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マッカ・ムカッラマとメッカ州 (サウジアラビア王国西部地方) その3夏の政庁・薔薇の市 ターイフ Summer Capital -
第九部 ターイフへの訪問(Visits to Taif) 結び(Conclusion)・後書き(Postscript)・参考資料(Reference Materials)
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第九部 ターイフへの訪問(Visits to Taif)
最初に私がターイフを訪れたのは前書きで述べた様に湾岸戦争最中の1991年1月22日であった。その後もターイフ(Taif)はリヤド(Riyadh)から自動車旅行するには北西部のタブク(Tabuk)や中西部・南西部のヒジャーズ・アシール(Hejaz - Asir)への通過点となる上にホテルが整備されているので何度も泊まっている。その中の幾つかをご紹介したい。
(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)
9.1 リヤドからターイフへ(Riyadh to Taif)
1998年4月3日の午前8時前にリヤドを出発し、550km先の新旧のメッカ街道が合流するザリーム(Zalim)*を通過したのは午後1時前であり、さらに200km余り進んだターイフの外れのアティーフ(Ateef)を2時頃通過した。アティーフはタル(Talh or Acacia gerrardii)* の群生の中、白い壁が目立つ集落であり、この周囲のタルは特に大きく、密度も濃い。その10分程先では柔らかな厚い葉が付いた幹が鱗を思わせる白ぽい緑のボールを作る切ると白い乳液を出すソドムの林檎(ウンム アシャール(Umm Ashar))*と云う名の木が所々に群生して居る。この辺りではタルの数を凌ぐ程にその数が多い。更に10分程行くとタルが再び数を増し、花崗岩の崗が出てくる。ターイフ(Taif)へ32kmの辺りに円形農場があり、キングファハド空軍基地(King Fahd Airbase)が道路の北側に広がる。湾岸戦争で避難の為にここを通過した時には寸刻みにしか進めない程に混んでいたのを思い出す。
(注)キングファハド空軍基地(King Fahd Airbase)とターイフ空港(Taif Regional Airport)は同一敷地内にあり、同一空港と言える。
2時40分頃にターイフ市中心(Taif City Center)に到着する。大きな花崗岩と緑と白い壁の調和した美しい町である。町を眺めながら遅めの昼食済ませる。
ターイフ中心部(撮影: 高橋)
ハダ シェラトン(Al Hada Sheraton)へ向かおうとしたが、道路標識が不明な上に道が分からない。携帯電話が通じるのでホテルに電話で道案内をして貰う。途中水の流れる涸れ谷マフラム(Wadi Mahram)を渡る。4時頃、ハダ シェラトンの客室にやっと落ち着く。客室には広いベランダが付いて居り、そこのデッキチェアに座って木陰越しにそこに建つ別荘やコンドミニアム(Condominium)、ロバで畑を耕す風情、岩山の上に残る砦の廃虚等景色を眺め、紅茶をゆっくりと啜りながら高原の夕暮れ時を楽しむ。
ハダ シェラトン(Al Hada Sheraton) (撮影: 高橋)
ジェッダからハダへのつづら折れ(撮影: 高橋)
9.2 ターイフからバハーへ向かう(Taif to Al Baha)
1998年4月4日は快晴の中、標高1,980mにあるハダ シェラトン(Al Hada Sheraton)を8時に出発してアシール(Asir)方面に向かう。タイフ市内では緑の並木と白いモスクが朝日を受けて美しく光っている。一時間弱程で標高1,580mの涸れ谷リイヤ(Wadi Liyyah)を渡る。分離帯のある道路が終わり、片側一車線となる。橋の下を幅が20 - 30mの浅い流れが花崗岩質の砂の川床を洗っている。地図では緑地と成っているが農地が続いている。午前9時00分にマル’アブ(Al Mal’ab)(標高 1,600 m)を通過する。ターイフ(At Taif)と涸れ谷リイヤ(Wadi Liyyah)が20分掛かったので、山陵道路への分岐は何となくもっと先の感じで居た。この為に見過ごしてしまったが、マル’アブの手前で右に曲がる舗装した細い道が山陵道路への分岐であったのに後になって気づいた。山道の場合は距離と時間の関係は必ずしも当てにならないので特に気を付ける必要がある。この集落は岩山の中ではあるが大きなSSと照明付きのサッカー場がある。
(注)旅行中はこの町の名をスール(Al Sur)と考えていたが、再度、地図で検証するとマル’アブ(Al Mal’ab)であった。
セダイラ(Sedairah)(標高 1,580 m)付近では岩山とそのまだらな緑に白い建物が映える。二階屋が多い。Talh (Acacia Gerratdii)の疎林が岩山を覆っている。山稜にも生えていて、降雨の多い事を分かる。午前9時40分にキイヤ(Qyya)(標高 1,580)を通過する。キイヤの手前で大きな白っぽい鷹を見る。大きさからすると鷲かも知れない。この辺りに放牧されて居る山羊は黒っぽいが羊は長い毛の白なのが珍しい。崗の上まで人家があり、広がった人口300~500人位の部落である。10分程でターイフ(Taif)から道路沿いに84kmにあるガザヤル(Gazayal)(標高 1,490 m)に着く。大きなガソリンスタンド(SS)のみの集落、名が二つ表示されて居るのは右に曲がった所のジブブ(Jibub)が近い為ではないかとも思う。午前10時00分に13km南のトルバ分岐(Branch to Turbah)に着く。標識はハッキリしないので涸れ谷(Wadi)に架かる橋を渡って東へ向かう分岐道路に入って道路案内に「トルバへ(to Turbah)」と書かれているのを確認した。
トルバへの分岐付近(撮影: 高橋)
午前10時20分、ターイフ(Taif)から道路沿いにおよそ122km南東に下った辺りで涸れ谷ブワ(Wadi Buwa)を越える。幅10m程度の水の流れがある。サウジ人運転手のサウド(Saud)に小さなSSでハッダド バニ マリク(Haddad Bani Malik)へと右折する道を確認させるが、来過ぎた様な事を言っており、ハッキリしない。どうもサウドの道の聞き方には問題がある様に思える。それでもサラト山脈(al-Sarat Range)*の山稜道路を辿りたいのでここからガザヤル(Gazayal)まで引き返してハッダド バニ マリク(Haddad Bani Malik)へ回り込む事にした。トルバ(Turbah)への分岐に戻って一服する。タル(Talh)*の疎林の中にはサラム(Salam)*やシドル(Sidr)*が混じっている。良くまあこんなに乾燥した山の上まで生えていると思う。
10時40分にガザヤル(Gazayal)まで戻る。ここはタル(Acacia Gerratdii)の疎林の広がる平らな盆地となっている。何故かカラスが山間をしばしば飛んでいる。大型トレラーが数台干し草を満載したままで駐車している。これは羊の餌場で大型トレラーを倉庫代わりに使っている。もったいないとは思うが何か理由があるのだろう。ここから細い道を西へ向かう。花崗岩の山の中を抜けて行くと15分で500人程度の集落がある。この集落の名もスール(Al Sur)と記載されている。午前11時07分、道路沿いにターイフ南東120 km下ったミールタド(Mirtad)(標高 1,740 m)でサラト山脈(al-Sarat Range)の山陵道路に交わる。この山間にある分岐が二股と成って居ると思ったら立体交差であった。「こんな辺鄙な所なのに」と驚く。ここから南は心無しかタル(Talh)が少なく成る。
(注)ミールタドが立体交差であったのはサラト山脈(al-Sarat Range)の山陵道路のハイウェイ化工事が進んでいた為であり、これより南へは数キロにわたって高速度道路が既に完成していた。
ミールタドと16km南のカハ(Al-Qaha)分岐との間は北から涸れ谷ガールラ(Wadi Garrah)、涸れ谷ラカマクト(Wadi Rakamakht)、涸れ谷バハ(Wadi Baha)等の小さな渓谷が道路を横切りあるいは道路に沿って流れている。涸れ谷ガールラ(Wadi Garrah)は水の流れが所々伏流と成っていて流れていても幅5m位である。涸れ谷ラカマクト(Wadi Rakamakht)では支流に生える樹の緑が多くなる。谷も深く切り立って来て、奥多摩の伐採跡を行く車道に感じが似てくる。この後、隧道が続く。谷が開いていたり、窓の作られている隧道も多く、益々奥多摩の様な感じの場所となる。標高が2,000m近いから沙漠と違うのは当然なのだろう。涸れ谷バハー(Wadi Baha)(標高 1,660 m)で車を降りて見ると、道に沿って20-30m幅の流れは道が南に下っているのに北へと流れている。地図を見るとこの辺りは支流で北へ流れ、涸れ谷ガールラ、涸れ谷ラカマクトと合流し涸れ谷ブワ(Wadi Buwa)と成り、先ほど引き返したターイフ(Taif)からおよそ115km東南東に下ったブワ(Buwa)を通って涸れ谷トルバ (Wadi Turbah) に合流し、北東へとトルバ(Turbah)を抜け、涸れ谷スバイ(Wadi Subay)・涸れ谷クールマ(Wadi Khurmah)と成って、リヤド州(Ar Riyadh Emirate)との州境にあるスバイ砂丘地帯(Uruq Subay)へと消えて行く。
(注)バハー(Al Baha)からトルバ (Turbah)、クールマ(Khurmah)を通ってビシャー(Bishah)へのルートについては「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)への訪問(サウディアラビア王国南西地方)」の「Vol.3 空白地帯(the Empty Quarter)に至る内陸地域」を参照して戴きたい。
カハ(Al-Qaha)分岐(標高 1,800 m)にはSSと小さな変電所があり、更に西側の山陵に近いカハ(Al-Qaha)やタギー(Taghee)への分岐点にも成っている。分岐南の涸れ谷ナマ(Wadi Namah)谷は南下すると更に急になり奥多摩そのものの様だ。御影石を頭大のブッロクにした石作りの廃屋が目立ってくる。その廃屋の殆どは塔を持って居り、それと同じ形式の塔が山稜に建って居る。運転手のサウド(Saud)は「前者が屋号を示す家の飾りで後者が昔の旅人の目印の為の道標台だ」と云う。後世にはその様に使われたのかも知れないが元々は外部から襲撃された場合の避難所兼砦として使われた様だ。
ハッダド バニ マリク(Haddad Bani Malik)(標高 2,020 m)はカハ(Al-Qaha)分岐南9kmで道路沿いにターイフの南東145kmに位置する。ハッダド バニ マリク(Haddad Bani Malik)が名前として長いのか鉱物石油省の地図には単にハッダド(Haddad)と記載されている。午前11時40分に到着すると鷹が三羽上空を舞っている。谷間が農地で崗の上や中腹に家が建って居る。人口は3,000-5,000人規模だろう。町の中心は道から少し入り込んでは居るが商店街は無い。赤い瓦の白い壁の邸宅が何軒か新築されている。ここを過ぎると又しても隧道が連続している。長いトンネルは1kmを越えている。周囲の山稜には塔が見え、段々畑の農村地帯が続く。家並みもかなり密で奥多摩の山村地帯とあまり変わらない。
ハッダド バニ マリク(Haddad Bani Malik)の民家(撮影: 高橋)
ハッダド バニ マリクから南南東約35kmのバラフラフ(Barahrah)はメッカ州(Makkah Al Mukarramah Emirate)とバハー州(Al Baha Emirate)の州境のバハー州側の集落であり、この間には涸れ谷マフワー(Wadi Mahwer)、涸れ谷アシュラグ(Wadi Al Ashrag)、涸れ谷シャイラ(Wadi Al Shaylah)等が流れている。
涸れ谷シャイラ(Wadi Al Shaylah) (撮影: 高橋)
様々名付けられているが全て涸れ谷トルバ(Wadi Turbah)の支流である。涸れ谷マフワー(Wadi Mahwer)に沿って緑、青、紫と新築されている家の瓦は変化はあるが赤が一番ここの景色と調和して居るようだが緑も悪くない。珍しく石作りの廃虚を越える数の新築の家屋があり、この辺りの農家は疲弊して無い様で農村にも活気を感じられる。涸れ谷アシュラグ(Wadi Al Ashrag)南のSSのあるガリー(Gharie)正面には花崗岩の一枚岩の大きな山稜が迫る。地図に標高2,605 mと記載されたピークと思われる。堂々たる風格だ。涸れ谷アシュラグ(Wadi Al Ashrag)(標高 1,790 m)では道路右脇の土を均した駐車場の下が崖で川が流れている。その川は道に成って対岸の段々畑の中腹に建つ農家へ通じて居る。時々、小型ピックアップ(Pick-up)がけたたましい水はねの音を轟かして走り抜けて行く。何となく蜜柑畑を思い出させる風情である。それ程には深くも無いその谷から吹き上げて来る風は何故かかなり冷たい。
ガリー(Gharie)付近(撮影: 高橋)
午前12時35分、道が行き止まった崖に新しい隧道があり、それを抜けると小さなマーケットがあるバラフラフ(Barahrah)と云う部落に出た。この隧道の上がメッカ州(Makkah Al Mukarramah Emirate)とバハー州(Al Baha Emirate)の州境となる。道は涸れ谷ハッラ(Wadi Al Harra)の流れに沿って下って居る。その谷から山稜まで山の地肌が見え無い位に背丈の低い木とブッシュで覆われている。山稜のそこここに塔の石組みが影を落としている。その先の登り道では増水で橋桁が壊れたらしく修復工事中である。雲行きは一時雨が降らんばかりと成って来たが晴れ始めた。15分ばかり行くと道右側の断崖を見下ろせる場所に土で車止めを作った形ばかりの粗末な駐車場(標高 2,060 m)がある。そんなところでも大きなごみ箱があり、それの上に乗った外国人労務者(Labo)rが土止めの向こう側を見下ろして居る。こちらも少し引き返して覗き込むと落差1,000m以上も有りそうな崖が目の前に広がる。上昇気流の烏や鷹が舞っている。特に目の前の岩山は断崖の様に落ち込んでいる。崖の下には幅が500m~800mも有りそうな大きな涸れ谷(Wadi)がその広くて白い姿をゆったりとくねらせ、山頂の曲がりくねった狭い道路と好対象を見せている。そこから少し走った左の車止めの上をマントヒヒが一匹歩いて居る。ナビール(Nabir)から紅海岸のウンム ビス(Umm Al Bis)へ至る涸れ谷(Wadi)の源頭部である。
午後1時過ぎにハッダド バニ マリク(Haddad Bani Malik)から70km下ったマンダク(Al Mandaq)(標高 2,080 m)に着く。坂の途中に商店やSSが有り、山の中腹に多くの家が建ち並んで居て、日本の温泉街を思わせる。かなり大きな地域に民家があり、人口は10,000人を越すと思われる。但し、何と無く中心街が無くどこまでが町なのか分からない。鷹が鳶の様に群がって道路で車に跳ねられ猫の死骸の上を高く舞って居る。本当に鷹ならばこんなに群れる事も死肉を狙う事も無い。鳶なのかも知れ無い。シャグラ(Al-Saghrah)付近では家が相当に建て込んでいる。
午後1時45分、ターイフから南南東200km(山陵道路道沿いには245km)のバハー(Al-Baha)に着く。大きな町である。観光案内に色々と乗せられているが カプセル(Capsule)型の白い特異な(Unique)な建物群であるモーテル バハー(Motel Al Baha)は6年前から閉鎖中だと云うし、宿泊予定のバハー パレス(Al Baha Palace)も自称4星のホテルではあるがどこと無く黄昏ている。
モーテル バハー(Motel Al Baha) (撮影: 高橋)
この地で有名な森林公園や涸れ谷(Wadi)もターイフ(At Taif)からの道すがら十分に堪能して来たので今更、行く来もしない。観光を目指すなら泊まってみたく成るようなホテル(Hotel)を維持する事が肝要だと思う。市の中心に出て、カプサで食事した後バハー パレス(Al Baha Palace)に向かう。このホテルはマクワー(Al Makhwah)への急勾配のハイウェイを見下ろす好位置にある。一休みして、マクワー(Al Makhwah)への急坂を下って見る。
マクワー(Al Makhwah)への急勾配のハイウェイ(撮影: 高橋)
隧道と橋の連続したスリル満点のハイウェイであるが、ホテルの真下当たりで崖崩れして復旧工事中である。再度、崩れないか見張りながら車を通している。工事中の50m位上の駐車場にパトカーが止まり、マントヒヒ(Baboon)が40頭から50頭位群れて誰か餌をくれるのを待っている。
マクワー(Al Makhwah)への急勾配ハイウェイからバハーを見上げる(撮影: 高橋)
バハー パレスの朝はマントヒヒが集まる(撮影: 高橋)
10km下った所で引き返した。運転手のサウド(Saud)にエンジン ブレーキ(Engine Break)の効きを納得させるには良い機会だった。ホテルの部屋はこの急勾配のハイウェイを眺められる場所で夕暮れが近づくに連れ、山の上は雲が掛かり、暖房を入れないと寒くて居られなく成った。
9.3 ターイフからワハバ火口へ(Taif to Wahba Crater)
前日の1999年1月22日にはマディーナ(Madina)からジェッダ(Jeddah)経由ターイフ(Taif)入りする途中でマディーナ・ジェッダ ハイウェイから東に113km入ったマハッド アド ダハブ(Mahd adh Dhahab) *を訪れた。マハッド アド ダハブの先には道の無いので、鉱山を外から見学した後にマディーナ・ジェッダ ハイウェイ(Madina – Jeddah Highway)戻ったが、その晩にキシュブ熔岩地帯(Harrat Kishb)へ入ってマハッド アド ダハブへ抜ける乳香の道(Frankincense Route)を調べたいと思った。地図で調べたら、ジェッダ・リヤドハイウェイ(Jeddah – Riyadh Highway)のカンファリヤ(Qanfariyah)から北上し、この熔岩地帯に至る脇道のあるのを見つけたので、その日はリヤド(Riyadh)への帰途にハイウェイから北にあるキシュブ熔岩地帯(Harrat Kishb)を探索し、この熔岩地帯を経由してマハッド アド ダハブ (Mahd adh Dhahab)へ抜けるトレイル(Trail)の存在を確認する事にした。その時点ではワハバ火口についてはその存在さえも知らなかった。
1999年1月22日快晴の中ターイフ(Taif )のマッサッラ インターコンチネンタル ホテル(Massarrah Intercontinnental Hotel)を7時45分出発する。20分程でアティーフ(Ateef)付近のタル(Talh)が一面に灌木の様に生えている平原になる。何故か、ハイウェイのフェンスが壊れて鉄棒の様になった所に鷲がとまって休息している。側を高速で通る車の流れなど気にならないのだろう。ルドワーン(Radwan)の立体交差を過ぎ、午前8時50分にマッサッラ(Massarrahから133 kmのクールマ分岐(Junction to Al-Khurmah)を通過する。5分程でカンファリヤ(Qanfariyah)に着いた。ここがマールカン(Marqan)への分岐の筈ではあるが自信がないのでムワイフ(Al-Muwayh)まで行って再確認してから脇道に入る事にした。23km先のムワイフ ジャディード(Al-Muwayh Al Jadid)まで行ってU-Turnする。午前9時20分にマッサッラ(Massarrah)から道路沿いに北東150kmのカンファリヤ(Qanfariyah)から脇道を北上する。脇道に入ると直ぐに「デュガイブジャ(Dughaybjah)まで36Kmとの標識がある。地図ではこの道が唯一キシュブ熔岩地帯(Harrat Kishb)の麓まで入っているので何とかこの熔岩地帯の近くまでは行けるだろう」と確信した。丸みを帯び、間を開けた火山の特徴を示した山並に近づくと鷲を見る。その麓の湿地帯(Sabkha)を隔てて、忽然と白い町並が現れたのがデュガイブジャ(Dughaybjah)である。北上するに連れ、土地一面に白い粉が表面を覆い、熔岩や火山性の石が地表を覆っている部分が次第に増えてくる。
午前9時40分にカンファリヤから36km北上したマールカン(Marqan)に着く。外国人労働者(Labor)に土地の名を訊くが余りハッキリしない。サウジ人運転手のサウド(Saud)が土地の人に訊くとこの一帯はガラフラ(Garahla)と言う名の土地なのだそうだ。右の熔岩帯へとさらに北上する道を行く。4km程で舗装が切れ、道は数百メートル先の民家の辺りで終わっている。砂の上に結構大きな石と言うよりは岩がゴロゴロし、熔岩も間を埋めている。大きな砂丘を火山性の岩石が被っていると言う印象で、少し歩いては見たがとても前に進められる場所ではない。車も駱駝も通れないし、人間でも楽では無い。でも、植生は結構続いている。マールカンへ2km程戻った辺りに左へ入る道がある。舗装は直ぐに切れるが、その道は熔岩に覆われた砂丘の様な山の麓を辿っると2km程行った火山と火山の間の平地に比較的新しい家があり、子供が数人顔をのぞかせる。
子供に場所の名を訊ねるとサカリヤ(As Saqariyah)だと言うが、鉱物石油省の地図にはカラ‘アール(Qara’ar)と記されている。この家の周りには農地もあり、家畜を飼っている。小農家がこの様に健在の内は緑も守られる。しかし、この様な小農を支えるには相当の奨励策が必要だし、大規模農業と違った特徴と収益性を考慮する必要がある。地図にはトレイル(Trail)が記されているが、実際には道は見当たらない。
午前10時30分、マールカン(Marqan)に戻り、北西に地図にはムシュリフ(Mushrif)と記載のある町に向かう。分岐から少し入ると村の入口のアーチ(Arch)にウンム ダウム(Um A'Doom)と書かれている。村の奥まで行って見ようと外れまで行くと沙漠を少し隔てた所にハイウェイが北西方向に走っている。分岐から3kmでウンム ダウム(Umm ad Dawm)の村外れに出て、沙漠の荒れ地を抜けて、そのハイウェイに入り、北西に向かう。午前11時00分、ウンム ダウム(Umm ad Dawm)の裏山の南に出る。火山が道に比較的近くにあるのは珍しいので道から北に外れて、この裏山に土壌採集の為に近ずいた。
ウンム ダウム(Umm ad Dawm)の裏山の噴気孔(撮影: 高橋)
この山は完全に熔岩で形成され、直径1m以上もありそうな気孔が数カ所見られる。熔岩にも御影石同様に赤いのもも混じっている。さすがにサウド(Saud)も「火山の500m位手前で石が多くて、これ以上は車は近づけない」と言う。ここから先は徒歩で水の流れの跡と動物の踏み跡を辿る。サウド(Saud)はおとなしく待っていれば良いのに車で動きまわりのでパンクさせてしまい、予備タイヤと交換する。その間に周囲を眺めているとこんな熔岩地帯でもタル(Talh)が結構、生えている。
午前11時20分、サルヘヤ(Salheyah)分岐、北へと分岐する道はあるが、直進する。その分岐から間もなく道は北へと曲がる。ネムラン部落(Nemran)との標識がある傍に車の修理工場がある。 サウド(Saud)が「パンクしたタイヤ(Flat Tire)を直したい」と言うので、その修理屋に車をいれる。チューブレス(Tubeless)にチューブ(Tube)を入れ、その代金込みでSR 30とかSR35(邦貨で1,200円から1,500円程度)とか言っている。そんな安くて大丈夫なのかと不安になる。道は北に曲がってもまだまだ先が有りそうだ。パンクを直している間にサウド(Saud)にこの先に何があるのかを土地の人に訊かせる。土地の人は「この辺り、一帯はマクル シュネーフ(Maqr Shuneef)と言う地名で、大きな火山があり、欧米人の地質屋が何回も来て調査している」と言う。
(注)マクル シュネーフ(Maqr Shuneef)は鉱物石油省の地図の表記に基づきミカール シュニーフ(Miqar Shunif)と記述する。
11時50分、ウンム ア ダウム(Umm ad Dawm)北西20 kmのネムラン部落(Nemran)を出発する。15km北上したあたりで舗装した道は東に曲がる。サウドが火山は「舗道した道の方向ではなく、沙漠を真っ直ぐに北に向かうのだと」言う。タル(Talh)の林が何と無く、並木の様にも見えるトレイル(Trail)を進むと東側から張り出した岩山の麓にジザ‘アン(Al Jidh’an)の集落が見えるのでそこで再度、確認する事とした。人気のする小屋(Hat)に声を掛けると若者が出て来て何か教えてくれる。
ジザ‘アン(Al Jidh’an)の集落(撮影: 高橋)
若者は「欧米人の地質屋が何回も来て居る場所がある」と言う。若者と話し終えたサウドはあの山だと北に二つ並んだ山を指差すが、熔岩の中のトレイル(Trail)を東に東に辿って行く。南に周り込み始めた所でU-Turnする。又、パンク(Flat Tire)に成ったらと心配ではある。時間も随分たったのでサウドに引き返す様に言うが、興奮気味でもっと、先に、行くと頑張っている。熔岩流、熔岩性礫のごろごろしたトレイル(Trail)を北西に向かい薄い熔岩流に入る。この薄い熔岩流は余程粘性が軽かったらしく、砂地をアスファルト(Asphalt)舗装の様に薄く覆い、流れの方向に幾つも幾つも筋が付き、流れの跡を残したまま、固まっている。トレイル(Trail)を追うのが難しく成るがこの薄い熔岩流のお陰で、車の走行に支障は無い。
ワハバ火口付近の薄い熔岩流(撮影: 高橋)
午前12時30分、ジザ‘アン(Al Jidh’an)から迷いながら14 km走って熔岩流を抜ける。砂地の緩い傾斜をだらだら登って行くと東側の山の麓が凹んでいるのが分かって来る。いきなり目の前に、空想科学映画(Science Fiction)にでも出て来そうな別世界がひらけて、地底の大地が広がる。直径4 km弱で200mから300m落ち込み、白いサブカ(Sabkha)が塩をふいている様な地底湖が大きな円を描いている。向かい側の崖の上一帯に熔岩流が黒く地表を覆い、その間に生える緑を強調している為か、崖が密林を背景にして居る様に見える。又、崖の途中途中には吊り天井の様な棚があり、豊かな庭園の様に見える。平地からいきなり落ち込んだ火口は日本にないと思う。火口は火山の上にあると云うのが常識だろう。
ワハバ火口(Wahba Crater) (撮影: 高橋)
写真を撮っていると誰も居ないと思っていた火口の上にランクル(Land Cruiser)でライフル銃(Rifle)を持ったサウジ人(Saudi)が二人現れる。声を掛けると年輩の方が流暢な英語で答えてきた。彼等はこの火口にしかいないと云う鳥を狩りに来ていると云う。(彼らはブルブル(Bulbul)だと言ったが英語ではヒヨドリの一種となるので食べれるのかと後で疑問に思った。)良く見ると南側のもう一つの麓の木陰に天幕(Tent)の野営地(Camp)がある。彼は「ここはワハバ火口(Wahba Crater)と云い、深さが700ftを越え、直径は3 kmあり、向かいの崖の上の方にある平地には鉱泉が湧き、それが水源と成って、豊かな緑が育っている。」と説明してくれ、詳しくは案内書(Guide Book)(英文)があると言う。それが「リヤドからの沙漠トレック(Desert Treks from Riyadh)」だと直感した。
ワハバ火口の吊り庭園(撮影: 高橋)
昼食を誘われ、一旦、その気になるが、彼等の狩りが終わってから食事が始まる事に気が付き、明るい内にリヤド(Riyadh)に帰りたいからと丁寧に断る。彼等も今日中にリヤドへ帰ると言う。「沙漠トレック(Desert Treks)」にこんなに遠くまで紹介されているのを知らなかったのはうかつであったが、サウドに何かあるのか訊かせてここまで来られたのは幸運だった。
次にワハバ火口を訪問したのは2002年2月27日であった。舗装道路からタールマック道路が真っ直ぐにジザ‘アン(Al Jidh’an)村の方に延びて居る。村に入ると給油所まである。更に真っ直ぐに奥への延びている。やがて右に90度折れ、緩やかな坂を上りきると杭が打ってあり、火口だ。余りにあっけなく着いてしまい興をそがれる。また、火口のそこの白い部分にも大きく落書きがしてあり、「自然の奥ふかく人知れず」との印象が全く無い。でも、観光開発と言うことはこの様に秘境であったところでも簡単に人が入れるようにする事なのだろう。理解は出来ても割り切れ無さが残った。
その次は2003年2月12日であった。火口の上をぐると回って反対側で吊りテラスのナツメ椰子の林を撮影する。火口の俗化は進んで居り、安っぽいバンガローや宿が何軒か建てられ並んでいる。いずれは観光庁の指導で自然保護を踏まえた立派な施設が出来るのだと思う。その後、火口の北側に固まった熔岩流の後を大きく迂回し湖に向かう。ワハバクレーター南の山の東西に延びる稜線の1.5倍以上西に行き熔岩流の西端を迂回し東へと戻る。クレーター北に連なる二つに山と熔岩流の間の狭くなった場所を過ぎてサブカ(Sabkha)にでる。19km位走るとサブカの一部が豊かな樹林に成って居り、そこに入ると湖沼跡である事が分かる。今日は残念ながら水が無い。それでも木陰は気持ちが良い。そこで少し早めの昼食を摂った。
ワハバ湖(撮影: 高橋)
結び(Conclusion)
100年前に英国人旅行者ダウティ(Charles Montague Doughty, 1843 - 1926)はターイフについて廃墟の状態と話した様である。エルドン ルター(Eldon Rutter)*は二十世紀の第2四半期始めの1925年になって「荒廃した家々の間に失われてしまう狭い路地はぼろきれ、石、日干し煉瓦が撒き散らされ、地面を被っていた汚い砂と混じり合い、ターイフが死んだ市であった」のを目の当たりに見ている。これらの記述は活気に満ちた近代的な大通りとショッピング センター、大モスクと宮殿、ターイフ住人達が住み、働く住居や事務所のある現在のターイフ訪問者をおもしろがらせている。
ターイフはその他のサウジ社会の鏡なので、宗教的な価値が支配する伝統的な社会での繁栄の柱、計画の近代的な至宝と創作的な実行にはイスラム原理が法律や生活で優先している。サウジ統治以前の不穏な時代であってさえ、ターイフはジェッダやリヤドの苛酷な気候からの避難所であった。今やサウジアラビア王国が持続性のある安定を実現し、ターイフは訪問者が休養とくつろぎを真に得られる聖域となった。 オスマン帝国*の支配化であった時代には人物の名前にはペルシャ語とアラビア語が使われており、人物の特定が難しかった。出来るだけ調べ、結果は「使用用語一覧(語彙集)」に掲載しているのでご参照戴きたい。 後書き(Postscript)
「ターイフは交通の要でその為に環状道路を始め非常に整備された道路網を持つ」様に記述されてはいるが、実際にはターイフ市内に入ると道路標識でリヤド、ジェッダ、アブハ等目指す遠距離の都市の表示は消え、市内の表示に変わるので遠距離の旅行者である私には全く不便な町であり、この町を通り抜ける為に何度も苦労させられた。更にジェッダ方面には非ムスリムである私には幹線道路は使えず、急な曲がりでは道路から車体が飛び出すかと思う程の回転半径の小さな急な山道を迂回しなければ成らなかった。従って、道路網と云う意味では私にとってはサウジでの難所の一つであった。ただ、清潔で温かいシャワーがあり、眺めの良いハダのシェラトンやマッサッラのインターコンチネンタル ホテルが利用できるので、無理してもターイフに泊まる事が多かった。ターイフの主要産業である農業は段々畑に頼って居り、大規模化が出来ない上に労働集約型の産業では後継者は確保できないので長い目ではやはり廃れて行くのだろう。又、空調設備の整った現代において涼しさでの為に夏季政庁が置かれる事も無くなっている。実際に私が訪れるようになった1990年代以降、政治的な催しがアシール・ヒジャーズであれば、それはジェッダであり、王族を含め、高級ホテルとショッピングモールが整備され、比較的自由な雰囲気のあるジェッダが好まれていた。それでもターイフはジェッダ、メッカ、メディーナの様な大都市に近く、又ハッジやウムラの巡礼達の訪問も多く、更に工業・経済・教育の先端都市としてラービグやスワル(Thuwal)には学園都市が開発されているので、これからは山岳景観を利用した観光開発にその活路を見出すのだと思う。
参考資料(Reference Materials)
サウジアラビアの夏の都(The Summer Capital of Saudi Arabia) 著者: アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce) 写真撮影: カリード キドゥル(Khalid Khidr) 1984年出版 著作権: The Falcon Press 60040 S. Maria La Bruna Immel Publishing
ターイフの薔薇(Roses of Taif) 出典:王国サウジアラビア(The Kingdom) サウジアラビの土地と人々(Land and People of Saudi Arabia) 写真・文: マイケル・R・ヘイワード(Michalel R. 翻訳: ハウン トランスレーション サービス 出版: サウジアラビア国営石油会社(サウジ・アラムコ) (Saudi Arabia Oil Company, Saudi Aramco)
湾岸危機を乗り越えて(35年の歩み) 著者: アラビア石油㈱社史編纂プロジェクトチーム 1993年12月発行 出版: アラビア石油株式会社
ターイフ(夏期政庁)(Taif: Summer Capital) 出版元: 駐米サウジアラビア大使館情報室 (Information Office, Royal Embassy
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ターイフ空軍基地(Taif Air Base) 出版元: アメリカ軍(United States Armed Forces) (http://www.globalsecurity.org/military/facility/taif.htm) ウィキペディアおよび Wikipedia
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