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2008月6月10日 高橋 俊二
 マッカ・ムカッラマ(メッカ州)

(サウジアラビア王国西部地方)

その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ

1-2 古代の西アラビア




索引

前書き

緒言

1. ジェッダの名の由来

1.1 ジェッダ」と云う町の名前の不確定さ

1.2 ヨーロッパの翻訳者による「ジェッダ」の意味と転写(音訳)

1.3 執者のアラビア語転写について

2. 富裕なアラビアと呼ばれたイエメンの古代王国

(Ancient Yemen Kingdoms of Arabian Felix)

2.1 アラビアの幸福(Arabia Felix)

2.2 王朝以前のカハターン族の支配(紀元前23世紀から紀元前8世紀)

2.3 シバ王国(Sheba)(紀元前8世紀から西暦275年まで)

2.4 シバの女王伝説

2.5 ハドラマウト王国(Hadhramawt)(紀元前8世紀から西暦300年)

2.6 アウサーン王国(Awsan)(紀元前800年から紀元前500年)

2.7 カタバーン王国(Qataban)(紀元前4世紀から西暦200年)

2.8 マーイン王国(Ma'in)(紀元前8世紀から紀元前1世紀)

2.9 ヒムヤル王国(Himyarite) (紀元前2世紀から西暦520年)

2.9.1 ヒムヤル王国(the Kingdom of Himyar)

2.9.2 ヒムヤル王国の歴史

紀元前115年から西暦300

西暦300年からイエメンのイスラム前期まで

2.10 アクスム王国(Aksum) (西暦520年から西暦570年)

2.11 ササン朝時代(Sassanid period) 西暦570年から西暦630

2.12 エチオピアの古代王国

2.12.1 アクスム王国(Aksumite Emire)

2.12.2 古代王朝ダ‘ムト(D’mt)あるいはダ’アモト(Da’amot)王国

2.12.3 女王グディト(Gudit)

2.12.4 ザグウェ朝(Zagwe)

2.13 シバーム(Shibam)

2.13.1シバーム(Shibam、シバの女王の都)への疑問と訂正

2.13.2「フィルビーのもっとも長い旅行(Into the Highlands)

2.13.3 その他のシバームに関する資料

未知の国アシール(Undiscovered Asir) 

NHK探検ロマン世界遺産シバーム」

「シバーム(Shibam) (wikipedia)

「沙漠のマンハッタンを守れ(Saving the Manhattan of the Desert)

Hadhramaut探検記(The Southern Gates of Arabia,1936)

3. ギリシア/ローマ時代のジッダに関する記述

3.1 文献

3.1.1 ヘロドトス(Herodotus) 著「歴史」

3.1.2 テオフラストス(Theophrastus)「植物学の祖 (a History of Plants)

3.1.3アガサルチデス(Agatharchides)

「エリュトゥラー海に関する論文(A Treatise on the Erythraean Sea)

3.1.4 ディオドロス(Diodorous)「歴史叢書(Library of History)

3.1.5 ストラボ(Strabo)「地理学(the Geography of Strabo)

3.1.6「エリュトゥラー海航海記(Periplus Maris Erythraei)

3.1.7 プリニウス(Pliny)「博物誌(自然の歴史)(Histria Naturalis)

3.1.8 プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus)

「地理学ガイド(Geographic Guide)

3.2 イチサヨファギ(Ichthyophagi)(魚を食べる人達)

3.3 ローマ帝国軍の古代南アラビア(ヒムヤル国)遠征

3.4 エリュトゥラー海航海記に記述された紅海東岸

後書き

参照資料

 

 

 

 

 

 

前書き

 

   南アラビアでは「遠い渓谷と遙かなる砂丘地帯(ナジラン)サウジアラビア王国南西地方)その2 ナジランの歴史」で述べた様にシバ(Sheba)の女王とソロモン王(King Solomon)の伝説がうまれた「乳香の道」と呼ばれる隊商交易は紀元前1000年より前に始まった。聖書(1 Kings 10)には「シバ(Sheba)の女王(the Queen of Sheba)がソロモン王(King Solomon)の令名を聞き、その知恵と栄えを確かめるために多くの宝石を持ってその宮廷(court)を訪問した」と記述されている。

 

ジェッダはギリシア/ローマ時代にはすでに乳香の富で豊かなアラビアのマロサ(Malotha)或いはマロサス(Malothas)として知られてはいたが、「一般的には認識されてはなかった」と思われる。

 

紀元前450年頃にヘロドトスは「これは世界で乳香(frankincense)が育つ唯一の国であり、没薬(ミルラ)(myrrh)、桂皮(cassia)、肉桂皮(cinnamon)(シナモン)およびラブダナム(ladanum)も産するので、国中でこの世のものとは思えない匂いが発散している」と述べている。

 

(注)ラブダナム(ladanum)は半日花から採った天然樹脂。

 

この富のお陰で南アラビアでは「富裕なアラビア」あるいは「幸福なアラビア」を意味するアラビア フェリクス(Arabia Felix)とよばれるシバ王国(Sheba)マーイン王国(Maeen)、カタバーン王国(Qataban)およびハドラマウト王国(Hadhramawt)等の古代イエメンの王国群が栄えていたが、これらの王国群はヒムヤル王国(Himyar)によって次々と征服、併呑された。

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緒言

 

「富裕なアラビア」への中継地としてのジェッダ(Jeddah)を交易相手のギリシア・ローマがどの様に見ていたかを紹介するのが「1-2 古代の西アラビア」と名付けたこの編の主たる目的であるが、その前にジェッダの名の由来、「富裕なアラビア」を構成したイエメンの古代王国についても説明して置きたい。これまでは乳香交易の中心であったシバーム(Shibam)を「シバの女王の都」と紹介してきているが改めて調べる中で今回、疑問が出て来たのでその事も考察しながら近代における「乳香の道」を探検した人々についても触れておいた。

 

1. ジェッダの名の由来

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1.1 ジェッダ」と云う町の名前の不確定さ

 

   「ジェッダ」と云う町の名前にはアラビア語源学(the Arabic etymology)および正字法(綴り方)(the Arabic orthography)に関して幾つの不確定さがあると云う。

 

   この地方ではジッダ (Jiddah)と発音されている海辺を意味する名の古語はジュッダ(Juddah)であり、10世紀にアラブの地理学者マクディシ(al Makdisi)等はその著書「モスレム帝国の記述(Descriptio imperii moslemici)」に「ジュッダは海岸の町でその名前は海に関連したその位置に由来する」と明白に記している。その少し後でもう一人の偉大なアラビア地理学者のバクリ(Abu 'Obeid 'Abdallah ben Abd al-Bakri)1094年没)はその著書「地理辞典(Mujam ma Istajam)」に「ジュッダとは海に在るためにそう名付けられたメッカに近い海岸の町の名前である。そこはジュッダと云う海あるいは川はそれに近い土地の一部であり、元来、ジュッダと云う言葉は延長された錨地・停泊地(road)の意味である」と言葉の由来について更に詳しく述べている。

 

 

   古典的なアラブの著者達は常にその名をジュッダと書いているが会話のアラビア語ではジッダと発音が異なっていた事は既に16世紀のポルトガル歴史学者デ バホス(João de Barros)が気づき、デ バホスは著書「ジョアン バホスのアジア(Asia de João de Barros)で「アラビア人によってはジュッダ(Judda)をジッダ(Jidda)とも呼んでいる」と指摘している。

 

   又、「1-1 中継港ジェッダの紹介」で述べた様に「ジェッダは漁船にとって天然の良港であり、周囲の珊瑚礁での多くの種類の豊富な漁獲に恵まれていたので、2,500年位の遠い昔からクアダア漁民部族(the Quadaa tribe or the Quda'a tribe)の小さな集落があった。そのクアダア漁民部族の族長ジェッダ イブン ヘルワアン クダアイイ(Jeddah Ibn Helwaan Al-Qudaa'iy)がジェッダの語源である」との説もある。

 

 

   今ではジェッダ (Jeddah)となり、この一般的に成った正しく無い形はこの町の名のエジプト綴りに支えられ、祖母を意味するジャッダー(jaddah)が語源であり、恐らく万人共通の祖母であるイブの墓場がこの町の傍にあると云う伝説に由来すると一般的には考えられているようだ。

 

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1.2 ヨーロッパの翻訳者による「ジェッダ」の意味と転写(音訳)

 

アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)はその著書「ジッダ或るアラビアの町の描写(Portrait of an Aranian City, Jiddah )(1977)」の中で「アラビアの物事の古くからの障害であるアラビア語の転写(音訳(transliteration)の正確さや一貫性に何も問題(claim)は無いがT.E. ロウレンス(Thomas Edward Lawrence)が出版者にアラビアの名前はその子音が我々のとは同じでは無く、その母音は我々と同じように地方、地方によって変化するので正確に英語では表現できない』と余りにもぶっきらぼうに答えている。それに比べれば私自身の感覚は音訳の正確さや一貫性を効果的に反映している。他の著者を引用したり、翻訳したりする中で特に地名については私自身の音訳と一貫性が無くても著者自身の綴りを温存して来た。再び、引用の問題では文中に挿入句や脚注での全ての説明的注意書きは私自身の音訳である」と述べ、ジェッダの名前の不確実さはヨーロッパの翻訳者によってこの市の名に当てはめられた名前の意味に困惑させられる事に反映されている」と下記の様な幾つかの例を挙げている。

 

ジェッダの名前の意味の例:

 

a. ブルクハルト(J.L. Burckhardt)29頁に「そのアラビア語名は金持ちを意味する」、

b. バートン(R.F. Burton)1913年扁第2268頁に「水の欠乏した平原」、

c. ザデー(K.H. Zadeh)19頁に「道、道路、神の家カーバ(Kaaba)へ導く道路にある市」、

d. フィルビー(H. St. John B. Philby)著「アラビアの心(The Heart of Araba, London 1922, t. I, p221)」やその他多くに「祖母(grandmother」、

e. ナリノ(C.A. Nallino)155頁に「海辺(seashore)」、

f. イスラム百科辞典(Encyclopedia of Islam t.II, ライデン(Leyden) 1960-1965 P.572)に「錨地・停泊地(road)

と記載されている。

 

ジェッダの名の読み方の例:

字訳(transliterations)に関しては既に近代的英語で記載された書式およびフランス語のDjeddahDjiddahDjuddahおよびDjouddahを除き、次の様な他の異なった字訳(幾つかは本当に遠くかけ離れている。)が記述可能だと思われる。

 

a. Zida (early Itarian, L. Varthema).

b. Zidem (early Itarian, A. Corsali and others).

c. Gedda (modern Italian).

d. Vida (Anonymous Narrative of the Voyage of Cabral, in The Voyage of Pedro Alvares Cabral to Barzil and India tr. and ed. by W. B. Greenlee (Hakluyt Society), London 1938, P. 83).

e. Grida (Anonymous Portugues Slave in R. Hakluyt's Pribcipal Navigations).

f. Judá (early Portuguese, D. Barbosa, G. Correa and others).

g. Gidá (early Portuguese, L.V. de Camōes).

h. Guida (early Spanish, P. Tafur).

i. Joada (English, W. Daniel).

j. Dsjidda (German, C. Niebuhr).

k. Djetta (German, E. Rüppel).

l. Dscheddah (modern German).

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1.3 執者のアラビア語転写について

 

「豊かなオアシスに恵まれた原油の宝庫(サウジアラビア王国東部州)その1東部州の紹介」の緒言ではその前に転写について厳しい指摘を受けた私のアラビア語のカタカナ表記について次の様にご説明している。

 

来、アラビア語のカタカナ表記についてはアラビアの発音を持たない日本語のアイウエオを使って表現する事は出来ないと考え、アラビア語の表記標準がある英語を併記する事で済ませて来た。ご指摘は私が親しんで来た「Qa」を「ガ」と発音するアラビア湾岸訛りに対して特に厳しかったので、及ばずながらアラビア語のカタカナ訳のある市販の白水社や国際語学社のアラビア語辞典や最近になって発売された岩波書店および平凡社のイスラム辞典も調べてみた。サウジアラビアでは余り親しみの無い発音を使ってのカタカナ訳で表現がされている場合も多く、改めてアラビア語の使われている地理的範囲の大きさを実感した。リヤド、クウェイト、カイロやドバイ等大都市でアラビア/英語の辞書を購入しても日常的に目にするアラビア語でさえ掲載されて無い程、アラビアの用語数 (vocabulary) は多く、同じ意味でも幾種かの単語がある。これはそれだけ多くの民族がアラビア語を使っているからだと思っている。

 

幾つか思考錯誤の上でサウジアラビア政府および日本サウジアラビア協会の出版物で使われているカタカナ表現に近づけようと考え、それらの出版物から言葉の蒐集を始めた。「サウジ」が「サウヂ」や「サウディ」と表現される等、必ずしも一致しないし、統一されてもないがその「言葉の蒐集」の記録に基づき、又、専門家のご意見もお聞きし、この篇からカタカナ訳をかなり変えている。これは読む方に少しでも親しみを感じて戴きたい為の変更であり、アラビア語本来の発音が変わった訳では無い。従って、本文や注には引き続き、英語表現を併記している。

 

   その後、20077月に出版された「サウジアラビアを知るための65章」の一部を執筆した際に神戸大の中村覚先生のご指摘・ご指導を受け、私なりの転写をずいぶん修正して戴いた。ただ、アラビア湾で長く生活した私自身の耳の残っている現地のアラビア人との発音の違いはどうしても残っている。これについては私の働いていた石油会社の先輩であった上野悌嗣先生が1992年に「実用湾岸方言アラビア語」を出版され、その前書きに「アラビア語の話し言葉はアーンミーヤと呼ばれ、その地方々々によって異なる方言であり、これに対して書き言葉はフスハーと呼ばれ、聖典クルアーンにつかわれたアラビア語から発達した文体が使われており、アラブ世界での標準語である」と述べられているのでこの違いはいたしかないのだと思っている。そういう難しさはあるが、今は出来るだけ一般的にアラビア語の辞書に使われているカタカナ読みを使う様に私なりには心がけている。

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2. 富裕なアラビアと呼ばれたイエメンの古王国

(Ancient Yemen Kingdoms of Arabian Felix)

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2.1 アラビアの幸福(Arabia Felix)

 

ギリシア(Greek)ではアラビア半島南部は「恵まれたアラビア」を意味する「アラビアの幸福(Arabia Eudaimon)」と呼ばれ、そしてラテン(Latin)(古代ローマ人)では「幸福なアラビア(Happy Arabai)」を意味する「富裕なアラビア(Arabia Felix)」と呼ばれていた。アラビア フェリクスについて紀元前450年頃にヘロドトス(Hērodotos)「これは世界で乳香(frankincense)が育つ唯一の国であり、没薬(ミルラ)(myrrh)、桂皮(cassia)、肉桂皮(cinnamon)(シナモン)およびラブダナム(ladanum)(半日花から採った天然樹脂)も産するので、国中でこの世のものとは思えない匂いが発散している」と述べている。乳香を栽培している部族を征服するのはアレキサンダー大王(Alexander the Great)の少年時代の夢であり、死ぬ前の紀元前323年に大王はアラビア フェリクス(Arabia Felix)に対して海軍遠征を行っている。

 

 

隊商路の戦略的に位置にあり、他国からの侵略を防ぐために強力な王国であったマーイン(Ma'in)を中心にシバ(Saba or Sheba)、ハドラマウト(Hadhramaut) およびナジラン(Najran)は連携していた。歴史学者やオリエント学者は「ナジランの古代マーイン(Ma'in)王国との連合の証拠は地中海(Mediterranean Sea)とイエメンとの間の交易路で見つかった岩に刻まれている」と言う。いずれにせよ、この地域は長い隊商時代の殆どを通じて乳香(frankincense)等の香味料と香料を運ぶ隊商交易路の交差点に位置する商業の大きな中心であり続け、繁栄していた。やがて、シバ(Saba or Sheba)、マーイン(Ma'in)、カタバーン(Qataban)、アウサーン(Awsan)およびハドラマウト(Hadramawt)等の古い南アラビア都市国家群はイエメン山岳高地のザファール地方(Zafar)のヒムヤル族(Himyarite)と云う一地方勢力に併呑されてしまった。

 

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紀元前25年にローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)はエジプトを攻略占領した後、紅海岸の港群とヒジャーズ山脈(Hijaz Mountains)を越えての乳香交易ルートを確保し、アラビア半島南部の乳香の生産地域を征服する為に、エジプト属州長官(the Prefet of Egypt)のアエリウス ガルス(Aelius Gallus)を送った。アエリウス ガルス(Aelius Gallus)はナジランまで2,500km進軍し、ナジランを包囲し、略奪し、焼き払った後、更に進撃し、マーリブ(Marib)を包囲した。しかしながら、ガルスの軍隊は水不足の為に 6日間だけでマーリブ(Marib)から退却せざるを得ず、乳香生産地には辿り着けなかった。アエリウス ガルス(Aelius Gallus)はエジプトに退却したが、その艦隊は印度へのローマ商船の航路を確保する為にアデン港(the port of Aden)を破壊した。この遠征が成功しなかった為、ローマ人達は西暦1世紀から定期的に乳香と没薬の地に紅海経由で訪れ、それがムザ(Muza)やカナ(Qana)等のアラビア半島南部の港を発展させた。アラビアのフィーリックス(Felix)は数世紀に渡って栄えたが、3世紀のローマ世界の経済不振によってその産物の需要が落ち込むと衰退してしまった。

 

() ムザ(Muza)は現在のモカ(Makkh or Mokkah)カナ(Qana)は現在のビール アリ(Bir Ali)である。

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2.2 王朝以前のカハターン族の支配(紀元前23世紀から紀元前8世紀)

 

紀元前23世紀にアラビア半島南部のアラブ族はカハターンの支配下にまとまった。カハターン族(Qahtanis)は簡単な土盛りのダムと水路をサイハド沙漠(Sayhad desert)のマーリブ(Marib)地域に建設し始めた。やがて、紅海岸のティハマー平地(Tihama)に沿って交易路が繁栄し始めるとカハターン族は南アラビアと東アフリカの一部を支配する様になった。カハターン族の部族の長は宗教上の司祭も兼ね、シバ(Sabeans)ではムッカリブ(Mukkaribspriest king)と呼ばれていた。

 

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乳香交易の中心地シバーム(Shibam)があった涸れ谷ハドラマウト(Wadi Hadhramaut)はイエメンでは例外的に肥沃であり、古代から人々が定住してきた。遠くから見ると摩天楼の様に見える高い日干し煉瓦の塔の様な家々がここの建築の最も顕著な特徴であり、中でも八層以上の家々の並びがそれを代表している。

 

この時期の終わり近くには聖書やクルアーン(Quran)に述べられている伝説的なビルキスの女王(Queen Bilqis)すなわちシバの女王(Queen Sheba)が現れたと云われている。「シバの女王が紀元前10世紀にソロモン大王と会見した」とか「シバはアフリカのアビシニア(Abyssinia)にあった」とか伝説も含めて諸説あり、シバの女王が実在したかどうかについては疑問を持つ学者も少なくない。この時期は紀元前9世紀にアルファベットの登場と共に終わっている。アルファベットはフェニキア語の文字(Phenician scipt)であり、この文字によって南アラビアの歴史が記録されている。

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2.3 シバ王国(Sheba)(紀元前8世紀から西暦275年まで)

 

シバ王国が支配している間は交易と農業が発展し、多くの富と財産を生み出した。シバ王国(Sabaean Kingdom)はイエメン南西部の現在はアシール(Asir)と呼ばれている地方に位置し、その首都はマリーブ(Ma'rib or Mareeb)であった。

 

(注)アラブの伝説によるとノア(Noah)の長男でセム族の祖先であるセム(Shem)がマーリブを創建した。

 

シバの支配下の間、イエメンはその富と繁栄に感銘を受けたローマ人によって「富裕のアラビア(Arabian Felix)」と呼ばれた。この王国は香辛料および乳香(frankincense)没薬(myrrh)を含む香料(aromatics)の栽培と交易で繁栄していた。交易の相手はこれらを非常に珍重する地中海、印度およびアビシニア(Abyssinia)の国々であり、駱駝隊商で中継港まで陸送された後、中継港から海路でそれぞれの国に輸出されていた。

 

紀元前25年にシバ王国(Sanbaean Kingdom)ヒムヤル王国に征服されたが、その抗争はヒムヤル王国がシバ王国を最終的に征服した西暦280年まで続いた。今でも大きな寺院跡が残るマーリブ(Ma'rib)がシバ王国の首都であり、殆ど14世紀間にわたって栄えたこの王国が旧約聖書に述べられているシバ王国(Sheba)であると主張する学者も少なくはない。

 

山々を抜ける水道のトンネルとダムを組み合わせた進歩的な灌漑システムによって、この時代を通してイエメンの農業は発展した。この様な土木工事の中でも特に印象的なマーリブ ダム(Ma'rib Dam)は紀元前700年に建設された。マーリブ ダムは101平方キロメートルの土地を灌漑し、最終的に570年に崩壊するまで千年期を挟んで何世紀にも渡って利用されていた。

 

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2.4 シバの女王伝説

 

シバの女王(Queen of Sheba)はエチオピアの歴史、ヘブライ語の聖書、新訳聖書およびクルアーン(Qur'an)に古代シバ王国(the ancient kingdom of Sheba)の支配者であった女性として引用されている。この歴史的な王国の場所はエチオピアとイエメンの両方にあり、エチオピアの方がそうであるらしい。

 

マケダ(Makeda)としてエチオピアの人々に知られるこの女王は異なった時代に異なっ人々に様々に呼ばれている。イスラエルのソロモン王(King Solomon)に対してはシバの女王(Qyeen of Sheba)であり、イスラムの伝説ではビルキス(Bilqis)と呼ばれている。ローマの歴史家ヨセフス(Josephus)は女王をニカウラ(Nicaula)と呼んでいる。女王は紀元前10世紀に実在していたと考えられている様だ。

 

ヘブライ語聖書では国々の歴史は創世記第10書に述べられている。創世記第10書の26章から29章にはシバがノア(Noah)の息子エベール(Eber)の息子ジョクタン(Joktan)の息子の子孫として名前を挙げられ、引用されている。

 

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ヘブライ語聖書に書かれた伝説によればセム系部族はアラビア半島で特に南アラビアに集中して見つかる。アラム(Aram)、アッシュール(Asshur)および肥沃な三日月地帯と東部メソポタミアにそれぞれ居住していたエラム(Elam)は例外として、アハロニ(Aharoni)、アヴィ ヨナ(Avi-Yonah)、ライネイ(Rainey)およびサフライ(Safrai)は南西アラビアのセム族のシバ王国に在住していた。そこは地理的に彼等の祖先ジョクタン(Jiktan)の子孫である部族の場所に近く、シバ(Sheba)に加えて、ハザールマヴェス(Hazarmaveth)やオフィール(Ophir)の在住が確認されている。セム族のハヴィラ(Havilah)は東アフリカの現在のエチオピアに居住していた。

 

従って、シバの女王(Queen of Sheba)は南アラビア居るセミ族のシバ(Sheba)の子孫であるとは言えるが、エチオピア起源の人種で或る方がもっともらしい。

 

剣と槍を持って騎乗しエルサレムに向かうシバの女王

を描いたエチオピアのフレスコ画(Wikipedia)

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2.5 ハドラマウト王国(Hadhramawt)(紀元前8世紀から西暦300年)

 

ハイドラマウト(Hadhramaut)はイエメンの古代都市国家群の在った涸れ谷の名前でもあり、ギリシア語の要塞化が語源で隊商路の要塞化された水場のある宿場を意味する。近代のキャラバンサライ(caravansary)は将にこれに相当する。

 

ハイドラマウト(Hadhramaut)の最初の碑文は紀元前8世紀からあらわれる。紀元前7世紀初期のカラビル ワタール(Karab'il Watar)の古いシバ碑文にはハイドラマウト王ヤダイル(Yada`'il)が盟友として記述されている。しかしながら、マーイン人(Minaeans)が紀元前4世紀に隊商路を支配した時にハイドラマウトはおそらく商業上の利害からマーインの同盟国の1つになっていた。その後、ハドラマウトハドは独立し、1世紀末に向けて勢力を伸ばしていたヒムヤル王国(Himyar)の侵略を受けたが、その攻撃を撃退した。ハドラマウト王国は2世紀の後半にカタバーン王国(Qataban)を属領化し、領土は最大と成った。

 

この時代にハドラマウトはヒムヤル王国(Himyar)およびシバ王国(Saba')と戦争をし、シバ王国のシャイルム アウタール王(Sha`irum Awtar)225年にその首都シャブワ(Shabwah)を占領した。この時代にアクスム王国(Aksum)は南アラビアに介入し始めた。アクスム王ガダラ(Gadarat or DDRT)はその息子の指揮下に西岸からヒムヤル王国の首都ザファール(Zafar or Thifar)を占領する為に軍を派遣し、同様にシバ王国の同盟国としてのハドラマウト王国に対しても南岸から軍を派遣した。結局、ハドラマウト王国は西暦300年頃に南アラビア王国群を併合しつつあったヒムヤル国王シャッンマル ユハリシュ(Shammar Yuhar'sh)によって征服された。

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2.6 アウサーン王国(Awsan)(紀元前800年から紀元前500年)

 

現在のイエメン(Yemen)である南アラビアにあった古代王国アウサーン(Awsan)は涸れ谷マールカ(Markha)の中に首都ハガール ヤヒール(Hagar Yahirr)があり、涸れ谷バイハン(Wadi Bayhan)の南へと広がっていた。この地方ではハガール アスファル(Hagar Asfal)と呼ばれている古代都市の丘状遺跡(tell)あるいは人口的な丘によって今でもその場所は分かる。かつてアウサーンは南アラビアで最も重要な小さな王国であった。シバの文章(Sabaean text)によれば、この都市はシバ(Saba)の王(king)兼ムカリブ(mukarrib)カラビル ワタール(Karab'il Watar)によって紀元前7世紀に破壊されたらしい。

 

この都市国家は紀元前2世紀末に復活し、1世紀の初めまで続いていたと思われた。約16万平方メートルが壁で囲まれ、焼かれた煉瓦で作られた建物の基礎が注目に値する。洪水は毎年の春と夏に起き、一時的に畑に溢れ、軽いシルト(silt)を残して行く。アウサーンでの耕作はこの洪水に頼っていたので、シルトが風で風化されると古代の形の畑や溝が現れる。

 

ハガール ヤヒール(Hagar Yahirr)はヘレニズム文明(Hellenistic culture)の影響を受け、日干し煉瓦の住居に囲まれた寺院や宮殿を持ち、駱駝隊商用の市場(souq)や宿(caravanserai)を持つ南アラビアの例外的な大きな都市の中心であった。この時代の王の1人はイエメン人の支配者で唯一神聖の栄誉を受けており、その残された小さな彫像はその前任者達がアラビアの服装をしているのと対称的にギリシアの服装をしている。カタバーン(Qataban)文字で刻まれたアウサーン王国(Awsan)の碑文もある。

 

ハガール ヤヒール(Hagar Yahirr)は他の小さな王国の首都同様に大きな涸れ谷の入口にあった。マーインは(Ma'in)は涸れ谷ジョウフ(Jawf)マーリブ(Ma'rib)は涸れ谷 ダーナ(Dhana)、ティミナ(Timna)は涸れ谷 バイハン(Bayhan)ハガール ヤヒール(Hagar Yahirr)は涸れ谷 マールカ(Markha)シャブワ(Shabwah)は涸れ谷 イルマ(Irma)である。

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2.7 カタバーン王国(Qataban)(紀元前4世紀から西暦200年)

 

カタバーン王国(Qataban)はバイハン渓谷(Baihan Valley)に栄えたイエメンの古代王国のひとつであり、紀元前1000年期後半における最も代表的南アラビア古代王国であった。他の南アラビアの王国と同じ様に祭壇(atlar)で炊かれる乳香(frankincense)没薬(myrrh or myrrha)の交易で大きな富を得ていた。カタバーン王国(Qataban)の首都はティムナ(Timna)であり、ハドラマウト王国(Hadhramawt)、シバ王国(Sheba)およびマーイン(Ma'in)王国等他の南アラビア古代王国を通る交易路に位置していた。カタバーン王国の守護神は叔父を意味するアンム(Amm)であった為、その民は自らアンムの子供達(Children of Amm)と名乗っていた。この王国は2世紀の後半にはハドラマウト王国によって属領化されてしまった。

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2.8 マーイン王国(Ma'in)(紀元前8世紀から紀元前1世紀)

 

マーイン人(Minaean people)はギリシアの天文・地理学者エラトステネス(Eratosthenes276 - 194. B.C.)によって述べられているセム族系の古代イエメン4部族の1つであり、その他の3部族はシバ人(Sabaeans)、ハドラマウト人(Hadramites)およびタバーン人(Qatabanians)であった。紀元前1千年期にこれら4部族はそれぞれ古代イエメンに地方王国を形成していた。マーイン王国(Minaeans)は北西で涸れ谷ジョウフ(Wadi al Jawf)の中に、シバ王国(Sabaeans)はその南東に、カタバーン王国(Qatabanians)はシバ王国の南東に、ハドラマウト王国はその東に位置していた。マーイン王国(Minaeans)も同時代の他のアラビアやイエメンの王国同様に非常に大きな利益のある香辛料交易、特に乳香(frankincense)および没薬(myrrh)の交易に従事していた。

 

英語への転写にはthe sate of ma'eenMaeenも使われているマーイン国(Ma'in)はマーイン人(Minaean)で構成され、その王国は紀元前4世紀から紀元前1世紀の間に最も栄えた。マーイン(Ma'in)王国の首都は中世アラビアの地理学者にはサイハド沙漠(Sayhad)と呼ばれ、現在ではラムラト サバタイン(Ramlat al-Sab'atayn)と呼ばれている沙漠回廊(the strip of desert)の西の端で、涸れ谷ジョウフ(Wadi al-Jawf)の東端にあるカールナウ(Karna, Qarnawu or Qarnaw)であり、マーイン(Ma'in)王国のもう一つの著名な都市としてはバラケッシュ(Baraqish)として知られるヤシル(Yathill)があった。

 

(注)カールナ(Karna or Qarnaw)は現在のサダ(Sadah)とする説があるが、「カールナ(Karna or Qarnaw)がラムラト サバタイン(Ramlat al-Sab'atayn)と呼ばれている沙漠回廊(the strip of desert)の西の端で、涸れ谷ジョウフ(Wadi al-Jawf)の東端だとすればサダ(Sadah)では位置的に少し北により過ぎている」と私は思う。但し、バラケッシュ(Baraqish)も含め、何れも涸れ谷ジョウフ(Wadi Jawf)沿いあるのでその可能性は十分にある。

 

マーイン王国(Minaeans)は涸れ谷マザブ(Wadi Madhab)に沿って支配下の殆どの都市が並ぶイエメン北西部に中心があった。マーイン(Minaic)の碑文はマーイン王国から遠く離れたサウジアラビア北西部のウラ(Al 'Ula)(マダイン サーレ)やエジプトのデロス島(Island of Delos)でも発見されている。紀元前2世紀後半にマーイン王国(Ma'in)シバ王国(Sabaean Kingdom)に敗れ、滅びた紀元前1世紀頃が第一次南アラビア王国群の最初の終焉であり、マーイン語(Minaic language)は西暦100年頃に絶えた。

 

() 涸れ谷マザブ(Wadi Madhab)は涸れ谷ジョウフ(Wadi Jawf)の中流部。

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2.9 ヒムヤル王国(Himyarite) (紀元前2世紀から西暦520年)

 

ヒムヤル王国(Himayarite)は紅海とアデン湾(Gulf of Aden)の両方を支配し、南西アラビアを統一した。その首都からヒムヤルの王達は軍事遠征を成功裏に行って、その支配を時々は遙か東のペルシア湾や北のアラビア沙漠(Arabian Desert)まで広げていた。

 

3世紀に南アラビアの王国同士で互いに絶え間なく争い、エチオピアのアクスム王ガダラ(Gadarat or DDRT)が南アラビアにシバ王国(Saba')と同盟して介入し始めた。ヒムヤル王国(Himayarite)の記録には「ハドラマウト王国(Hadramaut)とカタバーン王国(Qataban)もヒムヤル王国に対抗して同盟した」と述べられている。この結果、アクスム王国(Kingdom of Aksum)ヒムヤル王国の首都ザファール(Zafar or Thifar)3世紀の第1四半期に陥落させた。しかしながら、同盟は長続きせず、シバ王国のシャイール アウタール(Sha'ir Awtar)ハドラマウト王国に興味を持ち、アクスム王国と再び同盟し、西暦225年にハドラマウト王国を攻略した。ヒムヤル王国はそれからシバ王国と同盟し、新たにアクスム王国の領土(Aksumite territories)となった地域へ侵略し、アクスム王ガダラ(Gadarat or DDRT)の息子のベイガ(Beyga/Baygat or BYGT)が支配していたザファール(Zafar or Thifar)を奪還し、アクスム勢をティハマー(Thihama)まで押し返した。

 

ヒムヤル王国は今ではイッブ(Ibb)地方の小さな村に過ぎないザファール(Zafar or Thifar)を首都とし、次第にシバ王国(Sabaean kingdom)を併呑して行った。ヒムヤルは紅海岸のマウザア(Mawza'a)の港から交易を行った。ヒムヤル王デュ ヌワス(Dhu Nuwas)6世紀初めに国教をユダヤ教(Judaism)に変えた。憤激したキリスト教徒のアクスム王カレブ(Kaleb)はビザンチン帝国(Byzantine)皇帝ユスティヌス1(Justin I, 518 – 527)の奨励もあり、イエメンを侵略し、属領化した。その50年後にイエメンはペルシアに陥落した。

 

()マウザア(Mawza'a)の港はモカ(Al-Mocha)の近傍にある涸れ谷と同名であり、現在のモカ港(Al-Mocha)と考えて差し支えないと思う。

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2.9.1 ヒムヤル王国(the Kingdom of Himyar)

 

アラビア南部いたヒムヤル族(Himyarite)がイエメンに築いた古代王国で紀元前2世紀末から西暦525年まで続いた。古代にはギリシア人(Greeks)やローマ人(Romans)にホメール(Homerite Kingdom)と呼ばれたヒムヤル王国(Himyarite Kingdom or Himyar)は紀元前110年に建国された南アラビアの王国群の1つである。ヒムヤル王国は紀元前25年にシバ王国(Saba or Shiba)、西暦200年頃にカタバーン王国(Qataban)そして西暦300年頃にはハドラマウト王国(Hadramaut)と、隣り合う国々を次々と征服した。但し、シバ王国との抗争はヒムヤル王国がシバ王国を最終的に征服した西暦280年まで続いた。

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2.9.2 ヒムヤル王国の歴史

 

紀元前115年から西暦300

 

この時代にヒムヤル族(Tribe of Himyar)はシバ王国(Kingdom of Sheba)を征服し、マーリブ(Ma'rib)の変わりにレダン(Redan)を占拠した。後にレダン(Redan)はジファール(Zifar)と呼ばれた。その廃墟はヤリム(Yarim)の町に近いムダウワール山(Mudawwar Mountain)に今でも残っている。この時代に陸上交易はヒジャーズ(Hejaz)の北にあるナバテア人(Nabetean)の領土で遮られ、海上交易ではローマ帝国が卓越した。その上、自分達自身の部族間抗争の為にヒムヤルは非常に大きく打撃を受け、没落し、滅亡し始めた。この為、カハターン族(Qahtan)は結束を無くし、四散した。

 

() ジファール(Zifar)はティファール(Tifar)とも呼ばれ、ヤリム(Yarim)の南に位置する現在のイッブ(Ibb)である。

 

西暦300年からイエメンのイスラム前期まで

 

この時代には多くの動乱と混乱が見受けられた。その多さと内乱が外国への従属が信頼できると思わせ、イエメンの民に独立性を失わせた。ローマ帝国(Romans)はアデン('Aden)を征服し、アビシニア(Abyssinians)(エチオピア(Ethiopians)の旧称)がハムダン族(Hamdan)とヒムヤル族(Himyar)の部族間闘争を利用してイエメンを西暦340年に占領するのを援助した。アビシニア(Abyssinians)のイエメン占領は西暦378年まで続いた。その後、イエメンは独立を勝ち取ったが、マーリブ ダム(Ma'rib Dam)に亀裂が入り始め、それが西暦450年又は451年の大洪水を引き起こし、イエメン文化全体を崩壊させた。

 

西暦517/8年頃デュ ヌワス(Dhu Nuwas)として知られたユスフ アサール ヤサール(Yusuf Asar Yathar)はマアドカリブ ヤフール(Ma'adkarib Ya'fur)からヒムヤル王位を強奪し、最後の独立したテュッバ ヒムヤル王(Tubba Himyarite King)となった。ユダヤ教(Judaism)に改宗していたと考えられているデュ ヌワス(Dhu Nuwas)力を付けるに連れて自国内のキリスト教徒アクスム(Aksumite)の勢力に対する戦いを始め、その中で西暦523年の悪名高いナジラン(Najran)の大虐殺もおきた。クルアーン(Al Qur'an 85:4)は「冒涜されたのは溝の人々であった」とこの事件について述べている。そこでは火をかけられた大きな溝にユダヤ教に改宗するのを拒んだキリスト教徒が生きたままで放り込まれた。一方、他のエチオピア人やヒムヤルの首都ザファール(Zafar)のヒムヤル人のキリスト教徒も虐殺された。

 

ビザンチン(Byzantine)の歴史家プロコピウス(Procoplus, AD. 490 - 562)によれば「ビザンチン帝国ユスティヌス一世(Justin I, AD. 518 - 527) はペルシアとの経済戦争の一部として絹の供給を絶つ為にアクスム王国と同盟していた。ユスティヌス一世はキリスト教徒とアクスム人(Aksumites)へのデュ ヌワス(Dhu Nuwas)の迫害を知ると、同盟国で同じキリスト教国のアクスム王カレブにデュ ヌワス(Dhu Nuwas)撃つように促し、アクスム王国(Aksum)に紅海を渡る為の艦隊を提供する等の援助をした」と云う。

 

およそ西暦525年にカレブ(Kaleb)は軍隊に紅海を渡らせ、ヒムヤル王国(Himyar)に侵入し、ユダヤ教徒の王デュ ヌワスを打ち破った。デュ ヌワスはフシュ グラブ(Hush al Ghurab)の碑文によればこの戦争で殺されているが、アラブの伝説では「デュ ヌワスは馬に乗って海に沈んだ」と云う。

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2.10 アクスム王国(Aksum) (西暦520年から西暦570年)

 

カレブはヒムヤル人の総督スムヤファ アシュワ(Sumyafa' Ashwa')を置いた。アシュワは西暦525年に不満を抱いたエチオピア兵士達に支持された元奴隷のアクスムの将軍アブラハ(Abraha)に追放された。カレブは親族の指揮下に3,000人の軍隊を送ってアブラハ(Abraha)を制圧しようと試みたが、この軍隊は離反したり、指揮官を殺害したりして、その試みは2度も失敗した。

 

(注) アブラハ(Abraha)の反乱はアビシニア占領軍総司令官アリアス(Ariath)将軍に対しての争いとの説もある。( 遠い渓谷と遙かなる砂丘地帯(ナジラン)その2ナジランの歴史を参照戴きたい。

 

プロコピウス(Procoplus)は「アクスム王国について述べた西暦543年の以前の碑文によって証明される様にアブラハは自分の直接支配する領土を含めて、後にカレブの後継者アッラ アミダス(Alla Amidas)に服従した」と記録している。アブラハはその統治下の間の西暦543年ににマーリブ ダム(Marib Dam)を修復し、ペルシアおよびビザンチンからの使節を受け入れた。その一方でメッカ(Mecca)のクライシュ族(Quraysh)に対するヒジャーズ(Hejaz)への遠征時にアブラハの軍隊はカーバ(Al-Ka'bah)を取り壊そうとして失敗した。この出来事はイスラムの伝説では「象の年(Year of the Elephant)」として知られている。

 

アブラハの支配は少なくとも西暦547年までは続き、その後、ある時期まで息子のアクスム(Aksum or Yaksum)が後を継いだ。アクスムはその兄弟のマスルク(Masruq)に後継されたが、ササン朝の将軍ヴァハリズ(Vahriz)に侵略を受け、アクスム王国(Aksumite)のイエメン支配は西暦570年に終了した。

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2.11 ササン朝時代(Sassanid period) 西暦570年から西暦630

 

ペルシア王ホスロー一世(Khosrau I, AD. 531 - 579)はヴァハリズ(Vahriz)の指揮下で軍隊を送った。ヴァハリズ(Vahriz)は半分伝説上のサイフ ビン ディ ヤザン(Saif bin Dhi Yazan)がイエメンからエチオピアのアクスム人達(Aksumites)を追い出すのを援助した。南アラビアはペルシアの領土(dominion)となり、ササン朝帝国(Sassanid Empire)の勢力範囲に組み込まれた。更に西暦597/8年、南アラビアはペルシア総督(Persian satrap)の下にササン朝の1州になった。名前はペルシアの一つの州であったが、ペルシアがサイフ ビン ディ ヤザン(Saif bin Dhi Yazan)を暗殺した後ではイエメンは幾つかの自治の王国に分断されていた。

 

1州としてのササン朝への編入は皇帝ホスロー二世(Khosrau II Parviz, AD. 590 - 628)による領土拡大政策の結果であり、その目的はイエメンなどのペルシア領土の国境の確定であった。西暦628年にホスロー二世が没すると南アラビア総督バドハン(Badhan)はイスラムに改宗し、イエメンは新しい宗教を奉じ、ペルシアのイエメン支配は終わった。

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2.12 エチオピアの古代王国

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2.12.1 アクスム王国(Aksumite Emire)

 

アクスム帝国(Axumite Empire)とも云い、北東アフリカのアビシニア(Abyssinia)北部にあった印度と地中海をむすぶ重要な交易国である。アクスム王国は紀元前4世紀から台頭を始め、西暦1世紀に最盛期を迎え、西暦6世紀まで続いた。「アクスム王国は契約の箱(Ark of Covenant)が残されている土地であり、シバの女王(Queen of Sheba)の故郷である」とも云われている。

 

() 契約の箱(Ark of Covenant)とは『旧約聖書』に記されている、十戒が刻まれた石板を収めた箱のことであり、聖櫃(セイヒツ)とも呼ばれる。

 

エチオピア(Ethiopia)北部とエリトリア(Eritria)に位置するアクスム(Aksum)は印度と地中海の間の交易に深くかかわっていた。アクスム(Aksum)1世紀にペリプルス(Periplus)が著作した「エリュトゥラー海(Erythraean Sea)に「古代には世界中に輸出されていた象牙の重要な市である」と掲載されていた。ここからオウシュム(Auxumites)と呼ばれる人々の都市へは5日余りの行程である。そこにはナイル川の向こう岸の国からサイイネウマ(Cyeneum)と呼ばれる地方を通って全ての象牙が運ばれ、さらにそこからアドゥリス(Adulis)へと運ばれる。

 

ペリプルス(Periplus)は「エリュトゥラー海航海記(the Erythraean Sea)」に

 

「アクスム(Aksum)1世紀における支配者はゾスカレス(Zoscales)であり、アクスム(Aksum)以外にアドゥリス(Adulis)(マッサワー(Massawa)に近い)およびアッサブ(Assab or Avalites)2つの港を支配していた。ゾスカレス(Zoscales)はギリシア語が堪能であったと云われている。子牛を食べる人達(Calf-Eaters)の国からベルベル人(Berber)の国までの間はゾスカレス(Zoscales)の支配下にあった。ゾスカレス(Zoscales)は吝嗇であり、常にもっと多くを求めたがったが、正直でギリシア文学に精通していた。

 

沿岸航海と多くの中継港が必要とされてきた古い沿岸航路方式では、地中海岸のレヴァント(Levant)への陸路と中継する航路として、紅海はペルシア湾に準じていたが、西暦元年頃から紅海岸のアクスム王国(Kingdom of Aksum)がローマ帝国と印度の間の海洋交易輸送の大分部分を占め、利益を得るように成って来た。これはおよそ紀元前100年頃に紅海からモンスーンを利用し、エジプトからアラビア海を横断して南印度へ直接航行する航路が確立され、アクスム王国(Kingdom of Aksum)はこの新しい航路に対して理想的な場所に位置していた為である。紀元100年頃までにこの航路を利用して運搬される船荷の量は古い沿岸航路を上回り、ローマ領のエジプトからアラビア海や印度へ渡航する為に紅海を下ってくる大型船の数の多さの結果、ローマ帝国の南印度からの商品への需要は劇的増大した。

 

アドゥリス(Adulis)はまもなく象牙、乳香、金および珍獣(exotic animals)等のアフリカ物産の主要輸出港となった。この様な物産を供給する為にアクスム王国は内陸交易網を発展・拡張した。アフリカの同じ内陸地域からもっと古い交易路を持ち、競合したのは南エジプトと北スーダンに当たるヌビア地方を中心に繁栄し、それまでナイル渓谷を通じて長い間、エジプトにそれらの物産を供給してきたクシュ王国(Kingdom of Kush)であった。しかしながら、1世紀までにアクスム王国はそれ以前のクシュ王国(Kushite)の勢力範囲を支配下に治めていた」

 

と述べている。

 

ペリプルスは「エリュトゥラー海航海記」にはクシュ王国(Kushite)の勢力内で収集した象牙をクシュ王国の首都メロエ(Meroë)に運ぶかわりにアドゥリス(Adulis)港からどの様に輸出したかについて明快に述べている。2世紀および3世紀の間にアクスム王国は南紅海盆への支配を広げ続け、ナイル渓谷を完全に迂回するエジプトへの隊商路が確立された。この様にしてアクスム王国は印度洋交易航路を変えた結果としてではなく、ローマ帝国へのアフリカ物産の主要供給元となるのに成功した。

 

3世紀にアクスム王国は他の地域の中でもティハマー(Tihama)を時々支配しながら南アラビアに介入し始めた。3世紀の終わり近くになってアクスム王国はペルシア(Persia)、ローマ(Rome)および中国と共に4強の1つとして自分自身の通貨を鋳造し始め、マニ(Mani)と名付けた。アクスム王国はエザナ王(King Ezana)の治下の325年もしくは328年にキリスト教に改宗し、その硬貨に十字架の意匠を取り入れた最初の国となった。最盛期にはアクスム王国はエチオピア(Ethiopia)、エリトリア(Eritrea)、スーダン北部(northern Sudan)、南エジプト(southern Egypt)、ジブチ(Dibouti)、イエメン(Yemen)およびサウジアラビア南部(soutern Saudi Arabia)等、その支配地域は125万平方キロに及んだ。

 

アクスム王国はペルシア帝国と敵対していた時期にはビザンチン帝国と親密な同盟関係にあったが、6世紀初頭の第二次黄金時代の後におそらくイスラムの台頭でアレキサンドリア、ビザンチンおよび南ヨーロッパの主要な市場から切り離され、極東との交易にも打撃を受けて衰退し7世紀始めには貨幣の鋳造を中止していた。

7世紀以降のアクスム王国については余り知られていないが、非キリスト教徒(pagan of Jewish)の女王グディト(Gudit)の侵略によって9世紀ないし10世紀に最終的に崩壊させられた。この件については暗黒時代である為にザグウェ朝(Zagwe)が興るまでほとんど明らかではない。

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2.12.2 古代王朝ダムト(D’mt)あるいはダアモト(Da’amot)王国

 

アクスム王国は以前にはコンティ ロッシーニ(Conti Rossini)の理論とエチオピアに関する豊富な研究に基づいて南アラビアから紅海を横断して来たセム語を話すシバ人(Sabaeans)によって建国されたと考えられていたが、今ではスチュアート モンロー ヘイ(Stuart Munro-Hay)の様な原住民の学者が指摘している様に紀元前4世紀ないし紀元前5世紀にシバ人が移住し、数十年余り居住していた遥か以前の紀元前8世紀および7世紀にエチオピア(Ethiopia)北部とエリトリア(Eritria)古代王朝ダムト(D’mt)あるいはダアモト(Da’amot)王国が存在していた事を多くの学者が認めている。

 

さらに、エチオピア(Ethiopia)北部とエリトリア(Eritria)で発展した古代南セム語(ancient South Semitic language)はシバ語(Sabaean)から派生したものでは無い事は知られており、少なくとも紀元前2000年にはエチオピア(Ethiopia)とエリトリア(Eritria)でセム語が話されていたとの証拠がある。シバ語の影響は少なく、数箇所に限られており、数十年か1世紀で恐らく消滅し、ダムト王国(D’mt or Da’amot)や幾つかのアクスム王国以前の国との共生や軍事同盟のある種の通商や軍事植民を代表していたのだろう。もっと後世に混乱を招くのはシバ人の定住ではない別のシバ(Saba)と呼ばれるエチオピアの都市が古代に存在していたことである。

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2.12.3 女王グディト(Gudit)

 

クシ(Cush)系のアガウ(Agaw)族の女族長で、非キリスト教徒ないしユダヤ徒であり、グディット(Gudit)、ジュディット(Judith)、ヨディット(Yodit)とも呼ばれていた。女王グディト(Gudit)アクスム王国を滅ぼしたのは西暦950年頃にとされていが、その支配の後、アクスム王朝の流れを汲むキリスト教徒の王アンベッサ・ウディム(Anbessa Wudim)が即位してからしばらくして、アガウ族が住む地域まで進出したところで、1137年にアクスム王国が滅亡したという説もある。

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2.12.4 ザグウェ朝(Zagwe)

 

1137年もしくは1150年頃から1270年頃にエチオピア中央高地を支配した王朝でラリベラ(Lalibela)岩窟教会群を築いた王朝として知られる。初代マララ テクレ ハイマノト王(Mara Takla Haymanot)がアクスム王(Axum)デルナード (Dil Naod)を倒して成立した。ザグウェ朝の支配階層は、ラスタ地方(Lasta)のアカウ族(the Aqaw people)ないしはそれにちかいセム系のアガウ語を話す人々であったろうと考えられている。エチオピアにおけるキリスト教文化を発展させ、エジプトと中東との商業的文化的な交流を活発に行った。

 

ザグウェ朝は、エチオピアの歴史上最初の王朝であって偉大なるソロモン(Solomon or Salomon)の後継者であるアクスム王国(Kingdom of Aksum)の簒奪者という汚名を着せられ、当時ならず後世の歴史家からさえも批判されることがある。そのため、ザグウェ朝の君主たちは、自らはモーゼ(Moses)の子孫であると主張して、岩窟教会堂などの優れた建築物を建てることによって道徳的にも権威があることをアピールしようとした。

 

The Bete Giyorgis, one of the many rock-hewn churches at the holy site of Lalibela, Ethiopia Image:Bete Giyorgis Lalibela Ethiopia.jpg

The Bete Giyorgis, one of the many rock-hewn churches at the holy site of Lalibela, Ethiopia

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Bete_Giyorgis_Lalibela_Ethiopia.jpg

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2.13 シバーム(Shibam)

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2.13.1 シバーム(Shibam、シバの女王の都)への疑問と訂正

 

イエメンの古代王朝を調べている内にシバームに関して、その位置から以前に下記2ヶ所の原注で「シバームをシバの都」と記述した事に私自身疑問を持ち始めた。

 

a. 「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)への訪問(サウジアラビア王国南西地方)その3空白地帯(the Empty Quarter)に至る内陸地域」の前書きの原注022. シバム(Shibam、シバの女王の都) で記述した「涸れ谷ハドラマウトは例外的に肥沃であり、古代から人々が定住してきた。遠くから見ると摩天楼の様に見える高い日干し煉瓦の塔の様な家々がここの建築の最も顕著な特徴である。中でも八層以上の家々の並ぶシバンがそれを代表している」との原注。

 

b. 「遠い渓谷と遙かなる砂丘地帯(ナジラン)(サウジアラビア王国南西地方)その2 ナジランの歴史」の原注301 シバ王国(Sheba) で記述した「 現在のイエメンにあった古代王国で、紀元前715年から西暦570のマリーブダム崩壊まで続いた。シバの都シバム(Shibam)があった涸れ谷ハドラマウトは例外的に肥沃であり、古代から人々が定住してきた。遠くから見ると摩天楼の様に見える高い日干し煉瓦の塔の様な家々がここの建築の最も顕著な特徴である。中でも八層以上の家々の並ぶシバムがそれを代表している。「シバの女王が紀元前10世紀にソロモン大王と会見した」とか「シバはアフリカのアビシニア(Abyssinia)にあった」とか伝説も含めて諸説あり、シバの女王が実在したかどうかについては疑問を持つ学者も多い」との原注。

 

出典の無い内容を私は記述してない筈であり、「シバの都がシバーム(Shibam)であった」と明確に述べた当時の資料を探してみたがハッキリとはしなかった。サナアの北西約50kmにも同名の町(Shibam)があり、その350m崖上の町コーカバン(Kawkaban)に同族が住み、双子の様な関係にある。但し、このシバームはシバの都ではなかった様だ。今回調べた資料に基づき、私としては「実在した古代シバ王国の首都はマーリブである」との結論を得たので、「古代シバ王国の都シバーム(Shibam)」と云う表現はここでお詫びの上、訂正する。

 

但し、一部には「シバの女王のシバは、乳香の貿易で栄えたオアシス都市シバームのことらしい」との記述がある上、伝説上のシバの女王は実在したかも疑問であるし、その人物の特定についても諸説あるので「古代イエメン王国群の豊かさの源泉で乳香交易の中心となったシバームをシバの女王の都である」としても「間違いである」とは言えない。

 

なお、シバームに関連する資料をご参考の為に幾つかここに紹介する。私は1987年に最初にナジランを訪れ、「オクデュド(Ukhdud)の遺跡をソロモンとシバが会った場所」と紹介され、その事の真偽より古代の浪漫にあこがれを持った。その後も何度かナジランを訪れ、この紹介が一つの寓話に過ぎないにせよ、シバの女王の国は直ぐナジランの南にある様な親しみを感じていた。当時に参考にした「フィルビーのもっとも長い旅行(Into the Highlands)」は私にとってはナジランとシバの女王の国との架け橋となったので少し詳しく記述した。

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2.13.2 「フィルビーのもっとも長い旅行(Into the Highlands)

 

January/February 1974 print edition of Saudi Aramco World.

エリザベス モンロー著 (Written by Elizabeth Monroe)

 

1934年、イブン サウド(Ibn Sa'ud)は南の隣国イエメンのイマームに短期間で勝利し、論争していた国境地帯を併合した。イブン サウドは「国境の印は付けてはあるが自分としては地図が必要である」とフィルビーにその作製を依頼した。フィルビーはこれまでに旅行した事の無いアシール州(Asir province)やナジラン渓谷(Najran valley)を王の費用と案内人付きで往復できるこの仕事を喜んで引き受けた。

 

1935年にフリーヤ スターク女史(Freya Stark)がハドラマウト(Hadhramaut)へ旅行し、「乳香の道」をさらに西へと辿ろうとしていたが、病気の為に涸れ谷の外の最初の関所(toll-point)であるシャブワ(Shabwa)より先に進めなかった。英国王立地理学会でのスターク女史のその旅行に関する講演の司会を務めたパーシー コックス卿(Sir Percy Cox)は「ハドラマウトからナジラン(Najran)までの『乳香の道』はアラビア半島で唯一完全に未踏の部分である」との見解を述べていた。

 

フィルビーにとってシャブワは「シバ王国の浪漫に溢れる土地」であり、コックス卿の見解はフィルビーの探検意欲を一層そそった。フィルビーは「もし、さい先が良ければナジランからシャブワまで一気に進み、、この未踏部分を全部踏破出来る」と考えていた。

 

「乳香の道」の未踏部分を踏破する計画については誰にも何も言わない儘で19365月から19372月までの期間、距離或いは標高等、どれを較べてもフィルビー自身のアラビアでのもっとも長くなった旅に出発した。

 

(注)この旅の内、ナジドの外れのトルバー(Turba)からビシャー(Bisha)を抜け、アシール州都アブハに着いた後、大きく涸れ谷タスリス(Tathlith)の上流部を迂回し、フィルビーが北アラビアの物と思われていた文字を南アラビアで発見してナジラン(Najira)に到着した事は上記の「その3空白地帯(the Empty Quarter)に至る内陸地域」で紹介したので割愛する。又、旅の後半もシバームのある涸れ谷ハドラマウトから内容が離れるので別の機会に紹介する事としたい。

 

タスリスの上流部から南に向かう不毛の荒野を踏破した後のフィルビーにとって涸れ谷ナジラン(Wadi Najrab)は緑があり、人が住み、裕福で天国の様に思えた。「乳香の道」のアラビア半島で唯一完全な未踏の部分の踏破と云うフィルビーの個人的な計画の為には幸運な事にナジラン アミールのイブラヒム ナシュミ(Inrahim al Nashmi)は教育のある男でカシム(Qasim)出身の商人の出であり、驚くほど農業、防衛やその古代の遺跡などこの谷の全てに興味を持っていた。ナシュミはフィルビーを伴ってこの集落をまわり、南アラビアがユダヤ教徒の王に統治されていた6世紀の名残である小さなユダヤ教徒の村オクデュド(Ukhdud)も紹介した。フィルビーは廃墟となった古代都市の偉大さを証明する為に訪れ、主要な遺物を調べた。

 

ナジランの軍隊駐屯地はイブン サウド王と毎日無線交信しており、フィルビーはイブン サウドに自分の計画を禁止されるのを恐れた。この為、ナシュミに自分の目的とするシャブワ(Shabwa)行きを切り出すのをためらっていたが、フィルビーはある日ナシュミにその旨を告げた。ナシュミは何も言わず、全ての計画についてフィルビーを助成し、荷役用の駱駝を貸し、サウジ軍の護衛の小部隊を付ける約束をしてくれた。ただ、ナジランにガソリンが無くなっていたのが出発への唯一の障害であった。何もすることは無かったが往復に使う自分の車と小型貨物車(pickup)の二台に必要で十分な燃料を補給する為にフィルビーは石油輸送車がメッカから戻るまで1ヶ月待っていた。

 

7月末にアミール ナシュミがナジランから出発させた1隊はフィルビーの運転手と召使い、10数人のナジランの駱駝使い、ナジドからの8名のサウジ兵から構成されていた。ここから更に南に行くには道案内人(rafiq)が居ない為にフィルビーは穏やかではなかった。アミール ナシュミが「水井戸毎に道案内人に会える用に人の鎖を用意した」と言った通り、全ての道案内人が約束通りに現れた。そして道には道しるべが付けられていたのにもフィルビーは驚かされていた。この道はフィルビーが期待していた様にルブアルカリ(Rub' al Khali)の外れを横断していは居なかったがルブアルカリを東へとイエメンの前衛の丘陵地帯に沿っていた。この道(route)は何世代にも渡って使われて居り、各井戸の近くには湧き出し量をドットで示したバケツの様な印が岩に刻まれていた。一行が山並みに背を向け、沙漠を横断して長い道のりを東に向けた時にかつては巡礼路を示していた石塚(cairn)が現れた。

 

この様に導かれて一行は丘陵と涸れることの無い井戸群のあるアブル(al Abr)に到着した。そこでは数千等のヤギが水を飲んでおり、牧童は一行に上等な肉料理を提供してくれた。部下達が寝ている間にフィルビーは井戸の後の丘に登り、そこから自分の大望を奮い立たせる景色を眺めた。おびただしい数の崖と岬のような突きだしが自分の立っている場所から南東に広がっており、これらが涸れ谷ハドラマウト(Wadi Hadhramaut)の北壁であるのが遠くからでも見て取れた。

 

シャブワ(Shabwa)がフィルビーの最初のゴールであり、その南の景色はもっとやっかいそうであった。フィルビーの足元にはサバタイン砂丘帯(Ramlat Sabatain or Ramlat as Sab’atayn)と呼ばれる偉大な砂丘地帯が横たわっていた。それは気をそそらない無人地帯で、そこを越えるのにフィルビーは記憶できるもっとも不快な一晩を過ごした。砂の荒野では風は吹きすさび、砂塵の悪魔が一行のまわりを踊り狂い、舞い上がる砂で食事も出来ず、車は朝までに半分埋まっていた。一行はやみくもな力でそこを脱出し、前をゆっくり進んでいたフィルビー自身の車は午後までにシャブワ(Shabwa)に到着した。この場所はこの困難を辛うじて報いている程、陰気くさかった。

 

崩れ落ちた壁や寺院や防壁のボロボロの残骸の中にむさくるしく、寡黙でライフル銃をもって苛立つ村人達が一列に立っていた。フィルビーの車にはたった7人の男しかおらず、「自分が疑いようもなく不安であった」とフィルビーは告白した。一列に並んだ男達はフィルビーが無防備で彼等に挨拶する為に前に進むまで動かなかった。それからリーダーが無言でフィルビーの背を仲間の方に押した。沈黙は続き、一行の列は動きだし、村人達の前を通過した。村人が驚いているうちに一行は村人達の前を通り過ぎた。

 

シャブワの村人達はフィルビーに「シャブワ(Shabwa)は全ての隣人達と敵対して暮らしている」と告げた。誰も彼等を訪問したり、支援を要請したりはしてこなかった。サウジ兵達を一方の目で見ながら村人達は「北では平和はどの様に保たれているのか?」と質問をした。フィルビーは「王は偉大である」と保証したが、「自分は私的な旅行者である」と言い、何も約束はしなかった。

 

8月上旬の三日間、フィルビーはこれらの廃墟を調べ、瓦礫を少し運んできた。フィルビーは村人達の唯一の財産で、アラビアの歴史家達は「この鉱山が中世に操業されていた」と記述している塩の鉱山も訪れた。それから、それ以上進むのを拒んだ駱駝使い達とフィルビーの財産であるガラクタを警護するための2人のサウジ兵士を残して、サバタイン砂丘帯(Ramlat Sabatain)の南に沿って進み、涸れ谷ハドラマウト(Wadi Hadhramaut)に向かった。

 

涸れ谷ハドラマウトに着くとフィルビーの苦しい旅は休日となった。ヴァンデル メーレン(Van der Meulen)、フィルビーの仲間のフォン ウィスマン(Von Wissman)およびもっと最近ではフリーヤ スターク女史(Freya Stark)等を含む先駆者達はこの涸れ谷の写真を撮り、地図を作製し、それを著述し、一般読者向けの本にしていた。今のフィルビーにとっては涸れ谷ハドラマウトを見る事だけで十分であった。

 

1936年に英国は南イエメンの保護領化を宣言したけれども、まだここは鎮圧されて居らず、その社会は古代と近代とが奇妙に混ざりあっていた。幾つかの地方は血みどろの敵意で荒れており、ライフルの銃声が家と家の間で鳴り響いていた。他の場所では大きな町が繁栄し、家々は小さな摩天楼であり、その中でも立派な家はジャワ(In Java)で財産をなした地方の商人達によって建てられていた。

 

フィルビーは何回か村人達を正式に訪問をしていると家族から家族へと紹介され、蔵書、マット付きのベッド、氷水やジャワ風のライストターフ(rijstafel)等豪華さを満喫できた。フィルビーの話の多様性と娯楽性が役に立ち、何処でも誰からも歓迎された。質問を受けるとフィルビーは常に自分がイブン サウドの密使であるのを否定したがサウジアラビアでの出来事についてのフィルビーの称賛はその反対を示しており、フィルビーを護衛していた6人の武装小部隊がそれを証明していると考えられた。フィルビーは村人達に対し、「自分の主目的は巡礼達が車によっての安全が確保できるとの証拠を揃える事である」と話していたが、多くの点で村人達を当惑させており、村人達はアデン保護領の英国将校に「フィルビーはスパイだと考えていた」と報告している。

 

(注)ライストターフ(rijstafel)とはインドネシア起源で肉や野菜など多くの添え料理のつく米料理。

 

フィルビーは村人達との同席を楽しんでいたが2つの失望する発見があった。1つは村人の1人が一年前にそこを訪れたドイツ人写真家ハンス ヘルフリツ(Hans Helfritz)の本を見せ、フィルビーはシャブワ(Shabwa)で出し抜かれていたのを知った。但し、ヘルフリツとその駱駝が僅か半日の間にそこから追い払われた事を思い、フィルビーは自分自身を慰めた。

 

もう一つはシバーム(Shibam)でフィルビーはノーマン ピアーン(Norman Pearn)と云う探検家仲間に出会い、自分の競合相手であるのが分かった。ピアーンは全ての必要な許可書とアデン(Aden)からの紹介を携えて、古代の「乳香の道」にあるシャブワ(Shabwa)とその他の廃墟に急いでいた。何週間もフィルビーはピアーンが英国紙で自分を出し抜かないようにとの懸念で悩まされた。しかしながら、アラビア語が話せず、沙漠の真ん中でその道案内人達(guides)に見捨てられ、涸れ谷ハドラマウトへ戻る単独の歩きでの渇きで殆ど死にかけていたピアーンが実際にシャブワに辿り着く事はなかった。

 

フィルビーは涸れ谷ハドラマウトの一番東のタリム(Tarim)から引き返し、シャブワ(Shabwa)には8月末以前に帰着し、フィルビーは「乳香の道」の未踏部分の踏破を成し遂げた。


(注)涸れ谷ハドラマウト(Wadi Hadhramaut)のタリム(Tarim)から東南東へ海岸まで続く下流域は涸れ谷マシラー(Wadi al Masilah)と呼ばれ、区別される事もある。

 

そこからナジランに直行し、王の為の国境地図製作に取り掛かる積もりであった。フィルビーは部下達に巡礼の季節に間に合う様にメッカに戻る事を保証していたので地図製作は2月までには終わらせなければ成らなかった。しかしながら不運にも2台の車が向きを変えて、西を目指した時に小型貨物車(pickup)が人員とハドラマウトの発掘品で過積載となり、最初は遅れ、それから後輪の車軸が壊れてしまった。

 

一台の車だけで沙漠ルートを戻るのは故障した場合の対応を考えると不可能であった。ナジランまで駱駝の重い足取りで帰るか、一番近い電報局のある海岸町のムカッラ(Mukalla)まで行き、アデンに打電して新しい車軸を注文するしかなかった。この案の大きな障害はサウジのベドウインを知らない町に残し、彼等に不安を与え、困った境遇に追いやる事であった。フィルビーはこの懸念を払いのけ、運転手と召使い1人だけを伴って自分の車を海岸へと向けた。

 

海岸まで車で辿り着いたらフィルビーはアラビアの北から南まで車で踏破した最初のヨーロッパ人となったけれど、フィルビーは熱帯樹が一杯に繁った岩だらけの渓谷を通って徒歩で10マイル歩き、最後の数マイルは車を雇ったのでこの記録達成は不幸にして完結しなかった。

 

8月末日にムカッラ(Mukalla)に到着しアデンへ予備品を電報で注文した。その返事として「予備品は最初の船荷で到着するだろうが、許可無く英国領内で外国政府の護衛を伴って何をしているのか?」との駐在代表代行のレーク大佐(Colinel M.C. Lake)からの電報にフィルビーは衝撃を受けた。さらに一週間後にはレーク大佐は明らかにロンドンに報告し、印度と相談した上で「自分は国王陛下の政府から貴殿にアデン保護領からサウジの武装部隊を伴って撤退する様に要求せよとの指示を受けている」と断固たる電報を打って来た。

 

英国がフィルビーを歓迎してない事を町民達が知ると商人達はフィルビーの為替手形の現金化を拒否した。車軸が到着するまではフィルビーはレークの電報に謝意を示しながら出来るだけ鄭重に答え、実際には怒りを募らせながら待っていた。やっと予備品は到着したが、「直ちにこの場所を離れ、英国保護領でそれ以上冒険を続けない」様にとの警告付きであった。

 

レーク大佐は自分の権威が愚弄されたばかりでは無く、印度の政府の役人で規則を知っている男に嘲りを受けて、当然のことながら激怒していた。「イブン サウドの言い分を助成し、英帝国を攻撃する異名を持つ男から嘲りを受けた」との電報はアデン、印度、ロンドンそしてサウジアラビアに流れた。それは英国との他の交渉をしていた最中のイブン サウドにはばつの悪い思いをさせた。

 

この大騒ぎの外にあり、それには気づかなかったフィルビーは車軸を取り付け、直ちに涸れ谷ハドラマイウト(Hadhramaut)を後にした。フィルビーはシャブワ(Shabwa)に戻り、沙漠の悪評が自分の訪問のニュースとして広まり、南のシャイク達が自分を招待して来たのを知った時に、あえて招待を受ける様に決めた程、レーク大佐(Lake)に対し苛立たっていた。

 

フィルビーの怒りの中で、以前よりも、もっと自由にイブン サウドの徳について話しており、また、来年の巡礼の際の免税についても約束していた。この故意での南への侵入はフィルビーの違反では最悪であった。しかし、フィルビーは「シャブワ(Shabwa)から10マイルの地点あるウクラ岩群(Uqla rocks)で、それまで知られて居なかった古代シャブワの宮廷儀式を祝う正規の古代碑文を発見する」と云う自分の経歴の中で大きな功績を成し遂げ、非常に満足した。その後、フィルビーは自分の一行と合流し、ナジランに向けて出発した。

 

帰路は既に馴染みになった道しるべ(landmarks)のあるルートは通らず経路を変え、地図に加える為にほとんど南と西に延びるイエメンの山々の近くを旅行した。フィルビーが山々の側面に沿って北へと向きを変えた時にトーチカの様な砦、墓、神聖なやり方であるとフィルビーが理解した山頂を被う舗装などの廃墟を被った山稜の間を通り抜けた。「これらは首都がマーリブ(Marib)にあった偉大なシバ文化'Sabaean civilisation)に属しているに違いない」とフィルビーは推測した。

 

イエメンのイマームは全ての訪問者を禁止していたし、小型貨物車(pickup)は今、遂に壊れてしまい、フィルビーの車も駱駝達も状態が悪かった。それでも悪魔はフィルビーにマーリブ(Marib)を見に行くのを試すように促した。部下達に自分がガゼルを狩猟している間、休息する様に告げ、部下達をマスダ(Masuda)と呼ばれる井戸に残し、口が堅く信頼できる考えた2人を伴い、心許ない車を駆ってイエメンに入って行った。

 

一行は幸運にも誰にも会わず、車も無事であった。一行がかつては肥沃であった平原に残るマーリブの廃墟を見下ろせる山稜に着くとフィルビーはもっと近くの場所からそれを調査したいと願いながらそこに2時間座っていた。それでも部下達を安心させる為に用心深さが先に立ち、眺めるだけで自分自身を満足させ、それからあわててマスダ(Masuda)にもどり、ナジランに帰って行った。

 

「沙漠は鳴り響く箱である」と誰かがいったが、イエメンのイマームはフィルビーの侵犯を探りだし、今回はイエメンからもう一度、怒りの電報が外国事務所から外国事務所へと流された。国王イブン サウド(Ibn Sa'ud)に対してフィルビーは自分の国境地図の卓抜さによって自分の不行跡に対する償いを行ったが、英国とイマームはその様な償いを得て居らず、両社ともフィルビーの名前に対して要注意人物(black mark)のレッテルを付けた。

 

(注)エリザベス モンロー(Elizabeth Monroe) 「アラビアのフィルビー(Philby of Arabia)」を著述したオックスフォード(Oxford)の聖アントニー大学(St. Antony's College)の名誉教授でエコノミスト(the Economist)の前駐在員であり、中東に関し幾つかの本を著述している。

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2.13.3 その他のシバームに関する資料

 

「未知の国アシール(Undiscovered Asir)

 

サーリィ モジャー(Thierry Mauger)

 

アシール(Asir)のその後の歴史は神秘の殻に覆われている。しかしながら、紀元前の終わり頃の世紀には地中海でのギリシア・ローマの台頭と同時期にイエメン(Yemen)のラムラト サバタイン(the Ramlat Sab'atayn)のサイハド沙漠(Sayhad)に流れ込む涸れ谷の農民は巨大な都市国家群を基盤とする文明を築いた。これらの国家の統治者達は巨大な灌漑事業の工事を統轄した。その中で最も有名なのがサバ(Saba or Sheba)の首都マーリブ(Marib)における巨大ダムの建設であった。これらの都市国家は印度洋を越えて当時地中海で大きな需要のあった香料や高級な商品を交易し富裕に成った。この都市群の繁栄がローマにこの地方をアラビアのフィーリックス(Felix)すなはち「幸福なアラビア」と呼ばせた。

 

NHK探検ロマン世界遺産シバーム」

 

2005915日に放送

 

   20059月にNHKはイエメンにある3つの世界遺産「シバームの旧城壁都市」「サナア旧市街」「古都ザビード」の1つとしてシバームの紹介をテレビ放映している。このテレビ放映の直ぐ後に放送大学でもたまたま都市の構造の例として取り上げられた。(サナアの紹介も2008517日に放映したがザビードは遺跡としては危機的であり、世界遺産から取り消される恐れもある。)

 

   古代ローマ帝国などでも珍重され、悪霊を払う神秘の力があると信じられている「乳香」の交易の拠点となったのがシバームであった。高価な乳香の交易を行っていたシバームは、他部族によって攻撃・略奪を頻繁に受けた。この為、街の周囲に城壁を巡らし、建物の下層階には窓は作らず、上層階には隣家とつながる隠し扉がある要塞化しているイエメンの都市の中でも特にその特徴が顕著であり、数百年に渡って受け継がれ今日に残っている。地上30メートル、8階建てにもなる泥で作った高層住宅が500棟近くもひしめき合うシバームは「沙漠のマンハッタン」とも呼ばれている。

 

「シバーム(Shibam) (wikipedia)」 

http://en.wikipedia.org/wiki/Shibam

 

   シバームは何度かハドラマウト王国(Hadramawat Kingdom)の首都であった。シバームの住宅は全て日干し煉瓦で作られ、その内の500戸が約5階から9階建ての搭状の住宅である。これらの搭状建物には住人をベドイン(Bedouin)の攻撃から守る為の建築技術が施されており、この搭状建物群がある為に、シバームは「世界で一番古い高層建築街」とか「沙漠のマンハッタンMnhattan)」等と呼ばれている。2,000年以上の歴史を持つシバームの殆どの家は16世紀以降に建築され、その後、何度も建て替えられて来ているが、シバームの特徴的な高層建築様式は保たれており、UNESCOの世界遺産に登録されている。

 

 

「沙漠のマンハッタンを守れ(Saving the Manhattan of the Desert)

 

The Middle East magazine, 11 Mai 1983

http://www.chris-kutschera.com/A/Shibam.htm

   涸れ谷ハドラマウトの中にあるシバーム(Shibam)500棟の家を密集させ砦の様に作っており、その独特の建築様式は石の土台の上に泥で出来た6階建てで、高層建築の様に見え、「沙漠のマンハッタン」の異名が付けられている ・・・

 

Hadhramaut探検記(The Southern Gates of Arabia,1936)

 

デイム マデリン フリーヤ スターク著

(Dame Freya Madeline Stark, 1893 - 1993)

 

 

   1934年に42歳のフリーヤ スタークと云う名の有名な英国の女性旅行家が紅海航路を南下し、アラビア半島の南西端であるアデン(Aden)に降り立った。スターク女史はアデン保護領(British governed Protectorate of Aden)に伝説の長く失われた都市シャブワ(Shabwa)を捜し当て、詳細に記録した最初の西洋人となろうとの目的を持っていた。

 

現在はイエメン領の涸れ谷ハドラマウト(Hadhramaut)奥地にあるシャブワは古代には乳香(frankinecense)の産地として有名であった。それ以来、2000年間に渡って殆ど訪れる者もなかったし、又特に禁制の場所とも考えられていた。創世記(聖書の第一書)(Genesisi)にそこは「死の修道禁域(enclosure of death)」と述べられており、ローマの地質学者プリニウス(Pliny)は「そこには60の偉大な寺院とはかりしれない富みがあった」と報告している。それだけでもイランの悪地(badlands)を越える困難な旅を終えた後、休む間も無く、冒険旅行を続けているスターク女史に取っては十分満足であった。

 

この時代に取り残された辺境の海岸都市ムカッラ(Mukalla)のスルタンの迎賓館にかなり長く滞在した後、スターク女史はもっとも忘れがたい冒険に出発し、アラビアで一番富裕であったハドラマウト谷の「古代乳香の道(Ancient Farnkinœnseroutes)」を辿った。驢馬と見つけられるだけの輸送手段でスターク女史はハドラマウトを登っていった。「道は高く開けていたが、谷は次第に狭く成り、我々を崖で囲むまでになった。崖の鬱蒼としげった緑は絵画でしか普通は見られない様な浪漫溢れる景観を作り出していた」とスターク女史は著述している。

 

スターク女史は食事で元気を無くし、病気でふらふらしてながら手綱を握り、町から町へと驢馬に乗って超人的に旅をしていたが、交戦中の宗教的徒党と山賊の一団が起こした出来事で蹂躙された地域から避難しなければならなかった。この様な状況の為、この探検旅行は急に中断され、スターク女史がシャブワに到着する事は無かった。

 

   病気であってもスターク女史はハドラマウトの町々や野営地を抜けての旅の間に遭遇した地勢、植物、建築および風習やハーレム(harems)、バザール(bazzars)およびベドインの野営テント等、又シェイク(sheikhs)とスルタン(sultans)と戦争の惨事と勝利等をぞんざいではあるが、終始変わらずノートにに走り書きしていた。その記録を留める為に著述された「アラビアの南の門(Southern Gates of Arabias)」は生き生きとした旅行文学の傑作として残った。

 

(注)デイム マデリン フリーヤ スターク(Dame Freya Madeline Stark, 1893 - 1993) 1983131日パリ生まれのアラビア語やトルコ語が流暢な英国の探検家・著述家で、ペルシアの旅をつづった「The Valleys of the Assassins (1934)」、Hadhramaut探検記「The Southern Gates of Arabia (1936)」等24冊の旅行記を著作している。第一次世界大戦ではイタリアで看護士を勤め、第二次世界大戦では中東・北米で宣伝工作にたずさわった。1993年に100歳で亡くなり、ニューヨークタイムに追悼記事が掲載された。

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3. ギリシア/ローマ時代のジッダに関する記述

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3.1 文献

 

古代のジッダはせいぜい漁民の部落だったのでギリシア/ローマ時代の地理学者、歴史家や航海者達は殆ど興味を示さず、誰もその様に取るに足らない土地に特別な記述を残してはいない。

 

プリニウス(通称Elder Pliny)A.D. 77年に著述した博物誌(Histria Naturalis VI 28)に「それからここでは双子の海が陸に洪水の様に氾濫する。この海はローマ人に赤い海と呼ばれ、ギリシア人にはエリュトラ王に因んでエリュトゥラー(Erythraean)と呼ばれ、又、他の者達からはその様な色は砂や大地による太陽光の反射、或いは水自体の或る特性から生まれるとの信憑性に基づいて紅海と呼ばれた」と述べている。この様に紅海(the Red Sea)のアラビア湾岸に関する幾らかの記録された歴史的出来事や幾つかの一般的な記述はある。

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3.1.1 ヘロドトス(Herodotus) 著「歴史」

 

紀元前5世紀の中頃に著述活動をしていたヘロドトス(Herodotus)(c. 484 before - 420 B.C.)はその著書「歴史」のIV, 44に「キャルヤンダ(Caryanda)出身のギリシア人シラックス(Scylax)は紀元前510年頃にペルシア王ハイスタスペス(Hystaspes)の命令でインダス川(the Indus river)の河口から紅海の奥までのアジア大陸の海岸を偵察した」と述べている。30ヶ月を要し、確実に紅海のアラビア側の湾岸を調べた。この実地踏査には今日のジッダ地区全体に対して何の詳細も無いが、簡単ではあるにせよヘロドトスによって記録された唯一の報告である。

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3.1.2 テオフラストス(Theophrastus)「植物学の祖 (a History of Plants)

 

アリストテレス(Aristotle)の弟子で「植物学の祖(a History of Plants)」の著者である植物学者のテオフラストス(Theophrastus)は香料の灌木の分布を記述する中で南アラビアについての信頼できる情報を残した最初の人である。但し、その観察はこの半島のある部分に限られている。

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3.1.3 アガサルチデス(Agatharchides) 「エリュトゥラー海に関する論文(A Treatise on the Erythraean Sea)

 

文法学者で、地理学者で歴史著述の作家であるクニドス(Cnidos)のアガサルチデス(Agatharchides)(およそ紀元前170 -100年)もエリュトゥラー海(the Erythraean Sea)に関する論文を5冊の本にまとめている。水辺と接するこの地方についてのまじめで一般的に信頼できる記述は後世の作家達の著述から見つかった第1巻と第5巻からの広範囲な抜粋を除いて不幸にも全て失われてしまっている。

 

アガサルチデスは年老いてアレクサンドリア(Alexandria)で若い国王プトレマイオス ソーテール二世(Ptolemaeus Soter II)の家庭教師を務めた。従って、アガサルチデスはエリュトゥラー海の特徴とその海岸地帯に関する信頼できる情報を簡単に手に入れる事が出来た。昔はインド洋(the Indian Ocean)およびそれに付属する紅海(the Red Sea) (Sinus Arabicus)およびペルシア湾(the Persian Gulf)(Sinus Persicus)はこのエリュトゥラー海と云う名で知られて居た。

 

エリトロス(Erythros)はギリシア語で赤を意味し、現在の名前は例えそれが現在では古代に集合的にエリュトゥラー海と呼ばれて居た内の僅かな部分に限られていたとしても古代から永続している。しかしながらこの名の語源と言う命題についてアガサルチデスは第I5章に「これは紅海を意味して居らず、伝説的なペルシアの王国のエリュトラ王(King Erythras)を意味している」と言っている。アガサルチデスが引用している物語によればエリュトラの名前はエリュトラ王の民によって王が統治していた岸辺の海に名付けられた。

 

又、アガサルチデス(Agatharchides)は南西アラビアのサバ王国(the Sabaean Kingdom)の富と繁栄について最初に述べた著者でもあり、その為に「富裕なアラビア(Arabian Felix)」と言う名がアラビア半島のこの部分を指す様になった。

 

 

(注)古代からの大きな交易の対象であった乳香は南アラビアのドファール(Dhofar)や東アフリカのソマリ(Somaliland)でしか育たないボスウェッリア(Boswellia carteri)と言う大きな灌木からしみだす樹脂である。

 

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3.1.4 ディオドロス(Diodorous)「歴史叢書(Library of History)

 

ディオドロスはシシリー島の内陸のアルギリウムで生まれ、40冊からなる不朽の「歴史叢書(Library of History)」を書いた。その内の第1巻、第5巻、第11巻および第20巻しか現存していないが後世の仕事でその他25巻の断片から抜粋が見つかっている。ディオドロスは第180回オリンピック紀元前60/59 - 57/56)に歴史資料を収集する為にエジプトに滞在して居た事が知られているし、「困難と大きな自己リスクにもかかわらずローマ帝国の一番重要な地方は全て訪れた」と述べている。ディオドロスの研究は神話時代からシーザーが初めて執政官になった紀元前59年までの広がりを持っている。この「歴史叢書」の第2巻および第3巻は殆どアガサルチデス(Agatharchides)を引用したアラビアと紅海の長い記述を含んでいる。

 

特に第2巻の49章から54章にはアラビアの各地方の野生動物、植物および鉱物に関する鮮やかな記述が含まれている。ディオドロスは「他の全ての人々が倹約してやっと神々の祭壇へ置ける貴重な物をこの地方の人達は湯沸かしの燃料として実際に使って居り、他の人々の中では小さな標本しか持たない貴重な物を彼等の家では召使いが使うマットを作る為の材料として与えている」と言い、これらの地方の香辛料および芳香植物の豊富さに驚いている。

 

ディオドロスは「アラビア特有の自然金は他の全て人々が行って居る様に鉱石から製錬せずに地中から直接掘り出されている。おおよそ栗の実大の金塊で見つかり、それは燃え立つような赤さなので職人が最高に貴重な宝石の為のはめ込み台として使う時には一段と装飾の豪華さを作り出した」とも記述している。ディオドロスは更にそこで見つかる様々な宝石に対して「それらは特異な色をしており、まばゆいばかりに輝いていた」と述べている。第3巻の12章から14章にはエジプト辺境とアラビアとエチオピアのそれに隣接する地方の金鉱とその開発方法を再び詳細に述べている。

 

又、15章から17章ではアラビア湾(ここでは紅海を意味する。)の海岸に住む人々について論じている。記述は全てが引用であるがイチサヨファギ (Ichthyophagi)(魚を食べる人達)と呼ばれる海岸に住む人達の生活の習慣と形態は我々が関心のある紅海の人達についても当てはまる。

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3.1.5 ストラボ(Strabo)「地理学(the Geography of Strabo)

 

   ローマ皇帝(the Roman emperor)オウグストゥス(Caesar Augustus)の治世で平和と繁栄の状態で増大して来た東洋の贅沢品への明らかに飽くことを知らない欲求がアラビアへの新たな商業や軍事の遠征へと導いた。商船は一年中、紅海のエジプト岸の港ミョス ホルモス(Myos Hormos)とベレニス(Berenice)から南アラビア、東アラビアおよびインドの港に向けて航海に出て地中海市場に向けた異国情緒(exotic) 一杯な物資を積んで戻って来た。

 

   この平和な貿易に満足せずローマ帝国(the Romans)は南アラビアのヒムヤル族(the Himyarites)の手から力ずくで乳香貿易の独占を捻り取ろうとした。オウグストゥスの命令でエジプト総督ガルス(the Perfect of Egypt, Aelius Gallus)の指揮下に強力な遠征軍が準備された。ガルス軍は南イエメンとドファール(Dhofar)(オマーン南部)の芳香植物生産地帯に侵入し従属させる目的で紀元前24年にイエンボの北の重要な貿易の中心地レウケ コメ(Leuke Kome)に上陸した。

 

   ギリシアの歴史家ストラボ(Strabo)はもっとも信頼できる筋の話として「この遠征軍はネグラニ市(the Negrani)に到達し攻略した」とその著者「地理学 (the Geography of Strabo)」で述べている。それからガルスはマールシアバ (Marsiaba)に移動したが水不足の為にこの町の包囲を続ける事は出来なかった。ガルスは香料の土地(the Land of Spices)から僅か二日行程に居たが多くの困難の為に遠征の出発地へ戻らざるを得なかった。これらの困難はナバタエアン道案内人のシッラエウス(Sillaeus)の油断できない裏切り行為による物だとストラボは巧く説明している。ストラボの記述のおもしろさは史実を省略せずに詳しい再現している事にあると思われる。

 

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3.1.6「エリュトゥラー海航海記(Periplus Maris Erythraei)

 

作者不明であるが「エリュトゥラー海航海記(Periplus Maris Erythraei)」は西暦1世紀の後半に書かれたエジプトからザンジバル(Zanzibar)に至るアフリカ海岸、アラビアおよびインドからセイロン(Ceylon)への航海録である。地形、港、交易地そしてこれらの海岸の商業的特徴を記した本当に素晴らしい書物である。著者の身元は分からないが、恐らくアレキザンドリア在住のギリシア人で正確さと洞察力(acumen)で記述した土地について個人的に良く知っていた。西暦45年頃にギリシアの先駆的な商人ヒパルス(Hippalus)によって「季節風の理論(the monsoon theory)」が発見された後にはこの時代に東方航路は一般的に使われる様に成っていたのでこの話には疑問が無かった。  

 

ヒパルスは「5月から10月に掛けてはエリュトゥラー海(the Erythraean Sea)の膨大な広がりを横切って風が定常的に吹き、船をアラビアからインドへと運んだ。更にその他の6ヶ月には風が方向を反対に変え北東から常に吹く」と云うインドの半島的特徴を知る様に成った

 

 

季節風の循環の発見で「良く知られた出発点から同じ様に見慣れている陸影へと所々で直行する以外は遠回りに海岸線に沿った航路」を辿る代わりにインド洋を横断して直接、インドとの往復航海が可能になり、貿易航路が革命的に変わった。  

 

「エリュトゥラー海航海記(Periplus of the Erytheraean Sea)」は二つのに分けられる。最初の部分はエジプトのミョス−ホルモス(Myos Hormos)とザンジバル(Zanzibar)の間のアフリカ海岸について描いている。もう片方の部分はベレニス(Berenice)から始まってアラビア、インドおよびセイロン(Ceylon)について述べており、中国への貿易路の接点についてさえもそれと無く触れている。

 

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3.1.7 プリニウス(Pliny)「博物誌(自然の歴史)(Histria Naturalis)

 

   アラビアに注意を向けたもう一人の著者は偉大なローマの博物学者(naturalist)であるプリニウス(Pliny)(西暦2324年から西暦79年)であるが、この問題に対するプリニウスの小論文は地理学的な整理や順序を考えずに主として沿岸と内陸両方の部族や市町の詳しい目録から構成されていた。プリニウスの文章の中には「犬達が入る事の出来ないシガロス島(the island of Sygaros)、もし犬を持ち込むと犬達は海岸で死ぬまで遠吠えする」等の幾つかの不思議な記述がある。「乳香に関してはアラビアで最も良く知られていたのはシバ人(the Sabaeans)で、シバ人は海から海へと広がる」等の正確な記述、「チャラクス(Charax)からラエアナ(Laeana)又はアエラナ(Aelana)までのアラビアの旅は著者によれば4,770,000歩である」等の距離を書き加える努力もあった。しかしながら良く知られた名前やプトレマイオス(Ptolemy)の記述に表れたものを除いてプリニウス(Pliny)によって記述された場所や民の殆どが特定できていない。

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3.1.8 プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus)「地理学ガイド(Geographic Guide)

 

   古代の地理学的情報の最も細かい点まで行き届いた編纂をしたプトレマイオス(Claudius Ptolemaeus or Ptolemy)はエジプトのペルセ(Peluse)で生まれた古代ギリシア人の自由な知的精神を中心とする人生観(ヘレニズム)をもったエジプト人であった。プトレマイオスは西暦2世紀の中頃からその時代の地理学的そして宇宙論的知識を二つの本にまとめ始めた。それは非常に重々しい8巻からなる「地理学ガイド(Geographic Guide)」と中世アラビアの学者の間で広く名声をほしいままにした「偉大」を意味するアラビア語名「アル-マジスティ(al-Majisti)」で一般的に知られている1巻の初期天文学である。  

 

プトレマイオスの「地理学ガイド」の主要部分は地域によって整理された場所々々の余す所無く研究した「地名辞典(an exhaustive gazetteer)」とそれらの場所に割り当てられた球面上の緯度経度である。二番目の部分は円錐形の投影で描かれた世界地図と地域地図で構成された地図帳である。プトレマイオスは躊躇無く地球が球体である事を前提としていた。   

 

プトレマイオスが自分の原文に沿って自分で地図を描いたかどうかは疑問である。もし、プトレマイオスが描いたとしてもその原図は56世紀までに既に失われていた。15世紀のヨーロッパに伝わった地図はプトレマイオスの緯度経度に基づいており、ビザンチン(Byzantine)の編纂者達の作品であった。

 

 

コンスタンティノープル(Constantinople)からもたらされたギリシア語写本の最初のラテン語翻訳はフローレンスのヤコポ アンギオロ(Jacopo d'Angiolo)によって西暦1406年頃に完成された。数百の写本が作られていた地理学ガイドとその付属の地図はヨーロッパの地理学者達に大きな衝撃を与え、一時は西洋社会での唯一の地図作製(cartography)上の権威と成っていた。プトレマイオスの最初の印刷版は西暦1475年にヴィチェンツァ(Vicenza)で出版された。地図を含む初版は西暦1477年にボローニャ(Bologna)で出版された。その翌年にはもっと洗練された版がローマで出版された。

 

15世紀の末以来、プトレマイオスの地図は急速に最新情報化され、或いは最終的に取り替えられるまで旅行、探検や発見から得られた新しい地図作製上の知識に基づいて補足された。西暦1513年に編纂された見事なストラブール(Strasburg)版は47枚の地図で構成され、その内の11枚は新しい地図であった。しかしながら、ストラブール版の地図帳が設計された時からこの入り込めない国に関する新しい知識は殆ど一般的な領域には成らなかったので、ここに再製されているアラビアの地図はプトレマイオスの原本から実質的に何も新しいものは示されていない。(ポルトガルは先ず東方に関する自分達の知識を自分達だけに確保した。これはポルトガルが目指していた交易独占を守る為であった。)   

 

 

ヒジャーズ(Hejaz)の幾つかの疑い無く認識できる土地の名前にはイアムビア(Iambia)、ヤトリッパ(Yatrippa)およびマコラバ(Macoraba)が含まれていた。バデオ(Badeo)は名前による地方性からジッダ(Jiddah)の位置に大変近かった。内陸のマコラバ(Macoraba)からバエチウス(the Baetius)と呼ばれる水路が海岸まで流れ下っていた。明らかにこの地方を流れる本当の川は無かった(プトレマイオスは主要な排水路の特徴のみを紹介する目的で付け加えたと思われる。)けれども偉大な涸れ谷ファティマ (Wadi Fatima)は見事に古代のバエチウス(the Baetius)を代表していたのだろう。

 

(注)イアムビア(Iambia)はイエンボ(Yenbo)、ヤトリッパ(Yatrippa)或いはヤスリブ(Yathrib)はメディナ(Medina)のイスラム以前の名前で、マコラバ(Macoraba)は神の館を意味し、メッカ(Mecca)の古い名前である。

 

プトレマイオスの門下達はギリシア - ローマ時代地理学の紋切り型仕事以外は生み出さなかった。西洋は何世紀にも渡って地球科学の分野で顕著な事を何ら生み出さない複雑な文化的過程を経験していた。しかしながらイスラムの出現とそれに続くモスレム帝国(the Moslem Empire)の領土的拡張は伝統的であろうと後天的であろうと拡張、特色、交通ルート、郵便伝達、交易ステーションおよびその領土からの歳入等に対するアラブ部族の興味を刺激し、次々に偉大な重要性を持つ地理学的研究の成果を導いた。

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3.2 イチサヨファギ(Ichthyophagi)(魚を食べる人達)

 

「イチサヨファギは現在のペルシアの南東部からパキスタン南西部のバルチスタン(Baluchistan)州の辺り一帯の当たるカルマニア(Carmania)とゲドロシア(Gedorosia)からエリュトゥラー海の一番遠い入江まで広がった海岸に住んでいた」とディオドロス(Diodorous)はその著書「歴史叢書(Library of History)に記述している。この入り江とは二つの大陸の囲まれたアラビア湾(ここではペルシア湾でなく、紅海をさしている。)であり、この湾は信じられない程に内陸に延びて居る。その入り口の片岸が「富裕なアラビア(Arabian Felix)」であり、対岸がトログロダイト(Troglodytes)の土地ある。

 

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ここに住む野蛮人達の一部は完全に裸で女や子供を家畜の群の様に共有していた。そして彼等が喜びと痛みの物理的認識だけしか認めなかったので恥ずべき物や尊ぶべき物に関して考える事は無かった。

 

(注)原住民に対するこの種の陳述は古代の文書では決まり文句であり、異民族の多神教崇拝に対する一神教の崇拝者であるギリシア人やローマ人著者の誤解や時として独善に起因していた。従って、その様な注釈は乱交(promiscuity)の証明として考える必要は無い。

 

イチサヨファギ達はその住居を岩だらけの海岸に沿った海辺からそれ程は遠くない所に設けていた。岩だらけの海岸は深い谷に成っているだけでは無くギザギザの迷路や非常に狭い通路に成っており、その特徴は曲がりくねった枝分かれによって区切られていた。自然に出来たこれらの枝谷の特徴は彼等の必要性に適していた。イチサヨファギ達は通路や出口を大きな石の塊で閉ざし、そしてそれらをまるで漁網の様に使って魚を捕獲していた。

 

海の潮位の氾濫が一日に二回、激しく陸地を被うと全ての岩場の海岸を巨大で荒々しい大波と共にあらゆる種類の信じられない程に多くの魚を陸地へと海は運ぶ。魚は先ず海岸に沿って取り残され、餌を探して隠れ場所や窪みの間をさまよう、しかしながら引き潮の時間が来ると水は岩や迷路の盛り上がった部分から少しずつ流れ出すが魚は窪みと成った場所に取り残される。この時に女子供と共に多くのイチサヨファギ達がまるで一言で命令された様に岩だらけの海岸に集まる。そして幾つかの集団に分かれたイチサヨファギ達はそれぞれが目指す棚にぞっとする様な叫びと共に殺到する。

 

陸地近くの比較的小さな魚を捕まえた女子供はそれらを陸地に放り投げる、そして体の頑丈な男達はその大きさで弱らせるのが難しい魚を捕まえる。追い出されたとてつもない大きな生物にはカジカ(sea-scorpions)、海ウナギ(sea-eels)やトラザメ(dog-fish)ばかりでは無くアザラシ(seals)やその他の形や名前の珍しい多くの種類が含まれて居た。専門的な道具も無く、鋭い山羊の角で突き刺したり、ギザギザの岩で傷つけたりしてイチサヨファギ達はこれらの動物を取り押さえた。イチサヨファギ達は自然現象を学び、自分達の必要性に適合させ利用していた。

 

   イチサヨファギ達は全ての種類の魚をたくさん集めるとその獲物を南へ少し傾いた岩の上に運び、獲物全てをそこで焼く。高い熱で赤くなった岩の上に魚を置いた後、すぐに魚をひっくり返し、しっぽを持って丸ごとつまみ上げて揺する。すると熱で柔らかくなっていた魚肉が下に落ち、残った背骨は一ヶ所に向けて放り投げられ、大きな山を形成する。

 

それから魚肉は滑らかな石の上に置かれ、十分な長さの時間を掛けて注意深く踏まれ、ナツメの木(Christ's thorn)の実と混ぜ合わされる。

 

 

この実の成分が魚肉に完全に作用すると魚肉全体は一つに粘性のある塊となり、この実が全体の中に美味しい薬味を加える様である。最後にこれが良く踏み固められると小さな長方形の煉瓦に埋め込まれ、日干しにされる。それらが完全に乾くとイチサヨファギ達は座り込んでそれをご馳走にする。大きさや重さでは無く各々が物理的に食べたいだけ一杯食べる。イチサヨファギ達はいつでも尽きることなく使用に間に合う様に保存していたのでポセイドン(Poseidon)は彼等の食糧確保が収穫の神デーメーテール(Demeter)の務めであると思い込んでいた。

 

しかしながら時々、この様な大きさの潮位波が海から陸へとどっと押し寄せて猛り狂う波が何日も岩場となった海岸を埋めてしまい、誰もそこに近づけなくなる。結果としてこの様な時には食糧が欠乏し、イチサヨファギ達は先ずムラサキ貝(the mussels)に集まる。ムラサキ貝はそのあるものが4ミナス(minas)(約5ポンド)に成るくらいサイズが大きい。イチサヨファギ達は大きな石を貝にぶつけて殻を壊して、その身を生で食べた。その味は何となく牡蠣に似ている。風が吹き続き高い潮位が長い間続きそしてこの様な状態に対応する不可能さがイチサヨファギ達の通常の魚採りを妨げる時には先ず前述の様にムラサキ貝へと向かう。

 

 

しかしながらムラサキ貝も食する事が出来なくなるとイチサヨファギ達は背骨の山に戻って来る。イチサヨファギ達は背骨の山から汁気の多い新鮮な背骨を選び、継ぎ目継ぎ目を切り離し、その中のある部分は自分の歯ですりつぶし、固い物は先ず岩で潰し、食べられる様に準備する。彼等の生活水準は巣窟を作る野生動物とそれ程、違わなかった。今や固い乾燥した食糧に関しては前述した方法で豊富に得ているが、湿った食糧の彼等の使用には驚かされると共にたいへん信じ難かった。

 

イチサヨファギ達が捕まえて居た海産物を四日間せっせと精を出し用意したので部族全体が言葉に成らない歌と共にお互いに接待している間は陽気に祝っていた。そして更に今度は子供を作る為に出会ったどの女性とも交わった。彼等の食糧が簡単に確保出来、手に入るので全ての心配事から解放された。

 

しかしながら五日目に部落全体が水を求めて山脈の麓に急いだ。そこには牧畜民がその放牧している家畜の群に飲ませる真水の泉があった。そしてイチサヨファギ達のそちらへの移動はまるで牛の群の様であった。全員が叫び声を出し、それははっきりした発音の話し方では無く、単に混乱したうなりであった。イチサヨファギ達の子供と云えば女達は自分の赤ん坊を両腕で代わる代わる運んでいたが、乳離れすると父親達がそうして居り、5歳以上の子供は両親に伴われ道の先頭に立った。進むに連れて遊び、まるで一番楽しい種類の快楽を求め始めているかの様に喜びで一杯であった。そしてイチサヨファギ達は牧畜民の水場に着くや否や腹を水で満たし、水の重さで移動するのがおぼつかない状態で引き返した。

 

その日、イチサヨファギ達は食物を食べなかったが、皆が満腹の状態で横たわり、まるで酔っぱらいの様に息をするのがやっとだった。しかしながら次の日は再び魚を食べると云った循環の生活様式を一生通じて繰り返していた。今、マンダブ海峡(the Straits of Bab al-Mandeb)内の海岸の住人達は上述して来た種類の生活を送りそしてイチサヨファギ達は現代人と較べると遙かに短くしか生きなかったけれども食物の単純さの為に病気に冒される事は稀であった。

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3.3 ローマ帝国軍の古代南アラビア(ヒムヤル国)遠征

 

ギリシア歴史家ストラボ(Strabo)著の「地理学(the Geography of Strabo)」での「紀元前24年から行われたローマ帝国軍の古代南アラビア(ヒムヤル国)遠征」の記事は「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)への訪問(サウジアラビア王国南西地方 vol.2 ティハマー海岸地域)」付録1「エジプト総督ガッルスのアシール遠征」として既に紹介してはいる。これとは別にH.L. ジョンズ(H.L. Jones)によって卓越した英訳が作られ、アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)によって紹介されているので、ここで更にその詳細を記述したい。

 

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この遠征は司令官ガルス(Aelius Gallus)の指揮下で行われ、オウグストゥス シーザー(Augustus Caesar)によってアラビアの部族と土地を調査する為に派遣された。アラビアに対するローマ帝国が行ったそれまでの遠征で多くのアラビアの独特な特質が明らかに成って来たので、シーザー(Caesar)はエジプト(Aegypt)に隣接し、アラビアと隣国であるトログロダイト(Troglodytes)にも関心を持ち、アラビア人達(the Arabians)からトログロダイト達を隔てるアラビア湾(紅海)が非常に狭いことを知って居た。この為、この遠征の目的にはアラビアばかりで無くエチオピア(Aethiopia)も含まれて居た。

 

遠征に当たって留意すべきは「アラビア人達は香料や最も価値のある石を売って金や銀を手に入れている。交換して受け取ったどの部分も決しても外部の者達に対して使う事は無かった。それ程、アラビア人達は非常に金持ちである」とのそれまでに無く広まっていた報告である。ガスルはアラビア人達を臣従させ、さもなければ打ち破る為に、アラビア人達と金持ちの友好国として交渉するか或いは金持ちの敵国として打ち破るかのどちらかを期していたが、ガスルは自分がこういう目的を持って居る事は深く隠していた。一方、ガスルはナバテア人(the Nabataeans)が友好的で全ての面で協力すると約して居り、その援助を期待できた事に勇気付けられていた。

 

ガルスはこれらを熟慮した上で遠征に出発したが、ナバテア人の統治者であるシッラエウス(Syllaeus)に騙されていた。シッラエウスは行軍の道案内をし、全ての補給品を供給してガルスに協力すると約束していたけれども全てに対して裏切りを行った。海岸に沿っての安全な航海も陸路の安全な行軍もわざわざ道の無い場所に案内したり、遠回りさせたり,全てに事欠く場所を通させたり、港の無い岩礁の海岸や浅瀬や暗礁の多い海域や特に干満の差の大きな場所を航海させたりして大きな難儀をもたらした。アラビア人達は陸上においてさえ、非常に良い戦士とは言えず、むしろ物売り(hucksters)や商人(merchants)であり、海で戦う事など全く無く、近い将来で海戦がある等を予想もして無かった。それにもかかわらず、船体の長い船を建造したのがガルスの最初の失敗である。しかしガルスは二段オールのガレー船(bireme)、三段オールのガレー船(triremeや軽量ボート等80隻を下らない数の船をセレオパトリス(Cleopatris)で建造した。そこはナイル川から延長された古い運河の傍であった。しかし、彼が完全に騙された事に気が付いた時にはすでに負担になる130隻の船を建造していた。この船に約一万人の歩兵を乗せて彼は出港した。

 

 

ガルスの歩兵部隊はエジプト駐屯のローマ兵とローマの同盟軍から成っており、500人のユダヤ兵やシッラエウス麾下の1,000人のナバテア兵も含まれていた。多くの試練と困難を越えて14日でナバテアの領土であり大きな交易の中心であるレウケ コメ(Leucê Comê)に到着した。敵の為では無く、この困難な航海の為に乗組員や全ての船荷と共に多くの船を彼は失い、又、失い掛けていた。これは「敵が居る為にレウケ コメまで陸路で行くことは出来ない」と言ったシッラエウスの裏切り行為によって引き起こされた。実際には人数や駱駝の数では軍隊と変ら無い駱駝隊商がこことペトラ(Petra)との間を安全で容易に行ったり来たりしていた。これは「オボダス王(Obodas)のせいだ」と言われて来たが、アラビア王全ての共通の特徴であるがこの王は公事、特に軍事には殆ど関心が無く、全てをシッラエウスの権限に任せていたので、全ての方法でガルスを裏切りに満ちた策略で打ち負かそうとしていたのはシッラエウスであった。

 

シッラエウスはローマと共にこの国(ナバテア)もこっそりと探り、その町や部族を破壊し、ローマ軍が空腹と疲れとシッラエウスが裏切ってもくろむその他の悪弊によって一掃された後、自分自身を全ての支配者として確立しようとしていたのだろう。ガルスは自分の軍隊をレウケ コメに入れた後、土地の病気である壊血病(scurvy)と足のびっこ(lameness)に悩まされていた。前者が口の周りが麻痺するのに対し後者は足の周りが麻痺するこの土地の水と植物が原因の病である。これら全ての出来事でガルスは夏と冬の両方を病からの回復を待つのに費やすのを余儀無くさせられた。

 

それまで芳香植物(aromatics)はレウケ コメからペトラへ運ばれていたが、その時からエジプトに近いフェニキア(Phoenicia)にあるリノコルラ(Rhinocolura) へ、そして他の人々へと運ばれた。しかし、それまでは殆どがアラビアやインドからミュス港(the Myus Harbour)で陸揚げされ、それから駱駝に積まれてナイルの運河の一つに位置するテバイス(Thebais)のコプタス(Coptus)に運ばれ、ナイル川によってアレキザンドリア(Alexandria)に運ばれていた。

 

再び、ガルスはレウケ コメから軍隊を移動し、卑劣な道案内達の為に水を駱駝で運ばせなくてはならない様な地方を通って行軍した。そしてこの為にオボダス(Obodas)の血族の住むアレタス(Aretas)の土地に到着するのに多くの日数を費やした。今、アレタスはガルスを友好的に迎えてくれ、贈り物をしたが、シッラエウスの裏切りがこの国を通過する旅も難しくした。少なくともこの国を越えるのに30日を要した。道の無い部分を通過したので粗末な穀物ゼイア(zeia)と僅かなナツメ椰子と油の変わりにバターで凌がなくては成らなかった。

 

ガルスが横切った次の国は遊牧民に属しており、その大部分は本当の沙漠であり、アラレネ(Ararenê)と呼ばれていた。その王はサボス(Sabos)であった。この国を通過するのも道路の無い地方を通ったのでガルスは50日掛けて通過し、平和で豊かな国であるネグラニ(the city of the Negrani)の町に着いた。その時にそこの王は既に逃走していたので最初の襲撃でその町を制圧した。ガルスはそこから6日で川に達した。そこの野蛮人はローマ軍との戦闘に参加した。そしてローマ軍の犠牲が2名であったのに彼等の内の約10,000人がこの戦闘で死亡した。これは彼等の武器が不慣れな方法で使われ、弓、槍、剣や投石器を使う戦争に全く不向きであり、彼等の殆どが両刃の戦斧を使っていた為であった。

 

() ネグラニ(the city of the Negrani)はネジラニ(Nejrani)とも云い、現在のナジラン(Najran)であるが、ストラボ(Strabo)の記述の翻訳から解釈すると「ここでネグラニと述べられている町はメッカ(Mecca)ではないか」と私はかねてから考えていた。同じ様な意見の掲載(http://12thharmonic.net/commentary/aelius-gallus/)があったのでここではメッカと特定する事にしたい。

 

その直ぐ後にガルスはアスカ(Asca)と呼ばれる町を占領した。この町はその王によってすでに見捨てられていた。その後、ガルスはアスルラ(Athrula)と呼ばれる町に行った。戦闘せずにその町を制圧し、砦を設け、そこに行軍に必要となる穀物とナツメ椰子の実を補給し、マールシアバ(Marsiaba)と呼ばれる町へと進軍した。マールシアバはイラサルス(Ilasarus)に従属するラッマニタエ部族(the Rhammanitae)に属していた。ここでガルスはこの町を急襲し、6日間で制圧したが水の補給の為に思いとどまった。捕虜の情報によれば、ガルスは本当に芳香植物(aromatics)を生産する国から僅か2日行程の場所に居た。しかしながら悪意の道案内人の為に、ガルスはこの行軍に6ヶ月を使ってしまった。そしてガルスは引き返すべき時である事実を認識した。

 

最後にガルスは自分に対する陰謀に気が付き、他の道を通って帰還すると9日間でネグラナ(Negrana)に到着した。そこでは戦闘が行われた。それから11日間で7つの井戸が在る為にヘプタ-フェレアタ(Hepta Phreata)と呼ばれる場所に着いた。それから最後に平和な国を行軍し、チャアッラ(Chaalla)と呼ばれる村に到着し、再び、川の近くに在るマロサ(Malotha)と呼ばれる別の村に着いた。それから遙かに遠いエグラ(Egra)と呼ばれる村まで僅かな水場があるだけの沙漠の国を通過した。この部落はオボダス王(Obodas)の領地に含まれ、海岸に在った。

 

ガルスは往路には6ヶ月掛かったけれども復路の旅は60日で成し遂げた。それからガルスは自分の軍隊にミュス港(the Myus Harbour)へと11日間で横切らせた。そして陸路コプタス(Coptus)へ行軍した。生存できた幸運な者達と一緒にアレキザンドリア(Alexandria)に上陸した。ガルスは残りの者達を戦争では無く、疲れと、空腹と悪路によって失った。戦争の犠牲となったのは7名に過ぎない。この様な理由の為に、この遠征ではこの地方に関する知識に対して大きな成果は得られてはいないが、それでもなにがしかの貢献はしている。

 

しかしながら、この失敗に責任のある男(シッラエウス(Syllaeus)を意味している。)はローマに償いをしなければならない。シッラエウスは友好を装ったけれどもこの事件における悪行(rascality)に加えて他にも幾つかの罪を犯したので訴追され断首された。

 

(注)古代集落と現代名

 

ストラボ(Strabo)が著述した紀元前一世紀後期の紅海周辺古代集落と現在の市町村名や所在地など。

 

セレオパトリス(Cleopatris) (Suez) ナイル川から延長された古い運河の傍にある町。

 

レウケ コメ(Leucê Comê) (Leuke Kome):現在のヤンブー (Yanbu) であるイエンボ (Yenbo) 北にあり、白い村を意味するレウケ コメの正しい位置は明確では無い。

 

ペトラ(Petra) 現在のヨルダン南部の沙漠ラム涸れ谷(Wadi Rumm)の入り組んだ岩山の中にあるナバテア(Nabataea)の首都。

 

ナバテア王国(the Nabataeans) 紀元前一千年代の最後の世紀にナバテア王国は現在のジョールダンにあるペトラを首都として、現在のマダー'イン サーリーであるアル−ヒジル、デューマット アル−ジャンダルおよびワディ'ル−シールハーンを支配下に置いて、それ以前に継続していた北西アラビアの国々に取って代わった。

 

リノコルラ(Rhinocolura) エジプトに近いフェニキア、古代エジプトとイスラエルの土地の間;エジプト北東部で地中海東岸南部の現在のエル アリッシュ(El-Arish)

 

ミョス ホルモス (Myos Hormos) ムラサキ貝の港 (Mussel Harbour)或いはミュス港(the Myus Harbour)は東アフリカ貿易と狩りの為にフィラデルファス王(King Ptolemaeus Philadelphus)によっておよそ紀元前274 (circa 274 B.C.) に築かれ、再建された紅海の港 (the Red Sea ports) の一つであった。

 

テバイス(Thebais) 古代エジプトの町 (Thebes) を指すと考えられる。テーベ(Thebes)はカイロの南675kmにあるナイル(Nile)中流の町で、中・新王国時代に首都として栄え、東岸にカルナックス神殿・ルクソール神殿、西岸にデル-エル-バハリ宮殿・王家の谷等の遺跡が多い。

 

コプタス(Coptus) ナイルの一つ運河に位置するテバイス(Thebais)の町。

 

アレクザンドリア(Alexandria) ナイル川デルタ(Nile Delta)の上の町でアレキサンダー大王(Alexander the Great) が紀元前332年に建設した古代世界の学問の中心地であった。今でもエジプト北部にあるエジプト第一の商港の町で人口340万人である。

 

アレタス(Aretas) オボダス(Obodas)の血族でその支配していた土地は今日のメディナ(Medina)と思われる。

 

アラレネ(Ararenê) メッカ(Mecca)とメディナ(Medina)の間の遊牧民に属し、大部分は本当の沙漠である土地で、ガルス軍は紀元前24年にここを通過した。

 

ネグラニ市(the city of the Negrani) ネジラニ(Nejrani)とも云い、現在のナジラン(Najran)である。但し、ここではメッカ(Makkah)と解釈した。

 

アスカ(Asca) ジェッダ(Jeddah)とクンフダー(Qunfudah)のほぼ中間に位置する紅海岸の港町リス(Al-Lith)或いはライス(Al-Laith)の古代名。

 

アスルラ(Athrula) 現在のアブハ(Abha)と思われる。

 

マールシアバ (Marsiaba) 現在のマリーブ (Marib)であり、紀元前24年当時はイエメン(Yemen)のサン(San'a、サナ)の東にあったイラサルス(Ilasarus)の属国であるラッマニタエ(Rhammanitae)に帰属していた。

 

ネグラナ(Negrana) 現在のアブハのサダー(Sa'dah、ソウダー)に近いネグラナ(Negrana)で、紀元前24年にガスルがマールシアバ(Marsiaba)からの帰路、戦った。

 

ヘプタ-フェレアタ(Hepta Phreata) 7つの井戸があるのでそう呼ばれていたグンフダー(Al Qunfudhah)

 

チャアッラ(Chaalla) グンフダー(Al Qunfudhah)とジェッダー(Jeddah)の間の沙漠にあった村。

 

マロサ(Malotha) 当時は川の流れるマロサス(Malothas)と呼ばれたジェッダ (Jeddah)

 

エグラ(Egra) 紅海岸沿いにある現在のヤンブー(Yanbu)である。

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3.4 エリュトゥラー海航海記に記述された紅海東岸

 

「エリュトゥラー海航海記(Periplus of the Erytheraean Sea)」をスコフ(W.H. Schoff) ギリシア語から翻訳し、注釈を付け、1921年にニューヨークで出版した。その第19章から第21章にはレウケ コメ(Leuke Kome)からイエメンのムザ(Muza)までの紅海沿岸について述べられている。

 

当時、ベレニス(Berenice)を出発してムラサキ貝港(Mussel Harbor)から隣接した湾を横切って東へ23日の航海で着く所にもう一つの港があり、そこは要塞化された場所で「白い村(Leuke Kome)」と呼ばれていた。その村からペトラ(Petra)まで道路があり、その村はナバテア(Nabataean)の王マリチャス(Malichas)に隷属していた。そこにはアラビア沿岸から送られてくる小さな舟の為の「市場の町(a market town)」が設けられており、その砦には軍勢を率いた百人隊の隊長が商取引の1/4を徴税する為に駐在ししていた。

 

この場所の直ぐ下はアラビアの隣の国でエリュトゥラー海(the Erythraean Sea)と長い距離で接していた。この国にはその会話が一部異なる或いは全く異なる、違う部族が住んでいた。海辺に近い陸地にはあちらこちらの洞窟にアガサルチデス(Agatharchides)が記述したイチスヨファギ(Ichthyophagi)と呼ばれる魚を食べる民が住んでいたが、内陸には二つの言葉を喋る悪辣な民が住んでいた。この民は村や放牧の野営地に住み、中央航路から外れる者達はこの民によって略奪され、難破して助かった者達は奴隷にされた。そしてこの民自身もアラビアの首長達や王達に頻繁に捕らえられ捕虜にされた。この民は「キャルナイト(Carnaites)」と呼ばれていた。航海は劣悪な投錨地があるだけで、港が無く、汚く、暗礁や岩で近寄り難いアラビア沿岸全体に危険であり、全ての面で酷かった。

 

従って、航行する船はその航路を湾の真ん中に取り、ブルント島(the Burnt Island)に着くまでアラビアの国を出来るだけ早く通り抜けた。ブルント島は鳥の島とも云われる。この島は紅海の真ん中航路にあり、250m高さのジャバル アト−タイル(Jabal at-Tayr)に特徴ある火山島でイエメンの港ロヘイア(Loheia)の西約90kmに在る。ロヘイアの直ぐ下には牛、羊および駱駝を遊牧や放牧する平和な人々の住む地方が在る。

 

 

これらの地方を越えるとこの湾の左側麓の小さな湾の中に海岸がムザ(Muza)と呼ばれ、法律で決められた市の立つの町が作られ、ベレニスから南に航海して12,000サタディア(stada)の場所がある。そしてその場所全てがアラブの船主と船乗りで混み合い、商談で忙しかった。アラブの船主達は自分達自身の船を送って遠い向こう岸やバリガザ(Barygaza)と交易を行っていた。バリガザはインド キャムバイ湾(the Gulf of Cambay)の貿易の中心地で、ナルマダ川(the Narmada river)の河口に在る現在のブロウチ(Broach)である。

 

 

() ムザ(Muza)は現在のモカ(Makkh)である。

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後書き

 

ギリシア・ローマ時代のジェッダに関する文献を照会する筈であったが、ジェッダに限った記述が少なく、結果的には紅海東岸の紹介となった。この時代のアラビアの中心は富裕のアラビア(Arabian Felix)と呼ばれたいた一部エチオピアを含むイエメンの古代王国群であり、ここでは軽く、この王国群の紹介に止める積りで居たが、この王国群と乳香交易のかかわりが余りにもに深く、結果的にはかなり詳細に紹介する事となった。詳細に関しては調べるに連れて結構差異が色々出て来たし、同じ文章の中でさえ、多少異なって記述されている場合も少なくないのでEncyclopaedia BritannicaWikipediaで確認できる以上の調整はしていない。又、この王国群を調べる内に「シバームがシバの都であった」とのこれまでの私の理解に疑問が出て来て、資料を調査し、「古代シバ王国の都はマーリブ」であると修正させて戴いた。

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参照資料

アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)「ジッダ或るアラビアの町の描写(Portrait of an Aranian City, Jiddah )(1977)

 

Wikipedia

 http://en.wikipedia.org/wiki/Ancient_history_of_Yemen

 
その他

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