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2005月02月15日

花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)地方の紹介

(サウジアラビア王国南西地方)
その1アシールの国、アブハー





 

改訂平成240915

高橋 俊二

 

索引

前書き

緒言

紹介

1. 地形的特色

1.1 アシールの位置と境界

1.2 アシールの行政区範囲

1.3 アシールの地形の特徴

1.4 アシールの気候

1.5 アシールの植物性と動物性

1.6 アシールの棚畑農業

2. 歴史的特色

2.1 イスラーム以前のアシール

2.2 オスマン帝国による占領と首長や君主による実質分断支配

2.3 イスラームへの復帰とサウジ領への編入

2.4 歴史的な場所

3. 観光地アブハー市とその地域の住人

3.1 アシール族の起源

3.2 定住民と非定住民

3.3 アブハー市の概要と方言

3.4 アブハー周辺の観光地

4. 伝統的な住居、家具、家庭用品の特徴

4.1 環境と建築様式

4.2 建物の装飾と内装

4.3 家具

4.4 家庭用品

4.5 伝統的な住居、家具、家庭用品の変化

5. 伝統的衣装と装飾

5.1 伝統的衣装

5.2 伝統的装飾と装身具

5.3 伝統的は衣装、装身具の変化

6. 伝統的な香料と医療

6.1 伝統的香料

6.2 伝統的医療

6.3 伝統的な香料と医療の変化

7. 伝統的食事と飲み物

7.1 伝統的食事

7.2 伝統的飲み物

7.3 一般的な食事と飲み物の変化

8. 伝統的な環境への社会的通念

8.1 伝統的婚約

8.2 伝統的結婚式

8.3 妊娠と出産

8.4 成長のお祝い

8.5 割礼

8.6 宗教的行事

8.7 葬儀

8.8 伝統的な環境への社会的通念の変化

8.9 過去と現在の社会的役割や関係

9. 民芸への通念

9.1 対話、歌唱およびダンス

9.2 伝承的な格言

10. 過去と現在の教育や文学への通念

10.1 昔の教育、文学および韻文

10.2 教育の普及

10.3 文学の発展

11. 経済的環境への通念

11.1 農業

11.2 家畜の飼育と狩猟

11.3 交易と市

11.4 養蜂

11.5 伝統手工業と雇用

12. 社会基盤と発展

12.1 交通

12.2 電力、通信および情報

13. 出所と参照

後書き

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前書き

 

アシールを紹介した代表的な本にはティエリー・モージェ(Thierry Mauger)著の「未知の国アシール」とサウジ女性三人の共同著の「アシールの国、アブハー」がある。ティエリー・モージェ(Thierry Mauger)1980年代を通じてアシールを取材して居り、その記述には1987年からこの地を訪れ始めた私には共感する所が多いが、その著作は訪問者としての観察と云う印象が強い。これに対し女性三人の記述はサウジ人である彼女達自身が郷土の老人、首長、民間伝承専門家、伝統工芸の技術者への個人面接を現地で行った調査の報告である。彼女達はその調査内容を幅広く文献資料を参照しながら専門家に相談し伝承と伝統の記録としてまとめあげている。その功績は大きく、価値が高いと私は感じている。又、サウジ人によるサウジの紹介としてばかりでは無く、数少ない女性の目線からのサウジの記録としての意味も大きい。

 

彼女達がこの著書を書いた頃には地図が整備されて居らず又、宗教的にも伝統的にも女性である彼女達の外出が制限されて居た為に記述された地名の位置が明確では無い場合があるのは致し方無いと思う。ティエリー・モージェ(Thierry Mauger)はその点、軍関係の勤務者であった為か自ら用意した地図を使ってアシールの地名とその位置を良く示している。この両方の本の中に記されているのはサラート・アシール(Sarat 'Asir)とその西側の崖の上流部(アカバト(al-'Aqabat))、紅海に沿ったティハーマ山地(Jibal Tihamah)およびティハーマ海岸低地(Tihamah Coastal Area)等の地方である。アシール地方の東側を広く被う山塊や沙漠についてこの様にまとめて説明した資料は無いので、この地域については不十分ではあるにせよ私自身の体験で別途ご紹介する。

 

前回掲載して戴いた「古代文明の後背地タブク」ではやはりその文書の長さと資料の量の為に編集ではご苦労お掛けしてしまった。そればかりで無く読み易さの面でも問題があると思ったので、今回の「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)の紹介」では幾つかの続編に分ける事にした。先ず、その1として「アシールの国、アブハー」を抄録して紹介したいと考えた。

 

「アシールの国、アブハー」の内容は多岐に渡り特に伝承と伝統に関してはこれ程まで詳細に記した資料は無く、割愛するには忍びない。何とか限られた紙面の中で全体を紹介したいと考え内容を表に掲載する事でその試みを行った。全部の内容を表にするにはかなり無理もあった点についてはご容赦戴きたい。しかしながら彼女達が個人面接を現場で行った調査の内容はほぼ網羅出来たと考えている。なお彼女達の宗教的な表現はこの紹介では殆ど掲載して居ないのでご承知戴きたい。

 

ノウラ・ビント・ムハンマド・サウード (Amirah Noura bint Muhammad al Saud)

ジャウハラ・ムハンマド・アンカリ(Al-Jawharah Muhammad al-‘Anqari)

マデハ・ムハンマド・アジュロウシュ(Madeha Muhammad al-‘Ajroush)

 

達三人の作者の著書「アシールの国、アブハー」の著述は、アブー・ダッワスと言う名で知られた詩人 ミダウィ・イブン・ムハンマドが

 

「ゆるやかに曲線を描く谷の上に高く誇らしげに聳えた偉大な山々。その山々に雨粒の数でたくさんの警鐘を鳴らしながら雨がその訪れを告げる。

 

そんなやり方で雨が恵みの挨拶を豊かにこの地に送ると、輝く華やかな花々が至る所で一斉に咲き始め、それに答える。

 

そして降雨のわずかなけはいをこの地が感じるだけで野や牧地の草木はもっとも甘い芳香と香気を発散し始める。

 

高い山の上も低い谷の底も平和でありますように、沙漠の民と言わず町の民と言わず、この地の住人全てに平和を与えられます様にと願う」

 

と謡ったとのアシールへの賛美から始まり、

 

「私達が愛し敬慕して来たこの地の人々にこの本を捧げたいと思う。私達のこの地への愛をこの人々への愛としてこの本に表現した。ここに住み共に生活しても肉体的に精神的に彼らの一部には成り得無い程の精神の純粋さと性格の高潔さでこの地の人々は、世に知られて居る。この本は感謝の証であり、私達に与えられた優しい好意に幾らかでも報いそれに返礼する為の作品である。王国南部の一部であるこの地の人々にこの本を捧げる。私達に郷土への愛を植え付けその愛を支えこの本を完成させる為に助けてくれた人々にそしてこの本を私達の最初の作品として母に父にそして夫に送りたいと思う。神は成功を助け、正しい道へと導いて下さる」

 

と結んでいる。

 

この三人の作者の紹介は「アシールの国 要件一覧」の「表1アシールの国を著述した三人のサウジ女性」に記載した。 (注:以下に引用する表は全て「アシールの国 要件一覧」に掲載してありますので、本ページ使用中はこの要件一覧を開いておいて、随時参照してください)

 

緒言

 

ファーティナ・アーミーン・シャケル(Fatinah Amin Shaker)博士は「この本は私には特別な意味を持っている。ジャウハラが心に描く単に想像上の概念であった頃に始めてこの本の構想があるのを私は知った。この構想が実際に動き始めその責任をジャウハラと二人のサウジ女性ノウラとマデハとの三人で分担した事を知るまでに一年とは掛からなかった。

 

その数年前からアマチュア写真家としてマデハの事を私は聞いた。後に彼女を知り、彼女が教育、知性、気力、意欲を比類の無く兼ね備えた女性であるのが分かった。ノウラについては彼女の力量と彼女がこの南部での生活を楽しんでいる様子をアブハーの南部地区婦人会から十分に聞いて居た。この本を作るに必要な仕事はジャウハラの学究的な経歴に合っており、マデハの仕事は彼女の天性の才能、注意深い準備と関連する様々な検討に負っている。その一方、この仕事におけるノウラの引き受けた責任は彼女の大学での専門分野からは遠く離れかつ大変難しい挑戦一つであった。この役割に対し多くの時間と努力を費やし、ノウラはこの地でそれまでに調査活動を行った数多くの専門家に相談しその意見を訊ねた。

 

ジャウハラ、ノウラおよびマデハの三人の女性は教育、知性、意欲とこの地への愛を共有している。それまでには伝統遺産を記録する為にこの様に写真を多く使いそして情報豊かな研究は行われてなかったので私はこの仕事の業績を大変評価している。更に、この本が故郷を愛する婦人達だけの手で作られたこの種の最初の仕事であることへの評価も大変大きい。この本はサウジアラビアにおける女性進歩の一つの指標を示したと言える」との緒言を送っている。

 

紹介

 

アシール地方は地理的、歴史的にそして文化的に大変興味深いと思う。この地はアラビア半島を取り巻く様々な文化の入り口であり、その地理的特色はサウジアラビア王国の他の地方と大変異なっている。従って、この地域の住民が様々な文化に適合する為に他の地方とは異なった様式を経験して来た事が分かる。

 

この本では三人の著者はアブハー地区周辺に関する概要を伝えする事だけを考え、彼女達の研究をアシール地方全体にまで拡張しては居ない。「それは全ての地域を対象とした徹底的な調査には時間が掛かり、この仕事の範囲を越えていると考えたからである。読者はたくさんの魅力的な写真を眺めながら興味深い多くの情報を得られだろう。又、この地は全ての種類の研究への豊かな題材に恵まれて居るのでそれぞれの分野をさらに深く探求するのにも多少でも役立って欲しいと願っている」と彼女達は述べている。

 

この仕事の為の調査ではサウード王大学アブハー分室、アブハー文学クラブその他多くの私的図書館が協力した。それに加え彼女達自身で環境、人材や他の変化する分野に集中した相当量の現場調査を行っている。彼女達は現場調査で信頼すべき情報源の無い場合には調査材料の正確な確証や立証に取り分け力を入れている。撮影は夏の激しい降雨を避ける為に冬場に行われた。文書が完成してから撮影した為にマデハは他の二人の作者から彼女達の文書に合う場所、位置や状況の指定を受け4,500枚もの写真を撮影した。この本に掲載した写真はその様にして撮影した中の厳選されたものばかりである。

 

この本の執筆に当たり著者達の間では各章の責任を前述の「表1アシールの国を著述した三人のサウジ女性」に記載した様に分担されて居た。

 

 

アシール州

(ここをクリックすると図が拡大します。)

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アブハーとその近郊

(ここをクリックすると図が拡大します。)

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ディリア渓谷(Dili’)

ディリア渓谷ジーザーンへの道路(Jizan Road in Dili’)

棚畑の広がるサラート山稜(Fayfa付近)

ハバラの部落跡-1 (Ruined Village beside Habalah No.1)

ハバラの部落跡-2 (Ruined Village beside Habalah No.2)

カフターン族の蜂蜜売り-1(Honey Peddler of Qahtan-1)

カフターン族の蜂蜜売り-2(Honey Peddler of Qahtan-2)

サラート山稜のマントヒヒ(Baboons in Sarat)

ムハーイルへのサラート山稜道路(Muhayil Road on Sarat)

タヌーマ市街地-1(Tanumah-1)

タヌーマ市街地-2(Tanumah-2)

ティハーマの瘤牛(Humped Cattle in Tihama)

ティハーマ山麓(Foothills of Tihama)

ティハーマの駱駝ゴマ轢き(Camel Sesame Miller in Tihama )

 

1. 地形的特色

 

アシールの地形的特色については位置と境界、行政区範囲、地形の特徴、気候、動植物性および棚畑農業に分けて「表2アシールの地形地理および動植物」の記載したので、この章における記述と共に参照して戴きたい。

 

1.1 アシールの位置と境界

 

アラビア半島西の山並みは南のイエメンから北はアカバ湾まで続いている。この山並みには幾つもの谷や渓谷が横切っている。山々は同じ高さではなく、聳え立つ山も、低く山もそして鋭く尖り、植生やその他の生命の無い不毛の山頂を持つ山もある。この山並みをサラワート(Sarawat)と呼び、アシール('Asir)もその一部である。アシール('Asir)はイエメン北部から北はバーハ(Bahah)州の州境のバーハガーミド(Bahah Ghamid)まで続いている。

 

アラブもギリシャもローマも、古代の歴史や地理の学者はアシールの存在を無視していた。古代アラブ諸国の記述にはアシールの名は記されていない。イスラーム時代の幕開けに成ってようやくティハーマ・ヤマーン(Tihamat al-Yaman)とティハーマ・アシール(Tihamat 'Asir)の名前が幾つかの地理的区分の中に見られた。恐らくはティハーマ・アシールとはアシール族の住む地を意味していた。

 

アシールの名は中世に成って、特にサラート・アザド(Sarat al-Azad)を中心としたサラワート高地(the heights of Sarawat)に住む部族同盟の名として使われた。やがて、この地はアシールとして知られる様になった。この地の多くの山や谷の間に難路である細道や山道があった為、多くの専門家はアシールの名はアラビア語で困難を表すウスル(al 'Usr)に由来していると考えている。

 

シャイフ・ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(Shaykh Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab1703/1792 AD)のイスラーム改革の呼びかけがイマームムハンマド・イブン・サウード(Imam Muhammad ibn Saud)によって支持され、その息子のイマーム・アブドゥルアズィーズ ・イブン・ムハンマド・イブン・サウード(Imam Abd al-Aziz ibn Muhammad ibn Saud)によって継承された頃にアシールの住人は、サウードの名の下に保護されこの地に移り住んだ。

 

彼等はジルシュ地域(Jirsh)を征服し、その後、アシールの名は現在ではザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)と呼ばれる涸れ谷アリーン(Wadi al-Areen)から北のビラド・カアシャーアム (Bilad Khash'am)まで、そして西の紅海岸から東のリマール・タスリース(Rimal Tathleeth)までを含む地を指すように成った。従って、現在のアシール地方はサウジアラビアの南西部の中央に位置し、北緯1720分から2050分、東経4130分から4430分の範囲にある。この地方の延長はおおよそ四百キロメートルである。

 

1.2 アシールの行政区範囲

 

アシール州は九つの県に別れている。下の表にアシール州の各行政区である各県毎の人口分布を示している。行政県とそれぞれの人口分布に関しては「表3アシール州の九つの県と各県毎の人口分布」に記載した。

 

1.3 アシールの地形の特徴

 

アシールはユニークな地理的特徴を持ち、それがこの地域に住む人の生活に重大な影響を及ぼして来た。アシールの地勢は連続した地質的変動を通して現在の形に成って来た。現在の紅海を含む深い盆地を作っている地下の動きが紅海岸の両側に沿って二つ平行して延びて聳える山並みを作り出した。この内の紅海の東側に連なる山並みはアラビア半島の西側と南から北へと交差している。この障壁の山並みはイエメンでは1万1千フィートに達しているが、アシールやヒジャーズ山系へと北に延びるの連れ次第に低くなっている。山並みの障壁はアシールを地形的にも住民に与える影響に関しても明確に二つの地域に分けている。

 

ティハーマ海岸地域(Tihamah Coastal Area)

 

この地域は内陸側の山並みの障壁に近く、聳え立つ山々と紅海岸との間に位置している。ここでは各々の山が谷で別れ連続しては居ないがジバール・ティハーマ(Jibal Tihamah)と言う山塊を作っているのが見られる。この山々は紅海岸の両側に沿って二つ平行して延びて聳える山並みよりも標高が低い。

 

ジバール・サラート(Jibal al-Sarat)地域および空白地帯(the Empty Quarter)に至る内陸地域

 

ここでは山並みの障壁はアラビア半島西のサラート連山の西の縁を形作る程、高く聳えている。これらの山々の斜面はティハーマに向かっては壁の様に急であり、東に向かってはなだらかに下っている。この壁の稜線は分水嶺に成って居り、片側ではティハーマに向けて谷が傾斜しており、半島側では空白地帯に向けて谷が下っている。ティハーマに向かって下っている谷の上流部分をアガバト(al-'Aqabat)と呼んでおり、住人はここからティハーマへと下って行く。

 

これらの山々の中でスーダ(al-Sawdah)は海抜3,130 m (9,550 ft)である。この山の頂上一帯にはスーダ村が広がり、平らな高原の様に見える。この高原はティハーマ側には急峻に下り、東には穏やかに下っている。スーダ山の近くにはファス山(al-Fas)があり、殆ど同じ高さで、ティハーマへと急勾配に下っている。アブハーからスーダ山への間にはガワ山(Ghawa)が標高8,500 ftで聳えている。ドゥッラア山(Dhurrah)がアブハーの南に高く聳え、タハッルル山(Tahallul)はスーダの北に横たわる。アガバト・シアル('Aqabat Shi'ar)の近くにはバッルル山(Ba'rur)が立っている。

 

1.4 アシールの気候

 

アシールの標高と地勢の起伏が王国の他の地方と異なった別個の気候をこの地域にもたらして来た。最も重要な要素はアシール州が7月および8月が最も気温の高く熱い地域にあるアラビア半島西部に位置している事である。気温は標高に影響され、特に高山地帯では緯度よりも標高による影響の方が遙かに強い。1,000 ft (305 m)高度を増す毎に気温は華氏3°F下がるので、標高8,000 ft (2,438 m)では最高気温が華氏80°F(摂氏27°C)であり、熱い夏の盛りでさえ、山々の気候は凌ぎやすい。9月のアブハーの平均気温は20 - 25℃であり、10月には18℃に下がり、一年の残りの月は15℃まで下がる。アシールは降雨に関しては王国の中で一番豊かな地方であると考えられており、しかも夏期に豊かな雨に恵まれている。この雨は北に行くに連れ少なくなり、例年は涸れ谷ヒラ(Wadi Hila)で終わる。降雨の殆どはサラートの山並みの急峻な西の傾斜地に降り、内陸に入るに連れて減って行く。ジーザーン(Jizan)を除いてティハーマ低地には雨は不規則で殆ど降らない。

 

雨は通常、夕方に降る。普通、朝は輝く日の光で始まり、澄んだ空は雲が出来始める昼まで続く。その後に、雲が厚さを増し、夕暮れの後、時には驟雨と成って、時には小糠雨と成って降る。やがて、雲は散り、澄んだ空に再び戻る。アシールでの雨は一年中、何時でも降るけれど、特に西および南の季節風に直接曝されている山地が年間の降雨量で最も大きな部分を占めている。冬場には重要な気象現象がアシールに起きる。ティハーマの谷々から霧が上がって来て山々の山頂に集まり、空をぼんやりさせ、視界を数メートルまでに遮ってしまう。霧は晴れるまでに何日も掛かる。

 

1.5 アシールの植物性と動物性

 

気候はその豊富な季節的な降雨に相応しいやり方で人間や動物、植物の生存に著しい影響を与えて来た。降雨の量と植物の広がりが直接結びついたアシール山岳地域において、これは顕著である。アシールの大部分は植生が豊かであり、特に山岳南部や西側の斜面では背の高い緑の樹木の密林や密生した草むらやその他の草木が繁茂している。一番一般的な樹木は常緑樹のビャクシン(al-'Ar'ar TreePrickly CedarJuniper)、イツム(al-'ItmOleaster)、野生のオリーブ、棘のあるシハラ(al-Shiharat又はal-Shawkiyyah)やその他多くの植物である。季節的な降雨のあった後、これらの森は土壌の浸食を防ぎ、土壌の水分含有量を保持する。この地域は野生動物が豊かに繁殖しており、素晴らしい事に、狼、ハイエナ、豹、狐、鷲、マントヒヒ、ガゼル、アイベックス、野ウサギやその他多くの爬虫類や鳥類の生息地である。今では大型や中型の動物は殆ど見られ無く成って来ているが人間の営みの伴う残飯を食す鷲やマントヒヒ等の動物は逆に増えている。

 

1.6 アシールの棚畑農業

 

サラワート・アシールの西側の斜面では季節的な雨交じりの風を受け、毎年、雨が降っている。土壌は急な斜面を中腹や谷の両側、更に平原へと運び下ろされる。この結果、農地が散在し、砂やローム(Loam、砂と粘度の混じり合った柔らかい土)の堆積した場所を作り出した。農民は土壌の浸食を防ぐ為に山の斜面に農業用棚畑を築いて来た。緩やかに起伏する土地はこの地域の農業の形成に著しい影響を与えたし、丘に広がる小さな農場は平野の農場とは大変異なって居る。

 

アシールで栽培できる農産物はその標高、特に温度の影響を強く受ける。例えばナツメヤシは標高1,800 m以上では順調な生育は出来ないので高地での栽培は上手く行かない。アーモンドはこれと対象に高地の気候に合って順調に生育する。森林では例えばタルフ(al-Talh、棘のあるアカシヤ科)や野生のオリーブは標高9001,800 mの範囲で繁殖するのに対して、アルアル(juniper)(ビャクシン)は標高1,8002,200 mで繁殖する。

 

アシールの高低の多い地形やその険しい細道や山道は農業生産物を作るのに大きく影響してきた。結果として農業生産は商品化作物よりもこの地方の需要に合わせる傾向を持ってきた。今日ではティハーマとサラートの間に道路が開通し事で農産物の販売先は相当に広がった。

 

夏と冬の気温の違いが夏と冬の作物の多様性を作る重要な役割を果たしている。小麦、大麦そしてレンズ豆は冬に高地と高原で育つ。アシールでは気温は5℃以下には下がらないので作物は冬でも育ち続ける。温度範囲は勿論、区域毎に相当な差がある。トウモロコシ、真珠キビや胡麻は冬にティハーマで生育するが高原や高地では育たない。寒い冬に高地では育たない野菜でもティハーマでは生育出来又、この逆も真である。農民は気候の変化に適応し一年を通じてこの地域に季節の作物を供給している。どの植物もある温度以上でも以下でも成長を止めるので温度は植物の生長に重要である。

 

2. 歴史的特色

 

2.1 イスラーム以前のアシール

 

アラビア半島の他の地域同様に、イスラーム以前のアシールは政治的な国の組織を経験せず、今日的観念の中央集権政府を持たなかった。しかしながら、独立した政治的な単位として知られる部族はたくさん存在して居り、その部族制度では強い部族がその影響範囲を越えて他の地域や場所を襲った。イスラーム以前には、アシールは南から北へと周囲の国からの多くの政治的、経済的および宗教的風潮に曝されていた。

 

2.2 オスマン帝国による占領と首長や君主による実質分断支配

 

イスラームが到来すると人々は預言者の時代に厳格な宗教を取り入れイスラーム国家の旗に集結した。グレゴリアン暦の十六世紀に、オスマン帝国が東に西にアラブの国にその支配を拡大した。北はガーミド(Ghamid)、西はドカ渓谷(Doqah)の端から北のクンフザ(al-Qunfudhah)を境界とする「表4グレゴリアン暦の十六世紀オスマン帝国支配下のアシール州(州都アブハー)の県」に記載した6つの県で構成されるアシール州をこの帝国は作った。

 

特にアラビア半島においてはオスマン帝国の肯定的な側面よりは否定的な側面の方が勝っていた。オスマン帝国の統治の概念は単純であり、外敵から守り、税を徴収するだけで、属国の境界を越えて支配を広げる事は無かった。その他の事は帝国の管轄を越えていると考えられていた。その結果、信仰心の無さとイスラーム・シャリーア法の無視が一般化した。力と権威を争う多くの競合する支配者が跋扈するこの地域では政治的分裂、混乱そして無秩序が広がり、互いに争いの絶え間が無い部族の間で相当な敵対と争いが起きた。ヒジュラ暦十三世紀の初めには「表5ヒジュラ暦十三世紀初めの首長(シェイク)や君主(Prince)による分断支配」に記載してある様にアシールは多くの首長(シェイク)や君主(Prince)に分断支配されていた。

 

2.3 イスラームへの復帰とサウジ領への編入

 

政治的緊張や無秩序がアラビア半島の統一を復活やイスラームの厳しい遵守への動きの誘因となった。イスラームへの復帰はシャイフ・ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(Shaykh Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab)によってアル・ サウード(Al-Sa'ud)の支援の下に主導されていた。ヒジュラ暦1213(西暦1798/1799)この復帰の呼びかけは「表5ヒジュラ暦十三世紀初めの首長(シェイク)や君主(Prince)による分断支配」に記載してある様にアシール地域の何人かの首長が受け入れた。この二人の指導者はヒジュラ暦1215年(西暦1800/1801年)にディルイーヤ(Dir'iyah)を訪問してこの呼びかけへの支持を宣言し、その後の抗争を経てアミール・ファイサル・イブン・アブドゥルアズィーズ首長(Amir Faisal ibn 'Abd al-'Aziz)の軍隊がアブハーに侵攻、無血入城し征圧し、アシールをサウジアラビア王国の中の独立した行政体としてサウジ領にするまでに関しては「表6サウジ領への編入までの近代史」に記載した。

 

2.4 歴史的な場所

 

シャイフ・アハマド・ムターイン(Shaykh Ahmad Muta'in)が指導したアシール地域の史跡調査の研究から抜粋して城、城郭、遺構、モスク等の歴史的場所を「表7歴史的場所や宮殿」にまとめた。

 

3. 観光地アブハー市とその地域の住人

 

3.1 アシール族の起源

 

サラート(Al-Sarat)には古代から人が住み続けて来た。そこに住み、すでに死に絶えてその跡形も無くなっている民族もあれば、そこを立ち去り、他の地域に移って行っていた民族もある。「ナバテア族(Nabataeans)がシリア大砂漠へ移住したのはこの地からであった。」とも語り継がれている。その後に、マアリブ・ダム(Marib Dam)の崩壊の為に四散したウズード族(Uzud)が北上して来た。

 

後にこの地域の部族は互いに団結してアシール族を編成した。「アシールと言う部族名はこの地域の名前を取って名付けた」と大勢の人達が信じている。この同盟に参加した多くはカフターン族(Qahtan)およびシャフラーン族(Shahran)の幾つかの集団とウズード族(Uzud)である。その形成までの経緯を「表8アブハー周辺の住人の祖先」に記載した。

 

3.2 定住民と非定住民 

 

環境がこの地域の人々の日常生活を形作る重要な要素であり、社会的、文化的および人類学的に大きな影響を及ぼしている。アシール族は大きくは定住民と非定住民の二つのグループに大きく分けることが出来る。

 

定住民(Settlers)は村や市街に住み、農業で生計を立てている。彼等の村は小さく、畑や農業用棚地の間の広い場所にまばらに散らばっている。村々は一般的に一部族ないしその中の一支族だけが住んでいる。従って、これらの村々の殆どはその名をそこに住む部族や支族名の後に付けている。

 

非定住民(Unsettled Inhabitants)はアシールの山の斜面やティハーマ山系の山の頂上に住んでいる。そこは涸れることの無い泉や緑の牧場の豊かな場所であり、彼等はいまだに草と水を求めて放浪する定住しない遊牧の生活を送っている。彼等は駱駝、羊や牛を飼い、その生計を立て、テント生活を送り、テントは次の露営地に移動する際は駱駝や騾馬に担がせて運ぶ。アシール地域の中で最も有名な部族はアシール族('Asir)シャラーン族(Shahran)カフターン族(Qahtan)およびリリジャール・ハジャル族(Rijal al-Hajar)である。ここではアブハー市近郊に住む幾つかのアシール族に関心を集中した。

 

定住民および非定住民の気質、支族、居住地区、人数、隣接部族等をそれぞれ「表9アブハー周辺の定住人」および「表10アブハー周辺の非定住人」の二つの表にまとめた。

 

3.3 アブハー市の概要と方言

 

アブハー市はサラワート山脈(Sarawat Mountain Range)の中にある。サラワート山脈の東斜面へと気温は上がるが、気候は穏やかである。冬季の降雨量は平均400mmに達する。この地域はサラワート山脈の中の高原から成り、場所によっては海抜2,000mを越えている。豊かな峡谷や谷がその両側に多くの農村を持ち、主に西側および北側へと延びている。アブハー市の人口は全部で392の付属する村落を含め、115千人で町民、農民およびベドウイン等の住人の故郷である。アブハー市の概要と方言および行政権と人口分布についてはそれぞれ「表11アブハー市」および「表12 アブハー県の人口分布」の二つの表にまとめた。

 

3.4 アブハー周辺の観光地

 

アブハーはサウジアラビアで早くから開発された観光地であり、一番重要な観光地の幾つかはアブハー市周辺で見られる。45千ヘクタールの国立公園には山の傾斜地と高く聳えた高地の大部分を取り込んでいる。国立公園内のスーダ(al-Sawdah)カラアー(al-Qar'a)ダラガーン(Dalaghan)は遊歩地として開発されて来た。この中の最も高い160mから240m幅の狭い細長い場所では標高3,040mに達する。アブハー周辺の観光地に関しては「表13アブハー周辺の観光地」に概要を記載した。

 

4. 伝統的な住居、家具、家庭用品の特徴

 

4.1 環境と建築様式

 

人間とそれを取り巻く環境には不朽の関係があり、それぞれが影響し合っている。人間は常にその存在の持続性と最高の生活水準の両方を得られるようなやり方で環境に適合しようとして来た。この地域の地理的な特徴については既に説明しているがその為にアブハーやサラート・アシール(Sarat 'Asir)の建築様式が王国の他の地域と外部的にも内部的にも異なっている。

 

この地域は豊富な降雨と冬場の寒さで知られている。この地域への適応は頑丈な土台と壁を持つ住居様式として顕れている。並べられた石の列が豪雨から壁を守り、土壁への雨や霰の浸食を止めている。この構造がこの様式の建物を時には数百年に及ぶ長い期間に渡って保存して来た。

 

更に保存と強度を増す為に山岳高地では建物は元々、石で築かれていた。陽光は取り入れるが冷たい風の侵入を防ぐために窓は小さく狭く壁の中程に設けられている。円錐形の建物の構造が風に対する強度を一層強めている。建物の形式には完全に石造りの建物、石と土で出来た建物および完全に土だけで築かれた建物の三種類がある。

 

環境と建築様式の関係は建物の様式および建築方法を詳細に調べると分かって来ると思う。その建築様式、建築方法および天井窓扉については「表14伝統的建築様式」に、利用階毎の建物の利用に関しては「表15建物の利用の仕方」にまとめた。

 

4.2 建物の装飾と内装

 

全ての建家の建設は部族や村の仲間に助けては貰っても男が全てを行った。場合によっては、仕事の補助の為、人も雇った。男の仕事は建物を建築し、扉と窓を据え付けて終わる。その後は女の番である。女は漆喰塗り、壁や床ならし、壁の装飾や色付け等の残りの仕事を引き受ける。ウンム・フサイン(Umm Husayn)がこの理由を尋ねられた時に、彼女は「この様な機能は男が傲慢に拒絶している芸術的で女性的な仕事と考えられて居る」と答えた。この様な態度や男は畑仕事の責務がある事から女性がこの仕事をやることを余儀無くして来た。アブー・アリー(Abu 'Ali)は「これは女の家で、内部を装飾するかどうかは女次第である」と言っている。女にその様な自由を与えている概念が女に家は自分の財産であるとの感じを持たせ、かつ自分の家の清潔さ、装飾、色彩に留意するのは彼女に取って重要な問題と成っていた。

 

漆喰塗り、壁や床ならし、壁の装飾や色つけやその色彩の準備等の女性が担う役割に関しては「表16女性の役割である装飾と塗装」にそれぞれまとめて記載した。

 

4.3 家具

 

昔の家具について話す時にはその時代の簡素な生活様式と人が与えられた環境で入手できる素材を使って如何にその環境と適合するか営々と努力してきたかを思い起こさなければ成らない。昔の家具はまさにこの努力の歴史の証拠である。家具は殆ど羊の毛、駱駝の皮、ナツメヤシの繊維の房や葉そして木の樹脂から作られている。従って、家具は非常に簡素に見える。そして昔は貧困であった為にどこの家族も家具を必要最小限に制限していた。そう言った家具の例をそれらがどの様な使われ方をしたかと一緒に「表17家具」で一覧表に示してある。

 

4.4 家庭用品

 

アブハー地区の道路には昔は舗装も無く、簡単には近寄り難かった。これまでに既に述べて来た様に人々は身近な環境で入手可能な物は何でも利用して来た。古い家庭用品の形式やそれらの材料が周囲のある物を最大限利用し適用して来た人間の能力を証す例である。それらの家庭用品の幾つかを囲炉裏用品、台所用品、掃除用品(衣料を含む)、おもちゃに分けてそれぞれ次の表に記載した。

 

「表18家庭用品」

「表19囲炉裏用品」

「表20台所用品」

「表21掃除用の消耗品及び備品」

「表22おもちゃ」

 

伝統的な住居の変化はこの地域全体がサウジアラビアの他の地域と交流し始め変わって来た事と深く関わって居る。石油の発見は国家財政を改善し、この地域への歳出増加をもたらした。道路の建設や交通の進歩で様々な家庭用品、用具や日用雑貨が市場から今日では簡単に調達出来る様に成った。

 

4.5 伝統的な住居、家具、家庭用品の変化

 

大きな根本的な変化が農業、建築材料、建築方法や流通の分野に起きた。近代的住居では住居内に浴室が作られ、台所が住居の一番上に設けられる事も無くなった。電気暖房の導入で家族が暖を取り合う為に一つの部屋に寄り添う必要性は無く成り、寝室の数も増えた。彩色や装飾も少なくなり、女達は装飾や彩色の仕事をする必要が無くなり、伝統的な材料も方法も失われ、輸入された塗料が市場で売られている。

 

家具の簡素さは複雑化され輸入家具が地場産の伝統的な家具と大きく入れ替わってしまった。包括的な変化は台所用品にも起きた。ガス・ストーブが遠隔地の村も含めて殆どの台所に置かれた。ブルム(al-Burm、粘土製の鍋)が蒸気式調理器に代わり、木や粘土の皿がガラスや陶器の皿に代わった。椰子の枝で作られて来た箒は電気掃除機と代わり伝統的な泥やアッファール樹('Affar)の泡やアブー・イジュラ樹(Abu Ijlah)の石鹸は何百種類物もの石鹸や洗剤に代わって来た。手洗いの洗濯は自動洗濯器に代わり炭火式アイロンは電気アイロンに代わった。その様な変化を伝統的な住居の変化に関しては「表23 伝統的な住居、家具、家庭用品等の変化」にまとめた。

 

石造りや泥作りの高層の家が荒れるに任され、補修するにしても伝統技術がなくなりキルビー(Kirby)やサイディリアのようなメッキや塗装された薄い波型鉄板で補修された最近の姿を私は痛々しく眺めている。観光で高級ホテルの建設に力を入れる一方で毎冬に行われるリヤードのジャナードリーヤ(Jinadriyah)祭りの様にアシールでも伝統技術技能の保存にも力が入れられるべきである。

 

5. 伝統的衣装と装飾

 

5.1 伝統的衣装

 

昔の生活の貧しさと質素さは人を山暮らしに適応させ、他の全ての事と同じ様に自分の周囲で手に入る物を活用して衣服として来た。伝統的な衣装は絶対的に必要な際に使うだけに限られ、普段着は羊毛か鞣し皮で作られた。加えて、アラビア半島の南や大シリアから運ばれて来た衣服の数は限られて居り、男の衣服も女の衣服も地場の仕立屋で作られて居た。男性用の伝統的な衣服、女性用の伝統的なドレス、子供の衣服を「表24伝統的な衣装」で紹介し、男性用および女性用の幾つかの衣装例を「表25衣装の例」に記載した。

 

5.2 伝統的装飾と装身具

 

男が誇りに思う武器は伝統的な装飾や宝石があしらわれ男粋の一部として護身の為に現在でも常に身につけられている。アシールの男達は経済的な状況とは無関係にダガー(短剣)を身につけずには行動出来ない。男の子は10歳を越えるとその使い方を教わり使いこなせる巧みさを誇りにして居た。ライフル銃がこの地方に伝わってからはダガーと同じに重要視され同じ目的で使われている。

 

全ての場所と全ての時代に、安かろうと高かろうと自分を飾る宝石類を求めない女性を見つけ出す等、殆ど有り得ない。アブハーの女性達もその例外では無く装身具を好んだ。昔はその限られた収入の為に装身具の主な材料は銀であり、女性は銀製の指輪、腕輪、足輪を身につけた。金の装身具が一般に使われる様に成ったのはこの三、四十年の事である。銀製の装身具のある物は地場で作られ、ある物はナジュラーン、イエメンや印度で作られた。これらの銀製の装身具は丁寧に、独自の図案に基づき作られて居た。

 

男性用の武器および女性用の装身具に関してはサウジ統治以降の変化も含めて「表26伝統的な武器と装身具」および「表27伝統的な武器と装身具の例」に掲載した。

 

5.3 伝統的は衣装、装身具の変化

 

サウジの統治が始まると共に様々な政府の代表がナジュド地域からやって来て次第に変化が始まった。この国の正装はこの地域の伝統的な衣服の好みに合わせられ始めた。伝統的な衣服(トーブ(Thobe))の丈は少し増し、新しい衣服は軽い毛織りで作られたゆったりした衣服のビシュト(al-Bisht)になった。女性の服装の変化は多くの種類の色調と刺繍の施された布がもたらされて始まった。女性用衣料は既製服が輸入され、週毎の市で売られた。世界中から輸入した女性用衣料を展示販売する為に多くの店がオープンした。伝統的な服装は年輩者や公式行事やお祝いの席で着られるのみに成って来た。

 

装飾と装身具については黄金の輸入と経済的な発展で人々は銀製に代わって金製を買い始め、金細工屋が地元にも営業を始めた。金と装身具の商人は外国から装飾用の真珠や宝石を大量に買い入れた為に、宝石が非常に一般的になった。今日では金の装身具が銀の装身具よりもはるかに一般的に成っている。

 

6. 伝統的な香料と医療

 

6.1 伝統的香料

 

この地の住人は清潔さと住居と身体への香料の使い方に非常に重きを置いて居る。この地域に芳香植物やハーブが豊富にある為にこの様な習慣が助長されて来た事には疑いの余地も無い。特に髪を長くするのが習慣であった時代では自分と自分の衣服に甘い薫りを与える為にバジルの小枝をターバンに差した男はごく普通であった。

 

髪に美しく飾り、香水をつける事を好む女性の場合は香水に関してはもっと顕著である。香水をつけるのは女性らしさの一部であり大きな部分である。女性は自分の畑や家の周りに芳香植物を植えているが、量が要る時には毎週の市で簡単に手に入れられるだろう。女性はこれらハーブを上手に扱い、色々な方法で香料を作っている。

 

香料の伝統、使い方や作り方は「表28伝統的な香料」に紹介した。

 

6.2 伝統的医療

 

伝統的な医療について話すとアラブの歴史や民間伝承薬の話にずれてしまう為、現地調査の中からかつて流行った病の種類やその治療法に関する簡単な知識についてだけ記載されている。人体が太陽、空気、暑さや寒さ等の多くの自然の風雨に曝されて居た時代には人間の免疫は特定の病気に抵抗出来るだけ、十分に強かった為に簡単な治療でも病気を直せて居た。しかしながら、その時代、快復も出来ず又、治療法が分からなかった天然痘(Smallpox)、髄膜炎(Meningitis)、腸チフス(Typhoid) およびその他の疫病(Plague)があった。疫病が広がると一つの村全体が全滅し、その犠牲者は数え切れなかった。又、今日知られている糖尿病(Diabetes)、血栓症(Thrombosis)および扁桃炎(Angina Pectoris)等の多くの病気を昔の人達は知らなかった。医療は主にハーブ(Herbs)や焼灼(Cauterization)に頼っていた。

 

過去に最も良く使われた名高いハーブや穀類および医療法を「表29伝統的な医療」に記載した。現場調査によって分かった幾つかの病気とその伝統的な治療法については「表30各種病傷と伝統的な治療法」に紹介する。又、日常的に使われた化粧品についても「表31化粧品」に記載されている。

 

6.3 伝統的な香料と医療の変化

 

香り付けはアブハーで外からの影響を受け無かった数少ない事柄の一つである。香り付けの習慣の中で変わったり、無くなったりした物は無い。芳香植物は今でも栽培され、売られて居る。女性は芳香植物から香水を抽出したり、芳香のある香料を作ったりして居り、家々はオリエント的な香りで溢れて居る。この事は近代的な香水が受け入れられて居ないとか、存在しないとか、言う事を意味しては居ない。アブハーやその周辺の市場にはパリやオリエンタルの香水店が溢れて居る。香水への嗜好はこの地域ばかりでは無く、王国内の殆どの地域でサウジ市民の間に顕著である。高価ではあるが贅沢品では無く、必需品であると考える人も少なく無い。

 

医療に関しては今日では診療所、健康センター又は病院の無い谷は無くなった。アブハー市内には多くの私立診療所の他に、三つの政府の病院、十九の健康センターがある。

 

7. 伝統的食事と飲み物

 

7.1 伝統的食事

 

「我々は空腹の時にのみ食べ、飽食する前に食べるのを止める民である」。この原則は昔の人々はより厳しく適用して居ただろうし、その時代に入手可能であった食材の種類もその原則を守るのを可能にして居た。アブハー地域は或る程度は農業地帯として考えられては居るが、栽培されて来た作物は小麦、大麦、トウモロコシ、幾種類かの果物と野菜のみであった。従って、昔の食物は主として小麦で作られて居り、それにブッリ(al-Burri)と呼ばれる動物の脂肪や蜂蜜を加えて居た。この三要素から出来た食物が決められ、毎食、変わることの無い部分であった。元々のこの地方の産品では無いにせよ、ナツメヤシの実は必要とされ、好まれそして殆どの家で常に供されて居た。

 

この地方で入手可能な食材は限られては居たがその限られた食材で昔の人は健康、強さ及び活力を保持して来た。日中には料理した食物は食べず、幾らかのナツメヤシの実と小麦のパンを食べて居た。調理は夕食の為にするのが普通であった。このやり方に従えば、日中は畑で働くのに最大の活力を得られるし、主餐である夕食は夜中の暖を約束してくれた。これは又、貧困と節約の為でもあった。米等はこの40年間に知られる様に成ったばかりだし、肉と言えば牛か羊であった。鶏は一般的では無かった。

 

この様な食事への考え方、一般料理、伝統的宴会料理および料理の変化について「表32伝統的な食事」にまとめた。又、現地調査の中でウッム ラウダー(Umm Rawdah)が紹介してくれた中から一般的であった料理の幾つかを選び「表33一般的な伝統的料理」に記載した。

 

7.2 伝統的飲み物

 

前述した様にポットと平鍋は居間のサラル(al-Salal)の中に保管されて居る。女性は自分が所有し誇りに思うコーヒー・ポット、皿やその他の家庭用品をそこに配置してそこを飾り立て、小綺麗に保って居る。家族と来客に取っての主な飲み物として男も女もコーヒーを作る。作る方や成分に依って様々な種類のコーヒーがある。最も一般的な飲み物を「表34伝統的な飲み物」に紹介する。

 

7.3 一般的な食事と飲み物の変化

 

昔は常用されている料理が変わったり、廃れたりする事は無かった。身体に十分な活力を与えてくれる事が知られて居るので今でも農村では食されて居る。しかしながらアブハー等の市街地では特別な催しや週末以外は余り食され無く成った。出稼ぎに来て居る外国人とふれあいで新しい種類の料理が手に入る様に成った。女子教育の一部として教える家事に対してはラジオ、雑誌やテレビが大きく影響が大きい。調理方法や供される料理の変化に加えて人々は鶏肉、米、ペーストリーや野菜等、新しい味覚を取り入れ始めた。女達は時々パンを家庭で焼いては居るが、皆はパンを市場で買い始めた。又、以前は市場でめったに見る事が無かった魚を料理するのが女性は上手く成って来た。

 

一般的な飲み物のコーヒーは今でも何処の家でも用意され、今まで通りの方法で淹れられて居る。農村部ではバターミルクや牛乳も同じ様に準備されて居る。アブハー市やその郊外にある地域ではヨーグルト、バターミルク、粉ミルク或いは殺菌牛乳が色々な種類の缶入りジュースや炭酸飲料と同じ様にどの雑貨店でも手に入る。お茶は人気を高めて続けて来て居る。

 

8. 伝統的な環境への社会的通念

 

8.1 伝統的婚約

 

「共に人生の安寧を求め、愛と情けを授かる為に妻がいる」と言われた宗教的、社会的そして心理的概念からこの地域の住民は結婚の意義を見出している。この地方での結婚適齢期はサウジアラビア王国の他の地域と較べると少し年を取り過ぎて居る。これは家族が家事や野良での労働力として娘を必要としている為である。婚約には部族や支族の承認が必要で部族の上下の比較や血族関係の見地からの権利が考慮された。又、少女が望まない限りは結婚する必要は無かったので娘の両親に異存の無ければ皆の前で娘は本人の意見を聞かれる。

 

昔の結納金は貧困が蔓延して居た為にその額は少なく、処女の場合でも10リヤルを越える事は無く、寡婦や離婚者では更に少なかった。お金に加えて、花婿は花嫁衣装一式を整え、銀製の装飾品が用意される事もあった。花婿が非常に貧しければ花嫁の為にドレスを借りて来ただろし、村人や部族民は結納や結婚祝いの費用を支払うの援助していた。昔の結婚適齢期、婚約、求婚および結納金について「表35伝統的な婚約」に表記した。

 

8.2 伝統的結婚式

 

花嫁の家族は村の各家々にパンの塊を届け、結婚式の日取りを知らせた。花婿が一丁来を着、武器を帯びて家族、友人や部族の人々とやって来て、熱狂的な南アルダ・ダンス(al-'Ardah)が始まる。これが終わると空に向けて鉄砲を発射する。村のシェイフ(Shaykhs、名主)と証人達に依って、正式の結婚式となる。その後に昼食が提供され、花嫁は新郎と共に家を離れる。この地方ではミラ(al-Mirah)と呼ばれる嫁入り道具は花嫁の家族が用意する。嫁入り道具はファリガー(Fariqah)(一枚か二枚のカーペット)、ミルハフ(Milhaf)(毛織りの毛布)および木製の箱で構成されて居た。花婿は花嫁を夫婦の家へと運んだ。そこでは花婿の家族と空に向かって発砲し、太鼓を叩きだした花婿の友達が花嫁を歓迎した。結婚の儀式はそれ以上続かず、夕暮れかその直ぐ後で終了した。

 

結婚式が終わった後に床入りが行われ、夫は妻が処女である事を知ればどんなときでも外に飛び出して自分の喜びと妻への敬愛を示す為に空に向かって発砲した。夜が明けると花婿の家族はコーヒー、パン、ナツメヤシの実、小麦および屠殺した羊で結婚の祝宴を始めた。踊りと歌が始まり終日続いた。

 

結婚式、花嫁の化粧、嫁入り道具、嫁入り、床入り、花婿の家族の結婚祝い、結婚後の生活に関して「表36伝統的な結婚式」にまとめた。

 

8.3 妊娠と出産

 

特に初産の場合、妊娠は大きな喜びの出来事であった。多くの子供を持つ事は単に家族や部族の存続や生存の為ばかりでは無く、人生の艱苦に対する援護と援助を意味しているからである。労働力が増えるのは畑やその他の仕事の重みを軽減してくれる事を意味した。男女の区別は無く昔の女は労働やその他の活動で男と同じ役割を担って居たので男性と対等に扱われた。

 

昔の分娩の場所は女の館であったが、絶え間無く動き続けて来た為に、野良仕事の合間に何事も無く出産し赤ん坊を抱えて帰宅するのが普通であった。分娩が複雑に成った場合はこの地方のお産婆さんの助けを借りた。分娩の後、昔はナイフを使い、最近ははさみを使って自分で臍の尾を切り、強い糸で臍の尾を縛り、炎症を防ぐためにミルクをスプレーした。分娩の後には子供はドレスを切った布きれかその様なもので包まれ、子供のオシッコを吸収し風邪を引かないように砂又は乾かして砕かれた牛の糞を詰めたなめし革の袋に入れられた。

 

医療の節で述べた様にミル(ミルラ(Myrrh)が分娩後に産婦の清潔を保つ効用がある為に基本的な薬として使われて居た。産婦の食事は自然の脂肪と蜂蜜を付けた小麦のパン或いは小麦のパンとフェヌグリーク(Fennugreek)を付ける肉のスープであった。新産婦の母親か親戚か隣人が最初の日には助けに来てくれるが彼女達も直ぐに彼女達自身の仕事や責務に戻らなければ成らなかった。

 

妊娠、分娩、女の館、臍の尾の始末、臍の注意、難産、分娩後、産後の養生および産後の復帰については「表37妊娠と出産」に表記した。

 

8.4 成長のお祝い

 

父親は赤ん坊が無事に生まれた事を聞くと外に出て祝砲を空に向けて撃った。ニュースは直ぐに広がり、家族、親戚や隣人が産婦と赤子の無事である事に喜びを示した。父親は息子に名前を与え、母親は娘を名付ける。出産から七日目にウカイカ(al-'Uqaigah)の宴が開かれる。喜びと歓喜を示す為に弾丸が空に向けて発砲され、踊り、歌そしてタンバリンの演奏が始まる。産後四十日経つと新たに次の子供が出来る状態に成った事を妻の家族がその親戚と祝った。この様な赤子への祝いを「表38赤子の成長のお祝い」にまとめた。

 

8.5 割礼

 

多分、南部とサラート・アシール(Sarat 'Ashir)を半島の他の地域と区別している最も顕著な習慣である伝統の一つは割礼の実施である。これまでこの地域の人々が過去に人生の厳しい面にさらされ、人間が自然から強いられる耐乏生活を必要とした事は既に論じて来た。どの事よりも村々の住人で作られた習慣と伝統の中から生まれた割礼にこの耐乏生活が表れて居る。割礼は15歳から20歳の間と一般理解よりも上の年齢で行われ、若者の忍耐力と勇気が試された。割礼には結婚式より高額な費用が掛かる。その為に日を決めて何人かの若者に一度に割礼が施された。その日には割礼の年齢に達した村の若者と近隣の若者が集められる大きな儀式であった。若者全ての割礼が終わると祝賀、ダンスや祝いの宴が村や町の各家で始まり少なくとも四日は続いた。

 

専門家は麻酔剤を一切使わずに割礼を施した。割礼の後、水に溶かした小麦粉が煮立てられ、出血が止まるまで熱いうちに患部にかけられる。出血が止まると脂肪がかけられ、塩とハーブの粉又はガダマ(al-Gadamah)或いはアルアル(al-'Ar'ar)の樹木の葉が砕かれ患部に振り撒かれる。その後煮えた脂肪と塩の中に柔らかく成るまで浸けられて居た木の葉で割礼の患部を巻き付けた。

 

割礼に関する施術、伝統や祝い事を「表39割礼の伝統」に示した。

 

8.6 宗教的行事

 

イード(Id)と言う言葉は神から命じられた二つの祝祭のいずれかを意味する為に、回教徒が使っている。イード・フィトル(Id al-Fitr)ラマダーン(Ramadan、断食月)の後の祝祭でイード・アドハー(Id al-Adha)は巡礼の後の祝祭である。イスラーム教徒(Muhammadan)の神託は天国から送られて来たので、回教徒はこの二つの祝祭を祝い、審判の日まで続ける。この二つの祝祭を祝うのは宗教的義務でもある。これらの宗教的な儀式は時が経っても場所が異なっても同じ様に執り行われる。イード(Id)についての詳細は「表40宗教的な行事」に述べる。

 

8.7 葬儀

 

全能の神はコーランの中で「地上に活きる誰もが必ず死を迎え、神の栄光と恵みが残って行く」と言われている。死はイスラーム教徒に取っては定められた事である。その信仰心は自らが神から与えられ、神に戻って行かねばならない事を知ると更に強まる。このイスラームの宗教的原理に加えて、昔の生活の厳しさが取り巻く環境の過酷さの中では死は何事でも無く迎えられ、死は何処にでもあり、死亡率も高かった。死の儀式、死化粧、食事の習慣、生贄、弔問の婦人達について「表41葬儀」にまとめた。残された妻が再婚するまで未亡人で居なければ成らない法的な期間は最短でも四ヶ月と十日である。これは彼女が妊娠して居らず、再婚しても父権の問題が起こらない事を保証する為である。この待つ時期が過ぎると彼女の家族と親族はその時期の完了をお祝いした。

 

8.8 伝統的な環境への社会的通念の変化

 

結婚はいまだに社会大系が築かれる重要な社会基盤と考えられて居る。イスラーム教徒は結婚を自分たちの宗教生活の半分と見なして居り、部族の規範は昔程には厳しくは固執し無く成ったとは言え、尊重されて居る。婚約への娘の同意は今でも前提条件である。昔は娘が行って居た家事にレーバー(メイド、運転手等の家内労働者)が使える様になり、平均の結婚年齢は低くなって来た。結納金は数ディルハムから数千リヤルにあがり、それに加えて、金の準備やドレスや衣料の材料を送るのが条件に成って来た。親戚からの贈り物も資金力の増加に伴って変わった。結婚式の夜の祝いは真夜中前まで延長され、花嫁は殆どの地域で白いウエディング衣装を着る様に成って来た。処女である事への伝統的な言及は稀に成った。家族と別居する条件は最早、珍しくも無くなった。これは生活習慣の違いによる妻と義母の間の争いを避ける方法として受け入れられる様に成った。

 

女性は現在では妊娠を知ると自分の健康や身体に十分に気を付ける様になった。医者を訪問するのが女性の自覚の高まりと健康サービスの充実で必須と成った。婦人の食事は他の家族全員の食事と同じように変わって来た。出産は最新式の医療を使える様に病院で行われる様に成った。それでもアブハーや近隣の村々では多くの主婦は出産して直ぐに家事を始めて居る。

 

赤ん坊が生まれた事の喜びと初七日のお祝いは昔と変わらない。何をお客にふるまうかと何をお客が祝いとして贈呈するかに変化が起きて居る。新生児の産着は近代的な布に成り、寝台を使うのが普通に成って来た。多くの妊産婦が出産の後、いまだにハーブを使って居る。多くの家庭で子供の命名の仕方は伝統を今でも守って居る。

 

割礼は年齢も方法も完全に変わって来た。新生児には妊産婦が退院する前か或いは退院後数週間以内に割礼が行われる。割礼は今では近代的な医療を使って行われて居る。

 

祝祭は伝統的な行事では無く、宗教的な行事である為に、変わっては居ない。イード・フィトル('Id al-Fitr)の間、ナツメヤシの実とコーヒーに変わって、お菓子が饗されるが、イード・アドハー('Id al-Adha)では肉が主餐である事に変わりない。

 

死亡した時に行われる儀式が宗教の規則や布告に乗っ取って行われているのも変わって居ない。唯一の違いは饗される食物の種類である。葬式への協力と参加の意識は強く変わって居ない。

 

上記の変化について更に詳しくは「表42伝統的社会通念の変化」に述べた。

 

8.9 過去と現在の社会的役割や関係

 

昔は社会関係が生活の基盤を形成していた。誰もが家族や隣人から孤立する事は有り得なかった。宗教と自然環境が各人に社会的な分担と関係を補強する様に強制した。イスラーム教徒に取って、家族は人間関係の原単位である。イスラーム教では家族の絆は不可分であると強調し、家族の形成を人生に取って、必要不可欠で必須であるとしている。息子達の夫、妻および子供だけの単純な家族達と両親が同じ家に住み、一つの農場で働く拡張家族を形成するのが昔は当たり前だった。この様な生活には一人では生活できず、個々には自分の要求も満たせない者でもグループや大きな家族の中に居ればそれが可能であると云う経済的な理由もあった。

 

今日では、大家族で生活する習慣は減って来ている。更に、息子達が彼等の伝統的な仕事を変え、農業から他の職業に就いた事にも由来して居る。アブハー周辺の幾つかの村を除いて多くの者はこの地域から外に移住し始めた。それでも、なおかつ、家族は今でも重要な役割を果たして居る。この様な変化の中での

 

家長(優位性、男の責任、昔の役割、現在の役割)、

女(女の生活、苦闘の昔、夫の折檻、離婚重婚、経済性向上)、

子供(家事作業、親との同居、離農化)、

親戚年長者(家畜の群の分配、近親結婚、父方叔母、義母、長老)、

隣人(イスラームの教え、隣人関係、女隣同士、ハウス・メイドの雇用と隣人相互扶助の喪失)、

部族のシャイフ(首長)の役割(司法権限、弱者保護、部族代表、選出方法、現在の役目)、

社会的共同(共済講、接遇と歓待、義務遂行、互いの絆)

 

の社会的役割や関係を上記の項目について少し長い表には成るが大変参考に成るので「表43社会的関係と役割」に一括して述べてある。

 

9. 民芸への通念

 

9.1 対話、歌唱およびダンス

 

サラート・アシール(Sarat 'Asir)でポピュラーな芸術はこの地域の特有の物で、アラビア半島の他の地域とは異なって居る。この違いは環境に由来して居ると思われる。この地域へ全能の神の作られた自然の美しさに対する人々の楽しみと喜びは、語り、書きそして歌う事全てに反映されている。

 

二つの部族が集会を持つ場合その始めに一方の部族のシャイフに依ってラダ・エド(Al-Rada-ed)(対話(Dialogues))と呼ばれる対話としてのスピーチが行われるのが普通である。スピーチの言葉は注意深く選ばれ、そのリズムから美辞麗句的な音楽的な特徴を持って居る。このスピーチの習慣は今では殆ど失われてしまった。

 

ポピュラー芸術(歌唱風)には詩が含まれて居り、詩はジェスチュアを添えた動きを伴って歌われた。これにはマッワル(Mawwal)マナセム(Al-anathem)ワッナ(Al-Wannah)、ワハ(Al-Waha)、タルク(Al-Tarq)等色んな種類の歌と歌い方がある。マッワル(Mawwal)はしばしば芦笛の伴奏で歌われる話し言葉の詩である。マナセム(Al-anathem)ギーファン(Al Qeefan)(話し言葉の教訓的韻を踏んだ詩(Colloquial Didactic Rhymed Poem))、である。マッワル(Mawwal)の様に歌われる長い詩があり、感激、忠告そして感情等色んな事柄を網羅している。ワッナは農夫が働く時や旅人が歌うマッワル(Mawwal)の一種であり又、夕べの宴席でも歌われる。言葉は一般的にもの悲しく、自分の愛を悲しい調子で書く詩人の言葉の例示と成っている。ワハ(Al-Waha) は羊飼いが芦笛で伴奏して歌ったマッワル(Mawwal)である。タルク(Al-Tarq) はアシールの殆どの地域でポピュラーな違った種類の歌で宴席や長い旅の間に歌われた。

 

歌声と振り付け(ダンス)には熱狂の歌と感情的な歌と踊りの二つの種類がある。熱狂の歌にはアルダ(Al-'Ardah)ザミル(Al-Zamil)ダンマ(Al-Dammah)三種類があり、感情的な歌と踊りにはハトゥワ(Al-Khatuwah)(ステップ(The Step))とザフファ(Al-Zahfah)の二種類がある。

 

熱狂の歌は男だけが自分たちの勇気、雅量そして如何に自分たちの故郷を誇りに思っているかを表現している。アルダ(Al-'Ardah)はそのリズミカルな動きに特徴があり、歌に合わせて空に目がけて発砲し、それぞれに踊りながら跳び上がるザミル(Al-Zamil)はアシールの殆どに地方で知られている熱狂型のダンスであり、リズミカルな動きで男達によって踊られている。ダンマ(Al-Dammah)はリズミカルな踊りの振りと共に歌われる。

 

感情的な歌と踊りは特にうれしい行事や結婚式で演じられる。ハトゥワ(Al-Khatuwah)(ステップ(The Step))は女性によって演じられ、ダンスの動作、リズムおよび感情的な言葉に特徴がある。女性のグループがお互いに手を取り、グループが揃って安定したステップで足を動かす。この詩はいまだに結婚式で歌われて居る。ザフファ(Al-Zahfah)は歌を伴ったリズム・ダンスであり、リズムで体を揺さぶって、お互いに手をつないだグループで踊られる。これは男と女で一緒に踊られる。

 

これらのラダ・エド(Al-Rada-ed)(対話(Dialogues))、ポピュラー芸術(歌唱風)および歌声と振り付け(ダンス)は「表44サラート・アシールの対話、歌唱、ダンス等」にまとめた。

 

9.2 伝承的な格言

 

詩や歌等のポピュラーな芸術は研究者に大きな価値があり、先祖からの遺産の情報と人々の興味を与えてくれる。同じ様にポピュラーな諺は昔から今日までこの地方の人々の生き方や文化を反映している。アブハー地域にはその伝統遺産の重要な部分を成しているポピュラーな諺が豊かに残っている。南部地域のポピュラーな格言と言う本からの抜粋や著者達の訪問調査で聞き出した現在でも使われているポピュラーな諺を「表45伝承的な格言」に幾つか紹介する。

 

10. 過去と現在の教育や文学への通念

 

10.1 昔の教育、文学および韻文

 

サラート・アシール(Sarat 'Asir)地域の昔の教育的、文学的生活はミフラーフ・スライマーニー地方(al-Mikkhlaf al-Sulaymani)やリジャール・アルマア地方(Rijal Alma')地域と較べると見劣りがする。これはトルコ支配の否定的な効果で人々が教育から顔を背けた事、近寄り難い道路や小道での交通が困難であった事および多くの部族のアミールやシャイフが割拠していた事の三つの主な要因に基づいて居る。教育程度は低下し、教育はコーランの暗記に加え、或る程度の算術、読み書きに限られてしまった。

 

カタティーブ(Katateeb)(コーラン学校)はヒジュラ暦(Hijirah Century)13世紀後半のアミールアイド ・ムフィーディ(Amir 'Ayid al-Mufeedi)の治世に開らかれた。シャイフ・ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(Shaykh Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab)に導かれたイスラームの呼びかけ到来と共に、知的精神はこの地域を席巻し、多くの人達が教育と知識を求め始めた。アミールの何人かはこの動きを奨励し、彼らと親しい宗教家を呼び寄せ、行政に携わるのを許可した。その結果、多くの私設図書が創設され、昔の文学的生活に著しく影響を与えた重要な文人が生まれた。

 

昔の韻文の多くは政治活動、宗教教義および社会的な出来事を取り扱って居た。その為、韻文が重要な歴史的記録と成った。

 

この様な昔の教育、文学、文人および韻文に関しては「表46サラート・アシールの昔の教育・文学的生活」に記載した。

 

10.2 教育の普及

 

組織的な男子教育はヒジュラ暦1361年(西暦1941年)にアブハーに最初の学校が開校して始まった。しかしながら女性が彼女達の家庭労働に必要もない物事を学習するのを恐れ、女子教育はヒジュラ暦1380年(西暦1960年)まで始まらなかった。

 

男子教育は大きく発展し、環境の難しさにもかかわらず多くの学校が開校した。中学校を卒業した後この地域の男子の多くは彼らの勉学を続けたいと望み、教育単科大学、医学単科大学、シャリーア単科大学、アラビア語単科大学、スルターン観光ホテル単科大学等の高等教育機関を設立された。

 

女性の為の単科大学はヒジュラ暦1401年(西暦1981年)にアブハーに開校され、女性教育庁(Presidency of Girls' Education)の付属校とされた。イスラーム教学、アラビア語、化学、物理および英語の各専門分野の学科が設けられた。

 

教育に関しての詳細は「表47教育の普及」およびその2葉の付属表にそれぞれ表記した。

 

10.3 文学の発展

 

教育施設の充実と教育の水準の向上で文学の重要性に関する認識が増して来た。女性を含めて多くの文学者がその名声を高めて来た。アシール地域の知性および文学的運動に関しては「表48 文学の発展」にまとめた。

 

11. 経済的環境への通念

 

11.1 農業

 

アシール地域では全員が農耕に就労出来る程、土地が肥沃であり農業は主要な経済活動であった。昔、農夫は土地を耕し、井戸からの水汲みに駱駝、驢馬や牛等の素朴な方法に依存して居た。灌漑用の水は谷の流れを堰止めて手に入れて居た。灌漑活動は同じ谷間の農民のグループが交代で行い、それぞれの農地に指定された灌漑期間が割り当てられて居た。農耕を営む家族および村の住人全員が種蒔きの時期にはお互いに助け合った。

 

昔の主な農作物は小麦、大麦、コーン、レンズ豆、コーヒー、イチジク、印度イチジク、リンゴ、プラム(Plum)、杏(Apricot)、ザクロ(Pomegranate)、葡萄、くわ(Mulberry)、マルメロ(Quince)、西洋梨、キャベツ、トマト、カボチャ、ジャガイモ、ニラネギ(Leek)、トウチシャ(Chard)およびムラサキウマゴヤシ(Alfalfa)であった。トルコの占領下で多くの種類の野菜がこの地域にもたらされた。これに加え、様々な種類の香料や医薬用のハーブが栽培されて居た。

 

昔、小麦は手鎌を使って収穫されて居た。小麦は切り取られ、そして脱穀用の土間に運ばれ、そこで数日太陽に当てられ乾燥させられた後、特殊な石を引きずった牛によって踏みつけられた。小麦は木製の簸用の熊手で簸られ、穀粒は麦藁から分けられる。村の住人間の協力は収穫の季節に明確に計画され実施された。収穫の時期には、特定の日程が異なった農家に割り当てられた。 各農家への割り当ては農地の大きさにも依るが一日以上に及ぶ。男達は農地に集まり、収穫作業を開始する一方で、女達は刈り取られた小麦を脱穀用の土間に運び、食事を用意した。この様な作業が最高の状態で収穫を行う為に、夜半過ぎ迄続けられた。収穫作業の間、人々は楽しく歌を歌った。他の村からも手助けの代わりに、収穫の一部を貰おうと他の村の男達もやって来る事もあった。

 

11.2 家畜の飼育と狩猟

 

家畜の飼育は耕地での農業に継いで経済的に大切であった。牧畜民の労働は土地が広く、草が豊富であり、農耕に較べれば、その労働は厳しくは無かった。家畜が生産する全てが収穫であった。それには、肉、毛、ミルクやその酪農製品、敷物、カバーや水袋にする皮、肥料となる糞等が含まれて居た。家畜は収入源として大切なばかりでは無く、客人にもてなしを施す手段でもあった。従って、アブハーでは家畜を飼育して無い家は無かった。家庭や市場での需要から、大切なのは駱駝、牛および羊であった。家禽はそれに較べるとさほど重要性は無かった。

 

ずーと昔は、槍や矢の様な簡単な狩りの道具が使われた。狩りは必要な時にだけ行うと制限して居た為に、山々の豊富な動物や鳥類の豊かさに影響を与える事は無かった。狩りの季節は特には無いけれども、その季節は男らしさの連想によって特徴付けられる。父親は少年が一人で狩りが出来る程、十分に強く成るまで訓練する。ライフルの様な他の種類の武器がこの地に到来した時から狩りの活動は楽になり、結果として多くの動物や鳥類が絶滅の危機に瀕してしまった。環境保全の重要性の認識が高まるに連れて、動物や鳥類の保存に大きな注意が払われる様に成った。狩りの解禁季節が決められ、その結果、殆ど絶滅しかけていた動物や鳥類の一部がタイイー(Tayyih)山の原生地に姿を現し始めた。この地域で、人々が狩りを好む動物と鳥類にはレイヨウ(Gazelle)、野生の山羊(Mountain Goat)、ウサギ(Rabbit)、砂雷鳥(Sand Grouse)、ハト(Dove)、山ウズラ(Partridge)、野雁(Bustard)及びダマン(Daman)等が居る。

 

アシールにおける農業と牧畜狩猟を農業に関しては肥沃な土地、昔の農作業、昔の農作物、トルコ占領下での新たな作物導入、収穫および作業協力、昔の農機具、現代の農業の変化について、牧畜狩猟に関しては家畜の飼育、家畜からの収穫、家畜飼育普及、家畜の種類、酪農製品、自家用酪農品製造、肉と鶏、ナジュド羊との比較、狩りの伝統、絶滅危機、環境保全と禁猟保護、狩りの獲物について「表49アシールの農業、牧畜および狩猟」に記載した。

 

11.3 交易と市

 

昔は交易を通じ地域社会は物と物を交換するか、金で買い入れるかして、必要な物を手に入れて居た。アブハー地域は山に囲まれて居るので、相当程度、隔離されて居ると考えられて居た。この地勢が住人にこの地方で一番必要な主要な経済活動にその努力を集中する様に強いて居た。この地方は週に一度開かれる市で有名に成って居た。毎日、行き来するのが難しい為に、一週間分の必要な物を週に一度の市では揃えて販売して居た。一週間の特定の日が或る市或いは幾つかの村単位に定められて居た。例えば、アブハー(Abha)の市は火曜日であったし、ハミース・ムシャイト(Khamis Mushait)では木曜日、アハド・ラフィーダ(Ahad Rafeedah)では日曜日、ヤズィード(al-Yazeed)では土曜日、ラビーア(Rabee'ah)では金曜日そしてシャアーフ(al-Sha'af)では月曜日であった。これらの市はその開かれる日が町の名前に付け加えられる程に有名に成って来た。例えば、ハミース・ムシャイト(Khamis Mushait)ハミース(Khamis)は木曜だし、アハド・ラフィーダ(Ahad Rafeedah)のアハド(Ahad)は日曜日である。

 

この交易について営みの重要性、交易活動への努力、週一の市場、著名な市、市の機構(地域商品、隊商商品、通貨、男女の売場別、法度保護)、発展に伴う交易の変化(交通手段、奨励政策、収入増加と購買力の増大、週一度の市の日、女の働き)等を「表50交易の営み」に述べた。

 

11.4 養蜂

 

この地域は豊富な樹木や花に恵まれて居り、従って、養蜂が経済活動の重要な位置を占めるのは自然の成り行きであった。蜂蜜は補助的な食品よりも重要視されて居たし、この地域の住民も一般的な調理を蜂蜜に依存して来た。この地域で取れる蜂蜜はアラビア半島全域で有名であり、スーダ山塊(al-Sawdah Mountains)で取れる蜂蜜は格別、評判が良かった。蜂蜜の種類は蜂蜜が蜜を採集する樹木や花の種類に依って変わって来る。蜂蜜の上等な種類にはシャウカ蜂蜜(Al-Shawkah Honey)マフラ蜂蜜(Al-Mahrah Honey)がある。養蜂については「表51アシールの養蜂」にまとめた。

 

11.5 伝統手工業と雇用

 

自分を自分の置かれた環境に適合させようとする努力が自分の必要とする多くを地元で自給する為に手作業を始められ、殆どのものは自給自足出来る様に成った。アシール地方の工芸品には農業用機具製作、大工道具製作、鍛冶、皮加工、毛織りと仕立て、粘土ポットの制作、油抽出、建築用石材の切断と切り込みおよび椰子の葉の手芸等がある。これらの制作に携わる職人は他の手作業にも携わって居た。これら全ては素朴な技巧で作られては居たが、希望する目的を十分に達成して居た。熟練技能者は今でも居るが、輸入製品との競争の為に、今日では重要さが殆ど無く成ってしまって居る。この様な製品をこの地方の伝統の一部として保存して行く見地からは生産能力や流通は最低の規模に制限しながら続けられては居る。

 

昔の裁判所、軍隊、警備、事務、モスクのイマム、郵便配達等の政府の仕事は大きくアミレート(Amirate)(州政庁)に付属して居りこの様な仕事にありつけた人はラッキーだと思われて居た。政府の仕事に雇われている限り農耕や他の伝統的な仕事に較べて殆ど努力をしないで済むので今日では特に若い人の間でこれまでよりも人気が出て来て居る。アシールの伝統手工業と雇用の関係を「表52伝統産業と雇用」にまとめた。

 

12. 社会基盤と発展

 

12.1 交通

 

昔は、交通の手段は素朴ではあったが、凸凹の多い地形には適して居た。人々は駱駝、驢馬、騾馬に頼って居たし、多くの場合は、徒歩で場所から場所へ移動するのが普通であった。車や他の車両は故アブドゥルアジーズ国王の治世にアブハーに始めて渡来した。その後、車の使用は広がり道路網が建設された。今日、アブハーにつながる最も重要な道路には主要州内道路の他に幾つかの村とハイウェイを結ぶ道路が建設されて現在、その他、多くの道路が建設中である。アブハーと他の都市や地方を結ぶハイウェイと呼ばれる幹線道路がある。タクシーの使用や後に公共の乗り物としてのバスの利用がこの地域全体にも広がった。

 

この地域の空路はヒジュラ暦1377年(西暦1957年)にピストン・エンジンの飛行機で始まった。唯一の滑走路はカムバル(Qambar)イルク(al-‘Irq))の間にあった。これはハミース・ムシャイト(Khamis Mushait)市近傍の土の滑走路であった。」と言う。アブハー民間空港がハジュラ(Hajlah)に建設され、ヒジュラ暦1398年(西暦1978年)に開港した。現在では離着陸合わせて一日124回を越え、季節によっては更に追加便が必要である。

 

昔の交通、車両の使用、主要州内道路、主要ハイウェイ、交通手段および航空機については「表53 交通手段」に記載した。

 

12.2 電力、通信および情報

 

手紙は場所から場所へと昔は人手によって運ばれて居た。郵便は公用の袋で政庁へと運ばれ、そこから手紙は各宛先に配布された。現在、アブハーには7つの私文書郵便センター、6つの郵便局、1つのテレックス受付所と5つのテレタイプ所がある。電話についてはアブハー、ハミス ムシャイトや近傍を含む地域対して一つの自動電話センターが設けられて居る。

 

昔、この地方の人達は、王国内の他地方の人達同様に明かりにはケロシン・ランプかランタンを使って居り、ケロシンが発見される前は脂肪か蝋燭を使って居た。モーターとして知られた発電器がこの地方に渡来すると、人々は富にまかせて買い求めた。アブハー電力会社の記録によれば最初の発電所はヒジュラ暦1388年(西暦1968年)にアシールのアブハー市で750kilowattsの規模で設立された。建築、経済および農業の発展の結果、電力需要は飛躍的に増大した。電力の恩恵でこの地域は多いに潤って来た。電気製品は多くの時間と労力を節約してくれるので、電気需要は増え続けている。電力が経済、社会そして科学の分野に与えた貢献は大きい。

 

大変早い時期から情報手段は全ての地方の成長と発展に大きな影響を与えて来た。情報手段の中で最も重要なのはラジオであった。この地域社会に近年、影響を与えた強力な情報手段はテレビジョンである。テレビジョンは全ての家庭に入り込み、全ての階層の人々に語り掛けて居る。アブハーのテレビ局はヒジュラ暦1397年(西暦1977年)、アブハー、カミス ムシャイト及びその周囲の村々が対象に設立された。

 

通信に関し昔の通信、郵便と電話、電話と女性について、電力に関し昔の灯火、発電器導入、最初の発電所、電力需要、発電増強、受電加入者、電力の恩恵について、情報手段に関して情報の影響、ラジオ、発刊物、テレビ、ビデオ、公共心高揚についての記事を「表54通信、電力及び情報」に掲載した。

 

 

13. 出所と参照

 

ノウラ・ビント・ムハンマド・サウード (Amirah Noura bint Muhammad al Saud)、ジャウハラ・ムハンマド・アンカリ(Al-Jawharah Muhammad al-‘Anqari)およびマデハ・ムハンマド・アジュロウシュ(Madeha Muhammad al-‘Ajroush)の参照した資料を「表55出典と参照」に記載した。

 

後書き

 

私が最初にアシールを訪れた1987年当時、花冠とキルト・スカート姿の男達はごく普通に街道に出て来て蜂蜜を売って居た。その反面、治安上の理由から街道からの枝道には殆ど全て立入禁止の看板が掛けられ、彼等の居住地への出入りは極端に制限されていた。しかし、その当時でさえ瀟洒な別荘や大国際会議の開催できるソウダ山頂のインター・コンチネンタル・ホテルは既にあったし、日本人が設計したと云うアブハーの公園都市は夜に成るとライト・アップされ、夜霧にマッチした幻想的な景観が今でも目に浮かぶ。この様に豊かな水と緑と景観を利用しての大規模自然公園整備や大型ケーブルカーの設置等リゾート型観光開発が早くから活発に行われて居り、その為の観光ホテル単科大学まである地方はサウジアラビアではアシールだけである。

 

アシール族の閉鎖性とよそ者への警戒心からこの地方に自由に出入り出来る様に成ったのは1990年代に成ってからの事であり、まだまだ知られて無い伝統や自然は多く、その紹介が待たれる。しかしながら、この四半世紀でのアシール観光開発の大規模化、近代化、洗練化の進み具合は目覚ましく、その伝統や自然そのものが滅び消え去ろうとしている。治安当局の密偵の目を恐れる事無く、自由に見学し、風物を撮影出来る様に成った反面で、今では花冠とキルト・スカート姿の男達に出会う事は無くなってしまったし、多くの民俗が廃れてしまった。特にアシール地方の象徴である独特な形をした泥造りや石造りされた高層の家々が荒れるに任されている姿を見るのは悲しい。

 

前述の様にこの本はジャウハラが中心となったサウジの教育のある女性である彼女達が行ったこの様に消え去ろうとしているアシールの伝統や自然の現地調査であり、この本の魅力はその現地調査の中で老婦との個人面接、民間伝承の専門技能を持つ女性との面接、シャイフや老人との面接等の結果を名前付きで生き生きとした臨場感の持てる様に本文中に掲載した点にある。その後にもこの種の現地調査の記録は今の所は見当たらないし、昨今の宗教的な締め付けからこの様な調査が女性の手で行われるのは当分難しいと思われる。又、マデハが今では人前への外出が殆ど難しい女性の手で、全部の写真を一人で撮影した特異な新鮮さと女性の視点での映像は大変貴重だと私は思う。

 

「アブハー・・・アシールの国と言うこの本はサウジアラビア王国のこの地域の伝統と文化伝承を生き生きと十分に捕らえて思われるのは資料調査に加えてのこの現地調査の結果の記述での実証感にある。この本は豊富な叙述を持って居るのは村人達がオープンに率直に語ったオリジナルで魅力的な物語に立脚している」とオレビア・バティスト・ロジャーズ(Olevia Batiste Rogers)も述べている。

 

特徴のあるアシールの自然や伝統を私の探訪記も含めてこれから幾つかの続編でご紹介させて戴くに当たってサウジ人それも女性達の共同作業で著述記録された「アシールの国、アブハー」の抄訳から始める事にした。

 

以上


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