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2005月03月16日
 

花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)地方の紹介

(サウジアラビア王国南西地方)
その2未知の国、アシール


 Asir No.2 Undiscovered



 

修正 平成240930

高橋 俊二

 

索引

前書き

緒言

紹介

1. アシールの概要

1.1 アシールの範囲、地形および気候

1.1.1 アシールの範囲

アシールと云う言葉

アシール地方と云う造語

1.1.2 アシールの地形

山岳地帯高原の西側の縁サラート(Sarat)

断崖絶壁の崖地アスダール(Al-Asdar)

ティハーマ(Tihamah)山地

海岸低地ティハーマ(Tihamah)

熔岩が広がるマングローブの湿地帯

1.1.3 アシールの気候

   豊富な降雨と高低による温度差

   標高が高いほど多くの降雨

   平均気温

1.2 アシールの人々

1.2.1 習慣、領土および集落

   棚畑と週市の伝統

   崖地の山稜を跨ぐ部族のモザイクの様な領地

   戦士の様な気性

   オアシス農業と駱駝の家畜化で定着した集落

1.2.2 文明の起源

イエメン(Yemen)との青銅器文化の共有

シバ族(Sabaean)言語の起源(古代イエメン語)

真の古代アラブ族カフターン(Qahtan)

サイハド沙漠(Sayhad)に築かれた巨大ダムの国シバ(Saba or Sheba)

1.2.3 交易と繁栄

香料、乳香と没薬

乳香の道(オアシスを結ぶアラビア半島の交通網)

小さな集落と地方都市だけの古代アシール

シバの女王とソロモン王の密会の地(ジャラシュ(Jarash)

古代のナジュラーンと古代の港アスル

富裕なアラビア(フェリクス)の繁栄

北や東に向かう部族の大移動

比較的短期間だった一神教の流行

古代のままに残された景観や集落

1.2.4 高地部族と低地部族

低地部族と高地部族の間の境

定住ティハーマ部族と遊牧ティハーマ部族

部族に属さないアフリカ出身農民ファッラーヒーン

非常に隔離された地方社会の存在

1.2.5 アシールの建築

建築家の土地アシール

傑出した建築

1.2.6 農民達の土地アシール

自給自足の農民達の土地

毎週一回の市

主要作物

自家用野菜の栽培

ナツメ椰子

果実、コーヒー

洪水抑制と灌漑

農村の景観

案山子

1.3 近年のアシール

1.3.1 オスマン帝国の遠征と支配

オスマン帝国の遠征

オスマン帝国の支配

1.3.2 イドリーシーの支配とサウジの保護領化

イドリーシーの反乱と支配

サウジの保護領化

1.3.3 サウジ領への編入

イドリーシー族の内戦

1934年イエメン条約

略奪と血みどろの争いからの解放

サウジ国家形成途上の部族合同体

1.3.4 新たな中心地

集落や生活様式の急激な変化

アシールの中心地

小規模なその他の中心地

1.3.5 近代化による農村生活の変化

農業奨励策

近代化と部族の絆

2. 高原台地

2.1 建築家の世界

2.1.1 アブハーの伝統的な家

越し屋根を持つ高層で独特な泥の家並み

連続した塁壁を造る集落

家並みの景観を傷つける不法投棄物

石造りもある高層の家並み

泥造りと石造りの合体した建築発展

2.1.2 カフターン(Qahtan)族の涸れ谷サルム(Wadi Sarum)

涸れ谷サルム

見張り塔兼穀物貯蔵庫

2.1.3 女性による室内塗装

色での飾り立て

模様と色調の規則

塗り重ね作業

装飾表現

フレスコ画芸術の広まり

伝統的な顔料

2.1.4 家の作り方

根気の要る家作り

間取り

接客室(Majlis)

装飾の試み

2.2 アシールの伝統

2.2.1 石絵と岩壁画

数少ない石絵

豊富な岩壁画

2.2.2 シャダ城(Shada Palace)とアブハー(Abha)の市

塔の様な家々

昔の建物の無いアブハー

アブハー(Abha)の週市

喧噪下での市の秩序

市で見かける農民

2.2.3 アシール(Asir)伝統文化の保護

3. カフターン族のティハーマ(Qahtani Tihamah)

3.1 禁断のティハーミー・カフターン(Tihami Qahtan)族領地

部族の独自性

好戦的な伝統と領土保持の意識

カフターン(Qahtan)族の末裔の特徴

ライス(Rayth)

3.1.1 ファルシャ(Al-Farshah)の市(Suq)への訪問

ハルジャ(Al Harjah)北の分岐

炭焼き用の枯れ木の運搬

ファルシャへの下り道

日本製の車を持つ山羊飼い達

水煙草

3.1.2 男達の頭の花飾り

対立の終焉と自己陶酔

美意識としての髪型

髪飾りに使われる植物

頭飾りの特徴つけ

グトラ(Al-Ghutrah)を被った男達

香料の重要性

3.1.3 山羊の取引を中心にした市

交流の場でもある市(Suq)

ファルシャの市の売場

商いの基本である山羊

山羊の品定め

3.1.4 市には稀な女達

3.2 男性的である誉れ

3.2.1 男性の伝統

思春期を過ぎての割礼

誉れである武器

男達の踊り

3.2.2 男のアクセサリー

伝統的な短剣(Dagger)

子供達の武装

3.3 ファルシャの市(Suq)

3.3.1不穏な雰囲気

3.3.2 男達の特色ある着物

インディゴ(Indigo)の外衣

彩色された縞模様の木綿布地ウスラ(Wusra)

華やいだ縞模様のシャツ

3.3.3 友情の徴

3.3.4 写真への偏見

写真への敵意

写真の禁止

3.3.5 花で頭を飾った男達の撮影ポーズ

写真を撮られたい男達

髪型へのこだわり

アダン(Adan)の髪飾り

メーキャップする男達

3.3.6 コーヒーによる歓待の儀式

穀類の殻を煎じたコーヒー

コーヒー豆を使わないコーヒーの発祥

奇数杯のベドウイン(Bedouin)伝統

3.4 カフターン族家族の住む崖地

3.4.1崖地への踏み跡へ

踏み跡入り口の警告

困難で危険な踏み跡

アカシアの林で餌を探す山羊

遊牧山羊飼いの若者

ヤマアラシの櫛

追跡者としての名声

動物の鳴き真似

3.4.2 崖地へ到着

乾いた涸れ谷河床の自動車での遡上

涸れ谷に生えるナツメ等豊富な植物

カフターンの居住地

少数飼育の駱駝

3.4.3 ドーム型の小屋

ウシュシャ('Ushshah)

ドーム小屋の構造

小屋の内部

3.5 崖地の女性

3.5.1 女性の服装

ヴェールの着用

木製の留めかぎミゼッラ(Mizella)

女性の帽子

女性の入れ墨

赤子

3.5.2 女性の作る日用品

皮加工の熟練

主な日用品

3.5.3 苛酷な女性の労働

水汲みや製粉

女達の乳搾り

ミルクの攪拌

山羊の世話

石臼でのモロコシ挽き

パン作り

繕い仕事

3.5.4 限定された女の世界

3.6 崖地の男達

3.6.1 小屋の主

戦士の生活

小屋の狭さ

3.6.2午後の饗宴

始まりのお茶

マンディー(Mandi or Mendi)

食べる喜び

くつろぎのシャンマ(Shamma)

食後の射撃

3.6.3静かな男

白痴マジュヌーン(Majnun)

悪魔の霊ジン(Jinn)

残酷な治療法

3.6.4 崖地での野営

不意の夕暮れ

4人の襲撃者

暗闇の野営地

崖地の目覚め

3.6.5文明の進出と自然環境の変化

現代世界への解放

道路の建設

民俗学的価値

帯同出来なくなった武器

4. リジャール・アルマア族の丘陵性のティハーマ(Hilly Tihamah of Rijal Alma')

4.1 スーダ山の植物

ビャクシンの自生

アロエ

材木の伐採

森の神

鳥の楽園

4.2 アシール・ティハーマへの道

アカバト・サンマ(Aqabat Al-Samma)の踏み跡

ジェベル・バニー・マーリク(Jebel Bani Malik)

忘れ去られた村々

涸れ谷ハリー(Wadi Hali)の監視塔

4.3 リジャール・アルマア(Rijal Alma')の村

驚きの村

家の開口部の飾り

古代王国シバに遡る起源

村の博物館

4.4 シーバイン(Al-Shi'bayn)(シュウバイン(Al Shu’bayn))からの登り

急な斜面に残る昔の部落

広い帽子を被った顔の長い男達

パチンコを使う熟練

4.5 棚畑農業

ミツバチの巣箱

コブ牛による耕作

アッシリア時代(Assyriaの種蒔き器

駱駝の挽く臼

5. 涸れ谷ディリアのラビーア族(Rabi'ah of Wadi Dala' (Dili’))

5.1 アブハーからティハーマへの道

5.1.1大洪水 (1982)

5.1.2 豹も居る谷

5.2 ラビーア(Rabi'ah)

5.2.1 涸れ谷ディリアの山羊飼い部族

5.2.2 ラビーア(Rabi'ah)族の起源

   ラビーア(Rabi'ah)族の祖先

ジプシーとの認定

5.2.3 ラビーア(Rabi'ah)族の男達

ラビーア族の男の服装

山羊飼いの笛

水煙草

男達の料理

口づけの行事

踊りの練習

間違いない視力

不名誉な死の床

5.2.4 ラビーア(Rabi'ah)族の女達

   ラビーア族(Rabi'ah)の婦人の服装

   山羊の世話をする婦人

足で揺するバター作り

清浄化バター   

5.2.5 ラビーア(Rabi'ah)族の家

平行六面体のマット家屋

立派な骨組みのバイト・ハサーフ(Bayt Khassaf)

涸れ谷ディリア(Wadi Dala')の移動する野営地

5.3 結婚式

5.3.1 結婚式場

  急坂を登って式場へ

  銃声の合図

  広大なテント 

5.3.2 好戦的な結婚披露宴

  古来の習慣

  ライフルと剣

  戦闘場面の真似

  若い新郎

  模擬戦争

5.3.3 披露宴での接待

  お茶とコーヒーの提供

  お祈りの為の式典の中断

  伝統的サウジ料理

6. 海岸平地

6.1 ティハーマ低地(Tihamah Lowland)

6.1.1 ティハーマ海岸の男達

海岸の男達の服装

芝居じみたメーキャップ

6.1.2 ティハーマ海岸の家屋と内部装飾

アフリカ風の伝統的な村々の建物

円形屋根と壁の塗装

塗装のデザイン

壁の陳列品

6.1.3 ティハーマ海岸の市(Suq)

6.2 海岸低地の熔岩地帯

6.2.1黒い沙漠であるハッラ(Harrat)

玄武岩質の熔岩の噴出

ハッラの植物

火山性沙漠の民

6.2.2 マンジャハ遊牧民(Manjahah Nomad)の家

茣蓙製のテント

花弁模様の壁

臨時的な雰囲気

家の中心である居室

エダウチ椰子の屋根

建材としてのエダウチ椰子

高いベンチ

6.3 海岸低地の浜辺

6.3.1 浜辺の男達

花飾りをした男達

マンジャハ族特有の帽子

少年の花飾り

手脚の欠けた人間

6.3.2 浜辺の女達

広い麦藁帽子

伝統的挽き石

銀細工の装身具

6.3.3 海岸の駱駝

海岸に立つ駱駝

辛抱強い回転歩行

駱駝の存在標識

6.3.4 ティハーマ低地の小屋

伝統的なバイト・ハサーフ

茣蓙とむしろ編み  

小屋の内部

日用品の配置

居心地の良い小屋

6.3.5 ティハーマ海岸の農業と炭焼き

瘤牛を使った作業

炭作り

空いた浜辺

7. 沙漠への出入り

7.1 ホバブ・ベドウイン(Hobab Bedouin)

7.1.1 ホバブ・ベドウイン(Hobab Bedouin)野野営地とテント

ホバブ(Hobab)の野営地

黒いテントでの生活

最新技術(state-of-the-art)のテント

7.1.2 ホバブ・ベドウイン(Hobab Bedouin)男達

7.1.3 ホバブ・ベドウイン(Hobab Bedouin)女性

異国の王女の様な姿

華美な服装と装飾品

ホバブ(Hobab)の半マスク

ショールとタヤル(Tayar)

胸飾り

山羊の世話

バター作り

山羊の毛で紡ぐ織り糸

コーヒーの用意

7.2 ナジュラーン(Najran)の南東部

7.2.1 アシールの南

カーラ(Al-Qarah)の岩壁彫刻

アシール(Asir)行政区南の外れ

ヤーム族(Yam)の領地

消える涸れ谷ナジュラーン

7.2.2 ナジュラーン(Najran)の家屋建築

要塞化した農家

驚きに満ち幻想的な形

カスル・ナシュミー(Qasr Al-Nashmi) 

サラート・アビーダ(Sarat ‘Abidah)

涸れ谷を見下す 

7.2.3 ナジュラーン家屋の飾り

入れ墨した顔の様な装飾

金具隠し(Pelmet)

白い装飾のある屋上の横壁

万華鏡の様に多彩なガラスの窓

7.2.4 消えて行くベドウイン達の掘っ建て小屋

7.2.5砦カスル・ナシュミー(Qasr Al-Nashmi)

8. 参考資料

後書き

 

 


前書き

 

アシールを紹介した代表的な本にはサウジ女性三人の共同著の「アシールの国、アブハー」とティエリ・モージェ(Thierry Mauger)著の「未知の国アシール」がある。先に掲載した「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)地方の紹介(サウジアラビア王国南西地方)その1アシールの国(アブハー)」で紹介したサウジ女性三人の記述は彼女達自身の現地調査による老人、首長、民間伝承専門家、伝統技術工芸技術者への個人面接からの報告であり、それを専門家に相談してまとめたアシール地方の伝承伝統の記録であった。一方、ティエリ・モージェ(Thierry Mauger)1980年代を通じてアシールを取材して居りその記述には1987年からこの地を訪れ始めた私には共感する記述が多い。その著述「未知の国アシール」は訪問者としてのアシール地方の探訪記録と云う印象が私には強い。

 

1994年に成ってやっとザキ・ファールシー(Zaki M.A. Farsi)の道路地図(National Road Atlas and Touring Guide)」が出版された。それ以前はおそらく治安上の問題で地図は殆ど一般的には手に入らなかった。ティエリ・モージェ(Thierry Mauger)はその点、軍関係の勤務者であった為か自らの地図を用意しアシールの地名とその位置を良く示している。又、モージェがこの「未知の国アシール」の中にこの四半世紀の間に殆ど見られなくなり、近代化の浸食で消滅して行く運命にある「花冠とスカート姿の男達が住むアシール地方」の伝統、民俗、生活、建物、自然等の記録写真をたくさん収録している事は大変貴重に思える。

 

ティエリ・モージェ(Thierry Mauger)が科学事業の経歴の絆を離れ、イエメンに隣接する起伏の多いサウジアラビア国境アシール(Asir)地方の未知の山岳地帯と紅海岸のティハーマ平地へと下る険しい急勾配の斜面の冒険的な探検を殆ど一人で始めたのは1980年代の初めである。その記録写真は幾世紀にも渡って変わる事の無かった部族と地域社会を余すところ無く良く語っている。これらの部族民は複雑な棚畑農業を営んだり、危険な断崖や人里離れた渓谷の村に定住したり、山羊や羊の群に依存したりして、独特で特質な伝統文化を発展させてきた。山の中腹に輝き、はざまを設けた屋根を持つ、特異な姿の泥や石で築いた家々の内外は優れた色彩感覚で見事に彩色され、若者は頭に花飾りを付け、色彩豊かなキルトスカート姿で丹念に盛装していた。その斬新な色がこの地方の各々の祭りや踊りを特徴づけていた。

 

前回掲載して戴いた「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)の紹介その1」の続編として今回はこのモージェ著の「未知の国アシール」を抄訳して紹介する。

 

緒言

 

「アシール(Asir)はサウジアラビアで最も起伏が多く、辺鄙なそして変化に富んだ地方である。地形の近寄りがたい特徴のお陰でごく最近まで地上で一番未知な場所の一つであった。人々はよそ者が立ち入るのを必ずしも歓迎しなかったし、花冠とスカート姿の男達が住んでいたアシール(Asir)はまるで外部の世界に対すると同じ様に他の地域のサウジにも依然として殆ど知られてはいなかった。

 

1970年代になって、オーストリア人の人類学者ウオルター・ドスタル(Walter Dostal)がリヤード大学の関係者と共にバーハ州(Bahah Province)のビラード・ガーミドとビラード・ザハラーン(Bilad Ghamid wa Zahran)でアシール(Asir)と南ヒジャーズ(Southern Hijaz)の文化的境界を決める為の調査を行い、又、チェコ(Czech)系の米国人テオドール・プロハースカ(Theodore Prochazka)がこの地域の方言の調査を行った。

 

そしてティエリ・モージェ(Thierry Mauger)1980年代にアシール(Asir)の人里離れた地域を訪れた。モージェの訪問旅行はこの未知の土地の狭い部分に限られてはいるけれどもここに写真で記録された映像はこの未知の世界が永遠に消え去る前の飾り窓を唯一与えてくれている。1980年代ですらこの地方への訪問に対する伝統的な危険は幾らも残っていた。この地方の人々はそのホスピタリティで有名であったが、歓迎される来訪者と避けられる侵入者の境がよそ者には容易に判断出来ない。これが分かるにはこの人々と慣れ親しむ以外に無かった。

 

現在のアシール(Asir)は観光や開発によって急速な変遷の時期に入っている。国内経済発展と道路網整備は王国の重要施策に確実に成って来ている。教育制度で育った現在の若い世代は過去と異なった願望を持っている。消えて行く過去を追い求めているモージェはその命が終わりつつある古来の崩れやすく美しい伝統を見せてくれている」とウィリアム・ファセイ(William Facey)は緒言として述べている。

 

紹介

 

(ここをクリックすると図が拡大します。)

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ティエリ・モージェ(Thierry Mauger)1980年にコンピューター分野の技術者として人生を変える決断をした。サウジアラビアへ赴き、サウジアラビア政府の国防プロジェクトに参加し、ヒジャーズ(Hijaz)の山岳で国王の夏のリゾートであるターイフ(Taif)10年間滞在した。

 

ターイフ(Taif)に赴任して間もなく、ヘリコプターから見える険しい渓谷の麓に古風な生活を営む人々がいるのをモージェは知った。それはこの人々が好む隠れ家と成る峡谷や深い谷間に大地が引き裂かれたハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)付近のどこかであった。

 

ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)から南東に向かうと細い道は絶壁で不意に途切れてしまう。その下にはティハーマ(Tihamah)低地への巨大な大地の割れ目(chasm)が口を開けている。そこへ降りるには軽く編んだロープを使えば何とか可能であった。岩の間が下生えで詰まった亀裂は奈落の底へと視線を向けさせる。

 

ロープの谷と呼ばれるハバラ(Habalah)へ出入りするのは垂直な道であった。下生えの幾つかの束が断崖の一つの区間から次ぎへと渡る為に一緒に吊り下げられていた。更に300 m 下には今でも割れ目のある屋根を持ち、乾いた石造りの家々を眺められる。この家々は既に無人に成ってしまっているが、最近になって破棄された悲哀を漂わせた廃村である。

 

ここに住んで居た腰の周りに編んだ僅かな布の切れ端を身につけただけのカフターン(Qahtan)族は「トルコ族の迫害から逃れ、この危険な高所の隠れ家(perilous eyrie)に避難していた」と云われている。この村の住人は1980年に崖上のファイサル王の村と呼ばれる居住地へ新しい生活を築くために移住してしまった。このハバラの谷での住人の生活がアシールの民俗伝統へとモージェをさらに魅了した。

 

モージェはそのアシール地方探訪の体験や観察から自分が得た描写、心情的な感応やこれらから引き出された自分の見解を世に広めたいと考え、この「未知の国アシール」を著述している。モージェが困難な状況の中で取った写真は現代においてごく最近まで残されたアシールの昔からの民俗伝統の生活様式をその絶える寸前の刹那で良く捕らえていると思う。僅か4半世紀しか経っていないのに今では「花冠とスカート姿の男達」を見る事は無く、伝統的な泥や石造りの建物も修理補修する技術を持つ技能者が今では殆ど居なくなった為にサイデリアやキルビーの様な塗装鉄板で雨漏りを防ぐか、荒れるに任されてしまっている。

 

 

バーハからマフワーへの下り道のヒヒ   バーハのカプセル型モーテル

 

サラート山稜のマントヒヒ

 

サラート山稜の棚畑     ザハラーン・ジャヌーブ付近の住居

 

スーダの断崖(アスダール)  スーダからムハーイルへのつづら折れ

スーダの棚畑

タヌーマ市内の山稜にある涸れ谷

 

ジーザーン州バニー・マーリク山稜の部族道と山麓からの眺め

 

ティハーマ低地の涸れ谷ハリーの流れ ティハーマ低地の自生シドル(ナツメ)

 

アシール風門扉      アブハー市内のダム湖

 

1. アシールの概要

               

1.1 アシールの範囲、地形および気候

 

1.1.1 アシールの範囲

 

アシールと云う言葉   アラブの地理学者ハムダーニー(Al-Hamdani)は「遠く昔の10世紀頃にはこの地方の人々に取ってアシール(Asir)と云う言葉はアシール(Asir)部族同盟が住んでいたアブハー(Abha)周辺の限られた地方を意味する伝統的な部族的用語であった」と述べている。

 

アシール地方と云う造語   アシール(Asir)が純粋に地域を意味する言葉として使われているのは19世紀初期のアシール(Asir)部族同盟の勢力拡張に基づく比較的新しい造語に由来する。19世紀後半にオスマン帝国(Ottoman Turks)はヒジャーズ(Hijaz)およびイエメン(Yemen)を支配し、そのイエメン州の最も北に位置する4つのサンジャグ(Sanjaq)にアシール(Asir)と名付けていた。アシール(Asir)の中心であるアブハー(Abha)を行政府とするこの巨大なサンジャグ(sanjaq)はターイフ(Taif)の南100 kmから南は殆どナジュラーン(Najran)およびジーザーン(Jizan)まで広がり、ティハーマ(Tihamah)海岸平地を含んでいた。アシール(Asir)と云う言葉の現代の会話での使用される意味はこのオスマン帝国支配の時代に普及した。

 

1.1.2 アシールの地形

 

この地方の地形と植生は山岳地帯の露に覆われたビャクシン(juniper)の森から海岸平地の自生の芭蕉椰子と私が渾名しているエダウチヤシの茂みまで殊の外に多様である。ターイフ(Taif)からイエメン(Yemen)国境まで続く高い山脈が高山台地や棚畑の斜面での乾燥農業を維持するのに十分な降雨を取り込み、その降雨量は王国一である。この山脈はスーダ山(Jabal Sawdah)に至り、サウジアラビア(Saudi Arabia)で一番高く一番湿潤な場所になる。その標高は3,000 にも及ぶ。低地のティハーマ(Tihamah)からアシール(Asir)山脈へ至るサラート(Sarat) 崖地には、山道が一番高いスーダ山(Jabal Sawdah)へと蛇の様に曲がりくねって続く。

 

山岳地帯高原の西側の縁サラート(Sarat)   山岳地帯高原の西側の縁はサラート(Sarat)と呼ばれている。その斜面は穏やかに東に向かって西ナジュド(Najd)の台地へ下っている。

 

断崖絶壁の崖地アスダール(Al-Asdar)   これと対称にその更に西側は鋭くアスダール(Al-Asdar)と呼ばれる紅海の海岸に平行して延びる断崖絶壁の崖地で遮られている。

 

ティハーマ(Tihamah)山地   この険しい崖地アスダール(Al-Asdar)が起伏の多い脊稜から絶壁の峡谷、さらに丘陵性のティハーマ(Tihamah)山地の麓の小丘へと続いている。ここでも又、崖地と同じ様にティハーマ(Tihamah)の高い山々が豊かな降雨をもたらしている。

 

海岸低地ティハーマ(Tihamah)   更に西には海岸低地が紅海と平行して延びている。この低地は特にジーザーン(Jizan)の周辺では涸れ谷が山々を流れ下り海岸に辿り着く前に沖積扇状地として広がり、灌漑され豊かな農業地帯と成っている。

 

熔岩が広がるマングローブの湿地帯   更に北のシュカイク(Shuqayq)とクンフザ(Qunfudhah)の間では広範囲に熔岩が広がり海岸にはマングローブの湿地帯が形成されている。

 

1.1.3 アシールの気候

 

豊富な降雨と高低による温度差   サウジアラビア(Saudi Arabia)の他の地方と異なり、アシール(Asir)は特に山岳地帯で降雨が比較的豊富である。そしてティハーマ(Tihamah)と山岳地帯の温度差は大きい。頼りの降雨は年に二回降る。一回は紅海を通り抜けて来る北西風に運ばれてくる冬の雨であり、もう一回は夏のモンスーンに運ばれてくる雨である。アシール(Asir)の全域でこの両方の降雨の恵みを受けるが、北西風に運ばれてくる雨は南に下るに連れて極端に減ってくるのに反し夏の雨は増してくる。従って北部ではその降雨の半分は冬の間に受け取るのに対して南部では12 %しか受け取らない。夏はこれと反対で南部では80 %の降雨を夏に受け取りその量は北に行くに連れて減ってくる。

 

標高が高いほど多くの降雨   降雨量が山の高低で支配される所では起伏が高いほど多くの降雨がある。年平均570 mmの最多降雨量があるのはスーダ山(Jabal Sawdah)地域であり、年平均150 mmの最小降雨量なのは海岸低地である。

 

平均気温   年平均気温はジーザーン(Jizan)30℃からバールラスマル(Ballasmar)、ナマース(Al-Nimas or An Namas)およびアブハー(Abha)14 - 15℃である。ジーザーン(Jizan)は世界中でも最も暑い場所の一つで湿度も高く年間の温度変化はおよそ7℃の範囲である。高山地帯では北に行くほど涼しくなり、年間の平均温度変化はおよそ10℃以内である。

 

1.2 アシールの人々

 

アシール(Asir)の山々は王国内の何処の地域社会よりも人里離れ、伝統を守った社会を保っていた。起伏に富んだ地形が外界の影響からこの地域社会を幾世紀にも渡って隔離してきた。

 

1.2.1 習慣、領土および集落

 

棚畑と週市の伝統   この地方の伝統は王国の他の地方と幾つかの習慣でかなり違っている。この山岳高地だけがサウジアラビア(Saudi Arabia) では井戸水に頼る灌漑水無しで農業が営める唯一の場所である。従ってイエメンの山岳高地同様に人々は何千年もの間、緑の山腹に棚畑を築き、家を建て、週毎に市を開いて来た。険しさと近寄り難さにも拘わらず崖地は文化的障壁を作らなかった。

 

崖地の山稜を跨ぐ部族のモザイクの様な領地   部族の領地は崖地の山稜を跨ぎ、絶え間ない交際はその山稜を切り裂くアカバト('Aqabat)と呼ばれる目が眩むような険しい峡谷を経由して行われてきた。この地方は同盟に分類される部族のモザイクの様な領土に分割され、正確な角度をもって高地および丘陵性ティハーマ(Tihamah)の両方の部分を含む崖地を横切って定められていた。歴史的にはこれらの部族は絶えず争っていた。

 

戦士の様な気性   古い慣習は容易に滅びず、今日でも男達は戦士の様な気性を持ち象徴的な武器を携えている。部族の殆どは自分達の領土に住み、帰属しており、山羊を遊牧する分族はその中の少数派である。アシール(Asir)のカフターン(Qahtan)族の場合にはその多数派である兄弟族は南ナジュド(South Najd)の伝統的駱駝遊牧民であり、その中で山岳高地に住む者達は彼等の隣人同様に定住生活を送り、その麓で山羊を遊牧する者達もいる。丘陵性のティハーマ(Tihamah)山地のカフターン族(Qahtan)の遊牧民は近隣の部族同様に羊や山羊を放牧している。ジーザーン(Jizan)周辺の海岸低地に降りると円形の灌木で作った小屋に住む部族と無縁な定住小農民の村ばかりになる。

 

オアシス農業と駱駝の家畜化で定着した集落   どの位古く南西アラビアの山岳高地および海岸低地に集落があったかは定かでは無いが、4,000年以上前の新石器時代からであるとの確証は得ている。アラビアのどこでも一般的である灌漑されたナツメヤシのオアシスと沙漠での駱駝遊牧は3,000年から5,000年前に出現したと考えられる。アシール(Asir)では非常に異なった技術の農法が必要とされた。ここでの農業は王国の他の地域とは異なった農法の影響に受け、異なった時代に発展して来た。今の所はアシール(Asir)文化の発祥は恐らくオアシス農業と駱駝の家畜化がアラビアの至る所に広まった時代であると思われる。

 

1.2.2 文明の起源

 

イエメン(Yemen)との青銅器文化の共有   第一にアシール(Asir)文明は隣のイエメン(Yemen)と共通の発祥を分け合っている様である。イエメン(Yemen)の青銅器文化は最近まで研究がなおざりにされて来た分野であるが農業の定住がそこに紀元前2,200年から1,700年頃に存在した事が分かり、そこで作られた陶器はシリアやパレスタインの早期青銅文化の陶器と明確なつながりがあった事を示している。

 

シバ族(Sabaean)言語の起源(古代イエメン語)   西アラビアを通じて北方への文明の起源に成ったと云う提言は様々に南アラビア碑文、シバ語(Sabaean) 、ヒムヤル語(Himyaritic)として知られるイスラーム以前のイエメンの文字やムスナド(Musnad)としてのアラビア語によって強められている。古代イエメンのアルファベットの順とその文章および言語の中に残る子音(Consonant)と云う二つの要素への考察が古代イエメン語が紀元前2世紀半ば以前のシバ語Sabaean)の文章と言語の起源である事を強く示唆している。古代イエメン語の二つの要素は後世に関係したパレスタインやシリアの北西セム族言語から脱落してしまっている。同じ事がサウジアラビアのイスラーム以前に使われた殆どの文字や方言について言える。

 

真の古代アラブ族カフターン(Qahtan)   部族名としてのカフターン(Qahtan)はそれ自身が偉大な古代を表示している。カフターン(Qahtan)は南アラビアのアラブ族全ての父側祖先で真のアラブ族であり、後にアラブ化したアドナーン('Adnan)まで家系を遡る北部のアラブ族と明確に区別される。アラブ族のこの区分は恐らく南西アラビアの定住耕作者と中央および北部アラビアの遊牧民との間の二分化に反映されている。この事は南西部の古代南セム語を話す人々と北部アラビアのアラム語(Aramaic)の影響を受けた方言を話す人々の間での言語的区分を思い出させる。

 

サイハド沙漠(Sayhad)に築かれた巨大ダムの国シバ(Saba)   アシール(Asir)のその後の歴史は神秘の殻に覆われている。しかしながら、紀元前の終わり頃の世紀には地中海でのギリシャ・ローマの台頭と同時期にイエメン(Yemen)のラムラト・サバーアタイン(Ramlat Sab'atayn)のサイハド沙漠(Sayhad)に流れ込む涸れ谷の農民は巨大な都市国家群を基盤とする文明を築いた。これらの国家の統治者達は巨大な灌漑事業の工事を統轄した。その中で最も有名なのがシバ(Saba or Sheba)の首都マアリブ(Marib)における巨大ダムの建設であった。

 

1.2.3 交易と繁栄

 

香料、乳香と没薬   サイハド沙漠(Sayhad)周辺の都市国家は印度洋を越えて当時地中海で大きな需要のあった香料や高級な商品を交易し富裕に成った。この都市群の繁栄がローマにこの地方をアラビアのフェリクス(Felix)すなはち富裕なアラビアと呼ばせた。この交易に彼等は自分達の自家製の産物を入れた。それらが有名な南アラビアの乳香(Frankincense)と没薬(Myrrh)である。

 

乳香の道(オアシスを結ぶアラビア半島の交通網)   アラビア半島中にこの交易をアラビア湾、イラクおよび東地中海と結ぶためのオアシスを基地とする交易集落の交通網が築かれた。主要交易ルートの分岐するナジュラーン(Najran)は要所であった。そこから一つの交易ルートがカルヤ・ファーウ(Qaryat Al-Faw)に向かって北へ分岐し、更に東に現在の東部州ハサー・オアシス(Hasa Oasis)へと向かう。もう一つのルートは恐らくタスリース(Tathlith)を経由して北へ向かう。タスリース(Tathlith)はアシール山岳高地の東にあり緩やかで人口の少ない地域である。

 

小さな集落と地方都市だけの古代アシール   イエメンの様にはアシール(Asir)は偉大なイスラーム以前の都市跡を誇っては居らず、今日同様に小さな集落と地方都市の地域である。一番大きな遺跡は古代イエメンの周辺部にある。

 

シバの女王とソロモン王の密会の地(ジャラシュ)   ハミース・ムシャイト (Khamis Mushayt)の南のジャラシュ(Jarash)はハムマ山(Jabal Hamumah)の傍で「シバの女王(Queen of Sheba)がソロモン王(King Solomon)に会うための道中での野営地であったビルキス(Bilqis)があった」とこの地方では信じられている。

 

古代のナジュラーンと古代の港アスル   更に南には古代のナジュラーン(Najran)が山々から現在のイエメン国境に近い東の空白地帯(Empty Quarter)の砂に流れ込む広い涸れ谷の中に横たわっている。そしてジーザーン(Jizan)に近いティハーマ(Tihamah)海岸には古代の港アスル('Athr)が建っている。アシール(Asir)全体およびティハーマ(Tihamah)にある多くの碑文と岩壁画はここの人々がイスラーム以前のイエメンの人々と同じ文明に属していた事を示している。

 

富裕なアラビア(フェリクス)の繁栄   アラビアのフェリクス(Felix)3世紀のローマ世界の経済不振でその産物の需要が落ち込むまでの数世紀に渡って栄えていた。この時期にシバ(Saba)、マイーン(Ma'in)、カタバーン(Qataban)、アウサーン(Awsan)およびハドラマウト(Hadramawt)等の古い都市国家群はイエメン山岳高地のザファール(Zafar)のヒムヤル族(Himyarite)と云う一地方勢力に併呑されてしまった。

 

北や東に向かう部族の大移動   紀元後の早い世紀には又、南西アラビアを離れて北や東に向かう部族の大移動が起きた。灌漑機構の失敗、グレコ-エジプトの船乗りによる長距離航海術の発展、需要の衰退および中央アラビア遊牧民の台頭等がイエメン文明を衰微させるそれぞれの役割を果たした。

 

比較的短期間だった一神教の流行   イスラーム以前の3世紀くらいの間にサーサーン朝ペルシア(Sasanian Persia)、ビザンチン(Byzantium)およびエチオピア(Ethiopia)が全て南西アラビアへの影響を競い合った。この地方の人々は様々な一神教が流行する事に対しては比較的短期間の執着しかもたらさなかった。キリスト教(Christianity)、ユダヤ教(Judaism)およびラフマニズム(Rahmanism)よりも以前の文化は7世紀にイスラームが伝道されても完全には死滅せず、10世紀のハムダーニー(Al-Hamdani)の様な教育のあるイエメン人でさえ、依然として古いムスナド碑文(Musnad)を理解できた。

 

古代のままに残された景観や集落   ハムダーニー(Al-Hamdani)はイエメン(Yemen)とアシール(Asir)に関して広範囲にわたり著述しており、彼がアシール(Asir)で記録した集落や部族の様式は依然として残っている現在の物と著しく似通っている。従って我々が今日でも見る事が出来る農耕された景観や集落の様式は侵入や変動によって乱される事無く正に古代のままである。彼の時代からの主要な違いは山岳高地の幾つかの部族はその支配を海岸に向かって崖地と丘陵性のティハーマ(Tihamah)山地まで広げた事程度である。

 

1.2.4 高地部族と低地部族

 

低地部族と高地部族の間の境   ティハーマ(Tihamah)に下ると部族の区分は丘陵性のティハーマ(Tihamah)山地や山岳高地でのそれより小さくなる。低地部族と高地部族の間の境はだいたい標高700 m 辺りに見られる。

 

定住ティハーマ族と遊牧ティハーマ族   ティハーマ(Tihamah)族も同じ様に定住部族と遊牧部族に組織されている。ティハーマ(Tihamah)は又、少数の純粋な遊牧部族の故郷でもある。

 

部族に属さないアフリカ出身農民ファッラーヒーン(Fellahin)   高地部族との重要な違いは平地住民のおよそ半数にも及ぶ部族には属さ無いアフリカ出身のファッラーヒーン(Fellahin)と呼ばれる農民の存在である。この地方のファッラーヒーン(Fellahin)と部族民との間に言葉や習慣で区別するものは無いのでアフリカ出身の人々はティハーマ(Tihamah)に非常に長い間暮らして来ている。これらのファッラーヒーン(Fellahin)の忠誠は部族では無く彼等の村に向けられている。これらの村々は灌漑された洪水平地にあり芝木の囲いの中に円形の芝木の家が建てられた特徴ある集落である。特に大きく人口が密集した集落としてはジーザーン(Jizan)、サブヤー(Sabya)およびアブー・アリーシュ(Abu Arish)等がある。

 

非常に隔離された地方社会の存在   丘陵性のティハーマ(Tihamah)山地の崩れた起伏に富む地形は幾つかの非常に隔離された地方社会を生み出した。それらの中でも最も有名なのは南ティハーマ(Tihamah)の高い山に隔絶されて名付けられたグループであり、アハル・ライス(Ahl Al-Rayth)、アハル・ハルーブ(Ahl Harub)、アハル・ハク(Ahl Al-Haqu)および特に有名なアハル・ファイファー(Ahl Fayfa)等が挙げられる。

 

1.2.5 アシールの建築

 

建築家の土地アシール   アシール(Asir)は建築家の土地である。建築物の種類は広く、魅力的で場所場所によって変化し、部族の独自性を工夫するばかりでは無く、自分達の様式の衣服と同じ様に自分達の様式の建物を造り出している。山岳高地の建物は石および泥で作られた搭状で、あるものは無地であり、あるものは飾り付けられている。その様な建物からバーハ(Bahah)の一階建てのコテージ、ティハーマ(Tihamah)低地の内部が豊かに文様付けられた芝木の小屋まで住居用の建物は様々である。

 

傑出した建築   山岳高地の集落には円形の石造りの監視塔や要害化された共同の穀物乾燥塔があり、集落の外側には市の為の質素な建物があり、普段は空で週に一度の市に使われる。ジーザーン(Jizan)やファラサーン(Farasan)島の商人達の家やサブヤー(Sabya)の集会宮殿イドリーシー(Idrisi Palace)は彫刻のある漆喰で豊かに飾られた四角形の建物であったが、ジーザーン(Jizan)に近いアブー・アリーシュ(Abu Arish)に見られる様にモスクや便所(Bath-house)にはやはり丸屋根(dome)で造られていた。アシール(Asir)の至る所でこの地方の建物は大変傑出し建築的に心を動かす力(Appeal)を持っている。

 

1.2.6 農民達の土地アシール

 

自給自足の農民達の土地   勿論、アシール(Asir)は農民達の土地でもあった。最近までアシール(Asir)の人々は自分達の必要とする全てを生産して居り、彼等の経済は生活をぎりぎりに守り、自給自足するのに適合していた。

 

毎週一回の市   ナジュラーン(Najran)とターイフ(Taif)の間には取るに足るような町等は無く、山岳高地での流通は週に一度開かれる週市のサークルを通じて限られた地域内で行われた。多くの中心地は市の開かれる日で知られている。例えばハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)はムシャイト(Mushayt)の木曜日であり、アハド・ルファイダ(Ahad Rufaydah)はルファイダ(Rufaydah)の日曜日である。

 

主要作物   穀物は山岳高地での小麦と大麦、全地域でのドゥラ(Durra)と呼ばれるモロコシ(Sorghum)および海岸低地のドゥハン(Dukhn)と呼ばれるガマ(Bulrush)やキビ(Mullet)等が主要作物であった。その他の主要作物としてはティハーマ(Tihamah)で広く栽培されている胡麻や山岳高地のレンズ豆(Lentil)およびアルファルファ(Alfalfa)(ムラサキウマゴヤシ)がある。

 

自家用野菜の栽培   アラビアの何処ででも同じであるが果物と野菜は自家用のみに栽培されていた。一般的な野菜は玉葱、ニンニク、白豆、大根、ほうれん草、メロンおよび胡瓜であった。トマト、茄子(Aubergine)およびオクラはオスマン(Ottoman)帝国によって第一次大戦前に導入された。

 

ナツメ椰子   ナツメ椰子は全域で殆ど見当たらなく、例えばビーシャ(Bishah)やナジュラーン(Najran)の様なアシール(Asir)との境になっている涸れ谷で豊かに見られるのみである。

 

果実、コーヒー   低地ではパパイヤやレモンが育ち、山岳高地では葡萄、プラム、杏、アーモンド、梨、イチジク、ザクロおよびピスタチオ等多くの温暖果物が収穫された。オリーブは崖地の稜線に沿って育ち、コーヒーは崖地やファイファー(Fayfa)の様な隔絶された高地で育っていた。今日、市へ運ばれ、政府が奨励しているのは多くの種類で大量に育つ果物と野菜である。

 

洪水抑制と灌漑   農法は王国内の他の地域とは異なり著しく多くのやり方が取り入れられていた。一つの極端は方法としては崖地の稜線に沿った場所で農民が灌漑に使うのに十分な降雨を貯め、同時に洪水を防いでいた。降雨量の少ない場所では平地の涸れ谷を跨ぐ迂回ダム、山岳高地のテラスに水を貯める方法および水を必要とする畑に斜面排水と呼ばれる等高の水路を使って排水を導く方法等の様々な型で洪水を制御して降雨量を補った。山岳高地から東に流れる涸れ谷では井戸が降雨量を補うのに使われた。

 

農村の景観   丘陵性のティハーマ(Tihamah)山地のリジャール・アルマア(Rijal Alma')の農場と棚畑(terraced field)では小麦、大麦およびキビが栽培されている。アブハー(Abha)の南東のサラート・アビーダ(Sarat 'Abidah)地区ではそびえ立つ泥の層で造られた家々は防備の為に寄り添うように群がり、涼しい陰を作る集落を形成している。

 

案山子   サラート・アビーダ(Sarat 'Abidah)地区で農夫がキビとアルファルファを植える為に農地を耕している。同じ村で案山子が世間一般的な役目を果たしている。ティエリ・モージェ(Thierry Mauger)は「カフターン(Qahtan)族の涸れ谷サルム(Wadi Sarum)で訪れた家に隣り合う囲いの中で新しい呼び物を見せられた。元気な狼の子供である。これは私が生きているのを見た唯一の野生の動物であった」と記述している。野生動物の被害を防ぐ為に家の外や畑には案山子が広く使われて居た。頻繁に見かけるのは狼、裸ハイエナ、狐の死骸の案山子で時にはマントヒヒが木から吊されている事もある。

 

1.3 近年のアシール

 

1.3.1 オスマン帝国の遠征と支配

 

オスマン(Ottoman)帝国の遠征   イスラームの時代にはアシール(Asir)は外界からの影響を受けずに独自の生活様式を保てた様であり、その景観が文化的に安定した長い期間があったのを如実に反映している。しかしながら19世紀に激しい妨害があった。1834年にアシール(Asir)はムハンマドアリー(Muhammad Ali)のエジプト遠征軍の侵入を受け、名目上はオスマン(Ottoman)帝国の宗主権の下に置かれた。タミシエ(Tamisier)がこの作戦に参加し、ヨーロッパ人として最初にこの地域の記述を残した。

 

オスマン(Ottoman)帝国の支配   19世紀後半にはオスマン(Ottoman)帝国はヒジャーズ(Hijaz)、アシール(Asir)、イエメン(Yemen)の恒久的支配権を確立した。アシール(Asir)に対するオスマン(Ottoman)帝国の支配は第一次世界大戦でオスマン(Ottoman)帝国が解体するまで続いた。

 

1.3.2 イドリーシーの支配とサウジの保護領化

 

イドリーシーの反乱と支配   第一次世界大戦中にジーザーン(Jizan)近くのサブヤー(Sabya)に行政府を構えたムハンマド・イブン・アリー・イドリーシー(Muhammad ibn Ali Al-Idrisi)がヒジャーズ(Hijaz)のシャリフ・フサイン(Sharif Husayn)同様にトルコ(Turk)に逆らい「英国側である」と宣言した。トルコがアラビアから撤退した時にはアシール(Asir)はイドリーシー(Idrisi)の支配下にあった。

   

サウジの保護領化   1920年にイブン・サウード(Ibn Saud)はアシール(Asir)および遠くフダイダ(Hudaydah)までのティハーマ(Tihamah) をイドリーシー(Idrisi)の名目支配の儘で保護領としてアブハー(Abha)を占領した。

 

1.3.3 サウジ領への編入

 

イドリーシー族の内戦   1922年にムハンマド・イブン・アリー・イドリーシー(Mohammad Al-Idrisi)が没するとその息子と兄弟に率いられた分族間の内戦が続いた。イエメン(Yemen)と新たに進出したサウジ土候国はこの衝突の各々の側に味方した。この内戦はアシール(Asir)およびティハーマ(Tihamah)を王国に編入すると云うリヤードの好意で最終的に解決した。

 

1934年イエメン条約   イエメン(Yemen)とサウジアラビア王国(Kingdom of Saudi Arabia)間に締結された1934年条約でアシール(Asir)およびティハーマ(Tihamah)の国境紛争は終了した。

 

略奪と血みどろの争いからの解放   アシール(Asir)の人々はパクス・サウジアナ(Pax Saudiana、平和なサウジ人)に成り、安全な生活の恩恵および過去の略奪や血みどろの争いからの解放を得た。それでも放牧権や部族の所有地を巡って論争している二つの部族の潜んだ対立が週市で遭遇した時に再燃する危険性は依然として十分あった。

 

サウジ国家形成途上の部族合同体   1965年にド・ゴール(de Gaulle)将軍が「サウジアラビア(Saudi Arabia)は国家なのか部族合同体か」と在リヤード(Riyadh)仏大使ピエール・ルボル(Pierre Revol)に尋ねた時に同大使は「サウジは国家に成りつつある過程の部族合同体である」と巧みに答えている。この見解はこの国のどの地方よりもアシール(Asir)に対して適切である。

 

1.3.4 新たな中心地

 

集落や生活様式の急激な変化   サウジ国家形成の過程はサウジアラビア(Saudi Arabia)にとっては集落や生活様式が急激に変わった時代でもあった。教育を受け都会化した新しい世代はそれまでは夢にも見なかった物質的な洗練さを手に入れている。その殆どが家庭向けの最新の消費物資や科学技術である。スパーマーケットは一年中何時でも全ての種類の輸入食品を提供している。自動車の所有が広く普及し、新しい町やその郊外の拡張した計画を決定するのが自動車である。

 

アシールの中心地   サウジアラビア(Saudi Arabia)の歴史的町、オアシス(Oases)や港は依然として重要であるが、地方によっては新たな出来た中心によって陰って来てしまっている。アシール(Asir)においては古い中心は今日でも依然として主要な町であり、広範囲にわたって発展し続けている。最初にオスマン(Ottoman)帝国によってアシール(Asir)族の部族の中心として造られたアブハー(Abha)は忙しいこの地方の州都であり、ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)は多くの外国人の居住する軍事基地であり、ジーザーン(Jizan)はジェッダ(Jeddah)およびヤンブー(Yanbu)についで紅海岸では王国第三の港である。

 

小規模なその他の中心地   今日発展している小規模の中心としてはムハーイル(Muhayil)、ハミース・バリーク(Khamis Bariq)、シーバイン(Al-Shi'bayn)、ナマース(Al-Nimas or An Namas)、リジャール・アルマア(Rijal Alma')およびサブヤー(Sabya)があり、これら全てはオスマン(Ottoman)帝国の権威が19世紀後半に地方行政の中心に選んだ古い市である。その他の例としてはサラート・アビーダ(Sarat 'Abidah)やバルジュラシー(Baljurashi)の様に主要道路の開通で発展した昔からの市もある。

 

1.3.5 近代化による農村生活の変化

 

農業奨励策   王国内の至る所と同様にアシール(Asir)の人々も手厚い農業補助金と市場に農作物を出荷できる道路網の整備よって土地に留まる様に奨励されている。農業は特にジーザーン(Jizan)やアブハー(Abha)にダムが建造されたことで更に奨励されてきた。

 

近代化と部族の絆   近代的な農業技術、新建材や道路によって地方の景観は変わりつつある。アシール(Asir)の人々は近代化の波に乗り、その生活のテンポもその様になりつつある。教育、旅行、テレビや外国人との接触等全てが世界中の人々と比較しての自分達自身や自分達の土地を見つめさせ、その生活様式に影響してきている。しかしながら20世紀後半に起きている全ての重大な変化を経験してきた同族、地方社会や年老いた部族民への堅固で永遠の忠誠心を見せる事で彼等は過去の強い絆を保ち続けようとしている。そしてティエリ・モージェ(Thierry Mauger)が示している様に発展の主要な地域を遠く離れこの地方の数世紀も古い文化的雰囲気に浸る事は1980年代には依然として可能であった。

 

2. 高原台地

 

2.1 建築家の世界

 

2.1.1 アブハーの伝統的な家

 

越し屋根を持つ高層で独特な泥の家並み   アブハー(Abha)周辺の地域はしっかりと建造された泥の家並みで独特の景観である。この家々の壁は雑草が密生した土地の上に重なった帯の様に連なっている。一つの層から次の層への僅かな狭まりの目盛りがこれらの家々の形を全体的に頂上部を切り取ったピラミッド(Pyramid)の様な姿に造り出している。これに続き、壁から何層にも突きだした頁岩(Shale)を一定の間隔で多少重ね合わせて作った短い屋根(越し屋根Louver)がまるで古い甲殻類の甲皮の大きな鱗の様に見える。この越し屋根が雨による浸食を効果的に防ぎ、太陽の光線を避けている。増水や洪水に備えて基礎は石で造られるのが一般的である。アブハーのファハド国王文化センターに建てられた最近の建物はムスタハ(Muftahah)村の伝統的なアシールの建造物に敬意を払っている。

 

連続した塁壁を造る集落   ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)の南のサラート・アビーダ(Sarat 'Abidah)地方のカフターン(Qahtan)村では高い建物がそよ風(灰)を受け、材料の泥は経済的で昔は防塁として威力があった。殆ど全員が一つないし二つの部族で構成される部落や村の集団の中では家々は防衛の為に互いに群がり、時には連続した塁壁を造る為に固く密着させてある。例えばサラート・アビーダ(Sarat 'Abidah)地方のカフターン(Qahtan)村は一塊の農家群で構成されている。ミナレットはたくさんある。幾つかのこの様な集落が一つの地方として微妙に合併している。しかしながら時には一つの群落が自分達の家々の周囲をパステル画で明るくする為に分離を要求して騒ぎ出す事もある。村々への小道は今日では砂利で舗装されている。

 

家並みの景観を傷つける不法投棄物   アブハー(Abha)近くのカフターン(Qahtan)族山岳高地の典型的越し屋根を付けられたスラブで雨の浸食から泥の壁を守っている。しかしながら今では頻繁に不法投棄された西洋化した廃棄物がこの様な景観を傷つけている。全てを土が吸収してくれる世界に長い間住んできた村人達はゴミの散乱に時として無頓着であり、新たに作られた道路によって残骸は彼等の後背地に運ばれ、腐敗するまま放置されている。

 

石造りもある高層の家並み   この地方の泥で造られた建造物と共に時には乾いた石で造られ熟れすぎたザクロがまるで破裂した様に裂けてしまっている高層の家々もある。これらの存在はオスマン帝国の占領に由来すると言う人達もいる。窓や扉の上に埋め込まれた石英の破片が幾何模様を作り出す。ヒジャーズ(Hijaz)からアシール(Asir)を抜けイエメン(Yemen)に至る地方では石英は壁装飾の輪郭を作り出す要素として使われている。石英を文様化した花の模様を造るのに使っている造形家もいる。高く円い監視塔が周囲に点在している。

 

泥造りと石造りの合体した建築発展   アブハー(Abha)からそれ程遠く無いアドワーン(Adwan)では三代に渡る家が殆ど隣り合って建ち、この地域の建築発展の縮図を見せている。一軒ずつを見て行くと乾いた石で造られた高い家の窓は垂直な隙間であり、その壁は石英で飾られ、およそ150年前の建造である。この建物に特別に設けられた最上階は当時の新しい建材を伝えている。すなはち浸食を防ぐ為の越し屋根(Louver)の列が泥の壁に細く並んでいる。30年前に建てられたその隣の家では越し屋根(Louver)は家全体に設けられている。その丘の反対にある家は様式を失った燃えがらのブロックで造られ、長い伝統の放棄を示している。

 

2.1.2 カフターン(Qahtan)族の涸れ谷サルム(Wadi Sarum)

 

涸れ谷サルム   シャハラン(Shahran)族とカフターン(Qahtan)族がアシール(Asir)地方のこの独特な建築様式を共有している。その様な建築様式を保っている地域の一つがカフターン(Qahtan)族住む涸れ谷サルム(Wadi Sarum)である。涸れ谷サルムはアブハー(Abha)からナジュラーン(Najran)道路のザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)の北のサラート(Al-Sarat)の稜線から東へとファルシャ(Al Farshah)で北からの涸れ谷を合わせ涸れ谷バイシャ(Wadi Baysha)の本流と成る涸れ谷である。ここは巨大な花崗岩の丸石で占められ、そのどれもが指で軽くはじくだけでひっくり返せそうに思われる程危険である。どこも格子型の畑が灌漑の為の狭い水路に沿って並んでいる。

 

見張り塔兼穀物貯蔵庫   畑に散在するのはフソン(Husun)やフスン(Husn)と称される見張り塔であり、これは又、穀物貯蔵庫としても使われている。この様にアブハー(Abha)地方の高い建物は監視塔であると共に共有の穀物倉庫でもあった。これらは灯火され、鳥や獣の侵入を防ぐためにアカシアの枝が編み込まれた垂直の隙間から換気されている。円い脱穀の為の床の上には篩い手が農作業様のフォークで穀物、籾殻や藁を風に乗せて篩い分ける為に空中に放り挙げる。今でも脱穀のために卓抜した熟練で操る吊り索の乾いた重い衝撃音が聞こえる。

 

2.1.3 女性による室内塗装

 

色での飾り立て   モージェがサラート・アビーダ(Sarat 'Abidah)地方のカフターン(Qahtan)村では家族が塗装した屋根テラスで憩いを得ている光景を紹介している様に全ての家々は賑々しい色で飾り立てられている。アブハー(Abha)近くのカフターン(Qahtan)族の山の斜面にある農場は生き生きと彩色された屋上と窓が外周の厳しさと対照的であるし、カフターン(Qahtan)族の山岳高地の中では華やかに彩色された居住区が単調な泥を重ねた農場に色を添えている。又、出入り口や窓が明るい色で明るくされている家もある。涸れ谷サルム(Wadi Sarum)に住むカフターン(Qahtan)族はアシールの他の何処よりも色彩で華やかに家々を飾り建てている。近代的工業生産された塗料が柔らかい古い自然色に変わって人々に喜ばれてきている。涸れ谷サルム(Wadi Sarum)の村人は愛情を込めて出入り口、窓、階段や居住区を飾られている。

 

模様と色調の規則   家族同士お互いにもっと斬新な模様を作る為に競い合っている。これらの模様にはイスラームの教えで生き物の象徴は使われ無い。描き手は二つの色を同じ色調には並べては決して使わないと云うただ一つの規則に従っている様に見える。この作業は塗料が壁に不浸透性を与えるので美化だけでは無く機能性も合わさっている。扉にも独創的な花模様が塗られている。厚い壁の家の内部は快適な涼しさが感じられ、絵筆の踊りが凝視を誘う。扉、床、壁、天井、階段等のどれもが熱狂的に絵が描かれている。

 

塗り重ね作業   毎年、新しく塗り重ねる作業に数時間も費やされる。宗教的な行事が近づくと女性達が塗り替えに責任を持つ。彼女達は壁をキャンバスに見立て引き立つ様に構成し、見せてくれる。これら全ての絵は子供の遊び安さと芸術家としての真剣な作品の両方を展示している。

 

装飾表現   爆発的な効果と色の激しい対比の為、アラブの美特有なリズムとの注目すべき繋がりがある。偶像崇拝を避ける為に幾何的で花柄であると云う二つの基本的な装飾基調がある。この装飾の用語が芸術家に広い表現の可能性を提供している。幾何学的形は恐らくその景観から与えられる。この為に急な地形は三角形で、水はジグザグで、そして木々は斜めの剛毛を持つ直線で表現される。つまりこの通俗的な芸術は生活に風趣を伝えると云う単純な意図を持つように思える。

 

フレスコ画芸術の広まり   車は使えず、家畜化した駱駝を所有したので駱駝がフレスコ画芸術を広める手段と成った。彼等の基調は次第に生き生きとして色合いの中の型紙を使った幾何学模様となって来た。複合色のアラビア、扉の上に描かれた田舎の景色は沙漠を追いやり想像上の広い庭が開けている。遠近感や影や人間や動物の様な生き物が無くてもアルプスの麓にある湖の風景の絵は水の恵みへの感謝を示している。

 

伝統的な顔料   伝統的に女性は天然の鉱物や野菜を顔料に使っていた。壁はこの地方ではバヤード(Bayad)と呼ばれる石膏から得られる石灰と松脂でまずは白く塗られた。紫ウマゴヤシ(Lucerne)やクローブ(Clove、丁字)を手で絞って緑の顔料を作り、赤は赤鉄鉱(Hematite)が多く混ざった粘土又はザクロ(Pomegranate)から作られた。青はインディゴ植物(Indigo Plant)、黒は植物性タールから作られた。しかしながら壁は植物性の顔料を失ってしまうので今では化学顔料が至る所で目に付くように成り、使われる色の範囲も大きく広がった。しかしながらどんな色が使われようと塗料壺から取り出されるのは何時も最も強烈で明るく攻撃的な色合いである。

 

2.1.4 家の作り方

 

根気の要る家作り   粘りのある泥を適切な密度を作るために砂や刻んだ藁や籾殻に水を加えながらまぜ、その混ぜて湿った塊を壁の建設場所に登っている建設職人に投げ上げる等家を建てるために三ヶ月は集中的に働かなくては成らなかった。現在ではその様な根気を求めるのは難しい。壁は泥の新鮮な層を置いて拳で突き固めて行く。窓の為の開口部は単に一層か二層の隙間を空けて作り出す。床はアカシアかナツメの幹をつなげて作られる。その上に適当な角度で枝と泥が敷かれる。各々の層は渇くのに二日掛かるので壁が何層で作られるかを知ればその壁やそして家が完成するまで何日掛かるかが分かる。

 

間取り   もしその土地の地形が許すのであれば入り口は日の出の方向に作られる。地上階では動物部屋が二つの接客室で仕切られる。階段では一段一段の違いが殆ど暗闇の中なので足がつまずく障害となる。一階では階段は踊り場に向かって開いている。その踊り場が接客室(Majlis)や居間(Mugallat)や家族がコーヒーを淹れて飲む部屋への開かれた玄関に成っている。二階には寝室が二つある。屋上は屋根でテラスとして使われ素晴らしいパノラマが眺められる。家に隣接した離れとして台所と主接客室(Main Majlis)を作られる。

 

接客室(Majlis)   接客室(Majlis)の壁は素晴らしいキャンバスとなっている。家具は豪華な絨毯と快適な肘掛けだけで豪華さの中の簡素さである。ベドウインのテントの広さが都会の生活の洗練さと結びついている。歓待のお茶で歓迎される温かさは西洋の家では殆ど見られない。壁に沿って、子供の手が届かない様に弾薬帯、ライフル銃や短剣(Dagger)の様な家庭内保管の武器が吊されている。香炉が香しい煙を広げながらパチパチと燃えている。それがそこで邪悪な心を動かなくすると同時に悪臭を消している。伝統的接客室(Majlis)や男達用の応接室内部では火器やハンジャル(Khanjar)が男性用伝統衣装の一部であったが現在ではナジュド式(Nejdi)の服装が伝統的なアシール(Asir)に変わりつつある。

 

装飾の試み   家中で装飾の試みが見つけられる。西洋文化から得られた対象は地方の熟練した技能に向けられている。全ての効果を混ぜ合わせた結果、ラジオとクリネックスの箱にお花模様の刺繍された布が被せられている。

 

2.2 アシールの伝統

 

2.2.1 石絵と岩壁画

 

数少ない石絵   涸れ谷サルム(Wadi Sarum)の花崗岩の大きな丸石がごっちゃ混ぜに成った間には石英で飾られた壁の断片、塔の基部等の廃墟が至るところに見られるが石絵は殆ど見られない。私の知る限り赤鉄鉱(Hematite)で描かれているのは南ヒジャーズ(Southern Hijaz)のマフワー(Mikwah or Makhwah)の北西にあるニール山(Jabal Nir)である。

 

豊富な岩壁画   これと対照に岩壁画は豊富である。人目でそれと分かる。ここでは重なって描かれた華麗な鞍に乗った騎乗兵が肩の上に浮かんでいる様に見える槍を携えている。ここには騎乗兵を鞍の上に縛り付けた騎乗での緊張の一種である本当の残忍性がある。これは狩りのシーンなのか戦闘シーンなのか。その上には岩がこの地方では駱駝のみで構成された一つ一つの寓話を作り出している。時には隊商を描くインディアンの縦列の中に彼等は遠近感を出す為に小さく描かれている。多くの西洋人がこれらの絵を暇な羊飼いのいたずら書き以上の物では無いと思って眺めている。しかしながらこの岩壁画の様式はそれを作った人達が芸術に対して深く本能的な意識を持って居た事を示している。

 

2.2.2 シャダ城(Shada Palace)とアブハー(Abha)の市

 

塔の様な家々   更に南では家々は低くなり大地と同じ色に成ってくる。9階建てにも成る塔の様な家々の建物の幾つかは耕作地に必要な保護を行う役目を果たしている。空には制限が無い。この村々の中では近代的な家々が全体の調和に一致してないとすれば、町々ではこれと対照的に急速な変化が前時代の美しい家々を時代錯誤な物にしている。

 

昔の建物の無いアブハー   歴史的アブハー(Abha)の中心には昔の建物は殆ど何も残って居らず、150年以上も前にアブハー(Abha)の統治者(Amir)の居城であったシャダ城(Shada Palace)が奇妙にも場違いに見える。過去は発展の必要との名の下に消し去られてしまってきた。

 

アブハー(Abha)の週市   それぞれの町で日を決めて開かれて居た週市のスーク(Suq)の中でも絵画的要素は見つからなくなってしまった。アブハー(Abha)の週市は火曜日である。市では強い芳香が空気を満たしている。辺り一帯に広がる小屋には全ての種類の物資がある。それらは籠細工、刺繍したローブ、顔料を塗られた香炉、パン焼き皿、香水瓶等地方の色彩と西洋の安物の奇妙な混ぜ合わせである。

 

喧噪下での市の秩序   表面の喧噪の下に秩序の基準がある。市(Suq)は全てのアラビアの市場を統轄する厳格な組織に取り締まられている。小屋や作業場は商品か産物でグループ分けされている。全ては買う、売る、値引き交渉の三つの主な行動の周りを循環している。

 

市で見かける農民   伝統的な外側に羊毛の付いた羊の外套(mizar)を羽織って、雨よけと日よけを兼ねた移動性のシェルターとなる大きなひさしの帽子(tafasha)を被った農民の一団の前を我々が横切る。何人かが「この帽子は約500年前に半島にポルトガル人(Portuguese)が最初に駐留すると共に現れた」と言う。重い荷物から背中を守る為に革製の長い切れ端を付けた伝統的な仕事着をまとった女性を見ることは余り無い。

 

2.2.3 アシール(Asir)伝統文化の保護

 

近年までアシール(Asir)の伝統文化はサウジにとっては殆ど興味が無かった。今日ではこの地方の誰もが失われているとの自覚も無く消えて行く建築的伝統を見逃す事が出来なくなった。今日の建築家によって幾つかの素晴らしい成果が出てきている。様式の無い構造物は伝統的な関連や色調を考えて廃棄されている。燃えがらブロックの間にも有名な浸食防止の越し屋根(Louver)を部分的に取り付けた新しい設計の家が現れている。何も役には立たないがこれらはアシール(Asir)の象徴であることを至る所で直ぐに認識できる。同時にこれらは未来の構造と過去を連結している。良い例としては19899月にファハド国王文化センター(King Fahd Culture Centre)と成ったムスタハ(Muftahah)村がある。この博物館の目的はアシール(Asir)の全ての伝統を保存することである。訪問者がこの地方で典型な生活を営むのに使われた物や道具を見ることが出来る。

 

3. カフターン族のティハーマ(Qahtani Tihamah)

 

3.1 禁断のティハーミー・カフターン(Tihami Qahtan)族領地

 

部族の独自性   アシール(Asir)の中心では一つの部族が依然としてその独自性を保持し続けている。丘陵性ティハーマ山地の遊牧民であるティハーミー・カフターン(Tihami Qahtan)の領地はファルシャ(Al-Farshah)を含むサラワト(Sarawat)高地と紅海岸の海岸回廊の間にある。その領地であるカフターニ高原には棚畑の農場が散在する光景が広がり、その高原は山羊飼いが生きて行ける深い谷間に刻まれた山々で構成されている。

 

好戦的な伝統と領土保持の意識   気候の厳しさに加えて人々の好戦的な伝統でそこへ旅行するのは簡単では無かった。住人は領土保持の意識が非常に高かった。1985年まではこの地域に道路は無く、閉鎖された世界であった。異邦人は歓迎されず、自分達の領土外で何が起きようとカフターン族は殆ど関心を示さなかった。私が始めて訪れた1987年でもカフターンの部落への立ち入りは治安の為に厳しく禁止されていた。正装した部族男達の姿は華々しく、その外見と共にこの隔絶はこの地域の魅力の大きな部分を成していた。

 

カフターン(Qahtan)族の末裔の特徴   ここでは他のどこよりもカフターン(Qahtan)族の末裔の特別な特徴を一番明確に見られる。山羊を飼育するのが得意で丘陵性のティハーマ(Hilly Tihamah)に散らばって居り、花飾りした男達とティエリ・モージェ(Thierry Mauger)が名付けたこの部族は幾つかの分族に分かれていた。各分族はそれぞれの独自性をもっては居いる。互いにその構成員が互いに否定できない類似をもつ文化的家族を構成しているけれどもカフターン(Qahtan)族同士では仕草、姿勢や立ち居ふるまい等を含め、僅かで単純な衣服や語彙の違いで他のカフターン(Qahtan)を見分けられる事を誇りに思っている。

 

ライス(Rayth)族   ライス(Rayth)族はカフターン(Qahtan)族の住むファルシャ(Al-Farshah)の南一帯に住む。彼等の住むウシュシャ('Ushshahnest)と呼ぶ半円の小屋は隣のライス族(Rayth)の地域へ移動する程に横長に成ってくる。ライス(Rayth)族の若者達も頭飾りをする。ライス(Rayth)族もファルシャ(Al-Farshah)の南の山肌に放牧地を持っている。

 

3.1.1 ファルシャ(Al-Farshah)の市(Suq)への訪問

   

ハルジャ北の分岐   足跡で出来た小道の交差の一つであるファルシャ(Al-Farshah)はティハーミー・カフターン(Tihami Qahtan)族が週に一度集まる場所の一つである。ここは外来者の訪問が殆ど許されないほぼ禁断の村であり、ここを訪れるのは観光客の周遊とはかけ離れて居た。1980年代迄は警察がティハーミー・カフターン(Tihami Qahtan)族の領地に入るのを禁止しており、検問所では訪問目的を説明し許可を求める必要があった。ティエリ・モージェ(Thierry Mauger)は「アブハー(Abha)からナジュラーン(Najran)道路のハルジャ(Al Harjah)北の熔岩地帯にある分岐で先に進む許可の交渉が終わった。その後、この谷を見渡すパノラマの眺めを翌日に満喫できる様に警察の検問所からあまり遠くない処に落ち着いた。それは莊厳な目覚めだ。ティハーミー・カフターン(Tihami Qahtan)は最高峰の海を提供し、その波は青の影になった白黒が連続する地平線に向かって最大となる」と記述している。

 

炭焼き用の枯れ木の運搬   モージェは「山腹を下ると夜明けが露を散らすと共に曲がりくねった小道がますますハッキリと現れてくる。そんなに経たない内に平原から登ってくる車両の流れにかき乱された。彼等は炭焼きに売るための枯れ木を満載してサラート アビダー(Sarat Abidah)の山岳高地に向かっている。明らかに悪い日に遭遇してしまった。ティハーミー・カフターン(Tihami Qahtan)の働き手の全て今日は出払っているので市の為には明日を待たなければならない」と述べている。

 

ファルシャへの下り道   カフターン族が週に一度市の為に自動車で往復するこの道はヘアーピンの曲がりの連続で一気に1,000 mも急な坂を転がり下る。この踏み跡は険しい傾斜やぴかぴかの片岩の為にくぼみだらけで何カ所も途切れて居り、運転への集中力を一瞬たりとも切らす事は出来ない。下るに連れて山腹には奇妙に曲がりくねった植物である竜の木がへばりつき、暑さと湿度が増す。涸れ谷の縁に沿って並んだり、山側に向かって建てられたりしている建物は木の枝で作られた円形の掘っ建て小屋に変わり、その中でも野営用の小屋は単純で簡素に成って来る。涸れ谷の土手には二つの幹のあるマット材に使われ、私が芭蕉椰子と渾名しているエダウチ椰子(dawn palm)が地表から余り深く無い地中で水のある集水地へ侵入し、美しい森のトンネルを作っている。(エダウチヤシはテベスドームヤシとも呼ばれ、英名はdoom palm, doum palm or dawn palmで学名はHyphaene thebaicaであり、アフリカ産の大きな扇型の葉を付ける椰子で沙漠の土壌を安定させるのに重要な働きをし、その果実は林檎位の大きさで食用になる。)この涸れ谷は涸れ谷バイシャ(Wadi Baysha)の上流域で枝沢の一つの涸れ谷サルム(Wadi Sarum)から北へ分かれた涸れ谷である。キビの緑の畑に散在するのはコンクリート製の家々でそれ程遠くない場所に伝統的な材料を青いプラスチックで代用した掘っ建て小屋や野営用の小屋の見苦しい混在がある。

 

日本製の車を持つ山羊飼い達   市(スーク、Suq)に向かう踏み跡を下り続けていると何かを待っていたのか或いは何もする事の無さの甘い楽しみを満喫して居たのかの様に踏み跡の傍にうずくまっている男達が見るだろう。スーク(Suq、市)に向かう車の多くはこの密集した派手な色の群衆を避けなければ通れない。この男達は日本製の車を持つ山羊飼い達でその場では不調和な車を競い合う会合を行っている。このバド(badu)達は面食らわせる様な気楽さで駱駝や驢馬をオフロードの車に入れ替えた。彼等はオフロード車を最高の栄冠を得た駱駝の乗り手の巧みさを持って運転している。誰かが車を好きであろうと無かろうと車は遊牧民の移動性と自由の近代的な象徴となった。これらの車の所有は常に大きな誇りである。バド(badu)は車を涸れ谷に車体の底まで乗り入れ、ドア、トランク(boot)やボンネットを開け、多くの水を使ってそれらを洗い、拭きそして磨くのにあからさまな喜びを持つ。それ程遠くない処に優雅なコウノトリ(stork)の一種のシュモク鳥(hammer kop)或いは鷺等渉禽(wading bird)がこの光景に色を添えている。

 

水煙草   喫茶室では長い楽しげな筒で儀式的にシシャー(shishah)と呼ばれる水煙草を客達が喫煙する。客達は乾燥した果物で作られた煙草から引き出される穏やかな麻痺状態を楽しむ。

 

3.1.2 男達の頭の花飾り

 

対立の終焉と自己陶酔   部族内部の対立の終焉はこの様な自己陶酔(narcissism)に耽る時間を持てる無気力症の一種である倦怠をもたらし、男達は自分達が羨む女の美しさ、優雅さおよび魅力等を全ての要素を取り入れた。

 

美意識としての髪型   彼等の美意識は特に髪型に関心がある。花、葉、芳香植物、全ての花のレパートリーは彼等が自分達を毎日特に金曜日に飾り立てられる広い選択を与えてくれる。特に山羊飼いとは云え、これらの花で飾った男達は植物に対する繊細な愛着を示している。これと対照に山岳高地に住むカフターン族は一輪挿しでバジリコ(basil)の小枝を髪にさして満足している。

 

髪飾りに使われる植物   「この男達が何時かは一時的な自然の草花では無く造花を使い始めるのではないかと思う。自然の植物の組み合わせを捨て、木綿や毛糸等の他の材料を使って抽象的な効果を狙う様になるかも知れない」とティエリ・モージェ(Thierry Mauger)は述べている。髪飾りにはジャスミン、バジリコ、ニガヨモギ(wormwood)、フランス マリゴールド、パンヤの木の花(fleurs de kapokier)、セリ科の植物(umbellifer)、カディ(kadi)等本当に驚かされる程に多くの種類の植物が使われている。中にはフランス語にも英語にも名前の無いこの土地特有の植物もこの表に加わってくる。

 

頭飾りの特徴つけ   頭飾りを特徴つける為に男達は何か自分自身のテーマを強調する。その為に彼等の中には大量の葉飾り(foliage)を求め、その量の効果で目立たせている者もいる。その様な男は同じ色でも異なった色調を使って色の効果を求めようとする。例えば緑であればバジル(basil)の鋭い緑にニガヨモギ(wormwood)の灰色掛かった緑を添える。古代ギリシャ人も緑の飾り輪(circlet)を薔薇の蕾、スミレの花(violet)、百合や水仙(narcissus)で引き立たせ(pick out with) 殆ど彼等と同じ様な事をしていた。

 

グトラを被った男達   1980年代からは男達の中にはグトラ(ghutrah)と云う赤と白の格子模様の頭布をかぶっている者も多くなって来た。美の典型である信じている彼等も又、山岳高地から羊を買いに或いは女性を魅了する為に下って来ていた。格子縞の頭被りが花で飾った人達の間を動く様は美酒を求めて蝶の群が花から花へと飛び回るのを眺めている様に感じられる。

 

香料の重要性   同じ様に匂いも彼等の生活の重要な部分を占めている。モージェは「突然にも香料の不思議で神秘的な力が分かった」と言う。スーク(Suq)の中にはうきうきさせる香りを放出させている薬瓶(Phial)、フラスコ(Flask)および刈りたての芳香植物を置く場所が用意されている。

 

3.1.3 山羊の取引を中心にした市

 

交流の場でもある市(Suq)   (Suq)は友達と会ったり、旧交を温めたり、最新のニュースを交換したりする取り分けの場所である。

 

ファルシャの市の売場   じくじくしたバターで満たされた羊皮の袋のぶら下げられた場所を抜け、市(Suq)を通り過ごすとその先には腹の張ったカラバッシュ(Calabash、熱帯アフリカ産高木の瓢箪状の果実)の列とたくさんの梨型をした瓢箪(Gourd)が並べられている。養蜂家が瓶に詰めた貴重な蜂蜜を売って居り、この黄金の液体は一瓶が250リアル(40英ポンド)もする。近くでは金床(Anvil)の上の金物をハンマーで打つ音が聞こえ、短剣(Dagger)が研がれているのが見える。時にはショックアブソーバーが刀身に変えられる事もある。

 

商いの基本である山羊   依然として山羊がこの市の商いの基本である。ここの山羊はひ弱そうな見掛けで毛は短く、ベドウインの有名な黒い天幕に織られる毛を提供する山岳高地産の大きく長い毛の種類とは異なっている。地形の違いが二つの異なる遊牧様式に合わせ、それぞれ異なる二種類の山羊を産み出した。ティハーマ(Tihamah)の山羊の群には限られた地域で垂直な放牧が行われ、山岳高地の遊牧では集落の周りに広がったり集まったりする特徴を持つ水平な放牧が行われている。

 

山羊の品定め   買い手は動物達を優れた背丈、活きの良さ、脂肪の付き具合や値引き交渉の結果で吟味する。ファルシャの辺りは植生に恵まれて居り、山羊の質は良いので遠くイエメン国境のナジュラーン(Najran)からもヤーム族(Yam)等が山羊を求めにやってくる。

 

3.1.4 市には稀な女達

 

女達は顔を蜘蛛の網の様なヴェールで隠した何人か壁の影にちぢこまっている。彼女達が控えめであるのはこの様な場に居るのが稀だからだ。物理的に彼女達はアフリカの女性達を思い起こさせ、ラテンアメリカの農婦の様な服装をしている。こっそりと彼女達のインディゴ(Indigo)色のチュニック(Tunic)を一瞥した。ガラスのビーズに通された縞のある瑪瑙の模造して三つの真珠貝の円盤が彼女達の胸に重なって吊されている。見事に編まれた皮のベルトでサロンの一種が腰の周りに締められている。彼女達は室内装飾用の留め具で即興的に作られた鎖で止められた一連の小さな鈴で縁取りされ、星くずの様にきらめく目を見張るばかりの帽子を被っている。彼女達のヴェール越しに認識できる気高さや見事な肢体や彼女達の衣装の落ち着きがのびのびとした上品さと優雅さを作りだしている。

 

3.2男性的である誉れ

 

3.2.1 男性の伝統

 

思春期を過ぎての割礼   この地域の若者達の一部には割礼が依然として儀式として行われている。この儀式は思春期を越えるまでは行わないのが普通である。これは男らしい勇気を試す儀式でもあり感染を減らす為の習慣でもある。しかしながらこれに続く祝いに一部の家族に取っては受け入れがたいほど法外に費用が掛かる。更に今日では子供が病院で産まれるのが普通で生まれてから数日以内にそこで手術されている。この習慣はイスラームとしての必要では無いけれども男の割礼は習慣として依然として広く行われている。割礼を受ける若者は時々トアバ(Tuaba)と呼ばれる独特の髪型をする事で「彼等がまだ男として認められられない」と言う様な議論から免れる事が出来る。

 

誉れである武器   男性的である誉れは武器を身につける必然性に密接に関連している。全ての山羊飼いは膨れた弾薬帯、拳銃、ジブチ(Dijibout)かアデン(Aden)製のライフル又はオスマン帝国(Ottoman Empire)時代のモーゼル銃(Mauser)の様な戦闘装備を身につけている。更に最近ではソビエトから入手したカラシニコフ(Kalashinikov)銃がイエメン(Yemen)では手にはいる様になった。この様な武器が或る意味で男らしさを保証している。

 

男達の踊り   険しい断崖の谷に銃声がこだませずに祭りが終わることは殆ど無い。伝統的に男も女も共に踊ていた。今日では男達が結婚式や宗教行事で踊り、女達は彼等から距離を空けている。踊りは明確に好戦性を持ち、この人々の戦争状態であった過去を思い出させる。彼等は並んで立って円の弧を作り、それは間もなく彼等の歌のリズムに合わせゆっくりと揺れ動く。突然、彼等の一人が列から前に出て銃を持ち上げ振る舞わし始め、他の者達も次々とそれに続く。彼等はまた決闘の模擬勝負を行い、その中で殴打が相手に触る事は無い。それからかれらの攻撃的な動きは誉れの光景に変わって行く。

 

3.2.2 男のアクセサリー

 

伝統的な短剣(Dagger)   伝統的な短剣(Dagger)は依然として南アラビアでは一般的でこの地方ではジャムビイヤ(Jambiyyah)と呼ばれ、サウジではハンジャール(Khanjar)と呼ばれている。男のアクセサリーであると共に男が自衛できる目に見える証でもある。曲がった鞘とサイ(Rhinoceros)の角或いは時にはアイベックス(Ibex)や山羊の角等の握りをベルトの中央から縦に身につける事が男の象徴の一部である。持ち主の格式を示すためにダガー(Dagger)にはしばしば宝石が埋め込まれている事もある。

 

子供達の武装   子供達は喜んで打ち解けて来て、出来るだけ大人の真似をしようとしている。小さな子供も小さな大人の様に武装し、顔つきは歳にしては厳しく弾倉を帯び、短剣(Dagger)を差しているが拳銃はプラスチックである。

 

3.3 ファルシャの市(Suq)

 

3.3.1不穏な雰囲気  

 

ティエリ・モージェ(Thierry Mauger)は「私は犬がスキットル(Skittle)ゲームに飛び込む様に自分自身が市(Suq)の四角い場所に急に飛び出したのを感じた。何人かの男達は疑い深く私を見上げたり見下ろしたりしたが大半の者達は私を一瞥しただけである。彼等の暗い目の中から読んだ全ては皮肉(Sarcasm)と侮辱(Insult)であり、不穏な雰囲気が漂っている。これらの人々は本能的にどきどきしている。彼等は過去に属しており。私は実際に知り合う事無しに出くわしていた。この様な出会いが私の浪漫的郷愁をかき立てる」と述べている。

 

3.3.2 男達の特色ある着物

 

インディゴ(Indigo)の外衣   放牧民の何人かはシュッター・モンタガー(Shutter Muntaqah)の略語でタグ(Tag)とこの地方で知られる長いインディゴ(Indigo)の外衣の布きれを頭にターバン(Turban)の様に巻き付けているが大半はそれを古来の伝統に従って折り畳みしっかり固定している。インディゴの布きれの長さが丘陵性のティハーマ(Tihamah)山地のカフターン族の間では伝統的服装の重要な部分でもある。

 

彩色された縞模様の木綿布地ウスラ(Wusra)   彼等は体の周りに様々に縞のあり薄く広がった長さ2 m で幅1.5 mの木綿の布地を羽織っている。この布は端が縫いつけた裁ち切り房飾りで縁取りされたウスラ(Wusra)と呼ばれている。これは典型的なイエメン(Yemen)風の服であり、依然としてバイト・ファキーフ(Al-Bayt Al-Faqih)で作られている。異なった幅に彩色された縞模様で異なる血統を区別し部族、一門を識別できる。これはスコットランドのタータン模様と同じようにこの衣装の機能と成っている。

 

華やいだ縞模様のシャツ   この特色ある着物がアシール(Asir)の文化的征服がいまだに完了してない事の現れである。着物は部族社会の何処にでも審美的、部族的そして社会的規範として個人の自己イメージとして残っている。華やいだ縞模様のシャツはもっと流行している(in vogue)文化的統合の徴である。一つは腰布(Sarong)に良く調和し、一緒に着る事で腰布(Sarong)の水平な筋とシャツの垂直な筋が素晴らしい組み合わせを作り出す。

 

3.3.3 友情の徴   

 

二人の若者が並んで歩く時に一人が右手の指でもう一人の左手の指を円く引っかけるのが友情の徴である。他の二人は果てしない議論をしている。彼等は何についてそんなに夢中に話し合っているのか。情熱的で果てしない彼等の論議は喜びの真の芸術でもある。彼等の一人が驚いた様子でコウノトリの様に片足を曲げて立ち上がり、疲れた様子もなくその儘にしている。

 

3.3.4 写真への偏見

 

写真への敵意   この地域の殆どの人々が依然として写真に対して同じ偏見を持っている。それは宗教的なタブーのみならずこの地方の官憲にも影響された態度である。このカフターン・ティハーマ(Qahtan Tihamah)は他の何処よりもエチケットの基本的な規則に違反しない方が良い場所であり、悪意のある外見、言葉での警告、押し合い、道具を押収しようとする試みや警官を呼ぶ等の行為等否認を示す写真の撮影に対する敵意が感じられる。

 

写真の禁止   ティエリ・モージェ(Thierry Mauger)は「悪態をつき続けながら撮影道具をもぎ取ろうとする男との口論は大きな敵意を持った集まりを呼ぶ。警察官が車で上って来て『写真は禁止だ』と言う。警官にマヌー・ミリタント(Manu Militant)と呼ばれる警察詰め所に連れて行かれた。警察署長はサウード家の印鑑の押された公式文書を見て例外的に撮影にもどる事に白紙許可(Carte Blanche)をくれた」と述べている。

 

3.3.5 花で頭を飾った男達の撮影ポーズ

 

写真を撮られたい男達   反対に写真を撮って貰いたい男達もいる。私も1997年にこの地域を旅した時にハイウェイに蜂蜜売りに来ているカフターンの男達から「自分は美しいので写真に撮ってくれ。この中で誰が一番美しいと思うか」とせがまれた経験がある。

 

髪型へのこだわり   写真を撮りたい男達が自分達の髪型に非常にこだわり手に持った鏡をじっと凝視し、写真で永久に残す前に自己陶酔のこの魅力的な光景を際限無く見ているのは不思議な光景である。

 

アダン(Adan)の髪飾り   モージェは「取り分け魅力的な若者をネットに捕えた。彼はチューリップの様な二輪の大きなピンク色の花をそのモップの様な髪に挿している。これらはアダン(Adan)と呼ばれる丸く膨らんだ幹を持つ強くずんぐりした木の花である」と述べている。

 

メーキャップする男達   撮影される前にメーキャプしようとする男達は互いにバックミラーの前で押しのけ合っている。それは外国人の妻達が夕食会に出掛ける前に行っていると同じ様な仕草である。交替で平らな石の上に置かれたアンティモニーの粒を彼等の目のメーキャプに擦り込む。コール(Kohl)を塗ることで殆どの基本的な表現に富む力が与えられる。彼等の一人はマリゴールド(Marigold)が輝くヘッドバンドを調整した。用意が出来るとわざとらしい注意深さで彼等の型にインディゴの布を掛け懸命な誇りと毅然とした顔で写真の撮り手をにらみつける。

 

3.3.6 コーヒーによる歓待の儀式

 

穀類の殻を煎じたコーヒー   モージェはマヌー・ミリタント(Manu Militant)と呼ばれる警察詰め所でここの作法が要求するコーヒーによる歓待の儀式を受けて居た。このコーヒーには本物のコーヒーは入って居らず、ティハーマ(Tihamah)の何処ででも飲まれている穀類の殻を煎じた(Decoction) ショウガ(Qushr)風味の奇妙な飲み物である。

 

コーヒー豆を使わないコーヒーの発祥   コーヒーの輸出量を増やす為にイエメン(Yemen)では自家用にはコーヒー豆を使わず、コーヒーの変わりに殻で同じ様な飲み物を淹れ、コーヒーと名付けた。経済的な理由からこの様にコーヒーを淹れる節約方法がアシールにも広まった。この風味は通常のコーヒーとは全く似てないと言う事を認識していてもこの味を楽しむには相当な努力が必要である。

 

奇数杯のベドウイン(Bedouin)伝統   最高のベドウイン(Bedouin)の伝統として客は奇数杯を飲まなければ成らない。伝統的には三杯と決められている。この一杯を満たすだけでベドウインの言葉では非常に明快な仕草がある。侮辱は飲み干して出て行く事であらわされる。或る諺は「敵にはなみなみと注いだ一杯を供するだけにしろ」と教えている。これと対照的に唇を湿らすだけの量で杯の底が見える程度に注ぐのは喜びを示している。この儀式は海岸地帯のティハーマを除くサウジアラビア全土にしっかりと根付いている。

 

3.4 カフターン族家族の住む崖地

 

3.4.1崖地への踏み跡へ

 

踏み跡入り口の警告   ファルシャから踏み跡に向かう。その入り口は崖地に住むカフターンの男達が危険を察知すると射撃してくる場所である。

 

困難で危険な踏み跡   山腹を揺れながら行くと風の吹き抜ける涸れ谷の踏み跡は時としてもの凄い落石の間にやっと曖昧ながら確認できる程度であった。道路沿いにはこの様な最も未開な地域が見つけられ無いのは当たり前である。不意に襲って来る激しい鉄砲水を引き起こす局地的な嵐で踏み跡でもその被害にあった酷い跡がみられる。青白い幹を持った素晴らしい西洋カジカエデ(Sycamore)も洪水がその曲がりくねった根を洗い出し地下ののたうち回る根を白日に曝している様な場所もある。

 

アカシアの林で餌を探す山羊   タイヤに取っての本当の災難であり、楊子の種苗所でもある棘のあるアカシアの中では住人を見下げながら山羊が蜂の様に熱心に葉を食している。曲がっているアカシアは根元から梢へとその影を徐々に広げ、まるでショーの様な姿を見せる。谷の木々がその最後の芽まで剥がされると山羊は食物を探して険しい山腹を上り下りする。力強い筋肉の付いた前足を持っているので山羊はゆっくりと注意深くでも確実に岩壁をよじ登れる。山羊は本能的に速度を殆ど緩める事無く最良のルートを探し出す。

 

遊牧山羊飼いの若者   疲れを知らない歩行者である美しく筋骨のたくましい山羊飼いの若者は山羊の足と渾名された確かな足取りで岩だらけの土地を移動できる足を持つ。彼の足の指は手の指の様にしなやかで把握力がある。彼はライフル銃を頑丈な首に天秤棒の様に乗せて片手で銃尻をもう一つの片手で銃身を持ち、手に血が来るのを防いでいる様な格好をしている。

 

ヤマアラシの櫛   ヤマアラシはその辺りにたくさんの足跡が付いて居る程棲息している。山羊飼いの若者はヤマアラシ(Porcupine)の針(Quill)を短刀(Dagger)の鞘(Scabbard)の差している。この針(Quill)は櫛の様に使い、彼の髪を頭の真ん中から分け整える。彼等はもしかしたら出会うかも知れない山羊飼いの女性の甘い注目を得る為に自分の容姿の手入れにとても注意している。若いカフターニは多彩な毛のヘッドバンドをし、頭飾りを被り、コール(Kohl)でアイシャドーをして髪を整える為にとてつもない長い時間をかける。

 

追跡者としての名声   ティハーマ・カフターニ(Qahtanis of Tihamah)は比類のない追跡者としての名声があり、足跡からアラブか黒人か、男か女かそして妊娠しているか見分けられる。彼等は自分達の道筋を注意深くそして時間を掛けて観察している。恐らくは更に単純な熟練も他に持っていると思われる。

 

動物の鳴き真似   ティハーマ・カフターン族の一人はヒヒと居る様に感じるほど真に迫った類人猿(Simian)の雰囲気と吠え声を真似て見せた。自分の友達の注意を引きつける動物の鳴き声を真似るのはこれらの人々のもう一つの技量である。疑いもなく山羊飼いは時々彼等の獲物をおびき寄せる為に野生動物を真似る様に成って来たのだろう。豹(Leopard)を狩るには、狩人はヒヒの様な豹の欲しがる獲物を真似したり装ったりしなければ成らない。何回も山羊飼いが彼等の群から離れて作り出す音の豊かさに魅惑された。彼等は本能的に間投詞の様に叫ぶ短い言葉を使い基本的な要素に戻って言語を作っている。

 

3.4.2 崖地へ到着

 

乾いた涸れ谷河床の自動車での遡上   乾いた涸れ谷の河床に沿って運転を続け、静かに水の流れる峡谷の底では時々は困難な遡行となる。

 

涸れ谷に生えるナツメ等豊富な植物   葉の豊富なナツメの木(Jujube Tree or Sidr)の木陰で止まった。この木の高さは10mにも及ぶ事もある。この地方の人達はこの葉から頭のシラミを退治する煎じ汁(Decoction)を作る。この地方の風景は王国の他の地域と異なりその植生は豊富で種類も多い。蔓植物(Lianas)や他の着生植物(Epiphytes)が木の幹の間にそれら自身が繁殖する為に編み込まれ、葉の屋根が太陽を閉め出している。

 

カフターンの居住地   崖地は活気の無い小屋、無感動な家畜、三角形に組んだ石に乗った料理用鍋、分別された対象物や食用のさやを付けた大きなタマリンド(Tamarind)の木等でごった返している。不潔とは言わないまでもこれらの場所の無頓着な雰囲気である。山羊は自由に歩き回り蹄や鼻を皿の中に突っ込み丸い光る糞を行くところ何処にでも残している。

 

少数飼育の駱駝   駱駝の群を所有する沙漠のベドウイン(Bedouin)とは対照的にティハーマのカフターン(Qahtan of Tihamah)は稀に駱駝を10頭以上所有する事もあるが多くは23頭所有するに過ぎない。シュメール人(Sumerian)の本に最初は湾岸からメソポタミア(Mesopotamia)へと伝わったので海の驢馬と呼ばれる駱駝は驢馬の次ぎに面倒な家畜である。今日ですら全ての物資と野営用の家財を積んだ駱駝を護衛するのに山羊飼いが騎乗するのは驢馬であり、この様な隊商を見たのは涸れ谷ディリア(Wadi Dala')の中だけである。車両部隊が駱駝部隊に変わってはいるが商業的な伝統は続いている。

 

3.4.3 ドーム型の小屋

 

ウシュシャ   カフターンの家族の住む小屋の敷居を跨ぐとひんやりとした暗闇になる。ウシュシャ('Ushshah)(巣Nest))と呼ばれるティハーマ・カフターン族(Qahtan of Tihamah)のドーム型の小屋である。移動する時にはウシュシャ('Ushshah or nest)と呼ぶ小屋の骨組みはその場に残して被いだけを持ち運ぶ。明確な同族類似のここでは半球の彼等自身特有なスタイルの小屋にもかかわらず、材料と建設の速さは外部から来ている。半球の小屋は隣のライス族(Rayth)の地域へ移動する程に横長に成ってくる。フレームを覆うキャンバスシートは椰子の葉に変わっている。

 

ドーム小屋の構造   ドームは曲がった柱で作られその上を椰子の葉か布が覆う。天幕と対照的でこれは移動式の小屋では無い。居住している家族は移動すると決めるとフレームはそのまま残し布のカバーだけを持ち去る。その原始的姿の為に天幕の原型となった小屋だと言う人達もいる。すなはち時と共に洗練され軽く持ち運び出来る天幕に成った古風な建築物と云う事だ。しかしながらこの発展の理論は修正されなければならない。アラビアでは小屋と天幕は平行して発展して来た様に思われる。これを証明する為にラビーア(Rabi'ah)とバニー・ムガイド(Bani Mughayd)の山羊飼い部族の例を取り上げてみる。彼等の生活のやり方や置かれた環境はティハーマ・カフターン族(Qahtan of Tihamah)と同等と見られる。しかしながら彼等はマット作りの原料となるエダウチヤシ (Dawn Palm)で出来たマットパネルを支える木製の骨組みで作られた組立式の小屋の様な文字通りマットの家を意味するバイト・ハサーフ(Bayt Khassaf)と呼ばれる平行六面体(Parallelepiped)の骨組みを持つ天幕に住んでいる。これらは分解し輸送できる。

 

小屋の内部   ムムタラ(Mumtara)と呼ばれる山羊の毛皮が織物の技術の無いこの地方ではカーペットとして使われている。天井は煤けている。その中の幾つかが私の衣服や髭に後々まで長く消えずに残る程刺激のある乳製品、植物油、尿および山羊、家庭内の呼吸の入り交じった間違い様の無い匂いがする。食べられる物は全て整頓し山羊から遠ざける為に吊してある。

 

3.5 崖地の女性

 

3.5.1 女性の服装

 

ヴェールの着用   ここでは結婚した女は男の欲望を避ける為にヴェールを着用するのを求められている。電気モーターから回収された銅線から多くの工夫でトルク(腕輪や首輪)が部族の女達によって作れている。鍵で押し曲げ、織り込まれた銅の二重の頭帯がヴェールを所定の位置にヴェールを留めている。暫くして防御が弱まるとヴェールは取り払われる。

 

木製の留めかぎミゼッラ(Mizella)   ティエリ・モージェ(Thierry Mauger)は「彼女を撮影する本人の許しを貰ったがカメラは影を奪うと彼女は依然として懸念し、了解と言っても冒涜を犯すのに近い弱さであった。撮影はミゼッラ(Mizella)と云う彼女の帽子の木製留めかぎの下から行った」と述べている。この留めかぎは金メッキした飾り鋲をちりばめた非常に細かい駕籠細工である。その為に保護の対象や魅力のある単なるアクセサリーからは程遠い。

 

女性の帽子   カフターニの女性は大変念入りに藁の帽子を被る。小屋の中では帽子は全ての目的の為の大型手提げ鞄として個人的な所持品を置く場所にも使われている。頭飾りを開けると塩基性油のエッセンスから作られた香から蒸発した鼻を突く臭い油の匂いがする。

 

女性の入れ墨   入れ墨は殆ど常に同じで例外なく下唇の真ん中から顎に向けて引かれ小さな点で飾られている。

 

赤子   赤子は裸であるが、皮の綱が体に巻き付いている。火に真っ直ぐに向かう徘徊する道を抑制する為に赤子は皮紐でつながれている。

 

3.5.2 女性が作る日用品

 

皮加工の熟練   小屋には何も隠す物は無く全ては展示され、瓢箪や皮の工芸品の様な家庭用具はかわいらしく飾られている。それらは山羊飼いの生活には豊かにある日用品だが、皮加工への注目すべき熟練をしめしている。職人の技能は不可欠な必要を満たす為の遊び的な方法の様に見える。詳しい観察者は東アフリカの技能との様式の関係を見出すだろう。殆ど全ての家庭で同じ物を持っている。その機能を保った永遠の用具に魅力を感じる。この部族の女性達が時間の進行を引き返しながらどの位長くこの様な用具を作り続けられるのか。部族の必要と好みの貴重な表現である伝統的な職人技能の原型を維持するが望ましい。これら全ての備品から花婿の嫁入り衣装を結婚式の前までに作り出さなければ成らなかった。ここではそれを全て見せる。母親の幸福は優しく山羊の皮で作った揺りかごを揺らす事である。

 

主な日用品   ハダジャ(Hadaja)と呼ばれる瓢箪(Gourd)はミルクを集めるのに使われる。紐編みされた袋の中には首が皮で美しく飾られた駕籠網で補強された太鼓腹のダビア(Dabia)或いはキャラバシュ(Calabash)が保たれ、攪乳器として使われる。瓢箪は三本の杖で作られた三脚に吊り下げられる。ムスバア(Musbaa)と呼ばれる漏斗状になったこの果物の首の部分が切断され溶けたバターを漉すのに使われる。攪拌された後、バターはカアダ(Kaada)と呼ばれる皮のスカートの付いた木製の容器に貯えられる。自家製のラジェナリア(Lagenaria、瓢箪)の木材質の皮は完全な水壺として使える。ハスクル(Haskul)と呼ばれ革ひもの調整で開閉する袋はコーヒーを保持するのに使われる。全ての用具は子安貝(Cowries)と真鍮の釘で装飾されサク(Sak)と呼ばれる部族の印が付けられる。

 

3.5.3 苛酷な女性の労働

 

水汲みや製粉   男らしくないと見なされる仕事をするのは慣習的に女性である。そして一番苛酷な労働を担うのは女性である。男は井戸から水を汲んだり穀物を製粉したりは決してしない。この仕事は女達に取って男が行うと想像できない程に個人的で、その実行は儀式的である。

 

女達の乳搾り   暮らしが蘇る為に攪乳器の重いいつもの音がリズムを添える。ほっそりした少女達が山羊の乳を搾りに行く。ヘンナ(Henna)で赤く染められた彼女達の足は大地を優しくなでている様に見える。彼女達の足の裏は一生裸足で歩くので丈夫に成っている。彼女達は尖った物やアカシアの棘が彼女達の足に刺さらないクッションと成るような歩き方を身につけて居るようだ。

 

ミルクの攪拌   カフターン族の夫人が自分の小屋の中で瓢箪と三脚を使ってミルクを攪拌している。

 

山羊の世話   指導者の合図で若い女が家畜達にオートムギをばらまく。哀れっぽく鳴いていた山羊達が言葉で言い表せないスクラムを作って撒かれた餌をむさぼり食べている。恐ろしげな一頭の雄山羊が群れに恐怖を与え、暴君的な存在の力で一瞬群が後に下がる。小山羊は毛皮の襟巻きの様に小さな少女の肩に乗って運ばれる。女性が足を掴んで哀れに鳴いている山羊を引きずっている。老いた女性が調理用鍋を砂で磨いている。この様な光景は牧畜生活者の生活では百回も繰り返される。

 

石臼でのモロコシ挽き   女性がマッタハナ(Mattahana)と呼ばれる石臼の前に跪いて湿ったモロコシの穀物を挽きつぶしている。ティハーマ(Tihamah)中で使われているこの石臼は穀物が置かれる凹石とその上を転がりながら穀物を粉に挽きつぶす横長の石で作られている。依然としてスダーンで使われているこの形式の巨大なロラーと臼はサハラにはたくさん見られる事で考古学者には良く知られている。家庭生活でのこれらの置かれる場所ではラハ(Raha)と呼ばれる地中海起源の小さな回転式石臼に一部分は置き換わって来た。

 

パン作り   穀物を粉に挽きつぶすと女性は拳大の丸いパンをオーブンの役目をする地面に掘った穴に隠された平らな石の上に並べて作るだろう。女性の清潔で無い手で練られたパンも火で浄火される。パンを作るのは重要な儀式である。これは挽く、練るおよび調理するの三つの行為から構成されている。パン作りは非常に重要である。パンは肉の代用であり山羊飼いの唯一の資産である群を守って来た。パンは常に旅人に供される生活上の簡素な物でもある。

 

繕い仕事   女はここでは何でも自分で繕わなければ成らない。例えばキャラバシュ(Calabash)を修理には鉄の千枚通しを使って彼女は破れの両側に穴を開け、それにエダウチ椰子の繊維を通し、それから両端を一緒にする為に締め上げる。

 

3.5.4 限定された女の世界   女の世界は地平線を遮り彼女の領地を決めている山々によって限定され、外国がある等世界の広大さを理解する事は無い。毎日の苛酷な生活に追われ、自分自身の将来に対する考えを何ら持って居ないのだろう。

 

3.6 崖地の男達

 

3.6.1 小屋の主 

 

戦士の生活   小屋の主である亭主は芳しい臭い香らせ、カラシニコフを身近に携えており、戦士の生活で一般的に身に付く静かにやさしい精悍さを持っている。この戦争でのしている様なこの付属品を奪われると彼は自分の男らしいを耐え難い程に損なわれると感じるだろう。彼は弾が詰まった弾倉付きのチェコ製造の自動拳銃も持っている。

 

小屋の狭さ   モージェは小屋の狭さについて「痺れた足を曲げたり伸ばしたりした。動けなさとじれったさで一個所に留まれない事に接待主は苛立っている様だ。しかし小屋はまったく小さすぎる。その上に自分の先天的な閉所恐怖症(Claustrophobia)に苦しんでいた」と述べている。

 

3.6.2午後の饗宴

 

始まりのお茶   先ずは子供によって茶が運ばれて来る。困るのは砂糖に魅せられた蠅が大儀そうに這え回っている。更に蠅達は人間の唇や目の隅を捜してまわる。油断すると息をする間に蠅を飲み込んでしまう。

 

マンディー(Mendi)   サウジではマンディー(Mendi)と呼ばれる伝統的方法で調理した山羊の肉片を一杯載せた皿を持って来られる。マンディー(Mendi)の調理法は先ず穴が掘られ、石で満たされる。そのてっぺんに石を熱する為に燃えさかる火がその上に置かれる。それから肉片がその中に置かれ香木が撒き散らされる。それから男達が歌いながら或る者は木で或る者は石で或る者は砂で穴を塞ぐ。リズミカルな伴奏がこれら日々の活動の一番重要な部分である。

 

食べる喜び   午後の中頃に食べることは意に反するとしても地方の習慣に馴染むことは極めて重要である。そんな事で食べるのを弱々しく断るのは社会的な犯罪である。何人かの隣人がこの様な饗宴に堅苦しさを感じる事も無く参加している。彼等はこの棚ぼたの幸運を喜びながらどん欲に食べ、彼等の指を皿の中まで突っ込み骨髄を食べるために骨をポキンと折っている。

 

くつろぎのシャンマ   シャンマ(Shamma)は煙草とライムの混合物である。煙草の葉を数日の間、日に曝され粉に砕かれそれから同じ割合でライムと混ぜ合わされる。下歯茎に滑り込ませ、吐き出す程の量の茶色に成ったジュースを作る。そのジュースはくつろぎを引き出す。

 

食後の射撃   モージェは「接待主は彼のカラシニコフ(Kalashnikov)を渡し、自分には殆ど見えない山の上にある石英の光るランプを即席の目標として狙う様に命じた。この様に彼は客である自分に好意的に最初の一発を撃たせてくれたがそれは外れた。自分は陸軍を除隊して以来、ライフル銃を扱って居なかったので接待主が自分に稽古をさせてくれたのが嬉しかった」と記述している。男達はそのライフル銃を静かに肩で担ぎ、長く狙いを定め発射する。その正確さを競うのは遊びでもあり実演でもある。

 

3.6.3静かな男

 

白痴マジュヌーン   静かな男が無表情にその一団の向こうに立っている。彼はマジュヌーン(Majnun)と呼ばれる白痴であると言う。実際に彼も又、神の創造物なので彼を隠す理由は無い。

 

悪魔の霊ジン   彼等の精神病に関する理論は興味がある。凶人は悪魔払い(Exorcism)の儀式で追い出されるのがふさわしいジン(Djinn)によって所有されている。

 

残酷な治療法   ジン(Djinn)から免れるのはその偶像を定着させるかどうかである。言い換えれば、誰かが悪魔の霊にその名を宣言させなければならない。残酷ではあるが有効に思える方法はジン(Jinn)がその名を名乗り、出てくるのに同意するまで杖で病気の男を打ち据える事である。

 

3.6.4 崖地での野営

 

不意の夕暮れ   「夕暮れが不意に周囲を捕らえた。自分は辛うじてしか分からない踏み跡を辿るのを望まず、むしろ今居るこの場所で夜を過ごしたいと思った。三本の炭素繊維の支柱で支えられる自分のトンネル型のテントは接待主を当惑させた。しかしながら第三の要素であるアラブが特別に敏感な匂いは断固として自分の高価な住まいを彼等の神から与えられた住居から離した。彼等はこの中では家庭に居るような感じには成らなかった」とティエリ・モージェ(Thierry Mauger)は述べている。

 

4人の襲撃者   モージェは野営地を襲撃された事を「自分の空想が取り留めも無くなった時に車軸のキィキィと云う音が車の到着を知らせる。それが自分を突然現実に戻した。4人の男が大型猫科の機敏さと用心さで彼等の武器の全てを見せながら飛び出してきた。彼等の筋肉は彼等のインディゴと太陽で絶えず磨かれた皮膚の下で波打っている。彼等は目に挑戦的な睨みを浮かべて瞬間的に自分を見た。自分は如何に簡単にカフターニ族(Qahtani)の胸の中にある可燃性の熱情を煽るのが容易いなのかを知っているので自制心を持って対応した。ヨモギの小枝がサムン(Samn)と呼ばれる清浄バターを厚く塗布して保持されたこれらのコルク性の安全装置から突き出ている。彼等が自分のテントにこっそりと近づきその中味を鋭く詮索しようとしているのが見えた。ついには彼等が自分を一人にしておく様に接待主が間に入らなければ成らなかった。客を保護するのは接待主の責任の一つである。自分を襲おうとしていた連中はキャンプから少し離れた場所に歌う為に引き込んだ。ちらちらする火の明かりではシルエットとなり、彼等の顔は殆ど見分けがつかないがそれは最高の天真爛漫さを神秘性と言うより残忍性の感触と共に吹き込む事が出来る。彼等はまるで焚き火から一定の距離を保っているジャッカルの様だ」と記述している。

 

暗闇の野営地   暗闇がすぐに空一杯に広がり、宵の明星が既に輝いている。蚊が外気一杯に群がり始めた。梟が炉端の周りを回り長い哀れをそそる様にホーホーと鳴き、暫くは大空にまたたく全ての星を背にシルエットに成る。朝日が崖地を目覚めさせると鳥が夜明けを祝っている。

 

崖地の目覚め   「弱々しい火の傍に座って我々は渇きをいやす甘くショウガで味付けしたミルクと水の混合液を飲む。昨晩の出来事を胸中から払いのけこの崖地とそこでの友達に分かれを告げ文明社会に戻って行く。この野生の男達との友情を本当に意識し、彼等と生活を共にする事は我々も過去に何が残っているかを見つける事である。個人同士の共存と協力を可能にする道徳性は原始的と呼ばれるどの部族にでも見られる本能である」とモージェは言う。

 

3.6.5文明の進出と自然環境の変化

 

現代世界への解放   近代化と自然環境の変化は切り離せない。その隔絶の為に自治権のある存在と成っているカフターニ・ティハーマ(Qahtani Tihamah)でも近代化を逃れる事は出来ない。政府は既にここを現代世界に解放する事を決めている。この決定が行われて以来、この地方は統計が積み上げられて来た。

 

道路の建設   1970年から1985年の間に時として非常な困難が伴うにもかかわらず山岳高地と海岸低地を連絡する為に422 km余りの道路がアシール地方に建設された。この事業の難しさを580ヶ所の橋と172ヶ所のトンネルが証明している。重大な技術的問題にもかかわらず、伝説上の道路はアラビアのこの隅に入り込んでいる地質的な困難さに光を当て、遂にファルシャ(Al-Farshah)の終点まで来た。最近では現在生活の必需品全ての前兆である送電線が山々を越え建設された。

 

民俗学的価値   信頼できるアラブの典型としてティハーマ(Tihamah)のカフターン(Qahtan)はサウジの民俗学の価値ある場所であるのは確実である。しかしながら彼等の将来を作り出す代わりに彼等の身元を保護するのが価値あるとは思えないのではないか。学校に通う彼等の息子はそれを忘れてしまって居る為に過去から逃げ出し、それについて何も知らない為に自分は将来があると思っている。彼等は学校の指導に従って規範に合わせ髪を短く切っている。

 

帯同出来なくなった武器   サラート・アビーダ(Sarat 'Abidah)での新しく補給をしに来た花飾りの男は弾薬帯を身につけて居たがライフル銃は持って居なかった。彼は役者が劇場から出る前に衣装を衣装部屋に置いて来なければ成らない様に自分の領地から出る前に武器をそこに置いて来なければ成らない。

 

4. リジャール・アルマア族の丘陵性のティハーマ(Hilly Tihamah of Rijal Alma')

 

4.1 スーダ山の植物

 

ビャクシンの自生   サウジアラビアで最も標高の高いスーダ山(Jabal Sawdah)はさまざまに良く繁茂した植物の自生地である。野生のオリーブがフェニキア栢槙(Phoenician juniper)やヒラウチワサボテン(prickly pear)と混ざっている。

 

アロエ   ライダーフ(Raydah)に至るまで曲がりくねりながら山腹を下る踏み跡の両側には高い花穂を付けたアロエ(aloe)が魅力を添える。

 

材木の伐採   何千年もの間これらの山々の斜面は建材、薪および香木として利用する為に土地の人達に広く伐採されてきた。

 

森の神   アシール(Asir)南部で最も標高のあるザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al-Junub)地域に森の神を意味するガバラン(Al-Ghabaran)と呼ばれる村がある。

 

鳥の楽園   全ての種類の鳥がこの高原の楽園を彼等の棲み家として選んで来ており、これらの山腹の或る部分を殆ど永久的に覆う湿っぽい霧の上までその鳴き声を響き渡らせている。山に積み上がった雲と複雑な地形の為にスーダ山からその見下ろせる範囲は近寄り難い。

 

4.2 アシール ティハーマへの道

 

アカバト・サンマの踏み跡   アシールのティハーマ(Tihamah of Asir)に向かい更にそこから海へと曲がりくねりながら続くアカバト・サンマ(Aqabat Al-Samma)への踏み跡を辿る。

 

ジェベル・バニー・マーリク   丘陵性ティハーマ山地の南側の境界であるジェベル・バニー・マーリク(Jebel Bani Malik)では起伏のある稜線に幾何的に等高の棚畑で出来た農場を広げながら下って居る。

 

忘れ去られた村々   見張り塔が谷の入り口を見下ろす。忘れ去られた村々が丘の斜面に寄り添う様に並び、家々はお互いの上に重なって要塞を構成している。何時の間にかでも確実にこれらは崩れて廃墟になりつつある。

 

涸れ谷ハリーの監視塔   監視塔は丘陵性のティハーマ山地にある涸れ谷ハリー(Wadi Hali)の農民の設計した簡単な傑作である。

 

4.3 リジャール・アルマア(Rijal Alma')の村

 

驚きの村   リジャール・アルマア(Rijal Alma')は丘陵性のティハーマ山地(Hilly Tihamah)のリジャール・アルマア(Rijal Alma')部族同盟の一部ではあるけれども驚くような村であり、その建築様式はイエメン(Yemen)に類似している。リジャール(Rijal)の古い町がこの地方でと採れる大理石を使った美しい伝統的な石造り建築を際だって保護している。

 

家の開口部の飾り   石英はここでも開口部を飾るのに好まれており、格子縞模様がすべての窓と扉の上に付けられている。建物と装飾品との双方の細部では職人技術がお互いの様式に影響しあっている。多くの新しく建てられた家々はその正面の要素に往年の建築の典型様式を取り入れてはいるが既成の材料を使って間に合わされている。

 

古代王国シバに遡る起源   或る老人が幸せそうにこの村の起源を語った。現在のイエメン(Yemen)にあった古代王国シバ(Saba) の都マアリブ(Marib)から一団の人々が離れた。非常に厳しい旅の末に彼等はこの険しい地方に辿り着き村を築いた。

 

村の博物館   この村の中心には素晴らしい博物館があった。この美しい建物を別にしてこの廃墟化され民俗化された環境の中の砦として費用を掛けず復活され保存されそして保守される為の保護プロジェクトは依然として一般的では無い。

 

4.4 シーバイン(Al-Shi'bayn)からの登り

 

急な斜面に残る昔の部落   シーバイン(Al-Shi'bayn)(シュウバイン(Al Shu’bayn)を離れると道は山に取り付き、急な斜面にぴったりと張り付いた昔の部落、雲に叩かれている見張り塔や景観に格子の模様を組み込んでいる棚畑(terrace)へと我々を案内する。

 

広い帽子を被った顔の長い男達   そしてこの全ての中で好奇心の目を引きつけるのはリジャール・アルマア(Rijal Alma')の男達である。これは彼等が実用上持ち運びできる小屋となる広い帽子を被っている為と彼等のガッチリした顔がヘンナ(Henna)で赤く染めた顎髭でより長く見える為である。

 

パチンコを使う熟練   パチンコを使う熟練はアシール(Asir)の人達の中で廃れつつある。ここではリジャール・アルマア族(Rijal Alma')の老人が昔の技術を残している。 

 

4.5 棚畑農業

 

ミツバチの巣箱   この地方では何処でも誰もがミツバチの巣箱に出くわす。この巣箱は家と同じ様な方法で造られるが全面に大きな開口部を持っている。アシール(Asir)産の蜂蜜はこの地方の植物が豊かである為に品質が高い。

 

コブ牛による耕作   コブ牛の雄が原始的な鋤で土地を引き耕している。男が同じ辛抱強さ、同じ動作そして先祖が刺激されたと同じ希望を持ってその後に付いている。

 

アッシリア時代の種蒔き器   彼は鋤に取り付けられたタマリスク(Tamarisk)の漏斗を使って種を播いている。その管状の部分は80 cmの長さでありその開口部は男の高さである。種は鋤が分けて開いた畦溝の中に落とし込まれる。鋤に取り付けられた種蒔き器は古代の文献にも記述されている。紀元前二千年期のアッシリア(Assyrian)の石碑にはちょうどこの様な器具の一部が描かれている。

 

駱駝の挽く臼   収穫されると穀粒は食する為に臼で挽かれる。ムハーイル(Muhayil)の町外れの道路では目隠しをされた駱駝が交替で動力源となる回転式の臼が胡麻の種をすりつぶしている。私が道路に移動するとこころよい微風に乗ってリズミカルなキィキィ声が聞こえてくる。

 

5. 涸れ谷ディリアのラビーア族(Rabi'ah of Wadi Dala')

 

5.1 アブハーからティハーマへの道

 

5.1.1大洪水 (1982)   

 

アブハー(Abha)からティハーマ(Tihamah)への道は谷を通って山の崖地を転がり降りている。1982年に大洪水が山腹を裂いて下り津波の様に涸れ谷ディリア(Wadi Dala')になだれ込んだ。この洪水は全ての岩屑、木々、動物、車や30以上の橋桁を洗い流してしまった。道路は実際上無くなってしまい、辛うじてアスファルト舗装がそこここに見られるだけと成った。この世の終わりの様な景観が私の眼前に姿を現している。4年も経つのに道路のトンネルの壁には依然として壊滅的な洪水の跡が残って居り、その跡から洪水の波の高さは少なくとも3 mあったと推定できる。

 

5.1.2 豹も居る谷   

 

「依然としてこの山々には数頭が残っている」とラビーア族(Rabi'ah)が保証する僅かな生き残りは恐らく最も辺鄙な岩壁の裂け目に隠れており、豹が餌食にしているマントヒヒに安堵を与えている。

 

5.2 ラビーア族(Rabi'ah)

 

5.2.1 涸れ谷ディリアの山羊飼い部族   

 

涸れ谷ディリア(Wadi Dala')全体に文明世界との境界でテント生活をしている山羊飼いの部族のラビーア(Rabi'ah)族が住んでいる。

 

5.2.2 ラビーア(Rabi'ah)族の起源

 

ラビーア(Rabi'ah)族の祖先   ラビーア(Rabi'ah)族は「彼等の祖先をイエメン(Yemen)から来たアシュラフ・フサイニーヤ(Ashraf Al-Husayniyyah)だ」と言っているが彼等の敵は「彼等はロマ族(Tsiganes)(ジプシー(Gypsies))又はバクダード(Baghdad)のハールーン・ラシード(Harun Al-Rashid)宮廷の印度から来たダンサーを祖先とする北部アラビアの一部族である謎のスルバー族(Sulubba)だ」と言う。

 

ジプシーとの認定   女性はその非常に大きな耳飾り、彼女等の額を真っ直ぐに分けている房飾りと一つは顔に掛かりもう一つは後頭部にある二組の環等で私の注意を取り分け引いた。そしてヴェールさえしていない。アラビアの何処ででも女性の行動を性格付ける控えめなそして礼儀正しい物腰は無い。神性の隠れた人種に対する好みからすればラビーア(Rabi'ah)族をロマ族(Tsiganes or Gypsies)であると認定する。

 

5.2.3 ラビーア(Rabi'ah)族の男達

 

ラビーア族の男の服装   ラビーア族(Rabi'ah)の男は伝統的な刺繍の付いた上着を着ている。若い羊飼いが純真な顔つきで頭に花冠を被り、橋の欄干の上に立ち、4つの穴を開けられたうつろ筒内の風の音を目覚めさせている。その印象はフェイディアス(Phidias)またはヴァトー(Watteau)の巻き毛の羊飼いと同じである。

 

山羊飼いの笛   アラビアの奥地の景勝地(Arcadia)で若いラビーア族(Rabi'ah)の山羊飼いは簡単な笛を吹く。

 

水煙草   ラビーア族(Rabi'ah)の男がシーシャ(shisha)と呼ばれる水煙草を吹かしてくつろいでいる。

 

男達の料理   伝統料理のマンディー(mendi)はラビーア族(Rabi'ah)の男達が崖地で料理する。

 

口づけの行事   最初の挨拶は握手をせずに相手の指先で軽く触れただけで、それからそれを自分の唇に付ける。

 

踊りの練習   少年達はラビーア族(Rabi'ah)の伝統的踊りの練習する。

 

間違いない視力   この部族では彼等の絶対に間違いない視力が動物の営みの僅かな痕跡も見つけだす。この地方に出没する豹について明らかに彼等はそれを見るのを大変熱望している。豹のなめしてない毛皮を時々骨董品のガラクタを売る店で見かける事がある。

 

不名誉な死の床   伝統的には死の床を不名誉と考えている。

 

5.2.4 ラビーア(Rabi'ah)族の女達   

 

ラビーア族(Rabi'ah)の婦人の服装   涸れ谷ディリア(Wadi Dala')のラビーア族(Rabi'ah)の婦人達は彼女達の服装の好みに何も譲らない。ラビーア族(Rabi'ah)の少女は彼女の時計と腕輪や伝統の職人技能を見せびらかしたがる。

 

山羊の世話をする婦人   ラビーア族(Rabi'ah)では若い婦人も山羊の餌を撒いたりして世話をする。

 

足で揺するバター作り   大きな瓢箪(gourd)が三脚を組んだ三本の杖の尖端から吊り下がり、クルシー(Kursi)と呼ばれる非常に低い腰掛けに座って、足を乳攪拌器にひもで結び一人の女性が山羊の乳を揺り動かす。単調な前後に動く動作がバターを作り出すゆっくりとした変化を促している。このやり方の利点は彼女の手が何か他の仕事が出来る様に空いている事だ。

 

清浄化バター   サンム(Samm)と呼ばれるここの人達の作る清浄化バターはアブハー(Abha)や時には遠くターイフ(Taif)で売られている。

 

5.2.5 ラビーア(Rabi'ah)族の家

 

平行六面体のマット家屋   彼等の居住する崖地では二つの木の間に広げられたふさ飾りの付いたテント地がバイト・ハサーフ(Bayt Khassaf)と呼ばれる格子状の平行六面体をしたマット家屋の為の伝統的な住居の場所を確保している。

 

立派な骨組みのバイト・ハサーフ   バイト・ハサーフ(bayt khassaf)と呼ばれるラビーア族の(Rabi'ah)立派な骨組みの小屋の編み合わせられた覆いはどんな気象にも耐える。ラビーア族(Rabi'ah)のバイト・ハサーフ(bayt khassaf)の内部は居心地が良い。

 

涸れ谷ディリア(Wadi Dala')の移動する野営地   ラビーア族(Rabi'ah)の崖地は伝統的なバイト・ハサーフ(bayt khassaf)ともっと現在的な移動テントの骨組みが組み合わさっている。

 

5.3 結婚式

 

5.3.1 結婚式場

 

急坂を登って式場へ   式場へは車両で隊を組んで向かう。登りの山腹の凸凹で、踏み跡は急傾斜して居り、雨で峡谷の様に深く浸食されている。この登坂は車両と運転手の強さへの試練である。

 

銃声の合図   銃声が私祭りの場所が近い事を告げる。全ての車両が軍隊的な正確さで並ぶ。小型トラック(Pick-up Truck)が放牧民の世界に席巻している。少なくとも小型トラックを一台も持たない家族は居ない。僅か数人の頑固な反動主義者が駱駝や驢馬のおかげであるとの信念で固執しているだけである。

 

広大なテント   式場は園遊会の大天幕の様な広大なテントで、雰囲気はまるで軍事行動中の野営地の様である。

 

5.3.2好戦的な結婚披露宴

 

古来の習慣   ラビーア(Rabi'ah)と涸れ谷ディリア(Wadi Dala')の男達は古来の習慣にしたがって結婚の祝いを挙行する。

 

ライフルと剣   男達全てはライフル銃と肩掛け式弾薬帯を誇示している。ジャナビー(Janabih)と呼ばれる皮の鞘に入った剣の平らな面で股を叩いている。ラビーア族(Rabi'ah)の男が婚礼の祝いに祭りの盛装を着用している。ラビーア族(Rabi'ah)の男達は皮と金属で出来た盾を携えている。

 

戦闘場面の真似   男達は突然立ち上がりテントを離れる。私は彼等が撃鉄を引き戻す時に成るカッチと云う音を聞いた。間もなく彼等は戦闘の場面を真似しながら踊り始めた。扇形の様な配列でゆっくり前に進みながら戦士はライフル銃を空に向かって肩に担いでいる。

 

若い新郎   若い新郎が勇敢な戦士の勝利の立ち居振る舞いを真似ている。彼のスカートに調和したオレンジ色の外衣は素晴らしい眺めである。二重に金メッキをしたひもが彼の油を付けた髪型を飾っている。彼の剣は引き抜かれ彼は左手にデルガ(Derga)と呼ばれるお皿位の大きさで革製の小さな盾を持っている。祭りの主役は自分の踊りを始めた。突然彼は虎の様に前に跳躍した。二人の戦士が一団を離れ彼に加わった。彼等はライフル銃を振り回し回転させながら走り、それから止まり立て膝で狙いを付け仮想の敵に向けて発射した。

 

模擬戦争   銃撃の騒動と火薬の刺す様な臭いの中で模擬戦争は戦争に激しい喜びを感じる基本的本性を喚起している。大勢によってかき回された厚い埃が空気中に舞っている。子供達は銃声が鳴り終わった場所へと急ぎ、まだ熱いままの薬莢を拾って自分達の子供用の弾薬帯につめる。伝統に従って若い花婿は誇張した武術試合の一部を務める。この試合を子供達は後世の為にテープコーダーに記録する。一場面の活気に溢れた年代順の目印さもなければ時間の或る特別の瞬間を思い出すのは難しい。サウジアラビア全土で過去の時代の残存物は現代の時代錯誤の仲間と見なされている。

 

5.3.3 披露宴での接待

 

お茶とコーヒーの提供   お茶とコーヒーが回りながら提供されている。一人の男が乳棒で自分の足の間に固定したコーヒー乳鉢を終わることのリズムを持って挽いている。

 

お祈りの為の式典の中断   式典はお祈りの為に中断される。男達は皆、銃を木陰に置き横一列に並んでメッカ(Makkah)を向いてひれ伏す。彼等はまるでその穂が風で同じ方向を向いて飛ばされたトウモロコシの畑の様である。

 

   伝統的サウジ料理   精霊はこの世に維持され引き継がれる。全ての人は地上の大きな堆積で忙しい。神秘的な死体は墓から掘り起こされる。肉の贅沢な分配は穴から出される。この方法の調理は前記の様にここでの伝統であるが世界の他の地域でも見られる。

 

6. 海岸平地

 

6.1 ティハーマ低地(Tihamah Lowland)

   

ダールブ(Darb)付近に典型的に見られる様にティハーマ(Tihamah)海岸低地は何マイルも何マイルも均一に平らである。

 

6.1.1 ティハーマ海岸の男達

 

海岸の男達の服装   海岸地方の人々はほっそりして居り、一般的にサロン(Sarong)の様な綿の腰巻きをしている。男達はクーフィーヤ(Kufiyyah)と呼ばれる汗と垢で固くなったムスリムの頭部キャップも被る。このキャップは時々頭の周囲に幕布きれや大きなつばの付いた尖端を切った円錐形の帽子と時々交換される。

 

芝居じみたメーキャップ   顎髭や指の爪がヘンナ(Henna)で磨かれ彼等の目はコール(Kohl)でメーキャップされる。この様な方法に不慣れな人間にとっては全体の印象はびっくりするほど芝居じみている。

 

6.1.2 ティハーマ海岸の家屋と内部装飾

 

アフリカ風の伝統的な村々の建物   この海岸にはアフリカの伝統的な村々の建物を思わせる小屋が散在している。枝で作られた骨組みは編み枝(Wattle)と泥の漆喰(Daub)で埋められるか、又は柴(Brushwood)で作られるかで、天井はロープで入念に編まれた固く詰められたモロコシの藁や柴の屋根葺きで作られた円錐形(Conical)或いは卵形(Ovoid)をしている。

 

円形屋根と壁の塗装   山岳台地の家とは違うけれどもこれらの小屋の内部に何ら劣等感を感じる理由は無い。円屋根のてっぺんには菱形が同心円の円形に中に作られている。更に下ではこの飾りはもっと形式的な物に成ってくる。層に整えられ壁は塗装されている。

 

塗装のデザイン   彼等は時として子供の様なはつらつさ、純真さを持ちながら描写は克明である。描き手は現代に生活から引き出されるテーマとデザインを取り入れようとしている。もし飛行機がこの村の上空を通過すれば飛行機が描かれるだろう。村人でテレビの画面で湾岸戦争を見なかった者は殆ど居ないので湾岸戦争が恐ろしい武器を描く要因に成ったのは疑いも無い。1978年にゾラ村(Village de Zorah)を書いたクローディ・ファイン(Claudie Fayein)はイエメン・ティハーマ(Yemen Tihamah)を旅して来た後で「多彩に編んだ袋を被ったラジオ、ティーポット、魔法瓶、商人の使うスケール、子供用の三輪車、ミシン、家畜等が描かれているのを見た」と報告している。他のデザインではカ’バー(Ka'bah)までのメッカ(Makkah)への巡礼旅の様子を小舟、トラックによって物語っている。

 

壁の陳列品   円屋根の下の壁には絵を描いた板を吊すフックが沢山付けられている。フックには花柄のエナメル塗装した板、彩色された魔法瓶、小カップやまったく異なる陳列物が列となって吊されている。これらの数と種類の多さが家の主人の豊かさをあらわしている。

 

6.1.3 ティハーマ海岸の市(Suq)

 

(Suq)にも伝統的な生活がある。先ず目に付くのは全てが無秩序で興奮した仕草で怒鳴って居るアフリカ並の喧騒である。しかしながら少し時間を置き背後に立っていると特別な区分が見えてくる。そこではお互いに混じり合う事無く隣り合っている。この混乱にもかかわらず基本的な秩序の意識はある。

 

6.2 海岸低地の熔岩地帯

 

6.2.1黒い沙漠であるハッラ

 

玄武岩質の熔岩の噴出   海岸低地の一部は火山活動の影響を被って居り、玄武岩質の熔岩を噴出しそれが流れ出した範囲にぞっとするような不吉な黒い沙漠であるハッラ(Harrah)と呼ばれる熔岩地帯を作りだしている。火口丘の円錐形の列が地平まで辺りを圧倒している。最後の噴火は1820年に起きたと考えられている。

 

ハッラの植物   生長を阻害されたアカシヤは美しく花を咲かせた至福の様にそこここに立っている。エダウチ椰子と多肉質で光っている槍の様な葉を持つ死海林檎の木の茂みが砂地を浸食している。

 

エダウチヤシはテベスドームヤシとも呼ばれ、英名はDoom Palm, Doum Palm or Dawn Palmで学名はHyphaene thebaicaであり、アフリカ産の大きな扇型の葉を付ける椰子で沙漠の土壌を安定させるのに重要な働きをし、その果実は林檎位の大きさで食用になる。

 

火山性沙漠の民   幾つかのマンジャハ遊牧民(Manjahah nomad)の崖地が隠されているのはビルク(Birk)とシュカイク(Shuqayq)の間にあるこの火山性の沙漠である。

 

6.2.2 マンジャハ遊牧民の家

 

茣蓙製のテント   ここ暫くの間に彼等の茣蓙製のテントはコンクリート・ブロック製の家に置き換わって来た。茣蓙製のテントは僅かな微風でも持ち上げられる。

 

花弁模様の壁   ファンタジーの唯一の片鱗は湿度で色が散らばり途方もなく汚れた出来合いの花弁模様で飾られた壁を持つ家に見られる。

 

臨時的な雰囲気   我々は山岳高地の建築的装飾からの長い道を辿って来た。最近の集落の様子として部落は何処か完成してない臨時的な雰囲気を持っている。

 

家の中心である居室   アラビア半島の何処にでも見られる発展の中に伝統的な環境は次第に変質させられている。どの様に古い方式でも頂点に立っていた居室はかつてのテント生活の弱々しい名残でコンクリートブロックの家と隣り合っている。材料は最新化されてはいるが形は保存されて来た。

 

エダウチ椰子の屋根   エダウチ椰子のトッフィ(Toffi)の編んだ茣蓙で作った屋根を持つ本当のテントの中に自分が居るのがどれだけ驚きか想像して欲しい。

 

建材としてのエダウチ椰子   工場生産の材料が到来する前にはエダウチ椰子は創意に富むここの人達の必需品であった。これらのエダウチ椰子から彼等は家、小屋、鞄、綱およびサンダルを作り出す。年老いた夫婦が心からの歓迎の意を示してくれ、これらが現存する最後のテントと成ると考えている。

 

高いベンチ   人々がその上で食べて寝るサリール(Sarir)呼ばれる高いベンチ乃至チャールポイ(Charpoy)に脚の一つに乳攪拌の為の瓢箪垂直に吊された。山羊の道を外し注意深く埃カバーで包まれたライフル銃や彼の孫のプラスチック製機関銃に至るまであらゆる物が吊されている。

 

6.3 海岸低地の浜辺

 

6.3.1 浜辺の男達

 

花飾りをした男達   若者達が到着した。一人は前頭の上にマリゴット(Marigold、キンセンカ)を乗せ、もう一人はサフランの黄色の髪分けをしている。モージェは「自分はこれらの花飾りをした男達と友達となり彼等の生活風俗を羨ましく思った」と言う。

 

マンジャハ族特有の帽子   この地方の画家によるシュカイク(Shuqayq)北の熔岩地帯に住むマンジャハ族(Manjahah tribe)長老のマンジャハ族特有帽子を被った画像が後世の為にリジャール(Rijal)の博物館に保存されている。

 

少年の花飾り   ティハーマ(Tihamah)海岸低地の幾つかの地方では少年達が丘陵性のティハーマ(Tihamah)山地の部族民の様に花飾りをした被り物をして遊んでいる。

 

手脚の欠けた人間   ファラサーン島(Farasan)には同じように手脚の無い人間がいる。これは真珠取りが鮫に襲われる為である。右腕を失われて人間とは少し戸惑いがあっても習慣的に不浄の手である左手と握手する事になる。

 

6.3.2 浜辺の女達

 

広い麦藁帽子   太陽から顔を保護する為にアラビアと言うよりはメキシコの様にティハーマ男達も女達も広い麦藁帽子を被るのを好む。

 

伝統的挽き石   伝統的な平らな挽き石が依然として女性がモロコシを挽き粉にするのに使われている。

 

銀細工の装身具   マンジャハ族(Manjahah tribe)の婦人が銀細工の装身具を見せている。

 

6.3.3 海岸の駱駝   

 

海岸に立つ駱駝   100頭余り駱駝の列が飼い手に付き添われ紅海との間に立つ光景はわれわれがこの先それ程長くは眺められない生活様式の姿を提供している。

 

辛抱強い回転歩行   ティハーマの海岸地帯では辛抱強い回転歩行で目隠しした駱駝が胡麻を挽いて油を取り出している。飼い主は戸外で駱駝に褒美の青い牧草を与える。

 

駱駝の存在標識   或る地域での駱駝の存在を示す布きれで木に花飾りをする伝来の方法は時々紛争を起こす。

 

6.3.4 ティハーマ低地の小屋

 

伝統的なバイト・ハサーフ   マンジャハ族(Manjahah tribe)の伝統的な住居バイト・ハサーフ(Bayt Khassaf)の内部は明るく涼しい。

 

茣蓙とむしろ編み   マンジャハ族(Manjahah tribe)の茣蓙とむしろ編みが家族の心を自分達の模様で明るくしている。

 

小屋の内部   ティハーマ低地の小屋内部の泥を詰めた天井や壁は塗料で習慣的に豊かに塗られている。

 

日用品の配置   円形をしたティハーマの小屋の内部には日用品が家内装飾の天性の感覚を持って配置吊されている。

 

居心地の良い小屋   ティハーマ低地の小屋は外見と違って堅固で居心地が良く、夏でも涼しく保たれる。

 

6.3.5 ティハーマ海岸の伝統産業

 

瘤牛を使った作業   ティハーマ(Tihamah)では瘤牛の雄が畑を鋤で耕し、洪水を灌漑水に変える為の長い土の堤防を築く両方の目的の為に使われている。

 

炭作り   ティハーマで作られる炭はここでは炊事や金属加工に広く使われている。

 

空いた浜辺   漁業はそれ程一般的では無く浜辺は殆ど空いている。何艘化の時代遅れの船が砂の上に引き上げられている。フラミンゴがセイヨウキョウチクトウ(Oleander)房が運ばれて居るようにゆっくりと飛んでいる。ペリカンの来訪して居り人が近づくと彼等は羽を広げ舞い上がり少し離れた所に移動する。

 

7. 沙漠への出入り

 

7.1 ホバブ・ベドウイン(Hobab Bedouin)

 

7.1.1 ホバブ・ベドウイン(Hobab Bedouin)の野営地とテント

 

ホバブ(Hobab)の野営地   ホバブ(Hobab)のこの地域の浸食で頂上が平に浸食された岩の露頭の基部では野営地がみられる筈である。平で開けた場所の小ささはテントが制限された空間に張らなければならない事を意味している。

 

黒いテントでの生活   ホバブ・ベドウイン(Hobab Bedouin)はアシール(Asir)の東の境界へ向かって下る台地を占有している。黒いテントに住む放牧遊牧民の生活には山岳高地の入念に手入れされ灌漑された畑を持つ泥造りの家の優雅さと対照的なそれ自身の特別な魅力がある。黒い山羊の毛の屋根を持つホバブ族(Hobab)のテントはナジュド(Nejd)の偉大な駱駝遊牧部族の黒いテントと同様に広く使われている。

 

最新技術(State-of-the-art)のテント   最近はパキスタン製として知られるカンバス地のテントが遊牧民にますます好まれる様に成って来た。最新技術(State-of-the-art)のテントは金網の骨組みをキャンバス覆っただけなので非常に簡単に解体し持ち運び再築できる。山羊の毛で作った古い黒いテントは使い古されまとめられ、日よけとして張られ今では家畜小屋として使われている。ある種の廃品利用である。

 

7.1.2 ホバブ・ベドウイン(Hobab Bedouin)男達

 

ホバブ族(Hobab)の長老がくつろいで居り、歌と打楽器でのホバブ族(Hobab)の祝いの行事で老人も若さを取り戻す。ホバブ族(Hobab)は狩人でもある。

 

7.1.3 ホバブ・ベドウイン(Hobab Bedouin)女性

 

異国の王女の様な姿   ホバブ・ベドウイン(Hobab Bedouin)女性は遠目には異国の王女が踏み跡の埃の中にドレスの縁が地面を引きずりながら歩いている様に見える。

 

華美な服装と装飾品   夫が現代的なサウジ服を来ているが、ホバブ族(Hobab)の婦人は伝統的な服装を守っている。その服装と装飾品は驚く程に華美である。年老いたベドウイン女性にとっては彼女の装飾品は単に過去の思い出では無く感情的な官能的な関係を持っている様に見える。ホバブ族(Hobab)の婦人は背負子で赤ん坊を背負ったり子供の世話をしたりする時でさえ昼間も念入りな装束をまとっている。ホバブ族(Hobab)の女性の羊飼いは色鮮やかな衣装を惜しんだりはしない。

 

ホバブ(Hobab)の半マスク   太陽がミルサム(miltham)と呼ばれる彼女が被った半マスクの黒さの中で赤熱した石炭の様な二つの瞳を回復させている。何処よりも入念に作られたホバブ(Hobab)の半マスクはドレスの装飾品の一つとなり銀で飾られている。

 

ショールとタヤル(Tayar)   ホバブ族(Hobab)の婦人は彼女達の浮きだし模様の下げ飾りや円盤の着いた鎖でつながれた銀細工の念入りな頭飾りに埃を持っている。赤い石は石榴石かガラスである。頭を覆うショールはタヤル(Tayar)と呼ばれる素晴らしい冠で留められ、銀の半球で飾られた皮のバンドが縫いつけられている。

 

胸飾り   ガラスのビーズの付いた魔よけ箱、油で汚れた長い紐に通された管状のコーラン(Qur'an)の入れ物、色々な悪を見張るのに使う銀の三角形等の紐で結ばれたバッグの詰まった胸飾りをしている。

 

山羊の世話   ホバブ族(Hobab)の女性の羊飼いが彼女の群を世話しに出掛ける時には駕籠を背負っている。

 

バター作り   乳房一杯のミルクで膨れた山羊の革袋を掴み、如何に一定のリズムを保てるかを見せようとしているかの様にそれを前後に攪乳する為に揺らす。このけだるい音の拍子と共に時間を越えた動作が最高の正確さを生み出している。永久不変の感覚に触れることが出来、この崖地では時間が止まっているように感じられる。

 

山羊の毛で紡ぐ織り糸   ホバブ(Hobab)の女性が山羊の毛で織り糸を紡いでいる。

 

コーヒーの用意   ホバブ族(Hobab)のテントの中ではコーヒーが昔からの接待の儀式として準備されている。ホバブ(Hobab)の女は炭のくすぶり火をミシャーバ(Mishabba)と云う火吹きパイプを使って再び火を熾しコーヒーを用意する。

 

7.2 ナジュラーン(Najran)の南東部

 

7.2.1 アシールの南

 

カーラ(Al-Qarah)の岩壁彫刻   アシールの南部には狩りと多産を描いたカーラ(Al-Qarah)の沙漠にある古代の岩壁彫刻等もある。

 

アシール(Asir)行政区南の外れ   アシール(Asir)行政地域はカフターン(Qahtan)の国の南の外れであるザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al-Junub)で終わっている。

 

ヤーム族(Yam)の領地   更に南にはアカシアの疎らに生える広い平原がナジュラーン(Najran)の緑豊かな涸れ谷に至る前にヤーム族(Yam)の領地である繁栄している場所と交差する。そこでは定住民と放牧民が密接に関係している。

 

消える涸れ谷ナジュラーン   涸れ谷ナジュラーン(Wadi Najran)は東に向かって台地を削り空白地帯沙漠の砂丘の中に消えて行く。

 

7.2.2 ナジュラーン(Najran)の家屋建築 

 

要塞化した農家   多くの人がナジュラーン(Najran)の建造物は王国の中で最も美しいと言っている。要塞化した農家の建物が美的感覚と同じように難しい材料に対する知識の豊かさを示している。

 

驚きに満ち幻想的な形   建築家は泥を使うことで付け加えられている驚きに満ち幻想的な形を持つ外観のレパートリーを操っている。

 

カスル・ナシュミー   1930年代にトゥルキー・イブン・マーディー(Turki ibn Madhi)によって建てられ最近修復されたカスル・ナシュミー(Qasr Al-Nashmi)は中世における男子生徒の理想の為に設計されたかの様に見える。

 

サラート・アビーダ   サラート・アビーダ(Sarat 'Abidah)からそれ程遠く無いこれらの山岳高地東側の小さな土地は乾いた台地に向かって傾いている。その台地は涸れ谷ナジュラーン(Wadi Najran)が切り通され、そこの建造物と白い銃眼付きの胸壁(Crenellation)共に農場は際だった類似性を見せている。

 

涸れ谷を見下す   威厳があり備えの十分なナジュラーンの農場からは雨を東側の沙漠へと空にする主要涸れ谷を見下ろせる。ナジュラーンの人の墓が涸れ谷を見渡す眺めと良く調和している。

 

7.2.3 ナジュラーン家屋の飾り

 

入れ墨した顔の様な装飾   もしカフターン(Qahtan)の領地の家屋が装飾されていると云うならばナジュラーン(Najran)の家屋は世界に向けて入れ墨した顔を見せている。玄関は白い線で刻み目を付けられている。

 

金具隠し(pelmet)   穂先の様な形の白い漆喰の模様が私の注意を引いた。西洋からの来訪者の中にはこの金具隠し(Pelmet)の形を直ちに飛行機と思う者もいる。この本当の着想は神秘的な守護鳥でその機能は窓から入って来ようとする悪霊ジン(Djinn)を防ぐ事である。

 

白い装飾のある屋上の横壁   歯車の歯の形をした白い装飾のある横壁(Frieze)が屋上に巡らされており、テラスにジグザグの影を投げている。時として家屋の四隅は大型の野生山羊アイベックス(Ibex)の角で飾られている。

 

万華鏡の様に多彩なガラスの窓   建物の内部に入ると床に万華鏡(kaleidoscope)の様な光を散らしている多彩なガラスの窓に感嘆する。

 

7.2.4 消えて行くベドウイン達の掘っ建て小屋

 

サウジアラビア(Saudi Arabia)南部の肥沃なオアシスである美しいナジュラーン(Najran)は今日では波板鉄板(Kirby等)、木枠およびカートンで作られた掘っ建て小屋に囲まれている。そこでベドウインが絶えて行く。最後のベドウインが沙漠を離れても風は依然として砂丘の上を渡っている。

 

7.2.5砦カスル・ナシュミー(Qasr Al-Nashmi)

 

ナジュラーン(Najran)の改修された統治者の砦カスル・ナシュミー(Qasr Al-Nashmi)は元々は1930年代に建てられ、階段、井戸、銃眼付きの胸壁(crenellation)、上階の便所等ナジュラーンの美しい建築様式の例として改修されて来た。 ムハンマド(Mohammad)の名前を照らすステンドグラスや扉に彫られた伝統的な車模様はサウジの国民的紋章を模し様々な意匠がある。砦カスル・ナシュミー(Qasr Al-Nashmi)のステンドグラスの幾つかは古いアラビアのガラスであるがその他は近代的なガラスである。

 

8. 参考資料

 

著者

題名

出版

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Mountain Farmer and Fellah

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péninsula arabique, d'aujour d'hui

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Voyages à la Mecque et chez les Mormons

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Flowered Men and Green Slopes of Arabia

1988, Souffles, Paris

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The Ark of the Desert

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La poésie arabe moderne entre L'Islam et L'Occident

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後書き

 

ティエリ・モージェ(Thierry Mauger)の著述は旅行記を写真で綴りその一枚一枚に説明を加えて文章を作っている。しかしその時代や自然に対する考察にはモージェ自身のこの地方への思い入れからの造詣の深さを感じる。その表現は簡便ではあるけれども分かりやすく説明されているのでモージェ自身の文章の順番や構成には拘らず、私なりに項目別に再編を試みた。この為に索引が詳細に成り過ぎたがアシール地方の特徴がこの索引に良く表れている様に思うので敢えてそのまま掲載する事にした。

 

モージェの参考資料の殆どが二十世紀後半の著述である事からもこの地方へ西洋人が踏み込んだのが最近である事がわかる。又、私の友人のピエラード氏(Mr. P.E. Pierard)を通じてアラビアについてのフランス人の著述多いの事を知っては居たがモージェの参考した資料を一覧するとそれが良く分かる。

 

花冠とスカート姿の男達に代表されるアシール地方の伝統がこの四半世紀の間に急速に姿を消して行っているのは実感しているのでモージェの撮影した映像が大変貴重に思えるがアミラ・ノウラ・ビント・ムハンマド・サウード(Noura bint Muhammad al Saud)、ジャウハラ・ムハンマド・アンカリ(Al-Jawharah Muhammad Al-‘Anqari)およびマデハ・ムハンマド・アジュロウシュ (Madeha Muhammad Al-‘Ajroush)達三人の作者の著書「アシールの国、アブハー」程には伝統伝承を踏まえた解説が無いのとモージェの探訪が代表的な涸れ谷の幾つかに限られている点には物足りなさがある。これは異邦人単独の探訪なのでやむを得ないだろう。カフターン族が好戦的で危険と警告されていた1980年代の彼等の地に通訳も無く一人で乗り込んだのは蛮勇の様な気がする事は否定しないがそれ以上に通訳が居れば彼の撮った映像を更に輝かす伝承が記録出来たので無いかと思うと共に私自身の経験の反省も含めて残念に感じる。

 

以上


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