沙漠の半島

 

(サウジアラビア王国)

語彙集

(Lexicon for Desert Island)

2012730

 

 

 

アアロン(Aaron) モーゼズ(Moses)の兄、ユダヤ教最初の祭司長。

 

アアン宮殿(Al Aan Palace or Saadan Palace) ナジュラーン・ダムからの帰路、午後3時半過ぎにアアン宮殿を外から眺める。個人の住居ではあるが、イエメン風のきれいに装飾されたカスル(宮殿)が涸れ谷ナジュラーン北岸の崖上に建っている。宮殿は旧名をサアダンと言ったが、村の名に因んでアアンと呼ばれている。ナジュラーン地方の最も古い、有名な粘土の館(日干し煉瓦の館)であり、宮殿の美しさと荘厳さの象徴として保存するために、修復されてはいるが、個人の所有であるために、内部は公開されてはいない。

 

アーイシャ(Aisha) アーイシャ・ビントアブー・バクル(Aisha bint Abu Bakr, 614 - 678)はムハンマド(Muhannmad ibn ‘Abdullah, 570/571- 632)3番目の妻で、初代正統カリフ(1st Rashidun Caliph, 632 – 634)のアブー・バクル (Abu Bakr As-Siddiq, c. 573 – 634)の娘。預言者ムハンマド最愛の妻とされる。

 

アーイシャの首飾り(Accusation of Adultery) 625年、ウフドの戦い(Battle of Uhud)の後、ムハンマド(Muhammad)の治めるマディーナ(Madinah)はメッカ(Mecca)の策略によってたびたび周辺諸族の攻撃を受けるようになり、反撃していた。ムハンマドが出陣する際には3番目の妻アーイシャ(Aisha bint Abu Bakr, 614 - 678)が常に付き従っていた。ムスタリク族(Mustaliq)との戦いから帰る途中、アーイシャはムハンマドから贈られた首飾りを失くしてしまい、それを探すために一人で沙漠の中に離れてしまっていた。そこにちょうど通りかかったイスラーム軍の青年兵士(Safwan ibn Al-Muattal)がアーイシャをラクダに乗せてマディーナ(Madinah)まで送り届けたが、これが事件に発展する。マディーナの人々はアーイシャの不義を疑い、ムハンマドに詰め寄った。当時のアラブの慣習では沙漠で男と一夜を過ごした妻は離縁、不義密通を犯した妻は石を投げつけられて殺されるのが普通であったからである。アーイシャはムハンマドの側近アブー・バクル(Abu Bakr)の娘でもあったことから、これは大きな政治問題にまで発展したが、最終的にムハンマドがアーイシャの密通疑惑を否定し、疑ってはならないという天啓を受けたと主張したことで解決した。この時、側近の誰もがムハンマドとアブー・バクルに遠慮してアーイシャと離縁するように言い出せない中で、唯一それを言ったのがムハンマドの血縁者でもあり、後に第4代正統カリフ(4th Rashidun Caliph, 656 - 661)となったアリー・イブン・アビー・ターリブ(Ali ibn Abu Talib)であった。アブー・バクルとアリーの間はこの事件の後、次第に冷えてゆくことになる。また、アリーとアーイシャの確執もこのことに起因すると言われる。この事件以来、ムハンマドも女性の貞節には敏感になった。女性にベールを着用するように義務付ける天啓はクルアーン学者(Ulema or Islamic Scholars)によればこのすぐ後の時期のものであるとされている。(出典: ウィキペディア)

 

アイダブ(Aydhab) アイダブは紅海を挟んでジッダの対岸にあるアフリカ沿岸の町。

 

アイド族(Al 'A'idh or Al Aidh) 15世紀後期から16世紀の遊牧民の連続した移動の波の中で、下ナジュドに移住、旱魃により17世紀ハルジュに再移住。

 

「アイヤシの旅の印象記」: 17世紀後半のモロッコ人の巡礼(アイヤシ・リラフェズ(Al-Ayyashi Rihla Fez))の印象記は1898年に出版された(Al-Ayyashi Rihla Fez 1316H or 1898A.D.)

 

アイユーブ朝 (Ayyubid) サラディーン (Saladin) が西暦1171 年に創設したイスラーム教の王朝でエジプト, イスラーム教のシリア、パレスチナ, 上部のメソポタミア (Mesopotamia) 及びイエメンを支配した。アイユーブ朝(Ayyubid) (1169 – 1249) の支配でエジプトは強力な中東イスラーム教軍の基盤になった。 1193 年にサラディーンの死で, 帝国は分裂したが王朝はトルコの奴隷軍隊マムルーク(Mamelukes) が力を握った西暦1249 年までエジプトを支配した。

 

アイン(Al 'Ayn) ナジュラーン(Najran)北部でカハル山(Jibal Al Qahr)(標高1,794m)のやや南東、ヤダマ(Yadamah)から48km北の山沙漠にある「泉」と名付けられた泉のある集落。

 

アイン・ジャーワーン('Ayn Jawan) カティーフ・オアシス近傍の古代からの泉

 

アインスックラ(Ain Sukkrah、預言者の泉) これはイスラーム以前からの古代の泉であり、タブーク(Tabuk)への侵攻の際に預言者ムハンマド(Prophet Mohammad)10日間以上もこの泉近くに宿営しこの水を飲んでいた。

 

アイン・ダール('Ayn Dar) フフーフ北65km、ダンマーム西南西85km

 

アイン・ヒート又はダフル・ヒート(Ain Hit or Dahl Hit) ジュバイル崖地(Jubayl Escarpment)はリヤードからハルジュへの高速道路の東に聳え、その中間(リヤード南東35km、ハルジュ北西45km)には地底湖として知られていたアイン・ヒート(Ain Hit or Dahl Hit)がある。その入り口は崖地のほぼ麓にあり、30度以上もの急傾斜を降りて行くが、水面が地下水の汲み上げで地上から100m以上も下がっており、到達する前に、洞内の暑さと湿気に耐えきれなくなる。ジュラ紀(145 - 208百万年前)および白亜紀に掛けての石灰岩層の鍾乳洞であるが、ここでは地表に無水岩と呼ばれる蒸発岩が見られる。この真珠のような灰色の岩には少し暗いシミが付いている。このシミが1938年にARAMCOの地質学者がタールのシミとして沙漠の半島で始めて発見した油兆であり、半島東部の油層を解読する為の重要な鍵と成った。東部州でこの層を掘り下げて、沙漠の半島の莫大な原油埋蔵の最初の出油と成った。

 

アインフワイズ('Ayn Huwayz) カハル山(Jibal Al Qahr)(標高1,794m)の10km位東でアイン(Al 'Ayn)の少し北西にある山沙漠の中の集落で「幸運の泉」と名付けられている。

 

アヴァ(Ava) ミヤンマー(Myanmar)のマンダレイ(Mandalay)州の町でインワ(Innwa)とも呼ばれ、イラ涸れ谷川(Irrawaddy River or Ayeyarwady River)の岸辺にあるアマラプラ市(Amarapura)の南に隣接している。アヴァ(Ava)1364年から1841年までビルマ(Burma)の首都であった。

 

アヴァニー(Avanies) 弾圧や不正の残忍な行為(wanton act of oppression and injustice)

 

アウサーン王国(Awsan):南アラビア古代王国(800BC 500BC)

 

アウグストゥス(Augustus):ローマ皇帝オーガスタス シーザー(Roman Emperor Caesar Augustus, 63 B.C. - 14 A.D.) はジュリアス シーザー(Julius Caesar)(c.100-44 B.C.)の後継者で、ローマの初代皇帝(27 B.C – 14 A.D.)であり、国政を改革し、文学を奨励し、文学の黄金時代を作った。皇帝戴冠前はアウグストゥス オクタヴィアヌス(Augustus Octavianus)と呼ばれた。アウグストゥスは「崇高なる者」に意の尊称である。

 

アウス族(Banu Aus) バヌー・アウス族参照

 

アウスイブンカッラーム(Aus ibn Qallam) ラフム朝(Lakhmids, 266 - 602)4代王(363 – 368)

 

アウダ・アブー・ターイ(Auda Abu Tayi) 第一次世界大戦中のアラブの叛乱のベドウイン反乱軍駱駝騎乗隊遠征部隊指導者、191776日アカバのオスマン・トルコ軍撃破。19177月、ロレンスはアラブ人の非正規軍と、ベドウインのホウェイタット族(Howeitat)の指導者アウダ・アブー・ターイ(Auda Abu Tayi)指揮下の部隊(それまではオスマン帝国の下で戦っていた)との共同作戦を組織し、アカバ湾奥の港町アカバを攻撃した。

 

アウダ・スダイル(Awdat Sudayr) マジュマアの南西13km付近から70kmから80km

 

アウユン(Al-Ayun) ライラ南(Southern Layla)にあるの大小の湖沼跡。

 

アウレリアヌス(Aurelianus) アウレリアヌス(Aurelianus or Lucius Domitius Aurelianus)軍人皇帝時代のローマ帝国皇帝( 270 - 275)

 

アェリウス・ガルス(Aelius Gallus) ローマのエジプト総督(26BC 24BC)で、アラビアフェリクスへの遠征軍を率いた。(ガルスを参照。)

 

赤い砂岩と赤い砂: アラビア半島(Arabian Peninsular)でみられる砂岩の殆どは褐鉄鉱の多い花崗岩(Limonite Rich Granite)を起源として居り、みずみずしい赤い色をしている。今日、赤い砂岩はサカーカー(Sakaka)、タブーク(Tabuk)ウラー(Al 'Ula)、タイマー(Tayma)、ハイル(Hayil)や南西部の涸れ谷ダワースィル(Wadi Ad Dawasir)、ビイル・ヒマー(Bir Hima)、タトリース(Tatlith)、ビーシャ(Bishah)、ヤダマ(Yadmah)、ナジュラーン(Najiran)等で見られる。この赤い砂岩の広がりは大きく、半島の一番高い場所であるアブハー(Abha)のハバラ(Habalah)やスーダ(As Soudah)でも見られるし、半島中央部ジバール・トゥワイク(Jibal Tuwaiq)の下部層が地表に現れたボウム山(Mt. Boum)付近でも見られる。33千年前から24千年前の猛烈な雨の降り続いた時代の後、アラビア半島(Arabian Peninsular)は乾燥し始め、15千年前までに沙漠状態になった。赤い砂岩は乾燥と共に風化され赤い砂となり、卓越風向に沿って移動した。その代表的な大きな赤い帯は北のナフード沙漠(Nafud)からダフナー沙漠(Dahna)を通じて南のルブア・ハーリー沙漠(Rub' al Khali)へと延びている。

 

アガサルチデス(Agatharchides) 小アジア南西部のエーゲ海に面する地方であるカリア(Caria)にあった古代ギリシャの植民市クニドス(Cnidos)のアガサルチデス(紀元前170 -100年頃)は文法学者で、地理学者で歴史著述の作家であり、エリュトゥラー(Erythraean)海に関する論文を5冊の本にまとめている。アガサルチデスは年老いてアレクサンドリア(Alexandria)で若い国王プトレマイオス ソーテール二世(Ptolemaeus Soter II)の家庭教師を務めたので、エリュトゥラー海(Erythraean Sea)の特徴とその海岸地帯に関する信頼できる情報を簡単に手に入れる事が出来た。アガサルチデスが南西アラビアのサバ王国(Sabaean Kingdom, 715BC - 570AD)の富と繁栄について最初に述べた著者でもあり、その為に「富裕な(幸福な)アラビア(Arabian Felix)」と言う名がアラビア半島のこの部分を指す様になった。

 

(madder) アカネ科の蔓性多年草、山野に自生し、根は橙色、茎は四角く中空で棘がある。各節に四葉を輪生し、秋に白色の小花を付ける。根から染料を採った。生薬名を茜根(せんこん)といい、通経薬、止血薬に用いられる。

 

アカバ(Aqaba or Aqabah):ヨルダン最南西部の港町

 

アカバト(Al-'Aqabat) ジバールサラート(Jibal al-Sarat)の障壁はアラビア半島西の縁を形作る程、高く聳えている。これらの山々の稜線は分水嶺に成って居り、ティハーマ(Tihamah)に向かっては壁の様に急であり、空白地帯に向かっては東へなだらかに下っている。ティハーマに向かって下っている急傾斜の谷の上流部分をアカバト(Al-'Aqabat)と呼んでおり、住人はここからティハーマへと下って行く。(アスダール(Al-Asdar)参照)。

 

アカバの誓い(Bay’s al-‘Aqaba or Pledge of Aqaba) マディーナ(Madinah)のアラブ部族が預言者に行った信仰の誓いでヒジュラ(Hegira or Hijra)(聖遷)の要因となった。アカバ(‘Aqaba)はマッカ(Makkah)郊外、ミナーの谷(Mina)あたりで、621年にマディーナからの巡礼者達12名はムハンマド(Muhammad)と会見し、「女性の誓い」を行った。これは第1次アカバ(Pledgeof ak-Aqaba)の誓いと呼ばれ、「アッラー(Allah)を唯一の神とみなす、盗み、姦通、嬰児殺し、虚言をしない。神の使徒に服従する。誓いを果たした場合に楽園が約束される。誓いを破った場合に神の裁きが下される」との内容を持つ。十戒との類似が指摘され、クルアーン(Qur’an)6012節にもほぼ同様の内容が見られる。その後、預言者は腹心のムスアブ イブン ウマイル(Mus’ab ibn ‘Umayr, d. 625)をマディーナに送り、イスラーム(Islam)の布教にあたらせた。翌年、マディーナの73名の男と2名の女がアカバで預言者と会見し、神の使徒を守る為には戦いも辞さないと誓った。これが「戦いの誓い(People of War)」で「第2次アカバの誓い(Seconf Pledge of ‘Aqaba)」と呼ばれる。これによってムハンマドはマディーナへの移住を決意した。(出典: 岩波イスラーム辞典)

 

アガバニ(Aghabani or Kassideh) 絹と綿の浮き織りモスリン。

 

アガラム(Agarum) ディルムーン(Dilmun)に残るマールトゥー(Mar.tu)の名前。

 

アキーク(Al Aqiq) バーハ北東40km、涸れ谷ランヤ源頭部の飛行場の有る町。

 

アキブイブンウサイド:アキブイブンウサイド(Akib ibn Usaid)をメッカの総督として任命した後、ムハンマドはマディーナ(Madinah)へ戻った。

 

アーキル・ムラール: アーキル・ムラール・イブン・アムル(Hujr Akil al-Murar ibn Amr, 425 - 458) キンダ王国初代封建君主。

 

アクスム王国 アクスム王国(Kingdom of Aksum or Axum or Aksumite Empire , c. 50 – 940)は過去のエチオピア(Ethiopia or Abyssinia)に栄えた交易国で単にアクスム(Kingdom of Aksum or Axum)ともいう。紀元前5世紀頃から紀元後1世紀までに交易国になった。325年または328年にコプト派キリスト教(Coptic Orthodox Church)が伝来した。7世紀に衰退し始め、内陸の高地へ追いやられてクシ系のアガウ(Agaw)族の女族長グディット(Gudit)(ジュディット(Judith)、ヨディット(Yodit)とも云う)によって950年頃滅ぼされたとされる。ただし、グディットはただ単に非キリスト教徒ないしユダヤ教徒(Jewess)であって、彼女の支配の後、アクスム王朝の流れを汲むアンベッサ・ウディム(Anbessa Wudim)が即位してからしばらくして、アガウ族が住む地域まで進出したところで、1137年にアクスム王国が滅亡したという説もある。一般に、アクスムは現在のイエメン(Yemen)に当たる南アラビアから紅海を越えてきたセム語系(Semitic)のサバ(Saba)(シェバ(Sheba))人が中心になって建国されたと考えられている。一方、少なくとも紀元前1000年位にはセム語系民族が存在したこととサバ移民が数十年しかエチオピアに留まっていなかったことを示唆する証拠を示して、「アクスムはより古い土着のダモト王国(DmtないしDa'amot)の跡を継いだ者達の国である」と主張する学者もいる。王たちはソロモン王(King Solomon)とシバの女王(Queen of Sheba)の子であるメネリク1(Menelik I)の血筋を引いているとして、自らの正当性を主張し、"Negusa Nagast"(「王の中の王」)と公称していた。アクスム王国は主にインドとローマ(Roman Empire, BC 27 - AD 476/1453))(後に東ローマ帝国(Byzantine Empire or Eastern Roman Empire, 330 - 1453)はアクスムに多大な影響を与えた)と交易した。象牙・鼈甲・金・エメラルドを輸出し、絹・香辛料・手工業製品を輸入した。2世紀にアクスムは紅海を越えてアラビア半島に属国となるよう迫り、また北エチオピアを征服した。350年にはクシュ王国(Kingdom of Kush or Cush, BC 1070 - 350)(メロエ王国)を征服した。アクスム王国は独自の硬貨を持ったアフリカで最初の国で、エンデュビス王(Endubis, c. 270 – c. 300)からアルマー王(Armah, c. 614)に至る治世の間(大体270年から670年まで)同時代のローマの通貨を模倣した金貨や銀貨や銅貨が鋳造されていた。硬貨が作られたことにより、取引は簡単になりそして同時に硬貨は便利なプロパガンダ(Propaganda)の道具、また王国の収入源であった。アクスム王国は最盛期、現在のエリトリア(Eritrea)、北部エチオピア(Northern Ethiopia)、イエメン(Yemen)、北部ソマリア(Somalia)、ジブチ(Djibouti)、北部スーダン(Sudan)に広がっていた。首都はアクスム(Axum or Aksum)で現在の北部エチオピアにあった。他の主要都市にイェハ(Yeha)、ハウルティ(Hawulti)、そして現在エリトリアにある重要な港湾都市アドゥリス(Adulis)をはじめとしてマタラ(Matara)およびコハイト(Qohaito)がある。この時アクスムの住民はエチオピアと南アラビアにいるセム系民族とハム系民族が混ざり合って構成されていた。アクスムは7世紀にイスラーム教が起こるまで、強大な国で強い交易力を持っていたのだが、段々と新興のイスラーム帝国に圧迫されていった。アクスムはムハンマドの最初の信者達を匿っため、イスラーム帝国が紅海とナイル川の多くの支配権を得て、アクスムが経済的に孤立していってもアクスムとムスリムは友好関係を保ち、アクスムが侵攻されたり、イスラーム化されたりすることはなかった。11世紀もしくは12世紀にアクスムがあった土地にはザグウェ朝(Zagwe dynasty, 1137 - 1270)が興った。ザグウェの領土はアクスムの領土より限られていた。その後、最後のザグウェ王を殺した、イクノ・アムラク(Yekuno Amlak)が祖先の跡を継ぎ、最後のアクスム王ディル ニード(またはディナオード,Dil Na'od)の支配権を引き継いで、近代のエチオピア帝国(Ethiopian Empire, c. BC 980/50 - 1974)にまで系譜がたどれるソロモン朝(Solomonid Dynasty)を開いた。西暦325年ごろエザナ王(King Ezana)の下で、王国はそれまでの多神教の信仰に代わって、キリスト教を受容した。エチオピア(あるいはアビシニア)の教会は最近まで続いていた。教会は非カルケドン派(Orthodox Catholic Church)(いわゆる単性論派)に所属する。またその経典と祈祷書は未だにアクスム王国の独自の文字であるゲーズ語又はゲエズ語(Ge'ez又はGeez)で書かれている。アクスムはプレスター・ジョン(Prester John)伝説の候補地の一つとして挙げられていた。アクスムは国際的に且つ文化的に重要な国だった。エジプト、スーダン、アラビア、中東、インドといった様々な文化が集う場所で、アクスムの都市にはユダヤ教徒やヌビア人・キリスト教徒・仏教徒さえいた。王国初期の西暦300年ごろ、キリスト教が伝来する前に建てられたと考えているオベリスク(Obelisk)が、現在まで残っている。(出典: ウィキペディアおよびWikipedia

 

アーク・ホテル:今ではマダインサーレ・ホテル、アーク・ホテル(Arc Hotel)等の観光ホテルが充実され、沙漠の半島を代表する歴史探訪の観光スポットの1つとなっている。

 

アクラバー平原: 63212月のムスリム軍の武将(Muslim General)ハールド イブン ワーリド(Khalid iban al Walid, 592 - 642)とのヤマーマの戦い(Battle of Yamama)でのウヤイナ付近の古戦場(Plain of Aqraba)

 

アクラム(アフラームー): アラム人の遊牧民(Akhlamu or Aramaean)

 

アケメネス朝(Achaemenid dynasty, 550 – 330 BC): アケメネス家(Achaemenes)のキュロス二世(Cyrus II)が西アジアを征服。ダレイオス一世(Dareios I, 558 – 486 BC)の時代にオリエントを統一して全盛期を迎えたが、ギリシャ遠征(ペルシア戦争 492 – 449 BC)には失敗した。帝国はペルセポリス(Persepolis)に大殿を造営し、繁栄を謳歌していたが、紀元前4世紀には州総督(サトラップ)の反乱に悩まされ、アレキサンダー大王(Alexander the Great)( 336-323 BC)の東征による侵攻で滅亡した。

 

ザアル(サナアー): カフターンの息子(A’zaal or Sana’a)

 

アサド族(Al-Azad or Al-Assad) 沙漠の半島南部から移動して来て、バーハを拠点とし、24支族に分かれている。

 

アザファー(Adhfa) ハーイル北約185kmにあるナフード沙漠内の集落。

 

アサール(Athar) ヒジュラ暦473年、西暦1081年にアラブ族がやって来て、ジッダ(Jiddah)の町は包囲された。ジッダ(Jiddah)の住人は水が乏しく成ったので自分達自身の船に乗って逃走した。彼等は海を彷徨ったがその内の或る者達はシッライン(al-Sirrayn)、ラハ(al-Raha)およびアサール(Athar)に居を構えた。

 

アザル(azal) 「永遠」アラビア語ではアザル(azal)とアバド(abad)の対概念によって明示される。アザル(azal)とは現在から過去を見た場合の永遠であり、時間的な始まりをもたないこと、即ち無始性を意味する。これに対してアバド(abad)とは現在から未来を見た場合の永遠であり、時間的な終わりを持たないこと、即ち無終性を意味する。(出典: 岩波イスラーム辞典)エッセイ: セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr)は「神と人間との契約」(primordial covenant with God or mithaq*)を結んだ瞬間から以前の永遠に対してアザル(azal)と呼んでいる。

 

アザーン(adhan) サラート(salat)の呼び掛け。イスラーム世界では何処にいても一日5回のアザーン(adhan)が聞こえる。

 

「アジアのポルトガル(Asia Portuguesa)」: マヌエル ファリア ソウサ(Manuel De Fariia Y Sousa)著、1666 - 1674年にリスボン(Lisboa)で出版。

 

アジージヤ(Al Azziziah) ザハラーン国際空港の南東で、バハレイン コーズウェイ入り口付近。

 

アジージヤ泉行政局(Ain Aziziyah administration) ジッダへの給水は完全に故アブドゥルアジーズ(Abdulaziz)が寄付した宗教的信託基金(Waqf)で設立されたアジジヤ泉行政局(Ain Aziziyah Administration)の責任を持っていた。この市の主要な水資源は涸れ谷ファーティマ(Wadi Fatima)に加えて、ジッダの北約70km余りに涸れ谷カライス(Wadi Khalais)とクッバト アシャラ(Kubbat Asharah)の脱塩装置であった。

 

アジナダインの戦い(Battle of Ajnadayn, 634)ムスリム軍がローマ軍に勝利。

 

アジャー山塊(Jibal Aja) ハーイルの西側から涸れ谷ダイリア(Wadi Dayri’)に沿って、南西に伸びる山塊で、花崗岩の筋肉の様に盛り上がり、その赤黒い山肌と、その麓に生える緑の木々が青い空を背景にして素晴らしい景観を作り出している。

 

アジヤド:アジヤド総合病院(Ajyad General Hospital and Surrounding Area)再開発事業 モスク東南のアジュヤド病院(Ajyad Hospital)周囲地区の拡張には最先端病院と医療センターが救急病院施設に加えて建設される。(メッカ)。

 

アジャバ(Ajaba):トゥーフ(バーシュート)は標高 2,060 m500人位の小さな集落だ。ビャクシンとタルフとオリーブもどきの疎林が背丈は低いながら大きく広がっている。アジャバ(Ajaba)ではオリーブもどきを採集した。トゥーフ北12km付近アブハーからビーシャからの間道が合わさる。

 

アシャブ・アイカ城(Ashab Al-Ayka)タブーク城のクルアーンに記された名。

 

アシュアル族(Ash’ar) カフラーン・カフターニ部族(Kahlan Qahtani Arabs)支族(詳細不明)。

 

アシュジャア族(Ashja) アウス族(Banu Aus or Banu Aws)とカズラジ族(Banu al-Khazraj)のマディーナをめぐってのブアースの戦い(Battle of Bu’ath, 617)にハズラジュ族側で戦ったアラブ遊牧民

 

アジュマーン族: アジュマーン族又はウジュマーン族(Ajman or Ujman)カフラーン族ハムダーン族バヌー・ヤーム族の一門でアラビア湾岸のベトウイン部族、イフワーン3部族の1つでもある。

 

アシュラール谷('Ashrar) アブハー近郊、場所未確認。

 

アジュマン(Ajman) アラブ首長国連邦(United Arab Emirates (UAE))7首長国の一つ、ペルシア湾に臨み、人口3.6万人。

 

アシュラ(Al-Ashrah) ウラー東南東120kmにある集落。

 

アシュラフフサイニーヤ: 涸れ谷ディリア(Wadi Dili')では立派な骨組みの移動テントで生活をしている山羊飼いの部族のラビーア族が住んでいる。ラビーア族自身は「祖先をイエメンから来たアシュラフフサイニーヤ(Ashraf al-Husayniyyah)だ」と言っている。

 

アシュラフ バルスバーイ(Al-Ashraf Sayf-ad-Din Barsbay, 1422 – 1438) ブルジー マムルーク朝(Burji Mamuluk, 1382 – 1517)9代スルターン(Sultan)アシュラフ・サイフ・アッディーン・バルスバーイ

 

アシュール文化(Acheulean) 150万年少し前にホモ ハビリス(Homo habilis)よりも大きくもっと進化したホモ・エレクトス(Homo erectus)と呼ばれる人類が現われた。その祖先達よりも体力的そして知的に優れ、大胆で進取の気性に富んでいた。ホモ・エレクトス(Homo erectus)は後期オルドワン型石器(Developed Oldowan types)を手斧(hand ax)、石包丁および突き器等の新しいアシュール形態(Acheulean forms)の石器に次第に取り替えて、祖先の生み出した道具の中に新しい形態を取り入れた。この文化はその後150万年近く続き人類の作った最も長い文化と成った。アフリカでは手斧(Hand Ax)を特徴とするすべての文化の総称であるが、ヨーロッパでは最初期のHand Axを特徴的な石器とする前期旧石器文化であるアブヴィル文化(Abbevillian)に続く、同じく石斧を特徴的な石器とする前期旧石器文化である。この文化に命名されたセントアシュール(St. Acheu)lはフランス北部ソンム(Somme)県の県庁所在地アミアン(Amiens)に近い遺跡である。

 

アジュワードイブンザミール: アジュワードイブンザミール・ジャブリー('Ajwad ibn Zamil al-Jabri)ジャブリード家の最初で著名な為政者(15世紀後半)。

 

アジュワード族(al-Ajwad) バニーマーリク(Bani Malek Tribe)およびバニー・サイード(Bani Sa’id)と共にユーフラテス下流の地域部族同盟であるムンタフィク族連盟(Al-Muntafiq Confederation)主要3支族の1つで、古代部族タイイ族(Tayy)出身であると云われる。

 

アショール(Ashour) 十分の一税(Tithe)19世紀初めにジッダでは関税をアショール(Ashour)と呼んでいた。

 

アシール('Asir) 南のイエメンから北はアカバ湾まで続いているアラビア半島西の山脈をサラワート(Sarawat)と呼び、アシール('Asir)もその一部である。アシール('Asir)はイエメン北部から北はバーハ(Bahah)州の州境のバーハ ガアミド(Bahah Ghamid)まで続いている。アシールの名は中世に成って、特にサラートアザド(Sarat al-Azad)を中心としたサラワート高地(Heights of Sarawat)に住む部族同盟の名として使われた。アラブの地理学者ハムダニ(al-Hamdani)は「遠く昔の10世紀頃にはこの地方の人々に取ってアシール(Asir)と云う言葉はアシール(Asir)部族同盟が住んでいたアブハー(Abha)周辺の限られた地方を意味する伝統的な部族的用語であった」と記述している。やがて、この地はアシールとして知られる様になった。この地の多くの山や谷の間に難路である細道や山道があった為、多くの専門家は「アシールの名はアラビア語で困難を表すウスル(al 'Usr) と云う意味も持つアドナーン族(Adnan)の古い住人の名に因んで付けられた」と考えている。19世紀後半にオスマン帝国(Ottoman Turks)はヒジャーズ(Hijaz)およびイエメン(Yemen)を支配し、そのイエメン州の最も北に位置する4つのサンジャグ(sanjaq)にアシール(Asir)と名付けていた。アシール(Asir)の中心であるアブハー(Abha)を行政府とするこの巨大なサンジャグ(sanjaq)はターイフ(Taif)の南100 kmから南は殆どナジュラーン(Najran)およびジーザーン(Jizan)まで広がり、ティハーマ(Tihamah)海岸平地を含んでいた。アシール(Asir)と云う言葉の現代の会話での使用される意味はこのオスマン帝国支配の時代に普及した。現在ではアシールの名はザハラーンジュヌ(Dhahran al-Junub)呼ばれる涸れ谷 アレーン(Wadi al-Areen)から北のビラードハシャアム (Bilad Khash'am)まで、そして西の紅海岸から東のリマールタスリース(Rimal Tathleeth)までを含む地を指すように成った。従って、現在のアシール地方はサウジアラビアの南西部の中央に位置し、北緯1720分から2050分、東経4130分から4430分の範囲にある。この地方の延長はおおよそ四百キロメートルである。

 

アシール族: アシール族(Aseer, ‘Asir or ‘Asaryah)アシール山脈の地域部族同盟。

 

アシール国立公園(Asir National Park) 1980年に設けられたサウジアラビア最初の国立公園で、スーダ山地(As Sudah)を含む 1,600平方キロの園内にはビヤクシンの森や300種を超える鳥類を含む自然が残されて、67ヶ所のキャンプ場や45ヶ所のピクニック・コースが設けられている。

 

アスカ(Asca) ジェッダ(Jeddah)とクンフザ(Qunfudhah)のほぼ中間に位置する紅海岸の港町ライス(Al-LithAl-Laith)の古代名。ティハーマ海岸低地にはギリシア歴史家ストラボン(ca. 63 BC – ca. AD 24)著「地理学」の「紀元前24年から行われたローマ帝国軍の古代南アラビア(ヒムヤル国)遠征」の章にアスカ(ライス)やヘプターフェレアタ(クンフザ)が、ネジラニ(ナジュラーン)、アスルラ(アブハー)、マロサ(ジェッダ)やエグラ(ヤンブー)と共に登場し、ローマ時代から交易路があったことが分るし、クンフザはムハイルと共にオスマン帝国アシール州の県庁があった。

 

アスダール(Al-Asdar) ジバールサラート(Jibal al-Sarat)の障壁の凄まじく切り立った断崖絶壁はアスダール(Al-Asdar)と呼ばれる。(アカバト(Al-'Aqabat)参照)。

 

アズド・ウマーン族(Azd Uman) カフラーン・カフターニ部族(Kahlan Qahtani Arabs)アズド族(Azd)イムラーンビンアムル族(Imran bin Amr)のティハーマ(Tihama)に移住した支族。

 

アズド族(Azd) ウズード族(Uzud)とも転写されるカフラーン・カフターニ部族(Kahlan Qahtani Arabs)の主要支族。

 

アストラ(ASTRA) アラビア供給通商会社 (Arab Supply & Trading Corporation)の農園は1979年にタブーク(Tabuk)に設立された。持ち主はタフィール サビン マスリ ッシ氏(Mr. Tafir Sabin Masri Al-Ma'ssi)で、同氏の家族はパレスチナ(Palestine)出身である為、ASTRAの幹部職員はほとんどがパレスチナ人である。又、ASTRAは生産した農作物をヨーロッパや湾岸諸国(GCC)に輸出している事でも知られている。ASTRA農場の広さは30 km2 (3,000ha)でサウジアラビア(Saudi Arabia)の農場としては特に広くは無いがその作物は生鮮野菜、切り花、果物、養鶏そして12百万羽の鶉の養殖と種類が多い。

 

アストラカン(Astrakhan) ロシア南東部ヴォルガ(The Volga)川下流の三角州にある市。

 

アスバグビンアムル: カルブ族(Banu Kalb)のアスバグビンアムル(Al Asbagh bin ‘Amr)ドゥーマ二次遠征(Second Expendition of Dumatul Jandal, 627))の際にイスラーム受け入れたキリスト教徒首長。

 

アズファー(Adhfa) ハーイル北約185km

 

アスマー: 1正統カリフ アブー・バクルの娘(Asmā' bint Abu Bakr, d. 692)

 

アスラブ山(Mount Athlab) サムード族(Thamud)が移住したマダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)付近の山。

 

アスラム支族(Aslam)シャンマル族三大支族の1つ。

 

アスル礼拝(salat al-'asr) サラート(salat)を参照。物の影が本体と同じ長さに成った時から日没までに行う。

 

アスルラ(Athrula) 現在のアブハー(Abha)と思われる。

 

アスワド山(Jabal Rik al Aswad) マディーナ(Madinah)東北東180km付近の涸れ谷サーフーク(Wadi Sahuq)源頭域で、涸れ谷サーフークは涸れ谷ルマ(Wadi ar Rumah)支流の涸れ谷ジャリール(Wadi Jareer)の枝谷。

 

アスワド岬(Al-Ras Al-Aswad) ジェッダ南。

 

アゼルバイジャン(Azerbaijan) イラン北西部の地域でタブリーズ(Tabriz)、古代名メディア(Media)或いはアトロパテネ(Atropatene)等が含まれる。

 

アゾフ海(Sea of Azov): 黒海北部にある内海で、ケルチ海峡(Strait of Kerch)によって黒海と結ばれている。北はウクライナに接し、東のロシア連邦と西のクリミア半島(Crimea)に挟まれている。西岸には110kmにわたり、アラバト・スピット(堆積物が海中に突起したもの)が広がり、シバス(Syvash)には塩分濃度の高い湿地帯の入り江がある。大きさは長さ340km、幅135km、面積37,555km2である。ドン川(The Don)とクバン川(Kuban River)が流れ込み、それによって比較的低濃度の塩水と新鮮さが保たれている。

 

アター(‘Atā’) ウマイヤ朝 (661-750)時代にディーワーン(Diwan)登録者への国庫からの俸給。

 

アターウラ(Al Atawlah) バーハ北北西30kmの集落。

 

アダム(Adam) 天地創造に際して神が最初に造った男で、人類の始祖。

 

アタール:رﺎﻄﻋ(イタール)(英語:ダマスクローズで作ったバラ油)歴史の始まりから高価な香水を作るのに使われて来た。これは西洋でもアラビア名のアタール(Attar)として知られ、それ自身でも香りと芳香の無数の混合の主要な成分としても甘く優雅な香水である。アラビアの香りは薔薇のアタール(Attar of Rose)は清涼な海抜2,000mの温暖で水の豊富な良好な土壌に恵まれたシャファー崖地(Escarpment in Shafa)の小さな農園で産する。

 

アチュート(Dalits) パーリア(Pariah)とも云い、カースト(caste)外の「不可触民(Untouchable)」とも翻訳される。力がなくヒンドゥー教(Hindu)の庇護のもとに生きざるを得ない人々である。にも関わらず1億人もの人々がアチュートとしてインド国内に暮らしている。

 

アチュリアン文化(Acheulean) (アシュール文化(Acheulean)参照。)

 

アッカド人(Akkad):北部メソポタミアのシュメール語でアガデ(Agade)にはアッカド語(Akkadian Language) 話す人々が定住し、アッカド(Akkad)のと呼ばれるようになった。紀元前2270年にサルゴン(Sargon)はアッカド(Akkad)の支配者となり、アラビア湾(Persian Gulf)から地中海(Mediterranean)まで広がるメソポタミア(Mesopotamia)、エラム(Elam)、マリ(Mari)およびエブラ(Eba)を含む地域の征服を進め、この地域全体を中央集権の下に統一し、最古の帝国を築いた。南側にシュメール(Sumer)が隣接し、北西側にアッシリア(Assyria)が隣接している。シュメール文明を征服して、チグリス川(Tigris)とユーフラテス川(Euphrates)の間を中心に栄えた。後にシュメールとアッカドは政治的・地理的にバビロニア(Babylonia)と言う概念の中にまとめられて行ったが、アッカドの名はペルシア帝国に征服されるまで続いた。アッカド人(Akkadians)はセム語族(Semitic People)であり、読み書きにシュメール語(Shumerian Language)が残った以外はアッカド語(Akkadian Language)がこの時代には広く使われる様になった。この王朝は紀元前約2100年頃まで続き、その絶頂はサルゴンの孫ナラムシン(Naram-Sin, ca. 2190BC – 2154BC)の時代であり、ナラム シンは自分自身が神であると宣言した統治者として最初の人物であった。アッカド帝国はナラムシンの統治下で勢力が衰え、ついにはザグロス山脈(Zagros Mountains)出身のグティ(Guti)の侵略を受けた。

 

アッサーフ一族(Al Assaf Family) 古井戸を意味するカスィーム地方(Al Qassim)3の都市ラッス(Ar Rass)の支配者家族。

 

アッシージ(Assisi) イタリア中部ウンブリア州(Umbria)の町(2.5万)でイタリアの修道士聖フランチェスコ(St Farncis )(1181/82 - 1226)の生地。

 

アッシュール(Ashur or Assur) アッシリア(Assyria)の古代名でもあり、アモリ王朝群(Amorite Kingdom, BC2000 BC1600)1つで、アッシリア最初の首都である。

 

アッシリア(Assyria) メソポタミア北部を中心とした古代王国で紀元前18世紀頃から前7世紀にわたってオリエント最初の世界帝国として栄えた。首都は初期にはアッシュール(Ashur)で、後にニネヴェ(Nineveh)に遷都した。紀元前612年にカルデア(Chaldea)・メディア(Media)連合軍によって滅亡した。アッシリアは現在のシリアの語源でもある。

 

アッバース: アッバース・イブンアブドゥルムッタリブ(Abbas ibn ‘Abd al-Muttalib, c. 566 – c. 653)は預言者ムハンマドの叔父で、アブー アッバース(721 - 754)の祖先。

 

アッバース・イブン・アリー: 4代正統カリフ・アリー(Ali ibn Abi Talib, c.600 – 661)とファーティマ(Fatimah, 605 or 615 – 632)の息子(Al ‘Abbas ibn ‘Ali, 647 – 680)

 

アッバース朝(Abbasid Dynasty, 750 - 1258) クライシュ族(Quraysh)で預言者ムハンマド(Muhammad)の叔父アッバース(Abbas)の直系であるアッバース朝は西暦750年にウマイヤッド朝(Umayyad Dynasty)を倒し、首都をダマスカスからバクダット(Baghdad)に移したイスラーム帝国(Caliphate)2の世襲王朝(749 - 1258年)であった。アッバース朝(Abbasids) が西暦750年に奪権し、イスラーム国都をバクダット(Baghdad)へと遷都した。この事でアラビア湾交易は10世紀まで続く新たな黄金時代へと導かれ、最盛期にはその支配は西はモロッコから東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝のイスラーム帝国の支配は西暦1258年のモンゴル(Mongol)の中東征服によって終焉した。

 

アッラー(Allah) アッラー、アラー又はアッラーフ(Allah)は神を示す単語で、アブラハムの宗教(Abrahamic Religions or Abrahamic Faith)とも呼ばれるアブラハム(Abraham)が説いた原始一神教(Din al-Hanif or Primordial Religion)の唯一神(Allah)を意味している。しかしながら、イスラーム以前(Pre-Islamic Arabia)で異教徒(Paganns)であったメッカの住人達(Meccans)も自分達の最高神(Supreme Deity)を意味する言葉としてアッラー(Allah)を使用していた。このアッラーフには女神ラート(Al-Lat or Allat)ウッザー(Uzza)と女神マナート(Manat)の三人の娘が居たとされる。(出典: Wikipedia

 

アッラート(Allat or Al-Lat) アッラーフ(Allah)のイスラーム以前の3人の娘の1人で女神ラート(Allat or Al-Lat)

 

アティーフ(Ateef) ターイフ北東100kmのマッカ街道沿いの集落

 

アティルトレス(Athil Tress) アティルトレスはアティルタマリスク(Athel tamarisk or Tamarix aphylla)で日本名は御柳(ギョリュウ)である。タマリスクの最大種がTamarix aphyllaすなはちAthel tamariskであり、常緑樹で樹高は15mに達する。耐乾性に優れ、雨が降らなくなっても樹木の中で一番、最後まで生き残る。さらに耐塩性が強く塩分濃度15,000 ppmまで許容でき、耐アルカリ性でもある。枝は比較的細く葉は灰緑色をしている。花はピンクか白である。沙漠地帯の貴重な緑であると共に、ナツメ椰子園の防砂林として使われてきた。幹は建物や家具等の主要な建材ともなる。

 

アテバ族(Ateba) オタイバ族参照。

 

アテュウド・ダム湖(Atud Dam Lake): ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)5km

 

アドゥーマートゥーと五人の女王 (Five Queens of Adummatu or Adumatu) ドゥーマ・ジャンダル(Dumat al-Jandal)は紀元前8世紀から7世紀にかけて北アラビア北部の主要なアラブ居住地であり、アッシリア(Assyrian)の年代記にはアドゥーマートゥー(Adummatu)と云う名で記録されている沙漠の王国である。アドゥーマートゥーとは不毛沙漠の荒れ地の中心にあるアラブの砦と云う意味であり、このオアシスはケダール(Qedar)と云うアラブ部族の領地の中にあった。パルミレナ(Palmyrena)と呼ばれた南東ダマスカス(Damascus)を含む地域がケダールの生活圏であり、ケダール部族の各支族やケダールに従属していた他部族の支族の遊牧地は遠くナフード沙漠(An Nafud)まで広がっていた。ドゥーマ・ジャンダルの住人はケダールの保護が無ければその隊商(Caravan)が沙漠を越えられなかったのでケダールに隷属していた。アッシリア(Assyrian)の年代記にはドゥーマ・ジャンダルは一連のアラブ女王系譜の首都であったと記録されている。その女王達とは女王ザビーベ (Queen Zabibe)、女王サミースィー (Queen Samisi)、女王ヤティ (Queen Yati'e)、女王テルフーヌー (Queen Te'elkhunu)および王女タブア (Princess Tabu'a)であった。

 

「アデル国とショア王国へ向かう途上の紅海東洋岸の航海」: ロシェデリクール(Rochet d'Héricourt) 著、1841年パリで出版(Rochet D'Hèricourt, C.E.X  Voyage sur la côte orientale de la mer Rouge, dans le pays d'Adel et le Royaume de la Choa Paris 1841.)

 

「アデル国とショア王国へ向かう途上の紅海両岸の航海」: ロシェデリクール(Rochet d'Héricourt) 著、1846年パリで出版(Rochet D'Hèricourt, C.E.X. Voyage sur les deux rives de la mer Rouge, dans le pays d'Adel et le Royaume de la Choa Paris 1846. )

 

アデン(Aden) アラビア半島の南西部の元英国保護領であた南イエメンの紅海入口のアデン湾に面する海港でイエメンの経済の中心地、人口29万人。

 

アデン湾(Gulf of Aden) アラビア半島とソマリア半島に挟まれた細長い湾。

 

アドジョウエ(Adjoue) デイツが熟すと大きなバスケットに入れて堅く固形のペーストあるいはケーキに成るまで圧縮され、「アドジョウエ(Adjoue)」と呼ばれ売りに出される。 

 

アード(Ad or Aad) 消えたアラブ族の1つでノア(Noah)の曾孫のアードの一族。アード族ついては「アード族が多神教を信じたので、神は警告を与える為に預言者フードを派遣した。フード(エベル)の警告や忠告のもかかわらず、アード族は多神教の偶像神に固執したので神はアード族を懲らしめる為に旱魃を起こした。それでもアード族は、抵抗を止めなかったので神は大きな嵐でアード族を全滅させた」と伝えられている。又オマーン・ズファール地方のシスルにある大きな鍾乳洞陥没跡から発見された遺跡が「伝説の失われた都市ウバールで、アード族の都ではないか」と考えられている。

 

アトゥード・ダム湖Atud Dam Lake ハミース・ムシャイト南5km

 

アドゥーマートゥー(Adummatu orAdumatu) ドゥーマ・ジャンダル。

 

アドナーン(Adnan , BC 122) イシュマエルの長男ナビド子孫でアドナーン族始祖。

 

アドナーン族(Adnan or Adnani) アドナーン族(Adnan)は一神教(Monotheism)の偉大な長老、アブラハム(Abraham)*の子イシュマエル(Ishmael)(イスマーイール(Ismail))を始祖とするアラブ化したアラブ族(Arabized Arabs)で、イシュマエルの12人の息子で最初に生まれたナビト(Napyot, Nebaioth or Nabit)の子孫アドナーン(Adnan)を祖とし、北部、中部および西部アラビアに勢力を持ったアラム人(Aramaean Sphere)血統の部族である。アドナーン族(Adnan)はノア(Noah)の息子セム(Shem)の子孫ヨクタン(Joktan)と同一視されているカフターン(Ya‘rub bin Yashjub bin Qahtan)の子孫で南部および南西部アラビアに勢力を持ち、純粋のアラブ族(Pure Arabs)と呼ばれるカフターン族(Qahtan)と対峙していた。アドナーン族(Adnan)に属する主な部族としてはキナーナ族(Banu Kinana)、クライシュ族(Quraysh)やタミーム族(Tameem or Tamim)を含むムダル族(Mudar)イヤアド族(‘Iyaas)、アンマール族(Anmar)およびターリブ族(Tarlib)やバクル族(Bakr)を含むラビーア族(Rabee’a or Rabi’ah)等が挙げられ、預言者ムハンマドもアドナーンの子孫である(詳細はクライシュ族(Quraysh or Quraish)を参照)。

 

アドルフフォンヴレーデ(Adolf von Wrede) 1870年にH.F. モルツアン(H.F. Maltzan)が編集し ブウンシュヴァイク(Braunschweig)で出版した「ハドラマウトの旅(A. Reise in Hadramaut ed. by H.F. Maltzan, Braunschweig 1870.)」の著者。

 

アナク(Anak, Anik or Inak) カティーフ・オアシスの町。

 

アナザ族: アニザ族('Anazah,‘Anizzah, ‘Anizah or ‘Anizah)とも呼ばれるラビーア・アドナーン部(Rabi’ah – Adnani Arabs)支族。

 

アナザ部族同盟(Anazzah Confederation) アドナーン部族(アラブ化したアラブ族系譜の部族同盟

 

アナトリア(Anatolia) 現在のトルコ領小アジア。

 

アニザ(Anizzah) アナザ族の父祖、ワエルビンハザーン(Wael Bin Hazzan)を参照。

 

アバー(Abba) アラビア人の袖のないゆるい衣服(駱駝や山羊の毛の織物で普通は縞柄)。

 

アバイヤ(Abaiyah) アッバ(Abbah)、アバ(Aba)とも云う。アラブ族が用いる袖の無いゆるい外套。

 

アバー・キバーシュ(Aba al-Kibash) ディルイーヤの北西7kmの集落。

 

アハサー(Al-Ahsa) ハサー(Al-Hasa)

 

アハサー・オアシスの泉: アハサー・オアシスではコバル層やウッム・ラデュマ層等の地下の岩層から天然の地下水圧で水は500ヶ所以上の泉から湧き出し、1950年にはウンム・サバ(Umm Saba')、ハグル(al-Haql)、フデュド(al-Khudud)およびハッラ(al-Harrah)、アイン・ナジム('Ayn Najm)の最も大きな泉はそれぞれ毎分90,000リットル以上の水量が湧いていたと推定されている。

 

アバー・サウード(Abu Seoud or Aba as Sa’ud) ナジュラーン(Najran)旧市街。

 

アバー・ザルア一門(Al Aba-Zar'ah or Al Zar’ah) ムクリン(Muqrin)集落の為政者家族で、ラビーア・アドナーン部(Rabi’ah – Adnani Arabs)バクル・イブン・ワーイル族(Bakr ibn Wa'il)バヌー・バクル族(Banu Bakr))のハニーファ一門(Bani Hanifa)の一門。

 

アバダン島(Abadan Island) シャッ タル アラブ川(The Shatt-al-Arab)のデルタにあたる島で同島には30BPDの石油精製・輸出基地がある。

 

アバド(abad) 「永遠」アラビア語ではアザル(azal)とアバド(abad)がある。詳細はアザル(azal)を参照されたい。

 

アハド・マサーリハ(Ahad al Masarah)ジーザーン東南東50kmの村。

 

アハド・ラフィーダ(Ahad Rafidha) 涸れ谷ビーシャ(Wadi Bishahの源頭部でハミース・ムシャイト南東20km、ジャラシュJarash6kmにある町。

 

アハマド・イブン・イドリース・ファースィー(Ahmad Ibn Idris al-Fasi, 1760 – 1837):スーフィズム(Sufism)に基づく社会秩序確立。

 

アハマドイブンハンバル(Ahamad ibn Hanbal) ハンバリー派(Hanbali)はスンナ派(Sunna)4学派の一つでワッハーブ主義の教義(Wahhabism)と一致する。

 

アハマドイブンマジド(Ahmad ibn Majid) 最高の海洋科学に関するアラビア語で書かれた百科辞典「有用な情報或いは航海科学の基礎と原則(Book of Useful Information or Basis and Principles of Nautical Sciences)」の著者で、インド洋を渡る巡礼の為の海上通行を少なくとも4世代に渡って受け継ぐ、勇敢で博学な航海者であるナジディ族(Najdi)に属する傑出したアラビア人航海者であった。「イブン マジドはマレモ カナク(Malemo Canaqua)(マレモ カナ(Malemo Cana))の名でマリンディ(Malindi)から印度までヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)指揮のインド遠征隊の水先案内人を務めた」とポルトガルの歴史家達は記録している。

 

アハマドフールシードパシャ(Ahmad Khurshid Pasha) アハマドパシャはフランスが1801年にエジプトから撤退した後にオスマン帝国(Ottomans, 1299 – 1923)が正式に任命したアレクサンドリア(Alexandria)の市長であり、ムハンマド・アリー(Muhammad Ali Pasha, 1769 - 1849)のたっての願いで1804年にエジプトの行政担当総督(Wali or Vali or Governor))に任命された。英国の外交代表と同盟し、アハマドパシャはシリア(Syria)からデリー部隊(Delhi Troop)を連れてきて、ムハンマド・アリーとその旗下のアルバニア部隊(Albanians)をエジプトから排除しようとした。ムハンマド・アリーはカイロ(Cairo)のイスラーム神学者(Ulema or Mullah)と同業者組合(Guild)の指導者に支援されて、デリー部隊を自陣に引き込む事に成功し、18055月に自らをエジプト総督(Governor of Egypt)に任命した。自分の軍隊に見捨てられたアハマドパシャは「ムハンマド・アリーをエジプト総督に任じる」との勅令(Firman or Decree)が出るまでカイロの要塞(Cairo Citadel)に幽閉されていた。

 

アハメドパシャ(Ahmed Pasha) 1832年にト−ルクチェビルメズ(Turkche Bilmez)として知られるヒジャーズ軍将校(Hejazi officer)がイマーム(Imam)とムハンマド・アリー(Muhammad Ali)に反抗し、フダイダ(Hodeida)、ゼビド(Zebid)およびモカ(Moka) を占拠した。この機会をとらえて、アシール地方の高地族はエジプト軍に対し問題を起こし始め、それに対してムハンマド・アリーは治安を回復する為に18千人の懲罰遠征軍を組織した。その指揮官がスルターン代理人アハメドパシャ(Ahmed Pasha)であった。この遠征軍には6名のヨーロッパ人が参加しており、遠征軍に戦闘結果についてはその内の一人モーリスタミシエ(Maurice Tamisier)1840年にパリ(Paris)で出版した「アラビアでの航海(ヒジャーズ滞在とアシールでの戦闘)(Voyage en Arabie. Sèjour dans le Hedjaz. Campagne d'Assir)」に記録されている。

 

アーバール・ナアーム(Abar Na'am) アシール州西部のカハル山(Jibal Al Qahr)から北へと下る涸れ谷ナアーム(Na'am)源頭の集落で「駝鳥の井戸」との意味の名が付けられている。

 

アバルハイル朝(Abalkhail Dynasty) ブライダ公国はタミーム族(Tamim)のアブーウラヤン朝(Abu Ulayan Dynasty)によって16世紀後期に設立され、その後、アバルハイル朝に攻略された。1890年にハーイルのラシード朝に占拠されたが、1904年にアバルハイル朝はブライダ公国の領土を奪回した。1907年にブライダ公国はサウジアラビア王国の領土となり、今日に至っている。

 

アビシニア(Abyssinia) アラビア語が語源のエチオピア(Ethiopia)の別名、旧称。

 

アビシニア海賊(Abyssinian Pirate) 7世紀にアビシニア(Abyssinia)のアクスム王国(Aksumite Empire or Kindom of Axum)は衰退し始めたが、アビシニア海賊((Abyssinian Pirate)はその後も数世紀にわたって勢力を保ち、ダッラク諸島(Dahlak Archipelago)を成敗する為の遠征への報復で、702年にはジェッダを襲撃し、廃墟にする程の力を持っていた。

 

「アビシニアの生活(Life of Abyssinia)」: 1853年にロンドンで出版され、著者は無名であったが、マンスフィールドパーキンス(Mansfiled Parkins)であるのがわかった。たまたま、パーキンス(Parkins)は異なる港から輸入される商品の年間取り扱い額のみを記載した集計表を翻訳しており、往時の貴重な資料を提供している。

 

「アビシニアでの任務について」: ロールフス(Gerhard Rohlfs)著、1883年ライプチッヒで出版(Rohlfs, G. Meine Mission nach Abessinien Leipzig 1883.)

 

「アビシニアでのフェレとガリニエの旅行」: 1847年にパリで出版(Ferret - Galinier Voyage en Abyssinie Paris 1847)、この本の何処にもフェレの頭文字が記録されて居ない(ch. X. Nowhere in the book are Ferret's initials recorded.)

 

「アビシニアと紅海での或る任務」: スタニスラフラッセル(Stanislas Russel)陸軍少佐著、1884年パリで出版(Russel, S. Une Mission en Abyssinie et dans la Mer Rouge Paris 1884.)

 

アブー・アジュラム(Abu Ajram) クライヤート(al Qurayyat)から南東240kmの所で三叉路に行き当たる。ここがアジュラム分岐(Abu Ajram junction)で道はタブーク(Tabuk)およびサカーカー(Sakaka)へ分かれる。何の変哲も無く今はその名がある事さえ知られて無い様な地味な分岐であるが、昔はこの辺りが乳香の路とシルクロードの交差点であった。

 

アブー・アッバース・サッファーフ(Abu al-‘Abbas as Saffah, 721 - 754) アッバース朝(750 – 1258)の初代カリフ(750 – 754)アブル・アッバース(Abu'l Abbas)参照。

 

アブー・アリー島(Jazirat Abu ‘Ali) ダンマーム北西120kmに位置するアブー・ハドリーヤ(Abu Hadriyah)沖のアラビア湾の島。

 

アブー・アリーシュ(Abu Arish) サウジ南西部ジーザーン州の州都ジーザーン東32kmにある村。

 

アブーアルワ(Abu Arwa) ジッダ(Jeddah)の西北西70km余りの距離にある涸れ谷ファーティマ(Wadi Fatima)内の肥沃で地下水の豊富な村。

 

アフィーフ(Afif) ザリム北東134kmに位置する旧メッカ街道の村。

 

アブー ウバイド(Abu Ubaid) ジスルの戦い(Battle of Jisr or Battle of Bridge, 634)ムスリム軍指揮者。

 

アブー・ウバイダ(Abu Ubaydah, 583 - 638) ムハンマドの教友の一人で、イエメンの改宗と指導のため、ムハンマドから全権を委託・派遣された。又、第2代正統カリフ ウマル時代にシリア総督と軍司令官を務めた。

 

アブー・ウライヤーン朝Abu Ulayan Dynasty ブライダ公国はタミーム族(Tamim)のアブーウラヤーン朝(Abu Ulayan Dynasty)16世紀後期に設立したが、その後、アバルハイル朝(Abalkhail Dynasty)に攻略された。

 

アフォンソダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque, 1453 - 1515) インドの年代記で非常に著名なポルトガルの第2代インド総督(1508 - 1515)であり、アフォンソ・デ・アルブケルケ(Afonso de Albuquerque)或はアファンソ・デ・アルブケルケ(Afonso de Albuquerque)とも転写されている。アフォンソダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque,1453 - 1515)1453年リスボン(Lisbon)で生まれ、1503年に一度インドへ赴いた。帰国後、ポルトガル王マヌエル1(Manuel I1495 - 1521)の信任を得、1506年インド総督として16隻の艦隊を率いてリスボンを出発した。航海の途中では紅海入り口のソコトラ島(Socotra or Suqura)、アラビア湾のホルムズ島(Hormuz Island)を占領した。フランシスコ・ダルメイダFrancisco d'Almeida, 1505 - 1508) 1505年に初代インド総督(Viceroy of India)に任命されてて以来、コーチン(Cochin)やカナノア(Cananore)の商館を城塞に作り替え、後にクイロン(Quilon)にももう一つの要塞を作った。150923日にはディウ(Diu)沖で敵と交戦し、凶暴な海戦でフサイン・クルディー(Husayn al-Kurdi)指揮下のエジプト艦隊に血みどろの敗戦を被らせた。しかしながら、多くの権力が1人の手に長く集中するのを恐れていたマヌエル王(Manuel I)はアルメイダ(Almeida)にインド統治領(the Viceroyalty of India)の最高権威をアフォンソダルボケルケ (Afonso d'Alboquerque)に渡し、帰国する様に命令して解任した。アルボケルケ(Alboquerque)は第2代インド総督(Viceroy of India)に就任するとインド洋全体に無敵のポルトガルの覇権を確立しようとして、まず1510年カリカット(Calicut)攻撃したがに失敗した。その後北上し、ムガル帝国(1526 – 1858)皇帝 (Great Mogul)から1479年に独立を勝ち取った豊かなムスリム(Moslem)王国の支配下にあったゴア島(Goa Island)を一時占領し、8月にいったんは引き上げたが、11月に再びゴアを恒久占領した。これ以後、ゴアはポルトガルのアジア支配の拠点としてインド総督の駐在地となる。1511年にはマレー半島(Malay Peninsula)における香料貿易の中継地として繁栄していたマラッカ王国(Sultanate of Malacca1402 - 1511)の占領に成功し、マラッカ(Malacca)1年滞在してポルトガルの東南アジアにおける拠点とする。その後もインド洋(Indian Ocean)各地のムスリム(Moslem)支配下の港市攻撃に従事し、ホルムズ(Hormuz)、ゴア(Goa)、カナノア(Cananore)、コーチン(Cochin)、クイロン(Quilon)およびカリカット(Calicut)等の拠点を持って、ポルトガルがアラビア海の交易航路を支配し、意のままに略奪する事を可能にした。インドにおけるポルトガルの地位の拡大と強化を懸念したマムルーク朝(Mamuluk)のスルターン(Sultan)カンスーフ・ガウリー(Qansawh al-Ghawri)はスエズで14艘のガレオン船(Galleon)6艘のガレー船(Galley)を含む新しい艦隊を建造した。その司令官に任命したライス・スライマーン(Rais Sulayman)に対し、フサイン・クルディー(Husayn al-Kurdi)の艦隊と合流してポルトガルに対する再攻撃を開始する様に命令した。新スエズ艦隊によるインド領内侵略の可能性の差し迫った脅威に対抗する為に、マヌエル王(Manuel I)151547日、新総督ロポソアレス アルベアガリア(Lopo Soares de Albergaria)指揮下の15艘の船から成る艦隊を出航させ、アルボケルケ(Alboquerque)指揮下の艦隊の司令も任せた。但し、アルボケルケ(Alboquerque)が王の命令が届く前の15151216日にゴア(Goa)で死亡したので、この指示は実行されなかった。53歳を越えてから始まり、既に10年に及んだ東方の不健康な気候での困難で不安に満ちた役目がアルボケルケ(Alboquerque)を死なせた。アルボケルケは忠実に、完全な献身を持って国王に仕えたにもかかわらず、恩知らずの国王はリスボン(Lisbon)で策謀をめぐらせ、強引で不当なやり方でアルボケルケを指揮から外し、失意の内に死亡させた。

 

「アフォンソダルボケルケの戦記」: (Commentaries of Afonso d'Alboquerque)、同書第IV34 - 35(op. cit., t. IV, p. 34 - 35)からジェッダに城塞がめぐらされたのは(Jiddah Circumvallation) フサイン・クルディー(Husayn al-Kurdi) がインド遠征(Indian campaign)から戻って来てからであるのが分かる。

 

アブカイク(Abqaiq):ダンマーム広域都市圏の南西60km位置し、1940年代にARAMCO石油基地が作られた町で、ブカイク(Buqayq)とも転写される。

 

アブー・カリブ(Abu Karib) ヒムヤル王国(Himyarite Kingdom , 110BC - AD525)の王でユダヤ教徒に改宗した アブー・カリブ アサド カミル(Tub'a Abu Karib As'ad Kamil, 390 – 420)400年頃に沙漠の半島中央部遠征し、王国の領土を沙漠の半島のほぼ全域にまで拡張した。

 

アブー・サアファ油田(Abu Sa’fah) ラアス・タヌーラ(Ras Tanura)沖の油田。

 

アブー・サイード・ジャンナービー(Abu Sa'id al-Jannabi or Abu Sa'id Jannabi, 855 -.913) カルマト政権創立者。

 

アブーザイド・バルヒ(Abu Zayid al-Balkhi) 850年頃にコラサン (Khorasan) 地方のバルヒ (Balkh) に近いシャミストヤン (Shamistyan) 村で生まれ、934年に没した。バルヒはこの地方のサーマーン朝(Samanid, 819–999)の廷臣 (courtier) であり、余暇を地形学や地理学の調査に使い、短い地理的記述しか記されていない一続きの地図群で構成されたイスラーム国地図帳を修正して居た。

 

アブー・サウード(Abu Seoud)

 

アブー・ジャフル(Abu Jahl, d. March 17,624) バドルの戦い(Battle of Badr, March 624)でのマッカ軍司令。

 

アブー・スフヤーン(Abu Sufyan, 560 - 650) ウマイヤ朝(Umayyad Dynasty, 661-750)始祖ムアーウィヤ (Muawiyah, 602 - 680)を輩出したウマイヤ家はムダル・アドナーン部族(Mudar – Adnani Arabs)キナーナ族(Kinana) クライシュ族(Quraysh tribe)の名門で、ムアーウィヤの父アブー・スフヤーン(Abu Sufyan, 560 - 650)はマッカ(メッカ)の有力者として預言者ムハンマド(Muhammad)に激しく敵対した人物であったが、ムハンマドがメッカを征服した後にイスラーム教に改宗した。

 

アブー・セオウド(Abu Seoud) トゥルキー・マーディー宮殿(Turki Al Madi Palace)のあるナジュラーン(Najran)旧市街。

 

アブー・ターカ(Abu Taqah) ヒジャーズ鉄道23番駅。

 

アブー・タグリブ族(Abu Taghlib) アブー・タグリブ族(Taghlib, Banu Taghlib or Taghlib ibn Wa’il)はラビーア・アドナーン部族(Rabi’ah – Adnani Arabs)支族(タグリブ族参照)。

 

アブダ族(Abda or Abdah) シャンマル部族連盟(Shammar)を構成する三大支族(アブダ族(Abdah)、アスラム族(Aslam)およびゾバ族(Zoba))の1つ。

 

アブー・ターヒル: アブー・ターヒル・スラレイマーン・ジャンナービー(Abu Tahir Sulayman Al-Jannabi, 906 - 944)ha,カルマト派アブー・サイード(Abu Sa'id al-Jannabi)の息子。

 

アブータリーブ: アブータリーブビンアブドゥルムッタリブ(Abu Talib bin `Abd al-Muttalib, 549 – 619)ムダル・アドナーン部族(Mudar – Adnani Arabs) キナーナ族(Kinana) クライシュ族(Quraish)のハーシム家(Clan of Banu Hashim)の当主で、商人であった。イスラーム教の開祖ムハンマド(Muhammad, ca, 570 – 632)の伯父で、育ての親でもあり、ムハンマドの有力な支援者であり続けた。この為、生涯イスラームに入信することはなかったにもかかわらず、イスラーム最初期における重要人物の一人とされる。アブドゥルムッタリブ(Abdul al-Muttalib, c. 497 -578)はアブータリーブの父であり、第4代正統カリフ(4th Rashidun Caliph, 656 -661)アリー(Ali ibn Abi Talib, 598/599 - 661)はその息子にあたる。

 

アフダル(Al-Akhdar)駅: ヒジャーズ鉄道(Hijaz Railway)30番駅、マダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)192kmにあるアフダル駅(Qal'at al Akhdar)遺跡はレバノンからの巡礼路の主要なキャラバンサライ(Caravanserai)であり、タブーク(Tabuk)の南72kmに位置している。その姿は西暦1907年にジョウセン(Jaussen)が撮影したままの状態で残っている。現地の住人が積み石を他の目的に転用するのをサウジ教育省考古学局は禁止したが、残念な事にはそれ以前に意図的に破壊されてしまって居る。涸れ谷アフダル(Wadi al Akhdar)を見晴らす丘の上からビールカト(Birqat、雨水を溜める貯槽)を伴う四角な基礎の古典的砦の配置を鳥瞰できる。今では二つの大きな涸れ谷(Wadi)の合流点のこの廃墟は柵で囲われ、近代的な沙漠パトロールの直接保護下にある。

 

アフダル山塊(Jabal Akhdar) オマーン(Oman)のハジャル山脈(Hjar Mountains)の最高峰で、緑の山(Green Mountain)と名付けられている。

 

アブデュルハミト2(Sultan Abdul Hamit II, 1842 - 1918) スルターン アブデュルハミト2(Sultan Abdul Hamit II, 1842 - 1918)を参照。

 

アブデュルメジト2(Abdul Mejid II, 1868 – 1944) 廃位されたオスマン帝国最後のカリフ(1922 – 1924)アブデュルメジト2世はオスマン呼称で、アラビア名はアブドゥル メジード2世。

 

アブデュルハミト二世(Sultan Abdel Hamid II 1842 – 1918):オスマン帝国スルターン(1299 - 1923) ヒジャーズ鉄道(Hejaz Railway)

 

アブドゥッラーイブンアブドゥルムッタリブ(Abd Allah ibn Abd al-Mutalib, 545 - 570) 預言者ムハンマドの父、アブドゥルムッタリブ('Abd al-Muttalib)の息子でクサイイ(Qusayy)の兄弟の子孫アミーナ(Aminah)と結婚したが、息子ムハンマド(Muhammad)を見るまでは十分長く生きられなかった

 

アブドゥッラーイブンアリー(Abdullah Ibn Ali) 750年に大ザーブ河畔でマルワーン2世を大敗させたアッバース革命軍司令官。

 

アブドゥッラー・イブン・サアド・イブン・アビー・サルフ(Abdullah ibn Saad bin Abi’l Sarh) エジプト総督(7世紀)ムスリム軍ヌビア遠征(642)、マストの戦い(655)ムスリム軍司令官

 

アブドゥッラーイブン・サウード(Abdullah bin Saud) アブドゥッラーイブン・サウード(Abdullah bin Saud, 1814 - 1818)は父サウード(Saud Ibn Abdul Aziz Ibn Muhammad Ibn Saud, 1803 - 1814)が死亡した1814年にサウードディライア公国(第一次サウジ公国、(First Saudi Sate, 1744 – 1818))と後に呼ばれたムワヒディーン(Wahhabis or Muwahhideen)の第4代で最後のイマーム(Imam)となり、1818年までムワヒディーンを統治した。サウード家(House of Saud)はサウードがイマームであった時代に勢力を拡大し、そして1811年から1818年まで続いたエジプト・ワッハーブ戦争(Egyptian – Wahhabi War)ともよばれるオスマン・サウジ戦争(Ottoman – Saudi War)を始めた。アブドゥッラーはイマームになると直ぐにオスマン帝国エジプト総督軍(Ottoman – Egyptian Army)による自分の領地への侵略に直面した。この侵略軍はエジプト総督(Governor of Egypt, 1805 - 1848) ムハンマド・アリー・パシャ(Muhammad 'Ali Pasha or rahimah-Allahu ta'ala, 1769 - 1849)*の息子イブラーヒーム・パシャ(Ibrahim Pasha, 1789 - 1848)*が指揮していた。オスマン軍はすばやくメッカ(Meca)とマディーナ(Madinah)を奪回し、作戦行動を開始した。数では勝るが装備の貧弱な為にサウジ軍(Saudi Force)は牙城のナジュド(Najd)に退却した。自分の領土で侵略者と開戦するよりもアブドゥッラーはナジュドの町々で自分の軍隊の防備を固め、侵略者を食い止め様と決意した。結果としてアブドゥッラーはイブラーヒームが抵抗する村を略奪しながら、次々とナジュドの村々を攻略し、ついにサウジ家の首都ディルイーヤ(Diriyah, Dir’iyah or Dir’aiyah)に迫るのを眺める事となった。数ヶ月続いた包囲を受け、最終的に1818年冬、第一次サウジ公国の終焉となる降伏をした。イブラーヒームは整然とディルイーヤをその跡形が無くなるまで破壊し、多数の捕虜となったサウード一族をエジプト経由でイスタンブール(Istanbul)に送った。アブドゥッラー自身はイスタンブールに着くと直ぐにオスマントルコのスルターン(Ottoman Sulta)の命令で首を刎ねられ、その頭部はボスポラス海峡(Bosphorus)に投げ込まれた。オスマン帝国はナジュドに幾つかの要塞を維持したが、サウジ一族のトルキィイブンアブダッライブンムハンマドイブン・サウード(Turki ibn Abdallah ibn Muhammad ibn Saud, 1755 - 1834)が第ニ次サウジ公国、(Second Saudi Sate, 1824 – 1891)を樹立するのを防げられなかった。

 

アブドゥッラーイブンジルウィー(Abdullah ibn Jiluwi) 初代東部州知事。

 

アブドゥッラーイブン・ズバイル(Abdullah ibn az-Zubayr624 - 692) イスラーム教のカリフの一人で683年にウマイヤ朝(Umayyad, 661 – 750)のウンマ(Umma)(イスラーム共同体)統治に異議を唱えて反乱を起し、メッカでカリフに即位した。但し、当時のウマイヤ朝のカリフ(Umayyad Caliph)はムアーウィヤ2(Muawiyah II ibn Yazid, 683 - 684)であり、正当なカリフとして見られることは稀である。イブン・ズバイルの父は656年の"駱駝の戦い(Battle of Bassorah or Battle of Camel, 656)"で戦死したハディージャ(Khadija bint Khuwailid, 555 – 619)の甥の子ズバイル (Zubayr ibn al-‘Awwam) で、母は初代正統カリフ(First Rashidun Caliph, 632 - 634)であるアブー・バクル(Abu BakrAs-Siddiq, c. 573 – 634)の長女であった為にクライシュ族(Quraysh)の血を引く者(ムハンマドの近親とその子孫)というカリフの条件を満たしていた。彼のカリフ宣言後、ウマイヤ家に不満を抱く、シリア、イラク、エジプトなどヨルダン以外の各地のムスリムが彼のもとに忠誠の誓い(バイア)をし、二人のカリフが存在するという状態が起こった (第二次内乱の始まり) 。イブン・ズバイルはイラク、エジプトを制覇し、シリアの半分以上をその最大勢力範囲に治め、一時はウマイヤ朝を圧倒するほどの勢力を見せたが、その後、第5代ウマイヤ朝カリフ(5th Umayyad Calph, 685 - 705)アブドゥルマリク(Abd al-Malik ibn Marwan, 647 – 705)のもとで攻勢に転じたウマイヤ朝によってその領地は取り返されていき、最後は聖地メッカ周辺のみを領有するだけとなった。アブドゥルマリクはハッジャージュ・ブン・ユースフ(al-Hajjaj ibn Yusuf)を司令官とする2千のウマイヤ朝軍をメッカのカリフ、イブン・ズバイルのもとに差し向け、メッカを包囲し、弩弓(どきゅう)(石弓、弩)による投石でメッカの守備隊、カアバ神殿(Ka’ba or Ka’aba)などを攻撃させた。その為、メッカの守備隊は苦戦を強いられ、壊滅した。カアバ神殿も大きく被害を受けた。692年、こうした中で、イブン・ズバイルはハッジャージュ・ブン・ユースフによって、メッカを6ヶ月包囲されたのち、戦死を遂げた。(第二次内乱の終結) イブン・ズバイル('Abd Allah ibn al-Zubayr, 624 - 692)参照。

 

アブドゥッラー・イブン・タラール(Abdullah bin Talal)ハーイル・ラシード朝第12代首長ムハンマドの兄弟。

 

アブドゥッラー イブン デュハイミーシュ(Abdullah Ibn Duhaimeesh Ibn Abbar Al Fadaani) アナザ部族の有名な系譜学者で歴史家。

 

アブドゥッラー・イブン・ドゥハイミシュ(Abdullah Ibn Duhaimeesh Ibn Abbar Al Fadaani) アナザ部族の有名な系譜学者で歴史家。

 

アブドゥッラーイブンファイサル・イブン・トゥルキー(Saud ibn Faisal ibn Turk, 1865 – 1871 & 1871 – 1873) 第二次サウジ公国(1824 - 1891)2代イマームファイサルの息子。

 

アブドゥッラーイブンフサイン(Abudullah I bin al-Hussein 1882- 1951) トランスヨルダンのアミール(1921 – 1946)後にヨルダン王(1946 - 1951)

 

アブドゥッラー・イブン・ミトウブ(Abdullah bin Mitab 1920 – 1921) ハーイル・ラシード朝第11代首長でイブン・サウードに降服。

 

アブドゥッラーイブンムハンマド(Abdullah ibn Muhammad, d. 1725-6) 18世紀初めに全ナジュドで最も敬意を払われて居た人物であったが、1725/6年にウヤイナを襲った伝染病に見舞われ、死亡した。

 

アブドゥッラーイブンラシード(Abdullah ibn Rashid, 1836 – 1848) ハーイルラシード朝初代首長。

 

アブドゥッラービンアッバース(Abdullah bin al-Abbas) 預言者の従兄弟(父達は兄弟で、アブドゥルムッタリブ(Abd al-Muttalib)の息子達)でアッバース朝(Abbasid Caliphate, 750 - 1258)の祖先であるビン アッバースはヒジュラ(Hijirah)3年前に生まれた。幼い時からビン アッバースは既にクルアーン(Quran)やイスラーム史の解釈から司法問題まで様々な分野の研究や調査に目立つ気質を示した。ビン アッバースはその学問の広さから「海(al-Bahr or Sea)」とのあだ名を付けられる程、すぐれた知識を蓄積した。ビンアッバースは「クルアーンの解釈の容認された父」であり、預言者の仲間や家族への質問する手段で預言者に関するもっとも早期の情報収集者の一人である。偉大な学者であるのを離れてもビンアッバースは活動的な人物でもあり、ムスリム軍のエジプト(Egypt)、北アフリカ(North Africa)、北部イラン(Northern Iran)およびコンスタンティノープル(Costantinople)の出征にも従軍している。ビンアッバースは3人のカリフへ信頼でき助言者としても仕え、ヒジュラ歴36年(西暦657年)にバスラ知事(Governor of Basra)に任命された。ヒジャーズへ隠退する前の23年は事務所に勤務していた。後にアブドゥッラーイブン・ズバイル(Abdullah ibn al-Zubayr, 624 - 692)がウマイヤ朝(Umayyad Caliphate, 661 – 750)統治に反乱し、メッカ(Mecca)でカリフ(Caliph)に即位した時にこれに反対した。この為、ビンアッバースはマッカ(Makkah)で投獄されたが、クファ(Kufa)からムフタール(al-Mukhtar, 622 - 687)が派遣した特別騎兵軍団による力づくの攻撃で自由になった。政治生活でのこの連座を最後に永久にターイフ(Taif)に隠退し、ヒジュラ歴68年(西暦688年)に没した。

 

アブドゥッラービンタラール(Abdullah bin Talal) ハーイルラシード朝第12代首長ムハンマドの兄弟。

 

「アブドエルワヒドによるメッカ巡礼」: リチャードフランシスバートン卿 (Sir Richard Francis Burton)著で1893年ロンドンで出版された「メディアおよびメッカへの個人的巡礼記(記念版)」の付属書VIIBurton, R.F. A Personal Narrative of a Pligrimage to al-Madinah and Meccah (Memorial Edition). London 1893. Appendix VIII. Mecca Pligrimage by El Ha abd El Wahid.)

 

アブドライルイブンアムル(Abd-Ya-Layl ibn Amr) ターイフ(Taif)がイスラーム(Islam)に敵対していた頃のサキーフ族長(Thaqif’I Chieftain)の一人であるが、631/632年にイスラームへの改宗を受けたターイフ市代表団の一人でもあった。(出典: Wikipedia)

 

アブドゥルアズイーズ・アファリグ(Abdul Aziz Al-Afalig) アハサー・インターコンチネンタル・ホテルの持ち主。

 

アブドゥルアジーズ・イブン・ミトウブ(Abdul Aziz bin Mithab, 1897 – 1906) ハーイル・ラシード朝第6代首長。

 

アブドゥルアジーズ・イブン・ムハンマド・イブン・サウード(Abdul Aziz Ibn Mohammed Ibn Saud 1765 – 1803) 第一次サウジ公国第2首長イマーム。

 

アブドゥルカイス族('Abd al-Qays) アブドゥルカイス・アドナーン族(Abdul Qays or Abdul Qays Adnani Tribe)とも呼ばれるラビーア・アドナーン部族(Rabi’ah – Adnani Arabs)の支族。

 

アブドゥルカイス部族連盟('Abd al-Qays Confederation) アドナーン部族系譜の部族同盟。アブドゥルカイス族を中核とし、東アラビアおよびバハレインでのカルマト派支配を退け、ウユーニード朝(1076 - 1253)を樹立した。

 

アブドゥルマリク・イブン・マルワーン(Abd al-Malik ibn Marwan 647 – 705) ウマイヤ朝第5代カリフ(685 – 705)中興英主。

 

アブドゥルムッタリブ・イブン・ハーシム(Abdul Muttalib, Abd al Muttalib or Shaiba ibn Hashim c. 497 - 578) 預言者ムハンマドの祖父。シャイバ(Shaybah ibn Hashim, c. 497 - 578)はメッカ市へ入る時に叔父の後に騎乗していた。この為、間違えられて、ムッタリブの奴隷(Slave of Muttalib or 'Abd al-Muttalib)と呼ばれ、それがそのまま身元を確認される名になった。シャイバ(Shaybah即ちアブドゥルムッタリブ('Abd al-Muttalib)は偉大な精神的な才能と政治的手腕を備えた非凡な人物であり、最終的にメッカの統治者と成った。アブドゥルムッタリブ(‘Abd al-Muttalib or Abdul al-Muttalib, c. 497 -578)参照。

 

アブドッラフマーン・アンサーリー博士(Dr. Abdul Rahman Ansari) サウード大学の考古博物学科の元学部長。

 

アブドッラフマーン1(Abd ar-Rahman, 731 – 788) 後ウマイヤ朝(756 – 1031)始祖。

 

アブドッラフマーン・イブン・アウフ(イブン・アウフ)(Abdur Rahman bin ‘Awf) 第二次ドゥーマ遠征指揮官(628)

 

アブドッラフマーン・イブン・ファイサル・サウード(Abdul Rahman ibn Faisal al Saud, 1850 – 1928) 第二次サウジ公国(1824 – 1891)の最後のイマーム (1875 – 1876 & 1889 – 1891)で、イブン・サウードの父。

 

アブドッラフマーン3(Abd ar Rahman III, 889 – 961) 後ウマイヤ朝第8代アミールで初代カリフ(912 – 929 - 961)

 

アブドッラフマーンスダイル(Amir 'Abd al-Rahman bin Ahmad al-Sudairi) 1943年から1990年までジョウフ州知事であり、「アラビアの沙漠辺境、ジャウフの変遷(The Desert Frontier of Arabia, Al-Jawf Trough the Ages)」を著作した。同元知事はその長い任期を通じてジャウフに住み、この地方に寄与する為にスダイル財団(The 'Abd al-Rahman al-Sudairi Foundation)を設立する程、この地方を愛した人である。この財団を通じて同元知事は州都サカーカー(Sakaka)で私立図書館(Dar al-Jawf lil-'Ulum)、博物館兼ホテル(Al-Nusl)および三つの付属幼稚園を持つ慈善団体(Jam'iyyat al-Birr al-Khairiyya) を設立し運営している。

 

アブドゥルムッタリブ(‘Abd al-Muttalib or Abdul al-Muttalib, c. 497 -578) 預言者ムハンマドの祖父。アブドゥルムッタリブ(Abdul Muttalib, Abd al Muttalib or Shaiba ibn Hashim c. 497 - 578)参照。

 

アブドゥルマリク(Abu al-Walid Abd al-Malik ibn Marwan) ウマイヤ朝第5代カリフ(685 - 705)

 

アブー・ナアム(Abu Naam) 1917329日にロレンスのヒジャーズ鉄道待ち伏せ。

 

アブーヌマイイ(Abu Numayy) メッカ首長(Sharif of Mecca)のバラカート二世(Barakat II, 1497–1525)が臣従を示す為にオスマントルコ(Ottoman Turks)のスルターン・サリーム一世(Sultan Salim I, 1516-1520)の王宮に送った次男。後にメッカ・シャリーフ(1525 – 1583)アブー・ヌマイ二世 Abu Numay II1525 – 1583)或はアブル・ヌバジ(Muhammed Abul-Nubaj bin Barakat,1525–1583) となった。

 

アブハー(Abha) 「素晴らしい美しさ」と云う名を持つこの市はアシール州(Asir Province)の州都であり政治の中心である。標高 2,050 mの自然はサウジ国内では降雨量が多く、夏でも涼しく、豊かな棚畑に囲まれた農業地帯であると共に高山杉(ビャクシン、juniper)に被われている。市は登り降りのある環状道路で囲まれ、大きなコノカルプス(ConocarpusButton Mangrove)の緑の並木道と成っており、高台毎には公園が設けられている。これは自然と景観を楽しめる公園都市を目指した丹下健三氏の設計と云われ、アブハー(Abha)の美しさを一層際立たせている。町の中心部は越し屋根を持つ高層で独特な泥の家並みが特徴であったが、今では昔の建物は殆ど何も残って居らず、150年以上も前にアブハー(Abha)の統治者(Amir)の居城であったシャダ城(Shada Palace)が奇妙にも場違いに見える程である。アブハー(Abha)の週市は火曜日で、週市では強い芳香が空気を満たしている。辺り一帯に広がる小屋には全ての種類の物資がある。それらは籠細工、刺繍したローブ、顔料を塗られた香炉、パン焼き皿、香水瓶等地方の色彩と西洋の安物の奇妙な混ぜ合わせである。アブハー(Abha)の歴史は古く、「アシール(Asir)地方は古代には香料(incense)、香辛料(spice)や没薬(myrrh)の重要な交易路であり、古代エジプト女王ハトシェプスト(Hatshepsut, 1473-1458 BC)は紅海を越えて大きな船をアブハー(Abha)に使わした」との記録がエジプトの古代寺院の壁に象形文字(Hieroglyphic)で残されている。素晴らしい景観と涼しい気候の恩恵でアブハー(Abha)とその周辺には国立公園が設けられ、サウジの代表的リゾート地と成っており、人口約10万人のこの市にはアブハー パレス(Abha Palace)を始め、避暑地としての多くのホテル(Hotel)、コンドミニアム(condominium)、ペンション(Pension)や別荘が建てられている。

 

アブハーインターコンチネンタル・ホテル(Abha Intercontinental Hotel) インターコンチネンタル・ホテル(Intercontinental Hotel) は国際会議場と目を引く回教独特の円屋根の巨大なモスク(礼拝堂)を持つ、サウジ政府が国威をかけてこの標高2,910 mに建造したアラブマネーを代表すると云われて居たホテルであり、サウジの近代建設を代表する建物でもある。経営をインターコンに委託している為にこの名がある。このホテルの周囲の高山杉(柏槇、Juniper)の森には広大な遊歩道が設けられ、特に夏の間、避暑の為に家族で貸しビッラ(Villa)に滞在する逗留客には絶好の環境である。ホテルの更に上には国王の宮殿がある。

 

アブー・バクル(Abu Bakr)(632-634) アブー・バクルスィッディーク(Abu Bakr as-Siddiq)632年に預言者ムハンマド(Muhammad)が死去した後、「神の使徒ムハンマドの代理人カリフ(Calif)」を名乗り、初代正統カリフ(Calif) (632-634)に就任した教友(Sahaba)の一人であり、クライシュ族(Quraysh tribe)のタイム(Banu Taym branch)家の出身で、ムハンマドの親戚筋でもある。

 

アブー・ハドリーヤ(Abu Hadriyah) ダンマーム西北150kmに位置するクウェイト(Kuwait)方面とクライヤート(Al Qurayyat)方面への分岐点。

 

アブー・ハニーファ(Abu Hanifa, 699 – 767) イスラーム法法解釈学(フィクフ(figh))対するスンニー派四大法学派の1つハナフィー学派(Sunni Hanafi School)の創設者。

 

アブハーパレス ホテル(Abha Palace Hotel)(標高 2,170 m): アブハー(Abha)の人工湖(As Sad Lake)の南側に整備された大規模な遊園地付きの大きなホテルであるが、外見からは大き過ぎてとてもホテル(Hotel)に見え無い。ロビーも客室も近代的豪華でしかも付帯施設が付き、しかも市街地にも直ぐの場所だし、ダム(As Sad Lake)の湖畔にあるのでアブハーに逗留するには良い場所だ。その上。コンドミニアム(Condominium)や観光空中ケーブルの発着所を含む本格的な遊園地が同じ敷地にあるし、このホテル(Hotel)の持ち主がここのアシール州知事(Governor)も含む王族(Prince)のファイサル(Faisal)家であるので、入り口(Gate)には警官が見張って居り、ムタワ(宗教警察の手先)との関わり合いも無い。このホテルの窓から眺めるとアブハー(Abha)は何度訪れても美しい町だと思う。

 

アブー・ ハヤル公園(Abu Khayal Park):アブハーの西の環状線にあり、ディラア高地(the plateau of Dila' )を遠望できる。ここには駐車場があり、短い遊歩道も造られている。行楽棟にはステージや動植物の博物館も併設されている。

 

アブー・フィダー(Abulfida, 1273 - 1331) アイユーブ朝(Ayyubid)の王子で、武将、政治家、歴史家、地理学者。

 

アブーフダイク(Abu Fudayk, d. 692) ハワーリジュ派(Al-Khawariji)のウマイヤ朝(Umayyad Dynasty, 661 – 750)への反乱でのナジュダ(Najdah ibn 'Amr al-Hanafi, d. 692)後継者。

 

アブーマアン(Abu Maan) カティーフ・オアシスの町。

 

アブーミフジャム(Abu Mihjam Al-Thaqifu, ? - 650 A.D.) 636年のサーサーン朝ペルシア(Sassanid Empire, 224 - 651)とのカーディシーヤの戦い(Battle of Al-Qadisiyah)にも参戦した騎士道精神を持った勇敢なターイフ(Taif)出身のアラブ詩人で常に栄光を題材としていた。

 

アブームスリム・ホラーサーニー(Abu Muslim Khorasani c. 700 – 755)  秘密教宣員(ダーイー(Dā’ī)1人「ムハンマド家のアミール」。

 

アブラ(‘Abla)旧メッカ街道のザリム北東154kmにある村。

 

アブラク・カブリート(Abraq al Kabrit) ハサー地方北部のカフジ西南西60km、ナイーリーヤ西北西90kmにある集落。

 

アブラク城(Qasr Al Ablaq) タイマー南西部にある古城跡。アラブ女王ゼノービヤー(Zenobia, 267 - 272)は攻略に失敗し、「マーリド(Marid)城は反抗的であり、アブラグ(Ablaq)城は傲慢だ」と罵ったと云う。

 

アフラージュ(Aflaj) 現在のライラで、命名は地下用水路カナート(Qanat)に由来し、大小の湖沼等から灌漑水を導き、近年まで利用されていたが、大規模な地下水の汲み上げで水源が枯渇し、廃れてしまっている。

 

アブラージュ・ベイト・タワーズ:メッカ時計台(Makkah Clock Tower)あるいメッカ ロイヤルクロック タワー(Mecca Royal Clock Hotel Tower)とも呼ばれるアブラージュ・ベイト(Abraj Al-Bait) (アブラージュ・アル・ベイト・タワーズ(Abraj Al-Bait Towers)はアブドゥッラー国王(King Abdullah)の指示で建設された聖なる市の中心で、イブラヒム・ハリル道路(Ibrahim Al-Khalil Street)に沿ってマッカの大モスク(Grand Mozque)の中心部を見晴らす場所に位置する7棟の優雅な高層ビルで構成されコンプレックスである。

 

アブラハ・アシュラム(Abraha al-Ashram, d. 553) アリアス(Ariath)を引き継いだアビシニア(アクスム王国)のイエメン総督(Abyssinian Governor, his death to some time after 553)で、アブラモス(Abramos)或いは「鼻を切る」を意味するボルハ アシュラム(Al Borha Al Ashram)とも呼ばれる。アブラハ(Abraha)570年に軍隊をメッカ(Mecca)に進撃させた。しかしながらカアバ(Ka'ba)はアブラハ(Abraha)が引き連れた7,8頭の象がメッカ(Mecca)に入ろうせずに座り込むと云う奇跡が起きて、傷つく事無く難を逃れた。その奇跡がアビシニア軍を引き返させた。これをアラブ族は万神殿(pantheon)を統轄する神格(deity)であるアッラー(Allah)のご加護だとし、この年を「象の年(Year of Elephant)と呼んでいる。

 

アブラハの反乱: アブラハ(Abraha)がエシメファエウス(Esimephaeus)をうち負かせた後で、アビシニア皇帝はエシメファエウスに対して更に二軍団の援軍を送った。最初の軍団は反乱を起こし、アブラハ(Abraha)と同盟し、その軍団の指揮官で皇帝エッラアスベハ三世(Ella Asbeha III)の親類であるアリアス(Ariath)を殺した。二度目の軍団は戦闘で多くを殺された。その後も諍いは続いたが、エッラアスベハ三世(Ella Asbeha III)の死後、アブラハ(Abraha)はアビシニア帝国の新王に忠誠を誓った。

 

アブラハム(Abraham or Ibrahim) 最初の預言者で、聖典の民の始祖。ノア(Noah)の洪水から一千年後に現れた一神教(Monotheism)の偉大な長老でイブラーヒーム(Ibrahim)とも転写されている。(イブラーヒーム(Ibrahim)参照)

 

アフラームー人(Akhlamu) 放浪者を意味するアフラームー人(Ahlamû)とも呼ばれるアフラームー人(Akhlamu)は楔形文字(Cuneiform)によるアッカド文字(Akkadian Alphabet)で粘土板に書かれ、紀元前14世紀頃の出来事を記述したアマルナ文書(Amarna letters)に最初に登場した。このアフラームー人(Ahlamû)の存在はアッシリア(Assyria)のニップル(Nippur)やバハレイン(Bahrain)のディルムン(Dilmun)から出土した遺物でも証明されている。アッシリア(Assyria)のシャルマネセル1(Shalmaneser I, 1274 BC - 1245 BC)はフリル人の王国ミタンニ(Mitanni)の王シャツアラ(Shattuara)を打ち破り、そのヒッタイト(Hittite)とアフラームー人(Ahlamû)の商人達を支配下においた。エジプトでは「アフラームー人(Ahlamû)はエジプト語の放浪者を意味するシャス(Shasu or Shsw)と同等であり、シャスがツタンカーメン(Tutankhamen, 1361 BC - 1352 BC)以来のエジプト支配のレヴァント帝国(Egyptian Levantine Empire)の無法者で、騒乱の主な原因であったアピル(‘Apiru)(楔形文字ではSA GAZ)と入れ替わった」とも云う。紀元前13世紀にアフラームー人(Ahlamû)はバビロン(Babylon)からヒッタイト帝国(Hittie Empire, 18 - 14 Century BC)の首都ハットゥシャ(Hattusas)への道を分断したのでアッシリア(Assyria)のトゥクルティ・ニヌルタ1(Tukulti Ninurta I, 1244 BC - 1208 BC)は討伐に出かけ、「ユーフラテス川(The Euphrates)沿いのマリ(Mari)、ハナ(Hana)、ラピクム(Rapiqum)およびシリアのビシュリ山(Jebal Bishri)を占拠した」と宣言した。ビシュリ山(Jebal Bishri)は明らかに「アフラームー人(Ahlamû)の山」であった。アッシリア(Assyrian)では王ティグラト・ピレセル1世(Tiglath Pileser, 1115 BC - 1077 BC)の碑文が最初にアフラームー・アラム人(Ahlamû-Aramaeans)を引用したが、その直ぐ後にアフラームー人(Ahlamû)はアラム人(Aramaeans, Aramu or Arimi)に取って代わられ、アッシリアの年代記から急速に消えてしまった。アフラームー・アラム人(Ahlamû-Aramaeans)はアフラームー部族(Ahlamû Tribes)の重要性と時期を得た優勢な要素としてはアラム人(Aramaeans)と考えられるだろうけれども、この二つの部族は何も共通では無く、同じ地域で活躍していたのかも知れない。「紀元前2000年紀前半にユーフラテス川(The Euphrates)西域で権力を握ったセム語を話す諸部族(Semitic Language People)はアムル人(Amurru)ともアムル(Amorite)とも呼ばれた。この名はこの部族の名であり、その主神(Principal Deity)の名でもあった。遊牧民アモリ人(Amorites)の領土は元々アラビア半島であったが、紀元前約2400年の初めにはシリア(Syria)およびカナアン(Canaan)を含むユーフラテス川西域を占め、アモリ人の山(Mountain of the Amorites)と呼ばれるシリアのビシュリ山(Jabal Bishri)山岳地方と特別なつながりがあった」と云うアムル人(Amurru)或いはアモリ人(Amorite)とアフラームー部族(Ahlamû Tribes)が同一部族だとも考えられるが、これもについても確かな記述はない。

 

「アフリカの全般的記述(モハメット教の創設から1571年までの戦争と盛衰について)」:(Descripción General de Africa, sus guerras y vicisitudes, desde la fundación del Mahometismo el aňo 1571 )、ルイスデルマルモルカルヴァハル(Luis del Mármol Carvajal)著、1573年からに1599年までにグラバダ(Granada) とマラガ(Málaga)で出版。

 

アブル(Al Abr) 中部イエメン国境の水井戸。涸れ谷ワディーア(Al Wadi'ah)を参照。

 

アブルアッバース(Abu'l Abbas) アラビア語でサッファー(Saffah)即ち殺戮者(Slaughterer)と呼ばれるアブルアッバースアブドゥッラーサッファー イブンムハンマド(Abu al Abbas Abdullah as Saffah ibn Muhammad)はアッバース朝(the Abbasid)の初代カリフ(Caliph, 750-754)であった。アブルアッバース(As-Saffah)はクライシュ族(Quraysh tribe)で、預言者ムハンマド(Muhammad)の曾祖父ハーシム(Hashimから分かれたバヌー・ハーシム家(Banu Hashim clan)の一分家バヌーアッバース(Banu Abbas)の棟梁であった。ウマイヤ朝(Umayyad Dynasty)カリフヒシャムイブンアブドゥルマリク(Hisham ibn Abd al Malik, 723-743)が没するとイスラーム帝国内では内戦が勃発した。シーア派(Shi’as)、ハワーリジュ(退去した者)(Kharijis)およびホラーサーン(Khurasan)の住民達の支援を得たアブル アッバースは自軍を率いて勝利し、ウマイヤ朝最後のカリフマルワーン二世(Marwan II)750年に追放し、ウマイヤ家の残り全ての構成員をを撲殺した。唯一の生存者アブドッラフマーン一世(Abd ar Rahman I)はアンダルシア(Andalusia or al Andalus)へ逃亡し、そこで三世紀に渡って栄えた後期ウマイヤ朝(Caliphate of Cordoba, 756-1031)を開いた。アブルアッバースは無慈悲な方法でウマイヤ家を根絶やしにしたのでサッファー(Saffah)と云う称号を得た。これは「殺戮者(Slaughterer)」或いは「血を注ぐ者(Shedder of Blood)」と云う意味である。この内戦は「アブルアッバース(As-Saffah)がイスラーム教徒の解放者マハディ(Mahdhi)である」とのシーア派(Shi’as)の信仰による1000年紀の預言に基づいて引き起こされていた。しかしながら、アブルアッバース(As Saffah)は「自分の為のカリフ国家(Caliphate)を建国する」とのシーア派教徒達(Shi’as)との約束を守らなかったので、シーア派教徒達は離反した。754年に、アブルアッバースは天然痘(smallpox)で亡くなる前に自分の兄弟のアブージャファールマンスール(Abu Ja’far al Mansur)後継者として指名していた。

 

アフル・バイト(ahl al-bayt) 「お家の人々」の意で、預言者ムハンマドの一族をさす。「預言者一家(al al-nabi)」とも呼ばれ、ある種の貴種としてイスラーム世界では崇敬の対象となり、特権を与えられる事も多かった。(出典: 岩波イスラーム辞典)

 

アフル・ファイファー族(Ahl Fayfa) ティハーマ山地に住む部族。

 

アブルフィダ(Abulfida) 西暦1273年ダマスカスで生まれたアイユーブ朝(Ayyubid)の王子アブルフィダ(Prince Abulfida)は「タクウィム ブルダン(Takwin al-Buldan)」の著者で、それ以前の出典からの材料を主に編集していた。アブルフィダの主要な功績は23世紀遡った正確な情報での最新化であったが、年月が経つと共にその効力は失せてしまった。

 

「アブルフィダ(Prince Abu'lfida)の地理」: アブルフィダ(Prince Abu'lfida)著の「タクウィムブルダン(国々の描写)(Takwin al-Buldan)」をM. レノー(M. Reinaud)が翻訳・編集し、アブルフィダ(Prince Abu'lfida)の地理」と云う題名で1848年にパリで出版した(Géographie d'Abu'l Feda tr. and ed. by M. Reinaud. Paris.)

 

アブー・ルウルウ・フィールーズ(Abu Lulu Fieroz) 644年ウマル(Umar ibn al-Khattab)に瀕死の重傷を負わせたペリシア人奴隷。

 

アベクス(Abex) エジプト・ヌビア(the Egyptian - Nubian)国境からマンダブ海峡(Strait of Bab al-Mandeb)までの紅海岸に沿った地域の正式名称。

 

アマク(Amaq) アマク(Amaq)はビルク熔岩地帯(Harrat al Birk)の紅海岸の一番北に位置するメッカ州(Emirate of Makkah)の集落(クンフザ南南東84kmで、ヤツデの様な葉をした芭蕉椰子(エダウチ椰子)と私が仮に渾名したエダウチヤシが群生して居り、熔岩地帯と判る。アマク(Amaq)に流れ込む涸れ谷(wadi)は幅20m程度の川に成っている。その水のせいかアマク(Amaq)付近の海岸はマングローブ(mangrove) )におおわれている。アマク(Amaq)の南ではナツメ椰子もこの群生に混ざって自生しているのがアマク(Amaq)の北とは違う。

 

アマーリーサ族(Amalisah) 空白地帯西部に住むベドウイン。

 

アマルナ文書(Amarna Letters) ナイル川東岸のアマルナで発見された楔型文字の粘土板文書で、主として第18王朝アメンヘテプ4世に関して記述されている。

 

アマール(Al ‘Amar) ウナイザ南南東70kmのナフード・スィッル中央の西端の村。

 

アマール一門(Al-Ammar clan) ダワースィル族同盟Dawasir)ザイド族(Al-Zaid)の一門。

 

アマーリーク族(Amalekites, Amalek or 'Amaliq) 消えたアラブ族の1つで、創世記(Book of Genesis)の系譜によれば「アマーリーク(Amalek)はエサウ(Esau)の息子エリファズ(Eliphaz)とロタン(Lotan)の姉妹でホリテ族の側室ティムナ(Timna)との息子であった」と記載されているが、実際にナフマニデス(Nahmanides, 1194 - 1270)によって記録された聖書の余禄は「アマーリーク族はエサウの孫の子孫では無く、この孫がその名に因んで名付けられたアマーリークと云う名の男の子孫である」と述べて居り、アマーリーク族の名の由来となったその先祖については古いアラビアの詩の中でも登場している。イブンハルドゥーン(Ibn Khaldun, 1332 – 1406)、イブンアスィール(Ali ibn al-Athir, 1160 - 1233)の様なアラビアの歴史家によれば「アマーリーク(Amalek)は同じ血統のアムル人(Amorites)、カナン人(Canaanites)およびヒクソス人(Hyksos)に与えられた名前である」と言い、この名は時には「谷の住人(Dweller in Valley)と訳される事もあるが、多くの専門家は出所はわからないと考えている。又、創世記には「アマーリーク族はユダヤ人の先祖のアブラハム(Abraham)の時代には後にローマ領アラビア属州(Arabia Petraea)となった地方にすでに住んでいた」と記述があるが、アラビアの歴史家ムスディ(Abu al Hasan ‘Ali al-Mus’ud, 896 - 956)は「アマーリーク族はアブラハムの時代の前にメッカ地方を起源にこの早い時代に存在していた」と述べている。モーゼ五書(Prntateuch)*には「アマーリーク族(Amalekite)は出エジプトの際にユダヤ人(Hebrews)をシナイ半島の沙漠(Desert of Sinai)のレフィディム(Rephidim)で襲った遊牧部族である」と記述されている。サムエル記の上(1 Samuel)ではこの襲撃について「最後部を襲い、それは遅れていた弱い者達であった」と述べられている。ユダヤ教の聖書タナハ(Tanakh)はアマーリーク族(Amalekite)を土着の部族として認め、民数記(Numbers)には「第一番の異教徒」と述べられており、恐らく現在のネゲヴ沙漠(Negeb)と思われる乾いた牧草地である南の低地にも土着のアマーリーク族が居た。このアマーリーク族は早期のユダヤ人にとって厄介な敵対者であり、「アマーリーク族はハヴィラ(Havilah)からシュ(Shu)まで南の土地に住んで折り、時に各々の王が同じエイガグ(Agag)と云う世襲の名を持つモアブ人(Moabites)*やメデヤン人(Midianites)*と同盟した」と言われている。又、サムエル記の上(1 Samuel)および士師記(Judges)によればレバント地方(Levant)の放牧民一門のケニ族(Kenites)*は時に同盟を結んでいた。アマーリーク族はユダヤ人(Israelites)をホルマ(Hormah)でも襲ったのでユダヤの初代の王サウル(Saul)*は部族長達とユダヤ軍を指揮してアマーリーク族の人々を殆ど壊滅させた。この時、サウルは神(Lord)の命令に反して人々や家畜の一部を生かしたままで開放したので預言者サムエル(Samuel)は激怒した。サウルと部族長達は平地にある不詳のアマーリーク族都市に遠征し首尾よくアマーリーク族の王エイガグ(Agag)を捕虜にしたが、エイガグを殺すのを躊躇したのでサムエル(Samuel)自身がアマーリーク族(Amalekite)の王を処刑した。サウルの息子ダビデ(David, c.1037–970 BC)*はユダヤの不変の敵アマーリーク族(Amalekite)を絶滅させる為の聖戦を遂行し、その結果、アマーリーク族は歴史から消滅した。更にヒゼキヤ(Hezekiah, 12th King of Kingdom of Judah, regned 715/716 – 687 BC)の時代に500人のシメオン族(Simeonites)によってセイール山(Mount Seir)に逃れ、定住していたアマーリーク族の最後の生き残りが皆殺しにされた。ユダヤ人(Israelite)が記述した聖書でのユダヤ人(Hebrew)とアマーリーク族の関係は「互いに敵対しており、アマーリーク族はファラオ(Pharaoh)やペリシア人(Philistine)よりも冷酷で策略をめぐらし、横暴であった」と云う。(出典: Wikipedia

 

アマーリーク族同盟(Amalekite or Amalek Confederation) パレスチナから北アラビアまで広がっていた遊牧民部族同盟で、消えたアラブ部族の1つ。

 

アーミナ(Aminah bint Wahb, died 577) ムハンマドの母。

 

アーミラ・ジュザム族(‘Amila Judham, Banu ‘Amila and Banu Judham) カフラーン・カフターニ部族(Kahlan Qahtani Arabs)の支族、パレスチナへ移住。

 

アミール(Amir) アミールは支配者或いは代官等の為政者、イスラーム教国の王族・首長、軍司令官・隊長、ムハンメド(Muhammadの娘ファーティマ(Fatima)の子孫の尊称。

 

アーミル(‘Amil) 徴税官又は行政官。

 

アーミル・イブン・サウサウ族('Amir ibn Sa'sa'ah) アーミル族(‘Amir)、バニー・アミール族(Bani ‘Amir)又はバヌー・アーミル族(Banu ‘Amir)とも呼ばれる。詳細はバヌー・アーミル族参照。

 

アーミル・イブン・サウサウ族同盟('Amir ibn Sa'sa'ah Confederation) バヌー・アーミル族同盟を参照。

 

アーミルダウドイブンハーシム(Amir Dawud ibn Hashim) ヒジュラ暦473年、西暦1081年にジッダ(Jiddah)を包囲し、占拠したベドウインの支配者。

 

アーミーン(Amin) 本当に、信義にあつい、信用できる(キリスト教のアーメン)。

 

アムダリア川(The Amu Darya) パミール高原(Pamir)を発し、アラル海(the Aral Sea)に注ぐ川。

 

アムハラ語(Amharic) セム系でエチオピアの公用語。

 

アムラーキー族(Amlaqi Tribe) 沙漠の半島からシリア方面のアラブ族を統括した部族で、アラブ女王ゼノービヤー(Zenobia, Julia Aurelia Zenobia, Septima Zenobia or Bat-Zabbai, 267 – c. 274 AD)父から族長を継承。

 

アムル・イブン・アース(‘Amr ibn al-‘As, c. 573 – 664) ムスリムのエジプト征服軍司令官。(アムルビンアース(Amr bin al-'As, 573/589 - 664)を参照。)

 

アムル・イブン・アディー('Amr ibn Adi ibn Nasr ibn Rabia ibn Namarah ibn Lakhm) ラフム朝(Lakhmid Kingdom, 266 - 602)初代国王(266 – 295)

 

アムル・イブン・イムル・カイス(‘Amr ibn Imru’ al Qays) ラフム朝(Lakhmids, 266 - 602)3代王(328 - 363)

 

アムル・イブン・ザルブ(‘Amr ibn Zarab) ラテン名 ユーリウス・アウレリウス・ゼノビウス(Julius Aurelius Zenobius)アラブ女王ゼノービヤー(Zenobia, 267 – c. 274 AD) の父で、遊牧民アムラーキー族の族長、ザバーイ(ザッバイ)との転写もある。

 

アムル・イブン・ヌウマーン(Amr ibn al-Numan) ブアースの戦い(Battle of Bu’ath, 617)のハズラジュ族(Banu al-Khazraj)側同盟指揮者。

 

アムル・イブン・ラヒー・フザーイー(Amr ibn Lahi ak-Khuza’i) アムル・イブン・ルハイイ(Amr ibn Luhayy)とも転写されている。「ムハンマドの生まれる約400年前(西暦170年頃)にカフターン(Qahtan)の子孫のヒジャーズ王(King of Hijaz)で、一般的にはアムル・イブン・ルハイイ(Amr ibn Luhayy)と呼ばれる人物(ˤAmr ibn Lahya ibn Harath ibn ˤAmru l-Qays ibn Thalaba ibn Azd ibn Khalan ibn Babalyun ibn Saba)がフバル神(Hubal)の偶像をカアバ神殿の屋根の上においた」との説があり、預言者ムハンマドの伝承を集め、最初の伝記(Life of God’s Messenger)の礎を作ったアラブ・ムスリム歴史家で聖人研究家(Hagiographer)ムハンマド・イブン・イシャク・ヤサール(Muammad ibn Isaq ibn Yasar or Ibn Isaq, c. 704 - 767 or 761)は「フバル神(Hubal)のイメージをモアブ(Moab)ないしメソポタミア(Mesopotamia)から移入したアムル イブン ルハイイ(Amr ibn Luhayy)は神の様なアラム人(Aramaeans)*起源の記憶を保つ限りは真実の核心を持っているのかも知れない。フバル神(Hubal)はカーネリアン(紅玉髄)で人型をしており、その右手は欠け落ちていたのでクライシュ族(Quraysh)が代わりの黄金の腕を作った」と述べている。アムル・イブン・ルハイイ(‘Amr ibn-Luhayy)については「アラビアのカフターニ部族(Qahtani)ジュルフム族(Arab Jurhum Tribe)の族長(Amr ibn Luhayy – a chief of the Arab Jurhum tribe)でマッカ(Makkah)のカアバ神殿(Kabah)に偶像神を最初に持ち込んだ男であった」とか「メソポタミア(Mesopotamia)のヒート(Hit)と云う地方からフバル神(Hubal)と呼ばれる偶像を自分自身でメッカに持ち帰った。それからその偶像神をカアバ神殿内部の井戸の傍に据えつけ、そして人々にそれを崇拝する様に命じた」とか「シリア(Syria)へ旅行し、そこからアッラー(al-Lat or Allah)の娘達ラート(Allat)、マナート(Manat)、ウッザー(al-‘Uzza’)の中のマナート(Manat)とウッザー(al-‘Uzza’)の二体の女神崇拝を持ち帰り、それをフザーア族(Banu Khuza’a)の偶像フバル神(Hubal)と結合した」とか「フザーア族(Banu Khuza’a or Banu Quda’a)の族長アムル・イブン・ラヒー・フザーイー(Amr ibn Lahi ak-Khuza’i)*はフバル(Hubal)*と云う名の偶像神をシリア(Syria)から持ってきて、自分の支配の継続と云う意味でフバル神を遇するためにカアアバ神殿(Kaaba)に持ち込んだ。フバル神(Hubal)は長いあごひげをした老人の形をし、紅玉髄(Camelian)で作られていたが、その右手は切り取られていた」とか多少、ニュアンスは異なるが諸説ある。アムル・イブン・ルハイイ(Amr ibn Luhayy)がジュルフム族(Arab Jurhum Tribe)であったのか、フザーア族(Banu Khuza’a or Banu Quda’a)であったのか、この疑問を私は明確には解決できないでいる。但し、フバル神(Hubal)の解説では「アムル・イブン・ルハイイは170年頃フバル神カアバに安置したフザーア族長である」と私は述べている。

 

アムル人(Amurru) アモリ人はその主神アムルの名でも呼称される。(アモリ人(Amorite)参照。)

 

アムル族(Al-‘Amr) カフラーン・カフターニ部族(Kahlan Qahtani Arabs)タイイ族(Tayy)支族ファドル族(Al-Fadl)の流れ。

 

アムルビン・アース(Amr bin al-'As, 573/589 - 664) アムル640年の「ムスリムのエジプト征服(Muslim Conquest of Egypt)」を指揮して貢献したアラビアの武将である。アムルはムハンマド(Muhammad)と同年代であり、629年にイスラーム教に改宗した後、ムスリム支配体制の中で急速に台頭した。アムスはエジプトの首都フスタト(Fustat)を創建し、アフリカ大陸での初めてのモスク(Mosque of Amr bin al-As)を建造した。アムルはクライシュ族(Quraysh)のサフム家(Banu Sahm)出身であり、没した時に「90歳を超えていた」と云われ、生年は573年以前では無いかとも思われる。元々は商人で隊商と共にアジアやエジプトを含む中東の交易路で商いを営んでいた。イスラーム最初期にはメッカ(Makkah)の多くの指導者たちと共に反イスラーム陣営に身を置いていた。アムルはクライシュ族(Quraysh)がムスリム(Muslims)を追放する様に説得する為にアビシニア(Abyssinia)へ派遣した使節の代表であったが、この任務は成功せず、失敗に終わった。622年にムハンマドがマディーナ(Madinah)に移った聖遷(hegira)の後、アムルはクライシュ族がムスリムと争ったすべての戦いに参加し、625年のウフドの戦い(Battle of Uhud)ではクライシュ軍分遣隊の指揮をした。その後、アムル629年にハーリドイブンワリード(Khalid ibn al-Walid, 592 - 642)と共にメッカからメディナに赴き、イスラームに改宗した。東ローマ領シリア(Syria under Byzantian Control)国境のアラブ族(Arabian Tribes)との信頼関係を築き、東ローマから離反させる為に630年に行われたザトサラシル遠征(Campaign of Dhat As-Salasil)ではアムルはアブー・バクル(Abu Bakr As-Siddiq, 573 - 634)、ウマル・イブン・ハッターブ(Umar ibn al-Khattab, 586/590 - 644)およびアブー・ウバイダ(Abu Ubayda ibn al-Jarrah, 583 - 638)を従えたばかりで無く、何週間にもわたって礼拝の先導を行った為に軍の司令官だけでは無く、宗教上の典礼の指導者にもなった。その後、アムルはムハンマドによってオマーン(Oman)の指導者ジャイファール(Jayfar)およびアッバドイブンジュランダ(`Abbad ibn Julanda)を改宗させる為に派遣され、ムハンマドの没後の直後までそこの総督を務めた。632年、預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の死後の背教者とのリッダ戦争(Ridder War)で活躍した。さらに6344月にはアムルは初代カリフ(1st Rashidun Caliph, 632 - 634)アブー・バクルによってムアーウィヤ父であるヤジードイブンアビースフヤーン(Yazid Ibn Abi Abu Sofyan, ? - 640)、シュラフビールイブンハサナ(Shurhabil ibn Hassana, 583 - 639)ともにシリア遠征軍の司令官とされ、パレスチナ地方の征服(Conquest of Palestine)を命じられた。アムルはイスラーム帝国(Rashidun Caliphate)の東ローマ(Byzantine)との最初の大規模な戦闘であったアジャナダインの戦い(Battle of Ajnadayn, 634)、東ローマ軍を破ることに成功したヤルムークの戦い(Battle of Yarmouk, 636)およびダマスカス陥落(Fall of Damascus)で活躍した。シリア(Syria)の東ローマ勢(Byzantines)一掃の後、アムル2代目カリフ(2st Rashidun Caliph, 634 - 644) ウマルにエジプト遠征計画を進言し、ウマルの同意を得た。640年末に向けて、アムルは3,500から4,000の兵力を従えてシナイ半島(Sinai Peninsula)を横断し、実際の侵略を始めた。エジプトではコプト派キリスト教徒(Coptic Christians)を味方につけ、ナイル三角州(Nile Delta)でのペルシウム(Pelusium)を攻略、およびビルバイス(Bilbais)近郊での東ローマ軍(Byzanyine Forces)の強襲を反撃した後、アムルは現在のカイロ市(Cairo)にあったバビュロン城(Babylon Fortress)に向けて進撃した。小競り合いの後、アムルはシリアからの増援部隊を得て、エジプト駐留するテオドール(Thedore)指揮下の東ローマ軍主力と対峙する為にアイン シャムス(Ain Shams)(古代のヘリオポリス(Heliopolis))に向けてさらに北へと進撃した。イスラーム帝国軍(Rashidun Caliphate Forces)はヘリオポリスの戦い(Battle of Heliopolis, 640)での勝利でエジプトの大半を手に入れ、数ヶ月包囲していたバビュロン城を落城させ、その数ヵ月後には数千年にわたってエジプトの首都で東ローマ(Byzantine)の拠点であったアレクサンドリア(Alexandria)を降伏させた。641年末にはメンフィス(Memphis)にある宮殿跡で平和条約が締結されたにもかかわらず、東ローマ軍(Byzanyine Forces)645年にエジプト奪回を期したが、ニキウの戦い(Battle of Nikiou, 646)でイスラーム帝国軍(Rashidun Caliphate Force)は勝利し、エジプトは完全にイスラーム帝国(Rashidun Caliphate)の支配下となった。新首都が必要となり、アムルは大規模に整備されているナイル三角州西端にあるアレクサンドリアに行政府を置くように進言したが、ウマル(Umar of Omar),新領地の首都が河川で隔てられるのを嫌って同意しなかった。そこで641年にアムルはナイル川東岸のバビュロン城近くに張った自分の天幕を中心に新都市を創建した。伝説によれば「アムルがアレクサンドリアでの勝利から戻ると鳩が自分の天幕に巣を作ったのを見つけた。この新都市は天幕の都市すなはちミスル フスタト(Misr al-Fustat)と呼ばれる様になり、これがアラビア語でのエジプト(Misr)の語源である」と云う。ただし、エジプトのアラビア名はイスラーム征服(Islamic Conquest or Muslim Conquests, 632–732)のずっと前から良く知られていたとの説もある。アムルはこの都市の中心にモスク(Mosque)も建造した。これはエジプトを含むアフリカ大陸での最初のモスクであった。アムル・モスク(Mosque of Amr)は今でもカイロ(Cairo)旧市内に建っているが、幾世紀もの間に建て直されているので構造の原型は残されていない。多くの軍事的征服事業の後にアムルはイスラーム帝国()の内紛に大きな役割を果たした。3代目カリフ(3rd Rashidun Caliph, 644 - 656)ウスマーン・イブン・アッファーン(Uthman ibn Affan)の暗殺の後、後継者を争ってアリー(Ali)の支持者達ととムアーウィヤ(Muawiyah)の支持者達の論争となった。アムルは最初、4代目カリフ(4th Rashidun Caliph, 656 - 661)アリー・イブン・アビー・ターリブ(Ali ibn Abi Talib)を支持していたが、後にムアーウィヤ(Muawiyah)の側に付いた。フスタトを創建した後、アムルはメッカ(Makkah)からダマスカス(Damascus)に遷都した首都に召還され、アムルはそこでウマイヤ朝(Umayyad, 661 - 750)初代カリフムアーウィヤ(Muawiyah I or Muawiyah ibnAbi Sufyan, 661 680)の親しい顧問となった。(出典: ウィキペディア(Wikipedia))

 

アムル・マンスール・イブン・フジュル(Amr al-Mansur ibn Hudjr, 458 – 489) キンダ王国(Kindah Kingdom II, 425 - 528)2代封建君主。

 

アムル・イブン・アミール・マルトゥーム(Amro Ibn Amir Al-Maltoum) カフターン族の子孫でマアリブ・ダムの持ち主、ザイド族の父祖。

 

アモリ人(Amorite) アムル人(Amurru)或はマールトゥー(Mar.tu)とも呼ばれ、紀元前3000年紀後半から主に紀元前2000年紀前半にユーフラテス川(The Euphrates)西域で権力を握ったセム語を話す諸部族(Semitic Language People)の名称で、アムル(Amurru)とはこの部族の名であり、その主神(Principal Deity)の名でもあった。遊牧民アモリ人(Amorites)の領土は元々アラビア半島であったが、紀元前約2400年の初めにはシリア(Syria)およびカナアン(Canaan)を含むユーフラテス川西域を占め、「アモリ人の山(Mountain of the Amorites)」と呼ばれるシリアのビシュリ山(Jabal Bishri)山岳地方と特別なつながりがあった。紀元前22世紀から21世紀に掛けてメソポタミア(Mesopotamia)を支配したウル第三王朝(Ur -Third Dynasty)の最後の王イッビ-シン(Ibbi-Sin)の治世の間に旱魃でメソポタミア(Mesopotamia)へ大規模な移住をしたアモリ人(Amorites)は多くの地方で力を蓄え、イシン(Isun)、ラルサ(Larsa)およびバビロン(Babylon)を含む様々な場所で権力を掌握し、最終的には紀元前約2004年にエラム人(Elamites)がウル(ur)を滅ぼした。その少し後で、バビロン(Babylon)のハンムラビ(Hammurabi, c. 1795 BC – c. 1750 BC)が台頭する。およそ紀元前2000年から1600年の間のアモリ王朝群(Amorite Kingdom)はメソポタミア歴史(Mesopotamia History)の中でアモリ時代(Amorite Period)とされる事もある。主なアモリ王朝はマリ(Mari)、ヤムハド(Yamhad)、カトナ(Qatna)、アッシュール(Assur)、イシン(Isin)、ラルサ(Larsa)およびバビロン(Babylon)で台頭した。この時代は紀元前約1595年のヒッタイト(Hittite)(ca.1680BC – ca.1190BC)によるバビロン(Babylon)の制圧で終焉した。アモリ人(Amurru)が使っていたアモリ語(Amorite Language)はアフロ・アジア語族(Afro-Asiatic Language)のセム語派(Semitic Linguages)の北西セム語方言(Northwest Semitic Dialect)と推定される。

 

アーモンド(Almonds) 扁桃や巴旦杏(はたんきょう)とも呼ばれる。バラ科の落葉高木、中央アジア原産、高さ6mに達し、葉・花・果実とも桃に似るが、果肉は薄く、熟すと裂開し、平たい核がある。核中の仁のうち、甘いアーモンドは食用、苦い品種の苦扁桃(Bitter Almonds)は鎮咳(ちんがい)・鎮痙(ちんけい・痙攣を鎮める)等の薬用とする。

 

アヤーシュ(Al ‘Ayyash) バーハ(Al-Bahah)13kmサラート山稜(Sarat)紅海側の崖を下った付近の集落。

 

アヤッズ王(Meliqu Az or Malik Ayyaz) インドのディウ(Diu)の頭領(15 - 16世紀頃)。

 

アラー・イブン・ハドラミー(Al-'Ala ibn al-Hadrami) リッダの戦い(634)ハサーへのムスリム援軍司令官。

 

アラウィー派(Alawis, Alawites)(ヌサイルー派(Nusayris)): 「アリーに従う者」を意味するシーア派で、シリアでは人口の1割強を占める。

 

アラカ(Alaca) アデン(Aden)のハサン山(Jebel Hasan)の近くのラス アール岬(Ras al-Argh)

 

アラダ(Aradh) 194816日、セシジャー(Wilfred Thesiger)がマンワク(Manwakh)から二度目の空白地帯沙漠横断した際に案内のベドウインが「涸れ谷ダワースィル(Wadi Dawasir)の町スライル(Sulayyil)の南にあるハッシ(Hassi)又はハシー(Hashi)と云う水井戸で駱駝に水を飲ませた事がありアラダ(Aradh)と云う南の砂丘地帯まで長く延びる石灰岩崖地にさえ辿り着けばその水井戸を探し出す自信がある」と記述がある。セシジャー(Wilfred Thesiger)ha「アラビア半島の脊稜ジャバル トゥワイク(Jabal Tuwayq)のスライル(Sulayyil)から南の石灰岩の崖をアラダ(Aradh)と呼んでいる」と思われる。

 

アラック(Arrack) 中近東でヤシの汁や糖蜜などで造るラムに似た強い蒸留酒。

 

アラト(Alat) 24千年前から33千年前の降雨がアラト(Alat)、コバル(Khobar)およびウンム・ラデュマ(Umm al-Radhuma)等の堆積層に保存されている。これらの層は少し東に向かって傾いている為にその水はゆっくり移動し、自然に圧力を貯え、スンマーン崖地(Summan Escarpment)の東にあるハサー・オアシス(al-Hasa Oasis)およびカティーフ・オアシス(Qatif Oasis)で岩の割れ目や断層等の地表への出口を見つけ、掘り抜き井戸の原理で豊かに湧き出していた。

 

アラバー渓谷(Arabah Valley) 大地溝帯一部(死海・アカバ湾間)。

 

「アラビア横断旅行記」: ジョージ・ファースターサドラー大尉(Captain George Forster Sadleir)の旅行記のもっと完全な形は「アラビア横断旅行記」と言う題名で1866年にP. ライアンバイカラ(P. Ryan. Byculla)が編集し、本の形で出版されている(A more complete edition was published later in book form. The title is Diary of Journey across Arabia... ed. by P. Ryan. Byculla 1866.)

 

「アラビア海岸を巡って(Around the Courts of Arabia)」: アミーンリハニ(Ameen Rihani)著、1930年ロンドンで出版。

 

アラビア語源学: Arabic Etymology.

 

アラビア語正字法(綴り方): Arabic Orthography

 

「アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta」:英国の作家・旅行家(1843 - 1926)チャールズモンタギューダウティ(Charles Montague Doughty)著、1926年にロンドンで出版(但し、初版は1888年)(Doughty, C.M. Travels in Arabia Deserta London 1926. )

 

アラビア人(Arabians) 「アラビア人(アラブ人)」とは 本来はアラビア半島に住むセム系の遊牧民の総称であったが、現在ではアラビア語を使用する人々の総称として使われている。

 

「アラビアの侵攻(Penetration of Arabia)」: ダヴィド ジョージホガース(David George Hogarth)著、1904年にロンドンで出版。

 

アラビア特有の自然金(Fireless Gold Peculiar of Arabia) これは他の全て人々が行って居る様に鉱石から製錬せずに地中から直接掘り出されている。おおよそ栗の実大の金塊で見つかり、それは燃え立つような赤さなので職人が最高に貴重な宝石の為のはめ込み台として使う時に装飾の豪華さを作り出した。

 

「アラビアでの航海(ヒジャーズ滞在とアシールでの戦闘)」: モーリスタミシエ(Maurice O, Tamisier)著、1840年パリで出版(Tamisier, M.O. Voyage en Arabie. Sèjour dans le Hedjaz. Campagne d'Assir Paris 1840.)

 

「アラビアの心(Heart of Arabia)」: フィルビィ(H.St. John B. Philby)著、1922年ロンドンで出版された。

 

「アラビアの沙漠に関して(Concerning Arabia Deserta)」: (ボローニャ(Bolognese)出身の冒険家ロドヴィコヴァルテマ(Lodovico de Varthema)の「1502年から1508年までの旅行記(the Itinerary)」の第二章を参照)。

 

「アラビアの旅(Travels in Arabia)」: ジェームスR. ウエルステッド中尉(Lieut. James R. Wellsted)著、1838年ロンドンで出版(Travels in Arabia by Lieut. James R. Wellsted, London 1838, t. II, P. 264 - 290.)。(ジッダに関する記述は同書第II264 - 290頁の「紅海の海岸と交易の包括的記述」を参照)。

 

「アラビアのヒジャーズ地方の旅(Travels in The Hedjaz of Arabia)」: ブルクハルト(Johana Ludwig Burckhardt)著、1829年ロンドンで出版。

 

アラビア・フェリクス(Arabia Felix) 幸福なアラビア」又は「富裕なアラビア」を意味する。ギリシア(Greek)ではアラビア半島南部は「恵まれたアラビア」を意味する「アラビアの幸福(Arabia Eudaimon)」と呼ばれ、そしてラテン(Latin)(古代ローマ人)では「幸福なアラビア(Happy Arabai)」を意味する「富裕なアラビア(Arabia Felix)」と呼ばれていた。アラビアフェリクスについて紀元前450年頃にヘロドトス(Hērodotos)が「これは世界で乳香(frankincense)が育つ唯一の国であり、没薬(ミルラ)(myrrh)、桂皮(cassia)、肉桂皮(cinnamon)(シナモン)およびラブダナム(ladanum)(半日花から採った天然樹脂)も産するので、国中でこの世のものとは思えない匂いが発散している」と述べている。乳香を栽培している部族を征服するのはアレキサンダー大王(Alexander the Great)の少年時代の夢であり、死ぬ前の紀元前323年に大王はアラビアフェリクス(Arabia Felix)に対して海軍遠征を行っている。紀元前25年にもローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)はエジプトを攻略占領した後、紅海岸の港群とヒジャーズ山脈(Hijaz Mountains)を越えての乳香交易ルートを確保し、アラビア半島南部の乳香の生産地域を征服する為に、エジプト属州長官(the Prefet of Egypt)のアェリウス・ガルス(Aelius Gallus)を送った。アェリウス・ガルス(Aelius Gallus)はナジュラーンまで2,500km進軍し、ナジュラーンを包囲し、略奪し、焼き払った後、更に進撃し、マアリブ(Marib)を包囲した。しかしながら、ガルスの軍隊は水不足の為に 6日間だけでマアリブ(Marib)から退却せざるを得ず、乳香生産地には辿り着けなかった。アェリウス・ガルス(Aelius Gallus)はエジプトに退却したが、その艦隊は印度へのローマ商船の航路を確保する為にアデン港(the port of Aden)を破壊した。この遠征が成功しなかった為、ローマ人達は西暦1世紀から定期的に乳香と没薬の地に紅海経由で訪れ、それがムザ(Muza)やカーナー(Qana)等のアラビア半島南部の港を発展させた。隊商路の戦略的に位置にあり、他国からの侵略を防ぐために強力な王国であったマイーン(Ma'in)を中心にシバ(Saba or Sheba)、ハドラマウト(Hadramaut) およびナジュラーン(Najran)は連携していた。歴史学者やオリエント学者は「ナジュラーンの古代マイーン(Ma'in)王国との連合の証拠は地中海(Mediterranean Sea)とイエメンとの間の交易路で見つかった岩に刻まれている」と言う。いずれにせよ、アラビアフェリクス(Arabia Felix)は長い隊商時代の殆どを通じて乳香(frankincense)等の香味料と香料を運ぶ隊商交易路の交差点に位置する商業の大きな中心であり続け、数世紀に渡って栄えたが、3世紀のローマ世界の経済不振によってその産物の需要が落ち込むと衰退してしまった。やがて、シバ(Saba or Sheba)、マイーン(Ma'in)、カタバーン(Qataban)、アウサーン(Awsan)およびハドラマウト(Hadramawt)等の古い南アラビア都市国家群はイエメン山岳高地のザファール地方(Zafar)のヒムヤル族(Himyarite)と云う一地方勢力に併呑されてしまった。

 

「アラビアのフェリックス(Arabia Felix)」: デンマークの1761年から1767年も遠征について記述「カルステンニーブール(Carsten Niebuhr)とその仲間の冒険と業績」の完全な英訳は「アラビアのフェリックス(Arabia Felix)」との題され、H. ソールキルド(H. Thorkild)によってロンドン(London)1964年に出版された。

 

「アラビア半島(Arabian Peninsula)」: サンガー(R.H. Sanger)著、1954年ニューヨークで出版。(同書の2-3頁にジッダの城壁の取り壊しについて述べられている)。

 

「アラビア旅行日誌(Journal d'un voyage en Arabie)(1883-1884)」: シャルルユベール(Charles Huber)の死後の1891年にパリで出版された(Huber, C. Journal d'un voyage en Arabie (1883 - 1884) Paris 1891, p. 754 - 757. Huber was entered in the Jiddah European Cemetery.)

 

「アラビアの旅行記(ヒジャーズとアシールでの滞在)」: (Voyage an Arabie. Séjour dans le Hedjaz. Campagne D'Assir Paris 1840. )、モーリスタミシエ(Maurice O, Tamisier)著、1840年パリで発行。

 

「アラビアの歴史的地理 (Histrocal Geography of Arabia) 」: フォースター(Forster)著。

 

アラビア・ ペトラエア(Arabia Petraea) 2世紀始めにローマ帝国は現在のヨルダン、南シリア、シナイ半島および北西サウジアラビアを含む旧ナバテア王国領をアラビア属州(Privincia Arabia)あるいは単にアラビアと呼んでいた。

 

アラビア湾(Arabian Gulf) ペルシア湾。

 

アラビィデイラニィ(Araby Djeylany) ドイツの旅行家で、測量士兼天文観測者であったニーブール(M.[C.] Niebuhr)がデンマーク政府が派遣したアラビア探検隊に参加して、ジッダを訪問した時にジッダ(Djidda)でもっとも金持ちの商人であったのがデイラニィである。ニーブール (M.[C.] Niebuhr)はデイラニィの外国人を援助する姿勢を判断し、その内容に間違いの無かった事に自分自身で納得した。

 

アラーフ(Allah) アッラー。

 

アラファート山(Arafat) アラファ('Arafa)はマッカへの巡礼行事で最重要なウクーフ(Wuquf)を行う巡礼地で、一般的に複数形のアラファートで呼ばれ、マッカにある聖モスクから東に25km離れた広大な原野である。アラファの中央にはラフマ山(Jabal al-Rahmah or Mount of Mercy)があり、その山で地上に降りたアダムとイヴが再開したと伝えられている。アラファには 再開の意味がありアダムとイヴの再開に因んで巡礼がこの地で会うためにアラファと呼ばれているとも云う。アラファのメッカ寄りにナミラ・モスク(Namirah Mosque)がある。(出典: 岩波イスラーム辞典)

 

アラブ馬(Arabian Horse) 沙漠や谷で騎乗されたり、小さな谷間で放牧されたりする小柄な馬を目にする。この馬が風を飲む動物(Drinkers of the Wind)と呼ばれ、知能・勇気・耐久力でベドウインが部族毎に誇りに思うサウジアラビアの名産であり、「アラブ馬の気品のある外見は形と機能が自然に生みだした結合の妙である」と言われている。伝説では「アラブ馬はアラブ部族の先祖となったイシュマエル(Ishmael ibn Ibrahim)の持ち馬であったアハ涸れ谷(Ahwaj)の子孫である」と云われ、バビロニアの年代記等でも古くから紹介されている。このアラブ馬がヨーロッパに伝えられたのは十字軍によってであり、「勇敢寛容な典型的中世騎士であると称賛された獅子心王リチャード(Richard, 1157-1199)は幾つかの息もつかない戦闘の合間にアラブ馬を見てその美しさに打たれた」と言われている。ワシントン(George Washington, 1732-1799)はアメリカ独立戦争の間、アラブ馬に乗っていたし、ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1837-1901)はアラブ馬に勲章まで授けている。ナポレオン(Napoleon Bonaparte, 1769-1821)は愛馬マレンゴ号(Marengo)8万キロ以上も騎乗し、その勇姿はドラクロア(Delacroix)の有名な絵に描かれて不滅になった。

 

アラブ馬の英国騎兵隊への輸出: プラッシーの戦い(Battle of Plassey)の後、インド帝国(1858-1947年)による印度の支配が固まるまでの間、英国東印度会社軍英国騎兵隊用にアラブ馬が最も安定して大量にアラビアからインドに輸出された。

 

アラブ化したアラブ族(Arabized Arabs) アドナーン・アラブ(Adnan Arabs)を指し、そう呼ばれている。

 

アラブ船(Arab Ship) アラブ船(Arab Ship)にはバッガラ(Baggalah)、ブーム(Boom)、サンブーク(Sambuk)およびザルク(Zaruk)の主要な4つの型があり、インド洋(the Indian Ocean)と紅海海域を航行していた。

 

アラブ族(Arab or Arubu) アラビア人(アラブ人)。(アラブ民族参照。)

 

「アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab)」: ハムダニ(al-Hamdani)は著作「アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab)(Description of the Island of the Arabs)」の中で「この国は三方を海に囲まれ、北部はユーフラテス川(The Euphrates) と地中海 (the Mediterranean sea) が国境であったので、アラブ族はこの国をJazirat al-Arab すなはち『アラブ族の島(Island of the Arabs)』と呼んでいた」と記述している。

 

「アラブ族の島(Island of the Arabs)」のD.H. ミュラーの翻訳版: ハムダニ(al-Hamdani)の著作「アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab)」をD.H. ミュラー(D.H. Müller)が翻訳・編集し、1884年から1891年にかけてライデン(Leyden)で出版した(Al Hamdanis Geographie der Arabischen Halbinsel ed. by D.H. Müller, Leyden 1884 - 1891.)

 

アラブの5人の女王: ザビーベ (Queen Zabibe)、サミースィー (Queen Samisi)、ヤティ (Queen Yati'e)、テルフーヌー (Queen Te'elkhunu)およびタブア (Princess Tabu'a)は「沙漠の王国アドゥーマートゥー(Adummatu)」の偶像神の巫女であり、女王でもあった。彼女達5人は紀元前8世紀から7世紀頃にベドウインの首長を率いてアッシリア(Assyria)に対抗した。(「アドゥーマートゥーと五人の女王 (Five Queens of Adummatu)」参照。)

 

アラブの反乱(Arab Revolt) アラブの反乱(Al-Thawra al-`Arabiya, June 1916 - October 1918)は第一次世界大戦中に、オスマン帝国(Ottoman Empire)からのアラブ人独立と、南はアデン(Aden in Yemen)から北はアレッポ(Aleppo in Syria)に至る統一アラブ国家の樹立を目指して、メッカ(マッカ)(Makkah)の太守シャリーフ・フサイン・イブン・アリー(Sherif Hussein ibn Ali, 1908 - 1916)が起こした戦い。ハーシム家(Heshemite)が主導するアラブ諸部族はイギリスの支援を受けて中東各地でオスマン帝国軍(Ottoman Turks)と戦いその支配からの脱却には成功した。しかしアラブの地はイギリスやフランスによる委任統治領となり分断され、統一国家を作って独立することはできなかった。(出典: ウィキペディア)

 

アラブ民族: 肥沃な三日月地帯では北アラビアやシリア沙漠に住む部族的に組織され好戦的な駱駝牧畜民がアラブ(Arab)と呼ばれていた。紀元前9世紀から紀元前6世紀に掛けてのアッシリア(Assyrian)やバビロニア(Babylonian)の碑文には「アルブ(Arubu)は部族的に組織され駱駝に騎乗し北および北西アラビアのアドゥーマートゥー(Adummatu)、タイマー(Tayma)、ディーダーン(Dedan)やウラー('Ula))等の主要なオアシス集落を結んで交易を行う民族である」と記述されており、アラブ民族が南西アラビアから現在のレバノンであるレヴァント(Levant)へ物資を輸送する上での商業的に重要な役割を担っていた事を示している。古代のアラブと云う用語はこの様に或る生活様式を行う民族を意味して居り、言語学的な結びつきでは無かったが、この用語は拡張されて中央や西アラビアの部族も意味する様に成った。イエメンに定住したサイハド(Sayhad)民族は4世紀までアラブ(Arab)と云う用語を中央および西アラビアの部族的な牧畜遊牧民を呼ぶのに使っており、「遊牧牧畜民をアラブ(Arab)」と呼ぶのはイスラーム時代に入っても続いて居た。この地域では遊牧民と定住民が同じ言語と文化を持っていたのでアラブはこの両方を意味する様に成り、今日ではアラビア語を母国語として話す民族をアラブと呼んでいる。

 

アラブ湾(Arab Gulf) アレクサンドリア西の比較的広い湾。

 

アラムコ: Arabian American Oil Company (ARAMCO) 現在のサウジアラムコ(Saudi ARAMCO)

 

「アラムコハンドブック」: ザハラーンで修正・編集の後に1968年に出版( Aramco Hand book Revised ed/, Dhahran 1968.)

 

アラム語とアラム文字(Aramaeans and Aramaic Alphabet) アラビアで見つかったイスラーム以前に使われた文字には南アラビア碑文(南セム語(South Semitic))、サムード(Thamudic)流とアラム語(Old Aramaic Language)の三つの主要なグループがある。その内のアラム語はレヴァント(Levant)等の北西セム族(West Semitic)流に属して居り、「このアラム語を使用していたのがアラム人(Aramaeans)である」と云う。アラム人(Aramaeans)は肥沃な三日月地帯(Mesopotamia)の文明化した都市の住人からは恐れと侮蔑を持って見られて居たが、紀元前2,000年紀に駱駝による遊牧や隊商貿易で経済的に軍事的に強力な部族となり、紀元前11世紀頃までに、ユーフラテス川(The Euphrates)上流に定住し、紀元前1,000年紀中頃までには肥沃な三日月地帯全体の共通語(lingua franca)がアラム語(Aramaic)に成ってきた。駱駝を用いてシリア沙漠(Syrian Desert)などを舞台した隊商貿易はさらに拡大し、アラム語(Aramaic Language)は古代オリエント世界の商業語として定着した。アラム語(Old Aramaic Language1100BC – AD 200)は最初、北西セム文字を基にして紀元前1050年頃に確立したフェニキア文字(Phoenican Alphabet)を使って書かれていたが、時間と共にそれを改造し、紀元前8世紀までにはアラム文字(Aramaic Alphabet)で書かれる様になり、楔形文字(Cuneiform)で書かれたアッカド語(Akkadian Language)の記述に匹敵するまでに発展した。紀元前9世紀から7世紀の間の北アラビア戦役についてのアッシリアの記録(Assyrian records)でも「部族的に組織されたアルブ(Arubu)すなはちアラブ(Arabs)が北および北西アラビアの沙漠とオアシスを占拠して居た」と述べられている。アルブ(Arubu)は戦場に大勢の駱駝騎乗戦士を送り込む能力を持ち、南西アラビアとの交易に従事していた。紀元前6世紀までに北西部のタイマー(Tayma)やディーダーン(Dedan)等が隊商町(caravan towns)として十分にその機能が確立して、遊牧民と定住民は物資だけでは無く、儲けの多い陸上交易の運営に対して相互依存する様に成って来た。その後、アラム語(Aramaic)は紀元前500年頃までにオリエント(Orient)中に広まり、アケメネス朝(Achaemenid Empire, 550 BC - 330 BC)の共通語(Lingua Franca)でもあり、ネオ-アッシリア(Neo-Assyrian)およびペルシア帝国(Persian Empire)の公用語ともなった。ヘレニズム時代(Hellenism Period, 323BC - 31/30BC)には阻害されたが、西暦7世紀のイスラーム教徒のペルシア征服(Islamic Conquest of Mesopotamina)まで変わらずにこの地方の共通語(Lingua Farnca)であり続けた。この為、アラム語(Aramaic Language)の使用は広く行き渡り、ユダヤ教(Judaism)、イスラーム教(Islam)やキリスト教の一部の宗派の聖書や仏教(Buddhist)の経典はアラム文字(Aramaic Alphabet)から発展した文字で書かれている。例えばペルシア帝国の後期古アラム語(Late Old Aramaic Language)はシリア教会(Syriac Christianity)の言語となったローマのシリア属領の中期アラム語系シリア語(Middle Aramaic Syriac Language)に発展した。また、それに密接に関連して派生したのがナバテア語(Nabataean)である。

 

アラム人(Aramaeans) アラム人(Aramaeans)は紀元前3,000年紀以降パレスタイン(Palestine)からメソポタミア(Mesopotamia)に至る地域を征服していたアモリ人(Amorites)地域から出現した同じ北西セム語(Northwest Semitic languages)を話す牧畜部族で、「アッシリア(Assyria)の書字板ではアラム人(Aramaeans)の名はもっと昔の部族名マールトゥー(Mar.tu) (アムル人(Amorites)、(アモリ人(Amurru))、西方の人)の方が正確である」との記述もあり、「同じ民族が異なる名前で呼ばれた」との説が有力である。肥沃な三日月地帯(Mesopotamia)の文明化した都市の住人からは恐れと侮蔑を持って見られて居たが、紀元前2,000年紀に駱駝による遊牧や隊商貿易で経済的に軍事的に強力な部族となり、紀元前11世紀頃までに、ユーフラテス川(The Euphrates)上流に定住した。その拠点としてはティル・バルスィプ(Til Barsip)、サマル(Sam’al)(現在のゼンジルリ(Zenjirli))、アルパド(Arpad)、ビト・アディニ(Bit-Adini)などが挙げられる。その後、シリア(Syria)に進出して新たな都市国家を形成し、当初はハマー(Hama)、その後はダマスクス(Damascus)がアラム人(Aramaeans)勢力の中心となった。紀元前1,000年紀中頃までには肥沃な三日月地帯全体の共通語(Lingua Franca)がアラム語(Aramaic)成ってきた。駱駝を用いてシリア沙漠(Syrian Desert)などを舞台した隊商貿易はさらに拡大し、アラム語(Aramaic Language)は古代オリエント世界の商業語として定着した。フェニキア文字(Phoenician Alphabet)からアラム文字(Aramaic Alphabet)が作られ、西アジア・南アジア・中央アジアの様々な文字に影響を与えた。一方、特化された駱駝放牧者集団はやがてアラブ部族の祖先となった。紀元前9世紀から7世紀の間の北アラビア戦役についてのアッシリアの記録(Assyrian records)でも「部族的に組織されたアルブ(Arubu)すなはちアラブ(Arabs)が北および北西アラビアの沙漠とオアシスを占拠して居た」と述べられている。アルブ(Arubu)は戦場に大勢の駱駝騎乗戦士を送り込む能力を持ち、南西アラビアとの交易に従事していた。紀元前6世紀までに北西部のタイマー(Tayma)やディーダーン(Dedan)等が隊商町(caravan towns)として十分にその機能が確立して、遊牧民と定住民は物資だけでは無く、儲けの多い陸上交易の運営に対して相互依存する様に成って来た。

 

アラルヴェス(Alarves) アラビア人(Arabs)

 

アラレネ(Ararenê) メッカ(Mecca)とメディナ(Medina)の間の遊牧民に帰属する大部分は沙漠の土地で、ガルス(Gallus)軍は紀元前24年にここを通過した。

 

アラワー(Arawa) アルワ(Arwah)とも転写されるクワイイヤ(Al Quwayiyah)西60kmに位置する新旧メッカ街道の間の村。

 

アリアス(Ariath) アビシニア皇帝エッラ アトスベハ三世 (the Abyssinian Emperor, Ella Asbeha III)525年に派遣したヒムヤル(Hymyar)討伐軍の指揮官であった。「ヒムヤル(Hymyar)の勢力を壊滅させ、アリアス(Ariathが指揮した軍隊はこの時に編成され、7,000人ではなく、70,000人であった」との記述もある。 又、アリアス(Ariath)はアブラハム(Abraham)の館であるマッカのカアバ(Kaaba or Ka’bah)神殿を破壊した一人と考えられている。アリアス(Ariath)はアルヤト(Arethas、アルヤアド(Aryaad)、アレザス、エールヤト(Eryat)あるいはアルヤト(Arethas or Aryat)とも呼ばている。

 

アリーアビーハシミ(Ali Abi Hashimi) 「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」の著者イブンムジャウィール(Ibn al-Mujawir, 1204 - 1291)は幾つかの出典で「北アフリカ人(マガリバ)(Magharibah)がジッダ(Jiddah)で首長(アミール)(Amir Ali ibn Fulayta ibn Qasim ibn Muhammad ibn Jafar ibn Abi Hashim)に(ギジヤ)(Giziya)(個人的貢ぎ物)を支払った」と記述している。

 

アリー・イブン・アビー・ターリブ(Ali ibn Abi Talib, c. 600 - 661) アリーは預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の父方の従弟で、その母もムハンマドの父の従姉妹である。後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマ(Fatimah al-Zuhra, c. 605 or 615 - 632)を娶った。アリーはイスラーム教の第4代正統カリフ(4th Rashidum Caliphate, 656 - 661)であり、同教シーア派(Shi’a Muslims)はアリーを初代イマーム(First Imam)でアリーとその子孫がムハンマドの正統な後継者であると考えている。アリーはムハンマドの時代にイスラーム教聖域であるメッカのカアバ神域(Kaaba Sanctuary)で生まれた唯一の人物であった。父はアブー・ターリブ・イブン・アブドゥルムッタリブ(Abu Talib ibn Abd al-Muttalib, 549 - 619)で母はファーティマ(Fatima bint Asad, d. 626)であったが、ムハンマドがアブー・ターリブの家で育てられた様にアリーもムハンマドの家で育った。ムハンマドがイスラーム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとりで、その生涯をイスラームの大儀に捧げた。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。早くからムハンマドの後継者と見做されていた。第3代正統カリフのウスマーン(Uthman ibn Affan, c. 579 – 656)が暗殺された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤ(Muawiyah ibn Abi Sufyan, 602 – 680)との戦いに追われ、661年にハワーリジュ派(Kharijities)によって暗殺される。後にアリーの支持派はシーア派(Shi’a Muslims)となり、アリーはシーア派によって初代イマーム(First Imam)としてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。アリーとファーティマの間の息子ハサン(Hassan)とフサイン(Hussayn)はそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことからスンナ派にとってもサイイド(Sayyid)として尊崇されている。アリーの墓廟はイラクのナジャフ(Najaf)にあり、カルバラー(Karbala)とともにシーア派の重要な聖地となっている。(出典: ウィキペディアおよびWikipedia

 

アリー・イブン・ムジャースィル・ムガイディー(Ali Ibn Mujathil Al-Mughidi) 19世紀から20世紀にかけて、アシール山脈に住む部族の1バニー・ムガイド族(Tribe of Bani Mughaid)で一番著名な人物。

 

アリー・イブン・ムハンマド・イドリーシー(Ali Ibn Muhammad al-Idrisi) 1930年ティハーマのサウジ領編入同意。

 

アリカ(Arikah) 軽く焼いたパン生地(dough)を丸いお盆の上に広げて、たっぷりと茶色の蜂蜜を塗る。

 

アリカンテ(Alicante) スペイン南東部ヴァレンシア(Valencia)自治州の地中海に面する県の県都で港町(27万)。

 

アリー家(Al-Ali) シャンマル族(Shammar)の最初の支配者一門。

 

アリストテレス(Aristotle, 384 BC – 322 BC) 古代ギリシャの哲学者プラトン(Plato)の弟子であり、またその超克者である。プラトンは事物の本質をイデアと名付け、超越的なものとしたが、アリストテレスはそれを形相(エイドス)となずけ、質料に内在するものとした。形相と質料は存在者を構成する不可分の2原理として、形相が現実態、質料が可能態とも呼ばれる。アテネにリュケイオン(Lykeion)という学校を開き、その研究は論理、自然、社会、芸術のあらゆる方面に及び、その学徒はぺリパトス(逍遥)学派(Peripatetics)と呼ばれた。「形而上学」、「自然学」を始め、論理学、倫理学、政治学、私学、博物学などに関する多数の著作がある。アレキサンダー(Alexander)大王の教師もつとめた。

 

アリー集落(Al ‘Ali) タムニーヤ山南に位置するサラート山稜の集落。

 

アーリダ(Al-Aredah) ジーザーン東北東60km

 

アリード地区(Al Arid) リヤード(Riyadh及びその一部。

 

アリー・ブン・フサイン(Ali bin Hussein ) 1924年の逃亡したターイフ(Taif)防衛部隊指揮者。

 

アリーベイ('Alī Bey) カフカス(Caucasusu)で生まれ、奴隷としてエジプトに売られた。奴隷傭兵の首長となり、1768年スルターンを宣言し、トルコから独立、シリアを征服し、アラビアの一部も征服し、エジプトの支配者(1728 - 73)となったが、裏切りにあって追放され、復位を試みて敗死した。

 

「アリーベイ(Ali Bey)1803年から1807年の間の旅行記」: ドミンゴバディアレブリシュ(Domingo Badía y Leblich)著、「アリーベイ(Ali Bey)のモロッコ、トリポリ、サイプロス、エジプト、シリア及びトルコにおける1803年から1807年の間の旅行記(Travels of Ali Bey in Morocco, Tripoli, Cyprus, Egypt, Arabia, Syria and Turkey between the Years 1803 and 1807)」は1816年ロンドンで出版された。原文はフランス語であり、1814年にパリで出版されている(The title of the original edition was Ali Bey Voyages en Aftique et en Asie, pendant les années 1803 à1807. Paris 1814.)。英語版はウェストミードで1870年に再版された(The English edition has been reissued in Westmead, 1870.)

 

アルアル(Ar’ar or Arar) 北部国境州の州都で人口約15万人。アラビア横断パイプライン(Tapline)完成後の1951年に送油中継所(Pumping Station)として建設された。その名は町が作られる以前からあったRR油田(Field RR)に由来する。

 

アル・カーイダ(al-Qaeda) スンニ派ムスリムによるイスラーム過激派。

 

アルカナート(Arqanat)、ウサイル(Uthayil)、ビルク(Birk)、アウジャリヤ(Awjariyah) タブーク南のアルカナート(Arqanat)、ウサイリ(Uthayli)、アウジャリヤ(Awjariyah)、ハミーサ(Khamis)等の駅舎は全面に三つアーチ型の開口のある25人の守備隊が守る小さな砦だった。タブーク南60kmのアウジャリヤでは山の脊を140mのトンネルで貫通している。

 

アルカム族('Alkam Tribe) アシール族(Aseer, ‘Asir or ‘Asaryah)傘下の部族。

 

アルカーン(arkan) 文字通りでは柱であるが、カアバ神殿(Ka'bah)4隅同様主要な4方向を示している。

 

アルギリウム(Argyrium) シシリー島の内陸部(in Interior of Sicily)

 

アルゴア湾(Algoa Bay) 南アフリカ共和国東ケープ州(Eastern Cape)南部の湾で広く浅い入江。

 

アルコート(Arcot) インド南部タミルナードゥ(Tamil Nadu)州北部にある州都マドラス(Madras)の西南西にある市で人口4.5万人、1712年カルナティック(Carnatic)の首都、その後英仏で争奪が行われた。

 

RCAGステーション: Remote Center Air to Ground Facility (Saudi Arabia)

 

アルダ(Ardah) ルブア・ハーリー沙漠(Rub' al Khali)オマーン西国境付近中央の集落(飛行場あり)。

 

アルターウィヤ(Al Artawiyah) マジュマア(Al Majma’ah)70kmに位置する町で、イフワーン3部族の1つムタイル族(Mutair, Mutayr or Mtayr)の主要な同胞団部隊が駐屯する開拓村があった。

 

アルダシール1(Ardashir I, 224 - 240) サーサーン朝(Sassanid Empire or Sasaniyan Empire, 224 – 651)の始祖。

 

アルダッブ(Ardeb) 中東の数カ国で使われている単位で、エジプトで198リットルまたは米5.62ブシェル(bushels)に標準化された(Bushel=35.24 Liters)。

 

アール・デコ(フランス語:Art Déco): 一般にアール・ヌーヴォーの時代に続き、ヨーロッパおよびアメロカ(ニューヨーク)を中心に1901年代半ばから1930年代にかけて流行、発展した装飾の一傾向。原義は装飾美術。

 

アルテミス (Artemis) ギリシャ神話の月と狩猟の女神でローマのディアーナ(Diana)に当たる。

 

アルバア(Suq al-Arba'ah): ムバッラズの恒久的な市場があり、水曜日が主要な市の日であった。

 

アルパド(Arpad) ネオヒッタイト国家群の1(BC 8C)で、現在の北西シリア テル・リファアト(Tell Rifa’at)

 

アール・ビン・アリー族(Al Bin Ali) ムダル族バニー・スライム・ビン・マンスール族カファフ一門バニー・ウトバ族ウトゥーブ族の同族。

 

アルファ山(Jabal ‘Arfah) メッカ東数キロにある。ヒジュラ暦(Hijura or Hegira) 12番目の月(デュール ヒジャー(Dhu'l-Hijjah))の8日目、巡礼達はその夜を祈りながら過ごす為にミナー(Mina)*へ進む。9日目に巡礼達はミナー(Mina)を離れ、アラファト(Arafat)へ向かう。アラファトでは巡礼達はムハンマド(Muhammad)が最後の説教を行った丘の近くで、黙想的な徹夜の勤行に加わり、祈りそしてクルアーン(Qur’an)を暗誦する。この丘はラフマ山(Jabal al-Rahmah or Mount of Mercy) 又はアラファト山(Hill of Forgiveness, Mount Arafat).と呼ばれている。

 

アルフレッド ギョーム(Alfred Guilaume) ギヨーム(A. Guillaume)参照。

 

アルマア族(Alma') カフターン部族出身、詳細は不明。

 

アルマア・アドナーン・バニー・ハーリサ(Alma' 'Adnan Bani Harithah) カフターン部族から分かれたと云うが、カフターン部族出身、詳細は不明。

 

アルマア・イブン・イディ(Alma' ibn 'Idi) カフターン部族の分かれアサド族(Al-Azad or Al-Assad)構成員、詳細不明。

 

アルマ崖地('Armah Escarpment) ウルマ崖地(‘Urumah Escapment)とも転写されるイルク・バンバーン北東側の崖地で涸れ谷アトク(Wadi 'Atk)が中央を切りとおし、ダフナー沙漠(Ad Dahna)へと流れる。

 

アルメニア(Armenia) コーカサス(Caucasus)山脈の南側に在る国(Republic of Armenia)で人口350万人。古代のアルメニア王国(Kingdom of Armenia)(大アルメニア(Greater Armenia) (聖書名はミニ或いはミンニ(Minni))は王国として独立するまではアケメネス朝(Achaemenid Empire, 550 BC - 330 BC)のアルメニア地域(Armenia)のサトラップ(Satrapy)であった。マケドニア(Macedonia, 800s BC - 146 BC)の手を借りてオロンテス朝(Orontid Dynasty, 6th Century - 72 AD)として独立した。セレウコス朝(Seleucid Empire, 312 BC - 63 BC)の崩壊の後、紀元前190年にアルタクセス1(Artaxias I, 190 BC/189 BC - 160 BC/159 BC)によってヘレニズム(Hellenism)の影響を受けたアルメニア政権が誕生した。アルタクシアス朝(Artaxiad Dynasty, 189 BC - AD 12)のティグラネス2(Tigranes II, BC 95 - BC 55)(大王(Tigranes the Great))が遠征を行った紀元前95年から紀元前66年の絶頂期にアルメニアは支配権をコーカサス(Caucasus or Caucas)を越えて、現在のトルコ東部(Eastern Turkey))からシリア(Syria)・レバノン(Lebanon)にまで及ぼし、アルメニア王国はその領土を最大範囲に広げた。しばらくの間はローマ東方の最も強大な国として存在していたが、アルメニアはしばしばローマとペルシアの間で論争の的となり、紀元前66年にはローマの影響下に入った。西暦一世紀になるとパルティア(Parthia, BC 247 – AD 228)37年から47年までアルメニアを屈服させた。ローマはアルメニア王国の宗主権を取り戻そうと、ネロ(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus, AD 37 - AD 68)の治世下、ローマは同盟を結んだアルメニアに侵略してきたパルティアと55年から63年まで戦った。60年のアルメニア奪還と62年の喪失の後、ローマはシリア総督コルブロ(Gnaeus Domitius Corbulo, AD 7- AD 67)を派遣する。コルブロは63年、アルメニアの王位をティリダデス1(Tiridates I of Armenia, AD 63 - unknown)に復位させる事でその兄でパルティア王のヴォロガセス1(Vologases I of Parthia, 51 - 78)と和議を結んだ。 これ以来、アルメニア王国はアルサケス朝(Arsacid Dynasty, 54 - 428)(アルシャク朝 (Arshakuni Dynasty))の治世となり、パルティアが望む人物を王に就け、戴冠はローマ皇帝及びその代理が行うという両属体制が出来た。名目上はローマ帝国の属国で、実質はパルティアの属国という折衷案である。ヴォロガセス4(Vologases I of Parthia, 147 - 191)がアルメニアに侵略し、旗下の将軍を王位に就けたことによって162年から165年までローマ共同皇帝ルキウス・ウェルス帝(Lucius Aurelius Verus, 161 - 169)の戦役が引き起こされた。パルティアの脅威に対し、ウェルスは東部辺境へ出発し、その軍勢は大勝を治めた。首都を取り返し、ローマ市民権を持ち、アルメニアの相続権利を持つソハエムス(Sohaemus)が傀儡王(Client King)として即位させた。三世紀に入いるとサーサーン朝ペルシア(Sassanid Dynasty, 226 – 651)252年にアルメニアを占領し、ローマが287年に取り戻すまで保持した。ティリダテス大王(Tiridates the Great)としても知られるティリダテス3(Tiridates III or Trdat III, 287 - c. 330)301年にキリスト教(後のアルメニア教会(Armenian Orthodox Church))をアルメニアの国教としたが、これは世界初であった。アルメニア人の間にはキリスト教は浸透しており、ローマ側においても、ペルシア側に併合された地域でもキリスト教の信仰は衰える事はなかった。384年に王国は東ローマとペルシアの間で分裂した。西アルメニアは即座に小アルメニア(Armenia Minor)という名でローマの属州となった。405年に聖メスロプ マシュトツ(Saint Mesrop Mashtots, 361/362 - 440)によって紀元前2世紀までの大アルメニア(現在のカラバフ(Nagorno-Karabakh)を含む)で話されていたアルメニア語(Armenian language)の為のアルメニア文字(Armenian Alphabet)が創出された。現在のアルメニア人は直接の言語学的な子孫であると考えてよい。東アルメニア(Eastern Armenia)428年までペルシアの内部でそのまま王国として残った(a Kingdom within Persia until 428)。その後地方貴族が王制を廃止、サーサーン朝が行政官(Governor)を送り込んだ。(原文はウィキペディア)

 

アルメニア人(Armenians) インドーヨーロッパ語族に属する独立した一派をなすアルメニア語を話すのがアルメニア人でアルメニア教会の信徒でもある。

 

アレキサンダー大王(Alexander the Great336 BC – 323 BC): マケドニア王国フィリッポス2(King Philip II of Macedon)の王子として誕生したアレクサンドロス(Aleksandros, BC356 – BC323)で、20歳で即位すると、父王の計画を引き継ぎ、東方遠征を開始する。兵力では圧倒的不利だったにもかかわらず、イッソス(the Battle at Issus, BC333)およびガウガメラ(the Battle of Gaugamela, BC 331)と二度の大戦で圧勝し、アケメネス朝(the Achaemenid dynasty, BC550 - BC330)を滅亡に追いやった。その後も快進撃を続け、西は現在のエジプト(Egypt)・ギリシャ(Greek)、東はインダス川(the Indus River)流域までに及ぶ大帝国を建設した。

 

アレクサンドリア(Alexandria) ナイル川デルタ(Nile Delta)の上の町でアレキサンダー大王(Alexander the Great) が紀元前332年に建設した古代世界の学問の中心地であった。今でもエジプト北部にあるエジプト第一の商港の町で人口340万人である。

 

アレクシオス1世コムネノスAlexius I Comnenus東ローマ帝国コムネノス朝初代皇帝(1081 – 1118)

 

アレサス(Arethas) 52310月にヒムヤル (Himyar)国王ズー・ヌワース(Yousuf Dhu Nuwas)がナジュラーン(Najran)を奪取し、冷酷に親アビシニア党を皆殺しにした「ナジュラーンの戦い」の際のキリスト教徒指導者でアレタス(Aretas)或いはハーリス(Harith)とも綴られる。

 

アーレダ(Al-Aredah) ジーザーン(Jizan)東北東60kmのイエメン国境に近い集落で、テハーマ山地の空中村を眺望できる。

 

アレタス(Aretas) ナバテア王オボダス(Obodas)の血族でその支配していた土地は今日のメディナ(Medina)と思われる。

 

アレタス1(Aretas I or Harthah, c. 168BC) 紀元前168年、初代ナバテア王(First known King of Nabataeans)で、その名は紀元前168年のもっとも古いナバテア碑文(Oldest Nabataean Inscription)に記されている。

 

アレタス4(Aretas IV, 9BC – AD40) 碑文には「アレタス、ナバテア王で、人民の友」と記載されている。ユダ族(Judea or Judah)のもっとも有力な隣人として、頻繁にユダ国の国政に干渉し、その支配者の命運を決める程の影響力を持っていた。一般的な「ローマ人の友」および「皇帝の友」と云う言葉に直接、反対する「人民の友(Philopatris)」と云う字によって暗示されている様にローマに対しては特に良い言い方ではなかった。アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Augustus, 63BC – 14AD)がアレタス4世を王として認めたのは大変に躊躇した後であったが、それにもかかわらず、紀元前4年のユダヤに対するローマ将軍ウァルス(Publis Quintilius Varus, 46BC – 9AD)の遠征に参戦し、相当な数の軍隊をこのローマ将軍の指揮に委ねた。アレタス4世の娘ファサエリス(Phasaelis)はイスラエル四分領太守ヘロデ・アンティパス(Herod Antipas, 4 BC – 39AD)と結婚した。ヘロデがファサエリスを離縁し、西暦36年に兄弟の妻でサロメ(Salomec. AD 14 – 62/71AD)の母ヘロディア(Herodias)を妻にした時に、ファサエリスは父の元に逃げ帰った。アレタス4世はヘロデの領地を侵略し、その軍隊を打ち負かし、クムラン(Qumran)周辺の地域を含めてヨルダン川西岸に沿った領土を獲得した。ヘロデはローマ帝国第2代皇帝ティベリウス(Tiberius Julius Caesar Augustus, AD 14 – 37AD)に訴え、シリア総督をアレタス4世を攻撃する為に派遣した。しかしながら、西暦37年の皇帝の死で、実際の行動には至らなかった。

 

アレッポ(Aleppo) シリア第2の都市。アラブ(Arab)名はハレブ(Haleb)或いはハラブ(Halab)で、シリア北部の市(160万)、古代名はベロエア(Beroea)

 

アロエ(Aloe) ユリ科の多肉の常緑多年草で、葉は多肉で、橙赤色の筒形を花を開く。観賞用、薬用に栽培。広くはユリ科アロエ族植物であり、アフリカの乾燥地帯を中心に300種が分布し、有茎、無茎等、形態に変化が多く、その中の数種が多肉尺物と捨て栽培されている。別名を蘆薈(ろかい)、医者いらずと云う。

 

アワーズィム族('Awazim) アワーズィム族紅海沿岸に住んでいたイチサヨファギ(Inchthyophagi)(魚を食べる人達)末裔のフタイム族(Hutaim)の子孫を中心に形成された部族で19世紀と20世紀にはハサー地方に住み、羊の放牧に長けていたと云う。、羊の放牧に長けていたと云う。サウジアラビア建国当時、アジュマーン族(Ajman or Ujman)はイブン・サウード(Ibn Saud)を裏切り、1915年のキンザンの戦い(Battle of Kinzan)ではその兄弟サアドを殺し、イブン・サウードにとって信用しがたいの敵となったが、イクワーン(Ikhwan)運動に参加するを拒まれなかった。この時期にアジュマーン族に従属していたアワーズィム族('Awazim)アジュマーン族から分離して、イブン・サウードに帰属した。アジュマーン族とムタイル族(Mutayr)一部およびオタイバ族(‘Utaybah)一部によるイクワーンの叛乱(Rebellion of Ikhwan, 1927 - 1929)でのサビラの戦い(Battle of Sabilla, March 1929)後、アワーズィム族は反乱軍に襲われ(Oct. 1929)250名を殺戮されている。

 

アワス谷およびシャーシア谷(al-'Awas Valley and Shas'ah Valley) アブハー近傍の谷、私は位置を確認出来ていない。

 

アワーミーヤ(Al Awamiyah) カティーフ(Al Qatif) オアシスにある町。

 

アワ−ミル族(Awamir) 空白地帯東部に住むベドウイン。

 

「暗黒大陸横断記」: アメリカの探検家スタンリー(Henry Morton Stanley 1841 - 1904)の著作。

 

アンサール族(Ansar)助ける人(Helpers)”を意味するアラビア語で、預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)に協力したメディナの住民(Median Citizens or Medinans)を指す。610年ムハンマドは自ら預言者と自覚してメッカ(Mecca)で伝道を始めたが、当時メディナ(Medina)ではハズラジュ族(Banu Khazraj)とアウス族(Banu Aws)とが対立して内戦状態であった。たまたま620年にメディナからメッカの偶像神殿に来た巡礼がムハンマドの教えに共鳴し、そこで彼をメディナに招き、部族間の争いの調停を依頼しようとした。ムハンマドも激しい迫害でメッカに見切りをつけたので、その招きに応じ622年移住(ヒジュラ)を決行した。メッカから預言者に同行した移住者(ムハージルーン(Muhajirun))とアンサール(Ansar)はともに彼の指導する教団国家の重要な構成員であったが、この両者のあいだに微妙な対立があったらしく、預言者が死ぬと、アンサールは独自の指導者を擁立しようとした。結局ムハージルーン(Muhajirun)のアブー・バクル(Abu Bakr As-Siddiq or Abdallah ibn Abi Quhafa, c. 573 - 634)がカリフ位(Prophet’s Sucessor or Khalifat Rasul Allah, 632 - 634)につき、その後アンサールは教団国家内の指導的地位から消えた。(出典: http://www.tabiken.com/history/doc/A/A272L200.HTMおよびWikipedia)

 

アンジェロ・ペセ博士(Dr. Angelo Pesce) イタリアの地質学者の執筆家で過去25年以上にわたり、サハラ沙漠の中央部やオマーン湾北岸等のアフリカおよび中近東に住んだり、旅行して精力的にアラブ世界を研究、視察して来た。同博士の著書には「ジッダ或るアラビアの町の描写(Portrait of an Aranian City, Jiddah , 1977)」の他に「アラブ父祖の地の色(Clours of Arab Fatherland, 1975.12)」、「アラブ馬の純血種 (The Pure Bred of Arabian Hose, 1984)」、「100年前のメッカ(Makkah, One Hundred Years, 1986.12)」があり、更にキースコウリ(Keithe Colie)との共著で「風の霊(Spirit of the Wind, 1982.9)」とエルヴィラガールバノペセ博士(Dr. Elvira Garbano Pesce)との共著で「沙漠の驚異(Marvel of the Desert, 1983.12)」と「サウジアラビアの駱駝(The Camel in Saudi Arabia)」がある。

 

安息香(Benzoin) エゴノキ科の落葉高木でスマトラやジャワ原産、樹皮は茶褐色、葉は卵形で鋭頭しており、夏に葉の付け根に赤色を帯びた小花を総状につける。タイ、スマトラで栽培された。本草和名は安息香の木と云う。安息香はこの木に樹皮から分布する樹脂で帯赤色または褐色の塊をしており、甘味を有し、その中に乳白色の顆粒を蔵し、熱すれば強い芳香を放つ。薫香に用い、安息香チンキは去痰剤、呼吸刺激剤である。

 

アンタル(Antar) タブーク(Tabuk)南西145km紅海岸の港町ドゥバー(Dhuba or Duba)南南東105kmにある紅海岸の村。

 

アンティオキア(Antioch) トルコ南部オロシティス(The Orontes)川の河口の都市でアンタキア(アンタキア)とも呼ばれている。セレウコス朝シリア(Seleucid Empire, 312 BC - 63 BC)の首都(BC. 300 - BC 64)で商業の中心地であった。アラビア語ではアンタキア(Antakiya)、トルコ語ではアンタキア(Antakya)と名付けられている。

 

アンドレアコルサリ(Andrea Corsali) リスボン(Lisbon)からインドへ行き、その航海記をフロレンス(Florence)の有名な支配家族のジュリアーノ(Giuliano)およびロレンゾデイメディチ(Lorenzo dei Medici)宛に二通の手紙で残した。コルサリ(Corsali)の人生のその他の詳細については何も分かってはいないが、この二通の手紙が歴史的な資料としては計り知れないほどの価値がある。それは特に同じ時代のポルトガル人作家に対する検証を行う時にあらわれる。二番目の手紙はロポソアレスアルベルガリア(Lopo Soares de Albergaria)の遠征と共に、1517年にコルサリ(Corsali)が紅海で行った航海について述べているので特に重要である。コルサリ(Corsali)は強風が自分の船を外界に引きずり出して艦隊との連絡が取れなくなる前に、ジッダが見える8リーグ(Leqague)(約24マイル)以内に来ていた。船長はカマラン(Kamaran)行きを決めていたが、水先案内の間違いで、コルサリ(Corsali)は替わりにエチオピアの海岸に着いた。そこでコルサリ(Corsali)は数日間を無駄にし、その乗組員は最終的にダハラク諸島(Dahlac)に着き、救助される迄に喉の渇きと飢えに途方もなく苛まれた。

 

アントワープ(Antwerp) ベルギー北部の北海に注ぐスケルト川(The Scheldt)河口に臨む港湾都市(46)で同州の州都でもある。

 

アンバート王国(Anbati) ナバテア王国(紀元前4世紀から106) (Nabataean kingdom)のアラビア語読み。

 

アンマール(Al-Ammar Clan) ダワースィル族同盟ザイド族の一門。

 

アンマール族(Anmar) ラビーア・アドナーン部族(Rabi’ah – Adnani Arabs)1つ。

 

アンム(Amm) 古代カタバーン王国(Qataban Kingdom)で崇拝された月の神。

 

 

イアムビア(Iambia) (エンボ(Yenbo)参照。)

 

イアンニ(Giampietro Ianni) アンジェロ・ペセ博士の写真撮影のアシスタント(Mr. Giampietro Ianni)

 

イェニチェリ(Janissaries or Janizary) 「新しい兵士」を意味し、Odjaktとも呼ばれ、14世紀後半に創設された新軍(トルコ皇帝親衛隊(1300 - 1826)、トルコの近衛騎兵)で、オスマン帝国の常備軍団であり、帝国の領土拡張に大きく貢献した。戦争捕虜や徴用したキリスト教農民の子弟を教育し軍団員とした。18世紀末以降西洋化改革に反対し、1826年に廃止された。

 

イェニチェリ音楽(Janissary Music) シンバル、トライアングル、ベースドラムなどを多用するトルコ軍楽風の音楽。

 

イエメン条約: イエメン(Yemen)とサウジアラビア王国(Kingdom of Saudi Arabia)間に締結された1934年条約でアシール(Asir)およびティハーマ(Tihama or Tihamah)の国境紛争は終了した。アシール(Asir)の民はサウジ国民に成り、安全な生活の恩恵および過去の略奪や血みどろの争いからの解放を得た。それでも放牧権や部族の所有地を巡って論争している二つの部族の潜んだ対立が週市で遭遇した時に再燃する危険性は依然として十分あった。

 

イカーマ(!qama) サウジアラビアの居留証。

 

イフワーン(ikhwan) イフワーン参照。

 

イサイブンフライタ首長(Amir Isa ibn Fulayta) 「ギジヤ(giziya)を制定したメッカ首長はイサイブンフライタであった」とイブンムジャウィール(Ibn al-Mujawir, 1204 - 1291)著「南アラビアの記述(Descripyio Arabiae Meridionalis)」に述べられている。

 

イーサーウィヤ(Al-Isawaiyah) クライヤート南東100kmの涸れ谷スィルハーンとヨルダン国境の間の村。

 

イサク(Issac) イサクはイスハーク(Ishaq)とも転写され、アラブ人の祖となったイスマーイール(Isma'il)(イシュマエル(Ishmael))と共にアブラハム(Abraham)(イブラーヒーム(Ibrahim))の息子で共に預言者となった。イサクは双子の息子ヤコブ(Jacob)とエサウ(Esau)をもうけた。エサウ(Esau)は長子でありながら一杯のかゆの代償として相続権を弟ヤコブ(Jacob)に売った。ヤコブ(Jacob)はイスラエル12部族の祖となり、その系譜からはムーサー(Musa)(モーゼ(Moses))、ダーウード(Dawud)(ダビデ(David))、スライマーン(Sulayman)(ソロモン(Solomon))等多くの預言者があらわれている。(出典: ジーニアス英和大辞典および岩波イスラーム辞典)

 

イシャーシュ(Al ‘Ishash) マディーナ北175kmにある集落。

 

イシャー礼拝(salat al-'isha') サラート(salat)を参照。日没後の残照が完全に消えてからファジュル礼拝(salat al-fajr)までに行う。

 

イシュマエル(Ishmael) 一神教(Monotheism)の偉大な長老アブラハム(Abraham)とそのエジプト人妻ハジャール(Hajar)(ハガル(Hagar))の子で、アラブ族の父と呼ばれ、イスラームの預言者の先祖でもあり、イスマーイール(Isma'il)とも転写されている。(イスマーイール(Isma'il)参照)

 

イシン(Isin) メソポタミア南部に興ったアモリ王朝群(Amorite Kingdom)古代都市国家(BC 20th C)1つ。

 

イスタハリ(Auctore Abu Ishak al-Farisi al -Istakhri) アブー ザイド バルヒ(Abu Zayid al-Balkhi)の門下、ペルセポリス近くの村の出身であるイスタハリの人生についてはインダス谷のイブン ハウカルと出会い、それによって地理学的情報を交換し、それぞれの尊重する著作を比較しあった事を除いては実際的に何も分かっていない。950年頃に「タクウィム ブルダン(国々の描写)(Takwin al-Buldan)」編集し、最新情報化し、増補した版を作った。

 

「イスタハリ版国々の描写」: (Viiae Regnorum. Descriptio Ditionis Moslemicae - Auctore Abu Ishak al-Farisi al -Istakhri)M. J. ジョエジュ(M. J. de Goeje.)編集1927年ライデン(Leyden)で出版。

 

イスマーイール(Isma'il) クルアーン(Qur'an)に登場する預言者の1人であり、アブラハム(Abraham)(イブラーヒーム(Ibrahim))の息子でアラブ人(Arab)およびムハンマド(Muhammad)の祖先である。 イスマーイール(Isma'il)は聖書にはイシュマエル(Ishmael)とされているが、旧約聖書の記述とイスラーム(Islam)の教えのもっとも異なる点はアブラハム(イブラーヒーム)が息子を犠牲に捧げる様に命じられた故事において、その息子を旧約聖書がアラビア語ではイスハーク(Ishaq)であるイサク(Isaac)とするのに対して、イスラームではイスマーイールとする点である。犠牲に捧げるように言われたのが一人息子であった以上はそれは先に生まれたイスマーイール以外にありえないとしてイスラーム側はユダヤ教(Judaism)による歴史の改竄(かいざん)を批判している。イスマーイールの名はクルアーンには12ヶ所で言及されている。イスマーイールは父アブラハム(イブラーヒーム)と共にカアバ神殿(Ka'bah)の建設を行い、マッカ(Makkah)(メッカ(Mecca))に定着して、アラブ部族の女性と結婚し、アラブ化によるアラブ人の祖先になった。クルアーンではイスマーイールとイスハーク(Ishaq)(イサク(Isaac))は兄弟ともに預言者とし讃えられている。イスマーイールの系譜から最後の預言者ムハンマドが生まれるが、イスハークはその子ヤアクーブ(Ya'qub)(ヤコブ(Jacobus))を通じてイスラエル(Israel)の民の祖となり、その系譜からムーサー(Musa)(モーゼ(Moses))、ダーウード(Dawud)(ダビデ(David))、スライマーン(Sulayman)(ソロモン(Solomon))などの多くの預言者が現れた。(出典: 岩波イスラーム辞典)

 

イスマーイール派(Ismailism, Ismaili or Isma'ilite) イスマーイール派は別名7イマーム派とも呼ばれ、8世紀に興ったシーア派一派で、その信徒(Ismaili)はシーア派の第6代イマーム (Ja'far ibn Muhammad)の長子で父に後継者として任命されたが取り消されたイスマーイール(Isma'il ibn Ja'far)を第7代イマームであると唱え、秘密的哲学を信奉するイスラーム教シーア派(Shi'ite)の一分派である。イスマーイール派(Ismailiya)とも転写されている。なお、イスマーイール族(Isma'ilite)についてはクライシュ族(Quraysh)およびフバル神(Hubal)を参照されたい。

 

イスマーイール・シャー(Ismail Shah) 1513年にタブリーズ(Tabriz)付近で敗北し、1516年の春にオスマンとルコ(Ottoman Turks)のスルターン・サリーム一世(Sultan Salim I, 1516-1520)から最後の攻撃を被ったサファビー朝ペルシア(Safavid Dynasty of Persia, 1501 - 1736)の建国者で初代王(Shah Ismail I1487 – 1524)

 

イズミル(Izmir) トルコ西部、エーゲ海の入江イズミル湾を望む港湾都市(200)で旧称スミルマ(Smyrna)

 

イスラ(Ithrah) クライヤート(Al Qurayyat)15kmにある集落。

 

イスラーム(Islam) イスラーム(イスラーム)とは「絶対帰依すること」の意味で、唯一神アッラー(Allah)とその使徒であるムハンマドを信じ、聖典クルアーンの教えに従って生きることを意味する。そのため、狭義の宗教面に限らず、社会生活全体をイスラームが律するものとされる。(出典: 岩波イスラーム辞典)

 

「イスラーム以前のアラビア史の研究」: 「イスラーム以前のアラビア史の研究」(Etudes sur I'histoire des Arabes avant I'Islamisme)1840年当時のフランスのジェッダ領事でアジア ジャーナル(Journal Asiatique)にも記事を載せている東洋通のフルジャンスフレネル(Fulgence Fresnel)が著作し、1836年にパリ(Paris)で出版された(Paris 1836)」。

 

イスラーム五行(Five Pillars of Islam):イスラーム五行(ごぎょう)とは個々のイスラーム教徒(Muslim)に義務として課せられた信仰告白(シャハーダ(Shahadah))、礼拝(サラート(Salat or Salah))、喜捨(Zakat)、断食(Sawn)、巡礼(ハッジ(Hajj))の5つの行為である。詳細については各項目を参照戴きたい。

 

イスラームシャリーア法(Law of the Islam or Shariah) イスラーム世界では宗教と世俗社会の両方に対する法律である。シャリーアのうち主に宗教に関わる部分をイバーダート(Ibadhat)(儀礼的規範)、世俗的生活に関わる部分をムアーマラート(Mu'amalat)(法的規範)と称する。イバーダート(Ibadhat)は個々人と神との関係を規定した垂直的な規範、ムアーマラート(Mu'amalat)は社会における諸個人間の関係を規定した水平的な規範と位置づけられる。

 

イスラームの征服(Islam Conquests): (ムスリムの征服(Muslim Conquests)参照。)

 

イスラーム帝国(Caliphate) ヨーロッパの歴史家が長らく正統カリフ(Rightly Guided Caliphs or Righteous Caliphs)からアッバース朝(Abbasid Dynasty)までのイスラーム国家に対する呼称として用いてきた「サラセン帝国(Saracen Empire)」をイスラーム(Islam)と言い換えたもので、唐では大食(タージ)と呼んでいた政権である。

 

イチサヨファギ(Inchthyophagi) イチサヨファギは「現在のペルシアの南東部に当たるカルマニア(Carmania)およびパキスタン南西部のバルチスタン(Baluchistan)州の辺り一帯であるゲドロシア(Gedorosia)からエリュトゥラー海の一番遠い入江(紅海)まで広がった海岸に住んでいた野蛮人達」とディオドロス(Diodorous)の著書「歴史叢書(Library of History)」で記述され、オールドファーザー(C.H. Oldfather)によって「魚を食べる人達」と翻訳されている ('Ichthyophagi' or Fish-eaters in Translation of C.H. Oldfather)

 

イッズ・アッディーン・アイバック(Izz al-Din Aybak) バフリー・マムルーク朝(Bahri Mamluk)2代スルターン(Sultan, 1250 – 1257)アイユーブ朝(Ayyubid)の第7代スルターン(Sultan) サーリフ(Al-Malik as-Salih Najm al-Din Ayyub, 1240-1249)1249年、ルイ9(Louis IX)(1214-1270)1が指揮する第7回十字軍(Seventh Crusade 1248 - 1254)がエジプトに侵攻した際、肺病を罹い死亡し、軍団の統制がとれていなかった。この為、その元奴隷の妃シャジャルドゥッル(Shajar al-Durr)3ヶ月間、味方の動揺を抑えるためにサーリフを生きているようにスルターンを暫定的に努めた。その間に、当時スルターン護衛隊長で後のマムルーク朝第5代目スルターンのバイバルス(Sultan Baybars, 1233-1277) (al-Malik al-Zahir Rukn al Din Baybars al Bunduqdari)が軍団長不在のバフリー・マムルーク軍(Bahri Mamluk)の指揮を取り、奮戦したお陰でマンスーラの戦い(Battle of El Mansurah)125028日から11日)においてルイ9世を捕虜とする等、大勝利をおさめた。シャジャルドゥッル(Shajar al-Durr)は不和となった息子トゥーラーンシャー(Turanshah)を殺害し、アイユーブ朝を滅亡させ、マムルーク(奴隷出身の騎兵)を支持基盤とし、自分自身をスルターナ(Sultana)とするスンニー派イスラーム王朝であるマムルーク朝(Mamluk Sultanate, 1250 - 1517)へと移行した。しかしながら、地方君主、将軍達、アッバース朝(Abbasid, 750 - 1258) のカリフ(Caliph)等の多くがスルターナ(Sultana)に反対した。この勢力に対抗する為に、当時、テュルク(Turkic peoples)系のマムルーク(奴隷軍人)(Mamluk)出身で、筆頭将軍であったイッズ・アッディーン・アイバック(Izz al-Din Aybak)を味方につけて結婚し、スルターン(Sultan)の位を譲った。夫婦の仲は不和が続き、シャジャルドゥッルはイッズ・アッディーン・アイバックを暗殺し、少年マンスールアリー(Al-Mansur Ali)を第2代目スルターンに擁立したが、モンゴル帝国軍の侵入を受けた。この戦いの最中の125911月に軍事態勢を強固にする為、将軍クトゥズ(Qutuz)は少年スルターンを廃して、自らマムルーク朝第3代目のスルターンとなった。翌年、クトゥズ(Qutuz)はアインジャールートの戦い(Battle of Ain Jalut)(126093日)でキトブカ(Kitbuqa)率いるモンゴル帝国軍(Mongols in Palestine) ・キリスト教徒諸侯連合軍を破りモンゴル帝国の西進を阻止した。

 

イッビーシン(Ibbi Sin, BC 1963 – BC 1940(Short Chronology)) ウル第三王朝(Ur III)第五代で最後の王

 

イッフラム(Ihhram) ベドウィン(Bedouins)が腰の周りに纏う。

 

「偽りの旅人と東洋旅行の物語(Travelers in Disguise - Narratives of Eastern Travel)」: ポッジョブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini)とリドヴィコヴァルセマ(Lidovico de Varthema)の著述はハクルート(Hakluyt)協会のジョンウィンタージョーンズ(John Winter Jones)が翻訳し、「偽りの旅人と東洋旅行の物語(Travelers in Disguise - Narratives of Eastern Travel)」との題名でL.D. ハモンド(L.D. Hammond)の紹介を付け、1963年にケンブリッジ(Cambridge, Mass)で出版された。その本の24頁にジッダ通過の最も貧弱な記述が掲載されている。

 

イード・アドハー('Id al-Adha or Eid al-Adha) 犠牲祭('Id al-Adha)と転写されているこの祭りはマッカ巡礼(hajj)の最高潮の日であるデュール・ヒジャー月(Dhu'l-Hijja or 12th month)7日から10日に祝われ、大祭(Greater Bairam)とも呼ばれる。この祭りの際には家族毎に羊等を屠り、一族で食すると共に一部の肉を貧者に施したりする。(出典: 岩波イスラーム辞典、新イスラーム事典およびリーダーズ新英和辞典)

 

イード・イ・クルバーン('id-i qurban) 元々はペルシア語(in Psersia)で犠牲祭('Id al-Adha or Faest of Sacrifice)をイード・イ・クルバーン('id-i qurban)と呼んでいたが、今では多くのイスラーム諸国語で犠牲祭をこの様に呼んでいる。

 

イード・フィトル('Id al-Fitr)  断食明けの祭('Id al-Fitr) と転写されているこの祭りは断食月のあけたシャウワール月(Shawwal or 10th month)1日から3日に祝われ、小祭(Lesser Bairam)とも呼ばれる。この祭りの際には周囲の貧者に特別な喜捨(Zakat al-Fitr)を与える。(出典: 岩波イスラーム辞典、新イスラーム事典およびリーダーズ新英和辞典)

 

イドリーシー (Idrisi) イドリーシー(通称 'ash-Sharīf al-Idrīsī, c 1098 – 1156)はシチリア王ロジャー(Roger) 2世に仕え、その勧めで旅を重ね世界地図及び地理書「世界横断を望む者の慰みの書」(1154)を完成した。中世におけるもう一人の主要なおそらく最も偉大なイスラームの宇宙構造論学者であったイドリーシーが西洋でも最も知られていた訳は世界を平面球形図で描いた一揃いの地図帳で補足されたイドリーシーの本が最初の主要なアラビア地理学者の著作としてヨーロッパ言語であるフランス語に翻訳された為である。モロッコ(Morocco)のテトゥアン(Tetouan)でフェス(Fez)の支配者(西暦791 - 西暦926年)の家に生まれたが、ファーティマ朝(Fatimid)の迫害のために国を逃れ、かなりな時間をヨーロッパと小アジアを旅行して過ごした。この為にイドリーシーはコルドバで教育を受けている。啓発された元首で地理学愛好家であったロジャー二世(ノルマン族でシシリーの王)はイドリーシーの評判を知り、イドリーシーをパレルモの宮廷に招いた。イドリーシーはシシリー島に西暦1125年から1150年まで住み、そしてその地理学の著作と共に天球とその時代に分かっていた世界の円盤を作った。両方とも銀製であったので失われてしまった。イドリーシーはこの島に滞在している間に、イドリーシーはこの島を行き来する船乗りや商人そして記述は無いが恐らく帰還した十字軍戦士達から豊富な情報を得る事が出来た。更に、最新の地理学的知識を得て、イドリーシーがその著作を完成出来る様に、ロジャー王は様々な国に密偵を派遣して、観察させ、それを記録させ、そして正確な資料と写生図を持ち帰る任務を命じていた。この為にイドリーシーの有名な著作は次第に具体的にまとまり、次第に本の題名を「キタブ ルジャリ(ロジャーの本)」或いは「ヌザトムシャタグフィイクティラクアファク(Nuzhat al-Mushtaq fi Ikhtiraq al-Afaq)(世界の様々な地方を放浪しようとする者達の喜び)」と名付けた。

 

イドリーシー首長国(Idrisi, 1906 - 1934) 第一次世界大戦中にジーザーン(Jizan)近くのサブヤー(Sabya)に行政府を構えたムハンマド・イブン・アリー・イドリーシー(Muhammad ibn Ali al-Idrisi)がヒジャーズ(Hijaz)のシャリーフフサイン(Hussein bin Ali, 1854 – 1931))同様にトルコ(Turk)に逆らい「英国側である」と宣言した。トルコがアラビアから撤退した時にはアシール(Asir)はイドリーシー(Idrisi)の支配下にあった。1920年にイブン・サウード(Ibn Saud)はアシール(Asir)および遠くフダイダ(Hudaydah)までのティハーマ(Tihamah) をイドリーシー(Idrisi)の名目支配の儘で保護領としてアブハー(Abha)を占領した。

 

「イドリーシーの地理(Géographie d'Edrisi)」: キタブジャリ(Kitab al-Rujari)(ロジャーの本)或いはヌザトムシャタグフィ・イクティラクアファク(Nuzhat al-Mushtaq fi Ikhtiraq al-Afaq)(世界の様々な地方を放浪しようとする者達の喜び)と名付けられた中世における最も偉大なイスラームの宇宙構造論学者であったイドリーシー (Idrisi, c 1098 – 1156))の著作で、「イドリーシーの地理(Géographie d'Edrisi)」としてA. ジョブール(A. Jaubert)によって翻訳・編集され、1836 - 1840年パリで出版さている(Tr. and ed. by A. Jaubert, Paris 1836 - 1840.)

 

イドリース朝(Idrisid Dynasty, 789 – 985) アリー(Ali ibn Abi Talib, c. 600 - 661)とファーティマ(Fatimah Al Zuhra, 605 or 615 – 632)の血を引くイドリース(Idris ibn Abdallah, 788 – 791)がマグリブ(Maghreb or Maghrib)のベルベル人(Berber People)に受け入れられ、開いたシーア派(Shia Islam)王朝

 

イヌーナ(‘Inunah or Aynunah) タブーク(Tabuk)南西145km紅海岸の港町ドゥバー(Dhuba or Duba)12kmに位置するオアシスで、ナバテア時代の港ルキ・コマ(Luki Koma or Leuke Kome)の遺跡の見つかるマガアール・コッファール(Maghaar Al Koffar)と呼ばれる泉の井戸のあるアイヌーナ・オアシス(Aynunah Oasis)と思われる。

 

イブ (Eve) 人類の始祖Adamの妻、神が創造した最初の女。エバとも転写されている。

 

イブ(Ibb) イエメンのヤリム(Yarim)南、レダン(Redan)ともティファール(Tifar)とも呼ばれる古代ジファール(Zifar)

 

イフシード朝(Ikhsids, 941 – 974 or 935 - 969): トゥールーン朝(Tulunids, 868 - 905)滅亡の後、西暦905年から941年までナイル谷は再びアッバース朝(Abbasids, 750 – 1258)に支配され、それを西暦973年までイフシード朝(Ikhsids)が引き継ぎ、ファーティマ朝(Fatimid Islamic Caliphate, 909-1171)に滅ぼされるまで続いた

 

イフタール(iftar) 断食明けの食事で、断食者は日没確認後にイフタールをとる事になっているが、一般的にはマグリブ礼拝(salat al-maghrib)のアザーン(adhan)を聞いてからイフタールをとる。(出典: 岩波イスラーム辞典)

 

イブの霊廟(Solid Mausoleum for Eve) ペルシア人達はイブの墓を煉瓦と石膏の漆喰で頑丈な霊廟した。この霊廟はヒジュラ暦621年、西暦1224年まで立って居たが、その時に崩壊し、復元される事は無かった。

 

イブラーヒーム(Ibrahim al-Khalil) クルアーン(Qur'an)に登場する預言者の一人であり、アッラーの友(カリール アッラー(Khalil Allah))と呼ばれる。旧約聖書ではアブラハム(Abraham)と呼ばれ、紀元前19 - 17世紀頃の人物と考えられるが、イスラームでは年代の確定に関心が薄い。イブラーヒームは純粋な一神教徒(hanif)でイスラームではその再興に関心が集中している。イブラーヒームはユダヤ教徒でもキリスト教徒でも無く、帰依するのはハニーフ(hanif)であり、多神教ではなかった。ムハンマド(Muhammad, c. 570 - 632)はハニーフのイブラーヒームの信仰に従う様に啓示を受け、純粋な一神教の再興としてイスラームを明確に位置づけている。イブラーヒームはメソポタミア(Mesopotamia)の出身で郷里の偶像崇拝を批判し、人々の反発を受け、迫害された。その後、イブラーヒームはシリア、パレスチナ、エジプトへと移住し、さらにアラビア半島に渡り、息子のイシュマエル(Ishmael)と共にカアバ神殿を建設した。イシュマエル(イスマーイール)はそこに残って定住し、アラブ人(Arabs)の祖先となった。一方、イブラーヒームのもう一人の息子イスハーク(Ishaq)(イサク(Isaac))の子孫はイスラエル(Israel)の民となった。ユダヤ教(Judaism)、キリスト教(Christianity)、イスラーム教はセム的一神教と云われ、イブラーヒーム系譜の一神教であり、「最後の啓示としてイスラームが生まれた」とイスラームではイブラーヒーム系譜が強調されている。(出典: 岩波イスラーム辞典)

 

イブラーヒーム・パシャ(Ibrahim Pasha, 1789 - 1848) オスマントルコのエジプト総督で半独立政権を樹立したムハンマド・アリー(Muhammad Ali Pasha, 1769 - 1849)の子でエジプトの将軍であった。181899日にディルイーヤ(Diriyah)を包囲し、陥落させ、第一次サウジ公国(1745 – 1819)を打倒した。1848年に父から総督を継承したが、短期間(March – November, 1848)で病死した。

 

イフラーム(ihram) イーラムとも転写されている。預言者によってその境界の輪郭を描かれた聖なる区域(holy orecinct or al-haram)に近寄る時には世界的に存在する不浄を身体から洗い流す為に巡礼は完全な洗い清めの儀式(al-ghusl)を行わなければならない。それからそれぞれの巡礼は清められた状態を保つ為に二切れの継ぎ目のない白い布の巡礼用の衣裳(Dress of Pilgrimage)であるイフラーム(ihram)を着用しなければならない。その後は巡礼達は全てに邪悪な考え、世界の心配および性的な愛欲の喜悦も絶たなければならない。この状態でハッジを行おうとしているものはすっかり死ななければ成らない。イフラームの白い色は清浄を示すだけでは無く、精神的な死も示して居り、これが殆どの巡礼達が巡礼儀式の終わりにイフラームを自分の屍衣として使う為にしまって持ち帰る理由である。(イスラームでの屍衣も常に白色である。)イフラームは又、すべてのムスリムが審判の日(Day of Judgement)に行う様に神の前に立った最初の人類のありのままを示している。

 

イフリーキヤ(ifriqiya or Ifriqiyah) マグリブ東部。

 

イフワーン(Ikhwan) 同胞(信者仲間)(Brethren)は田舎の共同体で布教中心の構成員である。最初のイフワーン又はイクワーン(Ikhwan)はワッハーブ派(Wahhabi)の再建者アブドカリム(Abd al-Karim)によって19世紀末に北部ナジュド(Najd)のアルタウィーヤ(al-Artawiya)に創設された。後にイフワーン運動(Ikhwan movement)はイブン・サウード(Ibn Saud)によって組織替えされ、イブン・サウードのアラビア半島統一(1912 - 1930)の際に重要な働きをした。部族の枠をこえた宗教・軍事上の同胞組織となり、アラビアのオアシスを中心に分散して定住し、灌漑を進めると共にベドウイン(Bedouin)の定住化をはかり、宗教面までワッハーブ派の教義を浸透させた。しかし、1920年代後期にイフワーン(Ikhwan)の多くがアブドゥルアジーズ王(King Abdulaziz)(イブン・サウード)自身との利害の食い違い、又その権威に刃向かうだけの十分な力あると感じ、同王に対し公然と造反した。1930年代初めにはイフワーン達(Ikhwan)は弾圧・服従させられ、結果的にこの運動は解散させられ、後にサウジアラビア国防軍に吸収された。

 

イフワーン3部族: イクワーン3部族とも転写され、オタイバ族(Otaibah or ‘Utaybah Confederation)(アテバ族(Ateba))、アジュマーン族(Ajman or Ujman)およびムタイル族(Mutair, Mutayr or Mtayr)(ムテール族(Muter))を指している。

 

イブンアイド(Ibn Aid) アシール(Asir)1917年までオスマン帝国(Ottoman)の県であった。その後アブハー首長(1917 – 1919)のハサンアリーイブンアイド(Hasan Ali Ibn Aid)が支配したが、1919年のイブン・サウード王(Ibn Saud)はアシールに軍隊を送って制圧した。しかしイブンアイドが再び反乱したのでファイサル王子(Prince Faisal)がアブハー(Abha)へと軍を率いて、陥落させ、その時以降、アシールはサウジ領の一部と成った。

 

イブン・アウン(Ibn Awn) アシール(Asir)はマサミ(Al Mathami)出身の首長に1817年(ヒジュラ暦1233年)まで支配されて居た。その後でエジプト軍を率いたシャリーフムハンマドイブン・アウン(Al Sharif Muhammad Ibn Awn)がアシールを制圧してムハンマド・アリー・パシャ(Muhammad Ali Pasha)とアリーを支持するメッカ首長(Sharif of Mecca)の共同統治下に入れた。

 

イブン・アブドッラー(Ibn Abdullah, d. 1726) バヌー・ハニーファ(Banu Hanifah)一門の生き残りの一つシャラン家(Al Sha'lan)の一員で1682年までマンフハー(Manfuhah)を支配して居た が、1726年に没するとその後継者をめぐってルアサ(ru'asa'、為政者)の間で典型的な争いが続いた。

 

イブン・ アミール(Ibn 'Amir) イブン・サウードアシール首長であったアブドゥルワッハーブイブンアミール('Abd al-Wahhab ibn 'Amir)はイブンムハンマド(Ibn Muhammad)を服従させる為、ヘジラ暦1225年(西暦1810/1811年)に涸れ谷ビーシャ(Wadi Bishah)で戦い、勝利した。しかしながら、この戦いでイブンアミール(Ibn 'Amir)自身が殺された。

 

イブンイシャク(Ibn Ishaq) ムハンマドイブンイシャクイブンヤサール(Muammad ibn Isaq ibn Yasar, 704 – c. 767/770)はアラビア歴史家で聖人伝作者(Hagiographer)である。イブンイシャクは預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の最初の伝記の根拠となる口述の言い伝えを集めた。その伝記は通常、シラトラスルアッラーフ(Sirat Rasul Allah)と呼ばれ、「神の使いの一生(Life of God Messenger)」と翻訳されている。

 

イブンウマル(Ibn 'Umar) シャリーフハムドイブンウマル(Shareef Hamud ibn 'Umar)は涸れ谷ビーシャ(Wadi Bishah, 1810/1811)の戦いでイブンアミール(Ibn Amir)自身が殺されたのに乗じて、ヘジラ暦1230(1814 - 1815)以降、南のズバイド(Zubayd)から北のサラート山脈(Jibal al-Sarat)までをティハーマ(Tihamah)の王(1814/1815/1834)として統治した。

 

「イブンカッリカン伝記」(Biography of Ibn Qalaqis): 「イブンカッリカン(Ibn Khallikan)伝記」の中の「ワファヤアヤンとアンバアブナザマン(Wafayat al-ayan wa anba abna az-zaman) in the biography of Ibn Qalaqis」はヴェステン・フェルド(F. Wüstenfeld )により編集され、1835 - 1842年にゲティンゲン(Göttingen)で出版された。又、M. ナリノ(M. Nallino)が編集し1939年にローマ(Rome)で出版した「サウジ家のアラビア(L'Arabia Saudina)」の中にも引用されている。

 

イブンコールダドビ(Ibn Khordadbih820 - 912) 一番初期のアラブ地理学者の一人であり、バクダードのアッバース朝カリフムタミド(Al Mu’tamod, 870 - 892)の宮廷学者であった。コールダドビはペルシアの出身でその頃、カリフの住居の在ったサマッラ(Samarra)に来る前は或る時期メディナの郵便局長を務めていた。公務員であったのでコールダドビは多くの貴重な統計的、旅行の情報を入手する事が出来た。そしてコールダドビの著作「キタブマサリク-ママリク(道路と王国の本)(Kitab al-Masalik wa'l-Mamalik (Book of the Roads and Kingdoms))」はアッバース朝の王子の為に西暦846年に編纂され、イスラーム帝国の偉大な交易路の興味ある概要を含んでいた。

 

イブン・サウード王(Ibn Saud) アブドゥルアジーズイブンアブドルラーマンサウード(Abdul-Aziz Ibn Abdul Rahman Al Saud, 1876 - 1953)はサウジアラビア(Saudi Arabia)を建国した初代国王である。イブン・サウード(Ibn Saud)18世紀以来ワッハーブ派運動(Wahhabi Movement)を支持しナジュド沙漠(Nejid)を、第一次サウジ公国(First Saudi State, 1744 - 1818)および第二次サウジ公国(Second Saudi State, 1824 - 1891)を樹立し、支配したサウード家に生まれた。1902115日に先祖伝来のリヤード(Riyadh)をラシード族(the Rashidi)から奪回し、1913年にはその支配をアラビア湾のハサー(Al Hasa)まで広げ、192111月迄にはラシード族(the Rashids)が支配するハーイル(Hail)tとシャンマル山塊(the Jebel Shammar)を抑え、「ナジュドと属領のスルターン(Sultan of Najd and its Dependencies)」を名乗った。1922年までにジャウフ(Jawf)と涸れ谷スィルハーン(Wadi Sirhan)および偉大なナフード沙漠(the Great Nafud)の西のハイバル(Khaibar or Khaybar)およびタイマー(Teima)を獲得し、ナジュド沙漠(Nejid)の支配を確立した。イスラームのカリフ(Caliph al-Islam)を自称したフサイン(Husayn)19249月上旬に山岳都市ターイフ(Tayif)で戦闘を始めた。19241013日にメッカ(Mecca)に入城、19251223日にジェッダ(Jeddah)に入城してヒジャーズ(Hejaz))を征服した。192618日には住民の支持を得て、「ヒジャーズの王(the title of King of the Hejaz)」に戴冠した。19329月にイブン・サウード(Ibn Saud)は自分の統一した領土を「サウジアラビア王国(Kingdom of Saudi Arabia)」と名付け、自らがその初代の国王に成る事を宣言した。その治世の後半の1938年には石油が発見され、第二次大戦終了後には大規模な石油開発推進の恩恵を受けた。

 

イブンジャファールハサニ(Ibn Jafar Hasani) イブンハウカルはその著書「キタブスラトアルド(Kitab Surat al-Ard)(陸地の地形)(Configuration of the Earth)」に「ジュッダは繁栄し、経済的に栄え、非常に裕福であり、ヒジャーズに属さず、メッカから独立しており、豊かな富を持ち、多くの商取引を行って居た。その頃、この町の交易はペルシア人に握られていた。しかしながらイブンジャファールハサニ(Ibn Jafar Hasani)がおよそ西暦965年にメッカを征服し、地方の支配者として新たな王朝を建国し、覇権をジュッダにも及ぼすとジュッダの有力な市民は逃散し、この町の状況は不安定に成ってしまった (Conqueror of Mecca, circa 965)」と記述している 。(シャリーフ(Sharifs)参照。)

 

イブンジュバイル(Ibn Jubayr) アブー-フサインイブンジュバイル(Abu 'l-Husayn Muhammad ibn Ahmad ibn Jubayr)は「巡礼の年代記」の著者で西暦114591日にバレンシアの名家に生まれた。この家はメッカ近郊の元々キナーナ部族(Kinnah tribe)出身で4世紀前にスペインに移住していた。イブンジュバイルは巡礼に行こうと決心した時はグラナダ(Granada)のムーア人(Moors)総督の秘書であった。熱心で誠実なモスレム(Moslem)であったイブンジュバイル(ibn Jubayr)はこの町の内科医(Physician)を同伴し、グラナダ(Granada)118323日に出発し、途中でアレクサンドリア(Alexandria)とカイロ(Cairo)に立ち寄り、ナイル川(The Nile)をクス(Qus)まで下った。その後、イブンジュバイルはエジプト(Egypt)の東沙漠をアイダブ(Aydhab)まで横断し、718日に紅海(the Red Sea)渡航に船出した。船は翌日にアイダブ(Aydhab)を離れ、荒れ気味の四日間掛けて、反対岸のジッダ(Jiddah)に到着した。その報告者はR.J.C. ブロードハースト(R.J.T. Broadhurst)によって翻訳されている。

 

「イブンジュバイルの旅行記」: イブンジュバイル(Ibn Jubayr)著の「イブンジュバイルの旅行記(Travels of Ibn Jubayr」はブロードハースト(R.JC. Broadhurst)が翻訳し、1952年ロンドンで出版されている。

 

イブン・スハイム(Ibn Suhaym) 18世紀中頃のリヤードのカーディー。

 

イブン・ズバイル('Abd Allah ibn al-Zubayr, 624 - 692) 2次内乱中のマッカ(Makkah)でカリフ(Caliph)を名のり、ウマイヤ朝(Umayyad, 661 - 750)に対抗した人物である。父はムハンマド(Muhammad)の従兄弟でクライシュ族(Quraysh Tribe)のズバイル・イブン・アウワーム(Zubayr ibn al-'Awwam, ? - 656)で母は初代正統カリフ(632 - 634) アブー・バクル(Abu Bakr al-Siddiq, c.573 - 634)の娘アスマー(Asma')である。少年時代からアラブ(Arab)の大征服に参加し、シリア(Syria)やエジプト(Egypt)を転戦したといわれる。父ズバイルが第1次内乱で第4代正統カリフ(656 - 661)アリー('Ali ibn Abi Talib, c. 600 - 661) に反旗をひるがえし、656年のラダクの戦い(Battle of Camel)で敗死するとムハンマド(Muhammad)の妻で叔母のアーイシャ('A'isha bint Abi Bakr al-Siddiq)とマディーナ(Madinah)へ帰還し、隠遁生活に入った。680年にウマイヤ朝初代カリフ(661 - 680) ムアーウィア(Mu'awiya ibn Abi Sufyan, c.602 - 680)が死ぬと後継者ヤズイード(Yazid ibn Mu'awiya, c642 - 683)に対する忠誠の誓いを拒否して、マッカに亡命した。さらにフサイン(Sayyid al-Shuhada' Abu 'Abd Allah Husayn ibn 'Ali, 626 - 680)がカルバラー(Karbala')で虐殺されると、イブン・ズバイルは自らカリフを名乗り、ウマイヤ朝に対して公然と反乱を起こした。その後、ウマイヤ朝の劣勢に乗じて支配範囲を拡大し、イラクを掌中にした。クーファ(Kufa)で発生したムフタールの乱(Haraka al-Mukhtar, 685 - 687)を鎮圧し、一次はウマイヤ朝版図の過半を支配したが、ウマイヤ朝第5代カリフ(5th Caliph, 685 - 705) アブドゥルマリク(Abu al-Walid Ahd al-Malik ibn Marwan, 646/7 - 705)が派遣したハッジャージュ(Abu Muhammad al-Hajja ibn Yusuf al-Thaqafi, 661 - 714)の軍勢にマッカを攻撃され、敗死した。(出典: 岩波イスラーム辞典

 

イブンタイミヤ(Ibn Taymiyah) ハンバリー派(Hanbali)の宗教改革者(1263 - 1328)で個人も政府も儀式および司法の実践に最も厳しい強制を強要し、ムスリム(Muslim)の最初の世代あるいは当初のイスラーム(Islam)の教え以降に導入されたどのような信条(Belief)あるいは聖伝(Tradition)も拒否した。

 

イブン・ダリム族(Ibn Dhalim Tribe) カフターン部族(Qahtani Arabs)系譜のリジャール・アルマア族同盟(Rejal Al-Ma'a)傘下の部族。

 

イブン・ディルア(Ibn Dir', 15th Century) ハニーファ一門(Bani Hanifa)ハナフィー族(al-Hanafi)ムルダ一門(Muradah Clan or Mrudah)ディルア族(Dir’)首領

 

イブンハウカル(Ibn Hauqal) イブンハウカルは偉大なイスラーム旅行者の一人である。西暦943515日に故郷のバクダードを離れて、北アフリカ、スペイン、それからシギルメサ(Sigilmessa in Morocco)とガーナ(Ghana)へ行き、それからエジプト(Egypt)、南メソポタミア(Southern Mesopotamia)、西ペルシア(Western Persia)、トランソザニア(Transoxania)を越えて、最後にシシリー(Sicily)へ着いた(西暦972年から973年)。イブンハウカルの著書「キタブスラトアルド(Kitab Surat al-Ard)(陸地の地形(Configuration of the Earth))」は西暦988年に完結した。イブンハウカル(Ibn Hauql)はイスタハリ(Istakhri)と共に偉大な地理学者アブーザイドバルヒ(Abu Zayid al-Balkhi)の門下であり、イスタハリ(Auctore Abu Ishak al-Farisi al -Istakhri)950年頃に編集し、最新情報化し、増補した版を作ったイスタハリ版「国々の描写」はイブンハウカル(Ibn Hauqal)によってその著作「陸地の地形」に取り込まれた。

 

イブン バットゥータ(Ibn Battuta) イブン バットゥータは1304年にタンジール(Tangier)で生まれ、21才で国を離れ、その後の28年間、ムハンマド イブン アブドッラ ラワティ(Muhammad ibn Abdallah al-Lawati)(1304-68/69)の別名で25年以上にわたってアフリカ、アジア、ヨーロッパ等のその時代に知られていた殆どの国々を訪れた旅行家で「アフリカ・アジア旅行記リハラ(Rihhlah)」を著した。

 

「イブン バットゥータ放浪の物語(Narrative of Ibn Battuta’s Wanderings)」: ムハンマド イブン ジュザイ(Muhammad ibn Juzay)によって記録され、ジュザイはバットゥータの記念碑的な業績を「このシェイク(Shaykh)は我々の時代の旅行者であり、イスラーム域全ての旅行者と呼んでも真実を逸脱してはいない」との言葉で結んでいる。

 

「イブン バットゥータの旅行記(Travels of Ibn Battuta 1325-1354)」: ハクルート協会(Hakluyt Society) H.A.R. ギブ(H.AR. Gibb)が翻訳・編集し、1958年からケンブリッジ(Cambridge)で出版されたが、1973年までに4巻内の最初の3巻発行されたのみである (Tr. and ed. by U.A.R. Gibb (Hakluyt Society). Cambridge 1958-19. Four volume edition. Up to 1973 only the first three volumes have been issued)

 

イブン・ハッバース緑地(Rawdat ibn Habbas) Rawdat ibn Habbasバーティン西北西185kmにある緑地帯。

 

イブン・ムアンマル('Uthnab ibn Hamad Al Mu'ammar) 1744年ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab)を放逐したウヤイナ(Al ‘Uyaynah)支配者。

 

イブンムジャウィール(Ibn al-Mujawir) イブンムジャウィールは西暦1204年にダマスカスで生まれた。イブンムジャウィールは印度に続いてアデン (Aden) 、ザビード(Zabid or Zebid) 、メッカそしてジッダを旅行した。イブンムジャウィールは西暦1291年に没したが「タリハムスターシール(Tarikh al-Mustahsir)」副題「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」と云う著書を残した。

 

イブンムハンマド(Ibn Muhammad) アブーミスマル(Abu Mismar)の名で知られるハムドイブンムハンマド(Hamud ibn Muhammad)19世紀初めにティハーマ(Tihamah)におけるディルイーヤ(Dir'iyah)の権威とサウード(Al-Sa'ud)への臣従から独立して対抗した。結果的にはアシール首長はイブンムハンマドを再度服従させる様に命じられ、涸れ谷ビーシャの戦い(1810/1811)で敗北させた

 

イブン・ムルジャム(Ibn Muljam Abd al Rhaman ibn Muljam) 661年クーファ(Kufa or Al-Kufah)でアリー(Ali ibn Abi Talib, c.600 – 661)を暗殺。

 

イマーム(Imamah) シーア派指導者(Shia’s Leader)

 

イマーム(Imam) スンニー派指導者(Sunni’s Leader)

 

イマーム・アハマド(Imam Ahmad ) 1948年、イマーム・ヤフヤー(Imam Yahya, 1869 - 1948 or Yahya Muhammad Hamidaddin)の暗殺によりムタワキエ王国(Mutawakkilite Kingdom of YemenQasimi Dynasty, 1918 - 1962)後継した。

 

イマーム・ガザーリー(Imam al-Ghazali, 1058 - 1111) イスラームの思想家・神学者(リーダーズ英和辞典)

 

イマームハサン(Imam al Hasan) ハサン(al Hasan)は預言者ムハンマド(Muhammad, ca. 570 – 632)の孫で第4代正統カリフ(4th Rashidum Caliph)で初代シーア派イマーム(First Shi’ah Imam)アリー・イブン・アビー・ターリブ(‘Ali ibn Abi Talib, 656 - 661)と預言者ムハンマドの娘ファーティマ(Fatima Al Zahraa, 606 or 614 – 632)の間に生まれ、スンナ派(Sunni Islam)5代カリフ(Fifth Caliph)でシーア派(Shi’ah Islam)2代イマーム(Second Imam)となったハサンイブンアリー・イブン・アビー・ターリブ(Hasan ibn ‘Ali ibn Abi Talib, 624 - 669)である。

 

イマーム・ファイサル(Imam Faisal, 1785- 1865) 2次サウジ公国第2代首長。

 

イマーム・ヤフヤー(Imam Yahya) イマーム・ヤフヤー(ヤハヤー或はヤヒヤー)(ヤフヤー・ハミード・アッディーン)(Yahya Muhammad Hamidaddin, 1869 - 1948)1904年にザイド・イマーム政権(Zaidi Imamate)のイマーム(Imam)となり、1911年に山岳地帯の北イエメンでのイマーム・ヤフヤーの支配はオスマントルコ(Ottoman Turks)に認められ、その従属国となった。1918年に第一次世界大戦の終戦でオスマントルコが北イエメンの支配を喪失するとイマーム・ヤフヤーは1926年イタリアとのサヌア条約(Treaty of San’a)のよって独立国となり、イマーム・ヤフヤーは北イエメンのイエメンムタワキエ王国(Mutawakkilite Kingdom of YemenQasimid Dynasty, 1918 - 1962)の初代国王となった。1934年のサウード家(House of Saud)との戦いでは完敗したが、イブン・サウード王(King Ibn Saud)は領土問題に触れることなく平和条約を提案した。1946年にイマーム・ヤフヤーに反対する勢力が組織され、イマーム・ヤフヤーは1948年に射殺された。イエメン・ムタワキエ王はその息子イマームアハマド(Imam Ahmad)が継承したが、3代後のムハンマド11(Muhammad XI)1962年の革命で追放され、北イエメンのイマーム支配は終焉した。

 

イマームラシード(Imam Rassids) イエメン(Yemen)での初代ザイド派イマーム(First Zaidi Imam, 893 - 897)でハサン(al Hasan)の子孫ハディヤハヤー・ビンフッサインビンカースィムラッシー(al-Hadi Yahya bin al-Hussain bin al-Qasim ar-Rassi)。(イマームハサン(Imam al Hasan)を参照。)

 

イムラーク族(Imlaq) 複数形のアマーリーク族(Amalekites, Amalek or 'Amaliq)参照。

 

イムラーン・ビン・アムル族(Imran bin Amr) カフラーン・カフターニ部族(Kahlan Qahtani Arabs)アズド族(Azd)の一門。

 

イムルカイス・イブン・アムル(Imru' al-Qais ibn ‘Amr) 5世紀のアラブ部族の王であり、元々は今日のイラク領内のヒーラ(Al Hirah or Al Hira)の自領に住んでいたがドゥーマ・ジャンダル(Dumat al-Jandal)に移住して来た。今日のヨルダン(Jordan)を凌駕し、ビザンチン帝国(Byzantine Empire)からアカバ('Aqaba)湾の入り口にあるチラン(Tiran)島を占拠する程に同王の勢力は拡大した。ここで云うイムルカイス(Imru' al-Qais)ラフム朝(266 - 602)建国者アムルの息子2代国王(Imru' al-Qais I ibn 'Amr, 288 - 328)ではなく、第6代国王Nu'man I ibn Imru' al-Qais "the one-eyed"(403-431)又は第7代国王 al-Mundhir I ibn Nu'man ibn Imru' al-Qais(431-473)の何れではないかと私は思っているが、彼らがドゥーマ・ジャンダルに移住した事を裏付ける文献は未だに探し出せないでいる。

 

イムル・カイス・イブン・フジュル・キンディー(Imru' al-Qais bin Hujir Al-Kindi))(著名な古代アラビアの詩人) イムル・カイスはアメルカイス(Ameru’ al Qays)、イムルウ・クアイス(Imru’u al Quais)又はイブン・フジュル・キンディ(Ibn Hujir Al Kindi)とも転写されている。6世紀のアラビアの詩人であり、イスラーム以前のアラビア韻文選集ムアラガト(Muallaqat)の著者でもある。イムル・カイスは最後のキンダ国(425 – 528)(Last King of Kindah)であったフジュル(Hujr)の息子であり、501年前後に生まれ、544年前後に死亡した。母親のファトマ・ビント・ラビーア(Fatmah bint Rabi'ah)2人はよく知られているアラビア部族指導者クリブ(Kulib)とムハルフル(Al – Muhalhl)の妹であった。イムル・カイスは国王の息子だったのでぜいたくしていたが、父親の暗殺の後は王権を奪われ、彼は苦渋した。この為にイムル・カイスは喪失した国王(al Malek al Delleel)と呼ばれている。イムル・カイスは父親の死を知らされた時には「今夜は飲み明かし、明日は何が起きたか対処しよう(Alyooma Khamr, Ghadan Am)」と言った程ワイン(飲酒)を愛していた。「Alyooma Khamr, Ghadan Amr」と云う意味は「父の仇を討つ」との意味と思われるが、まわりの者達は到底、納得できなかった。イムル・カイスは熱烈な愛の詩を書き、古代アラビアの詩の形式(Qasida or Classical Arabic Ode)を作り出したと考えられている。イムル・カイスの詩は多くのイスラーム前の時代の詩と同じ様に強烈に主観的だった。イムル・カイスはユスティニアヌス朝(Justinian Dynasty)東ローマ帝国の皇女と不倫関係を持った為に同皇帝ユスティニアヌス1(Justinian I, 485 - 565)から毒を仕掛けた外套を送られ、暗殺されたと考えられている。(なお、キンダ王国の最後の王はハーリス(Al-Harith Talaban ibn Amr, 489-528)であり、フジュル(Amr al-Mansur ibn Hudjr, 458-489)は第2代国王である。従って、「フジュルがイムル・カイスの父であるには矛盾がある」と私には思える。)

 

イヤアド族(‘Iyaad) アドナーン部族(Adnan)1つ。アドナーン部族に属する主な支族にはムダル族(Mudar)およびラビーア族(Rabee’a or Rabi’ah)があげられ、更にイヤアド族(‘Iyaad)とアンマール族(Anmar)が並列して記述されるが、この2部族についての詳細は私が調べた範囲ではほとんど分からなかった。

 

イヤードビンガーンム(‘Iyad bin Ghanm) ハーリド(Khalid bin Al Walid, 592 – 642)と共にイラク攻撃部隊の2人の指令の1(634)

 

イラサルス族(Ilasarus) 現在のイエメン(Yemen)のサヌア(San'a、サナ)の東にあった古代の国イラサルス(Ilasarus) ストラボン(Strabon)著地理書にラッマニタエ(Rhammanitae)部族の親族との記述されている。

 

イーラム(Hiram or Ihram) イスラーム教徒のメッカ巡礼(pilgrimage)を行う為に着るイーラム(the Hiram or Ihram)は一般的に白いインド製の綿糸で織った薄地の平織(cambric)2つ長い布で構成され、1つは腰のまわりにもう1つは左の形に掛ける。

 

イラム族(Iram) 消えたアラブ部族の1つ。アード族(‘Ad)の都ウでバール(Ubar)は千本柱の都市(City of a Thousand Pillars、柱のイラム(Iram of the Pillars)或はウバー(Wabar)とも呼ばれ、イラム(Iram)の名がついて居り、イラム(Iram)がセム(Shem)の息子で、ノア(Noah)の孫であり、アード(‘Ad)がアウス(‘Aus)の息子で、イラム(Iram)の孫であることからアード族(‘Ad)がその祖先の名でイラム族(Iram)とも呼ばれ、特に早期のアード族(‘Ad)を指している可能性が大きい。

 

イラワジ川(Irrawaddy River) ヒマラヤ山脈(Himalayan Range)の南端を源泉としてミヤンマー(Myanmar)を南流し、ベンガル(Bengal)湾に注ぎ、下流はデルタ地帯を成す。現在はエーヤワディー川(Ayeyarwady River)と呼称されている。

 

(Shehed) 頭部の印(シェヘド(shehed or witness))とは頭の位置を印したトルコ式の墓石である。

 

イルカ(Irqah) リヤード外交団地と涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifa)を挟んだ対岸の街。

 

イルク・バンバーン(Irq Banban) リヤード(Riyard)北北西のトゥワイク山脈(JebelTuwaiq)とブワイブ崖地(Buwayb Escarpment)の間に細長く延びる砂丘地帯で、小さいながら星型砂丘もある。

 

イルク・リスマ(Irq Rithmah) イルク・バンバーン北部分。

 

イルク・ワーディー(Irq al Wadi) ハマーシーン(Khamasin)北付近を中心に涸れ谷ダワースィル(Wadi al Dawasir)上流部の旧河床を東西におおう砂丘地帯。

 

イルド(Al Irdh) 涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifa)の旧名でもあり、この谷にあった町。

 

イルヤース(Ilyas) イスラエル王国(サマリア)の預言者BC 9th C)で、 エリヤ(Elijah)とも転写される。

 

インジゴ(Indigo) マメ科コマツナギ属(Indigofera)の多年草の総称でその葉からインジゴを採るものを藍(Indigo)と云う。採取した染料は暗青色で今日ではアニリンを原料として合成される。

 

インダス川(The Indus River) チベットから西に流れ、パキスタンのパンジャブ地方(Punjab Region)・タール沙漠(Thar Desert)西辺を経て、アラビア海に注ぐ。全長2,900kmで流域には紀元前2300年から紀元前1800年の間にインダス文明(Indus Valley Civilization ,Mature Period 2600 BC - 1900 BC),が栄えた。

 

インダス谷(Valley of the Indus or Indus Valley) チベットから西に流れ、パキスタンを通ってアラビア海に注ぐインダス川(The Indus River)の渓谷。

 

「インドでの冒険事業(Enterprises of India)」: ギャスパーコリア(Gaspar Correa)著の原作はポルトガル語(Lendas da India)で、その題名の翻訳には「インドでの冒険事業(Enterprises of India)」と「インドの説話集(Legends of India)」と二通りに訳せるが、私は内容から冒険事業と解釈している。

 

「インドのコーチンに至る紅海およびペルシア湾の航海術について(Navigation in the Rea Sea and the Persian Gulf up to Cochin City of India)」: フロレンス(Florence)のアンドレアコルサリ(Andrea Corsali)から最も高名な皇族でシニョール(Signor)首長でもあるロレンゾメディチ公(the Most Illustrious Prince and Lord the Signor Duke Lorrenzo de' Meddici)宛に1517918日に書かれた手紙でラムシオ(G.B. Ramusio)著の「主要な航海の収録(Delle navizazioni et Viaggi Venezia)」に収録されている。

 

「インドのポルトガル人(Portuguese in Indea)」: ダンヴァーズ(Danvers, F.C.)著、ロンドン(Lodon)1894年に出版された。アンジェロ・ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「同書には1510年代にアフォンソ・ダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque)がマニュエル国王宛てに出した手紙の一つが掲載されているが、ダンヴァーズ(Danvers)が残した日付は一般的年代記やその後のアルボケルケ(Alboquerque)の行動の続きと一致しない。ダンヴァーズはその出典を決して引用しないし、幾つかの例で明確な間違いが見られるので、ダンヴァーズの日付は正しくないと想像できる」と述べている。

 

 

ウアイテ(Uaite') カザイル(Khaza’il, d. BC675)の息子でケダール族(Qedar)を後継したが、民が叛乱

 

ヴァキア(Vakia) (衡量単位)1/15ラットル(Rattle)で換算すると1.18oz.34gである。(東洋交易(Oriental Commerce)ウィルアム ミルバーン(William Milburn)1823年出版)

重量単位の換算

衡量単位

衡量単位

pound/oz.

kg

1ヴァキア(Vakia)

1/15ラットル(Rattle)

1.18oz.

34g

1ラットル(Rattle)

1/2マウンド(Maund)

1.11lbs

0.51

1マウンド(Maund)

1/10ファジル(Frazil)

2.22lbs

1.02kg

1ファジル(Frazil)

1/10バハール(Bahar)

2.2.2lbs.

10.1kg

1バハール(Bahar)

nearly

222lbs. 6oz.

101kg(約)

1ポンド(pound)

(ounces or oz.)

16オンス

454g(約)

 

ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama) ポルトガルの航海者・探検家(1460 or 1469 - 1524)であり、喜望峰回りのインド航路を開拓した。ポルトガルの海上交易の覇権はこれによってその基礎が確立された。

 

「ヴァスコ・ダ・ガマのアラビア人水先案内人と15世紀アラビアの航海手引き書(Le pilote arabe de Vasco de Gama et les instructions nautique des Arabes au XV)」: この手引書はフェラーンド(G. Ferrand)によって著作され、1922年に出版された地理年代記172(Annales de Géographie)に掲載された。

 

ヴァスコ・ダ・ガマの航海出発日: コリア(G. Correa) が「the Lendas da India of Gaspar Correa」(「ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の三回の航海と副王(The three Voyages of Vasco da Gama and his Viceroyalty)」)で記述している日付とこの遠征に参加した無名の士官によって記録され、雑誌ロテイロ(the Roteiro)に掲載されている日付(1497325日)には著しい矛盾があるが、後者の日付はハクリート協会(Hakluyt Society)のレーヴンステイン(E. G. Ravenstein)が翻訳・編集し、1898年にLondonで出版した「ヴァスコ・ダ・ガマ の第一航海の日誌(A Journal of the First Voyage of Vasco da Gama)」に出てくるので、アンジェロ・ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)はそれ(1497325日)に習っている。

 

「ヴァスコ・ダ・ガマ の第一航海の日誌」(Journal of the First Voyage of Vasco da Gama)」: ヴァスコ・ダ・ガマ の第一航海に参加した無名の士官によって記録され、雑誌ロテイロ(the Roteiro)に掲載され記事をハクリート協会(Hakluyt Society)のレーヴンステイン(E. G. Ravenstein)が翻訳・編集し、1898年にLondonで出版 した。

 

「ヴァスコ・ダ・ガマの三回の航海と副王」(Three Voyages of Vasco da Gama and his Viceroyalty) 1858年から1864年の間にリスボン科学学会に出版され、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路横断についてギャスパーコリア(Gaspar Correa)が記述した「インドでの冒険事業(Enterprises of India)或いはインドの説話集(Legends of India)」をハクリート協会(Hakluyt Society)に属していたスタンリー(Henry.E.J. Stanley)がポルトガル語を翻訳し、註釈と緒言を付けて「ヴァスコ・ダ・ガマの三回の航海と副王」と題して、ロンドン(London)1896年に出版した。(副王は総督とも転写される。)

 

ヴァハリズ(Vahriz) サーサーン朝(Sassanid Empire, 224 - 651)ホスロー1(Khosrau I, 531 – 579)のイエメン占領軍司令官。

 

「ヴァレンシア卿(Lord Valentia)による1809年の出版」: 1802年から1806年のインド、セイロン、紅海、アブシニア及びエジプトへの航海・旅行記」マウントノリス伯爵ジョージアンスレイの嗣子ヴァレンシア(George Annesley, Earl of Mount Norris, Viscount Valentia)著、1809年ロンドンで出版(Voyages and Travels to India, Ceylon, the Red Sea, Abysinia and Egypt in the Years 1802, 1803, 1804, 1805 and 1806, by George, Viscount Valentia, London 1809.)

 

ウァレンス(Julius Valens Augustuas) 東ローマ皇帝(364 – 378)で、兄ヴァレンティニアヌス1(Valentinianus I, 321 – 375)から帝国東部を任されて、共同統治した。

 

ヴィクトリア湖(Lake Victoria) アフリカ東部、タンザニア(Tanzania)、ケニア(Kenya)、ウガンダ(Uganda)にまたがる淡水湖でナイル川の水源。標高1,134m、面積は世界第三位6.9km2、最大震度82m

 

ヴィシエール(Visier) ジッダ(Jidda)に駐在するメッカ(Mecca)のシャリーフ(the Sheriffe)を代表するシャリーフの官吏。

 

ヴィチェンツァ(Vicenza) イタリア東北部ベネト(Veneto)州の町ベネチア(ベニス)(Venice)の西にある市で人口11万人。

 

ウィディアン堆積盆端部(Widyan Basin Margin) アラビア巨大堆積盆の一部で白亜紀(Cretaceous)後期のアルマ(Aruma)石灰岩層で覆われている。この堆積盆端部には流れの方向が東へ向いた多くの涸れ谷(Wadi)がある。その堆積層は初期および中期白亜紀(Cretaceous)の砂岩、石灰岩等で構成されている。

 

ウィルフレッドセシジャー(Wilfred Thesiger 1910 - 2003)  英国探検家、ルブア・ハーリー沙漠(Rub' al Khali)を二回縦断。

 

「ウィーン王立図書館所蔵のアラビア、ペルシアおよびトルコの古文書」: FLÜGEL, G. "Die Arabischen, Persischen und Turkischen Handschriften der K.K. Hofbibliothek zu Wien" Wien 1856G. フリューゲル著、1856年ウィーンで出版。

 

ヴィンセントソドレ(Vincent Sodré) 1503212日の「カリカット(Calicut)艦隊との海戦」でヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)指揮するポルトガル艦隊の中から3艘の船と5艘のカラベル船(caravel)で編成され、岸沿いに航行したグループ(小艦隊)の指揮者。

 

「ヴェテリスイーヴィアナレクタ(Veteris Aevi Analecta)」: アントニウスマッテウス(Antonius Mattaeus)著、ハーグ(Hague)1738年に出版された。「(Veteris Aevi Analecta)」の中でアントニウスマッテウス(Antonius Mattaeus)は「紅海の旅行記(the Red Sea itineraries)」に言及している。

 

ヴェニス(Venice) ヴェネツィア(Comune di Venezia)はイタリアの北東部に位置する基礎自治体コムーネ(commune)基礎自治体で、ヴェネト州(Veneto)の州都であり、中世にはヴェネツィア共和国の首都として盛えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」「アドリア海の真珠」など、数々の名声を我が物にしてきた。(ウィキペディア)

 

ウェルステド J.R. (J.R. Wellsted) 英国人旅行家でロンドンで 西暦1838年に出版された「アラビアの旅行(Travel in Arabia)」の著者。

 

ヴォルヴィス湾(Walvis Bay) ナミビア中西部、大西洋岸にある南アフリカ共和国の飛領土で古来からの良港である。

 

ウカイル(Al Uqayr) フフーフ(Hofuf)東北東65kmに位置するハサー(Al-Hasa) オアシスの港。

 

ウカイル朝(Uqaylid Dynasty 990 – 1096) バヌー・アーミル部族連盟('Banu ‘Amir  Confederation)傘下のバヌー・カアブ族(Banu Ka’b or Banu Kaab)に帰属するバヌー・ウカイル族Banu Uqaylがイラクのモスル(Mosul)を首都として樹立したシーア派Shia Islam王朝。

 

ウガンダ(Uganda) アフリカ東部赤道上にある内陸国でヴィクトリア湖(Lake Victoria)に接し、英連邦に属し、1962年に独立、面積24km2、人口2,130万人で首都はカンパラ(Kampala)

 

ウクダ(Uqdah) ハーイル(Hail)西10kmに位置するアジャー山塊(Jibal Aja)内の隠れ里。

 

ウクーフ(wuquf) 巡礼でアラファの平原('Arafa)に逗留すること。「巡礼はアラファ('Arafa)なり」とのハディース(Hadith)があるようにウクーフ無しでは巡礼は成立しない。巡礼者は巡礼行程で巡礼月の9日の日の出から巡礼地ミナーの谷(Mina)より移動してアラファの平原('Arafa)に向かい、日没までアラファの平原に逗留する事が義務となる。ウクーフ(wuquf)の間、巡礼者は過去の罪を悔い改め、アッラー(Allah)に赦しを求め、アッラーの名を唱念し、祈願する。ズフル礼拝(salat al-zuhr)とアスル(salat al-'asr)礼拝(一日5回の礼拝の中の2回目と3回目)を短縮形で合同で行う。日没を過ぎると一斉にアラファ('Arafa)からムズダリファの谷(Muzdalifa)へ向かう。(出典: 岩波イスラーム辞典)

 

ウクラ・スクール(Uqlat As Suqur) ブライダ(Buraydah)西南西186kmの涸れ谷ルマ(Wadi ar Rumah)から涸れ谷ジフィン(Wadi al Jifin)が分岐する辺りにある集落。

 

ウコン(Turmeric) 鬱金はショウガ科の多年草で、アジア熱帯原産であり、沖縄でも栽培されている。根茎は肥大化して黄色で、葉は葉柄と共に長さ1mに及ぶ。夏・秋に花穂を生じ、卵形白色の苞を多く付け、各苞に34個ずつの淡黄色唇形花を開く、根茎を止血薬、健胃薬、香料やカレー粉、沢庵漬けの黄色染料とする。

 

ウサーマ・ビン・ラーディン(Osama bin Laden , 1957 - 2011)911首謀者、アル・カエダ首領。

 

失われたアラブ(Lost Arabs):「 消えた部族」ともいわれる「失われたアラブ(アラブ イダ(al-'Arab al-ba'ida))」に関する情報は伝説の形でしか分かって居ないがその中で幾つかはサウジアラビアのイスラーム以前の考古学的遺跡に残っている。この様な部族にはサムード(Thamud)、アード('Ad)アマーリーク('Amaliq)、イラム(Iram)、ハドラ(Hadura)、ジュルフム(Jurhum)とタスム(Tasm)とジャディース(Jadis)が含まれている。タスム(Tasm)とジャディース(Jadis)は当時は涸れ谷イルド(Wadi al-'Ird)と呼ばれていた涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifah)を含むヤマーマ(al-Yamamah)に住んで居たがイスラーム到来の二世紀前にこの地にバヌー・ハニーファ(Banu Hanifah) 一門がやって来る前に死に絶えたと言われている。

 

ウシャイキル(Ushayqir) リヤード(Riyadh)西北西160kmのシャクラー(Shaqra)北西11kmの村。

 

ウシュシャ('Ushshah) (Nest)を意味し、ティハーマ(Tihama)に住むライス族(Rayth)の半円小屋。

 

ウシュブ('ushb) ベドウィン(Bedouin)は植物を雨の後に一時的に繁茂する柔らかな一年草’ウシャブ('ushb)と厳しい夏の熱さにも耐える灌木から樹木等の植物シャジャル(shajar)に分けている。

 

ウステンフェルドF.(F. Wüstenfeld ) 「ヤクトの地理学辞書」を編集し、1866 - 1870年にライプチヒ(Leipzig)で出版 (Jacut's Geographisches Wörtebuch ed. by F. Wüstenfeld. Leipzig 1866 - 1870)

 

ウスフーリード朝('Usfurid dynasty 1253 - 1440) バヌー・アーミル部族連盟('Banu ‘Amir  Confederation)傘下のバヌー・カアブ族(Banu Ka’b or Banu Kaab)に帰属するバヌー・ウカイル族Banu Uqaylが樹立し、バハレイン(Bahrain)を含む沙漠の半島東部を支配した。

 

ウスマーン・イブン・アッファーン(Caliph Uthman Ibn Affan)(574-656) 3代正統カリフ(在位644-656)でイスラーム教(Islam)の聖典であるクルアーン(Qur’an)(コーラン(Koran))を完成させたり、651年にはサーサーン朝ペルシア(Sassanid Dynasty of Persia, 226 - 651)を滅ぼしてイスラーム帝国(Islamic Empire)の領土を拡大させるなど、大きな功績を残した。アラビア半島西部の都市マッカ(Makkah)(メッカ(Mecca))に住むクライシュ族(Quraysh Tribe)の支族であるウマイア家(Umayyad or Banu Umayya)の出身。もともと裕福な商人であったが、早くからイスラームに改宗し、のちにムハンマド(Muhammad)らと鋭く対立することとなったウマイヤ家では最初にムスリム(Muslim)となった人物とされる。預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の娘ルカイア(Ruqayya)と結婚し、マディーナ(Medina)に移住(ヒジュラ)して後に妻を亡くし、改めてムハンマドのもう一人の娘であるウンムクルスーム(Umm Kulthum bint Muhammad)と結婚した。

 

ウスマーンイブンアブーアアス(Uthman ibn Abu-al-Aas) ターイフ(Taif)がイスラーム(Islam)に敵対し始めた時のサキーフ族(Banu Thaqif Tribe)の族長(Thaqif’I Chieftain)の一人であるが、631/632年にイスラームへの改宗を受けたターイフ市代表団の団長でもあった。(出典: Wikipedia)

 

ウスマーン・イブン・ハマド・ムアンマル('Uthman ibn Hamad Al Mu'ammar) 18世紀中頃のウヤイナ(Al-'Uyaynah)の為政者。保護を求めてきたシャイフ・ムハンマド(Shaykh Muhammad)を歓迎し、強く支持したが、ハサー(al-Hasa)の為政者であるバヌー・ハーリド(Banu Khalid)からの脅しがあり、シャイフ・ムハンマドにウヤイナから引き払う様に要求した。

 

ウスマーン・ムダイキー(‘Uthman al-Mudayiqi) 1812年頃のターイフ(Taif)僭主。

 

ウスマーニーヤ(Al Uthmaniyah) フフーフ(Hofuf)南西30kmにあるガワール油田(Ghawar)の生産拠点の1つ。

 

ウスル(al 'Usr) アドナーン族(Adnan)の古いアシール(Asir)住人の名で、サラート高地(Sarat)南部は多くの山や谷の間に難路である細道や山道があった為、アラビア語で困難を表すウスルに由来し、アシールと呼ばれており、その呼び名が部族同盟の名にもなった」。

 

「ウス・ルジーアダス(Os LusÍadas, Lusiadus or the Lusiads」: ポルトガルの詩人ルイズヴァズカモンイス(Luis Vaz De Camōes) (Camoënes)1524-1580)が1572年にインド航路の発見やヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の第一回遠征を中心にポルトガル人航海者の冒険を物語った愛国的な大叙事詩。

 

ウタイバ族(Otaibah or ‘Utaybah Confederation) スンニー・ムスリム部族同盟、イフワーン3部族の1つ。

 

ウダイリーヤ(Al Udhailiyah) フフーフ(Hofuf)南西35km、アラムコのコンパウンド(居住地)がある。

 

宇宙構造論学者(Cosmographer) 自然現象に対する宇宙構造論による解釈(法)。

 

美しい肌の奴隷(Fair-skinned Slaves) 東ヨーロッパから連れて来られた奴隷。

 

ウッザー(Al-‘Uzza) ラート(アッラート)(Allat or Al-Lat)とマナート(Manat)と共に最高神アラーフ(Allahの三人娘の一人で、この名は強力や権力を意味する

 

ウトゥーブ族('Utub) ムダル・アドナーン部族(Mudar – Adnani Arabs)バニー・スライム・ビン・マンスール族(Bani Sulaim bin Mansoor)カファフ一門(Khafaf)バニー・ウトバ族(Bani Utbah)の支族。

 

ウナイザ(Unayzah) カスィーム州(Al Qasim)2の都市。

 

ウハイディルの王国 (Kingdom of Ukhaidir): ウハイディル(Ukhaidir)は現在の南イラク(Southern Iraq)のヒーラ(Al Hirah)地方のドゥマ(Duma)と呼ばれる町に兄弟と住んでいた。ウハイディルと兄弟達は沙漠にカルブ(Kalb)族の叔父を訪ねるのが常だった。その旅行に使ったコースの一つで石造りの僅かな壁だけが残る荒廃し見捨てられた町に行き着いた。アラブは石をジャンダルと呼ぶ。伝説によれば兄弟達はそこに町を築き、オリーブを植え、自分達のヒーラ(Al-Hirah)での町の名であるドゥーマ(Dumah)とたくさんの石に因んでドゥーマトジャンダル(Dumat al-Jandal)と名付け定住した。イスラームの台頭期にはドゥーマトジャンダルはキンダ(Kinda)部族出身のウハイディル・ビン・アブドゥルマリク(al- Ukhaidir bin 'Abd al-Malik)の支配の下にあった。ウハイディルはカルブ族(Kalb or Banu Kalb)を支配する為にヒムヤル族(Himyarites)によって置かれたキンダ族出身の王であった。カルブ族はカフターニ(Qahtani)部族のクダー(Quda'a)支族の分家であり、当時はキリスト教を信仰していた。カルブ族はドゥーマトジャンダルとその周辺のみならず遠く北西アラビアのタブーク(Tabuk)にもその覇権を広げていた。ウハイディルは当時の大勢力であったビザンチン帝国(ビザンティン帝国)(Byzantine Empire, 395 - 1453)やサーサーン朝ペルシア(Sasanian Iran, 224 - 651)と連携を保っていた。回教徒(Muslin)の指揮官ハーリド・イブン・ワリード(Khalid bin al-Walid)が西暦633年にドゥーマトジャンダルを攻撃していた時にウハイディルはビザンチン帝国の一勢力としてビザンチン帝国との国境地帯における部族が盟主としたガッサーン朝(Ghassanids, 3rd – 7th Century)と同盟し、その王イブン アイハム(Ibn al-Aiham, 632 - 638)やその首長ジューディービン・ラビーア(Judiyy bin Rabi'a)と密接な協力関係を持っていた。ウハイディルはビザンチン帝ヘラクリウス(Heraclius, 610 - 641)を主君として受け入れていたので預言者ムハンマド(Muhammad)のドゥーマトジャンダルへの最初の遠征はローマ帝国への攻撃を意味していた。ウハイディルはヒジラ暦(Hijra)12/西暦633年の回教徒指揮者ハーリドビンワリード(Khalid bin Walid)に征服された。

 

ウハイディル・ビン アブドゥルマリク ウハイディル(al-Ukhaidir bin 'Abd al-Malik (Abdul Malik) al Kindi, 7th Century)カルブ族(Kalb or Banu Kalb)を支配する為にヒムヤル族(Himyarites)によってドゥーマトジャンダル(Dumat al-Jandal)置かれたキンダ部族出身の封建君主であった。(ウハイディルの王国参照。

 

ウバイド・イブン・ラシード(Obaid ibn Rashid, 1836 – 1848) ラシード家(ハーイル)初代首長アブドゥッラーの弟。

 

ウバイド文化(Ubaid culture, Ca. 6500BC – 3800BC) メソポタミア(Mesopotamia)の先史文化。

 

ウバイドッラーマフディー(Ubayd Allah al-Mahdi Billah) ムハンマド(Prophet Muhammad)の娘で4代目カリフアリー(4th Rightly Guided Caliph Ali)の妻ファーティマ(Fātima)の子孫であり、北アフリカに興り、909年にチュニス(Tunis)でシーア派(Shia or Shi’ite))のイスラーム王朝を設立した。969年にエジプト(Egypt)を征服し、カイロ(Cairo)を建設し、都とし、ファーティマ朝(Fatimid, 909-1171)と称した。ファーティマ朝はアッバース朝(Abbasid Caliphate)に対抗し、東部地中海貿易を独占した。

 

ウバイラ(Ubailah, Al Ubaylah) 空白地帯中心部の集落、飛行場有り。

 

ウバーダ一門(‘Ubadah) ウカイル朝(Uqaylid Dynasty, 990 – 1096)崩壊後バヌー・ウカイル族(Banu Uqayl)から分離、南イラクに定住

 

ウバール(Ubar):「ウバーとも転写されるウバール(Ubar)は『千本柱の都市(City of a Thousand PillarsIram of the Pillars or Wabar)』である。この都市はアラビア半島南部の空白地帯沙漠(Rub al Khali Desert or Empty Quarter)にあって紀元前3000年から1世紀頃まで交易の中心として繁栄したが、歴史の中に忽然として消えた『伝説の失われた都市』である」と云われている。クルアーン(Qur’an)では「ウバールはノア(Noah)のひ孫のアード (Ad)(アード(A’ad))の一族が作った町で石の偶像神を崇拝する邪悪な人々が住んでいた。預言者フード(Hud)が『この町は頽廃し、繁栄を維持できなくなった』と警告するとアード (Ad)の息子で王であったシャッダド(Shaddad)はこれを無視し、反抗した。この為、神はこの町を滅ぼし、砂の中に埋めてしまわれた」と書かれていると云う。シャッダド(Shaddad)についての出来事はアラビアンナイト(Book of One Thousand and One Nights)の中でも語られている。この「伝説の失われた都市」を探す為に1980年代からナサの衛星写真(NASA Remote Sensing Images)等を使って乳香の道(Frankincense Route)を解析し、オマーン(Oman)のズファール地方(Dhofar)にこの「伝説の失われた都市」の所在の可能性を見出した。1992年にラヌルフファインズ(Ranulph Fiennes)、ジュリスザーリンス(Juris Zarins)等からなるアメリカ調査団がシスル(Ash Shisar or Ash Shisr)と云う泉の傍の16世紀にシスル砦(Shis’r)のあった場所でその水源と成った鍾乳洞を発掘し、300年から500年の間に大きな鍾乳洞陥没で地下に埋没した建造物を発見した。この鍾乳洞は更に発掘中であるが、ほぼ、ウバール(Ubar)と特定されている。

 

ウフドの戦い(Ma'raka Uhud or Battle of Uhud) 6253月(626年説もある)、マディーナ(Madinah)北方5kmで行われたメッカ(Mecca)のクライシュ族(Quraysh Tribe)とムハンマド軍(Muhammad Army)の戦い。初期資料ではウフドの日(Yawm Uhud)と呼ばれている。バドルの戦い(Yawm Badr or Battle of Badr)でムハンマドに敗北したクライシュ族(Quraysh Tribe)は復讐戦を挑むべくムアーウィヤ(Mu'awiya, 602 - 680)の父アブー・スフヤーン(Abu Sufyan, 560 - 650)の指揮のもとで反撃軍を組織した。クライシュ族はまたシリア(Syria)への隊商路の安全を確保するためにも、隊商路を脅かすムハンマドの勢力を排除する必要性にかられていた。穀物の実る春になってクライシュ族のマッカ軍(メッカ軍)3,000名はマディーナ(メディナ)郊外のウフド山(Uhud)近くに進撃、駱駝と馬を穀物畑に放して荒らし、ムハンマドらマディーナ側を挑発した。ハズラジュ族(Banu al-Khazraj)のアブドゥッラー・イブン・ウバイイ(Abd-Allah ibn Ubayy, died 631)をはじめとするマディーナの有力者達は砦に籠もる防御戦を主張したが、穀物の被害を不面目と感じる若者達に押されてムハンマドは出陣を決定、マッカ軍の北に回り込みウフド山南斜面の高地を占め、戦場を有利に設定した。戦いは当初、ムハンマド軍の優勢に展開したが、左翼を守っていた弓兵がマッカ軍の野営地を略奪する友軍に加わろうと持ち場を放棄したため戦局は一変、マッカ軍右翼騎馬集団を率いていたハーリド イブン ワリード(Khalid ibn al-Walid)が側面と後部からその綻びを突破し、ムハンマド軍を潰走させた。さらにムハンマド自身が死亡したとの噂が流れ動揺に拍車をかけたが、辛うじてウフド山の高所で軍を再編成した。しかしながらクライシュ族を率いるアブー・スフヤーン(Abu Sufyan)はこの好機を生かし切れず、その日の終わりのマッカに向け退却し、目的を達する事はできなかった。多くの死者を出したムハンマド側はこれを神による試練と評価しつつ、開戦直前に戦場を離脱したアブドゥッラー・イブン・ウバイイ(Abd-Allah ibn Ubayy)らを偽信徒(ムナーフィクーン(Munafiqun))として強く非難した。この結果、アブドゥッラー・イブン・ウバイイらやユダヤ教徒とムハンマドの対立が深まることとなった。(出典: 岩波イスラーム辞典)

 

ウマイヤ朝(Umayyad Dynasty, 661 – 750) 4代正統カリフ(The Rightly Guided Caliphs or The Righteous Caliphs)であるアリー(Ali ibn Abi Talib, 656 - 661)との抗争において最終的に政権を獲得したシリア総督(Governor of Syria)ムアーウィヤ(Muawiyah I ibn Abi Sufyan, 602-680)が、西暦661年に自らカリフ(Caliph)となることにより成立し、その死後、カリフ位がウマイヤ家の一族によって世襲された。この最初のイスラーム王朝(西暦661年から750年)はダマスカス(Damascus)を首都とし、ヨーロッパからインドへと広がる広大な帝国を支配した。この王朝はムアーウィヤ(1世)からマルワーン2 (Marwan II ibn Muhammad, ruled from Harran in the Jazira, 744 - 750 AD)までの14代存続し、西暦750年にアッバース朝に滅ぼされた。この時代をウマイヤ朝時代(Umayyad Period, 661 - 750)と呼ぶ。

 

ウマイヤビンアビー・サルト(Umayyah bin Abi al-Salt) サキーフ族のもっとも偉大な詩人で、ターイフ出身者でウマイヤを超える詩人は居なかった。ウマイヤの生まれた日も没した日も正確には判って居ないが、ウマイヤがその部族がイスラームに改宗した日、即ちマディーナから使徒(Apostle)が移住してから9年目、西暦631年までは生きていなかった様であり、ウマイヤはムスリムに成らないまま没したのは明らかである。ウマイヤは預言者に率いられたムスリム達に対抗したバドルの戦い(Battle of Badr)での戦死に対して賛辞を書いている点ではムハンマドへ初め敵対したクライシュ族(Quarish)の支援者であった。それでもウマイヤの詩には一神教霊感の哲学的で宗教的な観念持ち込まれている。時としてそれはクルアーンの概念に非常に近く、そしてウマイヤは自分の市の偶像神崇拝を拒否していた。ウマイヤの博学は遠くまで及び、そしてウマイヤは自分の論旨の幾つかを明らかに引き出していた「神のもっとも古い本即ち聖書(Bible)」を読んだ誉れを楽しんでいた。神は実にたびたびウマイヤの詩に記述され、そしてウマイヤの物事に対する驚きの表現としてあわれみや認識が作り出された。多分、ウマイヤの偉大さの最上の確認は「歌の本(Kitab al-Aghani or Book of Songs)」第III190頁を信じるとすれば、預言者自身が時々ウマイヤの詩が自分に言及しているかを尋ねた事である。

 

ウマル・イブン・ハッターブ(‘Umar ibn al-Khattab, 592 - 644) 2代正統カリフ(634 - 644)で、預言者の親戚で第一代カリフ(Caliph)のアブー・バクル(Abu Bakr)の没後に第二代カリフ(西暦634年から644年)に就任し、正統四カリフ(Khulafa ar Rashidim or Rightfully guided caliphs)の第2代目とスンニー派信徒(Sunni Islam)から見なされている。スンニー派教徒には「真実と虚偽を判断する人」を意味するオマルファルーク(Omar al Faruq)と呼ばれ、英語にはOmar 或いはUmarと転写されている。クライシュ族(Quraysh or Quraish)のバヌーアディ(Banu Adi)支族に属するアディー家(Banu Adi)の出身で、若い頃は武勇に優れた勇士として知られていた。610年頃、ウマルはクライシュ族の伝統的信仰を守る立場からムハンマド(Muhammad, 570 - 632)の布教活動を迫害する側に回り、ムハンマドを殺そうとしたが、クルアーン(コーラン)(Qur’an, Quran, Koran or Alcoran)の章句に心を動かされて改悛し、イスラームに帰依した。632年にムハンマドが死去すると、アブー・バクルを後継指導者に推戴し、ハリーファ(カリフ)(Caliph)の地位を帯びてイスラーム共同体を指導する慣行のきっかけをつくった。アブー・バクルが2年後に死去するとその後継者に指名され、第2代目のカリフとなり、ヒジュラ紀元を定め、クルアーンとムハンマドの言行に基づいた法解釈を整備して、後の時代にイスラーム法(シャリーア)(Sharia)にまとめられる法制度を準備した 。又、アラビア半島のアラブの統一を背景に、シリア、イラク、エジプトなど多方面に遠征軍を送り出して「ムスリムの征服(Muslim Conquests)」を指導し、アラブ人主体の「アラブ帝国、サラセン帝国又はイスラーム帝国)(Caliphate)」初期の国家体制を確立した。

 

ウマル・ファールーク(Omar al Faruq)真実と虚偽を判断する人。

 

ウム・アスラ(Um Athlah) 空白地帯のハラド(Haradh)113kmにある集落。

 

ウム・シャル(Um Shar) ソドムの林檎の略称。(ウンム・アシャル(Umm Ashar)参照。)

 

ウムバイダー族('Umbaidah) アシール部族同盟(Aseer, ‘Asir or ‘Asaryah)傘下、居住地名が部族名、但し、居住地はアブハー(Abha)周辺であるが、場所は未特定

 

ウムラ(Umra or 'Umra) マッカ(Makkah or Mecca)巡礼の一種でハッジ(hajj)と区別されて小巡礼(hajj al-'umrah)と呼ばれている。但し、イスラーム五行(Five Pillars of Islam)1つとは見なされていない。イフラーム(ihram)*着用などの義務はハッジと同様である。ハッジ期間以外ならいつでも実行が許される。課せられる儀礼もタワーフ(Tawaf)とサアイ(sa'y)のみである。(出典: 岩波イスラーム辞典)

 

ウムル(Umluj) ワジュフ(Al Wajh)南南東170 kmに位置する紅海岸の町。

 

ウヤイナ(Al-Uyaynah) ウヤイナ(Al ‘Uyayna)はサウジアラビア(Saudi Arabia)中央の村で、リヤード(Riyadh)の北西30kmにある。ウヤイナはその信奉者がワッハーブ派(Wahhabis or Wahhabism)(イスラーム原理主義者)と呼ばれるムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(Muhammad ibn Abd al-Wahhab, 1703 – 1792)の生まれ故郷である。今では隣村のジュバイラ(al-Jubayla)と合わせても人口4,000人の小さな村である。この村はディルイーヤ(Dir'iyyah)やリヤード(Riyadh)方面に向かって南へと流れる涸れ谷ハニーファ(Wadi Hanifa)の狭い干上がった河床にある。ウヤイナは632年のムハンマドの死後、その後継者を名乗ったムサイリマ(Musaylimah)の故郷であり、ムサイリマはハニーファ族(Banu Hanifa)を率いて「ムスリムの征服(Muslim conquests, 632 - 732)」に対抗した。63212月のムスリム軍の武将(Muslim General)ハーリドイブンワーリド(Khalid iban al Walid, 592 - 642)とのヤマーマの戦い(Battle of Yamama)はウヤイナのこの村の近くで起き、この戦いで戦死したムスリム戦死(Muslin Warriors)の墓がこの村の近傍にある。泉の愛称であるウヤイナ(Al ‘Uyayna)と云う名はこの時代のこの地域の住人には使われておらず、ヤクート(Yaqut al Hamawi, 1179 - 1229)の様なイスラーム早期のアラビアの地理学者はこの村をアクラバ(‘Aqraba)、ブダ(Budha)およびハダール(al Haddar)の村々と記述し、後には「ムサイリマ(Musaylimah)の故郷の村」と記述していた。しかしながら、地理学者等はこの地域の泉をウヤイン(al Uyayn)と記述し、そこからウヤイナ(Al ‘Uyayna)と名づけられたと思われる。15世紀にはバヌー・タミーム族(Bani Tamim, Banu Tamim or Banu Tameem)のムアンマル一門(Al Mu’ammar)がバヌー・ハニーファ族(Banu Hanifa)の残党のヤジド一門(Al Yazid)からウヤイナ(Al ‘Uyayna)を買い取った。後にこの村は繁栄し、近傍から多くの定住者を引き付け、18世紀までにはナジュド地方(Region of Nejd)の中心地となった。イスラーム学者で宗教改革者のムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(Muhammad ibn Abd al-Wahhab)がこの時代にこの村で生まれた。広範囲な旅行をした後にムハンマドは1740年にウヤイナに戻り、この地方の偶像崇拝の影響での堕落したイスラーム礼拝方式の純粋化を呼びかけ始めた。特にムハンマドはウヤイナに墓があり、この地方に人々から尊敬されていた第2代正統カリフ ウマル(2nd Caliph Umar or Omar)の兄弟のザイドイブン・ハッターブ(Zayd ibn Khattab)の様なムスリム聖人(Muslim Saints)の崇拝を止める様に説教をした。ハンマドはウヤイナの領主(Amir of Uyayna)であるウスマーンイブンムアンマル(Uthman ibn Mu’ammar)に自分の信仰の実施を説得し、ザイド(Zayd)の墓を潰してしまった。ザイド(Zayd)の遺骨が残っている墓は印も無く、今日では無視されてしまっている。ハサー(Al Hasa)を支配するバヌー・ハーリド族(Banu Khalid Tribe)はウヤイナに絶大な影響力をも持って居り、1744年にイブン ムアンマルがハンマドを放逐せざるえなくさせた。ハンマドはウヤイナの南のディルイーヤ(Dir’iyyah)に近いサウード一門(Al Saud Clan)に身を寄せた。サウード家(Saudis)ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(Muhammad ibn Abd al-Wahhab)の改革の名の下に周囲の町や村を征服し始めた。これらの戦乱の中で、特に疫病が襲った後ではウヤイナは殆ど破壊されたしまった。その後は見捨てられてしまっていたが、20世紀になって小さな村として復活した。(Wikipedia)

 

ウヤイナ(Al-Uyaynah) 「このオアシスはタブーク(Tabuk)南西145km紅海岸の港町ドゥバー(Dhuba or Duba)北およそ20 kmに位置し、その海岸にはナバテア(Nabataean)時代の有名な港で白い町を意味するルキ コマ(Luki Koma)があった。ルキコマ(Luki Koma)の遺物は今でもマガアールコッファール(Maghaar Al Koffar)と呼ばれる泉の井戸近くのアイーヌナ(Aynunah)オアシスで見つかる」と教育省考古庁出版の「サウジアラビアの遺跡の紹介(An Introduction to Saudi Arabian Antiquities)」に記述されている。現地にもファルシ(Farsi)の地図にもこの場所にその様な地名は記されて無く、幻のウヤイナ(Al-Uyaynah)と私は呼んでいたが、「古代ローマ軍の古代南アラビア遠征路(http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/jeddah-2/Gallus%20Itinerary.JPG)」にも示したレウケ・コメ(Leuke Kome)の位置とはほぼ一致している。

 

ウユーニード王朝('Uyunids) 西暦1073年にハサー・オサシス(Hasa Oasis)北部のウユン(‘Uyun)出身のアブドゥルカイス(the 'Abd al-Qays)のリーダーの一人がセルジューク・トルコ(Seljuq Turks, 1037-1194)の支援を得て、カルマティア派(カルマト派)(Qarmatians)を打ち破り、王朝を樹立した。そのウユーニード王朝('Uyunids, 1073 – 1253 AD)は西暦1253年までハサー(al-Hasa)の支配を続けた。

 

ウユーン(‘Uyun) ハサー・オアシス(Al Hasa Oasis)内のフフーフ(Hofuf)25kmの村。

 

ウユーン・アフラージュ(‘Uyun Aflaj) ルブア・ハーリー沙漠(Rub' al Khali)の西縁のライラ(Layla)15kmにある湖沼跡。

 

ウラー(Al-`Ula) メディナ北380km

 

ウラー渓谷(Al Ula) 高く聳える崖の谷の意味を持つマディーナ州(Al Madinah Province)北部の渓谷でマダーイン・サーリフ(Madain Salih)遺跡が在る事でも知られている。

 

ウライイラ(‘Uray’Irah) 東部州(Ash Sharqiyah)内のダンマーム(Dammam)西南西135kmナイーリーヤ(As Nai’riyah)南南東170kmに位置し、政庁があり、東部州内陸の南北道路と東西ハイウェイの交通が交差する村。

 

ウライヤーン(ウラヤーン)家(Al-Olayans) オライヤーン家

 

ウラバ(Al Ulabah) バーハ(Al-Bahah)95km付近のビクーム熔岩地帯(Harrat al Buqum)の西縁で涸れ谷トゥルバ(Wadi Turbah)上流部にある円形農場を含むかなりの農村で、この村の北東には大規模な養鶏場が幾つも並んでいる。

 

ウラマー('Ulama) イスラーム(Islam)における実質的な聖職者(異論もある)。

 

ウル(Ur) ウリム(Urim)とも呼ばれる古代メソポタミア(Mesopotamia)のシュメール人(Sume)r都市。

 

ウルーク(Uruq) ウルークとは細長い砂丘の重なりである。ルブア・ハーリー沙漠(Rub’ Al Khali)の南西部では100を越えるウルークが1.5kmから2.0km間隔で200kmにも渡って北東から南西へ平行に幾つも走っている。これらのウルークの中には高さが300mにも及ぶものもある。ウルークは北のナフード沙漠(Nefud)や帯状にナフード沙漠とルブア・ハーリー沙漠(Rub' al Khali)を結ぶダフナー沙漠(Dahna)やリヤード(Riyadh)北方のイルグバンバーン(Irq Banban)等でも見られる。私は「縦型砂丘(Longitudinal Dune)の成因である二方向の卓越風の成す角度が大きくなると変形した横型砂丘(バルハン)(Barchan or Barkhan)は更に細く長くなって重なる。その長々と延びた形をした砂丘が縦型砂丘(Linear Dune)あるいはアラビア語から剣砂丘(Sword)と呼ばれるウルークである。ウルークでは小規模なものを除けばファルジ(Falj)と呼ばれる馬蹄形の凹地は殆ど見られない程、その幅が狭く細長いのでセイフ砂丘(Seif Dunes)と呼ばれる縦型砂丘(Longitudinal Dune)と区別されているのだ」と思う。

 

ウルーク沙漠(Uruq Desert) ウルーク沙漠はサウジアラビアの五大砂丘地帯(Sand Dune)の一つである。その細長い延長は北のカスィーム(Qaseem)地方から南の涸れ谷ダワースィル(Wadi al Dawasir)のトゥワイク(Khamasin)までの1,000 kmに及び、トゥワイク山脈(Jebel Tuwaiq)の西縁をこの山脈を挟んでその東縁に延びるダフナー沙漠(Dahna)とほぼ平行に並んでいる。ウルーク沙漠は細長い砂丘地帯の集まりで、一番長い筋が北部はナフード・スィッル砂丘地帯(Nafud al -Sirr)で南部はナフード・ダヒー砂丘地帯(Nafud al Sirr)である。ナフード・スィッル砂丘地帯(Nafud al Sirr)北部西側にはナフード・シュカイカ砂丘地帯(Nafud Ash Suqyyiqah)ナフード・スィッル砂丘地帯(Nafud al Sirr)とトゥワイク山脈の間にはワシュム(Al-Washm)と呼ばれる扇形の地形を挟んで北にナフード・スワイラート砂丘地帯(Nafud al Thuwayrat)が横たわり、南にナフードクナイフィザ砂丘地帯(Nafud Qunayfidhah)が横たわる。

 

ウルークシャイバ(Uruq al Shaybah) ウルーク・シャイバ(Uruq al Shaybah)は現在のアラブ首長国連邦、サウジアラビアとオマーンとの国境のほぼ延長上を南から南南西へと百数十キロにわたって延びる砂丘の山脈である。20世紀末最大の油田開発だった生産量50 BPDのシャイバ油田(Shaybah Field)はこの名に由来していると思われる。

 

ウルーク・スバイウ(Uruq Subay) アラビア楯状地にある砂丘地帯で、メッカ街道南のリヤード州とメッカ州の州境付近に位置する。

 

ウルークムウタリダ(Uruq Al Mutaridah) ルブア・ハーリー沙漠(Rub' al Khali)東南部のオマーン国境近くに北北東から南南西に横たわる砂丘地帯。

 

ウルークムンダファン(Uruq al Mundafan) ルブア・ハーリー沙漠(Rub' al Khali)南西部のハシュム・グラーブ(Khashm Ghurab)南東70km付近を西南西から東北東に横たわる砂丘地帯。

 

ウルークルマイラ('Uruq ar Rumaylah) 涸れ谷ダワースィル(Wadi al Dawasir)東部を封じている砂丘地帯で、ダフナー沙漠(Ad Dahna)南端のルブア・ハーリー沙漠(Rub’ Al Khali)内への延長部。

 

ウル第三王朝(3rd Dybasty of Ur, BC22 - 21 Century) ウル第3王朝はシュメール系の帝国(Neo-Sumerian Empire)でウル・ ナンム(Ur Nammu, 2047 BC – 2030 BC)が自立して建国し、紀元前21世紀から紀元前20世紀かけてメソポタミア(Mesopotamia)を支配した。ウル・ナンムはウル王ウツ・ヘンガル(Utu-Hengal, 2055 BC – 2048 BC)の将軍とも代官とも親族とも伝えられている。アラム人や(Amorite)エラム人(Elam or Elamites)の侵攻を受け、ウル第3王朝は1940年のエラム人(Elam or Elamites)の侵入(Elamite Invasion)で滅びた。(Wikipedia)

 

ウルマ台地(Al Urumah) アルマ台地('Armah)とも転写されている。リヤード(Riyadh)北北西100km付近を中央としてトゥワイク山脈(Jebel Tuwaiq)と対峙してダフナー沙漠(Ad Dahna)との中間を北西から南東に横たわる崖地上の台地で、涸れ谷アトク(Wadi 'Atk)が北部を貫通してダフナー沙漠へと流れている。

 

ウルリヒヤスパーゼーッツェン(Ulrich Jasper Seetzen) ドイツ人の内科医(Physician)で植物学(Botany)、動物学(Zoology)および地質学(Geology)に素晴らしい知識を持っており、1802年に一連の東方旅行を計画した。指導的な科学者や貴族の後援を得て、ゼーッツェン(Seetzen)は一連の小アジア(Asia Mínor)の旅に出発し、1809年にカイロ(Cairo)に居た。ゼーッツェンのここまでの旅は「ゼーッツェンのシリア、パレスチナ、フェニキア、トランスヨルダン、アラビア半島及びエジプトの旅」としてクルーゼ(F. Kruse)によって編集され、1854 - 1859年にベルリンで出版されている(Ulrich Jasper Seetzen's Reisen durch Syrien, Palästina, Phönicien, die Transjordan Länder, Arabia Petraea und Unter-Aegypten ed. by F. Kruse. Berlin 1854 - 1859.)

 

(Lacquer) ウルシ科の落葉高木で中央アジア高原原産で高さ3m以上で樹皮は灰白色、葉は3 - 9対の小葉をもつ奇数羽状複葉、かぶれやすく、6月頃、葉腋に黄緑色の小花を多数総状に開く。雌雄異株、果実はゆがんだ扁平の核果で、10月頃成熟し、黄褐色となる。果を乾かした後しぼって蝋を採り、樹皮に傷を付けて生漆を採る。この生漆またはこれに着色剤・油・乾燥剤を加えて製した塗料(製漆)とする。

 

ウルワイブンマス(Urwah ibn Mas'ud) ターイフ(Taif)のムハンマド(Muhammmad)の仲間になったサキーフ族長(Thaqif’I Chieftain)である。628年ムハンマド(Muhammad)3,000人のムスリム(Muslim)を引き連れてメッカ(Makkah)巡礼に向かった。これを阻止しようとしたクライシュ族(Quraishi Tribe)はメッカ郊外のフダイビーヤ(Hudaibiyya)で交渉を行い、10年間の休戦が確認された。ウルワはこのフダイビーヤの和議(Peace of Hudaybiyah)に関してクライシュ族(Quraysh)に代って交渉に入った程のアラブの名士であった。ウルワの息子の一人(Dawud ibn Unwah)はムハンマドの妻の姪(Habibah bibte Ulbayd-Allah)と結婚していた。(出典: Wikipedia)

 

ウワイキーラ(Al Uwayqilah) ラフハ(Rafha)西北西145kmにある北部国境州の集落。

 

ウワール(Uwal) 12世紀頃にはバハレイン島(Bahrain Island)はウワール(Uwal)又はアワール(Awal)と呼ばれていた。

 

ウンマ(al-ummah) 特に宗教に立脚した共同体であるが、現代アラビア語では民族共同体をさす。アラビア語古典ではムハンマドの共同体とも呼ばれており、通例、イスラーム共同体(umma Islamiya)と言う。(出典: 岩波イスラーム辞典)

 

ウンム・アシャル(Umm Ashar) ウム・シャル(Um Shar)とも呼ばれる。私の同僚だったモハマッドカラフ ムゼイニ(Mohamd Kharaf al Muzeini)は「アラビア語名はアシェル ボイェル(Asher Voyer)と云うが東部州ではウンム・アシャルアシュ・シャルキーヤ(Umm Ashar Ash Sharqiyah)と呼び、その名が付いている村がある」と教えてくれた。さすがに長い名を付けるのが好きなサウジでもこの名はウンム・アシャル(Umm Ashar)と短縮して使っている様だ。この低木は比較的太い多くの枝を地表部分から45m上へと直接伸ばし、木肌はワニの様な鱗があり、葉は厚くかさばり、実は野球のボール程で白っぽい緑色をしていて、そのどこかに切り口を作ると白いベタベタした乳液を浸みださせる。この白い液体は血性心不全あるいは不整脈に用いられる強心配糖体(Cardiac glycoside)(ステロイド配糖体)を含んでいる。この低木は疎らなタルフ(Talh, Acacia Gerratdii)の林の中やその近傍に群生しているのをよく見掛ける。大川原博士によるとこの低木はCalotropis proceraと云う学名を持ち英語では「ソドムの林檎」と呼ばれ、日本には全く同じでは無いがガガイモ科の海岸煙草が同じ種類なのだそうだ。「未知の国アシール(Undiscovered Asir)」の著者サーリィモジャー(Thierry Mauger)は「死海林檎」と呼んでいる。

 

ウンム・アシャル村(Umm Ashar Village) ウンム・アシャル村は東部州北西部の北部国境州との州境近くに位置する。マジュマア(Al-Majma’ah) - クウェイト(Kuwait)道路のキング・ハーリド王軍事都市(King Khalid Military City)への十字路から少し南に下ったプテイハニア(Puthihaniyah)の丁字路(ハファル・バーティン(Hafar al Batin)85km南)から西に進むと沙漠の緑は少なく成り代わりに地面に散らばる白っぽい角張った小石が増えて来る。プテイハニアの丁字路から60 km位行った所で数軒の住居と23の円形農場を持つ集落のある谷に降りる。この谷はアラビア盾状地の三大排水路の一つである涸れ谷バーティン(Wadi al Batin)の中流部でこの辺りでは連続した砂丘の東岸と低い断層崖の西岸に挟まれている。この連続した砂丘の帯は北のナフード沙漠(Nefud Desert)から南の空白地帯沙漠(Rub' al Khali)まで1,000 kmにも渡って続く砂の回廊ダフナー沙漠(Ad Dahna)から舌状に延びて来ている。この村の正式名はウンム・アシャルシャルキーヤ(Umm Ashar Ash Sharqiyah)で「ソドムの林檎」或いは「死海林檎」ともよばれる低木の長い長い名が付けられている。

 

ウンム・アスラ(Um Athlah) ハラド南113kmにある集落。

 

ウンム・ウアル(Umm Wu’al) トゥライフ西に位置する燐酸鉱物鉱床。

 

ウンム カスル(Umm Qasr) イラク南東部の町。

 

ウンム・クルスーム・ビント・ムハンマド(Umm Kulthum bint Muhammad) ムハンマドの三番目の娘。

 

ウンムクワイン(Umm Al Quwain) アラブ首長国連邦の7首長国の一つ、オマーン岬の西側でアラビア湾に臨み、殆ど沙漠で人口1.2万人。

 

ウンム・サミーム(Umm al Samin) ウンム・サミーム(Umm al Samin)1930年から1931年にかけて始めて空白地帯を横断した探検家バートラムトーマス(Bertram Thomas, 1892 - 1950)がベドウインから伝説の流砂地帯と聞いていた。この巨大な流砂地帯はオマーン(Oman)国境に広がり、かつて涸れ谷ダワースィル(Wadi Dawasir)が流れ込んで居た大きな湖であった。現在ではその表面をサブハ(Sabkha、含塩平地)の薄い塩の表皮が覆って居て通行するのには非常にはまり安くアラビアで「毒の母」を意味するウンム・サミーム(Umm al Samin) と呼ばれている。

 

ウンム・ジマル(Umm el-Jimal or Mother of Camels) ヨルダン北部の村。

 

ウンム・ジャマージム(Umm al Jamajim) 東部州西部の集落で、ハファル・バーティン南185kmダフナー沙漠(Ad Dahna)南縁に位置する集落で、東部州イラク・クウェイト方面への治安の要であった。

 

ウンム ドゥームUmm al Doom メッカ州北東部キシュブ熔岩地帯Harrat Kishb南部の村で、バ火口(Wahbah Crater, Waba Crater or Maqla Tamia)南東に位置する。

 

ウンム・ナアサーン島(Umm al Na’san Island) コバル(Al Khobar)とバハレン(Bahrain)間のコーズウウェイ(Causeway)中間の島。

 

ウンム・ヌッシ(Umm al Nussi) ディルムーン(Dilmun)と呼ばれた地方は今日のタールート島(Tarut Island)を含むアハサー地方(Al Ahsa)の陸地部を示して居た。紀元前2,450年から紀元前1,700年以降はディルムーンと呼ばれる文明(3300BC – 556BC)はバハレイン島を主な中心として栄え、沙漠の半島本体ではアハサー・オアシスのテル・ラマド(Tell al-Ramad)と遙か南のヤブリーン・オアシス(Yabrin Oasis)のウンム・ヌッシ(Umm al NussI)という二つの小さな遺跡が見つかったのみだ。

 

ウンム・バイダー族(‘Umbaidah) アシール部族同盟傘下、居住地名が部族名、但し、居住地はアブハー周辺であるが、場所は未特定。

 

ウンム・ビース(Umm Al Bis) ライス(Al Laith)東南東50kmに位置する紅海岸の村。

 

ウンム ラデュマ層(Umm al-Radhumah Formation) 暁新世(Palaeocene)6500万年から5600万年前の第三紀層)の石灰岩層で、ワシア/ビヤド(Wasia/Biyad)帯水層と重なっている。この層は様々であるが、ダンマーム(Dammam)の南100 kmにあるオアシスのアハサー(Al Ahsa)(ハサー(Al Hasa))では水質も良く大きな帯水層を成して居り、アラビア半島東部一帯に広がって居る。なお、始新生(Eocenem 5,600万年から3,500万年前)の石灰岩層との記述もある。

 

 

英国ポンド: Pound Stering、英貨1ポンド。

 

「英国領事(Jago)1883年のジェッダの交易と商業に関する報告書」: この報告書は商工業等に対する女王陛下の領事からの報告の第312番に掲載されている(Reported by consul Jago on the trade and commerce of Jeddah for the year of 1883in Reports from Her Majesty's consuls on the manufactures, commerce, etc. Part III. No.12)

 

エイラト湾(Gulf of Eilat) アカバ湾(Gulf of Aqaba)は紅海の北奥、シナイ半島(Sinai peninsula)の東側にある、南北に細長く伸びる湾。チラン海峡(Straits of Tiran)より北部にある。両岸はエジプトとサウジアラビアであるが、最奥部にはイスラエルのエイラト(Eilat)、ヨルダンのアカバ(Aqaba)の各港があり、四か国の国境が集中している。イスラエルではエイラト湾(Eilat)とよばれている。地学的には紅海から続く大地溝帯の一部であり、さらに死海へと連なっている。又、エーラト(Elat)はイスラエル南部アカバ湾('Aqaba)の最奥部にある海港、人口3万人、イスラエル唯一の紅海への出口。

 

エウゲニウス四世(Pope Eugenius IV) 法王エウゲニウス四世の本名はガブリエルコンドルマール(Gabriele Condulmer)(c. 1383-1447)であり、1431年にフス(Huss)(1369? - 1415)(チェコの宗教改革者で異端として火刑に処せられた)の異端思想と教皇至上権をめぐってスイスのバーゼルで開かれたバーゼル公会議(the Cóuncil of Básel, 1431-37)を解散させようとして失敗、ローマを追われた。その後、同会議は1449年迄続いたが、結局敗北して解散した。

 

エキゾティックな物資: 異国情緒一杯の商品(Exotic Goods)

 

エクセター(Exceter) イングランド南西部デヴォン(Devon)州の州都。

 

エグラ(Egra) 紅海岸沿いにある現在のヤンブー(Yanbu)である

 

エサルハドン(Esarhaddon, 681BC – 669BC) 新アッシリア(Neo-Assyria)王国絶頂期を統治した王で、センナケリブ(Sennacherib, 705BC - 681BC)の末子。

 

エジプト(Egypt or Aegypt): アフリカ北東部にある国で5,000年前に統一国家を形成し、古代文明発祥の地でピラミッド等の遺跡が多い。13世紀以降はイスラーム世界の文化的中心であった。1882年に英国に占領されたが、1922年に立憲王国、1952年の革命で共和国となった。1958-61年はシリアとアラブ連合共和国を形成、1971年にエジプト・アラブ共和国に改称。

 

エジプトのスルターン(Sultan of Egypt) エジプトのイスラーム教国君主で、サラディーン(Saladin, c. 1138 - 1193)1174年にアイユーブ朝(Ayyubid Dynasty, 1174 – 1250)を建国し、マムルーク朝(Mamuluk Dynasty,1250-1517)(バフリマムルーク朝(Bahri dynasty, 1250 -1382)およびブルジーマムルーク朝(Burji Dynasty, 1382 - 1517))が支配を掌握してから1517年にオスマントルコ(Ottoman Turky, 1299 - 1923)がエジプトを征服するまでの間の歴代君主。

 

エジプト・ワッハーブ戦争(Egyptian – Wahhabi War) オスマン・サウジ戦争(Ottoman – Saudi War)ともよばれる。サウード家(House of Saud)は第三代首長(Third Imam, 1803 - 1814)サウード(Sa’ud ibn ‘Abd al-‘Aziz)*の時代に勢力を拡大した。そしてそれを阻止しようとしたオスマン帝国エジプト総督との間に1811年から1818年まで続いたエジプト・ワッハーブ戦争(Egyptian – Wahhabi War)が勃発した。十九世紀初頭、オスマン帝国(Ottoman State)は外交に忙殺され、さらに渡り石工(Freemasons)が煽動する反乱の火の手の鎮火させようと多難であった。しかしながら第一次サウジ公国(First Saudi State, 1744 - 1818)*の非ワッハーブ派に対する迫害および無礼等の攻撃が容認できない程に激しくになって来た為に、カリフ(Caliph of Muslim) スルターンマハムド カーンアドリ2(Sulatn Mahmud Khan ‘Adli II or rahmat-Allahi 'alaih)*1811(ヒジュラ暦1226)にエジプト総督(Governor of Egypt, 1805 - 1848) ムハンマド・アリー・パシャ(Muhammad 'Ali Pasha or rahimah-Allahu ta'ala, 1769 - 1849)*に書簡で当時はムワヒディーン(Wahhabis or Muwahhideen)と呼ばれていた第一次サウジ公国の非ワッハーブ派に対する攻撃を懲らしめる様に命じた。ムハンマド・アリー・パシャはラマダーン月(Month of Ramadan)に自分の息子トゥースーン・パシャ(Tosun Pasha, 1794 – 1816)指揮の下にエジプトから軍隊を派遣した。トゥースーン・パシャはマディーナ(Medina)の海港ヤンブー(Yanbu’)を攻略したが、マディーナ(Medina)への侵攻の途中、1811年(ヒジュラ暦1226年巡礼月初日)にサフラ谷(Safra Valley)とジュダイダ峠(Judaida Pass)の間での激しい戦闘に破れた。トゥースーン・パシャは傷一つ負わなかったけれどもオスマン帝国側のムスリム(Ottoman Muslims)の多くが殉教した。ムハンマド・アリー・パシャはこの不運を悲嘆する中、18門のカノン砲(Cannons)3門の大砲を装備したもっと大掛かりな部隊を編成した。この部隊はサフラ谷(Safra Valley)とジュダイダ峠(Judaida Pass)1812年(ヒジュラ暦1227年預言者の月)に通過し、断食の月には多くの村々を抵抗無しに攻略した。シャリーフ・ガリーブアファンディー(Sharif Ghalib Effendi, 1788 – 1803 & 1813 – 1827)*の助言を受けたムハンマド・アリー・パシャは降伏した村々に118,000リアルを配って戦果を勝ち取ると云う非常に聡明な行動をした。もし、トゥースーン・パシャが父親の様にシャリーフ・ガリーブアファンディーに相談していたら大軍を失わずに済んだだろう。シャリーフ・ガリーブアファンディーはワッハーブ派(Wahhabis or Muwahhideen)によってメッカの首長(Amir of Mecca)に任命されていたが、シャリーフ・ガリーブアファンディーは心からメッカ(Mecca)を暴力的なワッハーブ派から解放したいと願っていた。ムハンマド・アリー・パシャは安住の月(Dhu 'l-Qada)の末までにはマディーナ(Medina)も無血攻略した。これらの勝利はカリフ(Caliph)に報告する為にエジプトに送られた。エジプトの国民はこの勝利を三日三晩祝い、この勝利の朗報は全てのムスリムの国々に伝えられた。さらにムハンマド・アリー・パシャは一師団(a division)をジッダ(Jidda)経由でメッカ(Mecca)に送った。この師団はジッダに18131月初旬(ヒジュラ暦1228年戦いを禁ずる月)に着き、メッカに向けて行進した。この師団はシャリーフ・ガリーブアファンディー(Sharif Ghalib Effendi)が内密に立てた計画に従って容易にメッカに入城した。ワッハーブ派とその指導者はオスマン帝国の師団がメッカに近づきつつあるとのニュースを聞いて、この市から逃げ出し、山中に潜んだ。一方、サウードイブン・アブドゥルアジーズ(Sa’ud ibn ‘Abd al-‘Aziz)*1812年(ヒジュラ暦1227年)に巡礼(Pilgrimage)を終え、多くのムスリムの血が流れたターイフ(Ta’if)を訪問した後、根城のディルイーヤ(Dar’iyah, Diriyah or Dir’aiyah)に戻って行った。ディルイーヤに着くとサウードはマディーナムナウワラ(al-Madinat al-Munawwara)そして続いてマッカ・ムカッラマ(al-Makkat al-Mukarrama)がオスマン帝国軍に攻略された事を知った。丁度、この頃にオスマン兵士達はターイフ(Taif)を攻撃したが、ターイフの僭主であったウスマーンムダイキ(‘Uthman al-Mudayiqi)とその軍隊が恐怖の為に逃げ出していたので、全く抵抗に会わなかった。朗報はイスタンブール(Istanbul)に居たカリフ(Caliph of Muslim) スルターンマハムドカーン・ アドリ2(Sulatn Mahmud Khan ‘Adli II or rahmat-Allahi 'alaih)*に伝えられるとマハムド 2世は大変に喜び、神に平安あれ(アルラフアラ(Allahu ta’ala or Peace be upon him))と祝福しながらこの事に深く謝意を示した。マハムド 2世はムハンマド・アリー・パシャに謝意と贈り物を送り、ムハンマド・アリー・パシャにヒジャーズに再び赴き、ワッハーブ派を監視し、制圧する様に命じた。ムハンマド・アリー・パシャはスルターンマハムド 2世の命令に従って再びエジプトを出立した。この時にはシャリーフ・ガリーブアファンディー(Sharif Ghalib Effendi)はオスマン帝国の軍隊とターイフに居て血に染まった僭主ウスマーンムダイキ(‘Uthman al-Mudayiqi)の探索に忙しかった。組織だった探索の結果、ウスマーンは捕縛され、エジプトに送られ、それからイスタンブール(Istanbul)へ護送された。ムハンマド・アリー・パシャはメッカに到着するとシャリーフ・ガリーブアファンディーをイスタンブールへ送り、その兄弟のヤフヤビンマスドアファンディー(Yahya bin Surour, 1803-1813 or Yahya ibn Masud Effendi (rahimah-Allahu ta’ala))をメッカのアミール(Amir)に任命した。もう一人の狼藉者ムバラクイブンマグヤン(Mubarak ibn Maghyan)も捕らえられ、1814年(ヒジュラ暦1229年戦いを禁ずる月)にイスタンブールへと護送された。何千と云うムスリム達の血を流した二人の狼藉者はさらし者としてイスタンブールの通りを引き回された後に罪に相当する刑罰を受けた。1788年から1803年まで26年間メッカのアミールを勤めたシャリーフ・ガリーブエフェンデはイスタンブールで尊敬と愛をもって温かく迎えられ、そしてギリシャ第二の都市テサロニカ(Thessalonica)又はサロニカ(Salonica)に移送され1816年(ヒジュラ暦1231年)に没するまでそこに留まっていた。シャリーフ・ガリーブエフェンデの霊廟は一般に開放されている。(別の資料ではシャリーフ・ガリーブエフェンデ(Ghalib Efendi bin Musa'ed)は再度1813年から1827年までシャリーフに復帰したとされて居る。後継シャリーフの名(Abdulmutalib bin Ghalib, 1827-1827)からも私にはその方が正しい様に思える。)ヒジャーズ(Hijaz)の聖都から狼藉者達を排除した後、遠くイエメン(Yaman)までの地域を一掃する為に一個師団が派遣された。エジプト総督(Governor of Egypt, 1805 - 1848) ムハンマド・アリー・パシャ(Muhammad 'Ali Pasha or rahimah-Allahu ta'ala, 1769 - 1849)はこの師団を自らの軍隊を使って助け、この地域全体から狼藉者達を追い払った。ムハンマド・アリー・パシャはメッカに戻り、そこに1815年(ヒジュラ暦1230年神聖な月)までに滞在し、それから自分の息子ハサン・パシャ(Hasan Pasha)*をメッカ知事に任命し、エジプトに戻った。サウードイブンアブドゥルアジーズ(Sa’ud ibn ‘Abd al-‘Aziz)*1814年に没し、(但し、原文は1816年)その息子アブドゥッラーイブン・サウード(‘Abdullah ibn Sa’ud)*が継承した。ムハンマド・アリー・パシャは息子イブラーヒーム・パシャ(Ibrahim Pasha)*をアブドゥッラーイブン・サウードへの討伐命令の下に一個師団と共に派遣した。アブドゥッラーイブン・サウードはトースン・パシャ(Tusun Pasha, 1794 – 1816)*と「アブドゥッラーをディルイーヤ(Diriyah, Dir’iyah or Dir’aiyah)の知事として認める代わりにオスマン帝国(Ottomans)に忠誠を誓う」との合意に達していたが、ムハンマド・アリー・パシャはこの合意を受け入れなかった。イブラーヒーム・パシャは181611(ヒジュラ暦1231年末)に向け、エジプトを出発し、1817年初め(ヒジュラ暦1232年の初め)にディルイーヤ(Dar’iyya)に到着した。アブドゥッラーはイブラーヒームに対して全兵力を使って抵抗したが、18189月(ヒジュラ暦1233年の安住の月)での非常に血なまぐさい戦いの後に捕虜にされた。この朗報はエジプトでは城から7日間に渡って日夜、撃たれた100回の祝砲で歓迎された。全ての通りは旗で埋め尽くされた。嘆願(Takbirs and Munajat)は光塔(Minarets)から復唱された。(出典: Hizmet Books Online

http://www.hizmetbooks.org/Advice_for_the_Muslim/wah-41.htm

 

エシメファエウス(Esimephaeus):アビシニア皇帝エッラ アトスベハ三世 (the Abyssinian Emperor, Ella Asbeha III)525年に派遣したヒムヤル(Hymyar)討伐軍の指揮官であったアリアス(Ariath)と同一人物と考えるのが自然であるが、「アリアス(Ariath)が総督となった」との記述はあっても「王座に着いた」との記述はないので私はそれを探し出していない。

 

エステヴァンガマ(Estevão da Gama) ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の息子で、1541年にゴア(Goa)からスエズ(Suez)まで航海し、これが16世紀にポルトガル人達が紅海に現れた最後となった。

 

エダウチヤシ(Dawn Palm) テベスドームヤシとも呼ばれ、英名はDoom Palm, Doum Palm or Dawn Palmで学名はHyphaene thebaicaであり、アフリカ産の大きな扇型の葉を付ける椰子で沙漠の土壌を安定させるのに重要な働きをし、その果実は林檎位の大きさで食用になる。私の経験ではサウジアラビアのエダウチヤシ(Dawn Palm)は熔岩地帯に生えている。私はこの木の名が分からなかった頃は芭蕉椰子とあだ名して呼んでいた。

 

エチオピア(Ethiopia or Aethiopia) アフリカ北東部の紅海に面したエジプト南部から今日のエチオピア北部に至る地域にあった古代国家であり、、「シバの女王の国」と称して世界最古の王国とされる。ギリシア語Aethiopsが語源でEthiop-(日焼けした顔)+-la(国名)で日焼けした人の住む国との意味となる。4世紀頃からキリスト強国となる。1936年にイタリアに征服されたが、1941年に独立を回復、1975年に帝政を廃止、面積110.4万、人口5,668万人(1995)、首都はアジズアベバ(Addis Ababa)で旧称はアビシニア(Abyssinia)

 

「エチオピアへのポルトガルの1520年外交使節団の物語(Narrative of the Portuguese Embassy to Ethiopia in 1520)」: プレスタージョンの領土の真の関係(A True Relation of the Lands of the Prester John)についてのアルヴァレス神父(Alvarez)著書。「同書は1881年オールダーリー(Alderley)のスタンリー卿(Lord Stanley)が翻訳し、ケンブリッジ(Cambridge)のハクルート協会(Hakluyt Society)のベッキングハム(C.F. Beckingham)およびフンティングフォード(G.W.B. Huntingford)による追加資料を加えた改訂・編集版が1961年に出版されている。

 

「エデンの園、現在の景観(Garden of Eden: A Modern Landscape)」: エデンの園 (the Garden of Eden) にノア (Noah) の洪水以前に流れ込んでいたピソン川 (the Pishon) 、ギホン川 (the Gihon) 、ヒッデケル川 (the Hiddekel) およびユーフラテス川 (the Euphrates) の四つの川が実在した事を証明する作業の一部として「ピソン川 (the Pishon)、ギホン (the Gihon) およびヒッデケル (the Hiddekel) はそれぞれ、涸れ谷バーティン (Al-Batin)、カルン川 (the Karun River)およびチグリス川 (the Tigris) であり、チグリス川 (the Tigris) とユーフラテス川 (the Euphrates) は現在と殆ど同じ河川敷を流れていた。その当時は四つの川の合流点はアラビア湾の奥にあったが、その位置は今日では内陸に成ってしまっている」そして「涸れ谷ルマ/バータン(Rumah/Batin)が旧約聖書に記載されているエデンの園(the Garden of Eden)に注ぐ4つの川の一つのピソン (the Pishon)だ」との仮説をキャロル A. ヒル(Carol A. Hill)Perspectives on Science and Christian Faith 52 (March 2000)の紙面に「エデンの園、現在の景観(the Garden of Eden: A Modern Landscape)」と云う検証報告を掲載している。

 

エフェソス(Ephesus) 小アジア西部のイオニアの古代都市。

 

エミリアロマーニャ州(Emilia-Romagna) イタリア北部のポー川(Po)とアペニノ山脈とアドリア海で仕切られた州。

 

エミールバハル: エミールバハル(Chief of the Sea)或いはエミールエルバハル(Emir el Bahhr)と呼ばれ「海の首長」を意味する19世紀始めにジッダ港長(a habour master)を務めた官僚の称号であり、全ての船から或る額の投錨代を徴収していた。

 

エメラルド(Emerald) ベリリウムとアルミニウムを主成分とした珪酸塩鉱物で六方晶系、六角柱状の結晶で塊状・粒状でも産出する緑柱石の多くは緑色または淡青色で、やや透明、でガラス光沢がある。その中の深緑色透明の光沢ある特に美しいものをエメラルドと云い、緑柱玉、緑玉石、翠玉、緑玉、翠緑玉等とも呼ばれる。

 

エッラアスベハ三世(Ella Asbeha III) 52310月の「ナジュラーンの戦い」でヒムヤル (Himyar, 110BC - AD525)国王ズー・ヌワース(Yousuf Dhu Nuwas, 517525)が冷酷に親アビシニア党を皆殺しにした。幾人かはズー・ヌワースの攻撃の前に逃亡し、コンスタンティノープル(Constantinople)のローマ皇帝(Roman Emperor)に助けを求めた。ローマ皇帝は「自分はその土地から余りに遠くにいる」としてアビシニア皇帝(the Ethiopian Emperor)エッラアトスベハ三世(Ella Atsbeha III)に介入する様に促す書簡を出した。エッラアスベハ三世は自分の守備隊が虐殺され、仲間のキリスト教徒が殺されたのでただでもそうしたいと思っていた。又、エッラアトスベハ三世はナジュラーンの戦いを「処刑された同盟者の死に対する正義の戦い」として利用する事で、アラビア半島全域を占領する為の好機と捕らえ、アリアス(Ariath) 指揮下で7,000人編成の軍を侵攻させ、ヒムヤル(Hymyar)の勢力を壊滅させた。エッラアスベハ三世についてはアビシニア皇帝(Elesboas,Hellesthaeus,Kaleb or Caleb)あるいはアビシニア(Abyssinia)王ナガシ(Nagashi) やアビシニア(Abyssinia)王ネグス(the Negus)との記述もある。

 

エドム(Edom) 南レヴァントLevantで、ユダヤ(Judea)の地や死海の南。

 

エドム人(Edumaea or Edom)