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マッカ・ムカッラマとメッカ州 (サウジアラビア王国西部地方) その4 近代化する聖地メッカ |
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イスラーム教徒達(Muslims)がメッカに行く目的は聖モスク(Holy Mosque)でお祈りすることであり、時にはイスラーム教徒達は聖モスクを訪れた折に小巡礼(Lesser Pilgrimage)と呼ばれるウムラ(Umrah)*を実施することもある。一年に一度、メッカおよびその周辺の場所で行われるハッジ(Hajj)*儀式は大巡礼(Greater Pilgrimage)とも呼ばれ、数十万人あるいは数百万人ものあらゆる人種が一緒になってお祈りする。イスラーム(Islam)では「もし、ウムラ(Umrah)やハッジ(Hajj)を正しく誠意をもって行うならば、全ての罪は許される」と教えていると云う。
(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。) 3.1 ハッジ(Hajji)
巡礼(ハッジ(hajj)*)はイスラーム教徒に課せられた宗教的な義務であるイスラーム五行(Five Pillars of Islam)*の中の5番目の行為である。しかしながら、全てのイスラーム教徒達(Muslims)に課せられた他の行とは異なり、それを実行する体力、財力があり、ハッジが行うことが可能な成人だけに「一生涯で一度は行わなければならない」と課している。ハッジを済ませた者は男性はハーッジイー(Hajji)*、女性はハーッジヤ(Hajjiyah)*という尊称を得る。
ハッジは7世紀に預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)によって儀式化されたが、「メッカ(Mecca)への巡礼儀式は紀元前2000年頃のアブラハム(Abraham or Ibrahim)*の時代にまで遡る」とイスラーム教徒達は考えている。
ムハンマドの時代以前はアラビア半島全体から各部族が巡礼の一部として年に一度、メッカに集まっていた。その時代には部族の明確な信仰は重要では無く、キリスト教徒のアラブ族も異教徒(Pagans)として巡礼を行っていた様である。イスラーム歴史学者(Muslim Historians)はこの時代をジャーヒリーヤ時代(Al-Jahiliyah)*あるいは無明時代(Days of Ignorance)と呼んでおり、カアバ神殿(Kaaba)*にはフバル神(Hubal)*、アッラー(Allah)*およびその娘の女神アッラート(Al-Lat or Allat)、ウッザ(Uzza)と女神マント(Manat)等、数百体の偶像神(Idols)が安置されていた。
(注) アッラー(Allah)は神を示す単語で、アブラハムの宗教(Abrahamic Religions or Abrahamic Faith)とも呼ばれるアブラハム(Abraham)が説いた原始一神教(Din al-Hanif or Primordial Religion)の唯一神(Allah)を意味している。しかしながら、イスラーム以前(Pre-Islamic Arabia)で異教徒(Paganns)であったメッカの住人達(Meccans)も自分達の最高神(Supreme Deity)を意味する言葉としてアッラー(Allah)を使用していた。このアッラーには女神アッラート(Al-Lat or Allat)、ウッザ(Uzza)と女神マント(Manat)の三人の娘が居たとされる。
ムハンマドは啓示(Revelations)を受け取り始める前にも定期的にウムラ(Umrah, Umra or 'Umra)*を行っていたことが知られていた。631年にムハンマドは信徒達を率いてメディーナ(Medina)からメッカ(Mecca)に向かい、これがイスラーム教徒達だけで行われた始めてのハッジ(Hajj)であり、ムハンマドの行った唯一のハッジであった。ムハンマドはカアバ神殿を洗い清め、偶像群を破壊し、この建物を再び、神の家(House of God)と定めた。この時からハッジはイスラーム五行(Five Pillar of Islam)*の1つとなった。
巡礼(ハッジ(hajj))は一般的にはマッカ巡礼(Annual Pilgrimage to Makkah or Mecca)を意味するが、小巡礼ウムラ(Umra or 'Umrah)と区別する必要のある場合には大巡礼と呼ばれる。
ヒジュラ暦(Hijura or Hegira)の12月(デュール ヒジャー(Dhu'l-Hijjah))の8日から10日を中心に巡礼達(Pilgrims)は一斉にメッカ(Mecca)に集まり、一連の儀式を行う数十万あるいは数百万の人々の行列に加わる。個人個人は反時計回りにカアバ神殿(Kaaba or Ka’bah)*の周囲を七回廻り、神殿の角に置かれた黒石(Black Stone, al-Hajarul Aswad or al-Hajar al-Aswad)*に接吻をし、そしてサファーの丘(al-Safa)*とマルワの丘(al-Marwah)*の間を七回行ったり来たりし(サアイ(sa'y)*を参照)、ザムザム(Zamzam)*井戸の水を飲んで、寝ずにアラファト('Arafat)*へ向かう。その後、ジャムラ(Jamra or jamarah)*に対し石投げの儀式(Stoning of Devil)を行う。それから巡礼達は頭を剃り、供犠(くぎ)(Sacrifice or Dhabiha)*を行い、4日間にわたって世界的な祭りイード アドハー('Id al-Adha)*を祝う。
3.2 ウムラ(Umra)
ウムラ(Umrah)*巡礼はイスラーム教徒がハッジ(Haji)*巡礼期間を除く一年中いつでもマッカ(Makkah or Mecca)に詣でられる巡礼である。ハッジ巡礼儀式ではウムラ(Umrah)儀式がハッジ(Hajj)儀式と結合し、ハッジ(Hajj)儀式に先にだって行われるが、ウムラ巡礼(Umrah)ではウムラ(Umrah)儀式のみが独立して行われる。
ウムラ(Umrah)儀式がハッジ巡礼の一部として行われる場合はウムラ タンマツ(Umrat al-Tammatu)と呼ばれ、ウムラ(Umrah)儀式が独立してそれのみで行われる場合はウムラ ムフラダ(Umrat al-Mufragah)或は単にウムラ(Umrah)と呼ばれる。ハッジ巡礼(Hajj)が大巡礼と呼ばれ、ウムラ巡礼(Umrah)が小巡礼(Hajj al-Umrah)と呼ばれている。なお、ウムラ巡礼(Hajj al-Umrah)はハッジ巡礼と異なり、イスラームの五行(Five Pillars of Islam)*の1つとは見なされていない。従って、ウムラ巡礼を行っても、一生の内に可能な状態があればハッジ巡礼を行う義務を免除はされない。
ウムラ(Umrah)*巡礼で課せられるウムラ(Umrah)儀式に含まれる儀礼行為はタワーフ(Tawaf)*とサアイ(sa'y)*のみであるが、「行為に先立ち、義務行為としてイフラーム(Ihram)*をミーカート(Miqat)*から行い、頭髪を剃るか切るかしなければならない」と云う。
今では、毎年の巡礼の季節以外にも一年中、多くのムスリムが二つの聖なる都市にウムラ(al-'umrah)を行って居り、一年を通じて真夜中でも数千人がカアバ神殿の周りを絶え間なく動く人間の輪となり、巡行(circumambulanting)(タワーフ(Tawaf)*)を行っている光景が見られる。 3.3 非イスラーム教徒のメッカ入境(Entry to Mecca for Non-Muslims)
サウジの法律で非イスラーム教徒(Non-Muslims)はメッカに入ることは許されていない。サウジ政府は「あなた方は誰を信じるのか?偶像神を信じる者達(Mushrikeen or Idolaters)は精神的にあいまいであり、聖なるモスク(Savred Mosque)に近づけてはならない」との教えを守っている。
非イスラーム教徒に閉じられた市の存在やハッジ(Hajj)*の神秘は時として世界中から来る人々に激しい好奇心を起こさせる。ハッジを経験したくてメッカ市(City of Mecca)や大モスク(Grand Mosque)を訪問する為にイスラーム教徒(Muslim)と偽る者達も居た。記録に残っている最初の人物は1503年に訪問したボローニャ(Bolognese)の冒険家ロドヴィコ デ ヴァルテマ(Lodovico de Varthema)である。
(注)ロドヴィコ デ ヴァルテマ(Lodovico de Varthema)については「悠久な東西交易の中継港ジェッタの1-3 サラセン帝国から大航海時時代幕開けの2.5 ロドヴィコ デ ヴァルテマ」をご参照戴きたい (http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/Jeddah-3.html#2) 。
メッカへの外国人旅行者のもっとも有名な記述は偉大な探検家リチャード フランシス バートン(Richard Francis Burton, 1821 - 1890)の著書「メディアおよびメッカへの個人的巡礼記(記念版)(A Personal Narrative of a Pligrimage to al-Madinah and Meccah)」である。バートンはアフガニスタン(Afganistan)から来たカディール派(Qadiriyyah)*のスーフィー(Sufi)*として旅をしていた。1898年に出版された著書「ユダヤ人、ジプシーおよびイスラーム(The Jew, the Gypsy and El Islam)」の巻頭写真の下に自ら署名している様に「ハッジ アブドゥッラー(Al Hajj ‘Abdullah)」という名を使っていた。現在、入境するために偽のイスラーム教徒証明書(Fake Certificate of Muslim)を使った者はサウジ官憲(Saudi Authorities)に捕縛され、訴追を受け、処罰される。
(注) リチャード フランシス バートン(Richard Francis Burton)については「悠久な東西交易の中継港ジェッタの1-5 ヨーロッパ人による近代ジェッダの紹介3.1 リチャード フランシス バートン(Richard Francis Burton)」 および「メディアおよびメッカへの個人的巡礼記(記念版)(A Personal Narrative of a Pligrimage to al-Madinah and Meccah)」をご参照戴きたい。
3.4 巡礼儀式の手順(Stage of Rites of Hajj) 3.4.1 ハッジの準備(Preparation of Hajj)
巡礼達はハッジに行くのに連帯の表明として普通は団体で旅行する。幾つかの航空会社はメッカ行きの特別パッケージを組んで居り、船会社もハッジを行うために巡礼者達を運んでいる。
ハッジの間は男性巡礼者はイフラーム(Ihram)*のみを身に付けるように要求される。この服装は上体を一枚で被い、下半身にはもう一枚を腰帯にして使う2枚の縁取りをしていない白い布と一足のサンダルで構成される。女性巡礼者は単に手や顔を隠さない地味な服装と頭髪を隠すスカーフ(ヒジャブ(Hijab))を被る事を要求されるだけである。
イフラーム(Ihram)は王族と貧困者の間に何も違いは無い様に神の目に巡礼皆を平等にお見せすることを意味している。イフラームは又、聖なる美徳と過去の罪への恩赦を象徴している。
巡礼達は巡礼月(Month of Prigrimage)の7日までにメッカ(Mecca)近傍のミーカート(Miqat)*に到着し、そこで完全な洗い清めの儀式グスル(Ghusl)*を行い、イフラームに着替えなければならない。ミーカート(Miqat)*にはメディーナ(Medina)方面のズ‘ル フラファ(Zu’l-Hulafa)、シリア(Syria)方面のジュフハ(Juhfa)、ナジド(Najd)方面のクム ‘ル マナージル(Qamu’l-Manazil)、イエメン(Yemen)方面のヤラムラム(Yalamlam)、メッカ(Mecca)方面のサネイム(Thaneim)、イラク(Iraq)方面のザーティ‘イルク(Zat-i-`Irq)、印度等海路で到着する旅行者のためのイブラヒーム ムルシーア(Ibrahim Mursia)等がある。
イフラーム(Ihram)を着用している間は髭を剃ったり、爪を切ったり、香水をつけたり、誓いを立てたり、喧嘩をしたり、性交をしたり、植物を根絶やしにしたり、傷つけたり、頭(男性の場合)や顔や手(女性の場合)を被ったり、踝から上の靴を履いたり、不正を働いたり、武器を携帯する等の行為をしてはならないとされている。 3.4.2 ハッジの儀式(Rites of Hajj)
メッカ(Mecca)に到着すると巡礼はアブラハム(Abraham)*とその妻ハガール(Hagar or Hajra)*の生涯を象徴し、世界中のイスラーム教徒達(Muslims)の連帯も象徴する一連の儀式行為を行う。「その手順(Stage of Rites of Hajj)ついてはそれぞれのイスラーム法律学校や法学者の見解によって多少の違いはある」と云われている。
大ハッジ(Greater Hajj or al-Hajj al-Akbar)はヒジュラ暦(Hijura or Hegira) 12番目の月(デュール ヒジャー(Dhu'l-Hijjah))の8日目に始る。
もし到着時にイフラーム(Ihram)へ着替えていなかったら、巡礼達はイフラーム(Ihram)を着用し、それからメッカを離れて、近郊の町ミナー(Mina)に向かい、ミナーでその日の残りを過ごす。サウジ政府はミナー(Mina)に巡礼全員を収容する為の数千張りの白い大型天幕を設営している。
3.4.3 ウムラ(Umrat al-Tammatu)
ヒジュラ暦(Hijura or Hegira)* 12番目の月(デュール ヒジャー(Dhu'l-Hijjah))の7日目であるハッジ(Hajj)*の初日に巡礼達は最初のタワーフ(Tawaf)*を行う。タワーフ(Tawaf)は聖モスク(Masjid Al Haram)に入場している全ての巡礼達で行い、カアバ神殿の周りを反時計方向に7周歩き、1周毎に黒石(Black Stone)*(ハジャール アスワド(al-Hajar al-Aswad)*)にキスをする。混雑で黒石にキスが出来ない場合は一周毎に右手で単に黒石を指し示せば良い。1周毎に神への定められた祈りを唱え、7周でタワーフ(Tawaf)の儀式を終える。巡礼達がタワーフを行う為に歩く区域はムタアフ(Mutaaf)と呼ばれている。タワーフ(Tawaf)*では義務付けられているのは最初の3周だけであるが、ほとんど全員が7周している。
タワーフ(Tawaf)*は普通は一度に行われる。行為の途中で食するのは禁じられているが、脱水症の危険があるので水を飲むのは許されている。男達は最初の3周は急ぎ足で歩くが、残りの4周はもっと接近してゆっくりと歩く。
タワーフが達成した後、全ての巡礼達はカアバ神殿に近い場所にあるアブラハムの足跡(マカーム イブラヒーム(Maqam Ibrahim or Maquamu Ibrahim)*)の周りで礼拝(サラート(Salat)*)の基本動作ラクア(Rakaat or Raka’ah)を2回行う。ハッジ(Hajj)*の期間中は大群衆となるため、巡礼達はアブラハムの足跡でなくとも聖モスクの中の何処で祈っても良い。
マカーム イブラヒーム(Maqam Ibrahim)*
カアバ神殿の周りを回るのは伝統的に地上で行われているけれども、タワーフ(Tawaf)*は今では巡礼達が大群衆となったために聖モスクの一階と屋上でも行われている。
タワーフを完了した同じ日に巡礼達はサファー(al-Safa)*とマルワ(al-Marwah)*の間を走るか、歩くかで7往復してサアイ(Sa'y or Sa’i)を行う。
サファー(al-Safa)とマルワ(al-Marwah)の空調のあるトンネル http://www.hacvehaci.com/wp-content/uploads/2009/03/sayaltkatdx6.jpg
預言者アブラハムはアッラー(Allah)の命により妻ハガール(Hagar or Hajra)* と赤子の息子イシュマエル(Ishmael)*を沙漠に残していった。アブラハムが離れている間に赤子は喉を渇かせ、ハガールは息子に与える水を探しに7回も行ったり、来たりした。赤子は泣き出し、自分の足で打つと摩訶不思議に水が湧き出し、ハガールにその井戸が与えられた。(赤子の足ではなく、天使が翼の先端で地を撫ぜとの言い伝えもある。)サアイ(Sa'y or Sa’i)*はこの時にハガール(Hagar)*が息子イシュマエル(Ishmael)*のために必死で水を探しまわったことの再現である。この水源は現存しており、ザムザム(Zamzam)*の井戸と呼ばれている。
巡礼達の往復は以前は野外で行われていたが、今は聖モスク(Masjid al-Haram)に完全に取り込まれており、空調のあるトンネルを経由して行けるようになっている。巡礼達はこの往復を歩くように求められているが、2つの緑の柱で印された短い区間については走るのが許されている。また、内側には障害者用の専用レーンが設けられている。過去に巡礼達が殺到した結果、数百名が亡くなった痛ましい事故が起きており、安全手順が適用されている。
この儀式の一部として巡礼達はザムザム井戸の水も飲む。ザムザム井戸の水は聖モスクの到る所に飲料水冷却器で冷やして用意してある。ハッジのこの日に聖モスクを訪れた後、巡礼達は各々の天幕に戻る。
この様にウムラ(Umrah)儀式がハッジ巡礼の一部として行われる場合はウムラ タンマツ(Umrat al-Tammatu)と呼ばれる。(3.2章参照) 3.4.4 アラファト(Arafat)
翌朝、ヒジュラ暦(Hijura or Hegira) 12番目の月(デュール ヒジャー(Dhu'l-Hijjah))の8日目、巡礼達はその夜を祈りながら過ごす為にミナー(Mina)*へ進む。9日目に巡礼達はミナー(Mina)を離れ、アラファト(Arafat)*へ向かう。アラファトでは巡礼達はムハンマド(Muhammad)が最後の説教を行った丘の近くで、黙想的な徹夜の勤行に加わり、祈りそしてクルアーン(Qur’an)を暗誦する。この丘はラフマ山(Jabal al-Rahmah or Mount of Mercy) 又はアラファト山(Hill of Forgiveness, Mount Arafat).と呼ばれている。これがウクーフ(wuquf)*として知られた儀式で、ハッジの最高潮である。巡礼達はその午後を日没過ぎまでアラファト平原(Plain of Arafat)の定められた区域内で過ごさなければならない。多くの巡礼達が祈ったり、自分達の人生について考えたりしているけれども、アラファトに留まっている間は特定の儀式や祈りは要求されない。もし、巡礼達がその午後をアラファトで過ごさないと、巡礼のハッジは無効であると考えられている。
(注)アラファト山(Hill of Forgiveness, Mount Arafat).はラフマ山(Jabal al-Rahmah or Mount of Mercy) の他にラフマン山(Jabal al-Rahman, the Mount of Mercy)との呼称を使っている記述もある。J. Milton Cowan編纂の辞書「Dictionary of Modern Written Arabic」には「RahmahはMercy、RahmanはMercifulと転写されている」ので両方共に正しいのかも知れない。
3.4.5 ムズダリファ(Muzdalifa or Muzdalifah)
9日目の日が沈むと巡礼達はアラファト(Arafat)*を離れ、アラファとミナーの間のムズダリファ(Muzdalifa or Muzdalifah)*へ向かう。そこで、巡礼達は翌日の石投げの儀式(Stoning of Devil or Shaitan)の為の小石を集める。ミナーに戻る前に多くの巡礼達が地面に寝たりして、野宿の様な一夜を過ごす。
3.4.6石投げの儀式(Ramy al-Jamarat)
10日目にはミナー(Mina)*で巡礼達は悪魔に対する自分達の挑戦の意思を示す為に石投げの儀式(Ramy al-Jamarat)を行う。この儀式はアブラハム(Abraham)*がアッラー(Allah)の要求に従って、自分の息子を生贄にするかどうか決めかねていた時に、アブラハムが経験した試練を象徴している。悪魔はアブラハムに3回挑戦し、アブラハムは3回共、拒否した。それぞれのジャムラ(Jamra, Jamarat or Jamarah)*と呼ばれる石柱は3ヵ所の拒否した場所を印している。石投げの儀式が行われる最初の場所で巡礼達はジャムラ アカバ(Jamarat’ al ‘Aqabah)と呼ばれる一番大きな石柱に石を投げる。巡礼達は傾斜路を多層構造のジャムラ橋(Jamarat Bridge)へのぼって、そこから用意していた小石を石柱(Jamrat)*に向けて投げることも出来る。二番目石投げの儀式では他の2つの石柱(Jamrat)*に対して石が投げられる。石投げの儀式の儀式は7個の小石を投げる事で構成されている。混雑の為、2004年に石柱は小石を集める石溜めを下に設けた長い壁に取り替えられた。
3.4.7犠牲祭(Eid al-Adha)
悪魔への石投げの儀式(Ramy al-Jamarat)の後、巡礼達は動物を生贄にする。これは神がアブラハム(Abraham)*が息子の変わりに雄羊を生贄にする慈悲を持たれた事を象徴している。伝統的に巡礼達は自ら生贄を屠殺するか、屠殺を監督していた。今日では多くの巡礼達は大巡礼(Greater Hajj)が始る前にメッカ(Mecca)で生贄証憑を購入している。生贄証憑は巡礼自身が立ち会わなくても10日目に巡礼の名前で生贄が屠殺される事を保証する。センター化した屠殺場が巡礼1人に対して羊1頭、7人に対して牛1頭を生贄にする。生贄の肉は梱包され、慈善事業として世界中の貧しい人々に配送される。同時にメッカでも生贄の屠殺が行われる。4日間続く犠牲祭(Eid al-Adha)*と呼ばれるお祭りの間にイスラーム教徒達(Muslims)は同じ様に世界中で動物を生贄にする。 3.4.8 タワーフ ジヤラ(Tawaf az-Ziyarah)とタワーフ ワダ(Tawaf al-Wada)
この日(10日目)の中か、翌11日目には巡礼達は再び聖モスク(Masjid al Haram)を訪れ、カアバ神殿の周りを歩くタワーフ(Tawaf)*を行う。この儀式はタワーフ ジヤラ(Tawaf az-Ziyarah)*あるいはタワーフ イファダ(Tawaf al-Ifadah) *と呼ばれ、神に急いで応答し、神への愛を示す事を象徴しているハッジの儀式の義務となっている部分の一部である。10日目の夜はミナー(Mina)に戻って過ごす。
11日目の午後とその翌12日目に再び、巡礼達は7つの小石をミナー(Mina)にある3体の石柱(Jamrat)*に投げなくてはならない。巡礼達全員、12日目にはミナー谷(Mina)を離れ、メッカ(Mecca)に戻る。12日目の日没以前にメッカ(Mecca)に向かってミナー(Mina)を離れられない巡礼は13日目にメッカ(Mecca)へ戻る前に石投げの儀式を再び行わなければならない。
最終的にメッカを離れる前に巡礼達はタワーフ ワダ(Tawaf al-Wada)*と呼ばれるお別れのタワーフ(Tawaf)*を行う。 3.4.9 マディーナへの旅(Journey to Medina)
これはハッジ儀式の一部ではないが、多くの巡礼達がメディーナ(Medina)へも訪れ、カアバ神殿と共にムスリム(Muslims)に取ってはもっとも神聖な場所である預言者のモスク(Mosque of Prophet)*にお参りする。その特徴的な緑色のドームで知られている預言者のモスクは元々はムハンマドの住居であり、預言者ムハンマドはモスク内の聖なる部屋(Blessed Room)として知られる墓に正統カリフであったアブー バクル(Abu Bakr, 573 - 634)*とウマル('Umar ibn al-Khattab, 592 - 644)*を両側に従えて埋められている。預言者モスク(Mosque of Prophet)の近くにはバキー墓地((al-Baqi' cemetery)*があり、預言者の娘ファーティマ(Fatimah)、孫でシーア派(Shi'a)の第2イマム(Second Shi'ite Imam)のハサン(Hasan)や多くのアフル バイト(Ahl al-Bayt)*と呼ばれる預言者ムハンマドの一族が埋葬されている。
預言者モスクとメディーナ市内
メディーナ(Medina)北方に位置するウフド山(Uhud)はイスラーム史(Islamic History)上で激しい戦闘であったウフドの戦い(Ma'raka Uhud or Battle of Uhud)*の戦場跡があり、多くの巡礼が訪れる。
オスマン帝国(Ottoman Empire, 1299 -
1923)*はダマスカス(Damascus)とメディーナ(Medina)を結ぶヒジャーズ鉄道(Hijaz Railway)*を建設した。この鉄道線は1908年に開通し、列車はメディーナがサウジ勢力(Force of Saudis)に陥落した1924年まで運転されていた。その鉄道
3.5 海外から訪れる巡礼の人数(Number of Foreign Pilgrims by Year)
カアバ神殿を海外から訪れる巡礼の数は19世紀後半に数万人であったのが、20世紀末には100万人を超え、2006年には正式許可を得た巡礼者は外国1,654,407人、国内から724,229人で合計は2,378,636人であり、国内からの無許可巡礼を含めるとこの数はさらに増すと予想される。巡礼の数は2007年と2008年は多少、増え、2009年には少し減ったが、それでも正式許可を得た巡礼者の数は200万人を超えている。
(注) 19世紀後半の巡礼の数についてははチャールズ フーバー(Charles Huber)著「ジッダ港交易の統計的資料」を参照戴きたい。
サウジアラビアを訪れた巡礼の数(1996年から2009年) サウジアラビア大使館発表
3.6 難儀な旅と儀式での事故(Hazardous Journey and Unhappy Incidents)
航空機や高級ホテルをパッケージにした巡礼ツアー(Hajj Tour)が組まれている現在においても貧しい遠隔の地から長い長い旅を空調の無いバスを仕立ててやってくる巡礼達は少なくない。まして、昔の巡礼達にとってハッジ(Hajj)を行うのは高い山間の渓谷や遠い孤島から遠路はるばる、暑さや寒さ、沙嵐や暴風雨、旱魃や洪水等の厳しい自然の中、疫病の蔓延や戦乱に加え、盗賊や海賊の襲来も有り得る苛酷な環境の下で、徒歩や駱駝・馬・ロバに騎乗して沙漠や、船に乗り海を渡る長い長い危険な旅であった。「ハッジ巡礼(Hajj)の実践、そのものがジハード(jihad)*であり、神への道の骨の折れる努力である。それは近代的な便利さと呼ばれている現在の時代でさえ時には死に導く犠牲と苦難を包含している。その死はもしその意図が純粋であったならばムスリムはそれから殉教者としての死と天国への入場を約束されるのでムスリム達は心から信奉している」とセイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr)*は述べている。
12世紀にはイブン ジュバイル(Ibn Jubayr, 1145-1217)*が旅の途中で渇きで死んだ巡礼達の遺骸について述べているし、17世紀にはエジプト巡礼団(Egyptian Pilgrims)が1,500の人命と900頭の駱駝を失っている。20世紀に入ってからも1924年のシリア巡礼団(Syrian Pilgrims)はその5分の1が犠牲となっているし、その2年後には旅の途中で12,000名が死んだと考えられている。
3.5章で述べた様に20世紀に入ってからは巡礼儀式に参加する人数は19世紀と比べても50倍から100倍と飛躍的に増大しており、その一方で2.5章「 聖モスクの拡張(Expansion of Holy Mosque)」で紹介した様にカアバ神殿では同じ建物が1000年間近くにわたって保たれ、儀式会場としては参加人数に対して非常に狭くなっていたと考えられる。その一方で、交通手段の発達によって伝統的なイスラーム世界から訪れる巡礼達が増えたばかりではなく、もっと新たにイスラーム共同体が形成された西ヨーロッパ、南北アメリカやオーストラリアからも巡礼達がやってくる。このようにして飛躍的に増大した巡礼儀式に参加する人数に加えて、火事、疫病やテロの発生もあり、卓越した群集整理技術向上や巡礼儀式合理化にもかかわらず、下記の表に示すように衝突や群集の重みでつぶれたり、進入路で踏みつけられたりして、数百人の巡礼達が犠牲になる等々の不幸な事故が起きてしまっている。
(注) サウジ政府は余りにも多くの人数参加に備え、多くの儀式を一層、合理化してきている。例えば黒石には接吻する必要が無くカアバ神殿を周る毎にその方向を指し示せば良いし、2004年からは石投げの標的は安全の為に大きな石の柱に代わって石受けの盆を持つ長い壁になり、生贄の屠殺は個人的に行ったり代理人を依頼したりとか、等々である。
(注)私は以前、1990年8月2日午前2時から開始されたイラク共和国防衛隊(RG)によるクウェート侵攻直後に、サウジ北東国境のカフジ(Al-Khafji)へ30万人と云われた難民が逃げ込んできた。これに対しサウジ政府は緊急収容所を沙漠に設け、数日の内に身元確認し、避難先割り当て、当座の手持ち資金に加え、食料、水、ガソリン等支給し、混乱を収拾した事をご紹介した。この様にサウジ政府は長年、大勢の巡礼達に対処してきた経験から群集整理技術に関しては卓越した能力を備えている。それでも大群衆の集まりでは人身事故が起きている。
2004年2月1日にミナー(Mina)での悪魔への石投げの儀式の最中の起きた不幸な事故を受け、2つの聖モスクの守護者故ファハド国王(Late King Fahd)は翌2004年2月2日(月)に現在と将来の必要性を踏まえ、マッカ(Makkah)、マディーナ(Madinah)およびその他の聖地に対する大規模な開発計画を命令し、「都市村落相ミテブ殿下(Prince Miteb)を議長とする委員会によって20年計画が立案される」と勅令で声明を出した。この決定は当時、第二首相兼親衛隊司令官であったアブドゥッラー現国王(King Abdullah)の推奨で行われ、アブドゥッラー現国王はその後も摂政時代を含め、巡礼達が巡礼儀式に安心して安全に参加できるよう、この大規模な開発計画を進めてきている。詳しくは6章および7章で述べる。
ハッジ期間中の事故
4.1 行政府(Government)
メッカの行政はメッカ市役所が担当しており、市役所はサウジアラビア政府が任命したアミール(Amir)*と呼ばれる市長の率いる14名の地元選出議員による行政評議会が管轄している。現在の市長はオサマ バール氏(Osama Al-Barr)である。
メッカは隣市のジェッダ(Jeddah)を含むマッカ州(Makkah Province)の州都でもある。州知事(Provincial Governor)は2000年から亡くなる2007年までアブドゥル マジード ビン アブドゥル アジズ殿下(Prince Abdul Majeed Abdul Aziz)であったが2007年5月16日にカリド ファイサル殿下(Prince Khalid Faisal)が新知事に任命された。 4.2 健康管理(Health Care)
健康管理に対してはサウジ政府が全ての巡礼に無料で提供しており、メッカには5つの大きな病院がある。
アジヤド病院(Ajyad Hospital)
キング アブドゥル アジズ病院(King Abdul Aziz Hospital) ヌール病院(Al Noor Hospital) シーシャ病院(Sheesha Hospital) ヒラ病院(Hira Hospital)
又、多くの予約無しで行ける診療所も住人達と巡礼達の両方のために整えられている。 4.3 教育(Education)
オスマン帝国(Ottoman Empire, 1299-1922)*の終わりに近い頃に正規教育の普及が始ったが、ハーシム家支配の時代(Hashimite Times)にはその速度は遅くなった。その状況を進展させる最初の大きな試みは1911/1912年に40万ポンドでメッカにファラー学校(Madrasat al-Falah)を設立したジェッダ商人ムハンマド アリー ザイナル リダー(Muhammad ‘Ali Zaybnal Rida)によって行われた。
メッカの学校制には男女それぞれに多くの公立および私立の学校がある。2005年までに公立・私立合わせて男子用に532校、女子用に681校が設立された。公立・私立共、教育はアラビア語で行われており、第二言語として英語が教えられているが、外国法人が設立した私立の外国人学校では教育は英語で行われている。私立の外国人学校では他では認められていない男女の共学が認められている。
高等教育のため、この市は1949年にウンム クラ大学(Umm Al-Qura University)を単科大学として設立し、1979年にはそれをこの市の唯一の総合大学として増強し格上げした。
4.4 人口統計(Demographics)
人口170万人(2008年)のメッカの人口密度は非常に高い。メッカに長年に渡って居住してきた市民のほとんどは巡礼行事にかかわる事業(Hajj Industry)で働いてきている。イヤド マダニ(Iyad Madani)巡礼担当相(Minister for Hajj)が述べている様にハッジの準備を中断する事は無かった。一年中、巡礼達(Pilgrims)はウムラ(Umrah)*の儀式を行う為にこの市に流入してきており、イスラーム暦(Islamic Calender)の最後のデュールヒジャー月(Dhu al Hijah)*の最後の週には平均して400万人のイスラーム教徒達(Muslims)がこの市に到着し、ハッジの行事(Hajj)に参加する。
(注) ハッジ巡礼は400万人と200万人と両方の数字がある。私は現在の数は200万人で新規施設の設計は400万人を想定しているのだと理解している。但し、ジャムラト橋(Jamrat Bridge)の様に将来的に900万人を想定している施設もある。
巡礼達は様々な民族や背景をもって、アフリカ、中央アジア、南アジア、東南アジア、ヨーロッパおよび中東等からやってくる。巡礼の多くがこの市に残り、市の居住者になってきた。その結果、メッカはほとんどのサウジの他の市に比べて人種的に多様であり、その文化も自然と折衷的である。巡礼に関連する多様性に加えて、過去50年間の石油ブームが数十万人の労働者を移住させてきた。 4.5 通信方法(Communication)
サウジ治下になって、アブドゥルアズィーズ・イブン サウード(Abdul Aziz ibn Al-Saud, 1876 - 1953)(イブン サウド(Ibn Saud)*)が利便さと統治向上の手段としてテレコミュニケーション(Telecommunications)を認め、設置を推進したので、テレコミュニケーションは早くから導入された。フッセイン(Sayyid Hussein bin Ali, 1854 - 1931)*がヒジャーズ王(King of Hejaz, 1917 – 1924)を名乗った時代にはこの市全体で20台の電話しかなかったが、1936年にはこの国の電話の半分に相当する450台の電話が設置されていた。この時期に電話線はジェッダ(Jeddah)とターイフ(Ta’if)までは延長されたが首都リヤド(Riyadh)までは延長されていなかった。1985年までに他のサウジの都市同様に最新式の電話、テレックスおよびテレビ通信が備えられた。1980年頃まで厳禁でされていた携帯電話(無線電話)も今ではほとんどの個人が所有しているし、最新式機器への願望は特に強い。
ハーシム家(Hashimites)*治下のヒジャーズ地方内で制限はあるにしろ無線通信(Radio Communication)確立された。1929年に無線局がこの地方の幾つかの町に設置され、1932年までには完全な機能を備えた無線通信網が完成した。第二次大戦後に既存の無線通信網は大きく拡張、改善された。それ以来、無線通信はメッカ巡礼(Pilgrimage)を指示し、巡礼者達に向けて話す為に広く使われる様になってきた。この実践はアラファの日(Day of Arafat)の放送を開始することで1950年に始まり、1957年までにはさらに増強された。その時のラジオマッカ(Radio Makka)は50kWと中東では最大のラジオ局であった。その後に出力は450kWまで増強された。音楽は直ぐには放送されなかったけれども次第に取り入れられて来た。 5.1 経済(Economy)
メッカ市(Mecca)の財政は毎年の巡礼にはなはだしく依存している。或る学者が述べている様にメッカ市民(Meccans)は巡礼者(Hajjs)をもてなす以外に生活の糧を得る手段が無かった。ハッジ(Hajj)が生み出す財政はメッカ市の経済を力づけたのみならず、遠くヒジャーズ地方(Hijaz)やナジド地方(Najd)全体の経済にも効果をもたらしていた。収入は様々な方法で生み出された。1つの方法は巡礼への課税であった。税金は大恐慌の間は特に増税され、多くのこの様な課税は1972年まで存在した。ハッジから収入を得るもう1つの方法は巡礼達(Pilgrims)に役務を提供することである。「サウジ国営航空サウディイヤ(Sa’udiyyah)はその収入の12%を巡礼から得ている」と云う。巡礼達が陸路メッカにやって為の宿泊に利用するホテルや宿舎も収入を得る手段となっている。
サウジ政府はハッジ(Hajj)に対して約5,000万ドルの出費をしているが、この市は1億ドルの収入をあげている。この市にも工業や工場もあるが、石油採掘に頼るサウジアラビア経済に対してもはや大きな役割は演じていない。メッカで操業している工業には織物、家具や台所用品などがあるが、主たる収入はサービス業である。水は乏しく紅海岸にあるシュイバー造水工場(Shu’eyba Water Plant)からの給水に依存しているし、食糧はジェッダから供給されている。
(注) シュイバー造水工場については「夏の政庁・薔薇の市 ターイフの2.7.4 海水脱塩水(Seawater Desalination)」をご参照戴きたい。
それにもかかわらず、多くの工業がメッカで操業されている。1970年以来存在している幾つかの企業としては波型鋼板工場、銅鍛冶、木工工場、室内装飾業、植物油抽出工場、お菓子工場、製粉上、製パン工場、養鶏業、冷凍食品輸入業、写真現像、書記事務取り扱い業、製氷工場、清涼飲料瓶詰め工場、床屋、書籍屋、旅行代理店、銀行等がある。
便利で乗りごこちの良いジェット機の就航でハッジに参加する巡礼者達が増大し、特に20世紀、21世紀になってのこの市の成長はめざましい。数千人のサウジ人が年間を通じてハッジを監督する為に、又、ホテルや商店で巡礼達の世話をするために雇われ、この様なサウジ人に対する住居や公共サービスの需要が増大してきている。この市は現在、高速環状道路に囲まれ、その中にショッピング モールや高層ビルが取り込まれている。
メッカ市外地図
(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。) 5.2 料理(Cuisine)
メッカの住人の間の異なった民族性と国籍の混合はメッカの伝統的な料理法に著しい影響を与えてきた。
他のサウジの市々と同じ様にカブサ(Kabsa)と呼ばれるご飯と肉の香辛料の効いた料理はもっとも伝統的な昼食であるが、ご飯にタンドゥール(Tandoor)*で調理した肉を載せたイエメン式のマンディ(Yemeni Mandi)も一般的になっている。
1m以上もある大きな鉄串に薄くきった肉を円錐形に積み重ねまわしながら側面からバーナーで焼き、焼けた部分をナイフで削いで、円く薄いホブツ(ピタバン)に挟んで供するシャワルマ(Shawarma)、肉団子を油で揚げたコフタ(Kofta)、串焼き(Kebab)等もメッカでは広く店先で売られている。断食月(Ramadan)の間は特にフール(Fur)と呼ばれる部分的に潰し、低い温度で長時間調理したソラマメ(Fava Bean)にオリーブ油、刻んだパセリ、玉ねぎ、にんにくやレモンの絞り汁を混ぜていただく料理(Ful Mudammas)と三角錐の形をしたインド式揚げ餃子(Samosas)が一番人気のある料理であり、日没直後にいただく。これらの料理はほとんどレバノン(Lebaneses)、シリア(Syrian)およびトルコ(Turkish)料理店で提供されている。
伝統的に断食月の間はサッガス(Saggas)と呼ばれる男達が夕暮れの断食明けの食事としてイスラーム教徒達(Muslims)にミネラルウォーターや果物ジュースを用意していた。今日、サッガス(Saggas)は果物ジュース等の飲み物に加え、甘いペストリー(Pastry)のバクラヴァ(Baklava)や甘い菓子バスボサ(Basbosa)を提供して、稼いでいる。
メッカの伝統的な料理
(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。) 5.3 言語(Language)
ヒジャーズ方言(Hejazi Arabic)はサウジアラビア西部で会話に使われる方言であり、ベドウイン(Bedouin)や田舎の部族によって使われる方言とジェッダ(Jeddah)、メッカ(mecca)、ターイフ(Ta’if)、ラービグ(Ragigh)、ヤンブー(Yanbu)やメディーナ(Medina)等の都市部で使われる方言に分けられる。ヒジャーズ都市部方言(Urban Hejazi)はアラビア半島以外では北スダーンのカルツーム(Khartoum)や上エジプトと非常に密接な関係がある。 5.4 文化(Culrure)
文化的にメッカは毎年、訪れてくる多くの巡礼達の影響を受けており、豊かな伝統を誇っている。
最初の印刷機はオスマン帝国総督(Wali) オスマーン ヌリー パシャ(Osman Nuri Pasha, 1832 – 1900)によって1885年に持ち込まれた。ハシーム家(Hashemite)が支配していた時代にはこの市の公式新聞(Gazette) キブラ(al-Qibla)を発行するのにこの印刷機は使われていた。サウジ政権はこの印刷機を使って、新しいサウジ政府の公式新聞ウンム クラー(Umm al-Qura)を含む大きな事業に拡大した。これ以来、印刷機と印刷技術は中東(Middle East)中から主としてジェッダ経由で導入された。
ジェッダにはアラビア語の大新聞の1つシャムス(Shams)がある。しかしながら、それ以外のサウジガゼット(Saudi Gazetto)、メディーナ(Medina)、オカズ(Okaz)およびビラド(Al-Bilad)の様なサウジ紙や国際紙はメッカでも印刷される。最初の3紙はメッカの主たる新聞であり、この市に影響する争点に焦点をあて、100万人以上の読者がいる。
多くのテレビ局がこの市内と対象に放映しており、テレビ局としてはサウジTV、サウジTV2、サウジTVスポーツ、エクバリヤ(Al-Ekbariya)、アラブ ラジオ テレビジョン ネットワーク(Arab Radio Television Network)などがあり、更に数百のケーブル、衛星やその他のテレビ局がある。
近代化前のメッカでの一番一般的なスポーツは即興のレスリングや徒競走であった。フットボールはメッカで一番人気のあるスポーツで、1945年に設立されたワフダ フォットバール 倶楽部(Al-Wahda FC)のようにサウジ アラビアで最も古いスポーツクラブをこの市は後援している。キング アブドゥルアジズ スタジアム(King Abdulaziz Stadium)がメッカで最大のスタジアムで収容人員は33,500名である。 |
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