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2012月8月15日
 アラビア半島中央部    (サウジアラビア王国旧中部州)

メッカ街道                             著: 高橋俊二
 Makkah Road (One of Main Pilgrim Route)



 

メッカ街道

 

20031130

改訂: 201285

高橋 俊二

 

最初に私がナジュド沙漠を横断したのは第一次湾岸戦争の戦闘地域からジェッダ(Jeddah)へ避難した時であった。1991117日にイラク陸軍は東部州最北端のカフジ(Al-Khafji)に留まって居た我々を砲撃した。最初、ダンマーム(Dammam)に避難したがイラク軍は再びスキャッド・ミサイルで攻撃して来た。その為リヤード(Riyadh)に移動したが、イラク軍はリヤードへもスキャッド・ミサイルを使って攻撃したので、我々はメッカ街道を通ってジェッダへ避難する事に成った。

 

カフジからジェッダまでの2,000 kmの全ての行程をこの時は初めて自分自身で運転した。リヤードを離れてトゥワイク崖地(Tuwaiq escarpment)の長い下り坂に掛かるとその勾配の余りの急さに自分の車が離陸するような錯覚を覚えた。今日でもこの坂はメッカ街道の中で、特に牽引式車両に取っては難所と成っている。戦況を聴く為に避難の間、NHKの海外放送を付け放しにして居た。NHKはずうっとニュース番組を流している訳では無く、時々日本の民謡等も流して居た。この為、津軽ジョンガル節を聴きながらナジュド(Nejid)沙漠を運転する事に成った。これは大きな景色と音楽のミスマッチングであり、私には非常に印象に残って居り、生涯忘れる事は無いと思う。

 

「沙漠の半島」中央部

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リヤード(Riyadh)からターイフ(At Taif)までの道路が「メッカ街道」と呼ばれている。1991年に私は戦乱を避難して通った時には片側二車線も完成して居なかったが、今では片側三車線の素晴らしい道路に成って居る。リヤード(Riyadh)からドゥルマー(Durna) シャクラー(Shaqra)、ダワードゥミー(Dawadmi) やアフィーフ(Afif)を経由してザリム(Zalim)に至る旧道は旧メッカ街道と呼ばれている。ザリム(Zalim)から西側では二つの道路は合流して一つのメッカ街道となる。この二つの街道だけが広大なネフド沙漠の大地を東西に結んで居り、アラビア盾状地を横断して居る。

 

リヤード(Riyadh)はトゥワイク山脈(Jebel Tuwaiq)の山頂が一番広くなった場所にあり、メッカ街道はそこからトゥワイク山脈(Jebel Tuwaiq)を切り通して西へと下って居る。その切り通しの断面には18千万年前の中生代の地層が現れて居り、トゥワイク山脈(Jebel Tuwaiq)は幾つかの灰色の頁岩や赤い土の層を除き、その厚さの殆どが中世代の石灰岩で出来て居る。メッカ街道はリヤード(Riyadh)から西南西へターイフ(At Taif)まで真っ直ぐ延びている。その途中にはある町と言えば二つしか無く、その他は小さな集落か給油所コンプレックス(街道筋にある給油所、修理所、スパーマーケト、食堂、宿屋で構成されるコンプレックス)である。

 

その内の一つであるムザーヒミーヤ(Muzahimiyah)はウルーク沙漠(Uruq)に並ぶ砂丘の連なりの東端でリヤード(Riyadh)から70 kmの場所にあり、大リヤードへ蔬菜類を供給する近郊農業を営む村である。この村では農地を囲む防砂林のCasuarinaの並木が特に目立って居る。ウルーク沙漠(Uruq)は北のカスィーム(Qaseem)地方から南の涸れ谷ファーウ(Wadi al Faw)までの1,000 kmに及んでトゥワイク山脈(Jebel Tuwaiq)と平行にその西側に横たわる沙漠である。ウルーク沙漠(Uruq)を越えると道路の全面には果てしなく莫大な平原が広がって居る。

 

もう一つの町はクワイイヤ(Al Quwayiyah)であり、涸れ谷クワイイヤ(Wadi Al Quwayiyah)を挟んでリヤード(Riyadh)の西170 km、トゥワイク崖地(Tuwaiq escarpment)の西端から100 kmの場所にある。ここには洪水から町を守り、農業用水を確保する為のダムが造られ、適当な大きさの農地がWadiの両側に広がって居る。従ってここでの灌漑水は沙漠への降雨量次第である。中世代の堆積岩はここで終わり、これより西の大地には暗い丘の連なりが現れて来る。ここまでは大地は平で、水平で色が薄かったがこの先は暗い灰色、暗い緑や黒い丘の連なりに変わる。これらの丘はギザギザの角を持ち、乱雑で尖って居る。これがアラビア盾状地である。クワイイヤ(Al Quwayiyah)を抜けて西に進むと二畳紀のフッフ層(Khuff)(クフ層)が黒い盾状地に重なっている最後の水平な層も終わる。二畳紀のフッフ層(Khuff)はサウジアラビア東部州にあるガワール(Ghawar)、サファーニーヤ(Safaniyah)、カフジ(Khafji)等巨大油田で炭化水素が存在する最も深い貯留層の一つである。盾状地の風景はその独特の美しさを持って居る。異様な形と暗い色を居た自然の儘の岩はその岩の間にある白い石英質の砂と対照となり、偉大な景観的魅力と対比を見せている。

 

クワイイヤ(Al Quwayiyah)の東端に岩壁が描かれている。旧メッカ道路との分岐から西へ72 kmリヤード(Riyadh)から117 kmの所にジェルフ(Jelh)と言う名の小さな部落がある。その小さな部落を過ぎると道路の北側に給油所の廃墟があり、そこから低い崖地(Escarpment)に沿って沙漠道が北へと付いて居る。古い給油所跡から4 kmばかり北に進むと小さな岩山があり、その上は目立って頂上の平らな台地状の比較的大きな岩峯に成って居る。その岩峯側面の黒く輝く岩壁に絵が描かれて居る。駝鳥の家族が居り、ライオンかハイエナと思われる空に向かって尾を立てた胴の長い幾つかの生き物、人間の骨格、後方に曲がった角を持つアイベック、真っ直ぐな角のオリックス等の絵がある。岩峯の側面に幾つかの平らな部分にこれ以上は描く所が無い程に絵が描かれて居る。岩峯の向かいの低い崖地(Escarpment)の上には古代のお墓がある。アラビア半島の中央部ではこの様な墓は谷を見下ろせるこの様な岩場に一般的に作られて居る。どのくらい古いかはハッキリしないが、青銅器時代の紀元2,000年頃の物だろう。

 

昔の隊商の為の沙漠道がクワイイヤ(Al Quwayiyah)から南に向かって居る様だ。アスファルトの道がクワイイヤ(Al Quwayiyah)からライン(Ar Rayn)迄、南東に70 km作られて居る。そこから沙漠道が東へと向かって、ナフード・ダヒー(Nafud Ad Dahi)の沙漠やトゥワイク山脈(Jebel Tuwaiq)140km横切って居る。トゥワイク山脈(Jebel Tuwaiq)には幾つかの平らな切り通しの谷があり、幾つかの巨大な大洪水がこれらの平らな谷を穿ったと思われる。(太古の広大な氷河の作用がこの巨大な洪水の原因だとも言われて居る)。ナフード・ダヒー(Nafud Ad Dahi)もこの辺りでは比較的平らである。従って、この沙漠道は隊商の荷を運ぶ駱駝に取って歩き安かっただろう。この沙漠道はリヤード(Riyadh)からワーディ・ダワースィル(Wadi Ad Dawasir)やハミース・ムシャイト(Kahmis Mushayt)を経由してイエメン(Yemen)迄への街道にハウタ・バニー・タミーム(Hawtat Bani Tahim)とライラ(Layla)の間のミスアブ(Al Mith'ab)で出合う。

 

ルワイダ(Ar Ruwaydah)クワイイヤ(Al Quwayiyah)の西50 kmにあり、人口は2,000-3,000位の集落である。この集落を取り囲む様に花崗岩の露頭がここそこに顔を出して居る。比較的新しい道路がここから北西に分かれ凸凹した山間を旧メッカ街道に抜けて居る。この道路はシャアラー(Ash Sha'ra)から北西に向かう枝分岐が有り、ダワードゥミー(Dawadmi)とつながって居る。

 

ヒルバーン(Hilban)はルワイダ(Ar Ruwaydah)の西60 kmにあり、人口1,000ばかりの集落で、花崗岩の丘が西側から集落を囲んで居るが、東側は平に開けて居る。

 

ハースィラ(Al-Khasirah)はヒルバーン(Hilban)から更に西へ60 kmの涸れ谷スィッラ(Wadi As Sirrah)を渡った所にあり、人口は200程度で東側の入り口に冬場の水が貯まった池がある。メッカ街道の南には赤い砂丘の帯が横たわり、南へと広がり幾つかの目立って大きな砂山がある。この砂丘の帯がナフード・スィッラ(Nafud as Sirrah)であり、それと平行している涸れ谷スィッラ(Wadi As Sirrah)の谷には水の流れが見られる。

 

ハースィラ(Al-Khasirah)から西へ10 kmのルバイダ(Rubaydah)では赤い砂丘の帯はメッカ街道に近づく。地図にはこの帯をナフード・サハー(Nafud as Sakha)と記してある。この帯は遠くでは広く大きな砂丘の連なりであるが、メッカ街道を横切る辺りでは僅か数十メートルの幅に成って居る。ナフード・スィッラ(Nafud as Sirrah) やナフード・サハー(Nafud as Sakha)"等の赤い砂丘の帯がこの様に完全に火成岩で出来ているアラビア盾状地の奥深くに何故このあるのか大変不思議である。これは半島全体における堆積層とその浸食を研究する鍵の一つである。この半島はカンブリア(Cambrian)紀からオルドビス(Ordovician)紀(55千万年から47千万年前)に海に沈み、その後12回以上も浮沈を繰り返し、この半島は陸地であった期間の2倍以上の期間、海に沈んで居た。

 

メッカ街道はジバール・ウルグバ(Jibal al Urghubah) とジバール・ラカバ(Jibal ar Raqabah)の山間を抜けて行く。ターイフ(At Taif)385 kmとの道標がある辺りで大地は薄く砂に覆われ、花崗岩の露頭がその砂の中に散在し砂の上に隆起して居る。タルフ(Talh or Acacia Gerratdii)の生えている露頭もあり、日本の箱庭の様な風情をして居る。道路の北に古い石切場があるが、既に石の切り出しは行われて居らず、荒い花崗岩の切り出し面が荒涼と沙漠に聳えて居る。

 

ザリム(Zalim)はターイフ(At Taif)の東250 km、リヤード(Riyadh)の西550kmにある給油所コンプレックスで旧メッカ街道に分かれる立体交差がある。このコンプレックスは巡礼のシーズンの為、巡礼者で一杯であり、食堂に入るにも儘成らず、周囲の沙漠で休憩する事と成った。この辺りには花崗岩の露頭は無く、平らな大地は小石で覆われて居る。

 

ムワイヤ(Al-Muwayh)はザリム(Zalim)の西91kmにあり、発電所のある集落である。ここから更に西に進むと平原に緩やかな起伏が出て来て緑も増す。これは熔岩地帯へ入って来た兆しである。村の北にはアラビアで最も荒涼とした景観の熔岩地帯が広がって居り、その一様な黒さが何か語りかけて居る様に感じる。ムワイヤ(Al-Muwayh)から25 km西に行くとアスファルト舗装の道が北へと分かれて居り、この道を100 km北上すると地形的特徴で有名なワアバ火口(Wahbah)に行き着く。この熔岩地帯を抜ける道は殆ど無く石塊だらけである。熔岩地帯は玄武岩で出来て居り、その形成が新しいので余り風化されて居ない。場所に寄って玄武岩は凍った蜂蜜の様な姿をして居る。ワアバ火口(Wahbah)はキシュブ熔岩地帯(al Khishb)にあり、噴火爆発の際に岩を周囲に撒き散らし、その跡に印象的な火口が残り形成された。その他、多くの死火山が熔岩地帯に眠って居る。熔岩は流動性に富んで居り、僅かな起伏で数十マイルも流れるのでマッカ街道でも薄い溶岩流を確認出来る。

 

ムワイヤ(Al-Muwayh)の西40 kmで道路が西南西に分かれ、ビーシャ(Bisha)を経由してアブハー(Abha)へと向かって居る。

 

涸れ谷フムーダ(Wadi Humudah)の西ではタルフ(Talh)が広く森と成って大地を覆って居る。タルフ(Talh)はここではそれ程背が高くは無いが大きな群生の様に密に植わって居り、植林である事を思わせる。場所に寄ってはウム・シャール(Um Shar)がタルフ(Talh)を凌いで群生している。ウム・シャール(Um Shar)は魚の鱗を思わせる厚い葉と白っぽい緑のボール状の実をたくさん付けて居る。この実を切るとミルクのような白い樹液が出て来るが、有毒だと言われて居る。キング・ファハド空軍基地(King Fahd Air Base)が街道の北に広がって来るとターイフ(At Taif)に到着である。

 

旧メッカ街道を紹介する為に再度、リヤード(Riyadh)に戻る。旧メッカ街道はメッカ街道がトゥワイク崖地(Tuwaiq escarpment)の切り通しの長い坂を下った西にある立体交差から分岐して居る。旧メッカ街道は片側二車線の格上げ工事を行って来て居る。

 

ドゥルマー(Durma)は立体交差の北西24 kmに位置し、トゥワイク山脈(Jebel Tuwaiq)とウルーク沙漠(Uruq)の砂丘の帯との間にあり、町の西側は赤い沙漠を背景に棚状の丘が連なって居る。突然の様に巨大な石灰岩の崖が棚状の丘に替わり、その崖の雄大さはこの広い谷の反対側の崖と対を成して居る。ドゥルマー(Durma)から北西に50 kmの辺りから北東の偉大な崖の麓から赤い砂丘が現れ、枝ワーディー(Wadi)がフライマラー(Huraymala)へと分かれて居る。この枝ワーディー(Wadi)には化石の珊瑚礁の残骸が多く残って居り、この場所が遠い昔に海であった事を示して居る。

 

マラート(Marat)はドゥルマー(Durma)の北西94 kmの棚状の丘に囲まれた小さな盆地にあり、街道から南西にかなり引っ込んで居る為、道路は大きく迂回して居る。サウジアラビアにはこの様に道路から引っ込んだ町がかなり多い。これは現在の道路建設の為の技術的理由か、或いは昔の町防衛の為の技術的な理由の為と思われる。マラート(Marat)はアラビア湾の油田の深層、特にガス貯留層の有名な名でもある。この町の人口は5,000から10,000で、町の大通りの中央に大きなナツメ椰子の並木が植えられて居る。大きなナツメ椰子と言う意味は背が高い事では無く、幹の胴回りが太い事である。町の中にはコーヒー・ポットが大きなコーヒー茶碗に水を注いでいる人口の泉があり、又、町外れには古いナジュド(Nejid)の村が保存されて居る。サウジアラビアではその伝統を守る為の保存に大きな努力がはらわれて居る。

 

サルミダー(Tharmida)はこの盆地の北の入り口に位置すると共にワシュム(Al-Washm)と呼ばれる扇形の地形の要に位置して居る。涸れ谷アトク(Wadi 'Atk)とその支流の水流は周囲のトゥワイク山脈(Jebel Tuwaiq)の崖地(Escarpment)からサルミダー(Tharmida)に集まり、ワシュム(Al-Washm)を通ってウルーク沙漠(Uruq)の一部であるナフード・クナイフィザ(Nafud Qunayfidhah)に流れ出して居る。ここでは水は地表水に成ったり地下水に成ったりして農業が営める程に比較的豊富である。サルミダー(Tharmida)はアラビアのオアシス農業発祥地の一つでもあり、ここでの営農や定住の歴史は新石器時代後期の紀元前4,000年前に遡ると思われる。涸れ谷(Wadi)が集まり、その通り道の崖地(Escarpment)を浸食した様な場所は集落を営むのに向いて居り、ワシュム(Al-Washm)の涸れ谷アトク(Wadi 'Atk)はその様な場所であり、シャクラー(Shaqra)やサルミダー(Tharmida)の様な町の出来た経緯を説明している。

 

15世紀の中頃に自然環境が良くなって来た為に南ナジュド(Southern Nejid)の集落が再び多く成り始め、それは17世紀初期まで続いた。南ナジュド(Southern Nejid)の町の多くは元々の住人では無く、新しい移住者に寄って作られたり、復元されたりした。タミーム族(Tamim)はシャンマル山塊(Jabal Shammar)のワシュム(Al-Washm)やクファール(Qufar)に古くから定住して居た部族であり、早い段階から新しい集落に移住する事に特に積極的であった。タミーム族(Tamim)は数も増え、涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)、スダイル(Sudayr)及びカスィーム(al-Qasim)へと移住し、新たに集落を作ったり、既存の集落に加わったりした。タミーム族(Tamim)はバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)のヤズィード一門(Al Yazid)から15世紀の中頃、'Uyaynahを購入し、そこをタミーム族(Tamim)の根拠とした。それ以外の南ナジュド(Southern Nejid)でのタミーム族(Tamim)の主な集落としてはワシュム(Al-Washm) の中のサルミダー(Tharmida)やウシャイキル(Ushayqir)およびスダイル(Sudayr) のラウダ(Rawdah)等がある。

 

19世紀前半にはサルミダー(Tharmida)はエジプトによるサウジ王国抑圧の基地と成って居た。イマーム・アブドゥッラー(Imam Abdullah)が捕らえられ、イスタンブール(Istanbul)に護送され、首を斬られた後、1819年に第一サウジ王国は滅亡した。1820年の後半にエジプトの新司令官フサイン・ベイ(Husain Bey)はサルミダー(Tharmida)に到着し、トゥルキー・イブン・アブドゥッラー・サウード(Turki ibn Abdullah ibn Muhammad ibn Saud)が後に第二次サウジ王国(1824 - 1891)を建てたリヤード(Riyadh)を盛んに攻めた。シャクラー(Shaqra)にも当時はエジプト軍の要塞が築かれた。エジプト政権はその苛酷さの為に占領の要である住人の指示を失しなって居た。Nejdのエジプト総督フールシード・パシャ(Khurshid Pasha)1838年にリヤード(Riyadh)では無く、サルミダー(Tharmida)'をその治世の終わる1840年まで統治の中心に選んだ。

 

サルミダー(Tharmida)からシャクラー(Shaqra)へ道路に沿って行くと谷両側の棚状の丘は赤い砂丘に変わり、やがて低い棚状の丘に成る。西側の崖地(Escarpment)は下が赤い砂、真ん中が黄土色で上部は白っぽい固い炭酸塩岩で覆われて居る。東側の崖地(Escarpment)は赤く脆い堆積岩である。

 

シャクラー(Shaqra)はマラート(Marat)から北西に32 kmでメッカ街道の分岐からは150n km北西に位置する。ずうっと遠くから遠望出来る3基の目立つ清水タンクがあり、白い町の建物は緑地の帯を前景に、赤い砂丘を後景にして魅力的に美しく見える。道路は立体交差して居る。この交差点は隊商に取っても巡礼達に取っても重要な分岐点であった。この道路は北へはマジュマア(Al-Majima'a)やハファル・バーティン(Hafur Al Batin)を経由しクウェイト(Kuwait)やイラク(Iraq)へ通じて居るし、北西へはカスィーム(Qaseem)、ハーイル(Hail)およびジャウフ(Jawf)を経由してシリヤ(Syria)へ通じて居る。旧メッカ街道はこの立体交差から町には入らず西南西へと転じて居る。

 

旧メッカ街道を辿ると赤い平原に円形農場が散らばる。サージル(Sajir)への分岐はシャクラー(Shaqra)の西南西39 kmにあり、そこからこの道路はウルーク沙漠(Uruq)の一部であるナフード・スィッル(Nafud as Sirr)の砂丘を越えた後、たくさんの円形農園のある農業地帯を横断する。

 

ダワードゥミー(Dawadmi)はシャクラー(Shaqra)の西南西123 kmにあり、人口50,000程度の或る程度大きな市である。町の東の外れには日干し煉瓦の砦が保存されて居る。道路には大きなナツメ椰子の並木が植えられて居るが大きな建物は殆ど見当たらない。新しい給水塔が町外れに建てられその下が美しい公園に成って居る。近郊のムッシダ(Mussidah)の辺りに遺跡があると地図に記載されて居るがその場所も定かでは無い。

 

ダワードゥミー(Dawadmi)の南の涸れ谷マーシル(Wadi Masil)には他の遺跡が見られる。マーシル(Masil)と言う名の集落がダワードゥミー(Dawadmi)の南東50 kmにある。この集落の手前1 kmを右に曲がり3 km行って再び右に曲がり尖った丘を抜けて5 km進むと涸れ谷マーシル(Wadi Masil)の入り口が見えて来る。涸れ谷マーシル(Wadi Masil)は壮観な黒い火山性の丘の間に有り、6世紀の南アラビアのシバ文字(Sabaean)で書かれた三つの碑文がある。アラビア文字の出現以前には中央アラビアではこの様な碑文はサムード文字(Thamudic)で書かれるのが普通であり、このシバ文字(Sabaean)文字は非常に珍しい。この碑文は6世紀にシバ(Saba)、ハドラマウト(Hadramaut)およびイエメン(Yemen)の王が遠征して来た事を記念して書かれて居る。当時、涸れ谷マーシル(Wadi Masil)は南からの乳香と通商の為の隊商路の重要な位置にあり、イエメン(Yemen)人達はこの隊商路を守るためにここに二つの砦を築いた。現地の部族は時折この砦を攻撃して居り、イエメン(Yemen)の王は現地のMa'dd族を鎮圧する為にここまで遠征して来た。涸れ谷マーシル(Wadi Masil)には又、新石器時代の岩壁画もある。この岩壁画は碑文よりも上流にあり、動物や空に向かって手を振って居る人物像を描いている。或る人物像は剣と楯を持ち、他の人物像は肩まである仮面を付けて居る。この岩壁画は紀元1,000年の作と考えられて居る。

 

ビジャーディーヤ(Al Bijadiyah)はシャクラー(Shaqra)の西南西194 kmにあり、ダワードゥミー(Dawadmi)ビジャーディーヤ(Al Bijadiyah)の間には広い放牧地が広がって居り、そこでは羊の群がのどかに草を食べている。花崗岩の尖塔が平地のそこここに聳えて居る。ビジャーディーヤ(Al Bijadiyah)の人口は2,000位で、地図には遺跡が2ヶ所記載されて居るがそれらを説明する物は何も無かった。

 

ダリヤ(Dariyah)ビジャーディーヤ(Al Bijadiyah)の北西100 kmにあり、この場所はアラビア盾状地の臍に当たる位置にあるので往復したが村は何の変哲も無いアラビア盾状地の典型的な集落である。旧メッカ街道から枝道を北西に進むと赤い土の平原が限りなく続き、その所々に花崗岩の露頭が現れて居る。この辺りでは露頭の多くがコンクリートの土間の様に平に大地を覆って居り、その間に水を湛えたたくさんの浅いくぼ地がある。或る露頭はワニの様な形をして居り、その脇に紡錘型の風船の様な半透明の花を付けた棘のあるシュラブ(Shrub)を見つける。このシュラブ(Shrub)はハーイル(Hail)の周辺でたくさん見られる。この平原には農地は無く、駱駝の群や羊の群が草を食べているだけである。この浅いWadiが集まって谷と成り、道路はその谷に沿って進む。集落の大きさからすると何故こんなに人が集まっているのか不思議な程、多くの人が金曜礼拝でモスクに集まって居る。モスクの傍に10軒ばかりの小さな市が開かれて居る。人々は近隣から金曜礼拝を兼ねて買い物に集まって来るのだろう。この集落を過ぎると花崗岩の大きな露頭が平原の中を南西から北東に直線に並んで居る。風化して板状に成った花崗岩に覆われたたくさんの丘が並んで居る。ダリヤ(Dariyah)の手前に小さめのダムが築かれて居る。ダリヤ(Dariyah)の村の前面にはタルフ(Talh)の並木が植えられて居る。村の向こうには小型ヨットの三角帆の形をした特徴有る花崗岩の尖塔が聳えて居る。真新しい家が印象的に幾棟か建てられて居るが、どれも空き家である。政府の補助金を流用して、これらは誰かの隠退後の為に建てられて居ると思われる。この村にもナツメ椰子の畑はあるが人口を賄う様な生産はとても期待出来無い。サウジアラビアにはこの様にどうして生計を賄って居るのか疑問な町や村が多く、これらは遊牧民(Bedouins)の基地だと言う人も居る。

 

ビジャーディーヤ(Al Bijadiyah)の西はメッカ街道の南には風化された花崗岩の丘が多く、街道の北には花崗岩の岩峯があちらこちらに聳えて居る。更に西ではタルフ(Talh)の植生が増えるが森と言う程の数では無い。風化された花崗岩の丘が遠くに並ぶ、花崗岩の露頭が平原から岩山と成って隆起している。

 

アフィーフ(Afif)はシャクラー(Shaqra)の西 292 kmザリム(Zalim)の東152 kmに位置して居り、人口は30,000であるが、アフィーフ(Afif)総合病院の看板がやたらに目立つ。多分、新設したけれど患者が足りないのだろう。この町の周囲にはたくさんの花崗岩の丘があり、タルフ(Talh)も森と言える程に生い茂って居る。平原は平に水平に成って来た。

 

アブーッラ(Abullah)アフィーフ(Afif) の西30 kmに在り、5-6軒のナツメ椰子農家がある。平原には立派な大きさのタルフ(Talh)が育って居る。風化された花崗岩に覆われた岩山が沙漠に点在して居る。タルフ(Talh)の数が増え、沙漠が小石で覆われる様に成って来ると共にザリム(Zalim)の立体交差が近づいて来る。旧メッカ街道はザリム(Zalim)でメッカ街道と合流する。

 

メッカ街道をドライブするのはその単調さの為にうんざりしてしまうと一般的に言われているが、歴史、考古学、地形、地質等の知識を多少でも持つとこの沙漠にもたくさんの興味のある事が隠されて居るのが分かる。


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