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豊かなオアシスに恵まれた原油の宝庫
(サウジアラビア王国東部州) その5 アラビア湾岸 (No. 5 Arabian Gulf_10) 著: 高橋俊二 |
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9. アラブのダウ船 9.1一番古い型の船 9.2 ダウ船の航海術 9.3 ダウ船の中心ドバイ 9.4 クウィエトとダウ船 人類はアラビア湾の特に魚、海老、真珠等の豊かな生態系の恵みを既に収穫し、小さな舟でその海面を行き来していた。例えば偉大なメソポタミア文明(the great Mesopotamian civilizations)の商人はアラブ船乗りのアフリカ、インドおよび中国への後の航海の前哨としてバハレーンにあったディルマン(Dilmun) (Bahrain/Dilmun)経由でインダス河(the Indus River)のモヘンジョ・ダロ文明(the Mohenjo-Daro civilizations)と交易を始めていた。数千年にわたるその様な活動にもかかわらず、ダウ船 (Arab dhows)が登場するまではアラビア湾に関する知識は「魚や海老は何処にたくさんいるのか」、「何処で貴重な真珠貝は見つかる可能性があるのか」、「何処に自分達の小舟に危険な浅瀬(shoals)あるのか」、「何処で海底から清水が湧き、魚場に長くいられるのか」等に限られていた。 アラブのダウ船 (Arab dhows) は一番古い型の船の一つであるが、現在でもダウ船はアラビア湾やインド洋の青い海を航海し、物資を運んでいる。但し、今日のダウ船は帆船に変わってモーター付きの船になっている。この為、かつてはバグラ (baghlas) 、サムバック (sambuks) 、シェウェ (shewes) 、ザイマ (zamias) およびマルカブ (markabs) 等(注)を作っていた船大工もスマートなモーター付きダウ船大工に変身してしまった。 (注)バグラ (baghlas)は今では殆ど廃れてしまった交易船であり、曲がった船首、船首像、無目(ドア・窓)のある船尾および住居用船尾展望台を備えている。サムバック (sambuks)は迅速な客船であり、かつては一般的であったが今は殆ど稀にしか見られず、低く曲がった船首と高い船尾を備えている。ジャルブート (jalboots) はしばしば真珠漁に使われた。その他のダウ船としてはガンジャ (ganjas) 、コティア (kotias) 等がある。
今でも生き残っているダウ船は巨大な三角帆、四角い船尾、風雨にさらされ、サメ油で磨かれた肋材を備え他のどの様な帆船と比べても大きさの割に多くの帆が張れる能力、前方に傾いたマストそして船尾から船首の傾き等を持ち、特異な外観をしている。ダウ船の特別なシルエットは何世紀にも渡って、印度、マレーシア、ポルトガル、オランダおよび英国等の商業船等の影響を受け作られてきた。例えばオマーンダウ船であるジャダカリム (jadakarim) の高い船尾はガレオン船(galleon) (注)の模倣である。 (注)ガレオン船(galleon): 15-18世紀のスペインの3本柱大型帆船。 9.2 ダウ船の航海術 ダウ船が発祥はアラビア湾か印度であり、恐らく2,000年前だろう。その頃この地域の風向きは太陽と月の動きによる一定の基本に従っていた。11月から5月まではハスカジ (haskazi) と呼ばれる北東の季節風がアラビア湾から東アフリカ海岸を下ったマダガスカル (Madagascar) やザンジバル (Zanzibar) 又は海を渡って印度まで吹いていた。年の後半はクジ (kuzi) と呼ばれる季節風が故郷のアラビアへと吹きかえしていた。この地域の人々はこの風を利用してインド洋を横切ってホルムズ海峡 (the Strait of Hormuz) を通過してアラビア沿岸へと航海した。ハドラマウト (Hadhramaut) に沿って航海し、東アフリカ沿岸まで航海する者達も居た。 ナコダス (nakhodas) と呼ばれるダウ船の船頭が羅針盤も無く前方帆走/後方帆走について何の知識も無く、ダウ船を動かすのは一般的には卓越風に頼っていた事を考えるとアフリカへの航海は危険な芸当であった。更に、この時代には休戦海岸 (Trucial Coast) は海賊海岸であり、交易用のダウ船はしばしば海賊に切り込まれ、襲撃者自身がダウ船を帆走させて沈没させたりした。この様な危険を回避する為にナコダス (nakhodas) は自分の船の命名に当たっては「神の悪魔祓い」、「モハンメドの崇拝」「神の御心」等運命論や信仰の含蓄を持つ名前を付ける傾向があった。 ホラズム海峡は確実にダウ船を見られる一つの航路であるが、近くで見るのであれば有名なドバイ (Dubai) の入り江の方が良い。この入り江の中では長い干満の瀬戸があり、デイラ側 (the Deira Side) と呼ばれるビン ヤス通り (Bin Yas Street) の全長に渡って並ぶ埠頭に係留されたダウ船から突き出したマストの森に成っている。ダウ船は東洋の全ての場所からやって来る。 ボンベイのアンワリの様な印度のモーター、玉ねぎのサック、バスラデーツ、驢馬の一群を乗せた船、肥料の袋や椰子油の原料のコプラ (copra) 、皮、木材、象牙、カーペット、サイザル麻 (sisal) 、コーヒー、チョウジ (cloves) 、果物および穀物等々の積荷が何世紀も交易して来たダウ船の活力原 (the life-blood) である。しかしながら、印度が近代工業を発展させて、20世紀の商品をアラビア湾やアフリカに送っている様に積荷は変化して来た。今やダウ船はアルミニウムのポストからナベやT.V.セット等何でも運んでいる様に見える。 クウェイトはもう一つのダウ船の中心である。クウェイトのダウ船は通常はブーム (boom) であり、クウェイトの海岸に沿った岩礁で保護された港であるシーフ (the seef) に臨む造船所で作られるのが普通である。ダウ船の大きさには沿岸様の25トン程度から大洋を航行する為の300トンもの大型がある。ブーム (booms) は最大500トンで最も一般的な浮いていたダウ船である。ブームは主としてクウェイトで作られ、一番良く使われたのは二回の世界大戦の間であり、船尾と船首が鋭かった。両方とも平らな船尾梁(a flat transom stern)持たず、余裕のある船倉を持ち、3本マストであった。飾りつけは殆ど地味で、船尾柱頭のそれぞれの側にバラの装飾、白い操作横舵柄や旗竿そしてダウ船の特徴である船側に張り出したトイレット (zoli) の上の幾つかの彫刻がある位だ。 しかしながら、石油産業の発展と町の拡張でシーフ (the seef) は減って来て居る。今日、昔を回顧するようなクウェイトの大きなブーム (the big boom)がかろうじて残っては居るのは近代的な水深の深い港であるムハラフ (the Muhalaf)に引き上げられているダウ船 とクウェイト博物館に展示された大型ダウ船のモデルである。実際のダウ造船活動の大きな名残りは郊外に残っており、そこでは数人の船大工達がチョウナの削り跡やハンマーの模様の間で奮闘しながら、未だに昔の方法で時間が掛かり、辛抱と忍耐の必要なダウ船作りを行っている。先ず初めに印度産のチーク材を手で骨折ってザラザラにする。木工作業では自然のねじれや曲がりを利用し、手斧を使い、彼らの裸足のつま先程に木材を切り、ゆっくりと竜骨と船首と船尾の支柱を形作る。次に船体の外側の板材を土地で鋳込んだ特別に大きな頭を持った釘で打ちつける。木材に直接釘を打ち込むに連れて目の詰んだチーク材を割る事が出来ると船大工は釘毎に手で穴を開け、油をしみこませた大麻で注意深く各々の釘を包み込む。この様な方法で建造されたダウ船は運が良ければ50年は使える。近代的な海運業の必要性からダウ船も今では通常モーター付であり、エンジンを搭載する為に船体の形も変わりつつある。多くのダウ船が既に大きな汽艇 (launch) の様に見え、帆の幾つかは減らすか取り除かれて居り、伝統的なダウ船は廃れつつある。ダウ船の時代は終わり、伝統的な職人技法も衰えて消えて行くのだろう。 |
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