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マッカ・ムカッラマ(メッカ州)
(サウジアラビア王国西部地方) その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ (1-3 サラセン帝国から大航海時時代幕開け) |
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索引 1.1 「道路と王国の本」 1.2 「国々の本」 1.3 「アラブ族の島」 1.4 「国々の描写」 1.5 「陸地の地形」 1.6 「モスレム帝国の記述」 1.7「イドリーシーの地理」 1.8 「地理学辞書」 1.9「タリハ アル-ムスターシール」 1.10「タクウィム アル-ブルダン」 2.1 ナシール-イ コスロウ 2.2 イブン ジュバイル 2.3 イブン バットゥータ 2.4 ニコロ デ コンティ 2.5 ロドヴィコ デ ヴァルテマ 2.6 ペロ デ コビリヤン 2.7 アンドレア コルサリ 2.8 無名のヴェネツイアの船長 2.9 名の知れないポルトガル人の奴隷 3.1 聖なる都市の港および商業の中心地としての基礎 3.2 エジプトのヒジャーズ併合とシャリフ政権 4.1 東方の商品輸入港としてアデンの代わったジッダ 4.2 ヴェネツイアの商船隊が覇権を握った地中海交易 4.3 インド洋沿岸香辛料貿易のアラビア人による独占 4.4 ポルトガルの15世紀における「香辛料の海」への進出 4.5 アフリカの西海岸南下の航路開発と「嵐の岬」の発見 4.6 喜望峰まわりのインド航路開幕 4.7 モスレムの反感と第一次交易艦隊派遣
この編では中世におけるジェッダについての直接的な記述よりもジェッダの置かれた歴史的環境を全体的に眺め、ジェッダが中心的な役割を演じていた東西貿易について述べた。東西貿易は日本や中国ではシルクロードと呼ばれ、絹の交易が主だったのに対し、ここでの東西貿易の中心は香料であり、西洋では香料貿易と呼んでいた。実際の主要交易品は広範囲に渡り、もっと日常的な取引の中で香料の積み荷が多かったと考える方が妥当な様に思える。従って、東西貿易の交易品についてエキゾチック名前を並べるのでは無く、かなり詳しく註釈を付け、実態をご理解戴く様に努めた。しかしながら、冗漫になる傾向もあるので、「先ずは大きな字だけで本文をお読み戴いて、詳しくは小さな字での註釈を参照して戴きたい」と考えている。又、別途、語彙集を用意したので註釈をしてない言葉については語彙集をご参照戴きたい。語彙集はアイウエオ順に並べてはあるが「ウェブのページ検索機能」を利用した方が効率的であるのでお試し戴きたい。
イスラムの到来から大航海時代までをアラビアでの中世と考え、この編では大航海時代の幕開けまでを一応まとめた。中国の唐の時代に大食(タージ)と呼ばれ、西洋からはサラセン帝国(Saracen)と呼ばれた政権は実際には存在してなかった。「遠くから眺めて、イスラム教徒の国や十字軍へ対抗したイスラム教徒達がその様に呼ばれていた」と私は解釈し、「サラセン帝国とはムハンマドが聖遷してからアッバース朝がモンゴルに滅ぼされるまでのイスラム教国群である」と考えている。この解釈は「イスラム地理学の時代」と年代的にはほぼ一致している。又、イスラム帝国やモスレム帝国と云う呼称もサラセン帝国とほぼ同意語で使われている様だ。
西暦646年(ヒジュラ歴26年)に第3代正統カリフ ウスマーン(the Caliph Uthman)によって聖都メッカの港がジッダの南20kmにあるシュアイバー(Shuaybah)から少し間近で天然条件がもっと有利なジェッダに移された。モスレム帝国(the Moslem Empire)が拡大するにつれ、征服戦争から生み出される莫大な富で、ジッダはエジプト、南アラビア、紅海西岸およびインドからの供給を聖なる都市に運ぶ活発な紅海貿易の中心となった。帝国の世俗的中心がウマイヤ朝(661-750) (Ummiyad or Umayyad)のカリフ(caliph)の治世下でダマスカス(Damascus)に移り、そしてアッバース朝(Abbasid))(750-1258) のカリフ(caliph)の治世下でバクダッド(Baghdad)に移った。その結果としてメッカの経済的、政治的な重要性は薄れたが、メッカ(Mecca)が聖都としての名声を失う事はなく、ジェッダはその港として巡礼受け入れや地方交易の恩恵を受けていた。
モンゴル人(Mongol)が1258年にバクダッド(Baghdad)に侵攻し、アッバース朝のカリフがマムルーク朝(1250-1517)スルタン(the Mamluk Sultan)の庇護の下に移った後は東洋貿易の中心はアデン(Aden)に移った。紅海の北半分には暗礁(reef)、浅瀬(shoal)、逆流(cross-current)およびつむじ曲がりの風(awkward wind)が多く、大きな船の航行は不能であった。この為、貨物は紅海南部の港でジェルバス(jelbas)、サムブク(sambuk)やその他の小さな木製の舟に積み替えられ、エジプトの主要港であるコッセイール(Kosseir)、スエズ(Suez)或いはシナイ半島(Sinai peninsula)のトール(Tor)へと運ばれていた。アデンはこの小船による海上輸送の積み替え港として利用されていたばかりでは無く、陸上輸送への積み替えも行われて居た。当時のアデンの支配者ラスリド朝(the Rasulids Dynasty)のアミールは商人達に対して商品輸送に自分の駱駝隊商部隊を使うのを強制した。これに反発したカリカット(Calicut)のイブラヒム達は、紅海の南半分は大きなインド貨物船の航行が可能なので、1424年に、積み替え港としてアデンの代わって安全なジッダ(Jiddah)を選定した。この直ぐ後にマムルーク朝スルタン バイバルス(Baybars)はアデンに荷揚げされた貨物の対して交易禁止命令を出したのでジッダは東方の商品の唯一の公認輸入港と成った。1431/1432年には中国から数隻のジャンク(junk)がアデンでは妥当な条件で貨物を荷下ろし出来なかった為にジッダに現れた。
1453年にジッダはもう一つの好ましい歴史的環境を得た。オスマン帝国(Ottoman Empire)(1299–1923)のスルタン メフメト2世(Fatih Sultan Mehmed II)(1432-1481)はコンスタンティノープル(Constantinople)を陥落させると、ボスポラス海峡(the Bosporus)を閉鎖し、中央アジアを越える陸上交易路の黒海へのターミナル港であったクリミア半島(the Crimea)のカッファ港(Caffa)やアゾフ海(the Sea of Azov)のタナ港(Tana)等への通行を遮断した。これによって、紅海だけが安全で実用的な交易路として残され、この伝統的交易路を支配していたアラビア人とエジプト人が香辛料交易の事実上の独占権を完全に手にした。
これに対して勇敢な船乗りで航海者の国ポルトガルは1418年から1460年まで、航海者ヘンリー王子(Prince Henry the Navigator)の長期展望に基づく指導の下にアフリカと東洋の富を握るプレスター ジョン(Prester John)と云う王者の様な聖職者に支配されるキリスト教国との直接交渉を求めた。ポルトガル艦隊はアフリカの西海岸を少しずつ下り、マデイラ(Madeira)、ギニア(Guinea)海岸、コンゴ川(the River Congo)河口、ヴォルヴィス湾(Walvis Bay)、モッセル湾(Mossel Bay)とアルゴア湾(Algoa Bay)に至り、モザンビーク(Mozambique)およびケニア南東岸のモンバサ(Mombasa)を越えて、マリンディ (Malindi)で水先案内人を得て、一気にインド洋を横断し、マラバル海岸カナノア(Cananore)に到達し、喜望峰(Cape of Good Hope)まわりの新航路を開いた。この為、ジェッダを中心にインド貿易を展開していたモスレムの船乗りや卸売り業者はその源泉から断たれる脅威に直面した。数世紀に渡って紅海航路および地中海に至る陸上交易路を支配してきたエジプトのスルタン(Sultan)も自分達の歳入と通行料(transit tools)の大きな部分を失う可能性に直面した。この様に新航路はモスレムとポルトガルの対立の構図を生み出した。
ここで「大航海時代の幕開け」と名付けたのはポルトガルが新しい交易先を求め、上述の様にアフリカの西海岸を南に南にと下り、遂にケープタウン岬をまわり、モザンビーク海峡を抜けて、マリンディ (Malindi)で水先案内人を得て、インド亞大陸西岸のマラバル海岸に達し、喜望峰まわりの航路を開発し、ポルトガル第1艦隊カブラル提督がインドのヒンドゥー教の王達から港で交易する為の全ての可能な緩和策を与えられるまでの過程である。
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(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。) 1. サラセン帝国時代の文献に記述されたジッダ
サラセン帝国時代とはムハンマドが聖遷(622)し、正統4カリフの時代(632-661)、ウマイヤ朝時代(661-750)およびアッバース朝時代 (750-1258)を含むイスラム教国全体をヨーロッパ人がサラセン帝国 (Saracen)と総称し、中国では大食と呼んでいた時代である。十字軍と戦ったと云う意味ではエジプトのファーティマ朝(909-1171)、アイユーブ朝(1169-1250)およびマムルーク朝 (1250-1517)もサラセン帝国の範疇に含まれると私は思う。
預言者ムハンマドは610年、40歳の頃、ヒラー山の洞窟でアッラーの啓示を受け、預言者として唯一神の信仰と偶像崇拝の排斥、人間の平等性を訴え、新宗教を提唱したが、支配者の迫害を蒙り、622年ヤスリブ(メディナ)へ聖遷した。イスラム教ではムハンマドが聖遷した年をヒジュラ(Hijra)紀元としており、それ以降、イスラム教は勢力を拡大し、630年にメッカを征服し、その勢力はアラビア全土に及んだ。ムハンマドは632年に10万人の信徒と共にメッカに巡礼し、アラファート山で説教を行った後、まもなく病死した。
632年にムハンマドが死去した後、アブーバクル(Abū Bakr)(632-634)が初代カリフ(Calif)に就任し、ウマル('Umar)(634-644)、ウスマーン('Uthmān) (644-656)およびアリー('Alī)(656-661)とカリフが引き継がれ、アリーが暗殺された661年までが正統4カリフの時代(Rashidun Caliphate)(632-661)と呼ばれている。
661年にムアーウィヤ(Mu'āwīyah)(602-680)がダマスカスを首都としてウマイヤ家を世襲のカリフとするイスラム王朝を開いた。この王朝が14代存続し、750年にアッバース朝に滅ぼされるまでをウマイヤ朝時代(The Umayyad period)(661-750)と呼ぶ。
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ムハンマドの叔父アッバースの4代の孫アブル アッバース(Abu'l Abbas)(750-754)がウマイヤ朝を倒し、クーファ(Al Kufah)を首都とするアッバース朝(750-1258)を創設し、後にバクダードに遷都した。この時代がイスラム文化の極盛期にあたり、13世紀にジンギスカン(Genghis Khan, 1162-1227)によって建国されたモンゴルの将軍フラグにより滅亡させられるまでをアッバース朝時代(The Abbasid period)と呼び、ここにサラセン帝国は滅亡した。
フレグ(旭烈兀)(Hulagu)(1218-1265)はジンギス汗の子ツルイ(拖雷)(Tolui)の第6子で1253年兄モンケ(憲宗)の命により西征し、イラク・シリアに侵入し、アッバース朝を滅ぼした。モンケ(憲宗)の没後、自立し、タブリース(Tabriz)を国都と定め、イル汗国(Ilkhanate)(1258-1353)を創始した。在位は1256-1265であった。
13世紀末にはビザンティン帝国(Byzantine Empire or Eastern Roman Empire)とルーム・セルジューク朝(Seljuk Sultanate of Rum)(1077-1308)の国境地帯であったアナトリア(Anatolia)西北部にあらわれたトルコ人の遊牧部族長(the leader of the Ottoman Turks)、オスマン一世(Usman I)(在位1299年-1326年)が率いる軍事的な集団がビザンチン帝国の衰微に乗じてアナトリア西部にオスマン帝国(Ottoman Empire)(1299-1922)を創設した。オスマン帝国は1453年コンスタンチノープルを攻略し、ビザンチン帝国を滅ぼし、サラセン帝国の旧領地を自国の領土に組み込んで行った。オスマン帝国は16世紀に最盛期をむかえ。領土はアジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがったが、17世紀から衰退し、第一次大戦で敗れた後、トルコ革命によって滅亡した。
一方、北アフリカに興ったムハンマドの娘で4代目カリフ アリーの妻ファーティマ(Fātima)の子孫ウバイドッラー アル マフディ(Ubayd Allah al-Mahdi Billah)がチュニスでシーア派のイスラム王朝を設立した。969年にエジプトを征服し、カイロ(Cairo)を建設し、都とし、ファーティマ朝(Fatimid)(909-1171)と称した。ファーティマ朝はアッバース朝に対抗し、東部地中海貿易を独占した。その後、アイユーブ朝(Ayyubid)(1169-1250)がエジプト・シリアを領有し、十字軍勢力に対抗した。アイユーブ朝の始祖はサラディン(Saladin or Salāh al Dīn)(1138-1193)で、首都をカイロとした。13世紀半ばからはアラビア語で奴隷を意味するマムルーク朝(Mamluk)(1250-1517)がエジプト・シリアを支配した。マムルーク朝はトルコ系イスラム王朝で、始祖は奴隷イッズッティン アイバック(Izz al-Din Aybak)であり、1517年オスマン帝国の侵入によって滅亡した。
十字軍(Crusades)遠征は11世紀末(1096年)から13世紀後半に至るまで7回にわたって西欧諸国のキリスト教徒がイスラム教徒を討伐する為に行われ、その目的は聖地エルサレム(Jerusalem)の回復にあった。しかしながら、第3回(1182-1192)以後は宗教目的よりも現実的利害関係に左右されるに至り、当初の目的は達しなかった。十字軍の遠征は東方との交通・貿易によって都市の興隆を促進し、ビザンチン文化・イスラム文化との接触はルネサンス(Renaissance)にも影響を与えた。
「サラセン帝国時代にはジェッダに関して、イブン アル-ムジャウィール(Ibn al-Mujawir)がその著書『タリハ アル-ムスターシール(Tarikh al-Mustahsir) 』副題『(南アラビアの記述)(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis) 』の中で述べている以外にはあまり、めぼしい記述が見当たらない」とされている。サラセン帝国時代はイスラム文明が最も栄えた時期の1つであり、「イスラム地理学の時代」とも呼ばれた程、地理学が盛んであったにもかかわらず、聖地メッカの海の門戸であるジェッダに関する記述が少ないと云うのは私には信じ難い。この時代はヨーロッパで13世紀末から15世紀末に起きたルネッサンス(Renaissance)の前の時代であり、アラビア語で多くの記述・文献があったとしても、それをヨーロッパ人が咀嚼してヨーロッパに伝える事が出来なかったのでは無いか?これは現在でも多くの学術報告者や文献が翻訳されずにアラビア語の世界に眠っている事実から私にはその様に思える。 1.1 「道路と王国の本(注1)」
イブン コールダドビ(おおよそ西暦820 - 912年)はジッダ(Jiddah)についてその著書「道路と王国の本」にメッカ周辺の聖なる区域の範囲との関係のみで「神聖な区域の広がりの範囲はメディナ街道に沿っては3マイルであり、ジッダ街道に沿っては10マイルであり、イエメンへの道路では7マイル、タイフ街道では11マイルそしてイラクへの道路では6マイルであった」と記述しているに過ぎない。
(注1)「道路と王国の本(Kitab al-Masalik wa'l-Mamalik)」: この本の著者イブン コールダドビ(Ibn Khordadbih) (おおよそ西暦820 - 912年)は一番初期のアラブ地理学者であり、バクダードのアッバース朝カリフ アル-ムタミド(Caliph al Mutamid)の宮廷学者であった。コールダドビはペルシアの出身で、カルフの住居の在ったサマッラ(Samarra)に来る前の或る時期にはペルシャ北西部メディア(Media)の郵便局長を務めていた。公務員であったのでコールダドビは多くの貴重な統計的、旅行の情報を入手する事が出来た。その著作「キタブ アル−マサリク ワ’ル-ママリク(道路と王国の本)」はアッバース朝の王子の為に西暦846年に編纂され、イスラム帝国の偉大な交易路の興味ある概要を含んでいた。しかしながら400m長さの鯨等の誇張された物語の挿入がこの本を台無しにしていた。 1.2 「国々の本(注2)」
正確でまじめな編集が結果として多くの他の著者達によって引用され、アラブ地理学の父と呼ばれていたヤクビの9世紀のジッダに関する言及はその著書「国々の本」の中で「住人の為の生活物資はエジプトからジッダ港経由で到着した」と述べているだけであった。
(注2)「国々の本(Book of the Countries)」: イブン コールダドビ(Ibn Khordadbih)と共に、初期のアラビア地理学者であるヤクビ(Yakubi)がこの本の著者である。ヤクビの人生についてはヤクート(Yakut)が「ヤグビはヒジリ暦284年(西暦897年)に没した」と述べている以外は殆ど知られていない。しかしながらヤクビはもう少し長く生きていたと言う事が正式にヒジリ暦292年(西暦905年)と日付のある文書によって明らかである。この文書はエジプト最初の独立モスレム王朝であるトゥールーン朝(Tulunids)(868-905)の中に残っている。 1.3 「アラブ族の島(注3)」
アル-ハムダニは「D.H. ミュラー(D.H. Müller)の「アラブ族の島」の翻訳版の6頁に掲載された、世界の第2地域に関する賢人ヘルメス(Hermes the Sage)の記述を要約した文の中で、「第2地域の境界はオマーンを越えて、ジュッダ (Juddah)まで広がり、イエメンを取り巻き、ジンジ ランド(Zinj land) 、アビシニア(Abyssinia)およびアス-サラビヤ(ath-Thalabiyah) の海岸に接する海である」と言っている。
47頁ではアル-ハムダニはアラビア「アル-ジャジラ」ー(Arabia 'al-Jazirah')の命名の理由を議論し、ユーフラテス川の河口からアラビア半島全体に及ぶ沿岸の町や地域の名前の一覧表を作っている。その西海岸についての記述に関して、アル-ハムダニは「・・・ジュッダに及ぶ−メッカの沿岸−、アル-ジャール(al-Jar)−メディナの沿岸−、アト-テュール(at Tur)、エイラート湾(the gulf of Eilat)、・・・」と言っている。
218頁でアル-ハムダニはジッダ(Jiddah)の名前の出て来る詩を引用している。詩人は「フサリグ(Huthariq)のアル-フガイヤン(al-Fuqayyan)とアル-ギールシュ(al-Qirsh)の泉は全て乾き切り、そしてジュッダは干上がり、しなびてしまった」と言う。
最終的には「アダム(Adam)はイブ(Eve)に会いたいと感じた時にミナ(Mina)に居た事、イブがジュッダから来た事およびアダムがアラファト(Arafat)でイブを知った事は皆、関連して居た」とアル-ハムダニのジッダに関する記述の最後の引用を222頁に見出せる。
(注3)「アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab)」: アル-ハムダニ(al-Hamdani)がアラビア半島に関する最初の具体的な著述を行った。アル-ハムダニはイエメン人で西暦947年に故郷のサン’ア(San'a)で没している。アル-ハムダニは博識な地理学者で天文学者であり、その多彩な業績で広く名声を博した。アル-ハムダニはアラビア半島に関する詳しい知識を持ち、特に南部に関する知識は自然地理学、地形学、広がり、風俗、家系にまで及んでいた。その著作「シファト ジャジラト アル-アラブ(アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab))」にはジッダは何度か記述されている。 1.4 「国々の描写(注4)」
イスタハリ(Istakhri)の著作「国々の描写」にはジッダに関する引用は殆ど無く、又、おもしろくも無い。M. J. デ ジョエジュ(M.J. de Goeje)の版の12頁に、ジッダはアラビア沿岸の記述に関連して述べられ、その27頁にはアラビア半島の様々な場所を訪れた旅について「ハドラマウト(Hadhramaut)からアデン(Aden)まで1ヶ月掛かり、アデンからジュッダまで1ヶ月掛かり、ジュッダからアル-ジューファー(al-Juhfah)の海岸まで5日間の旅であった」と述べ、28頁には「パレスタイン(Palestine)からオマーンへの陸路は非常に起伏が多く、荒れ果てて居り、海路はジュッダ経由となる」と述べているだけである。
(注4)「国々の描写(the Takwim al Buldan)」: もう一人の偉大な地理学者はアブ ザイド アル-バルヒ (Abu Zayid al-Balkhi) (A.D. 850 - 934) である。アル-バルヒは850年頃にコラサン (Khorasan) 地方のバルフ (Balkh) に近いシャミストヤン (Shamistyan) 村で生まれ、934年に没した。アル-バルヒはこの地方のサーマーン朝(the Samanid dynasty)の廷臣であり、余暇を地形学や地理学の調査に使い、短い地理的記述しか記されていない一続きの地図群で構成されたイスラム国地図帳を修正して居た。その作業を通じて、アル-バルヒはその時代に入手出来た情報や自分自身の広範囲にわたる旅行から得た知識でのイスラム国地図帳の補足を編纂した。その「タクウィム アル-ブルダン(国々の描写)(the Takwim al Buldan or Delineation of the Countries) 」と云う題名の本の原本は失われたが、イスタハリ(Istakhri)が950年頃に編集し、最新情報化し、増補した版を作った。その版は同様にイブン ハウカル(Ibn Hauql)によってもその著作に取り込まれた。ペルセポリス(Persepolis)近くの村の出身であるイスタハリ(Istakhri)の人生についてはインダス谷(the Valley of the Indus)のイブン ハウカル(Ibn Hauql)と出会い、それによって地理学的情報を交換し、それぞれの尊重する著作を比較しあった事を除いては実際的に何も分かっていない。 1.5 「陸地の地形(注5)」
西暦988年に完結した「陸地の地形」の中でイブン ハウカルはジッダについて「ジュダ(Juddah)は海辺に均等に位置して居り、メッカから二日行程であり、メッカの海港である。かつてのジュッダは繁栄し、経済的に栄え、非常に裕福であり、ヒジャーズに属さず、メッカから独立しており、豊かな富を持ち、多くの商取引を行って居た。その頃、この町の交易はペルシア人に握られていた。しかしながらイブン ジャファール ハサニ(Ibn Jafar Hasani)がおよそ西暦965年にメッカを征服し、地方の支配者として新たな王朝を建国し、覇権をジュッダにも及ぼすとジュッダの有力な市民は逃散し、この町の状況は不安定に成ってしまった」と記述している。
(注5)「陸地の地形(Kitab Surat al-Ard)」: イブン ハウカル(Ibn Hauqal)は偉大なイスラム旅行者の一人である。イブン ハウカルは西暦943年5月15日に故郷のバクダードを離れて、北アフリカ、スペイン、それからモロッコ(Morocco)のシギルメサ(Sigilmessa)およびガーナ(Ghana)へ行き、それからエジプト、南メソポタミア(Mesopotamia)、西ペルシア、トランソクシアナ(Transoxania)を越えて、最後にシシリー(Sicily)へ着いた(西暦972年から973年)。イブン ハウカルの著書「キタブ スラト アル-アルド(Kitab Surat al-Ard)(陸地の地形)(Configuration of the Earth)」は西暦988年に完結した。 1.6 「モスレム帝国の記述(注6)」
10世紀の偉大な地理学者アル-マクディシはジッダについて「モスレム帝国の記述(Descriptio imperii moslemici)」第III巻79頁に「ジュッダ(Juddah)は海岸の町でその名は海に関係するその位置に因んで付けられている。この町は要塞化され、人口も多い。住人は交易を営み、豊かである。この町はメッカの宝物庫でイエメンおよびエジプトとの交易の中心(emporium)である。この町にはモスクがある。この町への水の供給は不十分であるが多くの塩水の池がある。飲み水は遠い所からこの町に運ばれてくる。この町はペルシア人に征服されていたが、ペルシア人達は興味を誘う形の幾つかの宮殿を残して立ち去ってしまっている。この町は真っ直ぐな通りを持ち、良い立地にあるが非常に暑い」と述べている。
更に、「モスレム帝国の記述」第III巻97頁のヒジャーズに関する記述の中でアル-マクディシは「この地方には世界的に最も重要な二つの港在った為にその交易では利益が多かった。すなはち、中国とつながる海であるミナの市(the Suk of Mina)とジュッダおよびメディナの古代の陸揚げ港でエジプトの宝物庫であったアル-ジャール(al-Jar)である」と付け加えている。
その上、「モスレム帝国の記述」第III巻104頁に記述した他の章でアル-マクディシはジッダで徴収されていた税金と料金に関する幾つかの関連する項目について「ジュッダにおいては金貨一枚分の半ディナール(dinar)が小麦の一荷毎或いは食糧の一荷の半量毎に課税され、3ディナールがシャター村(Shatah)で織った布の一箱(運搬・貯蔵用ふた付き大型収納箱)毎に課税され、2ディナールがダビキ村(Dabiki)で織った布の一箱毎に課税され、そして2ディナールが綿羊の一荷毎に税として課せられていた。シャター(Shatah)とダビキ(Dabiki)はエジプト北部のナイル川三角州に在るダミエッタ(Damietta)付近に在った二つの中世の村であり、両方の村共に豪華な織物で有名であり、モスレム帝国の全域に輸出されていた」と述べている。
(注6)「モスレム帝国の記述(Descriptio imperii moslemici)」: 10世紀の偉大な地理学者の最後は西暦946年にエルサレム(Jerusalem)で建築の棟梁家に生まれたアル-マクディシ(al-Makdisi)である。アル-マクディシは広く旅行をし、多くの博識(erudition)を持ち、この時代の偉大な人物としての名声を得た。「国々の知識の為の最適な一文」The fairest division for knowledge of Countries)と題したアル-マクディシの著書はモスレム帝国(the Moslem Empire)について論じている。地理学的記述は多くの興味ある章で先導されている。それら章の中で、著者は海や川の広がりや輪郭、主要な町と特徴、宗教上の宗派(confessions)やセクト(sects)の分布、非モスレム社会、伝説、伝統、天文学的理論および世界の気候帯について論じている。イスラムの領域についての詳細な記述はその心臓部であるアラビアから始めてイラク(Iraq)、メソポタミア(Mesopotamia)、シリア(Syria)、エジプト(Egypt)、マグリブ(the Maghrib countries)の国々そしてスペイン(Spain)に及び、これらはほとんど西領域として考えており、東領域としてはイランの様々な地方によって殆どを代表させている。各々の区域を記述する為にアル-マクディシは地理学的に興味のある全ての可能性のある問題について正確に、百科辞典的に、驚くほど最新の手法で論じている。アル-マクディシの著書の徹底的に系統的な正確さが、時代を越えて、アル-マクディシをアラビア地理学者の最も主要な人物として位置つけている。 1.7「イドリーシーの地理(注7)」
イドリーシー(Idrisi)(1098年 - 1156年)はジッダに関して「ジッダはメッカの港であり、二つの町は40マイル離れている。ジッダは人口も多く、その経済活動は目覚ましい。従ってその住人は豊かである。巡礼の季節の前に吹く季節風(the monsoon blowing before the pilgrimage season)はこの町に船で大量の補給物資や価値ある商品を運んで来るのにとても都合が良かった。この為にヒジャーズ(Hejaz)の中ではメッカ(Mecca)に次いで最も重要な町であった。メッカ公(Prince of Mecca)と云う名の支配者が居て、行政に必要となる全てを監督していた。ジャッダは異なった目的地へ航行する多くの船を保有していた。魚は豊富で蔬菜もたくさん収穫できた。『イブはエデンを出た後、この地にやって来たのでその死骸が残り、ここに埋葬されている』との言い伝えがある」と「イドリーシーの地理(Géographie d'Edrisi)」の中で物語っている。
(注7)「キタブ アル-ルジャリ(Kitab al-Rujari) (ロジャーの本)」: イドリーシー(Idrisi)(およそ西暦1098年 - 1156年)は中世におけるもう一人の主要なおそらく最も偉大なイスラムの宇宙構造論(Cosmographer) の学者であった。又、世界を平面球形図(a planisphere)で描いた一揃いの地図帳で補足されたイドリーシーの本が最初の主要なアラビア地理学者の著作(opus)としてヨーロッパ言語であるフランス語に翻訳された為、イドリーシーは西洋で最も知られていた地理学者の一人でもあった。モロッコのテトゥアン(Tetouan)でフェス(Fez)の支配者(西暦791年 - 西暦926年)の家に生まれたが、ファーティマ朝(Fatimid)の迫害のために国を逃れ、かなりな時間をヨーロッパと小アジア(Asia Miner)を旅行して過ごした。この為にイドリーシーはコルドバ(Cordoba)で教育を受けている。啓発された元首で地理学愛好家であったロジャー二世(Roger II)(ノルマン族でシシリーの王)はイドリーシーの評判を知り、イドリーシーをパレルモ(Palermo)の宮廷に招いた。イドリーシーはシシリー島(Sicily)に西暦1125年から1150年まで住み、そしてその地理学の著作(the geographic work)と共に天球(a celestial sphere)とその時代に分かっていた世界の円盤を作った。両方とも銀製であったので失われてしまった。イドリーシーはこの島に滞在している間に、イドリーシーはこの島を行き来する船乗りや商人そして記述は無いが恐らく帰還した十字軍戦士達(Crusaders)から豊富な情報を得る事が出来た。更に、最新の地理学的知識を得て、イドリーシーがその著作を完成出来る様に、ロジャー王は様々な国に密偵を派遣して観察させ、記録させ、そして正確な資料と写生図を持ち帰る任務を命じていた。この為にイドリーシーの有名な著作は次第に具体的にまとまり、次第に本の題名を「キタブ アル-ルジャリ(Kitab al-Rujari)(ロジャーの本(Book of Roger))」或いは「ヌザト アル-ムシャタグ フィ イクティラク アル アファク(Nuzhat al-Mushtaq fi Ikhtiraq al-Afaq)(世界の様々な地方を放浪しようとする者達の喜び)」と名付けた。この著作が「イドリーシーの地理(Géographie d'Edrisi)」である。 1.8 「地理学辞書(注8)」
ヤクト(Yakut)(1179年 - 1229年)の著書「キタブ ムジャム アル-ブルダン(地理学辞書)(Kitab mujam al-buldan (Gepgraphic dictionary))」のジュッダ(Juddah)の見出し語の下にはこの言葉の語源研究(the word's Etymology)を説明した後に「ジュッダはイエメンの海岸にある町でメッカの港であり、メッカはアル-ザマクシャリ(al-Zamakhshari)によれば三日行程の距離にあった。アル-ハジミ(al-Hazimi)は『二つの町の間は一日と一晩である』と言っていた。ジュッダの気候は第2地域に属し、その西方に向かっての経度は64°30’で緯度は21°45’である(注)」とヤクトは述べている(F. ウステンフェルド(F. Wüstenfeld )編纂の地理学辞書(Jacut's Geographisches Wörtebuch)第II巻41頁参照)。
(注)ジェダの緯度経度は北緯21°29′、東経39°15′である。
ジッダの最初の住人と著名なこの地に生まれた市民についての幾つか意見を述べた後、ヤクトはアブ ザイド アル-バルヒ(Abu Zayid al-Balkhi)(とイスタハリ(Istakhri))のアデンとジッダの間の距離およびこの町とアル-ジューファー(al-Juhfah)海岸に関する記述をジッダからこれらの名前を引き出した幾人かの個人の列挙で締めくくりながら回想していた。
ジッダ(Jiddah)創建以前のメッカの港シュアイバー(Shuaybah)についてヤクトは「これはキナ ダム(Qina dam)で堰き止められた涸れ谷である」と言い(F. ウステンフェルド(F. Wüstenfeld )編纂の「地理学辞書(Jacut's Geographisches Wörtebuch)」第III巻301頁参照)、ヤクトは伝統と結びつけた詩を「カアバ神殿(the Kaaba building)のハディース(hadith))(伝統(the tradition)))に関してワーブ イブン ムナッビー(Wahb ibn Munabbih)は『船は嵐でシュアイバーへと押し流された。そこはヒジャーズ海岸の避難所(haven)でメッカの港であり、ジュッダへ来る船の投錨地である』と述べている。クライシ族(the Quraishi)は船から得た木材をカアバ神殿の修復に使った。・・・」と引用している。
(注8)「地理学辞書(Gepgraphic dictionary)」: イドリーシーは12世紀から13世紀に掛けてのアラビア地理学のもう一人の偉大な人物であるヤクト(Yakut)によって引き継がれた。西暦1179年に生まれたヤクトは多くの時間をトルクメニスタン(Turkmenistan)のメルブ(Merv)の有名な図書館で研究に費やし、二つの伝記と地理の大辞典を書いた。そして西暦1229年に没した。自然現象の価値のある記録を含み、真剣な事実に関する内容豊かで詳細な研究であるヤクト著の「キタブ ムジャム アル-ブルダン(地理学辞書)(Kitab mujam al-buldan (Gepgraphic dictionary))」の中にヤクトは場所の名前を地理的な位置にかかわり無く、アルファベット順に一覧表にした。この手法は既にアル-バクリ(al-Bakri)によって開発されていた。 1.9「タリハ アル-ムスターシール(注9)」
イブン アル-ムジャウィール(Ibn al-Mujawir)が1229年の後に著作した「タリハ アル-ムスターシール(Tarikh al-Mustahsir)」副題「(南アラビアの記述)(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」は1970年代にナポリ大学東洋学部博士でアラビストG. セレタノ博士(Dr. G. Celentano)によって校訂・翻訳された。その翻訳のジッダに関する章には「イブン アル-ムジャウィールがメッカとジッダ間の道路の沿った幾つかの土地のそれぞれの間の距離と時としてその由来と特徴を論じながら作成した一覧表が含まれている。イブン アル-ムジャウィールはジッダとペルシアの間の歴史的繋がりに関する現状も報告している。その報告ではカリフ ウスマーン イブン アッファーン(Caliph Uthmān Ibn Affān)に海岸とアシュ-シュアイバー(ash-Shuaybah)の関係でジッダが位置する利点を認識させるのに重点が置かれていた。アシュ-シュアイバー(ash-Shuaybah)は涸れ谷アル-ムカッラム(Wadi al-Mukharram)の河口にある大きな湾であり、『この様な環境に恵まれたシュアイバーより近く安全な港は無かったのでジュッダ以前にはメッカの港であった事は疑いも無い』と述べている」と書かれている。
更に、イブン アル-ムジャウィールは「『シラフ(Siraf)の崩壊の後、その住人は他の海岸に移住し、・・・そしてその中の一部はジュッダ(Juddah)に到着して、そこに定住した』とペルシア人は言った。彼等は石膏の漆喰 (gypsum mortar) で石の壁をこの町の周囲に建設した・・・そしてこの壁は10mの幅があった・・・それから彼等はその周囲に四角く切った石灰岩のブロックの壁を漆喰で固めて建設し、そしてこの2番目の壁の幅は5mであったので二つの壁を合わせた幅は15mであった。この壁には4つの門が開けられた。バブ アル-ルマ門(Bab al-Ruma)とバブ アル-マドバガ門(Bab al Madbagha)ではお守りが彫られた石が載せられた。もし、泥棒が何かをこの町から盗むとその翌朝には泥棒の名前がこの石に書かれて表れた。バブ マッカ門(Bab Makka)とバブ アル-フールダ門(Bab al-Furda)は海側である。壁の周囲には巨大な幅と深さの濠(moat)が掘られ、海水が町の周囲を流れて、この町はこの様にして深い淵の様な水(abyssal waters)に囲まれた島の様に成った。ペルシア人達が町の防備を補強した時に水の供給無しで留まるのを恐れた住人は68の貯槽(cisterns)を町の中に、そして多くを町の外に掘った。もっと正確には500の貯水池が町の中と同じ様に多くが町の外に建設された。神の知識が全ての物を取り囲んだ」と続けている。
次ぎにイブン アル-ムジャウィール(Ibn al-Mujawir)は「そして、豊かな降雨が町の外にある貯水池(cistern)を一杯にする時、奴隷達がその水を馬の背に積んで運び、家の貯槽(house cistern)に注いだ・・・そこではこの作業が一年を通じて続けられた」と結論つけながら、幾つかの重要な貯水池の名前の表示を続行した。
イブン アル-ムジャウィールは「この町の没落の原因はメッカのアミール(Amir)の貪欲さの所為にしている。このアミールは豊かなジッダ商人の所有物をむやみに欲しがったが商人達は先輩商人の助言に従って自分達の家財を自分達の船に載せて船出してしまった。この出来事はヒジリ暦473年、西暦1081年に起きた。もう一つの物語では『アラブ族がやって来て、この町を包囲し、この町の住人は水が乏しく成ったので自分達自身の船に乗って逃走し、海を彷徨った』と言われている。彼等の中の或る者はアル-シッライン(al-Sirrayn)、アル-ラハ(al-Raha)、アサール(Athar)に居を構えた。この町が見捨てられた時にアミール ダウド イブン ハシム(Amir Dawud ibn Hashim)の支配下のベドウインはそこを占拠した。自分は『ペルシア人(Persians)でジュッダ(Juddah)を征服したのはムダール イブン ハシミ(Mudar ibn Hashim)或いはもっと正確にはシュクル イブン アビ アル-フツー(Shukr ibn Abi al-Futuh')である』と誰かが自分に言った夢を見た。そしてその時代からこの町は没落し、滅亡した」と言っている。
ジッダの特別な利点についてイブン アル-ムジャウィール(Ibn al Mujawir)は「ジュッダでの祈りは1万回の祈りに匹敵し、一枚のディルハム (dirham)銀貨は1万ディルハムに匹敵する。・・・この事は黄金の取引でも同様である。神はその未来像の重要さを認識するものをお許しになる」と話している。
イブン アル-ムジャウィール(Ibn al Mujawir)はそれから「自分はこのバラカ(baraka)(祝福(benediction))は万人の母イブ以外からは出て来ないと信じる。・・・イブがジュッダの外に埋葬されているので・・・神はイブを祝福される。ペルシア人達はイブの墓を煉瓦と石膏の漆喰で頑丈な霊廟(a solid mausoleum)を建設した。この霊廟はヒジリ暦621年、西暦1224年まで立って居たが、その時に崩壊し、復元される事は無かった。それがすべてのその輝きの中に立っていた時に私は見たし、それからそれが完全に破壊され、瓦礫の山と化したのも見ている。しかしながらそれは祈りが薦められる祝福された場所である」と付け加えている。
次ぎにイブン アル-ムジャウィール(Ibn al Mujawir)はジッダの外国人ムスリムとして北アフリカ人(マガリバ)(Magharibah)による個人的貢ぎ物(ギジヤ)(giziya)を記述している。幾つかの出典によればイブン アル-ムジャウィールは「マガリバが巡礼為に到着した時にマガリバはジッダで首長(アミール)のアリ アビ ハシミ(Ali Abi Hashimi)に一人当たり7ユスフィ(yusufi pro capite)の貢ぎ物(ギジヤ)を支払い、(1ユスフィ(yusufi)はメッカの交換所では13カラット(carats)1グレイン(grain)に相当した。)さらに一人当たり1ユスフィ (yusufi pro capite)は司令官(グウワド)達(quwwad)に対する彼等が殺した犬の血の代償(ディヤ)(diya)としての賦課金であった。貢ぎ物を支払わない連中は他の巡礼達が戻って来る迄の間、貯水槽 (cistern) に閉じこめられるか、湾の中の小さな島に追いやられた」と言う。
別の出典によれば「北アフリカ人は7ユスフィ プロ キャピト(pro capite)と半ユスフィ(yusufi)(1ユスフィはメッカの交換所で26キャラット(carats)2グライン(grains)に相当した。)そして半ユスフィ(yusufi)を犬の血の代償に支払った」と言う。
これはイサ イブン フライタ首長(Amir Isa ibn Fulayta)の治世下で制定され、ムクタール首長(Amir Mukhtar)治世の最後の日まで施行された。この様な貢ぎ物の情報が広まってからは北アフリカ人達をこの様な貢ぎ物と犬の血の代償から免除させる為にサラー イブン アッユブ(Salah al-Din Abu al-Muzaffar Yusuf ibn Ayyub)はムクタール首長(Amir Mukhtar)へジッダ(Jiddah)とメッカ(Mecca)用の小麦6,000アルダッブ(ardeb、about 198 liters)を送った。
イブン ジュバイル(Ibn Jubayr)は「これらの貢ぎ物はヒジリ暦586年(西暦1190年)に廃止され、それはカタバ アブド アル-カリム首長(Amir Qataba ibn Idris Ibn Mutaim ibn Abd al-Karim)に時代まで続いた。カタバ アブド アル-カリム首長は北アフリカ人に対して貢ぎ物の厳しく取り立てを再び賦課しようとしたがその死で挫折した・・・」と言う。
イブン アル-ムジャウィール(Ibn al Mujawir)は「ファーティマ朝 (Fatimid)の王達は北アフリカ人に対して2ディナール2キャラット プロ キャピトの税を課した」と引き続き記述している。
ジッダはイブン アル-ムジャウィールによって「この町は海岸にある小さな町でメッカの港である。巡礼の季節の間はエジプト、西洋、インドやイエメン等の世界に遠い地方から大勢の人がやって来る為にこの町に住むのは不可能であった。水が乏しくなると住人は水をメッカとジュッダの間にあるアル-カリン(al-Qarin)からこの町に運び込んだ。ジュッダの民はペルシア人の子孫である。彼等は石灰岩と椰子の葉で家を造り、この町は殆ど宿屋(inns)から構成されていた」とその概略を述べられている。
ジッダの有名な宿やの幾つかについて記述した後、イブン アル-ムジャウィールは「この町の中に椰子の葉の小屋を建てる誰もがスルタン(the Sultan)に年間3ロイヤル ディルハム(royal dirhams)を納めなければ成らなかった。反対に石と石膏で建築された家は所有権と土地所有を享受する為に何も支払う必要は無かった」と続けている。
ジッダに関する自分の章を結論つける為にイブン アル-ムジャウィールは「この町の名前はここに埋葬されている人類の祖母(ジャッダ(jaddah))であるイブに因んで付けられている」と記述している。
(注9)「タリハ アル-ムスターシール(Tarikh al-Mustahsir)」(副題: 「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」): ジェッダに関する限りはアラビアの地理学者の間ではイブン-アル-ムジャウィール(Ibn al-Mujawir)の担当する場所とされて居た。イブン アル-ムジャウィールは西暦1204年にダマスカスで生まれ、インドに続いてアデン(Aden)、ザビード(Zabid or Zebid)、メッカ(Mecca)そしてジッダ(Jiddah)を旅行し、西暦1291年に没した。イブン アル-ムジャウィールの著作「タリハ アル-ムスターシール(Tarikh al-Mustahsir)」は西暦1229年の直ぐ後に書かれた。この本は歴史的断片、旅行記と社会的習慣の記述そして南アラビアの町の種々雑多な地理的な情報から構成されていた。イブン アル-ムジャウィールは自分自身を引用する好みを持っており、しばしば自分の夢に現れた信頼性の無い地理的、歴史的詳細を記述に取り入れていた。文章の中にアラビア語とペルシア語の両方で書かれた本人自身の詩の抜粋がたくさん散在されている。しかしながらイブン アル-ムジャウィールは自分自身が訪れたヒジャーズ(Hejaz)とジッダ(Jiddah)について最も広範囲にわたって記述した13世紀の著者の一人である。 1.10「タクウィム アル-ブルダン(注10)」
アブルフィダ(Prince Abulfida)が著述した「タクウィム アル-ブルダン (Takwin al-Buldan)」の中ではアブルフィダが1319年にジェッダに滞在して居たのにも拘わらず、ジッダに関しては「ジッダ(Jiddah)はヒジャーズ(Hejaz)の海岸地方であり、第2気候帯が始まる。この町はメッカ(Mecca)の港であり、メッカから2日行程の海岸に並んでいる。ジッダは繁栄した町である。イドリーシーの記述によればジッダはメッカの港である。この二つの町の間には40マイルの距離がある。ジッダは紅海の対岸にあるアイダブ(Aydhab)から来る巡礼の上陸地点でもある」と僅かな記述が数行あるのみであった。
(注10)「タクウィム アル-ブルダン(Takwin al-Buldan)」(「国々の国境(Delination of the Countries)あるいは「アブルフィダの地理」): 13世紀後期以降の殆どの地理学者と同様に西暦1273年ダマスカスで生まれたアイユーブ朝(Ayyubid)の王子アブルフィダ(Prince Abulfida)はそれ以前の出典からの材料を主に編集者していた。アブルフィダの主要な功績は2、3世紀遡った正確な情報での最新化であったが、年月が経つと共にその効力は失せてしまった。アブルフィダ(Prince Abulfida)が著述した「タクウィム アル-ブルダン(Takwin al-Buldan)」の中にジッダに関する僅かな記述が数行ある。アブルフィダは西暦1319年に巡礼の行った際にジッダに滞在した事実にもかかわらず、1世紀半前にイドリーシー(Al-Idrisi)が既に言った内容に殆ど何も付け加えて居ない。アブルフィダと共に、偉大で、創造的なイスラムの地理学の時代は終焉する。ジッダに関する他の出典からの情報が必要に成って来た。一番明白なのはイブン バッテュタ(Ibn Battuta)、ヴァルテマ(Varthema)やそれに続く旅行者の記述である。しかし、それらに関しては2.3章および2.5章で別途取り上げる。 2. ジッダを訪問した旅行者の記述
イスラムの到来に始るサラセン帝国時代から大航海時代の幕開けまでの間にジェッダを訪れた旅行者にはナシール-イ コスロウ、イブン ジュバイル、イブン バットゥータ、ニコロ デ コンティ、ロドヴィコ デ ヴァルテマ、ペロ デ コビリヤン、アンドレア コルサリ、無名のヴェネツイアの船長、名の知れないポルトガル人の奴隷等がおり、それぞれにジェッダに関する記述を残している。 2.1 ナシール-イ コスロウ
ナシール-イ コスロウ(注1)(Nasir-I Khosrow)は西暦1050年9月にジッダ(Jiddah)に滞在し、その所見を
「サファール ナメ(旅行記)(Safar Nameh、Book of Travel)」の中に「ジュダは海岸に位置した大きな町であり、強固な壁で囲まれている。その人口は男性の住人が5,000人に及ぶ。その所在地は紅海の北半分の中にある。バザール(bazzaar)は美しく、偉大なモスクのギブラ(qiblah)は東を向いている。町の外には預言者のモスク(Masjid ar-Rassoul)を除いて建物は無い。
この町には二つの門があり、一つは東にメッカへの道路に開いて居り、もう一つは西へ海に向かって開いている。ジュッダ(Juddah)を離れて、海岸を南に下るとイエメンのサアダの町(Saadah)に至る。サアダの町までは50ファールサング(farsangs)(637.5km)の距離にある。逆に北に向かうとヒジャーズの一部であるジャール(Jar)市に至る。
ジュッダ(Juddah)には樹木も植生も無く、日常の生活に必要な全てが近隣の村から運ばれる。ジュッダとメッカの距離は12ファールサング(farsangs) (153km)である。この町の代官(the Governer)はメッカ首長(the Amir of Mekka))の奴隷である。メッカ首長はタジ アブル フォウトウー(Taj Abul Foutoh) (治世 西暦1038年から西暦1061年)で彼は又、メディナの宗主(the master of Medina)でもあった。私がジュッダの代官に会いに行くと、代官は慈悲心を持って私を迎えてくれ、私が支払わなければならない巡礼税を免除してくれた。この様に私は何も支払わずこれらの門を通過できた。代官は又、『私は学者で私から税を取るべきでは無い』と云うメッカの当局の注意を喚起する為にメッカ当局宛に私の推薦状を書いてくれた」と表している。
(注1)ナシール-イ コスロウ(Nasir-i Khosrow): ジッダについての一番初期の旅行者による記述はナシール-イ コスロウ(Nasir-i Khosrow)の旅行記であった。ナシール-イ コスロウは伝説的なイスマイル派信者(Ismaili)の詩人で哲学者である。西暦1004年に生まれ、その「詩集ディバン(Divan)」とその著作「サファール ナメ(Safar Nameh)」で知られている様にペルシア文学と思考に最も卓越した人物の一人であった。 2.2 イブン ジュバイル
R.J.C. ブロードハースト(R.J.T. Broadhurst)の翻訳によるとイブン ジュバイル(注2)(ibn Jubayr)はジッダの記述を含め、イブン ジュバイルら2人が1183年7月に最初にギリシャ読みでのオブホール(Obhor)に着き、そしてジッダ(Jiddah)至った経緯を
「ラビ アル アキール(Rabi al-Akhir)の2日、ヒジリ歴579年、すなわち1183年7月24日 日曜日の夕方に我々はジッダ(Jiddah)へ一日行程のウブフール(Ubhur)(オブホール入り江(Obhor))と呼ばれる錨地に錨を下ろした。海峡が両岸を取り囲む陸に深く侵入し、船舶は安全で穏やかな投錨地を見出せると云う稀な位置にこの港はあった。月曜日の夜明けにこの場所から我々は船出し、神の恵みによる微風を受けてこの場所から出発した。神は万物の監督者である。彼(アッラー)以外に神は居ない。日が暮れる頃にジッダが見えるくらい近くに投錨した。
(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)
次の火曜日の朝は、港に入れない程、風は強かった。港に入るのは多くの暗礁と曲がりくねった航路の為に難しかった。船長や船員が暗礁を抜けて自分達の船を巧みに操る技を眺めていた。それは本当に素晴らしかった。彼等は狭い水路に入り、騎兵が轡(くつわ)を軽くつけただけの御しやすい馬を操る様に水路を通る道を操縦していた。彼等は筆舌出来ぬくらい素晴らしい技で通り抜けていた。偉大で燦然たる神を讃えつつ、我々の安全と我々の8日間を要した航海の間続いた暴風からの脱出を偉大で栄光のある神に感謝しつつ、ラビ アル アキール(Rabi al-Akhir)の4日(7月26日)の火曜日の正午に我々はジッダに到着した。これら幾つかの危難から神はその優しさと寛大さを持って、我々を保護された。ひねくれた風、多くの暗礁、帆を上げたり、錨を揚げたりする時に、もつれたり、壊れたりする船具から生じる緊急事態等で起きる突然の危機があった。ジラバ(jilabah)の底が岩礁を通り抜けようとして岩礁と衝突した時には希望を捨て去る様に呼びかけるゴロゴロ云う音を聞いた。力と栄光の中で我々を救って下さった神を讃えつつ、何度も何度も死んだり生き返ったりした。我々への庇護と十分な富を保証する神のご配慮は神の優しさに適合しつつ、絶えない寛大さを懇願しながらお讃えする。彼(アッラー)以外に神は居ない。
ジッダでは我々はメッカのエミール(the Emir of Mecca)の名の下にジッダを統治する総督アリ(the governor Ali)の館に宿泊した。我々はこれらの家々の屋根にナツメ椰子の葉で作られた上階の共同住宅の一つに滞在した。彼等は共同住宅から屋根に出て夜を過ごす。ジッダへの上陸は偉大で栄光ある神が我々にお与え下さった安全の中に幸せで、我々は心底、他の方法で我々の行く手を阻む必要が起きない限りは我々の復路がこの呪われた海では無い事を神に懇願した。神はその力で恩恵を持ってそのお決めになり処置される全てに対して恩恵を持って実行される。
このジッダは我々が記述した海岸にある村である。その家々の殆どは葦で作られてはいたが、石と泥で作られた宿屋があった。宿の上部は葦の構造物で上階として使われ、暑さの猛威から夜の安らぎを得る為の屋根を設けていた。
この村には古代の遺跡があり、それらがこの村の古さを示していた。村を囲う壁の残骸がその時代でも残って居た。村の中に古代の高いドームの残る場所があった。そのドームは『人類の母であるイブ(Eve)が彼女のメッカへ向かう時に、宿泊した場所だ』と言われていた。神の祝福があります様に。この殿堂はその受福状態と傑出を明示する為に建設された。
この町には神のお慈悲でウマル イブン カッタブ(Umar ibn al-Khattab)に帰する神聖なモスクと何人かの人々は「神のお慈悲でハルン ラシド(Harun al-Rashid)に帰する」と言っているけれども同じく神のお慈悲でウマルに帰する黒檀(ebony)で作られた柱を持つもう一つのモスクがある。
この町と周囲の沙漠や山々の住人の殆どはシャリフ一門(Sharifs)、アリ一門(Allites)、ハサン一門(Hasanites)、フサイン一門(Husaynites)およびジャファリ一門(Jafarites)である。神はこれらの高貴な先祖に寛大さを示された。あわれみでもっとも硬い岩を壊す程、彼等は生活を悲惨にしていた。所有していれば駱駝の賃貸、ミルク、水やその他に見つけられればナツメ椰子の実、集められれば薪等の販売の様な彼等は取引の全ての方法を取り入れていた。時折、彼等の女達、シャリファ(Sharifahs)自身、がこの仕事を分担しただろう。神がお決めになった決定に栄光あれ。偶然では無く、彼等は神がこの世界では無い来るべき生活を喜んで与えられる家を持っていた。神が不純を取り去り浄化した預言者の家族を愛する妥当な者達の間から我々を作られた。
町の外側は大昔の建造物であり、それらがこの町の基礎の古さを証明している。『これはペルシアの町であった』と言われている。互いに結ばれ、数え切れない程の数の硬い岩から切り出した水槽(cistern)がある。水槽は町の内外にあり、「町の外に360基、町の中にも同じ数がある」と男達は言う。我々は実際に数え切れない程、多くの数を見た。しかしながら、本当に驚くのは多いことである。これら全てを包括する知識をお持ちの神に栄光あれ」
と報告している。
イブン ジュバイル(ibn Jubayr)はメッカ(Mecca)に8ヶ月以上逗留し、小さな巡礼であるウムラ(umrah)と1184年の巡礼(hajj)を行った。彼はこの年の4月5日にイラク巡礼団の隊商(caravan)に加わり、メッカを離れた。メディナ(Medina)に5日間滞在した後、昔からの隊商路をバグダッド(Baghdad)へと辿り、それから自分の故国に戻った。
(注2)イブン ジュバイル(ibn Jubayr): ナシール-イ コスロウ(Nasir-I Khosrow)がジッダを訪問した1050年9月から約1世紀後に「巡礼の年代記 (the chronicler of the Pilgrimage)」の著者アブ ’ル-フサイン イブン ジュバイル(Abu 'l-Husayn Muhammad ibn Ahmad ibn Jubayr)がジュッダを訪れた。イブン ジュバイル(ibn Jubayr)は西暦1145年9月1日にバレンシア(Valencia)の名家に生まれた。この家はメッカ近郊の元々キナナー部族(the Kinanah tribe)出身で4世紀前にスペインに移住していた。イブン ジュバイルは巡礼に行こうと決心した時はグラナダのムーア人(the Moorish)総督の秘書であった。熱心で誠実なモスレム(Moslem)であったイブン ジュバイル(ibn Jubayr)はこの町の内科医(physician)を同伴し、グラナダ(Granada)を1183年2月3日に出発し、途中でアレキザンドリア(Alexandria)とカイロ(Cairo)に立ち寄った。ナイル川(the Nile)をクス(Qus)まで上った後、イブン ジュバイルはエジプト(Egypt)の東沙漠をアイダブ(Aydhab)まで横断し、7月18日に紅海(the Red Sea)渡航に船出した。船は翌日にアイダブ(Aydhab)を離れ、荒れ気味の四日間掛けて、対岸に到着した。 2.3 イブン バットゥータ
「イブン バットゥータの旅行記 (The Travel of Ibn Battuta 1325-1354)」記述ではジッダについて通りすがりの所見があるだけではあるが、次の様な価値ある逸話も含まれている。
「この度、私は神が最も気高く列しているメッカ(Mecca)からヤマン(al-Yaman)の領地を旅行しようと出発し、メッカ(Mecca)とジュッダ(Judda)中間のハッダ(Hadda)に来た。それから海岸のペルシアによって作られたと云う古い町であるジュッダに私は着いた。その外側には古代の水槽(cisterns)があり、これは水を貯める為のくぼみであり、硬い岩を穿たれて作られ、数え切れない程、多くが互いにつながれている。この年は雨の殆ど降らない年であり、水がジュッダまで一日行程の距離から運ばれ、巡礼達は家々の主人に水を乞うのが常であった。
逸話
ジュッダで不思議な事が私に起きた。そこでは少年に手を引かれためくらの物乞いが私の家の戸口で止まって水を乞うた。私はこの物乞いを見知らないのに、物乞いは私をほめたたえ、私の名を呼び、私の手を取った。私は物乞いがそうした事に驚いたが、物乞いは手で私の指を掴んでで、「ファトカ(fatkha)(リングの意味)は何処か?」と言った。ところで、前にメッカから出た時に、私は施し(alms)を求める貧しい兄弟に言葉を掛けられている。そして私はこの時に何も持って居なかったのでリングを彼に渡した。従って、このめくらの男がそれを要求した時に、私は彼に「私は貧しい兄弟にそれをやった」と言うと、その男は「戻って、それを見ろ、重要な秘密を含んだ名前が書いてある」と言った。重要なのはその男とその男のこの全ての知識に対する私の驚きである。神はこの男が誰で何であるかをご存知だ。
ジュッダでは神聖な力で知られた黒檀モスク(the Ebony Mosque)と呼ばれる大聖堂があり、その中で祈り(願い事)が答えられる。この都市の総督はアブ ヤクブ イブン アブド ラッザク(Abu Yaqub ibn Abd al-Razzaq)であり、その法官(qadi)で秘書(khatib)はメッカから来た、シャフィイテ(Shafiite)の典礼の法に明るいアブダッラ(Abdallah)であった。人々が祈りに集う金曜日にムッゼン(muzzein)が来て、集まったジュッダの住民を数える。もし、人数が40人になると、ムッゼンは金曜日の正午の説教(khutba)を行い、正午の礼拝を四回のお辞儀を持って祈る。そして、この都市の住人で無い者達の数は数えられないが、その数は多い」。
(注3)イブン バットゥータ(Ibn Battuta): 旅行家(traveller)で巡礼の後、自分の母国に向かわなかったのはイブン バットゥータ (Ibn Battuta)として知られるムハンマド イブン アブドッラ ラワティ(Muhammad ibn Abdallah al-Lawati)であった。これは彼の三回にわたるメッカ巡礼の三度目の事であった。イブン バットゥータは1304年にタンジール(Tangier)で生まれ、21才で国を離れ、その後の28年間その時代に知られていた殆どの国々を旅行した。紅海のエジプト海岸を通ってヒジャーズ(Hejaz)に向かおうと言う最初の計画が不可能であったので、エジプト マムルーク朝(the Mamluk Kingdom)の州となっていたシリア(Syria)とパレスティナ(Palestine)に行き、1326年にダマスカス(Damascus)からメソポタミア(Mesopotamia)およびペルシア(Persia)に行った後、最初の巡礼を行った。1328年にイブン バットゥータはバクダード(Badhdad)から再びメッカ(Mecca)に入り、この聖なる都市で研究と瞑想(meditation)をして2年間過ごした。1330年にイブン バットゥータはジッダからカイロで再び遍歴(peregrination)に出立した。イブン バットゥータ(Ibn Battuta)が1332年に行ったその次の巡礼の後にジッダ(Jiddah)から出発して訪れた国々がイエメン(Yemen)、ソマリア(Somalia)およびザンジバル(Zanzibar)である。1352年にモロッコ(Morocco)に戻るまでの20年間にイブン バットゥータ(Ibn Battuta)は遠くペキン(Peking)、サマルカンド(Samarkand)、デリー(Delhi)、アストラハン(Astrakhan)、セイロン(Ceylon)、コンスタンティノープル(Constantinople)、グラナダ(Granada)およびティンブクトゥ(Timbucktu)まで訪れている。バットゥータは全ての時代の最も偉大な旅行者の一人であり、マルコ ポーロ(Marco Polo)よりも長い距離を旅行し、その時代の全ての回教国を訪れた事で知られている中世唯一の旅行家である。その放浪の物語はムハンマド イブン ジュザイ(Muhammad ibn Juzay)によって記録され、ジュザイはバットゥータの記念碑的な業績を「このシャイク(Shaykh)は我々の時代の旅行者であり、イスラム域全ての旅行者と呼んでも真実を逸脱してはいない」との言葉で結んでいる。
Ibn Battuta traveled in the 14th century (http://www.sangam.org/taraki/articles/2006/02-26_Ibn_Battuta_Jaffna_Kingdom.php?uid=1547)
バットゥータの後、ジッダが旅行者達の記録に記述される前に殆ど一世紀近くが経過していた。しかし、その後の一世紀にはイタリアの幕間とでも呼べる様な時期があった。自主的に或いは強制的に東方諸国を旅行した4人のイタリア人の報告がある。これらの人々はヴェネツィア(Venetian)の商業旅行者ニコロ デ コンティ(Nicolò de' Conti)、ボローニャ(Bolognese)の冒険家ロドヴィコ デ ヴァルテマ(Lodovico de Varthema)、フィレンツェ(Florentine)の商人アンドレア コルサリ(Andrea Corsali)および捕られたヴェネツィアの船長であった。又、コンティ(Conti)の訪問とヴァルテマ(Varthema)の訪問の間の15世紀末にポルトガル人(Portuguese)のペロ デ コビリヤン(Pero de Covilhã)がジッダに滞在して居た。 2.4 ニコロ デ コンティ
1438 or 1439年にジッダ(Jiddah)へ着いたニコロ デ コンティ(注4)(Nicolò de' Conti)については、この港を訪れた最初の西欧人の旅行者として法王エウゲニウス四世(Pope Eugenius IV)の命令でポッジョ ブラッチョリーニ (Poggio Bracciolini)がその著「様々な運命(De varieate fortunae)」にコンティの物語を次の様に書いては居るが、「ジッダの最も貧弱な記述以外何も含んで無いのは残念である」とアンジェロ ペセ博士(Dr. Angelo Pesce)は述べている。
「コンティは15日間、アデン(Aden)へと航海した。アデンは裕福な都市で、その建物が目立つ。コンティは次にエチオピア(Ethiopia)へと航海した。7日間の航海で到着し、ベルベラ(Berbera)と名付けられた港に投錨した。それから1ヶ月の航海でコンティはジッダ(Jidda)と呼ばれる航海の港に上陸した。続いてシナイ山(Mount Sinai)の近くに上陸した。この場所に到着するのに航行の困難さで航海から2ヶ月を費やした」。
(注4)ニコロ デ コンティ(Nicolò de' Conti): ヴェニス(Venice)近傍のキオッジア(Chioggia)の生まれで、若いときからダマスカス(Dammascus)交易に従事し、コンティはそこでアラビア語を学んだ。1419年に、コンティはアラビアとペルシアに向かう隊商に加わり、そこでの冒険の魅力と未知が次第にコンティを捕らえた。コンティは東洋に向かう船に乗り、25年間の放浪の後、やっと自分の母国に戻った。コンティはホルムズ(Hormuz)からインド(India)そしてセイロン(Ceylon)、ジャワ(Java)、スマトラ(Sumatra)及び南支那(the south of China)に行った。帰路にコンティはビルマ(Burma)を訪問し、そこでコンティはイラワディ川(Irrawaddy)をアヴァ(Ava)まで遡った。それから西インドのコーチン(Cochin)、カリカット(Calicut)およびカンベイ(Cambay)に立ち寄り、ソコトラ(Socotra)、アデン(Aden)およびベルベラ(Berbera)を越えて、ジッダ(Jiddah)に1438 or 1439年に着いた。シナイ山(Mount Sinai)でコンティはスペイン人の旅行家ペロ タフール (Pero Tafur)に会っている。コンティはタフールに多くの体験を話している。その中にはエジプトのスルタンの領土を通過してカイロ(Cairo)へ通行する許可を得るために2年間もメッカで待っていた話の様にポッジョ ブラッチョリーニに話していない物語もあったが、タフールの物語の信頼性には疑問がある。 2.5 ロドヴィコ デ ヴァルテマ
ボローニャ(Bolognese)の冒険家はロドヴィコ デ ヴァルテマ(注5)(Lodovico de Varthema)はイスラムの聖地を記述した最初のヨーロッパ人であり、その著書「アラビアの沙漠に関して (Concerning Arabia Destrta)」の第二章でジェダについて次の様に述べている。
「1503年6月14日土曜日に我々は出発し、真夜中まで旅を続け、ジダ(Zida)(ジッダ(Jiddah))市の港に入った。この市は城壁で囲まれては居ないが、イタリアの習慣の様に非常に美しい家々に囲まれていた。従って、この市を叙述するだけの為には長逗留はしないつもりである。この町は非常に交通量が多い、その理由は大変多くの異教徒(the pagan)がここへ来ていたが、キリスト教徒もユダヤ教徒も町に入るのが認められて居なかった為である。私がジッダに到着した時、私は直ちにモスク(mosque)に入った。これは寺院でそこには少なくとも2万5千人(注)の貧しい人々が居た。
(注)この数字は他の多くと同じ様にヴァルテマ(Lodovico de Varthema)の推定であり、本当ではない。
そして私自身も前述の寺の隅に隠れ、そこに14日間も留まった。終日、私の長い外衣を被って、地面に伸びて留まり、まるで自分の胃と体が激しい痛みに襲われているかの様に、絶え間なくうなり声を出していた。商人達は『そんなに悲嘆にくれているのは誰だ?』と訊いた。私の傍に居た貧しい人達は『これは死にかけている貧しいムーア人(Moor)だ』と言った。
夜が来ると毎晩、私はモスクを離れ、食物を買いに出掛けた。一日に一回のみの大変貧しい食事していた私が(その状態で)食欲を持っていたかどうかの判断は貴方に委ねる。この町はカイロの首長(lord)によって治められていた。この首長はメッカのスルタン バラチェト(Barchet) (バラカト(Barakat)))の兄弟の一人であった。彼等はカイロの大スルタン(the Grand Sultan)の部下であった。彼等はムーア人(Moors)であったので、ここでは言うべき様な事は私に起こらなかった。この土地は何一つ産せず、真水と呼べるものは極端に不足していた。海が家々の壁に打ち付けていた。必要な物全ては見つけられたが、それらはカイロ(Cairo)、アラビア フェリクス(Arabian Felix)および他の地域から来ていた。この市には常に大変多くの数の病人が居て、彼等は『これがこの場所の悪い空気のせいだ』と言っていた。これは約500家族を含んでいた。14日間の終わりに、この港に停泊している大小約100隻の船の中からペルシア(Persia)行きの船の船長と私は契約した。三日後に我々は出向し、紅海を航行し始めた。
『この海は赤くはないが、この海の水は他のどの海のものよりもそれらしい』と理解できるだろう。この海では夜間の航海が出来ないので、日が暮れるまで一日航行する。そして、チャマラム(Chamaram)(カマラン(Kamaran))と呼ばれる島に着くまでこの様なやり方を毎日行った。この島を通過した後は、は安全に進む事が出来る。夜間の航行が出来ない理由はここには多くの島や岩礁があり、航路を監視するために船の帆柱の上に人を置かなければならず、夜間ではそれが出来ないので航行は日中のみとなった」。
(注5)ロドヴィコ デ ヴァルテマ(Lodovico de Varthema): ボローニャ(Bolognese)の冒険家であり、その著書にヴァルテマ自身が自分を書いている以外はヴァルテマについては殆ど知られていない。ヴァルテマはヴェニス(Venice)を1502年12月に出発し、アレクサンドリア(Alexandria)に船で到着した。この海港からヴァルテマはカイロ(Cairo)、ベイルート(Beirut)およびダマスカス(Damascus)と旅をした。ヴァルテマはアラビア語を習う為に数ヶ月滞在したダマスカスでマムルーク朝(Mameluke)の司令官と友達となり、奴隷傭兵(Mamluk)を装ってメディナ(Medina)およびメッカ(Mecca)を訪れたいとの思いつきを秘めた。立派な服と良質な乗用馬を買い入れ、大きなシリアの隊商を守る60名の奴隷傭兵一人としてヴァルテマは本当に驚くべき旅に出発した。途中での山賊の攻撃を打ち負かしながら、隊商は予定通りメディアおよびメッカに到着した。ヴァルテマは預言者の墓、カーバ神殿(Kaaba)および巡礼の儀式を丹念に観察出来、イスラムの聖地を記述した最初のヨーロッパ人となった。メッカではヴァルテマの旅行を思いつかせた「知識に対する熱烈な希望」がヴァルテマを圧倒し、ジッダへ向かう為に、こそこそとシリア隊商を抜け出した。ロドヴィコ デ ヴァルテマ(Lodovico de Varthema)のジッダ(Jiddah)に関する記録は紅海やその航行に関する記述の様に全て詳細にわたり正しかった。ジザン(Jizan)とアデン(Aden)はヴァルテマの航海の次の停泊地であった。アデン(Aden)からヴァルテマはイエメン(Yemen)の内陸部を旅して、その後にエチオピア(Ehiopia)、ペルシア(Pedrsia)、ウズベキスタン(Uzbekistan)、インド(India)、ビルマ(Burma)、マラッカ(Malacca)、マレイシア(Malaysia)、セイロン(Ceylon)に行き、ポルトガル(Portuguese)が開いたケープ岬(Cape)経由の航路で帰国した。 2.6 ペロ デ コビリヤン
ポルトガル人(Portuguese)のペロ デ コビリヤン(注6)(Pero de Covilhã)がコンティ(Conti)の訪問とヴァルテマ(Varthema)の訪問の間の15世紀末に巡礼の服装でメッカ(Mecca)へと行く為にジッダに居た。
ロドリゴ デ リマ(Rodrigo de Lima)の1520年の外交使節団と共にアビシニア(Abyssinia)に行ったファランシスコ アルヴァレス神父(Father Francisico Alvarez)はそこでコビリヤン(Covilhã)に会っている。コビリヤン(Covilhã)は歓迎され、遇されたが、後継皇帝によって休暇を拒否されていた。アルヴァレス神父(Alvarez)はその著書「コビリヤン(Covilhã)の旅行記」に「ペロ デ コビリヤン(Pero de Covilhã)はアデム(Adem)(アデン(Aden))へ行き、そこからホルムズ(Hormuz)へ行き、引き返し、ジュダ(Juda)およびメカ(Meca)およびアル メディナ(Al-medina)を見て来た。アル メディナ(Al-medina)には埋葬されたサンカッラム(Çancarram)(ムハッマドの死体)が横たわっている。そこからシナイ山(Mount Sinay)へ向かった」と述べている。
(注6)ペロ デ コビリヤン (Pero de Covilhã): コビリヤンはポリトガル王のジョアン二世(King João II)の斥候であった。ジョアン二世はアフォンソ デ パイヴァ(Afonso de Paiva)に伴わせて、香料の土地に関する知識と交易路を探り、将来の事業を期待して寓話的にポルトガル人達がプレスター ジョン(Prester John)と呼んでいたアビシニア皇帝(Negus of Abyssinia)と連絡をとるためにコビリヤンをパイヴァ(Paiva)と共にレヴァント(Levant)へ派遣した。二人は1487年5月7日にポルトガル(Portugal)を出発し、アレキザンドリア(Alexandria)とカイロ(Cairo)を目指した。ここで彼等はモロッコ(Morocco)から来た数人のムーア人と会い、彼等と共にアラビアへ旅する様に手配した。1488年の春に彼等はスワキン(Suwakin)経由でアデン(Aden)へ航海し、到着した後、別れた。パイヴァ(Paiva)はエチオピアに向かい、コビリヤン(Covilhã)はカリカット(Calicut)へ向かった。カリカット(Calicut)は当時、インドで最も豊かな港でそこでは回教商人の大きな共同体が外国貿易特に香料貿易を支配していた。それに続き、ゴア(Goa)、ホルムズ(Hormuz)およびアデン(Aden)と旅した後で、コビリヤン(Covilhã)は再びカイロに到着した。そこでコビリヤン(Covilhã)はパイヴァ(Paiva)の死亡を知った。王からの新たな命令で、コビリヤン(Covilhã)はそれからホルムズ(Hormuz)に戻った。巡礼の服装でジェッダ(jeddah)に進み、そこからメッカ(Mecca)へと進んだ。このメッカとメディナ(Medina)への訪問は命令で指図されて居なかったが、コビリヤン(Covilhã)の冒険精神のせいである。メディナからコビリヤン(Covilhã)はシナイ(Sinai)に到着し、最終的に1493年にトール(Tor)およびゼイラ(Zeila)を通ってネグス(Negus)(エチオピア皇帝)の宮廷に着いた。 2.7 アンドレア コルサリ
三人目のイタリア人でポルトガル(the Portuguese)の為に働いたフィレンツエ出身者はアンドレア コルサリ(注7)(Andrea Corsali)であった。アンドレア コルサリ(Andrea Corsali)の二通の手紙はヴェニス(Venice)の上院の秘書であったラムシオ(G.B. Ramusio)によって、「主要な航海の収録」の中で最初に出版された。この二番目の手紙は1517年9月18日に書かれたフロレンス(Florence)のアンドレア コルサリ(Andrea Corsali)から最も高名な皇族でシニョール(Signor)首長でもあるロレンゾ デ メディチ公(the Most Illustrious Prince and Lord the Signor Duke Lorrenzo de' Meddici)宛で、「インドのコーチン(Cochin City)に至る紅海およびアラビア湾(ペルシア湾)の航海術について」と題されており、
「多くの人がジデム(the Zidem)と呼ぶ市は北緯22.5度に位置するアラビア沙漠(Arabia Deserta)の一つの市で、ムーア人(Moors)に良く知られたメッカ(Mecca)の港であり、メッカ(Mecca)やメディナト アル ナビ(Medinat al Nabi)の様に聖なる土地と見なされている。メディナト アル ナビにムハンマド(Muhammad)が埋葬され、そこでは巡礼を行う戒律に従って全ての国々から来た人々が居り、モスリム以外の何人もそこに行くことは出来なかった。ジデム(the Zidem)の市は非常に大きくは無いが、全ては石で作られた建造物を陸に向けた壁として囲い込まれている。海側にのみ壁は無かったけれどもポルトガルが紅海に最初にやって来た後で築き始められた。ジッダは他のアラビアの都市同様に不毛で沙漠の土地に位置している。市の中には水がないが、アデン(Aden)、ゼイラ(Zeila)等他の海寄りの土地同様に市の外から駱駝に担われて水が取り込まれていた」
とのジッダ(Jiddah)(ジデム(Zidem))に関する抜粋も含んでいる。
(注7)アンドレア コルサリ(Andrea Corsali): リスボン(Lisbon)からインドへ行き、その航海記をフロレンス(Florence)の有名な支配家族のジュリアーノ(Giuliano)およびロレンゾ デイ メディチ(Lorenzo dei Medici)宛に二通の手紙で残した。コルサリ(Corsali)の人生のその他の詳細については何も分かってはいないが、この二通の手紙が歴史的な資料としては計り知れないほどの価値がある。それは特に同じ時代のポルトガル人作家に対する検証を行うときにあらわれる。二番目の手紙はロポ ソアレス デ アルベルガリア(Lopo Soares de Albergaria)の遠征と共に、1517年にコルサリ(Corsali)が紅海で行った航海について述べているので特に重要である。コルサリ(Corsali)は強風が自分の船を外界に引きずり出して艦隊との連絡が取れなくなる前に、ジッダが見える8リーグ(Leqague)(約24マイル)以内に来ていた。船長はカマラン(Kamaran)行きを決めていたが、水先案内の間違いで、コルサリ(Corsali)は替わりにエチオピアの海岸に着いた。そこでコルサリ(Corsali)は数日間を無駄にし、その乗組員は最終的にダハラク諸島(Dahlac)に着き、救助される迄に喉の渇きと飢えに途方もなく苛まれた。 2.8 無名のヴェネツイアの船長
自主的に或いは強制的に東方諸国を旅行した4人のイタリア人の最後は無名のヴェネツイアの船長(注8)であった。この無名の船長は航海日誌を出版し、「アレキザンドリアで捕虜に成り、インドのディウ(Diu)へ送られ、1538年にカイロへの帰還したヴェネツイアの船長の航海」との記述で始まっている第1巻の274頁には
「1538年3月10日にコール(the Cor')と呼ばれる場所にある港に着いた。コール(the Cor')はカリジ クラ(Khalij al-Kura)或いはシャルム オブホール(Sharm Obhor)とも呼ばれ、全部が沙漠の様で、その底は8段位深かった(eight steps deep)。我々は11日に岸に沿って南に30マイル下ったジデム(Zidem)(ジッダ(Jiddah)と呼ばれる場所を目指してコール(the Cor')を離れた。そこはインドやコロクト(Colocut)(カリカット(Calicut))からの全ての香料が到着する港であった。メッカ(Mecca)から1日半行程であり、多くの浅瀬(shoal)や岩礁があったが、良港である。ここには多くの疲労回復用の飲食物があったが、雨水を溜める幾つかの水槽以外に真水は無かった。ここでは多くの商品が取り引きされており、そしてこの場所にはメッカから運ばれるナツメ椰子の実(dates)およびデーツ(date)の一種のゲンギウイ(gengiui)はあったがその他の種類は何も無かった。地上に出ている部分にはモスクがあり、それをムーア人達はイブの墓と主張していた。ムーア人達は裸の胴体で付き合い、そして痩せてさえなかった。ムーア人達は海に出て行く男達に捕獲された多くの魚を持っていた。長さ6フィート位の互いに縛り付けた3、4本の丸太の上に乗って、一度に出て、8から10マイルも沖に魚を捕りに行く。男達はこれらの筏に座り、棒を櫂として使い、どんな天候でも舟出した。我々はこの場所で水を得、4日間滞在した」
と述べられている。
又、様々な文献に引用されている(注8)「アラビア フィーリックス(Arabian Felix)の海岸の北緯21°30′に位置し、乾燥し、不毛でどんな草も生えないジュッダ(Juddah)は交易に関連する有利な場所としてのみ知られている。その市民は『ここはプトレマイオス(Ptolemy)によってバデオ レジアム(Badeo Regiam)と呼ばれたと憶測(conjecture)されるもう一つの有名な古代都市であった』と主張し、そして『アダムとイヴがその郊外に埋葬されている』と思っている。本当に、何らかの方法でこの海岸を航海したポルトガル人は『バデオ(Badeo)はジュッダの南でプトレマイオス(Ptolemy)によって割り当てられた北緯20°にある』そして『今はゼレセン(Xeresen)、(キシュラン(Qishran) あるいはライス(al-Lith)と呼ばれている』と信じている。この場所にはまさに古代建築の2つの塔が今でも見られ、これらが偉大な名声を持った市がかつてはここに存在した十分な徴候である。その少し南にはクンフンダConfuda(al-Qunfundah or Qunfundhah)と呼ばれるもう一つの市が見られる。この市の建物には誰もその日付を読み取れない記述がある。そしてこの市は沙漠が始まる場所としてたいへん有名であった。
ジュッダの港は障害や浅瀬(shoals)が多い上に曲がりくねった航路の為に便利ではなく、出入りも難しかった。この市は実際に陸地の一番低い部分にあり、他の土地とは多くの水路で分けられていた」との記述も無名のヴェネツイアの船長が記録した「1541年のジョアン デ カストロ(Joān de Castro)の紅海航海日誌(Red Sea Roteiro)」の一部と考えられる。
(注8)無名のヴェネツイアの船長: この船長はアレクサンドリア(Alexandria)で1537年投錨していた時に、スレイマン大帝(Sulayman the Magnificient)とヴェネツイア共和国(the Venetian Republic)の間で交戦状態となり、捕らえられた。1538年、スライマン カディム(Sulayman al-Khadim)指揮下のトルコ艦隊はインドにいるポルトガル軍を攻撃する為の遠征に備え、スエズ(Suez)に集結して居り、この船長は177人の仲間と共にこのトルコ艦隊で働く事を強要された。この無名の船長は停泊と日々の動きを数えた日誌を保管し、それを自分の訪れた土地土地と自分が巻き込まれた事件への熱心な観察で補った。この日誌もラムシオ(G.B. Ramusio)によって出版されている。題名だけがこの船乗りの経験の成り行きを説明している。第1巻の274頁は「アレキザンドリアで捕虜に成り、インドのディウ(Diu)へ送られ、1538年にカイロへの帰還したヴェネツイアの船長の航海」との記述で始まっている。この章は「トルコの君主(Turkish Signor)とヴェニス(Venice)の傑出した殆どの市会(signoria)の間でどうして1537年に交戦が勃発したか、ヴェニスのガリオン船(大型帆船)はアレキザンドリアで紳士、商人および船員と共に抑留された。彼等は所持品と共に陸路でそこからの航海のために紅海岸のスエズの港まで連れて行かれた」と書き出されており、その中に文学的なうぬぼれ無しに或る男の謙虚な表現でジッダ(Jiddah)に関する興味深い節を見出す。
又、1904年にロンドンで出版された「アラビアの侵攻(the Penetration of Arabia)」と云う題名の英国の考古学者ダヴィド ジョージ ホガース(David George Hogarth) (1862 - 1927)が著述したアラビア探検に関する参考書の32頁には「1541年の後にポルトガルのインド総督(Viceroy of India)となったジョアン デ カストロ(Joān de Castro)の紅海航海日誌(Red Sea Roteiro)」に関して「1538年にインドにいるポリトガル軍を攻撃する為にスエズ(Suez)に集結していたトルコ遠征艦隊の提督スレイマーン ガジ(Sulaiman Ghazi)のベニス(Venetian)人の船長によって記録された航海記およびジッダ(Jidda)に関する記述を含むL. デ マロル(L. de Marol)の旅行記を参照せよ」と云う謎めいた脚注(cryptic footnote)を含んでいた。この章の最後(38頁)の参考文献一覧(the Bibliogaraphy)でホガース (Hogarth)は「紅海の旅行記(the Red Sea itineraries)はハーグ(Hague)で1738年に出版されたベテリス アエヴィ アナレクタ(Veteris Aevi Analecta)の中でマッテウス(A. Mattaeus)によって紹介されている」と述べている。ホガース (Hogarth)の脚注に記述されている最初の紅海旅行記は明らかに無名の熟練した船長(the Anonumous Venetian Skipper)の旅行記で、この船長は捕虜として西印度のポルトガル人居留地に対する1538年のトルコ艦隊の遠征に参加していた。ジッダの記述を含むデ マロル(L. de Marol)の旅行記はジッダを知る目的の為には非常に興味があり、価値も高いと思われる。実際にハーグ(Hague)で1738年にアントニウス マッテウス(Antonius Mattaeus)によって出版された(Veteris Aevi Analecta seu Vetera Monumenta Hastenus Modum Visa)の第II巻はジョアン デ カストロ(Joān de Castro)、ジョアン デ バロス(João de Barros)、無名の熟練した船長(the Anonumous Venetian Skipper)の要約を含んだ章を持ち、246頁には(Ludovici de Marmol Carvajal Descriptio Maris Rubri)と云う題の小章を含んでいる。このLuis del Mármol Carvajalはグラナダ(Granada)生まれの歴史書の著者であり、1535年から22年間にわたってスペイン(Spain)のアフリカ事業全てに参加していた。The Descriptio Maris RubriはDescripción general de Africa, sus guerras y vicisitudes, desde la fundación del Mahometismo hasta el aňo 1571 (Granada 1573 - Málaga 1599)からマッテウス(Mattaeus)によって要約され、ラテン語(Latin)に翻訳されている。Luis del Mármol Carvajaの紅海に関する記述は旅行記では無く、多くはポルトガルの出典からの収集および資料の再編集(re-elaboration)であった。従って、マッテウス(Mattaeus)が再編した記述の中でジッダに言及している箇所については無名のヴェネツイアの船長が記録した「スライマン カディム(Sulayman al-Khadim)の航海記」での記述と考えられる。 2.9 名の知れないポルトガル人の奴隷
リチャード ハクルート(Ricard Hakluyt)がおよそ1580年に出版した有名な「主要な航海(Principal Navigation)」の中で活字化された名の知れないポルトガル人の奴隷(注9)の報告書には
「『メッカ(Mecca)からグリダ(Grida)(ジッダ(jiddah))まで彼等は短めの二日間の旅行をした』と我々は言った。そしてこれらの場所が太陽(the Sunne)の苛酷な暑さの為に日中の旅行に向いていないので彼等はメッカを夕方出発し、朝、夜明け前に半分の行程まで着いた。そこには家具の調った住居、宿泊に適した良い宿屋(inn)があり、特に自発的に施しを貧しい巡礼に与える若い女性達がいた。この様にして次の晩も出発し、朝になって彼等はグリダ(Grida)(ジッダ(jiddah))に来た。
この市は紅海の埋め立て地に築かれ、陸側は壁と塔で囲まれているが、時代を通じて殆どが消費され、捨てられている。海側には壁は無い。グリダ(Grida)(ジッダ(jiddah))には三つの門がある。それぞれの側に各一つあり、第三番目は陸に向かった真ん中にあり、それはメッカへの門(The port of Mecca)と呼ばれる。その近くには6、7人のトルコ人が古い塔の護衛としており、その為に陸側の市外れの門の一つには鷹の紋章(foure faulcons)が付いている。又、壁が海水と接している海側へは、後に最高の配置の25区画を持つ堡塁の様な砦が作られ、良く整備され、防御されている。
海に向かってもっと外側の最も遠い古い塔の辺りには防御のための30人の男達を伴う5つの良好な区画である。壁の端となる市の反対側には最後に建設された堡塁があり、それは強力に十分に150人のトルコ兵からなるサンジャッコ(Sanjaccho)によって防御されている。これらのトルコ兵は武器や全ての必要な物資や弾丸が十分に装備され、そしてこれらの防御の強化はポルトガルに対する恐れと疑惑以外に何の為でもなかった。
そして、港が良好であれば、これら全ては無駄であったが、港はこれよりも悪くも危険にも成らないだろう。この様な知恵で全てが岩と砂で一杯であり、船は否応なしに少なくとも2マイルは離れて停泊する以外には近くには来られない。
この港には毎年、香料と豊かな商品を積んだ大型船が40、50隻入港する。積み荷は15万デュカト(ducats)の収益を税関にもたらし、半分は大シニョール(the Grand Signior)へ向かい、残りの半分はセリフォ(the Serifo)へ向かう。そして、他にグリダ(Grida)(ジッダ(jiddah))に付いて述べる価値は無いので我々は十分に休養した我々の隊商に戻る」
と述べられている。
(注9)名の知れないポルトガル人の奴隷: リチャード ハクルート(Ricard Hakluyt)がおよそ1580年に出版した有名な「主要な航海(Principal Navigation)」の中で活字化された名の知れないポルトガル人の奴隷の報告書の英語文章のあちらこちらに現れる幾つかのイタリア語の単語から判断し、元々は他のヴェネツイア人の作品ではないかと思われる。これにはアレキザンドリアとカイロの市の様子、カイロからメッカへの巡礼路、巡礼の儀式およびメッカ、メディナ、ジッダの市の様子等が記述されている。オットマン スルタン国(Ottoman Sultan)の支配者としてのムラト三世(Murad III)との関係からこの報告者は1574年から1595年の間に書かれているが、前述した様にこれはハクルート(Hakluyt)によってその出所や著者に対する注解無しに出版されている。この奴隷巡礼者の頁から出たジッダの絵は非常に興味深く、原案はトルコによる防衛に一部貢献している。この奴隷はヒジャーズ(Hejaz)の都市を見ているに違いない。古い英語は読むのを少し難解ではあるが散文は聞いていて楽しい。 3. サラセン帝国時代のジェッダ 3.1 聖なる都市の港および商業の中心地としての基礎
海岸集落としてジッダ(Jiddah)はイスラム以前に遡るけれども、後世における聖なる都市の港および商業の中心地の両方としての傑出の基礎は西暦646年(ヒジュラ歴26年)に第3代正統派カリフ ウスマーン(the Caliph Uthman)によって作られた。 メッカ(Mecca)の人々の要請でウスマーンはジッダから南20kmにあるシュアイバー(Shuaybah)の古い埠頭を破棄する事を決めたのは事実上この年であった。それまではシュアイバーがメッカ交易の海岸への出口であった。ジッダはシャアイバよりも少し間近で天然の安全な港を提供出来たので好ましく、従って、ジェッダはモスレム帝国(the Moslem Enpire)の拡大から生じる増大する要求に見合う為の良好な立地条件を備えていた。
1511年頃メッカで生まれた16世紀の歴史家クトゥブ ディン(Qutb ad-Din)(ムハンマド イブン アハマド ナハルワリ(Muhammad ibn Ahmad an-Nahrwali))のジッダ市の創設に関する古文「メッカ市に関する歴史的記述の蒐集(Die Chroniken der Stadt Mekka)」があり、その蒐集された古文の中には「メッカ市民(Meccans)の主張に耳を傾け、ウスマーンはジュッダ(Juddah)へ行き、メッカの港をメッカに近いジュダにシュアイバーから移すメッカ市民の要請の効果について個人的に検討した。この機会を利用して、ウスマーンは海水浴をし、自分の随員達に一緒に入るように薦める程、海水浴が気に入った。そこで、一行全員が水に浸かった。ウスマーンはそれからジッダの北北東50kmにあるウスファン村(Usfan)を通って、メディナ(Medina)へ戻った」との記述もある。
イスラムとその偉大な帝国の最初の中心として、メッカは征服戦争から莫大な富を生み出し、ジッダはエジプト、南アラビア、紅海西岸およびインドからの供給を聖なる都市に運ぶ活発な交易の中心となった。
帝国の世俗的な中心がウマイヤ朝(661 - 750)(Ummiyad or Umayyad)のカリフ(caliph)の治世下でダマスカス(Damascus)に移り、そしてアッバース朝(Abbasid)(750 - 1258) のカリフ(caliph)の治世下でバクダッド(Baghdad)に移った結果、西アラビアの経済的、政治的な重要性が薄れた。それでもメッカは神聖の名声を失う事は決して無く、一定の繁栄が毎年の巡礼、寄付金および地方交易で保たれ、2つの都市は初めから歴史的に連携していたので、ジッダはその恩恵をこうむった。
ジッダに直接向かう紅海の交通はアビシニア海賊(Abyssinian pirate)の欲望を刺激し、アビシニア海賊はジッダに向かう船を襲い、702年には襲撃の途中でこの町を廃墟にした。
10世紀まではジッダに到着する商品に課する税金と巡礼に課した税金がヒジャーズ(Hejaz)統治者の一番重要な財源であり、メッカのシャリフ(Sharif)の家臣(a vassal)が統治するジッダの存続に大いに貢献していた。 3.2 エジプトのヒジャーズ併合とシャリフ政権
モンゴル人(Mongol)が1258年にバクダッド(Baghdad)に侵攻し、アッバース朝のカリフがマムルーク朝(1250 - 1517)スルタン(the Mamlik Sultan)の庇護の下に移った後は、モスレム帝国の元の州であるヒジャーズは間も無く、紅海と東方交易に古くから関心を持っていたエジプトの併合の対象に成った。
1269年にスルタン バイバルス(the Sultan Baybars、1233 - 1277)は巡礼を終わらせ、公にはエジプト人巡礼を保護する名目で軍隊を残留させた。バイバルスの本当の目的はメッカに覇権を樹立する為であったが、この計画はシャリフ(the Sharif)の猛反対の為にすぐに失敗した。シャリフ(the Sharif)はイエメンのスルタンおよびイラクのタタール人(Tatar)からの同じ様な企てに抵抗していた。しかしながら、シャリフ(the Sharif)は国際的な勢力にはけっして成れず、マムルーク朝による保護は避けられないのが現実であった。
エジプトが遭遇している北の問題は地中海の海賊であり、東の問題は離反する侯国群と時々で独立した態度を見せるシャリフを鼓舞するペルシャのティムール朝(Timurid))(1370 - 1507)の支配者達であった。自分の兄弟に対して戦いを挑んだバラカト一世(Barakat I、 1404 - 1452)のシャリフ政権(the Sharifate)下での内紛はメッカ支配者の力を急激に弱め、その支配力は最低に成った。有力な対抗勢力一族のシャイビ(the Shaibi)はシャリフに公に戦いを挑んだので、エジプトのマムルーク朝スルタン バイバルス(Barsbay)は治安を口実として1425年メッカに定住の守備隊を駐屯させ、ジッダの徴税権を奪った。この時までエジプトはシャリフに大きな自治権を与えて、聖地の保護、巡礼の監督および紅海の港全体の支配にのみ主な関心を持っていたが、ジッダ港とその政権への直接支配の確立はヒジャーズ支配とへの公然とした干渉と事実上のシャリフ従属が始まった証であった。マムルーク朝は賢明にもジッダ港からの歳入を全て収得せず、シャリフへのその一部割り当てを許していた。マムルーク朝とシャリフは重大な紛争が無い限りはこの地区からの歳入が両方の国庫に自然に流れ込む事を認識していた。アッバース朝(Abbasid)のカリフ統治(caliphate)の失墜で、東洋貿易の大部分が以前のバスラ(Basrah)経由バクダッド(Baghdad)から今は紅海およびジッダ経由でエジプトへ向かう様に成ったので、再びジッダ港は繁栄した。 4. 大航海時代の幕開け 4.1 東方の商品輸入港としてアデンの代わったジッダ
ブラウン(G. Braun)が作成し、ケルン(Cologne)で1577年に出版された世界地図帳(Civitates Orbis Terrarum)に描かれたアデン(Aden)の16世紀における全体図のラテン語注意書きを翻訳すると「アラビア フェリックス(富裕なアラビア)の最も繁栄した交易の中心であるアデン(Aden)、そこにはインド、エチオピアおよびペルシアからの商人達が集う。この市は位置的に有利であり、その建造によって堅固に守られている。この市はその卓越した多くの数の建物で有名である。この市は城壁と山頂から火を噴く高い山に囲まれている。その炎は船乗りにこの港の位置を示していた。アデンはかつては半島状を成していたが、今では人々の貢献で海に囲まれている」と記述されている。
東洋貿易の大部分が紅海およびジッダ経由でエジプトへ向かう様に成った変化でイエメンがもっとも実際な利益を得た。13世紀に勢力を得たラスリド朝(the Rasulids Dynasty)の商業活動に支援されてアデン(Aden)は偉大な貿易港に成った。そこではインドや中国の市場から来た物資が紅海を航行する小さな舟に積み替えられた。しかしながら、後のエジプトによるヒジャーズの併合と同じ時期の混乱と治安の悪化した状況がこの港の中での法外な強請を導いた。その上、この地方のアミール(Amir)が商人達に対して商品輸送に自分の駱駝隊商部隊を使わせる為に強制的手段でのエジプトへの商品輸送への反対する試みがこの強請に連結した。
この様ないやがらせは次第に東洋の交易者達を遠のけ、遅延と随行員の経済的損失で、アレクサンドリア(Alexandria)やダマスカス(Damascus)の交易相手の少なからぬ苛立ちを買う原因となった。
この情況にむかついたカリカット(Calicut)の冒険好きの船長イブラヒム(Ibrahim)は紅海のもっと安全な場所を求めてアデンを迂回し始めた。海峡の中で幾つかの港を試し、紅海の南半分は大きなインド貨物船の航行が可能なのでイブラヒムは1424年にアデンの代わってジッダ(Jiddah)を選定した。更にイブラヒムはこの市の知事キールクミシュ(Kirkmish)からその権限でイブラヒムの滞在を快適にさせ、交易を行うのに魅力的条件を約束する等、非常に励みになる歓迎を受けた。「次の年にはイブラヒムは14隻の船を率いて戻って来た。イブラヒムの例は他の船長も真似をし、1426年には40隻以上のインドおよびペルシアの船がジッダ港に見られた。1431/1432年には中国から数隻のジャンク(junk)がアデンでは妥当な条件で貨物を荷下ろし出来なかった為にジッダに現れた」と「中世におけるレヴァントの交易の歴史」には記載されている。
イブラヒムの先駆的な航海の直ぐ後で、バールスバイ(Barsbay)はアデンに荷揚げされた貨物の対して交易禁止命令を出したのでジッダは東方の商品の唯一の公認輸入港と成った。近現代における著者カリル ザヒリ(Khalil al-Zahiri)は「毎年、ジッダには100隻以上の船が入港し、その中の幾つかは7帆艤装で年間平均20万ディナール(dinar)以上の歳入を上げていた」と述べている。
以前にアデンで行われていた様にジッダでもジェルバス(jelbas)、サムブク(sambuk)やその他の小さな木製の舟に積み替えられた。これらの小舟がエジプトの主要港であるコッセイール(Kosseir)やスエズ(Suez)やシナイ半島(Sinai peninsula)のトール(Tor)との連絡航路の運行に使われていた。しかしながら。暗礁(reef)、浅瀬(shoal)、逆流(cross-current)およびつむじ曲がりの風(awkward wind)が紅海北部海域の航行を小舟にとってでさえもとても危険にしていた。海岸近くを帆走するこれらの小舟は毎夜、暗礁の間に停泊していたが、それでも多くが難破したので代替えとしてのバスラ(Basrah)航路はいまだに稀少で傷みやすい物資に対して時折使われていた。
コッセイール(Kosseir)やスエズ(Suez)から駱駝隊商が東方からの物資をナイル(the Nile)へと運んだ。ナイルでは川舟がそれらの物資をカイロやアレクサンドリアへ運んだ。トール(Tor)で陸揚げされた物資は駱駝の脊だけでダマスクスを通ってトリポリ(Tripoli)やベイルート(Beirut)等の地中海の港へ運ばれた。 4.2 ヴェネツイアの商船隊が覇権を握った地中海交易
地中海では西暦650年から1050年までのアラブ艦隊とビザンティン帝国艦隊の間の覇権を巡っての長い激しい戦いがジェノヴァ(Genoa)とヴェネツイア(Venice)の商船隊に自由な場を残した。
これらのイタリア都市国家は巨大な利益と共に、この海域の東方からの贅沢品ばかりでは無く、食糧、原材料および製品を含む輸送交易を急速に独占した。ジェノヴァとヴェネツイアは深刻な対立を激化させて行き、それは1381年にヴェネツイアがジェノヴァを凌駕して終わるまで続いた。
BRAUN & HOGENBERG, CIVITATES ORBIS TERRARUM (CA. 1572) 16世紀、ヴェネツィアに大三角帆船と横帆艤装船が到着した風景 (A detail from a 16th-century view of Venice shows the arrival of both lateen- and square-rigged ships.) http://www.saudiaramcoworld.com/issue/200802/east.meets.west.in.venice.htm
この日から他の船籍を一切排除し、アレクサンドリア(Alexandria)、アンティオキア(Antioch)、コンスタンティノープル(Comstantinople)、ベイルート(Beirut)、トリポリ(Tripoli)およびその他の小規模な交易港を訪れ、東洋の物資を西および北ヨーロッパへと運んだのはヴェネツイアのガレー船団(galleys)であった。ヴェネツイア(Venice)から物資は河川あるいは荷馬隊によって北イタリアを通ってアルプス(Alpine)を越えて南ドイツへ運ばれ、海路でマルセイユ(Marseille)と中央フランスのローヌ(Rhône)へ運ばれる。同じく海路ではアリカンテ(Alicante)、マラガ(Malaga)、バルセロナ(Barcelona)へ運ばれ、そこから荷馬隊で中央スペインの大市場へ運ばれる。海峡を抜けて、毎年、ガレー船団はブリュージュ(Bruges)およびアントワープ(Antwerp)、そして英国、更にハンザ同盟(Hanseatic Leage)のハンブルグ(Hamburg)、ブレーメン(Bremen)、リューベック(Lübeck)、ケルン(Cologne)等の都市を訪問した。これらの都市は北ヨーロッパの消費市場へ東洋の物産を小売りする事でも繁栄していた。 4.3 インド洋沿岸香辛料貿易のアラビア人による独占
アラブ人の船乗りはおよそ紀元前100年頃に紅海からモンスーンを利用してアラビア海を横断し、南印度へ直接航行するエジプトから印度への航路を確立していたので、カリカット(Calicut)、コーチン(Cochin)、カナノア(Cananore)、ゴア(Goa)等の港やその他のインド洋沿岸(the Indian Ocean littoral)との交易は事実上、アラブ人の独占になっていた。アラビア、エジプトおよび東アフリカの商館はインドで、駐在使者(密偵(emmissar)))の居留地を維持していた。駐在使者は地方支配者に特典の為の支払いをしていた。カリカットには特に多くの裕福な移住アラブ人の共同体があり、税金の支払いを条件としてこの市のザモリン(Zamorin)と呼ばれるヒンドゥー教の王から商業活動を許可されていた。
ザモリン(Zamorin)は司祭職であるバラモン(Brahman)や高貴な戦闘カーストであるナーヤル(Nair)等貴族社会のヒンドゥー人 (Hindu)の廷臣に囲まれ、市の外にある大きな宮殿に住んでいた。カリカット(Calicut)はにぎやかで人口が多く、キャラコ(calico)としていまだに知られる良質の織物業で有名であった。この町は主として椰子の葉ぶきの屋根の木造建築と少なくとも2つのモスクを含む多くの石作りの建物で構成されていた。木造建築には大部分のヒンドゥー人が住み、石作りの建物にはモプラ(Moplah)と呼ばれる豊かなアラブ人達が住んでいた。モプラはこの市の工業と自由港としての海上交易を支配していた。モプラ達の巨大な倉庫には遠い場所から到着する莫大な物資が積み上げられ、毎年2月に外洋航行用のバグラー(baggalh)に積み込まれ、ジッダ(Jiddah)へと向かう。バグラーは北東の貿易風(monsoon)に乗って、アラビア海(the Arabian Sea)を横断し、紅海に入り、ジッダでその積み荷を降ろした。ジッダ商人によるもう一つの骨の折れる交易で東方の計り知れない価値のある物産がヨーロッパ市場へと流れる。
数年を通じてどの様に帆走するのが一番効果的かを考慮しながら、船は季節風の向きの変わった後の8月か9月にインドに戻る。
アラビア人が家庭消費用にも香辛料、綿製品、米及砂糖を輸入したので、活発なこの地方の交通は上記の東西貿易の情況に応じて発展した。アラビア人が家庭用に消費した香辛料はコーヒーの風味付けに使う、ショウガ(ginger)、丁字(clove)および小豆蔲(しょうずく)(cardamom)であった。アラビア人はアフリカとマダガスカル(Madagascar)へも金、奴隷、象牙等と引き替えに銅(copper)、香辛料(spice)およびインド織物を輸出した。インドでは軍用および儀式様に土侯達が必要とし大きな需要のあった馬はインドへのアラビアの重要な輸出品であった。馬の一部はアビシニア(Abyssinia)にも輸出された。
地方の水準でこの交易で得られる莫大な利益は生産者、卸し業者、運送業者および商人の間で分配された。エジプト太守(the Sultan of Egypt)は税金、贈り物および安全通行料の形でその分け前を厳しく取り立て、とりわけ、ジッダで関税を課した。
1453年にジッダはもう一つの好ましい歴史的環境を得た。コンスタンティノープル(Constantinople)がオスマントルコ(the Ottoman Turks)へ陥落した後、オスマントルコはボスポラス海峡(the Bosphorus)を閉鎖し、中央アジアを越える陸上交易路の黒海へのターミナル港であったクリミア半島(the Crimea)のカッファ港(Caffa)やアゾフ海(the Sea of Azov、黒海の内湾)のタナ港(Tana)等への通行を遮断した。これによって、紅海だけが安全で実用的な交易路として残され、完全にこの交易路を支配していたアラビア人とエジプト人が香辛料交易の事実上の独占権を手にした。
15世紀の後半には、「ジェッダ(Jeddah)で徴収される賦課金は価格に準じて、5%から10%の間で変化した。ジェッダに持ち込まれるどの積み荷もその3分の1は胡椒であった。これは安いカリカット(Calicut)での胡椒の値段でスルタンに売られた。スルタンは高いカリカット(Calicut)値段での銅で支払った。エジプトで胡椒を買っていたヴェネツィア人(the Venetian)は固定された割合の高値でスルタンから買い、その上に自分達の船の安全通行料として5%をスルタンに支払わなければ成らなかった」と英国海軍省海軍情報局「西部アラビアと紅海(Western Arabia and Red Sea)」編には述べられている。
この交易の中間費用およびそれに対する賦課金(impost)は夥しいが、中世ヨーロッパでは東洋の物産にあこがれがあり非常に高価でも需要があったのでそれに応じた利益が期待できた。 4.4 ポルトガルの15世紀における「香辛料の海」への進出
香辛料は飽く事を知らない需要の対象であり、貴族(patrician)の好みが明らかに肉、魚や猟獣の自然の味を喜ばなかった時代以降、金持ちの家の食用香辛料(condiment)として、下層階級の単調で風味の無い食事の味付けとして、薬味入りワインの材料として、冬場の牧草地の不足から秋に非常に多くの家畜を屠殺する北国の冬の間に消費する大量の乾し肉の保存および隠し味用として、等々の幾つかの用途に使われた。極東からの薬品や香料は医薬(medicines)、薬液(potions)、軟膏(unguents)、着色料(tinctures)、治療薬(remedis)、香水(perfumes)には欠くことが出来なかった。アラビアの香料樹脂は宗教儀式には無くては成らなかった。ヨーロッパ支配者の贅沢で高価な好みは多かれ少なかれ東洋から来る絹、金襴(brocade)、宝石やその他の贅沢品への負担の多い需要を作り出した。
この交易から生み出された繁栄がその他の人々の羨望とそれに加わる願望を刺激したのはごく自然の成り行きであり、それがポルトガル人が東洋の海に進出した1つの理由であった。ポルトガルは僅か150万の人口しか持たないヨーロッパの小国であったが、15世紀には香辛料の国(the spice land)への直接航路を目指すには最も適した国の1つであった。イベリア半島(the Iberian peninsula)のその他の地域やヨーロッパからの地理的な孤立と完全な海辺の環境の為に、ポルトガルは巧みで、勇敢な(intrepid)船乗りと航海者の出身地であった。つつましさ(frugality)と伝統的な敵との長引く闘争がその人々を屈強で、勇敢で、必要であれば冷酷にさせてきた。 4.5 アフリカの西海岸南下の航路開発と「嵐の岬」の発見
最初の領土拡大の試みはモロッコ(Morocco)に対して行い、時々の風潮に合わせ、ポルトガル人の征服や獲得の願望は常に改宗の熱意あるいは異教徒(heathen)の殲滅(destruction)とが混ざり合っていたので、それは経済的および宗教的性格の両方を持っていた。モロッコの服従が困難で費用の掛かる問題で在ることが分かっるとポルトガルはサハラ沙漠(Sahara)を横断して運ばれる金と象牙の産地である南の国々に到達する為にアフリカの西海岸を開発し始めた。これはポルトガルが積極的に働きかけ、探していたインドへ近づける可能性の一つでもあった。同時に、アフリカのイスラム教国の背後の何処かにプレスター ジョン(Prester John)と云う王者の様な聖職者に支配されるキリスト教国がある事がヨーロッパで知られる様に成ったので、ポルトガル人(the Lusitanians)はムーア人(the Moors)を攻撃し、北アフリカから追い立てられる様に、プレスター ジョンと直接連絡する方法を探していた。これは香料交易のエジプト人仲買人達の抑圧を弱める好都合な副次効果も生み出すと思われた。
1418年から1460年まで、航海者ヘンリー王子(Prince Henry the Navigator)の長期展望の指導の下にポルトガル人船長達の継承がアフリカの西海岸を少しずつ、その沙漠の広がりを越えて、熱帯の植生、奇妙な生き物および妙な人々が多い国々まで下って行った。ポルトガル人船長達はこれらの土地と交易関係を持ち始め、そしてアフリカ北西海岸沖にあるマデイラ(Madeira)の豊かで肥沃な島々を植民地化した。
ヘンリー王子に鼓舞され、指示された実験航海は1460年の同王子の没後も続けられ、探検は更に南へと進められて行った。ディオゴ デュ アザムブヤ(Diogo de Azambuja)が1482年にギニア(Guinea)海岸のサン ジョルジュ ダ ミナ(São Jorge da Mina)に砦と工場を建設した。そこでは黄金の粉末が発見されていた。同じ年ディオゴ カウン(Diogo Cão)がコンゴ川(the River Congo)の河口を発見し、1485年の第2航海では南半球熱帯の外れにあるナミビア(Namibia)のヴォルヴィス湾(Walvis Bay)まで航海した。
1487年にポルトガル(Portugal)のジョアン二世王(King Joãn II)はバルトロメウ ディアシュ(Bartolomeu Diaz)を選んだ。ディアシュは数回の西アフリカ航海から2艘のキャラベル船(caravel)と1艘の小さな貨物船から成る重要な遠征部隊を指揮する為には十分な経験を既に積んでいた。ディアシュはインド航路を見つける目的で、同年の半ばにテグス(Tagus)から出航した。ディアシュは空の貨物船を後にリューデリッツ(Lüderitz)湾と名付けられた南西アフリカ(ナミビア南西部)のアングラ ペケナ(Angra Pequeña)に残した。それから、13日間続いた強風の中をはからずも南に向かうどころか、16世紀の年代記作家が記録している様に、ディアシュは勇敢にもアフリカ海岸を離れ、東へ向かう前に、確実に南へと帆走した。その時、ディアシュは既に喜望峰(the Cape of Good Hope)の南にいた。遂に、ディアシュは北へと向きを変え、現在のモッセル湾(Mossel Bay)の地域である東西への広がる海岸を眼にした。この海岸を辿り、ディアシュはアルゴア湾(Algoa Bay)に到着し、広大な水域が更に東へと広がっているのを知った。
ディアシュのカラベル船(caravels)は今、インド洋に浮かんでおり、数十年間に及ぶ困難(strenuous)で不屈(stubborn)の探求の目標すなはちインドへの海路が殆ど掌中にあるのを良く分かっていたディアシュはその完全達成の押し通したいと思った。しかしながら、その乗組員は既に疲労し、減少した糧食を懸念しており、誰も航海した事の無い荒れ狂う、未知の水域への恐れから不安になり始めていた。ディアシュは引き返す様に説得された。ディアシュの失望は王へもたらす朗報によって和らげられた。なんといっても、この航海の壮大さおよび卓越したみごとさは、幾世紀にも渡ってヨーロッパ人の興味を燃え立たせて来た東洋の全ての地域に、ポルトガルが海路で直接通行できる可能性をもたらすだろう。ディアシュが自分が探し求めていた偉大な岬を眺めそしてそこに「嵐の岬(Cabo Tormentoso、Cape of Storms)」と名付けたのは帰路の途中であった。
バルトロメウ ディアシュ(Bartolomeu Diaz)は1488年にリスボン(Lisbon)に到着したが、ポルトガルとスペインの紛争が1495年までディアシュの発見の活用を許さなかった。1495年に戴冠したマヌエル王(King Manuel)はヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)の指揮のインド遠征隊を組織し始めた。ディアシュが自分の後継者に与えた助言はこの遠征が成功する助けになった事が証明されている。ディアシュは実際にそうでなければ素晴らしいカラベル船(caravels)はこの非常に長い航海に対しては積載量と帆走特性が余りに不十分であり、水深の浅い港に入港するには喫水が深すぎる事を理解していた。
この為、ディアシュは2艘の新造船の建造を指揮した。120トンのサン ガブリエル号(São Gabriel)と100トンのサン ラファエル号(São Raphael)である。この2艘は広い舷幅を持ち、船の中央部が低く、竜骨が短かった。そびえ立つ船楼が船首と船尾に取り付けられそれぞれが3本マストに適応していた。前マスト(前檣)と主マストは2枚の四画帆(square sail)を付け、後のマスト(後檣(mizzen))に張る縦帆は1枚の大三角帆(lateen)であった。サン ガブリエル号(São Gabriel)はずんぐりした、四角形の艤装したナオ船(nao)であり、船長28m、船幅9m、深さ4.5mで、178重量トンあり、120トンの船荷が運べた。約50トンのカラベル船ベッリオ号(Berrio)および最終的には破棄された200トンの貨物船で十分に武装された180名の船乗りが乗船する艦隊を構成した。ダ ガマはサン ガブリエル号を旗艦として選び、サン ラファエル号の指揮官を自分の兄弟のパウロ(Paulo)に任せた。二人だけの秘密で、この2艘の船には20門の重砲を積み込んだ。 4.6 喜望峰まわりのインド航路開幕
1497年3月25日に国王とその廷臣が臨席の中、乗組員達は船に乗り込み、偉大な冒険へと出発した。
自分の航海中に得た知識に基づき、バルトロメウ ディアシュ(Barto-lomeu Diaz)は南大西洋を広い海側のコースを保つ様に提案した。このコースでは安定した風が期待でき、ギニア凪(Guinea calms)、浅瀬およびアフリカ海岸の幾つかの地帯特有な猛烈な乱流を避ける事が出来る筈であった。
慣例となっている西アフリカのセネガル西方海上にあるカボヴェルデ諸島(Cape Verde islands)のサンティアゴ(Santiago)に給水の為に停泊した後、ダ ガマ(Da Gama)は受け取った指示の利点を最大限に生かし、熱帯凪を通り抜ける航路に取り組んだ。まず、東南への長い風上への帆走、それから南へ向きを変え、南東からの貿易風に出会うまで帆走し、貿易風を横切って、アメリカ大陸から600マイル以内に達する程、南西に帆走した。ダ ガマは大西洋(the Atlantic)の南半球海域で風向きを変えずに西の方から吹く偏西風(westrlies)を得て、東に向きを変えて航行し、喜望峰(Cape of Good Hope)の100マイル北のセント ヘレナ湾(St. Helena Bay)辺りの陸地に出会った。それからダ ガマ(Da Gama)はヨーロッパの船乗りには前例の無い、13週間、4,500マイルを陸地を見ずに帆走した。
セント ヘレナ湾からダ ガマはポルトガル王が新たに名を付けた「喜望峰(Cabo de Bõa Sperãça、the Cape of Good Hope)」を回り、最終的に貨物船から糧食を受け取る為に、アフリカ南端部のインド洋を臨むモッセル湾(Mossel Bay)で投錨した。この貨物船は空にされ、壊された。
モザンビーク海流(the Mozambique current)に逆らってゆっくり進航し始めた残りの3艘は海図の無い東アラビア海岸に沿って、モザンビーク(Mozambique)およびケニア南東岸のモンバサ(Mombasa)へと進んだ。これらはムスリム(Moslem)の港で、そこでは多分、挑発的な非友好的歓迎を受けた。そこでは一艘を切り離す現地人の企てがポルトガル人達を銃撃に訴えさせ、あわてて港から出航させた。次の停泊は少し北のマリンディ(Malindi)であり、ここでは少なくとも表面上はこの地の王と友好的な関係を樹立した。マリンディはアフリカとインドの間の外洋を横断する為の通常の出港地であった。そこで、非常に幸運な事に、ダ ガマ(Da Gama)は水先案内人の尽力を確保できた。その水先案内人をポルトガルの歴史家達はマレモ カナク(Malemo Canaqua)ともマレモ カナ(Malemo Cana)とも呼んでいる。
これはムアリム カナカ(Muallim Kanaka)或いは航海者・占星術者(Navigator-Astrologist)から変形した職種の名称である。マレモの本当の身元は1919年にフェラーンド(G. Ferrand)によって明らかにされ、マレモはたまたまその時代のもっとも傑出したアラビア人航海者であったアハマド イブン マジド ナジディ(Ahmad ibn Majid al-Najdi)であった。マレモがナジディ族(Najdi)の男であったのはその名から分かる。
アハマド イブン マジド(Ahmad ibn Majid)は最高の海洋科学に関するアラビア語で書かれた百科辞典の著者であった。この百科辞典には「有用な情報或いは航海科学の基礎と原則(Book of Useful Information or Basis and Principles of Nautical Sciences)」と名付けられ、30巻の本から成り、韻文での航海手引きの蒐集であった。アハマド イブン マジドは勇敢で博学な航海者の家族に属していた。この様な航海者達はインド洋を渡る巡礼の為の海上通行を少なくとも4世代に渡って受け継いで来ており、15世紀に起こった天文学を使った航海術と機器およびインド洋海岸に付いての海図学上の知識等の進歩の大部分を担っていた。
ポルトガルの歴史家バロス(João de Barros)が記録した並はずれた2人の男達の会議の記事はスタンリー (H.E.J. Stanley)が引用して居り、ここで詳細に紹介する。
バロス(Barros)は「この艦隊を訪れてきた人々の中にマレモ カナ(Malemo Cana)すなわちイブン マジド(Ahmad ibn Majid)と云う名のグザラト(Guzarat)のムーア人(Moor)が居た。イブン マジドは自分自身がポルトガル人と交渉して感じた満足(この態度はポルトガルによって開かれるヨーロッパとの新しい商業ルートから生み出される巨大な利益への期待と云う自己利益に恐らく刺激されていた。)とポルトガル人達の為の水先案内人を探していたメリンディ(Melinde or Malindi)の王様を喜ばす事の両方の理由でポルトガル人達への同行を承諾した。ヴァスコ ダ ガマ (Vasco da Gama)はイブン マジドと話し、とりわけイブン マジドがムーア人のやり方での規定した方位で描いたインド海岸全ての海図を見せた後は、イブン マジドの知識に満足した。ムーア人の海図では羅針盤等の他の方位を使わずに子午線と緯線で(互いに近づくほど)非常に細かく描き、子午線と緯線で作られるます目が非常に小さかった。海岸は南北および東西の2つの方位だけで描かれて、その内容は大きな確実性を持ち、西洋の海図では普通であり、他のルートとしては役立つ羅針盤方位では避けられない方位増幅がなかった。ダ ガマはイブン マジドに自分が持ってきた大きな木製の天体観測儀と太陽の高さを測るのに使う金属製の天体観測儀を見せた時、そのムーア人(イブン マジド)は驚かず、『紅海の水先案内人の何人かは三角形の真鍮の器具と四分儀(quadrant) を使い、太陽の高さや殆どが航行の為に使われる星の高さを主として測る為につかわれている』と言った。しかし、イブン マジドとカンベイ(Cambay)の船員および全てのインド人の船員は北と南の特定の星や東から西へ中点を移動するその他の目立つ星に頼って航行し、紅海の水先案内人の様な道具を距離を測るのには使わないが、イブン マジドが使っている(一度見せに持ってきた。)別の道具は3つのテーブル(板)であった」と紹介している。
ダ ガマ(Da Gama)は元々予定していた横断前のアビシニア(Abyssinia)までの沿岸航行を中止し、直ちに自分の水先案内人と海に乗りだした。最初は吹き始めたばかりの南西の季節風に乗って、舵を殆ど使わずに、真っ直ぐに北東を目指した。それからラカディーヴ諸島(the Laccadive islands)の北部環礁(atolls)をかすめ、水先案内人は舵を真東に向け、アフリカから長い航海をして来た船が慣習的におこなっている陸地の確認(陸地接近(landfall))を目指した。マラバル海岸カナノア(Cananore)の北に堂々としたディリ山(Mount Dilli)(デリ山(Mount Dely))が見えてくる筈である。20日間の航海の後に陸地が見えた時、ダ ガマ一行は目的を達した。イブン マジド(Ibn Majid)は本当にポルトガルに偉大な貢献を行った。
ギャスパー コリア(Gaspar Correa)がその著「ヴァスコ ダ ガマの三回の航海と副王 (The three Voyages of Vasco da Gama and his Viceroyalty)」にこの横断を
「順風の乗って航海し、20日間で、ダ ガマ(Da Gama)一行は各船毎に乗船している水先案内人が前もって予告した陸地を見た。これはインド海岸のカナノール王国(the kingdom of Cananor)にある大きな山で、この国の人々は自分達の言葉でデリエリー山(Mount Delielly)、すなわちネズミ、或いはデリー山(Mount Dely)と呼んだ。これはこの山にはこの国の人々が村を作れない程、多くのネズミが居た為である。良い知らせの報酬を水先案内人に支払う習慣があったので、一行が陸地を見た時、水先案内人一人一人に赤い布のゆったりした長い外衣と10テストン(testoon) を与え、海岸が見えるまで、陸地に近づいて行った。それから一行は陸地に沿って帆走し、湾の中に藁葺き屋根の家々の大きな町を視野に入れながら通り過ぎた。水先案内人はこの町がカナノール(Cananor)と云う名で、そこでは多くの小型の帆船(skiff)が漁に出ていた。その中の幾隻かは一行の船を見に近づいて来て、大変驚き、これらの船が多くの艤装をし、多くの帆を持ち、白人が乗船している事を知らせに陸に戻った。その知らせは国王に告げられ、国王は自分の家族の数人を船を見に行かせたが、船は既に遠のき、彼等は行き着けなかった」
と記述している。
更に3日間の航海の後、カリカット(Calicut)の東に堂々とした山が聳えてヨーロッパ人の航海者達の前に姿を現した。これは1498年5月20日で、この日付が世界史の転起点となり、実際、5,000kmも離れた場所すなわちメッカの海港でインド貿易の他方の中心であるジッダ(Jiddah)には多大な影響を与えた出来事であった。カリカット(Calicut)のヒンドゥー教の王(Zamorin)による最初の友好的な歓迎の後、ポルトガル人達は在住の回教徒商人によって引き起こされた深刻な騒動に出くわした。回教徒商人達はヨーロッパの商業的侵入者の到着で自分達のこれまでの交易独占による利益が脅かされるのを直ぐに認識していた。ポルトガル人によってもたらされた儀礼的な存在は殆ど意味無く、つまらないと評価し、そして自分の有利なアラブ人との関係を危うくと望んだヒンドゥー教の王(Zamorin)は最終的にルシタニア人達(Lusitanians)(ポルトガル人達)に自分の港の設備を使わせるのを拒否した。しかし、ヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)はカリカットから遠くない場所に他の少し小さな商業の中心地があるのを知っていた。それらの中では北にカナノア(Cananore)にあり、南にコーチン(Cochin)およびキロン(Quilon)があった。これらの市の現地支配者はカリカットの広大な商業活動をうらやましがって居り、自分より大きな勢力を持っつ近隣にある市とは永遠に反目し合っていた。
ポルトガル人達はこれらの小さめの商業中心地の首長達何人かとの関係を発展させる試みる事により、その様な情況を活用できる可能性があるのを察知していた。期待通りにカナノア(Cananore)の王(Rajah)から手厚い歓迎を受けた。カナノアの王は自分の競争相手であるカリカット(Calicut)への対抗に支援保証してくれると思われる新規参入者との友好を得られる機会を喜んだ。
ダ ガマ(Da Gama)は早速、ポルトガルからの続いてくる遠征艦隊によってカナノアに在外商館(factory)を設立する許可を申請した。その様な許可は問題なく授与され、王によって、高価な商品がダ ガマの要求に応じられる様に用意された。
3ヶ月半近くをインド海域で過ごし、ポルトガル艦隊は風向きを変えた季節風に乗って故郷へと船出したが、マリンディ(Malindi)に着く前に乗組員は壊血病(scurvy)に襲われた。(壊血病(scurvy)は航海者に摂っては新しい病であった。)そして、ダ ガマは33名を失い、サン ラファエル号(Sã0 Raphael)を焼却せざる得なかった。その後は順調で、ダ ガマは1499年8月29日にリスボン(Lisbon)に到着した。出発して2年半が経ち、その間に24,000マイル(38,600km)航海した。ダ ガマは喜んだ王から凱旋帰郷を与えられた。 4.7 モスレムの反感と第一次交易艦隊派遣
ヴァスコ ダ ガマ (Vasco da Gama)の航海はポルトガルを実際に、インド産の商品をその集積地点であるマラバル海岸(Malabar Coast)での価格に確定出来るようにさせた。同じ産物にヨーロッパで付けられている価格を確認すれば、莫大な利益が乗せられているのは明らかであった。説得力のある証拠となったもう一つはポルトガルの武器がアラビア船やインド船との交戦で勝っていた。ポルトガルの長射程距離砲の様な武器はインド洋ではこれまで見られ無かった。
こうして、「喜望峰回りの航路(the Cape route)」の開幕はイスラムにとっては悲惨な掛かり合いをもたらした。今やこれまでに無くその絶滅に向けられた敵対的勢力がその脇腹に迫っていた。モスレムの船乗りや卸売り業者はインド貿易をその源泉から断たれる脅威に直面した。数世紀に渡って紅海航路および地中海に至る陸上交易路を支配してきたエジプトのスルタン(Sultan)は自分達の歳入と通行料(transit tools)の大きな部分を失う可能性に直面した。
何よりも悪い事にはポルトガル人は東方キリスト教徒であるアビシニア(the Abyssinians)と共同してイスラム、その土地、その信者およびその利権を全面的に攻撃すると云うその昔の夢の現実化に危険な程、近くなっている事である。
ポルトガル人はアビシニアに裏切られ、その力だけではモスレム国に決定的な打撃を与えられはしなかったけれども、その時代のモスレム国に対する重大な騒乱を起こし続ける事は出来た。
ヴァスコ ダ ガマ (Vasco da Gama)の成功裡での帰還の後、インドのアラビア人が防御の為に武装したり、カナノア(Cananore)のポルトガルに友好的な支配者に反乱を煽動するのを防ぐ為に出来るだけ早く出航できる様に、新しい、立派な艦隊がテグス(Tagus) で編成された。計画はマラバル(Malabar)に1年半の間に1,200人の男達が訪れる為の永久的な商館を設置する事であったので、交易の為に使われる貨物も用意された。
この最初にインドに向かう交易艦隊の提督は若い貴族のペドロ アルヴァレス カブラル(Pedro Alvares Cabral)であった。この艦隊には善意の措置としてフランシスコ会(Franciscan)の修道士と聖職者が乗り込んでおり、海外に残留する者達も含まれていた。13艘の艦船がカブラルの指揮下で、大歓喜と華麗さの中、1500年3月9日にリスボン(Lisbon)を出航した。
カボヴェルデ諸島(Cape Verde islands) から真っ直ぐ南に舵を切った後、カブラル提督は最初の船を失った。貿易風を横ぎって南西方向に順旋回した赤道をずうと通り過ぎるまでこの進路を保ったが、羅針盤が南の西に少し多く寄っていたのと強い潮流がブラジル沿岸へと押し流した。これが偶然にせよ、故意にせよ、ブラジルはポルトガル王家の所有となった。
最終的にカブラル提督が喜望峰(the Cape of Good Hope)の経度に達した時に、荒れ狂う疾風がさらに3艘の船を沈没させた。その中の1艘にはバルトロメウ ディアシュ(Bartolomeu Diaz)が乗船しており、ディアシュは自分を有名にした危険の潜む水域でその人生を終えた。
カブラル提督はカリカット(Calicut)のヒンドゥー教の王(ザモリン(Zamorin))との友好的に関係を再構築しようとした。ザモリンがそれに同意したのは恐らくこの時ポルトガルが見せた相当数の軍隊を視野に入れたからであり、カリカットに商館の設置も許可した。しかしながら、ムスレム社会の一部が直ちに宣伝した悲劇的な誤解で、公式で友好的な進展はこの商館を守っていたポルトガル守備隊の惨殺に終わった。(商館長も殺された中に入っていた。)これに対して、カブラル提督は猛烈な攻撃と港に入っていた全ての船舶を焼き払う報復を行った。バロス(João de Barros)によればこの時に焼き払われた船舶は15艘であり、その中の8艘が大型船であった。更に、この市に対して恐ろしい連続砲撃を与え、それが多くの犠牲者を出させた。カブラル提督はこの砲撃を数日続けたかったが、砲撃を続ける打撃がポルトガル船にも及ぶのを考慮した自分の艦隊の船長達の反対を受けた。
カブラル提督はそれから南へコーチン(Cochin)との境界へと帆走した。そこではダ ガマ(Da Gama)が予想していた様に全ての優遇措置を受けた。カブラル提督は港で交易する為の全ての可能な緩和策を与えられた。非常に幸運な始まりで、ポルトガル人達(the Lusitanians)は自分達の全ての積み荷をこの地方の商品と交換する為に売り払った。カブラル提督は引き続いてカナノア(Cananore)にも接触し、そこでの受入はもっと好意的であった。最終的にカブラル提督はマリンディ(Malindi)およびリスボン(Lisbon)に向けて出航した。
http://www.saudiaramcoworld.com/issue/200504/the.seas.of.sindbad.htm A panorama of Calicut, on the Malabar coast, shows several types of ships, shipbuilding, net fishing, dinghy traffic and a rugged, sparsely populated interior. BRAUN AND HOGENBERG, CIVITATES ORBIS TERRARUM, 1572 (2) マルバラ海岸・カリカット港 5. 中世における東西交易での主要な交易品
アジアからの主要な交易品は香辛料であった。胡椒は最も広くゆきわたり、通常は、もっとも安かった。パイパー唐辛子(Piper capsicum)の種類すなわち赤唐辛子(cayenne pepper)はアフリカや新世界(ポルトガル人やスペイン人によって発見された。)を含む多くの熱帯地方で成長していたが中世の交易で称賛されて白および黒胡椒はニグラム胡椒(Piper nigrum)の実から取れた。ニグラム胡椒は東インド諸国原産で東南アジアの熱帯の至る所で成長する。15世紀に不定期にヨーロッパに届けられた胡椒の大部分は南インド産であったが、その時でさえ、最高の品質の胡椒はスマトラ(Sumatra)原産の物であった。その他の欲しがられていた香辛料(注1)にはモルッカ諸島(Moluccas)産の丁字(clove)、ナツメグ(nutmeg)およびメース(mace)、セイロン産(Ceylonese)の肉桂皮(cinnamon)およびショウガ(ginger)、イラン産のサフラン(saffron)、インド産のカルダモン(cardamom)、カシア(cassia)、カレー(curry)(様々な成分の組み合わせ)、クベバ(cubeb)およびクミン(cummin)が含まれている。
香辛料以外の交易の対象には樟脳(camphor)、竜涎香(りゅうぜんこう)(ambergris)、ツボサンゴ(alum-root)、安息香(benzoin)、キンマの葉(betel leaves)、麝香(musk)、甘松(spikenard)、マスチック(mastic)、ミロバラン(myrobalans)およびベゾアール石(Bezour stone)等;ブラジルウッド(brazilwood)、ウコン (turmeric)、コンチニール(cochineal)、インジゴ(indigo)およびヘンナ(henna)等様々な天然染料(注2)(various natural dyes);紅茶(tea)と甘藷糖(cane-sugar);真珠(pearl)やビルマ(Burma)産のルビー(ruby)、セイロン(Ceylon)産のサファイヤ(sapphire)、インド(India)産のダイアモンド(diamond)とエメラルド(emerald)等の宝石類;タイ(Thailand)およびベンガル(Bengal)産の金襴(brocade);中国産の磁器(porcelain)、漆(lacquer)、象牙(ivory)、玉(jade)や絹(silk)等々、その他の高価でかさの張らない異国風の品目等の交易品(注3)もあった。
16世紀に描かれた一連の木版画には東洋からの主要な5香辛料として胡椒(pepper)、肉桂皮(cinnamon)、丁字(clove)、ナツメグ(nutmeg)およびショウガ(ginger)が描かれ、紅茶(tea)がそれらに加わっている。同じく16世紀にポルトガルの歴史家ドゥアルテ バルボサ(Duarte Barbosa)はその簡潔な表現で通商に関してその最も興味深いのは交易で東洋へと流れた商品の一覧表であるとして「紅海の海岸に沿って進む為にエリオボム港(Eliobom)(イエンボ(al-Yenbo))から出発すると、ジュダ(Juda)(ジッダ(Jiddah)と云う名のムーア人(Moorish)の国があり、その港へインドからの船は香料や薬品を毎年、持ってくる様に習慣付けられており、そこからカリカット(Calicut)への帰りには銅(copper)、水銀(quicksilver)、緑青(verdigris)、サフラン(saffron)、薔薇水(rosewater)、緋色の服(scarlet cloth)、絹(silk)、キャムレット(camlet)、琥珀織り(taffeta)およびその他の物資、更に大量の金銀でこの交易は非常に重要で富をもたらした」と云う記事を書いている。
西洋からのその他の交易品としては東ヨーロッパの美しい肌の奴隷(fair-skinned slaves)、台所用品(utensil)、刃物類(cutlery)、蜂蜜(honey)、琥珀(amber)、珊瑚(coral)、クロテンの毛皮(sable)、毛織物(woollens)、布製品(cloth good)、武器(arms)および鎧兜(armour)等があった。
西洋と交易が行われたアラビアの主要な産物としてはハドラマウト(Hadramaut)およびドファール(Dhofar)で産出する乳香(frankincense);ソコトラ(socotra)産のアロエ(aloe)および辰砂(朱)(dragon-blood、cinnabar);西アラビアの幾つかの場所で産するヒメウイキョウ(caraway)、セロリの種(celery seed)、香菜(coriander)、パセリ(parsley)、ハッカ(mint)、唐辛子(cayenne、red pepper);バルサム(balm)、没薬(mhyrr);真珠(pearl)やアラビア半島の西側の幾つかの場所で採取される紅玉髄(cornelian)、碧玉(jasper)、瑪瑙(agate)、縞瑪瑙(onyx)、蛋白石(opal)等の準宝石類(semi-precious stones)が含まれていた。
その極東地域では交易は中国人の掌中にあった。中国ジャンク(junk)はマラッカ(Malacca)の大マライ港(the great Malayan port)で売る為に中国と東インド諸国の産物を集めた。マラッカからベンガル湾 (the Bay of Bengal)を横断してコロマンデル海岸(Coromandel Coast)まで、それからマラバル海岸(Malabar Coast)まではマレー人(Malay)、インド人、ペルシア人あるいはアラビア人のいずれかの回教徒が引き継いだ。
インドでは東方から来る全ての商品に加え、沿岸交易船(coaster)によって集められたこの地方の産物が当時のインドの海上交易の中心であったカリカット(Calicut)やマラバル海岸のコーチン(Cochin)とカナノア(Cananore)およびゴア(Goa) 等のカリカットに準じるその他の香辛料貿易港に集中した。
16世紀には「カリカットの富」はことわざにもなった。ジェノバ人(the Genoese)のニコラ ド カネリオ(Nicola de Canerio)が描いた1501/1502地図には次の様な語句が刻まれていた。「これはカレクト(Calequt)である。これはポルトガル王(King of Protugal)でもっとも名声の高いマノエル殿下(the prince D. Manoel)によって発見されたもっともみごとな市である。ここには品質の良いの多くの安息香(benjamin)や胡椒(pepper)および多くの地方からその他の数々の物資がある。それらの物資には肉桂皮(cinnamon)、ショウガ(Ginger)、丁字 (Clove)、香(incense)、白檀(sandalwood)および全ての種類の香辛料、高価な石、高価な真珠および小粒真珠(seed pearls)等が含まれていた。」
同時代の地図
これまでの説明では中世における東西交易での主要な交易品の中心が胡椒であった事は分かるにせよ、その他の様々な交易品の取扱量については分からないので一例としてムルシスドク テヴェノ(Melchisedeck Thévenot) の文章から翻訳された香料貿易が最盛期の頃に東洋から西洋に運ばれた商品の一覧表を以下に例示する。 1644年に東インド諸島からオランダに到着した11隻のオランダ船の積み荷
(柱)11隻のオランダ貨物船が開拓されてから1世紀半になるケープ航路(the Cape route)に従事していたが、東インド諸国(the Eastern Indies)から運んで来る商品は基本的にはそれ以前に一般的であった紅海航路で運ばれた商品と同じであった。 (注1)香辛料
ウコン(turmeric): 鬱金はショウガ科の多年草で、アジア熱帯原産であり、沖縄でも栽培されている。根茎は肥大化して黄色で、葉は葉柄と共に長さ1mに及ぶ。夏・秋に花穂を生じ、卵形白色の苞を多く付け、各苞に3、4個ずつの淡黄色唇形花を開く、根茎を止血薬、健胃薬、香料やカレー粉、沢庵漬けの黄色染料とする。
オールスパイス(allspices): フトモモ科の落葉高木、またはその未熟果を乾燥した香辛料で、西インド諸島原産で主要な香辛料クローブ(丁字)、シナモン(肉桂)、ナツメッグの香気を併せ持つ。三香子とも云う。
カシア(cassia): 桂あるいはトンキンニッケイと呼ばれるクスノキ科の常緑高木で、原産地はインドシナ、華南で多く栽培され、高さは10mで、全体に報告があり、葉は革質、花は小さく白色、樹皮・枝は桂皮・桂枝と称し、芳香性健胃薬・鎮痛剤として使われ、桂皮油を取り芳香剤とする等、桂皮は肉桂(cinnamon)の代用品に使われる。
カルダモン(cardamom): 小豆蔲(しょうずく)はショウガ科多年草で、インド・マレー原産、高さ3mで葉は披針形でミョウガに似、花茎は根生し葉がつかず、華は藍色の唇形で、花後、刮ハ(さくか)を結び、果実は3%の揮発製油を含み、インドの有名な香辛料で優れた芳香性健胃薬でもあり、インド・セイロンで栽培された。
カレー(curry): 黄褐色で粉末状の辛味の強い混合香辛料、ウコン、コエンドロ(香菜)(coentro or coriander)、胡椒、唐辛子、オールスパイス、丁字等多種の香辛料を配合して作る。
クベバ(cubeb): ヒッチョウカ(Java pepper)の実で香味料・薬用・調味料として使われる。
クミン(cummin): セリ科の一年草で種子でカレー粉の原料にする他、スペイン料理、チーズ・ソーセージ加工等に使われる香味料で薬用にも使われる。
桂皮・肉桂皮(cinnamon): 肉桂はクスノキ科の常緑高木でインドシナ原産の香辛料植物であり、高さ10m、樹皮は緑黒色で芳香と辛味があり、葉は革質で厚く、長楕円形、6月頃葉腋に淡黄色の小花をつけ、楕円形黒色の核果を結ぶ、この樹皮(桂皮)を乾燥させたのがニッキ(シナモン)であり、香辛料・健胃薬・矯味矯臭薬として使われ、又、桂皮油を取る。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「肉桂皮(cinnamon)あるいは白桂(canella)(ハッケイ、西印度諸島産の肉桂に似た木)はセイロン島原産の植物(Cinnamomum zeilanicum)の小枝の接地或いは接地してない樹皮」と説明している。
胡椒(pepper): コウショウ科の蔓性常緑木本、普通は雌雄同根で、ときに両生花をつける。インド南部の原産とされる香辛料作物で、熱帯各地で栽培され、果実は豌豆大の液果で、熱すると赤くなる。この実を加工した香辛料を胡椒と云い、味はカラク、黒胡椒は未熟果を。白胡椒は成熟果の果皮を除いたものを乾燥し、粉末としたものである。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「胡椒は薮の中で育ち、時々4m以上となるパイパー ニグルム(Piper nigraum)と云う葉の多いつる植物(vine)のしなびた液果(berry)である。この香辛料は黒白2つの種類がある。黒胡椒は皮を剥かない液果全体をすりつぶして得られ、白胡椒は干した胡椒の実だけをすりつぶして得られる。胡椒の新鮮な液果(berry)は赤い色をしており、乾かすと黒色に変化する。胡椒はインドネシア(Indonesia)、インドシナ(Indochina)、マレイシア(Malaysia)および南インドで育つ」と説明している。
ショウガ(ginger): ショウガ科の多年草、原産地は熱帯アジアとあれ、世界で広く栽培されている。日本にも古く中国から伝わった。地下茎は横走して数個の塊をなし、黄色で辛味を有し、食用・香辛料、又、健胃剤・鎮嘔剤として使われる。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「東南アジアに幾つかの原産地があり、多年草のZingiber offlicinaleの乾かした根茎である」と説明している。
丁字(clove): モルッカ諸島(Moluccas)原産フトモモ科科の熱帯常緑高木で、枝は三叉状、葉は対生で革質、花は白・淡紅色で筒状、集散花序をなし、香りが高く、花後、長い楕円状の液果を結ぶ、蕾を乾燥した丁香(クローヴ)は古来有名な生薬・香辛料で果実からも油を取れ、その他に黄色の染料としても使われた。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「丁字(clove)は乾燥させた閉じたままのCarophyllus aromaticusの蕾であり、Carophyllus aromaticusは香料諸島(Spice Islands)とも呼ばれるモルッカ諸島(Moluccas)原産の常緑樹である」と説明している。
唐辛子(cayenne、red pepper): ナス科の一年草で、熱帯アメリカ原産で、果菜として世界で広く栽培されている。果実は未熟の間は濃緑色で、熟すると赤くなる。多くの栽培品種があり、辛味種は果皮・種子に刺激性の辛味を有し、乾燥して香辛料とする。甘み種はピーマンと呼ばれ、食用にされる。
ナツメグ(nutmeg): 肉豆蔲(にくずく)はニクズク科の熱帯産常緑樹高木、マレー原産で高さ10m、葉は長楕円形、葉質は厚く、雌雄異株、雌花は滞黄白色の鐘形で、花後、球形の液果を結び、果皮は肉質、仮種皮は紅色で種子中の仁、すなわち肉豆蔲(にくずく)は香気があり、古くから健胃薬・香味料・矯臭薬であり、幻覚作用・神経麻痺作用がある。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「ナツメグ(nutmeg)も香料諸島(Spice Islands)とも呼ばれるモルッカ諸島(Moluccas) 原産のメース(Myristica muscata)と云う植物の果実の種である」と説明している。
メース(mace): ナツメグ(nutmeg)の仮種皮を乾燥したナツメグの副産物で香味料用・薬用(元の名はmacir)。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「メース(mace)もナツメグの副産物として、香料諸島(Spice Islands)とも呼ばれるモルッカ諸島(Moluccas)原産のMyristica muscataから採れる。これはナツメグを支えている内殻の周囲に形成される紐状の外被(tegument)である」と説明している。 (注2)香料・香木・薬草・染料
茜(madder): アカネ科の蔓性多年草、山野に自生し、根は橙色、茎は四角く中空で棘がある。各節に四葉を輪生し、秋に白色の小花を付ける。根から染料を採った。生薬名を茜根(せんこん)といい、通経薬、止血薬に用いられる。
アーモンド(almonds): 扁桃や巴旦杏(はたんきょう)とも呼ばれる。バラ科の落葉高木、中央アジア原産、高さ6mに達し、葉・花・果実とも桃に似るが、果肉は薄く、熟すと裂開し、平たい核がある。核中の仁のうち、甘いアーモンドは食用、苦い品種の苦扁桃(bitter almonds)は鎮咳(ちんがい)・鎮痙(ちんけい・痙攣を鎮める)等の薬用とする。
アロエ(aloe): ユリ科の多肉の常緑多年草で、葉は多肉で、橙赤色の筒形を花を開く。観賞用、薬用に栽培。広くはユリ科アロエ族植物であり、アフリカの乾燥地帯を中心に300種が分布し、有茎、無茎等、形態に変化が多く、その中の数種が多肉尺物と捨て栽培されている。別名を蘆薈(ろかい)、医者いらずと云う。
安息香(benzoin): エゴノキ科の落葉高木でスマトラやジャワ原産、樹皮は茶褐色、葉は卵形で鋭頭しており、夏に葉の付け根に赤色を帯びた小花を総状につける。タイ、スマトラで栽培された。本草和名は安息香の木と云う。安息香はこの木に樹皮から分布する樹脂で帯赤色または褐色の塊をしており、甘味を有し、その中に乳白色の顆粒を蔵し、熱すれば強い芳香を放つ。薫香に用い、安息香チンキは去痰剤、呼吸刺激剤である。
インジゴ(indigo): マメ科コマツナギ属(Indigofera)の多年草の総称でその葉からインジゴを採るものを藍(Indigo)と云う。採取した染料は暗青色で今日ではアニリンを原料として合成される。
ウコン(turmeric): 鬱金はショウガ科の多年草で、アジア熱帯原産であり、沖縄でも栽培されている。根茎は肥大化して黄色で、葉は葉柄と共に長さ1mに及ぶ。夏・秋に花穂を生じ、卵形白色の苞を多く付け、各苞に3、4個ずつの淡黄色唇形花を開く、根茎を止血薬、健胃薬、香料やカレー粉、沢庵漬けの黄色染料とする。
甘松(かんしょう)(spikenard): インド産の芳香のあるオメイナエシ科の植物(Nardostachys jatamansi)。
カンゾウ(Licorice): Sweetroot、甘草(カンゾウ)の根から製したエキスで薬草、醸造、製菓等に使用する。
キンマの葉(betel leaves): 蒟醤(キンマ)と云い、「本草啓蒙 」「和訓栞」に蛮語とあり、タイ語またはビルマ語の転訛である。マレーシア原産のコウショウ科の常緑蔓性低木で胡椒に似ており、葉は大きな心臓形で先端はとがり、光沢がある。夏に黄色の細花を開き、液果を結び、雌雄異株、葉・根・種子を健胃・去痰(きょうたん)薬とする。その葉を取って檳椰子(びんろいじ)(betel nut)・石灰と共に噛んで嗜好品にする。
香(incense): 香木または種々の香料を練り合わせたもの。
香菜(coriander): セリ科の一年草で、南ヨーロッパ原産の香味料・薬用植物で高さ30cm - 60cm、茎・葉とも特異な芳香があり、カレー粉やクッキー等の加える。葉は細裂した羽状複葉で、互生、夏、小白花を複産形花序につける。果実は小円形で、香味料・健胃・去痰薬として用いる。コリアンダーはポルトガル語ではコエンドロ(coentro)と云う。
コンチニール(cochineal): 臙脂虫(えんじむし)(conchineal insect)を乾燥して採る鮮紅色染料。
サフラン(Saffron): Saffraan;アヤメかの多年草で南ヨーロッパ原産、球形を持ち細長い葉を出す、10月頃、淡紫色6弁の花を開く、花柱は3裂して糸状、赤い色で紀元前15世紀頃すで香辛料・薬・染料に利用されていた。漢名は番紅花。
麝香(musk): 麝香鹿の麝香嚢から製した黒褐色の粉末で、芳香が甚だ強く、薫物(たきもの)に用い、薬料としても使われる。主に中央アジア・雲南地方に産する。
樟脳(camphor): クスノキの幹・根。葉を蒸留し、その液を冷却し析出する結晶を精製し、再び昇化させて作る他に、ピネンを原料として合成もされる。分子式C10H16O無色半透明の光沢ある血漿で特異の芳香を持ち防虫剤、防臭剤の他、カンフル、カンファーとして医療用(強心薬・皮膚刺激薬)、セルロイド、無煙火薬に使われる。
沈香(ジンコウ)(aloe-wood or éaglewòod): Aquilaria agallocha、沈丁花(ジンチョウゲ)科の常緑高木、又はそれから採取した天然香料、熱帯アジアに産し、高さ10m、木質堅く、水に沈むので沈という。花は白色、土中に生め、又は自然に腐敗させて香料を得る。
蘇芳(すおう)(sapan-wood): 蘇方、蘇枋、まめ科の小高木、インド・マレー原産の染料植物、枝に小さい棘がある。葉は羽状複葉、黄色五弁花は円錐花序をなす。穂櫛津・楕円形の中に3-4個の種子を含む莢(さや)を生ずる。心材および莢は煎じて古くは重要な赤色染料とされた。源氏物語に蘇芳の花足(けそく)、蘇芳の織物等の記載がある。
ストラックス(storax): エゴノキの樹脂(安息香の一種)。
セロリの種(celery seed): セリ科の一年生または二年生葉菜で、ユーラシア温帯に広く分布する野生種が起源である。オランダ三つ葉とも云われ、芳香・甘みがあり、食用であるが、その種は乾燥して薬味とする。
センナ(senna): マメ科カワラケツメイ属(cassia)の木本・草木の総称で乾燥したセンナ葉や実は緩下剤として使う。
蘇合香(そごうこう)(Levant storax): 楓(フウ)の樹皮から採る樹脂で医薬や香料に用いた。
タマリンド(tamarind): 熱帯(中央アフリカ)原産のマメ科の常緑高木;実は清涼飲料・薬用(緩下剤)・調味料に用いられる。又、若い莢は食用になる。
乳香(Frankincense): カンラン科 (Burseraceae) ボスウェリア属の乳香樹(Boswellia Thurifera or Boswellia caraterii) の樹皮から取れる樹脂である。乳香樹はアフリカのエチオピア、アラビアのイエメン、オマーンなどの痩せた土地に自生しており、樹皮に傷を付けて樹脂を採るが、樹液は始め乳白色の液体で、空気に触れると固化し、淡黄色の涙型の樹脂になる。その先端が女性の乳首によく似ており、乳香と命名された。古来神に捧げる薫香として、又大切な客様をもてなす時の香りとして、又香料の保留剤として用いられる。わずかにレモン様の心を落ち着かせるしっとりした香りで、この乳香の樹を巡って、シバの女王とソロモン王の取引も行われた程の貴重な樹でもある。ヘブライ人とエジプト人は莫大な富を費やしてこれをフェニキア人から輸入していた。液体(精油)状のものと、塊状のものがあり、塊状のものはトパーズのように美しく、そのまま飾ったり、砕いてポプリに混ぜたりしても美しい。精油は、成熟肌に新たな活性を与え、しわを取るとも言われている。皮膚の強壮剤としても活躍し、皮脂の分泌のバランスをとるのにも役立つ。
ハシシ(the hashysh): 大麻の雌株の花序と上部の葉から分泌される樹脂を製したもので、麻薬として喫煙したり、噛んだり飲んだりする。大麻の花についてはこの為に種の周りにあるシェラネク(sheranek)と呼ばれる小さな葉を使う。普通の人はパイプに詰めたタバコ(Tabacco)の上にそれを少量を載せる。常習者(the higher classes)は次の様な方法で作られたマアジョウン(maadjoun)と呼ばれるジェリーかペーストにして食べる。大量の葉をバターと共に数時間煮て、それから圧力をかける。その様にして絞り出されたジュースと蜂蜜とその他の甘い薬物を混ぜ合わせる。この為の店のあるエジプトでは公然と販売している。ハシーシ(the Hashysh)ペーストはバスト(bast)と呼ばれ、それの売人は「気持ちよい(cheerfulness)」を意味するバスティ(basty)と呼ばれる。カイロの主要高官達(the principal grandees)の或る高官の息子の結婚式を祝う祭りで、この町の全ての船舶が派手な行進に参加させられた時に、バスティ(basty)が商売をするのは禁じられ、法律で有罪になるけれども、もっとも派手である。お偉方(the first rank)の殆どがある形その他でバスト(bast)を使う。これは阿片(opium)同様に激しく気分を浮き立たせ、想像力を高める。このパーストにシリア(Syria)から来るベンジ(Bendj)の種を混ぜる人達も居る。
パセリ(parsley): セリ科の二年生草木(Petroselinum orispus)で、シバ以上は一年生または二年生葉菜で、地中海原産であり、生の葉は爽快な香味があり、洋食に添えてだす。オランダゼリとも呼ばれる。
蜂蜜(honey): 蜜蜂が花から採集し、巣に貯蔵した蜜で、白色透明あるいは帯黄色のなばった濃液で成分は殆ど糖分で栄養価が高く、食用・薬用にされる。
ハッカ(mint): シソ科の多年草で、山地に自生するが、香料植物として大規模に栽培されている。夏・秋に葉腋に淡紅紫色の唇形花を叢生する。茎・葉共に薄荷油の原料となり、香料および矯味矯臭薬となる。メグサ、ミントとも呼ばれる。
薔薇水(rosewater): ばら香水。
バルサム(balm): 香油、香膏とも云われる芳香性樹脂で、カンラン科モツヤクジュ属(Commiphora)の熱帯産の木から採れ、特にギレアドバルサムの木(Balm of Gilead)を指す。鎮痛に用いる。ラテン語ではボールサモム(balsamum)と云う。
ピスタシオ(pistachios): 南欧・小アジア原産のトネリバハゼノキ属の小木のピスタシオノキでその実は薄黄緑色をしており、ナッツとして食用にされる。
ヒメウイキョウ(caraway): セリ科ヒメウイキョウ(Carum carvi)でその実はパンの着色料や駆風薬として用いる。
白檀(sandalwood): ビャクダン科の半寄生常緑高木、インドネシア原産で近縁種と共に香料植物として栽培されている。高さ5m、葉は対生し黄緑色、雌雄異株、花は始め淡黄色、のち赤色、芯材は帯黄白色で香気が強い。薫き物とし、又、仏像・器具などを作る。樹皮も香料・薬科に供する。
楓合香(ふうこうし)(copalm): モミジバフウ(Sweet gum or storax)の樹脂。
ブラジルスオウ材(brazilwood): 熱帯アメリカ産豆科ジャッケツイバラ属(Caesalpinia)の数種の木の総称で特にC. echinataの木材でバイオリンの弓、家具の材料に使われる。又、その心材からとれるブラジリン(brazilin)は赤・ムラサキの染料に用いる。
ベゾアール石(Bezour stone): 奇妙な交易品の中でもベゾアール石は恐らく、一番興味をそそると思われるので、オランダの有名な旅行者ヒューゴー ヴァン リンスホーテン(Hugo van Linschoten)(1563 - 1611)著で1599年にハーグ出版の「旅行案内(Navigatio ac Itinerarium) (the Hague 1599, p. 87)」に記述された産地と性質をここの引用する。同書87頁参照。「ベゾアール石(Bezoar stone)はペルシアのホラーサーン州(Khrassan)(イラン東北部で州都はマシュハド(Mashhad))およびインドの一地方で産する。この石は羊や山羊レイヨウ(mountain goat)の胃の中で藁の細片の周囲に形成される。かつてこの石が見つかると調査され証明された様に石は藁の細片に凝固物を作りながら付着する。この石そのものは非常に滑らかで透き通り、生き生きした色をしている。この石は毒に対して効果的で、重要な治療薬であり、ヨーロパにおいてサイの角が高価である以上に、インドではずば抜けて高価である。」リンスホーテン(Linschoten)は「ベゾアール石は山羊レイヨウ(mountain goat)を意味するペリシア語のパザン(pazan)をポルトガル語(Portuguese)に転写する際に誤って、ベゾアールと訳されてしまった」と説明している。ヨーロッパではベゾアール石は万能薬(cure-all)としてロケット(locket)に入れて首からぶら下げられていた。"Lapis Bezar, qui ex Persiae provincia Carassona, ac aliis Indiae terris advenit, in stomacho ovis aut birci nascitur, subjecto tenui stramine, quod in medio jacet, adherente lapide, ac cingente stramen, ut saepe experimentis cognitum est, eodem reperto. Lapis ipse extrinsecus planus est. ac nitidus, colore livido...Grande buic lapidi in India pretium est, contra venena validissimo ac praesentissimo remedio supra cornu Monocerotis in Europa".
ベンジャミン(benjamin): 安息香或いはベンゾイン樹脂(benzoin)とも呼ばれ、東南アジア(スマトラ・ジャワ原産)のエゴノキ科の落葉高木(安息香の木)の樹皮から分泌する樹脂で帯赤色または褐色の塊で甘味を有し、その中に乳白色の顆粒を蔵し、熱すると強い芳香を放つ、薫香に用い、去痰剤・呼吸刺激剤。
ヘンナ(henna): シコウカとの呼ばれる。ミソハギ科の熱帯性低木(Lawsonia inermis)で北アフリカ・西アジア原産であり、中国では古くから栽培され、一年中芳香のある白・淡紅・淡緑色の四弁花を開く。古来から黄色染料として使われて来た。頭髪・ヒゲ。爪など(赤)茶色に染めるのに使われる。古くはカムファイア(camphire)とも云った。
マスチック(mastic): 乳香樹(Mastic tree)から採る天然乳香樹脂(液)で止血用収斂剤として用いたり、薫香料、漆(うるし)、ワニスやニスを作る。
ミロバラン(myrobalan): 熱帯アジア産シクンシ科モモタマナ属の落葉高木の詞梨勒(Terminaria chebula)の乾燥させた実で、染料・インク・皮なめし剤の原料となる。
メッカバルサム(balsam of Mecca): アジア・アフリカ産カンラン科ミルラノキ属(モツヤクジュ属)の常緑小樹で葉に傷を付けると芳香を発するギレアドバウムノキ(Balm of Gilead)から採れるオレオ樹脂とこれから製する芳香のある軟膏をメッカバルサム(balsam of Mecca)とも云う。
没薬(mhyrr): ミルラ(myrrh)とも言い、アフリカ東北部、アラビア南部産カンラン科(Burseraceae) コミイフォラ属の没薬樹 (Commiphora myrrha) の樹脂である。ギリシア神話に出てくる、自分が亡くなった母に似ているが故に父に愛され、子まで身ごもってしまった哀しい王女ミルラが姿を変えた樹とも言われており、そのときできた子がビーナスと恋に陥るアドニースであると言われている。その歴史は古く、紀元前2000年頃のエジプトのパピルスにも書かれて居り、香料、化粧品、薫香として使われる他に、ミイラ作りに用いられたのでミルラはミイラにも通じる。
ラテン(Laten): 噛み用のドロップ状の乳香。
竜涎香(りゅうぜんこう)(ambergris): マッコウ鯨から採取される松脂に似た一種の香料、麝香(じゃこう)に似た風雅な芳香がある。
霊猫香(レイビョウコウ)(civet musk): ゼバド(Zebad)と呼ばれ、東南アジアに分布し、小動物や果実を食べる雑食製で夜行性の麝香猫(ジャコウネコ)は生殖器の近くに麝香腺を持ち、特殊な香りの分泌液を出す。 (注3)交易品(香辛料・香料・香木・薬・染料を除く)
アガバニ(Aghabani or Kassideh): 絹と綿の浮き織りモスリン。
アラブ馬(Arabian horse): 沙漠や谷で騎乗されたり、小さな谷間で放牧されたりする小柄な馬を目にする。この馬が”風を飲む動物(Drinkers of the Wind)”と呼ばれ、知能・勇気・耐久力でベドウインが部族毎に誇りに思うサウジアラビアの名産であり、「アラブ馬の気品のある外見は形と機能が自然に生みだした結合の妙である」と言われている。
アラビア特有の自然金(Fireless gold peculiar of Arabia): これは他の全て人々が行って居る様に鉱石から製錬せずに地中から直接掘り出されている。おおよそ栗の実大の金塊で見つかり、それは燃え立つような赤さなので職人が最高に貴重な宝石の為のはめ込み台として使う時に装飾の豪華さを作り出した。
美しい肌の奴隷(fair-skinned slaves): 東ヨーロッパから連れて来られた奴隷。
漆(lacquer): ウルシ科の落葉高木で中央アジア高原原産で高さ3m以上で樹皮は灰白色、葉は3 - 9対の小葉をもつ奇数羽状複葉、かぶれやすく、6月頃、葉腋に黄緑色の小花を多数総状に開く。雌雄異株、果実はゆがんだ扁平の核果で、10月頃成熟し、黄褐色となる。果を乾かした後しぼって蝋を採り、樹皮に傷を付けて生漆を採る。この生漆またはこれに着色剤・油・乾燥剤を加えて製した塗料(製漆)とする。
エメラルド(emerald): ベリリウムとアルミニウムを主成分とした珪酸塩鉱物で六方晶系、六角柱状の結晶で塊状・粒状でも産出する緑柱石の多くは緑色または淡青色で、やや透明、でガラス光沢がある。その中の深緑色透明の光沢ある特に美しいものをエメラルドと云い、緑柱玉、緑玉石、翠玉、緑玉、翠緑玉等とも呼ばれる。
オウドカーム(Oudkham): ビーズ(beads)用の芳香のある木材(odoriferous wood)。
ガラ奴隷(Galla Slaves): 誤ってアビシニア人(Abyssinians)奴隷と呼ばれている。
カラムバク(odoriferous kalambac): 白檀 (the sandal wood)と共にインドから運ばれて来るその他の数珠(rosaries)の材料の一種で芳香がある。
甘藷糖・甘蔗糖(cane-sugar):甘蔗(サトウキビ)の茎から製した砂糖で蔗糖とも云われる。
キャムレット(camlet):中世のアジアで駱駝の毛やアンゴラヤギの毛で作られた駱駝織りおよびこれに似せてヨーロッパで絹・羊毛から作られた織物であった。後に光沢のある薄地平織りの毛織物を意味する様になった。
キャラコ(calico):元々は 南インド、カリカットから舶来し、織地が細かく薄く強い糊付け仕上げした光沢のある平織り白木綿布である。
キャンブリック(cambric): 綿糸で織った薄地の平織。
玉(jade): 翡翠(ひすい)、深い緑色の石で翡翠輝石(jadeite)の他に軟玉(nephrite)を含む。原義はラテン語ilia(横腹、腰)で横腹の痛み(腎臓の痛み)は玉(jade)で治せるとの信仰に因んで付けられた。
金(gold): 重く柔らかく延性・展性に富み、空気中で錆びず、普通の酸に侵されず、王水に溶ける。光沢が美しく、貴金属随一で、貨幣・装飾・歯科治療等に使われる。
銀(silver): 金よりやや軽く、白色の美しい光沢を持つ金属で、空気中では酸化市内が硫黄の化合物にあうと黒色に変わる。貨幣・装飾等に使われる。
金襴(brocade): 金糸を絵緯(えぬき)として折り込み、それを主調として文様を表出した織物の総称で平地・綾地・繻子地等がある。
クロテンの毛皮(sable): イタチ科で、頭胴長40cm、尾長15cm程、手色は黒ないし暗褐色でヨーロッパ・アジアの北部に分布し、その毛皮はセーブルと呼ばれ、最高級品。
毛織物(woollens): 羊・駱駝等の動物の毛で作った糸で織った織物で羅紗(raxa)・ネル(flannel)・セル(serge)等の類。
絹(silk): 蚕の繭からとった繊維で作った糸およびそれでおった織物。
紅玉髄(cornelian): 赤瑪瑙・カーネリアン(carnelian).
紅茶(tea): 茶の樹の若葉を摘み取り、発酵させると紅褐色となり芳香を放ち、これを乾燥したもので、茶として淹れると紅色を帯びるので紅茶と呼ばれ、主としてインド・スリランカで産する。
琥珀(amber): 地質時代の樹脂等が地中に埋没して生じた一種の化石で、塊状・礫状で産し、おおむね黄色を帯び、脂肪光沢が著しく、透明ないし半透明で、煙管・装身具・香料等に用いられる。
琥珀織り(taffeta): 光沢のあるやや堅い平織りで経糸を密に緯糸をやや太くして低い緯畝のある練り絹織物。
コール(Khohl): ミネラル化粧品(a mineral cosmetic)。
サテン(satin): sateen;繻子織り、柔らかく滑らかでつやのある表面をしている。
サファイア(sapphire): 酸化アルミニウム(アルミナ)からなる鉱物で鋼玉と呼ばれる。六方晶系で硬度9、金剛ないしガラスの光沢を持ち、青・赤・黄・褐灰色等透明あるいは半透明である。サファイアはルビー(ruby)と共に鋼玉の一変種で青藍色を帯びた透明な宝石であり、青玉とも呼ばれ、淡い緑黄色のものもある。
珊瑚(coral): 珊瑚虫の群体の中軸骨格で、広義には珊瑚礁を構成するイシサンゴ類を含むが、一般には桃色珊瑚・赤珊瑚・白珊瑚等の真性珊瑚類の骨格をいい、装飾用等に加工される。
磁器(porcelain): 素地(きじ)がよく焼き締まってガラス化した吸水性のない純白透明の焼き物。
縞瑪瑙(onyx): 碧玉(jasper)で縞模様のあるもの。良質なものでは、黒白、白褐・黒赤等の縞色が完全に区別されている。
沈香の材(agalawood, agalwood or liganaloes): 沈香(ジンコウ)(aloe-wood or éaglewòod): Aquilaria agallocha、沈丁花(ジンチョウゲ)科の常緑高木、又はそれから採取した天然香料、熱帯アジアに産し、高さ10m、木質堅く、水に沈むので沈という。光沢ある黒色の優良品は伽羅(きゃら)(agalloch)という、材は高級調度品にも用いる。
辰砂(朱)(dragon-blood、cinnabar): 水銀と硫黄との化合物で、深紅色の六方晶系の鉱物で、塊状で産する事が多い。水銀製造や赤色絵の具主要鉱石で朱砂(ずさ)、丹砂、丹朱とも呼ばれる。
真珠(pearl): 貝類の胎内に形成される球状の塊で、貝殻を作る外套膜が異物によって刺激され、そのまわりに主として炭酸カルシウムから成り、少量の有機物を含む真珠質の薄膜を分泌して作られる。
水銀(quicksilver): 水銀は辰砂を焼いて作られる常温で液体の唯一の金属で、他の金属と容易に合金を作るので金の製錬等にも使われたり、温度計、昇汞・甘汞等の水銀塩、雷汞等の火薬、硫化水銀(赤色塗料)等の製造に使われる。
ゼイア(zeia): 粗末な穀物の一種。
ゼバッタおよびバナトショール(Zebatta and Nabat Shawls): モスリン(平織のやわらかい綿織物)に絹を浮き織りにした綾織物。
センナ(senna):良質で小さいペルシア敷物;短いパイル糸。緻密な織り、全体を多う細かい模様、落ち着いた色調等が特徴。
象牙(ivory): 象の発達して口外に突きだした門歯で堅くて淡黄色しており、飾り物・細工物・印材に珍重される。
ダイアモンド(diamond): 等軸晶系で、多くは正八面体あるいは斜方十二面体の炭素だけなる鉱物で、硬度は鉱物の中で最も高く、光沢はたいへん美しく、無色透明あるいは青・黄・紅・緑・褐・黒色等である。光に対する屈折率が大きく、暗くても幾分の光輝がある。
台所用品(utensil): 家庭用品・台所用品・教会用器具等の用具・道具。
蛋白石(opal): 塊状または腎臓状・鍾乳状などをなして産する半透明なうし不透明の鉱物で、成分は含水珪酸であり、硬度5.5 - 6.5、白・黄・紅・褐・緑・灰・青等の色を成し、ガラス光沢を持つ。貴蛋白石は宝石として用いる(オパール(opal))。
鋳塊: temsah or ingots。
ツテナグ (tutenague): マラーティー語(Marathi)(インド中西部マハラシュトラシュ州(Maharashtra)の公用語)でドイツ銀(German silver)に似た白色合金或いはインド方面から輸入した亜鉛を指す。
ツボサンゴ(alum-root): ユキノシタ科ツボサンゴ族の植物の根、緑を帯びた白や赤味がかった鈴の形をした小さな花を付ける。(北米産と説明されているので同属ないし似た直物と思われる。)
銅(copper): 自然銅としても産出する金属で展性・延性に富み、貨幣の製造に用いる青銅・黄銅等の銅合金や銅化合物の原料となる。
南京木綿(nankins): 淡黄色の布地[a yellowish cotton cloth]でアラビア住民の大部分が使っている。
布製品(cloth good): 布地で作られた製品。
パーケール(percale): (rhassah)、緻密な上等綿布でシーツ等に用いられる。
刃物類(cutlery): 刃物類およびナイフ・フォーク・スプーン類等。
バフタ(baftas): きめの粗い安物の綿織物。
檳榔子(びんろうじ)(betel-nut): . 檳榔樹の果実、近世、薬用・染料として使われた。
武器(arms): 甲冑・刀槍・弓矢・鉄砲の類等の戦争に用いる諸種の器具。
碧玉(jasper): 不純物を含む石英で、緻密・不透明で、酸化鉄を含むもには緑色ないし紅色、水酸化物を含む物は黄褐色である。古くは曲玉、管玉等の素材となった。印材、指輪、簪等の装飾品に使用される。
ベズレ カーン(Bezret Khan): 白檀(sandal-wood))の小さな粒(small nodules)でビーズを作るのに使われる。
マラブ(Mahlab): イエメン女性に化粧品として使われる種。
瑪瑙(agate): 石英・玉髄・蛋白石の混合物で、主成分は膠状珪酸である。樹脂光沢を有し、往々他の鉱物質が滲透して美しい赤褐色・白色など縞文様を表す。
モスリン(muslins): 普通は平織の柔らかい綿織物でターバン(turbans)や衣服に使われる。
ヨッセール(yosser): 紅海で育つ珊瑚の一種である。最高の種類はジッダ(Djidda)とゴンフォド(Gonnfode)の間で見つかり、不快黒い色をしており、素晴らしく磨き上げられる; 数珠(rosaries)はヨッセール(yosser)のビーズから作られた最高級品であり、これ用のビーズは100粒毎に紐で吊し、その大きさによって1から4ドル(dollars)で売られている。これらのビーズはジッダ(Djidda)のろくろ師によって作られる。この為、ジッダの主要航路(the principal lane)はホシュ ヨッセール(Hosh yosser) と呼ばれている。
鎧兜(armour): 防御の為の甲冑・具足類。
ラック(lac): ラックカイガラムシが分泌した樹脂状物質、黄褐色であるが漂白して白ラックとする。アルコールやテレピン油に溶ける。精製した薄板状の物がシェラック(shellac)でワニス等の原料。 ラック貝殻虫染料の塊(lac gum) ラック貝殻虫染料の塊(lump-lac) ラック貝殻虫の体表をおおう樹脂(stick-lac)
緑青(verdigris or patina): 空気中の水分と二酸化炭素が作用して銅の表面に生ずる緑色の錆びで緑色顔料として使われる。
ルビー(ruby): 酸化アルミニウム(アルミナ)からなる鉱物で鋼玉と呼ばれる。六方晶系で硬度9、金剛ないしガラスの光沢を持ち、青・赤・黄・褐灰色等透明あるいは半透明である。ルビーはサファイアと共に鋼玉の一変種で紅色を帯びた透明あるいは透明に近い宝石で、ミヤンマーに主に産出する。
レイシュ(reysh): 瑪瑙のビーズ(the agatebeads)、「ヌビアの旅行記(Travels in Nubia)」のシェンディの章(airticle Shendy)には「ボンベイから持って来られ、アフリカのまさに中心で使われる」との記述がある。
ロイン布(Breechcloth): 白と黄色の綿糸を混ぜて織った非常に精巧な織物で作られている。暑い国の男達が腰に巻き付ける一枚の布(腰巻き(loincloths))。
ジェッダはサラセン帝国が最も栄えた正統4カリフの時代(632-661)の中心であったメッカの港であり、都が移ったウマイヤ朝時代(661-750)およびアッバース朝時代 (750-1258)さらにオスマントルコの時代でも聖地の港であり続けたのでもっと詳しい記述があるのではないかと私には思える。ジェダの水不足は21世紀の現在でも続いている課題であり、港の適地であれば水が不足していても港町が発展した典型ではないかと思う。ポルトガルはアフリカ西岸を南に南に下り、喜望峰まわりのインド航路を開拓した。ポルトガルはアフリカ沿岸にも伝統的な交易の沿岸航路があるのを前もって知っていたのでは無いか。又、特に中世のイベリア半島はモスレムに占拠されており、紀元前1世紀に開発されたインド洋を星と季節風を利用してわたるアラビアの航海術も或る程度は伝わっていた筈である。歴史上は「喜望峰まわりのインド航路開拓」は一大発見の様に言われてはいるが、実際には伝承を実地の航海で検証したと云うのが真相だと思われる。ただ、この事で大航海時代と云う画期的な新時代を開いた事は間違いないし、これによってジェッダが大きく影響を受けた事も事実である。又、この編では東西交易をシルクロードとか胡椒貿易と云う捉え方では無く、出来るだけ実際の交易品を並べ、その異国風の名称が実際にはどの様な産物なのかを含め註釈を記述した。
広辞苑 アンジェロ ペセ博士著「ジッダ(或るアラビアの町の描写)」 Wikipedia(ウィキイペディア)http://en.wikipedia.org/wiki/Main_Page その他
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