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2013月5月11日
 サウジアラビア紹介シリーズ    (サウジアラビア王国全般)

           「沙漠の半島」の多様な部族                             著: 高橋俊二
 Saudi Arabia General



 

 

多様なアラブ族

 

前書き

 

サウジアラビアでは誰にとっても所属する部族はたいへん重要である。私が12年間滞在したカフジには沙漠の中に部族毎の主としてテント村の集会所があり毎夜のごとく同じ部族の男達が集まりお茶を飲みながら談笑し、祈りや夕食を共にしながら時間を過ごしていた。地域社会での男の評価は会社や役所での地位ではなく、部族内での地位で決まると聞いていた。実際にこのような部族毎の集会から出てくる意見や苦情がアミール庁に集められて内務省に報告され、国王の施策に重要な判断材料を提供している。またサウジ人同士は部族名を聞いただけでその部族の背景が分かるという。当時は調べてみてもサウジ人の友人達に尋ねてみても余り理解できなかった。仕方なく部族毎に名前と分かる範囲の内容を記録するに止めていた。しかし、「サウディアラビア紹介シリーズ」のホームページを執筆していて部族系譜が分からないと地図無しで沙漠に乗り入れるようなことで紹介記事の内容に物足りなさを感じていた。特にシャイフ・ムハンマドが1744年に部族系譜では有力とも思えないバヌー・ハーリド族の意向でウヤイナから放逐されたことを知りさらに私の部族系譜への関心は高まった。

 

部族系譜は部族名だけでも相当な数があり、系統だてて説明するのは難しいので「沙漠の半島のアラブ族系譜図」をご参照されながら読み進めて戴きたい。

 

「沙漠の半島のアラブ族系譜図」

(図の左上丸十印をクリックすると拡大します。)

 

「沙漠の半島のアラブ族系譜図」と合わせて「沙漠の半島アラ部族一覧表」および「沙漠の半島のアラブ族分類」も掲載したので適宜ご参照戴きたい。

 

「沙漠の半島」アラブ族一覧表

 

「沙漠の半島」のアラブ族分類

 

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目次

 

1. アラブ族の発祥

1.1. アラブ族とは

1.2. 古代アラビアのセム族

1.3. アラム人

1.4. アラブ部族の祖先

1.5. アラブ民族(アルブ)出現

2. アラブ族の分類

2.1. 消えたアラブ部族の区分

2.2. 純粋のアラブ族の区分

2.3. アラブ化したアラブ族の区分

2.4. アラブ部族同盟の区分

2.5. その他のアラブ族の区分

3. 多様なアラブ族

A. 消えたアラブ部族

A.1. アード族

A.2. イムラーク族(アマーリーク族)

A.3. イラム族

A.4. サムード族

A.5. ジャディース族

A.6. ジュルフム族

A.7. タスム族

A.8. バヌー・ミフラヒル族

B. 純粋のアラブ族(カフターン部族、カフターニ部族)

B.1. 古代イエメン4部族

B.1.1. マイーン族

B.1.2. シバ族

B.1.3. ハドラマウト族

B.1.4. カタバーン族

B.2. ヒムヤル族

B.2.1. クダーア族

B.2.1.a. カルブ族

B.2.1.a.1. シルハーン族

B.2.1.b. ハルブ族(バヌー・ハルブ族)

B.2.1.c. バヌー・ラビーア・ビン・サアド族

B.3. カフラーン族(カハラーン族)

B.3.1. アズド族

B.3.1.a. イムラーン・イブン・アムル族

B.3.1.a.1. アズド・ウマーン族

B.3.1.b. ジャフナ・イビン・アムル族

B.3.1.b.1. バヌー・ガッサーン族

B.3.1.c. サラバ・イブン・アムル族

B.3.1.c.1. アウス族(バヌー・アウス族)

B.3.1.c.2. ハズラジュ族(バヌー・ハズラジュ族)

B.3.1.d. ハーリサ族(フザーア族、バヌー・フザーア族)

B.3.1.d.1. バニー・マーリク族(バヌー・マーリク族)

B.3.1.e.tru J. バニー・シャハル族等

B.3.2. ハムダーン族

B.3.2.a. バヌー・ヤーム族(ヤーム族)

B.3.2.a.1. ムッラ族

B.3.2.a.1.1. ガフラーン一門

B.3.2.a.2. アジュマーン族(ウジュマーン族)

B.3.2.a.3. ジュシャム族 

B.3.2.b. バヌー・カスィール族

B.3.2.c. バヌー・マシュロウキ族

B.3.2.d. バキル族

B.3.2.e. ハーシド族

B.3.3. キンダ族

B.3.4. タイイ族

B.3.4.a. バヌー・ハーリド族

B.3.4.b. バヌー・ラーム族

B.3.4.b.1.tru3. カスィール族等

B.3.4.c. ファドル族

B.3.4.c.1. アムル族

B.3.4.d. ザフィール一門

B.3.5. ラフム族

B.3.6. シャフラーン族

B.3.7. ムナーズィラ族

B.3.8. ガーミド族

B.3.8.1. サラート族

B.3.8.2. トゥハーマ族

B.3.8.3. バーディヤ族

B.3.9. アーミラ・ジュザーム族

B.3.10. ハムダーン・マズヒジュ族

B.3.11. a. tru h.その他のカフラーン族

B.4. 1. tru 3. その他のカフターン部族

C. アラブ化したアラブ族(アドナーン部族)

C.1. ケダール族

C.2. ナバテア人

C.3. ムダル族

C.3.1. カイス族(カイス・アイラーン族)

C.3.1.a. ガタファーン族(バヌー・ガタファーン族)

C.3.1.a.1. バヌー・アブス族

C.3.1.b. ハワージン族

C.3.1.b.1. アーミル族(アーミル・イブン・サウサア族、バヌーアーミル族)

C.3.1.b.1.1. キラーブ族(バヌー・キラーブ族)

C.3.1.b.1.2. ヌマイル族(バヌー・ヌマイル族)

C.3.1.b.1.3. バヌー・カアブ族

C.3.1.b.1.3.1. バヌー・ウカイル族

C.3.1.b.1.4. バヌー・ヒラール族

C.3.1.b.1.5. スバイウ族

C.3.1.c. バヌー・スライム族

C.3.2. キナーナ族(バヌー・キナーナ族)

C.3.2.a. クライシュ族

C.3.2.a.1. バヌー・アブド・マナーフ一門

C.3.2.a.1.1. バヌー・ナウファル一門

C.3.2.a.1.2. バヌー・ムッタリブ一門

C.3.2.a.1.3. バヌー・ハーシム一門

C.3.2.a.1.3.1. ハーシム家(ハワシム家)

C.3.2.a.1.3.2. ザウー・アウン家

C.3.2.a.1.3.3. シャイビ家(シャイビ族)

C.3.2.a.1.3.4. バヌー・ウハイディル族

C.3.2.a.1.4. バヌー・アブド・シャムス一門

C.3.2.a.1.4.1 バヌー・ウマイヤ一門

C.3.2.a.2. バヌー・マフズウム一門

C.3.2.a. 2.1. ムガイラ家(ムガイラ族)

C.3.2.a.3. タイム一門(バヌー・タイム一門)

C.3.2.a.4. バヌー・アディー一門

C.3.2.a.5. バヌー・アサド一門

C.3.2.a.6. バヌー・サフム一門

C.3.2.a.7. バヌー・アブドッダール

C.3.2.a.8. バヌー・ジュマフ一門.

C.3.2.a.9. バヌー・ズフラ一門

C.3.3. タミーム族(バニー・タミーム族)

C.3.3.a. バニー・ヤルブウ族

C.3.3.b. ムアンマル一門

C.3.4. バニー・スライム・ビン・マンスール族

C.3.4.a. ハファーフ一門

C.3.4.a.1. バニー・ウトバ族

C.3.4.a.1.1. ウトゥーブ族

C.3.4.a.1.1.1. ハリーファ家

C.3.4.a.1.1.2. サバーハ家

C.3.4.a.1.2. アール・ビン・アリー族

C.4 ラビーア族

C.4.1. アナザ族(アニザ族)

C.4.1.a. バニー・ヒザーン族

C.4.1.b. ラハーズィム族

C.4.2. タグリブ族(タグリブ・イブン・ワーイル族)

C.4.3. バクル族(バヌー・バクル族、バクル・イブン・ワーイル族)

C.4.3.a. ハニーファ一門(バヌー・ハニーファ一門)

C.4.3.a.1. ハナフィー族

C.4.3.a.1.1. ムルダ一門(ムラダ一門)

C.4.3.a.1.1.1. ミクリン家(ムクリム家)

C.4.3.a.1.1.2. ワトバーン家

C.4.3.a.1.1.3. ディルア族

C.4.3.a.1.1.4. マトハミー家

C.4.3.a.1.1.5. サウード家

C.4.3.a.2. ザルア一門(アバー・ザルア一門)

C.4.3.a.3. バヌー・ハニーファ末裔

C.4.3.a.3.1. シャアラーン一門

C.4.3.a.3.2. スハイム一門

C.4.3.a.3.3. ドゥガイスィル一門

C.4.3.a.3.4. ムダイリス一門

C.4.3.a.3.5. ヤズィード一門

C.4.3.b. カイス・イブン・サアラバ一門

C.4.3.c. バヌー・シャイバーン一門

C.4.3.d. バヌー・ヤシュクル一門

C.4.3.e. バヌー・ルジル一門

C.4.4. アブドゥルカイス族(アブドゥルカイス・アドナーン族)

C.4.5. その他のラビーア族

C.4.5.a. アンマール族

C.5.1.tru3. その他のアドナーン部族

D. アラブ部族同盟

D.1. 純粋のアラブ族(カフターン部族、カフターニ部族)系譜の部族同盟

D.1.1. タヌーフ族同盟

D.1.2. リジャール・アルマア族同盟

D.1.2.a. マナーズィル族(カイス・マナーズィル族)

D.1.2.b. バヌー・ザイド族

D.1.2.c. バニー・バクル族

D.1.2.d. イブン・ダリム族

D.1.2.e. バニー・アブド・シャハーブ族

D.1.2.f. シャディーダ族

D.1.2.g. バニー・フーナ族

D.1.2.h. バニー・クトバ族

D.1.2.h.1. ナアーミーヤ支族

D.1.2.h.1.1. サーウィー・ハサンおよびサブト

D.1.2.i. バニー・アブドゥルアワード族

D.1.2.j. バンナー族

D.1.3. ハルブ族同盟

D.1.4. シャンマル族同盟

D.1.4.a. アブダ支族(アブダフ一門)

D.1.4.a.1. ジャアファル一門(ジャファアル一門)

D.1.4.a.1.1. アリー家

D.1.4.a.1.2. ラシード族(ラシード家)

D.1.4.a.1.3. サブハーン家

D.1.4.b. アスラム支族

D.1.4.c. ゾバ支族

D.1.4.d. ザヤーギム族(ダヤーギム族)

D.1.5. ダワースィル族

D.1.5.a. スダイル家

D.1.5.b. ザイド族

D.1.5.b.1.tru10.  アンマール一門等

D.1.5.c. タグリブ族(タグルブ族)

D.1.5.c.1.tru5. オムール一門等

D.2. アラブ化したアラブ族(アドナーン部族)系譜の部族同盟

D.2.1. アナザ族同盟

D.2.2. ジャブリード族同盟

D.2.3. バニー・ハーリド族同盟(バヌー・ハーリド族同盟)

D.2.3.a. フマイド一門

D.2.4. アブドゥルカイス族同盟

D.2.5. ラビーア族族同盟

D.2.5.a. ワーイル族

D.3. 地名や同胞名を名乗る部族同盟

D.3.1. アシール族同盟

D.3.1.a. バヌー・ムフィード族

D.3.1.b. アルカム族

D.3.1.c. ラビーア族(ラーフィダ族)

D.3.1.d. バヌー・マーリク族(バニー・マーリク族)

D.3.1.e.tru k. シュッフ・シャハラーン族他

D.3.2. スンニー・ムスリム族同盟(イフワーン3部族)

D.3.2.a. ウタイバ族(オタイバ族、アテバ族)

D.3.2.a.1. ビン・フマイド家

D.3.2.b. ムタイル族

D.3.2.b.1. ドゥーシャーン一門

D.3.2.c. アジュマーン族(ウジュマーン族)

D.3.2.c.1. アワーズィム族

D.3.2.c.2. ハスライン一門

D.3.3. ムンタフィク族同盟

D.3.3.a. バニー・マーリク族(バヌー・マーリク族)

D.3.3.b. アジュワード族

D.3.3.c. バニー・サイード族

D.3.3.d. サアドゥーン家

D.3.4. ルワラ族

D.3.5. アマーリーク族同盟

D.3.6. バヌー・アーミル族同盟(アーミル・イブン・サウサア族同盟)

D.3.6.a. バヌー・カアブ族

D.3.6.a.1. バヌー・ウカイル族

D.3.6.a.1.1. ウバーダ一門

D.3.6.a.1.2. ハファージャ一門

D.3.6.a.1.3. ムンタフィク一門

D.3.7. バヌー・ラーム族同盟

D.3.8. サリーフ族同盟

D.3.9. ハムダーン族同盟

D.3.10. フォエデラティ族同盟

D.4. 部族同盟国家

D.4.1. ガッサーン族同盟

D.4.2. キンダ族同盟

D.4.3. ラフム族同盟

D.4.4. ケダール族同盟

D.4.5. パルミラ(タドムル)

D.4.5.a. アムラーキー族

D.4.6. タイマー族

D.4.6.a. ラマーン族

E. その他のアラブ族

E.1. 主要な部族

E.1.1. 地域有力勢力

E.1.1.a. サキーフ族(バヌー・サキーフ族)

E.1.1.b. ファッラーヒーン(フェラーヒーン族)

E.1.1.c. ハージリー族バニー・ハージル族

E.1.2. 旧支配者

E.1.2.a. イドリーシー族

E.1.2.b. リヒヤーン族(バヌー・リヒヤーン族)

E.1.2.c. アッサーフ族

E.1.2.d. スライム家

E.1.3. ハサー地方の商業資本

E.1.3.a. ウライヤーン家(オラヤーン家)

E.1.3.b. クサイビー家(ゴセイビ家)

E.1.3.c. カーヌー家(カーナー)

E.1.3.d. ザーミル家

E.2. 少数部族

E.2.1. ルブア・ハーリー沙漠に住む部族

E.2.1.a.tru d. アワ-ミル族等

E.2.1.e. アマーリーサ族

E.2.1.f. サヤール族

E.2.1.g. バイト・カシール族

E.2.1.g.1. ラシード族

E.2.1.g.1.1.tru3. バイト・ヤマーニー族等

E.2.1.h. スフル族

E.2.2. アシール山脈在住部族

E.2.2.a. シャムラーン族

E.2.2.b. バニー・マーリク族

E.2.2.c. バニー・ムガイド族

E.2.2.d. ザハラーン族

E.2.2.e. バルカルン族

E.2.2.f. リジャール・ハジャル族

E.2.2.g. バスルハマル族

E.2.3. ティハーマに住む部族

E.2.3.a. アフル・ファイファー族

E.2.3.b. バヌー・ダウス族

E.2.3.c. マンジャハ族遊牧民

E.2.3.d. ライス族

E.2.3.e. ラビーア族(ラーフィダ族)

E.2.3.f. ティハーマ・カフターン族

E.2.3.g. アーシム族 

E.2.4. ブアースの戦い(617)に参戦したアラブ遊牧民

E.2.4.a.truc. アシュジャア族等

E.2.5. マディーナ・オアシスに最初に定住したセムの子孫

E.2.5.a.& b. バヌー・ハウフ族等

E.2.6. 独自部族

E.2.6.a. アイド族

E.2.6.b. グーズ族

E.2.6.c. スルバー族

E.2.6.d. ナジュダ族

E.2.6.e. ミディアン族

E.2.6.f. ラシャーイダ族

後書き

 

本文

 

1. アラブ族の発祥

 

1.1. アラブ族とは

 

紀元前9世紀から紀元前6世紀に掛けてのアッシリアやバビロニアの碑文には「アルブは部族的に組織され駱駝に騎乗し北および北西アラビアのアドゥーマートゥー、タイマー、ディーダーン(ウラー)等の主要なオアシス集落を結んで交易を行う民族である」と記録されている。これらの碑文からは南西アラビアからレヴァントへ香辛料、香料等の物資を輸送する上でのアラブ民族が商業的に重要な役割を担っていた事がわかる。今日(こんにち)ではアラビア語を母国語として話す民族をアラブとしているが、古代には肥沃な三日月地帯に定住していた人々が北アラビアやシリア沙漠に住み、部族的に組織され好戦的な駱駝牧畜民を呼ぶのにアラブと云う用語を使って居た。又、イエメンのサイハド沙漠周辺に定住した民族は4世紀までアラブと云う用語を中央および西アラビアの部族的な牧畜遊牧民を呼ぶのに使って居た。やがて、アラブと云う呼称は拡張されて中央アラビアや西アラビアの定住部族も意味する様に成り、次いで遊牧民と定住民両方を意味する様になった。古代ギリシアの時代までに沙漠の半島全体がギリシア・ローマにアラビアとして知られる様に成り、現在もアラビア半島と云う名が使われている。但し、「遊牧牧畜民を示すのにアラブ」と云う用語を使うのはイスラーム時代に入っても続いて居り、今日(こんにち)でも遊牧民(ベドウイン)に対する呼称として残っている。

 

1.2. 古代アラビアのセム族

 

セム族は南西アジア出身のセム語を話す民族である。アラビア人、エチオピア人、ユダヤ人が含まれ、ユダヤ教、キリスト教およびイスラーム教を生んだ。旧約聖書の創世記によれば「セム族はハムとヤペテ(ヤフェト)と共にノアの方船で知られるノアの3人の息子の1人セムの子孫である」と考えられている。なお、セム語はアフロ・アジア語族に属し、アラビア語、アムハラ語(エチオピアの公用語)、ヘブライ語等を含んでいる。

 

南アラビアではセム族が紀元前23世紀にカフターン部族によって統合され、サイハド沙漠のマアリブ地区に簡単な土塁のダムや灌漑水路を利用する農業をすでに営んでいた。交易もティハーマ地方の紅海岸に沿った隊商路が開かれ、繁栄し始めていた。紀元前8世紀まで続いたカフターン部族支配の南セム族社会は、中東ではもっとも旧い文明の中心であった。しかしながらメソポタミア・セム族とは広大なアラビア沙漠で隔てられ、そのうえ自分達の歴史を記録する文字を持っていなかったのでその文明はほとんど知られていなかった。

 

北西アラビアのパレスチナからメソポタミアに至る地域ではセム族に属する北西セム語を話す諸部族がこの地域を征服して紀元前3000年紀後半にユーフラテス川西域で権力を握った。これらの諸部族は総称してアモリ人と呼ばれているが、その主神の名がアムルであったのでアムル人とも呼ばれていた。さらにシュメール人からはマールツウと呼ばれていた。遊牧民アモリ人(アムル人)の領土はもともとアラビア半島であったが、紀元前約2400年の初めにはシリアおよびカナンを含むユーフラテス川西域を占めていた。そして「アモリ人の山」と呼ばれるシリアのビシュリー山岳地方と特別なつながりがあった。

 

紀元前2120世紀に掛けてメソポタミアを支配したウル第三王朝の最後の王イッビーシンの治世の間に旱魃の為にメソポタミアへ大規模な移住をしたアモリ人は、多くの地方で力を蓄えた。イシン、ラルサおよびバビロンを含む様々な場所で権力を掌握し、ウルに度々侵攻した。ウル第三王朝は同じ様に侵攻を繰り返していたエラム人によって紀元前1940年頃に最終的に滅ぼされた。その少し後でバビロンのハンムラビ王(c. 1795 BC – c. 1750 BC)が台頭した。およそ紀元前20001600年の間は、アモリ王朝群が覇権を握った。この時代はメソポタミア歴史の中ではアモリ時代と呼ばれている。主なアモリ王朝は、マリ、ヤムハード、カトナー、アッシュール、イシン、ラルサおよびバビロンで台頭した。しかしながら、このアモリ時代は紀元前約1595年のヒッタイト(ca.1680BC – ca.1190BC)によるバビロンの制圧で終焉した。アモリ人が使っていたアモリ語は、アフロ・アジア語族のセム語派の北西セム語方言と推定される。

 

1.3. アラム人

 

アモリ人が征服したパレスチナからメソポタミアに至る地域から同じ北西セム語を話す牧畜部族アラム人が出現した。アッシリアの書字板では「アラム人の名はもっと昔の部族名マールツウ(アムル人、(アモリ人)、西方の人)の方が正確である」との記述もあり、「同じ民族が異なる名前で呼ばれた」との説が有力である。アラム人は肥沃な三日月地帯(メソポタミア)の文明化した都市の住人からは、恐れと侮蔑を持って見られて居た。しかしながら、紀元前2,000年紀に入ると、駱駝による遊牧や隊商貿易で経済的・軍事的に強力な部族となった。

 

紀元前2,000年紀が終わりに近づくと密集放牧によって悪化した環境条件の為に農業に移行するか、半島部から伝わって来た駱駝遊牧に移行して行かざるを得なかった。そう成るに連れてセム語を話す遊牧部族は、西アラビアと中央アラビアを通して広がった。紀元前1514世紀までにアラビア半島の北西とシナイ半島で南セム族文字(South Semitic Script)が現れ、南セム語を話す部族が確立した。その後の数世紀の間に進化しながら南セム族文字と南セム語は、半島を通って南へと伝わり、紀元前1,000年紀半ばには南アラビアにまで浸透した。

 

アマルナ文書には放浪者を意味するアフラームー人が紀元前14世紀頃の出来事に登場しており、その存在はアッシリアのニップルやバハレインのディルムーンから出土した遺物でも証明されている。紀元前13世紀にアフラームー人は、バビロンからヒッタイト帝国の首都ハットゥシャへの道を分断したのでアッシリアのトゥクルティ・ニヌルタ1(1244 BC - 1208 BC)は、討伐に出かけてユーフラテス川沿いのマリ、ハナ、ラピクムおよびシリアのビシュリー山を占拠した。アッシリアでは紀元前11世紀に刻まれたティグラト・ピレセル1(1115 BC - 1077 BC)の碑文が最初にアフラームー人を引用した。しかしその直ぐ後にアフラームー人はアラム人に取って代わられた。「この二つの部族は、何も共通では無く、たまたま同じ地域で活躍していただけなのかも知れない」との説もあるが、「同一部族である」と考えるのが妥当だと私には思われる。

 

1.4. アラブ部族の祖先

 

紀元前11世紀頃までにアラム人はユーフラテス川上流に定住した。その拠点としては、ティル・バルスィプ、サマル(現在のゼンジルリ)、アルパド、ビト・アディニなどが挙げられる。その後、シリアに進出して新たな都市国家を形成し、当初はハマー後にはダマスカスがアラム人勢力の中心となった。紀元前1,000年紀中頃までにはアラム語は、肥沃な三日月地帯全体の共通語に成ってきた。駱駝を用いてシリア沙漠などを舞台した隊商貿易は、さらに拡大してアラム語は古代オリエント世界の商業語として定着した。フェニキア文字からアラム文字が作られ、西アジア・南アジア・中央アジアの様々な文字に影響を与えた。一方、特化された駱駝放牧者集団はやがてアラブ部族の祖先となった。

 

1.5. アラブ民族(アルブ)出現

 

紀元前9世紀から7世紀の間の北アラビア戦役についてのアッシリアの記録でも「部族的に組織されたアルブすなわちアラブが北および北西アラビアの沙漠とオアシスを占拠して居た」と述べられている。アルブは、戦場に大勢の駱駝騎乗戦士を送り込む能力を持ち、南西アラビアとの交易に従事していた。紀元前6世紀までに北西アラビアのアドゥーマートゥー、タイマー、ディーダーンやウラー等が隊商町として十分にその機能が確立し、遊牧民と定住民は物資だけでは無く、儲けの多い陸上交易の運営に対して相互依存する様に成って来た。この様にアラブ民族が南西アラビアから現在のレバノンであるレヴァントへ物資を輸送する上での商業的に重要な役割を担っていた事を示している。

 

この時代にはアラム人と南セム族との間の区別は、厳格では無かった。紀元前96世紀のアッシリアやバビロニアの碑文に記述の見られる北アラビアの部族は、疑いもなくこの二つのグループから特徴を分け合っていた。例えばタイマーの碑文は基本的には北アラビアでのサムード文字言語の地域からの出土であったが、紀元前65世紀にそこで両方の碑文が見つかっている様にその地域ではアラム語も使われ、その影響も受けていた。紀元前2世紀から紀元4世紀の北西アラビアのナバティア人は、自分達の言葉を書くのにアラム語に極めて近い文字を使って居た。この文字はアラビア語とアラム語の合成であった。しかしながら、ナジュドではアラム人文化との繋がりは余り強くはなかった。

 

紀元前500年から西暦500年の間は、西および中央アラビア全体で北の強い北西セム語を話す地域と南の強い南セム語を話す地域を結んでいた。古代アラビア語が多面な背景を持つ特徴のある中央および西アラビアで発展したのは、疑いも無い。南セム語と北西セム語は両方の特徴を共有する様に互いに混じり合った。これらの言語範囲の中で最終的には古代アラビアを作り出した多くのアラビア語の特徴を持つ母体が確認できる。従って、「言語学的呼称でアラブと云う用語を当てはめるのであれば、これらの言語を話す人達は早期アラブ部族である」との見解もある。この為に紀元前1,000年期の半島のアラブ部族は、文字と言語では二つの関連する伝統に属していた。この二つの伝統は、ナジュドと西アラビアで混じり合った。まだ南と北の構成要素の観念は、アラブ部族の伝統の中に非常に頑固に残って居たし今も残って居る。

 

アラブ部族は自分達を地理的にカフターン部族出身の南グループとアドナーン部族出身の北グループに常に分けて来た。紀元前1000年紀の巨大国家群からなるイエメンのサイハド文明を担ったのはカフターン部族の子孫と考えられて来たし、「純粋のアラブ族」と呼ばれている。アドナーン部族は半島北部の出身だと考えられ、「アラブ化したアラブ族」と呼ばれて北部、中部および西部アラビアに勢力を持っていた。カフターン部族は南西アラビアの定住耕作者であり、アドナーン部族は中央および北部アラビアの遊牧民であった。この部族の血筋での基本的な区別はその起源をアラブ部族の早期歴史の中で南セム族血統とアラム人血統に遡る。さらにカフターン部族は南西部の古代南セミ語を話し、アドナーン部族は北部アラビアのアラム語の影響を受けた方言を話していたのでアラブ族は二分化していた。

 

2. アラブ族の分類

 

14世紀のアラブの系図学者達は、アラブ族を「消えたアラブ族」、「純粋のアラブ族(カフターン部族)」および「アラブ化したアラブ族(アドナーン部族)」に分類している。これらの部族は同じ半島の中で長い間に交じり合っているので、私は「アラブ部族同盟」と「その他のアラブ族」の2つの区分をこの3つの区分に加えて追加した。

 

2.1. 消えたアラブ部族の区分

 

消えた部族は「失われたアラブ」とも呼ばれている。伝説として伝えられているだけで、その歴史は、ほとんど知られていない。その様な部族にはアード族、イムラーク族(アマーリーク族)、イラム族、サムード族、ジャディース族、ジュルフム族、タスム族、バヌー・ミフラヒル族等がある。「タスム族とジャディース族は皆殺しされ消滅した。またアード族とサムード族は頽廃し、神の怒りを買って滅びた」と伝えられている。

 

2.2. 純粋のアラブ族の区分

 

創世記に描かれた方舟で知られるノアは、500歳でセム、ハムとヤペテ(ヤフェト)の3人の息子をもうけた。その内のセムがセム族の始祖となった。セムの孫の息子がエベルとも呼ばれるフードであり、フードは2人の息子をもうけた。1人がペレグでアブラハムの先祖であり、もう1人がヨクタンとも呼ばれているカフターンである。

 

アラビア半島南部特にイエメンまで広がったセム族の子孫は、カフターンとその24人の息子を祖先としている。彼らがカフターン部族であり、純粋のアラブ族とも呼ばれている。カフターンの息子で突出した人物は、サヌア(アザアル)およびハドラマウトであった。もう1人の息子ヤアラブの息子ヤシュジュブは、サバとも呼ばれるアブド・シャムスの父親であった。「全てのイエメン部族はサバの2人息子ヒムヤルとカフラーンを通じて祖先のサバに遡られる」と言われる様にカフターン部族は大きくは、ヒムヤル族とカフラーン族に大別される。

 

2.3. アラブ化したアラブ族の区分

 

ノアの方船の大洪水の1,000年後に一神教の偉大な長老アブラハムは、エジプト人妻ハガルとその子イシュマエルと共にメッカを訪れた。神の命により妻と子供に幾らかの水とデイツを残して、アブラハムはメッカを離れた。その親子を保護したのがジュルフム族である。

 

ジュルフム族はアラビア半島のカフターン部族に属し、失われたアラブと呼ばれる古いアラブ族の1つである。イエメンから移住しアマーリーク族を打ち破りメッカを征服して定住していた。ジュルフム族はイシュマエルを養子にしてアラビア語を教えて自分達の部族の一員とした。イシュマエルはジュルフム族の女性と結婚してアラブ化したアラブ族の祖先となった。これは紀元前2000年頃の出来事と思われる。

 

アドナーン部族とはイシュマエル(イスマーイール)を始祖とするアラム人血統のアラブ化したアラブ族である。イシュマエルの12人の息子で最初に生まれたナビトの子孫アドナーンを祖として北部、中部および西部アラビアに勢力を持った。アドナーンが生まれたのはイシュマエルから40世代後の紀元前122年である。570年生まれたムハンマド(子孫で預言者)の21世代前にあたる。

 

「純粋のアラブ族」といわれるカフターン部族に対抗する「アラブ化したアラブ族」の名前がアドナーンと名付けられている理由は明確ではない。アラブの系図学者達がアラブ族を「純粋のアラブ族」、「アラブ化したアラブ族」と「消えたアラブ族」と分類したのは14世紀であり、3,000年紀から続くカフターンの名に対応する為にイシュマエルの血統からたまたま「とどまる、残る、住む」と云う意味の名を持つアドナーンが始祖の名として使われたのではないかと私は推測している。

 

アドナーン部族に属する主な支族にはムダル族およびラビーア族があげられる。ムダル族の主な一門にはカイス族、キナーナ族(クライシュ族を含む)やタミーム族等があり、ラビーア族の主な一門にはアナザ族、タグリブ族やバクル族等がある。なお、ムダル族およびラビーア族と共にイヤード族、バヌー・アサド族とバヌー・フザイル族が並列して記述されるが、この3部族についての詳細は、私が調べた範囲ではあまり分からなかった。

 

2.4. アラブ部族同盟の区分

 

アラビアでは伝統的に南西アラビアの部族が北や北西を目指して移動した。移動先で先住の部族を放逐したり、征服したり、共存したりして定住して来た。そうした中ではカフターン部族とアドナーン部族が混じり合ったり、地縁でつながったり、キリスト教等同じ宗教でつながったりして幾つもの小さな部族が1つに束ねられて新しい部族を生まれてきた。この様な部族同盟は、カフターン部族ともアドナーン部族とも区別できない。支配者の系図からそのどちらかを名乗る場合もあるし、地名を名乗ったり、同胞としての集団名を名乗ったりする場合もある。又、他の部族や集団を組織して国家を形成している部族同盟もある。

 

支配者の系図名を名乗る部族同盟にはタヌーフ族同盟、リジャール・アルマア族同盟、ハルブ族同盟、シャンマル族同盟、アナザ族同盟、ジャブリード族同盟、バヌー・ハーリド族同盟等がある。

 

地名や同胞名を名乗る部族同盟にはアシール族同盟、ウタイバ族同盟、ムタイル族同盟、ムンタフィク族同盟、ルワラ族同盟、アマーリーク族同盟、バヌー・アーミル族同盟(アーミル・イブン・サウサア族同盟)、バヌー・ウカイル族同盟、ハムダーン族同盟等がある。

 

国家を形成している部族同盟にはガッサーン族同盟、キンダ族同盟、ラフム族同盟、ケダール族同盟等がある。

 

2.5. その他のアラブ族の区分

 

北方のアラブ族ではケダール族、ナバテア族等アラブ化したアラブ族に属するのかどうか疑問の残る部族も少なくない。地域的には有力な部族であってもバヌー・サキーフ族、バヌー・リヒヤーン族等カフターン部族にもアドナーン部族にも属してない部族もある。さらに、余り大きな部族では無く、沙漠の奥地や山岳地帯の民族で、系図がハッキリしない孤立した部族も散在している。この様に、特定の時代や特定の地域で活躍していたが、系譜のハッキリしない部族をその他の部族として分類した。

 

3. 多様なアラブ族

 

A. 消えたアラブ部族

 

A.1. アード族

 

アード族は消えたアラブ族(失われたアラブ族)の1つでノアの曾孫のアードの一族である。アード族ついては「アード族が多神教を信じたので、神は警告を与える為に預言者フードを派遣した。フード(エベル)の警告や忠告にもかかわらず、アード族は多神教の偶像神に固執したので神はアード族を懲らしめる為に旱魃を起こした。それでもアード族は抵抗を止めなかったので、神は大きな嵐でアード族を全滅させた」と伝えられている。又、オマーン・ズファール地方のシスルにある大きな鍾乳洞陥没跡から発見された遺跡が「伝説の失われた都市ウバールで、アード族の都ではないか」と考えられている。

 

A.2. イムラーク族(アマーリーク族)

 

イムラーク族はアマーリーク族の単数であり、旧約聖書に記述されているアマーリーク族と同意語である。消えたアラブ族の1つで、創世記の系譜によれば「アマーリークはエサウの息子エリファズとロタンの姉妹でホリテ族の側室ティムナとの息子であった」と記載されていると云う。しかしながら多くの専門家はその出所がわからないと考えている。また創世記には「アマーリーク族は一神教の偉大な長老アブラハムの時代には後にローマ領アラビア属州となった地方にすでに住んでいた」と記述があると云う。「アマーリーク族はアブラハムの時代の前にメッカ地方を起源にこの早い時代に存在していた」と述べているアラビアの歴史家もいる。同じく創世記には「アマーリーク族はイシュマエルの異母兄弟イサクの曾孫である」との記述もあると云う。

 

モーゼ五書やサムエル記等では「出エジプトの際にユダヤ人をシナイ半島の沙漠のレフィディムで襲った遊牧部族であり、最後部の遅れていた弱い者達が犠牲になった。アマーリーク族は早期のユダヤ人にとって厄介な敵対者であり続けた。ユダヤ人をホルマでも襲ったのでユダヤの初代の王サウル(c. 1079BC – 1007 BC)は部族長達とユダヤ軍を指揮してアマーリーク族を打倒した。その息子ダビデ(c.1037–970 BC)はユダヤの不変の敵を絶滅させる為の聖戦を遂行してアマーリーク族は歴史から消滅した。更にヒゼキヤ王(715/716 – 687 BC)の時代に500人のシメオン族によってセイール山に逃れ、定住していたアマーリーク族の最後の生き残りが皆殺しにされた」と記述されていると云う。

 

A.3. イラム族

 

消えたアラブ部族の1つとされているイラム族についてはその詳細が明確ではない。アード族の都ウバールは千本柱の都市(柱のイラム)或はウバーとも呼ばれイラムの名がついて居る。イラムはセムの息子でノアの孫でありアードがアウスの息子でイラムの孫である。このことからアード族がその祖先の名でイラム族とも呼ばれ、特に早期のアード族を指している可能性が大きい。

 

A.4. サムード族

 

サムード族は紀元前1,000年期からムハンマドの時代近くまで居た古代アラブ民族であり、消えたアラブ部族の1つある。サムード族は南アラビアの出身であると、考えられている。「ノアの民の末裔でウバールを首都としたアード族の王家が消滅した時に、その同族のサムード族が取って代わった」と云う。アラビアの伝説では「サムード族は北へ移動し、マダーイン・サーリフ近くのアスラブ山に定住した」と伝えられている。

 

クルアーンでは「サムードはヒジャーズ地方のヒジュルに栄え、アッラーの怒りを買って滅ぼされたアラブの部族である。アッラーがアード族の絶滅の後、その後継者としてサムード族にその土地を与えた。サムード族は宮殿と城を築き、山を穿って住処を作り繁栄した。しかしながらサムード族が邪悪や害悪を成したので、アッラーはサーリフを遣わされた。サーリフはサムード族に『我々の民よ、神は汝らをアード族の後継者としてこの土地を与えられた。そのご加護を思い起こしアッラーを崇拝せよ。アッラーの他に神は居ない』とアッラーへの信仰を呼びかけた。サムード族はこれに従わなかったのでアッラーは、大音響が鳴り響かせてサムード族を滅ぼされた」と記述されていると云う。

 

A.5. ジャディース族

 

ジャディース族は家系的に密接な関係があるタスム族と共に消えたアラブ族(失われたアラブ族)に含まれる。3世紀以前から見張りや防御の為の高い望楼、堅固な要塞や広範囲な灌漑システムを築いて現在のヤマーマに定住していた。4世紀に起きた干魃と香料交易衰退に加えてヒムヤル族の侵入で死に絶えた。ジャディース族の都は窪地の意味するジャウウで現在のハルジュ市ヒドリマである。消滅する前には親族であるタスム族専制君主の支配に繰り返し反抗した。この為にタスム族はヒムヤル族の干渉を招いてしまった。ジャディース族が女予言者ザルカ・ヤマーマの警告を無視したのでヒムヤル族は都ジャウウを破壊して女予言者を十字架に張り付けにした。さらにその死体を城門に曝した。ジャウウはこの女予言者に因んでヤマーマと呼ばれる様に成り、やがて町の名前がこの地方全体を指す様に成った。

 

A.6. ジュルフム族

 

ジュルフム族は消えたアラブ部族の1つで、カフターン部族に属していた。もともとはイエメンに住んでいたジュルフム族は絶える事の無い恵まれた水源ザムザムがあるメッカに移住した。ザムザムは「アブラハムが神の命によりメッカに残された息子イシュマエルとその母ハガルが激しい渇きに襲われた時に二人の前に天使があらわれ羽根で地面を打ち現れた泉である」と、伝えられている。ジュルフム族二人を保護しイシュマエルを養子にした。イシュマエルは、族長ムダード・イブン・アムルの娘と結婚し、やがてアラブ化したアラブ族の始祖となった。アブラハムとイシュマエルがカアバ神殿を再建した後にジュルフム族はその守護者となったが、4世紀後半にアズド・カフターン部族の一派フザーア族(ハーリサ族)によってメッカから追い出された。この時にジュルフム族はカアバ神殿に捧げられた宝物を持ち去り、ザムザム井も破壊した。

 

A.7. タスム族

 

タスム族は家系的に密接な関係があるジャディース族と共に消えたアラブ族(失われたアラブ族)に含まれる。「ジャディース族と同様に堅固な要塞や広範囲な灌漑システムを築いて、涸れ谷イルドと呼ばれた涸れ谷ハニーファとやはり当時は涸れ谷ウトルと呼ばれた涸れ谷バサすなわち現在のリヤードと同じ地域に定住していた」と云われている。その中心の集落は十世紀にはハジュル或いはハドラ・ハジュルと呼ばれた場所にあった。ハジュルはカスルの疎らな集落または防護を固めた住宅地と果樹園ではあったけれどもカルヤ・ファーウで見つかっている様な町の中心となる要塞は無く、集落はバサ沈泥平原の広い地域に散らばっていたようだ。「ハジュルは政治的な繋がりも薄く緩やかな中央集権であり、交易よりも農業に重点があったと思われる。四世紀に起きた干魃で疲弊した上にジャディースも支配する様になったタスム族の専制君主の傲慢な振る舞いが両部族の間に論争を引き起こした。そのことでイエメンのヒムヤル族の干渉と侵入を招き、バヌー・ハニーファ一門がこの地にやって来た五世紀までには既に死に絶えていた」と言われている

 

A.8. バヌー・ミフラヒル族

 

ターイフには5000年前からバヌー・ミフラヒル族、アマーリーク族、サムード族、バヌー・サキーフ族が住んでいたと云われる。その中で預言者ムハンマド時代までターイフに残っていたのはバヌー・サキーフ族だけであり、その他の部族は消滅していた。

 

B. 純粋のアラブ族(カフターン部族、カフターニ部族)

 

カフターン部族は南セム族系譜南方系アラブ人であり、ノアの息子セムの子孫ヨクタン(カフターン)の子孫である。カフターン部族は半島南部では一般的住人でとりわけイエメンおよびオマーンの一部に多い。一定の地域に定住し生活基盤を持った農民であり、かつては南アラビアの古代農業文明(紀元前2300年~紀元前800年)を作り出した。カフターンは24人の息子をもうけた。カフターン部族は基本的にはカフターンの24人の息子の子孫であるが、その中で優れたいたのはサヌア(アザアル)とハドラマウトであった。もう1人の息子はヤアルブといい、ヤアルブの息子ヤシュジュブがサバ(アブド・シャムス)の父親であった。すべてのイエメン部族はその祖先を辿るとサバに行き着くと考えられている。サバの2人の息子によって、カフターン部族はヒムヤル族とカフラーン族にさらに分けられるとされているが、ここでは古代イエメン4部族とその他のカフターン部族を含めて4つの部族に分類している。

 

B.1. 古代イエメン4部族

 

古代イエメン4部族とはセム族系カフターン部族のマイーン族、シバ族(サバ族)、ハドラマウト族およびカタバーン族である。紀元前1千年期にこれら4部族はサイハド文明を支えそれぞれ古代イエメンに地方王国を形成していた。マイーン王国は北西で涸れ谷ジャウフの中に、シバ王国はその南東に、カタバーン王国はシバ王国の南東に、ハドラマウト王国はその東に位置していた。これらの王国群のあるアラビア半島南部はギリシアでは「恵まれたアラビア」を意味する「アラビアの幸福」と呼ばれ、そしてラテン(古代ローマ人)では「幸福なアラビア」を意味する「アラビア・フェリクス」と呼ばれていた。その富の源泉はこの地方で産する乳香、没薬(ミルラ、桂皮、肉桂皮(シナモン)およびラブダナム(半日花から採った天然樹脂)であった。

 

B.1.1. マイーン族

 

マイーン族はイエメン北西の涸れ谷ジャウフの中にその東端で、サイハド沙漠と呼ばれている沙漠回廊の西の端にあるカルナーウを首都としてマイーン王国を紀元前8世紀に築いていた。マイーンの碑文は遠く離れたアラビア北西部のウラーやエジプトのデロス島でも発見されている。紀元前2世紀後半にマイーン王国はシバ王国に敗れて紀元前1世紀頃に滅びた。そしてマイーン語も西暦100年頃に絶えしまった。

 

B.1.2. シバ族

 

シバ族はイエメン南西部のアシールにマアリブを首都としてシバ王国を紀元前8世紀に築いた。紀元1世紀には航海術の進歩によって海のシルククロードの一つでもあった「乳香の道」の交易経路が陸上から紅海経由の海上輸送へと移った事でシバ王国の繁栄に陰りが見え始めた。3世紀のローマ世界の経済不振や西暦313年のローマ帝国のキリスト教改宗による乳香、没薬等香料需要の落ち込みによって交易量は大きく減少した。交易収入の減少に加えてヒムヤル王国、アクスム王国、ハドラマウト王国等の外敵の攻撃も加わり、王国は衰退の一途をたどっていった。

 

その終焉は「ヒムヤル国によって紀元前25年に征服され、西暦115年頃にはマアリブ・ダムの所有権も奪われて西暦275年に滅亡した」とされている。マアリブ・ダムは紀元前700年に建設され、101平方キロメートルの土地を灌漑して千年以上に渡って農業基盤をなしていた。「西暦525年にアビシニアのアクスム王国がヒムヤル王国を打ち破ったので、シバ王国は復活した」とも云う。しかしながらマアリブ・ダムを補修・修復する経済力は、そのシバ王国にはもはや無かった。マアリブ・ダムの維持管理はおろそかになり、570年にダムがついに崩壊した。

 

アラブの伝説によると「ノアの長男でセム族の祖先であるセムがマアリブにシバ王国(サバ王国)を創建した」と云う。紀元前10世紀にソロモン大王と会見したと云われるシバの女王は、アビシニアではマケダ、イスラームの伝説ではビルキス、ローマの歴史家ヨセフスにはニカウラと呼ばれているが、実在した人物かどうかについても疑問を持つ学者も多い。又、「シバ王国は、アフリカのアビシニアにあった」と云う説にも説得力がある。シバ族はシバ(サバ)の子孫と云う事では異論は無いようであるが、シバについては「ノアの曾孫ラーマの息子シバである」との説と「カフターンの息子シバである」あるいは「カフターンの孫ヤアルブの息子シバである」等の異なった記述がある。

 

B.1.3. ハドラマウト族

 

ハドラマウトはイエメンの古代都市国家群の在った涸れ谷の名前でもあり、ギリシア語の要塞化が語源で隊商路の要塞化された水場のある宿場を意味する。近代のキャラバンサライは将にこれに相当する。

 

カフターン(ヨクタン)の息子ハドラマウトの子孫ハドラマウト族は、紀元前8世紀頃にはハドラマウト王国を築いていた様である。最初のハイドラマウト碑文はその頃からあらわれる。紀元前7世紀初期のカラビル・ワタール(シバ王)の古いシバ碑文にはハイドラマウト王ヤダイルが盟友として記述されている。しかしながらマイーン人が紀元前4世紀に隊商路を支配した時にハイドラマウトは、おそらく商業上の利害からマイーンの同盟国の1つになっていた。その後にハドラマウトは独立した。1世紀末に向けて勢力を伸ばしていたヒムヤル王国の侵略を受けたが、その攻撃を撃退した。ハドラマウト王国は2世紀の後半にカタバーン王国を属領化し、その領土は最大と成った。

 

この時代にハドラマウトはヒムヤル王国およびシバ王国と戦争をしていた。シバ王国のシャイルム・アウタール王は、225年にその首都シャブワを占領した。この時代にアクスム王国は南アラビアに介入し始めた。アクスム王ガダーラートはその息子の指揮下に西岸からヒムヤル王国の首都ザファールを占領する為に軍を派遣し、同様にシバ王国の同盟国としてのハドラマウト王国に対しても南岸から軍を派遣した。結局、ハドラマウト王国は西暦300年頃に南アラビア王国群を併合しつつあった初代ヒムヤル国王シャンマル・ヤリアシュによって征服された。

 

B.1.4. カタバーン族

 

カタバーン族は紀元前4世紀に涸れ谷バイハーンを中心としてカタバーン王国を築いた。この王国は紀元前1,000年紀後半における最も代表的南アラビア古代王国の1つであった。他の南アラビアの王国と同じ様に祭壇で炊かれる乳香と没薬の交易で大きな富を得ていた。カタバーン王国の首都はティムナであり、ハドラマウト王国、シバ王国およびマイーン王国等、他の南アラビア古代王国を通る交易路に位置していた。カタバーン王国の守護神(月の神)は叔父を意味するアンムであった為、その民は自らアンムの子供達と名乗っていた。カタバーン語はカタバーン人が用いたシバ語である。この王国は2世紀の後半にはハドラマウト王国によって属領化されてしまった。

 

B.2. ヒムヤル族

 

アラビア西南部およびアフリカ対岸に居た古代人で高度な文明を持ちセム族に属するエチオピア語に近いアラビア方言を話していた。現在でもアラビア南部にその子孫が残っている。ヒムヤルはシバ族の始祖シバ(サバ)の2人の息子の1人である。カフターン部族を2分するヒムヤルの子孫は、紀元前110年頃に古代南アラビアの王国の1つであるヒムヤル王国建国した。ヒムヤル王国は紀元前25年にシバ王国を倒し、西暦50年にはカタバーン王国、西暦100年にはハドラマウト王国を倒した。この王国は政治的にはシバ王国同様に盛衰を繰り返していたが、西暦280年頃に覇権が固まって西暦525年までアラビア南西部で栄えた。その財政は農業と漁業で支えられ、その富は乳香と没薬の外国交易で得られていた。この王国は長年に渡り東アフリカとローマ帝国等の地中海世界を結ぶ中継貿易の主要な役割も担っていた。アフリカ交易では象牙が主要交易品であり、ヒムヤルの交易船は東アフリカ海岸を航行し東アフリカの港も支配していた。

 

最後の支配者ズー・ヌワース王はユダヤ教に改宗し、同王のヒムヤル王国内に居住していたエチオピアのアクスム派キリスト教徒へ戦いを挑んだ。この戦いは「ナジュラーンの虐殺」として有名であり、同王は更に他のエチオピア人やヒムヤル人のキリスト教徒をザファール(現在のイブ)でも虐殺した。ユスティヌス1(518 – 527)はこの出来事をエチオピアのアクスム王国のカーリブ王に通報し、対応を要求した。西暦525年頃にカーリブ王はヒムヤル王国に侵入し、ユダヤ教のズー・ヌワース王を打倒した。この最初の勝利はアクスム王国の将軍アブラハに奪われたが、アブラハはヒムヤル王国へのアクスム王国の宗主権を認めたのでその支配は西暦570年まで続いた。

 

B.2.1. クダーア族

 

クダーア族はカフターン部族ヒムヤル族の支族であり、カルブ族やハルブ族をその一門に持っている。詳細は余りわかってはいないが、「キリスト教を信仰していてラフム朝(266 - 602)の苦難の後にイエメンを追われ、ラフム王国南部のサマーワ(現在のイラク)に移住した」との記述がある。

 

B.2.1.a. カルブ族

 

カルブ族はヒムヤル族クダーア族支族の一門である。キリスト教を信仰しており、イスラームの台頭期にはドゥーマ・ジャンダルとその周辺のみならず遠く北西アラビアのタブークにもその覇権を広げていた。イスラームの台頭期にヒムヤル族はカルブ族を支配する為にキンダ部族出身のウハイディル・イブン・アブドゥルマリクをドゥーマ・ジャンダルの王として任命し、ドゥーマ・ジャンダルはその支配の下にあった。ウハイディルは現在の南イラクのヒーラ地方のドゥーマと呼ばれる町に兄弟と住んでいた。ウハイディルと兄弟達は沙漠にカルブ族の叔父を訪ねるのが常だった。その旅行に使ったコースの一つで石造りの僅かな壁だけが残る荒廃し見捨てられた町に行き着いた。アラブは石をジャンダルと呼ぶ。伝説によれば兄弟達はそこに町を築き、オリーブを植えた。自分達のヒーラでの町の名であるドゥーマとたくさんの石に因んでドゥーマ・ジャンダルと名付け定住した。ウハイディルは当時の大勢力であったビザンチン帝国(330 or 395 - 1453)やサーサーン朝ペルシア(224 - 651)と連携を保っていた。「アッラーの剣」と呼ばれたムスリム軍指揮官ハーリド・イブン・ワリードが西暦633年にドゥーマ・ジャンダルを攻撃していた時にウハイディルはビザンチン帝国の一勢力としてビザンチン帝国との国境地帯における部族が盟主としたガッサーン朝と同盟し、その王ジャバラ・イブン・アイハムやその首長ジューディー・イブン・ラビーアと密接な協力関係を持っていた。ウハイディルはビザンチン帝ヘラクレイオスを主君として受け入れていたので予言者ムハンマドのドゥーマ・ジャンダルへの最初の遠征はローマ帝国への攻撃を意味していた。ウハイディルはヒジュラ暦12年(西暦633年)に回教徒指揮者ハーリド・イブン・ワリードに征服された。

 

B.2.1.a.1. シルハーン族

 

10世紀にはナフード沙漠の覇権はカルブ族からタイイ族に渡った。涸れ谷シルハーンとジャウフに広がる地域でのタイイ族の覇権は、13世紀から15世紀まで続いた。その後もジャウフではタイイ族支族のファドル族の流れであるアムル族の覇権が18世紀まで続いた。その一方でカルブ族の支族シルハーン族は18世紀まで涸れ谷シルハーンを支配していた。その後にシルハーン族は幾つかの分派を残して北方のヨルダンやパレスチナへと移住して行った。

 

B.2.1.b. ハルブ族

 

ハルブ族の系譜はカフターン部族ヒムヤル族クダーア族に属し、ハルブ族の始祖はハルブ・イブン・サアド・イブン・サアド・イブン・ハウラン・イブン・アムル・イブン・クダーア・イブン・ヒムヤル・カフターン(ヨクタン)(Harb ibn Saad ibn Saad ibn Khawlan ibn Amr ibn Qadha'ah ibn Himyar ibn Qahtan)である。カフターン部族が同族であるバヌー・ラビーア・ビン・サアド族との何回かの戦いの後のヒジュラ暦131年(西暦749年)頃にアラビア半島南部から水と土地も求めてヒジャーズに移住したのに伴い、ハルブ族も同時代のヒジュラ暦2世紀頃(西暦8世紀頃)からヒジャーズへ移住し始めた。

 

B.2.1.c. バヌー・ラビーア・ビン・サアド族

 

バヌー・ラビーア・ビン・サアド族については詳しいことは分からない8世紀前半に親族のカフターン部族と何度か争い、カフターン部族がヒジャーズに移住する要因となった。

 

B.3. カフラーン族(カハラーン族)

 

カフラーン族は純粋のアラブ族を代表するカフターン部族を2分するシバ(サバ)の2人の息子の内のカフラーンの子孫であり、シバ(サバ)族同盟の主要な部族の1つであった。紀元前1世紀にシバ族同盟が次第に衰えると、その南隣のヒムヤル族はそれまでシバ族同盟と同盟していた多くの遊牧部族と連携して低地に強力なヒムヤル国を創設できる様になった。結果的にシバ族同盟はヒムヤル族に合併され、ヒムヤル族に圧倒されたカフラーン族は抵抗力は弱められてイエメン高地を追われた。

 

カフラーン族の多くは、3世紀にマアリブ・ダムが崩壊するまでマアリブ周辺の沙漠に残っていたが、ダムの崩壊でカフラーン族はメソポタミアやシリアに移住せざるを得なかった。カフラーン族はアズド族、ハムダーン族、キンダ族、タイイ族およびラフム族の5主要支族に分かれていた。アズド族にはシャフラーン族が含まれているとの説もあるが、大きな部族なので、一般的にはシャフラーン族は、カフラーン族の1支族として扱われている。

 

B.3.1. アズド族

 

アズド族(ウズード族)はシバ王国の首都マアリブに住んでおり、アズド族の土地はマアリブ・ダムで灌漑されていた。3世紀にダムが3度目に崩壊した時にアズド族はイエメンを離れて多くの地方に移住した。主要なアズド族にはイムラーン・イブン・アムル族、ジャフナ・ビン・アムル族(ガッサーン族)、サラバ・イブン・アムル族、ハーリサ族(フザーア族、バヌー・フザーア族)の4支族がある。

 

B.3.1.a. イムラーン・イブン・アムル族

 

アズド族支族のイムラーン・イブン・アムル族はオマーンに移住・定住し、その後はイラン南西部のシーラーズ等に侵入した。別の支族はティハーマに移住してアズド・ウマーン族となった。

 

B.3.1.a.1. アズド・ウマーン族

 

上記イムラーン・イブン・アムル族参照。

 

B.3.1.b. ジャフナ・イブン・アムル族

 

3世紀始めにマアリブからシリア南西部の火山性平原ハウラーンへ移住したジャフナ・ビン・アムル族は、土着のアラム人等の原始キリスト教徒集団を統合して王国を築いた。シリアへ移住する途中に立ち寄った泉からその名をとってこの王朝をガッサーン朝と名付け、その民をガッサーン族と呼んだ。ローマ帝国はガッサーン朝との間にローマ領を侵す他のベドウインに対する緩衝地帯として同盟を結び、重要で友好的な藩屏とした。「ローマ皇帝ピリップス・アラブス(244 to 249 A.D.)はガッサーン族の出ではないか」と云われている。

 

B.3.1.b.1. バヌー・ガッサーン族

 

上記ジャフナ・ビン・アムル族を参照。

 

B.3.1.c. サラバ・イブン・アムル族

 

サラバ・イブン・アムル族はアズド族から離れ、ヒジャーズに移住しヤスリブ(現在のメディナ)に定住した。その子孫がアウス族とハズラジュ族であり、622年の移住(ヒジュラ)際にムハンマドに協力してムハンマドをメディナに受け入れたアンサールとなった。

 

B.3.1.c.1. アウス族(バヌー・アウス族)

 

アウス族はハズラジュ族と共にサラバ・イブン・アムル族の一門であり、イスラーム以前のヤスリブと云う名であったメディナの支配を二分していた。両部族はそれぞれの命運をかけて617年におけるユダヤ部族クライザ一門に帰属するメディナ・オアシス南東地区で戦った。アウス族はユダヤ族のナディール族とクライザ族およびアラブ遊牧民ムザイナ族に支援され、その同盟の指導者はフダイル・イブン・シマクであった。一方のハズラジュ族はハズラジュ族の大半とジュハイナ族とアシュジャ族の遊牧民およびユダヤ族のバヌー・カイヌカーウ族に支援され、アムル・イブン・ヌウマーンが指揮していた。戦いの途中でアウス一門とその同盟軍は最初は退却したが、その後は反撃してカズラジ一門を打ち負かした。両軍とも指揮者が殺されたのでアウス一門は勝利したにもかかわらず、戦いの結果は明確な決着にはほど遠かった。この戦はブアースの戦い(617)と呼ばれ、その後も両族間の血讐が繰り返された。この為にヤスリブの住人は預言者ムハンマドに両者の裁定者としてヤスリブに聖遷(ヒジュラ)する様に依頼した(E.2.4. ブアースの戦い(617)に参戦したアラブ遊牧民参照)。

 

B.3.1.c.2. ハズラジュ族(バヌー・ハズラジュ族)

 

上記のアウス族を参照。

 

B.3.1.d. ハーリサ族(フザーア族、バヌー・フザーア族)

 

フザーア族はハーリサ族とも呼ばれアズド族に属し、イエメンからメッカ周辺に移住してきた。フザーア族は聖域を征服し、その住人であったジュルフム族を追い出してメッカに定住した。メッカに入城するとフザーア族はアラブ部族の為に巡礼の中心としてこの市を保護し続け、そして自分達の有名な偶像神フバルを持ち込んできた。偶像神フバルはカアバ神殿の中に安置され、メッカの偶像神の主神となった。5世紀にフザーア族はカアバ神殿に対する権威を失くし、首長の娘婿であるアドナーン系統に属するキナーナ族を祖とするクライシュ族のクサイ・イブン・キラーブ・イブン・ムッラ(c. 400 - 480)にとって代わられた。フザーア族は「象の年」と呼ばれる570年まではクライシュ族と同盟を結んでおり、共同してアブラハの軍勢に対抗した。 630年にはフザーア族はクライシュ族と同盟を結んでいたバクル族に攻撃された。その少し前からムハンマドと同盟を結んでおり、その攻撃は「フダイビーヤの休戦協定(628 A.D.) に対する協定違反と見做された。それがイスラーム軍によるメッカの無血征服につながった。長い間メッカを支配してきたので、その子孫のほとんどは今でもメッカとその周辺に住んでいる。なお、フザーア族にはアドナーン部族ムダル族に属すると云う説も一部にある。

 

B.3.1.d.1. バニー・マーリク族(バヌー・マーリク族)

 

フザーア族(ハーリサ族)の支族であり、主要なアラブ族の1つであった。第4代正統カリフ(656 – 661)アリー・イブン・アビー・ターリブに忠誠を誓い共に戦った武将マーリク・イブン・アシュタルの子孫である。アシュタルは658年に反アリー勢力で混乱したエジプトへ援軍に出発する直前にムアーウィヤ(ウマイヤ朝始祖)の部下に毒殺された。ムアーウィヤは「アリーはもはやその両腕を失った」と歓喜し、アリーは悲嘆に暮れたと伝えられている。

 

B.3.1.e.tru J. バニー・シャハル族等

 

アズド族には上記主要4支族の他にバニー・シャハル族、シュムラーン族、バニー・アムル族、バル・アスマル族、バル・アハマル族、バル・カルン族等も含まれている。シャフラーン族は本来アズド族支族であるが大きな部族となっているのでカフラーン族支族としてアズド族と同列に扱い、ここには含めていない(B.3.6. シャフラーン族参照)。これらの部族は紀元前約4,000年にマアリブ ダムが崩壊した後、移住して居る。ナマース町とタヌーマ町はバニー・シャハル族の土地にある。バニー・シャハル族はこれらの町やターイフ・アブハー道路沿いの多くの村々に散らばっている。

 

B.3.2. ハムダーン族

 

ハムダーン族はカフラーン族5主要支族の1つであり、ハムダーン族にはバヌー・ヤーム族、バヌー・カスィール族、バヌー・マシュロウキ族の3支族がある。紀元前1000年紀からイエメン部族としてよく知られており、シバ碑文にも記述されている。897年にイエメン北西部のサアダでラッシー朝(ラシード朝)(893 – C. 1300)が最初のザイド・イマーム政権(897 – 1962)を樹立した際に助力したハーシド一門とバキル一門もハムダーン部族の独立した支族とされている。

 

B.3.2.a. バヌー・ヤーム族(ヤーム族)

 

ヤーム族はナジュラーンとその近傍の空白地帯西に住み、ハムダーン族に属するナジュラーン地方出身の大きなベドウイン部族である。その支族にはムッラ族とアジュマーン族があり、東部州のハジャール族やウジュマーン族(アジュマーン族)とは近い親族であると云う。ヤーム族は伝統的には空白地帯沙漠近傍を遊牧していたベドウインである。ナジュドを繰り返し襲撃し、1775年の第一次サウジ公国(1744 - 1818)設立の頃にはリヤード西40kmのドゥルマーを攻撃している。ヤーム族の大半はエジプトのファーティマ朝(909-1171)時代にシーア派小分派であるイスマーイール派に改宗したが、スンニー派に留まった部族民も居る。現在ではバヌー・ヤーム族は特にジェッダやダンマーム等を中心にサウジ全国に散らばっている。

 

B.3.2.a.1. ムッラ族

 

ムッラ族(マッラー族)はバヌー・ヤーム族系のジュシャム族の出である。ムッラ族はアラビア半島の諸族の間では駱駝と共に厳しい遊牧生活を送って居ることで有名である。他の遊牧民の様に定住者に頼らずに駱駝と共に生活する事を誇りにしている。駱駝と人と真の共生関係を築き、アラビア語では「駱駝の人」と呼ばれている。そのなわばりはハサー・オアシスの南から空白地帯の北部および中央部であり、集落を持たず夏場に利用する井戸でさえ集落の近くには無く牧草を探して駱駝と年間に1,900 kmも驚異的な距離を移動する。

 

駱駝のミルクに米や乾燥したナツメ椰子の実やたまには狩りの獲物を加えて食し、ミルクで渇きを癒して沙漠の奥で遊牧を続けて来た。追跡と狩りの巧みさや方向感覚のすばらしさで他のベドウイン部族に非常に畏れられて居り、最も苛酷な環境で生き残れる極端な頑強さと地形や植物への深い知識を持っている。他の遊牧民と重複していても自分達が専用に使用する沙漠の井戸を所有しているし、他の遊牧民が牧草を求めて沙漠の奥深くに入り込んだとしても空白地帯のムッラ族のなわばりまで到達出来る者は居ない。この為、他の部族との遭遇が殆ど無く時として「幻の遊牧民」とも呼ばれていた。

 

B.3.2.a.1.1. ガフラーン一門

 

近代化と共にムッラ族はその独自性を今では殆ど無くしてしまって居るが、サウード家はイブン・サウードのリヤード脱出の後にムッラ族に世話になった恩義を忘れては居ない。例えば995年のカタール首長シェイク・ハマド・ビン・ハリーファの宮廷革命に反対して1996年の首長放逐の企てに参加した。この為ムッラ族ガフラーン一門5,000余名は国籍剥奪をされが、2005年にサウード家タラール・イブン・アブドゥルアズィーズ殿下の嘆願で国籍剥奪は企てに参加した犯人だけに限る事となった。

 

B.3.2.a.2. アジュマーン族(ウジュマーン族)

 

アジュマーン族(ウジュマーン族)は北東アラビアのベドウイン族で、ナジュラーンの主要部族バヌー・ヤーム族(ヤーム族)の支族である。アジュマーン族はクウェイト、カタールおよびアラブ首長国連邦にも広がっている。アジュマーン族はムッラ族と共に18世紀にバヌー・ヤーム族から分かれ、東に向かい、アハサーとクウェイトの間に移住した。この時にムッラ族はもっと南の空白地帯の境界地帯に移住している。シーア派小分派であるイスマーイール派の多いバヌー・ヤーム族ではあってもアジュマーン族とムッラ族は、完全にスンニー派を信奉していた。

 

後にアジュマーン族はムタイル族、ウタイバ族と共にイフワーンの3部族の1つとなった。アジュマーン族は戦闘に強く、19世紀と20世紀初頭には東部および中央アラビアで覇権を握っていた。アジュマーン族の小さな一門であるヘスライン一門は、オスマン帝国との戦いやイフワーン民兵としてサウジ建国に功績があり、サウード家との婚姻関係を持っている。アジュマーン族はムタイル族およびウタイバ族の一部とイブン・サウードに反乱したが、1929529日のサビラの戦いで敗北し鎮圧された。ほとんどのアジュマーン族は遊牧生活を捨ててアラブ首長国アジュマーンに定住したが、多くがサウジアラビアとクウィトにも残っている。サウジアラビア国内の主要な定住地は涸れ谷アジュマーンとも呼ばれるジューダ村である。ジューダ村はリヤードとダンマーム間のハイウェイ沿いにあり、ダハラーンから西南西140km付近に位置する。

 

B.3.2.a.3. ジュシャム族 

 

バヌー・ヤーム族の支族でムッラ族(マッラー族)をその一門にもつ。但し、バヌー・ジュシャムはムハンマド時代のユダヤ族であった。

 

B.3.2.b. バヌー・カスィール族

 

バヌー・カスィール族はハドラマウトに移動し、独立したスルターン国を樹立していた。

 

B.3.2.c. バヌー・マシュロウキ族

 

バヌー・マシュロウキ族はレバノンに移住して、東方典礼カトリック教会マロン派の有力家族を生み出している。

 

B.3.2.d. バキル族

 

古代と同じバキル族がマアリブとハッジャの間にあるサヌア北の高原地帯に残っており、その名は最北地域を拠点とするイエメン最大の部族同盟に付されている。

 

B.3.2.e. ハーシド族

 

古代と同じハーシド族がマアリブとハッジャの間にあるサヌア北の高原地帯に残っており、その名は北部・北西部山岳が拠点とするイエメンで2番目に大きな部族同盟に付されている。

 

B.3.3. キンダ族

 

キンダ族はカフラーン主要5支族の1つで、シバ王国(c. 8th C. BC - AD275)を構成した部族の1つであった。紀元前25年にシバ王国がヒムヤル王国によって征服されると、ワディ・ダワースィルの南80 kmにあるカルヤ・ファーウに移住してきた。キンダ族はそこに城塞都市を築き、紀元前1世紀から4世紀頃まで駱駝隊商路に裕福な部族都市として栄えた。カルヤ・ファーウが半島中央部の経済的、宗教的、文化的そして社会的中心であった時代(紀元前200年から西暦200年頃)は、第一期キンダ王国とも呼ばれている。

 

シバ王国はその後復活し西暦275年まで続いたが、カルヤ・ファーウとの関係は良好ではなく何度か戦いがあった。シバ王国はマアリブ・ダム崩壊のあった後の西暦280年にヒムヤル王国によって再び属領化された。この時もキンダ族はマアリブを出て古代バハレインを目指したが、アブドゥルカイス・アドナーン族に駆逐された。この為にキンダ族は4世紀にナジュドのシャンマル山塊に1支族を残してイエメンに帰郷し、故郷のハドラマウトへ定住した。その時期にハドラマウト王国を属領化(西暦300年)していたヒムヤル族はハドラマウト族とは伝統的に敵対していたキンダ族にハドラマウト全体への支配権を与えてキンダ王国(325 - 425)を築かせた。

 

5世紀にはいると、ヒムヤル王国はアラビア湾やメソポタミアへ至る隊商路の確保しようと半島の中央部と北部を支配する為にイエメンとシリアの間の交易の重大な脅威と成って来たアドナーン部族と対抗でき、従属関係を持つ封建国家を創ろうとしていた。西暦425年にヒムヤル王はキンダ族にその任に当たらせるためにカルヤ・ファーウの封建君主に封じた。6世紀まで続いたこの封建国家は第二期キンダ王国(425 – 528)とも呼ばれた。好戦的なキンダ族は5世紀の後半には卓越したバクル族(バクル・イブン・ワーイル族)グループを含む半島中央部の諸族を一つの強い同盟に結束させた。6世紀初めラフム朝(266 - 602)を征服、その首都のヒーラを占領し、多くの部族と同盟してビザンチン帝国(330 or 395 - 1453)の領土やサーサーン朝(224 - 651)のメソポタミアに侵攻した。さらにビザンチン帝国との国境地帯における部族が盟主としたガッサーン朝(37世紀)の為政者を交代させた。西暦525年にアクスム王国(c. 50 940)がヒムヤル王国を侵略するとキンダ王国も次第に衰退した。キンダ族はアサド族、タグリブ族、キナーナ族およびカイス族に分裂して勢力を失い崩壊し再びイエメンへ帰郷していった。(なお、アサド族、タグリブ族、キナーナ族およびカイス族についてはアドナーン部族にも同じ名の有力部族がいるので留意する必要がある)。

 

その後、「B.2.1.a. カルブ族」で紹介したようにイスラームの台頭期にもカルブ族(ヒムヤル族クダーア族支族分家で当時はキリスト教徒)を支配するためにヒムヤル族によってキンダ族出身の王がドゥーマ・ジャンダル置かれた。

 

B.3.4 タイイ族

 

タイイ族はカフラーン主要5支族の1つで、北アラビア中央部のハーイルから西南西に伸びるアジャー山塊とターバの北10km付近のサルマー山塊に挟まれた地域に移住し定住した。タイイ族はこの地域をバニー・アサド族とバニー・タミーン族と共有していた。タイイ族は遊牧民と都市定住民の両方で構成されていた。部族の殆どは偶像崇拝の信者であったが、伝説的な詩人ハーティム・ターイーの様なキリスト教徒も居た。

 

タイイ族の幾つかの部門はイスラーム以前にイラクやシリアの様な近隣地域に移住し始めては居たけれども、タイイ族はイスラームの始めの数世紀に行われたイスラーム征服戦争(632 - 732)にはレバノンやエジプトを含めイスラーム帝国の多くの地方で、部門や個人単位で積極的に参加した。そのほとんどはそのまま他の部族に同化してしまい、イスラーム初期には自治権を持つ部族グループとしてもはや存在して居なかった。タイイ族の生き残りはその後にイラク、シリア、サウジアラビアおよびクウェイトで生まれた幾つかの部族の先祖となっている。タイイ族を祖先とする部族にはバヌー・ラーム族、ファドル族およびバヌー・ハーリド族の幾つかの部門がある。現在のシャンマル族カビーラ支族もタイイ族の子孫である。

 

B.3.4.a. バヌー・ハーリド族

 

バヌー・ハーリド族は、東アラビアおよび中央アラビアのアラブ部族同盟の中核となった部族である。バヌー・ハーリド族は、アドナーン部族と称しており、タイイ族を祖先とするのはバヌー・ハーリド族同盟の1部の部門のみと考えられる。(アラブ化したアラブ族系譜の部族同盟の章のバヌー・ハーリド族同盟を参照。)

 

B.3.4.b. バヌー・ラーム族

 

バヌー・ラーム族は、中央アラビアおよびイラク南部に居る部族で、「古代アラブ部族タイイ族の子孫である」と称しており、15世紀以前にはメディナとヤマーマの間の西ナジュドを支配していた。バヌー・ラーム族は次第にナジュドを離れ、その多くはイラク南部に移住した。そこでスンナ派からシーア派に改宗した。その一方でバヌー・ラーム族の多くの部門はナジュドに残り都市に定住した。

 

B.3.4.b.1.tru3. カスィール族等

 

上記カフラーン主要5支族タイイ族のバヌー・ラーム族はカスィール族、 フドゥール族および ムギーラ族の3支族に分けられる。このうちフドゥール族は18世紀にナジュドを離れた最後のバヌー・ラーム族であった。

 

B.3.4.c. ファドル族

 

ファドル族はタイイ族支族で13世紀から18世紀までジャウフを支配していたアムル族の親部族である。

 

B.3.4.c.1. アムル族

 

アムル族はカフラーン・カフターニ部族タイイ族支族ファドル族の一門である。10世紀にはナフード沙漠の覇権はカルブ族からタイイ族に渡った。タイイ族の支配する地域は広がり続けジャウフに及んだ。ジャウフはタイイ族支族のファドル族の流れであるアムル族に支配され、ジャウフ・アル・アムルと呼ばれた。アムル族は13世紀以前にジャウフでの生活を手に入れた。アムル族の影響はカルブ族が衰退した後に半島北部で増大してファドル族やその親部族であるタイイ族がシリアから涸れ谷シルハーンとジャウフに広がる地域での覇権を握った。タイイ族の覇権は13世紀から15世紀まで続いた。その後もジャウフにおいてはアムル族の覇権が18世紀末まで残っていた。

 

B.3.4.d. ザフィール一門

 

タイイ支族の一門であり、サウジ北東やクウェイト方面に多いとされている。

 

B.3.5. ラフム族

 

バヌー・ラフム族はカフラーン・カフターニ部族ラフム族支族で二世紀にイエメンから移住してきた。イラク南部に住んでいた同族のムナーズィラ族含むアラブ・キリスト教徒のグループを統合し、西暦266年にヒーラを首都するラフム朝(266 - 602)を建国した。その民はほとんどキリスト教に改宗しラフム族と呼ばれた。ラフム朝は統一アラブの王国を目指して陸軍大部隊を編成しアラビア湾で活動する海軍力を発展させた。

 

アラビアの多くの都市を奪い取ると共にペルシアの海岸都市も襲撃した。サーサーン朝(224 - 651)はこれに対して6万の軍でラフム朝に侵攻した。ラフム朝はローマに援軍を求めたが、その援軍は間に合わなかった。サーサーン朝はラフム朝陸軍を壊滅させ、ヒーラを占領した。サーサーン朝はラフム朝に新しい王を擁立しペルシア帝国本土とアラビア半島の他のアラブ部族の間の緩衝地帯とした。ラフム族は2年後(330年)に反乱して王位を回復したが、その後の主な敵国は東ローマ(ビザンティン帝国)に隷属していたガッサーン朝(3rd C - 636)となった。

 

五世紀の後半から勢力を拡大してきたキンダ王国が六世紀の始めにラフム朝を征服し、首都のヒーラも占領した。ラフム朝は528年頃までにはサーサーン朝の援助でその領土を奪回し、勢力を取り戻した。ラフム朝はその勢力を六世紀末までは維持し、キリスト教ネストリウス派の主要な中心ともなった。しかしながら602年その王がサーサーン朝から裏切りの疑惑をもたれ死刑に処せられ、サーサーン朝に併合されて滅亡した。

 

B.3.6. シャフラーン族

 

シャフラーン族(シャーラン族)はカフラーン・カフターニ部族の有力部族である。「その起源はカフターンの直接の子孫である」とも云われるが、アズド族一門と扱われる事もある。アシール内陸部では最大の部族の1つでカフターン部族と勢力を二分し、サウジアラビア建国まで部族間戦争をしていた。シャフラーン族領内でもっとも大きく主要な都市は、人口63万人のカミス ムシャイトである。この市はサウジの第4の交易センターであると共に、国際級の軍事基地がある。シャハラーンのアラビア語の意味は「広い」である。この部族構成員は25万人と推定され、アラビアで最も大きな部族の1つである。シャフラーン族の指導者は400年来、ムシャイト家が担ってきている。

 

B.3.7. ムナーズィラ族

 

ムナーズィラ族はキンダ族とガッサーン族と共にカフターン部族カフラーン族に属し、シバ王国(c. 8th C BC – AD275)の一翼を担っていた。紀元前25年にシバ王国がヒムヤル王国によって最初に征服された後、ムナーズィラ族はアラビア半島を北上してイラク南部に移住した。そこでムナーズィラ族はキリスト教に改宗した。2世紀にイエメンから移住してきたバヌー・ラフム支族出身のアムルによってイラク南部に住んでいたアラブ族キリスト教徒は、ラフム族と統合された。西暦266年にはヒーラを首都する王朝が建国された。この王朝はアムルの出身部族の名に因んでラフム朝と名付けられ、その民は全員ラフム族と呼ばれる様になった。

 

B.3.8. ガーミド族

 

ガーミド族は全員がサウジ南西部でアシール山脈北部のバーハ地方の町や農村に居住し、この地方を故郷とするアラブ族である。この部族は南アラビア系譜カフターン部族カフラーン族に属しているが、隣のザハラーン族と密接な親戚関係がある。多くのガーミド族は早期のムスリム帝国軍に参加した。ガーミド族は山岳部族のサラート族、東の沙漠を遊牧するバーディヤ族およびティハーマ平地に住むトゥハーマ族に分かれてはいる。宗派は皆、スンニー派である。最近になって他の南西アラビア部族と同じ様にリヤード、ジェッダおよびトゥハーマ族等の都会に教育と就職を求めて移住している。

 

B.3.8.1. サラート族

 

ガーミド族の山岳部族。

 

B.3.8.2. トゥハーマ族

 

ティハーマ平地に住むガーミド族。

 

B.3.8.3. バーディヤ族

 

東の沙漠を遊牧するガーミド族。

 

B.3.9. アーミラ・ジュザーム族

 

カフラーン・カフターニ部族の5主要支族は、アズド族、ハムダーン族、キンダ族、タイイ族およびラフム族ではある。但し、「カフラーン・カフターニ部族はタイイ族、アズド族、アーミラ・ジュザーム族およびハムダーン・マズヒジュ族の4支族から構成されていた。アズド族はオマーンを侵略し、アーミラ・ジュザーム族はパレスチナへ移住し、ハムダーン・マズヒジュ族はそのほとんどがイエメンに残っていた」と記述している文章もある。しかしながらアーミラ・ジュザーム族とハムダーン・マズヒジュ族についてそれ以上の詳細は分からない。

 

B.3.10. ハムダーン・マズヒジュ族

 

上記アーミラ・ジュザーム族を参照。

 

B.3.11. a. tru h. その他のカフラーン族

 

カフラーン・カフターニ部族の支族としてはその他にはハスアム族、バジフラ族、マズヒジュ族、アシュアル族、ズバイド族、ナフ族、ムズヒジュ族、ムラード族等の名前を挙げられるが、いずれも詳細については不明である。

 

B.4. 1. tru 3. その他のカフターン部族

 

カフターニ部族としてはアルマア族、アルマア・アドナーン・バニー・ハーリサ族および アサド族とその支族の アルマアイブンイディ族の名が挙げられるが、いずれも詳細は不明である。

 

C. アラブ化したアラブ族(アドナーン部族)

 

アドナーン部族は一神教の偉大な長老で聖典の民の始祖アブラハムの子イシュマエル(イスマーイール)を始祖とするアラブ化したアラブ族で、イシュマエルの12人の息子で最初に生まれたナビトの子孫アドナーンを祖とし、北部、中部および西部アラビアに勢力を持ったアラム人血統の部族である。アドナーン部族は純粋のアラブ族と呼ばれるカフターン部族と対峙していた。カフターン部族はノアの息子セムの子孫ヨクタンと同一視されているカフターンの子孫で南部および南西部アラビアに勢力を持っていた。

 

アドナーン部族に属する部族としてムダル族、イヤード族、アンマール族およびラビーア族があり、主要2部族の1つムダル族にはカイス族(カイス・アイラーン族)、クライシュ族を含むキナーナ族(バヌー・キナーナ族)とタミーム族(バヌー・タミーム族)が属し、もう一つのラビーア族にはタグリブ族(タグリブ・イブン・ワーイル族)やバクル族(バヌー・バクル族、バクル・イブン・ワーイル族)が属している。預言者ムハンマドもアドナーンの子孫である。

 

C.1. ケダール族

 

旧約聖書には「ケダール族はイシュマエルの次男ケダールの名に因んで付けられた」と記述され、何度も引用されている。アラビア語の部族名はアラビア文字がまだ無かったので、アッシリア語で紀元前8世紀に最初に書き残された。アラム語でも紀元前6世紀に文字に書き表された。アッシリアの碑文には紀元前87世紀にかけて叛乱したり貢物を送ったりしたケダール族の王達の名前が記述されている。その中には女王ザビーベ(738BC – 733BC)の名も含まれている。ケダール族に関する記述はアラム語や古代南アラビア語碑文にも見られヘロドトス(c. 484BC – 420BC)、プリニウス(23 – 79)やディオドロス(d. c.21BC)等の古代ギリシアやローマの歴史家の記述にも見られる。

 

アラブ系図学者は「アラブ族の祖先イシュマエルの長男ネバイオス又は次男ケダールのどちらかがイスラーム教創始者ムハンマドの先祖になる」と、とりわけ重要視している。紀元前8世紀にアッシリア碑文は「ケダール族はバビロン西国境の東の地域に住み紀元前7世紀にもっと東のトランスヨルダンやシリア南部に移動し紀元前5世紀までにシナイから遠くナイル三角州まで広がった」と述べている。ケダール族はケダール族同盟を組織し今日のドゥーマ・ジャンダルであるドゥーマを中心に北アラビア一帯に影響力を持ち最盛期の紀元前6世紀にはアラビア湾とシナイ半島の間の大きな地域を支配していた。

 

C.2. ナバテア人

 

アラビア語ではアンバート族と呼ばれるナバテア族の出身地についてはナジュド、アラビア湾北岸、ヒジャーズあるいはエドム等、諸説ある。アシール地方の言い伝えでは「サラート山地には古代から人が住み続けて来ておりナバテア族がシリア大砂漠へ移住したのは、この地からであった」と云う。また「アラブ化によるアラブ人の祖先イシュマエルの長男ネバイオスがナバテア族の始祖である」との記述もある。「中央アラビア(ナジュド)から来た」と云う学者も居れば、「アラビア湾の北岸から来た」と云う学者も居る。その他に「ヒジャーズあるいは南レヴァントのエドムから来た」と云う学者もいてナバテア族の起源はハッキリしていない。いずれにしてもナバテア族の祖先はアラム語の方言であるナバテア語を話していた。遊牧生活を送りながら羊の放牧や盗賊稼業や交易などを行い、紀元前2世紀頃から紀元2世紀にかけて栄えた。ナバテア族は紀元前1世紀ごろから現在のヨルダンにあるペトラを拠点としていたエドム人を南に追い払って都とすると共に、アラビア付近の交易を独占していた。106年にはローマ皇帝トラヤヌス(AD 98 - AD 117)によりペトラとナバテア人はローマのアラビア属州として完全に組込まれナバテア族支配は滅びた。

 

C.3. ムダル族

 

ムダル族はラビーア族と共にアドナーン部族に属する主要2支族の1つである。その主な一門にはカイス族(カイス・アイラーン族)、クライシュ族を含むキナーナ族(バヌー・キナーナ族)とタミーム族(バヌー・タミーム族)が挙げられる。

 

C.3.1. カイス族(カイス・アイラーン族)

 

ムダル・アドナーン部族から分かれたカイス・アイラーン族は、カイス族とも呼ばれる。カイス族にはガタファーン族(バヌー・ガタファーン族)、ハワージン族とバヌー・スライム族の3つの主要支族がある。3支族とも7世紀まで東ヒジャーズに留まっていた。

 

イスラーム以前の時代にはカイス族はナジュトやヒジャーズを通過する隊商にとって脅威として悪名が高かった。クライシュ族はヤスリブ(メディアの旧名)のムスリムを排除するためにそのデーツ(ナツメ椰子の実)の収穫の3分の1を支払っていた。バドルの戦い(624)の後にムスリム軍はヤスリブを攻撃する準備をしていたカイス族一門のスライム族をクドル・オアシス(Al Qudr)で襲い500頭の駱駝を奪ったが、塹壕の戦い(627)ではカイス族はクライシュ族に次いで大きな功績をあげた。この戦いで背信したユダヤ教徒はメディナ北140kmにあるハイバルに砦を構え、カイス族一門のガタファーン族と防衛同盟を結んでいた。629年にムスリム軍の攻撃に対しガタファーン族兵士4,000人をユダヤへの援軍に派遣したが説明のつかない脅威を感じて引き返した(根拠地と家族をムスリム軍に襲われるのを恐れたとの説もある。)そしてカイス族は一門のハワージン族がサキーフ族と共にムスリム軍に敗北したフナインの戦い(630)の後にイスラームに改宗した。ウマイヤ朝(661 – 750)の時代にカイス族はさらに多くの支族に分かれていった。

 

ジャウフ地方のドゥーマ・ジャンダルは涸れ谷シルハーンを抜けて北へシリアおよびパレスチナへの隊商路とイラクへの隊商路との2つの交易ルートの分岐点であった。周囲の沙漠に住むベドウインにとっては信仰の中心でもあった。年一度開かれ市の場所であったので、イスラーム前のジャーヒリーヤ時代には名声や繁栄を謳歌していた。ドゥーマ・ジャンダルはイスラーム教国への併合によって信仰の中心を失って衰亡した。アッバース朝(750 – 1258)がバグダードに遷都すると、主要な隊商路がクーファ(バクダット南170km)から聖なる都市であるメッカおよびメディナへ通じる様になりドゥーマ・ジャンダルは交易の分岐ではなくなりさらに衰亡した。それに加えて沙漠化が進んで住環境が悪化したことも衰亡に拍車をかけた。

 

ジャウフを支配していたのはカルブ族とカイス族であった。カルブ族はカフターン・ヒムヤル部族の支族クダーア族の一門であり、カイス族はムダル・アドナーン部族の支族であった。カリフ継承を巡る第2次イスラーム内乱中の6847月にダマスカス近郊でマルジ・ラヒトの戦い(684)が起きた。この戦闘ではカルブ族はアブドゥルマリク・イブン・マルワーン率いるウマイヤ朝軍の中核を成しており、カイス族はカリフ継承の競争相手であるイビン・ズバイル(624 - 692)に味方していた。マルジ・ラヒトの戦いはウマイヤ朝側が勝利しアブドゥルマリクは第5代カリフ(685 - 705)を継承した。カルブ族はアブドゥルマリクの助けに成って居た。一方のカイス族は壊滅的な敗北を被った為にマルジ・ラヒトの戦い以降はカルブ族とカイス族との反目が一層激しくなった。恒久的な憎しみと血みどろの敵対関係は、カルブ族をその領地を維持出来ずに暫くはパレスチナの地に移住しなければ成らない程まで疲弊させた。カイス族はカフラーン族支族のアズド族(ウズード族)とも多神教徒であった時代から戦い、改宗とは関係なくこの戦いは18世紀まで続いた。

 

C.3.1.a. ガタファーン族(バヌー・ガタファーン族)

 

ガタファーン族はマディーナ北方の大きな古代部族でムダル・アドナーン部族カイス・アイラーン族の1支族である。イスラームに改宗した後はムハンマドに協力したアラブ族の1つとなった。6274月の塹壕の戦いではクライシュ族と同盟して名を挙げた。有力な支族にはバヌー・アブス族等がある。上記の様に629年にはハイバルの戦いでムスリム側ではなく、ユダヤの側に味方しているのはこの時点ではまだムスリム軍には加わっていなかったのだと私は思っている。

 

C.3.1.a.1. バヌー・アブス族

 

バヌー・アブス族はムダル・アドナーン部族カイス・アイラーン族ガタファーン族(バヌー・ガタファーン族)の有力な支族であり、中央アラビア出身の古代ベドウインであった。

 

C.3.1.b. ハワージン族

 

ハワージン族はイスラーム以前の強力なアラブ部族で北アラビア系譜ムダル・アドナーン部族から分かれたカイス・アイラーン族に属しターイフの周辺に集中して居住していた。630年に預言者モハンマド側のムスリム軍は、サキーフ族に対するターイフ近傍でのフナインの戦い(630)で決定的に勝利し、莫大な戦利品を獲得した。そのフナインの戦いではハワージン族は敗戦したサキーフ族の同盟軍であった。その後イスラームに改宗し多くのハワージン族構成員がシリア、イラク、エジプト、モロッコ、スパイン等へのイスラーム征服(632 - 732)に参戦した。

 

C.3.1.b.1. アーミル族(アーミル・イブン・サウサア族、バヌー・アーミル族)

 

アーミル族(アーミル・イブン・サウサア族、バニー・アーミル族又はバヌー・アーミル族)は中央および南西アラビア出身の古代の大きな部族同盟であった。

この部族はムダル・アドナーン部族の支族カイス・アイラーン族ハワージン族一門の北部アラビア部族であり、バヌー・キラーブ族、バヌー・ヌマイル族、バヌー・カアブ族およびバヌー・ヒラール族で構成される。その出身地はビーシャに近いナジュドとヒジャーズの境であったが、東に移住しアフラージュを拠点にしていた。アーミル族はイスラーム以前にはクライシュ族と長年にわたって戦っていたが、ムハンマドとその直系の継承者に対して忠誠であった。アーミル族はムハンマド没後のリッダ戦争(棄教の戦い(632 – 634))では反ムスリムの背信者と同盟した。再びイスラームに改宗してからは数世紀にわたってナジュドで覇権を握った。アーミル族はハワーリジュ派の反乱の中で勢力を強めたバヌー・ハニーファ族よって7世紀終わりにアフラージュから南西に追われ、740年代に再びバヌー・ハニーファ族の領土拡大の矛先として攻撃された。744年のヤウム・ナッシャーシュの戦いでバヌー・ハニーファ族が決定的に敗北すると、ウマイヤ朝(661 – 750)が崩落しイラクのアッバース朝(750-1258)が支配者となったこともあってアフラージュのアーミル族は勢力を取り戻した。9世紀および10世紀になると、アーミル族の一部が南ナジュドから東アラビア、イラクおよびシリアへ移動を始めた。ハサーへの移住はアッバース朝(750 – 1258)支配が崩壊し始めた9世紀の後半にそこでのカルマト派出現と同時でありアーミル族はカルマト派の覇権がアラビア半島の多くの場所やそれ以上に急速に拡大するのに貢献した。アーミル族はこの征服の機会を利用して南ナジュド地域からシリアおよびイラクの国境に支配を確立した。11世紀にカルマト派が衰退しアブドゥルカイス族が樹立したウユーニード朝(1073 – 1253 AD)に打ち破れた後もアーミル族はその支配を奪われなかった。アーミル族の同盟が13世紀には東アラビアばかりでは無くヤマーマでも台頭した。アーミル族一門のバヌー・ウカイル族が同族のバヌー・キラーブ族からヤマーマの支配権を引き継いだ。14世紀と15世紀の涸れ谷ハニーファとハルジュはアーミル族から続くハサーの為政者に支配されていた。15世紀半ばにはアーミル族一門のバヌー・ウカイル族のジャブリード朝(1440 - 1524)が同じ一門のウスフーリード朝(1253 - 1440)から支配を受け継いだ。ジャブリード朝は殆どハルジュ周辺のムガイラ族、ダワースィル族、ファドル族、アイド族およびスバイウ族等の遊牧民に向けて戦闘を行いアーミル族一門の放牧地を新たらしく入って来た部族から守り、隊商路、巡礼路の安全を保障した。

 

C.3.1.b.1.1. キラーブ族(バヌー・キラーブ族)

 

バヌー・キラーブ族は西ナジュドに住んでいたベドウイン部族でありイスラーム以前はバヌー・アーミル族同盟を率いていた。他のアーミル族と同様にバヌー・キラーブ族は東アラビアのカルマト派運動と同盟していた。カルマト派が終焉した後は中央アラビアの覇権を握った。やがてこの部族は北のシリアへ移住し一時的にミルダーシード朝(1024 – 1080)を樹立したが、マムルーク朝 (1250 – 1517)の時代にこの部族は現住民の中に埋没してしまった。

 

C.3.1.b.1.2. ヌマイル族(バヌー・ヌマイル族)

 

バヌー・ヌマイル族はヤマーマの西境住んでいてそのほとんどがベドウインの部族でありウマイヤ朝(661 – 750)と支持していた。9世紀にはアッバース朝(750 – 1258)がヤマーマでバヌー・ヌマイル族掃討作戦を展開したのでイラクのユーフラテス川岸に向けてヤマーマを後にした。

 

C.3.1.b.1.3. バヌー・カアブ族

 

バヌー・カアブ族はアーミル族でもっと大きい一門でバヌー・ウカイル族、バヌー・ジャアダ族(Banu Ja’dah)、バヌー・クシャイル族(Banu Qushayr)およびハーリシュ族(Al-Harish)4族に分かれていた。4族ともヤマーマの南部の出身で遊牧のベドウイン部門と定住の農業部門を含んでいた。4族のそれぞれについては以下に述べてあるが、バヌー・カアブ族の他の部門は後にヤマーマとナジュドを離れてアラビア湾の両岸に沿って定住した。これらの部族はバニー・カアブ族(Bani Kaab)と呼ばれ、そのほとんどはイランのアフヴァーズ(Ahwaz)地方に住んでいる。(D.3.6.a参照)

 

C.3.1.b.1.3.1. バヌー・ウカイル族

 

バヌー・ウカイル族は古代のアラブ族で東アラビアとイラクの歴史上で重要な役割を演じた。この部族はバヌー・アーミル族同盟のバヌー・カアブ族に属する4族では特に大きく勢力があった。バヌー・ウカイル族はバヌー アーミル族同盟の出身地であるヒジャーズとナジュドの境の西アラビアから南に移動して涸れ谷アキークに定住した。後にバヌー・ウカイル族は預言者ムハンマドによってその領有を保証された(現在、涸れ谷アキークは涸れ谷ダワースィルと呼ばれている)。アッバース朝(749 - 1258)の治世の間にバヌー・アーミル族の多くはナジュドからイラクやシリアに移住した。バヌー・ウカイル族はバヌー・アーミル族の中では最後(ヒジュラ暦5世紀、西暦1112世紀頃)にナジュドを離れた。北部イラクのユーフラテス川岸に移住してモスルにシーア派のウカイル朝(990 - 1096)を樹立した。バヌー・ウカイル族となった支族はモスルや北メソポタミアの他の地域を支配したが、多くは遊牧民のままであった。ウカイル朝(990 – 1096)が倒されると、ウカイル族はハファージャ族、ウバーダ族およびムンタフィク族を含む幾つかの部族に分かれた(D.3.6.a1.13参照)。これらの一門は南イラクに定住して今でもそこに住んでいるが、一部はイラクから再移住して来てハサー・オアシス周辺の東アラビアの沙漠を奪った。ハサー・オアシス周辺に定住したバヌー・ウカイル族の一部はその後にバハレインを含めて東アラビアを支配したアラブ部族王朝ウスフーリード朝(1253 – 1440)を樹立した。ホルムズ王国(1017世紀)の封建領主でカティーフに根拠を置き、ウスフーリード王朝を一部受け継いだシーア派王朝ジャルワーン朝(1305 - 1487)もバヌー・ウカイル族に帰属するとの説もある(但し、ウユーニード朝同様にアドナーン部族の支族アブドゥルカイス族に属するという説も有力である)。ジャルワーン朝は15世紀末まで続き、バヌー・ウカイル族ベトウィン(Bedouin)の一門でウスフーリード朝から支配を譲られたジャブリード王朝( 1440 - 1524)によって終焉させられた。(D.3.6.a.1参照)

 

C.3.1.b.1.4. バヌー・ヒラール族

 

バヌー・ヒラール族はバヌー・アーミル部族では叙情詩にうたわれた一番有名な一門である。アラビア半島のヒジャーズおよびナジュド出身のベドウイン部族でバヌー・カアブ族に属する4族の1つである。この部族はカルマト派のアッバース朝対する反乱に加わった後にエジプトの沙漠に移住した。さらに東リビア砂漠に移住していた同じムダル・アドナーン部族支族カイス族の一門バヌー・スライム族に従ってチュニジアのメディナに定住した(C.3.1.c.参照)。両部族は時折アルジェリアを襲撃し、ベルベル人イスラーム王朝ハンマード朝(Hammadid Dynasty, 1008 – 1152)をムシーラ(M’Sla)からベジャイア(Bejaja)へ追い出した。この歴史物語はアルジェリア、チニジアやエジプトでは叙情詩として語らえている。この他に11世紀にファーティマ朝(909-1171)によってシーア派を遺棄したベルベル人のイスラーム王朝であるズィール朝(Zirid Dynasty, 973 – 1148)を懲らしめるために上エジプトから北アフリカに移住させられた。バヌー・ヒラール族は速やかにズィール朝を打ち破り、隣のハンマード朝に深紅な打撃を与えたとの説もある。この部族の移住はマグリブ地方の言語、文化、人種のアラブ化の大きな要因となり、以前はほとんど農地として利用されていた地方に遊牧がひろがった(バヌー・ヒラール族によって沙漠化されたとの説もある)。

 

C.3.1.b.1.5. スバイウ族

 

スバイウ族はスンニー派で北アラビア系譜ムダル・アドナーン部族から分かれたカイス族(カイス・アイラーン族)のハワージン支族に属し中世にナジュドで覇権を握っていたアーミル・イブン・サウサア族として知られる古代の大部族バヌー・ アーミル族の一門である。この部族はナジュドの中央部および西部に居所を定め多くは遊牧民であり20世紀になっても遊牧民と定住民から構成されていた。ももともとの遊牧地は,ナジュドとアシールの境のランヤやフルマであったが、リヤード周辺の中央ナジュドまでも遊牧して着ておりさらに北に向かいルマーフの町を創設した者達もいるし、クウェイトに移住した者達もいる。定住した部族は数世紀にわたりほとんどナジュドに住んでおり、ナジュドのどの町でも不釣合いな割合で見受けられる。定住した者達はスバイと云う部族名を使っている。

 

C.3.1.c. バヌー・スライム族

 

バヌー・スライム族はバヌー・ガタファーン族およびハワージン族と共にムダル・アドナーン部族カイス・アイラーン族の主要3支族の1つである。同族と共に塹壕の戦い(627)で敗れた後にイスラームに改宗した。フナインの戦い(630)ではバヌー・ヒラール族やハワージン族を打ち負かせた。11世紀にはバヌー・ヒラール族に次いで北アフリカに移住した(C.3.1.b.1.4. バヌー・ヒラール族参照)。

 

C.3.2. キナーナ族(バヌー・キナーナ族)

 

キナーナ部族はヒジャーズではムダル・アドナーン部族最大の支族で預言者イルヤース (エリヤ)の孫フザイマの子キナーナを祖とするキナーナ族が生まれた。キナーナ族は元々メッカ近郊に居住していたが、その一部は4世紀前にスペインに移住しイベリア半島のアラブ・アンダルシアにも大きな政治的影響力を持っていた。

 

C.3.2.a. クライシュ族

 

キナーナの曾孫フィーフル・イブン・ マーリク・イブン・ナドル・イブン・キナーナ(別名クライシュ)を共通の父祖とする部族は、クライシュ族と称した。したがってクライシュ族はキナーナ族の1支族といえる。クライシュ族は45世紀頃にメッカを中心に勢力をもっていた。イスラーム以前にはメッカからイエメンへ交易する隊商を営んでいた。預言者ムハンマドは、同部族の祖クライシュから11代目の子孫でありその祖先はアダムまでを遡ると云う。その一門にはバヌー・アブド・マナーフ、バヌー・マフズウム、バヌー・タイム、バヌー・アディー、バヌー・アサド、バヌー・サフム等が挙げられる。バヌー・アブド・マナーフ一門にはさらにバヌー・ナウファル、バヌー・ムッタリブ、バヌー・ハーシム、バヌー・ウマイヤを含むバヌー・アブド・シャムス等が連なる。またバヌー・ハーシム一門にはハーシム家(ハワシム家)やシャイビ家が連なる。

 

C.3.2.a.1. バヌー・アブド・マナーフ一門

 

ムダル・アドナーン部族バヌー・キナーナ族クライシュ族の一門。

 

C.3.2.a.1.1. バヌー・ナウファル一門

 

ムダル・アドナーン部族バヌー・キナーナ族クライシュ族バヌー・アブド・マナーフ一門に属し、預言者ムハンマドの叔父ムトイム・イブン・ウダイの出身一門である。

 

C.3.2.a.1.2. バヌー・ムッタリブ一門

 

ムダル・アドナーン部族バヌー・キナーナ族クライシュ族バヌー・アブド・マナーフ一門に属し、この一門は預言者ムハンマドの祖父シャイバ・イブン・ ハーシム(アブドゥルムッタリブ)(c. 497 -578)を養育した預言者ムハンマドの曽祖父の弟ムッタリブ・イブン・アブドゥルマナーフを祖とする一門である。シャイバは父の死後にこの叔父に引き取られた。ヤスリブからメッカ市へ入る時に叔父の後に騎乗していたので間違えられてムッタリブの奴隷と呼ばれた。そしてそれがそのまま身元を確認される名アブドゥル ムッタリブとなった。

 

C.3.2.a.1.3. バヌー・ハーシム一門

 

ハーシム一門は預言者ムハンマドの曽祖父ハーシム・イブン・アブドゥルマナーフ(d.ca. 497 or 510)を祖とする一門であるが、現在では預言者ムハンマド娘ファーティマ(c. 605 or 615 - 632)の子孫とされることが多い。ファーティマと第4代正統カリフ(656-661)となったアリー・イブン・アビー・ターリブに生まれたハサン・イブン・アリー(625 – 669)とフサイン・イブン・アリーの子孫が預言者ムハンマドの血統としてサイイド或はシャリーフの尊称で呼ばれている。シャリーフは、部族を守護する者に伝統的に与えられてきたアラブ族の称号であり、「高貴な血筋の人」を意味するアラビア語でもある。シャイバ・イブン・ ハーシム(アブドゥルムッタリブ)の息子でムハンマドの父もアブドゥッラー・イブン・アブドゥルムッタリブ(545 - 570)を名乗り、2人のその弟達もそれぞれ、アブー・ターリブ・ブン・アブドゥルムッタリブ(549 – 619)およびアッバース・イブン・アブドゥルムッタリブ(c. 566 – c. 653)と、ムッタリブを名乗っている。アブー・ターリブはハーシム一門当主であったが、預言者ムハンマドの父はムハッマドの生まれる前に亡くなっていた。母も幼いうちに無くなっていたので、預言者ムハンマドは、この叔父に育てられた。ハーシム一門は、カリフと預言者ムハンマドの地位をめぐってウマイヤ朝(661 – 750)と絶え間ない闘争していた。ウマイヤ朝も同じクライシュ族の出ではあるがバヌー・ウマイヤ一門の出であった。両一門の争いは深刻でありイスラームはスンニー派とシーア派に分かれる事となった。もう1人の叔父アッバースはアッバース朝(750 – 1258)の祖先とされる。750年にウマイヤ朝を打ち倒すとアブー・アッバース・サッファーフ(721 - 754)は預言者ムハンマドの叔父アッバースの子孫と称してハーシム一門の後継者を名乗った。

 

C.3.2.a.1.3.1. ハーシム家(ハワシム家)

 

アッバース朝(750 - 1258)が衰退すると、メッカの統治は10世紀からクライシュ族支族バヌー・ハーシム族が掌握した。メッカ首長管轄区は正式な体制として10世紀後半の早い年に創設されムハンメド・アブー・ジャファール・サラブ(967 - 980)が初代のシャリーフとなった。ターイフを含むヒジャーズでのシャリーフ支配は時と共に固まりメッカの首長(大シェリフ)にもっと現実的に付与された権威ができてきた。1147年にシャリーフ家の有力者カターダ・ビン・イドリース(1130 - 1220)がメッカの首長(アミール)に就くと、対抗する族長達に対する軍事的侵略に勝利し自分の支配する領土を南北に相当に広げた。イドリースの命令で行われた懲罰的な遠征の一つがサキーフ族とターイフに対してであった。メッカ太守の地位はアッバース朝(750 - 1258)時代の1201年に確立してカターダ・ ビン・イドリースは1220年までメッカのシャリーフの地位にあった。その間にバヌー・カターダ 王朝を創設してシャリーフの子孫がメッカを支配すると云う伝統を確立した。その伝統は1924年にヒジャーズがイブン・サウード(1876 - 1953)に征服され、フサイン・イブン・アリー(1916 - 1924)がメッカのシャリーフから廃位された1925年まで続いた。こうして、1201年から1925年までバヌー・ハーシム氏族ハーシム家(ハワシム家)がメッカのシャリーフを勤めた。

 

C.3.2.a.1.3.2. ザウー・アウン家

 

メッカのシャリーフ血統のハーシム家(ハワシム家)の一門でありメッカの最後のシャリーフ・フサイン・イブン・アリー(1916 - 1924)が属していた。

 

C.3.2.a.1.3.3. シャイビ家(シャイビ族)

 

シャイビ家は15世紀のメッカのシャリーフ政権内紛でバラカート一世(1404 - 1452)に公に戦いを挑んだ同族である。この内紛はエジプトのマムルーク朝(1250-1517)スルターン・バルスバーイ(1422 – 1438)1425年メッカに定住の守備隊を駐屯させる治安上の口実を与えてジェッダの徴税権を奪われた。この時までマムルーク朝はシャリーフに大きな自治権を与えて主な関心は聖地の保護、巡礼の監督および紅海の港全体の支配であった。ジェッダ港とその政権への直接支配の確立はヒジャーズ支配への公然とした干渉と事実上のシャリーフの従属が始まった証であった。マムルーク朝は賢明にもジッダ港からの歳入を全て収得せず、シャリーフへのその一部割り当てを許した。

 

C.3.2.a.1.3.4. バヌー・ウハイディル族

 

ジャウウ・ヤマーマにはイスラーム初期にバヌー・ハニーファ一門が住み、866年にはバヌー・ウハイディル族がヒドリマを都とするウハイディル王国建国して11世紀中までこの地域を支配した。カルマト派とは同盟したが、関係が悪化し928年には戦闘となった。その後はカルマト派に従属していたようである。

 

C.3.2.a.1.4. バヌー・アブド・シャムス一門

 

ウマイヤ朝(661 – 750)を生んだバヌー・ウマイヤ一門の親一門。

 

C.3.2.a.1.4.1 バヌー・ウマイヤ一門

 

バヌー・アブド・シャムスの一門で第3代正統カリフ(644 - 656)のウスマーン・イブン・アッファーンの出身一門であり、又、マッカ(メッカ)の有力者として預言者ムハンマドに激しく敵対し、後にイスラーム教に改宗したアブー・スフヤーン(560 - 650)やその息子でウスマーン暗殺への血の復讐を叫んで第4代正統カリフ(656 - 661)アリーと対立し、後にウマイヤ朝(661 - 750)を開いて初代カリフ(661-680)となったムアーウィヤ(602 - 680)の出身一門でもある。

 

C.3.2.a.2. バヌー・マフズウム一門

 

クライシュ族の中でも豊かな一門の1つであり、ムハンマドの教友で「アッラーの剣」と、呼ばれムスリム軍でもっとも有能な指揮官であったハーリド・イブン・ワリード(592 – 642)の出身一門である。又、この一門の有力家族としてはムガイラ家がある。

 

C.3.2.a. 2.1. ムガイラ家(ムガイラ族)

 

クライシュ族バヌー・マフズウム一門  の有力家族でヒシャームやその息子のムガイラ等クライシュ族の有能な指導者や指揮官を出している。

 

C.3.2.a.3. タイム一門(バヌー・タイム一門)

 

初代正統カリフ(632 -634) アブー・バクルとその娘で預言者ムハンマド最愛の妻アーイシャ(614 - 678)の出身一門である。

 

C.3.2.a.4. バヌー・アディー一門

 

2代正統カリフ(634 -644) ウマル・イブン・ハッターブの出身一門である。

 

C.3.2.a.5. バヌー・アサド一門

 

イスラーム教のカリフの一人で683年にウマイヤ朝のウンマ(イスラーム共同体)による統治に異議を唱えて第二次内乱(683 – 692)と呼ばれている反乱を起してメッカでカリフに即位したアブドゥッラー・イブン・ズバイル(624 - 692)の出身一門であり、又、預言者ムハンマドの妻で最初のイスラーム信者ハディージャ・ビント・フワイリド(555 - 619)の出身一門でもある。

 

C.3.2.a.6. バヌー・サフム一門

 

パレスチナとエジプトとを征服した有能な武将で、ムハンマドの教友でもあり、ウマイヤ朝初代カリフのムアーウィヤ(602 - 680)の盟友でもあったアムル・イブン・アース(c. 573 – 664)の出身一門である。

 

C.3.2.a.7. バヌー・アブドッダール一門

 

クライシュ族の戦闘の際に軍旗を掲げる一門であった。

 

C.3.2.a.8. バヌー・ジュマフ一門.

 

メッカの偶像崇拝部族と連携してムスリム軍と戦った。イスラームに改宗した後の駱駝の戦いではアーイシャに味方した。

 

C.3.2.a.9. バヌー・ズフラ一門

 

バドルの戦い(624)に先立ちメッカの駱駝隊商護衛の片翼を担っており、戦いにも参戦していた。

 

C.3.3. タミーム族(バニー・タミーム族)

 

タミーム族は「強く頑丈」との部族名を持つムダル・アドナーン部族支族であり、アラブ族の中で最大の部族の1つでもある。この部族の歴史はイスラーム以前に遡りクライシュ族とは姉妹関係の一門である。元々は、ナジュド沙漠、イラク中央・南部、イラン領西部海岸中央のフーゼスターン州、イエメンのハドラマウトやタイズ等に住んでいた。イスラーム征服(632 - 732)の時代にはモロッコまで移住している。この部族の始祖タミーム・イブン・ムッラ・イブン・カアブは、1世紀の人物でキリストの十二使徒に会っていると言われている。タミームの兄弟キラーブ(c. 373)は預言者ムハンマドの祖先であり、ムハンマドの母アミーナ・ビント・ワハブ(d.577)もこの部族出身であった。すべてのアラブ部族内で最大の部族の1つであり現在はその構成員は数百万人におよびアラビア半島とその周辺に居住している。この部族民はタミミ(Al Tamimi)と云う苗字を使っている。16世紀にタミーム族アブー・ウライヤーン朝がブライダ侯国を設立したが、アバルハイル朝に攻略された。ブライダ侯国は1890年にハーイルのラシード朝に占拠されたが、1904年にアバルハイル朝はブライダ公国の領土を奪回した。1907年にブライダ公国はサウジアラビア王国の領土となり今日に至っている。

 

C.3.3.a. バニー・ヤルブウ族

 

ムダル・アドナーン部族の支族タミーム族(バヌー・タミーム族)の有力支族の1つであった。

 

C.3.3.b. ムアンマル一門

 

ムダル・アドナーン部族の支族タミーム族(バヌー・タミーム族)の有力支族の1つであった。シャイフ・ムハンマド(ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ)(1703 – 1792)はタミーム族の出身で1703年にリヤード北西30kmにあるウヤイナで生まれた。その祖先はシャンマル山地からリヤード西北西130km付近にあるサルミダーに移住してきた。その為政者ムアンマル一門は15世紀の中頃にバヌー・ハニーファ族ヤジド一門からウヤイナを購入してその根拠地としていた。後にこの村は繁栄し近傍から多くの定住者を引き付け、18世紀までにはナジュド地方の中心地となった。

 

C.3.4. バニー・スライム・ビン・マンスール族

 

ムダル・アドナーン部族の支族の1つ。

 

C.3.4.a. ハファーフ一門

 

ムダル・アドナーン部族の支族バニー・スライム・ビン・マンスール族の一門。

 

C.3.4.a.1. バニー・ウトバ族

 

バニー・ウトバ族はムダル・アドナーン部族の支族バニー・スライム・ビン・マンスール族のハファーフ一門の子孫である。その支族にはウトゥーブ族やアール・ビン・アリー族がある。南ナジュドのアフラージュ(現在のライラ)をダワースィル族の圧力で離れアラビア湾岸に移動しその勢力の中心はカタール半島北西部のズバーラ地方であった。

 

C.3.4.a.1.1. ウトゥーブ族

 

語源はアラビア語の放浪者である。バニー・ウトバ族がその勢力の中心をズバーラ地方に置いた後、最終的に17世紀からバハレインそして18世紀からクウェイトを支配下に置いた。

 

C.3.4.a.1.1.1. ハリーファ家

 

バハレイン首長国は1783年に樹立された。ウトゥーブ族出身のハリーファ家が首長家を継承してきた。2002年からバハレイン王家となっている。但し、アナザ族同盟に属するウトゥーブ族とされているので系譜的には必ずしもムダル・アドナーン部族の支族バニー・スライム・ビン・マンスール族のハファーフ一門バニー・ウトバ族に属してはいないと思われる。

 

C.3.4.a.1.1.2. サバーハ家

 

18世紀初期からウトゥーブ族出身のサバーハ家がクウェイト首長を継承している。但し、アナザ族同盟に属するウトゥーブ族とされているので系譜的には必ずしもムダル・アドナーン部族の支族バニー・スライム・ビン・マンスール族のハファーフ一門バニー・ウトバ族に属してはいないと思われる。

 

C.3.4.a.1.2. アール・ビン・アリー族

 

バニー・ウトバ族がその勢力の中心をカタール半島北西部のズバーラ地方に置いた後、アール・ビン・アリー族はバハレイン、カタール、クウェイト、サウジアラビアおよびアラブ首長国連邦(UAE)に広がった。

 

C.4 ラビーア族

 

ラビーア族はムダル族と共に北アラビア部族(アドナーン部族)の主要2支族の1つである。ラビーア族の支族としては前述のタグリブ族(タグリブ・イブン・ワーイル族)とバクル族(バヌー・バクル族、バクル・イブン・ワーイル族)に加えてアナザ族(アニザ族)、アブドゥルカイス族(アブドゥルカイス・アドナーン部族)等があげられる。バクル・イブン・ワーイル族の一門には、さらにバヌー・ハニーファ族等があげられる。他のアドナーン アラブ族と同じ様にラビーア族の出身地は西アラビアのヒジャーズ地方であり、そこからラビーア族は北方や東方に移住した。

 

C.4.1. アナザ族(アニザ族)

 

アナザ族はラビーア・アドナーン部族の主要な支族である(アラブ化したアラブ族系譜の部族同盟の章のアナザ族同盟を参照)。

 

C.4.1.a. バニー・ヒザーン族

 

アナザ族(ラビーア・アドナーン部族支族)は2つ主要な支族に分けられる。1つはシリアやメソポタミアとの境の北アラビアに住む遊牧民であった。もう1つは東ナジュドのヤマーマ地方の涸れ谷群に定住していた部族で、バニー・ヒザーン族と呼ばれていた。

 

C.4.1.b. ラハーズィム族

 

アナザ族(ラビーア・アドナーン部族支族)は10世紀にバクル・イブン・ワーイル族との間にラハーズィムと呼ばれる部族同盟を結んだ。

 

C.4.2. タグリブ族(タグリブ・イブン・ワーイル族)

 

アブー・タグリブ族とも呼ばれるタグリブ族(タグリブ・イブン・ワーイル族)はメソポタミアや北部アラビアの大きく勢力のある部族である。この部族の先祖はナジュドに住んでいたが、6世紀に北へと、ジャズィーラ地方(ユーフラテス川上流からチグリス川上流にかけての地域)の平原に移住した。この時代にタグリブ族の大半はキリスト教徒であり、その勢力の大きさと強さで知られていた。この移住は下記に述べるバスースの戦いがその要因となっていた。すぐに南イラクを支配していたラフム朝(266 - 602)と衝突してユーフラテス川北部地域へさらに移動した。タグリブ族はムハンマドとその後の後継者の治世の間にイスラームに転向しなかったアラブ族の中で数少ない部族の1つであった。ムハンマドの没後のリッダ戦争(棄教の戦い)(632 – 634)にはその幾つかの支族がタミーム族支族バニー・ヤルブウ族の女性アラブ・キリスト教徒サジャーフ(Sajah)の預言能力を守るために戦った。棄教徒側が敗北すると、タグリブ族はカリフにサダカ税(Sadaka)を納めることでキリスト教信仰を続ける合意を得たと伝えられている。南イラクにいたタグリブ諸族はアンティオキア(Antioch)に自分達の信仰の教区を設けたが、アッバース朝(750 – 1258)に入ると、多くのタグリブ諸族がイスラームに改宗した。10世紀に北イラクとシリアを支配したハムダーン朝(Hamdanid Dynasty, 890-1004)はタグリブ族の子孫であるといわれている。次第にタグリブ諸族は定住生活に入り北メソポタミアの住人に埋没・同化したが、今でもタグリブ族の末裔が残っている。

 

C.4.3. バクル族(バヌー・バクル族、バクル・イブン・ワーイル族)

 

バクル・イブン・ワーイル族、バヌー・バクル族或はバクル族とも呼ばれ、アドナーン部族ラビーア支族に属している。兄弟部族タグリブ族との間で40年間にわたって行われた復讐が復讐を繰り返す血讐が行われたバスースの戦い(494 - 534)で知られている。5世紀にバクル・イブン・ワーイル族はヒジャーズや上ナジュドから半島を横断して東へ北へと移住した。そのバクル族の幾つかの市族の一門がヤマーマに定住した。その内のベドウイン一門がイスラームの少し前に北方に移動し、ユーフラテス川上流のジャズィーラ地区にも定住した。バクル族の支族には、バヌー・ハニーファ一門, カイス・イブン・サアラバ一門、バヌー・シャイバ-ン一門、バヌー・ヤシュクル一門バヌー・ルジル一門等がある。

 

C.4.3.a. ハニーファ一門(バヌー・ハニーファ一門)

 

5世紀にハニーファ一門はハジュルの遺跡を含むタスム族とジャディース族の廃棄された集落を占拠して定住した。西暦528年のハーリス・イブン・アムル(489-528)の没後にキンダ族同盟が崩壊すると、ヤマーマに政治的空白がもたらされバヌー・ハニーファ一門がその空白を埋めた。6世紀後半までにはアラビア湾からイエメンに至る隊商路が蘇り、その交易の恩恵を受けたハジュル・ヤマーマは、この時までに既に軍事的武勇、定住と農業の強い伝統と結びついて中央アラビアの部族間の争議解決や同盟の結成等の出来事に巨大な影響力をふるう様に成っていた。7世紀前半の「預言者ムハンマド(ca. 570 – 632)のイスラーム信仰」を呼びかけに対してヤマーマはキリスト教の影響があったと思われるムサイリマ(ヤマーマの自称預言者)の伝道を信仰していたので全く受け入れず最も不屈の抵抗を続けた。ムスリム(イスラーム教徒)がアラビアで経験した最もすさまじい戦いとなったアクラバー平原でのヤマーマの戦い(633)でイスラームが勝利し、バヌー・ハニーファ一門とヤマーマの人々はイスラームへに服従した。17世紀迄ではマンフーハ、ハジュルの一部でリヤードに成った場所であるムクリンとディルイーヤのたった三つの集落がバヌー・ハニーファ一門の末裔の家族に支配されていたに過ぎない。18世紀になるとこれらの町にハナフィー族出身ディルイーヤのムルダ一門、リヤードのザルア一門、スハイム一門、ドゥガイスィル一門とムダイリス一門およびマンフーハのシャアラーン一門等の僅かな家族が残って居るのみであった。

 

C.4.3.a.1. ハナフィー族

 

ラビーア・アドナーン部族に支族バクル・イブン・ワーイル族(バクル族)のバヌー・ハニーファ一門は、五世紀にヤマーマ地方(ナジュド台地東部の古代名)に移住して消えたアラブ族と呼ばれるタスム族およびジャディース族の廃棄された集落を占拠した。バヌー・ハニーファ一門の支族ハナフィー族は再建された集落ハジュル(現在はリヤード市内)の首長(守護者)をつとめた。六世紀後半までに陸上交易は復活しアラビア湾からイエメンに至る隊商路が蘇った。リヤード南東80kmに位置するハルジュがこの陸上交易路の枢軸となったのでハジュルにあったヒドリマ集落がハナフィー族の中心となった。ハナフィー族は遊牧民特に有力なタミーム族に対して覇を唱え、南ナジュドを横切る隊商交易の保護に大きな役割を果たした。ハジュルはメッカやターイフ同様に神域を持っており、中央アラビアの部族間の争議解決や同盟の結成などに出来事に大きな影響力をふるった。7世紀に入ると自称預言者ムサイリマを擁立しムハンマドに対抗した。ムハンマド没後(633)に勃発したリッダ戦争(棄教の戦い)(632 – 634)では最初から全くイスラームを受け入れなかったヤマーマ地方はムサイリマ指揮下に4万人が結集し、初代正統カリフ(632 - 634) アブー・バクルに対して最も不屈の抵抗を続けた。アクラバー平原でのヤマーマの戦い(633/634)で敗北し、イスラームを受け入れた。西暦680年のムアーウィヤ(602 – 680)没後のハワーリジュ派の反乱で傑出して居たのはハナフィー族のナジダ (Najdah)が指導するハニーファ一門であった。ナジダは先ずアーミル・イブン・サウサア族を南西にと征服した。それからナジダはハサー地方を支配し、そこからオマーン、イエメン、ハドラマウトおよびヒジャーズと攻め込みハワーリジュ派国家を樹立した。しかし、ナジダの後継者アブー・フダイク(d. 692) が暗殺され、ウマイヤド朝はその権威を回復した。740年代にハニーファ一門は再び反乱して再び領土拡大の矛先をアフラージュ(現在のライラ)のアーミル・イブン・サウサア族に向けたが、ヤウム・ナッシャーシュの戦い(744)で敗北してヤマーマ地方でアーミル・イブン・サウサウ族に有利となる決定的なきっかけと成った。ハニーファ一門は人口的には優勢であったので古い集落を占有し続け、十四世紀までに復活してきた。ハジュルに再び定住した人々はハナフィー族首長の下で平和に結束して暮らして居たと思われる。十八世紀になると、これらの町にはハナフィー族出身の僅かな家族が残って居るのみであった。

 

C.4.3.a.1.1. ムルダ一門(ムラダ一門)

 

15世紀にハジュルとジズアを支配していたムルダ一門のディルア族首領であったイブン・ディルアは、この地方に同族を増やそうとしてアラビア湾岸のカティーフ近傍のディルイーヤに定住していたムラダ一門のムルダ族を招いた。マーニア・ムライディーを首領とするムルダ族は、1446年にハジュルに到着し、イブン・ディルアから分け与えられた領地に移住した。そして16世紀初めまでには涸れ谷ハニーファのジュバイラ以南を領土としてディルイーヤと名付けた。

 

C.4.3.a.1.1.1. ミクリン家(ムクリム家)

 

マーニア・ムライディーを首領とする一族は、定住後にディルイーヤ支配を強固にした首長の名をとってミクリン家或はムクリム家と名乗りディルイーヤのムルダ一門の支配家族となった。18世紀初頭の幾つかの初期段階の争いの後、ミクリンとも呼ばれるムハンマド・イブン・サウード(1687 - 1765)がこの町とその周囲の地所の異議の無い首長となった。ムハンマド・イブン・サウードは、1744年にムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(1703 – 1792)を受け入れ、イスラーム実践改革事業に政治的支援を提供する事に同意した。これが第1次サウジ公国(1744 – 1818)の始まりであった。この時にミクリン家は、ムハンマド・イブン・サウード以降、サウード家と改名された。なお、ムルダ一門はワーイル族を通じてラビーア族同盟に属していたと考えられていたが、ムルダ一門がワーイル族の支族であるとの説には異論が出てきた。多くはムルダ一門がナジュドの土着であることから消えた部族バニー・ハニーファの生き残りであるとの意見であった。しかしながら、サウード家の含む多くは北アラビアおよびシリア沙漠の偉大なベドウインのアナザ族同盟(アニザ族同盟)の子孫であると主張している。スイス人旅行家ヨハン・ラドウィグ・ブルクハルト(1784 - 1817)19世紀初頭に北西アラビアで出会ったアナザ部族(アニザ部族)の権威によれば「アニザ部族およびバニー・ハニーファは両方ともラビーア族同盟のワーイル支族(バヌー・バクル族、バニー・ワーイル族あるいはバクル・イブン・ワーイル族)の一門である」と云う。

 

C.4.3.a.1.1.2. ワトバーン家

 

ムルダ一門の中で如何に争ったかは、16世紀に分裂した幾つかの家族がドゥルマーやアバー・キバーシュへの移住に現れている。ムルダ一門の分裂は首領を争う競合同士として二つの主要なグループ(ムクリン家とワトバーン家)が現れるまで続いた。18世紀初めまではワトバーン家がムルダ一門の首領にあったのを1720年の少し前からムクリン家の競合分家のサウード・イブン・ムハンマドが首領の役を引き受け、1725年に首領の役をワトバーン家に引き継いだが、ムクリン家のサウードの息子のムハンマドは、ムルダ一門の首領の地位を奪い、ワトバーン家から町から追放した。ワトバーン家はイラク南東部のズバイルへ赴きそこで親族と一緒になりそこの為政者家族と成った。

 

C.4.3.a.1.1.3. ディルア族

 

ディルイーヤの創建の話は十五世紀までのハニーファ族の人口減少を説明している。ハジュルとジズアのディルア族の首領であったイブン・ディルアはこの地方の親族の数を増やそうと、自分の領土に豊富にある農地にアラビア湾のカティーフの近くのディルイーヤと云う場所に住んでいたムラダー一門の親戚を招いた。1446年にマーニア・ムライディーを首領とする一門が到着し、イブン・ディルアはヤズィード一門の領地と接している自領の北部分にあるガースィバおよびムライビド地区(涸れ谷ハニーファ内)を与えた。

 

C.4.3.a.1.1.4. マトハミー家

 

アシール地方は1800年に第2次サウジ公国の支配に入り、サウード系列のマトハミー家出身の首長によって1817年まで統治されていた。

 

C.4.3.a.1.1.5. サウード家

 

1720年の少し前からムルダ一門の首領役を引き受けたムクリン家競合分家のサウード・イブン・ムハンマドがサウード家の創設者(名祖(なおや))になった(C.4.3.a.1.1.1. ミクリン家を参照)。

 

C.4.3.a.2. ザルア一門(アバー・ザルア一門)

 

アバー・ザルア一門は16世紀にハジュルから分離しリヤード発祥となったムクリン集落の為政者家族であった。

 

C.4.3.a.3. バヌー・ハニーファ末裔

 

18世紀までヤマーマに残ったバヌー・ハニーファ一門。

 

C.4.3.a.3.1. シャアラーン一門

 

シャアラーン一門は、18世紀までヤマーマに残ったバヌー・ハニーファ一門(ハナフィー族)一門でマンフーハを支配していた。

 

C.4.3.a.3.2. スハイム一門

 

18世紀リヤードに残っていたラビーア・アドナーン部族バクル・イブン・ワーイル族バヌー・ハニーファ一門の末裔。

 

C.4.3.a.3.3. ドゥガイスィル一門

 

18世紀リヤードに残っていたバヌー・ハニーファ一門末裔。

 

C.4.3.a.3.4. ムダイリス一門

 

18世紀リヤードに残っていたハニーファ一門末裔。

 

C.4.3.a.3.5. ヤズィード一門

 

バヌー・ハニーファ一門の有力な一門で、十四世紀にはヤズィード一門は依然として涸れ谷ハニーファ、涸れ谷クッラーンおよびハルジュの多分そこ頃までには村とほぼ同じ規模に成って居た古い集落を支配して居たと記録されて居る。後にウヤイナとなった場所はタミーム族が十五世紀半ばにヤズィード一門から買い取った。

 

C.4.3.b. カイス・イブン・サアラバ一門

 

サーサーン朝ペルシア(224 - 651)にバクル・イブン・ワーイル族(バクル族)を主力としてアラブ族が勝利したイスラーム以前のディー・カールの戦い(609年)に参加していた。

 

C.4.3.c. バヌー・シャイバーン一門

 

上記のディー・カールの戦い(609年)に参戦して特に功績のあったバクル・イブン・ワーイル族(バクル族)の一門。

 

C.4.3.d. バヌー・ヤシュクル一門

 

上記のディー・カールの戦い(609年)に参戦したバクル・イブン・ワーイル族(バクル族)の一門。

 

C.4.3.e. バヌー・ルジル一門

 

ラビーア・アドナーン部族アブー・バクル族(バクル・イブン・ワーイル族)の一門。

 

C.4.4. アブドゥルカイス族(アブドゥルカイス・アドナーン族)

 

アブドゥルカイス族は、アドナーン部族ラビーア支族の一門であり「23世紀にアラビア湾東岸(イラン側)中央のキーシュ島にあったカイス港を支配し3世紀終わりにバハレインを支配していた」と云う。リッダの戦い(ザカート拒否背信者との戦い)(632 – 634)でイスラームに忠誠を誓って初代正統カリフ・アブー・バクル(632 - 634) の救援を得て包囲軍(バクル・イブン・ワーイル族とヒラの前支配者の同盟)を四散させると、海岸地帯を行進しペルシア軍をカティーフ・オアシスのザーラにある要塞に閉じこめタールート島および海岸地帯のその他の集落をイスラームに改宗させた。やがてハサー・オサシス北部のウユンにも定住した。セルジューク・トルコ(1037-1194)の支援を得て東アラビアおよびバハレインでのカルマト派支配を退けウユーニード王朝(1076 – 1253)を樹立し11世紀から13世紀にかけて覇権を握った。

 

C.4.5. その他のラビーア族

 

C.4.5.a. アンマール族

 

ラビーア・アドナーン部族の1つ。

 

C.5.1. tru 3. その他のアドナーン部族

 

アドナーン部族にはその他にイヤード族、バニー・アサド族、バヌー・フザイル族などがある。イヤード族についての詳細は不明である。バニー・アサド族はイラク・シーア派の有名で有力な部族であり、バヌー・フザイル族は預言者イルヤースの孫フザイルの子孫である(E.1.2.b. リヒヤーン族参照)。

 

D. アラブ部族同盟

 

アラビアでは伝統的に南西アラビアの部族が北や北西を目指して移動し移動先で先住の部族を放逐したり征服したり共存したりして定住して来た。そうした中ではカフターン部族とアドナーン部族が混じり合ったり地縁でつながったりした。例えばキリスト教等の同じ宗教でつながったりして幾つもの小さな部族が1つに束ねられ新しい部族を生まれてたりしている。この様な部族同盟はカフターン部族ともアドナーン部族とも区別できないが支配者の系図からそのどちらかを名乗る場合もあるし地名を名乗ったり同胞としての集団名を名乗ったりする場合もある。又、他の部族や集団を組織して国家を形成している部族同盟もある。支配者の系図名を名乗る部族同盟にはアナザ族、アマレク族、アーミル イブン・サウサア族(バヌー・アーミル)、シャンマル族、タヌーフ族、バヌー・ウカイル族、バヌー・ハーリド族、ハムダーン部族、ハルブ族、リジャール・アルマア族等がある。地名や同胞名を名乗る部族同盟にはアシール族、ウタイバ族、ジャブリード族同盟、ムタイル族、ムンタフィク族、ルワラ族等がある。国家を形成している部族同盟にはガッサーン族同盟、キンダ族同盟、ラフム族同盟、ケダール族同盟等がある。

 

D.1. 純粋のアラブ族(カフターン部族、カフターニ部族)系譜の部族同盟

 

カフターン部族系譜を名乗る部族同盟。

 

D.1.1. タヌーフ族同盟

 

タヌーフ族同盟は古代にカフラーン・カフターン部族アズド族の幾つかの一門を集めて結成された。3世紀に南アラビアから移住して来て、4世紀にシリアからアカバ湾の及ぶ広範囲な中東でのローマ同盟(アラブ部族同盟)を形成した。タヌーフ族同盟はパルミラ王国(260 -273)の女王ゼノービヤー(ゼノビア)(240 – c. 274)の軍勢をローマ皇帝アウレリアヌス(270 – 275)が撃破するのに大きな役割を演じ、古代ローマのフォエデラティ(ローマ市民権を持ち戦力を提供する同盟部族)を務めた。女王マーウィイヤ(375 - 425)に率いられ378年にローマ皇帝ウァレンス(364 – 378)に対して叛乱を起こした。休戦が取り交わされ、その間に女王マーウィイヤは、ゴート族の攻撃で苦境にあったローマの要請に答えて騎兵軍団を援軍に送ったりもしていた。しかしながらテオドシウス1(378 – 395)治世下でタヌーフ族は、再びローマに叛乱を起こし同盟関係は崩壊した。タヌーフ族はサラセンとも呼ばれた。

 

D.1.2. リジャール・アルマア族同盟

 

アシール山脈南部の町や農村に居住している。リジャール・アルマア族もサウジ族の主要部族で人口は約10万人である。リジャール・アルマアは、丘陵性のティハーマ山地のリジャール・アルマア族同盟の一つ村である。現在のイエメンにあった古代王国サバ(シバ)(8th C BC - AD 275) の都マアリブから一団の人々が離れた。非常に厳しい旅の末にこの険しい地方に辿り着き村を築いたと伝えられ、1,000年もの伝統がある。その建築様式はイエメンに類似しており家々にはこの地方で採れる大理石が使われている。何層にも要塞の様に作られ美しい石造りで開口部を飾るのに石英が好まれており、格子縞模様がすべての窓と扉の上に付けられている。リジャール・アルマアはもともと棚畑で小麦、大麦およびキビ等を栽培する農村であったが、サウジアラビア最高峰スーダ山に近くスーダ国立公園から延長全長3,500m、標高差1,000 mの大きな観光用カーブルカーで結ばれてからは観光にも力を入れている。伝統的な家屋は村人達によって60棟保存され村の中心には2,000点ものこの土地の習慣や伝統を展示する素晴らしい村立の博物館が整備された。村には観光客を相手に伝統料理を出す食堂も少なくは無い。残念ながらウサーマ・ビン・ラーデンの指示を受けたアル・カーイダが2001911日に起こしたアメリカ同時多発テロ事件の実行犯にはこの町の出身者が多かった事でも知られる様になった。リジャール・アルマア族は、ティハーマ・リジャール・アルマアとも呼ばれ、カイス・マナーズィル族、バヌー・ザイド族、バニー・バクル族、イブン・ダリム族、バニー・アブド・シャハーブ族、シャディーダ族、バニー・フーナ族、バニー・クトバ族、バニー・アブドゥルアワード族、バンナー族等の多くの支族がありその一部あるいは部族全体としてアシール族同盟に属している。

 

D.1.2.a. マナーズィル族(カイス・マナーズィル族)

 

カイス・マナーズィル族は人口15千人程度で、シュウバインの南5kmのガイズ山山頂に居住している。リジャール・アルマア族の傘下であるが、その祖先はカイス・イブン・マスウード・イブン・タグリブの子孫でアドナーン部族であった。

 

D.1.2.b. バヌー・ザイド族

 

バヌー・ザイド族は人口15千人程度で、ハスワア谷の傾斜地に居住し、その祖先はバヌー・バクル・イブン・ワーイル(アドナーン部族ラビーア支族)の子孫のタグルブ(タグリブ)まで辿れる。現在はアシール部族の一部を成している。なお、タグリブ族(タグリブ・イブン・ワーイル族)は、バクル族(バクル・イブン・ワーイル族)と兄弟族であり、前述の様にバスースの戦い(494 - 534)で血讐の争いをしている。アシールでは谷毎に分断された小さな一門が有力な部族の名跡を名乗ることが多いので、私には血縁があっても深い関係があるとは必ずしも思えない。

 

D.1.2.c. バニー・バクル族

 

バニー・バクル族は、スルブ山の山頂に居住している。この部族もバヌー・ザイド族同様にアドナーン部族ラビーア支族バクル族(バクル・イブン・ワーイル族)を名乗っているのだと思われる。

 

D.1.2.d. イブン・ダリム族

 

イブン・ダリム族の居住地は涸れ谷ハリーの斜面である。この部族の民が知力と商業の歴史で知られるルジャール村の住人でもあり、カフターンから分かれたアルマア・アドナーン・バニー・ハーリサの子孫である。現在ではアシール族の一部を成している。

 

D.1.2.e. バニー・アブド・シャハーブ族

 

バニー・アブド・シャハーブ族は人口15千人程度で、その居住地はリーム谷(位置未確認)の始まるカドワ山(位置未確認)の斜面であり、その祖先はアルマアまで辿れるカフターン部族出身である。現在ではアシール族の一部を成している。

 

D.1.2.f. シャディーダ族

 

シャディーダ族は人口1万人程度で、その居住地はガムラ山(未確認)の山頂であり、カフターンから分かれたアルマアの子孫である。現在ではアシール族の一部であると考えられている。

 

D.1.2.g. バニー・フーナ族

 

バニー・フーナ族は人口15千人程度で、その居住地はキサン谷の中央部のカーリア山の山頂とその東側と西側の斜面であり、その祖先はタグルブまで祖先を辿れる。なお、キサン谷(Kisan Valley)とカーリア山(Al-Qariyah Mountain)は特定できていない。

 

D.1.2.h. バニー・クトバ族

 

バニー・クトバ族は人口1万人程度で、その居住地はシュウバイン町の周辺である。この部族の大部分は、カフターンの子孫である。

 

D.1.2.h.1. ナアーミーヤ支族

 

ナアーミーヤ支族はサーウィー・ハサンおよびサブトの子孫とされている。

 

D.1.2.h.1.1. サーウィー・ハサンおよびサブト

 

サーウィー・ハサン(Thawi al-Hasan)およびサブト(Al-Sabt)は特定できていない。

 

D.1.2.i. バニー・アブドゥルアワード族

 

バニー・アブドゥルアワード族は人口1万人程度で、その居住地はアワス谷およびシャーシア谷(位置未確認)の傾斜地である。カフターン部族から分かれたアーアヤス族(詳細不明)の出であるが、今はアシール族の一部と考えられて居る。

 

D.1.2.j. バンナー族

 

バンナー族は人口1万人で、その居住地は涸れ谷ハリーの両岸およびその支流一体であり、居住地の一部はラワム(Rawam)(位置未確認)にもある。部族としてはカフターンの分かれであり、アザド族のアルマア・イブン・イディの子孫である。

 

D.1.3. ハルブ族同盟

 

ハルブ族はウタイバ族(オタイバ族またはアテバ族)、シャンマル族、ムタイル族(ムテール族)と共にナジュド4部族の1つで、おそらく沙漠の半島のベドウインでは一番大きな部族である。この部族(B.2.1.b. ハルブ族参照)は多くの分族に分かれて居り、その幾つかはヒジャーズのオアシスに定住しその他は遊牧生活を送っていた。その領域はカスィームからマディーナ(メディナ)の間の沙漠であり、マディーナとマッカ(メッカ)の間の巡礼路を横切って居たので巡礼を保護する事でトルコから莫大な補助金を得ていた。ハルブ族同盟はナジュド北西部およびマディーナ地に居所を定めており、沙漠の半島の大きな部族同盟の1つでありサウジアラビア内に400万人居住している。元々はカフターン部族でハルブ族の土地はヒジャーズの紅海岸からナジュド中央部までとマディーナからクンフザまで広がっている。さらにハルブ族の広がりはクウェイト、イラク、エジプト、アラブ首長国連邦に及んでいる。

 

D.1.4. シャンマル族同盟

 

シャンマル族もハルブ族と共にナジュド4つの部族の一つで、ナフード沙漠の南端を先祖の故郷とし、アラビアでもっとも大きな部族の1つでありその部族民の数はサウジ国内で250万人にもなる。さらにイラクやシリアにもそれぞれ100万人いる等、シャンマル族の北の分族はメソポタミアに移住している。1850年頃にシャンマル族はもっとも勢力を広げ中央および北アラビアからシリア沙漠を現在のシリアおよび北部イラクまで支配していた。この部族の多くは都市部に定着したけれども部族全体としては依然としてベドウインの性格を強く残して居た。同じ地域に住むアナザ族同盟とは長い伝統的な敵対関係にあった。19世紀には2つの一門が交代にハーイルを支配していた。最初の支配者一門アリー家はリヤードのサウード家に臣従を誓ったサブハーン家を含むラシード家と交代した。この2つの家族はシャンマル族のアブダ支族に属していた。そのラシード家出身の首領がナジュドで一番勢力の強かったアミール・ムハンマド・イブン・アブドゥッラー(1892 - 1897)であり、一年の大半を自分の部族民と共に沙漠で過ごしていた。19世紀後半に第二次サウジ公国(1824 - 1891)が内戦で内輪揉めしている間に、それに干渉し次第にサウジ公国領土の支配を奪った。1891年にサウジ公国を殲滅するために1871年にハサーを領有していたオスマン帝国および強大な勢力を持つハルブ族と同盟を結んだ。その1891年の後半にサウード家の従属するオアシスであるカスィームを陥落させた。続いてサウジの首都リヤードを強奪し、サウジ支配者をクウェイトに追放した。こうしてラシード家はアラビアの支配者になった。しかしながら、20世紀の最初の20年間にアラビア半島でのサウード家支配を取り戻すための戦いでイブン・サウードに敗北し、1921年にシャンマル山塊もサウード家が支配する領地となった。現在もラシード家とサブハーン家は、両方ともサウード家と婚姻関係を持っている。現国王アブドッラー陛下の母方はこのシャンマル族であり、長年にわたって現国王の皇太子時代からのその指揮下にある国家親衛隊のほぼ半分は、この勇猛で知られるシャンマル族である。シャンマル族はアブダ支族、アスラム支族およびゾバ支族の3つの主要支族で構成される部族同盟である。言い伝えによればシャンマル族はザヤーギム族と呼ばれるベドウイン・イエメン部族の出である。ザヤーギム族はバヒージュとして知られるこの地方の首領から北部ナジュドのアジャー山塊とサルマー山塊の双子の山々の周辺の地域を戦い取りながら北へと移住した。シャンマル族に関する最初の記述は14世紀に遡り、この時代からこれら2つの山の地方はシャンマル山塊として知られていた。現在ではこの地域の古代の住人タイイ族とシャンマル族が連携したとの説が一般的に成り、系図学者は、「シャンマル族がタイイ族の残党を併合した」と考えており前述した様に「現在のシャンマル族はタイイ族の子孫である」と云う。

 

D.1.4.a. アブダ支族(アブダフ一門)

 

アスラム支族およびゾバ支族と共にシャンマル族の3主要支族の1つであり、シャンマル族支配家族を出していたジャアファル一門の親部族である。

 

D.1.4.a.1. ジャアファル一門(ジャファアル一門)

 

シャンマル族の支配者一門。

 

D.1.4.a.1.1. アリー家

 

最初のシャンマル族支配者家族。

 

D.1.4.a.1.2. ラシード族(ラシード家)

 

ラシード家は1836年にアリー家を倒しシャンマル族支配を奪い、1921年まで続くラシード朝を創設した。アラビア半島の歴史的な王朝であり、ナジュドのサウード家のもっとも恐るべき敵であった。ラシード家の本拠は北部ナジュドのハーイルであり、その富は巡礼路から得ていた。ラシード家の家名はアブドゥッラーの祖父で最初にハーイルのアミールとなったラーシドの名に由来している。ラシード家のアミールはオスマン帝国(1299 - 1923)と緊密の協力していた。しかしながら、この協力関係はオスマン帝国が名声を失うに連れて問題となってきた。ラシード統治の繰り返された問題の1つは後継に対する決まりが無かった事である。アミールの跡継ぎが兄弟となるのか息子となるのかは、常に内輪揉めの種となった。家族内の内輪揉めは血なまぐさい親族争いとなった。19世紀最後の数年で、6人のラシード家指導者が殺されている。ラシード家はそれでも統治を保ちイブン・サウードに対し互いに手を取り合って戦った。20世紀に入っての最初の20年間、アラビア半島はサウード家のその同盟による支配統一の為の長い戦いが続いた。それ以外の部族をラシード家は糾合したが、その努力は虚しく1921年までに英国の命令でハーイルは占領されイブン・サウードに与えられた。ラシード家の一部はこの国を離れ、主としてイラクに亡命した。1990年代までに僅かにサウジ以外に残っており、英国やフランスで生活している者達もいる。

 

D.1.4.a.1.3. サブハーン家

 

アリー家とラシード家と共にシャンマル族の支配者家族。

 

D.1.4.b. アスラム支族

 

アブダ支族およびゾバ支族と共にシャンマル族の3主要支族の1つである。

 

D.1.4.c. ゾバ支族

 

アブダ支族およびアスラム支族と共にシャンマル族の3主要支族の1つである。

 

D.1.4.d. ザヤーギム族(ダヤーギム族)

 

言い伝えによればシャンマル族はザヤーギム族と呼ばれるベドウイン・イエメン部族の出である。ザヤーギム族はバヒージュとして知られるこの地方の首領から北部ナジュドのアジャー山塊とサルマー山塊の双子の山々の周辺の地域を戦い取りながら北へと移住した。

 

D.1.5. ダワースィル族

 

ダワースィル族はアラビアのベドウイン部族で、一門や家に分かれている。ダワースィルはドーサリーの複数形であり、この部族の名前はナジュドの著名な涸れ谷ダワースィルに因んで名付けられている。ダワースィル族はダンマーム、アルコバール、ハサー、バハレイン、クウェイト等の都市の誕生と発展に貢献してきた。ダワースィル族は現在では興隆と富と指導力で知られているが、その多くが飢饉の際にに食料を求めて南部ナジュドの故郷涸れ谷ダワースィルから移住して行った者達の子孫である。ダワースィル族はカフターン部族系譜のザイド族とラビーア・アドナーン部族系譜のタグリブ族に分かれる。首長はザイド族のロビア・ビン・ジード家(Robia bin Zid)が担っている。ダワースィル族の出身はアズド族でありこの部族に属する支族にはシャム(レヴァント)の支配家族を含んでおり、スダイリ・セブンで知られるスダイル家もダワースィル族に属している。

 

D.1.5.a. スダイル家

 

スダイル家はダワースィル族の支族出身である。スダイル家はムハンマドの娘ファーティマの子孫でシャリーフと呼ばれる高貴な部族の1つで、1440年頃に空白地帯沙漠の縁部に住んでいたが、1550年までにはリヤード北のガートの町周辺に移動していた。その地方はスダイル家の名に因んで、スダイリ地方と呼ばれている。スダイリ地方の中心ガートはトワイク山脈のほぼ北端に近く、リヤード北西230km、ジルフィー南35kmに位置する。

 

D.1.5.b. ザイド族

 

ザイド族はマアリブ・ダムの持ち主であったアムル・イブン・アミール・マルトゥームの血統であり、カフターン部族の子孫である。ザイド族一門のラビーウ・イブン・ズィード家がダワースィル族の首長を担った。

 

D.1.5.b.1. tru 10. アンマール一門等

 

ザイド族の一門にはアンマール一門、ガイヤサート一門、シャクラフ一門、フルジャーン一門、ムハーリーム一門、ムサーアルフ一門、ワダーイーン一門、バディーリーン一門、ルジュバーン一門、ラビーウ・イブン・ズィード家が挙げられる。

 

D.1.5.c. タグリブ族(タグルブ族)

 

タグリブ族はアドナーン部族出身のタグリブ・イブン・ワエル・イブン・カセドの血統である。タグリブ族は、カフターン部族出身のザイド族と同盟して、ダワースィル族を形成した。

 

D.1.5.c.1. tru 5. オムール一門等

 

ダワースィル族タグリブ支族の一門にはオムール一門、ヒクバーン一門、ムサーリール一門、ムシャーウィヤ一門、フヤイラート一門、(ルジャバーン一門)等が挙げられる。

 

D.2. アラブ化したアラブ族(アドナーン部族)系譜の部族同盟

 

アドナーン部族系譜の部族同盟

 

D.2.1. アナザ族同盟

 

アナザ族(アニザ族)はアラビア半島、イラクおよびレヴァントでの最大のアラブ部族同盟であった。古典のアラブ族系譜はアナザ族をアブドゥルカイス族、バクル・イブン・ワーイル族とその支族バニー・ハニーファ族およびタグリブ族と共にアドナーン部族ラビーア族の支族と位置づけている。系譜上ではアナザの名祖はこれらすべての部族の祖父の兄弟である。アナザには2 つの主要な支族がある。1 つはシリア、メソポタミアに接する北アラビアの草原で生活する遊牧民であり、もう1 つはバニー・ヒザーン族として知られ東ナジュドのヤマーマ地方の涸れ谷に定住していた。アナザに遡る家族はバニー・ヒザーン族を通じて今でもこの地域に住んでいる。アナザはラハーズィム族と呼ばれる同盟の下にバクル・イブン・ワーイル族と連携して1 つの部族となった。2 つ部族からなる新たな部族が完成されたが、それはどの部族のどの支族かは不明であった。この部族は後にアナザとして知られる様になったが、戦いの際のときの声は、「ワーイルの息子達」でありアナザとワーイルの呼称は少なくとも19 世紀まで交換可能であった。この同盟はかっては大きく強力な部族であったタグリブ族の残党やおそらく他の小さな部族も吸収した。この様に1つの部族が他の部族によって吸収されるヒルフ(同盟)と呼ばれる過程は、アラブの部族社会共通の特徴である。アナザ部族の有名な系譜学者で歴史家のアブドゥッラー・イブン・ドゥハイミシュは、その著書「ワーイルの血筋の偽りの無い証拠」の中で「全てのアナザ族はサバの息子ウタイクの息子アスラムの息子ヤドクールの息子アニザの息子ワーイル・ビン・ハザーン(アナザ族の父祖)の子孫である」と述べている。

 

D.2.2. ジャブリード族同盟

 

14世紀と15世紀の涸れ谷ハニーファとハルジュの町の住人はアーミル・イブン・サウサア族から続くハサーの為政者に支配されていた。15世紀半ばにおけるアーミル・イブン・サウサア族のある一門の指導者家族であるジャブリード家がウスフーリード朝(Usfurid, 1253 - 1440)から支配を受け継ぎ、王朝(1440 - 1524)を樹立した。カティーフのジャルワーン朝(1305 - 1487)を退けてその支配者を殺害しバハレイン島を含むアラビア湾西岸の支配を奪い取った。ジャブリード家はその実力と敬虔さおよび公平さの尊重およびウラマーで名声を得て交易は栄えた。ジャブリード家のヤマーマの古い地域への影響は定住生活の価値観を強め支持された。ジャブリード家の威光が半島東部の遊牧民および定住民に広がるに連れてジャブリード家はハルジュ周辺のナジュドのムガイラ族、ダワースィル族、ファドル族、アイド族およびスバイウ 族等、殆どの遊牧民に向けて戦闘を行った。そうする事でアーミル・イブン・サウサア族の諸族やその同盟の部族の為にジャブリード家は放牧地をナジュドに比較的新たらしく入って来た諸部族から守ろうとしたのだろう。しかしながらこの戦闘は隊商路・巡礼路の安全を保障し定住民の中の同盟部族を支援し遊牧民と町住人の間の離反関係を一般的に罰する目的も或る程度あったとのだと思われる。ジャブリード家は基本的には遊牧民の首領と云うよりは定住民の首長であり部族的忠誠を広範囲な為政者(ウラマー)への服従に代える事で分裂しがちな部族的状況に統一をもたらそうとしていた。そうすることで「ナジュドの信心深い定住民の首長と成ろう」と云う復古的な目的を成し遂げようともしていた。当時の或る学者は、ジャブリード家の有名な支配者アジュワード・イブン・ ザミール・ジャブリーについて、「ハサーとカティーフの王でナジュド族の首領である」と記述していた。

 

D.2.3. バニー・ハーリド族同盟(バヌー・ハーリド族同盟)

 

バヌー・ハーリド族は部族系譜上では幾つかの部族が集まって形成されたと考えられる。これらの部族は「アッラーの剣」と呼ばれた高名なムスリム将軍ハーリド・イブン・ワリード(592 – 642)に連なると伝説を信じる者もいたが、この説は多くの学者に否定されている。バヌー・ハーリド族同盟をカフラーン・カフターン部族タイイ族バヌー・ハーリド族の系譜では無くアドナーン部族系譜の部族同盟としているのはハーリド・イブン・ワリードの系譜と称したことに加えてバヌー・ウカイル族へ合流したことに由来する。バヌー・ハーリド族はカフラーン・カフターン部族タイイ族バヌー・ラーム族同盟に加盟したベドウイン遊牧民部族の集団によって1316世紀の間に形成され、西ナジュドからアラビア東部に移住してすでにその地方に定住していたムダル・アドナーン部族カイス・アイラーン族ハワージン族・アーミル・イブン・サウサア族バヌー・カアブ族バヌー・ウカイル族へ合流した。バヌー・ハーリド部族内のある支族はバニー・ハージル族から分かれたマハシール族(Mahashir)であり、別の幾つかの一門は東に移動するのを止めてナジュドの町に定住した。13世紀にカスィーム地方で最も古い町ウナイザはバヌー・ハーリド族のジャナーフ一門がこの時代に創建した。バヌー・ハーリド族は東アラビアおよび中央アラビアのアラブ部族同盟の一つである。この部族は現在のハサーおよびカティーフ等サウジアラビア東部地方を1670年から1793年まで支配しておりオスマン帝国(1299 - 1923)の援助で十九世紀初期のある時期にも支配を取り戻した。最盛期には北はクウェイトから南はオマーン国境までに広がりその政治的影響力を中央アラビアのナジュドにも振るっていた。この部族の多くは現在サウジアラビアの東部および中部に住んでおり一部はクウェイト、ヨルダン、シリア、カタール、バハレインおよびイラクにも住んでいる。バヌー・ハーリド族の大部分は、マーリク学派やハンバリー学派に従うスンニー派である。ハサーを支配していたバヌー・ハーリド族はウヤイナに絶大な影響力をも持って居り、1744年にその支配者ウスマーン・イブン・ハマド・ムアンマルにムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(シャイフ・ムハンマド)を放逐せざるえなくさせた。

 

D.2.3.a. フマイド一門

 

バヌー・ハーリド族の支配者家族フマイド一門が1680年にオスマン帝国ラハサ州政府をイブラヒム城から放逐している。

 

D.2.4. アブドゥルカイス族同盟

 

アブドゥルカイス族同盟はアドナーン部族ラビーア族の支族アブドゥルカイス族を中核とした部族同盟である。セルジューク朝(1037-1194)の支援を得てカルマト派を打ち破り沙漠の半島東部のカティーフでウユーニード王朝(1073 – 1253)を樹立した。そのウユーニード朝の権力を奪ったウスフーリード朝(1253 – 1330)を退けて、14世紀にバハレインを支配したジャルワーン朝(1305 - 1487)を樹立したバニー・マーリク一門もアブドゥルカイス族に属すると言う学者も少なくない。

 

D.2.5. ラビーア族同盟

 

ラビーア・アドナーン部族を中核とした部族同盟である。

 

D.2.5.a. ワーイル族

 

バクル・イブン・ワーイル族、バヌー・バクル族或いはバクル族(Bakr)とも呼ばれるバヌー・バクル族を中核としたラビーア族同盟傘下の部族同盟。

 

D.3. 地名や同胞名を名乗る部族同盟

 

D.3.1 アシール族同盟

 

アシール地方はイエメン北部から北はバーハ州との州境バーハ・ガーミドまで続いている山地である。アシール地方の部族はマアリブ・ダムの崩壊の為に四散し北上して来たアズド族(ウズド族とも云うカフラーン・カフターン部族の1支族)を中核として互いに団結してこの地域の名前を取って名付けたアシール族を編成した。この地の多くの山や谷の間に難路である細道や山道があった為に「アシールの名はアラビア語で困難を表すウスルと云う意味も持つアドナーン部族の古い住人の名に因んで付けられた」と考えている専門家も少なくない。この同盟に参加した部族の大半は、カフターン部族およびシャフラーン族(カフラーン族の支族でアズド族一門と扱われる事もある)の幾つかの集団とアズド族である。アシール族の主な支族としては、バヌー・ムフィード族、アルカム族、ラビーア族、バニー・マーリク族等が挙げられる。

 

D.3.1.a. バヌー・ムフィード族

 

バヌー・ムフィード族は人口3万人程度でアブハー市とその周辺に住んでいる。

 

D.3.1.b. アルカム族

 

アルカム族は人口5万人程度で居住地はアシャラール谷('Ashrar)およびその流域の傾斜地に沿って散在し先祖はアシールのアドナーン部族まで辿れる。

 

D.3.1.c. ラビーア族(ラーフィダ族)

 

ラーフィダ族とも転写されるラビーア族はこの部族名に因んで付けられたラビーア谷(ラーフィダ谷)の傾斜地に住んで居る。その根拠地はアブハー北西25 km付近にあると云う。祖先はアシールのアドナーン部族まで辿る事が出来る。

 

D.3.1.d. バヌー・マーリク族(バニー・マーリク族)

 

バヌー・マーリク族は人口25千人程度でその居住地区はアブハーの北東10kmの場所にあり、祖先はアドナーン部族まで辿る事が出来る。

 

D.3.1.e. tru k. シュッフ・シャハラーン族他

 

アシール族にはその他に住んでいる場所の名前が部族名となっているシュッフ・シャハラーン族、ウンム・バイダー族、ハスアム族、サラート族、サラーマ族、バニー・アムル族そしてバールラスマル族等があり、リジャール・アルマア族同盟もアシール族同盟に含まれている。

 

D.3.2. スンニー・ムスリム族同盟(イフワーン3部族)

 

イブン・サウードは気まぐれでしばしば反抗を繰り返すベドウイン部族を配下に置くために農業による定住策を打ち出し、マジュマア北70kmにあるアルターウィヤを始めとする同胞団(イフワーン)部隊が駐屯する開拓村をいくつも造り多くのベドウイン(遊牧民部族)を入植させた。イフワーンはサラフィー運動の固い絆で結ばれイスラームの規律を厳しく守りイブン・サウードの統一事業の中核部隊となった。イフワーンの主要3部族がウタイバ族、ムタイル族、アジュマーン族であった。

 

D.3.2.a. ウタイバ族(オタイバ族、アテバ族)

 

ウタイバ族(アテバ族)は、恐らく最強の部族団結を保持している。一般的には遊牧民(ベドウイン)と考えられているが、多くは町に住みナジュド西部およびターイフに居所を定めている。遊牧の為に巡回する範囲はヒジャーズの境界からカスィーム方向の道に沿ってマッカ(メッカ)まで広がっていた。アラビア半島のスンニー派の大きな部族同盟でアジュマーン族とムタイル族と共にイフワーンの3部族の1つでもある。またシャンマル族、ハルブ族およびムタイル族と共にナジュド4部族とも呼ばれていた。ウタイバ族と云う名はこの数世紀に出て来ておりもともとの領地はターイフ地域であるが、1819世紀にはカフターン部族と戦ってナジュド中央に領土(放牧地)を広げた。この部族の首領はビン・フマイド家である。

 

D.3.2.a.1. ビン・フマイド家

 

ウタイバ族(アテバ族)首領家

 

D.3.2.b. ムタイル族

 

ムテール族とも転写されているムタイル族は、ナジュドの中央部および東部に居所を定め、多くは遊牧民で、イフワーンの3部族の1つでもあり、シャンマル族、ハルブ族およびウタイバ族と共にナジュド4部族とも呼ばれていた。ムタイル族はアラビア半島の大きなスンニー派部族であり、この部族は北部アラビアのアドナーン部族と南部アラビアのカフターン部族の幾つかの部族から構成された大きな部族同盟であるが、この同盟の核となったのはムハンマドと共にマディーナでの塹壕の戦い(627)に加わった大きなイスラーム以前のムダル・アドナーン部族カイス族(カイス・アイラーン族)支族ガタファーン族の子孫であると考えられている。ムタイル族の首領は伝統的にドゥーシャーン一門である。ムタイル族の出身地(故郷)はメディナに近いヒジャーズであったが、18世紀に東へと北部ナジュドに移住してそこに居たアナザ族等のベドウイン族を北に押しやり入れ替わった。20世紀になってムタイル族はカスィームを通りクウィト国境方面へと広がった。ムタイル族はカスィーム地方で覇権を握る遊牧部族であったのでサウード家とラシード家の間の争いの鍵となる重要な役割を担った。

 

D.3.2.b.1. ドゥーシャーン一門

 

ムタイル族の首領は伝統的にドゥーシャーン一門である。

 

D.3.2.c. アジュマーン族(ウジュマーン族)

 

カフラーン・カフターン部族ハムダーン族バヌー・ヤーム族の一門でアラビア湾岸のベトウイン部族アジュマーン族を中核とした部族同盟である。サウジアラビア建国当時にアジュマーン族はイブン・サウードを裏切り1915年のキンザンの戦い(Battle of Kinzan)ではその兄弟サアドを殺し、イブン・サウードにとって信用しがたいの敵となったが、イフワーン運動に参加するを拒まれなかったことでオタイバ族およびムタイル族と共にイフワーン3部族の1つとなっていた。

 

D.3.2.c.1. アワーズィム族

 

アワーズィム族は紅海沿岸に住んでいたイチサヨファギ(魚を食べる人達)末裔のフタイム族(Hutaim)の子孫を中心に形成された部族で19世紀と20世紀にはハサー地方に住み、羊の放牧に長けていたと云う。サウジアラビア建国当時にアジュマーン族はイブン・サウードを裏切り1915年のキンザンの戦い(Battle of Kinzan)ではその兄弟サアドを殺しイブン・サウードにとって信用しがたいの敵となったが、イフワーン運動に参加するを拒まれなかった。この時期にアジュマーン族に従属していたアワーズィム族はアジュマーン族から分離してイブン・サウードに帰属した。アジュマーン族とムタイル族一部およびウタイバ族一部によるイフワーンの叛乱(1927 - 1929)でのサビラの戦い(Battle of Sabilla, March 1929)の後にアワーズィム族は反乱軍に襲われ(Oct. 1929)250名を殺戮されている。

 

D.3.2.c.2. ハスライン一門

 

アジュマーン族の小さな一門でサウジアラビア建国に功績があった。

 

D.3.3. ムンタフィク族同盟

 

ムンタフィク族はイラク中央と南部に展開するユーフラテス下流の大きなアラブ族の部族同盟であり、バニー・マーリク族、アジュワード族およびバニー・サイード族の3つの主要支族に分けられる。この部族の大部分の家系はナジュドの大きな古代部族同盟バヌー・アーミル族(ムダル・アドナーン部族カイス・アイラーン族ハワージン族アーミル・イブン・サウサア族バヌー・カアブ族)のバヌー・ウカイル族に遡る。この部族の伝統的な支配者は、メッカ出身でシャリーフとなる家系のサアドゥーン家であるのに主要3支族の1つアジュワード族は古代部族タイイ族出身であると云われる。ムンタフィク族はアッバース朝(750 - 1258)の後期にイラク沙漠に現われ始めてイラクでもっとも有力な遊牧部族の1つであった。ムンタフィク族はオスマン帝国(1299 - 1923)時代にはその宗主権の下にバスラ地方を支配していた。ムンタフィク族はオスマン帝国に代わっったバヌー・ハーリド族によって1521年に追い払われるまでハサーとカティーフを占拠していた。オスマン帝国時代にはムンタフィク族の多くは定住生活に入りイラク南部および西部で農業を営んでいた。18世紀の後半にはムンタフィク族はシーア派に改宗した。ナースィリーヤはこの部族のシーア派イマームに因んで名付けられその周囲は1976年までムンタフィク州であった。

 

D.3.3.a. バニー・マーリク族(バヌー・マーリク族)

 

アジュワード族およびバニー・サイード族と共にムンタフィク族3主要支族の1つであった。

 

D.3.3.b. アジュワード族

 

バニー・マーリク族およびバニー・サイード族と共にムンタフィク族3主要支族の1つであった。

 

D.3.3.c. バニー・サイード族

 

バニー・マーリク族およびアジュワード族と共にムンタフィク族3主要支族の1つであった。

 

D.3.3.d. サアドゥーン家

 

メッカ出身のシャリーフとなる家系でムンタフィク族同盟の支配者家族であった。

 

D.3.5. ルワラ族

 

カフターン部族とアドナーン部族の両方の分派から生まれた新しい部族で沙漠の半島北部およびシリア沙漠の地域部族同盟である。北アラビアではカルブ族(ヒムヤル・カフターン部族クダーア族の一門バヌー・カルブ族)が衰退した後の1315世紀にはタイイ族(カフラーン・カフターン部族)が覇権を握っていた。その一方でアナザ族(ラビーア・アドナーン部族)やガタファーン族(ムダル・アドナーン部族カイス・アイラーン族支族)も涸れ谷スィルハーンやジャウフのカルブ族の土地へと次第に侵入して来た。一旦そこに落ち着くと、ガタファーン族の幾つかの支族とアドナーン部族系の他の部族はアナザ族と入り混じり始めた。アナザ族はタイイ族の分派やカルブ族の幾つかの分派とも混じり合い結合し始めた。この様にして、最終的にはアドナーン分が優位を占めたけれども、ガハターン族とアドナーン部族の両方の分派である三つの部族から新しい部族が生まれた。この新しい部族がアナザ支族に分類されるルワラ族である。第一次サウジ公国(1744 1818)が滅んだ後にルワラ族はこの地域で増加し重要な存在に成り始めた。

 

D.3.5. アマーリーク族同盟

 

消えたアラブ部族アマーリーク族は遊牧部族同盟であり、その勢力範囲はパレスチナから北アラビアまで広がっていた。

 

D.3.6. バヌー・アーミル族同盟(アーミル・イブン・サウサア族同盟)

 

アーミル・イブン・サウサア族同盟はバヌー・アーミル族同盟又はバニー・アーミル族同盟とも呼ばれ、ムダル・アドナーン部族カイス・アイラーン族ハワージン族アーミル・イブン・サウサア族を中核とする部族同盟である。アラビア半島中央部および南西部出身の古代アラビアの大きな部族同盟でありイスラーム後も数世紀にわたってナジュドで覇権を握った(C.3.1.b.1. アーミル族(アーミル・イブン・サウサア族、バヌー・アーミル族)を参照)。

 

D.3.6.a. バヌー・カアブ族

 

ムダル・アドナーン部族カイス・アイラーン族ハワージン族アーミル・イブン・サウサア族の支族でありバヌー・ウカイル族にとっては親部族である。。

 

D.3.6.a.1. バヌー・ウカイル族

 

アーミル・イブン・サウサア族或はバヌー アーミル族同盟傘下バヌー・カアブ族の一門である。イラクではモスルを首都としてシーア派王朝ウカイル朝(990 – 1096)を樹立した。東アラビアおよびバハレインではカルマト派支配を滅ぼしたラビーア・アドナーン部族支族のアブドゥルカイス族が創設したウユーニード朝(1076 - 1253)を退け、1253年にウスフーリード朝(1253 – 1330)を樹立した。ウスフーリード朝はジャルワーン朝(1305 - 1487)によって倒された。ジャルワーン朝はカティーフに根拠を置いたホルムズ王国(1017世紀)の封建領主であった。ジャルワーン朝がバヌー・ウカイル族に属するとの説もあるが、ウユーニード朝(1076 - 1253)が帰属するアブドゥルカイス族に属するとの説もあり論争され結論は出ていない。ジャルワーン朝はジャブリード朝(1440 - 1524)によってその支配者を殺害され滅びた。ジャブリード朝はバヌー・ウカイル族の子孫で15世紀初期に王朝を樹立し、最盛期にはアラビア湾岸のみならず、中央アラビア支配していた。ジャブリード朝は1521年にバハレイン島をポルトガルに奪われ、東アラビアでもまもなく崩壊した。しかしながらジャブリード朝の或る一門はオマーンで積極的に活動してさらに3世紀にわったってその覇権を維持した。

 

D.3.6.a.1.1. ウバーダ一門

 

ウカイル朝(990 – 1096)の崩壊後にバヌー・ウカイル族から分離して南イラクに定住した。

 

D.3.6.a.1.2. ハファージャ一門

 

ウカイル朝(990 – 1096)の崩壊後にバヌー・ウカイル族から分離して南イラクに定住した。

 

D.3.6.a.1.3. ムンタフィク一門

 

ウカイル朝(990 – 1096)の崩壊後にバヌー・ウカイル族から分離して南イラクに定住した。その後にイラク中央と南部に展開するユーフラテス下流の地域部族同盟(ムンタフィク)の中核となった(ムンタフィク族同盟参照)。

 

D.3.7. バヌー・ラーム族同盟

 

カフラーン・カフターン部族タイイ族バヌー・ラーム族系の部族同盟であり、1316世紀の間に西ナジュドからアラビア東部に移住したベドウイン遊牧民部族の集団によって形成され、すでにその地方に定住していたムダル・アドナーン部族カイス・アイラーン族ハワージン族・アーミル・イブン・サウサア族バヌー・カアブ族バヌー・ウカイル族に合流してバヌー・ハーリド族同盟を形成した。

 

D.3.8. サリーフ族同盟

 

4世紀頃にシリアと北西アラビアに出現した部族同盟である。4世紀のサーサーン朝ペルシア(224 - 651)はメソポタミアおよびアラビア湾の海路を支配していた。一方、ビザンチン帝国(330 or 395 - 1453)4世紀にローマ領レヴァントを領有したので両者はシリア沙漠をはさんで対峙することになった。その緩衝地帯としてそれぞれに支援された強力な部族同盟が出現した。ビザンチン帝国が半島北西部のサリーフ族とガッサーン族を支援し、サーサーン朝ペルシアはラフム族を支援した

 

D.3.9. ハムダーン族同盟

 

カフラーン・カフターニ部族の著名な支族古代ハムダーン族の名を付けたイエメン北部の山岳部族同盟。

 

D.3.10. フォエデラティ族同盟

 

「フォエデラティ」は傭兵供給と引き換えにローマが援助を与え周辺の蛮族を意味していたが、アラブ族にもガッサーン族と同じようにローマ市民権を持ち戦力を提供する同盟部族がいた。

 

D.4. 部族同盟国家

 

国家を形成した部族同盟で多くは核となる部族がいた。

 

D.4.1. ガッサーン族同盟

 

ガッサーン朝(3rd C - 636)がローマ帝国と同盟したベドウインに対する緩衝国をガッサーン族同盟と呼んでいる(B.3.1.b. ジャフナ・イブン・アムル族(ガッサーン族参照)。

 

D.4.2. キンダ族同盟

 

キンダ族同盟はキンダ族同盟とも転写されている。2世紀から4世紀に掛けてはキンダ族同盟創設の中心としてキンダの町カルヤ・ファーウが傑出していた時代であった(B.3.3 キンダ族参照)。

 

D.4.3. ラフム族同盟

 

バヌー・ラフム支族がラフム族やムナーズィラ族を含めイラク南部に住んでいたアラブ・キリスト教徒のグループを統合して建国したラフム朝(266 - 602)は、ラフム族同盟とも呼ばれ、その民はラフム族と呼ばれる様になった(B.3.5 ラフム族参照)。

 

D.4.4. ケダール族同盟

 

「ケダール族の名は、アラブ化によるアラブ人の祖先イシュマエルの次男ケダールの名に因んで付けられた」との記述が旧約聖書にあるので、ケダール族はケダールの子孫の可能性もある。紀元前8世紀から紀元前7世紀にかけてのアッシリアの碑文にはアッシリアに叛乱して戦闘で敗れたりアッシリア朝に貢物を送ったりしたケダール族の王の名前が記述され、その中には女王ザビーベ(738BC – 733BC)を始め、アドゥーマートゥーの5人の女王の名も含まれている。ケダール族は、古代の大きな遊牧アラブ部族同盟であり、北アラビアの部族でもっとも組織化されていたと云われている。ケダール族は北西アラビア沙漠に住み、紀元前8世紀から紀元前4世紀までディーダーン(ウラー)、タイマーおよびドゥーマを含む広大な北アラビア一帯に影響力を持ち最盛期の紀元前6世紀には、北アラビアで、アラブア湾とシナイ半島の間の大きな地域を支配していた。沙漠の王国アドゥーマートゥーはケダール族が紀元前87世紀にかけてドゥーマに樹立した沙漠の王国であった。ケダール族の北西アラビアでの覇権にはケダール族の王とディーダーンの王の同盟が必要であった。ケダール族が支配していたディーダーン、タイマーおよびドゥーマの様な大きな沙漠地帯ではオアシスが定住・交易・給水の場所として重要な役割を担っていた。西洋には遠隔の沙漠都市で後にドゥーマ・ジャンダルとして知られる今日のジャウフにあるドゥーマはバビロニア帝国(626BC – 539BC)に味方したり、アッシリア帝国(934BC – 609BC)に対抗したりして、ケダール族の支配する都市の中でもっとも重要であった。ドゥーマはケダール族の祭祀の基地であり、この地域の南北貿易の戦略的位置を占めて居た。アケメネス朝ペルシア(550BC – 330BC)は、北部シナイ半島およびガザの治安を守る為にケダール族を駐留させた様であり、ケダール族はエジプトおよびパレスチナと国境を接する沙漠地帯およびガザへのアラビア香料交易を支配しようとしていた。ケダール族が部族として存在しなくなった時期はっきりしていないが、ナバテア人と同盟してナバテア国(紀元前2世紀~紀元106年)に組み込まれてしまったと思われる。

 

D.4.5. パルミラ(タドムル)

 

ゼノービヤー(267 – c. 274)が「アラブの女王」として有名である為にパルミラ(タドムル)がアラブ族であるように思われるが、セプティミウス(AD260 – AD267)270年代にローマの東部諸県を席巻してタドムルをローマ帝国(27 BC – AD 476/ AD 1453)から分離独立してパルミラ帝国(260 - 273)として樹立した帝国である。ゼノービヤーはセプティミウスの後妻でありタドムルを西暦267年から西暦272年まで支配した。ゼノービヤーが「アラブの女王」と呼ばれるのはその父アムル・イブン・ザルブが沙漠の半島からシリアにかけてアラブ族を束ねていた遊牧民アムラーキー族の族長であり、敵のタヌーフ族に殺された後に族長をゼノービヤーが継承した為と思われる。アムル・イブン・ザルブの祖先は2世紀後半には既にローマ祖民権を所有していたと云い、そのラテン語名はユーリウス・アウレリウス・ゼノビウスであり、その娘ゼノービヤーのラテン語名もユーリウア・アウレリア・ゼノービヤーであった。女王ゼノービヤーはドゥーマ・ジャンダルとタイマーを襲撃したが、2つの城塞都市は女王ゼノービヤーの軍勢に取って強固に過ぎて落城出来ずに引き上げた。これらの防塞戦に破れた女王ゼノービヤーは、「マーリド城は反抗的であり、アブラク城は傲慢だ」と罵った。マーリドはドゥーマ・ジャンダルの城でアブラクは、有名なタイマーの城である。この言葉が「3世紀には両都市は共に女王ゼノービヤーに対抗できる程十分に力を持って居た」と云う証でもある。

 

D.4.5.a. アムラーキー族

 

パルミラ(タドムル)主要4族の1つであり、前述のようにアラビア半島からシリアにかけてアラブ族を束ねていた遊牧民部族であった。族長アムル・イブン・ザルブが敵のタヌーフ族に殺されたためにその娘ゼノービヤーが族長を継承したと思われる。

 

D.4.6. タイマー族

 

タイマーは沙漠交易路のオアシスとして2,500年もの歴史があり紀元前8世紀のアッシリア碑文に記述されている。ゲダール族のアドゥーマートゥー王国同盟に所属してアッシリア帝国(934BC – 609BC)と戦っていた。バビロニア王ナブニディス(556BC – 539BC)治世の紀元前552年に同王は、タイマーにアブラクと云う大きな城を築きこの町を自分の首都としてバビロニア帝国(626BC – 539BC)10年間にわたって支配した。タイマー遺跡発掘はドイツとも組んで相当程度に行われているにもかかわらず、そこに住んでいた部族についての記述はほとんど見つけられていない。「タイマーの名はアラブ化したアラブ族の祖先イシュマエルの12人の息子の1人テマに由来する」とされているおり、「古代の終わりにユダヤ部族がタイマーに住んでいた」とのアラブ族の伝説とあわせるとアラブ族の子孫がユダヤ教に改宗した可能性もある。そうであればこの部族に関する記述が少ない事と12世紀にスペインのナバーラ王国(824 – 1620)トゥデラ出身のユダヤ教徒冒険家ベンジャミン(1130 – 1173)がペルシアとアラビアを旅行した際にかつてはユダヤ教徒の町であったハイバルに次いで1,170年頃にタイマーを訪れた事が理解できる。

 

D.4.6.a. ラマーン族

 

ラマーン族は代々タイマーの領主であり、1338年にカスル・ビン・ラマーン城をタイマーに築城し独立を保っていた。20世紀に入ってラマーン族はイブン・サウードに服従している。私が始めてタイマーを訪れた時にはアミール職にあり偶然その弟君にタイマーを案内して戴き、巨大なテントでお茶に呼ばれたことがあった。

 

E. その他のアラブ族

 

アドナーン部族系譜でもカフターン部族系譜でもない部族をその他のアラブ族と分類した。

 

E.1. 主要な部族

 

主要な部族とは各々の地域で著名で有力な部族、旧支配者部族、財閥などである。

 

E.1.1. 地域有力勢力

 

E.1.1.a. サキーフ族(バヌー・サキーフ族)

 

ターイフには5,000年前から消えたアラブ部族と呼ばれるバヌー・ミフラヒル族、アマーリーク族およびサムード族とバヌー・サキーフ族が住んでいたと云われる。そのうちで預言者ムハンマド時代までターイフに残っていたのはバヌー・サキーフ族だけであった。バヌー・サキーフ族はアラビア部族の一つで偶像女神ラート(Al-Lat)を信仰し、ターイフ周囲の肥沃な土地の広大な地域を占有していた農耕部族であり、現在でもターイフ市でも人口の大多数も占める主要部族であった。バヌー・サキーフ族は自分達の土地を通過する大規模な隊商に保護と役務を提供できる利点を利用して大いに繁栄していた。630年の「フナインの戦い」から勝利の帰還をした後だった預言者は、バヌー・サキーフ族の一時的な弱さを利用してターイフにイスラームを受け入れさせる事が出来ると感じてこの市を包囲した。重厚な市の外壁と頑丈に閉じられた門が剣、槍と弓でのみ武装した者達では対抗出来ず、この試みは成功しなかった。しかしながらその一年後に6人のバヌー・サキーフ族代表がムハンマドを訪れ、バヌー・サキーフ族がイスラームに改宗すると宣言してイスラーム教徒と成った。

 

E.1.1.b. ファッラーヒーン(フェラーヒーン族)

 

ファッラーヒーンはティハーマ低地に住むアフリカ出身のファッラーヒーンと呼ばれる農民である。円形の灌木で作った小屋に住み、部族系譜と無縁な定住小農民である。ファッラーヒーンはジーザーンに最も多く、北に行くに連れて減っている。ファッラーヒーンはオスマン帝国に使われた用語で同じ様な農民は中東で広く見かけられると言われるが、サウジではティハーマ低地以外ではあまり目立った存在ではない。

 

E.1.1.c. ハージリー族(バニー・ハージル族)

 

クウェイトを始め、サウジアラビアを含むアラビア湾岸諸国で大きな勢力を持つ部族である。

 

E.1.2. 旧支配者

 

E.1.2.a. イドリーシー族

 

イドリーシー首長国(1906 - 1934)は第一次世界大戦中に大英帝国の支援を得て、オスマントルコ(1299 - 1923)に叛乱して、第4代正統カリフ・アリー(656 – 661)とムハンマドの娘ファーティマ(605 or 615 – 632)との息子ハサン・イブン・アリー(625 – 669)の曾孫であるイドリースを始祖とするマグリブの地方政権であったイドリース朝(789 - 985年)の末裔ムハンマド・イブン・アリー・イドリーシー(1906  - 1920)が建国したジーザーン地方にあった地方政権である。その首都はサブヤーともアブー・アリーシュとも記述されている。ムハンマドが亡くなった1920年まで栄えた。その後は次第にサウジアラビアに吸収されて1934年のターイフ条約で、サウジアラビア領となった。イスラーム神秘主義哲学スーフィズムに基づく社会秩序を確立したイドリーシーヤの創設者アハマド・イブン・イドリース・ファースィー(1760 – 1837)は、神秘主義神学者であり、モロッコ、北アフリアとイエメンを旅した。聖職者(イスラーム法学者)に反対してイスラームの生き生きとした祈りの形式を民衆に直接伝えようとしたアハマドは、1760年にモロッコ第二の都市のフェズで生まれて1837年にジーザーンのサブヤーで亡くなっている。ムハンマド・イブン・アリー・イドリーシーはアリー・イブン・ムハンマド・イブン・アハマド イドリーシーの息子であり、アハマドの曾孫に当たる。

 

E.1.2.b. リヒヤーン族(バヌー・リヒヤーン族)

 

リヒヤーン族はバヌー・リヒヤーン族又はリフヤーン族とも転写されている。リヒヤーン族については、殆ど分かってはいないが、「アラブ系譜学では古代アラブのサムード族の子孫である」との説があり、旧約聖書には「古代のリヒヤーン族はユダヤ人預言者として登場するエリヤの孫リフヤーン・イブン・フザイルの息子達であり、この古代のリヒヤーン族がヒジャーズのアドナーン部族一派のバヌー・フザイル族であった」と述べられていると云う。アラビアの系図学者は「アドナーン部族のフザイル族子孫は、バヌー・リヒヤーン族である」と推定している一方で、リヒヤーン族自身は「自分達をサムード族では無く、ジュルフム族(消えたアラブ族の1つ)の子孫のアラブ族であると考えている」と云う。

 

E.1.2.c. アッサーフ族

 

古井戸を意味するカスィーム地方第3の都市でブライダ南南西60kmにあるラッスの支配者家族であった。

 

E.1.2.d. スライム家

 

スライム朝(1817 - 1907)1817年からカスィーム地方のウナイザ市を支配し、1907年にイブン・サウード(1876 – 1953)の支配下に入った。

 

E.1.3. ハサー地方の商業資本

 

アラムコに支援され、アラムコと共に大きくなったハサー地方の財閥である。

 

E.1.3.a. ウライヤーン家(オラヤーン家)

 

ウナイザ市出身で孤児となり子供の頃に兄と共に駱駝で東海岸に出てバハレインに渡った。そこのアメリカ学校で学び石油会社(BAPCO)で働いた後にサウジに戻りアラムコの前身に入社した。独立してベクテル社の下請けでTAPライン建設に参加した。その後に電力、ガス、その他さまざまな業種を手掛けてウライヤーン財閥を築いた。

 

E.1.3.b. クサイビー家(ゴセイビ家)

 

ハサー地方とバハレインのもっとも古くからの交易を生業とした伝統的な財閥の1つである。一般的にクサイビー家と呼ばれる財閥はアハマド・ハマド・クサイビー兄弟会社である。最初にアルコバールで両替商を始め、不動産業、ペプシーコーラ、油田サービス、銀行、保険、船舶、交易、乙仲、金融、製造業など様々な業種を営んでいる。

 

E.1.3.c. カーヌー家(カーナー)

 

バハレインがイギリス保護国であったころに通商業務を開始してアラブ首長国、オマーンおよびサウジアラビア国籍の家族を得た。カーヌー家全体ではアラビア湾では最大の財閥であり、サウジアラビアではユスフ・ビン・アハマド・カーヌー家が事業を展開している。事業としては海運、旅行業、機械、石油関連、発電、輸送、倉庫など幅広く事業を展開している。

 

E.1.3.d. ザーミル家

 

ゴセイビ家、オライヤン家、カーヌー家等共に伝統的なハサー地方の商業資本の一族。傘下の企業にはザーミル鉄鋼、ザーミル重工、タイフィーク・プラスティク等がある。バハレイン最後のジャブリード朝支配者1521年ポルトガルに補足され死亡したムクリン・イブン・ザーミルと関係のある家族だと思われる。

 

E.2. 少数部族

 

E.2.1. ルブア・ハーリー沙漠に住む部族

 

ルブア・ハーリー沙漠周辺には西にアマーリーサ族およびヤーム族、北にダワースィル族、スフル族およびムッラ族、東にアワ-ミル族、バニー・ヤース族、マナーシール族およびマナーヒル族そして南にバイト・ヤマーニー族、ラシード族およびサヤール族等のベドウイン部族が住んでいる。この中でも砂丘地帯と及ばれる空白地帯の中を住処にしているのはラシード族、アワーミル族およびムッラ族のみである。英国探検家ウィルフレッド・セシジャー(1910 - 2003)1945年に砂丘地帯のベドウインについて「沙漠内部での究極的な服装としてラシード族の様なベドウインは長いアラブ服と沙漠の灌木の汁で柔らかい枯れた茶色に染めた頭飾りを纏っている。この男達は小さいが手際良く油断無く用心深い。その体付きは引き締まり強靱で灼熱の沙漠と信じ難く程の艱苦に鍛え抜かれている。この男達を見ていると世界中でもっと純粋な競争の中で育ち最も強靱で優れた者だけが生き残れる環境で生活して来ているのが分かる。この男達は純潔種の様に精細で鋭敏である」と記述している。

 

E.2.1.a. tru d. アワ-ミル族等

 

アワ-ミル族、バニー ヤース族、マナースィール族およびマナーヒル族はルブア・ハーリー沙漠東部に住む部族であるが、いずれも詳細は不明である。

 

E.2.1.e. アマーリーサ族

 

ヤーム族と共にルブア・ハーリー沙漠西部に住む部族である(詳細は不明)。

 

E.2.1.f. サヤール族

 

バイト・ヤマーニー族およびラシード族と共にルブア・ハーリー沙漠南部に住む部族である(詳細は不明)。

 

E.2.1.g. バイト・カシール族

 

ラシード族の親部族でルブア・ハーリー沙漠南部に住む部族であると云われている。

 

E.2.1.g.1. ラシード族

 

ラシード族は同じくルブア・ハーリー沙漠南部に住むバイト・カシール族の一部であったとも云われ、その支族にはバイト・ヤマーニー族、バイト・バラカート族およびバイト・マサイファ族が挙げられる。ラシード族は20世紀の半ばまでルブア・ハーリー沙漠の外縁部で外界とほとんど接触せずに駱駝遊牧で暮らしており、純粋のベドウインと呼ばれていた。英国人旅行家ウィルフレッド セシジャー(1910 – 2003)がルブア・ハーリー沙漠縦断の旅にもっともこの沙漠の知識と経験を持つラシード族を道案内として使い、ラシード族の卓越した能力は同氏の著書「アラビアの沙漠」として記録されている。現在でもラシード族子孫は残ってはいるが、数百人でしかない。

 

E.2.1.g.1.1. tru 3. バイト・ヤマーニー族等

 

バイト・ヤマーニー族、バイト・バラカート族およびバイト・マサイファ族は、共にバイト・カシール族支族ラシード族の一門。

 

E.2.1.h. スフル族

 

ダワースィル族およびムッラ族と共にルブア・ハーリー沙漠北部に住む部族である。

 

E.2.2. アシール山脈在住部族

 

アシール山脈にはアシール族、シャフラーン族、カフターン部族、リジャール・ハジャル族等、多くの部族が住んでいる。互いに渓谷や山並みで遮られてさらに細分化されている。長い年月の間に大半は血縁よりも地縁でつながったアシール族同盟に属したのではないかと思われる。

 

E.2.2.a. シャムラーン族

 

アラビア南西部のアシール山脈の町や農村に居住している。

 

E.2.2.b. バニー・マーリク族

 

バニー・マーリク族はハバラに住んでいた山岳部族である。ハバラはティハーマを眺望する聳え立つ山々に囲まれ、深く狭く閉じこめられた峡谷の奥にある。位置的には州都アブハーから東南東約45kmにあるアハド・ラフィーダから南へ約15kmに入ったシャアーフ地区(Al Sha'af)の断崖の真下である。オスマン帝国(1299 - 1923)の迫害を避けてバニー・マーリク族の一支族はここに住みつき、急峻な崖に住居を築き、コーヒー畑、ザクロの果樹園、ブドウ畑等を開墾して耕していた。海岸のティハーマ側からは傾斜が急過ぎて近づけず、この村への出入りは、崖上のシャアーフ地区と縄梯子で往復のみであった。

 

E.2.2.c. バニー・ムガイド族

 

1822年にアシールのムガイド族首長であるサイード・イブン・ムサッラト・ムガイディーが独立し、北はバスルハマル族の区域から南はサヌワ西のズバイド、西はビルク南東のカフマ海岸、東はタスリースまで広がる首長国を一世紀近く統治した。

 

E.2.2.d. ザハラーン族

 

ガーミド族(カフラーン・カフターニ部族支族)と親戚でアシール山脈北部のバーハ地方の町や農村に居住している。アラブ部族の中で勇気と度量で知られている数少ないアラビア半島の原住民である。バーハはガーミド族とザハラーン族の故郷である。今ではその多くがメッカやジェッダに移住している。

 

E.2.2.e. バルカルン族

 

アラビア南西部のアシール山脈の町や農村に居住している。

 

E.2.2.f. リジャール・ハジャル族

 

リジャール・ハジャル族はアシール族同盟、シャーラン族、カフターン部族と共に、アシール地方を代表する部族とされているが詳細については不明である。

 

E.2.2.g. バスルハマル族

 

19世紀のアシール(Asir)に居た部族の1つ(詳細不明)。

 

E.2.3. ティハーマに住む部族

 

E.2.3.a. アフル・ファイファー族

 

ジーザーン州のファイファ山塊には石積みの段々畑がどこまでも続いている。灌漑用の天水により恵まれる山頂へ山頂へと家も農地も上げて来た結果、こんな険阻な山の上に住むような成ったのだと思う。険しいティハーマ山地の崩れた起伏に富む地形は、その他にも幾つかの非常に隔離された地方社会を生み出した。高い山に隔絶された人々は、その地域毎に部族名が付けられ、アフル・ファイファー族はその中でも特に有名なグループの1つである。

 

E.2.3.b. バヌー・ダウス族

 

預言者ムハンマドの時代に活躍したアラビア半島の部族の一つであり、ティハーマ出身でメッカの南に住んでいた。弩(いしゆみ)の使い方を完全に熟知しており、高い要塞に対する攻城用タンクの経験も持っていた。バヌー・ダウス族の首領の一人トゥファイル・イブン・アムル(d. 633)は、ハイバルの征服以来、常にムハンマドに従ってその要求に対応する準備を整えていた。

 

E.2.3.c. マンジャハ族遊牧民

 

マンジャハ族遊牧民はビルク熔岩地帯で放牧を営む部族である。アシールの「花飾りした男達」と同様にスカートを穿いているが、頭にはゴザで作った帽子を被っている。マンジャハ族遊牧民は、茣蓙(ゴザ)で作ったテントに住み移動していた。

 

E.2.3.d. ライス族

 

「花飾りした男達」と呼ばれているティハーマ・カフターン族は、ハミース・ムシャイト南東76kmにあるファルシャを拠点としている。その南一帯に住むライス族も頭飾りをするが、彼等のウシュシャと呼ぶ半円の小屋は、カフターン部族の小屋に較べ横長である。

 

E.2.3.e. ラビーア族(ラーフィダ族)

 

涸れ谷ディリアでは立派な骨組みの移動テントで生活をしている山羊飼いの部族のラビーア族が住んでいる。ラビーア族自身は「祖先をイエメンから来たアシュラフ・フサイニーヤだ」と言っているが、ラビーア族の敵は「ラビーア族はツシガネス(ジプシー)又はバグダッドのアッバース朝第5代カリフハールーン・ラシード(786 – 809)宮廷の印度から来たダンサーを祖先とする北部アラビアの一部族である謎のスルバー族だ」と言う。

 

E.2.3.f. ティハーマ・カフターン族

 

カフターン部族の末裔で丘陵性ティハーマ山地の遊牧民であるティハーマ・カフターン族の領地はファルシャを含むサラワート高地と紅海岸の海岸回廊の間にある。そのカフターニ高原には棚畑の農場が散在する光景が広がり、その高原は山羊飼いが生きて行ける深い谷間に刻まれた山々で構成されている。ティハーマ・カフターン族の花冠とスカート姿で正装した男達の姿は華々しく、西洋人からは花飾りした男達と呼ばれる。私はイドリーシーの都であったサブヤー付近、スーダ山地にあるインターコンの森、サラート・アビーダとザハラーン・ジャヌーブの間の道路際等で見かけたことがあった。

 

E.2.3.g. アーシム族 

 

ティハーマ山地の部族であるが詳細は不明。

 

E.2.4. ブアースの戦い(617)に参戦したアラブ遊牧民

 

マディーナ(メディナ)へ移住したカフラーン・カフターニ部族アズド族サラバ・イブン・アムル族支族のバヌー・アウス族とバヌー・ハズラジュ族は5世紀末までにこの市の支配権を先住人のユダヤ族から奪い取った。しかしながら6世紀初めからお互いに敵対する様になり、マディーナへのムハンマドの移住までの120年間にわたって戦った。ユダヤ族のバヌー・ナディール族とバヌー・クライザ族はバヌー・アウス族と同盟し、ユダヤ族のバヌー・カイヌカーウ族はバヌー・ハズラジュ族と同盟した。そして、双方は合計4回の戦争を戦い、その内の最後でもっとも血みどろだったのが617年のブアースの戦いであり、それはムハンマドの移住の数年前の事であった。622年にマディーナ社会全体の首席仲裁人として招聘されたムハンマドは同行したイスラーム教徒移住者達(ムハージルーン)と共にメッカを離れてヤスリブ(マディーナ)に移住した。バヌー・アウス族とバヌー・ハズラジュ族の積年の敵意は、両部族の多くがイスラームに改宗する事で薄れてしまった。

 

E.2.4.a. tru c. アシュジャア族等

 

ブアースの戦い(617)においてバヌー・ハズラジュ族側で戦ったベドウインにはアシュジャア族とジュハイナ族、バヌー・アウス族側で戦ったベドウイン(アラブ遊牧民)にはムザイナ族がいた。

 

E.2.5. マディーナ・オアシスに最初に定住したセムの子孫

 

E.2.5.a & b. バヌー・ハウフ族等

 

セムの子孫のバヌー・ハウフ族とバヌー・マトラウィール族が最初にヤスリブと呼ばれたマディーナ(メディナ)・オアシスに最初に定住した。

 

E.2.6. 独自部族

 

E.2.6.a. アイド族

 

アイド族についての詳細は不明であるが、1934年締結されたターイフ条約ではイエメンがアイド族領地の主権をサウジに認めている。アイドはイエメンのアデン東北東約250kmにある集落の名であり、ここの出身の部族ではないかと思われる。アイド族は15世紀後期から16世紀の遊牧民の連続した移動の波の中で下ナジュド移住したが、17世紀の打ち続く干魃によってハルジュに再移住している。

 

E.2.6.b. グーズ族

 

アシール族とその同族を1156年に攻撃した部族である。グーズ族はトルコ民族に属する中央アジアの放牧部族であり、昭武九姓またはソドク人(胡人)であり、九姓胡とも呼ばれている。グーズ族はマッカとジェッダを放逐されてカフラーン・カフターニ部族アズド族の支族バニー・シャハル族の領地に着いた後、アシールを征服しようとアシール族とその首長(12世紀)スライマーン・ムーサーを攻撃している。但し、私には「このグーズ族はアズド族である」と考えるのが自然だと思われる。

 

E.2.6.c. スルバー族

 

印度から来たダンサーを祖先とする北部アラビアの一部族

 

E.2.6.d. ナジュダ族

 

ナジュダ族はウマイヤ朝時代(661 – 750)にハワーリジュ派の王国をアラビア半島中央部から東部わたって築いたナジュダ・イブン・アームル(d. 692)の名を付けた部族である。

 

E.2.6.e. ミディアン族

 

アブラハムの息子の一人ミディアンの子孫、古代パレスチナのセム系1民族。

 

E.2.6.f. ラシャーイダ族

 

ヒジャーズから移住してエリトリアやスーダン等のアフリカとアラビア半島に住むベドウインであり、現代においても東アラビアで半遊牧生活をしていた一門がいた。ラシャーイダ族の駱駝飼育には定評があり、高値で取引されている。ラシャーイダ族はムダル・アドナーン部族族カイス族バヌー・ガタファーン族の一門バヌー・アブス族の一門のバヌー・ラシード族の別名であるとも云う。

 

後書き

 

部族系譜に関する資料を探し当てたいと様々に調べてみたところ、アラビア語の資料や史料は潤沢にあることは分かってきた。ただ、それが仮に手に入っても私には翻訳できるほどのアラビア語の知識は無かった。私としては英語に翻訳されている書物から調べるしかなかったが、転写(アラビア語の日本語の発音)という壁にぶつかってしまった。この解決策を模索するうちにWikipediaが同じような資料を数か国語から十数ヶ国でウエブサイトに掲載していることが分かり英語を介して翻訳したり転写したりすることで部族系譜を相当程度に把握出来るようになった。Wikipediaの情報は検証されているものばかりとは限らないので幾つかの頁を組み合わせて参照することで出来るだけ正確度を高めたつもりであるので部族、系譜についての参考資料としては使えると考えている。

またサウディアラビア協会に私の作成した「沙漠の半島に関する固有名詞(アラビア語から日本語への転写)」を検討・指導して戴く幸運があり、すでにホームページに掲載してある。なお、現在掲載している内容は私が後に追加した項目もあり問題等あればすべて私の責任である。アラブ族の名称は名祖(なおや)となった個人名であるので同じ部族名を避けるためにアーミル・イブン・サウサア族、バヌー・バクル・イブン・ワーイル族等幾つかの名前を付け、日常的にはアーミル族、バクル族等と簡略して呼んでおり、同じ名目が幾つかの部族で重複して使われていることも少なくない。基本的にはカフターン部族とアドナーン部族に大別でき系譜的には辿れる筈であるが、実際には長い年月の間に両部族をが混ざり合い名目的に名族の名を使っている場合も少なくないし、実際的には現代まで続いている部族の実態は幾つもの部族が混ざり合った部族同盟の形になっていると思われる。また小さな部族では自己防衛のため後ろ盾となる大部族に属しているかのように名族の名を意識的に使っている場合もある。このように部族系譜の実態はたいへん把握し難い。特定の部族名が分かっても部族系譜しかわからない場合が多い。また反対に特定の部族について相当程度に詳細のわかる場合もあった。各部族を同じ基準で紹介できないので、ここでは部族系譜に基づき私が調べた内容を参考資料としてホームページに記述・掲載することにした。

 

以上

 

 

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