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2008月8月31日
 マッカ・ムカッラマ(メッカ州)

(サウジアラビア王国西部地方)

その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ

1-4大航海時代とジェッダ)

6. 大航海時代に使われた硬貨および貨幣単位




 

目次

 

6.1 アラビアの硬貨

6.1.1 ディルハム銀貨(silver dirham)

6.1.2 半ディナール(half a dinar)

6.1.3 パース(purses)

6.1.4 ピアストル(piastres)

6.1.5 デュアニー(duanee)

6.1.6 パラ(para or párá)

6.2 西洋の硬貨

6.2.1英国ポンド(Pound Sterling)

6.2.2 オーストリア銀貨(Austrian thalers)

6.2.3 クルザード(cruzado)

6.2.4 ゼッキーノ(sequins, zecchino or zechin)

6.2.5 ダカット金貨(gold ducat)

6.2.6 ターラー銀貨(thaler)

6.2.7 テストン銀貨(testoon)

6.2.8 ドゥカトーン(Ducatoons)

6.2.9 ピスタレーン(Pistareens of Philip V)

6.2.10 ファージング(farthing)

6.3 植民地で鋳造された硬貨

6.3.1 新鋳ルピー(シッカルピー)(sícca rupée)

6.3.2 ペルードル又はコブ ドル(PeruCobb Dollars)

6.3.3 メキシコ ドル(Mexican Dollars)

6.4 金銀交換レート

6.4.1 イスラム法での規定

6.4.2金銀交換レートの実績

6.5 各硬貨の現在価値の推定

 

アンジェロ ペセ博士著「ジッダ(或るアラビアの町の描写)」の中にはさまざまな硬貨(コイン)が記載されているが、それらがどのようなコインで貨幣価値がどのくらいなのか分からないので、各コインを「アラビアの硬貨」、「西洋の硬貨」および「植民地で鋳造された硬貨」に分けて紹介し、コインの貨幣価値を決める金銀交換レートとの関係を調べた上で各コインの現在価値の推定を行った。

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6.1 アラビアの硬貨

 

6.1.1 ディルハム銀貨(silver dirham)

 

ドラチマ(Drachma)とも呼ばれるイスラム教国のディルハム銀貨(silver dirham)はササン朝ペルシア(Sassanid Empire)の最後の王(Yezdigird III) (634-51 C.E.)のディルハム銀貨を模倣してウマイヤ朝(Umayyad Empire) (661-750)5代カリフ アブドゥルマリク イブン マルワーン(Abd al-Malik ibn Marwan) (646-705)治世下の696年に最初に鋳造された。偶像を排し、アラー(Allah)の名やクルアーン(Qu’ran)の一部が刻まれたコインの意匠はこの後、数百年間踏襲された。

 

ディルハム銀貨(silver dirham)

http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/S017.htm

 

http://www.cislamica.org/comerciohalal/dinardirham/dinardirham.html

 

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6.1.2半ディナール(half a dinar)

 

半ディナール(half a dinar)金貨は下図のディナール金貨の半分の重さとなる。

 

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6.1.3 パース(purses)

 

1814年にジッダで徴収された関税の総額は40万ドル(400,000 dollars)で、それは8千パース(purses)或いは4百万ピアストル(4millions piastres)に相当し、それは年間の輸入額が約400万ドル(4millions dollars)である」とのブルクハルト (Johana Ludwig Burckhardt)著、1829年ロンドンで出版の「アラビア・ヒジャーズ地方の旅 (Travels in The Hedjaz of Arabia)」の記述からパース(purses)500ピアストル(piastres)50ドル(dollars)又は5ポウンド(pounds)に相当していた事がわかる。

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6.1.4 ピアストル(piastres)

 

エジプト・シリア・レバノンの通貨単位で0.01ポンド(pound)に相当する。エジプト ピアストル(Egyptian piastres)はオットマン帝国(Ottoman Empire)のクルシュ(Turkish kurus)から導入された。1ピアストルは40パラ(para)に分割される。1834年にトルコの衰退で価値が著しく下がったのでポンド(pound)が主要通貨として導入され、100ピアストルが1ポンドと設定された。1ポンドは金本位制で1914年まで1ポンド(gineih)7.4375 grams pure goldに保たれ、それ以降は1962年まで0.975ポンド(gineih)1 pound sterlingに固定された。

AH1249 (1833) Piastre.

 www.rosenblumcoins.com

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6.1.5 デュアニー(duanee)

 

クルースと共にジッダで使われた通貨単位で40デュアニー(duanees)1クルース(Cruse)である。ジュッダ(Judda)の変動での交換の一般的な平均は100スペイン ヘッド ドル(Spanish Head Dollars)250ジュッダ クルーズ(Judda Cruse)であり、ピッラー ドル (Pillar Dollars)は約2%でヘッド ドルよりは価値があるにもかかわらず、ピッラー ドル(Pillar Dollars)とヘッド ドルはここでは同じ価値に評価された。仏クラウン貨(French Crown)は同じ標準でも13%少なく、これによって仏クラウン貨又はピッラー ドルの買い取りでは有利になると思われる。(ウィルアム ミルバーン(William Milburn)1823出版「東洋交易(Oriental Commerce)」)

 

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6.1.6 パラ(para or párá)

 

トルコの旧通貨単位パラ(para or párá)はトルコのもっとも少額の貨幣でヒジャーズ(Hedjaz)ではディワニ(diwany)と呼ばれ、40パラ(párá)1ピアストル(piastres)であった。パラ (párá)はヒジャーズ全体に流通しており、同じ様にカイロで鋳造されているのも拘わらずピアストル(piastres)よりも本来そなわっている価値が高かったので大きな需要があった。

 

1815年にエジプト太守は貨幣鋳造所(mint)に年間7百万ピアストル(piastres)の鋳造を請け負わせた。これは現在の交換レートで換算すると約20万英国ポンド(ponds sterling)に相当し、このピアストル(piastres)貨幣は2223枚で1ドルの価値しか無いのが良く知れ渡っているにも拘わらず、8枚でドル貨幣1枚と交換する様に人々に強制した。

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6.2 西洋の硬貨

 

6.2.1英国ポンド(Pound Sterling)

 

スターリングシルバー (sterling silver)とは、銀の含有率925パーミル(:千分率)、割り金75‰(主に銅)の銀合金で、12世紀頃東ドイツの貨幣鋳造家イースターリング(Eastering)が英国に銀貨鋳造を教えて以後、この品位をスターリングと呼ぶようになり、1300年代に英国の法定品位となった。銀1トロイポンド(troy pound)から重さ.1.555gのペニー銀貨(penny)240枚を作成したので英貨は英国ポンド(Pound Sterling)と呼ばれている。それ以来1920年まで、英国の銀貨は925スターリング材で鋳造されてきたが、1971213日に計算上で混乱するため、1ポンド=100ペンスに切り替えられている。

 

(注) 1 pound sterling=20shillings=240pence

1 troy pound=12 troy ounce=5,760 grains=373.2417216g

1 troy ounce (ozt) =480 grains=31.1034768g

1 pennyweight=24 grains=1.55517384g

1 grain=0.064.79891g

 

1英国ポンドに相当する金貨は15世紀に登場したソブリン金貨 (Sovereign)1489年ヘンリー7世の時代に発行された量目240グレインの金貨が20シリングと等価とされた。この金貨はそれまで流通していた天使を描いたエンゼル金貨に対して、玉座に坐る国王が描かれたため、ソブリン(君主)と名づけられたが、この昔のソブリン金貨は、1604年を最後に鋳造が打ち切られた。


メアリー1世女王の旧ソブリン金貨1553年鋳造

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%B3%E9%87%91%E8%B2%A8

 

1663年にはギニー金貨(guinea)が発行され、以後19世紀初頭まで、金貨はギニー金貨のみとなった。ギニー金貨には21シリング(1ポンドは20シリング)に相当する価値があった。

George III, 1775 Guinea.

http://en.wikipedia.org/wiki/Guinea_%28British_coin%29

 

イギリスが金本位制を採用した1816年貨幣法(55 GeorgeIII.c.68)で新しい本位金貨が制定され、これをソブリンと名づけ1817年から鋳造された。この新しいソブリン金貨 (Sovereign)は直径22mm、重量7.98805g123.27447グレイン)、金純度91.67%の標準金で、通用最低重量は123.074グレインである。この金貨の価値は、製造当初の金の公定価格である標準金1オンス=3ポンド17シリング10ペンス半に相当し、ソブリン金貨を1ポンド金貨(20シリング)と言う。

British Gold Sovereign 2008

http://en.wikipedia.org/wiki/Sovereign_%28British_coin%29

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6.2.2 オーストリア銀貨(Austrian thalers)

 

15世紀から19世紀のドイツの銀貨で3 marksに相当する。マリーテレーズ(Marie-Thérèse)が刻まれているオーストリア銀貨(Austrian thalers)1840年のエジプトでは5.25フランス フラン(French francs)、ヒジャーズ(Hejaz)海岸では6.50フランス フラン(French francs)そしてヒジャーズ(Hejaz)内陸では7.0フランス フラン(French francs)の価値があった。

http://en.wikipedia.org/wiki/Maria_Theresa_thaler

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6.2.3 クルザード(cruzado)

 

ポルトガルの貨幣単位リアル(real)(複数形réis)は1430年から1911年まで使われた。その間に裏面に十字架の図案が付いた異なった額面のコインが鋳造されている。

540 grains  etc.usf.edu

 

15世紀後半のジョアン二世(João II)治下には324リアル ブランコ(real branco)クルザード貨幣(cruzado)が導入された。クルザード貨幣(cruzado)16世紀前半のジョアン三世(João III)治下で400レイス(réis)に固定され、17世紀後半のペドロ二世(Pedro II)治下で480レイス(réis)に改定されるまでクルザード銀貨(silver cruzado)の貨幣価値として維持された。

Cruzado 1687

http://forum-numismatica.com/viewtopic.php?t=6788

 

一方、クルザード金貨(gold cruzado)17世紀前半のジョアン四世(João IV)治下で750レイス(réis)に引き上げられ、17世紀中頃のアフォンソ(Afonso V)が没する前に875レイス(réis)に変更している。

Um Cruzado de D. João II

forum-numismatica.com/viewtopic.php?t=6788

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6.2.4 ゼッキーノ(sequins, zecchino or zechin)

 

ゼッキーノ(sequins)は重さ.986純金の3.5g金貨で、1284年にヴェネツィア共和国(Venetia or Venice)で鋳造された。最初はダカット(ducat)と呼ばれていたが、ヴェネツィア鋳造(Venetian mint)のものはゼッキーノ(zecchino)と呼ばれ、1543年にヴェネツィア共和国がダカット(ducat)と呼ばれる銀貨を鋳造し始めてからはイタリア語で鋳造(mint)を意味するゼッカ(zecca)と呼ばれる様になった。

Sequin from the reign of Antonio Venier.

http://en.wikipedia.org/wiki/Sequin_%28coin%29

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6.2.5 ダカット金貨(gold ducat)

 

ダカット硬貨(coin)が最初に発行されたのはシチリア伯(Sicily)1130年にシチリア王となったルッジェーロ2世(Ruggero II or Roger II(1095-1154) 治下の1140年であった。この硬貨の表にはキリスト(Christ)が刻印され、裏にはルッジェーロ2世とその息子が刻印されていた。

 

Roger II of Sicily

nimbate bust of Christ facing, holding Gospels

King Roger and, Duke Roger (son of Roger) standing facing, holding long cross between them; ducalis or ducatum

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Scifato_ducale_.jpg

 

ダカット(ducat)1284年にジョヴァンニ ダンドロ公爵(Giovanni Dandolo)(1280-1289)治下のヴェネツィア共和国で導入された。ヴェネツィア ダカット(Venetian ducat)は表には福音記者マルコ(San Marco Evangelista or Mark the Evangelist)の前に公爵がひざまずき、裏にはキリスト(Jesus)が描かれた意匠は前述のゼッキーノ(zecchino)と同じであった。この硬貨は簡単に鋳造出来、比較的小さな硬貨ではあるがかなり大きな価値を持っていたので、中世を通じて、主として東ヨーロッパで幾つかの種類のダカット硬貨が鋳造された。標準硬貨は中世に世界交易が集中したハンガリー(Hungary)で適用され、長い間、イタリア語でハンガリー人を意味するオングリ(Ongri)と呼ばれていた。しかしながら、ドイツでは近代になるまで一般的には使われる様にはならなかった。

 

神聖ローマ皇帝(Holy Roman Emperor)カール4(Charles IV) (1346-1378)1356年に、その後400年にわたって神聖ローマ帝国の基本体制を規定した金印勅書(Golden Bull)を発布し、7選帝侯(Prince Electors)それぞれに貨幣鋳造権等を認めた。1566年にダカットの発行が帝国内で正式に認可された後、特にダカットはヨーロッパ(Europe)中での標準金貨(standard gold coin)となり、この認可は1857年まで続いた。混乱するのは多くのヨーロッパ諸国でダカット銀貨(silver ducat)が鋳造された為でオランダ王立鋳造所(Royal Dutch Mint)では今でも28.25gの硬貨を発行している。ダカット硬貨のもっとも一般的なのはフランドル伯ルイ二世(Louis II of Flanders )(1346-1384)が武器を持って描かれた古いオランダ ダカット(old Dutch ducat)である。このオランダ ダカットは売買によって流通していたが、しばしば、グラウビュンデン州(Kanton Graubünden、英語 Canton of Grisons)で偽造された。この偽造硬貨は重さと品質を除けば非常に良く出来ていた。

 

 

この様に、ダカット金貨は第一次世界大戦(World War I)(1914-1918)以前まで、欧州大陸で通商の為に使用されていた。ダカット金貨は.986純金で3.4909gの重さがあり、これは実際の金の重さで0.1107トロイ オンス(troy ounce)に相当し、1913年のウェブスター辞典(Webster)によれば、ダカット金貨(gold ducat)は英貨(sterling)9シリング(shilling)4ペンス(pence)或いは2ドル(dollar)以上の価値があった。1ダカット銀貨(silver ducat)の価値はこの約半分であった。

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6.2.6 ターラー銀貨(thaler)

 

ターラー硬貨(Thaler, Taler or Tolar)は約400年間に渡ってヨーロッパ中で使われた銀貨(silver coin)である。この名前は様々な通貨でドル(dollar)あるいはターラー(Thaler)として残っている。元々、ターラー(Thaler)1518年、最初にこの様な硬貨が鋳造されたボヘミア(Bohemia)のヨアヒムスタール(Joachimsthal)の硬貨ヨアヒムスターラー(Joachimsthaler)の略語であった。

 

http://de.wikipedia.org/wiki/Joachimsthaler_Groschen

 

ターラー硬貨の大きさの銀貨(silver coin)が作られ、発展したのは15世紀中頃に遡る。15世紀の終わり頃には長引く戦争への出費と東西貿易における香辛料、陶器、絹、精巧な作りの着物や異国風の品々を輸入する片貿易における絶え間なく幾世紀にも渡る金銀の流出によって、硬貨の品質悪化が繰り返し引き下げられた為に、ヨーロッパ鋳造の硬貨は非常に悪い状態にあった。この度重なる貨幣の品質悪化はグロシュ硬貨(Groschen)等の硬貨で銀の含有量を5%以下までに引き下げ、鋳造開始当初の価値を著しく引き下げた。この風潮に逆らい、ヨーロッパでの鉱山の発見・開発もあって、イタリーはフランスの約4gのグロ トゥールノワ(gros tournois)を大幅に上回る6gを越えるリラ トラン(lira tron)1472年の導入に着手した。

 

14749gリラ(lira)が発行されたが、1484年にチロル(Tyrol)のシギスマンド(Sigismund)で、約15.5gの半グールダングロシュ(Guldengroschen)の初めての革命的な銀貨が発行された。最終的にはチロル(Tyrol)地方のアーク公爵領(Archduke)シュヴァーツ(Schwaz)で開発された銀鉱床をハル(Hall)で鋳造したシギスマンド(Sigismund)1486年に発行された。これが最初の本物のターラー硬貨の大きさのグールダングロシュ硬貨(Guldengroschen)であり、価値はギルダー金貨(gold guilder or gold gulden)と同じ大ギルダー硬貨であった。グルディナー(guldiner)と愛称で呼ばれたグールダングロシュ(Guldengroschen)は一時的であまり成功しなかった。まもなくこの硬貨は銀を必要とする多くの国で広く模倣された。

en.wikipedia.org/wiki/Guldengroschen

 

下図が15世紀から19世紀に使われたドイツの銀貨(=3 marks)である。

 

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6.2.7 テストン銀貨(testoon)

 

テューダー朝(Tudor dynasty)初代のイングランド王ヘンリー7世(Henry VII(1485-1509) の治下でシリング(shilling)の先駆けとしてテストン銀貨(testoon)が導入された。この硬貨は1489年頃に極めて限られた量が鋳造されただけであり、一般的には流通してなかった。テストン銀貨(testoon)はヘンリー8世(Henry VIII(1544-1551)の治世の後半に大量に鋳造された。この銀貨はこの時代のほかの硬貨同様に非常に質の悪い銀貨であった。ヘンリー8世の死後、テストン銀貨はタワー(Tower in London)、サウスワーク(Southwark)およびブリストル(Bristol)で鋳造されていた。

 

 

ヘンリー8世の若い息子のエドワード6(Edward VI)はテストン銀貨の鋳造を続け、エドワード6世の時代に始めて、テストン銀貨はシリング(shilling)と呼ばれる様になった。

1956 Elizabeth II UK shilling showing English and Scottish reverses

http://en.wikipedia.org/wiki/Shilling_%28United_Kingdom%29

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6.2.8 ドゥカトーン(Ducatoons)

 

最初1598年に鋳造され、18世紀まで使われたオランダの銀貨で、17世紀から18世紀にかけて、リックス銀貨(silver rix-dollar)が標準硬貨として再確認された時に、実際にそれに替わるドゥカトーン(Ducatoons)が東洋のオランダ領では一般的に使われる様に成ってきた。「オランダドゥカトーン(Ducatoons)或いはリダー銀貨(silver rider)1659年に最初に確定され、その価格はオランダ本国で63ストゥイベル(silver stuivers)だった」と云う。(Ceylon Coins and Currency by H.W. Codrington)

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6.2.9 ピスタレーン(Pistareens of Philip V)

 

18世紀まで西インド諸島や米国で用いられたスペインのpeseta硬貨である。ペセタ(peseta)4.5gの銀あるいは0.290322gの金に相当する(http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_peseta)又、ドル(peso duro or dollar)5 ピスタレーン(Pistareens)あるいは5 ペセタ(pesetas)である。

 

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6.2.10 ファージング(farthing)

 

英貨ファージング(farthing)はペニー(penny)4分の1で、英貨1ポンド(pound sterling)960分の1の価値の硬貨である。この硬貨は13世紀に最初に鋳造され、19601231日まで使われた。初期のファージングは銀貨であったが、今ではほとんど残ってはいない。最初の銅貨が鋳造されたのはジェームス一世(James I) (1603–1625)の治世の時であった。

 

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6.3 植民地で鋳造された硬貨

 

6.3.1 新鋳ルピー(シッカルピー)(sícca rupée)

 

1793年から1836年に東インド会社のBengal管区内で用いられた貨幣。

One rupee, Queen Victoria series, 1862

http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_rupee

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6.3.2 ペルードル又はコブ ドル(PeruCobb Dollars)

 

ペルードルはスペイン領アメリカのペソ、不規則な形をしたスペイン領アメリカの粗製硬貨である。

 

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6.3.3 メキシコ ドル(Mexican Dollars)

 

スペイン語(Spanish)で重さを意味するペソ(peso)と云う言葉はスペイン(Spain)で鋳造された硬貨(coin)に使われ、国際的に重要性を帯びていた。今でもペソは幾つかの元スペイン植民地の通貨単位になっている。ペソ硬貨は15世紀から19世紀にかけてスペインのアメリカ領で流通した基準となる銀貨であり、この銀貨は元々英国の8リアル銀貨(the piece of eight, the real de a ocho, or the eight real coin)であったが、スペイン ドル(Spanish dollar)そしてメキシコ ドル(Mexican dollar)として知られるようになった。

 

このペソ硬貨はフランス(in French)ではピアストル(piastre)、ポルトガル(in Portuguese)ではパタカ (pataca or patacão)と呼ばれた。この硬貨はメキシコやペルーで銀の延べ棒を切ってハンマーで刻印しただけの簡単で手軽なコブ(cob or macuquina)と呼ばれた方法でも作られていた。

 

スペイン ドルは東洋貿易では特に使われ、8リアル銀貨はアメリカ大陸では鋳造され続けた。この硬貨は共和国ドルとも呼ばれる様になり、その後、古いスペインの8リアル銀貨は一般的にメキシコ ドルと呼ばれるようになった。メキシコは1772年の標準である純度0.9028の銀27.03g即ち24.441gの純銀を含む銀貨の鋳造を維持していた。

 

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6.4 金銀交換レート

 

6.4.1 イスラム法での規定

 

金貨或いは銀貨で示された金額から大航海時代の東西貿易の規模を理解しようとそれぞれの金銀含有率から現在の米国市場(US Market)での取引価格に換算した。金貨表示については問題ないが銀貨表示では安すぎる感じがあった。

 

この金銀交換レートを調べたところ、イスラム交易圏では金銀複本位制(Bimetallic Standard)で、ディナール金貨(Islamic gold dinar)とディルハム銀貨(silver dirham)はさまざまな時代における共通の交易通貨として使われて来た事が分かった。

 

イスラム法(Islamic Law)では「ディナール金貨(Islamic gold dinar)の重さは22k(917)4.25グラム(grams)、ディルハム銀貨(silver dirham)の重さは純銀(pure silver)3.0グラム(grams)」と定められて居り、更に、第2代正統カリフ(634-644)のカリフ ウマル イブン ハッターブ(Khalif `Umar ibn al-Khattāb)によって、両コインの標準として「10ディルハム銀貨(silver dirham)の重さは7ディナール金貨(Islamic gold dinar)の重さと同じである」と決められている。

 

前述した様に、ドラチマ(Drachma)とも呼ばれるイスラム教国のディルハム銀貨(silver dirham)はササン朝ペルシア(Sassanid Empire)の最後の王(Yezdigird III) (634-51 C.E.)のディルハム銀貨を模倣してウマイヤ朝(Umayyad Empire) (661-750)5代カリフ アブドゥル マリク イブン マルワーン(Abd al-Malik ibn Marwan)(646-705)696年に最初に鋳造させた。ディナール金貨(Islamic gold dinar)はローマ帝国銀貨ディナリウス(denarius, plural: denarii)に由来するが、金貨を指し示すようになったのはこのディナリウス銀貨がノミスマ金貨(Nomisma)の継承硬貨だった為である。ディナール金貨も同じく、696年に年に鋳造された。

 

ウマイヤ朝の版図はスペイン(Spain)から中央アジアまで広がっていたので、ディルハム銀貨とディナール金貨は広い範囲に普及した。従って、大航海時代の東西貿易での決済で使われた金銀の交換レートもイスラム教国で使われたレートに倣っていたと考えられる。

 

http://en.wikipedia.org/wiki/Umayyad

 

金銀の交換レートはイスラムの出現以来400年にわたって安定していた。しかしながら、イル汗国(lkhanate)の第5代君主ゲイハトゥ (Gaikhatu) (1291-1295)が元朝(1271-1368)に倣って、西アジアで初めて紙幣を発行し、失敗したのが要因となり、銀の価値が上がりし、120の金銀の交換レートの維持が難しくなった。学者は110を主張したが公定レートは120がなんとか維持された。

 

() イスラムの出現: イスラム暦元年(the first year of the Islamic calendar)はムハンマド(Muhammad)がメディア(Medina)に移住(Hijra)した西暦622年である。

 

1380年頃から銀の価格が下落し始めたが、それでも130年後の1510年頃まではディナール(dinar)とディルハム(dirham)の交換レートは120が維持された。それ以降は125さらに130とディルハムは下落していった(Ashtor 1976, p. 305)。この様にイスラム交易圏では金銀複本位制(Bimetallic Standard)の下で、ディナール金貨(Islamic gold dinar)とディルハム銀貨(silver dirham)はさまざまな時代における安定した共通の交易通貨として現在に至るまで1400年もの間、使われて来ている

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6.4.2金銀交換レートの実績

 

これに続く、17世紀から21世紀までの金銀交換レートの実績はエレイン マイネルスプキス女史(Elaine Meinel Supkis)2008224日に発表した「金銀交換レートの歴史(History of Gold/Silver Ratio)」に下表の様に掲載されている。同女史は同書の中で、「一般的に1600年から1873年の間では金銀交換レートは安定していた」ともコメントしている。

 

By Elaine Meinel Supkis

http://elainemeinelsupkis.typepad.com/Ezmoneymatters/2008/02/history-of-gold.html

 

スペインでは金銀の交換レートに関して1864626日施行の法律で 4.5/0.290322すなわち15.51と定められた。1929年の大恐慌(the Great Depression)以降、銀の価値が下がり、17世紀には1:15であったのが1989年には1:90になり、その後は少し改善した。現在(2008730日)では1:53程度で推移している。銀貨としてのディルハム(dirham)価値はこの様に下落しているが、2008726日現在、使用されている紙幣ではUAD ディルハム(Dirham)0.07230クウィト ディナール(Kuwait Dinar)あるいは0.1027バハレン ディナール(Bahraini Dinar)で、ほぼ1ディルハム(Dirham)1/10ディナール(Dinar))であると言える。

 

15世紀から17世紀中頃にかけての大航海時代における東西貿易で適用された金銀の交換レートでは上記の様に現在に比べて、銀の価値が高く、「その比率はほぼ1:15であった」と私は推定している。

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6.5 各硬貨の現在価値の推定

 

大航海時代の取引の説明や表が示されても、それがどの程度の価格であったのかが分からないと取引の価値を理解するのは難しい。この為、この時代に使われた硬貨と貨幣単位の現在価値への換算を推定してみた。この推定は金貨に含まれる金の重量を現在アメリカ市場で売買されているトロイ オンス(troy ounce)当たりの単価で換算して行い。銀貨については金銀の交換レートを1:15として換算した。又、その他の硬貨や貨幣単位はそれぞれの交換レートから換算した。実際の金貨・銀貨は骨董的な値段が付けられており、ここで換算した現在価値とはかけ離れている。


(ここをクリックすると図が拡大します。)

(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)

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