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2006月1月31日
 豊かなオアシスに恵まれた原油の宝庫    (サウジアラビア王国東部州)

 その1 東部州の紹介    (Vo.1 Introduction of East Province) 著: 高橋俊二




   7. アラビア湾沿岸
  
   7.1 海岸農業地域
  
   7.2 真珠取り

  
   7.3 漁業
  
   7.4 舟と舟作り
  
   7.5 湾岸の生態系
  


7. アラビア湾岸

7.1 海岸農業地域 Page Top

ガティーフ・オアシスとタルート島を含むその周囲の小オアシスが一緒になって東部州海岸地域の主要な集落を成して居た。これらはバハレインの北海岸を除いて北のシャット・アル-アラブ(Shatt al-'Arab)と南のドバイ間アラビア湾の全アラビア側沿岸での唯一の農業地域であった。アラビアでは海岸の資源や熟練を当てにする度合いは他に較べて非常に少なく、シルクロードの一部として古くから知られてはいたが、その海運交易、真珠取りおよび漁業は少数派であり、しばしば農業の付属物であった。

例えばカティーフやウカイル('Uqayr)は港として栄えた事はあったが、良港としての条件には欠けて居り、バハレインが常に海から交易品を入れる港としてはもっと良い条件を備えていた。この為、多くの場合、カティーフは純粋にこの地方の為の港としてのみ使われ、ウカイルはハサ・オアシスの為の港として限られた役割を果たしたに過ぎなかった。

7.2 真珠取り Page Top

何世紀に渡って、おそらくは一千年もの間、真珠取りは重要な産業であり、その起源は多分、新石器時代まで遡ると思われる。中世においても真珠はデイツ(ナツメ椰子の実)と馬と共に重要な輸出物資であった。19世紀から20世紀初めに英国官吏による真珠取引の統計的報告によれば石油時代到来前のアラビア湾南海岸アラブ土候国(the Arab shaykhdoms)は圧倒的に真珠取りに依存していた。アラビア湾の真珠はその品質と量で世界的に有名であり、ボンベイを通じてヨーロッパおよびアメリカのファッションの店と取引された。

西暦1907年には4,500隻余りの舟と74,000人の男達がアラビア湾の真珠取りに従事し、西暦1907年の貨幣価値で少なくとも毎年150万英ポンドの真珠の輸出収入があった。西暦1920年代までこの額が増加しおそらく50万人が真珠潜水夫に依存して生計を立てて居た。バハレイン(Bahrain)の首都であるマナマ(Manamah)は真珠交易の中心となり、真珠商の中にはとてつもない金持ちに成った者達も居た。しかしながら、西暦1930年代にこの交易は日本の養殖真珠の出現で廃れてしまった。

7.3 漁業 Page Top

東部州の海岸では漁業は常に小さな規模の活動に留まって居り、これも又、陸地に基本的に依存している経済を反映していた。しかしながらこの地方の需要を賄う程度の漁獲は行われていた。多くの漁法は特にタルート湾(Tarut Bay)の地域の様に海草が繁茂出来る栄養豊かな海岸に沿った浅瀬で開発された。これらの漁法には刺し網(gill net)および立て網(trammel net)があり、両方の網は共に魚のエラをからませる様に設計されて居た。網は50 m以上の長さがあり、深さも通常1 mから2 mあった。網は海岸の自然の特徴が魚を網の方に導いて来る様に長い線につながれて居た。建網(stake net)はクリークや湾の浅い海に円形又は螺旋形に設けられた。網は棒から吊され、網の一方の端は陸地に上げられて居た。魚は螺旋の中に取り込まれ、その全ての場所でえらが網に引っかかり捕らえられた。

滑らかな海岸の沖合では囲い網(surrounding net)又は地引網(beach seine)が時代を越えて一般的に使われて来た。網はその長さに応じて歩行あるいは舟で沖に出され円く設えられ、それから岸へと引き上げられた。浅瀬では小さな魚を捕らえる為に直径が2 mから3 mの円い投網が一般的に使われた。投網には投げる熟練が必要とされる。

魚採りのヤナはアラビア湾の沿岸に沿って共通して眺められる。ヤナ漁は遠浅の泥や砂が堆積した海底に潮が干満するのを利用して行われる。V字型に成る様にナツメ椰子や葦の棒を水の中に垂直に立て、一方の端に引き潮の時に魚を捕らえる小さな囲みが設けてある。しばしば同じ様に設えた低い石垣が網の代わりに使われる。即席に作った手銛もいまだに時々使われ、日なたで暖まる魚を捕らえたり、夜間に浅瀬に沿って漁をしたりするのに使われる。簡単な手釣りも又、時々おこなわれる。

深みでは漁師は網籠(fish pot)を使う。昔は網籠をナツメ椰子の葉で作ったが今日では金網が使われている。網籠には餌が仕掛けられ10 m位までの深さに置かれる。もっと大きな魚は餌を仕掛けた釣り糸を舟の後に引っ張って行う流し釣りをする。漁業は今日も広く伝統的な形で続いている。近代化は一般的には材料だけである。例えば網は以前には綿のより糸から作ったが今ではナイロンに変わっている。一番明らかなのは恐らく帆に変わって舟内あるいは舟外に付けられたモーターを使う様に成った事である。

西暦1991年のアラビア湾の油濁汚染以前には政府機関はこの地域に近代的なトロール漁の可能な多くの漁業資源を確認し、海老等は実際にサウジ漁業会社が商業的に捕獲して居た。今日では漁業資源量を確認する為の調査が更に必要である。又、テラピア等の魚の養殖も一般的に成ってきている。

7.4 舟と舟作り Page Top

今日見られる伝統的な技法は殆どエンジンを付け漁や小物の短距離運搬に使われる小さなシュアイ(shu'ai)型である。昔、特に19世紀中頃にアラビア湾へ蒸気船が現れる前までは大きな貨物を運搬する帆船がアラビア湾沿岸の一般的な光景であった。しかしながらハサ海岸には天然の水深のある港が無かったのでその様な大型船は沖合に錨を打ち、小さな舟で海岸と行き来した。例えばカティーフでは喫水が6 フィートを越える舟は接近出来無かったがダリン(Darin)やラス タヌラー(Ras Tannurah)は深い停泊地があった。

従って、カティーフやタルート島にはバハレインやクウェイトで繁栄した舟大工産業が無かった。それにもかかわらず、今日でも或る程度の舟修理の出来るダリン(Darin)では多少の舟作りが行われて居た。昔の舟作りの方法はアラビア湾全てで共通していた。船首から船尾までの竜骨の上に先ず厚板が曲げられお互いに接合されて置かれ、肋材は後から固定されると云う船体工法が使われて居た。船体用厚板は端から端まで張り付けられた。船首から船尾までの竜骨に使われた角材や船体の板張りおよび帆柱は印度から輸入されたチーク材であったのに肋材や腕木はアラビア湾その他で産する自然に曲がった角材で作られた。

7.5 湾岸の生態系 Page Top

東部州の陸や海の環境の脆弱な生態系では多くの種が生存限界で生息して居る。海岸および海洋生物は砂浜、岩礁の海岸、平らな干潟、海草床、珊瑚礁、低い珊瑚島から成る暖かく、浅くおよび高塩濃度であるのがアラビア湾の主な特徴である。様々な魚類、海草およびアオウミガメと共にイルカおよびジュゴンがこの壊れやすい環境に生息している。アラビア湾岸は南北への鳥の渡りの重要な部分を占めている。ジンナ(Jinnah)、ジャナ(Jana)、カラン(Karan)、ハールクス(Harqus)およびジュライド(Juraid)を含む珊瑚島は海亀とアジサシの豊かな産卵地となっている。アル グライヤ岬(Ras al Buraydah)周辺のサルワ湾(the Gulf of Salwah)、タルート湾(Tarut Bay)と栄養豊かな泥干潟や海草床、アブ アリ(Abu Ali)とアル-ザウル岬(Ras al-Zawr)そしてマニファ湾(Manifah Bay)を含むサファニイヤ(Safaniyah)等も貴重な生態系をみせている

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