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2008月8月31日
 マッカ・ムカッラマ(メッカ州)

(サウジアラビア王国西部地方)

その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ

1-4大航海時代とジェッダ)

7. 大航海時代に使われた度量衡

後書き

参考資料




 

目次

7.1 長さの単位

7.1.1 キュービット(cubit)

7.1.2 サタディア (Stadia)

7.1.3 ファゾム(fathoms)

7.1.4 ファールサング (farsang)

7.2 重量の単位

7.2.1 ヴァキア(Vakia)

7.2.2 キンタル(quintal)

7.2.3 ドラム(drachm or dram)

7.2.4 バハール(Bahars)

7.2.5 ファジル(Frazils)

7.2.6 ファランズラ(faranzulas)

7.2.7 ペニーウェイト(dwts. or pénny-wèight)

7.2.8 マイム(Mime)

7.2.9 マウンド(Maunds)

7.2.10 ミナ(mina)

7.2.11 ラトル(rattle)

7.2.12 ロトロ(rotolo)

7.3 容積の単位

7.3.1 アルダッブ(ardeb)

後書き

参考資料

 

7. 大航海時代に使われた度量衡

 

アンジェロ ペセ博士著「ジッダ(或るアラビアの町の描写)」の中では大航海時代に使われた度量衡が色々出てくるが、これについても出来るだけ相互関係とメートル法へ換算をここに示した。

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7.1 長さの単位

 

7.1.1 キュービット(cubit)

 

curbitあるいはdhiraは肘から指先までの長さで、the dhira al-ahmal66.5cmと記述している。

 

7.1.2 サタディア (Stadia)

 

スタディオン(stadium)の複数でスタディオン(stadium)は古代ギリシャの競技場の長さを帰順した単位でアテネ(Athens)では185.2mでオリュンピア(Olympia)では192.3mであった。

 

7.1.3 ファゾム(fathoms)

 

主に水深の単位「尋」で、6フィートで約1.83mである。

 

7.1.4 ファールサング (farsang)

 

12km750mに相当する距離である。

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7.2 重量の単位

 

7.2.1 ヴァキア(Vakia)

 

(衡量単位)1/15ラットル(Rattle)で換算すると1.18oz.34gである。(東洋交易(Oriental Commerce)ウィルアム ミルバーン(William Milburn)1823年出版)

重量単位の換算

 

衡量単位

衡量単位

pound/oz.

kg

1ヴァキア(Vakia)

1/15ラットル(Rattle)

1.18oz.

34g

1ラットル(Rattle)

1/2マウンド(Maund)

1.11lbs

0.51

1マウンド(Maund)

1/10ファジル(Frazil)

2.22lbs

1.02kg

1ファジル(Frazil)

1/10バハール(Bahar)

2.2.2lbs.

10.1kg

1バハール(Bahar)

nearly

222lbs. 6oz.

101kg(約)

1ポンド(pound)

(ounce or oz.)

16オンス

454g(約)

 

7.2.2 キンタル(quintal)

 

重量に単位で100lb;メートル法では100kg(常衡で220.46 lb)。

 

7.2.3 ドラム(drachm or dram)

 

ドラクマ(Darchma)は古代または現代ギリシアの重量単位でドラム(dram)はドラム(drams) 1/16常用オンス=1.772g1/8薬用オンス=3.888g1/8液量オンス=0.0037lit

 

7.2.4 バハール(Bahars)

 

(衡量単位)東洋交易(Oriental Commerce)ウィルアム ミルバーン(William Milburn)1823出版によれば10ファジル(Frazils)で約222lbs. 6oz.(約101kg)である。

 

7.2.5 ファジル(Frazils)

 

(衡量単位)10マウンド(Maunds)1/10バハール(Bahars)である(ウィルアム ミルバーン(William Milburn)1823年出版の「東洋交易(Oriental Commerce)」参照)。

 

7.2.6 ファランズラ(faranzulas)

 

重量単位ファランズラ=28.35gx172/3x140/7=10.017kg

 

7.2.7 ペニーウェイト(dwts. or pénny-wèight)

 

ペニーウェイトは英国の金衡単位で24 grains1/20 ounce (1.555g)

 

7.2.8 マイム(Mime)

 

1mimeはドイツの銀貨(thaler)36枚分の重さ。

 

7.2.9 マウンド(Maunds)

 

インド・中東諸国等の衡量単位;通例は82.286 poundsで約37.3kgである(リーダーズ英和辞典)。

 

アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)が引用したウィルアム ミルバーン(William Milburn)1823年出版の「東洋交易(Oriental Commerce)」では2ラットル(Rattles)1/10フラジル(Frazil)と記述されており、換算すると2.22lbsで約1kgとなり、82.286 pounds(約37.3kg)と一致しないが、この翻訳ではウィルアム ミルバーン(William Milburn)1823年出版が引用したウィルアム ミルバーンの「東洋交易(Oriental Commerce)」での記述をヴァイカ(Vakia)、ラットル(Rattle)、マウンド(Maund)、フラジル(Frazil)、バハル(Bahar)との衡量単位換算では採用している。

 

ウィキペディア(Wikipedia)によれば「インドのマウンド(Maunds)は時代によって25 pounds から80 poundsを越えるまで変化している」と云う。ウィルアム ミルバーンは「東洋交易(Oriental Commerce)」に「トルコのやり方では全ての商品はさおばかり(Steelyard)で量られていたのでトルコ商人達同様にヨーロッパ人達も計量人が商人達に与えるのに適正であると考えた重さで満足せざるを得なかった。自分達の家での売り買いの時も商人達は自分達で商品を量る事は許されて居なかった。それで無くても計量する商品に或る程度の余裕を上乗せする不合理な習慣があった」とも述べているのでウィルアム ミルバーンが記述しているヴァイカ(Vakia)、ラットル(Rattle)、マウンド(Maund)、フラジル(Frazil)、バハル(Bahar)との衡量単位換算がどの程度正確であるかについて私は疑問に思っている。

 

7.2.10 ミナ(mina)

 

ムナーとも云い、古代ギリシャ・エジプトの重量単位で訳1.2ポンド。

 

7.2.11 ラトル(rattle)

 

(衡量単位)1ラトル(rattle)15ヴァキア(Vakias)1/2マウンド(Maunds)である。換算すると1.11lbsで約0.5kgとなる(ウィルアム ミルバーン(William Milburn)1823年出版の「東洋交易(Oriental Commerce」参照)。

 

7.2.12 ロトロ(rotolo)

 

重量単位ロットロは約172/3オンス(ounces)の重さ(avoirdupois)で今ではこの重量単位は使われていない。ロットロは(1 ounces=1/16pound =454/16=28.375g)で換算すると約501.3g

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7.3 容積の単位

 

7.3.1 アルダッブ(ardeb)

 

エジプト地方の容量単位=5.6189 US bushels=1.98 hectoliters= 5.6189x8x3.785X8=170.14リットル (1米ブッセル=8gallons=8x3.785リットル=30.583リットル)。

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後書き

 

ジェッダが国際港となったのは646/647年にカリフ ウスマンがジェッダを安全な港と認め、メッカの港をシャイバからジェッダに移したのが始りである。その後、イスラム帝国は政権の首都をメッカからダマスカスやバクダッドに移ったがメッカは聖都であり続け、ウマイヤ朝時代の版図であった西は北アフリカ、アンダルシア(イベリア半島)、東は東北イランのホラーサーンの範囲は勿論、イスラム教が広まったアフリカや東南アジア等様々な国々から毎年、巡礼が訪れ、ジェッダは巡礼の受け入れと交易で常に外に向かって目を開いていた。

 

アッバース朝が滅び、マムルーク朝が勢力を得ると、東西貿易の大部分がバスラ経由バクダッドから紅海経由でエジプトへ向かう様に成った。この変化でイエメンがもっとも実際な利益を得、13世紀に勢力を得たラスリド朝の商業活動に支援されてアデンはインドや中国の市場から来た物資が紅海を航行する小さな舟に積み替える中継港として栄えた。15世紀に入るとエジプトによるヒジャーズの併合と同じ時期の混乱と治安の悪化で、アデン港ではラスリド朝による法外な強請や駱駝隊商部隊使用の強要が起きた。この為、大きなインド貨物船は紅海のもっと安全な場所を求めて、アデンの代わる航行が可能なジェッダを中継貿易港に選定した。

 

1453年にジェッダはもう一つの好ましい歴史的環境を得た。コンスタンティノープルがオスマントルコへ陥落した後、オスマントルコはボスポラス海峡を閉鎖し、中央アジアを越える陸上交易路の黒海へのターミナル港であったクリミア半島(the Crimea)のカッファ港やアゾフ海のタナ港等への通行を遮断した。これによって、紅海だけが安全で実用的な交易路として残され、完全にこの交易路を支配していたアラビア人が香辛料交易の事実上の独占権を手にし、大航海時代に入る前にジェッダは東西貿易の要となった。

 

1498年にポルトガル王国のヴァスコ ガマが喜望峰まわりのインド航路を開闢した。それに伴い、ポルトガル王国は「喜望峰まわりの東西交易におけるポルトガルの独占権を得るために拠点を確保し、アラビアとインドの間の伝統的交易航路を海上の武力によって崩壊させる」との政策を決定した。この為に、マムルーク朝とその勢力下のアラビア交易船は否応無しにポルトガル王国艦隊と対決する事になった。

 

この対決は避けられないとしてもポルトガルのアラビア人(ムーア人)に対する残虐性は私には理解し難かった。マムルーク朝自体が奴隷が作った王朝であり、その奴隷は戦争捕虜とか、山賊や海賊であるので、彼らが中世的な残酷性をもってうても不思議ではないとは思うが、ポルトガル側のはさらにそれを上回っている。この理由を知りたいのでここではポルトガル王国について少し調べてみた。その結果、「4代正統カリフのイスラム帝国を引き継いだウマイヤ朝が711年に西ゴート王国を滅ぼした。同国貴族ペラーヨが718年に蜂起し、アストゥリアス王国を建国して以来、1492年にグラナダが陥落してアラビア人をイベリア半島から駆逐するまで国土回復運動が展開されていた。大航海時代は国土回復運動が終わる頃から始まっており、8世紀近くに及んだアラビア人によるイベリア半島の占領とそれに対する国土回復運動の影響がポルトガル人のアラビア人に対する残虐さに現れている」と私は理解した。

 

大航海時代を担った帆船はその姿が美しく浪漫を感じる。基本的には西洋式帆船はギリシャ・ローマの手漕ぎのガレー船とナイル川起源のヨットが時代を通じて合体して出来てきている。アスワンに旅して、昔ながらのヨットの遊覧船でナイル川を観光した時に「ギザのピラミッドやルクソウルの神殿の石材は水に沈めて下流へと運び、人間や資器材はヨットに積んで上流へと戻った」と聞き、風上にも進めるヨットがそれほど古い起源を持つ事を知った。一方、バイキング等も使うガレー船の勇猛さは映画等で見てなじみも深い。帆船は種類も多く、とてもまとめきれないが、アンジェロ ペセ博士著「ジッダ(或るアラビアの町の描写)」の中で引用し、ルイーズ E. スウィート編集した「中東の人々と文化」に沿って、同じ様に一応分類してみた。フェニキア起源のガレー船は手漕ぎ船に補助的に帆を張っていた。これに対してアラブのダウ船は帆のみで航行しており大航海時代に活躍した帆船はアラブのダウ船の影響が非常に大きいと思われる。

 

アンジェロ ペセ博士著「ジッダ(或るアラビアの町の描写)」の中では様々な単位で交易金額が示されているが、通貨や度量衡の種類が多く、それがどの程度の価値なのか分からない。それらの相関関係を調べると、通貨に関しては銀本位制や金銀本位制も取られてはいたが、基本的には金本位制でほぼ、取引が行われている事が分かった。イスラム法では「ディナール金貨の重さは22k(917)4.25グラム、ディルハム銀貨の重さは純銀(pure silver)3.0グラム」と規定され、更に、第2代正統カリフのカリフ ウマル イブン ハッターブ)によって、両コインの標準として「10ディルハム銀貨の重さは7ディナール金貨の重さと同じである」と定められていた事で、ディナールとディルハムはイスラム帝国の版図を中心に国際通貨として広く使われたのだと思う。同じ様な発想が英国ではポンド銀塊が通貨として取り入れられていたし、スペインでは金銀の交換レートに関して1864626日施行の法律で 4.5/0.290322すなわち15.51と定められた。金銀の交換比率での銀の価値が現代になって著しく低下している事は分かったが、具体的な数字まではエレイン マイネルスプキス女史の作成した「金銀交換レートの実績」をウェッブで見つけ出すまで分からなかった。私には「ジェッダが国際貿易港であった要因の1つには安定したイスラムの貨幣制度があったのだ」と思われる。

 

17世紀に入るとオランダ商人や英国商人がポルトガル人達の独占を打ち破った。香料やその他の商品はその原産地で直接積み込まれ、喜望峰回りの航路でモスリムの支配を全く受けずに直接ヨーロッパ市場に運ばれ、ジッダは衰退し、その港の交易量はほんの僅かにまで減少した。さらに重苦しいオスマントルコ(Ottoman)の支配を受ける様になった。その様な状況であってもハッジの巡礼は毎年訪れ、ジェッダの国際性が削がれる事はなかった。

 

ジェッダが国際港であるとの漠然と分かってはいたが、今回「大航海時代」をまとめて、西洋で起きた14世紀から16世紀にかけて文化復興運動(ルネサンス)と18世紀から19世紀にかけての産業革命の間の15世紀から17世紀での大航海時代の中でジェッダが西洋の近代化に対して深く関わっていた事を改めて実感し、その国際性を再認識した。

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参考資料

 

広辞苑

アンジェロ ペセ博士著「ジッダ(或るアラビアの町の描写)」

Wikipedia(ウィキイペディア)

その他

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