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豊かなオアシスに恵まれた原油の宝庫 (サウジアラビア王国東部州) その1 東部州の紹介 (Vo.1 Introduction of East Province) 著: 高橋俊二 |
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3. 東部州の住人 3.1 東部州の遊牧民と定住民 3.2 東部州の遊牧部族 3. 住人 アラビアを理解するにはその資源の希薄さと存在の不確定さを認識しなければならない。その住人は部族民であってもなくても真の遊牧、半遊牧および定住等の生活様式を受け継ぎ、この様な生活様式の適応範囲の中で手には入る限りの限られた資源を最大に利用して来ている。もし、災害に見舞われてもこの様な社会では定住している住人が遊牧生活に適応したり、その反対が行われたりで別の生活様式の選択が可能である。 放牧民と半放牧民は駱駝、山羊および羊の群を集めて牧畜して居るのに対して定住民は農夫、職人および商人である。遊牧民は集落に来て動物製品をナツメ椰子の実、米、小麦等の食料品や反物、工業製品、火器等その他の必需品と交換する。定住している住民は同盟している遊牧民に交易の為の輸送用の動物の提供と襲撃される危険に対しての軍事的支援を求めてきた。殆どの部族はそれぞれに各々放牧、半放牧および定住する一門を持って相互に依存している。又、何世紀にも渡って部族全体が定住生活に適応している場合もあるし、征服、干魃、疫病の圧力で定住している部落民が放牧民に成る事もある。但し、アル-ムッラ族(the Al-Murrah)の様な幾つかのアラビア部族は例外的に純粋な遊牧民である。 東アラビアの部族はイスラーム以前には北からアル-ヒラのラクミド(Lakhmids of Al-Hirah)、タミム(Tamim)、バクル・イブン・ワイル(Bakr ibn Wa'il)、タグリブ(Taghlib)、アブド・アル-カイス('Abd al-Qays)等であった。近代ではザフィール(Zafir)、ハルブ(Harb)、アワジム('Awazim)、ムタイル(Mutair)、バニ・カリド(Bani Khalid)、ウジュマン('Ujman)、バニ・ハジール(Bani Hajir)、マナシール(Manasir)、アル-ムッラ(Al Murrah)等であった。又、現代ではラシャイダ(Rashayidah)、アワジム(‘Awazim)、ウジュマン('Ujman)、バニ・カリド(Bani Khalid)、バニ・ハジール(Bani Hajir)、アル-ムッラ(Al Murrah)等である。 遊牧部族のシャイク(shaykh)や首長は恒久的定住地を持っていたが、部族の殆どは遊牧生活を続けていた。17世紀および18世紀にアル-ハサのバニ・カリド支配(Bani Khalid rule)が樹立された後には色々な部族がこのオアシスの周囲に夏の間を過ごす為の恒久的幕営地を維持していた。もっとも有名なのがホフーフ南のムバッラズ(Mubarraz)幕営地およびルカイイカ(Ruqayyiqah)西のハズム(Hazm)幕営地におけるウジャマン部族('Ujman)である。 ジャブリド族(the Jabrids)が15世紀に管理していた様に代わる代わる力のある定住一門はその影響力を遊牧民にも広げた。この目覚ましい例は18世紀の間にナジド(Najd)のディールイイヤ(Dir'iyyah)居たアル-サウド(Al Saud)であった。その影響力はイスラーム改革運動を支援する一方でその教書によって助けられて居た。周囲の地域からアラビアを最も目立たせているのは遠く離れた距離と辛苦を意味する生活の現実であり、その中で遊牧ベドウィンは潜在的に強い力を身につけていた。この潜在力は定住している住人への略奪や襲撃の中でしばしば示される。その一方で遊牧民の力は交易路を使う為の定住民との協力で花開き、アラビアの伝統的な両者の敵対意識は常に両者の間の深い相互依存関係の中での一時的な争いであった。遊牧民の生活様式はもっとも素朴であり、古代からほとんど進展しておらず、単純な様式を続けている。部族起源の伝統的アラビア遊牧は本当の駱駝に依存し、高い移動性を持つにせよ、遊牧での牧畜生活は実際には非常に特殊化されており、単独では存在できず、常に定住民に依存している。これは遊牧が東アラビアのオアシス集落や海岸地帯交易集落よりもずうっと後に始まった事でも分かる。 沙漠の遊牧民族は驚くほど少ない人数ではあるが、遊牧民の住む環境の厳しさを考えると理解できる。例えば20世紀の初めの東サウジアラビアでの定住人口が10万人であるのに対し、遊牧民は6万人弱であり、純粋な遊牧民アル-ムッラ(Al Murrah)は僅か7千人に過ぎなかった。ベドウィンが定住民に対して強みを持つのは定住民が組織或いは政治的意志に欠けたりした時のみであり、その他の時にはアラビアの集落の法や権威は定住のリーダーがベドウィンを支配下に置く事が多かった。東部州では定住民がベドウィンを支配した一番有名な成功例はカールマティア(the Qarmatians)、ジャブリド(the Jabrids)およびサウド家の治世下で起きた。 西暦1950年代から数十年間での東部州の経済的変化が恐らく永遠にこの地域の遊牧部族を変えてしまった。原油探鉱および開発の早い時期から最初はガイドおよび運転手としてベドウィン部族民は石油会社の活動に引き入れられた。その当時から国王の親衛隊は一番大きな雇用主であったが、部族民はその他増加して来た様々な仕事についた。アウド・アル-アジズ王(King 'Abd al-'Aziz)の時代から幾つかの部族には定住がさらに奨励された。例えばハラダ(Harada)の国営農業設立の本来の目的はアル-ムッラ(Al Murrah)が農耕生活に適応出来るための手段を整える事であった。現金経済への編入、エンジン付き車両の所有や政府による沙漠の水井戸の整備等、旧来のやり方を変える多くの変化はあったけれども駱駝、山羊及び羊を牧畜する生活様式は相変わらず続いた。 19世紀と20世紀における東部州のベドウィン(Bedouin)は主としてウジュマン('Ujman)、アル-ムッラ(Al-Murrah)、バニ・ハジール(Bani Hajir)、バニ・カリド(Bani Khalid)、アワジム('Awazim)およびムタイル(Mutayr)等の部族に属して居た。肥沃な三日月地帯を目指してアラビア半島を横断して東や北に移動するのはアラビアの部族史上で長く続いた傾向であるが、この傾向をとりわけ今も残して居るのがウジュマン('Ujman)とアル-ムッラ(Al-Murrah)である。この両部族は18世紀にナジラン(Najran)辺りから発している。時と共に勢力を増し、20世紀の初期には国造りの過程が始まり、自分達の自治と移動の自由を確保した。 究極の遊牧生活に代表されるアル-ムッラ(Al Murrah)の生活様式はアラビアの部族の間でも名を馳せていた。アル-ムッラ(Al Murrah)の部族領(ディラ、dirah)はハサ・オアシス(Hasa Oasis)南の空白地帯沙漠の北部および中央部を占めて居る。アル-ムッラ(Al Murrah)は定住する一門は持たず、その夏場の井戸の場所でさえ集落の近くには無かった。アル-ムッラが牧草を捜して動物たちと移動する範囲は時として驚異的な距離であった。冬場の雨を求めて通常は東部州の北部、時としてはクウェイトやイラク南部まで移動した。夏の初めにはアル-ムッラ(Al Murrah)は空白地帯沙漠の北縁にそったヤブリン・ オアシス(Yabrin Oasis)、ビール・ファディル(Bir Fadhil)、シカク(Sikak)およびニバク(Nibak)等のアル-ムッラ(Al Murrah)に専有する井戸の周辺で見掛けられる。秋の放牧地を求めて空白地帯の砂丘へ出発するのは6月から8月の間のおよそ3ヶ月間である。北部に冬の雨到来の便りがある12月頃までアル-ムッラ(Al Murrah)はそこに逗留する。もしその便りが不都合であればアル-ムッラ(Al Murrah)は空白地帯に向かう代わりにナジラン(Najran)地方の南西部で冬を過ごす事を決める。アル-ムッラ(Al Murrah)が駱駝を連れて年間に1,900 kmの距離を遊牧するのは普通である。アル-ムッラ(Al Murrah)は追跡と狩猟の巧みさおよび神秘的な方向感覚で他のベドウィン族からでさえ、少なからず畏怖されてきた。アル-ムッラ(Al Murrah)は極端な耐乏と自分達のディラ(dirah)の地形や植物に関する詳細な知識によって人の知る最も苛酷な環境条件の一つで生きる能力を持っている。他の部族よりも定住民に頼る度合いは少なく、駱駝の中で生活する誇りは熱情の様に高まり、アル-ムッラの駱駝と人間との関係は真の共存である。 東部州に住む他の部族は集落と緊密な関係を維持している。ジュブール(Jubur、Jabri)やバニ・カリド(Bani Khalid)等は集落を支配する十分な力を持ち、自分達自身が定住生活に入ってしまって居る。この定住の過程はしばしば遊牧民が夏の幕営地を集落の外側に持つ事から始まる。ムバッラズ(Mubarraz)はホフーフ(Hofuf)の外側にあったバニ・カリド族(the Bani Khalid)の夏の幕営地として始まり、ウジュマン('Ujman)は夏毎にまとめて少なくとも二ヶ月は過ごす幕営地をルカイイカ(Ruqayyiqah)およびハズム(Hazm)に維持して居た。置かれた環境がもっと様々な可能性を提供したのでその様な部族はアル-ムッラ(Al Murrah)よりも複雑な経済的社会的構成を持った。一門が農民、交易商人や羊や山羊飼いに成るに連れて定住および準定住の一門が増えた。これらの部族は輸送サービスを提供し、人数が増える事で政治的軍事的力を持った。部族領ディラ(dirahs)は幾分重複しては居たが部族毎に専有を主張する一連の沙漠の井戸を所有していた。アル-ムッラ(Al Murrah)の駱駝遊牧の一門は放牧地を求めて遠く旅をしたが、空白地帯沙漠のアル-ムッラ(Al Murrah)の領地を侵す物は居なかった。 西洋人や定住アラブ族が何かロマンティックに感じるベドウィン本来の高潔さがあった。その核心は定住者が持つ繁栄へ不安や富の蓄積等の通常は関心を持つ物事からの完全な解放にあった。ベドウィン(Bedouin)は財産とはまるで沙漠そのものであり、呼吸する空気であり、人間の必要を満たしそれが不足している者達と分け合う何かである様に考えている。この心構えは疑いもなく完全な異邦人に提供する伝統的な歓待の気持ちにもある。ベドウィンの増やす事に関心の有る唯一の財産は家畜の群であり、自分の物と考えるのは自分が身に付け続けられる物だけである。襲撃はベドウィン達に取ってスポーツであり、くじ引きであり、決して十分になる事の無い資源の再分配の方法である。絶える事の無い襲撃に対し、瞬間的な予知で奪われる事も受け入れる。ベドウィン達(badawi)の強さのもう一つ源は平等への深遠な意識である。沙漠に置いては労働に対する階層は無い。全ての男は同じ暮らしをしている。富は運べる程度の大きさに過ぎず、蓄財としてはあてにならなかった。部族の首長シェイク(shaykh)の裁定に従うのもシェイクがその部族民の尊敬を得ている間だけであった。遊牧民の集団は小さく、誰でもがお互いを知り、それぞれの生業を理解しているので、日々の集団的合意に対しては明白な決定手順があった。 これに加えて常に耐えている欠乏や困苦な生活から生まれた無頓着さと真の自主的態度を放牧民は持っている。遊牧民は生活から得られる事に殆ど期待して無いので自分の好きな様に行ったり来たりする心の自由があり、例えば農耕民や真珠取りの潜水夫の様な定住生活のしがらみは「人間にとっては無価値だ」と見なして居た。勿論、実際問題としてベドウィン達(badawi)は定住生活に適応出来たし、時にはそうしたし、定住生活を始める様に説得されもして居た。その様な選択したとしてもベドウィン達はその後に期待できる利益に対する計算をしっかりしていた。石油産業の到来と共にベドウィンの多くは毎日の決まり切った生活の為に沙漠での自由を諦める事には当然、不安を持って居たが、ベドウィン達の不安より予想される経済的な利益の方がはるかに勝って居た。 |
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