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マッカ・ムカッラマ(メッカ州)
(サウジアラビア王国西部地方) その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ (1-4大航海時代とジェッダ) 3. 大航海時代のジェッダ訪問者 |
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目次 3.2 ルイス デル マルモル カールヴァジャ(Luis del Mármol Carvaja) 3.1 ジョセフ ピッツ(Joseph Pitts) イギリス人ジョセフ ピッツ(Joseph Pitts)は「アルジェリアの海賊(Algerian pirate)」と名乗るオランダの反逆者達にスペインの地中海岸で捕まり、アルジェ(Algiers)に奴隷として売られ、そこの新しい主人によって強制的にイスラムに改宗させられた。転売される事でピッツ(Pitts)は最大の好意を持って扱ってくれた三番目の主人とカイロ、スエズおよびジッダ(Jiddah)経由でメッカに巡礼を行った。彼等は帰路に、メディナ(Medina)の預言者の墓も訪れた。この巡礼に関するピッツ(Pitts)の記述は非常に正確である事は分かったが、ピッツ(Pitts)が1685 又は1686年に上陸したジッダ(Jiddah)に関しては 「次に我々がスエズからメッカ(Mecca)に一番近い港町であるギッダ(Gidda)に来た。メッカへはそこから一日は掛からない旅であり、そこでは多くの船から荷揚げが行われている。ここで我々はディルリールス(Dilleels)と会った。これはメッカからハッジェス(Hagges)或いは巡礼の式典を教授する目的でメッカから来た特定の人物であった。殆どの人達が式典を無視するが、これはそこにある寺院での彼等のお祈りに使われる。その寺院の真ん中に彼等がベイト アッラー(神の家)と呼ぶ場所がある」
と述べているのみであった。 メッカ(Mecca)でピッツ(Pitts)は習慣的実践に基づき自分の主人によって公民権を与えられたが、彼等がアルジェ(Algiers)に戻ってわずか数年でピッツ(Pitts)は逃げだし、1693年に自分の故郷であるイングランド南西部デヴォン(Devon)州のエクセター (Exceter)に着いた。(公式な自由にもかかわらず、解放された男としての関係を期待されていた自分の主人から逃げ出した事はピッツ(Pitts)を大きな危険に晒した。)ピッツ(Pitts)は1704年に「モハンマド教徒の宗教と風習についての正確な記録(PITTS. J. True and Faithful Account
of the Religion and Manners of the Mahometans Exeter 1704.)」を出版したが、それはリチャード フランシス バートン卿(Sir Richard Francis
Button)がそれを再構成し、註釈を付け、自分の著書「マディナとメッカへの巡礼の自叙伝 (Personal Narrative of
Pilgrimage toal-Madinah and 3.2 ルイス デル マルモル カールヴァジャ(Luis del Mármol Carvaja) カールヴァジャは実際にはジェッダを訪問しては居ないが、その著述「紅海に関する記述(The Descriptio Maris Rubri)」は多くはポルトガルの出典からの収集および資料の再編集(re-elaboration)し、大航海時代のジッダについて、 「アラビア フィーリックス(Arabian Felix)の海岸の北緯21°30′に位置し、乾燥し、不毛でどんな草も生えないジュッダ(Juddah)は交易に関連する有利な場所としてのみ知られている。その市民は『ここはプトレマイオス(Ptolemy)によってバデオ レジアム(Badeo Regiam)と呼ばれたと憶測されるもう一つの有名な古代都市であった』と主張し、そして『アダムとイヴがその郊外に埋葬されている』と思っている。本当に、何らかの方法でこの海岸を航海したポルトガル人は『バデオ(Badeo)はジュッダの南でプトレマイオス(Ptolemy)によって割り当てられた北緯20°にある』そして『今はライス(Xeresen, Qishran or al-Lith)と呼ばれている』と信じている。この場所にはまさに古代建築の2つの塔が今でも見られ、これらが偉大な名声を持った市がかつてはここに存在した十分な徴候である。その少し南にはクンフンダ(Confuda or al-Qunfundah)と呼ばれるもう一つの市が見られる。この市の建物には誰もその日付を読み取れない記述がある。そしてこの市は沙漠が始まる場所としてたいへん有名であった。ジュッダの港は障害や浅瀬(shoals)が多い上に曲がりくねった航路の為に便利ではなく、出入りも難しかった。この市は実際に陸地の一番低い部分にあり、他の土地とは多くの水路で分けられていた」 と良く言及している。 この文章はグラナダ(Granada)生まれの歴史書の著者であり、1535年から22年間にわたってスペイン(Spain)のアフリカ事業全てに参加していたルイス デル マルモル カールヴァジャ(Luis del Mármol Carvaja)が著述した「ムハンマドの開祖から1571年までのアフリカの戦争と変遷に関する一般的な記述(Descripción general de Africa, sus guerras y vicisitudes, desde la fundación del Mahometismo hasta el aňo 1571) (Granada 1573 - Málaga 1599)」の一部を「紅海に関する記述」としてアントニウス マッテウス(Antonius Mattaeus)が要約してラテン語(Latin)に翻訳し、その著書(Veteris Aevi Analecta seu Vetera Monumenta Hastenus Modum Visa)に掲載している。 この著書にはその他に インド総督ジョアン デ カストロ(Joān de Castro)が著述した「紅海航海日誌(Red Sea Roteiro)」、 ポルトガル歴史学者ジョアン デ バロス(João de Barros)が1553年から1615年のリスボン マドリードを中心とした40年間における東洋の海岸と陸地のポルトガルによる発見と征服に関する出来事を記述した「ジョアン デ バロスのアジア(Asia de João de Barros)」および 無名のベニス(Venetian)人熟練船長(the
Anonymous Venetian Skipper)が西インドのポルトガル人居留地に対する1538年のトルコ艦隊の遠征を記録した「1538年のスレイマーン ガジ(Sulaiman Ghazi)の旅行記(Voyage Described by a Venetian Skipper Taken Prisoner in
the City of Alexandria, to Diu in India, and His Return to の要約を含んだ文章も掲載されている。 (注)詳細は「1-3 サラセン帝国から大航海時時代幕開け」の「2.8 無名のヴェネツイアの船長」および「2.9 名の知れないポルトガル人の奴隷」を参照。
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