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マッカ・ムカッラマ(メッカ州)
(サウジアラビア王国西部地方) その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ (1-4大航海時代とジェッダ)
4. 大航海時代を開いたポルトガル王国 |
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目次 4.1 後ウマイヤ朝(Caliphate of Córdoba) 4.1 後ウマイヤ朝(Caliphate of Córdoba) イスラム帝国の第4代正統カリフ アリー(‘Alī ibn Abī Ṭālib)(656-661)が暗殺された661年にムアーウィヤ(Mu'āwīyah)(602-680)がダマスカスを首都とし、ウマイヤ家を世襲のカリフとするイスラム帝国ウマイヤ朝(Umayyad)(661-750)を開いた。この王朝は14代存続し、750年にアッバース朝(Abbasid)(750-1258)に滅ぼされた。ウマイヤ朝の王族の多くは虐殺されたが、アブド アッラフマーン一世(Abd ar Rahman I)(756-788)は命からがらシリアから脱出し、旧臣に守られながらモロッコまで逃走した。その後、ウマイヤ朝旧臣の援助を得てイベリア半島(Iberia Peninsula)の既存のイスラム支配者を打破し、幾つかの封土(fiefdoms)を統一し、イベリア半島および北アフリカをほぼ支配し、コルドバ(Córdoba)を首都とする後ウマイヤ朝(Emir of Córdoba)を756年頃に開いた。 http://en.wikipedia.org/wiki/Caliphate_of_C%C3%B3rdoba 929年1月16日にアッバース朝(Abbasid)に敵対してカリフ(Caliphate)を名乗るファーティマ朝(Fatimid)(909-1171)のイベリア半島への侵入の恐れに直面し、これに対抗する為、アブド アッラフマーン三世(Abd ar Rahman III)(912-929, 929-961)はカリフ(Caliphate of Córdoba) (929-1031)を称した。927年と931年にモロッコ北岸のメリリャ(Melilla)とセウタ(Ceuta)を戦い取った事でカリフとしての威光が一般的に認められる様になった。 http://en.wikipedia.org/wiki/Abd-ar-Rahman_III アブド アッラフマーン三世はフランク(Carolingian Empire or the Frankish Realm)やノルマン(Normans)の侵入からの防衛、トレド(Toledo)奪回など軍事的な功績を残したばかりでは無く、コルドバ(Córdoba)を学問・文化の中心として発展させた。 カリフ(Caliphate of Córdoba)の勢力は北へと広がり、950年までには神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire)(965-1806)と大使の交換を行っていた。その数年前にイタリア国王(Hugh of Italy)(924-948)から地中海における自国商船の安全保障を求められた。イベリア半島北部のスペイン辺境領(Marca Hispanica)、ナバラ王国(Kingdom of Navarra)やアラゴン王国(Aragon)等の小さなキリスト教国はカリフ(Caliphate of Córdoba)の勢力には抵抗出来なかった。この為、これらの小国は幾らかの領土と引き替えに休戦協定をカリフと結んだ。 974年にカリフ(Caliphate of Córdoba)は第4代正統カリフ アリー(‘Alī ibn Abī Ṭālib)の子孫が開いたシーア派イスラム王朝(Shi'a Islam)イドリース朝(Idrisids)(789-926)が支配していたモロッコ領(Morrocan territories)を併合し、ヒシャーム二世(Hisham II)(976-1013)時代の宰相(hayib)アルマンスール(Almansur)が率いるムーア人(Moor)軍隊は985年にバルセロナ(Barcelona)、997年にサンティアゴ デ コムポステラ(Santiago de Compostella)を略奪した。
1002年にアルマンスール(Almansur)が亡くなるとその息子達の間で宰相の後継争いがおこった。その一方でスラブ系やベルベル系の家臣によるカリフの擁立争いや後継争いがおきて、30年たらずの間に10人のカリフが即位すると云う内乱(civil war or fitna)で国力が衰えた。1479年にスペイン王国(Spanish Monarchy)となったアラゴン王国(Crown of Aragon)(1035-1479)とカスティーリャ王国(Kingdom of Castile)(1035-1479)からの侵入を受け、1031年にヒシャーム三世(Hisham III)(1027-1031)の死によって、カリフが廃位され、滅亡した。以後は各地の諸侯が独立し、26から30のタイファ(taifas)と呼ばれる侯領が分裂割拠した。その状態は独立した勢力として有効な抵抗が出来ず、国土回復運動(Reconquista)によって次第に排除された。国土回復運動(Reconquista)はキリスト教徒によるイベリア半島の再征服活動であり、西ゴート王国の貴族ペラーヨ(Pelayo)(681-737)が蜂起した718年から始り、グラナダが陥落した1492年まで続いた。 4.2 国土回復運動とポルトガル王国建国 8世紀初頭、イベリア半島をイスラーム勢力のウマイヤ朝(Umayyad) (661-750)が征服し、ゲルマン系の西ゴート王国(Visigothic kingdom)(415-711)を滅亡させた。この際、イスラームへの抵抗を続けた西ゴート王国の貴族ペラーヨ(Pelayo)(681-737)はイベリア半島北西部にまで逃れ、在地のアストゥリアス人勢力と結んで718年に蜂起し、アストゥリアス王国(Kingdom of Asturias)を建国した。イスラーム勢力の攻撃を受けるが、722年頃にコバドンガの戦い(Battle of Covadonga)で勝利して独立を保つと、カンガス デ オニス(Cangas de Onís)を都として支配を固めた。この王朝の設立が国土回復運動(レコンキスタ)(Reconquista)展開の始めと考えられている。この王朝は924年までアストゥリアス王国として知られ、その後はレオン王国(Kingdom of León)となり、1230年にカスティーリャ王国(Kingdom of Castile)の王フェルナンド三世)(Fernabdo III)(1217-1252)がレオン王国の王位を兼ねるまで続いた。
Pelayo "The first Spanish Reconquistador" http://www.historyofjihad.org/spain.html 1095年、カスティーリャ・レオン王国連合(León and Castile)のアルファンソ6世(Alfonso VI)(1040-1109)は、娘婿でフランス王族ブルゴーニュ家(Burgundy)のアンリ ド ブルゴーニュ(Henri de Bourgogne)(1035-1074)にポトゥカーレ伯領(County of Potucale)を与え、ポルトガル(Portugal)の起源となった。アンリの子エンリケス(Afonso Henriques)は宗主国カスティーリャ・レオン王国連合(León and Castile)と戦い、1128年6月24日のサン マメデの戦い(Battle of São Mamede)に勝利して、1129年にポトゥカーレ公として自立した。エンリケスは1139年のオーリッケの戦い(Battle of Ourique)で北アフリカとアンダルシア(Andalucía)を支配していたベルベル系(Berber)サンハージャ族(Sanhaja)のムラービト朝(Almoravid dynasty)(1040-1147)に大勝をしたのを機に独立を宣言し、ポルトガル王(King of Portugal)アファンソ一世(Afonso I)(1109-1185)と自称した。 ローマ教皇の口添えもあり、1143年にカスティーリャ王国(Kingdom of Castile)はこれを承認し、ポルトガル王国(Kingdom of Portugal)が成立した。これがポルトガル最初の王朝ブルゴーニュ朝(House of Burgundy)で、1179年に教皇アレクサンデル三世(Pope Alexander III)から正式な承認を得て、ポルトガル王国は国際的に認められた。1147年にアファンソ一世(Afonso I)は第二回十字軍(1147-1148)のイングランドからの分派の助けを得てリスボン(Lisbon)を攻略し、一挙に版図を拡大した。1162年にはベジャ(Beja)、1166年にはエヴォラ(Evora)がその統治下に入り、13世紀中頃にはイスラム勢力を駆逐し、現在の領土をほぼ形作った。国土回復運動(Reconquista)はその後もグラナダが陥落した1492年まで更に続いた。
4.3 アヴィシュ朝設立と大航海時代開闢 国土回復運動(レコンキスタ)(Reconquista)を通じての領土完成後、ポルトガルでは商業や学芸がさかんとなり、リスボンは北海と地中海を結ぶ交易拠点として栄えた。14世紀の黒死病(ペスト)の蔓延はポルトガルに危機をもたらし、第9代ポルトガル国王フェルナンド一世(1367-1383)は嫡出男子の無いまま他界し、ブルゴーニュ家(House of Burgundy)は断絶した。条約(the treaty of Badajoz)に基づき、カスティーリャ(Castile)から女王を迎えたが、ポルトガル貴族・国民はカスティーリャ(Castile)の支配を嫌い、1383-1385の危機と呼ばれる内乱となった。フェルナンド一世の異母弟でペドロ一世(Peter I or Pedro)(1320-1367)の庶子ジョアンがカスティーリャを撃退し、国王に即位し、ジョアン一世(Joao I)(1385-1433)としてアヴィシュ朝(House of Aviz)(1385-1580)を開いた。
Mosteiro dos Jeronimus Das Mosteiro dos Jerónimos
("Hieronymus-Kloster") ist ein Bauwerk in Lissabon ( http://flickr.com/photos/17384453@N00/2235485062 ジョアン一世は交易に力を入れ、その子のエンリケ航海王子(Henry the Navigator)に北アフリカのセウタ(Ceuta)を占拠させた。エンリケ航海王子はアフリカ航路開拓に力をいれ、バルトロメウ デイアス(Bartolomeu Dias)による喜望峰到達を実現させた。ジョアン二世(João II or John II)(1455-1495)の時代にはヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)によってインド航路が開かれ、カブラル(Pedro Álvares Cabral)がブラジルに到達した。その後、香料諸島や日本への進出し、ポルトガルの東方貿易は大いに繁栄し、大航海時代を築いた。1580年にアヴィシュ家が断絶するとスペイン王フェリペ二世(Felipe II)(1580-1598)がポルトガル王となり、事実上スペインの支配下に置かれ、多くの植民地を失い、衰退した。1640年にはブラガンサ王朝(House of Braganza)が独立を回復し、ジョアン三世(João III)(1521-1557)、ジョアン四世(João IV)(1640-1656)の頃に植民地経営等に力を入れ、ポルトガルは往時の繁栄を取り戻した。
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