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豊かなオアシスに恵まれた原油の宝庫 (サウジアラビア王国東部州) その1 東部州の紹介 (Vo.1 Introduction of East Province) 著: 高橋俊二 |
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1. 東部州の自然(Nature of Sharqiyah) 1.1 東部州の地質(Geology of Sharqiyah) 1.2 東部州の地形(Topography of Sharqiyah) 1.3 アラビア湾岸(Arabian Gulf) 1.4 東部州の気象(Meteorogy of Sharqiyah) 1.5 東部州の動植物(Flora and Fauna of Sharqiyah) アラビア楯状地(Arabian Shield)はアラビア半島の西半分に露出するのみで、東および北アラビアは様々な地質世の間に形成された石灰石を主とした堆積層で覆われて居る。東部州はそのアラビア楯状地(Arabian Shelf)の東側を占めて居り、その地層は比較的若く、地質年代的には一部古生代(Paleozoic)二畳紀(Permian)を含む2億3千年前頃の中生代(Mesozoic)三畳紀(Triassic)以降に形成された。これらの地層はアラビア楯状地(Arabian Shield)の盆地になった浅い海の中で古い岩石の上にゆっくりと悠久の時間を掛かけて堆積して来た。この盆地の一部が東アラビアやチグリス−ユーラテス河(Tigris-Euphrates)であり、その堆積の中にはアラビア湾に臨む国々に富をもたらす今日の油田を作り出した海生有機生物も同時に含まれていた。 アラビア半島はアフリカ-アラビアプレートがアジア大陸へと北東に漂い初めるに連れて、両大陸の間にあったテティス海(Tethys Sea)の両岸は次第に近づき、約5,000千年前には両大陸の大陸棚が接触する程までに狭められた。地球規模で両方のプレートを動かしている地殻深部の力は非常に強い為にその後、アラビア半島はアジア大陸とますます接近し、接合し固く一体化した。この過程で両大陸は激しい圧力を受け、この接合面は高い山脈と成って隆起した。アラビア半島に於けるこの種の造山運動で出来たのはオマーンのアカダール山脈(Jebel Akhdar)である。このジャベル・アカダールの山頂は海成の石灰岩で出来て居り,貝の化石も簡単に蒐集出来るのはこの造山運動によって昔の海岸が標高2,000mまで持ち上げられて居る為である。同じ様に、アラビア半島とアジア大陸の衝突はアラビアプレートの北と北東の端に沿ってイランのザグロス(Zagros)山脈やトルコの南東部のタウルス(Taurus)山脈を隆起させた。 この地殻変動によって約6,000万年前頃にアラビア半島西側の下部にある地殻は引き延ばされ薄くなり、次第にゴンドワナ大陸の一部であったアフリカ大陸から分離し、紅海で隔てられた。更に2,500万年前から紅海の中央に深い裂け目ができ、分離が進み、1,200万年前の中新世(Miocene)までの間に紅海地溝帯が開くに連れてアラビア半島はゆっくりと東へと揺れ動き続けた。その分離速度の緩まった1,500万年前から火山活動が始まり、500万年前までに現在のアラビア半島が形付けられた。その後、300万年前には最後の地殻変動が始まり、アラビアプレートとユーラシアプレートの衝突の境目に沿って生じた圧縮力は陸地を両側から押しつけ隆起させ、ザグロス山脈を現在の標高まで押し上げた。アラビア半島は傾けられ、南西部を上に押し上げられ、北東部を下に押し下げられた。この為に東側が海面下に沈み現在のアラビア湾が出来た。東部州ではアジア大陸への最後の圧縮の力が堆積層に南北方向の緩やかな平行した一連の褶曲を作りだし、それが今日、世界で最も豊かな油田を形成した貯油構造と成った。 世界最大のガワール油田(Ghawar oil field)もこの様に太古の海に堆積された有機物で構成される。この油田はサッマン高原(Summan Plateau)とシャドグム高原(Shadgum Plateau)の東でハサ・オアシス(Hasa Oasis)の直ぐ西に位置している。海が後退するに連れて石灰岩の露頭や砂質石灰岩を伴う平らな海岸平地が残された。それがその後の侵食に耐えて残った部分がサッマン高原である。海岸に近い幾つかの場所ではもっと太古の岩が新しい岩層を貫き、ダンマンドーム(Dammam dome)の様なドーム型地質構造(dome formation)が岩層の下から石油が発見される鍵となった。 この堆積層は帯水層にも成っており、2万4千年前から3万3千年前の降雨がアラト(Alat)、コバール(Khobar)およびウンム・アル-ラデューマ(Umm al-Radhuma)等の堆積層に保存されている。これらの層は少し東に向かって傾いている為にその水はゆっくり移動し、自然に圧力を貯え、サッマン崖地(Summan escarpment)の東にあるアル-ハサ・オアシス(al-Hasa Oasis)およびカティーフ・オアシス(Qatif Oasis)で岩の割れ目や断層等の地表への出口を見つけ、掘り抜き井戸の原理で豊かに湧き出していた。 東部州はサウジアラビア王国の東側全てを含み、北はクウェイト(Kuwait)国境から南はルブ・アル-カリ沙漠(Rub' al Khali)とも呼ばれる空白地帯沙漠(Empty Quarter)まで及んでいる。クウェイト(Kuwait)からカタール(Qatar)至るそのアラビア湾の海岸が東側境界の北の部分を定めて居る。その西側はダーナ砂沙漠(Dahna' sands)によって空白地帯沙漠の北部にあるヤブリン・オアシス(Yabrin Oasis)の緯度まで囲い込まれて居る。この長大な沙漠では流動性のある連続する砂山が東アラビア北部では北北西、その南部では北北東の卓越風向に沿って並んで居る。ダーナ砂沙漠(Dahna' sands)は幅80 kmで長さ1,200 kmの広大な広がりを持ち、東部州をナジド(Najd)州から分離する自然の障壁と成って、北のナフド沙漠(Nafud Desert)と南の空白地帯沙漠を結んでいる。その風の方向に沿って連なる高く桃色がかった褐色の砂丘(dunes)はウルク('uruq、単数は'irq)と云う名で知られている。 サッマン高原(Summan Plateau)の東の端を形作る太古の崖であるサッマン崖地(Summan scarp)は東を向いている。これは概ね20 mから30 mの高さであるが場所によっては80 m以上も隆起している場合もある。サッマン高原は長く延びて居り、その中心部分は東にハサ・オアシス(Hasa Oasis)方面へと膨らんでいる。この膨らみはスルブ高原(Sulb Plateau)と呼ばれている。サッマン高原とスルブ高原の東の端は浸食され分離した山塊(jabal)や固い岩を被った小さな平頂山(table-land)に壊されている。シャドグム高原(Shadgum Plateau)やハサ・オアシスのカラ山(Jabal Qarah)は両方ともこの様な分離されたサッマン高原の一部である。このサッマン崖地は三百万年余前の鮮新世(Pliocene epoch)中期までこの地域を長く覆って居た浅い海の崖を形成しており、岩石露頭への波による浸食の跡がカラ山の峡谷や洞窟およびシャドグム高原の側壁ではハッキリと確認できる。 海岸平地では風がジャフラ沙漠(Jafurah desert)の白っぽい砂をジュベイル(Jubail)地域から南へと吹き下している。ジャフラ沙漠はハサ・オアシスの東を通過し、南に行くに連れ広がって居り、その低い砂丘は毎年、目に見えて動いている。この為。欧米人は徘徊する砂丘(Wandering Dunes)と呼んでいる。冬の雨は多年生の灌木(shrub)を蘇らせ、毎年収穫される種に命を与え、砂丘が比較的安定してくると砂丘の間の窪地ではしばしばまとまった灌木や草で覆われる。この様に砂丘に植生の生えた地形をこの地方ではディカカ(dikakah)と呼んでいる。 アラビア湾海岸の北と南には二つの広大で平らな砂利原が海岸低地を覆って広がっている。北のディブディバ(Dibdibah)は涸れ谷バーティン(Wadi Batin)によって運ばれた砂利で作られた扇型地である。涸れ谷バーティンは太古に中央アラビアを排水していた主要な河川系統の延長であり、その名残はアル-カシーム(al-Qasim)地方では涸れ谷リマ(Wadi Rimah)と呼ばれている。南の涸れ谷サハバア(Wadi Sahba')はサッマン崖地(Summan scarp)をハラダ(Haradh)付近で切り通している。この河も太古にはカルジ(Kharj)から南ナジド(southern Najd)を排水する主要河川であった。その三角州の名残がサブカ・マッティ(Sabkhat Matti)および今日の海岸に向かって広がる薄い砂利の扇状地である。 ダーナ砂丘回廊(Dahna' sand strip)はその南の端において空白地帯沙漠に没入してしまう。空白地帯沙漠は地方的には単にアル-リマル(al-rimal)「砂丘(sands)」として知られているだけであるが、世界最大の連続する砂沙漠である。この沙漠の北部分はバーチャン型砂丘(barchan dunes)に特徴付けられる。バーチャン型砂丘(barchan dunes)は突端(horn)部分を風下に向けた三日月型の大きな砂の塊である。この沙漠の他の地域では細長い砂丘の重なりであるウルク型砂丘(Uruq type)が一般的である。 今日の沙漠は更新世(Pleistocene)における幾つかの乾燥した時代で形成され、表層は最近の超乾燥した幾世紀かでの風で移動する砂で覆われている。空白地帯沙漠の砂は実際には水の作り出した産物であり、これは五百万年程度続いた鮮新世(Pliocene)後期および更新世(Pleistocene)初期に掛けての湿った時期に流れていた河によって西部および中央アラビアから洗い流されて来た堆積層の乾燥したものである。主要な河川の流れは障壁となっていたトワイク山脈(Tuwayq chain)を数ヶ所で切り通した。その場所は今でも見る事が出来る。例えばカールヤト・アル-ファウ(Qaryat al-Faw)付近の涸れ谷ヒヌ(Wadi Hinu)、涸れ谷ダワシール(Dawasir)、涸れ谷ニサ又はサハバア(Wadi Nisah or Sahba')である。この時代には空白地帯沙漠では低く横たわる三角州盆地が形成された。更にそれ以前にはその多くが海で覆われていた。 約500万年前に海が今日サッマン崖地(Summan escarpment)と呼ばれている崖を形作り、その後に後退して行った。涸れ谷(wadi)水系を作り出した著しく雨の多い時代が続き、約165万年前に始まった更新世(Pleistocene)となった。 更新世(Pleistocene)は氷河時代の始まった世であり、二十回もの極端に寒い気候と温暖な気候が繰り返された。「氷河期には極地の万年氷が発達し、その影響で世界的に海面が下がっていた」と考えられている。 (注)更新世(the Pleistocene): 約164万年〜約1万年前までの一区分で、第四紀の前半にあたる。洪積世、最新世、氷河時代ともよばれる。ホモ・エレクトゥス(原人)が出現し、現代人の段階まで進化した時代であり、考古学上の編年では旧石器時代と縄文時代草創期に相当する。) (注)氷河時代(glacials): 地球の歴史の中で、極域の氷床が大きく発達した時代をさす。この時期には長期間にわたって、大気も海洋も今よりずっと冷たかった。第三紀後半から気温が下がり始め,地球がそのような氷河時代に最後に入ったのは、第四紀の初め約165万年前である。それからから現在までを氷河時代という。氷河が発達する氷期は数万〜10万年の周期でおとずれ,その間に,現在よりむしろ暖かい間氷期があった。海水の氷結と融氷によって海面の高さもそれぞれ低下と上昇をくりかえした。更新世と,最後の氷期が終わった約1万年前より現在までの完新世とに分けられる。大陸をおおっていた氷床は、約1万年前の更新世の終わりに、北アメリカ大陸やヨーロッパからしりぞいた。しかし、科学者の多くは、第四紀氷河時代はまだ終わっているわけではなく、現在は、氷河期と氷河期の間にあたる間氷期だと考えている。) 約12万年前の最後の間氷期から寒冷化する気候が氷河期の最盛期である紀元前1万8年まで続いた。この最後の氷河期にもアラビア湾の海面は約100 m或いはそれ以上に下降し、アラビア湾盆地を全て干上がらせた。アラビア湾の海底にはチグリス−ユファラテス河(Tigris-Euphrates)が潟(lagoon)や沼沢地帯(marsh)を伴い延びて来て、その河口はホルムズ海峡(Strait of Hormuz)に達していた。それと共に、3万3千年前から2万4千年前の間の雨期(後述)に繁茂した緑が豊かだった陸地は乾燥し始め、約1万5千年前までに沙漠化した。万年氷が溶けるに連れたアラビア湾は再び海水で満たされ約紀元前6千年には現在の海面に達した。紀元前四千年には現在の海面よりも約2 m上昇し、その後ゆっくりと後退して行った。 今日の海岸に沿った東部州の景観は殆ど海面すれすれである。岸辺の傾斜は殆ど分からない程、僅かであり、海岸線を正確に確認するのが難しい場所も少なくない。アラビア湾岸に沿った満潮干潮の差が平均1.5 m程度なのに、その様な場所では潮間帯が1 km幅にも及んでいる。この潮間帯は鳥や海生生物にとって、活力ある餌場であり、カティーフ・オアシス(Qatif Oasis)およびタルート島(Tarut Island)の排水で富裕化されたタルート湾(Tarut bay)のシルト(silt、沈泥)は特別に重要な餌場である。 平らな海岸線は浅い塩性の潟(lagoon)やサブハ(sabkha)と知られる含塩平地(salt flat)にも象徴されている。サブハは閉鎖された潟の水が蒸発してしまったり、或いは地下から毛細管現象で水が塩と共に吸い上げられ、水が蒸発し塩が析出したりして形成される。アル-ハサ・オアシス(Hasa Oasis)の周囲での発達したサブハは灌漑地区からの塩分の濃度の高められた排水が蒸発し、塩分が残された結果であり、半月湾(Half Moon Bay)付近のサブハは河川の残骸或いはハサ・オアシスの余剰水をかつては海へと排出していた低湿地(swamp)の連なりである。 海岸流は卓越風向と同じに主として北から南に流れている。しかしながら海岸線の大部分が浅く、囲まれた湾に成っており、そこでは僅かな量の水が比較的大きな地域を満たし、弱い潮流の影響を僅かに受けるだけである。この様な場所では極端な夏の熱さが急速な蒸発と高い塩分濃度の原因となるが、浅瀬は海草の繁茂床となり、水深15 mまでの範囲は珊瑚礁が成長している。両方の海域とも重要な海洋生物の栄養と食料の源である。珊瑚礁は適所では平らな上部を持つプラトフォーム礁を作り出し、その上に砂が堆積すると海面すれすれの平らな島となる。 アラビア湾は比較的若い海であり、アラビア側は非常に浅く、緩やかに水深約100 mのイラン側にある最深部まで下っている。その平均水深は35 mしか無いので水量が少なく、その上に急速な蒸発の原因である強力な太陽の輻射熱に一年の大部分を曝されているので塩分濃度が高い。水量の少なさは1990年から1991年の湾岸戦争時に起きた油濁の様な大きな環境災害の際には特別に被害を受けやすい。その様な環境であっても、アラビア湾は特に稀少なジュゴン(dugong)を魅了する海草床のある浅海域等で豊かな海洋生物を支えている。サファニイヤ(Safaniyyah)とアブ・アリ(Abu Ali)の間では珊瑚礁が発達し、珊瑚島がウミガメやアジサシの絶好の産卵場となっている。
大規模な大陸を横断する河川系が刻まれた主要降雨期は350万年前および150万年前の間の鮮新世(Pliocene)後期および更新世(Pleistocene)初期であった。東部州におけるこれらの河川の名残が北は涸れ谷バーティン(Wadi Batin)で南は涸れ谷サハバア(Wadi Sahba')である。サウジアラビアの豊富ではあるが深度の深い地層水資源の幾つかはこの時代のものである。更新世の間に乾燥した時期と湿った時期が交互に訪れ、最後の湿潤な時期は3万3千年前から2万4千年前に訪れ、この時期に涸れ谷の水量は大きく増加し、現在、オアシスを潤している帯水層が満たされ、湖が形成された。 その後は紀元前1万5千年まで乾燥が増す時期が続き、その後、紀元前8千年まではこの並はずれた乾燥に強い風が加わった。この時期は今日と同じ程までに乾燥しており、この時期にサウジアラビアの主要な砂丘地帯が形成され今日に及ぶと考えられている。多少湿り気の有った時期が新石器時代を特徴つけている。現在立証されているのは紀元前8千年から紀元前4千年の間この気候が続き、恒久的な定住が始まった。これ以来、アラビアの気象の傾向は二回の湿った時期を挟んで更に厳しく乾燥して来た。この二回の湿った時期とは紀元前1千年期終わりから紀元1千年期初期の大アラビア交易都市の時代と中世に起きたと考えられている。 今日の東部州はサハロ・シンディアン(Saharo-Sindian)乾燥気候地帯に位置して居り、西は大西洋、東はパキスタンに挟まれたこの乾燥地帯にはサハラ沙漠(Sahara)も含まれる。夏には極端に熱く乾燥するが、その緯度は四季を区別できる程十分に北に位置する。雨の欠如し、覆うもの無い空そして強烈な日差しが五月から九月までの長い夏を作り出し、時として大地の乾燥で沙嵐が発生する。実際にこの時期には雨は全く降らず、温度は非常に高く、時として摂氏50℃が記録されて居り、七月と八月の平均気温は摂氏35℃である。内陸では海洋による気候の温和化から程遠く昼夜の温度差は大きく夏は18℃で冬は11℃である。一番気温の低い十二月および一月の平均気温は15℃であるが曇った夜は相当に露が多い。不快な程に相対湿度が高い海岸地帯を除けば、相対湿度は低い。夏には乾いた北西風(shamal)が卓越するが七月中には治まり、風の無い八月を迎える。 九月からは地中海(Mediterranean)から北アラビアを通過する低気圧の東への移動が次第に増して来て、遠く南はラス・タンヌラ(Ras Tannurah)の緯度までその影響を与える。十月と十一月は比較的涼しい移行の季節であり、その季節の間にはこの地での秋に相当すると考えられる新たな気候がパターン化(pattern)する。風は一層、その風向を変化させ十一月から四月までは何時雨が降ってもおかしくないが、最も降雨の多いのは十二月と一月の冬の二ヶ月である。この間は局地的な嵐や強い風も珍しく無く、日中でも寒い日もある。降雨はこの地域の北へ行くほど多く、南に下るに連れて減少する。この事は土地の放牧地としての価値に明らかに影響を与えている。空白地帯沙漠 (Rub' al Khali)では10年間も全く雨が降らないで過ぎる事もある。雨が降ったとしても散発的で頼りに出来ない。或る場所で非常に強く降っても他の場所では全く降らない。この為、平均降雨量と云う表現は誤解を生みやすい。平均降雨量が年間およそ75 mmであっても場所によって15 mmから150 mmに、あるいはそれ以上に異なっている。 東部州北部南の涸れ谷アル-ミヤ(Wadi al-Miyah)にあるサジ(Thaj)の西のサッラール(Sarrar)の調査では1,700万年前頃に豊かな自然環境が存在して居た事が分かった。今日では海岸から100 kmも離れているけれどもこれは海岸河口域であった。暑く湿った熱帯性気候でマングローブが繁茂し、沈泥平地(mud-flat)、潟(lagoon)、低湿地(swamp)があった。椰子に縁取りされた流れは西側のもっと高い土地から流れて来た。ここでは草地が古代種のガゼル(gazelle)、キリン(giraffe)、齧歯動物(rodent)や兎(rabbit)を支えていた。マストドン(mastodon)やサイ(rhinoceros)が大草原(savannah)を歩き回り、現在の類人猿(ape)の祖先であるドリオピセカス(dryopithecus)が森林に住んでいた。 (注)マストドン(mastodon):古代生物で象に似た漸新世(Oligocene)から更新世(Pleistocene)に棲息したマンムト科マンムト(mammut)属の大型哺乳動物。 (注)ドリオピセカス(dryopithecus):中新世中期から鮮新世初期に生存していた化石類人猿でゴリラ、チンパンジー、人類共通の祖先と考えられている。 今日の東部州はサハロ−アラビアン植生域(Saharo-Arabian vegetation zone)に属している。この地域の植物は僅かな雨、高い気温、乾燥した風や塩性土壌等多くの環境的弊害に直面している。それでも360余種が東部州で確認されて居り、疎らに散らばってはいるが薄く広がった野生動物と家畜の両方の生存を支えるにはこれで十分であり、この地方に順応した遊牧牧羊者の生活を支えていた。 ベドウィン(Bedouin)は植物を雨の後に一時的に繁茂する柔らかな一年草ウシャブ('ushb)と厳しい夏の熱さにも耐える灌木から樹木等の植物シャジャール(shajar)に分けている。二月から四月まで続く冬と春の降雨は遊牧のベドウィン(Bedouin)の放牧が可能にする多年生植物を蘇らせ、一年生草木に生を与える。もっと温和な気候状態への逆もどりの中で一年草は種の形で冬の寒さよりは夏の熱さに順応している。この厳しい環境の中で植物相および動物相の一番興味をそそる面は種が生き残りの為に順応している事である。 多くの植物種が乾燥、熱さおよび塩性土壌へ適合する方法を備えた。ナツメ椰子(date palm)は高塩性や厳しい直射に耐える代表的な種である。そのナツメ椰子の栽培はおそらく東部州で始めら、オアシス農業を発展させた重要な要素と成った。厳しい直射日光に曝されてもナツメ椰子の木陰では果物や野菜等の他の作物も成長出来た。ナツメ椰子は定住アラビア人の主食を提供しただけでは無く、耕作を可能とした定住環境を整えた。その他の植物では直根が深く水分を求める一方で表面が少なく成る様に切り詰められた葉や幹或いはワックス質や毛でコーティングされた葉や幹が水分の損失を最小限に抑えている。多汁性や塩分排泄性も幾つかの多年生植物で見られる一方で或る共通の種は他の植物の根に寄生している。幾つかの一年草の種は芽を生やす前に数年に渡り休眠するが、一斉に成長し、花を咲かせ、枯れてしまわない様に時期をずらして発芽する方式を進化させた。こうする事でこの様な種は生き残る機会を最大限に得ている。 熱く乾燥した環境を生き残る為に肉体的にも習性的にも多くの動物も順応した。齧歯動物(rodent)やその補食動物は夜行性に成ることで昼間の熱さから逃げている。幾つかの齧歯動物(rodent)は夏の間は深い穴の中で冬眠(hibernation)と同じ様に夏眠する。トビネズミ(jerboa)、ガゼル(gazelles)やオリックス(レイヨウ、Oryx)は飲み水無しでも必要な水分を多肉多汁植物(succulent)や露から補給し生き残れる。ダブ(dhabb)と呼ばれる大型棘尻尾蜥蜴も同じ様に順応している。熱を逃がす為にアラビア野兎、沙漠ハリネズミ(hedgehog)、砂鼠や沙漠狐の様に大きな耳を持つ事は共通している。大きな耳により疎らな生しか存在しない場所での重要な習性として遠い距離からでも向こうの音を聞く事も出来る。一般的に沙漠種は同じ種の他に棲息する同族より小さく、細く、長い足となる傾向がある。この肉体的な進化が熱を容易く放出出来る様にさせている。更に周囲の環境の色に溶け込む様に多くの沙漠種は他の地域で棲息している同亜種に較べて淡い色をしている。 ヒトコブがアラビアの原産種である駱駝は本当の意味での野生をもはや見ることは無くなったが、沙漠へ順応した動物の典型である。その瘤、長い脚、足、鼻、まぶた、口そして排尿機能等全ては熱く乾燥した状態への極端な肉体的順応である。その血流機能は他のどの動物よりも体温の広い範囲の変化を許容出来る仕組みになっている。この高い移動性を持つ動物を家畜化する中でアラビアの住人は厳しさの増す環境に有った諸問題をほぼ完全に解決する方法を見出した。ナツメ椰子(date palm)を使ってオアシス農業の生活を発展させて来たと全く同じ様に遊牧生活の出現は駱駝の家畜化によって始まった。 アル-ハサ・オアシス(al-Hasa Oasis)およびカティーフ・オアシス(Qatif Oasis)の豊かな植生は東部州のその他の地域の疎らな植生と対照的である。天然の掘り抜き井戸から湧き出す水が広大なナツメ椰子園、果樹園、蔬菜畑、作物の栽培そしてタマリスク(tamarisk、ギョリュウ)その他の樹木を支えている。それと共に様々な灌木の多い野生の遮蔽植物、一年生植物、草地や葦床が育っている。鳥類も豊かで、特にこれらのオアシスが南北に移動する渡り鳥の主要なルートになっている。印度灰色マングースやアジアジャッカルに代表される様に動物生も豊かである。魚は灌漑用の水路にたくさん棲息している。 1940年代から1950年代にアラムコ(Aramco)のコンパウンドがダーラン(Dhahran)に建設されてからはその庭園や造成等の人工的環境が急速に東部州の景観の重要な特徴になってきた。念入りな計画、造成、保守によって工場建設、土地造成、海岸の干拓等のプロジェクトからの環境への悪影響を最小限に抑えて来ている。ジュベイルおよびヤンブー王立委員会(Royal Commission for Jubail and Yanbu)は耐塩性植物計画を推進し、従来不毛と考えられていた塩性土壌地域へも緑化の為に植生が利用できる可能性を引き出した。公共公園、高速道路の分離帯、灌漑計画、植林による砂丘安定化そして汚水排水に至るまでが野生生物、特に渡り鳥にもっと多様な生息地を提供出来るようになった。 |
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