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2013月6月18日
 サウジアラビア紹介シリーズ    (サウジアラビア王国全般

           
古代から続く歴史              著: 高橋俊二
 Saudi Arabia General



 

 古代人から続く歴史

前書き

 「沙漠の半島(サウジアラビア)」の歴史はイスラーム以降とくにサウジアラビア建国以降については広く紹介されているが、ジャーヒリーヤ(無明時代)と呼ばれるイスラーム前の時代やそれ以前の太古にまで遡る時代についてはほとんど知られていない。
 
 アラビア半島は人類がアフリカで生まれユーラシア大陸に移動していった架け橋であり、「沙漠の半島」に残されている人類の足跡は、120万年前のシュワイヒティーヤ遺跡に遡る。また「沙漠の半島」周辺は古代文明の生まれた場所であり、北にはアシュール、ウバイド、ウルクなどを含む世界最古のメソポタミア文明が興り、バハレインと呼ばれた東部海岸にはディルムーン文明やさらに南のサイハド沙漠には古代イエメン文明が生まれた。これらの文明やその交流を示す遺跡や遺物が「沙漠の半島」には数多く残されている。
 
 古代王国としては半島北西部のアドゥーマートゥー王国(紀元前8~7世紀)、リヒヤーン王国(ディーダーン王国)(紀元前6~4世紀)、バビロニア帝国首都タイマー(紀元前552年からの10年間)、ナバテア王国(紀元前2世紀から紀元2世紀)、古代イエメンの「幸福なアラビア(アラビア・フィーリックス)」と呼ばれる都市国家群(紀元前8世紀頃から紀元3世紀頃)、半島東部の都市国家ジャルハー(紀元前700年から紀元後の初めの数世紀)や黄金のサージ(紀元前3世紀から紀元1世紀)等がある。
 
 また土着の多神教に加えて聖典の民の始祖アブラハムの教えが古代から広く受け入れられ、7世紀初めにはイスラームが発祥している。イスラーム教開祖の預言者ムハンマド死後から始まったイスラーム征服(Muslim Conquests, 632 - 732) は正統カリフ時代(632 - 661)からウマイヤ朝(661 - 750)まで続き、アジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる大帝国を築き上げた。
 
 アッバース朝時代(750 - 1258)に入ると960年頃からメッカの宗教行事の世話、巡礼の安全確保およびヒジャーズの行政を司るメッカ太守(シャリーフ政権)が置かれた。ヒジャーズの宗主国はファーティマ朝(909 - 1171)、アイユーブ朝(1171 - 1249)、マムルーク朝(1250 - 1517)およびオスマン帝国(1299 - 1922)と変わったがシャリーフ政権の支配は認められていた。
 
 近世にアフリカや欧州の一部を含む中近東で長く続いたオスマン帝国の圧倒的覇権に対して唯一独立を維持できたナジュド地方が「沙漠の半島」の中核である。そのナジュドからサウジ公国(第一次(1744 - 1818)および第二次(1824 - 1891))が興り、現在のサウジアラビア王国建国につながった。

 なお読み進められるに際しては「沙漠の半島隊商路」および「沙漠の半島のアラブ族系譜」をご参照戴きたい。
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目次

前書き
目次
1. 石器時代
1.1 古い旧石器遺跡
1.2 氷河時代の終焉から沙漠化
1.3 後期湿潤時代
2. 金石併用時代から鉄器時代
2.1 銅石時代、青銅器時代および鉄器時代の遺跡
2.2 アモリ人とアラム人
2.3 ディーダーン王国とリフヤーン王国
2.4 新アッシリアと新バビロニア時代
2.5 沙漠の王国アドゥーマートゥー
2.6 ニネヴェの沙漠門(タイマー)
3. アラビア・フェリクスの時代
3.1幸福なアラビア(古代南アラビア都市国家群)
3.1.1 王朝以前のカフターン族の支配(紀元前23世紀から紀元前8世紀)
3.1.2 シバ王国(紀元前8世紀から西暦275年まで)
3.1.3 ハドラマウト王国(紀元前8世紀から西暦300年)
3.1.4 アウサーン王国(Awsan)(紀元前800年から紀元前500年)
3.1.5 カタバーン王国(Qataban)(紀元前4世紀から西暦200年)
3.1.6 マイーン王国(紀元前8世紀から紀元前1世紀)
3.1.7 ヒムヤル王国(紀元前110年から西暦525年)
3.2 幻の古代都市ジャルハー
3.3 ダルブ・クンフリーの要所サージ
3.4 ナバテア王国
3.5 パルミラ国
3.6 裕福な部族都市カルヤ・ファーウ
3.7 伝説の失われた都市ウバール
4. ジャーヒリーヤ時代(無明時代)
4.1 ラフム朝
4.2 ガッサーン朝
4.3 キンダ王国
4.4 クライシュ族のマッカ(メッカ)支配
4.5 マディーナ(メディナ)(バヌー・アウス族とバヌー・ハズラジュ族の争い)
4.6 ターイフ(スーク・ウカーズとバヌー・サキーフ族)
4.7 バヌー ・ハニーファ一門支配のリヤード
4.8. ハサーとハジャル総督府
4.9. ウハイディルの王国
4.10 南アラビア(ズー・ヌワース滅亡とサーサーン朝への編入)
5. ムハンマドと正統カリフ時代
5.1 預言者ムハンマド
5.2 初代正統カリフ・アブー・バクル
5.3 第二代正統カリフ・ウマル・イブン・ハッターブ
5.4 第三代正統カリフ・ウスマーン・イブン・アッファーン
5.5. 第四代正統カリフ・アリー・イブン・アビー・ターリブ
5.6. 半島アラブ族の入信と棄教
5.6.1 ハジュル・ヤマーマのムサイリマ
5.6.2 ドゥーマ・ジャンダルへの遠征
5.6.3 ハサーのアブドゥルカイス族の救援
5.6.4 サキーフ族のイスラーム改宗宣言
5.6.5 ナジュラーン・キリスト教徒の改宗
6. イスラーム帝国時代
6.1 ウマイヤ朝時代
6.2 アッバース朝時代
6.3 その他のイスラーム帝国王朝
6.3.1 ファーティマ朝
6.3.2 アイユーブ朝
6.3.3 マムルーク朝
6.4 イスラーム帝国時代のアラビア
6.4.1 ハジュル・ヤマーマとバヌー ・ハニーファ 一門
6.4.2 ハサーのジャブリード家による支配
6.4.3 ジャウフの衰退と部族支配
6.4.4 半島東部のカルマト派支配と諸王朝
6.4.5 聖都の港ジェッダ
6.4.6 ヒジャーズとシャリーフ政権
6.4.7 半独立分立割拠の南西アラビア
7. 部族移住と宗教改革の近世アラビア
7.1 近世の下ナジュド
7.1.1 涸れ谷ハニーファへの部族移住とハジュルの衰退
7.1.2 ムルダ族の招聘
7.1.3 涸れ谷ハニーファ支配の2分割
7.1.4 オスマン帝国の圧力とシャリーフの下ナジュド攻撃
7.1.5 六回の干魃で苦しんだ17世紀
7.1.6 ディルイーヤとウヤイナ
7.1.7 ムクリンからリヤードへの移行
7.1.8 ディハーム・イブン・ダウワースのリヤード支配
7.1.9 シャイフ・ムハンマドの登場
7.2 近世の北部アラビア
7.2.1 カルブ族の衰退とアムル族等タイイ諸族の覇権
7.2.2 ルワラ族の誕生
7.3 東アラビア(ジャブリード朝、ポルトガルとオスマン帝国)
7.3.1 部族王朝ジャブリード
7.3.2 ポルトガルのインド洋交易支配とアラビア湾侵攻
7.3.3 ハサーをめぐる三竦みの国際紛争
7.3.4 オスマン帝国のラハサー州創設
7.3.5 インド交易でのポルトガル衰退と英蘭の台頭
7.3.6 ラハサー州の崩壊
7.4 オスマン帝国支配下のジェッダ
7.4.1 オスマン帝国の紅海艦隊
7.4.2 アブー・ヌマイイ首長
7.4.3 東西交易への蘭英参入とジェッダの衰退
7.4.4 オスマン・トルコ総督とシャリーフ支配
7.5 イエメン州時代の南西アラビア
8. サウジアラビアの発祥
8.1 第一次サウジ公国(1744 - 1818)
8.2 第二次サウジ公国(1824 - 1891)
8.3. ラシード家(シャンマル王国)
8.3.1 ハーイル首長政権の樹立
8.3.2 バルザーン宮殿完成とラシード家の興隆
8.3.3 イブン・サウードへの降服
8.4 ラハサー州から東部州へ
8.4.1 オスマン帝国州政府の放逐
8.4.2 ウトゥーブ族の移住
8.4.3 グライミールの戦い
8.4.4 東部州への設立
8.5 エジプト・ワッハーブ戦争からヒジャーズ王戴冠まで
8.5.1 ワッハーブ派へのヒジャーズの陥落(1804年)
8.5.2 エジプト総督軍のアラビア遠征の開始(1811年)
8.5.3 エジプト遠征軍によるヒジャーズ奪回
8.5.4 アラブの叛乱(1916 - 1918)
8.5.5 カリフ宣言に対するイブン・サウードの断固たる反発
8.5.6 ヒジャーズ王国の降服とイブン・サウードの王位戴冠
8.6 南西アラビアの一部サウジ領編入
8.6.1 アシール
8.6.2 ナジュラーン
8.6.3 ビーシャ
8.6.4 ティハーマ
8.6.5 ジーザーン
8.6.6 イエメン
8.7 サウジアラビアの建国
後書き



1. 石器時代

1.1 古い旧石器遺跡

 「沙漠の半島(サウジアラビア)」は数百万年前に出現した人類がアフリカからユーラシアへと移動し、世界中に広がった通り道であり、石器時代の文化は150万年前に始まり、紀元前2000年近くまで続いた。半島で最も古い旧石器時代の遺跡は、ジャウフ州北東部にあるシュワイヒティーヤであり、その時代は120万年前に遡る。

 「沙漠の半島」内にある100万年以上前の飛びぬけて古い旧石器時代の遺跡は、その他にナジュラーン遺跡と涸れ谷タスリース東岸カハル山南遺跡がある。ナジュラーン遺跡はシュワイヒティーヤ同様に後期オルドワン文化に属する。涸れ谷タスリース東岸にあるカハル山南遺跡は、同時代ではあるが、15万年前までの長期にわたって続いた次世代の手斧の使用に代表されるアシュール文化に属している。

 これらの遺跡が発見された地層の年代は、164万年前に始まった更新世(164 - 1万年前)でありヨーロッパや北アメリカの北部が巨大な氷河におおわれていたので氷河時代とも呼ばれている。この更新世に「沙漠の半島」が氷河におおわれる事は無かった。氷河期には涼しく乾燥し、間氷河期には気候は温暖で湿気があった。涸れ谷構造の発達した地域では川が流れて住み易い環境を作り出し人間の営みが活発であった。

1.2 氷河時代の終焉から沙漠化

 最後の氷河期を終わらせた世界的な気候の変動によって1万7千年前頃に空白地帯周縁部のヤブリーン、ライラ、ムンダファンおよびラムラト・サバアタイン(イエメン領サイハド沙漠)等にあった湖沼は、干上がるか劇的に小さく成ってしまった。森の散在するサバンナ草原は、薄くなり死滅して今日見られる様な荒れ果てた沙漠状態に成った。安定した表土が一旦無くなると、その下の砂層が風で飛ばされて空白地帯(ルブア・ハーリー)の広大な砂沙漠を作りだした砂丘状態となる。

 新石器時代には宗教的目的の為に人物が非常に生き生きと描かれ、また水が豊富な場所に居る牛、馬、レイヨウ、ガゼル、犬、駝鳥、ライオン等の動物も描かれた。時代が経つに連れて描かれる動物も水が乏しくても生存できる駱駝や羊に変わった。これはこの半島が3万3千年前から2万3千年前までの雨の多い時代から1万5千年前までに沙漠化した事を示している。

1.3 後期湿潤時代

 9千年前の雨の再来は、人間がこの土地に移住するのに適した環境を再びもたらした。この時代の気候の変化により特に「沙漠の半島」の南半分に湿った気候が戻って来た。今日では本当に南海岸にしか雨をもたらさないモンスーンが北に偏向して居り、空白地帯全体に季節的な雨を降らしていた。厚い草地が再び生まれ、砂丘地帯の砂は表土に被われた。湖底には水が戻り緑の大地と豊かな野生動物に人間が引きつけられ居住を広げた。この時代の住居跡が空白地帯の全ての部分で見つかっている。

 人間の活動は新石器と云う全く新しい道具を使う文明に特徴づけられる。9千年前から6千年前までの間の後期湿潤時代に人間は今では消えてしまった湖沼や流れの畔に数十万点もの美しい石器を残した。特に半島東部では断続的であったにせよ8千年前から4千年前の間には今日よりも快適な気候が続いた事を暗示している。家畜化した動物と作物の栽培を最初に行った新石器文明がエジプト、肥沃な三日月地帯(メソポタミア)、トルコ、イラクそしてイランのザグロス山脈を含む広い地域に出現した。空白地帯外周域のナジュラーン、ハマーシーン、スライル、アフラージュ(ライラ)およびヤブリーンにも新石器時代に広い集落があった。

2. 金石併用時代から鉄器時代

2.1 銅石時代、青銅器時代および鉄器時代の遺跡

 銅石時代、青銅器時代および鉄器時代を通じて残された遺跡にはジャウフ地方ラジャージルの立ち石群や南ナフードの環状列石、ケルン等の遺構や岩壁画がある。涸れ谷アルアルの水系で火打ち石(燵石)製の石器を伴って環状列石が幾つかあり、また大回廊の窪地(涸れ谷シルハーン)南部では実際に村の防塞に成っていた環状列石が二ヶ所ある。環状列石はイエメンのマハラ地方の人里離れた谷やオマーンのズファール地方にもあり、またオマーン南西部ホール・ローリーの儀式場やティハーマ南部ミダマンやハミリの巨石構築物もある。

 環状列石は北アフリカやヨーロッパ同様に季節毎の活動を計画する助けとして太陽、星および月の現象を観察する為に使われていたと思われる。「墓ではないか」といわれているツムリは、一般的にはケルン状のものが小高い岩山等に残っている。鉄器時代のツムリにはウラー北北東約100kmに位置し、平らな岩の台地上に建つカーラ・ハイラーンの様に前方後円墳を思わせる円部直径50m総延長100mで積み石の高さ最大4mにも及ぶ大型のものもある。

 岩壁画や碑文はジャウバ窪地、ハーイル周辺(ジュバ、ヤティブ山、ミリヒヤ、ジャンナーン、サーフィン等)、ウラー渓谷やナジュラーン北のビイル・ヒマーが有名であるが、古代からの交易路や巡礼路に沿って「沙漠の半島」の各地で見られる。碑文では紀元前6世紀のタイマー石柱が重要であるとされている。

 紀元前2450年から1700年以降はディルムーンと呼ばれる文明がバハレイン島を主な中心地として栄えた。「沙漠の半島」本体ではハサー・オアシスとヤブリーン・オアシスで小さな遺跡が見つかったのみであるが、タールート島にあった繁栄する港がカティーフおよびハサー・オアシス両方のオアシス農業の発展を促進させたと云う説は、ハサー・オアシスの排水路に隣接し井戸や泉に近い低い土手から紀元前3千年紀の物と思われる陶器が見つかった事で裏付けられている。

2.2 アモリ人とアラム人

 紀元前3千年紀以降にパレスチナからメソポタミアに至る地域を征服したアラビア土着民の領域の幾つかは、メソポタミアと隣接していたのでセム語族とは何の関係も無いシュメール人とそのセム語を話す後継者である。そのアッカド人は「アラビア土着民がマールツウ或いはアモリと呼ばれる粗暴でテントに住み放牧をするセム語を話す民族である」のを知っていた。メソポタミア社会は紀元前3千年紀以降、急速にマールツウ族を吸収同化したのでアガールームの様なディルムーンに残るマールツウの名前は、少なくともウバイド時代(6500BC - 3800BC)初期から使われていた。この事からもこの民族がアラビア土着の放牧民とウバイドやシュメール人の要素を持つアモリ人との混血だったと思われる。

 メソポタミアの高度に集権化された集落は、2千年紀には衰微してアフラームー等と呼ばれた遊牧民にナツメヤシを強奪され、集落も略奪を受けた。メソポタミアの至る所でアフラームー人はアラム人の遊牧民であると確認されている。アラム人は以前のアモリ人地域から政治勢力として出現した集団であり、同じ民族が異なる名前で呼ばれたとの説やアラム人はアモリ人の子孫であるとの説がある。アフラームーは駱駝遊牧民であり、2千年紀には集落にとって大量の強奪を行う軍事的脅威となった。

2.3 ディーダーン王国とリフヤーン王国

 リフヤーン王国は半島北西部の現在のウラーからヒジュルへの谷間にあった古代アラビアの王国であり、紀元前1700年から紀元前400年まで使われた古代北アラビア文字や紀元前6世紀から4世紀の間の古い北アラビア碑文で知られている。この王国は前期にはその首都がディーダーンにあった為にディーダーン王国との名が使われていた。ディーダーンは半島北西部でマディーナ北380km、タイマー南西110km付近にあり、現在はウラーと呼ばれている。リフヤーン王国については殆ど分かっていないが、アラブ系譜学では古代アラブのサムード族の子孫であるとされている。リフヤーン王国領土の主な都市としては、ヒジュル(マダーイン・サーリフ)、ウラー、クライバ、タイマー等があげられる。

 サウジの歴史学者アブドッラフマーン・アンサーリー博士は、「ディーダーンとして同じ時期に幾つかのシリア都市が興隆しており、ディーダーンは単にこの地域の1つの部族の名を取ってリフヤーンと改名した」と述べている。アンサーリー博士はこの王国の歴史を「紀元前7世紀に始まり紀元前6世紀につながる時代」、「この王国がもっとも大きくなり栄えた紀元前6世紀に始まる早期リフヤーン時代」および最後は「後期リフヤーン時代と呼ばれ紀元前3世紀に始まり、この王国が南アラビア隊商路の依存を高めていった時代」の3つに分けている。

2.4 新アッシリアと新バビロニア時代

 新アッシリア時代はメソポタミアの歴史では紀元前934年から紀元前608年の間であり、その後継の新バビロニア(626BC - 539BC)は紀元前539年にアケメネス朝ペルシア(c. 550 - 330 B.C.E.)キュロス2世(c. 600 BC or 576BC - 530BC)に対して敗北するまで続いた。

 紀元前9世紀から紀元前6世紀に掛けての北アラビア戦役についてアッシリアやバビロニアの碑文には「アルブは部族的に組織され、駱駝に騎乗して北および北西アラビアのアドゥーマートゥー、タイマー、ディーダーンやウラー等の主要なオアシス集落を結んで交易を行う民族である」と記述されている。アルブ(アラブ)は戦場に大勢の駱駝騎乗戦士を送り込む能力を持つだけではなく、交易にも従事したので紀元前6世紀までに北西部のタイマーやディーダーン等が隊商町として十分にその機能が確立した。これはアラブ民族が南西アラビアから現在のレバノンであるレヴァントへ物資を輸送する上での商業的に重要な役割を担っていた事を示している。

2.5 沙漠の王国アドゥーマートゥー

 ドゥーマ・ジャンダルは、紀元前8世紀から紀元前7世紀にかけて存在した半島北部の沙漠の王国であり、アッシリアの年代記にはアドゥーマートゥーと云う名で記録されている。南東ダマスカスを含む半島北部は、パルミレナと呼ばれケダール族が覇権を握っていた。その勢力は従属していた他部族の支族の遊牧地を含めると、ナフード沙漠まで広がっていた。ケダール族の保護が無ければ隊商が沙漠を越えられなかったのでアドゥーマートゥーもケダール族と同盟していた。アッシリアの年代記にはアドゥーマートゥーは一連のアラブ女王系譜の首都であったと記録されている。その女王達とは女王ザビーベ(738BC - 733BC)、女王サミースィー(c. 735)、女王ヤティエ(c. 703)、女王テルフーヌー(c. 688)および王女タブア(c. 675)であった。

 アッシリアの年代記に最初に登場するのは女王ザビーベであり、紀元前738年に第二次アッシリア帝国の創設者ティグラト・ピレセル三世(745BC - 727BC)に貢ぎ物を送っていた。当時の女王ザビーベはケダール族の最高位の巫女であり、アドゥーマートゥーを支配していた。

 二番目の女王はサミースィーである。紀元前735年にティグラト・ピレセル三世(745BC - 727BC)に背いたので女王支配下の二つの町を攻め落とされた。その後に野営地を包囲され、駱駝の貢ぎ物を支払いやっと降伏を許された。

 三番目の女王はヤティエである。バビロニア王マルデュク・アパル・イッディナ(721BC - 710BC & 703BC - 702BC)を援助してアッシリアに対抗した。キシュの戦い(c. 703BC)でセンナケリブ王(705BC - 681BC)によってアドゥーマートゥー軍の殆どは制圧されて捕虜となった。紀元前689年11月にはバビロニアも征服された。

 第四番目の女王はテルフーヌーである。アタールサマインの名でアドゥーマートゥーの住人に崇拝され、古代中東ではイシュタールの名で広く知れ渡った偶像神ディルバトの巫女であった。女王テルフーヌーが支配者であった紀元前688年にアドゥーマートゥーはセンナケリブ王に攻撃された。テルフーヌーはバビロニアの西国境近くの戦闘で同盟軍と共に激しく攻め立てられて敗北し、たくさんの駱駝を失った。テルフーヌーはアラブ同盟軍指揮者であり、ケダール族首長であるカザーイル(d. BC675)と共にアドゥーマートゥーの砦に逃げ戻った。その後カザーイルを裏切ってアッシリアに降伏したテルフーヌーは、アドゥーマートゥーの全ての偶像神と娘の王女タブアと共にニネヴェへと拉致された。
 
 カザーイルはセンナケリブ王亡き後を継いだエサルハドン王(681BC - 669BC)に65頭の駱駝の貢ぎ物を送り忠誠を誓った。その見返りにカザーイルはケダール族の王としても認められた。エサルハドン王はカザーイルに返却する前に偶像神達の修復を命じた。その際に自分の名とアッシリアの偶像神がこれらの偶像神の上位にあるとの文字を彫り込ませた。

 第五番目女王は王女タブアである。アラブ支配の手段としてアッシリア式の教育で養育されて女王の座に就かされた。しかしながらこの時期には王や女王の座を単に保証するだけで収まらない程にアッシリアとアラブの間の敵意は、深まっていたのでその支配は長くは続かなかった。
 
 ケダール族首長カザーイルが紀元前675年に死ぬと、その息子のウアイテはエサルハドン王に1,000ミナエの金、1,000個の貴石および50頭の駱駝から成る多大な貢ぎ物を送った。その見返りにウアイテはカザーイルの後継王に任じられたが、ケダール族の民は厳しい状況下の王としてウアイテを認めずに叛乱した。アッシリアは叛乱を鎮圧して首謀者ワフブを捕らえたが、ケダール族の蜂起は続きウアイテまでが他の叛乱軍を率いて対抗した。ウアイテは叛乱が鎮圧されると、一人で逃れてアッシリアが追跡しても捕らえられないまで奥深く沙漠に逃げ込んだ。王女タブアはアッシリアに対する忠誠を保って居たのでアッシリアの軍隊が王女の支配するアドゥーマートゥーに攻め込む事は無かった。

2.6 ニネヴェの沙漠門(タイマー)

 古代には乳香の道の西ルートがビイル・ヒマーで分岐し、タスリース、ビーシャ・オアシス、マディーナ(メディナ)およびタイマーを通って涸れ谷シルハーンで東ルートと合流し地中海へと抜けていた。タブークとマディーナの中間に位置するタイマーが最初にアッシリアの碑文に登場したのは紀元前8世紀であった。ティグラト・ピレセル三世(745BC - 727 BC)に朝貢して居り、豊かな水井戸で知られていたタイマーをセンナケリブ(704 or 705BC - 681 BC)は、ニネヴェの沙漠門と呼んでいた。
 
 バビロニア王ナブニディス(555BC - 539BC)は、その治世の紀元前552年にタイマーにアブラクと云う大きな城を築き、自分の首都として10年間にわたって支配した。その時期がタイマー繁栄の頂点であったと云う。

 3世紀後半にタドムル(パルミラ)を支配したアラブの女王ゼノービヤー(267AD - 272AD)は、タイマーを襲撃したが、防塞戦に破れた。この時期には「アブラク城は傲慢だ」とゼノービヤーが罵った程にタイマーは力を持っていた。実際にこの町の遺跡では重厚な城壁が10 kmに及ぶ。西側、南側および東側を囲い、北側は通行困難なサブハ(サブカ)と呼ばれる自然の湿地帯でその防御の堅牢さが分かる。

3. アラビア・フェリクスの時代

 古代の半島南部は、ギリシャやローマでは「幸福なアラビア」又は「アラビア・フェリクス」と呼ばれていた。アラビア・フェリクスについて紀元前450年頃にヘロドトス(BC484 - BC420)が「これは世界で乳香が育つ唯一の国であり、没薬(ミルラ)、桂皮、肉桂皮(シナモン)およびラブダナム(半日花から採った天然樹脂)も産するので国中がこの世のものとは思えない匂いが発散している」と述べている。しかしながらアラビア・フェリクスは3世紀のローマ世界の経済不振によってその産物の需要が落ち込むと、衰退してしまった。

3.1幸福なアラビア(古代南アラビア都市国家群)

 半島南部に移住した南セム族は紀元前23世紀頃にカフターン族の支配下にまとまった。カフターン族は簡単な土盛りのダムと水路をサイハド沙漠のマアリブ地域に建設して農業を始めた。紅海岸のティハーマ平地に沿って交易路が繁栄し始めた紀元前8世紀頃にはカフターン族は半島南部と東アフリカの一部を支配する様になった。この交易隊商路の戦略的に位置にあったマイーンを中心にシバ、ハドラマウトおよびナジュラーン(オクデュード)は、侵略を防ぐ為に連携し長い隊商時代の殆どを通じて乳香等の香味料と香料を運ぶ隊商交易路の中心として繁栄していた。やがてカタバーンやアウサーンを含めてこれらの古い南アラビア都市国家群は、イエメン山岳高地のザファール地方のヒムヤル族と云う一地方勢力に併呑されてしまった。


3.1.1 王朝以前のカフターン族の支配(紀元前23世紀から紀元前8世紀)

 紀元前23世紀にアラビア半島南部のアラブ族は、カフターンの支配下にまとまった。カフターン族は簡単な土盛りのダムと水路をサイハド沙漠のマアリブ地域に建設し始めた。やがて紅海岸のティハーマ平地に沿って交易路が繁栄し始めるとカフターン族は南アラビアと東アフリカの一部を支配する様になった。カフターン族の部族の長は宗教上の司祭も兼ね、シバではムッカリブ(Mukkaribs、Priest King)と呼ばれていた。

    
    


 乳香交易の中心地シバームがあった涸れ谷ハドラマウトはイエメンでは例外的に肥沃であり、古代から人々が定住してきた。遠くから見ると摩天楼の様に見える高い日干し煉瓦の塔の様な家々がここの建築の最も顕著な特徴であり、中でも八層以上の家々の並びがそれを代表している。

 この時期の終わり近くには聖書やクルアーンに述べられている伝説的なビルキースの女王すなわちシバの女王が現れたと云われている。「シバの女王が紀元前10世紀にソロモン大王と会見した」とか「シバはアフリカのアビシニアにあった」とか伝説も含めて諸説あり、シバの女王が実在したかどうかについては疑問を持つ学者も少なくない。この時期は紀元前9世紀にアルファベットの登場と共に終わっている。アルファベットはフェニキア語の文字であり、この文字によって南アラビアの歴史が記録されている。

3.1.2 シバ王国(紀元前8世紀から西暦275年まで)

 シバ王国が支配している間は交易と農業が発展し、多くの富と財産を生み出した。シバ王国はイエメン南西部の現在はアシールと呼ばれている地方に位置し、その首都はマアリブであった(アラブの伝説によるとノアの長男でセム族の祖先であるセムがマアリブを創建した)。

 シバの支配下のイエメンはその富と繁栄に感銘を受けたローマ人によって「富裕のアラビア」と呼ばれた。この王国は香辛料および乳香や没薬を含む香料の栽培と交易で繁栄していた。これらを非常に珍重する地中海、印度およびアビシニアの国々にアラビアへは駱駝隊商で、印度へは海路で輸出されていた。

 紀元前25年にシバ王国はヒムヤル王国に征服されたが、その抗争はヒムヤル王国がシバ王国を最終的に征服した西暦280年まで続いた。今でも大きな寺院跡が残るマアリブに首都があり、殆ど14世紀間にわたって栄えたこの王国が旧約聖書に述べられているシバ王国であると主張する学者も少なくはない。

 山々を抜ける水道のトンネルとダムを組み合わせた進歩的な灌漑システムによってこの時代を通してイエメンの農業は発展した。この様な土木工事の中でも特に印象的なマアリブ・ダムは紀元前700年に建設された。マアリブ・ダムは101平方キロメートルの土地を灌漑し、最終的に570年に崩壊するまで千年期を挟んで何世紀にも渡って建っていた。

 シバの女王はエチオピアの歴史、ヘブライ語の聖書、新訳聖書およびクルアーンに古代シバ王国を支配者であった女性として引用されている。この歴史的な王国の場所はエチオピアとイエメンの両方にあり、エチオピアの方がそうであるらしい。マケダとしてエチオピアの人々に知られるこの女王は異なった時代に異なっ人々に様々に呼ばれている。イスラエルのソロモン王に対してはシバの女王であり、イスラームの伝説ではビルキースと呼ばれている。ローマの歴史家ヨセフス(37 - 100)は女王をニカウラと呼んでいる。女王は紀元前10世紀に実在していたと考えられている様だ。

 ヘブライ語聖書では国々の歴史は創世記第10書に述べられている。創世記第10書の26章から29章にはシバがノアの息子エベルの息子ジョクタン(カフターン)の息子の子孫として名前を挙げられ引用されている。ヘブライ語聖書に書かれた伝説によればセム系部族はアラビア半島で特に南アラビアに集中して見つかる。アラム人、アッシリア人および肥沃な三日月地帯と東部メソポタミアそれぞれ分布するエラム人は例外としてアハロニ(Aharoni)、アヴィ・ヨナ(Avi-Yonah)、レイニー(Rainey)およびサフライ(Safrai)は南アラビアのセム族のシバ王国に居住していた。そこは地理的に彼等の祖先ジョクタンの子孫である部族の場所に近い。シバに加えてハザールマヴェス(Hazarmaveth)やオフィール(Ophir)が確認される。セム族のハヴィラ(Havilah)は東アフリカの現在のエチオピアに居住していた。従ってシバの女王は南アラビア居るセミ族のシバの子孫であるとは言えるが、エチオピア起源の人種で或る方がもっともらしい。

3.1.3 ハドラマウト王国(紀元前8世紀から西暦300年)

 ハイドラマウトはイエメンの古代都市国家群の在った涸れ谷の名前でもあり、ギリシャ語の要塞化が語源で隊商路の要塞化された水場のある宿場を意味する。近代のキャラバンサライは将にこれに相当する。ハイドラマウトの最初の碑文は紀元前8世紀からあらわれる。紀元前7世紀初期のカラビール・ワタール(Karab'il Watar)の古いシバ碑文にはハイドラマウト王ヤダイル(Yada`'il)が盟友として記述されている。しかしながらマイーン人が紀元前4世紀に隊商路を支配した時にハイドラマウトはおそらく商業上の利害からマイーンの同盟国の1つになっていた。その後にハドラマウトハドは独立した。1世紀末に向けて勢力を伸ばしていたヒムヤル王国の侵略を受けたが、その攻撃を撃退した。ハドラマウト王国は2世紀の後半にカタバーン王国を属領化して領土は最大と成った。

 この時代にハドラマウトはヒムヤル王国およびシバ王国と戦争をし、シバ王国のシャイルム・アウタール王(c. 225)は225年にその首都シャブワを占領した。この時期にアクスム王国は南アラビアに介入し始めた。アクスム王ガダーラート(c. 200)はその息子の指揮下に西岸からヒムヤル王国の首都ザファールを占領する為に軍を派遣した。同様にシバ王国の同盟国としてのハドラマウト王国に対しても南岸から軍を派遣した。ハドラマウト王国は西暦300年頃にヒムヤル国王シャンマル・ヤリアシュ(c. 275)によって征服され、南アラビア王国に併合された。

3.1.4 アウサーン王国(Awsan)(紀元前800年から紀元前500年)

 現在のイエメンである南アラビアにあった古代王国アウサーンは涸れ谷マールハ(Wadi Markha)の中に首都ハガール・ヤヒッル(Hagar Yahirr)があった。涸れ谷バイハーン(Wadi Bayhan)の南へと広がりこの地方ではハガール・アスファル(Hagar Asfal)と呼ばれている古代都市の丘状遺跡(Tell)あるいは人口的な丘によって今でもその場所は分かる。かつてアウサーンは南アラビアで最も重要な小さな王国であった。シバ碑文によればこの都市はシバの王(king)兼ムカリブ(Mukarrib)のカラビール・ワタール(Karab'il Watar)によって紀元前7世紀に破壊されたらしい。

 この都市国家は紀元前2世紀末に復活して1世紀の初めまで続いていたと、思われた。約16万平方メートルが壁で囲まれ、焼かれた煉瓦で作られた建物の基礎が注目に値する。毎年の春と夏に起き一時的に畑に溢れ軽いシルトを残して行く洪水に耕作を頼っていた。このシルトが風で風化されると古代の形の畑や溝が現れる。

 ハガール・ヤヒッルはヘレニズム文明の影響を受けている。日干し煉瓦の住居に囲まれた寺院や宮殿を持ち、駱駝隊商用の市場や宿を持つ南アラビアの例外的な大きな都市の中心であった。この時代の王の1人はイエメン人の支配者で唯一神聖の栄誉を受けており、その残された小さな彫像はその前任者達がアラビアの服装をしているのと対称的にギリシャの服装をしている。カタバーン文字で刻まれたアウサーン王国の碑文もある。ハガール・ヤヒッルは他の小さな王国の首都同様に大きな涸れ谷の入口にあった。マイーン王国首都カルナーウは涸れ谷ジョウフ、シバ王国首都マアリブは涸れ谷ダーナ(Dhana)、カタバーン王国首都ティムナは涸れ谷バイハーン(Bayhan)、アウサーン王国首都ハガール・ヤヒッルは涸れ谷マールハ(Markha)でハドラマウト王国首都シャブワは涸れ谷イルマ(Irma)である。

3.1.5 カタバーン王国(Qataban)(紀元前4世紀から西暦200年)

 カタバーン王国はバイハーン渓谷に栄えたイエメンの古代王国のひとつであり、紀元前1000年期後半における最も代表的南アラビア古代王国であった。他の南アラビアの王国と同じ様に祭壇で炊かれる乳香と没薬の交易で大きな富を得ていた。カタバーン王国の首都はティムナであり、ハドラマウト王国、シバ王国およびマイーン王国等他の南アラビア古代王国を通る交易路に位置していた。カタバーン王国の守護神は叔父を意味するアンムであった為にその民は自らアンムの子供達と名乗っていた。この王国は2世紀の後半にはハドラマウト王国によって属領化されてしまった。

3.1.6 マイーン王国(紀元前8世紀から紀元前1世紀)

 マイーン族はギリシャの天文・地理学者エラトステネス(Eratosthenes、276 - 194. B.C.)によって述べられているセム族系の古代イエメン4部族の1つであり、その他の3部族はシバ族、ハドラマウト族およびカタバーン族であった。紀元前1千年期にこれら4部族はそれぞれ古代イエメンに地方王国を形成していた。マイーン王国は北西で涸れ谷ジョウフの中に、シバ王国はその南東に、カタバーン王国はシバ王国の南東に、ハドラマウト王国はその東に位置していた。マイーン王国も同時代の他のアラビアやイエメンの王国同様に非常に大きな利益のある香辛料交易、特に乳香および没薬の交易に従事していた。

 マイーン国はマイーン族で構成され、その王国は紀元前4世紀から紀元前1世紀の間に最も栄えた。マイーン王国の首都はカルナーウである。カルナーウは中世アラビアの地理学者にはサイハド沙漠と呼ばれ、現在ではラムラト・サバアタインと呼ばれている沙漠回廊の西の端で、涸れ谷ジョウフの東端に位置している。マイーン王国のもう一つの著名な都市としてはバラーキシュ(Baraqish)として知られるヤシッル(Yathill)があった。

 マイーン王国は涸れ谷マザブ(Wadi Madhab)(涸れ谷ジョウフの中流部)に沿って支配下の殆どの都市が並ぶイエメン北西部に中心があった。マイーンの碑文はマイーン王国から遠く離れたサウジアラビア北西部のウラーやデロス島(Island of Delos)でも発見されている。紀元前2世紀後半にマイーン王国がシバ王国に敗れ、滅びた紀元前1世紀頃が第一次南アラビア王国群の最初の終焉であり、マイーン語は西暦100年頃に絶えた。

3.1.7 ヒムヤル王国(紀元前110年から西暦525年)

 ヒムヤル王国は半島南部に居たヒムヤル族が紀元前110年にイエメンに築いた古代南アラビア王国であり、西暦340年に一旦占領されるが、独立を取り戻して最終的には西暦525年まで続いた。

 ヒムヤル王国は紀元前25年にシバ王国を征服したが、シバ王国との抗争はその後も続きヒムヤル王国がシバ王国を最終的に征服したのは西暦280年であった。ハドラマウト王国の属領となっていたカタバーン王国を西暦200年頃に獲得し、そして西暦300年頃にはハドラマウト王国を征服した。なお、マイーン王国は紀元前2世紀後半にシバ王国との戦いにに敗れ、紀元前1世紀頃には滅びている。またアウサーン王国はシバ王国に破壊されが、紀元前2世紀末に復活し1世紀の初めまで続いていたと云う。

 ヒムヤル王国はザファールと呼ばれたレダン(現在のイブ)を占拠して首都とし、半島南西部を統一した。しかしながら南アラビアの王国同士での争いは、続いた。これがエチオピアのアクスム王ガダーラート(c. 200)の介入を招き、首都ザファールは3世紀の初めに陥落させられた。ザファールを奪還しアクスム勢をティハーマまで押し返したりはしたが、ヒムヤル王国の支配は余り安定していたとは言えなかった。その一方でヒムヤル王国は軍事遠征を成功裏に行っていた。その支配を時には遙か東のアラビア湾や北のアラビア沙漠まで広げていた。

 しかしながら陸上交易はヒジャーズの北にあるナバテア人の領土で遮られ、海上交易はローマ帝国がはるかに卓越して居た。そのうえ部族間抗争の為にヒムヤルは没落し、カフターン族は四散した。ローマ帝国はアデンを征服しアビシニア(エチオピアの旧称)がイエメンを西暦340年に占領するのを援助した。アビシニアのイエメン占領は西暦378年まで続いた。

3.2 幻の古代都市ジャルハー

 半島南部からの交易路はナジュラーンからカルヤ・ファーウや涸れ谷ダワースィルへ抜け、空白地帯沙漠の北限を通りアフラージュおよびハルジュを経由してナジュド沙漠の南を横断し、東アラビアの交易の重要な中心であったジャルハーへと通じていた。都市国家ジャルハーは紀元前700年から紀元後の初めの数世紀に渡ってイラクへ向かう物資の交易の陸路とアラビア湾から北西アラビアや東地中海に至る交易も支配した。

 この都市国家の存在は同時代の地理学者や歴史家の記録や古代硬貨の発見によって確認されているが、その実在した正確な位置に関しては確定できていない。ジャルハーが存在していたとされている場所には東部州のサージ、カティーフ、ダハラーン、サフワーに近いアイン・ジャーワーン、ウカイルおよびウカイル北の塩採集場がある。海岸にあるウカイルの北の広大なサブハ群(含塩平地)に近い塩採集場では同じ時代の遺物が幾つか出土して居り、「東部州のハサー北東80kmにある廃港ウカイル付近にあった」との有力説もあるが、依然として謎に包まれている。このため幻の古代都市とも呼ばれる。

3.3 ダルブ・クンフリーの要所サージ

 現在のサージは東部州北部の涸れ谷ミヤーの中心サッラール東南東約30kmにあるナツメ椰子の林に囲まれた寒村である。かつてはハサー・オアシスからイラク南部に至る古代の主要交易路がサージを通り、ダルブ・クンフリーと呼ばれる交易路と交差していた。ダルブ・クンフリーはジュベールからダフナー沙漠およびルマーフ井戸群を抜け、古代のハジュル・ヤマーマへ通じていた。

 考古学的にはサージはサウジ国内で一番多くの黄金の出土品が発掘され、硬貨も発見されているので幻の古代都市ジャルハーであった可能性もある。サージはギリシャ時代紀元前3世紀に建造された。総延長2.5kmの城壁で囲まれた都市遺跡である。豊富な陶器の出土から紀元前300年から1世紀に掛けてのこの町の繁栄した様子が分かると云う。

3.4 ナバテア王国

 紀元前2世紀頃から紀元2世紀にかけて半島西北部に栄えたナバテア人の祖先は、遊牧生活を送り交易などを行いながらペトラに移動してきた。ペトラのあるアラバ渓谷には紀元前1200年頃からその名が赤い砂岩に由来するエドム人が住んでいた。ナバテア人の人口が増え、定住生活に移行すると、エドム人達を南へ追いやり、そこに王国を築いた。それは初代ナバテア王アレタス1世(c. 168BC)の名の刻まれたナバテア碑文から紀元前2世紀前半頃のことだと思われる。

 ナバテア人は紀元前1世紀頃までにはヒジュル(マダーイン・サーリフ)、ドゥーマ・ジャンダルおよび涸れ谷シルハーンの覇権を握り、半島北西部の交易を独占した。潅漑・貯水技術に長けていたので首都ペトラは沙漠の都市ではあっても必要な水は確保され、シルクロードの隊商都市として繁栄していた。遠く離れたヒジュルやドゥーマ・ジャンダルと国家として一体化する為に涸れ谷シルハーンは、ナバテア王国支配の生命線であった。

 ナバテア王オボダス3世(30BC - 9BC)の治世にローマ初代皇帝(27BC - 14AD)アウグストゥスは乳香の産地イエメンまでの交易路を求めていた。紀元前25年にアウグストゥスはエジプト総督アエリウス・ガルスに命じて半島南部に遠征させた。そしてその道案内をナバテア王に指示した。当時の首相シラエウスは乳香貿易の富みをローマが直接イエメンと交易する事で奪われるのを恐れた。シラエウスはローマ軍の遠征に対して面従腹背の態度を取り、案内の途中でその配下と共に様々な妨害を狡猾に行った。ガルスはナジュラーンまで2,500km進軍し、ナジュラーンを包囲し、略奪して焼き払った。更に進撃しマアリブを包囲した。しかしながらガルスの軍隊は水不足の為に 6日間だけでマアリブから退却せざるを得ず、乳香生産地には辿り着けなかった。

 この遠征の失敗を招いた原因であった首相シラエウスは、その後にローマに対するこの裏切りで処罰され、さらに別の件でシラエウスはローマを怒らせ崖から投げ落とされて殺された。一方ガルスはエジプトに退却したが、その艦隊は印度へのローマ商船の航路を確保する為にアデン港を破壊した。この遠征が成功しなかった為にローマ人達は1世紀から定期的に乳香と没薬の地に紅海経由で訪れた。それが結果的に紅海沿岸のムザ(イエメン領モカ)やアラビア海沿岸のカーナー等の半島南部の港を発展させることとなった。

 交易により巨万の富を築いたナバテア王国は、紀元前1世紀頃よりその隊商路に沿う形で領土をさらに拡張して行った。アレタス4世(9BC - AD40)治世下の紀元後1年にはその領土をダマスカスからヒジャーズ地方までの沙漠周辺部とネゲブ地方まで広げメソポタミアや半島南部から地中海に至るほぼ全ての隊商路を掌握した。これに対してローマ帝国は香料と香水の船積みをエジプトに変えた。当時のナバテア王マリシャス2世(AD40 - AD70)はローマの圧倒的な勢力下ではその決定に従わざる負えなかった。その結果としてナバテア王国の勢力は衰えた。紀元前64年から紀元前63年頃にナバテア人はローマの将軍ポンペイウス(106 BC - 48 BC)によりその支配下におかれた。自治は認められたものの税を課され、また沙漠から進入してくる異民族の緩衝地帯にもされた。西暦106年にはローマ皇帝トラヤヌス(トラジャン(AD53 - AD117))によりペトラとナバテア王国はローマのアラビア属州として完全に組込まれてナバテア王国は滅亡した。

3.5 パルミラ国

 パルミラはアラビア語ではタドムルと呼ばれる都市国家である。ダマスカス北東のシリア中央に位置し、紀元前1世紀から3世紀にはシルクロードの中継都市として発展した。「3世紀の危機」の中で、パルミラ市生まれのオダエナトゥス(260 - 267)は自前の軍隊を率いてパルミラ国(260 - 273)を建国した。時のローマ皇帝ガリエヌス(c.218 - 268)はオダエナトゥスを東方全域の司令官に任命し、サーサーン朝ペルシア(224 - 651)からの攻撃への防御に当たらせた。オダエナトゥスはその期待に応えたが、267年に宴席で一族の者によって刺殺された。後妻ゼノービヤー(240 - c. 274)が一連の事態を収拾し、西暦270年頃には女王として君臨した。その時代には106年にローマに吸収されたナバテア人の通商権を引き継ぎ、エジプトの一部も支配下に置いて絶頂期に至った。しかしローマ皇帝のアウレリアヌス( 270 - 275)はパルミラの独立を恐れて攻撃を開始したので西暦272年にパルミラは陥落して廃墟と化した。

3.6 裕福な部族都市カルヤ・ファーウ

 古代にはズー・カハルと呼ばれていたカルヤ・ファーウは、リヤード南南西700km、ナジュラーン北北東290 kmでワーディー・ダワースィル南80 kmに位置している。この城塞都市は駱駝隊商路に栄え、キンダ族の支配下(紀元前1世紀から4世紀頃)にあった。キンダ族はムナーズィラ族やガッサーン族と共にカフターン部族カフラーン族に属し、シバ王国(c. 8th C. BC - AD275)を形成していた。紀元前25年にシバ王国がヒムヤル王国によって最初に征服された後、キンダ族の一部が駱駝隊商路の拠点であったカルヤ・ファーウに移住してきたのだと思われる。復活し西暦275年まで続いたシバ王国との関係は、良好ではなく何度か戦いがあった。アラビア語で楽園都市を意味するカルヤ・ハムラーウおよびザート・ジナーンと呼ばれる裕福な部族都市は、半島南部からナジュラーンを経てアレクサンドリア西のアラブ湾やメソポタミアへと延びる交易路の東部分の重要な交易拠点へと発展した。カルヤ・ファーウが半島中央部の経済的、宗教的、文化的そして社会的中心であった時代(紀元前200年から西暦200年頃)は、第一期キンダ王国とも呼ばれている。

3.7 伝説の失われた都市ウバール

 ウバーとも転写されるウバールは「沙漠の半島」南部の空白地帯にあって紀元前3,000年から1世紀頃まで交易の中心として繁栄した。しかしながら歴史の中に忽然として消え、「伝説の失われた都市」と云われている。クルアーンでは「ウバールはノアの曾孫のアードの一族が作った町であり、石の偶像神を崇拝する邪悪な人々が住んでいた。預言者フードが『この町は頽廃し、繁栄を維持できなくなった』と警告すると、アードの息子で王であったシャッダードは、これを無視して反抗した。このため神はこの町を滅ぼし、砂の中に埋めてしまわれた」と書かれていると云う。シャッダードについての出来事はアラビアンナイトの中でも語られている。空白地帯沙漠南東でオマーンのズファール地方のシスルと云う泉の傍の鍾乳洞で300年から500年の間に大きな鍾乳洞陥没で地下に埋没した建造物を発見された。この鍾乳洞は更に発掘中であるが、ほぼ「伝説の失われた都市ウバール」と特定されている。

4. ジャーヒリーヤ時代(無明時代)

 ジャーヒリーヤ時代とはムハンマドによってイスラームが布教される以前の時代で、無明時代ともよばれている。この少し前にローマ帝国は「3世紀の危機」と呼ばれる時代で、短命の軍人皇帝が乱立し、地中海世界は経済的に停滞した。その上に4世紀に入るとローマ帝国がキリスト教に改宗した。これによってが祭壇で乳香が使われなくなり、乳香交易が激減してアラビア・フェリクスの隊商都市は衰退した。

 交易の停滞で窮乏した多くのアラブ部族が半島南西部から中央部および北部へ移住したが、さらに厳しい干魃に見舞われた。半島東部の部族は、糧を得るためにペルシア領を襲撃する様に成った。これに対し325年にサーサーン朝ペルシア(224 - 651)シャープール二世(309 - 379)は、半島東部に侵攻した。シャープール二世はマディーナまで進撃して報復している。

 4世紀のサーサーン朝ペルシアはメソポタミアおよびアラビア湾の海路を支配していた。一方でビザンチン(ビザンティン)帝国(330 or 395 - 1453)が4世紀にローマ領レヴァントを領有したので、両者はシリア沙漠をはさんで対峙することになった。その緩衝地帯としてそれぞれに支援された強力な部族連合が出現した。ビザンチン帝国はガッサーン族を支援し、サーサーン朝ペルシアはラフム族を支援した。

 半島南のイエメンではサーサーン朝が印度とのアラビア湾交易を繁栄させるために紅海の交易を阻止しようと、イエメンを窺っていた。一方でビザンチン帝国はアビシニアのイエメン干渉を援助し、サーサーン朝に対抗した。半島中央の部族や都市はビザンチン帝国とサーサーン朝のいずれを支持するかで争いていた。西暦300年にはヒムヤル王国(110BC - AD525)が半島西南部の都市国家を統一し、「沙漠の半島」における第三の権力となった。ヒムヤル王国は隊商路を確保する為に強力な部族連合を独立させ、支援する政策を取った。

 ジャーヒリーヤ時代とは半島各地の定期市で詠われたジャーヒリーヤ詩人達の詩によって時代考証ができる5世紀半ば以降を指していると云うが、ガッサーン朝(3rd C - 636)、ラフム朝(266 - 602)、第二期キンダ王国(425 - 528)等の封建君主の時代でもあった。これらの王朝全てはカフターン部族カフラーン支族出身であり、それぞれビザンチン帝国(395 - 1453)、サーサーン朝(224 - 651)およびヒムヤル王国によって封じられていた。

4.1 ラフム朝

 バヌー ラフム支族出身のアムルは2世紀にイエメンから移住してきたカフターン部族カフラーン支族一門のラフム族やムナーズィラ族を含め、イラク南部に住んでいたアラブ・キリスト教徒のグループを統合した。そして西暦266年にヒーラを首都するラフム朝(266 - 602)を建国した。この王朝はアムルの出身部族の名に因んでラフム朝と名付けられ、その民はラフム族と呼ばれる様になった。詩人達はこれを地上の楽園と詠った。或るアラブ詩人はこの町の快適な気候と美しさを「ヒーラでの一日は一年の治療よりも優れている」と述べていた。

 その息子のイムル・カイスは統一アラブの王国を夢めみて陸軍大部隊を編成する一方で、アラビア湾で活動する海軍力を発展させた。イムル・カイスはアラビアの多くの都市を奪い取ると共にペルシアの海岸都市も襲撃した。サーサーン朝はこれに対して西暦325年にシャープール二世(309 - 379)が6万人のペルシア軍を率いて、ラフム朝に侵攻した。イムル・カイスはローマ皇帝コンスタンティウス二世(317 - 361)に援軍を求めたが、その援軍は間に合わなかった。ペルシア軍はヒーラとその周辺を凶暴に攻め立て、ラフム朝陸軍を壊滅させてヒーラを占領した。シャープール二世は復讐の為に捕虜達の肩に穴を開け、ロープを通して数珠繋ぎにした。この為にシャープールはアラビア語では肩を意味するゾル・アクターフとも称される。シャープールはアウス・イブン・カッラームを擁立し、この都市に自治権を与えた。そしてラフム朝をペルシア帝国本土と「沙漠の半島」の他のアラブ部族の間の緩衝地帯とした。

 2年経った西暦330年に叛乱が起き、アウスは殺されイムル・カイスの息子が王位を継承した。その後のラフム朝の主な敵国はサーサーン朝の宿敵のビザンチン帝国(395 - 1453)に隷属していたガッサーン朝となった。5世紀の後半にキンダ王国が中央アラビアの諸族を一つの強い連合に結束させた。6世紀の始めにキンダ王ハーリス・イブン・アムル(489 - 528)は、ラフム朝を征服して首都のヒーラも占領した。ハーリスの没した西暦528年までにラフム朝はサーサーン朝の援助でその領土を奪回して勢力を取り戻した。

 ラフム王国はその勢力を6世紀末までは維持し、キリスト教ネストリウス派の主要な中心ともなった。しかしながらラフム王ヌウマーン三世がサーサーン朝ホスロー二世(590 - 628)への裏切りの疑惑で西暦602年に死刑に処せられ、ラフム王国は滅亡してサーサーン朝に併合された。「実際にはホスロー二世がヌウマーン三世に娘をハーレムに差し出す様に要求し、拒絶されたので象に踏み殺させたのだ」との説もある。ヒーラは廃棄され、その資材はその疲弊した双子都市クーファ再建に使われた。「ハーリド・イブン・ワリード(592 - 642)による西暦633年5月のヒーラの戦いにサーサーン朝が敗れた背後にはラフム朝残党のムスリム側スパイとして働きがあった」と云う。

4.2 ガッサーン朝

 カフターン部族カフラーン支族の一門は3世紀始めにイエメンのマアリブからシリア南部の火山性平原ハウラーン、ヨルダンおよびパレスチナに移住した。そこでヘレニズム化したローマ人移住者およびギリシャ語を話す原始キリスト教徒集団と婚姻関係を結んだ。ハウラーンに定住したジャフナ・イブン・アムルの一族は、ガッサーン朝を創建した。土着のアラム人からキリスト教を受け入れ、レヴァントに古代アラブ・キリスト教王国を築いた。その王国の民はジャフナ・イブン・アムル族(カフラーン・カフターニ部族アズド族の一支族)を含めてガッサーン族と呼ばれる様になった。

 ローマ帝国はローマ領を侵す他のベドウィンに対する緩衝地帯としてガッサーン朝と同盟を結んだ。3世紀初めから7世紀まで続いたこの王国は地理的にシリア、レバノンのヘルモン山、ヨルダンおよびイスラエルの大部分を占めており、その威光は部族同盟を介して北ヒジャーズからはるか南の現在のマディーナであるヤスリブまでに住む他のアズド族に及んだ。

 ローマ帝国を受け継いだビザンチン帝国はもっと東に興味を持ち、ペルシアとの長期戦争が常に主要な関心事であった。ガッサーン朝は交易路の擁護者として支配を維持しベドウィン族を取り締まりビザンチン帝国陸軍に兵隊を供給していた。ガッサーン王ハーリス・イブン・ジャバラ(529 - 569)はサーサーン朝ペルシアに対抗するビザンチン帝国を支援し、皇帝ユスティニアヌス一世(527 - 565)から西暦529年に国境部族国家の支配者の称号を与えられた。

 ガッサーン朝は経済的に繁栄しており、南イラクと半島北部に覇権を持つヒーラのラフム朝に十分に対抗していた。当時のラフム朝はペルシアと同盟するペルシア帝国の封建国家であった。ガッサーン朝はビザンチン帝国の封建国家として636年のヤルムークの戦いの後にその支配者がムスリムによって崩壊させられるまで続いた。この戦いでは12,000人のガッサーン族アラブ民がムスリム側に寝返った。

 ハーリス・イブン・アビ・シムルの後継者であるジャバラ・イブン・アイハムは私闘でウマル・イブン・ハッターブ(592 - 644)に罰する様に命じられ、イスラームを棄教してビザンチン領に向かった。ガッサーン族の殆どがキリスト教への信仰を続け、レヴァントに留まった。ジャバラとおよそ3万人のガッサーン族がシリア北部を離れ、新たなビザンチン国境領に定住した。建国を許されなかったが、高い地位を維持した。西暦802年から813年までビザンチン帝国を支配し、東ローマ帝国の偉大さを復元したニケポロス・ビザンチン朝さえも生み出した。

4.3 キンダ王国

 キンダ王国はナジュドの現在のカルヤ・ファーウであるカルヤ・ザート・カフルの封建領主であった。「裕福な部族都市カルヤ・ファーウの章」に述べた様にキンダ族はガッサーン族およびムナーズィラ族と共にイエメン中央のマアリブにあったシバ王国を構成したカフラーン族であった。紀元前25年に征服されたシバ王国は復活したが、マアリブ・ダムの崩壊後の西暦280年にヒムヤル王国によって再び属領化された。キンダ族はマアリブを出て古代バハレインを目指した。しかしながらアブドゥルカイス族(ラビーア・アドナーン部族の一支族)に駆逐され、キンダ族は4世紀にナジュドのシャンマル山塊に1支族を残してイエメンに帰郷してハドラマウトに定住した。この時までにヒムヤル族は最後の敵であったハドラマウト王国を属領化(西暦300年)しており、ヒムヤル族はハドラマウト族とは伝統的に敵対していたキンダ族にハドラマウト全体への支配権を与えた。

 ヒムヤル王国はアラビア湾やメソポタミアへ至る隊商路の確保しようと半島の中央部と北部を支配する為の従属関係を持つ封建国家を創ろうとしていた。ヒムヤル王国は南ナジュドのキンダ族やムズヒジュ族等の諸族と同盟或いは部族的関係を維持して半島中央部全体に影響を及ぼす或る種の従属関係を築いていた。5世紀になると、北のアドナーン族がイエメンとシリアの間の交易の重大な脅威と成って来た。キンダ族はこの頃までにアドナーン族に対抗してその緩衝国の役割を担うのに十分な強さと人数を増やしていた。このため西暦425年ヒムヤル王ハサン・イブン・アムル・イブン・トゥバーウは、アーキル・ムラール・ブン・アムル(425 - 458)をカルヤ・ザート・カフルに封じてキンダ王国の最初の封建君主に任命した。6世紀まで続いたこの封建国家は第二期キンダ王国とも呼ばれた。

 好戦的なキンダ族はナジュラーンの北の地域のカルヤ・ファーウ辺りに居住を定めた。南アラブ部族に属して居たにもかかわらず、5世紀の後半には卓越したバクル族グループを含む半島中央部の諸族を一つの強い連合に結束させた。「当時のキンダ族指導者アムル・マンスール・イブン・フジュル(458 - 489)は、西暦490年に没するまでに半島中央部の殆どを支配してヒーラのラフム朝の影響下にある半島東部のバクル族の領土でも自由に通行できた」と云う。

 フジルの孫のハーリス・イブン・アムル(489 - 528)はラフム朝を征服し、その首都のヒーラを占領した。さらに多くの部族と連合してビザンチン帝国(330 or 395 - 1453)の領土やサーサーン朝( 224 - 651)のメソポタミアに侵攻した。ハーリスはビザンチン帝国との国境地帯における部族が盟主としたガッサーン朝の為政者を交代させた。ハーリスの生涯がキンダ族の興隆の最盛期を代表していた。
 
 西暦525年にアクスム王国がヒムヤル王国を侵略すると、3年間でキンダ王国は幾つかの小さな王国に分裂して次第に衰退した。ハーリスの没した西暦528年までにサーサーン朝の援助を受けたラフム朝は、その領土を奪回して復活していた。それでもハーリスの王国はヒジャーズ、ナジュド、ヤマーマおよび半島東部から成る広大な地域を確保できた。しかしながら息子達の血なまぐさい争いで崩壊し、530年代と540年代を通じてナジュドとヒジャーズの興隆で滅びていった。

4.4 クライシュ族のメッカ支配

 フザーア(ハーリサ)はカフターニ部族カフラーン族アズド支族一門フザーア族の長であり、マル・ザハラーンに来るまでヒジャーズを自分の一族と流浪していた。フザーア族はメッカ谷とその井戸をジュルフム族から奪い取った。メッカを追い出されたジュルフム族は、カアバ神殿の守護権も失った。その時期はハッキリしないが、遅くとも4世紀の終わりでまでである。

 フザーア族の族長アムル・イブン・ラヒー・フザーイーは、フバルと云う名の偶像神をシリアから持ってきた。そして自分の支配の継続と云う意味でフバル神を遇するためにカアバ神殿に持ち込んだ。フバル神は長いあごひげをした老人の形をして紅玉髄で作られていたが、その右手は切り取られていた。

 5世紀にフザーア族はカアバ神殿守護の権威を失くした。同盟していたクライシュ族の族長クサイ・イブン・キラーブ(c. 400 - 480) がフザーア族の族長の娘婿であったので義父を引き継ぐ形でその権威を譲り受けた。アドナーン系統のクライシュ族がカフターニ系統のフザーア族に取って代わって古代聖地の守護者となったことは、注目に値する。フザーア族から引き継いでクライシュ族の主神の1つとなったフバル神の切り取られていた右手は、クライシュ族によって黄金の腕で修復された。

 クサイはその聡明さで偉大な名誉と高名を自分の部族にもたらしたと、評価されている。クサイは荒廃していたカアバ神殿を再建した。神殿の周囲に同心の環状地帯を作り、住人をそれぞれの社会的な階級によって決められた環状に割り当てた市(まち)作りを行った。クサイはまた「沙漠の半島」で最初の政庁舎を建設したことでも知られている。先見の明のあるクサイは法律を作り、市民から税金を徴収してメッカを訪れる巡礼達が食料と水を受け取れる様にもした。この様にしてメッカを制圧したクライシュ族は、熟練した商人や交易業者にもなった。
 
 6世紀になると交易路が戦争等に巻き込まれる危険の多い海路からより安全な陸路に変わった。クライシュ族も利潤の多い香料貿易に参加した。ビザンチン帝国(330 or 395 - 1453)はそれまで紅海を支配していたが、海賊が増えてその支配に陰りが出て来た。アラビア湾からチグリス川とユーフラテス川を経由するもう一つのそれまでの交易路もサーサーン朝(224 - 651)の搾取やラフム朝(266 - 602)およびガッサーン朝(3rd C. - 636)による妨害、さらにローマ・ペルシア戦争(92 BC - 627 AD)によって脅かされた。安全な陸路の交易拠点としてのメッカの卓越さはペトラやパルミラの両都市を凌いでいた。

 6世紀半ばまでに半島北西部から中西部にかけては、3つの大きな定住地があり、3つとも東の広大な沙漠と海岸の間ある紅海の西岸に沿った居住可能な地域にあった。この地域はヒジャーズと呼ばれ、水のあるオアシスの周囲に発展した定住地に特徴がある。ヒジャーズ中央にあるのがヤスリブで、後にマディーナと改名された。ヤスリブの南400kmに位置する山岳都市がターイフであり、その北西にメッカがある。メッカの周囲の地域は完全に不毛であるけれども、有名なザムザムの井戸から湧き出る豊富な水と主要隊商路の交差点の位置にあった為に3つの定住地の中では一番裕福であった。

 「沙漠の半島」の過酷な状況と地勢は、この地方の部族同士の争いがほとんど絶えることのないことを意味していた。しかしながら一年に一度、部族同士は休戦を宣言して毎年の巡礼にメッカに集まった。民間伝承によればこの巡礼は、もともとはアブラハムによって唯一神を崇拝する為の行為として始められたと云う。時間と共にその子孫はアブラハムの宗教を捨て、偶像崇拝に戻っていた。7世紀までこの巡礼の旅は多神教徒のアラブ族が自分達の神社に敬意を払い、ザムザムの井戸の水を飲むという宗教的な目的をもっていた。しかしながらそれはまた毎年の争いが仲裁され、債務が解決され、そして交易がメッカの定期市で行われる時期でもあった。この様な年1回の行事が部族達に共通の同族意識を与え、そしてメッカを半島の重要な中心の1つとした。

 ムハンマドの曽祖父によって初めて使われたという駱駝隊商がメッカ経済の重要な部分であった。メッカの商人とこの地方の遊牧部族達との間の同盟が結ばれた。その同盟によって遊牧部族達は皮、家畜やこの地方の山で採掘される金属等の物資を駱駝隊商に積み替え、シリアやイラクの諸都市へと運ぶ為にメッカへ集めた。歴史的資料も他の大陸からの物資がメッカを経由して運ばれたことを示唆している。恐らくアフリカや極東から香料、皮、医薬品、衣料および奴隷を含む物資がシリアへの隊商路を通過して行き、その見返りにメッカは金、武器、穀物、ぶどう酒等を受け取り、それらをアラビア全体に分配していた。メッカ商人達はビザンチン帝国やベドウィン達とも隊商の安全通行と給水・牧草供給の為の協定を結んでいた。メッカはクライシュ族と同族のタミーム族を含む従属部族の緩やかな同盟の中心となった。
 
 この地域の他の勢力であったアビシニア、ガッサーン朝およびラフム朝は6世紀末期の「沙漠の半島」における主要な結束力のある勢力であるとして「沙漠の半島」の交易をメッカに譲り、撤退した。時代が過ぎカアバ神殿はアラビアの多神教の偶像神や部族守護神の安置所となってきていた。メッカの一番重要な多神教の神はフバル神であり、クライシュ族によってカアバ神殿に安置されて7世紀までそこに残っていた。

4.5 マディーナ(メディナ)(バヌー・アウス族とバヌー・ハズラジュ族の争い)

 ラスリッパとして知られていた古代マディーナ・オアシスに最初に定住したのはノアの息子セムの子孫、バヌー・マトラウィール族とバヌー・ハウフ族であった。西暦1世紀から2世紀にユダヤ戦争(AD 66 - AD73 & AD117 - 138)の勃興によりバヌー・クァイヌカ族、バヌー・クライザ族およびバヌー・ナディール族等のユダヤ族が移住してきた。イエメン部族のバヌー・アウス族とバヌー・ハズラジュ族がマディーナに移住してきた2世紀から4世紀に「マディーナには70のアラブ族と20のユダヤ族がいた」と云われる。

 バヌー・アウス族とバヌー・ハズラジュ族は5世紀末に向かってこの市の支配権をユダヤ族から奪い取ったが、6世紀初めからお互いに敵対する様になった。両部族はマディーナにムハンマドが移住するまで120年間にわたって戦った。ユダヤ族のバヌー・ナディール族とバヌー・クライザ族はバヌー・アウス族と同盟し、ユダヤ族のバヌー・クァイヌカ族はバヌー・ハズラジュ族と同盟した。そして双方は合計4回の戦争を戦い、その内の最後でもっとも血みどろだったのが617年のブアースの戦いであった。それはムハンマドの移住数年前の出来事だった。

 622年にマディーナ社会全体の首席仲裁人として招聘されたムハンマドとその同行者達(ムハージルーン)は、メッカを離れてヤスリブ(マディーナ)に移住した。アウス族とハズラジュ族の積年の敵意は両部族の多くがイスラームに改宗する事で薄れてしまった。

4.6 ターイフ(スーク・ウカーズとバヌー・サキーフ族)

 メッカ南東約100kmに位置するターイフは、6世紀にはバヌー・サキーフ族に支配されていた。そこでは「ターイフの淑女」として知られる女神アッラートの偶像信仰の中心であった。イスラーム以前には一年の中の4ヶ月が神聖な月とされていた。これらの月の間は交易隊商の安全は確保された。「沙漠の半島」の昔からの慣例である毎年の定期市を育む為に戦争や襲撃は禁止されていた。当時も「沙漠の半島」の中でもっとも有名な定期市がターイフのスーク・ウカーズであった。商人や買い付け人と一緒に定期市は詩人達、吟遊詩人達や放浪の叙事詩吟唱者達を引き付け、スーク・ウカーズの偉大な祭りの市は注目される催し物として年間作詩コンテストを催していた。これらのジャーヒリーヤ時代は前述した様にこの様な定期市で詠まれた詩から時代考証が出来る。

 ターイフから遠くない村出身の乳母に育てられた預言者ムハンマドは、ターイフの豊かさと自由さを良く知っていた。布教早期の小さなムスリムの共同社会にとってメッカでの生活が大変難しく成って来た時に預言者ムハンマドはターイフに移住する事を先ず考えた。この時のバヌー・サキーフ族首領であった三人兄弟は、ムハンマドを受け入れて最初は親切に扱った。しかしハンマドがこの兄弟を自分が擁護している信仰に加わるように誘うと、親切は軽蔑に代わった。ムハンマドは絶望してそこを離れなければならなかったばかりではなく、三兄弟は酷い事に奴隷とごろつきをけしかけて町からムハンマドを追い払った。住人達も礼儀正しい作法で答えずにムハンマドに石を投げつけ始め、ムハンマドは激しく出血した。
 
 こうしてムハンマドは涸れ谷マスナーフの果樹園に避難せざるを得なかった。涸れ谷マスナーフの果樹園はたまたまそこで葡萄園の世話をしていた二人のクライシュ族の兄弟の所有であった。二人はこの人物が手荒く扱われているのを見て、哀れみを持った。二人はアッダースと云う名のニネヴェ出身のキリスト教徒の奴隷に大皿に幾つかの葡萄の房を載せて持って来てこの異邦人に食べさせる様に命じた。アッダースはそれに従い、預言者と短い会話をした後にイスラームに改宗した。涸れ谷マスナーフの中の小さなモスクは、この出来事が起きた場所にある。このモスクは今でもターイフで最初にイスラームに奉じた人物アッダースの名で呼ばれている。ムハンマドがこの市を訪れたのはこの一回だけであった。

4.7 バヌー ・ハニーファ一門支配のリヤード

 2世紀から4世紀頃のハルジュにはジャウウを首都としてジャディース族が定住し、涸れ谷バサーにはタスム族がハジュルを中心として定住して豊かな農業集落を営んでいた。両部族を支配していたタスムの専制君主の傲慢な振る舞いが両部族の間に論争を生じさせ、4世紀後半にタスムはイエメンのヒムヤルの干渉を招いた。ジャディースも抗い、ヒムヤルに破壊されて両部族は滅び、消滅してしまったと伝えられている。この時にヒムヤルはジャディースの女予言者を十字架に張り付けにし、その死体をジャウウの城門に曝した。この女予言者の名に因んでジャウウは、ヤマーマと呼ばれる様に成った。

 5世紀にラビーア・アドナーン部族のバクル・イブン・ワーイル族(バクル族)がヤマーマと呼ばれるハジュルを中心とした涸れ谷イルド(後の涸れ谷ハニーファ)とヒドリマを中心としたハルジュからなる地方に定住した。伝説によれば「バクル・イブン・ワーイル族のハニーファ一門はこの時期にハジュルの遺跡を含むタスムとジャディースの廃棄された集落を占拠した」と云う。バヌー ・ハニーファ一門は部族の中でもバクル族の定住に力を入れた。バクル族の或る者は遊牧生活に残ったり遊牧生活に逆戻りしたりしたので、同じ族が遊牧と定住の両方の一門を持った。5世紀の後半にキンダ族は南アラブ部族に属して居たにもかかわらず半島中央部の諸族を一つの強い連合に結束させた。しかしながらハーリス・イブン・アムルが西暦528年に没すると、キンダ族は勢力を失い、イエメンへと出立した。バクル部族はキンダ族連合の盟主としての部族と成ったが、兄弟部族のタグリブ族と反目するなど結束に空白をもたらした。それを埋めたのが既存のこの地方の住人と成って居たバヌー ・ハニーファ一門であった。

 6世紀後半までに陸上交易は復活し、アラビア湾からイエメンに至る隊商路が蘇った。ハルジュはこの陸上交易から利益を得る枢軸の位置にあり、ヒドリマがハナフィーの中心的集落として出現した。繁栄は再び定住した人々に有利で遊牧民に不利となった軍事的な均衡に基づいていた。ヒドリマのハナフィー為政者は、先ず西暦600年には遊牧民でも特に有力なタミーム族に対して覇を唱えて南ナジュドを横切る隊商交易の保護に大きな役割を果たした。

 6世紀初期のハナフィー首長ハウザ・イブン・アリーの時代までに新しい権力の中心が「沙漠の半島」に出現した。一番顕著であったのがマッカで、そこではクライシュ族が自分達の神域の中立性に対する守護者としての立場を巧みに使って部族間に同盟のネットワークを作り上げた。マッカの台頭で利益を得たのはハジュルであり、ハサーとハルジュから西のヒジャーズへの隊商路を支配した。これがバヌー ・ハニーファ一門の軍事的武勇、定住と農業の強い伝統と結びついてハジュル・ヤマーマを単に支配部族の貴族政治の中心としてと云うよりは、出現しつつある国の首都の地位を築かせていた。

4.8. ハサーとハジャル総督府

 イスラームが始まる少し前にサーサーン朝ペルシア(224 - 651)はハサー・オアシスのハジャルに総督を築き、東部州を直接支配しようとしていた。これはサーサーン朝が西暦570年に海から侵略してイエメンを征服して占領したので「沙漠の半島」の同盟部族を直接的に支配する必要が出てきた為である。
 
 総督はアラビア語ではムシャッカル砦と呼ばれるムハッリムと云う大きな水路が設けられている場所としてアラブ族に知られる砦を占領した。これはこの時代のこのオアシスでは大規模な農業が営まれて居た事を示している。またカティーフ・オアシスでは地下灌漑水路であるカナートの印象的な遺構がナツメ椰子畑の西端の少し外側に残されて居り、農業と灌漑へのペルシアの影響を示している。228年にサーサーン朝アルダシール1世(224 - 240)が半島東部に侵入し、創設した新都市バトン・アルダシールやその後のサーサーン朝支配を通じてナツメ椰子はカティーフ・オアシスでの基幹作物であったと思われる。今では砂に埋もれてしまっているカナートの列がカティーフ・オアシスではこの時代に現在よりもずうっと内陸まで農耕地帯が広がっていたのを示している。

4.9. ウハイディルの王国

 イスラームの台頭期にドゥーマ・ジャンダルはキンダ部族出身のウハイディル・イブン・アブドゥルマリクの支配の下にあった。ウハイディルはカルブ族を支配する為にヒムヤル族によって置かれたキンダ族出身の王であった。カルブ族はカフターニ部族ヒムヤル族のクダーア支族の分家であり、当時はキリスト教を信仰していた。カルブ族はドゥーマ・ジャンダルとその周辺のみならず遠く半島北西部のタブークにもその覇権を広げていた。

 ウハイディルは現在の南イラクのヒーラ地方のドゥーマと呼ばれる町に兄弟と住んでいた。ウハイディルと兄弟達は沙漠にカルブ族の叔父を訪ねるのが常だった。その旅行に使ったコースの一つで石造りの僅かな壁だけが残る荒廃し、見捨てられた町に行き着いた。アラブは石をジャンダルと呼ぶ。伝説によれば兄弟達はそこに町を築いてオリーブを植え、自分達のヒーラでの町の名であるドゥーマとたくさんの石に因んでドゥーマ・ジャンダルと名付けて定住した。

 ドゥーマ・ジャンダルはドゥーマ・ヒーラよりもずうっと昔からある町だし、ドゥーマ・ジャンダルが打ち捨てられたと云う事実も無い。しかしながらサーサーン朝に同盟していたヒーラと云う町がウハイディルと関係があったと云う話は興味深い。このことからもウハイディルはビザンチン帝国(330 or 395 - 1453)とその同盟国ガッサーン朝ばかりでは無く、サーサーン朝ペルシア(224 - 651)とも連携して居たことが分かる。

 ムスリム指揮官ハーリド・イブン・ワリードが633年にドゥーマ・ジャンダルを攻撃していた時にウハイディルはビザンチン帝国の一勢力としてビザンチン帝国との国境地帯における部族が盟主としたガッサーン朝と同盟し、その王ジャバラ・イブン・アイハム(d. 645)やその首長ジューディー・イブン・ラビーアと密接な協力関係を持っていた。ウハイディルはビザンチン帝ヘラクレイオス(c. 575 - 641)を主君として受け入れていたので予言者ムハンマドのドゥーマ・ジャンダルへの最初の遠征は、ローマ帝国への攻撃を意味していた。ウハイディルはヒジュラ暦12年/西暦633年にムスリム指揮者ハーリド・イブン・ワリードに征服された。

4.10 南アラビア(ズー・ヌワース滅亡とサーサーン朝への編入)

 西暦517/8年頃ズー・ヌワースとして知られたユスフ・アサール・ヤサールは、マアディー・カリブ・ヤウフルからヒムヤル王位を強奪し、最後の独立したデュバーバア・ヒムヤル王となった。ユダヤ教に改宗していたと考えられているズー・ヌワースは、力を付けるに連れて自国内のキリスト教徒アクスムの勢力に対する戦いを始め、その中で西暦523年の悪名高いナジュラーンの大虐殺もおきた。クルアーンは「冒涜されたのは溝の人々であった」とこの事件について述べていると云う。そこでは火をかけられた大きな溝にユダヤ教に改宗するのを拒んだキリスト教徒が生きたままで放り込まれた。一方で他のエチオピア人やヒムヤルの首都ザファールのヒムヤル人キリスト教徒も虐殺された。

 およそ西暦525年にアクスム王カーリブ(c. 520)は軍隊に紅海を渡らせてヒムヤル王国に侵入し、ユダヤ教徒の王ズー・ヌワースを打ち破った。ズー・ヌワースはフシュ・グラブの碑文によればこの戦争で殺されているが、アラブの伝説では「ズー・ヌワースは馬に乗って海に沈んだ」と云う。

 ペルシア王ホスロー一世(531 - 579)もヴァハリズの指揮下でイエメンに軍隊を送った。ヴァハリズは半分伝説上のヒムヤル王サイフ・イブン・ズィー・ヤザン(516 - 574)がイエメンからエチオピアのアクスム人達を追い出すのを援助した。半島南部はペルシアの領土となり、サーサーン朝帝国の勢力範囲に組み込まれた。更に西暦597/8年、半島南部はペルシア総督の下にサーサーン朝の1州になった。名前はペルシアの一つの州であったが、ペルシアがサイフ・イブン・ズィー・ヤザンを暗殺した後ではイエメンは幾つかの自治の王国に分断されていた。

 1州としてのサーサーン朝への編入は、皇帝ホスロー二世( 590 - 628)による領土拡大政策の結果である。その目的はイエメン等のペルシア領土の国境の確定であった。西暦628年にホスロー二世が没すると南アラビア総督バーザーンはイスラームに改宗し、イエメンは新しい宗教を奉じたのでペルシアのイエメン支配は終わった。

5. ムハンマドと正統カリフ時代

5.1 預言者ムハンマド

 イスラーム教開祖ムハンマド・イブン・アブドゥッラーは、570/571年に生まれて632年にマディーナで亡くなっている。ムハンマドの血統はクサイ・イブン・キラーブ(c..400 - 480)に遡る。クサイの孫ハーシム・イブン・アブド・マナーフ(d. 497 or 510)は、有能な統治者であった。通商路を拡大してメッカを繁栄させるのに成功し、その子孫はハーシム家と呼ばれた。

 ハーシムの孫アブドゥッラー・イブン・アブドゥルムッタリブ(545 - 570)とクサイの兄弟の子孫アーミナ(d. 577)と間にムハンマドは、「象の年」と呼ばれる570年に孤児として生まれた。ムハンマドは2歳になるまで養母ハリーマ夫妻と過ごした。6歳で母アーミナを失い、8歳で祖父アブドゥルムッタリブ・イブン・ハーシム(c. 497 -578)も無くしたのでハーシム家の家長アブー・タリーブ(549 - 619)の庇護を受けて育った。ムハンマドは商人と成り、その正直な性格の為にアラビア語で「信義にあつい」あるいは「信用できる」等を意味するアーミーンと云うあだ名を得て、公平な仲裁人にも選ばれた。その評判で595年に40歳の未亡人ハディージャ・ビント・フワイリド(555 - 619)から求婚されて結婚し、金持ちで貞節な妻の隊商を率いたりもした。一方でムハンマドは毎年、数週間にわたってメッカ近郊のヒラー山の洞窟で瞑想をしており、610年に最初の啓示を受けたと云う。妻、従兄妹や友人から始め、613年頃にムハンマドは公にイスラーム伝道を始めた。ムハンマド自身の部族であるクライシュ族は、多神教の偶像を崇拝しており、ムハンマドとその信徒達に対し迫害と虐待を加えた。このために615年に信徒達の一部はアビシニアのアクスム帝国に移住した。619年に庇護者であった伯父アブー・タリーブが没し、ムハンマドに対するハーシム家一門の保護が無くなった。この処置はムハンマドとその信徒達を死の危険にさらした。ムハンマドは重要な市ターイフを訪問してそこでの保護を求めようとした。しかしながら前述の様にその努力は失敗しただけではなく、身体までも損なわれた。

 幾つかの交渉が不調に終わった後にムハンマドはヤスリブから来た数人の男達に希望を見出した。75名のイスラーム教徒達がメッカに巡礼とムハンマドに会う為にやってきた。夜間、秘密裏にムハンマドに会って「第二次アカバの誓い」或は「戦いの誓い」として知られる誓いを行った。ヤスリブの主要な12の一門の代表からなる使節が中立の外部者であるムハンマドをマディーナ社会全体の首席仲裁人として招聘した。

 「マディーナ(バヌー・アウス族とバヌー・ハズラジュ族の争い)の章」で述べた様にヤスリブではバヌー・アウス族とバヌー・ハズラジュ族が6世紀初めから120年間にわたって戦っていた。最後のブアースの戦い(617)に起因する主張への意見の相違から部族間の血讐や「目には目を」の概念が論争に裁定を下せる権威を持った人間無しには部族間で通用しなくなった。ヤスリブからの使節は自分達自身と仲間の市民達がムハンマドをヤスリブの市民社会に受け入れ、自分達の1員として保護することを誓った。こうしてムハンマドとその信徒達は622年までに大きな農業オアシスであったヤスリブへと移住した。イスラーム教徒移住者達(ムハージルーン)が避難所を見つけるのを助けたマディーナの住人達は、アンサールとして呼ばれた。

 マディーナの部族間での長年にわたる争いの因をおさめる為にムハンマドが最初にした事は、マディーナ憲章として知られた文章の草案作りであった。この憲章はマディーナ8部族およびメッカから移住してきたイスラーム教徒達の間の同盟あるいは連盟を設立する為にすべての市民の権利と義務およびイスラーム共同体や特にユダヤ教徒および啓典の民等の共同体を含むマディーナの異なる共同体の結びつきを明記していた。マディーナ憲章にイスラーム共同体(ウンマ)と定義されたこの共同社会は、宗教的外観を持っていた。しかしながら実際的な配慮によっても形作られ、古いアラブ部族の法律上の形をしっかりと保っていたので最初のイスラーム教国がこの憲章によって事実上、設立された。

 マディーナへ移住してから10年目の年の終わりにムハンマドは最初のほんとうの意味でのイスラーム巡礼を行った。巡礼を終えてマディーナに戻る途中に涸れ谷ラービグ内のフンム池でムハンマドは「別離の説教」として知られる有名な演説を行った。この説教についてはスンナ派(スンニー派)解釈とシーア派解釈は異なっている。最後の巡礼の数ヵ月後にムハンマドは病に倒れ、数日間に頭痛と脱力感にみまわれた。ムハンマドは632年6月8日(享年63歳)マディーナで亡くなった。

ムハンマド治世下での主な戦役

バドルの戦い(March, 624)
   戦場: マディーナ南西の隊商路に位置するバドル
   勝敗: 勝利
   戦果: メッカ軍45名を殺害、捕虜70名の身代金
       メッカとの間の武装闘争開始
       マディーナでのムハンマドの立場を強化
   敵軍: アブー・ジャフル率いるメッカ軍900名
   ムスリム軍: ムハンマド率いる300名の戦士

ウフドの戦い(March, 625)
   戦場:マディーナ北方5kmのウフド山
   勝敗: 敗北
   戦果: イスラーム教徒達撲滅の失敗
   敵軍: アブー・スフヤーン率いるメッカ軍3,000名
   ムスリム軍: ムハンマド軍

塹壕の戦い(March & April, 627)
   戦場: マディーナ北方5kmのウフド山
   勝敗: 勝利
   戦果: メッカ側敗戦による名声とシリア交易喪失
   敵軍: アブー・スフヤーン率いるメッカ軍10,000名
   ムスリム軍: ムハンマド率いる3,000名

フダイビーヤの休戦(628)
   戦場: メッカの直ぐ外のフダイビーヤ
   勝敗: 取り決めが調印
   戦果: 敵対関係の停止
イスラーム教徒達の巡礼の翌年への延期
保護者の許可無くマディーナへ行っているメッカ住人の送還
   敵軍: メッカ軍騎兵隊200名
   ムスリム軍: ムハンマド率いる1,400名のイスラーム教徒

ハイバル遠征(628)
   戦場: マディーナの北約140kmのオアシス・ハイバル
   勝敗: 勝利
   戦果: ナツメヤシの実や穀物の収穫の半分
   敵軍: ユダヤ教徒のナディール族
   ムスリム軍: ムハンマド率いるムスリム軍

ムウタの戦い(629)
   戦場: ヨルダン川とカラク東のムウタ村
   勝敗: 勝利
   戦果: 全アラビアと中東全域を震撼、イスラームに改宗相次ぐ
      (「この戦いでイスラーム軍はガッサーン朝等ヨルダン東部のアラブ族征服に失敗した」との解釈が有力である。)
   敵軍: 東ローマ帝国軍10万人
   ムスリム軍: 3,000人

メッカ征服(630)
   戦場: メッカ
   勝敗: 勝利
   戦果: メッカを制圧
メッカ住人達のイスラーム教への改宗
カアバ神殿内外の全て偶像の破壊
   敵軍: メッカ住民
   ムスリム側: 10万人の巡礼者

フナインの戦い(630)
   戦場: ターイフ近傍のフナイン
   勝敗: 勝利
   戦果: 一年後、サキーフ族降伏、イスラームに改宗
   敵軍: ハワージン族とサキーフ族の同盟軍4,000名
   ムスリム軍: 12,000人

タブーク遠征(October, 630)
   戦場: タブーク
   勝敗: 戦わずしての勝利
   戦果: 東ローマ帝国衛星国のキリスト教からイスラームへの改宗
無血勝利でのムスリム内部団結強化
偽ムスリムの打破
   敵軍: 東ローマ帝国軍のアラビア侵攻阻止
   ムスリム軍: ムハンマド率いる30,000人

5.2 初代正統カリフ・アブー・バクル

 イスラーム帝国の初代カリフから第四代カリフまでを正統四カリフの時代(632 - 661)と呼んでいる。この時代は預言者ムハンマドの亡くなった632年に始まりアブー・バクル(632 - 634)、ウマル(634 - 644)、ウスマーン(644 - 656)、アリー(656 - 661)と預言者ムハンマドの代理人である4人の正統カリフによって統治されていた。正統四カリフの時代の最盛期にはイスラーム共同体(ウンマ)すなわちイスラーム帝国は「沙漠の半島」からレヴァント、コーカサス、北アフリカ、イラン高原、中央アジアへとその版図を広げた。その初代正統カリフがアブー・バクルである。

 アブー・バクル・スィッディーク(c. 573 - 634)はムハンマドの最初の入信者の1人であり、ムハンマドの教友でもあった。クライシュ族タイム家の出身で、ムハンマドの親戚筋でもある。その娘アーイシャ(614 - 678)はムハンマドのもっとも寵愛した妻であり、戦いにもムハンマドに連れ添った。632年に預言者ムハンマドが死去した後、ウンマ共同体の指導者選定ではもともとのマディーナ住民アンサールの強い抵抗があった。しかしながらウマル・イブン・ハッターブ(592 - 644)の推挙もあったのでバイア(忠誠の誓い)を受けて「神の使徒ムハンマドの代理人カリフ」を名乗り、初代正統カリフ(632-634)に就任した

 アブー・バクルが就任した直ぐ後に新しい共同体と国家の統一と安定を脅かす問題が発生した。棄教はムハンマドの生前から起きてはいたが、一応は収まっていた。しかしながらもっとも深刻な棄教はムハンマドの死後に起き、入信者の棄教の動きがアラビア中に広がった。

 棄教はメッカとマディーナおよびターイフのサキーフ族を除く、半島の全ての部族に影響するまでに一般的になった。幾つかの例では部族全体が棄教した。イスラームへの挑戦としてザカートや慈善税を滞納する者達もいた。多くの部族指導者達は預言者の地位を要求した。ヤマーマ地方のバヌー ・ハニーファ族のムサイリマの様な者達は、ムハンマドの生前に預言者を名乗っていた。多くの部族が「自分達の服従はマハンマドに対してであり、ムハンマドの死で忠誠は終わった」と主張した。アブー・バクルは「これら部族に対して指導者に服従しただけでは無く、自分が新しい長となったムスリムの宗教共同体に参加していた」のだと主張した。棄教はイスラーム法の伝統的解釈では死刑に値する罪であり、アブー・バクルは反逆者達に対して戦争を宣言した。

 これが「リッダの戦い(632 - 633)」あるいは「棄教の戦い」の始まりであった。半島中央部の棄教者達は自称預言者ムサイリマに率いられ、その他の中心となったのはバハレインの南と東、オマーン、マハラ(イエメンのオマーン国境)およびイエメンであった。アブー・バクルは作戦をそれに対応して立てた。アブー・バクルは、ムスリム軍を幾つかのグループに分けた。最強のムスリム主力はクライシュ族の主要な3つ一門の1つバヌー・マクズウム家の出で、「アッラーの剣」との異名で知られるハーリド・イブン・ワリード(592 - 642)の率いる部隊であった。この部隊は叛乱軍のもっとも強力な相手と戦うのに使われた。その他のグループは棄教部族でも余り危険では無い相手に対する第二次的に重要な地域に割り当てられた。アブー・バクルの作戦は先ずマディーナに近い半島西部および中央部を一掃し、それからクライシュ族の兄弟部族バニー・タミーム族バニー・ヤルブ一門首長マーリク・イブン・ヌワイラを捕捉し、最後にもっとも危険な敵ムサイリマに立ち向かうと云うものであった。幾つかの戦闘に勝利した後にハーリド・イブン・ワリードは「ヤマーマの戦い」でムサイリマを打ち負かせた。棄教者達への軍事行動はヒジュラ暦11年 (632)に完了した。ヒジュラ暦12年(633年3月18日)に「沙漠の半島」はマディーナのカリフの中央権力の下に統合された。スンニー派の伝承によればこれらの大きな叛乱を鎮めてベドウィン部族の競合する預言者達を打ち破ったことでアブー・バクルは「沙漠の半島」の残りをイスラームの下に結束させ、本質的にイスラームを救う事が出来た。

 叛乱を鎮圧すると、直ぐにアブー・バクルは征服戦争を始めた。アブー・バクルは先ずサーサーン朝ペルシア帝国(224 - 651)のもっとも豊かなイラク州征服から始めた。633年にアブー・バクルは才気縦横な将軍ハーリド・イブン・ワリードをペルシア帝国に侵攻させた。アブー・バクルはそれから4軍団をローマ領シリアに侵攻させ、さらにイラク征服を終えたハーリド・イブン・ワリードを投入して決定的な戦闘を行った。

アブー・バクル治世下での主な戦役

リッダ戦争(632 - 633)
   戦場: メッカ、マディーナおよびターイフを除く「沙漠の半島」全域
   勝敗: 勝利
   戦果:
   敵軍: ベドウィン部族の競合する預言者達
   ムスリム軍: ハーリド・イブン・ワリード率いるムスリム軍主力部隊

ヤマーマの戦い(633)
   戦場: アクラバー平原
   勝敗: ムスリム軍の決定的勝利
   戦果:
   敵軍: ムサイリマ指揮下の棄教者4万人
   ムスリム軍: ハーリド・イブン・ワリード率いる2万1千人

フィラードの戦い(フィーラズの戦い)(634)
   戦場: メソポタミアのフィーラズ
   勝敗: ムスリムの決定的勝利
   戦果: メソポタミア全域をイスラーム帝国領に編入
   敵軍: ビザンチン帝国、サーサーン朝ペルシア、キリスト教徒アラブ連合軍10万から15万人
   ムスリム軍: ハーリド・イブン・ワリード率いる1万5千人

ボスラの戦い(634)
   戦場: シリアのボスラ
   勝敗: ムスリムの勝利
   戦果:
   敵軍: ビザンチン帝国とガッサーン朝連合軍1万2千人
   ムスリム軍: ハーリド・イブン・ワリード率いる1万3千人

5.3 第二代正統カリフ・ウマル・イブン・ハッターブ

 ウマル・イブン・ハッターブは預言者の親戚であり、初代正統カリフのアブー・バクルの没後に第二代正統カリフ(634 - 644)に就任した。スンニー派教徒には「真実と虚偽を判断する人」を意味するウマル・ファールークと呼ばれ、オマルあるいはウマルと転写されている。クライシュ族のバヌー・アディー支族に属し、若い頃は武勇に優れた勇士として知られていた。

 610年頃にウマルはクライシュ族の伝統的信仰を守る立場からムハンマドの布教活動を迫害する側に回り、ムハンマドを殺そうとした。しかしながらクルアーンの章句に心を動かされて改悛し、イスラームに帰依した。632年にムハンマドが死去すると、アブー・バクルを後継指導者に推戴してカリフの地位を帯びてイスラーム共同体を指導する慣行のきっかけをつくった。アブー・バクルが2年後に死去すると、その後継者に指名されて第二代目のカリフとなった。

 アブー・バクルはウマルが自分の後継者となるのを望み、ムハンマドの有力な信者達の多くをその様に説得した。ウマルは軍事と政治の両方に非凡な才能を持っていた。ウマルは「沙漠の半島」のアラブの統一を背景に多方面に遠征軍を送り出して、アブー・バクルの始めた征服戦争「ムスリムの征服」を継続・指導した。ウマルはサーサーン朝ペルシア帝国(224 - 651)自体を攻め立てたる一方でシリアとビザンチン帝国領および西エジプトにも進撃した。これらの地方は強力な国家に守られて世界でもっとも豊かな地域もあったが、長引いたローマ・ペルシア戦争(92 BC - 627 AD)の後なので両国とも疲弊していた。イスラーム軍はまたたく間にサーサーン朝ペルシア帝国と東ローマ帝国(330 or 395 - 1453)を圧倒した。640年までにイスラーム軍はメソポタミア、シリアおよびパレスチナをイスラーム帝国の支配下に置いた。さらにエジプトを642年までに征服し、643年にはサーサーン朝ペルシア帝国全域を奪い取った。

 ウマルの治世下でイスラーム帝国は目覚しい速さで拡大した。その一方でウマルはそれが一体と成るような政治機構の基礎も築き創めた。ウマルは非ムスリムの者達にイスラームへ改宗する事を要求しなかったし、ペルシアの様に中央集権国家を創ろうともしなかった。代わりにウマルは隷属民達に宗教、言語、習慣および政権を比較的もとのまま保つ事を容認した。唯一任命したのが総督(アミール)と財務官(アーミル)であった。

 ウマルの遠大な改革はイスラーム帝国の為に財務体制を築く事にあった。ウマルはイスラーム帝国のもっとも重要な側面が政府の安定した財務体制である事を理解していた。徴税の効率的な体制を築き、そして軍隊を直接、国家の財務支配下に取り込んだ。ウマルはイスラームの特異な制度であるディーワーンも創設した。ディーワーンはムハンマドの教友達の様なイスラーム信仰およびイスラーム世界で重要な個人で構成される。信仰への貢献は生活費を賄う年金が与えられる程に大きかった。この年金はこれらの個人が宗教的そして道徳的研究を追及し、イスラーム世界の人々への精神的な指導力を培うのに十分な額であった。こうして歴史上の偉大な天才政治家の1人であるウマルは、アラブ人主体のアラブ帝国またはサラセン帝国とも呼ばれるイスラーム帝国の初期国家体制を確立した。

 ウマルはクルアーンを照合する手順を含め、多くのイスラームの慣例も確立した。ウマルが確立し、今でも使われている慣例としてはイスラーム暦がある。アラビア暦と同じ様に太陰暦であるが、ウマルは暦の初めをムハンマドがマディーナに聖遷した年に合わせ、ヒジュラ紀元を定めた。さらにクルアーンとムハンマドの言行に基づいた法解釈を整備して後の時代にイスラーム法(シャリーア)にまとめられる法制度を準備した 。

 ウマルは644年に朝の祈りの間にペルシア人奴隷アブー・ルウルウ・フィールーズの暗殺企てで瀕死の重傷を負った。死亡する前にウマルは次期カリフ候補として6名を選び、カリフを互いの合議で決めるように指名した。

ウマル治世下での主な戦役

橋の戦い(ジスルの戦い)(October 634)
   戦場: クーファ付近のユーフラテス川
   勝敗: サーサーン朝の勝利
   戦果:
   敵軍: バフマン指揮下サーサーン朝軍1万人
   ムスリム軍: アブー・ウバイド率いる9千人

ヤルムークの戦い(15 - 20 August 636)
   戦場: ヨルダンのヤルムーク川付近
   勝敗: ムスリムの決定的勝利
   戦果: レヴァントをイスラーム帝国領に編入
   敵軍: ビザンチン帝国とガッサーン朝連合軍
   ムスリム軍: ハーリド・イブン・ワリード等の指揮

カーディシーヤの戦い(16 - 19 November 636)
   戦場: イラクのカーディシーヤ
   勝敗: ムスリムの決定的な勝利
   戦果: イラクをイスラーム帝国領に編入
   敵軍: サーサーン朝軍6万人
   ムスリム軍: カリフ・ウマル率いる3万人

イスラームのペルシア征服(633 - 644)
   戦場: メソポタミア、コーカサス、ペルシア、バクトリア等
   勝敗: ムスリムの勝利
   戦果: メソポタミアとサーサーン朝全土をイスラーム帝国領に編入
   敵軍: サーサーン朝軍、ビザンチン軍、アラブ キリスト教徒の同盟軍
   ムスリム軍: カリフ・アブー・バクル、カリフ・ウマル

アナトリア占領(October 637 - 656)
   戦場: アナトリア
   勝敗: ムスリムの勝利
   戦果: タウラス山脈までのアナトリアをイスラーム帝国領に編入
   敵軍: ビザンチン帝国軍
   ムスリム軍: ハーリド・イブン・ワリード、ムアーウィヤ等が指揮
    コンスタンチノープル攻めを目前に656年の内乱で進撃中止

エジプト征服(639 - 642)
   戦場: エジプト、リビア等
   勝敗: ムスリムの勝利
   戦果: エジプト、東リビア、西リビア海岸、西リビア内陸をイスラーム帝国領に編入
   敵軍: ビザンチン帝国軍
   ムスリム軍: カリフ・ウマル

ニハーワンドの戦い(642)
   戦場: イラン ハマダーン付近のニハーワンド
   勝敗: ムスリムの決定的勝利サーサーン朝滅亡
   戦果: サーサーン朝滅亡
   敵軍: バフマン等指揮の5万人
   ムスリム軍: ムクリン率いる2万人

5.4 第三代正統カリフ・ウスマーン・イブン・アッファーン

 第三代正統カリフ(在位644-656)ウスマーン・イブン・アッファーンは、ムハンマドと激しく対立したクライシュ族の支族バヌー・アブド・マナーフ一門のバヌー・アブド・シャムス一門ウマイヤ家の出身である。同家では最初にイスラームに改宗した。預言者ムハンマドの娘ルカイヤと結婚したが、先立たれてその妹ウンム・クルスームと結婚した。

 ウマルの後継カリフ選任の為のウマルに指名された次期カリフ候補からなる6人委員会は、全員がクライシュ族出身のムハージルーンであった。このことから元々のマディーナの住民であるアンサールが権力から締め出されていた様子がわかる。微妙な判断ではあったが、ウスマーンが6人委員会でカリフに選任された。

 ウスマーンは正統カリフの中でももっとも人望があったが、その治世後半にはエジプト人に率いられ、アリーの支持する者達に敵対された。外部的にはウスマーンはウマルの始めたイスラーム征服の戦争を続けた。正統カリフ軍はビザンチン帝国から北アフリカを勝ち取り、イベリア半島の海岸地方を征服する為にスペインを襲い、ロードス島、シシリー島、キプロス島も襲った。正統カリフ軍はサーサーン朝ペルシア(226 - 651)を完全に征服し、その東の国境はインダス川の下流にまで及んだ。

 ウスマーンはクルアーンの正典化を行った。それまでクルアーンは信者達によって暗誦されていた口述の伝承であったが、征服戦争によって暗誦者が相対的に減り、外国人がイスラームに入信することでアラビア語の伝承との違いが目立ち始めた。このためウスマーンは文章および口述の伝承を全て集め、確定した文章を正典として記録させ、聖典クルアーンを完成させた。

 ウスマーンはイスラーム共同体(ウンマ)運営に同族を重用した上に帝国財政を誤った。それに不満を抱く叛徒の不穏な動きは日を追って険しく成った。656年に叛徒達はマディーナに入り、暴動を起した。ウスマーンの家に押し入り、クルアーンを読んでいたウスマーンを殺害した。

ウスマーン治世下での主な戦役

北アフリカ征服
   戦場: 北チュニジアのスフェテュラ(647)等
   勝敗: 656年の内乱でムスリム軍撤退
   戦果: イフリーキヤ(マグリブ東部)を一時占拠
   敵軍: ビザンチン・アフリカ総督領(590 ? 698)
   ムスリム軍: ズバイル率いる1万人

ヌビア遠征(642 and c. 652)
   戦場: ヌビア(スーダン)
   勝敗: 642年遠征失敗、10年後もめぼしい戦果無し
   戦果: 毎年360人の奴隷と引き換えに穀物、馬、織物を支給
   敵軍: マクリア王国(340 - 1276, 1286 - 1312)
   ムスリム軍: エジプト総督サアド(Abdullah ibn Saad)

キプロスをローマから奪取(654)
   戦場: キプロス
   勝敗: ムスリムの勝利
   戦果: ビザンチン軍撤退
   敵軍: 守備隊1万2千名
   ムスリム軍: ムアーウィヤ指揮軍船500艘
    ムスリム海軍652年から654年の間にクレタ島、ロードス島、シシリー等も攻撃

マストの戦い(655)
   戦場: アナトリア・リュキア海岸フェニクス沖
   勝敗: ムスリムの勝利
   戦果: ムスリム海軍の優勢を確立
   敵軍: ビザンチン軍
   ムスリム軍: アビー・サルフ指揮

5.5 第四代正統カリフ・アリー・イブン・アビー・ターリブ

 第四代正統カリフ(656 - 661)アリー・イブン・アビー・ターリブ(c. 600 - 661)は、預言者ムハンマドの父方の従弟である。父親はムハンマドの叔父アブー・タリーブ(549 - 619)であり、その母もムハンマドの父の従姉妹である。ムハンマドがアブー・タリーブの家で育てられたようにアリーもムハンマドの家で育った。後にムハンマドの養子となり、その娘ファーティマを娶った。アリーはムハンマドがイスラーム教の布教を開始したとき、ムハンマドの最初の妻カディージャに次いで入信した。アリーは武勇に優れていた。直情的ではあったが、イスラームに深く奉じ、人望が厚かった。シーハ派となったアリーの支持者達は、アリーをその初代イマームとした。ムハンマドは2人の息子を夭折させていたため、アリーとファーティマの子孫がムハンマドの唯一の正統な後継者としてサイイド、シャリーフやハビーブ等の尊称で呼ばれている。

 ウスマーン・イブン・アッファーンが叛徒の一団に殺された後にこの市(まち)(マディーナ)は混乱と喧騒に陥った。市民達はムハンマドの従兄妹で養子であり、ムハンマドの死後に3回もカリフの座を譲り、尊敬される社会的指導者であるアリー・イブン・アビー・ターリブの下に群がった。それから市民達はアリーにカリフを引き継ぐように迫った。最初はカリフが亡くなった状況から固辞していたが、アリーは最終的には受け入れた。

 アリーはそれから自分の統治を確立する為に多くの挑戦者達と戦わなければならなかった。カリフ・ウスマーンの血の復讐への声が高まり、イブン・ズバイル(624 - 692)やタルハ・イブン・ウバイドゥッラー(d. 656)の率いる大軍とムハンマドの未亡人アーイシャが叛徒達への復讐に駆り立てた。叛徒達はエジプト、クーファおよびバスラから集まっていたので最初の目標はバスラであった。軍隊はバスラに侵攻し、4,000人の叛乱容疑者達を殺した。アリーは首都を既にマディーナからクーファに遷都しており、バスラに転戦して戦闘はカリフ・アリーの軍隊とウスマーンの復讐を要求するムスリム軍の間で行われた。アリーも敵対する軍指導者ズバイルとタルハも戦いたくはなかったが、戦闘は夜間に両軍の間で突然に始まった。スンニー派の伝承では「ウスマーンの暗殺に参加していた叛乱者達が、アリーと敵対する軍の交渉結果としてウスマーンの殺害者達が狩立てられて殺されるのを恐れて戦闘を開始した」と云われている。このムスリム同士が戦った最初の戦いは、「駱駝の戦い」として知られている。カリフ・アリーの軍隊が勝利し、論争が終わった後にアリーは息子ハサン・イブン・アリー(625 - 669)にアーイシャを護衛させてマディーナに送り返した。ムハンマドの卓越した教友タルハとズバイルは、ムスリムに対して戦うのを拒否して戦場から引き上げたが、その後の戦いで殺された。

 このイスラームの歴史上での暗い物語の後にウスマーンの血に対する復讐の叫びが高まった。今回はウスマーンの親戚で、シリア総督のムアーウィヤであった。しかしながらこれは叛徒達のウスマーン殺害に対する復讐としてよりもムアーウィヤのカリフの地位を確定する企てであると考えられている。アリーはムアーウィヤとスィッフィーンの戦い(657)を行い、手詰まりとなって論議の多い調停に失敗した。その上に味方の反抗的なハワーリジュ派の兵士達と戦わなければならなかった。24年間(632 - 656)続いた新しい帝国のシシリー、北アフリカ、スペイン海岸地方やアナトリアの一部等大きな領土がこの内乱の為に失われた。しかしながらビザンチン帝国はイスラーム帝国に奪われた領土、特に西帝国の領土を回復しようとはしなかった。ムアーウィヤはビザンチン皇帝に書簡を送り、イスラーム帝国の領土を取り戻さないように脅した。ムアーウィヤは自分の親戚(アリー)と和平を結び、共にビザンチン帝国を打ち倒そうとしたのかも知れない。

 661年にアリーはクーファのモスクで叛徒の親族イブン・ムルジャムに暗殺された。イブン・ムルジャムは降服して殺された。その最後の言葉は「カアバの神によって、私は成功した」であった。アリーの息子で、ムハンマドの孫ハサンはアリーに任命されて暫時カリフとなった。しかしながらハサンは情勢が自分にとって優勢で無いことを理解し、ハサンはムアーウィヤとの和睦に合意した。様々な記事があるが、ここに正統カリフのイスラーム帝国支配は終わった。そしてムアーウィヤがイスラーム帝国の支配権力を握り、ウマイヤ朝(661 - 750)を創設した。

アリー治世下での主な戦役

駱駝の戦い(656)
   戦場: イラクのバスラ
   勝敗: カリフ・アリーの勝利
   戦果:
   敵軍: アーイシャ率いる叛乱アラブ軍1万人
   カリフ軍: アリー率いる1万人

叛乱軍マディーナ占拠(656 - 661)
   戦場: 「沙漠の半島」でウスマーン暗殺に始まり、アリーの治世の間、続いた。
   勝敗: 叛乱軍の勝利
   戦果: ムアーウィヤのウマイヤ朝(661 ? 750)創設、スンニーとシーアの永久分離
   敵軍: ムアーウィヤ
   正統カリフ軍: アリー・イブン・アビー・ターリブ

スィッフィーンの戦い(July 26 - 28, 657)
   戦場: シリア
   勝敗: ムスリムの第二次主要内乱、勝敗無し
   戦果: スンニーとシーアの永久分離
   敵軍: ムアーウィヤ率いる12万人
   正統カリフ軍: アリー率いる9万人

ナフラワーンの戦い(658)
   戦場: バクダッドから19kmのナフラワーン
   勝敗: 正統カリフ軍勝利
   戦果: ハワーリジュ派の排除とシリア遠征取止め
   敵軍: ハワーリジュ派
   正統カリフ軍: アリー

ムアーウィヤのエジプト奪取(659)
   戦場: エジプト
   勝敗: ムアーウィヤ軍
   戦果: ムアーウィヤのエジプト奪取
   敵軍: アムル率いるムアーウィヤのエジプト遠征軍
   正統カリフ軍: ムハンマドのエジプト総督軍

5.6. 半島アラブ族の入信と棄教

 「沙漠の半島」に居住するアラブ族は632年にムハンマドが他界するまでにはイスラームに改宗したが、その多くは預言者が没した後にイスラームから背信した。背信者達は新しいイスラーム国家に反逆し、632年から634年にかけて「沙漠の半島」を二分させた背信すなわちアラビア語でリッダの戦い(ザカート拒否背信者との戦い)が行われた。ハジュル・ヤマーマのムサイリマ、ドゥーマ・ジャンダルへの遠征、ハサーのアブドゥルカイス族の救援、サキーフ族のイスラーム改宗宣言、ナジュラーン・キリスト教徒の改宗等の出来事から半島アラブ族の入信と棄教の様子がある程度分ると思う。

5.6.1 ハジュル・ヤマーマのムサイリマ

 ヒドリマのハナフィー為政者ハウザ・イブン・アリーが630年に没するとその意思と異なり、ヤマーマの豊かな多くの人々はマッカおよびターイフと共に「沙漠の半島」に幾つかある神域の一つハジュル・ヤマーマを守り、半島中央部の部族に巨大な影響力のある超部族的な地位と独立を保つのを好み、自らの予言者ムサイリマを擁立し、指導者としてのハウダの後継者とした。ムサイリマは様々なジン(聖霊)からでは無く、最高の存在から霊感を直接得ていると主張し、マッカの予言者に対抗してヤマーマの人々を結束させる強い力を持っていた。

 初代正統カリフ・アブー・バクルよる説得にも初めからイスラームを全く受け入れずにリッダの戦いの中では最も不屈の抵抗を続けた。ムサイリマはハーリド・イブン・ワリードの軍勢と戦う為に40,000人以上の男達を結集させ、涸れ谷ハニーファ北部のジュバイラに近いアクラバー平原で敗北するまで激しく戦った。これはムスリムが「沙漠の半島」で経験した最もすさまじい戦いで、多くの戦死者が出た。殺されたムスリムに予言者ムハンマド対する黙示を書き残す約束が決められ、それが書き物のクルアーンの起源となったと云う。アクラバーの敗北は634年であり、バヌー ・ハニーファとヤマーマの人々はイスラームへ服従し、部族主義では無い国作りに向かっての道を歩み始めた。

5.6.2 ドゥーマ・ジャンダルへの遠征

 予言者ムハンマドはドゥーマ・ジャンダル(ドゥーマ)へ三回の遠征を行ったが、ドゥーマが完全にムスリムの支配下に入ったのはアブー・バクルが行った第四次遠征後であった。

 第一次遠征は626年初秋に行われ、遠征軍は預言者が率いた1,000人の男で編成されていた。ドゥーマ支配者ウハイディル・イブン・アブドゥルマリクは、ビザンチン帝ヘラクレイオス(610 - 641)に隷属していた。このためこの遠征は宗教上の罪に対する懲罰を目的としていたが、ローマ帝国への攻撃も意味していた。第二次遠征は628年初めに行われ、伝道的な動機を持っていた。ムハンマドの指揮者アブドッラフマーン・イブン・アウフ(イブン・アウフ)は、700名の兵士とドゥーマに向かった。カルブ族のキリスト教徒の首長アスバグ・ビン・アムルは最初には躊躇していたが、自分と同族の大勢の男達を伴ってイスラームを受け入れた。イスラームの宗主権を認めた他部族もジズヤを支払う事を約束した。
 
 630年秋に行われたムハンマドのタブーク遠征の際に臣従を表明しなかったドゥーマのウハイディル対し、ハーリド・イブン・ワリード(592 - 642)が僅か 420人の騎馬兵と共に派遣されたのが第三次遠征である。ハーリドはウハイディルが少人数で狩をしているところを待ち伏せして捕らえ、マディーナへ伴い、ジズヤ(人頭税)の支払いに合意させ、保護の盟約を結ばせた。

 棄教の叛乱あるいはリッダの戦いではドゥーマは主要な叛乱の中心の一つとは見なされなかったが、クダーア族やカルブ族を含めてドゥーマとその周辺の部族あるいは部族の支族が叛乱に参加した。棄教者ワディーア(630s)指揮下でまとまり、長い頑強な抵抗を行っていた。叛乱を潰す為にアブー・バクルはそれぞれ11人の司令官を異なる部族や地方に派遣し、さらにワリード・イブン・ウクバに増強軍を付けて634年にドゥーマへそこのムスリム駐屯軍として派遣した。イヤード・ビン・ガーンムの軍勢を初めムスリム軍は進軍を妨げられていた。助勢を求めたハーリド・イブン・ワリードがその軍勢と約500kmの距離を急行し、 ドゥーマ勢をイヤードの軍勢とで夾み込んでマーリド城で壊滅的に打ち破った。こうして第四次で最後のドゥーマへのムスリムの遠征は終わり、ドゥーマは完全にムスリムの支配下に入った。

5.6.3 ハサーのアブドゥルカイス族の救援

 アブドゥルカイス族はイスラームに早くから転向し、ハサー・オアシスの町ジャワーサーにマディーナ以外の「沙漠の半島」での最初のモスクが建立された。632年に預言者が没した後に行われたリッダの戦いでは戦いの終わりのかなり前からハサーへの脅威は北からバクル・イブン・ワーイル族とヒーラの前支配者の連合の形でやって来た。預言者の後継者アブー・バクルはイスラームに忠誠を誓って残っていたアブドゥルカイス族の救援の為にアラー・イブン・ハドラミーを派遣した。包囲は解かれ、包囲軍は四散した。アッラーフ(アラー)の麾下でアブドゥルカイス族とその有名な指導者ジャールードは海岸地帯を進撃し、ペルシア軍をカティーフ・オアシスのザーラにある要塞に閉じこめ、タールート島および海岸地帯のその他の集落をイスラームに改宗させた。

5.6.4 サキーフ族のイスラーム改宗宣言

 ターイフに近いフナインで行われたフナインの戦い(630)で、ムスリム軍はハワージン族とその同盟のサキーフ族を打ち破った。その勝利の帰還の後にムハンマドは「バヌー・サキーフ族の一時的な弱さを利用してターイフにイスラームを受け入れさせる事が出来る」と感じてこの市を包囲した。しかしながら重厚な市の外壁と頑丈に閉じられた門が剣、槍と弓でのみ武装した者達では対抗出来ず、この試みは成功しなかった。この壁を打ち壊そうと幾つかの試みがなされ、バヌー・ダウス族による弩(いしゆみ)の攻撃を仕掛けたり、即興の破城槌も使われたりしたが、サキーフ族は襲撃者達が矢を射かけているおおいを放棄させる為に赤く熱した鉄屑を浴びせかた。?預言者はやむなく20日後に退却を決めたが、「アッラーフ(アッラー)よ、サキーフ族を正しい道を示し、そこの導いて欲しい」と言って「神にターイフの住民へ祝福を与える様にと祈った」と云う。その一年後の631年に6人のサキーフ族代表がムハンマドを訪れ、サキーフ族がイスラームに改宗すると、宣言した。

5.6.5 ナジュラーン・キリスト教徒の改宗

 631年に預言者ムハンマドはハーリド・イブン・ワリードをナジュラーンに使わし、キリスト教徒の共同体にムスリム信仰に改宗する様に求めた。それに対してキリスト教徒達は預言者ムハンマドへのムバーヒラによる異議を申し立てた。預言者ムハンマドがこの挑戦を受け入れたので、ハーリドはキリスト教徒達の代表団を伴って預言者ムハンマドと会見する為にマディーナに戻った。

 預言者ムハンマドの両目に真実が輝いていたのを感じていたキリスト教徒の聖職者達は、「自分達はイスラームを信仰する確信を持てないし、ムスリムと論争や争いに入れるだけの強さも持っていない。しかしながら自分達の信仰を守りたいので、ムスリムの優位性を受け入れ、そして年貢(ジズヤ)を納める」と、預言者ムハンマドに提案した。預言者ムハンマドはこれを受け入れ、取り決めを交わした上でキリスト教徒達がナジュラーンに帰るのを許した。632年にタウヒード等イスラームの5つの教義を教える為にウマル・イブン・ハズムをこの一団と共にナジュラーンに送り返した。この間にナジュラーンの人々の多くはイスラームに帰依した。

6. イスラーム帝国時代

 ムハンマドが聖遷(622)し、正統四カリフの時代(632 - 661)、ウマイヤ朝時代(661-750)およびアッバース朝時代(750 - 1258)までのイスラーム教国全体をヨーロッパ人がサラセン帝国と総称し、中国では大食(タージ)と呼んでいた。エジプトのファーティマ朝(909 - 1171)、アイユーブ朝(1169 - 1250)およびマムルーク朝(1250 - 1517)は、領土的には限られているが、十字軍と戦ったと云う意味で私はサラセン帝国に入れた。

 預言者ムハンマドは40歳の頃の610年にヒラー山の洞窟でアッラーの啓示を受け、預言者として唯一神の信仰と偶像崇拝の排斥、人間の平等性を訴えて新宗教を提唱した。しかしながら支配者の迫害を蒙り、622年ヤスリブ(マディーナ)へ聖遷した。それ以降はイスラーム教が勢力を拡大して630年にメッカを征服し、その勢力は「沙漠の半島」全土に及んだ。ムハンマドは632年に10万人の信徒と共にメッカに巡礼し、アラファート山で説教を行った後にまもなく病死した。632年にムハンマドが死去した後、アブー・バクル(632 - 634)が初代カリフに就任し、ウマル(634 - 644)、ウスマーン(644 - 656)およびアリー(656 - 661)とカリフが引き継がれた。ムハンマドが622年に聖遷してからアリーが暗殺された661年までが「ムハンマドと正統四カリフの時代」である。この時代については前章で述べたのでこの章ではその後のウマイヤ朝時代とアッバース朝時代について主に述べる。

6.1 ウマイヤ朝時代

 661年にムアーウィヤがダマスカスを首都としてウマイヤ家を世襲カリフとするイスラーム王朝を開いた。この王朝は661年から750年まで続いた。ダマスカスを首都とし、ヨーロッパのイベリア半島からインド北西部へと広がる広大な帝国を支配した。この王朝がムアーウィヤ1世からマルワーン2世までの14代存続し、750年にアッバース朝に滅ぼされるまでをウマイヤ朝時代と呼んでいる。

 ムアーウィヤはクライシュ族の支族バヌー・アブド・マナーフ一門のバヌー・アブド・シャムス一門ウマイヤ家出身である。父アブー・スフヤーンはクライシュ族指導者として預言者ムハンマドに激しく敵対した人物であったが、ムハンマドがメッカを征服した後に妥協して息子と共にイスラーム教を受け入れた。ムアーウィヤの兄ヤズィード(d.639)はビザンチン戦線シリア方面司令官に任じられた。ムアーウィヤはその部将となり、639年に兄が病死すると、その後を継いでシリア総督となった。

 656年にムアーウィヤの又従兄弟にあたる第三代正統カリフ・ウスマーンが暗殺された。ムアーウィヤは同じウマイヤ家出身だったウスマーンの血の復讐を叫んで第四代正統カリフに就任したアリーと激しく対立した。ムアーウィヤは657年のスィッフィーンの戦い等でアリーと争い、次第に勢力を拡大して660年にはエルサレムにおいてカリフ就任を宣言した。

 ムアーウィヤは本拠地シリアのダマスカスを首都に定め、ウマイヤ朝(661 - 750)を開いた。即位後は対ビザンチン戦を遂行する一方でアラブ部族間反目を治めつつ、ディーワーン制度、軍事制度、カリフ世襲制等を整備し、国家体制基盤を作り上げた。

 ウマイヤ朝のアラブ族ムスリムは征服した各地に設けられたミズルと呼ばれる軍営都市への移住が求められ、集住先で登録台帳(ディーワーン)に名前を登録されると国庫から俸給(アター)と現物給(リズク)が支給された。その代わりに移住したアラブ族ムスリムは、現地総督の命により征服戦争や治安維持活動に兵士として参加する義務を負った。異民族や異教徒等の非征服民は、自治とイスラーム以外の信仰が認められる代わりに土地税(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)の納税の義務を負わされた。

 ムアーウィヤが亡くなると後継者ヤズィードの即位に対してイブン・ズバイル(624 - 692)が第二次内乱(683 - 692)と呼ばれている叛乱を起こした。イブン・ズバイルの父はムハンマドの従兄弟でクライシュ族のズバイル・イブン・アウワームであり、母は初代正統カリフ・アブー・バクルの娘アスマーであった。ズバイル・イブン・アウワームは第一次内乱で第四代正統カリフ・アリーに反旗をひるがえし、656年の駱駝の戦いで敗死した。イブン・ズバイルはこの内乱の首謀者であり、ムハンマドの妻であり、自分の叔母でもあるアーイシャとマディーナへ帰還して隠遁生活に入っていた。イブン・ズバイルはウマイヤ朝第二代カリフ・ヤズィードに対する忠誠の誓いを拒否し、自らカリフを名乗って公然と叛乱を起こした。その後はウマイヤ朝の劣勢に乗じて支配範囲を拡大し、イラクを掌中にした。クーファで発生したムフタールの乱(685 - 687)を鎮圧し、一時はウマイヤ朝版図の過半を支配した。692年にマッカはウマイヤ朝第五代カリフ・アブドゥルマリクが派遣したハッジャージュ(c.661 - 714)の軍勢によって攻撃された。その防戦の最中にイブン・ズバイルは、敗死した。その後にウマイヤ朝はその最盛期を迎えた。

 ウマイヤ朝は各地の軍事都市内でのアラブ部族間反目、イラクとシリア地域対立、シーア派やハワーリジュ派の叛乱、アラブ族以外の改宗民(マワーリー)の不満等、度重なる内戦を引き起こす、多くの要因を抱え込んでいた。その様な要因での最大の内乱が744年から747年まで続いたのが第三次内乱であった。この内乱は第十四代マルワーン2世によって鎮圧されたが、この内乱でウマイヤ朝は決定的に弱体化した。

 743年に第十代カリフのヒシャームが死去すると、不穏な動きがさらに激化して蜂起が相次いだ上に高貴な血統を持つアッバース家一族がカリフ位への権利を主張して749年にはクーファを占領した。そこではアッバース家のアブー・アッバース・サッファーフをカリフ(750 - 754)とする宣言が発せられた。750年1月にアブドゥッラー・イブン・アリーが率いる革命軍がイラク北部の大ザーブ河畔でマルワーン2世率いる1万2千の兵を大敗させた。その後にマルワーン2世はエジプトで殺害された。ウマイヤ朝の都ダマスカスも4月26日に陥落し、王族のほとんどが殺害されてウマイヤ朝は滅亡した。

 ウマイヤ朝王族はアッバース軍に殆ど虐殺されたが、アブドッラフマーン1世(731 - 788)はかろうじてシリアから逃げ、旧臣達と共にモロッコに辿り着いた。そこから旧臣達に助けられ、イベリア半島アンダルシアのゴルドバを都として後ウマイヤ朝(756 - 1031)を建設した。英主アブドッラフマーン3世(Emir912 - 929, Caliph929 - 961)がカリフを称したことから西カリフ帝国とも呼ばれる。ヒシャーム2世(976 - 1009, 1010 - 1013)の時代には宰相でかつ名将であったマンスール(西名アルマンソール)が985年にカタルーニャまで攻め込み、997年にはガリシアの一部まで占領する勢いを示した。マンスールが1002年に死ぬとアラゴン王国(1035 -1715)とカスティーリャ王国(1035 - 1715)に圧迫された。1031年に最後のカリフ・ヒシャーム3世(1027 - 1031)が亡くなると、大臣達による「評議会」によってカリフの廃位が決定されて滅亡した

6.2 アッバース朝時代

 アッバース朝(750 - 1258)は750年にウマイヤ朝(661 -750)を倒し、イスラーム帝国を掌握した。初代カリフ(750 - 754)にはクライシュ族バヌー・ハーシム一門で、預言者ムハンマド叔父アッバース(c. 566 - c. 653)の子孫であるアブー・アッバース(721 - 754)がなった。アッバース朝最盛期の版図はマグリブの大西洋側から東は遠く中央アジアに及んでいた。その支配は5世紀間にわたって続いたが、1258年にモンゴル帝国のフレグ(旭烈兀)(1218-1265)の攻撃によって滅ぼされた。

 前述した様に743年にウマイヤ朝第十代カリフのヒシャームが死去すると、それまでの第三次内乱へとつながる不穏な動きが激化し、各地で中央政権に対する蜂起が相次いだ。預言者ムハンマドの叔父アッバースに連なる高貴な血統を根拠にアッバース家はカリフ位への権利を主張した。死海の南を拠点としていたアッバース家は秘密教宣員(ダーイー)を派遣してウマイヤ朝への不満を煽り、叛乱を組織させた。ダーイーの1人としてアブー・ムスリム(c. 700 - 755)は単に「ふさわしい者を指導者に」を象徴した黒い旗を掲げ、747年6月9日にホラーサーンのメルヴ近郊で挙兵した。その旗のもとにはシーア派諸勢力やイエメン系アラブ人のアズド族などに加え、多くのイラン人改宗民(マワーリー)が集まった。殊にザイド派はウマイヤ朝に対しクーファ叛乱の復讐を果たせるものと考えて大挙して加わった。さらにマズダク教徒やカイサーン派も参加し、イラン東北部の支配を確立した。

 ウマイヤ朝カリフ・マルワーン2世がシリアの叛乱に対する対応のに忙殺されていたのに乗じ、アブー・ムスリムはタイイ族(カフラーン・カフターン部族)の武将カフタバに指揮をさせて革命軍を西方へ派遣した。すでに弱体化していたウマイヤ朝軍の抵抗はほとんど無かった。現地住民はむしろ革命軍を解放者として迎えてイラン各地の都市が続々と無血開城し、革命軍は749年にクーファを占領した。アッバース家のアブー・アッバースをカリフ(750 - 754)とする宣言が発せられ、クーファの大モスクでアブー・アッバースの即位式と忠誠の誓いが行なわれた。アブー・ムスリム(d. 700 - 755)には「ムハンマド家のアミール」という称号を与えられた。

 750年1月にアブドゥッラー・イブン・アリーが大ザーブ河畔でマルワーン2世を大敗させた。前述したようにマルワーン2世はエジプトで殺害され、都ダマスカスも4月26日に陥落し、ウマイヤ朝は滅亡した。アブー・アッバースはその後にアラブ人の多数派であるスンニー派に転向したが、イラン人改宗民(マワーリー)が望んでいたアッバース革命を推進させた。非アラブ・ムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)、アラブ・ムスリムの特権であった年金(俸給アターと現物給リズク)支給等を廃止して差別を撤廃し、イスラーム教の教理に基づき、秩序の確立し、国家基盤を強化した。さらに751年には高仙芝が率いる唐軍3万人をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードの覇権を握った。

 第二代カリフにマンスール(754 - 775)が王位に就くと762年にバグダードに新都を造営し、中央集権的官僚制導入した。こうしてカリフの権力基盤を固め、イマームも兼任して宗教的な地位も固めた。またペルシア人を近衛兵部隊に登用するなどのマワーリー懐柔策も行っている。第五代カリフのハールーン・ラシード(786 - 809)治世がアッバース朝の最盛期であり、「千夜一夜物語」等でもその繁栄ぶりが記述されている。第七代カリフのマアムーン(813 - 833)は文化活動にも熱心であり、バグダードに知恵の館を設けてギリシャ語文献のアラビア語への翻訳を組織的行う等した。

 9世紀後半の869年に50万人もの黒人奴隷が起こしたイラクの南部のザンジュの乱(869 - 883)は、カリフの権威を大きく傷つけたばかりでなく、10年以上も続いて地方政権自立を促した。10世紀にはファーティマ朝(909 - 1171)や後ウマイヤ朝(756 - 1031)もカリフを称し、3カリフが鼎立した。さらにブワイフ朝(934 - 1055)がバグダードを占拠し、カリフの権威を利用してイラクとイランを一時的に支配した。

 1055年にブワイフ朝を倒したセルジューク朝(1037-1194)が聖地エルサレムを占領すると、東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノス(1081 - 1118)はローマ教皇に領土奪回のために援軍を求めた。これに「キリスト教徒の聖地エルサレム巡礼をトルコ人が妨害している」とのウワサで1096年に聖地エルサレムの回復の為に第一回十字軍が編制された。その後も13世紀後半までに7回にわたって十字軍遠征は行われたが、次第に宗教目的よりも現実的利益が優先されるようになった。十字軍遠征によるイスラーム文化との接触は、やがて西洋で花開いた文芸復興や産業革命に影響を与えた。

 セルジューク朝の衰退後には1258年にモンゴル帝国(1206 - 1368)の第四代皇帝憲宗 (モンケ・ハーン)の命を受け、旭烈兀(フレグ)指揮下のモンゴル軍10万人がバグダードを攻略した。モンゴル軍はカリフを殺して徹底的な略奪を行い、アッバース朝を滅ぼした。マムルーク朝(1250 - 1517)第五代スルターン・バイバルス(1260 - 1277)は、カイロに逃れたカリフの叔父をカリフ・ムスタンスィル2世(Al Mustansir II)として保護した。このためカリフ位はその後250年にわたって名目的には続いた。1517年にオスマン帝国のセリム1世(1512 - 1520)がマムルーク朝を滅ぼすと、アッバース家のカリフの継承を認めなかった。

6.3 その他のイスラーム帝国王朝

6.3.1 ファーティマ朝

 ムハンマドの娘で第四代正統カリフ・アリーの妻ファーティマの子孫ウバイドッラー・マフディーが北アフリカに興り、チュニスでシーア派のファーティマ・カリフ朝(909 -1171)を設立した。イフシード朝(941 - 974)が滅びた後、969年にエジプトを征服した。カイロを建設して都とし、ファーティマ朝と称した。ファーティマ朝はアッバース朝に対抗し、東部地中海貿易を独占した。その宗教的活動はモロッコから「沙漠の半島」、更にシチリア島および南イタリアまで広がったシーア派帝国を確立した。中世でのファーティマ朝はリビア、「沙漠の半島」を含むアラブ世界では一見したところは奇怪な交流を行う拠点であり、シーア派の秘儀的で熱烈な分派の拠点でもあった。ファーティマ朝は「沙漠の半島」ではヒジャーズとアシールを版図に入れていた。

6.3.2 アイユーブ朝

 アイユーブ朝(1169 - 1249)は首都をカイロとし、始祖サラディーンが1171 年に創設したイスラーム王朝でエジプト、イスラーム教のシリア、パレスチナ、北部メソポタミア、ヒジャーズ及びイエメンを支配した。アイユーブ朝支配でエジプトは強力な中東イスラーム教軍の基盤になり、十字軍勢力に対抗した。1193 年のサラディーンの没後に帝国は分裂した。その後もアイユーブ朝はトルコの奴隷軍隊マムルークが力を握った西暦1249 年までエジプトを支配した。アイユーブ朝はアラビア半島ではヒジャーズ、アシールおよび西イエメンを版図に入れていた。

6.3.3 マムルーク朝

 アイユーブ朝の下で力を付けた戦闘奴隷イッズ・アッディーン・アイバクがエジプトで独立し、西暦1250年から西暦1517年までエジプトおよびシリアを支配した。このトルコ系イスラーム王朝(1250 - 1517)は君主が奴隷傭兵出身であったので奴隷王朝の名がある。マムルーク朝(1250 - 1517)はバフリー・マムルーク朝(1250 - 1382)およびブルジー・マムルーク朝(1382 - 1517)の2つの時代に分けられ、西暦1517年にオスマン帝国(1299 - 1923)がカイロを征服して滅亡させられた以降も実権を保持し、その属国として西暦1811年まで続いた。「マムルーク」とはイスラーム教国の白人奴隷(トルコ人、モンゴル人、スラブ人等)や奴隷傭兵を意味した。「沙漠の半島」では、ヒジャーズとアシールを版図に入れていた。

6.4 イスラーム帝国時代のアラビア

6.4.1 ハジュル・ヤマーマとバヌー ・ハニーファ 一門

 バヌー ・ハニーファ一門のリッダ戦争(棄教の戦い)での犠牲者は、633年12月のヤマーマの戦い(アクラバーの戦い)でのハーリド・イブン・ワリードに対する敗北に限られていた。戦争終焉後にイスラームに服従したバヌー ・ハニーファ 一門にもまずまず寛大な条件が与えられた。イスラーム帝国政府は、ヤマーマに農業投資を行い、その規模は「ムアーウィヤがヒドリマの農場で働く4,000人の奴隷を持っていた」と伝えられているほど大きかった。

 ウマイヤ朝時代を悩ませたハワーリジュ派での叛乱で傑出して居たのは680年のムアーウィヤの没後にナジュダ・イブン・アーミルを指導者としたバヌー ・ハニーファ 一門であった。アフラージュのアーミル・イブン・サウサア族(ムダル・アドナーン部族カイス・アイラーン族ハワージン族の一支族)を征服してハサーを支配し、そこからオマーン、イエメン、ハドラマウトおよびヒジャーズへと攻め込んだ。687年にナジュダはカリフの地位の異議申し立て者としてマッカに押し出すほどの勢力があった。後継者アブー・フダイクが692年に暗殺されて叛乱は収まったのでウマイヤ朝はヤマーマでの権威を回復した。740年代にバヌー ・ハニーファ 一門は再び叛乱を起こし、領土拡大の矛先をアフラージュのアーミル・イブン・サウサア族に向けた。バヌー ・ハニーファ 一門は744年にヤウム・ナッシャーシュの戦いで激しく打ち負かされ、遊牧民アーミル・イブン・サウサア族に有利となるヤマーマの決定的な変化のきっかけと成った。

 アッバース朝時代に入ると、ナジュドでのカリフ支配は再構築されてハジュルがナジュドとハサー全体の行政の中心に選ばれた。アッバース朝の統治下でのヤマーマの繁栄は、九世紀中頃まで続いた。この頃がアラビア湾におけるムスリム海上交易の黄金時代であった。東方から豊かな積み荷はアラビア湾に運ばれ、半島東部の港はその積み荷から大きな利益を上げていた。ハジュルを通過する「沙漠の半島」横断の隊商交易によってハジュルの立場は一段と強化された。アッバース朝の権威の衰えによってアフラージュのアーミル・イブン・サウサア族の脅威はヤマーマ全体に再び及んだ。846/847年にアッバース朝はナジュドへの最後の遠征を行ったが、担当代官も置かずに撤退した。これに続く数世紀の間の地方統治への復帰で涸れ谷ハニーファの町々は分裂弱体化した。これ以降は隣接する遊牧民同盟、ハルジュやハサー等、もっと力のある勢力のなすが儘とされてしまった。

 アッバース朝の衰退と共に九世紀後半には分離主義イスラーム分派が半島中央部および東部にあらわれた。ムハンマド・ウハイディルと云う名のザイド派反逆者が叛乱に失敗し、ヒジャーズから引き上げて来た。ムハンマド・ウハイディルはヤマーマの政治的軍事的に空白に乗じてハルジュに支配を確立し、ヒドリマをその首都とした。バヌー・ウハイディル族の支配は少なくとも200年続いた。9世紀後半から10世紀にはナジュド内や半島東部に政治的な動乱が起きていた。ハサーのカルマト派は928年にバヌー・ウハイディル族に重大な敗北を負わせた。イスマーイール派から派生したその極端な教義はその支配初期の930年までにカルマト派を現実的にイスラームから切り離した。同じく9世紀および10世紀にはアーミル・イブン・サウサア族が南ナジュドから半島東部、イラクおよびシリアへの移動し、ヤマーマの定住民への圧力に成っていたと見られる。

 アーミル・イブン・サウサア族のハサーへの移住はそこでのカルマト派の出現と同時に起きて居り、アーミル・イブン・サウサア族はカルマト派の覇権が「沙漠の半島」の多くの場所やその範囲を越える急速な拡大に貢献した。アーミル・イブン・サウサア族はこの征服の機会を利用して、「沙漠の半島」からの遊牧民移住の大昔からの型通りにシリアおよびイラクの国境に支配を確立した。この時代の特徴であったと思われる定住民と遊牧民の移住の要因は単純に不利な政治的な状況で作られたのでは無く、干魃や井戸の枯渇等幾つかの地方的災害によってさらに強まった。しかしながらその一方でヤマーマの州都のハジュルは10世紀には上質のナツメヤシを生産し、アフラージュの大きなオアシス群を含めて農業が繁栄していた。さらに涸れ谷ハニーファのイルドやハルジュのヒドリマはマッカに至る巡礼路の重要な宿場や町でもあった。

 11世紀のアフラージュは水が豊かであったが、そこの集落は確執と混乱の状態にあり深刻に衰退して居た。まったく同じ時期にハルジュではむしろ反対に干魃や農業衰退の兆しは無かった。当時のヤマーマは大きな古い城でその麓には町と市場が広がり、市場には取引を業とする職人が商売をしていた。ヤマーマ地域には流水路と地下水路で灌漑される豊かなナツメヤシの果樹園があった。流水路と云っているのはヤマーマ南部のハルジュの大きな天然のカルスト池(鍾乳洞の出入り口に出来た池)から給水される地表にある灌漑用水路である。地下水路とはペルシアが発祥でイスラーム以前から南ナジュドで使われて居たカナートと呼ばれ、地下水脈に沿って井戸を掘り、その井戸の底を水平坑でつないだ地下水路システムであった。このため旱魃の影響は受けなかった。この地域を長い間支配してきた為政者であるアーミル族(アーミル・イブン・サウサア族)は、アリーの子孫であった。近傍に力のある王やスルターンが居らず、アラウィー派自身が或る程度の力を持って居たので誰もアーミル族の支配を奪えずに居た。

 表面上はこの様に涸れ谷ハニーファとハルジュの集落が勢力を競っている様に見えたが、既に300年間の世に知られて居ない衰退の時代に入って居た。この衰退はおそらく9世紀後半から10世紀の間にアラビア湾の伝統的な交易の多くがエジプトのファーティマ・カリフ朝(909 - 1171)を中心とした紅海交易に奪われて居た為だろう。これがヤマーマや涸れ谷ハニーファを経由した陸上交易の隊商路が衰退する原因となり、その定住民も地域資源だけで生存できる水準まで減少したのだろう。さらに11世紀および12世紀でのハジュルの衰退は、ナジュドの定住民に襲いかかった断続的な政治的災難に因ると思われる。例えばそれはバヌー・ウハイディル族(ムダル・アドナーン部族キナーナ族クライシュ族バヌー・アブド・マナーフ一門バヌー・ハーシム一門の一支族)をヒドリマからの支配の中で崩壊させたとか、ハジュルはカルマト派の手に落ちたとか、ハジュルはマンフーハの様な涸れ谷ハニーファの中の近い集落からの支配又は内部争いやベドウィンの支配の犠牲にされた等であった。この時代以降のヤマーマには古い州の形跡は殆ど無いことから政治的に経済的に定住民がもっとも衰退していたのが分かる。

 ヤマーマの定住民が政治的に経済的にもっとも衰退していた時期に下ナジュドは遊牧民が優勢となる別の周期に入った様に思える。定住民は外部に対する防衛能力が無くなり、内部の結束を失うに連れてその数を減らして来た。この傾向を暗示したのは多分11世紀のアフラージュであり、この傾向は13世紀まで続いて居た。13世紀にはその後の世紀におけるリヤード地区の人口の重要な部分であったタイイ族系部族がナジュドで台頭し、新しい遊牧民同盟を結成した事で知られている。再びアーミル・イブン・サウサア族グループの同盟が13世紀には半島東部ばかりでは無くヤマーマでも台頭した。アーミル・イブン・サウサア族内部でもヤマーマの支配権引継が行われていた。バヌー ・ハニーファ 一門やその同門の部族が14世紀中頃にはまだ涸れ谷ハニーファ、涸れ谷クッラーン、ハルジュでは人口的に優勢な勢力であったのでバヌー ・ハニーファ 一門はその古い集落を占有続けていた。

 14世紀までにはハジュルは、復活して来た。水の流れと木立のある美しい豊かな市であり、その住人はバヌー ・ハニーファ 一門が大半を占め、そこが昔からバヌー ・ハニーファ 一門の土地であった事が分かる。この頃のハジュルの人々は正統派のスンニー派であり、バヌー・ウハイディル族の昔の首長の様にアラウィー派では無いと思われる。ハジュルの復興した集落はハナフィー首長の下で平和に結束して暮らして居た。

 イラクと東方の間の海上交易もおおいに回復し、14世紀初めに伝説的な富をもたらした商業帝国を築く過程でホルムズは、アラビア湾内カイス島からアラビア湾南部およびオマーンの交易と港のどちらも引き継いだ。ハサーのアラビア湾交易への貢献は真珠、デーツそして印度から需要が増えた来た馬であった。半島東部の馬の交易は少なくともマルコ・ポーロがオマーンからの活発な輸出について述べた様に少なくとも西暦1290年迄には既に繁盛していた。涸れ谷ハニーファやハルジュの住人が儲けの多い馬の交易を行っていた事はおおいに有り得る。もしそうであればナジュドの隊商路は14世紀および15世紀に再び活発に成っていただろう。

6.4.2 ハサーのジャブリード家による支配

 14世紀と15世紀の涸れ谷ハニーファとハルジュの町の住人は、アーミル・イブン・サウサア族から続くハサーの為政者に支配されていた。15世紀半ばにおけるアーミル・イブン・サウサア族のある一門の指導者家族であるジャブリード家が王朝(1440 - 1524)を樹立した。カティーフのホルムズ王国封建領主ジャルワーン朝(1305 - 1487)を退けてその支配者を殺害し、バハレイン島を含むアラビア湾西岸の支配を奪い取った。

 ジャブリード家はその実力と敬虔さおよび公平さの尊重およびウラマーで名声を得て交易も栄えた。ジャブリード家は巡礼を非常に重要視した。ジャブリード家の最初で著名な為政者アジュワード・イブン・ ザミール・ジャブリーは、ヤマーマを経由して1472年に多くの人数、1483年に駱駝20,000頭、1488年に駱駝15,000頭の「沙漠の半島」横断の大巡礼団をそれぞれ送った。この様な行事は敬虔さと同じ様にジャブリード家が半島東部とナジュドにもたらした政治的支配と安定の証であった。

 巡礼団にはヤマーマからの多くの巡礼も勿論含まれて居た。事実、ジャブリード家のヤマーマの古い地域への影響は、定住生活の価値観を強めて支持された。ジャブリード家の威光が半島東部の遊牧民および定住民に広がるに連れて、ジャブリード家はハルジュ周辺のナジュドのムガイラ族、ダワースィル族、ファドル族、アイド族およびスバイウ族等、殆どの遊牧民に向けて戦闘を行った。そうする事でアーミル・イブン・サウサア族の諸族やその同盟の部族の為にジャブリード家は放牧地をナジュドに比較的新たらしく入って来た諸部族から守ろうとしたのだろう。しかしながらこの戦闘は隊商路、巡礼路の安全を保障し定住民の中の同盟部族を支援し、遊牧民と町住人の間の離反関係を一般的に罰する目的も或る程度あったとのだと思われる。ジャブリード家は基本的には遊牧民の首領と云うよりは定住民の首長であり、部族的忠誠を広範囲な為政者(ウラマー)への服従に代える事で分裂しがちな部族的状況に統一をもたらそうとしていた。そうすることで「ナジュドの信心深い定住民の首長と成ろう」と云う復古的な目的を成し遂げようともしていた。当時の或る学者はジャブリード家の有名な支配者アジュワード・イブン・ ザミールについて、「ハサーとカティーフの王でナジュド族の首領である」と記述していた。

 更に15世紀はナジュドの定住民にとって政治的に順調な時代であっただけでは無く、良好な気候の時期でもあった。地方的歴史に対して気候や病害やイナゴ発生等の政治以外の要素についてもその影響が大きかった事を初めて物語っていた。15世紀は特に雨は多く干魃は殆ど無く、今日の伝統的なナジュドの町や村の多くはこの世紀およびそれに続く世紀にその発祥を辿れる。特にサウジ公国の発展の重要な役割を特に果たした町の一つである涸れ谷ハニーファのディルイーヤの発祥もこの時代である。当時の下ナジュドの人々は様々な理由で今日まで維持されて来た定住と云う生活形態の価値が有利となる歴史的変化の間際に居た事になる。

6.4.3 ジャウフの衰退と部族支配

 ジャウフ地方のドゥーマ・ジャンダルは前イスラーム時代であるジャーヒリーヤ時代に謳歌していた名声や繁栄が衰えていた。その名声や繁栄はイエメンや半島南西部から涸れ谷シルハーンを抜けて北へシリアおよびパレスチナへのルートとイラクへのルートとの2つの交易ルートの分岐点であり、年一度開かれ市の場所であり、周囲の沙漠に住むベドウィンの信仰の中心であった事に支えられていた。イスラーム教国への併合によってドゥーマ・ジャンダルはこれら全ての利点を失い、著しく衰亡した。さらにアッバース朝が都をバグダード新都市に移し、主要な半島の交易と隊商ルートをイラクのクーファから聖なる都市であるマッカおよびマディーナへ直接通じる様に変更した為にドゥーマ・ジャンダルは交易の分岐点と云う地位を全く失った。それに加えてこの時代に沙漠化が進み、住環境が悪化したことも衰亡に拍車をかけた。

 ジャウフを支配していたのはカフターニ部族クダーア支族の分家カルブ族とムダル・アドナーン族のカイス族であった。第二次内乱の最中の684年7月にダマスカス近郊でマルジ・ラハトの戦いが起きた。この戦闘ではカルブ族はアブドゥルマリク率いるウマイヤ朝軍の中核を成しており、カイス族はカリフ継承の競争相手であるイブン・ズバイル(624 - 692)に味方していた。マルジ・ラハトの戦いはウマイヤ朝側の勝利となり、アブドゥルマリクが第五代カリフ(685 - 705)を継承した。カルブ族はアブドゥルマリクの助けに成って居た。一方でカイス族は決して忘れる事が無い程の壊滅的な敗北を被った。このためマルジ・ラハトの戦い(684)以降、カルブ族とカイス族との反目が一層激しくなった。恒久的な憎しみが生まれ、その後に始まった血みどろの敵対関係はカルブ族をその領地を維持出来ずに暫くはパレスチナの地に移住しなければ成らない程に疲弊させた。

 ウマイヤ朝に対するアッバース革命ではカルブ族は最初にウマイヤ朝軍に加わった。後に変節してアッバース側に付いて勝利したが、アッバース朝が樹立すると勝ち目の無い叛乱に加わってしまった。アッバース朝治世の後半になって、カルブ族遊牧集団は中央権力に対する攻撃を開始した。例えば彼等は864年にシリアのヒムス(ホムス)総督に叛乱して総督を殺している。もう一つの史実としては906年に他の部族と共同し、イラクのモスル総督を敗北させた。しかしながらこの年の後半にカルブ族とタイイ族のベドウィン同盟は、アッバース朝の軍勢との戦闘に敗北した。

 874/875年から1077/1078年のイスマーイール派霊感によるカルマト派運動ではカルブ族の幾つかの支族がこの運動の扇動者達に取り込まれた。タバリーヤの戦闘の後にアッバース朝カリフ・ムクタフィー(902 - 908)は強力な軍隊をカルマト派運動に対して派遣した。カルブ族はカルマト派運動指導者を殺し、その首をバグダードに届けて自分達の忠誠心をカリフに示し、難を逃れた。しかしながらカルブ族は衰退し、10世紀にはナフード沙漠の覇権はタイイ族が握った。タイイ族はその支族ファドル族のアムル一門に因んでアムル族と呼ばれ、その覇権は13世紀から15世紀まで続いた。ジャウフには18世紀までその名残があり、涸れ谷シルハーンではカルブ族の支族シルハーン族が18世紀には覇権を握っていた。

6.4.4 「沙漠の半島」東部のカルマト派支配と諸王朝

 第三代正統カリフ・ウスマーンが派遣したイスラーム軍のサーサーン朝ペルシア(226 - 651)制圧中にアブドゥルカイス族はペルシア海岸への海上遠征を行い、649/650年のイラン高原ファールスの征服に参加した。当時、アラビア湾の海岸は遠くオマーンに至るまでバスラの偉大な新しいムスリム支配の下に単一な州として再編された。早期のバスラは重要な軍事センター(ミズル)であり、特にペルシアおよびホラーサーンのムスリム征服に参加したアブドゥルカイス族、バクル・イブン・ワーイル族およびタミーム族等多くの半島東部の部族民を引き入れた。

 イスラームがインド洋に広まるに連れてハサーは遠征の為に兵士や舟の提供で貢献した。拡張や征服が海に向かったにもかかわらず海岸とその後背地は内陸のアラブ部族支配下で結束していた。例えば660年代の印度へのハサーウィー遠征隊の指揮官はハサー・オアシスの主要都市ハジャルの出身であった。この遠征の戦利品の一つが象であり、ダマスカスを根拠地にするウマイヤ朝カリフのムアーウィヤ(602 - 680)に送られた。

 当時は北アフリカからイラクおよびイランに及ぶ単一国家であったイスラーム帝国は、ウマイヤ朝 (661 - 750)によってダマスカスから支配されていた。ムアーウィヤの後のウマイヤ朝カリフはウマイヤ・イデオロギーに疑問を持ち、出ていった者達(ハワーリジュ)と呼ばれる幾つかのグループの出現に直面した。その中でも最も卓越した指導者達の一人にヤマーマおよびハルジュ地区のナジュダ・イブン・アーミル・ハナフィー(d. 692)が居た。ナジュダとその追従者達はハサーのアブドゥルカイス族を征服し、数年に渡って「沙漠の半島」の大半を支配した。692年にウマイヤ朝がバスラの軍事都市を通して、ハサーの支配を取り戻した。ウマイヤ朝はアブドゥルカイス族を復活させ、要塞としてのハジャルを合併した。しかしながらその支配の残りの間、ウマイヤ朝はハサーの断続する蜂起に悩まされた。

 アッバース朝(750 - 1258)が750年にウマイヤ朝から奪権し、イスラーム国都をバクダットに遷都した。この事は10世紀まで続くアラビア湾交易を新たな黄金時代へと導いた。それに先立ちヤマーマを含む半島東部へバクダットから新たな総督達が任命された。アッバース朝に対する僅かな抵抗がアブドゥルカイス族によって先導されたが、ハジャルは主要な町として行政の中心に残った。

 印度および中国との交易にかかわったアラビア湾の港や商人達は莫大な富を築いた。特にペルシア側の港シーラーフは繁栄したが、オマーンの港スハールの台頭や偉大な商人スライマーンやアブー・ウバイダ等のアラブ商人が成長した様に交易の中でアラブ部族はますます重要な役割を担った。これがこの時代の商人、船乗りおよび為政者達の暮らしから生み出された話である「船乗りシンドバッドの物語」に結びついた。ハサー・オアシスの港であるウカイルは840年代にバスラ、オマーン、中国およびイエメンを訪れる為の港として記述されて居り、そこにはイスラーム早期の大きな考古学的遺跡が残されていると思われる。アッバース朝国庫への半島東部の重要性は、そこから徴収される非常に大きな歳入によって確認されている。その額はオマーンよりも多く、殆どイエメン全体に匹敵して居た。

カルマト派支配

 9世紀の後半にアッバース朝支配が崩壊し始めとイスラーム世界には様々な反体制運動が起き、その多くはイスマーイール霊感派であった。イラクから起こったイスマーイール霊感派運動の一つカルマト派が半島東に定着した。初代のハサン・カルマトが指導者となり、899年にカティーフを占拠し、ザーラを焼き、ハジャルを攻撃した。カルマト派は伝道師アブー・サイード・ジャンナービー(855 - 913)の下に首都をハサーの町に置き、しっかりした国家体制が組織された。海岸地帯と内陸を結びつけ、南ナジュドから新たに移動して来た部族の支援を得てカルマト派は、その支配をイランやイラク南部にも広げた。カルマト派時代にハサー・オアシスは政治的に歴史な頂点に達した。カルマト派の最初で最大の軍事活動は西暦886年から935年の間であり、バスラ、クーファおよびワースィトを度々襲撃し、巡礼を途絶させた。西暦930年にカルマト派はマッカを攻略し、カアバ神殿から聖なる黒い石を奪うと云う神聖冒涜を行った。さまざまな無法や忌まわしい行為が犯された8日間の混乱の後に自らの誤りを正すため931年にアブー・サイードの息子アブー・ターヒルは統治をペルシアのマギアン(司祭)に引き渡した。この出来事がカルマト派の宗教的過激主義の転機となった。

 西暦935年から988年の第二期カルマト派時代ではアッバース朝と友好関係を結んだ。この間に北アフリカに興ったファーティマ朝(909 - 1171)がエジプトおよびシリア一帯を支配し、エジプトからシリアへの拡大してきた。バクダッドがこのファーティマ朝を撃退するのにカルマト派はアッバース朝を援助した。聖なる黒い石はマッカに戻され、以前よりもカルマト派の教義は正統なイスラームへと戻った様に思われる。アッバース朝との協力は西イランに台頭したブワイフ朝(934 - 1055)にも向けられた。983年にカルマト派はイラク南部に侵入したが、988年にブワイフ朝に打ち負かされ、その根拠地のハサーやカティーフが侵略された。カルマト派は988年の逆襲の後に半島東の支配を取り戻したが、その支配の最後の期間である988年から1073年にはアラビア湾航路に対抗してのインド洋からの紅海交易とエジプトの台頭によりその勢力と繁栄の衰えが記録されていた。

ウユーニード朝

 ハサーのカルマト派衰退は北へのセルジューク・トルコ(1037-1157 or 1194)の台頭と同時に起き、11世紀にセルジューク・トルコは急速にその支配をイラン、イラクおよびシリア北部に確立した。1073年にハサー・オアシス北部のウユーン出身のアブドゥルカイス族のリーダーの一人がセルジューク・トルコの支援を得て、カルマト派を打ち破り、ウユーニード王朝(1073 - 1253)を樹立した。初代ウユーニード支配者のアブドゥッラー・イブン・アリーはハサーを自分の都にしたが、地方勢力としてのハサーの衰退とこの時代の中東政治の主要な流れからの孤立がその目を海上交易へと向かわせた。

 アラビア湾交易の繁栄は下り坂に成っていたけれどもそれでもなお儲かり、ウユーニード支配者はこの数世紀間にアラビア湾岸の中心的主要勢力であったカイス島(キース島)のアラブ商人首長と対抗する事に成った。12世紀を通じてアブドゥルカイス族艦隊がバハレイン島やカティーフを襲い、カティーフは次第にウユーニード王朝の中心となり、ハサー・オアシスはそこから支配を受けた。カティーフは半島東部の港としてウカイルに取って代わった。ウワールとして知られ、ウユーニード王朝に支配されていたバハレインも12世紀末には海岸地帯領地からの税をカイス族(アブドゥルカイス族)支配者達と分け合わざる負えなかった。

ウスフーリード朝

 13世紀になるとカイス族勢力はアラビア湾入り口のホルムズの新しい海事勢力に脅かされ始めた。1253年にウユーニード王朝に代わったハサーのウスフーリード朝(1253 - 1330)支配者達(アーミル・イブン・サウサア族同盟バヌー・カアブ族の一門バヌー・ウカイル族)はホルムズからの挑戦に対抗する為に自らカイス族と同盟した。こうしている内にウスフーリード朝はバハレインを含めて半島東部の支配を掌握して繁栄をもたらした。14世紀初期までにそのナツメ椰子の実、真珠および特に馬は、印度への国際交易でこれまでよりも大きな需要が出て来た。

ジャルワーン朝

 西暦1330年代にアブドゥルカイス族はアラビア湾交易の支配を遂にホルムズに譲ったが、半島東部は殆ど影響を受けなかった。ホルムズ族はバハレイン島やカティーフも支配しようとはしていたが、及ばなかった。しかしながら14世紀に入るとウスフーリード朝もカティーフに根拠をおき、ホルムズ王国(10th C ~ 17th C)の封建国であったジャルワーン朝(1305 - 1487)にその権力を奪われた。これに続く世紀でも交易環境は、改善し続け西暦1400年迄にはアラビア湾は、商業の繁栄した新しい時代に入ろうとしていた。印度や中国からの物資が再びイラクへと大量に送り出され、ホルムズ島は交易勢力としては西洋では伝説となった絶頂期を迎えた。

 ジャルワーン朝はバニー・マーリク族(カフラーン・カフターン部族アズド族(ウズード族)支族のハーリサ族(フザーア族)一門)とされているが、ウスフーリード朝やジャルワーン朝と同じくバヌー・ウカイル族(ムダル・アドナーン部族支族カイス・アイラーン族のハワージン族支族のアーミル・イブン・サウサア族の一門)であるとの説もある。

ジャブリード朝

 ジャルワーン朝は15世紀初期に王朝を樹立したジャブリード朝(1440 - 1524)によってその支配者を殺害され滅びた。ジャブリード朝はアーミル・イブン・サウサア族の強力な一門である。最盛期にはバハレイン島を含むアラビア湾西岸全体を支配し、その支配は半島中央部にも及んでいた。但し、「ウスフーリード朝(1253 - 1440)は、カティーフからの支配で独立を保ち、ハサーの生活は適当に繁栄した水準を保ち続け、1440年にウスフーリード朝はその支配を新たな部族王朝ジャブリード(1440 - 1524)に譲った」との記述もある。

6.4.5 聖都の港ジェッダ

 646年に第三代正統カリフ・ウスマーンによって聖都メッカの港がジェッダの南20kmにあるシュアイバから少し間近で天然条件がもっと有利なジェッダに移された。イスラーム帝国が拡大するにつれて征服戦争から生み出される莫大な富でジェッダはエジプト、半島南部、紅海西岸およびインドからの供給を聖なる都市に運ぶ活発な紅海貿易の中心となった。帝国の世俗的中心がウマイヤ朝(661 - 750)のカリフの治世下でダマスカスに移り、そしてアッバース朝 (750 - 1258) のカリフの治世下でバクダッドに移った。その結果としてメッカの経済的、政治的な重要性は薄れたが、メッカが聖都としての名声を失う事は無く、ジェッダはその港として巡礼受け入れや地方交易の恩恵を受けていた。

ラスール朝

 モンゴル人が1258年にバクダッドに侵攻し、アッバース朝のカリフがマムルーク朝(1250 - 1517)スルターンの庇護の下に移った。カリフ統治の失墜で東洋貿易の大部分が以前のバスラ経由バクダッドから紅海およびジェッダ経由でエジプトへ向かう様に成った。紅海の北半分には暗礁、浅瀬、逆流およびつむじ曲がりの風が多く、大きな船の航行は不能であった。このため貨物は紅海南部の港でジェルバ、サンブークやその他の小さな木製の舟に積み替えられ、エジプトの主要港であるクサイル(コセイル)、スエズ或いはシナイ半島のトール(El-Tor)へと運ばれていた。この変化でイエメンがもっとも実際な利益を得た。13世紀に勢力を得たラスール朝(1229 - 1454)の商業活動に支援されてアデンは、インド、ペルシアおよび中国の船が入港する偉大な東洋貿易の中心となった。アデンはこの小舟による海上輸送の積み替え港として利用されていたばかりでは無く、陸上輸送への積み替えも行われて居た。

アデン港交易禁止命令

 ヒジャーズのシャリーフ政権下での内紛での混乱と治安の悪化が当時のアデンの支配者ラスール朝(1229 - 1454)による商人達に対するアミールの駱駝隊商部隊使用強制等の法外な強請を招いた。これに反発したカリカットの商人達は、紅海の南半分は大きなインド貨物船の航行が可能なので、1424年に積み替え港としてアデンの代わって安全なジェッダを選定した。この直ぐ後にマムルーク朝スルターン・バイバルスは、アデンに荷揚げされた貨物に対して交易禁止命令を出した。このためジェッダは東方の商品に対する唯一の公認輸入港と成った。1431/1432年には中国から数隻のジャンクがアデンでは妥当な条件で貨物を荷下ろし出来なかったためにジェッダに現れた。

ボスポラス海峡閉鎖

 1453年にジェッダはもう一つの好ましい歴史的環境を得た。オスマン帝国 (1299 - 1923)のスルターン・メフメト2世(1432 - 1481)は、コンスタンチノープルを陥落させると、ボスポラス海峡を閉鎖して中央アジアを越える陸上交易路の黒海へのターミナル港であったクリミア半島のカッファ港やアゾフ海のタナ港等への通行を遮断した。これによって紅海だけが安全で実用的な交易路として残され、この伝統的交易路を支配していたアラビア人とエジプト人が香辛料交易の事実上の独占権を完全に手にした。

マムルーク朝のポルトガル艦隊への対抗

 ヴァスコ・ダ・ガマ(1469 - 1524)が1498年5月20日にインドに到着し、喜望峰まわりの航路開設に成功すると、ポルトガルはアラブ船の交易禁止措置を取った。この措置はジェッダの扱う東西交易に打撃を与え、シャリーフ庁のみならずその宗主国であるマムルーク朝の関税歳入を激減させた。その上にポルトガル艦隊は商船や巡礼船に対する海賊行為を行い始めたのでマムルーク朝(1250 - 1517)スルターン・カンスーフ・ガウリー(1501 - 1516)は、対抗措置として先ずローマ教王に抗議した。これが聞き入れられなかったのでスルターン・カンスーフ・ガウリーは海軍遠征部隊を組織し、最初の艦隊には側近で悪名高い程に残酷なフサイン・クルディーを指揮官に命じた。この艦隊はポルトガル総督フランシスコ・ダルメイダ(c. 1450 - 1510)の艦隊と1509年2月3日にディウ沖で交戦し、凶暴な海戦で血みどろの敗戦を被った。

 フサイン・クルディーはジェッダに撤退すると直ぐにこの市の周囲に強固な城壁を作る決定を布告した。城壁への通路を空ける為にこの町の全ての区画を斟酌せずに早急に取り壊した。立ち退かされた家の持ち主達からの反対は無慈悲にも流血を持って押さえつけられ、恐れずに抵抗した多くの人々が城壁の中に生きた儘で閉じこめられた。一方で自軍の艦隊が完全に壊滅させられたのを知り、スルターン・カンスーフ・ガウリーはスエズで新しい艦隊を建造し、その司令官にライス・スライマーンを任命した。ライス・スライマーンはジェッダへ赴き、そこのマムルーク人達と合流した。そしてスライマーン自身が上陸部隊とフサイン・クルディーの艦隊を指揮して、ポルトガルに対する再攻撃を開始する様に命令された。スライマーンとフサイン・クルディーはジェッダの防御を予め固めて1515年に出発したが、ポルトガル前哨基地としてのアデンさえも征服できず、1516年秋にジェッダへ引き上げた。フサイン・クルディーが狡猾で残酷な専制君主の様にふるまい始め、ライス・スライマーンとの間の敵意が燃え上がった。恐らく欲求不満のはけ口としてフサイン・クルディーは一般人に対して忌まわしい残虐行為を行った。幾人かのジェッダ住民が土牢に押し込められ、はらわたを抜き出されたり、拷問で殺されたりしない日は無かった。フサイン・クルディーの行く所はどこにでも絞首門が設けられた。

 オスマン帝国(1299 - 1922)宮廷に臣従を示すために派遣されていたアブー・ヌマイイ(1525 - 1583)からフサイン・クルディーとそのジェッダでの暴政を聞き、サリーム一世(1516 - 1520)はフサイン・クルディーの殺害に許可書を発行した。フサイン・クルディーの殺害はこの若いアブー・ヌマイイがメッカに戻って首長となってから実行された。東西交易は喜望峰まわりの航路開設でジェッダ等「沙漠の半島」を中継せずに大型帆船で直接、東洋と西洋を結ぶ大航海時代に移行して行った。

6.4.6 ヒジャーズとシャリーフ政権

 ムハンマドのマディーナへの移住でイスラーム帝国の中心もメッカから移動し、さらにその中心はウマイヤ朝(661 - 750)が権力を握るとその首都としてシリアのダマスカスへ移された。イスラーム帝国本部がダマスカスに移ると、メッカを含むヒジャーズはイスラーム帝国の中心としての地位から一つの州に降格された。その後のメッカはハーシム家のシャリーフが統治する信仰と学問の中心として存続したが、政治にはほとんどかかわりが無かった。

 683年にイブン・ズバイル(624 - 692)はウマイヤ朝に対して公然と叛乱を起こし、自らカリフを名乗った。詳細は第二次叛乱に述べてあるが、その叛乱はおおよそ10年に及んだ。ウマイヤ朝に代わったアッバース朝(750 - 1258)は、首都を現在のイラクのバグダッドに移し、バグダッドがその後500年にわたってイスラーム帝国の中心となった。930年にメッカはカルマト派の攻撃を受け、略奪された。カルマト派は神が直接地上を支配する千年王国を説くイスマーイール派霊感の1つであり、アブー・ターヒル・スライマーン・ジャンナービー(906 - 944)に率いられ、半島東部に中心を置いていた。

メッカの大シャリーフとバヌー・カターダ 王朝

 アッバース朝(750 - 1258)衰退の結果、10世紀後半の早い時期にメッカ首長管轄区は正式な統治体制として創設された。いずれにしてイスラーム帝国の権力の中心が弱り、そして地理的に遠く離れたバグダッドからの直接統治が取り払われるに連れてターイフを含むヒジャーズでのシャリーフ支配は時と共に固まり、メッカの首長の掌中にもっと現実的で直接的な付与された権威が出来てきた。メッカの首長のもっとも有名な西欧で付けられた呼称はメッカの大シャリーフであった。メッカの首長に就くのは預言者の子孫であるメッカのシャリーフ家でハーシム家系譜の者と決められた。

 1147年にシャリーフ家の有力な一員であるカターダ・イブン・イドリース(1130 - 1220)がメッカのアミールに就くと対抗する族長達に対する一連の軍事的侵略に勝利して自分の支配する領土を南北へ相当程度に広げた。イドリースの命令で行われた懲罰的な遠征の一つがサキーフ族とターイフ市に対してであった。メッカ太守の地位はアッバース朝(750 - 1258)時代の1201年に確立した。カターダ・イブン・イドリースは1220年までメッカのシャリーフの地位にあり、バヌー・カターダ王朝を創設して「シャリーフの子孫がメッカを支配する」と云う伝統を確立した。その伝統は1924年にヒジャーズがイブン・サウード(1876 - 1953)に征服されるまで続いた。

 前述したようにモンゴル帝国(1206 - 1368)が1258年にバクダッドに侵攻してアッバース朝が滅び、カリフ位継承者がマムルーク朝(1250 - 1517)スルターンの庇護の下に移った後はムスリム帝国の元の州であるヒジャーズも紅海と東方交易に古くから関心を持っていたエジプトへの併合の対象に成った。1269年にスルターン・バイバルス(1233 - 1277)は巡礼を終わらせ、公にはエジプト人巡礼を保護する名目で軍隊を残留させた。バイバルスの本当の目的はメッカに覇権を樹立する為であったが、この計画はシャリーフの猛反対の為にすぐに失敗した。シャリーフはイエメンのスルターンおよびイラクのタタール人から受けた同じ様な企てに抵抗していた。しかしながらシャリーフは国際的な勢力には成れず、マムルーク朝による保護が避けられないのが現実であった。

 エジプトが遭遇している北の問題は地中海の海賊であり、東の問題は離反する王国群と時々で独立した態度を見せるシャリーフを鼓舞するペルシアのティムール朝(1370 - 1507)であった。自分の兄弟に対して戦いを挑んだバラカート一世(1404 - 1452)のシャリーフ政権下での内紛がメッカ支配者の力を急激に弱め、その支配力は最低に成った。有力な対抗勢力のシャイビ族がシャリーフに公に戦いを挑んだ。エジプトのマムルーク朝スルターン・バルスバーイ(1422 - 1438)は治安を口実として1425年メッカに守備隊を駐屯させてシャリーフを従属させ、ジェッダの徴税権を奪った。

 この時までエジプトはシャリーフに大きな自治権を与えて、聖地の保護、巡礼の監督および紅海の港全体の支配にのみ主な関心を持っていたが、ジェッダ港とその政権への直接支配の確立は、ヒジャーズ支配とへの公然とした干渉と事実上のシャリーフ従属が始まった証であった。マムルーク朝は賢明にもジェッダ港からの歳入を全て収得せず、シャリーフへのその一部割り当てを許していた。マムルーク朝とシャリーフは重大な紛争が無い限りは、この地区からの歳入が両方の国庫に自然に流れ込む事をお互いに認識していた。

 ターイフの重要さはイスラーム時代の最初の世紀の間にゆるやかな後退を経験した。この動きはターイフだけでは無く全ての地域に影響した。さらにサキーフ族の多くの勇敢で博学な男達がイスラームを広め、自分達の才能をカリフの宮廷に貢献する為に移住して行った。

マムルーク朝滅亡とオスマン・トルコへの臣従

 1516年の春にオスマン・トルコのスルターン・サリーム一世(1512-1520)が突然、シリアのマムルーク朝領内に攻め込んだ。スルターン・カンスーフ・ガウリー(1501 - 1516)はシリア北部のアレッポ近くのマルジ・ダービクの平原で迎え撃った。1516年8月24日に始まった戦闘ではオスマン側の圧倒的な火力がエジプト側を粉砕し、続いて1517年1月22日にカイロはオスマン側の手に落ちてマムルーク王朝は滅亡した。

 オスマン帝国の強力な軍事力と戦士としての名声がメッカ首長のバラカート二世(1497 - 1525)に自分の権威の正式承認を得る為、次男で13歳になるアブー・ヌマイイ(前述)をスルターン・サリーム一世の宮廷へ自発的に送らせた(前述)。サリーム一世は預言者の子孫で2つのモスクの守護者から臣従の礼を受け、名誉に感じた。恐らく遠隔地での不確定な戦闘から解放されてホッとしていたので、自分の満足感をメッカ首長の支配をハリー、ジェッダ、メッカ、マディーナ、エンボ(現在のヤンブー)およびハイバル等、実質的に全ヒジャーズに確認する事で示した。ここにオスマン帝国治世下でもシャリーフの地位と権威は従来どおりに保たれる事となった。

6.4.7 半独立分立割拠の南西アラビア

ザイド・イマーム政権とファーティマ朝

 イエメンはペルシア帝国の辺境に位置することになり、また険しい地形であったため実質的には半独立の諸王国が分立割拠することになった。その中で最も長く続いたのが9世紀末に成立したザイド・イマーム政権であり、1962年の共和革命まで1000年以上にわたって存続した。その間はエジプトのファーティマ朝(909 - 1171)が北のイエメンの多くを占拠していた。ファーティマ朝はシーア派の小分派であるイスマーイール派であり、カフターン族の支族であるヤーム族の大半がイスマーイール派に改宗したのはこの時代に遡る。

独立割拠のアシール

 イスラーム以前のアシールには独立した部族がたくさん存在して居り、強い部族はその勢力範囲を越えて他の地域や場所を襲った。外部に対してはマッカからイエメンへ交易するクライシュ族の隊商へさまざまな税を課せる程に他の部族から畏敬の念を払われて居た。632年(ヒジュラ暦10年)に預言者はスラド(Surad Ibn Abd Allah Al-Azadi)にイスラームの教義を広め、多神教徒と戦う様に促した。スラドはアシールの首都ミフラーフ・ジャラシュを目指し、激しい戦いの後にジャラシュ地区を支配下に収めてそこの初代のムスリム統治者と成った。このようにしてイスラームが到来すると、人々は厳格な宗教を取り入れてイスラーム国家の旗に集結した。

 その後、アシールはイスラーム帝国(正統カリフ治下)、ウマイヤ朝、アッバース朝、トゥールーン朝(868 - 905)、再びアッバース朝、イフシード朝(941 - 974)、ファーティマ朝の支配を受けた。12世紀にはカルマト派市民闘争が「沙漠の半島」に勃興し、半島の相当部分を支配した。しかしながらアシールの人々は抵抗し、ビーシャでの凄まじい戦いの後にカルマト派を撃退した。1156年にアシールとその首長スライマーン・ムーサーは、グーズ族の攻撃に直面し防戦した。アシールは1171年から1229年の間アイユーブ朝(1169 - 1250)に支配された。その後は無政府状態と成り、多くの首長や部族長の支配がマムルーク朝によって権力を掌握されるまで続いた。

7. 部族移住と宗教改革の近世アラビア

7.1 近世の下ナジュド

7.1.1 涸れ谷ハニーファへの部族移住とハジュルの衰退

 15世紀半ばから17世紀初期にわたって続いた環境条件の改善で、下ナジュドの集落が次第に復活し始めた。集落の復活はハサーのジャブリード朝のヤマーマおよびアリードへの侵略や14世紀および15世紀のホルムズ王国覇権下のアラビア湾交易の繁栄に助けられたのだろう。

 多くの集落が新たにやって来た人々によって作られたり、復活させられたりした。その中でもタミーム族(ムダル・アドナーン部族)が取り分け積極的であった。ワシュムの初期の集落やシャンマル山塊のクファール(ハイール南西15km)からタミーム族は数を増やし、涸れ谷ハニーファ、スダイルおよびカスィームへと移住した。放牧民も1,500年直後のナジュドにおけるジャブリード朝(1440 - 1524)勢力の衰退の後は集落の増加に貢献した。人口密集の結果として17世紀のうち続く干魃によって居住環境は悪化させられたが、定住化と再移住を行う事で解決された。特に積極的だったのがダワースィル族、アナザ族、バニー・ワーイル族およびアイド族等であった。一方で17世紀のナジュドの最大の町ウヤイナと成った場所のタミーム族への売却は、バヌー ・ハニーファ 一門の数と勢力の衰退を示している。

7.1.2 ムルダ族の招聘

 そうした状況でハジュルとジズアを支配していたディルア族の首領であったイブン・ディルアは、この地方の親族(ムラダ一門)の数を増やそうと、アラビア湾のカティーフの近くのディルイーヤと云う場所に住んでいた同じムラダ一門のムルダ族(ラビーア・アドナーン部族バクル・イブン・ワーイル族ハニーファ一門ハナフィー族ムラダ一門)を招いた。マーニア・ブン・ラビーア・ムライディーに率いられたムルダ族は、1,446年に到着した。イブン・ディルアはヤズィード族(バヌー・ハニーファ末裔)領と接している自分の領土北部のガースィバおよびムライビド地区をこのムルダ一門に与えた。ムラダ一門は自分達の故郷に因んで新しい集落にディルイーヤと云う名を付けた。後に改革運動の中心と成るように運命付けられたディルイーヤは、この新しい血の注入で急速に拡大した。数年でムラダ一門はヤズィード族領の残って居た部分を奪い取った。

7.1.3 涸れ谷ハニーファ支配の2分割

 16世紀の初め迄に涸れ谷ハニーファの全ての集落への支配力はジュバイラを境にしてウヤイナとディルイーヤに分割された。ディルイーヤは新しい定住者を引きつけ交易商がしばしば出入りした。16世紀の間、大きく数を増やしたディルイーヤ為政者一門は分裂し始めた。分家の一つはトゥワイク山脈を西へ越えてドゥルマーに定住するために離れた。この分家はやがてそこの為政者に成った。もう一つの分家はディルイーヤの北方のアバー・キバーシュへ移動した。

 涸れ谷ハニーファ北部にあるウヤイナも15世紀の創設の後は同じように生長した。その為政者(タミーム族)一門であるムアンマルは、その勢力を北方で、バヌー ・ハニーファ一門の古い集落のある涸れ谷クッラーンへ広げた。しかしながらムアンマル一門はディルイーヤのルアサーウ(為政者)よりも結束力が強かったので、17世紀から18世紀初めにウヤイナを秀でた町に発展させた。

7.1.4 オスマン帝国の圧力とシャリーフの下ナジュド攻撃

 マムルーク朝を1517年に滅ぼしたオスマン帝国(1299 - 1922)は、マッカ・シャリーフの勢力と権威を維持してヒジャーズの支配をするマムルーク朝(1250 - 1517)のやり方を踏襲した。その直ぐ後でハサーのジャブリード朝(1440 - 1524)勢力はアラビア湾への侵入したポルトガル艦隊に遭遇して衰えた。それに対してインド洋貿易の脅威となるペルシア勢力とポルトガル艦隊の両方に立ち向かうのを懸念していたオスマン帝国は、その支配を南イラクそしてそこから半島東部へと広げ、およそ1550年にハサー・オアシスを占拠してホフーフを州都とするラハサー州を設けた。

 下ナジュドの繁栄と半島西部および東部におけるオスマン帝国の支配と云う状況で、マッカのシャリーフは半島中央部の下ナジュドでの新しい繁栄に興味を示し、自らの勢力を広げようとする強い姿勢を示した。最初の攻撃は1578年にミアカル集落に対して行った。時のシャリーフのアブー・ヌマイイ二世(1525 - 1583)の息子が50,000人以上の軍隊を持って急襲した。多くを殺して土地を略奪し、捕虜を取り、この地に代官を擁立した。

 3年後にシャリーフ軍はハルジュに侵入した。更に16回余りの襲撃が18世紀初期までに記録されている。シャリーフ軍の遠征は集落へと同じ様に遊牧民にも向けられた。シャリーフ軍の目的は表面上ではこの地方に政治的支配を及ぼそうとした様に見える、しかしながら捕虜を取り、共鳴する首領を擁立するだけの勝利では余りに一時的であり、持続する中央権威確立する事等は遠く及ばなかった。実際にはシャリーフ軍の遠征は、部族の有徳な振る舞い特に巡礼達への妨害の節制を守らせ、部族への食糧を主とする貢ぎ物の強要が主要な目的であった。このような貢ぎ物が定期的に支払われる事は無く、その徴収には新たな戦役を必要とした。

7.1.5 六回の干魃で苦しんだ17世紀

 17世紀からナジュドの住人に新しい圧力が掛かって来た。シャリーフ軍の遠征もその一つであった。シャリーフ軍は遊牧民に東ヒジャーズおよび上ナジュドから下ナジュドへ移動する圧力を加えた。もう一つの大きな圧力は1620年から1676年の間に半島中央部の民を苦しめた6回の干魃であった。これらによって遊牧民と定住民の多くがナジュドから東方や北方への移住を余儀なくさせれれ、同じ時代に多くの放牧民に不安定な生活を捨て定住する事を強いた。16世紀後半から17世紀にナジュドへ移動した遊牧部族にはザフィール族、アナザ族およびダワースィル族が居り、ムタイル族、バヌー・ハーリド 族およびカフターン族が続いた。

 例えばウトゥーブ族(ムダル・アドナーン部族バニー・スライム・ビン・マンスール族ハファーフ一門バニー・ウトバ族)が南ナジュドのアフラージュをダワースィル族の圧力で離れ、アラビア湾岸に移動した。その後にクウェイトやズバーラ(カタール半島北西部)を見つけ最終的にバハレインを支配下に置いた。同じ様にディルイーヤおよび涸れ谷ハニーファを含む下ナジュドから多くの定住民がバスラ南西でアラビア湾の頭部のズバイル(イラクのバスラ州)に移動した。疑いも無くそこに引きつけられたのは一部には交易の可能性にあった。特に1637/8年にナジュドを襲った干魃の後はナジュドの住人が大規模に移動し、ズバイルは急速にナジュド人の支配する隊商交易の重要な町となった。

7.1.6 ディルイーヤとウヤイナ

 ムラダ一門の分裂は17世紀中頃に首領を争う競合同士としてムクリン家とワトバーン家と云う二つの主要なグループがあらわれるまで続いた。この競合関係は町の配置を反映していた。ナジュドにおいては例えばディルイーヤ自身とガースィバの様に一つの町が涸れ谷のそれぞれの岸に二つの地区として分かれている事が大変多かった。ガースィバは1446年に創設されたムラダ一門の元々の集落の一つであり、この町の最も古い地区と考えられて居た。

 18世紀初めまではディルイーヤの為政者はワトバーン家の出であった。1720年の少し前からムクリン家の競合分家のサウード・イブン・ムハンマドが首領の役を引き受け、首領を務める間にサウード家の名祖(なおや)となる創始者になった。サウード・イブン・ムハンマドは1725年まで支配を行い、その支配はワトバーン家の一員に引き継がれた。この為政者は翌年のウヤイナに対する遠征の失敗の中で殺された。その後にムクリン家のサウードの息子のムハンマドが首領の地位を奪い、ワトバーン家を町から追放した。ワトバーン家はズバイル(現在のイラクのバスラ州の町)へ赴き、そこで親族と一緒になり、ついには為政者家族と成った。

 ルアサーウ(為政者)の間の闘争にもかかわらず、ディルイーヤはこの時代を通じて生長し、繁栄続けた。ディルイーヤおよびドゥルマーは両方とも農業生産とその廉価さで注目され、ディルイーヤは涸れ谷ハニーファの集落の中でウヤイナに次ぐ第二の集落と成っていた。

 17世紀の中頃までに涸れ谷ハニーファの北の端にあるウヤイナはその勢力が更に北方のサーディクまで広がり、南ナジュドで一番領土の拡張した町と成って来た。フライマラーとの反目でディルイーヤと同盟したが、1680年代にその関心を南方へ転じ南の隣人の領域を侵略した。その後はディルイーヤ、フライマラーおよびハルジュはウヤイナに対抗する共同戦線を張った。しかしながらウヤイナは下ナジュドで最強の町として残った。末期にはハサーの為政者であるバヌー・ハーリド族(カフラーン・カフターニ部族タイイ族)と同盟し、バヌー・ハーリド族は18世紀初期にウヤイナのディルイーヤおよびハルジュへの攻撃の援軍にやって来た。

 1660年代にはウヤイナはすでにハサー海岸から反物を輸入する大きな商業センターであった。18世紀の初めまでにその建物や農業開発は、半島中央部の驚異であった。しかしながら1725/6年にウヤイナは伝染病に見舞われた。この伝染病は全ナジュドで当時は最も敬意を払われて居たアブドゥッラー・イブン・ムハンマドを含む多くの人々の命を奪った。それでもディルイーヤの人々によるこの町を強奪しようと云う企てを防ぎ、この町は次第のその信望を取り戻した。この頃までにシャイフ・ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブは改革運動を始め、それが再びナジュドがイスラーム初期から築いて来た最も強い宗教的権威に成って来た。

7.1.7 ムクリンからリヤードへの移行

 リヤード集落地区の主要な町としてのリヤードの前身はムクリンであった。ナジュドのイスラーム初期のウラマー 15人の内の2人がこの時代にここに住んだ事が記録に残って居り、ムクリンは16世紀までに確かに既に或る程度の重要さを担っていた。その隣町のミアカルとその他の村々と共にムクリンはこの沈泥平地の地域で農園および集落(昔はハジュルとして知られていた)を途切れなく継続させてきた。

 ミアカル(以前のハジュル中心でムクリンの隣町)が1578年のマッカのシャリーフの遠征で生き残れなかった一方で、17世紀にはムクリンがその重要性が増したことを示唆する様に資料の中に頻繁に記述されている。ここには一般に有る様に支配をめぐっての為政者一門の競合関係があった。17世紀末までは為政者家族はハニーファ一門出身の数少ない生き残りの一つと言われたアバー・ザルア家であった。

 17世紀中にムクリン周辺の農園と集落の地域は、リヤードの発祥として参照される様になり始めた。リヤード(単数はラウダ)は単に沈泥平地、窪地そして拡張され果樹園を意味したのでこの町の周囲の地域は非常に長い間おそらくこの名で呼ばれて来た。ムクリンはディルイーヤの近くの町であり、この当時は粘土で出来700軒余りの家があった。リヤード地域は両方の町と幾つかの地区に分かれ、その中にマンフーハやミアカルも含まれていた。1688年に「アリード地域のリヤード地区、特にムクリンが致命的な疫病に襲われた」との記録があり、当時のムクリンはリヤードと呼ばれる地域の中の町であったのが分かる。

7.1.8 ディハーム・イブン・ダウワースのリヤード支配

 1726年までにアバー・ザルア家に支配された町がリヤードと呼ばれる様に成り、マンフーハの近くの古代からの町の為政者家族でバヌー ・ハニーファ一門の生き残りの一つと考えられているシャアラーン家の一員のディハーム・イブン・ダウワースがリヤードの為政者と成った。ディハーム・イブン・ダウワースの父イブン・アブドゥッラーは1682年までマンフーハを支配して居たが、1726年に没するとその後継者をめぐってルアサーウ(為政者)の間で典型的な争いが続いた。遂に従兄弟がダウワースの息子達をマンフーハから追放して後継者と成り、首領の地位を奪い取った。前述の様にディハームとその兄弟達は、アバー・ザルア家のザイド・イブン・ムーサーに支配されていたリヤードに逃れた。

 1733年にディハームの姉妹の一人を母とする後継者と成る子供を残してザイドは殺された。クマイイスと云う名のザイドの奴隷が一時的に為政者と成ったが3、4年後に殺されるのでは無いかと云う恐怖からリヤードからマンフーハに逃れた。この時点でディハーム・イブン・ダウワースは自分の姉妹の子供を擁護すると装ってリヤードの支配権を乗っ取った。

 ディハーム・イブン・ダウワース支配の殆ど全期間にわたってディハーム・イブン・ダウワースとその家来達は、隣の勢力を増しつつあるディルイーヤに激しい抵抗を示した。例えばディルイーヤ、ドゥルマー、ウヤイナおよびフライマラーの連合軍は、1748年にリヤードを攻撃した。一部勝利したもののムスリムが破れ、25名の戦士が殺された。何といってもナジュドの町では当たり前であった自分の足元の隣人との戦争が同居していたにもかかわらずディハーム・イブン・ダウワース支配下のリヤードは競合相手のマンフーハを追い越してハサーからの交易を引きつけ繁栄し、重要な中心に成って来た。ディハーム・イブン・ダウワースの強固な指導の下にリヤードは始めてその名声を得たが、ディハーム・イブン・ダウワースが1773年に没すると、リヤードはディルイーヤに降伏した。

 その後の1820年にエジプト占領軍がリヤードを守備隊の町として選び、1824年にトゥルキー・イブン・アブドゥッラー・サウードが第ニ次サウジ公国の首都とするまでの間、リヤードはその存在が曖昧に成ってしまった。

7.1.9 シャイフ・ムハンマドの登場

 シャイフ・ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(1703 - 1792)は、1703年にウヤイナで生まれた。シャイフ・ムハンマドはワシュムのウシャイキルのタミーム族の出身であった。シャイフの祖父はウヤイナのカーディー(判事)およびムフティー(シャリーア法の解釈と適用に関してファトワー(勧告・布告・見解・裁断) を発行する資格を有する宗教指導者(Mufti)であり、ウラマー の中でも上位に属する)であった。その父もまたその時代の最も著名なウラマー(実質的な聖職者)であり、1713年から1726-7年までウヤイナのカーディーを勤めた。父はその為政者と意見が合わずウヤイナを離れ、フライマラーに移ってやはりそのカーディーとなった。

 シャイフ・ムハンマドは1723年にナジュドを離れ、更に勉学する為にヒジャーズとバスラを訪れた。シャイフ・ムハンマドはそれまでの多くのウラマーを引きつけたハンバリー学(スンナ派の四大法学派の一つ)の中心であるダマスカスでも勉学しようと考えていた。しかしながらその過激な思想とその影響力が増して来た事でバスラから放逐された。無一文でズバイルを通り、ハサーまで旅をし、そこで更に自分の勉学を続けた。そこからフライマラーに居る父の下に戻り父が没する1740年までそこにとどまった。

 それから自分の思想を熱心にフライマラーで普及させようとしていたが、ウラマーから強く反対された。シャイフ・ムハンマドの教えに対する反対の首謀者は、リヤードのカーディー・イブン・スハイムであった。シャイフ・ムハンマドはウヤイナの為政者ウスマーン・イブン・ハマド・ムアンマルの保護を求める事にした。シャイフ・ムハンマドは歓迎され、為政者は新しい運動に強い支持を与えた。新しい運動は直ぐにウヤイナを崇拝の正しい実践と順番をもって清めた。しかしながらシャイフ・ムハンマド活動のニュースは、ハサーの為政者であるバヌー・ハーリド族 に伝わり、バヌー・ハーリド族 は「もしシャイフ・ムハンマドの新しい運動を中止しなければウヤイナに支払っている助成金を引き上げる」と脅かした。これはウヤイナに取って受け入れがたい犠牲であったのでシャイフ・ムハンマドは、そこを引き払う様に要求された。シャイフ・ムハンマドはそれに従い、ディルイーヤを次の目的地に選んだ。

 ディルイーヤでの新しい運動の結果は、シャイフ・ムハンマドとディルイーヤの為政者ムハンマド・イブン・サウード(1687 - 1765)との間の政教契約であった。シャイフ・ムハンマドが支持と助言を保証する代わりに、為政者はシャイフ・ムハンマドの教義を政治的に軍事的に支持する事に同意した。これは1745年の事であった。これが第一次サウジ公国の勢力台頭の始まりと同時にと為政者と為政者を特徴付ける宗教的指導者の間での協力の始まりであった。

 これは運動の創設者を鑑みてワッハービ(ワッハーブ派)と呼ばれているが、シャイフ・ムハンマドの信奉者達は自分達を単にムスリムと呼んで居り、自分達を周囲のイスラーム教世界の異端と自分達が考えている人々と遠ざかって居た。シャイフ・ムハンマドの信奉者達のもう一つの呼び名は、唯一神信仰者を意味するムワッヒドゥーンである。

7.2 近世の北部アラビア

 ジャウフ等の半島北部は、隊商路の目的地がアッバース朝(750 - 1258)になってからダマスカスに変り、衰退した。その上に東西交易の中心がアラビア湾から紅海に移り、さらに喜望峰まわりのポルトガルによる航路開拓で、「沙漠の半島」が主要交易ルートから外れた。これらのことで半島北部は発展から遠く取り残され、近代になって西洋の旅行者達が訪れるまでは歴史から忘れ去られていた。なお、タブークはこの時代にはオスマン帝国(1299 - 1923)のヒジャーズ州の一部と成っていた。

7.2.1 カルブ族の衰退とアムル族等タイイ諸族の覇権

 それでもこの地域でのベドウィン部族の移動や定住は、相当大規模に行われていた。10世紀にはナフード沙漠の覇権は、カルブ族(カフターニ部族ヒムヤル族クダーア族)からタイイ族(カフラーン・カフターニ部族)に渡った。タイイ族の支配する地域は広がり続け、ジャウフ(ジョウフ)も包含した。ジャウフはタイイ族支族のファドル族の流れであるアムル族に支配されており、ジャウフ・アムル族と呼ばれた。アムル族は13世紀以前にジャウフでの生活を手に入れた。アムル族の影響はカルブ族の衰退の後、半島北部で増大し、ファドル族やその親部族であるタイイ族がシリアから涸れ谷シルハーンとジャウフに広がる地域での覇権を握った。タイイ族の覇権は13世紀から15世紀まで続いた。その後もジャウフにおいてはアムル族の覇権が18世紀末まで残っていた。またカルブ族の支族であるシルハーン族が18世紀に涸れ谷シルハーンを支配していた。この谷はこの部族の名に因んで付けられたが、この部族は後に幾つかの分派を残して北方のジョルダン(ヨルダン)やパレスチナへと移住して行った。

7.2.2 ルワラ族の誕生

 同じ頃にカルブ族の衰退に伴い、アナザ族(ラビーア・アドナーン部族)やガタファーン族(ムダル・アドナーン部族カイス・アイラーン族)も涸れ谷シルハーンやジャウフのカルブ族の土地へと次第に侵入して来た。一旦、そこに落ち着くと、ガタファーン族の幾つかの支族とアドナーン族系の他の部族は、アナザ族と入り混じり始めた。アナザ族はタイイ族の分派やカルブ族の幾つかの分派とも混じり合い結合し始めた。このようにして最終的にはアドナーン族分派が優位を占めたけれどもこれら三つの部族の結合で、カフターン部族とアドナーン部族の両方の分派から新しい部族が生まれる結果と成った。この新しい部族がアナザ支族に分類されるルワラ族である。第一次サウジ公国が1818年に滅んだ後、ルワラ族はこの地域で増加して重要な存在に成り始めた。但し、イスラームを取り込んだ後の時代に、「沙漠の半島」の住人が一般的にそうであるようにワッハーブ派の征服者の剣が彼等のイスラームを復活させるまで半異教信仰や精霊又は自らが称した地方的なドジャンの崇拝に逆戻りしていた。

7.3 東アラビア(ジャブリード朝、ポルトガルとオスマン帝国)

7.3.1 部族王朝ジャブリード

 部族王朝ジャブリード(1440 - 1524)はアーミル・イブン・サウサア族(ムダル・アドナーン部族カイス・アイラーン族ハワージン族の一支族)に属し、ハサー・オアシス周辺の沙漠の出身である。ハサーの町を先ず獲得し、そこを統治の中心にしてそれからその支配を海岸線に拡張し始めた。ただ支配するだけとの評判とイスラーム政権の基本となる意見を助言するウラマーに対するその敬虔と配慮での名声を持ってジャブリードは急速に沙漠部族である事を超越して定住民の統治家族(アミール)に成った。ジャブリードの勢力はバハレイン島からオマーンまで、そして内陸へは南部ナジュドのハルジュまで広がった。

 ジャブリード朝の最初で一番著名な支配者アジュワード・イブン・ ザミール・ジャブリーは、「沙漠の半島」を横断して大規模な巡礼団を送った。最大規模は1507年で頑強な3万余人である。ホフーフ(フフーフ)で使われている今もなお残り使われている一番古い建物は、ジャブリー 時代の物であり、カスル・イブラーヒームに近いジャブリー・モスクである。強い集権支配、半島東部の良好な環境条件およびアラビア湾交易の持続した増加が結びつき独立したハサーに繁栄をもたらした。

7.3.2 ポルトガルのインド洋交易支配とアラビア湾侵攻

 1498年に喜望峰回りの航路を開いたポルトガルは、軍事力で海軍帝国を創設し、インド洋交易のやり方を完全に改めようとしていた。その目的は印度および極東からヨーロッパへの豊かな交易をアラビア湾や紅海を経由するルートから喜望峰まわりのルートに変える事であった。ポルトガルは目覚ましく成功し、それまでこの交易を支配していた東地中海のベネチアやイスラームの国々は、この為に打撃を被った。16世紀にイラクがポルトガルに対抗する努力をするに連れて、ハサーは国際紛争の広い舞台に引き込まれて行った。

 ポルトガルは東アフリカ、半島南部および印度での根拠地を確立し、1515年にもホルムズも攻略している。続いてポルトガルはバハレインを占領し、1520年にカティーフを略奪し、ホルムズへの朝貢を拒否していたジャブリー支配者のムクリンを殺害した。ジャブリード朝は衰退し、1524年にバスラ支配者のムンタフィク族首長ラーシド・イブン・ムガーミスの餌食と成った。

7.3.3 ハサーをめぐる三竦みの国際紛争

 ハサーとバハレインは事実上、オスマン・トルコ(1299-1922)、イランのサファヴィー朝(1502-1736)およびポルトガルによる三竦みの国際紛争に巻き込まれた。新進勢力オスマン・トルコは自らの帝国をイラクに広げその商業権益をポルトガルから守ろうとして居たし、新たに出現したイランのサファヴィー朝はオスマン帝国の宗教的競争相手であり、ポルトガルはその商業目的の追求の為ならば度々残忍な襲撃も行って居た。

 1534年から1546年の間にオスマン帝国はバスラを占領し、バスラと紅海のスエズからポルトガルに対抗してアラビア湾を巡回する海上艦隊を組織した。1549年にオスマン帝国はハサーに移り、まずカティーフを占領して内陸に移動した。砦がウカイルとカティーフに交易を防御する為に建てられた。しかしながらオスマン帝国は以前のジャブリード領地であったバハレインからもホルムズからもさらにマスカットからもポルトガルを撃退出来なかった。

7.3.4 オスマン帝国のラハサー州創設

 オスマン帝国は1550年に自らがラハサーと呼ぶ新しい州を創設し、州都にホフーフを選んだ。カスル・イブラーヒームは兵舎と行政府として使われて居り、その中の偉大なイブラーヒーム・モスクはその時代の物である。スルターンの精鋭軍のイェニチェリ大隊(ジャニッサリー)がこの州に駐屯した。この大隊は800余名であるが地方の戦士300人を増員した。要塞の進歩の必要から火器も導入されていた。

 課税の為の基本として全土地登録制が組織され、関税歳入も系統化された。南のヤブリーンから北のクウェイトまで政令を行き渡らせるために遊牧民首長も報酬のある官吏として登録された。オスマン帝国方式のシャリーア法と法廷記録が導入された。オスマン帝国の公文書が官僚組織、軍隊、経済や裁判制度等のそれ以前の時代には明かされてなかったハサーの暮らしの詳細を明らかにした。

 16世紀の最後の年までにオスマン帝国はポルトガルからアラビア湾および紅海の交易支配をもぎ取るのは出来なかった。けれどもオスマン帝国はハサーの統合支配には成功した。オスマン帝国のホルムズ税関の歳入はポルトガル権益がアラビア湾交易を完全に妨げては無く、オスマン帝国もアラビア湾に向かう交易ルートからの利益を得て居た事を意味する。

7.3.5 インド交易でのポルトガル衰退と英蘭の台頭

 紀元1600年までにポルトガルの脅威は衰えつつあった。武力による交易の実施は「会社の時代」に道を譲った。英国西印度会社の様なイギリス、オランダおよびフランスの商人協会は威圧よりも協定によって土着の支配者との商売を模索した。1622年にイギリスとペルシアのサファヴィー朝 (1502-1736)は、ポルトガルをホルムズから駆逐した。ポルトガルはアラビア湾での交易は続けたけれども真珠と見事なアラビア馬をカティーフの首長から買い取って印度で売っていたとの記録があるだけの限られた範囲であった。1630年から1700年の間のアラビア湾交易ではオランダが圧倒していた。その後は英国西印度会社が覇権を確立した。

7.3.6 ラハサー州の崩壊

 オスマン帝国の勢いは衰退気味であり、1600年以降は主として資金不足のためにハサーに対する支配力は弱まり、地方支配者の再現への道を作ってしまった。1620年以後はサファヴィー朝(1502 - 1736)にバスラを攻略され、イスタンブールからこの州への直接的財政支援が絶たれてしまった。1680年にバヌー・ハーリド族のフマイド一門が要塞に居残っていたオスマン帝国州政府残党を放逐した。それまではオスマン帝国ラハサー州政府は切り詰めながらも行政を続けていた。

7.4 オスマン帝国支配下のジェッダ

7.4.1 オスマン帝国の紅海艦隊

 オスマン帝国の領土周辺での海上交通に対するポルトガルの妨害に怒ったスライマーン大帝(1494-1566)は、スライマーン・ハーディムに遠征を命じた。スライマーン大帝はスエズに装備の整った戦争用のガレー船(Galley)の艦隊を持っており、その指揮をスライマーン・ハーディムに任せていた。スライマーン・ハーディムはギリシャ人の宦官でサリーム一世の元奴隷であり、カイロ総督であった。1538年に「ポルトガル艦隊の大半がマラッカの救助活動に従事させられている」と云う好機を告げるニュースがもたらされた。スライマーン・ハーディム提督指揮下の紅海艦隊は、直ちにグジャラートに最も近いポルトガルの要塞であるディウ(ディーウ)を攻略する為に出航した。しかしながら2ヶ月に及ぶ包囲も砲撃もポルトガルの要塞司令官マスカレンハスを打ち負かすのに十分では無かった。勇敢な司令官であるマスカレンハスは、救助の艦隊が到着してトルコ海軍の旗艦があわてて紅海に引き返すまで持ちこたえたと云う。

7.4.2 アブー・ヌマイイ首長

 この時にはジェッダはバラカート二世(1497 - 1525)がスルターン・サリーム一世(1512 - 1520)の王宮に送ったその次男(前述)のアブー・ヌマイイ首長(1525 - 1583)によって治められていた。アブー・ヌマイイ首長の協力の見返りにもしジェッダの歳入が減じたならば、オスマン・トルコ政府から補助金を授与されるとの条項付きでオスマン・トルコ帝国はジェッダの歳入の半分を同首長に譲渡した。ポルトガル人達によって開かれた新しいインドへの航路およびポルトガルの港の指揮官の証明無しでの奇襲による艦船への組織的な略奪にもかかわらず紅海の交易は幸運で勇敢な船によって封鎖破りが成功して16世紀の間は続いた。これらの船は引き続きエジプトや地中海への商品を小舟に積み替える為にジェッダを訪れた。

 1560年にローマのバチカン(Vatican)へのポルトガル外交使節は、カイロに居たスパイの報告から大部分は胡椒である450万ポンドの香料が紅海を通ってアレクサンドリアに毎年搬送されていると述べていた。

7.4.3 東西交易への蘭英参入とジェッダの衰退

 しかしながら17世紀に入ると冒険好きなオランダ商人や英国商人が実践の分野に入り込み、価格競争をして最終的にはポルトガル人達の独占を打ち破った。香料やその他の商品はその原産地で直接積み込まれ、少し遠回りではあるが、喜望峰回りの航路でムスリムの支配を全く受けずに堂々とした東インド会社のインド貿易船で直接ヨーロッパ市場に運ばれた。

 その結果としてジェッダは衰退し、その港の交易量はほんの僅かにまで減少した。半島西部の重苦しいオスマン・トルコの支配は、時折、荒廃や残酷さが証明されているようにその窮境が倍加した。1631年にイエメンのオスマン・トルコ総督の軍隊がエジプトの向かう途中でメッカに立ち寄った。この総督はその破壊的で恐ろしい方法にもかかわらず、イエメン地方の有効な支配の拡大に失敗していた。メッカは略奪され、その住人はその兵士の理不尽な残虐さと暴行の被害を受けた。服従を拒否したジェッダは同じような酷い扱いをこうむり、財産の隠し場所を明かさなかった多くの商人が拷問を受けた。

7.4.4 オスマン・トルコ総督とシャリーフ支配

 オスマン帝国(1299 - 1923)の行政区画の下でヒジャーズ州は、現在のヨルダン南西部の町マアーン南部に至るダマスカス州の南境界から現在のライスの南に至るイエメン州の北境界まで広がった。ただし東の境界は不明確で変化する辺境であった。

 オスマン・トルコ人達は総督をメッカに置き、州総督をジェッダに置いた。しかしながら総督等の役目は主として関税を徴収する為の行政であり、ヒジャーズの支配はメッカのシャリーフ庁を通じて行った。シャリーフ族は断続的にトルコの弱体化した時期には時々として公然と遠く離れた大君主の悪口を言いながら自分達に利を得える事が出来た。

 水資源を殆どもっぱら水槽に溜めた雨水に頼っていたジェッダは、大総督カラ・ムスタファ・パシャ(1634 - 1683)の恩恵をこうむった。パシャは1676年から1683年まで赴任し、この市の東にある井戸からこの貴重な水を運ぶ送水管、新しいカン(隊商宿)、新しいハンマーム(公共浴場)およびモスク(回教寺院)を整備した。

7.5 イエメン州時代の南西アラビア

 ラッシー朝(893 - C. 1300)は1300年頃に滅亡したが、前述のザイド・イマーム政権としては存続した。ザイド派は三つの分派に分かれており、イエメンにおけるザイド・イマーム政権の樹立は第一分派のジャールード派が創建したがスンナ派のハナフィー学派およびシャフィイー学派の影響が大きくなり、実権はジャールード派から第二分派のスライマーニーヤ派(スライマーン派)へ移り、次に第三分派のタビリーヤ派(ブトリーヤ派又はサリーヒーヤ派)へと移行した。

 1516年にエジプトのマムルーク朝(1250 - 1517)はイエメンを属領化したが、翌1517年にはそのイエメン総督がオスマン・トルコ(1299-1922)に降服した。同年、オスマン・トルコはイエメンのほぼ全土を制圧してイエメン州を創設した。しかしながらイエメンのイマームで、カースィム大帝(1597 - 1620)とも呼ばれたマンスール・カースィム(1559 - 1620)は、オスマン・トルコの占領からイエメンを解放する闘争を開始した。マンスールは1630年には内陸部からオスマン・トルコ勢力を殆ど駆逐し、イエメンを解放してサヌア北西のハジュールでザイド・イマーム政権ザイド朝を開いた。ザイド朝はその後の栄枯盛衰を重ねたが、1962年まで存続した。1630年以降のオスマン・トルコは孤立した海岸部だけを19世紀まで支配したが、イエメン高地部の殆どはザイド・イマーム政権によって支配されていた。

 オスマン・トルコはイエメンのほぼ全土を制圧すると、かねてからナジュラーンを重要視していたのでナジュラーン地方の指導的部族ヤーム族と連盟を結んだ。しかしながら17世紀半ばにはザイド朝がオスマン・トルコの支配からイエメンを解放したのでヤーム族もその忠誠をイエメンのザイド朝イマームに切り替えた。それからの数百年間のオスマン・トルコの時代にはナジュラーンはイエメンとアシールの双方の統治者が論争した国境地帯となり、戦争が国中に広がった。しかしながら19世紀後半には再びオスマン・トルコに占領された。

8. サウジアラビアの発祥

8.1 第一次サウジ公国(1744 - 1818)

 1744年にシャイフ・ムハンマドとディルイーヤの為政者ムハンマド・イブン・サウードとの間で、「シャイフ・ムハンマドが支持と助言を保証する代わりに為政者はシャイフ・ムハンマドの教義を政治的に軍事的に支持する」との政教契約事に同意した。これが第一次サウジ公国の勢力台頭の始まりであった。

 建国者ムハンマド・イブン・サウード(1744 - 1765)の息子アブドゥルアズィーズ ・イブン・ムハンマド(1765 - 1803)は、1773年にナジュド全域を支配下に置き、1790年にはアラビア湾岸のハサー地方を征服した。しかしながら1803年にディルイーヤのモスクで暗殺された。アブドゥルアジーズの息子サウード(1803 - 1814)は、父のアブドゥルアジーズが暗殺された後に第三代首長となり、オマーン、イエメンの大部分およびメッカ、マディーナを征服し、領土をさらに拡大した。その後はシリア、イラク方面にも進撃した。

 サウード家の勢力をワッハーブ派と呼んでいたオスマン帝国(オスマン・トルコ)(1299 - 1923)は、1811年領地奪回の為にエジプト太守でエジプト総督ムハンマド・アリー(1805 - 1848)に新興勢力のワッハーブ派鎮圧を命じた。1811年から1818年まで続いたオスマン帝国エジプト総督軍と第一次サウジ公国の戦いは、「エジプト・ワッハーブ戦争」とも呼ばれる。数々の戦闘でサウード家は最新の軍事技術に大砲や近代的兵器を装備し、トルコ兵やアルバニア兵の増援を受けたエジプト総督軍から手酷い打撃を受けた。1814年にサウードが死亡するとサウード家からの離反、寝返りが相次いだ。ヒジャーズが奪回され、カスィームも落ち、ナジュドの各地もつぎつぎと征服された。

 アブドゥッラー・イブン・サウード(1814 - 1818)は、死亡した父サウードを引き継いで第四代イマームとなった。1816年にムハンマド・アリーはアブドゥッラー討伐の為に息子イブラーヒーム・パーシャー(1789 - 1848)率いるオスマン帝国エジプト総督軍一個師団を派遣した。イブラーヒーム・パーシャーは抵抗する村を略奪しながら次々とナジュドの村々を攻略して1817年初めにはディルイーヤを包囲した。1818年9月の血なまぐさい戦いの後にディルイーヤは陥落して徹底的に破壊された。多数の捕虜となったサウード一族は、エジプト経由でイスタンブールに送られた。アブドゥッラーはイスタンブールに着くと、直ぐにオスマン・トルコのスルターンの命令で首を刎ねられた。その頭部はボスポラス海峡に投げ込まれ、ここに第一次サウジ公国は滅亡した。

8.2 第二次サウジ公国(1824 - 1891)

 サウード家のトゥルキー・イブン・アブドゥッラー(1824 - 1834)が1824年にディルイーヤおよびリヤードをエジプト総督軍から奪回し、廃墟となったディルイーヤに代わってリヤードに第二次サウジ公国と呼ばれるワッハーブ派国家を再興した。1834年にトゥルキーが暗殺されると、息子のファイサル(1834 - 1838 & 1843 - 1865)が後を継いだ。ファイサルは再びナジュドに侵攻したエジプト総督軍に捕らえられ、エジプトに幽閉されてしまう。1843年にファイサルはエジプトを脱出してナジュドに戻り、首長に復帰した。

 ファイサルは1865年に死去するまでその座を守ったが、ファイサルの死後には首長の座を巡って息子アブドゥッラー(1865 - 1871 & 1871 - 1873)とサウード(1871)の間で兄弟同士の権力争いが始まった。同族争いは住民や部族を巻き込み、分裂や復讐が繰り返された。この隙に乗じて1871年にオスマン・トルコにハサー地方を奪われてしまった。一方でナジュドでも内紛が激しく安定しないサウード家の覇権は次第にハーイルのラシード家に移っていった。

 1890年頃までにはアブドッラフマーン・イブン・ファイサル(1875 - 1876 & 1889 - 1891)を除いてサウード家一族は殺されるか、リヤードから離脱してしまい、その領土もリヤード周辺に限られた。首長の地位も名目だけで、リヤードはラシード家の代官と守備隊の支配下に置かれていた。首長アブドッラフマーンはラシ-ド家から実権を奪還しようと、ラシード家の代官をリヤードから追い出し、カスィーム地方のウナイザとブライダの両町住民、ウタイバ族(オタイバ族)、アジュマーン族、ムタイル族等と同盟軍を編成してラシード家に反旗をひるがえした。これに対してラシード家側はシャンマル族を始めハルブ族、ムンタフィク族、ザフィール族等を集結させ、数週間の戦闘でサウード家同盟軍を打ち破り勝利した。こうして第二次サウジ公国は滅亡した。首長アブドッラフマーンは家族を伴って1891年にリヤードを脱出し、ラシード軍の追跡をのがれての逃亡生活が始まった。

8.3. ラシード家(シャンマル王国)

 ラシード家はシャンマル王国とも呼ばれ、「沙漠の半島」の歴史的な王朝である。ラシード家は北部ナジュドのハーイルを本拠とし、収入は巡礼路から得ていた。その家名はアブドゥッラー(現国王)の祖父で最初にハーイルの首長となったラシードの名に由来している。ラシード家には首長後継に対する決まりが無く、その問題をめぐって常に家族内の血なまぐさい内輪揉めが起こり、19世紀最後の数年でも6人ものラシード家首長が殺されている。

 20世紀に入っての最初の20年間、「沙漠の半島」はサウード家とその同盟による支配統一の為の長い戦いが続いた。家族内での内輪揉めにもかかわらずラシード家は統治を保ち、イブン・サウードに対して家族同士互いに協力して戦い、サウード家とその同盟以外の部族も糾合してナジュドではサウード家のもっとも恐るべき敵となった。またラシード家の首長(アミール)はオスマン帝国と緊密に協力していた。但しこの協力関係はオスマン帝国が名声を失うに連れて余り当てにはならなくなってきた。1921年にラシード家を討ち負かせたイブン・サウードは、強国イギリスの了解も得て、ハーイルを占領してサウード家の領地とした。

8.3.1 ハーイル首長政権の樹立

 シャンマル族の指導者は伝統的にアリー家、ラシード家およびサブハーン家の様なアブダフ支族ジャアファル一族から出ていた。1830年代にはハーイル支配はジャアファル一族(ジャファアル)のムハンマド・イブン・アリーが握っていた。アブドゥッラー・イブン・ラシード(1836 - 1848)は兄弟ウバイド(オバイド)と共にムハンマド・イブン・アリーに対する叛乱を起し、権力を掌握した。支配者としてアブドゥッラーはハーイルとその周辺地域に平和と安定をもたらした事で賞賛されている。この時にウバイドとの誓約でハーイルの首長(アミール)はアブドゥッラーの子孫が受け継ぐことになった。ハーイル首長政権はシャンマル王国と呼ばれる事もある。

8.3.2 バルザーン宮殿完成とラシード家の興隆

 アブドゥッラーの息子タラール・イブン・アブドゥッラー(1848 - 1868)は、都会への興味で知られている。その治世下でハーイルのバルザーン宮殿が完成した。タラールはイラクとの通常の交易関係を樹立し、ラシード家の影響力を広めた。ワッハーブ派専制が弱まっていたカスィーム住人達は、その目をタラールに向けた。タラールはこの地域からの多くの政治的亡命者達へ雅量のある不可侵の庇護を既に与えていた。こうしてカスィーム高地全体がシャンマル王国の一部となった。タラールはハーイルへの旅行者を含めて比較的外国人に寛大であった。全てのスンナ派に嫌われているシーア派に属する交易商人の多くは、ワッハーブ派には2倍嫌われていたが、タラールは宗教的な不一致を気にせずに交易を発展させた。オスマン帝国との同盟していたラシード家は、1860年代のサウード家の内紛を利用してサウード家の拠点リヤードを1865年に占領し、サウード家指導者に亡命を余儀なくさせた。

 ムハンマド・イブン・アブドゥッラー(1869 - 1897)は甥で首長(アミール)のバンダル・イブン・タラール(1869)を殺して新しい首長(アミール)であると宣言した。復讐を防ぐ為にムハンマドはタラールの息子達で、バンダルの兄弟とタラールの姉妹の子供でバンダルの従兄妹そしてその奴隷達と召使達全員を処刑した。この様な不吉な始まりにも拘らず、ムハンマドの治世はラシード朝がその歴史ではもっとも興隆した時期であった。ムハンマドの治世は安定と拡大と繁栄の時代となり、領土は北のジャウフとパルミラまで、西のタイマーとハイバルまで広がった。

 1891年にはムライダーの戦いでムハンマド治下のラシード朝は、第ニ次サウジ公国を破り、滅亡させた。このためアブドッラフマーン・イブン・ファイサル(1850 - 1928)はリヤードを離れ、10歳の息子イブン・サウードを含むサウード家の家族はクウェイトに亡命しなければならなかった。

8.3.3 イブン・サウードへの降服

 第三代首長ミトウブの息子アブドゥルアズィーズ ・イブン・ミトウブ(1897 - 1906)は、叔父の第五代首長(アミール)ムハンマドによって後継者とされた。しかしながらラシード家の治世はオスマン帝国から同盟国として保証されず、人望も失って弱体化して行った。

 1902年1月15日には亡命先から密かに戻った若いイブン・サウード率いる小部隊にリヤードを急襲され、奪回された。その後もイブン・サウードは徐々にラシード家領土を攻め取り、1903年までにはカスィーム以外のナジュド中央部大半を奪回した。1904年にはオスマン・トルコ正規軍がラシード家の援軍に派遣された。同年7月15日のブカイリーヤの戦いではイブン・サウードに重症を負わせたが、敗北してラシード軍はシャンマル山塊地域に撤退した。援軍のオスマン・トルコ軍はイエメンのイマーム・ヤフヤー(1869 - 1948)問題の発生で1905年に撤退した。ラシード軍がカスィームでの略奪行為を続けていたため、イブン・サウードは1906年に再度、出兵した。ブライダ西のラウダ・ムハンナーの戦いでアブドゥルアジーズ(1897 ? 1906)を銃撃で死亡させ、勝利すると、ラシード家の支配はシャンマル以北に限るとの和睦を取り交わした。

 サウード・イブン・アブドゥルアジーズ(1910 - 1920)は、10歳でラシード家首長(アミール)となったが、サウードが成人に達するまでサウードの母方親戚サブハーン家の親族が摂政として統治した。1920年にサウードは従兄妹で、第十二代首長(アミール)の兄弟の1人アブドゥッラー・イブン・タラールに暗殺された。その後を継いで第十一代首長となった第七代首長(アミール)の息子アブドゥッラー・イブン・ミトウブ(1920 - 1921)は、イブン・サウードの攻勢を受けて降伏した。また第二代首長(アミール)タラールのただ1人生き残った息子ナーイフの孫で、ラシード家最後の第十二代首長ムムハンマド・イブン・タラール(1921)もイブン・サウードに降伏した。こうしてイブン・サウードは1921年に強国イギリスの了解も得て、ハーイルを占領し、サウード家の領地とした。

8.4 ラハサー州から東部州へ

8.4.1 オスマン帝国州政府の放逐

 1680年、バニー・ハーリド 族のフマイド一門がオスマン帝国のラハサー州政府をイブラーヒーム城から放逐し、ハサーの地方的、伝統的な部族支配を回復した。バニー・ハーリド族は、ホフーフの少し外側のムバッラズにその統治の中心を置き、ムバッラズの大要塞もこの時代に建てられている。ハサー・オアシスは強力な地方勢力として残ったが、その権益は海岸と離れてしまった。

8.4.2 ウトゥーブ族の移住

 17世紀の間に南ナジュドから来たグループの一つであるウトゥーブ族が半島東部に移住し、バニー・ハーリド族に追従する関係を築いた。18世紀初めまでにウトゥーブ族はクウェイトに居住し、繁栄した海上交易に転換を始めた。1766年にウトゥーブ族はカタール海岸のズバーラに根拠を置き、1782年にバハレインの支配を手に入れた。今日のクウェイトおよびバハレインの支配者家族はこのウトゥーブ族の子孫である。

8.4.3 グライミールの戦い

 その間もハサー・オアシスは陸への志向が保たれて居た。ウヤイナで広まりつつあった宗教勢力の保護、改革運動とウヤイナに敵対するディルイーヤのサウード家の勃興を妨害する試み等、18世紀の半島中央部の出来事にバニー・ハーリド族は重要な役割を担った。改革運動はシャイフ・ムハンマドが主唱する浄化されたイスラームの形式であった。しかしながらバニー・ハーリド族はこの運動の軍事的進行の抑制に失敗し、1790年のカティーフ・オアシス南のグライミールでの第一次サウジ公国との戦いに敗北してしまった。その結果、半島東部は第一次サウジ公国に編入され、ホフーフの要塞は修理拡張された。

8.4.4 東部州への設立

 1818年に第一次サウジ公国を「エジプト・ワッハーブ戦争(1811 - 1818)」で滅亡させた後、エジプト総督軍司令官イブラーヒーム・パーシャー(1789 - 1848)は、ホフーフを支配した。しかしながら翌年にはジェッダ方面の西海岸へと撤退してしまった。その後はフマイド一門が勢力を取り戻したが、1830年にバヌー・ハーリド族が第ニ次サウジ公国(1824 - 1891)に敗退すると、ハサーは第ニ次サウジ公国に支配される事になった。1871年に再び、オスマン帝国が侵略し、その支配はイブン・サウードがハサーに東部州としてのサウジ統治を確立する1913年まで続いた。1913年にイブン・サウードはハサーのオスマン・トルコ守備隊を奇襲し、降服させ、ハサーまでその支配を広げた。

8.5 エジプト・ワッハーブ戦争からヒジャーズ王戴冠まで

8.5.1 ワッハーブ派へのヒジャーズの陥落(1804年)

 18世紀になってナジュドとの境界地帯のオスマン帝国領に挑戦するサウジ・ワッハーブ軍隊の脅威に対抗する手段としてトルコ人将校だけが指揮する守備隊がターイフに駐在した。しかしながら1802年にナジュドから進撃してきたサウード家と同盟したワッハーブ派の軍隊によってターイフは陥落させられた。

 ワッハーブ派の軍隊は続いてメッカとマディーナ方面に進撃し、1803年からジェッダを包囲した。1804年にメッカ太守シャリーフ・ガーリブは、ワッハーブ派にメッカを開城し、公式に「自分自身がワッハーブ派への改宗者であり、ワッハーブ派首長に臣従する」と宣言した。ワッハーブ派はうわべでもその教義に賛成を宣言したメッカには入らなかった。一方でオスマン・トルコ(1299 - 1923)はヒジャーズから退却しなければ成らならず、1811年までにその権威はヒジャーズから完全に失われてしまった。

8.5.2 エジプト総督軍のアラビア遠征の開始(1811年)

 ヒジャーズでのワッハーブ派への敗北は、2聖都(マッカとマディーナ)の保護者を任じていたオスマン帝国に大きな衝撃を与え、第三十代皇帝(1808 - 1839)マフムト二世(1785 - 1839)は、オスマン帝国エジプト総督であったムハンマド・アリー(1805 - 1848)にワッハーブ派排除を命じた。

 ムハンマド・アリーは同1811年に息子トゥースーン・パシャ(1794 - 1816)指揮の下にエジプト総督軍を派遣した。こうしてエジプト ワッハーブ戦争としても知られ、1811年から1818年まで続いたムハンマド・アリーのアラビア遠征が始まった。トゥースーン・パシャはマディーナの海港ヤンブーを攻略したが、マディーナへの侵攻の途中でサフラー谷とジュダイダ峠の間で戦闘に破れ、エジプト総督軍の多くが殉教した。

8.5.3 エジプト遠征軍によるヒジャーズ奪回

 ムハンマド・アリーは1812年にもっと大掛かりな部隊を編成した。優れた兵器や弾薬の威力で優勢なエジプト総督軍は、多くの村々を抵抗無しに攻略した。トゥースーン・ベイがこの年の9月にマディーナを奪回した。ムハンマド・アリーはさらに一師団をジェッダ経由でメッカに送り、1813年に無血開城させた。シャリーフ・ガーリブは太守ムハンマド・アリーの遠征が成功するのを察知すると、「自分自身はジェッダに入城して来たトルコの友人である」と公に宣言した

 同じく1813年に太守ムハンマド・アリーの義理の兄弟ムスタファ・ベイが指揮する分遣隊によってターイフが奪回された。ターイフ僭主であったウスマーン・ムダイキーとその軍隊が恐怖の為に逃げ出していたので、全く抵抗に会わなかった。マフムト二世は勝利を喜ぶと共にムハンマド・アリーにワッハーブ派を監視し、制圧する様に命じた。ムハンマド・アリーは熱狂的なワッハーブ派で僭主のウスマーン・ムダイキーともう一人の熱狂的なワッハーブ派の狼藉者ムバラク・イブン・マグヤンを捕らえ、1814年にイスタンブールへ護送した。両人は通りを引き回され、処刑された。

 ジェッダに入城した後にムハンマド・アリーとシャリーフ・ガーリブ(1788 - 1803 & 1813 - 1827)の間で分けられるべき関税を勢力の優位性からムハンマド・アリーが全てを取った為に両者の間で争いが起きた。ムハンマド・アリーはシャリーフ・ガーリブを囚人としてイスタンブールへ送り、そしてこの事件以降、この町は全て太守ムハンマド・アリーの裁量下となり、新しく任命されたシャリーフのヤフヤー・イブン・マスード・エフェンディー(ヤフヤー・イブン・スルー)(1803 - 1813)は、トゥースーン・ベイから給料を貰う使用人の1人でしかなかった。ムハンマド・アリーはその後、増強された一個師団も率いてイエメンまでの地域を一掃し、1815年に息子ハサン・パシャをメッカ知事に任命した後、エジプトへ戻った。1818年9月の血なまぐさい戦いの後にディルイーヤが陥落し、第一次サウジ公国は滅び、1811年に始まったエジプト・ワッハーブ戦争が終焉した。

8.5.4 アラブの叛乱(1916 - 1918)

 1916年6月2日、第一世界大戦(1914 - 1918)でオスマン・トルコが戦っている隙にアラブ諸部族はハーシム家に主動され、メッカ等の中東各地でオスマン帝国に対する解放運動の為に一斉蜂起した。この蜂起は、「アラブの叛乱」と呼ばれ、これに先立ちメッカ太守シャリーフ・フサイン(フサイン・イブン・アリー)(1908 - 1916)は、1915年にイギリスのカイロ駐在の高等弁務官ヘンリー・マクマホンと書簡を交換し、オスマン帝国に反旗を翻す時に支援するという協定「フサイン・マクマホン協定」を結んでいた。

 メッカ市の陥落後、長男アブドゥッラー(1882 - 1951)は1916年7月には70名の戦士と共にターイフに派遣された。アブドゥッラーは秘密裏にベトウィン山岳部族から5,000名の不正規兵を採用した。ターイフ駐屯地はイギリスの援助等で増強された銃砲とアブドゥッラーの心理的な作戦で無条件降伏し、ターイフの城にシャリーフ旗が掲げられた。この様にシャリーフ・フサインの4人の息子達はそれぞれに活躍し、一斉蜂起を勝利に導いた。しかしながらイラク、シリアおよび 「沙漠の半島」を含めるシャリーフ・フサインの大アラブ王国構想とは異なり、すでにイギリスとフランスがサイクス・ピコ協定によってイラクとシリアの分割を決めていた。このため創設されたヒジャーズ王国の領土は、「沙漠の半島」のみの領土を限られた。

8.5.5 カリフ宣言に対するイブン・サウードの断固たる反発

 1917年にシャリーフ・フサインはシリアのアレッポからイエメンのアデンまでに至るヒジャーズ王国を宣言し、自らがヒジャーズ王についた。シャリーフ・フサインがヒジャーズ王としてメッカを支配することにナジュドのスルターンになっていたイブン・サウードは、激しく反対して争った。この争いは1919年に一時的に和睦していた。

 オスマン帝国カリフ・アブデュルメジト2世(1868 - 1944)が1924年に廃位されると、シャリーフ・フサインは自らがイスラーム世界における最高権威であるカリフ即位を宣言した。これに対してワッハーブ派イマームとしてのイブン・サウードは、即座に断固反対した。これには「聖地保護と云う宗教的な面とメッカ巡礼への課税と云う実利的な背景もあった」と云われている。

 イブン・サウードは1924年6月5日にサウード一族とウラマー(聖職者)、シャイフ(長老や首長)、イフワーン軍首領をリヤードで召集し、シャリーフ・フサインへの対応を諮った。この時までにシャリーフ・フサインとの争いを武力解決する為の戦闘準備は、既に終わっていた。武力誇示によるシャリーフ・フサインのヒジャーズ王国からの妥協と大英帝国の態度を見極める為に3,000名からなる遠征部隊をターイフに先発させる事が決められた。

8.5.6 ヒジャーズ王国の降服とイブン・サウードの王位戴冠

 ヒジャーズ王カリフ宣言に断固反対のイブン・サウードの意を受けたスルターン・イブン・ビジャードとハーリド・イブン・ルアイとの指揮下のイフワーン部隊(サウジ軍)は、1924年9月までにターイフ攻撃の準備を整えていた。

 ターイフは断続的にイフワーン襲撃されていたので、城壁の再築と城壁外の砦の建設・補強が行われ、ヒジャーズ王の息子アリーによって防衛されていた。イフワーン部隊の襲撃への恐怖でアリーは狼狽し、戦わずしてその軍隊と多くの市民と共に逃げ出した。イフワーンが無血入城したが、その際に300名の市民がイフワーンによって殺害された。この事は西洋に報道され、ターイフ事件として知られている。

 イフワーンは、1924年10月13日にメッカに入城し、次いでジェダに迫った。シャリーフ・フサインの息子アリーは、サウジ軍への抵抗を試みたが、虚しい戦闘努力でしかなかった。サウジ軍は涸れ谷ファーティマとその奥地の井戸を支配下に置き、水源を絶ってジェッタを包囲した。1925年12月23日にヒジャーズ軍は降伏し、シャリーフ・フサインはキプロスへ逃れた。こうしてヒジャーズ王国はわずか9年で滅びてしまった。ジェッダ陥落の後にマディーナやヤンブー等のヒジャーズの他の町もイブン・サウードに降服した。ヒジャーズの住民の推挙により、イブン・サウードは1926年1月8日にはヒジャーズの王に戴冠し、ナジュドと属領のスルターンとの二重王国を支配する事となった。

8.6 南西アラビアの一部サウジ領編入

 オスマン帝国(1299 - 1923)は1517年にマムルーク朝(1250 - 1517)を征服した後は、マムルーク朝のアシール支配も継承した。オスマン帝国の統治下では信仰心の無さとイスラーム法(シャリーア法)の無視が一般化したために力と権威を争う多くの競合する支配者が跋扈し、政治的分裂、混乱そして無秩序が広がり、部族は互いに敵対し、争いが絶えなかった。19世紀のアシールやティハーマはこの様な多くの首長や君主に分断支配されていた。アシールおよびティハーマのサウジ領編入に関してイエメンとサウジアラビア王国間で1934年条約が公式に締結され、アシールおよびティハーマの国境紛争は一応終了した。しかしながら実際には、その後も国境問題は継続し、解決したのは21世紀に入ったごく最近の事である。

8.6.1 アシール

 アシールは1800年に第一次サウジ公国(1744 - 1818)の支配に入り、サウード系列のマトハミー家出身の首長によって1817年まで統治されていた。その後、エジプト総督軍を率いたイブン・アウンがアシールを制圧してムハンマド・アリーとマッカ首長の共同統治下に入れた。1822年(ヒジュラ暦1238年)にアシールの首長の一人であるサイード・イブン・ムサッラトが涸れ谷タバブにあったイブン・アウンの砦まで行進し、その支配者を追放して自らの政府の独立を宣言した。その結果、バニー・ムガイド族が一世紀近くアシールを統治し、北はバスルハマル族の区域から南はズバイド、西はカハマ海岸、東はタスリースまでこの首長国の領域を広げた。

 アシールは1834年にムハンマド・アリー(1805 - 1848)のエジプト遠征軍の侵入を受け、名目上はオスマン帝国の宗主権の下に置かれた。オスマン帝国の支配は第一次世界大戦でオスマン帝国が解体するまで続いた。イスラームを支持して献身した事で知られるアリー・イブン・ムジャースィル・ムガイディーは、この部族の一番著名な人物の一人である。その死後もバニー・ムガイド族出身の他の首長達がオスマン帝国の名でアシールを統治した。アシールは1917年までオスマン帝国の県であった。それからアブハ首長のイブン・アイドよって支配された。1919年にイブン・サウード王はアシールに軍隊を送って制圧した。しかしイブン・アイドが再び叛乱したので、ファイサル王子がアブハへと軍を率いて侵攻し、陥落させた。その時以降、アシールはサウジ領の一部と成った。

8.6.2 ナジュラーン

 オスマン帝国が崩壊した後の1918年にナジュラーンの人々は、イブン・サウードにナジュラーンをサウジアラビア領とするように依頼した。1934年にイブン・サウードの軍隊がこの町の支配を奪い、それに続いて、1934年のサウジ - イエメン戦争を終結させた平和条約の一部としてイエメンのイマームがナジュラーンの支配権主張を放棄したので、ナジュラーンはサウジアラビア領として確定した。ナジュラーンを支配する首長の為にトゥルキー・マーディー宮殿は1941年(ヒジリ歴1361年)に建設が開始された。首長宮殿とも呼ばれる宮殿は、この地方の首長の本拠であり、裁判所や無線所が設けられた。トゥルキー・マーディー宮殿は古代からの町アバー・サウードにあり、現在も歴史的な博物館として活用されている。

8.6.3 ビーシャ

 サーリム・イブン・シュクバーンがビーシャを支配していた。シュクバーンはタバブのムタミと共にヒジュラ暦1215年(1800 /1801)にディルイーヤを訪問してイスラームへの復帰の呼びかけへの支持を宣言し、それに抵抗する者への戦いの意志を表明した。二人はアシールに戻り、この呼びかけの普及に力を注ぎ、この首長国の勢力を広げた。

8.6.4 ティハーマ

 イブン・ムハンマドがティハーマにおけるディルイーヤの権威とサウード家への臣従から独立して対抗するとイブン・サウードのアシール首長イブン・アミールは、イブン・ムハンマドを服従させるためにヒジュラ暦1225年(1810 /1811)に涸れ谷ビーシャで戦い、勝利した。しかしながらこの戦いでイブン・アミール自身が殺された。この機に乗じてイブン・ウマルはヒジュラ暦1230年(1814 /1815)以降、南のズバイドから北のサラート山脈(サラワート山脈)までをティハーマの王として統治した。1834年にムハンマド・アリーのエジプト総督軍の侵入を受け、第一次世界大戦でオスマン帝国がなくなるまで、名目上、ティハーマはその宗主権の下に置かれた。

8.6.5 ジーザーン

 第一次世界大戦頃からジーザーン近くのサブヤーに行政府を構えたムハンマド・イドリーシー(1906 - 1920)がヒジャーズのメッカ太守のシャリーフ・フサイン(1908 - 1916)同様にオスマン・トルコに逆らい「イギリス側である」と宣言した。ムハンマド・イドリーシーはオスマン・トルコに対して新たな戦役を始め、ミフラーフ・スライマーニー地方のジーザーンの東にあるアブー・アリーシュ市で戦い、オスマン・トルコ勢を敗北させた。その後もイドリーシーは勢力を広げ、1911年(ヒジュラ暦1329年)にオスマン帝国からの独立を宣言した。ムハンマド・イドリーシーの死後はその親族同士の争いとなり、イエメンと新たに進出したイブン・サウードはこの衝突の各々の側に味方していたが、1920年にアシールおよび遠くは現在のイエメン領フダイダまでのティハーマをイドリーシーの名目支配の儘で保護領としてアブハを占領した。ムハンマド・イドリーシーの息子アリーは、イブン・サウード王の総督と交渉した。その結果、1930年にティハーマはサウジ領の一部と成った。

8.6.6 イエメン

 イギリスはイエメン南岸の良港アデンを占領し、1839年にはインド交易の為の貿易船を海賊から保護する為の海軍基地を置き、1937年にイギリスは「アデン植民地」としてイギリス領インド帝国から切り離し、港湾として機能を充実させた。一方でオスマン・トルコは1849年にイエメンを占領したものの、ティハーマを占領しただけでイエメンを完全にコントロールすることは出来なかった。1904年にイマーム・ヤフヤー(1869 - 1948)が山岳地帯の北イエメンでのザイド・イマーム政権のイマームとなるとオスマン・トルコは、イマーム・ヤフヤーに圧力をかけ、1911年に名目上、オスマン・トルコの従属国とした。

 1918年に第一次世界大戦の終戦でオスマン・トルコが北イエメンの支配を喪失すると、イマーム・ヤフヤーは1926年イタリアとのサヌア条約のよって独立国となり、イマーム・ヤフヤーは北イエメンのイエメン・ムタワキエ王国(1918 - 1962)の初代国王となった。1934年のサウード家との戦いでは完敗したが、イブン・サウード王は領土問題に触れることなく平和条約を提案した。1946年にイマーム・ヤフヤーに反対する勢力が組織され、イマーム・ヤフヤーは1948年に射殺された。イエメン・ムタワキエ王位はその息子イマーム・アハマドが継承した。

87サウジアラビアの建国

 イブン・サウードは1913年にハサーまで支配を広げ、その5月には「ナジュドとハサーのスルターン」を宣言した。1921年11月には宿敵ラシード族の本拠であるハーイルを攻略し、シャンマル山塊地域を支配に入れ、「ナジュドと属領のスルターン」を名乗った。そして1922年にはジャウフとハイバルおよびタイマーを攻略し、涸れ谷シルハーンおよび偉大なナフード沙漠を獲得し、ナジュド沙漠全体の支配を確立した。また1926年1月8日にヒジャーズの王を戴冠した。1927年1月29日に「ナジュドと属領のスルターン」の称号は、ナジュド王と改め、1927年5月20日にはイブン・サウードとイギリスとの間で調印されたジェッダ条約で、イブン・サウードは「ナジュドおよびヒジャーズ二重王国」の国王として認められた。

 イブン・サウードは自らの「沙漠の半島」統一(1912 - 1930)にムスリムの同胞組織であるイフワーン運動を組織替えし、主力部隊として働たらかせてきた。しかしながら1920年代後期に多くのイフワーンが利害の食い違いから公然と造反した。1930年代初めにイブン・サウードはイフワーン運動を弾圧、服従、解散させ、サウジアラビア軍に吸収した。反対勢力全てを鎮圧、服従させたイブン・サウードは1932年9月23日に自分の統一した領土(ナジュドおよびヒジャーズ二重王国)をサウード家のアラビアと名付け、自らがその初代の国王に成る事を宣言し、ここにサウジアラビア王国が建国された。

後書き

 ここではシュワイヒティーヤ遺跡に始まる「沙漠の半島」での人の営みの歴史をサウジアラビア王国建国までまとめたが、中世や近世に各地方で様々な時代に勃興し消えていった公国についてはあまり資料を集められなかったので別の機会に触れてみたい。また部族に言及すると複雑なのでここではあまり触れていないが別途ご紹介している「沙漠の半島のアラブ族」を是非ご参照戴きたい。

 

 

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