|
|
|||
豊かなオアシスに恵まれた原油の宝庫 (サウジアラビア王国東部州) その1 東部州の紹介 (Vo.1 Introduction of East Province) 著: 高橋俊二 |
|||
2. 東部州の歴史 2.1 新石器時代 2.2 ディルマン文明(Dilmun) 2.3 オアシス農業と駱駝遊牧 2.4 アラビアの隊商路 2.5 ペルシャのインド交易 2.6 失われた謎の都市 2.7 黄金のサジ 2.8 イスラーム以前のアラブ部族 2.9 ムシャッカールの閉じられた門の日 2.10 イスラームの始まり Index Continue 2.11 イスラーム初期の数世紀 2.12 アル-ハサのカールマティア 2.13 カティーフのウユニド朝とウスフリド朝 2.14 ジャブリド朝、ポルトガルとオスマン帝国 2.15 バニ・カリドの統治と第一サウジ公国 2.16 第二次サウジ公国 2.17 オスマンによる占領の復活 (西暦1871 - 1913) 2.18 サウジによるアル-ハサの奪回 紀元前1万年以前に東部州に人間が居住した証拠は無いのは恐らく旧石器時代初期には海面の高かった時期が多かった為だろう。しかしながら、約10万年前から始まった中期旧石器時期の殆どはアラビア湾が干上がっており、今では海面下と成っている河口地帯に人類が住んで居たと思われる。今日、陸地でハッキリとした人類の居住が認められるのは比較的遅く、新石器時代でも紀元前5千年以降であるが、更に調査が進めばもっと古い遺跡が海底から発見される可能性は十分にある。 東部州での人の営みが発見されている中で最も古いのは新石器時代の約7千年前である。人はこの地方にそれ以前から住んで居たと思われるがこれまではその様な証拠は見つかって居ない。 紀元前1万5千年から8千年まで続いた乾燥期には更新世(Pleistocene)が最も近かった。今日に至る完新世(Holocene)或いは現世(Recent epoch)は僅かに湿度が増して来た時代の初めである。空白地帯沙漠に残る年代測定可能な湿地帯の堆積は断続が有ったかも知れないにせよ明らかに東アラビアには紀元前8千年から4千年の間は泉や浅い湖があらわれ、現在よりも快適な環境であった事をほのめかしている。この時代にはエジプト(Egypt)から肥沃な三日月地帯(Fertile Crescent)を通しトルコ(Turkey)、イラク(Iraq)およびイラン(Iran)のザグロス山脈(Zagros Mountains)に至る中東の広い地域で動物の家畜化や植物の栽培を伴う新石器文化が出現したのが見られる。家畜を飼育し作物を育てる事で人間社会は一変した。定住、余剰生産物、交易および社会の階層化が町や市の出現を導いた。 東アラビアでは狩猟者や採集者がゆっくりと牛飼いや野生穀物の収穫者に進化した。紀元前5千年前までに彼等はイラク(Iraq)のウバイド文化(Ubaid culture)と遭遇し、アラビアで最初に使われた陶器をもたらした。東部州の遺跡では紀元前5,100年から3,500年の間における三つの異なった時代のウバイド陶器(Ubaid pottery)が見つかっている。早期の遺跡がハサ・オアシス(Hasa Oasis)のすぐ北のカンナス泉('Ayn Qannas)の内陸にある。これは葦や椰子の葉で囲われた単純な円形泥造りの住居である。発掘された上層部4層では圧力で薄片化して作られた発達した新石器、ウバイド陶器(Ubaid pottery)および牛の骨が見つかっている。下層はもっと古い時代の物でウバイド陶器(Ubaid pottery)と新石器時代初期の狩猟民や採集民が使った典型的な、圧力で薄片化された両刃(blade-type tool)石器が見つかっている。 後期の遺跡はジュベイル(Jubail)の南北の海岸にあり、そこでは紀元前4,200年から3,400年の間のウバイド陶器(Ubaid pottery)と細石器が豊富に見つかっている。大量の貝殻や魚の骨はこの海岸住民が海の幸に依存した事が分かり、真珠取りの紀元がこの遙か昔の時代であった事を示している。アラビア湾やオマーン沿海地方からの発見された手がかり、その他も住人同士が短い海岸伝いの行き来する海を通じて半島の周囲が広範囲に接触のあった事を示している。今日の簡素な漁船であるシャシャ(shashah)に似た椰子の葉あるいは海岸低地に豊富に生えるフラグマイト葦(Phragmites reed)を束ねて主肋材にした小さな舟は後期石器時代の人々が持っていた技術能力の高さを示している。 南部イラクと東アラビア海岸の人々との繋がりはウバイド(Ubaid)時代を越えて続いた。紀元前3,000年にシュメール人(Sumerian)の影響でアラビアは始めて自分自身の都市文明を作りだした。シュメール人は南部イラクに幾つかの都市国家を築き、その中にウル(Ur)があった。今日では内陸にあるウル(Ur)はその時代にアラビア湾岸にあったと考えられている。明らかに固有の発展をしていたシュメール文化(Sumerian civilization)は古代遺物の偉大な文明の中でも最も古く、エジプトよりも前であり、エジプト文明形成に影響を及ぼしている。 二つの河の土地であるメソポタミア(Mesopotamia)とアラビア湾に取って、この非常に重要な時代は中東の何処にでも新しい都市社会が生まれていた事を示している。急速に合体した集落がその宗教や交易を軸に中央主権化、社会階級化、分業化、技術の進歩、銀交換基準や記述システムを伴い、町へと発展した。シュメール人の文明発展に残した功績を今日我々は受け継いでいる。シュメール人自身が東アラビアを自分達の出身地或いは少なくともその一部と考えて居た。この地域は長距離航海成長の急速な進歩に貢献した。おそらく、石器時代における短距離航路のネットワークを築かれ、それがオマーン(Oman)等の遠い地域との定期的な交易を確立するのを可能にしたのだろう。紀元前3,000年期の初期までにシュメール人の影響力は東部州の海岸地帯では頂点に達した。カティーフ(Qatif)の少し沖合にあるタルート(Tarut)島には初期の集落があった様だ。緻密な技巧を残す多くの緑泥片岩(chlorite schist)の破片が島内のラフィア(Rafi'ah)遺跡で発見されたが、島の中心にあったので16世紀のポルトガル(Portuguese)の砦がこの時代のその様な重要な遺物の上に建ってしまっていた。ラフィア遺跡から見つかったその他の遺物には既に見つかっている陶器の破片に加えて石灰岩に彫られた男性像や一番近い産地がパキスタンである瑠璃色(lapis lazuli)の小さな男性像を含んでおり、南部イラク、アラビア湾とインダス渓谷(Indus Valley)の間に交易の有った事を示している。 ディルマン(Dilmun)と呼ばれた地方は今日のタルート(Tarut)島を含む東部州の陸地部を示して居た。しかしながら、紀元前2,450年から1,700年以降はディルマンと呼ばれるこの文明はバハレイン島(Bahrain)をその主な中心として栄えた。一連の都市の中でも印象的なのはバハレイン島(Bahrain)にあるカラト・アル-バハレン(Qal'at al-Bahrain)である。対照的にアラビア半島本体には大きな集落跡は見つかって居ない。今の所はハサ・オアシス(Hasa Oasis)のテッル・アル-ラマド(Tell al-Ramad)と遙か南のヤブリン・オアシス(Yabrin Oasis)のウンム・アル-ヌッシ(Umm al Nussi)と云う二つの小さな遺跡が見つかったのみである。タルート(Tarut)にあった繁栄する港がカティーフ(Qatif)およびハサ(Hasa) オアシス両方のオアシス農業の発展を促進させたと云う説はハサ・オアシスの排水路に隣接し井戸や泉に近い低い土手から紀元前三千年期の物と思われる陶器が見つかった事で裏付けられている。東アラビアではハサ・オアシス(Hasa Oasis)に最大規模な集落があったとおもわれるが、最近に成っても不思議とその様な考古学的な証は見つかって居ない。しかしながらアラブ首長国連合やオマーンではその豊富な考古学遺跡が示す様に、初期オアシス農業発展に大きな影響を及ぼしている。 一方、中央および北方アラビアの岩壁画はアラビア土着の民が新石器時代の間に狩猟や採集の生活から次第に羊、山羊や牛の放牧に移行して行った様子が描かれている。駱駝の家畜化はまだ到来して居なかったが、これらのアラビア土着の民はシリア大沙漠(Syrian Desert)、半島の北部、中央部および東部に住んで居た。獲物を捕獲する為に今日では輪状石列(stone circle)として残っている大まかな周期的な構築物や凧(kite)として知られる長く入念なV字型の構築物が使われていた。アラビア土着の民の領域の幾つかは勿論メソポタミア(Mesopotamia)と隣接していた。セム語(Semitic language)を話さず、何の関係も無く、子孫でも無いシュメール人(Sumerian)と彼等のセム語を話す後継者であるアッカド人(Akkadian)は「このアラビア土着の民がマール・ツ(MAR-TU)或いはアモリ人(Amorite、紀元前三千年期以降PalestineからMesopotamiaに至る地域を征服した民族)と呼ばれる粗暴でテントに住み放牧をする民族である」のを知っていた。多くのマール・ツ(MAR-TU)と云う名が記録されて居りこれらは先ずマール・ツ(MAR-TU)はセム語(Semitic language)を話す民族であった。メソポタミア社会(Mesopotamian society)は紀元前三千年期以降、急速にマール・ツ(MAR-TU)族を吸収同化したのでアガラム(Agarum)の様なディルマンに残るマール・ツ(MAR-TU)の名前は少なくとも三千年期でも多分ウバイド(Ubaid)時代の初期から使われていた。この事からもこの民族がアラビア土着の放牧民或いはウバイド(Ubaid)やシュメール人(Sumerian)の要素を持つアモリ人(Amorite)との混血だったと思われる。 居住跡の遺跡が欠けているアラビア半島本土ではツムリ(tumuli)と呼ばれる墓(死の証拠)がそれを十分に補っている。東アラビアやバハレン(Bahrain)の住人はアラブ首長国連邦やオマーン同時代の人々と同じ様にディルマン文化を保持し紀元後初期の世紀にオマーンで続いたツムリ(tumuli)への死者の埋葬文化を発展させた。その数が170,000以上に及ぶと推定されているバハレインにあるツムリは壮観でさえある。本土にあるダンマン ドーム(Dammam Dome)も広大なツムリ(tumuli)の墓場で取り巻かれている。1940年代にはそこには50,000以上のツムリ(tumuli)があると推定されていたが、その後のこの地域の開発で今では残っている物は2,000以下に成ってしまった。それらの残された中から僅かばかりが調査され、これらは後世に再使用され、幾つかの異なった時代に使われて居たと証明された。紀元前千年期からの墓が殆どであるが、紀元前三千年期に属している墓も少なくない。タルート島での発見されたバハレインの初期のツムリの幾つかはディルマン文化の発祥の地を調べる為の東部州本土での発掘に役に立つ遺跡である。更に内陸部のアブケイク(Abqaiq)付近ではツムリ群が大きな新石器時代の湖とそこを源としてハサ・オアシスを通って海に注ぐ水路を見下ろしていた山稜に建って居る。 ディルマン(Dilmun)は神秘的であり、かつ世俗的であった。その主神の一つで地獄に住むエンキ(Enki)は地下の真水の神であった。この概念がアル-ハサ(al-Hasa)やバハレン(Bahrain)では地下の水脈から乾燥した陸地や海の底から豊かに水の湧き上がっていた事を物語っている。シュメール人(Sumerian)はアル-ハサ(al-Hasa)やバハレン(Bahrain)でこの概念から連想し、神域を決めていた様だ。有名なシュメールの詩ギルガメシュ(Gilgamesh)は「永遠の若さの花を求めてギルガメシュ王はディルマンにやって来て、海(恐らくは海から湧き出す清水の一つ)に身を投げる様に指示された。そこで王は花を見つけたが、花をむさぼり食う蛇によって永遠の若さの花は略奪されていた。王もあきらめ、死ぬべき運命を甘受し、自分の国に戻って行った」と英雄王の物語を語っている。その他の伝説では「ディルマンはエデンの園(Garden of Eden)である」とされているが、この様な神話を解明しようとするには論拠が少な過ぎる。 ディルマンは活発な交易センターであり、アラビア湾の更に南の産物の集積所としての世俗的な役割を持っていた。ディルマン商人は例えば銅鉱石を粗鋼の無いシュメールの都市への船積みする為にインゴット化する等広い範囲の物産を扱っていた。ディルマンの舟は更に神や王の肖像を彫刻する閃緑岩(diorite)の様な美しい石も運んでいた。ディルマンからの輸出品にはナツメ椰子の実、玉葱、反物それに多分、真珠や魚の目(fish-eyes)と古文書にかかれたビーズ(beads)が含まれていた。ディルマンの商人は自分自身特有の押印用の印鑑を持っており、それを使って物資の所有の印を付け、文書類の信頼性を証明した。又、インダス渓谷(Indus Valley)で使われていた物と同じであると言われてはいるが、重さや寸法に対してもディルマン式標準を持っていた。紀元前1,800年頃に実在したディルマン商人同盟の一員であるエア ナシール(Ea-Nasir)の様な個人名がメソポタミアの記録(Mesopotamian records)から現れる。重荷に耐える動物として駱駝がまだ家畜化されて居なかったと考えられるので水路交易は古代では格別に重要であった。刻印に刻まれた模様から最初の貿易船は葦の束を一緒に縛って作ったと思われる。この造船法の有効性はソール・ヘイールダ(Thor Heyerdah)を再建造したチグリス(Tigris)でアラビア湾から紅海までアラビア半島を回って航海し、証明された。 紀元前1,700年以降のメソポタミア(Mesopotamia)の不安定性とアラビア湾交易の崩壊によって東アラビアに内陸交易路の出現と云う大きな変化が起きた。紀元前2,000年期後期と1,000年期初期迄に交易集落がイエメン(Yemen)からの内陸交易路に沿って急速に現れ、長距離交易は重荷に耐える動物として家畜化された駱駝を輸送手段に使って行われる様になった。この変化の一部には気候が原因している。紀元前3,000年期末に向かって気候は乾燥し、中央および東アラビアの狩猟民や牧畜民の生活を困難にした。既に広まっていた農業を行う為にその多くがオアシスや涸れ谷への依存を高めた。農業には当然の事ながら東アラビアやイラク南部原産のナツメ椰子の栽培が既に含まれていた。他の作物には大麦、小麦やモロコシ(sorghum)が有り、この三種はアラブ首長国連邦にある紀元前3,000年期中頃の遺跡からも発見されている。これらの地域の農業は今日でも灌漑に依存して居る。作物が一番育つのはナツメ椰子畑の中や近傍の部分的に日覆いの場所である。紀元前3,000年期の間、ハサ・オアシス(Hasa Oasis)、カティーフ(Qatif)、タルート島(Tarut Island)およびバハレイン島(Bahrain Island)の北部は早期オアシス農業に理想的な条件を揃えていた。 しかしながら農業に転業しなかった狩猟民や牧畜民は少なくなって行く自然資源を利用する為に移動範囲を増やさなければ成らなかった。この様な集団ではもともと羊や山羊を放牧していたが、驢馬で移動できる範囲では自然資源を利用出来なくなり、後から現れた駱駝に依存した牧畜民に対し相対的に力を失った。駱駝は紀元前3,000年期の間に南アラビアの何処かで先ず搾乳動物として家畜化されている。その後、気候の乾燥が進むに連れて駱駝の飼育が広まった。少なくともこの3,000年間のアラビアの生活を特徴付けた駱駝飼育に寄る放牧生活は大変特色のある存在であり、これは幾世紀にも渡って発展して来た。搾乳動物として駱駝の使用は恐らく最初に羊や山羊の放牧者の間に広まったが、重荷に耐える動物として駱駝が認識されるには相当な時間が掛かり、広範囲に使用される様になったのは紀元前2,000年期末以降である。続いて駱駝の騎乗用の動物として能力が開発され、戦場での騎乗技術が発達したが、歴史的な記録では駱駝騎乗の部族民が戦闘に現れるのはずうっと後の紀元前9世紀である。その頃にはアラビア中に駱駝に依存する特化された遊牧の駱駝飼育者が現れた。彼等は広大な土地を使い、大量の軍用駱駝を育成した。アモリ人(Amorite)放牧民の子孫は紀元前2,000年期に経済的に軍事的に強力な部族となった。オアシス農民と交易者が一方の端だとすると特化された駱駝放牧者がその反対も端であった。これらの集団がやがてアラブ部族の祖先となった。 3,000年期には高度に集権化された集落が2,000年期には衰微し、アクラム(Akhlamu)等と呼ばれた遊牧民にはナツメヤシを強奪され、集落も略奪を受けた。メソポタミア(Mesopotamia)の至る所でアクラム(Akhlamu)はアラム人(Aramaeans)の遊牧民であると確認されている。アラム人(Aramaeans)は以前のアモリ人(Amorite)地域から政治勢力として出現した集団で、同じ民族が異なる名前で呼ばれたのだろう。アクラム(Akhlamu)が駱駝遊牧民であり、2,000年期には遊牧民は集落にとって大量の強奪を行う軍事的脅威となった。 紀元前9世紀から7世紀の間の北アラビア戦役についてのアッシリアの記録(Assyrian records)でも「部族的に組織されたアルブ(Arubu)すなはちアラブ(Arabs)が北および北西アラビアの沙漠とオアシスを占拠して居た」と述べられている。アルブ(Arubu)は戦場に大勢の駱駝騎乗戦士を送り込む能力を持ち、南西アラビアとの交易に従事していた。紀元前6世紀までに北西部のタイマ(Tayma)やデダン(Dedan)等が隊商町(caravan towns)として十分にその機能が確立して、遊牧民と定住民は物資だけでは無く、儲けの多い陸上交易の運営に対して相互依存する様に成って来た。東部州とそこに住む人々は中央および南西アラビア、アラム人(Aramaeans)の範囲および南イラクからの勢力の中継点と成っていた。 古代にはアラビア湾および航海に沿ったアラビアの陸路と海路が地中海世界(Mediterranean)とインド洋世界の間の交易的つながりを確保して来た。交易は少なくとも紀元前500年以前から始まって居た。アレキサンダー大王(Alexander the Great、紀元前356 - 323年)の後、そのセレウシド(Seleucid)後継者がシリア(Syria)とメソポタミア(Mesopotamia)を支配した。ギリシャの交易商と物資はこの時代に東部アラビアで良く知られる様になり、この時代から東部アラビアの繁栄が始まった。 交易はローマ帝国時代(紀元前30年 - 紀元200年)の早い時期に頂点に達し、その当時は莫大な量の贅沢な物資、大量の香辛料や香料がイエメン、東アフリカ、印度および中国からローマ世界の膨大な需要を満たす為に輸送された。古代イエメンの乳香(frankincense)や没薬(myrrh)がこの交易の中でも特筆すべき物資であり、イエメン(Yemen)のサイハド(Sayhad)文化の担い手である商人達がインド洋からアラビアの陸上交易路への物資運搬に極めて重要な役割を演じた。物資は駱駝隊商によってナジラン(Najran)を通り、西アラビアから地中海(Mediterranean)へと運ばれた。これは多分、少なくとも紀元前8世紀のアッシリア時代(Assyrian times)まで使われたもっとも古代の隊商路であった。一連の国々が北の外れの交易を支配して発展した。その中でも一番名高いのは紀元前3世紀から紀元106年まで続いたナバテア国(Nabataeans)である。この国はその首都としてペトラ(Petra)を建設した。 紀元前4世紀迄に他の隊商路も発達した。この路はナジラン(Najran)からカールヤト・アル-ファウ(Qaryat al-Faw)、ワーディー・ダワシール(Wadi Dawasir)へ抜け、空白地帯沙漠 (Rub' al Khali)の北限を通りアフラジ(Aflaj)およびカルジ(Kharj)を抜けてナジド沙漠の南を横断し、東アラビアの交易の重要な中心であったゲルラ(Gerrha)へと通じていた。ゲルラはイラクへ向かう物資の交易の陸路と海路の両方を支配していた。ゲルラはアラビア湾から北西アラビアや東地中海(the eastern Mediterranean)に至る交易も支配していた。 交易の様式は時代毎に交易路としてアラビア湾や紅海の相対的な優位性、陸路に沿った政治的状況や航海術の発達によって影響を受けていた。紀元前100年頃にギリシャの船乗りが紅海で南西の季節風を使えばエジプトから印度まで直接航海し、船荷を積んでイエメンを通って再び戻れる事を発見した。壊れやすい土着の舟はインド洋の5月から9月に吹く強い南西季節風に耐えられず、港に避難しなければ成らなかった。この為、直接航海は陸路で運ばれる交易量に大きく影響したと思われるが、それでも総交易量は陸上交易路を支えるには十分であった。後にローマ帝国は直接航海を奨励続けたがローマ帝国では3世紀に経済停滞が起きた。この経済停滞は陸上交易の繁栄に打撃を与え、海上交易にも同様に打撃を与えた。 アラビア湾ではペルシャ(Persia)のパルシアン朝(the Parthians)(紀元前140年 - 紀元225年)がメソポタミア(Mesopotamia)への海上交易を支配した。パルシアン朝はその後継者であるササン朝(the Sasanians) (紀元225 - 636年)に較べると海上交易に熱意が少なかったが、東アラビアの港に寄港する必要の無い直接航海の範囲を広げた。この為、アラビア湾から地中海に至る交易路は1世紀に北方へ移動しゲルラ(Gerrha)−アル-カシーム(al-Qasim)−タイマ(Taima)の隊商路からチャラクス(Charax)とパルミラ(Palmyra)経由の隊商路に変わった。地中海世界での需要の落ち込みに寄る紀元200年以降の香料交易の不振にもかかわらず、東部州の集落はイエメンとアラビア湾およびイラクを結ぶ交通網の重要な要所として残った。3世紀初めまでパルシアン朝(Parthians)が東部州の集落の総督或いは臣従する支配者を保護していた。 パルシアン朝(Parthians)に変わったペルシャ(Persia)王朝の一つであるササン朝(The Sasanids)の台頭でアラビア湾に新たな鼓動が現れた。ササン朝はその首都をメソポタミア(Mesopotamia)のセテシフォン(Ctesiphon)に定めた。セテシフォンは後のムスリム早期の征服者達にはマダイン(Mada'in)の名で知られていた。ササン朝の政策は交易の競争相手である紅海航路を抑える為にアラビア湾航路のみならずインド洋航路を支配する事であった。この政策の実施する中でササン朝は東部州をその勢力範囲においた。紀元570年までにササン朝は海からの侵攻で実際にイエメン(Yemen)をその支配下にした。イスラーム以前の数世紀の間、アラビアにおけるササン朝の努力の多くはビザンチン(Byzantine)の影響への対抗を目的にして居り、この時代の交易路は交易のみならず、政治的、文化的勢力拡大の幹線とも成っていた。 陸上交易路の発展によって紀元前1,000年期初期には東部州の集落が復活した。アッシリア(Assyrian)の記録には紀元前750年から600年頃のディルマン(Dilmun)が引用してあり、最後の記述は紀元前6世紀中頃のナボニダス王((Nabonidus)、紀元前556 - 539年)支配下のネオ バビロニア(Neo-Babylonian)の記録である。発掘されたダハラン(Dhahran)付近の墳墓(tumuli)の幾つかでは印章や円筒形の印鑑等この時代の遺物が見つかっている。この印章や円筒形の印鑑等は陶器類(pottery)、ステアタイト(石鹸石)の壺(steatite vessel)、香炉および典型的なネオ バビロニア(Neo-Babylonian)形式の浴槽の様な粘土の石棺(sarcophagi)等と共にエジプト(Egypt)、イラク(Iraq)、シリア(Syria)およびイエメン(Yemen)と交易があったのを示している。 都市国家ゲルラ(Gerrha)はこの地方の交易権益の力強い復活で栄え、紀元前700年から紀元後の初めの数世紀に渡って東部州に覇を唱えた。ダハラン(Dhahran)付近の墳墓(tumuli)の遺物がゲルラ(Gerrha)の商人達が残した物ではないかとも言われている。この都市が実在したのは同時代の地理学者や歴史家の記録や古代硬貨の発見によって確認されている。しかしながらその正確な実在位置に関しては謎に包まれている。僅かな出土のある幾つかの考古学的遺跡が失われた都市ゲルラ(Gerrha)であると論争してはいる。 ギリシャの地理学者のストラボ(Strabo、紀元前64年 - 紀元21年)は「ゲルラ(Gerrha)はおおよそ紀元前6世紀あるいは7世紀に存在したのがダハラン(Dhahran)からの出土品からほぼ分かった」と言う。ゲルラ(Gerrha)存在するとされている場所にはサジ(Thaj)、カティーフ(Qatif)、ダハラン(Dhahran)、サフワ(Safwa)に近いアイン・ジャワン('Ayn Jawan)、ウカイル('Uqayr)およびウカイル北の塩採集場(Salt Mine Site)がある。この塩採集場は海岸にあるウカイル('Uqayr)の北の広大なサブハ群(含塩平地、Sabkhas、salt flat)の近傍にあり、同じ時代の遺物が幾つか出土して居る。ハサ・オサシス(Hasa Oasis)の排水路であった古代の河の河口にある遺跡そのものが大規模な古代の畑機構の一部を成していた思われる。 ハサ・オアシス(Hasa Oasis)、サジ(Thaj)およびアイン・ダール/アブケイク('Ayn Dar/Abqaiq)地区は陸路の需要な場所であったと同じように、ゲルラ(Gerrha)が何処に位置して居ようとその港で人口の集中した海岸、特にサフワ(Safwa)およびカティーフ(Qatif)地区はアラビア湾の海路の重要な場所であった。この時代は今日では不毛の地になっている地域の活発な農業開発で注目に値する。これらの地域は同時に主要な交通路、交易路あるいはその近くに位置していた。 ゲルラ人(Gerrhaeans)の支配する国にある集落の幾つかの名前は紀元150年に地理資料を編集したギリシャの地理学者プトレマイオス(Ptolemy)によって分かっている。プトレマイオス(Ptolemy)は「ゲルラは海岸に位置していた。紀元2世紀でもまだ現存し、交易の中心では無かったが、北のサジ(Thaj)から恐らく南のカタール(Qatar)までの広い範囲を支配していた」と説明している。当時はアル-バハレン(al-Bahrain)として知られた東部州がハサ・オアシス(Hasa Oasis)のハジャール(Hajar)から支配されていた事からゲルラの語源はハジャール(Hajar)であるとの説もある。ハジャール(Hajar)からの支配はイスラーム初期になっても繰り返されていた。 ディルマン(Dilmun)時代の後のゲルラ(Gerrha)時代は東部州の歴史上で二度目の繁栄の絶頂であった。その経済的重要性は幾世紀にも渡ってその考古学的出土品にも認められる様にアッシリア(Assyrian)、ネオ バビロニア(Neo-Babylonian)、エジプト(Egyptian)、ナバテア(Nabataean)やローマ等、多くの影響を受けている事である。加えて、パルシアン朝(Parthians)の影響がサフワ(Safwa)に近いジャワン墳墓(Jawan Tomb)から発掘された装身具(jewelry)に見られ、印度との接触もカティーフ・オアシス(Qatif Oasis)で発見され今は失われた塑像からも推測できる。 総括して、紀元270年までの800年間は部族社会のアラビアで繁栄した定住文化が優勢であった事に特徴付けられる。陸上交易から生み出される豊かさで、部族社会であるにもかかわらず、経済力と軍事力の両方の合わさった中央集権国家の発展が促された。この過程の絶頂がペトラ(Petra)に首都を置いたナバテア王国(Nabataean Kingdom)であったが、この王国は紀元106年にローマに併呑されてしまった。この様に高度に発展した国にはパルミラ国(the sate of Palmyra)もあった。パルミラの軍隊は270年代にローマの東部諸県を席巻した。これに対してゲルラは軍事力を持たず、主として経済力のみで支配を確立していた。 さらに北では古代の交易路が隊商(caravan)をサジ(Thaj)へと導いた。これがその遺跡にHGR(門と塔を備えた城壁で囲まれた都市)がある東部州で発見された唯一の都市跡である。更にサジ(Thaj)はこの地域でHGRの王達の硬貨が発見された唯一の遺跡でもある。そしてギリシャやローマの地理学者が示しているゲルラ(Gerrha)の位置の地理的な立証はハサ・オサシス(Hasa Oasis)と共にサジ(Thaj)にも当てはまる。ハサ・オサシス(Hasa Oasis)とは対照的にサジ(Thaj)はイスラーム以前から広範囲に人が住み続けては居なかったので、この石造りの建造物は多くが今日でも残り、その遺構が見られる。 サジ(Thaj)は王国内でも最大級の考古学遺跡の一つである。1980年代から始まったサウジアラビア考古学部の何度かの発掘でこれが仮にゲルラ(Gerrha)で無くとも飛び抜けて大きな規模と繁栄を誇った町であるのが明らかにされて来た。この町はハサ・オサシス(Hasa Oasis)からイラク南部に至る主要な交易路に位置し、ジュベイル(Jubail)からダーナ沙漠(Dahna' sands)およびルマ(Rumah)井戸群を抜け、今日のリヤド(Riyadh)地区である古代のハジル・アル-ヤママ(Hajr al-Yamamah)へ通じるダールブ・アル-クンフリ(Darb al-Kunhuri)と最近呼ばれているもう一つの交易路と交差していた。 これまでの限られた発掘でもこの遺跡は恐らく紀元前4世紀後半から4世紀頃まで人が住んで居り、豊富な陶器の出土からこの町が紀元前300年から1世紀に掛けて繁栄していた事が分かっている。角に塔を備えた厚さ4 mを越えるこの都市の城壁の総延長は2.5 kmを越える。今日、この全長は空からしかハッキリ見えない。この城壁は紀元前3世紀に割グリをアスファルトで固めて作られていた。城壁外にも広く遺品は発掘されているけれども、集落跡は城壁内に集中している。この遺跡の北のサブハ(Sabkhas)はその時代は浅い湖であった様だ。そうだとすればこの地方の地下水位は古代の方が高かった。この時代の農業活動を証明する多くの大きな石で築いた井戸が見られる。しかしながら恐らくは今日みられるサブハ(含塩平地、salt flat、Sabkhas)は古代の畑から流れ出す灌漑水排水が長年の間に溜まって、広範囲に渡って、人が住めない程に塩分濃度を高めってしまった結果であると思われる。 サジ(Thaj)からはサウジアラビアの古跡の中では一番多くの黄金の出土品が発掘されており、往時の繁栄はリヤドの王立考古学博物館の展示品に見られる。出土品には特にシバ語(Sabaean script)で書かれたこの地方のイスラーム以前の方言で刻まれた多くのハサ碑文(Hasaean inscription)、幾つかのアラム碑文(Aramaic inscription)、銀貨や銅貨、陶器および人間や特に駱駝等の動物の小立像が含まれている。サジ(Thaj)の東にある三つの山(jabal)は神聖な高い場所と考えられていた。東南5 kmにはサジ(Thaj)と同時代のヒンナ(Hinna)と云う小さな町の遺跡がある。20世紀の早い時代にはヒンナ(Hinna)はイブン・サウド(Ibn Saud)に組織された改革ベドウィン(Bedouin)兄弟組織であるイフワン(ikhwan)の集落であった。彼等は古代の建造物を自分達の集落造りに使ったがその集落も今では廃墟に成ってしまっている。 (注)ハサ碑文:ゲルラ(Gerrha)時代に使われた主要な文字はイスラーム以前のイエメンのシバ人が使った文字(the Sabaean script)と同じである。これはハサ語(the Hasaean language)を書くのに使われ、ハサ語は余り史跡には使われて無いにせよサウジアラビアの他のイスラーム以前の方言と密接に関連した言語であると見なされている。今日知られているハサ碑文(Hasaean inscriptions)はサジ(Thaj)から殆ど出土している。他はヒンナ(Hinna)、カティーフ(Qatif)、ラス・タンヌラ(Ras Tannurah)、アブケイク(Abqaiq)、アイン・ジャワン('Ayn Jawan)および南イラクのウルク(Uruq)から出土している。殆ど全てのハサ碑文(Hasaean inscriptions)は墓石であり、名前、部族関係等の情報を与えている。アラム碑文(Aramaic inscription)およびギリシャ碑文も東部州で出土している。 3世紀の地中海世界(the Mediterranean world)は経済的不振にあった。4世紀のローマのキリスト教の受け入れに伴う香料需要の大幅な落ち込みがこれと相俟ってイエメン(Yemen)とアラビアの交易路に沿った隊商都市(the caravan towns)を衰退させた。経済的繁栄の終わりでイスラーム前夜までの4世紀の間にアラブ社会の再調整が行われた。イエメンからのアラビア横断交易が続いている限りは東部州の集落は交易の中でそれなりの役割を果たして居たが、1世紀以降、東部州をバイパスするアラビア湾の海路による交易が始まって交易からの収入が大幅に落ち込み、サジ(Thaj)やゲルラ(Gerrha)の様な交易都市は以前の富をその覇権と共に失ってしまった。それにもかかわらず、アル-ハサ(al-Hasa)やカティーフ(Qatif)等の巨大なオアシスの農業集落は繁栄を続けていたので地方産品の市場も依然として必要であったし、漁業と真珠取りに頼る海岸集落も生き延びていた。 都市の経済的衰退は遊牧生活の発展と同時に起きた。南西アラビアから中央、東そして北アラビアへの一連の部族移住が行われた。この事が東部州の部族の様相を大きく変え、遊牧民が力をつけてきた。一方、定住民の集落には食糧生産者および市商人として重要性が残って居た。それらの集落の幾つかは相互に敵対する部族の中立地帯として力のある地方豪族が部族紛争を調停してはいたが、アラビアの政治的な権力はますます部族戦士が建国した公国に握られる様に成っていた。 ダハラン(Dhahran)の墳墓(tumuli)の一つから駱駝の埋葬が発掘されている等で葬式のしきたりが幾らかは分かっているが、考古学的形跡は殆ど残されていない。この時代の歴史の調べる為の資料は記録文書や文学的出所に較べて考古学的遺物からは殆ど引き出せない。記録や文学的出所には碑文、ビザンチンの著者(Byzantine writers)、早期モスリム歴史家、アラブの部族伝承やイスラーム以前の詩等の口述をイスラーム初期に書き残した文書等がある。今日の東アラビアの部族や一門の素姓はこの時代の様式に遡れる。 紀元300年以降、ローマ帝国およびペルシャ帝国の国境北のアラブ諸族は経済力を失い、隣り合う帝国勢力に支配されてしまった。ローマの後継者であるビザンチン帝国(Byzantium)は部族連合の首領である一連の戦士一門に援助を与えたり、指導者としての地位を授けたりして、メソポタミアのペルシャ(Persians)に対抗するビザンチン防衛組織に併呑した。ローマ(Romans)とビザンチン(Byzantines)に対抗してペルシャ(the Persians)も似た様な政策を取った。ペルシャ(Persians)はアラブ・ラクミド一門(Arab Lakhmid clan)を緩衝国として設立し、ササン朝(the Sasanians)はヒラ(Hirah)に首都を持つ強力な部族連合のラクミド(the Lakhmids)を従属首長として擁護した。ヒラ(Hirah)はユーフラテス(Euphrates)堆積地帯と境を接する北東アラビアの沙漠にある。ここからイスラーム以前の数世紀の殆どに渡ってラクミド(the Lakhmids)は東アラビアの部族紛争に継続的に介入した。この様にササン朝(the Sasanians)はイラクからラクミド(the Lakhmids)属国を使って間接的に影響力を行使していたが、場合によっては東部州の紛争に直接介入した。 南部ではイエメン(Yemen)のヒムヤル王国((the Himyarite kingdom)、紀元前115年 - 紀元525年、セム語族系の古代王国)が西暦300年にそれ以前はバラバラに成って居た西南アラビアの都市国家を統一し、ビザンチン帝国およびペルシャに加え、中東における権力の三番目の中心となった。ペルシャ(the Persians)の様にヒムヤル支配者(the Himyarite rulers)も影響を及ぼす手段として中央アラビアの強力な部族連合を独立させ擁護する政策を取った。5世紀にこの部族連合キンダ(Kinda)は中央アラビアで自分自身の利益を追求できる程に勢力を持って来た。キンダ王国(the Kindites)は6世紀初期に現実にラクミド(the Lakhmids)の首都ヒラ(Hirah)攻略し、古代のアル-ヤママ((al-Yamamah)、今日のリヤド(Riyadh)およびカルジ(Kharj)地域)およびヒラ(Hirah)から短い期間ではあったが東部州も支配したけれども西暦528年までにはササン朝(the Sasanians)がラクミド(the Lakhmids)の復活に成功した。 ササン朝(the Sasanians)は西暦225年にペルシャ(Persia)のパルシアン朝(the Parthians)に取って代わり、直ちにアラビア湾に拡大すると云う活発な政策を推進し始め、東部州に大きな影響力を及ぼした。その王アルダシール(Ardashir)は西暦228年に東部州に侵入し、パルシアン朝(Parthians)の総督を追い出し、その代わりにササン朝(the Sasanians)の総督を任命した。アルダシール(Ardashir)は昔の都市カット(Khatt)の跡に新しい都市バトン・アルダシール(Batn Ardashir)あるいはピト・ アルダシール(Pit Ardashir)を創設した。その場所は考古学的には特定できないが多くの学者が多くの史実からカティーフ・オアシス(Qatif Oasis)の何処かであると考えている。 4世紀初期に旱魃に見舞われたハサ(Hasa)地区からのアラブ部族がペルシャの海岸地方を襲撃した。ササン朝の王(the Sasanian king)のシャプール2世(Shapur II)は西暦325年に反撃し、一連の遠征で東部州の主要部族であるタミム(Tamim)、バクル(Bakr)、イブン・ワイル(ibn Wa'il)およびアブド・アル-カイス('Abd al-Qays)を攻撃した。シャプール2世(Shapur II)はナジド(Najd)のアル-ヤママ(al-Yamamah)まで行軍し、そこから半島をヤスリブ(Yathrib)(後のアル-マディナ(al-Madinah))まで横断し、そこから北に転じてローマのアラビア州(Provincia Arabia)辺境を脅かした。シャプール2世(Shapur II)はその渾名と成った肩の卿((Load of Shoulders)、デュ・アル-アクタフ(Dhu al-Aktaf))と呼ばれる様に捕虜の肩を刺し通して一緒に結ぶ等、全ての残虐行為を行った。他の部族がペルシャに連行されたのに、アブド・アル-カイス('Abd al-Qays)とタミム(Tamim)の部族民はハサ・オアシス(Hasa Oasis)のハジャール(Hajar)に再定住させられ、タグリブ(Taghlib)とバクル(Bakr)の一部はタルート島(Tarut Island)のダリン(Darin)およびカット(Khatt)に定住させられた。アラビアにおけるササン朝の政策は特に反ローマ、反ビザンチンであり、シャプール2世(Shapur II)の遠征はこれを際立たせた。 実際にアラビアの部族や都市の歴史の殆どはペルシャあるいはローマ・ビザンチン支援に関係してきた。基本的にはこれは商業の問題であり、ササン朝(the Sasanians)はアラビア湾の両岸にその支配を確立し、これによってアラビア湾を通ってイラクに至るインド洋交易の覇権を得た。これに対抗する為にビザンチン帝国(the Byzantines)は再度、紅海を通って印度へ至る航路の開発を目指した。この目的でビザンチン帝国(the Byzantines)はマッカ(Makkah)やナジラン(Najran)の様なアラビア半島西側の陸上交易路沿いの交易共同体に参加し、紅海に従軍し、キリスト教の定着していたエチオピア(Ethiopia)支配者と同盟した。必然的にイエメン(Yemen)は二つの相争う勢力のぶつかり合う地域となり、ササン朝(the Sasanians)はカルジ(Kharj)やワーディー・ダワシール(Wadi Dawasir)を抜け東部州やナジド(Najd)南部を通る陸上交易路を支配する部族との関係を強化する事でその影響力をイエメンに広める様に努力した。 この時代のその他のめざましい発展としては宗教である。地中海および中東の文明化して居た他の地域同様にアラビア社会は一神教に向かう新しい宗教的風潮に深く引き込まれて居た。西暦6世紀までにキリスト教(Christianity)、ユダヤ教(Judaism)、ゾロアススター教(Zoroastrianism)およびラハマン(Rahman)と名付けられた一神教を中心としたアラビア宗教がこの時代に圧倒的であった多神教徒へ浸透して行った。キリスト単性論派(Monophysite)およびネストリウス派(Nestorian Christianity)がアラビアで典型的に見られる転向者であった。宗教的風潮はその源の政治的忠誠にも影響する傾向があったのでビザンチン帝国(the Byzantines)はキリスト単性論派(Monophysite)を擁護した。これに対抗してササン朝(the Sasanians)はネストリウス派(Nestorian Christianity)を擁護した。ネストリウス派(Nestorian Christianity)は西暦400年からダリン(Darin)、カティーフ(Qatif)、ハジャール(Hajar)およびバハレイン(Bahrain)沖のムハッラグ島(Muharraq Island)に管轄区を設けていた。 現在も東部州に居住するアラブ部族にはハサ・オアシス(Hasa Oasis)のハジャール(Hajar)やジャワサ(Jawatha)を中心に住むアブド・アル-カイス('Abd al-Qays)、バクル・イブン・ワイル(Bakr ibn Wa'il)、タミム(Tamim)およびタグリブ(Taghlib)が居る。これら全ての部族はキリスト教徒であった。アブド・アル-カイス('Abd al-Qays)は主要な定住部族であるのに対し、他の三部族は定住する支族はいるけれども主要な遊牧民である。アブド・アル-カイス('Abd al-Qays)の支族の一つであるジャディマ・イブン・アウフ(Jadhima ibn 'Awf)はザラ(Zara)を中心としたカティーフ・オアシスを根拠とした。ザラ(Zara)は後にペルシャ要塞(Persian garrison)に使われた。ザラ(Zara)の位置は特定出来て居ないがおそらくこのオアシスの西端に侵入して来た砂の下に埋まっているだろう。アブド・アル-カイス('Abd al-Qays)のもう一つの支族がダハラン(Dhahran)に住んでおりこの時代のカティーフ・オアシス(Qatif Oasis)は北のサフワ(Safwa)から南のダンマン(Dammam)およびダハラン(Dhahran)の間の海岸地帯全てに及んで居た。後世の様に主要なオアシス住民には非部族員が多く、特に外国人の住む海岸地帯ではこの傾向が顕著であった。 イスラームが始まる少し前にササン朝(the Sasanians)はハサ・オアシスのハジャールに総督を築き、東部州を直接支配しようとしていた。これはササン朝が西暦570年に海から侵略してイエメンを征服し、占領したのでアラビアの同盟部族を直接的に支配する必要が出てきた為である。総督はアラビア語ではムシャッカール(Mushaqqar)と呼ばれるムハッリン(Muhallim)と云う大きな水路が設けられている場所としてアラブ族に知られる砦を占領した。これはこの時代のこのオアシスでは大規模な農業が営まれて居た事を示している。又、カティーフ・オアシス(Qatif Oasis)では地下灌漑水路であるカナト(Qanat)の印象的な遺構がナツメ椰子畑の西端の少し外側に残されて居り、農業と灌漑へのペルシャの影響を示している。ナツメ椰子はピト・アルダシール(Pit-Ardashir)や後のササン朝時代の基幹作物であったと思われる。今では砂に埋もれてしまっているカナト(Qanat)の列がカティーフ・オアシス(Qatif Oasis)ではこの時代に現在よりもずうっと内陸まで農耕地帯が広がって居たのを示している。 西暦500年頃にヒラ(Hirah)のラクミド(Lakhmids)の支配は独立した部族連合キンダ(Kinda)の最盛期に打ち壊され、約30年間、東部州はキンダの支配下(Kindite rule)に置かれた。この期間は部族独立の黄金時代として記憶されている。西暦531年までにキンダ同盟の勢力(Kindite power)は崩壊しラクミド(Lakhmids)が再建された。 イスラーム以前の詩人やアラブの歴史家は西暦600年以降のササン朝(the Sasanians)との部族的関係や部族相互の関係を描いた記録を残している。詩人達はイスラーム以前のアラビアでは特別な地位が与えられていた。詩人達は自分自身が高貴の出であるか、又は強力な後援者に帰属していた。風刺家や政治的啓蒙家としての言葉の巧みさは沙漠の諸事においては強力な政治的手段であった。詩人達の作品はイスラームの時代に成って記述されるまで世代から世代へと口述を通じて語り継がれ、イスラーム以前のアラビアの歴史に関する重要な資料となっている。物語は古いアラビア語で書かれ、徳と罪を優先し、名誉と恥辱を重んじた個人や部族の英雄的主題に集中していた。忠誠、勇気および雅量等の部族的美徳が非常に賞され、人生の喜びとされた。男は運命に対しての孤独な闘争に封じ込められているとして叙述されている。人間の存在のはかなさや究極の哀愁の感覚がその作品に浸透している。 略奪と復讐に関する物語の一つはペルシャのイエメン総督ワハリズ(Wahriz)によってササン朝王チョスロエス二世(Chosroes II)に送られた贈り物の隊商について「隊商がアル-ハサに近づいた時にタミム(Tamim)の一分派が待ち伏せ、使節と護衛の大半を虐殺し、ペルシャへの贈り物を奪い去った。隊商の生き残りはペルシャの同盟者であるアル-ヤママ(al-Yamamah)のハニーファ(Hanifah)首長ハウダ・イブン・アリ(Hawdha ibn Ali)の下へと逃れた。ハウダの擁護で生き残りはイラクに居たチョスロエスの下まで安全に送り届けられた。ハウダは報償と王位をチョスロエスから与えられ、タミムを懲らしめる命を受けてハサ・オアシスに送り返された。タミムは収穫後の食糧を確保する為にハジャールのペルシャ総督の砦に集まった。穀物を分配すると云う口実で総督は彼等をムシャッカール(Mushaqqar)砦の中に招き入れた。一旦中に入ると隊商を襲った分派は冷酷にも皆殺しにされた」と語っている。この復讐に燃えた皆殺しは「ムシャッカール(Mushaqqar)の閉じられた門の日」として知られている。 政治的には3世紀に続き4世紀も中央および東アラビアのアラブ族の運命には変化は無かった。その時代の強力な勢力に囲まれ、ゲルラ(Gerrha)の繁栄をもたらした様な豊かな交易の機会を奪われ、アラブ部族はササン朝(the Sasanians)、ビザンチン帝国(the Byzantines)およびヒムヤル(the Himyarites)に利用され、部族派閥主義に逆戻りした。 7世紀初期に東アラビアは集落地域に対するペルシャ支配との不安定な関係の中、部族的にも不穏な状態にあった。西暦627から629年にイスラーム教義受け入れの呼びかけが来た時、ハサ・オアシス(Hasa Oasis)はアラブ側のアブド・アル-カイス('Abd al-Qays)の出と思われるキリスト教徒ムンディール・イブン・サワ(Mundir ibn Sawa)とムシャッカール/ハジャール(Mushaqqar/Hajar)のペルシャ総督の共同支配下にあった。ムンディールは素早く新しい教義を受け入れ、約定を結ぶ為に使節をマディナ(Madinah)の預言者の下へ送った。「ムスリム政府が東部州から受け取った最初の税はナツメ椰子の実(dates)と穀物だった」と言う。イスラームはより大きな理念への忠誠を求めてペルシャ支配のみならず古い部族敵対に対しても代わりと成る制度を提案した。これは驚くべき程、短い期間でアラビア半島の運命を変えてしまった。一つの神との人間の関係の新しい教義を取り入れ、全てのムスリムの平等と兄弟関係を教える国と社会の新しいイデオロギーを持つ事でアラブ部族を鼓舞し、アラブ部族を文明へと導いた。 アブド・アル-カイス('Abd al-Qays)族の早い転向によってイスラームは急速に東部州に根を下ろした。ハサ・オアシスの町ジャワサ(Jawatha)にマディナ(Madinah)以外のアラビアでの最初のモスクが建立された。ジャワサ(Jawatha)の町は今日では名前だけに過ぎないが、その注意深く保存されたモスク跡はいまだに見る事が出来るし、その跡で礼拝も行われている。預言者が生存中であった西暦620年代にはイスラームは着実に発展しイスラーム政府の接触やマディナの教えが強かった。アル-ハサ(al-Hasa)の内陸部はアラブ部族に支配されていたが海岸地帯は名目的にササン朝(the Sasanians)の統治下にあった。西暦632年に預言者が没した後に幾つかの部族は新しいイスラーム国家に反逆し、西暦632年から634年にかけてアラビアを二分させた背信(Apostasy)すなわちアラビア語でリッダの戦い((Riddah) 、ザカート拒否背信者との戦い)が行われた。戦いの終わりのかなり前からアル-ハサへの脅威は北からバクル・イブン・ワイル(Bakr ibn Wa'il)とヒラ(Hirah)の前支配者の連合の形でやって来た。しかしながら預言者の後継者であるアブ・バクル(Abu Bakr)はアル-アラ・イブン・アル-ハドラミ(Al-'Ala ibn al-Hadrami)をイスラームに忠誠を誓って残っていたアブド・アル-カイス族(the 'Abd al-Qays)の救援の為に派遣した。包囲は解かれ包囲軍は四散した。アル-アラ(al-'Ala)の麾下でアブド・アル-カイス族(the 'Abd al-Qays)とその有名な指導者ジャルド(Jarud)は海岸地帯を行進し、ペルシャ軍(the Persians)をカティーフ・オアシスのザラ(Zara)にある要塞に閉じこめ、タルート島(Tarut Island)および海岸地帯のその他の集落をイスラームに改宗させた。 東部州は外に目を向け初めた。アブド・アル-カイス族(the 'Abd al-Qays)はペルシャ海岸への海上遠征を行い、西暦649 - 650年のファールス(Fars)の征服に参加した。アラビア湾の海岸は遠くオマーン(Oman)に至るまでバスラ(Basra)の偉大な新しいムスリム支配の下に単一な州として再編された。早期のバスラは重要な軍事センターであり、特にペルシャ(Persia)およびクラサン(Khurasan)のモスリム征服に参加したアブド・アル-カイス(the 'Abd al-Qays)、バクル・イブン・ワイル(Bakr ibn Wa'il)およびタミム(Tamim)等多くの東部州の部族民を引き入れた。イスラームがインド洋に広まるに連れてアル-ハサは遠征の為に兵士や舟の提供で貢献した。拡張・征服が海に向かったにもかかわらず、海岸とその後背地は内陸のアラブ部族支配下で結束していた。例えば西暦660年代の印度へのハサウィ遠征(the Hasawi expedition)の指揮官はハサ・オアシスの主要都市ハジャール(Hajar)の出身であった。この遠征の戦利品の一つに象が居て、ダマスカス(Damascus)を根拠地にするウマイヤ朝カリフ(the Umayyad Caliph)のムアウィヤ(Mu'awiya)に送られた。 当時は北アフリカからイラクおよびイランに及ぶ単一国家であったイスラーム国はウマイヤ朝時代(the Umayyad period、西暦661 - 750年)によってダマスカスから支配されていた。ムアウィヤ(Mu'awiya)の後のウマイヤ朝カリフ(the Umayyad Caliph)はウマイヤ イデオロギー(Umayyad ideology)に疑問を持ち、「出ていった者達、カリジト(Kharijites)」と呼ばれる幾つかのグループの出現に直面した。その中でも最も卓越した指導者達の一人にアル-ヤママ(al-Yamamah)として知られるリヤド(Riyadh)およびカルジ(Kharj)地区のナジダー・イブン・アムル・アル-ハナフィ(Najdah ibn 'Amr al-Hanafi)が居た。ナジダーとその追従者達はアル-ハサのアブド・アル-カイス族(the 'Abd al-Qays)を征服し、数年に渡ってアラビア半島の大半を支配した。ウマイヤ朝(the Umayyads)が西暦692年にバスラ(Basra)から支配を取り戻し、アブド・アル-カイス族(the 'Abd al-Qays)を復活させ、要塞としてのハジャール(Hajar)を合併した。しかしながらその支配の残りの間、ウマイヤ朝(the Umayyads)はアル-ハサの断続する蜂起に悩まされた。 アッバース朝(the Abbasids、西暦750 -1258年)が西暦750年にウマイヤ朝から奪権し、イスラーム国都のバクダット(Baghdad)への遷都した事は10世紀まで続くアラビア湾交易を新たな黄金時代へと導いた。それに先立ちアル-ヤママ(al-Yamamah)を含む東アラビアへバクダット(Baghdad)から新たな総督達が任命された。アッバース朝(the Abbasids)に対する僅かな抵抗がアブド・アル-カイス族(the 'Abd al-Qays)によって先導されたがハジャール(Hajar)は主要な町として行政の中心に残った。印度および中国との交易にかかわったアラビア湾の港や商人達は莫大な富を築いた。特にペルシャ側のシラフ(Siraf)は繁栄したがオマーンのスハール(Suhar)の台頭や偉大な商人シュライマン(Sulayman)、スハール(Suhar)のアブ・ウバイダ(Abu Ubaydah)等のアラブ商人が成長した話の様に交易の中でアラブ部族はますます重要な役割を担った。これが船乗りシンドバッド(Sindbad)の物語に結びつき、この時代の商人、船乗りおよび為政者達の暮らしから生み出された話である。アル-ハサ・オアシス(Hasa Oasis)の港であるウカイル('Uqayr)は西暦840年代にバスラ(Basra)、オマーン、中国およびイエメンを訪れる為の港として記述されて居り、そこにはイスラーム早期の大きな考古学的遺跡が残されていると思われる。アッバース朝国庫(the Abbasid treasury)への東アラビアの重要性はそこから徴収される非常に大きな歳入によって確認されている。その額はオマーンよりも多く、殆どイエメン全体に匹敵して居た。 9世紀の後半にアッバース朝支配(Abbasid control)は崩壊し始め、イスラーム世界は様々な反体制運動で引き裂かれた。反体制の多くはイスマイル派霊感であった。イラクから起こったその様な運動の一つが東アラビアに定着した。カールマティア(Qarmatians)として知られ、彼等の初代のハッサン・カールマト(Hassan Qarmat)が指導者に成った後、西暦899年にカティーフ(Qatif)を占拠し、ザラ(Zara)を焼きそしてハジャール(Hajar)の攻略に向かった。その後、カールマティア(Qarmatians)はその伝道師アブ・サイド・アル-ジャンナビ(Abu Sa'id al-Jannabi)の下にその首都をアル-ハサ(al Hasa)の町に置き、このオアシスの古い町ハジャール(Hajar)あるいはその少し外側を新たな根拠地に持つ、しっかりと組織された国造りに着手した。海岸地帯と内陸を緊密に結びつけ、南ナジドから東部州に最近移動して来た部族の支援を得てカールマティア(Qarmatians)はその支配と影響をイランやイラク南部に広げた。 例えイデオロギー的にこの運動が異端であり、何人かの学者達がイスラームの外にあると見なしたとしてもカールマティア時代にはハサ・オアシス(Hasa Oasis)は政治的に歴史上の頂点に達した。カールマティア(Qarmatians)の最初で最大の軍事活動は西暦886年から935年の間であり、バスラ(Basra)、クファ(Kufah)およびワシト(Wasit)を度々襲撃し、巡礼を途絶させた。西暦930年にカールマティア(Qarmatians)はマッカ(Makkah)を攻略し、カアバ(Ka'bah)神殿から聖なる黒い石を奪ってアル-ハサ(al-Hasa)に戻ると云う究極の神聖冒涜を行った。様々な無法や忌まわしい行為が犯された8日間の混乱の後、自分の誤りから逃れる為、西暦931年にアブ・サイド(Abu Sa'id)の息子のアブ・タヒール(Abu Tahir)は統治をペルシャのマギアン(Persian Magian)に引き渡した。この出来事がカールマティア(Qarmatians)の宗教的過激主義の転機となった。 西暦935年から988年の第二期ではアッバース朝(the Abbasid state)と友好関係を結んだ。この間にファーティマ朝((Fatimid)、西暦909 - 1171年、北アフリカに興りエジプト・シリア一帯を支配したシーア派の王朝)がエジプトからシリアへの拡大してきた。バクダッド(Baghdad)がこのファーティマ朝を撃退するのにカールマティア(Qarmatians)はアッバース朝を援助した。聖なる黒い石はマッカ(Makkah)に戻され、以前よりもカールマティア(Qarmatians)の教義は正統なイスラームへと戻った様に思われる。アッバース朝(the Abbasids)との協力は西イランに台頭したブイド王朝(Buyid dynasty)にも向けられた。西暦983年にカールマティア(Qarmatians)はイラク南部に侵入したが、西暦988年にブイド王朝に打ち負かされ、その根拠地のアル-ハサ(al-Hasa)やカティフ(Qatif)が侵略された。 (注)ブイド王朝((Buyids):西暦942年にバクダッドを掌握したシーア派王朝で一世紀以上もイラク中央部を支配したがセルジュークトルコ(Seljuq Turks)に滅ぼされた。) イスラーム早期の地理学者ムカッッダシ(Muqaddasi)はカールマティア(Qarmatians)の領土であるアル-ハサ(al-Hasa)とハジャール(Hajar)の両方について西暦980年代の記述で「これはアル-バハレン(al-Bahrain)としても知られているハジャール(Hajar)州を支配するアブ・サイド(Abu Sa'id)のカールマティア(Qarmatians)王朝の首都であった。ナツメ椰子園に囲まれ、繁栄し、人口が密集していた。海からは一日行程でこの地域の商業の中心でもあった。政府は注意深く、公正であったが大モスクは破棄され、そこに礼拝する者は居なかった。」と言及している。13世紀の記述でヤクト(Yaqut)は「アル-ハサ(al-Hasa)市は西暦929年にアブ・タヒール(Abu Tahir)が建設した城壁で囲まれて居た」と付け加えている。 カールマティア(Qarmatians)は西暦988年の逆襲の後、東アラビアの支配を取り戻したが、その支配の最後の期間である西暦988年から1073年にはアラビア湾航路に対抗してのインド洋からの紅海交易とエジプトの台頭によりその勢力と繁栄の衰えが記録されていた。西暦1051年に南ナジド(Najd)と東アラビアを抜けて旅行したイスマイル派(Ismaili)の宣教師ナシール-イ-クスラウ(Nasir-i-Khusraw)等のアル-ハサ(al-Hasa)に関する目撃証言を得られるのはこの時代からである。 「ラハサ(Lahsa)と云う名はかっては町、地方、近郊や要塞を示していた。頑丈に泥で作られ、互いに1パラサング(parasang、約5 km)離れた4つの同心円の丈夫な城壁が町を取り巻いている。ラハサ(Lahsa)ではそれぞれが5基の水車を回すのに十分な水量を持つ豊富な泉が城壁内に湧き出し、全ての湧き水は城壁外に流れでない様に巧みに利用されている。美しい町が要害化された囲いの中心に聳えている。この中には偉大な都市を作り上げる全てを包含して居り、武器を取って何時でも戦える2万人の住人が住んでいる。以前はその支配者は人々をイスラームに外れた道に導いて居た。その支配者は人々の祈りと断食の義務を免除していた。アブ・サイド(Abu Sa'id)の子孫は今日、統治の座である巨大な宮殿に住んでいる。この宮殿には6人の名士が互い同士、序列および制令の合意に達する為に着席して宣誓する演壇がある。名士達はその後の演題に座る6人の大臣に補佐されている。全ての執務は名士達の協議で決められる。私がラハサ(Lahsa)に居た時にこれらの貴族達は銀で買われ農業や園芸に従事する3万人の黒人奴隷を所有していた。 人々は10分の1税等の税金は支払って居なかった。もし誰かが貧困や債務に陥るとその状況を回復するまで貸し付けを受けられた。もし誰かが負債を抱えると債権者は資本のみしか返済を要求出来なかった。全ての交易に訪れる外国人には到着時にその生計手段が確保されるに十分な一時金が支払われた。ラハサ(Lahsa)には民間人の為に無料で小麦を製粉する為の政府所有の水車があった。その様な水車の修理費やそこで働く人間の支払いは政府が負担した。取引に使われる通貨は籠にいれられた鉛の形をしていた。ラハサ(Lahsa)ではバスラ(Basra)等に輸出する為に高品質の腰巻きが作られていた。バハレン(Bahrain)の海では真珠取りが行われ、真珠の半分はラハサ(Lahsa)の首長に帰属する潜水夫によって採取されていた。ラハサ(Lahsa)のナツメ椰子の実は家畜の餌にする程に豊富であった。」との記述にカールマティア支配(Qarmatian rule)の共有の性格はハッキリと現れている。 ハサウィ(Hasawi)文化の性格的特徴は今日に至るまで大規模な水源(かんがい用の大きな泉)の私的所有がされなかった事にある。ナシール-イ-クスラウ(Nasir-i-Khusraw)によってのカールマティア(Qarmatians)支配下での中央主権統治と農業の発展の記述はジャワサ(Jawatha)周辺の様なこのオアシス北部の大きな地域が耕作されて居た考古学的記録で証明されている。 アル-ハサ(al-Hasa)のカールマティア衰退(Qarmatian decline)は北へのセルジューク・トルコ(Seljuq Turks、西暦1038 - 1194年)の台頭と同時に起きた。11世紀にセルジューク・トルコ(Seljuq Turks)は急速にその支配をイラン、イラクおよびシリア北部に確立した。西暦1073年にハサ・オサシス(Hasa Oasis)北部のウユン(‘Uyun)出身のアブド・アル-カイス族(the 'Abd al-Qays)のリーダーの一人がセルジューク・トルコ(Seljuq Turks)の支援を得て、カールマティア(Qarmatians)を打ち破り、王朝を樹立した。そのウユニド王朝(('Uyunids)、西暦1073 - 1253年)は西暦1253年まで支配を続けた。初代ウユニド支配者('Uyunid ruler)のアブドッラ・イブン・アリ(Abdullah ibn Ali)はアル-ハサ(al-Hasa)を自分の都にした。しかしながら地方勢力としてのアル-ハサの衰退とその結果的としての北の主要な政治の流れからの孤立が支配者の目をその海岸交易へと急速に向かわせた。この当時はアラビア湾の繁栄は下り坂に成っていたけれども交易はそれでもなお儲かり、ウユニド支配者('Uyunid ruler)はこの数世紀間のアラビア湾岸勢力の主要な中心であるペルシャ岸沖合にあるカイス島(Qays Island)のアラブ商人首長と対抗する事に成った。 12世紀を通じてカイス(Qays)の艦隊がバハレイン島(Bahrain Island)やカティーフ(Qatif)を襲った。カティーフ(Qatif)は次第にウユニド王朝('Uyunids)の中心となり、ハサ・オアシス(Hasa Oasis)はそこから支配を受けた。カティーフ(Qatif)は東部州の港としてウカイル('Uqayr)に取って代わった。当時はウワル(Uwal)として知られていたバハレイン島(Bahrain Island)もウユニド王朝('Uyunids)に支配されていたが、12世紀末には海岸地帯の領地からの税をカイス支配者達(Qaysi rulers)と分け合わざるをえなかった。13世紀までにカイスの権勢(Qaysi dominance)はアラビア湾入り口のホルムズ(Hormuz)の新しい海事勢力に脅かされ始めた。西暦1253年にウユニド王朝('Uyunids)に代わったアル-ハサ(al-Hasa)のウスフリド支配者達('Usfurid rulers)はこの時にはホルムズ(Hormuz)からの挑戦に対抗する為に自らカイス(Qays)と同盟した。こうしている内にウスフリド朝(('Usfurids)、西暦1253 - 1440年)は東部州に繁栄をもたらした。14世紀初期までにそのナツメ椰子の実、真珠および特に馬は印度への国際交易でこれまでよりも大きな需要が出て来た。 西暦1330年代にカイス(Qays)は遂にホルムズ(Hormuz)へアラビア湾交易の支配を譲った。しかしながら東部州はこの変化で殆ど影響は受けなかった。ホルムズ族(Hormuzis)はその支配をバハレイン島(Bahrain Island)やカティーフ(Qatif)の及ぼそうとしていたが、その支配は有効ではなかった。ウスフリド朝('Usfurids)はカティーフ(Qatif)からの支配で独立を保ち、アル-ハサ(al-Hasa)の生活は適当に繁栄した水準を保ち続けていた。偉大な北アフリカのアラブ旅行者イブン・バッツータ(Ibn Battutah)が西暦1330年代にカティーフ(Qatif)とハジャール(Hajar)(当時はアル-ハサ(al-Hasa)と呼ばれていたとバッツータが言う)を訪問し、特に「カティーフ(Qatif)は大きく繁栄し美しい都市だ」と書き留めている。カールマティア教義(Qarmatian doctrines)に関してバッツータは全く記録して居ない。アル-ハサ(al-Hasa)ではバッツータは広大なヤツメ椰子園に驚かされと言う。これに続く世紀でも交易環境は改善し続け西暦1400年迄にはアラビア湾は商業の繁栄した新しい時代に入ろうとしていた。印度や中国からの物資が再びイラクへと大量に送り出され、ホラズム島は交易勢力としては西洋では伝説となったその絶頂期を迎えた。西暦1440年にウスフリド朝('Usfurids)はその支配を新たな部族王朝ジャブリド((Jabrids)、西暦1440 - 1524年)に譲った。 ジャブリド(Jabrids)はハサ・オアシス(Hasa Oasis)周辺の沙漠の出身である。先ずアル-ハサ(al-Hasa)の町を獲得し、そこを統治の中心にしてそれからその支配を海岸線に拡張し始めた。ただ支配するだけとの評判とイスラーム政権の基本となる意見を助言するウラマ('ulama)に対するその敬虔と配慮での名声を持ってジャブリド(Jabrids)は急速に沙漠部族である事を超越して定住民の統治家族(amirs)に成った。ジャブリドの勢力(Jabri power)はバハレイン島(Bahrain Island)、南はオマーン(Oman)、西方には南部ナジド(Najd)のカルジ(Kharj)まで広がった。ジャブリド朝(Jabrids)の最初で一番著名な支配者アジュワド・イブン・ザミル・アル-ジャブリ(Ajwad ibn Zamil al-Jabri)はアラビア半島を横断して大規模な巡礼団を送った。最大規模は西暦1507年で頑強な3万余人である。ホフーフ(Hofuf)で使われている今もなお残り使われている一番古い建物はジャブリ時代(Jabri period)の物であり、カスル・イブラヒム(Qasr Ibrahim)に近いジャブリ・モスク(the Jabri Mosque)である。 強い集権支配、東アラビアの良好な環境条件およびアラビア湾交易の持続した増加が結びつき独立したアル-ハサ(al-Hasa)に繁栄をもたらした。しかしながら国際的発展が間もなく重大な変化を起こした。1498年に喜望峰(the Cape of Good Hope)を回ったポルトガル(the Portuguese)はインド洋交易のやり方を完全に改めようとしていた。ポルトガル(the Portuguese)は軍事力で海軍帝国の創設に着手した。その目的は印度および極東からヨーロッパへの豊かな交易をアラビア湾や紅海を経由するルートから喜望峰まわりのルートに変える事であった。ポルトガル(the Portuguese)は目覚ましく成功し、それまでこの交易を支配していた東地中海のベネチア(the Venetians)やイスラームの国々はこの為に打撃を被った。16世紀にイラク(Iraq)がポルトガル(the Portuguese)に対抗する努力をするに連れて、アル-ハサ(al-Hasa)は国際紛争の広い舞台に引き込まれて行った。東アフリカ、南アラビアおよび印度での根拠地を確立し、ポルトガル(the Portuguese)は西暦1515年にもホルムズ(Hormuz)も攻略している。イランのサファビー朝(Safavid dynasty、西暦1502 - 1736年)に対してポルトガル(the Portuguese)はバハレン(Bahrain)を占領し、西暦1520年にカティーフ(Qatif)を略奪し、ホルムズ(Hormuz)への朝貢を拒否していたジャブリ支配者(the Jabri ruler)のムグリン(Muqrin)を殺害した。末期的に弱まり、ジャブリド国(the Jabrid state)は西暦1524年にバスラ(Basra)支配者のラシッド イブン ムガミス(Rashid ibn Mughamis)の餌食と成った。 アル-ハサ(al-Hasa)とバハレン(Bahrain)は事実上、オスマン・トルコ、イランのサファビー朝およびポルトガル三国の三竦みの国際紛争に巻き込まれた。新進勢力オスマン・トルコ(Ottoman Turkey、西暦1281 - 1924年)は自らの帝国をイラク(Iraq)に広げその商業権益をポルトガル(the Portuguese)から守ろうとして居たし、新たに出現したイランのサファビー朝(Safavid dynasty)はオスマン帝国(Ottomans)の宗教的競争相手であり、ポルトガル(the Portuguese)はその商業目的の追求の為ならば度々残忍な襲撃も行って居た。西暦1534年から1546年の間にオスマン帝国(the Ottomans)はバスラ(Basra)を占領し、そこと紅海のスエズ(Suez)からポルトガル(the Portuguese)に対抗しアラビア湾を巡回する海上艦隊を組織した。西暦1549年にオスマン帝国(Ottomans)はアル-ハサ(al-Hasa)に移り、まずカティーフ(Qatif)を占領し、内陸に移動した。砦がウカイル('Uqayr)とカティーフ(Qatif)に交易を防御する為に建てられた。しかしながらオスマン帝国(the Ottomans)は以前のジャブリド領地(the Jabrid domain)であったバハレン(Bahrain)からもモルムズ(Hormuz)からもマスカット(Muscat)からもポルトガル(the Portuguese)を撃退出来なかった。 オスマン帝国(the Ottomans)は自らがラハサ(Lahsa)と呼ぶホフーフ(Hofuf)を新しい州の州都に選んだ。カスル・イブラヒム(Qasr Ibrahim)は兵舎と行政府として使われて居り、その中の偉大なイブラヒム・モスクはその時代の物である。スルタンの精鋭軍のジャニッサリエス(Janissaries)大隊がこの州に駐屯した。この大隊は800余名であるが地方の戦士300人を増員していた。要塞の進歩の必要から火器が導入されていた。課税の為の基本として全土地登録制が組織され、関税歳入も系統化された。南のヤブリン(Yabrin)から北のクウェイト(Kuwait)まで政令を行き渡らせる為に遊牧民首長(Nomadic shaykhs)も報酬のある官吏として登録された。オスマン帝国(the Ottomans)方式のシャリア法(Shari'ah)と法廷記録が導入された。オスマン帝国(the Ottomans)の公文書が官僚組織、軍隊、経済や裁判制度等のそれ以前の時代には明かされてなかったアル-ハサ(al-Hasa)の暮らしの詳細を明らかにした。16世紀の最後の年までにオスマン帝国(the Ottomans)はポルトガル(the Portuguese)からアラビア湾および紅海の交易支配をもぎ取るのは出来なかったけれどもオスマン帝国(the Ottomans)はアル-ハサ(al-Hasa)の統合支配には成功した。オスマン帝国(the Ottomans)のホルムズ(Hormuz)税関の歳入はポルトガル(the Portuguese)権益がアラビア湾交易を完全に妨げては無く、オスマン帝国(the Ottomans)もアラビア湾に向かう交易ルートからの利益を得て居た事を意味する。 紀元1600年までにポルトガル(the Portuguese)の脅威は衰えつつあった。武力による交易の実施は「会社の時代」に道を譲った。英国西印度会社の様なイギリス、オランダおよびフランスの商人協会は威圧よりも協定によって土着の支配者との商売を模索した。西暦1622年にイギリスとペルシャはポルトガル(the Portuguese)をホルムズ(Hormuz)から駆逐した。ポルトガル(the Portuguese)はアラビア湾での交易は続けたけれどもポルトガル(the Portuguese)は真珠と見事なアラビア馬をカティーフ(Qatif)の首長(the shaykh)から買い取って印度で売って居たとの記録があるだけで限られた範囲であった。西暦1630年から1700年の間のアラビア湾交易ではオランダが圧倒していた。その後は英国西印度会社が覇権を確立した。しかしながらオスマン帝国(the Ottomans)の勢いも又、衰退気味であった。西暦1600年以降、主として資金不足の為にアル-ハサ(al-Hasa)に対するオスマン帝国(the Ottomans)の支配力は弱まり、地方支配者の再現への道を作ってしまった。西暦1620年以後、ペルシャ(the Persians)がバスラ(Basra)を攻略した時にこの州はイスタンブール(Istanbul)の直接財政支援を絶たれた。バニ・カリド族(the Bani Khalid tribe)のアル-フマイド一門(the Al Humayd clan)が要塞の居残りを放逐した西暦1680年まではオスマン政府(Ottoman government)は切り詰めながらも行政を続けていた。 バニ・カリド族(the Bani Khalid tribe)は北のバスラ(Basra)から南のカタール(Qatar)まで沙漠全体を支配して居た東アラビアの強力な勢力であった。この部族は遊牧と定住の両方のグループが居た。アル-フマイド(Al Humayd)はアル-ハサ(al-Hasa)の地方的、伝統的な部族支配を回復した。バニ・カリド族(the Bani Khalid tribe)はホフーフ(Hofuf)の少し外側のムバッラズ(Mubarraz)にその統治の中心を置いた。今日、ムバッラズ(Mubarraz)はこのオアシス第二の町であるが当時は隊商が泊まる場所で部族の幕営する地区に過ぎなかった。行政の必要からアラビアの町の遊牧民による他の占拠の様にもっと恒久的な施設が必要となり、ムバッラズ(Mubarraz)の大要塞もこの時代に建てられている。ハサ・オアシス(Hasa Oasis)は強力な地方勢力として残ったが、バニ・カリド族(the Bani Khalid tribe)の支配下ではその権益は海岸と離れてしまった。17世紀の間に南ナジド(Najd)から来た一門のグループの一つであるウツブ('Utub)が東アラビアに移住し、バニ・カリド族(the Bani Khalid tribe)に追従する関係を築いた。18世紀初めまでにウツブ('Utub)はクウェイト(Kuwait)に居住し、繁栄した海上交易に転換を始めた。西暦1766年にウツブ('Utub)はカタール(Qatar)の海岸のズバラ(Zubarah)に根拠を置き、西暦1782年にバハレン(Bahrain)の支配を手に入れた。今日のクウェイト(Kuwait)およびバハレン(Bahrain)の支配者家族はこのウツブ('Utub)一門の子孫である。 その間、ハサ・オアシスは陸への志向が保たれて居た。ウヤイナ('Uyaynah)で広まりつつあった宗教勢力の保護、改革運動とウヤイナ('Uyaynah)に敵対するディールイイヤ(Dir'iyyah)のサウド家(the House of Saud)の勃興を西暦1745年以降に妨害する試み等、18世紀の中央アラビアの出来事にバニ・カリド族(the Bani Khalid)は重要な役割を担った。改革運動はムハッマド・イブン・アブド・アル-ワッハブ(Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab)が主唱する浄化されたイスラームの形式であった。しかしながらバニ・カリド族(the Bani Khalid)はこの運動の軍事的進行の抑制に失敗し、西暦1790年のカティーフ・オアシス(Qatif Oasis)南のグライミル(Ghuraymil)での戦いに敗北してしまった。この様にして東部州は第1次サウジ公国に編入され、ホフーフ(Hofuf)の要塞は修理拡張された。 これらの出来事に対するオスマン帝国の反応はアル-ハサに現れた。ムンタフィク首領(the Muntafiq chief)のテュワイニ(Thuwayni)に指揮された遠征軍はアル-ハサに到着する前にテュワイニ(Thuwayni)が暗殺され頓挫した。西暦1799年に2回目の遠征はもっと良く組織され、ホフーフを陥落させ、ムバッラズ(Mubarraz)のカスル・サフド(Qasr Sahud)に残ったサウジ守備兵を撃退する為に攻撃し始めた。カスル・サフド(Qasr Sahud)の防衛は英雄的、耐久的な多くの偉業の中でも傑出して居り、この防衛によってアラビアの部族戦士は公平に見て有名に成って来た。包囲軍が1万から1万2千人を数えたのに防衛軍は100人にも満たなかった。しかしながら防衛軍はおよそ5ヶ月間実際に大砲や木製の塔を使った爆撃、城壁下のトンネル等のあらゆる攻城技術を駆使した絶え間ない攻撃に抵抗した。完全に士気を挫かれ包囲軍は絶望してこのオアシスの占拠を放棄してイラク(Iraq)へ引き上げた。 アル-ハサはサウジ公国の海への出口として機能し、これによって取り分け東印度会社および結局は英国と最初の国際的関係接触を持った。英国はアラビア湾を通っての印度への安全な通行を目的にして居た。それにはアラブの節度の無い略奪者の抑制、徹底的な海洋調査およびオスマン帝国との良好な関係保持を一般的な政策としていた。バスラ(Basra)近郊のズバイル(Zubayr)と共にアル-ハサもそこを通過する東および中央アラビアに急速に現れた主として織物や火器等の物資の出入り口であった。 西暦1818年に第一次サウジ公国はイブラヒム・パシャ(Ibrahim Pasha)がヒジャーズから率いて来たエジプト・オスマン侵入軍に滅ぼされた。この侵入軍はディールイイヤ(Dir'iyyah)を長い包囲の後に攻略し、その後破壊した。エジプト軍(the Egyptians)はハサ・オアシスとカティーフに侵入しナジドと東部州を占領すると云う考えを持って居た。しかしながらこの国の財源ではこの占領を継続するには不十分であり、交通の危険性が高い事が直ぐに分かり、西暦1819年に放棄する事を決めた。アル-ハサはアル-フマイド(Al Humayd)の支配下に置かれる事に成った。その時にも英国はアラビア湾岸の安全の確保を得ようとして居た。この為に英国の訪問者は西暦1819年にサドレイル(Sadleir)、西暦1832年にウィバード(Wyburd)、1841年にジョップ(Jopp)とアル-ハサに現れ始めた。サドレイル(Sadleir)の報告からカティーフは東部州への物資の流入場所としての経済的重要性が衰えて居たのは明白であった。その地位はバハレインに取って代わられウカイル('Uqayr)はハサ・オアシスの港として役割を果たすだけの地方港に成っていた。 西暦1824年サウジ・イマム(Saudi Imam)のトールキ・イブン・アブドッラ(Turki ibn Abdullah)はサウジ家の繁栄を回復しリヤド(Riyadh)を第二次サウジ公国の首都に選定した。西暦1843年の追放からのイマム・ファイサルが脱出(the Imam Faisal's escape)し、その支配の再び確立して秩序が回復した。その後の22年間は第一次サウジ公国に較べて領土は少なかったけれどもサウジ公国が比較的平和を維持した。イマムの支配は特にオスマン帝国や英国等の外国勢力との対抗には新たな慎重さを持って臨んだのが目立って居た。イマムは沙漠と集落の行政と秩序の中に改革運動(the Reform Movement)を達成出来た。経済的には平和がアル-ハサに繁栄の方策をもたらした。ヤツメ椰子の実と反物の輸出はこの時代のナジドでは何処でも繁盛した馬の交易と共に増えた。もう一度、アル-ハサはサウジ公国(the Saudi state)の海への主要な出入り口となり、工業製品が一般的と成っていた輸入はバハレインからアル-ハサを通して行われた。西暦1861年に英国はアラビア湾における永続的な平和条約を正式にする事でバハレンの外交関係の責任を引き取った。これはバハレインとアル-ハサの敵意を終わらせる効果があった。以前の様にアル-ハサの男達に支援されたサウジ公国(the Saudis)はブライミ(Buraimi)に要塞を置き、アラビア湾南部からオマーンに影響力を及ぼそうとしたが、その行動はこの地方の支配者達に英国がますます介入して来た為に制限されてしまった。 2.17 オスマンによる占領の復活(西暦1871 - 1913年) オスマン帝国((the Ottomans)、西暦1299 - 1922年)は西暦1871年にアル-ハサを再び占領し、西暦1913年まで支配した。ホフーフに本部を置き、オスマン帝国は直ちにその行政府の近代化に取り掛かった。アル-ハサはオスマン帝国によって奇妙にもバスラ州ナジド地区(Sanjak of Najd)と名付けられた一つのサンジャク(sanjak、地区(district))にされた。西暦1880年代までにカタール(Qatar)がこの新しいサンジャク(sanjak)の一小地区として加えられた。その他二つの小地区は首都を含むハサ・オアシスとカティーフであった。一方、バハレインは固く英国保護領として残って居た。小地区の行政を行うと同じ様に地方の代表を含む州行政府評議会が設けられて居た。司法の改革はオスマン帝国内と同じ様に行われた。イスラーム法の標準のオスマン帝国式法典がイスタンブール(Istanbul)から指定され、上訴の手続きが制定された。警察は法と秩序を維持した。学校と軍病院がオスマン コミュニティの為に役立った。港湾施設はカティーフ(Qatif)とウカイル('Uqayr)で整備され、守備隊の塔や関税事務所が作られた。市庁舎はホフーフ(Hofuf)に建てられた。この市庁舎はアル-ハサの住民の行政を扱うのに十分である様に表面上は見えるが帝国の大きな財政逼迫で地区(sanjak)は歳入を結局は絞り取られ、従って、投資はギリギリの最低に抑えられて居た。西暦1913年に引き継いだサウジと異なり、オスマン帝国は沙漠の部族に法と秩序を守らせるのに失敗し、交易と交通が大きな打撃を被る結果と成った。 占領守備隊はバクダット(Baghdad)のオスマン帝国陸軍第6軍団から派遣されて居た。西暦1893年までに424名にまで増え、その殆どは兵舎と行政府として改築されたカスル・イブラヒム(Qasr Ibrahim)に宿営させられて居た。西暦1874年にサウド(Saud)とイマム・アブドラ(Imam Abdullah)の兄弟のアブド・アル-ラーマン・イブン・ファイサル('Abd al-Rahman ibn Faisal)がオスマン帝国からのホフーフの奪回を試みた。ウカイル('Uqayr)に上陸しアブド・アル-ラーマンはウジュマン('Ujman)およびアル-ムッラ(Al Murrah)を自分の指揮下に集結させ、ホフーフのカスル・クザム(Khuzam)を奪取しカスル・イブラヒム(Qasr Ibrahim)の守備隊を包囲した。しかしながらアブド・アル-ラハマンはオスマン帝国陸軍の援軍とワジイヤ(Waziyyah)のムンタフィグ部族民(Muntafiq tribesmen)にムバッラズ(Mubarraz)とウユン('Uyun)の間で打ち負かされた。それからホフーフはムンタフィグの略奪を受け、多くの指導的ハサウィ家の家族(Hasawi families)がバハレインへ逃れた。 中央アラビアへのハイル(Hail)の支配権が高まる中で西暦1891年にアブド・アル-ラハマンが離脱しアル-サウドが首長となってクウェイト(Kuwait)に避難した。この様に、第二サウジ公国が衰微する状況の中でオスマン支配(Ottoman rule)はこの出来事を除いてはと東部州へのそれ以外のどの様な介入も避ける様に成った。この為に、アル-ハサは取り分け沙漠部族との地方的な争いで乱される様に成った。この例としてはウジュマン('Ujman)と定住民のムバッラズ(Mubarraz)およびキラビイヤ(Kilabiyyah)との西暦1906年の争いがある。西暦1909年の出来事の様にムバッラズ(Mubarraz)同士の争いに巻き込まれオスマン総督が暗殺された事もあった。 西暦1902年1月リヤドのマスマク要塞(the Masmak Fortress)への大胆な夜明けの襲撃でアブド・アル-ラハマン・イブン・ファイサル・アル-サウド('Abd al-Rahman ibn Faisal Al Saud)の若い息子が僅か40名の戦士でリヤドの支配を抑えた。これがサウジアラビアの歴史上で新しい時代の幕開けであった。その時から西暦1932年までの間、未来の王アブド・アル-アジズ('Abd al-'Aziz)は今日のサウジアラビアと成ったアラビアの地方の統一を行って居た。西暦1911年までにアブド・アル-アジズはアル-カシーム(al-Qasim)および南部ナジドを含む中央アラビアの大部分をリヤドの覇権の下に合併した。アル-カシーム(al-Qasim)で既にオスマン帝国と戦って居たのでこれ以上の拡張は自分を外国勢力の権益と衝突させるとの懸念を持っていた。 アブド・アル-アジズは又、祖父のイマム・ファイサル(Imam Faisalの様に部族体制の固有の不安定性を熟知して居た。アブド・アル-アジズはリヤドの宗教指導者達と共に将来を見通した大胆さを持ってそれぞれの部族への忠誠心を信経や国家への大きな忠誠で置き換え、分裂を防ごうとしていた。この政策にはベドウィン(Bedouin)の定住化、農業の啓蒙やイスラーム改革の教義の説教が含まれて居た。定住化は宗教的教え、教育、交易等への有利な効果をもたらした。最初の定住は驚異的短期間でスダイル(Sudayr)北部のムタイル(Mutayr)領のアルタウィイヤ('Artawiyyah)の井戸群に現れた。これは直ぐに他の部族にも追従された。西暦1917年までには200を越える集落が出来、その内の多くが東部州にあった。これらの集落は熱狂的な信者の共同社会を代表して居り、これらの集落は急速にアブド・アル-アジズがその王国を統一する為の戦闘でのサウド軍の主力と成って来た。 西暦1913年までにアブド・アル-アジズはアル-ハサのオスマン帝国の占領を脅かす地位にまで成った。5月、アブド・アル-アジズは急行軍で夜までにホフーフに入り、カスル・イブラヒムに夜襲を開始した。守備隊は驚き、速やかに降伏した。オスマン軍はウカイル('Uqayr)から撤退するのを許された。その後、直ぐにカティーフも降伏し、東部州はサウジ支配に戻された。数人のイラク人のオスマン帝国官吏が残り新しい行政を援助したが、アル-ハサでイブン サウドの支配が始まった事は決して安定を意味しては居なかった。西暦1845年に遡り、サウジ支配への反目するウジュマン('Ujman)族は武器を捨てる事を拒否した。西暦1915年にウジュマン('Ujman)族はキラビイヤ(Kilabiyyah)とジャワサ(Jawatha)の間のキンザン(Kinzan)でサウジ軍を待ち伏せし、イブン サウドの兄弟のサアド(Sa'd)と約300名のハサウィ(Hasawi)を殺害した。続いてウジュマン('Ujman)族はこのオアシスの町や村を襲った。 西暦1915年はアブド・アル-アジズの運勢は一番悪かった。1月にアブド・アル-アジズは北のハイル(Hail)の脅威を除こうとジャッラブ(Jarrab)で戦ったが決着しなかった。その上、その戦いの中での長年の盟友シャイクスピア大尉(Captain Shakespeare)の死で英国との関係が疎遠になった。西ではシャリフ・フサイン(Sharif Husayn)が数年間に渡りオスマン支配のヒジャーズ(Hijaz)から取ったその領土に勢力を振っていた。英国に取ってはアブド・アル-アジズよりもシャリフ・フサインの方が第一次世界大戦の勃発で当時戦争状態にあったトルコと対抗する為には、もっと効果的な同盟者に見えて来た。その様な状況の下でアブド・アル-アジズは英国の支援を失ってしまった。イブン サウドはリヤドから援軍を呼び、英国の支援無しで、ウジュマン('Ujman)族をオアシスから放逐して急速にアル-ハサの状況を回復した。ウジュマン('Ujman)族のクウェイト方面へと向かう北への敗走は東部州の部族問題終結を示して居た。 州は落ち着き、再度サウジ公国の外界との窓口となり、大いに繁栄した。行政府にはイブン サウドの尊敬する従兄弟のアブドッラ・イブン・ジルウィ(Abdullah ibn Jiluwi)が任命された。治安の回復は繁栄をもたらし、輸入品が流入して来た。ホフーフのアーケイド付きのカイサリイヤ市場(Qaysariyyah market)の新しい建物がスーク・アル-カミス(Suq al-Khamis)の東側に付け加えられた。立派な王宮がカスル・イブラヒムの近くに建てられた。ヒジャーズがサウジ公国(the Saudi state)に1915年に合併されるまではアブド・アル-アジズの外部との接触は東部州を通じて行われて居た。中東におけるオスマン・トルコとの戦争に対応する英国のリヤドへの支援を明確にする為および後にはイラクとクウェイトの国境線を定める為の英国との重要な交渉は東部州のウカイル('Uqayr)で西暦1916 - 17年および1920 - 22年に行われた。 西暦1926年までにはサウジアラビア王国もその体裁が整って来た。北部アラビアおよびヒジャーズが併合され、東部州はもっと大きな州に拡大された。トランス ジョルダン(Trans-Jordan)、イラク(Iraq)およびクウェイト(Kuwait)との国境も定められた。最初の外交使節も東部州のアル-ハサでは無く、西部州のジッダ(Jiddah)に受け入れた。リヤドの乏しい歳入は巡礼の受け入れで増加した。無線通信、エンジン付きの車の導入が近代化の一環として始まった。1932年までにサウジの国境は今日とほぼ変わらない形に成り、この若い国はサウジアラビア王国と宣言した。新たに形作られた王国は実際に誰も想像していたよりも遙かに偉大な未来への飛躍を遂げた。東部州のこの出現した国に対する重要さは紅海岸を手に入れた事で減少したがそれは束の間の事であった。西暦1938年にダンマン ドーム(Dammam Dome)の地下で経済規模の原油が発見された。それに続く数十年は東部州の原油から生まれる富はこの国の歴史上で初めてであるばかりでは無く、世界の目を魅了した。東部州の原油生産は今日でもこの国を支える唯一の財源である事には変わりないが、単一資源依存の体質からの脱却努力は鋭意続けられており、その主要な産業には農業、牧畜、金融、石油化学、鉄鋼、セメント、発電造水、鉱業(金、ボーキサイト、燐鉱、石材)、観光等が挙げられる。 |
|||