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マッカ・ムカッラマ(メッカ州)
(サウジアラビア王国西部地方) その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ (1-4大航海時代とジェッダ)
2. マムルーク朝滅亡とオスマントルコの覇権確立 |
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目次 2.1 ポルトガル艦隊の無能さとエジプト艦隊の内部不和 アルボケルケの後継者としてロポ ソアレス デ アルベアガリア (Lopo Soares de Albergaria)が紅海でマムルーク朝スルタンのエジプト艦隊に対する遠征を指揮する事になった。長く複雑な準備の後、1517年2月8日にソアレスはゴアを37艘とも47艘とも云われる様々な型式の船と1,200人のポルトガル人兵士、800人の補助軍隊およびマラバル海岸(Malabar)からの800人の船乗りと共に出航した。 アデン(Aden)湾の東にあるソコトラ島(Socotra)で清水の補給を確保した後、ポルトガル艦隊(the
Lusitanian fleet)はアデン(Aden)の前面へ1517年3月14日に到着した。マムルーク朝の砲艦の片舷一斉射撃の防御によって被った打撃の為、この市はいまだに弱体化したままであった。従って、アルボケルケ(Alboquerque)およびマムルーク朝のエジプト艦隊に対する抵抗したと同じ統治者であるモルガン ザフェリ(Morgan az-Zaferi)は大使をソアレス(Soares)の下に送り、事前の予告無しに攻撃されない様にアルボケルケ(Alboquerque)が結んだのと同じ協定締結を提案し、友好の印として市の鍵を渡した。予期せぬこの申し出はマムルーク朝の怒りとモルガン ザフェリ側の新移住者達の恐れを買い、ソアレス(Soares)を狼狽させた。しかしながら、ソアレス(Soares)の主要な任務はエジプト艦隊への探索・破壊攻撃であったので、もっと脅威ある敵に備えてソアレス(Soares)はアデン(AdenIに分派隊を残し自分の武力を拡大して手薄となるのを望まなかった。従って、ソアレス(Soares)はアデン(Aden)を領有するのは帰途にして、自分の艦船にふんだんに補給し、水先案内人を乗り組ませて「エジプト艦隊が集結している」と聞いている紅海のジッダを目指した。 ソアレス(Soares)は1517年3月17日に紅海入口のバド マンデブ海峡(the strait of Bad al-Mandeb)に入ったが、その夜の中に荒れ狂う嵐で平底フスタ船(fusta) 一艘がポルトガル船員とインド船3艘と共に沈没した。それ以降、弱々しい風やポルトガル人達の紅海水域航行の経験の乏しさで艦隊の帆走はもっともっと遅くなった。北に帆走するに連れ、ポルトガル人達は時たまモスリム船を拿捕破壊し、時には少し遠くまで略奪を行った。「インドのポルトガル人(The Portuguese in Indea)」の著者ダンヴァース(Danvers)はソアレス(Soares)指揮下のブリガンティン型帆船(brigantine)の艦長ドン アルヴァーロ デ カストロ(Dom Alvaro de Castro)について 「ブリガンティン型帆船(brigantine)の艦長であったカストロは幾つかの船を拿捕し、その略奪品で本船が積載過剰となり、沈没して40名の乗組員と共に溺れてしまった」 と述べている。 ジッダ(Jiddah)まで最後の8マイル(13キロ)まで近づいた時に、ソアレス(Soares)のポルトガル艦隊は北方の強風(gale)で散らばってしまった。幾艘かは主力を見失い、沖合に運ばれてしまった。一時的に分散させられた船の船員の一人がフィレンツエ人(Florentine)のアンドレア コルサリ(Andrea Corsali)であった。コルサリは後にその経験をシニョール(Signor)首長ロレンゾ デ メディチ公(the Most Illustrious Prince and Lord the Signor Duke Lorrenzo de' Meddici)宛に1517年9月18日に書いた手紙に詳しく述べている。
The earliest known depiction of Jiddah shows the unsuccessful Portuguese raid of 1517. They never reached Jiddah again. http://www.saudiaramcoworld.com/issue/200506/queen.of.the.india.trade.htm (注)現存するもとも古い16世紀のジッダの風景で、1517年ジュダ(Judá)市の目前に迫ったロポ ソアレス デ アルベルガリア(Lopo Siares de Albegaria)のポルトガル艦隊を描いたリスボン地理協会博物館保存のギャスパール コリア(Gaspar Correa)の絵である。 この時、ジッダ(Jiddah)では新しい事態が起きていた。イエメン(Yemen)出征から戻るや否や、フサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)が狡猾で残酷な専制君主の様にふるまい始め、ライス スライマン(Rais Sulayman)との間の敵意が燃え上がった。恐らく欲求不満のはけ口として、フサイン クルディは一般人に対して忌まわしい残虐行為を行った。ジッダ市の創設に関する古文「メッカ市に関する歴史的記述の蒐集(Die Chroniken der Stadt Mekka)」の著者で16世紀の歴史家クトゥブ ディン(Qutb ad-Din)(本名ムハンマド イブン アハマド ナハルワリ(Muhammad ibn Ahmad an-Nahrwali))は 「幾人かのジッダ住民が土牢(dungeon)に押し込められ、はらわたを抜き出されたり(disembowel)、拷問で殺されたりしない日は無かった。フサイン クルディ行く所はそこでも絞首門が設けられた」 と述べている。この様な行いによって、フサイン クルディは自分の部下、仲間およびメッカのシャリフ達(the Sharifs of Mecca)からの友情や忠義を期待できなくなった。 2.2 オスマントルコの攻撃によるマムルーク朝滅亡 その報いはオスマントルコ(the Ottoman Turks)(1300–1923)による地中海の東南海岸への抑えがたい進出と云う結果として現れた。イランおよびアフガニスタン方面のトルクメン(Turcoman)国境の諸侯国(principalities)の敵対する領有権、マムルーク朝による反体制オスマントルコ皇族の庇護やインド支配者からオスマントルコのスルタンへの贈り物の強奪等でマムルーク朝(Mamluks)とその強力な隣国オスマントルコとの関係は時々緊張する事があり、決着のつかない戦いが1485年から1490年まで続いた。それでも和平は何とか修復され、生ぬるい関係が再構築されていた。 しかしながら、1516年の春に、オスマントルコ(the Ottoman Turks)のスルタン サリム一世(Sultan Salim I)(1512-1520)が突然、シリア(Syria)のマムルーク朝(Mamluks)領内に攻め込んだ。うわべは1513年にイラン北西部のタブリーズ(Tabriz)付近の戦闘で既に敗北したペルシア王イスマイル シャー(Ismail Shah)に最後の攻撃を加える為にペルシア(Persia)へ向かう途中との口実であった。
危険を感じたマムルーク朝スルタン カンサウ ガウリ(Sultan Qansawh al-Ghawri) は5月にカイロを出発し、自分の帝国の北部国境に向けて軍隊を進軍させた。戦闘はシリア北部のアレッポ(Aleppo)近くのマルジ ダビク(Marj Dabiq)の平原で1516年8月24日に始まった。オスマン(Ottoman)側の圧倒的な火力がエジプト側を粉砕し、スルタン カンサウ ガウリは戦場で殺された。トルコ軍は直ちにマムルーク朝(Mamluks)のシリア州(Syrian Province)およびパレスティナ州(Palestinian Province)を席巻し、全ての所で前支配者の圧政から解放された土地の民衆から幸福感を持って歓迎された。しかしながら、オスマントルコのスルタン サリム一世は明らかにペルシア(Perusians)に対する戦争の継続にもっと関心があり、サリム一世はマムルーク朝(Mamluks)の新スルタンのツマン ベイ(Tuman Bey)に服従する事を条件に和平を提案した。 この提案は承伏出来ないと拒否された。怒りっぽい性格のサリム一世は公然とした挑戦としての否定的な回答を得て、憤慨し、ペルシアへの進軍計画を中止して替わりにエジプトを侵略すべく行軍した。1517年1月22日にカイロ(Cairo)はオスマン(the Ottomans)側の手に落ちた。ツマン ベイ(Tuman Bey)は裏切られ、処刑され、ここにマムルーク王朝(Mamluk Dynasty)は滅亡した。最後のカリフ(Caliph)であったムタワッキル(al-Mutawakkil)は服従を示したが、イスタンブール(Istambul)に追放された。ムタワッキルは数年の後に帰国を許されたが、ただの私人としてであった。オスマントルコはマムルーク帝国(Mamluk Empire)の紅海州も属領にした。ヒジャーズ(Hejaz)のシャリフ家支配者達(the Sharifian rulers)にとっては従属を受け入れる他に選択は無かった。 2.3 失意のポルトガル艦隊とマムルーク朝艦隊自滅 オスマン帝国(the Ottomans)の強力な軍事力と戦士としての名声がメッカ首長(the Sharif of Mecca)のバラカト二世(Barakat II)に自分の権威の正式承認を得る為、次男で13歳になるアブ ヌマイイ(Abu Numayy)をスルタン サリム一世(Sultan Salim I)の宮廷へ自発的に送らせた。サリム一世は預言者の子孫で2つのモスクの守護者から臣従の礼を受け、名誉に感じた。恐らく非常に遠く、不確定な戦闘から解放され、ホッとしていたので、自分の満足感を首長の支配をハリ(Hali)、ジッダ(Jiddah)、メッカ(Mecca)、メディナ(Medhia)、エンボ(Yenbo)およびカイバール(Khaibar)等、実質的に全ヒジャーズ(Hejaz)に確認する事で示した。 同じ頃、アブ ヌマイイ(Abu Numayy)からフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)とそのジッダでの暴政を聞き、サリム一世はフサイン クルディの殺害に許可書を発行した。これはこの若い首長がメッカに戻ってから実行された。フサイン クルディがカイロにいる事を要求している新しいスルタンからの重要な書簡をアブ ヌマイイが持っていると言われ、フサイン クルディは実際には騙されてこの市に召喚された。 メッカ(Mecca)でフサイン クルディは書簡を受け取る代わりに捕縛され、ライス スライマン(Rais Sulayman)司令官に引き渡された。スライマン司令官はフサイン クルディを鎖で縛ってジッダに連れ戻した。スライマン司令官が指示されたのはフサイン クルディをカイロ(Cairo)へ移送する事であったが、フサイン クルディはその後、ボートに乗せられ、陸から遠く「魚の母親(ウンム サマク(Umm
Samak)」と呼ばれる場所に運ばれ、舷側から溺れさす為に海に投げ込まれた。
こうしてフサイン クルディは殺され、1517年4月13日にロポ ソアレス デ アルベルガリア(Lopo Soares de Albergaria)総督麾下のポルトガル艦隊が水平線に現れた時にはライス スライマン司令官はジッダの総指揮を握っていた。ポルトガル艦隊はこの市から1リーグ(league)(3マイル、5km)離れた水域に投錨し、ボートを拿捕した。その逃亡を企てていた乗船者達がこの市が大混乱と恐怖の状態に有るのを伝えると多少楽観的になった。その直ぐ後に決闘(a private combat)を提案するライス スライマン(Rais Sulayman)司令官からの伝言がソアレス総督に届けられた。この場所ですぐ後に起きた嵐に注意が注がれた為にこの提案は後で脚下された。 しかしながら、この攻撃の詳細を立案する中で、ソアレス総督はこの市を攻め落とそうとするのは本当に馬鹿げた行動であるのに間もなく気が付いた。この港への出入りは珊瑚礁で遮蔽された狭い水路を通り抜ける必要があり、それに要する時間に自分達の船を戦略的な砲の台座から無気味に奮い立つ相当な力の砲火に対して非常な危険に晒してしまう。その射程へ近づく船に対する警告の一斉射撃とスライマン司令官の軍隊が岸に沿って見事な行進をする様子がソアレス総督に最悪の恐れを確信させた。 2日間のどんな犠牲を払っても上陸を試みたいと願う艦長達との決定の無い、熱を帯びた議論の後に、ソアレス総督は帯同してきた国王の指示書を見せながら皆を鎮めた。その指示書には「攻撃はメッカ(Mecca)や利が少なく、危険の多いこの市ジェッダ(Jiddah)よりもむしろエジプト艦隊を目がけるべきである」と記されていた。 したがって、狡猾なスライマン司令官が座礁させていたので敵艦隊を攻撃できないまま、ソアレス総督は1517年4月16日にジッダ海域を出航してカラマン(Karaman)へと航行した。ソアレス総督はカラマンでマムルーク朝(Mamluk)の要塞を撤去した。しかしながら、この荒涼と島の悲惨な宿泊の中でプレスター ジョン(the Prester John)への大使の指名を受けたドン ドゥアーテ ガルバン(Dom Duarte Galvão)を含む多くのポルトガル人達が病気と飢えに倒れ、一方でその中の17名が捕虜としてジッダに連れ去られた。 アデン(Aden)への攻撃が失敗した時にマムルーク朝(Mamluk)の艦隊に水や食糧を供給して居たので、ソアレス総督が略奪し、火をかけたアフリカ海岸のゼリラ(Zelia)を迂回した後で、ソアレスはこの市(アデン)へと横断した。そこでは、驚いた事に、ソアレス総督はもはや歓迎されなかった。熱心に働くアデンの住人は事実、要塞を修復し、アデン(Aden)の首長アミール モールガン ザフェリ(Amir Morgan az-Zaferi)はもはや服従する気持ちは無かった。総督ロポ ソアレス デ アルベルガリア(Lopo Soares de Albergaria)はこの弱った乗組員で攻撃するのは得策では無いと考え、そこを立ち去った。それからソアレス総督は麾下の船にソマリア北部のアデン(Aden)湾の港町ベルベラ(Berbera)に向かう様に指示した。ソアレス総督はゼリラ(Zelia)で行った様に、この海港(ベルベラ)を侵略し、焼け払おうと考えていたが、突然の嵐がソアレス総督の艦隊をバラバラにし、数百人が難破して死亡した。 1517年7月にシルヴェス(Slives)の僧正で、ポルトガル国王ドン マニュエル(Dom Manuel or Manuel I)(1469-1521)の業績を記録した歴史家ジェロニモ オソリオ(Gerónimo Osório) )(1506 - 1580)が出版した「王の人生と偉業(Da Vida e Feitos de el-Rey)」の文の中に 「... 総督ロポ ソアレス デ アルベルガリア(Lopo Soares de Albergaria)はホルムズ(Hormuz)に帰ってきた。総督ソアレスはアデン(Aden)にポルトガルの要塞を築くのに失敗し、スルタンの艦隊を焼き払うのにも失敗し、ジッダでの戦いに失敗し、アビシニア皇帝(the Emperor of the Abyssinians)の大使を安全な場所に上陸させるのにも失敗し、命令された任務を一つも達成出来なかった。その上、総督ソアレスは半分壊滅した艦隊とその乗組員達を連れ帰り、上陸した。乗組員達は海上の戦いで敵の残虐さと殆ど死の間際から逃れて来ており、飢え、渇き、悲惨で打ちのめされていた」 と記述されている。 ジッダに居たマムルーク人達(Mamluks)は自分達の圧政と残虐性に対する住民の正当な復讐を逃れ、イエメン(Yemen)の港ゼビド(Zebid)でバールスバイ (Barsbay)の艦隊と合流する為にイエメン(Yemen)へと脱出した。この予期せぬ補強でバールスバイはイエメン内陸へ軍事行動を起こし、イエメン南西部の高原都市タイズ(Taiz)を攻略し、略奪した。しかしながら、海岸へ帰る途中でベドウイン(Bedouins)に攻撃され、打ちのめされ、奪った豪華な戦利品の殆どを没収された。ゼビド(Zebid)に逃げ戻った生存者達はオスマン帝国のスルタン(the Ottoman Sultan)の権威を認識する時間は無かったが、そこにはオスマン帝国の総督がすでに任命されていた。 2.4 オスマントルコ支配へのポルトガルの挑戦 ポルトガル人達は紅海に自分達自身が定住する試みを諦めなかったし、少なくともその海岸へのトルコに支配に挑戦した。1520年にディオゴ ロペス デ セケイラ(Diogo Lopes de Sequeira)が危険を冒してそこへ行ったがポルトガル集落に対して海軍遠征で逆襲しているトルコ人達に遭遇せずに退却した。この様な襲撃は1526年にも行われ、移動している間に、オスマン帝国の艦隊(the Ottoman fleet)が6月にジッダ投錨し、その軍隊は上陸に際し、その市民を略奪し、虐待する等、もっとも野蛮な行動を取った。 オスマン帝国の領土周辺での海上交通に対するポルトガルの妨害に怒ったスライマン大帝(Sulayman the Magnificent)(1494-1566)は数年後にもう一回遠征を命じた。スライマンはスエズに装備した戦争用のガレー船(war galley)の艦隊を持っており、その指揮をスライマン カディム(Sulayman al-Khadim)に任せていた。スライマン カディム(Sulayman al-Khadim)はギリシャ人の宦官でサリム一世(Salim I)の元奴隷であり、カイロ総督であった。
Sulayman the Magnificent http://en.wikipedia.org/wiki/Portal:Turkey/Selected_biography/Archive
スライマン大帝(Sulayman the Magnificent)はそれ以前のエジプトのマムルーク朝スルタン(the Mamluk Sultan of Egypt)の様に共通の敵に対する協調政策を案出する為にインドのモスリムの支配者達、その中でも特にグジャラートの王(the King of Gujarat)と連絡を取っていた。 1538年の出典では 「『ポルトガル艦隊の大半がマラッカ(Malacca)の救助活動に従事させられている』と云う好機(a propitious occasion)を告げるニュースがもたらされた。スライマン カディム(Sulayman al-Khadim)提督指揮下の紅海艦隊は直ちにグジャラート(Gujarat)に最も近いポルトガルの要塞(citadel)であるディウ(Diu)を攻略する為に出航したが、2ヶ月に及ぶ包囲も砲撃もポルトガルの要塞司令官マスカレンハス(Mascarenhas)を打ち負かすのに十分では無かった。勇敢な司令官であるマスカレンハスは救助の艦隊が到着し、トルコ海軍の旗艦があわてて紅海に引き返すまで持ちこたえた」
と云う。 アラビアの出典によれば 「スライマン カディム(Sulayman al-Khadim)提督は巡礼期間のジッダでの長い休息を命じ、トルコ人達のモスリムに対する態度は望まれる多くを残したが、聖なる場所への尊敬の欠如を示してしまった」 と云う。 最後にポルトガル人が紅海に現れたのは1541年にヴァスコ ダ ガマ (Vasco da Gama)の息子のエステヴァン ダ ガマ(Estevão da Gama)がゴア(Goa)からスエズ(Suez)まで航海した時の事であった。しかしながら、ポルトガル人達はアビシニア(Abyssinia)の複雑な地上戦に巻き込まれ、紅海では西海岸のその顕著な探検を除いて全く何も達成していなかった。その探検は有名な雑誌ロテイロ(Roteiro)の中に副官によって挿し絵入りで説明されている。その副官とは後にインド総督(Viceroy of India)となったジョアン デ カストロ提督(the Admiral João de Castro)である。 João de Castro http://fr.wikipedia.org/wiki/Jo%C3%A3o_de_Castro
この時にはジッダはバラカト二世(Barakat II)がスルタン サリム一世(Sultan Salim I)( スライマン大帝)の王宮に送ったその次男のアブ ヌマイイ首長(Sharif Abu Numayy)によって治められていた。アブ ヌマイイ首長の協力の見返りに、もし、ジッダの歳入が減じたならばオスマントルコ政府(the Porte)から補助金を授与されるとの条項付きで、トルコ帝国はジッダの歳入の半分を同首長に譲渡した。 2.5 インド洋のポルトガル要塞一掃とその挫折 スライマン大帝(Sulayman the Magnificent)は「商業交易とオスマントルコの国庫に入る歳入の正常化を確保する為に、インド洋の比較的小さなポルトガルの要塞を一掃する方法が有る筈である」と確信して、シャッタルアラブ(Shatt al Arab)のバスラ(Basrah)で第二艦隊を建造していた。スライマンの計画では先ずはアラビア半島にあるポルトガルの要塞化した駐屯地を攻撃する事であった。戦闘はオスマントルコ紅海艦隊の高名なピリ ライス提督(the Admiral Piri Rais)に率いられていた。ピリ ライス提督はそれまでに紅海艦隊を用いて紅海全域のアラビア人達を無抵抗にさせていた。 ピリ ライス提督(Piri Rais)はマスカット(Muscat)まで進軍したが、この防御の堅固な要塞からのポルトガル火砲(Lusitanian artillery)による断固とした抵抗に会い、艦船に深刻な被害を受け、修理の為にバスラ(Basrah)に向かわなければ成らなかった。その憤りから小さく攻めやすいアデン(Aden)にあるポルトガルの海岸補給所を攻撃すると云う行動を取った。以前はポルトガル人達に敵意を持っていたアデン首長はピリ ライス(Piri Rais)提督が不快な実例を示したオスマントルコ(the Ottomans)のよこしまな方法に反発して、その態度を保留する事態が起きた。ポルトガル人達は王権に対する毎年の朝貢とポルトガル艦隊のアデン港使用の見返りに援助を約束した。しかしながら、1546年の或る朝、ピリ ライス(Piri Rais)提督麾下の8艘の戦闘用ガレー船(galley)が水平線に現れた時にはアデンには3艘のポルトガル船しか居なかった。ポルトガル人達は何とか損傷無しに逃れる事が出来たが、アデンはキリスト教勢力とのモスリムの教義に背いた同盟に対して恐ろしい対価を支払わなければ成らなかった。 艦船、人員および資材を集めるのに長い時間を要したが、ピリ ライス提督(Piri Rais)は1552年までにアラビアのポルトガル要塞への新たな猛攻撃の準備を終えた。ピリ ライス提督は同年7月にスエズ(Suez)から30艘の艦船で出発し、無事に紅海を通過していったが、アラビア海'the Arabia Sea)で猛嵐に遭い、アラビア海に臨むアラビア半島の最東端のハッド岬(Ras al-Hadd)を回ってオマーン湾(the Gulf of Oman)に入る前に数艘を失った。 その時のマスカット(Muscat)のポルトガル要塞司令官はドン ジョアン ダ リスボア(Dom João da Lisboa)であり、町を見渡せ、港も防御出来る場所に要塞を築いていた。リスボア司令官はこの建設仕事を3ヶ月前に始めたばかいで未だに終わって無かった。トルコの紅海艦隊が近づくに連れ、60人からなるポルトガル軍の守備隊はマスカットを無防備のままで急いで要塞に引き上げた。ピリ ライス提督(Piri Rais)はこの町を略奪し、それから要塞を包囲して、自分達の艦船の火砲で砲撃を開始した。包囲されたポルトガル軍は18日間に渡って自分達の陣地を守ったが、水の貯えが尽きた為に、降伏の交渉を始めた。ピリ ライス提督はポルトガル軍が直ちに抵抗を止めるのを条件に交渉中の命を保証したが、ポルトガル軍が降伏するとその約束を履行しなかった。ピリ ライス提督(Piri Rais)はポルトガル人達の数人を刀で切ったが、残りはドン ジョアン ダ リスボア司令官を含めて、ガレー船(galley)の奴隷とした。ピリ ライス提督(Piri Rais)はマスカットを確保する意志は無かったので、そこを離れる前に要塞の倉庫を略奪し、兵器庫(armory)を爆破し、要塞(citadel)を非武装化した。 ピリ ライス提督(Piri Rais)の次の目標はホルムズ(Hormuz)であった。ホルムズではピリ ライス提督は軍隊を上陸させ、抵抗に会わずにこの町を略奪したが、前もって通知された地方商人達が自分達の財産を近くのホラズム海峡(Hormuz)イラン岸のケシュム島(the island of Qeshm)に移して居たので乏しい結果しか得られなかった。しかしながら、ポルトガルの要塞は持ちこたえたので、ピリ ライス提督は20日間の実りの無い砲撃の後に、包囲を解かなければならなかった。 商人の逃亡を知るとピリ ライス提督はそれからケシュム島(the island of Qeshm)へ移動し、避難民から全てを奪い、その多くを捕虜にしたが、間もなく、ゴア(Goa)から派遣されたポルトガル艦隊がペルシア湾に到着し、自分の戦利品の損出を恐れたピリ ライス提督はそれを3艘のガレー船に積み込み、スエズ(Suez)へと向かった。トルコの紅海艦隊の残りは見捨てられ、バスラ(Basrah)で破滅した。ピリ ライス提督はバハレイン(Bahrein)の近くで3艘のガレー船の中の1艘を失ったが、他の2艘と共にスエズに到着した。スエズの総督は直ちにピリ ライス提督を捕縛し、積み荷を没収し、コンスタンティノープル(Constantinople)からの命を受けて、後にピリ ライス提督を斬首にした。 (注)トルコ帝国の輪郭"Outline of the Turkish Empire" : 出典は1570年アントワープで出版されたアブラハム オルテリウス(フランドルの地理学者)作成の世界最初の本格的世界地図であり、この図は同じく1602年にアントワープで出版された改訂版の図である(from the Theatro d'el Orbe de la Tierra de Abraham Ortello - Anvers 1602 an updated edition of the famous atlas Theatrum Orbis Terrarum by Abraham Ortelius, Anvers 1570.)。 2.6 喜望峰航路によるジェッダの衰退 ポルトガル人達によって開かれた新しいインドへの航路およびポルトガルの港の指揮官の証明無しでの奇襲による艦船への組織的な略奪にもかかわらず、紅海の交易は幸運で勇敢な船によって封鎖破りが成功し、16世紀の間、続いた。これらの船は引き続きエジプトや地中海への商品を小舟に積み替える為にジッダを訪れた。 1560年にローマのヴァティカン(the Vatican)へのポルトガル外交使節はカイロに居たスパイの報告から「大部分は胡椒である450万ポンドの香料は毎年、紅海を通ってアレクサンドリア(Alexandria)に搬送されている」と述べていた。 しかしながら、17世紀に入ると冒険好きなオランダ商人や英国商人が実践の分野に入り込み、価格競争をし、最終的にはポルトガル人達の独占を打ち破った。香料やその他の商品はその原産地で直接積み込まれ、少し遠回りではあるが、喜望峰回りの航路でモスリムの支配を全く受けずに堂々とした東インド会社のインド貿易船(East Indiamen)で直接ヨーロッパ市場に運ばれた。 この結果、ジッダは衰退し、その港の交易量はほんの僅かにまで減少した。西アラビアの重苦しいオスマントルコ(Ottoman)の支配は、時折、荒廃や残酷さが証明されて居る様にその窮境が倍加した。1631年にイエメンのトルコ総督(the governor)の軍隊がエジプトの向かう途中でメッカ(Mecca)に立ち寄った。この総督はその破壊的で恐ろしい方法にもかかわらず、イエメン地方の有効な支配の拡大に失敗していた。メッカは略奪され、その住人はその兵士の理不尽な残虐さと暴行の被害を受けた。服従を拒否したジッダ(Jiddah)は同じ様な扱いをこうむった。財産の隠し場所を明かさなかったこの地方の多くの商人が拷問を受けた。 オスマントルコ人達は総督(Vizier)をメッカ(Mecca)に置き、州総督(Wali)をジッダ(Jiddah)に置いたが、総督等の役目は主として関税を徴収する為の行政であり、ヒジャーズ(Hejaz)の支配はメッカのシャリフ族(the Sharifs of Mecca)を通じて行った。シャリフ族は無視するには勢力があり過ぎたが、トルコに対抗するには弱過ぎた。しかしながら、シャリフ族は断続的にトルコの弱体化した時期には時々は公然と遠く離れた大君主の悪口を言いながら、自分達に利を得える事が出来た。 水資源を殆どもっぱら水槽(cisterns)に溜めた雨水に頼っていたジッダ(Jiddah)は大総督カラ ムスタファ パシャ(Grand Vizier Kara Mustafa Pasha)(1634-1683)の恩恵をこうむった。パッシャは1676年から1683年まで赴任し、この市の東にある井戸からこの貴重な液体を運ぶ送水管、新しいカン(Khan)(隊商宿(caravanserai))、新しいハンマッム(hummam)(公共浴場)およびモスク(mosque)(回教寺院)を整備した。 17世紀のトルコの地理学者ハジ カリファ(Hajj Khalifa)はその著書「ジハンーヌマ(Jihan-numa)(世界の鏡(Mirror of the Wold))」に 「その頃、水は乏しく、小さな耐久性のある水槽に集められていた。水を十分に確保する為、支配者であるムハンマド ビン イブラヒム(Muhammad ben Ibrahim)は大総督ムスタファ カラ(his Grand Vizier Mustafa Kara)の命により、もっと多くの水を涸れる事の無い山から運んできた。更に、モスク(回教寺院)の隣に堂々とした公共宿舎を建設した」 と大総督カラ ムスタファ パシャの功績を記述している。
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