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遠い渓谷と遙かなる砂丘地帯(ナジラン) (サウジアラビア王国南西地方) その1 ナジラン州の紹介 |
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索引 1.1 伝統的なナジラン
(Najran)地方 1.2 ナジランの地勢 1.2.1 山岳地帯 1.2.2
平らな地方(肥沃な) 1.2.3
砂丘地帯(Sand Region) 1.3 ナジランの気候 1.4 ナジラン市街地 1.5 神秘的なナジラン(Najran)の名前 1.6 州都としてのナジラン 1.7 ナジランの行政 1.8 ナジランの人口 2. 豊饒(Fertility) 2.1 肥沃な涸れ谷ナジラン 2.2 花開く大地 2.3 農作物 2.4 主食でもあったデイツ 2.5 政府の農業振興 2.6
水資源の確保(アル マドヒク ダム等) 2.7 農業道路の整備 3.1 生命に溢れた広大な沙漠 3.2 活動的なベドウインの生活 3.3 ベドウインと駱駝 3.4 家畜の増産政策 4.1 名声ある過去と近代化 4.2 商工業センターとしての発展 4.3 教育分野の開発事業 4.4 新市街地ファイサリア 4.5 通信交通
5.1 自然の景観 5.2 歴史的な人口遺品 5.3
伝統工芸 5.4
ナジラン渓谷ダム 5.5
ファハド王公園(King Fahad Park) 5.7
お祭りと民族舞踊 後書き(Postscript) 出所と参照(Source and Reference) 原注(Explanatory Note) ナジランはサウジアラビアの南西部に位置し、未だに「遠い渓谷と遙かなる砂丘地帯」と云う主題が相応しい急峻な山岳地帯と灼熱の砂丘地帯からなる遠隔の地である(ナジラン州 (Najran)地図参照)。ナジランへの訪問については既に3回に渡って紹介してきた001ので、今回はむしろ「ナジランとはどんな場所か?」を主体に次の4部に分けて説明する事にした。 その1 ナジラン州の紹介 その2 ナジランの歴史 その3 伝統と美術工芸 その4 二十一世紀を開く砂丘地帯 手元にナジラン002を紹介した十分な資料がなかったのでインターネットのウェブからもナジラン関連の資料を集め、翻訳し纏めた。ウェブ資料については2007年4月2日のタイム誌(Time)003がウェブ辞書Wikipediaについて指摘している様に種々問題はあるので、私としては出来るだけ複数の資料から正確を期する様に努力した積もりである。 1983年にスコーピオ出版(Scopio Editeur)が「アラビアの沙漠の庭園(Desert Garden of Arabia,
Najran)」との表題で出版したテシュコフ ミノザ氏(Mr. Tchekof Minosa)撮影の写真集はエキゾチック(exotic)な魅力に溢れており、その中の写真が絵はがきと成ってホテルの売店等で売っていた。特にベドウインの女性を撮影した写真は1980年代には珍しかったので私もかなり手に入れ、日本に居た家族や友人達に郵送していた。 以前に、ジバル サラト(Jibal al-Sarat)004としてナジラン地方と南アシール地方を一緒に紹介した様に、私にとってはその違いを述べるのは難しい。強いて言えば、アシール地方が早くから観光リゾートとして発展し、良く知られているのに対し、昔はイエメンYemen)を代表する乳香の道の宿場であった頃の賑わいはとにかく、ナジランはそれに較べてどこか隠し里の様なひっそりとした雰囲気がある。 現在、進められている空白地帯沙漠の石油・天然ガスの開発が本格化すればナジランはその重要な基地となるのは自明であり、又、国境の確定したイエメンとの関係は「これからは良くなる」と予想ので、ワディ’ア(Al Wadi'ah)で計画されている両国境の経済都市発展の可能性は大きい。 この古い地方には150万年前から人類の足跡のあり、鉄石005と云う、旧石器の材料を産出し、沙漠の奥の岩山には牛、ガゼル、戦う騎馬兵、タンバリンや琴を持って踊る女等多くの岩壁絵が碑文と共に未だに手つかずに残り、古代の繁栄を想わせる。現代ではあまり目立つ存在とは言えなかったナジランが21世紀の石油天然ガスや農業開発、観光開発等の最新の発展に「どの様に寄与出来るのか」を念頭に置きながらこの紹介を進める事にした。 ナジラン地方はサウジアラビア南西のイエメンとの国境にある。この不規則に広がったオアシスには4,000年前から人が住み続けており、かつては乳香の道101の中継地でもあった。イエメン文化の影響はサウジアラビアの何処よりも強く受けており、その伝統は建築やナジランの人々の振る舞いに見ることが出来る。現在は近代化され、大きな主要道路とこれに沿ってバスの停車場、ホテル、郵便局や食事する場所が間近に並んでいる。 サウジアラビアの基本的な行政区としてのナジランはサウジアラビア王国の南西部のほぼ北緯16度50分から19度20分で東経43度40分から52度00分の範囲にあり、東は空白地帯沙漠(Empty Quarter Desert)を隔てオマーン国(the Sultanate of Oman)へと続き、西はアシール州(the Asir region)のザハラン ジャノウブ(Dhahran Al-Janoub)、北はリヤド州の スライイル(Al-Sulayyil)およびワディ ダワシール(Wadi Al-Dawasir)と接し、そして南は国境を挟んでイエメン国(the Republic of Yemen)となる(ナジラン州(Najran Province)地図およびナジラン州 (Najran)地図参照)。 66年間に渡る紛争の末、サウジアラビアとイエメン間の国境は2000年6月に合意した。この2000年ジェダ条約(the 2000
Jeddah Treaty) で確定した1,845kmにおよぶ国境線に基づき、2004年7月にサウジアラビアとイエメンが相互に新領土の引き渡しを実施した。これに伴いカールキール(Al kharkhir)がナジラン州に併合され、ナジラン州は東へとカールキール県(Al kharkhir governorate)まで広がる事になった。この為、ナジラン州の面積は140,000km2から約360,000km2に増加した。これは空白地帯沙漠(650,000km2)の面積の55%に匹敵し、サウジアラビアの総面積(225,000km2)の約16%に相当する。 昔からナジランはサウジとイエメン間の密輸の中継地であり、警察、国境警備隊、ムジャヒディーン(平服の特殊警備隊)等の治安当局の取締りは伝統的に厳しかった。
それが観光開発を阻害する要因でもあったが、国境の確定と入出国ゲートの増設で厳しかった取締りも大幅に緩和されると想われる。 1.1 伝統的なナジラン地方
(Najran) 急峻なアシール山脈の東側を占める伝統的なナジラン102 (ナジラン主要部地図参照)は空白地帯(the Empty Quarter)と呼ばれる広大なルブアルカリ沙漠103
(Rub Al Khali Desert)の外れに庭園の様に存在し、葉の縁取りの様に花咲く穏やかでうちとけた愛らしい土地である。この土地はサウジアラビアの歴史では重要な場所であり、イスラム(Islam)の歴史においても卓越した役割を担ってきた。聖なるコーラン(the
Holy Qur'an)にナジランは殉教の地と述べられている様に、献身的な信者がかつて拷問され、神への信仰の為にここで命を奪われた。 ナジランの歴史は「ヤム族104
(the Yam tribes)が伝統に従った習慣や強い信条を持って、アビシニア人(the
Abyssinians)の侵入やイエメン(Yemen)のイブン ハミド エディン(Ibn Hameed Eddin)の侵入等を撃退し、どの様にしてこの地方の独立を保ち、自治を続けて来られたか」を述べる出来事に溢れている。第一次サウジ公国(the
first Saudi state)とヤム族の間には深い関係があり、それが過去を現在と繋げ、サウジアラビアがナジランを統治した最初の政府となる契機でもあった。 1.2 ナジランの地勢 ナジランには山岳地帯、平らな地方および砂丘地帯(Sand Region)等3つの異なる地形的環境がある。伝統的なナジラン地方とはこの内の山岳地帯と平らな地方である。砂丘地帯の東半分は前述の様にカールキールがナジラン州に編入された為、ナジラン州はカールキール県(Al kharkhir governorate)を設けて、空白地帯の東へと大きく拡大した。 1.2.1
山岳地帯 サウジアラビアの最高峰はアシール州都のアブハ(Abja)に近い標高2,910mのソウダ山(Jebel Soudah)である。この山を含むアシール山脈はアフリカの大地溝帯105と同じ地質的断層の一部であり、ナジランの西および北の地域へと連なっている。この地方の気候は夏にも穏やかである。影の多いナブク樹 (Nabk Tress)とも呼ばれるシドル106 (Sidr tree)の様な樹木の生える幾つかの美しい公園がある。 この山岳地帯にはナジラン州の重要な県とセンターがある。それらはハボナー県(Habounah Governorate)、バドル ジャヌーブ県(Badr Al Janub Governorate)、ヤダマ県(Yadamah Governorate)およびその天然資源埋蔵でファハド政権の関心を得たサール県(Thar Governorate)である。 全ての産物の中で一番重要なのが金であり、金はジョンス(Al-Johns)地域に埋蔵され、サファ センター(Safah Center)がそれに次いでいる。多くの山が花崗岩であると確認され、大理石や御影石を生産している。それ例としては花崗岩の「ナジラン茶」があり、荒削りの石塊、石板、タイル等に使われる。花崗岩は天然素材なので全て色とシマが様々になりがちではあるが、その生産量はサウジアラビア国内需要の大きな部分を占めており、一部輸出もされている。 花崗岩の山々は谷を被う緑の植生で縁取られているが、西へと高度を上げると、山頂部分が烏帽子の様に切り立ち、古色化(Patination)し、部分的に黒くなった前カンブリア紀砂岩および古生代砂岩の崖を被っている。 1.2.2 平らな地方(肥沃な) 平らな地方はナジラン州の中央に位置し、歴史的そして人口分布的にナジランを代表している。この地方には幾つかの渓谷があり、もっとも有名なのがナジラン渓谷である。 ナジランはサウジアラビア南西部の地方と都市の名であり、涸れ谷の名前でもある。伝統的ナジラン地方はアシール(Asir)山脈に北と西を遮られ、南にはイエメンの山々に遮られている。涸れ谷ナジランの流れはその水源を西側の山々の断崖に発し、ナジランを通って、南東へと向かい、東にある漠々としたルブアルハリ(Rub
Al Khali)沙漠の砂に消えてしまう。ナジランの町の信じられない程の肥沃さと美しさはその地理的な位置と河岸沿いの肥沃な土に被われた河床によって生み出されている。町や村は密生したナツメ椰子園や青々とした果樹園に囲まれ、畑は涸れ谷ナジランの河岸の上に広がっている。この涸れ谷のお陰でこの地方の気候は温暖でその住人は穏やかな環境に恵まれている。群葉の涼しい美しさに隠された家々は周囲の山々と融和するベージュ色の粘土で作られている(ナジラン市とその近傍地図参照)。 河岸に沿って発達した主な村にはモファジャ(Al
Mofaja)とズール ハリス(Zur Al Harith)等がある。涸れ谷ナジランは北、南および西をゴツゴツした花崗岩の山で囲まれている。南の連山はナジラン脊稜(Najiran's
Ridge)と呼ばれ、もっとも高いのはアブ
ハマダン(Abu
Hamadane)嶺で海抜1450mである。北はサルム尾根(Salm
Ridge)で、もう少し低い。西側はアシール山脈に連なり、この地方では一番高く、標高は2000mを越える。 アシール山脈やイエメンからの幾つかの支流も涸れ谷ナジランに流れ込んでいる。ファイサリア(Al
Faysalia)の北西にある涸れ谷アビ ラチャチェ(Abi Rachache)では水が岩から噴出し、小さな連続した滝で岩山を果樹に囲まれた灌漑池まで流れ下る。同じ地区に割れ目(crevice)を意味するマディク(Al Madhiq)があり、その名の通り、イエメン側の山から流れ下る水の通る狭間である。
Wadi
Najran さらに涸れ谷ノホカ(Nohoqa)とラオウン(Raoun)山があり、この二つの地域は散歩やハイキングを楽しむ場所となっている。涸れ谷ナジナンの下流は幅2、3kmの広く肥沃な地帯からなる豊かな農地を形成している。
ナジラン地方のその他の主要な涸れ谷としては涸れ谷ハボナー107 (Habounah)と涸れ谷バドル ジャヌーブ(Badr Al Janub)がある。涸れ谷ハボナーは涸れ谷ナジランと同等に重要であると考えられている。この涸れ谷は西から東へと流れ、その土壌はとても肥沃である。ハールシャフ(Harshaf)、カニア(Al Khania)、ハダダ(Hadada)およびマジマ(Al Majma)等の幾つかの村々がその河岸に発展している。第三の涸れ谷バドル ジャヌーブは北から南へと流れる。この涸れ谷での二つの大きな村にはマハラサ(Mahrathah)とカレイン(Kahlane)等がある。 1.2.3 砂丘地帯(Sand Region) 砂丘地帯はナジラン東部で空白地帯沙漠(Empty Quarter desert)の一部である。この三番目の地帯の中心はナジランから330km離れているシャロウラ県(Sharourah Governorate)であり、ナジランの東のクバシュ県(Khubash Governorate)および最近、ナジラン州に編入されたカールキール県(Al Kharkhir Governorate)もこの三番目の砂丘地帯(sand region)に含まれている。 1.3 ナジランの気候 ナジランは沙漠地帯にあるけれども、冬も夏も温暖で穏やかな気候に特徴付けられる。高度の違いで温度は14.6℃から30℃まで変化するが、高い連山がナジランを防御する様に囲んでいるので、冬場の山岳地帯は非常に寒い事も少なくは無い。夏に強い雨が降るのは非常に稀だが、冬には適当に雨が降り、モンスーンがもたらす穏やかな雨期が3月から5月まで続き、涸れ谷を満たしてくれる。降雨がもたらす大量の沈泥(silt)を含む豊かな流れが地下の帯水層からの湧き水と結びつき、ナジランに肥沃な農業地帯を生み出している。 1.4 ナジラン市街地 紅海の大都市ジェッダの喧騒や乾燥し風の強い首都リヤドの雑踏を離れ、ナジラン地方に来ると特有の爽やかな世界に魅力を感じる。涼しい微風(そよかぜ)と豊かな緑がこの忘れられない沙漠のオアシスへと招く。そこには多くの対比があり、絶え間なく広がる豊かさがある。サウジアラビア王国内でもっとも興味深い地方ではあるけれども、アブハ(Abha)からアシール山脈の山岳地帯沿いに約280kmも東であり、イエメンとの国境を接する殆ど訪問する機会の無い遠隔の町だった。 ナジラン市の最も重要な地区はファイサリア(Al
Faysalia)とアブ セオウド(Abu Seoud)であり、この地方の新旧の象徴でもある。空港から西に向かうと、涸れ谷ナジランの北でアブ
セオウドから8km東にあるファイサリヤ(Faysalia)に入る。アラビアの建築家や技術者が近代的なコンプレックスを創造するのを啓発出来る様に、ファイサリアの建設には平で広い場所が選ばれた。ファイサリアの建設は1966年に始まったに過ぎないが、この地方の新しい行政の中心となり、州政府や市役所の行政および庁舎、学校、病院および幾つかの私企業の本社が設けられた。ファイサリア(Faysalia)の町は広い通りと現在のアラビア建築様式のモデルである美しい住居、学校、政府庁舎で構成された小さく、小綺麗で近代的な町である。 さらに西へと進むと遠くに眺められる山々の険しく堂々とした美しさに魅了される。青々とした良く手入れされた果樹園に植わる高いナツメヤシの長い列を抜けるとアブ
セオウド(Abu
Seoud)に着く。古代の町アブ セオウドは古いナジランの気質を完全に示している。かつては行政の中心であり、伝統的な円形の都市計画で作られ、近代的な升目状のファイサリアと際だって対照的である。アブ
セオウドは涸れ谷ナジランの少し北にあり、キング通り(Malik
Avenue)が横切っている。この通りは商業センターと近くの町や村をつなげている。ナジランの歴史と伝統のあるこの美しい古い町の中心にトルキー
マディ宮殿(PRINCE TURKI AL MADI
PALACE)ある。そこには多くの工芸品屋台が並び、色とりどりな品を揃えたスーク(souk)がある。聳え立つ粘土の建家と活気に溢れ、スプロール状に広がるスーク(souk)では郷土の職人が見事な工芸品を売っている。その中にはアラビアの有名な手工業、金属加工や織物がある。ここでは過去が息づいており、唐突に数世紀も前に戻った様に感じる。 この様に今日のナジランは過去の活気ある伝統と将来への進歩に対する認識の下に対称的な二つが密接に調和している。人々は数分の内にきびきびと計画された近代的な町ファイサリアから情緒のある古風な町アブ
セオウドに移動する。この二つの町は切り離されたり、明確に分けられたりしては居ないが互いに豊かにし、ナジランの住人の生活に特別な広がりを持たせている。生活の続きはきらめく近代的な学校やあか抜けない市場に連なっている。この市場は幾世紀にも渡って同じ場所で営まれて来ている。豊かで古い伝統は近代的な進歩の強さと創造的に調和的に統合されている。この結果は見るのも全てに証明されている。穏やかではあるが誇り高く遂行され、永遠に若い都市の成長が保持されている。特に印象的なのは植樹計画でナジランおよび周囲の村々に公園が作られた。 1.5 神秘的なナジラン(Najran)の名前 ナジランと云う名の由来と引用には幾つかの答えがある。アラビア語でナジランは「扉を開閉する為の木枠」であり、恐らくこの名前はこの地域の初めの住人や定住者を引用しているのだろうが、アラビア語でナジランの二番目の意味は「喉の渇き」である。幾世紀にも渡ってオアシスであり、アラビア半島の喉を渇かした旅人の泉であったので「喉の渇きの方がそうである様に思える」との意見がある。 その一方で、ナジランの名はアラブの地理学者ヤクト
ハマウィ(Yaqut
Al Hamawi、1178-1229
A.D.)が書いた有名な「町の百科辞典(The
Dictionary of Towns)」にも記載されており、ハマウィは「この町はこの地域に最初に定住したナジラン
イブン カハタン108 (Najran
Ibn Zaydan Ibn Saba Ibn Yahjub Ibn Yarub Ibn Qahtan)に因んでつけられた」と記載している。アレキサンドリア(Alexandria)やコンスタンチノープル(Constantinople)の様に都市の名前をその創始者や初めの定住者に因んで付ける習慣があるので、如何にも「そうではないか」と思われる。 恐らく特異な地形と名前の間には何かの関係があるだろう。ナジランには「削られた谷」との意味もあり、私にはこれが相応しく思える。何が真実であってもナジランは存在して来たし、存在している。厳しい沙漠の外れにあるオアシスと云うその地理的な位置はその名前の由来よりもずうっと重要である。 ナジランを知れば知るほど、その神秘性がそれを隠してしまう様だ。アラビアの歴史や地理の本やアラビアの詩、偉大な旅行者の記録、ナジランに伝わる不滅の語り部の伝統に現れる古代の町ナジランが今日のナジランと同じなのだろうかとの疑問もある。 この様に、ナジランの由来に幾つかの説があり、明快な答えは見つけられない。名前は失われてから久しいその言葉の古い意味を持つ事もあり、全く別の由来を持つ可能性もあり得る。 1.6 州都としてのナジラン 元来、ナジランはアブル サウド(Abul Saud)と云う名で知られた小さな交易町であったが、今ではナジランはナジラン州の州都であり、知事の本部、地方諮問会議および様々な政府機関の出先が置かれている。州知事ミシャル イブン サウド イブン アブドル アジズ殿下(Prince Mish'al Ibn Saud Ibn Abdul Aziz)は新しい町アル ファイサリア(Al-Faisalih)に自分の事務所を持っている。この事務所は1965年に州都から約4マイル(6.4km)離れた場所に建設された。 1.7 ナジランの行政 1965年に新しいナジランが設立され、歴代の統治者である故エミール ハマド エル マディ(the late Emir Hamad El Madie)、アリ エル ムバラク(Ali El Mubarak)、イブラヒム エル ネシュミ(Ibrahim El Neshmi)およびカリド イブン アハメド エル スダイリ(Khalid Ibn Ahmed El Sedayri)はこの地方の住民に農業、工業そして最も重要な教育分野での進歩に大きな誇りを持たせた。 もっとも重要な市は州の中心ナジラン(Najran)に加えてシャロウラ(Sharoura)とハボナー(Habounah)であり、この州は次の7つの県に分かれている。 1. シャロウラ県(Sharourah Governorate) 2. ハボナー県(Habounah Governorate) 3. サール県(Thar Governorate) 4. ヤダマ県(Yadamah Governorate) 5. バドル ジャヌーブ県(Badr Al Janub Governorate) 6. クバシュ県(Khubash Governorate) 7. カールキール県(Al Kharkhir Governorate) 1.8 ナジランの人口 ナジランの人口は約60万人である。他の地域同様にアブドッラ国王(King Abdullah)がサウジ市民に対しても供与している建設、農業、健康およびその他全ての分野で公共事業投資がナジランの発展にも大きな割合を占めている。これらの公共事業は保安措置と安全確保した上でナジランの人々に快適な生活としあわせな人生を作り出している。 2. 豊饒(Fertility) ナジランの労働力の約70%が農業分野で働いている。隣接するアシール州(Asir)、バハ州(Baha)およびジザン州(Jizan)と同じ様に、ナジランはその農業で知られている。農業市としてナジランはその美しい果樹園と公園で有名である。モモ、アプリコット、林檎、葡萄、レモンおよび蜜柑が大規模に育てられている。数世紀前には降雨は灌漑用として、もっと豊富に使われ、そして洪水の水は灌漑用の運河を通って畑に運ばれた。堆積物は沈積し、そして肥沃な土壌が形成された。伝統的に、大麦(barley)やキビ(millet)がこの地域に植えられ、ナツメ椰子が豊富に生長した。 2.1 肥沃な涸れ谷ナジラン アシール山脈の東側を削り、険しい渓谷を成す涸れ谷ナジラン(Wadi Najran)は二ヶ月の雨期の間にはイエメン方面からも豊富な水を集めて沙漠の谷間に豊かな緑の園(オアシス)を生み出し、空白地帯沙漠の砂へと消えて行く。その恩恵で青草の多い緑の回廊が涸れ谷(乾いた河床)を縁取り、涸れ谷の土手はシルト(沈泥)が豊富で2、3km幅の肥沃な地帯を成している。 2.2 花開く大地 ナジランの魅力と美しさの源である農業の豊かさはこの地域の気候と地形の恵みである。沙漠からこの地域に入ると直ぐに果樹園の香りに包まれる様な気がする。ギリシャの歴史学者ストラボン201(Strabon)はナジランをその農業と交易が故に穏やかで繁栄した地方と記述している。アラビアの著述家達は比類のない果物、作物や野菜が故に美しく非常に肥沃な地域と記述してきた。1870年にナジランを訪れたヨーロッパのオリエント学者ジョセフ アレヴィ(Joseph Halevy)は「ナジランをナツメヤシの森に隠された野菜の豊富な肥沃で、魅力的で、丹誠込めて手入れされた土地である」と記述している。作物は涸れ谷を潤す恵みの雨のお陰で年間を通じて栽培されている。この地方の井戸は15m以上掘られる事は無く、地下水位が高いのを示している。年間3億トンの水が地下にしみ込み、1,100万トンの水が新しいダムで集められている。今日のナジランはその伝統と水と緑の豊かさで、サウジアラビアの国内外から観光客を引き付け始めている。 2.3 農作物 肥沃な土壌に加え、温暖な気候がナジラン地方をサウジアラビアの農業の中心の1つにしている。多くの他の職業もあるが、ナジランの人口の80%は農業に依存している。豆、芋、大根、カブ(turnip)、カボチャ(squash)、トマトや小麦、トウモロコシ、大麦等多くの種類の作物に向いている上に、ナジランではバナナ、パパイヤ、ライム、イチジク、デイツやメロン等美味しい果物も生産している。ここの蜜柑農園や葡萄園はアラビアでも最も有名な幾つかの場所に入る。 1982年に農業水省が園芸開発研究センター(the Horticultural
Development Research Center)を設立し、その近代的な事業の科学的開発基礎の上に、ナジランでは点滴灌漑を使って年間5万トンのオレンジ、レモン、マンダリンおよびグレープフルーツ等柑橘類を生産している。
点滴灌漑を使って、これらの蜜柑類は砂土壌で育っており、沙漠は柑橘類の栽培に理想的な環境ではないけれどもナジラン地域は温暖な気候、地下水および日差しに恵まれ、柑橘類の栽培に適している事が証明された。 2.4 主食でもあったデイツ 最近までデイツは最も豊かで広く栽培されて来た果物であり、駱駝のミルクと共にこの地方の人々の主食であった。しかしながらこの地方への政府の新しい作物への補助はデイツの消費を減らし、新しい作物の大規模な開発を可能にした。それでもナジランの人々の伝統的な果物として残っている。7月にエネルギーではち切れそうな香り豊かな黄色と赤色のバヤドデイツ(Bayad
Date)とラタブデイツ(Ratab
Date)が収穫され、2、3年間、保存され、乾燥される。 ナジランの生活の中でのデイツの重要性はそれを実らせる木であるナツメヤシの価値に匹敵し、土壌の豊かさと灌漑用の井戸水利用がナツメヤシの豊かな森を育んできた。年間収穫される140kgのデイツを除いても、各々の木は多く用途で価値がある。ナツメヤシの葉は三つ編みにされロープやラフィア(Rafia)が作られた。ラフィアを女性はマットや色鮮やかなバスケットに編み上げた。ナツメヤシの役割は重要であり、正義を象徴するサーベルの次に繁栄の象徴としてサウジ王家の紋章に使われる程、アラビアの生活の一部であった。 2.5 政府の農業振興 サウジ政府はこの地域の農業を一層振興している。近代的な農業経営が教えられ、様々な試験的事業が始められている。小麦栽培は新しい耐久力のある品種の試験的導入で大幅に拡張されてきた。政府はもっと効率的な土地配分や機械化の為の融資を提供している。その結果、1960年に農地面積が500haであったのが1980年には倍以上の1,200haまで広がった。サウジ政府のこの地域に対するこの様な遠大な農業計画支援は既に豊かであった収穫を更に倍増させてきた。 この急速な農業の発展の為に、ナジランは農作物が自給出来る以上の水準まで収穫できる様になった。今日では半分以上の収穫がアブハ(Abha)やリヤド(Riyadh)へ移送され、デイツや穀物は北イエメンへと輸出されている。ナジランに農業生産は3つに分けられる。小麦、大麦等の伝統的な穀物、オレンジ、イチジク、ザクロ、メロン、葡萄やデイツ等の果樹園の収穫およびカボチャ202、茄子、人参、豆、コーン、ジャガイモ、カブ(turnip)、大根等の野菜である。 2.6
水資源の確保(アル マドヒク ダム等) 水資源の確保は政府の努力の重要事項であり、サウジアラビア最大級のアル マディク ダム203(Al Madhiq Dam)と云う貯水池がナジランに建設されて来た。このダムは3,000年前204に建設されたダムの残骸の上流に位置している。
新ダムは内務大臣ナイフ イブン アブドル アジズ(His Royal Higness Prince Naif Ibn Abdul Aziz)および農業大臣アブドル ラハマン アル シェイク(Dr. Abdul Rahman Al Skeokh)によって1982年5月9日に除幕された。サウジアラビア王国内第2の大きさである。 この近代的なダムは幅12.5フィート(9.56m)、長さ890フィート(271m)で高さ240フィート(73m)あり、半径140mのアーチ型をして居り、11,000m3のコンクリートで作られている。その貯水量は30億立方フィート(8,490万トン)以上の貯水量がある。ダム湖が満水になると湖面面積は5km2である。 特に難しいナジラン熱膨張収縮の問題を避ける為に、コンクリート構造物はパイプシステムの中に冷却水をポンプで注入し、平均の温度は72°F(22℃)に保たれている。ナジランダムは涸れ谷ナジランの水量を監視し、作物を灌漑し、一年を通じてこの地区の農場に安定して灌漑水を供給するナジランにとって非常に重要な存在であり、このダムの完成でモモ、アプリコット、林檎、葡萄、レモン、蜜柑等を含む広い種類の作物が大規模に栽培される様に成った。 2.7 農業道路の整備 その他、多くの改善が行われ、アスファルト舗装の道路網がナツメヤシ園の為に建設され、作物を育てる助けとなる耕耘機や刈り取り機械の通行を許可されている。多くの製品工場が果実、野菜、酪農品をリヤド、アブハ、等に配送する為にこの地域に建てられた。 3. 沙漠の生活 (Desert Life) 3.1 生命に溢れた広大な沙漠 ナジランは肥沃なオアシスではあるけれどもそれを取り巻く地域は広大な沙漠である。そこにはベドウイン部族が住み乏しい草を求めて駱駝、山羊や羊の群を先導している。有名なルブアルカリ沙漠(Rub Al Khali)(空白地帯(Empty Quarter))へと続くナジラン州の沙漠は平らか砂丘で起伏している。僅かな場所がガッラ(El Garra)の様に岩場である。そこにはレイヨウ(antelope)、駝鳥および捕食性猫科の岩壁画301が描かれ、この地方の絶滅した動物がかつては棲息していた証を現在に示している。一見したところ沙漠は空白でよそものを寄せ付けない様に見えるが、実際には生命に溢れている。今日では石油・ガス開発を始め、農業開発、観光開発等自立した経済を確立する為に、非常に重要な存在に成っている。 3.2 活動的なベドウインの生活 ベドウインの生活は大変活動的である。太陽と共に起き出し、朝のお祈りの後、男達は火を熾し、駱駝から乳を搾り、それから放牧する。一方、女達は山羊や羊の世話をする。週に3、4回、水槽(cistern)を載せたトラックが遠くの井戸から水を運んでくる。毎朝、少年達は一番近い村の学校へ通う。沙漠を横断する道路にはスクールバスの停留所が示してある。午後になると少年達はジープで駱駝の群に向かう。毎日の雑用の後、女性達は天幕布、敷物や色とりどりのつづれ織りの壁掛け(Tapestry)をつむぎで織る。 午後の熱い時間は昼寝やコーヒーを飲んで過ごす。たそがれ時になるとベドウインは家畜の群を集め、再び乳を搾る。火が再び起こされる間、年老いた女性達は山羊のミルクを攪乳する。これらは一日の穏やかな時間(Soft Hours)である。 春になり、思いがけなく夜空に稲妻が明滅すると稲妻は雨のサインなのでベドウインは翌日、家畜の群を何処に連れて行けば良いかを知る。数日の内に沙漠は花が散在する緑の大草原に変貌する。年に1、2回、ベドウインは町に駱駝や羊を売りに出掛け、米、粉やデイツ等の必需品を買って来る。 3.3 ベドウインと駱駝 ベドウイン(Bedouin)の最も重要な財産は駱駝であり、大いなる親愛と尊敬の念を持って扱われている。駱駝無しではベドウインが沙漠で生活する事は出来なかっただろう。何世紀にも渡って、駱駝は人々とその荷物を運搬し、今日でもその豊富な乳でベドウインを育んでいる。新鮮でも乾燥しても駱駝の乳は家族で消費されるか、他の人達に提供される。この沙漠での天国からの贈り物である駱駝の乳は売買の対象にはされない。全ての駱駝には所有者の印が付いており、駱駝が失われる事は無い。駱駝はキャンプ地から何ヶ月もさまよい出た後でも、常に帰り道を探し当てる能力を持っている。ベドウインも自分の所有する駱駝一頭一頭の足跡を認識できる。又、雌駱駝が天幕から遠く離れて、出産するのをベドウインが知るのもその足跡によってである。 血統によって駱駝は異なった値段が付けられる。赤っぽい茶色をしたアールカ(Arkah)は最高の乳を出し、その値段は1頭当たり3万サウジリアルもする。スダーンのアフラ(Afra)は駱駝競争の為に育てられ、その値段は1頭30万サウジリアルにもなる。少し安いのは黒いマジャヒム(Majahim)で食肉の為に育てられ、1頭1.5万リヤル以上に成る事は余り無い。 3.4 家畜の増産政策 サウジアラビアの家畜の数を増やし、ベドウインを日照りの甚大な被害から保護する為に、サウジ政府は家畜一頭、一頭に報奨金を払い、安価な穀物を支給する事で家畜増産を補助している。沙漠は豊かな生態性を維持し、今では国営の開発に貢献しているけれども、他の土地とは較べられない例外的な土地として残っている。その焦げた土地でも不滅の種の命と沙漠に生きる知恵が羊飼いを悠久の昔から守って来ており、ナジランはサウジアラビアで一番重要な家畜の生産者でもある。 4. ナジランの近代化 (New Najran) 4.1 名声ある過去と近代化 最近までナジランは名声ある過去と伝統をその誇りとして来たが、現在、達成している状況にも誇りを持っており、その繁栄した存在を強調している。1970年代始めから1980年代初めまでの10年間に政府は急速な社会開発を保証する為に日常生活の全ての面を修復せざるを得ない様な大規模な事業を推進してきた。 4.2 商工業センターとしての発展 ナジランの都市機能と教育機関の整備はその急速に発展する商工業センターとしての発展と平行して来た。商業的長期展望では今日のナジランは技術進歩と大きな転換期にあると言える。ナジランの近代的市街とその周囲の地区は多数の商業企業と共に建設用材料やその他の製品を作る企業が繁栄している。工場主にこの市とこの州に需要に見合った自給を達成する事を前提にした軽工業を開発する為の全ての設備を備えた工業都市がある。 この地域に進出してきた最初の主要工業は水の瓶詰め会社であるナジラン鉱泉水会社である。この工場は良質な井戸水ある事で知られるジョールダ(Jordah)に設けられた。水をジョールダ(Al Jordah)水源から引き、その製品は清浄さと素晴らしい鉱物分の品質で知られている。3.5万m2の敷地を含むこの瓶詰め工場は建設費3,000万リヤルでコンピュータと70名の従業員で操業されていた。年間3,200万本を生産し、この会社の水はサウジアラビア中に販売され、サウジ国内に誰でもが購入出来る安い値段で瓶詰め水であった。 ナジランでは建材採掘業も急速に発展して来た。又、多くの商店、スーパーマーケット、銀行や企業の支店が増え続け、ナジランの住民の将来を保証している。 4.3 教育分野の開発事業 もっとも重要な国家的開発事業は教育分野である。ナジランは教育施設の整備にも同じように力を入れていた。ナジラン最初の政府の学校は1943年に開校し,1962年には最初の近代的な小学校が建てられた。これが州知事殿下の学校で129名の生徒がいた。1960年代初めからの20年間の1980年までに小学校、中学校および高等教育専門学校を含めて139校が整備され、全体の在校生は18,500名余りであった。女性もこの新しい教育制度の恩恵を受けた。最初の女子専門学校は1967年に設立され、600名の在校生がいた。1975年以来、21の女学校が整備され、2,000名以上の女生徒が在校している。 その10年後の1990年代始めに164校の男子および女子用の小学校、中学校、高等学校があり、約2万人の生徒を受け入れていた。更に、これら男女別の学校の他に機械や技術を身に着けたい希望者の為に、1983年(1985年)には250名規模の職業訓練学校を開校した。この学校は大工、溶接工、電気工、機械工、鍛冶工、塗装、冷蔵庫および空調の技術者および自動車工等の分野の資格を取れるコースを用意して指導を行っている。現在では様々な水準の学校に5万人の学生・生徒があり、その半数以上が女性である。そして進歩と繁栄が教育、農業および建設全ての面の発展に及んでいる。 アブドッラ ビン アブドルアジズ国王(King Abdullah bin Abdulaziz)は2006年11月1日にナジランで8億9,300万ドル余($893million)相当の開発プロジェクトに着手した。国王は男女別の15の学部から成る大学コンプレックスの第一期工事の定礎石を置いた。国王は又、ナジラン工科単大、シャロウラ(Sharourah)、ヤダマ(Yadmah)およびナハラン(Nahran)の3つの職業訓練校および62の男子校および67の女子校の建設も始めた。国王は又、4つの単科大学を1つの独立した総合大学に変える王令を出した。 アブドラ国王は又、同日、多くの保健プロジェクトの開業式を行った。国王は200病床の総合病院、医療女子単科大学、糖尿病センターおよび診療所を開設した。これに加えた14診療所が州全体に開設される。 4.4 ファイサリアとカリディア 古代都市であるアブ セオウド(Abu Seoud)はファイサリアとカリディア(Faysalia and Khalidia)の新しい地区に生まれ変わった。市当局は木陰と新しい公園や泉とつながった三車線の広い並木通りも建設した。花壇が交差点に設けられ、新しい街路灯、噴水、公園、野外競技場も建設された。新しいアーケイド付きの市場や農業機械がナツメ椰子園に出入する為の舗装道路や完備した幹線道路が整えられた。広い幹線道路に面して州庁のあるファイサリアは現在、政府、州政府、州庁の新しい庁舎や登録した会社の本社事務所等が置かれている。前述の様に、州知事ミシャル イブン サウド イブン アブドル アジズ殿下(Prince Mish'al Ibn Saud Ibn Abdul Aziz)は新しい町アル ファイサリア(Al-Faisalih)に自分の事務所を持っている。 新しい住宅が新建材を使って急速に増加しているが伝統な様式を残している。この組み合わせがこの地方にあった独特の新しい建築様式を作り出している。近代的な医療施設としては新しい200ベッドを持つ病院がカリディア(Khalidia)とジョールダ(Al Jordah)のヘルスセンターに建設された。 4.5 通信交通 通信手段にも焦点が当てられた。ナジランは州内放送の為のテレビ中継施設、世界と通信できる衛星電話・衛星テレコム通信等ともつながった中央電話設備を整えた。公衆電話も各町村に設置された。国内の他の地域とナジランを結ぶ主要道路にはソーラーバッテリ付きの公共無線電話が備えられている。 ナジラン州都としてのナジランはサウジアラビア王国内の道路網とつなげられているし、そして全ての主要都市とつながる空港を持っている。交通・通信の利便化がナジランをこの地域の商工業の主要な中心にしている。 5. 観光開発(Tourism) 近年、ナジラン州とナジラン市は温暖な気候と果樹園と美しい景色で観光でも魅力ある場所(tourist attractions)となり、観光都市化を目指して来た。特にナジランにホリデイイン501が完成してからはホテルの観光開発努力も大きく寄与して、外国人を含みサウジアラビアの至る所からこの地方を夏に訪れる家族の数は増加している。又、観光庁が誘致している外国人観光ツアーの見玉スッポトとしても有望視されている。
5.1 自然の景観 この州はその魅力的な自然の景観で知られている。この景観の特徴は基盤岩である花崗岩だけでは無く前カンブリアや古生代に形成された赤い砂岩、古生代から中生代に形成された石灰岩、更に新生代に火山活動で噴出した火山岩等、多くの異なった色と形の累層(岩相相序区分)にある。この州の基盤を成す花崗岩の山々は谷を被う緑の植生で縁取られている。 ナジラン市にはたいへん多くの公園や公共の庭園を持っており、そしてナジラン州は美しい自然の景観を誇っている。自然の呼び物(attraction)としてはアブギ アル ラシュラス渓谷(the Abgi A-Rashras
Valley)、ワディ ナホウカ(the Wadi Nahouqa)、とラオウム山(the Mountain of Raoun) がある。特に、この市のもっとも重要な観光スポットであるアビ ラシュラス渓谷(the
Abi Al Rashras valley)では水が岩から噴出し、周囲の緑地を灌漑している。遠くからも眺められるサウド滝(Al-Saud Waterfall)はナジランで目立って美しい場所の一つである。 5.2歴史的な人口遺品 歴史的な人口遺品としては特にナジラン市南部のオクデュード(Al Okhdood)が有名である。この砂に被われた大きな砦は有名なエジプトのピラミッドが作られた時に時に使われたと同じ様な花崗岩で作られた高い境界の城壁をかつては持っていた印象を与える。ナジランの目印には高さ2mの花崗岩の石ラッス(Rass)が含まれている。
この地方にある歴史的に重要な人口遺品としては岩壁画や碑文が含まれる。ビール ヒマ502 (Bir Hima)からヤダマ503 (Yadamah)を通り、タスリス(Tathlith)504 、ガラシュ505 (Garash)からメッカ(Mecca)(マッカ(Makkah))へ向かう乳香の道に沿ってライオン、ダチョウ、瘤牛、無地、まだら等の牛、槍、剣、ブーメラン、投げ縄を持った騎馬兵隊等の岩壁画や古代南アラビア語碑文506 が涸れ谷タスリス(Wadi Tathlith)の上流部やルブアリカリ沙漠へと流れる涸れ谷シリル507 (Wadi as Silil)の上流部の岩山に刻まれている。
これらの岩壁画や碑文はジョン フィルビィ卿508 (Harry St. John Philby)が1936年にイエメンへの横断の途中で発見された。岩稜の奥深い砂に埋もれた渓谷にある為に観光用としてはヒマ(Hima)に近いソモル山(Somor Mountain)以外は一般的に訪れるのが難しい。 5.3 伝統工芸 主要な名所としてはアル アアン宮殿(Al Aan Palace)、ヒマ(Hima)のアル ナジーム(Al-Nazeem)、市場(suq)がある。市場(suq)はトルキー マディ宮殿(PRINCE TURKI AL MADI
PALACE)の近くであり、多くの平屋で構成されている。この市場はサウジアラビア国内でも伝統的な市場の一つである。この市場では「その3 伝統と美術工芸2.1 ナジランの装飾品の2章」に述べる装飾品、三日月型の短刀、ナツメヤシの葉を編んだバスケット、皮工芸品、敷物・衣服等、陶磁器、溶接製品、木工製品、家庭・台所用品(Utensils)などを販売している。今日でさえ、この市場の中に未だに多くの職人が居り、この市場に露店を持っている。 5.4
ナジラン渓谷ダム 「2.6
水資源の確保」で紹介したアル マドヒク ダム(Al Madhiq Dam)はこのダムはナジラン渓谷ダムとも呼ばれその特別な位置とその美しく素晴らしい景観の為に、ナジラン地方の近代化を象徴する場所の一つとして先ず挙げられる。ナジラン渓谷のもっとも標高が高い地点は海抜2,890mであり、このダムの湖面も標高1,635mにある。長さ271mのダムの上には16mのブロックで幅4.5mの道路が設けられ、73mの高さから5km2の湖面を含む周囲の景観を眺められる。このダムはナジラン市から35kmしか離れて居らず、その機能的な利点に加え、多数の鳥を魅了する様々なナツメ椰子、花の咲く灌木、カンキツ属の様な木々がダムの両岸の駐車場に植えられ、ダムが観光的な呼び物にも成っている。 5.5
ファハド王公園(King Fahad Park) この公園はナジラン渓谷の南に位置し、サウジアラビア王国内での大きな公園の1つである。その面積は400,000 m2でそこにはセンマル509(Al-Semmar)樹があり、緑の空間と春には木陰を作り出す。この公園には2万本のシドル106樹 (Sidr、Ziziphus spina-chris)がはえ、300,000mの青い草地と1万本のバラが植わっている。さらに1,200本のオレンジレモンとマンダリン、100本のデイツ、400本のイチジク(fig tress)、400本のオリーブおよびこの地方でカロオブ(Al-Kharoob tress)と呼ばれる250本の樹木が植えられている。 (The Natural Area of
Urouq Bani Maared) この保護区は11,980km2の広さがあり、ナジランの北でリヤドの南に位置し、空白地帯沙漠の西の外れであり、トワイク山脈(tuwayq mountains)の東にある。この自然区はその異なった自然環境で有名である。この区には山、谷そして沙漠がある。この自然には良好で豊かな生命が在り、アラビア半島でアラビア鹿(the Arabic deer)が残っている最後の場所だと考えられている。アラビア鹿は1979年に絶滅した。ここは野兎、オオカミ、砂猫、砂狐等の様な多くの種類の動物や多くの種類の鳥類がいる。この自然区には前述のセンマル樹(Semmar)、サラ(Sarah)とも呼ばれるサラム510 (Salam)、タル511 (Talh)およびアスモン(athmon)、ハルマル(harmal)およびタラフ(Taraf)と呼ばれる多くの種類の樹木(tress)もある。
レイヨウ(Antelope) 1995年にアラビア鹿とリーム鹿(沙漠鹿)(Reem deer)を再びこの自然区に成功裏に適応させている。これらの生息数が継続して増加している事に注目している。1996年にエドミ鹿(Al-Edmi deer)もこの自然区に再移入させ、これもまた継続的に広がり、数も増えている。
http://www.sauditourism.gov.sa/sct/indexlists.php?catid=16&maincat=About_Saudi_Arabia&scatid=98&hili 5.7 お祭りと民族舞踊 ナジランは多くの人気のあるお祭りで踊られる馬の踊り、ラズファ踊り、ザメル踊り、太鼓のゲーム等民俗舞踊でも有名である。(その3 伝統と美術工芸の1.5章を参照) 後書き(Postscript) ナジランの概要との内容で一応網羅し、伝統的なナジラン州についての概要を記述した積もりではあるが、結果的には「その2 ナジランの歴史」、その3 伝統と美術工芸および「その4 二十一世紀を開く砂丘地帯」に含まれない内容を雑多に書いた感もしないでも無い。1988年元日にサウジアラビアで最も北東にあるカフジ(Al Khafji)から最も遠い南東部を訪れた。平地の果てしなく続く地方に長く住んだ私にとっては、「馴れ無い山岳道路を300km近くも、幾つもの検問所を通り抜けて、やっとナジランに辿り付いた」との印象であった。ナジランは青い空の下、赤黒い山肌を背景に豊かなナツメ椰子の林とその中に聳える日干し煉瓦の高い家が明るい太陽に輝いていた。その光景は私には昨日の事の様に今でも鮮明に感じられる。 出所と参照(Source and Reference) アラビアの沙漠の庭園(Najran) 撮影:テヘコフ
ミノザ(Tehekof Minosa) 文:パトチシア
マッサッリ(Patricia Massari) & シェルブル ダゲール(Cherber Dagher) 出版責任者:ジェネヴィーブ シャルピー(Genevieve Charpy) 出版:1983年、スコーピオ エディトール(Scopio Editeur)、パリ(Paris) ナジランの概要(Saudi Information) http://www.saudinf.com/main/a893.htm ナジラン http://www.the-saudi.net/saudi-arabia/najran/ 時間を超越した古代都市ナジラン(サウジ大使館説明) http://saudiembassy.net/Publications/MagFall99/Najran.htm 観光最高会議のナジラン紹介 http://www.sauditourism.gov.sa 南西サウジアラビア http://www.arab.net/saudi/sa_southwest.htm ナジランの概要 シェル石油編 www.shell.com/careers History of Najran Hosted
Tripod(http://fromwaset.tripod.com/ne.htm) http://www.najran.cc/njr/modules.php?name=News&file=article&sid=30 Heritage and nature in the South of Saudi Arabia (http://skyscrapercity.com/showthread.php?t=17346) サウジ蜜柑業の沙漠での繁栄 (http://www.fao.org/news/2002/020201-e.htm) 原注(Explanatory Note) 001 ナジラン訪問のこれまでの紹介: 1. 2004年6月30日 「空白地帯と呼ばれる沙漠ルブ’アル カリ(Rub' Al Khali)」の「遠い砂漠の基地の町 (Sharourah)」の章 2. 2005年5月31日 「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)への訪問(サウジアラビア王国南西地方)その1ジバル アル サラト地域(Jibal al-Sarat)」の「3. 南部ジバル アル サラト(Jibal al-Sarat)」 3. 2005年9月13日 「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)への訪問(サウジアラビア王国南西地方)その3空白地帯(the Empty Quarter)に至る内陸地域」 002 ナジラン:ナジラン(Najran)は深い涸れ谷の谷底に延びる細長い古い町で今はナジラン州の州都である。ナジランにはアラビア語で「扉を開閉する為の木枠」とか、「喉の渇き」との意味であるけれども、「削られた谷」との意味もあり、この涸れ谷はそれを実証している様に険しいので私にはこれが相応しく思える。この涸れ谷はイエメン方面からも豊富な水を集めて沙漠の谷間に豊かな緑の園を生み出している。この町の上流にスイスの会社が建設したナジラン渓谷ダムは代表的なサウジの治水ダムである。 003 Time dated April 2, 2007:
Jimmy Wales who is the co-founder of the open source encyclopedia called
Wikipedia which is recruiting volunteer contributors, but collaboration comes
with consequences. 更に詳細についてはウェブの同誌アーカイブでご参照戴きたい。 004 ジバル サラト地域(Jibal al-Sarat): 「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)への訪問(サウジアラビア王国南西地方)その1ジバル アル サラト地域(Jibal al-Sarat)」の「3. 南部ジバル アル サラト(Jibal al-Sarat)」をご参照戴きたい。 005 鉄石: 前カンブリア紀から古生代の鉄分の多い赤い砂岩の内部に変節作用で形成された縞模様の磁鉄鉱の挟みで旧石器の材料として使われていた。 101 乳香の道(the frankincense route): アラビア半島南部の香(incense)が生産される地域から現在のサウジアラビアを通って、ヨルダン、シリア、エジプトおよび地中海沿岸へ至る古代隊商路(the ancient caravan route)である。主要な交易品としての香(incense)には乳香と没薬があった。 乳香はカンラン科 (Burseraceae) ボスウェリア属の乳香樹(Boswellia
Thurifera or Boswellia caraterii) の樹皮から取れる樹脂である。乳香樹はアフリカのエチオピア、アラビアのイエメン、オマーンなどの痩せた土地に自生しており、樹皮に傷を付けて樹脂を採るが、樹液は始め乳白色の液体で、空気に触れると固化し、淡黄色の涙型の樹脂になる。その先端が女性の乳首によく似ており、乳香と命名された。古来神に捧げる薫香として、又大切な客様をもてなす時の香りとして、又香料の保留剤として用いられる。わずかにレモン様の心を落ち着かせるしっとりした香りで、この乳香の樹を巡って、シバの女王とソロモン王の取引も行われた程の貴重な樹でもある。ヘブライ人とエジプト人は莫大な富を費やしてこれをフェニキア人から輸入していた。液体(精油)状のものと、塊状のものがあり、塊状のものはトパーズのように美しく、そのまま飾ったり、砕いてポプリに混ぜたりしても美しい。精油は、成熟肌に新たな活性を与え、しわを取るとも言われている。皮膚の強壮剤としても活躍し、皮脂の分泌のバランスをとるのにも役立つ。 没薬はミルラ(myrrh)とも言い、アフリカ東北部、アラビア南部産カンラン科(Burseraceae) コミイフォラ属の没薬樹 (Commiphora
myrrha) の樹脂である。ギリシア神話に出てくる、自分が亡くなった母に似ているが故に父に愛され、子まで身ごもってしまった哀しい王女ミルラが姿を変えた樹とも言われており、そのときできた子がビーナスと恋に陥るアドニースであると言われている。その歴史は古く、紀元前2000年頃のエジプトのパピルスにも書かれて居り、香料、化粧品、薫香として使われる他に、ミイラ作りに用いられたのでミルラはミイラにも通じる。 102 伝統的なナジラン:ナジラン州には地形的に山岳地帯、平らな地方および砂丘地帯(sand region)等3つの異なる環境があり、伝統的なナジラン地方とはこの内の山岳地帯と平らな地方である。 103 ルブアルハリ(Ar Rub' Al-Khali): サウジの南部は空白地帯(the Empty
Quarter)或いはルブアルハリ (Ar Rub' Al Khali)と云う名で知られた茫漠とした沙漠地帯である。東はオマーン山脈、南はアラビア海沿いの海岸山脈の奥にある台地に、南西部はイエメンとアシールの山麓の丘に囲まれる盆地が空白地帯であり、長さが約1,200kmで最大幅が650 km近くある。その面積はフランス、ベルギーとオランダ三国を合わせたより大きく約650,000 km2 もあり、その中のベドウイン(Bedouin)が単にリマル(al-Rimal)と呼んでいる砂丘地帯は連続する砂沙漠としては世界最大である。 104 ヤム族(the Yam
tribes):
Banu Yam はナジラン地方出身の主要な大きな部族であり、カハタン族(Qahtanite)に属し、東部州のハジャール族(Banu
Hajer)やウジュマン族(Ujman)とは近い親族である。ヤム族の大半はエジプトのファティマ朝(the Fatimid Caliphate)時代(西暦909年から1171年)にシーア派(Shi’ite)の小分派であるイスマイル派(Isma’ili)に改宗したが、スンニー派(Sunni)に留まった部族民も居る。ヤム族は伝統的には空白地帯沙漠近傍を遊牧していたベドウインであり、ナジド(Najid)を繰り返し襲撃し、1775年の第一次サウジ公国設立の頃にはデュルマ(Dhruma)を攻撃している。ヤム族は移住によって特にジェッダやダンマン等を中心にサウジ全国に散らばっている。 105 大地溝帯(The Great Rift Valley): アフリカ大陸とアラビア半島を分離した地質的変動の連続は2千5百万年前から1千5百万年前の1千万年も続き、現在の紅海を含みアフリカ大陸の東側を南下する巨大な地溝帯を生み出した。この地下の動きで紅海岸の両側に沿って紅海を挟んで対を成す二つ平行して延びる山並みの障壁が出来た。この内の紅海の西側に連なるエチオピア(Ethiopia)、ジブチ(Djibouti)、エレトニア(Eritrea)等アビシニア(Abyssinia)の山々は高く聳え、その高さは1万2千フィート(3,660m)を越える物も少なくない。一方、アラビア半島の西の縁を形作り、紅海の東側に連なる山並みがサラワト(Sarawat)であり、アラビア半島の西側と南から北へと交差し、南のイエメンから北はアカバ湾まで続いている。同じ様に高く聳え、イエメンでは1万1千フィート(3,350m)に達している。 106 シドル(Sidr tree): シドル(Sidr tree)は他にナブク樹(Nabk Tress)、Lote tree,、Christ's Thorn、Jujube とも呼ばれ、学名はZiziphus spina-christiである。アダムが地上に降りて始めて口にした食物と言われており、さまざまな薬効がある。葉はハーブ石鹸やふけ、シラミの予防、目の腫れや膿瘍の治療、肥満防止に効用があり、樹皮や根も胃痛、盲腸等に効用があり、アストリンゼンや咳止めに使われる。シドルの蜜はサウジでは最高級の蜂蜜で様々な薬効はあると珍重され、1kgで少なくともSR 800以上する。但し、この黒くドロッとした蜂蜜を私は苦手であった。シドルの木はサウジアラビア南部のアシール、ナジランおよびジザンにはごく普通に生えており、その蜂蜜はこれらの地方の特産物になっている。
107涸れ谷ハボナー(Wadi Habounah): 涸れ谷ナジランの北をほぼ平行に西のアシール山脈から東の空白地帯沙漠と流れる。中流域にギョリュウ、タマリスク(tamarisk)の広大な群生が見られる。下流は小さな玉石や砂利の原を意味するガドガダー(Al Qadqadah)と呼ばれる。さらに下流域は流紋岩(rhyolite)、斑岩(porphyry)、碧玉(jasper)や花崗岩の欠片が礫岩の上を覆う固い砂の中にモザイック模様を作り出しているジリダ(Jilida) と呼ばれる平原となる。 108カハタン(Qahtan)族:ノアの息子の一人であるカハタンの子孫と信じられているカハタン部族同盟は半島南部では一般的でとりわけイエメンおよびオマーンの一部に多い。放牧部族とは異なり、彼等は一定の地域に定住し生活基盤を持った農民であり、かつては南アラビアの古代農業文明を作り出した。 201歴史学者ストラボン(Strabon):紀元前63年頃にポントスのアマシア (at Amasia in Pontus) に生まれた。ストラボンがエジプトを訪問した際にナイル川 (the Nile) を第一瀑布 (the First
Cataract) まで一緒に遡上した程、ストラボンはナジランに遠征したガッルス (Aelius Gallus) とは親密な関係であった。 202 カボチャ:野菜として広く栽培されているウリ科植物の総称(squash)である。 203 マディク ダム(Al Madhiq Dam): このダムはナジラン渓谷ダム(the
Najiran Valley Dam)とも呼ばれる。 204 3,000年前: 3,000年前はシバの女王(Queen of Sheba) 伝説の時代(紀元前10世紀)に相当する。 301 岩壁画: Petroglyph
Rock
Art or stone carving、古代人は柔らかい砂岩の表面に描いた絵の方が硬い花崗岩の表面に描いた絵よりも古色化によって浸食や風化に耐え保存される事を知って居た。この為に岩壁画は鉄分を含んだ砂岩に描かれている。古色化(patination)とは錆びさせる事で、砂岩等の表面を人為的に傷つけるとその部分の鉄分が錆びて任意の文様を描ける。古色化(patination)即ち、錆の進行は傷つけてからの時間によって異なるので文様の新旧が明確に区別できる。 501 ホリデイイン(Holiday Inn Najran): 1990年代に建てられたHoliday Inn chain に属する4スターホテルである。開業当初は半分がナジラン州知事の公邸として使われていたので名声が高かった。Riyadhから南はAbhaとKhamis Mushaytを除けば国際級のホテルは無かったので、このホテルの完成で空白地帯へ西からSharourahまで比較的簡単に入り込む事が可能になった。このホテルはナジラン州ナジランの中心から7km東で空港から西19kmにあり、82室を持つ5階建ての建物である。観光開発に熱心で遠く300km近く北のリヤド州カリアット ファウ遺跡(Qariyat al Faw)へのツアーを2000年には始めていた。 502ビール ヒマ: Bir Hima、入り会い牧地の井戸、水場が有り、獲物が居て、砂岩が露出したこの場所は先史時代の人々に取っては最高の生活の場であった。乳香の道の分岐でもあり、1952年冬のフィルビ一行による「南西部の岩壁画および碑文探検」ではビール
ヒマの西の地域で紀元前3000年代後期から紀元前2000年代後期の間を中心に最も多くの岩壁画や碑文を記録収集して居る。 503ヤダマ: Yadamah、皮ナメしや染色等の手仕事を意味していると思われる、乳香の道の部落でビール ヒマとの間に岩壁画や碑文が多く発見されている。 504タスリス(Tathlith): タスリスは三位一体と云う意味で聖書に関連つける記述もあるが乳香の道の隊商(Caravan)路の三叉路でここからアルハサの幻の都市ゲッラー方面とマディナー方面への道が分かれて居た。 505ガラシュ(Garash): ガラシュ(Garash)は英語にはJarashとも転写される。カミス ムシャイト(Khamis Mushayt)の南西20 kmにあるアハド ラフィダー(Ahad Rufaidah)の更に7、8 km南西のワディ ビシャー(Wadi Bishah)の南岸にあるジャラシュ(Jarash)には11世紀頃までイエメン(Yemen)からの巡礼交易路の重要な拠点であったイスラム以前やイスラム初期までの石造りの巨大建造物の遺構や泥作りの住居跡が残って居る。「このジャラシュ(Jarash)のハムマー山(Jabal Hamumah)の傍にシェバの女王(Queen of Sheba)がソロモン王(King Solomon)に会うための道中での野営地であったビルギス(Bilqis)があった」とこの地方では信じられている。
506 古代南アラビア文字(Old South Arabian alphabet):この文字は古代南アラビアのシバ王国(Sabaean)、ミナ王国(Minaean)(マイーンMa`in)、カタバーン王国(Qatabanian)およびハドラマウト王国(Hadramautic) の4つの緊密に関連した原語に使われた文字の総称で、サムディック文字(Thamudic alpabet)(サムード文字)共に、紀元500年頃からナジラン(Najran)北方のビール・ヒマ(Bir Hima)とヤダマ(Yadamah)地域等の岩壁碑文に使われた。この文字はフェニキア文字(Phoenician alphabet)から派生しており、最初はギリシャ文字(Greek alphabet)と一緒に発展したとの説もある位四角な文字であったが、回教紀元頃まで続いたイエメン(Yemen)のヒムヤル王国 (Hmyar or Himayarite)の影響を受け少し丸みがかって来ている。現在でもエチオピアの公用語であるアムハラ語(Amharic)の表記に用いられるゲージ文字(Ge'ez alphabet)として母音を付した形で残っている。(注: 原文は「古代南アラビア文字:サムディック文字(Thamudic alpabet)とも云われ」と記して居りましたが、その後、誤りと分かりましたので、訂正・改訂しました。2009年1月10日) 507 涸れ谷シリル: Wadi as Silil、子孫の谷、ヤダマを上流域に含み、西から東へKhashm
Ghurabへと下る。 508 ジョン フィルビィ卿 (Harry St. John Philby): 1930年代にアラビア半島の中央部および北西部を探検した内陸地域に最初に訪れた西洋人である。アラビアの研究、探検、地図作製、記述を45年間も行い、故イブン サ’ウド国王顧問を務めた英国人でタスリス(Thathlith)上流域の岩壁画、碑文を発見した。 509センマル(Al-Semmar)樹: センマル(Al-Semmar)とこの地方で呼ばれる樹木を私は特定できない。Sidr(Ziziphus spina-chrisri)でもTalh (Acacia gerrardii)でもSalam(Acacia tortilis)でも 無く、木陰を作る一般的に沙漠に生える樹木であると云う。私がファハド王公園(King Fahad
Park)を訪れた限りではギョリュウ(Tamarisk)ではないかと思う。 510サラムSalam(Acacia tortilis): サバンナ・アカシア(Acacia tortilis アカシア・トルティリス、ネムノキ科)(英名:Umbrella Thorn)は駱駝等の動物が葉を食べるので、下の方に枝はなく、傘の様に高いところに刺だらけの枝を広げ、背の高いものでは、20mにも達する。枝は、鋭い刺が目立ち、葉が刺の間にあるように見える。サウジアラビアの中央背稜と云われるトワイク山脈(Jabal
Tuwayq)よりも西に自生し、涸れ谷の谷底では林を作るが、比較的平らなアラビア楯状地の沙漠では水脈に沿って転々と一列並んでいる光景に特徴がある。
サラムSalam(Acacia tortilis) 511タル: Talh(Acacia gerrardii): タルはサウジアラビアを代表するアカシア種の樹木で中央背稜と云われるトワイク山脈(Jabal Tuwayq)よりも西では涸れ谷の谷底ばかりでは無く、岩山の上や紅海の海岸際まで自生している。背高は大きいものでも5-6m位で水が少ない場所では1mにも満たない。サラムと異なり根元から幾つもの枝に分かれるが葉は樹冠に密集しており、山羊や羊には簡単に食べられない。東部州の北部、中部には自生しないのは石灰質土壌を嫌うのではないかと私なりに理解している。
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