ヘンリー ルックの幾つかの手紙
「富裕なアラビア(Arabia Felix)の海岸を旅した時の幾つかの手紙」
ヘンリー ルック(Henry
Rooke)著
初版はロンドンで1783年に既に出版
リヴォルノ(Leghorn)で1788年に出版
(Rooke. H. Travels to the Coast of Arabian Felix.... in a series of letters
Leghorn 1788. The first edition was published in London, 1783.)
ジッダについて
ジェッダは古く、無計画に建てられた町で、壊れて廃墟になった壁で囲まれており、砦も砲台もない。この町はモカ(Moka)とスエズ(Suez)のほぼ中間の紅海の東海岸に位置しており、最大の貿易が行われている場所である。アラビアの商人とヨーロッパの商人がここで会い、交易を行う。アラビア商人は樹脂(gums)、薬物(drugs)、コーヒー、その他を小さな舟でこの海岸の広がる範囲で遠くペルシア湾(the Persian Gulf)のブッソラ(Bussora)からも運んでくる。ヨーロッパからはカイロ経由で服、鉄、毛皮、その他が運ばれてくる。
これらからの税金による歳入はこの町が不可分で帰属する大君主(the Grand Signior or Sultan)とメッカ(Mecca)の王(Xerif)の両者によって分けられた。これは公式には大君主(the Grand Signior or
Sultan)へのみ納めるべきであるが、後にこの一帯を支配する様になった王(Xerif)がそれを獲得した。しかしながら、両者の妥協によって、今はこの港からの利益は両者で分け合っていた。大君主(the Grand Signior or
Sultan)は年毎に自分の意図を存続させる為に州知事(Pacha)を送り、租税を集めた。王(Xerif)はイスラム教国で王の官位(Vizir Xerif)と呼ばれ、ここに王の力と権威を持つ代官(a governor)を任じていた。この時に法と正義を免除する権限を持っていた男はアビシニアの宦官(an Abyssinian eunuch)であり、亡くなった王(Xerif)の家族の奴隷であった。
ここの人々はモカ(Moka)の人々の様には黒くないし、顔色(complexion)に関しては黄色みがかった色合い(tinge)を持っている。彼等の生活様式はあちらと非常に似ている。地面に足を交差させて座り、食事し、体を洗い清め、お祈りし、コーヒーを飲み、水ギセル(Hookah)を日に五回吸う。
常に満員である幾つかのコーヒーハウスがある。我々がビヤホール(alehouse)でビールのマグを一緒に飲むように普通の人達はそこで一緒にコーヒーを飲む。この町から約四分の一マイル北にイブの墓(Eve's sepulchre)と呼ばれる白い建物があり、人々は貴方に「イブが今は確かにここに埋葬されている」と言う。その墓は20フィートの長さがあり、それから彼等は世界が始まったばかり頃の人類の標準的な背丈を推定していた。人類全ての母であるイブ(Eve)を表すオウマナ(oumana)とホウア(houa)と云う二つのアラビア語がこの建物に刻まれている。詣でる為に彼等は安息日(Sabbath)毎にそこに行ったがキリスト教徒がそこを訪れるのを容赦しなかった。