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20070530 高橋 俊二


遠い渓谷と遙かなる砂丘地帯(ナジラン)

(サウジアラビア王国南西地方)

その4 二十一世紀を開く砂丘地帯





 

 

索引(Index)

緒言(Introduction)

前書き(Preface)

1. ルブアルハリ沙漠国際調査団(Rub Al Khali Field Trip)

1.1 国際調査団の編成

1.2 調査団の行程

1.3 調査の継続

2. 空白地帯のガス開発(Empty Quarter Gas Exploration)

2.1 石油メジャーとの協定締結まで

2.2 南ルブアルハリ会社(SRAK)

2.3 南ルブアルハリ会社(SRAK)の航空重力測量

2.4 南ルブアルハリ会社(SRAK)の二次元地震探鉱

2.5 南ルブアルハリ会社(SRAK)の試掘準備作業

2.5.1 掘削リグおよび資材の調達

2.5.2 掘削上の問題対応と坑井設計

2.5.3 坑井掘削現場(well site)の準備

2.5.4 掘削リグ等の陸上輸送

2.5.5 掘削リグの2号井ミールタン1号井(Al Mirtan 1)への移設

2.6 南ルブアルハリ会社(SRAK)の試掘作業

3. シャロウラ(Sharourah)

3.1 シャロウラの自然

3.2 乳香の道の水場

3.3 シャロウラへの物資供給

3.4 シャロウラ軍の駐屯

3.5 イエメンとの国境検問所

4. カールキール(Al-Kharkhir)

4.1 カールヒール(Al-Kharkhir)の発電所設置

4.2 カールキールにある施設(RCAGステーション)

5. ナジラン州の沙漠部族(Bedouins in Najran)

5.1 主な沙漠部族

5.2 ムッラー族

5.2.1 ムッラー族の世界

5.2.2 ムッラー族(Al Murrah)の血統と首長

5.2.3 駱駝と共存するムッラー族

5.2.4 沙漠の襲撃と誉れ高いムッラー族のアラビア馬

5.2.5 定住生活への移行

5.2.6 カタールから追放されたムッラー族

5.3 ナジランのイスマーイール派(Ismaili)) 

後書き(Postscript)

出所と参照(Source and Reference)

原注(Explanatory Note)

 

緒言(Introduction)

 

   漠然と考えていたナジラン州の概念は沙漠の庭園だった。今回、執筆する上での一番、大きな違いはナジラン州が遥か彼方のカールキール(Al Kharkhir)まで拡大して、空白地帯沙漠も説明しなければ成らなくなった事である。空白地帯は私が最後に訪れた200355日に較べ、この4年の間に沙漠道路とは言え、道路網が著しく整備されて居るのが分かった。

 

ハラダ(Haradh)、カルジ(Al Kharj)、ライラ(Layla)、ナジラン(Najran)、シャロウラ(Sharourah)を結んでいた空白地帯沙漠の西半分の外周を囲んでいた道路に加え、ハラダ(Haradh)からカタールに近いUAE国境のバサ(Batha)までも舗装道路とシャロウラ(Sharourah)から東へ285kmまでは砂利道路が完成している。その上、バサ(Batha)、マルカズ シャイバ(Markaz Ash Shaybah)、アルダ('Ardah)、ザブルティン(Dha'blutin or Zabalotin))、カールキール(Al Kharkhir)からシャロウラの東285kmまで空白地帯の東半分の外周を取り囲む沙漠道路の存在を確認出来た。さらに、私が空白地帯に踏み込んで、途中のガソリンスタンドが廃業している為に縦断を断念したハラダ(Haradh)から直接カールキール(Al Kharkhir)へ南下する沙漠道路が通行可能である事もほぼ確認した。   

 

私に取っては長年の夢ではあった空白地帯沙漠(Rub Al Khali)の縦断や横断は次に機会があれば、実現可能の様に思える。
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前書き(Preface)

   ナジランの約330km東にシャロウラ(Sharourah)の町がある。この空軍基地を除けば町自体には見学する様な対象は殆ど無く、警官と軍人ばかりの姿が目立った。サウジ人では無い、私の運転手達は町を散策するのさえ、避けたがっていた。その為、シャロウラ(Sharourah)2回も訪れたのに、ゆっくりする機会は無かった。シャロウラ(Sharourah)は元々、僅かな数のベドインのみが知る遠隔の水井戸であった。今でもシャロウラ(Sharourah)へ入る手前の南への曲がり角に井戸(Al Batra))があって水汲みのタンク車(water tanker)が列を連ねている。この井戸の西のナジラン側には、100mの高さに隆起した砂丘列の間を一直線に100km余りを抜ける道路が続き、その走行は実に壮観である。これが伝説の空白地帯であり、手つかずに残っている沙漠の光景はたいへん価値があると思う。

 

2000年ジェダ条約(the 2000 Jeddah Treaty) でイエメンと国境が確定し、カールキール(Al kharkhir)がサウジ領となった。これに伴い、シャロウラ(Sharourah)からカールキールまでの沙漠が東部州から分離され、カールキール県(Al kharkhir governorate)としてナジラン州に併合された。この為、ナジラン州の面積は140,000km2から360,000km2に増加した事は「その1 ナジラン州の紹介」で述べた。

 

私が2004630日に書いた「空白地帯と呼ばれる沙漠 ルブアル カリ(Rub Al Khali)」の後書きで「国営石油会社ARAMCOが国際石油会社との共同で東部州地区の空白地帯で進めているガス開発」や「空白地帯或いはルブ アル ハリと呼ばれるこの沙漠は未来の開発の宝庫である」と述べた。

 

これらの開発についてはカールキール県が創設された事でナジランがその中心的役割を担う事になった。カールキールまではハラダ(Haradh)から620 kmの沙漠道路の他にシャロウラ(Sharourah)からイエメンとの国境に沿って、285kmの砂利舗装を含む550kmの沙漠道路が設けられている。ここでは「二十一世紀を開く砂丘地帯」としてそれらにかかわる20046月からの三年間の動きを主体に紹介する。
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1. ルブアルハリ沙漠国際調査団(Rub Al Khali Field Trip)

 

   サウジの地形地質調査専門の石油鉱物省傘下のサウジ地質測量会社(the Saudi Geological Survey)2005年にルブアルハリ沙漠国際調査団を組織し、総括的な空白地帯調査を行った (SGS空白地帯調査ルート参照)。この調査は2006年春にも継続して行われている。これらの調査には後述する空白地帯のガス開発で石油鉱物省関連の基地やそれらへの沙漠道路が出来ている事が大きく寄与していると思う(空白地帯ガス開発参照)。この様な調査が今後も継続されれば、空白地帯の開発に大きく貢献すると思し、空白地帯が人跡未踏の地と呼ばれるのもそう長い事では無いだろう。
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1.1 空白地帯沙漠調査団の編成

 

   2005年に石油鉱物省傘下のサウジ地質測量会社(the Saudi Geological Survey)はルブアルハリ沙漠の地質(geology)、環境(environment)および博物学(natural history)に対する長期の研究を行いたいと考え、調査に参加する学者を国際的に募った。これらに学者には水文地質学者(hydrogeologists)、堆積学者(sedimentologists)、地形学者(geomorphologist)、環境地質学者(environmental geologist)および気候学者でも特に地質時代の気象に興味のある学者等で、同様に風成砂(eolian sand)等の圧倒的な沙漠環境について地学興味(geoscientific interests)を持つ科学者達が含まれて居た。

砂丘列の間は概ね平らで雨が降れば、浅い大きな水溜りが出来、緑が芽吹く。それが乾燥すると析出した塩分が白く表面を覆う。この様な塩湿地帯もサブハ(Sabkhah)と呼ばれている。

 

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1.2
空白地帯沙漠の調査行程

 

サウジ地質測量会社(SGS)は参加者の母国からの往復航空券を含めて、サウジアラビア国内の全ての費用を支払い、調査団の行程を案内した。参加した科学者達は旅行に先立ち、サウジアラビアのジェッダにあるSGSの本部に集まり、二斑に分かれ、20051119日(土)(17/10/1426AH)から20051127日(日)(25/10/1426AH)までの間に次のルートで調査を行った(SGS空白地帯調査ルート参照)。短い期間ではあるが、ルブアルハリ沙漠に対する総合的な国際調査はこれまでも殆ど行われて居ないので、この調査の結果と今後の発展に大いに期待したい。

 

全ての参加者は20051118日(金)(16/10/1426AH)にアル アサ(Al Ahsa)(ホフーフ(Hofuf))に集合し、アル アサ(Al Ahsa)知事およびサウジ地質測量会社(SGS)社長の挨拶を受けた。又、20051128日(月)(26/10/1426)にはナジラン(Najran)でナジラン州知事およびサウジ地質測量会社(SGS)社長がこの空白地帯沙漠調査旅行の終了の挨拶を行った。

 

   先ず、グループAはホフーフ(Hofuf)からサブカ ハンマール(Sabkhah Al-Hammar)、サブカ マティ(Sabkhah Matti)や様々の形の砂丘等観察しながらヘッサン(Al Hessan)へ向かった。グループBはホフーフ(Hofuf)からサブハ(sabkhahs)、オアシス(oases)、硫黄の壁(sulfur walls)、重要な考古学的遺品を見ながらハラダ(Haradh)経由でヤブリーン (Yabreen)へ向かった。

 

次にグループAはヘッサン(Al-Hessan)を発ち、シャビタ(Shabitah)経由でシャイバ(ash-Shaibah)に向かい、サウジアラム(Saudi Aramco)のシャイバ油田コンポウンド(Shaibah Compund)を訪問した。その後、石膏(gypsum)の鉱床、様々な砂丘、サブハ(Sabkhah)を調査しながらオマーン(Oman)との国境に沿って南下し、アルダ(Ardah)に向かった。グループBはヤブリーンからビール シャルファ(Bir ash-Shalfa)を通って、ハディダ (Al-Hadidah)101に向かい、ハディダ(Al-Hadidah)の考古学的遺跡を訪れ、二日間の遺跡調査を行った。

 

   グループAはアルダ(Ardah)を発ち、石膏鉱床、星形砂丘(star-shaped dunes)、サブハ(Sabkhah)を調査しながら同じくオマーン(Oman)との国境に沿ってシフマ(As Sihmah)付近まで南下し、西南西にザバロティン(Zabalotin)までウッム サミン(Umm al Samin)含む大流砂地帯を縦断した。

 

グループBはハディダ(Al-Hadidah)を発ち井戸(wells)、アウバール(Awbar)地点や様々な形の砂丘を調査しながらガルマト ファリス(Galmat Faris)経由でカールヒール(Al-Kharkheer)まで空白地帯沙漠を縦断した。 グループAはザバロティン(Zabalotin)を発ち、温泉、硫黄水、沙漠の植生と野生動物を調査しながらガルマト マホウラ(Qalmat Mahoulah)を経由してカールヒール(Al- Kharkheer)でグループBと合流した。 

 

カールヒール(Al-Kharkheer)では砂丘、井戸(wells)、空白地帯部族の住居を調査し、金曜日(20051125日、(23/10/1426))となったので安息日を設けた。翌日はカールヒールを発ち、多くのアウバール考古学的遺物(Awbar antiquities)、ジャハマン洞窟(Jahaman Cave)、古代の井戸(wells)および広大なで細く長いアワリク砂丘群(the vast Al-Awarik linear dunes)を調査しながらシャロウラ(As Sharourah)に向かった。

 

シャロウラ(As Sharourah)からはタマニ(Tamani)、ザルマ(Zalma)経由で石化した森、マハミート(Mahameet)、バニ マリダ岩脈(Bani Maridh vein)、ジリダ(Jilida)大砂利原、トワイク山脈の石灰岩の空白地帯沙漠での先端(terminus of Jabal Tuwaiq limestone in the Empty Quarter)等を調査しながらリヤド街道(Sultanah)に出て、ナジラン(Najran)に至り、空白地帯沙漠を横断した。
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1.3 調査の継続

 

   サウジ地質測量会社(the Saudi Geological Survey)2006223日から311日の二週間に渡り、地質、地形、水理、環境、野生動物、考古学、観光開発の内外の専門家50名を招聘して、空白地帯沙漠の東部から北部を継続調査した。

 

2006年度の調査はリヤド(Riyadh)を起点にして、カルジ(Kharj)、ハラダ(Haradh)を通り、空白地帯沙漠東半分をヘッサン(Al Hessan)シャビタ(Shabitah)、シャイバ(ash-Shaibah)アルダ(Ardah)、シフマ(As Sihmah)、ザバロティン(Zabalotin)、ガルマト マホウラ(Qalmat Mahoulah)、カールヒール(Al- Kharkheer)、ガルマト ファリス(Galmat Faris)、ハディダ(Al-Hadidah)ビールシャルファ(Bir ash-Shalfa)、ヤブリーン(Yabreen)、ハラダ(Haradh)と調査し、カルジ(Kharj)経由でリヤド(Riyadh)に戻った。

 

この調査ではハディサ(Al Hadeedah)の隕石陥没穴(the meteorite crate)や、カールキール(Al Kharkheer)周辺の遺跡や古代井戸等やその他の歴史的場所にも重点が置かれた。又、地形では砂丘やその間に形成される湖沼跡やサブカ(Sabkhah)、基盤による局地的な崖地(local scarp)ディップスロープ102(Dip-slope Topography)等の観察も行われた。
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2. 空白地帯のガス開発(Empty Quarter Gas Exploration)

 

2.1 石油メジャーとの協定締結まで

 

   サウジ政府は国内産業活性化、サウジ人雇用促進および原油依存体質からの脱却を目指し、1981年の石油・ガス操業国有化後、始めてガス鉱区解放を決断し、ガス イニシアティブ(Gas Initiative)と名付けたプロジェクトを開始した。交渉相手としてはエクソン(ExxonMobil)、シェル(Royal Dutch/Shell) BP、トタール(TotalFinaElf)等の国際石油資本を指名し、石油メジャーからの提案に基づき200012月にルブアルハリ沙漠2鉱区を含む3つのコア ベンチャー(Core Venture)鉱区を決定し、200163日に準備合意書(Preparatory Agreements)を締結して交渉に入った。

 

   しかしながら、内部収益率(Internal Rate of Return)等のメジャーに不利な利権条件、2001911日ニューヨークおよびワシントンへの同時多発テロでの交渉中断と米サ関係悪化およびサウジの反対を押し切っての2003320日の米英同盟軍イラク侵攻等米サ双方の政策乖離により、実施協定書 (Permanent Implementation Agreements)は締結に至らず、サウジ政府は2003615日交渉打ち切った。

 

   3つのコア ベンチャーの内、交渉を継続したコア ベンチャー3(Core Venture 3)シェルについては2003717日にサウジ石油鉱物相(Dr. Ali Al-Naimi) シェル(Royal Dutch/Shell)副社長(Jeroen van der Veer)はトタール(Total SA)副社長(Alain) Lechevalierも立ち会い、ルブアルハリ沙漠(Rub Al-Khali)南部 210,000平方キロに及ぶガス開発・総額20億米ドルプロジェクトをアラムコ(Saudi ARAMCO)と合意し、「南ルブアルハリ上流部門プロジェクト合意書」を200311月に調印した。

 

   コア ベンチャーの残り2つの内、紅海岸はアラムコが直接担当し、ガワール油田南の空白地帯沙漠の鉱区は三分割して、2003年に入札に掛け、2004年にロシアのルックオイル(Lukoil)と第一ガス開発鉱区(Area A30,000Km2)、中国のシノペック(Sinopec) (China Petroleum and Chemical Corporation)と第二ガス開発鉱区(Area B39,000Km2)およびイタリア/スペイン連合のENI and Repsol YPFと第三ガス開発鉱区(Area C52,000Km2)をそれぞれ契約を締結し、アラムコを核として外国企業との合弁でのルブアルハリ沙漠のガス開発は開始された。
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2.2
南ルブアルハリ会社 

 

   「南ルブアルハリ上流部門プロジェクト合意書」の基づき、合計21万平方キロとなる2つの利権鉱区で天然ガスと随伴液を探鉱開発する為にシェル40%、サウジアラムコ(Saudi Aramco)とトタール(Total)が残りの各30%を所有する南ルブアルハリ会社(SRAK)(the South Rub Al Khali Company)200312月に設立され、

 

南ルブアルハリ会社(SRAK)21万平方キロの利権鉱区に対して、航空重力測量(airborne gravity survey)続いて、二次元地震探鉱(the 2D seismic program)を行い、その結果、7坑井の試掘井を掘る事を決め、第二利権鉱区のシャロウラ(Sharourah)の東365km余りで、イエメン(Yemen)国境から70kmの地点で200679日に1号井(Isharat-1)の掘削を開始した。
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2.3 南ルブアルハリ会社(SRAK)の航空重力測量

 

   利権区域重力図を作り出し、既存の磁力測定と合わせ、ガス層発見の為の最も重要な予想をして地上二次元地震探鉱の実施地域を定め為に、南ルブアルハリ会社(SRAK)は航空重力測量(airborne gravity survey)から始めた。この重力測定と平行して地上基地発信の二次元地震探鉱、地震分光測定(seismic spectroscopy)、低周波地震測定(low frequency seismic)、高圧磁石発電・地電流法(Magneto Tellurics)および航空機によるガス検出測定を行い、それらの結果全てから地下の三次元地質モデルを構築し、このモデルが「ガス層が存在し、試掘作業を行う有望な場所選ぶ為の情報を与えてくれる。航空重力測量の実施はサンダー地球物理社(Sander Geophysics)と契約した。南ルブアルハリ会社(SRAK)の親会社の一つサウジアラムコ(Saudi Aramco)の積極的な協力で航空重力測量の基地は第一鉱区ではシャイバ(Shaybah)のサウジアラムコの航空機基地、第二鉱区ではシャロウラ(Sharourah)のサウジ軍事基地が使用できた。


   サンダー地球物理社(Sander Geophysics)の作業範囲はルブアルハリ沙漠南部のシャロウラ(Sharourah)から始め、SRAK利権区域東部分のシャイバ(Shaybah)までの21万平方キロの利権区域全体である。重力分布図を作成する為に記録装置付きの機内重力メーターを使って、14.5万キロに及ぶ航空測量を行った。実作業には7名の飛行士、4名の地球物理学士、1名の電気技術者および現在使用している三機のセズナ キャラバン型飛行機(Cessna Caravan aircraft)を保守保全する為の一名の現場技術者および見習い工の14名で編成されているチームが当てられた。
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2.4 南ルブアルハリ会社(SRAK)の二次元地震探鉱

 

   二次元地震探鉱データのグリッドを入手し、ルブアルハリ堆積盆地全体の地質に対する最新の解析を得て、試掘(exploration drilling)の為の有望な地点を正確に予測する事は探鉱作業を成功させる鍵となる。

 

   二次元地震探鉱にはこの地域の遠く人里離れた遠隔さや夏の日中には50℃に達する温度や200mを越えるような砂丘のある地形(the surface geomorphology)等の厳しい自然等の障害を乗り越えなくては成らない。その上に、基本的に深い古生代の目的配列(Paleozoic objective sequences)の上を覆う深い地下の厚い炭酸塩岩の間隔が地上の装置が発生するエネルギーの多くを吸収してしまうので、地震探鉱データ収集が技術的な困難であると云うもう一つの問題にも直面した。殆ど全く無人で、非常に広大であるけれど、沙漠の生態系は脆弱であり、探鉱作業による環境への有害な影響を小さくする事にも留意しなければ成らなかった。

 

南ルブアルハリ会社(SRAK)は二次元地震探鉱データに加えて、ルブアルカリ堆積盆への理解を増し、二次元地震探鉱結果を確証する支援を行う為に高解析航空重力データ(high-resolution airborne gravity data)、地震分光器(seismic spectroscopy)、低周波地震探鉱(low frequency seismic)、地下比抵抗分布測定(magnetotellurics)および地表へのガス浸透検出等の技術も使って、入手したデータを評価した。その結果で、もっと詳細なデータの得られる三次元地震探鉱を有望な地域を対象に行い、イシャラト1号井(Isharat 1)、ミールタン1号井(Al Mirtan 1)等、最初に試掘する三ヶ所を2006年中頃までに選定した。

 

   探鉱作業はウェスタンゲコ(WesternGeco)と契約して実施した。南のシャロウラ(Sharourah)では二組の地震探鉱チームが作業にあたり、南東のシャイバ(Shaybah)では一組が作業した。一番近い人里とは約500kmも離れ、道路も無い遠隔の沙漠で、500人と6台の人工地震波発生用の車両(vibroseis trucks)、データを収集・記録車両を含む140台の車両が作業する為には食糧、水、燃料やその他の物資の補給が安全で効率的な作業には不可欠である。沙漠の中に居住ユニット、トイレ・シャワー設備と共に、食堂・事務所を含む30から40のトレーラーから構成される四つのキャンプを設置し、地震探鉱作業がルブアルカリ沙漠の一つの地域から他に移動するに連れて、キャンプも同様に移動しなければ成らなかった。

 

RPSハイドロサーチ(RPS Hydrosearch)による品質管理のコンサルタントを含め、200511月までに10,000kmの高品質なデータがほぼ取得できた。ウェスタンゲコ(Western Geco)は南ルブアルハリ会社との間にこの作業の分析と1980年代に取得した幾らかのデータの再分析とを共に行う請負契約も締結しており、アル コバール(Al Khobar)データ分析センターでのウェスタンゲコ(Western Geco)によるデータの分析は目覚ましい時間の節約と桁外れの効率向上を引き出した。
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2.5 南ルブアルハリ会社(SRAK)の試掘準備作業

 

坑井準備はこの二年にわたって進められてきたが、努力の殆どが最後の12ヶ月位に集中してきた。掘削開始に移行する前に下記の4段階が確認されなければならない。

 

1段階 地震探鉱データの取得と処理と解析

2段階 基本モデル作り

地質の研究および利権鉱区内外の露頭現地調査含む。

3段階 地質概念の理解と既存データの解析・統合

根元岩の熟成度を評価する為にオッフセト坑井(offset wells)、岩芯地層試料(core plugs)および根元岩の地質的特性分析(the geo-chemical analysis)等も含む。

4段階 最後に試掘井の掘削開始準備確認

4段階の掘削開始準備には掘削リグおよび資材の調達、掘削上の問題対応と坑井設計、坑井掘削現場の準備、掘削リグ等の陸上輸送が含まれる。

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2.5.1 掘削リグおよび資材の調達

 

2004年から2005年にかけての18ヶ月余りでの世界的な掘削活動の増加はおびただしく、特にサウジアラビア国内ではサウジアラムコ(Saudi Aramco)2004年で稼動していた掘削リグ数を2005年には二倍近い100基に増やし、2006年には更に増加させる計画であった。その影響での不足は掘削リグの調達だけでは無く、掘削に必要となるケーシング(casing)や坑口装置(well head)等の資材、機器にも及んでいた。これは又、特別な6輪駆動と8輪駆動の沙漠トラック(desert truck)の様な運搬用重機調達の可能性にも打撃を与え、この為に今日では沙漠トラック(desert truck)を市場で見つけられなくなっている。その結果として南ルブアルハリ会社(SRAK)は普通のトラックを使って、全ての資材機材を坑井掘削現場(well site)に運ぶのが可能にする為に60kmの道路を建設しなければ成らなかった。

 

 

   この様な情況であったので、坑井掘削作業の早期開始の為に2坑井分の坑口装置(welll head)とケーシング(casing)、ロジスティク要員、請負業の一覧表、衛星電話、VHFおよびHFラジオを含むテレコミュニケーション装置坑口装置(well head)等の提供等を含め、探鉱業務(exploration effort)する技術的、ロジスティック(logistics)および資材の面でのサウジアラムコ(Saudi Aramco)の協力と支援は不可欠であった。坑井掘削地区での作業(Operation)に便利にする為に、コバール(Al Khobar)2m2の広さで事務所、倉庫(warehouse)および敏感で価値の高い機材の為の安全冷房倉庫(secure cool storage facilities)を備えたロジスティク・サービス基地(a logistics and service base)を設置した。通信は3基のV-SAT通信システムを設置し、コバール(Al-Khobar)に在る南ルブアルハリ会社本社、ロジスティク基地でおよび坑井掘削現場(well site)に各1基置かれた。
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2.5.2 掘削上の問題対応と坑井設計

  

最初の2坑井を掘削する第二利権鉱区で有り得る掘削上の問題として重大な逸泥(severe losses)、困難な炭酸塩岩層(carbonate formation)や頁岩層(shale formation)、不成砂岩層(unconsolidated sand)や同じ様に破砕層(fractured zone)や断層(faulted zone)および硫化水素(H2Shydrogen sulphide)等を含んでいた。掘り管の拘束(stuck pipe)、掘削機の失敗(drilling string failure)およびセメント注入硬化中でのケーシングの座屈(collapse of the casing during cementing)等の掘削技術者(driller)の最大の悪夢の多くも想定した。

 

第一利権鉱区では高圧層に備え、15,000psi201に達する地表下の高圧を扱える特殊な掘削リグと契約する必要があった。高圧試掘井(high pressure exploration well)を掘削する前に新しい手組(new crew)の試用(break in)とこれから使う全ての装置の試験を兼ねて調整坑井(shake down well)の掘削を行い、人員を訓練し、高圧坑井に対する全ての特別作業手順も試験した。

 

高圧層掘削や逸泥(loss of circulation)、ワッシュアウト(Wash out)および古生代(the Paleozoic)油層における楕円坑形成202の可能性の検討、ワイヤーラインロッグ(wire line logging programme)の適正化(the optimisation)および様々な油層に適した正しい道具の選定等掘削上の問題を確認し、坑井設計を行った。
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2.5.3 坑井掘削現場(well site)の準備

 

各坑井掘削作業現場には道路の取付けや掘削プラットフォームの設置、事務所・宿泊設備・その他を含むキャンプサイト設営、要員緊急避難飛行機用滑走路203等の準備建設等の土木工事が必要であった。100名を越す作業員の働く坑井掘削現場(well site)では日毎に食糧と水の補給が必要となる。整地の1部として既に水井戸は掘削しており、その井戸の水は掘削作業用の給水および洗濯や水洗トイレには使っている。飲料水は食糧とその他の貯蔵品や泥水の様な消耗品と共にアル コバール(Al Khobar)或いはシャロウラ(Sharourah)から陸路で運んでいる。
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2.5.4 掘削リグ等の陸上輸送

 

掘削リグ(KCA-Deutag T79)をドバイ(Dubai)のジャベル アリ(Jebel Ali)自由貿易地区から坑井掘削現場(well site)まで移動するには、「最初に西のサウジアラビア国境を抜けてリヤド(Riyadh)へと運び、それから南に向きを変えてシャロウラ(Sharourah)へと向かい、最終的にイエメンとサウジアラビアとの国境に沿って東に向かい、シャロウラ(Sharourahから東へ345km地点のイシャラト1号井(Isharat 1)坑井掘削現場(well site)まで運び込む」との経路となるので2,000kmを越える運搬が必要であった。2,000kmの内のシャロウラ(Sharourah)からの最後の345kmは沙漠道路であった。この沙漠道路の最初285kmはサウジアラビアとイエメンの間の新しい国境道路として建設されていたが、坑井掘削現場(well site)まで最後の60kmは処女地の沙漠で、南ルブアルハリ会社(SRAK)はこの60kmに突き固めた道路(compacted earth)あるいはスキッド道(skid-road)を建設しなければ成らなかった。掘削リグ等の運搬はそれぞれ積載量(pay load)20トンの180車両以上のトラックが輸送車隊(convoy)を組んで移動した。一方で坑口装置(well heads)とケーシング(casing)の様な機材はアル コバール(Al Khobar)から直接1,400km離れた坑井掘削現場(well site)まで80車両の積み荷で運搬された。 
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2.5.5 掘削リグの2号井ミールタン1号井(Al Mirtan 1)への移設

 

   第1号の坑井掘削現場(well site)での作業は3ヶ月をしており、この作業が終了次第、掘削リグ(KCA Deutag T79)は第2号井の坑井掘削現場(well site)に移動される。これには掘削リグ全体、キャンプおよび全ての機材を190kmの沙漠道路を含み1,200kmの距離を移動する必要があり、この内に半分は沙漠道路であり、80mもの高さの砂丘の在る所は切り通さなければ成らなかった。
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2.6 南ルブアルハリ会社(SRAK)の試掘作業

 

   南ルブアルハリ会社(SRAK)を試掘1号井であるイシャラト1号井(Isharat 1)をシャロウラ(Sharourah)から東345km、イエメン国境から70kmの場所に、試掘2号井ミールタン1号井(Al Mirtan 1)は同じくサウジアラビア南部でイエメン国境に沿った第二利権鉱区内で、イシャラト1号井(Isharat 1)から北西200kmの場所にそれぞれ決められた。(ナジラン州(Najiran Province)参照)試掘深度はイシャラト1号井が3,962m(13,000ft)、ミールタン1号井が5,334m(17,500ft)であり、両坑井共に炭化水素資源の発見が有望であるのは勿論であるが、この2坑井の掘削で一番近くても400kmも離れている既存の坑井との地質対比が出来、第二利権鉱区の炭化水素埋蔵の可能性を解析する為の重要な地質試料を採集する目的も持っている。

 

イシャラト1号井は20067月9日にKCAデュウタグ社(KCA Deutag)T79リグを使って掘削を開始した。ミールタン1号井は195kmの沙漠道路を工事中であり、2007年始めから末乃至2008年初めに掘削開始予定で居る。2007年末乃至2008年初めには二基目の掘削リグが動員され、試掘作業が増強される。

 

   イシャラト1号井掘削は7つの区分に分けて行われている。第一区分は砂岩で28"ビッド(掘削機の歯)で掘り、深度37mまでに36"ケーシング(casing)を取り付け、坑井を保護した。第二区分は砂岩(sandstone)、石灰岩(limestone)および硬石膏(anhydrite)であり、深度450mまで30"ケーシングを取り付け、アルマ層(the Aruma formation)に入る863mまでは24"ケーシングを取り付けた。

 

第三区分で掘削した地層は良く知られたウンム エル ラデューマ層(the Umm Er Radhuma)で、この地層は多孔室の炭酸塩岩(porous carbonates)と頁岩(shale)混じりの砂岩で出来ており、逸泥量(mud loss)が多い。この様な地層では掘削管(drilling string)が抑留されない様に注意しなければならない。同時にこの掘削水を供給する為に掘った水井戸に泥水(drilling fluid)が混じって無いかどうかも監視しなければならない。

 

第四区分を22"ビッド(22" 3 cone insert bit)で掘り進み、深度2,116mで堀管先端部(bottom hole assembly)が脱落事故を起こした。脱落した部分を回収する為にフィッシング作業(fishing)を行い成功した。その後、185/8"ケーシングを深度2,115mまで取り付けた。この区分の上部は粘土岩(clay stone)と石灰岩(limestone)で構成されたウィサク層(the Wisak)で、下部も同じく粘土岩(clay stone)と石灰岩(limestone)で構成されたシュアイバ層(the Shuaiba)である。その下に砂岩と頁岩で構成されたビヤド層(Biyad)と頁岩と石灰岩で構成されたブワイブ層(the Buwaib)がある。

 

その後、いずれも硬い、硬石膏(anhydrite)のヒス層(the Hith)或いは炭酸塩岩(carbonate)の一般的であるが難しい地層であるアラブ層(the Arab)で構成される第五区分の掘削を始めた。予想通り、非常に難航し、掘進速度も極端に遅いのでクフ層(the Khuff)の深度2,902mまで133/8"ケーシングを取り付ける事にした。

 

第六区分はパイロットとして掘進し、可能性のある地層のコア試料を採取し、深度2,934mまで95/8"のケーシングを取り付ける。第七区分は最後の区分で83/5"ビッドで深度3,962mまで掘削しながら可能性のある地層のコア試料を採取する。この区分は有望な層が確認され、生産テストの必要があればケーシングを取り付ける。試掘井は垂直井(a vertical well)として設計されているが、必要であれば傾斜掘り(directional drilling)も可能である。

 

   予定では200611月末にはイシャラト1号井試掘を終わらせ、T79リグを含め、全ての資材機材を190kmの沙漠道路を含み1,200kmの距離を試掘2号井のミールタン1号井の掘削予定地まで移動する予定であった。しかしながら、イシャラト1号井は20071月でも継続掘削中であり、5月に成っても試掘結果は公表されていないので、試掘結果を分析中であると思われる。
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3. シャロウラ(Sharourah)

 

3.1 シャロウラの自然

 

   水平線から水平線まで柔らかい、黄色から黄褐色の砂の海が広がっている。この偉大な沙漠の地形(geomorphology)はたまに訪れる駱駝が新芽を拾い食いする丈夫な植生が点在する平坦地、あるいは偏在する風(the omnipresent winds)よって動的に生み出され作り出された壊れた表面あるいは無傷の表面を持つ砂丘のうねりの波が重なり、無作為や直線の形に並び、その谷間には平坦地と同じ耐久力のある植生が根付く砂丘地帯から形成されている。これらの植物は不毛の砂丘から生存に不足する要素を補う事が出来る。例えば年間の降雨量が著しく少なく年平均50mm以下であり、夏の気温は50℃近くになるこの環境でも大気から湿気を引き出す事が出来る。その様な砂沙漠がルブアルカリ(Al-Rub' Al-Khali)とも呼ばれるアラビアの空白地帯(the Empty Quarter)である。シャロウラ(Sharourah)はナジラン(Najran)から東へ330kmのルブアルカリ西部の南端に作られた町であり、樹木、花やバジルまで育つオアシスでもある(ナジラン州(Najran Province)参照)
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3.2 乳香の道の水場

 

ランドローバー(Land Rover)の様な自動車(vehicle)が出現するまでにこの砂地を横断した大胆不敵なヨーロッパ人はイギリス人冒険家ウィルフレッド セシジャー301(Wilfred Thesiger)ただ一人であった。同行のベドウインと共に駱駝の脊にのって空白地帯を二回横断している。 194816日、セシジャー(Wilfred Thesiger)はマンワク(Manwakh)から6人の現地人同行者と共に二度目の横断に出発している。その出発前に、セシジャーはマンワク(Manwakh)の西にあるアブル(Al Abr)と云う井戸を訪れている。

 

このアブル(Al Abr)が位置的に現在のワディア(Al Wadi'ah)である。この辺りはサウジアラビア建国前にはイエメン領であり、乳香の道(the frankincense trail)を通る隊商がルブアルハリ沙漠を越える前に水を補給した最後の場所であった。ワディア(Al Wadi'ah)からほぼ真北に長い舌の様な形で平らな岩稜(土埃の沙漠)がサブハ(Sabkhah)を伴って北へと突き出している。この突き出しがルブアルハリも砂に飲み込まれる手前が51 km北のシャロウラ(Sharourah)である。(ナジラン州主要部参照)
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3.3 シャロウラの物資供給

 

シャロウラで消費される全ての物資は330km離れたナジランから通じるハイウェイをトラックで運ばれる。これらには水ポンプを駆動させる電気を起こす発電器の燃料油、食糧や今では町に周辺に永久に住みついているベドウイン(Bedouin)の駱駝用の飼料および召使いとして働く(menial jobs)何処にでもいる外国人労働者達が含まれる。シャロウラ−ナジラン ハイウェイの途中からタマニ(Al Tamani)、ウンム ワハト(Umm Al What)を経由してリヤド−ナジラン ハイウェイのスルタナ(Sultanah)へ通じる分岐路もあり、リヤドから直接、物資を運ぶ事も出来る。又、シャロウラ空港には軍用として使われているが、サウディア(民需用航空会社)も乗り入れている。

 

シャロウラ(Sharourah)はその存在を井戸に依存しており、その井戸は1,125mから1,500m深度の化石水層に達している。パイプを通って地上に噴き出す(gush)水は水温が約70℃で少し塩気(brackish)がある。一見不合理のようであるが、シャロウラの位置を考えるとそれ程は妙では無く、この水は冷やされて使われる。
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3.4 シャロウラ軍の駐屯

 

19アル ファルーク旅団(the Nineteenth Al Farooq Brigade group)等シャロウラ軍の大規模な軍隊駐屯にサービスする4万人の市民がシャロウラには住んでおり、大きなシャロウラ基地軍事病院とは別の病院、ジェラート アイスクリーム(gelato ice-cream)、都市村落省の水泳プール、建設中の五つ星ホテル等が見られる。又、動物の数は少ないが動物園もある。シャロウラは戦略的な位置にあり、その費用はサウジ政府と一部の私企業が負担している。この地方での強いサウジ政府軍の存在が1934年のサウジ/イエメン戦争の終わりに失った領土奪回のイエメン試みを阻止して来た。
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3.5 イエメンとの国境検問所

 

   20006月に合意した2000年ジェダ条約(the 2000 Jeddah Treaty) に基づき、20047月にサウジアラビアとイエメンが相互に新領土の引き渡しを実施された。これに伴い、ワディア(Al Wadi'ah)20km南にあった国境検問所はワディア(Al Wadi'ah)の南西に設けられた新たな国境通過点に新設移転され、道路舗装も完成している。従って、イエメンへの通行は少なくともサウジ側では4輪駆動車を使う必要は無くなった。
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4. カールヒール(Al-Kharkhir)

 

4.1 カールヒール(Al-Kharkhir)の発電所設置

 

   20047月に行われたサウジアラビアとイエメンが相互に新領土の引き渡し以降の2年間、世界で一番生物が生存し難い地域の一つのド真ん中にあり、一番近いアスファルト舗装道路のあるシャロウラ(Sharourah)まで550km離れているカールヒール村(the village of Al-Kharkhir)では発電所の据え付けが行われた。作業はザヒド トラクター(Zahid Tractor)が指名で請負契約を受注し、発電能力13,800voltsで定格負荷1.8MW/900RPM3CAT3608カールヒール村に据え付け、発電を開始した。 

 

   作業の難題(challenge)は据え付け現場の遠隔で極端な沙漠気候のみならず契約を獲得すると共に、沙漠を越えて重機械を運搬する事であった。特にシャロウラ(Sharourah)からのアスファルト道路ではトレーラー(Trailer)1台当たり重量制限は20トンと決められて居り、これは30トンを越す発電機を取り扱いできる大きさに分割しなければ成らない事を意味した。

 

 

人員の輸送や宿泊も難題であり、シャロウラ(Sharourah)まで飛行機で行き、それから四輪駆動車で沙漠踏破の10時間に及ぶ移動を余儀なくさせられた上に生活に必要な物から建設に必要な物まで全てを持ち込まなければ成らなかった。毒を持つ、サソリ、蜘蛛および蛇への対策も用意する必要があった。その様な困難にも関わらず、ザヒド トラクターは発電機の設置を無事に終えた。
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4.2 カールキールにある施設(RCAGステーション)

 

民間航空局 (PCA401)で要求されている新空路航行通信システムの近代化と更新プロジェクト402の為にサウジアラビア政府は4つの衛星通信ステーションに加えて、4つの新しいRCAG403ステーションを設置した。この作業はリヤド国際空港(KAIA404)、ジェッダ国際空港(KKIA405)およびダンマン国際空港(KFIA406)に設置したHFラヂオ通信、VCSSおよびDCCシステムに加えてカッシーム(Qassim)、ハイル(Hail)およびジザン(Jizan)空港に最先端技術を用いた空路航行通信システムの供給と設置から始められた。カールヒール(Al-Kharkhir)アフラグ(Aflag)、ハイバール(Khaibar)、およびシャロウラ(Sharorrah)と共に、RCAGステーションを設置された4ヶ所の一つである。
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5. ナジラン州の沙漠部族(Bedouins in Najran)

 

5.1 主な沙漠部族

 

ナジラン州の空白地帯沙漠にあるクバシュ県(Khubash Governorate)、シャロウラ県(Sharourah Governorate) およびカールキール県(Al Kharkhir Governorate)ではシャロウラの様な近年になって人為的に作られた町を除けば未だに沙漠部族(ベドウイン(Bedouin))が遊牧する世界である。

 

セシジャー(Wilfred Thesiger)のルブアルハリ沙漠旅行記録によれば1948年当時のシャロウラ付近で活躍していた沙漠部族(ベドウイン)はヤム族(Yam)、ラシド族(Rashid)およびダワシール族(Dawasir)に加え、ミスガス族(Misqas)と呼ばれたイエメンのマアルフ族(Maaruf)、サアール族(Saar) 、アビダ族(Abida)等であった。しかしながら、ナジラン州全体を考えるとこの地域の典型的な沙漠部族(ベドウイン)と言えばやはりムッラー族(Al Murrah)である。
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5.2 ムッラー族

 

5.2.1 ムッラー族の世界

 

ムッラー族(Al Murrah) 15千人で構成され、アラビア半島の東はオマーン(Oman)山脈、北はクウェイト(Kuwait)そして南はナジラン(Najran)に住む駱駝牧畜の遊牧部族である。ムッラー族は一年に3,000km以上旅をしていたが、ルブアルカリと呼ばれる65万平方キロもの人を寄せ付けない偉大な不毛の地で生活するのを誇りとし、独立を保ってきた。

 

この厳しい地で生きる為の知識、狡猾さ、堅忍不抜さおよび勇気が追跡者としての能力を始め、数々の伝説を生んだ。ムッラー族自身は自らをアラブと呼び、ルブアルカリは砂を意味するリマル(al-Rimal)と呼んでいる。1930年代に、バートラム トマス501(Bertram Thomas)およびH. St. ジョン フィルビィH. St. John Philby)およびアラムコの初期の探鉱作業等によって神秘的な面が消え、その一方で頑強な、独立心の強い遊牧民の全貌がゆっくりと現れた。
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5.2.2 ムッラー族(Al Murrah)の血統と首長

 

ムッラー族(Al Murrah)の血統は南アラブ諸部族の先祖であるカハタン族(Qahtan)に遡る。カハタンから長く続いた血統はヤム(Yam)およびジュシャム(Jusham)を通して、古代町ナジランの近くのサウジラビア最南西部に住むムッラー(Murrah)およびその二人に息子アリ('Ali)とシャビブ(Shabib)に続いている。この兄弟の子孫が二つの主支族と成っている。ムッラー族の首長(the Shaikh)或いはアミール(Amir)(首長)はフハイダ(Al-Fuhaidah)支族のサフィ一門(the family of Al Shafi)出身のシュライム家(Al Shuraim)から殆ど出ている。
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5.2.3 駱駝と共存するムッラー族

 

塩分の濃い水を飲んでも普通にミルクを提供してくれる駱駝とムッラー族は親密に共存しており、他のベドウインが入り込めない条件の悪い土地でも生存できた。ムッラー族の栄養源は基本的に駱駝から絞ったばかりの生暖かいミルクであった。小さな黒い天幕34張り持った小さな集団で移動する為、牧草地も水もあまり問題では無かった。ムッラー族は季節、季節で牧草のある場所を熟知しており、有名な不毛の地の真ん中で十分に快適な生活が営めた。

 

 

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5.2.4
沙漠の襲撃と誉れ高いムッラー族のアラビア馬

 

沙漠での襲撃は富と家畜を蓄財するばかりではなく、ムッラー族にとっては、勇敢さの名声を得て、個人が豪胆な功績を刻む重要な行事でもあった。ムッラー族は人を寄せ付けない荒野の沙漠による並はずれた防護を享受できたので、素早い襲撃が可能で、時には城壁に囲まれた町までも攻撃した。この素早さを可能にしたのはムッラー族が代々、繁殖し、育てたアラビア馬であった。ムッラー族はアラビア軍馬の供給者としても名声を得ており、世界中に広まったアラビア馬の持ち主は自分の血統が沙漠のムッラー族まで遡るのを大いなる誇りにした。但し、イブン サウド王(the late King 'Abd al-'Aziz ibn Sa'ud)は弊害の多い沙漠の襲撃を違法として禁止した。
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5.2.5 定住生活への移行

 

かつては、ムッラー族だけしか足を踏み込めない沙漠の奥地も開発され、地図が作られた。 ムッラー族の追跡の巧みさは次第に近代的な警備方法によって公安部の中でもその評価が変わってきた。 ムッラー族の馬飼育が余りにも困難になり、そして荒々しい部族間の争いが終了するに連れて、彼等の個人的な勇気はそのはけ口を失った。物々交換に近いスーク(suq)での僅かな取引を除けば駱駝との共存で成り立つ自給自足経済は貨幣経済と消費社会の発達した現在での存続は難しく、部族民の殆どは遊牧生活から離れ、定住生活に移行してしまっている。

 

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5.2.6
カタールから追放されたムッラー族

 

200年余り前にカタール(Qatar)に定住したムッラー族(Al-Murrah)はこの首長国の人口80万人の5分の1を占めるカタール国民の43%を占めている。20054月の始めに、1996年の起きた現カタール首長エミール シェイク ハマド サニ(Emir Sheikh Hamad Al-Thani)の地位を奪おうとするクーデター(coup d'etat)に加担したとして、ムッラー族のガフラン一門(Al-Ghafran branch)の合計5,266人がカタール国籍を剥奪された。

 

雇用、住宅、教育および健康管理への権利を失ったばかりか、電気および水も供給が停止されている為に、これらガフラン一門(the Al Ghafran clan)の数千人の多くは東部州アハサ(Al Ahsa)の親族の家に避難した。

 

これを憂慮したタラル殿下502(Prince Talal)20056月にカタール政府を訪問し、ムッラー族に属する5千人余りの市民権を失った部族民の困窮を考慮し、民主的な精神を持って対処し市民権剥奪の決定を修正する様に要請した。

 

(注)この章ではトー エイゲランド氏(Mr.Tor Eigeland)1969年に撮影し、20041031日に「空白地帯は空白ではない」との題名で発表した文に添付されて居た写真を掲載した。
(
http://www.aramcoexpats.com/Pipeline/Saudi-Arabia/ContentID/958/Content.aspx)
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5.3 ナジランのイスマーイール派(Ismaili)

 

ヤム族(the al-Yam)の一部を中心としてイスマーイール派503がナジランにも住んでいる。ナジランのイスマーイール派はファーティマ カリフ朝504(the Fatimid caliphate) (西暦909年から1171年)が北のイエメンの多くを占拠していた時に遡る。

 

ヤム族(the al-Yam)が多いイスマーイール派の信徒は「ワッハーブ派(Wahhabi)を正統とするサウジアラビアでは未だに二級市民(second-class citizens)の扱いを受けている」との不満を持っており、七世紀の敬われている聖職者であるイマーム フッセイニ(Imam Husseini)の死をたたえるアショウラ(Ashoura)を祝う等、サウジアラビアで圧倒的に多いワッハーブ派のスンニ派ムスリム(Sunni Muslim)の住人との間で軋轢を生じる事も少なく無い。

 

又、イスマーイール派の信徒(Ismaili)はサウジアラビア国内におよそ5万人から10万人の信者を持ち、隣国イエメンに2万人から5万人の信者がいる為に、時として国境を挟んでの問題になる場合もある。それを防ぐ為にもサウジ政府はナジラン州の経済的繁栄によって社会基盤の安定化を確立しようと努力している。
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後書き(Postscript)

 

前に「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)への訪問(サウジアラビア王国南西地方)その3空白地帯(the Empty Quarter)に至る内陸地域」で「沙漠の道路ではあるがブルドーザーで均され、交通標識もあるので全く迷うことが無い上に運転手が沙漠の運転に慣れたので全くスムースで周りの景色が印象に残る暇も無い」と説明した様に沙漠道路でも道路標識がしっかりしていればその通行は余り問題ない。

 

上述した空白地帯の外周道路、縦断道路にさらに枝道が出来、化石水の水脈を辿って農場や牧場が進出するだろうし、現在、進められている4つのガス開発利権のどれかが成功すればガス処理や輸送の基地やパイプラインが出来、操業の為の舗装道路網も拡大するだろう。

 

サウジアラビアで一番辺鄙な場所であったワディア(Al Wadi'ah)に国境検問所が出来、イエメンとの貿易促進の為に経済都市建設する計画もあり、遠隔の人跡未踏と言われて来た空白地帯沙漠(Rub Al Khali)が開発されるのは21世紀でも意外に早い可能性も大きい。便利に成ることはうれしい反面、私の訪れたかった手つかずの沙漠は消えつつあるのを感じるのは寂しい気がする。

 

その一方で、ハディダ (Al-Hadidah)近傍の隕石衝突跡であるワバール窪地(Warbar Crater)を調べていて、失われた都市ウバール(Ubar)の存在を見つけ、イエメン東部からヤブリーン(Yabreen)を経て、ジャルハ (Gerrha)へ至る隊商路の存在を知り、私自身としては空白地帯への関心が更に一層深まった感じがする。
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出所と参照(Source and Reference)

 

南西サウジアラビア

http://www.arab.net/saudi/sa_southwest.htm

南ルブアルハリ会社(SRAK)の航空重力測量

  Abudulmohsin Al-Dulaijan, SRAK’s Geophysical Operations Manage

Captain William Hacking of Shell Aircraf

Martin Bates (Geophysicist) of Sander geophisics limited

http://www.shell-me.com/english/index.html)

南ルブアルハリ会社(SRAK)の二次元地震探鉱

 Patrick Allman-Ward, SRAK’s Chief Executive Office

  Yasser Elsgazly of Western Geco

 Andy Jennings of Western Geco

 http://www.shell-me.com/english/index.html)

南ルブアルハリ会社(SRAK)の試掘準備作業

 Koen Bracquene, SRAK’s Drilling Manager

  Harry Verkuil, SRAK’s Senior Well Engineer

  Ahmed Al-Otaibi of Saudi Aramco

  Marc Vanderschaeghe of SRAK’s Drilling Superintendent

  http://www.shell-me.com/english/index.html)

南ルブアルハリ会社(SRAK)の試掘作業

Bobby Schuck of Shell in the Middle East

Patrick Allman-Ward, SRAK’s Chief Executive Officer

Koen Bracquene, SRAK’s Drilling Manager

http://www.shell-me.com/english/index.html)

ルブアルカリ沙漠からイエメンへの入り口(1995年改訂)

レナルド ミリチ著 (Lenard Milich)

アリゾナ大学乾燥地帯研究室、トウーソン、テキサス、U.S.A

(http://www.aiys.org/webdate/mili.html)

空白地帯と呼ばれる沙漠 ”ルブ’アル カリ(Rub' Al Khali)

 高橋 俊二 2004630

 (http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/)

聖なる二つのモスクの保護者による空路航法の発展

(http://www.gaca.gov.sa/king/English/airn.htm)

空白地帯への力(Power to The Empty Quarter)

  ザヒドトラクター(Zahid Tractor)のグラハム ターナー氏(Mr. Graham Turner)

  Tel: Riyadh 231 9984

駱駝の人、アル ムッラー

http://www.saudiaramcoworld.com/issue/196405/people.of.the.camel.htm

ロバート L. ヘッドリー著(Written by Robert L. Headley)

Wikipedia (Al Murrah)

泣きくずれる市民権を剥奪されたカタール人

P.K. Abdul Ghafour, Arab News

Jeddah, 2 April 2005

革命幇助で国籍喪失のムラー部族の復帰を喜ぶ                        

P.K. Abdul Ghafour, Arab News

Jeddah, 11 June 2005

カタール市民権を失いサウジアラビアに居る数千人

11/24/20

By Mariam Al Hakeem, Correspondent

(http://archive.gulfnews.com/articles/05/04/03/159142.html)

空白地帯は空白ではない

トー エイゲランド著(Author: Tor Eigeland)
2004
1031

(http://www.aramcoexpats.com/Pipeline/Saudi-Arabia/ContentID/958/Content.aspx)


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原注(Explanatory Note)

 

101 ハディダ (Al-Hadidah) 空白地帯のベドウインは隕石衝突窪地(Crater)の存在を知っており、アラビア語で鉄を意味するハイダ(Al-Haida)と呼んでいた。

 

伝説の失われた都市ウバール(Ubar)は「紀元前3000年から一世紀まで空白地帯の真ん中で、交易で栄えた豊かな町でノア(Noah)の曾孫のアド(Ad)の子孫の一族が住んでいたが、邪な人々で頽廃し、繁栄を維持できなくなった」と伝えられている。又、クルアーン(Quran)には「預言者フド(Hud)に反抗した為に、神に滅ぼされた」とも云う。

 

1932年にイギリス人探検家フィルビィ(Harry St. John Philby)が伝説の失われた都市ウバール(Ubar)の探索中に偶然、隕石衝突窪地(Meteorite Crater)であるワバール窪地(Warbar Crater)を発見した。(21o 30.153'N by 50o 28.445'E)(フィルビィはウバール(Ubar)をワバール(Wabar)と云う名に誤訳していた。)フィルビィは一ヶ月に及び過酷な沙漠を旅して500m四方に砂岩と黒いガラス質と鉄ニッケル隕石の破片が散らばり、二つの大きな砂に埋もれた円い窪地があるのを見つけた。フィルビィが持ち帰ったサンプルからワバール窪地(Warbar Crater)が隕石衝突窪地(Meteorite Crater)である事が判明した。

 

1994年にオフロード運搬会社ザヒド トラックター(Zahid Tractor Corporation)が夏の空白地帯沙漠横断を行い、米国地質調査科学者ジェフレー ウィン(Jeffrey C. Wynn)が招かれて同行した。ザヒド トラックターは1994年と1995年に都合三回の横断を行った。19945月気温61℃に及ぶ中、途方も無く大きな砂丘の間にワバール窪地(Warbar Crater)を見つける事が出来た。この範囲は500m x 1000mの範囲に及び、フィルビィが発見した直径116m64mの二つの穴に加えて、直径11mの第三番目の穴が見つかった。

 

地表は一部、隕石衝突の衝撃で出来たガラス上の岩片(impactite)、漂白された白いきめの荒い石灰質の砂岩で部分的に構成され、黒いガラススラッグ(balck glass slag)とペレット(pellet)が散乱している。現場には隕石の破片のコブシ大の鉄が散らばっている。その中で一番大きなものは駱駝の瘤とあだ名され、1965年に発見された重さ2.2トンの鉄の塊である。 この塊は現在、リヤドのサウド大学(King Saud University in Riyadh)に展示されている。この隕石の衝突速度は4万から6km/hで総重量は3.5千トンと推定されている。隕石の衝突は260年以内の出来事であり、1863年から1981年に掛けてリヤドで目撃された火の玉の一つであり、「1863年リヤド(Riyadh)上空を通過しワバール地点に向かった巨大な流星ではないか)と云われている。

 

(Wikipediaから抄訳)


102 ディップスロープ(dip slope) 地層面が作る斜面あるいは地層傾斜に調和的な斜面で組織地形の一種。この用語は、斜面の傾斜、形態、規模に関係なく使われる。画像から、より多くのディップスロープを判読し、走向・傾斜情報を抽出することにより、構造地質解析の基礎データが作成される。緩傾斜地域におけるディップスロープは、その反対側の斜面(フロントスカープ)より長いのが特徴であるが、傾斜が30を越える急斜面になると地形的にはホッグバックとなり、ディップスロープの判別は困難な例が多い。

http://www.science.aster.ersdac.or.jp/jp/glossary/jp/te/dip_slope.html

201 psi pounds per square inch1psi= (6894.757 Pa)

202楕円坑形成: 殆どの古生代層は外形が楕円形の坑井孔を作り出す可能性がある。この問題を克服し、孔隙率を測る為に、サウジアラムコはログの正確なデータが取れないリスクを少なくする為に90度のオフセットを持って二重密度およびニュートロン分析を使う。


203要員緊急避難飛行機用滑走路: 南ルブアルハリ会社(SRAK)3機の双発オタールを契約して居り、その内の2機は未だに行われている地震探鉱に使われて居り、もう1機は医療避難の為の救急待機と掘削リグからの人員輸送用に使われた。

301 ウィルフレッド セシジャー: セシジャー(Wilfred Thesiger)1910年生まれの英国探検家でアビシニア、スーダン、アラビアなどを探検、イラン南部低地でMa'an族と暮らした体験もあり、ルブアルカリ沙漠を二回横断している。セシジャーはその体験をArabian SandsThe Marsh Arabsに次ぎ、1979年にDesert, Marsh and Mountainとして発表している。Desert, Marsh and Mountainはその一部を2004630日著作の「空白地帯と呼ばれる沙漠 ”ルブ’アル カリ(Rub' Al Khali)”」の中で紹介しているのでご参照戴きたい

 
401 PCA The Presidency of Civil Aviation of the Kingdom of Saudi Arabia

 
402新空路航行通信システムの近代化と更新プロジェクト:New Navigational Communication System Upgrading and Replacement Project


403 RCAGステーション Remote Center Air to Ground Facility

 

404 KAIA King Abdul Aziz International Airport, Riyadh


405 KKIA King Khalid International Airport, Jedda


406 KFIA King Fahad International Airport, Damma


501 バートラム トマス(Bertram Thomas) 探検家バートラム トーマス(Bertram Thomas)1930年から1931年に掛けてオマン(Oman)南部のアラビア海の海岸にある町サララ(Salalah)からカタール半島(Peninsula of Qatar)まで西洋人としては初めてルブアルハリ砂漠(Rub Al Khali)を横断した。バートラム トーマス(Bertram Thomas)は伝説の流砂地帯ウッム アル サミン(Umm al Samin)についてはベドウインからと聞いていたと云う


502 タラル殿下(Prince Talal) イブン サウド王の息子の一人で、サウジアラビア有力企業家でもあり、国連開発機関のアラビア湾岸計画と総裁(president of Arab Gulf Program for UN Development Organization)(AGFUND)とアラブ オープン大学 (and Arab Open University)の総裁でもある


503 イスマーイール派(Ismaili) イスマーイール派の信徒(Ismaili)はシーア派の第六代イマーム (Ja'far ibn Muhammad)の長子で父に後継者として任命されたが取り消されたイスマーイール(Isma'il ibn Ja'far)を第七代イマームであると唱えたイスラム教シーア派(Shi'ite)の一分派である。


504 ファーティマ カリフ朝(the Fatimid caliphate) カイロ(Cairo)を首都とした中世アラビアのファーティマ カリフ朝(the Fatimid caliphate)(西暦909年から1171)はリビヤ(Libya)、サウジアラビア(Saudi Arabia)を含むアラブ世界と熱烈で、一見したところは奇怪な交流を行う拠点であり、シーア派(Shiite Islam)の秘儀的な分派の拠点であった。西暦909年から1171年の間、ファーティマ カリフ朝(the Fatimid caliphate)の宗教的活動はモロッコ(Morocco)からアラビア半島(the Arabian peninsula)、更にシチリア島(Sicily)および南イタリアまで広がったシーア派(Shiite Islam)帝国を確立した。


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