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2012月8月26日
 アラビア半島北西部   (サウジアラビア王国北西部)

タブーク                             著: 高橋俊二
 Tabuk



 

古代文明の後背地タブーク(Tabuk)

 

20041115

修正 2012822

高橋 俊二

 

前書き

紹介

1. 預言者ムハンマドのタブーク遠征

2. タブーク州の地理

2.1 タブーク州の主な市町

2.2 タブークの気候

2.3 火山の黒い集団ハッラ・ラハー(Harrat Raha)

3. 歴史的な町タブークとその周辺地域

3.1 考古学的遺跡

3.1.1 涸れ谷ダム(Wadi Damm、集水の涸れ谷)の岩壁画と碑文

3.1.2 タブーク城(Tabuk Castle)

3.1.3 アイン・スクッラ(Ain Sukkrah、預言者の泉)

3.1.4 預言者モスク(Prophets Mosque)

3.1.5 古代の町クライヤ(Qurayyah、村)

3.1.6 古代オアシスの町バダア(Al Bad'、創造の町)

3.1.7 幻のウヤイナ(Al-Uyaynah)

3.1.8ラウワーフ寺院(Rawwafah Temple)      

3.1.9フライバ(Al-Khuraibah、海難の港)

3.1.10 ムアッザム(Al-Muazzam、栄光の駅)

3.1.11 アフダル(Al-Akhdar、緑の町)

3.1.12 ディーサ(Ad-Disah、密林)

3.1.13 ヒスマー地方(Hasma Region、切断面の山地)

3.1.14 ザート・ハージュ(Dhat al Haj、或る巡礼者)

3.1.15 ジャガル・ハル(Jagal al Hal、最北の駅舎)

3.2 タブーク(Tabuk)地方にある主な砦

3.2.1 アズラム砦(Al-Azlam Fort)

3.2.2 ムワイリフ砦(Al-Muwailih Fort)

3.2.3 ワジュフ砦(Al-Wajh Fort、栄誉の砦)

3.2.4 ズライブ砦(Az-Zuraib Fort)

4. 古代文明の出会いタイマー(Tayma)

4.1 タイマーの地理と歴史

4.1.1 古代遺跡遺物と地理的位置

4.1.2 メソポタミアの記録と古代隊商路

4.1.3 女王シャムシー(Shamsi)と女王ザビーベ(Zabibei)

4.1.4 バビロニアの首都であった時代

4.1.5 イスラームの到来

4.1.6 近代の訪問者

4.2 重要な考古学的遺跡

4.2.1 大規模な町を囲う城壁 

    カスル・ハムラ(Qasr Al Hamra)

    カスル・ラドム(Qasr Al-Radhm)

    カスル・アブラク(Qasr Al-Ablaq)

4.2.2 ハッダージュの井戸(Haddaj Well)

4.2.3 共同墓地(Cemeteries)

4.2.4 古代碑文

    カスル・ベジャイディー(Qasr Al-Bejaidi)

4.2.5 ハディーカ塚(Al-Hadiqah Mound)

    考古学と民族誌の博物館

5. ヒジャーズ鉄道

5.1 タブーク駅

5.2 ビイル・イブン・ハルマース(Bir ibn Hirmas)の北の路床

5.3 幻と成った鉄道復旧

5.4 ローレンスのハーラ・アンマール(Halat Ammar)攻撃

5.5 タブークの南の路床

5.6 ダルブ・タブーキー(Ad Darb al Tabukiyah)

6. アラビアのローレンス

6.1 映画のローレンス

6.2 英国の三枚舌外交

6.3 涸れ谷ラム(Wadi Rumm)

7. 農業開発

7.1 タブーク農業開発会社(TADCO)

7.1.1 会社概要

7.1.2 実験室(Laboratory)

7.1.3 220個の円形農場

7.1.4 果樹園

7.1.5 養蜂  

7.2 ファハド・ビン・スルターン殿下の農場

7.3 アラビア供給通商会社(ASTRA)

7.3.1 25種類の野菜

7.3.2 400haの果樹園

7.3.3 10haのグリーンハウスでの切り花栽培

7.3.4 苗木生産

7.3.5 養蜂

7.3.6 養鶏養鶉

7.3.7 その他

8. その他の産業

8.1 キング・アブドゥルアズィーズ軍事都市(King Abdul Aziz Military City)

8.2 白砂鉱山

8.3 タブーク・セメント

8.4 競駱駝場 

9. タブークへの訪問

9.1 ジャウフ(ジョウフ)からタブークを経て紅海岸を南へ

9.1.1 ジャウフ(Jawf)州からの道路

9.1.2 旧クライヤート(Qurayyat)州境

9.1.3 夜明けの涸れ谷ファジュル(Fajr)の検問所

9.1.4 夜明け(Fajr)の分岐からタブーク(トブク)

9.1.5 タブーク(Tabuk)市の朝

9.1.6 タブーク(Tabuk)市の北

9.1.7 墓場の泉ビイル・イブン・ハルマース(Bir Ibn Hirmas)

9.1.8 大規模農場訪問

9.2 タブーク(Tabuk)から西へ

9.2.1 涸れ谷アサフィル(Wadi Asafir)の有力な候補

9.2.2 切断面のあるヒスマー山地(Hasma )

9.2.3 茸の笠型の岩山

9.2.4 涸れ谷サドル(Wadi Sadr、始まり、胸部)

9.2.5 広い分水嶺(Watershed)

9.2.6 癒しの涸れ谷サルワ(Wadi Saluwah)

9.2.7 涸れ谷ザフカーン(Wadi Zahkan)

9.2.8 ドゥバー(Dhuba、門扉のかんぬき)

9.3 ドゥバーから南へ

9.3.1 広い隠れ谷(スッル、As Surr

9.3.2 水の流れる涸れ谷

9.3.3 海岸に湖水のあるワジュフ(Al-Wajh)

9.3.4 大きなアカシア林の南のウムルジ(Umluj)

9.4 ヒジャーズ鉄道跡をタブークへ

9.4.1 パトリク・ピエラード氏(Mr. Patrick Pierard)のガイド

9.4.2 マダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)出発

9.4.3 ヒジャーズ鉄道21番駅を起点に

9.4.4 ヒジャーズ鉄道跡への取り付き

9.4.5 鉄道敷きを走るな

9.4.6 騎乗のベドウインの親子

9.4.7 主要駅カルア・ムアッザム(Qal’at at Muazzam)

9.4.8 水の流れのある大きなワーディー(涸れ谷)

9.4.9 隊商路の駅アフダル(Al Akhdar)北のめがね橋

9.4.10 鉄道トンネル跡

9.4.11 熔岩の散在

9.5 タブーク(Tabuk)到着

9.5.1 ハラ・ホテル(Hara Hotel)

9.5.2 暗闇の蜜柑狩り

9.6 タブークからアカバ湾方面周遊 

9.6.1 ハラ・ホテル出発

9.6.2 墓場の泉(Bir ibn Hirmas)分岐

9.6.3 ナバテアの農村クライヤ跡

9.6.4 涸れ谷ザイタ(Wadi Az Zaytah)

9.6.5 涸れ谷アブヤド(Wadi Abyad)

9.6.6 ハクル(Haql、領域)

9.6.7 シャラフ(Ash Sharaf)峠のパーキング

9.6.8 創造の町バダア(Al Bad')

9.6.9バダアの警察署での取り調べ

9.7 バダアからドゥバー経由タブークへ

9.7.1 アシェルム岬(Ras Ash Ashelm)分岐

9.7.2 紅海の砂浜カイラ浜(Kyla Beach)

9.7.3ムワイリフ(Muwayleh)南の熱狂の砦

9.7.4ドゥバー新港とドゥバー(かんぬき)

9.7.5 モーテルの朝

9.7.6 ドゥバーからの登り

9.7.7 ラウワーフ(Rawwafah)寺院入り口

9.7.8 一路タブークへ

9.8 タブークからタイマーへ

9.8.1 タブーク(Tabuk)から東へ

9.8.2 競駱駝場と検問所

9.8.3 夜明け(Fajr)の分岐

9.8.4 カリーバ(Al Qalibah)

9.8.5 涸れ谷の集まる農業地帯ジライダ(Jiraydah)

9.9 タイマーとタイマーから南へ

9.9.1 タイマー(Tayma)

9.9.2 カスル・ラマーン(Qasr bin Raman)

9.9.3 ハッダージュ(Haddaj)の泉

9.9.4 アミールの天幕

9.9.5 タイマー(Tayma)

9.9.6 銅石時代の墳墓カーラ・ハイラーン(Qarat al Hairan)

9.9.7 ジャハーラ(Jaharah)

9.9.8ウラー(Al-Ula)/ハーイル(Hayil)分岐 

後書き

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前書き

 

「ナジュドの歴史」を9月下旬に書き上げた後、五ヶ月振りのサウジ出張となった。JETROの中村リヤード所長と連絡を取ると「ナジュドの歴史」は文書量が多いのでホームページへの掲載は少し時間が掛かると告げられた。一年前にサウジの紹介を始めた頃には各編はそれ程長くは無かったのだが地域ごとにまとめ始めてからは各編の文書量がそれなりに増えてしまった。。その為にJETROのご担当の方には迷惑をお掛けしているし、読む方も大変だと云う感想も戴いている。ただ、ご紹介する以上は訪れたそれぞれの地方の情報や資料を出来るだけ多く盛り込みたいと考えているのでご容赦戴きたい。

 

前々からタブーク(Tabuk)地方を紹介しようと考えて居たが、軍事基地がある為に大まかなドライブマップ以外に地図が無く、地名が紹介されて居ても位置関係が良く分からなかったので先送りにして来た。2年前にやっとファールシ(Farsi)から「タブーク地方(Tabuk Region)」と云う地図が出版販売された。この9月の出張中に「サウジアラビア北部」と云う地図も含めて入手したので今回のサウジ紹介はタブーク地方にした。これらの地図で見るとタブーク州の内陸はタイマー(Tayma)を含み、紅海岸はマディーナ(メディナ)(Madinah)の緯度まで南に延びて居り相当に広い範囲に及ぶのが分かった。情報や資料の少ないにも拘わらず、まとめるとやはりかなりな文書量に成った。しかしながらここに掲載できた資料はタブークを紹介するにはごく僅かで限られたものでしか無く、古代文明との関わりではアラビアの門戸であり、更に多くの資料があると思われるので今後とも調べて行きたい。

 

紹介

 

タブークでは昔から冬に成るとサウジ国内では珍しい雪も降り林檎が収穫されると聞いていた。タブークを始めて訪れたのは1997年の9月に行った北西部の植生土壌調査の際であった。実際に訪れてみるとタブークは東側のジャバルシャルーラー山脈(Jabal Sharura)と西側のヒスマー山地(Hasma)の間に北西から南東にほぼ長方形に延びる広い盆地であり、多くの果樹園、ナツメ椰子園や円形農場が広がり、タブーク農業開発会社(TADOC)や民間のASTRA(Arabian Supply and Trading Company)等に代表される大規模農場が並んで居た。又、この当時はサウジアラビア北部でまともな宿はタブークのサハラ・ホテル(Sahara Hotel)だけであったので、宿舎の確保の為にもその後にも北部を旅行する場合には必ずタブークを訪れる事に成った。

 

(注)Sharuraの語幹は邪悪の意味し、Hasmaの語幹は切断、完了、終了、決断等を意味する。

 

タブークに関してまとめた書物を私は現在までに入手して居ないが、その概要を紹介して居るのは私のサウジ紹介の「ハーイルの自然と旅」で使わせて戴いたアブドッラフマーン・アンサーリー博士(Dr. Abdul Raman Ansari)が組織しているダール・カワフィル(Dar Al Qawafil)が旅行者の為に作成した小さなパンフレット及び「オフロード・ヒジャーズ(Off-Road in the Hijaz)」の二人の著者の一人であるパトリック・ピエラード(Patrick Pierard)氏の「タブークとその周辺(Tabuk and Ad Darb Al-Tabukiyah)」である。今回はこれらをその他の資料で補足する形でタブーク州の概要を紹介したい。

 

アブドッラフマーン・アンサーリー博士(Dr. Abdul Raman Ansari)はサウード大学の考古博物学科の元学部長でサウジアラビア王国諮問議会(Majlis al-Shura)の議員を務められた著名な学究であるが、気さくな方で私も二回ほどお会いした事がある。同博士の功績の一つに「空白地帯と呼ばれる沙漠ルブア・ハーリー(Rub' Al Khali)」で紹介したキンダ王国の遺跡カルヤファーウ(Qaryat al Faw)の現在でも引き続き行われている発掘がある。又、同博士は観光開発にも熱心であり、自ら組織されたダール・カワフィル(Dar Al Qawafil)を使って前述のパンフレットを出版する他に「乳香の道」に沿って各地紹介の為の小冊子を作成されている。この小冊子は残念ながら現在までにマダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)のアラビア語版、英語版とタイマー(Tayma)のアラビア語版(英語版が今年出版されたかも知れない)が出版されただけであり、その完成には十数年掛かりそうである。

 

パトリック・ピエラード(Patrick Pierard)氏はフランス陸軍に長く勤めアルジェリアのサハラ沙漠、印度ラジャスタン(Rajasthan)沙漠に勤務し、退役した後、1989年にジェッダ(Jeddah)トムソンCSF電子会社に赴任勤務した。翌年沙漠トレッキング(Desert Trekking Club)を組織し、その後、ビン・ザイド(Bin Zaid Travel & Tourism)が経営するマダーイン・サーリフ・ホテル(Mada’in Salih Hotel)に所属するプロの観光ガイドを勤めていた。私はパトリックと知り合い岩壁画、古墳と言える規模のツムリ(墓)等の存在やローレンス時代のオスマン・トルコの砦、キャラバンサライ(Caravanserai)等の遺跡が沙漠に手つかずに残って居るのを知った。又、私がガイド無しで沙漠を踏破する様に成ったきっかけも同氏から得たし、彼の紹介でリヤード自然の歴史協会に所属しサウジ駐在の英仏米人に沙漠トッレクの同好の士が多いのも知った。

 

タブークが今日のアラビアで広く知られて居るのは何と云っても預言者ムハンマドの遠征した事に由来するので先ずはそれについて述べる事にしたい。

 

1. 預言者ムハンマドのタブーク遠征

 

「ムスリム軍(Muslims)とビザンチン軍(Byzantines)のムウタ(Mu'tah)での交戦の結果、ローマ軍(Romans)33倍と圧倒的に人数で優勢であったにも拘わらず破れた。」との知らせは、織田信長が桶狭間に僅かな兵で今川義元の大軍を打ち破った様に、全アラビアと中東全域を震撼させた。この勝利を見てシリア(Syria)とその近隣に住む数千人の半独立のアラブ部族はイスラームに改宗した。

 

そのムウタの戦い(Battle of Mu’tah)の復讐とイスラームの浸透を防ぐ為にビザンチン(Byzantines)皇帝カエサル(Caesar)はアラビア侵攻の軍備を命じた。預言者はこれに対し神から与えられた自分の使命を果たす為に直ちに戦場でビザンチン軍に立ち向かう決心をした。一部であってもここでムスリム(Muslims)の弱さを見せる事はフナイン(Hunayn)で圧倒的な打撃を受け敗北寸前のアラビアン・ジャーヒリーヤ(Arabian Jahiliya)軍勢への抑制を緩め、又イスラームへの内部からの重大な驚異と成って居るマディーナ(Madinah)内外の偽善者達を勢いつかせてしまう。それで無くても偽善者達はガッサーン朝(Ghassanid)のキリスト教徒のプリンスおよびビザンチン(Byzantines)皇帝カエサル(Caesar)と通じて、その活動の基地となる「紛争のモスク(Mosque of DiarDissension)」を既に建てて居た。

 

この様な厳しい状況を認識した預言者は公にムスリム(Muslims)に戦いの準備を呼びかけ、「ローマは攻撃目標である」と宣言した。しかしながら時は夏の真っ盛りであり、この季節の焼け付く熱さは頂点に達し、収穫の季節に成ったばかりで戦争を遂行する為の物資が極端に不足していた。その上に敵は当時の二大列強の一つであった。それにかかわらずムスリム(Muslims)の信者達は熱狂的に預言者の呼びかけに答え、戦争の準備を始め、ムスリム(Muslims)一人一人に割り当てられた以上の財政的な貢献を行った。ウスマーン('Uthman)アブドッラフマーン・イブン・アウフ('Abd al-Rahman ibn al-'Awf)の様な金持ちが巨額な資金を提供し、騎馬やその他戦備の不足の為にムスリム軍(Muslims)に加われなかった者達は激しくむせび泣き,戦列に参加出来ない事を嘆いた。預言者はそれに感動し、神が彼等を讃えた事をその詩の中で明らかにした。事実、この出来事は偽善者達から偽りの無い者を識別し、信者を装う者達から真の信者を区別する試金石と成った。

 

預言者は紀元631年に3万人のムスリム(Muslims)兵士と共にマディーナ(Madinah)を離れ、遠くビザンチン(Byzantine)帝国領のシリア州(Province of Syria)に極めて近いタブーク(Tabuk)まで行進した。預言者とそのムスリム(Muslims)軍の到着があまりに早かった為、大軍の集結が間に合わず、ローマ皇帝は預言者との交戦を中止せざるをえなかった。

 

預言者はタブーク(Tabuk)20日滞在し、ビザンチン帝国の政治的勢力下で人頭税を支払いその法に従っていた幾つかの衛星国に対しムスリム(Muslims)へ改宗する様に迫った。この為に多くのキリスト教徒の部族が喜んでイスラームに改宗した。この無血勝利でムスリム(Muslims)はローマとの長い戦いを始める前に内部の団結を強めるのに成功したばかりか、アラビア半島のムスリム(Muslims)を信じない者達やそれを装う者達の勢力を打ち砕いた。

 

2. タブーク州の地理

 

タブーク州(位置)

 

タブーク地方の地理

 

(ここをクリックすると図が拡大します。)

(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)

 

タブーク州の北はサウジ/ジョルダン(Saudi/Jordanian)国境から南はマディーナ・ムナッワラ(Madinah Al Munawwarah)州の北部、西は紅海から東はジャウフ州(Al Jawf)との州境にあり窪地を意味するフフラ(Al Hufrah)地方までの範囲に及び、ヒジャーズ(Hijaz)山脈からタブーク堆積盆を含む広大な堆積盆北部の平原地帯への境界部を占めている。

 

この州は地下水が豊富であり、丘陵と涸れ谷(Wadi)に囲まれている。中でも重要な涸れ谷には緑の谷を意味する涸れ谷アフダル(Wadi Al Akhdar)、集水の谷を意味する涸れ谷ダム(Wadi Damm)および涸れ谷アサフィル(Wadi Asafir) がある。

 

(注)涸れ谷アサフィル(Wadi Asafir)Farsi地図には記載が無いがジャバル・シャルーラー(Sharura)とヒスマー山地の間の盆地に流れ込む涸れ谷の一つと思われる。

 

2.1 タブーク州の主な市町

 

タブーク市は北緯28°32”東経36°35”に位置し、北アラビアの活気ある巡礼路と隊商路の入り口であったタブーク州の州都である。タブーク州の主な町としてはこの他にアカバ湾北部に面したハクル(Haql、領域)、紅海岸を北からドゥバー(Dhuba、門扉のかんぬき)、ワジュフ(Al-Wajh、栄誉)、ウムルジ(Umluj、母なる海の深さ)等があり、更に同州内陸部の南にはバビロニアの首都が一時あったタイマー(Tayma)がある。ドゥバー(Dhuba、門扉のかんぬき)の北のドゥバー港には新しいフェリーボート(Ferryboat)の専用桟橋も完成し、紅海の対岸のエジプトとの往来の重要な渡し場と成っている。

 

2.2 タブークの気候

 

気候は夏にはかなり暑く乾燥しているが冬には氷点下まで気温が下がる。降雨量は冬場の雨期にたまに雷雨が降る以外は殆ど無いに等しい。紅海岸は水が美しくタブークの空軍基地の外国人を中心としたTEDC(Tabuk Expatriates Dive Club)等のスキン・ダイビング活動が盛んである。

 

2.3 火山の黒い集団ハッラ・ラハー(Harrat Ar Raha)

 

アラビア盾状地の北西に角にあってもタブークは紅海から吹いてくる風からハッラ・ラハー(Harrat Ar Raha)に遮られ守られて居る。火山の黒い集団は四輪駆動車(4WD)でも走行が難しく、そこを独力で抜けて涸れ谷カラキール(Wadi Qaraqir)の魅力的な渓谷やディーサ(Disah、密林)の青々としたナツメ椰子の林に到達するのは難しい。パトリック・ピエラード(Patrick Pierard)氏は「タブーク(Tabuk)からディーサ(Disah)まで直接トレックする冒険にはこの地方のガイドを雇うのが賢明である。ガイドは最近の降雨あった後の状況も良く知って居る」と言う。この地方の地質図を作った専門家は、「南東にハッラ・ウワイリド(Harrat Uwayrid)へと続くハッラ・ラハー(Harrat Ar Raha)に関する二年間にわたった長い業務期間でほんの数回しかこの地を訪れる機会が無かった。それでも涸れ谷カラキール(Wadi Qaraqir)を眺望できる尖塔から眺めるこのトレックの轍に沿ったハラット(Harrat、熔岩地帯)の完全な黒さと明るい赤い砂岩の対象は実に見事だ」と言って居た。

 

パトリック・ピエラード(Patrick Pierard)氏は「沙漠を横断する轍は大雨で洗い流されてしまう。地方の公共事業部がベドウインの交通を再開するのには近代的な重機を駆使しても時間が掛かる。この為、紅海側から二回ばかり涸れ谷カラキール(Wadi Qaraqir)を上流へと辿り、渓谷の景色の美しさ、崖から湧き出す泉やあちらこちらに花を咲かせている西洋夾竹桃(Oleander)やアラブに先立つサムード(Thamudic)時代の岩壁画を愛でながらディーサ(Disah)に到達出来た」と述べている。(涸れ谷カラキール(Wadi Qaraqir)は地図では確認出来ないがドゥバー(Dhuba)の南35 km付近の海岸に流れ込む涸れ谷ダーマ(Wadi Damah)の上流部と思われる。)

 

3. 歴史的な町タブークとその周辺地域

 

古代のタブーク(Tabuk)は隣接したシリア(Syria)、エジプト(Egypt)およびメソポタミア(Mesopotamia)等の隣接した古代文明と通商および文化的接触があり、歴史家や地理学者にイエメン(Yemen)とシリア(Syria)の間の古代隊商路上にある町として紹介されて来た。プトレマイオス(Ptolemy、紀元2世紀のアレキザンドリア(Alexandria)の天文、地理、数学者)はアラビアの北西部をタバワ(Tabawa)と云う名で記述して居り、この名がタブカ(Tabuka)又はタブーク(Tabuk)の出典と思われる。これが本当で有ればこの町はプトレマイオスに時代から続いている事になる。アントラ(Antra)やナビーカ(Nabiqa)の様なイスラーム以前のアラビアの詩人は作詩の中にタブーク西方の山地のヒスマー(Hasma)地方について詠んでいる。(ヒスマー(Hasma)には切断、完了、終了、決定等の意味がある、)

 

タブーク(Tabuk)はイスラームを到来させた預言者ムハンマド(Prophet Mohammad)治世の紀元630年に起きた戦闘によって有名になった。それ以来、北アラビアの入り口としての地位を保って来た。近年になって、1877年にチャールズモンタギュー・ダウティ(Charles Montague Doughty)1884年にチャールズ・フーバー(Charles Huber)等の西欧の探検家が訪れている。

 

3.1 考古学的遺跡

 

タブーク州には岩壁画(Petroglyph)、碑文、砦、宮殿、城壁、シリア/エジプト巡礼路、タブーク駅舎を含むヒジャーズ鉄道跡の様な古代の考古学的遺跡が多い。重要な遺跡としては次の様な場所が挙げられる。

 

3.1.1 涸れ谷ダム(Wadi Damm、集水の涸れ谷)の岩壁画と碑文

 

タブーク(Tabuk)の西側の涸れ谷ダム(Wadi Damm、集水の涸れ谷)には旧石器時代からイスラーム時代までの各年代の岩壁画や碑文が数百ヶ所にわたって描かれている。そこに描かれている人間も動物も豊かな絵画様式の流動性を持って居り、サムード(Thamudic)、ギリシャ(Greek)およびナバテア(Nabataean)碑文の書かれている場所が数十ヶ所で見つかっている。

 

3.1.2 タブーク城(Tabuk Castle)

 

この城は聖なるクルアーン(コーラン)(Qur’an)にはアシャブ・アイカ城(Ashab Al-Ayka)城として記述され良く知られている。この城が築城されたのは紀元前3500年に遡り、数多くの修復が行われて来て居り、最後の修復は紀元1652年に行われた。この城は巡礼を歓迎する為にシリア(Syria)からジョルダン(Jordan)国境を通りマディーナ・ムナッワラ(Madinah Al Munawwarah)へ至る巡礼路に沿って幾つか建てられて居た砦や駅の一つでもあった。

 

砦は二階建てで一階には開けた中庭と幾つかの部屋、モスク、井戸および監視塔へ護衛が登るのに使う階段があった。砦はこの地方の考古学上の象徴であり、訪問者に開放されている。

 

3.1.3 アイン・スクッラ(Ain Sukkrah、預言者の泉)

 

これはイスラーム以前からの古代の泉であり、タブーク(Tabuk)への侵攻の際に預言者ムハンマド(Prophet Mohammad)10日間以上もこの泉近くに宿営しこの水を飲んでいた。

 

3.1.4 預言者モスク(Prophets Mosque)

 

このモスクは「悔恨のモスク」としても知られて居り、元々は土壁とナツメ椰子の幹の屋根で作られて居た。このモスクは紀元1652年に一旦修復され、その後故ファイサル・イブン・アブドゥルアズィーズ王(Faisal Ibn Abdul-Aziz)の勅命でマディーナ(Madinah)の「預言者モスク」の様式に沿って完全な改修が行われた。

 

3.1.5 古代の町クライヤ(Qurayyah)

 

古代の町クライヤ(Qurayyah)の廃墟はタブーク(Tabuk)の北西約57 kmのビイル・イブン・ハルマース(Bir ibn Hirmas、墓場の泉)分岐の西側に広がる。この起源は紀元前1000年期に遡り、周囲に良く開墾された農地を伴った大きな町であった。製陶窯に加えて陶器の破片や石器が高い密度で集中し、寺院がある等、大きな集落が存在した事を証明している。雨水の浸水を避ける為に丘へと上がっているこの町の周囲には堅固な城壁が作られていた。バダア(Al Bad'、創造)の灌漑用水路に似た配水路が発達し、二つの地域の間に密接なつながりがあった事を示している。

 

パトリック・ピエラード(Patrick Pierard)氏は「ビイル・イブン・ハルマース(Bir ibn Hirmas)15km西の道路の南に考古学局の柵がある。高さが100m以下の岡の間に青銅期の村の残骸が広がる。二つのナバテア時代の建物、400 m x 300 mのローマのオッピデュム(Oppidum)、幾つかの原野を横切る塀、洪水から村を守る為のダム或いはこのくぼみを囲う城壁がある。この様な城壁のある集落がクライヤ (Qurayyah)と云う村を示す語の語源と成った」と述べている。

 

(注)オッピデュム(Oppidum)とは、ローマの軍隊が露営するときに築く塀を持った軍用キャンプ。

 

専門家は「これはナバテアの農業集落であり、およそ紀元600年に20年から50年に及ぶ長い干魃でこの村は見捨てられた。タブークの様に地下水脈も無く、井戸が無いのでこの集落は再び復興される事は無かったが、ローマ時代に、カナート(Qanat、地下水路)を使い優れた技術で穀物を生産したナバテア農夫の偉大さの証拠をここでも見受けられる。降雨と実りが無い年が数年続き、意志が挫かれナバテアはもっと豊かな土地を求めてシリアやエジプトへと北に移住した」と言う。

 

3.1.6 古代オアシスの町バダア(Al Bad'、創造の町)

 

有名な古代オアシスの町バダア(Al Bad')はタブーク(Tabuk)の西方約145 kmをほぼ南北に走る涸れ谷アファール(Wadi 'Ifal or Wadi Afal)の中にあり、マガイール・シュアイブ(Maghair Shuaib)と呼ばれる岩山を刻んだナバテア(Nabataean)荘厳な墓があるので有名である。プトレマイオス(Ptolemy)はこの古代オアシスをウヤイナ(Al-Uyaynah)と記述している。イスラーム初期にはこの町はマルカタ(Al-Malqatah)として知られる地区にあり、墓と町の存在はこのオアシスが交易や農業の中心として栄え、異なった時代の異なった国の集落が絶え間無く営まれていた証拠である。

 

パトリック・ピエラード(Patrick Pierard)氏は「バダアのサイトはムゲイル・シュエイブ(Mugheir Shueib)呼ばれラウワーフ(Rawwafah)130 km西北西にある「乳香(Frankincense)の道」の重要な宿場であった。この遺跡は初期のイスラーム時代の記録によればミドヤン(Midyan)と呼ばれている。バダア(Al Bad')の南の岡には30の墓があり、小さなマダーイン・サーリフとあだ名されている。この場所をサウジ教育省考古学局は今でも一般公開して居ない。四輪駆動車(4WD)で岡の頂上まで登ると、ドゥバー/ハクル道路(Road between Dhuba and Haql)の西側に目立つ六つの墓があるのが見える。バダア(Al Bad')からタブーク(Tabuk)へ戻る為には一旦北へ向かいシャラフ(Ash Sharaf)で東に向きを変えてビイル・イブン・ハルマース(Bir ibn Hirmas)へと抜ける轍を踏破すると涸れ谷ザイタ(Wadi Zeita)の上流に着く。両側に尖塔が見え、しばしばヨルダンの涸れ谷ラム(Wadi Rumm or Ramm)と比較される。道路に近い崖は岩登りのゲレンデにも使われて居る。休憩やピクニックには自由に涸れ谷(ワーディー)の狭い側壁を選択できる。常に吹き渡る軽い微風のお陰で熱い真夏でも日陰は涼しい。」と述べている。

 

3.1.7 幻のウヤイナ(Al-Uyaynah)

 

「このオアシスはドゥバー(Dhuba)の町の北およそ20 kmに位置し、その海岸にはナバテア(Nabataean)時代の有名な港で白い町を意味するルキ・コマ(Luki Koma)があった。ルキ・コマ(Luki Koma)の遺物は今でもマガアル・コッファル(Maghaar Al Koffar)と呼ばれる泉の井戸近くのアイヌア・オアシス(Aynuah Oasis)で見つかる」との記述を幾つかの書物で見る。

 

ファールシ(Farsi)の地図ではこの場所にその様な地名は記されて無く、疑問に思っていた。調べてみるとこの記述は教育省考古庁出版の「サウジアラビアの遺跡の紹介(An Introduction to Saudi Arabian Antiquities)」が出典である事が分かった。この本ではタブーク(Tabuk)からの各遺跡への位置は道路沿いに走った車の走行距離で示されて居る。地図が整備されて無い環境でそれぞれの場所を示す為の先人の苦労が偲ばれるものの各々の遺跡の位置は再度検証する必要がある。

 

上記の記述に当てはまる場所は現在のドゥバー(Dhuba)港の近くであり、地図上ではウヤイナ(Al-Uyaynah)との記載は無い。但し、英語訳のUyaynah'AyynahおよびAynuahは同じ名である可能性は高く、上記のウヤイナ(Al-Uyaynah)の説明ではAynuahと云う泉のあるオアシスの名が出て来て居るのでここで云うウヤイナ(Al-Uyaynah)は現在のドゥバー(Dhuba)港の説明であるのかも知れない。

 

199412月に始めて出版販売されたファールシ(Farsi)の地図で見るとタブーク(Tabuk)州内でウヤイナ(Al-Uyaynah)と記載のあるのは上記の古代の町クライヤ(Qurayyah)の道路を挟んだ北で、ビイル・イブン・ハルマース(Bir ibn Hirmas、墓場の泉)分岐から20 km西の少し北の涸れ谷に挟まれた場所である。しかしながら最近に成って同じくファールシ(Farsi)から出版販売されたタブーク地方とサウジアラビア北部と云う二つの地図では以前のクライヤ(Qurayyah)の位置にアヤイナ(Al-Ayaynah)と示され、クライヤ(Qurayyah)の位置はもっと南東に成っている。しかも、この二つの地図でもクライヤ(Qurayyah)の位置が微妙に異なっている。

 

私は三度程、ビイル・イブン・ハルマース(Bir ibn Hirmas、墓場の泉)を訪れて居るが、その西側には遺跡の町は一つしか見当たらなかったので古代の町クライヤ(Qurayyah)とウヤイナ(Al-Uyaynah)は同じ場所なのだと思う。但し、更に奥にもう一つ遺跡があっても不思議は無くこの二つの地名が同じ場所かどうかについて十分な確信は持ってない。但し、パトリック・ピエラード(Patrick Pierard)氏の云う遺跡の町クライヤ(Qurayyah)は最近出版販売されたこの二つの地図に記載されたウヤイナ(Al-Uyaynah)である事は実際に訪問確認しているので間違いない。

 

又、ウヤイナ(Al-Uyaynah)は泉に関連する意味を持って居るのでプトレマイオス(Ptolemy)がこの古代オアシス町バダア(Al Bad')をウヤイナ(Al-Uyaynah)と記述した様にこの地名が幾つかの場所に名付けられても不思議は無い。その様な場所の中ではサウジ公国設立に深く関わっているナジュド(Najd)ディルイーヤ(Dir'iyyah)の北にあるウヤイナ(Al-Uyaynah)が特に良く知られている。詳しくは今年の9月に紹介させて戴いた「ナジュドの歴史」をご参照戴きたい。

 

3.1.8 ラウワーフ寺院(Rawwafah Temple)

 

この寺院跡はヒスマー(Hasma)地方にあり、タブーク(Tabuk)の南西約60 kmに位置している。この寺院は紀元前2世紀に遡り、ローマ風ナバテア(Roman Nabataean)式寺院を代表している。寺院の入り口に彫られた碑文に示されている様にこの寺院はジョルダン(Jordan)の涸れ谷ラム(Wadi Rumm or Ramm)にあるローマ寺院に似て居り、この二つの寺院は共に古代の隊商路に位置している。

 

パトリック・ピエラード(Patrick Pierard)氏は「カラスが飛んで居るような、ラウワーフ(Rawwafah)のナバテア時代からローマ時代にかけての寺院や多くのその他の岩壁彫刻はディーサ(Disah)から僅か25kmしか離れて居ない。(この廃墟は1975年にサウジ教育省考古学局の出版した「サウジアラビア考古学」と言う本に記録されて居る。)ここでもトレック道は直線では無く、ドゥバー/タブーク街道のドゥバーから105 kmタブークへ74 km地点の崖からドゥバーへの下りに掛かった所の標識から東南東にベドウインの踏み跡を21km行った所である。この街道からの入り口には更にアラビア語で青地に白でラウワーフ(Rawwafah)と記されている。アメリカの西部に似た駱駝の放牧地の景観をベドウインの踏み跡に沿って、通り抜けて行く。同じ様に良く使われている多くの踏み跡があるので、廃墟が見つかるかどうか疑いを持ち始める。その都度、この踏み跡に沿って生活するベドウインに訊ねると、にこやかに教えてくれるので何度も進む方向を変える事になる」と述べている。

 

更に同氏は「私は日暮れの一時間前に長い年月に耐えて完全に組み立てられた石の構造物を見つけた。専門家によれば、ここに書かれた有名なローマ皇帝マルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius)を讃える記述は紀元166年のものである。それから18世紀も経ているが、角石は今でも完全に一列に並び、角度も保って居る。二つの谷の鞍部にある寺の目立つ位置はアルジェリアのバツナ駱駝道(Batna Camel Trail)のコンスタンティン(Constantine)を眺めるエトルスキャン円錐記念碑(Etruscan Conical Monument)を思い出す。いまだに、昼も夜もこの人口構造物は地平線の目を引く目印である。ナバテアの裕福な駱駝兵に雇われ、沙漠の真ん中に頑丈で長く残るランドマーク(Landmark)を建てた才能ある職人について、私はもっと詳しく知りたい。背の高い草で被われたこの様な場所では駱駝よりは野牛を我々西洋人は期待するかも知れないが、老いも若きもベドウインは駱駝である事に何も疑問を持たない。寺に近い美しい赤い円錐型の上には駱駝の岩壁画が描かれ、その上には駱駝を示す新しい白い絵が重複している。これはこの沙漠の船とも言われる駱駝が今でも生活の重要な部分を占めている証だ」とも述べている。

 

3.1.9 フライバ(Al-Khuraibah、海難の港)

 

このイスラーム初期の遺跡はタブーク(Tabuk)の西から少し西南西方向に約135 kmの紅海岸にある。フライバ(Al-Khuraibah)は紅海の港町であり、ナバテア(Nabataean)時代からイスラーム到来以降も引き続いて使われて来た。何故、海難と名付けられているのか何れは調べてみたい。

 

3.1.10 ムアッザム(Al Muazzam、栄光の駅)

 

この遺跡はレバノンからの巡礼路の駅でヒジャーズ鉄道のカルア・ムアッザム駅(Qal'at Al Muazzam、栄光の砦)の近傍にあり、三方を石造りの城壁で囲まれ、四角なモスクを備えた城である。この遺跡はタブーク(Tabuk)の東南120 kmでアクダール(Akhdar)の東南52 kmに位置して居り、オスマン・カリフ(Ottoman Caliph)のオトマン二世(OtmanII)治下の紀元1622年に建設された。砦の全面には四つの碑文が刻まれている。

 

パトリック・ピエラード(Patrick Pierard)氏は「この最上級のキャラバンサライ(Caravanserai)であるムアッザム駅舎(Qal'at al Muazzam)へはアフダル駅も含め、タブークから一日でのトレックも可能である。両砦(駅舎)とも線路敷きから目立って居り、GPS(人口衛星使用の全世界的な位置測定装置)を使わずとも、これらの駅舎を探すのは普通に出来る。べドウィンの通り道が鉄道敷きに無いのは降雨で洗い流された穴を避ける為の安全上の理由であるが、走行には線路敷きを見失わない様に注意する必要がある」と言う。

 

3.1.11 アフダル(Al-Akhdar、緑の町)

 

アフダル駅(Qal'at al Akhdar)遺跡はレバノンからの巡礼路の主要なキャラバンサライ(Caravanserai)であり、タブーク(Tabuk)の南72kmに位置している。その姿は西暦1907年にジョウセン(Jaussen)が撮影したままの状態で残っている。現地の住人が積み石を他の目的に転用するのをサウジ教育省考古学局は禁止したが、残念な事にはそれ以前に意図的に破壊されてしまって居る。涸れ谷アフダル(Wadi al Akhdar)を見晴らす丘の上からビールカト(Birqat、雨水を溜める貯槽)を伴う四角な基礎の古典的砦の配置を鳥瞰できる。今では二つの大きな涸れ谷(Wadi)の合流点のこの廃墟は柵で囲われ、近代的な沙漠パトロールの直接保護下にある。

 

3.1.12 ディーサ(Ad-Disah、密林)

 

この遺跡はラハー熔岩地帯(Harrat Ar Raha、挽き臼の熔岩地帯)の中のタブーク(Tabuk)から約85 km南に位置し、城壁と住居跡と共にナバテア(Nabataean)およびイスラーム初期の碑文が残っている。

 

パトリック・ピエラード(Patrick Pierard)氏は「マダーイン・サーリフ(Mada'in -Salih)160墓を訪ねた後ではディーサ(Disah、密林)の孤立したナバテアの墓を見るとまごついてしまう。古代的であるがそれ程風化して居ない死後への門を含む200m長さの岡はサウジ教育省考古学局の命令によって柵で囲まれてしまっている。この写真を撮るのに障害となる柵に文句を言えないのは、パリからニューヨークまでスプレーで簡単に何にでも何処でも醜い落書きをする若者から守る最も有効な方法だからである。私はグテンベルグ(Gutenberg)以前に古代人によって描かれた岩壁画が好みである。寒冷化の時代で湿気のあるアラビア半島で狩りをした動物の様子や後には飼育していた牛に関する情報を古代人が残す為の唯一の手段は岩壁画であった。岩壁画には目録や時代考証をする価値が十分あり、それに私はあこがれている」と記している。

 

3.1.13 ヒスマー地方(Hasma region、切断面の山地)

 

ヒスマー地方(Hasma region)はタブーク(Tabuk)市の西に位置して居り、その重要な考古学的遺跡はその北西部のラウズ山(Jabal Al-Lawz、難民の山)の周辺にある。ラウズ山(Jabal Al-Lawz)はタブーク(Tabuk)から西北西に125 km離れ、この地域では標高の一番高い山塊である。この山塊はタブーク(Tabuk)の西から北へとサラワト山脈(The Chain of Sarawat Mountains)へつながり、更に北へジョルダン(Jordan)の涸れ谷ラム(Wadi Rumm)まで続いている。この地域にはサムード(Thamudic)、ナバテア(Nabataean)および早期イスラームの碑文に加えて一万年前の岩壁画や碑文が散らばっている。ヒスマー地方(Hasma Region)はその地理的な位置からナバテア時代(Nabataean Era)の紀元1世紀および紀元2世紀に通商が栄え、文明が発展した。それ以降にもこの地方の人々の為の通商は続きこの地域にアラビア人集落が永続的にあった事を示している。

 

3.1.14 ザート・ハージュ(Dhat al Haj、或る巡礼者)

 

ザート・ハージュ(Dhat al Haj)はヨルダン国境南の巡礼路の駅であり、昔はタブークの北の巨大な平原を見晴らす眺望があった。独特な門にはめ込まれた上薬を塗られた銘板によるとヘジラ暦1062年(西暦1652年)にダマスカス総督のワリー(Wali)はその建設業者にこの聖なる砦を以前よりも強固で美しく再建する様に命じた。西暦1907年、フランス人旅行者ジョウッセン(Jaussen)およびサヴィニャク(Savignac)はヒジャーズ(Hijaz)鉄道守備隊が電報局を取り入れて追加して建設した上層を示すタブーク駅舎(Qal'at Tabuk)を含めた興味ある写真を撮っている。西暦1988年にザート・ハージュ(Dhat al Haj)駅はその傍にあった雨水を溜める貯槽であるビールカト(Birqat)の清掃中に西壁が崩れてしまった。現在はこの損傷は修復され、駅舎は公開されている考古学遺跡一覧に記載されて居る。ザート・ハージュ(Dhat al Haj)はキャラバン(Caravan)が次の駅であるジョルダンのムダワラ(Al Mudawara)に入る前に最後に休む場所であった。

 

3.1.15 ジャガル・ハル(Jagal al Hal、最北の駅舎)

 

タブーク(Tabuk)の北北西約90 kmにジャガル・ハル(Jagal al Hal)と記載した標識が立ち、そこが道路西側の均された土漠道を5 km入るとジャガル・ハル(Jagal al Hal)の入り口である。遙か遠くから朽ちたナツメ椰子の畑の中に建つ標準的なCFH(The Hijaz Railway)駅舎の近くにシリア・ルート(Syria Route)のキャラバンサライ(Caravanserai)の頑丈な立方型があるのに気が付く。ここが50年代のサウジの国境であり、保護者でもあった故アブドゥルアズィーズ王との合意でハロルド・フィルビー(Harold Philby)がミディアン(Midian)の土地の探検と調査を行った。今ではこの砦の壁は雨水を溜める貯槽であるビールカト(Birqat)の側が崩壊してはいるが、内部にはカルア・ムアッザム(Qal'at al Muazzam)の様な監視塔をしっかりと支えているアーチが残っている。

 

3.2 タブーク(Tabuk)地方にある主な砦

 

タブーク地方にはシリア/エジプトからの古代巡礼路に沿ってアブドゥルアズィーズ(Abdul Aziz)王の治下で建設された歴史的な紅海岸のドゥバー(Dhuba、門扉のかんぬき)砦に加えて、ヒジャーズ鉄道のヨルダン国境に近いザート・ハージュ(Dhat Al Haj)砦、紅海岸のドゥバーの北45 kmにあるムワイリフ(Al-Mauwailih)砦およびドゥバーから158 km南にあるワジュフ砦(Al-Wajh Fort、栄光)、更にその20 km東にあるズライブ砦(az-Zuraib)等がある。

 

3.2.1 アズラム砦(Al-Azlam Fort)

 

ドゥバー(Dhuba、門扉のかんぬき)の町から海岸に沿って45 km南下した位置し、マムルーク/オスマン(Mamluk Ottoman)時代におけるエジプト人巡礼路の駅の一つであった。この砦はスルターン・ムハンマド・ビン・カラウーン(Sultan Mohammed Bin Qalawoon)の治下に建設されスルターン・カンソ・ゴリー(Aultan Qanso Al-Ghori)治下の紀元916年に改修された。この砦は中庭、内側の住居区、四角や半円の部屋や大きな宴会場から成っていた。

 

この場所にはファールシ(Farsi)の新しい地図にはカルア・アズナム(Qal'at Al Athnam)との記載があり、多少発音は異なるがほぼこの町に城の意味が含まれるのでアズラム(Al-Azlam)と同じ町であると私は考える。

 

3.2.2 ムワイリフ砦(Al-Muwailih Fort)

 

ドゥバー(Dhuba、門扉のかんぬき)の町から海岸沿いに北へ45 kmに位置し、砦の北には二つの井戸があり、砦はマムルーク(カルア・アズナム)時代の紀元986年に建てられた。この砦はエジプト人巡礼路の主要な駅でスルターン・スライマーン・カヌーニ(Sultan Sulaiman Al-Qanooni)の時代には大きな軍事拠点であった。

 

3.2.3 ワジュフ砦(Al-Wajh Fort、栄誉の砦)

 

ドゥバー(Dhuba、門扉のかんぬき)の町から紅海岸を南へ150 km下がった海岸に位置する長方形の砦で、監視塔、小さな中庭、幾つかの部屋やその他の施設から成り、紀元1703年に建設された。

 

ワジュフ(Al-Wajh、栄誉)は第一次世界大戦でベドウイン反乱軍がアウダ・アブー・ターイに指導されローレンスと共に涸れ谷ラム(Wadi Ramm)まで北上し、そこから西へとアカバのトルコ軍を撃破した駱駝騎乗隊遠征の出発地でもある。

 

3.2.4 ズライブ砦(Az-Zuraib Fort)

 

紅海岸にあるワジュフ(Al-Wajh、栄誉の町)から約20 km東でズライブ涸れ谷(Wadi az-Zuraib)の中に建ち、巡礼達のキャラバンの為の駅としてスルターン・アハマド(Ahmed I, 1590 – 1617)治世のヒジュラ暦1026年に建設された。長方形をして居り、4つの監視塔と大きな入場門を備えている。

 

ファールシ(Farsi)の新しい地図ではこの場所は家を意味するバイト(Al Bayt)と記されており、建造物があるのが分かる。

 

4. 古代文明の出会いタイマー(Tayma)

 

4.1 タイマーの地理と歴史

 

4.1.1 古代遺跡遺物と地理的位置

 

タイマー(Tayma)の古代遺跡遺物はサウジアラビア王国北西地域では最も卓越している。この古代の町はタブーク(Tabuk)の南東220 kmマディーナ・ムナッワラ(Madinah Al-Munawwarah)の北370 kmで北緯27°38”東経38°29”に位置している。この古いオアシスには先史時代からイスラーム時代までの様々な考古学的遺跡があり、更に紀元前6世紀に遡る古代の碑文やイスラーム初期のその他の遺跡も存在している。この町は多くの井戸や果樹園を伴い北へと広がる農業地帯に囲まれており、町自体がハッダージュ(Haddaj)と呼ばれる偉大な井戸の周囲に発展している。

 

4.1.2 メソポタミアの記録と古代隊商路

 

タイマー(Tayma)は良く知られた古代の町であり、最初に記述されたのが紀元前8世紀のメソポタミアの記録(Mesopotamian Record)である。この古代の町は隊商が休憩し、祈りを捧げ、イエメン(Yemen)への旅に出立する前の補給を行う古代隊商路に沿った戦略的な場所として重要であった。

 

アラビア半島南岸で現在のオマーン(Sultanate of Oman)南部のドファール(Dufar)地方から北上するには2つのルートがあった。1つは東へ向かってアラビア湾岸に出るルートで、もう1つは西ルートと呼ばれ涸れ谷ハドラマウト(Wadi Hadramawt)を横断し北へマディーナ(Madinah)、ウラー(Al-Ula)、ヒジュル(ヒジル)(Al-Hijr)を通りタイマー(Tayma)へ至った。

 

このタイマー(Tayma)の交易の中心としての役割はペルシア帝国(Persian Empire)とローマ帝国(Roma Empire)間の長年の戦いによって南交易隊商路が廃れると共に色褪せてしまった。(但し、内陸市場での乳香貿易の衰退は別の理由による。)

 

4.1.3 女王シャムシー(Shamsi)と女王ザビーベ(Zabibei)

 

タイマー(Tayma)の有名な支配者には紀元前745年から727年のアッシリア王ティグス・ピレセール三世(Assyrian King Tiglath-PileserIII)と同時代の二人の女王シャムシー(Shamsi)とザビーベ(Zabibei)が居た。二人の女王はアラビア半島の通商路およびエジプトや地中海を結ぶ通商路の支配を巡ってアッシリア帝国(Assyrian Empire)に戦いを挑んだ。詳しくは本年春に掲載戴いたサウジ紹介シリーズの「海のシルクロードの中継地 沙漠の辺境ジャウフ(Al-Jawf)」をご参照戴きたい。

 

4.1.4 バビロニアの首都であった時代

 

タイマー(Tayma)の繁栄が頂点に達したのは紀元前555年から539年のバビロニア王(Babylonian King)ナボニドゥス(Nabunidis)の治世で、同王はこの町を自分の首都として10年間にわたって支配した。

 

4.1.5 イスラームの到来

 

イスラームの到来以降、タイマー(Tayma)の人々は預言者ムハンマドに人頭税(Jizyah)の支払いを同意し、ヤズィード・イブン・アブースフヤーン(Yazid Ibn Abu-Sufyan)を代官として認めた。アブー・バクル・スィッディーク(Abu Bakr Al-Siddiq)がカリフ(Caliphate)であった間にタイマー(Tayma)はイスラーム軍がレバノン(Levant)征服に向かう軍隊移動の中心となり、高徳のハーリド・イブン ・サイード・アラス(Khalid Ibn Said Ibn Alas)が守備隊の責任者となった。

 

4.1.6 近代の訪問者

 

近代になり、タイマー(Tayma)には紀元1848年にジョージ・ワッリン(George Wallin)、キャルロ・グアルマニ(Carlo Guarmani)、チャールス・ドウティ(Charles Doughty)、紀元1897年にチャールス・フバー(Charles Huber)、紀元1962年ジャウセン(Jaussen)およびサヴィニャク(Savignac)が訪れている。サウジで著名な作家クドス・アンサーリー(Al Qudus Al-Ansari)が紀元1962年に、ハマド・ジャシール(Hamad Al-Jasir)が紀元1969年にそれぞれ訪れ、二人共タイマー(Tayma)の印象を著述している。紀元1962年ウィンネト(Winnet)とリード(Reed)が訪問し、特にその南にあるジェベール・ゴネイム(Jebel Ghoneim)にある遺構と碑文に関する記述を含む旅行記を出版した。

 

4.2 重要な考古学的遺跡

 

4.2.1 大規模な町を囲う城壁

 

重厚な城壁がこの町の西側、南側および東側を囲っているが、北側は通行困難な乾燥した湖或いはサブハ(Sabkha)と成った昔からの自然の湿地帯によって保護されている。城壁は延長が10 kmに及び、石と泥と粘土で作られて居り、場所によっては最低の1 mの個所もあるがその高さはほぼ10 m以上あり、幅は1 mから2 mである。この囲い城壁は防御を目的として作られて居り、大きな石、小さな石それに日干し煉瓦等異なった材料が使われている。この建造は紀元前6世紀から5世紀に遡り、バビロニアのナボニドゥス王(Babylonian King Nabunidis 在位555539B.C)が建造したと云う説もある。

 

カスル・ハムラ(Qasr Al Hamra)

 

この城はタイマー(Tayma)の北西部にあり、カスル(Qasr)の完全な発掘の後に正確な年代が算定された重要な遺跡の一つである。この城は石造りであり三つの区分に分かれている。一つは寺院として使われ、他の二つは城の居住区として使われて居た。サウジ考古学博物部による考古学的発掘は石造りの城の一部を発見した。宗教的象徴である石柱の頭部に見つかった三つのアラム碑文(Aramaic)に示されている様に遺構の幾つかの部分は宗教行事に使われていた。又、同じ地区で発見されたのはタイマー(Tayma)四角石で、現在はリヤード(Riyadh)の国立博物館に展示されている。この城の建造は紀元前7世紀から5世紀に遡り、そこから発見される考古学的遺物は金属器、硬貨およびアラム(Aramaic)、サムード(Thamudic)およびナバテア(Nabataean)文字で描かれた碑文を含んでいる。

 

カスル・ラドム(Qasr Al-Radhm)

 

ラドム(Al-Radhm)はタイマー(Tayma)を囲む西の城壁から100 m離れた位置にあり、石造りで四角い形をして居り、外壁は多くの四角な控え壁で支えられている。井戸は城外に掘られている。アンサーリー(Dr. Abdul Raman Ansari)教授はこの城の平面図はマディーナ(Madinah)のカブ・イブン・アラシャラフ城(Kab ibn Alasharaf)に似ていると言って居り、その建造は紀元前1世紀の半ばに遡る。

 

カスル・アブラク(Qasr Al-Ablaq)

 

この古代の城は依然として砂に埋もれてはいるが、その地上に現れている上部構造からこの城が石で造られて居るのがわかる。この城は古いアラビアの書物や市にそのデザイン、美しさ、スタイルや荘厳な建築様式が論じられ、記述されている。この城は町の南西に位置し、その輝く赤と白の色の為にアブラク(Ablaq)又はアブラク(Ablaq)城とも呼ばれ、町の囲む大きな城壁に繋がる大きな囲いを持っている。この城はサマワール(Al-Samawal)の偉大な祖父のアドヤ(Adya)と関係している。

 

4.2.2 ハッダージュの井戸(Haddaj Well)

 

ハッダージュの泉(Bir Haddaj)はアラビア半島で最大の泉であり、アラビアの歴史の中で最も有名な井戸である。この井戸は洪水の沈泥で完全に埋められ一度は消滅したと言われている。この井戸はスライマーン・ビン・グナイム(Sulaiman Bin Ghunaim)と云う名の男がタイマー(Tayma)にやって来て掘り起こすまで数世紀にわたって埋もれたままであったと云う。今日でもタイマー(Tayma)の人々の名の多くはこの男に因んで名付けられている。この井戸は切石で組まれ深さは約11 m 12 mで、この井戸口は少し変形しているが直径60 mある。水は31の石造りの地下水路(Qanat)に配水されている。この井戸の歴史は紀元前6世紀に遡る。

 

4.2.3 共同墓地(Cemeteries)

 

共同墓地はタイマー(Tayma)の南に集中している。考古博物部の発掘ではタイマー(Tayma)の工業団地で多くの共同墓地を発見している。墓には異なった装飾と彩色の様々な形の陶器の容器が納められている。貴金属製の装飾品、ビーズやガラスも又、見つかっている。タイマー(Tayma)南部の共同墓地も調査され、10 km x 3 kmの面積を占め、紀元前二千年期の終わりに遡る。

 

4.2.4 古代碑文

 

アラム(Aramaic)、リフヤーン(Lihyanite)、サムード(Thamudic)およびナバテア(Nabataean)等で書かれた夥しい数の碑文がタイマー(Tayma)とその周辺部で見つかっている。重要な場所としてはジャバル・グナイム(Jabal Ghunaym)、ミンタール・イブン・アティヤ(Mintar ibn Atiya)、ミンタール・ディルヤト(Mintar al-Dhilyat)、タウィール・サイード(Taweed Saeed)、涸れ谷ジュライダ(Wadi Jurayda)、ハブー・シャルキ(Al-Khabu al Sharqi)および涸れ谷カヌー・ガルビー(Wadi Al-Kanu Al-Gharbi)がある。切石に刻まれた碑文で一番重要なのはルーブル博物館にあるタイマー(Tayma)石柱である。

 

4.2.5 カスル・ベジャイディー(Qasr Al-Bejaidi)

 

このカスルは巡礼や隊商に宿として使われた大きな石造りの構造物であり、イスラーム早期の7世紀から10世紀に建造されオスマン帝国時代まで引き続き使われていた。このパレスは円形の塔を持つ印象的な城壁で構成されていた。付属構造は内部の小さな構造物でパレスに付け加えられていた。

 

4.2.6 ハディーカ塚(Al-Hadiqah Mound)

 

この古代の塚は現在のタイマー(Tayma)の町の中心にある。いまだに完全に発掘を終わっていないが、発掘で発見された遺物から紀元前二千年期に遡る。大量の陶磁器の存在から人口が密集し良く発達した陶磁器工業があったのが分かる。

 

4.2.7 考古学と民族誌の博物館

 

教育省はタイマー(Tayma)にこの地方で発掘された古代の遺物とこの地方の伝統的な工芸を展示する為の博物館を設置した。この博物館は町の北入り口の東側にある。道路に隣接している割には見つけ難いので訪問時には注意が必要である。

 

5. ヒジャーズ鉄道

 

オスマン帝国(Ottoman Empire)のスルタン・アブデュル・ハミド二世(Sultan Abdel Hamid II1842-1918))はダマスカス(Damascus)からマディーナ(Madinah)およびマッカ(Makkah)へ数十万人の巡礼を運ぶ為の鉄道建設に情熱を燃やした。

 

第二首相で鉄道の立案者であるイッゼト・パシャ(Izzet Pasha)はドイツ人技術者ハインリッチ・メイッスナー(Heinrich Meissner)を雇い、枕木やレールの敷設に7,000人のトルコ軍を動員した。更にダマスカスから左官工も動員されその高い技量は建設された排水路(Culvert)、橋、20 km毎に設けられた25人収容の砦および100人用の兵舎等の外観や強度に示されて居る。石材に使われた熔岩や石灰岩が美しく仕上げられ、その業績は今日でも鉄道敷き跡に沿って残っている。ダマスカスの左官達の熟練と技量は同じルートで鉄道よりも以前に作られたダマスカス(Damascus)からマッカ(Makkah)への巡礼路に建てられた頑丈なキャラバンサライ(Caravanserais)としても残っている。建設工事の遅延の為、フランス人技術者ポール・ゴダーン(Paul Gaudin)が雇われ物資調達や歩合制の導入等工事促進に貢献した。

 

1908年に外国報道陣を招待し始発列車が運行され、ダマスカス(Damascus)からマッカ(Makkah)までの1,302 kmを最高時速毎時60 kmで走りそれまで二ヶ月掛かっていたこの区間の旅を三日三晩に短縮した。しかしながら1914年に連盟側はドイツ帝国との開戦となり、この輝かしい開通から14年後の1924年頃には戦乱の為に運行が中止され路線は荒れるに任されてしまった。

 

5.1 タブーク駅

 

町の中にあるタブーク駅の特徴は地上階の待合い客を保護する為の四つのアーチを持つ構造と赤いタイル敷きの屋根を持つ駅長室のある二階建ての建物であり、二つの貯水塔と機関区を備えている。この機関区はマディーナと同じ大きさで、マダーイン・サーリフの半分の規模である。

 

西暦1993年、この建物は多くのベンチを持ち、市民が夕暮れ時を過ごすレクレーション・センターに改築された。56km北のビイル・イブン・ハルマース(Bir ibn Hirmas)まで鉄道敷きとヨルダンに向かう道路が平行に並んで延びる平原には巨大で近代的な農場のサイロ以外のランドマークは殆ど無い。鉄道経営の保安の為に警護が重要であったタブーク南の丘陵地帯に較べ、北の平原では警護はそれほど必要も無く、南では20km毎に設けられた監視塔も北では設けられては居なかった。タブーク(Tabuk)、マフタタブ(Al Mahtatab)、ハズム(Al Hazm)、ザート・ハージュ(Dhat al Haj)やハーラ・アンマール(Halat Ammar)の途中駅の駅舎は四つのアーチを持つシリア式の荘厳な非軍事的な同じ設計の建物であった。

 

5.2 ビイル・イブン・ハルマース(Bir ibn Hirmas)の北の路床

 

ビイル・イブン・ハルマース(Bir ibn Hirmas)の北では鉄道敷きは大きな三日月型に入り、その東のテーブル・ランド(Table Land)を行く道路と離れる。サウジ/ヨルダン国境を侵さない為に、国境まで道路に沿って進み、そこから南西を目指し、鉄道敷きに出たら南へ進むのが良い。国境検問所から1km程で鉄道敷きにでる。そこには木製の枕木を使った本格的な鉄道敷きがあり、西暦1900年から西暦1908年にトルコが建設した鉄製の枕木とは完全に異なる事に驚かされる。腐食が進んだ為に後から平行して設置されたものなので、ここでは腐食して廃棄された鉄製の枕木でタイヤが損傷してパンクしない様に注意する必要がある。

 

5.3 幻と成った鉄道復旧

 

第二次世界大戦の後の1960年代にサウジとヨルダンの両王国の間でアカバからタブークへの鉄道の敷設が合意された。1960 年代に日本の会社を使っての復旧作業がマディーナ側から始められ、その後ヨルダン側から英国とスペインの会社が復旧作業を開始した。しかしながら、イスラエルとの6日戦争の勃発で工事を中断されてしまった。今でもオーストラリアから輸入した枕木を使っていたイギリスの業者がジャガト・ハト(Jagat al Hat)とビイル・イブン・ハルマース(Bir ibn Hirmas)で中断した作業の跡や石造りの排水溝に代わって使われたコンクリート製の排水溝等がその名残を留めている。又、マダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)付近に残るコンクリート製の小さな橋や路床補修用の砂利の積み方には当時の日本人の律儀さが偲ばれる。

 

5.4 ローレンスのハーラ・アンマール攻撃

 

トルコの列車は1917329日にアブー・ナアム(Abu Naam)と同年45日にムダラジ(Muduraj)の北でローレンス(T.E. Lawrence)の待ち伏せにあった。ローレンス(T.E. Lawrence)はその後ダマスカスをめざし、アラブ、英国およびフランスの各軍に対するマディーナ(Madinah)とウラー(Al Ula)のトルコ軍砦の強い束縛から逃れた。

 

1917918日、ヨルダン(Jordan)国境のハーラ・アンマール(Halat Ammar)地区でローレンス(T.E. Lawrence)が二重連のドイツ製機関車に牽引されたトルコの列車を脱線させた。その列車には9車両に分乗した槍兵とオーストラリア人の砲術指南および家族と共に帰郷する将校達が乗って居た。その鉄道が止められた場所には今でも機関車一両とベルギー製の客車が残されている。この残骸はローレンスがその著作に述べている様には排水渠に近くには無い。ハーラ・アンマール地区(Halat Ammar Zone)での攻撃は主に今ではヨルダン領のムドワラ(Mudowara)等もっと北で行われた。

 

西暦1917年、トルコは損傷し横倒しに成った台座を回収修理したいと望んでいた。恐らくは壊れた機関車はハーラ・アンマール駅(Halat Ammar Railway Station)の南300m1919年から1924年まで放置されて居た。その期間にはこの領有問題で揉めて居た地域には無政府状態が続き、鉄道管理者はムドワラ(Mudowara)から南については法や秩序を強化する政治的権威を持って居なかった。

 

5.5 タブークの南の路床

 

タブークの南では路床は毎日の運行に寄与して居た。アルカナト(Arqanat)、ウサイーリ(Uthayil)、アウジャリーヤ(Awjariyah)、ハミース(Khamis)等の駅舎は全面に三つアーチ型の開口のある25人の守備隊が守る小さな砦であった。タブークの南、60kmのアウジャリーヤ(Al Awjariyah)では山の脊を140mのトンネルで貫通している。このトンネルは今でも完全な状態で残り、ベドウインが重宝して使っている。私達が4WDで通過した時も崩壊の恐れなど全く感じ無かった。トンネルの南を1km下がると西側に急なハジ駱駝道が再び線路敷きに合わさっている。

 

5.6 ダルブ・タブーキーヤ(Ad Darb al Tabukiyah)

 

ダルブ・タブーキーヤ(Ad Darb al Tabukiyah)での駱駝と鉄道の二つの歴史的ルートはお互いに近接している。これは聖者モハメドが30,000人の回教徒軍を急遽集め、最後の武力遠征(ラッゾウ、Razzou)を始め、ビザンチン帝(Byzantine Emperor)のヘラシリウス(Heraclius)と同盟した部族の驚異に曝されていたヒジラ暦10年(西暦630年)に同じ道筋を通っている。

 

パトリック・ピエラード(Patrick Pierard)氏は「ダルブ・タブーキーヤ(Ad Darb al Tabukiyah)に沿った旅はいつも7月、8月の夏で熱さのピークであり、現在ではアラビアでの夏の全期間をジェッダの日陰で過ごし易いコンパウンドで過ごす必要は無い。夏は冬よりも日が長い分、行動には有利であるし、多少の日光に照らされる事にも耐えられるが、一日中、日光に照らされ無い様に食事は橋桁の下で行う等の日光を避ける注意が必要である。西暦19177T.E.ローレンス(Lawrence)少佐は駱駝に騎乗して紅海岸のワジュフ(Al-Wajh、栄誉)からタブーク地方の内陸を迂回しアカバ(Aqaba)までの1,000kmを携帯A/Cを持たずに横断している。彼に出来たのだから、我々に出来ない筈は無い」と述べている。

 

6. アラビアのローレンス

 

1909年から新たに影響力を強めて来たトルコはドイツ陣営へと傾斜して行ったが英国、フランスおよびヒジャーズ(Hijaz)のアラブはトルコとドイツをスエズ運河(Suez Canal)から排除しようとしていた。このヒジャーズ(Hijaz)作戦を指導したのがハセミテ(Hasemite)王のシャリーフフサイン(Sherif Hussein)およびその息子のアブドゥッラー(Abdullah)とファイサル(Faisal)そしてアレンビィ将軍(General Allenby)、ローレンス(T.E. Lawrence)、ベルモンド大佐(Col. Bremond)およびフランス砲兵大尉ピサニ(Capt. Pisani)等である。ローレンス(T.E. Lawrence)はシリアの発掘に貢献した考古学者であったが地方軍閥に転身しカイロにあった英国王朝のアラブ事務所に1917年春に公認されゲリラ作戦に参加した。

 

ディビッド・リーン監督、ピーター・オトウール主演で1962年に封切られた「アラビアのローレンス」と云う映画がローレンス自身の著書の基づきローレンスを「沙漠の英雄」として描いた為に欧米や日本では好感度のある英雄と受けとめられている。しかしながらアラビアでこの名は余り知られて居らず、知って居ても二重スパイ或いは英国の手先としての悪評でしかない。私もローレンスについて述べる積もりは無かったのだがたまたま20041023日の朝日新聞がローレンスを取り上げて居たのでその記事から少し抜粋してご紹介する。

 

6.1 映画のローレンス

 

トーマス・エドワード・ローレンス(Thomas Edward Lawrence1888-1935)は英国貴族と駆け落ちした女性家庭教師との間に生まれた。オックスフォード大学在学中に中東を徒歩旅行し、卒論「十字軍の城砦」を執筆した。卒業後はトルコとシリアの国境地帯で遺跡の発掘調査にあたった。第一次世界大戦の勃興に伴い陸軍に入り、1916年末から2年間、アラブの反乱に加わった。米国の従軍記者ローウェル・トーマスがローレンスを英雄と報じ、米英両国で記録映画を交えた講演会をしたことから一躍有名になった。

 

アラブの反乱について、ローレンスは著書「知恵の七柱」で詳しく書いており、「沙漠を800 km余り踏破し、アカバまであとわずかという時、部下のガシムが駱駝から落ち沙漠に置き去りにされたのに気づき、ベドウインが『引き返せば死ぬし、これは定めでガシムの運命は尽きた』と言うのを振り切り、『この世に定めなどない』と駱駝に鞭を当てながらさけび、ガシムを救いに戻り、ベドウインの信頼を勝ち取った」とのエピソードにも触れている。

 

但し、ローレンスの著書には「この世に定めなどない」という表現はない。この表現は映画「アラビアのローレンス」にあり、日本語の字幕では「運命などない」と訳している。日本学術振興会の大川玲子特別研究員(コーラン学)によると「アラビア語の動詞『カタバKTB』には『書く』という意味に加え、『運命をあらかじめ定める』という意味もある」と云う。

 

6.2 英国の三枚舌外交

 

当時の英国はフランス、露西亜両国と密約を交わし、トルコ敗戦後の領土分割を決めた。一方でアラブ人には独立を、ユダヤ人には国家建設をそれぞれ保証するという互いに矛盾する三枚舌外交を展開していた。これは戦争に勝つ事が至上命題として行われたが、この英国の振る舞いが中東に紛争の火種をばらまく結果となった。イラクの国境が引かれたのもパレスタインが父祖の地を失った遠因もここにある。この様な外交とローレンスと直接関係ないにもかかわらず、アラビアではローレンスを知っていたとしても英雄では無く裏切り者の二重スパイと考えられている。ローレンスがこの密約を知って第一次世界大戦後もアラブとの約束を果たすために奔走し、富も名誉も名前も捨て世捨て人の様な後半生を送ったのは自責の念からであったとも言われている。

 

6.3 涸れ谷ラム(Wadi Rumm)

 

ヨルダン南部の沙漠涸れ谷ラム(Wadi Rumm)を駆け抜けトルコ軍を撃破するアカバのシーンは映画のハイライトであるし、ローレンス著書にも「私の奇襲作戦」と記述されている。しかしながら歴史家スレイマーン・ムーサ(Sulaiman Mootha)氏は「これはローレンスの過大売り込みの一部であり、ローレンスがアラビア半島に来たのはアラブの反乱が始まって半年もたっていた。トルコを攻める戦力はすでに決まって居り、アカバ攻略のベドウイン駱駝騎乗隊の指導者はアウダ・アブー・ターイである」と言っている。このアウダの孫のアキフ氏は「ローレンスはベドウインの真の友である」と言う一方で、作家のリチャード・オールディントン氏の様に欧米人でも「うそつきの変質者」と酷評する人もいる。

 

アカバの東の沙漠には涸れ谷ラム(Wadi Rumm)があり、その両側にはほぼ垂直な岩山が連なり、ナバテアの古代遺跡で世界遺産となっているペトラを包み込んでいる。ローレンスの評価も同じようにこの岩山に挟まれた深い涸れ谷の奥にしまい込まれ、今と成ってはその真偽について語るのは難しい。

 

7. 農業開発

 

タブーク(Tabuk)は大規模な軍事施設を支えるだけで無く、広大な農業地帯でもあり、ジョルダン(Jordan)国境、紅海やアカバ(Aqabah)湾まで車で2時間足らずの距離と云う地の利にも恵まれてもいる。ビイル・イブン・ハルマース(Bir ibn Hirmas)からタイマー(Tayma)まで途切れながらも広がる近代的農業地帯を含むタブーク州はサウジアラビア王国内最大の小麦と葡萄の産地であり、年間18万トンの小麦を生産する他に輸出用花、ナツメ椰子、レモン、マンゴー等果物、各種野菜、その他の作物を生産している。

 

 

7.1 タブーク農業開発会社(TADCO)

 

7.1.1 会社概要

 

TADCO(Tabuk Agricultural Development Company)は1983年に設立され、350 平方キロ (35,000 ha)の土地を占有している。この内の110平方キロ (11,000 ha) が耕作されている。潅漑用水は地下1,000mからポンプで汲み上げられている。この地方の浅層地下水はこの3年間で150 m から 250 m まで下っているが、TADCOの水源は深層地下水なので影響を受けてはいない。設備としては 7,500 トンの冷蔵倉庫、自動プロセス、梱包装置を持っている。冷凍倉庫の貯蔵容量は馬鈴薯とタマネギ用として5,000トン、果物用として 5,000 トン、合計 10,000 トンである。

 

TADCO迎賓館その1

 

TADCO迎賓館その2

 

7.1.2 実験室(Laboratory)

 

実験室はTADCO事業の研究開発の部門であり、害虫専門の実験室も持っている。この実験室では潅漑水、土壌、肥料及び病害等の分析を行っている。

 

この農場の潅漑水は地下 1,000 から汲み上げている。その塩分濃度は最低 300, 400 PPM から最高 600 PPM である。TADCO農場の土壌は高濃度のナトウム(Sodium) と塩化物(Chloride) を含むアルカリ土壌(Alkaline Soil)である為、この実験室では土壌のナトリウム(Sodium)、塩化物(Chloride)、重曹(Bi-Carbonate)、硼素(Boron)等の含有率を測定している。

 

高アルカリ性の為、土壌塩分の洗い流し(Leaching)が必要となる。農業排水の為の排水路は設けていないが、畑起こしは鋤を使って90 cmの深さまで行っている。TADCOとしてはこのやり方で塩分の洗い流し(Leaching)及びそれに使われた水の排水は旨く行われていると考えているが、実際の地下水位の測定は行っていない。7つの主な病害を防ぐ為に、小麦を植える前に200 kgのMDKを農薬として使い、小麦の種を処理している。

 

7.1.3 220個の円形農場

 

小麦、大麦、ジャガイモ、アルファアルファ、タマネギの作付けの為に220個の円形農場を利用している。一つの円形農場の面積は50 ha 1,800 gallons per minute (9,800 kl/day, 2cm/m2/day)の灌漑水を消費している。これで算出すると農場全体では一日当たり、最大200万キロリットル (2,156,000kl/day) を超す灌漑水を地下から汲み上げて居り、如何に円形農場と言う農法が水を大量に消費するかを如実に示している。 

 

7.1.4 果樹園

 

TADCO農園に隣接する1,300 ha TADCO果樹園では50万本を超える様々な果実が植えられている。この地方は気候が寒冷である為に、種子果実の作付けに向いている。

 

10年前からの主たる作付け果実は桃(Peach)、ズバイモモ(Nectarine)、オリーブ(Olive)、杏(Apricot)、林檎(Apple)、プラム(Plum)、葡萄(Grape)、ザクロ(Pomegranate)と アーモンド(Almond)である。この中で桃(Peach)だけがその種類が20数種もあり、蜜柑畑を転用した畑に植えられている。

 

(Apricot)はそれぞれが 5 km x 2 kmの広さのある5つの区域に作付けされている。又、オリーブ(Olive)7万本 植えられて居り、その全てが高品質である。アーモンド(Almond)76千本植えられている。これらの果樹は気温が氷点下3Cから4Cにまで下る涼しい気候に適している。この涼しい気候の為に、TADCOではナツメ椰子の栽培は行っていない。これらの果樹は基本的には点滴方式で灌漑されてきた。最近では円形農場方式を適用し、良好な結果が得られている。地上から4.5mの高さで円形農場(Center Pivot)の散水管を回転させることで保全や機械化による収穫がた容易くなったばかりでなく、果樹の成長にも大変に良好な結果を得ている。

 

7.1.5 養蜂

 

2,005個の養蜂箱は交配に利用されると共に、年間14トンの蜂蜜を生産している。

 

7.2 ファハド・ビン・スルターン殿下の農場

 

TADCOから紹介されたムハンマド・ラシード ・バラウィ(Mr. Mohammed Rasheed Al-Balawi)から同農園を管理しているアブドゥッラー・カフターニィ(Mr. Abdullah Al-Qahtany)を紹介され、タブーク州知事ファハド・イブン・スルターン殿下所有の農園を案内して貰う。

 

ファハド・イブン・スルターン農場その1

 

ファハド・イブン・スルターン農場その2

 

ファハド・イブン・スルターン農場その3

 

この農園はナツメ椰子専用の農園と言っても過言では無い程、多数のそしてスッカリ(Shukkari)やベルヒ(Berhi)に代表される高級ナツメ椰子を栽培している。「現在、売り出し中だ。」と紹介されたクッタール(Kuttar)はベルヒ(Berhi)よりおいしく、その実は小振りな干し柿程の大きさがある。

 

7.3 アラビア供給通商会社(ASTRA)

 

TADCO(Tabuk Agricultural Development Company)の紹介でASTRA(Arab Supply & Trading Corporation)のイヘアン S. カワイレ氏(Mr. Iheam S. Khwaireh)を訪ねる。この農園は1979年に設立された。持ち主はタフィール・サビン・マスリ・マアッシ氏(Mr. Tafir Sabin Masri Al-Ma’ssi)で、同氏の家族はパレスチナ出身である為、ASTRAの幹部職員はほとんどがパレスチナ人である。又、ASTRAは生産した農作物をヨーロッパやGCCに輸出している事でも知られている。ASTRA農場の広さは30 平方キロ (3,000ha)でサウジアラビアの農場としては特に広くは無いがその作物は生鮮野菜、切り花、果物、養鶏そして12百万羽の鶉の養殖と種類が多い。

 

7.3.1 25種類の野菜

 

25 種類の年間18,000 tonsの野菜は500 haのオランダ製ガラスのグリーンハウスと米国製プラスチックのグリーンハウス及び650 ha のプラスチックトンネルで生産されている。グリーンハウス一棟は 1 ha の広さがあり、年間 35 tons の収穫がある。

 

7.3.2 400haの果樹園

 

年産 8,100 tons の林檎(Apple)、桃(Peach)、ズバイモモ(Nectarine)、杏(Apricot)、葡萄(Grape)、西洋スモモ(Plum)、イチジク(Fig)等の果物は400 haの果樹園で生産されている。

 

7.3.3 10haのグリーンハウスでの切り花栽培

 

アストラ農場グリーン・ハウスその1

 

アストラ農場グリーン・ハウスその2

 

アストラ農場花用冷蔵庫

 

1,600万本の薔薇(Rose)、カーネーション(Carnation)、菊(Chrysanthemum)、グラディオラス(Gladiolas)、リモリウム(Limorium)、フリージア(Freesia)等の切り花は 10 ha のグリーンハウスで生産される。

 

7.3.4 苗木生産

 

1,100万本の野菜、果物、観葉植物、防風林、園芸用樹木などの苗や苗木が生産されている。

 

7.3.5 養蜂

 

 600個の養蜂箱は果物や作物の交配に使われるばかりではなく年間 6 - 10 トンの蜂蜜を生産している。この蜂蜜は我が家の好物であるがサウジでの愛用者も多く市販されずに注文でのみ販売されているので私は今でもリヤードに行く機会があればASTRAの集荷場まで行って購入し日本に持ち帰っている。

 

7.3.6 養鶏養鶉

 

養鶉場

 

養鶏場では年間400万羽の鶏、1,600万個の卵、400万羽のヒヨコを生産している。鶉は肉食用として年間 1,000万羽を養殖している。鶉は骨の多い割に肉が少なく蟹や野鳥が好きな人なら喜んで食べると思うが私は余り好みでは無い。

 

7.3.7 その他

 

年間 2 万トンの穀物や飼料を生産している。

 

農民が収穫作物をプロセスし、日本の市場に適合する様な梱包を行えば、サウジアラビアから日本へ農作物を輸出できるとかねて思っていたが、ASTRAはそれを既に実行している農業企業であり、そういった農業企業がサウジアラビアにも存在する事が確認できた。ASTRAは収穫作物のプロセスや自動梱包ばかりでは無く、自動播種発芽装置も所有している。ASTRAの技術力は日本人が価値を認めて求める様な高い水準にある。ASTRAは世界最大の鶉の養殖場を誇っている。

 

8. その他の産業

 

8.1 キング・アブドゥルアズィーズ軍事都市(King Abdul Aziz Military City)

 

タブークは王国内で唯一本当に僻地にある市であり、人口100,000人規模の小さな市場の中心に過ぎないが、キング・アブドゥルアズィーズ(King Abdul Aziz)軍事都市の北部地区司令部、王国陸軍第7機甲旅団、第8歩兵旅団、第12機甲旅団および第14歩兵旅団、王国陸軍空挺旅団、王国陸軍機甲専門学校およびF-5第二飛行大隊を含むキング・ファイサル(King Faisal)空軍基地がある。キング・ファイサル(King Faisal)空軍基地はタブーク(Tabuk)市の直ぐ南東の北緯28°2155”東経36°3708”に位置している。米国軍事訓練使節(The United States Military Training Mission) (USMTM)の住宅地もタブーク(Tabuk)にあり、この住宅地には30棟の住宅と付属施設があり果樹園に囲まれている。

 

8.2 白砂鉱山

 

タブーク州知事ファハド・イブン・スルターン殿下(Prince Fahd ibn Sultan)はタイマー(Tayma)の町の南で2001年早期に発見されたは白砂(White SandSilica砂、桂土)の開発をこの地域の経済発展の為に実業家に呼びかけている。サウジ地質調査会社によればこのシリカ鉱床は40 km2以上の広がり、アリー・ナイーミー鉱物石油大臣(Ali Al-Naimi)によれば数百万トンの純度97%から99.6%の無水珪酸(Silica Oxide)が埋蔵されている。この白砂を原料にガラス、ガラス繊維、化学、電子および建材等の産業の発展が期待できる。

  

8.3 タブーク・セメント

 

このセメント工場は紅海岸のドゥバー(Dhuba)港の南に位置し、ドゥバー(Dhuba)の北25 kmにあり、タブーク(Tabuk)から直線で130 km、道路沿いに180 km離れている。このセメント工場はサウジアラビア北部のセメント需要を満たし、又近隣諸国へ輸出する為の好適な場所に設けられた。元々はポートランド・セメント(Ordinary Portland Cement)と耐硫酸セメント(Sulphate Resisting Cement)を生産して居たが近年にはポッゾランド・ポートランド・セメント(Pozzoland Portland Cement)も生産している。

 

このセメント工場は元々日本の三菱/川崎/宇部等の共同体によって1995年完成し操業を開始した。工場には45MWの発電所と1,500 m3/日の造水装置が併設されている。このセメント会社の名誉社長はタブーク州知事ファハド・ビン・スルターン・ビン・アブドゥルアズィーズ殿下(Prince Fahad Bin Sultan Bin Abdul Aziz)である。

 

2003年に同じく日本の宇部/ISS共同体によるキルン(Kiln)とロウ・ミル(Raw Mill)を中心とした増強工事と韓国ドングウー(Korean DongWoo)の所蔵梱包設備増強プロジェクトが完成し生産量は日産4,200 tonに増大した。

 

8.4 競駱駝場

 

競駱駝場はマディーナ道路に沿ってタブーク(Tabuk)から40 kmの所にあり、観客の為の粗末なスタンドがあるだけの簡便な競技場である。馴れないと沙漠に放牧された駱駝と競争用駱駝との区別が付かない。訓練はそんなに精力的には行われて居らず時たま緩やかに駆け足をする程度である。子供は縛り付けられずに騎乗している時には気楽に見えるが一旦競争が始まるとその様相は全く違ってくる。

 

9. タブークへの訪問

 

9.1 ジャウフからタブークを経て紅海岸を南へ

 

9.1.1 ジャウフ(Jawf)州からの道路

 

クライヤート(Al Qurayyat)とタブーク(Tabuk)へのジャウフ(Jawf)州内の分岐アブー・アジュラム(Al Ajram)の検問所に始めてサカーカー(Sakaka)方面から着いたのは199799日であった。ここからタブーク(Tabuk)まではナフード(Nafud)沙漠北部を横切り366 kmの行程である。タブーク方面には駱駝の群が居て、エッセル(Essel)と呼ばれるシュラブ(Shrub)が林の様に生えた砂丘が続く。28 km西の小さな寂れた集落マイクーア(Maiqu'a)辺りには円形農場が道路沿いに30 km位続く。円形農場が途切れると小石の散乱する平原になり道路の北には丘が続いている。200112月にここを通過した時にはこの黄昏た集落マイクーア(Maiqu'a)に真新しくて大きなショッピング・センターが建てられて居て驚く。それだけ後背地に農場が多いという証だと思う。オリーブの栽培も目に付くように成っていた。

 

崖地を一段下り、アブー・アジュラム(Al Ajram)から95 kmにはサニーヤ・ウンム・ヌハイラ(Thaniet Umm Nukhaylah) と云う長い名の割には殆ど給油所だけの部落がある。ここで1999119日夕暮れ後に給油し、運転手のサウードが夕暮れの祈りを捧げた事があった。それを私が待って停車して居た場所に隣り合って泥造りの粗末なパキスタン食堂があった。その食堂が無人の地の寂寥感として何故か今でも記憶に残っている。200112月に通過した時にはこの泥造りの小屋は崩れんばかりではあったがホテルと書いてあった。

 

明確な目印は無いが新しいジャウフ州とタブーク州の州境であるアブー・アジュラム(Al Ajram)分岐から西へ106 km付近で道路は二つの崖地の間を抜けて行く。鋭くカーブして居りスピードを出し過ぎると路肩へはみ出す。小山は小石や砂に覆われ沙漠メロン(Desert Melon)がたくさん生えている。崖地が北側から道路に迫り、連続した赤い砂丘が南から近づく。

 

アブー・アジュラム(Al Ajram)分岐から116 km辺りから黒っぽい小石に覆われた赤い砂の平原が続くが砂丘が次第に大きく成って小石はその下に隠れてしまった。南側の崖地は長い距離にわたって続いて居り、砂丘の数が増えるにつれて崖地間の距離は広がり高さも低くなって来る。

 

9.1.2 旧クライヤート(Qurayyat)州境

 

今ではその殆どがジャウフ(Jawf)州に併合されてしまっているクライヤート(Qurayyat)州とタブーク州の旧州境がアブー・アジュラム(Al Ajram)から176 km、タブーク(Tabuk)190 kmでファジュル(Fajr)分岐の北東72 kmにある。この付近で道路はサブハ(Sabkha、含塩低地)へと下り、崖地から分離し奇岩も含む独立した岩峰の間を抜けて行く。このサブハ(Sabkha、含塩低地)は大窪地フフラ(Al-Hufrah)の北西への張り出しかも知れない。西側にはなだらかに傾斜した棚状山(Table Mountain)が一列に並んで続き、車は夜明けの涸れ谷ファジュル(Wadi Fajr)の東側に沿った道路を行く。沙漠を覆う石は大きく、石板の形に成り、尖塔に成った岩峰が前方に並ぶ。

 

沙漠は砂地から岩床に変わり、小山の絶壁を調べると基盤岩は相変わらず石灰岩であり、砂が岩床を薄く覆っている。北西側から迫る崖地には独立した尖塔の形をした岩峰が目立っている。アブー・アジュラム(Al Ajram)分岐から196 km、タブーク(Tabuk)170 kmで夜明けの分岐に52 km辺りでは岩床の沙漠が続くが、所々砂沙漠があらわれる。 夜明けの涸れ谷ファジュル(Wadi Fajr)の河床に4本のシドル(SidrZiziphus spina-christi)4本生えている。その様子はナジラン(Najran)の森林公園を思わせる。

 

9.1.3 夜明けの涸れ谷ファジュル(Fajr)の検問所

 

19979月にはアブー・アジュラム(Al Ajram)から206 km、タブーク(Tabuk)160 kmで夜明けの分岐から42 kmの場所にファジュル(Fajr)検問所があったが、200112月に通過した時には検問所は無く、給油所のある10軒ばかりの集落があった。この集落には夜明けの泉(Bir Fajr)と云う名が付いていた。ファジュル(夜明け)の涸れ谷(Wadi Fajr)は一段と河幅を広げ、砂の上に石が散乱し始める。小さな竜巻があちらこちらに渦を巻いている。白い大きなコンクリート製橋を渡ると間もなくカリーバ(Al-Qalibah)20 km北にあるマディーナ(Madinah)への分岐に着いた。名が分からないのでここを「夜明け(Fajr)の分岐」と私は渾名した。

 

9.1.4 夜明け(Fajr)の分岐からタブークへ

 

現在はここからタブーク(Tabuk)まで118 kmは複線で上下二本のハイウェイと成っているが1977年には狭い対面交通の一本道であった。丁字路を右に曲がり、夜明けの涸れ谷ファジュル(Wadi Fajr)と分かれ崖地に挟まれた道路を登って行く。砂が黄土色から灰色に変わる。道路は崖地に遠く囲まれた平原を抜けて行く。タブーク(Tabuk)65 km辺りで橋を渡る。道路の切り通し断面の基盤が屋根を葺くのに使われるスレート(Slate)に変わった。そのスレートの険しい崖地を砂が風に乗って登り美しい曲線を描いている。場所によっては砂が崖地を飲み込み砂丘の様に見える場所もある。タブーク(Tabuk)50 km辺りで円形農場が現れ沙漠を覆っている。4 kmばかり行くと検問所があり沙漠はますます平に成り円形農場の数も増して来る。ASTRA農場の看板が見えてくるとタブーク(Tabuk)の町の中心も近い。

 

ファジュル分岐西のスレート

 

9.1.5 タブーク(Tabuk)市の朝

 

1997910日、この季節のタブーク(Tabuk)の気候は凌ぎやすい。特に夜間は空調無しでも快適に睡眠できる。午前中であればネクタイ背広姿で戸外を歩いても汗にも成らない。午後になると竜巻が数多く発生し、時折沙嵐も吹いてくる。朝早くサハラ・ホテル(Sahara Hotel)を出る。北に向かうと直ぐに円形農場が現れる。タブーク電力の二つの発電所とARAMCOの油槽所も東側に眺め、西側に大きな観客席のあるサッカー場を眺めると20分程で中央に大きな記念塔(Monument)の建つランダーバウド(Roundabout)のある検問所に着く。

 

9.1.6 タブーク(Tabuk)市の北

 

遠く山並みを望む平原には円形農場がたくさん並んでいる。伝統的な長方形の農場の周りには防風防砂林としてモクマオウ(Casuarina)が植えられている。道路の西側が広く開いているのはヒジャーズ(Hijaz)鉄道敷きの跡である。ホテルを出て40分程でASTRA農場を東側に見ると間もなく左側にタブーク農業開発会社(TADCO)の大きな門が現れる。東側のジャバルシャルーラー山脈(Jabal Sharura)の麓の崖地は堆積性の片岩であるがその後に聳え切り立った一段と高い山並みは片岩では無い。

 

9.1.7 墓場の泉ビイル・イブン・ハルマース(Bir Ibn Hirmas)

 

タブークの北57 kmにあるビイル・イブン・ハルマース(Bir Ibn Hirmas)の検問所に着く。この場所が何故墓場の名が付けられているか現在の景観からは分からない。地図からは付近に遺跡があると記されて居るので大昔に墓場でもあったのか。ここからウヤイナ(Al Uyaynah'Ayynah)への路が西へと分岐する。この検問所から更に北上すると東側に並ぶ堆積性片岩の崖地後方のジャバルシャルーラー山脈(Jabal Sharura)は独立した山の並びと成って平原の中に消えて行く。シャルーラーには邪悪、点火等の意味がある。イエメン国境のシャルーラ(Sharourah)とでは語幹は同じだが発音は多少違うので意味も微妙に違うのだろう。この頃はサウジ国内の移動に通行証が必要であり、国境地帯では特に検問が厳しかったので余り国境に近づきたくないと言う意識があり、Uターンして引き返す。

 

9.1.8 大規模農場訪問

 

Tabuk Agricultural Development Company (TADCO)を午前中に訪問、見学する。1997年当時はTADCOがこの地方最大の企業であり、職員の士気の高さとその広大な敷地の中にある迎賓館の立派さに驚かされる。この日は昼食後にプリンス・ファハド農場(Prince Fahd ibn Sultan Farm)およびASTRA (Arab Supply & Trading Corp.)を続いて訪問し、夕方まで見学した。それぞれの農場の詳細については前述の「農業開発の章」に記したのでここでは割愛する。

 

9.2 タブーク(Tabuk)から西へ

 

1997911日、この季節の北部の気候は概して良好ではあるが午後に成ると殆ど毎日沙嵐が吹き出す。早朝にサハラ・ホテル(Sahara Hotel)を出るがホテルの前の大きなロータリー(Roundabout)で方向を間違えてサカーカー(Sakaka)の方への戻ってしまった。50 kmも行って山地に差し掛かりやっと気が付く。運転手のサウード(Saud)は直線の運転には強いがロータリーや立体交差は苦手で混乱してしまう。再度タブーク(Tabuk)の北に造成された工業団地を大きく迂回した為、1時間ばかり無駄にした。やっとドゥバー(Dhuba)への道路に入る。この道路は二車線に成っていて走行は快適である。道路は大きく東へと曲がって行くと前方に砂に覆われた崖地が近づいてくる。道路の南側には平原が広がるのに対し北側はたくさんの水平に縞模様のある堆積性片岩の崖地になっている。道路は崖地に囲まれた広く浅い盆地状の平原にはいる。この平原には崖地から独立した円錐形の平頂山(Table Mountain)が数多く散在している。

 

タブーク・ドゥバー間道路脇の砂岩

 

タブーク・ドゥバー間道路脇のテーブル・マウンテン

 

9.2.1 涸れ谷アサフィル(Wadi Asafir)の有力な候補

 

タブークの西25 - 30 kmで六つもの橋を架けられた大きな涸れ谷をわたる。これはヒスマー山地(Hasma)から道路に沿ってタブーク(Tabuk)市に北に流れ込んでいる涸れ谷だと思う。この涸れ谷にもファールシ(Farsi)地図には記載が無く、ジャバルシャルーラー(Sharura)とヒスマー山地の間の盆地に流れ込んでいると思われる涸れ谷アサフィル(Wadi Asafir)の有力な候補の一つである。涸れ谷の河床に降りて流れの跡に沿って自生しているシドル(SidrZiziphus spina-chrisri)やタルフ(TalhAcacia gerrardi)の様子をしらべる。サウードによればアカシア等の木の種類は花の大きさで区別出来ると言うが同行の大川原博士は必ずしも同意して無い。遠く崖地を眺めると赤い砂が風に押されて崖地を這い上がる様子が良く分かる。

 

タブーク/ドゥバー間道路沿いの涸れ谷

 

9.2.2 切断面のあるヒスマー山地(Hasma )

 

タブーク(Tabuk)から50 km辺りで南北方向に向きを変えた道路は涸れ谷の橋を渡り給油所を通過する。その南の切り通しでは垂直の亀裂が見られる。赤い砂がヒスマー山地(Hasma、地図によってはHismaHusmaと記載されている)の平頂山(Table Mountain)の裾を覆いアメリカ大西部の様な景観を見せている。垂直方向の亀裂の為に崖地は高層ビル群に様にも見えるヒスマー山地の典型的とも言える景観である。特に道路西側に見える垂直の亀裂が剥離した面はフレスコ(Fresco)画にも思われる。この様な切断した様な斜面を持つ事からこの山地には切断を意味するヒスマーと云う名が付けられたのだろう。

 

9.2.3 茸の笠型の岩山

 

道路脇にある平頂山が浸食され台座の上に大きな茸が笠を広げた形になった岩山(直径30 - 40 m)を調べる。この岩山は小さな礫や二枚貝の化石(Bivalve Fossil)含んで居る。これは明らかに砂岩であり、その頃は「ヒジャーズ(Hijaz)山脈はアラビア盾状地(Arabian Shield)の付け根で花崗岩の山」との先入観を持っていた私を驚かせた。私の記録では紅海に近い砂岩で化石を見たとの記録の有るのはこの場所だけである。しかしながら二枚貝の化石(Bivalve Fossil)と記した石や貝殻らしい写真を詳細にみると貝である事は確認できないので思い込みの可能性もある。茸の笠の日影に成った台座で暫し周囲の絶景を眺めながら休憩する。

 

茸岩その1

 

茸岩その2

 

茸岩から見たヒスマー山地その1

 

茸岩から見たヒスマー山地その2

 

9.2.4 涸れ谷サドル(Wadi Sadr、始まり、胸部)

 

タブークから80km付近で幅の広くシュラブ(Shrub)の多い涸れ谷に入る。タルフ(TalhAcacia gerrardi)が流れの跡を辿って自生している。多くの小さな橋を渡り、涸れ谷サドル(Wadi Sadr)の上流である事がわかる。砂の色が朱色から灰色じみた黄土色に変わって来る。この辺りを東に入った熔岩地帯(Harrat ar Raha)との境界付近にラウワーフ(Rawwafah)寺院跡があり、その少し東には熔岩地帯に入ってディーサ(Ad-Disah)の遺跡が有る筈だ。

 

9.2.5 広い分水嶺(Watershed)

 

その少し南の地域を通過すると道路は急な勾配の峡谷(Gorge)を下り広い涸れ谷に出て来る。サウードがフートブレーキを使いたがるのを何度も繰り返しエンジンブレーキを使う様に指導する。広い涸れ谷では縞模様の堆積性片岩の崖地は姿を消し、崖地の岩は明らかに花崗岩である。但し、分水嶺を越えた直ぐのこの涸れ谷の源頭部分に堆積した礫は堆積性の石である。

 

9.2.6 癒しの涸れ谷サルワ(Wadi Saluwah)

 

ドゥバー(Dhuba)手前50 kmで北西から南東に流れる「癒しの涸れ谷サルワ(Wadi Saluwah)」を橋で渡って横切る。この辺りでは両側の崖地を調べ花崗岩が基盤であると確認した。

 

9.2.7 涸れ谷ザフカーン(Wadi Zahkan)

 

「癒しの涸れ谷サルワ(Wadi Saluwah)」を横切ると間もなく道路はドゥバー(Dhuba)に至る涸れ谷アウガール(Wadi al Awgar)から涸れ谷ザフカーン(Wadi Zahkan)に続くの河床に入る。この涸れ谷の幅は50 mから200 m と狭く、両側の崖の花崗岩には赤い部分が混じる。ドゥバー(Dhuba)手前30 kmで涸れ谷のくびれた部分を通りぬける。両側の花崗岩は氷河時代の氷の侵入とその溶けだしで浸食された様な20 cmから50 cmの穴が穿たれ浸食されて居り、幅200 m程度の涸れ谷にはタルフ(TalhAcacia gerrardi)が自生している。涸れ谷の幅は50 m以下となり道路の谷側は厚いコンクリートで補強されている。

 

9.2.8 ドゥバー(Dhuba、門扉のかんぬき)

 

ドゥバー(Dhuba)に正午前に到着、海岸の道路の山側に一つ星とは言えないまでもホテルを見つけて半時間休憩する。この町にはARAMCOの油槽所がある。町の南の海岸は海水浴場に成っており家族用の休憩小屋が並んでいる。紅海の岸辺まで背は低いにせよタルフ(TalhAcacia gerrardi)が自生している。海岸平地は狭いが紅海と海岸山地に沿って延々と続いている。道路の海岸側は堆積層や花崗岩の低い崖地が形成されている。海岸と直角方向に涸れ谷がたくさんあり、その流れの跡に沿ってもタルフ(TalhAcacia gerrardi)が自生している。この辺りの海岸平地はほとんど密集したシュラブ(Shrub)に覆われ、涸れ谷の部分が砂地と成っている。又、所々ナツメ椰子も自生し石灰岩或いはチョーク(Chalk)の露頭が出ている場所もある。崖地が海に沿って発達している部分では涸れ谷の河口が遮られ河床が海岸に沿って長く延びている。

 

9.3 ドゥバーから南へ

 

9.3.1 広い隠れ谷(スッル、As Surr

 

ドゥバー(Dhuba)の南45 kmで涸れ谷マッル(Wadi al Marr)を渡ると道路は低い山地に入る。この山地は涸れ谷マッル(Wadi al Marr)から南に広がるスッル(As Surr)と呼ばれる広い隠れ谷と海岸の間に形成されている。涸れ谷マッル(Wadi al Marr)は今年出版されたファールシ地図には涸れ谷アズナム(Wadi Al Aznam)と記載されている。ここにはアズラム砦(Al-Azlam Fort)がある筈だがこの当時はその存在を知らずそのまま通り過ぎていた。この低い山地の間にも幅が100 mから200 m位の涸れ谷があり、道路はその涸れ谷に沿って南に下る。道路際の岩は風化され黄土色で粘板岩(Slate)の様に剥離する。

 

9.3.2 水の流れる涸れ谷

 

ドゥバー(Dhuba)から90 kmを過ぎた辺りで涸れ谷涸れ谷アバー・キザーズ(Wadi Aba Al Qizaz)を渡る。この涸れ谷は今年出版されたファールシ地図には涸れ谷サルバフ(Wadi Thalbah)と記されている。その1516 km南のワジュフ(Al Wajh)まで50 km付近の涸れ谷の中には水が流れ、井戸が掘られて居り、給水車に水を積み込んでいる。この涸れ谷は地図では明確では無いが涸れ谷アンタル(Wadi 'Antar)と呼ぶのが良いのだろう。この付近にはタルフ(TalhAcacia gerrardi)の自生は多いが農場は見当たらない。

 

涸れ谷アブー・キザーズぞの1

 

涸れ谷アブー・キザーズぞの2

 

9.3.3 海岸に湖水のあるワジュフ(Al-Wajh)

 

ワジュフ(Al-Wajh)を通過する。この町の周辺はシュラブ(Shrub)の密生が目立つ。海岸に沿って棚状山が連なって居りその内陸側には浅く広い湖水が広がっている。湖水の南の外れ近くに崩壊した農場が打ち捨てられて居る。この町の北には塩水淡水化公団の海水淡水化工場が設けられている。南には飛行場がある筈だが確認できなかった。町の南15 kmで道路を横断すると地図に明記された涸れ谷アルーミヤー(Wadi al Miyah)よりもそれの10 km南の涸れ谷ハムド(Wadi Al-Hamd or Wadi al Arja)の方が大きくい。この涸れ谷の両岸は崖に成って居て、広い河床の奥に紅海への河口がハッキリ見える。

 

ワジュフ(Al-Wajh)は第一次世界大戦でアカバのトルコ軍を撃破したローレンスが参加した駱駝騎乗隊遠征の出発地でもあるが、「栄誉」を意味する町の名がこの遠征に由来しているのかは定かではない。

 

9.3.4 大きなアカシア林の南のウムルジ(Umluj)

 

黒っぽい石に覆われた砂地で局地的な沙嵐に巻き込まれた。海岸平地に起伏が出始める。ワジュフ(Al-Wajh)の南110 km、ウムルジ(Umluj)の北60 kmでは遙か西に離れた海岸線にマングローブ(Mangrove)の群生が見られ、平原を覆うシュラブ(Shrub)は殆ど枯れている。山側から低い崖地が近づき、海側は平原が傾斜しながら海岸へと消えている。ウムルジ(Umluj)の北40 kmから20 kmの海岸の広い範囲に渡ってタルフ(TalhAcacia gerrardi)の林が続いている。道路沿いには廃屋が目立つ。ウムルジ(Umluj)の北5 kmの海岸にはナツメ椰子が自生して居り、ここにも塩水淡水化公団の海水淡水化工場が設けられている。

 

ウムルジ北の大きなタルフ林その1

 

ウムルジ北の大きなタルフ林その1

 

ウムルジ(Umluj)付近では道路は海岸と崖地の狭い回廊を通っている。この崖には礫岩で作られている様にも見えるが熔岩地帯が近いので熔岩の可能性がある。州境を越えてマディーナ州(Al Madinah Al Munawwarah Emirate)を少し南下した海岸側に白い粉を採集している工場がある。この時は「チョーク(Chalk)或いは石灰か」と思ったが白砂(Silica)かも知れない。一路ヤンブー(Yanbu)へ向かう。

 

9.4 ヒジャーズ鉄道跡をタブークへ

 

それまで殆ど一人で沙漠を旅行して来たが、2002 年の始め頃からサウジの自然のすばらしさを紹介したいと出来るだけリヤードの日本人会の方々を誘うように務めた。2002年のラマダン明けの休みにマダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)およびタブーク(Tabuk)方面の旅の呼びかけをした所、最終的に大塚公使ご夫妻、上原日本人学校教頭先生ご一家、JICAの岩本先生ご夫妻、大使館の石川さん、およびリャド大学で日本語を教えている中村先生が参加し、マダーイン・サーリフまで一緒だった。旅が長くなると云う事でタブーク(Tabuk)への参加者は上原先生ご一家と岩本先生ご夫妻で、車は私の使っていたトヨタPRADO4WDと上原先生のいすず4WDオートマティックの二台と成った。

 

9.4.1 パトリック・ピエラード氏(Mr. Patrick Pierard)のガイド

 

マダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)からタブーク(Tabuk)までは以前からパトリック・ピエラード氏(Mr. Patrick Pierard)が「自分が案内するからヒジャーズ(Hijaz)鉄道跡を辿ってタブーク(Tabuk)まで是非行け」と誘っていたのでこの旅ではその予定にしていた。マダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)ホテルに着くとパトリックは「オーナーのビン・ザイド(Bin Zaid)から単独の旅行客では無く、団体の観光客を優遇する様に指示され困っている。パトリックは沙漠を長距離にわたってトレッキングを目指す人間を優先したい気持ちでいるのだがオーナーはホテルの宿泊客を優先しガイドはマダーイン・サーリフ付近に限る様に指示している」と言う。

 

二晩様子を見たがパトリックの方がオーナーに降りて、私に「詳しくルートを説明するから単独で言って欲しい。自分の見る所、貴方は沙漠を単独で走行出来る数少ない経験者の一人だ」と言う。パトリックの説明を聞くと「鉄道敷きの跡はずうっとタブークまで続いて居るので車が砂や湿地に埋まらない限りは問題無い。但し、鉄道敷きの跡は荒れてところどころ流失して居る上に洗濯板状態なので出来るだけ鉄道敷きに沿った踏み後を辿れ」との事であった。この時は沙漠を単独走行出来る自信は言われる程は無かったが磁石と地図は持っているし、少なくとも何かあれば引き返す事は出来ると思っていたので、パトリックの説明を良く聞いた上で、ヒジャーズ(Hijaz)鉄道跡を辿る決心をする。この事が契機に成ってその後は複数台の4輪駆動車(4WD)が用意出来れば道路の無い沙漠にも入り込む様に成った。

 

9.4.2 マダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)出発

 

2002128日朝食の後、大塚ご夫妻、石川、中村両氏と別れ二台の4WDで出発した。この日の天候は途中雨を心配したが曇り後晴れであった。ホテルを出て暫くして岩本さんが「ズボンを忘れたので取りに帰りたい」と言う。本来7時出発を8時にし、更に遅れて居り、この先の行程を考えるとここで時間をロスして日没までにタブークに着かないのは避けたい。後からホテルに送って貰う事で納得戴く。タブークに着いてマダーイン・サーリフ・ホテルに連絡すると、受付のグーティン氏がズボンを見つけて、ハーイル手前の同ホテル経営のシャムリー・ビン・ザイド・モーテル(Shamli Bin Zaeed Motel)まで届けてくれる事と成った。

 

9.4.3 ヒジャーズ鉄道21番駅を起点に

 

ホテルからウラー環状道路(Al 'Ula Ring Road)20 km北上したのマダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)遺跡保護区北側のフェンス辺りから北に向かう電力線に平行した未舗装のダート(Dirt)道に入る。この日の走行距離はマダーイン・サーリフ(Mada’in Salih) 機関区を含む21番駅を起点したパトリックの共同著書「Off-Road in the Hijaz」に従う。全長は240 kmと記載されている。駅舎の間隔は沙漠の中でも20 km以下に保たれているのは鉄道守備隊の配置の都合だろう。

 

9.4.4 ヒジャーズ鉄道跡への取り付き

 

環状道路の最北端から電線が北に延びそれに沿って幅の広い未舗装のダート(Dirt)道がある。ここから少し西側にある大きな岩山の反対側の山影にはマダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)ホテルのキャンプ場もある。このキャンプ場は簡易トイレ・シャワー付き幾張りかの天幕が常備され快適な場所である。未舗装の道の両側に農地が広がり、農道に迷い込まない様に注意しないと有刺鉄線に行く手を阻まれる。正面の農場を避けて道は東に少し湾曲する。未舗装のダート(Dirt)道の入り口から鉄道敷き跡らしい軌跡を探しているが、依然として見当たらない。地図上では環状道路の最北端から17 km辺りで鉄道敷きは一度東に鋭角に曲がっているが実際には立派な未舗装の道がその東側の岩山の麓を真っ直ぐに北に延びているばかりで分岐等有る様には見えない。これは取り付きから迷ったかと一瞬思う。

 

突然、道の東側の岩山に深い谷間の切れ込みがあり、道がその谷を登っている。磁石を見るとその狭い谷間は東に向かっているので車を乗り入れる。暫く不安ではあったが登り切った正面に鉄道敷きらしい土盛りが踏み跡(Trail)と並行に走り少しホットする。10分ばかりで距離にして4 km位のこの谷を抜け、鉄道敷きは再び北に向かう。地図にはこの山地の記載は無かったし、ましてこの様な狭くて両側が高く聳える切り通しの隠れ谷を通過するとは予測して無かったので、この峡谷を境に別世界に入り込んで来た様な錯覚を覚えた。

 

9.4.5 鉄道敷きを走るな

 

「鉄道敷きは荒れているのでそれと平行なトレイル(Trail)を探せ。」とパトリックは言って居たが最近、よほどの量の雨が降ったらしく、ワーディー(涸れ谷)の殆どはいまだに湿り、水溜まりどころか水の流れさえ見受けられる。従って、鉄道敷きを走らざるを得ない場所が多かった。

 

32 km地点(Abu Taqah 標高970 m CFH Station 23)は赤い砂に広い谷間は覆われ、独立した岩山が増える。西側の奥は砂岩が溶岩を被った山が連なる。

 

54 km地点(Mutalla 標高1,141 m CFH Station 24)は砂に被われた砂岩の大地。岩山が無くなって来る。変成された砂岩に溶岩が被った様に黒い山が続く。色は黒くても熔岩では無く、表面の砂岩が太陽にさらされて黒く成って居るのだと思われる。

 

ヒジャーズ鉄道沿いの大岩

 

74 km地点(Qaal’at al Buraykah CFH Station 25)では貨車の枠がひっくり返っている。溶岩バラストの置き場が駅の周りに置かれている。比較的小さく分かれているのはこのバラストは給与代わりに守備隊の兵士に支給され、鉄道がバラストを使う際に代金を兵士に支払ったと言う。経費節減とは言え何とも複雑な制度であるがこれだけバラストが残っているのだから給与分の代金を貰えず引き上げた兵隊も多かったのだろう。兵隊の休憩用の小さな石造りの小屋の屋根がイーグル状に積まれ、その石が落ちないのが不思議だ。それ以上に各駅舎とも荒れては居るが修復にはそれほど時間が掛からないと思えるほど精巧な石積みの建造物である。鉄道敷きの周りは盆地状の地形に成って来た。

 

9.4.6 騎乗のベドウインの親子

 

午前10時半に93 km地点でそれぞれ駱駝に乗ったベドウインの親子に会う。連れている犬はアラビアン・ハンドだが珍しく優しい顔をしている。写真を撮らせてくれと言うと応じてくれた。しみじみと彼等の無駄の無い服装や体付きに感心する。都会の太ったサウジ人達には無理でも彼等ならアラビアのローレンスと共に駱駝騎乗隊で沙漠を疾駆出来るだろう。5分程先にめがね橋があり、橋桁の辺りは水が残って居る。この複数連の石造りのめがね橋も両端の鉄道敷き土盛りの部分は洗い流されてはいるが橋本体の構造は頑丈でしっかりして居り何時でも復旧出来ると思う。現在の石灰の化学変化を利用したコンクリートの構造よりもこの様な物理的な石組みの構造物の方が恒久性に優れている。

 

騎乗のベドウインの親子

 

101 km地点(Khashim Sanaa CFH Station 26)はめがね橋の北に駅がある。午前11時半に115 km地点で人気の無い、白い建家の部落を通過する。「警察の詰め所とガソリンスタンドがある」とパトリックは言って居たが学校らしい建家以外分からなかった。出来れば念の為にガソリンを補給したかったが人気が全く無い。

 

9.4.7 主要駅カルア・ムアッザム(Qal’at at Muazzam)

 

午前1145分に126 km地点( Qal’at at Muazzam標高 967m CFH Station 27)の給水塔を備えたこの道中で一番大きな駅に到着する。この駅舎は大きく長く立派で遠目には今でも列車の到着を待って居る様に見える。その先は最近大きく水の流れが数百メートル幅に広がり退いた跡の水溜まりやぬかるみが残っている。この涸れ谷はここから東に70 kmでタイマー(Tayma)の西北西43 kmのジライダ(Jiraydah)農業地帯に注ぐ涸れ谷ムダイシシ(Wadi Mudaysisi)で、このワーディーの総延長は東西に200 kmにも及ぶ。地図を吟味すると涸れ谷はタブーク(Tabuk)方面にもアフダル涸れ谷(Wadi Al Akhdar)で通じている。水の流れはジライダ(Jiraydah)方面に今は向かっている様に見えるが、恐らく昔はこの辺りが湖でその湖水が東と北にそれぞれ流れて居た可能性もある。

 

主要駅カルア・ムアッザム付近のキャラバンサライ

 

その奥のキャラバンサライ(Caravanserai)の城塞に徒歩で足場を確認しながら車を先導する。このキャラバンサライ(隊商路駅舎)は小高い丘に位置し城壁に囲まれ四隅には監視塔が設けられている。南側にはワーディーの水を溜める一辺が100 mを越える大きなプールがあり、最近降った雨水が溢れて居る。その溜めた水を揚水したらしい風車の残骸もある。全体が有刺鉄線で囲われ、入ることは出来ないが、その前の少し流れから高くなった隊商路駅舎(Caravanserai)の前に車を止め、テーブルを設え、ホブツと蜂蜜とクリームで簡単な昼食にする。上原夫人がお湯を沸かしコーヒーを淹れて下さる。疲労回復に暖かい飲み物が効果的であるのを実感する。

 

食事をしている我々にスダーン人の牧童が近づいて来る。羊の群を追うのは殆ど牧羊犬任せだ。良く訓練されている。余分に買ったホブツをプレゼントする。この雨の中を無人の沙漠に一人で羊の群のずうっと世話をして居る労働の苛酷さに思いが至る。

 

上原先生が「ガソリンが半分近くに減った。」と言うので、ムニエルにチェックさせる。とは言え、ほぼ満タンだったのが125 km位の距離で半分に成るのはおかしい。ムニエルは「まだ半分残って居り200 km位は全く問題無い」と言う。一時間休憩して出発した。出発して鉄道敷きに戻った所で4WDの後部に吊してあった私の羊の革袋が地面に触れバンク、中の水が漏れ出す。5年も使って旅の道中に冷たい水を確保してくれて居たので愛着はあるが、自然に返す事にした。この辺りは涸れ谷が広く鉄道敷きからかなり離れてトレイル(Trail)を辿る。

 

9.4.8 水の流れのある大きなワーディー

 

151 km地点(Khinzinah 標高1,000 m CFH Station 28)を過ぎて5分ばかり行くと水の流れが出て来た。対岸ではサウジが家族で集まって断食月明けを祝ってか射撃練習をしている。鉄道敷きの左側は山に成っておりそれが所々で崩れているので通行に苦労した。その甲斐も無く通り抜けられず引き返し、雨が更に降りそうなので多少リスクはあるが水の流れの中を走る事に成った。この辺りはアフダル涸れ谷(Wadi Al Akhdar)の上流部であり、鉄道敷きはアフダル涸れ谷の上流に沿って敷設されている。174 km地点(Khamis CFH Station 29)を過ぎて鉄道敷きは西側が高い斜面に成った山並みの裾に沿って河原よりかなり高い位置に築堤されている。

 

午後2時に182 km地点の水の流れる大きなワーディーに沿って鉄道敷き進むと磁石は南を指し始めた。方向が反対だと、地図で調べるとアフダル涸れ谷(Wadi Al Akhdar)はこの辺りで一度西に向きを変え、鉄道敷きもワーディーに沿って一時的に南に進む場所があるのが分かった。この辺りで曇天に日が射して来た。

 

9.4.9 隊商路の駅アフダル(Al Akhdar)北のめがね橋

 

190 km 地点で大きなめがね橋を渡り、このワーディーを南に分ける河原に下りて休憩する。上原車が音を立ててパンク。ムニエルを中心にタイヤを取り替える。この間、どこから顕れたがサウジの若いのが二、三人眼鏡橋の上ではしゃいで居る。恐らくこの橋から分かれる支流に沿って10 km少し南に下るとアフダル(Al Akhdar)のキャラバンサライ(隊商路上の駅)の跡があるのでその方面へのトレイル(Trail)があるのでは無いか。ここで20分程休憩して出発する。上原先生は狭く高く築堤された鉄道敷きを長時間運転し続けているので疲労が心配だがタフな方だ。ここでアフダル涸れ谷(Wadi Al Akhdar)と分かれ更に西へ登り切り通しを抜けて行くと再び西へ別の涸れ谷に入る。192 km地点(Qaal’at al Akhdar CFH Station 30)の駅舎が鉄道敷きから少し下って建っている。 

 

隊商路の駅アフダル(Al Akhdar)北のめがね橋

 

9.4.10 鉄道トンネル跡

 

198 km地点( Mustabagah CFH Station 31)から枝ワーディー西へと進む。鉄道敷きは狭い切り通し成っている。左に急に上がる坂道を分け直進すると先にトンネルが見える。トンネルは懸念した様な傷みは無く、130m程の間を通過するのに全く不安は感じなかった。午後3時にトンネルを抜けた所で記念撮影をする。そこから比較的急な坂を下った200 km 地点(Awjariyah CFH Station 32)で休憩する。ここから先は40 - 60 km位だし、このヒジャーズ鉄道のトレッキングも山場は越えた感じである。上原先生のガソリンも問題なく持ちそうだ。付近の岩に一箇所稚拙ではあるがペトルグリフ(岩壁画)が描かれている。ここから先は起伏もあり多少岩山もあるが崖は見え無くなる。通り抜けていたトンネルのある峠を振り返ると久しぶりに澄んだ青い空に白い雲が浮かぶ。この涸れ谷も地図に名が記載されて居らず涸れ谷アサフィル(Wadi Asafir)の有力な候補である。

 

鉄道トンネル跡

 

9.4.11 熔岩の散在

 

210 km地点から熔岩が増え、ハッラトの様相とは成るが基盤は変成を受けた砂岩である。212 kmCFH Station 33)、224 kmCFH Station 34)を通過し、大地は石ころの転がる平地と成る。

 

9.5 タブーク(Tabuk)到着

 

午後430分に242 km地点でタールマックの道に出る。252 km地点でキング・アブドゥルアズィーズ(King Abdul Aziz)軍事都市の空港が並ぶ。大勢のブリティシュ・エアロスペース(British Aerospace)の従業員家族が空軍の保守で滞在していると言う。午後450分に264 km地点(再現されたタブーク (Tabuk) 標高 777m CFH Station 36)でタブーク(Tabuk)市内に到着する。

 

9.5.1 ハラ・ホテル(Hara Hotel)

 

午後 530分に市内の地図が無く電話では場所がハッキリ分からないのでサムソン (スパー・マーケット)前でハラ・ホテル支配人バラウト氏(Mr. Amin K. Ballout)に迎えに来て貰う。このホテルはこの時点では改造中で部屋は一つ星だが北京から来た調理人が二人いる中国料理とレバノン料理の二つの三つ星レストランを持ち、接客態度も親切で友好的なので部屋さえ改造されればサハラ・ホテル(Sahara Hotel)より良いと思う。「経営者はドゥバー(Dhuba)新港からフェリーで出入国する旅行客を見込んでいる」と言う。ビン・ザイド(Bin Zaid)旅行社の紹介だからその後は他に日本人で宿泊された方も居ると思う。

 

9.5.2 暗闇の蜜柑狩り

 

ホテルに着くとバラウト氏は直ぐに農園に誘ってくれる。同氏の車とマイクロバスに分乗しASTRA農場方面にあるハラ・ホテルのオーナーの農園に向かう。一番の収入は籾を政府がただで配給し、収穫を買い取ってくれる小麦で、タブークは地下200m以内で豊富に水が出るので換金作物に最適なのだそうだ。その他にはデーツ、オリーブ、アーモンド、ミカン、レモン等の各種柑橘類、ブドウ、梨、ザクロ、イチジク、リンゴ等を栽培して居り、今はネーブルオレンジの収穫時期なので畑で取って直ぐにその場で食べ様に奨めてくれる。とても香りが良く旨い。暗い中でのマッチの火頼りのオレンジ狩りに子供達は興奮している。午後7時半にホテルに戻る。

 

9.6 タブークからアカバ湾方面周遊

 

この周遊も上原先生家族、岩本先生大塚公使夫妻と共に2台の4WDで前日に引き続き、2002129日(月曜日)に行った。午前中は曇りで湿度も高く、雨を心配したが次第に回復し、午後から晴れた。気温は16 - 26℃であった。

 

9.6.1 ハラ・ホテル出発

 

朝食の時に上原先生の車の後輪がフラットにパンクしているのが分かり、印度人運転手ムニエルに修理に行かせる。ムニエルがタイヤ交換で手間取って居たので上原先生が同行する事に成った。午前8時出発の予定が一時間遅れの午前9時と成った。本日の起点はヒジャーズ鉄道(Hijaz Railway)の再現されたタブーク駅とする。午前95分にハラ・ホテル出発する。設備は良いとは言えないにせよ、支配人Amin K. Ballout氏の言う通りに食堂や受付等、全館改造が終われば、逗留し易いホテルになると思う。特に北京から直接のコックを二人雇って来ているので中華料理は美味かったし、期待もできる。朝食べたレバニーズ・レストランも清潔で感じが良かった。接客態度も良い。

 

9.6.2 墓場の泉(Bir ibn Hirmas)分岐

 

タブーク(Tabuk)の市街地の駅舎から北に56 kmのビイル・イブン・ハルマース(Bir ibn Hirmas)への途中ではASTRATADOCOは断食月明け(エイド)の休みの為に見学出来なかったが、正門の前でそれぞれについて同行者に説明した。分岐の検問所に午前10時頃着き、西へと左折し、旧メディナ鉄道敷きに架けられた橋を渡る。

 

9.6.3 ナバテアの農村クライヤ跡

 

タブークから72 km、墓場の泉(Bir ibn Hirmas)分岐から15 kmの道路の南に Qurayyah Nabataean農村跡がある。この場所は最近の地図ではアイイナ('Ayynah)と記されている。高く土盛りされた道路から下りて水で抜かった遺跡保護柵周囲を回るが取り立てて何も無い。パトリック・ピエラード氏(Mr. Patrick Pierard)は「青銅器時代の建家の遺跡が二棟や村を洪水から守って居たダムやクライヤ(Qurayyah) の意味する塀で囲われた部落後が残り、400 m x 300 mのローマの砦があった」と記述している。

 

9.6.4 涸れ谷ザイタ(Wadi Az Zaytah)

 

ここから、赤い砂質変成岩のヒスマー山地(Hasma)に入り、ウラー(Al-'Ula)の渓谷と同じ景観が広がるがここの砂岩の方が細かく亀裂が入り古色化も進んでいる。所々、カンバスの様に岩が大きく剥離し、大きな平らな面を露出した岩壁が目立つのはラウワーフ(Rawwafah)寺院付近同様にヒスマー山地(Hasma)の特徴である。この山地が切断を意味するヒスマーと名付けられているのはこの様な斜面に由来すると私は思う。この赤黒い砂岩の岩山の素晴らしい印象が薄まらないように途中休憩を多く取りながら進む。夫人達は「赤が出来るだけ鮮やかな砂を採集する」とがんばっている。私は「何処で取っても砂の色は同じ」と言って居たけれど、混ざりもあるせいか、場所によって赤さが違う事を認めざる得ない様だ。道はワーディー状の地形に入る。

 

9.6.5 涸れ谷アブヤド(Wadi Abyad)

 

墓場の泉(Bir ibn Hirmas)の西80 km辺りで道路標識には「涸れ谷アブヤド(Wadi AbyadWadi Abiod)へ」と記されている。この一帯は本当にウラー(Al-'Ula)に勝るとも劣らない赤い砂岩の岩山の連なる景観だ。「ゼイター(Zetah)、ハクル(Haql)まで88km」との道路標識がある。この辺でハクル(Haql)への裏道が分かれる筈であるが標識は無い。

 

周囲の岩山は黒い赤い砂岩が古色化した黒から黄緑色ぽい黄土色となり、基盤岩が地表に出て来た。ハクル(Haql)79km位から長い下りに入いる。墓場の泉(Bir ibn Hirmas)の西114 km、ハクル(Haql)62 kmのシャラフ(Ash Sharaf )でバダア(Al Bad’)との分岐を西北に分ける。入り口がコンクリートで四角に額の様に形作られた横穴が幾つも見受ける。鉱山か、特殊貯蔵庫か。鉱山にしてはザグの山を見ない。

 

9.6.6 ハクル(Haql、領域)

 

正午にハクルに下る峠のパーキングに入り、車を止めると、石英の結晶の発達した花崗岩が確認できた。ヒジャーズ(Hijaz)の基盤岩帯に入って来た。沖積層を削った谷を道路が下る。天気は晴れ、太陽が顔を出した。丁字路を北に向かう。海岸からパトリックの言っていた展望台の山の入り口を探す。割合と直ぐに分かる。ハクル(Haql)の展望台の山の山頂には柵がされ数十台分の駐車場があり草木が植えられている。

 

多少、霞んで居るのが残念ではあるが海の深い青と空の抜ける様な青、シナイ半島の岩山の遠望、海岸の白を貴重にした美しい建物、それを取り巻く緑、アカバ湾(Gulf of Aqabah)を往来する船等、実に絵になる風景である。海岸に沿った整備されたアカバに向かう通りには如何にもリゾート風の建家が並び、道路の中央や両側の緑とその先の海水浴場に建てられた幾つかのあずまやと調和して実に美しい。下って近づくに連れて山の上から眺めたのとは余りに違う現実があり何となくやぼったく、リゾートの感じは全く無い。

 

海岸にはそれでも遊びに来たランクルが何台も距離を置いて並ぶ。海の香りと眺めに気を取られ、海岸に沿った新しい道路を南下する。標識が無いのが気にな成り出した頃、前方が最近の雨で大きく抉られ迂回路が出来ている。再度地図を調べ、海岸に沿った道が舗装されその上を走って来たのを知る。ハクル(Haql)に戻り、町の入り口の食堂に寄るが実際はホテルで食堂も閉まって居る。町の入り口のガソリン・スタンドで満タンにし、カステラパンとジュースを非常食として買う。結局、これを車内で囓って昼飯とした。

 

9.6.7 シャラフ(Ash Sharaf)峠のパーキング

 

午後150分に往路で地質を確認した峠のパーキングに戻る。その先のシャラフ(Ahs Sharaf )の分岐を南へと下る。気温20℃、車内はポカポカし、マニエルには悪いがウトウトしてしまう。

 

9.6.8 創造の町バダア(Al Bad')

 

シャラフ(Ahs Sharaf )の分岐の南45 km辺りで黄土色の砂岩泥岩が基盤と置き換わる。午後2時30分に更に5 km南のバダア(Al Bad )に着く。この町はマガイール・シュアイブ(Maghair Shuaib)と呼ばれる岩山を刻んだナバテア(Nabataean)荘厳な墓があると云う。

 

バダアのナバテア遺跡

 

バダアの町を南に抜けた東側にあるガソリン・スタンドの後側や反対に道路をはさんだ前面にも1kmを越える史跡保護柵がある。前面の柵の中に幾つもの穴を見つける。少し、南に下ると西側の保護柵の中に幾つもの墓が見え、その中で最も大きいのが柵から200m奥にある三つの墓だ。これがナバテア(Nabataean)の墓だと観察しているといつの間にかパトカーが三台我々の車を封じ込める様に止まり、警官がここは撮影禁止なので写真機を出せと言う。取りあえず、私のフイルムとカメラを渡し、他のメンバーには何も渡さない様に言う。車登録、居留証を提示する様に言われ、渡すと、「警察署まで来い」と言う。ここは逆らっても意味無いので二台でパトカーに付いて行く。警察署に着くと道路反対の警官詰め所兼監獄と成っている塀囲いの中に建つ比較的広いモスクで所長が来るまでスタンバイしろと言われる。

 

9.6.9 バダアの警察署での取り調べ

 

私は気づかなかったけれど、上原先生と岩本先生は「モスク反対の監獄に収監され足枷の付けられている男が窓枠を掴んでこちらを見ていた」と言う。モスクの絨毯に座った三人の隣で一等兵か伍長らしいスリムな警官がタバコを吹かしながらここの遺跡の説明をしてくれる。1,000年が10回と言うから「10, 000前の遺跡で撮影は禁止だ」と言っている様だ。又、「この地域全体も遺跡は全て撮影、立ち入り禁止なので、タブークの南数百キロに遺跡がたくさんあるからそちらへ行け」と言う。これはマダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)の事である。「昨日、我々はそこから来た」と言うけれどどうも意味が通じない。「家族も心配だろうと思うので一人を外で待っている家族を見に行かせたい」と言うと警官は了解し、「取り調べは30分で全部終わるだろう」と言っている。

 

上原先生が家族を見にモスクを出て間もなく、「道路の向こうの警察署に行け」と言われる。警察署の前には若いディスダーシャ/グトラ(Dishdasha/Ghutra)姿の筋肉質のサウジが立っている。中に入ると「アラビア語が分かる人間と言う」ので私だけが所長室に入る。間もなく、年取ったサウジが二人出頭してくる。彼等の訴えの内容は「女性が写真を撮っていた。許可も無くけしからん。」と言っている様だ。彼等が出ていった後、ワイフを呼べと言うので上原夫人では子供が心配すると思い、岩本夫人に来て貰う。調書にその若くてスリムな所長が署名し、私と岩本夫人のイカーマ(!qama)のコピーを添付する。「遺跡保護区の門番が無許可で外国人の女性写真を撮っていた」との訴えに対する取り調べであるが、署名も求められず、無事にイガマ、車登録証、写真機もフイルムは抜かずに返してくれる。午後320分に警察署から無事解放された。

 

9.7 バダアからドゥバー経由タブークへ

 

9.7.1 アシェルム岬分岐

 

午後340分にバダア(Al Bad')24 km南のアシェルム岬(Ras Ash Ashelm)への道を西に分ける。この海岸沿いの道は平らな海岸低地となる。 低地もこの辺りはフェニックス、ナツメ椰子等が海岸までつながっている。

 

9.7.2 紅海の砂浜カイラ浜(Kyla Beach)

 

午後4時に分岐から40 kmのアル クライバー(Al-Khuraibah)の少し南で私有地と砂山をかき分けながら海岸に出る。ナツメ椰子やフェニックスが海岸まで生えて居る。20分程遊んで出発する。

 

9.7.3 ムワイリフ (Muwayleh)南の砦

 

午後5時にドゥバー(Dhuba)45 kmのムワイリフ (Muwayleh)を通過し、カルア・ムワイリフ (Qaal’at al Muwayleh)を探す。このエジプト-トルコの砦(Muwayle Turkish-Egyptian Fort)は道路から見えるけれどアプローチの道はナツメの林に閉ざされてなかなか砦への道もその背後の海岸への出口見出せなかった。不思議な事にどこから現れたのか一台のピック・アップ・トラックが我々二台を追跡して来る。そのピック・アップ・トラックのこの砦の番人らしい主人と挨拶を交わす。「この砦は新しく、写真を撮る必要無いので、先を急ぐ」事にしたが後で調べるとマムルーク(Mamluk)時代の紀元986年の建造と分かる。

 

9.7.4 ドゥバー新港とドゥバー

 

午後6時にドゥバー(Dhuba) の北20kmのフェリーの港を通過する。港は新しく、エジプトとの間を行き来するフェリーまで美しく見える。エジプトへの出入り口だからと云う事では無いと思うがドゥバー(Dhuba)には門扉のかんぬきの意味がある。

 

ドゥバーの町の北にランダーバードが作られて居り、市内を目指し西に向かうと直ぐに海岸に出た。海岸から東に向かうとタブークの筈である。町を一周してやっと、ドゥバー(Dhuba)からタブーク(Tabuk)へ向かう道のサービス・ステーション(SS)にあるホテルを見つける。その晩の宿を予約した「バラハ(Al Balaha Hotel)を知らないか」とこのホテルに聞かせるがムニエルでは埒が空かない。直接レセプションに行くとホテルの名前と電話番号は違うがビン・ザイド旅行社から我々の予約がしてあるのが分かり、やっとチェクインした。このブラガ・ホテル (Al-Balagha Hotel)も夕食、朝食等、ハーフボードは付いて無いと言われる。そんな事より、無事着いて良かった。このホテルはサウジ相手なので設備の割に手入れは悪いが、人々は無愛想だけれど誠実で親切だ。

 

9.7.5 モーテルの朝

 

朝食はシャクショカ(トマト入り煎り卵)、フール(薄い塩味で煮たレンズ豆)サラダとホブツと現地食を注文する。我々一行の皆さんはこの現地食を結構平らげた。トルコ人のキャッシャーがサラダはサービスと言う。多少、清潔感には問題あるがホスピタリティは良い。朝食の後、Al-Balagha Centerをホテルの前から眺める。100 m x 300 m程の敷地にガソリン・スタンドを取り巻き、マーケット、食堂、ホテル、SAPTCOのバス停、レンタカー等が並ぶSSであり、乗用車、ランクル(4x4)、長距離バスで敷地は満員状態である。サウジにはトラックの為のSSは一般的であるが、この様な旅客中心のSSはまだ少ない。建物も並んだ車両も新しいせいか、人さえ見なければ、欧米のSSかとも見える程、立派だ。

 

9.7.6 ドゥバーからの登り

 

   1210日(火曜日)は一日晴れで気温 10 - 15℃であった。内陸に入るに連れて乾燥のせいか寒く感じる。午前815分ブラガ・ホテル (Al Balagha Hotel)で鍵を返すだけのチェックアウトし出発する。午前905分に涸れ谷サルワ(Wadi Saluwah)の支流を入った渓谷(Gorge)を登り広い分水嶺手前の広い駐車場で休憩する。1997年にここを下った時に較べ道路は広く整備されたが景観は相当に壊されているのが残念である。ヤンブー製油所からと思われるガソリンを満タンにしたらしいタンカーが何台も何台もこの坂を喘ぎながら登って行く。相当な難所とは思うがタイフ越えよりは楽だろう。

 

9.7.7 ラウワーフ(Rawwafah)寺院入り口

 

午前920分にドゥバー(Dhuba)から64kmでタブーク(Tabuk)まで105km地点の東側へ入る道路にタールマック(Tarmac)は付いているので舗装道路が有るのを期待したがこのタールマック(Tarmac)は直ぐに沙漠ダート(Dirt)道となる。この手前のディーサ(Disah)を含めてこの二つの遺跡は見て置きたかったが、本日のハーイル(Hayil)西のシャムリー・ビン・ザイド・モーテル(Shamli Bin Zaeed Motel)までの行程を考え、割愛する事にした。変成作用を受けた砂岩の岩山の上には澄んだ青空と巻層雲が広がる。この様に巻いた雲はリヤードでは見ない様な気がする。ウラー(Al 'Ula)渓谷の様な変成を受けた砂岩の岩山脈を東に、基盤岩の岩山脈を西に遠望し、ヒスマー山地(Hasma)の横断に掛かる。

 

9.7.8 一路タブークへ

 

赤い砂岩の岩山は散在したり、連なったりして、起伏のある大地の東側に並んでいる。ダストが出て来る。午前1015Tabukまで15km辺りの山の形は岩の露出が無く水平で平行な筋が幾重にも入った黒っぽい感じに成って山の岩相が変成砂岩から変成泥岩に変わったのが分かる。午前1030分に タブーク(Tabuk)

 

9.8 タブークからタイマーへ

 

9.8.1 タブーク(Tabuk)から東へ

 

1999120日 早朝の快晴の中サハラ・ホテル(Sahara Hotel)出発する。タブーク(Tabuk)から118 kmでジョウフ州アブー・アジュラム(Abu Ajram)分岐へ248 kmにあるタイマー(Tayma)およびマディーナ(Madinah)方面への分岐であるカリーバ(Al-Qalibah)20 kmの分岐に至る。この分岐には名が無いので夜明け(Fajr)の分岐と渾名している、そこまでは1997年には片側一車線の対面通行だった路は中央が分離した片側2車線の道路となりタブーク近くでは更に片側三車線に成っていた。この工事は既存道路の隣に新しい道路を造る方式で工事が行われ沙漠での国の土地利用の贅沢さを実感した。

 

9.8.2 競駱駝場と検問所

 

タブークの競駱駝場

 

タブークの東は道路の両側に農地が広がりその北にはジャバルシャルーラー(Jabal Sharura)の北側に黄土色の泥岩の山並みが続くのが遠望出来る。その平原の外れに駱駝の競争場があり出場する駱駝用の柵がたくさん並んでいる。競技場の柵は数kmに及ぶ規模であり、朝日の中競争用駱駝の訓練が行われている。その数の割に混み合った感じが無いのは広さのせいだと思う。

 

その少し先のタブーク(Tabuk)の東46 kmのタラア(At Tala'a)付近にあるタブーク市の検問所を抜け、北から迫って来た山並みに道路は入って行く。この辺りから東の土地には赤味が見られない。昨夜(1999119日)の暗闇の中で運転手のサウードはこの辺りには駱駝が居ないと140 km/時で夜道を飛ばして来たが朝見ると駱駝の姿が結構多い。サウード(Saud)に質すと「夜は駱駝をつなぐのが飼い主のベドウインの義務だ」と言う。「それに違反する飼い主が多いから夜中には駱駝と衝突事故を起こさない為に『運転速度を落とせ』と言うのだ。」と迫るとサウードは黙り込んでしまう。全く危ない。崖地を重ねた様なこの山地は堆積岩で出来て居り、一部黄褐色の砂で覆われ、山が低くなった所では砂丘の用に見える部分もある。分岐の手前で道路は対面交通の一車線になる。駱駝が道路際で何頭も草をはんで居る。

 

9.8.3 夜明け(Fajr)の分岐

 

分岐で一休みして南側の崖地に登る。表土には礫が多い。崖地の高さはそれ程では無く、礫岩層は堆積岩と思われるが多孔質の黒っぽい熔岩の風化した石も見られ、白っぽいチョーク(Chalk)が風化した様な土壌も見受けられるので噴出岩の土砂が礫岩を形成している可能性も多い。しかしながら石筍の様に白い紡錘型をした石も採集しているので炭酸塩岩と考える方が土質と合っている様な気がする。分岐から少し南に下った切り通しに露出する岩盤は堆積層であり、厚い粘板岩が15 - 20 cmの硬い砂岩に挟まれている。層理は水平である。切り通しの南の盆地状には緑は殆ど無いが背の低いタルフ(Talh)が生えている。この北ではタルフ(Talh)もサラム(Salam)も殆ど見られず、この南ではウラー(Al-Ula)分岐まで放牧の駱駝や羊を見かけなかった。

 

2002年の12月にこの分岐を通過した時にはサスク(Sasuku)のサービス・ステーション(Service Station)が開業しては居ないものの建築はほぼ完成していた。サスク(Sasuku)はサウジの全土に広がる給油所サービス・ステーション網で何処でも食堂、モーテル、コンビニ、モスク、洗面所を併設しているのでサウジバス運輸公社(SAPTCO)のバス停と成っているサービス・ステーション(SS)が多い。

 

9.8.4 カリーバ(Al Qalibah)

 

分岐から南の広い盆地状の北東側の崖地に沿って16 km辺りにカリーバ(Al Qalibah)の集落が崖地に寄り添う様に南に延びている。盆地にはかなり大きなサラム(SalamAcacia tortilis)が小さな涸れ谷を辿って生えている。頭に大きな白いターバンを巻いた男が3人村人の様に座ってたむろして居たが後から考えるとサウジはターバンを巻かないからやはりスダーン方面からの出稼ぎ人なのだろう。村の裏側は崖地に登って居り、狭い路地を通って岩を採集すると板状の脆い泥岩である。この広い人気の無い沙漠の村の建物が余りにひしめく様に肩を寄せて崖地に麓にもたれかかるように建っている事が不思議な感じがする。雨が多い時に、この盆地状が湖面になるのであれば分かる気はする。2002年の12月に通過した時には人気の少ない村にしては大きな学校と消防署が建てられていた。この村の周囲から南にはタルフ(TalhAcacia gerrardi)やサラム(SalamAcacia tortilis)等のアカシヤが美しく点々と並ぶが、畑も殆ど無い事から遊牧のベドウインが本拠にしている村と勝手に推測する。光線の具合か西側の山並みに積もった砂が赤く見える。

 

9.8.5 涸れ谷の集まる農業地帯ジライダ(Jiraydah)

 

道路は分岐からずうっと登り坂であったがタイマー(Tayma)の手前43 km付近でその登り坂の峠となる。その峠の手前近くの西側では岩山も遠のき、涸れ谷の平原が盆地状に広がる。地図で見るとジャフ州のタバルジャル(Tabarjal)の様に水の流れが集まる場所リジラ (al-rijla)に成って居り、農場が広がっている。その大きさはハーイル(Hail)の北のフッタ(Al-Khottah)村に匹敵する。農場はタイマー(Tayma)の手前23 km位まで点在している。この辺りの砂礫には噴石性の多孔質の黒い礫が混じっているが、一番近い熔岩地帯(Harrat)まで50 kmもあるのにここに火山性の礫があるのが不思議だ。その上空に朝日を浴びて鷹が旋回している。

 

9.9 タイマーとタイマーから南へ

 

9.9.1 タイマー(Tayma)

 

正面に岩山が見えて来ると道路は大きな礫岩の転がる盆地状の地形に入ってくる。この町は並木も豊かで農地も多い。町の北には鳶と烏が共に舞っている。東側は大きな涸れ谷に成っている。町の北の外れにタイマー博物館の看板が立っている。この博物館は一度訪れたいのだがタイマー(Tayma)には休みにしか来ないのでその機会が得られないで居る。19979月に訪問した時にはその先で若いサウジにタイマーにはカスル(Qasr)がある筈なのでサウードに場所を訊ねさせる。

 

9.9.2 カスル・ラマーン(Qasr bin Raman)

 

この若いサウジは自らランド・クルザー(Land Cruiser)で先導し、城の内部を案内してくれた。ムハンマド・ナハル・アブドゥル・レヘム・ラマーン(Mohammed Nhar Abdul Rehem Al-Raman)と名乗り、「このカスル(Qasr)は自分のお爺さんのもので、自分の一族は代々タイマー(Tayma)の領主であり、この城は1338年に自分達ラマーン(Al Raman)一族が築城し、20世紀に入ってイブン・サウードに服従した。今も自分の長兄がこの地方のアミール(Amir、地方の長官)で自分もアミールの館に住んでいるのでカスル(Qasr)の見学が済んだら案内する」と言う。この城の入り口の大きな木製扉付近の男用の住居はかなり荒れているが中庭を挟んだ家族用の住居には石がふんだんに使われており保存状態も良い。家族用住居の台所には小さな木製の鎧戸があってそこから直接城壁の外側に設けられた井戸から水を汲み上げられる仕組みになって居た。井戸が外敵に脅かされ易い城外に何故作られているのか疑問を感じた。カスルの周りはナツメ椰子の林とその木陰を利用した伝統農園に成って居たが今はナツメ椰子も焼かれて荒れるに任されている。

 

ラマーン城その1

 

ラマーン城その2

 

200212月に立ち寄った際にも街道の東にあるスークを挟んだ奥のナツメ椰子畑にあるこの城を探すが、見過ごして、町外れに出てしまう。道を聞いて居ると若い学生風のサウジが三人車を止めて、「泉を探しているのか。」と言うので「Qasrを探している。」と言ったが通じないので「大きな古い家を探して居り、この裏のナツメ椰子畑の一角だ。」と言うと。「分かった案内してやる。」とQasrの前まで先導してくれる。礼を言うとアッと言う間に走り去ってしまった。こう言う経験は何度もしており、「サウジは無愛想なくせに親切だ。」とつくづく思う。この比較的大きな城は相変わらず番人も柵も無いが、多少荒れては居ても良く残っている。この時の同行していた上原先生ご家族と岩本先生ご夫妻を砦部分と住居部分に案内し、その後、今でもそこに水の涌く城外の井戸にも案内する。

 

9.9.3 ハッダージュ(Haddaj)の泉

 

カスル・ラマーン(Qasr bin Raman)から少し町に戻った広場には直径20 m位の大きな井戸があり、深い池の様に水を湛え、井戸の周囲には駱駝を使って水を汲み上げていた頃の木製の滑車が残されて居た。この19991月時点では井戸の周りをぐるりと小さなランダアバード(Roundabout)の様に路が取り囲んで車で井戸の際まで行けたのでそんなに重要な井戸との認識は無かった。200112月に訪れた際に工事していたので、公園化するのだと思って居た。2002年の12月に立ち寄った時には整備されていたのは良いが、遺跡保護柵に囲まれて閉まっており泉を直接は目に出来なかった。この様なやり方では保護には役立つけれど、観光開発には逆行だ。

 

ハッダージュの泉その1

 

ハッダージュの泉その2

 

ハッダージュの泉その3

 

9.9.4 アミールの天幕

 

19991月の訪問の際にはラマーン家の若者にアミールの天幕に案内されてお茶をご馳走になる。天幕は断食月明けのお祭りの接客用と思われるが100人位収容できる大きな天目で暖房用の煉瓦造りの暖炉とお茶用の炉が設えてあり、片側が開いているにも関わらず寒くない。「お昼を義馳走する」と言われるがその日の内にマディーナ(Madinah)へ着かないと宿が無いので丁寧に断る。若者はそれでもこれだけは見て置けとアミール政庁に案内しカスル・ラマーン(Qasr bin Raman)の模型を見せてくれるが私には政庁に置かれている応接調度の豪華さの方に興味があった。

 

アミールの天幕

 

19979月の時点ではマダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)にはホテルが無く四つ星のホテルはタブーク(Tabuk)のサハラ・ホテル(Sahara Hotel)の南では680 km離れたマディーナ(Madinah)のシェラトン・ホテル(Sheraton Hotel)しか無かった。2001年の12月にはタイマー(Tayma)の中心部にはアブラク・ホテル(Al-Ablak Hotel)が出来ていた。このホテルは見かけの割に中味が悪く泊まる気には成れないがこの時までにはウラー(Al-Ula)のマダーイン・サーリフ ホテル(Mada’in Salih Hotel)が開業し日本人の観光客も受け入れ始めたのでホテルの心配は無かった。200212月に通過した時にはアブラク・ホテル(Al-Ablak Hotel)の食堂で昼食を摂った。専用の部屋は無いけれど六畳程の小部屋を提供してくれる。カプサチキン(大きな皿に油を少したらした薄い味付けの米を盛り、その上に焙った鶏を載せた料理)を頼み、サウジ式に手掴みで食べる。上原先生も息子達も結構旨く食べて居る。サラダをたくさん持って来てくれたのがうれしい。

 

9.9.5 タイマー(Tayma)

 

紀元前550年のバビロニア王(Babylonian King)ナボニドゥス(Nabunidis) の首都(Capital)であった場所は確認できなかったが、タイマーの町の南出口東側に大きな遺跡保護の柵があり、その中に古い長い塀が見られるのでこの中にもそれなりの物が有るのだろう。

 

正午にタイマーを出発する。タイマーの南では土地は赤味を増すが黄土色にも見える。タイマーを振り返ると白い建物が目立つ。離れるに連れ岩山も遠のき平らな沙漠と成る。岩山が再び散在し始めると岩山が砂岩の露頭の様に見え始める。

 

9.9.6 銅石時代の墳墓カーラ・ハイラーン(Qarat al Hairan)

 

パトリック・ピエラード氏(Mr. Patrick Pierard)200112月にマダーイン・サーリフ ホテル(Mada’in Salih Hotel)を訪れた際に「最近殆ど手つかずの大規模な墳墓を見つけた。」と言うので案内して貰う事になった。場所はタイマー(Tayma)の南50 kmでウラー(Al Ula)/ハーイル(Hayil)分岐の北60 kmにある給油所の廃墟から東に3 - 4 kmにある東西に延びた台形をした平頂山の上である。この岩山の大部分は酸化し太陽光で変色したスレート状の砂岩で覆われている。岩山の西端の北側には風食されて穴が開いている。頂上の平らな部分には幾つかの墳墓がある。これはプラト・エル・ハイラヌ(Plat El Hayrane)と云い、紀元前2000年頃にベドウインが作った墳墓である。主墳墓は台地の東にあり、西側を頭に頂辺が20 mの三角形と脚部が直径30 mの円が積み石で石垣状に作られその間を幅5 m位の長い長方形の回廊を二つ置いた様な最長120 mの前方後円墳のくびれ部分を伸ばした様な形をしている。積み石の高さは後円墳部分で4 m、残りは1 mである。材料は山を覆う前述のスレートである。主墳墓も培墳墓も構造は壊されて居ないが盗掘は受けている。

 

カーラハイラーンその1

 

カーラハイラーンその2

 

カーラハイラーンその3

 

20021210日の午後4時にここを再度訪れる。タイマーからの道中で少し、ウトウトして目が覚めると、東側の大きな平らな岩山の上に構築物が見られる。パトカーがうろうろして居るのに構わずに去年は閉店で今年は暫時営業中止の給油所から東の沙漠へ入り込む。パトカーは給油所で待機している。ムニエルは砂漠の運転に馴れて来たらしく、どんどん飛ばし、延べ棒を置いた様な形の台地に近づく。台地の麓に車を置いて台地に登る。10分足らずで平らな台地の上に着く。パトリックと昨年ここを訪れた時には彼は「銅石文明時代の古代アラビア人の作った4,000年前の物だ」と言っていた。午後4時半 墓の台地を出発し、この平頂山から沙漠を突っ切って街道の紅白のペンキを塗ったタワーを直接目指す。上原車が砂にスタックしたり、前輪駆動が旨く外れなかったり、多少トラブルが問題なく道路に戻れた。

 

9.9.7 ジャハーラ(Jaharah)

 

ウラー(Al Ula)/ハーイル(Hayil)分岐の北10 kmにある多少の緑を持った給油所休憩所のある集落である。

 

9.9.8 ウラー(Al-Ula)/ハーイル(Hayil)分岐

 

タイマー(Tayma)107 km、マディーナ(Madinah)320 km土壌は赤味を帯、砂岩の露頭が地上に顔を出し、光線の加減で赤くも黄土色にも見える。赤い砂の平原から赤黒い岩山地帯に入ると分岐の立体交差が目の前に迫る。

 

後書き

 

タブーク(Tabuk)は昔から冬には雪が降ると言われ興味を持っていたが実際に始めて訪れると避暑地と言うより農業地帯であった。軍事基地があった為につい最近までこの地域の地図が手に入らず、地名は道路沿いの交通標識だけが頼りであった。又、参照した資料で使われている地名や山や涸れ谷の名も地図上で確認出来なかったり、それぞれの地域で土地の人から聞いたと思われる地名が多かったりするその上、前述した2年前と今年に同じFARSIから出版された地図でも名前が異なって居る地名も少なくない。何れは更に詳しい地図が発行されれば明らかになると思い、場所が確認できない地名もこの文章では敢えて割愛せずに残してある。

 

タブーク(Tabuk)は車で行くにはリヤード(Riyadh)から二日行程と言う遠隔地であり、一週間位の日数を取っても半分以上の四日間を往復に費やしてしまう為に残念ながら沙漠の中をトレックする余裕が限られ、新しい発見のある様な思うような調査は出来ないでいる。実際にタブークを知るにはもっと沙漠に入り込まなければ成らないし、紅海の海岸も一度通過しただけでの説明に止まってしまった。やはり、少し時間を割いてもっと詳しく調査したいと思う。

 

今回記録を調べて特に印象的で有ったのは1997年に訪れた地形なりの道路は2002年に訪れた際には大きく更新されて居り、道路の拡充に伴い元の地形にも人手が入り小さな涸れ谷、特徴のあった路傍の岩や急峻な渓谷が確認出来なく成っている個所も少なく無い。5年の間でさえ、これだけの変化があるのだからつい100年前まで主要な交通路であった駱駝を使った隊商路が殆ど眼にする事が稀になるのは致し方無し、ヒジャーズ鉄道も現代の交通網から取り残され沙漠に埋もれて行こうとしている。

 

タブークが回教徒に取っては桶狭間の様な意味合いを持つ土地であることも興味深いが、何と言ってもエジプトから肥沃な三角地帯かけての古代文明の南に隣接する後背地であり、現在までには主に海岸、旧ヒジャーズ鉄道や街道沿いの遺跡や自然の資料しか入手して無いが更に色々な資料が公に成ってくれば興味ある遺跡や事象が示されてくると期待している。

 

特にタブーク州は全体としてナバテア王国の南部に当たるのでナバテア文明に関する遺跡はこれからもおおく発見されると思う。ナバテアが歴史に登場したのはケダール王(Qedar)ウアイテ(Uaite')がアッシリア(Assyria)との戦い(652BC)に敗れ、ナバテア(Nabataean)王ナツヌ(Natnu)に保護を求めたのが始まりである。その後紀元4世紀から興隆し紀元0年前後を最盛期とし、ローマに滅ぼされ併呑された紀元106年まで交易国家として栄えた。このナバテア王国については別の機会にアラビアの陸海の古代交易国として改めて紹介したい。

 

以上

 


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