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マッカ・ムカッラマとメッカ州 (サウジアラビア王国西部地方) その3夏の政庁・薔薇の市 ターイフ Summer Capital -
第一部 地理(Geography) 第二部 涸れ谷と水源(Wadies and Water Resouces)
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第一部 地理(Geography)
1.1 位置(Location)
ターイフはサウジアラビア南西部中央にあり、遠い昔(Immemorial)からヒジャーズ(Hejaz)として知られるサラワト山脈(Al-Sarawat Mountains)*北部の山腹斜面の標高1,878m (6,160ft)に位置している。
行政的にはかってはサウジアラビアの西部州(Western Province)に属していたが、その後、西部州は分割され、現在は聖都を首都とするメッカ首長管轄区(Amirate of Makkah)の下部組織である。ターイフ首長管轄区(Taif Amirate)は面積が17,544平方キロで人口は2004年の国勢調査では521,273人である。ターイフ市はそれ自身市役所によって治められ、市役所は関連する都市部の開発計画にも責任を持っている。ターイフ市に関連する都市部としてはシャファ区(al Shafa)、ハダ区(al-Hada)、ハウィイヤ区(al-Hawiyyah)および涸れ谷リイヤ(Wadi Liyyah)の各地域が含まれている。
夏期月間にはターイフはサウジアラビア政府夏期政庁として行政の中心地となり、政府職員および休暇客を併せるとその人口は倍に膨らむ。
南からの主要道が東西の主要道と交差するターイフの位置、起伏のある魅力的な環境、人口を混じえた自然の緑樹帯やその快適な気候等がこの市の歴史的重要性の要因であり、葡萄と蜂蜜で有名な農業地区の中心である。
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1.2 地勢(Physical Setting)
ターイフ市はアシール(Asir)、さらに南のイエメン(Yemen)へ続く、紅海の東岸を縁取るサラワト山脈(Sarawat Mountain range)の北部分であるヒジャーズ山脈(Mountain Range of Hejaz)の東斜面から隆起している花崗岩の丘の間の凹地に広がっている。ユーラシア殻板(Eurasian Plate)に向かって北と東へとゆっくりと移動しているアラビア半島(Arabian Peninsula)全体はかってはアフロ・アラビア殻板(Afro-Arabian Plate)と言う大きな地塊の一部であった。アフロ・アラビア殻板は3,000万年前(30 million years ago)に紅海(Red Sea)そしてその後にアデン湾(Gulf of Aden)を開けた割れ目に沿って、続いて起きる互いに異なる殻板(Plate)の典型的な境目が広がる海底を伴って、分離し始めた。アラビア殻板(Arabian Plate)はその動きに伴い、西側が隆起し、東側が東に向かって緩やかに傾斜して傾いた。そこではアラビア盾状地(Arabian Shield)を形成する先カンブリア時代(Pre-Cambian)の結晶質の岩は連続する堆積岩層で被われている。その堆積岩層の中で一番古い層はカンブリア紀(Cambrian Era)の5億5,000万年前(550 millions years)に形成されている。
乱れた殻板端(Plate-Edges)の一部に沿って比較的最近に起きたマグマ(Magma)の侵入は西部サウジアラビアの広大な地域を被う玄武岩質の熔岩地帯を形成した。その中の一つであるラハト溶岩地帯(Harrat Rahat)がターイフ首長管轄区(Taif Amirate)の北側境界に不規則に広がっている。
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ターイフ首長管轄区は異なった標高の三つの地形帯に広がっている。つまり、高所地域(Upland Area)、山麓丘陵地域(Foothills Area)および高原地域(Plateau Area)である。
1.2.1 高所地域(Upland Area)
標高1,800mを超え、この市の西部と南部を占める高所地域はその地帯全体の南北の方向から離脱した崖地(Escarpment)が部分的に東へと鋭く侵入した事よって形成されている。この支脈部にはバラド山(Jabal Barad)、ダカ山(Jabal Dakah)、カールナイト山(Jabal Qarnait)及びバイダン山(Jabal Baydan)等、中央ヘジャーズ山脈のもっとも高い4座の峰が含まれている。峰々の標高については諸説あり、ここではウェブサイトで一般的に紹介している数値と緯度経度を「Hight reviewed」として掲載した。サラト山脈(al-Sarat Range)*の最高峰については標高3,000mを超えるとの説が多かったが、今では3,000mには少し及ばないとされている。「ターイフ周辺の峰々も標高2,500m前後であると考えるのが妥当だろう」と私には思える。
なお、Farsi Mapによると標高はバラド山(Jabal Barad)が2,452 mでダカ山(Jabal Dakah)が2,585 mである。
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ここには一般的な地形の傾きで北東へと流れるターイフ地域の集水域を形成する涸れ谷群の集水域がある。ハダ(al-Hada)とシャファ(al-Shafa)の二ヶ所の有名な山岳保養地はこの高所地域に位置しているので標高の低い地域よりも降雨量も多く、ビャクシン(Juniper)や野生のオリーブの森で被われている。良質な土が蓄積したり、山肌でもやっと形成された棚で良質な土が保持された場所では穀類の群生が定着してきた。もっと標高の低い地域にも分布している他の野生動物に加えて、マントヒヒの群が高所地域の遮断された谷間や険しい崖に棲息している。
1.2.2 山麓丘陵地域(Foothills Area)
山麓丘陵地域は標高1,500mから1,800m位で、ここでは起伏の高低が少なく、孤立した丘が多く、互いにもっと離れて、北東に向かって下っている。標高1,682mにあるターイフ市は山麓丘陵地域の高い場所にあり、小さな頂きや尾根に囲まれている。今ではその中の幾つかは無秩序に広がる市の郊外区域に包み込まれてしまった。
農地も山麓丘陵地域にも大きく広がっている。地下水が間近にあり、沈泥(Silt)が自然に或いは人為的に堆積している涸れ谷の河床では様々な作物の育つ良い土壌が出来ており、放牧場も山麓丘陵地域では割合に一般的である。ここではマントヒヒ(Baboons)、ハイエナ(Hyenas)、野兎(Hairs)、ジャッカル(Jackals)やその他の野生動物がかっては自由に歩き回っており、その棲息域は他の地形の地域にも広がっていたが、農業や建設がこの地域から殆どの野生動物を駆逐してしまった。
1.2.3 高原地域(Plateau Area)
高原地域は標高1,500m以下であり、ターイフ首長管轄区(Taif Amirate)の大半を占めている。山麓丘陵地域と高原地域の境は殆どなだらかに起伏しており、山麓丘陵地域の更に北東は殆ど平になっている。高原地域は構造地形的にはサウジアラビアの中央部を占める広大な内陸の一部である。
ターイフ地域の涸れ谷の河床はジャラド(al-Jarad)の堆積平原へ向かって開き、消えて行く。この堆積平原はハダン熔岩地帯(Harrat Hadan)の低い起伏によって東側を閉じられている。この河床を流れる水の頻度も水量も少ないのでこの堆積平原の地表が大きく溝が付けられる事は無い。
高原地域は農業には向いていないが、標高の高い地域では実を熟さす事が出来ない椰子がここでは適正な環境を見つけ、木立を形成している。放牧は涸れ谷の河床のみでの駱駝や山羊等頑健な家畜に限られる。異なった種類のアカシアが野生に育っており、ガゼル(Gazelles)の群は数十年前まで普通に見られた。しかしながら、過度の狩猟で夥しい数が犠牲になり、今ではサウジ政府は生き残りを保護する救済策をとっている
1.3 気候(Climate)
その標高とヒジャーズ山脈の西側崖地の端に位置すると云う二つの主要な地域的要素がターイフの気候に影響を与えている。標高は夏月間の一般的な穏やかな温度に寄与している。夏月間の平均最高気温と平均最低気温はそれぞれ32oCと20oCであり、湿度も低い。これらの要素の組み合わせが時代を越えて夏の休養地としてのターイフの人気を説明している。ハダ(al-Hada)とシャファ(al-Shafa)の様な標高の高い地域でもそこへ通行する為の近代的な道路の完成が近年の観光保養地や夏期住宅センターとしての発展を促して来た。ターイフの冬はこれとは異なるはっきりした季節である。平均の最高気温と最低気温はそれぞれ22 oCと11 oCである。冬の寒さは厳しく、気温はしばしば零度まで下がる。特に市の南東の高所地域では顕著であり、池が凍ったり、霜が降りたりする。ダギスタニ(A.M.I. Daghistani)*に指摘されている様に一般的では無いにせよ、1969年3月5日(水)の夜にはブルドーザーを使って通りの雪かきをする程、この町に雪が激しく降った。
先に述べた様にターイフが崖地に近い事はこの気候を生み出すもう一つの主要な要素である。紅海から内陸へと移動する湿った空気の大部分はこの崖地に辿り着くと上昇しなければ成らない。作り出された上昇気流は空気を冷やし、湿り気は凝縮して雲を作り出す。雲が崖地の縁を通り過ぎる時にしばしば短時間で水分を落とし、時々は猛烈な土砂降りとなる。崖地で上昇する空気の速度が臨界に達した時に動いている空気の中に破壊的な雹の形成を伴う過冷却が生じる。
平均的な年間降雨量は180mmであるが、数年間単位ではどの月の降雨量も著しく変動している。一般的には冬の月に最大降雨量が見られるが、春や夏の月にも豪雨が降る事もある。風は多くは西、北西および南西から吹いてくる。同じ方向の高原地域がこの市を遮蔽しているので強風が吹き渡るのは極めて稀である。春に南から吹くワリ(Wali)は降雨の先触れである。たまの東や北からの風がターイフでは経験するのが稀な砂嵐をもたらす。
1.4 民族(Ethnography)
タイフの住民の多くはスンナ派(Sunni)のハンバル学派(Hanbali Madhhab)*やマーリク学派(Maliki Madhhab)*である。様々な学派のシーア派(Shia or Shi’a)が原住民の社会では二番目に大きな共同体である。この気候の快適な市に新たに定住者となったのはサウジアラビアの中央部や東部から移住してきたワッハーブ派(Wahhabis)である。その他に主としてアジアや他のアラビ諸国から移住してきた外国人の人口も著しく多い。
第二部 涸れ谷と水源(Wadies and Water Resouces)
2.1 古代のダム(Ancient Dams)
ターイフ地域の集水域は涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)・涸れ谷カイム(Wadi al-Qaym)水系と涸れ谷リイヤ(Liyyah)水系の二つ谷で構成されている。この両方の水系ともダカ山(Jabal Dakah)の奥地の斜面から概ね北東へサフル ラクバ(Sahl Rakhbah)の大きな堆積平原に向かって流れている。この集水域の幾つかの場所(一説によれば約70ヶ所)では古代の人口的な堰(man-made barrages)で遮られ、その幾つかは相当な大きさである。
これらのダムの古さについては疑問の余地は無い。その殆どはその上流部分が沈泥で埋め立てられたり、洪水によって以前に貯まっていた堆積物が浸食され溝をつけられ破壊されて仕舞っている。一つの珍しい例外を除いて、直接的にも間接的にも今日まで建造時期の分かっているダムは無い。下調査や仮報告書は十数基のダムについて教育省考古博物部によって作成されており、幾つかは農水省の水文学研究の対象と成っている。公的な調査はそれ位である。古代の建造者の建設技術の巧みさと昔のこの地域で行われていた農業開発の度合いを強調する為にターイフの周囲の谷々に散在する多くのダムの中のたった二つではあるが2.3章と2.4章に簡単に紹介する。
水を貯え、それを谷のもっと下流の定住地に放出する時と量を制御できるこれらのダムは並はずれた強さの洪水での破壊とか、或いはこれらの水たまりの沖積沈殿物が積み重なってかなりの量の水を保持出来なくなるとか等で自然の力に耐えられなく成るまではターイフ地域の農地の拡大と生産性に大きく貢献していた。恐らくゆっくりと行われるダムの終焉はこの地域の農民達にとって全くの悲劇ではない。西暦575年に起きたイエメンの有名なマリーブダム(Marib Dam)の破壊と比較すると農民達は生活様式の急激な変化あるいは全体の衰微を起こさずに、自分達の方が何処かに移住したり、あるいは降雨灌漑の作物に転換したりして適応して来ている。
(注) マリーブダム(Marib Dam)の破壊は西暦570年に起きたとの説もある。
2.2 古代ダム存在の確認(Identifying Ancient Dams)
高名な人達が昔も今もターイフの恩恵を受けているのにアラブの地理学者達はこれらの堂々たる建造物については何も記述していない。農業分野の観点からは1920年にターイフに滞在したレバノン人の歴史家でアブドルアジーズ王の伝記作家カイル ディン ジリクリ(Khayr al-Din al-Zirikli)が記述したアラブの史料からこれらのダムの存在の最初のヒントを見つけるのには20世紀の30年代まで待たなければならなかった。1931年のジョン フィルビー(H. St. John B. Philby)*を初めとして数人の西洋人の訪問者達がこれらのダムについて理解しやすい、重要な幾つかの簡潔な記述を次々と残した。
1938年にナリノ(C.A. Nallino)*がこれらのダムの一つで、ターイフの南東約20kmにある涸れ谷スマラ(Wadi Thumalah)の流れを堰き止めているスッド サマッラキ(as-Sudd as-Samallaqi)を識別し、記述した最初の人物であった。バ サラマ(Ba Salamah)*を引用し、ナリノは「アマレク人(Amalekites)*がターイフを占拠していた時代にこのダムは建設されたのは明らかであり、この建造者は力のある男であった」と言っている。ナリノは又、違った説として「ムハンマド フサイン ハイカル(Muhammad Husain Hailkal)がこの建造はムアーウィヤー一世(Muawiyah I, 661 - 680)*の時代からであると言っており、 『その証拠はダムを構成する一つの石に彫られた碑文に述べられているが判読は殆ど出来ない。アブドゥッラー パシャ バナジ(Abdullah Pasha Banaji)は20世紀初めにそれを撮影し、エジプトに送った。エジプトで解読したところ、そこにはアムル ビン アス(Amr bin al-As)*が信者達の君主ムアーウィヤー ビン アビ スフヤン(Muawiyah bin Abi Sufyan)の命令でその建造を注文した事が述べられていた』と付け加えている」とも言っている。
ナリノはダムを構成する全ての石を入念に調べたが、碑文は見つからなかった。それはこの碑文がそこには無く、もう一つのダム スッド サイシド(Sudd Saysid)の傍にあった為である。撮影の対象となった場所に関して或る程度の混乱が明らかに生じていた。ハイカル(Haikal)とナリノ(Nallino)は二人共それに騙されたと感じていた。
(注)ジョージ C. マイルズ著「ターイフ付近の早期イスラム碑文(Early Islamic Inscriptions near Taif in Hijaz by George C. Miles)」の中にこれらのダムの写真が掲載されている。 (http://www.ghazali.org/articles/gcm-jnes-48.pdf)
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2.3 スッド サマッラキ(Sudd Samallaqi)
スッド サマッラキ(Sudd Samallaqi)は選定されるか、或いは成形された50cmから2mの大きさの様々な花崗岩の塊で作られ、下流側はモルタルで固められている。大きな石の間の空洞には小さな石が詰められている。この様にして作られた二つの厚い壁の間には瓦礫が詰められた。下流側には階段が刻まれ、上流側よりも大きな塊で作られており、直線的にキチンと並べられている。その上部表面も丸石を引かれた小道に似て完全に整えられた滑らかな石塊と共に高度に洗練された建造技術を示している。ダムの頂きと上流部側はかっては漆喰が塗られて居り、建造者達が使っていた珪灰の痕跡が上流側の特に低い部分には見られる。
ダムの全体の大きさはとても印象的である。教育省考古博物部考古学者の測定によれば、ダムは高さ10.8m、長さ210mで幅が10mであった。スッド サマッラキ(as-Sudd as-Samallaqi)は涸れ谷スマラ(Wadi Thumalah)の渓谷を塞いでいる。涸れ谷スマラ(Wadi Thumalah)は涸れ谷リイヤ(Liyyah)の上流部にある一つの支流の名前である。二つの岩山(Rocky Hills)の間を塞いだダムは貯水池を形成し、その水は下流域の農場の灌漑水として使えただろう。しかしながら、この仮説はダムの下流側からそれ程離れてない場所に幾つかの井戸がある為にここには明白な直接的水門(sluice)が無い事実と対比している。これらはダムと同時代の井戸であるようだ。このダムはこの谷の下流の井戸を満たしている帯水層(Aquifer)を涵養させる手段として建造された事は大いにありうる。もし、そうであるなら、古代の建造者・農民はその時代としては信じられない程、進んだ水文地質学(Hydrogeology)の概念への知識を持っていたのは明らかである。
しかし、時代は何時なのだろうか?このダムはイエメン(Yemen)のマリーブ ダム(Marib Dam)やカイバール(Khaibar)のクサイバ ダム(Qusaibah Dam)および西アラビアの山岳地帯の多くのダムの似たような設計を較べると明らかにイスラム以前か、イスラム早期の時代の古い物であるとの漠然とした答えしかできない。多くのダムの上流側に沿った沈泥の堆積に含まれる有機物から採取した放射性炭素を分析しての時代特定はこれらの建造された年できると思われるが、この様な調査はまだ行われて居らず、近い将来に行われるだろう。
スッド サマッラキ(Sudd Samallaqi)は今日ではもはや使用されてはいない。北西端にはダムと直角に流れが有るときには流水をさらっていた狭く,深い峡谷が流れを涸れ谷ウサイフィール(Wadi al-Usaifir)へとそらしている。この峡谷ももともとは小さなダムで堰き止められていたが、今では無くなってしまった。それでもその北東側には幾つかの石塊が残っている。
涸れ谷スマラ(Wadi Thumalah)の全域に渡って、今もなお緑の畑と集落が点在している。ダムは近くの丘の上から見渡せる。そこには繁栄している領土に侵入する外敵から村人達を守る為に建てられた、恐らくオスマン帝国時代(Ottoman times, 1299 - 1922)に作られたと思われる古い監視塔が二基建っている。
2.4 スッド サイシド(Sudd Saysid)
もしスッド サマッラキ(Sudd Samallaqi)がターイフ地域の古代のダムの中でもっとも壮観で恐らくもっとも良い保存状態であるとすれば、スッド サイシド(Sudd Saysid)は比較的正確に年代が分かっている唯一のダムとして間違いなくもっとも重要である。
ダムの南東端ではあるがダムの一部では無い大きな石に早期のクーファ体(Kufic Script)*で刻まれた碑文については前述しているが、次のように訳されている。
「このダムは神の僕で信仰心のあつい司令官ムアーウィヤー(Muawiyah)によって寄進された。アブドゥッラー イブン サクル(Abdullah ibn Sakhr)は58年に神のお赦しを得て、これを建てた。神は神の僕で信仰心のあつい司令官ムアーウィヤー(Muawiyah)に赦し(Grant Pardon)を与え、強め、助けそしてこのダムによって信者達をお救いになった。アムル イブン ハッバブ(Amr ibn Habbab)がこれを書いた」。
もしこの碑文がダムと同時代の物であれば、その事を疑う理由は殆どない。スッド サイシド(Sudd Saysid)はウマイヤ朝(Umayyad Dynasty, 661 -750)創始者カリフ ムアーウィヤー イブン アビ スフヤン(Caliph Muawiyah ibn Abi Sufyan)の」時代に建造された。それはヒジュラ暦*58年、西暦678年であった。
スッド サイシド(Sudd Saysid)はターイフの東北東10km辺りの農業用に確保されている地域の中に位置しており、北西から南東方向に涸れ谷リイヤ(Wadi Liyyah)の西側でもっとも大きな支流の上流部を堰き止めている。このダムの上部は沈泥で被われているので下流側しか見えない。これら組合わさった要素が大きな高台を伴った手すり壁の様に見せているが、もともとこの堰は大量の水を貯めるのに使われた。その量は最近の推定では50万トンとされている。
ダムの下流側の露出した部分はスッド サマッラキ(Sudd Samallaqi)について述べたのと同じ様な材料と技術を使って建造されており、一連の狭い足場で階段がつけられている。その長さは58mで、幅が4.10mで高さが8.5mである。洪水の吐き出し口があったのがダムの北西端の岩に刻まれた水路の存在で分かる。
2.5 市街地を流れる涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)
この市の名がターイフと変更される前には涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)と名付けられていた程、涸れ谷ワジはターイフともっとも頻繁に結びつけられる固有名詞である。ターイフが城壁に囲まれた町のみで構成されていた時代には北西に向けて流れる涸れ谷ワジはこの町の直ぐ南東を流れていた。ターイフで消費する水の殆どはその河床から汲み上げられていた為に涸れ谷ワジはターイフの生命線であった。或る種の神聖さが涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)に常に結びつけられており、「この谷で狩りをしたり、木々を伐採するのは禁止されている」と信じる人達も居た。
現在ではターイフの拡張に伴って、市街地は涸れ谷ワジの両側に発展し、涸れ谷が市街を真っ直ぐに横切って二分する様になり、それが危険や問題を引き起こしていた。一年の殆どが乾燥しているこの涸れ谷は車やトラックの運転手には駐車場として、行商人には商品の売場として、子供達には遊ぶ場として使われていた。しかしながら、この市の南西の山々での雷雨が降ると洪水が起き、突然に出水(Spate)し、住宅地に達する時には何の警告も無く高速流となって居るので、その水路に居る全ての人々に大きな危難を引き起した。その上、この市のこの涸れ谷で分割されている二つの地域を結ぶ橋も渡り場も無いので、実際にターイフの交通は全て完全に麻痺させられていた。
この様な問題をこれを限りに無くす為にサウジアラビア政府は市街地の涸れ谷の流れを地下水路にする事を決めた。今では10m幅の3m高さで延長5,775mのコンクリート製のトンネルがマスナ(al-Mathnah)からこの市から安全な距離に離れる地点までの全延長に渡って豪雨であふれた雨水を流している。その下流からは涸れ谷ワジは再び自然の水路に戻っている。
この市を初めから知っている人達だけがもっとも広い通りの舗装がこの涸れ谷を隠しているを実感している。谷の両側を埋め立てた大きな地帯は立派に造園された公共庭園やその他の快適な施設に成っており、ターイフの市民は市役所が行ったこの独自の事業から様々な恩恵を受けている。
2.6 涸れ谷ミフリム(Wadi al-Mihrim)
「禁制」を意味する名を持つ涸れ谷ミフリム(Wadi al-Mihrim)はハダ(al-Hada)にある涸れ谷の一つで、メッカに向かうに巡礼達がイフラム(Ihram)を行わなければならない場所である。この涸れ谷も涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)と同様に「この神聖な谷で狩りをしたり、木々を伐採するのは禁止されている」と信じる人達も居た。この様な理由でこの名が付けられているが、禁制と云うのは結論的に多くの宗教学者によって受け入れられては居らず、宗教学者達には「この様な行動は望ましくは無いが、禁止されてはいない」と信じられている。
(注)涸れ谷ミフリム(Wadi al-Mihrim)はWadi al-Muhrim or Wadi al-Mahramとも転写されている。この涸れ谷については後述の「7.2.2 イーラムの涸れ谷ミフリム(Wadi Mihrim Station to don Ihram)」に詳しく述べてある。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「涸れ谷ミフリム(Wadi al-Mihrim)は涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)のハダ(al-Hada)にある支流涸れ谷の一つである」と記述している。この二つの涸れ谷は比較的近く、流れの方向も同じではあるが私が鉱物石油省の地図や衛星写真で調べた限りでは、涸れ谷ミフリム(Wadi al-Mihrim)は涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)の支流ではない。
2.7 新たな水源(Alternative Water Resouces)
2.7.1 伝統的水源 涸れ谷ワジ(Wadi Wajj as Traditional Water Resources)
最近までターイフはその水源を涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)の上流に頼っていた。最初の水源はマスナ(al-Mathnah)にあったが、その後総給水量16,000m3/日の水源がワハト(al-Wahat)とウハイト(al-Wuhayt)にも幾つか作られ、マスナ(al-Mathnah)の給水施設を通して市の水道網に接続されている。総容量11,500m3の貯水槽群はこの涸れ谷のこの市より上流の高台で南東のシュハダ山(Jabal al-Shuhada)に建てられ、1970年半ばにターイフの水道設備が完成した。すでに1955年には浸透式のダムが洪水の相当量を貯める為に市の南西10kmのアクラマ(Akramah)に完成した。ダムは市街地を洪水の脅威から或る程度保護してくれる一方で、この様にして貯められた水は次第に河床の下の堆積水層に浸透し下流域での利用できる水量を増やす効果がある。
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イクリア ダム又はアクラマ ダム(Ikrima Dam or Akramah Dam)はサウジアラビアに建設された最初の近代的なダムであり、1957年に故サウド王(King Saud)の列席の下に落成式が行われた。
2.7.2 移送水(Transfered Water)
涸れ谷ワジ(Wadi Wajj)の水源開発が完全に実現すると、次に市当局は王国の夏期政庁設置と云う市が経験しつつあった劇的な拡張に備えて他の場所にも緊急に水源を求めなければならなかった。この為、130km東にある涸れ谷トルバ(Wadi Turbah)およびその上流域の涸れ谷アラザ(Wadi Aradhah)*からターイフへ送水する大きな事業が農水省によって遂行された。22もの新しい水井戸がこれらの涸れ谷に掘られ、200kmの送水管と高所へ揚水する為のポンプ場が建設された。新しい貯水槽群が既存に追加され、総貯水量は192,000m3となった。1979年にこの事業が完成し、32,000m3/日とこれまでの倍の給水量が使用可能となった時には全ての問題が解決した様に見えた。
2.7.3 再生処理水(Recycle Pirified Water)
市の衰えない成長の早さや国中の人々の休日行楽地への発展から水需要はすぐに給水量を超えてしまうのは再び明らかであり、徹底的な方策が取られた。それは市有や私有の庭園の灌漑水需要を下水再生処理水によってまかなう為の巨大下水処理および豪雨時雨水処理施設の計画と実施であり、公共資源の主要な排水が一般的な水消費に使える様になった。リヤド道路(Riyadh Road)のマッサッラ インターコンチネンタル ホテル(Massarrah Intercontinental Hotel)の東南東4kmのアルジ地区(al-Arj Distinct)に位置するこの施設は1985年中に完成する計画となった。実際的に純水を生産する為に一次処理と二次処理の2段下水処理法に基づくこの事業は2年後に分離され、もう一つの巨大事業に組み込まれた。その巨大事業とはターイフの水需要を現在と推定可能な将来に渡ってまかなう為に海水脱塩水を供給する計画である。
2.7.4 海水脱塩水(Seawater Desalination)
脱塩装置は紅海岸でジェッダ(Jeddah)の120km南のシュアイバ(Shuaybah)に当時建設中であった。メッカバイパスとも呼ばれるジェッダとターイフ間の道路がメッカとターイフ間の道路と交差する場所に位置する貯水・ポンプ場まで各々口径140cmの2本の送水管が水を運ぶ。そこには各150,000m3の容量を持つ、4つの鉄筋コンクリート製の水槽が建設されている。ここから1本の送水管はメッカへと向かい、もう1本はターイフへと向かう。ポンプ容量は2つの市に割り当てられる150,000m3/日である。この事業のターイフ関係には現在建設中の延長13kmで口径540cmの崖地の頂上で標高2,200mのサビール山(Jabal Sabir)を抜けるトンネルが含まれており、その高さは水が重力で自然にターイフまで流れる様に決められた。
21世紀に入ってサウジ政府はシャイバ(Shoaiba or Shuaybah)の造水工場からの給水をマッカ(Makkah)およびターイフ(Taif)に加え、ジェッダ(Jeddah)も視野に入れ、その能力を飛躍的に増大させた。シャイバ(Shoaiba or Shuaybah)の造水施設はSWCC (Saline Water Conversion Corporation)が管理するシャイバ造水工場(Shuaybah Desalination Plant)であるが、隣接するとSCECO (Saudi Consolidated Electric Company)が管理するシャイバ火力発電所(Shoaiba Oil-Fired Power Plant)と密接に連携している。又、第三期工事は民間の独立法人を活用している。
シャイバ造水工場(Shuaybah Desalination Plant)
工事開始: 1997年 第一期工事: 能力 74,000 m³/day, 稼動開始 2000年8月 第二期工事: 能力 450,000 m³/day, 稼動開始 2003年3月 工事費: 第一期および第二期合計 10億6千万ドル 対象人口: 第一期および第二期合計 150万人 生産目標: 第一期および第二期合計 年間1億5千万立方メートル
シャイバー独立水電力供給企業(Saudi-Malaysian Consortium) Shoaiba Independent Water and Power Project (IWPP) …………………..能力 880,000 m³/day, 900 MW, 稼動開始 2009年末予定 工事費: 24億3千万ドル
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