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2012月8月15日
 アラビア半島中央部    (サウジアラビア王国旧中部州)

ナジュド                             著: 高橋俊二
 Najid (Central High Land)



 

ナジュド

 

高橋 俊二

 

平成151215

改訂 平成2489

 

私はこの7月末までリヤードに5年間住み、ナジュド(Najd)と言う親しみのあるこの地方の名をごくありふれた言葉として使って居た。しかしながら、私が誰かにナジュドについて説明しようと思うと、「この地がサウジアラビア発祥の地である」以外は、私自身余り知らない事に気付かせられる。

 

そんな事からこの二、三年ナジュドを紹介する適当な本を探して居た。この夏、事務所閉鎖の為に整理して居た備品や事務用品の中からウィリアム・ファセイ (William Facey)著の「古都リヤード」と言う本を偶然に見つけた。同氏は1948年にザンビアで生まれ、ソルボンヌ大学やワドハム大学で教育を受けて居る。同氏は博物館業務のコンサルタントとして特にサウジアラビアを中心に働き、この本の他にも「サウジアラビア東部州の話」と言う著述を執筆して居る。同氏は「古都リヤード」と言う本の前書きにナジュドの自然、地理、遺跡等が広範囲に渡って紹介し、更に、それに続く各章で古代から現代に至るナジュドの歴史も詳しく述べて居る。

 

「私はナジュドの概略をこの本の中の記述から抜粋してみたい」とは言え、その内容は実に多いので幾つかの続編に分ける事にする。先ず、ここではその中の自然環境に関する記述を紹介する。

 

目次(ナジュドの自然環境)

1. 境界

2. 水系

3. 地理

4. 気候と降雨

5. 社会と村落

6. 洪水と干魃

7. 苛酷な自然

 

1. 境界

 

ナジュド(Najd)とはアラビア半島中央部の台地を示す地理的な定義である。「大いなる砂の海」とも云われるナフード沙漠(Nafud)がナジュドの北限で、空白地帯沙漠がその南限である。ダフナー沙漠(Ad Dahna)の砂山の長い尾根がナジュドを東部州やアラビア湾から遮って居り、ヒジャーズ(Hijaz)・アシール('Asir)山脈がこの台地の西の外れである。

 

アラビア盾状地がナジュドの地形を形作って居る。紅海を含む大地溝帯を作った地殻変動がアラビア盾状地の西側を持ち上げ、ヒジャーズ(Hijaz)、アシール('Asir)およびイエメン(Yemen)等の西アラビアの火山群が紅海と平行に3,000m以上隆起して山脈と成った。この山脈がアラビア半島の分水嶺を成し、その東側は緩やかにアラビア湾まで下って居る。

 

2. 水系

 

ワーディー(涸れ谷)の河床はナジュド(Najd)を西から東へと横断している。太古の地質年代の湿潤な時期に大量の降雨が台地を浸食して現在のワーディーを作り出した。ワーディーは通常は乾いて居るが、激しい降雨の後は雨水の水路と成り、その流域に雨水を浅層地下水として保水する。ワーディーは重要な隊商路、放牧地や集落の場を提供して来た。

 

ナジュド(Najd)の水系はアラビア湾へと注ぐ三つの大きなワーディーの流域に別れ、ハッキリと識別出来る。北部の涸れ谷ルマー・バーティン(Wadi al-Rumah/al-Batin)はカスィーム(al-Qasim)地方を源としユーフラテス川(Euphrates)の南へと流れる。涸れ谷ハニファー(Wadi Hanifah)、涸れ谷ニサーフフ(Wadi Nisah)等はハルジュ(Kharj )で合流し、涸れ谷サフバー(Wadi Sahba' ) と成ってサブハ・マッティー(Sabkhat Matti)に注ぎ、サブハ・マッティーはアラビア湾と通じて居る。トゥワイク山脈(Jabal Tuwaiq)の南部が大きく裂けた場所で合流するワーディー群は涸れ谷ダワースィル(Wadi al-Dawasir)と成って空白地帯沙漠へと流れる。大昔、この流れはアラビア湾のサブハ・マッティーまで注いで居た。

 

下ナジュド主要部

(ここをクリックすると図が拡大します。)

(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)

 

 

3. 地理

 

ナジュド台地と名付けたアラビア半島中央部の台地は緩やかに西側の標高1,070mから東側の標高610mへと傾斜して居る。ナジュド台地の東側は240km幅で南北に延びた帯と成っている。この帯の西側は急峻な石灰岩の崖地で、東側は緩やかな傾斜が更に東へと続いて居る。この帯の中心がトゥワイク山脈(Jabal Tuwaiq)でアラビア半島の背稜である。トゥワイク山脈は空白地帯沙漠の南西部に近いムンダファン峡谷(Mundafan Gap)の南からリヤード(Riyadh)へ向かって640km北上し、リヤード(Riyadh)付近で北西に方向を変え、スダイル(Sudayr)の西の端まで更に延びて居り、ズィルフィー(Zilfi)の市街を越えて、ダフナー沙漠(Dahna' sands)の砂丘の中に消えて行く。トゥワイク山脈の中心部はリヤード(Riyadh)付近であり、標高が1,070mもあり、その西側の崖地は荘厳な景観でその麓の平地から平均245mも屹立して居る。

 

トゥワイク山脈Edge-3

トゥワイク山脈Edge北壁-1

トゥワイク山脈北壁

 

その他のもっと小さな崖地がトゥワイク山脈に平行してその北部の両側に並ぶ。ジュバイル(Jubayl) とアルマ( 'Armah)はリヤード東と北東にあるその様な崖地である。この二つの崖地を東側にトゥワイク山脈を西側にした長い窪地を涸れ谷 ハニファー(Wadi Hanifah)が流れて居る。トゥワイク山脈、ジュバイル(Jubayl) やアルマ( 'Armah)等の崖地の間を崖地と平行にウルーク沙漠(Uruq)の幾筋かの細長い砂丘地帯が並んで居る。その中の一番長い筋が北部はナフード アル-シール(Nafud al -Sirr)と呼ばれ南部はナフード アル-ダヒ(Nafud al -Sirr)と呼ばれる細長い砂丘地帯であり、トゥワイク山脈の西側をほぼ山脈と同じ距離で続く。この砂丘地帯の北部とトゥワイク山脈の北部の間には北部をナフード・スィッラ(Nafud al Thuwayrat)、南部をナフード・クナイフザ(Nafud Qunayfidhah)と呼ばれるもう一筋の細長い砂丘地帯が横たわる。イルク・バンバーン('Irq Banban)と呼ばれるやはり細長い砂丘地帯がトゥワイク山脈を東側でアルマ('Armah)崖地の直ぐ西側の下に横たわり、そこが放牧や狩り場の適地でもある。

 

この崖地と細長い砂丘地帯がナジュド東部を形成し、サフィラ・ナジュド(Safilat Najd)或いは下ナジュド(Lower Najd)と呼ばれ、そこでは崖地上から東へ緩やかに下る台地とその東に平行に聳える次の崖地との間の土地に平原や窪地が出来て居る。砂で運ばれて来る砂がそこに前述した様に筋となる細長い砂丘の帯であるナフードを作る。この地域は石灰岩、砂岩、頁岩及び砂岩で形成されて居り、それらの岩石は中世代や第三紀始めの海生の堆積層である。風化や水の浸食でその様な柔らかい岩石層は簡単にシルト(沈泥)に変化され、ワーディーの水系が洪水を侵した際に押し流され、洪水平原や窪地に送り込まれる。このシルトの堆積が沖積地帯やラウダ(Rawdat、草地)を形成し、そこは放牧、耕作、集落に適した土地である。

 

トゥワイク山脈アウサト(Al-Awsat)付近

ウルーク沙漠(Uruq)ナフード・ダヒー(Nafud al Dahi)の荘園1

涸れ谷ニサーフ(Wadi Nisah)の農園

長い下り(新旧メッカ街道交差点付近のトゥワイク山脈)

 

上ネジド(Upper Najid)又はアリヤート・ナジュド('Aliyat Najid)はその東方のサフィラ・ナジュド(Safilat Najd)或いは下ナジュド(Lower Najd)とは全く別である。上ネジド(Upper Majid)はもっと古い地質的起源を持ち、ナフード・スィッル(Nafud al-Sirr)・ナフード・ダヒー(Nafud al-Dahi)砂丘地帯から西アラビアのヒジャーズ・アシール山脈(Hijaz/'Asir)まで広がり、火成岩と変成岩から成るアラビア盾状地を形成している。上ネジドの台地の景観は独立した岩の露頭や山があるが更に西のヒジャーズ山脈と較べると平である。

 

4. 気候と降雨

 

ナジュドはサハラ(Sahara)沙漠と南西部と南東部を除くアラビア半島全体を含むサハロ・シンディアン乾燥地帯(Saharo-Sindian)の一部である。ナジュドには長く熱い夏があり、温度は48℃に達し、昼と夜、夏と冬の温度差が大きい。しかしながら、その熱さは湿度が低い為に体にはその高温がかなり緩和されて感じられる。冬場、1月の平均気温は15℃であり、作物に甚大な被害を及ぼす酷い霜も起きる。最低気温は零下7℃である。

 

風は中央アラビアに達する迄に殆どの水分を取られてしまうので、降雨は非常に少ない。夏の卓越風はサムーム(Samum)と呼ばれ南から吹いてくるが完全に乾き切って居る。冬の卓越風はサマル(Samal)と呼ばれ、北から吹いて来て冷たく乾いて居る。冬の終わりには東地中海から渡って来る低気圧で乾燥が収まる。この風が春のワスミー(Wasmi)を含め乏しい降雨をもたらし、大変貴重な沙漠の植生を蘇らせる。

 

年間の平均降雨量は117mmでこれは乾燥地農業に必要な降雨量250mmよりずうっと少ない。もし地下水が無ければどんな規模であれ、昔から上ナジュドにあった様な集落を営む等思いも寄らない。地下水は伝統的に家畜を使って汲み上げられ灌漑や一年を通じて毎日の生活に使われて来た。

 

平均の降雨量と云う表現はアラビア特にナジュドでのその降雨の不規則性の大きさを隠してしまう。ナジュドでは毎年ばかりで無く12月から4月までの短い冬や春の間の一番合理的に降雨の期待出来る期間の中でも規則性が無い。降雨量は15mmから257mmの範囲であり、雨は短い間に雨嵐や驟雨の形で一度にやって来て、年間降雨量の半分以上が一日で降ってしまうし、この様な土砂降りの降雨も非常に局地的である。

 

5. 社会と村落

 

ナジュドの自然障壁は厳しく、外部への出入りが難しく、その社会は自給自足で成り立ち、外部からの影響を受ける事は殆どなかった。それでも、その時々で周辺地方へ大きな影響を及ぼして来た。これはアラビア半島の東部、南東部、南西部および西部から北部アラビアへの隊商路がナジュドを通り、現在のリヤード付近で合流して居た為である。

 

ナジュドではワーディーの合流場所や大きなワーディーの谷間が集落や耕作に適した場所を提供して居る。例えば涸れ谷ハニファー(Wadi Hanifah)にはディルイーヤ(Dir'iyyah or Diriyah)が在り、涸れ谷バサ(Wadi al-Batha)には涸れ谷 ハニファーと合流する少し上流に現在のリヤード市が占めるシルトの堆積台地がある。

 

この堆積台地の地下水脈は地表に近く、簡単に井戸から汲み上げられ、そこでは水源が一年中涸れる事は無い。耕作や集落の営みが始まったのは新石器時代後期で4,000年以上も前であり、ここがアラビアでのオアシス農業の発祥の地でもある。ワーディーが集まり、崖地に沿って両岸を浸食した場所もまた集約に集落を営むのに適した土地である。ワシュム(al-Washm)地方の涸れ谷アトク(Wadi 'Atk)はその例であり、シャクラー(Shaqra')やサルミダー(Tharmida')等の重要な町が在る。同じ様な例には涸れ谷ダワースィル(Wadi al-Dawasir)のハマーシーン市(Khamasin)や涸れ谷ハッダール(Wadi Haddar)のアフラージュ(Aflaj)、現在のライラ(Layla)がある。

 

涸れ谷ハニファーは前述の様にトゥワイク山脈とアルマ崖地およびジュバイル崖地の間を流れて居る。涸れ谷ハニファーが涸れ谷ニサーフ(Wadi Nisah)と合流する少し上流は特に集落を営むのに適した土地である。この土地は昔からアリード(al-Arid)と呼ばれ、ジュバイラ(Jubaylah)、ウヤイナ( 'Uyaynah)、ディルイーヤ(Dir'iyyah)、マンフーハ(Manfuhah)およびリヤード(Riyadh)等の重要な市が営まれて来た。その少し南東の下流で涸れ谷 ハニファーは涸れ谷ニサーフと合流し、その更にその下流でトゥワイク山脈を切り通してハルジュ(al-Khalj)へと流れる。ハルジュ(al-Khalj)は海抜490mにある肥沃な低地帯である。ここはアリード(al-Arid)地方と共に、イスラーム以前からイスラーム初期にかけて栄えたヤマーマ(al-Yamamah)王国の中心である。

 

上ナジュド(Upper Majid)のワーディーは下ナジュド(Lower Najd)のワーディーと異なり、分水嶺に近く、大きなワーディーとして集まる事も無いので、小さく、比較的浅い。上ナジュドは砂利混じりの土壌で薄いが、広く地表を覆われて居り、農耕には向いては居ないが、降雨が在れば素晴らしい放牧地と成る。従って、上ナジュドは時代を越えて多くの主なベドウイン部族が遊牧を営む地方であった。

  

6. 洪水と干魃

 

短期間での雨嵐や驟雨が起こす洪水はその流れにある集落を干魃と同じ様に破壊する。ワーディーを通り抜ける降水はその流域の集落を完全に押し流す程の大洪水を引き起こし、この様な災害がナジュドの伝統的な社会に著しい経済・社会的損害を与えて来た。

 

比較的発展し、繁栄した時代も厳しい干魃により制限されて来た。干魃は一年位の規模から、苛酷な干魃では34年以上にわたる事もある。その様な干魃で中での井戸の枯渇は集落民をこれまで住んでいた町や村から他の土地へ移住させたり、そこの留まった集落民の大量な餓死を引き起こす。

 

干魃と病気は歴史的にナジュドの繰り返し起きて来た災禍であり、干魃は集落の間やベドウインとの間で枯渇する資源をめぐっての政治的争乱を度々、引き起こして来た。この争乱は強力な中央権力無しに部族単位で分裂拮抗した集落で成り立って居たナジュド社会の対立しがちな伝統により弾みが付けられた。遊牧や半遊牧のベドウインの牧畜経済も干魃によって厳しい打撃を被った。遊牧民は干魃の影響の無い土地へ移動する能力を一般的に持っては居ても、その家畜の死は彼等に取っての窮乏を意味した。干魃の時にベドウインは廃棄された集落に住み着いたり、新しい集落を作ったりしてしばしば集落に依存して生活する様に成り、干魃がベドウインの定住化の過程に貢献する場合もあった。

 

ナジュドの歴史は苛酷な自然条件と社会・政治的要素の組み合わせの結果として集落の増減によって特徴付けられ、それを涸れ谷ハニファーの様な主要なワーディーに集落の廃墟が良く見掛ける事が物語って居る。

 

7. 苛酷な自然

 

ナジュドと外界との境の厳しい自然の為に殆ど外界の影響を受けない特異な社会を作り出した。資源の乏しさとその乾燥した気候が組合わさって、侵入者に取って魅力の無い場所と成った為に、この地方が部族の支配や地方の豪族の支配に委ねられたのだと思う。ナジュドは地球上で最も厳しい条件に合わせて特異な遊牧と定住の社会を作り上げて来た。ここの資源は乏しく、当てに成らず、経済的価値は低かった。ここの住民は外界から孤立した中でのたくましい自給力を持ち、家族、親族および部族の間の強固な協力関係を築く事で彼等は生き残って来た。慣習や慣例と成った彼等の価値観は伝統的に分裂傾向のある部族社会の中にも脈々と生きて居る。しかしながら、イスラーム以降は彼等の価値観が神の教義に包含される時には部族への忠誠は神への忠誠に置き換わている。

 


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