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改訂2008月11月23日 高橋 俊二
 

海のシルクロードの中継地

(サウジアラビア王国西北部地方)

沙漠の辺境アル ジャウフ

Al-Jawf



 

 

前書き

紹介

1. 地理

1.1 気候

1.2 地形

1.2.1 三角形の大きな窪地 アル ジャウバ (Al-Jawba)

1.2.2 偉大な砂の沙漠 アル ナフド (Al-Nafud)

1.2.3 ハッラ熔岩地帯(Al Harrah)

1.2.4 大回廊の窪地 ワディル シールハン (Wadi'l-Sirhan)

1.3 町村

1.3.1 サカカ(Sakaka)

1.3.2 デュマット アル ジャンダル(Dumat al-Jandal)

1.3.3 ダバールジャル(Tabarjal)

1.3.4 クライヤト(Al Qurayyat)

2. 先史時代のアル ジョウフ (Prehistoric al-Jawf

2.1 石器時代 (Stone Age)

2.1.1 シュワイヒテイイヤの旧石器原人遺跡 (Shuwaihitiyya)

2.1.2 旧石器中期ムスティエ文化 (Mousterian)遺跡

2.2 銅石時代から鉄器時代 (Chalcolithic-Iron Age)

2.2.1 ストーンサークル (Stone Circles)

2.2.2 石塚遺跡 (Cairns)

2.2.3 立ち石遺跡 (Stone Pillars)

2.2.4 岩壁画 (Rock Arts)

3. イスラム教普及以前のアル ジョウフ (Pre-Islamic al-Jawf)

3.1 沙漠の王国アデュッマツと五人の女王 (Five Queens of Adummatu)

3.1.1 女王ザビベ (Queen Zabibe)

3.1.2 女王サミシ (Queen Samisi)

3.1.3 女王ヤティ (Queen Yati'e)

3.1.4 女王テエルクヌ (Queen Te'elkhunu)

3.1.5 王女タブ (Princess Tabu'a)

3.2 アッシリアのアラブ征伐 (Assyrian Campaigns against Arabs)

3.3 ナバテア人 (Nabataeans)

3.4 女王ゼノビア (Queen Zenobia)とイムルアル ガイス(Imru' al-Qais)

3.5 ウカイディールの王国 (Kingdom of Ukaidir 

4. 三角形の大きな窪地 アル ジャウバ (Al-Jawba) 

4.1アルアルからアル ジャウバへ (Approach from 'Ar'ar)

4.2 原人の太古の遺跡 (al-Shuwaihitiyya)

4.3 州都の前哨 (Zallum)

4.4 偉大な砂の沙漠 (Al-Nafud)の入り口 (Suwair and Hudaib)

4.5 州都サカカ (Sakaka)

4.5.1 博物館ホテル (Al-Nusl Hotel)

4.5.2 古代の町 ツワイール(al-Tuwair)

4.5.3 聳える岩山の城 バル (Qasr Za'bal)

4.6 五人のアラブ女王の都 (Dumat al Jandal)

4.6.1 反乱人の城 マリド (Qasr Marid)

4.6.2 最古の回教寺院 カッタブ (Al-Khattab Mosque)

4.6.3 貯水提兼用の城壁

4.6.4 棗椰子園と人口湖

5. 偉大な砂の沙漠 (Al-Nafud)

5.1 立石遺跡 ラジャアジル (al Rajaajil)

5.2 沙漠 (Al-Nafud)の入り口 カウ (Khaw'a)   

6. ハッラ熔岩地帯(Al Harrah)

6.1 ハジム ジャラミド(Hazm Al Jalamid)

6.2 ツライフ(Turaif)

6.3 州境の検問所(Check Point)

6.4 ハマド(Al Hamad)

6.5 カルカル(Al-Qarqar)

6.6 カフ(Kaf)

6.7 クライヤト(Al Qurayyat)

7. 大回廊の窪地 ワディル シールハン (Wadi'l-Sirhan)

7.1 国境の町クライヤトから (Approach from Qurayyat)

7.2 大回廊の窪地の要所 (Tabarjal)

7.2.1 水の流れが集まる場所リジラ (al-rijla)

7.2.2 最も大きな農場JADCO

7.3 崖地に囲まれた集落 (An Nabk abu Qasr)

7.4 絹の道と乳香隊商路の分岐点 アブ アジラム (Abu Ajram junction)

7.5 新興農業地帯の中心地 マイグ’(Mayqu')

後記

 

 

 

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前書き

 

サウディアラビア紹介としてこれまで「サウディの自然と地理」、「メッカ街道」、「ナジドの自然」および「ハイルの自然と旅」の四篇の小文を掲載させて戴いた。第五篇目を何処にするか考えて居たが前から感銘を受けていたスダイリ元知事の著作を紹介出来るのでこのジョウフ州(Jawf Province)を選ぶ事にした。スダイリ元知事は正式にアブド アル ラーマン ビン アハマド アル スダイリ(Mr. 'Abd al-Rahman bin Ahmad al-Sudairi)(以降スダイリ元知事と呼ぶ。)と云う名で1943年から1990年まで長い間ジョウフ知事を務めたサウディの重鎮である。

 

更に、この地方は地中海とアジアを結んだ海のシルクロードの中継地でもある事にも興味を引かれた。古代には東アジアや印度からの船荷はアラビア湾岸で駱駝の背に積み替えられアラビア半島北部を横切り、大シリア沙漠を通って地中海へと運ばれた。しかしながら紀元750年にアッバシド朝('Abbasids)がウマイヤド朝(Umayyad)を滅ぼし、その都をダマスカス(Damascus)からバグダッド(Baghdad)に移した後、ジャウフ地方は隊商の経路ではなくなり、その交易業は廃れてしまった。

 

前篇までの感想としてアラビア語の地名は不可解で記号の様な印象でしか無いとの指摘を受けたのでこの第五篇ではそれぞれの地名に渾名を付けてみた。この渾名は自分の勝手な解釈で付けた為に必ずしも正しくそれぞれの地方を表現出来ては居ないかも知れないが無味乾燥にしか受け取れないカタカナの地名よりは具体的な印象を持って戴けると思う。

 

原文の中でスダイリ元知事が現役であった時代のジョウフ州として紹介している地図および最初にサウジで出版されたFARSI MAPSの道路地図では独立したクライヤト州(Al Qurayyat)が存在していたが、その後、同州はトブク州(Tabuk Province)とジャウフ州(Jawf Province)に分割併合された。今回の改訂は読みやすくするのが目的であるので原則として原文は変えていないが、その部分に関しては多少、記述を加えた。

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紹介

 

アル ジャウフ(Al Jawf)を最初に訪れたのは199799日でサウディアラビア北西部の植生土壌を広く調べる為の調査の途中だった。当時は東部州北部海岸のクウェイト国境の町カフジ(Al Khafji)に住んでいたのでその前日はカフジから舗装の傷んだ狭い対向車線の道を1,000kmも走り、ようやくアルアル(Ar'ar)に着いた。この街道はタップラインに沿ってイラク、クウェイト、サウディ アラビア三国の国境が交差するアル ラグアイ(Ar Raq'ay)に近い国境の町アル バティン(Hafar al-Batin)からジョルダン(Jordan)まで続いて居る。

 

アル バティン(Hafar al-Batin)はナジド(Najd)沙漠の羊の集散地でもあり、第一次湾岸戦争の時に米国同盟軍がクウェイト奪回の為に最初に攻め込んだ突破口として日本にもその名を知られた。タップライン(Tap line)は原油を地中海まで積み出す為のアラビア横断原油搬送ライン(Trans Arabian Pipeline)でダンマン(Dammam) からこのアル バティン (Hafar al-Batin)を経由して広大で平らな大シリア沙漠をイラク(Kuwait-Iraq)国境に沿ってジョルダン(Jordan)まで延々と敷設されている。その晩はこのタップライン沿いで北部国境州唯一の町らしいアルアル(Ar'ar)にある多少羊の匂いのするタイシール(Al-Taiseer)ホテルに泊まった。

 

`アル`アル(`Ar`ar)40km付近のカルスト大地 

 

99日はアルアルからナフド沙漠(An Nafud)を抜けてタブク(Tabuk)まで500km以上を調査する予定だった。ナフドの大砂沙漠の調査とアラビア半島横断がその日の課題であり、ジャウフ(al-Jawf)について殆ど知識が無く余り興味も持って居なかったのでサカカ(Sakaka)はその入り口を通り過ぎても多少大きな町がある程度にしか思わなかった。又、デュマト アル ジャンダル(Dumat al-Jandal)等は町が街道から北に深く入り込んで居るので町を見る事も無く変わった長い名前程度の認識だった。

 

暫くしてシュワイヒティイヤ(al-Shuwaihitiyya)と云う場所があり、そこに原始的な石刃(Bi-face)や石斧(Hand-ax)等を使う原人(Home Erectus)が住んで居た事を知った。それは石斧文化と云われるアシュール文化(Acheulean)の前期或いはそれ以前の後期オルドゥヴァイ文化(the Developed Oldowan tradition)に属する100万年より少し前の太古の遺跡である。

 

シュワイヒテイイヤ(Shuwaihitiyya)

 

更に紀元前8世紀から7世紀頃にベドウインの首長を率いてアッシリア(Assyrian)に対抗したアラブの5人の女王達が居たのを知った。その5人の女王達とはザビベ (Queen Zabibe)、サミシ (Queen Samisi)、ヤティ (Queen Yati'e)、テエルクヌ (Queen Te'elkhunu)およびタブ (Princess Tabu'a)である。

 

この二つの事でこの地方への関心を引きつけられた上、その後、前書きでも述べた様に「アラビアの沙漠辺境、ジョウフの変遷(The Desert Frontier of Arabia, Al-Jawf Trough the Ages)」と云う本を読み一層興味を持つ様に成った。この本は1943年から1990年までジョウフ州知事であったスダイリ氏(Amir 'Abd al-Rahman bin Ahmad al-Sudairi)によって書かれた。同元知事はその長い任期を通じてジャウフに住み、この地方に寄与する為にスダイリ財団(The 'Abd al-Rahman al-Sudairi Foundation)を設立する程、この地方を愛した人である。この財団を通じて同元知事は州都サカカで私立図書館(Dar al-Jawf lil-'Ulum)、博物館兼ホテル(Al-Nusl)および三つの付属幼稚園を持つ慈善団体(Jam'iyyat al-Birr al-Khairiyya) を設立し運営している。

 

 

この本は丹念にそれぞれの情報源を紹介しながらジョウフの全てを網羅している上にこの地方に住みこの地方を愛した著者に強く感銘して居るのでこの本からの抜粋を主にしてジャウフを紹介したい。 

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1. 地理

 

(ここをクリックすると図が拡大します。)

(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)

 

旧ジョウフ州はクライヤト州(Al Qurayyat)を含め、北アラビアにあるサウディアラビア王国14州の一つで、その面積は58,425平方マイルであった。その州都サカカは海抜580mで北緯30°東経40°に位置している。

 

() クライヤト州(Al Qurayyat)がタブク州とジャウフ州に分割併合され、サウジアラビア王国が13州となった後のジョウフ州(Al Jawf Province)の面積は53,668平方マイル(139,000平方キロ)である。

 

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スダイリ元知事はその著書の中で「ジャウフとは腹の張った谷を意味し、北アラビアに住むベドウインがこの窪地に付けた古くから良く知られた渾名であり、ベドウインはジョウフの住人の客に対する過剰な程の歓待と別格の心遣いをこの渾名で表したのだろう。客に可能な限りの最上の食事を饗し、客が食べ止めたくても更に食べる様に勧めると云う気前の良さの習慣を偲ばせる表現としてこれ以上にふさわしい名前は無いだろう」と述べている。この様にジャウフは低い土地を意味して居り、それが州の名前にも成った。

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1.1 気候

 

ここの気候は大陸沙漠性で冬寒く夏は熱く乾燥している。夏の最高気温は一番熱い7月で42℃であり、最も寒い1月には氷点下2℃から7℃まで下がる事もある。短い春と短い秋が夏と冬を分けている。年間の平均降雨量は多いときでも200mmであり、年間平均湿度は36.5%である。

 

ジャウフの気候の特徴は風である。冬には東風が、春には西風が卓越する。冬に雨を運んで来るのは南東の風であり、これに対し北風や西風は総じて冷たい。

 

気候は厳しいだけでは無く、時としてとても快適でもある。この気候が表層水や化石水の豊かさや土壌の肥沃さと相俟って王国内の最適な農業地帯の一つに成っている。

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1.2 地形

 

窪地、高地、涸れ谷や平原等の大きな起伏がジャウフ州の地形の特徴であり、この州は三角形の大きな窪地(al-Jawba)、大回廊の窪地(Wadi'l-Sirhan)、偉大な砂の沙漠( al-Nafud)およびラジル熔岩原(Harrat Al-Rajil)の四つの主要な地域で構成されている。(邦訳はいずれも筆者の私が付けた渾名)

 

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三角形の大きな窪地(al-Jawba)であるジャウバ地域は窪地或いは窪みとも呼ばれ、三角形をした窪地全体がこの州の中に収まって居り、この州の中心でもある。

 

大回廊の窪地(Wadi'l-Sirhan)はシールハン窪地とも呼ばれ旧クライヤト州を通り遠くジョルダン王国にまで延びている。

 

偉大な砂の沙漠( al-Nafud)は偉大なナフドとも呼ばれ南南東にハイル州および北部国境州へと広がっている。

 

ハッラ熔岩地帯はこの州の北西部の火山地帯であり、旧クライヤト州および北部国境州に広がっている。ジャウフからラジル熔岩原への道路が無く、ジャウフ方面からは訪れる事は出来なかった。但し、ツライフ(Turaif)からクライヤト(al Qurayyat)に向かう途中でラジル熔岩原を横断しており、結果としてカフ(Kaf)付近でこの熔岩地帯を丹念に観察していた。この熔岩地帯(Al Harrah)をスダイリ元知事はラジル熔岩原(Harrat Al-Rajil)と呼んでいる。

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1.2.1 三角形の大きな窪地 アル ジャウバ (Al-Jawba)

 

ジャウバはジャウフの中心にある大きな盆地でシールハン窪地の南端に近い。この窪地は底辺75kmで高さ60km程の少し弓なりのほぼ三角形で、周囲の平原から60mから150m陥没している。多分、太古の内陸海か湖だったと思われる。

 

この窪地は北緯29°45'から30°30' 東経39°42'から40°30'に広がって居り、東に張り出した少し弓なりではあるがほぼ三角形をしている。南の底辺は偉大なナフド沙漠の北辺に接して居り、北の頂点はシュワイヒテイイヤ辺りとなり、東辺のシャルギ崖地(Jal Al-Jubat Al-Sharqi) と西辺のガールビ崖地( Jal Al-Jubat Al-Gharbi)に挟まれている。窪地の至る所に熔岩の噴出、噴火口や熔岩流等の火山活動の跡が残っている。

 

ジョウバ窪地は西アジアで人類の定住が確認されている最も古い遺跡の一つが残る場所でもある。この窪地のシュワイヒテイイヤ付近でサウディ国内最古の遺跡が見つかって居り、その石器から100万年以上前の人類が住んでいたと鑑定されている。

 

サカカ(Sakaka)やデュマト アル ジャンダル(Dumat al-Jandal)を含むこの州の主な集落の殆どは今でもこの窪地にあり、又、考古学上の遺構もここで見つかっている。しかし何といっても重要なのはこの窪地がこの州の農業の中核を担っている事である。

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1.2.2 偉大な砂の沙漠 アル ナフド (Al-Nafud)

 

ナフドは砂の沙漠であり、しばしば偉大な砂の沙漠又は偉大なナフドと呼ばれる。北緯27°00'から30°00'、東経39°00'から43°00'に位置して居り、サウディアラビア北西部の広大な変形した盆地を埋め、その面積は67,300平方キロに及ぶ。サウディ国内では南にある空白地帯沙漠(Empty Quarter, al-Rub' al-Khali)に次いで第二番目に大きな砂沙漠である。この二つの砂沙漠はダーナ(al-Dahna)と呼ばれる長い弧型の砂沙漠でつながっている。ナフド沙漠の標高は一定では無く、ジャウフとハイルを結び隊商路の平均標高は海抜914mであった。砂丘の高さは100mを越すものも多い。

 

 

ナフド沙漠の砂丘の際だった特徴はファルジ(Falj)と呼ばれるその形にある。ファルジはほぼ半楕円で、馬の蹄の巨大な跡の様な形をしている。つま先の部分は一番低く常に北西を向いている。窪地の面は南東に向かって高く成って行き踵部分で地表と同じ高さになる。内側の壁は水平に対して50°から60°の傾斜を持っている。ファルジには様々な大きさがあり4千平方メートルから81万平方メートルのものまである。平均の長径は265mから366m程度で窪みの深さは46mから76m程度である。この窪地の特徴で独特なのは砂面が不安定で砂が西から東に不規則なコースや筋で並んでいるにもかかわらずここにある窪地はその形も大きさも常に同じで変わらずに残っている事である。

 

カウ(Khaw'a)村の遠景

 

ナフド沙漠の卓越風は西から吹いてくる。沙漠の植生は豊かで遊牧に適して居り、デュマット アル ジャンダル付近の水場としてはカウ (Khaw'a)やシャギグ(al-Shaqiq)がある。ナフド沙漠は何時の時代でも旅の障害と成っていたがナフドは原住民にとても異邦人にとっても常に魅力の有る場所だった。ナフドの名前は 砂丘を意味するニフド(al-Nyhud)から次第に訛ってこの様に呼ばれる様に成った。

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1.2.3 ハッラ熔岩地帯(Al Harrah)

 

サウジアラビアのヨルダン国境に近い北西部にある玄武岩性の大きな火山地帯であり、その面積はサウジアラビア領内だけで15,200km2にもなる。この火山地帯はラジル熔岩地帯(Harrat Al Rajil)とも呼ばれ、シャアム熔岩地帯(Harrat Ash Shaam)としても知られ、シリア(Syria)からヨルダン(Jordan)を抜け、北部サウジアラビアまで広がる大規模なシャマ熔岩地帯(Harrat Ash Shamah)の南の三分の一である。シャアム熔岩地帯(Harrat Ash Shaam)のサウジアラビア領内の部分は涸れ谷シールハン(Wadi Sirhan)の北東端にに接し、北西から南東に長さ270km、幅75kmで広がる。その最高峰は標高1100mのアムド山(Jabal al Amud)である。この熔岩地帯の活動は中新世(Miocene)23百万年から5百万年前)に始まり、一番最近の噴火は更新世後期(late-Pleistocene)と完新世(Holocenne)に起きている。ハッラ熔岩地帯にはサウジアラビアで1986年に設立された野生生物保護委員会(NCWCD)1987年に最初に設けた野生生物保護区があり、その面積は約13,775km2である。

 

Harrat Al-Rajil-Kaf

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1.2.4 大回廊の窪地 ワディル シールハン (Wadi'l-Sirhan)

 

ジョウバと同じ様にシールハンも窪地である。名前の後半分には涸れ谷が付けられて居るがこの窪地は水の流れで出来た谷では無い。このシールハン窪地は北緯29°50'から31°30'、東経37°28'から39°30'にあり、幅は20km、延長380kmである。渓谷の様にギザギザした形をしており、アラビア半島の特徴である内陸型の閉じられた水系の例でもある。この窪地はデュマト アル ジャンダルの西30km付近を南南東の起点としてハッラ熔岩地帯(ラジル熔岩原)を含むシャマ熔岩地帯(Harrat Ash Shamah)に沿ってその南西側をヨルダンのアズラグ(al-Azraq)まで北北西へと延びている。中には「この窪地はアンマン('Amman)付近まで延びており総延長480kmにも及ぶ」と主張する地質学者も居る。

 

 

ダスム('Uraiq al-Dasm)と呼ばれる砂丘地帯がジョウバ窪地とシールハン窪地を分けている。マムド アル ジャシール氏(Dr. Hamd al-Jasir)は「両方の窪地はかっては続いて居たが窪地に貯まった砂の堆積が二つの窪地に分けてしまった」と言う。シールハン窪地の一番低い場所は国境の町クライヤトに近いイスラ(Ithra)やカフ(Kaf)付近で、標高は海抜約550mある。

 

シールハン窪地へは東からも西からも水が流れ込むけれど洪水を排出する主要な涸れ谷(Wadi)は東ヨルダンを起点としてこの窪地の西側にある。窪地の東側には隣接したラジル熔岩原から流れ下る短い涸れ谷が幾つかあるだけだ。

 

シールハン窪地では地下水面はおおよそ海抜564m辺りであり、その深さから豊かな水量が見つかるので、昔はタイマ(Taima)(一時バビロニアの首都であった古い町(Tayma'))より北にある最大のオアシスと考えられていた。シールハン窪地の全長に渡って多くの水井戸があり、州境を越えて大規模な農業開発が行われている。

 

地質的にはこの地域は火山性であり、昔の火山活動の証である黒い玄武岩が多い。ジョウバ窪地と同じ様にシールハン窪地も太古の海か湖だろうと言われている。ここには広く知れている様に良質で大量な塩が産出できる鉱床があり、何世紀にも渡って塩生産地として大切にされて来た。19世紀にはトルコ帝国がこの鉱床を取り分け重視していた事が同帝国のジョウフ占領に関する文章に明確に記録してある。

 

この窪地の呼称には幾つかの説がある。多分17世紀末位まで今のジョルダンやシリヤとの国境地帯で覇権を持っていたハウラン(Hawran)部族のシールハン族(Sirhan tribe)の名に因んでいるだと思われる。この時代にシールハン族はハウラン部族から離れジャウフ地域に移住したのでそれ以前はアズラグ(Azraq)と呼ばれていたこの涸れ谷状の窪地はシールハン窪地と云う名に成った。

 

中世にはシールハン窪地はアラビアの地質学者からバティン アル シール(Batin al-Sirr)すなわち神秘の窪地(Depression of Mystery)として知られていたし、ギリシャではシルメイション ペディオン(Syrmation Pedion)と呼ばれていた。別の説ではシールハンは狼を意味して居り、この窪地には狼が多く居たのでこの名が付いたとされている。

 

シールハン窪地には多くの村落があり、ジャウフ州に含まれる範囲ではタバールジャルがその中心地である。昔からシールハン窪地はアラビア半島内陸部と今のジョルダンやシリヤ辺りのシャム地方(Bilad al-Sham)の間を往来するのに好まれた隊商路であった。

 

タバールジャル(Tabarjal)入り口の農園

 

前文に述べた様にシールハン窪地とジャウバ窪地は共にずうっと昔には内海か湖だと考えられている。この説は海水性の貝や珊瑚礁等の化石が両方の窪地の至る所から豊富に見つかる事からも立証されている。

 

両方の窪地とも先史時代には植生に適して居り、何十万と云う化石化した木片があらゆる場所に散らばっている。

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1.3 町村

 

ジャウフ州には町や村落合わせて332,400(1999)が生活している。その中でも一番重要な町が州都サカカ(Sakaka) 、デュマト アル ジャンダル(Dumat al-Jandal) およびタバールジャル(Tabarjal) である。ジョウフ州の村にはガラ(Qara)、アル テュワイール(al-Tuwair)、スワイール(Suwair)、アル ナブク アブ ガスル(al-Nabk Abu Qasr)、ザッルム(Zallum)、フダイブ(Hudaib)、アル シュワイヒティイヤ(al-Shuwaihitiyya)、アル アダリ(al-Adari)、カウ(Khaw'a) アル ラディファ(al-Radifa)、アル ザバラ(al-Zabara)、アル ナザイム(al-Nazayim)、アブアジラム(Abu 'Ajram)、アルアッマリイヤ(al-'Ammariyya)、マイグ(Maiqu)、サファン(Safan)およびフダバン(Hudban)等がある。ここではジャウフ州の三つの主要な町の由来について説明したい。更に旧クライヤト州(Al Qurayyat)から分割合併された町にはクライヤト(Al Qurayyat)、ハディサ(Al Hadithah)、カフ(Kaf)、イサウィヤ(Al 'Isawiya)等がある。

 

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1.3.1 サカカ(Sakaka)

 

サカカの名は天と地の間の大気を意味するサカカ(sakaka)に由来する。他の説としては道の交差点をもっともらしく意味するシッカ(sikka)から派生したと言う。他にはシカカン(sikakan)と言う言葉が一列を意味するのでから狭い場所に真っ直ぐ掘られた井戸群や一列に並べて築いた家並みに由来するとも言う。

 

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1.3.2 デュマット アル ジャンダル(Dumat al-Jandal)

 

予言者イスマイル(Isma`il)の子孫が紅海のティハマ海岸(Tihama Coast)でその数を増やしていった時にイスマイルの息子のデュマ’(Duma’)はそこを離れ最終的に今日のデュマト アル ジャンダルに辿り着いた。デュマはこの地に自分の砦を築いたのでその没後にこの地の名前となった。ジャンダルと云う通り名はこの砦が石で築かれて居た為にこの町の名前の語尾に付け加えられた。

 

他の説としてはこの砦が単に石で造られていると云う事では無く、この地を支配したアル ガンダル家(al-Jandal or al-Gandal)の家名に由来しているとも言われている。アル ガンダルは北アラビアに覇権を持っていたベドウインの非常に古い家族の名である。

 

アッシリア(Assyrian)の記録ではこの町はアデュッマツ(Adummatu)として記されて居り、ローマ(Rome)やビザンチン(Byzantine)の記録にはドマタ(Domata)、デュメサ(Dumetha)又はデュマサ(Dumatha)等と記録されている。

 

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1.3.3 ダバールジャル(Tabarjal)

 

タバールジャルはシールハン窪地の幾つかの小さな涸れ谷(wadi)が集まり終焉する場所に位置している。ベドウインは涸れ谷が集まる場所をリジラ(al-rijla)と名付けて居り、幾つかの涸れ谷が集まる事からタバールジャルの名はリジラに由来して付けられている

 

Wad'l Sirhan-Tabarjal

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1.3.4 クライヤト(Al Qurayyat)

 

クライヤト(Al Qurayyat)はサウジアラビアのヨルダン(Jordan)との西部国境の町で古来から地中海沿岸(the Mediterranean)とアラビア半島中央部や南部を結ぶ重要な隊商路(an important caravan route)であった大回廊の窪地 ワディル シールハン (Wadi'l-Sirhan)の要地であった。クライヤト(Al Qurayyat)は塩の産地としても有名であり、ヨルダン(Jordan)との西部国境が全てクライヤト州(Al Qurayyat Governorate)として独立していた時代には州都でもあった。現在でもクライヤト(Al Qurayyat)国境の町として重要であると同時にこの地域で盛んな農業・牧畜の中心でもある。クライヤト(Al Qurayyat)Al `Aqaylah, Al `Uqaylah, Al `Uqaylah Kaf, Al `Uqaylah Kāf, Al-`Akejla, An Nabk, An Nabk Abu Nakhlah, Nabek等とも呼ばれて来ており、その語源ははっきりしないが「村落・集落」を意味する語ではないかと私は思っている。

 

クライヤト(Al Qurayyat)の農村

 

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2. 先史時代のアル ジョウフ (Prehistoric al-Jawf)

 

ジャウフ地方には先史時代の遺跡が豊富である。デュマト アル ジャンダルは最初に記録に出て来る独立したアラビア王国だった。この王国は時としてこの地方の各部族全体にその支配を広げて居たし、シールハン窪地の隊商路が通じてイエメンとイラク、シリアそして地中海を繋ぐ中継点に位置していたので交易の中心としても繁栄した。デュマト アル ジャンダルは特にナバテア/ローマ時代にはアラビア半島の出入り口であった。

 

ジャウフ地方にはマリド城(Marid Castle)、ラジャアジル立石(al-Rajaajil)や古代の町ツワイール(al-Tuwair)の様な考古学上の重要な幾つかの遺跡があり、サウディ王国内で古代の碑文や岩壁画の豊富な地方でもある。

 

三角形のジャウバ窪地(al-Jawba)の北の頂点となるシュワイヒテイイヤ(al-Shuwaihitiyya)付近には石器時代初期の遺跡が残されている。これはサウディ王国内ではこれまで発見された最も古い遺跡であり、100万年以上も前に遡る。

 

考古学的遺跡はシールハン窪地でもたくさん見つかっている。シールハン窪地は考古学的、歴史的そして古代の様式等の遺品からも立証されている様に古代の村落のあった特に際だった地域である。

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2.1 石器時代 (Stone Age)

 

石器時代の全ての時代を通じてその遺跡が現存する場所は非常に限られ散在してはいるが、サウディ王国内には250万年前から10万年前までの前期旧石器時代の頃から人が住んで居た。

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2.1.1 シュワイヒテイイヤの旧石器原人遺跡 (Shuwaihitiyya)

 

1977年にサウディ王国内で最古の考古学遺跡が発見され、それは西アジアでは非常に稀な旧石器前期の遺跡の一つでもある事が分かった。この遺跡はシュワイヒテイイヤ村に近いシュワイヒテイイヤ涸れ谷の支流の段丘に位置している。ここから発掘された石器は広く形を整えた傷跡や厚く古色化した表面を持つ珪石(Quartzite)から造られた割石や石片等である。発掘当初、この石器は石斧文化であるアシュール文化(Acheulean)の前期或いは先期に分類されていた。教育省考古学博物学部の調査が進むに連れてこの遺跡は100万年から130万年前の進化したオルドワンB (Developed Oldowan B)文化に属するとの結論と成った。更にアシュール文化期から新石器後期までの長い間、人類がこの地域に居住していたのが分かった。

 

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2.1.2 旧石器中期ムスティエ文化 (Mousterian)遺跡

 

石器の材料と成る燵岩(Chert)が産出するジャウフ州内のナフド沙漠の北辺に近いジャウバ窪地(Al-Jawba)の南の端等では前期旧石器時代遺跡や中期旧石器時代遺跡が発掘されて居り、そこでは中期旧石器時代のモウステリアン(Mousterian)期に属する石器も豊富に見つかっている。しかしながら、これに続く後期旧石器時代および亜旧石器時代に属する石器は何も残されていない。これは恐らくは15千年前から13千年前の氷河期の終わりに起きた乾燥状態の為で、新石器時代に分類される遺跡はサウディ王国北部には殆ど見られない。

 

(注)ムスティエ文化 (Mousterian) ネアンデルタール人の化石は、ドイツのネアンデルタールで、1857年に発見された。かつては、現世人類(ホモ・サピエンス)とは別の種と考えられていたが、現在は、現世人類(ホモ・サピエンス)の一亜種とされ、学名は、「ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス」に変えられた。同類の化石は、ヨーロッパ、西南アジア、アフリカで出土している。また、類似体質の化石は、中国の各地でも発見されている。ネアンデルタール人は、旧石器時代中期のムステリアン文化(ムスティエ文化)の担い手である。ムステリアン文化の名は、南フランスのル=ムスティエから代表的遺物が出土していることに由来する。石器製作技術が進歩した。主として剥片石器を用いたが、使用目的により形の違う石器を使い分けたようである。狩猟技術に長じ、マンモスなどの大きな獣をも狩った。火による調理も行った。穴を掘って死者を埋葬する風習があり、呪術や宗教心の芽生えがみられる。(http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-1/se-nean.htm)

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2.2 銅石時代から鉄器時代 (Chalcolithic-Iron Age)

 

銅石時代、青銅器時代および鉄器時代を通じてジャウフ地方に残された遺跡にはラジャアジル(al-Rajaajil)の立ち石群の様なストーンサークル(stone circles)、ケルン(cairns)、立ち石(standing stones)等の遺構や岩壁画がある。

 

立ち石(standing stones)

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2.2.1 ストーンサークル (Stone Circles)

 

ストーンサークルは家畜の囲いや村の防塞の様に見える。アルアル涸れ谷の水系で紀元前三千年代や紀元前二千年代の前期の火打ち石(燵石、Chert)製の石器を伴ってストーンサークルが幾つか見つかっている。又、大回廊の窪地(シールハン窪地)南部では実際に村の防塞に成っていたストーンサークルが二ヶ所で見つかった。

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2.2.2 石塚遺跡 (Cairns)

 

ケルン(石塚遺跡)は通常は目立った山稜やスカイラインに設けられているが、造られた時代は様々である。中にはシールハン窪地北部のカフ(Kaf)の近くで見つかった石塚の様に墓を覆っているものもある。この墓は紀元前7世紀頃の鉄器時代に属する。

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2.2.3 立ち石遺跡 (Stone Pillars)

 

この時代の非常に重要と思われる文化遺産は特異なラジャアジル(al-Rajaajil)遺跡である。この遺跡はサカカの南東10kmでナフド沙漠の北辺に位置している。

 

 

この遺跡の一番の特徴は立ち石群にある。その立ち石群の数は約50グループもあり、各グループは2基から19基の石の柱(立ち石)で構成されている。各立ち石の高さや幅は様々であり、その幾つかは高さが3.5mで幅が75cmある。各立ち石は元々柱の長手方向が南北を指す様に直線に並べられて居た。従って、立ち石の正面は東を向いている。

 

この遺構は現世の為の機能は持って居らず、異なる幾つかの社会集団が或る種の社会的或いは民族的宗教行事を行う共通の集会場に供されて居た様である。この魅力的で興味を引く考古学遺跡は銅石時代の紀元前3千年代の中期に属している。

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2.2.4 岩壁画 (Rock Arts)

 

石器時代およびそれに続く時代でのジャウフ地方に残るもう一つの重要な遺跡は豊富に見つかる碑文と岩壁画である。10,374点の異なる画面の岩壁画と碑文がジャウフ地方の主として大きな三角形の窪地(ジャウバ窪地)で見つかっている。

 

新石器時代と銅石時代の岩壁画はそれぞれ僅か4面と7面しか見つかって居ない。これはこの時代に人の居住や活動が余り無かったのを物語っている。銅石時代の岩壁画は櫛の様な頭飾りの人物や四角や長方形の模様を腹に持ち小さな角をした牛で特徴付けられている。

 

 

 

青銅器時代や鉄器時代の遺跡は殆ど見つかって無いにもかかわらず、鉄器時代と分類される岩壁画はジャウフ地方に広く分布している。鉄器時代の人々がジャウフ地方の何処にどの様に生活して居たかは不可解な謎の一つである。サカカ北西部ではローマ風の衣装と被り物をした一組の男女が描かれている特異な岩壁画が見つかった。これらの姿やナバテア碑文からこの地域がこの時代にナバテア人の影響下にあった事が分かる。岩壁画に頻繁に描かれて居るのは駱駝、駝鳥、ライオン、アイベックスや馬であった。狩りの場面は大規模な駝鳥狩りや長い槍を構えた騎馬兵の戦闘がツワイール(al-Tuwair)の南部に残されている以外には殆ど見当たらない。

 

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3. イスラム教普及以前のアル ジョウフ (Pre-Islamic al-Jawf)

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3.1 沙漠の王国アデュッマツと五人の女王 (Five Queens of Adummatu)

 

デュマト アル ジャンダルは紀元前8世紀から7世紀にかけて北アラビア北部の主要なアラブ居住地であり、アッシリア(Assyrian)の年代記にはアデュッマツ(Adummatu)と云う名で記録されている。アデュッマツとは不毛沙漠の荒れ地の中心にあるアラブの砦と云う意味であり、このオアシスはゲダール(Qedar)と云うアラブ部族の領地の中にあった。パルミレナ(Palmyrena)と呼ばれた南東ダマスカス(Damascus)を含む地域がゲダールの生活圏であり、ゲダール部族の各支族やゲダールに従属していた他部族の支族の遊牧地は遠くナフド沙漠まで広がっていた。デュマト アル ジャンダルの住人はゲダールの保護が無ければその隊商(Caravan)が沙漠を越えられなかったのでゲダールに隷属していた。

 

アッシリア(Assyrian)の年代記にはデュマト アル ジャンダルは一連のアラブ女王系譜の首都であったと記録されている。その女王達とは女王ザビベ (Queen Zabibe)、女王サミシ (Queen Samisi)、女王ヤティ (Queen Yati'e)、女王テエルクヌ (Queen Te'elkhunu)および王女タブ (Princess Tabu'a)であった。

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3.1.1 女王ザビベ (Queen Zabibe)

 

アッシリア(Assyrian)の年代記に登場する最初の北アラビアの女王が女王ザビベである。それは第二次アッシリア帝国の創設者で「最も偉大な征服者」と呼ばれたティグラト ピレセル三世(Tiglath-Pileser III)の治世の事であった。ティグラト ピレセル三世はアッシリアの支配を北アラビアまでに広げた最初の王であり、女王ザビベは紀元前738年に同王に貢ぎ物を送っている。女王ザビベはこのオアシスが貢ぎ物を支払っていたゲダール族の最高位の巫女であり、デュマト アル ジャンダルを支配していた。

 

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3.1.2 女王サミシ (Queen Samisi)

 

アッシリアの年代記に記録された二番目の女王はサミシである。女王サミシはアッシリアに煩わせず忠誠を守ると云う偉大な神シャマシュ(Schamash)と女王自身の誓いを破ったので、紀元前735年、ティグラト ピレセル三世に成敗された。同王は女王支配下の二つの町を攻め落とし、女王の野営地を包囲した。この為、女王には降伏して駱駝の貢ぎ物を支払う以外に方法は無かった。この時にアッシリアに攻め落とされた町々はアッシリア領土の南東国境に沿った南ハウラン(Hawran)の隊商路にあったと考えられる。この様な耕作地と沙漠の境界地帯の集落は女王サミシに朝貢していた。

 

女王サミシはこの戦いで多大な損害を被った。その損害は戦士1,100名、駱駝30,000頭そして山羊と羊20,000頭であった。このアッシリアの勝利を描いた石碑の絵にはアッシリア騎馬兵が駱駝に乗ったベドウインを追跡している光景も描かれている。アッシリア騎乗兵はベドウインの死体を踏みにじって居り、その死体は長い後ろ髪をして腰に帯をした緩やかな衣服を纏っている。一人のベドウインが騎馬兵に手を差し伸べ慈悲を乞うている場面も描かれ、女王サミシ自信は裸足で水差しを抱え髪の毛を垂らした姿で描かれている。女王サミシは空腹と疲労で弱り、明らかに常軌を逸している。その後、アッシリアは駐在統治官を任命し女王サミシとその臣下の行動を監視・報告させて居た。

 

女王サミシは厳しく抑圧されていたダマスカス王を援助しティグラト ピレセル三世を激怒させたのでダマスクスを服従させた後、アッシリアは女王サミシの支配地に目を向けた。ダマスカス王を援助した北アラビアの支配者には女王サミシばかりでは無く同盟に参加した他の部族首長達も含まれていた。この記録によればアッシリアは女王サミシのみならずマス(Mas'a)族、タイマ(Tayma)族、カヤッパ(Khayappa)族、バダナ(Badana)族およびシバ族(Sabaeans or Sab’a)等の幾つかのアラブ部族からも朝貢を受けていた。これらの部族は明らかに女王サミシの同盟の一部であり、アッシリアに成敗された後、アッシリアに恭順を示す為に貢ぎ物を送っていたと思われる。

 

サルゴン(Sargon)王の年代記には女王サミシはエジプトのファラオー(Pharaoh)とシバ族(Sabaeans or Sab’a)と共に記録されている。女王サミシはアッシリアに降伏したヤールファ’(Yarfa')、カティール(Khatir)、ジャナブ(Janab)およびタムル(Tamr)と云う四人の首長と共に164頭の白い駱駝を貢ぎ物として紀元前715年にアッシリアに献上した。サルゴン王はカヤッパ(Khayappa)、サムド(Thamud)、イバディディ(Ibadidi) およびマールシマニ(Marsimani)等のアラブ部族も紀元前715年に制圧した。この制圧戦での生存者はサルゴン王によってサマリア(Samaria)に移住させられた。

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3.1.3 女王ヤティ (Queen Yati'e)

 

アラブの三番目の女王はヤティ であった。女王ヤティエはバビロニア王マルデュク アパル イッディナ(Marduk-apal-iddina)を援助してアッシリアに対抗し、弟のバスグヌ(Basqnu)に軍勢を付け紀元前703年に援軍として送った。その軍勢の大部分はキシュ(Kish)の戦いでセンナケリブ(Sennacherib) (715-681 B.C.) のアッシリア軍によって制圧され捕虜となった。

 

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3.1.4 女王テエルクヌ (Queen Te'elkhunu)

 

センナケリブ王は紀元前68911月についにバビロニアを征服し、その後は北アラビアに目を向けた。アッシリアが不毛の沙漠荒れ地の中心にあるアラブの砦アデュッマツ(Adummatu)と記録して来たデュマト アル ジャンダルをセンナケリブ王は紀元前688年に攻撃した。これはこのオアシスが攻撃を受けたとされる最初の記録であった。

 

この時には第四番目のアラブ女王であった女王テエルクヌ (Queen Te'elkhunu)がこのオアシスとその周辺を支配して居た。隊商交易によってバビロニアからアデュッマツの町の住人が必要とする穀物、衣服やその他の物資を運んで居たので女王の威光はバビロニアの周辺にまで及んでいた。アッシリア軍が近づいて来た時には女王とその同盟軍はバビロニアの西国境近くの沙漠に幕営して居た。アッシリア軍は同盟軍に襲いかかり、同盟軍は激しく責め立てられ敗北し、たくさんの駱駝を失った。女王は自分の天幕を捨て、アラブ同盟軍の指揮者カザイル(Khaza'il)と共にアデュッマツの砦に逃げ戻った。

 

女王テエルクヌはヂルバト(Dilbat)神の巫女であった。ヂルバト神とはアタールサマイン('Atarsamain)の名でデュマト アル ジャンダルの住人に崇拝され、古代中東ではイシュタール(Ishatar)の名で広く知れ渡った偶像神である。他の女王達もこの偶像神の巫女の役目を担っていた。この大きなオアシスはパルミレネ(Palmyrene)と呼ばれた北アラビアを支配するゲダール族の庇護下にあった。ゲダール族の首長がカザイルであり、女王テエルクヌと同盟していた。

 

女王テエルクヌはカザイルを裏切り、アッシリアに降伏したのでセンナケリブ王はデュマト アル ジャンダルの全ての偶像神を女王テエルクヌとその娘と共にニネヴェー(Nineveh)へと拉致した。その娘がアラブの第五番目の女王となる王女タブ (Princess Tabu'a)であり、同王女にはアッシリアの容認する方法で、アッシリアに忠実なアラブ女王と成る為の政治教育も含めた養育が施された。

 

女王テエルクヌが女王としての権威を持つ一方でカザイルは軍事行動の為の軍隊を指揮した。女王はカザイルの指揮者としての不能さ、デュマト アル ジャンダルが包囲された結果となった事やその防御のやり方に腹を立てアッシリアと和平を結んだので、センナケリブ(Sennacherib)の軍勢がデュマト アル ジャンダルを占拠した。

 

カザイルはアッシリアのデュマト アル ジャンダル包囲から逃れアッシリアがカザイルとその部下達を追撃し更に打撃を与える事の出来ない沙漠に逃げ込んだ。センナケリブ王が生きていた間にはカザイルは沙漠に留まり出て来なかった。カザイルが沙漠から出て来たのはセンナケリブ王が亡くなり、その息子のエサルハドン(Esarhaddon)が継承し互いの敵意が失われてからであった。

 

 

カザイルはニネヴェーに多くの贈り物を持って赴き、新しい王と謁見した。エサルハドン王は好意的にカザイルを迎入れ、献上品を受け取り、捕獲して居たデュマト アル ジャンダルの偶像神を返却した。それらの偶像神とはヂルバト(Dilbat)神、ダジャ(Daja)神、ヌハイア(Nuhaia)神、エビリッル(Ebirillu)神およびアタール クルマイア(Atar Kurumaia)神であった。ヂルバト(Dilbat)神はデュマト アル ジャンダルおよびアラビア半島北部全体の主神であり、ヂルバト神以外の偶像神にもそれぞれに崇拝者連が居て、少なくとはその幾つかはアッシリア時代以降も崇拝され続けていた。

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3.1.5 王女タブ (Princess Tabu'a)

 

エサルハドン(Esarhaddon)はカザイルに返却する前に偶像達の修復を命じ、その際に自分の名とアッシリアの偶像がこれらの偶像の上位にあるとの文字を彫り込ませた。王女タブアはアッシリアのアラブ支配の手段としてアッシリア式の教育で養育されていた。王女タブアは女王の座に就かされるがこの時期には王や女王の座を単に保証するだけで収まらない程にアッシリアとアラブの間の敵意は深まっていたのでそれは長くは続かなかった。エサルハドン王は65頭の駱駝の貢ぎ物を得た見返りにカザイルをゲダール族の王としても認めた。

 

紀元前675年にカザイルが死ぬとエサルハドン王は1,000ミナエ(minae)の金、1,000個の貴石および50頭の駱駝から成る多大な貢ぎ物を受け取った見返りにカザイルの息子のウアイテ’(Uaite')をその後継の王に任じた。しかしながらゲダール族の民は厳しい状況に対応して来なければ成らなかった王の後継者としてウアイテを認めず、反乱した。アッシリアはその成り行きに非常に怒り、軍隊を派遣してその反乱を鎮圧し、首謀者のワーブ(Wahb)を捕らえた。

 

() ワーブ(Wahb)の名はAwb, Awbu, Uado, Uaabo, Wahbu等とも呼ばれていた。

 

これがゲダール族の蜂起の最後では無く、ウアイテ自信がアッシリアに他の反乱軍を率いて対抗し、エサルハドン王の善意のある対応や扱いにもかかわらず、沙漠の広大さを利用してアッシリア帝国の国境を襲っていた。エサルハドン王はウアイテの反乱を鎮圧しアラブの偶像神達を再び奪い、捕虜と共にアッシリアに持ち帰った。ウアイテは一人で逃れ、アッシリアが追跡し捕らえられないまで奥深く沙漠に逃げ込んだ。王女 タブアはアッシリアに対する忠誠を保って居たのでこの遠征の間にアッシリアの軍隊が王女の支配するデュマト アル ジャンダルに攻め込む事は無かった。

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3.2 アッシリアのアラブ征伐 (Assyrian Campaigns against Arabs)

 

エサルハドン(Esarhaddon)はアラブ部族に対する征伐をワディ シールハンからアル アハサ(Al-Ahsa)まで広げたと思われる。アル アハサはアラビア湾岸の東部州の州都ダンマンから100km南南東にある大オアシスである。エサルハドン王が紀元前669年に没するとウアイテはその息子で後継新王のアッシュールバニパル(Assurbanipal)の元に赴いた。アッシリアはウアイテを許し、王として認めアラブ部族の偶像神を返却した。

 

エサルハドン王はアッシュールバニパル王の兄弟のシャマシュ シュム ウキン(Shamash-shum-ukin)を紀元前668年にバビロニア(Babylonia)王として擁立していた。二人の兄弟王の敵対関係が深まると北アラビア諸族は再びバビロニアの側に付いた。シャマシュ シュム ウキンが紀元前656年にアッシュールバニパル王に謀反を起こす為の秘密同盟を結成するとアラブ族はその一端に加わった。紀元前652年にバビロニアがアッシリアに対して準備不足の儘で攻撃を開始するとアッシュールバニパル王はこの挑戦を受け多方面で撃破した。アラブ族は敗北しゲダール族は領地の沙漠へ退却した。ウアイテはナバテア(Nabataeans)のナツヌ王(Natnu)に庇護を求めた。

 

 

ゲダール族は新しい首長にアッムラチ(Ammulati)を選んだ。アッムラチはモアブ(Moab)族の領地まで侵入した。モアブ族王のカマスカルタ(Kamaskhalta)はウアイテの妻アディア(Adiya)と共にアッムラチを捕らえ、紀元前648年にアッシリアの首都に護送した。ウアイテは駱駝騎乗兵をシャマシュ シュム ウキンへの援軍に送ったが同盟軍の敗色は濃く、紀元前650年バビロニアは包囲された。紀元前648年にバビロニアが陥落するとナバテア王ナツヌは庇護を求めて来ていたウアイテをアッシリアの手に引き渡した。アッシュールバニパル王はウアイテを生きながら籠に入れて城門の一つに吊り下げさらし者にした。

 

 

 

アッシュールバニパル王がエラム(Elam)の王と紀元前640年から641年に戦っていた時にウアイテ二世とアビアテ(Abiate)はゲダール族を率いてアッシリアに再び謀反しアッシリアのアラブ部族との境界地域を襲った。アッシュールバニパル王がそれに対して大軍を送るとゲダール族はナバテア王ナツヌに援軍を求めた。イッサッメ’(Issamme')族とアタールサマイン('Atarsamain)族がナバテア(Nabataean)族と共にゲダール族の部隊に加勢した。

 

その後、タドモール(Tadmor)(パルミラ(Palmyra))の各地でアラブ諸族とアッシリアの間で戦闘が行われ、アッシリアは目覚ましい勝利を収めた。アッシリアは夥しい数の男女、驢馬、駱駝、牛および羊を戦利品としてアッシリアへ持ち帰った。ウアイテ二世だけが何とか逃亡した。

 

アッシリアの度重なる北アラビア征伐の動機ははアッシリアの国境地域と交通路の確保が主要な目的であった。アッシリアの侵攻はこの地域を征服する為の戦争では無く、反抗する遊牧民にアッシリア隷属民としての義務を分からせる為の懲罰的な遠征であったのは明らかである。

 

アッシリア帝国は紀元前609年に歴史から消えて行った。デュマト アル ジャンダルとその近隣のアラブ部族に対する継続的なアッシリアの征伐はアッシリアの後継者であるチャルダエアン(Chaldaean)朝(ネオーバビロニアン(Neo-Babylonian))(紀元前626-539年)に引き継がれた。ネブカドネザル二世(Nebuchadrezzar II )(紀元前605-562年)は紀元前599年にアラブ諸族への攻撃を開始し、沙漠のアラブ諸族幕営地に軍隊を送った。バビロニアン(Babylonians)は帰陣する前に家畜と偶像神を含むアラブ諸族の財産を略奪した。ゲダール族はこのバビロビアンの侵入に対し他部族も含め指揮を取り、対抗した。

 

 

紀元前552年にナボニドゥス(Nabonidus)王(紀元前556-539年)はその息子ベル シャール ウシュール(Bel-shar-ushur)にバビロニアの支配を委ね、アル シャム国(Bilad al-Sham)とジョルダン(Jordan)東部を抜けてデュマト アル ジャンダルを攻撃した。ナボニドゥス王はデュマト アル ジャンダルの南南西300km付近のタイマ’(Tayma')に向けて進軍し、バビロニアにある宮殿と同じ名のアブラグ(Ablaq)と云う大きな城を築いた。ナボニドゥス王はペルシア(Persians)の脅威でバビロニアに戻らざるを得なくなる迄の10年間をタイマで過ごした。ペルシアは初めバビロニアのイラク領を脅かし、紀元前539年にはナボニドゥス王とカルデア朝(Chaldaean)を完全に滅ぼした。 

) 日本語では「新バビロニア」が多く使われるが、欧米圏では「カルデア」と呼ばれている。

 

 

新ペルシア帝国(アケメネス朝(Achaemenid Empire))の開祖であるサイラス(Cyrus the Great)大王はバビロニア攻略の際にアラブ駱駝騎乗部隊の援軍を得ていた。大王とその後継者達は大規模にアラビアを征服しようとはして無かったし、サイラス大王の息子のカンビュセス(Cambyses)が紀元前525年にエジプト遠征した際にアラブ部族がその軍勢のアラブ領土通過を認めてからはアケメネス朝とアラブ部族には友好な関係が続いていた。

 

サイラス大王(Cyrus the Great)

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3.3 ナバテア人 (Nabataeans)

 

ジャウフの歴史の中でその次ぎに足跡を残したのがナバテア人であった。ナバテア人は元々はアラブ部族の放牧民であり、主に交易によってその力を蓄え紀元前4世紀の終わり迄に次第に定住し国造りをして来た。ナバテア人は南アラビアと地中海の伝統的な都市を結ぶ隊商交易を担い繁栄した。

 

紀元前1世紀にはナバテア王国はその首都を今日の南ジョルダンのペトラ(Petra)に置き、北西アラビアに有った諸国に取って代わった。ナバテア人はその支配をヒジル(al-Hijr)、デュマト アル ジャンダル(Dumat al-Jandal)およびワディル シールハン(Wadi'l-Sirhan)へと拡大して行った。ヒジル(al-Hijr)とは現在のマダイン サレー(Mada'in Salih)である。ナバテア人はこの地域の戦略的位置にそれぞれ都市を建設した。

 

ワディル シールハンは遠く分離したナバテア王国の領土を結ぶ生命線と成り、この時期に古代のヒジルやデュマト アル ジャンダルは最も繁栄していた。

 

 

ナバテア王国はトラジャン(Trajan)帝治世の西暦106年にローマに併呑され、その後はローマ帝国とその後継のビザンチン(Byzantines)帝国の時代を通じて大シリア(Great Syrian)沙漠の荒野に明確な国境は存在しなくなった。

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3.4 女王ゼノビア (Queen Zenobia)とイムルアル ガイス(Imru' al-Qais)

 

タドモール(Tadmor)(パルミラ(Palmyra))を西暦267年から272年まで支配した有名なアラブ女王ゼノビア(Zenobia)はデュマト アル ジャンダルを襲撃したがこの城塞都市は女王ゼノビアの軍勢に取って強固に過ぎ、落城出来ずに引き上げた。デュマト アル ジャンダルの防塞戦に破れた女王ゼノビアは「マリド(Marid)城は反抗的であり、アブラグ(Ablaq)城は傲慢だ」と罵った。マリドはデュマト アル ジャンダルの城でアブラグは有名なタイマの城である。この言葉が「3世紀には両都市は共に女王ゼノビアに対抗できる程十分に力を持って居た」と云う証でもある。

 

 

イムルアル ガイス(Imru' al-Qais)5世紀のアラブ部族の王であり、元々は今日のイラク領内のアル ヒラ(Al Hirah or Al Hira)の自領に住んでいたがデュマト アル ジャンダルに移住して来た。今日のジョルダンを凌駕し、ビザンチン帝国からアガバ('Aqaba)湾の入り口にあるチラン(Tiran)島を占拠する程に同王の勢力は拡大した。

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3.5 ウカイディールの王国 (Kingdom of Ukaidir

 

イスラムの台頭期にはデュマト アル ジャンダルはキンダ(Kinda)部族出身のウカイディール ビンアブド アル マリク(al-Ukaidir bin 'Abd al-Malik)の支配の下にあった。ウカイディールはカルブ族を支配する為にヒムヤル(Himyarites)によって置かれたキンダ族出身の王であった。カルブ族はカハタニ(Qahtani)部族のグダ(Quda'a)支族の分家であり、当時はキリスト教を信仰していた。カルブ族はデュマト アル ジャンダルとその周辺のみならず遠く北西アラビアのタブク(Tabuk)にもその覇権を広げていた。

 

ウカイディールは当時の大勢力であったビザンチンやササン朝ペルシア(Sasanian Iran)と連携を保っていた。回教徒(Muslin)の指揮官カリド ビン アル ワリド(Khalid bin al-Walid)が西暦633年にデュマト アル ジャンダルを攻撃していた時にウカイディールはビザンチン帝国の一勢力としてガッサニド朝ペルシア(Ghassanids)と同盟し、その王イブン アル アイハム(Ibn al-Aiham)やその首長ジュディイイ ビン ラビ(Judiyy bin Rabi'a)と密接な協力関係を持っていた。

 

ウカイディールはビザンチン帝ヘラクリウス(Heraclius)を主君として受け入れていたので予言者ムハッマド(Muhammad)のデュマト アル ジャンダルへの最初の遠征はローマ帝国への攻撃を意味していた。

 

ウカイディールがアル マディナ アル ムナッワラ(Madinat al-Munawwara)を訪れた際にはササン朝皇帝チョスロエス(Chosroes)から自分に送られた長外衣を予言者へ献上する為に持参した。イスラム以前のウカイディールとササン朝の関係はササン朝皇帝がウカイディールにこの長外衣の様な豪華な贈り物をする程に緊密であったのをこの事は示している。

 

ウカイディールは現在の南イラクのアル ヒラ(Al Hirah)地方のデュマと呼ばれる町に兄弟と住んでいた。ウカイディールと兄弟達は沙漠にカルブ(Kalb)族の叔父を訪ねるのが常だった。その旅行に使ったコースの一つで石造りの僅かな壁だけが残る荒廃し見捨てられた町に行き着いた。アラブは石をジャンダルと呼ぶ。伝説によれば兄弟達はそこに町を築き、オリーブを植え、自分達のアル ヒラでの町の名であるデュマとたくさんの石に因んでデュマト アル ジャンダルと名付け定住した。

 

デュマト アル ジャンダルはデュマ アル ヒラよりもずうっと昔からある町だし、デュマト アル ジャンダルが打ち捨てられたと云う事実も無いが、ササン朝に同盟していたアル ヒラ(Al Hirah)と云う町がウカイディールと関係があったと云う話は興味深い。この事からもウカイディールはビザンチン帝国とその同盟国ガッサニド(Ghassanid)朝ばかりでは無く、ササン朝とも連携して居たのが分かる。

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4. 三角形の大きな窪地 アル ジャウバ (Al-Jawba) 

 

イスラム以前の歴史の紹介はこの辺りでひとまず終えてジャウフ州への訪問を前述の三角形の大きな窪地であるアル ジャウバから始める事としたい。

(ここをクリックすると図が拡大します。)

(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)

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4.1アルアルからアル ジャウバへ (Approach from 'Ar'ar)

 

北部国境州の州都アルアル('Ar'ar)には訪れる毎にその白い建物が生き生きと印象的で、アルアル涸れ谷を跨ぐ高く長い橋も絵画的だと思う。

 

199799日の早朝にアルアルから南を目指して出発した。暫く行くと街道はアルアル涸れ谷の川の流れに沿って南西へと向きを変える。街道の両側には緩やかに起伏する白い泥灰土(White Marl)の丘が続き、切り通しには赤っぽい地層が現れている。白い泥灰土の地面は次第に泥岩の小石に覆われ、赤っぽい沙塵も薄く積もっている。

 

アルアルから南西30km付近のカルスト(Karst)地形

 

アルアルから南西に30kmには荒廃した円形農場跡があり、この農場跡の街道の反対側には低い平頂山が海に浸食された幾つもの面を見せている。この平頂山を調べてみてこの一帯がカルスト(Karst)地形で、石灰岩等の炭酸塩岩が基盤と成っているのが分かった。

 

アルアルから南西に30kmには荒廃した円形農場跡 

 

街道はアルアル涸れ谷に沿って更に上がって行く。アルアルから南西75km辺りに北部国境州とジャウフ州の州境がある。この検問所の名をアル アンマリヤー(Al-Ammariyah)と私はメモしているが、ファールシの地図(Mr. Zaki M.A. Farsi's National Road Atlas)によればこの地名はこの検問所の25km南の集落をさしている。検問所を過ぎると街道の西側は長い低い鉄線の柵で囲まれ、野生動物保護区になっている。黒っぽい小石に覆われた低い平頂山が前方に連続して見えてくる。スダイリ元ジャウフ知事の著書ではこの辺りは黒っぽい玄武岩(Basalt)の多い火山地帯であるとの説明があり、ハッラ熔岩地帯(Al Harrah)の東の外と思われるが火山岩は識別出来なかった。地面を覆っていた沙塵は赤っぽい色から黄土色に変わった。

 

(注)ハッラ熔岩地帯(Al Harrah)はハッラト アル ラジル熔岩地帯(Harrat Al-Rajil)とも呼ばれている。

 

(注)ここで見た長い低い鉄線の柵は「1.2.3 ハッラ熔岩地帯(Al Harrah)」で述べたハッラ熔岩地帯野生動物保護区のほぼ東南東のはずれであると思われる。

 

アルアルの南西90km辺りで急斜面を下る。この崖がジャウバ(al-Jawba)と呼ばれる三角形の大きな窪地の東辺を成すシャルギ(Jal-Al-Jubat Al-Sharqi)崖地である。街道脇の露岩を調べると炭酸塩岩の石灰岩が基盤である。

 

この時、大きな怒声を聞いた。運転手のサウド(Saud)が車を不注意にバックさせようとしてこの時の連れであった植物学博士に軽く触れてしまった。この事故は博士を驚かしただけで実害は無かったが、博士は暫くの間は怒り続けていた。その間にさらに坂を下りシュワイヒティイヤ(al-Shuwaihitiyya)への分岐に着いた。

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4.2 原人の太古の遺跡 (al-Shuwaihitiyya)

 

原人(Homo Erectus)の遺跡のあるシュワイヒティイヤを訪れたのは20011216日であった。

 

この分岐から狭いアスファルト舗装の道を西に進むと10km位行った丘の上に余り特徴の無い小さな集落がある。その集落を通り越し舗装の無くなった先に給油所があり、沙漠道が更に奥へと続いている。たくさんの小さな石灰岩の丘が三角形をしたジャウバ窪地を取り巻く崖地の下まで曲がりくねって続いている。その崖地がジャウバ窪地の西の辺に当たるガールビ(Jal Al-Jubat Al-Gharbi)崖地と東の辺に当たるシャルギ(Jal-Al-Jubat Al-Sharqi)崖地である。この光景からは100万年前もの太古の時代に人の営みがあった事の片鱗も窺えなかった。

 

シュワイヒティイヤ(al-Shuwaihitiyya)

 

この沙漠道の奥地へとベドウインがオンぼろのタンク車でノロノロと水を運んでいる一方で断食月の終わりの祭り(Eid Al Fitr)の為に町へ出掛けたい出稼ぎ外国人労働者がヒッチハイクに余念が無い。我々もアスファルト舗装を分岐まで引き返し広い谷をジャウフ州の州都サカカへと向かった。

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4.3 州都の前哨 (Zallum)

 

サカカの手前25kmにその入り口の様に橋と検問所のあるザッルムと云う村がある。橋を渡った涸れ谷の右岸に防塁の様に白っぽい壁の家が建ち、そこからオリーブ畑、ナツメ椰子園や円形農場が道沿いに幾つか並んでいる。前述の様に7世紀にウカイディールがこの地方にオリーブを植えた為かオリーブはジャウフでは州政府が街路樹に使う程ポピュラーで、主要な農作物の一つでもある。

 

州都の前哨 (Zallum)

 

ナフド沙漠への入り口を探してシュワイヒティイヤからここザッルムまで東への道路分岐が無いか注意して来たが見つからなかった。検問所の警官にスワイール(Suwair)への道を尋ねると私の拙いアラビア語を何とか理解して涸れ谷に沿って東に向かう広く舗装された道を教えてくれた。ザッルムの新しい町作りは東に向かっており、そのむさ苦しい入り口にもかかわらずかなり大きな村である。

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4.4 偉大な砂の沙漠 (Al-Nafud)の入り口 (Suwair and Hudaib)  

 

ファールシの地図によればこの二つの村は昔の隊商路(Caravan Route)であったハイル(Hayil)からの沙漠道(Desert Trail)の一番北の入り口になる。

 

スワイールは豊かな村の様で道に沿ってたくさんの商店が肩を並べており、村の緑の農園が赤っぽい砂丘と良く調和した景色を作っている。

 

道路はスワイールから更に南に延びてフダイブに至る。フダイブは今でも半遊牧生活を残している様な貧しい集落である。アスファルト舗装の終点まで行く。この入り口はファールシの地図にはシャマル(Shamal)と記されている。ここが大ナフド砂沙漠越えの困難な隊商路の入り口だと思うと感無量であった。

 

フダイブ(Hudaib)

 

ザッルムに戻り検問所から南にサカカへと向かう。地表は再び黒っぽい小石で覆われて来て、広い谷のあちらこちらに小さな丘が点在し中には尖塔の様に聳え立つものもある。

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4.5 州都サカカ (Sakaka)

 

サカカは北部国境州(Province of Northern Boaders)の州都アルアル('Ar'ar)から南南西156kmに位置するジャウフ州(al Jawf Province)の州都である。サカカの昔の入り口近傍にはたくさんの農場が広がる。199799日に土壌調査の途中で通過した時にはこの町はその入り口の様子からあまり整備されている様に見えなかったが200112月に考古学遺跡訪問の為に三日間滞在した時までには良く整備されて居た。

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4.5.1 博物館ホテル (Al-Nusl Hotel)

 

サカカに入って最初の大きなロータリーには荘厳なモスク(回教寺院)が建設されており、これがアル ラブマニイヤ モスク(Al-Rabmaniyya Mosque)である。アル ヌスル ホテル(Al-Nusl Hotel)も同じロータリーで見つけた。アル ヌスル ホテルはサウジアラビア王国内で最も美しいホテルの一つで博物館を兼ねている。私立図書館(ディール アル ジャウフ リルウルム(Dir al-Jawf lil-'Ulum))も同じロータリーにある。この三つは共にスダイリ(Amir 'Abd al-Rahman bin Ahmad al-Sudairi)元知事のスダイリ財団(The 'Abd al-Rahman al-Sudairi Foundation)によって建造され、運営されている。

 

 

最初にアル ヌスル ホテルを予約した時に宿泊を受け付けて貰えなかったのでこのホテルと旅行ガイドを予約する手助けをアデュッマツ会(Society of Adummatu)に頼んだ。アデュッマツ会もスダイリ財団の運営で私は当時その会の出版する考古学雑誌を購読していたのでこの手助けの依頼が出来た。このホテルに到着して予約の受付を拒んで居た理由が初めて理解できた。私以外の泊まり客は居らず、このホテルは普段は宴会場としてしか利用されて居らず、たまに来訪する外国人観光団を受け入れているだけなのだった。

 

この二回目のジャウフ訪問だった20011217日の朝9時に旅行ガイドがホテルにあらわれた。ガイドの名前はカリファー博士(Dr. Hussain Al-Khalifh)と云った。直ぐに出発したかったけれどガイドは何故か弁当を受け取るのに拘っている。弁当が出来るのを待つ間に次の様な説明をしてくれた。

 

「アル ヌスル ホテルは二階建てで吹き抜けの七つのホールを持っている。各ホールを囲んで十数の客室がある。このホテルは7年前に建てられた。観光庁の副長官のスルタン アル スダイリ(Dr. Sulman Al-Sudairi)は頻繁にこのホテルを訪れている。ジャウフ州の副知事がこのホテルの二階を住居として使っており、その為にホテル全体が警官によって厳重に警護されている。

 

ガイドのカリファー博士は王国内で著名な考古学者アンサリ(Dr. Abdul Rahman al-Ansary)博士の教え子であり、「この国最大の考古学発掘現場であり、リヤドの南南西600kmのワディ ドワーサール(Wadi Ad Dwasar)の更に南のアル ファウ(Wadi Al Faw)遺跡の発掘にも従事していた。自分も考古学関連のホームページ(admat.8k.com)を持っているので一度インターネットからアクセスして欲しい」との事であった。

 

その日の旅程を終わり、ホテルに戻るとカリファー博士は「第一日目でサカカ周辺の主な場所は全て案内したので二日目は案内を勘弁して欲しい」と言う。その事をあまり拘らず、それではと「次の宿泊をキャンセルして翌朝出立する」とホテルの受付に告げたが、「ホテルで別のガイドを用意するので予定通りもう一晩予定通り泊まって行け」と頑張られる。

 

二日目はアル ラジル火山地帯(Harrat Al-Rajil)の案内を頼むとガイドは「遠く沙漠の中だし、特別見る物も無い」と言う。実際にはこのガイドはホテルのインド系の従業員でサカカ以外の土地は知らない様だった。仕方なく、一日目と同じコースを辿る事にしたが、実際の所、これは良いアイディアで一日目では分からなかった多くの事を知った。

 

カリファー博士は先を急ぐ余り説明を省略していた様だ。その理由の一つは「謝礼が団体観光団を前提に一人SR 200(邦貨で6,000円相当)であり、断食明けの祭りの休みを犠牲にして時間を費やすには余りに報酬が少なかった」のだろう。もう一つの理由は出来るだけ案内を早く切り上げて祭り(Eid Al Fitr)に自分も参加したかったのだろう。

 

二日目の朝は出掛ける前に隣の私立図書館(ディール アル ジャウフ リルウルム(Dir al-Jawf lil-'Ulum))を訪れ、図書館の正面玄関に置かれている最大級の珪化木の標本を見学した。それらの標本はそんなには長くないが大きな樹木の幹の一部である事を確認するには十分だった。

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4.5.2 古代の町 ツワイール(al-Tuwair)

 

見学の第一日目はそんな事でホテルを出発したのは9時半頃に成った。街道へ出る途中で建設中の家屋の裏で停車した。そこには大きな砂岩の丘が迫って居り、その丘の麓が小さな崖に成っていた。崖の上には廃墟が建っていた。

 

崖の上には廃墟(ツワイール(al-Tuwair)城址)

 

カリファー博士は崖の幾つかの部分を指さした。注意深く岩肌を観察とそこには小さなアラブ語で書かれた碑文や足跡や人間の模様が見えた。これらが長い間一度は見たいと熱望していた岩壁画であった。初めて岩壁画を見る貴重な機会であったがこの様な日常的な生活の場所に描かれているとは思っても見なかった。又、もし「アラビアの岩壁画」等と云う本を読まずに岩壁画に対する知識がなければこの様に風化した落書きに興味を持たなかったと思う。

 

ツワイール(al-Tuwair)城址の岩壁画

 

翌朝、この場所を再度訪れ、ここがツワイール古城の在った場所であるのを確認した。その城は最後には一部屋砦と呼ばれる程小さく、昨日見た崖の上の廃墟であった。その廃墟の裏手に続く岩の丘を登り、その東斜面で人間、馬、蛇、駱駝、足跡や古代アラビア碑文を見つけた。その幾つかは一ヶ所にかたまって描かれ、又、幾つかは独立して描かれている。二頭の駱駝に覆い被さった様に描かれた女の偶像神を見つけた。この絵は岩絵としての典型的なデザインでは無いが興味ある形をしている。小さな穿孔も多くの場所に2列、3列に彫られている。これらは何を意味して居るのだろうか。

 

女の偶像神

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4.5.3 聳える岩山の城 バル (Qasr Za'bal)

 

サカカの南西部には白っぽい回教寺院があり、そう裏手に砂岩の高い岩山が立っている。その岩山の頂上からはみ出す様に砦が築かれている。このまるで空に向かって聳えている様な特有な姿しているのがザバル (Qasr Za'bal)城である。

 

岩山の城 バル (Qasr Za'bal)

 

この城は元々はナバテア人(Nabataeans)が建てたのを何度も修復しごく最近まで実際に使っていた。砦に登る階段は急で低い手摺りしか付いて居ないが、周囲の崖の高さは20m-30mもある。もし落下したら惨事になるだろう。頂上の高台は石壁に囲まれて居り、中央に周囲を眺望できる見晴台が設けられている。この高台には一つの小屋と四角な貯水槽が設けられている。砦が一旦包囲されると守備隊は何日持ちこたえられるのか。敵の包囲の中で立ち往生して終っただろう。

 

この砦の前には座ったライオンの様な形のもう一つの小さな砂岩の岩山がある。その岩山のうなじに相当する部分が垂直の壁になっており、ラインダンスの様に女性の踊り子が十数体描かれている。その像は1m以上もありこの種の像としては比較的大きい。その踊り子の頭からはこうもり傘の骨の様な筋が描かれている。言い換えると櫛の様な頭飾りをしている代わりに踊り子達の顔は描かれていない。

 

ラインダンスの様に女性の踊り子が十数体

 

この様な踊り子の岩壁をかねがね見たいとは思ってはいたが、この公園の様な一般的な場所に描かれているとは意外だった。ましてこの岩壁画はジャウフ地方では稀にしか見つかって居ない銅石時代岩壁画でしかもその代表的なモチーフである櫛の様な頭飾りした踊り子であった。この公園の反対側は大きな墓地でその脇に沿ってこの岩山の麓を回って岩壁画を探したが他には全く見つからなかった。

 

公園を挟んだ砦と反対側にはナバテア時代の古い井戸(ビール セスラ(Bir Sesra))がある。井戸は直径が10-12mで、井戸の内側には水汲み用の階段が水面まで刻んであり、水面は砂岩基盤の地表から25m下にある。

 

ビール セスラ(Bir Sesra)

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4.6 五人のアラブ女王の都 (Dumat al Jandal)

 

「沙漠の王国アデュッマツと五人の女王」の章で述べた様にアッシリア(Assyria)はデュマット アル ジャンダルをアデュッマツと呼び、紀元前8世紀から7世紀に掛けて偶像神の巫女である女王が指揮するアラブ部族の謀反に悩まされた。アデュッマツの語源は「アデュマイテ族(Adumites)の本拠地だったからだ」とも言われている。

 

一日目の朝、冬の砂嵐は稀な筈だが街道に出ると砂嵐と呼べる程に風が強かった。その強い風の中、街道にはオリーブが並木と成って立っていた。カリファー博士は「オリーブが主要農作物としてジャウフに導入されたのは30年程前で今ではサカカに三ヶ所のオリーブ搾油工場があるまでに成功している」と言う。街道に出たサカカの南郊外にはアラムコ(国営石油)の石油中継基地がある。その先の空港の入り口付近で目隠しした鷹を二羽載せた鷹狩りの四輪駆動車を見掛けた。街道は空港の手前で三角形の大きな窪地 アル ジャウバ (Al-Jawba)から南の高台に出る。街道は空港に沿って西へと向かい、再び三角形の大きな窪地に下ると緑の中に白っぽい建物が広がる。それが古代に五人のアラブ女王の都だったデュマット アル ジャンダルである。

 

デュマット アル ジャンダル(Dumat al Jandal)

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4.6.1 反乱人の城 マリド (Qasr Marid)

 

3.4章でデュマト アル ジャンダルの防塞に破れた女王ゼノビアは「マリド(Marid)城は反抗的であり、アブラグ(Ablaq)城は傲慢だ」と述べた事を紹介した。そのマリド城(Qasr Marid)にカリファー博士はまず案内してくれた。

 

ジャウフ博物館(Al Jawf Museum)

 

マリド(Marid)城はジャウフ博物館(Al Jawf Museum)の一部となっている。同博士の定職はこの博物館の館長であった。断食明けの祭日(Eid Al Fitr)の休館中ではあったが、同博士が特別に開館してくれた。他に入館者も無く、この小さな博物館を心行くまで見学し展示物を撮影した。展示パネルの一つには「この地方に人類がその足跡を残したのは230万年前に遡る」と説明されている。これは少し誇張では無いかと思った。私が理解しているのは「スワイヒティイヤに130万年前の遺跡があり、それはアシュール時代以前(Pre-Acheulean)のオルドワンBDevelop Oldowan B)時代の影響を受けている」と云う内容だ。

 

デュマト アル ジャンダルでは多くのミネアン語(Minaneanite)、リヒアン語(Lihyanite) およびシバ語(Sabaean)の碑文も見つかっている。

 

マリド城は石で作られており、その石組みは石の間に隙間は全く無い程に精巧な作りである。石は平行に積まれ、頭上は石を使ったアーチ型で建造されていた。アーチ型の幾つかは日本でも谷間のアーチ型木橋に使われている構造で、上の石を下の石から少しずつ迫り出させ片持ち梁を作る要領である。タマリスク(Tamarisk)のねじ曲がった丸太が天井を支える梁に使われていた。階段はどれも転げ落ちるが心配になる程に急である。城壁の一番上の部分が薄い尖塔の様に崩れずに残っている。どうして自立して崩れないのか不可思議だ。見張り塔が一番高いテラスのてっぺんに置かれており、そこからデュマット アル ジャンダル全体が眺望できるが高度恐怖症の人間には余り快適な場所とは言えない。

 

反乱人の城 マリド (Qasr Marid)

 

この城(Qasr)も元々ナバテア人が建て、修復を繰り返しながらかなり最近まで使われて来た。ナバテア文字の碑文が構造を支える石材の幾つかに刻まれている。この城には居住区に一つの大きな井戸と最上階の屋上にもう一つの小さな井戸がある。両方の井戸共に深さが25m以上もある。水は井戸の壁から迸し出る音が聞こえる程豊かに湧き出している。この城は丘の頂上に建っており、城に隣接して廃墟と成った町アル ヂレ’(Ad Dir')がある。この町は石灰岩と泥の日干し煉瓦で出来て居り、まるで迷路の様に階が重なっている。町の下の方にはナツメヤシの畑の多い農地が広がり、水路(Qanawat)が町の東西にそれぞれ見つかっている。

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4.6.2 最古の回教寺院 カッタブ (Al-Khattab Mosque)

 

城から町への入り口に石作りの回教寺院があり、何度も何度も修復され現在も使われている。この回教寺院は王国内で最も古く、言い換えると世界中で一番古い回教寺院である。この寺院は二列の柱で天井が支えられているが二列の間が狭いのでまるで廊下の様に南北に細長い建物である。中庭を挟んで付属棟があり、冬場の祈りに使われている。二つの建物に挟まれたこの中庭には禊ぎの為の井戸が設けられている。この寺院に付属する光塔(Minaret)は特徴のある細いピラミッド型をしている。

 

最古の回教寺院 カッタブ (Al-Khattab Mosque)

カッタブ (Al-Khattab Mosque)の内部

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4.6.3 貯水提兼用の城壁

 

大きな三角形をしたジャウバ窪地 (al-Jawba)の狭くなった西端にあるこの町の外れの涸れ谷を横断して防塞兼堰の石垣が築かれている。石垣を支える台座の高さはどれも5mを越える。この防塞兼堰は時折降る雨水を貯える構造には成っていたがこの町は至る所から湧き出す豊かな地下水に恵まれていた為に実際にその貯水が使われる事は無かった様だ。

 

Ancient Dam in Dumat al Jandal

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4.6.4 棗椰子園と人口湖

 

マリド城の北西には大きなナツメヤシの農業地帯が広がっている。ここで収穫されるナツメヤシの主な種類はハッルワ(Harruwa)種とその幾つかの亜種である。このナツメヤシ農園地帯は東部州のアル ガティフ(Al-Qatif)やアル アハサ(Al-Ahsa)に匹敵する程に大きい。

 

この農地を横切り、排水の為にたくさんの溝が平行に並ぶ平らな土地に入って来た。この平の土地は元来サブハ(Sabukh, Salt Flat)であり、以前はここで塩が採取されていた。しかしながら地下水が豊富なため、排出される水は塩気が無く、淡水である。ここに掘られた溝群はサブハを干拓して農地に変える為に設けられた。溝の周囲から湧き出す水は二ヶ所に集められる。それぞれに設けられた排水ポンプ場から更に北側に聳えるガールビ(Jal Al-Jubat Al-Gharbi)崖地の麓に作られた人工湖へと送られる。ガールビ崖地は三角形のジャウバ窪地の西辺を成し、この辺りではその底辺との距離が相当に狭まり、ほぼ並行に並んでいる。

 

この人工湖はジョウバ窪地に自然に出来た大きな凹みを利用して作られたので堰は限られた場所にしか設けられて居ない。この湖の長径は1kmで短径は0.5kmである。その深さはおよそ15mあり、750万トンの実時を貯える能力がある。

 

ジョウバ窪地の人工湖

 

湖水は冷たく暗いけれど透明な清らかな水である。魚が既に棲みついており、幾羽かの黒い鳥が岸辺近くや沖合で盛んに魚を補食しているのが見える。涸れ谷が流れ込む辺りの南西の岸が白っぽく成っている。たまに流れ込む水が塩分を白く堆積させているのだろう。カリファー博士が鳥の死骸を持って来て、運転手もたくさんの薬莢を拾ってくる。密漁の証だ。

 

カリファー博士はここで弁当を開こうと言う。少し寒く風もあるが、サウディ人のピクニックとしては良い季候である。鼻水が流しながらの昼食と成ったが、水鳥を眺め対岸の崖地の影を眺めていると東京の西にある奥多摩湖にでも居る様な気分に成って来た。この水は単にここに貯えられているだけで何も利用されてはいない。この町にはそれだけ豊富に水源があると云う事だが、私にはこのプロジェクトは貴重な水源を荒廃させる環境破壊にしか思えなかった。

 

カリファー博士はここには特に冬場に欧米や日本の観光客が訪れると言う。多分そうなのだろうけれどもホテルの受付やこの観光ガイドの接客態度からそんなに頻繁である筈は無い。

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5. 偉大な砂の沙漠 (Al-Nafud)

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5.1 立石遺跡 ラジャアジル (al Rajaajil)

 

アスファルトの舗装道路がジャウフ空港とサカカの間から東へと分岐している。道路の標識版によればこの道はアシュ シャガイグ(Ash Shaqayq)へと通じている。砂嵐は既に収まっていた。この分岐から1km入った辺りに農場があり、緩やかに傾斜した大きな丘が南からこの農場に迫っている。その丘の中腹に柵をした史跡保護区がある。カリファー博士はその保護区の扉を鍵で開けようとしたが錠前が壊れて居り開かなかった。他に方法もなく柵のほころびた所から中に入った。

 

立石遺跡 ラジャアジル (al Rajaajil)

 

この保護区は150m四方程度の大きさであり、その中に約50の石柱群が散らばっている。一番大きな石柱は高さ7mで幅が70cmあり、石柱の厚さは20cm以下で、その石柱の底部2mは埋められ、上部5mが地上に出ているのだそうだ。石柱の材料はサカカ砂岩と呼ばれる南に連なる丘の砂岩層から切り出され、石柱に描かれた像や碑文は後の時代の物だと云う。

 

東側に多くの石柱が立ち、南北に並んでいる。一つの群は原則とした4つ石柱から構成されており、太陽の昇る東と沈む西にその平らな面を向けている。これらの薄い板の様な石柱が北側では一列に並んでいるが南側では同じ群の石柱もそれぞれ別の方向を向き、季節によって変わる日の出、日の入りの方向を示していると云う。

 

それぞれの石柱群の基礎部は一抱え程の石で囲まれている。西側の中央部には15-20m径のサークルストーンがある。これは生け贄の動物を供える場所だそうだ。50程の各石柱群はそれぞれの部族や一族に所属しており、全体としてはこの地方の神々に祈祷師が共同で司祭を行った場所である。

 

「これらの石柱群は紀元前8,000年の新石器時代に建てられ、考古学者は石柱群の間でたくさんの石器を見つけている」とカリファー博士は説明しながら石槍の穂先を拾ってくれた。この石器は火打ち石から出来ていた。人々はここで何を祈って居たのか遠くからは乱杭歯の様に見える石柱群をみながら暫く思いを馳せていた。

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5.2 沙漠 (Al-Nafud)の入り口 カウ (Khaw'a)

 

二日目は立石遺跡 ラジャアジル (al Rajaajil)から更に東へ入った。この立石遺跡から24km位行くとカウアと云う集落の全体を眺められる丘の上に着いた。その先では大きな砂丘が緩やかに起伏している。その砂丘の間の盆地に円形農場が砂岩と丘と一緒に幾つか並んで居り、集落の白っぽい建家が緑の農地と調和した景色を作っている。この集落の先には朱色の沙漠が広がって居るだけだ。この景色を眺めながら弁当を使い、暫しの午睡でまどろんだ後に集落に入った。丘の上からは向かいの大きな砂丘の上を四論駆動車が自由に走り回っているのが見えて居たので道路は砂丘の間を更に延びて居ると思っていたがこの集落で道路は途切れた。アスファルト舗装の枝道を更に

4kmほど南に辿ったがやがて砂に消える。このカウアと云う集落も「偉大な砂」と呼ばれるナフド沙漠を越えてハイル(Hayil)へと向かう出入り口である。

 

沙漠 (Al-Nafud)の入り口 カウ (Khaw'a)

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6. ハッラ熔岩地帯(Al Harrah)

 

ハッラト アル ラジル熔岩地帯(Harrat Al-Rajil)とも呼ばれるハッラ熔岩地帯(Al Harrah)'アル'アル('Ar'ar)からサカカ(Sakaka)へ向かう途中で横切っており、その辺りがこの熔岩地帯の東の端と思われる。この為、ここではハッラ熔岩地帯(Al Harrah)について北部国境州の'アル'アル('Ar'ar)およびツライフ(Turaif)からクライヤト(Al Qurayyat)までの景観を記述した。なお、この熔岩地帯を南西から望む景観については次章「大回廊の窪地 ワディル シールハン (Wadi'l-Sirhan)」を参照して戴きたい。

 

ハッラ熔岩地帯(Al Harrah)

 

夜明けにかけてかなりの雨が降り、'アル'アル('Ar'ar)での宿舎だったタイシール ホテル(Taiseer Hotel)の前を流れる涸れ谷'アル'アル(Wadi 'Ar'ar)にも水の流れが見られる。

 

涸れ谷'アル'アル(Wadi 'Ar'ar)

 

町を出るとツライフ(Turaif)への道の両側にはなだらかな崖地が広がる。道路と平行して流れる涸れ谷(Wadi)には水が貯まっている。緩慢にでも流れているのか水は切れ目なく、続いている。この涸れ谷(Wadi)を何度か渡り返し、涸れ谷(Wadi)から右へと道路は別れる。表土が赤い沈泥(Silt)で覆われた白い大地が続く。

 

表土が赤い沈泥(Silt)で覆われた白い大地

 

この辺りは野良犬が多く、カフジ(Khafji)で見掛けるほっそりとした脚の長い種類より太っていて、色も茶色ばかりではなく、白や黒のブチもいる。

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6.1 ハジム ジャラミド(Hazm Al Jalamid)

 

'アル'アル('Ar'ar)から100km位でハジム ジャラミド(Hazm Al Jalamid or Hajm Al Galamid)を通過する。この町にはベドウイン(Bedouin)が定着し、又、流散した様子で、町並みが雑然とし、廃屋も目立つが検問所(Check Point)がある。赤い沈泥(Silt)に炭酸塩岩系の礫の転がる平地が続く。このカルスト地形は(Karst topography)は大シリア沙漠に連なり、サウジアラビアの北部と東部に広がる広大で平らな石灰岩地帯の北西のはずれである。

 

ハジム ジャラミド(Hazm Al Jalamid)

 

'アル'アル('Ar'ar)から194kmでツライフ(Turaif)50 kmの辺りで大地に起伏が出て来て、表土の礫に黒っぽい礫が混ざる。この黒っぽい礫を採集してみると、堆積岩がガラス(Glass)状となり、黄灰色に変色し、礫化した変節岩である。この礫の堆積を道路から見ると黒っぽく見える。

 

ハジム ジャラミド(Hazm Al Jalamid)はジョルダン、イラク南部およびシリアへと広がる大規模な燐酸鉱物埋蔵堆積地域(Phosphate Rock Deposit Region)の一部であるワディ シルハン・ツライフ(Wadi Sirhan / Turaif Area)地区のジャラミド鉱床(The phosphate rock deposit in Al Jalamid)の南端に当たる。燐酸鉱石の確定埋蔵量2.13億トン有するジャラミド鉱床の開発はサウジアラビアの重要施策の一つである。この鉱床の開発はツライフ(Turaif)西に位置するウンム 'アル(Umm Wu’al)鉱床と共にマアデン((Ma'aden)( the Saudi Arabian Mining Company)に任されている。マアデン(Ma'aden)は東部州カフジ(Al Khafji)南西130kmでジュベイル(Jubail)の北60kmラス・ゾウル(Ras Al Zawr)にアラビア湾海岸工業地帯の一部として大規模なアルミニウムおよび燐酸肥料の輸出プラントと鉱石専門港の建設しており、間も無く、年間生産量64万トンのアルミニウム精錬所と年間生産量300万トンの燐酸ニアンモニウムプラント(燐酸肥料工場)(Diammonium Phosphate Plant)が稼働し輸出を開始する。この鉱床開発の為にサウジアラビア政府はサウジアラビア鉄道機構(SRO)にジャラミドからラス アル ゾウルまでの鉄道建設を指示しており、その建設はすでに実行に移されている。

 

 

() 輸出プラントと鉱石専門港については豊かなオアシスに恵まれた原油の宝庫サウジアラビア王国東部州)その4 中部(伝統的なオアシス農業と近代化)3.7 ラス アル ザウル燐鉱輸出プラント参照し、鉄道建設については「マッカ・ムカッラマ(メッカ州)その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ(1-1 中継港ジェッダの紹介)」3. ジェッダの近代化のサウジアラビア鉄道網参照して戴きたい。

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6.2 ツライフ(Turaif)

 

ツライフ(Turaif)20 km手前で平地の中に山が見えて来て、ツライフ空港(Turaif Airport)への道が分岐している。'アル'アル('Ar'ar)から243 kmの場所にあるツライフ(Turaif)は雑然とした町並みをしている。その中、湾岸戦争で主戦場となったカフジ(Khafji)で米軍ヘリの標的になった給水塔(Water Tower)と同じ設計の給水塔(Water Tower)が見える。家並みもカフジ(Khafji)1980年頃に政府の補助金で建てられた個人住宅と殆ど同じ設計である。町の入り口から少し入った北寄りにアラムコ(ARAMCO)の油槽所があり、大型の油槽車(Tank Lorry)が出入りしている。

 

 

ツライフ(Turaif)でアラビア横断送油ライン(TAP Line)と別れ、西に向かうと10 km程で道路の正面に各々が独立した山が幾つも見えてくる。ハッラ熔岩地帯(Al Harrah)の火山性の山々である。この熔岩地帯はラジル熔岩地帯(Harrat Al Rajil)とも呼ばれる。ツライフ(Turaif)から30 kmで熔岩地帯の独立した山並みに近づき、火山性と思われる特徴がはっきりしてくる。ハッラ熔岩地帯(Al Harrah)に入ると土壌は赤味が薄れて、褐色っぽくなり、黒い礫も人間の頭より大きくなる。表土は溶岩の風化した礫で軽く覆われて来る。

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6.3 州境の検問所(Check Point)

 

ツライフ(Turaif)から約70kmで州境の検問所(Check Point)に着く。この検問所は北部国境州(Northern Frontier Emirate)と旧クライヤト州(Al Qurayyat)と州境であったが、旧クライヤト州(Al Qurayyat)北部がジャウフ州(Jawf Province)に分割併合された後も同じ場所にあると思われる。

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6.4 ハマド(Al Hamad)

 

ツライフ(Turaif)から約90kmの給油所のあるハマド(Al Hamad)付近では火山性の石が大きくなり、火山弾ではないかと思う。その先の道路の切り通しの断面に溶岩の層が確認でき、火山地帯であるのが分かる。道路は下り始める。黒い石の層は安山岩と思われる。

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6.5 カルカル(Al-Qarqar)

 

ツライフ(Turaif)から約90kmで道路は更に一段下って、緑に囲まれた火山の見れれる美しい景観となる。程なくクライヤト(Al Qurayyat)への入り口にある火山に囲まれた美しい緑の村カルカル(Al-Qarqar)に着いた。この辺りの火山には花崗岩の山のような険しさは感じられない。鷹を見掛ける。道路は火山群の間を通り抜けて行く。

 

美しい緑の村カルカル(Al-Qarqar)

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6.6 カフ(Kaf)

 

ツライフ(Turaif)から約130kmでクライヤト(Al Qurayyat)20km辺りの火山の麓に大きな砦(Qasr)が見えてくる。道路から外れて近づくが、舗装の道が付けられている。道路標識に盛んにカフ(Kaf)と表示されていた場所の様だ。説明書きに1338年建造と記されている。

 

カフ(Kaf)の砦(Qasr)

 

(Qasr)の奥に相当大きな集落であったと思われる廃虚がナツメヤシの木陰に並んでいる。住んでいる人も居るのか羊の群が廃虚から出入りしており、犬が我々のランクルに吠え掛かる。

 

廃村

 

運転手のサウド(Saud)はこの廃村と砦(Qasr)から長円型に下っている火山の切り立った裾の間を抜けサブハ(Sabkha)に出て行く。そのサブハ(Sabkha)からは長円型の台地の様な火山が幾つも立ち上がっている。

 

Harrat Al Harrah at Kaf

 

カフ(Kaf)では涸れ谷シールハン(Wad`il Sirhan)がハッラト アル ラジル熔岩地帯(Harrat Al-Rajil)とも呼ばれるハッラ熔岩地帯(Harrat Al Harrah)を抜けている筈であるが、私は確認出来なかった。

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6.7 クライヤト(Al Qurayyat)

 

黒っぽい溶岩が消え、突然の様に白い炭酸塩岩があらわれた。間も無く、地図には飛行場への道とが記されている立体交差を通り過ぎる。クライヤト(Al Qurayyat)の北の入り口の大きな涸れ谷(Wadi)を渡ると西側に目新しい軍隊の白い建物が目を引かせる。町並は古く道路も狭い。州知事(Governor)の建物周囲の交差点と言う交差点にはパトロール カー(Patrol Car)が待機していてものものしさを感じさせる。町の中心(City Center)はカフジ(Khafji)とナイリヤ(Nai'riyah)の中間位の規模なので人口は一万人位だと思う。店の中の炉で回転しながら焼いている鳥で昼食にする。結構いける。焦げ目のある皮の部分が特に旨い。

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7. 大回廊の窪地 ワディル シールハン (Wadi'l-Sirhan)

 

この辺りでジャウフ州の北東地方から北西地方に目を向ける事にする。

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7.1 国境の町クライヤトから (Approach from Qurayyat)

 

1999119日にジョルダン王国(Jordan)との国境の町クライヤトからジャウフ街道の三叉路アブ アジラム(Abu Ajram)を通って緑豊かなタブク(Tabuk)まで抜けた。この町の門を出るときに大きな鷹を偶然に見掛けた。これは偉大な砂と呼ばれるナフド沙漠の北西部を含むこの日の600kmを越える長旅を前に幸運の兆しだと思えた。国境の町クライヤトを出ると街道はその町並みと平行に南東へと向かう。アル ラジル(Harrat Al-Rajil)火山地帯との間に黒っぽい崖地が街道の東側に連なる。

 

たくさんの乳離れしたばかりの白い駱駝が草を食んでいるのは巡礼月開けの犠牲祭(Eid ul-Adha)の為の生け贄だろう。

 

クライヤトの農地(Farm land of Qurayyat)

 

農地はクライヤトの町の南へとさらに延びている。モクマオウ(Casuarina)と云う生長の早い柳竜(Tamarisk)科の樹木が防風林として農場の周りに植えられて居るのでそれぞれの農場は一つ一つのモクマオウ林の様に見える。道路標識にはバイェール谷(Bayer Valley)と記されており、これが英語であればもっと栗毛(薄赤褐色)した谷と云う意味か。黒っぽい崖地が東へと街道から遠ざかり、代わりに赤みがかった緩やかな低い崖地が現れる。農地はクライヤトから街道に沿って途切れ途切れではあるが更に続いていたがこの辺りで見当たらなく成る。街道は長い長い大回廊の窪地 ワディル シールハン (Wadi'l-Sirhan)の中を更に南東へと続いている。

 

クライヤトから南東45kmにあるナシファー(Nasifah)の検問所を越えると南東に向かって農地が次第に又増えて来た。街道は西側から迫って来た崖地を登る。崖の上は角張った礫岩に覆われているが次第に黄土色の砂地に変わる。所々が分離して平頂山(Table Mountain or Mesa)に成っている別の崖地が再び街道の西側に現れる。クライヤトから南東100km辺りに砂丘に囲まれたアル イサワイヤー(Al-Isawaiyah)と云う集落とモクマオウに囲まれた農地があり、旧州境も近い。

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7.2 大回廊の窪地の要所 (Tabarjal)

 

旧クライヤト州との元州境を少し越えたクライヤト南東140km辺りに閑散としたこの街道には似つかわしく無い程立派な立体交差がある。立体交差の橋の上からは周りに広がる農地を眺望できる。円形農場の柵の中には麦の切り株を食べさせる為に駱駝が放牧されている。ここが古代の隊商路であった大回廊の窪地ワディ シールハン(Wadi'i Sirhan)の要所であったタバールジャル(Tabarjal)の町へ入る分岐である。

 

タバールジャル(Tabarjal)の町へ入る分岐(立体交差の橋の上から撮影)

 

町は街道から5-6km奥まった場所にある。この町の住人はこの数百キロも続く大回廊の窪地沿いに住むアルーシャララト(al-Shararat)部族の幾つのも支族だと云う。この町には周囲の農業地帯への物資供給センターと成っている比較的大きなスーク(市場(Suk))がある。断食明けの休みの為に殆どの店は閉まっているが何とか食堂を見つけ、ローストした羊肉を御飯の上にのせたラハム カプサ(Raham Kapusa)を手づかみで頬張る。アラビア語の通り、「羊肉と米」と云う簡素なこの料理が美味い昼食に感じる。町のもう一つの出入り口は立体交差から更に南東10kmの所にある。結構大きな農地が町の周囲ばかりでは無く、街道に沿って25km南東のタバールジャルからナブク(An Nabk abu Qasr)への中間辺りまで続く。そこから南にも幾つかの農場はあるが大地の殆どは黄土色の砂に覆われて居る。

 

窪地の要所 (Tabarjal)

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7.2.1 水の流れが集まる場所リジラ (al-rijla)

 

沙漠には涸れた谷(Wadi)が集まる場所があり、冬に時たま降る雨でそこの集まった水は季節的な湖水を作り出し、地面に浸透するか天日に干されやがて枯渇する。この様な場所をベドウイン(Brdouin)はアル リジラ(al-rijla)と呼んでいる。タバールジャル(Tabarjal)もこの様な小さな涸れ谷が幾つか収束する場所であり、その名もアル リジラが語源であると云う。

 

(ここをクリックすると図が拡大します。)

(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)

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7.2.2 最も大きな農場JADCO

 

街道からは遠く離れては居るがタバールジャルの南西には縦50km30kmにも及ぶ大農場がある。この農場はジャウフ農業開発公社(JADCO)の所有であり、沙漠緑化研究の為にKACST(科学技術王立都市)のジャロード博士(Dr. Ali Al-Jaloud)と一晩泊まった事がある。同博士の教え子の何人かが隣の国営農業開発公社(NADEC)で働いて居り、夕食に呼んでくれた。サウディ式の長いお茶会の閑談の後、食事が出て来たのは真夜中過ぎであった。その深夜の帰り道、時速100kmの走行で30分以上も周囲に全く灯火は見えなかった。四輪駆動車の車高が高いと云っても広大な平原を見渡せるのはせいぜい半径10kmの地平線までなので、この時程、50kmx30kmと云う土地の広大さを感じさせられた事は無かった。

 

JADCOでの出稼ぎ農民による収穫風景 

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7.3 崖地に囲まれた集落 (An Nabk abu Qasr)

 

ナブク(An Nabk abu Qasr)は平頂山に囲まれた小さな集落で、その名には砦(Qasr)と云う言葉が付いているが砦は無くちっぽけな学校があるだけだ。集落裏の小さな砂山に囲まれた広場では子供達がボール遊びに興じている。周囲には車は見当たらず、まだ、この子供達には自動車に頼らなかった伝統生活がまだ残っている様だ。

 

大回廊の窪地(ワディ シールハン)を辿っているのだが、この涸れ谷の幅が余りにも広くて平らなので、谷間である様には思えない。この様な殆ど認識出来ない様な平な窪地を辿る事で多くの隊商や遠征軍がダマスカスとジャウフ地方の間を行き来していたとは信じ難い。この漠々たる大地は多くの沙漠の旅人を迷わせ飲み込んで来たのだろう。

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7.4 絹の道と乳香隊商路の分岐点 アブ アジラム (Abu Ajram junction)

 

クライヤト(al Qurayyat)から南東240kmの所で三叉路に行き当たる。ここがアジラム分岐(Abu Ajram junction)で道はタブク(Tabuk)およびサカカ(Sakaka)へ分かれる。この分岐からのそれぞれへの距離はタブクが320kmでサカカが113kmである。分岐の周辺には幾つか円形農場があり、上空には鷹が一羽舞っている。

 

何の変哲も無く今はその名がある事さえ知られて無い様な地味な分岐であるが、昔はこの辺りが乳香の路とシルクロードの交差点であった。乳香の路(Frankincense Road)はイエメンから漠々たる空白地帯沙漠(Ar Rub' Al Khali)を越え、碑文の谷ビール ヒマ(Bir Hima)、沙漠の奥の三叉路タスリス( Tathlith )、赤い砂岩の谷間のビシャー オアシス(Bishah Oasis)、聖地メディナ(Al-Madinah)、古都のヒジュル(Al-Hijr)や一時はバビロニアの都だったタイマ(Tayma)を通ってここに至る。又、海のシルクロード(Silk Road)はアラビア湾岸で船から荷を下ろし、駱駝の背に積み替えてアラビア半島を横断し、大シリア沙漠を越え地中海へとこの大回廊の窪地を通る隊商路を使って荷を運んだ。

 

今では乳香の路の方に向かってマイグまで20kmも農業地帯が延びている。この農業地帯もかなりの規模と言える。

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7.5 新興農業地帯の中心地 マイグ’(Mayqu')

 

マイグの廃れた様な集落と対照的に新しいショッピングセンターが殆ど完成し開店間近である。円形農場がさらに集落の西へと広がり、たくさんのオリーブ果樹園がある。ここから偉大な砂の海「ナフド沙漠」の北部を貫く果てしない街道をトブクへと向う。

 

偉大な砂の海「ナフド沙漠」の北部

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後記  

 

アル ジャウフを紹介するには充分な程訪れていると思って居たがスダイリ元知事の著作「アラビア沙漠の辺境アル ジョウフの変遷」の内容と較べると余りにも取るに足らない程の体験でしかない。海のシルクロードの中継地であったこの地方の過去と現在を紹介する為に内容豊かなこの本の邦訳を出版したいと思うし、私自身がもっとロマンに溢れるこの地方を知る為に再度訪問してみたいと思う。

 

4年半経って改訂するためにジャウフ州を改めて見直したが、やはり歴史と浪漫に溢れた場所だと思う。五人のアラブ女王やアル ウカイディール ビンアブド アル マリク(al-Ukaidir bin 'Abd al-Malik)の画像をウェッブから見つけれなかったのでスダイリ元知事の著作の内容はまだまだ一般的では無いようだ。


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