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2009月12月6日 高橋 俊二
 

マッカ・ムカッラマとメッカ州

(サウジアラビア王国西部地方)

その夏の政庁・薔薇の市 ターイフ

Summer Capital - Rose City Taif

 

第五部 早期西洋人旅行者の記述(Accounts of Early Western Travellers)

第六部 ターイフ市の昔と今(The City Yesterday and Today)



 

 

第五部 早期西洋人旅行者の記述(Accounts of Early Western Travellers)

 

西洋の旅行家達が記録したターイフの印象はこの市についての当時の景観(Aspect)と状況をおぼろげではあっても伝えてくれ、時にこの市の都市としての発展の歴史的に重要な詳細が記述されている。これらの記録の中でもっとも早い観察は十九世紀初めであるが、この市が壁で囲まれて居たこの時期までは大きな発展は物理的に制限されており、数世紀に渡って余り変化しなかったと推定できる。

 

5.1 スイス探検家ブルクハルト(Swiss Explorer J. L. Burckhardt))

 

最初の欧州人訪問者の記録である1814年のスイス(Swiss)の旅行家でオリエント学者であるジョハン ルドウィグ ブルクハルト(Johann Ludwig Burckhardt, 1784 - 1817)**のターイフへの旅はエジプト総督ムハンマド アリ(Muhammad Ali, Reigned 1805 - 1848)*のたっての招待の結果である。ムハンマド アリはワッハーブ派(Wahhabi)に対して懲罰的な軍事行動に従事しており、その暫定的に司令部としたターイフをブルクハルトは訪問した。ムハンマド アリはシャイク イブラヒム(Shaikh Ibrahim)としてブルクハルトを知っており、自分の密偵を通じてブルクハルトがジェッダに居るのを聞いて直ちにブルクハルトに自分をターイフに訪ねる様にとの依頼を送った。

 

ブルクハルトは勿論、感謝したが、詐称者の身分なので、その結果について相当に心配した。(ムスリムを騙っているが、信用の面では中東の余り知られて居ない場所に関する探検と情報の収集と云う純粋に学究的な目的に刺激されてブルクハルトがここに居る事を認めてやらなくてはならない。)しかしながら、全ては上首尾に終わった。

 

ブルクハルトはターイフがムハンマド アリによって奪回された直後のこの市の目撃情報を提供している。ブルクハルトは「この市の周囲にはオスマン マザイフィ(Othman al-Madhayfi)*によって城壁と堀が築かれていた。この市の城壁には3ヶ所の門と幾つかの監視塔があった。しかしながら、この城壁は弱く、幾つかの場所では非常に薄かった」と言う。ブルクハルトは又、「城砦がシェリフ ガレブ(Ghalib Efendii bin Musa'ed, 1788 – 1803 & 1813 - 1827)*によって建設されていた」と言う。ブルクハルトは1802年のワッハビ(Wahhabis)*又はワハーブ派(Wahhabi)の軍隊による征服でのこの市の破壊について「殆どの建物は未だに廃墟のままであり、ムハンマド(Muhammad)の従兄弟でアッバース朝(Abbasid Caliphate, 750 - 1258)の祖先アブドゥッラー イブン アッバス(Abdullah ibn Abbas)*の墓は激しく壊されていた」と記している。ブルクハルトは「この市の住民の殆どは依然としてサキフ族(Thaqif)*であり、この市に居る外国人の多くはインド出身者であった。交易についてはこの市はコーヒーの集散地であった」とも記録している。ブルクハルトはターイフに関して次の様な所感も伝えている。

 

(注)オスマン マザイフィ(Othman al-Madhayfi)*はオスマン エル メザイフェ(Othman el Medhayfe)とも転写されている。

 

ターイフ(Tayf)の町は砂っぽい平原の真ん中に位置している。この平原は一周が4時間位で、灌木(Shrub)が繁茂しており、ジャベル ガゾアン(Dhejal Ghazoan)と呼ばれる低い山で囲まれている。大きな連山となっている支稜があり、45時間さらに東に続き、平原の中に消えている。

 

ターイフは不規則な四角形をしており、周囲は急いで歩いて35分程度であり、オスマン エル メザイフェ(Othman el Medhayfe)によって新たに建設されて城壁や溝で囲まれている。この城壁は3つの門を持ち、幾つかの塔で防御されているが、ジェッダ(Djidda)、メディーナ(Medina)やイエンボ(Yembo)の城壁と較べると堅牢ではなく、厚さが18インチを超える場所は殆ど無かった。

 

この町の中で西側にはこの城壁の一部を成す城が岩山の高くなった場所に建っている。この城はシェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb)*によって建てられ、この町の他の建物より大きく、その石造りの壁がより強固である事を除けば城とは呼ばれては居ない。この城は今は半壊しているけれども、モハンメド アリ(Mohammed Aly)*はこの城を司令部にしている。この町の家々は殆どが小さいが、石造りでしっかりと建てられている。居間は二階にあり、少なくともトルコの様に地上階にサロンがある家は見受けられない。通りは東洋の殆どの町よりも広い。城の前にある唯一の公共の場は市場を開くための大きな広場である。

 

現在、完全に修復された家が殆ど無いので、廃墟の状態であると書かれるだろう。多くの建物がワハビ派(Wahabys)1802年に奪取された時に破壊された。それはその後、ほとんど見捨てられていたので、全ては急速に朽ち果てている。私は2つの小さなモスクを見た。最高なのはヘノウド(Henoud)の物か、印度人の物である。素晴らしいドームで被われ、巡礼がしばしば訪れたエル アッバス(El Abbas)の墓はワハビ派によって完全に破壊されている。今、総督(Pasha)の主要な官吏が住んでいる45軒の建物を除くと、もっとも一般的な大きさ以上の建物は無い。

 

(注) ヘノウド(Henoud)はこの当時、ターイフに住んでいた人種或は部族であるが、どのような集団なのか特定できないでいる(高橋記)。

 

ターイフには2本の豊富に湧き出す井戸から水が供給されている。その1本は城壁の中にあり、もう1本は1つの門の直ぐ前にある。この水は味は良いが、濃い。この町は美しい果樹園を持つとアラビア中の評判であるが、それらは砂っぽい平原を囲む山々の麓に位置している。私は果樹園を見ていないし、まして城壁内に1本の木もない。直近の隣は全く緑が不足しており、ここの住人にアラビアの他の市同様に憂鬱を与えている。

 

一番近い果樹園は南西にあり、その距離は30分から45分位である。この方向には打ち捨てられた郊外がある。町からは分離され、廃墟の中に何本かのナツメ椰子の木が植わっている。この郊外はワハビ派の侵入のずうと前に破棄されていた。

 

私はどの果樹園も訪れては居なかった。その中の幾つかには小さなあずまやがあり、そこでターイフの人々はお祭りの時を過ごしている。その中でもっとも有名なのが涸れ谷メスナ(Wady Methna)、涸れ谷セラメ(Wady Selame)そして涸れ谷シェマル(Wadi Shemal)である。果樹園は井戸と山々から下って来る細い流れで水遣りが行われている。多くの果樹がここでは小麦と大麦と共に見られる。私がターイフで味わった果物は非常に大粒で香りの良い葡萄、イチジク、マルメロ(quince)やザクロであるが、コラ山(Djebel Kora)で記述されたその他の種類全て、ここで見られる様である。これらの果樹園には昔はメッカの大商人達が夏の間、引きこもり、シャリフ自身も暑い季節をたいていはここで過ごしていた。

 

ターイフの原住民はアラブのセキフ族(Thekyf)で定住者と成っている。セキフ族はこの町に近い全ての果樹園と城壁の中の仮設店舗の殆どを所有している。メッカ人達(Mekkawys)もここに数家族住んでいるが、もともと外国人の大部分は印度出身者達である。ジッダ(Diidda)の様にこれらの人々は生まれはアラビアであるけれども幾つかの例では数世代に渡ってここに定着し、いまだに印度ムセルマン(Muselmans)の服装と習慣を守っている。その中の何人かは商人であるが、多くは薬剤師であり、ヒジャーズ(Hedjaz)では全ての階級が薬剤や香水等を一般的に偏愛していたので、その交易は他の国々に較べて大変に重要であった。ターイフには卸売り商は居ないと私は信じている。私が数えたところ約50の店がある。ワハビ派による侵略の前は、ターイフは商業の町であった。この為に多くの日数を要する旅の距離の周囲の国のアラブ族はここに滞在し、ドレスに関わる品々を買い求めていただろう。一方、山の民は小麦と大麦の隊商を連れて来ていた。また、イエメンの山々からベドウインが駱駝で運ばれた相当な量のコーヒーがあった。ベドウイン達はこのようにしてアラビア海岸の港々での重税をかわしていた。

 

5.2 若いフランス人モーリス タミシエ(Young Frenchman, Maurice Tamisier)

 

ブルクハルト(Johann Ludwig Burckhardt)の後、20年経って若いフランス人モーリス タミシエ(Maurice Tamisier)**がターイフ(Taif)に着いた。タミシエは騒然としたアシール(Asir)地方に向かう軍事遠征隊に同行していた。再び、ムハンマド アリ(Muhammad Ali)*はオスマン帝国のアラビア県内の騒乱を煽動している地方の族長達に対する懲罰的遠征の立案者であった。ムハンマド アリはターイフに拠点を置き、そこからヒジャーズの東境界および南境界の部族への支配を確保する為に定期的襲撃を行っていた。遠征軍の医療主席将校の秘書であったタミシエはジェッダに上陸し、1834517日にターイフへの道を辿った。タミシエの「ヒジャーズとアシールでの旅行と冒険(Voyage an Arabie. Séjour dans le Hedjaz. Campagne D'Assir Paris 1840)**」の記録は1840年にパリで出版された。これがオリエントに対する深く感じた好奇心の結果であり、それがタミシエの最初にフランスを出発した動機であり、いまだにタミシエが訪問した地域の標準的参考書でもある。

 

タミシエはターイフについて三章の長い記述をしており、その記述は次の様に始まっている。

 

この市へ入るには3つの門がある。第一の門は北東側に開いており、バブ メッカ(Bab Makkah)あるいはバブ サイル(Bab al-Sail)あるいはバブ シャリフ(Bab al-Sharif)と呼ばれる。この門はアハメド パシャ(Ahmed Pasha)*の命令で最近建てられた四角い塔で防御されている。大砲用の狭間を設備しているが大砲はまだ届いては居ない。門のもう一方の側には馬蹄形の塔が建って居り、他と同じようにこれは石造りでその基礎はワッハーブ派(Wahhabi)によって積まれた。

 

バブ サラマ(Bab al Salamah)は南西に向かって開いている。その支柱は木製であり、そして騎乗したままではくぐり抜けられない程に低い。この門は小さな塔で防御されているだけである。

 

第三の門はイブン アッバス(Ibn Abbas)で南南西に向いている。これは特別な形はして居ない。少し前まではバブ ツラバ(Bab Turabah)(重要なベドウインの市に因んで命名されていた)と呼ばれる第四の門があったが、ムハンマド アリがターイフをワッハーブ派から奪回した時にムハンマド アリは敵の攻撃が常にこの側から行われるのでこの門を城壁で塞ぐ様に命じ、それ以来この門は閉じられた儘に成っている。

 

ターイフの城壁(Ramparts)は非常に良い形をしており、その一部は最近になって修復されて来ている。この城壁は掘り割りの底から20フィートの高さがある。この城壁は地上の高さまでは石造りであり、地上から上は日干し煉瓦で作られており、隙間は銃身を入れる空間しか無いほど狭い。殆ど全ての塔は同じ様式で建てられている。これらの塔には火砲は装備されてはいないが、これらの塔は火砲を使わないベドウインによる攻撃に備えているのが目的であるのを忘れては成らない。これらの城壁は泥土構造であるにもかかわらず、信じられない程、頑丈である。もしも敵が火砲を使って攻撃したとしても城壁が壊れる代わりに砲弾の径と同じ大きさの穴が開くだけであり、侵入するのに十分の大きさの破れを切り裂くのを難しくしており、その様な作戦には長時間に渡り、大量の弾薬が必要である。

 

掘り割りは10フィート幅で8フィートの深さがあるが、自分がターイフに滞在中には一滴の水もそこには無かった。雨水がそこに引き込まれればこの掘り割りを水で満たすのは難しくは無い。しかしながら、この土地の砂混じりの状態では水が長くそこに留まれるかどうかは疑わしい。

 

更に、アラブ人達は吊り上げ橋の技術には精通していないので掘り割りは全ての門の前で途切れている。その他の場所でも花崗岩の露頭の存在で掘削を続ける試みは行われて居ない。これらの地点を補強する為に、トルコ人達は多くの数の銃用の隙間を持つ石造りの塔を建築した。

 

城は花崗岩の支脈の上に建てられている。その壁は切石で造られ、西洋の城壁(Ramparts)の一部の様に造られている。城には兵舎、食料庫および弾薬集積場が含まれている。戦時には総督も城の内側に住む。有名なスイス人旅行家ブルクハルト(Johann Ludwig Burckhardt, 1784 - 1817)がムハンマド アリ(Muhammed Ali, 1805 - 1848)に会いに行った時にムハンマド アリが住んでいたのはこの城であった。アハメド パシャ(Ahmed Pasha)*は総督が自由に使える様にこの城を離れ、自分は涼しい気候と木陰を満喫できるガリーブ エフェンディ(Ghaib Effendi)*の田舎家に滞在した。市を取り巻く掘り割りの出来るだけ外縁を歩いてみるとこの市の外周は3,657歩であるのが分かった。9つの円筒形の塔、14の馬蹄形の塔、1つの六辺形の塔と1つの開いた円弧形の塔を数えた。北側には地上から8フィートの城壁に囲まれた小さな石造りの先細りの砦がある。

 

バブ サラマ門(Bab al-Salamah)からこの市に入ると日干し煉瓦で、城壁と同じ高さまで隆起した花崗岩の上に建てられた四角い砦を左側に見る。この砦は小さな火砲の一部を持つ円形の塔が4隅に接している。花崗岩の丸石がころがるこの小山は城壁と平行して延びている。南に向かっては城壁より高くなり、少し遠くでは地表の高さまで萎んでいる。一番高い鶏冠の部分には相当に良好に保たれた孤形を見せて23軒の新しい建物と非常に古い建物が一棟ある。この場所は完全に要塞化に適して居り、例え守備隊がベドウインよりも武装した敵に抵抗しなければ成らないとしてもここが適している事には疑いは無い。バブ サラマ (Bab al-Salamah Fort)は城と結ばれており、両方とも住宅地とはバブ サラマ(Bab al-Salamah)からバブ メッカ(Bab Makkah)へ延びる城壁で仕切られている。この城は2門の小さな大砲で守られている。

 

ターイフがどの様な古代の遺跡を所有していたとしてもワッハーブ派によって破壊され尽くして仕舞っている。今日、イブン アッバス門の脇に位置する同じ名のモスクだけが、そのもっとも特徴的飾りであるドームが熱狂的な戦士によって打ち壊されたものの、まだ建っている。イブン アッバス モスク(Ibn Abbas Mosque)は長さが100歩、幅が60歩である。そこに出入りするには対を成す扉を通る。全面の壁は5つの開口部があり、左の壁には11つ、右の壁にはたった6つしかない。これら全ては鉄の格子で包まれている。勤行時報係(Muezzin)がその上から祈りを呼び掛ける円いバルコニーがある光塔(Minaret)は八角形である。光塔は円錐型を載せられた円筒形で終わる。モスクの外壁は城壁と融合しあう。城壁の塔の一つが神聖な場所を守っている。

 

 

市の直ぐ傍にこのモスクは不規則な四角形をして建っている。その扉はこの様な相当の建物であるにしては小さ過ぎる。もっとも目立つのは壁の周りをぐるっと巡る内部回廊である。この回廊は屋根を支える幾つかの小さな柱で形づくられている。これは昼間に忠実な信者達が祈りに来るモスクのこの部分の影に入っている。習慣的にここには何人かの貧しい人々が住んでいる。神の家は家の無い者達に天国を提供するとの宗教的な思いを人間達にもたらされた幸福な考えに感謝する。

 

タミシエは天候に曝され、モスクの床に起き放しになっているドームの欠落を残念に思い、それを付け加えた。「ドームを戻された空はそれ自身が荘厳な蒼穹(Vault)であり、日中は空高く聳え、輝かしい青空があり、夜になると一千もの煌めく光がある」。それからタミシエはモスクに隣接した墓と墓地について記述し、次の様に結んでいる。

 

壁の内側に戻って、信者達と共に偉大なモスクの扉の傍に座ろう。他よりももったいぶった墓(Funerary Monument) が見えてくる。そのドーム屋根は他より大きく、その壁は柱で飾られている。これがビン アッバス(Bin Abbas)自身の墓であり、その名はこの誉れ高いこのモスクの名となった。ドーム(Qubbah or Dome)の基部には謙虚に5つの小さなみたまやが置かれている。みたまやは他ではもっと注意を引きつけるのだろうが、ここではビン アッバスの広大壮麗な墓に圧倒されている。これらのみたまやはまもなく消えてしまいそうな幾つかの金箔の跡が確認できる様にかつては豊かに装飾されていた。少し、離れてターイフのもっとも高名な住人達が埋められている幾つかの新しい墓を確認できる。その頂部には空間があり、土で満たされ、アロエが育てられている。アロエは生き生きした植物で、アラビア人達は永遠の生命の象徴として死を清めるのに使っている。宗教的な建物についてはハディ(al-Hadi)と呼ばれる小さなモスクとアラビア人がザウィイヤ(Zawiyyah)と呼ぶ2つの小さな建物以外に記述する様な物は無い。ハディ モスクには光塔(Minaret)が置かれているが、他の2つの建物には置かれていない。

 

ターイフには非常にささやかな大きさのバザールがある。ここにはこの市の近傍に住むベドウインが商品を供給している。農民は果物を運んで来るし、全ての外国製品は時々やってくる隊商がメッカやジェッダから運んでくる。多くの商人は商品を太陽や雨を凌ぐ大きな傘の様な巨大な円形のマットの下に置いて野外で売っている。至る所にアラブ人かトルコ兵士が持っているもの寂しい様子の商店が幾つか有った。コーヒーハウスはもはや珍しくは無かったが、葡萄蔓を這わせたあずまやである利点を持つ一軒では素晴らしいモカコーヒーが飲めた。

 

ターイフの家々はジェッダと較べると小さく、優雅とは程遠い。これらの家々は通常、地上階の上にもう一階だけ載せている。貴人の家々はムシャラビヤ(Musurabiyyah or Musharabiyah)*で飾られている。中流の人々の家々は飾られてはいない。建築家はその代わりに空気が通りやすい方法で煉瓦を積んで格子を作っている。家の持ち主達は毎年、外壁を石灰塗料で塗っている。扉も赤いステップの形をした装飾的な図案で入口の両側を塗られる。家々はアラビアの海岸都市より整然と並んで居り、道路はもっと広く、毎日掃除され、塵芥もきれいに取り除かれている。

 

もっとも目立つ建物は大首長(Grand Sherif)に属して居り、バブ メッカ(Bab Makkah)のそばに位置している。ここではアラビアの他の市と同様に、古びた建物の方が新しい建物よりも優雅で豊かである。ターイフには古い建物は一棟だけ残っている。そのムシャラビヤ(Musurabiyyah or Musharabiyah)*は近代の住居用建物のどれよりも念入りにすぐれた手腕を費やしている。その豊かに彫刻された扉はアラブ建築の全盛期を思い出させ、その壁は赤い漆喰で合わせた不規則な石で造られて居り、豪華に刺繍された衣服の様な印象を与えている。この家はビン アッバス モスクと同じ区画にある。ハッサン パシャ(Hassan Pasha)*がターイフに居た時にそこに住んでおり、この家にはその名が付けられ、アラブ人達によってそれ以来、保全されて来ている。

 

ターイフの住達は道路にむくりを付ける事が出来てきたので、澱み水が蒸発して引き起こす病気からは免れていた。住人達は小さな石組みの台にに載せたある種の木製導管を作り、穴や陥没を通過させた。この様な下水導水管を4つ数えた。最初の2つはバブ メッカから200歩および70歩の場所にあり、第3番目は北に移って居り、最後はバド サラマ(Bad al-Salamah)から120歩の場所にある。飲み水に関してはターイフの住民達は城壁の中の水井戸から得ているが、ビン アッバス門の外にもう2つの水井戸がある。

 

5.3 フランス人シャルル ディヂエ(Frenchman, Charles Didier)

 

西洋人による第三番目のターイフに関する記述はフランス人シャルル ディヂエ(Charles Didier)**よって書かれている。ディヂエ(ディディエ)はターイフにタミシエの20年後の1854年に訪れた。

 

ディヂエはアラビアの無視された探検家数人の中の一人であり、ホガース(Hogarth)、キエルナン(Kiernan)、ビドウェル(Bidwell)、ブレント(Brent)、フリース(Freeth)およびウィンストン(Winstone)等新旧両方のアラビア探検の英国人歴史家によるどの本にもディヂエは登場しないし、この分野での唯一のフランス人著者ジャクリーヌ ピレネ(Jacqueline Pirenne,1918-1990)*にさえ知られて居ない。

 

ディヂエはリチャード バートン(Richard Burton, 1821 - 1890)**の友達であり、バートンのエジプトからアラビアへの旅に参加した。この旅が結果的に著名な英国人(Briton)をマディーナとメッカへ訪問させた。

 

(注)リチャード バートン(Sir Richard Burton Francis, 1821 - 1890)**は英国の探検家でオリエント学者でありヨーロッパ人として初めてタンガニーカ湖(Tanganyika)を発見した。千一夜物語(The ArabianNights)の全訳を成し遂げた。

 

ディヂエはバートンをその著書の中で述べているけれどもディヂエはバートンによって述べられていない。多分、バートンは自分の探検がその旅に仲間のヨーロッパ人が同行して居たのを知られる事で価値が減るのを恐れたのだろう。バートンの同行者一覧にはフランス人が除かれている。二人の叙述はいずれにしてもヤンブー(Yannbu)までは平行して書かれている。ヤンブーでバートンはマディーナへの隊商に加わり、一方ディヂエは自分をスエズから二人を乗せて紅海を南下して来た同じ船での航海をジェッダまで続けた。自分自身の言葉でディヂエは「自分はジェッダだけの為にジェッダに来たのでは無く、内陸に5日間行程の水の豊かさ、果物のすばらしさ、果樹園の涼しさでアラビア中に有名な小さな市、ターイフまで進む積もりであった」と言った。

 

友達を通じて大シェリフ フサイン アブデュル ムッタリーブ イブン ガリーブ(Grand Sharif, 1851 - 1856) (Husain Abdul Muttalib Ibn Ghalib)を訪問する許可証を手に入れていた。ガリーブはその時には山岳行楽地に駐在しており、護衛と乗馬両方を用意していた。223日に小さな隊商がメッカを通るのを避けてカラ山(Jabal Kara)とハダ(al-Hada)を抜ける道をターイフに向けて出発した。

 

ディヂエの叙述の多くは残念ながら市から1時間半行程の宮殿に住んでいる大首長への二回の訪問の詳細を長々と書いて居るが、ターイフに関しては主としたディヂエの短い滞在中に客として住んだ邸について詳細に記述されているのみであった。この洗練された建物は印度出身のメッカの商人の所有であった。

 

手すりの様な壁で囲まれたテラスはこの家に冠をかぶせている。そこからは多くは無いが市が観察できる。多くは半壊状態の数百の家々が四角い区画に不揃いに残っている。通りと呼ばれる埃だらけの小道が家々の間に不規則な迷路を作っている。前の首長(Sharif)でその当時はコンスタンティノープル(Constantinople)在住のイブン アウン(Ibn Aun)所有の家だけが建築的重要性の痕跡を示している。周囲の家と較べと宮殿としてなんとか認められる。四角い区画の一端に四隅に塔がある城が聳えている。この城はシャリフ ガリーブ(Sharif Ghalib)*が自分の個人的警備の為に建設し、何年後にはその勢力の破壊者であるムハンマド アリの住居と成った。

 

ターイフをヒジャーズ中で著名にした果樹園はこの市の周囲に点在し、その多くは砂丘の間のオアシスとなって現れる。果樹園は一般的に小さく、そんなに密では無いが、一般的に乾燥地帯であるアラビア半島では名声を得ている。地平線全てはキリスト教の鐘突塔の矢の先の形からムスリムのモスクの丸いドーム形まで出来るだけ様々な輪郭を見せているギザギザの山々の山稜で囲まれている。接待主は「ここにはもっとも重要な丘の名前がある」と言う。西と北西即ちメッカやマディーナの方向にはサカラ(Sakara)、ハダ(al-Hada)、バラド(Barad)、その反対にはマジャール シャシュ(Majar al-Shash)、トマネ(al-Tomaneh)そして最後にル シュハダ(Ru al-Shauhadah)或いは殉教者の丘(Hill of Maetyrs)等、この景観の組み合わせは優雅と云うよりももっと厳しく、そして果樹園がそこには点在しない程に一滴の水も認識出来ず、その一般的な特徴は乾燥である。長く、ギザギザのカラ山(Jabal Karah)の登りとそれに続く短く緩やかな傾斜から判断するとターイフは非常に高い。3週間ジェッダの暑さに耐えた後なので、ここでは風邪を引くのに気を付けなければならなかった。

 

田園を訪れる前に、非常に美しいモスクを見つけた。それは殆ど市の城壁と隣接していた。このモスクは預言者の従兄弟アブドゥラー イブン アッバス(Abdullah Ibn Abbas)の墓を含んでいた。この近くにある門の名を付けられたこのモスクはターイフで唯一の宗教的な言い換えれば少なくとも重要性を持つ唯一の建物であった。全ての誉れのある聖人達の為に建てられた記念碑同様にこのモスクもワッハーブ派(Wahhabi)に破壊されてしまっていた。ワッハーブ派の厳格な取り組み方は全ての象徴を認めず、そして厳密に聖人崇拝を排除していた。本質において唯一神だけが崇められねばならず、決して具体的な外観をした形であっては成らない。イブン アッバスのモスクはワッハーブ派が退却した後に再建されたが、上から下まで石灰塗料で塗られ、その文化遺産の見地からはひどく時代錯誤の幼い雰囲気を呈している。近くにはまるきり異なった時代と本質を合わせた記念碑がある。これは時の経過でおよそらくは人の手で丸みを付けられた凸凹した石あり、偶像崇拝の時代から霊が宿っていると崇拝されて居た。この名はラト(al-Lat)で、そこから遠くない所に同じ伝統で神聖化されたウッザ(al-'Uzzah)と云う名のもう一つの凸凹した石がある。

 

ギリシャの歴史家ヘロドトス(Herodotus, c. 484 - 420 B.C.)は事実「これらの国々の住民達は沙漠の石を崇拝していた」と言う。ムハンマドが神の正しい概念を与える為に来た時でもこの住民達はいまだに著しい迷信に耽っていた。従って、クルアーン(Qur’an)はクルアーンが書かれ、最初に取り入れたこの国の歴史に偉大な進歩をもたらした。

 

ディヂエはそれから涸れ谷マスナ(Wadi Mathnah)で、シャリフ家の一人の田舎家に着くまでの短い騎乗を記述している。

 

そこまで水も緑も見ること無く、不毛の平原の真ん中の砂の上を進んだ。水と緑は両方とも最後に涸れ谷マスナ(Wadi Mathnah)で見つけられる。谷の両側は裸の丘の上まで聳えて居り、その麓は囲まれた果樹園でおおわれている。流れは果樹園を冷やし、潤してた後、流れ出している。果樹園の日除けのされた木々は群葉を壁の上まで繁らせている。アカシア(Acacia)が景観を被っており、乾燥した山々によって閉じられた範囲に制限されている谷の入口をきれいなモスクが示し、清めている。地形は非常に不規則で、深い峡谷で刻まれ、そして険しい斜面に特徴づけられている。ワハト(al-Wahat)と云うベドウインの村が岩が散らばる山地にあるが、住人は一人も居ない。我々はこの遠出をここで中止し、大シェリフ(Grand Sharif)の所有のバトナ(al-Batnah)果樹園まで引き返した。この場所は石造りの水路を流れる清らかな流水のある小川(Rivulet)と幾らかの美しい姿の果樹を除けば、特筆する様な物は無い。果樹は殆どはイチジクで相当な大きさで素晴らしい果物が収穫できる。多少、劣るのはマルメロとザクロであるが、花についてはヒジャーズ中で名高い薔薇を除けば殆ど見られない。

 

5.4 英国人チャールス ダウティ(Charles M. Doughty)

 

フランス人シャルル ディヂエ(Frenchman, Charles Didier)がターイフを訪れた1854年からもう一人の西洋人がターイフに足を踏み入れるまでに23年間が過ぎていた。その西洋人は偉大な旅行家で「アラビア沙漠の旅(Travels in Arabia Deserta)」の著者である英国人チャールス ダウティ(Charles M. Doughty, 1843 -1926)**である。

 

自分をジェッダへと導いてくれる道案内人を捜す為に北西からメッカに近づくにつれ、ダウティはそのアラビア放浪中でもっとも危険な時機に直面していた。或る男がナイフで繰り返し、ダウティを刺そうとしたが、ダウティは大シェリフ(Grand Sharif)に仕える年取ったアフリカ黒人に助けられた。この黒人は「外国人は唯一その運命を決める権威を持つターイフの大首長の宮廷のあるターイフまで連行しなければ成らない」と上手く説得した。

 

もう幾つかの脅迫や屈辱に耐えた後、ダウティはこの市に到着した。そこでは大首長アブドゥッラー ムハンマド イブン アウン(Abdullah Muhammad ibn Aun)がもてなしが良く、慈悲深くそして理解力のある人物であり、外国人を歓待して食事や衣服を提供し、ダウティがジェッダまで無事に着ける様に3人の配下を護衛として随伴させたので、ダウティの厄介な問題は最終的に決着した。1878年の夏のターイフでのこの短い逗留についてダウティは次ぎの様に記録している。

 

(注)1878年のメッカ大首長(Sharif of Mecca)はフッセイン ビン ムハンマドHussein bin Muhammed (1877–1880)であり、アブドゥッラー ムハンマド イブン アウン(Abdullah Muhammad ibn Aun)とは同一人物とは思われるが高橋には検証出来ていない。

 

次ぎの高く成った場所からターイフ(et-Tâyif)を見た。その外観全ては彼等の建物がストレート色なので陰鬱に見える。町の入口にはシェリフ(Sheîf)の白い宮殿が建っていた。この宮殿は2階建てで、ちょっと見た所では新しく、堂々とした建物で格子の付いたバルコニーを持ち、煙突が一杯である。これがハセイン(Hasseyn)の兄弟アブディッラー パシャ(Abdillah Pasha)の宮殿である。町の真ん中に監獄の様な大きく、高い建物があり、それが兵舎である。

 

(注) ストレート色とは位青味または緑がかった灰色である。

 

町は今、私の眼前にある。ほぼ2年間に渡って沙漠を放浪した後なので、それは素晴らしい眺めである。我々の道路の脇で建築用の石材を作る為に花崗岩の岩を爆破している男達を見た。ターイフの場所は私が最近までカシム(el-Kasîm)から100リーグ(leagues)300 miles又は483 km)を旅をした深成岩層の草原の縁にある。私は町の背後の黒く、ごつごつした低い山に囲まれた景観を見つめた。我々は再びセイル(Seyl)からの道路に戻り、そしてなまぬるい小川(brook)を通り過ぎた。この小川は向こうの季節風の吹く山々から流れて来て、この古代からのオアシスを灌漑する豊富な泉の一つである。

 

我々の入った門はバブ セイル(Bab es-Seyl)と呼ばれ、シェリフの質素な宮殿前の広場にあった。通りは乱暴に作られ、増しな家は漆喰で塗られている。夏にしか多くは住人の居ない町の概観は廃墟の様だった。

 

翌朝、私はターイフでは見られる3つの偶像神の石を見に行った。小さな屠殺市場で見たウッザ(El-'Uzza)20フィート(約6m)の長さがあり、端に近い上部には凹みがあり、それはマカム ラス(makàm er-ras)と呼ばれ、頭の部分で凹みは神の口だと言われている。砲手長の家の前で地上が少し盛り上がった所にあるもう一つの少し小さめの石はフッバル(el-Hubbal)と呼ばれている。これも自然の花崗岩の塊で、56フィート(約1.5m -1.8m)の長さで真ん中に割れ目がある。

 

我々はムハンマドの叔父のアッバスの息子アブドゥッラー(Abdullah)の美しいモスク(Mesjid)の傍の町門から外に出た。2つのドーム屋根を持つ、この古代の白い建物には優雅な調和がある。壁の一部は最近に成って再建されている。これはヘロドトス(Herodotus, c. 484 - 420 B.C.)が「アラブのビーナス(Venus)である」と言ったラタ(el-Lâta)と呼ばれている。ぶかっこうなごつごつした岩で、長さはウッザ('Uzza)に近いが、高さは低くく、同じ灰色の花崗岩である。私は端に鉱夫が削った跡を見たし、固い側面には傷がある。ある道路建設業者について「2年前に盲目的な偶像破壊者がシェイタン(Sheytàn or Devil)を粉火薬で爆破したが、固い結晶の塊の裂片以上は飛ばず、これは鉱物の性質を明らかにする為に保全されていた」と私に言った。

 

5.5 ハリー St. ジョン B. フィルビー(Harry St. John B. Philby)

 

1878年夏のチャールス ダウティ(Charles M. Doughty)の短い訪問に次いでターイフを訪れた次ぎの人物は近代の偉大なアラビア探検家で歴史家でアブドゥラアジズ王の熱心な敬愛者であったハリー St. ジョン B. フィルビィ(Harry St. John B. Philby , 1885 - 1960)*であり、部分的には自分自身創作の政治的任務をそこに引き寄せた。

 

1917年にブシール(Bushire)*に居た印度駐在官(Political Resident)のパーシー コックス卿(Sir Percy Cox)*がフィルビーを当時ナジドのスルタン(Sultan of Najd)であったアブドルアジズ(Abdulaziz)(イブン サウド王(Ibn Saud)*と連絡を樹立する為に中央アラビアに対する英国の政治的使節の担当者として任命した。この使節の目的の一つはヒジャーズ王フサイン(King Husain of Hejaz)(メッカ太守(Sharif of Mecca)*との関係でのアブドゥラアジズの地位を評価する事であった。フサインは第一次世界大戦の後の将来のアラビアに対する大構想の中で大英帝国(Great Britain)の支援と英外務省カイロ事務所の全面的な恩典をうけて居た。一方、アブドゥラアジズの潜在的な強さと指導力はパーシー コックス卿を含む数人の印度政府高官が評価していたのみであった。

 

フィルビーはリヤドでアブドゥラアジズに一度会い、その人柄と中央アラビアの支配に深く感銘を受けた。フィルビーは直に終生の友人関係の基礎を作り、アブドゥラアジズを支持した。カイロからジェッダを経由してリヤドにいるフィルビーの任務の一部は駐エルサレム大英帝国軍事総督(Britain’s Military Governor of Jerusalem)のロバート ストーズ(Ronald Storrs, 1881 - 1955)指揮下に合流する事であったが、ストーズは約束の時間に現れなかった。

 

フィルビーはアブドゥラアジズに「自分がターイフへストーズに会いに行き、そこからストーズをその使命を果たす為にリヤドに連れて来る」のが望ましいと提案した。アブドゥラアジズは同意し、フィルビーにヒジャーズへ行く為に一隊の護衛と幾頭かの駱駝を与えた。フィルビーはストーズにヒジャーズで会えなかった。その上、リヤドに戻るのを大シェリフ(Grand Sharif)*に妨害され、ジェッダから船でエジプトへと離れなければ成らなかった。しかしながら、フィルビー自身の旅と調査への望みは満足されており、その著書で今では古い探検と基礎的な歴史の参考資料となった「アラビアの心臓部(The Heat of Arabia)」が書かれた。

 

ナジド(Najd)からのターイフへの接近とジェッダとの繋がりはフィルビーによって興味或る詳細が明示されて居るが、紙面の不足から割愛せざる得ない。ターイフについてフィルビーは次の様に記述している。

 

ターイフの町は正方形であり、角側面は約300ヤード(274m)の長さで、以前は周囲を泥と石の壁で囲まれていた。その壁の除去された残骸はその中のきちんとした家々や大きな邸宅とが奇妙に対比している。町の中心には市場(Suq)があり、その大きさは永住している人口の要求に釣り合ってはいるが、夏の取引も許容できる様にも設計上は考慮されている。そのばらばらな通りや小道の中に体系や対照等の概念は見られない。

 

中央の広場は不規則な形をして居り、端にモスクがある。そのモスクはこの町に11あるモスクと1つの学校に中のハディ モスク(Masjid al Hadi)である。又、この広場には首長(Amis)の地味な事務所と裁判所がある。スーク(Suq)の南と東の区画は貧しい住民の居住区であり、北と西は裕福な住民の邸宅である。壁の南東の角は古い墓地で長いこと使われていない。新しい墓地は壁の外のイブン アッバス霊廟(Shrine of Ibn 'Abbas)の周りに発達してきている。

 

反対側の隅は自然の隆起の上に建つ堅牢な造りの要塞で占められて居り、この砦はワッハーブ派帝国の残存物である。この砦をもたらしたのは偉大なサ’ウド(Great Sa'ud)であり、そのヒジャーズ征服の後に建てられた。この砦は完全に四角形で丸みを帯びた角と銃眼を持っている。その側面は何度も叩かれた痕跡があるが、首長(Sharif)の軍の火砲はどっしりとした要塞にほとんど痕跡を残して居ない。

 

ターイフの城壁は今はもう無いが、過去においては入城数を増やす為に設けられた3つの門はいまだに断片として残っている。北のバブ サイル(Bab al Sail)は主要道路に向かっている。西のバブ リ’(Bab al Ri')、それからはクラ山(Jabal Kura)を抜けてメッカへの直接の道に出る。最後のバブ イブン アッバス(Bab ibn 'Abbas)は守護聖人(Patron Saint)のモスクに向かって南側に向いている。第一の門の傍びは首長(Sharif)の邸宅の黒こげの残骸とそのバイト フクム(Bait al Hukm)(裁判所(Court of Audienc))があった。首長アブドゥッラー(Sharif 'Abdullah)へこの町を開城する前に、両方の建物共に首長(Sharif)のその臣従していたトルコのスルタンへの謀反に対するトルコ式の報復のやり方で略奪され、焼かれてしまった。

 

(注) 「アラビアの心臓部(The Heat of Arabia)」: ハリー St. ジョン B. フィルビー(Harry St. John B. Philby)著、1922年にロンドンで出版。

 

5.6 英国人モスリムのエルドン ルッター(English Muslim, Eldon Rutter)

 

フィルビーの次ぎにターイフを訪れたのは英国人モスリムのエルドン ルッター(Eldon Rutter)であるが、ルッターについての記述は殆ど無い上にルッター自身もその著書に自分自身については稀な程、控えめにしか記述していない。ルッターはアラビア語を最初にマラヤ(Malaya)でそこに住んでいたアラビア人移住者達から学んだ後にエジプトでさらに学んだ。1925年シリア出身のエジプト人巡礼を装い、ルッターはマッサワ(Massawah)からアブハ(Abha)の丁度西にあるアシール ティハマ(Tihamah of Asir)の小さな港であるカフマ(al-Qahmah)へと紅海を渡った。

 

当時はスルタン(Sultan)であったアブドルアジズ王(King Abdulaziz)がジェッダ市を包囲し、巡礼船は全くその港に入れなかった為、この年にジェッダに上陸するのは不可能であった。ティハマを北へと辿り、ルッターはメッカに着いた。そこでアブドルアジズ王に迎入れられると言う特別待遇を受けて、ルッターは巡礼の儀式を行った。ルッターは巡礼式典の旅を続けた。それにはマディーナへの旅ともう一つターイフへの旅が含まれていた。その様子をルッターは1928年にロンドンで発行した価値ある著書「アラビアの聖なる都市(The Holy Cities of Arabia)」の中に生き生きと記述している。

 

5.6.1 ジュダイラとカイムを通ってターイフへ

(Reaching Taif througth Judayrah and al-Qaym)

 

メッカをサイル(al-Sail)を通過する普通の道順で出発したルッターはターイフに到着する前にジュダイラ(Judayrah)およびカイム(al-Qaym)を通過した。その記述は次の通りである。

 

現在、23棟の高い家々の白い正面がわれわれの右前方から目に入ってきた。これらはターイフ(Et-Tâif)の家並みである。我々は今、広い通りへと曲がった。この通りは南から少し西に寄った方向にあるバブ シュブラ(Bâb Shûbra)あるいはバブ サイル(Bâb Es-Sayl)と呼ばれ、この市の北側城壁の門へと導いてくれる。我々の左側には高く、豪華な宮殿が建っている。4階建ての高さで飾りの手すり壁が載せられている。これは滑らかな白い漆喰が塗られて居り、まばゆい程の白さであり、各翼壁の中央の窓は飾り細工の施された木製の端麗な窓枠で保護されている。この宮殿の庭園は柱の立派な壁で囲まれて居り、これを越えると1マイル(1,609m)離れたターイフ市の城壁まで果樹園と耕地になっている。この建物は前メッカ首長(Foremer Shatif of Mekka, 1905–1908)アリ パシャ(Ali Abdullah Pasha)の所有である。アリ パシャは1908年にトルコのスルタン(Turkish Sultan)に追放されてからはエジプトに住んでいる。

 

真っ直ぐな道を市の城門まで進むと我々は右手にもう一つの果樹園の泥の壁を過ぎた。これを越えた西の方に大きくそびえ立つ石の小屋の壁が建っている。この屋根は壊れ、地面に落ちている。これがかつてはフサイン王(King Husayn, 1916 - 1924)の飛行機を入れる格納庫であった。格納庫を越え、その南西には幾つかの廃墟となった家々で構成されるナジマ区(District of Najma)が広がる。廃墟の中でもっとも大きな建物はメッカのアミール シャリフ アウン ラフィク(Shrîf 'Aun Er-Rafik, 1299 - 1324 A.H.) (Aun Al-Rafiq Pasha , 1882–1905)の新しい夏宮殿であったが、アウンはこの宮殿が完成する前に没した。今では大きな壁構造が太陽の下にひっそりと立っており、トカゲやカラスそしてたくましく、ゆっくりと匍匐する影がこの半分建て掛けの広間の中を動いている。この新しい廃墟の後には沙漠土壌の区画があり、その上に壁が建てられ、井戸が掘られている。無いのと同じではあるがその壁の内側では土壌はライ病にかかった様に乾燥し、貧弱であるが、農夫達の昔の労働の跡が半分消えかけた鋤の溝と石化あるいは廃耗へゆっくりと悲運を辿った木々の骨格に見られる。サイル門(Sayl Gate)外のすぐ近くにはアブドゥッラー パシャ(Abdullah Pasha)の邸として知られる大きな建物がある。これは今、この町のワッハーブ派知事が占拠している。

 

(注)アブドゥッラーパシャ(Abdullah Pasha)1905年から1908年の間メッカ シャリフ(Sharif of Mecca)であったアリ アブドゥッラー パシャ(Ali Abdullah Pasha)と思われる。

 

我々は妨害されずに開かれた出入り口を通り過ぎた。その上には護衛の小屋があり、壁には小銃用の隙間が細長く開けられている。右を向き、我々は幾つかの大きな家々の砕かれた残骸の間に道を取り、我々の駱駝を古い家の入口の前に寝かせた。この玄関は戸外の地面が高まった為にすでに1フィート(30.48cm)沈んでいる。西の空は家主が我々を歓迎するかの様に夕日でオレンジ色の染まっていた。我々のホスト アブデュル ラティフ(Abdul Latif)は地上階の部屋へと導いた。この部屋の東側の床は横糸を駱駝の毛で織った厚く、長い布で被われていた。ターイフの人々はこの布を織るので有名であった。泥の壁は遠い昔に石灰塗料で塗られていたが、今では年月で円熟し、煤けている。

 

5.6.2 涸れ谷マスナへの小旅行(Short Trip to El Mathnâ)

 

ターイフに着いた翌日に、ルッターはメッカの滞在中に作った知り合いを訪問し始めた。アブドゥッラー(Abdullah)と云う名のガリーブ家(House of Ghalib)のシャリフ(Sharif)およびその二人の従兄弟、彼等は皆、この市の南4マイル(6,436m)離れたマスナ(El Mathnâ)と呼ばれる果樹園の美しい区画の家に住んでいる。ルッターとその護衛はこの市の南西の門バブ (Bab al-RÌ)を抜けて離れた。ルッターの短い旅行の記録は涸れ谷マスナ(Wadi al-Mathnah)地区ついてのルッターが記録した記述も全文引用する価値がある。

 

門を通過すると我々は自分達が岩が砕け、植生の無い、殆ど白亜色の地面に居るのが分かった。平原の南へ1マイル(1,609m)付近には多くのしっかりした造りの石の家々が立っている。その中の幾つかは大きく、そして端麗でさえある。これがサラマ(Es-Salâma)と呼ばれる村あるいは郊外であり、その中には多くの富裕なメッカの人々の夏の住居がある。これらの家々の中で最上の一つがカアバ神殿(Kaaba)の鍵の番人であるシャイビ(Shaybi)の所有である。常に通り過ぎる駱駝や驢馬によって作られた荒れた道がこの郊外を通って南へと導いた。私が立って景観を調べたバブ リー門(Gate Bâb er-Rî)の北西1マイルにもう一つの郊外であるガールマ(Garma)がある。これはトルコの兵舎と壁無しに接近しており、ここにはオスマン帝国守備隊の将校が住んでいる。

 

サラマ(Es-Salâma)を越え、南から少し東寄りの方向には若い穀物の大きな緑の畑が見られる。この後には周囲の山々の不毛の麓に下に暗い果樹園の塊が延びている。これがマスナ(El Mathnâ)である。この町の城壁から23マイル(3.2km - 4.8km)の距離にある小麦畑から始まって、この畑は山々の麓まで2マイル(3.2km)程広がって居り、有る所ではその幅は1.5マイル(2.4km)程ある。我々は市の門を出て狭い道に沿って進んだ。サラマ(Es-Salâma)を過ぎた後、我々がゆるく、きめの粗い砂地に来たが、小麦畑と平行して我々は再び堅く引き締まった地面に居た。さらに進むと果樹、葡萄蔓や薔薇の茂みの果樹園を囲む低い泥の壁となった。実際に果樹園の間に居て、私は今、それまでに私の不慣れな目を信じられなかった物を実感した。全ての桃の木、アーモンドの木は密集したピンク色の花をソフトにつけている。この様な泉の美しさをアラビアの焼けるような不毛の地で見つけると云うのは何と素敵な事なのだろう!私は私の仲間に「メッカの人々がターイフについて言っていた事は眞に本当であり、これはダマスカス(Damascus)の庭園の一つをを天使の手でこちらに運んできた物である」と言った。

 

芽生え或いは花をつけた木々の下を我々は行く、そして我々の周り全てで空気は新たな命、ムクドリの囀りやハトの鳴き声と共に歌っていた。米の青い稲(Rice Green Birsîm)が木々の下で育って居り、それを通ってしたたり落ち、さざめく、小さな水の流れが泉の主水路から流れ出ている。この泉は張り出した山(Overhanging Mountain)の黒くて焼けたシエン土(Sienna)の間から湧き出している。木々が葉を出揃えるまで私の訪問が遅れなかった事を後悔すべきか、或いはそれが桃の木々が花を咲かせたのは二月であった事を感謝すべきかについては私は分からない。これらの果樹園の壁の内側には痩せた土壌の痕跡は見られない。壁から壁まで全ては若い緑の牧草によって不明確にされた。これらの緑のたまりを除き、人間の背の高さで枝の水平の枠組みが広がった暗い樹幹の薔薇のラインは花の塊を太陽に向けさせている。さらに前進方向は薔薇の灌木の畑である。これらはメッカの香水販売人にバラ油(atr-el-ward)の蒸留の為の花びらを供給している。バラ油(atr-el-ward)は高値で巡礼に売られている。我々はイチジク(Fig Tree)、ザクロ(Pomegranate)、マルメロ(Quince)、ホンアンズ(Apricot Tree)および葡萄蔓を通り過ぎた。葡萄蔓は黄金色で甘くそして非常に香りが良い、素晴らしい葡萄を生産している。これらの葡萄はシリアで生産されているのと同じ様に大きく、見事である。もし、これらに欠点があるとすれば、これらは幾らか甘すぎる。果樹園の間には石造りの家々があるが、その多くは部分的に荒廃している。

 

5.6.3 ルッターによるターイフ市の調査(Rutter's writting to explore City of Taif)

 

(ここをクリックすると図が拡大します。)

(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)

 

上の図は1925年にエルドン ルター(Eldon Rutter)によって書かれた平面図を手書きして作成した写しである。この図では上が北になる様に描かれている以外は縮尺、割合および詳細に欠けているけれども、当時のターイフの一般的な配置を示している。

 

以下はルッターがこの市の調査に出かけて記述した当時の様子である。

 

ターイフ(Et-Tâif)は囲まれている四角形の形状をした壁で囲まれ、石と泥で作られている。この壁は最近になってフサイン王(King Husayn)の命令で造られた。これはとても薄く、大部分を泥で作られ、そして門と四隅にある稜堡(りょうほ)(basion)を除くとその全長にわたって重要な部分でも小銃射撃用の銃眼でさえ全く無く、その目的の為には不十分であった。そんな構造は短い期間賃貸される農場や似たような所有地を囲い込む目的の為にはきわめて有効であった。その二方の長い側面は概ね北と南を向いていた。その西側の側面に密着して石造りの頑丈な城壁で囲まれた兵舎用区画があり、軍隊用宿舎が入っていた。この兵舎はトルコによって建てられ、今は手入れ状態が悪く、空き家になっている。

 

町の城門はバブ サイル(Bâb es-Sayl)、バブ イブン アッバス(Bâb Ibn 'Abbâs)およびバブ (Bâb er-Rî) 3つである。後の2つはそれぞれ南と南西に面した城壁にあり、その間にイブン アッバス(Ibn 'Abbâs)のモスクが見られる。後者は素敵な構造で、公開法廷(Open Court)の形に作られ、全ての側は回廊(Cloister)で囲まれている。以前はアブドゥッラー ビン アッバス(Abdullah bin 'Abbâs)の墓室を被っていたドームと預言者の幼い子供の一人の為のドームであった2つのドームはワッハーブ派によって取り壊された。

 

しかしながら、1938年にターイフに居た後の訪問者C.A. ナリノ(C.A. Nallino)によって撮影された写真には13年後であるにもかかわらず、この2つのドームが写っているので、最後の記述の正確さについては少し疑問がある。ルッターはターイフについての記述を次の様に結んでいる。

 

祈りの後、アリ(Ali)は私に偶像神の石ラト(El-Lât)を示した。ラト(El-Lât)はイスラムの出現以前にはアラブ族によって崇拝されていた。ラト(El-Lât)はイブン アッバス門(Bâb Ibn 'Abbâs)外の町の城壁の傍にあり、単に形の無い花崗岩の塊であった。この東南の隅の城壁内にはサンヌシ神秘主義教団の躍り狂う修験者達(Sanûsi Dervish)*の会議場が立っている。

 

二番目の偶像神ウッザ(El (Uzza)は以前には砦或いは城の近くで見られたが、ワッハーブ派に打ち壊され、取り除かれていた。砦は非常に頑丈に造られた構造物ではあるが、いまでは少し荒れ果てている。砦はリ門(Bâb er-Rî)の右側あるいは西側の城壁内の隆起した場所の上に位置している。ここはスルタン アブデュル ハミド(Sultân Abdul Hamîd, 1876 - 1909)*の命令でトルコ国粋主義者ミザト パシャ(Mdhat Pasha)*が死ぬまで幽閉されていた。ミザトが閉じこめられていた塔の部屋の大きく低い窓は牢獄部屋には珍しく光と新鮮な空気が入って来た。この砦はシャリフ ガリーブ(Sharîf Ghâlib)*が建てたと云われている。

 

町の東区画のトルコ式の風呂は廃墟に成っていた。華やかな色のタイルが壁から落ち、天井に描かれたうっそうと繁ったオアシスは沙漠に変わっていた。

 

5.7 医学博士ルイス P. ダーム(Louis P. Dame)

 

1932年にバハレイン(Bahrain)の使節で働いていた医学博士ルイス P. ダーム(Louis P. Dame)がアブドルアジズ王(King Abdulaziz)王の招待でその家族の治療の為にターイフ(Taif)にやって来た。ウカイール(al-'Uqair)およびリヤド(Riyadh)を通っての陸路の旅の後、ダーム博士は目的地に到着した。ダーム博士はそこで1ヶ月を費やしたが、その所見は殆ど無く、主として政治或いは自分の任務に関する事項のみであった。この市自身についてはダーム博士は次の様に言っている。(「バハレインからターイフまで、アラビヤ横断の使節の旅」、モスレムの世界2319334月出版(From Bahrain to Taif: A Misssionary Journey Across Arabia, in Moslem World, Vol. 23, April 1933)

 

ターイフには多くの大道吟遊楽人達がおり、殆どは少年であるが大人も居る。楽人達は皆イエメン人で多くのレパートリーを持っている。最初に私が楽人達を聞いた時には特に素晴らしく、男と10歳から12歳位の少年が代わる代わるに歌った。少年は大変に甘いソプラノであった。私はこの少年の歌うのを滞在中に何度も聞き、いつもその公演に満足させられた。

 

ターイフ自身はむしろつまらなかった。恐らく、私がその驚嘆と美しさについてあまりにも聞き過ぎて期待が大きかった為だろう。シャリフ フッサイン(Sharif Hussain)がトルコに反乱した時にターイフは初期の目標であった。トルコ軍が城壁があり、要塞化されたこの市に籠もった。その事で美しい家並みと快適な果樹園からなる郊外は放棄された。それらはアシュラフ(Ashraf)によって完全に殲滅された。トルコ軍は市内にあるアシュラフの家を破壊する事で報復した。この市が陥落いた時にトルコ陸軍は城外に有ったアシュラフ所有の家々の残っている限りを破壊し、アシュラフも城内のトルコ所有の家々を破壊した。シャリフの治世下の間に再建は全くされず、イフワーン(Ikhwan)*がここに来て、さらに破壊した。

 

(注)アシュラフ(Ashraf)はシャリフ(Sharif)の複数形。

 

その全ての美しい果樹園と共に破壊された郊外の廃墟はいまだに見られるが、非常に立派な区域であったに違い無い。ターイフのもともとの住人達の多くは自分達の敷地にかわいらしい葡萄の東屋を持ち、全ての場所のすそは花の植木鉢や植木箱で被われていた。ネジド族(Nejdies)に占有された家々は山羊達が自由に家々や敷地の中を走り回れる様にその様なじゃまものは無かった。美しい果樹園がターイフの周囲や谷間にあり、そこでは葡萄、梨、アンズ、プラムやその他の果物が豊富に生長している。とげだらけな洋梨或いはブール シャミー(Bur-Shamie)*は特に見事である。ブール シャミーはターイフの中やその周囲で成長しているが、最高の種類はシェファ(Es-Shefa)から驢馬に積まれ56時間掛けて運ばれてくる。果物は松の木の小枝で包まれターイフに来る。

 

http://www.skyscrapercity.com/showthread.php?p=37923652

ブール シャミー(Bur-Shamie)はとげだらけに洋梨(Prickly Pear)とも

呼ばれ、サボテンの一種オプンチア(Opuntia)である。

 

5.8 後の訪問者C.A. ナリノ(Later Visiter, C.A. Nallino)*

 

現代以前(Premodern)の時代のターイフについて非常に興味ある詳細にわたる豊かさと偉大な能力を持って記述した最後の著者はイタリア人カーロ アルベルト ナリノ(Italian, Carlo Alberto Nallino)であった。ナリノは当時ローマ大学(University of Rome)のアラビア語教授であり、1938年に娘のマリア(Maria)*と共にアブドゥルアジズ王(King Abdulaziz or Ibn Saud, 1876 - 1953)の招待客としてサウジアラビアを訪問していた。マリアは最終的に同大学のアラビア言語の議長を引継ぎ、ナリノの死後、1939年から1948年にイタリア オリエント協会(Istituto Italiano per I'Oriente)によって出版されたその著書(a Raccolta di scritti editi ed inediti)を編集した。

 

サウジアラビア(L'Arabia Sa'udiana)と題された蒐集の初巻にはジェッダに居たアブドゥルアジズ王に謁見する途中でターイフとその周辺を訪問する許可を得たナリノは先ず自分がメッカを通らずに2つの市の間で辿らなければならなかった行程を図によって説明している。この章の目的の為にはこの節には殆ど興味のある事項は無いのでここでは「ターイフとその周辺(At-Ta'if e dintorni)」と題された章の一部だけを紹介してある。

 

5.8.1 ターイフとその周辺(Taif and its Surroundings)

 

この市は3から4メートルの高さの日干し煉瓦(Liben)によって造られ、銃眼と数多くの小塔を持つ城壁によって完全に取り囲まれている。城壁には3つの城門が開いている。これらは北へはバブ ハズム(Bab al-Hazm)、西へはバブ (Bab ar-Rî)そして南南東へはバブ イブン アッバス(Bab Ibn Abbas)である。小さな岩の隆起の上にあり、内側に傾いている西側の城壁には高い石造りの壁と四隅に塔を持った四角い要塞が聳えているが、それはヨーロッパ中世の城とは似ていない。これはシャリフ ガリーブ(Sharif Ghalib)*によって建てられ、そしてこれは1802年のワッハーブ派の征服によって半分廃墟に成って居たけれどもワッハーブ派からヒジャーズを取り戻したエジプトのムハンマド アリ パシャ(Muhammad Ai Pasha)*1814年にターイフでの宿舎として住んでいた。この要塞はその時に修理され、そして今でもこの市の上にその塔が高く聳えている。城壁の外にはもう一つの要塞があるが、未完成のままで北からこの市を見下ろしている。この建設はイブン サウド(Ibn Saud)とイエメンのイマム(Imam)の間の戦争の時の1934年にサウジによって始められた。この作業はイブン サウドの迅速な軍事的勝利で中断された。もし完成すれば非常に大きな規模であるこの要塞は今でも丘の上に2つの完成した塔と銃眼付きの胸壁を目立たせている。市の城壁の外ではあるがその北西に密着しているのは不規則に広がったトルコ軍の兵舎であり、その一部は現在、飛行機の着陸場として使われている。

 

この市の通りはまずまず清潔で配置も規則正しい。煉瓦で建てられ、殆どが石灰塗料を塗られた家々は幾つかの23階建ての家もるけれども殆どが一階建てである。中にはジェッダの家の様に張り出し窓(Bay-window)を持つ家もある。市の城壁の中の家々でもっとも美しいのはバブ ハズム(Bab al-Hazm)の傍のカスル リヤド(Qasr ar-Riyadh)であり、後に王となったファイサル王子のターイフに来た時の住居である。

 

もう一つの目立つ建物はダール イマラ(Dar al-Imarah)或いは知事政庁であり、そこで我々は到着時にスマダ(Sumadah)*と呼ばれる頭覆いの下に2つの厚く編んだ頭髪を持つナジド族(Najdi)の副知事と会見し、来客として親切にもてなされた。

 

5.8.2 邸宅の内部とその家具(Interior of House and its Furniture))

 

ナリノはそれからこの邸宅の内部とその家具とこのホストによってナリノとその娘がほっとした気持ちになり、安心した事について記述している。ナリノは次の様に書いている。

 

この市について再び話すと「旅行シーズンの前の3月での我々の訪問の途中で立ち寄ったこの市には余り活気は無く、もしあったとしても全て開店しているが小さな店で構成されている市場でさえ殆ど静まりかえっている」と言わなければならない。

 

この市のモスクについてはハディ モスク(Masjid al-Hadi)を記述しなければならない。このモスクはリ門(Bab al-Rî) の近くの大きな四角い広場に多色の帽子を被った光塔(Minaret)と共にあり、市の城壁と接している。しかしながら、もっとも大きく、もっとも重要なモスクは同じ名の城門の近くの市の南南東の城壁の外に打ち込まれたビン アッバス モスク(Masjid Bin Abbas)である。このモスクにはヒジュラ歴68(687 - 688)に死亡した預言者の従兄弟アブドゥッラー イブン アッバス(Abdullah ibn Abbas)の墓が収用されている。バ サラマ(Ba Salamah)*によればこのモスクはムハンマドがムジラ イブン シュ’バ(al-Mujirah ibn Shu'bah)とアブ シュフィヤン イブン ハルブ(Abu Sufiyan ibn Harb)をターイフのバヌ サキフ族(Banu Thaqif)によって崇拝されていたラト神(Idol of al-Lat)を破壊する為に派遣した際にこの二人によって建てられた元々も場所に聳えている(4.3.5章もご参照戴きたい)。このモスクはこの市の栄枯盛衰を経験して居り、そのドーム屋根は1802年にワッハーブ派によって破壊されたが、後に再建された。

 

(注)バ サラマ(Ba Salamah)についてはヒジュラ歴1349 - 1353年(1930 - 1935)に出版された「ハヤト サイイード アラブ(Hayat Sayyid al-Arab)」の第III巻「メッカからジェッダへ」編を参照。

 

ターイフは周囲には様々な水井戸があり、ジェッダで問題になっている深刻な給水問題には悩まされては居ない。もっとも有名なのが近くでターイフの直ぐ西にあるカールワ村(Qarwah Village)からの’アイン アジラン('Ain Ajlan)の水である。この水は家々にはタナカ(Tanakah)と云うブリキの容器で運ばれる。知事政庁は同じくこの市から遠くない別の泉からの水をパイプラインを使って飲料水として受け取っている。

 

5.8.3 市の周囲へのナリノの印象(Nallino's Impression on Surroundings)

 

ターイフに主として古代アラビアの碑文を記録する目的でやって来たナリノは「この市の中心から離れた村々や土地の中の幾つかの場所で見けた」と言い、市の周囲に関する自分の印象を述べている。

 

一群の椰子が側面に接している白い三階建ての宮殿は北からターイフに到着する旅行者の直感的な注目を捕らえる。これがその名前は良く知られたカイロの郊外を思い出させるシュブラ宮殿(Shubra Palace)であり、20世紀の初めに前王(1916 - 1924)フサイン イブン アリ(Husain Ibn Ali, 1854 - 1931)の従兄弟のシャリフ アリ パシャ(Sharif Ali Pasha)のよって建てられた。この宮殿は幾つかの果樹と泉のある広大な庭園に囲まれている。その脇で少しさらに離れた後には地上階の上にもう一階ある古く、長い建物がある。この建物は1858年から1877年までメッカの首長(Amir of Makkah)で、シャリフ アリの父であるアブドゥッラー イブン ムハンマド(Abdullah Kamil Pasha ibn Muhammad, Reign: 1858 - 1877)によって建てられた。このニつの宮殿に使われた大理石はイタリアから輸入され、木材はトルコから輸入された。我々がその地上階から推測出来る限りではシュブラ宮殿(Shubra Palace)よりも高さにおいて勝り、初期の物であるもう一つの宮殿があり、さらにこの市の北で城壁の外に1881年から1906年までメッカの首長であったシャリフ アウン ラフィク イブン ムハンマド(Sharif Aun ar-Rafiq ibn Muhammad)によって、シャリフ アウンがターイフで没した時に建てられた宮殿がある。この宮殿は地上階のみが屋根無しで建てられ、その頑丈な造りの為にいまだに無傷で残っている。

 

(注)シャリフ アウン ラフィク イブン ムハンマド(Sharif Aun ar-Rafiq ibn Muhammad)がメッカの首長であったのはWikipediaには1882年から1905年までと記述されている。

 

バブ (Bab ar-Rî)から市を西に出ると最初に遭遇する村が郊外と言えるサラマ(al-Salamah)である。この村はこの地域の殆ど全ての村々と同様に低く、余り大きくなく、粘土と藁を混合してしっくい塗りした家々で構成されている。もう少し北がもう一つの郊外カールワ(Qarwah)であり、上記のアジランの泉(Ajlan Spring)とそのすばらしい飲み水がある。サラマ(al-Salamah)の西はマフジュブ(al-Mahjub)であり、小さな丘の麓にほぼ到達している。その丘は150mから200m位の高さがあり、花崗岩で出来、浸食され、丸みを帯び、その山腹には部分的に分離し、孤立した巨礫が転がっている。

 

この丘は「大酒のみの山(Mountain of Drunkards)」を意味するジャバル サカラ(Jabal al-Sakara)と云う名である。エジプトの哲学者で著述家のムハンマド フサイン ハイカル(Muhammad Husain Haikal, 1889 - 1957)の言によればこの名前は非常に古く、おそらくイスラム以前にターイフの住民の或る者達がそこを訪れ、夜を葡萄酒を飲みながら談笑して過ごした習慣に由来する。この丘は石切場として使われている。その切り出された石は驢馬で運ばれており、ヒジャーズに広く行き渡った慣行によればその驢馬の体はヘンナ(Henna)で薄く染められている。

 

サラマ(al-Salamah)の郊外から南に向かうとアシュラフ(Ashraf or Sharifs)によって所有され、みずみずしい野菜畑、小麦畑や大麦畑のあるマスナ村(al-Mathnah)に着く。

 

5.8.4 マスナ村(al-Mathnah)

 

マスナ村(al-Mathnah)に関して前記(4.3章)したバヌ サキフ族(Banu Thaqif)をイスラム信者の仲間入りさせる最初の試みに関する預言者の人生のエピソードについてのナリノ(Nallino)は記述している。マスマ村については以下に述べる。

 

マスマ(al-Mathamh)から荒涼とした平原を進むと広々としたワッジ涸れ谷(Wadi Wajj)とその砂地の河床へと導く険しい岩だらけの崖地に着く。そこから少し先に夏の間は日単位で行楽客に賃貸される日干し煉瓦(リベン(Liben))で造られ家々からなる小さな村ワフト(al-Waht)がある。この村の周りには多くの大麦やマヨラム(Marjoram)*等が植えられた小さな耕地・バサティン(Basatin)があり、又ここには泉もある。ワフト村(al-Waht)はその葡萄園でかつて有名であった。有名なムスリム指導者アムル イブン アース(Amr ibn al-As or Amr bin al-'As, c. 583/589 - 664)*がここに地所を持っていたと記録されている。

 

バブ イブン アッバス(Bab Ibn Abbas)を越えて直ぐのターイフの南東にはこの3年間で建設されたヤマニイヤ村(Village of al-Yamaniyyah)がある。ここにはジャミヤト シ’アフ(Jamiyat al-Si'af)*の小さな病院がある。そしてここに孤立した建物の中にジェッダ ホテル(Jeddah Hotel)が夏の間だけ開いている。

 

この村の左へと歩き、ターイフの南を南西から北東へと流れる涸れ谷ワッジ(Wadi Wajj)を最初に越え、それから岩の多い平原を越える。大きな丸石とサラム(Salam)*の緑の茂みを一瞥出来る丘の間で道路はますます狭くなる。それから肥沃な谷或いはこの地域ではもっとも肥沃な地域である涸れ谷リイヤ(Wadi Liyyah)を越える。この中では小さくぼんやりとし、日干し煉瓦(リベン(Liben))で造られ、それぞれに果樹園を持つ家々で構成される村々がある。ターイフから自動車道がこの村の最初の家までリイヤ(Liyyah)の著名人アブド ワッハーブ ハラワニ(Abd al-Wahhab Halawi)によって建設された。アブド ワッハーブはファイサル殿下(後のファイサル国王)をこの地域に招待し、旅が容易く成るように配慮した。

 

次に自分の少人数の一行がこの遠足の目的地に着くまで涸れ谷スマラ(Wadi Thumalah)のスハイラ村(al-Sukhayrah)等村々をナリノは訪れた。目的地はスド サマッラキ(al-Sudd al-Samallaqi or al-Sadd al-Samallaqi)2.3章参照)と云う名の涸れ谷スマラを跨ぐ壮大なダムであった。

 

これは本当に威圧する様な建造物である。ダムは不規則な石の塊で造られていた。石の塊は殆どが花崗岩で60cmから150cmあるいは200cmの長さがあり、隙間は小さな石で埋められて居る。ダムの下部には厚く頑丈な漆喰の痕跡がある。

 

ダムは相当に大きく、「ハヤト サイイード アラブ(Hayat Sayyid al-Arab)」の第III巻の326頁に掲載されているバ サラマ(Ba Salamah)*の記述によれば長さは140mで高さは中心で10mで厚さは8mである。ダムの方向は東西であり、両端は両側の丘の岩肌に接しており、涸れ谷の築堤を成している。

 

このダムは何時、誰に造られたのか?これらの質問に答えるのは難しい。アラビアの地理学者はこの件について何も言わない。彼等はダムの記述を省略しただけでは無く、涸れ谷スマラ(Wadi Thumalah)について述べる事さえしていない。涸れ谷スマラ(Wadi Thumalah)の名はおそらく部族名に由来するのだろう。バヌ スマラ(Banu Thumalah)は実際にバヌ アズド(Banh Azd)の支族である。ターイフを訪れたヨーロッパ人でこのダムを見たり、その存在を知った者は居ない。私の知っているアラブの著者でバ サラマ(Ba Salamah)*とムハンマド フサイン ハイカル(Muhammad Husain Haikal) *のみがこのダムについて記述している。バ サラマ(Ba Salamah)は「スッド サマッラキ(Sudd Samallaqi)はアマレク人(Amalekites)*がターイフを支配した時代に造られたのは明らかであり、その建造主は力のある男であった」と述べている。

 

ムハンマド フサイン ハイカル(Muhammad Husain Haikal)は全く違った詳細を「このダム(barrage)の建設はカリフ ム’アウィイヤ(Caliph Mu'awiyyah or Muawiyah, 661 -680)*の時代である」と述べ、「その証拠は碑文に書いてある。この何とか読みとれる碑文はアブドゥッラー パシャ バナジ(Abdullah Pasha Banaji)20世紀の初めに撮影し、解読の為にエジプトに送った。この碑文が解読され、そこには『アムル ビン ’アース(Amr bin al-'As)*が信者達の君主ム’アウィイヤ ビン アビ スフィヤン(Mu'awiyyah bin Abi Sufiyan)の指図でこのダムの建設を命じた』と書かれている」と付け加えている。

 

ナリノはどんなに注意深く探してもこのダムの石の上に古代の碑文の痕跡も見付けられなられなかった。従って、ダムの長さを記したバ サラマ(Ba Salamah)の文章に碑文については何も記載されて居ない事もあって、「ハイカル(Haikal)の情報は正しくない」と結論付けた。建設の時期についてはナリノは「南アラビアの似たような構造物スド サッラキ(Sudd Salllaqi)と同じ様に恐らくはイスラム以前である」と言う。

 

ターイフ(Taif)とシャファ(al-Shafa)の間の道路脇の古い家の傍に典型的な防衛塔(Husn) 建っている。注意深く、漆喰を使わずに積み重ねられた粗く切った花崗岩の塊が基本的な建材である。戸口の両側の側柱や入口や窓の上の横材となるまぐさ石は大きな塊から造られ、厚く粗く切られた材木で作られる頑丈な扉で閉じられる低く狭い出入り口が残るように組まれる。一番上から約1m下の花崗岩の突き出た石板が暗い花崗岩の塊を厚く切った乳白色の石英で並置して出来た装飾的な図案を持つ手すり壁を支えている。過去の不安定な時代に襲撃や戦争の際に避難所として使われた防衛塔はヒジャーズの山地では共通した光景である。その幾つかは先細りの尖塔の様にこの塔より遙かに高く聳えている。(写真はターイフ(Taif)とシャファ(al-Shafa)の間の道路脇に建つと上記した防衛塔では必ずしも無い。)

 

第六部 ターイフ市の昔と今(The City Yesterday and Today)

 

ターイフは古代の所産を色濃く残す市でヒジャーズではメッカと並んで一番古くイスラム以前の相当に古い世紀に創設された。

 

6.1 ターイフの城壁(Wall surrounding around Taif)

 

6.1.1 伝統的な防衛形体(Traditional Defensive Feature)

 

ターイフが昔から城壁で囲まれていた事は殆ど確実である。定住地は部族間闘争の不安定さの結果、かなりの家々の集団になれば出来るだけ早くその様な防衛的形体を整えなければ成らなかった。過去には防衛していない定住地は長くは続かず、ターイフの様な比較的豊かな地域社会に発展出来なかった。ターイフを囲んで散らばっている農地でさえ、砦から避難所フスン(Husn)の存在までヒジャーズの殆どの農地同様に一種の防衛的形体によって特徴付けられている。砦は危険が迫った場合おそらく幾つかの分離した家々からの人々が避難しただろし、フスン(Husn)は農場の敷地内に一つ以上はあり、家族達が部族襲撃に耐えた典型的な監視塔形避難所(Watchtower-Reboubt)であった。

 

6.1.2 防衛と発展(Guaranteeing Security but limiting Development)

 

ターイフの防衛を保証する一方で、城壁は同時に都市の発展をこの範囲内に制限して居た。「新しいグループに家々を取り込む或いは成長する人口を収用する新しい区画の建設の為に何世紀もの中で城壁自身が拡張されているが、これは常に控えめな規模であった」と云うのは確かである。もし最後の形体を考えると、それは1947年に解体される前の城壁で一つの側がおよそ450mの不規則な四角形をしていた。この城壁はこの市のもっとも傑出した特徴であり、時々で壊されたり、修復したりしてきているが、この市を外部からの攻撃から守る為にこの城壁はその機能を有効に発揮して来た。ターイフが巻き込まれた戦いの中の一番最後は1924年のサウジによるこの市の征服で、その時にはこの城門が長引く籠城を避けようとした市民によって開けられていたが、その結果は市内での破壊の物凄さであった。

 

6.1.3 タミシエ等による城壁の記述(Wall described by Tamisier & Others)

 

19世紀のターイフのもっとも正確で詳細な叙述は1834年にタミシエ(Tamisier)**によって与えられた。その叙述にはおよその寸法付きで城壁の記述が含まれている。それはこの本の至る所に翻訳され、引用されている。タミシエや他の訪問者から集められた情報からシャリフ家の著名な人物が所有する幾つかの豪壮な建物を除けばこの市は主として石造りで木製の屋根を葺かれ、平均的には二階建ての家々から構成されていた。メッカ方面からの出入りは北側の城壁の中程にあるシル門(Bab al-Sail or al-Sayl)から行われた。この門はシャリフ門 (Bab al-Sharif)、メッカ門(Bab Makkah)とも呼ばれ、後にはシュブラ門(Bab Shubra)、ハズム門(Bab al Hazm)とも呼ばれた。門の中には隊商が休息する広場があり、その南にはハディ モスク(Masjid al-Hadi)が今でも元の場所に建っている。市場(Suq)は広場とモスクの周りを占有し、市の城壁の北西の隅へと広がり、今では何の脈絡も無く様々な方向に無計画に延びるよじれた小路と路地の迷路と成っている。

 

この市の東側の城壁には門が無い。丁度、南東の隅の内側に三つのドーム屋根の建物が立っている。これはシムシムトルコ風呂(Simsim Turkish Baths)である。南側でこの市を二分している路地の突き当たりにビン アッバス門(Bab Bin Abbas)があり、城壁とこの門の名の由来となったモスクの東側との接合部に開いている。これは歴史的に一番知られたこの市のモスクでイスラム世界で一番勉強した預言者の従兄弟アブドゥッラー ビン アッバス(Abdullah bin al-Abbas)*に捧げられている。

 

もともと、このモスクは外側から城壁に隣り合って造られ、この市の計画から南側にはみ出ていた。このモスクに正面入口は今は南側であるが、昔は市のある北側であった。

 

ターイフ城壁の唯一残存する遺跡は旧市街の南西隅の直ぐ北に位置するこの小塔である。建造者は市のこちら側にある低い花崗岩の露頭を防衛の為に巧みに統合している。石工技術がこの建造の下半分に取り入れられ、日干し煉瓦技術が上部に取り入れられている。殆どの城壁に採用されている進入路は昔の旅行者の報告通りである。

 

この建物についてはタミシエ(Tamisier)の記述を既に紹介している(5.2章を参照)。ブルクハルト(Burckhardt)は「その全ては1802年のワッハーブ派の侵入の間に破壊されてしまった」との印象を述べている一方で、タミシエは二つのドーム屋根が壊されただけであるのを見つけた。勿論、タミシエが正しい。ブルクハルトとは異なりタミシエは行動が自由で、時間も十分であり、その観察の正確さと詳細さはこの点を証明している。

 

タミシエの所見からもう一つの事項が明らかに成った。モスク本体を被っていた二つの壊されたドーム屋根(Cupola)に加えて、アブドゥッラー ビン アッバスの墓にも小さなドーム(Qubbah)が一つあり、これはワッハービ派に壊されて居なかった。著述者達はドーム屋根をこのクッバ(Qubbah)とさらにもう一つのクッバと混同する傾向があるのでこれは大変重要な事項である。もう一つのクッバについてタミシエが記述していなかったが、少なくともダウティ(Doughty)**1878年にターイフを訪問した時から存在して居り、預言者の幼くして死んだ二人の息子アブドゥッラー タイイブ タヒール(Abdullah al-Tayyib al-Tahir)とムハンマド ハナフィ(Muhammad al-Hanafi)の墓を保護していた。不幸にしてダウティの23年前にターイフを訪れたシャルル ディヂエ(Charles Didier)**は何も建築的な詳細には触れず、「ビン アッバス モスクは再建され、石灰塗料で塗られていた。」としか言っていないので、この二番目のドームが何時造られたかについては知らないままにしておく。

 

この二つは1917年にフィルビー(Philby)*によって記述されている。1924年のサウジによる制圧の直ぐ後にターイフを訪れたルター(Rutter)は「これらはワッハブー派によって取り壊された」と公言している。これは1938年にナリノ(Nallino)によって撮影された記録証拠と一致していない。この記録証拠は明らかに二つのドームがまたそこにあるのを証明している。もし、本当にそれらがワッハーブ派(Wahhabis)によってその前年に取り壊されていたならばこの市はサウジの治世下にあったのでワッハーブ派はそれらの再建を認めなかっただろう。大いにそうでは無いらしいので、我々は「ルターはほぼ間違っていた」と結論せざるを得ない。しかしながら、この二つのドームはモスクの拡張と改築の過程で失われたしまった。正確な日付は分からないが1950年代のある時にこのモスクは現在の形と大きさに成った。フィルビーはこのモスクを「おおいの無い中庭に面した化粧漆喰細工をされた石柱廊の繊細な構造物で、その真ん中は二つの良く釣り合ったドームが盛り上がって」と記述している。広場の隅の一つには細い光塔(Minaret)が聳えている。モスクの正面入口は南側にあり、真ん中に扉のある簡単に装飾されたアーチである。

 

6.2 航空写真(1971年撮影)(Mosaic of 1971 Aerial Photograph)

 

1971年に撮影された航空写真をつないだ連続写真はこの城壁で囲まれた市の正確な境界とその外側の幾つかの重要な建物を示している。(この連続写真の画像が入手できなかったので衛星写真上にプロットした。)

(ここをクリックすると図が拡大します。)

(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)

 

(注)前述の「1925年頃のタイフ城壁」も合わせて参照戴きたい。

 

6.2.1 旧トルコ軍兵舎とその西側(Qishlah and its Western Side)

 

トルコ軍の兵舎(Turkish Qishlah)

政府の夏期政庁と王室事務所(Government Summer Head Quarters)

カスル カールワ(Qasr al-Qarwah)

カールワ地区(Quarter of al-Qarwah)

サラマ地区(Quarter of al-Salamah)

 

旧トルコ軍兵舎(Turkish Qishlah)とその西の道路両側の空き地は政府の夏期政庁と王室事務所で今は占有されている。(道路は現在では地下道となり、ジャイシュ(al-Jaysh)或いは陸軍道路地下通行路と呼ばれている。)

 

丸屋根のある円形建物(rotunda)から西北西への暗い地区はカスル カールワ(Qasr al-Qarwah)(ファイサル王(King Faisal)の王宮)を取り巻く庭園に仕立てられている。そこでアブドルアジズ王(King Abdulaziz)1953年に没している。宮殿の西と南はカールワ(al-Qarwah)地区とサラマ( al-Salamah)地区である。

 

6.2.2 旧市街周辺部(Surroundings of Old City)

 

南西部(South Western Areas)

 マスナ道路(al-Mathnah Road)

 サラマ通り(al-Salamah Street)

 カティーブ邸(Bait al-Khatib)

北西部(North Western Areas)

  キング ファイサル 通り(King Faisal Street)

  国際会議場(International Conference Center)

  ハダ通り(al-Hada Street)

  ジャイシュ通り(al-Jaysh Street)

  マアシ地区(Maashi Qaurter)

南東部(South Eastern Areas)

 涸れ谷ワジの左岸(Left Bank of Wadi Wajj)

 

この衛星写真の下の端で南西にカーブし、水管理庁(Water Authrity Office)の直ぐ北で道路を切り開いているたマスナ(al-Mathnah)道路も確認できる。サウジ治世下初期の代表的な見本であるカティーブ邸(Bait al-Khatib)はサラマ通り(al-Salamah Street)(ほぼ東西方向)のアーク部の真ん中にある。

 

並木で分離されたカールワ(al-Qarwah)の北(西北西から東南東)のキング ファイサル 通り(King Faisal Street)はこの衛星写真の左上部の現在は国際会議場になっている丸屋根のある円形建物(rotunda)を過ぎるとハダ通り(al-Hada Street)となる。このハダ通りの最初の部分は今では地下道に成っている。

 

キング ファイサル 通りと衛星写真の上の端まで真っ直ぐに北に延びるジャイシュ通り(al-Jaysh Street)(南北)の間がマアシ地区(Maashi Qaurter)であり、もう一つの三角地帯ではその少し丸い基線が涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)の左岸である。

 

6.2.3 旧市街(Old City)

 

南城壁

 アブドゥッラー アッバス モスク(Mosque of Abdullah al-Abbas)

 ビン アッバス門(Bin Abbas Gate)

 リ門(Bab al-Ri)

 リ門の要塞(Citadel of Bab al-Ri)

旧市街中央

マンティカト マールカジイヤ(中央地区)(al-Mantiqat al-Markaziyyah)

アスファル地区(Asfal)

ファウク地区(Fawq)

スライマニイヤ旧地区(al-Sulaymaniyyah)

カキ邸(Bait Kaki)

北城壁

 北の城壁のハズム門(Bab al-Hazm, Bab al-Shubra or Bub al-Sail)

イスマイル邸(Bait Ismail) 6.2.5章参照)

アブドゥッラー パシャ邸宅(Abdullah Pasha House)6.2.5章参照)

 

旧市内の南の端から突出しているのが元々の東側半分に被いの無い回廊を持つアブドゥッラー アッバス モスク(Mosque of Abdullah al-Abbas)である。ターイフの包囲の間に死んだ予言者の仲間の四角い墓場は市の側から被いのない中庭の北の入口の直ぐ近くになんとか見分けられる。第二の墓地は市の城壁とモスクの西側間の隅の空き地であり、もっと大きくもっと最近に成って作られた第三の墓地はモスクの南方向のダイヤモンドの形をした地域である。ビン アッバス門(Bin Abbas Gate)は明らかに市の城壁とモスクの東側の間の隅にある。

 

 

かつてはリ門の要塞(Citadel of Bab al-Ri)に囲まれていた岩山はトルコ軍の兵舎(Turkish Qishlah)の南東隅の下で高くなっている。引き延ばされた三角形の中の明るい地区とその東の地区は今は駐車場である。その時には既に解体されていた城郭の残骸はその左側に見られるだろう。そしてリ門(Bab al-Ri)の位置は丘の麓が市の西側城壁と直角を成している隅になので簡単に識別できる。

 

旧市街を北の城壁からビン アッバス モスク(Bin Abbas Mosque)まで横切る真っ直ぐな道路が今ではマンティカト マールカジイヤ(al-Mantiqat al-Markaziyyah)(中央地区)の東境界を示している。アスファル(Asfal)およびファウク(Fawq)と呼ばれる2つの地区に城壁で囲まれた市の西側は分かれていた。概ねアスファル(Asfal)は北半分であり、ファウク(Fawq)は南半分であった。スライマニイヤ旧地区(al-Sulaymaniyyah)と呼ばれるこの道路の東から東の城壁までは改造事業で先ず平に均された。

 

城壁で囲まれた市の中では7つのドームを持つハディ モスク(Mosque of al-Hadi)がハッキリと立っている。この市の北の城壁のハズム門(Bab al-Hazm, Bab al-Shubra or Bub al-Sail)の位置は観念的にはシュブラ通りが(Shubra Street)が南に延びて城壁を横切る場所と推測できる。最後に1930年代から残っているこの地方の建築様式の実例であるカキ邸(Bait Kaki)はビンアッバス モスク(Bin Abbas Mosque)の西側に位置する建物である。

 

6.2.4 大モスクの敷地とその北地域

(Site of Grand Mosque and its Northern Area)

 

大モスクの敷地

ジャイシュ 通り(al-Jaysh Street)

シュブラ通り(Shubra Street)

ターイフの最初の空港(First Airfield in Taif)

イスラム大祭(Eid)の祈りを捧げる広場(Eid Prayer Ground)

大モスク(Grand Mosque)

大モスクの敷地の北地域

前シャリフ アウン ラフィク宮殿跡(Former Palace of Sharif Aun

al-Rafiq)

ナジマ’小学校(Najma' Elementary School)

学校および関連施設(Scholastic and Related Facilities)

1934年にその建造が始められ要塞(Fort constructed from 1934)

 

ジャイシュ 通り(al-Jaysh Street)とシュブラ通り(Shubra Street)の間の長方形はアキク地区 (al-Aqiq District) の南部分とアジジイヤ地区(al-Aziziyyah District)全体で構成されている。

 

この大きな特徴はキシュラ(Qishlah)の直ぐ北の長方形の空き地であり、これはターイフの最初の空港で、後にイスラム大祭(Eid)の祈りを捧げる広場となり、現在は大モスク(Grand Mosque)の敷地となっている。

 

 

前飛行場の北東の隅の外は前シャリフ アウン ラフィク(Sharif Aun al-Rafiq)の宮殿敷地後に建てられたナジマ’小学校(Najma' Elementary School)である。この宮殿が南東の隅を占めていた長方形の地区全体は教育省のターイフ事務所を含め、学校および関連施設に供されている。衛星写真の上部中央の色つきの影で示されたその他の区域は要塞である。この要塞はイエメンと敵対関係にあった1934年にその建造が始められ、現在では国防航空省が占有している。

 

6.2.5 東城壁とその東地域(Eastern Wall and its Neighnoring Area)

 

東城壁

アブドゥッラー パシャ邸宅(Abdullah Pasha House)

シュブラ宮殿 (Shubra Palace)

城壁南東部(South-Eastern Area of City Wall)

キング ファイサル総合病院(King Faisal General Hospital)

ハッサン ビン サビト通り(Hassan bin Thabit Street)

ヤマニイヤ地区(al-Yamaniyyah Quarter)

 

この城壁に囲まれた市のそれぞれ北西および北東の隅の外に在ったイスマイル邸(Bait Ismail) 6.2.3章)とアブドゥッラー パシャ邸宅(Abdullah Pasha House)は恐らく、ターイフの近代化でもっとも不幸な犠牲となった。シュブラ宮殿 (Shubra Palace) はこの衛星写真には含まれて居ないが、その上部右端に非常に近い。

 

この城壁に囲まれた市の南東の隅の向かい側はキング ファイサル総合病院(King Faisal General Hospital)である。この病院が南西の隅に位置する三角形の地区はシャールキイヤ 地区(al-Sharqiyyah Quarter)の一部であり、ほぼ普通の道路網に沿った形をしている。ハッサン ビン サビト通り(Hassan bin Thabit Street)がシャールキイヤ 地区(al-Sharqiyyah Quarter) を扇形のヤマニイヤ(al-Yamaniyyah)地区と分離している。

 

6.3 ビン アッバス モスク(Bin Abbas Mosque)

 

6.3.1 ビン アッバス モスクの配置(Plan of Bin Abbas Mosque)

 

ビン アッバス モスク(Bin Abbas Mosque)はターイフの中心部では間違いなく、一番古く、「恐らくアッバース朝(Abbasid, 750 - 1258)のカリフ(Caliph)の一人が資金を出し、主唱して建てたのだろう」とフィルビィ(Philby)*は付け加えている。アブドゥッラー ビン アッバス(Abdullah bin Abbas)*がアッバース朝カリフ達の祖父であり、アッバース朝カリフ達がヒジャーズ(Hejaz)中でもターイフ(Taif)との緊密な関係を維持して居たので、これは相当に有り得ると思う。このモスクの北で隣接している小さな区画はターイフ包囲の時のムスリム殉教者の無名墓である。今は城壁の中にある大きな墓地がこのモスクの南に時代と共に造成された。

 

現在の建築配置図ではビン アッバスのモスクは東半分が被いの無い中庭で、西側は被いのある柱廊を持つ、平屋根の構造物であり、互いに隣接している。光塔(Minaret)は南側にあり、正面入口の上でモスクの被われた部分の中心にある。建物全体はリヤド石(Riyadh Stone)と呼ばれる黄金色の石灰質砂岩が1981年にターイフで第3回イスラムサミットが開催された際に化粧張りされた。

 

6.3.2 リ’門とバブ リ城(Bab al-Ri' and Bab al-Ri' Castle)

 

ビン アッバス モスクの北西へと城壁は延び、市の第3門まで続いている。この門はタミシエの時代にはサラマ門(Bab al-Salamah)と呼ばれ、後になってリ’門(Bab al-Ri')と呼ばれている。この名前は「この門は現在ではこの市の1地区と成っている城外のサラマ部落(Hamlet of al-Salamah)への出入りに使われたと同時に涸れ谷ワディ(Wadi Wajj)左岸のアラビア語ではリ’(Ri')と云う『険しい岩の傾斜』へと出入りするのにも使われた」と云う事実に由来している。唯一今日まで現存する城壁の塔がこの市の南西の隅とバブ アル (Bab al-Ri')の間の城壁のライン状に見られる。この門がかつて立っていた地区は通りがその名に由来を持つ事で容易く識別できる。この地区は政府の夏期政庁の東南の隅の三角形の駐車場のすぐ南である。駐車場と西に向かって高くなっている岩の支脈が小さなアクロポリス(Acropolis)作り上げている。その上にバブ リ城(Bab al-Ri' Castle)がかつて位置していた。この要塞は1788年から1813年までメッカ首長(Amir of Makkah)であったシャリフ ガリーブ(Sharif Ghalib)*によって建てられ、ナリノ(Nallino)1938年に訪れた以降に取り払われた。しかしながら、1980年までこの要塞に属する幾つかの構造物がかつては要塞の建っていた岩の露頭の上にまだ見られた。

 

6.3.3 改革者ミザト パシャの流刑(Banishment to Midhat Pasha)

 

これはオスマントルコ時代のこの城にまつわる残忍な物語があった。1881年に第34代スルタン(Sultan 1876 – 1909) アブデュル ハミド(Abdul Hamid, 1842 - 1918)*は偉大なトルコの愛国者で改革者ミザト パシャ(Midhat Pasha, 1822 - 1883)*に捏造した国王殺しの罪で死刑の宣告を科した後で裁判の不当性を非難する波が国際的な世論に成ったのに屈して死刑の宣告をターイフへの流刑に減刑した。

 

 

ミザト パシャは当時、スルタンの堅固な支配下にあったターイフに連れて来られ、バブ リ城(Bab al-Ri' Castle)に監禁された。しかしながら、スルタン ハミドはそれでもミザト パシャの人望を恐れ、2年間待った後に絞め殺させ、防腐処理した頭をミザト パシャが死んだ証としてトルコに送らせた。

 

6.4 キシュラと古い空港(Qishlah and Old Airfield)

 

6.4.1 キシュラ(Qishlah)

 

この城の外側を取り巻く城壁は19世紀にトルコが建てた兵舎であるキシュラ(Qishlah)の南東の隅に対して閉じられている。キシュラ(Qishlah)はそれぞれが300mの4つの石積みの城壁とその中央にある扉で構成された低い、四角な要塞である。中庭に向かって、境界は全て連続したアーチでその背後には守備隊の為の兵舎や食堂がある。僅かに中心から広い中庭の南東へ堂々とした二階建ての将校居住棟があり、食堂や幾つかの独立した居住用アパートが含まれている。この要塞の北門の西には司令官事務所と包囲された時に避難できる補強された地下ドームがある。サウジがターイフを制圧した後は軍用と行政両用の為の建物が内側に建てられ、国防・航空省に帰属していた。この要塞は1970年代の終わりまで政府の夏期政庁が建設する為の用地として更地にされた。

 

6.4.2 古い飛行場(Old Airfield)

 

キシュラの直ぐ北は20世紀の第1四半期にシャリフ フサイン(Sharif Husain)よって建設された格納庫を含むターイフの最初の飛行場であった。今はそこには大モスク(Grand Mosque)が立っている。ここではシェリフに仕えて居た不幸な白ロシア飛行士が1924年のサウジ軍によるこの市への攻撃を偵察する為にジェッダから派遣され、ターイフが既に陥落したのを知らずに着陸し、直ちに斬り殺された。歴史に残っているその家族名はボブロフ(Bobroff)である。この空港は次の6年間使われず、次の着陸が行われた1930918日には格納庫は崩壊していた。これは新たに英国から購入した4機のD.H.9で、将来のサウジ空軍の核となった。アブドルアジズ王もこの町におり、特別に作れられた休憩場の中に王の臨席を得て飛行編隊の到着を歓迎してこの軍用飛行場で大きな歓迎会が催された。何人かの王族や名家出身者の同乗も得ての何回かのデモンストレーション飛行の後、「半世紀の後にターイフで花開いた偉大な空軍の種を播いて飛行機はジェッダに戻って行った」と言えるだろう。

 

(注)フッセイン・ビン・アリ(Hussein bin Ali) フサイン・イブン・アリー(Husain or Husayn ibn Ali, 1854 – 1931)とも転写される。フサインはマッカのシャリーフ(Sharof of Mecca, 1908 – 1916)でオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299 – 1923)からのアラブ独立運動(Arab Revolt(1916 - 1918)の指導し、自らヒジャーズ国王(King of Hejaz, 1916 – 1924)とカリフ(Caliph, 1924)を宣言した。

 

6.4.3 大モスク(Grand Mosque)

 

ハウィイヤ(al-Hawiyyah)に新しい空港が作られた時に古い空港はターイフのイスラム大祭の祈りを捧げる広場(Eid Prayer Grand)となり、最終的にこの場所は市の大モスクの建設用地に指定された。このジャミ大モスク(Masjid al-Jami)1984614日木曜日に正式に開所した。この堂々とした、魅力的な建物は7,200平方メートルを占め、緑のドームで飾られ、2つの光塔(Minaret)を持ち、イマーム(Imam)と時報係(Muezzin)の為の住宅も他の施設に加えて含まれている。大モスクを取り巻く調和し美化された庭園と巨大な駐車場が元々の75,000平方メートルの敷地の残りを占めている。

 

6.5 ターイフ城外の固有のもっとも古い集落

 

ターイフ城外の固有のもっとも古い集落はマスナ(al-Mathnah)、サラマ(al-Salamah)およびカールワ(al-Qarwah)であり、これらはこの城壁に囲まれた市の西および南西にある。

 

6.5.1 マスナ(al-Mathnah)

 

マスナ(al-Mathnah)は涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)の河床にあり、この市と同じくらいに古い。前述した様に預言者は最初のターイフ訪問中に虐待され、ここに避難所を見出した。預言者と話した後にイスラムに改宗したキリスト教徒奴隷に因んで名付けられた小さなモスクは会合が行われたと報告されているその場所に立っている。このモスクはそれに敬意を表して低められたマスナの入口からアスファルト舗装道路の左側に見えるだろう。

 

石造りのアッダス モスク(Addas Mosque)は背の低い八角形で煉瓦漆喰造りの光塔を持っている。光塔の上部は円筒に成っており、日干し煉瓦で被われている。建物全体は傷んで居りどんな程度の補修であっても確実に恩恵を受けるだろう。マスナにはこの他に明らかに非常に古い小さなモスクが2つある。一つはジン モスク(Masjid al-Jinn)あるいはアラビア語で印度人を意味するフヌド モスク(Masjid al-Hunud)であり、アッダス モスクとは涸れ谷の反対側にあり、涸れ谷の岩岸に寄り添っていた。このモスクはもっとも一般的では無い円形の光塔を持って居り、下半分は石積みでその上に5層の煉瓦が積まれ一番上の層だけが漆喰で仕上げられている。光塔の一番上部の時刻係の露台(Muezzin's Balcony)の中心から短い柱で支えられた玉葱形の被い飾りが立ち上がっている。もう一つのクア モスク(Masjid al-Kua)は光塔の無い、非常に小さな建物であり、この涸れ谷の右岸にあり、その主たる特徴は建物の外側にあるメッカの方向を示すキブラ(Qiblah)である。

 

 

この場所のいたるところに荒れ果てたシャリフの田舎家と果樹園がある。マスナ村の殆どはシャリフ家(Sharifian)の構成員に所有されていたが、この村がターイフの近傍でもっとも豊かな農場地区の一つであった昔の様にはその幾つはもはや手入れをされていない。涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)のマスナ村から上流には2つの非常に小さな集落があり、ワハト(al-Wahat)とウハイト(al-Wuhayt)と云うそれらの名は多くの場合、ターイフのそれを思い出させる。「これらはターイフ市のマスナ地区(al-Mathnah)の様に地区では無いが、これはこれらを記述するには適当な場所である」と思っている。

 

(注)アムル イブン アース(Amr ibn al-As, 583/589 - 664)はアムル ビン アース(Amr bin al-'As, 583/589 - 664)とも転写されている。  

   

ワハト(al-Wahat)はイスラム以前から葡萄園として有名である。「北アフリカ征服者アムル イブン アース(Amr ibn al-As, 583/589 - 664)*はここの農場を100万本の葡萄の木と共に買い取った」と云われている。同じ村の少し南西のウハイト(al-Wuhayt)も農場の散らばる場所である。その中の1つは1881年から1906年までメッカ首長を勤めたシャリフ アウン ラフィク(Sharif Aun al-Rafiq, 1881 1906 or 1882 - 1905)の所有であった。その中には甘いライム(Sweet Lime)、柘榴(Pomegranates)、あんず(Apricots)、イチジク(Figs)および葡萄(Grapes)等の果樹の豊富な種類に加えてユーカリ(Eucalyptus)、糸杉 (Cypress Firs)、唐檜(Spruce)が厚く繁った素晴らしい果樹園があり、近くの泉から湧き出る小川で灌漑されていた。

 

6.5.2 サラマ(al-Salamah)

 

サラマ(al-Salamah)は今日ではターイフ市の市内に成っているが、これは昔は市とは別の村であった。サラマ村にはアッバース朝(Abbasid, 750 - 1258)カリフ ムクタディール(Caliph al-Muqtadir, 908 - 932)の母親が所有地を持って居た。そこにビン アッバスの子孫が自分達の祖先が建てたモスクの近くに定住した。もっと最近では聖なるカーバ神殿(Holy Kaabah)の鍵守りであったシャイビ家(Shaybi)を含む著名なメッカの家族が良く手入れされた果樹園に囲まれた夏期別荘を建てた。その中の多くの邸宅はビン アッバス モスクから数区画西のサラマ通り(al-Salamah Street)と市庁舎通り(al-Baladiyyah Street)の交差点の北西の角にある格調高いカキ邸(Bait Kaki)の様に今も現存して居り、もっと多くがリ門(Bab al-Ri')の西に向かって狭い通りを歩いて行くと見つかるだろう。

 

6.5.3 カールワ(al-Qarwah)

 

カールワ(al-Qarwah)はマスナ(al-Mathnah)やサラマ(al-Salamah)よりも確かにもっと最近である。この村についてはアラビアの古文書には記載されて居ないのでオアスマントルコ時代の発展を記述する。

 

カールワではそのキシュラ(Qishlah)への近接の為に多くのトルコ軍将校は自分達の家を持って居た。ターイフの最高の水源の1つであり、素晴らしい飲料水を生産していたアジラン泉(Ain al-Ajlan)はカールワの中にある。メッカの豊かな商人はこの地区にも漆喰細工で装飾した邸宅を建てた。その細工の例がカティーブ邸(Bail al-Khatib)であり、そこにはカスル カールワ(Qasr al-Qarwah)が建設される前に当時王子であったファイサル王(King Faisal)が一時住んでいた事もあった。カスル カールワ(Qasr al-Qarwah)は政府の夏期政庁の西にある王宮でファイサル王はターイフに逗留する間、そこの宿泊していた。カールワは今日では相当に郊外であり、そこには優雅な近代的一戸建て住宅が壁で隠された多くの果樹園のあるのをほのめかす高い木々に引き立たせられた魅力的な古い家々と共存している。

 

6.6 ヤマニイヤ(al-Yamaniyyah)

 

旧市街に近づくと近代の一番古い開発が城壁の東南の隅と涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)の左岸の間の三角地帯で行われていた。この三角地帯はこの地区(Quartet)でもっとも人口の多いイエメン人達(Yemeni)に因んでヤマニイヤ(al-Yamaniyyah)として知られた。フィルビィ(Philby)*がサウジ治世以前の1917年にこれを見た時にこれは粘土、石および石油缶で作られたみすぼらしい小屋の小さな一群で構成されており、イエメン移住者の貧困層、ジプシーの様な鍛冶屋や鋳掛け屋或いは巡礼の引き続いてここに取り残された単に物乞い達が住んでいた。ヤマニイヤ(al-Yamaniyyah)の南のシハール(Shihar)もフィルビー(Philby)が最初にターイフを訪れた時にはカラヒム(al-Qarahim)やマジャール シャシュ(Majar al-Shash)の丘々まで南に広がる地域に点在する小さな農場や果樹園を持つ同じ名前の分離した部落であった。

 

6.7 シュブラ宮殿(Shubra Palace)

 

6.7.1 偉大な建築上のランドマーク(Greatest Architectural Landmark)

 

旧市街の北も幾つかの農場があり、この区域はこの地域にシュブラ(Shubra)と云う名の卓越した建物が建設された後にこの名を取ってシュブラ(Shubra)と名付けられている。

 

 

シュブラ通り(Shubra Street)にある4階建ての堂々とした邸宅シュブラ宮殿(Shubra Palace)がターイフの偉大な建築上のランドマークであると見なされている最も高名な歴史的建物であり、シャリフ支配の時代(Sharifian Times)からファイサル王(King Faisal)治下の初めまで王宮として使われていた。洗練された木彫細工がシュブラ宮殿(Shubra Palace)の上部正面を特徴付けて居り、入口アーチの要石の上のカルトゥーシュ(Cartouch)(エジプト象形文字で国王・神の名がかかれている楕円形の花枠)には「アッラー以外に神は無く、ムハンマドはその預言者である...」との信仰宣言が提示されている。

 

6.7.2 カイロの宮殿の再現(Replica of Cairene Model)

 

シュブラ宮殿(Shubra Palace)に関する最初の記述は1854年にターイフを訪れたシャルル ディヂエ(Charles Didier)**の文章である。この市を北門を通って去りながら、ディヂエは「城壁の外の短い距離で右に迂回する。そこには厚い緑の庭園に囲まれ、シュブラと呼ばれ、カイロ(Cairo)から3マイルのハリド パシャ(Halid Pasha)の宮殿に似た大きな白い宮殿がある」と言う。

 

ディヂエは現在、見えている宮殿よりも古い宮殿について言及している。古い宮殿は建坪も大きく、地上階の上は1階だけであり、1858年から1877年までメッカ首長(Amir of Makkah)であったシャリフ アブドゥッラー イブン ムハンマド イブン アウン(Sharif Abdullah ibn Muhammad ibn Aun)によってその大シェリフ(Grand Sharif)に就任する幾らか前に建てられた。

 

(注)メッカ首長としての在任期間から「アブドゥッラー カミル パシャ(Abdullah Kamil Pasha ibn Muhammad, 1858–1877)とシャリフ アブドゥッラー イブン ムハンマド イブン アウン(Sharif Abdullah ibn Muhammad ibn Aun)は同一人物ではないか」と私には思われる。

 

モハンメド アルマナ(Mohammed Almana)*は「この邸宅はアブドゥッラーに大きな印象を与えたエジプトにある同じ様な建物のレプリカである」と述べ、この点を確認している。そして、「『カイロの宮殿(Cairene Model)を詳細に至るまで確実に再現しようとその建設に必要となる全ての建築材料をエジプトから運んで来た』と言われている」と付け加えている。しかしながら、アルマナは明らかに現存のシュブラ宮殿について述べている。この宮殿は半世紀後に建てられ、その建築主はアブドゥッラー パシャ(Abdullah Pasha)とされているが、実際の建築主は1879年から1882年の間のメッカ統治者であり、その正しい名前は略してトルコ語でアブディッラ パシャ(Abdilla Pasha)と呼ばれたアブディッラ イブン ムハンマド イブン アウン(Abdilla ibn Muhammad ibn Aun)でアブドゥッラーの弟である。

 

(注)建築主とされているアブドゥッラー パシャ(Abdullah Pasha)はアブドゥッラー カミル パシャ(Abdullah Kamil Pasha ibn Muhammad, 1858–1877)を指している考えられるが、1879年から1882年の間のメッカ統治者はアブドゥルムタリーブ ビン ガリーブ(Abdulmutalib bin Ghalib, 1880–1882)であり、アブディッラ イブン ムハンマド イブン アウン(Abdilla ibn Muhammad ibn Aun)と同一人物かは私は検証できないで居る。

 

6.7.3 二つのシュブラ宮殿(2 Shubra Palaces)

 

二つの同じ様な名前が引き起こした建築主特定の小さな問題を離れても、「2つのシュブラ宮殿がある」との事実から他の著者の記述にももっと多くの混乱を引き起こさせている。現在、シュブラ通り(Shubra Street)の北端にある宮殿は1905年から1908年までメッカの大シャリフ(Grand Sharif)であり、最初の宮殿の建築主の息子、シャリフ アリ イブン アブドゥッラー イブン ムハンマド イブン アウン(Sharif Ali ibn Abdullah ibn Muhammad ibn Aun)によって建てられた。両方の宮殿共に洗練された大理石や木材はそれぞれイタリアとトルコから輸入された。イタリアからはさらに新しい宮殿の為に建築家や職人が来ていた。

 

(注)1905年から1908年までメッカの大シャリフ(Grand Sharif)であったのはアリ アブドゥラー パシャ(Ali Abdullah Pasha, 1905–1908)であるが、シャリフ アリ イブン アブドゥッラー イブン ムハンマド イブン アウン(Sharif Ali ibn Abdullah ibn Muhammad ibn Aunと同一人物と考えてほぼ間違いないと私は思う。

 

元々は近くの泉から水路で給水され、今でも現存する鬱蒼と繁った庭園はさらに丸いプールと噴水で飾られている。果樹、ユーカリ(Eucalyptus)、糸杉(Cypress)、フィクス(Ficus)およびナツメヤシ(Date Palm)が目立っている。最初は1917年にターイフを訪れたフィルビィ*もここでエジプトの有力者からシャリフ アリに送られた籠に入った4羽の成鳥となった駝鳥とつるべ井戸を汲み上げる為の風車を見ている。

 

6.7.4 新シュブラ宮殿の間取り(Plan of New Shubra Palace)

 

これ以降、シャリフ アリ(Sarif Ali)によって建てられたシュブラ宮殿についてのみ述べる事にする。この建物の平面は4つの階各々、本質的に十字形をしている。真ん中に階段を持つ十字形の腕は4つの全く同じのアパートの間の広い廊下の役割をしている。各々アパートは全般的な外形は正方形で十字形の各々一対の腕の交差で入れ子に成っている。各々の正方形のアパートの側面は十字形の腕よりも少し短いので外からは凹所を設けている様に見え、それがこの建物の殆ど同じ側面に大変に愛らしい外観を与えている。

 

6.7.5 王宮としての占有(Appropriated to Palace by King Abdulaziz)

 

この宮殿はヒジャーズ征服の後、アブドゥルアジズ王に占有されており、フィルビィ(Harry St. John Philby, 1885 - 1960)*は王が滞在中の内部配置の一見を次の様に紹介している。

 

最上階と屋根は王家の家族の婦人達に確保され、王の謁見の間と政庁事務所は1階全体を占有してしていた。高い台座の上にあり、道路から一連の大理石の階段で入ってくる地上階は従者と護衛に与えられ、台所と補助的な事務所は宮殿に付属した塀のある庭園の中の独立した少し豪華では無い建物に入って居た。

 

謁見室の扉の前は豪華に絨毯が敷かれ、宮殿の庭を眺められる仕切窓があり(bicushioned)そして一種の長椅子が作られる。肘掛けによって2つの椅子に分割され、その一方に王が自分の側の敷居の上に電話とベルの押しボタンを持って座る。この王座のもう一方の半分は非常に卓越した客人あるいは高位の聖職者が着座したり、王との協議したりする為に空けてある。

 

王座仕切のどちらでも、どちらの側の壁の3分の2は長いベンチが置かれ、肘掛けで間隔に仕切られ、金襴で被われている。普通の籐椅子が2方の壁の残りの空間を埋めており、扉の両側の背後壁には護衛(Ziqirt)が完全武装して床に座っている。この時に王の息子達、甥達やその他の若い係累は現在謳歌している宮廷での上席は許されず、一般的には籐椅子に座り、ベンチは王族の長老、高官や訪問者に確保されるのが慣習であった。

 

シュブラ宮殿(Shubra Palace)は現在、国防航空省(Minstry of Defence and Aviation)に所有されており、同省はその保守保全とこの建物の多くの賛美者達の満足を得られる様に完全に保っている。

 

6.8 第二次世界大戦後の1947年城壁撤去

 

6.8.1 大戦後の城壁外への拡張(1947年から1956年までの間)

 

市街地の拡張面積: 1平方キロ以下から3.9平方キロまで 

開発された主な地区: シャルキイヤ地区(al-Sharqiyyah Quarter)および

シュハダ地区(al-Shuhada Quarter)

 

第二次世界大戦後のこの市の発展に伴い、現在でもなお続いている市街地の拡張拡張は1947年に城壁がひき倒された後、旧市街の東側の土地区画がターイフ市民に対して政府から分配された事で始まった。

 

その後の4年間で拡張は涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)の左岸にまで到達し、そして東を意味するシャルキイヤ(al-Sharqiyyah)と適切な名で呼ばれる新しいハラ(Hara)が生まれた。この地区はおおよそ東は涸れ谷ワジまで、南はヤマニイヤ(al-Yamaniyyah)そして西と北はキング サウド通りとその空港までの延長で制限される。その早い出現の為にシャルキイヤ(al-Sharqiyyah)は主として相当に規則的な道路網に沿って建てられた控えめな一層のコンクリート製の家々で構成されており、その商業活動はハッサン ビン サビト通り(Hassan bin Thabit Street)とカリド ビン ワリド通り(Khalid bin al-Walid Street)2つの幹線道路(Highway)とその周囲に集中している。

 

ターイフの西に向かってはこの4年間に孤立した別荘と幾つかの宮殿しか記録されていない。この期間に都市化した地域の合計面積は1平方キロ以下から2.5平方キロまで増加した。成長の同じ様な様式はその後も続き、発展は涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)を東に越えて互い直角に交わる規則的な道路網とシュハダ(al-Shuhada)地区を生んだ。1956年までにこの市は全面積は3.9平方キロにまで広がった。

 

6.8.2 市街地の拡張(1956年から1964年までの間)

 

市街地の拡張面積: 3.9平方キロから4.8平方キロまで 

開発された主な地区:マアシ地区(Hara of Maashi)

 

1956年からターイフの航空機からの調査が最初に行われた1964年までには国内経済の一般的な状態および不動産価格が上昇した為に投資家が大きな区域を買い占め、より高い利益を期待して開発しない儘に放置した事等が原因で成長率が落ちる事もあった。更に国防航空省(Minstry of Defence and Aviation)が幾つかの部局をリヤドに移転した事やアラビア横断道路の完成によってハダ(al-Hada)の開発が始まった事の様なその他の要素があり、それがこれまで制限されていた都市化を進め、全都市化面積は4.8平方キロと成った。この制限されていた開発の多くはハダが1965年に完成したジェッダからターイフへのバイパス道路に位置していたと云う事実によりマアシ地区(Hara of Maashi)で行われた。

 

6.8.3 市街地の拡張(1964年から1971年までの間)

 

市街地の拡張面積: 4.8平方キロから9.7平方キロまで 

開発された主な地区: シュアダ地区(District of al-Shuada)、シハール地区(District of Shihar)およびカリディイヤ地区(Hara of al-Khalidiyyah)

 

1971年にもう一回航空測量が行われ、新たに撮影された衛星写真と7年前の衛星写真を比較するのが可能となり、この期間に行われた開発の多くが南西部および南部であった事が分かった。これらはシュアダ(al-Shuada)地区とシハール(Shihar)地区であり、(シハール地区はシャファ(al-Shafa)への道路の起点に位置した傑出して景色の良い区域である。)さらにカリディイヤ(al-Khalidiyyah)地区での幾つかの追加工事が行われた。カリディイヤ(al-Khalidiyyah)地区は多くは夏用の住宅に使われる邸宅や宮殿等あるの地区でカールワ(al-Qarwah)地区の北で、ハダ(al-Hada)への道路の南に位置している。ターイフの市街地はこの期間に2倍以上に膨らみ、9.7平方キロとなった。

 

6.8.4 市街地の拡張(1971年から1977年までの間)

 

市街地の拡張面積: 9.7平方キロから12.8平方キロまで 

開発された主な地区: 政府の夏期政庁の建設(Construction of Government Summer Headquarters)、王家用政庁(Royal Diwan)およびキング ファイサル宮殿(King Faisal Palace)

 

1971年から1977年の間にこの市の拡張と以前は都市化地区では無かった多くの空き地が姿を消した事により市街地は更に顕著に拡張して12.8平方キロとなった。

 

この期間でのもっとも重要な単一開発は197311月に署名した2年契約による政府の夏期政庁の建設であった。この建設は前キシュラ(Qishlah)(トルコ軍の兵舎)敷地内に王の政庁、閣僚会議および各省庁の為の美しいガラスと大理石で飾った建物を建設する事であった。(これらの建物に王家用政庁(Royal Diwan)がもっと最近に西側に追加され、キング ファイサル宮殿(King Faisal Palace)が南に隣接して建てられた。)

 

6.8.5 市街地の拡張(1977年から1984年までの間)

 

市街地の拡張面積: 12.8平方キロから70平方キロ

開発された主な地区: 国際会議事場(International Conference Center)、キング ファハド公園(King Fahad Park)、ルダフ公園(al-Rudaf Park)、大モスク(Grand Mosque)、シャファへの幹線道路(Highway to al-Shafa)、環状道路(Ring Road)、スタディアム(Stadium)、幾つかの病院(New Hospitals)

市街化地域に編入された地域: ハダ地区(District of al-Hada)、シャファ地区(District of al-Shafa)、ハウィイヤ地区(District of al-Hawiyyah)および涸れ谷リイヤ(Wadi Liyyah)

 

1977年から1984年の期間にもこの市の全体的な拡張がと幾つかの大型の政府事業があった。我々が記述できるもっとも印象的なのは地下バイパスとなっているハダ道路(al-Hada Road)の上に建設された国際会議事場(International Conference Center)、キング ファハド公園(King Fahad Park)、ルダフ公園(al-Rudaf Park)、大モスク(Grand Mosque)、シャファ(al-Shafa)への幹線道路、環状道路、スタディアム、幾つかの病院等である。

 

1984年にはハダ(al-Hada)地区、シャファ(al-Shafa)地区、ハウィイヤ(al-Hawiyyah)地区および涸れ谷リイヤ(Wadi Liyyah)等の近郊を含めたターイフのの市街化地域は70平方キロを超えてた市役所の統計ではこの市には1974年には3万軒であったのが今では5万軒を超える住宅がある。これには小さなアパートから贅沢な邸宅や王宮まで含まれている。政府の夏期首都としての市基盤整備向上努力の結果としてターイフは今では交通、農業、健康、若年厚生、電信電話、給水、社会補助、教育等の分野を包含する包括的な行政網を持つに至った。ターイフが達成した人口増加はサウジ都市の中での地位を示している。

 

本当に成長が始まった1948年の2万人から本当に成長が始まると急増し、最初の実地調査に基づいた人口は1972年には10.6万人となり、1980年代初めでは35万人になっており、夏期シーズンには50万人を超えている。さらに2004年の国勢調査では前述の様に521,273人となっている。

 

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