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豊かなオアシスに恵まれた原油の宝庫
(サウジアラビア王国東部州) その3 北部 (古代シルクロード交易路) 著: 高橋俊二 索引 1.1古代交易路 1.2 東アラビア謎の都市国家ジャルア 1.3 大規模な古代都市サジ 1.4 パルティア朝のアラビア湾交易 1.5 ササン朝とアラビア湾航路 1.6 三大帝国勢力(ローマ、ペルシャ、ヒムヤライト)の鼎立 1.7 アラビア湾交易へのビザンチン帝国の対抗 1.8 イスラムのペルシャ遠征 1.9 ウマイヤ朝時代 1.10 アッバース朝の遷都と隊商路の変化 1.11 カルマト派の支配 1.12 アブド アル カイス族のウユニド王朝 1.13 ウスフリド朝支配下でのアル ハサの繁栄 1.14 沙漠の出身部族のジャブリド王朝 1.15 オスマン帝国とポルトガルの対抗 1.16
バニ カリドの統治と第一サウジ公国 2.1 エデンの園に至る隊商路 2.2 ハヴィラの土地とピソン川の位置 2.3 マハド アド ダハブ金山 2.4 縞瑪瑙石 2.5 偉大なアラビアの香料の道 2.6 駱駝の隊商 2.7
ピソン川 (the Pishon River) 3.1 シルクロード隊商路の経路 3.2 シェークスピア大尉の紹介 3.3
シェークスピア大尉の足跡 4.1 アル ルクイ 4.2 ハファル アル バーティン 4.3 アル カイスマ 4.4 アル カフジ(省略) 4.5 アス サダウィ 4.6 アブレグ アル キブリート 4.7 アル ミシャブ 4.8 カリド国王軍事都市 (KKMC) 4.9 サファニア 4.10 ウンム アシャール アシュ シャールキヤ 4.11 ラス アル タナジブ 4.12 マニファ 4.13 カリヤ アル ウルヤ 4.14 ナイリヤ 4.15 ムライジャ 4.16 ラス アル ゾウル 4.17 アブ ハドリヤ 4.18 ニッタア 4.19 ジャララ 4.20 アス サッラール 4.21サジ 5.1 不思議な沙漠茸ファッガ 5.1.1 沙漠の珍味 5.1.2 アラブニュースの記事 5.1.3 ファッガの不思議な雰囲気 5.1.4 東部州北部のファッガ 5.1.5 ファッガ狩と調理 5.1.6 イモタケ 5.2 沙漠ダイヤ 5.2.1 沙漠ダイヤとは 5.2.2 サウジの遠隔の地で産する特有な宝石 5.2.3 沙漠ダイヤの品質 5.2.4 ダイヤモンド狩り 5.2.5
ダイヤ原石の加工
東部州の北部は歴史的にメソポタミア(Mesopotamia)の南部辺境であり、東部州中心のアル ハサ/カティーフ(Al Hasa/Qatif)から見ても北部辺境であった。この地域の地理的な大きな特徴は何と言っても果てしなく平らで広いことである。「図-1 東部州北部」に示す様にこの広大な地域に大きな町としてはハファル アル バーティン(Hafar Al Batin)やナイリア(Nairiyah)があったのみである。
(注) カフジ(Al Khafji)はアラビア石油鰍ェ1960年に建設した石油基地であり、東部州の伝統的な集落ではない。
この二つの町に関する考古学的な文献は見つけられなかったが沙漠に点在する村々にある遺跡や多少の記述から古くから隊商の行きかった場所であるのは分かる。「図-2 アラビアの隊商路」に示す様に二本の乳香の道(the Frankincense Roads)はそれぞれ涸れ谷ルマ/バーティン(Wadi Rumma and Wadi Batin)、涸れ谷ミヤ/涸れ谷シャック(Wadi Miyah and Wadi Shaqq)に沿って北へと続き、シルクロード(the Silk Road)はダーナ砂丘帯(the Dahna Sand Belt)に沿って西へと向かっていた。又、ジャルア(Gerrha)からアル カシーム(al-Qasim)を通りタイマ(Taima)への隊商路やダールブ アル クンフリ(Darb al-Kunhuri)と呼ばれるジュベイル(Jubail)からダハナ沙漠(Dahna sands)およびルマ(Rumah)井戸群を抜け、古代のハジル アル ヤママ(リヤド近郊)へ通じる隊商路もあった(「図-6 サウジの地形」を参照)。
この地方の歴史に関する資料は少なく、「その1 東部州の紹介」と多少重複するが「隊商路」を再度、レビューした。この地方がエデンの園につながる地であるとの説もあり、キャロル A. ヒル(Carol A, Hill)のこの仮説に対する調査報告書を掲載した。又、この地方を舞台に活躍し、イブン サウドと友好を築き、その戦いに参加して戦死したシャークスピア大尉を紹介する。同大尉の縁者でその足跡を辿ったブレーン(Brain)夫妻の旅行記も同夫妻の了解を得たので添付した。又、視点に統一性は無いがこの地方の集落に関して私の知る限りを出来るだけを紹介し、この地方の特産である沙漠ダイヤと沙漠の茸についても言及した。 東部州北部は構造地質的にはアラビア台地と呼ばれる安定した構造の上に古生代、中生代および新生代に5億年も掛けて堆積した厚い石灰岩層を基盤とした平らで広大なカルスト平原である(「図-3 サウジ北部構造地質」を参照)。海岸線は白い泥灰岩(white marl)が残る岬部分(Umm Qusubah、Al Khafji、al Mishab、Saffaniyah、Tanaqibやaz Zawr)では或る程度の崖が見られる。その岬部分を除けば海岸にはサブハ(Sabkha)と呼ばれる平らな低湿地帯(salt flat)が続き、海岸線さえ定かでない場所が少なくない。カフジではサブハが内陸深くまで入り込み、干満によって海水が出入りし、川の様な地形を作っている。
海岸低地から少し内陸に入ると土漠となり、場所によっては硬く白い泥灰土(white marl)や赤い泥灰土(red marl)の露頭が出ている。砕いた白い泥灰土は水をかけて乾燥させると再び岩の様に硬く固まるが、赤い泥灰土は水をかけると粘土の様にぬかってしまう。赤い泥灰土には鋭利に剥離する火打石が含まれている。乾燥している限りは両方とも地耐力があり、道路舗装の土台に使われる。海岸からは離れると小さな起伏の砂丘が続き、40km位入った辺りから石灰岩の路頭が丘と成って露出し、その山肌には珪石 (chert)の結晶が見られるがジャウフ地方(Jawf)にある様な珪化木(Petrified Wood)は見たことが無い。その奥にはナイリヤ(Nairiyah)を河口とした古い海岸線に沿った涸れ谷ミヤ(Wadi Miyah)が南へと150km伸びており、ダハナ砂丘帯までの間のサッマン台地(Summan)には幾層もの崖地が見られる。
ナイリヤ(Nairiyah)から北の海岸低地ではサブハがもっと内陸深くに入り込んでは居るが同じ様に小さな起伏の砂丘が続く。海岸から60km位入った辺りには涸れ谷シャック(Wadi ash Shaqq)が南から北にクウェイトのワフラ(Al Wafrah)へと続く、その奥にはサッマンの延長である幾筋かの低く緩やかな崖地が幾つか平行に並び、更に内陸には丸石や小石の転がる礫原ディブディバ(the Dibdibah area)が広がる。この辺りから沙漠に大きなテーブルの様な石灰岩の小さな露頭が見えてくる。涸れ谷バーティン(Wadi al Batin)を西へ越えるとこのテーブル状の露頭は数を増し、同時に平らに続く沙漠には石灰岩の露出が増えてくる。
東部州北部の気候は夏には極端に熱く乾燥し、雨が欠如し、覆うもの無い空そして強烈な日差しが五月から九月までの長い夏を作り出し、大地の乾燥で沙嵐が発生する。但し、更に北には夏には定常的に50℃を越えるクウェイト(Kuwait)やバスラ(Basrah)等の灼熱地帯がある為に、その熱さの割にはこの地方は涼しい場所と考えられている。実際に夏場はクウェイトからカフジに向かうとワフラ油田の積出港ミナ サウド辺りで急に涼しさを感じる。この地方の厳しさはむしろ冬であり、特に内陸では乾燥もあって遮る物の無い沙漠を吹き抜ける強い北風は体温を奪い、凍えそうに寒く感じる。一旦、雨が降る始めると熱帯のスコールの様な猛烈な驟雨となり、雷が頭上を放射状に稲妻を走らせ、平らな沙漠を走る車に落雷する危険もある。驟雨は洪水に成って流れる事も少なくない。
この地方はサウジアラビアの原油地帯の重要な一部であり、カフジ(Ras al Khafji)、サファニア(Ras al Saffaniyah)、タナジブ(Ras al Tanaqib)、マニファ(Munifah)等の原油の生産基地がある。それ以外には軍港としてミシャブ(Ras al Mishab)がある。内陸には昔からの羊放牧の集散地として知られているハファル アル バーティン(Hafar Al Batin)およびその南の空軍基地カリド王軍事都市(KKMC)、さらに東南東の海岸寄りには木曜市の立つナイリヤ(Nairiyah)がある。又、小規模の円形農場もある涸れ谷ミヤ(Wadi Al Miyah)、涸れ谷バーティン(Wadi Al Batin)とカリヤ アル ウルヤ(Qaryah/Al Ulya)等では昔から農業が営まれて来た。
1990年8月2日にイラクがクウェイトに侵攻したのに反撃し、アメリカ合衆国を中心とした多国籍軍(連合軍)が1991年1月17日にイラクを空爆して湾岸戦争が始まった。その主戦場になったのがこの地方であった。一時的にはこの様に世間の注目を集めた時期もあったが、普段は殆ど忘れられて居る遠隔の地であり、この地方にある本格的なホテルは2000年代に成ってやっと出来たファハル アル バーティンのホリデイイン(Holiday-Inn Hafar Al Batin)が一軒のみである。それ程にサウジアラビア国内でも辺境な地域であり、一年の殆どは街道筋を除けば人に会う事も無い。それでも冬に雨が降るとこの広大な大地に草が萌え、西の台地から駱駝や羊を追って遊牧民がやってくるし、その一時的な草原には週末を家族で過ごす天幕がたくさん見られ、賑やかになる。その家族の楽しみの一つにこの地方特産のファッガと呼ばれる沙漠トリフ狩や、最近では沙漠ダイヤ(水晶)探しがある。
(注)クウェイト国境南17kmの海岸には1960年にアラビア石油鰍ェ建設したカフジがあるが1従業員として勤務したこの鉱山町に関しての私自身の思い入れも深く、説明が長くなるのでカフジに関する記述は別にしたい。
東部州は古代のシルクロードおよび乳香の道の交易の中継地として重要な位置を占めていた。東部州北部は地中海へと中継する隊商路を古来提供して来た。ここでは東部州に関わる交易の歴史を近代に至るまで俯瞰し、東部州北部の交易路に置ける役割を振り返ってみる。
1.1古代交易路
古代にはアラビア湾および紅海に沿ったアラビアの陸路と海路が地中海世界(Mediterranean)とインド洋世界の間の交易的つながりを確保して来た。「図-2 アラビアの隊商路」に示す様にイエメンからの物資は駱駝隊商によってナジラン(Najran)を通り、西アラビアから地中海(Mediterranean)へと運ばれた。これは多分、少なくとも紀元前8世紀のアッシリア時代(Assyrian times)まで使われたもっとも古代の隊商路であった。
アケメネス朝が最盛期であったのは紀元前500年であるが、交易は少なくとも紀元前500年以前から始まって居た。アケメネス朝を倒したアレキサンダー大王の後継者であったセレウコス朝(Seleucid)がシリア(Syria)とメソポタミア(Mesopotamia)を支配し、ギリシャの交易商と物資はこの時代に東部アラビアで良く知られる様になった。この事がアラビア半島の地方繁栄の始まりの時期であるのを示している。
(注)アケメネス朝(the Achaemenid dynasty 、紀元前550年から紀元前330年)アケメネス家(Achaemenes)のキュロス二世が西アジアを征服。ダレイオス一世の時代にオリエントを統一して全盛期を迎えた。ギリシャ遠征(ペルシャ戦争)には失敗した。アレキサンダー大王の東征によって滅亡。
(注)アレキサンダー大王(Alexander the Great、紀元前323年死亡)BC356年にマケドニア王国フィリッポス2世の王子として誕生。20歳で即位すると、父王の計画を引き継ぎ、東方遠征を開始する。兵力では圧倒的不利だったにもかかわらず、イッソス(BC332)およびガウガメラ(BC331)と二度の大戦で圧勝し、アケメネス朝を滅亡(BC330)に追いやった。その後も快進撃を続け、西は現在のエジプト・ギリシャ、東はインダス川流域までに及ぶ大帝国を建設した。
(注) セレウコス朝(The Seleucid Empire、紀元前312 – 紀元前63)は、アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)の一人、セレウコス1世ニカトールがオリエント地方に築いた王国。セレウコス朝シリアまたは、シリア王国とも言われる。はじめメソポタミア地方に興り、シリア、アナトリア、イランなどにまたがる広大な領域を支配した。都はアンティオキアに置いた。
総括して、紀元前500年から西暦270年までの800年間は部族社会のアラビアでも遊牧民よりも繁栄した定住民が優勢であった。交易はローマ帝国時代の早い時期に頂点に達し、その当時は莫大な量の贅沢な物資、大量の香辛料や香料がイエメン、東アフリカ、印度および中国からローマ世界の膨大な需要を満たす為に輸送された。古代イエメンの乳香(frankincense)や没薬(myrrh)がこの交易の中でも特筆すべき物資であり、イエメン(Yemen)のサイハド(Sayhad)文化の担い手である商人達がインド洋からアラビアの陸上交易路への物資運搬に極めて重要な役割を演じた。一連の国々がアラビアの北の外れの交易を支配して発展し、陸上交易から生み出される豊かさが経済力と軍事力の両方の合わさった中央集権国家の発展を促した。その中でも一番名高いのはペトラ(Petra)に首都を置き、紀元前3世紀から西暦106年まで続いたナバテア王国(Nabataeans)である。この王国は西暦106年にローマに併呑されてしまったが、この様に高度に発展した国にはその他にも有名なアラブ女王ゼノビアで知られるパルミラ国もあった。この軍隊は270年代にローマの東部諸県を席巻した。
(注)ローマ帝国時代(紀元前30年から西暦200年、西暦476年 西ローマ帝国滅亡、西暦1453年 東ローマ帝国滅亡)
(注)アラブ女王ゼノビア(Zenobia、西暦267年から西暦272年)
(注)パルミラ国(the sate of Palmyra、タドモール(Tadmor)) 紀元前1世紀から3世紀までは、シルクロードの中継都市として発展。交易の関税により都市国家として繁栄。ローマの属州となったこともある。しかし、2世紀にペトラがローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ絶頂期に至った。西暦270年ごろに君臨したゼノビア女王時代には、エジプトの一部も支配下に置いていた。しかし、ローマ皇帝のアウレリアヌス(Lucius Domitius Aurelianus)は、パルミラの独立を恐れ、攻撃を開始。西暦272年に、パルミラは陥落し廃墟と化した。
1.2 東アラビア謎の都市国家ジャルア
この他にも「図-2 アラビアの隊商路」に示す様にナジラン(Najran)からカリヤト アル ファウ(Qaryat al-Faw)、ワディ ダワシール(Wadi Dawasir)へ抜け、空白地帯沙漠(Empty Quarter)の北限を通りアフラジ(Aflaj)およびカルジ(Kharj)を抜けてナジド沙漠の南を横断し、東アラビアへ至る隊商路も発達した。この路の終着駅は東アラビアの交易の重要な中心であったジャルア(Gerrha)であった。ジャルア(Gerrha)はイラク経由でアラビア湾から北西アラビアや東地中海(the eastern Mediterranean)に向かう物資の交易の陸路と海路の両方を支配していた。陸上交易路の発展によって紀元前一千年期初期には東部州の集落が復活した。アッシリア(Assyrian)の記録には紀元前750年から600年頃のディルマン(Dilmun)が引用してある。
都市国家ジャルア(Gerrha)はこの地方の交易権益の力強い復活で栄え、紀元前700年から紀元後の初めの数世紀に渡って東部州に覇を唱えた。知られている限りにおいてジャルア(Gerrha)は主として経済力のみで支配を確立していた。この都市が実在したのは同時代の地理学者や歴史家の記録や古代硬貨の発見によって確認されているが、その正確な実在位置に関しては謎に包まれている。
1.3 大規模な古代都市サジ
サジ(Thaj)はサウジアラビア王国内でも最大級の考古学遺跡の一つである。飛び抜けて大きな規模と繁栄を誇った町であるのが明らかにされて来た。この町はハサ オサシス(Hasa Oasis)からイラク南部に至る主要な交易路に位置し、ジュベイル(Jubail)からダハナ沙漠(Dahna sands)およびルマ(Rumah)井戸群を抜け、古代のハジル アル ヤママーへ通じるダールブ アル クンフリ(Darb al-Kunhuri)と呼ばれているもう一つの交易路と交差していた。これまでの限られた発掘でも陶器が豊富に出土して居り、この遺跡は恐らく紀元前4世紀後半に占有され、4世紀頃まで人が住み、紀元前300年から1世紀に掛けて繁栄していた事が分かっている。
(注)ハジル アル ヤママー(Hajr al-Yamamah、現在のリヤド(Riyadh)地区)
もちろん、交易の様式は時代毎に交易路としてのアラビア湾や紅海の相対的な優位性、陸路に沿った政治的状況や航海術の発達によって影響を受けていた。壊れやすい土着の縫い合わせた古来の舟は5月から9月に吹くインド洋の強い南西季節風に耐えられず、港に避難しなければ成らなかったが、紀元前100年頃のある時にギリシャの船乗りがこの南西の季節風を使えばエジプトから紅海を抜け印度まで直接航海し、船荷を積んでイエメンを通って再び戻れる事を発見した。直接航海が可能となった事で陸路を運ばれる交易量は影響受けては居たが、それでも陸上交易路を支えるには十分な程の交易量があった。イエメンからのアラビア横断交易が続いている限りは東部州の集落は交易の中でその役割を果たして居た。しかしながら交易からの収入が1世紀以降、東部州をバイパスするアラビア湾の海路による交易が始まって大幅に落ち込んでしまった。サジ(Thaj)やジャルア(Gerrha)の様な交易都市は以前の富をその覇権と共に失ってしまった。
後にローマ帝国は直接航海を奨励続けたがローマ帝国では3世紀に経済停滞が起きた。この経済停滞によって地中海世界での需要の落ち込み、特に西暦200年以降の香料交易の不振で陸上交易の繁栄も海上交易も打撃を受けた。
1.4 パルティア朝のアラビア湾交易
アラビア湾ではペルシャ(Persia)のパルティア朝(the Parthians)(紀元前140年から西暦225年)がメソポタミア(Mesopotamia)への海上交易を支配した。パルティア朝はその後継者であるササン朝(the Sasanians)に較べると海上交易に熱意が少なかったが、東アラビアの港に寄港する必要の無い直接航海の範囲を広げた。その結果、アラビア湾から地中海に至る交易路は1世紀に北方へ移動しジャルア(Gerrha)−アル カシーム(al-Qasim)−タイマ(Taima)の隊商路からチャラクス(Charax、バスラの南)とパルミラ(Palmyra)経由の隊商路に変わった。
(注)パルミラPalmyraはダマスカス北東215kmにあるオアシス。
(注)パルティア(the Parthian)はカスピ海南東部にアーリヤ人の言葉を話したすぐれた騎馬民族の長アルシャク(ギリシャ語形:アルサケス)がアレキサンダー大王(Alexander the Great)の後継者であるセレウコス朝(the Seleucids)から紀元前247年頃に独立して建てた王国で、前1世紀には東西はユーフラテス川からインダス川、南北はオクソス川(現アムダリヤ川)からインド洋にいたる大帝国( Iran, Iraq, Turkey, Armenia, Georgia, Azerbaidzhan, Turkmenistan, Afghanistan, Tajikistan, Pakistan, Syria, Lebanon, Jordan, Palestine and Israel)となり、シルクロードを支配した。おもな都市はセレウキア(Seleucia)とクテシフォン(Ctesiphon)である。前1世紀の中ごろからはローマとの戦闘がくりかえされ、西暦224年に、ササン朝(the Sassanid dynasty)の創始者アルダシール1世(Ardashir I)に征服された。中国史書ではアルシャクの中国音訳である安息(『史記』「大宛列伝」)と呼ばれる。
前述の様に3世紀にローマ帝国で経済停滞が起き、交易が打撃を受け、都市・集落が経済的に衰退した。その時期に遊牧生活が同時に発展した。南西アラビアから中央、東そして北アラビアへの一連の部族移住が行われ、東部州の部族の様相を劇的に変えてしまった。それでも定住民には食糧生産者および市商人として重要性が残って居た。パルティア朝(Parthians)は3世紀初めになっても東部州に総督を置いていた程には東部州の集落はイエメンとアラビア湾およびイラクを結ぶ交通網の重要な要所ではあり続けた。しかしながらアラビアの政治的な権力はますます部族戦士貴族に握られる様に成ってきた。
1.5 ササン朝とアラビア湾航路
パルティア朝(Parthians)に変わったペルシャ(Persia)王朝の一つであるササン朝(the Sasanids)(西暦225から636年)の台頭でアラビア湾に新たな鼓動が現れた。ササン朝(The Sasanids)はその首都をメソポタミア(Mesopotamia)のクテシフォン(Ctesiphon)に定めた。クテシフォン(Ctesiphon)は後のムスレム早期の征服者達にはマダ’イン(Mada'in)の名で知られていた。ササン朝(the Sasanians)の王アルダシール1世(Ardashir I)は西暦228年に東部州に侵入し、パルティア朝(Parthians)の総督を追い出し、その代わりにササン朝(the Sasanians)の総督を任命した。アルダシール1世(Ardashir I)は昔の都市カット(Khatt)の跡に新しい都市バトン アルダシール(Batn Ardashir or Pit Ardashir)を創設した。その場所は考古学的には特定できないが多くの学者が多くの史実からカティーフ(Qatif) オアシスの何処かであると考えている。ササン朝(The Sasanids)の政策は交易の競争相手である紅海航路を抑える為にアラビア湾航路のみならずインド洋航路を支配する事であった。この政策の実施する中でササン朝(The Sasanids)は東部州をその勢力範囲においた。
4世紀初期にこの土地が日照りに見舞われ、ハサ(Hasa)地区からのアラブ部族がペルシャの海岸地方を襲撃した。ササン朝の王(the Sasanian king)のシャプール2世(Shapur II)は西暦325年に反撃し、一連の遠征で東部州の主要部族を攻撃し、ペルシャに連行したり、移住させたりした。そこからさらに北に転じてローマのアラビア州(Provincia Arabia)辺境を脅かした。シャプール2世(Shapur II)の遠征はアラビアにおけるササン朝の反ローマ、反ビザンチン政策を明確に示した。
1.6 三大帝国勢力(ローマ、ペルシャ、ヒムヤライト)の鼎立
西暦300年以降、経済力を失った為にローマ帝国およびペルシャ帝国の国境地帯である北アラビアのアラブ諸族はますます隣り合う帝国勢力に支配されてしまった。ローマの後継者であるビザンティウム(Byzantium)は部族連合の首長である一連の戦士一門をメソポタミアのペルシャ(Persians)に対抗するビザンチン防衛組織に併呑し、援助を与えたり、指導者としての地位を授けたりしていた。
ローマ(Romans)とビザンチン(Byzantines)に対抗してペルシャ(the Persians)も似た様な政策を取った。ペルシャ(Persians)はアラブ ラクミド一門(Arab Lakhmid)を緩衝国として設立した。ササン朝(the Sasanians)はヒラ(Hirah)に首都を持つ強力な部族連合のラクミド(the Lakhmids)を従属首長として擁護した。ヒラ(Hirah)はユーフラテス(Euphrates)堆積地帯と境を接する北東アラビアの沙漠である。ここからラクミド(the Lakhmids)はイスラム以前の数世紀の殆どに渡って東アラビアの部族紛争に継続的に介入した。ササン朝(the Sasanians)としては東部州の紛争に直接介入する事も出来たし、イラクからラクミド(the Lakhmids)属国を使って間接的に影響力を行使する事も出来た。
南部では三番目の権力の中心が出来て居た。以前はバラバラに成って居た西南アラビアの都市国家を西暦300年にイエメン(Yemen)のヒムヤル王国(the Himyarite Kingdom)が統一した。ペルシャ(the Persians)の様にヒムヤル支配者(the Himyarite Rulers)も影響を及ぼす手段として中央アラビアの強力な部族連合を独立させ擁護する政策を取った。5世紀にこの部族連合キンダ(Kinda)は中央アラビアで自分自身の利益を追求できる程に十分強力に成って来た。6世紀初期にはキンダ王国(the Kindites)はラクミド(the Lakhmids)の首都ヒラ(Hirah)攻略するのに成功した。西暦528年までにはササン朝(the Sasanians)がラクミド(the Lakhmids)を復活させたけれどもキンダ王国は古代のアル ヤママ(al-Yamamah)で今日のリヤド(Riyadh)およびカルジ(Kharj)地域を領有し、短い期間ではあったがヒラ(Hirah) および東部州も支配した。
(注)ヒムヤル王国(Himyarite)は紀元前110年頃に建国された古代南アラビアの王国であり、紀元前25年にシバ王国(Saba)を倒し、西暦50年にはカタバーン王国(Qataban)、西暦100年にはハドラマウト王国(Hadramaut)を倒した。この王国は政治的にはシバ王国同様に盛衰を繰り返していたが、西暦280年頃に覇権が固まり、西暦525年までアラビア南西部で栄えた。その財政は農業と漁業で支えられ、その富は乳香と没薬の外国交易で得られていた。この王国は長年に渡り、東アフリカとローマ帝国等の地中海世界を結ぶ中継貿易の主要な役割も担っていた。アフリカ交易では象牙が主要交易品であり、ヒムヤルの交易船は東アフリカ海岸を航行し、東アフリカの港も支配していた。最後の支配者デュ ヌワス王(Dhu Nuwas、英名Tubba)はユダヤ教に改宗し、同王のヒムヤル王国内に居住していたエチオピアの(Ethiopian) のアクサム派キリスト教徒(Aksumite Christians)へ戦いを挑んだ。この戦いはナジラン(Najiran)の虐殺として有名であり、同王は更に、他のエチオピア人やヒムヤル人のキリスト教徒をザファール(Zafar)でも虐殺した。コンスタンティヌス ローマ皇帝(Emperor Constantine、西暦 306-337)はこの出来事をエチオピアのアクサム王国(Aksum)のカレブ王(King Kaleb)に通報し、対応を要求した。西暦525年頃にカレブ王はヒムヤル王国に侵入し、ユダヤ教のデュ ヌワス王を打倒した。この最初の勝利はアクサム王国の将軍アブラハ(Abraha)に奪われたが、アブラハはヒムヤル王国へのアクサム王国の宗主権を認めたのでその支配は西暦570年まで続いた。その後、イエメンの民(Yemenis)はペルシャ(Persians)と共同してアクサム王国が支配をする総督をペルシャ人総督に交代させたが、西暦632年にヒムヤル王国はイスラム教国に併合された。
1.7 アラビア湾交易へのビザンチン帝国の対抗
ササン朝(the Sasanians)はアラビア湾の両岸への支配の確立に非常に成功していた。これによってアラビア湾を通ってイラクに至るインド洋交易の覇権を作り上げた。これに対抗する為にビザンチン帝国(the Byzantines)は再度、紅海を通って印度へ至る航路の開発を目指した。この目的でビザンチン帝国(the Byzantines)はマッカ(Makkah)やナジラン(Najran)の様なアラビア半島西側の陸上交易路沿いの交易共同体に参加し、紅海に従軍し、キリスト教の定着していたエチオピア(Ethiopia)支配者と同盟した。必然的にイエメン(Yemen)は二つの相争う勢力のぶつかり合う地域となり、ササン朝(the Sasanians)はカルジ(Kharj)やワディ ダワシール(Wadi Dawasir)を抜け、東部州やナジド(Najd)南部を通る陸上交易路を支配する部族との関係を強化する事でその影響力を広める様に努力した。西暦570年までにササン朝(The Sasanids)は海からの侵攻し、イエメン(Yemen)をその支配下にした。イスラム以前の数世紀の間、アラビアにおいてササン朝(The Sasanids)はビザンチン(Byzantine)の影響に交易のみならず、政治的、文化的に対抗していた。
イスラム始まる少し前にササン朝(the Sasanians)はハサ オアシスのハジャールに総督を築き、東部州を直接支配しようとしていた。これはササン朝が西暦570年に海から侵略して征服したイエメン占領下ではアラビアの同盟部族を直接的に支配する必要があった為と思われる。総督はムシャッガール(Mushaqqar)と呼ばれる砦を占領した。
(注)ムシャッガール(Mushaqqar)はムハッリン(Muhallim)のアラビア語であり、大きな水路が設けられている場所としてアラブ族に知られていた。
1.8 イスラムのペルシャ遠征
7世紀初期に東アラビアは集落地域に対するペルシャ支配との不安定な関係の中、部族的にも不穏な状態にあった。西暦627から629年にイスラム教義受け入れの呼びかけが来た時、ハサ オアシス(Hasa Oasis)はアブド アル カイス(Abd al-Qays)の出のムンディール イブン サワ(Mundir ibn Sawa)とペルシャ総督の共同支配下にあった。ムンディールは素早く新しい教義を受け入れ、イスラムは急速に東部州に根を下ろした。
アル ハサ(al-Hasa)の内陸部はアラブ部族に支配されていたが海岸地帯は名目的にササン朝(the Sasanians)の統治下にあった。西暦632年に預言者が没した後に幾つかの部族は新しいイスラム国家に反逆し、西暦632年から634年にかけてアラビアを二分させた背信の戦い(Apostasy)、アラビア語でリッダー(Riddah)の戦いが行われた。戦いの終わりのかなり前からアル ハサへの脅威は北からバクル イブン ワ’イル(Bakr ibn Wa'il)とヒラ(Hirah)の前支配者の連合の形でやって来て、東部州は外に目を向け初めた。アブド アル カイス族(the Abd al-Qays)はペルシャ海岸に向けて海上遠征を行い、西暦649 - 650年のファールス(Fars)の攻略にも参加した。
1.9 ウマイヤ朝時代
イスラムがインド洋に広まるに連れてアル ハサは遠征の為に兵士や舟の提供で貢献した。海に向かった外への征服遠征の続く中で海岸とその後背地は内陸アラブ部族が支配を固め結束していた。それらの遠征の中に西暦660年代に行われた印度へのハサウィ遠征(the Hasawi expedition)があり、ハサ オアシスの主要都市ハジャール(Hajar)の出身者が指揮した。この遠征の戦利品の一つに象が居てダマスカス(Damascus)を根拠地にするウマイヤ朝カリフ(the Umayyad Caliph)のムアウィヤ(Muawiya)に送られた。ウマイヤ朝時代には北アフリカからイラクおよびイランに及ぶ単一国家であったイスラム国はダマスカスから支配されていた。アッバース朝以前の商業都市網は南西アラビアから広がり、マッカ、マディーナ(Madinah)、アル ジャウフ(Al Jawf)、ディーダン (Didan)、マダ イン サリー (Mada'in Salih)、タイマ (Taima')、グラヤト アル ファウ (Qaryat al Faw)そしてジャルア (Gerrha) 等を含む古代都市群であった。
(注) ウマイヤ朝(the Umayyad)はダマスカス(Damascus)を首都としたイスラム王朝(西暦661年から750年)、第4代正統カリフであるアリーとの抗争において最終的に政権を獲得したシリア総督ムアーウィヤが、西暦661年に自らカリフとなることにより成立し、その死後、カリフ位がウマイヤ家の一族によって世襲されたため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフのことを「ウマイヤ朝」と呼ぶ。
(注)マッカ: マッカ アル ムカッラマ ((Makkah al-Mukarrama)
(注)マディーナ: アル マディーナ アル ムカッラマ (Al-Madinah al-Mukarrama)はイスラム以前にはヤスリブ(Yathrib)と呼ばれていた。
(注)ジャルア(Gerrha): アラビア語ではアル ジャルア(al-Jarha)、アル ジャルア (al-Jar'a')
1.10 アッバース朝の遷都と隊商路の変化
ヒジリ暦132年(西暦750年)ウマイヤ カリフ朝の首都ダマスカスが陥落し、ウマイヤ朝を滅ぼしたアッバース朝はその首都をヒジリ暦145年(西暦762年)に新しく築いたバグダード (Baghdad)に遷都した。一旦、バグダードが中心に成ると、アラビア内部の道路や通商路の全体の体系が重大な変化を受けた。南アラビアから北へのルートよりはアッバース朝イラクのクファ (Kufah)からアル ヒジャーズ地方の聖なる都市であるマッカやマディーナへと直接向かう道が確保された。この大街道の確保によって聖なる都市にあふれた夥しい数の巡礼には多くの便宜を与えられた。このルートは今でもダールブ ズバイダ(Darb Zubaida、ズバイダ街道)として知られている。アッバース朝時代の交易はこれとは異なる道筋でアラビア湾から内陸へと陸路で来てイラクに至り、そして地中海やエジプト等西方に向かった。
(注) アッバース朝 (the Abbasids、西暦750年 - 1258年)は中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(749年 - 1258年)で都はバグダードであった。イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバースの子孫をカリフとし、最盛期には西はモロッコから東は中央アジアまで及んだ。
アッバース朝による西暦750年の奪権とイスラム国都のバクダット(Baghdad)への遷都は10世紀まで続くアラビア湾交易を新たな黄金時代へと導いた。それに先立ちアル ヤママ(al-Yamamah)を含む東アラビアへバクダット(Baghdad)から新たな総督達が任命され、アル ハサ オアシスのハジャール(Hajar)は主要な町として行政の中心に残った。この時代に印度および中国との交易にかかわったアラビア湾の港や商人達は莫大な富を築いた。特にペルシャ側のシラフ(Siraf)は繁栄したがオマーンのスハール(Suhar)の台頭や偉大な商人シュライマン(Sulayman)、スハール(Suhar)のアブ ウバイダー(Abu Ubaydah)等のアラブ商人の様にアラブ部族は交易の中でますます重要な役割を担った。これが船乗りシンドバッド(Sindbad)の物語に結びつくこの時代の商人、船乗りおよび為政者達の暮らしから生み出された話である。ハサ オアシス(Hasa Oasis)東岸のウガイル(Uqayr)は西暦840年代にバスラ(Basra)、オマーン、中国およびイエメンを訪れる為の港であった。アッバース朝国庫(the Abbasid treasury)への東アラビアの重要性はそこから徴収される非常に大きな歳入によって確認されている。オマーンよりも多く、殆どイエメン全体に匹敵して居た。
(注) シラフ(Siraf)はブシェール(Bushehr)の250km南東のペルシャ湾岸に位置するシルクロードの主要港であり、イスラム初期には極東や東アフリカとの貿易の重要な港であった。
1.11 カルマト派の支配
9世紀の後半にアッバース朝支配(Abbasid control)は崩壊し始め、イスラム世界は様々な反体制運動で引き裂かれた。反体制の多くはイスマイル派霊感であった。その一つであるカルマト派(Qarmatians)が西暦899年にカティーフ(Qatif)を占拠し、ザラ(Zara)を焼きそしてハジャール(Hajar)を攻略した。カルマト派(Qarmatians)は海岸地帯と内陸を緊密に結びつけ、その当時、南ナジドから東部州に移動して来た部族の支援を得てその支配と影響をイランやイラク南部に広げた。
10世紀の始めに北アフリカに興りエジプト・シリア一帯を支配したシーア派のファーティマ朝((Fatimid、西暦 909 – 1171年)がエジプトからシリアへの拡大してきた。このファーティマ朝を撃退するのにカルマト派(Qarmatians)はバクダッド(Baghdad)のアッバース朝を援助した。アッバース朝(the Abbasids)との協力は西イランに台頭したブイド王朝にも向けられた。西暦983年にカルマト派(Qarmatians)はイラク南部に侵入したが、西暦988年にブイド王朝に打ち負かされ、その根拠地のアル ハサ(al-Hasa)やカティフ(Qatif)が侵略された。
(注)カルマト派はイスラム教シーア派と称するイスマイル派霊感(the Ismailites from Hosain al-Ahwaz)の一派でHamden Qarmat(イラクの人)を主導者として組織されたが、11世紀末に消滅した。(詳しくはその1東部州の紹介の2.12 アルハサのカールマティア参照して戴きたい。)
(注)ブイド王朝(Buyid dynasty) 西暦942年にバクダッドを掌握したシーア派王朝で、西暦1055年まで一世紀以上もイラク中央部を支配した。
カルマト派(Qarmatians)は西暦988年の逆襲の後、東アラビアの支配を取り戻したが、その支配の最後の期間である西暦988年から1073年にはアラビア湾航路に対抗してのインド洋からの紅海交易とエジプトの台頭によりその勢力と繁栄が衰えた。
1.12 アブド アル カイス族のウユニド王朝
11世紀にセルジュークトルコ(Seljuq Turks、西暦1038 - 1194年)は急速にその支配をイラン、イラクおよびシリア北部に確立した。西暦1073年にアブド アル カイス族(the Abd al-Qays)がセルジュークトルコ(Seljuq Turks)の支援を得て、カルマト派(Qarmatians)を打ち破り、ウユニド王朝((Uyunids)を樹立し、西暦1253年まで支配を続けた。
(注)セルジュークトルコを建国したセルジュークは今日の西南トルコ人の先祖のオグズ(The Oghuz Turks)のセルジュークトルコ(Seljuq Turks)として知られた一支族の首長(the bey)であった。セルジュークは9世紀を中心に南ロシアの草原地帯で活動したアルタイ系遊牧民ハザル族軍(Khazar Army)の将校として経験を積んだ後、西暦1000年頃にセルジューク朝を建国した。伝承によればセルジュークにはミカイル(Mikaik)、ジュヌス(Junus)、ムサ(Musa)およびアルスラン(Arslan)と云う4人の息子がいた。ミカイルの息子のトグルル(Toghül)がペルシャ(Persia)を11世紀中頃に征服した。セルジューク朝はエーゲ海(Aegean Sea)から中央アジアに拡大し、アルプアルスラーン(Alp-Arslan、西暦1063-1072年、第2代セルジュークスルタン)の命令でアッバース朝からイスラム世界の支配を奪った。西暦1071年にはビザンチン帝国(the Byzantium Empire)皇帝ロマヌス ディオジェネス4世(Romanos Digogenes IV)をマンジケルト(Manzikert)で破り、アナトリア(Anatolia)への侵略を開始した。この西暦1071年が近代トルコの始まりの年であり、セルジュークはアナトリアン セルジューク スルタン国(Anatolian Seljuk Sulatnate)、オットマン帝国(Ottoman Empire)およびトルコ共和国の発祥と云える。
地方勢力としてのアル ハサの衰退とその結果的としての北の主要な政治の流れからの孤立がアル ハサ支配者の目をその海岸交易へと急速に向かわせた。この当時はアラビア湾の繁栄は下り坂に成っていたけれども交易はそれでもなお儲かり、ウユニド支配者(Uyunid ruler)はこの数世紀間のアラビア湾岸勢力の主要な中心であるペルシャ岸沖合にあるカイス島(Qays Island)のアラブ商人首長と対抗していた。
カティーフ(Qatif)は次第にウユニド王朝(Uyunids)の中心となり、ハサ オアシス(Hasa Oasis)はそこから支配を受けた。カティーフ(Qatif)は東部州の港としてウカイル(Uqayr)に取って代わった。当時はウワル(Uwal)として知られていたバハレン島(Bahrain Island)もウユニド王朝(Uyunids)に支配されていたが、12世紀を通じてカイス(Qays)の艦隊がバハレン島(Bahrain Island)やカティーフ(Qatif)を襲い、12世紀末にはウユニド王朝は海岸地帯の領地からの税をカイス支配者達(Qaysi rulers)と分け合わざるをえなかった。
1.13ウスフリド朝支配下でのアル ハサの繁栄
13世紀までにカイス族の権勢(Qaysi dominance)はアラビア湾入り口のホルムズ(Hormuz)の新しい海事勢力に脅かされ始めた。西暦1253年にウユニド王朝(Uyunids)に代わったアル ハサ(al-Hasa)のウスフリド支配者達(Usfurid rulers)はこの時にはホルムズ(Hormuz)からの挑戦に対抗する為に自らカイス族(Qays)と同盟した。こうしてウスフリド朝(Usfurids、西暦1253 - 1440年)は東部州に繁栄をもたらした。14世紀初期までにそのナツメ椰子の実、真珠および特に馬は印度への国際交易でこれまでよりも大きな需要が出て来た。
西暦1330年代にカイス族(Qays)は遂にホルムズ(Hormuz)へアラビア湾交易の支配を譲った。しかしながら東部州はこの変化での影響は殆ど受けなかった。ホルムズ(Hormuzis)はその支配をバハレン島(Bahrain Island)やカティーフ(Qatif)の及ぼそうとしていたが、その支配は有効ではなかった。ウスフリド朝(Usfurids)はカティーフ(Qatif)からの支配で独立を保ち、アル ハサ(al-Hasa)の生活は適当に繁栄した水準を保ち続けていた。これに続く世紀でも交易環境は改善し続け西暦1400年迄にはアラビア湾は商業の繁栄した新しい時代に入ろうとしていた。印度や中国からの物資が再びイラクへと大量に送り出され、ホルムズ島は交易勢力としては西洋では伝説となったその絶頂期を迎えた。
1.14 沙漠の出身部族のジャブリド王朝
西暦1440年にウスフリド朝(Usfurids)はその支配をハサ オアシス(Hasa Oasis)周辺の沙漠の出身部族の王朝ジャブリド((Jabrids)、西暦1440 - 1524年)に譲った。ジャブリドの強い集権支配と当時の東アラビアの良好な環境条件および持続したアラビア湾交易の増加が結びつきアル ハサ(al-Hasa)に繁栄をもたらしていた。西暦1498年に喜望峰(the Cape of Good Hope)を回ったポルトガル(the Portuguese)は東アフリカ、南アラビアおよび印度での根拠地を確立した。ポルトガルは西暦1515年にホルムズ(Hormuz)も攻略し、バハレン(Bahrain)を占領した。ポルトガルはさらにカティーフ(Qatif)を略奪し、ジャブリ支配者(the Jabri ruler)を殺害した。この為にジャブリド国(the Jabrid state)は末期的に弱まり、西暦1524年にバスラ(Basra)支配者のラシッド イブン ムガミス(Rashid ibn Mughamis)の餌食と成った。アル ハサ(al-Hasa)とバハレン(Bahrain)は事実上、オスマントルコ(Ottoman Turkey、西暦1299年 から1922年)、イランのサファビー朝(Safavid dynasty、西暦1502年から1736年)およびポルトガル三国の三竦みの国際紛争に巻き込まれた。
1.15 オスマン帝国とポルトガルの対抗
西暦1534年から1546年の間にオスマン帝国(the Ottomans)はバスラ(Basra)を占領し、バスラと紅海のスエズ(Suez)との両港からポルトガル(the Portuguese)に対抗してアラビア湾を巡回する海上艦隊を組織した。西暦1549年にオスマン帝国(Ottomans)はアル ハサ(al-Hasa)に移り、まずカティーフ(Qatif)を占領し、内陸に移動した。砦がウカイル(Uqayr)とカティーフ(Qatif)に交易を防御する為に建てられた。オスマン帝国(the Ottomans)は自らがラハサ(Lahsa)と呼ぶホフーフ(Hofuf)を新しい州の州都に選んだ。16世紀の最後の年までにオスマン帝国(the Ottomans)はポルトガル(the Portuguese)からアラビア湾および紅海の交易支配をもぎ取るのは出来なかったけれどもオスマン帝国(the Ottomans)はアル ハサ(al-Hasa)の統合支配には成功した。オスマン帝国(the Ottomans)のホルムズ(Hormuz)税関の歳入はポルトガル(the Portuguese)権益がアラビア湾交易を完全に妨げては無く、オスマン帝国(the Ottomans)もアラビア湾に向かう交易ルートからの利益を得て居た事を意味する。
(注)オスマン帝国(the Ottomans)はトルコ系の王家オスマン家を君主に戴き、現在のトルコの都市イスタンブールを首都として、西はモロッコから東はアゼルバイジャンに至り、北はウクライナから南はイエメンに至る広大な領域を支配した多民族帝国(西暦1299年 - 1922年)であった。
西暦1600年までに武力による交易の実施は「会社の時代」に道を譲った。英国西印度会社の様なイギリス、オランダおよびフランスの商人協会は威圧よりも協定によって土着の支配者との商売を模索した。西暦1622年にイギリスとペルシャはポルトガル(the Portuguese)をホルムズ(Hormuz)から駆逐した。ポルトガル(the Portuguese)はアラビア湾での交易は続けたけれどもポルトガル(the Portuguese)は真珠と見事なアラビア馬をカティーフ(Qatif)の首長(the shaykh)から買い取って印度で売って居たとの記録があるだけで限られた範囲であった。西暦1630年から1700年の間のアラビア湾交易ではオランダが圧倒していた。その後は英国東印度会社が覇権を確立した。その一方でオスマン帝国(the Ottomans)の勢いは衰退気味であった。西暦1600年以降、主として資金不足の為にアル ハサ(al-Hasa)に対するオスマン帝国(the Ottomans)の支配力は弱まり、地方支配者の再現への道を作ってしまった。西暦1620年以後、ペルシャ(the Persians)がバスラ(Basra)を攻略した時にこの州はイスタンブール(Istanbul)の直接財政支援を絶たれた。それでも、バニ カリド族(the Bani Khalid tribe)のアル フマイド一門(the Al Humayd clan)が要塞の居残りを放逐した西暦1680年まではオスマン政府(Ottoman government)は切り詰めながらも行政を続けていた。
1.16 バニ カリドの統治と第一サウジ公国
バニ カリド族(the Bani Khalid tribe)は北のバスラ(Basra)から南のカタール(Qatar)まで沙漠全体を支配した東アラビアの強力な勢力であった。この部族には遊牧と定住の両方のグループが居た。アル フマイド(Al Humayd)はアル ハサ(al-Hasa)の地方的、伝統的な部族支配を回復し、バニ カリド族(the Bani Khalid tribe)はホフーフ(Hofuf)の少し外側のムバッラズ(Mubarraz)にその統治の中心を置いた。今日、ムバッラズ(Mubarraz)はこのオアシス第二の町であるが当時は隊商が泊まる場所で部族の幕営する地区に過ぎなかった。行政の必要からアラビアの町の遊牧民による他の占拠の様にもっと恒久的な施設が必要となり、ムバッラズ(Mubarraz)の大要塞もこの時代に建てられている。ハサ オアシス(Hasa Oasis)は強力な地方勢力として残ったが、バニ カリド族(the Bani Khalid tribe)の支配下ではその権益は海岸と離れてしまった。17世紀の間に南ナジド(Najd)から来た一門のグループの一つであるウツブ(Utub)が東アラビアに移住し、バニ カリド族(the Bani Khalid tribe)に追従する関係を築いた。18世紀初めまでにウツブ(Utub)はクウェイト(Kuwait)に居住し、繁栄した海上交易に転換を始めた。西暦1766年にウツブ(Utub)はカタール(Qatar)の海岸のズバラ(Zubarah)に根拠を置き、西暦1782年にバハレン(Bahrain)の支配を手に入れた。今日のクウェイト(Kuwait)およびバハレン(Bahrain)の支配者家族はこのウツブ('Utub)一門の子孫である。
その間、ハサ オアシスは陸への志向が保たれて居た。ウヤイナ('Uyaynah)で広まりつつあった宗教勢力の保護、改革運動とウヤイナ('Uyaynah)に敵対するディールイイヤ(Dir'iyyah)のサウド家(the House of Saud)の勃興を西暦1745年以降に妨害する試み等、18世紀の中央アラビアの出来事にバニ カリド族(the Bani Khalid)は重要な役割を担った。改革運動はムハッマド イブン アブド アル ワッハブ(Muhammad ibn Abd al-Wahhab)が主唱する浄化されたイスラムの形式であった。しかしながらバニ カリド族(the Bani Khalid)はこの運動の軍事的進行の抑制に失敗し、西暦1790年のカティーフ オアシス(Qatif Oasis)南のグライミル(Ghuraymil)での戦いに敗北してしまった。この様にして東部州は第1次サウジ公国に編入され、ホフーフ(Hofuf)の要塞は修理拡張された。
これらの出来事に対するオスマン帝国の反応はアル ハサに現れた。ムンタフィク首長(the Muntafiq chief)のテュワイニ(Thuwayni)に指揮された遠征軍はアル ハサに到着する前にテュワイニ(Thuwayni)が暗殺され頓挫した。西暦1799年に2回目の遠征はもっと良く組織され、ホフーフを陥落させ、ムバッラズ(Mubarraz)のカスル サフド(Qasr Sahud)に残ったサウジ守備兵を撃退する為に攻撃し始めた。カスル サフド(Qasr Sahud)の防衛は英雄的、耐久的な多くの偉業の中でも傑出して居り、この防衛によってアラビアの部族戦士は公平に見ても有名に成って来た。包囲軍が1万から1万2千人を数えたのに防衛軍は100人にも満たなかった。しかしながら防衛軍はおよそ5ヶ月間実際に大砲や木製の塔を使った爆撃、城壁下のトンネル等のあらゆる攻城技術を駆使した絶え間ない攻撃に抵抗した。完全に士気を挫かれ包囲軍は絶望してこのオアシスの占拠を放棄してイラク(Iraq)へ引き上げた。
アル ハサはサウジ公国の海への出口として機能し、これによって取り分け東印度会社および結局は英国と最初の国際的関係となる接触を持った。英国はアラビア湾を通っての印度への安全な通行を目的にして居た。それにはアラブの節度の無い略奪者の抑制、徹底的な海洋調査およびオスマン帝国との良好な関係保持を一般的な政策としていた。バスラ(Basra)近郊のズバイル(Zubayr)と共にアル ハサもそこを通過する東および中央アラビアに急速に現れた主として織物や火器等の物資の出入り口であった。
涸れ谷ルマ/バータン(Rumah)を通ってカシーム(Qasim)からハファル アル バーティン(Hafar al Batin)経由でバスラ(Basra)に至る隊商路はアラビアを代表する交易路の一つであり、「これが旧約聖書に記載されているエデンの園(the Garden of Eden)に注ぐ4つの川の一つのピソン (the Pishon)だ」との仮説がある。この仮説には「涸れ谷アル バーティン/ルマの上流は古代からの黄金の産地マハド アド ダハブ (Mahd adh Dahab) と縞瑪瑙の採れる涸れ谷アル アキーク (Wadi al Aqiq) の地域を流れていた」との多少無理な解釈もして居り、問題もある。しかしながら、この仮説はこの隊商路の重要さを示すと共に参考になる記述もたくさんあるので、ここではキャロル A. ヒル(Carol A. Hill)のこの仮説に対する調査報告書(Perspectives on Science and Christian Faith, March 2000)を紹介してみたい(「図-4 エデンの園への隊商路」を参照)。
2.1 エデンの園に至る隊商路
エデンの園 (the Garden of Eden) にノア (Noah) の洪水以前に流れ込んでいたピソン川 (the Pishon) 、ギホン川 (the Gihon) 、ヒッデケル川 (the Hiddekel) およびユーフラテス川 (the Euphrates) の四つの川が実在した事を証明する作業の一部として「ピソン川 (the Pishon)、ギホン (the Gihon) およびヒッデケル (the Hiddekel) はそれぞれ、涸れ谷アル バーティン (Al-Batin)、カルン川 (the Karun River)およびチグリス川 (the Tigris) であり、チグリス川 (the Tigris) とユーフラテス川 (the Euphrates) は現在と殆ど同じ河川敷を流れていた。その当時は四つの川の合流点はアラビア湾の奥にあったが、その位置は今日では内陸に成ってしまっている」との仮説をキャロル A. ヒルは立てた。
キャロル A. ヒルは旧約聖書の記述を「エデンの園はユーフラテス川とヒッデケル川(チグリス川)がアラビア湾に流れ込む南イラクの何処かにあった。この二つの川は現在の地形でも南イラクへと流れている。他の二つの川が今は涸れた川床であっても創世記の時代には4つ全ての川がまだそこに流れて居た。紀元前4,000年頃の合流点は今では内陸に成っているが、アラビア湾の昔の岸辺である。旧約聖書には『ピソン川 (Pishon) はハヴィラ (Havilah) の全ての土地を流域とし、そこには黄金があった。2番目の川の名はギホン川 (Gihon) でクシュ (Cush) 全土を流域とした。3番目の川の名はヒッデケル川 (Hiddekel) でアッシリア (Assyria) の東を流域とした。そして4番目がユーフラテス 川(Euphrates) である』と記載されている」と解釈している。
2.2 ハヴィラの土地とピソン川の位置
「現在ではサウジアラビアの西の山脈からアラビア湾の奥に向かって流れ下る川は無いが、かつてはサウジアラビアを横断して一年中その様な川が流れていた。今のサウジアラビアでは年間に10cmしか雨が降らないが3万年前から2万年前の間はおよび1万年まえから6千年前に間は気候が今日よりももっと湿潤であった。紀元前3,500年頃でさえ、今日では世界一大きな砂沙漠であるサウジアラビアの空白地帯沙漠に古代湖が存在した。幾分乾燥してはいるがそれでも湿潤な時期が紀元前4,000年から2,350年の間にあり、紀元前2,350年から2,000年のもっと乾燥した時期に引き継がれた。それから紀元前2,000年頃に気候は極端に乾燥しアラビアの川は干上がってしまった」とキャロル A. ヒルは述べている。
「川は乾燥しても流れている」と云う論文(The River Runs Dry)の中でジェームス サウアー (James Sauer) は「衛星写真が涸れ谷アル バーティンに沿って埋もれた川床を見つけた」と記述し、この川を「旧約聖書に書かれたピソン川である」と特定した。これを引用して「今日よりも湿潤な気候であった頃にかつてはこの川に水が流れており、涸れ谷アル バーティン/涸れ谷ルマ水系 (the Wadi al Batin / the Wadi Rumah) はサウジアラビア/クウェイトの112,400km2を流域にしていた。現在は乾いた涸れ谷アル バーティンはクウェイトのウンム カスル (Umm Qasr) からアラビア湾に注いでいるが、昔、ピソン川はユーフラテス/チグリス川盆地のウンム カスルの北からアラビア湾に入っていた。この証拠がサウジアラビア東部州北部からクウィイトに広がるディブディバ地域(the Dibdibah area)の丸石や小石で出来た扇型の三角州礫原である。この平らな礫原はアル カイスマ (Al Qaysumah) 地区を頂点とし北へとユーフラテス川まで広がっている。この砂礫の平原の丸石と小石は結晶構造の岩から構成されている。これらはサウジアラビアの西部山脈から運ばれた岩の特徴であり、その結晶構造の石は湾岸に近づく程、寸法が減ってくる。この事実が丸石の根源はサウジアラビアの南西部であり、かつて十分な水量がピソン川を流れ、岩の破片を西部高地からチグリス/ユーフラテス川盆地にまで運んでいた事を地質的に示している」とキャロル A. ヒルは述べている。
キャロル A. ヒルは更に「ウンム カスルのアラビア湾から現在は干上がった涸れ谷アル バーティンの上流は南西方向にクウェイトの国境を越えサウジアラビアに入る。そこでは流れが第三紀の石灰岩と砂岩の堆積岩台地を削っていた。それからアル ハティファ (Al Hatifah) 通り過ぎ、乾いた川床は北東からウンム アシャール アシュ シャールキヤ村(Umm Ashar Ash Sharqiyah)付近でダハナ沙漠(Dahna)の膨大な砂丘の広がりに飲み込まれ、姿を消してしまう。衛星写真は涸れ団アル バーティンが砂丘の下を通って南西に伸び、涸れ谷ルマと成って出現している事を示している。すなはち、この両方の涸れ谷は砂丘で被われる以前は同じ川の水系であった。ダハナ沙漠の砂丘地帯から地上に現れた場所から約80マイル (129km) 上流方向で涸れ谷ルマは北西に涸れ谷カハド (the Wadi Qahad) 、南西に涸れ谷アル ジャリール (the Wadi al Jarir) に分かれる。涸れ谷アル ジャリールは勾配を登り、まさに旧約聖書が『ピソン川はハヴィラの全ての土地を流域とし、そこには金が産出する』と言っている通り、マハド アド ダハブ金山 (the Mahd adh Dhahab gold mine) 地域まで続いている」と述べている。キャロル A. ヒルは「ジェームス サウアーはその文章の中に『この川は紀元前3,500年から2,000年の間に干上がってしまったのであるから旧約聖書の著者はこの様に並外れて、古い過去の記憶を持っていた』と述べている」とも引用している。
(注) 「涸れ谷ルマは涸れ谷カハドと涸れ谷アル ジャリールに分かれる」とキャロル A. ヒルは述べているが、涸れ谷アル ジャリールと分かれるのは涸れ谷ルマの本流であり、その上流部枝沢の一つが涸れ谷カハドである。
(注)涸れ谷ルマの支流の涸れ谷アル ジャリール (the Wadi al Jarir)はリク アル アスワド山(Jibal Rik Al Aswad)とアル マールワ山(Jibal Al Marwah)が連なる山稜に阻まれてマハド アド ダハブ金山 (the Mahd adh Dhahab)までは至って居ない。但し、涸れ谷アル ジャリールの上流からこの山稜の南を抜けてワハバ火口(Wahba crate)で知られたキシャブ溶岩地帯(Harrat Kishab)の北を通ってマハド アド ダハブ金山への踏み跡(trail)は現在でもある。従って、「この表現が間違いだ」とは言えないまでも距離的には150kmあるので正しいとも言えない。「マハド アド ダハブ金山 (the Mahd adh Dhahab gold mine) 地域まで続いている」との表現が余りに短絡的であるので「キャロル A. ヒルはこの辺りの地形を正確に認識していないか、資料が無かったのだ」と思う。
2.3 マハド アド ダハブ金山
マハド アド ダハブ金山(the Mahd adh Dhahab)についてはキャロル A. ヒルは次ぎの様に述べている。
逐語的に金の揺り籠(Cradle of Gold)を意味するマハド アド ダハブ (the Mahd adh Dhahab) は古代世界では最も大きく、もっとも豊かな金鉱であった。これは旧約聖書に書かれた伝説的なオプヒール (Ophir、金や宝石に富む土地) であり、ソロモン大王 (King Solomon) の金の源と考えられていた。古代の選鉱場の数に基づいて鉱山技術者は「マハド アド ダハブ鉱山では古代に約30トンの金を生産していた」と推定している。この鉱山はソロモン王 (King Solomon、紀元前961年から紀元前922年)とアッバース朝カリフェイト(the Abbasid Caliphate、西暦750年から西暦1,258年)に採鉱されて居たし、採掘方法は変わっているにせよ現在でも採鉱されている。
(注)1997年3月23日設立されたサウジアラビア国営鉱業会社(マアデン)の年間金生産量目標は10トンであるが、アス スカイビラト(As Sukhaybirat)、アル アマール(Al Amar)、ワディ ビダ(Wadi Bidah)、アル ハジャール(Al-Hajar)、アド デュワイヒ(Ad Duwayhi)、サムラン(Samran)、シェイバン(Shayban)、ザルム(Zalm)およびハムダ(Hamdah)の金鉱床を含めてもマハド アド ダハブ鉱山が金生産の主力鉱山であるのは今でも変わり無い。
マハド アド ダハブ鉱山は伝説のソロモン王の鉱山であり、この鉱山は又、旧約聖書に記載された「良い金」の源でもある。旧約聖書によればマハド アド ダハブ鉱山はソロモンの時代よりずっと早く、イスラエル民族の祖先アブラハム(Abraham)の時代或いはそれ以前から採掘されて来た。1973年に行われた溝掘り発掘でマハド アド ダハブ鉱山に残されている豊かな土壌はマハド アド ダハブ山の南東の中腹にある幾つかの古代溝の中やこの山から流れ出す幾つかの谷の中にある事が分かった。これらの古代の侵食溝が地表に砂金採掘場を作り出し、金を堆積させた。ソロモン王の時代以前にはこの様な方法で金を採掘していたが、この採集方法では採鉱活動の痕跡を殆ど残らなかった。
黄金はウルク時代(the Uruk Period、約紀元前3,500年)のメソポタミア (Mesopotamia) で突然、考古学的記録に現われた。小さな様々な黄金装飾が紀元前3,500年頃の南イラクの地層から発見されている。例えばウルクでは白い神殿 (the White Temple) の下の層の中から黄金装飾が見付かった。しかしながら早期の第3王朝時代(約紀元前2,500年頃)までは金、金鉱石(electrum、金60-70%と銀30-40%)、銀及び銅の使用は目覚しく増えている事はウル (Ur) の王族の墓にこれらの金属が大量に見付かることから証拠付けられる。メソポタミアにはその様な金属はまったく無いので交易関係を通じて手に入れていたとすれば、交易相手はウル (Ur) やウルク (Uruk) に最も近い金山マハド アド ダハブであったに違い無い。
マハド アド ダハブ鉱山の金はその殆どが石英の鉱脈に入っている金銀鉱石 (electrum) として採鉱された。金以外にもこの鉱物からは夥しい量の銀、銅、亜鉛および鉛が生産された。金の挟みを持つ石英鉱脈が先カンブリア紀 (Precambrian) の火山岩系および堆積岩系のマハド アド ダハブ鉱山に貫入している。鉱脈の石英は典型的に結合しており、帯状石英結晶の鶏の鶏冠に似た構造を見せている。玉髄 (chalcedony) および珪石 (chert) は一般的に石英 (quartz) の鉱脈に伴うのが一般的である。珪石は帯状で赤、白、緑、灰色および茶色など様々な色を持つ。
(注)玉髄 (chalcedony)は火山性隠微晶質石英であり、珪石はほとんどが無水珪酸からなる硬い堆積性石英である。玉髄の内部には石英の微結晶は網の目状に集合しており、結晶の間には非常に小さな隙間が存在している。そのため、玉髄の密度は石英よりやや小さく、2.55〜2.64程度である(石英は2.65)。玉髄は地表あるいは地表近くで二酸化ケイ素に富んだ低温溶液から生成し乳白色ないし白色のものが多いが、酸化鉄が混ざっているためにピンク色を呈する事もある。玉髄には形状や色彩により宝石としての特別な名称で呼ばれるものが存在し不純物が多くて濃色のものは碧玉(へきぎょく)と呼ばれ、また、色や透明度の異なる縞模様を示すものは瑪瑙と呼ばれている。従って、キャロル A. ヒルがここでは玉髄 (chalcedony) および珪石 (chert)を混同しているが、瑪瑙の話なのでここでの珪石 (chert)は玉髄 (chalcedony)と読むべきである。アラビア半島の生い立ちからアラビア楯状地にカンブリア紀 (Precambrian)の堆積岩が存在するのは事実であり、実際にヒジャーズ/アシール山系の山頂地域に典型的堆積岩である砂岩が露出している場所は少なくない。キャロル A. ヒルが述べている様に先カンブリア紀 (Precambrian)の堆積岩の存在を否定する事は出来ないが、隠微晶質火山性石英と無水珪酸質堆積性石英は区別すべきである。
2.4 縞瑪瑙石
縞瑪瑙石ついてもキャロル A. ヒルは次ぎの様に述べている。
旧約聖書に記述されている縞瑪瑙石の源を特定するのが簡単ではないが、旧約聖書には幾つかの箇所で貴石はアラビアからイスラエルに黄金や香料と共に運ばれて来た事が述べられている。今では準貴石としか考えられていないけれども「当時は縞瑪瑙石が貴重であると考えられていた」のを示している。縞瑪瑙 (onyx) 、瑪瑙 (agate) 、紅玉髄 (Carnelian) は全て玉髄 (chalcedony) の種類であり、隠微晶質水晶(a cryptocrystalline (very finely crystalline) variety of quartz)は非常に繊細に結晶構造を持つ石英の種類である。時には”cornelian”とも綴られる紅玉髄 (Carnelian) は赤み掛かった茶色から肌色まである紅玉髄 (Carnelian) の結合してない種類である。これはビーズ作り等では瑠璃 (Lapis lazuli) についで2番目に評価され、メソポタミアでは尊重される材料である。紅玉髄 (Carnelian) はウル (Ur) およびジェムデト ナスル (Jemdet Nasr) の考古学的記録(紀元前3,200年から3,000年)に現われている。これは又、金、銀及び瑠璃 (Lapis lazuli)と共に第IIから第III王朝初期(紀元前2,650年から2,500年)の墓場の約20%で出土する。
紅玉髄 (Carnelian)の交易場所は現在のバハレン(Bahrain)であるディルマン (Dilmun) とパキスタンのインダス渓谷のハラッパ (Harappa) の古代遺跡であった。ハラッパ (Harappa) の刻みを入れた紅玉髄 (Carnelian) のビーズは頻繁にシュメール (Sumer) に輸出されていた。旧約聖書では縞瑪瑙 (onyx) 、紅縞瑪瑙 (sardonyx) および瑪瑙 (agate) はアラビア半島で見出されると述べられているが地質学者はこれを証明するに至っていない。アルベルトス マグナス (Albertus Magnus) (西暦1280年没)はその著書の鉱物の本 (Book of Minerals) の中で「縞瑪瑙 (onyx) は黒い色をした宝石であると言われている。黒く白い筋の通った黒くもっと品質の良い種類が見付かっている。これはメディナとアラビアで産する」と言って居る。又、同じ本の中で「紅縞瑪瑙 (sardonyx) はアラビアで頻繁に見付かっている」とも述べている。ダナ(Dana)の鉱物学の体系(System of Mineralogy)では古代にはアラビアの一部であったイエメンのモチャ (Mocha) からのコケ瑪瑙 (moss agate) を紹介している。
「どの様な形の玉髄 (chalcedony) も古代には好まれ、考古学的にはおよそ紀元前4,000年から紀元前3,200年頃以前のメソポタミア (Mesopotamia) から見つかっている。玉髄がアラビアの西沙漠、特にマハッド アド ダハブ (Mahd adh Dhahab) から涸れ谷アル アキーク (Wadi al Aqiq) 地域で採集される事は知られている。マハッド アド ダハブ (Mahd adh Dhahab) では見えない結晶構造石英 (cryptocrystalline quartz) に玉髄 (chalcedony) が形成され、大きな塊になるほど不透明でチャート(珪質堆積岩の一種、chert)と呼ばれる種類の岩になる。チャートは色の帯がされていて、縞瑪瑙 (onyx) の一種と考えられていた。アキーク (Aqiq) がアラビア語で瑪瑙 (agate) を意味することが特に重要だろう。瑪瑙 (agate) の鉱山も無いのにどうしてある地方に瑪瑙 (agate) の名が付いたのか不思議である」とキャロル A. ヒルは述べている。
(注)キャロル A. ヒルは「結晶構造石英 (cryptocrystalline quartz) に玉髄 (chalcedony) が形成され、大きな塊になるほど不透明でチャート(珪質堆積岩の一種、chert)と呼ばれる種類の岩になる」と述べているが瑪瑙は溶岩地帯び出来る空洞で形成される隠微晶質石英なので堆積性石英のチャートとは結びつかない。これはキャロル A. ヒルの誤解であると考える。
(注) 涸れ谷アル アキーク (Wadi al Aqiq)は二つあり、ひとつはマハッド アド ダハブ (Mahd adh Dhahab)の西でマディーナ(Al Madinah Al Munawwarah)から南へタイフ(Al Taif)へと南北に並ぶラハト溶岩地帯(Harrat Rahat)北端の西を北へマディーナに流れる涸れ谷アル アキークで、もう一つはこのラハト溶岩地帯の東をタイフに近い南端を南へと流れる涸れ谷アル アキークである。ここで引用している涸れ谷アル アキークは前者であると考える。そうだとすればここで述べられている地域はラハト溶岩地帯の北端部を指している。キャロル A. ヒルは「鉱山も無いのにアキークの名が付いているのは不思議だ」と述べているがサウジアラビアの溶岩地帯では溶岩トンネルが出来やすく、従って溶岩の中に瑪瑙等の鉱物結晶を作り出す熱水蒸気を封じ込める空洞が出来る確立は多いので瑪瑙を意味するアキークとの名が付くのはむしろあり得る。
1991年代にスーダンに移住したオサマ ビン ラーデン(Osama bin Laden)が1991 年のスーダン移住後、スーダンのゴム、トウモロコシ、ヒマワリ、ゴマなどの輸出をほぼ独占していた涸れ谷アルアキーク会社(Wadi al-Aqiq Company, Ltd.) と云う貿易会社を持ち、この会社の利益も同じくオサマの土木会社アルヒジラ(al-Hijira)等と共にアルカエダ(Al Qaeda)の資金源になっていた。アラビア語のアキークには渓谷(canyon、gorge、ravine) と紅玉髄(carnelian-red)の意味があるが、オサマがこの涸れ谷の名を自分の企業に名づけたのは「渓谷」の意味では無く、この谷が聖地に近い上に、イスラムでは非常に貴重な石と考えられて居る「紅玉髄」の意味だったのだろう。
2.5 偉大なアラビアの香料の道
乳香の道についてはキャロル A. ヒルは次ぎの様に述べている。
乳香(Frankincense)や没薬ベデッリウム(Bdellium)が最初に古代世界で一般使われ始めた時期はハッキリしないがこれらの交易は二つの事柄の密接なつながりであった。二つの事柄とはアラビアの乳香(香辛料)の道の確立と駱駝の家畜化で、乳香の道の交易が盛んであった間、巨大な隊商が重い足取りで貴重な香辛料やその他の物資を北方の寺院、中庭や市場へとアラビア半島を縦断して運ぶ為に行き来していた。恐らく、この様にシバの女王 (the Queen of Sheba) がソロモン王 (King Solomon) の中庭へ駱駝で金、貴石、香辛料運びながら訪れた。「そして彼女は王に120タレント (talent) の金を非常に大きな石の香辛料と貴石と共に献上した。シバの女王がソロモン王に献上したような豊富な香辛料は二度と運ばれる事は無かった」と記述されている。
シバの女王は現在のイエメンで古代のマリアバ (Mariaba) であるマリブ (Marib) から来た。マリブは繁栄した大きな隊商の町で古代シバ王国 (the ancient Kingdom of the Sabaeans) (サバ (Saba) は旧約聖書のシバ (Sheba) を意味する。)の首都であった。マリブはアデン湾 (the Gulf of Aden) に沿って南から始まり、北へとマリブ、ナジラン (Najiran) を経て、アブハ (Abha)、ビシャ (Bisha) およびメッカ (Mecca) へと続く古代隊商路の上に在った。メッカで古い乳香の道は分かれ、その西へ向かう道はジョルダン (Jordan) 、イスラエル (Israel) およびエジプトへ、東へ向かう道はマハド アド ダハブ (the Mahad adh Dhahab) 金山(鉱山の井戸ビール マディド (Bir Madid) )、北東へ涸れ谷ルマ (the Wadi Rumah) を下りブライダ (Buraydah) それから涸れ谷アル バーティン (the Wadi al Batin) (Pishon River) に沿ってメソポタミア (Mesopotamia) へと行く。ハヴィラ (Havilah) の土地およびピソン川 (the Pishon River) からイエメン産のベデッリウム(没薬の一種)、涸れ谷アル アキーク(Al Aqiq)-マハド アド ダハブ地区産の縞瑪瑙 (onyx) およびマハド アド ダハブ(Mahd adh Dhahab)産の金が旧約聖書に暗示されている様にメソポタニアに運ばれた。
2.6 駱駝の隊商
駱駝の隊商が始まった時期についてはキャロル A. ヒルは次ぎの様に解釈している。
旧約聖書に記述されている産物に関してはアラビア半島の香辛料の道に沿った交易は始まった時期の特定が一番核心となる問題である。紀元前1100年前までに交易は十分に行われ、紀元前950年頃にソロモン王へのシバの女王の訪問があったと学者達は同意している。アラビアの乳香の道に沿った交易が始まったかはアラビアで何時、駱駝 (Camelus dromedarious) が家畜化されたか次第である。乳香の道は非常に乾燥した荒れ果てた地域を通っており、駱駝のみが適して居り、重荷に耐えても驢馬の様な動物は適して居なかった。駱駝が家畜化された時期については学者の間で定説は無い。古代の明白な考古学的な証拠が無い事が主な理由で、多くの学者は紀元前1300年から1100年頃だろうと思って居る。しかしながら、他の学者は駱駝の家畜化はこれよりも遥か以前の紀元前2000年から3000年或いはもっと早期だとの証拠を引証している。
旧約聖書はそれ自身が駱駝家畜化のだいたいの日付を証明して居り、それによればアラビア半島の乳香の道に沿って金、貴石およびベデッリウム等の品目が輸入された。ジョブ記 (Job) はシバの隊商とテーマ (Tema) 間の結びつきを暗示している。旧約聖書にはアブラハム (Abraham) が生きていた紀元前2000年頃にはエジプトで既に家畜化した駱駝が居た事が述べられている。
2.7 ピソン川 (the Pishon River)
ピソン川に関するまとめとしてキャロル A. ヒルは「旧約聖書に書かれている様に金、縞瑪瑙 (onyx) およびベデッリウム (bdellium) の全てを含む場所としてはアラビアおよび涸れ谷アル バーティンを除いて旧約聖書の記述に見合う他に良い場所は無いと考える。特にベデッリウムは南アラビア(イエメン)と北ソマリア (Somaliland) でしか成長しない。涸れ谷アル バーティンの上流はマハド アド ダハブ (Mahd adh Dahab) と涸れ谷アル アキーク (Wadi al Aqiq) の古代の黄金と縞瑪瑙の地域を流れ、そして三種類全ての産品が駱駝で古代に駱駝によってメソポタミアへと運ばれた。最後に涸れ谷アル バーティンはチグリス (the Tigris) およびユーフラテス (the Euphrates) とまさに旧約聖書に書かれている様にメソポタミアの土地で合流する。これら全てが涸れ谷アル バーティンが今は涸れた古代のピソン川であり、キュシュ (Cush) では無くジクタン (Joktan) の息子ハヴィラ (Havilah) の土地つまりアラビアである事を証明している」と述べ、涸れ谷アル バーティン/涸れ谷アル ルマ水系がピソン川であった事を確信している。前述した様にこれが事実か否かはここでは判断は出来ないが少なくともハファル アル バーティンを含むこの東部州北部に乳香の道が通過していた事を示唆している。
(注)キャロル A. ヒルは「涸れ谷アル バーティンの上流はマハド アド ダハブ (Mahd adh Dahab) と涸れ谷アル アキーク (Wadi al Aqiq) の古代の黄金と縞瑪瑙の地域を流れ、」と記述しているがこれは「涸れ谷アル バーティンの上流の涸れ谷ルマの支流涸れ谷アル ジャリール (the Wadi al Jarir)はマハド アド ダハブ (Mahd adh Dahab) と涸れ谷アル アキーク (Wadi al Aqiq) の古代の黄金と縞瑪瑙の地域に近く、乳香の道がそれらを通過して涸れ谷ルマ/アル バーティンに至っていた」と訂正すべきである。
(注)乳香、没薬およびベデッリウムと云うガム樹脂の全ての種類は古代の中東では宗教的(香料)、化粧(香水)および医学目的で使われた。メソポタミアの楔型文字 (cuneiform text) には没薬(ベデッリウム)は頭の湿布 (poultices) 、目、鼻および耳の治療およびその他の医療目的に使われたと記録されている。又、シュメール (Sumerians) および バビロニア (Babylonian) では清める儀式として寺院の一部として香料が埋められた。 没薬とベデッリウムが抽出される樹木は古代には南アラビアと北部ソマリア (Somaliland) でしか成長しなかった。アラビアの地理学者アル マグディシ (al-Maqdisi) はムグル (muql) と呼ばれるベデッリウムはどちらかと言えばイエメン北部のアル マールワ (al-Marwah) 地区で育ったと引用しているけれども南アラビアでは特に没薬(ベデッリウム)は現在のイエメンのアデン湾で北緯18°より南でしか育たなかった。時間と共に堅固な香料交易が南アラビアとメソポタミア、エジプト、イスラエルやジョルダンの様な中東地区の他の場所との間で発展した。
(注)ベデッリウムは没薬(myrrh)に似た芳香のある樹脂で或る種のアジアやアフリカ産のバルサン属 (bursera, balsam)灌木或いはコンッミフォラ (Commiphora)属の樹木から産する。
(注)ミルラ キリストが生まれたときに博士が乳香、没薬、金をたずさえキリストに会いに来たとされている。当時から非常に高価なもので香りは天然のカンフルを含みクレオパトラも香水に使用した記録が残っている。
ミルラ(没薬)Commiphora myrrha Engl.) 数千年もの間、「東洋の宝」の1つに数えられてきたミルラはアラビアとソマリアイエメンに生育する潅木の幹からとれる油性、ゴム質の樹脂である。古代エジプトの主婦は屋内でミルラの粒を燃やしてノミを駆除していた。民医療では、筋肉痛やリウマチの膏薬に配合された。 中国では没薬と呼ばれ、少なくとも唐の時代(西暦600年)から、主に傷薬あるいは活血薬として用いられていた。但し、中国の没薬と西洋の没薬とは薬品の種類(源植物が異なり漢方薬でハナ没薬(中国)、ソマリア産のものはネリ没薬と分けている。 (注)乳香 (frankincense) はバルセラ(バルサン)類のボスウェッリア (Boswellia) 属の樹木から産するのに没薬 (myrrh) とベデリウム bdellium) はコッミフォラ (Commiphora) から産する。ベデリウム (bdellium) は没薬になんとなく似ており、没薬としてしばしば見做される。古代にはこの二つの明確な区別は無かった。アラビアで知られているベデリウム(bdellium) はコッミファラ マクル (Commiphora mukul) とコッミフォラ シンペリ (Commiphora scimperi) である。 (注)ボスウェリア(Boswellia serrata Boswellia Roxb. ex Colebr.)属はカンラン科(BURSERACEAE)で和名は:乳香樹であり、アラビアの俗名ではサライグッガル(salai guggal)と呼ばれる。 ボスウェリア属の木は種類により微妙に香りや成分が異なるが、いずれもフランキンセンス(Frankincense)(現地名オリバナムOlibanum)(和名、乳香)と呼ばれる樹脂(fragrant oleo-gum-resins)を産出する。フランキンセンスは木の幹を傷つけて得られる乳液状の液体が硬化した樹脂である。この種の樹脂は、植物が菌に対する防衛作用や自浄作用のために産出する。 この樹脂を香呂で焚いたアロマは伝統的に中近東やインドの寺院などの祭壇、公共施設、レストランなどで、儀式や除虫、除菌に広く利用されている。また蒸留抽出によって得られたピネンpinene(注)を主成分とする精油は医薬品、化粧品、アロマテラピーに利用する。ボスウェリア属の乳香の主成分としてはピネン(pinene)類、ボスウェリア酸(boswellic acid) 、オリバノレセン(olibanoresene) 、ボスウェリディニク酸(boswellidinic acid) 等が分類、命名されているが、アーユルヴェーダ医療、漢方では抗菌を目的に使用されている。
「シェークスピア大尉(Captain William Henry Irvine Shakespear)は(サウジアラビア建国以前から)英国とサウジアラビア両方の政府が信頼しあう関係を構築する中心的役割を演じ、この関係はその後85年間に渡って続いた。サウジアラビアを知るものは彼を忘れては成らない。英国とサウジアラビアの関係強化に働く者達にとって彼は未だに英雄である」と元サウジアラビア駐在英国大使で現エジプト駐在英国大使デレク プランブリ卿(Sir Derek Plumbly, British ambassador to Saudi Arabia)は述べている。この様にサウジと英国の架け橋となったシェークスピア大尉のイブン サウドとの関係はそれぞれが駐在或いは亡命していたクウィトで始まった為に、ハファル アル バーティン(Hafar al Batin)との深い関わりを持っていた。この事からここに同大尉を紹介しようと考えた。結果論的ではあるが、同大尉のアラビア横断の行程を調べる中でシルクロード隊商路は私がこれまで推定していたルートよりももっと南の地域を通っていた事もハッキリしてきた。
3.1 シルクロード隊商路の経路
私は同大尉のアラビア半島横断のコースが内陸に入り過ぎて居るのが良く理解できず、同大尉の個人的な砂丘志向ではないかと思っていた。最近になって同大尉の縁者であるブレーン夫妻(Mr.& Mrs. Brain)が2003年1月に同大尉のコースを辿った旅行記を読んで沙漠に取り残されたアドファ城Adfa)やハイヤニア城(Haiyania)の存在を知った。これによりシルクロードの隊商路は私が考えていたよりも南で、ダハナ砂丘地帯の北を回りこむ様にナフド沙漠に入りジョウフ(Jawf)へ抜けていた事がほぼ確認出来た。これまで大きな城郭のあったハファル アル バーティンからジャウフに抜けるコースがその隊商路であるとするにはどこか不自然でこれまで腑に落ちなかったが、ジョウフを通るシルクロードの隊商路がハファル アル バーティンよりもっと南であるとすれば納得が行く。この私の新しい解釈は次の様な理由に基づいている。
ハイヤニア城(Haiyania) アドファ城Adfa)
a. ハファル アル バーティンに古城があったことは私自身が1975年に訪問して確認している。それもあって、アラビア横断石油パイプラインとリヤド/クウェイト道路の交差する場所であり、この地方では飛びぬけて大きな町なので、「ハファル アル バーティンが涸れ谷バータンに沿ってバスラへ抜ける乳香の道とシルクロードの隊商路との交差点である」と従来は考えていた。今回、ブレーン夫人から提供されたシェークスピア大尉自身の手記によれば「この城(Qasr Bilal)はバニ ヒラル(Bani Hilal)族の長老の奴隷が交易でもうけた金で築城した」と記されており、この古城は隊商路の運営、警備とは直接関係がない事が分かった。考古学博物館庁(the sub-ministry of Antiquities and Museum)が遺跡として認定して無いのはこの為だと思われる。 b. ブレーン夫妻の旅行記に記載され、撮影されているアドファ城Adfa)やハイヤニア城(Haiyania)の存在を確認した事で、アル ハサ(Al; Hasa)やカティーフ(Qatif)からサジ(Thaj)、ニッタ(Nitatta)、ガリア アル ウルヤ(Qaryah/ Al Ulya)或いはジャララ(Jararah)、ウンム アシャール アシュ シャールキヤ村(Umm Ashar Ash Sharqiyah)、サムダ(Samuda)等を通って直接、これらの城に至る道があったと考える。 c. 沙漠を旅する為には道しるべ、歩き易さ、水の補給が重要な要素である。アル ハサ(Al Hasa)、カティーフ(Qatif)から西に向かうとほぼ間違いなくダハナ砂丘帯(Dahna Sand Band)に行き着く。そこから砂丘帯に沿って北西方向から西へと向かうとナフド沙漠(Nafud Desert)を横断し、ジョウフ(Jawf)に至る。ジョウフからは涸れ谷シールハン(Wadi Sirhan)の中を更に北西に進めばカフ(Kuf)を通り、ダマスカス(Damascus)まで辿れ、道に迷う可能性は少ない。更にアラビア台地のカルスト台地は場所によっては岩が露出しているばかりでは無く風化で針山の様になっているか箇所も少なくはない。駱駝の歩行を考えるとダハナ砂丘帯に沿った地帯の岩盤の上にある程度砂が積もった状態が好ましい。又、砂丘には集水構造があるので掘りぬき井戸の原理で湧き出す地層水の泉が無くても砂丘の端から浅層水が湧き出す泉や井戸を見つけることが出来る。
3.2 シェークスピア大尉の紹介
20世紀の初めのクウェイトはオスマントルコの支配を脱し、ムバラック(Mubarak al-Sabah)首長の統治下にあり、この地域の競合する勢力を監視し確認する英国の戦略的な場所であった。その目覚しい英国政治エージェントの地位に着いたのが印度のボンベイ (Bombay) 生まれで若干30歳のウィッリアム ヘンリィ イルバイン シェークスピア大尉(Captain William Henry Irvine Shakespear)であった。
シェークスピア大尉がイブン サウドと最初に会ったのはクウェイトに着任して一年後の1910年3月であった。それはシェークスピア大尉がクウェイトの南1,600kmの探検からの帰途に今日のハファル アル バーティン (Hafar al-Batin) で襲撃を受け、信頼していた従者を射殺されて台無しになった夜だった。この会見でシェークスピアは「イブン サウドは有望でハンサムな男であり、率直で心の広く、平均のアラブ人よりずっと背が高い」と報告している。
シェークスピア大尉のムバラク首長 (Shaykh Mubarak) との関係は地方政治の問題と首長の英国の意図に対する全般的な猜疑心で悪く成り始めてはいたけれどもイブン サウドの父親を庇護していたこのムバラク首長のお陰でこの英国人と中央アラビアの世襲の統治者イブン サウドの間の友好関係は深まり、親密な友情関係が出来上がった。
又、イブン サウド自身がその領地で統治者として最初に会見したの西洋人がシェークスピア大尉であり、それが二人の2回目の出会いであった。当時、英国はイブン サウドとオスマントルコの間の関係に干渉したりせずに中立を保ちたかった。しかしながらイブン サウドは英国の支援を受けずに1913年中頃にアル ハサ (al-Hasa) からトルコ勢を排除し、クウェイトまでのアラビア沿岸の支配を勝ち取った。英国はイブン サウドをもっと真摯に扱わざる得なくなり、シェークスピアのイブン サウドとの次の会合は公式なものと成り12月に湾岸の港ウガイル (Ugayr) で行われた。会合の内容は英国との条約の見通しであった。この二人の間の友情と敬意が今日まで続く、サウジアラビアと英国の近代関係の基礎となった。
クウェイトに戻ると5年間の任期の終わりに近かったシェークスピアはアラビア半島横断の準備を続けた。同大尉は既に何回かのアラビア半島の内陸部の旅行でアラビアには精通し、前述の様にイブン サウドとも四回会っており親しい関係にあった。シムラ (Simla) の外務長官宛の手紙にはシェークスピアは「価値の有る資料を集め、地図の無い地域を測量し、最後に全てに危険負担と費用は自分が負い、政府はその結果の利益と特権を得られる」と述べている。又、直属の上司であるパーシー コック卿 (Sir Percy Cox) には「中央アラビアへの自分の旅についての最後の絶望的努力」と呼び「勿論、自分は自分の旅における全ての政治行動は控えるし、私が本当に望むのは地理的な活動として異論を持たない事を示唆して欲しいだけである」と約束している。
シェークスピアの努力は功を奏し、英国外務省からアラビア半島横断の許可電が届いた。シェークスピアは1914年2月3日(木曜日)に先ず、自分の前の旅程であるマジュマア (Majmaah) まで行き、リヤドへと向かった。リヤドではイブン サウドが暖かく向い入れた。5週間の後の会合は数時間に及んだ。イブン サウドはシェークスピアに英国との仲介をする様に迫ったが英国外務省からは「オスマントルコと友好関係にある方がこの地域の英国の国益に良い」との考えを伝えられていたのでシェークスピアは「この旅では政治行動は出来ない」とイブン サウドに説明した。リヤドに到着してから3日目の3月12日にシェークスピアは道案内の一体と随行者と共にカシーム (Qasim)を通って北西に向かった。シェークスピアはナフド沙漠 (the Nafud desert) を横切ってアル ジャウフ (al-Jawf) を目指した。そこでシェークスピアは世襲の強力なアナイザ族 (the powerful Anaiza confederation) の族長でイブン サウドの同盟者であるのヌリ イブン シャラアン (Nuri ibn Shalaan) に会った。
次の旅程は荒れ果てた未踏の地域であり、襲撃に備えて暗闇を行軍しなくては成らなかった。一行はヒジャーズ鉄道 (the Hijaz Railway) に達し、カイロ (Cairo)とマッカ (Makkah)を結ぶこの巡礼鉄道(the Hajj trail) でアカバ (Aqaba) へ向かった。シェークスピアはそれからシナイ (Sinai) とスエズ (Suez) を横切り、そこで道案内と随行者を解散した。クウェイトを出発して111日でカイロに到着した。そこからシェークスピアはイブン サウドと手紙を交換し、英国外務省に「ナジド統治者 (the Najdi ruler) が直ぐにも独立したアラビアを目指すだろう」と迫り続けた。ウィンストーンによって「シェークスピアの最後の旅」と云う自伝が出るまでは「シェークスピアのアラビア横断旅行は1950kmの未知の国に及んでいた」とのアラビア探検家ダグラス キャルルゼース (Douglas Carruthers) が1922年に英王立地理協会へ提出した報告がこの探検に関する唯一の出版物であった。
第一次世界大戦が始まるとシェークスピアはクウェイトにイブン サウドに対する特使として戻った。イブン サウドは英国に味方してドイツとの連盟国であるトルコを南イラクのバスラ (Basra) から一掃する代わりに英国はイブン サウドを「ナジドの独立した支配者」として認める条約をイブン サウドは英国と結んだ。シェークスピアは1915年末にマジマア (Majmaah) 近くでイブン サウドと会い、条約の案分の議論を始めた。シェークスピアは留まり、イブン サウドと一緒にもっと北のジャラブ(Jarab)まで6,000人以上の部族民やベドウインともに移動するのに従った。彼等はトルコと対峙するのでは無くナジドの対抗者イブン ラシド (Ibn Rashid) の軍勢に備えていた。この戦いではどちらも明確な勝利は得られなかった。大胆なシェークスピアは英国の軍服とヘルメットのままでサウジの鉄砲手の傍でカメラを構えた時に弾丸が太ももを貫いた。イブン ラシドのシャンマル族騎馬隊が迫る中、後退するのを拒否してジャラブの戦場で縦横に戦った。
シェークスピアの死後、直ぐにアラビアに対する英国の支点は印度政府からカイロのアラブ局へと西に移った。シェークスピアの友情のお陰でイブン サウドに好意的に受け入れられていた英国特使ジョン フィルビィ(H. St. John Philby) は「この移り変わりでイブン サウドとシェークスピアの間で成し遂げるべき他の状況はローレンス (T.E. Lawrence) とヒジャーズ軍に委ねられた」と書いている。
3.3 シェークスピア大尉の足跡
2002年8月29日に潜水教師であり旅行家でもあるリチャード/ヘレン ブレーン夫婦(Richard & Helen Brain)は愛児エドワード(Edward)を連れて、英国を出発しハンガリー、ルーマニア、トルコ、シリア、ヨルダンからサウジアラビアを通り、クウィエトからUAE、オマーン、イラン、パキスタン、インドへのランクルでの旅に出た。その中の2003年1月6日から30日までアブドル アジズ王基金(the King Abdul Aziz Foundation)の支援でヘレンの縁者で1901年から印度政治局に勤務していた英国陸軍将校ウィリアム シャイクスピア大尉(Captain William Shakespear)の足取りを辿っている (「図-5 ブレーン夫妻の行程」を参照) 。その旅行の内の1月27日から30日までがウンム アシャール アシュ シャールキヤ村(Umm Ashar Ash Sharqiyah)からハッファル アル バーティン(Hafar al Batin)までの涸れ谷アル バーティンの現在の様子に関する記録なのでここに紹介する。
2003年1月27日にブレーン夫妻はリヤド(Riyadh)を後にしてアル アスカール博士(Dr. Al Askar)に会う為にマジマア(Majmaah)へと北西に向かった。マジマアで夫妻は今では放棄されているがネジド建築(Nejidi architecture)の素晴らしい見本であるマジマアの旧市街を見学している。その遺跡を抜け、同夫妻はアル アスカール博士の祖父であるアブドッラ アル アスカール候(Prince Abdullah Al Askar)の館を訪ねた。この館はイマム ファイサル(Imam Faisal)所有のリヤドの古い城の写しであり、同じ様な館はカシーム(Qaseem)とシャクラ(Shakra)でも建築されていた。この館は二つのハッキリと分けられ、二階建ての女の区画は中央部に屋根の無い中庭があり、同じく二階建ての男の区画には二つのマジリス(majilis)と呼ばれる公式会見部屋を各階に持っていた。外の井戸は館と近所のモスク(Mosque)で使われた。客室はニ階の夏用マジリスの隣にあり、馬小屋と監獄が見下ろせた。
館の一階にある冬用のマジリスに入いるとその壁には複雑な漆喰仕上げで描かれたシェークスピア大尉(Captain Shakespear)が今でも手付かずで残っていたが、その部屋の壁と天井はコーヒーを沸かす際の煤で黒ずんでいた。シェークスピアとアブドッラ候が共に座り、水タバコを燻らせ、コーヒーを啜り、マジマアとその歴史についてしゃべりあい、予定されていたイブン サウド(Ibn Saud)とシェークスピア大尉の会談について論議したのはまさにこの場所である。
マジマアから夫妻はエル ガト(El Ghat)へアル アスカール博士の従兄弟に会いに行った。その従兄弟とはエル ガト(El Ghat)のアミール(行政長官)のアブドッラ アル スダイリ候(Prince Abdullah Al Sudairi)とその兄弟のモッハメド アル スダイリ氏(Mohhamed Al Sudairi)であった。アブドッラ アル スダイリ候はイラク(Iraq)およびクウェイト(Kuwait)の影響を示す美しいナジド風の館でこの地の慣習であるコーヒー、紅茶とナツメヤシの実で歓待してくれた。この館のマジリスは高く、煤けて黒くなった天井を持ち、囲炉裏で火が燃やされ、壁のくぼみにはコーヒーや紅茶のポットが並べられていた。
その後、モッハメド氏の農場を訪れた。堂々とした眺めの美しく削られた丘の中を農園は何マイルも遠い丘まで続いていた。その夜はウンム ウシャール村(Umm Ushar)への道路の近くで夫妻はテントで野営した。
2003年1月28日はダハナ沙漠の砂丘帯を横切る途中で夫妻は朝食にした。朝食は冬に寒さを凌ぐ為に伝統的に食べられている小麦粉とナツメヤシの実のペーストをバターと一緒に暖めたハナイニ(Hanayni)と呼ばれる食事であった。最近降った雨で沙漠には花が咲き、ベドウインの羊や山羊が牧草を食べるに絶好の状態であった。
ウンム ウシャール村(Umm Ushar)の名前は次の写真に示す植物に因んで付けられている。この植物の葉を乾かして潰し、粉上にして化粧に使うし、ミルクの様な樹液は疥癬(mange)の治療に効果がある。
ウンム アシャール アシュ シャールキヤ(Umm Ashar Ash Sharqiyah)
(注)ウンム アシャール村(Umm Ashar)へ行くにはマジマア-クウェイト道路のキングカリド王軍事都市への十字路から少し南に下ったプテイハニア(Puthihaniyah)の丁字路(ハファル アル バーティンの85km南)から西に進むと沙漠の緑は少なく成り代わりに地面に散らばる白っぽい角張った小石が増えて来る。プテイハニアの丁字路から60 km位行った所で数軒の住居と2、3の円形農場を持つ集落のある谷に降りる。この谷はアラビア盾状地の三大排水路の一つであるワディ アル バーティン(Wadi al Batin)の中流部でこの辺りでは連続した砂丘の東岸と低い断層崖の西岸に挟まれている。この連続した砂丘の帯はダハナ(Dahna)沙漠(北のナフド大砂漠から南の空白地帯砂漠まで1,000 kmにも渡って続く砂の回廊)から舌状に延びて来ている。
この集落には或る低木の長い長い名が付いている。その低木は比較的太い多くの枝を地表部分から4、5m上へと直接伸ばし、木肌はワニの様な鱗があり、葉は厚くかさばり、実は野球のボール程で白っぽい緑色をしていて、そのどこかに切り口を作ると白いベタベタした乳液を浸みださせる。この低木は疎らなタル(Talh, Acacia Gerratdii)の林の中やその近傍に群生しているのをよく見掛ける。大川原博士によるとこの低木はCalotropis proceraと云う学名を持ち英語では「ソドムの林檎」と呼ばれ、日本には全く同じでは無いがガガイモ科の海岸煙草が同じ種類なのだそうだ。私の同僚のモハマッドカラフ アル ムゼイニ(Mohamd Kharaf al Muzeini)は「アラビア語名はアシェル ボイェル(Asher Voyer)と云うが東部州ではウンム アシャール アシュ シャールキヤ(Umm Ashar Ash Sharqiyah)と呼び、この村にその名が付いている」と教えてくれた。さすがに長い名を付けるのが好きなサウジでもこの名はウンム アシャール(Umm Ashar)と短縮して使っている様だ。
夫妻が道路から離れて、涸れ谷アル バーティン(Al-Batin)をクウェイト(Kuwait)方向に向かうとバスラ(Basra)からメッカ(Mecca)への巡礼達 (pilgrims) によって使われた幾つかの井戸、貯水槽(birka)および城(a castle)の遺跡がある。これらが1914年の旅でシャークスピア大尉が記録し、地図に示されている貯水槽(the birka、水溜)、井戸や城だろう。
(注)貯水槽(a birka)は涸れ谷の底に設けられた水溜めで雨期に貯めた水を乾期に飲料水等に使う。
この村の農場は平らな牧場で構成され、畑は水路で仕切られている。最近降った雨水が灌漑溝の砂の土手に残した水位が60cmから90cm位の洪水があったのを示していた。涸れ谷を進むと直ぐに多くの集落の古い遺跡がある。最近の雨で植生が緑に成っているこの涸れ谷に沿って進むに連れてそれぞれの側の壁の上にベドウイン(Bedu)が村の位置を示す為に載せた目印の石が見える。この人の住まない場所も遠くから見ると涸れ谷に沿って天幕が点在し、時折、恒久的な農場もあり、生活に溢れている。
シャークスピアの足跡にある次の集落は廃墟となっているが、「建物の壁の大きな石灰石の塊と屋根に使われる平らな石板」と記述されている通りである。更に北上を続けるとシャークスピアが述べていた回教徒の墓場がある。その墓場の数百メートル後方に9つの井戸がある。幾つかの井戸は深さが100mもあり、石組みがずうっと下まで続いている。こんなに困難な井戸掘りをどの様に行ったのか想像するのさえ難しい。
ここは「殺し」を意味するタブハ(Thabha)と呼ばれる村であったが現在の村長であるナイフ(Prince Naif)がナイフィア村(Naifhia)と改名した。井戸とその名残が村外れにあり、昔はもっと多くの建物があったが湾岸戦争の間にアメリカ兵に壊され、その石材が近くの道路を作るのに使われたのは明らかだ。近くの軍事都市(KKMC)へと続く大規模な遮蔽を涸れ谷の端の高まった場所に避けるとそこはバスラからメッカの巡礼路でもっとも良い水のあった別の井戸群に近い。夫妻が訪れた時には井戸は軍事都市の排水で汚染され飲めなくなっていた。
2003年1月29日の朝、野営地の近くで古いビルカ(birka)の見事な遺跡を夫妻は見つけた。涸れ谷が氾濫した時に水は最初の溜めに入りそして30mも深さのある第二の溜めに濾されながら入り込む仕掛けになっている。残念ながら悪臭の漂う汚水が溜まってしまっている。 ビルカの最初の溜め
涸れ谷を更に上流に進むとアスファルト舗装の道路を見出し、ダビア村(Dhabia)に入った。数年前までは静かな村であったが今はコンクルートの塊が広がっている。夫婦が探し当てたビルカは残飯のカスの山と西洋アブラナ(oilseed rape)の畑の間にあった。その後、夫妻は沙漠に戻り、クウェイト国境手前の最後の大きな町であるハフル アル バーティン(Hafar al Batin)を目指した。シャークスピアの時代にはここは井戸が集まった場所であったが、この町は建て直しが進んで居り、新しい町並みが古い井戸と建物を包み込んでいる。それでも工事の僅かな欠陥を探せば井戸を特定はできる。井戸の殆どは道路で覆われているがアスファルト舗装が少し沈んで凹みを作っているし、タールの色も違っている。
ハファル アル バーティンの周囲は非常に平らで緑を帯びており、そこに見える駱駝と山羊の群れの数から良い牧草地になっている。夫妻はハファル アル バーティンに戻って2時間程ビラル城(Kasr Bilal)を探し回ったが、残念な事にこの城は数年前に取り壊されてしまっていた。
この古城を1914年2月12日(木)の訪れたシェークスピア大尉は「天幕が雨で濡れており、出発が10時近くになってしまった。雨が続くのを心配したが上がって来た。しかしながら北西からの冷たく厳しいシャマル風(Shamal)が吹き始めた。正午近くになって雲間から日が差したが余り助けにはならなかった。カスル ビラル(Qasr Bilal)は自分の持った地図の位置には無かったが、南に向いて戸口のある一辺が30m程度の四角い壁の囲みがそれであるのが分かった。南の壁に沿って古いアーチと貯水槽があると云われている」と記録している。
同大尉はさらに、「この城には二つの物語があると聞いている。ガイラン家(the House of Ghailan)発祥であるバニ ヒラル(Bani Hilal)族の首長が可愛がっていたビラル(Bilal)と云う名の奴隷がいた。ビラルは駱駝交易で大きな富を築き、勢力を持つ様になった。一つの話ではビラルはこの地を通過する隊商から通行税を取り立てる役に任命された。そこでビラルはそれぞれの隊商がハファル(Hafar)の井戸から幾つの水袋に水を詰めたか正確に数える為に袋毎に泥の漆喰を積み上げ、次第にこの城を築いた。それからビラルは自分用の井戸を掘り、非常に良質な水を見つけた。ビラルその水を通過する隊商から最も幼い子駱駝を引き離す為に使い、自分の駱駝の群れを増やした。もう一つの話ではビラルは通過する全ての隊商に自分が泥を捏ねている同じ場所にその駱駝達を止まらせ尿をする様にさせた。全ての隊商はそこに一歳を経た幼い子駱駝を残していったのでビラルは駱駝の尿で捏ねた泥の漆喰で幼い駱駝達の骨を固めて自分の囲いを作った。最終的にビラルは自分の城が出来ると自分の所有する幼い子駱駝を素晴らしい質の泉が緑を生み出すまで囲いの内部に入れ続けた。ビラルはある日ベドウインに襲われた。『娘達か駱駝達のどちらかを奪う』とベドウイン(Bedouin)が叫ぶとビラルは囲いの外に幼い子駱駝達を狩り出した。その為にこの城は役に立たなくなり、ビラルは逃亡して死亡した」と手記に記録している。
(注) 私が1975年にハファル アル バーティンを訪れた時には町自体が大きくは無く、この城(カスル ビラル)が町の真ん中に聳えていた。は屋根と壁の一部は無かったがその内部では当時の東アラビアの名産でハファル アル バーティンが集積地であるナジド種を含む羊の市が開かれていた。1998年に訪れた時には城は既に潰され、誰に訊いてもその位置すら分からなかった。サウジの考古学博物館庁は解説等の看板を立てる事等はまったくしないにせよ文化的遺跡には柵をめぐらせて立ち入り禁止にして保護している。周囲のニッタア(Nitaa)、カリヤ アル ウルヤ(Qaryah Al Ulyah)、リナ(Linah)等がその様に保護されているのにこのビラル城(Kasr Bilal)は相当に古かったのに全く保護されなかったのを不思議に思っていた。ここで述べられている様に奴隷が築いたのであれば保護されない事にある程度は納得出来る様な気がする。
東部州の集落は大きく農村、遊牧拠点および石油基地の三つに分けられる。この他に軍事基地としてのカリド国王軍事都市(空港)やミシャブ(軍港)と工業港として開発途上のラス アル ゾウルがある。農村や遊牧拠点は伝統的な集落であり、昔は隊商の水場として利用されていた。これらの水源は雨水が涸れ谷等で集められた浅層水であり、東部州中部の掘り抜き井戸の原理で深層から湧き出す化石水とは大きく異なり、旱魃の被害は受けやすかったと思われる。水量が比較的多い場所では農業が営まれ、少ない場所は遊牧拠点にしか利用できなかったのだろう。これに対して石油基地は原油が発見されてから人工的に成って作られた都市であり、そこで働く人達も移住者が多い上に警備目的で厳重に警備された柵に囲まれ地域で生活しており、ましてアラムコの石油基地のシフトの様に週日働き、週末は航空機で家族に住むダハランに戻って行く人達には伝統的な地域社会とは殆ど縁が無い。また、もっと最近に出来た軍事基地やあるいはこれから出来る工場都市ではこの傾向は更に強い。水の確保は海岸では造水装置に頼り、内陸では深層まで掘削した水井戸に頼っているが、農業用水は今でも雨水が溜まった浅層地下水が主体である。ここでは北から順に東部州北部の主な集落を紹介したい。
アラムコの通勤用航空機
東北部の集落(カフジ郊外)
4.1 アル ルクイ
アル ルクイ(Ar Ruq’i)はクウェイト/サウジアラビアとイラク/サウジアラビアの二つの中立地帯がくびれて交わる地点に位置し、リヤド/クウェイト間の交通の要所となる国境である。この様な中立地帯の出来た理由には次の様なこの沙漠地方の歴史的背景にあった。
a. 昔は沙漠の国境を設けるのは海上の国境を決めるのと同じ感覚であった。 b. 国家より部族に忠誠を誓う互いに敵対する遊牧民の領土を反映して居り、最近まで統治はその首長達に任されていた。 c. 回教では地上に国境を定めるのを嫌った。
この様な事情とその後のオスマントルコ(the Ottoman Empire)衰退と大英帝国のクウェイトへの影響増大等を踏まえ、オスマントルコが第一次世界大戦で敗北した後の1922年12月2日に英国保護国クウィトとネジド王国(the Sultanate of Najd、サウジアラビアの前身)の間に締結されたウガイル協定(the Uqair Convention)等でクウィト/サウジアラビア中立地帯が定められた。
クウェイト/サウジアラビアの国境は涸れ谷アル アウジャ(Wadi al ‘Awja’)と涸れ谷バーティン(Wadi al Batin)分岐の西側の標高約210mの地点から引かれた。この地点から東はクウィエトで、南はサウジアラビアであり、北はイラクで、西はイラク/サウジアラビアの中立地帯となり、ここでは四つの領土の国境が交わっている。この地点から南約5kmに位置するのがアル ルクイ(Ar Rugi)であり、ここでは涸れ谷バーティンの東岸に一群の井戸があり、サウジアラビアの国境検問所がある。この標高210mの大地にはディブディバ(Ad Dibdibah)と呼ばれ礫原が広がっている。
私は1975年に二度程、訪れており、一度はハファル アル バーティンを偵察する為に当時家族と暮らしていたクウェイトからサウジアラビア領に入った。海岸のヌワイシーブの国境検問所に比べて、入国手続きが余り簡単で驚かされた。二度目はディブディバ(Ad Dibdibah)の良質な黒い丸石を当時、骨材が不足して石灰岩の砕石しか入手出来なかったカフジへ運ぼうとダンプトラックのルートを偵察する為であった。当時のサウジアラビアでは地図は発行されて居らず、望遠鏡や無線の使用も禁止されており、頼りはこの土地に住むサウジ人の案内だけであった。この時でもアル ヒマトヤート(Al Himatyat)までは既に舗装道路があり、そこの国境警備隊に沙漠横断を登録し、許可を貰ってカフジに向かった。
途中でワフラ(Al Wafrah)に迷い込んでしまった。苦労してサウジ領に戻るとすぐに地平線の彼方から猛スピードで砂塵を舞い上げながら警備隊のジープが近寄って来て方向を教えてくれた。何故、我々の位置が分かるのか不思議だったし、凹凸の多い沙漠を時速80kmですっ飛ばす運転技量に感心した。夕方近く成って、再び警備隊のジープに捕まって、今度は詰め所に連れて行かれる。「出発からずうっと監視していたがその技量ではカフジには行き着かないし、夜は危ないのでこの詰め所で一晩泊まれ」と言われた。何も無いこのたたきに寝るのは忍びないので何とか交渉して先に進み、カフジの明かりを頼りにダンマン道路にやっと辿り着いた。途中で闇を移動する駱駝の群れに囲まれたし、荷物を運ぶ小型トラックにも出会った。後で考えると密輸の運び屋だったと思われる。昼間であれば沙漠がどんなに広くても警備隊の目を逃れる事は難しい。
4.2 ハファル アル バーティン
ハファル アル バーティン(Hafar al Batin)は北緯28°26′、東経45°57′に位置しており。リヤドからマジュマ経由でクウェイトおよびイラクへのハイウェイとダンマンからシリアやヨルダン方面のハイウェイが交わる東北アラビアの交通の要所である。両方のハイウェイの複線化は2000年頃から行われており、2005年初めにはまだ工事していたが、恐らく現在は完成しハファル アル バーティンの重要さは更に高まっているだろう。この地区にはベドウイン出身の住人を主として19万人が住んでいるがこの町の由来についての記事は何故か少ない。周囲の沙漠は平らで埃っぽい。
1975年の冬に訪れた頃には建物は全て昔からの泥製であった。ビラル城(Kasr Bilal)の跡はその頃は最上等とされたネジド種(Najdi)の羊の市場(スーク)になっていた。そこで羊を買い、ベドウインの運転者が屠殺した後で荷台に吊るしてさばき、肉塊にして生ねぎや人参と大鍋で煮た。羊と一緒にスークで買ったハタブと呼ぶ灌木の根は炭以上に火持ちが良く、一抱えもある鍋を煮るのに一塊のハタブで足りるのには驚かされた。炊き上がったスープに生米を入れて暫く待つと炊き込みご飯が出来上がる。それを地面の上に置いた直径が1m以上もある大きなアルミの皿にあけ、皆で囲んでレモンを絞ってかけながら手づかみで食べる。寒さの中、胃袋に染み渡る様に暖かく旨い。
ハファル アル バーティンを通過する事はその後も多かったが、町はクウィトの方に入り込んでいるのでその中心を訪れたのは2003年7月13日になってであった。その時でも泥の建物は残ってはいたが殆どは新しく建て替えられていた。ビラル城に至ってはその場所さえ分からなく成っていた。又、その時初めて町の中心が周囲の土漠よりも高くなった丘の上にあるのを認識した。現在ではこの町はクウェイトの郊外都市の様になっており、クウェイトからの客の為に羊や駱駝の市場(スーク)もクウィト側に近い町の北の沙漠の中である。道路の両側に沢山の群れが繋がれたり、囲いに入れられたり、放牧されたりしている。売られている羊はナイミ種が殆どでネジド種は見掛けられない。1m置きに張られたロープに1m毎に1頭ずつ羊が片足を繋がれており、少し残酷な気もするが取引の多さを思わせる。駱駝は肉用の子駱駝も売っているが駱駝のミルクを売る天幕も多い。羊の牧童は雑多な様であるが駱駝はスダーン人が圧倒的に多い。「スダーニーは駱駝の扱いが上手い」と言う。
産業としては家具作り特に寝台作りが盛んだと言うので見学に行くとキングサイズのダブルかツウィンが標準だ。寝台の周りには箪笥、鏡台、衣装ケース、トイレ等が備えられ、私の感覚では天井さえあれば寝室と云う概念である。天幕に入れるのでこの様なデザインなのか、部屋が大き過ぎる為なのか、理解出来ない。それらの調度のベッド側の面の殆どに鏡が付いて居るのは刺激を高める為だそうだ。この時は東部州北部唯一の四つ星ホテルであるホリデイイン(Holiday-Inn)に泊まった。ショッピング アーケードも取り込んだシティホテルではあるが、庭も無いので四つ星とは言えないけれどもホスピタリティも設備も良く、食事も問題無いし、屋上にプールが付いていた。
Holiday Inn Hafr AL-Batin
4.3 アル カイスマ
アル カイスマ(Al Qaysumah) はレバノン(Lebanon)のシドン港(Sidon)に至る口径30”で総延長1,214kmのアラビア横断送油ライン(the Trans-Arabian Pipeline、TAP Line) の基点であり、アラビア横断送油ラインの送油設備と保守維持の為の基地がアル カイスマにも設けられ1950年から送油量30万バレル/日で操業を開始された。アラビア横断送油ラインの操業は最盛期には送油量50万バレル/日であったが、1983年に操業が停止された。アル カイスマには空港も設けられており、その空港は今でも使われている。又、涸れ谷バーティンの東は海岸に至るまで良質の地下水は無いのでアル カイスマでアラムコが掘り当てた帯水層から汲み上げられる水は良質でこの地方の評判になっていた。
4.4 アル カフジ(省略)
アル カフジ(Al Khafji)はクウェイト国境の南17kmの海岸にアラビア石油鰍フ鉱業所の城下町として発展して来ており、人口は約5万人で東部州北部の集落としてはハファル アル バーティンに次いで大きい。前述の様にこの町については私自身に色々思いがあり、別な機会にご紹介したい。
4.5 アス サダウィ
アス サダウィ(As Sadawi)はダンマン/ハファル アル バーティン道路とミシャブ軍港/KKMCを結ぶ道路の交差点の少し西北西に位置している。集落としては大きくないが春の初めにはファッガとよばれ、周囲で取れる沙漠トリフの市が立つ。普段は羊と駱駝の放牧だけであるが最近は冬場には沙漠生活を楽しむ為の天幕が張られる様に成ってきた。アス サダウィの西は鷹と鷲の生息数が多い。鷲は腐肉を喰らうが鷹は生餌しか口にしないのでその数の多さが野生が保たれている事を示している。
4.6 アブレグ アル キブリート
アブレグ アル キブリート(Abreq Al Kibreet) は涸れ谷アシュ シャク(Wadi Ash Shaqq)の西岸にある集落である。沙漠の中のオアシスとして名前を聞いており、カフジに住んで居た頃に一度訪れる積もりで居た場所だ。カフジからの距離が100km近くあり、カフジの内陸に入っての沙漠トレックで見つけようと思って居たがその機会も作れずにカフジを離れた。ミシャブ軍港/KKMC道路を海岸から西へ65kmで、ダンマン/ハファル アル バーティン幹線道路にあるサダウィから東へ115km辺りの北に向かう沙漠道路に目立たない看板を見掛ける事はあったが先を急ぐ事が多く訪れる事は無かった。
2003年7月13日(日)は晴れで風強く沙嵐気味の上、気温は朝から40℃もあったがこの集落を訪れる事にした。ミシャブ軍港の南の十字路では最近になって道路案内板に書かれたスルタン殿下リゾート(Prince Sultan Resort)が気になっていたのでついでに海岸の方に入って探る。大きな門に門番が警備しているコンポウンドが現れるが、どうも軍事施設の一部の様なので早々に引き返し、西へと内陸に向かうと砂の起伏が平らながら目立ってくる。
午前10時頃、アブレグ アル−キブリートへ分岐との立派な道路案内板を見つける。ホワイトマールで固めたダート道を北へと辿る。ダートとは言え結構幅が広い。9km程行くと道は少し西に向き勾配を登り、左の奥に羊小屋の様な建物が並んでいる。その部落へと向かわずにダートの道を辿る。10kmばかり行くと道の東の奥にテントと羊の群と給水車(Tanker)が止まり、労務者が家畜に水をやる為の水路を掘っている。砂が柔らかそうなので車がスタックするのを恐れ、徒歩で200m位離れたテントに向かう。近づくと労務者だけでサウジ人が居ない。本人達はインド人だと言う。部落の有る様な事を言うのでどの位かと手真似で尋ねるとポッカキロと言う。意味が不明なので仕方なく砂の吹きすさぶ中を車に戻る。道路の方から古ぼけたメルセデスベンツの給水車(Tanker)が近づいて来ると三人の労務者の一人が砂塵の中を追いかけて行く。そのタンカーの運転手に道を訊ねようと私も追いかけた。風で二、三回前の車影が見えなくなるとタンカーを見失う。タンカーにランクルが追いつけない訳も無いのに大きなメルセデスベンツのタンカーは視界から消えてしまった。脇道にでもそれたにしてもそれ程姿を隠す場所も無いので不思議だ。道はダートでは無く砂地になって来る。風も強く砂を多く舞い始めたので自分の車轍の消えない間にと引き返した。
北東から延びて来た電線を確認すると間も無く、西に部落が見える。なだらかな坂を上り切ると飼料用の干し草が少し積まれ小屋がある。サウジ人が通りかかったので「ここはアブレグ アル−キブリートか」と尋ねると、むっつりした顔がほころんで、「そうだ」と言う。部落はここから北に延びる様に続き、家畜小屋に見えたのは人家で50軒程度は有りそうだ。記念に給水塔を撮影して戻る事にする。撮影している脇を先程のサウジが走り抜けて行く。南に進んで居るので後に従う。飼料らしい貨物を満載した大型のトレーラーがこのダート道を向かって来る。右の方ではサウジが二人でトレーラーの牽引車の車輪を砂の舞う沙漠に中で直している。この辺りでは道路を少しでも離れるとベドウインの世界だ。
4.7 アル ミシャブ
カフジ(Khafji)とサファニヤ(Safaniyah)の中間地点で、岬のあるアル ミシャブ(Al Mishab)にはアラムコがサファニア等の石油基地を作るために築港したと言われていた桟橋の残骸が長く残されていた。恐らくアラビア横断パイプラインの荷揚げにも使われたと考えられる。その後、長年に渡って放置されて居り、タマリスクの大木が一本生き残っているのが印象的な場所であった。1970年代後半のカフジでの私の生活の中では岩場で魚を釣ったり、砂浜で貝を採ったり、草原でバベキューしたりする憩いの場所であった。1980年台始めに有力な王族がカフジを訪問した折にカフジの美しい女性を妻にした。その女性と住む為にその王族が新築したと云う屋敷が今でも海岸に残って居り、歩哨が警護している。現在のアル ミシャブは1980年代の半ばに作られた軍港でカリド国王軍事都市への補給を任務としていると云われている。その軍港は30km以上に及ぶ柵で道路と隔てられ、海岸線を囲い込んでいる。その敷地の中にはB-52が離着陸できる滑走路が5つあるそうで、1997年頃にはその一つをカフジ用に民間に開放して貰うようにカフジ市長が盛んに運動していた。1990年8月2日のイラクのクウェイト侵攻以後は事ある毎にパトリオットが北の空に向けて配備されたので道路からもかなり大きな空軍基地のあるのは想像出来た。1991年の湾岸戦争ではイラクに対する同盟軍の反撃に大きな役割を担った。
4.8 カリド国王軍事都市 (KKMC)
KKMCは王国の北東のクウェイトに近い国境にあり、リヤドから約400kmでハファル アル バーティンから60kmの北緯27°57’ 22’’ 東経45°33’ 05’ の場所に位置している。KKMCの気候は夏には一般的に暑く乾燥しており、冬には少し寒い。湿度はリヤドより大きく海岸の町々よりも小さく30-60%の範囲であるが冬には降雨が見られる。KKMC付近の沙漠の殆どは荒涼としており、アラビアのローレンスの話に登場する様な深い砂に被われ、風に吹かれた重量感の溢れる砂丘を持つ美しい沙漠では無い。小石や硬く締まった砂や砂塵で覆われた何マイルもの平地が続く。この平らな固い表面は地平線まで永遠に続くように広がっている。この地域は全国民がイスラムのこの国でも一番宗教的に保守的な地域である。
別名をエメラルドの町 (Emerald City) とも呼ばれるカリド国王軍事都市(King Khalid Military City)はハファル アル バーティン(Hafar al Batin)の南のこの様な沙漠にサウジアラビア王国の北東国境防御の為に建設された。この軍事都市は3旅団から成る陸軍師団の為に設計され、65,000人の収容能力があり、米国陸軍および空軍の技術者が1960年代および1970年代にタイフ、KMMCおよびカミス ムシャイトを含む幾つかのサウジ軍事基地を設計・建設した中の一つである。1991年の湾岸戦争は「大規模で迅速な展開が必要であった沙漠の楯作戦を可能にする程にこれらの基地とその支援設備等の軍事的基盤が整備されていた」のを証明した。
この町の概念設計とマスタープランは1974年に始まり、最終的に1986年に最後の建設工事が完了した。直接建設費は13億ドルであり、関連費用を含めた総費用は80億から200億ドルだろうと推定されている。このプロジェクトの為に建設現場には世界最大のプレキャストコンクリート設備が設けられ、アラビア湾には新しい港が重要な資材や設備の陸揚げの為に建設された。そして21本の新しい井戸が必要な水を賄う為に掘られた。KKMCには3,387棟の二階建ての家族棟、公共施設用のトンネル、5重ドーム型モスクおよび付帯設備が設けられている。1982年11月29日に米国防省はサウジアラビアへの12億ドルの軍事物資の売却とそれに関する役務提供を米国議会に報告している。
KKMCに配置された米国軍事指導使節要員は陸軍航空技術援助実践部隊に所属しているがAMC-SAも同じ様にその軍事活動を広げていた。軍事地域としてはそこへの出入りは幾分制限されている。全ての支援はリヤドから行われた。
(注)米国軍事指導使節USMTM(The United States Military Training Mission)、 陸軍航空技術援助実践部隊TAFT(Army Aviation Technical Assistance Field Team)、 AMC-SA (Army Missile Command in Saudi Arabia)
1991年1月17日に戦闘が開始された沙漠の楯作戦(Operation DESERT STORM)の戦域はサウジアラビアであった。840,000平方マイル(ほぼ220万平方キロ)の国土の殆どは無人の沙漠である。沙漠環境の極端な状態は軍事行動を維持する為に連携する人間にも設備にも厳しい。サウジアラビアの主たる積み込み積み下ろしの空港はダーラン、リヤドおよびKKMCである。KKMCは沙漠の楯作戦の間、数千人のアメリカ兵およびその他同盟国兵を収容した。湾岸戦争の間、米特殊部隊は都市部軍事作戦訓練をクウェイトとKKMCで行った。パトリオット(Patriot)用のTF2-43ADA(対空兵器)が西ドイツから動員され、第11防空旅団に配属され、KKMCの対スカッド(Scud)ミサイル攻撃への防衛が整えられた。1991年2月21日イラクは3基のスカッドミサイルをKKMC向けて発射したがパトリオットによって撃墜されたと報告されている。
(注)都市部軍事作戦MOUT(Military Operations on Urban Terrain)、 防空部隊ADA(Air Defense Artillery)
戦後、1991年7月に第21 陸軍戦域司令官の将軍はKKMCへ赴き、そこの基地を閉鎖した。現在、アメリカのKKMCでの存在は最小限で、或る程度の米国政府職員がそこに働き生活しているだけである。ハファル アル バーティンは湾岸戦争の後、少しは大きくなったが二つの雑貨屋があるだけでバーガーキングもマクドナルドも無い。米軍や同盟国軍が去った後もKKMCはサウジの北方地域を防衛する重要な軍事基地である事には変わりはない。
4.9 サファニア
サファニア(Saffaniyah) は北緯27° 58' 東経48° 43' に位置しカフジの南約70kmにある集落である。サファニア油田は世界で第三位、海上油田としては世界最大である。サファニアにはその原油処理施設が設けられていたが、主要な原油処理設備は現在ではタナジブに集約されている。集落はアラムコの原油処理施設とは余り関係は無く、小規模な放牧と通行する車両の修理で生業を立てていた。元々はこの集落はダンマン/クウィイト旧道路の東の海岸の岬寄りにあったがミシャブを迂回してもっと内陸に複線の道路が新設され、2005年から開通したのに先立ちサファニアの集落は旧道路からかなり西に移設されている。
4.10 ウンム アシャール アシュ シャールキヤ
ウンム アシャール アシュ シャールキヤ(Umm Ashar Ash Sharqiyah)は全章で述べた様に涸れ谷バータンの中のダハナ砂丘との境界にあり、現在ではリヤド/クウィト道路(マジマア経由)のプテイハニアの丁字路から西に約60 km行った河岸の崖と砂丘に挟まれた谷間でガソリンスタンドと数件の家と2、3の小規模な円形農場が見られる小さな集落である。名前は全章で述べた様にサウジアラビアに良くある灌木の名が付けられている。アラビア湾から地中海を目指す隊商に取っては重要なオアシスの一つであったし、ダハナ砂丘帯に沿ってジョウフ(Jawf)まで旅をする道標になったと思われる。
4.11 ラス アル タナジブ
ラス アル タナジブ(Ras al Tanaqibu)はサファニアの更に南の海岸にあるアラムコの石油基地である。この基地では主として東部州北部の海上油田から生産される原油とガスを処理しており、世界最大の原油脱塩装置もある。アラムコの従業員は週末には家族の居るダハランに戻るのでそのシフトを輸送する為にジャンボジェット機(747)が離着陸する空港も併設している。
4.12 マニファ
マニファ(Munifah)はマニファ油田の為の石油基地があり、道路からもその廃棄ガスを焼却する炎が良く眺められたが、1984年に廃棄ガスを利用する為のマスターガスプランが実施されてからはその炎も殆ど見られなくなった。
4.13 カリヤ アル ウルヤ
カリヤ アル ウルヤ(Qaryah Al Ulyah)はダンマン/ハファル アル バーティン道路のナイリヤから西70kmの丁字路を南南西に20km入った場所にある。周囲は農村地帯であり、円形農場も見られる。農業地帯は40km x 30km程度でサウジアラビアとしては大きくは無いが、伝統的な農村と云う意味合いは大きく昔からのオアシスであった。このオアシスからムハイイラト山(Jibal Muhayyirat)を抜け、ジャララ(Jararah)、シュウィヤ(Shawiyah)、ルマ(Rumah)等経由でリヤドへも沙漠を通って抜けられる。カリヤ アル ウルヤにはイブン サウドの電信所のあった砦跡が残っており、それ程古い城では無いが修復され、当時使われた車両等が展示されている。私は2度訪れているがいずれの時も無人で誰が修復しているのは定かでは無かった。
4.14 ナイリヤ
ナイリヤ(Nairiyah)は東部州北部で三番目の町である。人口は2万人程度ではないかと思う。太古には涸れ谷ミヤ(Wadi al Miyah)の河口であった場所にしては周囲に農村は余り無く。南の町外れに2、3の円形農場のある農家が数軒みられる程度である。産業は自動車等の修理工場の他に小規模な鉄工場、木工場があり、家具や建材を作っている。リヤドからはルマ(Rumah)、シャウィヤ(Shawiyah)経由で複線の道路が新設中なのでこれが出来るとダンマン/ハファル アル バーティン道路およびハフーフ/アラビア海岸道路との5叉路となり東部州の交通の要として発展すると考えられる。
「昔はナイリヤから東側から海岸までの間には水は出なかった」と言われている。確かに珪岩(chert)等が止水層となって窪みを作りその上に砂が堆積した底の部分に雨水が貯まった浅層水以外の地下水源は東部州北部の海岸低地には見られない。これはカティーフ、ダンマン、アル ハサ等深層から掘り抜き井戸の原理で海中にも地層水の湧き出す豊かなオアシスに恵まれた東部州中部とは大きな違いである。
この地方では著名なナイリヤの木曜市場はこの地域の伝統を保っており、ベドウインの女性の店も混じって、羊、山羊、駱駝やベドウインが編んだ籠や駱駝用の馬具(駱駝具)から金製品まで扱っている。特に沙漠トリフ(ファガ)の季節である2、3月には高級キノコが集まりキロ当たり安くても100ドル、収穫が少なく高騰する年には500ドル以上で取引される。ファガの売買には特殊なセリがあり、売り手が付けた値段から買い手が競り上げ一番高値を付けた客がセリ落とす。これが分かるまでファッガをなかなか買えなかった。
又、水が手に入りやすく冬場の緑の多いせいか、最近では沙漠生活を楽しむためにアメリカ製の大型キャンピングカーも含めて天幕が沢山張られる様に成っている。天幕では自家発電で夜もこうこうと灯を燈している。それでも天幕と天幕の間は1km以上も離れているのでそれほどには賑わっている感じはない。ナイリヤには旨いアラブ料理屋が一軒あり、私も何度となく立ち寄っている。肉は羊と鳥で調理方法はサフランをすり込んで蒸し焼きしたマンディ、茹でた肉或いは焼肉でそれらを大盛りのご飯に載せたカプサ等を手づかみで食べたり、ホブツと呼ばれる丸く焼いたナンで挟んで食べたりする。ナイリヤ周辺には1970年代まではオリックス(Oryx)が居たと云われている程、今でも野兎や野狐が多く生息し鷹狩りを楽しむサウジ人も少なくない。又、サウジ人の一部が好んで食す大型トカゲのダッブ(Dhabb)も涸れ谷ミヤに多く繁殖している。
ナイリヤは隊商路の水場であった事はほぼ間違いないが、この町の由来はついては分からない。
4.15 ムライジャ
ムライジャ(Mulayjah)はナイリヤの南20kmにある小さな農村でナツメ椰子の畑をタマリスクの防砂林で囲んだ伝統形式の農場跡が涸れ谷ミヤの中をアス サラール辺りまで散在している。又、この村の辺りからサッマン台地の崖が更に150km南のアル ‘ウライ‘イラ(Al ‘Uray’irah)まで谷の両側に幾重にも見られる様になる。現在はコンクリートブロック作りの小さな役所と学校を挟んで道の両側に殆どは空き家の貸し店舗や住宅が細長く並び、一見すると生活が成り立つとは思えない様な、それで居てサウジアラビアの田舎では典型的な集落である。
4.16 ラス アル ゾウル
ラス アル ゾウル(Ras Al Zour)はアブ ハドリヤ(Abu Hadriyah)の北7kmを35km東に入った岬であり、国境警備隊の詰め所しかない場所であったが岩場の発達した美しい海岸である。1990年代にはビハール計画(Bihar Project)と云う600haものサルコルニア実験農場のあり、一時は海老の養殖も実験していた。サルコルニアは厚岸草から遺伝子培養した植物でツクシの様な形で海ホウズキの様に枝分かれし、菜種の様な黄緑で海水灌漑可能である。その種子からは植物油が搾れるのでサウジアラビアでは塩水利用の新しい農業として期待されていた。サルコルニアは又、サラダ用の塩味食材としてここからフランスに輸出もされていたが、採算が取れずに実験は終了してしまった。
このラス アル ゾウルに国営鉱山会社マ’アデン(Ma’aden)関連の国家プロジェクトで大規模なアルミニウムおよび燐酸肥料の精製輸出プラントと鉱石専門港の建設が2005年8月から予定されて居り、2008年から年間生産量64万トンのアルミニウム精錬所と年間生産量300万トンの燐酸ニアンモニウムプラント(燐酸肥料工場)が稼働し輸出を開始する予定である。これらの原料は計画中の北部鉄道で運ばれる計画であり、交通省がサウジアラビア鉄道機構(SRO)に指示してフィジビリティスタディが既に始まっている。又、サウジ淡水化公団(The Saline Water Conversion Corporation )(SWCC)も「民営化でリヤドの需要を満たす為の日産80万トンの海水淡水化と2,500 Megawattの発電の為のプラントをラス アル ゾウルに設置する」と発表して居る。
4.17 アブ ハドリヤ
アブ ハドリヤ(Abu Hadriyah)はダンマン/ハファル アル バーティン複線道路が完成するずうっと以前から国境警備隊の検問所のあった場所である。検問所の建物は1960年代後半から今日までコンクリートブロック造りの同じ建物が修復を繰り返しながら使われている。ダンマン/ハファル アル バーティン道路とダンマン/クウェイト道路の分岐である。1991年の湾岸戦争の際には米軍はアブ ハドリヤとハファル アル バーティンを結ぶアラビア横断パイプラインを戦闘の前線としていた。戦闘開始10日前の1月7日にカフジへの帰任の途中、ここまで米軍の大機動部隊と一緒に北上して居たのがここから先のカフジまでには戦闘部隊を見掛けなかったのとバリケードが張られた外に出て自分が前線の前に進んでいる事を実感した。今ではクウェイトとの合弁で大規模なセメント工場が作られ、周囲の沙漠から石灰岩を露天掘りで掘り出しているので常に埃が絶えない。2005年に複線道路がクウィエト方面にも開通したがそれ以前はここからかカフジまでは単線道路で交通事故の多い道であった。
4.18 ニッタア
ニッタア(Nita’a)はムライジャの南6kmでアス サッラールの北25kmの涸れ谷アル ミヤの中にある小さな集落であるがここには古い砦(Qasr)の跡が残っている。1990年代には柵が張られ考古学史跡の看板が立つのみであったが2003年頃から修復が始められた。ニッタアの古い砦は少なくてもオットマン帝国時代かそれ以前に築城されたと思われる。当時のナッタ’(Nta'、Natta')はハサ オアシスとクウェイトの中間に位置し、小さくても隊商路の重要な部族集落であった様だ。ニッタアの周囲にはタマリスクの大木に囲まれたナツメ椰子の畑跡も数箇所あり、その名残を残している。20世紀初期でのその住人は’ウジュマン('Ujman)、’アワジム('Awazim)、バニ カリド(Bani Khalid)、ムタイル(Mutayr)、ラシャイダー(Rashaydah)および南部シャッマール(Shammar)等の部族出身であった。およそ250軒の家々と4つのモスクが城壁と幾らかのナツメ椰子園に囲まれていた。涸れ谷アル ミヤの150 km南北に延びる幅広地域は遊牧民の良好な放牧地帯ともなり、この涸れ谷にはニッタア(Nita’a)以外にもムレイジャー(Mulayjah)、サッラール(Sarrar)およびカハファー(Kahafah)の3つの小さな村があった。
4.19 ジャララ
リヤドから北に向かって真直ぐに200km北に向かう舗装道路が昔からあり、飛行機からも何度も確認していた。1998年にリヤドに移り住んだ頃から「何の為の道路なのか」が気になっていた。一度「遊牧民の為に道路だ」と聞き、益々興味を持った。この道路はダハナ砂丘帯を横切り、東部州のサッマン(Summan)と呼ばれる場所まで続いている。そのサッマンには「アルカイダの容疑者が潜伏していた」と報じられた鍾乳洞も少なくないと云う。道路はここで北東に向きを変えて15km位で途絶えている。その延長は沙漠を140km横切ってカリヤ アル ウルヤ(Qaryah Al Ulyah)に交わる。その途中の北緯27°5′東経47°付近にジャララ(Jararah)と云う名の集落がある事を知り一度訪れようと思っていた。400km近い沙漠横断のリスクを考えるとランクル一台では無理なので同行して貰える連れを探していた。
或る時にJICAの岩本宗治先生夫妻に同行を引き受けて戴けたので2003年2月15日二台のランクルでリヤドを出発した。 リヤドから北へ進みサママ崖地(Thumamah)を通過する。 サママは通称でブワイブ崖地(Buwayb Escarpment) が本当の名前の様だ。崖からの景色を眺め休憩する。冬場の休日の為かサウジ人達はテントを張って優雅に沙漠の緑を愛でている。
ルマ道路(Rumah)から真っ直ぐに北に道路に入ると給油所は無い。ダハナ砂丘帯(Ad Dahna砂漠)の赤い砂の流れを斜めに横切る。砂が薄くなりダーナを抜けサッマン(Summan)に着く。数ヶ月前に偵察に来た時にはここが道路の終点であり、この先はダート道しか無かったが真新しいアスファルト舗装(Tarmac)が北東方向50kmのジャララに向かって延びている。
ジャララの入り口には三叉路のランダーバード(Rounder Bird)があり、道が北西へと分岐している。ジャララは一つの集落と考えていたが幾つかの集落を含む場所の名前の様だ。そこを直進すると給油所があり、その奥で道路が四角を描きその両側に店が並ぶ市場(スーク)がある。周囲の遊牧民への補給基地になっているのが分かる。給油して北西の集落を目指すと道は何度か折れ線を描き、町はずれからダートの道に入る。ダートは長く続かず沙漠道に成る。沙漠に黒煙が上がり、ゴミ捨て場か火事かと思ったら道路工事のブルドーザーである。北東に向けて大規模な道路工事をしている。ムハイイラト山(Jabal al Muhayyirat)を通過し始めると道は北東方面からかなりずれるがマクロに見て方向を失わない様に気を付ける。道路工事はずーと東に寄って行き、視界から消える。ナイリヤ(Nairiyah)に向かうのだと思う。
丘陵地帯を抜けると農場があり、アスファルト舗装(Tarmac)に出て、カリヤ アル ウルヤ(Qaryah Al Ulyah)の農村地帯に入る。この沙漠横断でジャララが集落の殆ど無い沙漠の水場であり現在でさえ補給基地として大きな存在であることを考えると昔の隊商にとってジャララはこの沙漠を旅する為の重要な拠点だったのだろう。
4.20 アス サッラール
南北に150km延びる涸れ谷ミヤ(Wadi al Miyah)の中流から下流に掛けて昔は湖だった広大な湿地帯が広がる。この湿地帯の上流部分でナイリヤ(Nairiyah)の南55kmにアス サッラール(As Sarrar)がある。涸れ谷ミヤの上流、中流部では一番大きな集落でドカン(食用・日用品店)、マーケット、クリーニング屋、床屋、自動車修理屋がナツメ椰子農園の前に並んでいる。この湿地帯は冬場の雨期になると今でも水深は浅いにせよ広大な湖が出現する。1913年頃作られたイクワン(Ikhwan)の村でもあり、今でもこの谷には原理主義者が多いと思われる。
4.21サジ
周囲と較べて良好な地下水に恵まれた涸れ谷アル ミヤ(Wadi al-Miyah)は歴史上ではイスラム以前の偉大な町であったサジ(Thaj)を支えて居し、西暦1913年以降はサジ(Thaj)の近くのヒンナ(Hinna)やサッラール(Sarrar)の様なイフワン(Ikhwan)の村が集中するのを支えた。サジへはアス サラールの町の真ん中から広い湿地帯を渡って、東のナツメ椰子農園へと土手が延び、道路が付けられている。この道に沿って砂丘の中を東南東に45km行くとアスファルト舗装が途切れ石灰岩のごつごつした基盤が小高く現れた上にナツメ椰子農園に囲まれたサジ(’Thaj)の集落がある。
集落の東には考古学博物館庁(the sub-ministry of Antiquities and Museum)の柵が廻らされている。殆どが瓦礫であるが一部には石積みの遺構が見られる。この遺構はアレキサンダー大王(Alexander the Great)を引き継いだヘレニズム期ギリシャ(Hellenistic Greek)のセレウコス朝(Seleucid、紀元前312年-64年)に関連した町の遺跡であり、メソポタミア(Mesopotamia) とイエメン(Yemen)との交易の拠点であり、同時にアラビア湾と地中海とを結ぶシルクロードの拠点でもあった。最近になって「サジがサウジアラビアの最大級の考古学遺跡の一つであり、飛び抜けて大きな規模と繁栄を誇った町である」のが明らかにされて来た。1913年頃作られたイクワン(Ikhwan)の村ヒンナ(Hinna)建設の際に建材として大分遺構が取り壊されて使われたが、遺構の殆どは湿地帯に埋まっていた為に残っている。この遺構からはサウジアラビアでは最大の量の黄金の遺物が見つかっている。現場には無いも説明が無いが、二度目に訪れた2001年には考古学博物館庁は保護柵を更に大きく拡大していた。
東部州北部の特産には羊と駱駝以外に余り一般的には知られては居ないがファッガと沙漠ダイヤがあるので紹介したい。
5.1不思議な沙漠茸ファッガ
5.1.1 沙漠の珍味
東部州北部沙漠でのスプリングキャンプの楽しみで欠かせないのがファッガ狩とファッガ料理である。私の住んで居たカフジ(Al Khafji)にあった鉱業所付属のゴルフ場でもファッガが採集出来た。タンポポ程の大きさで少しピンクぽい少し分厚い葉と茎の植物(Moltliopsis ciliate)の生えている辺りを注意深く見ていると地面に割れ目があったり、地面の上にファッガの形がこんもりと盛り上がったりしている。大きさはせいぜい杏かプラム程度であり、色も黒いものが多い。プレーの合間に採集するので多く採った話は聞いていない。一番多く取れるのはハファル アル バーティン(Hafar al Batin)から100km南のウンム アシャール アシュ シャールキヤ(Umm Ashar Ash Sharqiyah)への分岐であるプテイハニアの丁字路辺りで春の初めには家族連れがリヤドやクウィエトからやって来て天幕を張って逗留しながら茸狩を楽しんでいる。
(朝日新聞2005/2/13)
この時ばかりは普段は無人の沙漠も黒いアバヤの婦人の影で結構賑わう。勿論、ファッガはサダウィ(Sadawi)でも涸れ谷ミヤ(Wadi al Miyah)でも採れし、春のキャンプを楽しむ家族も少なくない。茸探しは女性の特技なので亭主共はそれを集めて市に向かう。ファッガ狩には外国人労働者の姿は無いので何か規則があるのだと思う。ファッガの市が立つのはプテイハニアの丁字路のガソリンスタンド、サダウィのガソリンスタンド、ナイリヤのベドウイン市であり、豊作であればサッラール(As Sarrar)、サファニア(Saffaniyah)、カフジ(Al Khafji)の街道沿いのガソリンスタンドでも市が立つこともある。品質の最良なものはナイリヤ(Nairiyah)のベドウイン市に集まる。値段は上質なものはキロあたり500ドル以上もするが豊作だと100ドル位になる事もある。私が2001年にナイリヤで買った見事なファッガは真っ白で小さな林檎程の大きさがあった。
5.1.2 アラブニュースの記事
ファッガについて昔は報道される事も無かったがファッガ狩の伝統の保存もあってか最近は新聞記事で報道される事も少なくない。平成17年3月4日のサウジ紙アラブニュースには「ファッガの歓喜 (Fagga Frenzy) が再びやってきた。微妙な瘤や沙漠の地表に微細な割れ目を作って外界に現われる場所に雨が茸(トリフ)を膨らませるこの季節は毎年起きている。この国の北部や西部に住む家族は4駆で町から流れ出し、この珍味の取れる場所を探し求める。例えばジュバイルの北のアブ アリ島 (Abu Ali Island) は家族でファッガの採集を楽しめる人気のある場所である。
食用にはアブ ハドリヤ道路 (the Abu Hadriya Road、ダンマン/クウィト道路) に沿って運転し、殆ど或いは全てが伝統的な非保護区から集められて道路脇の小屋から珍味の箱を買う事が出来る。事実、アル-ジョウフ (Al-Jouf) 、アル カシーム (Al-Qasim) 、アル-カルジ (Al-Kharj) およびナジド州 (Najd Province) でファッガは一般的であり有名でもある。収穫されたファッガは市場で一箱当たりSR 300 (US $ 80)からSR 1,500 (US $ 400)で売られている」と述べている。
5.1.3 ファッガの不思議な雰囲気
ファッガの様に不思議な雰囲気をかき立てる物は無い。西洋ではトリフと呼ばれて居り、非常に複雑な自然現象で、根も、幹も繊維も枝も芽も葉も花も無い最も奇妙な植物の一つである。完全に目に見えない土の下で成長し、誰もが何処に何時生えてくるか、正確に予測できない。ファッガは稲妻と雷鳴からうまれると広く信じられている。掘り上げたときに皺が寄って、瘤があり、かすかに芳香がして、まるで傷ついて、突起に出たジャガイモ、しおれた胡桃の実或いは乾燥したプラムの様に見える。ファッガの出現は勿論、神秘的に宛に成らない。
茶色、黒色、クリームがかった白色、時にはピンク色等30を越える種類があり、テルフェジア (the Terfezia) 又はティルトナマ (the Tirtnama) 属の全ての種類である。もし見付けられるとすれば沙漠トリフは地中海全域でも特にモロッコからエジプトに掛けての北アフリカ海岸およびもっと東のシリアのダマスカスからイラクのバスラや東部州北部に広がる広大な沙漠平原等乾燥した地域に育つ。
ファッガはモロッコではテールフェズ (terfez)と呼ばれ、エジプトの西部沙漠のベトインはテールファス (terfas) と呼んでいる。クウェイトではファッガ (fagga) と呼び、サウジではファグ‘ (faq’) と呼んでいる。シリア (Syria) では古いアラビア語名でカマア (Kamaa) と呼び、イラクではカマア (Kamaa)、キマ (kima) 又はチマ (chima) とその土地の方言で呼んでいる。オマーンではファガー (faqah) 又はズバイディ (zubaydhi) と呼んでいる。
5.1.4 東部州北部のファッガ
ナイリア (Nu’ayriyah) 、カイスマ (Qaysumah) やサファニア (Safaniya)等の東部州北部で見付かるファッガは東部州ではカラシ (Khalasi)およびズバイディ(Zubaydhi)と方言で呼ばれる2種類が良く知られている。
カラシ (Khalasi) は黒い皮をした楕円形で内部はピンクぽいアイボリーであり、ナッツの様な香りがする。クリーム色をしたズバイディ(Zubaydhi)が通常もっと高価であるがずうっと美味く、風味がある。通常は直径数センチを越える事は無いが、時折拳大の物もある。ファッガは手に乗せても重くは無く、典型的な重さは30gから300gである。ベドウインは「ファッガの数と大きさは雷鳴の力に影響を受ける」と言う。ファッガの発芽が始まる様に10月と11月の間に雨が降らなければ成らない。時期の悪い時の大量の降雨はファッガの胞子を腐らせてしまう。それから気候は一月を通じて乾燥し、2月と3月にファッガが出て来る様に春には1、2回軽い降雨が必要となる。
5.1.5 ファッガ狩と調理
ファッガ狩の熟練者達はファッガと共生する或る植物を探す。特に灌木の様なリアンセマム (Helianthemum genus) 属の草の近くでしばしば見付かる。 全ての環境が整うと何処にあるかさえ分かればファッガは砂からもぎ取れる状態になる。ファッガ狩では沙漠の荒い絨毯の様な花が並ぶ線上を探すとか、一番良い時間は夜明け或いは日没で太陽が砂の上に長い影を投げかける等である。
ファッガを収穫した後は太陽光と湿度が問題であり、対処する唯一の方法は調理するまでの時間である。砂から掘り出され4、5日するとファッガは盛りを過ぎてしまう。プラスティクの袋に入れて保存したり、冷蔵庫に蓄えたり出来ない。ファッガは決して調理し過ぎてはいけないので調理時間は数分を越えては成らない。焚き火の灰で焙るのは一つの調理法であり、クウェイト人は駱駝のミルクで煮たり、溶けたバターに入れて焙ったりする。手間は掛かるが良く洗って砂を取り除き、皮ごとスライスしてバターで炒め、塩コショウで食べるのが私は好きだった。
5.1.6 イモタケ
日本でも収穫できるファッガに一番近い茸はイモタケ(Terfezia gigntea Imai)であり、この茸は菌類チャワンタケ目トリフ亜目イモタケ科イモタケ属で絶滅寸前種であり、個体数も少なく、その発生地である松の枯死のために発生しなくなってきた。子実体はジャガイモ様の類球形、径5〜10cm(以上)。表面は初め白色、次第に淡茶色〜帯褐色となり、時に小さいいぼ状や、ひび割れができる。外被は厚さ約2mm。内部には不規則に子のうが散在し、白色と褐色の斑状となる。子のうは類球形、時に短い柄があり、子のうは胞子を通常8個入れる。子嚢胞子は無色、表面に細かい刺状突起をつけ、球形、径30〜35μm、厚さ2〜3µmである。小油球を含む。干した海藻様の強い臭気がある。北海道、群馬県、栃木県、京都府、広島県、鳥取県。日本特産であるといわれるが北アメリカにも産するという。
5.2 沙漠ダイヤ
東部州に長年住んでいたのに沙漠ダイヤについて知ったのは1998年にリヤドに移住してからであり、日本へのお土産として話題になっていた。「リヤドの繁華街オレイヤにある外人向けコンポウンドのオリエンタルラッグを売る店の貴金属装身具のケースにお土産用に売っており、注文するとタイに送って18金の台座につけて指輪やペンダントにしてくれし、自分が沙漠で原石を見つけてもタイに送って磨いて台座に付けてくれる」と云う。それほど興味は無かったがリヤド日本人会のご婦人達の多くが沙漠に出ると原石探しに忙しい。サウジアラビアの殆どの涸れ谷で大小や品質は別として結構見つかるので面白いらしい。
5.2.1 沙漠ダイヤとは
沙漠ダイヤはサウジダイヤともカイスマ ダイヤとも呼ばれている。これらは火成作用で出来た隠微晶質石英から成る紫水晶 (Amethysts) 、くすんだ黄色水晶 (Smoky Topaz)、淡黄色水晶 (Citrine)、瑪瑙(agate)と同じ天然の準宝石である。これらの特異な物理的に高品質の石は高価な炭素の結晶体であるダイヤモンドと同じ様な外観を作り出す。沙漠ダイヤは自然の石英の石で炭素ダイヤと同じ様に白い輝きを持ち、時と共に色が失せたり、壊れたりしない。モススケール10の硬度を持つ炭素結晶体の石に対し、沙漠ダイヤの硬度は7である。この石は採集され荒い外側が磨かれる。熟練し宝石加工業者は二重面加工技術を使って自然の欠陥線の周りを切り、これらの立派な石の天然の再加工品質を取り出す。
(a) raw stones found in the desert (b) polished stones (c) cut stones Isolated Saudi outpost offers unique mineral treasure by Maj. Dave White
沙漠ダイヤは名前が示す様にこれらの優雅な石はアラビア半島の主として中央平原の火成岩層の沙漠で見付かるが東部州北部、クウィトやアラブ首長国連邦(UAE)へと東に押し流されている。上流地域で上質な瑪瑙が採れる事と関連があると思うが一番品質の良い沙漠ダイヤが採集されているのは東部州北部のカイスマ(Al Qaysumah)であり、カイスマダイヤとも呼ばれている。この為にカイスマに近いカリド国王軍事都市(KKMC)に駐在した米軍の将兵の中には沙漠ダイヤの採集を楽しみにした人達も居た。その一人のデイブ ホワイト少佐は「サウジの遠隔の地で産する特有な宝石」と云う小文を書いているのでその抄訳を以下にご紹介する。デイブ ホワイト少佐は大西洋プログラムセンター軍需プログラム部(OPD)所属で1996年3月から1997年7月までサウジアラビア陸軍軍需部隊の基地保全司令に技術的専門知識と援助を与える任務に着いていた。
5.2.2 サウジの遠隔の地で産する特有な宝石
カリド国王軍事都市(KKMC)には一番多い時でその中の小さなアメリカの町を数百人の工兵部隊が住み家としていたがその後は最小人数となっていた。多くの人々にとってそこは文字通りの世界の果てであった。一番近い町ハファル アル バーティン (Hafar Al-Batin) は60km北で、最近まで涸れ谷アル バーティンを通るクワイト-リヤド道路とダハラン送油管道路(アラビア横断原油送油ライン、TAP Line)が交わるほんの小さな集落でしかなかった。衛星テレビはKKMCには無く、米国への電話料は高価であった。建設工事が終了し家族が帰国するにつれて残された人々の為の施設や活動はもっと制限された。そこで生活する中での娯楽の一つには沙漠ダイヤ狩りがあった。
5.2.3 沙漠ダイヤの品質
沙漠ダイヤモンドまたはサウジダイヤモンドは高品質の水晶ではあるが一つの重要な特質を持っていた。これらは炭素ベースの高価なダイヤモンドと同じ様に見える。これらは非常に透明で内部構造が大変安定している。これが沙漠ダイヤモンドは時代と共にもろくなったり、割れたり、色が落ちたりしない事を意味している。モススケール (the Mohs scale)では沙漠ダイヤモンドは7.5である。その成分故に沙漠ダイヤモンドは炭素のダイヤモンドよりも重い。1カラットの沙漠ダイヤモンドはカーボンダイヤモンドと比べて20%小さい。
5.2.4 ダイヤモンド狩り
KKMC付近の大半の沙漠は誰かがダイヤモンドを見つけられる様なロマンチックな場所には見え無い。アラビアのローレンスに登場する深く、大きな塊の風に吹かれた砂丘を伴う美しい沙漠では無く、ここは平らで硬い地表が水平線まで限りなく広がり、小石がばら撒かれ、硬く固まった砂や砂塵だけの土漠である。一見、写真写りは良くないが、これが真に沙漠ダイヤモンド狩には最も良い場所である。沙漠ダイヤはサウジアラビアの何処ででも見つけられるが、一番品質の良い物はKKMC北東の油送管の町カイスマ (Qaysumah) の近くで見付かる。
ダイヤモンド狩りをする最良の時間は太陽が上がりつつある早朝である。ダイヤモンド狩人は太陽に向かって15mから20m位の範囲の沙漠表面を入念に見渡す。夜明けの光が荒いダイヤモンドに当たり、薄暗い光を発する。幾つかの粗沙漠ダイヤモンドは鶏の卵大であるが非常に稀である。殆どの大きさはピーナッツから胡桃の実大である。狩りの良い日には1ダース以上の石が見付かる。見付かった時に殆どの沙漠ダイヤモンドは気候に曝され色が鈍化しているので次の段階としてはこれらの切断の為にこれらをきれいにする事である。道楽的な磨きの多少の作業で鈍化された色が無くなり、透明な水晶の塊が出来上がる。
5.2.5 ダイヤ原石の加工
沙漠ダイヤはそれから装飾店に持ち込みカットとセットをして貰う。リヤドの装飾スークでは注文でダイヤをカットしてくれるが、殆どはバンコックにその為に送られる。原石はしばしば熱すると内部の傷に沿って割る事が出来る。これは傷の無い最終製品が得られるので永久保存できる。炭素ダイヤの加工の殆どが沙漠ダイヤにも適用できる。二重面加工面が最大の輝きを得られるために沙漠ダイヤに適用するのが好まれる。この結果、美しい石は指輪にもネックレスにもブローチにもなる。
東部州北部には長年住んでいた割には私の手元に写真や記録が少ない。広大で平らで何も無く地平線ばかりが景色なので絵に成りにくい事もあるが自分にとって珍しくないと云うのが多分にその理由である。しかし、サウジアラビアの他の地域を訪れると変化に富んだ地形が多く、この地平線ばかりの景観がこの地方の大きな特徴である事が良く分かる。この地では当たり前の白い砂はサウジアラビアの中央部や西部には見当たらず、サウジアラビア全体では私に取っては美しく珍しかった赤い砂が一般的である。
1994年12月にファルシ地図の初版が発行されるまではサウジアラビアでは殆ど地図も無く、無線も使えず、GPSや携帯電話等思いも寄らなかった。旅行も移動毎に許可証が必要であったし制限されていた。私がカフジ鉱業所に勤務していた1991年末までの間は旅行したとしても殆ど地図が無く磁石だけが頼りだった。
(注) 1997年から2003年まで沙漠緑化に携わり沙漠を調査していた間、ファルシ地図は私の座右の書であったし、最初に買った一冊目は書き込みもあり今でも手放せないでいる。 従って、2000年3月に書かれたキャロル A. ヒル(Carol A, Hill)の仮説に関しては地理的地質的な内容に多少問題があっても致し方無いと思う。ヒルの仮説は涸れ谷ルマ/バーティンがその様な仮説が立てられる程、古くから乳香の道として利用されていた事を示す例としてここで取り上げたので聖書の内容との整合性についての検証は特に行っていない。
最近、お付き合いしているジャーナリストの方から「乳香の道にせよ、シルクロードにせよ一本の道として考えるのでは無く、幅のある帯の様に考えるべきでは無いか」とのご意見を戴いたが私も全く同感であり、実際に沙漠を踏破する時に例えGPSを使ったとしても行程には幅を持たせて動いていた。沙漠の中には四方八方に轍が付いており、轍を追いかけていると混乱するばかりである。それよりはダハナ砂丘地帯に沿って移動するとか涸れ谷シルハーンの中を移動すると云う大まかな考えの方が現実的であった。
現在が産油地帯としてしか余り省みられる事の無い、東部州北部もかつては乳香の道とシルクロードの交わる重要な隊商路の交差する場所であった。それを思うとこの土埃が舞い、漠々と果てしなく平らな大地にも限り無い浪漫が感じられる。
Aquifers of Saudi Arabia and their Geological Framework, H.S. Edgell, 8 barkly Crescent Forrest Canberra, ACT 2603, Australia, June 1997
William Facey, The Story of the Eastern Province, Stacey International, 1994
The Garden of Eden: A Modern Landscape, Carol A. Hill, 17 El Arco Drive Albuquerque , NM 87123, From: Perspectives on Science and Christian Faith 52 (March 2000): 31-46.
The Captain and the King, Written by Peter Harrigan Travel in Saudi Arabia from January 6th to 30th 2003 by MR & MRS Richard & Helen Brain (Copyright © OceanNomad)
Isolated Saudi outpost offers unique mineral treasure written by Maj. Dave White, (formerly of the Transatlantic Programs Center's Ordnance Program Division in Saudi Arabia, was assigned to King Khalid Military City from March 1996 until July 1997. He returned to the 13th Corps Support Command at Fort Hood, Texas.)
Desert Truffles Galore written by John Feeney, a native of New Zeeland lived in Cairo.
Arab News “Fagga Frenzy Is Upon Us” dated March 4, 2005 |
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