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2009月12月6日 高橋 俊二
 

マッカ・ムカッラマとメッカ州

(サウジアラビア王国西部地方)

その夏の政庁・薔薇の市 ターイフ

Summer Capital - Rose City Taif

 

第三部 肥沃さと農業'Fertility and Agriculture)

第四部 ターイフの歴史的背景(Historical Background of Taif)



 

 

第三部 肥沃さと農業'Fertility and Agriculture)

 

3.1 肥沃さと伝統的農作物(Fertility and Farm Diary Products)

 

快適な気候、豊かな地下水、進歩した灌漑方法および表土質の良さは遙か昔からの素晴らしく肥沃な地方としてのターイフの評判を上げている。これらの要素にターイフはその存在を委ねており、ヒジャーズの主要な農業と畜産の中心としての役割は単に見事に確立しているばかりでは無く、今日でもその重要性を残している。

 

今では葡萄と蜂蜜が有名であるが、昔は小麦と大麦が主食であり、サキフ族(Thaqifi)*の滋養の主成分を代表していた。トウモロコシ(Corn)とキビ(Millet)はモロコシ(Sorghum)やアルファアルファ(Lucene or Alfalfa)と並んで補助的な作物である。果物はライム(Limes)、あんず(Apricots)、柑橘類(Citrus)、オリーブ(OLive)、イチジク(Figs)、桃(Peaches)、ザクロ(Pomegranates)、西瓜(Watermelons)、マルメロ(Quince)、葡萄(Grapes)、アーモンド(Almond)、オプンチア サボテン(Opuntia or Prickly Pears)およびデイツ(Dates)等、ヒジャーズでももっとも種類が多く、品質も最高である。毎日、隊商(Caravans)がターイフの季節の作物を山道を下ってメッカへ運び、この交易で農民達と住人達は繁栄していた。幾つかの果物は恐らくヨーロッパまでも広く販売される対象と成っていた。カルステン ニーブール(Carsten Nienuhr, 1733 - 1815)**17621029日にジェッダに到着した時に1人の英国商人に会った。この商人はターイフからアーモンド(Almond)、メッカからバルサム(Balm)*を交易していた。

 

3.2 葡萄の栽培(Grape Cultivation)

 

数千年の歴史を持つターイフ(Taif)は果樹園でも有名である。イスラム(Islam)以前にはターイフの最も重要な栽培果物は葡萄であり、市の周囲には巨大な葡萄畑が発達していた。葡萄酒の生産が禁止された時に葡萄の大部分はレーズン(Raisins or Zabib)を作るために乾かされた。ターイフのレーズンは種が小さく、軟らかなのでヒジャーズ(Hejaz)の市場では既に大きな需要があり、レーズン(Zabib)はターイフとヒジャーズの他の都市との間の農産品交易の主要な項目の一つと成っていた。ヒジャーズの他の都市ではデーツのペーストや蜂蜜と同じ様にレーズンがこの地方の飲み水の味を良くする為に使われていた。

 

戸外に干してある広大な広がりの葡萄の外観は玄武岩質の熔岩地帯(Harra)の憂鬱な色に似ており、ターイフにかかわる昔のアラビアの著述家達にとっては貴重な文学的テーマの一つであった。893年頃の生まれの昔のアラビア地理学者ハマダニ(al-Hamadani, 893 – 947 or 956)*は著作「シファト ジャジラトアラブ(Sifat Jazirat al-Arab)*(アラビア半島の記述)」を引用するが、同じ逸話が他の著述家達の作品にも繰り返し現れている。

 

ターイフにアムル ビンアース('Amr bin al-'As)*の農園があり、これは各々が1,000ディルハム(dirham)もの値がする千本の支柱によって支えられた背の高い葡萄の葡萄園であった。ウマイヤ朝(Umayyad, 661 - 750)7代カリフ(Umayyad Caliph, 715 - 717) スライマーン ビンアブド マリク(Sulayman 'bin 'Abd al-Malik, c. 674 - 717)は巡礼の途中でその農園の脇を通り、「自分はこれを見てみたい」と言った。そうした後に、カリフは「これは最高に価値があり、最高に美しい財産である。その真ん中にあるのは熔岩地帯ではないのか」と言い放った。それについて、カリフは「これは熔岩地帯では無く、この農園の葡萄から収穫された干し葡萄の山です」と告げられた。干し葡萄(raisins)は実際に農園の真ん中に積み上げられており、遠くから見て、カリフはこれを熔岩地帯と間違えた。これ故にカリフは「すばらしい男はカシ(Qasi)である。(カシ(Qasi)はサキフ(Thaqif)の同意語)この男が子孫の為に選んだのは何と安全な場所である事か!」と公言した。

 

ターイフ出身の詩人アブ ミフジャム(Abu Mihjam)*の書いた有名な詩の一節も思い出される。

 

「お、私が死んだら遺骸を葡萄の蔓の下に埋めて欲しい。葡萄の根が私の乾いた骨を涼しく保つだろう。どうか、私を開けた草原に埋めないで欲しいそこでは葡萄の実を二度と味わえなくなる」。

 

もし、我々が伝説を信じられる様に感じるならミフジャムの意志は尊重され、「ここにアブ ミフジャム(Abu Mihjam)が平穏に眠っている」とだけの言葉の簡単な墓石が墓に建てられ、その脇にミフジャムの愛した三本の葡萄の蔓が植えて置かれた。

 

3.3 誇れる産物としての蜂蜜(Honey as Prized Product)

 

厳密にはターイフ地方の肥沃さに関連して、蜂蜜はターイフの誇るもう一つの産物であった。農業は実際に多くの数と広がりのある農場と花盛りの様々な植物の種類と連続に恵まれている。

 

水で薄められた蜂蜜の飲み物はベドウイン(Beduin)にはもっとも大切な価値があるとされていた。バター、ミルク或いはオイルと混ぜられ、蜂蜜は最も元気の出る食物であり、長寿の食物であると考えられていた。アラブの食事の中では特にターイフの高原の蜂蜜の地位はウマイヤ朝のカリフ スライマーン(Caliph Sulayman ibn Abd al-Malik)が自分の食事の為にターイフ知事に蜂蜜を送る様に命じていた事実によって証明されている。

 

サキフ族の詩人(Thaqifi Poet)のウマイヤ イブン アビ サルト(Umayya ibn Abi al-Salt)はその詩の中でファルジ(Faluj)と呼ばれる蜂蜜に浸された小麦のパイを賞賛していた。

 

蜂蜜はアラビアの薬物類の中でも多くの慢性疾患に対する治療法として傑出した地位にあり、この効用についての韻文もある。

 

「蜂にそれらの部屋を丘の中、木の上そして人間の住まいに作る様に教えた。それから地上の全ての産物を食べ、その神の広々とした道を巧みに見つける。そこで人間達の体の内部で変色した飲み物に由来する。人間の為の治療の中でまさに熟考した者達の為の合図である」

 

ターイフ地方では蜜蜂の巣箱は開口部が普通、南を向き、そだの屋根を持った小さな三面の石小屋に置かれている。各々の巣箱は中空のアカシアの丸太で出来ている。この巣箱は長さが1m位で厚さが約15cmで、両端はしっかり締まる木製の蓋で閉じられている。前面の端の蓋には底の部分に切れ目が入れてあり、そこから蜂が出入り出来る様になっている。巣箱は小屋の中に囲われ、水平の層に積み重ねられている。これらの前面はむき出しになっている。50かそれ以上の巣箱の後には巣箱の持ち主が出入りする狭い空間がある。持ち主はこの空間を利用して収穫時に蜂蜜を抽出する。この仕事は円筒の裏側を送り、鋭いナイフで円形の巣板の周りを切り取る事で行われる。約3cmの厚さの巣板は販売したり、消費したりする為に、全体を錫か、アルミニュームの容器に詰められる。ワックスの小さな塊が空になった巣箱の中に次の巣板が作られる核とする為に置かれる。ターイフの蜂蜜は淡い金色居り、硬くは成らず、専門家が高く評価する風味と芳香がする。

 

3.4 森林からの産物と酪農品(Products of Woods, Livestock and Diary)

 

上記全ての食糧品に加えて、ターイフは山の斜面に広がる森林で採れる薪、炭、木材、香水および樹脂や家畜および酪農品、革や毛(wool)もメッカに送っていた。サキフ(Thaqif)族はかれらの特別な方法を用いて羊の皮や牛の皮を養生する技巧が完璧であったので、革の手工芸は殆ど工業規模に発展していた。この手工芸技術が消滅してしまう前に見識のある書籍愛好家の為の技巧的な本の革装丁のセンターとしてターイフは学識のあるアラビア人達の間での認識を得ている。

 

3.5 高名な薔薇(Rose as Celebrated Plant)

 

ターイフの果樹園で特に高名な植物の一つで、特別に記述する価値が有るのは薔薇である。花の女王は豊富な種類がターイフに咲き乱れるが、非常に激しく芳香を発する赤い薔薇があり、歴史の始まりから高価な香水を作るのに使われて来た。これは西洋でもアラビア名のアッタール(Attar)として知られ、それ自身でも香りと芳香の無数の混合の主要な成分としても甘く優雅な香水である。アラビアの香りは薔薇のアッタール(Attar of Rose)は清涼な海抜2,000mの温暖で水の豊富な良好な土壌に恵まれたシャファ崖地(Escarpment in Shafa)の小さな農園で産する。

 

ターイフの花園では薔薇が虹色に咲き競うが、アッタール(Attar)が抽出されるのはピンク色の種類の薔薇からである。油分の豊富な30枚の花びらを持つダマスクローズ(Damask Rose)は夜明け前に摘まれる。ターイフの薔薇が満開になる早春にこの種類の薔薇の花びらが集められ駱駝の隊商がメッカに運ぶ為に袋に入れられ封印される。メッカでは特別な薬剤師達がこれらの花びらを圧縮してアッタール(Attar)にする。印度出身の薬剤師達がターイフの薔薇の花びらを通して白檀油を蒸留して得られるアッタールの一種の生産では異論が無い程の達人であった。この高名な香水の小さな瓶を購入する財力がある巡礼達は少なくとも巡礼(Hajj)のお土産の一つとして持ち帰ったので、どの様な製法で得られようともアッタールはモスリムの世界では有名になった。

 

(注)サウジアラビア国営石油会社(サウジ・アラムコ) (Saudi Arabia Oil Company, Saudi Aramco)が出版している「王国サウジアラビア(The Kingdom)サウジアラビの土地と人々(Land and People of Saudi Arabia)」の中にマイケル・R・ヘイワード(Michalel R. Hayward)が執筆した「ターイフの薔薇(Roses of Taif)と云う記事にアッタール(Attar)が詳しく紹介されているので多少加筆してここに添付したのでご参照戴きたい。

 

ターイフの薔薇Rev.doc

http://www.saudiaramcoworld.com/issue/200408/the.roses.of.taif-.compilation..htm

 

3.6 農地の生産特性(Productive Characteristics of Farmland)

 

ターイフはそれ自身の農業の営みで何世紀にも渡ってメッカ(Makkah)と少ないけれどジェッダ(Jeddah)に対して様々なそして相当な量の農産物および新鮮な畜産品を供給するセンターとしての役目を果たしてきた。穀物、果物および野菜がターイフの農地で産する主な作物である。ターイフの農地は山から高原まで範囲があり、起伏や機構の変化に基づき異なった生産特性を持っている。

 

穀物は高い山の平地の段々畑で成長し、その下の農地は現在では農民の自家用食糧を生産している。果樹と葡萄が麓地域では目立っており、そこで農民達は農場収入の殆どを生み出している。この地方の果物の伝統的な種類については3.1章で述べている。それに付け加えるのは果物では比較的近年になってエジプトやシリアから移植されたと報告のある西洋梨とオリーブである。

 

野菜は麓と高所の両方で生産されるが、高原で生産の重要性は二義的であり、余り重要ではない。野菜の収穫は季節的で、夏にはキュウリ、オクラ、インゲン豆(Marrow)、トマト、茄子、サヤインゲン(Green Bean)、唐辛子および青唐辛子等があり、冬にはカリフラワー、キャベツ、人参、豌豆(Pea)、玉葱、大蒜、レタス、カブ(Turnip)等がある。

 

家畜の飼育は羊と山羊の群に依存しており、山の斜面や谷の雨水で育つ牧草地で自由に放牧させている。この方式が非常に古いベドウインの文化と結びついた牧畜の伝統である。もっと最近には牛の飼育も導入されているがいまだに揺籃期である。この分野でのもっとも最近の開発は養鶏場に代表され、焼き肉用の若鶏と鶏卵を生産する為の完全に成熟した大規模な近代事業に発展している。

 

3.7 デイツの果樹園(Date Groves)

 

ターイフの産物の中でデイツについては前述したが、これについては説明が必要である。ターイフの果樹園にも樹齢も大きさも十分なナツメヤシ(Date Palms)は現存するがこの市の夏の終わりの気温と標高が実が熟する程十分に暑くないのでこれらは純粋に飾りとして育てられている。しかしながら、ナツメヤシの木立は標高の低い集落にもあり、有名なマディーナ(Madinah)のデイツに匹敵する柔らかく汁気の多い実が収穫できる。今日ではターイフの東60kmのスダイラ(al-Sudaira)地区はクラク(Kulalk)村とブサル(Busal)村を含み、ターイフ首長管轄区(Taif Amirate)でのデイツ生産の主要な中心の一つである。

 

第四部 ターイフの歴史的背景(Historical Background of Taif)

 

4.1 靄のかかったターイフの創建(Misty Domain of Taif's Foundation)

 

ターイフの初期の歴史は靄の立ち込めた様な領域で躊躇している。そこでは想像力が入手出来ないその領域の事実を入れ替えている。この市はヒジャーズの一番古い市の一つであると認識されているがその創建に関して記述された史料は見当たらない。初期のアラブ歴史家達はターイフを単にイスラム以前からの町として言及している。その創建はノアの洪水(Noah's Flood)の前であったとしており、「消滅したバヌ ミフライル族(Banu Mihlail)が住んでいた」と述べる歴史家もいる。

 

4.1.1 ワジと呼ばれたとの言い伝え(Legend as to Naming of Wajj)

 

「この市はもともとはその創建者アマレク族(Amalekite)*のワジ イブン アブド ハイイ(Amalekite Wajj bin Abd al-Hayy)の名を取ってワジ(Wajj)と呼ばれていた」と言い伝えられている。

 

アマレク族(Amalekite)は遊牧部族同盟であり、その勢力範囲はパレスティナ(Palestine)から北アラビアまで広がっていた。旧約聖書(Old Teatament)によればアマレク族はイスラエル(Israel)と厳しく対立した敵でであり、預言者ヒゼキア(Prophet Hezekiah)*の時に最終的な敗北を蒙った。初期のアラブ史料によればアマレク族は預言者フド(Prophet Hud)*の時代にヒジャーズ(Hejaz)に住み。アラビア語を話した最初の部族の一つであった。この様にこの市の創建の時代が分からなくてもこの言い伝えが幾つかの真実を含んでいるのは事実である。

 

4.1.2 呼称のターイフへの変更(Renaming to Taif)

 

さらに別の言い伝えでは「今ではこの町を横切っている涸れ谷に限定されて使われているワジ(Wajj)と云う呼称が後に『取り囲む(encompassing)』を意味するターイフ(Taif)にどの様にして変わったか」を説明しようとしている。

 

これは「ハドラマウト人(Hadrami)のダンムン ビン マリク(Dammun bin Malik)が叔父のアムル(Amru)を殺害した後、大きな富を携えて逃げて来て、バヌ サキフ族(Banu Thaqif)のマスサウド ビン ミタイブ(Massaud bin Mitaib)に避難を求め、この地方の家族と婚姻を結ぶのを許す様に頼んだ。願いは両方共に受け入れられ、ダンムンは感謝の念をあらわす為にサキフ族の集落を囲った防護壁を建設した」と言い伝えている。

 

この防護壁は二つの門をもっており、一つはサアブ(Saab)と呼ばれ、ヤサール一門(Yasar Clan)の為に確保され、もう一つはサヒール(Sahir)と呼ばれサキフ族のアウフ一門(Auf Clan)の為に確保された。この市は敵対する部族が攻略しようとした多くの試みをこの壁があった為に撃退出来た。この為にこの市は詩的な印象での強さを象徴する程の堅い守りの集落と云う名声を得た。アブ タリーブ ビン アブデュル ムッタリーブ(Abu Talib bin Abudul Muttalib 549 - 619)*は作詩した頌詩(Ode)の一つに「我々は自分達の土地をバヌ サキフ族(Banu Thaqif)が自分達の市を囲む壁の中で守ったと同じ方法で全ての現存する生物から守った」と言って居る。又、自分自身もサキフ族であるウマイヤ ビン アビ サルト(Umayyah bin Abi al-Salt)*は熱狂的に「我々は堅牢な城郭を築いた。そこから我々は敵に挑戦し、我々の子孫を守った」と語っている。

 

4.1.3 シリアの土地との言い伝え(Legend says God placed it from Syria)

 

アラブの百科辞典編纂者ヤクート(Yaqut or Yakut, 1179 - 1229)*はその著書「国々の辞書(Dictionary of Countries or Mujam al-Buldan)」の中の三番目の言い伝えについて触れている。それには「妻ハガール(Hagar)と息子のイスマイル(Ismail)をメッカに伴った預言者イブラヒム(Prophet Ibrahim)が全能の神に耕作してない涸れ谷(Wadi)の住民達に果物の木々を与えて戴きたいと懇願した」と述べられている。

 

(注)預言者イブラヒム(Prophet Ibrahim)は旧約聖書の預言者アブラハム(Abraham)のクルアーン(Qur’an)の中での名前である。

 

神はイブラヒムの祈りを受け入れ、一筆の土地をシリア(Ayria)からターイフ(Taif)に移された(イエメンからとの説もある)。この事を確認するかの様に信憑性に異議もあるが、「ターイフは神によってヒジャーズに移動されたシリアの土地である」との断言もされている。

 

4.1.4初期の歴史(Early History)

 

6世紀にはタイフはバヌ サキフ族(Banu Thaqif Tribe)*に支配されていた。この市はメッカ(Mecca)の約97km (60miles)南東にある。この城壁に囲まれた市は「ターイフの淑女(Lady of Ta’if)」として知られる女神アッラート(Allat)*の偶像を収め、女神アッラート信仰の中心であった。その気候は紅海に近い乾燥して不毛な周囲の地方から抜きん出させていた。小麦、葡萄の木や果物がターイフの周辺で育ち、それが「如何してターイフがヒジャーズの庭園(Garden of Hejaz)と云う呼称を得たか」を物語っている。象の年(Year of the Elephant)*にはこの市はこの出来事に忙殺された。タイフとメッカは共に巡礼の休養地(Resort)である。タイフはメッカよりも快適な環境にあり、その住人達はメッカの住人達と緊密な交易関係を持っていた。タイフの住人は交易に加えて農業や果樹栽培を行っていた。

 

4.2 オカズ市場(Suq Okaz)

 

4.2.1 神聖な月(Months of Sacred)

 

イスラム以前には一年の中の4ヶ月が神聖な月とされていた。それらは陰暦の第7番目の月ラジャブ(Rajab)3ヶ月連続する月でシュル キダ(Dhul Qida)、デュル ヒッジャ(Dhul Hijjah)およびムハッラム(Muharram)でそれぞれ11番目、12番目および1番目であった。

 

これらの月の間は交易隊商の安全を確保し、アラビアの昔からの慣例である毎年の定期市を育む為に戦争や襲撃は禁止されていた。アラビア半島の中でもっとも有名な定期市がスーク オカズ(Suq Okaz)で正確にはウカズ('Ukadh)である。スーク オカズはターイフ近郊で、現在では起伏のある沙漠となっている空港の東10kmの場所にあった。西アラビアではこの定期市は偉大な巡礼の日に先だって6週間行われる。最初がオカズ定期市(Okaz Fair)でシュル キダ(Dhul Qida)の第1日目から20日目まで続き、第二番目がムジャンナ(Mujanna)定期市でそれに続く10日間であり、最後がデュル マジャズ(Dhul Majaz)定期市で8日間続く。

 

4.2.2 治外法権のオアシス(Oasis enjoying Extra-territoriality)

 

オカズ(Okaz)は都市でも、まして村でも無い。これは治外法権(Extra-territoriality)を享受するオアシス(Oasis)であり、定期市と聖域が同時に存在する。バヌ サキフ族(Banu Thaqif)とその親族で、もう一つの強力なベドウインの同盟であるハワジン族(Hawazin)*がこの市とその広大な椰子園を支配していた。その広がりは10マイル(16km)あると言われているが、今日ではその面影もなく、この地域は完全にアカシア(Acacia)に占拠されている。

 

4.2.3平和的で利のある交易(Peaceful and Profitable Trade)

 

休戦によって保たれた特別の安全上の利点を利用して相当な人数の都市居住者や部族民が平和的で利のある交易を行う為に自分の商品を携えてスーク オカズ(Suq Okaz)に集まった。想像するに、駱駝隊商や驢馬輜重隊(Donkey Trains)によって運ばれた商品には、織った敷物、駱駝の毛、テント地、家庭で紡いだ衣服、綱、羊の皮および様々な家庭・台所用具の様なベドウイン手工芸の製品が含まれていた。村の職人からは剣、短剣(Daggers)、燃やしたり上薬を掛けた陶器、農業道具・機具、装身具、化粧品と香水、農場と森林からは乾燥果実、薬草・香草、保存食品と香料、そして更に遠くから、恐らくは印度、中国や南アジアからは貴石、金、銀、精巧な織物、香料や生きた動物が運ばれて来ていた。

 

4.2.4. オカズの遺跡(Ruin of Suq OKaz)

 

サウジの考古学者達によってオカズの一番にそうでありそうな位置であると鑑定された遺跡に今日残っている建物はセメントの様なモルタルで維持され、場合によっては日干し煉瓦の層が上に載せられている玄武岩の石で造られた壁の幾つかの輪郭で構成されている

 

 

荒い仕上げの玄武岩(Basalt)の塊と今でも立っている幾つかの美しい石のアーチで造られたこの遺跡で卓越した構造は8世紀に遡り、「定期市はイスラムの到来でも生き残り、アッバース朝(Abbasid, 750 - 1258)の時代まで続いた」事を証明している。

 

陶器片、ガラスのかけらおよび幾つかの鉄の刃が地上に散らばっていたスーク オカズはヒジュラ暦129年(西暦760年)にこの遺跡を荒らしたベドウイン(Beduin)の来襲でその終焉を迎えた。

 

4.2.5 アラビアのオリンピア(Olympia of Arabia)

 

商人や買い付け人と一緒に定期市は詩人達、吟遊詩人達や放浪の叙事詩吟唱者達を引き付け、彼等の為にスーク オカズ(Suq Okaz)の偉大な祭りの市は注目される催し物として年間作詩コンテストを催した。

 

スーク オカズはその役割から詩人達の全国的な集会では「アラビアのオリンピア(Olympia)」と呼ばれており、その永続性のある遺産はいまだに全アラブ世界で偶像信者達の卓越した傑作であると考えられている7つのム’アッラカト(Mu'allaqat)或いは「一時停止した」と云う題の頌詩(ショウシ)(Ode)で表現されている。

 

交易定期市と平行してオカズ(Okaz)はヒジャーズHejaz)、ナジド(Najd)、イエメン(Yemen)やその他のアラビアから文学的才能のある人達が競う会場でもあった。そこでは詩人としての才能が披露され、競われ、公にされる前に審査され、認められるとそれが常に決定的で最終結果とされた。オカズでの勝利は直ちに社会の承認、地位および名誉を意味した。この社会では言葉を用いての作詩(Versification)と手際よさ(Dexterity)の芸術における熟練の技が別格に高く尊重された。

 

競われた詩の形式は古典的なカシダ(Qasidah)或いは頌詩(ショウシ)であった。残存する幾つかが「その題目の輝かしさ」、「その象徴する忘れられない美しさ」や「韻律(Metre)と押韻(Rhyme)の複雑な技巧の熟練」等々アラブ詩人達によって達成された高尚な水準を示している。しかしながら、「勝利した頌詩にオカズの年間の賞を授与された」と云う広く信じられているのに対しては古代の権威は無かったので、伝説による証しかなかった。それでもそれ自身の中でこれが競う合う作詩の朗読会の中心としてオカズが保っている誉れに対して注意を向けさせている。

 

同じ事がすばらしい物語についても当てはまる。競争での勝利の後、これらは最高の仕上がりの白いエジプト布に金の文字で書かれカーバ(Kaaba)或いはその中庭に吊される。金の文字で書かれるのでこの別名は黄金の頌詩とも名付けられている。1885年にロンドンで出版された「古いアラビアの詩の翻訳(Translations of Ancient Arabian Poetry)」の著者C.Jライアル(C.J. Lyall)がその紹介の章で説明している様に、この名前は恐らくはイルク(Ilq)と云う言葉に由来する。イルク(Ilq)即ち貴重な物或いは高い評価を得ている物とされているのはそれに執拗にぶら下がる人物が居る為か、或いはそれは誉れの場所、宝庫或いは倉庫の目立つ場所等にに吊される為である。語源学上(Etymological)の考察ではこれらが眞にメッカの神聖な寺院に吊り下げられる可能性と矛盾はしない。それが実際に起きていたならメッカの年代記への記載から逃れる事は出来ないだろうけれどもそれを記述した現有の資料は一つも無い。但し、この時代のカシダ(頌詩)(Qasidahs)は口頭で世代から世代に伝えられ、これらが作られた数世紀後までは記述される事が無かった。

 

4.3 イスラムの受け入れ(Accepting Islam)

 

4.3.1 豊かな緑と涼しい気候(Lush Greenery and Cool Weather)

 

この市に関わる簡単な小論の中で無視できない4.1章で紹介した様な言い伝えは明らかにターイフ地方の名前と肥沃さの両方を説明しようとする試みの中で作られていた。これは実際にターイフが享受している豊かな緑も涼しい気候にも恵まれていないターイフの姉妹都市メッカの住民達にとっては別世界の一部の様に見えたに違いなかった。

 

イスラム以前においてさえ、豊かな緑も涼しい気候を求めて、メッカのクライシュ族の商人達(Quraishi Merchants)はターイフに土地と夏別荘を所有していた。見て分かるように農業は立派に発展し、多くの数の涸れ谷を堰き止めたダムから水を引いて農地を灌漑し、山肌に段々畑に作る等、大変進歩していた。肥沃な地方で育った果物、野菜および穀物がメッカの市場の自然の販路を見出し、イスラム到来以前から二つの市の間の親密な関係は発展してきた。

 

4.3.2 預言者のターイフへの移住検討(Prophet's Study for migrating toTaif) 

 

神の預言者自身もターイフにとって異邦人ではなかった。預言者はターイフから遠くない村出身の乳母ハリマ ビント アブ デュアイブ(Halima bint bu Dhuayb)に育てられた。ハリマはハワジム族(Hawazin Tribe)のバヌ サアド一門(Banu Saad Clan)の出であった。これ故にターイフから北に僅かしか離れて居ない場所で行われた偉大なスーク オカズ(Suq Okaz)は年少の頃から目撃していた。だからこそ、預言者の早期の布教の中の神託を受け入れた小さなムスリムの共同社会にとってメッカでの生活が大変難しく成って来た事を悟った時に預言者は先ずはターイフに移住する事を考えた。ムハンマド(Muhammad)がクライシュ族(Quraish)の無慈悲な敵意から自分の信者達を守る為にその様な方法を決めたのは619年で神の最初のお召しから9年目の事であった。

 

4.3.3 バヌ サキフ族の拒絶(Banu Thaqif's Refusal to Prophet's Requests) 

 

何がターイフに起きたかについてもっとも信頼できる出典の一つはギヨーム(A. Guillaume, 1888 - 1966)*が記念として英訳したイブン イシャク(Ibn Ishaq, 704 – c. 767)*著の「神の使いの一生(Sirat Rasul Allah or Life of Messenger of God)*」である。その中でのイブン イシャクの記述が「ムハンマドが1人でターイフに行った」と述べている事が「ムハンマドは養子の息子ザイド イブン ハリサ(Zaid ibn Haritha)を伴っていた」と云う他の出典とは異なっている。

 

神が預言者ムハンマドに与えた信託(Message) をバヌ サキフ族(Banu Thaqif)が受け入れ、そしてメッカでムスリムがムハンマドの出身部族であるクライシュ族(Quraish)に対して耐えねばならない闘争へのバヌ サキフ族の支援を得る事を望みながら、ムハンマドはターイフに着いた。そして「市の首領に会いたい」と依頼した。この時のバヌ サキフ族の首領は三人の兄弟であった。ムハンマドの要求は受け入れられ、ムハンマドは最初は親切に扱われたが、ムハンマドがこの兄弟を自分が擁護している信仰に加わるように誘うと親切は軽蔑に代わった。ムハンマドは「サキフ族が示した理解の欠如を故郷のクライシュ族の知るところとなれば、それがクライシュ族を勇気づけてムスリム社会への迫害を更に強めるだろう」と恐れ、これらの会話は秘密裏に保つ様、対話者に頼みたかったが、その様な余裕も無く、ムハンマドは絶望してそこを離れなければならなかった。

 

三兄弟はムハンマドの要求を心に留めるのを拒否し、その上、酷い事に奴隷とごろつきをけしかけて町からムハンマドを追い払った。住人達も礼儀正しい作法で答えずにムハンマドの石を投げつけ始め、この為にムハンマドは激しく出血した。こうしてムハンマドは涸れ谷マスナ(Wadi Mathnah)の果樹園に避難せざるを得なかった。それまでムハンマドを苦しめた群衆がそこからは引き上げて行った。泉の辺に座って自分自身を清めていたムハンマドはいまだに殆ど真直ぐに見え無いほどに激しく出血していた。ムハンマドは自分の弱さをすっかり自覚し、有名な懇願を漏らした。

 

「神様、貴方に私は人々の前での私の弱さ、蓄えの無さそして孤独を訴えます。最高に慈悲深い神様、貴方は弱さの神であり、そして貴方は私の神です。誰に対して貴方は私を閉ざしているのでしょうか?遙かかなたの誰かが私を酷使しるのでしょうか?或いは敵に対して貴方は私以上の力を与えているのでしょうか?もし、貴方が私に怒っているので無いのなら私は気にしません。貴方の寛大さは私にはもっと広く感じられます。私は貴方の表情の輝きに避難します。これによって暗さは明るくなり、そして貴方の怒りが私に落ちてきたり、あなたの憤りが私を燃やさないようにこの世と次の世との物事は正しく整えられる。これは貴方が快くなるまで満足させます。貴方の中に蓄えておく力も権力もありません。」

 

天使ガブリエル(Angel Gabriel)*がムハンマドの下に来て、天使は「自分はこの市を近くにある二つの山の間に挟みこんで潰す事が出来る」と言いながらムハンマドに「この市を潰したいかどうか?」と訊いた。しかしながらムハンマドは「恐らくアッラーフ(Allah)は彼らの子孫からアッラーフだけを崇拝する者達を作る出せるだろう」と言いながらガブリエルの提案を断った

 

涸れ谷マスナ(Wadi Mathnah)の果樹園はたまたまそこで葡萄園の世話をしていた二人のクライシュ族の兄弟の所有であった。二人はこの人物が手荒く扱われているのを見て、哀れみを持ち、アッダス(Addas)と云う名のニネヴェ(Nineveh)*出身のキリスト教徒の奴隷に大皿に幾つかの葡萄の房を載せて持って来て、この異邦人に食べさせる様に命じた。アッダスはそれに従い、預言者と短い会話をした後、イスラムに改宗した。涸れ谷マスナ(Wadi Mathnah)の中の小さなモスクはこの出来事が起きた場所にあり、今でもターイフで最初にイスラムに奉じた人物の名アッダス(Masjid Addas)と云う名を持っている。ムハンマドがこの市を訪れたのはこの一回だけであった。

 

Masjid Addas in al-Mathnah

 

(注) アッダス モスク(Masjid Addas)は「現在のマスナ道路(Mathnah Road)の北側のマスナ(al-Mathnah)に位置する(タイフ市街地図参照 )。

 

4.3.4 預言者によるターイフ包囲(Prophet's having laid siege toTaif)

 

10年後の630年にはムハンマドの地位は急速に変わって居り、ムハンマドはメッカ(Makkah)の指導者であるばかりでは無く、ヒジャーズ(Hijaz)の殆ど全域の指導者と成っていた。神の使者ムハンマドが二度目で最後にターイフに居たのは、この市に近いフナイン(Hunayn)で戦い行われ、ハワジン族(Hawazin)とその同盟のサキフ族(Thaqif)がムスリム(Muslims)によって打ち負かされたフナインの戦い(Battle of Hunayn, February 1st 630 or 8H)*から勝利の帰還をした後だった。この時に神の使者は「バヌ サキフ族の一時的な弱さを利用してターイフにイスラムを受け入れさせる事が出来る」と感じ、この市を包囲した。

 

しかしながら、重厚な市の外壁と頑丈に閉じられた門が剣、槍と弓でのみ武装した者達では対抗出来ず、この試みは成功しなかった。この壁を打ち壊そうと幾つかの試みがなされ、バヌ ダウス族(Banu Daws)*による弩(いしゆみ)(Catapult)の攻撃をしかけたり、即興の破城槌も使われたが、サキフ族(Thaqif)は襲撃者達が矢を射かけている覆いを放棄させる為に赤く熱した鉄屑を浴びせかけ、何人かを殺した。全部で12人のムスリムがターイフの戦闘中に犠牲になった。その中の7人がクライシュ族(Quraish)*で、4人がアンサール族(Ansar)*そして1人がバヌ ライス族(Banu Layth)であった。これらの犠牲者が埋葬されているのはビン アッバス モスク(Bin Abbas Mosque)の北にある小さな墓地である。

 

預言者は20日後に退却を決めたが、「アッラーよ、サキフ族を正しい道を示し、そこの導いて欲しい」と言って、神にターイフの住民へ祝福を与える様にと祈った。

 

4.3.5 サキフ族のイスラム改宗宣言(Thaqif's Adoptation of Islam)

 

一年後の西暦631年の「タブクの戦い(Battle of Tabuk)*」でターイフは完全に孤立して取り残されたので、ウルワ イブン マス‘ド(Urwah ibn Mas'ud)*、アブド ライル イブン アムル(Abd-Ya-Layl ibn Amr)*、ウスマン イブン アブ アル アアス(Uthman ibn Abu-al-Aas)*6人のサキフ族代表がムハンマドを訪れ、サキフ族がイスラムに改宗すると宣言した。この事がムハンマドの祈りに神が答えられたのを証明した。この使節は預言者から自分達の偶像女神ラト(al-Lat)(女神アッラート(Allat)*)信仰を保持する許可を得ようとその期間を3年間、2年間、1年間、6ヶ月そして1ヶ月と交渉したが、ムハンマドは断固として拒否し、女神ラトの偶像を多神教の他の象徴と共に破壊し、その宝物を処置する為にアブ スフィヤン ビン ハールブ(Abu Sufiyan bin al-Harb)およびムジラ ビン シュアバ(al-Mujirah bin Shuaba)を伴わせ、彼等を送り返した。

 

4.3.6 マールワンの追放(Exile of Marwan)

 

ハカム イブン アビ アス(al-Hakam ibn ibn Abi al-`As ibn Umayyah)はウマイヤ朝(Umayyad, 661 - 750)4代カリフ(Caliph, 684 – 685)マールワン イブン ハカム(Marwan I ibn al-Hakam 623 - 685)の父親であり、第3代正統カリフ(644 – 656)ウスマーン イブン アッファーン(Usman ibn ‘Affan, 579 – 656)の叔父の一人である。ハカムはスンニー派(Sunnis)からは仲間(Sahabah or Companions)と見做されていた。

 

ハカムは甥のウスマーンがイスラムに改宗した時にウスマーンを縛りつけ殴りつけた。預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)はこれに怒り、ハカムとその息子マールワンの両人をメディーナ(Medina)からターイフ(Ta’if)に追放し、「二度と戻るな」と告げた。しかしながら、ウスマーンがカリフに就任するとウスマーンは二人を呼び戻した。

 

4.4 ムスリム帝国と大シェリフ(Muslim Empire and Grand Sharif)

 

4.4.1古代のターイフ市の位置(Location of Taif in Ancient Times)

 

古代のターイフ市の位置については或る程度の異なった憶測がある。バ サラマ(Ba Salamah)*等、数人の著述家達は「この市はいつも現在と同じ位置にあった」と信じている。イスラム学者ムハンマド フサイン ハイカル(Muhammad Husain Haikal, 1889 - 1957)*の様に「預言者の時代にはこの市は涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)の南にあり、そこには今はハウィイヤ(Hawiyyah)とシハール(Shihar)2区がある」と納得してる著述家達もいるが、この説の論拠は弱い。従って、問題の場所にもっと論理的な可能性を伴った考古学的な調査が行われるまではこの問題は憶測の域に留まっている。その可能性とは「この市は昔から城壁で囲まれていたので、ある場所から次の場所には移動されては居なかった。だから申し立てられている様に特にその時に防御がその価値を証明した事実から予言者による包囲の後でその位置を移動させる理由も無かった」と云う事である。さらに城壁で囲まれた事を知られているこの市の存在した場所では開発可能と思われる一連の低い岩石からなる露頭がある。それらの露頭はとことどころで城壁の一部を高く保ち、その強度と優位性を加える自然のバットレスとして実際に利用されていた。一方、提案されているイスラム以前の市の場所では十分な防御をする為の城壁が築ける様な小山の存在は無かった。

 

(注)バットレス(Buttress)は山頂や尾根へ急峻にせりあがる岩壁。

 

4.4.2 ムスリム帝国の遷都 (Muslim Empire's Shifting Headquarters)

 

ムスリム帝国(Muslim Empire)の本部が最初にダマスカス(Damascus)に移り、それからバグダッド(Baghdad)に移動したのに続いて、ターイフの重要さはイスラム時代の最初の世紀の間、ゆるやかな後退を経験した。この動きはターイフだけでは無く全ての地域に影響した。さらにサキフ族の多くの勇敢で博学な男達がイスラムを広め、自分達の才能をカリフの宮廷に貢献する為に移住して行った。

 

4.4.3 メッカ首長管轄区(Amirate of Makkah)

 

その間に、ムスリム帝国(Muslim Empire)の中心としてのその地位からヒジャーズ(Hejaz)は一州に降格された。そこではカリフの権威に協力して10世紀からメッカの首長(Amir of Makkah)の掌中にもっと現実的で直接的な付与された権威があった。メッカの首長(Amir of Makkah)のもっと有名な西欧で付けられた呼称ではメッカの大シェリフ(Grand Sharif)であり、預言者の子孫であるメッカのシャリフ家(Meccan Sharifs)のハーシム家系譜(Hashimite Line)の一員であった。

 

メッカ首長管轄区(Amirate of Makkah)は正式な体制としてアッバース朝(Abbasid, 750 - 1258)衰退の直接の結果として10世紀後半の早い年に創設された。いずれにしてモスリム帝国の権力の中心が弱り、そして地理的に遠く離れたバグダッド(Baghdad)からの直接統治が取り払われるに連れてターイフを含むヒジャーズでのシャリフ支配(Sharifian Control)は時と共に固まった。

 

1147年にシャリフ家(Sharifian Family)の有力な一員であるキタダ ビン イドリス(Qitada bin Idris)*がメッカのアミール(Office of Amir of Makkah)に就くと対抗する族長達に対する一連の軍事的侵略に勝利し、自分の支配する領土を南北に相当に広げた。イドリスの命令で行われた懲罰的な遠征の一つがサキフ族(Thaqif)とターイフ市に対してであった。

 

4.4.4 蒙古帝国によるバクダット陥落(Fall of Baghdad to Mongols))

 

1258年に蒙古帝国(Mongols)によってバクダード(Baghdad)が陥落し、アッバース朝(Abbasid Caliphate 750 - 1258)はマムルーク朝(Mamluk Daynasty, 1250 -1517)のスルタン(Sultans)の庇護の下にカイロ(Cairo)に移った。ヒジャーズ(Hejaz)も同じ庇護を受け入れたが、時々起きた公然とした併合の動きには抵抗した。それまでにターイフは小さな町ヤクト(Yaqut)と呼ばれる様になり、過去の名声は明らかに表示されなくなった。

 

4.5 オスマン帝国の支配(Ottoman's Control)

 

4.5.1 宗主権とシャリフの権威(Ottoman Suzerainty and Sharifian Authority)

 

1453年コンスタンティノープル(Constantinople)がオスマントルコ(Ottoman Turks, 1299 - 1923)によって陥落し、1517年にカイロ(Cairo)も占拠され、その結果マムルーク朝(Mamluk Daynasty, 1250 -1517)は終焉した。同年717日にメッカの大シェリフ(Grand Sharif)であったバラカト二世(Barakat II bin Muhammed (Barakat Efendi), 1497–1525)*はオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299 – 1923)*9代皇帝(1512 - 1520)セリム一世(Selim I, 1465 - 1520)*に降伏し、オスマン帝国の宗主権(Suzerainty)を即座に認めた。降伏の証として、シェリフはイスラム聖都のメッカ(Mecca)とメディーナ(Medina)を開城した。ヒジャーズ(Hejaz)の一部としてターイフもオスマン帝国の支配下に入ったが、スルタン セリム一世からヒジャーズにおけるシャリフの権威(Sharifian Authority)を再確認され、それが報われた。

 

4.5.2 オスマン帝国の州制度(Under Ottoman Povincial Arrangement)

 

オスマン帝国(Ottoman)の州制度の下でヒジャーズ(Hejaz)は現在のヨルダン(Jordan)南西部の町マアン(Maan)南部に当たるダマスカス州(Vilayet of Damascus)の南境界から現在のライス(al-Lith)*の南に当たるイエメン州(Vilayet of Yemen)の北境界まで広がったが、東の境界は不明確で変化する辺境であった。ヒジャーズ州のトルコ知事(Vali)は冬はメッカに住み、夏はターイフに住んだが、イスタンブール(Istanbul)に居るスルタン(Sultans)は地方的な権威はシャリフの手に委ね、聖地(Holy Places)の名目だけの大君主である事に満足していたのでトルコの支配はもっとも間接的な種類であった。

 

4.6 サウジ ワッハーブの挑戦(Challenge of Saudi-Wahhabi)

 

4.6.1ターイフ陥落と奪回(Taif fallen by Wahhabi and recaptured by Ottoman)

 

ターイフはその後、3世紀にわたってオスマン帝国(Ottoman Empirer)に統治され続けた。オスマントルコ政庁(Porte)は帝国の各州に唯一トルコ人将校だけが指揮する守備隊を駐在させていた。トルコ人将校の任務は紛争が起きた時にトルコ知事(Vali)を支援する事であった。時にはナジド(Najd)との境界地帯のオスマン帝国領に挑戦するサウジ ワッハーブ(Saudi-Wahhabi)の軍隊の脅威に対抗する手段としてその様な守備隊がターイフに駐在したのは十八世紀になってからであった。しかしながら、ターイフは1802年に休戦を交渉する為に派遣されていたシャリフ ガリーブ(Sharif Ghalib)*の義理の兄弟オスマン マザイフィ(Othman al-Madhayfi)*が支援する中でネジド(Nejd)から進撃してきたサウド家(House of Saud)と同盟したワハーブ派(Wahhabi)*の軍隊によって陥落させられた。ワハーブ派(Wahhabi)の軍隊は続いて、メッカ(Mecca)とメディーナ(Medina)に進撃した。

 

この敗北は自らが聖都市の保護者を任じていたオスマン帝国に大きな衝撃を与えた。第30代皇帝(Sultan, 1808 – 1839)マフムト二世(Mahmud II, 1785 – 1839)*はエジプト(Egypt)にいる名目だけにせよオスマン帝国の総督(Nominal Viceroy)であったアルバニア系軍人(Albanian Soldier)出身のムハンマド アリ(Muhammad Ali, 1805 - 1848)*にワハーブ派(Wahhabi)の排除を依頼した。ムハンマド アリのアラビア遠征は1811年に始まった。1813年にはシャリフ ガリーブ(Sharif Ghalib)*とトルコ将校ムスタファ ベイ(Mustafa Bey)*が指揮する分遣隊によってターイフを奪回した。

 

ムハンマド アリ(Muhammad Ali, 1805 - 1848)

http://en.wikipedia.org/wiki/Muhammad_Ali_of_Egypt

 

4.6.2 ディライイヤの陥落(Diraiyyah overpowered by Egyptian Troops)

 

1818年に当時サウジ公国(First Saudi State1744 - 1818)の首都であったディライイヤ(Diraiyyah)は総督(Viceroy)の息子の一人イブラヒム パシャ(Ibrahim Pasha, 1789 -1848)*が指揮するエジプトの傭兵軍連合によって打ち負かされ、完全に破壊された。

 

遠征の最後の段階でムハンマド アリ(Muhammad Ali)はこの作戦を個人的に担当し、本部をターイフのバブ リ’城(Bab al-Ri' Castle)においた。そこでは1814年にムハンマド アリは有名なスイス旅行家ブルクハルト(J.L. Burckhardt)**を受け入れている。

 

ターイフ(Taif)の城砦や兵舎は1843年にオスマン帝国(Ottomans)によって修理された。行政府の建物(Hukumet Konagi)1869年に建てられ、郵便局はその少し後に設置された。

 

4.6.3 アラブの反乱でのターイフ攻撃(Attack on Taif during Arab Revolt)

 

英国に鼓舞され、煽動されたメッカ太守シャリーフ フサイン イブン アリー(Sherif Hussein ibn Ali, 1908 - 1916)*はアラビアのオスマン帝国(Ottoman Empire)支配を取り除くために反乱を準備していた。トルコが第一次世界大戦で交戦している機会を捕らえ、191662日にハーシム家(Hashemites) が主導するアラブ諸部族はメッカ(Mecca)等の中東各地ででオスマン帝国に対する一斉蜂起(Concerted Attack)を開始した。「アラブの反乱(Arab Revolt)*」と呼ばれるこの解放運動の中でターイフは再び歴史的な脚光を浴びた。

 

メッカ市が陥落すると7月にハーシム家家長でメッカのシェリフ(Sharif of Mecca, 1908 – 1916 King of Hejaz, 1916–1924) フサイン イブン アリ(Husain ibn Ali, 1854–1931)の長男アブドゥッラー(Abdullah, 1882 – 1951)70名の戦士と共にターイフに派遣された。アブドッラー(Abdullah)はターイフ市の城壁の外に70名の駱駝騎乗兵の小さな歩兵部隊と共に天幕を張った。紛争が予期される中でこの城壁はターイフに駐在しているトルコの師団司令官アハメド ベイ(Ahmed Bey)が作った塹壕と築堤で既に補強されてきており、トルコの砲兵将校によって描かれた地図は予想されるシャリフ軍による虐殺に直面したターイフ駐屯部隊が1916年に準備した防御を示している。そこに駐屯する部隊の3,000名の兵士と10砲の長距離クルップ(Krupp Guns)を考慮するとアブドッラー隊は眞に小さな軍隊であった。アブドゥッラーのターイフ地域での活動にアハメド ベイは疑念を持ったが、この市に滞在していたヒジャーズ(Hejaz)総督ガリーブ パシャ(Ghalib Pasha)はその様な少人数の軍隊には関心が無かった。アブドッラーはこの場所を軽武装で襲うのが得策でないのだけは良く知っていた。アブドッラーが到着した後の短い間でさえ、アブドッラーは自分の裁量で多数のベドウイン不正規兵を山岳部族から秘密裏に採用し、その軍隊を5,000人規模までに増強した。

 

シェリフ フッサイン イブン アリ(Sharif Hussain ibn Ali, 1879–1935)

http://en.wikipedia.org/wiki/File:Sharif_Husayn.jpg

 

610日の夜、アブドッラーは自分の存在を分からせようと決め、この市への電信線を切断し、それから攻撃を始めた。先ずは他よりは防御の薄いこの市の北側を攻めた。ハーシム家のこの市への攻撃は山砲で撃退され、小競り合いは直ぐに手詰まりとなり、両軍は不安定な包囲の中で膠着となった。アブドッラーはそれから市の外側のトルコ側に占有されている孤立した陣地のみを攻撃しようと決めた。さらに、アブドッラーは包囲した兵舎に対して「もっと大人数の兵と武器が決定的な攻撃の為にアブドッラーの下に集まりつつある」との印象を持たせると云う心理的な作戦を使用する手段に訴えた。トルコ側ではこの市への攻撃への報復で市内にあったシャリフ宮殿(Sharifian Palaces)に火を放つか、打ち壊した。その中には重要な写本の蒐集で構成された有名なシャイク シャキール図書館(Library of Shaikh Shakir)も含まれていた。

 

4.6.4 ターイフに翻るシャリフ旗(Sahrifian Flag rising on Citadel in Taif)

 

しかしながら、627日にハーシム家(Hashemites)に味方して英国がポートスーダン港(Port Sudan) からシャリフ フサイン(Sharif Husain)の要請に応えて送った遠距離用ライフル銃がジェッダから到着したのが漏れ、トルコ側の敗走が始まった。727日にエジプト人砲兵将校サイド アリ(Said Ali)4門の山砲とメッカで奪った1門のトルコの大砲と共にサイル(al-Sail)の困難な山岳道路を通り抜けて到着した。

 

この様にして包囲した駐屯地を全面砲撃する準備が出来た。重砲を西に向かってサカラ丘(Hill of Sakarah)、北に向かってシャラクラク丘(Hill of Sharaqraq)に据え付けた後、シャリフ軍の砲撃は駐屯地を叩き潰し始めた。長く抵抗するのは何も意味が無いと悟り、トルコ総督(Vali) ガリーブ パシャ(Ghalib Pasha)は交渉を請うた。アブドッラーはこの要求に留意せず、922日にターイフ駐屯地は無条件降伏した。しかしながら、結果としてこれに続く取り決めは狭量では無かった。全てのトルコ兵には3ヶ月分のボーナスが与えられ、ガリーブ パシャはジェッダに送られ、その後、エジプトに抑留された。

 

シャリフ旗(Sharifian Flag)が永久にオスマン帝国(Ottoman Empire)の一部ではなくなったターイフの城に掲げられた。その間にシャリフ家(Sharufuan House)に敵対する対抗勢力中央アラビアの新興勢力ナジドのスルタン(Sultan of Najd)アブドルアジズ イブン サウド(Andulaziz Ibn Saud, 1876 – 1953)*は他の事件を指揮しており、それが結果的にはシャリフの成功が如何に短い期間であったかを証明した。

 

4.6.5 カリフ宣言とサウジの反発(Saudi Reaction against Declared Chaliph)

 

ターイフはハーシム家領(Hashemite Hand)には長くは留まっては居なかった。ネジドのスルタン(Nejd Sultan) アブドルアジズ サウド(Abdulaziz al-Saud)はヒジャーズ王フサイン イブン アリ(Husain ibn Ali, 1916 - 1924)がメッカを支配するのに反対して軋轢が高まり、間も無く戦闘が開始された。今日、主として英国(Great Britain)が企てた強国の行為(Great-Power Play)と呼んでるものも含まれていた。

 

アブドルアジズ イブン サウド(Andulaziz Ibn Saud)

http://www.bpeah.com/images/Abdul%20Ibn%20Aziz%20Al%20Saud.jpg

 

敵対関係は1919年に暫定的に調停されたけれどもシャリフ フサイン(Sharif Husain)1924年に自分自身をカリフ(Caliph)と宣言した。この時のサウジ側の反発は素早く、断固としていた。ヒジャーズに対して全ての違いを戦場で決着する機は熟していた。192465日、アブドルアジズによってウレマ(Ulema)、シャイク(Shaikhs)、イフワーン軍の首領(Ikhwan Military Chiefs)、助言者(Adviser)およびサウジ一族の間での会合が最も適切な行為を確立する為にリヤド(Riyadh)で召集された。この会合の最後でフサインを交渉に応じさせる為にターイフを奪う目的で3,000名からなる遠征部隊を派遣する事が決められた。そして上記全てがイギリスがどの様な態度を取るのを見る為であった。

 

19249月までにサウド家支援を受けたイフワーン(Ikhwan)*がスルタン ビン ビジャド(Sultan bin Bijad)とカリード ビン ルワイ(Khaled bin Luwai)の指揮下でターイフ攻撃の準備を終わらせていた。この市はヒジャーズ王の息子アリによって防衛されると思われていたが、恐怖で狼狽したアリはその軍隊と多くの市民と共に逃げ出した。その内の300名はイフワーンによって殺害された。1926年にアブドルアジズ サウド(Abdulaziz al-Saud)が新しいヒジャーズ王(King of Hejaz)として公式に認められた。ターイフ(Ta’if)はアブドルアジズ サウドが1932年に二つの王国をサウジアラビア王国Kingdom of Saidi Arabia)として統一するまでヒジャーズ王国の一部であった。アブドルアジズ サウド自身はこの市で1953119日に没した。

 

4.6.6 イフワーンへのターイフ無血開城(Opening Taif's Gate to Ikhwan)

 

一方のシャリフ フッサイン(Sharief Husain)は幾つかの警戒措置を取っていた。1921年以来、断続的にターイフはイフワーン(Ikhwan)襲撃の対象とであったので、フッサインは市の城壁の再築と城壁外の砦の建設・補強を命じた。(市の城壁は1916年にアブドゥッラー(Abdullah) によって損壊されていた。)91日にクラハ(Kulakh)の砦がサウジ軍よって打ち負かされ、アリ(Ali)は素早く市の城壁内に撤退した。アリはフサインの長男でターイフのシャリフ軍派遣隊を指揮していた。

 

三日後に暗闇に紛れて、アリと殆どのその兵士達はハダ(al-Hada)へ脱出した。残されたターイフ(Taif)の住民達は城壁の外に群がったイフワーンに寛大な処置を交渉し、そして95日の夜に混乱に陥る中でイフワーンは市の門を開け無抵抗のターイフに入城したが、それから何かがおかしくなった。全てのニュースに有るようにこれには二面性があり、それについて両方を説明する。

 

シャリフ側の情報源は「イフワーンが市内に入った時に身勝手な暴力を抑えなかったので少なくとも300名が殺された」と主張した。この主張は世界の報道機関に取り上げられたのでこのターイフ事件に関する西洋の解釈では今でも広く知られているニュースである。しかしながら、イフワーンが市に入城した時に警察の歩哨所から銃撃を受けた。裏切りを感じ、イフワーンは行き過ぎた暴力を犯す事で反撃したので、真偽の疑わしい殺戮ではなかった。アブドゥルアジズ王の個人的通訳でもあったサウジ高官ムハンマド アルマナ(Muhammad Almana)*は最近になってこの観点を指示している。アルマナはターイフの出来事の直接の目撃者では無いけれどもその地位でもっとも高度の水準の情報を得ているのでその意見は恐らくこの件に関するサウジの見解を代表していると思われる。

 

シャリフ政府(Sherifian Government)が外の世界に伝えているターイフを失った事の説明にはイフワーン(Ikhwan)がもっとも残虐性を発揮し、無慈悲にも女子供を殺害したと云う申し立ても含まれていた。この記事を書いた外国人達はこの申し立てを議論する余地の無い事実と繰る返している。アルマナはこれらは全くの虚偽であると信じていた。ターイフの首長(Amir of Ta'if)自身が「何人彼の駐屯兵および抵抗しようとした町人達を除けば誰も殺されなかった」とアルマナに告げている。残虐行為の話は恐らくシャリフ庁の役人達がイブン サウド(Ibn Saud)とイフワーンの評判を傷つけ、そしてヒジャーズ軍のいたましい敗北から注意を逸らそうと願って流布したのだろう。

 

4.7 サウジアラビアの市として(A City after Unification of Saudi Arabia)

 

4.7.1 ターイフのサウジアラビア編入(Becoming a part of Saudi Arabia)

 

ターイフ市は191695日にサウジアラビアの一部に編入された。この日は歴史的に魅力ある都市センターとしてのターイフの新しい時代が始まる極めて重大な日であった。

 

4.7.2 イエメン軍事作戦の基地(Military Operatinal Base for War with Yemen)

 

1934年にターイフは軍事作戦の基地になり、そしてイエメンによるサウジアラビアに対抗する短い戦争の平和条約締結の場所となった。作戦行動を準備する中でアブドルアジズ王(King Abdulaziz)はシャラクラク丘陵(Sharaqraq Hills)に不規則に広がるこの市の北側に砦を築く様に命じた。しかしながら、息子で後継の王となったサウド殿下(Prince Saud)およびファイサル殿下(Prince Faisal)指揮下の縦隊による電撃作戦が勝利して終わるまでには僅かに東側の要塞と連結城壁が完成していたに過ぎなかった。サウド殿下およびファイサル殿下はそれぞれナジラン(Najran)とフダイダ(Hudaidah)へ達して占拠していた。この砦の外周部が完成したのはその数年後であり、今はサウジ陸軍の司令部によって占拠されている。両国の敵意の休戦として知られるターイフ条約(Treaty of Taif)1934623日にウンム クラ(Umm al-Qura)官報(Official Gazette)で広報された。

 

 

4.7.3 軍事基地としての名声(Special Military Reputation)

 

サウジの時代になってからもオスマン帝国(Ottoman)がここに基地の一つを設けて以来、特別な軍事基地として得た名声をターイフは維持し高めてきた。1945年とそれに続く数年間、陸軍の訓練部隊は武装戦車や自走砲の使用を始め、メッカやリヤドへの道路の間に非常に大きな地域がこの目的の為に保留された。政府の夏用執務本部の建設の為に返上したキシュラ(Qishlah)を除いて今日でも国防・航空省はこの施設を保有しており、陸軍の訓練場に加えて空軍基地がターイフに設けられている (8.8 ターイフ空軍基地参照)

 

4.7.4 アブドルアジズ王の夏住居(Summer Residence of King Abdulaziz)

 

サウジアラビア統一の後、アブドルアジズ王(King Abdulaziz)は頻繁にターイフの夏住居に滞在していた。宮殿としてもっと広い施設が作られ、利用できる様になるまではアブドルアジズ王はシュブラ宮殿(Shubra Palace)に滞在した。

 

 

 

後になると王は町の中心街を全く避けて、好みの標高の低いハウィイヤ地区(Hawiyyah)に特別あつらえた巨大な天幕から執務を行っていた。王は滞在中、余暇は広大なラクバ平原(Rakhbah Plain)で過ごすのを好んだ。ラクバ平原はこの市の北東でリヤドへの道に不規則に広がっており、そこでは王の一行のキャンプがサムダ井戸群(Samudah Wells) の近くに一度に数日も設営されていた。王自身は当時平らな沙漠地帯にはたくさん棲息し、車に乗った従者達が簡単に追いかけられるガゼル(Gazelles)狩りを楽しんでいた。フィルビー(Philby)*の目撃によれば狩りに出る毎に23百頭が袋詰め出来た。

 

1953年にリヤドの非常に暑い夏にアブドルアジズ王(King Abdulaziz)の健康が取り返し出来ない程に弱った時に息子達はこの年老いたライオンを涼しいターイフ高原へと空輸するのを決めた。その119日にファイサル(Faisal)の宮殿カールワ(Qasr al-Qarwah)で睡眠中に崩御した。カールワ宮殿(Qasr al-Qarwah)は今でも政府の夏期行政庁(Summer Headquarters)の西側に建っている。

 

4.7.5 サウド家治下での近代化(Modanization under Saudi, 1940s

 

サウジ家がターイフの支配を奪い取った時でもターイフはまだ殆ど中世の都市であった。しかしながら、その後都市近代化事業を取り込んで来た。サウジアラビアでの最初の公共発電事業は1940年代後半にターイフで開始された。孤立した市への道路建設に関しては1965年に当時の国王ファイサル(King Faisal)がメッカとターイフの間の87km (54 miles)の山岳道路を開通させ、1974年には644km (400miles)のターイフ・アブハ・ジザン(Taif Abha Jizan)幹線道路建設が開始された。

 

4.7.6 第三回イスラムサミット(Third Islamic Summit Conference)

 

平和で歴史的な会議がターイフで開かれた。それは第三回イスラムサミットで1981125日から三日間メッカ通りの特別に作られた会議場で異なる時代のイスラム世界の指導者の見解を統合し、イスラムの伝統を守り、その栄光を復活させる努力の為に開かれた。この日はヒジュラ暦(Hijrah)15世紀の始まりの日でもあった。

 

Conference Palace, Al-Ta’if

http://www.islamictourism.com/PDFs/Issue%203/English/90-94.pdf

 

4.7.7 通信に関する近代化(Modernization in terms of Communications)

 

1991年の湾岸戦争までにはターイフはイラク占領下のクウェイト向けのニュースを流す為のレンドン社グループ(Rendon Group)がテレビ局とラジオ局を置く程、通信に関しては近代的な都市になっていた。

 

 

4.8 ターイフの歴史的人物 (Taif's Historical Personalities)

 

ターイフ出身の多くの人物達が宗教、政治、軍隊、科学や文学等の異なった分野で傑出した業績を上げている。

 

4.8.1 ウルワ ビン マッサウド(Urwa bin Massaud)

(イスラムを受け入れた最初のサキフ族指導者)

 

サキフ族(Thaqifi)の指導者ウルワ ビン マッサウド(Urwa bin Massaud)はこの部族でイスラムを受け入れた最初の人物であった。ウルワはタブク(Tabuk)への出征から帰還中の神の使者(Messenger of God)とマディーナの外で会い、自発的にターイフに戻り、その市民に平和的な手段でモスリム(Muslims)になる様に説得しようとした。

 

シラト(Sirat)*の言葉の中に「ウルワは愛され、遵奉する男であり、指導者の自分に反対が無い事に祈りながら同族のサキフ達にイスラムへの改宗を呼び掛けた。ウルワがサキフ達をイスラムに誘い、自分の信仰と自分自身を曝け出した時にサキフ達は全ての方向からウルワに矢を射かけ、その内の一本が当たってウルワは殺された」とある。

 

(注) シラト(Sirat or Sira)とはイブン イシャク(Ibn Ishaq, 704 – c. 767)*著の「神の使いの一生(Sirat Rasul Allah or Life of Messenger of God)*」である(出典: Wikipedia)。

 

息を引き取る前にウルワは自分の差し迫った死について何を考えているかを訊ねられ、ウルワは「神が自分に名誉を与えた贈り物で、神が自分を導いた殉教死である。自分は使徒(Apostle)が貴方から立ち去る前に使徒と共に殺された殉教者である。だから自分を使徒と共に埋葬して欲しい」との感動的な答えを見出した。ウルワの最後の願いは尊重され、ウルワはターイフ包囲のムスリム殉教者達と共に埋められた。

 

ウルワの英雄的で哀愁に満ちた死が同じ年、西暦631年あるいはヒジュラ暦(Hijrah)9年でのバヌ サキフ族(Banu Thaqif)のイスラム受け入れに影響した主要な要素の一つであった様に思える。その後、バヌ サキフ族は信仰心の篤いムスリム(Good Muslims)になり、この新しい宗教運動に多大に貢献した。

 

4.8.2 アブ ウバイド イブン マッサウド(Abu Ubaid ibn Massaud)

(勇敢ではあるが運の悪いバヌ サキフ族出身のムスリム軍司令官)

 

イスラム初期の叙情詩年代記の中にその名は記録されているバヌ サキフ族の一人は勇敢ではあるが運の悪いアブ ウバイド イブン マッサウド(Abu Ubaid ibn Massaud)である。アブ ウバイドはカリフ ウマル(Caliph Umar)*によってムスリム軍がペルシア軍(Persian Army of Sassanid Empire, 224 - 651)と衝突しているユーフラテス川(Euphrates)前線の司令官に任じられた。それまでは実際には知られて居ないサキフ族(Thaqifi)の一人であった。西暦634年のヒラ(Hira)*近くの「橋の戦い(Battle of Bridge)」でアブ ウバイドは捕らえられ、敵方の象の一頭に踏みつけられて死んだ。

 

() ヒラ(Al Hira)はイラク(Iraq)南部中央のクファ(al-Kufah)の南にあった古代都市。

 

4.8.3 ムスリム帝国に貢献の3(3 Distinct Contributors to Muslim Empire)

 

正統カリフ(Well Guided Caliphs)とその後継者達はムスリム帝国の領土の広がりに対処する為に複雑な行政、軍事および政治の機構を作り上げた。それは預言者の死に引き続いての栄光ではあるが不穏であった年月の出来事であり、ターイフ出身者達はムスリム帝国の政治的な活動に大きな貢献をしていた。その中ではムジラ ビン シュアバ(al-Mujirah bin Shuabh)、ジアド ビン アビニ(Ziad bin Abihi)およびハッジャジ ビン ヤッスフ(Al-Hajjaj bin Yussuf)の三人が特に傑出した地位に着いた。

 

最初のムジラは預言者の仲間の一人であり、663年にカリフ ウマル(Caliph Umar)によってクーファの知事(Governor of Kufa)に任命され、その地位はカリフ ムアーウィヤー(Caliph Muawiyah)によっても再確認された。

 

ジアド(Ziad)はムアーウィヤー(Caliph Muawiyah)によってバスラ(Barsrah)知事に任命される以前はクーファ知事ムジラ(al-Mujirah)の副官(Adjutant)であった。667年にムジラが死ぬとジアド(Ziad)もクーファ知事に任命された。ジアド(Ziad)は演説の巧みさ、行政能力そして現実的で理性的な政治的決断で賞賛された。

 

ハッジャジ(Hajjaj)は国務に長く携わった後に第5代ウマイヤ朝カリフ(5th Caliph of Umayyad Dynasty, 685 - 705)のアブド マリク(Caliph Abd al-Malik, 646 - 705)に信頼された。不安定な国内の平和を回復した後、ハッジャジは財政、徴税および農業分野での傑出した結果をもってその有能な指導力を示す事が出来た。

 

4.8.4 ファリヤ ビント アビ サルト(al-Fariyah bint Abi al-Salt)

(神の使徒の中でも最も卓越した信奉者)

 

イスラムの年代記編者達はサキフ族婦人で詩人ウマイヤ イブン アビ サルト(Umayyah ibn Abi al-Salt)の姉妹ファリヤ ビント アビ サルト(al-Fariyah bint Abi al-Salt)を神の使徒(Apostle of God)の中でも最も卓越した信奉者(disciples)として記録している。

 

4.8.5 ハリス イブン ハラダ(Thaqifi al-Harith ibn Khaladah)

(アラブ医師の先駆者)

 

アラブ医師の先駆者で、キフティ(al-Qifti)*とイブン アビ ウサイビイヤ(Ibn Abi Usaybiyyah)によって哲学者と医者の権威ある伝記集(Biographies)の中で医療専門職に関連して述べられた最初のアラブ人は預言者の年長の同時代人であるサキフ族ハリス イブン ハラダ(Thaqifi al-Harith ibn Khaladah)である。ハリス(Harith)はペルシャ(Persia)のフジスタン県(Province of Khuzistan)のジュンディシャブール(Jundishabur)(ファルシ(Farsi or Persian)ではゴンデシャプール(Gondeshapur))にササン朝(Sasanid, 226 - 651)が設立した有名な医学校兼病院で学んだ。

 

(注) キフティ(al-Qifti, ca. 1172 – 1248)は上エジプト出身のイスラム宗教学者で、哲学者(Philosophers)、医者(Physicians)および天文学者(Astronomers)414名を含む伝記集(Biographies)1249年に著作した。

 

ハリスは治癒技術ではササン朝のフスラウ アヌシールワン王(King Khusraw Anushirwan, 531 - 579)が少なくとも一回はハリスに相談する程の専門家であった。故郷のヒジャーズに戻った後、伝説では「ハリスは預言者の信徒の中枢に出入りする様になり、預言者はハリスとの会話を楽しみ、その博学な医学知識から教えられた」と言う。ハリス イブン ハラダ(al-Harith ibn Khaladah)の名声はハリスが単に「アラブ族の医者(Doctor of Arabs)」と呼ばれていた事実がもっとも良く示している。

 

4.8.6 イサ イブン ウマル(Isa ibn Umar)

(アラビア語の早期の文法家で辞書編集者)

 

ターイフの人々はアラビア語の知識に対する特別な貢献もしている。アラビア語の早期の文法家で辞書編集者の一人はサキフ族のイサ イブン ウマル(Isa ibn Umar)である。

 

4.8.7 ウマイヤ ビン アビ サルト(Umayyah bin Abi al-Salt)

(サキフ族のもっとも偉大な詩人)

 

イエメンの地理学者ハマダニ(al-Hamadani)*はその著書「シファト ジャジラト アラブ(Sifat Jazirat al-Arab)」の中でターイフ方言の純粋さを賞賛している。アッバース朝(Abbasid, 750 - 1258)のカリフ達(Caliphs)は外国人の廷臣達を古典的なアラビア語の知識を熟達させる目的でアラビア語やその他を学ぶ為にターイフに派遣するのが常であった。

 

山地でバヌ サキフ族(Banu Thaqifi)に隣り合う部族バヌ フザイル族(Banu Hudhail)はヒジャーズだけでは無く全アラビア半島でもっとも純粋なアラビア語を話すとの名声を誇っていた。聖なるクルアーンの手書きの写本は一旦はオスマン帝国のカリフのもとに持って行かれた。この写本の中には幾つかの誤りがあるとの指摘があったのでカリフが調べさせたところ、「これはサキフ族(Thaqifi)によって手書きされたのでも無く、バヌ フザイル族(Banu Hudhail)の誰かが口述したものでは無いのは明らかだ」と云う報告を受けた。

 

アブ ファラジ アリ イスファハニ(Abu al-Faraji Ali al-Isfahani (d. 967))著のアラビア語で書かれた詩の記念碑的な特有の蒐集でもあり、その著者達への註釈集でもある「歌の本(Kitab al-Aghani or Book of Songs)」の第III186頁には次の様な見解が含まれている。

 

「全ての町人達でヤスリブ(Yathrib)(マディーナ(Madinah))出身者はもっとも理想化される傾向があり、それにアブド カイス族(Abd al-Qais)それからサキフ族(Thaqifi)が続く。サキフ族のもっとも偉大な詩人がウマイヤ ビン アビ サルト(Umayyah bin Abi al-Salt)であった」。

 

これらの言葉が書かれた時からこれらはそれらの正当さを失って居らず、ターイフ出身者でウマイヤを超える詩人は居ない。ウマイヤの生まれた日も没した日も正確には判って居ないが、その部族がイスラムに改宗した日、即ちマディーナから使徒(Apostle)が移住してから9年目、西暦631年、まではウマイヤは生きていなかった様であり、ウマイヤはムスリムに成らないまま没したのは明らかである。

 

ウマイヤは預言者に率いられたムスリム達に対抗したバドルの戦い(Battle of Badr, 624)での戦死に対して賛辞を書いている点ではムハンマドへ初め敵対したクライシュ族(Quarish)の支援者であった。注釈者達はその事実への考慮に根拠を置いている。

 

それでもウマイヤの詩には一神教霊感の哲学的で宗教的な観念が持ち込まれている。時としてそれはクルアーンの概念に非常に近く、そしてウマイヤは自分の都市の偶像神崇拝を拒否していた。ウマイヤの博学は遠くまで及び、そしてウマイヤは自分の論旨の幾つかを明らかに引き出していた「神のもっとも古い本即ち聖書(Bible)」を読んだ誉れを楽しんでいた。神は実にたびたびウマイヤの詩に記述され、そしてウマイヤの物事に対する驚きの表現としてあわれみや認識が作り出された。多分、ウマイヤの偉大さの最上の確認は、「歌の本(Kitab al-Aghani or Book of Songs)」第III190頁を信じるとすれば、預言者自身が時々ウマイヤの詩が自分に言及しているかを尋ねた事である。

 

4.8.8 アブ ミフジャン サキフィ(Abu Mihjan al-Thaqifi)

(イスラム到来の始めに栄えたアラビア詩の黄金時代を代表する詩人)

 

アブ ミフジャン サキフィ(Abu Mihjan al-Thaqifi)はイスラム到来の始めに栄えたアラビア詩の黄金時代を代表するもう一人であった。預言者の軍隊に備えてターイフの防備に参加した後でアブ ミフジャンは631年の自分の部族の大量イスラム改宗に従った。このターイフの防備の中でアブ ミフジャンはアブ バクル(Abu Nakr)の息子に矢で傷をおわせた。

 

アブ ミフジャンはカリフ ウマル(Caliph Umar)*によって飲酒とか女遊びで何度も追放される等、少し不節制な性格ではあったが、ペルシア(Persia)に対する637年のカーディシイヤの戦い(Battle of al-Qadisiyyah, 636)での勇敢な戦闘によってその存在を証明した。アブ ミフジャンは最終的には悪習を止め、そして伝える所によれば節制する事を「自分はワインを良い物だと思っていたが、そのかわりとして正しさや思慮を破滅に導く性質がある。神に掛けて自分は二度と飲まないし、食卓にのせて仲間に勧める事もしない」と誓った。

 

至る所にアブ ミフジャンの有名な一節が引用されている。(「自分が死んだ時、自分を葡萄の木の下に埋めて欲しい」)この一節は詩人としてのアブ ミフジャンの名声が残るバッコス崇拝形体(Bacchanalian Genre) の「最初の作風」を代表している。アブ ミフジャンの墓はアゼルバイジャン(Azerbaijan)*或いはゴルガーン(Gorgan)*の何処かにあり、故郷から遠く離れた場所で死んだ。その墓石には「ここにアブ ミフジャン サキフィ (Abu Mihjan al-Thaqifi)が眠る」と書かれていると云う。

 

4.8.9 アブドゥッラー ビン アッバス(Abdullah bin al-Abbas)

(クルアーン解釈の容認された父)

 

厳密には「ターイフ出生の息子」では無いけれども、この短く、完全とは程遠い「ターイフの歴史的人物(Taif's Historical Personalities)」をターイフに長く住み、後にその名の付いたもっとも有名なモスクに埋葬されているアブドゥッラー ビン アッバス(Abdullah bin al-Abbas, 619 - 688)*の記述で締めくくりたい。

 

預言者の従兄弟(父達は兄弟で、アブド ムッタリーブ(Abd al-Muttalib)の息子達)、ビン アッバスはヒジュラ(Hijrah)3年前(619 CE)に生まれた。幼い時からビン アッバスは既にクルアーン(Quran)やイスラム史の解釈から司法問題まで様々な分野の研究や調査に目立つ気質を示した。ビン アッバスはその学問の広さから「海(al-Bahr or Sea)」とのあだ名を付けられる程、すぐれた知識を蓄積した。

 

ビン アッバスはクルアーンの解釈の容認された父であり、預言者の仲間や家族への質問する手段で預言者に関するもっとも早期の情報収集者の一人である。偉大な学者であるのを離れてもビン アッバスは活動的な人物でもあり、ムスリム軍のエジプト(Egypt)、北アフリカ(North Africa)、北部イラン(Northern Iran)およびコンスタンティノープル(Costantinople)の出征にも従軍している。ビン アッバスは3人のカリフへ信頼でき助言者としても仕え、ヒジュラ歴36年(西暦657年)にバスラ知事(Governor of Basra)に任命された。

 

ヒジャーズへ隠退する前の23年は事務所に勤務していた。多分、勝利した側のムアーウィヤー(Muawiyah or Mu'awiya)了解の下であるとは思われるがビン アッバスは明らかにバスラの宝物の一部を持ち帰ったので、アリ(Ali)とムアーウィヤーの間のカリフの位(Caliphate)をめぐっての争いに関連したあいまいな挿話にビン アッバスは巻き込まれた。ムアーウィヤーにカリフ在位の長い年月の間にビン アッバスはムアーウィヤーのダマスカス宮廷(Court in Damascus)の頻繁な訪問者であった。これは上記の行動に付帯して汚点は何も無かった事を証明している。

 

後にアブドゥッラー イブン ズバイル(Abdullah ibn al-Zubayr)*のカリフ即位に反対して、ビン アッバスはメッカ(Makkah)で投獄されたが、クファ(Kufa)からムフタール(al-Mukhtar)*が派遣した特別騎兵軍団による力づくの攻撃で自由になった。政治生活でのこの連座を最後に永久にターイフに隠退し、ヒジュラ歴68年(西暦688年)に没した。

 

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