハル(Emir el Bahhr)に任せられていた。後にはビジィール(Vizir)はガレブ(Ghaleb)の黒人奴隷であり、そのうぬぼれと横暴な振る舞い(despotic conduct)の為に大変に嫌がられた(detest)。ガレブ(Ghaleb)のとどまることのないベドウイン達との不義(intrigues)とワッハーブ派(the Wahabys)部族に対する陰謀(scheme)がその存在をメッカの中枢として必要とした為にガレブ(Ghaleb)はめったにジッダに住まなかった。
ガレブ(Ghaleb)の下にあった政府の形態はオスマン帝国(the Osmanlys)によって変えられる事はなかった。トウソウン知事(Tousoun Pasha)が父の命令で配属された自分の首都にまれにしか居られ無い状況がたまたま起きた。その父はオスマントルコ政庁(the Porte)からヒジャーズ戦争(the Hedjaz war)に対する全権とこの国の財産の裁量権を授かっていた。トウソウン(Tousoun)は1815年秋にカイロに戻るまでその麾下の軍隊と共に動き回るもっと有効な使い方をされていた。1812年以降は軍事司令官は知事(the Pasha)が3、4ヶ月毎に交替させる200あるいは300人の守備隊と共に常にこの町に駐在していた。関税の徴収、市政の全体的取締り、カイロおよびメッカとの連絡、軍隊の輸送、保管およびエジプトとジッダの間の政府間商取引および知事の宝庫(treasury)は守備隊司令官の掌中にあった。
守備隊司令官の名はセイド アリ オジャクリ(Seyd Ali Odjakly)と云った。その父親は小アジア(Asia Minor)出身でイエニチェリ(Janissaries)軍団(Odjak)に属していたのでその息子はオジャクリ(Odjakly)とあだ名された。オジャクリがおよそ20年前に通りで売っていたナッツを覚えていたのでジッダの商人達はオジャクリを嫌っていた。シェリフ ガレブ(the Sherif Ghaleb)の時代にオジャクリはガレブの個人的な商業活動の為にに雇われていた。そしてトルコ語の完全な知識に加えて素晴らしい才能と活動力を持って居たので、モハンメド アリ(Mohammed Ali)は現在オジャクリが占めてる職に当てるもっと相応しい人物を探す出すのは難しかった。 8.3 ジッダの公共の歳入(十分の一税)の徴収 ジッダの公共の歳入はここではアショール(ashour)或いは十分の一税(tithe)と呼ばれる関税から殆ど上がっている。私が知らされている様にこれは法律的に全て輸入品に対して10%であったが、長い間行われてきた濫用の結果、或る商品にはもっと高く掛けられたし、他の商品にはもっと低く掛けられていた。シェリフ(the sherif)の力があった終わりの時期にはコーヒーにはキンタル(quintal)当たり5ドル(dollars)であり、これは15 - 20%に相当した。香料への関税は10%より少し安かった。インド製の反物(piece-goods)へはそれより少し高かった。従って大きな不規則が関税の徴収にあり、それが税官吏の裁量で何の責任を負うこと無く友達には有利な取り扱いが出来た。
シェリフ(the sherif)がワッハーブ派(the Wahabys)の教義を快諾した後、シェリフの収入は大きく落ち込んだ。それはワッハーブ派首長のサウード(Saoud)が自分の追従者達への関税の免除を主張し、この為にコーヒー関税の大部分が免税となってしまったからである。私は事実を知る手段を持ち、それを私に隠す必要の無い人物から「1814年にジッダで徴収された関税の総額は40万ドル(400,000 dollars)で、それは8千パース190(purses)或いは4百万ピアストル(4millions piastres)に相当し、それは年間の輸入額が約400万ドル(4millions dollars)である」と聞いた。その額は実際よりは低いと思われる。関税はバブ メッカ (the Bab Mekka)とバブ エル メディナ(Bab el Mrdina)と云う名の2つの門でこの国の内陸からやって来た全ての糧食に同じレートで徴収される。糧食には主として畜牛、バターおよびデイツが含まれ、これらは内陸との交通が途切れない平和な時には重要な問題になった。これらを除くとこの町の人々は関税(imposts)を支払らっていない。 8.4 利を得ているにもかかわらずトルコ人に従わないアラビア人 私の在住期間の間にトルコ人達(the Turks)はジッダを軍隊の主要な兵站部(depôt)としてきた。知事(the Pasha)に属する雑穀(corns)の大きな倉庫(magazine)は殆ど毎日エジプトからの補給を受けており、キャラバン(caravans)は毎日メッカとタイフへと派遣された。町の交易は軍隊とその軍属達の必要物で大いに増大した。知事(the Pasha)は気高いアラビア人達は奴隷化したエジプト人達の様に虐待(ill-treatment)に対しておとなしく従わない事を良く知っていたので、この地の警察を良く統制し、自分の軍隊に対しても残虐な行為を行わない様に厳しい命令(the strictest injunctions)を与えた。アラビア人達とトルコ人達の間にいさかいが起き時には、一般的にはアラビア人を有利にあつかった。
見かけ上は、知事(the Pasha)の妻達の宿舎として知事が一番良い邸宅の幾つかを占拠する以外はアヴァニー(Avanies)(弾圧や不正の残忍な行為)が個人個人に及ぶ事は無かった。しかしながら商人達はシェリフの時代同様に気まぐれの関税率、知事からの全ての種類の商品の度重なる購入の必要性に苦しんだ。知事がヒジャーズに滞在する間は軍事遂行すると共に熱心に自分の利益(mercantile)を追求している様であった。しかし両方の政府の利点と欠点を公平にみると「ジッダ(Djida)の人々は間違いなくオスマン帝国(the Osmanlys)によって利を得ていた」と言えるとだろう。不思議な話だが貧富に拘わらず、未だに自分達の新しい主人を慕うアラビア人が見つからず、シェリフの政府の終焉は一般的に悼まれていた。
これはオスマントルコ政府(the Porte)の臣民の間に見られる民衆のありふれた気まぐれの為であるとする事は全く出来ず、その度合いはヨーロッパの国々の臣民よりもずうっと大きかった。オスマントルコの長官(governors)あるは知事(the Pasha)は継続的の代わり、そして至上の統治者となった新しい長官あるいは知事は不平、個人的な憎しみおよび仲違いに対して十分な主張をさせた。一方で長官あるいは知事の急な交代は人々にまもなく現在の暴君(despot)から開放されるとの希望を奮い立てさせた。新しい長官は一般的に最初の1月は寛容(clemency)で公平であったので、人々は喜びを持って交代を見守った。 8.5 トルコ人達を非常に劣った人々であるとして見る習慣 アラビア人達は非常の誇り高く、気概のある(high-spirited)民族(nation)であり、そしてこれは町に住む人々でさえそうであると言える。しかしながら真のベドウインの性格はこの退化した子孫の間では堕落してしまっている。ベドウイン達はアラビア語を話せず、風習(matters)も異なっているすべての部族(nation)を軽蔑している。その上(besides)、ベドウイン達は長年にわたりトルコ人達を非常に劣った人々であるとして見る習慣がある。トルコ人達がヒジャーズ(the Hedjaz)に入る時は常にシェリフ(the sherif)の力に威圧されていた。トルコ法廷の厳格な儀式はモハンメド アリ(Mohammed Aly)の新しい臣民達の性格と既成概念に適合していなかった。シェリフ(the Sherif)の勢力が絶頂であった時にはシェリフ(the Sherif)は大胆にそして時には残酷に取り組む(submit to be addressed)偉大なベドウインのシェイク(a Bedouin Sheikh)に似ていた。トルコの知事(a Turkish Pasha)はもっとも卑屈な隷属(the abject form of servitude)を持って接しられる。
ヒジャーズの一流の商人の1人は「シェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb)が金を借りたいと望む時は何時でも我々を3、4人呼び、我々は2時間位座って時には大声で口論になる程徹底した対話を行い、我々は常に最初に要求されたよりもずうっと少ない総額に減額した。我々が普段の商売でシェリフの所へ行った時は我々は私が今、貴方と話している様にシェリフと話をしたが、知事(the Pasha)は多くのハベシュ(Habesh)の奴隷達と同様な賤しい態度をさせ、知事の前に立たせて、まるで我々が劣った生き物でもあるかの様に見下ろす。」と私に述べた。そして、その商人は「私は知事(the Pasha)から恩典を受けるよりもシェリフ(the sherif)に罰金を払う方がむしろ良い」と結んだ。 8.6 トルコ人達のアラビア人種に対する憎悪 トルコ人達がアラビア語の知識を僅かしか持たなかった事、クルアーン(the Koran)を朗唱するアラビア語でさえ正しい発音をしなかった事、アラビアと全ての行為で示されるその特有な習慣を無視した事等やその他多くの原因でトルコ人達はアラブ民族の目から憎しみ、卑しみを買った。トルコ人達の同様にアラビア人達を軽蔑し嫌った。トルコ兵の言葉を喋らず、その様な衣服を着ない者は誰でもフェッラ(fellah)と見なされた。フェッラ(fellah)は小百姓(boor)を意味し、トルコ人達は隷属(servitude)と抑制の最低の状態にあるエジプトの農夫にフェッラ(fellah)を当てはめるのが常であった。トルコ人達はアラビア人を攻撃すると反撃して来る事を確信しており、エジプトではそうするのが習慣になっている刑の免責(impunity)を伴う専制的な裁量権(tyrannical disposition)をほしいままに出来なかった。この為にトルコ人達のアラビア人種に対する憎悪は高まった。 8.7 流血の惨事の中で終わるだろうオスマン帝国のヒジャーズ支配 シェリフ(the sherif)が知事に降伏を宣言し、ジッダとメッカがトルコ軍に占領される事を許した後に、トルコ人達がシェリフ(the sherif)を捕らえ、トルコに送った背信行為(treachery)をアラビア人達は特に非難した。アラビア人達は「シェリフ(the sherif) の助け無しではトルコ軍はアラビアでは何の進展も得られなかったろうし、いわんやそこに根付いた組織を手に入れる事は出来なかった」と確信していた。カイン(khayn)すなわち背信行為(treachery)と云う言葉はアラビアにいる個々のトルコ人に一般的に適応された。それについてはアラビア人達は当然有名であった件に関しては「優越している」との誇りある自信が持たれていた。アラブ族の下の階層は「トルコの大君主(the Grand Signor)の肩書きの1つがカーン(Khán)である」と云うトルコに対する奇抜な確証を発見して居た。カーン(Khán)は古代のタタール人(Tatar)の言葉であるが、アラビア語では動詞イノウン(yknoun)の過去の時制(preterite)で「彼は裏切った(he betrayed)」を意味する。逃亡者を裏切って密告したトルコ皇帝(the Sultan)の祖先が「スルタンは裏切った」を意味する「エル スルタン カーン(el Sultan Khán)」と云う侮辱的称号を付けられ、その称号はその子孫達がアラビア語に無知だった為に単に受け継がれたとアラビア人達は言う(pretend)。モハンメド アリ(Mohammed Ali)の様な有能で平静なエジプト統治者によって保たれていたエジプトの軍事力がもはや維持出来なくなった時にはヒジャーズ(Hedjaz)でのトルコ勢力には衰えが起きるだろう。その時にはアラブ民族(the Arabs)は自分達自身が現在しぶしぶ従っている征服者達に対する服従(軽いにせよ)に対する復讐をするだろう。そしてヒジャーズのオスマントルコ帝国の臣民達(the Osmanlis)の支配は恐らく多くの流血の惨事の中で終わるだろう。
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