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2008月4月25日 高橋 俊二

マッカ・ムカッラマ(メッカ州)

(サウジアラビア王国西部地方)

その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ

1-1 中継港ジェッダの紹介)




 

 

索引

前書き

緒言

ジェッダの概要

1. ジェッダの地理

2. ジェッダの歴史

3. ジェッダの近代化

後書き

参照資料

付録-1 引用文献図書目録

付録-2 参考文献図書目録

 

 

前書き

 

   メッカ州の紹介をしようとするとイスラムの聖都メッカ(Mekkah)の存在が余りに大きく、それ以外の都市について日本では余り知られていない。それでも現在、世界最大の産油会社アラムコ(ARAMCO)と住友化学が合弁で石油精製・石油化学の大規模なコンプレックス事業を進めている北のラビグ(Rabigh)、最大の貿易港で商業の中心でもあるサウジ第二の都市ジェッダ(Jeddah)、昔は夏の王宮であったタイフ(Taif)等の大きな都市の名は毎年の巡礼(ハッジ)のニュースに較べれば少ないにせよ報道されてはいるのでご存知の方も少なくないと思う。

 

メッカ州にはその他に「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)への訪問(サウジアラビア王国南西地方 その3空白地帯(the Empty Quarter)に至る内陸地域」で述べた州西部のトルバー(Turbah)、クールマー(Al Khurmah)やランヤー(Ranyah)等の町があり、又、州南部にはティハマー(Tihamah)と呼ばれる海岸低地に沿ってリス(Al Lith)、ムザイリフ(Muzaylif)、グンフダー(Qunfudhah)、アル グズ(Al Quz)、アル ビルク(Al-Birk)等の町があり、リス(Al Lith)を除いては「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)への訪問(サウジアラビア王国南西地方)その2ティハマー海岸地域(Tihamah Coastal Area)」で紹介している。

 

   日本では余り、馴染みのないこの地方に西洋人はローマ帝国時代から乳香等の富を求めてやって来ているし、近代では多くの探検家や旅行家が訪れ、この地を紹介している書籍も数知れない。日本人が仏教のルーツや文化のルーツを求めて西域(シルクロード)に憧れ、多くの出版物があるのと同じ様に西洋人に取ってはキリスト教のルーツであり、かつ文芸復興や産業革命の元と成ったサラセン文化(イスラム文化)が繁栄した中東には同じ様な憧があるのは自然の成り行きなのだと思う。

 

   1983年に単身で西域から河西走廊を旅してトルファン、敦煌等を訪ね、火焔山北麓ベゼクリク千仏洞等や敦煌莫高窟の壁画に飛鳥時代と同じ人物像が描かれているのを見て日本人の伝統と思っていた自分の偶像が崩れ去った強い印象を今でも私は忘れられないでいる。一方、西洋での文芸復興については西洋史で中学生の頃から学んでは居たが、1969年に初めて西洋を訪れ、実際にそれ以前の中世文化と比較してまるで白黒テレビと天然色テレビの様な鮮明な違いに驚いたし、強烈な印象を受けた。西洋人に取ってはそれだけ中近東への思いは強く、多くの人が関心を持っているのだろう。

 

この様に「西洋人に取っての中近東は我々に取っての西域と同じ様な存在であり、井上靖が小説にした蘭(ロウラン)やそのさらに奥の喀什(カシュガル)等の様に冒険と浪漫に満ちた秘境の交易都市としてのジェッダに誘われるのだ」と私には思われてならない。

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緒言

 

イタリア人地質学者アンジェロ ペセ博士が著作した「ジッダ(或るアラビアの町の描写)」は前々から入手し、本の大きさ、厚さと文字の細さから長い間、書棚に置いたままになっていた。ジェッダに紹介に先だっては先ず、この本を読んでからにしたいと考えた。その翻訳を2007年の6月頃から始めて12月迄には最初の翻訳を終えた。文章が長く意味が取りづらく、言語が英語で書かれているが内容の記述や引用にはアラビア語、トルコ語、イタリア語、オランダ語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語が使われて居り、その上に引用文章も多い。細かな索引は文書の脈絡を乱すとの懸念からなのか、内容に較べて索引が余りに簡素である。特に引用部分を付属書とした部分には興味があり、貴重な内容であるのに紙面の節約の為に文字も小さく段落も殆ど付けられて居なかった。この様にこの本の全体を把握するのは私にとって非常に難しかった。翻訳を終えた後に何度か校正し、さらに原注・脚注を語彙集としてまとめた。カタカナ読みへの転写(音訳)や内容の翻訳にまだまだ問題が残っていると思われるが、それでも2008年の4月に入ってから何とかジェッダの紹介が出来るまでに翻訳の校正を終えた。

 

ジェッダを紹介する前に「ジェッダがどの様な市なのか」と云う概要について説明しておきたい。アンジェロ ペセ博士著の「ジッダ(或るアラビアの町の描写)」の要約を考えていたが、その作業に時間がかかりそうなのでもっと簡単にまとめた書籍がないか探していた。伝統的なジェッダの格子細工の張り出し窓の見事な写真と1970年後半の近代化されたジェッダの写真を集めた「ジェッダの昔と今(Jeddah Old and New)」と云う題の写真集を1980年にスタンシー社(Stancey International, London)が出版している。この写真集にジェームス バカン氏(James Buchan)が記述したジェッダに関する要約があったのでそれを基に下記資料と最近のニュースも参考にしてジェッダの概要をまとめてみた。

 

Balad - The Soul of JeddahBalad, Old Jeddah, Saudi Arabia:     By M. Ahmed Nagoor

Discovering Old Jeddah (An Enchanting Jewel on the Red Sea):   By Susana Ibarra de Pint  

City of Jeddah: Wikipedia (http://en.wikipedia.org/wiki/Jeddah) last modified on 4 April 2008

 

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ジェッダの概要

 

ジェッダは「紅海の花嫁 (Bride of Rea Sea)」とか、「紅海の魅惑の宝石(An Enchanting Jewel on the Red Sea)等と呼ばれ聖都メッカと西アラビアの門戸となる港町である。

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1. ジェッダの地理

   

ジェッダはサラワト山脈(the Al Sarawat Mountains)と紅海に挟まれた幅が狭く南北に長いティハマ海岸平地(Tihama)のほぼ中央の北緯21°3236秒、東経39°1022″に位置している。この町は海側には紅海岸を三重に縁取る珊瑚礁の障壁があり、陸側には涸れ谷ファティマ(the Wadi Fatima)を通じてのみ内陸のメッカ(Makkah)と往来できる大アラビア断層地塊(the Great Arabian Massif)の障壁があり、これらの障壁の恩恵で外部からの侵略から守られて来ている。

 

(注)サラワト山脈(the Al Sarawat Mountains)は一般的にはヒジャーズ・アシール山脈(Hejaz - Asir Mountains)と呼ばれている。

 

ジェッダの集落は1940年位まではマンカバー潟湖(the Manqabah Lagoon)の南にあったが北へ北へと発展し、現在では市中心から北15マイルのオブホール入江(Obhor Creek)を含み、更に北のサルマン湾(Gulf of Salman)に接している。一方、南はアスワド岬(Ras Al-Aswad)まで広がっている。



ジェッダの気候はサウジアラビアの他の地域と異なり、冬でも暖かく真夜中でも15℃以下にはならず、昼間は25℃まであがる。夏はとても暑く昼間は40℃を越えるし、夕方に成るまでは30℃以下にはならない。

 

(注)これまでに記録された最高気温は47℃で最低気温は9℃である。

 

降雨は冬も12月に僅かに見られる程度であり、極めて少ない。夏にはアラビア半島の内陸あるいは北アフリカから大規模な沙嵐(dust storms)がやってくるし、降雪は無いが、稀にはみぞれが降る事もある。

 

大気汚染は特に夏の暑い日に起きる事がある。実際には乾燥した灌木の野火や埋め立て地の火事が主な発生源で、時には南北それぞれにある工業地帯からの公害もある。

 

海水汚染は汚水処理施設や港湾から発生するが、今の所、海岸の水質は安全で良好な水質を保っている。近年、海中への不法投棄での珊瑚礁の荒廃が顕著で、ボランティアのダイバーによる海底清掃が年中行事に成ってきた。

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2. ジェッダの歴史

 

かなり古くから「ジェッダはアダム(Adam)とイヴ(Eve)が天国を追われた後、イヴはジェッダに住み、時々メッカ(Makkah)やミナ(Mina)に居たアダムを訪ねた。イヴは死んだ後、ジェッダに埋葬された。イヴに因んでこの場所にはアラビア語でおばあさんを示すジャッダ(Jadda)と云う名が付けられ、それが訛ってジェッダと云う名が付いた」との伝説は知られていた。又、10世紀の地理学者ハムダニ (Hamdani)の文章には「イヴがジェッダでアダムを探し始め(天国からこの町に戻って来たとの説もある)、ここに埋められている」との記録がある。1928年にイブン サウドの命令で取り壊されるまでジェッダには実際にイブの墓(Grave of Eve)があった。その墓の跡地は幾世紀にも渡って尊重されて来た墓への恐れの為に使われない儘になっていたが、イスラムの戒律に逆らってイブの墓跡を詣でる巡礼者が後を絶たないので、1975年には宗教警察(the religious authorities)によってイブの墓跡はコンクリートで封印された。

 

この錨地はアラビア海岸の三重の珊瑚礁の障壁を持ち船が近寄り難い上に後背地が不毛の沙漠であり、飲み水の確保も不安定であった為に周囲の国々から閉ざされていた。その様な描地が賑わう港と成るのは奇妙ではあるが、この町は珊瑚礁の浅瀬で遮られた湾の北端から港町が形成され始めたのは事実である。確かな事はジェッダが漁船にとって天然の良港であり、周囲の珊瑚礁での多くの種類の豊富な漁獲に恵まれていたので、2,500年位の遠い昔からクアダア漁民部族(the Quadaa tribe or the Quda'a tribe)の小さな集落があった。

 

(注)「クアダア漁民部族の族長ジェッダ イブン ヘルワアン クダアイイ(Jeddah Ibn Helwaan Al-Qudaa'iy)がジェッダの語源である」との説もある。

 

この町が成長し始めたのは地中海沿岸の都市が南アラビアの香料や東洋から海上で運ばれてくる香辛料や贅沢品を求める様になってからである。この町の当時の支配者であったペルシャ人は6世紀には水の確保の為に300を越える井戸や貯槽(cistern)を掘削していた。

 

7世紀の初めにムハンマドが現れ、イスラムの教えでアラビ族を統一し、不毛な丘ですり鉢の様な形に囲まれたメッカを聖都とした。その当時のメッカへの上陸地点は紅海の東海岸ではジェッダから南20kmにあるシャイバ(Shuaiba)であった。カリフ ウスマン(the Caliph Utman Ibn Affan)がヒジュラ暦(the Hijra or the Islamic era)26年(西暦646-647年)にメッカから47マイル(76km)しか離れていないジェッダを訪れ、海賊から安全な港と認め、メッカへの上陸地点を南のシャイバ(Shuaiba)からジェッダに移した。

 

(注)16世紀の歴史家クトゥブ ディン(Qutb ad-Din)は「ウスマンはジェッダの海で水浴し、そこが好きになった為だ」と述べている。

 

この様にして7世紀のイスラム到来で、その聖地メッカ(Makkah)およびメディナ(Medina)の正式の門戸となり、東西交易の中継港として可能性に加え、世界中からやってくる巡礼の到着でこの港は更に賑わうようになってきた。

 

ジェッダは拡大するアラブ帝国(正統4カリフの時代)の主要港としての基盤を固め、カリフ統治(the Caliphate)の中心がバクダッド(Baghdad)やダマスカス(Damascus)へと北に移っても紅海における香辛料交易(the spice trade)の利権を確保していた。1050年にこの町を訪れたペルシャの詩人で旅行者でもあるナセル クスロウ(Naser Khusrow)は「ジェッダは5,000余りの男子が居て、西の海側と東のメッカ側にそれぞれ一ヶ所の城門を持つ珊瑚礁石灰岩で作られた強固な城壁に囲まれた大きな町であり、市場(Bazaar)は整備されている。ここには樹木も植栽も全く無いが町の営みに必要な全ての物資は周囲の村々から運ばれてきている」とその繁栄振りを述べている。

 

シャリフ イブン アブル ハシム タラブ(Sharif Ibn Abul Hasjim Al Thalab)(1094 - 1201)の時代の1177年にジェッダを含むヒジャーズ(Hejaz)はサラディーン (Saladin) が西暦1171 年に建国したアイユーブ朝 (Ayyubid)の領土となった。1193 年にサラディーンの死で、アイユーブ朝帝国は分裂したがカイロ(Cairo)ではトルコの奴隷軍隊マメルケス (Mamelukes) が力を握り、マムルーク朝(the Mamluk Sultanate)を建て、ヒジャーズ(Hejaz)はマムルーク朝に受け継がれた。

 

やがてヨーロッパの海軍力の高まり、それがジェッダの繁栄の脅威となった。15世紀後半のヴァスコ ガマ(Vasco da Gama)によるアフリカ周航航路(the circumnavigation of Africa)の確立は東洋貿易の豊かな可能性にポルトガル人の目を向けさせた。ポルトガルの進出と海賊行為に対抗する為にエジプトのマムルーク朝(Mamluks)はスルタンの召使いであったフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)を指揮者に任命し、海軍遠征部隊をインドに派遣した。クルディはインドのディウ沖の交戦(15092月)での敗戦の後、ジェッダに引き上げ、自らをジェッダの知事と称し、この町にそれぞれ6基の望楼と城門を持つ城壁を再建した。

 

(注)「ポルトガルのインド洋進出に伴って、シェリフ バラカト エフェンディ(Sharif Barakat II bin Muhammed (Barakat Efendi) (1497 - 1525)1505年に城壁を築いた。その後、1517年にオスマントルコ帝国支配下に入いり、1525年の紅海におけるロポ ソアレス アルベアガリア(Lopo Soares de Albergaria)が率いるポルトガル艦隊対する勝利の後、オスマントルコは脆弱なジェッダの城壁を再構築し、6つの監視塔と城門も新たに設けた」と云う説もある。

 

この城壁は1516年の三ヶ月に渡るポルトガルの攻撃や封鎖に耐えた。しかしながらオスマントルコ帝国(the Ottoman Turks)のスルタン セリム一世(Selim I)(1470 -1520)がエジプトとシリアに覇権を持っていたマムルーク朝を1517年に征服した後、この町はメッカのシェリフの領土の一部としてオスマン帝国(Ottoman Empire)に併呑された。

 

ポルトガル、オランダや英国が交易を独占し始めるに連れて、ジェッダは貨物集散地(entrepôt)としての重要性は失い、巡礼受け入れ港としての伝統的な役割に戻った。それでもエジプトとインド交易の中継は続けていたが、往年の栄華は失われ、荒廃していった。デンマーク政府が派遣し、カルステン ニーブール(Carsten Niebuhr)が率いたアラビア探検隊が1761年にジェッダを訪れた時には「城壁はまだ立っては居たが、多くの場所で騎乗の儘で乗り越えられる程に崩れていた。市の中は完全に水が欠乏しており、住民達にはアラブ族が丘の間の水源で集水し、そこから駱駝の背に乗せられて運ばれてくる水以外に飲み水は無かった」と記録している。

 

1802年に第一次サウド侯国軍(Nejdi Force)がジェッダとメッカを攻略するとシェリフ バラカト エフェンディ(Sharif Barakat II bin Muhammed (Barakat Efendi)オスマントルコ帝国(the Ottoman Turks)のスルタン モハムード二世(Sultan Mahmud II)に通報した。モハムード二世はエジプト太守ムハンマド アリ パシャ(Muhammad Ali Pasha)に奪還を命じ、アリ パシャは1813年の「ジェッダの戦い(Batte of Jeddah)」で勝利し,両市を奪回した。しかしながら、アリ パシャはその後もヒジャーズ(Hejaz)地方の実行支配を続け、オスマントルコが実際にシェリフとの共同統治を取り戻したのは1840年になってからであった。

 

インド交易が拡大するに連れてヨーロッパの列強は北側の門のすぐ内側の特別地区に領事館(consulates)を設けた。スイス人旅行家ジャコブ ブルクハルト(Jacob Christopher Burckhardt 1818 - 1897)は「5月のモンスーンの季節でのインド商船隊の到着を待つジェッダの町は異常に興奮していた」として記述している。ジェッダ商人はありったけのドル(dillars)とゼッキーノ(sequins)を集めて最初に到着した船と大量買い付けの有利な駆け引きを行おうとした。この為、全ての現金がこの取引に吸い取られ、町は7月の商船隊の出発まで商売が停止状態になってしまっていた。商船隊の最後の船が出港した直後の売値でさえ、少なくとも10%の利益が得られるのが普通であった。商船隊が停泊している間の余暇を利用してインド人水夫達(lascars)は現在でもジェッダの古い家屋の最も美しい特徴である複雑な扉や格子戸(screens)の飾り付けを行っていた。

 

1858年に起きたインド兵反乱(the Indian Mutiny)で燃え上がったイスラム圏の増大するヨーロッパの支配への怒りは完全にはジェッダを素通りしては居なかった。ジェッダでも暴動が起き、英仏両領事を含む数人の西洋人が殺害された。この為、それまでは町の真北にあるマンカバー潟湖(the Manqabah Lagoon)の傍をのんびりとぶらついていた領事や貿易商達が暴動に対抗する外交団に組織され、英米はオスマントルコに騒乱の調査と首謀者の死刑を含む処理を要求した。パシャ(the Pasha)(ジッダ州総督)の調査に満足しなかった英国はこの町を砲撃する為に英国艦サイクロプス(the British naval ship Cyclops)を送って来た。海岸通りへの着弾はジェッダの最も有名な陸上目標物(landmark)の一つであったバシャ モスク(Al-Basha Mosque)の光塔(the minaret)をピサの斜塔(the Tower of Pisa)の様に傾ける原因となった。

 

1869年のスエズ運河(the Suez Canal)の開通はジェッダに好況をもたらし、19世紀末までにはハドラマウト(Hadhrami)、ジャワ(Javanese)およびインド(Indian)出身の商人達はアラビアの他の港、インド、エジプト、アフリカからリヴァプール(Liverpool)やマルセイユ(Marseilles)との間で通常の交易を取り扱い再び繁栄を取り戻した。



 

旧市内に残る精巧な商人の邸宅の多くはこの時代に建てられている。その精巧な外観と保存状態の良さでこの様な邸宅の中で最も有名なのがアラウィ通り(Al Alawi Street)に建つナッシフ館(Beit Massif  or Nassif House)である。この館はシェイク オマール ナッシフ(Sheikh Omar Effendi Nassif) の為に建てられ、1881年に完成し、1970年代半ばに政府へ移管されるまで一世紀以上ナッシフ家族の住居であった。往時のジェッダ建築棟梁(Jeddah master-builder)の一人によって設計され、チーク材の梁(teak beams)で繋がれた珊瑚礁石灰岩で作られ、天井の高い部屋を50余りも持っている。珊瑚礁の塊はナツメヤシの実(date)の繊維(pulp)を基材とした漆喰で互いに固定されていた。 



(注)イブン サウド王(King Abdul Aziz bin Abdul Rahman al Sa'ud)がこの市へ訪れ始めた頃に滞在したのはこの邸宅であった。

 

もう一つのその様な家屋としてはアブアドルアジズ王通り(King Abdul Aziz Street)の直ぐ東に並ぶナダ市場(Suq Al Nada)に入る途中のバナジャ邸(Beit Banaja)がある。その見事に彫り込まれた一対の木製扉は市場の2つの売店の奥に開いている。この素晴らしい邸宅の多くは19世紀の物である。厚い石の壁、よろい張りのある飾り戸は空調機無しでもこの家を比較的涼しく保っている。その様な多くの部屋のある建物(edifice)から秩序だった大家族が19世紀を通じ20世紀の中頃まで様々な商売を行っていた。

 

1920年のジェッダ港の輸出額は1980年当時でもサウジアラビア第2輸出品であった毛皮や皮袋を主にやっと65,000ポンドであった。しかし、部分的に巡礼者の消費による資金調達を含めて輸入は1,750,000ポンドにも及んだ。この中のある部分は再輸出されたが大部分は巡礼や需要が増えている内陸の住人に供給する穀物や米であった。

 

トーマス エドワード ローレンス(Thomas Edward Lawrence) 1916年に通関波止場(Customs' Quay)から北の英国公使館(the Briish Legation)までを歩いて、

 

「これは本当にすぐれた町である。通りは主市場の木製の屋根の付いた路地であるが、至る所に高く聳えた白い壁の家々の頂上の隙間から空が開けている。これらの家は4階あるいは5階建てであり、石灰岩等を四角い梁で繋げて、灰色の木製の壁板を地上から屋根まで覆う広い張り出し窓(bow window)で飾られていた。ジェッダには草は全く生えていないが、立派な格子窓と窓枠に施された幾つかの優雅な浅い彫り込みは沢山ある。扉は深く彫刻され、時にくぐり戸の開けられた重々しい2枚のチーク材の平板であり、高価な蝶番と鍛鉄で作られたノッカーが取り付けられていた。古い家の内庭を見下ろす窓の立派な楣石(まぐさ石)(stone head)とだき石(jamb)は多くの型取りしたり彫られたりした漆喰塗りで飾られており、家の正面はロマンティクな舞台の様に雷文で飾られ、飾り穴が開けられ、漆喰の飾り塗りが施されている。全ての階は突きだし、全ての窓はあれやこれやで傾いており、時には壁まで傾斜していた」

 

とその著書知恵の七柱(The Seven Pillars of Wisdom)」に記述している。

 

城壁の外には殆ど何も無い。キシャ(Qisha)として知られ、今でも潟の東に建っているトルコ軍兵舎、その西にある珊瑚礁の石切場の向こうのルワイス(Ruwais)と云う漁村およびバニ マリク族(Bani Malik)ベドウイン小さな沙漠集落を越えると小さいにせよ唯一の集落は貧しい西アフリカの巡礼が住む南側の散らばった泥小屋のナカツ(Nakatu)と云う村だけである。

 

第一世界大戦(1914 - 1918)の最中の1916年にメッカのシャリフ フッセイン(Sharif bin Hussein)は英国金貨1,100万ポンドに促され、オスマントルコに対して反旗を翻し、シリアのアレッポ(Aleppo)からイエメンのアデン(Aden)までに至るヒジャーズ王国(Kingdom of Hejaz)を宣言した。しかしながら、シャリフ政権は短命であり、宗教的な強い宿命意識とイブン サウド(Ibn Saud)の能力に動かされた中央アラビアのサウド家の新たな勃興が抵抗しがたい勢力となった。フッセインの息子のアリ(Ali bin Hussein)はサウド家への抵抗を試みたが当座しのぎの軍事行動でしかなかった。サウジ軍は涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)とその奥地全ての農場と井戸を支配下に置き、その後、古老が「貧しい者達が水を乞うていたのを覚えている」と言った状況でこの町を包囲して19251223日に降伏させた。

 

アリ(Ali bin Hussein)はバクダッド(Baghdad)に逃れ、その後アンマン(Anman)に落ち着き、その子孫がヨルダンのハシェミテ王家 (the Hashemite royal family)となった。翌192618日にイブン サウドは「ヒジャーズの王およびナジドとその属領のスルタン」に就任し、1932922日に「サウジアラビア王国の建国」を宣言した。それに伴い、ジェッダは王国のメッカ州に編入された。

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3. ジェッダの近代化

 

奇妙なのはジェッダには様々な歴史があるのにナセルクスロウ(Naser Khusrow)がこの町を訪れた1050年からサウジ家支配の到達したこの日までの間でこの町の特徴は殆ど変化して居らず、「ジェッダの近代化の歴史はこの日(19251223日)から始まった」と言える。巡礼はやって来て、余裕が有れば帰って行った。来港船は相変わらず珊瑚礁の三重の障壁の危険な水路を出入りしていた。真水は四季を通じて不足しており、通関埠頭の北に設けられた海水蒸留装置或いは海水凝縮器(Arabized as kindasah)を使って毎日作られていた。フサイン クルディ(Hussein al-Kurdi) が構築した城壁の中では町は北へと発展していた。ジェッダの気候、特に湿度は一年中の殆どの日に北西から吹いてくる微風がなければ耐え難かった。珊瑚礁で建てられた家は微風を捕らえる為に真っ直ぐ立って居り、建物の過度の稠密が通風を生み出していた。舗装する為の石が無い為に通りも小さな広場も細かい砂で被われていた。

 

町の活動の中心は艀やアラブ船サンブーク(sambuks)が湾に停泊している貨物船(the freighters)から商品を荷揚げしている通関埠頭であった。その直ぐ内陸側にはこの町の目抜き通りがあり、その裏側には市場(suq)を構成する椰子の葉や帆布によって太陽から守られ、南側をシャラ サビル(Shara Sabil)で取り囲まれた囲まれた路地の迷路であった。これは人々が群れ集まる場所としてはこぢんまりとしていた。訪問者や巡礼はこの町の5つの主要な城門の周囲に群がっているバラバラな宿屋である隊商宿(the caravanserais)に宿泊した。5つの主要な城門とはメッカ門(Bab Mecca)、メディナ門(Bab Medina)、埠頭にあるブント門(Bad El-Bunt at the quay)、シャリフ門(Bab Sharif)およびバブ マドバガ門(Bab Al-Maghribah)である。

 

1930年の大恐慌(the Great Depression)で巡礼は減り始め、ジェッダや国の財政事情は非常に逼迫した。19335月にアブドゥルアジズ(Abdul Aziz)の大蔵大臣であったスライマン(Al Sulaiman)はジェッダでカルフォルニア スタンダード石油会社(the Standard Oil Company of California)との石油利権(an oil concession)に調印した。35,000英国ポンドがソヴリン1ポンド金貨(pound in gold sovereign)でジェッダのテーブルを挟んで支払われた。その5年後に東部州で油が生産を開始し、城塞都市としてのジェッダは過去の物になった。

 

第二次世界大戦終了直後の1940年代には古いジェッダの象徴であった風化した珊瑚礁で作られた城壁は取り払われ、少なくとも水問題は50マイル南の涸れ谷ファティマ(the Wadi Fatima)の中の井戸から300万ガロン/日が給水管で送られる様になり、緩和された。「キンダサ(kindasah)(海水蒸留装置或いは海水凝縮器)の喧騒から我々は救われた」と詩人モハンメド サイド オタイビ(Mohammed Said Otaibi)は開通式典で朗吟した。広い水路を持った港が通関埠頭に代わって作られた。

 

東はヒジャーズ山脈(the Hejaz range)の山や涸れ谷で、南はフラミンゴ(flamingoes)で燃える様な塩湿地(salt-mashes)に遮られていたのでこの市は建設ラッシュをメディナ街道に沿って北の沙漠、塩湿地帯や珊瑚礁へと無計画に不規則な形で拡張して行った。1960年代には市役所による或る程度の規制は行われたが、1973年から1974年での原油価格4倍増での早期の乱暴な開発が再現された。1990年に人口が160万人になると想定し1973年に作成した総合基本計画(the master plan)は町に溢れ込んだ人口増加と新たな富の侵入で無視されてしまった。

 

巡礼と海上交易でジェッダは常に国際都市を意味して来た。1945年までの数百年間、人口は一定して23万人であったが、奥地から近代的な町への移住やこの力強い発展を支えるために暫定的に住む様になった外国人で1971年までには次第に増加して30.5万人となり、1980年までの僅か二世代の間にジェッダはその人口が60倍にも増大し、100万人近くまで急増した。ジェッダ港は国中の建設資材や消費物資の需要に応じる必要があり、超人的な努力を強いられた。1946年に荷揚げされた貨物量がわずか15万トンであったのが1966年には100万トンを越し、1977年には年間800万トン越えた。その後改善はされたが「夜には積み卸しを待つ船の明かりが20マイルにも渡って描地を妖精の光の様に連なった」と云うのはこの頃の話である。又、1971年からの9年間にこの市の車両数は二十倍に増え、一方通行の導入、町と海岸を結ぶ外周幹線の建設、広い駐車場の整備および交通警察の精力的な活動で解消する試みが行われた。

 

もっと深刻だったのはメディナ街道に沿って北へとメッカ街道に沿って東への無計画な拡張で地価は抑制できない程に急騰した。ジェッダの土地の90%は私有されていたのでジェッダ市役所が容認できる土地利用の基準を適用するのは殆ど不可能であった。建築の質は往々にして粗末であり、海岸に近い旧市街が再開発されるのに連れて、ジェッダの古く優雅で精緻な建物の多くは消滅していった。

 

ジェッダは巡礼に心から敬意を払っており、この様な状況にあっても巡礼へのサービスには優先権が与えられ、その対応にはますます洗練した方法が取り入れられてきた。それでも1929年には巡礼を焼く尽くす火事のようなコレラ等の疫病が発生し、通関埠頭での艀代を支払う能力の無い貧しい巡礼は帰途につけず、ジェッダの乞食集団の数を膨らました。ジェッダ市中から15マイル北に建設されたアブドルアジズ王空港(King Abdul Aziz International Airport)の完成で1980年頃にはイスラム圏の全ての地方から空路や海路でジェッダを経て毎年100万人を越える巡礼が到着する様になった。巡礼の数はその後も増え、200712月の断食明けには160万人を越えた。広い場所では8レーンにも達する幾重かの環状高速道路は旧市街の職場と市北方の新興住宅街との間の交通の流れを維持する為に建設された。又、国内を陸路で高速に繋ぐ国有鉄道もリヤドからの延長が現在工事中である。

 

同時に、ヒジャーズ山脈(the Hejaz)の玄武岩(basalt)の山々から涸れ谷を氾濫して流れ下る10年に一度の荒々しい洪水から町を守るために洪水用水路が建設された。給水の問題は今度限りとの願いを託して、日産800万ガロンの造水能力を持つ4基の巨大な脱塩装置が北方の潟に設置された。古い海水蒸留装置或いは海水凝縮器(Kindasah)の残骸はこれがそんなに容易くなかった事を将来に示す為に道路沿いに記念碑として建てられた。

 

新しい家や海岸公園の控えめな散策場所での来客と家族の断固とした空間分離を反映して社会生活は高度成長(the boom)の間も非常に安定していたけれども、「城壁で囲まれた古い家々を小さな通りが結び、所々には象徴的にモスクに付随するミナレット(光塔)が聳える」と云う町の印象は変わってしまった。住宅に悪い影響を及ぼす湿度、海風の塩分と陸風の砂、住宅の沈下や崩壊の原因となる細かい土壌と高い水位に対応する為の珊瑚礁の塊をチーク材の梁で繋げる工夫や目立つ切り込みを入れ、女性が通りで何が起きているが見られるようにしたインドやジャワのチーク材で作られた複雑な格子細工とラワシン(rawashin)(張り出し窓(bow-window))等の独特の職人芸の伝統も失われてしまった。この為、ジェッダ市はモスク、キャラバンサライ、壮大な商人の館、狭い労働者の住宅群、玄関口・窓・屋根の狭間付き胸壁等に特異で特徴のある形が維持されている建物等で建築学的そして歴史的に重要な537軒を伝統的建物として保存目録に掲載し、厳重な規則で付近の新しい建物はこれらの伝統的建物に外観を適合させ、歴史的建物の一部を材料として使う事を強制している。

 

1920年代までジェッダには今での残っているアラウィ地区(Shara Al Alawi)のナッシフ舘(Nassif House)の外に立っている一本以外に樹木がなかったが、ジェッダの常に苛酷な気候はでも凌げる木陰を作れるように今では町の周囲をインドセンダイ(neem tree)、黄金のモフール(gold mohur)およびジャカランダ樹(jacaranda)、セイヨウキョウチクトウ(oleander)とエダウチヤシ(doum palm)800万本余りの樹木で植樹されている。更に市は以前、空き地であった30を越える場所を公園用地に収用し、塩性に強く水の殆ど要らないサボテン(cacti)、多肉植物(succulent)と沙漠の草を混合させ、日陰を作っている。

 

海岸公園(corniche)計画で新鮮な空気を取り込める様に、どの公園もすべての工場の移設も町の風下としなかった。知られている様に少なくとも1990年代まで半分近くの人口が子供であり、市は20マイルを越える海岸線を余暇施設の為に占有した。市の北15マイルのオブホール入江(Obhor Creek)からずっと南のアスワド岬(Ras Al-Aswad)まで市街地を越え、港、製油所、その他で占有された地域を除いて、20マイルの海岸線は北の潟でのマリーンスポーツ施設を始め、単にピクニックの為に整備された余暇施設に占有された。海を決定的に市の核心部分に取り入れる為の道路、散策路、駐車場、樹木記念碑を整備され、彫像、記念碑や噴水を町や海岸公園(corniche)に張り出し窓の格子細工の最高の壮麗さ(rawashin)を感じさせる創作的特徴を持つ作品が展示されている。



 

ジェッダはサウジアラビア国内では市役所や町役場にとって今では一般的な事業となっている緑化整備や海岸公園(corniche)の整備の模範の一つと成っていた。千年にも及ぶ交易の歴史に基づく伝統はこの市の人々に深く根付いており、アラビア半島での主要な商業の中心という地位はますます大きくなっている。近代化されたジェッダには中東エマアル社(Emaar Middle East)やファリシ社(Al Farsi)等の力強く発展している複合企業が本社を連ねるビシネス街であるアブドッラ王通り(King Abdullah Street)やパリのシャンゼリゼの様に有名ファッションブランドの店が並ぶ、サウジアラビアの豊かさの象徴であり、中東随一のショッピング街であるタハリア通り(Tahlia Street)等の地区が並び、海からの眺めと市街の眺め、近代の中での伝統、きらびやかさの中での落ち着いた優雅さ、市街の大通りや小路等、ある時は実用的に有る時は美的に新旧取り混ぜて多様である。この様な対照にもかかわらず、ジェッダはアラビアの伝統を守っており、周囲の照りつけられた黄灰色に対して生き生きとした緑を作り出している。

 

ジェッダはサウジアラビアが誇る、堂々とした近代的な主要都市であり、特に国王通り(Al Malek Road)やスルタン通り(Sultan Street)沿いには素晴らしい住宅、ビルや宮殿があり、主要な通りの中央やロータリには様々な彫像や記念碑が建てられている。その中には現代のヘンリー ムアー(Henry Moore)やホアン ミロ(Joan MIró)の様な著名な芸術家の作品も少なくない。聖なる都市メッカへの門戸である港と云う歴史的な役割を果たして来たにもかかわらず、ジェッダは千年を越える巡礼の出入りでアフリア、中央アジア、東南アジア、ヨーロッパ、インド等様々な国々の人達がジェッダに残り、単一民族で宗教的な戒律の厳しいサウジアラビア国内では最も自由で国際的な町である。この様な伝統的な多様性がオイルブームの半世紀の間に飛躍的に増加した外国人労働者にとって住み易い町である事も手伝い、ジェッダの人口は2007年には340万人にまで増加した。

 

オイルブームが現在も続いており、1986年の中頃から199082日のイラクのクウェイト占領を除いて、2000年まで原油価格はほぼバレル15ドルから20ドルで安定していたが、特に2003320日の米国のイラク侵攻以降は急激に上昇を続け、2008422日にはバレル当たり119.90ドルの最高値をつけ、原油不足と米ドル下落と云う国際情勢の中、さらに値上がりする勢いをみせている。既に代替えエネルギー調達コストを超す高値と成っているので長期的にこれ以上の値上がりは期待できないものの、新興国の発展による資源不足を考えると値下がりする可能性も少ない。

 

当面はサウアジアラビアの歳入が莫大に増え、2006年から始ったジェッダ国際空港の拡張事業等それに伴う投資もジェッダにも向けられるのは自明である。その上、21世紀に入ってそれまで余り開発が進んでなかった紅海岸では20075月に定礎式が行われたアカバ湾(the Gulf of Aqabah)のフマイド岬とシャルム エル シェイクの間(Ras Humaid in Tabuk with Sharm El-Sheikh in Egypt)のコーズウェイ(causeway)建設、ヤンブー第2工業都市新設(the Yanbu 2 Industrial City)、ラビグ(Rabigh)の製油・石油化学コンプレックス(PetroRabigh)新設とラビグ経済都市建設、シャイバ(Shuaiba)の造水・発電施設拡張(the Shuaiba-III desalination project)、ジザン(Jizan)の工業化(鉄鋼工場等)と経済都市建設に加え、サウジアラビア鉄道網(Saudi Landbridge)の一部であるリヤドージェッダ間(950 km between Riyadh and Jeddah and another 115-km line between Dammam and Jubail)およびジェッダーメディナ(MakkahRabigh & Madinah Rail Link 500km)の鉄道建設が2008年には始まる予定であり、2008419日には1966年に合意したヒジャーズ鉄道(The Hijaz Railway)再建復活がサウジアラビア、シリアおよびヨルダンの間で確認された。さらに、現在、検討中の紅海岸での南北への鉄道網拡張(2 more railway lines linking Jeddah & Jizan as well as Taif & Khamis Mushayt)が実現すれば、これまで懸案であったサウジアラビア西部に埋蔵する鉱山資源の採算性は大きく向上するので製錬を含む鉱山関連の開発にも期待ができる。このように紅海岸の中心であるジェッダはそれ自身の商業の拡大は勿論、紅海沿岸の中核都市としての経済的発展の可能性は更に大きな現実に成ってきている。

 

(注)ジェッダ国際空港(King Abdul Aziz International Airport.)の拡張事業

 

   拡張事業は増大する旅客数の増大に対応し、紅海地域のハブ(Regional hub)空港として機能する為に高速連絡鉄道で結ばれた4棟の新ターミナルビルを増設し、最終的に年間8,000万人の旅客収容能力を確保する事を目的とする。改造は3期に分けて行われ第一期工事は5年以内に完成する。

 

第一期工事では年間受け入れ旅客数を現在の1,300万人から3,000万人に増やす様に設計される。この拡張工事には

-          Airfield hard standing and paved areas

-          照明(Lighting)

-          燃料網(Fuel network system)

-          洪水排水網(Storm water drainage network)

-          役務用ビル(Support services building)

-          既存南北ターミナルの改修

-          既存滑走路および空域システム(Airfield system)のエアバスA380対応への増強

-           

第二期工事では年間旅客受け入れ能力を3,000万人から6,000万人、第三期工事では最終的に8,000万人増強される。現在の旅客数の増加に対応する為には既存の南ターミナルは今後20年間に年間旅客受け入れ能力を2,600万人に増やす必要がある。更に2005年の巡礼期間(33日間)に350万人の一般旅客と100万人の巡礼客を受けいれており、この空港は巡礼(Haj or Pilgrim)とウムラ(Umrah)の為の旅客受け入れ施設を設ける必要があり、王家ターミナルを含めた未来志向の巡礼専用空港の新設が検討されている。


(注)ヒジャーズ鉄道
(Hejaz railway)

オスマン帝国によって建設されたヒジャーズ鉄道(Hejaz railway)は、シリアのダマスカスから現在のサウジアラビアの聖地マディーナ(メディナ)までの区間を、シリア、ヨルダンおよびアラビア半島西部のヒジャーズ地方を縦断して連絡した鉄道である。総延長は1,308km、軌間は1,050mmで、オスマン帝国の鉄道網の一部をなしており、当初の計画では聖地メッカを終着駅にしていた。その敷設目的は、ムスリムたちの聖地であるマッカやマディーナへ向かうハッジ(大巡礼)の巡礼者たちの交通のためだとされたが、真の目的は、オスマン帝国の宗教に対する支配やヒジャーズ地方に対する軍事支配を強め、またダマスカスとヒジャーズ地方との交易を強化しようとしたことであるとも考えられる。鉄道は1900に建設開始され、1908 91日にメディナまで完成し多くの巡礼や兵士を南へ運んだが、トルコの列車は第一次世界大戦時の1917329日にアブ ナアム(Abu Naam)と同年45日にムダラジ(Muduraj)の北でローレンス(T.E. Lawrence)とイギリスの支援を受けたアラブ勢力の待ち伏せにあい、破壊され、路線のほとんどは以後再建されることはなかった。

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後書き

 

イタリア人地質学者アンジェロ ペセ博士が著作の「ジッダ(或るアラビアの町の描写)」は「海のシルクロード」の1つの大きな分岐である紅海とインドとの間の交易を中心にジッダを紹介している。「シルクロード」の呼び名は東西交易路を中国で「絹織物の道」すなはち「絲綢之路(Sī chóu zhī lù)」と名付けて来ている事に由来しているが西洋人は「海のシルクロード」を「香辛料交易路(the Spice Trade Route)」と呼んでいる。この本の巻頭言を書いたフリーヤ ハルク(Freya Hark)氏等は「この本はインドの港から広がる香辛料交易路は遙か遠くアフリカ沿岸へと展開し、不思議で魅力的な広大な展望を開いた。セオフラストス(Theophrastus)の様なギリシャ人が残した迷走の記録はローマ帝国時代にもっと組織的な航海術を発展させた。古代エジプト人がその航海術を利用して西方での損害を埋め合わせていた東方貿易についてはこれまで余り伝えて居なかった。この本はその東方貿易に鮮明さを持たせて紹介している」と述べている。

 

ポルトガル人によって喜望峰周りの航路が発見されるまではアラビア人による紅海とインドとの間の交易はかなり平和な状態に保たれていた。ポルトガル人が残虐な方法でアラビア人のこの交易での寡占を打ち崩した。それだけでは無く、オランダ、フランスおよびイギリスのよる喜望峰まわりの大西洋航路の優越がそれに続いた。これは断続的な流血も伴った近代社会での東西交易移行の過程ではある。その一方でジェッダはイブの墓と共に取り残されたものの、他方では紅海交易はまだまだ健在な状態に保たれていた。

 

この様な悠久な東西交易の中継港としのジェッダをアンジェロ ペセ博士は付録-1付録-2に掲載する膨大な文献資料を基づき、「古代の西アラビア」、「古代のアラビア地理学文献に記述されたジッダ」、「11世紀から19世紀の旅行者や探検家が記述したジッダ」、「歴史的背景」、「現在のジェッダ」に分けて記述している。これらは「1-1 中継港ジェッダの紹介」に続き、順次ご紹介させて戴きたい。一覧表にするだけでも膨大で、しかも先に述べた様な様々な言語の文献・資料を咀嚼してこの本を執筆されたアンジェロ ペセ博士の努力にはただただ深い敬意を払うのみであるが、それらを通じても「如何に多くの西洋人がアラビアに関心を持って探検・旅行していたか」が改めて良く分かる。

 

(注「付録-1」の一覧表は文中で直接引用された書籍・資料で「付録-2」はアンジェロ ペセ博士はこの本を記述する背景を把握する為に参考にした書籍・資料である。

 

この本の初版が出版されたのは1974年であるのでアンジェロ ペセ博士が執筆していたのは第一次石油ショックのあった1973年或いはそれ以前であり、同博士が名付けた「現在のジェッダ」の章は今では「近代のジェッタ」と呼ぶ方が相応しいように思える。

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参照資料

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付録-1 引用文献図書目録

 

脚注および本文で引用した参考文献をここに掲載する。これらの参考文献は脚注や例外的に本文中で直接引用している文脈上の事柄として引用されている。

 

「アイヤシの旅の印象記」: 17世紀後半のモロッコ人の巡礼はアイヤシリラ フェズ(Al-Ayyashi Rihla Fez)の印象記は1898年に出版された(Al-Ayyashi Rihla Fez 1316H or 1898A.D.)

 

「アジアのポルトガル(Asia Portuguesa)」: マヌエル ファリア ソウサ著、1666 - 1674年にリスボンで出版(MANUEL DE FARIIA Y SOUSA Asia Portuguesa Lisboa 1666 - 1674.)。

 

「アデル国とショア王国へ向かう途上の紅海東洋岸の航海」: ロシェ デリクール(Rochet d'Héricourt) 著、1841年パリで出版(ROCHET D'HÈRICOURT, C.E.X  Voyage sur la côte orientale de la mer Rouge, dans le pays d'Adel et le Royaume de la Choa Paris 1841.)

 

「アデル国とショア王国へ向かう途上の紅海両岸の航海」: ロシェ デリクール(Rochet d'Héricourt) 著、1846年パリで出版(ROCHET D'HÈRICOURT, C.E.X. Voyage sur les deux rives de la mer Rouge, dans le pays d'Adel et le Royaume de la Choa Paris 1846. )

 

「アフォンソ ダルボケルケの戦記」: (the Commentaries of Afonso d'Alboquerque)、同書第IV34 - 35(op. cit., t. IV, p. 34 - 35)からジッダに城塞がめぐらされたのは(Jiddah circumvallation) フサイン クルディ(Husayn al-Kurdi) がインド遠征(Indian campaign)から戻って来てからであるのが分かる。

 

「アブド エル ワヒドによるメッカ巡礼」: リチャード フランシス バートン卿 (Sir Richard Francis Burton)著で1893年ロンドンで出版された「メディアおよびメッカへの個人的巡礼記(記念版)」の付属書VIIBURTON, R.F. A Personal Narrative of a Pligrimage to al-Madinah and Meccah (Memorial Edition). London 1893. Appendix VIII. The mecca Pligrimage by El Ha abd El Wahid.)

 

「アブルフィダ(Prince Abu'lfida)の地理」: アブルフィダ(Prince Abu'lfida)著の「タクウィム アル-ブルダン(国々の描写)(Takwin al-Buldan)」をM. レノー(M. Reinaud)が翻訳・編集し、アブルフィダ(Prince Abu'lfida)の地理」と云う題名で1848年にパリで出版した(Géographie d'Abu'l Feda tr. and ed. by M. Reinaud. Paris.)

 

「アビシニアの生活(Life of Abyssinia)」: 1853年にロンドンで出版され、著者は無名であったが、マンスフィールド パーキンス(Mansfiled Parkins)であるのがわかった。たまたま、パーキンス(Parkins)は異なる港から輸入される商品の年間取り扱い額のみを記載した集計表を翻訳しており、往時の貴重な資料を提供している。

 

「アビシニアでの任務について」: ロールフス(Gerhard Rohlfs)著、1883年ライプチッヒで出版(ROHLFS, G. Meine Mission nach Abessinien Leipzig 1883.)

 

「アビシニアでのフェレとガリニエの旅行」: 1847年にパリで出版(FERRET - GALINIER Voyage en Abyssinie Paris 1847)、この本の何処にもフェレの頭文字が記録されて居ない( ch. X. Nowhere in the book are Ferret's initials recorded.)

 

「アビシニアと紅海での或る任務」: スタニスラフ ラッセル(Stanislas Russel)陸軍少佐著、1884年パリで出版(RUSSEL, S. Une Mission en Abyssinie et dans la Mer Rouge Paris 1884.)

 

「アフリカの全般的記述(モハメット教の創設から1571年までの戦争と盛衰について)」:(Descripción general de Africa, sus guerras y vicisitudes, desde la fundación del Mahometismo el aňo 1571 )、ルイス デル マルモル カルヴァハル(Luis del Mármol Carvajal)著、1573年からに1599年までにグラバダ(Granada) とマラガ(Málaga)で出版。

 

「アラビア横断旅行記」: ジョージ ファースター サドラー大尉(Captain George Forster Sadleir)の旅行記のもっと完全な形は「アラビア横断旅行記」と言う題名で1866年にP. ライアン バイカラ編集し、本の形で出版されている(A more complete edition was published later in book form. The title is Diary of Journey across Arabia... ed. by P. Ryan. Byculla 1866.)

 

「アラビア海岸を巡って(Around the Courts of Arabia)」: アミーン リハニ(Ameen Rihani)著、1930年ロンドンで出版。

 

「アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta」:英国の作家・旅行家(1843 - 1926)チャールズ モンタギュー ダウティ(Charles Montague Doughty)著、1926年にロンドンで出版(但し、初版は1888年)(DOUGHTY, C.M. Travels in Arabia Deserta London 1926. )

 

「アラビアの侵攻(the Penetration of Arabia)」: ダヴィド ジョージ ホガース(David George Hogarth)著、1904年にロンドンで出版。

 

「アラビアでの航海(ヒジャーズ滞在とアシールでの戦闘)」: モーリス タミシエ(Maurice O, Tamisier)著、1840年パリで出版(TAMISIER, M.O. Voyage en Arabie. Sèjour dans le Hedjaz. Campagne d'Assir Paris 1840.)

 

「アラビアの心(The heart of Arabia)」: フィルビー(H.St. John B. Philby)著、1922年ロンドンで出版された。

 

「アラビアの沙漠に関して(Concerning Arabia Deserta)」: ボローニャ(Bolognese)出身の冒険家ロドヴィコ ヴァルテマ(Lodovico de Varthema)の「1502年から1508年までの旅行記(the Itinerary)」の第二章を参照。

 

「アラビアの旅(Travels in Arabia)」: ジェームス R. ウエルステッド中尉(Lieut. James R. Wellsted)著、1838年ロンドンで出版(Travels in Arabia by Lieut. James R. Wellsted, London 1838, t. II, P. 264 - 290.)、ジッダに関する記述は同書第II264 - 290頁の「紅海の海岸と交易の包括的記述」を参照。

 

「アラビア半島(Arabian Peninsula)」: サンガー(R.H. Sanger)著、1954年ニューヨークで出版。(同書の2-3頁にジッダの城壁の取り壊しについて述べられている)。

 

「アラビアのヒジャーズ地方の旅(Travels in The Hedjaz of Arabia)」: ブルクハルト(Johana Ludwig Burckhardt)著、1829年ロンドンで出版。

 

「アラビアのフェリックス(Arabia Felix)」: デンマークの1761年から1767年も遠征について記述「カルステン ニーブール(Carsten Niebuhr)とその仲間の冒険と業績」の完全な英訳は「アラビアのフェリックス(Arabia Felix)」との題され、H. ソールキルド(H. Thorkild)によってロンドン(London)1964年に出版された。

 

「アラビア旅行日誌(Journal d'un voyage en Arabie)(1883-1884)」: シャルル ユベール(Charles Huber)はその死後の1891年にパリで出版された (HUBER, C. Journal d'un voyage en Arabie (1883 - 1884) Paris 1891, p. 754 - 757. Huber was entered in the Jiddah European Cemetery.)

 

「アラビアの旅行記(ヒジャーズとアシールでの滞在)」: (Voyage an Arabie. Séjour dans le Hedjaz. Campagne D'Assir Paris 1840. )、モーリス タミシエ(Maurice O, Tamisier)著、1840年パリで発行。

 

「アラビアの歴史的地理 (the Histrocal Geography of Arabia) 」: フォースター(Forster)著。

 

「アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab)」: アル-ハムダニ(al-Hamdani)の著作「アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab)(Description of the Island of the Arabs)」、この国は三方を海に囲まれ、北部はユーフラテス川 (Euphrates river) と地中海 (the Mediterranean sea) が国境であったので、アラブ族はこの国をJazirat al-Arab すなはち「アラブ族の島(Island of the Arabs)」と呼んでいた。

 

「アラブ族の島(Island of the Arabs)」のD.H. ミュラーの翻訳版: アル-ハムダニ(al-Hamdani)の著作「アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab)」をD.H. ミュラー(D.H. Müller)が翻訳・編集し、1884年から1891年にかけてライデン(Leyden)で出版した(Al Hamdanis Geographie der Arabischen Halbinsel ed. by D.H. Müller, ライデンLeyden 1884 - 1891.)

 

「アラムコハンドブック」: ダハランで修正・編集の後に1968年に出版( Aramco Hand book Revised ed/, Dhahran 1968.)

 

「アリ ベイ(Ali Bey)1803年から1807年の間の旅行記」: ドミンゴ バディア レブリシュ(Domingo Badía y Leblich)著、「アリ ベイ(Ali Bey)のモロッコ、トリポリ、サイプロス、エジプト、シリア及びトルコにおける1803年から1807年の間の旅行記(Travels of Ali Bey in Morocco, Tripoli, Cyprus, Egypt, Arabia, Syria and Turkey between the Years 1803 and 1807)」は1816年ロンドンで出版された。原文はフランス語であり、1814年にパリで出版されている(The title of the original edition was Ali Bey Voyages en Aftique et en Asie, pendant les années 1803 à1807. Paris 1814.)。英語版はウェストミードで1870年に再版された(The English edition has been reissued in Westmead, 1870.)

 

「暗黒大陸横断記」: アメリカの探検家(スタンリー(Henry Morton Stanley 1841 - 1904)の著作。

 

「イスタハリ版国々の描写」: (Viiae Regnorum. Descriptio Ditionis Moslemicae - Auctore Abu Ishak al-Farisi al -Istakhri)M. J. ジョエジュ(M. J. de Goeje.)編集1927年ライデン(Leyden)で出版。

 

「イスラム以前のアラビア史の研究」: (Etudes sur I'histoire des Arabes avant I'Islamisme)1840年当時のフランスのジェッダ領事でアジア ジャーナル(Journal Asiatique)にも記事を載せている東洋通のフルジャンス フレネル(Fulgence Fresnel)が著作し、1836年にパリ(Paris)で出版された(Paris 1836)」。

 

「偽りの旅人と東洋旅行の物語(Travelers in Disguise - Narratives of Eastern Travel)」:  ポッジョ ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini)とリドヴィコ ヴァルセマ(Lidovico de Varthema)の著述はハクルート(Hakluyt)協会のジョン ウィンター ジョーンズ(John Winter Jones)が翻訳し、「偽りの旅人と東洋旅行の物語(Travelers in Disguise - Narratives of Eastern Travel)」との題名でL.D. ハモンド(L.D. Hammond)の紹介を付け、1963年にケンブリッジ(Cambridge, Mass)で出版された。その本の24頁にジッダ通過の最も貧弱な記述が掲載されている。

 

「イドリーシーの地理(Géographie d'Edrisi)」: キタブ アル-ルジャリ(Kitab al-Rujari)(ロジャーの本)或いはヌザト アル-ムシャタグ フィ イクティラク アル アファク((Nuzhat al-Mushtaq fi Ikhtiraq al-Afaq))(世界の様々な地方を放浪しようとする者達の喜び)と名付けられた中世における最も偉大なイスラムの宇宙構造論学者であったイドリーシー (Idrisi)(およそ西暦1098 - 1156年)の著作で、「イドリーシーの地理(Géographie d'Edrisi)」としてA. ジョブール(A. Jaubert)によって翻訳・編集され、1836 - 1840年パリで出版さている(Géographie d'Edrisi tr. and ed. by A. Jaubert, Paris 1836 - 1840.)

 

「イブン カッリカン伝記」(the biography of Ibn Qalaqis): 「イブン カッリカン(Ibn Khallikan)伝記」の中の「ワファヤ アヤンとアンバ アブナ ザマン(Wafayat al-ayan wa anba abna az-zaman) in the biography of Ibn Qalaqis」はヴェステンフェルド(F. Wüstenfeld )により編集され、1835 - 1842年にゲティンゲン(Göttingen)で出版された。又、M. ナリノ(M. Nallino)が編集し1939年にローマ(Rome)で出版した「サウジ家のアラビア(L'Arabia Saudina)」の中にも引用されている。

 

「イブン ジュバイルの旅行記」: イブン ジュバイル(Ibn Jubayr)著の「イブン ジュバイルの旅行記」はブロードハースト(R.JC. Broadhurst)が翻訳し、1952年ロンドンで出版されている。

 

「イブン バットゥータ放浪の物語」: ムハンマド イブン ジュザイ(Muhammad ibn Juzay)によって記録され、ジュザイはバットゥータの記念碑的な業績を「このシャイク(Shaykh)は我々の時代の旅行者であり、イスラム域全ての旅行者と呼んでも真実を逸脱してはいない」との言葉で結んでいる。

 

「イブン バットゥータの旅行記(The Travel of Ibn Battuta 1325-1354)」: ハクルート協会U.A.R. ギブ(H.AR. Gibb (Hakluyt Society))が翻訳・編集し、1958年からケンブリッジ(Cambridge)で出版されたが、1973年までに4巻内の最初の3巻発行されたのみである (Tr. and ed. by U.A.R. Gibb (Hakluyt Society). Cambridge 1958-19. Four volume edition. Up to 1973 only the first three volumes have been issued)

 

「インドでの冒険事業(Enterprises of India)」: ギャスパー コリア(Gaspar Correa)著の原作はポルトガル語(Lendas da India)で、その題名の翻訳には「インドでの冒険事業(Enterprises of India)」と「インドの説話集(Legends of India)」と二通りの説があるが私は内容から冒険事業と解釈している。

 

「インドのコーチンに至る紅海およびペルシア湾の航海術について」: (Navigation in the Rea Sea and the Persian Gulf up to Cochin City of India)、フロレンス(Florence)のアンドレア コルサリ(Andrea Corsali)から最も高名な皇族でシニョール(Signor)首長でもあるロレンゾ メディチ公(the Most Illustrious Prince and Lord the Signor Duke Lorrenzo de' Meddici)宛に1517918日に書かれた手紙でラムシオ(G.B. Ramusio)著の「主要な航海の収録(Delle navizazioni et Viaggi Venezia)」に収録されている。

 

「インドのポルトガル人(The Portuguese in Indea)」: ダンヴァーズ(Danvers, F.C.)著、ロンドン(Lodon)1894年に出版された。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「同書には1510年代にアルボケルケがマニュエル国王宛てに出した手紙の一つが掲載されているが、ダンヴァーズ(Danvers)が残した日付は一般的年代記やその後のアルボケルケ(Alboquerque)の行動の続きと一致しない。ダンヴァーズはその出典を決して引用しないし、幾つかの例で明確な間違いが見られるので、ダンヴァーズの日付は正しくないと想像できる」と述べている。

 

「ヴァスコ ガマのアラビア人水先案内人と15世紀アラビアの航海手引き書」: (Le pilote arabe de Vasco de Gama et les instructions nautique des Arabes au XV)、フェラーンド(G. Ferrand)著、1922年に出版された地理年代記172(Annales de Géographie)に掲載。

 

「ヴァスコ ガマ の第一航海の日誌」: (A Journal of the First Voyage of Vasco da Gama)」ヴァスコ ガマ の第一航海に参加した無名の士官によって記録され、雑誌ロテイロ(the Roteiro)に掲載され記事をハクリート協会(Hakluyt Society)のレーヴンステイン(E. G. Ravenstein)が翻訳・編集し、1898年にLondonで出版 した。

 

「ヴァスコ ガマの三回の航海と副王」: (The three Voyages of Vasco da Gama and his Viceroyalty)1858年から1864年の間にリスボン科学学会に出版され、ヴァスコ ガマのインド航路横断についてギャスパー コリア(Gaspar Correa)が記述した「インドでの冒険事業(Enterprises of India)或いはインドの説話集(Legends of India)」をハクリート協会(Hakluyt Society)に属していたスタンリー(Henry.E.J. Stanley)がポルトガル語を翻訳し、註釈と緒言を付けて「ヴァスコ ガマの三回の航海と副王」と題して、ロンドン(London)1896年に出版した。

 

「ヴァレンシア卿(Lord Valentia)による1809年の出版」: 1802年から1806年のインド、セイロン、紅海、アブシニア及びエジプトへの航海・旅行記」マウント ノリス伯爵ジョージ アンスレイの嗣子ヴァレンシア(George Annesley, Earl of Mount Norris, Viscount Valentia)著、1809年ロンドンで出版(Voyages and Travels to India, Ceylon, the Red Sea, Abysinia and Egypt in the Years 1802, 1803, 1804, 1805 and 1806, by George, Viscount Valentia, London 1809.)

 

「ウィーン王立図書館所蔵のアラビア、ペルシャおよびトルコの古文書」: (see: FLÜGEL, G. "Die Arabischen, Persischen und Turkischen Handschriften der K.K. Hofbibliothek zu Wien" Wien 1856)」、G. フリューゲル著、1856年ウィーンで出版。

 

「ウスルジーアダス(Os LusÍadas)」: (Lusiadus) (the Lusiads)、ポルトガルの詩人ルイズ ヴァズ カモンイス(LUIS VAZ DE CAMŌES) (Camoënes)1524-1580)が1572年にインド航路の発見やヴァスコ ガマ(Vasco da Gama)の第一回遠征を中心にポルトガル人航海者の冒険を物語った愛国的な大叙事詩。

 

「ヴェテリス イーヴィ アナレクタ(Veteris Aevi Analecta)」: アントニウス マッテウス(Antonius Mattaeus)著、ハーグ(Hague)1738年に出版された。「(Veteris Aevi Analecta)」の中でアントニウス マッテウス(Antonius Mattaeus)は「紅海の旅行記(the Red Sea itineraries)」に言及している。

 

「英国領事(Jago)1883年のジェダの交易と商業に関する報告書」: この報告書は商工業等に対する女王陛下の領事からの報告の第312番に掲載されている(Reported by consul Jago on the trade and commerce of Jeddah for the year of 1883in Reports from Her Majesty's consuls on the manufactures, commerce, etc. Part III. No.12)

 

「エチオピアへのポルトガルの1520年外交使節団の物語」: (A Narrative of the Portuguese Embassy to Ethiopia in 1520)、プレスター ジョンの領土の真の関係(A True Relation of the Lands of the Prester John)についてのアルヴァレス神父(Alvarez)著書。「同書は1881年オールダーリー(Alderley)のスタンリー卿(Lord Stanley)が翻訳し、ケンブリッジ(Cambridge)のハクルート協会(Hakluyt Society)のベッキングハム(C.F. Beckingham)およびフンティングフォード(G.W.B. Huntingford)による追加資料を加えた改訂・編集版が1961年に出版されている。

 

エリュトゥラー海に関する論文(A Treatise on the Erythraean Sea)」: アガサルチデス(Agatharchides) (紀元前170 -100年)著の同書は第1巻と第5巻からの広範囲な抜粋を除いて今では不幸にも全て失われてしまっている。短い断片は小アジアの古都で世界七不思議の一つアルテミス (Artemis) の所在地であったエフェソス (Ephesus) についてアルセミドルス (Arthemidorus) が紀元前104年頃 (circa 104 B.C.) 記述した文章の中に見つけられる。もっと広範囲にわたってはディオドロス シクロス (Diodorus Siculus) の文章の中での引用やフォティオス (Photius) の文章の中に見つけられる。

 

エリュトゥラー海航海記(Periplus of the Erytheraean Sea)」: 「ペリプルス マリス エリスラエイ(Periplus Maris Erythraei)」と呼ばれる西暦1世紀の後半に書かれたエジプトからザンジバルに至るアフリカ海岸、アラビアおよびインドからセイロンの作者不明の航海録である。スコフ(W.H. Schoff)がギリシャ語から翻訳し、注釈を付け、1921年ニューヨークで出版している。

 

L. マロルの旅行記」: L. マロル(L. de Marol)の旅行記にはジッダ(Jidda)に関する記述を含んでいる。

 
王の人生と偉業(Da Vida e Feitos de el-Rey)」: ジェロニモ オソリオ (D. Manuel de Gerónimo Osório)が著作した初版本は1571年に出版された。同書は後にフェレイラ ポルト(J. Ferreira. Pôrto)によって編集され、1944年に再出版された(ed. by J. Ferreira. Pôrto 1944.)。

 

「回教徒の風習と習慣(Moeurs et coutumes des Musulmans)」: アフリカ探検家ゴーティエ(E.F. Gauthier)が著述し、1931年パリで出版された。

 

「金持ち王マニュエルの年代記」: ポルトガルの歴史家ダミアン ゴイス(Damião de Gofs)1566年に初版本出版、復刻版はコインブラで1949 - 1955年に出版された(Crónica do Felicíssimo Rei D. Manuel composta por Damião de Gois Nova edição conforme a primeira de 1566. Coimbra 1949 - 1955.)」。

 

「キタブ アル−マサリク ワ’ル-ママリク」: [道路と王国の本(Kitab al-Masalik wa'l-Mamalik (Book of the Roads and Kingdoms))」はイブン コールダドビ (Ibn Khordadbih820 - 912)によってアッバース朝の王子の為に西暦846年に編纂され、イスラム帝国の偉大な交易路の興味ある概要を含んでいた。

 

「キタブ ムジャム アル-ブルダン (Kitab mujam al-buldan)」: ヤクト(Yakut)著の「地理学辞書 (Geographic Dictionary)」は自然現象の価値のある記録を含み、真剣な事実に関する内容豊かで詳細な研究であり、場所の名前を地理的な位置にかかわり無く、アルファベット順に一覧表にされている。

 

「喜望峰岬等を往復航海する為の心得書」: 「東インド諸島、中国、新オランダ、喜望峰岬等を往復航海する為の心得書」、ジェームス ホルスバーグ(James Horsburgh)著、1809 - 11年にロンドンで出版」(Directions for sailing to and from East Indies, China, New Holland, Cape of Good Hope, etc. by James Horsburgh, London, 1809 - 11.)

 

「ギリシャとローマの地理辞典 (a Dictionary of Greek and Roman Geography) 」: W. スミス (W. Smith)によって(1873 -1878)にロンドンで編集された。

 

「国々の知識の為の最適な一文(The fairest division for knowledge of Countries)」: アル-マクディシ(al-Makdisi)著書でモスレム帝国について論じている。正確に百科辞典的に驚くほど最新の手法で論じている。アル-マクディシの著書の徹底的に系統的な正確さが、時代を越えて、アル-マクディシをアラビア地理学者の最も主要な人物として位置つけている。 

 

「国々の本(Book of the Countries)」: ヤクビ (Yakubi)著の「キタブ アル-ブルダン(Kitab al-Buldan)(国々の本)」はウィト(G. Wiet)が翻訳し1937年にカイロで出版されている。(Yakubi Les Pays tr. by G. Wiet. Cairo 1937)

 

「ゴアからスエズすなわち紅海への航海日誌」: 1541年)(Roteiro de Goa a Suez ou do Mar Roxo )1541年に「ジョアン カストロ航海日誌第III(Roteiros de D. João de Castro - III)」として作成され、初版はニュエス カルヴァルホ(A. Nunes de Carvalho)によって、1833年にパリで出版された。さらに1940年にはフォントウラ コスタ(A. Fontoura da Costa)編集でリスボンで出版された(ed. by A. Fontoura da Costa. Lisboa 1940.)

 

「紅海航海日誌(Red Sea Roteiro)」: 1541年、ジョアン カストロ(Joān de Castro)著。

 

「紅海とアデン湾の水先案内(Red Sea and Gulf of Aden Pilot)」: 「海軍の水路測量(Hydrographer)」イングランド南西部サマセット(Somerset)州トートン(Taunton)1967年に出版、1971年に増補付きで再版。

 

「紅海とアビシニア」: デニ ドゥ リボワール(Denis de Rivoyre)著、1880年パリで出版(DE REVOYRE, D. Mer Rouge et Abyssinie Paris 1880.)

 

「紅海とアビシニアの交易に関する注意」: (Notice sur le commerce de la Mer Rouge et de I'Abyssinie)はセオフィル ルフェーヴル(Thèophile Lefebvre)著、1845 - 1851年にパリで出版された「1839年から1843年のアビシニア旅行」(LEFEBVRE, T. Voyage en Abyssinie executé pendant les années 1839 - 1843. Paris s.d. [1845 - 1851].)の第II(in Appendixs to t. II.)の付属書である。

 

「紅海の旅行記」: (the Red Sea itineraries) (Descriptio Maris Rubri)、ルイス デル マルモル カルヴァハル(Luis del Mármol Carvajal)著の「アフリカの全般的記述(モハメット教の創設から1571年までの戦争と盛衰について)(Descripción general de Africa, sus guerras y vicisitudes, desde la fundación del Mahometismo el aňo 1571)」をアントニウス マッテウス(Antonius Mattaeus)は要約し、「紅海の旅行記(the Red Sea itineraries)」と云う題でラテン語(Latin)に翻訳し、1738年にハーグ(Hague)で出版した.(Veteris Aevi Analecta)」の中で言及している。

 

「コジャ アブドル カリム(Khoja Abdul Karim)の航海の記録の英訳」: ペルシャ語からF. グラドウィン(F. Gladwin)によって英訳され、カルカッタ(Cakcutta)1783年に出版された(The Memoirs of Khojeh Abdul-Kurreem tr. from the original Persian by F. Gladwin. Calcutta 1783)

 

「コジャ アブドル カリム(Khoja Abdul Karim)の航海の記録の仏訳」: L. ラングレによって翻訳され、1709年にパリで「旅の逸話の収集」として出版 ((a récit de voyage) ABDUL KERYM Voyage de I'Inde à la Merque tr. by L. Langlè. Collection Portative des Voyages, Vol 1, Paris 1797.)

 

「サウジアラビアの教育(Education in Saudi Arabia)」: アブデル ワハブ アブデル ワシイ(Abdel Wahab Abdel Wassie) 著、ベイジングストーク(Basingstoke)1970年にハウンドミルズ社(Houndmills)によって出版された。同書58頁に.アブドゥルアジズ大学開校の故ファイサル国王祝辞が掲載されている。

 

「サウジ家のアラビア(L'Arabia Saudina)」: M. ナリノ(M. Nallino)が編集し1939年にローマ(Rome)で出版した。

 

「サファール ナメ(Safar NamehBook of Travel)」: ナシール- コスロウ(Nasir-i Khosrow) の著述した旅行記。

 

「様々な運命(De varieate fortunae)」: 法王エウゲニウス四世(Pope Eugenius IV)の命令でニコロ コンティ(Nicolò de' Conti)の冒険旅行をフェレツェ人の秘書ポッジョ ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini)が書いた物語である。イスラム圏へのコンティの旅の途中でコンティは回教徒に改宗したが、イタリアに到着した時に法王の釈罪を求め、法王はコンティがその冒険をブラッチョリーニに現実そのままに報告する事を条件に承諾した。この様に「様々な運命(De varieate fortunae)」は15世紀のヨーロッパ人旅行者による南アジアに関する最高の記録を基づいて書かれた事は敬意に値する。ニコロ コンティ(Nicolò de' Conti)には2編の英訳がある。新しい方が1857年ロンドンで出版されたハクルート(Hakluyt)協会のジョン ウィンター ジョーンズ(John Winter Jones)が翻訳・編集した「ニコロ コンティの本(The Book of Nicolò de' Conti)」と題された訳本である。

 

32年間のイスラム国横断(Trente-deux Ans à travers i'Islam)(1832 - 1864)」:厳しい疑惑が向けられているレオン ロシュ(Léon Roches)著、1884 - 1885年にパリで出版された(Paris 1884  -1885).

 

「ザンベジ川とその支流」:イギリスの宣教師で探検家リヴィングストン(David Livingstone) (1813 - 1873)の著作。

 

「ジッダ港交易の統計的資料」: シャルル ユベール(Charles Huber)はその死後の1891年にパリで出版された「アラビア旅行日誌(Journal d'un voyage en Arabie)(1883-1884)」の中で「英国領事(Jago)1883年のジェダの交易と商業に関する報告書」、何某かの「巡礼の動向に関する資料」およびその他の異なる出所から集めた情報に基づき「ジッダ港交易の統計的資料」を再版している。又、ユベールは1884729日にラビグ(Rabigh)近くで自分の案内人に殺され、ジッダのヨーロッパ人墓地に埋葬されている。(HUBER, C. Journal d'un voyage en Arabie (1883 - 1884) Paris 1891, p. 754 - 757. Huber was entered in the Jiddah European Cemetery.)

 

「ジッダについてアル-マクディシ(al Makdisi)の記述」: アル-モカッダシ(AL-MOQADDASI) とも呼ばれるアル-マクディシのジェッダにつての記述はアラビア地理学会(Bibliotheca Geographorum Arabicorum)M. J. ジョエジュ(M. J. de Goeje.)が編集し、1906年にライデン(Leyden)で出版されたアル-モカッダシ(Al-Moqaddasi)著の「モスレム帝国の記述」第III79頁に掲載されている。(AL-MOQADDASI Descriptio imperii moslemici ed. M.J. de Goeje. Bibliotheca Geographorum Arabicorum, t. III, Leyden 1906.)

 

「ジッダの教育施設の概要」: 出典はTown Planning Office1970 - 1971年調査である。

 

「ジッダのバルコニー(Jiddah's Balconies)」: ハリー オールター(Harry Alter)著で同書は「 華麗な輝き(Splendid Bright)」としてアラムコワールルド(Aramco World Magazine)の第2259月・10月号(Vol. 22, No.5, Sept. - Oct. 1971, p. 29 - 32.)に掲載されている。

 

「ジッダ包囲の計画」: サウド家の軍隊の特質と配置を示すジッダ包囲の計画は1928年にベイルート(Beirut)で出版されたアミン リハニ(Amin Rihani)著の「Tarikh Najd al-hadith wa mulhaqatibi]」の368頁に示されている。しかしながら、その印刷の品質は再コピーが出来ない程悪い。 

 

19世紀後半のメッカ」: 回教徒に改宗したオランダの偉大なアラビア学者クリスチアン スノウク フルグロニェ(Christian Snouck Hurgronje)著、「メッカ」は1888 - 1889年にハーグで出版(SNOUCK HURGRONJE, C. Mekka The Hague 1888 - 1889.)、同書はJ.H. モナハンによって英訳され「19世紀後半のメッカ」との題名で1931年にライデンとロンドンで出版された(An English translation of the second volume was made by J.H. Monahan and publish under the tiltle Mekka in the later part of the 19th Century Leyden - London 1931.) フルグロニェの聖なる市についての見事な著述はいまだに標準参考書であり、その再版は1970年にライデンで出版されている(This has been recently reissued in Leyden (1970).)

 

17世紀末の紅海とその周辺の国々」: (The Red Sea and Adjacent Countries at the close of Seventeen Century)、ジョセフ ピッツ(Joseph Pitts)、ウィリアム ダニエル(William Daniel)およびチャルル ジャック ポンセ(Charles Jacques Poncet)の記述をハクルート協会(Hakluyt Society)のウィリアム フォスター卿(Sir William Foster)が編集し、1949年にロンドンで発行した。ウィリアム フォスター卿(Sir William Foster)はこの原本と成ったフランス語版が何時初版されたか確認出来なかった。この本に掲載された英訳再版は翻訳者の名前を記述しない儘で1709年に出版されている。

 

「ジュッダのマディナ通り(Tarik madinah Juddah)」: アブド クッデュス アンサリ(Abd al-Quddus al-Ansari)の著、1963年ジッダ(Jiddah)で出版。同書の335 - 342頁のジッダ モスクの章に「スライマンに関する小史(as-silab wa'l-uddah fi tarikh bandar Judaah)」が引用されている。

 

「主要な航海(Principal Navigation)」: およそ1580年にリチャード ハクルート(Ricard Hakluyt)が出版した有名な本でその中で活字化された名の知れないポルトガル人の奴隷の報告書は英語の文章のあちらこちらに現れる幾つかのイタリア語の単語から判断し、元々は他のヴェネツイア人の作品ではないかと思われる。これにはアレキザンドリアとカイロの市の様子、カイロからメッカへの巡礼路、巡礼の儀式およびメッカ、メディナ、ジッダの市の様子等が記述されている。その後「英国の主要な航海、旅行、交通および発見」として1903 -1905年にグラスゴーで出版された。同書の第V359 - 360頁参照。(Hakluyt, R. The Principal Navigations Voyages Traffiques & Discoveries of the English Nation Glasgow 1903 - 1905, t. V, p. 359 - 360 (the first edition is dated (1598 - 1600).)

 

「主要な航海の収録」: (Delle navizazioni et Viaggi Venezia)、ラムシオ(G.B. Ramusio)はアンドレア コルサリ(Andrea Corsali)のジュリアーノ(Giuliano)およびロレンゾ デイ メディチ(Lorenzo dei Medici)宛二通の手紙を「主要な航海の収録」として最初に出版した。この二番目の手紙は1517918日に書かれたフロレンス(Florence)のアンドレア コルサリ(Andrea Corsali)から最も高名な皇族でシニョール(Signor)首長でもあるロレンゾ メディチ公(the Most Illustrious Prince and Lord the Signor Duke Lorrenzo de' Meddici)宛の「インドのコーチン(Cochin City)に至る紅海およびアラビア湾(ペルシア湾)の航海術について」と題されており、ジッダ(Jiddah)(ジデム(Zidem))の抜粋を含んでいる。(RAMUSIO, G.B. Delle navizazioni et Viaggi Venezia 1563 -1606, t. I, fol. 203.)

 

「巡礼の年代記(the chronicler of the Pilgrimage)」: 12世紀に書かれたアブ ’ル-フサイン イブン ジュバイル(Abu 'l-Husayn Muhammad ibn Ahmad ibn Jubayr)の著作。

 

「ジョアン バホスのアジア(Asia de João de Barros)」: 1553年から1615年のリスボン マドリードを中心とした40年間における東洋の海岸と陸地のポルトガルによる発見と征服に関する出来事の記述、 (Dos feitos que os Portugueses fezerão no descobrimento e conquista dos mares e terra do Oriente, en 4 Decadas Lisboa-Madrid 1553-1615, Decada III, bk, I, ch. 3.)

 

「植物の祖(a History of Plants)」: 植物学者のテオフラストス(Theophrastus) (紀元前372-287年)の著書。

 

「ジョバンニ フィナティ(Giovanni Finati)の人生と冒険の物語」: イタリア語からの翻訳はフィナティ(Finati)の口述に従ってウィリアム ジョン バンクス卿(William John Bankes, Esq.)が編集しロンドンで出版した原本を我々は見る事が出来ない。元々のイタリア語の原文は喪失しており、イタリア語版はウィリアム ジョン バンクス卿英訳の翻訳を引用している (Vita ed adventure di Giovanni Finati tr. and ed. by William John Bankes, Rsq. 1941.)

 

「ジョン ルイス ブルクハルトのアラビア旅行記」: ウィリアム ウスリーが編集し1829年にロンドンで出版された。その再版は1972年にベイルートで出版された(Travel in Arabia...by the late John Lewis Burckhardt. ed. by William Ousley London 1829 (reprinted  Beirut 1972)

 

「ストラボの地理学 (the Geography of Strabo)」: 16422 - 24 (XVI, 4, 22-24)、ストラボの総合的地理研究の最も優れた英訳版は「ストラボの地理学 (the Geography of Strabo) と云う題名の1959年から1961年に掛けてロンドンのジョンズ (H.L. Jones) が翻訳、編集した本である。「ガルス (Aelius Gallus) の遠征」は1961に書かれた第7巻の353頁から363頁に記載されている。別の訳については「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)への訪問(サウジアラビア王国南西地方)その2ティハマー海岸地域(Tihamah Coastal Area)付録1「エジプト総督ガッルスのアシール遠征」ストラボ(Strabo)著」を参照されたい。

 

「ズブダ カシュフ ママリク」: 近現代における著者カリル ザヒリ(Khalil al-Zahiri)が執筆、同書はP. ラヴァイッシ(P. Ravaisse)が編集し1894年にパリで出版された( KHALIL AL-ZAHIRI Zubdat Kashf al-mamalik er. by P. Ravaisse, Paris 1894.)。又、1970年にケンブリッジで出版された「ケンブリッジのイスラムの歴史」にも引用されている(quoated in the Cambridge History of Islam Cambridge 1970.)

 

「スライマンに関する小史(as-silab wa'l-uddah fi tarikh bandar Judaah)」: アブド カディール イブン ファラジ(Abd al-Qadir ibn Faraj)著で、「スライマンに関する小史(as-silab wa'l-uddah fi tarikh bandar Judaah)」はシャリーフ ダオウド イブン スライマン(the Sharif Daoud ibn Sulayman)に関して記述した小史である。この著者アブド カディール イブン ファラジ(Abd al-Qadir ibn Faraj)はこの小史の中でジッダ、その城壁、モスクおよび記念碑についての記述とヒジュラ歴951年(西暦1544年)までの短い歴史の紹介をしている。この題名は「海港ジッダの歴史に関する剣と楯」と訳され、元々のアラビア語は美しい韻を踏んでいる。ヨーロッパの図書館に幾つかの写本が残っている。その中でも一番優れているのがウィーン王立図書館(the Imperial Library of Vienna)の蔵書であり、G. フリューゲル著「ウィーン王立図書館所蔵のアラビア、ペルシャおよびトルコの古文書(see: FLÜGEL, G. "Die Arabischen, Persischen und Turkischen Handschriften der K.K. Hofbibliothek zu Wien" Wien 1856)」として1856年ウィーンで出版されている。又、「スライマンに関する小史(as-silab wa'l-uddah fi tarikh bandar Judaah)」は1963年ジッダ(Jiddah)で出版されたアブド クッデュス アンサリ(Abd al-Quddus al-Ansari)の著作「ジュッダのマディナ通り(Tarik madinah Juddah)」引用された。同書335 - 342頁のジッダ モスクの章を参照。アンサリに関する今後の全ての言及はこの章からである。

 

「スレイマーン ガジの旅行記」: 1538年のスレイマーン ガジ(Sulaiman Ghazi)の旅行記はベニス(Venetian)人の船長によって記録されている。

 

「性格論(Characters)」: ギリシャ逍遥学派の哲学者で植物学の祖セオフラストス又はテオフラトス (Theophrastus)(c. 372 - c. 287 B.B.)著。

 

「西部アラビアと紅海(Western Arabia and Red Sea)」: 1946年にオックスフォード(Oxford)で英国海軍省海軍情報局(British Admiralty - Naval Intelligence Division)発行。

 

「世界の鏡(Morro of the Wold)(ジハンーヌマ(Jihan-numa))」: 17世紀のトルコの地理学者ハジ カリファ(Hajj Khalifa)はその著書ジハンーヌマ(Jihan-numa)(世界の鏡(Morro of the Wold))にカラ ムスタファ パシャ(Grand Vizier Kara Mustafa Pasha)の功績を記述している。1818年にドイツ中部ゴータ(Gotha)で出版されたノーベルグ(M. Norberg)によって翻訳されたラテン語版の第II184頁に次の様に記されている。「その頃、水は乏しく、小さな耐久性のある水槽に集められていた。水を十分に確保する為、支配者であるムハンマド ビン イブラヒム(Muhammad ben Ibrahim)は高官ムスタファ カラ(his Grand Vizier Mustafa Kara)の命により、もっと多くの水を涸れる事の無い山から運んできた。更に、モスク(回教寺院)の隣に堂々とした公共宿舎を建設した(At parum ibi aquae: cisternis parvis et tenacibus. Quae vero ut sufficeret, inperante Muhammed ben Ibrahim, et provisu magni sui veziri Mustafa Kara, a montibus dissitis huc derivata fuit: condito item hic praeter templum et magnifico hospitio.)」。

 

「ゼーッツェンの航海とアラビアの旅」: (Voyage de M. Seetzen sur la Mer Rouge et. dans i'Arabie)、「ゼーッツェンのシリア、パレスチナ、フェニキア、トランスヨルダン、アラビア半島及びエジプトの旅(Ulrich Jasper Seetzen's Reisen durch Syrien, Palästina, Phönicien, die Transjordan Länder, Arabia Petraea und Unter-Aegypten ed. by F. Kruse. Berlin 1854 - 1859.)」に掲載された以降の旅は「ゼーッツェンの航海とアラビアの旅」の中に一年間の旅としてその要約が出版されている(A summmary of these was published in the Annales des Voyager (Voyage de M. Seetzen sur la Mer Rouge et. dans i'Arabie) t. XXII. Paris 1813.)

 

「ゼーッツェンのシリア、パレスチナ、フェニキア、トランスヨルダン、アラビア半島及びエジプトの旅」: リヒ ヤスパー ゼーッツェン(Ulrich Jasper Seetzen)がアジア(Asia Mínor)の旅に出発し、1809年にカイロ(Cairo)至るの旅はクルーゼ(F. Kruse)によって編集され、1854 - 1859年にベルリンで出版されている(Ulrich Jasper Seetzen's Reisen durch Syrien, Palästina, Phönicien, die Transjordan Länder, Arabia Petraea und Unter-Aegypten ed. by F. Kruse. Berlin 1854 - 1859.)

 

「千一夜物語(The Arabian Nights)」: インド・イラン起源や近東諸地方の物語集でシェヘラザードという才女が面白い物語を千一夜にわたって続けるという型式をとっている。はじめパフラビー語に訳され、8世紀後半にアラビア語に訳され、以後増補、著者は不明。アラビア夜話、千夜一夜物語ともいう。

 

1910 - 1911年のメッカ巡礼物語」: (Relation d'un pèlerinage à la Mecque en 1910 - 1911)、カゼム ザデー(Kazem H. Zadeh) 著、1912年パリで出版。

 

1968/1969年のジェッダ」: アフリカ大学印刷が1968年にナイロビで出版(Jeddah 68/69 University Press of Africa, Nairobi 1968.)

 

1510年代にアルボケルケがマニュエル国王宛てに出したもう一つ手紙」: ロンドン(Lodon)1894年に出版されたダンヴァーズ(Danvers, F.C.)著、「インドのポルトガル人(The Portuguese in Indea)」の306頁を参照。

 

1858年のジッダ事件の当時の評価」: この評価は1858715日付けのロンドン タイムス(the London times)185884日付けBombayのテレグラフ クーリエ紙(the Telegraph Courier)18591231日外務省文書(1858/1859年のジッダの騒乱)、トメス八世(Tomes VIII)とトメス四世(Tomes IX)の二人の年代記に示されている。個人的な考察を伴う簡潔な記事はバートン(R.F Burton)1860年にロンドンで出版した「中央アフリカの湖沼地帯(The Lake Regions of Cemtral Aftica)」の付属書、第2巻の428 - 429頁にも示されており、全体の記述は後にアヴリル(A. d'Avril)によって1868年にパリで「メッカへの巡礼の記述を伴うアラビアの同時代」が出版され、その76 - 82頁に掲載されている。

 

1831 - 1835年のアビシニア旅行記」: ドイツ人科学者のエドウアルト ルッペル(Eduard Rüppel)著、1838年フランクフルトで出版(Reise in Abyssinien 1831 - 1835 by Eduard Rüppel, Frankfurt 1838)

 

1839年から1843年のアビシニア旅行」: セオフィル ルフェーヴル(Thèophile Lefebvre)著、1845 - 1851年にパリで出版(LEFEBVRE, T. Voyage en Abyssinie executé pendant les années 1839 - 1843. Paris s.d. [1845 - 1851].)。第II巻の付属書「紅海とアビシニアの交易に関する注意」の6頁から12頁にジッダの交易(Jiddah Trade) について記載されている(in Appendixs to t. II (Notice sur le commerce de la Mer Rouge et de I'Abyssinie).)

 

1883年のジェダの交易と商業に関する報告書」: 英国領事(Jago)のチャールズ フーバー(Charles Huber)著、1891年パリで出版された「アラビア旅行日誌(Journal d'un voyage en Arabie)(1883-1884)」に記述されている「商工業についての女王陛下の執政官報告書中の1883年におけるジェッダの交易と商業関する領事による報告(第III12章参照)」(Reported by consul Jago on the trade and commerce of Jeddah for the year of 1883in Reports from Her Majesty's consuls on the manufactures, commerce, etc. Part III. No.12)

 

2代インド総督、偉大なアフォンソ ダルボケルケの実録」: (The Commentaries of the Great Afonso d'Alboquerque, Second Viceroy of India)、この実録はアフォンソの実子によって編集された。その実子、ブラズ ダルボケルケ(Braz d'Alboquerque)は父親の死後、Afonsoの名を嗣いだ様だ。その初版は1557年に遡る。その後、1774年出版のポルトガル語編から註釈および序文と共にハクルート協会(Hakluyt Society)のグレイ バーチ(Gray Birch)氏が翻訳し、1875 - 1886年ロンドンで英文が出版された。

 

「タクウィム アル-ブルダン(Takwin al-Buldan)」: アブルフィダ(Prince Abulfida) 著で「国々の描写(Delineation of the Countries)」と訳されており、M. レノー(M. Reinaud)はこれを翻訳・編集し、「アブルフィダ(Prince Abu'lfida)の地理」と云う題名で1848年にパリで出版している。

 

「タクウィム アル-ブルダン(The Takwin al-Buldan)」: 「国々の描写(Delineation of the countries)」と訳されている。サーマーン朝(the Samanid dynasty)の廷臣であったアブ ザイド アル-バルヒ(Abu Zayid al-Balkhi)は余暇を地形学や地理学の調査に使い、短い地理的記述しか記されていない一続きの地図群で構成されたイスラム国地図帳を修正して居た。その作業を通じて、アル-バルヒはその時代に入手出来た情報や自分自身の広範囲にわたる旅行から得た知識でのイスラム国地図帳の補足を編纂した。その「タクウィム アル-ブルダン(国々の描写)(the Takwim al Buldan or Delineation of the Countries) 」と云う題名の本の原本は失われたが、イスタハリ(Auctore Abu Ishak al-Farisi al -Istakhri)950年頃に編集し、最新情報化し、増補した版を作った。その版は同様にイブン ハウカル(Ibn Hauqal)によってその著作に取り込まれた。

 

「タリーク マディナー ジュッダ」:Sheikh Abd al-Quddus al-Ansari著の「ジッダ市の歴史(History of the city of Jiddah)」で1963年にジッダで最初に出版された。

 

「タリハ ムスターシール(Tarikh al-Mustahsir)」: イブン ムジャウィール(Ibn al-Mujawir)の著作「タリハ ムスターシール」は西暦1229年の直ぐ後に書かれた。この本は歴史的断章、旅行記と社会的習慣の記述そして南アラビアの町の種々雑多な地理的な情報から構成されていた。

 

「タリハ ムスターシール(Tarikh al Mustahsir)」のジッダに関する校訂・翻訳: 1970年代にナポリ大学東洋学部博士でアラビストG. セレタノ博士(Dr. G. Celentano) がイブン ムジャウィール(Ibn al-Mujawir)の著作タリハ ムスターシールのジッダに関する章を校訂・翻訳した(Dr. G. Celentano of the Instituto Universitario Orientale - Napoli)

 

「知恵の七柱(The Seven Pillars of Wisdom)」: トーマス エドワード ローレンス(Thomas Edward Lawrence) (1888- 1935)著、アラビア反乱における自身の体験を記録した自伝的作品で1919年に完成した原稿を紛失、1922年に圧縮して私家版として出版しているが1926年あるいは1935年に初版が出ているが1965年ロンドンで再出版された(LAWRENCE, T. E. Seven Pillar of Wisdom London 1965, (first published in 1935).)

 

「知恵の七柱(The Seven Pillars of Wisdom)」(再版版): 1965年ロンドンで再版(LAWRENCE, T. E. Seven Pillar of Wisdom London 1965.)

 

「中世におけるレヴァントの交易の歴史」: W. ヘイド著、1885 - 1886年にライプチッヒで出版(HEYD, W. Histoire du Commerce du Levant au Moyen Age Leipzig 1885 - 1886,.)

 

「中東の人々と文化(People and Cultures of the Niddle East)」: 1970年にルイーズ E. スウィート(Louise E. Sweet)が編集し、ニュヨークで出版した。同書にはインド洋(the Indian Ocean)と紅海海域を航行していたバッガラ(Baggalah)、ブーム(Boom)、サンブーク(Sambuk)およびザルク(Zaruk)の主要な4つの型のアラブ船(Arab Ship)等について詳しく述べている。

 

「地名辞典(an exhaustive gazetteer)」: プトレマイオス(Ptolemy)(ラテン語名はClaudius Ptolemaeus)の地理学ガイドの主要部分の地名辞典は地域によって整理された場所場所の余す所無く研究されていた。

 

「地理学ガイド(Geographic Guide)」: 8巻からなり、地理学ガイドの主要部分は地域によって整理された場所場所の余す所無く研究した地名辞典とそれらの場所に割り当てられた球面上の緯度経度である。二番目の部分は円錐形の投影で描かれた世界地図と地域地図で構成された地図帳である。プトレマイオス(Ptolemy)(ラテン語名はClaudius Ptolemaeus)は躊躇無く地球が球体である事を前提としていた。

 

「ディバン(DivanCollection of Poems)(詩集)」: ナシール- コスロウ(Nasir-i Khosrow) の編集した詩集。

 

「デュアルト バールボサの本(the Book of Duarte Barbosa)」: ハクルート協会(Hakluyt Society)のマンセル ロングワース ダイムス(Mansel Longworth Dames)が翻訳・編集し、1919/1921にロンドンで出版された。同書の第147 - 49頁にはフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)のジッダ要塞化作業について述べられている。

 

「伝道旅行記」: イギリスの宣教師で探検家リヴィングストン(David Livingstone) (1813 - 1873)の著作。

 

「ドゥアルテ バルボサの本(the Book of Duarte Barbosa)」: ドゥアルテ バルボサ(Duarte Barbosa)著の「ドゥアルテ バルボサの本(the Lovro de Duarte Barbosa)」と呼ばれる初版は「海外知識の収集(the Colecçāo de Noticias da Naçōes Ultramarinas)」の第2巻として1813年にリスボン(Lisbon)の王立科学アカデミー(the Royal Academy of Sciences)によって出版された。その後、ハクルート協会(Hakluyt Society)のマンセル ロングワース ダイムス(Mansel Longworth Dames)が翻訳・編集し、1919/1921年にロンドンで再出版された。

 

「東洋インド情勢の記録(the Livro do Estado da India Oriental)」: 1646年にペドロ バッレト レセンデ(Pedro Barreto de Resende)を執筆を完成した。

 

「東洋と幾つかのその他の国々の記述」: (A Description of the East and some other Countries)、英国の旅行家リチャード ポーコック(Richard Pococke) (1704 - 1765)1737年から1742年まで中東(the Orient)を旅した紀行文を執筆し、ロンドンで1743 - 1745年に出版した。

 

「東洋交易(Opriental Commerce)」: ウィルアム ミルバーン(William Milburn)が著作 1813年に出版し、トーマス ソートン(Thomas Thornton)がその改訂版を1825年に出版した。「東洋交易(Opriental Commerce)」あるいは「東インド貿易の徹底指針(the East Indian Trader's complete Guide)」はヨーロッパからの航海の途中にある東洋の島々(the Eastern Islands)および交易港(the Trading Stations)を含むインド、中国、日本およびその近隣の国々に海辺の地理的および航海に関する記述をも包含している。さらにこの本にはそれぞれの国々での交易、産物、貨幣、度量衡(weights and measures)、入港規則、関税(Duties)、料率(Rates)、料金(Charges)等の記事およびこれらの国々からの英国への輸入商品とそれに掛かる関税の記述も含まれている。それらと共に名誉ある東インド会社の故ウィルアム ミルバーン(William Milburn)が東インド業務(the East Indian Service)に長年勤務し、インドと中国への7度の航海の途中で集めた多くのその他多くの情報を含んでいる。それらはトーマス ソートン(Thomas Thornton)著で1825年ロンドンのM.R.A.Sから出版された改訂版の56頁から64頁に同氏の遺言執行人のもとに残された報告書から入念に作成した抄訳および多くの追加された貴重な事項等が掲載されている。

 

「道路と王国の本」の訳本: Kitab al-Masalik wa'l-Mamalik (Book of the Roads and Kingdoms) アッバース朝の王子の為に西暦846年にイブン コールダドビ(Ibn Khordadbih)によって編纂され、イスラム帝国の偉大な交易路の興味ある概要を含んでいた「道路と王国の本 (IBN KHORDADBEH Kitab al-Masalik wa'l-Mamalik) (Liber Viarum et Regnorum)M. J. ジョエジュ(M.J. de Goeje)によって翻訳・編集され、1889年にライデンで出版されている(ed. and tr. by M.J. de Goeje. Bibiliotheca Geographorum Arabicorum, t. VI, Leyden 1889.)

 

「ニコロ コンティの本(The Book of Nicolò de' Conti)」: 法王エウゲニウス四世(Pope Eugenius IV)の命令でニコロ コンティ(Nicolò de' Conti)の冒険旅行をフェレツェ人の秘書ポッジョ ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini)が書いた「様々な運命(De varieate fortunae)」をハクルート(Hakluyt)協会のジョン ウィンター ジョーンズ(John Winter Jones)が翻訳・編集し、1857年ロンドンで「ニコロ コンティの本(The Book of Nicolò de' Conti)」と題し出版した。

 

「ニーブールの旅の物語」: カルステン ニーブール(Carsten Nieburhr)自身の著作で「アラビアとその周辺の旅行記(Reisecbeschreibung nach Arabien und andern umliegenden Ländern)」との題名を付け、コペンハーゲン(Copenhagen) 1774 - 1778年に出版された。

 

「ニーブールの旅の物語」の英語の翻訳: カルステン ニーブール(Carsten (Karsten) Niebuhr)(1733 - 1815)著「アラビアとその周辺の旅行記(Reisecbeschreibung nach Arabien und andern umliegenden Ländern)」の英訳は「アラビアとその他の東方の国々の旅行(Travels through Arabia and other Countries in the East)」と題され、エディンバラ(Edinburgh)1792年に出版された。この本は最近ベイルート(Beirut)で日付無しに再版されているが、「カルステン ニーブール(Carsten Niebuhr)とその仲間の冒険と業績」の英語による完全な記述はごく最近になって、デンマークの1761年から1767年も遠征についての記述として、「アラビアのフェリックス(Arabia Felix)」との題名を付けられ、、H. ソールキルド(H. Thorkild)によってロンドン(London)1964年に出版された。

 

「ニーブールの旅の物語」の仏訳再版: 「アラビアと隣接するその他の国々へのニーブールの旅行記」と題されて、1779年にパリで出版された(Description de l'Arabie d'après les observations et recherches faites dans le pays même par M. Niebubr Paris 1779.)

 

「ニーブールの旅の物語」の蘭訳再版: M. ニーブール著、「アラビアと隣接するその他の国々への旅行記(Voyage en Arabie et en d'autres pays circonvoisins par M. Niebubr)」はアムステルダム(Amsterdam)1776年に出版された。

 

「ヌビア、コルドファンおよびアラビアの旅」: ドイツ人科学者のエドウアルト ルッペル(Eduard Rüppel)著、1829年フランクフルトで出版された(Reise in Nubien, Kordofan and Arabien 1822 - 1827. Frankfurt 1829.)

 

「博物誌(Histria Naturalis)」: ローマの博物誌家プリニウスウス(Gaius Plinius Secundus) (通称プリニウス(Elder Pliny)) A.D. 77年に博物誌(Histria Naturalis)を著述した。

 

「バクリの地理辞典(ムジャム イスタジャム)」: ヴステンフェルト ゲッテンゲン編集、1877年パリで出版、同書234頁参照(Mujam ma Istajam - Das Geographische Wörtetbuch des Abu 'Obeid 'Abdallah ben Abd al-Aziz el Bakri ed. by F. Wüstenfeld Göttingen-Paris 1877, p. 234.)

 

「ハドラマウトの旅(A. Reise in Hadramaut」: アドルフ フォン ヴレーデ(Adolf von Wrede)著で1870年にH.F. モルツアンが編集し ブウンシュヴァイク(Braunschweig)で出版した(ed. by H.F. Maltzan Braunschweig 1870.)

 

「東インド・西インド渡航記(Navigatio ac Itinerarium)」: オランダの旅行家ジャン ホイヘンス フォン リンスホーテン(Jan Huyghen von Linschoten) (1563 - 1611)著、1599年にハーグ(Hague)で出版。

 

「ヒジャーズでの6ヶ月」: ジョン フライヤー キーン(John Fryer Keane)著、1877年にロンドンで出版(KEANE, J.F. Six Months in the Hejaz London 1877.)

 

「ヒジャーズの歴史(History of the Hedjaz)」: バイド アサミ(Vide Asami)著。同書には「州知事(the Pasha)とメッカのシェリフ(the sherif of Mekka)の間で分けられ、トルコがアジアを征服し(subdue)始めた時にはシェリフ(the sherif)はこの歳入の1/3しか受け取って居らず、それはシェリフが1/2を受け取れる様に成ったヒジュラ暦(the Hedjira)1042年まで続いた」と記されている。

 

「ヒジャーズへの巡礼の物語(The story of a Pligrimage to Hijaz)」: ナワブ スルタン ジャハン ベガム(Nawab Sultan Jahan Began)著、1913年カルカッタで出版された。

 

「ファシーシイ(Facetiae)」: イタリアの人文主義者ポッジョ ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini) (1380-1459)の著作。

 

「プトレマイオス(Ptolemy)によるアラビア半島」のヤコポ ダンジオロによる写本: フィレツ(Florence)のヤコポ ダンジオロ (Jacopo d'Angiolo)による写本はパリの国立図書館(the Bibliothèque Nationale of Paris)の蔵書の1つである。

 

「ブルクハルトの素晴らしい伝記」: SIM, K 沙漠の旅行者(ジョン ルイス ブルクハルトの一生)」と題され1969年にロンドンで出版された(An excellent Biography of Burckhardt has appeared recently, entitled: SIM, K. Desert Traveller: the life of John Louis Burckhardt London 1969.)

 

「ブルース(Bruce)の本」: 1768年、1769年、1770年、1771年および1777年のジェームズ ブルース(James Bruce)によるナイルの水源の発見の旅」はエディンバラ(Edinburgh)1790年に出版された。初版本を調べるのは不可能であるが、J.H. Castreraによる完全な仏訳(t. I, ch. XI)もパリで1790 - 1792年に出版された。エディンバラ(Edinburgh)1873年に出版された「ブルースのアビシニアとヌビアの旅(Bruce, J. Travels in Abyssinia and Nubia)」と云う題名の修正版からは記録された旅行は劇的に削減されている。

 

「フレとガリニエのアビシニアへの航海(Ferret-Galinier Voyage en Abyssinie)」: アビシニア(Abyssinia)への使節の報告書であり、1847年パリで出版された (Paris 1847.)

 

「ベドウインとワッハーブ派についてのメモ」: ジョン ルイス ブルクハルト(John Louis Burckhardt)の書いたこのメモは1831年にロンドンで日の目を見た(Burckhardt also wrote Notes on the Bedouins and Wahhabi which saw the light in London, 1831.)

 

「ペルシャ航海の歴史(A History of Persian Navigation)」: ハディ ハサン(Hadi Hasan)著、1928 ロンドンで出版、同書の147頁にはアルボケルケのペルシアのシャー イスマイル(Shah Ismail)対する脅しについて記述されている。

 

「ペルシャ湾のカティーフから航海のヤンブーまでの旅行記」: ジョージ ファースター サドラー大尉(Captain George Forster Sadleir)著、メージャー ヴァン ケネディ編集、1823年出版のボンベイ文学協会会報第III巻の449 - 493頁、(ここに引用した旅行はその中の481 - 482頁である。) (Account of a Journey from Katif on the Persian Gulf to Yamboo on the Red Sea by Captain G.F. Sadleir ed. by Major Vans Kennedy. Transaction of the Literary Society of Bombay. Vol. III, 1823, p. 449 - 493. The quoted passage is at p. 481 - 482. )。 

 

「ペロ タフールの1435年から1439年までの旅行と冒険」: スペインの旅行家ペロ タフール(Pero Tafur)が自分の旅行記を著作した。同書はブロードウェー旅行家シリーズ(Broadway Travellers Series)を書いたマルコム レッツ(Malcolm Letts)によって翻訳・編集され、ロンドンで1926年に出版されている(Travels and Adventures of Pero Tafur (1435-1439). Tr. and cd. by Malcolm Letts (Broadway Travellers Series), London 1926.)

 

「ヘンリー ルック(Henry Rooke)の出版」: 「ヘンリー ルック(Henry Rooke)が富裕なアラビア(Arabia Felix)の海岸を旅した時の幾つかの手紙」はリヴォルノ(Leghorn)1788年に出版されたが、 初版はロンドンで1783年に既に出版されていた(Rooke. H. Travels to the Coast of Arabian Felix.... in a series of letters Leghorn 1788. The first edition was published in London, 1783.)

 

「マディナとメッカへの巡礼の記念すべき私的な語り」: (Personal Narrative of a Pilgrimage to al-Madinah and Meccah - Memorial Edition)、リチャード F. バートン著1893年ロンドンで出版、同書の第II263-269頁にはフレ(Ferret)とガリニエ(Galinier)についてリチャード F. バートン卿(Sir Richrad Burton)は「この二人の著者は高名な(celebrated)アラビアの専門家はフルジャンス フレネル(Fulgence Fresnel)を権威として引用し、ジッダ交易の現状の表を出版した。そしてこれらの表は『アビシニアの生活(Life of Abyssinia) 』の著者(著者は無名であったが、マンスフィールド パーキンス(Mansfiled Parkins)であるのが後にわかった)によって翻訳されている」と言っている。

 

「マディナとメッカへの巡礼の自叙伝」: (Personal Narrative of Pilgrimage toal-Madinah and Mecca)、リチャード フランシス バートン卿(Sir Richard Francis Button)著、1885 -1886年ロンドンで出版(BURTON, SIR RICHARD F. Personal Narraitive of Pilgrimage to al-Madinah and Mecca London 1855-1856 Appendix V.)、付属書V参照。

 

「南アラビア海岸沖のポルトガル人達(The Portuguese off the South Arabian Coast」: サージャント(R. B. Serjeant)著、オックスフォード(Oxford)1963年に出版。

 

「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」: イブン ムジャウィール(IBN AL-MuJAWIR)著の 「タリハ ムスターシール(Tarikh al Mustahsir)」をO. ロフグレン(O. Löfgren )が編集し、副題として「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」と名付けライデン(Leyden)1951 - 1954年に出版した。

 

「南アラビアへの旅」: ハインリク、フライヘール フォン モルツアン(Heinrich, Freiherr von Maltzan)著、1873年にドイツのブラウンシュヴァイク(Braunschweig) で出版 (Von MALTZAN, H. Reise nach Südarabien Braunschweig 1873.)

 

「ミールハト ハラメイン(Morhat al-Haramein)」: イブラヒム リファト パッシャ(Ibrahim Rifat Pasha)著、ヒジュラ歴1344年(西暦1925年)カイロで出版された。

 

「無慈悲なアルメイダ(Almeida)の死の予告」: ダミアン ゴイス(Damião de Gofs)150923日にディウ(Diu)沖での凶暴な海戦での無慈悲なフランシスコ ダルメイダ(Francisco d'Almeida)の行為に対して死をほのめかしている。事実、ポルトガルに帰航の途中でアルメイダ(Almeida)65名の部下と共に喜望峰(the Cape of Good Hope)近くのアフリカの海岸でキャフレ族(Caffres)の暴徒達に殺された。アルメイダ(Almeida)は泉(water hole)で部下がこうむった小さな攻撃への復讐をしようとしていた。それは151051日の出来事であった。

 

「メッカ市とその神殿の記述」: ウステンフェルド(WÜSTENFELD, F.)の著書「メッカ市に関する歴史的記述の蒐集」の第二巻 (In WÜSTENFELD, F. Die Chroniken der Stadt Mekka Leipzig 1856 - 1861. t. II (Deschichte der Stadt Mekka und ihres Temples) p. 79.)

 

「メッカ市に関する歴史的記述の蒐集」: ウステンフェルド(WÜSTENFELD, F.)9世紀から16世紀のアラビアの年代記によるメッカ市に関する歴史的記述の蒐集をまとめ1856 - 1861年にライプチッヒで出版した(In WÜSTENFELD, F. Die Chroniken der Stadt Mekka Leipzig 1856 - 1861.)

 

「メッカとメディナの巡礼(Pèlerinage à la Mecque et à Medine)」: エジプト医師サーレ ソウッビ(Saleh Soubby)1891年に巡礼を行い、殆ど所見の無いジッダに関する十数ページを含む本を書き、1894年にカイロで出版した(SOUBHY, S. Pèlerinage à la Mecque et à Medine Cairo 1894.)

 

「メッカの西側(Westward of Mecca)」: シールダール イクバルアリ シャー(Sirdar Ikbal Ali Shah)著、1928年にロンドンで出版された。

 

「メッカのキリスト教徒」: アウグストウス ラリ(Augustus Ralli)著、1909年ロンドンで出版(RALLI, A. Cheistians at Mecca London 1909)

 

「メッカの大総督邸での滞在(Séjour chez Grand-Cherif de la Mecque)」: シャルル ディディエ(DIDIER, C)著、1857年にパリで出版(Paris 1857)

 

「メッカの歴史(History of Mekka)」: コトベッディン(Kotobeddin)著の「メッカの歴史(History of Mekka)」には「エジプトのスルタン(Sultan of Egypt) カンソウエ エル ゴウリ(Kansoue el Ghoury)がヘブライ紀元917年に古代のジッダの壁を建てた」と記述されている。

 

「メッカへの巡礼(Pligrimage to Mecca)」: コボルド令夫人(Lady E, Cobbold)著、1934年ロンドンで出版。

 

「メッカへの旅」: フランス系アルジェリア人写真家ジュレ クローダン ジェルヴェ クールテルモン(Jules Claudin Gervais - Courtellemont)著、1899年パリで出版(GERVAIS -COURTELLEMONT Mon voyage à la Mecque Paris 1899.)

 

「メッカへの道(The Road of Mecca)」: ムハンマド アサド(Muhammad Asad)著、1954年ロンドンで出版された。

 

「モスレム帝国の記述(Descriptio imperii moslemici)」: アル-モカッダシ(Al-Moqaddasi)著、アラビア地理学会(Bibliotheca Geographorum Arabicorum)M. J. ジョエジュ(M. J. de Goeje.)編集1906年にライデン(Leyden)で出版(AL-MOQADDASI Descriptio imperii moslemici ed. by M.J. de Goeje; Bibliotheca Geographorum Arabicorum, t. III. 1906.)

 

「モハンマド教徒の宗教と風習についての正確な記録」: イギリス人ジョセフ ピッツ(Joseph Pitts)著、1704年イングランド南西部デヴォン州(Devon)のエクセター(Exeter)で出版(PITTS. J. True and Faithful Account of the Religion and Manners of the Mahometans Exeter 1704.)。

 

「駱駝はロンドンに行かなければ成らない(the Camel must go London)」: 1923年から1925年までジッダで過ごした英国領事リーダー バッラード卿(Sir Reader Bullard)が著述し、1961年にロンドンで出版された。

 

「陸地の地形(Configuration of the Earth)」: イブン ハウカル(Ibn Hauqal)著作「陸地の地形(Configuration of the Earth)or(Configuration de la Terre」はJ.H. クレイマー(J.H. Kramers)G. ワイト(G. Wiet)によって編集され、1964年にパリで出版されている(Kitab Surat al-Ard (Configuration de la Terre) tr. and ed. by J.H. Kramers and G. Wiet. Paris 1964, t. I. p. 31Configuration of the Earth)(陸地の地形)。

 

「旅行案内(Navigatio ac Itinerarium)」: オランダの有名な旅行者ヒューゴー ヴァン リンスホーテン(Hugo van Linschoten)(1563 - 1611)著で1599年にハーグ出版された。

 

「リラ ヒジャジヤ(al-Rihlah al-Hijaziyah)」: ムハンマッド ラビブ バタヌニ(Muhammad Labib al-Batanuni)著、ヒジュラ歴1329年(西暦1911年)カイロで出版された。

 

「歴史叢書(Library of History)」の訳:ディオドロス シクロス(Diodorus Siculus)の著書歴史叢書の第1巻から第4巻はオールドファーザーによって英訳され、ロンドンとケンブリッジで1946年から1953年の間に出版されている。(DIODORUS OF SICILY Books I to IV with an English Translation by C. H Oldfather. London and Cambridge (Mass) 1946 - 1953, p. 123 - 131.)

 

「ロジャーの本(Book of Roger)」: 「キタブ アル-ルジャリ(Kitab al-Rujari)(ロジャーの本(Book of Roger) )」或いは「ヌザト アル-ムシャタグ フィ イクティラク アル アファク(Nuzhat al-Mushataq fi Ikhtiraq al-Afraq)(世界の様々な地方を放浪しようとする者達の喜び(The delight of those who seek to wander through the regions of the world))」と名付けたイドリーシー(Idrisi)の有名な著作であり、「イドリーシーの地理(Géographie d'Edrisi)」としてA. ジョブール(A. Jaubert)によって翻訳・編集され、1836 - 1840年パリで出版さている。

 

「ロドヴィコ ヴァルテマの1502年から1508年までの旅行記」: 「ボローニャ(Bolognese)出身の冒険家ロドヴィコ ヴァルテマの1502年から1508年までの旅行記(the Itinerary of Lodovico de Varthema of Bologna from 1502 to 1598)」は1510年にローマ(Rome)で出版され、そのイタリア語の原書をジョン ウィンター ジョーンズ(John Winter Jones)(古物協会(F.S.A))がハクルート協会(the Hakluyt Society)の為に行った翻訳がこの旅行記である。同旅行記には「ヴァルテマ(Varthema)とその南アジア旅行(a Discourse on Varthema and his Travel in Southern Asia)」に関するロンドンで出版されたリチャード カールナク テンプル卿(Sir Richard Carnac Temple)1928年の論文の24-25頁も添えられている。ヴァルテマ(Varthema)の初期の英文翻訳は「ルイス ウェールトマンヌスの航海術と航海(The Navigation and Voyages of Lewis Wertomannus)」として1576年にリチャード エデン(Richarde Eden)によってラテン(Latine)から英語に既に翻訳されている。この初期の英文翻訳はエディンバラ(Edinburgh)のアウンジャーヴィル協会(the Aungervile Society)によって1884年に再版された。同再版本の62頁にジッダに関する記述がある。

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付録-2 参考文献図書目録

 

脚注(例外的に本文にも)で引用した以外の参考文献をここに掲載する。脚注が直接引用している文脈上の事柄とは別に、引用した出典は他の一般的な情報を得る為にも使っている。

 

アスタリスクを付けた幾つかの書籍や記事は情報源が消滅していまったとか、言語上(トルコ語)の問題で調べられなかった。

 

著者

書籍名

出版地

西暦

Hijra

*Ahmad bin Zayni Dahlan

Khulasat al-kalam

Cairo

1887

1305

 

The Arabian Penbinsula

A selected, annotated list of Periodicals, Books and Articles in English

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