|
|
|||
|
|||
目次
1. 北東からの訪問 2.1 ウッム アル グルバンおよびギーナ(Umm al Qulban and Qin'a) 2.2 ジュッバー(Jubbah) 2.3 アル-フファイール(Al-Hufair) 2.4 アル-ムフファール(Al-Muhufar) 3.1 アル-ガイード(Al-Qa'id) 4.1 アス サバ’アン(As Saba’an) 5. 南西部
ハーイル(Hayil)はアル-ウラー (Al-'Ula)、タブーク(Tabuk)、ジャウフ(Jawf)、アル グライヤート(Al Qurayyat)等のサウジアラビア北西部へリヤドから旅する際の宿泊地なので何度も泊まった。その中で少しは長く逗留したのは1998年1月と2001年3月の二回だけだった。1990年台には1991年の第一次湾岸戦争の末期にイラク軍が放火したクウェートの大油田火災の影響と思われる雨が潤沢に降った。 最初の逗留の1998年1月はまだその名残の時期で雨の中の訪問であった。二度目の時はそれと較べると雨量はそれ程多くは無かった。 湖の様に水を湛えた多くの窪地を伴った絶妙な地形を持つハーイルの冬は華麗な絵画の様に美しい風情と成る。窪地に溜まった水はその水面に周囲の山を鏡の様に写し一方の岸辺に写る山が火成岩の山だと対岸に写る山は水成岩だ。火成岩の山が暗く赤みがかり滑らかな山肌をしたどっしりとした花崗岩の一枚岩であるのに対し水成岩の山は明るく赤みがかりゴツゴツした特徴を持つ山容で所々古色化した黒ずん砂岩が多い。灌木や樹木の緑の中に溜まった水の周りにはたくさんの赤や黄色や紫の花草が咲き誇りハーイル州知事の手厚い保護努力もあってアカシア種のタルが山々の麓や涸れ谷の中に豊かに自生している。冬のハーイルはサウジアラビアの中でも最も好きな場所の一つだった。
ハーイルは「大いなる砂」と呼ばれるナフード沙漠を取り巻く北部諸州の一つであり、英語では「Hail」、「Ha’il」、「Hayi」l等と表記され、日本語でも「ハイル」、「ハ‘イル」、「ハーイル」等と転写されている。今回、再編に当たって日本語読みを大分直しているが、一般的な読み方を出来るだけ踏襲したいと考えたからで、原文のアラビア語が変わった訳ではない。
(注)アラビア語の日本語への転写に関する現時点での私の考え方については「豊かなオアシスに恵まれた原油の宝庫(サウジアラビア王国東部州)その1東部州の紹介の緒言」および「マッカ・ムカッラマ(メッカ州)(サウジアラビア王国西部地方)その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ(1-2 古代の西アラビア)の1.3 執者のアラビア語転写について」で述べているのでご参照戴きたい。なお、今後共ご専門の方からのご指導を仰ぎながら研鑽して行きたいと考えている。
ハーイルはサウジアラビア王国13州の一つで王国北部中央に位置し、面積103,887Km2で2004年9月での人口は527,033人である。
ハーイルのおおよその概略を下図に示すが、沙漠と山岳地帯が多く複雑な地形なのでNASA提供の「ハーイル付近地形衛星写真」と合わせてご参照戴きたい。
(ここをクリックすると図が拡大します。) ハーイルについて詳しく説明したくても今の所は参考となる本が見つかって居ない。アブドル ラフマン アンサリ博士(Dr. Abdul Rahman Ansari)が組織しているダル アル ガワフィル(Dar Al Qawafil)が旅行者の為に作成した小さなパンフレットがおおまかには説明しているのでそれからの抜粋を主としてハーイルの概要を紹介する。
ハーイル(Hayil)はリヤド(Riyadh)から西北西へ600km離れた涸れ谷 アルダイーリ’(Wadi Al Dayri')西岸の緩やかに傾斜した平原の中にある。この平原はジバル アジャ(Jibal Aja)の北側でジャバル シャンマル(Jabal Shammar)の南側に広がり、両方の山塊は共に花崗岩で出来ているのでハーイルは花崗岩の山に囲まれた盆地とも言える。涸れ谷 アルダイーリ’の流れがその両側の住人が一緒になるのを妨げて居た故事からこの町はハーイルと命名された。
(ここをクリックすると図が拡大します。) 石器時代や銅石時代等の岩壁画(後続の章「岩壁画」を参照。)を伴う多くの考古遺跡や遺構からも分かる様にハーイルに人が住む様に成ったのは先史時代に遡る。山の肌にはその他に多くのタムディク(Thamudic)文字による碑文も刻まれている。ハーイルは古代からアッシリア (Assyrian)、バビロニア(Babylonian)やレバノン(Levantine)との文化交流を維持したばかりでは無く、アッシリアやバビロニアが北アラビアへ遠征する際にはこの町を経由点として居たし、ジャウフ(Jawf)、ブライダ(Buraydah)、アル ナジャフ(al Najaf )やジャルハ(Jarha)への四つの交易路の中継点的役割を担って来た。
先史時代や歴史時代前期に作られたストーンサークル(Stone Circle)はナフード(Nafud)の南部の特にジャバル シャンマル山塊の中でその殆どが見つかり、その周囲から発掘される石器類の特徴から紀元前3,000年代(B.C. 4,000 - 3,000)及び2,000年代(B.C. 3,000-2,000)早期の遺構と思われる。カイト(Kites)では尾、腕や小さな付属建物を持つ石作りの遺構が多く見つかり、モウステリアン(Mousterian)型の装飾のある刀(装飾の無い物もある。)、へらや突き錐等が付随して出土した。
ギリシャ後期の資料に記載のある集落アルクム(Arkum)はジャバル シャンマル山塊の中心に在った。ハティム アル タイ(Hatim al-Tayi Place)宮殿はタワリン(Tawarin)に建てられ、有名な古代民族の一つであったタイ族がイスラム教の普及以前にはこの地域に住んで居た事がこのタイ(Tayi)と云う名から分かる。
ファイド(Fayd)はハーイルの南東120 kmに在り、そこには先イスラム時代の市街の一部であったカラシュ城(Qasr Kharash)の廃墟が残り、有名な巡礼路もこのファイドを経由して居た。ここには水場を意味するダルブ ズバイーダ(Darb Zubaidah)と呼ばれる水汲み場が設けられそれに付属する遺構と水槽は今でもそこに残っている。
(ここをクリックすると図が拡大します。) ウ’アイリーフ(U'ayrif)とも呼ばれるガラ’アト イ’アイリーフ(Qal'at I'ayrif )は十三世紀後期にハーイル東の高い岩の上に建造された。この構造物はナバテア人(Nabataean)の建造物を偲ばせる円形の塔とテラスを伴った矩形の建造物であり、ビーダイ(Bidai)に穿たれたムガイール シュアイーブ (Mughair Shuaib)の墓に似ている。
20世紀初頭、サウジアラビア王国を築く為に貢献した「ラシードの様な著名な部族から妻を娶り婚姻関係を結びながら同盟を結び領土を拡大する。」と云う’アブド アル’アジズ('Abd al-'Aziz)の有名な政治的策略はハーイルで始まった。オスマン帝国に占領されていた東部地方の部族の支持を得て’アブド アル’アジズは1905年にアル ガシーム(al Qaseem)を占拠した。オスマン帝国のこの地方への支配が単に名目に過ぎない事が分かると’アブド アル’アジズはその支配を巡ってイブン ラシード(Ibn Rashid)と敵対した。1906年始めサウジ側の軍勢がイブン ラシードをブライダ(Buraydah)の東に在るラウダット マハンナ(Rawdat Mahanna)で奇襲し、イブン ラシードの命を奪い、ハーイルからのその脅威を取り除いた。その後、宥和の為にラシードの娘を娶りその事がこの重要な政略の始まりと成った。
「ハーイルにあった歴史的な城とは1808年にムハンマド イブン アブドルムフセーン アル アリ(Muhammad bin Abdul-Muhsin Al Ali)が建設を初め、タラール イブン アブドッラ(Talal ibn Abdullah)(1848-1868)が完成させたバルザーン城(Barzan Palace)である」と云われているが、サウジの著名な考古学者アンサリー博士(Dr. A. R. Ansary)博士の主宰するガワフィール(Dar Al Qawafil)のハーイル紹介には「イブン ラシードの居城(Ibn Rasheed Palace)はハーイルの歴史的城の一つであり、20世紀の初めに築城された。この城は柱に支えられた小屋を巡らせた広い中庭を含む大きな建物であり、円形や方形の塔を持つ高い塀で囲まれ、中に入ると幾何学模様で装飾された階段が上へと誘う。この宮殿の美しい特徴の一つは黒、赤,黄色の色彩で幾何学模様に装飾された木製の扉にある。」と述べられている。
「1979年1月にアン ブラント令夫人(Lady Anne Blunt)が夫(Wilfrid Scawen Blunt)とハーイルを訪問した際、ラシード(Ibn Rashid)が夫妻を迎い入れた城はバルザーン市場(Narzan souq)の近くにあったバルザーン城(Barzan Palace)だ」と思われる、。その後、バルザーン城は最後のラシード族首長(Al Rashid emir)が追放された1921年にイブン サウドによって撤去されている。
Barzan Palace in Hail http://ar.wikipedia.org/wiki/%D9%82%D8%B5%D8% B1_%D8%A8%D8%B1%D8%B2%D8%A7%D9%86
ハーイルは四ヶ所の門を持つ高い塀で囲まれて居たが、近代の町の拡張によってこの塀は北と北東の一部を除いて今では壊されて終っている。
1. 北東からの訪問
1998年1月にはまだ東部州のクウェイト国境にある旧中立地帯のアル カフジ(Al-Khafji)に住んでいた。アラビア石油(AOC)でのサウジ人の同僚の一人であるモハンマド カラフ アル ムザイニ氏(Mr. Mohammad Khalaf Al Muzainy)(この先はモハンマド カラフと呼ぶ。)がダフナー沙漠(Dahna desert)を抜けてハファル アル バーティン(Hafar al Batin)からハーイルに行くルートのある事を教えてくれた。モハンマド カラフはその途中の集落の名としてサムダ(Samuda)、リーナ( Linah )とトールバ(Turbah)の三つを挙げ、「これらの集落への道はほぼアスファルト舗装が終わっている」と告げた。地図で調べると三つの集落はそれぞれ奥深い沙漠の中に完全に孤立して居り、このルートに大変興味を引かれた。
(ここをクリックすると図が拡大します。) 1998年の1月末にアル カフジ(Al-Khafji)の30 km南に在るアラビア湾岸のアル ミシャブ(Al Mishab)軍港から西へと向かった。この日は雲が多く、時折、雷を伴う土砂降りに見舞われた。アル ミシャブから西へ300 km内陸にある立体交差を南へと曲がると間もなくプテイハニーア(Puteyhania)の給油所へ着いた。この立体交差はクウェイト-リヤド(Kuwait-Riyadh)道路からカリド国王軍事都市へ入る為に作られた。ハファル アル バーティン(Hafar al Batin)からは南90 kmで、この立体交差からは南35 kmに丁字路がある。そこから僅か北にプテイハニーア給油所があり、その脇の方では小さな市が出来てファ’ガ(Fa'gas)を競りで売買している。
ファ’ガは沙漠で取れるトリフ(日本では松露茸と云う。)の一種で「雨の恵み」とも云えるこの地方の特産品なのだ。天候さえ好ければ沙漠はファ’ガ狩りのサウジ女性で占められている筈で、アバヤと云う頭から足の先まですっぽりと被う黒い布を被った女達が何百人と沙漠を徘徊する姿はサウジ国内でも珍しい光景だ。女性の方がファ’ガを見つけたり採ったりするのに優れて居り、夫や近親の男達が彼女達からファ’ガを集めて道路脇で売っている。ファ’ガの競りは独特のやり方がある。先ず売り手が値を付けそれを買い手が競り上げて行き、一番高値が落札と成る。アル カフジでは縁が少し赤紫掛かった厚めの柔らかい葉を持つ西洋スミレの様な草(学名はMoltkiopsis ciliataと云う。)の群生の中で見つかる。ファ’ガはこの草の他に二種類の植物に寄生して育つと聞いている。この三種類の植物が同時に生育する場所でしかファ’ガは採れ無いらしい。
(注)詳しくは「豊かなオアシスに恵まれた原油の宝庫サウジアラビア王国東部州)その3 北部 (古代シルクロード交易路)5.1 不思議な沙漠茸ファッガ)をご参照戴きたい。 (http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/sharqiyah_3.html#Traditional%20Products)
モスクに入って行ったモハンマド カラフがお祈り終え、サラと呼ばれるお祈りの時間は閉じられる給油所が開かれるのを待つ間に、ここプテイハニーア(Puteyhania)からラフハ(Rafha)方面に新しいアスファルト舗装道路が完成しているのを確認した。 1.1 ウンム アシャル アシュ シャルギーヤ(Umm Ashar Ash Sharqiyah)
プテイハニーア(Puteyhania)の丁字路から更に西に進むと沙漠の緑は少なく成り代わりに地面に散らばる白っぽい角張った小石が増えて来た。プテイハニーアの丁字路から60 km位行った所で数件の住居と2、3の円形農場を持つ集落のある谷に降りた。この谷はアラビア盾状地の三大排水路の一つであるワディ アル バーティン(涸れ谷)の中流部で、この辺りでは連続した砂丘の東岸と低い断層崖の西岸に挟まれている。この連続した砂丘の帯はダフナー(Dahna)沙漠(北のナフード大砂漠から南の空白地帯砂漠まで1,000 kmにも渡って続く砂の回廊)から舌状に延びて来ていると思われる。
この集落には或る低木の長い長い名が付いている。その低木は比較的太い多くの枝を地表部分から4、5 m上へと直接伸ばし、木肌はワニの様な鱗があり、葉は厚くかさばり、実は野球のボール程で白っぽい緑色をしていて、そのどこかに切り口を作ると白いベタベタした乳液を浸みださせる。この低木は何の役に立たないが、疎らなタル(Talh, Acacia Gerratdii)の林の中やその近傍に群生しているのをよく見掛ける。
Umm Ashar Ash Sharqiyah村
(注)大川原博士によるとこの低木はCalotropis proceraと云う学名を持ち英語では「ソドムの林檎」と呼ばれ、日本には全く同じでは無いがガガイモ科の海岸煙草が同じ種類でなのだそうだ。モハンマド カラフは「アラビア語名はアシェル ボイェル(Asher Voyer)と云うが東部州ではウンム アシャル アシュ シャルギーヤ(Umm Ashar Ash Sharqiyah)と呼び、この村にその名が付いている。」と言う。さすがに長い名を付けるのが好きなサウジでもこの名はウンム アシャル(Umm Ashar)と短縮して使っている様だ。 1.2 サムダ(Samuda)
ウンム アシャル(Umm Ashar)から道路は北に向かい起伏が増し、道の北側には幾つかの断層崖が並び、やがて道はサムダに抜ける。モハンマド カラフは「昔はここに相当な規模の町があった。」と言うが今では廃墟ばかりの多い小さな部落でしか無い。道路はここから西北西に向きを変える。部落の外れでは鷲が群れて羊の死骸を啄んでいる。幾つかの棚状の山(Table Mountain)が本体の断層崖から独立して道路の北側に並ぶ。沙漠の緑が更に疎らに成るに連れて灌木や低木が草よりもその数を増す。その時に駱駝の群に出くわせたがそれが今朝から初めて会った群だった。この群は今朝の激しい雨の中、沙漠で耐えて居たのだろう。駱駝は焼け付く様な熱さに強い事は知って居たが雨寒にも強いのも分かった。断層崖がサムダの西100 kmで低くなりはじめ、道路がその一つに登ると地上には白っぽい基盤がたくさん露出している。 1.3 リーナ(Linah)
サムダ(Samuda)の北西150 km辺りで丘を下るとリーナが南の平原に現れる。アラビア湾と大シリア沙漠を結ぶ隊商路沿いにある幾つかの関所の一つで、オスマン帝国あるいはイブン サウード(Ibn Saud)が日干しレンガで作った小さな砦が残っている。この砦は一辺が60 m位の方形で、砦の周囲には境界のフェンスも無く誰もが自由に出入り出来る。砦の周囲には小さな村が広がり、その中にある高架式の水タンクが際だって聳えている。
そこから辿った南西に舗装の無い道はダフナー沙漠をハーイル(Hayil)まで横切り、その路面はまさに洗濯板状態である。車両がそのタイヤで路面を圧密する為、無舗装道路はどこでもこの様な凸凹の路面に成ってしまう。タイヤがガタガタと振動するのを防ぐには凹みの一つ一つを避け凸部だけを踏む様にスキップさせる必要がある。その為のスピードは時速80 km以上なので「車が転倒するのでは無いか。」と心配で冷や汗物のドライブだ。
たまたま電話線埋設工事の為に多くの掘削機が路肩に溝を掘って居た。その掘られた溝を観察すると表面の砂はそれ程厚く無く炭酸塩岩の基盤を薄く被っているだけだと分かる。沙漠には灌木や低い木が増え、草は更に疎らに成り、朝の降雨で沙漠も潤った筈なのに砂嵐に出くわせた。その先の道端にアーチ型の門を持ち石作りのダルブ ズバイーダ(Darb Zubaidah)の残骸がある。これは季節的に流れる水を貯め巡礼に供する為の水場で、その水槽は一辺が22 mで深さが4 m位の大きさがある。地図からするとダフナー沙漠の真ん中を流れるワディダルブ ズバイーダ(Darb Zubaidah)の谷を通過していたのだろう。ダフナー沙漠の重要な水場であった事がこのワディの水場を意味する名前から分かる。 1.4 鉄砲水
このリーナ(Linah)とトールバ(Turbah)の間でその朝の土砂降りによる珍しく大きな洪水に遭遇した。多くの水溜まりが散らばる広く低い盆地状の場所に出ると前に走っていた小型ピックアップが取り乱した様子で戻って来た。無舗装の道路は水の侵入に伴い見る見る冠水する。東側の丘に避難すると流れは急速に大きく量を増し、幅50 mから200 mもある大きな奔流となってゴーゴーと流れて行く。ワディ(涸れ谷)の支流を奥深く迂回しても水流に沿って水が砂を浸食し1 mから2 mの高さの段差と成り越えられない。その上に砂が大量の水を吸収して液状化し居り填り込む危険もある。
鉄砲水(Turbah南東50km)
既に2台の小型ピックアップが小さなワディの中に填って動けなく成って居た。直ぐ前を走って居たピッックアップが狭くなった場所を見つけて横断しようとワディに突進したが一瞬にして同じ様に填って動けなく成った。そのずーと上流で枝ワディを渡り切っている轍を注意深く見つけてそこを渡りその轍を辿った。
水の流れのある少し大きな枝ワディを渡った後、一面小さな角張った石が針山の様に突き出た丘を越えた。一つ一つの石は5、10 cmの高さで30、50 cm間隔で並んで居りタイヤがパンクしない様に慎重に運転している内に轍を見失ってしまった。この様な針山の様な丘を幾つか越えるとサラム(Acacia Tortilis、 Salam)が点々と並ぶワディに出た。一般的にサラム(Acacia Tortilis、Salam)は水脈に沿って間隔を置いて自生し大きな物では高さが10から15 mにも成り、その幹はタル(Acacia Gerratdii、Talh)の様に地上近くでたくさんに枝分かれする事は無い。
その谷で沙漠のトレイル(踏み跡)を見つけそれを辿る。この谷で一際大きなサラムの生えている辺りから丘に登りその丘を越えると広い谷に2張りのベドウインの天幕が張られている。そのテントの一つには老人が数匹の兎と快適そうに座っているがすでに相当耄碌している様子であった。別の天幕に設けられた布の仕切りの中から出て来た女性が無舗装の道へのガイドをしてくれた。裾の長い服を着て顔を薄い青い布で覆ったその女性のキビキビした様子が大変好もしく思われた。
間もなく、無舗装の道に戻る。そこからハーイル側へ僅かに寄った場所からはこの道はアスファルト舗装されて居た。ほんの3、4 kmの距離に一時間半も費やしてしまった。道路は小さな砂丘が波打つ平原を通過して行く。その砂丘にはナフード草とあだ名した種類の草がたくさんに自生している。1株の真ん中に高さが80から100 cmの花を付けた固い真っ直ぐな花茎の束がありその周囲を50から80 cm幅で柔らかい葉を付けた茎が取り巻いている。この砂漠にはこの草は豊富に生えるがここ以外では見掛け無い。この草はTaverniera aegyptiacaでは無いかとは思ってはいるがいまだに確信が持てないでいる。この他にも多くの草が砂丘に生えている。ここの風景はヨーロッパの牧場にいるような錯覚を持たせる程に緑豊かである。この低い砂丘の間には炭酸塩岩の白っぽい基盤があらわれている。
辺り一帯にはベドウインは遊牧の為に天幕を張っている。一つ一つの天幕群は他の天幕群と4から6 km位離れ、その間には幾つもの駱駝の群や羊の群が草をはんでいる。大きな砂丘が遙か向こうに見え始めた所でトールバに着いた。 1.5 トールバ(Turbah)
トールバはダフナー沙漠に在る数少ない村の一つであり、リーナの南西100 kmでハーイルの南東150 kmに位置している。この村の人口は1,500人位で村の北には朱色の大地が広がっている。北側と東側から村に迫る砂丘との間は村より少し小さな緑の草原に成っている。但し、沙漠の緑は疎らだから横から見ると草原でも空から見ると草が生えているのが分からず不毛の地に見える事が多い。
モハンマド カラフは「自分の娘の一人が教師としてこの村に勤務して居り、自分の兄弟にこことバガ’ア(Baq'a)の間を一度づつ毎週送り迎えして貰っている。結構、これが兄弟達の負担に成っているので娘は家族のいるアル カフジへの転勤を申請中だ。」と言う。若い女性が一人でこの様な遠隔地でしかも宗教の規制を受けながら寄宿している等想像も出来ない。村の入り口には公園があり、その公園の隣の食堂でお茶にした。深さ550 mある地下の水脈から掘り抜き井戸で自然に湧き出してくる水がこの公園の灌漑水に使われているそうだ。町外れのゴミ捨て場では数羽の鷲が残飯を啄んでいる。道はトールバから南へと続く。 1.6 アシュ シャアイバ(Ash Shuaybah)
朱色の砂丘は再び小さくなり、緩やかに起伏した平原に入って来た。雨が砂を濡らし沙漠の色を朱から黄土に変えている。ベドウインの天幕がそこここに散らばっている。道路は幾つかの小さな断層崖(Escarpment)を越えて行く。断層崖と砂丘の間の窪みが水を湛えて居り、美しい風景を作り出している。シェレヘラ(Sherehera)と云う集落の付近では細長い水溜まりが砂丘の帯に沿って横たわりその畔に群を成す20頭余りの白い駱駝とのコントラストが特に印象的で素晴らしかった。防砂林として植えられたモクマオウ(Casuarinas)に囲まれた数個の円形牧場のあるアル マイーヤ(Al-Maiyah)と云う集落を通過した後、道は西へと向かう。 1.7 バガ’ア(Baq'a)
地表は平で小石で覆われる様に成り、断層崖(Escarpment)に近づいて行くとバガ’ア(Baq'a)に入る。バガ’アはハーイルの東北東75 kmに在り、西北西から東南東へと並ぶ断層崖に挟まれて居り、サブハ(含塩平原、Sabkhat、Salt flat)が断層崖の間に発達している。南側の断層崖の上には火成岩の山々のどっしりとしたシルエットを遠景にした円形農場が並んでいる。バガ’アの東の外れには何十と云う青白い粘土の小山があり、この粘土は天然の漆喰として使われているそうだ。厚岸草から遺伝子培養した植物でツクシの様な形で海ホウズキの様に枝分かれし、菜種の様な黄緑で海水灌漑可能なサルコルニアをカフジの南170 kmの海岸際の実験農場でビハール(Bihar)が栽培していた。そのサルコルニアに似た植物をこの粘土の小山の中に見つけた。この植物はアル カフジでも見つかるのでそれ程は特殊なものでは無いのかも知れないが、海岸では無く内陸にあるとは思わなかった。
バガ’アを抜ける道路の両側は石灰岩の平らな丘で出来ている。バガ’アを過ぎると平原にはたくさんの円形農場が広がっている。道路はワディ アル ダイーリ’(Wadi Al Dayri')を渡り、南南西に向きを変える。ハーイルまで40 kmの辺りには蒸発を抑える為に水面に薄く黒い膜を浮かせたハーイル水事業の大きな四角な実験プールがある。道路の周りにタル(Acacia Gerratdii)、サラム(Acacia Tortilis)や低木(アウチェリー、Aucheri)が増え、基盤が火成岩に変わるとハーイル市内に入っている。 2. 北西部
北西部はハーイル近郊のジャバル シャンマル(Jabal Shammar)の火成岩で構成された地域である。その少し外側では火成岩の基盤は砂岩、石灰岩、チャート(燵岩)や頁岩等の堆積層で覆われている。更にその北西では漠々たる砂の海であるナフード沙漠が全てを完全に飲み込んでしまう。このナフード沙漠との境界地帯にウッム アル グルバン(Umm al Qulban)、ギーナ(Qin'a)、ジュッバー(Jubbah)、アル-フファイール(Al-Hufair)、アル ラウダ(Ar Rawdhah)、アル カッバ(Al Khabbah)、ス’アイダン(Su'aydan)、アル-ムフファール(Al-Muhufar)等の集落がある。
Al-Mushaytyah付近(Al Qa'id南5km)
2.1 ウッム アル グルバンおよびギーナ(Umm al Qulban and Qin'a)
この二つの集落は双子の様に隣り合ってハーイルの北西29kmに位置して居り、ギーナ(Qin'a)が道路に面しているのに対し、ウッム アル グルバン (Umm al Qulban)は道路から入った砂丘の中に在る。ウッム アル グルバンでは砂丘と風化した花崗岩の丘に囲まれた僅かばかりの畑でナツメヤシを栽培している。この花崗岩の丘もその殆どが朱色の砂に被われている。ギーナは砂丘からは少し離れた明るい雰囲気の集落でこの時は街角には天幕が張られ儀式用の食べ物を女性達が頭に載せてその天幕へと忙しそうに運んで居た。断食月の完了を祝うアル フィツル(Eid Al Fitr)の祭りの為のご馳走である。その傍らで子供達が爆竹を鳴らして居た。
Qin'a村
この辺りではモクマオウ(Casuarina)が風で飛ばされる砂を防ぐ為にたくさん植えられているのが目立つ。道路沿いに並木の様に植えられモクマオウが灌漑水無しでかなりの数が生き残っているのには驚かされた。更に北西へと進むと砂丘は大きくなって来る。自分で勝手に名付けたナフード草(Taverniera aegyptiacaの一種だと思われる。)が砂丘にたくさん群生している。ナフード草の一株は2から3 mの直径でその中に丈夫な垂直で三角形の花を付けた茎が束を成し、その周りを50から60 cm位の柔らかな葉を付けた茎が囲む。道路は更に大きな朱色の砂丘を抜けて北西へと延び、その中でも大きな砂丘に囲まれた大きな窪地の底には基盤が露出している。その窪地は直径が300から500 mで深さは50から80 mあり底は比較的平らで部分的に砂を被っている。この基盤を観察すると白っぽいチャート(燵岩)であり、基盤岩が火成岩から水成岩に変わったのが分かる。窪地の底には十分な数のハタブ(Hatabu)がある。ハタブはアラビア語ではオルタア(Ortaa)、英語ではJaubertia aucheriと呼ばれる低木の根である。この根は火持ちが良く、天然の炭と呼ばれている。モハンマド カラフは「この根は市場で売れ、小さなピックアップ一台分で4,000リアルもする。又、この低木の葉は子供の腫れ物の治療や消化剤として使われる。」と言う。 2.2 ジュッバー(Jubbah)
道路は途中で西へと向きを変えるが、ギーナ(Qun'a)から67 km西北西へと進むと砂丘の彼方にジュッバー(Jubbah)が現れる。この辺りがアル ルード(Al Rood)と云う集落でジュッバーの東20 km位の場所である。
Qin'aとJubbahの間の砂丘窪地
アル ルードからジュッバーに掛けて岩山が幾つか直線に並んで居り、その両側の1 kmから2 kmは砂の被りが無く、幅の狭い長い盆地の様に成って居り、その土壌は周囲の朱色の砂とは異なり白っぽい黄土色をしている。この中を真っ直ぐ延びた道路に沿ってナツメヤシの畑や円形農場が幾つか並んでいる。
Jubbah入口のAl-Road村付近
ジュッバーの町に入るとここでも各街角にアル フィツル(Eid Al Fitr)の祭りを祝う宴席用の天幕が張られ、宴会場共々祭りの用意に余念が無い。子供はここでも爆竹を鳴らしている。子供達は平服を着てはいるもののそれなりに精一杯着飾っているのが分かる。道路はジュッバーの町中から南へと向きを変え、町を抜けると一連の岩山の麓に辿り着いた。道路はここで丁字路に分かれ、どちらの方向に行っても直ぐに砂で被われてしまう。この岩山の山塊は全て遺跡保護の為に境界フェンスで囲まれている。これがカフジ(Khafji)の朋輩の太田さん達が訪れたと云う岩壁画の場所だ。
中に入りたかったけれど門を開けてくれる門番は全く見当たらなかった。フェンスの端まで行くとフェンスは断崖としっかりとつなげられて居た。この山塊は南南西から北北東へと延び、ナフード沙漠の偉大な砂の海に消えて行く。アル ウラー(Al-'Ulla)でたくさんの塔の形をした砂岩を見て居たので「この山塊が砂岩で出来ている。」との確信を持てた。岩面の一部はガラス質の黒い板状に変わっている。前からこの様な岩面は「変成岩の様に太陽光によって変化した変節岩の一種だ。」と思っていたがその後この変化は古色化(patination)によって起きる事を知った。
岩面の一部はガラス質の黒い板状に変わっている。前からこの様な岩面は「変成岩の様に太陽光によって変化した変節岩の一種だ。」と思っていたがその後この変化は古色化(patination)によって起きる事を知った。古代の人達が岩壁画を好んで砂岩の表面に描いた理由はこの古色化現象を利用する為である。古代人は柔らかい砂岩の表面に描いた絵の方が硬い花崗岩の表面に描いた絵よりも古色化によって浸食や風化に耐え保存される事を知って居た。
ここでも砂漠に車で乗り入れようと試みたが砂丘表面に付いているたくさんの起伏による縦揺れ、横揺れの為に難しかった。この時にはまだ車で砂丘を乗り切れる程の運転技術は持って居なかった。タイヤの空気を抜き、車輪が砂に取られない程早く走り、傾斜を利用する等が砂丘を走る時には大きな助けと成る様な技術を知りそれを身に付けるにはもっと実践と経験が必要であった。 2.3 アル-フファイール(Al-Hufair)
ギーナ(Qin'a)の南東5 kmから南に下る道路が分かれる。この道路は南西に向きを変え花崗岩の山々に囲まれた平原を抜けて行く。それらの山々の麓にはタルが疎らな林と成って自生する。道路は峠を抜けて花崗岩の山と砂丘に挟まれた盆地へと入る。砂丘の向こうには別の山が頭を出し、緑の草木がタルの疎林と共にこの盆地を被っている。この盆地の真ん中に窪地がありそこに雨水が小さな湖の様に溜まっている。折から太陽が雲間から顔を出し、辺り一帯に光を投げ掛ける。実に美しい景色だと思う。
砂丘の高さは100 m以上もあり、道路はそのナフード沙漠の砂丘をジグザグに登って行き、大きく砂丘を下って分岐から西南西37 kmの位置にある別の窪地に入る。この窪地の南は花崗岩の山で塞がれ、他の三方は大きな朱色の砂丘に囲まれている。モクマオウの列が朱色の大地に見事な緑の帯を描き、明るい太陽の光に建物の白さが一段と映える。このかわいらしい村がアル フファイールであり、道はここま出で行き止まりと成る。この道路以外にこの村へ出入りする道は無く、「昔は隠れ里の様な存在だったのだ。」と思われる。
2.4 アル-ムフファール(Al-Muhufar)
ハーイル(Hayil)から西に向かいアルマディナー(Al-Madinah)とアル ウラー(Al 'Ullah)の分岐をアル ウラー方面へと向かう。道はタルの広い疎林の中を緩やかに登って行く。タルが更に疎らに成り、背が低くなると峠の切り通しも間近い。ワディ(涸れ谷)の源頭付近では花崗岩の絶壁と花崗岩の大石、タルと青い空が組合わさり、箱庭の様な景観を作り出している。
Jibar AjaのHayilからAl 'Ullah方面への峠
峠を越えた下り坂の途中から幅の狭い道がサハ(ムカタリフ)(Saha、Mukhtalif)へと南に向かって別れる。道路が少し北に向きを変えると広い景観が目の前に広がり、淡い緑がジバル アジャ(Jibal Aja)の山麓から朱色の砂地を北へと張り出している。アル ラウダ(Ar Rawdhah)やマウガグ(Mawqaq)等の村落が遠くに深い緑の帯を引き、その後に暗い山影が果てしない砂の海を背景として並ぶ。ハーイルから84 kmでデュライハン(Dulayhan)に着く。
Al-Muhufar北の砂丘
古いアーチを設けられたこの部落の東の入り口からアスファルト舗装の道が北に向かっているがその舗装は直ぐに途切れて農道に成ってしまう。もう一本北に向かう道がデュライハンの西側入り口にあるのが分かり、その道に入った。暫く北上したアル カッバ(Al-Khabbah)と云う部落の辺りで岩丘を調べると風化した花崗岩である。この丘の周囲の砂は4駆動車で走るには十分に締まっている。ス’アイダン(Su'aydan)はデュライハンの北17 kmにある小さな部落で周囲のモクマオウ(Casuarinas)の緑が特に引き立って見え、その奥の大きな砂の海(Nafud)の中に黒っぽい朱色の丘が互い離れて並ぶ。この辺り地面は小石で覆われ車で走るには十分に硬いが、植生は疎らである。
その部落のから少し行った道路の東側には廃屋が打ち捨てられて居り、そこから道路は北西に向かい、砂丘地帯に入る。道路脇の岩丘の石を調べるとここも風化した花崗岩である。南北に並ぶ花崗岩の岩山の峠を越えると砂丘も比較的平に成る。小さな砂丘を越えると目の前に平原が広がり、朱色が少なくなる。西側に幾つか山が聳え暗い山影を平原に落とし、北の彼方では数基の岩山がその頭を砂丘の上に出す。アスファルト舗装道路はデュライハンから北北西に60 kmナフード沙漠に入ったここで終わる。
道路脇にある4、5のナツメヤシの小さな農場の脇を抜け未舗装の道を西へと岩山に近づき土壌を観察すると平原の基盤は黄土色の砂岩である。西の岩山も風化浸食された砂岩の典型的な形をしている。北西には円形農場が幾つかあり、十数軒の農家が並ぶ。地図には記載が無いがアル-ムフファール(Al-Muhufar)と云う部落だ。農場の間を北西に向かう。ナフドに入る手前の低い砂利の丘の麓でお茶用の天幕に居た若者にナフドを抜けるトレイルを尋ねる。「この辺りからナフドに入るトレイルは全く無い。」と言う。砂丘を登って見るがタイヤが無駄に空回りするだけであった。やはり、空気圧を低くしないと駄目なのだろう。帰りにその若者はお茶を飲んで行く様に勧めてくれたがデュライハンまで日の有る内に戻りたいので丁重にお断りする。帰途アル-ムフファールの直ぐ南に給油所があるのを見つける。アル-ムフファールの住人だけの給油所とも思えないがこんなところで誰がガソリンを買うのだろう。道路脇の沙漠の中に数家族が停車して何か探している。多分、ファ’ガ採りなのか。夕日を受けながら往路で越えて来た南北に並ぶ花崗岩の岩山を横切り、ジバル アジャ(Jibal Aja)の暗い山影に向けて戻って行った。 3. 北部
後続の「地殻変動」の章に説明してある様にハーイル北部の地形はとても複雑である。ここは火成岩と水成岩の明確な境界地帯で、言い方をかえるとアラビア盾状地とナフド堆積盆の境界である。以前は「ジバル アジャ(Jibal Aja)は明らかに火成岩の山塊であるがジャバル シャンマル(Jabal Shammar)についてはナフド堆積盆南部の断層崖を含む水成岩の山々の一般的な呼び方だ。」と思って居た。しかしながらこれまでの旅行記を丹念に読み返しそれぞれの場所で記録した土壌から「ジャバル シャンマルとはハーイルの西部、北部および東部の近傍を帯のような範囲で点在する火成岩の山々に付けられた呼称だ。」との確信を持てた。ジャバル シャンマルの山々はその麓を朱色の砂が厚く被うので実際には連続した山塊であるのに互いに離れ独立している様に見えるのだろう。このジャバル シャンマルの更に北の外れを幾つもの砂岩の山々や水成岩の断層崖が囲み込んでいる。しかしながらこの砂岩の山々(Sand rock hills)や水成岩の断層崖(Sedimentary escarpments)には山塊としての名前は付けられて居ない。砂岩の山は集団毎に一列に並んでいるがその方向には法則性が無くマチマチであるのに対し断層崖は法則でもある様に西北西から東南東の方向に並んでいる。
「ダフナー沙漠はナフード(砂の海沙漠)とルブアルハーリー(空白地帯沙漠)の間を結ぶ1,000kmにも及ぶ砂の回廊であり、卓越風によってナフドからルブアルハーリーまで砂が運ばれている。」と言う。この説は確かに正しいけれど断層崖の向きも「砂の流れを左右するもう一つの重要な要素だ。」と思う。断層崖はアラビア盾状地の境界に平行に並び、断層崖がアラビア盾状地外縁を成す内陸変移帯の上に位置する為、その向きは北から南に下るに連れてその境界沿いに東南東、南東、南、南西、西南西と変化する。砂の流れも同じ様に変化するらしく砂丘も断崖と平行に北から南に下るに連れて東南東、南東、南、南西、西南西と向きを僅かながら変えながら並んでいる。 3.1 アル-ガイード(Al-Qa'id)
アル ガイードの特徴ある三角形の山容は遙か遠くからでも分かる。この集落はハーイルの北35 kmにあり、農水省の実験農場が設けられている。この実験農場では二十数年前に台湾政府との共同研究が行われ、その成果を引き継いでいる。ここには沙漠気候に適した植物の種を分けて貰いに立ち寄った事がある。
ハーイルの州政府はこの三角山とその周辺を緑地化し公園として一般に開放している。この公園は良く手入れされているのに羊の群が入り込んでいる。山頂を見上げると三つの頭が下を除いている。驚いた事にはその頭は三頭のひつじであった。羊がアイベックスやレイヨウの仲間である事は知っては居たが羊がこんな急峻な壁を登り降りするとは想像もして居なかった。山の高さは80 m - 100 m位ある。飼い慣らされた家畜との印象とは全く異なっている。羊がここを登ったのは「草を食む為では無く、単に好奇心だ。」とすれば羊もその程度には知能があると云う事だ。
Al-Qa'id山
アル ガイードの麓の交差点では道路工事中であり、朱色の砂の下からハッキリと白い泥灰土層(White Marl)の基盤が見えて居り、ブルドーザーが更に深くその基盤をはぎ取っている。ここはジバル アジャからそれ程遠く無いのに基盤層は完全に水成岩である。
3.2 アル フッタ(Al Kottah)
アル ガイードの北10kmには朱色の砂で麓を覆われた岩丘が東西に長く並んでいる。その丘を越えてその丘と更に北側に並ぶ砂丘の帯との間の細長い盆地へと入った。この盆地の西端は幅が1 km足らずであるが東に行くに連れ広がり、10km程離れた盆地の東端ではその幅は2、4 km程になる。そこからは漠々たる平原が開けている。
盆地の入り口から道路を西に曲がると老人が小さなピックアップ(小型トラック)にテントを積む込みで居た。その老人に地図に記載されているアダーファ(Adhfa)と云う部落を経由してジョウフ(Jawf)に向かうトレイル(Trail)について尋ねると老人は「長い事、そのトレイルに入った車は無い。」と言う。
Al-Khottah村
老人は更に「砂には硬いのと柔らかいのがあり、この辺りの砂はとても柔らかい。駱駝で沙漠を越えた昔からここの人達がナフドを越えるのは雨が降って砂が固まった時だけだ。」と言う。又、老人は「ナフードは大変危険なので単独で入ってはいけない。」と助言してくれた。
この番地の西端にあるアト タウアル(At Tawual)と云う部落に着く。ここでは盆地の幅は1 km程だがナツメヤシの畑が多いので東端部よりも緑が多い様に見える。スプリンクラーで散水灌漑している農地が幾つかある。卓越風の方向(西北西)から大きな砂丘が部落に迫って居り、砂がこの部落を被って居ないのが不思議に思える。大きな三角形の山を始点に東へと並ぶ岩丘の列が局地的に風向きを変え、砂がこの部落には余り飛んで来ないのだろう。この三角形の山はこの部落の西側にあり、そこから始まる大きな岩丘の列はこの部落を南側から囲んでいる。
ナフードへ入るトレイルを盆地の北側に迫る砂丘の帯の麓に沿って更に探したが見当たらなかった。やっとこの部落の入り口付近から北に向かう轍をどうにか見分けた。その位置は地図に記載されているトレイルと一致して居たので、北側からこの部落へと迫る大きな砂丘を登り始めた。我々の4駆は砂に取られて空転するばかりで、その上、砂丘の表面は穏やかな斜面では無く、たくさんの凹凸があり、これも運転の障害で登坂出来ない。このトレイルは既に廃棄されているのだとここからナフードに入るのは諦めた。砂丘を下るのはそんな運転技量の我々にもさほど難しくは無く、間もなくアスファルト舗装の道路へ戻った。
ツカイム(Tukhaim)酪農場はアル フッタ(Al Khottah)の入り口から少し東に入った所にある。ここでは牧草を円形農場で栽培し、2,000頭の乳牛を飼育している。アル カルジ(Al-Kharj)にあるアル マライ(Al Marai)やアル サフィ(Al Safi)等とは較べられる規模では無いにせよ、十分に大きな酪農場である。この農場には食用ハトを肥育する付属施設もある。
Tukhaim酪農牧場
Tukhaim酪農牧場牛舎内
酪農場を後にして東に向かうとアル フッタの盆地には多くの円形農場があり、その殆どが防風の為にユーカリ(eucalyptuses)やモクマオウ(casuarinas)で囲まれて居る。それらの防風林が20 mの高さに迄成っている事からもここの農地の古さが分かる。
西側の盆地入り口から東30 kmでアスファルト舗装が途切れたがこの農地は更に東へと広がりガシームとハーイルの間に広がる大農業地帯の一部と成っている。この大農業地帯にはハーイル農業開発会社(HADCO)やカシム農業会社等の大農場がある。HADCOはハーイル・カシム道路に沿って35 kmに渡って10から30 km幅の農地を持っている。サウジ国内で一番大きな農場で無いにせよ大土地所有者であり、典型的な大規模農場である。36,000頭の牛をはじめ羊や鶏を飼育し、加工肉、野菜、飼料を生産し、冷凍工場、70基のグリーンハウス、養鶏場、酪農製品工場、牛肉バーガー工場、薫製工場や10,000トン冷蔵庫等を所有する。その資本は25億円にも成るが当時は「財政的な問題で経営が難しく成って来た。」と言われて居た。
無舗装の道を南に下る内に大きな農場に入り込んでしまった。農場は果てしなく続くが出口を尋ねるにも人影は全く無い。農場に設けられた鉄条網のフェンスや土手が道に戻るのを更に難しくしている。それでもどうにか南北に走るアスファルト舗装の道に出られた。先程舗装が切れた位置から道の無い平原を南に20 km程下った場所だ。このアスファルト舗装の道は南へと延びハーイル・バガ’ア(Hayil - Baq'a)道路までつながっている。
ハーイル・バガ’ア道路をハーイル方向に13 km 戻るとワディが道路と平行に並ぶ。道路標識にはワディ アル フンマイーマ(Wadi Al Hummaimah)と書かれているが地図上の位置から明らかにワディ アル ダイーリ’(Wadi Al Dayri')の本流だ。この浅く広いワディ(涸れ谷)の対岸には大きな丘が盛り上がっている。土壌を調べにその丘に近づくと犬が二匹巣から出て来て、「近づくな。」と警告する様に吠える。更にその丘は石切場の様であり鉄条網で周りを囲まれているので登るのを諦め、足元の石を拾う。これら全て水成岩起源の石だ。
その場でモハンマド カラフが夕暮れのお祈りをするので小休止する。夕べの一番星と共に細い三日月が漠々とした平原の夕闇に淡い光を投げ夕日の光が僅かに残る空には水面に墨でも流したかの様に幾筋かの細い雲の筋が浮かぶ。平原の奥には屏風の様に岩丘の塊がその黒い影を落とし、その中から幾つかのピラミダルな岩山がその高さを競う様に聳えている。ワディの河原には細長い提灯草が群れている。
この棘のある灌木は英語名をAstragalus fasciculifoliusと云い、その実は細長いピーマンを小さくした形をしてその皮は薄く半透明で赤っぽいピンクか白い。この花の様な柔らかい風船がその中の種を厳しい自然から保護するちっぽけなグリーンハウス(温室)である。この棘のある灌木は通常は火成岩地帯のワディ(涸れ谷)で見つかるのがここに(水成岩地帯)群生しているのは「このワディの上流が火成岩地帯だからだ。」と思う。日本語名が分からないので私はこの灌木を提灯草と呼んでいる。その河原の暗闇にコーランの祈り声が静かに響き渡る。ハーイルまではあと52 kmだ。 4. 南東部
南東部はアラビア盾状地の北東端に成り、最北部を除き火成岩地帯であり、全体的には降雨にしか頼れない水資源の乏しい地域である。しかしながら最北部はアラビア盾状地を東から囲い込んでいる中央均一傾斜帯(Interior Homo-cline)の上に位置し豊富な地層水のある巨大なハーイル・カシム(Hayil - Qassim)農村地帯の一部と成っている。
As Saba’an村を北から望む 4.1 アス サバ’アン(As Saba’an)
ハーイル・カシーム道路のハーイルから東へ28 kmの所から道が南へと分岐して居り、上空につがいの鷹がゆっくりと旋回していた。平原はその殆どを英語名ではクロタラリア(Crotalaria aegyptiaca)と言う東北部ではごく一般的な灌木で被われ、それ以外には上へと延びる枝を持つ少し高い低木がそこここに疎らに見られ、場所によっては2 m以上にも生長している。モハンマド カラフはオウチェリー(aucheris)だと言う。他の種類も混じっているとは思うが、花を付けて無いと違いを見分けるのは難しい。候補としては二、三(Taverniera glabra, Lycium shawii, Jaubertia aucheri等)が考えられる。「これらの根はハタブ(Hatabu)と呼ばれる薪と成り、又、根は薬草として使われる。」と言う。灌木と区別する為に低木(aucheris)と総称する事にした。
As Saba’an村
二股を通り越してハーイルカシム街道から南38 kmに在るアス サバ’アンに着いた。お互いに接近しているが独立した高く屹立した岩山に囲まれた平原の中の道路から少し西へ寄った位置にこの部落はある。部落の付近にはモクマオウ(Casuarinas)を防風林としたナツメヤシの畑が疎らに散らばる。部落には人影はあるがナツメヤシの畑は既に荒廃し、殆どのナツメヤシが立ち枯れ状態だ。大きく老いたタマリスク(Tamarix、Tamaricaeae)だけが残った畑跡がこの部落の古さを物語っている。この部落は二つに別れ、道路に近い日干し煉瓦で作られた方は殆ど廃墟状態で、奥の方はかなり新しくコンクリートブロックで作られてはいるものの、住民は居なく成りつつある様に思える。何故か部落の周りには低木(aucheris)がたくさん生えている。
As Saba’anの東の沙漠
部落の奥へと延びる土埃の道をさらの10 km南に下ると高い花崗岩の岩峯に囲まれた小さな盆地に入り、行き止まりと成った。その中にダブカイン(Dhabkhain)と云う名の小さな集落がある。この様な人を寄せ付けない不毛の地に今でも人の営みがあるのに深い感銘を受けた。この盆地の入り口にある尖塔の様に聳える岩峯の麓を洗う小さなワディでタル(Acacia Gerratdii)の幼木を見つけ、標本に持ち帰ろうと根ごと引き抜こうとした。その直根は驚くほど深く伸び、ついに根を掘り抜くのを諦めその根を切り取った。
タルの実は細長い刀の形をした鞘状で幅4-5 mmで長さが7-8 cm程ある。多くのさやが実を熟させ、はじけ、どのタルの根元も種が散らばっていた。その色は緑がかった黄土色で平らな紡錘形をしている。アス サバ’アンへの帰路にその種を採集し、後に沙漠緑化の為にカフジで発芽させ育苗した。 4.2 タバ(Tabah)
アス サバ’アンから東に向かうと狭い谷間に入る。その谷間を過ぎると目の前に平原が広がる。タル(Acacia Gerratdii)の木、クロタラリア(Crotalaria aegyptiaca)等の灌木やオウチェリー(aucheris)等の低木がこの平原にも生えている。アス サバ’アンから20 km東で丁字路にぶつかる。この丁字路を南へ曲がり、ほんの少しで西に再び脇道を曲がり低い丘を登る。この丘を越えると直径 1.5 km程の盆地を見下ろす。
As Saba’anからTabahへの途中
水の流れた跡に沿ってこの盆地へ下るとその真ん中に立ち枯れ状態に近いナツメヤシに囲まれた部落がある。
盆地の周囲は崖か比較的険しい坂で、そこには水の流れた跡が幾筋もついている。丘の中腹に割れ目があり、モハマッド カラフは「最近この割れ目を政府が地質の専門家を訪問して調べた。」と言う。この地形に興味が湧き入って来た。入って来た方向とは反対側の崖の土壌試料を採集した。最初は「この堆積物の崖は水生岩質の土砂と思った。」が、間もなくこれらは繰り返し積み重なった熔岩と軽石の混じった火山灰の互層と分かった。
Tabahの火口丘崖断面
と云う事はこの盆地は火口ではないか。周囲の地形を見ようとその崖を登ると黒ずんだ平原が遠くの濃い山影まで延び、黒っぽい地面からは草が疎らに生えている。その濃い山影の上には真っ青な空に太陽がギラギラ輝いている。濃い山影の中腹には幾つかの厚く垂直な熔岩柱がその特徴的な姿を顕わしている。この熔岩はマグマの力で垂直に隆起したもので、これらの山々も死火山である。この盆地の様々な状況から「これは典型的な噴火口である。」との結論を出した。
Tabahの火口丘
再び、道路に戻る為にこの火口に降りるとこの朽ちた部落も家畜の肥育に今でも使われている事が分かった。何匹化の牧羊犬が徘徊したり、寝たりしている。牧羊犬は見知らぬ人間には獰猛で危険でさえある。本道に戻って南に向かうとすぐにタバ(Tabah)の立て替えられた新しい部落を抜ける。この部落も伝統ある地方色を捨てたコンクリートブロックで建設されて味気無い。 4.3 スマイーラ(Sumairah)
更に南下すると道路の両側に黒ずんだ火口丘と思われる丘がたくさん横たわり、その幾つかは部分的に内部の火口壁を見せている。遠くに眺める火山が険しく聳えているのにこの黒ずんだ平原に横たわる火口丘は穏やかな傾斜をしている。
モクマオウの替わりに土盛りで囲まれた小さなナツメヤシの畑が平原のあちらこちらに散らばる。西側には岩丘の山塊が迫るが、東側は遠い山影を背に平原が広く開けている。タバ(Tabah)から32 km南下した辺りで道路は大きく迂回して居り、東側は広く開けた平原が続く。ウガラト イブン ダニ(Uqlat ibn Dani)と云う部落でここから枝道がアル-ウザイム(Al-Uzaym)へと東に丁字路で分岐している。平原には小石が散らばり、タルや低木が疎らに生えている。
更に33km南下するとスマイーラ(Sumairah)と云う密に並木の並ぶ古い村に着く。この辺りで唯一のスーク(市場)があり、小さいが賑わっている。朝食用のホブツ(アラビア風の平に焼いたパン、平餅)を買い求めてパン屋を探す。このパンは焼きたてのアツアツが特に美味しい。日用品を売っている一角にパン屋を見つけた。ここで売っている日用品は殆どがブリキ製か、エナメル製であり、軽く安い物を求める傾向が分かる。メッキやエナメルは装飾的では無いが動物の背に載せて運ぶには向いている。その事から今は農業で生活しては居いてもこの土地の人達が放牧民の出身なのを思わせる。道路はここから南東に向きを変え、110 km程でマディナー・カシーム(Madinah - Qaseem)街道に出る。 5. 南西部
この地方はジバル アジャ(Jibal Aja)とその南の地域を含む北部アラビア盾状地に位置し、土地は完全に火成岩起源だ。ジバル アジャは巨大な腕の筋肉の様にどっしり盛り上がった花崗岩の山塊でその山肌は滑らかではあるが曲がりくねり、黒ずむか朱色をしている。その麓にはタル(Talhs、Acacia Gerratdii)が密の生え、たくさんの森に成っている。多くの渓谷がジバル アジャ(Jibal Aja)に切り込みを入れている。これらの渓谷は一般的に中流は狭いが、山稜下の源頭部は広く平で農民がたくさんのナツメヤシを植えて畑にしている。
Jibal Ajaの山中
渓谷が下流に向かって狭くなるに連れて伏流水が現れ、渓流と成って流れている。雨量が豊富だと流れは奔流を作って、麓までの急流を作り出す。雨量が少ないと流れは多くの場所で砂や石で隠されてしまう。渓谷には草が豊かに茂り、傾斜が立っているのに駱駝や羊の放牧場と成っている。
Jibal AjaのSahari
ハーイル(Hayil)からギーナ(Qin'a)の間の道路から幾つかのトレイルが渓谷へ入り込んでいる。その様な渓谷の一つが昔は隠れ里だったウガダー(Uqdah)で、この部落の入り口はやっと駱駝が一頭すり抜けられる程の花崗岩の狭い切り通しである。「昔は見張りが隠れてこの切り通しを監視し、侵入者を見つけると岩で塞いで居た。」と言う。土被りの道がこの狭い涸れ谷(Wadi)の上流へと延び、その両側の狭い河床にはナツメヤシや野菜を植える小さな畑が幾つも作られている。大きな崖の下にこの地方の伝統を残す古風なお茶屋があり、家具、用具、農具等が壁に展示されている。
Uqdahの隠れ里入口
この様な飲食店はハーイルの中心にも「おばさん達の食堂」と言う店がある。展示物の多くは鉄製、頑丈な木製、革製であり、羊一頭を入れる大鍋やそれを盛る大皿はその重さを減らす為にかなり昔から鉄に代わってアルミニュームが素材に使われた様だ。別の大きな涸れ谷(Wadi)の中の大きな花崗岩の山に囲まれた小さな盆地には幾つもの休憩所や遊び場が設けられ特に夜になるとたくさんの人達が夏の夕べを楽しみに集まって来る。ここでは伝統とアミューズメントパークを合体させている。
最初にハーイルに滞在した1998年に奔流の流れる涸れ谷を遡上した。車の通れるトレイルがかろうじて河床に設けられていた。狭い所では山側に切り込みを入れ、流れの側は幾つかの石をセメントで固定し両輪を支えるので車は横転が心配に成るほど傾いた。渓谷の中流の河原では流れは伏流に成るが河床が岩に成っている場所では顔を出して居た。渓谷は切り立った崖に挟まれ自然に自生しているナツメヤシの茂みが流れの際に見られた。源頭に近づくと涸れ谷は広くなり、密に植えられているナツメヤシの畑を抜けて山稜に出た。山稜の上は平原状に成って居り、黒ずんだ小石に覆われ植生は殆ど無い。十数キロその上を走るとこの高原に校舎が建っているのを見つけた。その校舎の白い壁が周りの黒ずんだ風景に印象的だ。この学校はベドウインの放牧地の為に設けられて居り、生徒は近くの渓谷から集まり、先生はハーイルから毎日通って来るそうだ。風の強い日は大変だろう。その校舎の裏側の広い谷を下り始めと大きな山稜に挟まれた涸れ谷の河床にはタルがたくさん生えているのが見える。
そこを下り、暫く涸れ谷を走りハーイルからアル マディナー・アル ウラー(Al Madinah/Al Ul'a)方面への道路に出て来た。二度目に滞在した2001年3月にはこの道を西北西へと進み、間も無くでガスル アル-アシュロワト(Qasr Al-Ashrowat)に着いた。
廃墟となった城(Qasr)が土造りの民家の裏に残り、羊の群の中から現れた主人が「この城はイマム サウード(Muhammad ibn Saud)( 1744-1765)と関係があり、リヤド近郊にあるディル’イヤー遺跡と同じ頃に作られた。」と言うのでこの城は18世紀の前半に造られた事に成る。
Qasr Al-Ashrowat付近 5.1 アル ホウワイディ(Al Houwaidi)
ハーイルから西南西37 kmにあるアル マディナー方面とアル ウラー方面に分かれる立体交差をアル マディナー方面に南へと向かうとたくさんの駱駝が草を食べている。何故か駱駝は夜になると道路に出てくるのが好きだし、駱駝が道路と平行に歩くと運転手は余程接近しなければ認識出来ない。前を行く小さなピックアップがこの辺りで駱駝と衝突し、その駱駝が倒れかかる脇を辛うじてすり抜けた事を思い出した。それは1998年に最初にハーイルに滞在した間の或る夜で「沙漠の夜間運転が如何に危険か。」について深く肝に銘じさせられた出来事だった。
夜間であった為にこの辺りは漠然と山沙漠だと思って居たが、昼間に通過して眺めると実際には風化した花崗岩の丘の散らばる平原である。疎らに育つタルに囲まれた給油所とそれに隣接してナツメヤシ畑を持つ幾つかの人家がこの給油所を囲み小さな部落に成っている。昨夜の雨で沙塵が洗い流されているので暗い花崗岩の山を遠く背にした湿気を含んだ朱色の大地に緑が鮮やかで、明るい青空には白雲が輝く。この平原には前述した火成岩起源のワディ土壌の典型的な灌木の一つである棘のある提灯草(Astragalus fasciculifolius)がたくさん自生している。その実は或る株では白く、或る株では白っぽいピンクの色をしている。
提灯草
5.2 ガッザラ(Ghazzalah)
立体交差からハーイル・アル マディナー道路を55 km西南西に行った所で枝道が東へと延びて居り、その丁字路を通り越して更に8 km南行くと「素晴らしい女性」を意味するガッザラ(Ghazzalah)と云う村に着く。この村も道路から少し東に入っている。ここもアル ホウワイディ(Al Houwaidi)と同じ様に美しい村でその背後にたくさんのナツメヤシの畑が広がる。昨夜に降った雨で村の中には水たまりがたくさん出来ていた。 5.3 アル ムスタジダ(Al Mustajidah)
8 kmばかり本道を北に戻り、丁字路を東への枝道に入ると奇妙にもタル(Acacia Gerratdii)の生えて無い平原には二羽の鷹が空に舞っている。13kmばかり東に行くと更に別の枝道がムスタジダ(Mustajidah)へと花崗岩の山間を南に向かっている。枝道を南下するとタルが疎らに生え始める。再び黒ずんだ花崗岩山々を背景に湿った朱色の平原の緑が鮮やかで明るく青い空に輝く白い雲と好ましい対称と成りとても印象的だ。分岐から15 km位南の道路の西側に比較的大きなダムが横たわっている。開口部と堰堤部を合わせ、その長さは700 m位でその高さは10-15 mと思われる。ダムの内側には全く水が貯まって無いが、不思議な事にナツメヤシ畑を持つ農家が何軒か在り、乾いたダムの湖底が農地として利用されているのが分かる。でも、鉄砲水等が起きたらどうするのだろう。ダムの南にはもっと大きなナツメヤシ畑を持つ農家が何軒か並び、これがリ’アル バクル(Ri' Al Bakr)と云う部落だ。
Al-Mustajidh手前のダム
そこから小さな峠を越えると、タマリスク(Tamarix、Tamaricaeae)やモクマオウ(Casuarina)に囲まれた長方形の土地がたくさん並んでいる。これは古いナツメヤシの農地の様だが、長い間打ち捨てられた儘で既に不毛の裸地に戻ってしまっている。アル ムスタジダ(Al Mustajidah)は分岐から26 km南に位置し、道路はこの部落を一周すると行き止まりだ。この部落の家の半分は日干し煉瓦で崩れ掛けその農地は既に消滅してしまっている。ここの住人は政府の低所得者扶助でわずかに生計をつないでいる様だ。この時の運転手で、アラビア石油の仲間であったラマダンは「この部落は住民が殆ど黒人である為に長い間政府から打ち捨てられて来たのだ。」と言う。
Al-Mustajidh付近
この感覚は先祖が奴隷制度でアラビアに連れて来られたアフリカ黒人の劣等感の一種なのかも知れない。ラマダンもエリトリア出身のアフリカ黒人だ。「サウジアラビアでは奴隷制度が長く続き、奴隷解放はかなり最近である事から、不幸にしてそうなのだろう。」と思いながら同じ道路を26 km北へと引き返した。 5.4 マウガグ(Mawqaq)
分岐まで戻ると二頭の乗馬用の馬が放牧されて草を食べているがこんな不毛の土地に乗馬がいる等思いも寄らなかった。そこから東に向かうと山間に入り、岩丘の間に敷かれた帯の様な長い谷を抜けると26km程でマウガグ(Mawqaq)に着く、ハーイルアル マディナー道路から39 km東に位置する。この村に入ろうとしたが余りにも道路バンプ(Bump)が多いのでこの村と平行にその北側を通る道路に戻った。道路に堂々としたナツメヤシが並木として植えられた正面入り口らしい所から村に入り、ホブツ(Arabian bread)を焼くパン屋を探しにスーク(market)へ行く。スークは比較的混雑して居り、ここもやはり「この辺り一帯の供給基地なのだ。」と見受けられる。この村の周辺にもナツメヤシの畑が多い。幾筋かのモクマオウの林が村の更に南側に並んでいる。
この村から道は北上し、周囲の景観は次第に次第に平に開け、やがてハーイル・カシムの間の漠々として平原へと合わさる。マウガグからおおよそ30 kmの場所では二十数羽の鷲が空に舞っている。羊の死骸でも見つけたのだろう。道路の東側にSCECO(サウジ電力公社)の広大な貯蔵場が広がるとやがてハーイルカシム道路に出た。この丁字路はハーイルの直ぐ東でマウガグの北85 kmに位置する。この丁字路にある食堂に入り、サラダと茹でた子駱駝(Hasshi)の肉をたべると岩沙漠を抜けるドライブのせいかこの簡単な食事がとても美味しく感じた。 6. 岩壁画
ジュッバー(Jubbah)、ミライヒア山(Milayhia mountain)、ヤティブ(Yatib)やジャンナイン(Jannain)等の碑文や岩壁画を伴った先史時代や古代の遺跡がある事でもハーイルは知られている。岩壁画には野生の猫、駱駝、駝鳥、獅子、馬、ガゼル、アンテロープや犬が描かれ、又、等身大の男や女の絵もある。宗教的な画面は神々に供える様々な儀式の様子を示している。岩壁にはその他にも部族の領土を示すワシム(Wasim)および太陽やその他の非宗教的な記号も描かれてきた。
ジュッバー(Jubbah)はハーイルの北西110 kmに位置し、旧石器時代中期、新石器時代、銅石時代、サムディック(Thamudic)時代そしてアラビア時代に渡り人々が住み、その遺跡が残されている。
ヤティブ山(Jabel Yatib)はハーイル東北東35 kmに位置し、様々な大きさのたくさんの石から成る砂岩の丘に紀元前500年頃にサムディク(Thamudic)碑文が二度にわたり刻まれた。
ミリヒヤ(Milihiya)はハーイル東南東40km、ヤティブ山(Jabel Yatib)の東南東5 kmに位置し、新石器時代初期、銅石時代、青銅時代および鉄器時代の遺跡が残る。
ジャンアン(Jannan)はハーイルの東65 km、ミリヒヤ(Milihiya)の北東30 kmにある三つの砂岩の露頭で銅鉄時代および青銅時代の動物相が描かれ、鉄器時代とイスラム以前の碑文が刻まれている。
アル-サフェン(Al-Safen)はハーイル北西のジャバル アジャ(Jibal Aja)の小さな涸れ谷(Wadi)に在り、ここの重要な遺構としては家畜の水飲みの為の溝や古代の掘り割りであり、その岩壁画から紀元前2,500年頃の遺構と思われる。 7. 地殻変動
ハーイル(Hayil)はタブーク(Tabuk)堆積盆に西および北西から、ウィディアン堆積盆端部(Widyan basin margin)に東および北東から、アラビア盾状地に南および南西からそして中央均一傾斜帯(Northern interior homo-cline)に南東から囲まれている。
ナフド砂沙漠がタブーク(Tabuk)堆積盆およびウィディアン堆積盆端部(Widyan basin margin)両方の大半を被っているのでこれらを合わせナフド堆積盆と呼んでいる。この二つの堆積盆を分割する様にハーイル・ルトバー孤型地形がハーイルの東部付近から北へと延びている。タブーク堆積盆の古生代(Paleozoic)初期の堆積層はワディ シルハン(Wadi Silhan)堆積盆を構成する新生代(Cenozoic)の堆積層の南部の下部層へと広がっている。この地質状況に関しては添付の北アラビアの地質構造(Structural Geology Framework of Northern Arabia)に示してある。
ウィディアン堆積盆端部(Widyan basin margin)はアラビア巨大堆積盆の一部で白亜紀(Cretaceous)後期のアルマ(Aruma)石灰岩層で覆われている。この堆積盆端部には流れの方向が東へ向いた多くの涸れ谷(Wadi)がある。その堆積層は初期および中期白亜紀(Cretaceous)の砂岩、石灰岩等で構成されている。
中央均一傾斜帯(Northern interior homo-cline)はハーイル(Hayil)東部からリヤド(Riyadh)へと延びて居り、古生代(Paleozoic)および中生代(Mesozoic)の堆積層で構成され、東北へと傾斜している。
ハーイル(Hayil)市はジバル アジャ(Jibal Aja)、ジャバル シャンマル(Jabal Shammar)の様な先カンブリア紀(Precambrian)に出来たアラビア盾状地のどっしりとした花崗岩の山々に囲まれている。ジバル アジャ(Jibal Aja)がアラビア盾状地から直接隆起した花崗岩の塊であるのに対し、ジャバル シャンマル(Jabal Shammar)はハーイル(Hayil)市の西、北、東の近傍を取り巻く火成岩の山の帯である。ジャバル シャンマル(Jabal Shammar)のどの山や丘もその麓を朱色の砂で被われ、幾つかの山毎に集団を成している。
砂岩の山塊や堆積性の断層崖(Escarpment)がジャバル シャンマル(Jabal Shammar)の北側を更に取り巻いているが、この砂岩の山塊や断層崖には名前が付けられて無い。砂岩の山塊は同じ方向で一列に連山の様に並んでいるが別々の山塊同士ではその並ぶ方向に法則性が無くバラバラでかなり奇妙に思える。これらの山塊はハーイル市(Hayil)の西北や北方に位置しナフド堆積盆に載って居る。石灰岩や砂岩等の水成岩で構成された断層崖はナフド堆積盆の東側のウィディアン堆積盆端部に主に載って居り少し北西へ肩上がりに傾いてはいるがほぼ東西に平行に並んでいる。
これらハーイル市北方の山塊や断層崖とは違う砂岩の丘や水成岩の断層崖が中央均一傾斜帯(Northern interior homo-cline)の上を南東に向かって並び、アラビア盾状地の東側の外縁部を成すジャベル トワイグ(Jabal Tuwaiq)山脈へと延びている。
サウジアラビア北部構造地質上の構成 (ここをクリックすると図が拡大します。)
ハーイル(Hayil)の周囲の紹介を書き終えて、地質、自然、歴史、伝統、部族等に関し知識が余りにも限られているのを残念に思う。若い頃、生活を共にしながら仕事を指導してくれたアブドラ シュワイヤー(Abdullah Al-Hamoud Al-Shuwayer)が南部に多いアル ドーサリー(Al Dosarry)族なのにシャンマル族やオネイザー族と共にハーイル出身でシュワイヤーと云う有力支族の出だった。アブドラは若い時にダンマンに一族と移り、アラムコ(ARAMCO)で育てられ、会社を興しカフジにも支社を持っていた。そのアブドラはハーイルについて何度も説明はしてくれたがサウジ中央部で何年かに一度は局地的な雪の降る場所と言う以上の知識は私には無かった。
この頃と較べれば沙漠調査を契機にハーイルが好きになりその周囲の調査訪問を通してこの地方について随分多くの知識を得た。それでもその知識は誰かにハーイルを説明するのは余りにも限られてものに過ぎない。たった4半世紀前にはサウジ国内の状況は外国人には完全に閉鎖され、地図は無く、調査も通信手段の持ち込みも禁じられて居た状況を考えればこれはやむを得ない。しかしながらハーイルの周囲には興味のある伝承、史実、遺跡や自然等の珍しい景観などがたくさんある事を思うと地元のサウジ人有力者か公的機関がこの地方に関する手引き書を出来るだけ早く編纂し一般に公開して欲しいし、もしアラビア語版で既にあるのなら近日中に翻訳される事を願う。 |
|||