HomeContentPreviousNext

2006月8月15日
 豊かなオアシスに恵まれた原油の宝庫    (サウジアラビア王国東部州)

 その4 中部 (伝統的なオアシス農業と近代化)                             著: 高橋俊二
 Vo.4 Central Sharqiyah (Traditional Oasis-Agricultue and Modernization)




 

索引

 

緒言


前書き


1. 東部州中部の概要

1.1 旧アル ハサ/カティーフ地域

1.2 オットマン帝国からの支配奪回

1.3 サウド家の支配

1.4遊牧部族から定住民へ

1.5 定住民の伝統

1.6 サウジアラムコの本拠地

1.7 デイツの産地

2. 主要都市

2.1 ダンマン

2.2 アル コバール

2.3 ダハラン

2.4 アル ハサ

2.5 カティーフ

2.6 ジュベイル

2.7 アブケイク

2.8 ラス タヌラ

2.9 ウダイリヤ

2.10 ウカイル('Uqayr)

3. 近代化(ジュベイルIIと経済都市)

3.1 ジュベイルIIの計画

3.2. ジュベイルIIの基盤整備工事

3.3 SABIC傘下企業の参加

3.4 石油化学プロジェクト

3.5 ジュベイル製油所

3.6 巨大造水発電所

3.7 ラス アル ザウル燐鉱輸出プラント

3.8 ラス アル ザウル アルミニウム製錬所

3.9 ジュベイル経済都市構想

4. 東部州の農業

4.1地下水資源

4.2 オアシス農業と古代交易

4.3 伝統的なオアシス農業

4.4 アル ハサ

4.5 カティーフ

4.6 安定しない砂丘との戦い

4.7 排水灌漑プロジェクト

4.8 東部農業開発会社


5. 東部州の特産デイツ

5.1 デイツの原産地

5.2 ナツメ椰子の特徴

5.3 食材としてのデイツ

5.4 ナツメ椰子の利用法

5.5 ナツメ椰子の栽培

5.6 デイツの種類

5.7 カラス(Khlas)

5.8 デイツの加工梱包

5.9 病害虫

6. アラブ馬

6.1 美しさと気品

6.2 主要な輸出品目として

6.3 小さな体型と持続力

6.4知能が高く従順でむらの無い性質

6.5 アラブ馬の起源と品種改良

6.6雌馬による血統

7. その他

7.1 カラ山

7.2 陶工

7.3 トンボ

7.4 沙漠の薔薇

7.5 ホテル

7.6 ファハド国王築堤道路

7.7 州知事モハンマド殿下


後書き

出所と参照

 Page Top
 

 

緒言

 

   東部州の中部は古代から人の営みがあった。オアシス農業とそれを取り巻く遊牧に支えられ、ダウ船(dhow)と駱駝隊商を利用した交易の要であり、アル ハサ(Al Hasa)/カティーフ(Qatif)の名で知られてきた。サウジアラビア人自身が労働する事で今日まで守られて来た伝統的なオアシス農業やカラ山の陶工に代表される手工芸が残り、デイツやアラブ馬等の特産物がある。1960年代には沙漠化によるオアシスの縮小に対して砂丘対策や治水対策が政策として行われ、この伝統的オアシス農業を国としても守って来ている。現在では石油関連産業()とは経済的には比較には成らないが、ここでは出来るだけ、この地方に今でも伝わる伝統産業をご紹介する。又、東部州中部で見られる珍しいカラ山の洞窟やトンボ或いは沙漠の薔薇等についても言及し、ホテル、ファハド国王築堤道路、海岸道路等についても市民生活の近代化や今後の観光開発の基盤として触れておいた。

()  石油関連産業(「東部州その2 石油の宝庫」を参照。

  Page Top

前書き

 

   東部州中部に伝わってきた伝統産業に較べ、工業化の更なる促進は目を見張る物がある。アメリカがイラク侵攻した2003320日時点で約US $ 25/BBLであった原油価格はそれ以後、上昇を続けて、2006年には3倍になってきた。2006713日から始まったイスラエルのレバノン再侵攻はイランの核保有問題と合わせ、中東情勢を大きく不安定化させた。この為、NY原油US $ 78/BBLを一時的に越え、約US $ 75/BBLの水準を維持し、さらに上がる勢いを見せている。この原油価格高騰はサウジアラビアに莫大な余剰歳入をもたらした。この余剰歳入はアブドッラ国王の推進している殖産興業政策を一層勢いつかせ、2001911日の同時多発テロ以降サウジアラビアに還流している民間資本活用も含め、ヤンブー(Yanbu)やラビーグ(Rabigh)での巨大プロジェクトと共に、ジュベイル第二工業都市(Jubail II)が実施に移され、特に今年に入ってこの工業化政策が一段と加速された感がある。やはり、この膨大な投資を無視して現在の東部州を語る事は出来ないので「東部州その2 石油の宝庫」に次いで、ここでは第3章として「近代化(ジュベイルIIと経済都市)」をご紹介する事で伝統産業と合わせて、現在進められているサウジアラビア発展の鼓動を感じて戴きたいと思う。

 Page Top

1. 東部州中部の概要

 

1.1 旧アル ハサ/カティーフ地域

 

ここでご紹介する東部州中部は古くはアル ハサ/カティーフ(Al Ahsa/Qatif)と呼ばれた地域であり、州都ダンマン(Dammam)、商業都市アル コバール(Al Khobar)、巨大国営石油会社サウジアラムコ本部のあるダハラン(Dhahran)、農業地帯のアル ハサ(Al Hasa)やカティーフ(Qatif)および工業都市ジュベイル(Jubail)等が集中している。アシュ シャールキヤ(Ash Sharqiyah)とアラビア語で呼ばれる東部州(Eastern Province)はサウジアラビア全土の三分の一近い71万平方キロもある広大な面積を占める地域であるのにもかかわらず、その行政や経済活動の殆どはこの旧アル ハサ/カティーフ地域で営まれ、2004年に336万人を越えた人口もその大半がこの地域に集まっている。

 

1.2 オットマン帝国からの支配奪回

 

イマム ファイサル(the Imam Faisal)の死後、第二サウジ侯国(1824 - 1891)が首長の座を巡っての親族間の争いで勢力を失い、1871年にアル ハサ地方を中心とする東部州中部の支配はオットマン帝国(Ottoman Empire)に再び奪われた。オットマン帝国は行政府の近代化に取り掛かったが、沙漠の部族に法と秩序を守らせるのに失敗し、アル ハサの交易と交通が大きな打撃を被る結果と成った。イマム ファイサルの孫のアブド アル アジズは19021月リヤドのマスマク要塞(the Masmak Fortress)への大胆な夜明けの襲撃でリヤドの支配を抑えた。そして1913年までにアブド アル アジズはアル ハサのオットマン帝国の占領を脅かす地位にまで勢力を拡大し、その5月には強行軍でホフーフに入り、イブラヒム城を夜襲し、守備隊を制圧した。間も無く、カティーフもアブド アル アジズに降伏して東部州中部はサウジ家の支配に戻された。

 

アブドッラ城(Qasr Abdullah) (オットマン帝国の統治の象徴的な要塞)

 

1.3 サウド家の支配

 

アル ハサでアブド アル アジズの支配が始まった事は決して安定を意味しては無かった。1915年にウジュマン('Ujman)族はキンザン(Kinzan)でサウジ軍を待ち伏せしアブド アル アジズの兄弟のサアド(Sa'd)と約300名のハサウィ(Hasawi)を殺害した。続いてウジュマン('Ujman)族はこのオアシスの町や村を襲った。アブド アル アジズはリヤドから援軍を呼び、ウジュマン('Ujman)族をオアシスから放逐し、アル ハサの治安を回復した。ウジュマン('Ujman)族はクウェイト方面へ敗走し、東部州の部族紛争は終結した。州は落ち着き、再度ウカイル('Uqayr)港を通してサウジ侯国の外界との窓口となった。アブド アル アジズの従兄弟のアブドッラ イブン ジルウィ(Abdullah ibn Jiluwi)とアハド アル ラーマン アル スワイリム('Ahad al-Rahman al-Suwaylim)がそれぞれホフーフ行政府とカティーフ行政府の知事に任命され、治安回復に成功した。治安の回復は繁栄をもたらし、輸入品が流入して来た。ホフーフのアーケイド付きのカイサリイヤ市場(Qaysariyyah market)の新しい建物がスーク アル カミス(Suq al-Khamis)の東側に付け加えられ、立派な王宮がイブラヒム城の近くに建てられた。

 

1.4 遊牧部族から定住民へ

 

19世紀と20世紀における東部州のベドウイン(the bedouin)は主としてウジュマン('Ujman)、アル ムッラ(Al-Murrah)、バニ ハジール(Bani Hajir)、バニ カリド(Bani Khalid)、アワジム('Awazim)およびムタイル(Mutayr)等の部族に属して居た。アウド アル アジズ王(King 'Abd al-'Aziz)の時代から遊牧民に対しては定住が奨励されていた上に、1950年代から半世紀間での東部州の経済的変化がこの地域の遊牧部族を永遠に変えてしまった。原油探鉱および開発の早い時期から部族民はガイドおよび運転手として石油会社の活動に引き入れられた。その当時から親衛隊は一番大きな雇用主であったが、部族民はその後に必要とされて来た様々な仕事に就労した。元々人数的には少なかった遊牧民は現在ではその殆どが定住民に吸収されてしまっている。

 

1.5 定住民の伝統

 

元々の定住民である商人、地主、職人、農民はホフーフ、ムバッラズ、カティーフ等の町とその周囲の村々に集中して居た。町はオアシスの生産余剰品、特殊工芸や製造業の中心であり、行政の中心でもあった。ホフーフの職人達は男達が外衣として纏うビシュト(bishts)を織るので有名であった。仕立屋も同じ様に組織されていた。銅鍛冶が有名なハサコーヒー沸かしやその他の家庭用品を作っていた。銀鍛冶も金鍛冶も鉄鍛冶もいた。木工達は家具、扉、窓、鞍枠、井戸の滑車、太鼓の胴、木枠、鳥罠等を製作していた。皮職人は粗製の沓やサンダルを作った。石切や石灰作りは両方のオアシスの至る所で行われていた。その他にホフーフの外で働く唯一の特殊な職人がカラ山(Jabal Qarah)の陶工であった。籠細工やナツメ椰子の葉のマット作りは特にカラ山(Jabal Qarah)周辺では日常の手仕事であった。その他に敷物や水用の革袋はベドウィンによって作られていた。

 

    鍛冶屋        籠細工やナツメ椰子の葉のマット

 

カティーフはアラビア湾岸では最大の海洋性オアシスであり漁業、真珠取りや海の交易も伝統的に行われて来たが、ホフーフと同じ様に湧き水灌漑に頼るナツメ椰子園中心とした農業が主な糧であった。ナツメ椰子園労働者は自分達の村に住み、毎日ナツメ椰子園まで通った。労働者達はナツメ椰子園を持って居なかったが地主と生産物の一定量の生産保証を含めた年間契約を結んでいた。生産保証契約の仕組みでは豊作の時にはナツメ椰子園労働者は儲かったが、不作の時には損害が大きく、借金をしたり、契約を変えたりしなければならなかった。地主に取ってナツメ椰子は自分の価値ある財産であり、それを世話する誠実な労働者を確保するのが自分の利益にも成っていた。この為、労働者が困窮した場合の融資や生産契約変更には多くの地主が比較的に寛大ではあった。

 

今日、東部州中部の定住人の殆どはシーア派(Shi’ite)である。ごく最近まで幾つかの村は支配層のスンニー派(Sunni)の家族が訪問するには危険な場所とされて居たし、時として治安部隊が村全体を包囲封鎖する事も少なくなかった。ワッハーブ主義(Wahhabism)が国教とするサウジアラビアではシーア派はクッファール(kuffar)即ち不信心者とみなされ権利を制限されていた為、この国のシーア派がしばしば悪条件の生活を余儀なくさせられて来た。しかしながら最近ではシーア派に対する差別を見聞きする事は少なくなり、むしろ政府はこの地方の近代的発展を担う一翼としてシーア派を積極的に取り込もうとしている様に見える。

 

1.6 サウジアラムコの本拠地

 

   サウジアラビアの国営石油会社サウジアラムコ(Saudi Aramco)はダハラン(Dhahran)に本拠を置き、世界経済に影響を与える石油政策や石油生産はここで立案されている。サウジアラビアの主要な油田、ガス田は東部州の陸上および海上にある。油田から生産される原油は石油輸出港であるラス タヌラ(Ras Tanura)から数十ヶ国向けに船積みされ、又、ガスはジュバイル(Jubail)工業都市の多くの工業プラントで原材料として使われている。

 

1.7 デイツの産地

 

   ナツメ椰子(Phoenix dactylifera)は南イラクで紀元前3,000年に作物化された事が知られている。サウジアラビアでは現在でも野生状態のナツメ椰子の群生が少なくなく、ウカイルやジュベイル等東部州の海岸にはナツメ椰子の大きな群生がある。このデイツ(ナツメ椰子の実)も又、東部州経済の重要な部分であり、毎年、巨大オアシスであるアル ハサ(Al Hasa)およびアル カティーフ(Al Qatif)のナツメ椰子から数千トンのデイツが収穫される。

 

ウカイル北の東海岸にあるナツメ椰子の群生

 

ナツメ椰子は食糧としてだけでは無く、燃料、飼料および家庭用品や建築用の材料として生活の為に欠く事ができない存在であるが、ナツメ椰子の一番重要な役割はオアシス農業の全体としての環境を整える機能である。ナツメ椰子の木陰は周囲より涼しい環境を作り出し、この木陰無しには他の殆どの植物、取り分け野菜や果物は生長出来ない。ナツメ椰子は塩性に対しても高い耐性があり、乾燥した状態の灌漑農業に申し分無く適応している。

 

異なった種類の実を付ける40幾種類かのナツメ椰子がアラビア湾岸で栽培されている。雄花と雌花は別々の木に付くのでナツメ椰子の作付けの殆ど全部は雌花を付ける木で構成される。農夫は信頼できる収穫をあげる為に受粉は自らの手で行う。ハサ オアシスでは少なくとも36種類は栽培されて居り、ハサウィ族(the Hasawis)は常に自分達の収穫したデイツ(date)の品質に誇りを持っていた。オアシスの抜きん出た大きさからハサ オアシスおよびカティーフが伝統的にデイツ(ナツメ椰子の実)の主要生産地であった。量的にはデイツと比較にならないが、二番目の伝統的換金作物はナツメ椰子の木陰で稲作される茶色のハサウィ米であった。その他のアルファルファ、果樹、蔬菜等収穫物は自家消費に当てられた。

 

カティーフ オアシスでは収穫したデイツの多く、時には全部をサルク(saluq)に換え、利益を得る為に主としてインドに輸出されていた。サルク(saluq)はデイツを黄色に熟した段階で収穫し、時にはアニスの実(aniseed)を加え、単に煮るだけで甘く、乾いたお菓子だった。カティーフのデイツ生産がサルク(saluq)作りの需要を賄いきれず、ハサ オアシスから新鮮なデイツの購入する事も少なくなかった。

 Page Top

2. 主要都市

 

2.1 ダンマン

 

ダンマン(Dammam)は1953年から東部州の州都であり、リヤドとジェッダに次いでサウジアラビア第3の都市である。ダンマンはアラビア湾では最大の港でもあり、輸出入量はジェッダに次いでサウジアラビア第2の港でもある。ダンマンを取り巻く町にはアル コバール(Al Khobar)とダハラン(Dhahran)があり、コバールは近代的な商業の中心で、ダハランには世界最大の産油会社サウジ アラムコ(Saudi Aramco)の本部がある。

 

この三つの町を合わせた人口は約100万人でその内の75万人がダンマンに住んでいる。1980年代の初めの州都ダンマンはアル コバールやダハランと数分で移動できる程、近い距離にはあるが別の都市であった。サウジアラビア全土の発展が続き、この三つの町は必然的に一体となり、1982年にこれらは今日のダンマン地域として知られる単一広域都市に併合された。広域都市全体では人口は100万人を越え、718平方キロの面積を占めている。しかしながらそれらはそれぞれ特色ある性格を保ち、独立した地方行政体を実際に維持している。二つある工業団地と共にダンマンは東部州の流通と工業の中心ではあるが、殆ど全ての炭化水素関連プラントはジュベイルに集中している。

 

広域都市ダンマン

 

ダンマンの一番人気のあるレクレーション地区はコーニシュ(corniche)と呼ばれ、曲がりくねった海岸に沿って造られた公園道路で、多くの芸術的モニュメントがこの海岸道路に点在している。この道路はアル アッジジア(Al Azziziah)地区からタロト島(Tarot island)まで延びており、友達や家族が集う場所と成っている。

 

コーニシュ(corniche)

 

ファハド国王公園はダンマン/アル コバール間のダハラン/ダンマン高速道路に位置し、キャフテリア、プール、潟湖、噴水や子供遊園地を持った近代的公園である。もう一つの興味を引く場所はダンマン国立博物館で、スポーツ スタジアムに隣接した公共図書館の4階にあり、この地域の文化を詳細に展示している。半月湾(the Half moon beach)には昔からサウジアラムコの海岸リゾートが設けられ、米軍やブリティッシュエアロスペース(British Aerospace)のリゾートもある東部州での最初に整備された海岸である。砂丘に囲まれたこの湾は波が少なく、ヨットレースには最適である。ここでのヨットレースには私も参加した事があったが、波の無いこの湾ではヨットは驚くほどスピードが出て支えきれずに転覆した事がある。この湾の名は半円形の形に由来する。その後、この湾にはカリージ村(Khaleej Village)を初め、多くのリゾートが造られ、近くには2つの遊園地も開園し、週末は信じられない程に込み合う。

 

ダンマンには古いダハラン空港と新しいファハド国王国際空港があるが新しい空港は完成後、長いあいだ民間使用に解放されず、1991年の湾岸戦争では米軍が使っていた。湾岸戦争後にダハラン空港が軍専用となり、ファハド国王国際空港が民間使用に解放された。新空港は市街地から距離が遠いのと立ち上がりのサービス整備が間に合わず、開港当初から不評であった。この為に国際便客の殆どはサービスが行き届き、距離的には余り変わらない隣国のバハレン空港を利用する様になり、新空港は主に国内便用と成ってしまった。

 

2.2 アル コバール

 

今日のアル コバール(Al Khobar)は東部州のアラビア湾岸に在る大きな町である。一昔前にはアル コバールはアラビア湾の小さな港で主として漁民が住んでおり、バハレンとのダウ船(dhow)での交易を行う漁業と真珠採集の村であった。1938年の石油発見に伴い、この町は主要な商業と買い物の中心となり、二次的には工業港ともなった。今日ではダンマン港が東部州の商業用船積み、積み下ろしを引き受けており、石油積み出しはラス タヌラ(Ras Tanura)のサウジアラムコの石油積出港で扱われている。1986年に26kmに及ぶファハド国王築堤道路(the King Fahd Causeway)が完成し、以前は海路か空路でしか行き来できなかった島国バハレンとアル コバールを陸路で結んだ。細々と続いていたダウ船でのバハレンとの交易のつながりもこのファハド国王築堤道路完成で廃れてしまった。その代わりにアル コバールはアラビア湾に沿った海岸線をベイルート(Beirut)の様な海岸道路、公園、食堂および家族用海水浴場のあるコーニシュ(corniche)に転用してきた。伝統的にアル コバールは小売商と商人の町であり、活発な商業とショッピングの中心である。今日では市街地は拡張し、幾つかの近代的なショッピングモールや国際的ブランド店の並ぶ並木道や食堂街が出来ている。ある程度の工業も持っているが、海岸を北に15km行ったダンマンの規模には及ばない。人口は2004年に16.6万人であった。

 

旧市街の住人は主としてサウジ人と印度人、パキスタン人、バングラディシュ人、フィリピン人等の非西洋人である。アル コバールの住人の多くはダハランにある世界最大の産油会社サウジアラムコで働いている。その他の住人の多くはそれを支援する役割を担っている。又、アル コバールは1996年に米兵が犠牲になったコバール タワー爆破や2004529日に外人コンパウンドが襲われ虐殺のあった場所でもあり、サウジアラムコ以外に勤務している欧米人はアル コバール/ダンマン地域に点在する警備員が警戒するフェンスや壁で囲まれ、防護門を備えた典型的な外国人用コンパウンドに住んでいる。その中ではこの大都市域の塀の外とは異なり文化的には殆ど自由に行動できる。例えばブリティシュ エアロスペース(British Aerospace)の様な幾つかの大企業は外国人従業員を住まわせる為に自社のコンパウンドを維持している。快適さと大幅な自由がコンポウンドでは確保できるのでこれらの会社はそれぞれの生活様式を確保し、サウジ人家族を含めて広い範囲の欧米人を勧誘している。アル コバールにはユーカリの大木が並び、その下に生垣や芝生の生え、たっぷりと緑地帯を中央に設けた緑豊かな並木道があったが、ユーカリが喘息等の害を住人に及ぼすとの見解と混雑防止の為の道路拡張で切り倒され根こそぎ撤去されてしまったのは残念である。

 

Khobar Corniche Khobar nightview

 

2.3 ダハラン

 

ダハラン(Dhahran)はアラビア湾からそれほど遠くも無くダンマンから近距離にあるサウジアラビアの石油産業の中心であり国営石油会社サウジアラムコの本部が置かれている。又、サウジ空軍(Royal Saudi Air Force)(RSAF)の主要基地もある。ダハランとはサウジアラムコの柵で囲まれた敷地内であり、米国人、英国人等の欧米人が住み、この地域では最も整備された都市のようなコンパウンドであったし、現在でもサウジアラムコの従業員と家族が住んでいるだけである。しかしながらこの町の名前がサウジアラムコのコンパウンド外にある国際空港と米国領事館に対しても使われたのでダハランはアル コバールとダンマンを含む広域都市圏および多くの民間の住宅コンパウンドを示すのにしばしば便利に使われる様になった。2004年の国勢調査では「自治体としてのダハランには9.7万人以上が住んでいる」と報告されている。

 

Dhahran City

 

狭義のダハランは外人コンパウンド或いは外人地区の一つの名で、サウジアラムコはこの様なコンパウンドを東部州に四つ所有している。ダハラン以外のコンポウンドには製油所と港のあるラス タヌラ(Ras Tanura)とブカイク(Buqayq)とも呼ばれるアブカイク(Abqaiq)があり、ごく最近では四つ目のコンパウンドとしてウダイリヤ(Udhailiyah)が加わった。ダハランはこれらの中の最も旧いコンパウンドで、1930年代に創建され、未だに6,200名の北米人を含む11,300名が住む最大のコンポウンドでもある。この町は二つの主要区分がある。旧ダハラン住宅地とダハラン丘陵地である。アラムコの従業員の間ではダハラン丘陵地の呼称は住宅地の一部では無く、サウジアラムコのコンポウンド全体を指すのに使われる事も少なくない。

 

ダハランはサウジアラビアの石油事業の主要管理センターである。石油埋蔵が1933年に最初にダハラン地域で確認され、1938年にカルファルニア スタンダード石油(Standard Oil of California)即ち現在のシェブロン(Chevron)が最初の商業量の原油を掘り当てた。その後にカルファルニア スタンダード石油はARAMCO(Arabian American Oil Company)をサウジアラビアでの子会社として設立し、それがサウジ政府の完全所有である近代的サウジアラムコ(Saudi Aramco)の前身となった。

 

サウジアラムコ以外にダハランには空軍基地の役務提供しているブリティッシュエアロスペース(British AerospaceBAE)で働く多くの英国人、豪州人や欧州人もいる。BAEの主な役割はサウジ空軍基盤整備である。前述した様にBAEも外国人従業員とその家族を収容する為にアル ロウダ(Al Rhowda)、アル ダナ(Al Dana)、アル ナダ(Al Nada)、シーヴュ(Seaview)、レザヤト(Rezayat)、アル ゴサイビ(Al Gosaibi)、リヤドAB&C等と名付けられた多くのコンパウンドを所有しており、ここに住む子弟が通学するダハラン学園は5,000人もの生徒を教える一大国際学校である。

 

1991年の湾岸戦争では長年に渡って米国空軍基地だったダハラン空港の周囲に膨大な数の米軍が英国空軍部隊と共に駐留した。一部は戦後も残りサウジアラビアの中央司令部(ARCENT-SA)の指揮下で軍事行動をしていたが、1996625日に多くの米軍兵士がダハラン近くの米軍基地コバールタワー(Khobar Tower)の爆破で死亡した。それに加え、イラク侵攻(2003320日)にサウジアラビアが反対した為、侵攻の1日前に合意し、同年中に米軍はサウジアラビアから撤退した。この撤退について国防長官ドナルド ラムスフェルド(Donald Rumsfeld)は「米軍の作戦行動はスルタン殿下空軍基地(Prince Sultan Air Base)からカタールのアル ウデイド空軍基地(Qatar’s Al Udeid Air Base)に移された」との声明を出した。その後、サウジアラビアに駐留する米軍はサウジ軍の訓練と共同作戦の為の少数の要員を残すのみの存在と成っている。

 

2.4 アル ハサ(ホフーフ)

 

 

サウジアラビア最大で偉大なオアシスであるアル ハサ(al Hasa)又はアル アハサ(al-Ahsa)はアラビア湾岸から60km内陸の沙漠に位置している。1521年までアル ハサはカティーフ(Qatif)および今日のバハレン島(Bahrain Islands)と共にバハレンと呼ばれる政権に属していた。人口60万人のこのオアシスはスンニー派(Sunni)が多数を占めるこの回教国家サウジアラビアではバハールナ シーア派(Baharna Shi’ite)の最大の集団である。この地域の周囲からは世界で最大の油田が見つかっている。

 

ホフーフ(Hofuf)とも呼ばれるアル ハサ オアシスの最大の町にも又、ハサと云う名が付けられた。ホフーフはハサ オアシスの南西の角に位置し、一番近い海岸のウガイル('Uqayr)から72 km離れて居る。石油時代が始まり急激な変化によって東部州の州都がダンマン(Dammam)に移るのを余儀無くされたが、1953年までホフーフは東部州の行政の中心であった。

 

イブラヒム城(Qasr Ibrahim)

 

かつてはこの古い町は周囲全てがヤツメ椰子園であったが、幾世紀にも渡って栽培地が縮小されて来た。元々この古い町は城壁で囲まれていたが、1913年にサウジ支配が復活してからの数年の間の高まる繁栄と安定を反映して人口が増え、城壁外へと居住地も広がり、今では城壁は無くなってしまった。ドーム型のオットマン式モスクを付随したイブラヒム城(Qasr Ibrahim)はその古い町の雰囲気を幾分残している。当時の町の城壁はクト(Kut)、リファアー(Rifa'ah)およびナアシル(Na'athil)の三つ地域を囲っていた。これらは更に地区に分かれて居た。この町には信条(宗教)、階級や職業による差別は無かった。傑出した商人の家族はリファアー(Rifa'ah)およびナアシル(Na'athil)に住み、各々の地域は政府の建物を分担した。

 

サウジアラビアの主要大学の1つであるファイサル大学(King Faisal University)の農学部、獣医学部および動物資源学部のキャンパスが1975年にアル ハサに創設された。この大学はダンマンに他の学部のキャンパスを持っている。ホフーフのキャンパスでは女性が薬学、歯学および家政学を学べる学部も設けられている。その他の大きな集落としてはアル モバールラズ(Al Mobarraz)、アル オヴォウン(Al Ovoun)およびアル オマーン(Al Oman)がある。200万本のナツメ椰子が広がるこの地域には4つの丘と動物園で有名なアル タラフ(Al Taraf)、バニ マアン(Bani Maan)、アル カラ(Al Garah)、アル フライリイヤ(Al Hulailiyyah)、アル キラビイヤ(Al Kilabiyyah)、アル バタリイヤ(Al Bataliyyah)およびアル シャハールヤン(Al Shaharyan)を含む約50のサウジアラビアの伝統的な村がある。

 

ホフーフ(Hofuf)の北3 kmにあるムバッラズ(Mubarraz)は比較的若い町でその古代からの隣町より常に小さく,外向的では無かった。この町はホフーフの外にあったバニ カリド族(the Bani Khalid)の幕営地から17世紀および18世紀に成長した。ホフーフの様にムバッラズは20世紀初めまでは完全にナツメ椰子園に囲まれて居た。1905年にはその人口はおよそ8,500人であった。1950年までには28,000人に増えて居たがそれでもなお城壁内に居住出来ていた。ムバッラズの建物は同じ方法で建てられていたにもかかわらずホフーフの建物よりも質素であった。ムバッラズの職人は駱駝の鞍作りや火器の装飾や修理で良く知られて居たがホフーフの様に製造業の熟練者が大勢は居なかった。アル アールバア(the Suq al-Arba'ah)と云う恒久的な市場があり、水曜日が主要な市の日であった。城壁の内部にはクト地域(Kut quarter)は無かったけれども大きなベドウイン幕営地の近く城壁には追加して砦が設けられると云う特徴はホフーフと共有して居た。ムバッラズには1799年にオットマン帝国(the Ottomans)に対するサウジが抵抗した事で有名な古いサフド城(the old Qasr Sahud)がある。今日ではサフド城は都市化した地域に入ってしまった。

 

アル ハサには先史時代から人の営みと農業(特にナツメヤシの栽培)を可能にさせた自然の泉は数千年に渡って湧き出している。デイツ以外の農作物としては米、トウモロコシ、柑橘類やその他の果樹がある。

 

アル ハサの駱駝市

 

更に、集約的な牧畜があり、数千頭の羊、山羊、牛、駱駝が飼育され、15の主要養鶏場では年間に1億個以上の卵を生産し、サウジアラビアの主要な食料供給地の1つにしている。工業にはミスラ(mislah)(粘土細工と陶器作り)等小屋掛けの小規模手工業とセメントやプラスティクの様な大規模工業があり、政府から強力に奨励されている。

 

アル ハサは又、遺跡の場所でもある。何世紀にも渡ってこのオアシスの住人にはカヌー(Kanoomites)、ジュン ヘール(Jun Hermites)、タスミ(Tasmis)、バニ アブドル カイス(Bani Abdul Qais)およびアアル シハブ(Aal Shihab)が居た。この中でアアル シハブは今日では殆どバハレンに移住してしまっている。イスラムで第二番目に古いアル ジュワナ モスク(Al Juwana Mosque)はここに建てられている事は良く知られている。

 

アル ジュワナ モスク(Al Juwana Mosque)

 

同じ様にイブラヒム城(Qasr Ibrahim)やサモウド宮(the Samoud Place)の様な建造物にオスマントルコ帝国(Ottoman Turkish)の影響を受けた歴史的遺物が見られる。昔のアル ハサや東部州の写真は中東を旅したデンマーク人探検家でイスラムに改宗したクヌード ホルムボエ(Knud Holmboe 1902-1931)によって撮られている。

ダンマン鉄道のアル ハサ駅

 

2.5 カティーフ

 

カティーフはアラビア湾岸にある大きなオアシスであり、ダンマン貨物港の北で主要石油積み出し港ラス タヌラ(Ras Tanura)の南西に位置し、サイハト(Saihat)、サフワ(Safwa)、アル ジャロディア(Al Jarodiah)、アナク(Anak)、アブ マアン(Abu Maan)、アル ナブヤ(Al Nabya)、タルート島(Tarut Island)およびアワミア(Awamia)等多くのサウジアラビアの伝統的な村を含む広大な地域である。カティーフの住人の殆どはシーア派(Shiite)であり、このオアシスも東部州のバハールナ シーア派(Baharna Shi’ite)社会の中心の一つである。この国のスンニー派の政府とは政治的などこか不安定な関係にある。

 

カティーフ(Qatif)はアラビア語ではアル カティイフ(al QaTiif)と呼ばれる歴史的な海岸の町である。豊富な泉に恵まれ、この歴史的なオアシス地域に集落が始まった最も古い考古学的遺跡はおよそ紀元前3500年頃の物であり、このオアシスは幾世紀にも渡ってアラビア湾のこの地域の主要都市であり主要な港であった。実際にギリシャ人からはカテウス(Cateus)と呼ばれ、ヨーロッパの古い地図には今日のアラビア湾全体がエル カティーフ海(the Sea of El Qatif)と命名されていた。カティーフ オアシスとその近くのタルート島はサウジアラビアでも最も興味深い観光名所であり、考古学遺跡の場所である。

 

前述した様に、1521年まではカティーフはアル ハサや今日のバハレン島と共にバハレンとして知られる政権で治められていた。1520年にカティーフはポルトガル(the Portuguese)とそれに従属するホルムズ(the Hormuzis)によって略奪され、1524年にそのジャブリド(Jabrid)支配者達がバスラ(Basra)のラシド イブン ムガミス(Rashid ibn Mughamis)に破れ、ムガミスも次ぎにオットマン帝国に(the Ottomans)に倒された。それ以降、カティーフはオットマンとポルトガルの間の重要な戦利品となった。

 

1550年にカティーフの住民がその要害をオットマン帝国に屈して渡すとポルトガルはこの町を包囲してオットマン帝国を追い出し、要害を破壊した。1551年にオットマン帝国は戻って来てそこに新しい城(citadel)を築き、カティーフはバスラに次いでオットマン帝国のポルトガルとの戦いの第二の基地と成った。しかしながらポルトガル(the Portuguese)はオットマンの抵抗にもかかわらずバハレン(Bahrain)とホルムズ(Hormuz)を確保し、1620年までアラビア湾での覇権を維持した。タルート島(Tarut Island)中央の砦はポルトガルによって作られた。

 

ポルトガルは1622年に英国およびペルシャの攻撃でホルムズ(Hormuz)を失った。それ以降、ポルトガルの特に欲しがった馬、真珠およびナツメ椰子の実(date)等を特産品に持つカティーフがアラビア湾でのポルトガル貿易の重要な拠点と一時的になっていた。しかしながらオアシスのナツメ椰子園からの溢流水による沈泥と海面低下が合わさってカティーフ港は小さい舟しか近寄れないほど水深が浅くなりなりつつあった。カティーフの経済的役割は17世紀を通じてバハレンのペルシャ人(the Persians)に移って行った。その後、その役割はバハレンのオマニ(Omani)およびアル カリファ(Al Khalifa)の子孫に引き継がれた。一方、増加する地方取引はダリン(Darin)、ラス タヌラ(Ras Tannurah)およびアル コバール(al-Khobar)で行われるようになった。

 

カティーフの市場(suq)もアル ハサと同じ様に長い歴史を持っている。12世紀初めにこの市場は長く、低い、クト(Kut)の南西に密着し覆われた構造物で約400mの長さがあり、クワイキブ(Kuwaykib)の郊外で終わっていた。この市場(suq)は石や石灰で作られ、屋根を葺かれ、約300軒の店舗があった。

 

バニ カリド(Bani Khalid)とアル サウド(Al Saud)による2世紀間の支配の後、1871年にオットマン帝国が東部州を二度目に占領し、カティーフにサンジャク ナジド(Sanjak of Najd)と云う変な名前を付けてその3つの行政支庁の一つとした。他の二つの支庁はハサ オアシスとカタールであった。クト(Kut)の中に行政府があり、海岸に税関があり、そして6 km南のアニク('Anik)には守備された要塞があった。カティーフオアシスは中心の町、郊外、17余の村およびその外側のサイハト(Saihat)やサフワ(Safwa)の部落を含め全体が1913年に当時、勢力を広げていたサウド家の領地に再び併合された。

 

 カティーフのスーク           カティーフの魚市場

カティーフ旧市街              漁港付近

 

カティーフの有名な産物はデイツと魚であり、伝統的には農業に依存して来たが、最近ではカティーフ巨大プロジェクトによって石油産業でも中核に成っている()

 

() カティーフプロジェクトとは世界最大の原油生産施設の建設であり、この完成でアラムコはカティーフに下記の生産能力を保有している。

 

   原油処理量   80万バレル/日(12.7万立方米/日)

   随伴ガス処理量 370mmcfd1,000万立方米/日)

   コンデンセート  4万バレル/日(6千立方米/日)

   硫黄生産量   1,800トン/

 

2.6 ジュベイル(サウジアラビア二つの工業都市の一つ)

 

ジュベイル(Jubail)はアラビア語ではアル ジュバイル(Al Jubayl)と呼ばれ、サウジアラビアのアシュ シャールキヤ州(Ash Sharqiyah)にある工業都市および港町であり、ダンマン(Ad Dammam)の北西100kmに位置している。ジュベイルは東部州の古代隊商路の重要な分岐点で一つあったし、真珠採りでも有名であった。1970年代半ばまではその近傍に在ったキリスト教会跡()が目立たず、手つかずに放置されていた様な小さな漁港であった。産油地帯に近く位置しているので世界最大の石油化学コンプレックスの立地としては最適であり、1975年にヤンブー アル バハル(Yanbu’ al Bahr)と共にサウジ政府によって新工業都市として指定され、それ以後、1,030平方キロに及ぶ立地では急速に拡張と工業化が進められて来た。

 

(注)教会跡:ジュベイルは四世紀にアラビア湾のこの地域にあった五つのネストリウス派(Nestorian)司教区の一つと関係した教会で以前はアル ブナイン(Al Bunain)と呼ばれていた。

 

計画工業都市のフルネームはマディナト アル ジュバイル アス シナーイヤ(Madīnat al Jubayl as Şinā’īyah) (Jubail Industrial City)であり、1製油所、1製鋼所および世界最大の海水脱塩プラントの一つを含んでいる。海水脱塩プラントでは発電も行っている。精油製品に加えて、鉄鋼、プラスティックや肥料の様な石油化学製品を製造し、輸出している。その他の企業は工場で使う消耗品を生産し、一時製品の石油ガス関連企業の活動を支援している。アル ジュベイルには海軍基地もあり、サウジアラビアでもっとも重要な工業港の一つである。2004年の国勢調査では人口は1992年の14万人から22万人を越える程に増加している。

 

このアラビア湾に立つ大石油工業コンプレックスであるジュベイルは紅海のヤンブーと共に双子の工業都市としてサウジアラビアの将来への発展意欲の象徴である。ジュベイル/ヤンブー王立委員会(The Royal Commission for Jubail and Yanbu)がこの二つの工業都市の基盤整備および進出プロジェクトを管理する為に設立された。ジュベイルへの進出企業については「東部州その1 東部州の紹介 」の「4.4 ジュベイル工業地帯」で紹介した様に既存の工業都市(Jubail-I)にはサウジ基礎産業公社(Saudi Arabian Basic Industries Corp. (SABIC))に所属する多くの主要石油化学プラントを設けられている。これらのプラントには

1) Jubail Petrochemicals Company (Kemya)

2) Saudi Petrochemicals Company (Sadaf)

3) the Arabian Petrochemicals Company (Petrokemya)

4) the Eastern Petrochemicals Company (Sharq)

5) the Saudi-European Petrochemicals Company (Ibn Zahr)

があり、それ以外のSABICの主要プラントとしては

6) the Saudi Iron and Steel Company (Hadeed)

7) the Saudi Methanol Company (Al-Razi)

8) Jubail Fertilizer Company (Samad)

9) the National Methanol Company (Ibn Sina)

10) the National Industrial Gas Company (Gas)

11) the National Plastics Company (Ibn Hayyan)

12) the Saudi Chemical Fertilizer Company (Ibn Al-Bytar)

又、既存の工業都市(Jubail-I)SABIC以外の

1) Sasref (Saudi Aramco Shell Refinery)

2) NPIC (National Petrochemical and Investment Company)

3) SIPCHEM (Saudi International Petrochemical Company)

4) Saudi Chevron Petrochemical Co.

等の様なプラントもあり。これらの第一次工業に加えてその他に幾つかの第二次工業や下請け企業がこの工業都市にはある。

 

SWCCthe Saline Water Conversion Corporation)はジュベイルに前述の様に世界最大の海水脱塩プラントを所有している。1982年に完成したジュベイル造水プラントは清水100万トン/日の生産能力を持ち、その全発電能力は1,650MWである。このプラントではリヤドへ給水する為にパイプライン(口径60インチ、長さ466 km、高低差690 m)で83万トン/日の送水作業も行っている。

the Saline Water Conversion Corporation

発電所は更にジュベイルの近傍でダンマン(Dammam)から北80 kmの海岸に位置するガズラン(Ghazlan)に設けられている。ガズランの第二期工事は20014月にSCECOs (Saudi Consolidated Electricity Companies)SEC (the Saudi Electricity Company)に統合され、その民活路線(Build-Own-Operation)に沿ってベクテル(Bechtel)/三菱重工で建設された。17億ドルのこのプラントは600MWのスティームタービン発電器4基で構成され、2001年夏から順次稼働を開始した。第一期工事の発電所能力1,600 MWと合わせたガズラン発電所(Ghazlan Power Plant)の総発電能力は4,000 MWであり、その全ての電力は東部州に給電されている。

(三菱重工業鰍フホームページより掲載)

 

その他、ジュベイルに対する水電力の供給等については「東部州その1 東部州の紹介 」の「4.5 発電および造水」に紹介した。ジュベイル工業都市の拡張計画についても「東部州その1 東部州の紹介 」の「4.4 ジュベイル工業地帯」で言及しているが、本文の「第5 ジュベイルIIと経済都市」に詳しくご紹介する。

 

ジュベイル工業都市の教育

 

王立委員会の人材開発専門学校が工業の必要に見合った多くの技能工を確保する為に生徒を訓練した。専門学校は毎年650名の生徒が講堂に採用されクラスルームや整備された研究室で訓練された。この専門学校は生徒と教師両方への居住施設を備えている。もっと見本的な水準では幼稚園、普通学校および語学学校があった。語学学校では高等学校水準のアラビア語がサウジ人以外の生徒に教えられている。工業都市の特異性に沿って、王立委員会は教育省が発行している教育要目を補強し、この専門学校の生徒達に特別にあつらえた教育要目を用意している。

 

五つの地域

 

ジュベイル工業都市はアジアでは最も近代的で最大の工業コンビナートの1つである。この都市の建設は1975年に始まった。この近代的な工業都市を建設するために最新の技術が使われた。ジュベイル工業都市は主要な企業集団であり、石油化学、化学肥料、工業用ガス、鉄鋼および石油製品を生産している。ジュベイル工業都市は次の五つの地域に分割できる、

 

工業地域

 

19の主要工場と136の付属設備があり、鉄鋼、アルミニウム、プラスティックおよび肥料をサウジ基盤工業会社(the Saudi Basic Industrial CorporationSABIC)の監督の下で生産している。この地域は8,000ヘクタール(約80平方km)の広さがある。様々な必要性に応える為にSABICは十分に開発し設備した工業立地を標準的な価格で賃貸している。

 

住宅地域

 

陸地と結ばれた近くの島に建てられた八つの場所から構成されている。ここには4万人の住人が住んでいる。この地域全体では近代的な住宅に37.5万人が居住できる収容能力がある。

 

空港地域

 

250km範囲の地域をカバーする空港地域は全ての種類の航空機を受け入れ、乗客と貨物を取り扱う能力がある。

 

行楽地域

 

工業地帯西のピクニック地域は240平方キロの面積がある。都市の住人にとっては貴重なレクレーション地域である。この地域には緑地帯、遊戯場や水上スポーツの設備が含まれている。この地域には豊富な樹木と貴重な植物がある。

 

アル バツワ島

 

アル バツワ島(Al Batwah Island)はジュベイル工業都市に付属している。この島は公園と動物園を持ったピクニック場であり、植物種苗場、釣り場およびマリーナもある。

 

ジュベイルの保健管理

 

王立委員会は救急医療および伝染病予防の為に病院、10ヶ所の診療所、環境保護センター、健康指導、健康知識訓練校等を設立してきた。ジュベイルの200 床を持つジュワイラン病院(Juwailan hospital)は健康管理の全ての面から取り扱う能力を持っていた。完全にコンピューター化され、この病院は隔離病棟に加え、食事療法の専門家や二者選択できる薬事診療所を持っていた。「この工業都市社会の必要な医療施設は全て備えている」と言われている。

 

ファハド国王工業港

 

サウジアラビアを原油関連の原材料輸出国から石油ガス工業製品の生産者へと変換する為にファハド国王工業港がジュベイルに1974年から建設を開始された。ラス タヌラ(Ras Tanura)は原油と原油関連製品の輸出専用の港であるのに対し、この港はジュベイルの工業都市と接近しており、この工業都市の原材料輸入の為と石油化学製品、石油精油製品、鉄鋼、化学肥料および硫黄等の輸出の為に設計建設された。

 

ジュベイル工業港は異なった輸入輸出に必要性の為の様々な機能を持った複合港である。その最大の港は工業地帯回廊の北に位置する港である。9kmの長さがあり9つの桟橋、2ヶ所の貯蔵場および幾つかのサービスプラットフォームからなっている。9つの桟橋のうち1つは4kmの長さで水深20mタンカー用の海上出荷桟橋であり、1つのステーションは石油化学工業製品専用の為、もう1つのステーションは鉄鉱石の積み込み積み出しの為に確保されている。

 

ジュベイル真珠海岸

 

真珠海岸はジュベイルの青い珊瑚礁潜水場からの道路が横切る民間のコンパウンドと海岸地域である。潜水は青い珊瑚礁潜水場で可能である。この場所には大きな魚を含めて多くの魚が居るが、現在はこの地域の工事とその結果としての透明度が悪さに悩ませられている。ここの水深は浅く、最高でも6(20 ft)でしか無いが、珊瑚の露出は100mも広がり、多くの色とりどりの魚が居るので珊瑚礁はこの地域の工事でも生き残るように努力が払われている。

 

ファハド国王商業港

 

ジュベイル商業港は商業および工業港として機能している。ジュベイル工業港の南でダンマンの80km北に位置している。この商業港は漁業と真珠採りで有名である。この港は近代的な積み下ろし設備を持っており125の保管倉庫と高さ52mの管制塔を備えている。2000年から2001年にかけての年間の貨物取扱量は214.5万トンであった。

 

東西パイプライン(ジュベイルとヤンブー間)

 

サウジアラビア政府の産出するエネルギー資源を最大活用する政策によって、ジュベイル/ヤンブー王立委員会はサウジアラビア東部に埋蔵される莫大な量の天然ガスを保存し、開発する為に二段階のプロジェクトを推進した。最初に王立委員会は工業都市ジュベイルに天然ガスを集め、処理する為の広大なパイプライン網を確立した。それからエネルギー製品を紅海側からも輸出出来るようにヤンブーに建設した多くの工業プラントにもエネルギーを供給する目的で東から西へサウジアラビアを横断して石油とガスをジュベイルからヤンブーへ移送する為に二重のパイプラインの建設を始めた。この1,170km (730miles)に及ぶパイプラインは1982年に完成した。

 

2.7 アブケイク(Abqaiq)

 

アブケイクには主要で最大の石油ガス処理プラントがある。アブケイク(Abqaiq)はブカイク(Buqayq)とも呼ばれ、アラビア語では「砂蝿の父」を意味するブクァイク(buqaiq)であり、ダハラン-ダンマン-コバールの都市圏から南西の内陸沙漠地帯にある小さな町である。1940年代にアラムコによって建設された。アブケイクは2005年でも人口1,950人の石油鉱業の町である。

 

アラムコではABとコード名で呼ばれるアブケイクの住宅コンパウンドはアラムコ本部のあるダハラン(Dhahran)、主要製油所と原油輸出港のあるラス タヌラ(Ras Tanura)およびウダイリヤ(Udhailiyah)を含め、サウジアラムコが外国人従業員の為に建設した主要4コンパウンドの1つである。

 

他の3つのコンパウンドと同じ様にアブケイクコンパウンドも厳重に防護された警備柵に囲まれており、サウジアラムコの上級幹部とその家族だけが内部に居住できる。元々は米国人を中心とした西欧人の石油会社の従業員が或る程度は西洋的な心地よさとサウジおよびイスラム法の制限から分ける事を目的としていた。今日では米国人、サウジ人、エジプトやヨルダンの様なサウジ人以外のアザーアラブ人、印度人、パキスタン人等の多国籍モザイクではあるが、英語を共通語とする米国文化が圧倒する社会を維持している。アブケイクは油入りの砂フェアーウェイと砂グリーンの18ホールのゴルフ場を備えている。このゴルフ場は2003年に同じ方式の砂ゴルフ場であったダハランが芝のゴルフ上に変わった後には特に有名になった。

 

アブケイクは2006224日にアルカイダ(Al Qaeda)の原油処理施設へのテロ攻撃を受けた場所でもある。アブケイクへの激しい攻撃で原油処理能力は一次的に680万バレル/日から100万バレル/日に減産した。アブケイクの主要な役割は原油から硫化水素を除去し、蒸気圧を下げて原油を安全に外航タンカーに積み出せる状態にする事であり、世界最大の原油安定化装置()が設けられている。

 

() 詳細は「東部州その2 原油の宝庫」を参照。

 

2.8 ラス タヌラ

 

サウジアラムコは世界最大の原油生産会社であると共に世界最大の精油会社でもある。ラス タヌラ(Ras Tanura)にはサウジアラムコの原油の主要積出港があるばかりでは無く、サウジアラムコの主要な精油センターとして世界最大の製油所が設けられている。又、沖合には多くの採油用海上構築物が並んでいる。ラス タヌラ(Ras Tanura)はもっと正確にはラ‘ス タヌーラ(Ra’s Taūrah)であり、アラビア語では「外(ハズレ)の岬(Cape of the skirt)」を意味し、アラビア湾に突き出した半島に位置している。ラス タヌラの名は防護柵のされたサウジアラムコの従業員用住宅コンパウンドおよびサウジアラムコの主要石油積み出し港に加えて、石油操業センターのあるもっと半島奥の石油精製地域の両方に使われている。従業員住宅コンポウンドはナジマ(Najmah)とも呼ばれている。1930年代にサウジアラビアで石油産業が開発されるまではここには集落は全く無かったが、現在ではこのコンパウンドに1,700名の米国人およびカナダ人を含み3,200名が住んでいる。

 

地形的にはラス タヌラ コンプレックス(the Ras Tanura complex)は以前には物憂い漁村であり、現在の近代的港町ジュベイル(Jubail)のかなり南で、古い港町ダンマン(Dammam)からはタルート湾(Tarut Bay)を隔てて北に位置している。ラス タヌラの港地域は小さな半島に位置しているけれどもサウジアラムコは近代的外航タンカーには深い水深が必要である為に接岸の際および離岸の際の容易な操船性を考えて幾つかの人工島を増設している。更に近傍の海域には海上石油作井用の掘削リグや海上石油生産施設が設けられ、サウジアラムコ(Saudi Aramco)やその下にシュランベルジャー(Schlumberger)およびハリバートン(Halliburton)等が操業に携わっている。

 

アラムコのコードRTと呼ばれるラスタヌラ コンパウンド或いはナジマコンポウンドは主要管理センターのあるダハランやアブケイクを含めてサウジ アラムコによって1940年代に欧米人従業員の為にアラムコが建設された。ラス タヌラはその内で最も北にあり、唯一アラビア湾岸に位置している。厳重に防護された警備柵や未だに英語を共通言語として大体は米国文化を守って生活しているモザイク社会と成っているのは他のコンパウンドと同様である。

 

2.9 ウダイリヤ

 

空白地帯(Empty Quarter)アラブ首長国連邦(United Arab Emirates)との国境に隣接したシャイバ(Shaybah)油田に近くに設けられた原油生産処理の主要施設である。地域としては東部州中部には含まれないが「空白地帯の紹介」では触れなかったので、サウジアラムコの住宅コンポウンドとしてここで触れる事にした。

 

ウダイリヤはアラビア語ではエウ‘ド アリーア(Ew’d Aleea)と発音されるダハラン-ダンマン-コバール広域都市の南東の沙漠に位置するアラムコの小さなコンパウンドである。ウダイリヤは500名の北米人を含み人口1,350名である。アラムコのコードでUDHと呼ばれるウダイリヤはサウジアラムコが建設したアラムコ本部のあるダハラン、主要製油所と石油積出港のあるラス タヌラおよびアブケイクを含む4つの主要外国人居住コンパウンドの中では一番小さい。ウダイリヤは4つのコンパウンドの中で最も南に位置しており、他と隔離されている。ウダイリヤは周りを取り巻く多くのジェベル(jebel)と呼ばれる岩だらけの丘陵や露頭を越えなければ外には出られない。この中でも一番有名で大きいのはその形から747と名づけられたジェベル(山、(Jabel))である。

 

他の3つのコンパウンド同様にウダイリヤは厳重に防護された警護柵で囲まれ、アラムコの上級幹部とその家族だけがその中に住んでいる。このコンパウンド社会には多くの異なった人種が住んでいる。規模は小さくてもウダイリヤは殆ど全ての施設を備えている。ウダイリヤのキャンプは水泳プール、ウィエイトジム、食堂、ゴルフ場(ダハランの様に芝では無く砂と油)、テニスコート、スカシュ場、ラケットボール場、図書館、売店等を含み普通の米国の町にある殆ど全てが整っている。その他に人工空間としての大型な空調付きテント ワハト アル ガワール(the Wahat Al-Ghawar)があり、会社や従業員の催し物の開催会場と成っている。

 

2.10 ウカイル('Uqayr)

 

海岸にあるウカイル('Uqayr)の北の広大なサブハ群(含塩平地、Sabkhasalt flat)では古い時代の遺物が幾つか出土して居り、ハサ オサシス(Hasa Oasis)の排水路であった古代の河の河口そのものが大規模な古代の畑機構の一部だと思われる。ウカイル('Uqayr)9世紀にはバスラ(Basra)、オマーン、中国等との交易の為の重要な港と考えられて居たが、良港としての条件には欠けて居たのでそれ以降の歴史上の大部分はハサ オアシスの為の港として限られた役割を果たしたに過ぎなかった。1549年にオットマン帝国(Ottomans)がアル ハサ(al-Hasa)を占領し、自らがラーサ(Lahsa)と呼ぶホフーフ(Hofuf)を新しい州の州都に選んだ。又、交易を防御する為に砦がウカイル('Uqayr)とカティーフ(Qatif)に建てられた。

 

西暦1600年以降、オットマン帝国(the Ottomans)の勢いは衰退気味であり、ペルシャ(the Persians)にバスラ(Basra)を攻略され、西暦1680年までにバニ カリド族(the Bani Khalid tribe)のアル フマイド一門(the Al Humayd clan)にアル ハサからも放逐されてしまった。バニ カリド族(the Bani Khalid tribe)は北のバスラ(Basra)から南のカタール(Qatar)まで沙漠全体を支配して居た東アラビアの強力な勢力で、ホフーフ(Hofuf)の少し外側のムバッラズ(Mubarraz)にその統治の中心を置き、遊牧と定住の両方のグループが居た。

 

アル フマイド(Al Humayd)はアル ハサ(al-Hasa)の地方的、伝統的な部族支配を回復し、その後もバニ カリド族はハサ オアシス(Hasa Oasis)は強力な地方勢力として残り、ムハッマド イブン アブド アル ワッハーブ(Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab)が主唱する改革運動の軍事進行を抑制し、ディールイイヤー(Dir'iyyah)のサウド家(the House of Saud)の勃興を西暦1745年以降に妨害する等の18世紀の中央アラビアでの重要な政治的役割を担った。1790年のカティーフ オアシス(Qatif Oasis)南のグライミル(Ghuraymil)での戦いに敗北し、東部州は第1次サウジ公国に編入され、ホフーフ(Hofuf)の要塞は修理拡張された。イマム ファイサル(the Imam Faisal)の死後、第二サウジ侯国(1824 - 1891)が首長の座を巡っての親族間の争いで勢力を失い、1871年にアル ハサ地方を中心とする東部州中部の支配はオットマン帝国(Ottoman Empire)に再び奪われた。

 

1913年にアル ハサ地方に対するサウジ支配が回復してから1915年にヒジャーズがサウジ公国(the Saudi state)に合併されるまではアブド アル アジズの外部との接触は東部州のウカイルを通じて行われて居た。当時、ウカイル('Uqayr)はハサ オアシスに関係する物資を入れる為に保護された港として単純に機能するのがやっとの一集落であったが、中東におけるオットマン トルコとの戦争に対抗する英国のリヤドへの支援を明確にする為の交渉が1916 - 17年にここで行われた。その後、サウジアラビアと英国とのイラクおよびクウェイトの国境線を定める為の重要な交渉も1920 - 22年に再びここで行われた。

 

今日のウカイル('Uqayr)はアブド アル アジズの時代に築かれた港や砦、税関等の建物だけが残る廃墟であるが、海岸では未だに清水の湧き出しがあり、野生のナツメ椰子が茂り、駱駝が放牧され、青い海と白い砂浜に調和して美しい景観を残している。

 

 桟橋入り口税関        入出国管理等の建物           砦         

 Page Top

3. 近代化(ジュベイルIIと経済都市)

 

3.1 ジュベイルIIの計画

 

ジュベイルおよびヤンブーに対する王立委員会に1975年に設立された。この30年間にわたるジュベイル工業都市の成果および拡張実績に支えられ、サウジアラビアは2004年にジュベイルを工業首都に指定し、第二工業地区の建設を予定した。このジュベイル第二工業都市(Jubail II)と呼ばれる計画はジュベイルとサウジアラビアの今後25-30年間に向けての工業化の為の設備拡張であり、工業地区への投資プロジェクトの総額は約587億ドル(SR220 billion)に及び、5.5万人余りの新しい雇用を創設すると期待されている。

 

この計画は現国王のアブドッラ(当時皇太子)によって200412月に建設の定礎式が行われた。同時にアブドッラ(当時皇太子)は水電力ユーティリティ会社(Marafiq)石油化学、肥料、ガスおよび鉄鋼プラントの拡張等幾つかのサウジ基礎産業公社(SABIC)の系列会社の開所式にも臨席した。

 

ジュベイル工業都市の拡張は既存都市の3 km北に位置しており、用地面積1,950ヘクタールであり、19の第一次工業で構成される。それに加えて主としてこの地方の資本や外国資本の投資による幾つかの第二次工業および下請け企業も設立される。新しい工業都市は四期に分けられ、第一期は2008年から操業を開始し、全部のプロジェクトが終了するのは2022年の予定である。

 

3.2. ジュベイル第二工業都市(Jubail II)基盤整備工事

 

ジュベイルおよびヤンブー王立委員会はサウジアラビアの輸入品国産化および輸出促進の為に拡張開発計画であるジュベイル第二工業都市(Jubail II)に総額34.7億ドル(SR13 billion)の予算を計上した。この地区に計画中の19工場の設計は既に完了しており、計画には道路およびガス、電力、冷却用海水、飲料水、排水処理施設、ファハド国王工業港への原料および製品の輸送用配管敷き等の公共事業とファハド国王工業港の拡張整備が含まれている。この工業地区は既存1.5 km幅のクルサニヤ(Al-Khursaniya)とラスタヌラ(Ras Tanura)間の配管敷き(KRT corridor)を横断する連絡通路建設から始め、4期に分けて暫時拡張される。同じく道路、連絡通路、給水ライン、ファハド国王工業港への道路等の基盤整備の設計も既に完成している。

 

第一期工事建設費は6.8億ドル(SR2.54 billion)と推定され、2006610日にアブドッラ国王によって着工式が行われた。同国王は又、ジュベイル第二工業都市への高速道路(2,100万ドル、SR80 million)、冷却水給水用のポンプ場(11,600万ドル、SR435 million)、配電所(6,640万ドル、SR249 million)、ファハド工業港に置ける石油化学工業用の港と埠頭(80万平方メートル、9,700万ドル、SR364 million)、ジャルモウダ地域(the Jalmouda neighborhood)開発と王立委員会職員用621棟の官舎の建設(11,500万ドル、SR433 million)の着工式も合わせて行った。これらの完成は2007年の予定であり、最初の工場では2009年までには生産を開始できると思われる。ジュベイルIIのその後の開発は新しい工業用地の需要増大に合わせて段階的に行われる。

 

3.3 SABIC傘下企業の参加

 

サウジ基礎産業会社(SABICthe Saudi Basic Industries Corp.)は2006年前半に「ジュベイルに32億ドル(SR12billion)の石油化学会社を設立する合意書に調印した」との声明を出した。SABICはこの新しいサウジカヤン石油化学会社(Saudi Kayan Petrochemicals Company)の株式の35%を保有し、SABICの合弁相手であるカヤン石油化学(Kayan Petrochemicals)20%を保有し、残り45%は二ヶ月以内に開始する新株公募(IPOinitial public offering)で調達する予定である。

 

上述した様に2006年6月10日にアブドッラ国王はジュベイル第二工業都市第一期工事の着工式を行った。それと同時に下記の様な多くのSABIC傘下企業のジュベイル拡張プロジェクト開始にも立ち会った。

 

1) ナショナル工業ガス会社(Gasthe National Industrial Gas Company)

投資額25,330万ドル(SR950 million)

2) シャルク(Sharqthe Eastern Petrochemical Company)

投資額348,300万ドル(SR13.06 billion)

年間130万トンのエチレン、80万トンのポリエチレンおよび70万トンのグリコールエチレンを製造予定

3) ユナイテッド石油化学会社(the United Petrochemical Company)

投資額3.7億ドル(SR1,4 billion)

4) サウジ鉄鋼会社(Hadeedthe Saudi Iron & Steel Company)

投資額2.9億ドル(SR1.1 billion)

5) サウジアラビア肥料会社(Safcothe Saudi Arabian Fertilizer Company)

投資額5.4億ドル(SR2.03 billion)

 

3.4 石油化学プロジェクト

 

サウジ シェブロン-フィリップ社(Saudi CHEVRON-PHILIPS Company)20057月にジュベイル主工業地帯の504,300平方メートルの土地使用許可を新たに得ている。この拡張プロジェクトの総投資額は約13億ドル(SR5 billion)で、このプロジェクトが完成するとシェブロン-フィリップ社のジュベイル工業都市における総投資額は25.7億ドル(SR10 billion)となる。 これとは別に20057月に総額6.9億ドル(SR2.6 billion)の三つの石油化学プロジェクトの免許を承認されている。

 

アブドッラ国王は2006610日にサウジ国際石油化学会社(Sipchemthe Saudi International Petrochemical Company)のブタンニ酸プラント(the Butanediol plant)も開業した。このプラントはこの種のプラントでは中東で初めてであり、国内外の需要に合わせて年間7.5万トンの能力を持っている。Sipchemは又、2006年前半にジュベイルに酢酸(acetic acid)およびビニール アセーテート(vinyl acetate) プラントを建設する為の10.7億ドル(SR4billion)の契約をカナダ、ドイツおよびフランスの共同事業体との間に調印した。このプラントの年間生産量は46万トンである。 

 

   アブドッラ国王は更に同日ナショナル工業化会社(the National Industrialization Company)、アラビア工業投資会社(NamaThe Arabian Industrial Investment CompanyZamil Group 25%)、カリージ化学工業(Khaleej Chemical Industries)およびファラビ石油化学会社(Farabi Petrochemical Company)等の民間石油化学会社等開業式にも立ち会った。

 

3.5 ジュベイル製油所

 

サウジアラムコはフランスのトタール社(Total)と東部州のジュベイル市に国際水準の製油所を建設する画期的な契約を調印した。予算60億ドル(SR22.5billion)と見積もられているこのプロジェクトは2011年から操業を開始する。建設される製油所は処理能力40万バレル/日の国際水準の完全転換型製油所(full-conversion refinery)であり、サウジアラムコはこのプロジェクトの40万バレル/日の重質原油アラビアンヘビィを供給し、現在および将来の製品需要に対応する為に高品質の石油精製品を製造する。両社はこの製油所製品の販売を分け合う。二社の巨大な石油会社は互いに同じ35%を保有し、残り30%をサウジ国民からの出資を新株公募し合弁会社設立する事で合意している。

 

ジュベイル プロジェクトはサウジアラムコが今後5年間にサウジアラビアの内外で精製能力を増強する為に合弁相手と共に500億ドルの投資を行う計画の一部であり、その内のサウジアラビア国内に設立しようと望んでいる外国との合弁での二ヶ所の輸出用製油所の一つである。サウジアラムコはヤンブーで40万バレル/日の製油所建設をコノコフィリップス(ConocoPhillips)と合弁で設立する覚え書きにも既に調印している。

 

3.6 巨大造水発電所

 

マラフィク(MarafiqThe Power and Water Utility Company for Jubail and Yanbu)はその操業を200311日に始めた。マラフィクはこの地域でもっとも早く成長している会社の1つであると考えられている。マラフィクのジュベイルでの拡張計画には水と電力を組み合わせた独特の概念である複合目的独立造水発電プラント(IWPPthe dual-purpose Independent Water and Power Plant)のプロジェクトを包含しており、サウジアラビアの造水発電民営化最初のプロジェクトである。このプロジェクトの第一期工事は2,700メガワットの発電プラントと日産80万トンの海水脱塩プラントで構成され、投資額は29.3億ドル(SR11 billion)である。マラフィクでは両方のプラント共に2009年までの操業開始を予定している。このプロジェクトは第二期工事で1,500から2,000メガワットの発電能力と日産10万トンの造水能力を確保する予定である。

 

新しい造水発電プロジェクトの為にマラフィクは25億ドルの新株を内外の投資家に対し公募してきた。マラフィクに国際資本投資を集められる商業価値と信用を持たせる為にサウジアラムコ(The Saudi Arabian Oil Company (Saudi Aramco))、サウジ基礎産業公社(Saudi Basic Industries Corporation (SABIC))、王立委員会(the Royal Commission for Jubail and Yanbu)、公共投資基金(the Public Investment Fund) がマラフィクの四大株主と成っている。

 

この他に造水発電プロジェクトとしてはラス アル ゾウル(Ras Al-Zour)およびジュバイル第三プラント(Jubail-3)の計画があるが、何れも民間企業によって建設、操業、移管方式(BOT a build operate and transfer)によって運営される予定である。

 

3.7 ラス アル ザウル燐鉱輸出プラント

 

サウジアラビアは最近カナダ、フランスおよびサウジアラビアからなるコンサルタントに1,000万ドルで北部鉱山地帯とアラビア湾の港ジュベイルを結ぶ1,600 kmの鉄道の設計契約を調印した。サウジアラビアはコンサルタントの検討が終わり次第に約20億ドルと予想されているこの鉄道を国際入札に掛ける予定でいる。

 

アル ジャラミド燐鉱床の開発の為に、サウジアラビア鉱山会社(Maaden)は工業都市ジュベイルの60km北に位置するラス アル ゾウル(Ras Al Zour)に建設する年間生産量300万トンの世界最大の燐酸ニアンモニウム(DAPdiammonium phosphate)の一環操業プラントを含むサウジアラビアにおける総額19億ドルの燐鉱石肥料コンプレックスプロジェクトを計画している。マアデンはこの新しい鉄道を燐鉱石(phosphate)の輸送に使う計画であり、採算検討(BFSthe Bankable Feasibility Study)を経て、2005年のプロジェクト資金調達に続き、稼働開始は2008年の予定である。

 

このプロジェクトは北部サウジアラビアのアル ジャラミド(Al Jalamid)にある燐鉱山と選鉱工場とアラビア湾岸のラス アル ゾウル(Ras Al Zour)に設ける肥料生産コンプレックスで構成される。アル ジャラミド(Al Jalamid)にある燐鉱山と選鉱工場は乾燥状態の燐鉱石の精鉱を年間450万トン生産すると見積もられている。鉱石は露天掘りで採掘され、P2O5の純度が32%から33%の燐精鉱を作る為に寸法別選別および浮遊選鉱が行われる。採算検討(BFS)は「アル ジャラミド鉱床(Al Jalamid)は年間1,100万トンから1,200万トンの平均採鉱速度で今後20年間操業するに十分な鉱量を持っている」と結論づけている。

 

3.8 ラス アル ザウル アルミニュウム製錬所

 

サウジアラビア鉱山会社(Maaden)3.7章で述べた1,600 kmの鉄道を使ってカシム(Qaseem)のブレイダ(Buraidah)の北180 kmに位置するザビラ鉱山(the Al-Zabirah bauxite mine)から年間330万トンのボーキサイト(bauxite)を運搬し、ジュベイル北部のラス アル ゾウルに建設計画中の総額総額58.7億ドル(SR22 billion)の輸出用港湾を含めた巨大な鉱物工業コンプレックスのアルミナ(alumina)製錬所とアルミニウム製錬所で、それぞれ年間20万トンと年間62.3万トンの生産を2008年から始める予定で居る。

 

3.9 ジュベイル経済都市構想

 

サウジアラビアではラビーグ(Rabigh)の建設されるアブドッラ国王経済都市に加えてジェッダに一ヶ所および東部州にもう一ヶ所のニヶ所に経済都市を建設する可能性に対する検討が行われている。経済都市はこの他にもトブク(Tabuk)およびマディナ(Madinah)でも計画されている。

 

アブドッラ国王はラビーグ(Rabigh)の建設される267億ドル(SR100 billion)都市の定礎式を200512月に行っている。この新しい時代の都市は国際級の港、工業地域、金融地域、教育地帯、保養地区および住宅地区を持っている。大規模プロジェクトの中心は世界で10指に入る260万平方メートルの新世紀の港創設である。紅海の戦力的な位置とサウジアラビア諸都市への即座の通行でこの港は軽工業および流通拠点として最適であり、ヨーロッパ、アフリカ、アジア等への物資流通の要となる。800万平方メートルの工業地域の利用は下流石油化学、製薬、研究開発と教育機関等に代表される。水際の保養地はホテル、ブティック、住宅などの印象的な組み合わせが含まれる。基本計画では3,500室の整備されたホテル、住居用寝室、スイート、ビッラおよびレンタル装備、国際クラスの18ホールのゴルフ場および乗馬クラブが計画されている。金融地区は内外の金融サービス業、ホテル、展示場および会議場等の為の50万平方メートルの事務所敷地である。ここには周囲の景観を圧倒する2棟の高層ビルが建てられる。

 

ジュベイル経済都市の可能性はクウィエト、アラブ首長国連邦等湾岸諸国との経済的なつながりで有望であり、実現すれば上記のラビーグ(Rabigh)と同じあるいはそれを上回る規模の経済都市がジュベイルに建設される事となる。

 Page Top

4. 東部州の農業

 

4.1地下水資源

 

24千年前から33千年前に中央アラビアでは豊かに雨が降り、地質年代毎に深度の異なるアラト(Alat)、コバール(Khobar)およびウッム アル ラデュマ(Umm al-Radhuma)等の多孔質で浸透性のある地層に降雨は少しずつしみ込み、帯水層を形成し、保存されて来た。これらの帯水層は少し東に向かって傾いているので水はゆっくり移動し、自然に圧力を貯え、アル ハサ(al-Hasa) オアシスおよびカティーフ(Qatif) オアシス等のサッマン崖地(Summan escarpment)の東側で岩の割れ目や断層等を通って掘り抜き井戸の原理で地表へと自然に湧き出していた。

 

昔の湧き出す水量は今よりも遙かに豊富であり、古代の遺物から判断すると紀元前三千年期と紀元前一千年期には水の流れはアル ハサ オアシスの農業を維持するだけでは無く、恐らくは半月湾(Half Moon Bay)付近のアラビア湾岸まで一年を通じての流れを維持するだけの十分な水量があった。アル ハサ オアシス自身も現在よりも大きく、カティーフ オアシスの南北も現在よりもっと広範囲に人口が定着し、農業が営まれていた。

 

アル ハサ オアシス(al-Hasa Oasis)およびカティーフ オアシス(Qatif Oasis)では天然の掘り抜き井戸から湧き出す水が広大なナツメ椰子園、果樹園、蔬菜畑、作物の栽培そしてタマリスク(tamarisk、ギョリュウ)その他の樹木等の豊かな植生を支えている。それと共に様々な灌木の多い野生の遮蔽植物、一年生植物、草地や葦床が育っている。これらのオアシスがユーラシア大陸とアフリカ大陸を南北に移動する渡り鳥の主要なルートになっているので鳥類は種類、個体数共にとりわけ多く見られる。

 

4.2 オアシス農業と古代交易

 

東部州中部のカティーフおよびアル ハサとその周辺の泉から湧き出す水量の多さは地上の海と地下の海を意味する「バハレン」の語源と成る程、豊かであった。従って、東部州中部では古くからオアシス農業と遊牧が行われて来た。それを基盤に紀元前3,000年頃にはウル(Ur)等のシュメール人(Sumerian)都市国家の影響でアラビアでは始めて自分自身の都市文明を作りだした。ディルマン(Dilmun)と云う土地は今日のタルート(Tarut)島を含む東部州の陸地部を示すが、ディルマン(Dilmun)と呼ばれるこの文明は紀元前2,450年から1,700年以降バハレン島(Bahrain)をその主な中心として栄えた。

 

紀元前二千年期後期と一千年期初期迄に交易集落がイエメン(Yemen)からの内陸交易路に急速に現れ、長距離交易は重荷に耐える動物として家畜化された駱駝を輸送手段に使って行われる様になった。古代にはアラビア湾および紅海に沿った海路とアラビアを横断する陸路が地中海世界(Mediterranean)とインド洋世界の間のつながりを確保して来た。交易はローマ帝国時代(紀元前30年から紀元200年)の早い時期に頂点に達した。当時は莫大な量の贅沢な物資、大量の香辛料や香料がイエメン、東アフリカ、印度および中国からローマ世界の膨大な需要を満たす為に輸送された。古代イエメンの乳香(frankincense)や没薬(myrrh)がこの交易の中でも特筆すべき物資であった。

 

ジャルア(Gerrha) ()は東部州の中央部に位置し、交易の重要な中心であった。この都市国家はアラビア湾からインド洋への海路とそこからイラクへ向かい北西アラビアや東地中海(the eastern Mediterranean)に至る陸路の両方を支配した。これによりジャルアは栄え、紀元前700年から紀元後の初めの数世紀に渡って東部州に覇を唱えた。しかしながら、現在までジャルア(Gerrha)の実在した場所を特定で出来ず、ジャルアは謎の都市とも呼ばれている。

 

() ギリシャの地理学者のストラボ(Strabo, 64BC - AD21)は「ジャルア(Gerrha)はおおよそ紀元前6世紀あるいは7世紀に存在したのがダハラン(Dhahran)からの出土品からほぼ分かった」と記述している。ジャルア(Gerrha)存在するとされている場所にはサジ(Thaj)、ガティーフ(Qatif)、ダハラン(Dhahran)、サフワ(Safwa) に近いアインジャワン('Ayn Jawan)、ウカイル('Uqayr)および’ウカイル('Uqayr)北の塩採集場(Salt Mine Site)がある。海岸にある’ウガイル('Uqayr)の北の広大なサブハ群(含塩平地、Sabkhassalt flat)に近い後者では同じ時代の遺物が幾つか出土して居る。

 

サウジアラビア国内でも最大級の考古学遺跡の一つであるサジ(Thaj)も州中央部に含まれる場所にある。この遺跡は恐らく紀元前4世紀後半に占有され、4世紀頃まで人が住んで居て、豊富な陶器がこの町が紀元前300年から1世紀に掛けて繁栄していた事が分かっている。現在のサジはサラールから東へ35km入ったナツメ椰子に囲まれた寒村であるが村の南側を遺跡保護のフェンスで大きく遮られている。そのフェンスの中には往時の石組みを今でも見る事が出来る。これらのオアシスでは富は交易で得られていたにせよ、生活はオアシス農業とその周囲の遊牧に支えられていた。

 

4.3 伝統的なオアシス農業

 

ハサ オアシスおよびカティーフ オアシスでの農業の基本的要素は水、ヤツメ椰子、驢馬、牛およびアルファルファであった。これらのオアシスではコバール層(the Khobar Formation)やウンム アル ラデュマ層(the Umm al-Radhumah Formation)等の地下の岩層(帯水層)から天然の地下水圧で湧き出す莫大な量の水によって巨大な地域の灌漑が可能と成っていた。ナツメ椰子は塩性に対しても高い耐性があり、乾燥した状態の灌漑農業に申し分無く適応している。オアシスの定住者にとって食糧、燃料、飼料および家庭用品や建築用の材料として生存の為に欠く事が出来ないばかりでは無く、その木陰は周囲より涼しく野菜や果物が成長できる農業環境を整えた。ハサ オアシスおよびカティーフ オアシス等では驢馬が輸送や水汲みの動力として使役された。又、牛は乳製品を提供した。アルファルファは何処ででも育ち畑の肥料となる糞を出す驢馬や牛の栄養素の高い飼料となった。アル ハサの様な真のオアシスではイラクやエジプトの河沿い農業の賜である毎年堆積する肥沃な沈泥が無い為に糞は丹念に集められ、肥料として撒かれる。集約的で農地の区画が一般に小さかったので耕作は全て手と鍬で行われ鋤は使われなかった。

 

ハサ オアシスおよびカティーフ オアシスではデイツ(ナツメ椰子の実)は主食であると共に、伝統的に主要な輸出作物であった。近年ではもっと多くの食材が豊富に出現した為にデイツ(ナツメ椰子の実)は以前ほどには好まれなくなった。それと対称的に木の実、野菜や飼料の需要が膨大に増えた。政府の援助を得て商業菜園では単作区画の制限された作物に限定して集中的に栽培しており、伝統的な生計方法での多くの種類の野菜や果物を同時に栽培するのはナツメ椰子園の中に限られている。

 

ハサ オアシスおよびカティーフ オアシスでの大量の水とナツメ椰子の木陰と水盤灌漑は茶色い種類の米(brown rice)の稲作を可能にしていた。米の稲作には少なからず労働力と注意深い肥料の施しおよび冠水が必要であったが二番目の伝統的換金作物でその価値は高かった。現在でもハサウィ米と呼ばれるこの米はサウジ国内では特に好まれ、高値で取り引きされている。

 

その他に耕作に適する作物としては主要な飼料作物であるアルファルファを含まれていたが、昔は主として自家消費用であった。アルファルファは栄養価が高く、年に数回収穫出来た。アルファルファとデイツは有名なハサの白い驢馬に与えられ、それらが白い驢馬たちの大きさ、強さおよび品質を生み出すと思われて居た。穀物の中ではモロコシとキビがもっとも一般的であり、東アラビアのオアシス農業が始まって以来栽培されていた。小麦と幾種かの大麦も栽培されていた。異常に雨量が多い年には大麦は灌漑地域の外にまで植えられた。

 

大量の果実や野菜は商業的にハサ オアシスおよびカティーフ オアシスの両方で栽培されている。その中にはザクロ(pomegranate)、杏、レモン、ライム、イチジク、桃、葡萄やメロンがあり、マンゴー、パパイヤ、バナナおよびトマトも比較的最近導入された。野菜はそれ程種類が多くは無いが、茄子(aubergine)、葱、大蒜、オクラ、南瓜、豆やほうれん草等が栽培されていた。もっと特殊な作物としてはメークアップに使われるミント類の香りの良いハーブのマシュマン(mashmum)、ひまわり(sunflower)、胡麻、ひまし油(castor oil)、ミント、アニスの実(aniseed)およびヘンナ等があった。

 

中央および東アラビアの耕作地域では何処でもそれを囲むようにイスル(ithl)と呼ばれるタマリスク(tamarisk)の木が防風防砂林として育てられていた。この木から取れる木材は軽く強いので天井のタルキ材(rafter)として特に使われた。

 

4.4 アル ハサ

 

不毛の沙漠に囲まれて居ても水源を持つハサ オアシスは世界的にも一番大きな真のオアシスの一つである。近年開発される前は周囲の不毛の海と完全に対称的に見渡す限り緑の大きな島であると云うたぐいまれな景観を成して居た。ホフーフ(Hofuf)とムバッラズ(Mubarraz)から広がる新しい建造物で以前の耕作地の半分が覆われてしまった為に、今日ではこの様な効果は少し薄れて来てしまった。

 

耕作地の面積は12,000ヘクタールもあり、この地域に生えていたナツメ椰子の木の本数は一番信頼できる推定で約300万本()であった。1970年代初期の新しい灌漑網の完成以来、耕作可能面積は約19,000ヘクタールと更に増えて来た。

 

()  ハサ オアシスに生えていたナツメ椰子はカティーフを含め或いは含まずに200万本とも300万本とも言われており、特定は出来ない。私は「漠然と東部州中部でデイツを産する雌木が200万から300万本だったのだろう」と思っている。

 

ハサ オアシスでは水は500ヶ所以上の泉から湧き出し、その幾つかは非常に大きい。多くの小さな泉は私有になっているが一番大きな泉を含め殆どは商業灌漑網につながっており、これは水量の分配の為に必要であった。西暦1950年にはウンム サバ(Umm Saba')、アル ハグル(al-Haql)、アル フデュド(al-Khudud)およびアル ハッラ(al-Harrah)等の最も大きな泉はそれぞれ毎分90,000リットル以上の水量が湧いていたと推定されている。この水を使用する権利は個人に帰属せず、ナツメ椰子園の区画に帰属していた。各区画に水は導かれそこから縁の無い水路の手の込んだ仕組みで排出された。

 

ハサ オアシスの水は全て温かく36℃を少し越える泉もあった。ハサウィ米(Hasawi)の存在を基礎とした水の使い方以外に泉や池はくつろぎや健康の為の快適さを与える重要な社会的価値があった。ホフーフ西のアイン ナジム('Ayn Najm)の硫黄泉は特に行楽地として使われた。これと対称にカティーフの水は冷たかった。

 

4.5 カティーフ

 

カティーフは海洋性オアシスである。そこに住む人々は農業と同じ様に真珠取り、漁業および海の交易で生計を立てていた。ハサ オアシス程大きくは無いがその灌漑面積は約4,000ヘクタールにおよんでいる。ハサ オアシスと同じ様に古代から較べて耕作面積の少なからぬ減少の証拠が見られる。古代にはアイン ジャワン('Ayn Jawan)、サフワ(Safwa)やサイハト(Sayhat)の様な今日ではオアシスの外のある集落も含め、全体が一つの広いオアシスであったと考えられている。

 

カティーフ オアシスとタルート島を含むその周囲の小オアシスが一緒になって東部州海岸地域の主要なオアシス集落を成し、バハレンの北海岸を除いてアラビア湾岸では北のシャット アル アラブ(Shatt al-'Arab)と南のドバイの間にある唯一の農業地域であった。海岸の資源や熟練を当てにする度合いは少なく、この住人は陸地へ依存して生活・文化を発展させた。沿岸の産業としては海運交易、真珠取りおよび漁業があったが少数派であり、しばしば農業の付属物でしかなかった。

 

4.6 安定しない砂丘との戦い

 

1968年にアル ハサの砂丘公園を私は訪れ、「この公園は徘徊する砂丘(wandering dune)をブルドーザーで平らにし、その上に植林して砂の移動を止めて作られている」と説明された。徘徊する砂丘(wandering dune)と名付けられているネーミングの印象からその時には砂丘は動き回るのが当たり前の様に私は理解し、あまり疑問を持たなかった。その後、実地に自分で沙漠を観察し、沙漠に入り込む様に成ってからは地質的時間の概念での地形変化は別として実際の生活の中では「砂丘地帯は元地盤の形と風向によって形作られるので表面の砂は移動していても砂丘の位置や形は殆ど変わらない」と私は考える様になった。

 

しかしながら、アラムコワールドでの「安定しない砂」(The Restless Sand: by William Tarcy, ARAMCO World, May & June,1965)の紹介者であるウィリアム トレーシィ氏(William Tracy)は「動く砂丘の脅威はサウジアラビアに限った事では無い。砂丘はサハラ(Sahara)やリビヤ(Libyan)の沙漠でも多くの地域社会を洗い流してしまっている。米国では大西洋やメキシコ湾に沿った砂丘は定常的に内陸へと押されている。ミシガン湖(Lake Michigan)の南岸では砂丘群が森を完全に被い尽くしてしまっている。ビスカイ湾 (the Bay of Biscay) では海岸の風が年間に約100フィート(30.4m)の割合で前に押しており、フランス人のブドウ畑、村や教会の尖塔まで埋めてしまった」と記述している。その上に何と云ってもアル ハサでは村が砂丘の侵入で埋められる脅威が1961年頃に実際に起き、サウジアラビア農水省は(サウジ)アラムコの農業専門家グロバー・ブラウン博士(Dr. Grover Brown)の助言等を得て対処した現実がある。

 

アラビア半島の北部分に約6.9万平方キロの大きさで広がる偉大なナフド沙漠 (the Great Nefud)から風によって砂が東や南に向きを動かされ、幾つかの弓形をした砂の川を通じてアラビア半島南部に南北644km で東西1,126kmの約65万平方キロの範囲で広がる世界最大の砂丘地帯である空白地帯砂漠(ルブ アル カリ (Rub’ al-Khali))と繋がっている。これらの砂の川で一番長いのがダハナ砂漠 (the Dahna) であり、二番目に長いのがウルク砂漠('Uraq)である。これらの砂丘地帯がサウジアラビアで沙漠と云われる地域の大部分を占めており、その砂は97%以上が石英であり、近傍に堆積する酸化鉄の皮膜で覆われ、その錆びた皮膜が砂丘を美しい赤やオレンジ色の見せて居る。

 

これに対してアル ハサの「安定しない砂」はジャフラ砂漠 (the Jafura) (支流)の一つであり、この砂丘はアラビア湾の珊瑚礁から拾い上げた石英分90%の砂で構成され、酸化鉄の被覆は無く、サウジアラビアでは珍しく青白いのが特徴である。この砂も風によって南および南東へ流され、砂の貯蔵庫である空白地帯砂漠(ルブ アル カリ)まで運ばれて行く。又、ジャフラ沙漠は海岸の影響を受けやすい地域に存在し、風向に対してほぼ直角に風上を頂点とした三日月型をした移動し易い横断型(Transverse)砂丘(注)で構成されており、「砂丘の位置と形は殆ど変わらない」との前述の私の考えと異なるとすればこの辺りに理由があるかも知れない。但し、横断型(Transverse)砂丘は移動し易いと云われてはいても、これは地質時代的な動きであり、ジャフラ砂漠 (the Jafura)を横断して築かれているダンマン/リヤド高速道路やダンマン/リヤド鉄道は移動する砂の影響を受ける事はあるにせよ、砂丘が移動して埋没する様な事例は起きていない。

 

砂丘と一言に云ってもサウジアラビアの様に極端に乾燥した沙漠に自然条件の儘に形成され維持されている砂丘と人工的に乾燥地帯が沙漠化した為に発達して来た砂丘とは異なる。純粋に自然の儘の沙漠にある砂丘帯では定住民は砂丘が形成された自然に逆らわずに果樹園、畑、住居等の生活圏を築くので砂に浸食され難いが、沙漠化した地域に発達して来た砂丘帯ではそれまでにあった定住民の生活拠点を乾燥の進行と共に砂丘が成長し浸食してしまう。「アル ハサの安定しない砂」については4.7章の排水灌漑プロジェクトで述べる様に「水源と成る泉からの水の湧き出し量が減り、水源の水や土壌に含まれる塩分濃度が増す事でこの地方に沙漠化現象が起き、農地や村が砂丘に浸食されたのだ」と私は考えている。

 

1961年のアル ハサでは砂丘の浸出に伴い、漂砂が溢流水の排水出口を塞ぎ、急速に悪臭を放つ、不衛生な沼地に変わたり、蒸発で塩分濃度を植生が耐えられない程に高めた。漂砂は又、作物だけでは無く、人間自身も生を依存している重要な泉にあきらかに脅威を引き起こした。農業省はこれに対抗する為にアラムコが砂の猛攻撃から石油設備を保護する為に25年間の経験から生み出した技術を利用しようと検討した。多岐にわたる要素から成る様々な技術の中では樹木の植林がアル ハサでは一番有利に思えた。問題は最小限の水と世話で済み、砂の底深く根を張って自らが水を探し出し、砂を防ぐ十分な高さがあり、その水平な枝が最大限風を防ぎ、乾燥した塩分の多い環境でも育つ樹木の種類を見つけ出す事であった。

 

農業省はアラムコの農業専門家グロバー・ブラウン博士(Dr. Grover Brown)の助言で排水溝の塩分濃度までは許容する樹木として5種類のタマリスク(Tamarisk)を選定した。種類にもよるが、タマリスクには土壌を密に被い、早く成長し、その木の高さと同じ位の距離に水を探して根が伸びそして貪欲に湿気を吸い取る特徴があった。

 

農業省はエジプトの農業技術者エッズ エド ディン ラシャド(Ezz ed-Din Rashad)の「これ以上の土地の損出を防ぎ、砂丘地域全体の前進を阻止する為に三つの障壁を一年半以内で完全に完成させ、3年間維持し、砂の浸食を防ぐ」と云う提案を採用し、この計画は迅速に実施に移された。実際の仕事は1963年の夏から始まり、3百万本の苗木の植えられ、結果的には取り敢えずは砂の浸食を防ぐ事が出来た。ラシャド氏は土壌を肥やす為に肥沃土壌、泥および廃油を混ぜ、現地で入手できる薬剤を加え、灌漑溝からの窒素が豊富な藻の中に投入した。この方法は化学成分が豊かな土壌を作り出す為にコストが安く経済的であった。今では丈夫で緑の樹木の列が空に向かって立ち、これらの樹木の根は砂丘の山が決して動かない深さにまで伸びてアル ハサ プロジェクトの成功を象徴している。

 

4.7排水灌漑プロジェクト

 

ハサ オアシスではコバール層(the Khobar Formation)やウッム アル ラデュマ層(the Umm al-Radhumah Formation)等の地下の岩層から天然の地下水圧で水は500ヶ所以上の泉から湧き出している。20世紀中頃までは大きな井戸では毎分90,000リットルもの水が湧き出していた。小さな泉は私有になっているが大きな泉の殆どは地域灌漑網につながり、ナツメ椰子園の各区画に導かれ分配されていた。そこからは更に縁の無い水路の手の込んだ仕組みで排出された。各区画の水が利用できる時間割と期間には厳しい決まりがあり、水の分配が統制されていた。この湧き水を利用した耕作地の面積は12,000ヘクタールあり、この地域に生えていたナツメ椰子の木の本数は約300万本以上もあった。

 

地域灌漑網の水はナツメ椰子園を通過した後、この水はオアシスの外れまで何度も繰り返し他のナツメ椰子園に排出される。そこで最後の溢流水はこのオアシスの南東、東および北東に広がるサブハ群(sabkhahs)に排水される。この様な方法で灌漑されるナツメ椰子園からは税金として生産物の十分の一が伝統的に集められていた。部分的に夏の間はアル ハサのナツメ椰子の木陰で水耕されるハサウィ米の水田に水を残す為にサブハ群(sabkhahs)はその間はまるで塩の平鍋の様になるまで乾かされた。1950年にはウッム サバ(Umm Saba')、アル ハグル(al-Haql)、アル クデュド(al-Khudud)およびアル ハッラー(al-Harrah)等の大きな泉もそれぞれ毎分90,000リットル以上も湧き出していた水量が次第に減少し、塩分濃度も高まった。この為、土壌に集積する塩分を浸出させる(leaching)為に更に水の多くが浪費されていた。このオアシスには当時、16万人の住人が居り、水量の減少と水の浪費は実際に切羽詰った問題であった。その上、容赦無い沙漠の風は砂を耕作地に吹きつけ、人々を追い出し、古代の水路を塞ぎ、100以上の泉を詰まらせ、何も育たない塩水の湿地を作り出した。一様な使用でも農夫が特別に使う灌漑用語で「二度使い水」と呼び始める程に作物を枯らす塩分濃度は急増した。4.6章の「安定しない砂丘との戦い」で述べた「砂丘の侵入」の問題を追う様に1960年代の中頃からこの土壌塩分漸増とその結果としてオアシスの縮小の問題が始まった。

 

サウジ政府はオアシス縮小に対応する為にアル ハサ排水灌漑プロジェクト(the al-Hasa Drainage and Irrigation Project)を組織した。又、サウジ政府は1962年にスイスの顧問技術会社ワクティ A.G.(Wakuti A.G.)をこの問題を更に研究する為に招いた。ワクティは排水問題を解決する為に排水を巨大な蒸発池へ導く地表および地下の排水溝の建設を推奨した。適正な排水機能によって、全ての農場に配水する完全で新しい灌漑システムの導入が可能になった。清水は畑に必要なときに流れ込み、畑を通って反対側に設けられた排水溝に流れ出す。迷路の様な排水溝を通って少し塩分濃度の高い水は多少遠くに設けられた蒸発湖へ送られる。大量の水で塩分を流し去ると云う大規模な浸出(leaching)を導入し、適切な肥料の使用を増やしたシステムと賢明な水の使用でアル ハサは再び栄えさせる計画をワクティはサウジ政府に提案した。

 

政府はオアシスの縮小に対処する為に古い配水網を新しい灌漑網と取り替え、耕作可能面積は約19,000ヘクタールまでに50%増やす計画を立てた。1970年代初期に新しい灌漑網の完成し、このオアシスの60の主要な泉の中から30の泉が灌漑プロジェクトに組み入れられ、毎分900立方米の水量が確保された。このプロジェクトには真水のみをナツメ椰子園に配水し、再使用せずにオアシス外に排出する方法も含まれ、送水の多くが古い被覆の無い水路に吸い込まれ浪費され水浸しと成っていた状態は根絶され、塩分も除去され、灌漑水量も節約された。節約された水量で植え付け可能な耕作地を大規模に広げる事が出来、当面の対策としては一応の成功を収めた。但し、ポンプによる水の汲み上げ量の増加が古代から次第に減り続けていた湧水量を更に減らす結果となり、その弊害が後に現れてきた。

 

このプロジェクトには約5,500万リットルの容量をもつ幾つかの貯水池と1,450kmのコンクリート製の灌漑水路、1,450kmの排水溝そして1,610kmの新たな農業用道路の建設が含まれていた。コンクリートが多用されたので灌漑水路用のプレキャストコンクリート製造工場の建設も必要であった。この工場は一日辺り250トンもの多彩なコンクリート製品を製作できる高度に自動化された完全装備のプラントであった。主要な製品は長さ20フィート(6m)のV字型およびU字型の鉄筋コンクリート製の水路型で中には重量が20トンを越えるものもあった。

 

水路は真水を最初のヤツメ椰子園へ飲み水の状態で提供した。スライシル(Sulaysil)の様に幾つかの水路は河川の様に大きかった。その溢流水は喪失した水と呼ばれた。もう一度使われるその水は真水よりも少し塩分濃度が高かった。喪失した水は第二次水路で他のナツメ椰子園に排出される。第二次水路も幾つか集まり大きな水路を成していた。これらのナツメ椰子園を通過した後、この水はオアシスの外れまで何度も繰り返して他のナツメ椰子園に排出される。そこで最後の溢流水はこのオアシスの南東、東および北東に広がるサブハ群(sabkhahs)に排水される。

 

太古からアル ハサの水はナツメ椰子を育んできた。そしてナツメ椰子は人々の主食であるデイツを実らせた。近年、この地方の住人が様々な食材を摂る様になり、デイツをそれまでの様には食べなくなった。これに対応する為、アル ハサの農夫達は古いナツメ椰子を切り倒して野菜を植える等作物の多様化が必要であった。耕作地が150%も増えると云う変化と作物を変えると云う困難さに対抗するためにサウジ政府は旧農業水資源省(the Saudi Arabia Ministry of Agriculture and Water)と共に働くドイツ人農業専門家を連れてきた。専門家達の調査報告書は23年で結論は出せないとはしながらも最初の勧告を具体化させた。それは「アルファルファ(alfalfa)の栽培と家畜の育成にもっと重点を置くべきである」と云う事だった。アルファルファの収量はドイツでは毎月エーカー(4,047m2)当たり1.25トンであるのに対しオアシスの土壌では5トンの収穫ができる。牛の飼育は15 kg//日の飼料で足りるので単位面積当たり多く飼育でき、経済的であった。政策的にもサウジの初期政策であった輸入代変え品の国内調達課題の一つとして残っていたのが牛だったのでこの提案は当を得ていた。

 

4.8 東部農業開発会社

 

   東部州での大農場としては空白地帯沙漠の北限を成す枯れ谷サバアWadi as Sahba)の谷間に沿ってハラダ(Haradh)付近にナショナル農業開発会社(NADCONational Agriculture Development Company)が遊牧民アル ムッラ(Al-Murrah)の定住化の為に造られた農場を持っている。東部州にはこの農場以外はナツメ椰子の栽培を中心とした伝統的な農業か、中小規模の農場ばかりであった。2000年以降にクウェイト/ダンマン道路のカティーフへの分岐の北にあるダッビヤ湿地帯(Sabkhat ad Dabbiyah)の水量が増え、夏になっても水が引かなくなって来た。この原因は湿地帯の東の奥に新たな農園が出来、そこからの溢流水が大量に流れ込んでいる為であるのを知った。それが東部農業開発会社の看板のある農園を見掛けた最初であった。その後、東部農業開発会社の農園はクウェイト/ダンマン道路の両側に数カ所出来、一番北はアブハドリア(Abu Hadriyah)近くまで造られて来た。このある程度の規模を持つ数カ所の農園で何が栽培されているかは確認して居ないが、溢流水の量の多さから「円形農場を経営しているのではないか」と思っている。最近はアル ハサ オアシスの周辺にも円形農場が出来、深層の化石水を汲み上げており、「アル ハサの水不足、塩分集積、地層水への海水の侵入を促進している」と私は懸念している。

 

   東部農業開発会社は英文名でEastern Agricultural Development Co.或いはAsh Sharqiyah Agricultural Development Co.であり、東部州での土地有効利用、営農や牧畜、園芸および灌漑等農業投資の可能性を追求する為に設立したと説明されている。

(Tel.: 03-642-9119Fax. 03-842-7573)

(Home Page: http://www.asharqiyah.com.sa)

Page Top 

5. 東部州の特産デイツ

 

5.1 デイツの原産地

 

恵み深いナツメ椰子は中東の民にとってが「命の木」であった。アラビア人はナツメ椰子を常食とし、「オアシスの王様」とも呼んでいた。「砂漠の海の中に浮かぶ緑の群生に詳しい者はこの堂々とした木が恵み深く食料と木陰を提供してくれるのを知っている。たわわに実を付けた枝から逞しい幹に至るまで全てがナツメ椰子の実る地方での生活必需品となっており、無駄な部分は全く無い」とも古代ペルシャの賛歌に謡われている。

 

Date Palms, Merzouga, Morocoo

 

ナツメ椰子は植物学的にフェニクッス ダクチリフェラ(phoenix dactylifera)に属し、モロッコ(Morocco)からアラビアを経てヒマラヤ山脈(the Himalayas)麓までの地域に分布している。ナツメ椰子(Phoenix dactylifera)メソポタミアや古代エジプトでは紀元前6000年代にはすでに栽培が行われていたと考えられており、またアラビア東部では紀元前4000年代に栽培されていた。南イラクで紀元前3,000年に作物化された事が知られている。前述の古代ペルシャの賛歌にも360種を超えるナツメ椰子が列挙されているし、20世紀始めにスペイン人が持ち込んだのでアメリカでも栽培されている。

 

5.2 ナツメ椰子の特徴

 

ナツメ椰子(Date Palm)、学名ファニックス ダクチリフェラ(Phoenix dactylifera)、は食用の果実を得る為にだけに栽培されている。果実を得る為の栽培の長い歴史の為に本当の原産地は分かって居ないがナツメ椰子の原産地は恐らく北アフリカの沙漠オサシスの何処と南西アジアである。ナツメ椰子は高さ15-20m位の中位の樹木で、しばしば一つの根茎から幾つかの幹が小森の様に生えているが、幹が一本だけの場合もある。私は空白地帯沙漠北部で一つの根茎から多くの幹が1m以下の高さで灌木の様に密生している光景も見たことがある。葉は翼状で3-5mの長さで葉柄に棘があり約150枚の子葉を持ち、子葉は2cm幅で長さ30cmである。樹幹の全長は6-10mであり、雄花と雌花は別々の木に付く。

 

ナツメ椰子は北緯15度から35度の間で主として北アフリカ、アラビア半島およびイラク南部の乾燥地帯で最もよく育つ。これらの地域ではデイツは人間の常食であるばかりではなく、何千年もの間、家畜の飼料としても利用されてきた。新鮮なデイツ100gは豊富なビタミンCを含み、230kcalのエネルギーを供給する。乾燥させると100gのデイツは3gの食用繊維と270kcalのエネルギーを供給する。

 

国連の食料農業機構によれば世界中にはおよそ600種類の異なったナツメ椰子があり、2004年の全世界のデイツ生産量は670万トンであり、主要な生産国は次の通りである。

 

エジプト(Egypt)・・・・・・・・110万トン

イラン(Iran)・・・・・・・・・・ 88万トン

サウジアラビア(Saudi Arabia)・・ 83万トン

アラブ首長国連邦・・・・・・・・76万トン

パキスタン(Pakistan)・・・・・・ 65万トン

アルジェリア(Algeria)・・・・・・ 45万トン

スーダン(Sudan)・・・・・・・・ 33万トン

オマーン(Oman) ・・・・・・・・ 24万トン

リビヤ(Libya) ・・・・・・・・・ 14万トン

その他 ・・・・・・・・・・・・114万トン

                18万トン

 

(国連食糧農業構(The Food and Agriculture Organization of the United Nations) の統計)

 

5.3 食材としてのデイツ

 

デイツは原産地のアラビアでは常食にされてきた。ナツメ椰子の実(デイツ)は柔らかい生のままでも、乾燥しても食される他に、調理されても、ケーキに入れて焼かれても、圧し潰されて糖蜜にされても食される。サウジアラビアでは押しつぶした糖蜜が好まれている。又、種を抜いてアーモンド、砂糖漬けのオレンジやレモンの皮やアーモンドと砂糖を混ぜた練り粉(marzipan)を詰めて食べたりする。乱切りにされ、モロッコ風のタジン鍋(tajines)、プディン、パン、ケージやその他のデザート等で甘く風味のある料理にも使われる。ナツメ椰子の実であるデイツには炭水化物は豊富であるが脂肪は余り含まれていない。多くのベドウインが沙漠で生存できて来たのはデイツの栄養価に負う所が少なくない。

 

                  ナツメ椰子園     ナツメ椰子の実(デイツ)

 

アル ハサ等のデイツ産地の住人達は旧知の信用できる栽培農家が採取したばかりのデイツを直接に購入して、自分たちで各段階の処理を行っている。この為、毎年、次の収穫が来るまで必要なデイツを処理するのに数日間費やすのが習慣となっている。アル ハサ等では全ての家族が自分たち独自の処理方法を持っており、家族でデイツを洗って干した後にアニスの果実と焼いたゴマ等を少し振りかけたりしている。時にはハイト アル バラカ(注)を特別の風味として使う事もある。私は「土地の人達はこの様にして単調なデイツの甘さに風味付けして食する伝統があるので長く食されて来たのだ」と思う。

 

(注)ハイト アル バラカ(habit al baraka)は祝福の種とされ、黒クミンとも呼ばれるキンポウゲ科ニオイクロタネソウ(Nigella sativa)である。

 

5.4 ナツメ椰子の利用法

 

   ヤツメ椰子やその果実のデイツは建材、飼料、伝統薬等としても使われる。

 

1) 建材および調度品   

 

幹は柱や垂木等の建材として優れており、橋や導水管やダウ船の部品にも使われる。ねっとりした濃いシロップが皮製のバッグやパイプの漏れを防ぐ為に使われている。大きな葉はその主脈を家具や籠の材料として利用されている。籠はデイツの運搬にも使われる。葉は籠や床敷きに編まれ、幹の繊維の多い部分ではロープが作られる。大きな葉は塀に編まれて砂丘の侵入を食い止める。

 

2) 飼料   

 

デイツは乾燥した儘で飼料とされる他にその種も割られて家畜に餌として与えられる。又、脱水され磨り潰され穀物と混ぜて栄養価の高い飼料としても利用されている。

 

3) 伝統薬   

 

デイツはタンニン(tannin)の含有量が多く腸疾患の洗浄剤(detergent)や収縮剤(astringent)として医学的に使われる。煎じ液(infusion)、煎じ薬(decoction)、煮詰め汁(syrup)や練り粉(paste)は咽喉痛(sore throat)、風邪(colds)、気管支炎(bronchial catarrh)に投与され熱やその他の幾つかの病状を鎮める。又、酒酔いにも効果があると云われている。粉に挽いた種も伝統薬として使われている。幹から抽出した樹脂は印度では下痢や泌尿生殖器病の治療に使われて居る。

 

5.5 ナツメ椰子の栽培

 

ナツメ椰子の栽培は難しく、理想的な環境は根元に水があり、樹冠に燃えるように陽が差す事であり、最大の湿気と熱さを必要とする。アラビアの肥沃な土地でもこの二つの条件を特に満たしているのは最大のナツメ椰子生産国のイラクを除けば東部州の巨大オアシスであるカティーフ(Qatif)とアル ハサ(al Hasa)である。アル ハサとカティーフの果樹園の多くは数百年の歴史を持ち、この80年間実を成らしてきた200万本のナツメ椰子が植えられて居り、幾つかの木は樹齢が200年を越えている。アル ハサとカティーフの二つのオアシスには樹高が18mから24mに達する木もある。ナツメ椰子は56年で実を付け、15年で最も多くの実を付け、75年もの長きにわたり収穫できる。

 

ナツメ椰子の作付けの殆ど全部は雌花を付ける木で構成される。デイツは自然に風で運ばれて受粉するが近代的な商業栽培では農夫は信頼できる収穫をあげる為に完全に人手で受粉している。自然の受粉ではだいたい同じ数の雄木と雌木が必要である。しかしながら人手で行えば一本の雄木で50本の雌木に受粉させられる。雄木は花粉の供給源としてしか価値が無いので栽培者は自分達の資源を出来るだけ果実の採れる雌木に使う事が出来る。栽培者によっては受粉の時期に花粉を市場で買えるので雄木を一本も所有していない。人手による受粉は熟練した労働者が梯子を使って行うが稀には花粉を雌木に向かって扇風機で吹き付ける場合もある。受粉によらず、刺激によって子房だけが発達し結実する単為結実(Parthenocarpic)栽培も可能ではあるが種無し果実は小さく質も悪い。アラムコは米国から専門家を呼んで農民を指導させ、樹間を開けさせたり、良質な施肥を行ったり、機械工作を導入したりして生産量を樹木平均27kgまで増産させた。

 

アル ハサにファイサル大学および農業水資源省によって1982年に設立されたナツメ椰子研究センターでは栽培、病害虫予防、市場売買、処理、品質管理および新品種の実験等の研究が行われている。このセンターでナツメ椰子栽培農民は先祖伝来の栽培方法を補足する為に新しい園芸法との調和を教えられる。ナツメ椰子の雌花は雄木の種類に関係なく受粉し同じ品質のデイツを実らせるので、デイツの種から育てると母木と同じ種類と品質のデイツが取れる雌木になるかどうか不確定である上に、半数はデイツを実らせない雄木である可能性が高い。この為に、このセンターでの一番重要な研究の1つが母木と同じ種類と品質のデイツを実らせる雌木を栽培する為の組織培養である。組織培養が成功すれば大量で高品質の果実を実らせるナツメ椰子のクローン苗を大量に作り出すことが出来る。伝統的に同じ目的でナツメ椰子は雌木からの株分けで育てられている。株分けは移植して最初の収穫まで普通は7年を要する。時として枯れ死する率は50%である。組織培養法を使うと枯れ死率は殆ど無視できる程で農民が伝統的な株分け法を使うよりも23年早く収穫できる(注)。組織培養法はカラス(khlas)、ヒラリ(hilali)、ウム ルハイム(um ruhaym)、バールヒ(barhi)、ルザイズ(ruzaiz)およびスッカリ(sukkari)に採用しようとされている。ナツメ椰子は前述した様におよそ75年間に渡って収穫できるので組織培養を使って収穫時期を早めるのはこの地方の栽培農家にとって大きな恩恵がある。

 

(注)「組織培養法から育てた苗木は高さ1 mで何故か成長を止めてしまう」との話を私はファイサル大学のデイツ研究所で聞いた事がある。「組織培養法による繁殖に成功した」との事例はサウジアラビアでは2003年迄にはあまり聞いてはいないし、東部州中部でもデイツの繁殖は今でも株分けに頼っている。しかしながら組織培養法は雌雄を確定するのに有効であるし、DNA鑑定を合わせれば確実に優良種を繁殖できるのでサウジアラビアの研究機関ではこの研究を鋭意進めている。

 

5. デイツの種類

 

   アラビア語の豊富なデイツ栽培に関する用語がその耕作の歴史を示している。アラビア湾には異なった種類の実を付ける40幾種類かのナツメ椰子がある。少なくとも36種類はアル ハサ オアシスで成長して居り、ハサウィ族(the Hasawis)は常にその品質に誇りを持っていた。アル ハサ オアシスの農夫はこのオアシスのデイツに40種類もの名を付けていて、その範囲はアドビ(adhbi)種から黄色のズンブール アスファール(zunbur asfar)種におよぶ。又、ナツメ椰子の生長過程によって幼木のハブムンブ(habmnbu)から樹花が成熟したタムル(tamr)まで5つの用語を持っている。

 

1) ハブムンブ(habmnbu)・・幼木

2) キムリ(kimiri)・・・・・・未熟成(unripe)

3) カラル(khalal) ・・・・・大きさが揃うが噛むとバリバリ

(full-size, crunchy)

4) ルタブ(rutab)・・・・・・熟成、軟らかい(ripe, soft)

5) タムル(tamr) ・・・・・・熟成、太陽光で乾燥(ripe, sun-dried)

 

アル ハサ オアシスやカティーフ オサシスでのナツメ椰子の遺伝子的呼称はナルズリル(nalzlil)である。又、昨年の収穫の様に古いデイツはハウィール(hawheel)と呼ばれ皮は乾き、水ぶくれし、砂糖が結晶になり、風味の複雑さが損なわれている。食べられなくはないが驢馬、羊や山羊の餌にされる。

 

ナツメ椰子の果実はデイツ(date)として知られている。デイツは紡錘形で長さは3-7cmで直径が2-3cmである、熟するにつれて種類によって異なるが明るい赤から明るい黄色に色を変える。デイツは長さ2-2.5cmで幅が6-8mmの一粒の種を持っている。デイツには3つの主要栽培品種がある。

 

1) 軟らかい品種・・・ベールヒ(Barhee)、ハラウィ(Halawy)、カドラウィ(Khadrawy)、メドジョール(Medojool)

 

2) 半乾きの品種・・・ダイリ(Dayri)、デグレト ヌール(Deglet Noor)、ザヒディ (Zahidi)

 

3) 乾き品種・・・・・ソオリ(Thoory)

 

(果実のタイプはブドウ糖(glucose)、果糖(fructose)および蔗糖(sucrose)の成分次第である。)

 

サウジアラビアでデイツ栽培が行われているのはアル ハサ(Al Hasa)、カティーフ(Qatif)、カシーム(Qasim)、ハイル(Hail)、タブク(Tabuk)、ジョウフ(Jawf)、タイマ(Tima)、リヤド(Riyadh)、カルジ(Kharj)、ビシャ(Bishah)、ナジラン(Najran)およびマディナ(Madinah)等のオアシスのある地方である。サウジアラビア国内だけで400以上の種類があると言われているデイツの全部を列挙しても実感が湧かないので下記に地域毎に異なる人気のある主要なデイツ挙げる。

 

1) カシームと残りの中央州: ヌボウト サイフ(nubout sayf)、スフリ(sufri)、ベールヒ(barhi)、スッカリ(sukkari)、スッラジ(sullaj)およびクダイリ(khudhairi)

 ヌボウト サイフ(nubout sayf)

 

2) マディナを含むサウジアラビア西部: アンバラ(‘anbara)、アジュワ(‘ajwah)、ロサナ(rothanah)、バイド(baidh)、ラビア(rabi’ah)、ベールヒ(Barhi)、ヒルワ(hilwah)、フライヤ(hulayyah)、サファウィ(safawi)、シャラビ(shalabi)およびスッカリ(sukkari)

  アジュワ(‘ajwah)

 

3) 東部州: カラス(Khlas)、クナイジ(Khunaizi)、ブカイイラ(bukayyirrah)、ガール(gharr)、シャイシ(shaishi)およびルザイズ(ruraiz)

  カラス(Khlas)

 

それぞれの地域の人達が自分達の地方で採れるデイツが最高だと考えるがその理由の一部には園芸の方法、土壌、水および気候が異なった地域では異なったデイツが向いているからである。但し、「最高のデイツのどのようなリストにも中央アラビアのナジド(Najd)台地のリヤド地方産で刀の様な形の長いデイツ ヌボウト サイフ(nubout sayf)、リヤドの北のカシーム(Qasim)地方産の「甘い」を意味するスッカリ(sukkari)、マディナ地方産の稀で非常に高価なアジュワ(‘ajwah)およびアル ハサ地方のカラス(khlas)は間違いなく含まれている」とサウジアラビアでは云われる。

 

サウジアラビアの高級デイツ店での定番の高級デイツはベールヒ(barhi)、カラス(khlas)およびスッカリ(sukkari)の三種類で稀にプルーンの様な酸味のある味が微妙で小粒でも高価なアジュワ(‘ajwah)が置かれる事がある。デイツを少しでも実感出来るようにアル カルジ(Al Kharj)のモハマディア社(The Al Mohamadia Farm and Date Factory)が製品説明を以下に掲載した。

 

ベールヒ(Berhi)

中粒、円筒形で皮に弛みがあり、茶色、糖分は100 g(乾燥状態)当たり82.61 gを含む。   

 

カラス(Khlas)

   小粒から中粒、楕円からオーバル形、黄色で透き通った皮、糖分は82.9 %、タンパク質1.59 %、脂肪分0.93 %100g(乾燥状態)当たりビタミンC 2.9 mg含む、産地はアル ハサ(Al Hasa)のホフーフ(Hofuf)

 

スッカリ(Sukkary)

大粒から中粒、円錐形、乾くと皮に皺が寄り、顎の付いた側には白い輪がある。色は明るい黄金掛かった茶色で糖分は100 g(乾燥状態)当たり66.7 g、ビタミンA80 I.U、ビタミンC2.9 mg含まれる。

   タンパク質は1.32%、脂肪分は1.73%である。産地はカシーム(Gassim)

 

シールリ(Sirri)

   大粒、円筒形で皮に弛みや空気を含む個所もある。色は明るい茶。

 

ネブトサイフ(Nebutsaif)

   中粒から大粒で皮に弛みや空気を含む個所あり、色は深い茶色で糖分は100 g(乾燥状態)に79 g、ビタミンA 33 I.U、ビタミンC 1.9 mg含まれる。蛋白質含有量1.97 %、脂肪分0.98 %で産地はカルジ(Kharj)

 

セガイ(Segai)

   大粒、円筒形で引き延ばされた実で半分固着して弛んだ皮をしている。いろは明るい黄金ぽい茶色で萼の側が象牙色の帯をしている。糖分は100 g(乾燥状態)中79.4 g、ビタミンC 2.4 mgが含まれ、タンパク質2.07 %、脂肪分0.96 %で産地はアル カルジ(Al Kharj)

 

セフリ(Sefri)

   大粒で延びた形、光沢の表面で果肉に付かない、弛んだ皮を持つ。糖分は100 g(乾燥状態)で82.5 g、ビタミンC 2.5 mgでタンパク質2.05 %、脂肪分1.11 %で産地はビッシャ(Beisha)

 

セッラジ(Sellage)

   小粒で延びた形をして半分固着し、弛んだ皮を持つ。

 

クドリ(Khudri)

   大粒から中粒で円筒が延びた形し、固着し弛んだ茶色の皮を持つ。糖分は100 g(乾燥状態)で76.2 g、ビタミンA65 I.UでビタミンC 2.3 g含み、タンパク質1.2 %、脂肪分1.05 %で産地はアル カルジ(Al Kharj)

 

ムニフィ(Munifi)

   中粒で円筒形、明るい茶色で萼には象牙色の輪も見られる。

 

5.7 カラス(Khlas)

 

アジア、アフリカおよび中東のデイツ専門家は「カラサ(Khalasah)を他の全てのデイツに対してデイツの真髄(典型)であり、全ての中で一番おいしいデイツでもカラサ(Khalasah)と比べると顔色は無い」と言う。その真偽は別としてもサウジアラビアではカラス(Khlas)の名で昔から評価されて来ており、この産地はアル ハサ オアシスの主要都市ホフーフである。もっと特定すると最高の栽培農園はアル ムタイールフィ(Al Mutairfi)村の約100軒余り農家であり、これらの農家が紛れもなくデイツ栽培の達人であると考えられている。収穫は5月に始まり10月まで続く。

 

古代にはハジャール(Hajar)と呼ばれていたアル ハサは5万エーカー(acre)即ち2万ヘクタール(hectare)の面積があり、デイツも育つ世界最大のオアシスである。一部は温かい約100ヶ所の泉と掘り抜き井戸の水質、念入りに作られた灌漑機構、良く排水されたアルカリ質で砂の多い土壌と強烈な暑さがこの地域をデイツ栽培の理想の地としており、少なくとも4,000年以上前から栽培が行われてきた。

 

5.8 デイツの加工梱包

 

デイツ梱包工場が出来る前や利用しない場合には一団の男達がデイツを洗い、埃と道路の泥を取り除いている。それからデイツはおよそ10日間天日で干される。この山の様な量のデイツを取り扱うのにベルトコンベイヤー等は全く使われない。デイツが乾くとのデイツは一つずつ手で注意深く仕分けされ、プラスティクの袋に5kg詰めにされる。プラスティック袋は黄麻袋の中に3段に積まれ、手縫いで丈夫な包みにされる。この15kg詰めのキィー(kees)と呼ばれる黄麻袋が計量の標準である。処理のこの段階で梱包されたデイツはパッレトの上に詰まれ、それからコンクリートブロックで少なくとも1ヶ月は加圧加工される。こうすることでデイツが熟成し、風味を増し、甘みシロップを作り出し、歯触りと色を向上させ、病害虫感染を予防し、長期保存に耐えられる様になる。デイツはこの様な方法で処理されるので次の収穫期まで保存できる。私は1996年にこの様にデイツが毛むくじゃらな手でつかまれて潰され梱包される様子を眺め、不潔感から相当長い期間食べる気がしなかった。

 

アル ムタイールフィ(al Mutairfi)の作業労働者はカラスを色、サイズや状態で仕分ける。

その後梱包小屋に運び手作業でバックに詰める。

 

1960年代初めに中東で始めてのデイツ梱包工場がアラムコの援助でアル ハサ オアシスのホフーフに完成した。当時は従業員50名で発足し、年間900トンを梱包していた。デイツ梱包工場ではデイツを積み込まれた終わりの無いコンベアベルトが並び、品種によって手で仕分けされ、機械洗いされ乾かされる。その後、梱包されたり加工されたりする。時には果樹園からやって来た出荷トラックが荷降ろしする為に1キロメートル以上も並ぶこともある。これらのデイツの多くはサウジアラビア政府によって人道援助として寄付され、国連の世界食料プログラムを通じて配られる。

 

加工品としてはカティーフ オアシス等ではデイツが黄色に熟した段階で収穫し、時にはアニスの実(aniseed)を加え、単に煮るだけの甘く乾いたサルク(saluq)と呼ばれる伝統的なお菓子があった。昔は現金収入を得る為に収穫デイツの多く、時には全部をサルク(saluq)に換え、主として印度に輸出していた。カティーフのサルク(saluq)の需要を満たす為にはハサ オアシスから原材料の新鮮なデイツを買い取る必要であった程、重要な輸出品であった。現在の加工品にはチョコレート付けのアバタのあるデイツ、アーモンドを詰められたデイツ、ゴマ粒で被われたデイツ、ココナッツで包まれたデイツ等の他に、デイツキャンディ、デイツ糖、機械で抽出されたディブ(dibs)、裏漉しされたデイツでマモウル(ma’moul)と呼ばれ断食月(Ramadan)の終わりのお祭り(‘Id al Fitr)の間に好んで食べられるデイツを詰めた練り菓子等がある。加工されて、角砂糖、ペースト、ジャム、シロップ或いはディブ(dubs)と呼ばれる蜜、粉砂糖、酢、アルコール等も作られる。最近ではイスラム圏で断食月明けの特別な時にシャンペン替わりに飲用される泡入りデイツジュース等も作られている。

   

5.9 病害虫

 

ナツメ椰子はバヨド病(Bayoud disease)と呼ばれる病気に掛かり易い。この病気はフザリウウ菌凋枯症(Fusarium wilt)を起こす菌(Fusarium oxysporum)によって起こされる。この病気はデギレト ヌール(Deglet Noor)の様な一般的であった古い栽培品種の多くを枯らし、生産量を大幅に減らしてしまった。

 

サウジアラビアで一番恐れられている病虫害は1990年代に特に東部州全体に蔓延したレッド パーム ウィービル(Read Palm Weevil)と呼ばれるRhynchophorus ferrugineus一種である赤黒い象虫でサウジアラビアでは印度黄色象虫(Indian Yellow Weevil)の名で知られていた。成虫は穀象虫(コクゾウムシ)が少し小型のコガネ虫位の大きさに成った体型をしている。この虫はナツメ椰子の幹に卵を生み、卵が幼虫に成ると樹芯を喰って成長する為に卵を産み付けられたナツメ椰子は枯死してしまう。樹芯から捕獲した幼虫は頭が少し黄茶色で体は白くセミやカブトムシの幼虫を小型にした様な外観をしている。

 

サウジアラビアではこの赤い象虫は法定病虫害に指定され、見つけ次第市役所への届け出が義務付けられていた。届け出ると農水省から専門家が派遣され、卵を産み付けられたナツメ椰子は全て焼却処分される。卵が産み付けられて居るかどうかはナツメ椰子の幹に五寸釘を打ち付けて抜いた様な穴が幾つも見つかるので素人でも簡単に見分けられる。専門家は卵を産み付けられてないナツメ椰子には防虫薬を注入し被害が広がるのを防いでくれるが、この虫が見つかると近傍のナツメ椰子の苗木、株分けされた幼木や果実(デイツ)の出荷は当面は禁止されてしまうので被害が広範囲に及ぶ。サウジアラビアでは東部州産ナツメ椰子を他の地方へ移動する取引を数年の長期にわたり禁止する措置を実施していた。

Page Top 

6. アラブ馬

 

  サウジアラビアを旅行していると思いがけ無く、沙漠や谷で騎乗されたり、小さな谷間で放牧されたりする小柄な馬を目にする。この馬が”風を飲む動物(Drinkers of the Wind)”と呼ばれ、ベドウインが部族毎に誇りに思うサウジアラビアの名産であり、かつては東部州からの主要な輸出品の一つであった。

 

6.1 美しさと気品

 

「アラブ馬の気品のある外見は形と機能が自然に生みだした結合の妙である」と言われている。伝説では「アラブ馬はアラブ部族の先祖となったイスマエル(注1の持ち馬であったアハワジ(Ahwaj)の子孫である」と云われ、バビロニアの年代記等でも古くから紹介されている。このアラブ馬がヨーロッパに伝えられたのは十字軍によってであり、「勇敢寛容な典型的中世騎士であると称賛された獅子心王リチャード(注2は幾つかの息もつかない戦闘の合間にアラブ馬を見てその美しさに打たれた」と言われている。ワシントン(注3はアメリカ独立戦争の間、アラブ馬に乗っていたし、ヴィクトリア女王(注4はアラブ馬に勲章まで授けている。ナポレオン(注5は愛馬マレンゴ号(Marengo)8万キロ以上も騎乗し、その勇姿はドラクロア(Delacroix)の有名な絵に描かれて不滅になった。

 

アラブ馬に詳しいロザリンド マッザウィ夫人(注6は「純粋交配されたアラブ馬の資質は頭部に現れている。その頭部はガゼル(gazelle)の様な形で前頭部が広くそしてうねる様な形で大きな鼻翼を持った鼻口部へと細くなっている。極端に大きな目は頭部の下にあり、耳は小さく、炎の形で互いに向かって曲がっている。首はアーチ型でたてがみとアーチ型の咽部は広い上顎にはめ込まれている。尾は高くつき、高く流れる様に保たれ、背中は平らで行動が自由で活発であり、浮いている様な早足で運搬荷役にも誇りを持って居るようにみえる」と述べている。

 

エミール アブデル カデェール(注71847年にアラブ馬について「純粋な子孫の馬はその薄い唇、鼻の内側の軟骨、鼻孔の大きさ、頭部の血管を取り巻く筋肉の薄さ、首の付き方の優雅さ、体毛、たてがみと尻尾の毛の柔らかさ、胸の幅、関節の大きさ、四肢の細さで見分けが付く。アラブ馬が歩みを進めている姿の美しさはまさに芸術である」と記述している。

 

レセップス(注8はアラブ馬に騎乗してエジプト副王(khedive)の天幕を取り巻く石壁に向かって疾走し、豪胆にもそれを飛び越えて見せた。それに感銘した副王とその将校たちがその日のうちにスエズ運河計画を進める事に同意し、レセップスに協力した」と伝えられており、アラブの民が如何にアラブ馬とそれへの巧みな騎乗者を高く評価していたかを示す逸話の一つである。

 

 

(注1)イスマエル:イスマエル イブン イブラヒム(Ishmael ibn Ibrahim)はアブラハム(Abraham or Ibrahim)とハガール(Hagar)の間に生まれた弟一子でアラブ12族の始祖であった。

 

(注2)獅子心王リチャード:第3回十字軍遠征(1189-1192)に参加した獅子心王リチャード一世(Richard 1157-1199)。 

 

(注3)ジョージ ワシントン:米初代大統領ントン(George Washington1732-1799)。  

 

(注4)ヴィクトリア女王の勲章:第二次アフガン戦争の間のカブール(Kabul)からカンダハール(Khandahar)まで有名な480kmの強行軍を含めて印度とアフガニスタンの山々での戦闘の野戦司令官ロバート卿(Field Marshal Lord Roberts)が所有したアラブ馬のヴォロネル(Volonel) はインド女帝でもあったヴィクトリア女王(Queen Victoria1837-1901))が戦闘勲章を授ける程、英国軍に感銘を与えた。

 

(注5)ナポレオン:フランスの将軍(Napoleon Bonaparte1769-1821)でフランス皇帝(1804-1815)となった。

 

(注6)ロザリンド マッザウィ(Mrs. Rosalind Mazzawi):レバノン(Lebanon)20年間滞在した教師であった。幼少の頃より馬に乗っており、後に乗馬報道の専門家となり、特にアラブ馬に精通している。現在はフランス在住し、中東の文化を紹介している。

 

(注7)エミール アブデル カデェール(Emir Abdel Kader):アルジェリア指導者で1831年から1847年の間、フランスの侵略に抵抗した。

 

(注8)レセップス:デ レセップス(Ferdinand de Lesseps1805-1894)はフランスの外交官でスエズ運河(Suez)を建設した(1859-69)

 

6.2 主要な輸出品目として

 

この美しいアラブ馬は東部州だけの特産では無いにせよ、その輸出は「その1東部州の紹介」の2章と7章でご紹介した用にナツメ椰子の実や真珠と共に中世から近代までの東部州貿易の重要な輸出品目であった。18世紀から19世紀にかけてインド亜大陸の征服と平定の戦闘の為に竜騎兵および槍騎兵等の英国騎兵隊によっての安定して大量にアラビアからインドに輸入されたのがその最盛期であった(注)それ以降はこの最大の輸出先が消滅し、アラブ馬の需要は減少した。

 

一方、サウジアラビア国内でも自動車の到来とイブン サウド王の部族間襲撃禁止令が布告され、戦闘に使われていたアラブ馬の需要を激減させた。幸いなことに、12世紀に始めてアラブ馬が英国に輸入されたのを皮切りに西洋でのアラブ馬への関心が高まり、多くのアラブ馬が輸入され、その血統が残されている。20世紀中頃には米国でアラビアより多い1万頭のアラブ馬が飼育されており、英国では更にその倍以上が飼育されていた。

 

(注)英国騎兵隊への輸出:ロバート クライブ(Robert Clive)指揮下の600人イギリス兵、800人の印度傭兵、500人の水兵からなる英国東印度会社軍が34,000人のフランスとベンガル太守(the Nawab of Bengal)の連合軍を1757623日にプラッシーの戦い(Battle of Plassey)に破り、ベンガルにおけるイギリスの覇権が確立した。その後、インド帝国(1858-1947年)による印度の支配が固まるまでの間、英国騎兵隊用にアラブ馬が最も安定して大量にアラビアからインドに輸出された。

 

6.3 小さな体型と持続力

 

アラブ馬は小さく背丈は平均140cmから150cmで重さは165kgから454kgである。小柄であるがアラブ馬は不釣合いに足が速く、頑丈である。強く、乾いた腱と象牙の様に特別に逞しい骨格および強さと姿を強化している脊椎を持ち、アラブ馬は他のどの馬よりも大きな荷物を速く長い距離を運ぶ。アラブ馬は美しく、足取りが確りしており、知能が高く、従順な上にずば抜けて耐久力がある。アラブ馬は長距離を持続的に早く移動できるが全力疾走では他の種類の馬には敵わない。これはアラブ馬が最高速度を出すときでも歩くか、ギャロップで駆ける習性を持っているからである。馬が持つ習性の最高の組み合わせとしてはアラブ馬に匹敵する種類はない。

 

6.1章でも述べた様に、馬の鑑定ではアラブ馬は殆ど神秘的な賞賛を得ている。パルグラーヴ(注)は「この馬の背丈は本当に少し低いが大きな馬には無い程の素晴らしい体形をしている。特に臀部、優雅な勾配の肩、非常に小さな背のくぼみ、全く弱点の無いばねを示す曲線、上が広く鼻に向かって狭くなった頭部、最高に賢そうであるが不思議に穏やかな外見、大きな目、棘の様に尖った耳、鍛えられた鉄で出来ている様に見える前足と後ろ足、均整の取れた円い蹄、たてがみは長いが伸び過ぎでも重過ぎでも無い」と述べている。

 

注)パルグラーヴ:英国の歴史家パルグラーヴ卿(Sir Francis Palgrave1788-1861)の次男(William Gifford Palgrave1826-1888)で旅行家であり、外交官でもあった。イエスズ会士としてシリアに派遣された後、ナポレオン3世の命で医者に変装してアラビアを探検した。

 

6.4知能が高く従順でむらの無い性質

 

アラブ馬の持ち主に取っては肉体的な美しさよりも従順でむらの無い性質の方が重要だった。この性格は子供の時から重荷に耐える家畜としてよりは家族のペットとして飼われ、培われた。沙漠でのアラブ馬にはハミは付けず、端綱のみで足の圧力や声に答え、長年に渡り、主人に対する賢い忠誠を示して来た。アラブ馬は侵入者や野獣が近寄ると主人を起こし、自分の影の下で主人が寝ていると真昼の太陽の下でも身動きせずにいた。戦闘では敵の騎兵や馬を蹴ったり、噛み付いたりするアラブ馬もいたし、もし自分の騎手が落馬すると救援が来るまでは騎手を守って立っている事でも知られていた。

 

アラブ馬は乳離れした後、母親代わりの愛情を惜しみなく与える女子供に育てられ、服従を教えられるので取り分け友好的で従順である。牡馬でさえサウジアラビアでは去勢しない程、愛される好意に応えている。馬達は呼ばれると近づいてきて鞍を付け、手綱に応える事を1年位で学び取る。馬具類は不完全であり、重い鞍布付で鞍の前橋と鞍尾を作る装飾をされた駱駝の毛の鞍敷きだけであぶみは無かった程、アラブ馬には制動は殆ど必要なかった。2歳位になると身軽な騎手が乗馬訓練を始めた。パルグラーヴは「自分の時代にはハミや轡無しで乗馬するのが普通で膝や腿、端綱のちょっとした動きや騎手の声に馬が応えた。自分も馬の持ち主に招待されてしばしば乗馬したがあまり難しさも感じずに鞍、手綱やあぶみ無しで全力ギャロップしたり、回転させたり、疾走の最中に急に止めたりした。騎手は半人半馬に成った様に感じる」とも述べている。

 

6.5 アラブ馬の起源と品種改良

 

アラブ馬を特徴つける高貴な性格は偶然に培われたのでは無い。アラブ馬は少なくとも3,000年前に南アラビア沙漠を徘徊していた野生のクハイラン種(kuhaylan)又はアシル種(asil)から現れた20種又は血統を選択的に掛け合わせ、注意深く飼育されて来た。その血統の中の12種は純粋に保たれて来たのに対し、8種はトルクメン(Turkoman)、トルコ(Turkish)、ペルシャ(Persian)および他の種と交配してきた。2,500年前のアラビア半島古代岩壁画やエジプト古代の墓の壁、世界で一番古い都である古代ニネヴェ(Nineveh)の浅浮き彫りはクハイラン種のアラブ馬を描いている。紀元前1500年頃にシリア北部に定住していたミタンニ(the Mitanni)と呼ばれる遊牧民は馬の飼育と2輪戦車(chariot)の御者として知られていた。この遊牧民は2輪戦車で近隣の殆どの部族を従属させる程、馬の訓練と飼育に優れていた。この技術は鉄器と合わせ、ヒッタイト(Hittites)を通じて、エジプトそしてアラビア半島のアラブ族遊牧民に伝えられた。

 

但し、アラブ馬の科学知識には未だに科学者の間で意見の相違や論争がある。殆どの科学者が「今では死に絶えた北アメリカから中央アジアに移動した神秘的な馬の種類(Equus cabattm)であり、アジアでは紀元前]2500年頃家畜化された」と考えている。しかしながら、上記の様に「アラビア半島での几帳面な飼育が今日賞賛される特徴を完成した」と言う専門家も居るし、「アラブ馬はアラブでは全く無く、北アフリカで育成された」と言う専門家も居る。その理論によればバルブ(Barb)と呼ばれる最初のアラブ馬は今日の北アフリカ諸国(the Barbary States)からやってきた。そこではアラブ馬が繁殖され、やがてスペインにもたらされた。

 

イスラム百科事典(the Encyclopedia of Islam)には「イスラム軍が世界中に広がりアッシリア(Assyrians)、カスピ海(Caspians)、又は北アフリカ(Barb)産等の捕獲した他の馬と掛け合わせたのに対して、アラブ馬は現存するシリア-パレスチナ馬(Syrian-Palestinian horses)をナジド(Najd)やイエメンの馬と掛け合わせて発展してきた」と記述されている。いずれにせよ、かわるがわるこれらの馬は戦利品と共にアラビア半島に送り返されてきた。そこでは馬達の子孫は既存の遺伝子プールに加えられ、特にアラビアが隔離された後世にはアラブ馬を明確に血統として確立するのに寄与した。この隔離された時期に純血種が交配された。

 

真のアラブ馬は他の血は混ざらず、ナジドで昔から飼育されて来た。最近ではシリアのジャジラ地方(Jazira)やイラクでも飼育されている。これらのチグリス川(Tigris)およびユーフラテス川(Euphrates)の上流の半沙漠地帯では冬の雨期後の数ヶ月間は非常に肥沃になるのでナジドよりも良い飼料が出来る。1829年に出版された本の中でスイス人探検家ブルクハルト(Christopher Burckhardt1819-1897)は「アラビア半島とジャジラ地方で飼育されているアラブ馬は5万頭であるが、強力なライフル銃、自動車、航空機の到来とアラビア半島の部族に融和で戦闘の為の需要が無くなり、確実にその数は減っている。しかしながらアラブ部族の馬の飼育への関心の高まりで飼育数は回復している」と述べている。

 

馬の飼育の歴史は駱駝の飼育の歴史よりも古く、疑いも無く、アラビア半島での放牧の最古の姿である。雌馬は5歳で成熟し、牡馬は6歳で成熟する。馬達が子供をもうけるのは15歳までであるが25歳に成っても出産する雌馬もいる。専門家によれば最高の馬はクハイラン種(kuhaylan)の耐久力と強さ、サクラウィ種(saqlawi)の美しさ、ムニキ種(mu’niqi) 速さを併せ持っている。飼育された馬はポロ競技、競馬、跳躍ショーや狩猟に使われ、往年は騎兵馬として好んで育成された。アラブ馬の最も特異な特徴の1つはつつましく、おぼつかない給餌でも生き残る質実剛健な能力である。大麦や乾燥したデイツ、イナゴ、麦藁、豆、野草の種等でこの馬の食欲を満たせた。長い沙漠の行進でこれらも無くなると馬達には駱駝のミルクだけが与えられた。事実、生後間もない子馬の養母に給乳する駱駝があてられた。駱駝は子馬を自分の子供とみなしてやさしく育てる。

 

6.6 雌馬による血統

 

通常、立派なアラブ馬の雌は何人かのアラブ戦士が共有し、その優先順位で先に生んだ子馬から所有権を得た。雌馬は牡馬よりも常に重んじられ、血統はナツメ椰子の株分けの様に雌の系統で辿られている。昔は戦場では雌馬達が常に騎乗され、戦士の最も重要な財産であった。その結果、牡馬は旅行家ダウティ(注)が「アラビア沙漠の旅」の中で記述している様に「雌馬達はときどきが牡馬を求めて数百マイルも旅をしなければならなかったし、牡馬は1シーズンに200頭もの雌馬と交尾しなければならなかった」。この為、牡馬の持ち主は慣習的には雌馬達への交尾料に同意しなかった。

 

(注)ダウティ:英国の作家で旅行家(Charles M. Doughty1843-1926)1888年に「アラビア沙漠の旅(Travels in Arabia Deserta)」を出版。

 

アラビアでは馬は姿や能力に基づいて売られるのでは無く、血統が馬の能力を示すと考えられ、その血筋に基づいて取引されていた。「特別立派な血統の馬をどのようにして手に入れるのか」と尋ねると「戦争、遺産あるいは贈り物」との答えが返ってきた。パルグラーヴの頃から時代は変わり、購入出来る様にはなった。しかしながら、沙漠から最高の馬を購入するのは未だに時間が掛かり高額な取引ではある。但し、真のベドウインは物事の一番重要な事柄についてはごまかさないので馬の血統に間違いのない完全な保証付きで購入できる。馬の先祖に関する保証はベドウインの言葉だけで十分であり、ベドウインは町の人間が十分に準備したごまかしを隠す為に書いた血統書を軽蔑している。

 

ベドウインのクハイラン(kuhaylan)の純潔性の保持する願望は強かった。自分達の馬が捕獲されると馬を捕獲した敵から特使を受け入れ、その特使を安全に帰す前に、1頭一頭の完全な血統を特使に与えた。この事が部族間での名誉とされた程、ベドウインとっては馬の純潔性の保持は基本的で当然であった。たまたま、高徳な男達の元で生まれても神聖を冒すとして人の名は馬に付けられる事は無かった。その代わり、子馬には何か傑出した特性とか希望でガゼル(gazelle)を意味するガザラ(Ghazala)、勝利を意味するマンスール(Mansour)、花嫁を意味するアル アリウッサ(Al Aroussa)、先頭走者を意味するサッバク(Sabbak)、めでたい前兆を意味するサ‘アド(Sa’ad)等の名が付けられた。

 

特定の名前はその馬の血統を単純化するのに役立つけれども幾世紀にも渡る近親交配は系図学者にしか解明できない血統の混乱を生み出した。ベドウインの首長は血統毎に未交尾の雌を細心の管理で維持していた。子馬の誕生は祝賀の合図だったし、雌親の死は哀悼のときであり、大切な雌馬の交尾は素晴らしい交配の為に注意深く準備された。

 

この様に貴重な馬の保存はそれを保有する沙漠の首長達にとって自然と油断のならない関心事であった。友好的な隣人の間で幕営する時にでも馬の持ち主は馬の両脚を毛の紐で縛り、牧草を食む事は出来てもはぐれない様にした。しかしながら敵が動き回っているときにはひずめとくるぶしの間を鋼鉄の足枷で拘束し襲撃者によって追い立てられない様にした。襲撃者の通常の方法は狙った目標に天幕が寝静まっている時に駱駝に乗ったままで馬を引いて近づき、12マイル離れた辺りで襲撃者達は自分達のアラブ馬に乗り移り、殺戮を最小限に止め、驚かせるだけで、馬やその他の戦利品を奪い去る為に全力疾走する。襲撃略奪の後、襲撃者達は駱駝の置いてある場所まで戻り、駱駝に乗り換え、追跡があきらめるまで何時間も駱駝に騎乗して逃げる。多くの場合、数マイルを越えると耐久力のある駱駝は馬よりも速度が速くなるので襲撃された側の追跡は不首尾に終わってしまう。優れた駱駝は次々交代する4頭の馬が疲れきっても自分の速度を落とさない事で知られている。

 

キャロル M. シュルツ(Carol M. Schultz)やキャロル D. ノイバウアー(Carol D. Neubauer)1985年の研究「沙漠のアラブ馬(The Desert Arabian Horse)」中で純潔交配されたアラブ馬を構成する4つの異なる概念を下記の様に提言した。

 

(1) 登録されたアラブ馬(Registered Arabians)

 

世界アラブ馬機構(World Arabian Horse OrganizationWAHO)に認められた世界的な約40の馬登録所のどれかにアラブ馬として登録しているか或いは登録出来る。

 

(2) 沙漠のアラブ馬(Desert Arabians)

 

沙漠で交配された先祖からの血筋を持つ子孫の馬である。

 

(3) ベドウイン アラブ馬(Bedouin Arabians)

 

ベドウインから手に入れた馬から全ての血筋を受けた子孫の馬である。

 

(4) アシル アラブ馬(Asil Arabians)

 

ベドウインによって交配された馬およびベドウインが純潔交配であると認めた馬から全ての血筋を受けた子孫の馬である。

 

ロザリンド マッザウィ夫人(6.1.1章の注参照)はその著書「ヨーロッパにおけるアラブ馬」の中で飼育者と所有者は投資を保護する為に自分達のアラブ馬を甘やかし、悪い結果を生み出している。例えばヨルダンでは通信員のラミ クウリ(Rami Khouri)が大切に世話をし、豊かな餌を与えたヨルダンのアラブ馬はたった数十年で体型を増してしまった。夫人の意見には他の専門家も同意している。エジプトの王立農業協会動物飼育課長のアハマド マブロウク博士(Dr. Ahamad Mabrouk)1939年にその報告書で「アラブ馬は過酷な環境への挑戦と飼い主の愛情ある世話が必要である」そして「もし、アラブ馬が他の環境で飼育されるとその馬は純血種の持つ全ての資質を早晩失ってしまう」と述べている。アラブ馬はその美しさ、忍耐力および勇敢さが尊ばれ、大事にされ過ぎるとそれらの資質を消滅させてしまう。専門家は「今日の所有者もベドウインの様にアラブ馬が”風を飲む動物”と呼ばれていた意味を良く理解しなければ成らない」と言う。

 Page Top

7. その他

 

7.1 カラ山

 

200354 久しぶりにカラ山(Jabal Al Qarah)の洞窟を訪れた。ホフーフ(Hofuf)から東へ向かうとナツメ椰子の畑が道路の両脇に並ぶ。手入れが悪く、荒廃したナツメ椰子が目立つのが悲しい。枯れた下葉が切り落とされずに残り醜くなって成って椰子、背が高くなって捨てられ枯れ木状態の椰子、更に焼かれて幹の周囲だけが黒こげで高く聳えている椰子等、悲惨な状態があまりにも多い。又、コンクリートのUVを組み合わせた水路や掘削された水路に水が流れては居るけれどその量が以前と比べ明らかに少なく成って居り、全体に昔のような勢いが無い。それでもプリンス スルタン(Prince Sultan)のナツメ椰子畑等は高い外灯まで備えた立派なコンクリートの塀で囲まれ、門扉の間から覗ける範囲は鬱蒼と緑が多く公園の様だ。その向かい側に同じデザインの立派コンクリートの塀で囲まれ、さらに広大なナツメ椰子畑がある。その持ち主はアブドル アジズ アル アファリグ氏(Abdul Aziz Al-Afalig)で私が宿泊したアル ハサ インターコン(Al-Ahsa Intercontinental Hotel)の持ち主でもある。

 

洞窟の入り口にあった売店兼茶店は閉店し、その建物はモスクの代わりに使われている。入り口のコンクリート建造物で今は壊れて使えないトイレは景観の邪魔にしかなっていない。洞窟に入ると電球が全部消されて居り、狭いところでは足下が見えず、採光はずっと高いところにある自然の裂け目からの漏れてくる光だけである。入って直ぐに如何にも最近崩落した感じの石で通路が狭められている。最初の階段を登って、暫く行った二股の天井は高いけれど大人一人横になってやっと通り抜けられる狭い狭い回廊もその先で人が昼寝していた空間もそこから階段へ抜ける通路も崩落で通れなくなっている。さらに進んだ二股の右の奥も崩落で這ってしか奥に入れないし、その先の採光も分からないので再崩落の可能性の危険も考え、そこから引き返した。

 


カラ山
(Jabal Al Qarah)

 

7.2 陶工

 

ナツメ椰子を右手にカラ山(Jabal Al Garah)を左手に見て引き返すと陶器(Pottery)と葦で編んだ細工を売っている屋台があり、その横の家屋に門に英語で陶器(Pottery)と書かれた看板が出ている。中に入ると素焼きにする前の加工した泥のPottery(香炉、水差し、瓶、コーヒー轢き、それに混じって建物などの模型)が所狭しとばかりに並べてある。その脇に葦で作ったサウジ式のバスケット等並べてある。この中にはナツメ椰子の葉で編んだテーブルクロス等の細工も含まれていた。

 

親父が出て来て実演してくれると言う。この親父は頭にガットラーの輪をしてない古風な服装をしている。粘土をコンクリートの床で少し叩き捏ねた後、足で回す轆轤を使って壺を見る見る仕上げ、細かい爪の付いた金属の板で模様を付けて、足下を深く抉り取って作業はお終いとなる。それから素焼きにするのかと思ったら天日で乾かして完成だと言う。更にその上に彩色を施すこともあるが色無しで使うのも一般的の様だ。アブハ(Abha)の陶器を英語で粘土(Clay)と呼んで居たのを不思議に思っていたがこれで合点した。香やデイツ等乾き物を入れるには良かったが、水を入れたら溶けだした。

 

この陶芸はホフーフのガラ洞窟の陶芸(The Potter’s of al Qarah)としてこの地方の名産である。この陶工の名はタヒール イブン アリ氏(Sayied Tahir ibn Ali Al Gahrach)で、タヒールはカラ山の北側にある洞窟の一つを持ち、その洞窟はタヒールとその家族がその中で伝統の焼き物作りに精を出している仕事場でもある。タヒールは洞窟の中で湿気を保てる場所に粘土を蓄える大きな石の壷を置いている。洞窟はタヒールと家族にとって自然の空調器にも成っている。タヒールは先祖代々焼き物作りを生業としている。従って、実用的で目を見張る様な製品を作っているのに驚く事は無い。タヒールの息子の中で年長二人も足で回す轆轤を使う焼物師である。その他の家族は近くの粘土層から粘土を掘り出し切り打ち捏ねたり、窯を戸外に作ったり、乾いたナツメ椰子の葉を窯にくべる作業等を分担している。幼い子供も作業に加わり、焼き物作りを学ぶ事で世代から世代に技巧を受け継いで来た。轆轤で壷や鉢等に形を整えられた粘土は太陽で乾燥させ、ナツメ椰子の葉を燃やすために下に竈のある石を並べて作った焼き窯に入れられる。粘土の壷や鉢等は火をくべる直前に焼き物の破片で被われる。この様にして作られた壷や鉢等はカラ村(the village of al Qarah)の家庭で水甕等に使われている。素焼きの壷からは水が僅かながら滲み出し蒸発するので中の水は夏でも冷たく保たれている。ホフーフ(Hofuf)には他の焼物師も居り、需要を満たすのに忙しいし、カティーフ(Qatif)にも同じ様な焼物師が居る。

 


カラ山
(Jabal Al Garah)の陶工(Sayied Tahir ibn Ali Al Gahrach)

 

7.3 トンボ

 

雨期の沙漠でトンボを見掛ける事はあるがアル ハサには日本の赤トンボの様な赤いトンボが生息しており、東部州の一部としてここにご紹介する。真昼の40℃もの熱さの中、穏やかな微風がサラサラとアル ハサ オアシス特有の並んだ葦をそよがせるとその茂みの上には色がチラチラし、サワサワした動きがあり、トンボと分かる。トンボは複雑な生き物である。頭部の殆どは二つの巨大な目で占められ、動きに非常に敏感で獲物の動きを捉え、距離があっても捕食し、自分と同じ体重を30分以内で食べてしまう。アラビアの皇帝(Arabian Emperor)(ギンヤンマ(Anax parthenope))と云う種類はハエの様な獲物を求めて捕食した餌食を食べながらでも絶えず徘徊している。一方、深紅色ライナー(Crimson Darter)(ショウジョウトンボ(Crocothemis servilia))や紫ほう赤ライナー(Purple-blushed Darter)(ベニトンボ(Trithemis annulata))等多くのトンボは小さな昆虫をすばやく捕らえたり敵を追い払ったりする為に眺望の利く陽光があたる目立つ場所にとまっている。

 

空中のいるトンボは翅をうるさく鳴らし、縄張りを主張するのが一般的である。巧みな飛行者であるトンボは殆ど同じ大きさの翅を四枚もっている。この翅は脆弱に見えるが実施には細かい筒状の翅脈の網で強化されている。他の殆どの昆虫と違って、この翅は直接胴体の飛行用の筋肉にくっついている。トンボが空中に止まったり、ゆっくりと前後に移動したりする時には各々の対の翅はお互い擦り付けて特徴あるしゃがれた音を発する為に交互に打ち付けている。時速80kmを越える最高速度で飛んでいる時には二対の翅は静かに調和して鼓動している。サウジアラビアやアラビア湾ではトンボは飛行の巧みさが必要である。時折、発育の為に暫定的に柔らかくなった体次第であるではあるが、多くの種は長距離の移動をしなければ成らない。毎年、3月と4月にしばしば、アラビア湾の島々は北を目指すトンボの群れ、特に沙漠ライナー(Desert Darter)Selvsiothemis nigra))とギンヤンマで溢れてしまう。その多くは暗い時間に移動する。

 

 

水はトンボの生命循環の大きな部分に関わっている。アラビアを水と結びつける人は殆ど居ないが、そこには数多くのオアシス、水溜り、岩肌のしたたりがあり、それがオマーン北部に居る翅幅15cmの大型ギンヤンマ(Anaximpemtor)からサウジアラビア中央に生息する翅幅3cmのライラ糸トンボ(Layla Damselfly)(Enallagma vansomereni)まで22種類の異なったトンボ属を支えている。実際に東部州のオアシスは広大な広がりを持つのに深紅ライナー(Scarlet Darter)(ショウジョウトンボ(Crocothemis chaldaeorum)))だけが孤立して、隔離されて繁殖してきた。

 

暗く涼しいオアシスの藻が繁茂した水路の中には幾つかの種の卵が生みつけられる。そこでは水中に並んだ卵から小さな幼虫が孵る。翅は無いけれども、幼虫はエラを持ち、成虫と同じ様に獰猛な歯を持っている。成熟すると幼虫は水から這い出して、背中が割れて柔らかい青白い成虫が出てくるまで動かずにどこか垂直な面にぶら下がっている。脱皮したての成虫の羽はしわしわで小さいが血流が送り込まれると翅は成長し硬くなり成虫は飛行が出来る。

 

アル ハサを含む東部州ではヤスブ(ya’sub)と呼ばれるトンボは伝統的に好意を待たれ、魅力的なアラビア語でアブ バシールAbu Bashir)「良い知らせの運び屋」とされている。

 

7.4 沙漠の薔薇

 

サウジアラビアでは石膏の結晶(注1)が砂と混ざって発達し、花弁状を持つ薔薇の様な形状と成った状態を沙漠の薔薇(Desert Rose)と呼び、東部州では見つかる可能性が高い。これは東部州では塩分に富んだサブハ(注2が海岸に沿って広く発達分布している為である。サブハには高潮の時に海水が満ち、引き潮の際に取り残される。その海水から水分が蒸発して塩分が残留し、薔薇の様な結晶を作り出す要因となる。この沙漠の薔薇を採集するにはサブハを1 m位掘り下げなければならないので容易くは無い上に、サウジアラビアでは「アラーは沙漠の薔薇を見つけた人間に幸運をもたらす様に祝福して下さる」と言われている程で見つけるのは難しい。ここに掲載した沙漠の薔薇の写真をご提供くださった丸紅サウジアラビア会社の上田邦幸 元社長によるとアラビア語ではザラハット アル リマル(Zarahatt Al-Rimal)と呼ばれるそうである。

 


    丸紅サウジアラビア会社保有
       沙漠のバラhttp://www.toursaudiarabia.com/rose.html

 

別の説では「薔薇の形に発達した玉髄(注3であり、米国の西部等シリカ(注4が豊富な水が地表に流れる様な沙漠で形成される」と云うし、「サハラ沙漠等ではバライト(barite、重晶石)を含んでいる」とも云う。私は沙漠の薔薇の簡単には壊れない程の硬さと表面がキラキラしているので、「石膏と塩分を多量に含んだ砂で薔薇の花の形が出来た後に桂化木の様に長年掛かって或る程度はシリカでその形が置き換わっているのでは無いか」と考えている。

 

(注1) 石膏の結晶(gypsum crystal)で硫酸カルシウム鉱物である。

(注2) サブハ(Sabkha)とは含塩低地帯(Salt Flat)を指し、アラビア湾岸に特に発達している。

(注3) 玉髄(chalcedony) 細かい石英の結晶が集まって球顆状或いは乳房状、鍾乳状を成している。

(注4) シリカ(silica)は無水珪酸である。

 

7.5 ホテル

 

   サウジアラビア国内では1990年代になって観光庁が設立された。それまでは通行証無しでの外国人の国内移動やまして観光旅行と云う概念は無く、最近になるまで国際水準のホテルは限られていた。東部州はその中でもサウジアラムコの存在があり、業務の為に訪れる欧米人の為に国際水準のホテルが比較的早くから整備されていた。コバールのアル ゴセイビ ホテル等はその典型的な例である。

 

Al Gosaibi Hotel, Al Khobar

Hotel - PO Box 3006, Al Khobar, 31952 - 4 Stars

FAX:966-3-8822321  TEL:966-3-8822882

 

その後、飛行機の乗り降りや商用の為に飛行場内にあるダーラン インターナショナルやダンマンの中心街の海岸に近く立てられたオベロイ(Oberoi、現在のシェラトン)等が開業した。私もこれらのホテルを使っていた。この両方のホテルとも法令、規制、習慣等諸々の制限が多いにも拘わらず、宿泊客に様々な便宜をはかってくれた。私にとってオベロイは1991117日の湾岸戦争開戦でカフジが夜明けに爆撃を受けた後、47名の上役や朋輩と350km自力で退避し、避難した先だった。毎晩の空爆にも拘わらず良くして貰ったと思っている。ダーラン インターナショナルは飛行機の乗り継ぎやバハレン空港へのリムジンの手配などで日常的にお世話になった。

 

Sheraton Dammam Hotel And Towers
1st Street 5stars Dammam,   31422  0.5 Miles From Center City Dammam

 

Dhahran International Hotel, Dhahran
《ダーラン インターナショナル》5ツ星, デラックス クラス モダン ホテル

P.O.BOX 428, DHAHRAN 31932, SAUDI ARABIA,

ホテルは、国際線・国内線ターミナルよりすぐの、便利な立地に位置し、東部地区最大規模のショッピングモールと世界最大の石油会社サウジアラムコからは、車でわずか5分、ビジネス地区より10分のところにある。

 

1980年代に成ってジュベイルのホリデイイン(現在のインターコンチネンタル)やコバールのガルフ メリディアンが出来てリゾートの感覚が出てきた。ジュベイルのインターコンチネンタルは現在では原理主義者の影響で変わってしまっているが当初はヨットレース等在住の外国人の為に多くの催し物が行われ、人口的に中庭の様に作られたプライベート ビーチでは男女混浴は勿論、ビキニ姿の女性が当たり前であった。但し、我々男性からすると「出来ればもう少し若いか、年取った女性が居れば良い」と思っていた。とは言え、当時はサウジ国内では最も自由を謳歌できる雰囲気があった。

 

ガルフ メリディアンはアル コバールの海岸道路(Corniche)に三方を囲まれた大きく手の形をした5本の突堤を持つ海岸公園の掌に当たる位置に建てられている。アラビア湾の夜明けを眺めるには最高の場所であるし、東へ延びる道路の海岸側には公園やファーストフッドの店が並び反対側には本屋や玩具等近代的な大きな店舗ビルが並んでいる。

 

InterContinental AL JUBAIL

TAREEQ 101 MADINAT AL JUBAIL, 31961 SAUDI ARABIA

Hotel Front Desk 966-3-3417000 Hotel Fax 966-3-3412212

 


Le Gulf Meridien
Corniche Boulevard, PO Box 1266 Al Khobar, Saudi Arabia 31952

FAX:966-3-8982415  TEL:966-3-8969000

 

アル ハサには長い間、国際級のホテルは出来ず、2000年に入ってやっとインターコンチネンタルが開業した。このホテルは大きくは無いが居心地が良く、2003年の5月に訪問した時のアル ハサは好印象で、改めて快適なホテルの重要性を認識した。

 

Intercontinental Hotel Al Ahasa Stars : *****

AL MALIK KHALID ST Al AhsaSaudi Arabia 31982

 

ダンマンとコバールのホリデイ インは宿泊した事は無いが、サウジアラビア国内の他のホリデイ インの宿泊に関して問題が無いので満足できる水準なのだと思う。サウジアラビアの国際級ホテルはリヤドのフォーシーズンやファイサリア ホテルを除けば100ドルプラス程度であり、他の国と較べると格安に宿泊可能なので私は出来るだけ利用していた。ダンマン、コバールを中心とした地域にはその他にも多くのホテルがあるがここでは割愛した。

 

7.6 ファハド国王築堤道路

   ファハド国王築堤道路(the King Fahd Causeway)は架橋と高架橋でコバールとバハレンを結んでおり、198178日に建設合意が調印された。ファハド サウジアラビア国王とバハレンのイサ ビン サルマン アル カリファ首長(Sheik Isa bin Salman al Khalifa)によって19821111日に定礎式が行われ、建設が始まり、幾つかの橋と築堤が1986年までに結ばれた。このプロジェクトは全額サウジアラビアが負担し、総額12億ドルの建設契約はオランダのバッラスト ネダム グループ(the Ballast Nedam Group)との間に締結された。25m幅の4車線の道路は25kmを越え、使用したコンクリートは35万立方メートルで鉄筋は14.7万トンであった。築堤道路は二つの部分から成り、コバール(Khobar)からバハレンのウンム アル ナ‘サン島(Umm al Na’san island)までの長い橋とウンム アル ナ‘サン島からバハレン本島までのそれより短い橋である。この築堤道路は19861125日から一般に公開された。

衛星から見た築堤道路         バハレンの道路標識     ファハド国王築堤道路海上部分

この築堤道路は週末の木曜の午後にはサウジアラビアよりも寛容な隣国バハレンのクラブや夜の生活を目指すサウジ人および外国人で込みあう。

 

7.7 州知事モハンマド殿下

 

1951年生まれのモハンマド ビン ファハド イブン アブドル アジズ アル サウド殿下(Prince Mohammed bin Fahd bin Abdul Aziz al-Saud)はサウド王家の一員であり、故ファハド国王の6人息子の一人である。同殿下は石油の豊富に産出する東部州知事であり、1972年から1998年の英国との軍事契約のコミッショナーでもあった。殿下の名に因んだ栄誉としてはサウジアラビアでもっとも知られている賞として学問達成に対するモハンマド殿下賞やダンマンのモハンマド ビン ファハド殿下大学がある。

Page Top 

後書き

 

   東部州中部には伝統的なオアシス農業が現在でも残っているだけ、近代産業との対比は鮮明であり、日本の農村でも起きている跡継ぎの不在がヤツメ椰子畑の荒廃を招きつつある。私のサウジ人の友人達は昔から「いずれは石油の無くなる時代に備え、サウジはナツメ椰子と駱駝を確保している」と言っていた。実際にスーダンやバングラディシュ等から出稼ぎ農業労働者を雇い、彼等に世話をさせて、ナツメ椰子園や駱駝の群を保有する人達は多かった。どれ程、先の事かは分からないにせよ、それが効果を発揮する時代がくるのかも知れない。何が無くても「ナツメ椰子と駱駝さえあれば生き残れる」と云う伝統的信条は現在でも脈々とサウジ人に引き継がれている。問題は子供の頃、実際に親からナツメ椰子の手入れ、オアシス農業や牧畜を教えられながら育った一方で高等教育を受けた年代が現在はこの国を支えている。この年代は隠退した後、農業や牧畜に戻れるし、彼等自身の多くがその様な人生設計を持ち、既に、恵まれた年金に加え、放牧やナツメ椰子園経営で豊かな老後を送っている者も少なくない。それでも実際の労働は安価に動員できる外国人労働者を雇用しており、農業や放牧の伝統を子供や孫に伝えるのは難しく、「ナツメ椰子と駱駝さえあれば生き残れる」と言う信条も変わる時が来ている。若年学業修了者に対する職場確保の為の産業振興とサウダイゼーション(注)はアブドッラ国王の摂政時代からの最優先政策である。

 

(注)原油価格の高騰と増産で2006年度の国家歳入は建国以来最高の水準にあるにもかかわらず、人口の急激な増加で若年失業者が深刻な社会問題化し、この10年、労働力のサウジ人化政策(Saudaization)とその為の教育改革はこの国の最重要優先政策になっている。ジュベイル第二工業都市(Jubail II)も勿論、サウジ人雇用確保政策の一環である。

 Page Top

出所と参照

 

The Eastern Province of Saudi Arabia, William Facey, Stacey International, London, 1994.

The Restless Sand: by William Tarcy, ARAMCO World, May & Jun.,1965.

The Twice-Used Water: by Tor Eigeland, ARAMCO World, Nov. & Dec., 1970.

Oasis Fruit: ARAMCO World, Mar., 1962.

Where Honor Dwells: by Rosalind Mazzawi, ARAMCO World, May & Jun., 1965.

The Arab Horse: ARAMCO World, Mar. & Apr., 1986.

The Potter’s of al Qarah: ARAMCO World, Oct., 1961.

The Dragon of Al Hasa: by A. R. Pittaway, ARAMCO World,, Mar. & Apr., 1983.

東部州(Ash Sharqiyah Province): The Wikimedia Foundation, Inc.

Dates are not just dates, Darina AllenThursday, January 19, 2006

 (http://www.villagemagazine.ie/article.asp?sid=2&sud=20&aid=1111)

Ideal Date, By: Darina Allen, IslamiCity, 10/22/2005 - Education - Article Ref: IC0502-2620,   

 (http://www.islamicity.com/articles/printarticles.asp?ref=IC0502-2620&p=1)

Carrying Dates to Hajar,Eric Hansen, ARAMCO World, July/August 2004.

 (ekhansen@ix.netcom.com)

Various Accounts of Arab News from 2004 to 2006.



HomeContentPage TopPreviousNext