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2007 0530日 高橋 俊二


遠い渓谷と遙かなる砂丘地帯(ナジラン)

(サウジアラビア王国南西地方)

その2 ナジランの歴史





 

索引(Index)

緒言(Introduction)

前書き(Preface)

1. 旧石器の時代(Paleolithic Era)

1.1旧石器初期の文化(後期オルドゥヴァイ)の遺跡

1.2 旧石器アシュール文化の遺跡

1.3 旧石器文化が発達した地質時代(更新世)

1.4 旧石器文化をもたらした人類(ホモ エレクトゥス

1.5 偏在する旧石器文化の遺跡

2. 青銅器時代(Bronze Age)

2.1 巨石文化(ナハリトの輪

2.2 ビール ヒマ(Bir Hima)

3. 隊商交易の時代(乳香の道)(Camel Caravan Trade)

3.1 シバの女王がソロモン王の記録

3.2 アッシリアの記録

3.3 古代ナジラン市

3.4 ナジランへの軍事的侵略

3.4.1 モカレブとアヌ バインの侵略

3.4.2 マイーン(Ma'in)王国との連合

3.4.3 アレクサンダー大王海軍遠征

3.4.4 ローマの将軍アエリウス ガルスの遠征

3.5 ヒマの分岐と乳香の道の経路

4. ヒムヤル王国とジャヒリイヤの時代(Hmyar and Jahiliyya)

4.1 古代ナジランの遺跡と遺品

4.2 ヒムヤルの支配によるキンダ部族同盟への加入

4.3 アビシニアを含むイエメン情勢

4.4 キリスト歴史協会によるナジラン戦争の記録

4.5 ユダヤ教徒の国ヒムヤルの滅亡

4.6 クルアーンの記述された溝の人々の話

5. アビシニア傀儡政権とペルシャのイエメン獲得(Abyssinian Rule to Persian Occupation)

5.1 ヒムヤル(Hymyar)壊滅後のイエメン支配

5.2 アブラハ(Abraha)の反乱

5.3 アブラハ(Abraha)のメッカ(Mecca)進撃

5.4 イエメン支配のアビシニアからペルシャへの移行

6. モスレム信仰への改宗(Conversion to Muslim)

6.1 ムバヒラ(Mubahila)

6.2 イスラム教義の伝授

6.3 カッタブの時代

6.4 海上交易路の成長

7. ペルシャ支配から近代へ(Persian Rule to Modern Period)

7.1 ペルシャ支配

7.2 オスマントルコの時代

7.3 サウジアラビアへの併呑

8. ナジランの歴史的場所と遺跡(Historical Places and Monuments)

8.1 ナジラン歴史博物館(Najran Museum for History)

8.2 歴史的な首長宮殿(The Historic Principality Palace)

8.3 アアン宮殿(Al-Aa'n Palace)と山城(Ra'oom Mountain Castle)

後書き(Postscript)

出所と参照(Source and Reference)

原注(Explanatory Note)

 

緒言(Introduction)

 

今回ナジランに関する歴史資料をまとめた上で、後期オルドゥヴァイ文化001(the Developed Oldowan)遺跡の存在、乳香の道002を含む古代イエメンとの関係、ナジラン伝統工芸の系統立てての整理、古代のユダヤ教やキリスト教、イスラムへの改宗、近代の歴史およびサウジアラビアへの併合等太古から現代までの関連付けてまとめてみたかった。そして、その中で私がこの地方に最初に魅力を感じたシバの女王伝説等古代イエメンとの関係を出来るだけ明らかにしたかった。
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前書き(Preface)

 

   サウジアラビア南西部の岩稜が取り囲む谷間を不規則に広がるオアシスがある。その中で、周囲の果樹園や樹木に殆ど埋もれる様に鳴りを潜めている町がナジランである。ナジラン州の州都であるこの町は古代から人が住んでいた地域であり、この地方の農業中心であった。この為、美しい果樹園と公園が多いが、近年には市の中のいたるところに近代的な建物が建ち、ざわめいた通りが出来て、往年の日干し煉瓦造りの建物やナツメ椰子園と一緒に並んでいる。この新旧の併合が、繁栄した商業、工業および農業の中心であるナジランに魅力を与えている。

 

涸れ谷ナジラン(the Wadi Najran)に沿って長く延びたオアシスは150万年前に人類がアフリカからユーラシアへと移住した経路にも近く、この4,000年間を越える人の営みを見て来ている。この集落は常に南北アラビア交易の重要な中心であった為に、建築様式でも精神的な姿勢でもイエメン文化の影響は非常に強い。

 

かつて、ナジランは昔から続いている乳香の道にある最初の主要な宿場で、直ぐ北のビール ヒマ003(Bir Hima)乳香の道(the frankincense route)が東と西へ分かれる手前の最後の宿場でもあった。
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1. 旧石器の時代(Paleolithic Era)

 

1.1旧石器初期の文化(後期オルドゥヴァイ)の遺跡

 

アラビア半島の石器文化(the Stone Age Civilization)150万年前に始まり、紀元前2000年近くまで続いたサウジアラビアで発見された一番古い遺跡はジョウフ州(Jawf) のシュワイヒティイヤ101(Shuwayhitiyah)で発見された後期オルドゥヴァイ文化(the Developed Oldowan)と呼ばれる初期石器文化に属した遺跡であった。

 

1980年にシュワイヒティイヤ(Shuwayhitiyah)から一千数百km離れたサウジアラビア南端に位置するナジラン(Najiran)に近いワディ(wadi)から34個の石器を考古学調査隊が集めた。これらの石器も珪岩(quartzite)で作られており、シュワイヒティイヤ(Shuwayhitiyah)で発見された遺品と似通っている。2m (7ft)以上の深さに埋められていた人工遺物は採砂作業中に出土してきた。採砂作業では現場は切り取られ、砂は涸れ谷の河原に移動させられた。そこで人工遺物は発見され、収集された。サンプル中の遺品の数が少なかったけれども、これらの道具類はアフリカの後期オルドゥヴァイ文化(the Developed Oldowan tradition)に見られる道具類と極めて似ていた。この事がこれらの道具がシュワイヒティイヤ(Shuwayhitiyah)の人工遺物と同じ様な時期に作られた事を物語っている。
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1.2 旧石器アシュール文化遺跡

 

シュワイヒティイヤ(Shuwayhitiyah)とナジラン(Najran)はサウジアラビアにある二つの例外的に古い後期オルドゥヴァイ文化遺跡である。ナジランから約160km(100 miles)北の涸れ谷タスリース(Wadi Tathlith)東岸に第三番目に古い遺跡がある。そこの遺品はアシュール文化(Acheulean)102と呼ばれるもう一つの文化を代表していた。しかしながらアシュール文化の非常に初期の段階の遺跡である為に、手斧(hand axes)、包丁(cleavers)および千枚通し(picks)等のアシュール文化を特徴づける普通の品揃えは無かった。

 

アシュール文化(Acheulean)の石器は東アフリカで多くの遺跡の発見される後期オルドゥヴァイ文化(the Developed Oldowan)の石器と明らかに同じ時期に製作されていたので、タスリース(Tathlith)遺跡の遺品がシュワイヒティイヤ(Shuwayhitiyah)やナジラン(Najran)とは違っていたとしてもこの遺跡は他の二ヶ所と同じ古さであったと思われる。
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1.3 旧石器文化が発達した地質時代(更新世)

 

サウジアラビアのこれら三ヶ所の遺跡は明らかに、164万年前から始まってこの1万年間に終わった更新世103(the Pleistocene)として知られる地質学時代(世)の初期のものと特定できる。その時代には巨大な氷塊がヨーロッパ北部および北アメリカを被った時期で氷河期104(glacials)と呼ばれ、間氷期(interglacials)と呼ばれる暖かい間隔の間だけ氷が溶けた。更新世(the Pleistocene)の間にどの位多くの氷河期(glacials)と間氷期(interglacials)があったかは明らかではないが、深海のボーリング地質資料は「少なくとも10回はあった」と示唆している。氷盤がアラビア半島を被いはしなかったが、天候の変化は間違い無くこの地域全てに影響を与えた。氷河期にはアラビア半島は涼しく、乾燥した。暖かい間氷河期には気候は温暖化し、湿度も上がったので人類が居住するにはもっと魅力的になっていた。更新世(the Pleistocene)の間の気候変化はこの様に初期の遺跡の数や場所に直接に影響していた。
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1.4 旧石器文化をもたらした人類(ホモ エレクトゥス

 

ホモ ハビリス(Homo habilis)105として知られる初期の人類が200万年より少し前にアフリカに現れた。脳の大きさが我々の半分しかないこの遠い祖先は主として東および南アフリカに住んでいた。150万年より少し前に、ホモ ハビリスよりも優れた知力、体力を持ち、勇敢で、剛胆で、進取的で、そして決然とした人類ホモ エレクトゥス(Homo erectus)が出現し、ホモ ハビリスの使っていた後期オルドゥヴァイ型の石器に新しい道具を加え、次第に新しいアシュール文化形態に入れ換えた。ホモ エレクトゥスはアフリカの他の地方にも広がった後に、アジアにも渡り、人類は地球上全体に住む先駆けとなった。

 

  ホモ エレクトゥス(Homo erectus)がアジアに渡るにはアラビア半島北部に至るルートと狭いマンダブ海峡(Bab al-Mandab)を越えアラビア半島南部を入るルートがあった。約150万年前に南部ルートを通ったホモ エレクトゥスがナジラン(Najran)、タスリース(Tathlith)、ハドラマウト山地(Hadhramaut Mountains)等の遺跡を残したと思われる。
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1.5 偏在する旧石器文化の遺跡

 

オルドゥヴァイ文化(the Developed Oldowan)の遺跡は稀であるのに、アシュール文化(Acheulean)の遺跡はもっと一般的である。アシュール文化(Acheulean)は人類の先史時代のどの道具文化よりも長く150万年も続いた。その始まりには後期オルドゥヴァイ文化(the Developed Oldowan)がまだ使われていた時代であり、終わったのは僅か15万年前である。この長期継続が至る所で見られる事の証明でもある。

 

   アラビア半島においてアシュール文化(Acheulean)遺跡はアラムコ(Aramco)の地質技師達によって1930年代から1950年代の石油探査の間に幾つか見つかっており、その他にはサウジアラビアの地図作りとその地質を解明していたアメリカの地質調査隊の隊員によっても確認されていた。しかしながら、大部分の遺跡は教育省の考古学・博物館庁が主催した1976年から1980年までの五年間の考古学調査事業で、その他はその後、数年の間のもっと集中的な地域調査や発掘で発見された。現在までに二百ヶ所近くの更新世中期(Middle Pleistocene age)のアシュール文化(Acheulean)遺跡がサウジアラビア国内で記録されている。これは中央州、西部州および南部州で最も多く見つかっており、アラビア湾に向かって東へ行くほど稀になってくる。

 

これらは人工遺物(artifacts)から構成されている。人工遺物は扇状地106(allivial fans)、又は風や水の浸食にさらされた涸れ谷を見下ろす台地(terraces)、又は更新世 (the Pleistocene)に形成された湖等で見つけられた。全てが同じ時代にあった訳では無いけれども、その様な場所では水が潤沢に供給され、十数ヶ所或いはそれ以上の遺跡があらわれた。通常は「この様な遺跡は暫定的に数週間程度住人を保護するための一時的な住居跡である」と考えられている。
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2. 青銅器時代(Bronze Age)

 

2.1巨石文化(ナハリトの輪)

 

   1980年までイエメンやオマーンでの青銅器時代(紀元前2500 - 1100)の存在は確認されて居なかったが、A. デマイグレト(A. DeMaigret)のイエメン奥地の調査により、その存在が実証されて以来、さまざまな場所でツムリ201(tumli)が大規模な柱や石の配列や陶磁器(ceramic)の壺、石器、埋葬品からの様々な形のビーズそして銅や青銅製の道具等の遺品と共に青銅器時代の集落跡を発見されて来た。

 

1955年に発見されたマハラ(Mahra)の人里離れた谷から出てきたナハリト(Naharit)と呼ばれる輪と同じ様な輪がゾファール(Dhofar)でも見つかっている。近くでは集落跡は見つかっていないが一連の非常に大きな石が通路と小さめの外側の石列を交互にする事で境界を示している大きな構造物である。この様にアラビア半島の青銅器時代(紀元前3000年から紀元前1200年)はオマーン南西部のコール ロフリ(Khor Rohri)上の大きな儀式センター、紅海岸平地(Tihamah)の南部分の ミダマン(al-Midaman)と共にハミリ(Hamili)等の巨石(megalothic stones)を使った一定型式の構築物の建設に特徴つけられている。石の輪と配列はアラビア半島と北アフリカ巨石文化(the Arabian and North African megalithic tradition)の典型であり、この様な配列や輪はヨーロッパの同じ様な文化とも同類で、季節毎の活動を計画する助けとして太陽、星および月の現象を観察する為に使われていた様だ。
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2.2 ビール ヒマ(Bir Hima)

 

ビール ヒマ(Bir Hima)1950年代の初めにフィルビー202(Harry Saint John Philby, 1885 - 1960)の探検によって初めて記録され、集大成はE. アナティ(E. Anati)によって研究された。この場所は常に水があり、獲物がいて、砂岩の大きな露出があるので、先史時代の人々に好まれていた。

 

 

全ての像は砂岩に刻まれており、紀元前第3000年期の終わりから紀元前2000年期終わりの時代の物であると今は示唆できる。様々な像がダガー・剣、横断鏃をつけた矢と弓、鎌型の剣(sickle swords)・投げ槍(throw-sticks)等の青銅器を使用しているのに注目すべきである。

 

 

狩りの光景では殆どがアニミズム(animism)(霊魂信仰)の精神的世界を伝えようと意図した象徴的な像である。駱駝は紀元前2000年頃に家畜化されるまでは狩りの獲物であった。

 

 

ビール ヒマ(Bir Hima)の岩壁画に見られる独特な三日月型柄頭のダガーは紀元前2500年頃のウル(Ur)のメスカラムデュグ墓(the grave of Meskalamdug)や紀元前3000年期のバハレインのマディナト ハマド(Madinat Hamad)埋葬塚から発掘された銅・銅合金ダガーと同時代の物と思われる。
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3. 隊商交易の時代(乳香の道)(Camel Caravan Trade)

 

3.1 シバの女王がソロモン王の記録

 

隊商交易は紀元前1000年より前に始まり、陸上交易の拠点と成った多く交易都市が興り繁栄した。駱駝隊商交易(camel caravan trade)がもっとも早く記述されていたのは聖書で、聖書(1 Kings 10)に「シバ301(Sheba)の女王(the Queen of Sheba)が王の令名を聞き、その知恵と栄えを確かめるために多くの宝石を持ってソロモン王302(King Solomon)の宮廷(court)を訪問した」と記述されている。しかしながら、紀元前950年でのユダヤ王国(the Judean kingdom)の存在には疑問がある上に古代シバ王国(the Sabaean kingdom)の紀元前10世紀での存在を示唆する考古学的な証拠はあるが、レヴァント303(the Levant)と南アラビアを結ぶ陸上あるいは海上の交易の考古学的証拠は発見されてはいない。従って、この記述はシバの女王の実在を含めて、伝説としては受け入れられているが史実としては疑問である。

 

[Poynter]

英国の個人蒐集品

エドワード ジョン ポインター卿(1836-1919)(英国の歴史画家で国立美術館長)

の描いたシバの女王のソロモン王訪問場面(1882)

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3.2 アッシリアの記録

 

   10世紀にシバの女王の女王がソロモン王を訪問した伝説とは関係なく、「古代シバ国(the Sabaeans)は紀元前8世紀には中東(the Near East)と交易していた」と示すアッシリアの出典がある。古代シバ国と隊商交易(the caravan trade)が歴史に最初に記述されたのは紀元前8世紀半ばのアッシリアの文章であり、それには「ユーフラテス川(Euphrates)駐留のスフ(Suhu)およびマリ(Mari)の知事によって駱駝の隊商(a camel caravan)が捕らえられた」と記述されている。

 

タイマ304(Tayma)と古代シバから来た100名の人達を従えたこの隊商は200頭の駱駝から成り、羊毛、鉄、雪花石膏(alabaster)および青ムラサキ色に染めた羊毛を運んでいた。ところがこの隊商は通行料を支払わなかったので捕らえられた。雪花石膏(alabaster)を除けば、これらはアラビア半島南部の典型的な産物では無かった。ホネガイの殻で染めた紫の羊毛はフェニキア人(the Phoenicians)が扱う産物である。鉄はアラビア半島南部の輸出品としては知られて居ない。しかしながら、アナトリア305(Anatolia)およびレヴァント(the Levant)に鉄の産地がある事は知られている。「乳香の道の重要な中継地である古代シバ国およびタイマの交易業者は彼等の香料をレヴァント(the Levant)でフェニキア306(Phoenician)の織物、鉄等と交換し、それからアッシリア307(Assyria)で産するこれらの品の幾つかと交換する為に、東へ向かって旅をした」と言われている。

 

   サルゴン二世308(紀元前721年から705年)およびセナケリブ309(Sennacherib)(紀元前704年から681年)のアッシリアの記録には「貢ぎ物が(古代)シバ(Sabaeans)から届き、それらは芳香性の物、黄金および宝石であった」と記載されている。紀元前716年の出征の間に、サルゴン二世は粉塵の様な形の黄金、宝石(precious stones)、象牙、黒檀の種(ebony-seeds)、全ての種類の芳香物質、馬および駱駝をシバのイタアマル(Ita'amar the Sabaean)から受け取った。アッシュール310(Ashur)に神殿を建てたのを記念した基礎の碑文にセナケリブ(Sennacherib)はシバの王(king of Saba')カリビル(Karibilu)から贈られた宝石と素晴らしい香辛料を神殿の基礎の上にばらまいた。イタアマル(Ita'amar)とカリビル(Karibilu)はアラビア半島南部の王族の名前であり、この時代にサバを支配していたサバ人の王達と思われる。古代サバ国はアッシリアの軍隊が行き着ける範囲の外にあり、アッシリアの王達に対するこれらの贈り物は円滑な交易を保証する為の交易税又は賄賂と思われる。
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3.3
古代ナジラン市

 

古いナジラン市(the old Najran city)も隊商交易時代に生まれた。最初の都市集落はオクデュード(Al-Ukhdood)と呼ばれ、紀元前500年から紀元10世紀まで約1,500年もの間、繁栄した。紀元前600年から紀元300年の間、古いナジラン市は現在のオクデュード(Al-Okhdood)同じ場所にあった。特に紀元前1世紀にナジランはアラビア半島南部でもっとも代表的な交易都市の1つとなった。隊商交易はアラビア半島南部の文化の発展に重要な役割を演じた。ナジランがアラビア半島南部とエジプト、メソポタミア311(Mesopotamia)およびペルシャ312(Persia)等の中近東文化の中心との間に確立した接触な建築、彫刻(sculpture)、石の彫刻および金属細工に影響を与えた。この接触はナジランの住民に効率的なダムと農業用水路の建設によってより生産性の高い農作技術を発展させた。   

 

ナジランはアラビア半島南部を北部や古い世界と結びつけた。古代の交易路の交差点にあたる場所にあったので重要な交易上の役割を担ったナジランには歌に述べられた市場もある。

 

古代の市(The Ancient Market)

 

1. ダハダ(dahda)の日曜市

2. バニ サル マン(Bani Sal man)の月曜市

3. バドル ジュノオブ(Badr Al-junoob)の火曜日市

4. コウブ アアム(koubu Al-Aam)の水曜日市

5. ガベル(Al-Gabel)の木曜市

 

ナジランの交易がもっとも栄えた時期は紀元前一世紀および紀元前二世紀であり、当時、ナジランはオクデュード(Al-Ukhdood)と呼ばれていた。オクデュードは高度に要塞化され、そして大きな石で築かれた壮観な境界壁で囲われていた。オクデュードはナジランの近代的な市の僅か数マイル南に位置している。高さ2mの花崗岩の石ラッス(Rass)が含む花崗岩で作られた高い境界の城壁がかつてはこの地方のランドマーク(landmark)であった。昔の市壁の一部は今で残っており、そして広大な彫刻が刻まれている。
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3.4 ナジランへの軍事的侵略

 

3.4.1 モカレブとアヌ バインの侵略

 

その地理上の便利さの為にナジランはしばしば軍事的侵略を受けている。エドワード グリッセール(Edward Glisser)によって発見された、彫り込まれた文書は軍事的侵略の最も早期の証拠を示している。モカレブ(Al Mokareb)とその息子アヌ バイン(Anu Bine)の時代(紀元前660年)に残虐な攻撃を被り、この地方のナジラン族(Najran Tribes)は多くの犠牲者を出し、村々を大きく破壊された。平穏と復活の時代を経て、サバ313(Saba)の最後の王も再び軍事作戦をナジランの住民に対して開始した。この襲撃でも人口の多くが殺され、多くの村が破壊された。
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3.4.2 マイーン(Ma'in)王国との連合

 

隊商路の戦略的に位置にあり、他国からの侵略を防ぐためにナジランは強力な王国であったマイーン314(Ma'in)、サバ(Saba)およびハドラマウト315(Hadhramaut)を連携していた。歴史学者やオリエント学者は「ナジランの古代マイーン(Ma'in)王国との連合の証拠は地中海(Mediterranean Sea)とイエメンの間交易路で見つかった岩に刻まれている」と言う。その中には「ナジランは完全にマイーン国(the sate of ma'een)によって統治されていた」と主張する歴史家達もいる。いずれにせよ、長い隊商時代の殆どを通じて乳香(frankincense)等の香味料と香料を運ぶ隊商交易路の交差点に位置する商業の大きな中心であり続け、この地域は繁栄していた。
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3.4.3 アレクサンダー大王海軍遠征

 

ギリシャ(Greek)ではアラビア半島南部は「恵まれたアラビア」を意味するアラビアの幸福(Arabia Eudaimon)と呼ばれ、そしてラテン(Latin) (古代ローマ人)では「幸福なアラビア(Happy Arabai)」を意味するアラビア フェリクス(Arabia Felix) と呼ばれていた。紀元前450年頃にヘロドトス316は「これは世界で乳香(frankincense)が育つ唯一の国であり、没薬(ミルラ)(myrrh)、桂皮(cassia)、肉桂皮(cinnamon)(シナモン)およびラブダナム(ladanum)(半日花から採った天然樹脂)も産するので、国中でこの世のものとは思えない匂いが発散している」と述べている。 乳香を栽培している部族を征服するのはアレクサンダー大王317(Alexander the Great)の少年時代の夢であった。紀元前323年に死ぬ前に、大王はアラビア フェリクス(Arabia Felix)に対して海軍遠征を行った。
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3.4.4 ローマの将軍アエリウス ガルスの遠征

 

紀元前25年にローマ皇帝アウグストゥス318エジプト攻略占領した後、紅海岸の港群とヒジャーズ山脈(Hijaz Mountains)を越えての乳香交易ルートを確保し、アラビア半島南部の乳香の生産地域を征服する為に、エジプト属州長官(the Prefet of Egypt)のアエリウス ガルス(Aelius Gallus)を送った。アエリウス ガルス(Aelius Gallus)ナジランまで2,500km進軍し、ナジランを包囲し、略奪し、焼き払った。しかしながら、水不足の為に ガルスの軍隊はマリブ(Marib)6日間包囲しただけで退却せざるを得ず、乳香生産地には辿り着けなかった。ギリシャの歴史学者ストラボン319(Strabon)によれば紀元24年にナジランはこのローマ遠征軍によって攻撃されている。この遠征が成功しなかった為、ローマ人達は西暦1世紀から定期的に乳香と没薬の地に紅海経由で訪れ、それがムザ(Muza)やカナ(Qana)等のアラビア半島南部の港を発展させた。
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3.5 ヒマの分岐と乳香の道の経路

 

西暦40年から70年頃にアレキサンドリア(Alexandrian)の商人によって書かれたギリシャの航海マニアルであるエリュトライ海の周航記(the Periplus of the Erythraean Sea)には「この地で育った乳香の全てはまるで倉庫でもある様に駱駝やこの地方独特の革袋の筏や小舟でカナ(Qana)に運ばれた」と述べられている。アデン湾の港町カナ(Qana)でのロシアの考古学発掘で、時には椰子の籠や、海岸に残る数室から成る大規模な貯蔵構造物の遺跡で大量の乳香が見つかった。カナ(Qana)からは駱駝の隊商が乳香や没薬(myrrh)をハドラマウト(Hadramawt)の首都シャブワ(Shabwa)へ運んでいた。当時の様子をプリニウス320(Pliny)は「シャブワ(Shabwa)の神殿聖職者は乳香が更に先に運搬する為に、元々マイーン人(Mainaean)であった商人達に売られる前に積み荷毎に一定の割り当てを取った」と記録している。

 

カナの商人達が神殿への寄進を免れる為にシャブワ(Shabwa)への主要交易路を避けると、商人達は厳しい処罰を受け、殺される覚悟をしなければ成らなかった。シャブワ(Shabwa)から乳香等の積み荷はカタバーン321(Qataban)の首都タムナ(Tamna')へ運ばれた。カタバーン王に税金を支払った後、隊商は北のマイーン(Ma'in)およびナジラン(Najran)を目指した。

 

   ナジラン北方のヒマ(hima)で隊商路は分かれ、一方の路は東へとエルファウ(Elfaw)村を通って、ジャルハ322(Gerrha)まで行き、そこからメソポタミア (Mesopotamia)等のアラビア半島の北東を目指した。もう1つは西へとガラシュ323(Garash)を通り、メッカ(Mecca) マディナ(Al-Madenah) ムナッワラ(Al-Munawwrah)を通り、 ウラ(Al-Ulaa) バールツラア(Al Bartraa)、ベラド  シャム(Belad Al-Sham)を経て、アラビア半島の北西部のペトラ324(Petra)或いはレヴァント(Levant)の海岸にあるガザ(Gaza)まで旅をした。何れの路でも隊商(caravan)は高い山を避け、食糧と水の十分な供給を保証された。

 

   タムナ(Tamna')とガザ(Gaza)の間には65の宿場があった。シャブワ(Shabwa)からの総旅程はおよそ2,750kmであり、駱駝隊商では目的地に着くまで23週間掛かったと思われる。プリニウス(Pliny)は「全行程に渡って、商人はある場所では水に、もう一つの場所では飼料或いは休息の為の宿泊費に、そして様々な税(the various octrois)(duties)に支払い続けなければ成らなかったので、これらの費用は地中海岸に着くまでに駱駝1頭当たり、688デナリイ325 (denarii)に成った」とも述べている。

 

ガザ(Gaza)から地中海を渡り、ギリシャ・ローマに向かうと共に、エジプトの寺院(the Egyptian temples)が宗教儀式を行うのに使う樹脂や香料等はアラビア半島南部からの輸入品に依存していたので隊商はナイル渓谷(the valley of Nile)も目指した。

 

   乳香が地中海を越える為の船賃も費用やローマ帝国の関税吏支払う税金加えなければ成らないし、ローマ商人も利益をあげなければ成らなかった。乳香が最終的に到着すると、市民は最高の品質の乳香には1ポンド当たり6デナリイ(denarii)支払った。6デナリイ(denarii)は平均的男が2週間で稼ぐ額よりも多かった。一方、没薬1ポンドは香料商達や薬種家達(apothecary)に対しては11および16デナリイ(denarii)であった。

 

古代イエメンの王国群にはシバ王国(Sheba)マイーン王国(Maeen)カタバーン王国(Qataban)および ハドラマウト王国(Hadhramawt)等があったがこれらの古代イエメンの王国群は次の章で述べるヒムヤル王国326 (Himyar)(紀元前2世紀末から西暦525年まで)が次々と征服、併呑した。
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4. ヒムヤル王国とジャヒリイヤの時代(Hmyar and Jahiliyya

 

4.1 古代ナジランの遺跡と遺品

 

ナジランの先史時代を理解する為には遠い昔に数世紀にも渡って人類が周囲の岩に絵、文字、彫刻を彫った石に訊ねる必要がある。石の声は豊かな言語、自然の博物館の形成や不朽の歴史を語る。1880年代にオーストリアのオリエント学者エドワード グリッサー(Edward Glisser)がこの地域への広大な探検を行った。グリッサーはヒムヤル(Hmyar)の国の筆記文字であるヒムヤライト(Himyarite)を除いて、幾つかは彫り込まれた多くのシンボルを発見した。ギリシャの歴史家ストラボン(Strabon)によればナジランはかつて紀元前115年から西暦340年の間に栄えたヒムヤル王国の一部を形成していた。エドワード グリッサーはこれらのシンボルがアラビア文字と類似して居たので解読する事が出来た。

 

その他の多くの方式の文字がナジラン郊外の石に彫られているのが見つかった。北のカビル(Al Qabil)村と南の山間の村々アッソウダ(Assouda) ハムラ(Al Hamra)およびアラーク(Alarq)の間にあるこの地域ではエジプト文字やその他のヒエログリフックス(heeroglyphics)(象形文字)が発見されて来た。

 

オクデュード401 (Al Okhdood)の町の遺跡の南にあるハマール(Al Hamar)山では最初の回教時代に書かれたクーファ文字402(Kufic script)が発見されて来た。同じ書体がナジランから15km離れたマスマ(Al Masmah)山の岩の上にも発見された。これらの書体に加えて、丹念で美しい馬、駱駝、駝鳥、レイヨウや蛇の彫刻がこの地域で発見されている。

 

重要な工芸品はナジランでも発見されて来ている。穀物を製粉する道具や複雑な建築様式で作られた掘り抜き井戸も発見されている。「これらはオクデュードの古代歴史的都市跡はナジランの古代首都であったラカマト(Raqamat)を特徴づけている」と歴史家フィルビィPhilby)は言う。

 

ナジランから35km離れたタスラル(Taslal)山の山頂にはナジラン カアバ(Najran Kaaba)があり、そこへ ジャヒリイヤ(Al Jahiliyya)と呼ばれるイスラム前の時代にアラビア人が40年に渡って巡礼に来ていた。歴史に基づくとこのカアバはバヌ アブデル マダン イブン ダヤン ハリシ(Banu Abdel Ibn Al Dayan Al Harithi)によって建てられ、マッカ(Makkah)のカアバ(Kaaba)に似ている。その他に古代の城であったと云われる興味ある構造物が涸れ谷ナジランの西の高い山ラオウム(Raoum)山頂に見られる。
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4.2 ヒムヤルの支配によるキンダ部族同盟への加入

 

イスラム以前の数世紀の間での中央アラビアに対するイエメンのヒムヤライト(Himyarites)の主な狙いは半島を越えてアラビア湾やメソポタミア(Mesopotamia)へ至る隊商路の確保であった。この事に関してはヒムヤライト(Himyarites)の利害はササン朝(Sasanians)の利害と一致した。ササン朝(Sasanians)はイエメンや印度洋から紅海沿いでは無く自分の領土を通って地中海に至る豊かな交易路を出来るだけ確保したいと望んでいた。ヒムヤライト(Himyarites)はこの目的の達成の為に南ナジド(Southern Najd)の諸族と同盟或いは部族的関係を維持した。この諸族の中にキンダ族(Kinda)やムドヒジ族(Mudhhij)が居た。

 

およそ西暦250年の頃、ナジラン地方はヒムヤル族(the Himyarite)の支配下となり、西暦300年頃に古いナジラン市は現在のオクディード(Al-Okhdood)から移動した。その頃からヒムヤル403(hemiar')(Himyar)の宗主権の下にキンダ(kinda state)とキンダ族同盟404を結び、同盟関係はイスラム時代の始めまで続いた。
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4.3アビシニアを含むイエメン情勢

 

   三世紀の中頃から中東の歴史は最初にローマ帝国、次に東ローマ帝国そして最後はその後継者のビザンティン帝国(Byzantine)とセム族のメソポタミア(Semitic Mesopotamia)のクテシフォン(Ctesiphon)に首都を置くササン朝ペルシャ(the Sasanids226 - 651 A.D.)に対する戦争状態は続いていた。この様な状況では常である様に、本質的に利害でも文明でも殆ど関係の無い地域にも敵意が広がった。アラビア半島でのペルシャの影響の及ぶ範囲はパルミラ(Palmyra)からハドラマウト(Hadhramaut)を結ぶ線の東側に及んでいたので、ササン朝ペルシャはメソポタミアを通って、アラビア湾へ抜ける交易路およびペルシャ本土を通って中央アジアへ抜ける交易路共にその支配下に置いた。

 

この状況がビザンティン帝国(Byzantine)に紅海経由の海路を使う事を余儀なくさせていた。紅海の入り口はビザンティン帝国の掌中にあり、紅海の東岸はビザンティン帝国(Byzantine)を脅かする勢力には占拠されていなかった。しかしながら、インド洋への出口はイエメン人に支配されており、紅海の西岸は後にアビシニア国405(the later state of Abyssinia)の核となったカクスム帝国(the empire of Axum)がその権益を持っていた。

 

   したがって、ビザンティン帝国(Byzantine)にとってはアビシニア国(the Abyssinians)およびイエメンと親善関係を確保する事が必須であった。その一方で、ペルシャ帝国(the Persians)はビザンティン帝国(Byzantine)がアビシニアやイエメンと友好関係を持つのを妨げる全ての可能性を素早くとらえていた。多く使われるに交易路については南アラビアとメソポタミアが親密な接触を長い間続けてきた。南アラビアの王国は紀元一世紀からゆっくりと没落し、その勢力を地方の封建首長とますます分け合わなければ成らなかった。その結果、南東イエメンは四世紀前半に早くもアビシニア(Abyssinia)の支配に落ちた。

 

327年からアビシニアはキリスト教王国と成っていた。中世の後半にポルトガル(Portugal)がそうであった様にアビシニアは帝国の行政に宗教を使う事を通じてその力を固めようとして居た。ヒムヤル(Himyar)を征服した後、アビシニアは忠誠なキリスト教徒にその場所での力を植え付けた。この変化の中で、首都の主礼拝所(the main synagogue)は教会に転用された。

 

   一方、4世紀後半の390年頃にイエメン地方の首長ツバ アブ カリバ アサド(Tub'a Abu Kariba As'ad)はイエメンの王となり、420年まで統治した。伝説では「アブ カリバ(Abu Kariba)は自分の同族を率いてイエメンからメディナ(Medina)までマディナのユダヤ教徒と戦うために遠征した。しかしながら、ユダヤ教徒と戦う替わりに、アブ カリバはユダヤ教徒から学んで帰ってきた。アブ カリバはイエメンに二人のラッビ(rabbis)を伴って戻り、ユダヤ教に改宗した。アブ カリバの随行者達はそれに従い、ヒムヤル王国(Himyar)として知られていたイエメンはユダヤ教の王国となった」と云う。

 

   この様にしてヒムヤル王国(Himyar)は民族あるいは改宗したユダヤ教徒の王達によって6世紀まで支配された。6世紀の初頭にアビシニア国(Abyssinia)はイエメンを征服し、ヒムヤル族(Himyarite)王ラビアン イブン ムザール(Rabian ibn Mudhar)を逃げ出させた。ユスフ ヌワス406(Yusuf Dhu Nuwas)がラビアン(Rabian)を引継ぎ、アビシニアに臣従する国の王権を握った。ズ ヌワス(Dhu Nuwas)自身の信仰も改宗した王達の系譜で民族的にユダヤ教徒の女性の子であり、ユダヤ教徒であった。

 

   王になるとズ ヌワス(Dhu Nuwas)はアビシニアの支配からイエメンを解放する疲れを知らない戦いを始めた。当時のナジラン市はヒムヤル王国(the Kingdom of Himyar)に対するアビシニアのキリスト教徒煽動407の温床(hotbed)であった為に、ズ ヌワスはナジラン市を包囲し、親アビシニア扇動者を罰した。

 

52310月にズ ヌワスはナジランを奪取し、冷酷に親アビシニア党を皆殺しにした(ナジランの戦い)。その一団はキリスト教徒のみであり、この町のキリスト教聖職権威者達を含んでいた。
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4.4 キリスト歴史協会によるナジラン戦争の記録

 

六世紀には当時はアビッシニア(Abyssinia)と呼ばれていたエチオピア(Ethiopia))はアラビア半島南のヒムヤル王国(the Kingdom of Himyar)およびイエメン王国(the Kingdom of Yemen)を支配していた。ホメリテス(Homerites)と呼ばれる地方にキリストの教会が興隆しており、アビッシニアに保護を求めていた。

 

   ヒムヤル族のユダヤ教徒ユスフ アスアル406(Yusuf As'ar)はその王位を簒奪し、アビッシニアに反乱し、アビシニア人達を国から排除しようとしていた。ユスフ アスアルはザファール(Zafar)にあったアビシニアの守備隊を壊滅させ、そこにあったキリスト教会を焼き、他のキリスト教会も焼いた。

 

   キリスト教徒の都市408では北イエメンのナジラン409(Najran)が一番強かった。ズ ヌワス(Dhu Nuwas)即ちユスフ アスアルはそこを攻撃したが、キリスト教徒達は死にものぐるいの勇敢さで町を守った。ズ ヌワスはそこを攻略できないと悟り、ズ ヌワスは背信行為に訴えた。ズ ヌワスは「もし、降伏するならナジランのキリスト教徒に最大の恩赦を保証する」と誓った。町を永遠には防衛しきれないのを知ったキリスト教徒は指導者アレサス410(Arethas)の助言に逆らって町を放棄した。

 

   次ぎに起きた出来事は凄まじく、ベス アルシャム(Beth Arsham)のシリア人シメオン司教(Bishop Simeon)が目撃者にインタビューしに現場まで旅行し、と次の様に報告書を書いている。

 

「ユダヤ教徒達は犠牲者の骨全てを集め、教会の中に運び、積み上げた。ユダヤ教徒達はそれから聖職者、助祭、副助祭、読師および神との誓約者の息子と娘を連行し、教会の壁から壁まで詰め込んだ。(ナジランから来た男達によればその数は二千余名であった。)それからユダヤ教徒達は教会の外側にぐるりと材木を積み上げて、火を点け、中に入れられた全ての人々と共に教会を焼き払った。その次の週にさらに数百名のキリスト教徒が犠牲になった。その中には多くの信心深い女性達がいた。女性達の多くはキリストと十字架を否定し、自分達と同じようにユダヤ教徒になれ、そうすれば助けると言われ、それに従って生き延びた。それでもキリスト信仰を放棄する事を拒否した女性達は最も残酷な拷問で殺された。」

 

   日付については違いがあるが、「これは西暦5231125日の出来事であった」と言う。ズ ヌワス(Dhu Nuwqas)は指導者アレサス(Arethas)とその340人の追従者達への報復に全員を殺した。これらの男達はすぐさまギリシャ、ラテンおよびロシア教会の犠牲者リストに掲載された。彼等に関する歌がヨハネス詩編集(Johannes Psaltes)の一つに書かれているが、それにはたった約200名の死しか報告されていない。

 

   一世紀以内に書かれた他の記事は「深い穴が掘られ、燃えやすい材料で満たされ、火が点けられた」と付け加えている。改宗を拒否したキリスト教徒はこの炎の中に投げ込まれ、数千人が苦痛に満ちた犠牲となって死んだ。「ムスリム(Muslim)の注釈者達が否定しているのもかかわらず、コーランが『呪われるのは溝掘り人達で、彼等は燃えつくす炎に火を点け、信心深い者達が投げ込まれて苛まれるのを観察する為にその周りに座っていた』と言及している出来事がこれである」と考える人達もいる。

 

   ルフム(Ruhm)と云う名の財産家の婦人はその乙女であった娘と孫娘が処刑されるのを目撃し、自殺する前に彼女達の血を味あわなければならなかった。ルフムは「血の味がどうだったか」と訊ねられ、「純粋で清浄なささげ物の様だと答えた」と云う。
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4.5 ユダヤ教徒の国ヒムヤルの滅亡

 

   ナジランの住人の幾らかはズ ナワスの攻撃の前に逃亡した。その中にダオウス イブン タバン(Daous Ibn Thaban)が居り、コンスタンティノープルのローマ皇帝に助けを求めた。ローマ皇帝は「自分はその土地から余りに遠くにいる」としてアビシニア皇帝エッラ アトスベハ三世411(the Ethiopian Emperor, Ella Atsbeha III)にアレクサンドラ(Alexandra)の族長にした様に介入する様に促す書簡を出した。エッラ アスベハ三世は自分の守備隊が虐殺され、仲間のキリスト教徒が殺されたのでただでもそうしたいと思っていた。

 

   ズ ヌワス指揮下のイエメン人部隊にはユダヤ教徒、多神教徒(pagans)およびキリスト教徒を含んでいたけれども、アビシニアの宣伝でナジランの処刑はユダヤ教、反キリスト教の手に行われたとされ、イエメンに対する正義の戦いを呼び掛けた。

 

又、アビシニア皇帝エッラ アトスベハ三世(the Abyssinian Emperor, Ella Asbeha III)は同盟者の死を利用する事で、アラビア半島全域を占領する為の好機と捕らえ、7,000人編成の軍が編成した。アリアス412(Ariath) 指揮を取り、ヒムヤル(Hymyar)の勢力を壊滅させた。

 

この戦いは十字軍の時代の出来事に較べれば小さな規模であったが、パンタレオン(Pantaleon)と呼ばれるオーキマイト(Auximite)の修道僧の精神的指導で行われ、他のキリスト教の支配者も呼応し、アレキサンドリア(Alexandria)の太祖ティモシー三世(Patriarch Timothy III)等はユダヤ教イエメンに対する聖戦(Crusade)への非常に鳴り響いた支持者の一人であった。この戦いはキリスト教帝国宣伝活動の初期の実例で、この活動発展の頂点となった十字軍の基本形として特別に重要であった。

 

もっとも実際に重要な同盟者はローマのジャスティン一世(Justin I)であり、アビシニアの陸軍に60隻の軍船を提供した。軍船は勢力の均衡を改善し、アビシニアにハッキリとした優勢をもたらした。ズ ヌワス(Dhu Nuwas)が敗北した決定的な戦いは525年ザビド(Zabid)で戦われた。ある伝説では「ズ ヌワス(Dhu Nuwas)は馬もろとも海に飛び込み、見えなくなった」と云う。これには「敵の手では殺されたくは無いとのアラブ部族の誇りを持っているズ ナワス(Zhu Nawas)が敵に殺されるよりは自害を選んだ」との言い伝えもある。

 

   こうして一時はズ ヌワスはアビシニアのイエメン支配を失わせたが、最終的にはアビシニアとローマの共同意志の前に圧倒されてしまった。ケブラ ナガスト413(the Kebra Nagast)として知られるアビシニアのユダヤ教徒はズ ヌワス(Dhu Nuwas)の失墜をユダ王国(the Kingdom of Judah)にとって最後の破局414であると見なした。
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4.6 クルアーンの記述された溝の人々の話

 

聖なるクルアーン(Qur'an) ボロウジ(Al Borouj)の章に、この地域のジャヒリイヤ時代415(Jahiliyya)の出来事として溝(the Groove)の人々の話が記述されている。これらに人々の遺骸は未だに現在のナジランの南地区に残っている。これらの遺骸を保護する為に、これらの遺骸の周りに壁が作られている。

 

ナジランの住人は回教徒になる以前は単性論(Monophysite)派のキリスト教徒であった。この信仰は5世紀および6世紀にこの地方を訪れた商人達によってもたらされた。西暦525年にソン ナワス(Thon Nawas)はナジランの住人にユダヤ教(Judaism)に改宗するか、自分の軍隊と死ぬまで戦うかを迫った。ナジランの人々が改宗を拒否するとナワスの軍隊は町を包囲して住人を捕虜にした。ユダヤ教に改宗するのを拒んだ者達は溝に投げ入れられて焼かれた。その生き生きとした記述は聖なるコーラン(Qur'an)の一節416(スラー(Surah))に掲載されていると云う。
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5. アビシニア傀儡政権とペルシャのイエメン獲得(Abyssinian Rule to Persian Occupation)

 

5.1 ヒムヤル(Hymyar)壊滅後のイエメン支配

 

ヒムヤル(Hymyar)の勢力を壊滅させた後、アリアス(Ariath)はイエメン全領土を占領した。アビシニア皇帝エッラ アスベハ三世(Ella Asbeha III)からの命令でイエメン人の三分の一の女と子供を捕らえ、アビシニアに送り、奴隷に売った。又、ユダヤ教を信奉していたアラブ族は全員虐殺した。アリアス(Ariath)と共に戦ったアバアシュ族(the Ahbaash)はイエメン全体に勢力を広げた。

 

皇帝エッラ アスベハ三世はズ ヌワス(Dhu Nuwas)を壊滅させた後、イエメンをアビシニア(エチオピア)の植民地として自分の将軍の一人エシメファエウス501(Esimephaeus)をヒムヤル(Himyar)の王座に据え、キリスト王国を設立した。こうしてナジランはイスラム信仰の台頭までアラビア半島で最も重要なカソリックの教区となり、エッラ アスベハ三世(Ella Asbeha III)はアビシニア、ギリシャ正教(Greek Orthodox)およびローマカトリック教会(Roman Catholic churches)の聖者(St. Ellasbaan)となった。

 

その後、ナジラン地方は涸れ谷の周囲に12万人の軍隊とそのほぼ倍の人数の住人が住む70余の村を持つまでに発展した当時のナジランでは教会が尖塔で鐘を鳴らしたり、小さな火を燃やしたりして、住民に危険を知らせる警報用にも使われていた。
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5.2 アブラハ(Abraha)の反乱

 

   エシメファエウスの即位の直ぐ後で、ズ ヌワス(Dhu Nuwas)の親戚のズ ギアダン(Zhu Giadan)の反乱があった。この反乱は潰れたが直ぐ後にアブラハ502 (Abraha)が指揮するもう一つの反乱が起きた。

 

この反乱の原因はアリアス(Ariath)が全てのやり方で人々を痛めつけ始め為であった。アリアス(Ariath)自身の軍隊および一緒に戦ったアバアシュ族(the Ahbaash)でさえも例外ではなかった。アブラハ (Abraha)ヒムヤル(Hymyar)の勢力を壊滅させた時からアリアス(Ariath)軍隊の指揮官であった。しかしながら、アブラハ (Abraha)アリアス(Ariath)のこの様なやり方に我慢がならなかった。アブラハ(Abraha)は指揮者の一団を集め、この軍隊を二つに分け、アリアス(Ariath)に宣戦を布告した(アブラハ(Abraha)の反乱503)。

 

アブラハ(Abraha)アリアス(Ariath)と対峙するとアブラハ(Abraha)は「我々が戦えばアバアシュ族を使ってアバアシュ族を殺す事になり、イエメンの民が再び支配する事になるので二人だけで戦い、勝った方が支配を握ろう」と提案し、アリアス(Ariath)はこれに同意した。アリアス(Ariath)は激しく戦い、アブラハ(Abraha)を剣で打ち、鼻を切り落とした。アブラハ(Abraha)がアブラハ  アシュラム(Abraha al-Ashram)(鼻を切る)と呼ばれた所以がこれであるが、アブラハ(Abraha)は猛烈に反撃してアリアス(Ariath)殺し、イエメン全体の支配者と成った。

 

皇帝はこれを聞き非常に怒った。アブラハ(Abraha)は自分で軽蔑と恥辱の印である髪を切り、皇帝に送り、「アリアス(Ariath)我々を痛めつけるので殺したが、自分達は皇帝の臣下で、その支配の下にあり、仕えている」と忠誠を誓ったので、皇帝はアブラハ(Abraha)を許した。アブラハ(Abraha)は皇帝のさらなる怒りを恐れ、忠誠の証にイエメンに大きな教会(Qulais))を建て、全てのアラブ部族 (the Arabs)にこの教会を巡礼(Hajj)する様に命じた。そしてそれが皇帝の威光である旨の手紙を皇帝に送った。こうしてアブラハ(Abraha)はアビシニアのイエメン総督(Abyssinian Governor)としてアリアス(Ariath)を引き継いだ。
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5.3 アブラハ(Abraha)のメッカ(Mecca)進撃

 

アブラハ(Abraha)はキリスト教碑文を建てた後に、多神教徒のアラブ族(the pagan Arabs)の最も重要な寺院であるカーバ(Ka'ba)を破壊すると誓った。アブラハ(Abraha)570504に軍隊をメッカ(Mecca)に進撃させた。しかしながらカーバ(Ka'ba)は奇跡が起きて、傷つく事無く何を逃れた。その奇跡がアビシニア軍を引き返させた。これをアラブ族は万神殿(pantheon)を統轄する神格(deity)であるアッラー(Allah)のご加護だとした。同時に多神教徒のアラブ族は「ユダヤ教とキリスト教が何の為に公然と戦うのか」を初めて経験した。
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5.4イエメン支配のアビシニアからペルシャへの移行

 

伝説的なアブラハ(Abraha)はイエメンをアビシニア人の支配階級の下に殆ど独立した国とした。アブラハ(Abraha)はキリスト教を奨励し、メッカ(Mecca)の支配を握るか、少なくともメッカをペルシャの影響範囲からもぎ取ろうとした様である。市政の指導者層の同意で当時のメッカはペルシャの影響範囲に入っていた。この軍事行動は少なくとも伝統的に伝えられている560年よりも10年は早かった筈である。この軍事行動は失敗し、メッカの敵撃退はメッカ市民の誇りを高めた。それから間もなく、イエメン人達(Yemenites)はアビシニア人達(the Abyssinians)に反抗して立ち上がり、ペルシャの支援を得て、アビシニア人達を追い出した。こうして570年から572年の間に、ズ ヌワス(Zhu Nuwas)の同盟者であったペルシャ(Persia)がイエメンを獲得した。
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6. モスレム信仰への改宗(Conversion to Muslim)

 

6.1 ムバヒラ(Mubahila)

 

ヒジュラ歴(the hegira)9年あるいは10年頃までにはオクデュード(the Okhdood)はもはやナジランの主要な居住地では無くなっており、人々はこの谷のこの場所の外に広がって行った。イスラム以前からとイスラム時代初期にかけて、アラビア半島でも有名な市の1つであり、ナジランには大きなキリスト教徒の共同体があった。

 

西暦631年に預言者モハッメド(Prophet Mohammed)はカリド イブン  ワリード(Khaled Ibn Al Walid)をナジランに使わし、キリスト教徒の共同体にモスレム信仰(Moslem Faith)に改宗する様に求めた。それに対して、アブ ハリス(Abu Haris)司教を指導者とするキリスト教徒達は預言者モハッメドへのムバヒラ601(Mubahila)による異議を申し立てた。預言者モハッメドがこの挑戦を受け入れたので、カリッドはアキブ(Aqib)を首班とするキリスト教徒達の代表団を伴って預言者モハッメドと会見する為にマディナ(Madina)戻った。

 

   キリスト教徒達の代表団がモスクに預言者モハッメドを訪ねると最初はキリスト教徒達の服装と装飾品が余りにも立派なので悪魔がついているとの理由で会見しなかった。キリスト教徒達が服装と装飾品を改めると預言者モハッメドは歓迎し、自分の傍に座らせ、対話(the discourse)に入った。話はイエス キリストの人間性に集中し、預言者モハッメドはキリスト教徒達の「イエス キリストを神の子だと考えているかどうか」との質問に「他の預言者と同じようにイエス キリストは神の預言者である。イエスのアッラー(Allah)との酷似はアダム(Adam)と同様である。アダムもイエスも父親無しで生まれたが、神の子では無かった」と告げた。

 

預言者モハッメドのこの答えにキリスト教徒達は困惑を感じつつ、ムバヒラが催されるのを望み、ムバヒラに参加する聖職者を5人指名した。聖なる預言者はムスリムに代わってムバヒラに参加する5名を指名した。預言者モハッメドはモスリム側の5名として預言者自身を含め、自分の血縁からアリ(Ali)、ファティマ(Fatima)、ハサン(Hasan)およびフサイン(Husain)を指名し、「ムバヒラは翌日、催される」と宣言した。

 

預言者モハッメドの両目に真実が輝いていたのを感じていたキリスト教徒達はその夜、眠れなかった。翌日、神のたたりでのキリスト教徒滅亡を懼れたキリスト教徒の聖職者達は「自分達はイスラムを信仰する確信を持てないし、ムスリムと論争や争いに入れるだけの強さも持っていない。しかしながら、自分達の信仰を守りたいので、ムスリムの優位性を受け入れ、そして年貢(Juzya)(ジズヤ)を納める」と預言者モハッメドに提案した。預言者モハッメドはこれを受け入れ、取り決めを交わした上でキリスト教徒達がナジランに帰るのを許した。
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6.2 イスラム教義の伝授

 

預言者モハッメドタウヒド602(Tawhid)イスラムの5つの教義を教える為にオマル イブン ハザム(Omar Ibn Hazm)をこの一団と共にナジランに送り返した。これは西暦632年の事であり、ハザムがまだナジランに留まっていた4ヶ月後に預言者は没してしまった。この630年から632年の間にナジランの人々の多くはイスラムに帰依した。
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6.3 カッタブの時代

 

ナジラン地方でイスラムが強力になる一方でカソリック教徒の数は大幅に減少したけれども、オマル イブン カッタブ603(Omar Ibn Al Khattab)の時代までカソリック教徒が一度に無くなる様な事はなかった。カッタブは「キリスト教徒でありたい人間は全てナジランを離れなければならない」との命令を出した。但し、「ナジランに残す土地や財産については金銭的な保証をする」との寛大な提案もしていた。カッタブは「イスラムがアラビア半島唯一の宗教である」との決めた人物であった。カッタブの方針によりナジランもイスラムでの社会の一体化を実現出来、オスマントルコ帝国(Ottoman Empire)の時代まで着実に平和な発展を遂げた。
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6.4海上交易路の成長

 

季節風の行動様式(pattern)の発見とその結果としてのインドへの海上交易路の成長で乳香の道等の内陸交易は減少し始めた。その結果、香辛料交易に依存していたカールヤト ファウ(Qaryat Al-Fau)の様な多くの集落が廃れて来た。 オクデュード(Al-Ukhdood)の集落はおよそ1,000年前に見捨てられた。古代ナジランもヒジュラ暦6044世紀まで人々が住んでおり、その間、ナジランへの定住は止まらず、おそらくは今日まで、代々の住居が重なり続いていた事を示す古代の歴証テル605(tell)が博物館に残っている。
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7. ペルシャ支配から近代へ(Persian Rule to Modern Period)

 

7.1 ペルシャ支配の時代

 

一方、イエメンではマーリブの巨大ダムが崩壊した570年以降、住民はこの都市を捨て、方々に移住していった。 597年にペルシャはイエメンの内部対立に脅かされたのでイエメンの独立を終わらせる決定をして占領した。これ以降、イエメンは世界史の舞台から千数百年にわたって忘れられてしまった。

 

ペルシャ(Persian)の支配はイエメン人キリスト教徒をネストリウス派701(Nestorianism)に改宗させた。ネストリウス派(Nestorianism)はビザンティン帝国(Byzantine)教会とも、セム族の故郷やエジプトで強力であったキリスト単性論者達702 (the Monophysites)とも、お互いに相容れない敵意を持っていた。この為、ペルシャ(Persians)からは信頼され、ペルシャ(the Persians)はネストリウス派(Nestorianism)を第二番目の国教として確立していた。従って、キリスト教の町ナジラン(Najiran)の運命をムハンマド(Muhammad)と合意しに来た世代はおそらくネストリウス派(Nestorianism)であった。

 

イエメンはペルシャ帝国の辺境に位置することになり、また険しい地形であったため、実質的には半独立の諸王国が分立割拠することになる。その中で最も長く続いたのが9世紀末に成立したザイド朝703で、1962年の共和革命まで1000年以上にわたって存続した。その間、エジプトのファティマ朝(the Fatimid Caliphate)時代(西暦909年から1171年)が北のイエメンの多くを占拠していた。ファティマ朝はシーア派(Shi’ite)の小分派であるイスマイル派(Isma’ili)であり、カハタン族(Qahtanite)の支族であるヤム族(the Yam tribes)の大半がイスマイル派(Isma’ili)に改宗したのはこの時代に遡る。
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7.2 オスマントルコの時代

 

16世紀半ばにはオスマントルコ帝国がイエメンほぼ全土の制圧に成功する。トルコ(オスマン帝国)はナジランが重要な位置にあったのでナジランに興味があり、トルコはこの地方の指導的部族ヤム(Yam)と連盟を結んだ。しかしながら、17世紀半ばにはザイド朝がトルコの支配からイエメンを解放したので、ヤム族(the Yam)もその忠誠をイエメンのザイディ イマム(the Zaidi imam)に切り替えた。それからの数百年間のオスマントルコの時代には、ナジランはイエメンとアシールの双方の統治者が論争した国境地帯となり、戦争が国中に広がった。しかしながら、19世紀後半にはまたトルコに占領されてしまう。この間、19世紀半ばにはイギリスがイエメン南岸の良港アデンを占領し、自国の植民地の一部とした。トルコはイエメンを占領したものの、イエメンを完全にコントロールすることは出来ず、1919年、第1次大戦での敗北とオスマントルコ帝国の崩壊により、イエメンは独立を取り戻し、ザイド朝の流れをくむイマーム・ヤフヤが北イエメンの支配を確立し、イエメン王国が成立した。
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7.3 サウジアラビアへの併呑

 

   オスマントルコ帝国が崩壊した後の1918年にナジランの人々はアブドル アジズ イブン サウド(King Abdul Aziz Ibn Saud)国王にナジランがサウジアラビアの一部と成る様に依頼した。   

 

1934年にアブドル アジズ王の軍隊がこの町の支配を奪い、それに続いて、1934年のサウジ・イエメン戦争を終結させた平和条約の一部としてイエメンのイマムがナジランの支配権主張を放棄した。

 

ナジランを支配する首長の為にトルキー マディ宮殿(Prince Turki Al Madi Palace)1941年(ヒジリ歴1361年)に建設が開始された。首長宮殿(Emirate Palace)とも呼ばれるこの宮殿はこの地方の首長の本拠であり、裁判所や無線所があり、以下のプリンス達が次々と城を継承した。   

 

1. ナジランのプリンスであったトルキー ビン モハンメド マディ

(Turki Bin Mohammed Al-Madhi) 

2. ハマド ビン モハンメド マディ

    (Hamad Bin Mohammed Al-Madhi)

3. アリ ムバラク

  (Ali Al-Mubarak)

4. イブラヒム ビン アブドル ラハマン ニシャミ

  (Ibrahim Bin Abdul Rahman Al-Nishami)

5. カリド ビン アハメド シディリ

    (Khalid Bin Ahmed Al-Sidiri)

 

現在、このトルキー マディ宮殿(Prince Turki Al Madi Palace)は後述する様にナジラン地方のもう一つの歴史的な博物館として活用されている。

 

 

城の入り口に掛けられた説明書き704

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8. ナジランの歴史的場所と遺跡(Historical Places and Monuments)

 

ナジランには多くの歴史的な場所や遺跡(Historical Places and Monuments)があり、その内でももっとも重要なのはナジラン歴史博物館(Najran Museum for History)と侯国宮殿(The Historic Principality Palace)とも呼ばれる歴史的なトルキー マディ宮殿(Prince Turki Al Madi Palace)である。その他にアアン宮殿(Al-Aa'n Palace) やラオオムの山城(Ra'oom Mountain Castle)がある。
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8.1 ナジラン歴史博物館(Najran Museum for History)

 

ナジランには紀元前500年から10世紀まで1,500年に渡って人々が住んでいたオクデュード801(Al-Ukhdood)の古代遺跡がある。サウジ政府はこの集落跡を保護区とする命令を出し、その前に博物館を建設した。

 

   この博物館の面積は1,693m cubic netresでファイサリヤ地域(faisaliah area)から7km離れている。そしてナジラン渓谷の東岸の西は ジュルバ(Al-Jurbah)村で東は ガビル(Al-Gabil)村に挟まれ、ハマール山系(Al hamar Mountains)を臨んでいる。

 

サウジアラビアのヒジュラ暦(Hijrah)での建国100年を記念してリヤドを始め、主な地方に新しく建てられた博物館の一つであり、涸れ谷や沙漠の地層、昔の歴史を紹介する人口遺物や道具の破片および陶器の破片や粘土のテーブルの上に彫刻されて陶器等の考古学的発見、伝統的工芸や道具、フィルビィの写真(photos of the area taken by Harry St John Philby, the famous diplomat, explorer and spy)を展示している。

 

博物館内の遺跡(The Monuments in the Museum)として278個の遺跡が展示してあるが、博物館の倉庫の未だにしまわれ、将来展示される遺品も少なくない。

 

A Bronze Lion head

 

オクデュード遺跡(Al-Okdood Monuments)はユダヤ教徒がキリスト教徒を惨殺したオクデュード事件の物語(Al-OkdoodEvent story)を今に残す遺跡であり、次ぎの様な遺構が残されている。

 

ラハ石(Al-Raha Stone):種を予め(網の目に)調和させる道具。

 

ナジランに建てられた最初のモスクの残骸:モスクの入り口の両側とラハ(Al-Raha)、多くの樹木と沙漠の植物および特に シワク(Alsiwak)が作られた アラク(Al-Araq)の木々がある。

 

六角形の井戸:建築の完全さを暗示している。

 

巨大な壁:昔の諸侯達や指導者達の遺品のある偉大な場所の様に思える。

 

高い壁:これは市全体を囲んでおり、一つ一つが何メートルもある巨大な石は市の門である。

 

偉大な場所:遺跡、絵画と遺品を含む場所である。

 

絵と装飾:石碑、手紙や多くのヒムヤル国(Himyar)の書蹟(calligraphy)の様な絵や装飾が壁に描かれている。

 

粘土片(Clay pieces):粘土片やアジャル(Ajar)が地上に散らばっている。

 

イブン タミール村(Ibn Tamir village):この村の家々の破片

 

石のシムシムジュース絞り器(Stone simsim juicer):現在はリヤド国立博物館に保存されている。

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8.2 歴史的な首長宮殿(The Historic Principality Palace)

 

   首長宮殿とも呼ばれるトルキー マディ宮殿(Prince Turki Al Madi Palace)はその建築の完全さの為に特異な宮殿であると考えられている。この宮殿はアバ サウジ市(the city of Aba Al-Saudi)に在る。首長の政庁、倉庫、住居、宗教法廷および無線基地として使われた。

 

   侯国の新しい建物はファイサリア(Faisaliah)1378年に建てられ、古い宮殿は16年間放置され、それがこの宮殿の多くの壁を破壊する事に成った。その後、この宮殿の所有権は教育省に移管され、ヒジュラ暦1406年から改修、復元された。修復はヒジュラ暦1426227日に始まり、ヒジュラ暦1407年のシャウル月(shawl)に終わった。修復には2,150,000リヤルの費用が掛かったが、近代的照明システム、水洗トイレ(water closet)、水パイプ、排水もこの宮殿に加えられた。今ではこの宮殿はナジラン地方の歴史的遺産となり、年間を通じて多くの観光客を受け容れている。Rtn Page Top

 

8.3 アアン宮殿(Al-Aa'n Palace)と山城(Ra'oom Mountain Castle)

 

   この宮殿はヒジュラ暦1100年に建てられ、その名はこの宮殿の建つ村の名に因んで付けられた。そして昔の名はサアダン宮殿(Sa'adan palace)である。これはナジラン地方でもっとも古い粘土の家である。後にこの宮殿は修復され、物語の象徴(the symbol)となったが、その歴史的精神的重要性にもかかわらず、現在では多くの古い粘土の家の価値は減って来ている。良く注意して観察するとその独特な建て方が判る。ラオオムの山城はナジランの西の山頂にある石造りの建物である。
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後書き(Postscript)

 

   ナジランの歴史に関する資料をまとめている本で入手出来た物は極めて限れており、殆どをウェッブから蒐集した。タイム誌(April 2, 2007)10の質問記事でウェッキイペディア(Wikipedia)の共同創設者ジミー ウェルス(Jimmy Wales)が述べている様にウェッブが提供している資料には問題もあるが、幾つかの資料を重ね合わせ、文脈から正しいと考える内容を取捨選択した。又、名前等重複する物は(注)で出来るだけ併記して置いた。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教や乳香の道に関する記事が無くなる10世紀以降についてのナジランの歴史に関する資料は極端に少なく、「イエメンは世界史の舞台から千数百年にわたって忘れられてしまった」と云う事実を良く物語っており、記述が限られてしまった。
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出所と参照(Source and Reference)

 

アラビア半島における初期人類

アラムコワールド19927/8月号

Norman M. Walen and David W. Pease

 

Ring of Naharit

A. DeMaigret

(http://arabian-archaeology.com/research3naharit.htm)

 

南アラビア交易路の始まり

出典: 聖書およびアッシリア(Assyria)文書

(http://www.fathom.com/course/21701787/session2.html)

 

アラビアの沙漠の庭園(Najran)

撮影:テヘコフ ミノザ(Tehekof Minosa)

文:パトチシア マッサッリ(Patricia Massari) &

シェルブル ダゲール(Cherber Dagher) 

出版責任者:ジェネヴィーブ シャルピー(Genevieve Charpy)

出版:1983年、スコーピオ エディトール(Scopio Editeur)、パリ(Paris)

 

時間を超越した古代都市ナジラン

サウジアラビア大使館  

(http://saudiembassy.net/Publications/MagFall99/Najran.htm)

 

ナジランの概要

シェル石油編(www.shell.com/careers)

History of Najran

  Hosted Tripod(http://fromwaset.tripod.com/ne.htm)

National Information Center, Republic of Yemen(http://www.yemen-nic.net/)

  (http://www.najran.cc/njr/modules.php?name=News&file=article&sid=30)

 

Caravan-Serai

(http://www.caravan-serai.com/countries/saudiarabia/hb-places.html

 

Heritage and nature in the South of Saudi Arabia

(http://skyscrapercity.com/showthread.php?t=17346)

 

西暦5231125日のアラビアでのキリスト教徒大虐殺

キリスト歴史協会

(http://chi.gospelcom.net/DAILYF/2001/11/daily-11-25-2001.shtml)

 

ユダヤ教徒の戦士達

イエメン(ヒムヤル)(Himyar

ノーマン J. フィンケルシュテイン(Norman J. Finkelshteyn, 1887-2000)

(http://www.geocities.com/jewishwarriors/yemen.html)

 

オクドードの溝(ナジラン博物館)

 

ナジランのキリスト教徒

(http://www.witness-pioneer.org/vil/Articles/companion/25_ali_bin_talib.htm)

 

ムバヒラ(歴史上の極端な規範)(Mubahilah)

(http://www.jafariyanews.com/articles/2k4/16feb_mubahila.htm)

スエダ ハジラ著(by Syeda Hajra)

 

Abyssinia Before the Birth of Islam

(http://home.swipnet.se/islam/books/backgrond-islam/06.htm)

 

Religion in Southern Arabia before Islam. Grunebaum CLASSICAL ISLAM: A History, 600 A.D., to 1258 A.D., pp. 20-6

(http://www.antiqillum.com/texts/bg/Qadosh/qadosh032.htm)

 

Prophet Mohammed's (may God bless him and grant him peace) Exemplary Attitude

  (http://www.harunyahya.com/books/social/unity/unity03.php)

 

The Judeo-Christian belief system

(http://voi.org/books/htemples2/ch10.htm)

 

ISLAM: A CULTURE OF TOLERANCE By Prof Sharif al Mujahid

(http://www.quran.org/library/articles/sharif.html)
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原注(Explanatory Note)

 

001 後期オルドゥヴァイ文化: Developed Oldowan types、初期の人類でホモ ハビリス (Homo habilis) と知られた旧人類が200万年より少し前に最初に現れ、発展させたぶち切り器、多面体、長円体、円盤等を生み出した古石器文化。

 

002 乳香の道(the frankincense route):乳香の道とはアラビア半島南部の香(incense)が生産される地域から現在のサウジアラビアを通って、ヨルダン、シリア、エジプトおよび地中海沿岸へ至る古代隊商路(the ancient caravan route)である。

 

003 ビール ヒマ: Bir Hima、入り会い牧地の井戸、水場が有り、獲物が居て、砂岩が露出したこの場所は先史時代の人々に取っては最高の生活の場であった。1952年冬のフィルビィ一行による「南西部の岩壁画および碑文探検」ではビール ヒマの西の地域で紀元前3000年代後期から紀元前2000年代後期の間を中心に最も多くの岩壁画や碑文を記録収集して居る。

 

101 シュワイヒティイヤ(Shuwayhitiyah) ジョウフ州 (Al-Jawf Province)の大きな三角形の窪地 (al Jawba)の中に在る寒村であり、サカカ(Sakakah)の北35kmから40kmに位置する。100万年前以上古い旧石器遺跡はサウジアラビアではここで最初に見付かった。

 

102アシュール文化(Acheulean) 150万年少し前にホモ ハビリス(Homo habilis)よりも大きくもっと進化したホモ エレクトス (Homo erectus) と呼ばれる人類が現われた。その祖先達よりも体力的そして知的に優れ、大胆で進取の気性に富んでいた。ホモ エレクトス (Homo erectus) 後期オルドワン型石器 (Developed Oldowan types) を手斧、石包丁および突き器等の新しいアシュール形態 (Acheulean forms) の石器に次第に取り替えて、祖先の生み出した道具の中に新しい形態を取り入れた。この文化はその後150万年近く続き人類の作った最も長い文化と成った。アフリカでは手斧(hand ax)を特徴とするすべての文化の総称であるが、ヨーロッパでは最初期のhand axを特徴的な石器とする前期旧石器文化であるアブヴィル文化(Abbevillian)に続く、同じくhand axを特徴的な石器とする前期旧石器文化である。この文化に命名されたセント アシュール(St. Acheu)lはフランス北部ソンム(Somme)県の県庁所在地アミアン(Amiens)に近い遺跡である。

 

103更新世(the Pleistocene) 164万年〜約1万年前までの一区分で、第四紀の前半にあたる。洪積世、最新世、氷河期ともよばれる。ホモ・エレクト (原人)が出現し、現代人の段階まで進化した時代であり、考古学上の編年では旧石器時代と縄文時代草創期に相当する。

 

104 氷河期(glacials) 地球の歴史の中で、極域の氷床が大きく発達した時代をさす。この時期には長期間にわたって、大気も海洋も今よりずっとつめたかった。第三紀後半から気温が下がり始め,地球がそのような氷河時代に最後にはいったのは、第四紀の初め165万年前である。それからから現在までを氷河時代という。氷河が発達する氷期は数万〜10万年の周期でおとずれ,その間に,現在よりむしろあたたかい間氷期があった。海水の氷結と融氷によって海面の高さもそれぞれ低下と上昇をくりかえした。更新世と,最後の氷期が終わった約1万年前より現在までの完新世とに分けられる。大陸をおおっていた氷床は、約1万年前の更新世の終わりに、北アメリカ大陸やヨーロッパからしりぞいた。しかし、科学者の多くは、第四紀氷河時代はまだ終わっているわけではなく、現在は、氷河期と氷河期の間にあたる間氷期だと考えている。

 

105 ホモ ハビリス(Homo habilis) 初めて道具を作ったとされる直立猿人で200万年前の最古のヒト属と言われる。

 

106扇状地(allivial fans)扇状地とは長い間に川によって三角形に残された堆積である。

 

201 ツムリ(tumli) 高い場所に石を積んだケルンで墓と考えている専門家もいる。

 

202 フィルビー ハリー St. ジョン フィルビー、Harry St. John Philby(1885 ? 1960)この内陸地域に最初に訪れた西洋人で、アラビアの研究、探検、地図作製、記述を45年間も行い、故イブン サ’ウド国王顧問を務めた英国人

 

301 シバ王国(Sheba) 現在のイエメンにあった古代王国で、紀元前715年から西暦570年のマリーブダム崩壊まで続いた。「シバの女王が紀元前10世紀にソロモン大王と会見した」とか「シバはアフリカのアビシニア(Abyssinia)にあった」とか伝説も含めて諸説あり、シバの女王が実在したかどうかについては疑問を持つ学者も多い。(一部 記述を変更しています。詳しくはマッカ・ムカッラマ(メッカ州)(サウジアラビア王国西部地方)その1悠久な東西交易の中継港ジェッタ 1-2 古代の西アラビア)2.13 シバーム(Shibam)をご参照下さい。2008610日、西暦570年に訂正。200912日)

 

302 ソロモン王(King Solomon) 紀元前10世紀に父Davidを後継者したイスラエル賢王。

 

303 レヴァント(the Levant) 東部地中海およびその沿岸の諸国。

 

304 タイマ(Tayma) タイマ(Tayma)はマディナの北東420kmでタブクの南264kmに位置し、ハダジと呼ばれる大きな井戸の周りに発展した農村である。古代には乳香の道の東ルートがビール ヒマ(Bir Hima)で分岐し、タスリス( Tathlith )、ビシャーオアシス(Bishah Oasis)、メディナ(Al-Madinah)およびタイマ(Tayma)を通ってワディ シルハーンで西ルートと合流し地中海へと抜けていた。紀元前552年にナボニデュス(Nabonidus)王(紀元前556-539年)がタイマ(Tayma)にアブラグ(Ablaq)と云う大きな城を築き、10年間に渡りバビロニアの都とした。又、西暦267年から272年までタドモール(Tadmor)(パルミラ(Palmyra))を支配したアラブの女王ゼノビア(Zenobia)である。女王はタイマを襲撃したが防塞戦に破れた為に「アブラグ(Ablaq)城は傲慢だ。」と罵ったと云う程、力を持っていた。

 

305 アナトリア(Anatolia) 現在のトルコ領小アジア。

 

306 フェニキア(Phoenicia) 現在のシリアとレバノンの地域にあった地中海沿岸の古代都市国家

 

307 アッシリア(Assyria) メソポタミア北部を中心とした古代王国で首都は初期にはアッシュール(Ashur)で、後にニネヴェ(Nineveh)に遷都した。アッシリアは現在のシリアの語源でもある。

 

308 サルゴン二世(Sargon II) アッシリア(Assyria)の王(紀元前722年から705)

 

309 セナケリブ(Sennacherib) Sargon 二世の息子(紀元前704年から681年)でイスラエルを討ち(紀元前701年)、Babylon市を破壊した(紀元前689年)。

 

310 アッシュール(Ashur) アッシリア(Assyria)の古代名でもあり、アッシリアの主要都市の一つである。

 

311 メソポタミア(Mesopotamia) 小アジア東部の山岳地帯からアラビア湾に至るチグリス河(Tigris)とユーフラテス河(Euphrates)にはさまれた流域全体。

 

312 ペルシア(Persia) 1935年に改称したイラン(Iran)の旧称で今も非公式には用いる。

 

313 サバ(Saba) シバ王国(Sheba)

 

314 マイーン(Ma'in)王国: セム族系の民族マイーン人(Minaean)で構成されたアラビア半島南部に紀元前4世紀から紀元前1世紀まであった古代王国英語への転写はthe sate of ma'eenMaeenも使われている。

 

315 ハドラマウト王国(Hadhramawt) アラビア半島南部に紀元前4世紀から3世紀の第4四半期まであった古代王国。ハイドラマウト(Hadhramaut)はイエメンの古代都市国家群の在った涸れ谷の名前でもあり、ギリシャ語の要塞化が語源で隊商路の要塞化された水場のある宿場を意味する。近代のキャラバンサライ(caravansary)は将にこれに相当する。

 

316ヘロドトス(Herodotus) ギリシャの歴史家(紀元前484年から420年)で歴史の父と称される。

 

317 アレクサンダー大王 (Alexander the Great) マケドニア王アレクサンドロス(紀元前356年から323年)。

 

318 ローマ皇帝アウグストゥス: ローマ皇帝オーガスタス シーザー(Augustus Caesar)(紀元前63年から西暦14年)はローマ帝国(the Roman Emperor)の初代皇帝Julius Caesarの後継者(紀元前27年から西暦14年)で、国政を改革し、文学を奨励し、文学の黄金時代を作った。皇帝戴冠前はアウグストゥス オクタヴィアヌス(Augustus Octavianus)と呼ばれた。

 

319 ストラボン (Strabon) ストラボン (Strabo) は紀元前63年頃にポントスのアマシア (at Amasia in Pontus) に生まれた。ストラボンがエジプトを訪問した際にガッルス (Aelius Gallus)と共にナイル川 the Nile) を第一瀑布 (the First Cataract) まで一緒に遡上した程、ストラボンはガッルスとは親密な関係であった。

 

320 プリニウス(Pliny) ローマの博物誌家(西暦23年から79年)、ラテン名Gaius Plinius Secundus、通称Pliny the Elder

 

321カタバーン(Qataban) 紀元前4世紀から2世紀まで続いた南アラビアの古代王でカタバーン語はカタバーン人(Qatabanian)が用いたシバ語(Sabaean)である。

 

322 ジャルハ(Gerrha) 都市国家ジャルハ(Gerrha)は紀元前700年から紀元後の初めの数世紀に渡って交易権益で栄え、東部州に覇を唱えた。この都市国家の存在は同時代の地理学者や歴史家の記録や古代硬貨の発見によって確認されているが、その実在した正確な位置に関しては依然として確定できていない。「東部州のアル ハサ(Al-Hasa)北東80kmにある廃港ウカイール(Uqair)付近にあった」との説もあり、依然として謎に包まれている。この為、幻の古代都市とも言われる。東部州のダーラン(Dhahran)付近の墳墓(tumuli)の遺物もジャルハ(Gerrha)の商人達が残した物である可能性はあり得る。

 

323 ガラシュ(Garash) ガラシュ(Garash)は英語にはJarashとも転写される。カミス ムシャイト(Khamis Mushayt)の南西20 kmにあるアハド ラフィダー(Ahad Rufaidah)の更に78 km南西のワディ ビシャー(Wadi Bishah)の南岸にあるジャラシュ(Jarash)には11世紀頃までイエメン(Yemen)からの巡礼交易路の重要な拠点であったイスラム以前やイスラム初期までの石造りの巨大建造物の遺構や泥作りの住居跡が残って居る。

 

324 ペトラ(Petra) 現在のヨルダンにあった古代アラブ人王国ナバテア(Nabataea)の首都、アラム語の方言であるナバテア語を話し、交易で栄えた。

 

325 デナリイ(denarii) 古代ローマの銀貨。

 

326 ヒムヤル王国(the Kingdom of Himyar) アラビア南部いたヒムヤル族(Himyarite)がイエメンに築いた古代王国で紀元前2世紀末から西暦525年まで続いた

 

401オクデュードの発掘: 文化担当文部省次官、アブドッラ ハサン マスリ博士(Dr. Abdullah Hasan Masry)の指示で考古博物部はオクデュード(Al Okhdood)で二回に渡る発掘を行い、その結果の幾つかは考古博物部の四季報アトラル(Atlal)の第5巻および第7巻に掲載されている。

 

402クーファ文字(Kufic script) コウフィ モスナド手法(koufi mosnad handwriting)あるいはコフィ図案(cofi's patterns)とも呼ばれ紀元前115年から紀元14年に在ったヘマイール国(hemair state)で使われた。これらの図案の単文(simples)や歌唱(sings)はこれらがアラビア語と近いので解明されていた。

 

403 Himyarhemair イエメン共和国政府国立広報センター(National Information Center, Republic of Yemen)Himyar(BC110 to AD525)hemair(BC 115 to AD 14)の両方を英語への転写に使っているが同じ言葉を意味していると私は解釈する。

 

404キンダ部族(Kinda)同盟: ヒムヤライト(Himyarites)は中央アラビア全体に影響を及ぼす或る種の従属関係を築き、五世紀にヒムヤライト(Himyarites)はその重きを好戦的なキンダ族(Kinda)に置いた。一方、キンダ(Kinda)族はナジラン(Najran)の北の地域のカールヤト ファウ(Qaryat al-Faw)辺りに居住を定め、南アラブ部族に属して居たにもかかわらず中央アラビアの諸族を一つの強い連合に結束させ、中央および北アラビアに五世紀から六世紀にかけて衝撃を与えた。二世紀から四世紀に掛けてはキンダ(Kinda) 部族同盟創設の中心としてキンダの町カールヤト ファウが傑出していた時代であった。

 

405アビシニア国(Abyssinia) ここでは単にエチオピア(Ethiopia)の旧称として使っている。

 

406 ヌワス(Yousuf Dhu Nuwas) ユスフ アスアル(Yusuf As'ar)は髪を三つ編み或いはポニーテールにしていたのでユスフ ヌワス(Yusuf Dhu Nuwas)、ズ ヌワス(Dzu Nuwas)ソン ナワス(Thon Nawas)ロシアの出典でのユダヤ教徒(Dunas) 、ジドヴィン(Zhidovin)或いはマスルク(Masruq)等と渾名されていた。

 

407キリスト教徒煽動に関する碑文: 1950年代にナジラン(Najran)で発見されたその時代の碑文(inscription)には「この市はヒムヤル王国(the Kingdom of Himyar)に対するアビシニアのキリスト教徒煽動の温床(hotbed)であった。この煽動は忠実なイエメンの民(Yemenite)とユダヤ教徒を目標にした反乱をけしかけていた」と示されている。

 

408ナジランのキリスト教への改宗: 「西暦250年以降ヒムヤル宗主権下でキンダ族同盟をむすびナジラン地方が優勢(acendancy)であった間に、この地方の人々は偶像崇拝(idol worship)からキリスト教に改宗した」との説もあるし、「56世紀にこの地域を旅していた商人を通じてのキリスト教への改宗した」との説や、「ナジラン(Najran)に奴隷として売られてきた修道僧フィ モイン(Fi-moyn)が多くのカラマ(Karamah)(奇跡)を起こし、ナジランの人々はそれを見た時にキリスト教を受け入れた」との説やズ ナワス(Dhu Nawas)自身がアブドッラ ビン サミール(Abdullah b. Thamir)と云う名のナジランの男が連れて来たキリスト教修道士達の一人に魔術で破れ、人々がキリスト教を受け入れた」等様々な説がある。しかしながら、そのどれもが凄惨な虐殺に耐えた強固な宗教心を説明するだけの説得力に欠ける様に私には思える。

 

409ナジラン(Najran) Nagran或いはNadjran)と綴られる事もある。

 

410キリスト教徒は指導者アレサス(Arethas) Aretas或いはHarithとも綴られる。

 

411アビシニア皇帝エッラ アスベハ三世(the Abyssinian Emperor, Ella Asbeha III)ElesboasHellesthaeusKaleb 又は Calebあるいはアビシニア(Abyssinia)王ナガシ(Nagashi) やアビシニア(Abyssinia)王ネグス(the Negus)との記述もある。

 

412アリアス(Ariath) アリアス(Ariath)アルヤト(Arethas、アルヤアド(Aryaad)、アレザス、エールヤト(Eryat)あるいはアルヤト(Arethas or Aryat)とも呼ばれ、アビシニア皇帝エッラ アトスベハ三世 (the Abyssinian Emperor, Ella Asbeha III)が派遣したヒムヤル(Hymyar)討伐軍の指揮官であった。「ヒムヤル(Hymyar)の勢力を壊滅させ、アリアス(Ariathが指揮した軍隊は、この時に編成され、7,000人ではなく、70,000人であった」との記述もある。 又、アリアス(Ariath)アブラハム(Abraham)の館であるマッカのカアバ(Kaaba)神殿を破壊した一人と考えられている。

 

413ケブラ ナガスト(the Kebra Nagast) この名で知られるアビシニアのユダヤ教徒。

 

414ユダ王国(the Kingdom of Judah)にとって最後の破局: ケブラ ナガストの書き物はデュ ヌワスの失脚がユダヤ教徒の王国の破局と記している。もう一つのアビシニアの本は「ヒムヤライトの本」と云う題名でこの殺戮の話を述べている。

 

415ジャヒリイヤ時代(Jahiliyya) 無明(蒙昧)時代(無知の時代(the time of ignorance))と訳され、イスラム登場以前のアラビア半島の状態。

 

416 一群("The Constellations,"n"85)

 

501エシメファエウス(Esimephaeus) アリアス(Ariath)と同一人物と考えるのが自然であるが、「アリアス(Ariath)が総督となった」との記述はあっても「王座に着いた」との記述を私は探し出していない。

 

502アブラハ(Abraha) アブラモス(Abramos)或いは「鼻を切る」を意味するボルハ アシュラム(Al Borha Al Ashram)とも呼ばれる。

 

503アブラハ(Abraha)の反乱: アブラハ(Abraha)がエシメファエウス(Esimephaeus)をうち負かせた後で、アビシニア皇帝はエシメファエウスに対して更に二軍団の援軍を送った。最初の軍団は反乱を起こし、アブラハ(Abraha)と同盟し、その軍団の指揮官で皇帝エッラ スベハ三世(Ella Asbeha III)の親類であるアリアス(Ariath)を殺した。二度目の軍団は戦闘で多くを殺された。その後も諍いは続いたが、エッラ アスベハ三世(Ella Asbeha III)の死後、アブラハ(Abraha)はアビシニア帝国の新王に忠誠を誓った

 

504 西暦570年: アブラハ(Abraha)が軍隊をメッカ(Mecca)に進撃させた570年にムハンマドが生まれた。

 

601ムバヒラ(Mubahila) 真実を確かめる古代の方法であり、宗教論争ではそれぞれの論争する側に「自分達が正しく正当である」との神聖な誓約が要求され、そして、もし、自分達が嘘をついた場合の神の激怒(wrath)が自分達に加えられる様に神に求めと、「この様な場合、嘘つきは神の激怒に触れ、破滅してしまう」と信じられていた。

 

602タウヒド(Tawhid)の原則(doctrine):イスラム教義核心の要約、すなわち、単一と唯一の神。これは誰にでも無く、王座にでも無く、力にでも無く、アッラーにのみへの忠誠を意味する。この様に、タウヒド(Tawhid)の概念(conception)は人間の尊厳(dignity)を心に描いている。

 

603 オマル イブン カッタブ(Omar Ibn Al Khattab) オマル イブン カッタブ(??? ?? ??????)(西暦5806月から64411月)はスンニー派教徒に「真実と虚偽を判断する人」を意味するオマル ファルーク(Omar al Faruq)と呼ばれ、英語にはOmar 或いはUmarと転写されている。オマル イブン カッタブはクライシュ族(Quraish)のバヌ アディ(Banu Adi)支族の出身であり、預言者の親戚で第一代カリフ(Caliph)のアブ バクル(Abu Bakr)の没後に第二代カリフ(西暦634年から644年)に就任し、正統四カリフ(Khulafa ar RashidimRightfully guided caliphs)の二人目とスンニー派信徒から見なされている。(Wikipediaから抄訳)

 

604ヒジュラ歴(hijrah) 西暦622716日にムハンマドがメッカ市民の迫害からメディナに逃れた移住の意味でこの年をイスラム暦(ヒジュラ暦)元年とした。

 

605テル(tell) 中東で古代都市遺跡の重なりからなる丘状遺跡。

 

701ネストリウス派(Nestorianism) ネストリウス派は古代キリスト教の教派のひとつで、現在でもアッシリア正教会にその教義が伝わっている。ネストリウス派の起源はコンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれ、ネストリウス派の教義ではキリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に分離されると考える。それゆえ、人性においてキリストを生んだマリアが神の母であることを否定する。ネストリウス派の教義は431年のエフェソス公会議でカトリック、東方正教会、プロテスタント等のキリスト教主流派から異端として排斥された。ネストリウスが公会議で破門された後、ネストリウス派は498年セレウキア・クテシフォンに新しい総大司教を立てた。現在はアッシリア地域に点在する他、アメリカやオーストラリアに移民を中心とする信徒がいる。又、ネストリウス派の教会の一部は17世紀にローマに帰一し、現在も中東、アフリカで活動している。中国へは、唐の太宗の時代にペルシア人司祭の阿羅本らによって伝えられ、景教と呼ばれた。 Wikipedia

 

702単性論キリスト教: エジプトから広まったキリストは神性と人性とが一帯に複合した単一性のものであると説く。

 

703 ザイド朝: 9世紀末にシーア派(Shia)のザイド派(Zaidiyyah)イマーム(Imam)を祖とするラシード王家によるザイド(Zayd)朝が成立し、1962年の共和革命まで1000年以上にわたって存続した。

 

704:トルキー マディ宮殿の入り口に掛けられた説明書き

 

PRINCE TURKI AL MADI PALACE

The Palace was built in 1362 AH to be princedom zone, the court and the wireless. A part of it was specified for the prince and his family and also the prince guards. The palace was planned and it was built under supervision of "Turki Ben Mohammed" Prince of Najran these days, the palace is considered a complete castle and it is sell satisfaction, the Following Princes sub/sequenced the princedom / one-Turki Ben Mohammed AlMadi.   Hamad Ben Mohammed Almadi. Ali Almubarak. Ibrahim Ben Abdul Rahman Al Nashimi. Khalid Ben Ahmad Al Sedairi.

The Place Contents

sixty rooms were distributed as following: wireless building '4 rooms'. weapons store '6 rooms'. The mosque and the muazzin room. the court room. Official office '5 rooms. The main reception of the Prince to receive guests and for official occasions. Hospital room 'Dining room' Coffee room and a store room.         The Prince and his family house '17rooms. Food stores and tools '6 rooms' Enimals folds '4 room'.'Gaurd house "Al-Akhuia" '12 rooms'. The inner courtyard has an old well it was dug since the days before Islam. its lower part was made form bricks and its upper part was made from stones during rebuilding. The palace has 4 towers in its corners. They are circular in shape. Najran general educational zone took care in reconstructing the palace as constructed before 1406 under Supervision of general director of education

Mr. Abdul Aziz Ahmad Al Aiadi

 

801オクデュード事件の物語(Al-Okdood Event story) 業火がトンネルで燃やされ、そして人々が火の中へ送られ、そして最後にもう一度そこでユダヤ教への改宗を訊ねられた。しかし、それでも彼等は再び拒否し、最後に火の中に送り込まれた。赤ん坊に授乳(suckle)している婦人がこの火の前に連れて来られると突然「辛抱しなさい。おかあさん、貴女は正しいのだから」と赤ん坊が言った様に思えた。そしてこの日に約2万人の人々が犠牲になり、そしてナジランはカリド イブン ワリード(Khalid Ibn Al-Waleed)によってイスラムに改宗したヒジュラ暦10年までキリスト教を信仰し続けた。
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