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2010月7月29日 高橋 俊二
 

マッカ・ムカッラマとメッカ州

(サウジアラビア王国西部地方)

その4 近代化する聖地メッカ
No. 4 Modernizaing Holy City of Mecca




 

目次

 

(注)必要な「章」の名前又は番号をクリックしてください。

 

前書き(Introduction)

緒言(Preface)

1. メッカの概要(Outline)

1.1 地勢(Topography)

1.2 気候(Climate)

1.3 ランドマーク((Landmark)

1.3.1聖モスク(Masjid al-Haram)

1.3.2 アブラージュ・アル・ベイト・タワーズ(Abraj Al-Bait Towers

1.3.3 キシュラ(Qishla)

1.3.4 ザムザム井戸(Zamzam Well)

2. 歴史(History)

2.1 古代の歴史(Early History)

2.2 ムハンマド(Muhammad)

2.3 中世と近代(Medieval and Pre-modern Times)

2.4 サウジアラビア(Saudi Arabia)

2.5 聖モスクの拡張(Expansion of Holy Mosque)

2.5.1 クライシュ族(Quraysh)による再建

2.5.2 アブドゥッラー イブン ズバイル('Abd Allah ibn al-Zubayr)による再建

2.5.3 アブデュル マリク(Abdul Malik bin Marwan)治下での改造

2.5.4 イマム マリク(Imam Malik, c. 711 - 795)の助言

2.5.5 スルタン ムラト カーン(Sultan Murad Khan)の時代での再構築

2.5.6 1996年の大規模再建

3. 巡礼(Hajj)

3.1 ハッジ(Hajji)

3.2 ウムラ(Umra)

3.3 非イスラーム教徒のメッカ入境(Entry to Mecca for Non-Muslims)

3.4 巡礼儀式の手順(Stage of Rites of Hajj)

3.4.1 ハッジの準備(Preparation of Hajj)

3.4.2 ハッジの儀式(Rites of Hajj)

3.4.3 ウムラ(Umrat al-Tammatu)

3.4.4 アラファト(Arafat)

3.4.5 ムズダリファ(Muzdalifa or Muzdalifah)

3.4.6石投げの儀式(Ramy al-Jamarat)

3.4.7犠牲祭(Eid al-Adha)

3.4.8 タワーフ ジヤラ(Tawaf az-Ziyarah)とタワーフ ワダ(Tawaf al-Wada)

3.4.9 マディーナへの旅(Journey to Medina)

3.5 海外から訪れる巡礼の人数(Number of Foreign Pilgrims by Year)

3.6 難儀な旅と儀式での事故(Hazardous Journey and Unhappy Incidents)

4. 行政(Administration)

4.1 行政府(Government)

4.2 健康管理(Health Care)

4.3 教育(Education)

4.4 人口統計(Demographics)

4.5 通信方法(Communication)

5. 文化・経済(Culture & Economy)

5.1 経済(Economy)

5.2 料理(Cuisine)

5.3 言語(Language)

5.4 文化(Culrure)

6. 交通手段(Transportation)

6.1 聖都間高速鉄道(Al-Haramain high-Speed Railway Service)

6.1.1 事業主

6.1.2 鉄道の名

6.1.3 事業の目的

6.1.4 事業概要

6.1.5 資金調達と土地の収用

6.1.6 ハラマイン鉄道(聖都間高速鉄道)の駅

6.1.7 建設と事業の実施

6.2 メッカのモノレール(Al Mashaaer Al Mugaddassah Metro)

6.2.1 事業主

6.2.2 鉄道の名

6.2.3 事業の目的

6.2.4 概要

6.2.5 経路

6.2.6 建設

6.2.7 鉄道車両

6.3 軽便鉄道(Light Rail Service)

6.3.1 事業主

6.3.2 鉄道の名

6.3.3 事業の目的

6.3.4. 事業概要

7. メッカ市近代化への都市改造(Remodeling Mecca for Modernization)

7.1 故ファハド国王の勅命(Massive Development Plan for Mecca)

7.1.1 ジャムラト橋(Jamrat Bridge)

7. 2 摂政アブドゥッラーのメッカ拡張更新事業

7.2.1 キング アブドゥル アジズ道路(King Abdul Aziz Road)

7.2.2 オマル山住居用高層ビル群建設事業(Jabal Omar Residential Towers)

7.2.3 シャミヤ地区の開発事業(Development Project Shamiya)

7.2.4 アジヤド総合病院(Ajyad General Hospital and Surrounding Area)再開発事業

7.2.5 カンダマ山不動産事業(Jabal Khandama Real Estate Project)

7.2.6 カアバ山地区(Jabal Kaaba Area)開発計画

7.2.7 その他の開発事業

7.3 アブドゥル アジズ王寄贈事業(King Abdul Aziz Endowment Project)

7.3.1 アブラジ バイト タワー(Abraj Al-Bait Tower)

7.3.2 2次メッカ寄贈事業(Second King Abdul Aziz Endowment Project in Makkah)

7.4 これからの開発計画等(Next Development Plan etc.)

7.4.1 マッカおよび聖なるサイト開発機構(Makkah and Holy Sites Development Authority, MHSDA)

7.4.2 メッカ経済都市構想

7.4.3 マッカのインテリジェンス化

7.4.4 マッカの開発計画(Development Plan for Makkah)

後書き(Postscript)

参照資料(Reference)

付録1 ムハンマド(Prophet Muhammad)

 

(注)*を付した項目は「使用用語一覧(語彙集)」ご参照戴きたい。 

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前書き(Introduction)

 

メッカはリヤドから紅海岸に出るときの通過点であるので市入り口の門までは何度も行っているが、私自身は異教徒なので市内に入ることも通過することも許されず、常に迂回路を回り道していた。この様な一度も行ったことが無く、サウジアラビアが宗教的に非常に気を使っている市を紹介することでの問題を考え、メッカを私のサウジアラビア紹介に含めるかどうか、長い間悩んではいた。しかしながら、イスラームを国教とし、その守護者の立場にあるサウジアラビアの紹介でイスラームの聖都メッカを含めないのは画竜点睛を欠く事になると考えた。資料はウエブにもある程度は掲載されているので簡単な紹介なら出来るだろうと調べ始めてみた。故ファハド国王の戴冠以降、市内どころか周囲の山岳地帯も含め、景観を全く一新する程の大規模な再開発が行われている事を知った。基盤整備事業を含め、それらを調べて、まとめるのに相当時間が掛かってしまった。メッカについてはイスラームとムハンマドとの関係無しに記述できないので、ムハンマドの生涯の要約を付録として添付した。本文も付録もそれらの内容的に宗教的な不敬があってはならないと思い、掲載にあたっては専門家にチェックして戴いた。

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緒言(Preface)

 

メッカはイスラームの聖都で古代からの市であるけれども、古代に関しては神話の方が歴史よりも多くを伝えているように思う。メッカとカアバ神殿の拡張は昔から行われてきているが、巡礼の受難に端を発した故ファハド国王の勅令での改造および現国王アブドゥーッラの指導による近代化はその規模において、全く次元の異なるすざましいエネルギーを感じる。

 

すざましいエネルギーと言えば、私は前々から「アラビア半島を基点としたイスラーム教国が何故、100年余りの短時間の内に急速に拡大し、北アフリカ、アジアおよびヨーロッパの重要部分を席巻した大帝国を作り上げられたのか」との疑問を持っていた。イスラーム教徒となることは宗教的な面以外に社会的な面も大きく、イスラーム国家(Islamic Nation)と同義であるイスラーム共同体(Umma)の下にそれまで細かく分かれていた部族社会を部族と無関係に唯一神アッラーの下に統一した。それと共に個人に対しては貴族的な特権を排除し、階層制を拒否して、才能に対する職業の基本原則の開放を当てはめた社会再編によって革命とも言えるエネルギーを作り出したのを知った。それがローマ・ペルシア戦争(Roman-Persian War, 92 BC – 627 AD)*で疲弊した両帝国の間隙をついて広大なイスラーム帝国(Islamic Empire or Caliphate)*を作り出したのだとほぼ理解できた。

 

(注) イスラーム帝国はムスリムの征服(Muslim Conquests, 632 - 732)*とも呼ばれる。

 

メッカの近代化は飛躍的に増大している巡礼者達の数と密接に関係しており、その増え続ける巡礼達を受け入れてきたカアバ神殿(Kaaba)の改造について多少詳しくのべている。その巡礼についても目的も含め儀式について可能な範囲で言及した。

 

近代化については包括的な資料が乏しく、ほとんどの記述は新聞記事とウェッブからの抜粋をまとめた。このため、資料を集めた割には全体を完全に把握しては居ないのではないかとの危惧も持っている。ただ、カアバ神殿を包含する聖モスクの周囲では景観を完全に変える程の大規模再開発と交通機関の新設・整備が進行中である事は十分にお分かり戴けると思う。

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1. メッカの概要(Outline)

 

メッカ(Mecca)はアラビア語のマッカ(Makkah)から転写され、いまだにほとんどの英語で書かれている辞書、文献や学術論文で使われている。アラビア語名はマッカ ムカッラマ(Makkah Al Mukarrammah)と云い、イスラム教(Islamic Religion)では「もっとも聖なる会合の場所」を意味しており、メディーナ(Medina)がそれに次いでいる。この両市を呼ぶときには「祝福されたメッカ(Mecca the Blessed)と光り輝くメディーナ(Medina the Radiant)」という言い方もされている。メッカは近代的な国際都市ではあり、非ムスリム(non-Muslims)に対しては閉鎖されているにもかかわらず、民族的には多様である。

 

イスラムの伝説ではメッカの始まりはイシュマエル(Ishmael)*の子孫に遡るとされている。7世紀にイスラームの預言者ムハンマド(Muhammad)がそれまで重要な交易センターであったこの市(まち)にイスラーム(Islam)を公布した。966年以降はアラブ族守護者の称号であり、「高貴な血筋の人」を意味するシャリフ(Sharifs)*によって率いられた。それはオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299 - 1922)*が崩壊し、1924年にサウド家(House of Saud)の支配になるまで続いた。現代においてメッカの大きさと市の都市基盤はおびただしく拡張された。

 

 

 

現在のこの市(まち)は歴史的ヒジャーズ地方(Hejaz Region)*にあるサウジアラビア王国マッカ州(Makkah Province)の首都であり、2008年調査での人口は170万人である。

 

 

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1.1 地勢(Topography)

 

メッカはジェッダ(Jeddah)の内陸73kmにある海抜277mの狭い谷に位置している。この狭い谷を囲む山々が最近の市拡張の境界となっている。この市のほとんどの部分よりも標高の低い聖モスク地区(Masjid al-Haram Area)にこの市は中心を置いている。その聖モスク地区とその周辺地区が旧市内を形成している。サウジ政府が大モスク(Grand Mosque)を市の中心部で拡張するにつれて、数百軒あった23階建てのこの地方産の石で建てられた伝統的な家屋は広い道路や四角い区画に取って替わられた。メッカの都市圏はいまでは1,200平方キロに及んでいる。

 

(注) 聖モスク(Masjid Al-Haram)は大モスク(Grand Mosque)とも呼ばれている。

 

上述のようにメッカの中心は山間の回廊地帯(狭い谷)にあり、そこはメッカ窪地(Hollow of Mecca)と呼ばれる事もある。メッカの位置は交易にも重要であったので、主要な交易路の宿場ともなっていた。

 

 

メッカ窪地(Hollow of Mecca)とカアバ神殿(Kaaba)

Original: http://kusprayitna.staff.uii.ac.id/files/2009/01/mekkah-putih.jpg

 

近代化以前のメッカでは幾つかの主要な水源が開発されていた。第一の水源はザムザム井戸(Zamzam Well)*のようなこの地の井戸であり、水質は一般的に塩分が濃かった。第二の水源はアイン ズバイダ(Ayn Zubayda)の様な泉であり、アラファ山(Djabal ‘Arafa)の東数キロすなわちメッカの東南東12kmにあるサ‘ド山(Jabal Sa’d)とカブカーブ山(Jabal Kabkab)を源にしている。水は地下水路を使って送水されていた。あてにならない第三の水源は雨水で、人々は降雨を小さな水槽や貯槽(Cistern)*に溜めていた。降雨は僅かではあるが、時として洪水の脅威があり、早い時代から危険であった。1965年までに89回の大きな洪水があったと言われており、その内の数回はサウジ治世になってからで、20世紀で一番大きな洪水は1942年に起きている。それ以来、この問題を改善する為にダムが築かれてきた。

 

 

メッカとその近傍

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1.2 気候(Climate)

 

サウジアラビア(Saudi Arabia)の他の市とは異なり、メッカは冬でも暖かい温度を保っており、真夜中の17℃から午後の25℃の範囲である。夏の気温は非常に高いと考えられており、午後には40℃を超え、夕方でも30℃もある。降雨は11月から1月の間に僅かにあるのが一般的である。

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1.3 ランドマーク((Landmark)

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1.3.1聖モスク(Masjid al-Haram)

 

メッカには世界で最も大きな聖モスク(Masjid al-Haram)がある。そのモスクはイスラーム教徒達(Mulims)が毎日、祈りを捧げるカアバ神殿(Kaaba)*を取り巻いている。このモスクは一般的に聖地(Haram)あるいは大モスク(Grand Mosque)としても知られている。

 

 

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1.3.2 アブラージュ・アル・ベイト・タワーズ(Abraj Al-Bait Towers

 

現在進行中の市街地拡張事業には大モスク(Grand Mosque)からの通りをまたぐ、尖塔高595mの超高層ビル アブラージュ・アル・ベイト・タワーズ(Abraj Al-Bait Towers)が含まれている。このタワーは2010年内に完成予定であり、世界でも一番高い建造物の1つとなる。

 

 

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1.3.3 キシュラ(Qishla)

 

キシュラ(Qishla)18世紀にオスマン帝国軍(Ottoman Army)がメッカに建設した城(Military Castle)であるが、サウジ治世下になって、取り壊され、今では大モスク(Grand Mosque)に向かい合う敷地には幾つかの近代的ホテルが建てられている。

 

注) キシュラの映像は無いが、アブラージュ・アル・ベイト・タワーズ(Abraj Al-Bait Towers)と聖モスクMasjid al-Haram)に近接しているエラフ キンダ ホテル(Elaf Kinda Hotel)に何がしかの面影が残っているのではないかと思う。

 

 

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1.3.4 ザムザム井戸(Zamzam Well)

 

ザムザム井戸(Zamzam Well)ももう1つの有名なランドマークである。

 

ザムザム井はカアバ神殿(Kaaba)20m東に位置する縦横5.5m x 4.3mで深さ18mの井戸である。4,000年前から湧き出しているが、決して涸れることは無く、飲料水としての優れた水質も味も変わっていない。巡礼達はウムラ(Umrah)の儀式が終わるとザムザム井の水を飲むのが通例であるが、巡礼の数が数百万人にも及ぶ現在でもそれに供するに必要な湧水量も保たれている。マッカ近郊では給油所でさえ、ポリタンにいれたザムザム水を巡礼達の土産に売っていたが、「現在は法律で国外持ち出しを禁じている」と云うし、「ザムザム水を土産用に薄めて売る業者がいる」との報道もある。

 

 

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2. 歴史(History)

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2.1 古代の歴史(Early History)

 

伝承では「天国でアダム(Adam)*とイヴ(Eve)*が創造された。その後、二人は下界へ降下し、地上で互いに探し合った事から人類は始まった。アダムはサランディブ島(Island of Sarandib)即ち現在のスリランカ(Sri Lanka)に降り、イヴはアラビアに降り立った。それからアダムはイヴを探し始め、最終的にアラファト平原('Arafat)*で再会した。それが今日までアラファト平原が毎年催される巡礼儀式の中心となって来た理由である」と云う。

 

アダムが神の御座の地上での写し(Earthly Reflection)であり、全ての寺院の原型としてカアバ(Ka'bah)*と呼ばれる最初の寺院を建てたのもメッカ(Mecca)のこの地域である。その当時、メッカは狭い谷を意味するベッカ(Becca or Bakkah)*と呼ばれていた。アダムはメッカで死にそこに埋められ、イヴはジェッダ(Jeddah)の海辺に埋められた。ジェッダはいまだにイヴに因んでアラブ族(Arabic)の母系の先祖を意味するジッダ(Jiddah)と呼ばれている。

 

(注) 1-1 中継港ジェッダの紹介2. ジェッダの歴史および1-6 近代のジェッダ6 イヴの墓(The Tomb of Eve)を参照。

 

「大洪水(Deluge Myth or Flood Myth)が起きた時、メッカに埋葬されていたアダムの体は水に浮かび始め、一方ではノアの方船(Ark of Noah)がメッカとカアバ(Ka'bah)の周りを7回巡回し、北部に向かい始めた。洪水の後に方船はその北部に着岸した」と云われている。

 

それから一千年後、一神教(Monotheism)の偉大な長老、アブラハム(Abraham)*はエジプト人妻ハガール(Hagar)*とその子イシュマエル(Ishmael)*と共にメッカ(Mecca)に来た。アブラハムは洪水の跡に残された小山を見つけるとその小山の下にはアダムによって建てられた神の最初の寺院が残って居た。その当時、バッカー(Bakkah)(メッカの旧名)の住人達は「アブラハムより前の時代からメッカ地方を起源に北西アラビアにすでに住んでいた」と云われるアマレク族(Amalekites)*の影響でアブラハムの説く原始一神教(Din al-Hanif or Primordial Religion)から背いていっていた。

 

このジャーヒリーヤ時代(Age of Ignorance or Al-Jahiliyyah)*に聖なる市マッカ(Makkah or Mecca)のカアバ神殿(Kaaba)*周辺を中心とした多神教を一段と強めたのはイエメン(Yemen)のジュールフム族(Jurhum)*によるアマレク族('Amaliq)への勝利とメッカ制圧であった。ジュールフム族はアラビア半島のカハタニ部族(Qahtani)(カハタン族(Qahtan)*)に属し、失われたアラブ(Lost Arabs)と呼ばれる古いアラブ族の1つでメッカに移住する前の歴史的な拠点はイエメン(Yemenであった。

 

アラブの史料のよれば「アブラハム(Abraham)が神の命により妻と子供に幾らかの水とデイツ(dates)を残して、メッカを離れた。水は直ぐに飲み干され、2人は激しい渇きに襲われた。ハガールはサファー(Safa)*とマールワ(Marwah)*と名付けられた二つの小山の間を水を見つける為に走り始めた。ハガールは天使が自分の前に現れるまでこの往復を7回繰り返した。天使が自分の羽根で地面を打つとその結果としてザムザム(Zamzam)と云う泉が現れた」と云う。ザムザム(Zamzam)*は今日まで絶える事の無い恵まれた水源であり、北イエメン(North Yemen)出身のジュールフム族(Jurhum Tribe)*がメッカに来て定住したのはザムザム(Zamzam)のお陰である。その後、ジュールフム族はハガル(Hagar)とその息子イシュマエル(Ishmael)を保護し、イシュマエル(Ishmael)を養子にしてアラビア語を教え、自分達の部族の一員とした。イシュマエルはジュールフム族の女性と結婚し、アラブ化したアラブ族(Arabized Arabs)の祖先となった。

 

アブラハムは紀元前2000年頃にメッカに戻るとアダムによって建てられた神の最初の寺院跡に長男イシュマエル(Ishmael)*に助けられ、カアバ神殿(Ka'bah or Kaaba)*を建設した。その時に作られたのが現在のカアバ神殿(Ka'bah)の原型である。カアバ神殿(Kaaba)は再建された聖域であり、巡礼地として尊ばれた。

 

プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus, AD 90 – AD 188)*はこの市をマコラバ(Macoraba)と呼んでいたが、「マコラバは幸福のアラビア(Arabia Felix)と呼ばれた南アラビアの町である」と主張をする学者も少なく無く、これの確認は論議の的となっている。

 

クザーア族(Banu Khuza’a or Banu Quda’a)*はラフム朝の苦難(Trials of Lakhmids)の後、イエメン(Yemen)を追放され、ラフム朝(Lakhmid Kingdom, 266 - 602)*南部のイラク(Iraq)サマワ(Samawah)に定住していた。

 

(注) ラフム朝の苦難(Trials of Lakhmids)とは「シャープール二世(Shapur II, 309 – 379)が捕虜達の肩に穴を開け、ロープを通して数珠繋ぎにした」と云う325年のラフム朝へのサーサーン朝(Sassanid, 226 - 651)による侵攻だと私は思う。

 

ハリサ アムル ビン ムザキバ(Haritha Amr binMuzaqiba)としても知られるクザー(Khuza’a)はアズド カハタニ族(Azd Qahtani)の主要一族の長であり、マール ザハラン(Mar al-Zahran)に来るまでヒジャーズ(Hijaz)を自分の一族と流浪していた。クザーア族(Banu Khuza’a or Banu Quda’a)*はメッカ谷(Mecca Valley)とその井戸をアマレク人(Amalekites)*と関係のあるジュールフム族(Banu Jurhum)*から奪い取った。それまでのメッカ(Mecca)の住人だったジュールフム族(Banu Jurhum)はメッカ(Mecca)を追い出され、カアバ神殿の守護権も失った。その時期はハッキリはしないが、遅くとも4世紀の終わりでまでである。

 

クザーア族(Banu Khuza’a or Banu Quda’a)*の族長アムル イブン ラヒ クザ(Amr ibn Lahi ak-Khuza’i)*はフバル(Hubal)*と云う名の偶像神をシリア(Syria)から持ってきて、自分の支配の継続と云う意味でフバル神を遇するためにカアアバ神殿(Kaaba)に持ち込んだ。フバル神(Hubal)は長いあごひげをした老人の形をし、紅玉髄(Camelian)で作られていたが、その右手は切り取られていた。

 

5世紀にクザーア族(Banu Khuza’a)はカアバ神殿(Kaaba)守護の権威を失くし、族長の娘婿で同盟しているクライシュ族(Quraysh or Quraish)族長クサイ イブン キラブ(Qusayy ibn Kilab ibn Murrah)*に義父を引き継ぐ形で譲った。ほとんど確実な事はアドナーン(Adnani)系統のクライシュ族(Qurayshiyya)がカハタニ(Qahtani)系統のクザーア族(Banu Khuza’a)に取って代わって古代聖地の守護者となったことである。クザーア族(Banu Khuza’a)から引き継いでクライシュ族(Quraysh or Quraish)*の主神の1つとなったフバル神(Hubal)の切り取られていた右手はクライシュ族によって黄金の腕で修復された。

 

クサイはその聡明さで偉大な名誉と高名を自分の部族にもたらしたと評価されている。クサイは荒廃していたカアバ神殿を再建し、神殿の周囲に同心の環状地帯を作り、住人をそれぞれの社会的な階級によって決められた環状に割り当て、メッカの市作りを行った。クサイは又、アラビア半島で最初の政庁舎(Town Hall)を建設したことでも知られている。異なった一門の家長達がこの政庁舎で社会的、商業的、文化的、政治的問題を議論するために会合を開いた。先見の明のあるクサイは法律を作り、市民から税金を徴収し、メッカを訪れる巡礼達が食料と水を受け取れる様にもした。

 

この様にしてメッカを制圧したクライシュ族は熟練した商人や交易業者にもなった。6世紀になると世界の他地域での戦争で交易路が危険の多い海路からより安全な陸路に変り、クライシュ族も利潤の多い、香料貿易に参加した。ビザンティン帝国(Byzantine Empire)*はそれまで紅海を支配していたが、海賊が増えその支配に陰りが出て来た。アラビア湾からチグリス・ユーフラテス川(Tigris-Euphrates River)を経由するもう一つのそれまでの交易路もササン朝(Sassanid Empire, 224 - 651)*の搾取やラフム朝(Lakhmids, 266 - 602)*およびガッサーン朝(Ghassanids, 3rd Century - 636)*による妨害さらにローマ・ペルシア戦争(Roman-Persian War, 92 BC – 627 AD)*によって脅かされた。安全な陸路の交易中心としてのメッカの卓越さ(Mecca’s Prominennce)はペトラ(Petra)*やパルミラ(Palmyra)*の両都市を凌いでいた。

 

6世紀半ばまでに北部アラビアには3つの大きな定住地があり、3つとも東の広大な砂漠と海岸の間ある紅海の西岸に沿った居住可能な地域にあった。この地域はヒジャーズ(Hejaz)と呼ばれ、水のあるオアシス(Oases)の周囲に発展した定住地に特徴がある。ヒジャーズ中央にあるのがヤスリブ(Yathrib)で、後に「ムハンマドの市(Madinatun Nabi or City of Prophet)」に因んでマディーナ(Madinah)と改名された。ヤスリブ(Yathrib)*の南400kmに位置する山岳都市がターイフ(Ta’if)であり、その北西にメッカ(Mecca)がある。メッカの周囲の地域は完全に不毛であるけれども、有名なザムザムの井戸(Zamzam Well)*から湧き出る豊富な水と主要隊商路の交差点の位置にあった為に3つの定住地の中では一番裕福であった。

 

アラビア半島(Arabian Peninsula)の過酷な状況と地勢はこの地方の部族同士の争いがほとんど絶えることのないことを意味していたが、一年に一度、部族達は休戦を宣言し、毎年の巡礼にメッカに集まった。民間伝承によればこの巡礼はもともとはアブラハム(Abraham)*によって唯一神を崇拝する為の行為として始められたが、時間と共にその子孫はアブラハムの宗教(Abrahamic Faith)を捨て、偶像崇拝(Paganism)に戻っていた。7世紀まではこの巡礼の旅は多神教徒のアラブ族が自分達の神社(Shrine)に敬意を払い、ザムザムの井戸の水を飲むという宗教的な目的をもっていた。しかしながら、それは又、毎年、争いが仲裁され、債務が解決され、そして交易がメッカの定期市(Mecca Fair)で行われる時期でもあった。この様な年1回の行事が部族達に共通のアイデンティティ(Identity)の感覚を与え、そしてメッカを半島の重要な中心の1つとした。

 

ムハンマドの曽祖父によって初めて使われたという駱駝隊商(Camel Caravan)がメッカの忙しい経済の重要な部分であった。メッカの商人とこの地方の遊牧部族達との間の同盟が結ばれ、遊牧部族達が皮、家畜やこの地方の山で採掘される金属等の物資を駱駝隊商(Caravan)に積み替えシリア(Syria)やイラク(Iraq)の諸都市へと運ぶためにメッカへ集めた。歴史的資料も他の大陸からの物資がメッカを経由して運ばれたことを示唆している。恐らく、アフリカや極東から香料、皮、医薬品、衣料および奴隷を含む物資がシリアへの隊商路を通過してゆき、その見返りにメッカは金、武器、穀物、ぶどう酒等を受け取り、それらをアラビア全体に分配していた。メッカ商人達(Meccans)はビザンティン帝国(Byzantine Empire)*やベドウイン達(Bedouins)と隊商の安全通行と給水・牧草供給の為の協定を結んでいた。メッカはクライシュ族と同族のタミーム族(Banu Tamim)*を含む従属部族の緩やかな同盟の中心となった。この地域の他の勢力であったアビシニア(Abyssinian)*、ガッサーン族(Ghassanids)*およびラフム朝(Lakhm)*6世紀末期のアラビア半島における主要な結束力のある勢力であるとしてアラビア半島の交易をメッカに譲り、撤退した。

 

時代が過ぎ、カアバ神殿はアラビアの多神教の偶像神や部族守護神の安置所となってきていた。メッカの一番重要な多神教の神はフバル神(Hubal)*であり、クライシュ族(Quraysh)*によってカアバ神殿に安置され、7世紀までそこに残っていた。

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2.2 ムハンマド(Muhammad)

 

ムハンマドはメッカで570年に生まれ、この為、イスラームはそれ以来、この市とほどけることのないつながりを持ってきた。ムハンマドは統治勢力クライシュ族(Quraysh)*の一門ハーシム家(Banu Hashim or Hashemites)*の出であった。「ムハンマドが610年に大天使ガブリエル(Angel Gabriel)*を介して神から啓示を受け始め、メッカのアニミズム(Animism)(精霊信仰)に対して一神教を伝道し始めた」と云われているのがメッカ近郊のヒラ山の洞窟(Mount Hira or Hira Cave in Jabal an-Nour)であった。13年間にわたる多神教部族達からの激しい迫害に耐えた後、ムハンマドは622年に自分の信徒達と共にヤスリブ(Yathrib)*に移住 (Hijra)* した。しかしながら、クライシュ族とイスラーム教徒(Muslims)の争いは続いた。バドルの戦い(Battle of Badr, 624)*ではイスラーム教徒がマディーナ(Madinah)郊外で重装備のクライシュ軍を破り、一方、ウフドの戦い(Battle of Uhud, 625 or 626)*ではメッカ側がかろうじてイスラーム教徒を圧倒した。しかしながら、イスラーム教徒を根絶しようとのメッカの努力は非常に費用が掛かった上に最終的には不首尾に終わった。塹壕の戦い(Battle of Trench or Battle of Khandaq, 627)*ではアラブ族連合軍はムハンマドのイスラーム軍を打ち破れなかった。

 

628年にムハンマドとその信徒達はメッカ市内に入り、巡礼を行う為、平和裏にメッカへと行進した。しかしながら、この行進はクライシュ族によって阻止された。その後、イスラーム教徒とメッカ市民はフダイビーヤの協定(Treaty of Hudaybiya)*を結び、この中でクライシュ族はイスラーム教徒達(Muslims)に対しての休戦を約束し、さらに翌年はイスラーム教徒達が巡礼を行う為に市内に入ることを認めると約束した。しかしながら、2年後にクライシュ族はイスラーム教徒の一団とその同盟者達を虐殺し、休戦に違反した。今や10,000人となったムハンマドとその信徒達はメッカに向けて行進することを決めた。メッカ市は争いを続けるかわりにムハンマドとその信徒達に降伏した。ムハンマドとその信徒達は長年の過酷な迫害に復讐するよりもメッカの住人達に大赦を宣言した。カアバ神殿(Kaabah or Ka’bah)*にあった昔からの多神教の偶像や工芸品はムハンマドとその信徒達によって破壊され、アブラハム(Abraham)*、モーゼ(Moses)*、イエス(Jesus)およびムハンマド(Muhammad)の信仰する一神教の神に再び奉献された。

 

ムハンマドはメッカをイスラーム教徒の義務であるイスラーム五行(Fives Pillars of Islam)1つである巡礼の中心と定め、聖地として宣言した。そしてムハンマドは「イスラーム教徒(Muslim)でない者は今後、メッカに再び入ることは無いだろう」とも宣言した。アキブ イブン ウサイド(Akib ibn Usaid)をメッカの総督として任命した後、ムハンマドはマディーナ(Madinah)へ戻った。ムハンマドのアラビアでのもう1つの功績は長い間、市での生活を混乱させていた部族同士の小競り合いを終わらせ、半島を統一したことである。

 

630年にムハンマドがメッカを征服した時に「アダムからノア(Noah)、モーゼ(Moses)、アブラハム(Abraham)、およびイエス(Jesus)を含む全ての預言者(Prophets)の使命であり続けた原始一神教信仰に世界を再導入しなければならない」と主唱するムハンマド(Muhammad)はクライシュ族(Quraish)の偶像神崇拝の伝統をカアバ神殿(Kaaba)の中で360体の偶像神と共にフバル神(Hubal)の像を叩き壊す事で終わらせ、この建造物を唯一神アッラー(Allah)に奉げた。

 

ムハンマドは632年に亡くなったが、イスラーム国家(Islamic Nation)と同義であるイスラーム共同体(Umma)を残し、この統一意識のもとで、イスラーム(Islam)は急速に拡大し、数百年で北アフリカ、アジアおよびヨーロッパの重要部分へと広がった。イスラーム帝国(イスラム帝国(Islamic Empire or Caliphate)*)が大きくなるにつれて、巡礼を引きつけ続けていたメッカへはアラビアのみならず、イスラーム世界(Muslim World)やそれ以外からもイスラーム教徒達(Muslims)が毎年のハッジ巡礼(Hajj Pilgrimage)を行う為に訪れて来た。

 

(注)1. サラセン帝国時代の文献に記述されたジッダ をご参照戴きたい。

 

メッカはまた一年中滞在する学者達、カアバ神殿の近くに住みたいと願う敬虔なイスラーム教徒達および巡礼達に仕える住人達を引き寄せた。ハッジ(Hajj)*の困難さと費用の為に巡礼達は舟で上陸しメッカに陸路でやってくるか、或いはシリアやイラクから毎年、交易に訪れる隊商に参加してやってくる。

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2.3 中世と近代(Medieval and Pre-modern Times)

 

メッカはどのイスラーム帝国(Islame States or Caliphates)*の都になったことはないが、イスラーム為政者達はその維持には貢献してきた。第2代正統カリフ(634 - 644) ウマル(Umar ibn al-Khattab, c. 586 – 590 - 644)*および第3代正統カリフ(644-656) ウスマン イブン アッファン(Uthman ibn Affan, c. 574 or 579 – 656)*の治世下では洪水への懸念があった。このために両カリフはキリスト教徒の技術者達を動員し、低地にある居住区の中にダム(Barrage)を建設し、カアバ神殿周囲の地域を保護するための堰や堤防を築いている。

 

ムハッマドのメディーナへの移住はイスラーム帝国の中心もメッカから移動し、さらに、この中心はウマイヤ朝時代(Umayyad Caliphate, 661 – 750)*が権力を握るとその首都としてシリア(Syria)のダマスカス(Damascus)へ移された。アッバース朝(Abbasid Caliphate, 750 - 1258)*は首都を現在のイラク(Iraq)のバグダッド(Baghdad)に移し、バグダッドがその後500年にわたってイスラーム帝国の中心となった。メッカが再びイスラームの政治的歴史に暫時、登場したのはイブン ズバイル(Abudullah ibn az-Zubayr, 624 – 692)*に制圧された時であった。イブン ズバイルは初期のイスラーム教徒で683年にウマイヤ朝カリフ ヤズイード(Yazid ibn Mu'awiya, c. 642 - 683)がメッカを包囲した時に対抗した。その後、メッカはハーシム家のシャリフ(Hashemite Sharifs)*が統治する信仰と学問の中心として存続したが、政治にはほとんどかかわりが無かった。

 

930年にメッカはカルマト派(Qarmatians)*の攻撃を受け、略奪された。カルマト派は神が直接地上を支配する千年王国(Millenarianism)を説くイスマーイール派霊感(Ismailites Muslim Sect)1つであり、アブ タヒール ジャンナビ(Abu Tahir al-Jannabi)に率いられ、東アラビアに中心を置いていた。

 

(注)カルマト派(Qarmatians)*については2. 東部州の歴史 2.12 アル-ハサのカールマティア」もご参照戴きたい。

 

1349年には世界的に流行していたペスト(Black Death or Bubonic Plague)がメッカでも蔓延した。1517年にはバラカト ビン ムハンマド(Barakat II bin Muhammed or Barakat Efendi, ruled 1497 - 1525)がオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299-1922)*の宗主権を認めたが、大きな地方自治権を確保していた。

 

1803年にメッカは第一次サウジ侯国(First Saudi State.1744 - 1818)*に攻略され、1813年まで占拠されていた。これは1517年以来、この聖都市を統治してきたオスマントルコ帝国(Ottoman Empire, 1299 - 1923)*の威信を著しく傷つけた。オスマントルコ帝国はメッカをその統治下に戻す役割を強力なエジプト総督ムハンマド アリ(Muhammad Ali Pasha, 1769 - 1849)*に委ねた。ムハンマド アリは1813年にメッカをオスマントルコ帝国の統治下に戻した。1818年に第一次サウジ侯国を滅ぼしたが、サウド家(Saud Clan)の一部が生き残り、第二次サウード侯国(First Saudi State, 1824 - 1891)*を再建し、1891年まで続いた。それが今日のサウジアラビアの前身となった。

 

 

 

メッカは定期的にコレラの蔓延(Cholera Epidemics)に悩まされてきた。1831年から1930年の間の巡礼期間に27回の蔓延が記録されており、1907年から1908年の間に2万人以上の巡礼達がコレラで死んでいる。

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2.4 サウジアラビア(Saudi Arabia)

 

1916年、メッカ(マッカ)(Makkah)の太守シャリーフ フサイン イブン アリー(Sherif Hussein ibn Ali, 1908 - 1916)*はアラブ人独立と、南はアデン(Aden in Yemen)から北はアレッポ(Aleppo in Syria)に至る統一アラブ国家の樹立を目指して、オスマン帝国(Ottoman Empire, 1299-1922)*に対して反旗をひるがえた。シャリーフ フサイン(Sharif Husain)はヒジャーズ(Hejaz)総督ガリーブ パシャ(Ghalib Pasha)がターイフ(Taif)に赴いていた留守を狙ってオスマン帝国軍のメッカにあった3ヶ所の砦を攻撃し、メッカを攻略した(Battle of Mecca in 1916)。これを契機にアラブの反乱(Arab Revolt, June 1916 - October 1918)*と呼ばれるハーシム家(Heshemite)*主導のアラブ諸部族反乱はイギリスの支援を受けて中東各地でオスマン帝国軍(Ottoman Turks)と戦い、その支配からの脱却には成功した。しかしアラブの地はイギリスやフランスによる委任統治領となり分断され、統一国家を作って独立することはできなかった。

 

(注): シャリーフ フサイン イブン アリー(Sherif Hussein ibn Ali, 1908 - 1916)については使用用語一覧記載の「シャリフ(Sharifs)」もご参照戴きたい。

 

 

 

アブドルアジズ サウド(Abdulaziz al-Saud)(イブン サウド王(Ibn Saud)*)はヒジャーズ王フサイン イブン アリー(Husain ibn Ali, 1916 - 1924)がメッカを支配するのに反対して軋轢が高まり、間も無く戦闘が開始された。敵対関係は1919年に暫定的に調停されたけれどもシャリフ フサイン(Sharif Husain)1924年に自分自身をカリフ(Caliph)と宣言した。19249月までにサウド家の支援を受けたイフワーン(Ikhwan)*がスルタン ビン ビジャド(Sultan bin Bijad)とカリード ビン ルワイ(Khaled bin Luwai)の指揮下でターイフ攻撃の準備を終わらせていた。この市はヒジャーズ王の息子アリー(Ali)によって防衛されると思われていたが、恐怖で狼狽したアリーはその軍隊と多くの市民と共に逃げ出した。その内の300名はイフワーンによって殺害された。ターイフの落城に続き、シャリフ フサイン(Sharif Husain)はメッカ(Mecca)からジェッダ(Jeddah)へ避難した。更にイフワーン(Ikhwan)の追撃でキプロスへ逃走し、メッカの太守シャリーフ家はヒジャーズから追い出され、メッカはサウジアラビアに併合された。

 

() 詳細については「サウジ ワッハーブの挑戦(Challenge of Saudi-Wahhabi)をご参照戴きたい。

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2.5 聖モスクの拡張(Expansion of Holy Mosque)

 

カアバ神殿(Ka'bah or Kaaba)*はイスラーム教徒(Muslims)にとって、巡礼(hajj)*の対象で、日々5回の祈りの方向(Qiblah)*であり、唯一神に捧げられた神の家(House of God)*である。アブラハム(Abraham)*の原始一神教の時代からの寺院はメッカ(Mecca)の中心部に立っており、ジャーヒリーヤ時代(Age of Ignorance or Al-Jahiliyyah)*には最終的にクライシュ族(Quraysh or Quraish)*の主神の1つとなったフバル神(Hubal)*を中心に360体の偶像神が祭られていた。630年にムハンマド(Muhammad)がメッカを征服し、クライシュ族(Quraish)の偶像神崇拝の伝統をカアバ神殿(Kaaba)の中で360体の偶像神と共にフバル神(Hubal)の像を叩き壊す事で終わらせ、この建造物を唯一神アッラー(Allah)に捧げた。

 

カアバ(Ka'bah)とはアラビア語で立方体を意味する様にその立方体或いは殆ど立方体に近い建物は奥行き12m、幅10mで高さ16m(奥行き13m、幅9mで高さ12m、壁厚1m、床高2.2mとの説もある)であり、ピュタゴラス(Pythagorean Meaning of Harmony)の調和に基づき互いに調和した関係にある。

 

(注) 2.5.6 1996年の大規模再建」に示す図「カアバ神殿内部(Interior of Kaaba)を参照。

 

立方体としてカアバ神殿は安定と不変性の象徴ともなっている。「カアバ神殿は神の存在を表している」と考えられ、それ故に金文字でクルアーン(Qur’an)の韻文を書かれた黒い布(al-Kiswah)*で被われている。神の神聖な家(Sacred House of God)のこの被いは、セム族の古い伝統として、毎年、新調され、古いキスワ(Kiswah)は裁断され、カアバ神殿の「恵み(Barakah)*」がこの布切れを戴いた者達に広まる様に配られた。イスラーム(Islam)の歴史では初期の世紀からキスワ(Kiswah)はエジプトで作られ、細心の注意を払ってメッカに運ばれたが、現在ではこの聖なる市の近くで作られている。

 

カアバ神殿(Kaaba)の四隅は伝統的な宇宙の4つの柱(Pillars or al-Arkan)を示す4つの主要な方角(Cardinal Directions)を指している。その隅にある黒石(Black Stone or al-Hajar al-Aswad)*は隕石であり、地上の存在を超えている。「アブラハム(Abraham or Ibrahim)*とイシュマエル(Ishmael or Isma'il)*はその隕石が地上に落下して以来、保管されていたメッカ近傍のアブ クバイス('Abu Qubays)にある丘からカアバ神殿まで運んできた。この石は天国から牛乳よりも白い状態で落ちてきたが、アダム(Adam)の子供達の罪業の結果、元々の輝きの一端は残してはいるけれど、黒く変わってしまった。この石は神とアダムおよびその子孫との間に交わされたミーサーク(Mithaq)*(「神と人間との契約」)を象徴しており、契約が結ばれた以前の永久の間(Pre-eternal Moment or al-Azal)*にその子孫達を通じて人類全てがこの契約を受け入れてきた」と云われている。

 

アダム(Adam)*が神の御座の地上での写し(Earthly Reflection)であり、全ての寺院の原型としてカアバ(Ka'bah)*と呼ばれる最初の寺院をメッカ(Mecca)に建てた。

 

ノアの洪水(Noah’s Flood)1000年後の紀元前2000年頃に一神教(Monotheism)の偉大な長老アブラハム(Abraham)*はアダム(Adam)によって建てられた神の最初の小さな寺院跡に長男イシュマエル(Ishmael)*に助けられ、カアバ神殿(Ka'bah or Kaaba)*を再建した。その時に作られたのが現在のカアバ神殿(Ka'bah)の原型である。

 

 

アブラハム(Abraham)の時代のカアバ神殿想像図

http://bp1.blogger.com/_5drIf3RCMf8/Rwe0pVGXZuI/AAAAAAAAA84/XlCfsJo1lKU/s1600-h/kaaba29.JPG

 

カアバ神殿(Ka'bah or Kaaba)はその後、何度も修復・再建されて来たと思われるが、預言者ムハンマドの生誕以降の主な修復・拡張は次の表と図に示した。

 

メッカの聖なるモスクの拡張(Expansion Chart of Holy Mosque of Mecca)

西暦

ヒジュラ暦

拡張を行った人物

604

 

クライシュ族(Quraysh)*

638

17

2代正統カリフ ウマル('Umar ibn al-Khattab, c.586 - 644)*

646

26

3代正統カリフ ウスマーン('Uthman ibn 'Affan, d. 656)*

684

65

アブドゥッラー ズバイル('Abd Allah ibn al-Zubayr)*

709

91

ワリド マリク(al-Walid al-Malik)

754

137

アブ ジャファール マンスール(Abu Ja'far al-Mansur)

777 - 780

161 - 164

マフディアッバシ(al-Mahdi al-'Abbasi)

897

284

ムタディドアッバシ(al-Mu'tadid al-'Abbasi)

918

306

ムクタディールアッバシ(al-Muqtadir al-'Abbasi)

1955-1976

1375-1396

アブドゥル アジズ国王(Ibn Saud)*

1988-1995

1409-1416

故ファハド国王(King Fahd)

 

 

メッカの聖なるモスクの拡張(Expansion Chart of Holy Mosque of Mecca)

(ここをクリックすると図が拡大します。)

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2.5.1 クライシュ族(Quraysh)による再建

 

604年に行われたこの再建は洪水の後、カアバ神殿(Ka'bah)*は壁にひびが入る等、破損したため、復元が必要となり行われた。作業はクライシュ族(Quraysh or Quraish)*4部族で分担され、預言者(Prophet)となる前のムハンマド(Muhammad)もこの復元作業に参加し、次のような逸話を残している。

 

4面の壁が立てられると黒石(Black Stone)*(ハジャール アスワド(al-hajar al-aswad)*)を東の壁に据え付ける名誉ある役目を誰が行うかについて議論が沸騰した。この議論で戦いが始ろうとした時にマッカ人達の最長老アブ ウマイヤ(Abu Umayyah)が「翌朝、この神殿の門を入った最初の男に決めさせよう」と提案した。その男はムハンマド(Muhammad)であった。メッカ人達はムハンマドにこの問題を決めるように頼んだ。ムハンマドは「黒石(Black Stone)*をマント(Cloak)の上に載せ、それぞれの一門の長老がマントの端を持ち、東壁まで運ぶ」との合意を得た。マントに載せられた黒石が東壁まで運ばれるとムハンマドは自分で石を抱えあげて、東壁に安置した。

 

 http://kauscience.k12.hi.us/~ted/Blackstone/MohammedSetsKaaba.jpg

黒石の東壁への安置

 

「この時代のクライシュ族(Quraysh)はカアバ神殿(Ka'bah)を再建する為の十分な資金を持っていなかったので一神教(Monotheism)の偉大な長老アブラハム(Abraham)のよって建てられたと同じ様にはカアバ神殿(Ka'bah)全体の土台を再建できず、カアバ神殿(Ka'bah)の形はそれ以前の直方体ではなく、初めて、立方体となった。この再建されなかったカアバ神殿(Ka'bah)の部分は現在ハティーム(Hateem)と呼ばれている」と云う。

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2.5.2 アブドゥッラー イブン ズバイル('Abd Allah ibn al-Zubayr)による再建

 

683年(ヒジュラ暦64年)にシリア軍(Syrian Army)(ウマイヤ朝(Umayyads, 661 - 750)の軍隊)がアブドゥッラー イブン ズバイル('Abd Allah ibn al-Zubayr)*の反乱軍を攻撃した際にカアバ神殿を破壊した。この為、メッカ(Mecca)を拠点としていたイブン ズバイルは684年の巡礼月(Hajj)に間に合うようにカアバ神殿を再建した。

 

イブン ズバイルは預言者アブラハム(Prophet Abraham)が築いた基礎の上に預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)が望んでいたようにカアバ神殿を再建したいと考えた。イブン ズバイルはアーイシャ('A'isha bint Abi Bakr al-Siddiq)*が「預言者ムハンマドが『もしあなた方がそんな最近になって宗教上の懐疑(無知)を捨てたので無いのであれば、そして私がカアバ神殿を再建する十分な準備を整えていたならば、私はカアバ神殿にヒジュル(Hijr)から5キュービト(Cubit)*を追加するだろう』と言った」と云うのを聞いたと言った。ハーディース(Hadith)学者ブハーリー(Bukhari, 810 – 870)によれば預言者ムハンマドは「私は2つの扉も作るだろう。1つは人がそこに入る為で、もう1つはそこから出て行く為である」と言った。イブン ズバイルは「今、私にはそれを行えるだけ余裕があり、私は人々を恐れてはいない」と言った。そしてイブン ズバイルはアラビアでは伝統的に芳香を得るために燃やす沈香(Aoud or Agarwood)*の木で作られた3本の柱に屋根をのせた。イブン ズバイルはこの建物に預言者ムハンマドが生前に望んだが、その生涯では成し得なかった2つの扉を設けた。その1つは東に面し、もう一つは西に面していた。

 

預言者アブラハム(Prophet Abraham)が築いた基礎の上にカアバ神殿を再建した事はカアバ神殿がハティーム(Hateem)域も含んでいることを意味していた。ハティーム(Hateem)はカアバ神殿に隣接した半円形の低い壁に囲まれた区域である。

 

 

 

イブン ズバイルは更に次のような追加や変更を行った。

1. 屋根の近くに明り取りの小さな窓を設けた。

2. 元の扉を地上の高さに移設し、神殿の入り口に2番目の扉を設けた。

3. 神殿の高さを20キュービット(Cubit)とするために神殿を9キュービット(Cubit)高くした。

4. 神殿の壁の厚さを2キュービット(Cubit)とした。

5.. 神殿内の柱をクライシュ族(Quraysh)が再建した様に6本では無く、3本とした。

6. 神殿の周囲に4本の柱を立てて、再建が完成するまで布を吊るし、人々がその4本の柱の周りを回ってタワーフ(Tawaf or Circumambulation)*が実践できるようにして、神殿の再建中であってもタワーフが中断されないようにした。

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2.5.3 アブデュル マリク(Abdul Malik bin Marwan)治下での改造

 

ウマイヤ朝第5代カリフ(5th Caliph, 685 - 705) アブデュル マリク ビン マルワーン(Abdul Malik bin Marwan, 646/7 – 705)*はメッカ(Mecca)で反乱を起こしたイブン ズバイル('Abd Allah ibn al-Zubayr, 624 - 692)*に対し、イラク総督ハッジャジ ビン ユスフ(Al-Hajjaj bin Yusuf al-Thaqafi, 661 – 714)の軍勢を派遣し、敗死させた。ハッジャジ(Al-Hajjaj)はその後のヒジャーズ(Hijaz)に対する圧制で知られているが、693年にイブン ズバイル(Ibn Zubayr)が再建したカアバ神殿を取り壊し、604年にクライシュ族(Quraysh)が再建した状態を次の様に復活させた。

 

1. 現在の見られる小さな形の建物に再建した。

2. ハティーム(Hateem)を取り外した。

3. 今日も痕跡が残る西側の扉を壁で塗り込めた。

4. ハティーム(Hateem)域の壁の取り壊した。

5. 神殿内の木製梯子の撤去した。

6. 入り口扉を5キュービット(Cubit)低くした。

 

アブデュル マリク(Abdul Malik bin Marwan)は自らがウムラ(Umra)*でメッカにやってきた時に預言者ムハンマドの願いがイブン ズバイルの行った再建であったのを知り、後悔した。

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2.5.4 イマム マリク(Imam Malik, c. 711 - 795)の助言

 

「千夜一夜物語」で語り継がれているアッバース朝最盛期の第5代カリフ(786 – 809) ハールーン ラシード(Harun al Rasheed, 763 – 809)は預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)*が望み、イブン ズバイル('Abd Allah ibn al-Zubayr, 624 - 692)*が再建したと同じやり方でカアバ神殿(Kaaba)*を再建したいと考えた。ハールーン ラシードが高名なイマム マリク(Imam Malik, c. 711 - 795)に相談したところ、「イマム マリクは解体と再建を繰り返すのは感心した事では無いし、そうすることは時々の王がカアバ神殿の撤去と再建を望み、神殿は単に王達の玩具になってしまうだろう」との理由で翻意するように求められた。イマム マリクのこの助言にもとづき、ハールーン ラシードはカアバ神殿の再構築を行わなかった。こうしてカアバ神殿はあちらこちらの小さな修復を除いて、同じ建物が966年間にわたって保たれた。

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2.5.5 スルタン ムラト カーン(Sultan Murad Khan)の時代での再構築

 

1629年(ヒジュラ暦1039年)は大雨、洪水、あられの被害でカアバ神殿の2つの壁が倒壊した。この倒壊を起こした洪水はヒジュラ暦1039年シャバン月(Shaban)19日に始まり、そのまま続いたのでその水かさはカアバ神殿の壁半分を水没させる地上から3m(10ft)の高さとなった。翌シャバン月(Shaban)20日木曜日に東側と西側の壁が倒壊した。シャバン月(Shaban)21日金曜日に洪水が引き始め、清掃が始った。再び、アブドゥッラー イブン ズバイル('Abd Allah ibn al-Zubayr)4本の柱に行った方法で布が吊らされ、再建はラマダン月(Ramadan)26日から始った。黒石(Black Stone)の傍の1面を除き、残りの壁も取り壊された。

 

ヒジュラ暦1040年ズル ヒッジャ月(Zul Hijjah)2日までにオトマン帝国(Ottoman Empire, 1299 – 1922) スルタン ムラト カーン(Sultan Murad Khan)の指導の下に再建は始っていた。黒石(Black Stone)とそれより下部の現存する構築物はイブン ズバイル('Abd Allah ibn al-Zubayr, 624 - 692)*によって行われた再建と同じである。ムラト カーンの主導で行われた建物の建築は預言のあった以前にクライシュ族(Quraysh or Quraish)*が行った再建の方法であり、それは第5代ウマイヤ朝カリフ(5th Umayyad Calph, 685 - 705)アブド マリク(Abd al-Malik ibn Marwan, 647 705)*の治世に行われた再建と全く同じであった。

 

(注) スルタン ムラト カーン(Sultan Murad Khan)をスルタン ムラト カーン二世(Sultan Murad Khan II or Murad II Kodja, 1404 – 1451)とする記述もあるが、私は時代的にスルタン ムラト カーンはムラト四世(Murad IV Ghazi, 1612 – 1640)を指すのだと思う。

 

 

 

Picture of Kaaba taken in 1880

http://www.solcomhouse.com/islam.htm

 

 

http://atheism.about.com/od/muslimholysitestexts/ig/Kaaba-Mecca-Islam-Muslims/The-Quran-and-the-Kaaba.htm

 

2.5.6 1996年の大規模再建

 

カアバ神殿(Kaaba)*の大規模な再構築は19965月から10月にかけて行われた。これはスルタン ムラト カーン(Sultan Murad Khan)の時代での再構築から約400年経過していた。この再建の時にカアバ神殿の古い建物で残されたのは石材だけであり、天井、屋根、木材等その他の建材は全て取り替えられた。神殿内部については「3本の柱を設け、香水等を置くテーブルが置かれ、天井から2つのランタン型ランプが吊るされてた。壁や床は大理石で作られ、窓は無く、出入りの扉が一ヶ所設けられている。内壁の上部にはカリマ(Kalimah)と書かれた布で覆われている」と伝えられている。

 

 

カアバ神殿内部(Interior of Kaaba)

http://bp2.blogger.com/_5drIf3RCMf8/Rwe1ClGXZ1I/AAAAAAAAA9w/uznyxHXs_2g/s1600-h/Kaaba_Interior2.JPG

 

 

http://s196.photobucket.com/albums/aa227/gafoorhasani/Kaaba/?action=view&current=02-1.jpg

1996年の大規模再建後のカアバ神殿

 

 

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