ディディエのメッカの大総督邸での滞在
メッカの大総督邸での滞在
シャルル ディディエ(Charles Didier)著
1857年にパリで出版
(Séjour chez Grand-Cherif de
la Mecque, Paris 1857)
ここではディディエ(Charles Didier)の著書「メッカの大総督邸での滞在 (Séjour chez Grand-Cherif de la Mecque)」のジッダ(JIddah)に関する章(P. 121-147)を抜粋した。
「ジッダ(Jiddah)はくぼみ以外に何も無い」とカイロで聞いて居り、そして私がその様に期待する程に何度も聞かされた。これとは対照的にジッダは素晴らしい市で入念に整備され、申し分無く美しく、相応しい人口、暮らしがあり、メッカ(Mecca)の港としての役割を果たし、その名前はアラビア語で豊かさを意味している。海岸は浅瀬と砂州そして更に要塞と砲台によって守られている。脅威の1つはベドウインであり、この市の海と反対側は厚い壁で囲まれている。この壁はかなりの高さがあり、良く手入れされ、堀の上に聳え、良い状態に保たれ、塔で脇を固めている。この塁壁(rampart)はヨーロパ製の武器に1時間以上は抵抗できないが、殆どが特にワッハーブ派(Wahhabi)との間の戦争では常にこの市を守るには十分である。ジッダ(Jiddah)は難攻不落との評判を得ており、ヒジャーズ(Hejaz)では一番強固な場所である。この壁には3つの門が設けられて居り、イエメン門(the Yemen gate)は南に、メディナ門(the Medina gate)は北に設けられ、最後が東に向かうメッカ門(the Mecca gate)である。メッカ門は3つの中では一番見事であり、その脇には上部を優雅に彫塑された2つの低い塔が建っている。
ジッダ (Jiddah)はメッカ(Mecca)から15、16時間であり、1万5千から2万人の住民がいる。この市には2つの大きな区分があり、その地理的な位置からイエメン人の住人(Yemeni)とシリア人の住人(Syrian)と呼ばれて居り、前者はアラビア州の南方を向き、後者は北方を向いている。他の小区分も同じ様にあり、それぞれに出身地の異なる集団が住んで居り、時々、互いに激しく争う。
通りはかなり広々として居り、おろそかにされ過ぎる事は無く、この市の肺とも言える大きく、風通しの良い広場が所々に開けている。
石で堅固に造られ、数層階の美しい家々は尖りアーチ形(ogival)門や大きな外に突き出た窓を持っている。この様な窓は家庭生活が完全に屋内に集中し、外の光、空気、騒音、無分別な光景を遮断しているモスレムの国では珍しい特徴である。窓にはガラスは填って居ないが、木製の格子で全体が覆われている。この格子は非常に繊細な細工で、外から見られる事無く、中から見渡せ、壁から突きだし、ムシャラビヤ(Musharabiyahs)すなわちカイロ型バルコニーの様にアーチ型をしている。洗練された格子は白い壁に引き立つ生き生きとした色で塗られている。幾つかのテラスは優雅な伸線加工細工(wiredrwan)の手すり(balustrade)で囲まれ、最後の独立大君主(the last independent
Grand-Sherif)が所有していた屋敷を含めて、その幾つかかはバルコニーの様に彫刻された木で造られた大きなあずまやを載せていた。あずまやでは女性達が外から見られる事無く、冷たい空気を満喫できた。時として耐え難い夏の猛暑を和らげてくれる海風が吹くこのテラスで日中の多くを過ごした。
バザアール(bazaar)はこの市の全長に渡り、海と平行に発達した。この為に海へはバザアールから脇道を通って行ける。殆どは輸入であるが、その他にこの地方の産物および異国的な食糧等全ての種類の商品がこのバザアールには良く揃っている。ダマスカス(Damascus)、バクダッド(Baghdad)、イラン(Iran)、エジプト(Egypt)および主としてインド(India)は全て、自然あるいは加工した製品によって代表されている。バザアールでは常に、並はずれた活気があり、混乱の中で自分達の道を試そうとうろつくだけで害のない犬達について述べなくとも貨物の梱(bales)、駱駝、担ぎ人夫の間を通り抜けるたやすい方法は無い。バザアールおよび港で重労働の為に雇われた人夫は殆ど全部がヌビア人(Nubians)あるいはハドラマウト人(Hadramis)と呼ばれるこの地方の山岳民族である。これらの男達は一般的に堂々とした体つきをして、筋肉が逞しく、精力的で、殆ど衣服を身に着けずなめらかで輝いた皮膚は焦げ茶色をしている。
ここには赤道に近い国から来た純粋のニグロ(negroes)も居たが、ニグロ達は奴隷である。その一方、記述したその他の人夫は自由で高額で役務を請け負っていた。
アフリカとアジアの間の何かであるバザアールは下層で最もみすぼらしい黒人から完全に恵まれたカフカフ人(the privileged
Caucasian)の完全な型まで受け入れている人種の多さには興味が湧く。言葉と服装の多様性には興味をそそられる。市出身や沙漠出身のアラビア人、マスカット(Muscut)およびバスラ(Basrah)の商人達、トルコ人(Turks)、シリア人(Syrian)、ギリシャ人(Greeks)、エジプト人(Epyptian)、ベルベル人(Berners)、多くの数のインド人(Indians)、マレー人(Malays)そしてバンヨン人(Banian)さえ、民族衣装を着て、自分の母国語を喋っている。彼等はお互いに商品を売り込み合い、混ざり、友達付き合い(elbow)をし、カフェ(café)に座って商談をしている。
私が紅玉髄(cornerian)以外の何物でも無いと信じている石を彼等は「メッカ石(Mecca stone)」と呼び、その他の石に較べ殆ど価値は無いけれどもジェッダ(Jeddah)では宝石の仲間入りしている。彼等はこの紅玉髄(carnerian)を相当におおざっぱな技術で銀の台座を付けた輪および巡礼の後に求める数珠(worry-beads)に加工する。数珠はアラビア語でヨッセール(yosser)と呼ばれる黒い珊瑚でも作られる。黒い珊瑚はアラビア湾ではとても一般的で耐久性と光沢の観点での最高品質の物はジッダ(Jiddah)の南で採集される。
ジッダ(Jiddah)はメッカ(Mecca)やメディナ(Medina)同様に聖なる市の名声を持っており、その壁の内側で生まれた全ての男はメッカと同様にム’エシャレ(the m'eshaleh)を持っている。ム’エシャレは生まれて40日目なる男の子の両頬に3ヶ所と両方のコメカミに2ヶ所入れる切り込みであり、この彼等に一生残る傷が信者達の尊敬を得るのに役立つ。この様なイスラム教として証拠がこれらの傷を名誉と思う者達に取っては大変誇りになる。
他の2つの聖なる市の場合はいまだにそうである様に、その他の時にはキリスト教徒はジッダに入るのを許容されていない。キリスト教徒達は敢えてヨーロッパの服装で歩き回ったりはしなかったし、もし、キリスト教徒がたまたま死ぬと預言者の聖なる土地を冒涜しない様にその死体は湾内の小さな島に納められた。
しかし、物事は今は異なりキリスト教徒達はエジプト(Egypt)やコンスタンティノープル(Constantinople)と較べても自由と保安を堪能している。私はこの市の全ての方向へ、昼と無く、夜と無くどの時間にでも殆どは1人歩いているが、誰にも乱暴されないどころか、親切や丁重さを何処ででも得ていた。
微妙な違いは乞食によって表された。乞食は殆ど全部がインド人であり、この市の住居地区に満ちていた。自分達の国からここへ巡礼にやって来たが、帰国の為の十分な資金を持って居らず、すべての資金源を断たれ、ここで公衆の慈悲にすがって住んでいる。幾人かのエジプト人(Egyptian)、ヌビア人(Bubian)、とりわけスーダン人ニグロ(Sudanese negoros)は同じ様に非常に貧しかったが、彼等は勇気を持って帰国する為の僅かな費用を稼ぐ為に働いた。もっとやる気を無くし寄生的なインド人は施しで生活するのを好み、そして一番金に成らない仕事へと永久的に追放されるのを好んだ。しかしながら、彼等の内の何人かは坐業的技能に頼っていた。私の滞在中には抜群に有能で辛抱強いカシミール人の仕立屋を雇っていた。英国政府はこれらの毎年の移住を快くは思っていなかったが、その政策はそのモスレムの臣民がこれらの宗教行事を実行するのは妨げず、商船の船長にジッダに渡航する巡礼に対しその帰路に責任を持つ様に義務付けたのみであった。その結果、商船の船長達は巡礼達が往復に十分な金を持っている事を証明できない限り乗船を許可しなかった。
彼等の聖なる身分にもかかわらず、ジッダ住民の唯一の事業が商売であり、それは現金払いのみで行われ、そのお陰でジッダ住民は一般的には金持ちになった。外国出身者の殆どは活動的で有能でそして彼等の体と精神の活気(vivacity)はその他の中東、特にトルコ等のもったいぶった陰気な無関心とは対照的であった。
今の所、私はジッダについて良い事以外には何も言っては居ない。今はこのコインの反対側について述べると、良い水が殆ど無く、夏期には空気が悪く、同時に暑く湿っている。この気候、特に真昼の風は耐久力を弛緩させ、体全体を弱める。多くは外国人であるが、現地の人達の中にもこの土地になじめない人も居た。赤痢(dysebtery)、間歇熱(intermittent fever)および疫病(plague)はこの海岸特有の風土病であり、アラビアでは一番不健康な土地であった。
私は「蠅と蚊が非常に不快である」とも加えなくては成らない。ジッダのこの他の羽根のある生き物は鷹であり、私が出航して以来、鷹はアラビアの全ての市でとても一般的であった。鷹が鋭く鳴く声をそれと同時にナレット(minaret)、ナツメ椰子およびターバンを目で見ずに聞く事は無かった。
メッカ門を抜けてこの市を離れると直ぐに紛れもないアフリカ人の野営地に到着する。これらは沙漠の端に散在する。イエンボ(Yembo)、トール(Tor)、スエズ(Suez)の様にこの沙漠は市の門の直ぐ後から始まるので、麦藁や椰子の繊維の掘ったて小屋は港やバザアールで働くヌビア人および余りにも貧しく他に行き様の無いこの国の惨めな数家族を宿らせている。この場所には薪、野菜の市場や家畜の定期市がある。この国の雄牛は背中に瘤のある種類であり、非常に小さく、非常に高い。雄牛はマッサワ(Massawa)ではたった1ターラー銀貨(thaler)の価値しか無いのに、ここでは6ターラー銀貨(thaler)まででは売られている。
それ程は遠く無いメディナ門に近づくと、そこにはムハンマド アリ(Muhammad
Ali)がワッハーブ派(Whhabis)と戦争した時に建てた広大な砦がある。砦の指揮官はイスマイルーベイ(Ismail-Bey)と云うトルコ人のビンバーシ(bimbashi)で、シナイ(Sinai)の彼の同僚よりも礼儀正しく、私にコーヒーや煙管をすすめる程、格別に親切であった。自分の軍隊が使う為にやはりムハンマド アリがこの砦に隣接して建設した幾つかの風車があるが、ムハンマド アリがヨーロッパ侵略に出発した直ぐ後に破棄され、今では不正規軍の兵舎として使われている。
我々の逗留先(abode)はシリア地区内陸側のこのメディナ門の近くであった。ジッダ(Jiddah)には旅人達の為の幾つかのカン(Khan)すなわちホステル(宿泊所)があり、そこでは旅人達の荷物や商品を貯蔵する施設および旅人達自身が宿泊する完全に四方が壁だけの家具の無い部屋があった。これらの宿泊施設は商人達の為に特別に確保されており、個室や個室を望む者達の為に施設では無い。私は以前にフランス領事が借りており、今では鳥が来るだけの家を占有した。私の部屋は2階で巨大な突きだしたバルコニーが付いていた。このバルコニーは風、埃、日光および鳥の侵入は許す非常に複雑な仕組みのシャッターで閉ざされていたので部屋は鳥の巣で一杯であった。私がそこから毎日毎晩見聞きした事がこれである。私の目の前には遠い水平線で空と混じり合う海の広大な広がりがあった。空色の空間に輝く帆は殆ど無いが、孤独がその壮大さを引き立て、無限の言いようも無い空想へと心が奪われて行く。
陸の方へ目を戻すと、私は人と駱駝の押し殺したつぶやきを聞いたバザアール(bazaar)や私が婦人の影やそびえ立つミナレット(minaret)を持つ多くにモスクを夜中に感じたテラス等この町の北部分全てを見下ろせる。私の窓は見晴らし台(belvedere)であり、そこから港の停泊地全体(the whole roadstead)が見渡せるので私の知らない内に何かが入港したり出港したりする事は無い。一日中行ったり来たりしているこの土地のバーク型帆船(barque)を除けば、米を満載した幾艘かのインド船がこの数日間に到着した。或る朝、私はフランス国旗が夜の内に着いた戦艦の上にはためいているのを見て愉快に驚いた。これはインドを基地とするコルミエ(Cormier)艦長指揮下のコルベット艦(corvette)ル カイマン(Le Caïman)であった。ル カイマンは偵察の為にジッダ(Jiddah)にやって来た。
この船には通常の乗組員の他に数百名のマルガシィ(Malgasy)の船乗りが乗船していた。この船乗り達は船は良好に保たれて居たにもかかわらず、少し獰猛さ加える役務の為に彼等の島から臨時に軍籍に加わっていた。
ジッダで偶然一緒になった同国人は互いに会って一度で友達に成った。私は船上で昼食を何度か摂り、艦長と船医は私の家で昼食を摂り、領事館では正式の晩餐会があった。領事が健康を害して居た為に、私が代わりに主人役を務めた。
ル カイマン(Le Caïman)はここの地方政府の指示で、市から非常に遠い錨地に停泊していた。しかしながら、私は知事(the Pasha)は奇襲(a coup de main)を恐れ、そして浅瀬が唯一の口実なのだと信じている。それにもかかわらず、パシャは華麗に装ってその船を訪問した。
習慣的な祝砲が両舷から正確に打たれ、反対にむしろ通常の数よりも多く打たれた。コルベット艦はその出発まで1週間ずうと滞在した。私はこの艦に8リーグ(league)(24マイル)付き添った。艦に公海までの水路を示した土地の水先案内人と共に陸に戻る途中で、この日は澄んで油膜を張った様に動かない海からの窒息しそうな暑さで私は大変に苦しんだ。友好的な船長は私をブルボン家 (Bourbon)に連れて行くと主張した。この誘惑は旅行者に取っては大きかったが、私は止めておいた。誘いに乗ったとしても不幸なル カイマンはゼイラ(Zeila)海岸で難破したので私はそれ程遠くまでは行けなかった。フランスと英国のヨーロッパ2強がジッダに領事館を持っていた。我々のロシェ デリクール(Rochet d'Héricourt)は既に死にかかって居り、そして死(1854年3月10日)から・・・
英国領事或いは副領事のコール氏(Mr. Cole)は彼のスエズの同僚同様に、同時にインド会社の商業代理人でもあった。同氏の仕事は英国の臣民である大勢のインド人の為に、ジッダに設けられた名誉職(sinecure)では無かった。これはヘジャーズ(Hejaz)にフランス国籍を持つ者が一人も居ないフランス領事とは同じでは無かった。
トルコ政府(the Porte)がジッダが聖なる市であるとの口実で外交関係の義務の認証をこの2つの領事館に対し免除していたのを知ったのは良かった。
我々の家はコール氏(Mr. Cole)のそれと隣接していた。私は自分の時間をこの2つに分けていた。私はコール氏に共通の友であるバートン氏(Mr. Burton)から2通の手紙を携えて来た。そして、私が滞在している間、私はコール氏(Mr. Cole)の最大に友好的な配慮の対象であった。