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2010 年7月29日 高橋 俊二
預言者ムハンマド

Prophet Muhammad


 

付録1 ムハンマド(Prophet Muhammad)

 

 

 

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目次

 

1. クルアーンでの名前と呼称(Names and Appellations in Qur’an)

2. ムハンマドの生涯に関する出典(Sources for Muhammad’s Life)

2.1 クルアーン(Qur’an)

2.2 初期の伝記(Early Biographies)

2.3 非アラブの出典(Non-Arabic Source

3. イスラム以前のアラビア(Pre-Islamic Arabia)

4. ムハンマドの生涯(Muhammad’s Life)

4.1 クライシュ族興隆と預言者誕生(Rise of Quraysh and Birth of Prophet)

4.1.1メッカ支配者となったクサイイ(Qusayy as Meccan Ruler)

4.1.2 クサイイの孫ハーシム(Qusayy’s Grandson Hashim)

4.1.3 アブド ムッタリブ('Abd al-Muttalib)

4.1.4 アブドゥッラー('Abd Allah)

4.1.5 預言の光(Light of Prophecy)

4.1.6 象の年(Year of Elephant)

4.1.7 ムハンマドの誕生(Birth of Muhammad ibn 'Abd Allah)

4.2 メッカでのムハンマド(Muhammad in Mecca)

4.2.1 少年時代と若い時代(Childhood and Early Life)

4.2.2 クルアーンの始まり(Beginning of Qur’an)

4.2.3 反対勢力(Opposition)

4.2.4 メッカでの最後の年月(Last Years in Mecca)

4.2.5 夜の旅と昇天(イスラーとミウラージュ(Isra and M’raj)

4.3 メディナでのムハンマド(Muhammad in Medina)

4.3.1 聖遷(ヒジュラ)(Hijra)

4.3.2 新しい政治組織の確立(Establishment of a new polity)

4.3.3 武装闘争の始まり(Beginning of Armed Conflict)

4.3.4 メッカとの闘争(Conflict with Mecca)

4.3.5 メディナの制圧(Siege of Medina)

4.3.6 フダイビーヤの休戦(Truce of Hudaybiyyah)

4.4 晩年(Final Years)

4.4.1 メッカ征服(Conquest of Mecca)

4.4.2 アラビア征服(Conquest of Arabia)

4.4.3 最後の巡礼と死(Farewell Pilgrimage and Death)

4.5 没後のイスラーム教国進展(Aftermath)

4.6 妻達と子供達(Wives and Children)

4.7 奴隷(Slaves)

5. 遺産(Legacy)

5.1 改正(Reforms)

5.2 スンナ(慣行・慣習)(Sunna)

6. 伝統的見地(Traditional Views)

6.1 イスラーム教徒の崇拝(Muslim Veneration)

6.2 西洋人の見地(European and Western Views)

7. 出典(Source)

 

 

 

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1. クルアーンでの名前と呼称(Names and Appellations in Qur’an)

 

ムハンマドの名は「ほめるべき(Praiseworthy)」との意味でクルアーン(Qur’an)4回出てくる。クルアーンはムハンマドを第二人称でその名前ではなく、呼称で呼んでいる。呼称には預言者(Prophet)、使徒(Messenger)、神の僕(Servant of God or ‘Abd)、告知者(Announcer or Bashir)、警告者(Warner or Nathir)、思い出させる人(Reminder or Mudhakkir)、立会人(Witness or Shahid)、朗報の伝達人(Bearer of Good Tidings or Mubashshir)、宣教者(Da’i)、光り輝く灯明(Light-giving Lamp or Siraj Munir)等がある。ムハンマドは時々、呼びかけた時の状態での名称で呼ばれている。

 

クルアーンの中では信者達は神の使徒達の間の区別はせず、使徒全員を信じている。神は使徒の数人を他の使徒達よりも優れているとされており、神はムハンマドを最後の預言者(Seal of Prophets or Last Prophets)として選りすぐった。クルアーンはムハンマドを「もっと称賛されるべき者」との意味を持つ名のアハマド(Ahmad)としても言及している。

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2. ムハンマドの生涯に関する出典(Sources for Muhammad’s Life)

 

歴史上大きな影響を与えた人物、ムハンマッドの人生、行いおよび考えは数世紀にわたって信徒達や敵対者達の間で論争され、それがムハンマドの伝記を書くのを難しくしてきた。

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2.1 クルアーン(Qur’an)

 

イスラーム教徒達(Muslims)は「クルアーンを歴史上でのムハンマドについての知識に関する基本的な資料である」と考えている。クルアーンはムハンマドの人生に関して幾つかの間接的な言及はしている。クルアーンはムハンマドが変えてゆく歴史的な状況に絶えず、しばしば率直に、対応しており、その中には隠された資料もたくさん含まれている。。

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2.2 初期の伝記(Early Biographies)

 

次に重要なのはイスラム暦(Muslim Era)3世紀および4世紀の著述家による歴史書(Historical Works)である。これらの歴史書はムハンマドの伝統的なイスラーム教徒としての伝記とムハンマドの人生に関するもっとおおくの情報を提供してくれる行跡(Sira)や言行録(Hadith)等の引用文を包含している。

 

初期に書かれたムハンマドの伝記やムハンマドに帰する引用文等の行跡(Sira)で、今も残っている文章は約767年(ヒジュラ暦150年)にイブン イシャク(Ibn Ishaq)*が著作した「神の使徒の一生(Life of God’s Messenger)」である。この作品は失われてしまってはいるが、非常に長い文書が一字一句変えずにイブン ヒシャム(Ibn Hisham, died 833)およびタバリー(Muhammad ibn Jarir al-Tabari, 838 – 923)によって使われている。

 

もう一つの初期の資料はイスラーム教徒歴史家ワクーディー(al-Waqidi, c. 748 – 822)著の「ムハンマド出征の歴史(History of Muhammad’s Campaigns)」およびその秘書のイブン サ‘ド バグダディ(Ibn Sa’d al-Baghdadi, c. 784 – 845)の作品である。

 

さらに、言行(ハディース(Hadith)*)の蒐集(Hadith Collection)はムハンマドの没後、数世代に渡ってムハンマドの言葉や行動の記述したものである。言行録(Hadith Compilation)はムハンマドの慣例(行動)や言い習わし(語った言葉)の記録である。言行録(Hadith Compilation)は適例(Exemplification)と遵奉(Obedience)のためにムハッマドの共同体が長い間の記憶によって不朽にしたムハンマドの伝記としても定義できる。

 

西洋の学者達は言行録(Hadith Compilation)を正確な歴史的資料として注意深く考察している。学者によっては後世に編集された叙述を拒否はしていないが、これら叙述を歴史的前後関係や出来事や計算の適合性に基づいて判断している。最後に口伝え(Oral Tradition)がある。普通は歴史家達には重要視されないが、口伝えはムハンマドへのイスラームでの理解には重要な役割を担っている。

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2.3 非アラブの出典(Non-Arabic Source

 

ムハンマドに関する初期のギリシャの史料は9世紀のセオファニス(Thophanes, ca. 778 – 845)の著述であり、初期のシリア(Syria)の史料は7世紀のネストリウス派(Nestorian)キリスト教徒ジョン バール ペンカイェ(John bar Penkaye)の記述である。

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3. イスラム以前のアラビア(Pre-Islamic Arabia)

 

アラビア半島は大半が乾燥した不毛地帯や火山地帯であり、オアシス(Oases)や泉(Springs)の近傍を除けば営農は難しかった。この様な地勢では町や市が点在しており、その中で傑出していたのがメッカ(Mecca)とメディナ(Medina)であった。メディナは大きな実り豊かな農業集落であり、メッカは周辺の多くの部族にとって重要な金融センターであった。人々は過酷な環境と生活様式に対する支援を必要としていたので、共同生活は沙漠条件で生き残る為には不可欠であった。部族的統合は単位として行動する為の必要性から促進させられ、この統一は血縁による親族の結びつきを基礎としていた。土着のアラブ族(Arabs)は遊牧民か定住民のいずれかであった。遊牧民が自分達の家畜の群れの為に水や牧草地を求めて、ある場所から次の場所へと絶えず移動しており、定住民は移動せずに通商や農業に従事していた。遊牧での生存は隊商やオアシスへの襲撃にも依存しており、遊牧民はこれを罪とは考えていなかった。

 

イスラム以前のアラビア(Pre-Islamic Arabia)では神々や女神達はそれぞれの部族の保護者であるとみなされ、その神霊は聖なる木々、石、泉や井戸に宿っていると思われていた。毎年の巡礼に赴く場所も同じで、メッカのカアバ神殿(Kaaba Shrine)*は各部族の守護神である360体の偶像を収容していた。これらの偶像神達とは別にアラブ族は文字通り神を意味するアッラー(Allah)*とう云う最高神を共通の信仰として共有していた。アッラーは日常の事柄とは遠くかけ離れ、この為に崇拝や祭式の対象ではなかった。アッラーと共にその娘達アッラート(Allat)*、マナート(Manat)、ウッザー(al-‘Uzza’)三体の女神を伴っていた。

 

その一方で、一神教社会はキリスト教徒(Christians)およびユダヤ教徒(Jews)を含み、アラビアに存在していた。ハニーフ(Hanifs)*(預言者アブラハム(Abraham or Ibrahim) の純粋な一神教の信仰)も時々、キリスト教徒(Christians)およびユダヤ教徒(Jews)と共にイスラーム以前のアラビアでの一神教に列挙されているが、その史実性については学者の間で論議されている。イスラム教徒の伝承によれば「ムハンマド自身がハニーフでありアブラハム(Abraham)*の息子のイシュマエル(Ishmael)*の子孫の一人であった」と言われている。

 

 

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4. ムハンマドの生涯(Muhammad’s Life)

 

イスラーム教(Religion of Islam)の開祖ムハンマド(Muhammad)はモハメッド、マホメット、MohammedMuhammedとも転写されているムハンマド イブン アブドゥッラー (Muhammad ibn 'Abdullah, ca. 570/571 - 632)であり、おおよそ570/571年に生まれ、63268日にメディナ(Medina)で亡くなっている。

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4.1 クライシュ族興隆と預言者誕生(Rise of Quraysh and Birth of Prophet)

 

4.1.1メッカ支配者となったクサイイ(Qusayy as Meccan Ruler)

 

キリスト暦の45世紀頃まではカアバ神殿(Ka'bah or Kaaba)*の主神偶像フバル神(Hubal)*を持ち込んできたイスマーイール族(Isma'ilite)*のアラブ部族であるクザーア族(Khuza'ah)*がメッカ(Mecca)を支配してきたが、もう一つのイスマーイール族(Isma'ilite)で、後にクライシュ族(Quraysh)*がメッカで支配力を増し始めた。そのクライシュ族の部族民の1人が神の最後の預言者に選ばれた。

 

クライシュ族のクサイイ(Qusayy, c. 400 - 480)がクザーア族(Khuza'ah)の族長の娘と結婚し、後にメッカの統治者でカアバ神殿(Ka'bah or Kaaba)*の守護者となった。クサイイは聖地に住むクライシュ族とその外に住む者達の両方を支配した。クサイイは能力のある統治者でカアバ神殿の周囲に同心の環状地帯を作り、住人をそれぞれの社会的な階級によって決められた環状に割り当て、メッカの市作りを行った。この割り当てでは地位の高い者達から「古代の家(Ancient House)」の近くに住む様に決められた。そしてその痕跡は最近の数十年(20世紀)の都市計画の到来までは実際に見つけられていた。

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4.1.2 クサイイの孫ハーシム(Qusayy’s Grandson Hashim)

 

クサイイ(Qusayy)の孫はハーシム(Hashim, died c. 510)と名付けられ、その後は預言者の一門はハーシム家(Hashimite)と呼ばれた。ハーシムも有能な統治者であり、この市を通る通商路を拡大し、メッカを繁栄させるのに成功した。ハーシムはカズラジ族(Tribe of Khazraj)*のヤスリブ(Yathrib)に居るもっとも影響力のある女性の一人サルマー(Salma)と結婚し、この結婚でシャイバ(Shaybah ibn Hashim, c. 497 - 578)が生まれた。シャイバはヤスリブに居た母に育てられ、父が死んだ時に叔父のムッタリブ(Muttalib)によってメッカ(Mecca)に連れて来られた。

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4.1.3 アブド ムッタリブ('Abd al-Muttalib)

 

シャイバ(Shaybah ibn Hashim, c. 497 - 578)はメッカ市へ入る時に叔父の後に騎乗していた。このため、間違えられて、ムッタリブの奴隷(Slave of Muttalib or 'Abd al-Muttalib)と呼ばれ、それがそのまま身元を確認される名になった。シャイバ(Shaybah即ちアブド ムッタリブ('Abd al-Muttalib)は偉大な精神的な才能と政治的手腕を備えた非凡な人物であり、最終的にメッカの統治者と成った。

 

かつてヒジュル イスマーイール(Hijr Isma'il)として知られるカアバ神殿に近い地区で寝ている間にアブド ムッタリブは「ずうっと昔にアマリク族('Amaliq)*よって埋設されたザムザムの泉(Spring of Zamzam)を掘り出さなければならない」と云う夢を見た。この夢を二回見たのでアブド ムッタリブ('Abd al-Muttalib)はカアバ神殿の周囲を歩き回り(Circumambulate))始めた。この古代の儀式を終えた後、アブド ムッタリブは多くの鳥がカアバ神殿から100ヤード(91.44m)離れた場所を気取って歩いているのを見た。そこで、アブド ムッタリブは天国からのその合図で自分が導かれた場所を掘り始めた。間もなく、長い間失われていたザムザム泉が近い将来での原始一神教(Primordial Monotheism)の再主張とカアバ神殿が唯一神の為に再び供されるのを予言する様に勢い良く噴き出した。ハーシムの部族はその特権としてザムザム泉の水の治水権を与えられた。

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4.1.4 アブドゥッラー('Abd Allah)

 

アブド ムッタリブ('Abd al-Muttalib)(シャイバ)は「もし、自分が10人の息子を持ったら、その中の一人は神に生け贄として供する」と誓った。アブド ムッタリブはハニーフ(Hanif)*即ち純粋な一神教徒としてその神を祈って居り、メッカの偶像神達の前で腰をかがめる事は無かった。

 

アブド ムッタリブは自分の一番愛していた息子アブドゥッラー('Abd Allah ibn Abd al-Muttalib, 545 - 570)を生け贄として選んだが、その母でクライシュ族(Banu Quraysh)の有力な一門マクズム家(Makhzum)出身のファティマ(Fatimah)がこれに反対した。何回も何回も協議とお祈りをした後にアブド ムッタリブはアブドゥッラーの替わりに100頭の駱駝を生け贄にする事で同意した。後のイスラームの預言者の父はこれによって延命し、アブドゥッラー('Abd Allah)はその肉体の美しさによってその時代のヨセフ(Joseph)と呼ばれた。アブドゥッラーは569年に父親の選択でクサイイ(Qusayy)の兄弟の子孫アミーナ(Aminah)と結婚した。

 

この時代に一人のハニーフ(Hanif)*が既にキリスト教徒になりワラカ(Waraqah)と云う名でメッカに住んでいた。この地方の他のキリスト教徒と連絡を取っていた聖なる男は「新たな預言者の到来は切迫している」と宣言した。ユダヤ教の宗教指導者達(Rabbis)もこのニュースを信じたが、ラビ達(Rabbis)は「新しい預言者はイサク(Issac)の子孫だ」と考えて居た。それに対してワラカ(Waraqah)は「それはアラブ族だろう」と考えていた。

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4.1.5 預言の光(Light of Prophecy)

 

結婚式の前にアブドゥッラー('Abd Allah)とその父のアブド ムッタリブ('Abd al-Muttalib)は結婚式の行われる場所に向かって歩いて居る時にワラカ(Waraqah)の美しく敬虔な姉妹クタイラ(Qutaylah)が家の前に立っていた。彼女はアブドゥッラーを見て、その顔にある光でビックリさせられた。彼女はそれが預言の光(Light of Prophecy)であるのを知っていた。彼女はアブドゥッラーにアブドゥッラーの家でその父によって生け贄とされた100頭の駱駝の代償として彼女自身を娶るように申し出た。しかしながら、アブドゥッラーは父に逆らうことは出来ず、この申し出を断った。結婚の床入り式(Consummation)の翌日、アブドゥッラーがクタイラ(Qutaylah)に再びあった時には彼女はアブドゥッラーに何の興味も示さなかった。アブドゥッラーがその理由を尋ねると彼女は「アブドゥッラーの顔の光は消え失せた」と言った。光はその夜の前に受胎した卵子の中に移動していた。アブドゥッラーは自分の息子ムハンマド(Muhammad)を見るまでは十分長く生きられず、ムハンマドは象の年(Year of Elephant)と呼ばれる570年に孤児として生まれた。

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4.1.6 象の年(Year of Elephant)

 

570年はメッカ、アラビアおよび最終的には世界中の殆どの地域にとって眞に容易ならざる年であった。アビシニア(Abyssinia)のキリスト教国の将軍アブラハ(Abrahah, ruled 525 – 553)*がイエメン(Yemen)を征服し、サヌア(San'a)に大聖堂を建設した。アブラハは「この記念すべき建造物がアラビアの宗教活動の中心としてメッカに取って代わる」と云う希望を抱いていたが、この大聖堂はキナナ族(Kinanah)*の一団に神聖さを汚された。

 

キナナ族(Kinanah)の一団は安全に逃亡したので、アブラハはカアバ神殿(Ka'bah)を地面に完全に倒壊させる事でメッカ(Mecca)に復讐しようと決め、象に先導された大規模な軍隊を編成した。メッカに近づくとアブラハは「この市の民に何も敵意は無く、カアバ神殿を破壊したいと望んでいるだけである」と言いながらクライシュ族(Quraysh)の指導者に市から出て自分に会いに来る様に要求した。アブド ムッタリブ('Abd al-Muttalib)が市から出て、アブラハと会ったが、大きな驚きとしてはアブド ムッタリブはカアバ神殿の保存は求めず、アブラハ(Abrahah)の兵隊達に略奪された200頭の駱駝の返還だけを要求した。アブラハが「どうしてそれだけが要求なのか」とアブド ムッタリブに尋ねるとアブド ムッタリブは「自分は自分の駱駝だけに責任があり、カアバ神殿の神(Lord)は自分自身の家は自分で面倒をみるだろう」と答えた。アブド ムッタリブはそれからカアバ神殿に戻り、神に助けを乞った後にメッカの民(Meccans)全員と近くの丘に避難した。

 

アブラハ(Abrahah)はメッカに向けて行軍しようと決めていたが、市に近づくと軍隊の先頭の象が動くのを拒否し、単に地面に座り込んでしまい、どんなに叩いても動かなかった。突然、一天にわかにかき曇り、鳥の大群が現れた。その大群は石などをこの軍隊に投げつけ、殆どの兵隊を殺してしまい、残りもイエメンへと逃げ帰らせた。この為にこの年は「象の年(Year of Elephant)」としてイスラーム世界では広く知られている。この結果、間もなく歴史の脚光を浴びる事となるメッカは救われ、クライシュ族(Quraysh)はその祈りが神に答えられたので「神の民(People of God)」として他の部族から大変に敬意を払われる様に成った。

 

(注)言い伝えでは570年を「象の年(Year of the Elephant)*」としているが、象の年はアクスム王国(Aksum)の将軍アブラハ(Aksumite King Abraha)が象を含む部隊を率いて侵攻しメッカを破壊するのに失敗した後に命名されている。最近の学者達は「この侵攻は568年あるいは569年であったのではないか」と他の年を示している。又、「アブラハ(Abraha)自身は西暦553年に没している」と云う碑文もあるそうだし、アクスム王国(Aksumite)のイエメン支配は西暦570年に終了しているので私にも570年よりももっと前の出来事ではないかと思える。

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4.1.7 ムハンマドの誕生(Birth of Muhammad ibn 'Abd Allah)

 

容易ならざる年には奇跡でカアバ神殿が救われたばかりでは無く、この年に生まれた殆どの人達が40年後に大天使ガブリエル(Archangel Gabriel or Angel Gabriel)*の訪問を受けた。大天使ガブリエルは幾世紀の間にその元々の外面を被っていた唯一の健忘症(怠慢)の全ての垢をカアバ神殿から取り除いた。ムハンマド イブン アブドゥッラー(Muhammad ibn 'Abd Allah)570年のイスラーム暦第3(Rabi’ al-Awwal)にメッカの名家の1つであるハーシム家(Banu Hashim)でアーミナ(Aminah)を母として生まれ、この名を神の命令で与えられた。祖父のアブド ムッタリブ('Abd al-Muttalib)はこの新生児を直ちにカアバ神殿へと伴い、神に祈りを捧げた。この様にしてその人生と預言者の後のお告げがこの世への誕生の初めからカアバ神殿と織り合わされ、繋がりが確立した。イスラームによればその繋がりは「審判の日(Day of Judgment)」まで続く。

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4.2 メッカでのムハンマド(Muhammad in Mecca)

 

ムハンマドは570年に生まれた後、622年までの52年間メッカで過ごした。この52年間は神のお告げを受ける前と後に分けられる。

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4.2.1 少年時代と若い時代(Childhood and Early Life)

 

ムハンマドの父アブドゥッラ イブン アブド ムッタリーブ(Abd Allah ibn Abd al-Muttalib, 545 -570)はムハンマドの生まれる6ヶ月近く前に亡くなっている。その上、生家ハーシム家(Banu Hashim)はムハンマドの若い時代にはあまり裕福ではなかったようである。「遊牧民にある時期世話になるのはこの時代の慣わしであり、沙漠の生活は幼児にとって健康的であると考えられていたので、ムハンマドは生まれると直ぐに沙漠に住むベドウイン(Bedouin)のもとへ、その家庭で生活する為に送られた」と言い伝えられている。

 

ムハンマドは自分の養母、ハリマー ビント アビ ズアイブ(Halimah bint Abi Dhuayb)とその夫と2歳になるまで一緒に過ごした。西洋のイスラーム学者にはこの言い伝えの史実に対して否定している者も居る。6歳にしてムハッマドは母アミーナ(Aminah bint Wahb, ? – 577)も病気で失い、完全な孤児になった。ムハンマドは結局、父方の祖父、クライシュ族(Quraysh Tribe)ハーシム家(Banu Hashim)のアブド ムッタリーブ(Abd al-Muttalib, c. 497 – 568)の庇護の下で2年間を過ごした、ムハンマドが8歳の時に祖父も亡くなった。そしてムハンマドは伯父で、ハーシム家(Banu Hashim)の新しい指導者アブ タリーブ(Abu Talib bin `Abd al-Muttalib, 549 – 619)*の庇護を受けることになった。6世紀のメッカでは部族の弱者を庇護することへ一般的な軽視傾向があったが、それだけでなく、ハーシム家の命運が衰えてきたこの時期に、ムハンマドを飢えて死なせない様にする以上の事をしてやるのは庇護者とってはほとんど不可能であった。

 

まだ十代のうちにムハンマドは伯父のシリア(Syria)までの交易の旅に付いて行った。これによって孤児となったムハンマドに与えられた唯一の身を立てる道となる商業交易の経験を積むことが出来た。言い伝えによればムハンマドが9歳あるいは12歳のときにシリアへのメッカ隊商(Meccans’ Caravan)に随行して行き、バヒラ(Bahira)と云う名のキリスト教徒の修道士とあった。その修道士は「ムハンマドが預言者となる事を予見していた」と言われている。

 

若年期後半のムハンマドについてはほとんど知られていない。入手可能な断片的な情報からすると歴史を言い伝えから切り離すのは非常に難しい。ムハンマドが商人と成り、インド洋と地中海の間の交易に従事していた事は知られている。ムハンマドの正直な性格の為に、ムハンマドはアラビア語で「信義にあつい」、「信用できる」等を意味するアミーン(Al-Amin or Trusted One)と云うあだ名を得て、そして公平な仲裁人として選ばれた。ムハンマドの評判は595年に40歳の未亡人カディージャ(Khadija bint Khuwaylid, ? - 619)*からの求婚を引き寄せた。ムハンマドはその婚姻に同意し、結婚した。子供達も生まれ、金持ちで貞節な妻カディージャの隊商(Caravans)を率いてシリア(Syria)まで赴いたりしており、この結婚はすべての面で幸せなものであった。実際にメッカでのムハンマドの家の基礎は大モスク(Great Mosque)の拡張までは残されており、最近まで見ることが出来た。

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4.2.2 クルアーンの始まり(Beginning of Qur’an)

 

ムハンマドは毎年、数週間にわたり、メッカ近郊のヒラ山(Mount Hira)の洞窟で瞑想をしていた。イスラームの言い伝えではヒラ山を訪ねていたある日の事、大天使ガブリエル(Archangel Gabriel)*があらわれた。それは610年の事で、ガブリエルはムハンマドに次の一節を暗誦するように命じた。

 

「読め、汝の主で慈悲深いお方の御名において。そのお方が凝縮した血の一滴から人間を創造された。読め、汝の主がもっとも慈悲深いと。ペンの使い方を人間に教えられたそのお方は人間に未知の事を教えられた」。

 

ムハンマドが最初の啓示を受けたことについての幾つかの言い伝えによれば、ムハンマドは深く悩み、自分自身を身投げさせる事を夢想したが、ガブリエルはムハンマドに近づき、そして「ムハンマドが神の使徒に選ばれた」と告げた。ムハンマドは帰宅し、妻のハディージャ(Khadijah)とそのキリスト教徒の従兄弟ワラカ イブン ナウファル(Waraqh ibn Nawfal, d. 610)に慰められ、安堵させられた。シーア派(Shia)の言い伝えでは「ムハンマドは大天使ガブリエル(Archangel Gabriel)の出現に驚いたり、怖がったりせず、むしろその出現をまるで期待していた様に歓迎した」と主張していると云う。

 

 

 

最初の啓示の後、3年の休止期間があり、その間にムハンマドはさらなる祈りや精神的な実践に費やした。啓示が再開した時にムハンマドは安堵させられ、説教を始めるように命じられた。「汝の主は汝を見捨てたり、汝を憎んだりはしない」。

 

啓示の到来(Advent of Revelation)は勿論、預言者の人生を完全に変えた。ムハンマドの肩には偶像崇拝社会の真ん中で、しかもその力が偶像崇拝から引き出されている部族の中で唯一神(al-Tawhid)*の教義(Doctrine of Divine Unity)に基づき神の教えを確立する責任を負わされていた。

 

ムハンマドは、まず友人と家族からイスラームの布教を始めた。このような布教は3年間続いた。この時期にイスラームに入信した者はわずか30人にもならなかったが、後のイスラーム発展のためにきわめて重要な役割を担った人々がいる。例えば妻のハディージャ、従兄弟のアリー、養子のザイド、親友アブー・バクルとウスマーン、タルハーなどである。布教開始から3年後、アッラーはイスラームの布教を公開にして行なうようにムハンマドに啓示したとの説もある。

 

ムハンマドは自分がこれらのお告げから自分自身の考えを区別できると確信していた。ムハンマドの主要な役割の1つは不信仰者達に終末論的な罰(Eschatological Punishment)を受けると警告することであった。最後の審判の日(Judgment Day)を明確に言及してはいないが、幾つかの滅亡(絶滅)した社会の例を挙げ、同時代の人間達に悲惨なできごとをムハンマドは警告している。ムハンマドは神の啓示を拒否する者達への忠告人であるばかりでなく、邪悪を捨て、神の言葉を聞き、神に仕える者達に朗報をもたらす伝令(使者)でもあった。ムハンマドの使命には一神教の布教も含まれていた。ムハンマドは「自分の主の名を宣言し、賛美するように要求し、神以外の偶像や神に伴う付随する神格を崇拝してはならない」と指示されていた。

 

ムハンマドの布教の重要な主題には人間のその創造主に対する責任、死からの復活(Resurrection of Dead)、地獄の責め苦と天国の快楽を生き生きと述べた神の最後の審判および人生のすべての面への神意の徴を含んでいた。この時点での信者達に要求された宗教上の義務はほとんど無く、罪への寛容、頻繁な祈り、困っている他人への助力、(メッカの商業生活の中での重要性にもかかわらず)不正と富への愛の拒絶であり、つつしみ深さを守り、新生児の女子を殺害しない事などであった。

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4.2.3 反対勢力(Opposition)

 

イスラーム教徒の言い伝えではムハンマドの妻カディージャ(Chadian)がムハンマドが預言者であると信じた最初の人物であった。カディージャに次いで、ムハンマドの10歳になる従兄弟アリー イブン アビー ターリブ(Ali ibn Abi Talib, c. 600 - 661)*、親しい友人アブーバクル(Abu Bakr, c. 573 - 634)*および養子ザイド(Zayd ibn Harithah, c. 588 – 629)がそれを信じた。613年頃にムハンマドは公に伝道を始めた。殆どのメッカ市民(Meccans)がムハンマドを無視し、ばかにしたけれども何人かは信徒となった。初期の転向者には大商人の若い兄弟や息子達、自分達の部族の最初の序列から転落したか、それになれなかった者達および多くは保護されない外国人等の弱者達の3つのグループがあった。

 

メッカでの反対はムハンマドが公に伝道を始め、偶像崇拝と多神教を崇拝した祖先達を非難したことから始った。信徒(Followers)が増えるにつれて、ムハンマドはこの地方の部族およびこの市の統治者達(Rulers of the City)の脅威になってきた。彼等の富はメッカの宗教中心であり、ムハンマドが打ち壊そうとおびやかしていたカアバ神殿(Ka’bah or Kaaba)*に保管されていた。ムハンマド自身の部族であるクライシュ族(Quraysh)*がカアバ神殿(Ka’bah or Kaaba)の守護者であったので、メッカ市民の伝統的な宗教に対するムハンマドの告発はそのクライシュ族(Quraysh)*に対して特に攻撃的であった。有力な商人達はムハンマドを商人達の仲間に加わることを認め、有利な結婚でそこにムハンマドの地歩を確立する条件でムハンマドに布教を断念する様に説得しようとした。しかしながら、ムハンマドはそれを拒否した。

 

 

 

言い伝えはムハンマドとその信徒達に対する迫害と虐待について多くを記録している。著名なメッカ市の指導者アブ ジャフル(Abu Jahl, d. 624)の奴隷スマイヤー ビント カッバフ(Sumayyah bint Khabbah)は自分の信仰を捨てるのを拒否した時に主人によって投げ槍で殺された。彼女はイスラームの最初の殉教者として傑出していた。もう一人のイスラーム教徒の奴隷ビラル イブン ラバーフ(Bilal ibn Rabah, c. 580 – c. 640)はウマイヤー イブン カラフ(Umayyah ibn Khalaf)によって拷問を受けた。ウマイヤーはビラルの胸の上に重い石を置き、改宗するように迫った。侮辱は別としてもムハンマドは身体的な危害からはハーシム家(Banu Hashim)に属していた為に保護されていた。

 

615年にムハンマドの信徒達の一部がエチオピア(Ethiopia or Abyssinia)のアクスム帝国(Aksumite Empire, c. 50 - c. 940)*に移住し、キリスト教帝国皇帝アシャマ イブン アブジャール(Ashama ibn Abjar)の庇護の下に小さな共同社会を築いた。

 

 

 

初期のハディース(Hadith)*にはアッラー(Allah)の娘達であると考えられている3人のメッカの女神について言及していた部分もあったが、10世紀までにこの出来事の史実性(Historicity)も否定されてしまった。このように、どのような出来事においてもイスラーム教徒達と偶像信者である部族民達の間の関係はすでに悪化しており、さらに悪くなった。

 

617年にクライシュ族(Quraysh)2 一門であるマクズム家(Banu Makhzum)とアブド シャムス家(Banu Abd Shams)は公に商業上の競争相手であるハーシム家(Banu Hashim)に対してムハンマドへの保護を止めるように圧力をかける為に関係断絶(Boycott)を宣言した。この関係断絶は3年間続いたが、結局はその目的を達せずに崩壊した。

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4.2.4 メッカでの最後の年月(Last Years in Mecca)

 

ムハンマドの妻ハディージャ(Khadijah)*と伯父アブ タリーブ(Abu Talib)*2人共、619年に没しているので、この年は「悲しみの年(Year of Sorrow)」として知られている。アブ タリーブの死でハーシム家(Banu Hashim)の指導者はムハンマドの根っからの敵であったアブー ラハブ(Abu Lahab ibn ‘Abdul Muttalib, c. death 624)に引き継がれた。それから直ぐにアブー ラハブはムハンマドに対するハーシム家一門の保護を取りやめた。一門の保護がなくなることはムハンマドを殺してもそれへの血の報復は履行されないことを暗示しているのでこの処置はムハンマドを死の危険にさらした。ムハンマドはそれからアラビア半島でもう1つの重要な市(まち)ターイフ(Ta’if)を訪問し、そこでの保護を求めようとした。しかしながら、その努力は失敗しただけではなく、身体を損なわれる

 

 

 

危険も生じ、ムハンマドはメッカに引き上げざるを得なかった。ムハンマドは叔父でハーシム家一門ナウファル家(Banu Nawfal)家長(Chief) ムト‘イム イブン アディ(Mut’im ibn Adi)の保護を得て、無事に生まれ故郷のメッカに帰れた。

 

当時は多くの人々が商用やカアバ神殿(Kaaba)への巡礼のためにメッカを訪れていた。ムハンマドはこれを利用して自分自身と自分の信徒達の為の新しい居場所を手に入れようとした。幾つかの交渉が不調に終わった後にムハンマドはヤスリブ(Yathrib, later called Medina)から来た数人の男達に希望を見出した。ヤスリブに住むアラブ族はユダヤ教徒社会(Jewish Community)がヤスリブにあった為に一神教徒についてよく知っていた。イスラームに改宗した者たちはメディナのほとんどのアラブ部族に及んでおり、翌年の6月にそのうちの75名のイスラーム教徒達がメッカに巡礼とムハンマドに会うために来ていた。一行は夜間、秘密裏にムハンマドに会い、「第2次アカバの誓い(Second Pledge of ‘Aqaba)」或は「戦いの誓い(People of War)」として知られる誓いを行った。アカバでの誓いの後、ムハンマドは信徒達をヤスリブに移住しようと元気付けた。アビシニア(Abyssinia)への移住の時と同様にクライシュ族(Quraish)は移住を阻止しようとした。しかしながら殆ど全てのイスラーム教徒達はメッカを離れるのに成功した。

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4.2.5 夜の旅と昇天(イスラーとミウラージュ (Isra and M’raj)

 

620年のことに関連するイスラームの言い伝えでは「或る夜に大天使ガブリエル(Archangel Gabriel)*と共に行った」と言われている奇跡の旅「イスラーとミウラージュ(Isra and M’raj)」をムハンマドは経験した。この旅の最初の部分である夜の旅(イスラー(Isra))では「ムハンマドはメッカ(Mecca)から遠隔のモスクまで旅をした」と言われている。イスラーム教徒達は「遠隔のモスクとはエルサレム(Jerusalem)にあるアクサー モスク(Al-Aqsa Mosque)である」と普通には考えている。この旅の二番目の部分の昇天(ミウラージュ(M’raj))ではムハンマドは「天国と地獄に旅をしてアブラハム(Abraham)*、モーゼ(Moses)*、イエス(Jesus)等の先人の預言者達と話をした」と言われている。ムハンマドの最初の伝記の著者イブン イシャク(Ibn Ishaq)*はこの旅を心の中での経験であると紹介しているのに、タバリー(Muhammad ibn Jarir al-Tabari, 838 – 923)やイブン カシール(Ismail ibn Kathir, 1301 – 1373)の様な後世の歴史家は実際の旅であったと紹介している。西洋のイスラーム学者の一部には「もっと古いイスラーム教徒の言い伝えはこの旅は天国を通ってメッカの神域から天国でのカアバ神殿(Kaaba)原型であるバイツ マ‘ムール(al-Baytu l-Maʿmur)まで一気に旅した旅行であったとしているのに対し、後世の言い伝えではムハンマドの旅はメッカからエルサレムまでであったとしている」との主張もある。

 

 

 

エルサレムはムスリム(Muslims)のとって祈りを捧げる最初の方向(al-qiblah al-ula)*であったが、預言者がメッカに居た間に後から神がこの市を祈り捧げる方向(al-qiblah)*とする様に命ぜられた。昇天(al-mi'raj)が後の世代のモスリム全員に対し最初の祈りの方向と二番目の祈りの方向であるエルサレルとメッカとの宗教的な繋がりそしてそれぞれ全体として一神教の中心およびイスラム一神教であるのを再確認している。この二つの市は現世では相互に深く結びついて居り、イスラムの終末論的な教え(Eschatological Teachings)によって宗教的な実体が最後には合体する。

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4.3 メディナでのムハンマド(Muhammad in Medina)

 

 

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4.3.1 聖遷(ヒジュラ)(Hajir)

 

ヤスリブ(Yathrib)の主要な12の一門(Clan)の代表からなる使節が中立の外部者であるムハンマドをメディナ社会全体の首席仲裁人として招聘した。ヤスリブでは100年間におよぶ主としてアラブ民族とユダヤ住民(Jewish Inhabitants)が関係する争いがあった。繰り返される殺戮者の発生や特に全ての一門がかかわったブ‘アスの戦い(Battle of Bu’ath)*の後のその戦いに起因する主張への意見の相違から部族間の血讐(Blood Feud)*や「目には目を」の概念が論争に裁定を下せる権威を持った人間無しには部族間で通用しなくなった。ヤスリブからの使節は自分達自身と仲間の市民達がムハンマドをヤスリブの市民社会に受け入れ、自分達の1員として保護することを誓った。

 

ムハンマドは信徒達に事実上、自分の信徒達全員がメッカを離れるまでにヤスリブへ移住するように指示した。言い伝えによればイスラーム教徒達(Muslims)の出立に警鐘され、メッカ人達はムハンマドの暗殺を企てた。アリー(Ali ibn Abi Talib)*の助けを得て、自分を監視しているメッカ人を愚弄し、秘密裏にアブー バクル(Abu Bakr)*と市から抜け出した。622年までに大きな農業オアシスであったヤスリブへとムハンマドは移住した。メッカからムハンマドと共に移住した信徒達はムハージルーン(Muhajirun or Emigrants)*として知られるようになった。又、ヤスリブ市(Yathrib)は預言者への歓待ぶりから預言者の名を取って預言者の市(Madinat al-Nabi)即ちメディナ(Medina)と呼ばれる様になった。

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4.3.2 新しい政治組織の確立(Establishment of a new polity)

 

メディナの部族間での長年にわたる争いの因をおさめる為にムハンマドが最初にした事はメディナ憲章(Constitution of Medina)として知られた文章の草案作りであった。この憲章はメディナ8部族およびメッカから移住してきたイスラーム教徒達の間の同盟あるいは連盟を設立する為にすべての市民の権利と義務およびイスラーム共同体(Muslim Community)や特にユダヤ教徒(Jews)および啓典の民(Peoples of the Book)*等の共同体を含むメディナの異なる共同体の結びつきを明記していた。メディナ憲章にイスラーム共同体(ウンマ(Umma or Ummah)*と定義されたこの共同社会は宗教的外観を持っているが、実際的な配慮によっても形作られ、古いアラブ部族の法律上の形をしっかりと保っている。この憲章は最初のイスラーム教国を事実上、設立した。

 

メディナでイスラームに改宗した多神教(Pagan)の最初のグループは自分達の一門の為の偉大な指導者を生み出せずに他の一門出身の好戦的な指導者達に苦しめられていた者達であった。これに一部の例外を除いてメディナの多神教徒達によるイスラームの全般的な受け入れが続いた。前述のイブン イシャク(Ibn Ishaq)*によれば、これはメディナの著名な指導者でアウス族(Banu Aus)*族長サ イブン アザ(Sa’d ibn Mu’adh)622年にイスラーム改宗した影響である。イスラームに改宗し、イスラーム教徒移住者達(ムハージルーン(Muhajirun or Emigrants)*)が避難所を見つけるのを助けたメディナの住人達(Medinans)はアンサール(Ansar or Supporters)*として知られる様になった。それからムハンマドは移住者達と支援者達の間の兄弟の縁を結ばせ、自分もアリー(Ali)を自分自身の兄弟として選んだ。

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4.3.3 武装闘争の始まり(Beginning of Armed Conflict)

 

移住の後、メッカの住人達はイスラーム教徒達のメッカに残した財産を押収した。経済的な困窮と職業に就けない為にイスラーム教徒の移住者達はイスラーム教徒とメッカの間の武装闘争を故意に始め、戦争行為としてメッカの隊商を襲い始めた。ムハンマドはイスラーム教徒がメッカ市民と戦うのを容認する聖節を説教した。これらの闘争は交易妨害でメッカに圧力をかけ、イスラーム教徒達が、メッカを新しい信仰に服従させる最終目的の為に働きながら、富と力と名誉を得るのを容認した。

 

 

 

6243月にムハンマドはメッカ商人の隊商を襲うために300名の戦士を率いていた。イスラーム教徒達は隊商をバドル(Badr)で待ち伏せしていた。この企みを知って、メッカ商人の隊商はイスラーム教徒達を巧みにかわした。一方、メッカから軍隊がこの隊商を保護するために派遣されていた。この軍隊は隊商が無事である事を聞いてもイスラーム教徒達と戦う為に前進を続けた。バドルの戦い(Battle of Badr)*はこうして6243月に始った。13と数では劣っていたけれどもイスラーム教徒達は僅か14名の犠牲で少なくともメッカ軍45名を殺害し、戦闘に勝利した。イスラーム教徒達はアブー ジャフル(Abu Jahl, died 624)を含む、多くのメッカ指導者も殺害し、捕虜70名を確保した。その捕虜の多くは直ぐに身代金と引き換えに開放された。ムハンマドとその信者達は信仰の確証をこの勝利に見た。

 

この勝利はマディナでのムハンマドの立場を強化し、信徒達の間にあった以前からの疑問を払拭させた。結果としてムハンマドへの反対の声はより小さくなった。早くから多くの多神教徒達が改宗していたので、多神教徒達の敵対はメディナでの事柄の中では主要な問題ではなかったが、残りの多神教徒達はイスラームの進展に痛恨の思いを持っていた。特に女流詩人アスマ ビント マルワーン(Asma bint Marwan)とユダヤ人詩人アブアファク(Abu ‘Afak)はイスラーム教徒達(Muslims)に辛らつで、侮辱した詩文(Verses)を作った。この2人は暗殺されたが、ムハンマドはそれを非とはしなかった。誰も敢えてこの2人のために復讐をしようとする者はおらず、そして秘密裏にすでにイスラームに改宗していたアスマ ビント マルワーン(Asma bint Marwan)の一門の何人かが公にイスラームであることを明言した。これ以降、多神教徒の中でのムハンマドに対する反抗は終わった。

 

ムハンマドはユダヤ教徒の3大部族の1つであるカイヌカ一門(Banu Qaynuqa)をメディナから追放した。バドルの戦い(Battle of Badr)の後、ムハンマドは北ヒジャーズ(Northern Part of Hijaz)からの攻撃から自分達の共同体を守る為に多くのベドウイン族と相互援助同盟も結んだ。

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4.3.4 メッカとの闘争(Conflict with Mecca)

 

バドル(Badr)での攻撃はムハンマドに敗戦への復讐に燃えるメッカの住人達(Meccans)との総力戦をのっぴきならなくさせた。経済的な繁栄を維持する為にメッカの住人達はバドル(Badr)で失った名声を回復する必要があった。次の数ヶ月間にムハンマドはメッカと同盟している部族への遠征の指揮をし、メッカの隊商への襲撃を行わせた。アブー スフヤン(Abu Sufyan, 560 – 650)*はそれに対して3,000名からなる軍隊を集め、メディナ攻撃に向かわせた。

 

偵察隊がムハンマドに一日後のメッカ軍の位置と人数を予告した。次の朝、イスラーム教徒の軍事協議会ではメッカ軍を撃退するにはどの様にするのが最良かをめぐって論争が続いた。ムハンマドと長老達の多くは「メディナの中で戦うのがより安全でその要塞化された牙城の利点を生かせる」と提案した。若いイスラーム教徒達は「メッカ軍は収穫をだいなしにした」そして「メディナの牙城に隠れることはイスラーム教徒の名声を失墜させる」と主張した。

 

ムハンマドはついに若者達の願いを容認し、イスラーム軍を戦いに備えさせた。こうして、ムハンマドは自軍を率いて城外に出てメッカ軍が野営をしていたウフド山(Mountain of Uhud)に向かい、625323日(319日との記述もある)にウフドの戦い(Battle of Uhud)*で争った。イスラーム軍は初戦では優勢であったけれども戦略的な場所に配置されていた弓隊の一部が無節操な行動を起こし、ハムザ(Hamza ibn ‘Abd al-Muttalib)を含む75名の戦死者を出し、敗北した。ハムザはムハンマドの叔父でイスラーム教徒の言い伝えではもっとも良く知られた殉教者の1人である。

 

メッカ軍はイスラーム軍をそれ以上は追撃せず、勝利を宣言しながらメッカに引き上げた。しかしながら、イスラーム教徒達(Muslims)を完全に撲滅するという目的の遂行には失敗していた。イスラーム教徒達は死体を埋葬し、その日の晩にはメディナに戻った。この損失の理由に対する質問が貯まってきたのでムハンマドはその後、この敗北は一部は命令違反に対する懲罰であり、一部はぐらつかない事に対する試練であった事を示唆する聖節を説教した。

 

 

 

アブー スフヤンはメディナに対するもう1回の攻撃を指示した。アブー スフヤンはムハンマドの弱々しさ、戦利品の約束、クライシュ族(Quraysh)の名声および賄賂を使って、メディナの北と東の遊牧部族の支援を引き付けた。ムハンマドの政策は今では出来るだけ、自分に刃向い、敵対する同盟の設立をできるだけ防ぐことであった。部族民のメディナに反抗する同盟は形成されるとそれを粉砕する為の遠征を行った。ムハンマドがメディナに対して敵対する意思を持つ男達のことを聞くと厳しく対応した。その1つの例がカ‘ブ イブン アシュラフ(K’b ibn al-Ashraf, d. 624)の暗殺である。カ‘ブ イブン アシュラフはユダヤ部族(Jewish Tribes)のナディール一門(Banu Nadir)の首長で、メッカに行って、バドルの戦いの後のメッカ住人達の悲嘆、怒りと復讐の願いを高揚させる詩を書いた。約一年後にムハンマドはナディール一門をメッカから追放した。ムハンマドが自分に対する部族連盟の形成を妨げようとした試みは不調におわたけれども、ムハンマドは自軍を増強し、多くの部族に対し自分の敵方に加わろうとするのを止めさせた。

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4.3.5 メディナの制圧(Siege of Medina)

 

追放されたナディール一門(Banu Nadir)の援助を得て、クライシュ族(Quraish)指導者アブー スフヤン(Abu Sufyan, 560 – 650)*10,000名の部隊を寄せ集めた。ムハンマドは約3,000名の部隊を動員し、この時代にアラビアでは知られていなかった新たな防御法を採用した。イスラーム教徒達(Muslims)はメディナ(Medina)が騎兵隊攻撃にさらされる開口部全てに塹壕を掘った。この案はイスラームに改宗したペルシア人サルマン ファリシー(Salman al Farisi or Salman the Persian)の功績であった。メディナ(Medina)の包囲は627331日に始まり、2週間続いた。アブー スフヤンの軍隊は対決している要塞に対する装備をして居らず、効果のない包囲を数週間続けた後、同盟軍は撤収を決めた。

 

戦いの間、メディナの南にいたユダヤ部族クライザ(Jewish Tribe of Banu Qurayza)はメッカ軍とムハンマドに反乱する為の交渉に入っていた。ムハンマドは確実に打ちのめされるだろうとの入れ知恵で動揺させられたけれども、クライザ族(Banu Qurayza)は同盟軍がムハンマドを亡ぼす事が出来なかった場合の再保証を望んでいた。長い交渉の後、いくぶんはムハンマドの斥候による妨害活動によって、何の合意も得られなかった。同盟軍が退却した後、イスラーム教徒たちはクライザ族の裏切りを非難し、クライザ族の砦を25日間包囲した。クライザ族はついには降伏し、そしてイスラームに改宗した数人を除いて男達は皆、斬首され、女達と子供達は奴隷にされた。

 

メディナの包囲の中でメッカ軍はその持てる力をイスラーム共同社会の破壊に向けた。メッカ軍の失敗はその名声を著しく傷つけ、シリアとの交易を失わせる結果となった。

 

 

 

塹壕の戦い(Battle of Trench)*に続いて、ムハンマドは北方に2回遠征を行った。これらの遠征は戦わずして終わっている。これら遠征の1つ(その数年前であったとの初期の記述もある)から戻るとアーイシャの首飾り(Accusation of Adultery)*騒動が起きた。この騒動はムハンマドが「妻アーイシャ(Aisha)が潔白であることを確認し、不義の罪には4人の目撃証人が必要であると指示するとの天啓を受けた」と告げて納まった。

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4.3.6 フダイビーヤの休戦(Truce of Hudaybiyyah)

 

ムハンマドはイスラーム教徒達(Muslims)に巡礼(Hajj)を命ずるクルアーンの聖節をすでに告げていたが、クライシュ族(Quraysh)*の敵意の為にイスラーム教徒達は巡礼を行えずにいた。628年シャッワル月(Shawwal)にムハンマドは「神が巡礼が終わった後にムハンマドが頭を剃っていたのを思い描かれてその目的達成を約束された」と言い、信徒達(イスラーム教徒達)に生贄の動物を手に入れ、メッカへの巡礼(ウムラ(Umrah)*)の用意をする様に命じた。1,400名のイスラーム教徒達が近づいているのを聞いて、クライシュ族はこれを阻止する為に騎兵隊200名を派遣した。ムハンマドはもっと険しいルートをとって、この騎兵隊をかわし、メッカの直ぐ外のフダイビーヤ(al-Hudaybiyyah)に到着した。早速、メッカとの間を行ったり来たりする使者を使ってクライシュ族との交渉を始めた。

 

交渉が続いている間にイスラーム側の交渉人の一人、後の第3代正統カリフ(3rd Rashidun Caliph, 644 – 656)ウスマーン イブン アッファーン(‘Uthman ibn ‘Affan, c. 574 or 579 – 656)*がクライシュ族によって殺されたとのウワサが広まった。ムハンマドは「もし、この形勢でメッカとの戦争になり、自分がどの様な決定をしようと逃げ出さず、自分から離れない」と誓うように巡礼達に呼びかけた.。巡礼達はこれに応じ、この誓いは「受諾の誓い(Pledge of Acceptance)あるいは樹の下の誓い(Pledge of under Tree)」として知られるようになった。幸い、ウスマーンが無事であるとのニュースで交渉は継続し、10年間の取り決めが最終的にイスラーム教徒達とクライシュ族の間で調印された。この取り決めの主な点には「敵対関係の停止」、「イスラーム教徒達の巡礼の翌年への延期」および「保護者の許可無くメディナへ行っているメッカ住人の送還」等が含まれていた。

 

この時、多くのイスラーム教徒達はこの取り決めに満足していなかった。しかしながら、後になって、この取り決めには「メッカの住人達にムハンマドが同格の存在であることの認識をうえつけたこと」、「将来の良好な関係を装い軍事行動を停止したこと」および「巡礼儀式の結合によって感銘を受けたメッカ住民達の称賛を得たこと」等の利点が含まれており、「メディナに戻ることになったとしてもこの遠征は自分達にとっては1つの勝利であった」とイスラーム教徒達は実感した。

 

休戦協定に調印した後の629年にムハンマドはメディナの北約150kmにあるユダヤ教徒のオアシス(Jewish Oasis)カイバル(Khaybar)へと遠征した。カイバルの戦い(Battle of Khaybar)*として知られているこの遠征はおそらく、ムハンマドへの敵愾心を煽動してしていたナディール一門(Banu Nadir)を追跡し、フダイビーヤの休戦(Truce of Hudaybiyyah)へ不満を持つイスラーム教徒達の関心をそらせる為に行われたと思われる。

 

イスラーム教徒の言い伝えによればムハンマドは世界中の多くの為政者達にイスラームに改宗するように手紙を出した。さらに東ローマ皇帝(Byzantine Emperor, 610 – 641) ヘラクレイオス(Flavius Heraclius Augustus c. 575 – 641)、ササン朝ペルシアの王(Sassanid King, 590 - 628)コスラウ(Khosrau II, ? - 628)およびイエメン(Yemen)首長等には書簡を携えた使節を送った。フダイビーヤの休戦(Truce of Hudaybiyyah)後の数年間にムハンマドは軍隊を東ローマ(Byzantine)領トランスヨルダン(Transjordan)のアラブ部族に対して遠征させた.。しかしながら、629年にヨルダン川(Jordan River)とカラク(Karak)東のムター村(Village of Mutah)近くで戦ったムターの戦い(Battle of Mu’tah)*でイスラーム軍は敗北した。

 

 

 

(注) 3,000人のムスリム軍(Muslims)に対しローマ軍(Eastern Roman or Byzantine)10万人余りと33倍の圧倒的に人数で優勢であったにも拘わらず破れた」との説もあるが、「両軍は安全に退却した」とする記述もあり、「この戦いでイスラーム軍はヨルダン東部のアラブ族征服に失敗した」との解釈の方が一般的になってきている。

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4.4 晩年(Final Years)

 

4.4.1 メッカ征服(Conquest of Mecca)

 

 

 

フダイビーヤの休戦(Truce of Hudaybiyyah)2年間は守られた。バクル族(Banu Bakr)*がメッカ住人達(Meccans)と同盟を結んでいたのに対して、クザア族(Banu Khuza’a)*はムハンマドと良好な関係を持っていた。バクル族の或る一門がクザア族に夜襲をかけ、数人を殺害した。メッカ住人達はバクル族を武器を持ってバクル族を援助し、或る史料によれば何人かのメッカ住人もこの襲撃に加わっていた。この襲撃の後、ムハンマドはメッカ(Mecca)3つの条件を示し、その内の1つを受け入れるように要求した書簡を送った。その条件とは

 

1. メッカ住人達(Meccans)はクザア族へ殺害に対する慰謝料(Blood Money)を支払うか?

2. メッカ住人達は「バクル族(Banu Bakr)に対し今後は一切関知しない」と宣言するか?

3. メッカの住人達は「フダイビーヤの休戦(Truce of Hudaybiyyah)は無効である」とを宣言するか?

 

であった。

 

メッカの住人達(Meccans)は「最後のフダイビーヤの休戦の無効のみを受け入れる」と回答した。しかしながら、間も無くメッカの住人達は間違いに気づき、アブー スフヤン(Abu Sufyan, 560 – 650)*をフダイビーヤの休戦(Truce of Hudaybiyyah)協定を更新する為に派遣したが、その時にはその条件はムハンマドによって丁重に断られた。

 

ムハンマドは軍事行動の準備に取り掛かった。630年にムハンマドは「10万人を超える」と豪語した大軍と共にメッカに向けて行進した。最小限の犠牲でムハンマドはメッカを制圧した。ムハンマドは詩歌(Songs and Verses)の中でムハンマドをあざけり、笑いものにした男女10人を除いて過去の攻撃や侮辱に対して大赦を宣言した。後に10人の内の数人も恩赦した。ほとんどのメッカ住人達はイスラーム教に改宗し、ムハンマドに引き続き、カアバ神殿(Kaaba)内外にあった全てのアラビアの神々の像を破壊した。

 

 

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4.4.2 アラビア征服(Conquest of Arabia)

 

メッカを征服した直後にムハンマド軍の2倍の軍勢を集めたハワジン部族同盟(Confederate Tribes of Hawazin)からの軍事的脅威に曝された。ハワジン族(Banu Hawazin or Hawazin)*はメッカ住民達の仇敵であり、サキフ族(Banu Thaqif)*と同盟していた。ターイフ(Ta’if)の市(まち)を拠点とするサキフ族はメッカ住人達の名声の失墜で反メッカ政策をとっていた。ムハンマドは630年のフナインの戦い(Battle of Hunayn)*でハワジン族(Banu Hawazin)とサキフ族(Banu Thaqif)を打ち破った。

 

同じく630年にムハンマドは北方のアラブ族に対するタブク遠征(Expedition of Tabuk)をおこなった。

 

(注) 預言者モハッメドのタブク遠征(http://www.jccme.or.jp/japanese/riyadh/riyadh_tavuk.cfm#3)を参照

 

これはイスラーム教徒(Muslims)に対する敵意ある態度との報告とムターの戦い(Battle of Mu’tah, 629)*の敗北に対応する為であった。ムハンマドはタブク(Tabuk)で敵軍と遭遇しなかったけれどもこの地方の幾人かの首長が降伏した。タブクの戦い(Battle of Tabuk)*から一年後にサキフ族(Banu Thaqif)*はムハンマドに降伏し、イスラーム(Islam)に改宗する為に使者を送った。多くのベドウイン(Bedouins)がムハンマドの攻撃を避け、戦利品の恩恵を得るためにムハンマドに降伏した。しかしながら、ベドウイン達はイスラームの体制に馴染めず、自分達の独立性、美徳に対する自分達のおきて及び先祖からの慣習を維持したいと願った。この為、ムハンマドはベドウイン達にメディナの宗主権(Suzerainty of Medina)を認め、イスラーム教徒達(Muslims)とその同盟者達への攻撃を慎み、ザカト(Zakat)とイスラーム教の宗教的徴税を支払う条件での軍事的・政治的な盟約締結を要求した。

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4.4.3 最後の巡礼と死(Farewell Pilgrimage and Death)

 

メディナへ移住してから10年目の年の終わりにムハンマドは最初のほんとうの意味でのイスラーム巡礼(Islamic Pilgrimage)を行った。その巡礼の方法によってムハンマドは大巡礼(Great Pilgrimage)とも呼ばれるハッジ(Hajj)の典礼を信徒達に教えた。巡礼を終えた後、ムハンマドは「別離の説教(Farewell Sermon)」として知られる有名な演説を行った。この説教の中でムハンマドは信徒達に太陰暦(Lunar Calendar)への閏月(Intercalary Month)挿入の禁止、部族体制に基づく古い血讐(Blood Feuds)*と紛争の廃止、女性の無防備さへの保護と妻達を折檻する権利、相続や遺言に関する禁止事項、各年の4太陰月の神聖さ等々について述べている。メディナ(Medhna)に戻る途中にクンム池(Pond of Khumm)で行った説教についてはスンナ派解釈(Sunni Tafsir)とシーア派解釈(Shia Tafsir)は異なっている。

 

(注) 「涸れ谷ラービグとクンム池」を参照

 

最後の巡礼と死(Farewell Pilgrimage)の数ヵ月後にムハンマドは病に倒れ、数日間、頭痛と脱力感にみまわれた。ムハンマドは63268日に63歳でメディナで亡くなった。それは頭をアーイシャ(Aisha bint Abu Bakr, 614 - 678)の膝に置き、アーイシャに自分の最後の世俗的な持ち物で7つの硬貨を捨てるように頼んだ直後の事であった。

 

ムハンマドは自分の死んだアーイシャの家に埋葬された。その家はメディナにある預言者のモスク(Mosque of Prophet)の境内に収容されている。ムハンマドの墓の隣にはムハンマドがイエス(Jesus)に用意した空の墓がある。

 

 

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4.5 没後のイスラーム教国進展(Aftermath)

 

本項目については「サラセン帝国時代の文献に記述されたジッダ」を参照されたい。

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4.6 妻達と子供達(Wives and Children)

 

ムハンマドの人生は聖遷前(Pre-hijra)のメッカ時代(Mecca from 570 to 622)と聖遷後(Post-hijra)のメディナ時代(Medina from 622 until 632)に分けられる。ムハンマドは以下に示す総勢13名の妻とめかけを持っていた。

 

カディージャ ビント クワイリド(Khadijah bint Khuwaylid, 555 - 619)*

サウダ ビント ザマ(Sawda bint Zama, died 674)*

アーイシャ ビント バクル(Aisha bint Abi Bakr, 614 - 678)*

ハフサ ビント ウマル(Hafsa bint Umar, c. 609 – 665/666)

ザイナブ ビント クザイマ(Zaynab bint Khuzayma, 595 - 626)

ヒンド ビント アビ ウマイヤ(Hind bint Abi Umayya, c. 580 - 680)

ザイナブ ビント ジャフシュ(Zaynab bint Jahsh, c. 593 - ?)

ジュワイリーヤ イブン ハーリス(Juwayriya bint al-Harith, c. 608 - ?)

ラムル ビント アビー スフヤーン(Ramlah bint Abi Sufyan, c. 589 - 666)

ライハーナ ビント ザイド(Rayhana bint Zayd, died 632)

サフィイヤ ビント フヤイイ(Safiyya bint Huyayy, c. 610 – c. 670)

マイムーナ ビント ハーリス(Maymuna bint al-Harith, c. 594 - 674)

マリア クィブティイヤ(Maria al-Qibtiyya, died 637)

 

その内の数名については妻としてあるいはめかけとしてその地位について異なった記述がある。2人を除いて全ての婚姻はメディナに移住した後に契約されていた。25歳でムハンマドはカディージャ(Khadija bint Khuwaylid, ? - 619)*と結婚した。この結婚は25年間続いた幸福なものであった。ムハンマドは多くの事をカディージャに頼っており、この結婚が続いている間は他の女性と婚姻関係は持たなかった。カディージャの死後、女性の教友カウラ(Khawla bint Hakim)にイスラーム教徒未亡人サウダ(Sawda bint Zamat, died 674)*か、当時6 - 7歳または9 - 10歳になるアブー バクルの娘アーイシャ(Aisha bint Abu Bakr)*と結婚すべきであると助言された。ムハンマドはカウラに両人との結婚を整えるように頼んだ。ムハンマドはカディージャの死後、数日してサウダと結婚し、アーイシャとはその5年後に結婚している。その後もムハンマドはさらに妻を娶っており、その内の9名がムハンマドよりも長生きしている。

 

スンナ派(Sunni)の言い伝えではムハンマドのもっとも愛した妻として知られているアーイシャ(Aisha bint Abu Bakr)はムハンマドよりも数十年長生きし、スンナ派(Sunni)の言行録(Hadith)となった散逸していたムハンマドの言動を蒐集するのを助けた。

 

メディナ(Medina)に移住した後、50代になってはいたがムハンマドは数人の女性と結婚した。これらの妻は戦死したイスラーム教徒(Muslim)の未亡人で保護者無しで残されたか、あるいは恩典を与えるか同盟関係を強化する必要のある重要な家族か一門に帰属していた。

 

ムハンマドは自分自身の雑用は自分でしており、食材の準備、裁縫、靴修理等の家事を手伝っていた。「ムハンマドは習慣的に妻達と対話をしており、彼女達の助言に耳を傾け、妻達は論争し、ムハンマドを説き伏せる事もあった」と云われている。

 

カディージャ(Khadija)はムハンマドにルカイヤ(Ruqayyah)、ウンム クルスム(Umm Kulthum)、ザイナブ(Zainab)およびファーティマ(Fatima Zahra)4人の娘達とアブドゥッラー(Abd Allah)およびカシーム(Qasim)2人の息子達を産んだ。2人の息子は夭折し、ザイナブおよびファーティマを除いてムハンマドが亡くなる前に全員死んでいる。シーア派(Shi’a)の学者達は「ファーティマがムハンマドの唯一の娘である」と主張している。

 

マリア キブティイヤ(Maria al-Qibtiyya)はムハンマドに2歳で夭折したイブラヒム(Ibrahim)を生んだ。

 

ザイナブ ビント ジャフシュ(Zaynab bint Jahsh, c. 593 -  )は結婚する前に一時、ムハンマドの養子ザイド イブン ハリサー(Zayd ibn Haritha, c. 588 – 629)の嫁であり、又ムハンマドの従兄妹でもあった。イスラーム以前のアラビア(Pre-Islamic Arabia)では養子縁組は普通であり、ザイドはムハンマドに奴隷としてカディージャから与えられた。ムハンマドはザイドを自由の身にし、メッカのカアバ神殿に連れて行き、自分の息子であると宣言した。イスラームの到来で、全ての養子縁組の関係は無効になった。そしてムハンマド自身が自分の息子を意味するサイド イブン ムハンマド(Zayd ibn Muhammad)と呼ぶ代わりにザイド イブン ハリサー(Zayd ibn Haritha)と呼び始めた。ザイドの出が奴隷であり、ムハンマドはその社会的地位を開放奴隷(Freed Slaves)に引き上げたいと思っていたので、ムハンマドはザイナブにザイドと結婚するように頼んだ。ザイナブはムハンマドの従兄妹で伯母のウマイマ ビント アブドゥル ムッタリーブ(Umaima bint Abdul Muttalib)の娘であった。ザイナブは最初はザイドとの結婚を拒否し、その兄弟のアブドゥッラー ビン ジャフシュ(‘Abdullah bin Jahsh)からも不快感が示された。しかしながら、ムハンマドが固執したのでザイナブや周囲の者達全てが同意した。この結婚はザイナブが解放奴隷を夫として受け入れられなかったので失敗した。ザイドはこれに疲れ、ザイナブに何の望みも無く悲痛さだけがザイドに残り、それが結局は2人の離婚に結びついた。ムハンマドの従兄妹であったザイナブはムハンマドにとっては他人ではなく、ザイナブがザイドの妻になる30年以上も前にはムハンマドは伯母のウマイマの家で数百回もザイナブを見ていた。

 

ザイドがムハンマドに離婚したザイナブについて相談に来たときにムハンマドは「妻と別れるな、そして神を畏れよ」とは言ったけれども、ムハンマドは既に大天使ガブリエル(Archangel Gabriel)*から「ザイドはその妻と別れるだろう。そしてムハンマドはザイナブと結婚するだろう」と告げられていた。それによって、ムハンマドは譴責されることは無く、神を恐れ、人間達を恐れるなと言われた。ムハンマドは2つの事を恐れていた。1つはクルアーン(Quran)1人の男が4人以上の妻を持つのを制限しており、もしムハンマドがザイナブと結婚すると5人目の妻となり、人々は「我々が4人で貴方が5人なのは差別(Double Standard)だ」と言うだろう。もう1つ恐れていたのはムハンマドは自分が名声を失うことである。アラブ族(Arabs)は事実を会得できずにいたので、養子縁組のような血縁関係はイスラームでは存在せず、血縁関係の無い時代は終わったと人々に悟らせる例を提示しなければならなかった。それを行う為の最良の方法がザイナブとの結婚であるけれども、事は女性の問題であり、ムハンマドは「メディナの偽善者達がこの又と無い機会をイスラームに対する新しい宣伝活動を始める為に逃さないだろう」と恐れていた。この背景に逆らって、ムハンマドは譴責され、そして「神を恐れ、人々を恐れるな」と告げられた。聖節の全文はイスラーム教徒達(Muslims)とメディナの偽善者達に実際に何が起きたかについての完全な話を告げ、そしてその周囲にはびこるうわさに終止符を打つ事を啓示していた。

 

ファーティマ(Fatimah al-Zuhra, c. 605 or 615 - 632)を介してのムハンマドの子孫にはシャリフ一門(Sharifs)、スイェド一門(Syeds)およびサイード一門(Sayyds)がある。これらはアラブ族では名誉のある称号で、シャリフ (Sharif)は高貴、スイェド(Syed)とサイード(Sayyd)は卿や閣下(Lord or Sir)を意味している。ムハンマドの唯一の子孫としてこの3つの一門はスンナ派(Sunni)およびシーア派(Shi’a)の両方に敬意を払われ、特にシーア派ではその卓越性が強調され、価値を認められている。

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4.7 奴隷(Slaves)

 

クルアーン(Qur’an)は奴隷の解放を非常に賞賛に値する行為、または多くの罪を悔い改める条件であると考えている。従って、ムハンマドは通常は開放するために購入した奴隷達の持ち主であった。奴隷達には妾や乳母および自分の守護者として解放する為に購入した養子のザイドが含まれていた。

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5. 遺産(Legacy)

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5.1 改正(Reforms)

 

「イスラームには2つの重要な政治的な伝承がある。1つはムハンマドはメディナの政治家であるとの見方であり、もう1つはメッカ(Mecca)に対する反乱者であるとの見方である」と言っている。「イスラームそれ自身が革命の一種であり、新たな宗教のもたらされた社会を大きく変えた」とみている学者もいる。

 

歴史学者達は「社会保障、家族構成、奴隷制、女性や子供の権利等の分野でのイスラームの社会再編はアラブ社会の現状を進歩させた」と一般的には理解している。例えば、先ず、貴族的な特権を糾弾し、階層制を拒否して、才能に対する職業の基本原則の開放を当てはめた。ムハンマドのお告げは社会およびアラビア半島の生活の道徳的な秩序を主体性、世界観そし価値観の順序に関して社会の再編成を通じてを変えた。経済的な改革はイスラーム以前のメッカでの係争であった貧民層の窮状に向けられた。クルアーン(Qur’an)は貧民層の利益のためにザカト(Zakat)と呼ばれる施し税の支払いを要求しており、そしてムハンマドの地位が力を持つにつれて、ムハンマドは自分との同盟を願う部族にとりわけザカトを要求した。

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5.2 スンナ(慣行・慣習)(Sunna)

 

スンナ(Sunnah)は逐語的には「踏み鳴らされた道すなわち慣行」であるが、主にイスラームにおける預言者ムハンマドの言行や範例を指し、それらは「言行録(Hadith)*」と呼ばれる報告書に保存されている。スンナは宗教的儀式(Religious Rituals)、衛生観念(Personal Hygiene)、死後の埋葬(Burial of Dead)から人間と神との間の愛を含む神秘主義的な質問までの範囲の活動や信仰の広い多くの事項に及んでいる。スンナは敬虔なイスラーム教徒達(Muslims)の為の模倣の雛形と考えられており、イスラーム文化(Muslim Culture)に深く影響してきた。ムハンマドがイスラーム教徒達に教えたお互いの挨拶「アッサラム アライクム(As-Salamu ‘Alaykum or May Peace be upon You)」は世界中のイスラーム教徒達によって使われている。日々の祈り、断食や毎年の巡礼等の主要なイスラーム教の儀式の多くはスンナ(Sunnah)に見られ、クルアーン(Qur’an)には見られない。

 

スンナはイスラーム科学を振興させるのにも大きな役割を担っている。特にイスラム暦最初の世紀の終わりからイスラーム法(Islamic Law)の発展に寄与していた。クルアーン(Qur’an)の秘められた意味やムハンマドの精神的な本性を求め続けていたスーフィー (Sufi)として知られるイスラーム神秘主義(Muslim Mystics)(スーフィズム(Sufism)*)はイスラーム預言者を預言者としてだけではなく、完全な聖人としてみていた。スーフィー (Sufi)は精神的なつながりをムハンマドまで戻って足取りを辿れと命じた。

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6. 伝統的見地(Traditional Views)

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6.1 イスラーム教徒の崇拝(Muslim Veneration)

 

神の唯一性の実証に続いて、ムハンマドの預言者としての信仰はイスラーム信仰の主要な姿である。全てのイスラーム教徒(Muslim)はイスラーム教五行の1つシャハーダ(Shahada)中で「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒である」と唱える。シャハーダはイスラーム教の基本的な信条(Creed)または教義(Tenet)である。理想的にはこの言葉は新生児が聞く最初の言葉であり、子供達はこれが理解できる年頃になったら直ぐに教えられ、死ぬまで暗誦が繰り返される。イスラーム教徒(Muslims)は礼拝(Salah or Salat)を呼びかけるアザーン(Adhan)の中や礼拝そのものの中でシャハーダ(Shahada)を繰り返さなくてはならない。イスラームに改宗を希望する非イスラーム教徒は信条(Creed)の暗誦を要求される。

 

イスラーム教徒達は伝統的にムハンマドへの愛と崇敬をあらわして来た。ムハンマドの一生の物語、ムハンマドの人々の為の神への祈り、特に月章に記載されている「月を割った(Splitting of Moon)」様な奇跡が評判よくイスラーム教徒の考えや詩歌に浸透していた。クルアーン(Qur’an)はムハンマドを世界に対する神の恵みと言及している。オリエントの国々(Oriental Countries)では恵みを伴う雨は天恵を分配し、大地を被う雨雲の様にムハンマドを人々の心に描き出させる。まるで雨が死んだように見える大地を生き返らせる様に死んだ心臓を生き返らせる。ムハンマドの生誕日は、公共の祝い事が妨げられているワッハーブ派Wahhabi)が主導権を握るサウジアラビアを除き、イスラーム世界全体の主要な祭礼として祝われている。イスラーム教徒達は動物や植物と共に人類に対してムハンマドの現在も継続している意義を信じて、ムハンマドを生きている現実として体験している。イスラーム教徒達がムハンマドや他の預言者の名を言ったり、書いたりする時には「‘アライヒ サッラム(SallAllahu ‘Alayhi wa Sallam or Peace be up him)」と通常はその後に続ける。

 

クルアーン(Qur’an)によれば、ムハンマドはアッラー(Allah)が人類へ恩恵として送った預言者達の最後の1人であり、従ってイスラーム教徒達(Muslims)に自分達の間に区別を作らず、唯一神アッラーに屈せよと命じている。クルアーンはそれ以前に出された啓示の確認であり、全てを説明した本であり、そこには主(Lord of World)から何の疑いもない。これ以前には指針と神の恵みとしてモーゼの本(Book of Moses)があった。そして、この本はイスラームの信者達に対して「我々は神と我々に啓示されたものそしてアブラハム(Abraham)、イシュマエル(Ishmael)およびイッサク(Isaac)およびジャコブ(Jacob)および部族に啓示されたものそしてモーゼ(Moses)とイエス(Jesus)が受け取ったものおよび預言者達が神から受け取ったものを信じる。我々は彼等の誰もを区別せず、そして神に屈する」と言えと命じているのを確認している。

 

歴史学者には「クルアーンは奇跡を起こしたムハンマドについてはあまり述べていない。ただ、ムハンマドの最高の奇跡は最終的にはクルアーンそれ自体が明らかにしている」と信じている者もいる。しかしながら、イスラーム教徒の伝統はムハンマドの幾つかの超自然的な出来事を認めている。例えば、多くのイスラーム教徒の解説者達や何人かの西洋の学者達がクライシュ族(Quraysh)がムハンマドの信徒達を迫害し始めた時にムハンマドはクライシュ族の目に「月を割って(Splitting Moon)」見せた件について翻訳していた。

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6.2 西洋人の見地(European and Western Views)

 

主としてラテン語の読み書きのできる学者達を中心とした中世ヨーロッパの博識な社会はムハンマドの人生についてなかなか広範囲で具体的な伝記的知識をもっていたにもかかわらず、彼等はキリスト教的な判断の目から「ムハンマドを権力に対する野心と熱意で動かされる食わせ者(Charlatan)であり、そしてムハンマドがサラセン人達(Saracens)を宗教見せ掛けで服従させている」とみていた。当時のポピュラーであったヨーロッパ文学ではこの様な知識さえ欠けており、ムハンマドをまるで偶像神か異教徒の神(Heathen God)のやり方でイスラーム教徒達に崇拝されているかの様に描写していた。中世キリスト教徒には「ムハンマドが死んだのは実際の632年の代わりに獣の数字である666年である」と信じる者達もいたし、他にはその名前をムハンマドから人間の姿をした悪魔マホウンド(Mahound)に変えた者達もいた。プリンストン大学イスラム・東洋史専攻名誉教授バーナード ルイス(Bernard Lewis, 1916 - )は「マホメット(Mahomet or Mahound)の概念の発展はムハンマドを中世ヨーロッパ人がイスラーム教徒が崇拝していると考えていた架空の邪悪な三主神としてアバドーン(Apollyon or Abaddon)とターマガント(Termagant)と共に崇拝されているムハンマド(Muhammad)を悪魔又は虚偽の神の一種として考えることから始った」と記述している。イタリア人ブルネット ラティーニ(Brunetto Latini, c. 1220 – 1294)が編纂した宝典(Tesoretto)*(リーヴル ドウ トレゾア(Li Livres dou Tresor)*)は「ムハンマドが以前は修道士(Monk)で枢機卿(Cardinal)であった」と述べている。ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri,1265 - 1321)*著の叙事詩 神曲(La Divina Commedia or Divine Comedy)*ではムハンマドをアリー(‘Ali ibn Abi Talib, 598 or 599 – 661)*と共に悪鬼達が仲たがいの首唱者達や教会分離者達と一緒に手足などを繰り返し繰り返し乱暴に引き裂く地獄に落としている。

 

16世紀の宗教改革(reformation)後、ムハンマドはキリスト教徒達によってもはや神や偶像神として見られることは無くなったが、狡猾で野心に満ちた身勝手な詐欺師として見られていた。フランス人言語・天文・神秘思想・外交・宗教博識家ギヨーム ポステル(Guillaume Postel, 1510 – 1581)はムハンマドに肯定的な見方をした最初の学者の1人であった。フランスの著述家ブーランヴェリエ(Henri de Boulainvilliers, 1658-1722)は「ムハンマドを天分に恵まれた政治指導者で公正な立法者である」と述べていた。ドイツ哲学・数学者ライプニッツ(Gottfried Wilhelm von Leibnitz, 1646 - 1716)はムハンマドを自然宗教(Natural Religion)から逸脱していないので称賛していた。スコットランド生まれの評論・思想・歴史家カーライル(Thomas Carlyle, 1795 – 1881)はムハンマドを得難い静かで偉大な指導者として明確に述べている。英国歴史家ギボン(Edward Gibbon, 1737 - 1794)はその著書「ローマ帝国衰亡史(History of Decline and Fall of Roman Empire)」の中で「ムハンマドの良識は王権の虚飾を軽蔑している」と述べている。ドイツの作家ボーデンシュテット(Friedrich Martin von Bodenstedt, 1819 –1892)は「ムハンマドを不吉な破壊者で殺人の預言者である」と記述している。多くは18世紀以降の近年における西洋の著述はそれ以前のキリスト教徒の著述家達の議論のある歴史から距離を置いている。一般的に預言者ムハンマドを拒絶しているもっと歴史的な論じ方は著者達の西洋哲学(Western Philosophy)や聖書に基づく枠組みに影響を受けている。これらの研究の多くは歴史的研究を反映し、そして宗教的・聖書的および霊的な問題よりも人間的・社会的・経済的および政治的要素にもっと注意を払っている。

 

考慮中の問題、主要な世界的宗教の創設者の人生の研究に含まれる特に宗教的で霊的な現実の認識に対して共感を持って近代西洋社会で理解されるに連れて西洋の著述家達が厳密な学問に結びつけたのは20世紀も後半になってからのことだった。エディンバラ大学アラビア・イスラーム研究の名誉教授だったワット(William Montgomery Watt, 1909 – 2006)と同大学のアラビスト リチャード ベル(Richard Bell, 1876 – 1952)によれば、最近の著述家達は「ムハンマドは完全に誠実で、完全に真性な信仰心から行動していた」と論じて、一般的に「ムハンマドがその信徒達を故意に惑わしていた」と云う概念を捨てている。ワットは「誠実さは直接は正しい事を意味しない。現在の用語ではムハンマドは自分自身の潜在意識を神の啓示と間違えたのだろう」と言う。ワットとプリンストン大学イスラム・東洋史専攻名誉教授バーナード ルイス(Bernard Lewis, 1916 - )は「ムハンマドを身勝手な詐欺師と見るとイスラームの発展を理解するのは不可能である」と主張している。ミシガン州立大宗教学教授オールフォード ウェルチ(Alford T. Welch)は「ムハンマドはその使命感に強い信仰心があったので非常に影響力があり、非常に成功することができた」と主張している。希望を持てる合理的な根拠が無いように見える時でも自分の大義の為に困難に耐えるムハンマドの心構えがその誠実性に見てとれる。

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7. (Source)

 

(1) Wikipedia (http://en.wikipedia.org/wiki/Muhammad)

 

(2) イスラームの聖なる都市(祝福されたメッカと光り輝くメディナ)

(Mecca the Blessed, Medina the Radiant)

写真: アリ カズヨシ ノマチ(Ali Kazuyoshi Nomachi)

文: セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr)

 

(3) 岩波イスラーム辞典

 

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