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2013月7月19日
 サウジアラビア紹介シリーズ    (サウジアラビア王国全般)

    変化に富む大地   沙漠の半島                             著: 高橋俊二
 Saudi Arabia General



 

 

前書き

 

水が乏しい沙漠の半島では地表を覆う植生(グランドカバー)が殆ど無いので、その生い立ちを示す地質が地表にあらわれているので簡単に目で見て、手で触れることができる。沙漠をトレックしながらその変化する地質を対比し、太古から現在に至るその成り立ちに思いを馳せながら太古の水の浸食とこの数千年の風食によって作られた地形の形成過程を考えると、単調に思えた沙漠が興奮する程の空想科学の世界となる。

 

沙漠の半島では岩の上に礫が乗っている光景をしばしば目にする。最初はこれらの礫は何処から流されてきたのかと河川の跡を探していたが、ある風の強い日に「岩が風食され、硬い部分がそこに残ったのだ」と仮説をしてみた。するとそれが驚く程に当てはまるのを観察した。これなどは小さな例であるが、大きな例では砂の移動がある。小さな砂粒の集まりが風に運ばれる。風も殆ど無くてもその砂の地面に座ると砂が音も立てずにさらさらと静寂の中で地形も変えずにひたすら移動している。そして数百メートルの崖を這い登り、北のナフード沙漠から南のルブア・ハーリー沙漠まで1,000キロメートルに及ぶ砂の河(ダフナー沙漠)が果てしなく流れている。

 

その様に普段は関心が無くても地表の観察から沙漠の半島の生い立ちを考えるのが沙漠トレックでは大きな浪漫を秘めた楽しみである。沙漠半島の紹介はこの様な変化に富む大地から始めたい。

 

目次

 

1 沙漠の半島の地質的生い立ち

1.1 アラビア楯状地の形成

1.2 堆積層の形成

1.3 大陸の衝突と造山運動

1.4 紅海の形成

1.5 熔岩地帯(ハッラ)の形成

1.6 大量の降雨

1.7 氷河期終了と砂丘地帯形成

2 半島の地形

2.1花崗岩地帯

2.2熔岩地帯

2.3砂岩地帯

2.4石灰岩地帯

2.5砂丘地帯

2.5.1 横断型砂丘

2.5.2 縦型砂丘

2.5.3 砂山砂丘

2.5.4 ウルーク型砂丘

2.6 涸れ谷

2.6.1 涸れ谷の終焉

2.6.2 涸れ谷の構造

2.6.3 アラビア湾に注ぐ涸れ谷

2.6.4紅海側に注ぐ涸れ谷

2.6.5 内陸の涸れ谷

 

1. 沙漠の半島の地質的生い立ち

 

1.1 アラビア楯状地の形成

 

10億年前に沙漠の半島がアフリカ北東に並ぶ火山性の群島として初めて水面に顔を現すまでは、アフリカの北東には数百キロメートルにわたって陸地が無かった。これらの群島は、小さな2つのプレートが衝突して出来た火山性のアシール島弧であった。9億年前頃までには、最初に現れた陸地の塊としてアシール島弧が合成された均一の陸地と成った。その頃、さらに北では、ヒジャーズ島弧を形成した第二次衝突が始まった。現在のビーシャやターイフがある場所まで部分的には連なって居た最初の火山列は、侵食によって、その山頂を削られ、すり減らされた。侵食によって出来た瓦礫は、雨水で流され火山列の間を埋めた。その堆積した瓦礫が時間と共に一体となり、幾種類かの堆積岩からなる堆積盆を形成した。岩の種類も交互に層を重ね、深い層のものは上部の地層の圧力で潰され、変成された。火山活動が次第に収まるに連れて、地中の深い場所で冷えて固まった深成岩は、花崗岩、閃緑岩、その他色々の岩石となり、地域的には地上に露出している。比較的新しい堆積岩を突き抜けた古い火成岩の露頭もみられるが、最終的には概ね平らな景観を作り出した。

 

同じような過程が各火山列に起きて来た。ヒジャーズ火山列が北へ、東へと連続して小さなプレートと衝突し、同じ様に地層、地形の進化を繰り返した。その結果として、その都度、種々雑多な異なる岩石が雑然と混入したメランジュと呼ばれる地層(岩体)を形成している。小さなプレートが次々と付着し、一つのプレートを形成する過程は、約64千年前で終了した。

 

今でもこの小さなプレートは、この新しいプレートと構造的に単一体ではあるが、地殻変動が収まるまでその地殻変動の影響を受けていた。非常に大きなマグマがその地表の下に入り込み、ゆっくりと冷やされ花崗岩の塊なるに連れて引っ張りと圧縮の力が新しい大地に割れ目や断層をたくさん作り、多量の火山性熔岩が地表に流れ出し、最初の山脈が侵食され破砕されて出来た堆積岩と混じりあった。55千年前までに第一過程でのアラビアプレートの形成は終わった。その後は、6千万年前に紅海を作り出した地殻変動が始まるまで、沙漠の半島での地殻変動は殆ど無かった。この小さなプレートが幾つも付着して出来た新しいプレートを今日ではアラビア楯状地と呼んでいる。その基盤となる岩石は、西半分では地上に露出している。中央部の殆どと東部の全て地域では楯状地の基盤岩は堆積岩起源の若い岩石におおわれて目視はできないけれども、地下深く埋まっている。

 

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1.2 堆積層の形成

 

この時代のアラビア楯状地は、殆ど生物の住まない広大な不毛の平らな陸地であり、早期に出来た山や丘陵は、大きく侵食されて居た。その侵食を受けた大地は、新しく多様な生物の営みで活気付いていた海中にゆっくりと沈んで行った。およそ55千年前から7千年の間、地球上の全ての海面が切れ目無く上昇し続けた。海面が上昇するに連れて、タブーク周辺の西北部とイエメン南西部の何ヶ所かの陸地を残すだけになるまで海面がアラビア楯状地の中へ中へと侵入して来た。47千年前までにその浅い海は、数百メートルもの厚い層の砂と泥の混ざった堆積物を残して後退して行った。アラビア楯状地は、この新しい堆積層におおわれ、その特徴は地表では見られなくなった。

 

アラビア楯状地が陸地として海面上に現れて間もなく、その西側の半分は厚い氷の層におおわれていた。この為に地表に残された堆積物の多くは、その氷の浸食を受けた。地球的規模の大陸移動がアラビア楯状地をかってないほど南へと運んだ。カスィーム地方では氷河地帯の特徴であるティルと言う古い堆積性の岩がそれを物語っている。氷河は、大地を削り、地表をおおって居た堆積物を岩屑、巨礫岩の河原やその他の氷河特有の残存物に変えてしまった。氷河が融けた後、大地は、以前とは全く様相が変わってしまっていた。以前の平らな景観は、氷河で削られ、巨礫岩が雑然と転がり、谷底を砂利でおおわれた谷で引き裂かれてしまっていた。氷河から流れ出る水を地球上の唯一の海洋であったテチス海へと排出する河川によってその東側すなわち氷河地帯と海洋の間でも堆積物は、浸食された。沙漠の半島最南東部にあるオマーンのアフダル山塊の古い堆積岩は、昔の氷河作用を示すティルや縞模様のある巨礫岩等の氷河活動による特徴を持っている。

 

時間と共にアラビア楯状地を含むゴンドワナ大陸は、極地からもっと暖かい緯度へ移動した。氷河は、後退し、再び海面が北西部を除いてアラビア楯状地をおおった。この第二回目の海水の浸入も厚い堆積層を跡に残した。今度の堆積層は筆石類の化石をたくさん含む頁岩であった。今日では絶滅している筆石類は、55千年前から35千年前の海中で最も多く栄えた生物の一つであった。沙漠の半島が再び陸上に現れた時にはこの頁岩の層で地表がおおわれて居た。陸上に現れた時の一度目との違いは、湖、河川、海岸の近傍に緑が生えて来た事であった。シルル紀(438408百万年前)の植物生は浜辺地帯に先ずその生を適応した。動物生がすぐにそれに続いて浜辺地帯に上陸した。

 

沙漠の半島は12回以上も海中に没している。そして、しばしば海上に現れ出てはいたが、沙漠の半島は陸上に現れて居る期間の二倍も海中に没して来た。陸地の塊は、海水面や構造地質とは無関係に、地中深いマントルの中の動きによって隆起したり沈下したりする。これは、プレートの変形でも造山運動でもなく陸地が大きな塊として静かに隆起する現象である。沙漠の半島はこの様にして隆起と沈下を何度か繰り返した。

 

375百年前にも同じ様な現象が起きた。海面の高さが一定であるのに沙漠の半島が乾いた陸地として一度に海中から隆起した。次に続く時代から残っている顕著な地質学的特徴としては、トゥワイク山脈がルブア・ハーリー沙漠の砂丘に没するその最南端に広がる多くの花崗岩の巨礫岩地層がある。この巨礫岩の大きさは様々で大きいのは径が1.5mに達する。それらの巨礫岩が出来た源となったと思われる最も近い花崗岩の露頭まで数百キロメートルも離れて居り、それは現在のイエメン領内である。

 

沙漠の半島はこれが最後であったが再び南へと低い緯度に運ばれ、極地の氷河が半島の南をおおった。これらの巨礫岩はこのように運ばれる途中で付けられる溝や縞等の特徴を持って居ないが、これらの巨礫岩は氷河の北上と共に運ばれたか、或いは氷河の残した落下石だと思われる。落下石は氷河の氷原や内部に凍りつけとなった礫岩で氷河が融けると共に氷河の底に落ちて来る。オマーンでは活発な氷河活動の証拠が涸れ谷カラタの河原に残って居り、この谷では氷河に埋め込まれた巨礫岩が平らな岩が平行に1メートルもの深い溝を河床に刻んで居る。

 

二畳紀(290245百万年前)には厚い幾重もの砂岩層が形成された。今日ではその殆どが浸食を受けて残って無いが、沙漠の半島の南西部ハシュム・グラーブ西65km付近のワジード山塊が絵画的な景観を今でも残して居る。これらの砂岩層には大きな化石が殆ど見つかっては居ないが、地層の岩石見本に含まれる胞子の化石を顕微鏡で分析して時代を考証できる。二畳紀の最後に沙漠の半島が再び海中から隆起するに連れて植生と動物生の大規模な絶滅の時が訪れた。この隆起の時には沙漠の半島は、白い石灰岩でおおわれて居た。二畳紀の絶滅は、古生代(570245百万年前)の終わりの区切りとなった。このときに多くの種が除去され、地球上の生態系が回復した時には随分と異なった生物が生息して居た。それまで海中では圧倒的に多かった三葉虫は僅かな残存種を残すのみと成ってしまった。

 

中生代(24565百万年前)を通じて地球上の海面は、上昇し、白亜紀(14565百万年前)の終わりには、もっとも海面が高くなり、この時代の殆どの間、沙漠の半島は、浅い熱帯性気候の海に沈んでいた。最初に砂岩と頁岩の間に薄い石灰岩の層が挟み込まれたが、やがて非常に厚い石灰岩の層が形成された。それらが今日トゥワイク崖地の石灰石の露頭に良くみられる岩礁の特徴を持つ熟成した多くの化石である。

 

一般的には「一番初めの海水の進入が西側へと一番深く到達して居た」と考えられて居る。地図をみるとカンブリアン紀(570510百万年前)やその他の古生代堆積層が沙漠の半島の北と南も一番紅海に接近して居る。この古生代堆積層の痕跡はアラビア楯状地中央では見られないが、それは古生代に続く多くの時代に引き続き浸食され続けた為である。古生代の終わりおよび中生代の堆積層は沙漠の半島の中央を1,000kmに及ぶ弧に沿って並んでおり、多分、南北の堆積層の露頭を結ぶ線よりも更に西まで及んでいる。旧リヤード・メッカ道路のアフィーフの近傍ではもっとも近い中生代の海中堆積層よりも200kmも西に存在している。

 

トゥワイク崖地から陸地は、東へとゆっくりした傾斜で下がり続けて居り、時々見られる海底堆積層の薄い砂岩の層を除いてダフナー砂丘帯までの間の地域の露出した岩は殆ど全てが石灰岩である。この石灰岩の連続はジュラ紀(208145百万年前)および白亜紀に掛けての10層の異なる石灰岩の層が前の層に積み重なって形成されて居る。東への大地の傾きの連続が浸食の効果と重なって、各々の層がその上のもっと新しい層におおわれる前に短い距離ではあるけれども地上に露出している。

 

石灰岩の著しい例外はハルジュからリヤードへの途中の鍾乳洞ダハル・ヒートで、ここでは、地表に無水岩と呼ばれる蒸発岩が見られる。この真珠のような灰色の岩には少し暗いシミが付いている。このシミが1938年にARAMCOの地質学者がタールのシミとして沙漠の半島で始めて発見した油兆であり、半島東部の油層を解読する為の重要な鍵と成った。東部州でこの層を掘り下げて、この国の莫大な原油埋蔵の最初の出油と成った。アラビアの多くの油田がジュラ紀地層に含まれて居り、トゥワイク崖地とリヤードの間に露出している石灰岩は、この無水岩より少し古い。地層が東に行くに連れて深く埋まり、増大した圧力と温度がゆっくりと石灰岩を変化させて油を析出させた。この油は後に半島がアジア大陸とぶつかり圧縮されて岩が褶曲した背斜耕造の下部に貯留した。イラク南部やイラン南部の油田も同じ時代の似たような褶曲に存在している。このアジア大陸が沙漠の半島と衝突して出来た褶曲に世界の原油埋蔵量の半分近くが存在している。

 

中生代の終わりが近づくに連れて、デボン紀(408360百万年前)と同じ様に半島中央は、隆起してきた。海岸線は、陸地が隆起する前に後退し東へと移った。それ以来、海岸線が内陸奥深くまで進入することは無かった。海岸線は、これ以降も上昇下降を繰り返し、その連続的な動きの中で現在の沙漠の半島東部の土地が何度も水没する事があったが、海岸線が現在のダフナー砂丘帯を越えて、更に西に侵入する事は無かった。沙漠の半島の中央部および西部は、これ以後も浸食作用と削剥作用を受けては居るが、海生の堆積層は無く、古い岩層から陸生の堆積層が形成された特異な地域である。

 

1.3 大陸の衝突と造山運動

 

沙漠の半島は5億年前にはアフリカ大陸の一部であり、アラビア楯状地とヌビア楯状地は同じ時代に同じ力で一体として形成され、5千年近く前までは分離して居らず、ゴンドワナ大陸の時代まではテチス海でアジア大陸と沙漠の半島は隔てられて居た。

 

アフリカ・アラビアプレートがアジア大陸へと北東に漂い初めるに連れて、約五千年前には両方大陸の大陸棚が接触する程までに、テチス海は次第に狭められ、湾に成った。地球規模で両方のプレートを動かしている地殻深部の力は、非常に強い為に沙漠の半島はアジア大陸とますます接近し、接合して固く一体化した。この過程で両大陸は激しい圧力を受け、この接合面は高い山脈と成って隆起した。

 

この造山運動で出来たのがオマーンのアフダル山塊である。この山頂は海成の石灰岩で出来て居り,貝の化石も簡単に蒐集出来るのは、この造山運動によって昔の海岸が標高2,000mまで持ち上げられた為である。

 

同じ様に沙漠の半島とアジア大陸の衝突は、アラビアプレートの北と北東の端に沿ってイランのザグロス山脈やトルコの南東部のトゥールース山脈(トロス山脈)を隆起させた。沙漠の半島中央部および東部を覆い、アラビア湾を横切って南イランまで広がって居る堆積層が揉まれてしわくちゃに成った一部がザグロス山脈である。この為にアジア大陸の最も東側が海面から数千メートルの高さまで隆起したと言うのがこの5千年の間にザグロク山脈の多くの山ができた経過である。今日でも地震が多発していることがこの山脈がいまだに安定した状態に無い事を示している。

 

1.4 紅海の形成

 

沙漠の半島の反対側では、紅海を生み出した力が働いていた。おおよそ6千万年前に沙漠の半島西側の下部にある地殻は、引き延ばされ薄くなり、地質構造としての結合が弱まりターイフの東側のハダン熔岩地帯と北のヨルダンを結ぶ線に沿って幾つも断層を発達させた。この線に沿った土地は、陥没し湖の連続を作った。これは更新世(1.600.01百万年前)の間に断層でつながった一続きの航路と成って北は、地中海へ抜けていた。ハダン熔岩地帯やその北の熔岩地帯の下から堆積岩が見つかり、その堆積岩が海洋性や河口域の環境に住んだその時代の生き物の化石を包含している。

 

同じ様な地殻の薄くなる過程がそれから数千万年後に起き、更に異なる断層をもっと西側に形成した。紅海南のマンダブ海峡の中央では三つの割れ目が発達した。一つは現在の大地溝帯で東アフリカを抜けて南へと延びている。もう一つはジブチから東に走りアデン湾を作った。三番目は北西に延び、現在の紅海を作った。紅海断層は幅100kmで長さは2,000kmに及んでいる。断層の両側が離れると中央部が沈下するので、急峻な崖地の両側と広く比較的平らな中央部を持つ事に成った。

 

最初、谷は海とつながる程は深くも無かった。一番深い部分には湖が連続していた。裂け目が広がる過程が進行するに連れて、北側は地中海に抜け、地中海がこの窪みを南へと進入した。この時点ではインド洋とはつながってなかったが、紅海は初めて海となった。陸橋がジブチ付近で谷の南側をアフリカとつないで居た。海生の貝やその他の生物の化石は、地中海の同じ年代(約4,000万年前)と同一で、この太古の地中海との繋がりを証明している。

 

海で隔てられて居ても沙漠の半島とアフリカ大陸は、同じ地質構造プレートの二つの部分であった。大きな谷がその繋がりを弱めては居るが、最終的に分離する様な事態は、起きては居ない。大陸性の地殻は今でももう一方の大陸性の地殻に隣接している。大きな谷は両方の崖地の大きなスラブを谷底に滑り落とさせながら広がり続けて居る。この大きな谷に沿って出来た断層がマントルから押し上げて来るマグマが吹き出して来るルートを提供している。そのマグマが地表に出て固まって崖地の麓に沿った多くの場所で玄武岩やその他の火成岩の薄い長い土手を築いて居る。更に2,500万年前にはもっと主要な裂け目が作られた。広い谷の底の中央部に二番目の裂け目が出来た。裂け目の中の裂け目である。その裂け目は狭いけれども、今回は平均1,000mの深さを持ち、場所によってその溝の底床の深さは、海面下2,000mにも達する。両方の側の地殻は初めて完全に切り離されたので、マントルの中味が地表へと噴出する出口ができた。溝の床は、裂け目の長手方向に沿ってマントルから流れ出てきた玄武岩質のマグマでできていた。年を追って溝は、その幅を年間平均数センチ程度ずつ広げたが、溝の長手方向に対しては時々発作的に成長する程度であった。

 

紅海の幅拡張の第二期は、約500万年前に始まった。この時は紅海中央の更に深い中央の溝は、再び活性化した。今日、認識されている以上に浅い海や塩湖は相互につながり一体化し、紅海と成って行った。スエズ地峡が隆起して紅海を地中海から切り離した。これと平行してアデン湾とマンダブ海峡が沈下し、紅海はインド洋と水路で結ばれた。同じ時期に崖地やその隣接地に新たな隆起が起きた。その隆起がイエメンの山々やアシールの山々を今日の高さに押し上げ沙漠の半島の西から東への傾きを更に増大させた。紅海の長手方向中央に沿った中央の深い溝は、再び分離を初め、それが今日まで続いて居る。それ以来の平均拡張速度は年間に3cmと変わらない。これはゆっくりしたペース、それも顕著な状態として現れて居る。この結果として海底が広がる時期であったこの500万年の間に海底は150kmにまでその幅が開いた。

 

1.5 熔岩地帯(ハッラ)の形成

 

2,500万年前には沙漠の半島も非常にゆっくりではあるがアフリカ大陸から反時計回りに回転を始め、これは1,000万年も続いた為にそれに連れて中央の深い溝も幅を広げて来た。ティハーマ海岸低地が山脈の麓と交わる谷の側に沿って異なる種類のマグマが夥しく侵入し古い岩盤に鉱脈や土手を作った。この大陸分離は、その後、速度を緩め1,500万年前には動きを止めた。それはアラビアプレートの全厚がユーラシア大陸と隣接した時期である。両方の隙間はそれ以上広がる事は無いが、その代わりにこの地域全体が地殻に侵入したマグマで膨張し、上方に押し上げられた。紅海から内陸を南北方向に膨張して走った地殻に沿って、上方に湧き出すマグマの圧力が無くなった頃、連続した火山群が噴火した。この火山の活動は現在まで1,000万年近くも続いてきた。

 

紅海から内陸を南北方向に走り、膨張した地殻に沿って、マグマの上へと吹き出そうとする圧力に耐え切れ無く成って、連続して火山が噴火した。この火山活動は、この1,000万年の間、多かれ少なかれ続いている。これらの火山は殆ど円錐形で、低く広く緩やかなスロープを持ち、底面積の広い楯状火山と呼ばれる型のものであった。この様な形に成ったのは、噴出する熔岩が非常に流動性の高い玄武岩で簡単に火口や噴出口から流れ出し、相当遠く広い地域を覆う大きな膜に広がる為である。

 

この玄武岩の膜は、沙漠の半島西部の15万平方キロもの地域を覆っており、沙漠の半島で最も荒れ果てた大地を代表している。一般的に、熔岩が覆う地域の呼称である熔岩地帯(ハッラあるいはハラ)は、南にあるほど、北の熔岩地帯よりも古いが、その多くは何百万年もの間に玄武岩の層で幾重にも折り重なっておおわれてしまっている。余り有りそうには思えないにしろ、これらの熔岩の最終的な広がりは、今でも続いている。ハッラ・ラハート(ラハート熔岩地帯)の北部の火口だけでもこの4,500年間に13回噴火し、一番最近の噴火は730年前に起きた。地震の揺れは、マディーナにも到達し、玄武岩熔岩が熔けてどろどろした膜がマディーナ市街地にも及んだ。二日間で市街地が飲み込まれてしまう様に思えたが、玄武岩の熔岩流は市の手前5kmで止まった。

 

熔岩流の冷却された黒い壁は、今日でもカスィーム方面への市内から西に向かう道路からハッキリ見ることが出来る。それ以前の噴火の記録は、1,344年前に起きた。その時はマディーナの南の夜空を小さな噴火が明るく照らした。噴火の頻度がこの数千年の間に減少して来た事は、新石器時代の人々の居住跡を調査すると分かる。新石器時代の人々は彼等の住居跡を玄武岩質熔岩の表面に残している。その住居跡には墓や古墳、ストーンサークルや壁等が含まれ、これらの遺跡は最近の熔岩流の上には無く、地質学者が「新石器時代の構築物を含む流れを横切る熔岩大地は、新石器時代より若い」と結論付ける論拠に成って居る。将来、更に噴火が起きるのはほぼ確実だろう。

 

熔岩地帯の活動に先立つ地域全体の隆起は、紅海谷の底も隆起させて浅い海や塩湖に変えた。熱い亜熱帯の太陽の下ではこれらの水の蒸発率は高いので、塩類や水溶性鉱物は海に流れ込む河川や水の流れに運ばれ沈殿し、谷底に厚い層に成って蓄積した。紅海海底では新しい堆積物に成れば成るほど、岩塩、石膏、蒸発岩等の蒸発塩層があり、場所によってはその厚さは3kmにも及んでいる。これらの層の起源は地中海と同じこの時代である。

 

1.6 大量の降雨

 

沙漠の半島では300万年前からの200万年の間、大量に雨が降った。三つの大河が西側の山地を浸食しながら流れ、半島を横切って東側のアラビア湾へと注いでいた。

 

涸れ谷ルマは、半島西側のハッラ・フタイム、ハッラ・ハイバル、ハッラ・キシュブ等の熔岩地帯の東側へと流れる涸れ谷カハド、涸れ谷サーフーク、涸れ谷ジャリール等の支流に持つ、沙漠の半島中央部の排水路であり、現在、ダフナー沙漠で下流域がおおわれているが、涸れ谷バーティンへと流れて、クウェイトでアラビア湾に注いでいた。そのデルタは現在のディブディバと呼ばれる広大な扇型の三角州礫原であり、カイスーマを頂点としてクウェイト周辺をおおうように沙漠の半島東北部の大半を占めて居る。

 

涸れ谷サフバーは、半島中央部からやや東に寄ったリヤードの南で、その上流域の涸れ谷ニサーフ、涸れ谷ハウタ(涸れ谷ハリーク)および涸れ谷ビルク等がそれぞれトゥワイク山脈を貫き、ハルジュで合流し、中央アラビアの排水路と成り、東に流れ、スンマーン台地をハラド付近で切り通し、カタール半島の付け根付近でアラビア湾に注いでいた。この河も太古にはハルジュから南ナジュドを排水する主要河川であった。その三角州の名残が流砂帯サブハ・マッティーおよび今日の海岸に向かって広がる薄い砂利の扇状地であり、ハラドを頂点に長さは、200kmにも及びその幅は、ウカイルからカタールに至る150kmもの円弧を描いていた。

 

涸れ谷ダワースィルは、アシール山脈の東斜面から流れ下る流水系を集め、スライル付近でトゥワイク崖地を押し流し、貫通し、同じくその支流の涸れ谷ヒンウもカルヤ・ファーウ遺跡付近でトゥワイク崖地を貫き、東へと流れ、空白地帯盆地の広い範囲をアラビア楯状地から浸食され運ばれた土砂や瓦礫で埋めた。現在では厚く積もった漂砂の為に涸れ谷ダワースィルの下流域は、ハッキリして居ないが、海でおおわれて居た空白地帯に低く横たわる三角州を形成し、空白地帯南東部に広がる巨大な湖に注いでいた。その湖沼跡は、流砂地帯(サブハ)でも特にはまり安く為、アラブ語で毒の母(ウンム・サミーム)と呼ばれる通行の難所である。

 

1.7 氷河期終了と砂丘地帯形成

 

200万年位前から始まった氷河時代も終わりに近づいた約35千年前から1 8千万年前の間は、再び湿った時代であった。雨が多量に降ったが、河川がその流れを元通りに戻す程には水量がなかった。その後、3,000年の乾燥した時代の間に土壌は乾き、砂塵と成って卓越風向に沿って移動し、沙漠の半島の3分の1をおおう砂丘地帯は、15千年前までに形成された。この時期に赤い砂は北のナフード沙漠から南のルブア・ハーリー沙漠へとダフナー沙漠を通じて移動している。その後、湿潤な気候は、9千年前と45百年前そして紀元前1,000年紀初めと紀元後1,000年年紀初めにも再来している。しかしながら、基調としては沙漠の半島の乾燥は進んだ。現在の砂丘地帯の景観は乾燥に伴って作られて来たが、その表面は極端に乾燥したここ数世紀間に移動した砂で表面をおおわれている。

 

2 半島の地形

 

「沙漠に半島の地形は、火成岩、変成岩、堆積岩が基盤となり、それが、熔岩の噴出や降雨による侵食を受け、風で移動する砂でおおわれて作られ、それぞれ作り出す景観に特徴のある火成岩系の花崗岩地帯と熔岩地帯、堆積岩系の砂岩地帯と石灰岩地帯および風成された砂丘地帯の5つの地帯に分けられる」と、私は考えている。なお、景観上は変成岩を火成岩および堆積岩の一部として扱っても良いのではないかと思う。又、水の浸食で生み出された谷は、沙漠の半島の乾燥化により時折の降雨以外には水の流れは無く、涸れ谷(ワジあるいはワーディー)と呼ばれている。

 

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2.1花崗岩地帯

 

アラビア楯状地は花崗岩地帯で形成され、緩やかに起伏している。但し、場所によってはハーイルのアジャー山塊等のように赤黒い大地が筋肉の様に盛り上がっている。この様な山塊はその山肌とその麓に生える緑の木々が青い空を背景にして素晴らしい調和を作り出している。麓の砂地に生えて居る木々は、タルフ、サラム等のアカシアである。花崗岩の山は、

 

a. 滑らかな山肌を残している部分、

b. 角が丸みを帯びた比較的大きな四角に近い大石に割れている部分、

c. 風化され更に小さな四角張った小さな小石に割れている部分

 

にほぼ3等分される。

 

部分a.では山肌は赤黒。部分b.では僅かな降雨でもタルフがその割れ目でも生長し、岩山に緑を添えている。部分c. では、山肌は、黒ずんだ黄土色に見える。

 

2.2熔岩地帯

 

熔岩地帯(ハッラ)はヒジャーズ・アシール山脈に沿って、北部はヨルダンから続くハッラ熔岩地帯(ラジル熔岩地帯)、中央部はマディーナ北のハイバル熔岩地帯とマディーナから南へと延びるラハート熔岩地帯、南部はバーハ北のビクーム熔岩地帯およびアブハー西の海岸に沿ったビルク熔岩地帯等、13以上の大小のハッラが発達している。最大の熔岩地帯は、ハッラ熔岩地帯で、シリアからヨルダンを抜け、北部サウジアラビアまで広がる大規模なシャマ熔岩地帯(Harrat Ash Shamah)の南の3分の1であり、サウジアラビア領内の部分だけで、北西から南東に長さ270km、幅75kmで広がっている。

 

熔岩地帯は火山岩、熔岩、火山灰でおおわれており、火山がこの地域の至る所に散らばっている。これらの火山は、死火山か休火山であり、活火山は見受けられない。ハーイル南にあるターバ火口の割れ目の発達など一般に知られているような火山活動は、極めて限られているが、20095月にヤンブー北のシャーカ熔岩地帯で震度5.6に地震があり、アイス村の住人が暫く避難していた事もあった。

 

これらの火山は一般的に高くも大きくもないが、ターイフの北東254kmにあるワアバ火口等はその周囲が11kmもある。ワアバ火口はその大きさばかりでは無く、その火口の底に湖の様に堆積した白い沈殿物(リン酸ナトリウム等)や火口周囲の緑の豊かさでも有名である。粘性が低い為に熔岩は非常に長い距離を容易く流れている。この薄い熔岩膜は土壌の水分の蒸発抑える為に、熔岩地帯では多くの植生が育っているのを見つけられる。特にワアバ火口北20kmにある湖沼跡は、まとまった樹林になっている。

 

2.3 砂岩地帯

 

砂岩地帯では厚い山並みが発達している。砂岩は時として空想的な形の岩を作り出している。又、砂岩は多くの場所で絵画的な風景を作っている。冬のハーイルでは花崗岩の丘や砂岩の丘に囲まれた窪地に多くの小さな湖が現れる。その周囲には花や木々の緑が色づいている。この様な景色はハーイル周辺のフッタ、ジュッバ、トゥルバ等多くの場所で見られる。雨さえ降れば、ハーイルの北は、水の豊かな美しい牧草地になる。

 

砂岩地帯では青い空を背景に麓の緑に縁取られた赤い垂直に近い長い絶壁が続き、素晴らしい景観を作り出している。タブーク州ウラー渓谷では黒い熔岩を被ったそのような回廊が続く。アシール州ビーシャでは赤い砂岩の切り立った丘の間の小さな回廊を進むとそこここにナツメ椰子の畑を持つ、静かで美しい佇まい小さな村が見られる。アブハーの南にあるハバラの切り立った断崖は、今ではケーブルカーがあるが、「昔はバニー・マーリク族が崖下に隠れ住み、下帯だけの男達だけが縄を使って上り下りしていた」と云う。赤い砂岩は、アブハーのスーダ山等、沙漠の半島の最高峰の頂上もおおっている。

 

2.4石灰岩地帯

 

石灰岩地帯は半島の北部や東部をおおい、飽きるほど果てしない広がりに特徴がある。内部は鍾乳洞が発達し、大きな地下空間を持っているが、地表部分は一般的に平な大地である。スンマーン台地やトゥワイク山脈の様な絶壁の砂岩のそれより多少は丸みを持つが、西部劇にでも登場するような平頂山を形成する。その様な例はリヤードの近郊にも「世界の果て」、「ファイサル尖塔」、「第一駱駝の切り通し(キャメルパス)」等と名づけられている景観がある。石灰岩地帯のもう一つの特徴は泉、緑地、湖等が多い事であったが、円形農場灌漑のために地下水のポンプによる汲み上げで水位が下り、今ではその多くが見られなくなってしまった。一昔前までリヤード南東35kmにあるダハル・ヒートやハルジュ泉の立て穴等もその入り口まで豊富に水があったが、今では水位が80m以上も下がってしまっている。カナート(地下水道)利用と美しい湖水で有名であったリヤード南方のライラも大小の湖も完全に干上がり、湖の化石になってしまっている。カナートは、かつて、ライラ、ドゥーマ・ジャンダル、タイマー、ハサーなどでの最も重要な灌漑方法の一つであったが、地下水汲み上げで、水位が下がり、今では完全に廃れてしまっている。ナツメヤシの水盤灌漑の浅い池では稲作が行われていた程、地下水の湧出量が豊富だった東部のカティーフやハサーでもさえも海岸からの海水浸入に悩まされている。地上とは対照的に、地下での複雑な構造の鍾乳洞の発達が今日では多くの洞窟探検家を魅了している。

 

2.5砂丘地帯

 

沙漠の半島の特徴の一つは、広がったシート状や帯状の移動する砂である。この半島の3分の1強が砂におおわれて居り、その面積は70万平方キロ以上にも及ぶ。地図からは砂でおおわれて居るのは、5つの主要な場所である事が分かる。最も大きいのがルブア・ハーリー沙漠で、砂が55万平方キロを隙間無くおおっている世界最大の砂沙漠である。北の偉大なナフード沙漠も大きく6万平方キロある。この二つの間に横たわっているのがダフナー沙漠で、1,000キロに及ぶ大きな弧型をして二つの砂の海を結んでいる。アラビア語でウルークと呼ばれるシュカイカ砂丘帯、スワイラート砂丘帯、スィッル砂丘帯、クナイフィザ砂丘帯、ダヒー砂丘帯等の特色のある砂丘の細い帯が断続的に所々で重複しながらカスィームの直ぐ南からトゥワイク崖地の西の縁をダフナー沙漠と平行して、並んでいる。唯一白いジャーフーラ沙漠は、ジュベール地域からハサー・オアシスの東を通り、南のルブア・ハーリー沙漠の間に横たわる移動する砂丘の塊である。その他、至る所で小さな砂地が紅海岸のティハーマからナジュドの岩だらけの涸れ谷まで陸地の多くの部分を横切ってつぎはぎの様に散らばって居る。冬の雨は、砂丘に貯えられ、その間の凹地に湧き出してズィルフィー西や、リヤード西のカララ湖(クルカーラ湖)、リヤード北のラウダ・フライム、ハーイル周辺等の場所で小さな湖を作り出す。又、砂丘の凹地には砂丘に貯えられた水の湧き出す多くの井戸がある。

 

砂丘は、基本的に砂が風に押されて風向と直角に円弧を風上とした三日月型を作り出して形成される。風向きの変化によって、相互の重なり方が変わってくるので、砂丘は、横断型砂丘、縦型砂丘、砂山型砂丘およびウルーク型砂丘の4種類にほぼ分類できる。

 

2.5.1 横断型砂丘

 

横断型砂丘はバールチャンとも呼ばれ、卓越風向と直角に三日月型を作り出す。バールチャンは、移動しやすく徘徊する砂丘とも呼ばれる。ジャーフーラ沙漠は、ダンマーンの南のアブカイクからルブア・ハーリー沙漠まで広がって居り、バールチャンでおおわれている。この砂漠の砂は石英分が90%以下と少なく、沙漠の半島にある他の沙漠の様に砂が酸化鉄で被覆されて居らず、その結果として砂の色が明るい赤では無く、青みがかった白である。

 

2.5.2 縦型砂丘

 

セイフ砂丘とも呼ばれ、「縦型砂丘は、風向が変わる事で横型砂丘が変化して形成される」と考えられている。卓越風向が多少異なる二方向から交互に吹いてくると横型砂丘を変形させ、様々な形の低い砂丘から中位の高さの砂丘が連なる縦型砂丘を作り出す。ナフード沙漠では数キロから十数キロ幅の谷で分けられている高さ90m程の数十キロの長さの縦型砂丘が累々と重なり連なっている。ナフード沙漠の際だった特徴は、縦型砂丘を形成する一つ一つの砂丘のファルジ(Falj)と呼ばれる凹地の形にある。ファルジは、ほぼ半楕円で、馬の蹄の巨大な跡の様な形をしている。縦型砂丘では砂は移動しても地形は殆ど変わらず、比較的安定して居り、その凹地は、しばしばシュラブや草で厚く覆われて、ディカーカとも呼ばれる植生のある砂沙漠を作り出す。この為、縦型砂丘地帯はディカーカと呼ばれる代表的な場所となっている。

 

2.5.3 砂山砂丘

 

砂を運ぶ風が長い間に変化して数方向から吹くとその時々で形成された横断型砂丘が互いに重なり合い、砂山砂丘は、時として基盤から300m以上にも聳え立つ。ルブア・ハーリー沙漠の南東部やナフード沙漠の南東部には星形砂丘と呼ばれる砂山がある。小さいけれども星形砂丘と呼ばれ良く知られて居る砂山がリヤード北のイルク・バンバーンの真ん中にある。なお、稀にスベリ面の無いドーム型砂丘が形成されることもある。

 

2.5.4 ウルーク型砂丘

 

ウルークとは細長い砂丘の重なりである。ルブア・ハーリー沙漠の南西部では100を越えるウルークが1.5kmから2.0km間隔で200kmにも渡って北東から南西へ平行に幾つも走っている。ウルークの中には高さが300mにも及ぶものもある。ウルークは、北のナフード沙漠や帯状にナフード沙漠とルブア・ハ-リー沙漠を結ぶダフナー沙漠やリヤード北方のイルク・バンバーン等でも見られる。

 

「縦型砂丘の成因である二方向の卓越風の成す角度が大きくなると変形した横型砂丘は更に細く長くなって重なる。その長々と延びた形をした砂丘が縦型砂丘あるいはアラビア語から剣砂丘と呼ばれるウルークである。ウルークでは小規模なものを除けばファルジ(馬蹄形)は、殆ど見られない程、その幅が狭く細長いのでセイフ砂丘と呼ばれる縦型砂丘区別されているのだ」と私は、理解している。

 

2.6 涸れ谷

 

沙漠の半島では、涸れ谷(ワーディー)と云う呼び名は、一時的に水の流れのある場所全てに使われている。殆ど平らな場所でも涸れ谷と呼ばれていて、不思議に思うが、一旦、雨が降るとそんな場所であっても広大な範囲から水が集まり、河を作り出す。谷状に成った涸れ谷は、両側の山の高さのわりには幅がやたらに広いが、「これは、昔、川だった谷筋が風で運ばれた砂等の堆積で、場合によっては、数十メートルから百メートルを超える程、埋められている為である」と考えられる。

 

2.6.1 涸れ谷の終焉

 

涸れ谷は降雨さえあれば沙漠の何処からでも始まるが、終わりには幾つかの型がある。紅海岸の涸れ谷の多くは海に直接流れ込む河口を持っているのに対して、アラビア湾側の涸れ谷は前述の三大水系(ルマ・バーティン、涸れ谷サフバーおよび涸れ谷ダワースィル)に見られる様に太古には海まで注いでいたが、現在では砂や沈泥で埋められて北から順にディブディバと呼ばれる広大な扇型の三角州礫原、流砂帯サブハ・マッティーを含む広大な薄い砂利の扇状地および流砂地帯ウンム・サミームにそれぞれ注いでいる。又、涸れ谷ミヤーのナイーリーヤの河口跡は海から100kmも遠くはなれ、海岸との間に形成されている周囲のサブハ(含塩沈泥低地あるいは塩湖)で終わっている。アラビア湾で顕著な河口型としては、ナイーリーヤ北100kmに位置するカフジの入り江があり、その内陸にひろがる広大なサブハへの潮の干満による海水の水路となっている。多少の起伏はあるが、ナイーリーヤとの間に横たわる幾つかのサブハを俯瞰すると涸れ谷ミヤーの河口であった可能性もある。アラビア湾岸で海まで注いる川はカティーフとハサー両オアシスの灌漑越流水の流れであったが、勇水量が減り、今では見られなくなっている。

 

内陸の涸れ谷の多くはサブハ(含塩沈泥低地あるいは塩湖)で、終わっている。幾つかの涸れ谷を集めるサブハはリジュラ(Al-Rijla)と呼ばれ、その典型的な例としては、涸れ谷スィルハーン内のタバルジャルがあり、その名もリジュラが語源となっている。サブハは、水が注がれている間は、塩湖となり、乾燥してくると水が蒸発して枯渇し、表土が固まる。平で地耐力もあり、かつてはキャラバン・ルート(隊商路)として利用されていたし、大型車両の通行も可能である。しかしながら部分的に水の残っている個所もあり、一旦、はまると底なし沼の様な状態となる。その様な場所は、流砂地帯と呼ばれ、昔からベドウインに恐れられている。内陸の涸れ谷の終わりにはジュフラ(Jufra)と呼ばれる場所もある。ジュフラの前後では涸れ谷の流れの方向や、名前が異なっており、そこが文字通り、水の流れが終わる場所である。涸れた池の様な外見ではあるが、鐘乳洞に通じる隠れた水路があると思われる。砂丘地帯に流れ込む涸れ谷では、不浸透層があれば、その上の砂層に地下水となって、水が蓄えられ、湧水地を伴うオアシスを作り出す事が多い。サラワート山脈(ヒジャーズ・アシール山脈)では、涸れ谷が山脈両側の熔岩地帯に流れ込む場合も少なくない。紅海側では、熔岩で漉された伏流水が海岸や海岸に近い海底で湧き出し、豊かなマングローブの林を育んできた。ナジュド沙漠側ではマハド・ザハブ金鉱西に横たわる特異な景観のスワイルキーヤ湿地帯などを作り出している。

 

2.6.2 涸れ谷の構造

 

中東の河を上から眺めるとチグリス・ユーフラテス川もナイル川も樹木が生えているのは川岸だけである。そこから十数メートル離れると、全くの沙漠であるのに気付かされる。これは川岸や川底に沈泥が堆積し、半割わりにした土管の中を水が流れている様な状態になっている為である。涸れ谷も基本的には同じであり、砂に満たされた半割わりの土管構造に集水された水は、散逸しないで涸れ谷を伏流水となって流れている。このため、平らな場所や小さな涸れ谷でも流れの真ん中にタルフやサラムが点在し、その存在が分る。涸れ谷がある程度の大きさになるとその中にタルフ、サラムやタマリスクの群生が作られる。中でもナジュラーン北の涸れ谷ハブーナに群生するタマリスクは、圧巻である。沙漠では降雨は、少なく、散発的であるが、一旦降り始めると短期間の豪雨となり、鉄砲水がとうとうと流れ出す。沙漠の半島では鉄砲水被害防止の為、多くのダムが作られている。しかしながら、ナジュラーンのマディク・ダム(Al Madhiq Dam)、サカーカーのジョウバ窪地(Al-Jawba or Al Joubah)人口湖等に見られる様なダム湖を形成する程、水量の多い涸れ谷は少なく、多くは、涸れたダム湖の湖底が中小規模の農地となり、湖底に井戸を掘って灌漑水を確保しており、その水量もせいぜい、ダム湖の周囲に中小規模のナツメ椰子園を営める程度である。

 

2.6.3 アラビア湾に注ぐ涸れ谷

 

アラビア湾岸に注いでいたのは三大水系と涸れ谷ミヤーであり、それ以外に水系は見られない。これは集水域が堆積層で傾斜が緩く、広くて、延長が長い為だと考えられる。

 

a. 涸れ谷バーティン・ルマ水系

 

涸れ谷バーティン・ルマ水系は涸れ谷カハド、涸れ谷ジフィン、涸れ谷ヒルムール、涸れ谷ジャリール、涸れ谷タラール等、ヒジャーズ山脈の内陸側に並ぶフタイム熔岩地帯、ハイバル熔岩地帯、マルワ山等から東側の流水域を合わせ、カスィームを抜け、ハファル・バーティンからシャット・アラブ川河口方面へと流れていた。

 

b. 涸れ谷サフバー水系

 

涸れ谷サフバー水系はナジュド中央部の涸れ谷ハニーファ、涸れ谷ニサーフ、涸れ谷ハウタ(涸れ谷ハリーク)、涸れ谷ビルクをトゥワイク山脈を東へと抜けたハルジュで集め、東へとハラドを抜け、カタール半島つけ根部の南へと流れていた。

 

c. 涸れ谷ダワースィル水系

 

涸れ谷ダワースィル水系はその殆どが今では砂に今って居るが、ナジュド北西部の涸れ谷ランヤ、涸れ谷ビーシャ、涸れ谷タスリース、涸れ谷ヒンウ等を集めて、ルブア・ハーリー沙漠を東へとオマーン方面に流れていた。

 

d. 涸れ谷ミヤー水系

 

涸れ谷ミヤー水系は三大水系と比べると規模は小さいが、スンマーン台地の流水域を集め、北へとナイーリーヤ方面に流れていた。

 

2.6.4紅海側に注ぐ涸れ谷

 

紅海側に注ぐ涸れ谷は、サラワート山脈(ヒジャーズ・アシール山脈)を水源として居り、流れの距離も短くアラビア湾岸程、大きな水系は作っていないが、それでも涸れ谷ハムド、涸れ谷ハリーおよび涸れ谷バイシャがある程度の水系を成している。

 

a. 涸れ谷ハムド水系

 

ラハート熔岩地帯、クファイフ熔岩地帯、マルワ山、キシュブ熔岩地帯に囲まれた涸れ谷シュウバ水系は、マディーナの東40km付近から南東に延びるハダウダー河床に集まり、涸れ谷ハナクによってマディーナを通り、涸れ谷ハムドに排水されている。涸れ谷ハムド水系は唯一、サラワート山脈を越えてナジュド側から紅海側へ注いで居り、涸れ谷ハナクや涸れ谷アキーク等マディーナに流入する涸れ谷を集め、ワジュフ南南東45kmの河口へと流れ下っている。涸れ谷ハムド水系はサラワート山脈を越える辺りで、北東のウラー渓谷を含むウワイリド熔岩地帯の両側を集水する涸れ谷ジズルと合流して居り、紅海に注ぐ涸れ谷ではもっとも広範囲な流域を持っている。

 

b. 涸れ谷ハリー水系

 

涸れ谷ハリー水系はアブハー北東のスーダ山地からタヌーマ北辺りまでのサラワート山脈西壁とビルク熔岩地帯の間を集水してクンフザ南南東55kmのハリーへと流れている。

 

c. 涸れ谷バイシャ水系

 

涸れ谷バイシャ水系はダハラーン・ジャヌーブからサラワート山脈とファイファー山地等ティハーマ山稜で囲まれた広い谷を集水し、ジーザーン北30km付近で紅海に流れ込んでいる。

 

d. 紅海に注ぐその他の主な涸れ谷

 

紅海岸にはその他に北からアカバ湾と平行してナバテア遺跡バダアを流れる涸れ谷アファール、バドル・フナイン(バドル)を通る涸れ谷ムフィイタ、メッカからジェッダ南へと流れる涸れ谷ファーティマ、バルジュラシイからクンフザへ下る涸れ谷カヌーナ、バニー・アムルとナマース稜線からカウズへ下る涸れ谷ヤバー、アブハーからダルブへ下る涸れ谷ディリア・イトワド等、幾多の涸れ谷がある。アフリカから紅海をわたる西風がサラワート山脈を越える際に降雨をもたらすので、アラビア湾岸や内陸の涸れ谷に比べて、水の流れが多く見受けられる。

 

2.6.5 内陸の涸れ谷

 

海に流れ出ないで内陸で終焉する涸れ谷は、小規模なものまで含めると数限りないが、その内の主だった涸れ谷を紹介する。

 

a. 涸れ谷スィルハーン

 

内陸型の閉じられた水系の最大規模なのは、涸れ谷スィルハーンであり、幅20kmで総延長は380kmで、ドゥーマ・ジャンダル西30km付近を南南東の起点としてハッラ熔岩地帯の南西側に沿って、ヨルダンまで北北西へと延びている。この窪地は、流水によって侵食された谷では無く、もともとはジョウバ窪地と一体であった太古の海か湖だろうと云われている。それを裏付けるかの様に良質で大量な塩が産出できる鉱床があり、19世紀にはこの地域を占領していたトルコ帝国がこの鉱床を取り分け重視していた事が明確に記録してある。スィルハーン窪地の全長に渡って多くの水井戸があり、タイマーより北にある最大のオアシスで、古代から隊商路として利用されてきた。

 

b. 涸れ谷アルアル

 

沙漠の半島北部にはシリア沙漠へと流れ、消えて行く涸れ谷が幾つもあり、北部国境州の州都アルアルを流れる涸れ谷アルアルとその南東50kmをほぼ平行して並ぶ涸れ谷アバー・カウルが比較的広がりのある水系を成し、冬場には水の流れが見られる。

 

c. 涸れ谷ダイリア

 

アジャー山塊南東斜面の水系を集め、ハーイルを2分して北東流れ、ナフード沙漠とダフナー沙漠の間の砂丘地帯へと流れ込んでいる。

 

d. 涸れ谷アフダル

 

ヒジャーズ鉄道のカルア・アフダルから北西へタブーク盆地へと流れ込んでいる。

 

e. 涸れ谷アトク

 

涸れ谷スダイル等トゥワイク山脈北部東斜面の水系を集め、ダフナー沙漠の砂丘帯へと流れ、緑地や井戸群の水源となっている。

 

f. 涸れ谷リーヤ

 

サラワート山脈東斜面からターイフの東を抜け、北東へジャラド堆積平原へと流れている。

 

g. 涸れ谷トゥルバ・フルマ・スバイウ水系

 

サラワート山脈のターイフ・バーハ間の山稜から北東へとスバイウ砂丘地帯へと流れ込んでいる。太古には涸れ谷ダワースィルの水系に含まれていたのでないかと思われる。

 

h. 涸れ谷ハブーナと涸れ谷ナジュラーン

 

サラワート山脈のダハラーン・ジャヌーブからナジュラーン方面へ延びる山陵から東へルブア・ハーリー沙漠の砂丘地帯へと流れ込んでいる。涸れ谷ハブーナがルブア・ハーリー沙漠を北東へとカドカーダ河原を残しているのに対し、涸れ谷ナジュラーンは、砂丘群の中に埋没している。

   

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