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空白地帯と呼ばれる沙漠
(サウジアラビア王国南部) ルブア・ハーリー(Rub' Al Khali) 著: 高橋俊二 |
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空白地帯と呼ばれる沙漠 ルブア・ハーリー(Rub' Al Khali)
2004年6月30日 修正: 2012年8月28日 高橋 俊二
前書き 紹介 1. 自然 1.1 気候 1.2 地質と地形 1.2.1 構造地質的変動 1.2.2 巨大河川の下流域 1.2.3 砂丘 1.2.4 平らな含塩低地 (Sabkha、Salt Flat) 1.3 地下水層(帯水層) 1.3.1 北部帯水層 1.3.2 主要帯水層 2. 歴史 2.1 石器の採石場 2.2 旧石器人 2.3 新石器人 2.4 メソポタミアのウバイド文明との接触 2.5 隊商路 3. 沙漠に生きる 3.1 ベドウイン 3.1.1 東部州のベドウイン 3.1.2 幻の遊牧民ムッラ 3.1.3 南部アラビアのベドウイン 3.2 動植物 3.2.1 動物 3.2.2 植物 4. 探検 4.1 早期の探検家 4.1.1セシジャーの探検 (Wilfred Thesiger) 第一回空白地帯横断 (1946) 4.1.2セシジャーの探検 (Wilfred Thesiger) 第二回空白地帯横断 (1948) 4.2 現在の探検 5. 空白地帯の開発 5.1石油・ガス鉱業 5.2 農業開発 5.3 観光開発 6. ルート調査 6.1 化石湖への出入り口 (Shawalah) 6.2 文明の果てる村 (Yabrin) 6.3 夜と云う名の町 (Layla) 6.4 アラビア盾状地の主要排水路 (Wadi ad Dawasir) 6.5 切り通しの遺跡 (Qariyat al Faw) 6.6 遠い沙漠の基地の町(Sharourah) 6.6.1 石灰岩の崖に囲まれた涸れ谷からの訪問 6.6.2 花崗岩の谷間に刻まれた伝説の町からの訪問 後書き
前書き
地域の名前は多くの場合にその特徴を示している。私が小学生であった頃に空白地帯と云う名が何を意味するのか不思議に思っていたがこの思いは何時しか記憶の奥底に埋もれてしまって居た。
1996年に新しく任じられた沙漠緑化事業を始めるのに先立ち大沙漠への認識を持つ為に空白地帯(ルブア・ハーリー)を眺める事にした。又、長年勤めてきた石油鉱業から足を洗う自分の記念として世界で最大のガワール油田も見たかった。首都リヤード(Riyadh)から少し南に下り空白地帯沙漠の北辺を東へとガワール油田南端のハラド(Haradh)に行きそこからガワール油田に沿って北上し東部州の州都ダンマーム(Dammam)へと抜けた。その時に空白地帯の広大さとガワール油田の巨大さに本当に感銘を受けたと同時にこの沙漠が空白地帯と呼ばれる事に再び興味が湧いて来た。
それから間もなくハラドの南100 キロにヤブリーン (Yabrin)と云う名のオアシスのあるのを地図の上で見つけた。そこは「駱駝の人」とも呼ばれ駱駝によってだけ生計を立てている神秘な放牧民ムッラ族(Murrah)の補給基地である。故アブドゥルアズィーズ(Abdul-Aziz)王が1891年に父の首長とリヤード(Riyadh)から避難した際にムッラ族(Murrah)が彼等をラシード族(Rashid)の追っ手から二年間匿った。当時まだ10歳であったアブドゥルアズィーズ(Abdul-Aziz)は乏しい食糧と僅かな水しか無いこの厳しい沙漠で生き残る厳しい生活を味わった。時にはアブドゥルアズィーズ(Abdul-Aziz)も山賊となって他の部族への不意打ち攻撃にも何度か参加している。「この経験がアブドゥルアズィーズ(Abdul-Aziz)のその後の人生の為に良い試練となった」と云う。そして、又、ウィルフレッド・セシジャー(Mr. Wilfred Thesiger)の空白地帯横断の探検記を読みセシジャー(Mr. Thesiger)は二回目の横断探検の際にこのヤブリーンに立ち寄っているのも知った。
それ以後、私はヤブリーンを訪れる沙漠トッレクを模索して居た。ヤブリーンへのルートを調べる目的で2000年8月31日にアハサー(Al Ahsa)からリヤードへの帰りにハラドに立ち寄った。私はアスファルト舗装が新たに南に向かって延びているのを見つけ、運転手とその道を南に下ると100 キロでヤブリーンに着いた。訪れるのが難しいと思って居た私の覚悟に反しこの訪問は余りにも簡単で呆気無かった。
(注)アハサー(Al Ahsa): ダンマームの南100 キロにあるサウジで最大のオアシス。
それを契機に私は何となくこのルブア・ハーリー沙漠(the Rub' Al Khali)に入り込むルートを探す様に成って居た。これが私のサウジ紹介の「サウジの自然と地理」、「メッカ街道」、「ナジュドの自然」、「ハーイルの自然と旅」および「沙漠の辺境ジャウフ」に続く第6篇に「空白地帯と呼ばれる沙漠ルブア・ハーリー(Rub' Al Khali)」を選んだ理由であり、これまで使って来た「私の訪問」と云う章の名も「ルート・サーベイ」に変えた。
無味乾燥にしか受け取れない分かり難いカタカナのアラビア語よりは具体的な印象を持って戴く為に私はこの第6篇でもそれぞれの地名に渾名を付けてみた。今回は出来るだけアラビア語本来の意味を解釈した上で渾名を付けようとはしてみた。例えばアラビア語のルブア・ハーリー(Al Rub' Al Khali)は正に空白地帯と云う意味である。
しかしながらそれぞれの地名そのものの綴りをアラビア語の辞書の中から見出すのは難しいので、語幹からもイメージしようと心掛けた。アラビア語は三つの語幹から成り、全ての綴りの意味はその語幹の組み合わせに派生していると言う。しかしながらその派生には多くの場合に余りにも論理的飛躍が大きい。例えばdHnはdahanaと読み「油を塗る」、「グリーシングする」、「塗装する」との意味であるがサウジ国内で大きな砂沙漠の一つであるダフナー沙漠のDahna'は「沙漠」の意味である。
同じ意味の単語を重複している場合も多く、例えば空白地帯沙漠の一番イエメンに近いワディーア(Al Wadi'ah)の西南西に広がる砂丘地帯(Ramlat al Kuthayyib)の意味は辞書の儘に翻訳すると「砂の丘群の砂丘群」あるいは反対に「砂丘群の砂の丘群」となる。又、幾つかの場所の名ではその語幹部分でさえ辞書の中に見つからない。渾名を付けた私の解釈は必ずしも相応しいとは思わないし方言や慣習から付けられた地名も少なく無いのでサウジの友人達には特にコメントをお願いしたい。
紹介
サウジの南部は空白地帯(the Empty Quarter)或いはルブア・ハーリー(Ar Rub' Al Khali)と云う名で知られた茫漠とした砂丘地帯である。ベドウイン(Bedouin)は単に砂丘群(al-Rimal)と呼んでいる。東はオマーン山脈、南はアラビア海沿いの海岸山脈の奥にある台地、南西部はイエメンとアシールの山麓の丘に囲まれる盆地が空白地帯であり、長さが約1,200 キロで最大幅が650 キロ近くある。その面積はフランス、ベルギーとオランダ三国を合わせたより大きく約650,000平方キロ あり、連続する砂沙漠としては世界最大である。
空白地帯沙漠(ルブア・ハーリー) (ここをクリックすると図が拡大します。) 空白地帯の砂丘は全て同じ型では無く、比較的安定した砂の層におおわれた場所以外では卓越風に動かされ砂丘はいろいろな形を作りだしている。その形には星型、ドーム型、三日月型等がある。砂の塊は時としてアラビア語ではウルーク(Uruq)と呼ばれる長い一連或いは平行な砂の山脈(私は砂丘列と呼び事にする。)を作ったり、150 メートルから250 メートルの高さのある複雑な砂山を作ったりもする。
空白地帯の大部分はベドウインが稀な雨の恵みの放牧地を求めて遊牧する時期を除けば不毛地帯である。それでも遊牧民が広く散らばって放牧していれば生活出来る場所もある。空白地帯の東経50度と東経52度の間のウバイラ(Ubailah)やヒールヒール(Al Khirkhir)等の水井戸が連なり、南北に横切るのに良く使われている地帯等がその例である。
(注)ウバイラ(Ubailah): ふくよか。 (注)ヒールヒール(Al Khirkhir): 小川のサラサラ音。
緯度経度で場所を示すのは科学的には良く使われ便利であるが一般的では無い。「東経50度と東経52度の間」を言い換えるとカタール半島の南100 キロから南700 キロの間の南北600キロで東西200 キロ幅の地帯となる。
ベドウインは人間が飲めなくても駱駝には飲ませられる塩分濃度の水井戸の多いアブダビ(Abu Dhabi)の南の空白地帯北東地区にもしばしば入り込んで居る。ベドウインは沙漠を示すラムラ(al-Ramlah) 或いはリマール(al-Rimal)とこの地域を呼んでいる。
頑強なベドウインにしか横断出来ない空白地帯は地球上で欧米人に残された20世紀最後の未踏地の一つであった。1931年探検家バートラム・トーマス(Bertram Thomas)がオマーンの南のアラビア海に面した町サラーラ(Salalah)からアラビア湾のカタール半島まで最初に横断した。1932年にアラビア半島の中央部および北西部を探検したジョン・フィルビー卿(H. St. John Philby) はその記録の中に空白地帯についても言及している。更にもう一人の英国人ウィルフレッド・セシジャー(Wilfred Thesigar)が1945年から空白地帯の未踏地域を数回にわたって探検している。その他1937年から1940年かけてカルフォルニア・アラビアン・スタンダードの石油地質技術者トーマス C バーガー(Thomas C. Barger)がベドウインと共に空白地帯を地質調査し、1970年代後半以降BBCのオーストラリア人マイケル・マッキンノン(Michael Mckinnon)が空白地帯を映像化している。
(注)トーマス C バーガー(Thomas C. Barger):石油地質技術者で1969年に引退したARAMCO会長。
1. 自然
1.1気候
空白地帯では10年間全く雨が降らない事もある。南部では一層に顕著でであるが雨は降ったとしても疎らで当てに成ら無い。他の場所には降らなくても一ヶ所に集中的に降る事もある。従って平均雨量と云う考え方は適用出来ない。地域全体の平均雨量が75 ミリであってもある場所では15 ミリであったり150 ミリ以上であったりする。
一年の内の6ヶ月は人が生活するには熱すぎ、その焼ける様な熱さは日陰で50℃以上あり、砂や石粒の表面は80℃近くになり生物がその上を移動できない。夜に成ると昼間の猛烈な熱さを保つ雲が出る事は殆ど無く空気は急速に冷やされ寒い季節では凍り付いてしまうし、乾いた冷たさが不十分な寝床に辛く侵入して来る。
1.2 地質と地形
空白地帯沙漠の地質図
1.2.1 構造地質的変動
アラビア・プレートでの最後の地殻変動は約三百万年前の鮮新生(Pliocene)中期に起こり、台地に三つの大きな変化を作り出した。アラビア・プレートとヨーロッパ・プレートがぶつかり合う線に沿った圧縮力は陸地を上方へと押し上げザグロス山脈(Zagros)を現在の高さ迄に持ち上げた。アラビア半島は南西が上がり北東が下がる様に捻られそれによってアラビア湾が出来、東部州ではアジア大陸に対する最後の圧縮の圧力で南北方向に並んだ堆積層の緩やか褶曲を作り出しそれが今日世界で最も豊かな油田を形成する地質構造と成った。
(注)ザグロス山脈(Zagros): イランのアラビア湾側の山脈。 (注)鮮新生(Pliocene): 第三紀最新世。
1.2.2 巨大河川の下流域
鮮新生(Pliocene)中期の地質変動と同時代にこの地域の気象パターンが根本的に変化した。暖かく湿った気候はこの半島に定着し3百万年まえから百年万年前までの2百万年もの長きにわたり続いた。この長い間での高降雨が恒久的なアラビア半島の地形を作った。紅海側の山脈の分水嶺から東側のすべての土地は巨大で強力な河川で浸食され驚異的な量の岩、砂や砂利が東に運ばれ空白地帯盆地を埋め、アラビア半島の東部と北東部に広い砂利原ディブディバ(Dibdibah)を形成した。
大きさも流れも今日世界で最も大きな河に匹敵する三つの河が半島を西から東に横切りアラビア湾に注いで居た。この河床は現在でも乾いた涸れ谷(Wadi)と成って残っている。西側の山脈の壊れた地形は水の浸食力の結果でありこの水の力がアラビア盾状地の瓦礫をアラビア半島の脊稜のトゥワイク崖地(the Tuwayq escarpment)を切り通して遠く東へと運んだ。
涸れ谷ダワースィル(Wadi Dawasir)はスライル(Sulayyil)付近でトゥワイク崖地を押し流して貫通し、その支流の涸れ谷ヒンウ(Wadi Hinw)はカルヤ・ファーウ(Qariyat al Faw)遺跡付近でトゥワイク崖地を貫いて居る。涸れ谷ダワースィルは空白地帯盆地の広い範囲をアラビア盾状地から浸食され運ばれた土砂や瓦礫で埋めた。現在では厚く積もった漂砂の為に涸れ谷ダワースィルの下流域はハッキリして居ないが、その時代にはそれ以前は海で覆われて居た空白地帯に低く横たわる三角州を形成した。空白地帯東部でアラブ首長国連合(UAE)に近いサウジアラビアおよびオマーンの国境地帯に広範囲に広がるウンム・サミーム(Umm as Samim)と呼ばれる平らな含塩低地(sabkha、salt flat)はかなり最近まで涸れ谷ダワースィルが流れ込んでいた湖であった。
(注)スライル(Sulayyil): タマリスク《Tamarisk》の木立に囲まれた農村地帯の中心で鞘を抜いた刀を意味している。 (注)涸れ谷ヒンウ(Wadi Hinw): 弓の涸れ谷。 (注)カルヤ・ファーウ(Qariyat al Faw): 切り通しの城塞都市。 (注)ウンム・サミーム(Umm as Samim): 毒の母。
涸れ谷サフバー(Wadi Sahba)はハルジュ(Kharj) から190 キロ東のハラド(Haradh)を通って、更に東のアラビア湾へと中央アラビアへの降雨を排出して居た。涸れ谷サフバーはその河口に広大な三角州を作り出して居た。その涸れ谷サフバー三角州はハラドから200 キロ離れたアラビア湾まで続き、その円弧はアハサー(Al Ahsa)の東65 キロにある昔の港ウカイル(Al Uqair)からカタール半島の南まで150 キロ以上に及ぶ。
(注)ウカイル(Al Uqair): 不毛。
涸れ谷サフバー(Wadi Sahba)はその延長のせいか「長く延びた」と云う様な意味持ちリヤードの南150 キロ位の範囲でトゥワイク崖地を北から順にそれぞれ切り通しているその三つ支流である涸れ谷ニサーフ(Wadi Nisah)、涸れ谷ハウタ(Wadi Hawtat) および涸れ谷ビルク(Wadi Birk) の流れをリヤード南東80 キロにあるハルジュ(Kharj)で集めて居る。ハルジュ(Kharj)はリヤード南東80 キロにあるオアシスで、サウジアラビア王国内での緑を代表して居り、鞍袋と云う意味を持つ様だ。ハラド(Haradh)はガワール油田の南端にある閑散とした駅で「家畜を追い立てる」と意味と考えて居たがこれからの空白地帯東部の石油ガス開発の中心と成るのを考えると「鼓舞する」と云う意味の方が妥当かも知れない。
涸れ谷ルマ・バーティン(Wadi Rumah/Batin)はもっと北部を排水し北東へと流れクウェイトでアラビア湾に注いで居た。涸れ谷ルマ・バーティンもクウェイト周辺を中心にアラビア半島北西部の大部分を覆うディブディバ(Dibdibah)と呼ばれる大きな三角州を形成した。
1.2.3 砂丘
アラビア半島北部のナフード沙漠(Nafud)から延々と続く砂の回廊ダフナー沙漠(Dahna')は南に延びて空白地帯に飲み込まれて居る。地元では単にリマール(the sands)と呼ばれる空白地帯は世界中で最も大きな連続する砂沙漠である。今日眺められる砂丘地帯は最近の極端に乾燥した数世紀の間に風に吹かれて移動した砂に表面を覆われているが更新世(Pleistocene)に起きた数度の乾燥した時代に形成された沙漠を代表している。空白地帯の殆どを覆う現在の土壌は砂丘地帯であり前章の「巨大河川の下流域」で述べた様に鮮新世(Pliocene)後期および更新世(Pleistocene)前期の湿った時代に水の流れで堆積層が作られた。この砂丘地帯はこの堆積層が乾燥して実際に形成されている。
(注)リマール(the sands): 砂丘地帯。 (注)更新世(Pleistocene): 第四期洪積世160万年前から10万年前。 (注)鮮新世(Pliocene): 第三期最新世500万年前から160万年前。
西部地域ではインド洋から吹いてくる卓越風が数百キロも延びるゆるやかに起伏する砂の尾根を作り出した。尾根の間に平行に並ぶ回廊では比較的容易に旅が出来る。中央地域では砂丘地帯の形はもっと複雑で予測し難いが最も劇的な眺望が見られるのは東部地域である。数百フィートの高さの赤い砂山が太古の海底であった平らな白い含塩平地からそびえ立っている。
(注)砂の尾根: 私は砂丘列と呼ぶ。
空白地帯の砂丘地帯は全て同じ型の砂丘では無い。或る地域では卓越風で砂丘が移動し風で色々が形を作り出している。砂丘は星型、ドーム型や三日月型等をしている。砂の集まりは時として長く一本の或いは平行したアラビア語で’ウルーク('Uruq)と呼ばれる長い砂の山脈(砂丘列)や150 メートルから250 メートルもの高さのある砂の山塊を形成する。北部ではバルハン(Barchan)が典型的である。空白地帯南東部では星型砂丘と呼ばれる砂山が散在する。その他の地域ではウルーク(Uruq)型と呼ばれる砂丘列が一般的である。
バルハン (Barchan)は三日月型をして居りその両方の尖端を風下に向け卓越風向に直角に並ぶので横断砂丘(Transverse dune)とも呼ばれる大きな砂の集まりである。バルハン型はかなり移動性がありさまよえる砂丘とも呼ばれている。ウルーク型は厚みの無い砂丘の層である。多くのウルーク型(砂丘列)は空白地帯の南西地域等で見られる様に平行に並ぶ。その空白地帯の南西部では100を越す数のウルーク型砂丘が1キロ半から2キロの間隔で北東から南西に向かって200キロもの距離を平行に並んでいる。星型やドーム型の砂山は時には基盤から300メートル以上も盛り上がっている。
1.2.4 平らな含塩低地 (Sabkha、Salt Flat)
この地域全体がかつては湖であった事を砂丘の間に横たわるサブハ(平らな含塩低地)が示している。世界的に寒冷な気候であった時代に水は後退し塩が溜まり広大な乾燥した平原を作り出した。その平原はやがて砂で覆われ砂丘で埋められた。空白地帯の東部ではサブハ・マッティー(Sabkha Matti)やウンム・サミーム(Umm al Samim)の様な広大なサブハ(平らな含塩低地)が広がっている。
サブハ・マッティーはアラビア湾岸のアラブ首長国連邦とサウジアラビアのカタールに近い国境地帯にあり、涸れ谷サフバー(Wadi Sahba)が流れ込んでいる。マッティーの意味はイラクでは驢馬であるがこのサブハは思ったよりずうっと内陸まで入り込んで居る為にこの地域のベドウインはゴムの様に伸びると云う意味に使っている。
ウンム・サミーム(Umm al Samim)は初めて空白地帯を横断した探検家バートラム・トーマス(Bertram Thomas)がベドウインから伝説の流砂地帯と聞いていた。この巨大な流砂地帯はかつて涸れ谷ダワースィル(Wadi Dawasir)が流れ込んで居た大きな湖であった。現在ではその表面をサブハ(Sabkha、含塩平地)の薄い塩の表皮が覆って居て通行するのには非常にはまり安くアラビアで「毒の母」を意味するとウンム・サミーム(Umm al Samim)呼ばれている。
1.3 地下水層(帯水層)
1.3.1 北部帯水層
新石器時代から空白地帯では水が乏しく貴重な存在と成って来た。4,500年の豊富な降雨に恵まれた時代が過ぎると降雨は急速に少なく成って来た。四季を通じて自然に水が流れる様な水源は殆ど全く無くアハサー(Al Ahsa)やヤブリーン(Yabrin)の様な数少ない大きなオアシスでは伝統的にウンム・ラデュマ層(Umm ar Radhuma)、ダンマーム層(Dammam)やネオジェーン層(Neogene)等の帯水石灰岩層から掘り抜き井戸の原理で湧き出す泉から水を得て来ている。中央地域ではスンマーン・カルスト台地(Summan)の散在する洞窟(dahl)や自然に出来た井戸から水を得て来たし、ハルジュ(Al-Kharj)やライラ(Layla)では幾つかの陥没孔や天然の井戸が絶える事の無い水を供給して来ている。4半世紀前まではライラの南西にある幾つかの湖や湿地帯(Uyuns)が素晴らしい沙漠の景観を作り出していたが今では完全に干上がった窪みと成ってその名残を留めて居るに過ぎない。これらの地域が空白地帯の北限と成る。
(注)スンマーン(Summan): どっしりしたの意味。 (注)ハルジュ(Al-Kharj): 鞍袋。 (注)ライラ(Layla): 夜。
a) ウンム・ラデュマ層(Umm ar Radhuma)
この暁新世(Palaeocene、6,500万年から5,600万年前の第三紀層)の石灰岩層はワシア/ビヤド(Wasia/Biyad)帯水層と重なっている。この層は様々であるがアハサー(Al Ahsa)では水質も良く大きな帯水層を成して居り、アラビア半島東部一帯に広がって居る。
(注)アハサー(Al Ahsa): ダンマームの南100 キロにあるオアシス。
b) ダンマーム層(Dammam)
始新世(Eocene、5,600万年から3,500万年前の第三紀層)の石灰岩層と泥灰土層(Marl)で水質、水量とも中位の帯水層である。この帯水層はアハサー(Al Ahsa)、東海岸および涸れ谷サフバー(Wadi Sahba)で利用されている。
c) ネオジェーン層(Neogene)
中新世(Miocene)およびそれよりも新しい主として石灰岩からなる様々な岩層で構成され、水質および水量は様々な帯水層である。主としてアハサー(Al Ahsa)ではウンム・ラデュマ層(Umm ar Radhuma)およびダンマーム層(Dammam)と幾つかの場所で相互に通じていると考えられる。
(注)中新世(Miocene): 2,300万年から500万年前の第三紀層。
1.3.2 主要帯水層
空白地帯の大部分で実在するワジード(Wajid aquifer)、ワシア/ビヤド(Wasia-Biyadh aquifer)等の帯水層もある。この水層は必要とされる場所に必ずしも無いし、ミネラル含有量も様々で場合によっては処理しなければ利用できない程に多いので現在は余り価値は無い。
a) ワジード(Wajid aquifer )
この帯水層はオルドビス紀(Ordovician)の砂層で水質も良い。この層はアラビア盾状地の南東部から東に空白地帯中央の北部にあるアラビア盾状地の主要排水路涸れ谷ダワースィル(Wadi ad Dawasir) や中央の南部にありイエメン国境に近い空軍基地の町シャルーラ(Sharourah)方面に広がっている。この帯水層は生活用水や灌漑用に使われて居り空白地帯中央部開発の為の大きな可能性を秘めている。
(注)オルドビス紀(Ordovician): 5億1千万年から4億3千8百万年前の古生代層。
b) ワシア/ビヤド(Wasia-Biyadh aquifer)
この帯水層は首都リヤードの水道水や灌漑用に使われている。白亜紀(Cretaceous)を代表する主要帯水層でありアラビア半島北西部ではサカーカー帯水層とも呼ばれている。ビヤド帯水層(Biyadh aquifer)やアルマ帯水層(Aruma aquifer)とアラビア半島中央部の南ではつながって居り、三つの層が同じ水力学的構造として挙動しており全体で白亜紀砂岩帯水層と呼ばれている。この帯水層は空白地帯での大きな開発の可能性を持っている。
(注)白亜紀(Cretaceous): 1億4千5百万年から6千5百万年前の中生代地層。
2. 歴史
2.1 石器の採石場
石器時代の人類はその道具作りに石切場が必要だった。地表を漂砂、柔らかい泥灰土(Marl)、黄土(Loess)や広大な砂利原におおわれた平に広がった空白地帯には石切場に適した岩盤は存在し無かった。この地域で唯一石器に利用できる石材は涸れ谷ダワースィル(Wadi Dawasir)や涸れ谷サフバー(Wadi Sahba)の様な鮮新生(Pliocene)の3百万年前から1百万年前の2百万年間もの長きにわたり続いた多雨な時代に出来た巨大な河川によって遠く西の火成岩層から運ばれて来た水に浸食された丸石だけであった。この様な古代の河川敷にある丸石は広大なこれら河川の流域全体で形成され多くの種類の岩石から成っていた。石器に適する石が少なかった為に空白地帯で旧石器時代の人類が使った石器材料は玄武岩(Basalt)、珪石(Quartzite)、燧石(Flint、火打ち石)等幾つか広い範囲に及ぶ。この様にしてホモ・エレクトス人(Homo erectus)やネアンデルタール人(Neanderthal)が空白地帯で生活していた。
2.2 旧石器人
3万5千年前から1万8千年間続いた湿潤な気候も地表を大きく変えた。地表水は豊富であったが河川敷を今に残す太古の河川を復元する程では無く砂丘地帯やその他のルーズな堆積物に堰き止められた。ヤブリーン(Yabrin)、ライラ(Layla)、アハサー(Al Ahsa)そして遙か南のムンダファン(Mundafan)やラムラート・サバタイン(Ramlat Al Sabatayn)にあった広大な淡水湖が大地を被う森林や草原を維持し、狩りの獲物である水牛や羚羊(Antelope)等の草食動物を再来させた。河馬が水内で水草をあさり化石から象が大地を歩き回って居たのが分かる。ネアンデルタール人(Neanderthal)が3万年前までに死滅した後は現在人がこの空白地帯に大規模に移住する幸運を得た。全体的に気候が温暖であったので多くの湖沼や水流が空白地帯に出来た。アラビア半島の至る所で発掘されている大きな粗雑な作りの石斧がそれら湖沼の岸辺でも発見される。
最後の氷河期を終わらせた世界的な気候の変動によって1万7千年前頃にヤブリーン(Yabrin)、ライラ(Layla)、ムンダファン(Mundafan)やラムラート・サバタイン(Ramlat Al Sabatayn)にあった湖沼は干上がるか劇的に小さく成ってしまった。森の散在するサバンナ草原は薄くなり死滅し今日見られる様な荒れ果てた沙漠状態に成った。安定した表土が一旦無くなるとその下の砂層が風で飛ばされ空白地帯の広大な砂沙漠を作りだした砂丘状態となる。動物に対する影響は厳しく一年を通じて水のあり生存できる僅かな小さな場所に閉じこめられてしまった。人間は駱駝を家畜化した後では水源から遠くに離れられる様になったがこの時代にはまだ狩猟に頼って生活して居たので人間も水源から離れられず急速に不毛に成って行く土地から移住しなければならなかった。
2.3 新石器人
9千年前の雨の再来は再び人間がこの土地に移住するのに適した環境の再来をもたらした。この時代の気候の変化により特にアラビア半島の南半分に湿った気候が戻って来た。今日では本当に南海岸にしか雨をもたらさないモンスーンが北に偏向して居り空白地帯全体に季節的な雨をもたらしていた。厚い草地が再び生まれ砂丘地帯の砂は表土に被われた。湖底には再び水が戻り緑の大地と豊かな野生動物に人間が引きつけられ居住を広げた。その時代の住居跡が空白地帯の全ての部分で見つかっている。この時代の人間の活動は新石器人と云う全く新しい道具を使う文明に特徴づけられる。9千年前から6千年前までの間の後期湿潤時代に人間は今では消えてしまった湖沼や流れの畔に数十万点もの美しい石器を残した。
それに続き現在に至る完新世(Holocene)に緩やかに水蒸気が増大した時代の始まりがあった。空白地帯にある時代測定の出来る泥灰土が泉や浅い湖沼が存在した事を示し特にアラビア半島東部では断続的であったにせよ8千年前から4千年前の間には今日よりも快適な気候が続いた事を暗示している。この時代には家畜化した動物と作物の栽培を最初に行った新石器文明がエジプト、肥沃な三日月地帯、トルコ、イラクそしてイランのザグロス(Zagros)山脈を含む広い地域に出現した。今日のサウジアラビア領空白地帯外周域のナジュラーン(Najran)、ハマーシーン(Khamasin) 、スライル(Sulayyil)、アフラージュ(Aflaj)およびヤブリーン( Yabrin)にも新石器文化の広い集落があった。
(注)完新世(Holocene): 沖積世とも呼ばれ2万年まえから現代までの第四紀後半。
2.4 メソポタミアのウバイド文明との接触
1950年代以降の考古学調査では「アラビア湾の島々や西岸は古代中東の経済に重要な役割を持っていたばかりでは無く紀元前3千年から2千年の間に独立した文明を発展させていた」と報告されている。動物の家畜化や作物の栽培が人間社会に伝わり、集落化、余剰作物、交易および階級制度の発展が都市の出現へと導いた。アラビア半島東部では狩猟民や採集民は牛の飼育や穀物の栽培へとゆっくりと移行していった。紀元前5千年までにこの人々はアラビア半島に初めの陶器をもたらしたイラクのウバイド文化('Ubayd)と遭遇した。サウジアラビア政府考古博物館庁考古部の1970年代の発掘で紀元前5千年を過ぎて間もなくアラビア湾の西海岸や島々の人々はメソポタミア(Mesopotamia)のウバイド('Ubayd)に接していた事が確認された。その後の数世紀の間、現在のアハサー(Al Ahsa)の北限にある泉で生活していた人々はウバイド陶器('Ubayd)を使っていた。特徴ある筋、ジグザグやループを持つウバイド陶器('Ubayd)は主としてイラク、イランおよびシリアで見つかった陶器と同様である。印象的な一連の都市跡がバハレインのカルア・バハレイン(ar Qal'at al Bahrain)で確認されている。対照的にアラビア半島本体には大きな集落は存在しなかった。現在までにはアハサー・オアシス(Al Ahsa Oasis)のレッル・ラマド(Tell al Ramad)と空白地帯北東部にあるヤブリーン・オアシス(Yabrin Oasis)のウンム・ヌッシ(Umm al Nussi)との二つの小さな集落しか発見発掘されていない。
2.5 隊商路
交易の最盛期はローマ帝国時代早期で主として香辛料や香料の様な豪華な品物が夥しい量でイエメン、東アフリカ、インドや中国からローマ世界の巨大な需要を満たす為に運ばれた。古代イエメンの乳香や没薬はこの交易の貴重な商品でありイエメンのサイハド時代(Sayhad culture)の商人達がインド洋からアラビア半島の陸路を通り物資を運ぶ重要な役割を担っていた。物資は駱駝の背に積まれナジュラーンを通りアラビア半島西部から地中海へと運ばれた。これが少なくても紀元前8世紀のアッシリア(Assyrian)以降の最も古い隊商路であった。この交易を支配し最も栄えたのが紀元前3世紀から紀元106年まで繁栄し、ペトラ(Petra)に首都を置いたナバテア人(Nabataeans)であった。
(注)ローマ帝国時代早期: 紀元前30年から紀元200年の間。
紀元前4世紀までに他の隊商路も発展した。この隊商路はナジュラーン(Najran)からカルヤ・ファーウ(Qariyat al Faw)、涸れ谷ダワースィル(Wadi Dawasir)に至り空白地帯の北限沿いにアフラージュ(Aflaj)およびハルジュ(Kharj)とナジュド沙漠(Najd)を横断する。その終点はイラクへの交易を陸路も海路も支配していたアラビア半島東部の大交易センターのジャルハー(Gerha)であった。ジャルハー(Gerrha)はアラビア湾からアラビア半島北西部そして地中海へと陸路で運ばれる全ての交易を支配していたがその正確な位置は今では消えた都市として謎に包まれ分かっていない。
(注)アフラージュ(Aflaj): 今日のライラ(Layla)。
紀元5世紀までに滅亡して消えた伝説の部族タスム(Tasm)とジャディース(Jadis)が支配した時代にはアラビア半島を越える交易路に沿って農業集落が繁栄していた。その中でも有名なのがカルヤ・ファーウ(Qariyat al Faw)である。紀元前2世紀から恐らく最後は紀元5世紀に掛けて繁栄したこの豊かな部族都市の宮殿、精緻に建てられた寺院、防護塀、狭い通りのスーク(市場)、1キロ x 2キロの居住区、井戸、広い灌漑された畑と庭園等精巧な遺跡の発掘は今でも続けられている。ガラス、宝石、金属細工品、織物の一部、木工品、青銅や石の彫像、彫刻や壁画等の出土品が自らの貨幣まで鋳造していたこの都市の高度な文明を証明している。同じ様な出土の期待できる今日ジャウウ(Jaww)と名付けられた遺跡が涸れ谷ダワースィル(Wadi al Dawasir)の河床のハマーシーン(Khamasin)の近くで発見され発掘されるのを待っているし、アフラージュ(Aflaj)にある多くの広い住居跡や営農跡等の遺跡もこの時代の物である。
3. 沙漠に生きる
3.1 ベドウイン
空白地帯周辺には西にアマーリーサ族(Amalisah)およびヤーム族(Yam)、北にダワースィル族(Dawasir)、スフル族(Suhul)およびムッラ族(Murrah)、東にマナースィール族(Manasir)、バニー・ヤース族(Bani Yas)、アワーミル族(Awamir)およびマナーヒル族(Manahil)そして南にバイト・ヤマーニー族(Bayt Yamani)、ラシード族(Rashid)およびサヤル族(Sayar)等のベドウイン部族が住んでいる。この中でも砂丘地帯と及ばれる空白地帯の中を住処にしているのはラシード族(Rashid)、アワーミル族(Awamir)およびムッラ族(Murrah)のみである。
探検家ウィルフレッド・セシジャーは1945年に砂丘地帯のベドウインについて「沙漠内部での究極的な服装としてラシード族(Rashid)の様なベドウインは長いアラブ服と沙漠の灌木の汁で柔らかい枯れた茶色に染めた頭飾りを纏っている。この男達は小さいが、手際良く油断無く用心深い。その体付きは引き締まり強靱で灼熱の沙漠と信じ難く程の艱苦に鍛え抜かれている。この男達を見ていると世界中でもっと純粋な競争の中で育ち最も強靱で優れた者だけが生き残れる環境で生活して来ているのが分かる。この男達は純潔種の様に精細で鋭敏である」と記述している。
3.1.1 東部州のベドウイン
19世紀および20世紀における東部州のベドウインはその殆どがウジュマーン族('Ujman)、ムッラ族(Al Murrah)、バニー・ ハジール族(Bani Hajir)、バニー・ハーリド族(Bani Khalid)、アワーズィム族('Awazim)およびムタイル族(Mutayr)に属している。特にウジュマーン族('Ujman)とムッラ族(Al Murrah)はアラビア半島を越えて肥沃な三日月地帯へ向かって東へ北へと移動する歴史的な傾向を持つアラビア部族の特質を近年に成ってもなおも示した例である。この二つの部族は恐らく18世紀にナジュラーン付近に住んでいたが、20世紀初頭に力を持つように成り先ず自分達の自治と移動の自由を広げ東へ北へと移動して来た。
(注)ウジュマーン族('Ujman): アジュマーン族(Ajman)とも転写され、カフラーン族ハムダーン族バヌー・ヤーム族の一門でアラビア湾岸のベトウイン部族、イフワーン3部族の1つでもある。
3.1.2 幻の遊牧民ムッラ
ムッラ族(Al Murrah)は空白地帯南西部の古代からの伝説の都市ナジュラーン(Najran)に近い地域に住むヤーム族(Yam) 系のジュシャム族(Jusham)の出でカフターン部族(Qahtan)に属して居る。ムッラ族はアラビア半島の諸族の間では駱駝と共に厳しい遊牧生活を送って居るのが有名で、他の遊牧民の様に定住者に頼らず、駱駝と共に生活する事を誇りに思い、駱駝と人と真の共生関係を築き、アラビア語では「駱駝の人」を意味するアハル・バアイール(ahl al-ba'ir)とも呼ばれている。
今日でもムッラはアラビア遊牧民の象徴である黒い小さな天幕を3、4張り程度しか持たない小さな集団で移動しては居るが、その数は6,000人を割っている。その移動するそのなわばり(dirah)はアハサー(Al Ahsa)の南から空白地帯の北部および中央部であり、集落を持たず夏場に利用する井戸でさえ集落の近くには無く牧草を探して駱駝と年間に1,900 キロも驚異的な距離を移動するのは普通の事である。
冬場は雨の恵みを求めて東部州北部や時としてクウェイトやイラク南部まで北上するのが常であり、夏の初めから秋の放牧の為に空白地帯の砂丘地帯へ出発するまでの6月から8月までの3ヶ月間は空白地帯北限のヤブリーン(Yabrin)、ビイル・ファディル(Bir Fadhil)、シカク(Sikak)やニバク(Nibak)等の井戸で見掛ける事もある。
これら夏期月間には他の部族は放牧地と水を求めて絶えず北へと移動しているが、ムッラ族はこの様に沙漠の奥にある塩水井戸の周りに幕営している。これらの井戸の水は人間が消費するには塩辛過ぎるが、駱駝はこの塩水で長期間生活出来その上人間が生き残るのに大きく依存しているミルクを提供してくれる。このミルクに米や乾燥したナツメ椰子の実やたまには狩りの獲物を加え食し渇きを癒しこの沙漠の奥でムッラ族は遊牧を続けて来た。砂丘地帯にはアラビア半島北部に冬の雨が到来するのを待って12月頃まで滞在しているが、北部への雨の到来が思わしくないと北部へ行かずに南西に移動しナジュラーン(Najran) 地域で冬を越す場合もある。
追跡と狩りの巧みさや方向感覚のすばらしさで他のベドウイン部族に非常に畏れられて居るムッラ族は人が知る最も苛酷な環境の一つで生き残れる極端な頑強さとなわばり(dirah)の地形や植物への深い知識を持っている。なわばり(dirah)が他の遊牧民と重複していても自分達が専用に使用する沙漠の井戸を所有しているし、他の遊牧民が牧草を求めて沙漠の奥深くに入り込んだとしても空白地帯のムッラのなわばりまで到達出来る者は居ない。この為他の部族との遭遇が殆ど無く時として幻の遊牧民とも呼ばれる。
ムッラ族には真の高貴さが有り、その真髄は財産への不安や富の蓄積等の様な定住者の常識から完全に離脱している事である。ムッラ族は人間の必要を満たしてくれそれが不足している人達と分け合える沙漠その物や自分の呼吸している空気を財産と考えている。この態度は完全な他人に対しても疑問を持たずに伝統的に歓待する心情にも顕れている。唯一関心のある所有物は駱駝の群と手放さない限り自分の所有に出来る物である。かつては楽しみでもあり、運試しでもあり、十分に行き渡って無い資源の再配分の手段であった絶え間無く続く略奪よってそう言う物が瞬間的に自分達から奪われることも受け入れて来た。
故アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード国王が略奪を非合法化する勅令を出す以前にはムッラは勇気者である名声を高める為に大胆な手柄で沙漠の歴史にもう一つの地位を築いていた。殺し合いの略奪が当時は一般的だったのは財産や家畜を増やす現実的な目的ばかりでは無く勇者としての個人的名声を保つのも目的であった。略奪は熱さと乾燥で家畜と牧童が水不足で萎む夏の間が特に多かった。ムッラ族は自分達が住む厳しい環境が並はずれた防御と成る事を幸いになわばり周囲の土地に迅速な略奪を仕掛けて来た。孤立した攻撃目標が無い時にはムッラ族はアラビア半島東部の城塞都市にも猛撃を掛けた事で知られて居り周囲の恐怖を喚起し伝説とも成った。
沙漠の中へと着実に開発を広げているサウジ アラビアの新しい時代の到来と共に今日ではムッラ族も変わって来た。かつては入り込めなかったそのなわばりも開発され地図が作られ追跡の巧みさも次第に公安当局の近代的警察の技術と置き換わった。勇猛な部族間の戦争が無くなるに連れて個人的な勇猛さの誇りも失せムッラ族はその独自性を今では殆ど無くしてしまっている。
3.1.3 南部アラビアのベドウイン
アラビア半島南部のベドウインは沙漠の周辺で一年の大半を生活し冬期に駱駝の放牧場を求めて中心部に移動する。雨が降ったとしても広大な沙漠に非常にばらついて居り、新しい牧草地はしばしば遠く離れている。ベドウインは主に沙漠を旅する親戚縁者の間での大切な情報を交わす長年の風習を通じてどこに牧草が見つかるかを探し出す。雨が降ると、全く生物の居なかった砂の中から現れた植物が三年間くらいは牧草を提供してくれる。
今日では空白地帯の南西部では羊を放牧する為の一時的な放牧地を作る為にポンプを使って地下水の汲み上げが増え、それがベドウインにミルク用の駱駝を連れて自然に出来た良好な牧草地を探す為に更に沙漠の奥へと向かう事を強いている。
3.2 動植物
3.2.1 動物
この厳しい環境の地域の中でも沙漠の動物は真水を飲まずに生きる能力を身につけて来た。ガゼルの様にその多くは沙漠の植物の葉から十分な水分を得ており、又植物の茎に付いた朝露をなめている。夏の一番厳しい時期にはガゼルもオリックスも地を掘って一番新しい根を食べている。リーム(rheem、Gazella subgutturosa)は今では極端に少なくなっているが、孤立した小地区に生き残っている。有蹄類で最も完全に適応しているのがオリックスで、オマーンでもサウジ アラビアでも再移入が成功して来ている。オリックスはかなり長い期間に渡って水無しで生存できるし、乾燥した夏期の間は植物から必要な水を摂取できる。
沙漠にはルッペル狐(Ruppell's foxes)、ワタリ・ガラス(ravens)やヤツガシラ・ヒバリ(hoopoe larks)等も居るが、主に夜間の行動で黒い甲虫(black beetles)、サソリ(scorpions)、蜘蛛、トカゲ(skinks)、ヤモリ、フサエリ・ノガン(houbara bustards)や沙漠ヒバリ等が残す足跡を除いては生命の営みを示す痕跡は殆ど見られない。ルッペル狐(Ruppell's foxes)はその銀灰食の毛皮が沙漠の補食動物の身を隠し大きな耳が熱の放散を助けその毛に被われた足裏が流砂に足が沈むのを防いでいる等沙漠に見事に適応している。ルッペル狐(Ruppell's foxes)は真水を飲む必要は無く必要な水分は植物や補食した獲物から得ている。
狐に加え特に砂丘の麓の植物が生えている場所では長い耳のケープ野兎(Cape hare、Lepus capensis)を良く見掛ける。野兎は茂みに隠れているが、捕獲者から逃れる時には大きく跳び上がって手近な穴へ潜り込んでしまう。駒アレチ鼠(Chessman's gerbils)は植生さえあれば生息している。昼間は隠れて居るけれども足跡がその存在を示している。この鼠は沙漠の植物から十分な水分を得、乾燥した餌を食べ、濃縮された尿の排出で水分を節約している。
つま先型の頭をしたアガミド・トカゲ(toe-headed agamid lizard)は沙漠に暫時に体を低く固定させ頭をゆっくりと左右に振りながら目はトンボ(Dragonfly)が近づくのを監視している。サイドワインダー毒蛇(sidewinder viper)以上に沙漠に適応して居る爬虫類は殆ど居ない。サイドワインダーは柔らかい砂に埋まって獲物を待ち伏せするが、柔らかい砂の上を移動するにはその体を斜め前方に移動させるサイドワインダーと呼ばれる滑走方法が最も効率的である。
空白地帯中央には鳥は殆ど見られないが、一番目立つのが茶色首のワタリ・ガラス(raven、Corvus ruficollis)である。緑シギ(green sandpiper)やテッミク・シギ(Temmick's stint)等は苦い水の有る数少ない沙漠の中の隔絶された場所で見られる。翼の縞模様がヤツガシラに似ている為にその名の付いたヤツガシラ・ヒバリ(hoopoe larks)は空白地帯の何処にでも居るらしい。沙漠にいるどんな鳥でも水分を植物に付いた露から摂り朝露を吸ったばかりの砂丘の甲虫を補食している。その他に沙漠に良く適応した鳥としては南西地域のフサエリ・ノガン(houbara bustard、Chlamydotis undulata)がいる。繁殖に適した降り方の雨が訪れると沙漠お玉杓子海老(the tadpole desert shrimp)の様なたくさんの無脊椎動物(Invertebrate)や数多くの沙漠の昆虫がわいてくる。
沙漠お玉杓子海老は兜蟹(the horseshoe crab)から1億年前位の昔に分かれた種類で体型は兜蟹より小さくなり体長7センチ位である。
3.2.2 植物
植物の幾つかの種類は数十年雨が降らなくても生き残れる程この地域に良く適応して居る。春の遅い繁殖に不適切な時期に雨が降っても雨量には関係なく殆どの一年草は生えて来なし雨期の季節を通じて繁殖に適切な降雨パターンが無いと発芽もしない。
平行に並んだ砂丘列は所々アンダブ(andab、Cyperus conglomeratus)に被われている。この草は一年草で干魃に適合したスゲ(Sedge)でありこの地方ではこの名で知られ駱駝の牧草として高く評価されている。この草は砂丘の谷間に棘のある灌木ハド(hadh、Cornulaca arabica)や耐塩性の灌木ハルム(harm、Zygophyllum mandavillei)と寄り添って生えている。傾斜した砂丘の上の方にあるのはフサフサ草(bushy herb、Dipterygium)である。
荒涼として殆ど生命に無い大地にもアバル(abal、Calligonum crinitum)と云う灌木だけが多少の生を与えている。この葉の無い灌木は空白地帯特有の亜種であり雨が降りさえすれば砂の表面が乾く前に20センチ位の深さの範囲から水を集められる様に電線のような根を浅く広く広げている。
駱駝の放牧地域の幾つかでは植生は目立って多く匍匐性の灌木であるザフル(zahr、Tribulus arabicus)が散在するハド(hadh、Cornulaca arabica)とアンダブ(andab、Cyperus conglomeratus)と一緒にその目立って黄色い花を咲き誇らせている。この種類は雨の後直ぐに花を咲かせ駱駝の牧草として非常に適している。殆どの沙漠の一年草は急速に生長し花を咲かせ1ヶ月以内に種を付け直ぐに枯れてしまう。駱駝はこの鋭くトゲトゲしたタフな植物を満足そうに頬張り良く噛んで咀嚼している。ハド(hadh、Cornulaca arabica)が他の塩性植物の様に多汁では無いのに対しアンダブ(andab、Cyperus conglomeratus)反対に食糧としての価値より水分を摂る為に摂取される。又、ザフル(zahr、Tribulus arabicus)は駱駝にミルクを良く出させるので好まれている。
南東部に近いウンム・クルン(Umm Qurun)の様に沙漠の奥では硫黄分の多い水が岩から滴り小さな水たまりを作っている。その硫黄分のある水溜まりからでさえスゲ(sedge)の一種であるアンダブ(andab、Cyperus conglomeratus)が元気良く芽をだし多汁な灌木ハルム(harm、Zygophyllum mandavillei)や葉の無いアバル(abal、Calligonum crinitum)がその周囲に生えている。
4. 探検
4.1 早期の探検家
かつては屈強なベドウインしか越えた事の無い広大な空白地帯は探検もされず西洋人に取って地球上で最後に残された秘境であった。探検家バートラム・トーマス(Bertram Thomas)がオマーン(Oman)南部のアラビア海の海岸にある町サラーラ(Salalah)からカタール半島(Peninsula of Qatar)まで初めて横断したのは1930年から1931年に掛けての事であった。1932年にジョン・フィルビー卿(H. St. John Philby)がアラビア半島の中央部および北部を探検し、その中で空白地帯についても記述している。この様に空白地帯の広大な地域が好戦的な部族が出入りするだけの無人地帯に囲まれ探検されて居なかった。カルフォルニア・アラビアン・スタンダード石油会社の地質技術者であったトム・バーガー(Tom Barger)が1937年から1940年の間にこのサウジアラビアの沙漠を調査した。その調査地でベドウインのガイドや兵士達と過した数ヶ月の間にトム・バーガーはアラビア語を学んだり歩いて生活する遊牧のアラブ部族達と出会ったりして居る。さらに英国人のウィルフレッド・セシジャーが1945年から1950年に掛けて空白地帯の人跡未踏の地を何度も探検している。
4.1.1セシジャーの探検 (Wilfred Thesiger) 第一回空白地帯横断 (1946)
この広大な沙漠を二度にわたり横断したウィルフレッド・セシジャー(Mr. Wilfred Thesiger)が自分の探検を紹介したその著書「沙漠と湿地と山(遊牧民の世界、Desert, Marsh and Mountain)」の記述をここに抜粋してみた。
Rub’ Al Khali, Crossing (クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)
この探検はオマーンの海岸山脈で起きる洪水が稀には内陸部の沙漠まで到達している事実をロンドンのイナゴ調査センターが確認する為に行われた。それまではオマーン内陸のムガシン(Mughshin)と東アデン(現在のイエメン)のハドラマウト(Hadhramaut)の間の沙漠ではイナゴ発生の中心と成れる様な常緑の植生は無いと結論付けられていた。
セシジャーは南オマーンのドファール地方(Dhofar)の町サラーラ(Salala)を24名のバイト・カスィール族(Bait Kathir)の男達と1946年10月に出発した。その90 キロ北のシスール(Shisur)で駱駝に水を飲ませながら同行する数人のラシード族(Rashid)と合流するのを待った。ラシード族(Rashid)は沙漠の旅と知識に長けている事で有名であった。セシジャー達は11月9日に朝寒のシスール(Shisur)を出発した。出発して二日目にセシジャー達はガフ(ghaf)が数本生える木立の中で野営した。
ガフ(ghaf)は学名Prosopis cinerariaで、ネミノキ、アカシア等と同じ豆科オジギソウの仲間のミモザに似た大きな木でありその根は土中深く水を探しその枝は重く垂れ下がりその葉が奇麗な砂面に跡を付けている。
シスール(Shisur)を出発して8日でセシジャー達はサラーラ(Salala)から北300 キロから少し東に寄ったムガシン(Mughshin)に到着した。駱駝が水井戸に近づく時に思いがけず興奮しちりぢりになって大きく跳躍した為にラシード族に一人が足を捻って骨を割ってしまった。ラシード族は怪我した仲間が回復するか、死ぬまでガゼル(gazelle) やオリックス(oryx)を狩りながらそこに留まると主張した。セシジャーは旅を続ける様に説得し、やっとラシード族2人とバイト・カスィール族(Bait Kathir)10人がセシジャーに付いて来るのに同意した。残りのバイト・カスィール族(Bait Kathir)はセシジャー達の帰途を待つ為にムガシン(Mughshin)の東250 キロでサラーラ(Salala)の北東450 キロのアラビア海の海岸に近いバイ(Bai)に直接向かった。
セシジャー達13人が沙漠を横断する為に携帯した食料は最低1ヶ月分として小麦粉200ポンド(約90 kg)と二食分には十分の米、幾つつかみかのトウモロコシ、幾らかの玉葱、僅かなバター、コーヒー、紅茶と砂糖で水は一日一人1クオート(0.946リットル)として20日分で260クオート(246リットル)だけであり駱駝用には何も用意して無かった。駱駝はこの寒い気候の中では食料又は水無しには7日以上は生存出来ない。もし牧草が見つからなければ死は必然であった。ムガシン(Mughshin)に9日間滞在した後にセシジャー達は空白地帯横断の旅に出発した。
この旅ではセシジャーが「砂の山脈」と述べているウルーク・シャイバ(Uruq al Shaybah)を横断しなければ成らなかった。ウルーク・シャイバ(Uruq al Shaybah)は現在のアラブ首長国連邦、サウジアラビアとオマーンとの国境のほぼ延長上を南あるいは南南西へと百数十キロにわたって延びる砂丘の山脈である。20世紀末最大の油田開発だった生産量50万 BPDのシャイバ油田はこの名に由来していると思われる。
ウルーク・シャイバ(Uruq al Shaybah)は西から広がって来て東は一週間行程もあるウンム・サミーム(Umm al Samim)で終わっている。この説明からセシジャーはウルーク・シャイバ(Uruq al Shaybah)と云う名を空白地帯東部のオマーンとサウジアラビアの南北の国境に沿ってその西側に広がるウルーク・アブー・ムライハ(Uruq abu Muraykhah)およびウルーク・アブー・ ムアトカリダ(Al' Uruq al Mu'tqaridah)等を含む広大な砂丘地帯に対して使ったと思われる。この地形ではセシジャーはダファラ(Dhafara)やリワ(Al Liwa)或いはジワ(Al Jiwa)と呼ばれるオアシスに行くにはウルーク・シャイバ(Uruq al Shaybah)を越えなくては成らなかった。ダファラ(Dhafara)は現在のサウジアラビア領のアラブ首長国連邦南西部に近い国境地帯である。ジワ・オアシス(Al Jiwa)は現在のアラブ首長国連邦南部にありナツメヤシが繁り村々が2日行程の距離まで広がりヤブリーン(Yabrin)オアシスよりも遙かに大きい。
ムガシン(Mughshin)を出発して4日目に数十キロ北のハウール・ビン・アタリト(Khaur bin Atarit)に到着した。そこの水井戸は埋まってしまっていたので掘りかえした。翌朝は何頭かの駱駝がその苦い水を嫌って飲まないのでその喉を開け無理やりにその井戸水を流し込み革袋に水を詰め小さな滴下孔も塞いだ。翌日宿営した場所は石膏が粉に成った平原の上に鯨の脊の様に聳えた大きな砂丘であった。その光景は奇妙にも極地の様に寒々ともの寂しく感じた。翌日セシジャー達は三年前の大雨の恵みで今でも緑に被われた大きな赤い砂丘へとやって来た。
ちょうど、バイト・ムサン族(Bait Musan)が近くに野営して居り、「セシジャー達にこの先には牧草は無く、さらに行くのはキチガイ沙汰だ」と言う。それを聞き、食糧と水が不足して居るセシジャー達の殆どがこれより先に行きたがらず、2名のラシード族と2名のバイト・カスィール(Bait Kathir)が同行に同意しただけで、他の者達は引き返す事を望んだ。セシジャーは50ポンド(約23 kg)の小麦粉と幾らばくかのバターとコーヒーそれに水入りの革袋4つを携え、バイト・ムサン族(Bait Musan)から大きく頑丈そうな雄の駱駝を一頭だけ予備に購入した。
翌日、沙漠は黄色の花を咲かせたハマビシ(tribulus)、日向かい草(heliotropes)やスゲ(sedge)の仲間で被われていた。長い蛇の様なハマビシ(tribulus)の根は薪に使える。沙漠では何年も不毛であった場所でも雨が降れば植生が芽生えるし、もし雨の量が本当に多ければ4年位雨が降らなくても緑が残る。
セシジャーは子供1人連れた3人のラシード族(Rashid)と会った。天幕を持たず鞍、ロープ、ボール鉢と空の革袋とそれに武器を持っているだけだった。寝る時には裸で凍てつく砂地に薄っぺらな腰巻きだけで横たわる。放牧地は見つけるのが大変に難しく、一旦見つけるとこのラシード族達の様なベドウインは秋口から移動して来て、時には一番近い井戸からでも100マイル(160 キロ)も離れたその様な場所に6、7ヶ月も気候が熱く成るまで滞在する。駱駝は緑の植物から十分な水分を摂取できるのでベドウイン達はこの間の食糧も飲料も全て駱駝のミルクだけで賄う。
その後はセシジャー達がダファラ(Dhafara)に着くまではその行く手にアラブが現れる事は無かった。次第に砂丘地帯は塩性植物の生き生きとした緑に縁取られた灰白色の石膏平地の上にレンガ色に聳える砂の山に分かれる。それから砂丘の山々は500 フィート (150 メートル)以上の高さと成り色も蜂蜜色になる。翌日セシジャー達は小さな牧草地を見つけ駱駝に食べさせる為にハマビシ(tribulus)の束を集めた。
駱駝は既に渇きの兆候を見せて居たのでセシジャー達は砂丘の間の平地を選んで夜間移動した。セシジャーは長時間駱駝に乗るのに疲れ切って眠るのも難しく成ってきたのが自分で分かった。高く起伏の多い砂丘の繋がりが行く手に山脈の嶺や峠の様に延びている。砂丘の頂の幾つかは基盤の平らな含塩低地から少なくとも700 フィート (210 メートル)以上も聳えている様に見える。卓越風向の風下側の斜面は非常に急である。
ラシード族の1人が前に偵察に出掛けた。セシジャーは柔らかい雪をかき分けて尾根を目がけて難儀しながら登坂している登山家の様に空虚な景色の中で唯一動いて居るその姿を眺めていた。セシジャーは自分達が駱駝と共にその砂丘の嶺を越えられないと思っていたが、そのラシード族は戻って来てセシジャー達を前へと先導した。駱駝の越えられる斜面を選別できる能力をそのラシードはここで示した。非常にゆっくりと一歩一歩嫌がるこの動物達をなだめながら何とか上へと登らせて行く。そのセシジャー達の上を風が砂の流れを吹き付けて来る。最後にセシジャー達は頂上に辿り着き緩やかに起伏する砂丘の端に立ってやっと安堵した。
セシジャーは自分達がウルーク・シャイバ(Uruq al Shaybah)を越えたと誇らしげに思った。セシジャー達は夕暮れに食事の為に休息しただけで歩き続けて来ており既に真夜中であった。そこで少しのまどろみを取り駱駝を休ませる為に歩みを止めた。砂丘列の上に一番星が登り夜明けの薄暗い光に周囲が輪郭を取り戻すと前方には昨日越えて来た砂丘列と同じか多分それ以上に高い砂丘の山脈が聳えその嶺峰はさらに険しくクッキリして居りその多くは偉大な尖塔の様でそこから山稜が優雅なひだのある織物の様に流れ下っている。昨日越えて来たものより更に青白いその砂は駱駝がその斜面を登るのに難儀する程非常に柔らかい。その柔らかい砂は四方に向かって砂丘の足元へと流れ下って居りセシジャー達はそれを越えるのに3時間も掛かった。
砂丘の頂上からは砂丘の間の広い空間に平らな含塩低地が見下ろせる。遠く向こうにある砂丘の山脈は今立っているものよりも更に高く見える。とにかくセシジャー達の駱駝はこれらのすさまじい砂丘列を越え男達は完全に失神する程に消耗し果てた。ラシードの1人が僅かの水で全員の唇を湿らせ「先に行くにはこれが必要だ」と言った。さらに夕暮れまで歩き続けた。今は石粒の平地を歩くだけでセシジャー達には砂丘に登る必要は無かったが実際にはもう砂丘を越えるだけの余力も無かった。駱駝に餌をやり駱駝に乗り真夜中を相当過ぎて休息し夜明けには再び出発した。
朝に成り一羽の野兎が灌木の茂みから飛び出したのをラシード族の一人が杖で打ち据えた。それは大砂丘地帯ウルーク・シャイバ(Uruq al Shaybah)を越えて腹を空かせていたセシジャー達に取っては神の贈り物であった。ラシード達はセシジャーに「ダファラ(Dhafara)にあるハバ(Khaba)の水井戸までは後3日行程だろう。しかしその水は大変に塩っ辛くほとんど駱駝が飲めるかどうかだ」と告げた。夜遅くまで再び騎乗して進むセシジャー達の上には完全に欠けた月があった。再び朝早く出発し緩やかに起伏する砂丘列を7時間進んだ。砂の色は生き生きと変化し或る場所では挽いたコーヒー色だしその他の場所ではレンガ色や紫や珍しい金緑色であったりして予想できない。
ここでセシジャー達はラシードの長老(sheikh)の一人であるハマド・ビン・ハンナ(Hamad bin Hanna)に出会う。ハマドはセシジャーに「イブン・サウードの徴税人がダファラ(Dhafara)に居るので存在を知られない様に部族民と接触するな」と助言した。セシジャーは逮捕され自分の存在をウルサイ型のアハサー(Al Ahsa)の知事であるアブドゥッラー・イブン・ジルウィー(I Abdullah ibn Jiluwi)に説明する為に引っ立てられるのは望まなかった。しかしセシジャーは正直な旅人ならニュースや食糧を探さずに崖地を通過する事は無いのでそれをしない自分達が山賊であるとの印象を与えるのを全力で避けなければ成らなかった。探索から逃れるのは非常に難しく成っていた。
2日後にセシジャー達はダファラ(Dhafara)の外れにあるハバ(Khaba)水井戸に着いた。昨晩までセシジャー達が飲んで居た汚い悪魔の香りのする澱と較べると井戸水は少し塩辛いだけで美味かった。前に通った他の井戸ではセシジャー達の喉の渇いた駱駝達でさえその塩辛い水を飲みたがらなかった。ここでは駱駝達は革製のバケツの水を次々と飲み干した。
こうしたセシジャーは空白地帯を横断した。それはセシジャー達がハウール・ビン・アタリト(Khaur bin Atarit)にある最後の水井戸を出発して14日後の事であった。セシジャーは「これは個人的な経験で褒美としては清澄だが味気無い一杯の水だけだった」と述べている。セシジャーはそれで満足しながら頭の中は既にバイ(Bai)まで戻る帰路の問題で一杯であった。
セシジャー達は現在のアラブ首長国連邦アブダビ領のジワ(Al Jiwa)であるリワ(Liwa)の外縁まで行った。セシジャー達は食糧の最後の欠片まで食べ尽くし、3日間も飢えて居たのでラシード族の1人は何か食べる物を得る為に部落を訪れた。3人のラシード族が沙漠を越えてセシジャー達を訪れ招待して来たが、セシジャーは多くのアラブ族がそのラシード族達の隣接地に居るのでその招待を断った。
2日後にセシジャーは思いがけずある崖地へとやって来た。その崖地の持ち主の年老いたラシードは招待を断るのを許さなかった。そのラシードはセシジャーと言うキリスト教徒がラシード族と共にアデン領(現在のイエメン)のハドラマウト(Hadhramaut)を旅している事を知っていた。この年老いたラシードは若い駱駝を屠り、セシジャー達を2日間にわたり歓待した。
3日後にセシジャー達は砂丘地帯の東端に居りオマーンが前方に横たわっていた。明け方セシジャー達は東に大きな山を見た。それはイブリ(Ibri)付近に聳えるオマーン山脈のジェベル・カウール(Jebel Kaur)であった。イアン・スキート(Mr. Ian Skeet)は「ジェベル・カウール(Jebel Kaur)は主峰から殆ど真っ直ぐ突きだし、怪物の様な景観で地上最大の異風だ」と描写している。
間もなく靄が厚くなりその山への視界を遮ってしまった。涸れ谷アイン(Wadi al Ain)の近くでセシジャーはスタイユン(Staiyun)と云う名の快活なドゥル族(Duru)の老人に出会った。その老人はセシジャーの表敬を受け入れ自分の息子達がセシジャーの男達とイブリ(Ibri)に食糧を買いに行っている間自分の崖地に逗留する様に招待した。セシジャーは6日間もそこで快適で物憂げな日を過ごした。
それからセシジャー達はオマーン山脈から流れ下り時々起きる洪水を伝説の流砂地帯ウンム・サミーム(Umm al Samim)へと排出する2本のワーディー(涸れ谷)を渡った。朝から晩まで果てし無く長く感じる日々が続いた。他の者達は出発前からナツメヤシの実を食べたがセシジャーはこの粘っこい甘さに耐えられず夕食まで絶食した。何時間も何時間もセシジャー達の駱駝は砂利平原の途方もなく空虚な果てしない地平線に向かって足を引きずるながら常に緩く登って行く様に前進した。靄の中セシジャーの目には色の無い空だけ見えて居た。
(注)伝説の流砂地帯ウンム・サミーム(Umm al Samim): 毒の母。
1947年1月31日に他の仲間の待つバイ(Bai)に着いた。彼等とはムガシン(Mughshin)で11月24日に分かれて以来の再会だった。セシジャー達は騎乗してジダット・ハラシシ(Jiddat al Harasisi)の石灰岩平地を越えてサラーラ(Salala)へと戻った。セシジャーは1956年にこのジダット・ハラシシ(Jiddat al Harasisi)の石灰岩平地の野生動物を記述して居る。
4.1.2セシジャーの探検 (Wilfred Thesiger) 第二回空白地帯横断 (1948)
セシジャーが英国に戻ると沙漠イナゴ抑制協会が高給の正規職員の仕事を提供して来たが、セシジャーは満足出来なかった。セシジャーは沙漠の空虚さと未知の国の魅力やラシード族との付き合いを望んだ。沙漠の西側にはセシジャーが求めている挑戦がまだ残されて居り、そこを横断して初めて空白地帯の探検が集大成すると思われた。
セシジャーはアデン領(現在のイエメン)のハドラマウト(Hadhramaut)に戻りサール(Saar)を旅した。アマイール(Amair)がそれに加わった。アマイールはセシジャーと二度程一緒に旅をしている。
セシジャーは空白地帯の一日目の横断した際に同行した二人のラシード族の一人ビン・カビナ(bin Kabina)にムカーラ(Mukalla)に来る様に連絡した。セシジャーは英国空軍にワリ(Wali)経由でビン・ガバイシャ(bin Ghabaisha)に連絡してムカーラ(Mukalla)まで飛行機で連れて来る様依頼した。その10日後にビン・ガバイシャはハドラマウト(Hadhramaut)にやって来た。
セシジャーはこの二人とハドラマウトを出発しサール(Saar)地方では二つだけの涸れる事の無い水井戸のある北のマンワフ(Manwakh)へと騎乗で向かった。そこは空白地帯の外れに位置している。刺す様に寒い冬の朝、少年達が放牧に連れて行く途中の肥えた乳駱駝の群の中を通り抜け騎乗でサール幕営地(Saar)へと入って来た。
谷に沿って小さな黒い山羊の毛で織った天幕がそちらこちらに張られている。裸の子供がはしゃぎ回って織り、黒ずんだ服を着た女が座って攪乳しバターを作ったり杖で山羊の群を追ったりしている。幾つかの家族はテントを既にたたみ駱駝に積み込んでいる。小さな子供達が駱駝の敷き藁に座っている。この子供達をセシジャーは北部では見ていたが南部で見るのは初めてであった。彼等はナジュラーン近くで何十年も放牧を続けイブン・サウード王を宗主として居るので知られているマアルフ・サール族(Maaruf Saar)であるが彼等の何人かが最近起きたヤーム族(Yam)への襲撃に加わってしまった。その報復を畏れてマアルフ族(Maaruf)は全員で親族のいる南に避難の為に逃げ込んで来て居た。
ビン・カビナ(Bin Kabina)とその半兄弟のムハンマド(Muhammed)はサール幕営地(Saar)でセシジャーを待っておりセシジャーと4人の仲間はこの幕営地で合流した。
襲撃とその噂ばかりのマンワク(Manwakh)に多くのサール族(Saar)が集まっていた。イエメン方面からの大勢のアビダ族(Abida)が東に向かって急襲中で、ラシード族の追跡隊を多少犠牲は出したが、撃退したと云う。イブン・サウードは自分の参加の部族が襲撃されたのに怒って居り、ヤーム族(Yam)とダワースィル族(Dawasir)にミスカス族(Misqas)への報復を許可していた。ヤーム族の先遣隊がマンワク(Manwakh)の西の地方を出会う者は全て殺しながら襲撃中であった。その為サアール族はマンワクを放棄して避難する準備をしていた。セシジャーはそこから出発するのには寸前で間に合った事になる。
(注)ミスカス族(Misqas): 南部部族の総称。
セシジャーはサール族を少なくとも一人は自分達一行に加える必要があった。さもなければセシジャー達はこのラシード族の生まれつきの敵対部族に砂丘地帯で追跡され殺されてしまうだろう。マンワクの誰もがセシジャーとその4人のラシード族はヤーム族かダワースィル族にいずれ殺されてしまうと確信していた。セシジャーには一度裏切った敵対部族から逃れる危険よりこの砂丘地帯を越える物理的困難(道案内が無い場合に殊更)の方が関心事であった。セシジャーは一丁のライフル銃と50発の弾丸を見返りにサリー(Salih)とサドル(Sadr)と云う二人のサール族の若者を同行する様に説得出来た。彼等は「ワーディ・ダワースィルの町スライル(Sulayyil)の南にあるハシー(Hassi or Hashi)と云う水井戸で駱駝に水を飲ませた事がありアラド(Aradh)と云う南の砂丘地帯まで長く延びる石灰岩崖地にさえ辿り着けばその水井戸を探し出す自信がある」と言う。私には「セシジャーはアラビア半島の脊稜ジャバル・トゥワイク(Jabal Tuwayq)の涸れ谷ダワースィルより南部分をアラド(Aradh)と呼んでいる」と思われる。
セシジャーはハシー(Hassi)に着くまで自分達の行く手に400マイル(640 キロ)におよぶ水の無い沙漠がある事を認識した。その朝、セシジャー達は駱駝達に水を飲ませ皮袋を水で満たした。セシジャーと6人の同行者は1948年1月6日にマンワクから出発した。セシジャー達は水を入れた革袋と食糧を運ぶ荷役用の駱駝を4頭連れていた。その日遅くセシジャー達は略奪した駱駝の大きな群を連れて帰還して来たアビダ族(Abida)の足跡を越えた。最初天候は激しい北東の風を受けどんよりとして居た。砂丘列は平で冴えない茶色をして寂寞としていた。数日間牧草を見つけられなかったが出発から6日後にセシジャー達は豊かに牧草のある場所にやっと巡り会った。広がりが2、3マイル(3、4 キロ)しか無く容易く見過ごしてしまう程の限られた場所であった。そこにはヒバリや蝶々が生を営み、砂の上にはアレチネズミ(gerbil)やトビネズミ(jerboa)の足跡が付いていた。駱駝達はそこで満腹するまでたらふく食べた。
数日してセシジャー達は広い平原ジリダ(Jilida)に到達し行程の半ばを来たのを知った。ジリダ(Jilida)は恐らくアシール(Asir)から流れて出る涸れ谷ハブーナ(Wadi Habunah)の古い河床であると思われる。涸れ谷ハブーナ(Wadi Habunah)上流のアシール山中には今日でも大きなタマリスク(Tamarisk、ギョリュウ)の群生がある下流は小さな玉石や砂利の原を意味するカドカーダ(Al Qadqadah)と呼ばれ、ジリダ(Jilida)はそのカドカーダのさらに下流域となる。平原ジリダ(Jilida)では風で磨かれた流紋岩(rhyolite)、斑岩(porphyry)、碧玉(jasper)や花崗岩の欠片が礫岩の上を覆う固い砂の中にモザイック模様を作り出している。セシジャー達はこの数日オリックスを見ては居たがここでは28頭もの群を見た。
ジリダ(Jilida)を通過してから2日でバニー・マラド(Bani Maradh)の山脈の様な砂丘列がセシジャー達の前に迫って来た。幸い比較的登り易い坂が南に向いていたが、それでも飢えてさらに非常に喉を渇かした駱駝達を越えさせるのにセシジャー達は厳しい負担を強いられた。駱駝達の一頭は砂丘を越えようと奮闘する中で衰弱してしまった。その雌駱駝を元気付ける為に僅かばかり残っている貴重な水をその駱駝に鼻孔に流し込んだ。砂丘列は美しい金赤色しているが、セシジャー達の通り過ぎて来た砂丘列は荒涼とし無感動な眺めであった。
バニー・マラド(Bani Maradh)を越えた所でセシジャー達は一週間も経って居ないたくさんのアラブ族と駱駝の足跡を見つけた。北方に降った雨がヤーム族やダワースィル族を家畜の群と一緒にこの辺りの砂丘地帯からそちらへと向かわせたのだ。その為にセシジャー達は命拾いをしていた。それからはセシジャー達の内2人が絶え間なく前方を偵察し毎晩セシジャー達が休息に止まる前に誰かが残って跡を付けられて居ないかを監視した。夕食の調理を暗くなる前に終わらせ火を消し、ささやき声でしゃべった。或る夜に駱駝達が何かを監視しているとガバイシャが告げた。ガバイシャは皆に合図しセシジャー達はそれぞれの位置につき一晩中ライフルをしっかり握っていた。雨が降り始め非常に寒い夜であった。朝に成って狼の足跡を見つけた。一匹の狼が非常に冷たい雨に中でセシジャー達を一晩中起こさせていたのだ。ラシード族の一人は「肋骨の間にダガー(半月型短剣)を刺されて起きるよりは増しだ」と言った。
石灰岩崖地のアラド(Aradh)にセシジャー達は到着した。明け方起きると谷は渦を巻いた霧が充満しその上を砂丘列の影が幻の山脈の様に昇り始めた太陽に向かって並んでいる。辺りはとても静かで壊れやすい静寂の鉢の中に居る様だった。セシジャーは砂丘の遠い端に立ち残念そうな様子で自分達のやって来た道を振り返り眺めていた。セシジャーが空白地帯を横断したのは二度目ではあるが、その旅は一度目と殆ど変わらない位に試練が多かった。
2日後にセシジャー達はハシー(Hassi)の水井戸に近づいて角を曲がったところで思いがけず8人の騎乗のヤーム族(Yam)と出会った。誰もセシジャーが「アッサラーム・アレイクム(As-Salamu Alaykum)」と挨拶するまで動かなかった。憎悪に燃えた目の老人がそれに答えた。セシジャーはヤーム族達に自分達の本隊が直ぐ後に来ているので気を付ける様に警告した。20分後にセシジャー達は水井戸についた。それはセシジャー達がマンワク(Manwakh)を出発してから16日目の事であった。イブン・サウードの監視人は水井戸に居なかったのでヤーム族の敵のミシュガス族(Mishgas)であるサリーとサドルは自分達の駱駝に水を飲ませ革袋に水を詰め自分達の食糧の分け前を持ってさっさと立ち去った。
(注)ミシュガス族(Mishgas): ミスカス族(Misqas)やミスガス族(Misgas)とも転写されている南部諸部族の総称。
監視人が戻ると監視人はセシジャーと4人のラシード族の同行者を小さなオアシスの町スライル(Sulayyil)へ連れて行った。監視人はセシジャーがキリスト教とであるのを知ると、非常に敵対的になり何が起きるかを或る程度予測させた。若い奴隷であるアミール(行政官)と2人の無線通信師以外はセシジャーがキリスト教徒で、その連れがミシュガス(Mishqas)であった為に憎み敵意を持った。イブン・サウードは何年も襲撃を禁止して来たが自分の麾下の諸部族にミシュガス(Mishqas)を襲撃する事を許可したので彼等は興奮して荒々しく成っていた。彼等の誰でもが沙漠で出くわせていればセシジャー達を殺しただろう。
2日後にアミールはセシジャーとその同行者を逮捕する様にイブン・サウードから命令を受けたがその翌日アミールはセシジャー達を釈放し旅を続けるのを許可する様にと別の命令を受けた。その時は運良くジョン・フィルビー卿(H. St. John Philby)がリヤードに滞在中していて、国王にセシジャーの件を取りなしてくれて居た。
セシジャー達はスライル(Sulayyil)を翌朝出発し150マイル(240キロ)北北東に離れたライラ(Layla)に向かった。目的地であるアブダビ(Abu Dhabi)迄へはセシジャー達の誰もが知れない土地が少なくとも600マイル(840キロ)も横たわっていた。夜を意味するライラ(Layla)の町の住人はスライルの住人よりさらに狂信的であった。住人達はセシジャーに同行しているラシード達を「キリスト教徒を自分達の町に連れてきた」とののしり、セシジャー達が食糧を買うのにも異教徒の金は「洗わなければ受け取れない」等と邪魔した。結局、セシジャー達は多少の食糧を手に入れたが、町の住人の誰もセシジャー達にヤブリーン(Yabrin)への道を教えてくれないばかりかセシジャー達に「沙漠へ出て死んでしまえ、二度とここに戻って来るな」と叫んだ。
ジョン・フィルビー卿(H. St. John Philby)が作成した地図によれば、ヤブリーンまでは更に150マイル(240 キロ)の距離がある。セシジャーはコンパスで位置を確認して行けば、そのオアシスを見つけられると信じていた。4人の同行者のうち、ムハンマドは懐疑的であったが、最終的に彼等はセシジャーを信じた。セシジャー達の誰もがもしセシジャーが道を間違えば全員が水の無い沙漠で命を落とす事は認識していた。8日間でヤブリーンについた。セシジャー達の行動時間はそんなには長くは無く一日に8時間を越えたのは2日だけだった。セシジャー達はギラギラして靄のかかった始めも終わりも無い荒野を果てしなく騎乗して進んだ。駱駝達の疲労がセシジャー達にも及びとても耐えられる状態では無かった。特に窪みや隆起の様に散乱して居る火打ち石を駱駝がすり減った足の裏で踏むと怯むのでその度にセシジャー達の体はグイと持ち上げられた。セシジャーは前進を止めて駱駝の足を一緒にしばり、それを緩め行動できるようにした。セシジャーは「こうすれば駱駝がかなり離れた場所まで足を引きずりながら何か食べられる物を探すだろう」と思った。
遂にセシジャーは自分達の前方にナツメヤシの木立が黄土色の平原の中に暗く並ぶのを見つけた。しかながらこのオアシスは干魃に見まわれ、そこにはムッラ族の姿は無かった。ヤブリーン(Yabrin)とアブダビ(Abu Dhabi)の間にはトーマス(Tomas)が砂丘地帯を横断した大旅行の最後に位置を確認したディバイ(Dhiby)と云う水井戸が地図に記されているだけだった。それも更に150マイル(240 キロ)離れていた。セシジャーが最初の横断の際同行したラシード族のアウフ(Auf)が「そこの水は飲めない」言っていたのを思い出して暗澹たる気持ちであった。今、セシジャー達の苦難を更に増しているのは3日間殆ど絶え間なく降り、その後の4日間も断続的に特に夜間にひどく降り直ぐに砂にしみ込んでしまう雨だった。セシジャー達はその雨を受ける道具を何も持って居なかった。一日中うたれてきた雨が冷たく不愉快に滴り、夜の間にビショ濡れに成った悲惨な状態を毎朝互いに確認し合ったのみだった。ライラ(Layla)でやっと手に入れた乏しい食糧は殆ど残って無く毎朝誰かが死んでいるのを見るのではないかと不安だった。全員がジャウブ鬱病(Jaub)の状態でセシジャーはそれが自分達をディバイ(Dhiby)へと導くのでは無いかと願っていた。本当に最悪の日々が続いた。
ヤブリーンを発って8日目にセシジャーはその水井戸近くに示された二つの岩のピークを越えた。ビン・ガバイシャ(bin Ghabaisha)がその近くで水井戸を見つけ「神様、セシジャーは優れた道案内人だ」と言った。残念ながらその水は人間には塩辛過ぎたが、駱駝達は途方も無く大量に飲んだ。アマール(Amar)は「もし自分達が絶望状態に成ったら駱駝の喉を掻き切ってその吐瀉物を飲めば良い」と言う。ベドウインは時にはそう云う目に遭う様だがセシジャーには耐えられない考えだった。
2日後にセシジャー達は豊かな植生に遭遇した。ビン・ガバイシャは「駱駝達が気ぜわしく草木から草木の間をまわりながら口がはち切れそうにほおばっている」と言う。これで駱駝達は生き延びられる。暫くして駱駝達は横たわりゲップし満足そうに咀嚼続けていた。
しかしセシジャー達の食糧も水も殆ど無いと云う窮状には変わり無かった。セシジャー達はアブダビ(Abu Dhabi)が遙か遠いのでリワ・オアシス(Liwa Oasis)を見つけたいと空白地帯に再び戻る決意をした。ビン・カビナ(bin Kabina)は「自分は2年前に野営した大きな砂丘列を見つけられるだろう」と思って居り実際に見つけられた。ヤブリーンを発って15日目にたった1ガロン(4 リットル)の水しか残って無い状態でやっとセシジャー達は浅く塩辛いが十分に飲める水井戸を見つけた。そこからビン・カビナはセシジャー達を集落へと先導した。そこに住むマナースィール族(Manasir)は500マイル(800 キロ)離れたライラ(Layla)でセシジャー達に悪態をついたアラブ族に別れて以来初めで出会った人間であった。マナースィール族はセシジャー達をアブダビまで案内してくれセシジャーは1948年3月14日にアブダビに到着した。
4.2 現在の探検
早期の探検家とは状況は異なるが「GPSや四輪駆動車を使ったとしても空白地帯に入るには砂丘地帯を知るベドウインの道案内が不可欠である」と今日でも言われている。
最近リヤードからクウィエトそしてダンマームへと四輪駆動車でアッヤド・オタイビ(Ayyad Al Otaibi)と云う弁護士と一緒に往復した。その弁護士は「ベドウイン出身で二人の妻を持ちリヤードからラフハ(Rafha)の間で遊牧する駱駝を所有し、時々見まわっている」と云う。本人は米国留学までしているインテリであるが、遊牧生活して育っているので沙漠に詳しいし四駆の運転も実に上手い。我々の往復の中で2回本人だけでリヤードまで帰って居り長距離運転も慣れている。その弁護士と「機会を見てオマーン国境のハルヒール(Kharkheer、Khirkhir)まで空白地帯を横断しよう」と云う話になったが、「四駆が複数とガソリン補給は勿論であるが国境警備隊への沙漠走行の許可と現地案内のベトウインの雇用が必要だ」と言って居た。
(注)ラフハ(Rafha): イラク国境の北部辺境州にあるアラビア半島横断原油送油ラインの中継地。
地図で詳しく調べ磁石で方位を見てGPSで位置確認をしても沙漠には様々なトラップがある上にどうしても思いこみ現象での錯覚が起き迷いやすい。不慣れな地域の沙漠での長距離ではやはりその地方のベドインの道案内は不可欠だと思う。
5. 空白地帯の開発
石油・ガス鉱業、農業および観光業が最近の空白地帯開発の中心に成っている。
5.1 石油・ガス鉱業
最近での最も目覚ましい開発は石油・ガス鉱業である。空白地帯の東北部で二つの大きな開発が行われて来た。一つは1998年に生産の始まったシャイバ油田(Shaybah)の開発であり、もう一つはマスター・ガス・システムのハラド(Haradh)にあるガス処理施設が2003年に稼動し始めた事である。この二つの他にも世界最大のガワール(Ghawar)油田の南の地域を対象に集中的な物理探鉱が行われて居り、ヤブリーン・オアシス(Yabrin Oasis)の近くで新しい油田が見つかる等成果を挙げている。
更に2004年にサウジアラビア政府は英蘭のシェル(Shell)、露西亜のルコイル(Lukoil)、中国のシノペック(Sinopec)および伊・西班牙のエニ・レソル連合(ENI/Repsol)と4つの合意書を締結し、全体で32万1千平方キロ(その内21万平方キロがシェル)の空白地帯東北部のほぼ全域に及ぶガス利権区域の開発に乗り出した。ガス開発利権契約の詳細は「ガス・イニシアティブ鉱区1及び3」と云う題名の図に示した。このガス開発利権契約が実施されると空白地帯東北部はもはや空白とは言え無く成ってしまうと思う。私自身は石油鉱山業で長い間働いて来たのでこの分野をもっと詳しく説明したいけれども他に分野との説明の釣り合いもあり一覧表を添付するに止めた。
Oil & Gas Development
5.2 農業開発
空白地帯のサウジアラビア領の周辺部には大きな農場が二つある。両方ともサウジアラビア全土に合計338平方キロの農場を持つナショナル農業開発会社(NADEC)の所有である。一つは涸れ谷ダワースィルのハマーシーン(Al Khamasin)の南地域であり、もう一つはハラド(Haradh)付近の涸れ谷サフバー(Wadi Sahba)の河床である。
新しい円形農場がハラド(Haradh)からヤブリーン(Yabrin)、ヤブリーン(Yabrin)からシャワーラ(Shawalah)やスライル(Al Sulayyil)から東へと空白地帯を浸食している。涸れ谷ダワースィル(Wadi Dawasir)の南のハシー(Hassi)でさえ幾つかの独立した円形農場が作られて居る。更に衛星写真で見るとオマーンやイエメン方面にも円形農場が既にたくさん出来ている。多くの円形農場が広大な地域に広がるのもそんなに先の事では無いだろう。但し円形農場は帯水層にある貴重な化石水を枯渇させ、地表に塩分を集積させるので沙漠の自然環境保護の観点からは好ましくは無い。実際、サウジアラビアの広い地域でこの農法によって環境が破壊されて来て居る。
5.3 観光開発
沙漠の観光としてはサファリが一番醍醐味のある楽しみの一つである。アラブ首長国連邦やオマーンではアドベンチュア・サービス(Adventure Service)やナハール・ツアーリズム・オアシス(Nahar Tourism Oasis)等の観光業者が空白地帯沙漠ツアーのコースを幾つか既にアレンジしている。リヤードにある大手の業者も現在同様な沙漠ツアーを準備中と言っている。但し、現在は散発的に発生しているテロ事件の為に余り進展は見られて居ない。治安さえ安定すればアラブ首長国連邦やオマーン同様にサファリはサウジ アラビアでも非常に有望な分野であると思われる。
6. ルート調査
前書きでご紹介した様に私の空白地帯への旅を空白地帯横断の為のルート調査と呼びたい。
6.1 化石湖への出入り口 (Shawalah)
2003年に久々に改訂されCD版に成ったファルシ(Farsi)の地図を買って眺めているとヤブリーン(Yabrin)への舗装道路と平行にもう一本道路があるらしいのを見つけた。「この道は多分ハラド(Haradh)から600~700 キロ離れた新油田シャイバ(Shaybah)に通じる新しい道だ」と期待した。この道を偵察する為に2003年5月5日午前8時フフーフ(Hofuf)を出発した。フフーフはダンマーム(Dammam)から南100 キロに広がる大アハサー・オアシス(Al Ahsa Oasis)の中心の町である。
Shawalah Camel Nomad
Shawalah Dirt Road
Shawalah Farm
Shawalah Petrostation
Shawalah Remnant of Lake
Shawalah Road End
道はフフーフ(Hofuf)からハラド(Haradh)まで142 キロを世界最大の油田ガワール(Ghawar)に沿って南へと下る。私がこの道を最初に通ったのは1996年でただ単調で飽き飽きするばかりであったが、今回はARAMCO(サウジ国営石油)がガワール油田の石油と随伴ガスの生産強化を行って来ている為に道の両側は活気に溢れて居た。多くの真新しいパイプライン、石油ガス処理設備、サービス道路が道の両脇に整然と並んでいる。
小さな人里離れた鉄道の駅があっただけのハラド(Haradh)では大道路網が作られて居た。ハラドの近くでマスター・ガス(Master Gas System)のガス処理施設の巨大な建設現場を示す看板を見た。私はハルジュ(Kharj)・リヤード(Riyadh)方面に曲がらずフフーフ(Hofuf)からハラド(Haradh)への旧道の延長上に最近作られた道路を真っ直ぐ進んで新しい交差点と鉄道の踏切を越えた。この道は2000年にハラドを訪れた時には出来て無かった。道路脇の標識にはこの道は150 キロ行って行き止まりに成ると記されている。間もなく別の道路標識がありヒン(Khin)へ93 キロ、ウンム・アスラ(Um Athlah)へ107 キロ、ハルヒール(Kharkheer、Khirkhir)へ620 キロと記されている。
この三つの地名はいずれも知られて居らず、私に取っては初めて見る地名であった。特にハルヒール(Kharkheer)は何処にあるのか疑った。この道はアブダビとの国境にあるシャイバ油田への道と思って居たが、方向は少し東よりではあるにせよ、南に向かっているし、620 キロ行くとアブダビを通り過ぎてしまい距離的にはオマーンと考えられる。地図を詳細に調べ北緯19°東経51°付近にハルヒール(Kharkheer)と云う名の小さな村落を見つけた。その場所は空白地帯沙漠を挟んでハラド(Haradh)の南に対峙した位置に当たり、オマーン領内のサナウ(Sanaw)やラミアト・アイマ(Ramiat Aymah)から差ほど遠く無い場所である。
トレイルが一つシャワーラ(Shawalah)からウバイラ(Al Ubaylah)を通ってハルヒール(Kharkheer)まで通じている様だ。英語名では正確には同じ名前では無いがアラビア語名では全く同名である。この村は最近の国境確定交渉でイエメン領からサウジアラビア領に編入されたと云う。サウジ政府がこの村を統治する意思を示す為の交通路としてこのトレイルを作りそれがハラド付近にある道路標識にこのトレイルが記載されている理由なのだろう。
(注)ウバイラ(Al Ubaylah): 空白地帯地帯東部の中心部にポッツンと一つある孤立した集落。
キノワースの牽引車に引かれた物理探鉱用の車両を7台格納した大きな車庫が道の右側にある。この100トン牽引車はまるで海洋のワークボート(曳き船兼作業船)の様に見える。この辺りでは高架送電線、パイプライン、バルブステーション(パイプラインの中継所)等が建設中でありこれらの施設はガワール油田南地域(空白地帯東北部)で最近発見されている油田の生産施設の一部なのだろう。
道路はハラドから15 キロ南で涸れ谷サフバーを渡る。涸れ谷に沿って一つ又一つとナショナル農業開発会社(NADEC)の円形農場が並んでいる。もう一つの道路標識が涸れ谷の南10 キロ位に立って居りヒン(Khin)へ81 キロ、ウンム・アスラ(Um Athlah)へ95 キロ、ハルヒール(Kharkheer)へ608 キロと記されている。ここか先に緑地帯は無いし、道路脇の電線もここで終わった。ここから南がまさに空白地帯である。
ハラドから41 キロ南に幾つかの円形農場が作られている。56 キロ南では数十本の物理探鉱用の測定ケーブルが道路と直角に曳かれ道路の上も横切って居た。数人の赤い作業服の労務者が何か作業している。私はヤブリーン(Yabrin)で新しい油田が見つかったとのニュースを数週間前に聞いて居り、彼等もさらに新しい油田の発見に熱が入って居るのだろう。大地は少し起伏して来て道路は風化した崖に沿って幾つかの丘を越えて行く。
ハラドから72 キロで舗装の無い道が東に分かれヒン(Khin)へ21 キロ、ウンム・アスラ(Um Athlah)へ35 キロと記載された道路標識が立っている。その西側には幾つかの円形農場と白いモスクとモクマオウ(Casuarina)の木立を持つ農園がある。
ハラドから南へ100 キロ下った所で細い低い給電線が道を跨いでいる。この近くに発電機が置かれて居るのだろう。道路はサブハ(Sabkha)に入ってくる。このサブハの平らな底面に麓を水に洗われたたくさんの丘が並ぶ事から湖の跡だと分かる。ハラドから114 キロの辺りにはそこここにナツメ椰子が自生して居る。その中で独立して生えている木は見栄えも良く生長しているが群生している木々は矮小で灌木の様にしか見えない。その中に簡単な囲いをしたデーツ畑があり、それでも粗末なモスクと荒れ果てた見張り小屋が建てられている。道路はこの化石湖を抜け黄土色の砂が薄く積もった石灰岩平地(karst)に入ってくる。砂が場所によって小さな砂丘を作っている。
ハラドから131 キロ南でガソリン・スタンドを見つける。ここが多分シャワーラ(Shawalah)である。そこに居た労務者にガソリンを入れる様に頼むと「ガソリンは無い」と言う。このガソリン・スタンドは既に閉鎖され農業用トラクターの車庫に成って居りトラクターが3台格納されている。裏手には農場が広がっている様だ。この比較的新しい道路のガソリン・スタンドが閉鎖されていると言う事はこの道の交通量の少なさを如述に示している。
舗装道路はハラドから150 キロ南で終わって居り、その先には無舗装の道がさらに南へと延びている。この無舗装の道がここから更に470 キロ先のハルヒール(Kharkheer)まで続いて居るか確信は無かった。しかしながら自分自身の中にそこまで行きたいと云う衝動を強く感じて居た。ハラドにある最後のガソリン・スタンドから片道620 キロであり往復には250 リットル以上のガソリンが要るし、安全の為に沙漠の走行には四輪駆動車が最低2台は必要である。
それぞれの車のガソリン・タンクが100 リットルとしての更に150 リットルずつ余分には積み込め無いだろう。小さなタンク車が必要だろう。さもなければイエメン領に入ってガソリンと水を手当するとすればイエメン側からの偵察も居るしビザも必要になる。たくさんの事が頭の中をメリーゴランドの様に駆け巡るが、今は先に進むガソリンも無く、四駆も一台だけで、ここから戻らなければ成らないのが現実だ。私はこの無舗装の道で写真を撮りさらに進みたい要望を抑えつつ残念ながらそこから引き返す事にした。
6.2 文明の果てる村 (Yabrin)
前書きでも述べた様に私は2000年8月31日に偶然ヤブリーン(Yabrin)を訪れた。それはアハサー(Al Ahsa)からリヤード(Riyadh)に戻る途中だった。
アハサーはダンマーム(Dammam)の南100 キロにあるサウジアラビア最大のオアシスの一つでありであり、ハラドはアハサーから南142 キロに位置する。ハラドはその当時は一軒のガソリン・スタンド、数軒のみすぼらしい車の修理場と2、3軒の運転手相手の食堂があるだけの場所だった。この場所に地名が付けられて居たのは多分ガワール(Ghawar)と云う超巨大油田の南限であり、涸れ谷サフバーに沿ったナショナル農業開発会社(NADEC)に農場の中心であり、リヤードとダンマーム間の鉄道南線が東から北へと向きを変える場所だからだと思われる。
Yabrin Oasis-01
Yabrin Oasis-02
真新しいアスファルト舗装道路がガソリン・スタンドの裏から南に延びて居る。ハラドから南20 キロ位までは真新しい円形農場が並び灌漑用水確保の為にそこここで水井戸が掘削されている。私はハラドの南には砂丘地帯がありそれを越えてヤブリーンに行くのだと思って居たがアハサーとハラドの間の単調な光景の様に緩やかな石灰岩平原(karst)が果てしなく続いている。
一時間足らずで小さな給水所と高架水槽のあるヤブリーンの入り口に到着する。殆ど人気の無い数十軒のコンクリートブロックの家並みからベドウインの集落の気怠さを感じた。ヤブリーンまでの道路の新しさと反対に集落の中の舗装は相当に古びて居りこの集落の古さを物語っている。この集落には小さな村役場(emirate)とモスクが一つあるだけだ。どちらの建物もこれと言って特徴は無い。その家並みの遠く奥の方に幾つかの緑が見えるのは農場だろう。
アラビア式のコンビニであるドゥカン(ducan)を見つけると駱駝の遊牧の為の多くの色々な品物を売って居たので記念に駱駝用の乳帯を買った。ベドウインはこの乳帯を駱駝の赤ちゃんがミルクを吸い過ぎない様に母駱駝の乳房に付けて置く。私はもっと南へ下って涸れ谷ダワースィル(Wadi ad Dawasir)へ通じるトレイルを確認したかったが舗装道路はヤブリーンで終わって居り、そこから先は沙漠道と成るので四駆一台での単独走行は危険が多いし、リヤードまで日暮れ前に着く為の時間を考えるとヤブリーンから引き返さなければ成らなかった。
6.3 夜と云う名の町 (Layla)
ライラ(Layla)は古代からアフラージュ(Aflaj)と呼ばれて来た涸れ谷ハダール(Wadi Haddar)沿いの農村でありリヤード(Riyadh)の南300 キロでスライル(As Sulayyil)の北北東204 キロに位置している。サウジアラビアの帯水層に関する研究書を読んでいた時にライラにある湖の写真を見ているがこの町を何回通過しも湖の痕跡さえ見られなかった。
Layla Al-Rijila in Northeast
Layla Hollow at 130 キロ south
Layla Lake Remnant-1
Layla Lake Remnant-2
Layla, Center Pivot
2000年12月23日湖の存在を確かめようとライラに立ち寄った。道路に沿って探したが疎らなタルフ(Talh、Acacia Gerrardii)の林の中には幾つかの農場がみられるだけだった。年取った村人の尋ねる様に運転手のラマダーンに頼んだがラマダーンは湖の意味が分からないのかその存在を信じて居ないのか良く通じて無かった。とにかくラマダーンは水のある場所を尋ねたらしく年取った村人は我々のやって来た北の方角を指さした。ハッキリとした場所が分からずそれから何回か地元の人に尋ね東の沙漠に入り込んだ。最後に沙漠を徒歩で放牧していたスダーン人の羊飼いに尋ねるとライラの40 キロ北から10 キロ東に入ったジュフラ(Jufra)と云う場所を教えてくれた。
ジュフラ(Jufra)とは水の流れが終わる場所と云う意味で涸れ谷シュバト(Wadi Shubat)が東からこのジュフラ(Jufra)に流れ込み、涸れ谷シュタブ(Wadi Shutab)が西からやはりこのジュフラ(Jufra)に流れ込んでいる。ジュフラ(Jufra)はサラム(Salam、Acacia Tortilis)の木立に囲まれた浅い窪地で恐らく鍾乳洞の入り口に成っていると思われた。注意深くこの窪地の中にその様な穴が無いか探したが何も見つからなかった。やむなくそこを発って次の目的地のスライル(As Sulayyil)に向かった。その途中でライラの南130 キロの石灰岩平原で私が想像して居た様な小さな湖の跡の様な窪地を見つけた。
同じく2000年の12月29日の夕方に再びライラに戻った。「もっと情報を手に入れないと湖は見つけられ無い」と思っていたのでその夜ラマダーンに市場(souk)に行って土地の人達から湖に関する情報を集める様に頼む心づもりだった。ライラに着いてホテルを探すが私が泊まれる様な水準の宿舎がなかなか無い。ようやくサウジ式のホテルではあるが清潔なシーツと暖かいシャワーの出るホテルが見つかる。そのホテルの名は偶然にも私のリヤードの宿舎であるコンパウンドと同じワハ(Al Waha)と云う名前だ。優しい女性の様な村名のこの村の住人の殆どは極めて厳格なワッハーブ派(Wahhabist)の回教徒でありムタッワ(Mutawwa)をたくさん見掛ける。ムタッワはサウジ人男性の衣服であるトーブ(Thawb)を短くして踝を出し黒い髭を長く伸ばして居る。この村に居るのが我々に取っては余り快適では無かった。
(注)ムタッワ(Mutawwa): 宗教警察の密偵。
翌朝早くライラから12 キロ南に下りアスファルト舗装を東へと向かう。この道は直ぐに南に向かって曲がっている。地表には湿った膨らし粉に似た石膏が露出している。6 キロばかり南に下ると道の両側が金網で囲まれて居り錆びた看板に「史跡につき立ち入るべからず」と書かれている。もう一つの看板が12 キロの所にあり多分そこがカティン(Al Qatin)である。その看板には直進マルワーン(Marwan)で左折スワイダン(Suwaydan)と記されている。運転手のラマダーンがヒッチハイク中の二人のエジプト人労務者に湖について尋ねる。サウジ人以外は出稼ぎ人なので正しい答えを期待できない。道はサウジ人にだけ尋ねる様に私はラマダーンにかねがね言って居るが、どうもラマダーンはサウジ人以外に尋ねる傾向がある。このエジプト人達は「湖は我々の来た道を7 キロ引き返し小さな小屋のある所を東に1 キロ入った場所だ」と言う。あまり当てに出来ないと思い東に進むと、土盛りで境を作った広い畑に入り込み湖を探しながら盲滅法暫く走り回る。
南の方に多分スワイダン(Suwaydan)と思われる集落を見つけトレイルに沿って入って行くと比較的大きな小屋の前に着いた。その小屋は小綺麗に掃除されて長い絨毯が囲炉裏のある床に敷いてある。掃除している労務者に「サウジは居るか」と尋ねると若いサウジがあくびしながら出て来た。その若いサウジは警官でその小屋は内務省の治安警察の詰め所だった。眠そうな目を擦りながら親切に「このアスファルト舗装を10 キロ行ってマルワーン(Marwan)への丁字路に突き当たったら7 キロ北へ行き東側に小さな小屋が幾つか見えるのでそこへ行けば小屋の前に三つ湖の跡が広がっている」と教えてくれた。エジプト人が教えたのと同じ場所なのでラマダーンは不服気な顔をしている。
若い警官の教えてくれた通りに行くと遺跡保護のフェンスの東1 キロの所に干上がった湖を見つけた。干上がった湖沼群は土盛りとフェンスで囲いがしてあり車では入れないので徒歩で行くしかなかった。幾つかの大きなクレバスが東西に走って居りその幾つかは暗くて底が見えない程大きい。これらのクレバスは水の枯渇に伴う地滑りで出来たのだと思う。私は大きな地下の鍾乳洞に落ち込んで終うのでは無いかと云う様な錯覚に襲われた。近づくに連れて対岸に大きな崖が見えて来て私はこの窪地が完全に干上がった湖だと判った。その深さは30~40 メートルでその長径は700~1,000 メートルで南へと少し東にドッグレッグしながら延びて居り短径は200~300 メートルである。ドッグレッグしている内側部分の湖底は二段に成って居り上段には直径10 メートル程の穴らしい黒い部分がある。多分鍾乳洞に通じる穴なのでは無いか。元の湖岸の部分であった崖には幾つかのクレバスが出来ており湖岸に近づくのは危険である。その時水蒸気を吹き上げている小さな穴を見つけこれが地下にある洞窟の存在を示していると思われる。
この場所が泉を示すアウユン(Al Ayun)と云う名で呼ばれた湖沼群である。この湖沼群が涸れたのはそれ程昔では無いのは先程の幾つかの小屋は湖沼群とそれを取り巻く緑地の美しさを楽しむ為に作られたリゾート・ハウスである事からも分かる。この湖沼群は灌漑の為の地下水路の水源に成って居た。フェンスで囲われた遺跡はこの地で農業と隊商交易を営んだ古代国家或いは古代都市の跡だろう。
井戸を掘りその底を横穴で繋げた灌漑用の地下水路はイランではカレーズ(karez)、北アフリカベルベル語でフォッガラ(foggara)、古代アラビア語でカナート(qanat)そしてアラビア語でファラジュ(falaj)と呼ばれる。ファラジュ(falaj)の複数形がアフラージュ(aflaj)でありこの地方が古代からアフラージュ(Al Aflaj)と呼ばれていたのはこの為と思われる。
6.4 アラビア盾状地の主要排水路 (Wadi ad Dawasir)
リヤード(Riyadh)からサウジアラビア南西部のナジュラーン(Najran)、ハミース・ ムシャイト(Khamis Mushayt)やアブハー(Abha)へ往復する道中で何度かスライル(Sulayyil)を通過して居るがいつも長い車旅の先を急ぐ為にスライルから涸れ谷ダワースィルを東に入って偵察した事は無かった。2003年2月7日に他の2台のランドクルザーと共にスライルから空白地帯へ偵察に入った。アスファルト舗装の道路が涸れ谷に沿って住宅地区へと延びている。そこから東へと延びる無舗装の道でも無いかと探して居ると東では無く南南西へと延びるアスファルト舗装の新しい道を見つけた。「この道はこの地域では小さな緑地がファルシの地図上に唯一記してあるシャイーバル(Sha'ibal)と涸れ谷ヒンウ(Wadi al Hinw)の中間に行く道だ」と私は直感した。アスファルト舗装はカルスト(karst)平原を道路脇に立つ電柱に架けられた電力線と共に続きスワイイルから南南西47 キロで終わっている。
Eastern Wadi ad Dawasir-1
Eastern Wadi ad Dawasir-Dirt
Eastern Wadi ad Dawasir-Farm
道の終わりの東側には5、6軒の家がありタマリスク(tamarisk)の木立に囲まれている。この数軒の家は小綺麗で美しい色に塗られフェンスの囲みも無くどこかヨーロッパの集落を思わせる風情である。私に同行していたインド人運転手に家畜囲いの前で働いているネパール人労務者にここの場所を尋ねさせると「ハシー(Hassi)」と答えた。この時は「この労務者は家畜囲いの中の動物を尋ねられ乳離れしたばかりの駱駝を意味するハシーと言った」のだと思い再びこの運転手に尋ねさせるとワシア(Al Washia)と言う様な発音に聞こえた。ワシアはリヤードの近くにもある水に因んだ地名だし何とか納得する。この会話は全員がたどたどしいアラビア語で行われている為に正確を期するのは困難である。その後ウィルフレッド・セシジャーの探検記を読んでこの集落の名はハシーが正しくセシジャーが苦労してイエメンから空白地帯を越えて最初に辿り着いた井戸であったのが分かった。道の終わりの西側には真新しいガソリン・スタンドがあるが閉店していた。
(注)タマリスク(tamarisk): ギョリュウ。
疎らなタルフ(Talh)の林の遙か向こうに円形農場の散水アームが橋の様に見える。トヨタ・ジープで駱駝を追っているベドウインが居るので挨拶がてら場所を確認しようと近づくとジープは明らかに我々を避けようとしている。良く見ると女性を脇に乗せているので手を振って挨拶だけすると向こうもそれに答えてくる。このベドウインは明らかに自分の女性を我々から避けさせて居るので運転手の一人が更に強引に近づこうとするのを私は無用な摩擦を避ける為に制止した。
(注)タルフ(Talh): Acacia Gerrardii。
旅連れの一人が「ファーウ(Al Faw)までここから直接行けないか」と尋ねた。この涸れ谷の河床に沿って行けば僅か60 キロ位の距離だし私も本当はそうしたかったが、この朝の涸れ谷ダワースィルの東を偵察すると言う目的とファーウ周辺のはまりやすい深い砂を考えて何とかその衝動を抑えた。
スライルへの戻りにその住宅地の南には数メートルから十数メートル程度の石灰岩の崖に囲まれた幾つかの小さな農場があるのを確認した。住宅地を避けてまわり込み東に延びるアスファルト舗装の道を見つけた。この道はたくさんの円形農場の間をスライルから東に30 キロ延びている。石膏の露出しているのが道沿いに数カ所見られる。道の終わりから東は見渡す限り漠々と石灰岩平原(karst)が広がり我々は暫くこの長大な眺めに見入って居た。
この石灰岩平原はこの種の他の平原よりも目立って色が濃く地盤も車の走行には全く問題無さそうである。ここから更に70 キロ東に行き涸れ谷の流れが北北東へと転向しその名も涸れ谷ギーラーン(Wadi al Ghiran)と変わる辺りまでは難なく行けそうに思える。涸れ谷の南側に並ぶ砂丘列もその辺りで方向を東西から東北/南西に変えて居りウルーク・ルマイラ('Uruq ar Rumaylah)と呼ばれている。ウルーク・ルマイラは更に北西でアラビア半島北部のナフード沙漠(An Nafud)から延々と連なり南下して来たダフナー沙漠(Ad Dahna')へと続いている。
(注)ウルーク・ルマイラ('Uruq ar Rumaylah): 土占いの砂丘。 (注)ダフナー沙漠(Ad Dahna'): ダフナーと云う名前そのものが沙漠の意味である。
6.5 切り通しの遺跡 (Qariyat al Faw)
ナジュラーン(Najran)のホリデイインには前もってカルヤ・ファーウ(Qariyat al Faw)の見学ツアー を申し込み考古学博物庁からも遺跡への立ち入り許可証を取得して居たが、ナジュラーンに着くとホテルのフロントではこのツアーが成立するかどうか確認出来て居ない。数日間碑文の谷を探訪していた私にこのツアーが成立出来そうなので参加する様にホテルのフロントが言って来たのは出発の前夜であった。私の旅連れの考古学研究者とその助手も遺跡への立ち入り許可証は持って居るので同行したいと言う。ホリデイインのバスで2002年2月23日の朝にナジュラーンを発ったのは運転手を務めるフロント・マネジャー、女の子を含むアラブ系英国人夫婦と我々3人であった。カルヤ・ファーウ(Qariyat al Faw)はナジュラーンの北北東約300 キロに位置しているのでバスは我々がリヤードからやって来た涸れ谷ダワースィルの方面の道を戻って行く。
Qariyat (Sha’b) al Faw
Qariyat Al Faw-1
Qariyat Al Faw-2
Qariyat Al Faw-3
ナジュラーン北部の砂原には花崗岩がたくさん露出している。私の旅連れは「この花崗岩は堆積岩の薄い層を突き抜けて地上に出て来ているのだ」と言う。この花崗岩は涸れ谷ハブーナ(Wadi Habunah)の北20 キロ、ナジュラーンの北60 キロ辺りで砂岩に変わる。
涸れ谷ハブーナ(Wadi Habunah)の下流はファルシの地図にはカドカーダ(Al Qadqadah)と記載されて居りその更に下流はセシジャーが二回目に空白地帯を横断した際に道の中場と言ったジリダ(Jilida)と呼ばれる広い砂利原へと流れていると思われる。
(注)カドカーダ(Al Qadqadah): 砂利/小石。
ナジュラーンの北北東100 キロのヒマー(Hima)への分岐の更に北では西側の砂原にはその奥深くまで砂岩の丘が並び東側は砂丘地帯と成っている。ナジュラーンの北北東189 キロにあるシャルーラ(Sharourah)への三叉路であるハシュム・グラーブ(Khashm Ghurab)と云う名の検問所の東からアラビア半島の脊稜ジバール・トゥワイク(Jibal Tuwayq)の高い崖が現れる。昨夜会ったアハサー博物館(Al Ahsa Museum)に勤務するサウジ人の学者が「今日はチャート(Chert、燵岩)で作られた細石器をアメリカ人の友人とこの辺りで探している」と言って居たので検問所と高い崖の間の沙漠に四輪駆動車を探すがその軌跡さえ見え無い。
(注)ハシュム・グラーブ(Khashm Ghurab): ワタリ烏の鼻。
ハシュム・グラーブの60 キロ北には数カ所砂原が石膏でおおわれた場所が見られる。ハシュム・グラーブから北70 キロにあるナジュラーン州とリヤード州の境界の検問所を越えて間もなくハシュム・グラーブから北100 キロ、ナジュラーンの北北東289 キロで涸れ谷ダワースィル南80 キロの辺りにポツンとあるカルヤ食堂に正午を数分まわった頃に着いた。我々のバスはここから東へと砂原に入って行く。1 キロも行かない内にバスは砂の中に完全にはまって動かなくなってしまった。救出しようと押したり引いたりしたがビクともしない。仕方なく駱駝が繋がれている見張り小屋までそこから500 メートル歩いて行く。遺跡の番人を捜すが誰一人として見当たらないのでフェンスの綻びている個所から遺跡に入り込んだ。このカルヤ・ファーウ(Qariyat al Faw)と云う遺跡はファルシ(Farsi)の地図ではジバール・トゥワイク(Jibal Tuwayq)を越えた向こう側に記されて居り、私もそう理解して来たが実際には道路脇からそう離れて無い場所にあった。
(注)カルヤ・ファーウ(Qariyat al Faw): 涸れ谷の切り通しにある城塞都市。
涸れ谷の切り通しにある町(カルヤ・ファーウ)と云う名のこの城塞都市はこの隊商路に紀元前200年から紀元200年頃に栄えたキンダ族(Kinder)の支配下にあった。紀元315年にビザンチン帝国(Byzantine)のコンスタンチン大王(Constantine the Great)がキリスト教をアラビアに布教する前だったのでこの都市の信仰は多神教であった。この遺跡はアブドッラフマーン・アンサーリー博士(Dr. Abdul Raman Ansari)がリヤード大学(現在のキング・サウド大学)の考古博物学部長であった頃から学生の訓練を兼ねて発掘が続けられて来ているのでサウジ国内では良く知られている。
中心部は幅200 メートル位で東西1 キロに延びてその中心に20 メートル道路がありそこから15 メートル位の幅の道が南北に枝分かれしている。中心の広場には直径1.2 メートル深さ15 メートル位の水井戸があり、その近くにある西側に向かって3列の部屋のある建物は神殿だろう。大理石の祭壇が今でも立っている。町の建物は概ね日干し粘土と切石で建築されており内部の壁は朱色の装飾が施されている。私の連れの学者先生達は彩色された陶器に関心があるようだが、私は或る家の入り口に置かれて居た半等身大の石をくり抜いた壺に興味があった。発掘現場には人骨を詰めたバケツ等も散らばっているのでこの場所が今でも発掘され続けて居るのが分かる。
東300 メートルばかりの辺りに二列になった1ダース程の土作りの塔が立っている。これらの塔は3~5メートル高さの積み石の土台上に7~12メートル位の高さまで日干し煉瓦を積み重ねてある。一つ一つの塔の下には石組みの部屋が作られている。急な石の階段で下に降りると立って居られる程の高さで暗くて見えないが2、3部屋に先が分かれている様だ。これは墓ではあるけれどエジプトのカタコンブ(catacomb)よりは小さい等と連れの学者先生は言っている。
バスまで戻ってもう一度確認するとバスは人力では救出出来ない程しっかりと砂にはまり込んでしまっている。食堂まで2、3 キロばかりの距離を沙漠の中歩く以外方法は無かった。二人のピストルを腰に差したムジャーヒディーン(mujahideen)がトヨタ・ジープで近寄って来た。彼等は我々かバスを救出してくれるのかと思って居たら幾つかの質問をして道路の北へと立ち去ってしまった。レストランに入りラハム・カプサを注文した。サウジアラビアでの風習に反して連れの女性の助手を含め婦人が3人目隠しの仕切りにカーテンさえ無い床に座っているのに誰も気に留める様子も無い。英国人家族の主人が「シリア系でARAMCO(国営石油会社)に働く地質技師のモハッマド S アミーム博士(Dr. Mohammad S. Ameem)だ」と自己紹介して来る。
(注)ムジャーヒディーン(mujahideen): 治安警察の手先で普段着の民俗衣装の民兵。 (注)ラハム・カプサ: 油を少し加えサフラン入れて炊きあげた米を1メートル位の大皿に盛ってその上に蒸し焼き羊の肉を載せたサウジ料理。
ムジャーヒディーン達が我々の所に引き返して来て何故許可無しに遺跡地域に立ち入ったのか等と尋問を始める。その態度は横柄で乱暴でありいきなり英国人のカメラを取り上げ中のネガ・フィルムを引き出した。「我々が撮影禁止の遺跡の写真を撮ったので正規の警官を取り調べに呼んでくる」と言うと再び北に向かって行ってしまった。我々は運転手を務めるフロント・マネジャーに「宿堂に居る運転手達に助力を頼め」と盛んに言うが「頑なにムジャーヒディーン達が涸れ谷ダワースィルから救助を連れてくるのを待つ」と言うのみである。ついに我々は強行に運転手に対し「ここに居る運転手達と交渉しトレーラーの大型牽引車を借りバスを砂原から引き出せ」と要求する。やっと運転手は同意する。
運転手は食堂に隣接したガレージから鋼鉄のワイヤーを買って来るが細く短く役に立たない。運良く沙漠に捨てられた長い太いワイヤーを見つけ大型の牽引車を雇って少し離れた足場の良い場所からバスを引っ張ると、バスは砂原から引き出されて来た。バスを食堂まで回送して来ると鋼鉄のワイヤーはバスに硬く巻き付いて手で取れる状態では無い。再びガレージと交渉し溶接工とガス切断機を借りて鋼鉄のワイヤーをバスから切り離す。時刻は既に夕方の5時半を回っている。遺跡の門番もどこからか戻って来て我々にムジャーヒディーン達の非礼を詫び、「迷惑を掛けた」と自腹でセブンアップを買って配ってくれる。
やっとナジュラーンに向かって戻り始めると運転手は過労の為に居眠りを始めそうでモハマッド S アミーム博士が運転席の隣に座って眠らない様にアラビア語で一生懸命に話し掛け続けている。又、食堂を見つける毎に停車して熱い紅茶を飲ませる。途中「前照灯が上目のまま下げなかった」とパトカーが暗い中引き返して来て調書を取られる。それでも午後9時頃に涸れ谷ハブーナ(Wadi Habunah)まで戻って来た。検問所の警官がバスを停車させ運転手に何か指示している。今度は何事かと思って居るとパトカーの一団が赤と青のランプを点滅させながら近づいて来てバスの隣を囲む様に止まる。ナジュラーンの警察署長とホリデイインの支配人がバスに乗り込んで来て「余り帰りが遅いので夜の沙漠に非常捜査の警報を出して我々のバスを探して居た」と言い無事に帰還して来た事を確認して大変喜んでくれた。
6.6 遠い沙漠の基地の町 (Sharourah)
ヤブリーンを訪れた後、空白地帯沙漠でサウジアラビアの道路網を使って行ける一番南の地域であるシャルーラ(Sharourah) およびワディーア( Al Wadi'ah)への旅を計画した。
6.6.1 石灰岩の崖に囲まれた涸れ谷からの訪問
私がシャルーラ(Sharourah)を最初に訪れたのはヤブリーン(Yabrin)へ行ってから4ヶ月目の事で、私が休日を利用して沙漠の土壌調査を続けていた一環として訪れた。涸れ谷ダワースィルのハマーシーン市(Khamasin)の同名のホテルを2000年12月24日早朝に出発した。涸れ谷ダワースィルは脊稜のジバール・トゥワイク(Jibal Tuwayq)を突き抜けるアラビア盾状地の主要排水路の一つであると共にその名はサウジ国内で主要農業地帯の一つであるその流域全体の名前としても使われている。リヤード市からは500 キロ以上も南に位置しては居るが同じリヤード州に属している。大きな町としては脊稜ジバール・トゥワイク(Jibal Tuwayq)の西のハマーシーン市(Khamasin)と東のスライル(As Sulayyil)が対峙している。グバイシュ(Al Ghubaish)分岐はハムシーン市の東45 キロでスライル市西39 キロにある検問所でここから空白地帯沙漠の西境を成すジバール・ トゥワイク南部の崖地に沿って道路が丁字型に南へと下っている。
(注)ハマーシーン市(Khamasin): 直接には50の意味だがエジプトでは熱い南からの季節風の意味を持つ「熱い南風の町」。 (注)スライル(As Sulayyil): 抜き身の刀と意味もあるらしい。 (注)グバイシュ(Al Ghubaish): 薄明かり。
Sharourah-Najiran-1
Sharourah-Najiran-2
道路は数十もあるNADEC所有の円形農場の間に作られている。ジバール・トゥワイクの崖上に設けられた幾つかのレーダー・アンテナを眺めながら南へと下る。円形農場のほぼ40%が地層水の過剰汲み上げによる枯渇で灌漑用水が無くもはや使われて居ない。グバイシュ(Al Ghubaish)の70 キロ南の道路の西側にハルディアン農場(Khaldian farm)があり、この辺り一帯が「切り通し」或いは「口」を意味するファーウ(Al Faw)と呼ばれ場所である。少し南の東側に比較的大きな農場がありその後方では脊稜ジバール・トゥワイクがその南の山稜と共に低くなり涸れ谷 ダワースィルの主要な支流である涸れ谷ヒンウ(Wadi Hinw、曲がり、弓)の上流部であるシャイーブ・ファーウ(Sha'ib al Faw)がジバール・トゥワイクを貫通して流れて居た。
この切り通しは四輪駆動車での容易に走行出来ない程厚く砂に覆われている。ファルシ(Farsi)の地図ではカルヤ・ファーウ(Qariyat Al Faw)の遺跡はジバール・トゥワイクを越えた東側にある。(前述の様に実際には西側であるがこの時はそれを知らなかった)幾つかの沙漠のトレイルを探してジバール・トゥワイクの向こう側の遺跡へ行こうとしたが、ここの巨大な砂を越える難しさを認識するだけだった。唯一の可能性としては古い涸れ谷の河床を南に探ってジバール・トゥワイクの崖下を南から北へと進めば越えられそうであった。この涸れ谷の河床でさえ同じ様に厚く砂に覆われて居た。
ファーウ(Al Faw)の西側はサブハ(Sabkha、salt flat)でその後背地は砂丘列が続いている。道路はその砂丘列とジバール・トゥワイクの間のサブハに作られている。サブハのあちらこちらが石膏で覆われている。砂丘列は南に下るに連れてその大きさを増す。
グバイシュ(Al Ghubaish)から南110 キロにリヤード州とナジュラーン州の境の検問所があり警官が居留証(Igama)の提示を求めた上に「何をやっているのか」としつこく聞く。現在では検問所の警官は通行人に余りとやかく言わなく成って来て居り少し珍しい。ナジュラーン州が他の州に較べて通行のチェックが常に厳しいのはイエメンからの密輸があるからだろう。検問所とジバール・トゥワイクの間に円形農場が3つある。農民は水さえあれば農場を作りたがるが、緑が目を癒してくれるとは云えここでは水は農業用の灌漑水としてよりも遊牧用の飲料水としての用途の方がずうっと重要だと思う。この様な乾燥した土地での農業は水資源の無駄使いだ。もし遊牧の家畜達に飲ませる為に利用されれば、ここの水資源は農業の灌漑水用に使われるより幾倍も長く維持されるだろう。西側の砂丘列が低くなりその間からジバール・ワジード(Jibal al Wajid)の頂が頭をのぞかせている。
(注)ジバール・ワジード(ワジード山塊)(Jibal al Wajid): トゥワイク山脈(Jebel Tuwaiq)南部ハシュム・グラーブ(Khashm Ghurab)西65kmに在る山塊。沙漠の半島では二畳紀(245 ~290百万年前)には厚い幾重もの砂岩層が形成されたが、その殆どが浸食を受けて残って無い。ワジード山塊では珍しく二畳紀砂岩層の絵画的な景観を今でも残して居る。
グバイシュから南179キロでナジュラーンとシャルーラへの道が分かれるハシュム・グラーブ(Khashm Ghurab)の丁字路のある検問所に着いた。ガソリン・スタンド、ガレージ(修理工場)、スパーマーケット、食堂、ホテル等を一個所に集めたSSが建設中であった。検問所の警官にシャルーラへ行くのを止められるかと少し恐れて居たが警官は詰め所から出ても来ないで我々を無視して居り問題無く南南東に進めた。
大地は平で黄土色した平原に小石の転がる石灰岩平原(karst)に成った。ジバール・トゥワイクの崖は道路と平行に並ぶが低く成って来て居り南からは砂丘列の群が迫っている。ハシュム・グラーブ(Khashm Ghurab)から48 キロ、グバイシュ(Al Ghubaish)から南へ227 キロで砂丘列の初めの丘に登るとその2、3 キロ東でカスィーム(Qaseem)に近いズィルフィー(Az Zilfi)から延々1,000 キロ以上も続いて来たジバール・トゥワイク(Jibal Tuwayq)が砂丘群に飲み込まれてしまう。ルブア・ハーリー沙漠の砂質はリヤード付近のウルーク沙漠(Uruq Desert)やダフナー沙漠(Ad Dahna')と変わらないが、その広大さは比較しようも無い。ファルシ(Farsi)の地図に記された平行な帯は全て砂丘列の稜線である。何十もの鯨の背の様な砂丘列の稜線が北東から南西に向かって何百キロも平行に並んでいる。稜線の間隔は3、4キロである。この砂丘列が空白地帯南東部の沙漠を作り出している。
この辺りでもっとも高い場所は海抜1,000 メートルでハシュム・グラーブから79 キロ、グバイシュから南へ258 キロの位置にあるがそこは比較的平らな石灰岩原で砂には覆われて居ない。ハシュム・グラーブから108 キロ、グバイシュから南へ287 キロ 辺りでは小石におおわれた土埃の平原に低い砂丘列の稜線が間隔を開けて並んでいる。ガソリン・スタンドは地図上には記されてはいるが既に廃業し遺棄されている。この辺りが「横断行程の半ばまで来た」とセシジャーが二回目に空白地帯を横断した時に言った広大な平原ジリダ(Jilida)の一部であると思う。
ハシュム・グラーブから177 キロ、グバイシュから南へ356 キロにはガソリン・スタンドがもう一つ記されている。このガソリン・スタンドは道路から少し離れて設けられ掘っ建て小屋ではあるがアラビア式コンビニのドゥカン(ducan)を併設している。暗い緑の服を着たベドウインの女性がドゥカンで買い物をして居り男の子と老人が外で買い物を終わるのを待っている。幾つかの白いテントのグループがガソリン・スタンドの周りを囲んでいるので小さな集落の様にも見える。ベドウインが白いキャンバスのテントを使っているのは「伝統的な黒い毛のテントを作ら無く成っているからだ」と思う。エリトリア人(Eritrean)運転手のラマダーンにこのベドウインの部族名をスダーン人(Sudanee)のステーショ・ンマスターに尋ねて貰うが、どうも要領を得ない。このスダーン人は「このガソリン・スタンドの実際の持ち主は自分だ」と言い「こんな遠隔地では売り上げは知れて居るが、生活費が要ら無いので節約でき有利だ」と付け加えた。このスダーン人は「この沙漠で9年以上も過ごして来た」と言う。
ゆっくりとした起伏が急に成って来ると砂丘列の方向が北東/南西から東北東/西南西に変わった。道路は砂丘列の稜線にほぼ直角に上り下りしてくる。ハシュム・グラーブから223 キロ、グバイシュから南へ402 キロで丁字路に突き当たった。この道路は砂丘地帯の中を通ってナジュラーン(Najiran)とシャルーラ(Sharourah)間を東西に332 キロほぼ直線で結んでいる。検問所はあるが、警官が検問に出てくる気配は無い。この道路はここからシャルーラへ向かって砂丘列の稜線と平行に東北東/西南西方向に作られている。左折してシャルーラへ向かう。
道路は砂丘列間の渓谷の様な長い窪地を走る。砂丘には駱駝が放牧されているが私の目には植生が殆ど見当たらない。それでも駱駝は不毛な砂から驚異的に何か食べる物を探せるのだろう。この大きな砂丘列の中では駱駝達は蟻程にしか見えない。砂丘列の稜線は高く聳えるが写真に撮ってもそれを表現するのは無理だろう。カメラで高さを映し出すには余りにも平ら過ぎると思う。
丁字路から63 キロ東にポンプ小屋と高架水槽の設けられたシャカ水井戸(Shaqa)がある。砂丘群は灼熱で干上がった場所との印象が一般的であるが砂丘群は乏しい雨を吸収しその底部の不浸透層の上に稀少な水源として貯えてくれる。この井戸もその様な浅層水を水源としているのだろう。道路はここから東北東から東南東に向きを変える。
道路は再び砂丘列を上り下り始める。シャカ水井戸から20 キロで空軍基地の町シャルーラ(Sharourah)の北ゲートに到着した。ゲートはそれぞれアーチ型の入口出口と遮断機と中央の検問所から出来ている。この町は鉄条網のフェンスで完全に囲まれている。道路は真南へと下る。町のセンターは道路より東に寄っているが回り道せずに真っ直ぐに南ゲートへ向かう。イエメン国境方面に向かうので検問の厳しい事を予想したが北ゲートの警官は我々の車を無視して居たし南ゲートの警官は訪問目的を訊ねただけだった。土埃の沙漠とサブハ(salt flat)の中を通って真南のワディーア(Al Wadi'ah)を目指す。ワディーア(Al Wadi'ah)からシャルーラ(Sharourah)方面には長い舌の様な形で土埃の沙漠がサブハを伴って北へと突き出している。この突き出しは砂に覆われては居ない。ベドウインの天幕が道路に沿って西側に並び東側には小さな砂丘列が道路と直角方向に並んでいる。
シャルーラから51 キロでワディーアの入り口のアーチに着いた。道路はそこから東と南東に分かれている。東への道は直ぐに終わって居るので剣竜の様な形をした黒っぽい岩山のある南東に向かった。道路は岩山の向こうの警官射撃訓練場へと向かっている。村の西側には新しい住宅区画が設けられベトウインの白いテントが幾つか設営されている。そもそもワディーア(Al Wadi'ah)は貯蔵を意味しており昔から遊牧するベドウインの基地なのだろう。幾つかの涸れ谷もここに集まって来て居りこの地域の水場に成って居り村の入り口近くには4つの給水ノズルと高架水槽が設けられている。ワディーア(Al Wadi'ah)はイエメン領から近くサウジアラビア領空白地帯の最南端に当たる。
「セシジャーがアブル(Al Abr)と呼び二回目の空白地帯横断の前に立ち寄ったのはワディーア(Al Wadi'ah)だ」と思われる。そうだとすればセシジャーがアラド崖地と呼んだのは脊稜ジバール・トゥワイクの南稜を指している様であるし、ジリダ(Jilida)大砂利原も渡った。従って、その日の私の走行はセシジャーの空白地帯横断のルートと平行にそれを逆に辿って来た事になる。
一晩泊まって土地の人からもっとこの地に対する情報を得たかったのでシャルーラ(Sharourah)に戻ってその日の宿を探すが、泊まれそうなホテルは無かった。空軍基地のある飛行場まである町なのにキチンとして宿舎は見つからない。運転手のラマダーンは警官と軍人ばかりのこの町に居るのは落ち着けないらしい。後でシャルーラ(Sharourah)の意味に「意地悪」「邪悪」「悪意」等の意味があるのが分かったのでラマダーンは何かその様な「縁起の悪さ」を嫌がって居たのかも知れない。仕方なく332 キロ西のナジュラーンまで行く事を決めた。町を離れる前に多少の食糧を手に入れガソリンを補給した。
先程来た道を砂丘列と平行に84 キロハシュム・グラーブ(Khashm Ghurab)へ行く道との丁字路まで引き返す。この丁字路からナジュラーンへの道中は砂丘列の方向が東北東/西南西から北東/南西に変わるので道路は砂丘列の稜線を繰り返し繰り返し越えて行く。砂丘列と砂丘列の間の窪地には大きくは無いにせよ幾つかの水井戸がある。平らな土埃の沙漠が大地を多くを占める様に成るに連れて砂丘列は小さく少なく成って来る。ハシュム・グラーブ(Khashm Ghurab)へ行く道との丁字路から西140 キロ辺りで広く平で低い涸れ谷ナジュラーン(Wadi Najran)の河床へ入ってくる。遠く北の方には農場地帯が西へと延びている。サラム(Salaams、Acacia Tortilis)が間隔を開けて涸れ谷の河床に立派に育って居りナジュラーンの岩山が近づいて来る。
6.6.2 花崗岩の谷間に刻まれた伝説の町からの訪問
私は空白地帯のこの地域にはナジュラーンから更に二度程行っている。ナジュラーンはアラビア半島西南部の伝説の町でその名前は木彫りに関係しているらしいので「この町の名は花崗岩の岩山の間に水が深い谷を刻んでいる事に由来するのでは無いか」と私は思っている。
最初の時は2002年2月22日であった。出発を前に焼きたてのホブツ、ミルク・クリーム、蜂蜜と冷えたビール(ノンアルコール)を昼食用に買い込んだ。ビールは三重にプラクチック・バックに包み各バッグには冷却用に水を少しずつ入れて置く。涸れ谷 ダワースィル、リヤード方面への本道からナジュラーンの郊外で道が一つ東へと分岐している。暫く行くとベドウイン・マーケットが道の右側にある、左側には涸れ谷 ナジュラーンの恵みを受けた豊かな緑の農村地帯が東へと延びている。広く間隔を開けたサラム(Salam、Acacia Tortilis)の疎林が沙漠を薄く被っている。
(注)ホブツ: 印度カレーに出てくるナンを円い形にしたアラビアのパンで、ピタパンとも呼ばれている。
ナジュラーンの東100 キロ辺りで砂丘列が増え涸れ谷ナジュラーンはその下に姿を消してしまう。稜線と稜線の間隔は2 キロ~5 キロ程度離れている。その時の連れだった考古学者とその助手はナジュラーンから空白地帯に163 キロ位入った辺りで砂丘列の上り下りにうんざりして居る。考古学者に取っては考古遺物発見の可能性の無い場所等は全く興味が無い様だ。砂丘列の間の窪地には沈泥(silt)が見られ稀に降る雨が水たまりを作っている事が分かるしその水を利用した水井戸が遊牧の家畜の水場と成ったり道路に沿って設けられた幾つかの警察の詰め所に水を供給したりしている。古い水溜まり跡の周囲には長く茎を這わせた草や長く延びた根が乾燥して残っている。
道路から少し離れた場所に浅い窪地を見つけ昼食にする。その昼食は洗面器程の琺瑯引きの浅い皿にミルク・クリームと蜂蜜をあけてそれを手でちぎったホブツですくって食べるだけのサウジ人から教わった簡単な食事だ。携帯には便利なので沙漠に出る時は非常食も兼ねスコップや水同様に常備品の一つにしている。ビールは乾燥した空気でプラスティク・バックに入れた水が蒸発し冷やされている。天気は晴れ風も僅かなので砂が舞う事も無く快適で心ゆくまで砂丘列の間の人っ子一人居ない静寂を楽しめた。そんな静かな天気でも砂の表面は僅かではあるが風に乗って砂粒が薄い層を成して移動している。
Sharourah Tour-2
Al Wadi’ah Entrance
二回目にナジュラーン(Najran)からシャルーラ(Sharourah)を訪れたのは2003年2月9日で2組の日本人家族と一緒だった。家族が居たのでナジュラーンのホリディイ-インには道の途中で出会う警官や巡察兵に我々の身分や通行目的が説明できる様にサウジ人スタッフをアレンジする様に依頼しマーディ・ハリジュ(Mahdi Al-Kharj)が同行する事になった。この若者の英語力は私のアラビア語よりも酷いが、現地人の付き添いが無いよりも増しである。涸れ谷ダワースィル、リヤード方面への本道からナジュラーンの東で分かれると道は西側の花崗岩の岩山に沿って一旦南下する。農場が道路の東へと延び農場の防風林に使われているコノカルパス(Conocarpus)の緑が鮮やかに感じる。道路は6、7 キロ行くと東に曲がり花崗岩の山から離れる。
ナジュラーンの東61 キロ辺りから低い砂丘列が現れてくる。稜線の方向は北東/南西でありその間隔は何故か大きな砂丘列同様に2 キロ~5 キロ程である。それぞれの砂丘列は馬蹄形をした砂丘の重なりであり砂丘は卓越風向に一列に一つの砂丘がその前の砂丘に覆い被さる様に繋がっている。砂丘列の地帯では無限の量の砂が風の力だけで形作られていると考えて居たが砂丘列の幾つかは途切れたり間が切れたりやせ細ったりして居り砂丘列の稜線形成は風以外の要素にも左右されて居る様だ。道路はナジュラーンから112 キロ辺りで砂丘列稜線に直角に南東に向きを変え本格的な砂丘列地帯へ入って行く。ナジュラーンから東138 キロで道路は真東に向かい砂丘の美しい曲線だけの地勢に入ってくる。
ナジュラーンから東246 キロにある涸れ谷ダワースィルやハシュム・グラーブ(Khashm Ghurab)方面からの道路との丁字路の辺りで道路は北東/南西から東北東/西南西に向きを多少変え砂丘列の稜線と平行に走る。その先で休憩しようと沙漠に乗り入れると我々の四輪駆動車の一つが道路脇にスタックしてしまった。脇を通り抜けた若いサウジ人の運転する車が引き返して来てレスキューを手伝ってくれる。一般に外国人が理解しているのと異なりサウジ人は取り分け沙漠では非常に親切である。
同行して来ている4人の小学生の男の子達に北側よりも高い南側の砂丘列の峰に登って来る様にけしかけると「途中で引き返してくる」と思ったのに反し彼等は遠く遠く登って行く。こんな経験は彼等の人生でも稀だろうと思いそのまま看視する。30分程で砂丘列の稜線に立ったのでエスコートの為に大人達も砂に入る。小学生4人は元気に砂丘を駈け下って来て異口同音に稜線は「砂が大量に吹き付けるので大変だった」と興奮しながら報告する。「稜線の向こうは何だった」と尋ねると「砂丘ばかりだった」との答えが返って来た。
ナジュラーンの東313 キロでシャルーラまで20 キロ辺りの道路の北側にあるポンプ小屋と高架水槽の水井戸の脇を通ると設備が更新されたくさんの給水車が水汲みに列を成している。ここから道路は向きを東北東から東南東へ変え20 キロ程でナジュラーンの東332 キロにあるシャルーラ(Sharourah)に着いた。ここから道路は真南に向きを変える。町をバイパスしたが人数のまとまった外国人の移動のせいか検問に手間取り僅か9 キロの南北それぞれの検問所を抜けるのに時間が掛かる。警官は愛想が悪いのでそうとは感じられ無いが「目的は外人保護だ」と思うので文句も言う気に成らない。
やっとワディーア(Al Wadi'ah)に向かうとサブハ(Sabkha)はダンプされたゴミだらけだ。ここの地方政府は沙漠環境保護をもっと考慮すべきと思う。道路の西側に発電所がありシャルーラに向かう送電線は太くワディーアに向かう送電線の細さとの対比が印象的だ。ベドウイン(bedouin)の駱駝の家畜囲いと白いテントが道路の西側に疎らに並ぶ。ナジュラーンから379 キロでワディーア(Al Wadi'ah)に到着する。村は道路の西側にある。家ばかりで畑が無く遊牧の根拠地としての典型的なベドウイン(bedouin)の村である。村の入り口の給水所では一系列の給水ノズルが閉鎖されている。多分これがさっきの水井戸に給水車が列を成していた理由だろう。
真新しい道路が道路脇の電柱に架けられた電線と共にさらに南へと延びている。電線は10 キロ位南の新しい円形農場を持つ農家の脇で終わっているが道路は更に南に延びている。既に新しく確定したイエメンとサウジアラビアの国境の筈であるが、フェンスも検問所も無く国境警備隊も居ない。サウジ政府は2004年6月に成ってやっと7月11日に新しく確定した国境を引き渡すと発表しているのでその当時はまだその準備が整って居なかったのだろう。道路脇の砂原にマットを引いてホリデイインの用意してくれた弁当をつかいながら沙漠の旅人に思いを馳せる。
帰り道で砂丘列を数えると127 キロの距離の間に51の稜線がある。平均すると稜線の間隔は2.5 キロと云う事だ。前述の様に一つ一つの砂丘列は馬蹄形の砂丘の重なりである。卓越風向に一つの砂丘が次の砂丘に覆い被さる様に次々と連続している。それ以外の共通点は見出せなかった。私にはこの砂丘列の並んだ地形の形成には風だけでは無く砂丘列の下の地勢が影響して居る様に思える。砂丘の中腹に所々沈泥層(Silt)が見られるのは水たまりか湖沼跡の様だ。
後書き
サウジ紹介の連載6作目となる今回の空白地帯沙漠を執筆始める前にはルブア・ハーリー沙漠に関してあまり多くの資料も調査記録も持っているとは決して思って居なかった。最初の原稿を書き上げた時その量は私が考えて居たよりもずうっと多かった。おそらくルブア・ハーリー沙漠に興味を持ち始めてから関連資料を少しずつ集めて来たし、色々な機会を利用してルート調査をして来たからだと思う。
ここに書いた内容が思いがけずに多かったとしてもこの広大な空白地帯(ルブア・ハーリー沙漠)に関してはほんのささいな情報でしか無い。私の手元にはこれからも読まなければ成らない情報、書物や資料が今は結構集まっている。国営石油会社ARAMCOが国際石油会社との共同で東部州地区の空白地帯で進めているガス開発によってさらに新しい発見が出てくると期待している。
更に私自身はこの沙漠に入り込む為にはこれまで行って居ないオマーンやイエメンからもっとルート調査をする必要もあるが、いつかこの巨大な大地を完全に踏破できるキャラバンを編成してみたいと思う。少なくともハラド(Haradh)から620 キロのヒールヒール(Khirkhir)迄は空白地帯沙漠を横断したい。この空白地帯或いはルブア・ハーリーと呼ばれるこの沙漠は「過去の豊かさと未来の開発の宝庫であると共に未知との遭遇が出来る数少ない現在に残された場所である」と思う。
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