サウディアラビア紹介シリーズ
(サウジアラビア王国)
使用用語一覧
(語彙集)
(Lexicon for Saudi Traveller)
アアロン(Aaron): モーゼズ(Moses)の兄、ユダヤ教最初の祭司長。
アーイシャ(Aisha): アーイシャ・ビント アブー バクル(Aisha bint Abu Bakr, 614 - 678)はムハンマド(Muhannmad ibn ‘Abdullah, 570/571- 632)の3番目の妻で、初代正統カリフ(1st Rashidun Caliph, 632 – 634)のアブー バクル・スィッディーク(Abu Bakr As-Siddiq, c. 573 – 634)の娘。預言者ムハンマド最愛の妻とされる。
アーイシャの首飾り(Accusation of Adultery): 625年、ウフドの戦い(Battle of Uhud)の後、ムハンマド(Muhammad)の治めるマディーナ(Madina)はメッカ(Mecca)の策略によってたびたび周辺諸族の攻撃を受けるようになり、反撃していた。ムハンマドが出陣する際には3番目の妻アーイシャ(Aisha bint Abu Bakr, 614 - 678)が常に付き従っていた。ムスタリク族(Mustaliq)との戦いから帰る途中、アーイシャはムハンマドから贈られた首飾りを失くしてしまい、それを探すために一人で沙漠の中に離れてしまっていた。そこにちょうど通りかかったイスラム軍の青年兵士(Safwan ibn Al-Muattal)がアーイシャをラクダに乗せてマディーナ(Madina)まで送り届けたが、これが事件に発展する。マディーナの人々はアーイシャの不義を疑い、ムハンマドに詰め寄った。当時のアラブの慣習では沙漠で男と一夜を過ごした妻は離縁、不義密通を犯した妻は石を投げつけられて殺されるのが普通であったからである。アーイシャはムハンマドの側近アブー バクル(Abu Bakr)の娘でもあったことから、これは大きな政治問題にまで発展したが、最終的にムハンマドがアーイシャの密通疑惑を否定し、疑ってはならないという天啓を受けたと主張したことで解決した。この時、側近の誰もがムハンマドとアブー バクルに遠慮してアーイシャと離縁するように言い出せない中で、唯一それを言ったのがムハンマドの血縁者でもあり、後に第4代正統カリフ(4th Rashidun Caliph, 656 - 661)となったアリー イブン・アビー ターリブ(Ali ibn Abu Talib)であった。アブー バクルとアリーの間はこの事件の後、次第に冷えてゆくことになる。また、アリーとアーイシャの確執もこのことに起因すると言われる。この事件以来、ムハンマドも女性の貞節には敏感になった。女性にベールを着用するように義務付ける天啓は、クルアーン学者(Ulema or Islamic Scholars)によればこのすぐ後の時期のものであるとされている。(出典: ウィキペディア)
アイダブ(Aydhab): アイダブは紅海を挟んでジッダの対岸にあるアフリカ沿岸の町。
「アイヤシの旅の印象記」: 17世紀後半のモロッコ人の巡礼(アイヤシリラ フェズ(Al-Ayyashi Rihla Fez))の印象記は1898年に出版された(Al-Ayyashi Rihla Fez 1316H or 1898A.D.)。
アイユーブ朝 (Ayyubid): サラディーン (Saladin) が西暦1171 年に創設したイスラム教の王朝でエジプト, イスラム教のシリア、パレスチナ, 上部のメソポタミア (Mesopotamia) 及びイエメンを支配した。アイユーブ朝(Ayyubid) (1169 – 1249) の支配でエジプトは強力な中東イスラム教軍の基盤になった。 1193 年にサラディーンの死で, 帝国は分裂したが王朝はトルコの奴隷軍隊マムルーク(Mamelukes) が力を握った西暦1249 年までエジプトを支配した。
アイン(Al 'Ayn): ナジラン(Najran)北部でアル ガール山(Jibal Al Qahr)(標高1,794m)のやや南東、ヤダマー(Yadamah)から約30km北の山沙漠に在る「泉」と名付けられた泉のある部落。
アイン スックラー(Ain Sukkrah、予言者の泉): これはイスラム以前からの古代の泉であり、タブク(Tabuk)への侵攻の際に預言者モハンマド(Prophet Mohammad)が10日間以上もこの泉近くに宿営しこの水を飲んでいた。
’アイン フワイズ('Ayn Huwayz): ガール山(Jibal Al Qahr)(標高1,794m)の10km位東でアイン(Al 'Ayn)の少し北西にある山沙漠の中の部落で「幸運の泉」と名付けられている。
アヴァ(Ava): ミヤンマー(Myanmar)のマンダレイ(Mandalay)州の町でインワ(Innwa)とも呼ばれ、イラワディ川(Irrawaddy River or Ayeyarwady River)の岸辺にあるアマラプラ市(Amarapura)の南に隣接している。アヴァ(Ava)は1364年から1841年までビルマ(Burma)の首都であった。
アヴァニー(Avanies): 弾圧や不正の残忍な行為(wanton act of oppression and injustice)。
アウグストゥス(Augustus):ローマ皇帝オーガスタス シーザー(Roman Emperor Caesar Augustus, 63 B.C. - 14 A.D.) はジュリアス シーザー(Julius Caesar)(c.100-44 B.C.)の後継者で、ローマの初代皇帝(27 B.C – 14 A.D.)であり、国政を改革し、文学を奨励し、文学の黄金時代を作った。皇帝戴冠前はアウグストゥス オクタヴィアヌス(Augustus Octavianus)と呼ばれた。アウグストゥスは「崇高なる者」に意の尊称である。
アウス族(Banu Aus): ブ‘アスの戦い(Battle of Bu’ath)を参照。
赤い砂岩と赤い砂: アラビア半島(Arabian Peninsular)でみられる砂岩の殆どは褐鉄鉱の多い花崗岩(Limonite Rich Granite)を起源として居り、みずみずしい赤い色をしている。今日、赤い砂岩はサカカ(Sakaka)、タブク(Tabuk)、アル-’ウラ(Al 'Ula)、タイマ(Tayma)、ハイル(Hayil)や南西部のワディ アド ダワシール(Wadi Ad Dawasir)、ビール ヒマ(Bir Hima)、タトリース(Tatlith)、ビシャー(Bishah)、ヤダマー(Yadmah)、ナジラン(Najiran)等で見られる。この赤い砂岩の広がりは大きく、半島の一番高い場所であるアブハ(Abha)のハバラー(Habala)やソウダー(As Soudah)でも見られるし、半島中央部ジバル テュワイグ(Jibal Tuwaiq)の下部層が地表に現れたボウム山(Mt. Boum)付近でも見られる。3万3千年前から2万4千年前の猛烈な雨の降り続いた時代の後、アラビア半島(Arabian Peninsular)は乾燥し始め、1万5千年前までに沙漠状態になった。赤い砂岩は乾燥と共に風化され赤い砂となり、卓越風向に沿って移動した。その代表的な大きな赤い帯は北のナフド沙漠(Nafud)からダーナ沙漠(Dahna)を通じて南のルブ アルカリ沙漠(Rub' al Khali)へと延びている。
アガサルチデス(Agatharchides): 小アジア南西部のエーゲ海に面する地方であるカリア(Caria)にあった古代ギリシャの植民市クニドス(Cnidos)のアガサルチデス(紀元前170 -100年頃)は文法学者で、地理学者で歴史著述の作家であり、エリュトゥラー(Erythraean)海に関する論文を5冊の本にまとめている。アガサルチデスは年老いてアレクサンドリア(Alexandria)で若い国王プトレマイオス ソーテール二世(Ptolemaeus Soter II)の家庭教師を務めたので、エリュトゥラー海(Erythraean Sea)の特徴とその海岸地帯に関する信頼できる情報を簡単に手に入れる事が出来た。アガサルチデスが南西アラビアのサバ王国(Sabaean Kingdom, 715BC - 570AD)の富と繁栄について最初に述べた著者でもあり、その為に「富裕な(幸福な)アラビア(Arabian Felix)」と言う名がアラビア半島のこの部分を指す様になった。
茜(madder): アカネ科の蔓性多年草、山野に自生し、根は橙色、茎は四角く中空で棘がある。各節に四葉を輪生し、秋に白色の小花を付ける。根から染料を採った。生薬名を茜根(せんこん)といい、通経薬、止血薬に用いられる。
アカバの誓い(Bay’s al-‘Aqaba or Pledge of Aqaba): マディーナ(Madinah)のアラブ部族が預言者に行った信仰の誓いでヒジュラ(Hegira or Hijra)(聖遷)の要因となった。アカバ(‘Aqaba)はマッカ(Makkah)郊外、ミナーの谷(Mina)あたりで、621年にマディーナからの巡礼者達12名はムハンマド(Muhammad)と会見し、「女性の誓い」を行った。これは第1次アカバ(Pledgeof ak-Aqaba)の誓いと呼ばれ、「アッラー(Allah)を唯一の神とみなす、盗み、姦通、嬰児殺し、虚言をしない。神の使徒に服従する。誓いを果たした場合に楽園が約束される。誓いを破った場合に神の裁きが下される」との内容を持つ。十戒との類似が指摘され、クルアーン(Qur’an)60章12節にもほぼ同様の内容が見られる。その後、預言者は腹心のムスアブ イブン ウマイル(Mus’ab ibn ‘Umayr, d. 625)をマディーナに送り、イスラーム(Islam)の布教にあたらせた。翌年、マディーナの73名の男と2名の女がアカバで預言者と会見し、神の使徒を守る為には戦いも辞さないと誓った。これが「戦いの誓い(People of War)」で「第2次アカバの誓い(Seconf Pledge of ‘Aqaba)」と呼ばれる。これによってムハンマドはマディーナへの移住を決意した。(出典: 岩波イスラーム辞典)
アガバト(Al-'Aqabat): ジバル サラト(Jibal al-Sarat)の障壁はアラビア半島西の縁を形作る程、高く聳えている。これらの山々の稜線は分水嶺に成って居り、ティハマー(Tihamah)に向かっては壁の様に急であり、空白地帯に向かっては東へなだらかに下っている。ティハマーに向かって下っている急傾斜の谷の上流部分をアガバト(Al-'Aqabat)と呼んでおり、住人はここからティハマーへと下って行く。
アガバニ(Aghabani or Kassideh): 絹と綿の浮き織りモスリン。
アカラム人(Akhlamu): 放浪者を意味するアフラム人(Ahlamû)とも呼ばれるアカラム人(Akhlamu)は楔形文字(Cuneiform)によるアッカド文字(Akkadian Alphabet)で粘土板に書かれ、紀元前14世紀頃の出来事を記述したアマルナ文書(Amarna letters)に最初に登場した。このアフラム人(Ahlamû)の存在はアッシリア(Assyria)のニップル(Nippur)やバハレイン(Bahrain)のディルムン(Dilmun)から出土した遺物でも証明されている。アッシリア(Assyria)のシャルマネセル1世(Shalmaneser I, 1274 BC - 1245 BC)はフリル人の王国ミタンニ(Mitanni)の王シャツアラ(Shattuara)を打ち破り、そのヒッタイト(Hittite)とアフラム人(Ahlamû)の商人達を支配下においた。エジプトでは「アフラム人(Ahlamû)はエジプト語の放浪者を意味するシャス(Shasu or Shsw)と同等であり、シャスがツタンカーメン(Tutankhamen, 1361 BC - 1352 BC)以来のエジプト支配のレヴァント帝国(Egyptian Levantine Empire)の無法者で、騒乱の主な原因であったアピル(‘Apiru)(楔形文字ではSA GAZ)と入れ替わった」とも云う。紀元前13世紀にアフラム人(Ahlamû)はバビロン(Babylon)からヒッタイト帝国(Hittie Empire, 18 - 14 Century BC)の首都ハットゥシャ(Hattusas)への道を分断したのでアッシリア(Assyria)のトゥクルティ・ニヌルタ1世(Tukulti Ninurta I, 1244 BC - 1208 BC)は討伐に出かけ、「ユーフラテス川(The Euphrates)沿いのマリ(Mari)、ハナ(Hana)、ラピクム(Rapiqum)およびシリアのビシュリ山(Jebal Bishri)を占拠した」と宣言した。ビシュリ山(Jebal Bishri)は明らかに「アフラム人(Ahlamû)の山」であった。アッシリア(Assyrian)では王ティグラト・ピレセル1世(Tiglath Pileser, 1115 BC - 1077 BC)の碑文が最初にアフラム・アラム人(Ahlamû-Aramaeans)を引用したが、その直ぐ後にアフラム人(Ahlamû)はアラム人(Aramaeans, Aramu or Arimi)に取って代わられ、アッシリアの年代記から急速に消えてしまった。アフラム・アラム人(Ahlamû-Aramaeans)はアフラム部族(Ahlamû Tribes)の重要性と時期を得た優勢な要素としてはアラム人(Aramaeans)と考えられるだろうけれども、この二つの部族は何も共通では無く、同じ地域で活躍していたのかも知れない。「紀元前2000年期前半にユーフラテス川(The Euphrates)西域で権力を握ったセム語を話す諸部族(Semitic Language People)はアムル人(Amurru)ともアムル(Amorite)とも呼ばれた。この名はこの部族の名であり、その主神(Principal Deity)の名でもあった。遊牧民アモリ人(Amorites)の領土は元々アラビア半島であったが、紀元前約2400年の初めにはシリア(Syria)およびカナアン(Canaan)を含むユーフラテス川西域を占め、アモリ人の山(Mountain of the Amorites)と呼ばれるシリアのビシュリ山(Jabal Bishri)山岳地方と特別なつながりがあった」と云うアムル人(Amurru)或いはアモリ人(Amorite)とアフラム部族(Ahlamû Tribes)が同一部族だとも考えられるが、これもについても確かな記述はない。
アクスム王国(Aksumite Empire, c. 50 - 940): アクスム王国は過去のエチオピア(Ethiopia or Abyssinia)に栄えた交易国で単にアクスム(Kingdom of Aksum or Axum)ともいう。紀元前5世紀頃から紀元後1世紀までに交易国になった。325年または328年にコプト派キリスト教(Coptic Orthodox Church)が伝来した。7世紀に衰退し始め、内陸の高地へ追いやられてクシ系のアガウ(Agaw)族の女族長グディット(Gudit)(ジュディット(Judith)、ヨディット(Yodit)とも云う)によって950年頃滅ぼされたとされる。ただし、グディットはただ単に非キリスト教徒ないしユダヤ教徒(Jewess)であって、彼女の支配の後、アクスム王朝の流れを汲むアンベッサ・ウディム(Anbessa Wudim)が即位してからしばらくして、アガウ族が住む地域まで進出したところで、1137年にアクスム王国が滅亡したという説もある。一般に、アクスムは現在のイエメン(Yemen)に当たる南アラビアから紅海を越えてきたセム語系(Semitic)のサバ(Saba)(シェバ(Sheba))人が中心になって建国されたと考えられている。一方、少なくとも紀元前1000年位にはセム語系民族が存在したこととサバ移民が数十年しかエチオピアに留まっていなかったことを示唆する証拠を示して、「アクスムはより古い土着のダモト王国(D’mtないしDa'amot)の跡を継いだ者達の国である」と主張する学者もいる。王たちは、ソロモン王(King Solomon)とシバの女王(Queen of Sheba)の子であるメネリク1世(Menelik I)の血筋を引いているとして、自らの正当性を主張し、"Negusa Nagast"(「王の中の王」)と公称していた。アクスム王国は主にインドとローマ(Roman Empire, BC 27 - AD 476/1453))(後に東ローマ帝国(Byzantine Empire or Eastern Roman Empire, 330 - 1453)はアクスムに多大な影響を与えた)と交易した。象牙・鼈甲・金・エメラルドを輸出し、絹・香辛料・手工業製品を輸入した。2世紀にアクスムは紅海を越えてアラビア半島に属国となるよう迫り、また北エチオピアを征服した。350年にはクシュ王国(Kingdom of Kush or Cush, BC 1070 - 350)(メロエ王国)を征服した。アクスム王国は独自の硬貨を持ったアフリカで最初の国で、エンデュビス王(Endubis, c. 270 – c. 300)からアルマー王(Armah, c. 614)に至る治世の間(大体270年から670年まで)同時代のローマの通貨を模倣した金貨や銀貨や銅貨が鋳造されていた。硬貨が作られたことにより、取引は簡単になりそして同時に硬貨は便利なプロパガンダ(Propaganda)の道具、また王国の収入源であった。アクスム王国は最盛期、現在のエリトリア(Eritrea)、北部エチオピア(Northern Ethiopia)、イエメン(Yemen)、北部ソマリア(Somalia)、ジブチ(Djibouti)、北部スーダン(Sudan)に広がっていた。首都はアクスム(Axum or Aksum)で現在の北部エチオピアにあった。他の主要都市にイェハ(Yeha)、ハウルティ(Hawulti)、そして現在エリトリアにある重要な港湾都市アドゥリス(Adulis)をはじめとしてマタラ(Matara)およびコハイト(Qohaito)がある。この時アクスムの住民は、エチオピアと南アラビアにいるセム系民族とハム系民族が混ざり合って構成されていた。アクスムは7世紀にイスラム教が起こるまで、強大な国で強い交易力を持っていたのだが、段々と新興のイスラム帝国に圧迫されていった。アクスムはムハンマドの最初の信者達を匿っため、イスラム帝国が紅海とナイル川の多くの支配権を得て、アクスムが経済的に孤立していってもアクスムとムスリムは友好関係を保ち、アクスムが侵攻されたり、イスラム化されたりすることはなかった。11世紀もしくは12世紀にアクスムがあった土地にはザグウェ朝(Zagwe dynasty, 1137 - 1270)が興った。ザグウェの領土はアクスムの領土より限られていた。その後、最後のザグウェ王を殺した、イクノ・アムラク(Yekuno Amlak)が祖先の跡を継ぎ、最後のアクスム王ディル ニード(またはディナオード,Dil Na'od)の支配権を引き継いで、近代のエチオピア帝国(Ethiopian Empire, c. BC 980/50 - 1974)にまで系譜がたどれるソロモン朝(Solomonid Dynasty)を開いた。西暦325年ごろエザナ王(King Ezana)の下で、王国はそれまでの多神教の信仰に代わって、キリスト教を受容した。エチオピア(あるいはアビシニア)の教会は、最近まで続いていた。教会は非カルケドン派(Orthodox Catholic Church)(いわゆる単性論派)に所属する。またその経典と祈祷書は未だにアクスム王国の独自の文字であるゲーズ語又はゲエズ語(Ge'ez又はGeez)で書かれている。アクスムはプレスター・ジョン(Prester John)伝説の候補地の一つとして挙げられていた。アクスムは国際的に且つ文化的に重要な国だった。エジプト、スーダン、アラビア、中東、インドといった様々な文化が集う場所で、アクスムの都市にはユダヤ教徒やヌビア人・キリスト教徒・仏教徒さえいた。王国初期の西暦300年ごろ、キリスト教が伝来する前に建てられたと考えているオベリスク(Obelisk)が、現在まで残っている。(出典: ウィキペディアおよびWikipedia)
アクダール(Al-Akhdar)駅: ヒジャズ鉄道のアカダール駅(Qal'at al Akhdar)遺跡はレバノンからの巡礼路の主要なキャラバンセライ(Caravanserai)であり、タブク(Tabuk)の南72kmに位置している。その姿は西暦1907年にジョウセン(Jaussen)が撮影したままの状態で残っている。現地の住人が積み石を他の目的に転用するのをサウディ教育省考古学局は禁止したが、残念な事にはそれ以前に意図的に破壊されてしまって居る。ワディ アルーアクダール(Wadi al Akhdar)を見晴らす丘の上からビールガト(Birqat、雨水を溜める貯槽)を伴う四角な基礎の古典的砦の配置を鳥瞰できる。今では二つの大きな涸れ谷(Wadi)の合流点のこの廃墟は柵で囲われ、近代的な沙漠パトロールの直接保護下にある。
アケメネス朝(Achaemenid dynasty, 550 – 330 BC): アケメネス家(Achaemenes)のキュロス二世(Cyrus II)が西アジアを征服。ダレイオス一世(Dareios I, 558 – 486 BC)の時代にオリエントを統一して全盛期を迎えたが、ギリシャ遠征(ペルシャ戦争 492 – 449 BC)には失敗した。帝国はペルセポリス(Persepolis)に大殿を造営し、繁栄を謳歌していたが、紀元前4世紀には州総督(サトラップ)の反乱に悩まされ、アレキサンダー大王(Alexander the Great)( 336-323 BC)の東征による侵攻で滅亡した。
アサール(Athar): ヒジュラ暦473年、西暦1081年にアラブ族がやって来て、ジッダ(Jiddah)の町は包囲された。ジッダ(Jiddah)の住人は水が乏しく成ったので自分達自身の船に乗って逃走した。彼等は海を彷徨ったがその内の或る者達はシッライン(al-Sirrayn)、ラハ(al-Raha)およびアサール(Athar)に居を構えた。
アザル(azal): 「永遠」アラビア語ではアザル(azal)とアバド(abad)の対概念によって明示される。アザル(azal)とは現在から過去を見た場合の永遠であり、時間的な始まりをもたないこと、即ち無始性を意味する。これに対してアバド(abad)とは現在から未来を見た場合の永遠であり、時間的な終わりを持たないこと、即ち無終性を意味する。(出典: 岩波イスラーム辞典)エッセイ: セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr)は「神と人間との契約」(primordial covenant with God or mithaq*)を結んだ瞬間から以前の永遠に対してアザル(azal)と呼んでいる。
アザーン(adhan): サラート(salat)の呼び掛け。イスラーム世界では何処にいても一日5回のアザーン(adhan)が聞こえる。
「アジアのポルトガル(Asia Portuguesa)」: マヌエル デ ファリア イ ソウサ(Manuel De Fariia Y Sousa)著、1666 - 1674年にリスボン(Lisboa)で出版。
アジジヤ泉行政局(Ain Aziziyah administration): ジッダへの給水は完全に故アブドゥルアジズ(Abdulaziz)が寄付した宗教的信託基金(Waqf)で設立されたアジジヤ泉行政局(Ain Aziziyah Administration)の責任を持っていた。この市の主要な水資源は涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)に加えて、ジッダの北約70km余りに涸れ谷カライス(Wadi Khalais)とクッバト アシャラ(Kubbat Asharah)の脱塩装置であった。
アジュマン(Ajman): アラブ首長国連邦(United Arab Emirates (UAE))の7首長国の一つ、ペルシア湾に臨み、人口3.6万人。
アシュール文化(Acheulean): 150万年少し前にホモ ハビリス(Homo habilis)よりも大きくもっと進化したホモ エレクトス(Homo erectus)と呼ばれる人類が現われた。その祖先達よりも体力的そして知的に優れ、大胆で進取の気性に富んでいた。ホモ エレクトス(Homo erectus)は後期オルドワン型石器(Developed Oldowan types)を手斧(hand ax)、石包丁および突き器等の新しいアシュール形態(Acheulean forms)の石器に次第に取り替えて、祖先の生み出した道具の中に新しい形態を取り入れた。この文化はその後150万年近く続き人類の作った最も長い文化と成った。アフリカでは手斧(Hand Ax)を特徴とするすべての文化の総称であるが、ヨーロッパでは最初期のHand Axを特徴的な石器とする前期旧石器文化であるアブヴィル文化(Abbevillian)に続く、同じく石斧を特徴的な石器とする前期旧石器文化である。この文化に命名されたセント アシュール(St. Acheu)lはフランス北部ソンム(Somme)県の県庁所在地アミアン(Amiens)に近い遺跡である。
アショール(Ashour): 十分の一税(Tithe)、19世紀初めにジッダでは関税をアショール(Ashour)と呼んでいた。
アシール('Asir): 南のイエメンから北はアカバ湾まで続いているアラビア半島西の山脈をサラワト(Sarawat)と呼び、アシール('Asir)もその一部である。アシール('Asir)はイエメン北部から北はバハア(Bahah)州の州境のバハア ガアミド(Bahah Ghamid)まで続いている。アシールの名は中世に成って、特にサラト アザド(Sarat al-Azad)を中心としたサラワト高地(Heights of Sarawat)に住む部族同盟の名として使われた。アラブの地理学者アル ハムダニ(al-Hamdani)は「遠く昔の10世紀頃にはこの地方の人々に取ってアシール(Asir)と云う言葉はアシール(Asir)部族同盟が住んでいたアブハ(Abha)周辺の限られた地方を意味する伝統的な部族的用語であった」と記述している。やがて、この地はアシールとして知られる様になった。この地の多くの山や谷の間に難路である細道や山道があった為、多くの専門家は「アシールの名はアラビア語で困難を表すアル ウスル(al 'Usr) と云う意味も持つアドナン族(Adnan)の古い住人の名に因んで付けられた」と考えている。19世紀後半にオスマン帝国(Ottoman Turks)はヒジャズ(Hijaz)およびイエメン(Yemen)を支配し、そのイエメン州の最も北に位置する4つのサンジャグ(sanjaq)にアシール(Asir)と名付けていた。アシール(Asir)の中心であるアブハ(Abha)を行政府とするこの巨大なサンジャグ(sanjaq)はタイフ(Taif)の南100 kmから南は殆どナジラン(Najran)およびジザン(Jizan)まで広がり、ティハマー(Tihamah)海岸平地を含んでいた。アシール(Asir)と云う言葉の現代の会話での使用される意味はこのオットマン帝国支配の時代に普及した。現在ではアシールの名はダアラン ジュヌブ(Dharan al-Junub)と呼ばれるワディ アレーン(Wadi al-Areen)から北のビラド カアシャ’ アスル礼拝(salat al-'asr): サラート(salat)を参照。物の影が本体と同じ長さに成った時から日没までに行う。
アム (Bilad Khash'am)まで、そして西の紅海岸から東のリマル タティリース(Rimal Tathleeth)までを含む地を指すように成った。従って、アシール地方はサウディアラビアの南西部の中央に位置し、北緯17度20分から20度50分、東経41度30分から44度30分の範囲にある。この地方の延長はおおよそ四百キロメートルである。
アスカ(Asca): ジェッダ(Jeddah)とクンフダー(Qunfudah)のほぼ中間に位置する紅海岸の港町ライス(Al-Lith、Al-Laith)の古代名。
アスダール(Al-Asdar): ジバル サラト(Jibal al-Sarat)の障壁の凄まじく切り立った断崖絶壁はアスダール(Al-Asdar)と呼ばれる。
アストラ(ASTRA): アラビア供給通商会社 (Arab Supply & Trading Corporation)の農園は1979年にタブク(Tabuk)に設立された。持ち主はタフィール サビン マスリ マ’ッシ氏(Mr. Tafir Sabin Masri Al-Ma'ssi)で、同氏の家族はパレスチナ(Palestine)出身である為、ASTRAの幹部職員はほとんどがパレスチナ人である。又、ASTRAは生産した農作物をヨーロッパや湾岸諸国(GCC)に輸出している事でも知られている。ASTRA農場の広さは30 km2 (3,000ha)でサウディ アラビア(Saudi Arabia)の農場としては特に広くは無いがその作物は生鮮野菜、切り花、果物、養鶏そして1千2百万羽の鶉の養殖と種類が多い。
アストラカン(Astrakhan): ロシア南東部ヴォルガ(The Volga)川下流の三角州にある市。
アスルラ(Athrula): 現在のアブハ(Abha)と思われる。
アゼルバイジャン(Azerbaijan): イラン北西部の地域でタブリーズ(Tabriz)、古代名メディア(Media)或いはアトロパテネ(Atropatene)等が含まれる。
アゾフ海(Sea of Azov): 黒海北部にある内海で、ケルチ海峡(Strait of Kerch)によって黒海と結ばれている。北はウクライナに接し、東のロシア連邦と西のクリミア半島(Crimea)に挟まれている。西岸には110kmにわたり、アラバト・スピット(堆積物が海中に突起したもの)が広がり、シバス(Syvash)には塩分濃度の高い湿地帯の入り江がある。大きさは長さ340km、幅135km、面積37,555km2である。ドン川(The Don)とクバン川(Kuban River)が流れ込み、それによって比較的低濃度の塩水と新鮮さが保たれている。
アダム(Adam): 天地創造に際して神が最初に造った男で、人類の始祖。
アチュート(Dalits): パーリア(Pariah)とも云い、カースト(caste)外の「不可触民(Untouchable)」とも翻訳される。力がなくヒンドゥー教(Hindu)の庇護のもとに生きざるを得ない人々である。にも関わらず1億人もの人々がアチュートとしてインド国内に暮らしている。
アチュリアン文化(Acheulean): (アシュール文化(Acheulean)参照。)
アッシージ(Assisi): イタリア中部ウンブリア州(Umbria)の町(2.5万)でイタリアの修道士聖フランチェスコ(St Farncis )(1181/82 - 1226)の生地。
アッシュール(Ashur): アッシリア(Assyria)の古代名でもあり、アッシリアの主要都市の一つである。
アッシリア(Assyria): メソポタミア北部を中心とした古代王国で紀元前18世紀頃から前7世紀にわたってオリエント最初の世界帝国として栄えた。首都は初期にはアッシュール(Ashur)で、後にニネヴェ(Nineveh)に遷都した。紀元前612年にカルデア(Chaldea)・メディア(Media)連合軍によって滅亡した。アッシリアは現在のシリアの語源でもある。
アッバース朝(Abbasid Dynasty): クライシュ族(Quraysh)で預言者ムハンマド(Muhammad)の叔父アッバス(Abbas)の直系であるアッバース朝は西暦750年にウマイヤッド朝(Umayyad Dynasty)を倒し、首都をダマスカスからバクダット(Baghdad)に移したイスラム帝国(Caliphate)第2の世襲王朝(749年 - 1258年)であった。アッバース朝(Abbasids) が西暦750年に奪権し、イスラム国都をバクダット(Baghdad)へと遷都した。この事でアラビア湾交易は10世紀まで続く新たな黄金時代へと導かれ、最盛期にはその支配は西はモロッコから東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝のイスラム帝国の支配は西暦1258年のモンゴル(Mongol)の中東征服によって終焉した。
アッラー(Allah): アッラー(Allah)は神を示す単語で、アブラハムの宗教(Abrahamic Religions or Abrahamic Faith)とも呼ばれるアブラハム(Abraham)が説いた原始一神教(Din al-Hanif or Primordial Religion)の唯一神(Allah)を意味している。しかしながら、イスラーム以前(Pre-Islamic Arabia)で異教徒(Paganns)であったメッカの住人達(Meccans)も自分達の最高神(Supreme Deity)を意味する言葉としてアッラー(Allah)を使用していた。このアッラーには女神アッラート(Al-Lat or Allat)、ウッザ(Uzza)と女神マント(Manat)の三人の娘が居たとされる。(出典: Wikipedia)
アッラート(Allat): イスラム教以前のいわゆるジャーヒリーヤ時代(Jahiliyyah or Jahalia)(Ignorance of Divine Guidance)に崇められていた女神で、その名はアッラーフ(Allah)の女性形で「女神」の意味である。アラビアの商業都市ターイフ(Taif)近くの渓谷に主神殿があり、飾りつけられた白い立方石を依代としていた。マナート(Manat)、アル ウッザー(Al-Uzza)と共に、最高神アッラーフ(Allah)の三人の娘の一人とされていたが、クルアーン(Qur’an)には「神には子孫がいない」と述べられている。(出典: Wikipedia)
アティルトレス(Athil Tress): アティルトレスはアティル タマリスク(Athel tamarisk or Tamarix aphylla)で日本名は御柳(ギョリュウ)である。タマリスクの最大種がTamarix aphyllaすなはちAthel tamariskであり、常緑樹で樹高は15mに達する。耐乾性に優れ、雨が降らなくなっても樹木の中で一番、最後まで生き残る。さらに耐塩性が強く塩分濃度15,000 ppmまで許容でき、耐アルカリ性でもある。枝は比較的細く葉は灰緑色をしている。花はピンクか白である。沙漠地帯の貴重な緑であると共に、ナツメ椰子園の防砂林として使われてきた。幹は建物や家具等の主要な建材ともなる。
アテバ族(Ateba): ナジド(Najd) 4つの部族の一つであるアテバ族が遊牧の為に巡回する範囲はヒジャズ(Hijaz)の境界からカシム(Qasim)方向の道に沿ってマッカ(Makkah)まで広がっていた。
アデュッマツと五人の女王 (Five Queens of Adummatu): デュマト アル ジャンダル(Dumat al-Jandal)は紀元前8世紀から7世紀にかけて北アラビア北部の主要なアラブ居住地であり、アッシリア(Assyrian)の年代記にはアデュッマツ(Adummatu)と云う名で記録されている沙漠の王国である。アデュッマツとは不毛沙漠の荒れ地の中心にあるアラブの砦と云う意味であり、このオアシスはゲダール(Qedar)と云うアラブ部族の領地の中にあった。パルミレナ(Palmyrena)と呼ばれた南東ダマスカス(Damascus)を含む地域がゲダールの生活圏であり、ゲダール部族の各支族やゲダールに従属していた他部族の支族の遊牧地は遠くナフド沙漠(An Nafud)まで広がっていた。デュマト アル ジャンダルの住人はゲダールの保護が無ければその隊商(Caravan)が沙漠を越えられなかったのでゲダールに隷属していた。アッシリア(Assyrian)の年代記にはデュマト アル ジャンダルは一連のアラブ女王系譜の首都であったと記録されている。その女王達とは女王ザビベ (Queen Zabibe)、女王サミシ (Queen Samisi)、女王ヤティ’エ (Queen Yati'e)、女王テ’エルクヌ (Queen Te'elkhunu)および王女タブ’ア (Princess Tabu'a)であった。
「アデル国とショア王国へ向かう途上の紅海東洋岸の航海」: ロシェ デリクール(Rochet d'Héricourt) 著、1841年パリで出版(Rochet D'Hèricourt, C.E.X Voyage sur la côte orientale de la mer Rouge, dans le pays d'Adel et le Royaume de la Choa Paris 1841.)。
「アデル国とショア王国へ向かう途上の紅海両岸の航海」: ロシェ デリクール(Rochet d'Héricourt) 著、1846年パリで出版(Rochet D'Hèricourt, C.E.X. Voyage sur les deux rives de la mer Rouge, dans le pays d'Adel et le Royaume de la Choa Paris 1846. )。
アデン(Aden): アラビア半島の南西部の元英国保護領であた南イエメンの紅海入口の海港でイエメンの経済の中心地、人口29万人。
アドジョウエ(Adjoue): デイツが熟すと大きなバスケットに入れて堅く固形のペーストあるいはケーキに成るまで圧縮され、「アドジョウエ(Adjoue)」と呼ばれ売りに出される。
アドナン族(Adnan): 和訳ではアドナーンでは英訳ではAdnaniとも転写されるアドナン族(Adnan)は一神教(Monotheism)の偉大な長老、アブラハム(Abraham)*の子イシュマエル(Ishmael)* (イスマーイール(Ismail))を始祖とするアラブ化したアラブ族(Arabized Arabs)で、イシュマエルの12人の息子で最初に生まれたナビト(Napyot, Nebaioth or Nabit)の子孫アドナン(Adnan)を祖とし、北部、中部および西部アラビアに勢力を持ったアラム人(Aramaean Sphere)血統の部族である。アドナン族(Adnan)はノア(Noah)の息子セム(Shem)の子孫ヨクターン(Joktan)と同一視されているカハターン(Ya‘rub bin Yashjub bin Qahtan)の子孫で南部および南西部アラビアに勢力を持ち、純粋のアラブ族(Pure Arabs)と呼ばれるカハタン族(Qahtan)*と対峙していた。アドナン族(Adnan)に属する主な部族としてはキナーナ族(Banu Kinana)、クライシュ族(Quraysh)やタミーム族(Tameem or Tamim)を含むムダール族(Mudar)、’イヤアド族(‘Iyaas)、アンマール族(Anmar)およびターリブ族(Tarlib)やバクル族(Bakr)を含むラビー‘ア族(Rabee’a or Rabi’ah)等が挙げられ、預言者ムハンマドもアドナンの子孫である(詳細はクライシュ族(Quraysh or Quraish)を参照)。
アドルフ フォン ヴレーデ(Adolf von Wrede): 1870年にH.F. モルツアン(H.F. Maltzan)が編集し ブウンシュヴァイク(Braunschweig)で出版した「ハドラマウトの旅(A. Reise in Hadramaut ed. by H.F. Maltzan, Braunschweig 1870.)」の著者。
アナトリア(Anatolia): 現在のトルコ領小アジア。
アバー(Abba): アラビア人の袖のないゆるい衣服(駱駝や山羊の毛の織物で普通は縞柄)。
アバイヤ(Abaiyah): アッバ(Abbah)、アバ(Aba)とも云う。アラブ族が用いる袖の無いゆるい外套。
アバダン島(Abadan Island): シャッ タル アラブ川(The Shatt-al-Arab)のデルタにあたる島で同島には30万BPDの石油精製・輸出基地がある。
アバド(abad): 「永遠」アラビア語ではアザル(azal)とアバド(abad)がある。詳細はアザル(azal)を参照されたい。
アハマド イブン ハンバル(Ahamad ibn Hanbal): ハンバリー派(Hanbali)はスンナ派(Sunna)の4学派の一つでワッハーブ主義の教義(Wahhabism)と一致する。
アハマド イブン マジド(Ahmad ibn Majid): 最高の海洋科学に関するアラビア語で書かれた百科辞典「有用な情報或いは航海科学の基礎と原則(Book of Useful Information or Basis and Principles of Nautical Sciences)」の著者で、インド洋を渡る巡礼の為の海上通行を少なくとも4世代に渡って受け継ぐ、勇敢で博学な航海者であるナジディ族(Najdi)に属する傑出したアラビア人航海者であった。「イブン マジドはマレモ カナク(Malemo Canaqua)(マレモ カナ(Malemo Cana))の名でマリンディ(Malindi)から印度までヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)指揮のインド遠征隊の水先案内人を務めた」とポルトガルの歴史家達は記録している。
アハマド クウルシド パシャ(Ahmad Khurshid Pasha): アハマド パシャはフランスが1801年にエジプトから撤退した後にオスマン帝国(Ottomans, 1299 – 1923)が正式に任命したアレクサンドリア(Alexandria)の市長であり、ムハンマド アリ(Muhammad Ali Pasha, 1769 - 1849)のたっての願いで1804年にエジプトの行政担当総督(Wali or Vali or Governor))に任命された。英国の外交代表と同盟し、アハマド パシャはシリア(Syria)からデリー部隊(Delhi Troop)を連れてきて、ムハンマド アリとその旗下のアルバニア部隊(Albanians)をエジプトから排除しようとした。ムハンマド アリはカイロ(Cairo)のイスラム神学者(Ulema or Mullah)と同業者組合(Guild)の指導者に支援されて、デリー部隊を自陣に引き込む事に成功し、1805年5月に自らをエジプト総督(Governor of Egypt)に任命した。自分の軍隊に見捨てられたアハマド パシャは「ムハンマド アリをエジプト総督に任じる」との勅令(Firman or Decree)が出るまでカイロの要塞(Cairo Citadel)に幽閉されていた。
アハメド パシャ(Ahmed Pasha): 1832年にト−ルクチェ ビルメズ(Turkche Bilmez)として知られるヒジャーズ軍将校(Hejazi officer)がイマム(Imam)とムハンマド アリ(Muhammad Ali)*に反抗し、ホデイダ(Hodeida)、ゼビド(Zebid)およびモカ(Moka) を占拠した。この機会をとらえて、アシール地方の高地族はエジプト軍に対し問題を起こし始め、それに対してムハンマド アリは治安を回復する為に1万8千人の懲罰遠征軍を組織した。その指揮官がスルタン代理人アハメド パシャ(Ahmed Pasha)であった。この遠征軍には6名のヨーロッパ人が参加しており、遠征軍に戦闘結果についてはその内の一人モーリス タミシエ(Maurice Tamisier)が1840年にパリ(Paris)で出版した「アラビアでの航海(ヒジャーズ滞在とアシールでの戦闘)(Voyage en Arabie. Sèjour dans le Hedjaz. Campagne d'Assir)」に記録されている。
アバール ナ’アム(Abar Na'am): アシール州西部のカール山(Jibal Al Qahr)から北へと下る涸れ谷ナ’アム(Na'am)源頭の部落で「駝鳥の井戸」との意味の名が付けられている。
アビシニア(Abyssinia): アラビア語が語源のエチオピア(Ethiopia)の別名、旧称。
「アブルフィダ(Prince Abu'lfida)の地理」: アブルフィダ(Prince Abu'lfida)著の「タクウィム ブルダン(国々の描写)(Takwin al-Buldan)」をM. レノー(M. Reinaud)が翻訳・編集し、アブルフィダ(Prince Abu'lfida)の地理」と云う題名で1848年にパリで出版した(Géographie d'Abu'l Feda tr. and ed. by M. Reinaud. Paris.)。
アビシニア海賊(Abyssinian Pirate): 7世紀にアビシニア(Abyssinia)のアクスム王国(Aksumite Empire or Kindom of Axum)は衰退し始めたが、アビシニア海賊((Abyssinian Pirate)はその後も数世紀にわたって勢力を保ち、ダッラク諸島(Dahlak Archipelago)を成敗する為の遠征への報復で、702年にはジェッダを襲撃し、廃墟にする程の力を持っていた。
「アビシニアの生活(Life of Abyssinia)」: 1853年にロンドンで出版され、著者は無名であったが、マンスフィールド パーキンス(Mansfiled Parkins)であるのがわかった。たまたま、パーキンス(Parkins)は異なる港から輸入される商品の年間取り扱い額のみを記載した集計表を翻訳しており、往時の貴重な資料を提供している。
「アビシニアでの任務について」: ロールフス(Gerhard Rohlfs)著、1883年ライプチッヒで出版(Rohlfs, G. Meine Mission nach Abessinien Leipzig 1883.)。
「アビシニアでのフェレとガリニエの旅行」: 1847年にパリで出版(Ferret - Galinier Voyage en Abyssinie Paris 1847)、この本の何処にもフェレの頭文字が記録されて居ない(ch. X. Nowhere in the book are Ferret's initials recorded.)。
「アビシニアと紅海での或る任務」: スタニスラフ ラッセル(Stanislas Russel)陸軍少佐著、1884年パリで出版(Russel, S. Une Mission en Abyssinie et dans la Mer Rouge Paris 1884.)。
アブ アリシュ(Abu Arish): サウジ南西部ジザン州の州都ジザンの東にある町。
アブ アルワ(Abu Arwa): ジッダ(Jeddah)の西北西70km余りの距離にある涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)内の肥沃で地下水の豊富な村。
アフォンソ ダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque): インドの年代記で非常に著名なポルトガルの第2代インド総督(1508 - 1515)であり、アフォンソ・デ・アルブケルケ(Afonso de Albuquerque)とも転写されている。アフォンソ ダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque,1453 - 1515)は1453年リスボン(Lisbon)で生まれ、1503年に一度インドへ赴いた。帰国後、ポルトガル王マヌエル1世(Manuel I、1495 - 1521)の信任を得、1506年インド総督として16隻の艦隊を率いてリスボンを出発した。航海の途中では紅海入り口のソコトラ島(Socotra or Suquṭra)、アラビア湾のホルムズ島(Hormuz Island)を占領した。フランシスコ ダルメイダFrancisco d'Almeida, 1505 - 1508) は1505年に初代インド総督(Viceroy of India)に任命されてて以来、コーチン(Cochin)やカナノア(Cananore)の商館を城塞に作り替え、後にクイロン(Quilon)にももう一つの要塞を作った。1509年2月3日にはディウ(Diu)沖で敵と交戦し、凶暴な海戦でフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)指揮下のエジプト艦隊に血みどろの敗戦を被らせた。しかしながら、多くの権力が1人の手に長く集中するのを恐れていたマヌエル王(Manuel I)はアルメイダ(Almeida)にインド統治領(the Viceroyalty of India)の最高権威をアフォンソ ダルボケルケ (Afonso d'Alboquerque)に渡し、帰国する様に命令して解任した。アルボケルケ(Alboquerque)は第2代インド総督(Viceroy of India)に就任するとインド洋全体に無敵のポルトガルの覇権を確立しようとして、まず1510年カリカット(Calicut)攻撃したがに失敗した。その後北上し、ムガル帝国皇帝 (Great Mogul)から1479年に独立を勝ち取った豊かなムスリム(Moslem)王国の支配下にあったゴア島(Goa Island)を一時占領し、8月にいったんは引き上げたが、11月に再びゴアを恒久占領した。これ以後、ゴアはポルトガルのアジア支配の拠点としてインド総督の駐在地となる。1511年にはマレー半島(Malay Peninsula)における香料貿易の中継地として繁栄していたマラッカ王国(Sultanate of Malacca、1402 - 1511)の占領に成功し、マラッカ(Malacca)に1年滞在してポルトガルの東南アジアにおける拠点とする。その後もインド洋(Indian Ocean)各地のムスリム(Moslem)支配下の港市攻撃に従事し、ホルムズ(Hormuz)、ゴア(Goa)、カナノア(Cananore)、コーチン(Cochin)、クイロン(Quilon)およびカリカット(Calicut)等の拠点を持って、ポルトガルがアラビア海の交易航路を支配し、意のままに略奪する事を可能にした。インドにおけるポルトガルの地位の拡大と強化を懸念したマムルーク朝(Mamuluk)のスルタン(Sultan)カンサウ ガウリ(Qansawh al-Ghawri)はスエズで14艘のガレオン船(Galleon)と6艘のガレー船(Galley)を含む新しい艦隊を建造した。その司令官に任命したライス スライマン(Rais Sulayman)に対し、フサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)の艦隊と合流してポルトガルに対する再攻撃を開始する様に命令した。新スエズ艦隊によるインド領内侵略の可能性の差し迫った脅威に対抗する為に、マヌエル王(Manuel I)は1515年4月7日、新総督ロポ ソアレス デ アルベアガリア(Lopo Soares de Albergaria)指揮下の15艘の船から成る艦隊を出航させ、アルボケルケ(Alboquerque)指揮下の艦隊の司令も任せた。但し、アルボケルケ(Alboquerque)が王の命令が届く前の1515年12月16日にゴア(Goa)で死亡したので、この指示は実行されなかった。53歳を越えてから始まり、既に10年に及んだ東方の不健康な気候での困難で不安に満ちた役目がアルボケルケ(Alboquerque)を死なせた。アルボケルケは忠実に、完全な献身を持って国王に仕えたにもかかわらず、恩知らずの国王はリスボン(Lisbon)で策謀をめぐらせ、強引で不当なやり方でアルボケルケを指揮から外し、失意の内に死亡させた。
「アフォンソ ダルボケルケの戦記」: (Commentaries of Afonso d'Alboquerque)、同書第IV巻34 - 35頁(op. cit., t. IV, p. 34 - 35)からジッダに城塞がめぐらされたのは(Jiddah Circumvallation) フサイン クルディ(Husayn al-Kurdi) がインド遠征(Indian campaign)から戻って来てからであるのが分かる。
アブ ザイド アル-バルヒ(Abu Zayid al-Balkhi): 850年頃にコラサン (Khorasan) 地方のバルヒ (Balkh) に近いシャミストヤン (Shamistyan) 村で生まれ、934年に没した。アル-バルヒはこの地方のサーマーン朝(Samanid, 819–999)の廷臣 (courtier) であり、余暇を地形学や地理学の調査に使い、短い地理的記述しか記されていない一続きの地図群で構成されたイスラム国地図帳を修正して居た。
アブー スフヤーン(Abu Sufyan): ウマイヤ朝(Umayyad Dynasty)(661-750)始祖ムアーウィヤ (Muawiyah, 602 - 680)を輩出したウマイヤ家はクライシュ族(Quraysh tribe)の名門で、ムアーウィヤの父アブー スフヤーン(Abu Sufyan, 560 - 650)はマッカ(メッカ)の有力者として預言者ムハンマド(Muhammad)に激しく敵対した人物であったが、ムハンマドがメッカを征服した後にイスラム教に改宗した。
アブ タリーブ ビン アブデュル ムッタリーブ(Abu Talib bin `Abd al-Muttalib, 549 – 619): アブ タリーブはクライシュ族(Quraish)ハーシム家(Clan of Banu Hashim)の当主で、商人であった。イスラーム教の開祖ムハンマド(Muhammad, ca, 570 – 632)の伯父で育ての親でもあり、ムハンマドの有力な支援者であり続けた。この為、生涯イスラームに入信することはなかったにもかかわらず、イスラーム最初期における重要人物の一人とされる。アブド・アル ムッタリブ(Abdul al-Muttalib, c. 497 -578)は父、第4代正統カリフ(4th Rashidun Caliph, 656 -661) アリー(Ali ibn Abi Talib, 598/599 - 661)は息子にあたる。
アブデュルハミト2世(Sultan Abdul Hamit II, 1842 - 1918): スルタン アブデュルハミト2世(Sultan Abdul Hamit II, 1842 - 1918)を参照。
「アブド エル ワヒドによるメッカ巡礼」: リチャード フランシス バートン卿 (Sir Richard Francis Burton)著で1893年ロンドンで出版された「メディアおよびメッカへの個人的巡礼記(記念版)」の付属書VII(Burton, R.F. A Personal Narrative of a Pligrimage to al-Madinah and Meccah (Memorial Edition). London 1893. Appendix VIII. Mecca Pligrimage by El Ha abd El Wahid.)。
アブドゥッラー イブン サウド(Abdullah bin Saud): アブドゥッラー イブン サウド(Abdullah bin Saud, 1814 - 1818)は父サウード(Saud Ibn Abdul Aziz Ibn Mohammed Ibn Saud, 1803 - 1814)が死亡した1814年にサウードデルイーヤ侯国(第一次サウード侯国、(First Saudi Sate, 1744 – 1818))と後に呼ばれたムワヒディーン(Wahhabis or Muwahhideen)の第4代で最後のイマム(Imam)となり、1818年までムワヒディーンを統治した。サウド家(House of Saud)はサウドがイマムであった時代に勢力を拡大し、そして1811年から1818年まで続いたエジプト・ワッハーブ戦争(Egyptian – Wahhabi War)ともよばれるオスマン・サウジ戦争(Ottoman – Saudi War)を始めた。アブドゥッラーはイマムになると直ぐにオスマン帝国エジプト総督軍(Ottoman – Egyptian Army)による自分の領地への侵略に直面した。この侵略軍はエジプト総督(Governor of Egypt, 1805 - 1848) ムハンマド アリ パシャ(Muhammad 'Ali Pasha or rahimah-Allahu ta'ala, 1769 - 1849)*の息子イブラヒム パシャ(Ibrahim Pasha, 1789 - 1848)*が指揮していた。オスマン軍はすばやくメッカ(Meca)とマディーナ(Madinah)を奪回し、作戦行動を開始した。数では勝るが装備の貧弱な為にサウジ軍(Saudi Force)は牙城のナジド(Najd)に退却した。自分の領土で侵略者と開戦するよりもアブドゥッラーはナジドの町々で自分の軍隊の防備を固め、侵略者を食い止め様と決意した。結果としてアブドゥッラーはイブラヒムが抵抗する村を略奪しながら、次々とナジドの村々を攻略し、ついにサウジ家の首都ディライヤ(Diriyah, Dir’iyah or Dir’aiyah)に迫るのを眺める事となった。数ヶ月続いた包囲を受け、最終的に1818年冬、第一次サウード侯国の終焉となる降伏をした。イブラヒムは整然とディライヤをその跡形が無くなるまで破壊し、多数の捕虜となったサウド一族をエジプト経由でイスタンブール(Istanbul)に送った。アブドゥッラー自身はイスタンブールに着くと直ぐにオスマントルコのスルタン(Ottoman Sulta)の命令で首を刎ねられ、その頭部はボスポラス海峡(Bosphorus)に投げ込まれた。オスマン帝国はナジドに幾つかの要塞を維持したが、サウジ一族のトルキィ イブン アブダッラ イブン ムハンマド イブン サウド(Turki ibn Abdallah ibn Muhammad ibn Saud, 1755 - 1834)が第ニ次サウード侯国、(Second Saudi Sate, 1824 – 1891)を樹立するのを防げられなかった。
アブドゥッラー イブン・ズバイル(Abdullah ibn az-Zubayr、624 - 692): イスラーム教のカリフの一人で683年にウマイヤ朝(Umayyad, 661 – 750)のウンマ(Umma)(イスラーム共同体)統治に異議を唱えて反乱を起し、メッカでカリフに即位した。但し、当時のウマイヤ朝のカリフ(Umayyad Caliph)はムアーウィヤ2世(Muawiyah II ibn Yazid, 683 - 684)であり、正当なカリフとして見られることは稀である。イブン ズバイルの父は656年の"駱駝の戦い(Battle of Bassorah or Battle of Camel)"で戦死したカディージャ(Khadija bint Khuwailid, 555 – 619)の甥の子ズバイル (Zubayr ibn al-‘Awwam) で、母は初代正統カリフ(First Rashidun Caliph, 632 - 634)であるアブー バクル(Abu BakrAs-Siddiq, c. 573 – 634)の長女であった為にクライシュ族(Quraysh)の血を引くもの(ムハンマドの近親とその子孫)というカリフの条件を満たしていた。彼のカリフ宣言後、ウマイヤ家に不満を抱く、シリア、イラク、エジプトなどヨルダン以外の各地のムスリムが彼のもとに忠誠の誓い(バイア)をし、二人のカリフが存在するという状態が起こった (第二次内乱の始まり) 。イブン ズバイルはイラク、エジプトを制覇し、シリアの半分以上をその最大勢力範囲に治め、一時はウマイヤ朝を圧倒するほどの勢力を見せたが、その後、第5代ウマイヤ朝カリフ(5th Umayyad Calph, 685 - 705)アブド マリク(Abd al-Malik ibn Marwan, 647 – 705)のもとで攻勢に転じたウマイヤ朝によってその領地は取り返されていき、最後は聖地メッカ周辺のみを領有するだけとなった。アブド マリクはハッジャージュ・ブン・ユースフ(al-Hajjaj ibn Yusuf)を司令官とする2千のウマイヤ朝軍をメッカのカリフ、イブン ズバイルのもとに差し向け、メッカを包囲し、弩弓(どきゅう)(石弓、弩)による投石でメッカの守備隊、カーバ神殿(Ka’ba or Ka’aba)などを攻撃させた。そのため、メッカの守備隊は苦戦を強いられ、壊滅した。カーバ神殿も大きく被害を受けた。692年、こうした中で、イブン ズバイルはハッジャージュ・ブン・ユースフによって、メッカを6ヶ月包囲されたのち、戦死を遂げた。(第二次内乱の終結) イブン ズバイル('Abd Allah ibn al-Zubayr, 624 - 692)参照。
アブドゥッラー ビン アッバス(Abdullah bin al-Abbas): 預言者の従兄弟(父達は兄弟で、アブド ムッタリーブ(Abd al-Muttalib)の息子達)でアッバース朝(Abbasid Caliphate, 750 - 1258)の祖先であるビン アッバスはヒジュラ(Hijirah)の3年前に生まれた。幼い時からビン アッバスは既にクルアーン(Quran)やイスラム史の解釈から司法問題まで様々な分野の研究や調査に目立つ気質を示した。ビン アッバスはその学問の広さから「海(al-Bahr or Sea)」とのあだ名を付けられる程、すぐれた知識を蓄積した。ビン アッバスは「クルアーンの解釈の容認された父」であり、預言者の仲間や家族への質問する手段で預言者に関するもっとも早期の情報収集者の一人である。偉大な学者であるのを離れてもビン アッバスは活動的な人物でもあり、ムスリム軍のエジプト(Egypt)、北アフリカ(North Africa)、北部イラン(Northern Iran)およびコンスタンティノープル(Costantinople)の出征にも従軍している。ビン アッバスは3人のカリフへ信頼でき助言者としても仕え、ヒジュラ歴36年(西暦657年)にバスラ知事(Governor of Basra)に任命された。ヒジャーズへ隠退する前の2、3年は事務所に勤務していた。後にアブドゥッラー イブン ズバイル(Abdullah ibn al-Zubayr, 624 - 692)がウマイヤ朝(Umayyad Caliphate, 661 – 750)統治に反乱し、メッカ(Mecca)でカリフ(Caliph)に即位した時にこれに反対した。この為、ビン アッバスはマッカ(Makkah)で投獄されたが、クファ(Kufa)からムフタール(al-Mukhtar, 622 - 687)が派遣した特別騎兵軍団による力づくの攻撃で自由になった。政治生活でのこの連座を最後に永久にターイフ(Taif)に隠退し、ヒジュラ歴68年(西暦688年)に没した。
アブド ヤ ライル イブン アムル(Abd-Ya-Layl ibn Amr): タイフ(Taif)がイスラム(Islam)に敵対していた頃のサキフ族長(Thaqif’I Chieftain)の一人であるが、631/632年にイスラムへの改宗を受けたタイフ市代表団の一人でもあった。(出典: Wikipedia)
アブドル ラフマン スダイリ(Amir 'Abd al-Rahman bin Ahmad al-Sudairi): 1943年から1990年までジョウフ州知事であり、「アラビアの沙漠辺境、ジョウフの変遷(The Desert Frontier of Arabia, Al-Jawf Trough the Ages)」を著作した。同元知事はその長い任期を通じてジャウフに住み、この地方に寄与する為にスダイリ財団(The 'Abd al-Rahman al-Sudairi Foundation)を設立する程、この地方を愛した人である。この財団を通じて同元知事は州都サカカ(Sakaka)で私立図書館(Dar al-Jawf lil-'Ulum)、博物館兼ホテル(Al-Nusl)および三つの付属幼稚園を持つ慈善団体(Jam'iyyat al-Birr al-Khairiyya) を設立し運営している。
アブ ヌマイイ(Abu Numayy): メッカ首長(the Sharif of Mecca)のバラカト二世(Barakat II, 1497–1525)が臣従を示すためにオスマントルコ(Ottoman Turks)のスルタン サリム一世(Sultan Salim I, 1516-1520)の王宮に送った次男。
アブハ(Abha): 「素晴らしい美しさ」と云う名を持つこの市はアシール州(Asir Province)の州都であり政治の中心である。標高 2,050 mの自然はサウジ国内では降雨量が多く、夏でも涼しく、豊かな棚畑に囲まれた農業地帯であると共に高山杉(ビャクシン、juniper)に被われている。市は登り降りのある環状道路で囲まれ、大きなコノカルプス(Conocarpus、Button Mangrove)の緑の並木道と成っており、高台毎には公園が設けられている。これは自然と景観を楽しめる公園都市を目指した丹下健三氏の設計と云われ、アブハ(Abha)の美しさを一層際立たせている。町の中心部は越し屋根を持つ高層で独特な泥の家並みが特徴であったが、今では昔の建物は殆ど何も残って居らず、150年以上も前にアブハ(Abha)の統治者(Amir)の居城であったシャダ城(Shada Palace)が奇妙にも場違いに見える程である。アブハ(Abha)の週市は火曜日で、週市では強い芳香が空気を満たしている。辺り一帯に広がる小屋には全ての種類の物資がある。それらは籠細工、刺繍したローブ、顔料を塗られた香炉、パン焼き皿、香水瓶等地方の色彩と西洋の安物の奇妙な混ぜ合わせである。アブハ(Abha)の歴史は古く、「アシール(Asir)地方は古代には香料(incense)、香辛料(spice)や没薬(myrrh)の重要な交易路であり、古代エジプト女王ハトシェプスト(Hatshepsut, 1473-1458 BC)は紅海を越えて大きな船をアブハ(Abha)に使わした」との記録がエジプトの古代寺院の壁に象形文字(Hieroglyphic)で残されている。素晴らしい景観と涼しい気候の恩恵でアブハ(Abha)とその周辺には国立公園が設けられ、サウジの代表的リゾート地と成っており、人口約10万人のこの市にはアブハ パレス(Abha Palace)を始め、避暑地としての多くのホテル(Hotel)、コンドミニアム(condominium)、ペンション(Pension)や別荘が建てられている。
アブハ インターコンチネンタルホテル(Abha Intercontinental Hotel): インターコンチネンタルホテル(Intercontinental Hotel) は国際会議場と目を引く回教独特の円屋根の巨大なモスク(礼拝堂)を持つ、サウジ政府が国威をかけてこの標高2,910 mに建造したアラブマネーを代表すると云われて居たホテルであり、サウジの近代建設を代表する建物でもある。経営をインターコンに委託している為にこの名がある。このホテルの周囲の高山杉(柏槇、Juniper)の森には広大な遊歩道が設けられ、特に夏の間、避暑の為に家族で貸しビッラ(Villa)に滞在する逗留客には絶好の環境である。ホテルの更に上には国王の宮殿がある。
アブーバクル(Abu Bakr)(632-634): アブーバクルアル スィッディーク(Abu Bakr as-Siddiq)は632年に預言者ムハンマド(Muhammad)が死去した後、「神の使徒ムハンマドの代理人カリフ(Calif)」を名乗り、初代正統カリフ(Calif) (632-634)に就任した教友(Sahaba)の一人であり、クライシュ族(Quraysh tribe)のタイム(Banu Taym branch)家の出身で、ムハンマドの親戚筋でもある。
アブハ パレス ホテル(Abha Palace Hotel)(標高 2,170 m): アブハ(Abha)の人工湖(As Sad Lake)の南側に整備された大規模な遊園地付きの大きなホテルであるが、外見からは大き過ぎてとてもホテル(Hotel)に見え無い。ロビーも客室も近代的豪華でしかも付帯施設が付き、しかも市街地にも直ぐの場所だし、ダム(As Sad Lake)の湖畔にあるのでアブハに逗留するには良い場所だ。その上。コンドミニアム(Condominium)や観光空中ケーブルの発着所を含む本格的な遊園地が同じ敷地にあるし、このホテル(Hotel)の持ち主がここのアシール州知事(Governor)も含む王族(Prince)のファイサル(Faisal)家であるので、入り口(Gate)には警官が見張って(Watch)居り、ムタワ(宗教警察の手先)との関わり合い(Trouble)も無い。このホテルの窓から眺めるとアブハ(Abha)は何度訪れても美しい町だと思う。
アブ ミフジャム(Abu Mihjam Al-Thaqifu, ? - 650 A.D.): 636年のサーサーン朝ペルシア(Sassanid Empire, 224 - 651)とのカーディシーヤの戦い(Battle of Al-Qadisiyah)にも参戦した騎士道精神を持った勇敢なターイフ(Taif)出身のアラブ詩人で常に栄光を題材としていた。
アブラハ(Abraha): アリアス(Ariath)を引き継いだアビシニアのイエメン総督(Abyssinian Governor, his death to some time after 553)で、アブラモス(Abramos)或いは「鼻を切る」を意味するボルハ アシュラム(Al Borha Al Ashram)とも呼ばれる。アブラハ(Abraha)は570年に軍隊をメッカ(Mecca)に進撃させた。しかしながらカーバ(Ka'ba)はアブラハ(Abraha)が引き連れた7,8頭の象がメッカ(Mecca)に入ろうせずに座り込むと云う奇跡が起きて、傷つく事無く難を逃れた。その奇跡がアビシニア軍を引き返させた。これをアラブ族は万神殿(pantheon)を統轄する神格(deity)であるアッラー(Allah)のご加護だとし、この年を「象の年(Year of Elephant)と呼んでいる。
アブラハの反乱: アブラハ(Abraha)がエシメファエウス(Esimephaeus)をうち負かせた後で、アビシニア皇帝はエシメファエウスに対して更に二軍団の援軍を送った。最初の軍団は反乱を起こし、アブラハ(Abraha)と同盟し、その軍団の指揮官で皇帝エッラ アスベハ三世(Ella Asbeha III)の親類であるアリアス(Ariath)を殺した。二度目の軍団は戦闘で多くを殺された。その後も諍いは続いたが、エッラ アスベハ三世(Ella Asbeha III)の死後、アブラハ(Abraha)はアビシニア帝国の新王に忠誠を誓った。
アブラハム(Abraham): ノア(Noah)の洪水から一千年後に現れた一神教(Monotheism)の偉大な長老でイブラーヒーム(Ibrahim)とも転写されている。(イブラーヒーム(Ibrahim)参照)
アフラム人(Ahlamû): (アカラム人(Akhlamu)参照)。
「アフリカの全般的記述(モハメット教の創設から1571年までの戦争と盛衰について)」:(Descripción General de Africa, sus guerras y vicisitudes, desde la fundación del Mahometismo el aňo 1571 )、ルイス デル マルモル カルヴァハル(Luis del Mármol Carvajal)著、1573年からに1599年までにグラバダ(Granada) とマラガ(Málaga)で出版。
アフル バイト(ahl al-bayt) : 「お家の人々」の意で、預言者ムハンマドの一族をさす。「預言者一家(al al-nabi)」とも呼ばれ、ある種の貴種としてイスラーム世界では崇敬の対象となり、特権を与えられる事も多かった。(出典: 岩波イスラーム辞典)
アブルフィダ: 西暦1273年ダマスカスで生まれたアイユーブ朝(Ayyubid)の王子アブルフィダ(Prince Abulfida)は「タクウィム アル-ブルダン(Takwin al-Buldan)」の著者で、それ以前の出典からの材料を主に編集していた。アブルフィダの主要な功績は2、3世紀遡った正確な情報での最新化であったが、年月が経つと共にその効力は失せてしまった。
アブル アッバース(Abu'l Abbas): アラビア語でサッファー(Saffah)即ち殺戮者(Slaughterer)と呼ばれるアブル アッバース アブドッラ サッファー イブン ムハンマド(Abu al Abbas Abdullah as Saffah ubn Muhammad)はアッバース朝(the Abbasid)の初代カリフ(Caliph, 750-754)であった。アブル アッバース(As-Saffah)はクライシュ族(Quraysh tribe)で、預言者ムハンマド(Muhammad)の曾祖父ハーシム(Hashimから分かれたバヌ ハーシム家(Banu Hashim clan)の一分家バヌ アッバス(Banu Abbas)の棟梁であった。ウマイヤ朝(Umayyad Dynasty)カリフ ヒシャム イブン アブド アル マリク(Hisham ibn Abd al Malik, 723-743)が没するとイスラム帝国内では内戦が勃発した。シーア派(Shi’as)、ハワーリジュ(退去した者)派(Kharijis)およびホラーサーン(Khurasan)の住民達の支援を得たアブル アッバースは自軍を率いて勝利し、ウマイヤ朝最後のカリフ マルワーン二世(Marwan II)を750年に追放し、ウマイヤ家の残り全ての構成員をを撲殺した。唯一の生存者アブド アル ラハマン一世(Abd ar Rahman I)はアンダルシア(Andalusia or al Andalus)へ逃亡し、そこで三世紀に渡って栄えた後期ウマイヤ朝(Caliphate of Cordoba, 756-1031)を開いた。アブル アッバースは無慈悲な方法でウマイヤ家を根絶やしにしたのでサッファー(Saffah)と云う称号を得た。これは「殺戮者(Slaughterer)」或いは「血を注ぐ者(Shedder of Blood)」と云う意味である。この内戦は「アブル アッバース(As-Saffah)がイスラム教徒の解放者マハディ(Mahdhi)である」とのシーア派(Shi’as)の信仰による1000年期の預言に基づいて引き起こされていた。しかしながら、アブル アッバース(As Saffah)は「自分の為のカリフ国家(Caliphate)を建国する」とのシーア派教徒達(Shi’as)との約束を守らなかったので、シーア派教徒達は離反した。754年に、アブル アッバースは天然痘(smallpox)で亡くなる前に自分の兄弟のアブ ジャ‘ファール アル マンスール(Abu Ja’far al Mansur)後継者として指名していた。
アベクス(Abex): エジプト・ヌビア(the Egyptian - Nubian)国境からバド マンデブ海峡(Strait of Bad al-Mandeb)までの紅海岸に沿った地域の正式名称。
アマグ(Amaq): アマグ(Amaq)はビルク熔岩地帯(Harrat al Birk)の紅海岸の一番北に位置するメッカ州(Emirate of Makkah)の集落で、ヤツデの様な葉をした芭蕉椰子(エダウチ椰子)と私が仮に渾名したエダウチヤシが群生して居り、熔岩地帯と判る。アマグ(Amaq)に流れ込む涸れ谷(wadi)は幅20m程度の川に成っている。その水のせいかアマグ(Amaq)付近の海岸はマングローブ(mangrove) )に覆われている。アマグ(Amaq)の南ではナツメ椰子もこの群生に混ざって自生しているのがアマグ(Amaq)の北とは違う。
アマレク族(Amalekites, Amalek or 'Amaliq): 創世記(Book of Genesis)の系譜によれば「アマレク(Amalek)はエサウ(Esau)の息子エリファズ(Eliphaz)とロタン(Lotan)の姉妹でホリテ族の側室ティムナ(Timna)との息子であった」と記載されているが、実際にナフマニデス(Nahmanides, 1194 - 1270)によって記録された聖書の余禄は「アマレク族はエサウの孫の子孫では無く、この孫がその名に因んで名付けられたアマレクと云う名の男の子孫である」と述べて居り、アマレク族の名の由来となったその先祖については古いアラビアの詩の中でも登場している。イブン ハルドゥーン(Ibn Khaldun, 1332 – 1406)、イブン アスィール(Ali ibn al-Athir, 1160 - 1233)の様なアラビアの歴史家によれば「アマレク(Amalek)は同じ血統のアムル人(Amorites)、カナン人(Canaanites)およびヒクソス人(Hyksos)に与えられた名前である」と言い、この名は時には「谷の住人(Dweller in Valley)と訳される事もあるが、多くの専門家は出所はわからないと考えている。又、創世記には「アマレク族はユダヤ人の先祖のアブラハム(Abraham)の時代には後にローマ領アラビア属州(Arabia Petraea)となった地方にすでに住んでいた」と記述があるが、アラビアの歴史家ムスディ(Abu al Hasan ‘Ali al-Mus’ud, 896 - 956)は「アマレク族はアブラハムの時代の前にメッカ地方を起源にこの早い時代に存在していた」と述べている。モーゼ五書(Prntateuch)*には「アマレク族(Amalekite)は出エジプトの際にユダヤ人(Hebrews)をシナイ半島の沙漠(Desert of Sinai)のレフィディム(Rephidim)で襲った遊牧部族である」と記述されている。サムエル記の上(1 Samuel)ではこの襲撃について「最後部を襲い、それは遅れていた弱い者達であった」と述べられている。ユダヤ教の聖書タナハ(Tanakh)はアマレク族(Amalekite)を土着の部族として認め、民数記(Numbers)には「第一番の異教徒」と述べられており、恐らく現在のネゲヴ沙漠(Negeb)と思われる乾いた牧草地である南の低地にも土着のアマレク族が居た。このアマレク族は早期のユダヤ人にとって厄介な敵対者であり、「アマレク族はハヴィラ(Havilah)からシュ(Shu)まで南の土地に住んで折り、時に各々の王が同じエイガグ(Agag)と云う世襲の名を持つモアブ人(Moabites)*やメデヤン人(Midianites)*と同盟した」と言われている。又、サムエル記の上(1 Samuel)および士師記(Judges)によればレバント地方(Levant)の放牧民一門のケニ族(Kenites)*は時に同盟を結んでいた。アマレク族はユダヤ人(Israelites)をホルマ(Hormah)でも襲ったのでユダヤの初代の王サウル(Saul)*は部族長達とユダヤ軍を指揮してアマレク族の人々を殆ど壊滅させた。この時、サウルは神(Lord)の命令に反して人々や家畜の一部を生かしたままで開放したので預言者サムエル(Samuel)は激怒した。サウルと部族長達は平地にある不詳のアマレク族都市に遠征し首尾よくアマレク族の王エイガグ(Agag)を捕虜にしたが、エイガグを殺すのを躊躇したのでサムエル(Samuel)自身がアマレク族(Amalekite)の王を処刑した。サウルの息子ダビデ(David, c.1037–970 BC)*はユダヤの不変の敵アマレク族(Amalekite)を絶滅させる為の聖戦を遂行し、その結果、アマレク族は歴史から消滅した。更にヒゼキヤ(Hezekiah, 12th King of Kingdom of Judah, regned 715/716 – 687 BC)の時代に500人のシメオン族(Simeonites)によってセイール山(Mount Seir)に逃れ、定住していたアマレク族の最後の生き残りが皆殺しにされた。ユダヤ人(Israelite)が記述した聖書でのユダヤ人(Hebrew)とアマレク族の関係は「互いに敵対しており、アマレク族はファラオ(Pharaoh)やペリシア人(Philistine)よりも冷酷で策略をめぐらし、横暴であった」と云う。(出典: Wikipedia)
アミール(Amir): アミールは支配者或いは代官等の為政者、イスラム教国の王族・首長、軍司令官・隊長、ムハンメド(Mohammedの娘ファーティマ(Fatima)の子孫の尊称。
アミール ダウド イブン ハシム(Amir Dawud ibn Hashim): ヒジュラ暦473年、西暦1081年にジッダ(Jiddah)を包囲し、占拠したベドウインの支配者。
アムダリア川(The Amu Darya): パミール高原(Pamir)を発し、アラル海(the Aral Sea)に注ぐ川。
アムハラ語(Amharic): セム系でエチオピアの公用語。
アムル イブン ラヒ クザ‘イ(Amr ibn Lahi ak-Khuza’i)(‘アムル イブン ルハイイ(Amr ibn Luhayy)): 「ムハンマドの生まれる約400年前(西暦170年頃)にカハタン(Qahtan)の子孫のヒジャーズ王(King of Hijaz)で、一般的には‘アムル イブン ルハイイ(Amr ibn Luhayy)と呼ばれる人物(ˤAmr ibn Lahya ibn Harath ibn ˤAmru l-Qays ibn Thalaba ibn Azd ibn Khalan ibn Babalyun ibn Saba)がフバル神(Hubal)*の偶像をカアバ神殿の屋根の上においた」との説があり、預言者ムハンマドの伝承を集め、最初の伝記(Life of God’s Messenger)の礎を作ったアラブ ムスリム歴史家で聖人研究家(Hagiographer)ムハンマド イブン イシャク ヤサール(Muḥammad ibn Isḥaq ibn Yasar or Ibn Isḥaq, c. 704 - 767 or 761)は「フバル神(Hubal)*のイメージをモアブ(Moab)ないしメソポタミア(Mesopotamia)から移入した‘アムル イブン ルハイイ(Amr ibn Luhayy)は神の様なアラム人(Aramaeans)*起源の記憶を保つ限りは真実の核心を持っているのかも知れない。フバル神(Hubal)はカーネリアン(紅玉髄)で人型をしており、その右手は欠け落ちていたのでクライシュ族(Quraysh)が代わりの黄金の腕を作った」と述べている。‘アムル イブン ルハイイ(‘Amr ibn-Luhayy)については「‘アムル イブン ルハイイ(‘Amr ibn-Luhayy)はアラビアのカハタニ部族(Qahtani)ジュールフム族(Arab Jurhum Tribe)の族長(Amr ibn Luhayy – a chief of the Arab Jurhum tribe)でマッカ(Makkah)のカアバ神殿(Kabah)に偶像神を最初に持ち込んだ男であった」とか「アムル イブン ルハイイ(Amr ibn Luhayy)はメソポタミア(Mesopotamia)のヒット(Hit)と云う地方からフバル神(Hubal)と呼ばれる偶像を自分自身でメッカに持ち帰った。それからアムル イブン ルハイイはその偶像神をカアバ神殿内部の井戸の傍に据えつけ、そして人々にそれを崇拝する様に命じた」とか「‘アムル イブン ルハイイ(Amr ibn Luhayy)がシリア(Syria)へ旅行し、そこからアッラー(al-Lat or Allah)の娘達アッラート(Allat)、マナート(Manat)、ウッザー(al-‘Uzza’)の中のマナート(Manat)とウッザー(al-‘Uzza’)の二体の女神崇拝を持ち帰り、それをクザー’ア族(Banu Khuza’a)の偶像フバル神(Hubal)と結合した」とか「クザー’ア族(Banu Khuza’a or Banu Quda’a)の族長アムル イブン ラヒ クザ‘イ(Amr ibn Lahi ak-Khuza’i)*はフバル(Hubal)*と云う名の偶像神をシリア(Syria)から持ってきて、自分の支配の継続と云う意味でフバル神を遇するためにカアアバ神殿(Kaaba)に持ち込んだ。フバル神(Hubal)は長いあごひげをした老人の形をし、紅玉髄(Camelian)で作られていたが、その右手は切り取られていた」とか多少、ニュアンスは異なるが諸説ある。‘アムル イブン ルハイイ(Amr ibn Luhayy)がジュールフム族(Arab Jurhum Tribe)であったのか、クザー’ア族(Banu Khuza’a or Banu Quda’a)であったのか、この疑問を私は明確には解決できないでいる。但し、フバル神(Hubal)*の解説では「アムル イブン ルハイイはクザー’ア族である」として私は述べている。
アムル人(Amurru): (アモリ人(Amorite)参照。)
アムル ビン ’アース(Amr bin al-'As, 583/589 - 664): アムルは640年の「モスリムのエジプト征服(Muslim Conquest of Egypt)」を指揮して貢献したアラビアの武将である。アムルはムハンマド(Muhammad)と同年代であり、629年にイスラム教に改宗した後、ムスリム支配体制の中で急速に台頭した。アムスはエジプトの首都フスタト(Fustat)を創建し、アフリカ大陸での初めてのモスク(Mosque of Amr bin al-As)を建造した。アムルはクライシュ族(Quraysh)のサフム家(Banu Sahm)出身であり、没した時に「90歳を超えていた」と云われ、生年は573年以前では無いかとも思われる。元々は商人で隊商と共にアジアやエジプトを含む中東の交易路で商いを営んでいた。イスラム最初期にはメッカ(Makkah)の多くの指導者たちと共に反イスラム陣営に身を置いていた。アムルはクライシュ族(Quraysh)がムスリム(Muslims)を追放する様に説得する為にアビシニア(Abyssinia)へ派遣した使節の代表であったが、この任務は成功せず、失敗に終わった。622年にムハンマドがマディーナ(Madina)に移った聖遷(hegira)の後、アムルはクライシュ族がムスリムと争ったすべての戦いに参加し、625年のウフドの戦い(Battle of Uhud)ではクライシュ軍分遣隊の指揮をした。その後、アムルは629年にハーリド イブン ワリード(Khalid ibn al-Walid, 592 - 642)と共にメッカからメディーナに赴き、イスラムに改宗した。東ローマ領シリア(Syria under Byzantian Control)国境のアラブ族(Arabian Tribes)との信頼関係を築き、東ローマから離反させる為に630年に行われたザト サラシル遠征(Campaign of Dhat As-Salasil)ではアムルはアブー バクル(Abu Bakr As-Siddiq, 573 - 634)、ウマル イブン ハッターブ(Umar ibn al-Khattab, 586/590 - 644)およびアブー ウバイダ(Abu Ubayda ibn al-Jarrah, 583 - 638)を従えたばかりで無く、何週間にもわたって礼拝の先導を行った為に軍の司令官だけでは無く、宗教上の典礼の指導者にもなった。その後、アムルはムハンマドによってオマーン(Oman)の指導者ジャイファール(Jayfar)およびアッバド イブン ジュランダ(`Abbad ibn Julanda)を改宗させる為に派遣され、ムハンマドの没後の直後までそこの総督を務めた。632年、預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の死後の背教者とのリッダ戦争(Ridder War)で活躍した。さらに634年4月にはアムルは初代カリフ(1st Rashidun Caliph, 632 - 634)アブー バクルによってムアーウィヤー父であるヤジード イブン アビー スフヤーン(Yazid Ibn Abi Abu Sofyan, ? - 640)、シュラフビール イブン ハサナ(Shurhabil ibn Hassana, 583 - 639)ともにシリア遠征軍の司令官とされ、パレスティナ地方の征服(Conquest of Palestine)を命じられた。アムルはイスラム帝国(Rashidun Caliphate)の東ローマ(Byzantine)との最初の大規模な戦闘であったアジャナダインの戦い(Battle of Ajnadayn, 634)、東ローマ軍を破ることに成功したヤルムークの戦い(Battle of Yarmouk, 636)およびダマスカス陥落(Fall of Damascus)で活躍した。シリア(Syria)の東ローマ勢(Byzantines)一掃の後、アムルは2代目カリフ(2st Rashidun Caliph, 634 - 644) ウマルにエジプト遠征計画を進言し、ウマルの同意を得た。640年末に向けて、アムルは3,500から4,000の兵力を従えてシナイ半島(Sinai Peninsula)を横断し、実際の侵略を始めた。エジプトではコプト派キリスト教徒(Coptic Christians)を味方につけ、ナイル三角州(Nile Delta)でのペルシウム(Pelusium)を攻略、およびビルバイス(Bilbais)近郊での東ローマ軍(Byzanyine Forces)の強襲を反撃した後、アムルは現在のカイロ市(Cairo)にあったバビュロン城(Babylon Fortress)に向けて進撃した。小競り合いの後、アムルはシリアからの増援部隊を得て、エジプト駐留するテオドール(Thedore)指揮下の東ローマ軍主力と対峙する為にアイン・シャムス(Ain Shams)(古代のヘリオポリス(Heliopolis))に向けてさらに北へと進撃した。イスラム帝国軍(Rashidun Caliphate Forces)はヘリオポリスの戦い(Battle of Heliopolis, 640)での勝利でエジプトの大半を手に入れ、数ヶ月包囲していたバビュロン城を落城させ、その数ヵ月後には数千年にわたってエジプトの首都で東ローマ(Byzantine)の拠点であったアレクサンドリア(Alexandria)を降伏させた。641年末にはメンフィス(Memphis)にある宮殿跡で平和条約が締結されたにもかかわらず、東ローマ軍(Byzanyine Forces)は645年にエジプト奪回を期したが、ニキウの戦い(Battle of Nikiou, 646)でイスラム帝国軍(Rashidun Caliphate Force)は勝利し、エジプトは完全にイスラム帝国(Rashidun Caliphate)の支配下となった。新首都が必要となり、アムルは大規模に整備されているナイル三角州西端にあるアレクサンドリアに行政府を置くように進言したが、ウマル(Umar of Omar)は新領地の首都が河川で隔てられるのを嫌って同意しなかった。そこで641年にアムルはナイル川東岸のバビュロン城近くに張った自分の天幕を中心に新都市を創建した。伝説によれば「アムルがアレクサンドリアでの勝利から戻ると鳩が自分の天幕に巣を作ったのを見つけた。この新都市は天幕の都市すなはちミスル フスタト(Misr al-Fustat)と呼ばれる様になり、これがアラビア語でのエジプト(Misr)の語源である」と云う。ただし、エジプトのアラビア名はイスラム征服(Islamic Conquest or Muslim Conquests, 632–732)のずっと前から良く知られていたとの説もある。アムルはこの都市の中心にモスク(Mosque)も建造した。これはエジプトを含むアフリカ大陸での最初のモスクであった。アムル・モスク(Mosque of Amr)は今でもカイロ(Cairo)旧市内に建っているが、幾世紀もの間に建て直されているので構造の原型は残されていない。多くの軍事的征服事業の後にアムルはイスラム帝国()の内紛に大きな役割を果たした。3代目カリフ(3rd Rashidun Caliph, 644 - 656)ウスマーン イブン アッファーン(Uthman ibn Affan)の暗殺の後、後継者を争ってアリー(Ali)の支持者達ととムアーウィヤ(Muawiyah)の支持者達の論争となった。アムルは最初は4代目カリフ(4th Rashidun Caliph, 656 - 661)アリー イブン アビ ターリブ(Ali ibn Abi Talib)を支持していたが、後にムアーウィヤ(Muawiyah)の側に付いた。フスタトを創建した後、アムルはメッカ(Makkah)からダマスカス(Damascus)に遷都した首都に召還され、アムルはそこでウマイヤ朝(Umayyad, 661 - 750)初代カリフ ムアーウィヤ(Muawiyah I or Muawiyah ibn‘Abi Sufyan, 661 – 680)の親しい顧問となった。(出典: ウィキペディア(Wikipedia))
アモリ人(Amorite): アムル人(Amurru)とも呼ばれ、主に紀元前2000年期前半にユーフラテス川(The Euphrates)西域で権力を握ったセム語を話す諸部族(Semitic Language People)の名称で、アムル(Amurru)とはこの部族の名であり、その主神(Principal Deity)の名でもあった。遊牧民アモリ人(Amorites)の領土は元々アラビア半島であったが、紀元前約2400年の初めにはシリア(Syria)およびカナアン(Canaan)を含むユーフラテス川西域を占め、「アモリ人の山(Mountain of the Amorites)」と呼ばれるシリアのビシュリ山(Jabal Bishri)山岳地方と特別なつながりがあった。紀元前22世紀から21世紀に掛けてメソポタミア(Mesopotamia)を支配したウル第三王朝(Ur -Third Dynasty)の最後の王イッビ-シン(Ibbi-Sin)の治世の間に旱魃でメソポタミア(Mesopotamia)へ大規模な移住をしたアモリ人(Amorites)は多くの地方で力を蓄え、イシン(Isun)、ラルサ(Larsa)およびバビロン(Babylon)を含む様々な場所で権力を掌握し、最終的には紀元前約2004年にエラム人(Elamites)がウル(ur)を滅ぼした。その少し後で、バビロン(Babylon)のハンムラビ(Hammurabi, c. 1795 BC – c. 1750 BC)が台頭する。およそ紀元前2000年から1600年の間のアモリ王朝群(Amorite Kingdom)はメソポタミア歴史(Mesopotamia History)の中でアモリ時代(Amorite Period)とされる事もある。主なアモリ王朝はマリ(Mari)、ヤムハド(Yamhad)、カトナ(Qatna)、アッシュール(Assur)、イシン(Isin)、ラルサ(Larsa)およびバビロン(Babylon)で台頭した。この時代は紀元前約1595年のヒッタイト(Hittite)(ca.1680BC – ca.1190BC)によるバビロン(Babylon)の制圧で終焉した。アモリ人(Amurru)が使っていたアモリ語(Amorite Language)はアフロ・アジア語族(Afro-Asiatic Language)のセム語派(Semitic Linguages)の北西セム語方言(Northwest Semitic Dialect)と推定される。
アーモンド(Almonds): 扁桃や巴旦杏(はたんきょう)とも呼ばれる。バラ科の落葉高木、中央アジア原産、高さ6mに達し、葉・花・果実とも桃に似るが、果肉は薄く、熟すと裂開し、平たい核がある。核中の仁のうち、甘いアーモンドは食用、苦い品種の苦扁桃(Bitter Almonds)は鎮咳(ちんがい)・鎮痙(ちんけい・痙攣を鎮める)等の薬用とする。
アヤッズ王(Meliqu Az or Malik Ayyaz): インドのディウ(Diu)の頭領(15 - 16世紀頃)。
アラカ(Alaca): アデン(Aden)のハサン山(Jebel Hasan)の近くのラス アール岬(Ras al-Argh)。
アラダ(Aradh): 1948年1月6日、セシジャー(Wilfred Thesiger)がマンワク(Manwakh)から二度目の空白地帯沙漠横断した際に案内のベドウインが「ワディ ドワシール(Wadi Dawasir)の町スライイル(Sulayyil)の南にあるハッシ(Hassi)と云う水井戸で駱駝に水を飲ませた事がありアラダ(Aradh)と云う南の砂丘地帯まで長く延びる石灰岩崖地にさえ辿り着けばその水井戸を探し出す自信がある」と記述がある。セシジャー(Wilfred Thesiger)ha「アラビア半島の脊稜ジャバル トワイグ(Jabal Tuwayq)のスライイル(Sulayyil)から南の石灰岩の崖をアラダ(Aradh)と呼んでいる」と思われる。
アラック(Arrack): 中近東でヤシの汁や糖蜜などで造るラムに似た強い蒸留酒。
「アラビア横断旅行記」: ジョージ ファースター サドラー大尉(Captain George Forster Sadleir)の旅行記のもっと完全な形は「アラビア横断旅行記」と言う題名で1866年にP. ライアン バイカラ(P. Ryan. Byculla)が編集し、本の形で出版されている(A more complete edition was published later in book form. The title is Diary of Journey across Arabia... ed. by P. Ryan. Byculla 1866.)。
「アラビア海岸を巡って(Around the Courts of Arabia)」: アミーン リハニ(Ameen Rihani)著、1930年ロンドンで出版。
アラビア語源学: Arabic Etymology.
アラビア語正字法(綴り方): Arabic Orthography.
アラビア人(Arabians): 「アラビア人(アラブ人)」とは 本来はアラビア半島に住むセム系の遊牧民の総称であったが、現在ではアラビア語を使用する人々の総称として使われている。
アラビア特有の自然金(Fireless Gold Peculiar of Arabia): これは他の全て人々が行って居る様に鉱石から製錬せずに地中から直接掘り出されている。おおよそ栗の実大の金塊で見つかり、それは燃え立つような赤さなので職人が最高に貴重な宝石の為のはめ込み台として使う時に装飾の豪華さを作り出した。
「アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta」:英国の作家・旅行家(1843 - 1926)チャールズ モンタギュー ダウティ(Charles Montague Doughty)著、1926年にロンドンで出版(但し、初版は1888年)(Doughty, C.M. Travels in Arabia Deserta London 1926. ) 。
「アラビアの侵攻(Penetration of Arabia)」: ダヴィド ジョージ ホガース(David George Hogarth)著、1904年にロンドンで出版。
「アラビアでの航海(ヒジャーズ滞在とアシールでの戦闘)」: モーリス タミシエ(Maurice O, Tamisier)著、1840年パリで出版(Tamisier, M.O. Voyage en Arabie. Sèjour dans le Hedjaz. Campagne d'Assir Paris 1840.)。
「アラビアの心(Heart of Arabia)」: フィルビー(H.St. John B. Philby)著、1922年ロンドンで出版された。
「アラビアの沙漠に関して(Concerning Arabia Deserta)」: (ボローニャ(Bolognese)出身の冒険家ロドヴィコ デ ヴァルテマ(Lodovico de Varthema)の「1502年から1508年までの旅行記(the Itinerary)」の第二章を参照)。
「アラビアの旅(Travels in Arabia)」: ジェームス R. ウエルステッド中尉(Lieut. James R. Wellsted)著、1838年ロンドンで出版(Travels in Arabia by Lieut. James R. Wellsted, London 1838, t. II, P. 264 - 290.)。(ジッダに関する記述は同書第II巻264 - 290頁の「紅海の海岸と交易の包括的記述」を参照)。
「アラビアのヒジャーズ地方の旅(Travels in The Hedjaz of Arabia)」: ブルクハルト(Johana Ludwig Burckhardt)著、1829年ロンドンで出版。
「アラビアのフェリックス(Arabia Felix)」: デンマークの1761年から1767年も遠征について記述「カルステン ニーブール(Carsten Niebuhr)とその仲間の冒険と業績」の完全な英訳は「アラビアのフェリックス(Arabia Felix)」との題され、H. ソールキルド(H. Thorkild)によってロンドン(London)で1964年に出版された。
「アラビア半島(Arabian Peninsula)」: サンガー(R.H. Sanger)著、1954年ニューヨークで出版。(同書の2-3頁にジッダの城壁の取り壊しについて述べられている)。
アラビア フィーリックス(Arabia Felix): ギリシア(Greek)ではアラビア半島南部は「恵まれたアラビア」を意味する「アラビアの幸福(Arabia Eudaimon)」と呼ばれ、そしてラテン(Latin)(古代ローマ人)では「幸福なアラビア(Happy Arabai)」を意味する「富裕なアラビア(Arabia Felix)」と呼ばれていた。アラビア フェリクスについて紀元前450年頃にヘロドトス(Hērodotos)が「これは世界で乳香(frankincense)が育つ唯一の国であり、没薬(ミルラ)(myrrh)、桂皮(cassia)、肉桂皮(cinnamon)(シナモン)およびラブダナム(ladanum)(半日花から採った天然樹脂)も産するので、国中でこの世のものとは思えない匂いが発散している」と述べている。乳香を栽培している部族を征服するのはアレキサンダー大王(Alexander the Great)の少年時代の夢であり、死ぬ前の紀元前323年に大王はアラビア フェリクス(Arabia Felix)に対して海軍遠征を行っている。紀元前25年にもローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)はエジプトを攻略占領した後、紅海岸の港群とヒジャーズ山脈(Hijaz Mountains)を越えての乳香交易ルートを確保し、アラビア半島南部の乳香の生産地域を征服する為に、エジプト属州長官(the Prefet of Egypt)のアエリウス ガルス(Aelius Gallus)を送った。アエリウス ガルス(Aelius Gallus)はナジランまで2,500km進軍し、ナジランを包囲し、略奪し、焼き払った後、更に進撃し、マーリブ(Marib)を包囲した。しかしながら、ガルスの軍隊は水不足の為に 6日間だけでマーリブ(Marib)から退却せざるを得ず、乳香生産地には辿り着けなかった。アエリウス ガルス(Aelius Gallus)はエジプトに退却したが、その艦隊は印度へのローマ商船の航路を確保する為にアデン港(the port of Aden)を破壊した。この遠征が成功しなかった為、ローマ人達は西暦1世紀から定期的に乳香と没薬の地に紅海経由で訪れ、それがムザ(Muza)やカナ(Qana)等のアラビア半島南部の港を発展させた。隊商路の戦略的に位置にあり、他国からの侵略を防ぐために強力な王国であったマーイン(Ma'in)を中心にシバ(Saba or Sheba)、ハドラマウト(Hadhramaut) およびナジラン(Najran)は連携していた。歴史学者やオリエント学者は「ナジランの古代マーイン(Ma'in)王国との連合の証拠は地中海(Mediterranean Sea)とイエメンとの間の交易路で見つかった岩に刻まれている」と言う。いずれにせよ、アラビア フィーリックス(Arabia Felix)は長い隊商時代の殆どを通じて乳香(frankincense)等の香味料と香料を運ぶ隊商交易路の交差点に位置する商業の大きな中心であり続け、数世紀に渡って栄えたが、3世紀のローマ世界の経済不振によってその産物の需要が落ち込むと衰退してしまった。やがて、シバ(Saba or Sheba)、マーイン(Ma'in)、カタバーン(Qataban)、アウサーン(Awsan)およびハドラマウト(Hadramawt)等の古い南アラビア都市国家群はイエメン山岳高地のザファール地方(Zafar)のヒムヤル族(Himyarite)と云う一地方勢力に併呑されてしまった。
「アラビア旅行日誌(Journal d'un voyage en Arabie)(1883-1884)」: シャルル ユベール(Charles Huber)の死後の1891年にパリで出版された(Huber, C. Journal d'un voyage en Arabie (1883 - 1884) Paris 1891, p. 754 - 757. Huber was entered in the Jiddah European Cemetery.)。
「アラビアの旅行記(ヒジャーズとアシールでの滞在)」: (Voyage an Arabie. Séjour dans le Hedjaz. Campagne D'Assir Paris 1840. )、モーリス タミシエ(Maurice O, Tamisier)著、1840年パリで発行。
「アラビアの歴史的地理 (Histrocal Geography of Arabia) 」: フォースター(Forster)著。
アラビア ペトラエア(Arabia Petraea): 2世紀始めにローマ帝国は現在のヨルダン、南シリア、シナイ半島および北西サウジアラビアを含む旧ナバテア王国領をアラビア属州(Privincia Arabia)あるいは単にアラビアと呼んでいた。
アラビィ デイラニィ(Araby Djeylany): ドイツの旅行家で、測量士兼天文観測者であったニーブール(M.[C.] Niebuhr)がデンマーク政府が派遣したアラビア探検隊に参加して、ジッダを訪問した時にジッダ(Djidda)でもっとも金持ちの商人であったのがデイラニィである。ニーブール (M.[C.] Niebuhr)はデイラニィの外国人を援助する姿勢を判断し、その内容に間違いの無かった事に自分自身で納得した。
アラファト(Arafat): アラファ('Arafa)はマッカへの巡礼行事で最重要なウクーフ(Wuquf)を行う巡礼地で、一般的に複数形のアラファトで呼ばれ、マッカにある聖モスクから東に25km離れた広大な原野である。アラファの中央にはラフマ山(Jabal al-Rahmah or Mount of Mercy)があり、その山で地上に降りたアダムとイヴが再開したと伝えられている。アラファには 再開の意味がありアダムとイヴの再開に因んで巡礼がこの地で会うためにアラファと呼ばれているとも云う。アラファのメッカ寄りにナミラ モスク(Namirah Mosque)がある。(出典: 岩波イスラーム辞典)
アラブ馬(Arabian Horse): 沙漠や谷で騎乗されたり、小さな谷間で放牧されたりする小柄な馬を目にする。この馬が”風を飲む動物(Drinkers of the Wind)”と呼ばれ、知能・勇気・耐久力でベドウインが部族毎に誇りに思うサウジアラビアの名産であり、「アラブ馬の気品のある外見は形と機能が自然に生みだした結合の妙である」と言われている。伝説では「アラブ馬はアラブ部族の先祖となったイスマエル(Ishmael ibn Ibrahim)の持ち馬であったアハワジ(Ahwaj)の子孫である」と云われ、バビロニアの年代記等でも古くから紹介されている。このアラブ馬がヨーロッパに伝えられたのは十字軍によってであり、「勇敢寛容な典型的中世騎士であると称賛された獅子心王リチャード(Richard, 1157-1199)は幾つかの息もつかない戦闘の合間にアラブ馬を見てその美しさに打たれた」と言われている。ワシントン(George Washington, 1732-1799)はアメリカ独立戦争の間、アラブ馬に乗っていたし、ヴィクトリア女王(Queen Victoria, 1837-1901)はアラブ馬に勲章まで授けている。ナポレオン(Napoleon Bonaparte, 1769-1821)は愛馬マレンゴ号(Marengo)に8万キロ以上も騎乗し、その勇姿はドラクロア(Delacroix)の有名な絵に描かれて不滅になった。
アラブ馬の英国騎兵隊への輸出: プラッシーの戦い(Battle of Plassey)の後、インド帝国(1858年-1947年)による印度の支配が固まるまでの間、英国東印度会社軍英国騎兵隊用にアラブ馬が最も安定して大量にアラビアからインドに輸出された。
アラブ船(Arab Ship): アラブ船(Arab Ship)にはバッガラ(Baggalah)、ブーム(Boom)、サンブーク(Sambuk)およびザルク(Zaruk)の主要な4つの型があり、インド洋(the Indian Ocean)と紅海海域を航行していた。
「アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab)」: ハムダニ(al-Hamdani)は著作「アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab)(Description of the Island of the Arabs)」の中で「この国は三方を海に囲まれ、北部はユーフラテス川(The Euphrates) と地中海 (the Mediterranean sea) が国境であったので、アラブ族はこの国をJazirat al-Arab すなはち『アラブ族の島(Island of the Arabs)』と呼んでいた」と記述している。
「アラブ族の島(Island of the Arabs)」のD.H. ミュラーの翻訳版: アル-ハムダニ(al-Hamdani)の著作「アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab)」をD.H. ミュラー(D.H. Müller)が翻訳・編集し、1884年から1891年にかけてライデン(Leyden)で出版した(Al Hamdanis Geographie der Arabischen Halbinsel ed. by D.H. Müller, Leyden 1884 - 1891.)。
アラブの5人の女王: ザビベ (Queen Zabibe)、サミシ (Queen Samisi)、ヤティ’エ (Queen Yati'e)、テ’エルクヌ (Queen Te'elkhunu)およびタブ’ア (Princess Tabu'a)は「沙漠の王国アデュッマツ(Adummatu)」の偶像神の巫女であり、女王でもあった。彼女達5人は紀元前8世紀から7世紀頃にベドウインの首長を率いてアッシリア(Assyria)に対抗した。(「アデュッマツと五人の女王 (Five Queens of Adummatu)」参照。)
アラブの反乱(Arab Revolt): アラブの反乱(Al-Thawra al-`Arabiya, June 1916 - October 1918)は、第一次世界大戦中に、オスマン帝国(Ottoman Empire)からのアラブ人独立と、南はアデン(Aden in Yemen)から北はアレッポ(Aleppo in Syria)に至る統一アラブ国家の樹立を目指して、メッカ(マッカ)(Makkah)の太守シャリーフ フサイン イブン アリー(Sherif Hussein ibn Ali, 1908 - 1916)が起こした戦い。ハーシム家(Heshemite)が主導するアラブ諸部族は、イギリスの支援を受けて中東各地でオスマン帝国軍(Ottoman Turks)と戦いその支配からの脱却には成功した。しかしアラブの地はイギリスやフランスによる委任統治領となり分断され、統一国家を作って独立することはできなかった。(出典: ウィキペディア)
アラブ民族: 肥沃な三日月地帯では北アラビアやシリア沙漠に住む部族的に組織され好戦的な駱駝牧畜民がアラブ(Arab)と呼ばれていた。紀元前9世紀から紀元前6世紀に掛けてのアッシリア(Assyrian)やバビロニア(Babylonian)の碑文には「アルブ(Arubu)は部族的に組織され駱駝に騎乗し北および北西アラビアのアドッマツ(Adummatu)、タイマ(Tayma)、デダン(Dedan)やウラ('Ula))等の主要なオアシス集落を結んで交易を行う民族である」と記述されており、アラブ民族が南西アラビアから現在のレバノンであるレヴァント(Levant)へ物資を輸送する上での商業的に重要な役割を担っていた事を示している。古代のアラブと云う用語はこの様に或る生活様式を行う民族を意味して居り、言語学的な結びつきでは無かったが、この用語は拡張されて中央や西アラビアの部族も意味する様に成った。イエメンに定住したサイハド(Sayhad)民族は4世紀までアラブ(Arab)と云う用語を中央および西アラビアの部族的な牧畜遊牧民を呼ぶのに使っており、「遊牧牧畜民をアラブ(Arab)」と呼ぶのはイスラム時代に入っても続いて居た。この地域では遊牧民と定住民が同じ言語と文化を持っていたのでアラブはこの両方を意味する様に成り、今日ではアラビア語を母国語として話す民族をアラブと呼んでいる。
アラムコ: Arabian American Oil Company (ARAMCO): 現在のサウジアラムコ(Saudi ARAMCO)。
「アラムコハンドブック」: ダハランで修正・編集の後に1968年に出版( Aramco Hand book Revised ed/, Dhahran 1968.)。
アラム語とアラム文字(Aramaeans and Aramaic Alphabet): アラビアで見つかったイスラム以前に使われた文字には南アラビア碑文(南セム語(South Semitic))、サムディク(Thamudic)流とアラム語(Old Aramaic Language)の三つの主要なグループがある。その内のアラム語はレヴァント(Levant)等の北西セム族(West Semitic)流に属して居り、「このアラム語を使用していたのがアラム人(Aramaeans)である」と云う。アラム人(Aramaeans)は肥沃な三日月地帯(Mesopotamia)の文明化した都市の住人からは恐れと侮蔑を持って見られて居たが、紀元前2,000年期に駱駝による遊牧や隊商貿易で経済的に軍事的に強力な部族となり、紀元前11世紀頃までに、ユーフラテス川(The Euphrates)上流に定住し、紀元前1,000年期中頃までには肥沃な三日月地帯全体の共通語(lingua franca)がアラム語(Aramaic)に成ってきた。駱駝を用いてシリア沙漠(Syrian Desert)などを舞台した隊商貿易はさらに拡大し、アラム語(Aramaic Language)は古代オリエント世界の商業語として定着した。アラム語(Old Aramaic Language、1100BC – AD 200)は最初、北西セム文字を基にして紀元前1050年頃に確立したフェニキア文字(Phoenican Alphabet)を使って書かれていたが、時間と共にそれを改造し、紀元前8世紀までにはアラム文字(Aramaic Alphabet)で書かれる様になり、楔形文字(Cuneiform)で書かれたアッカド語(Akkadian Language)の記述に匹敵するまでに発展した。紀元前9世紀から7世紀の間の北アラビア戦役についてのアッシリアの記録(Assyrian records)でも「部族的に組織されたアルブ(Arubu)すなはちアラブ(Arabs)が北および北西アラビアの沙漠とオアシスを占拠して居た」と述べられている。アルブ(Arubu)は戦場に大勢の駱駝騎乗戦士を送り込む能力を持ち、南西アラビアとの交易に従事していた。紀元前6世紀までに北西部のタイマ(Tayma)やデダン(Dedan)等が隊商町(caravan towns)として十分にその機能が確立して、遊牧民と定住民は物資だけでは無く、儲けの多い陸上交易の運営に対して相互依存する様に成って来た。その後、アラム語(Aramaic)は紀元前500年頃までにオリエント(Orient)中に広まり、アケメネス朝(Achaemenid Empire, 550 BC - 330 BC)の共通語(Lingua Franca)でもあり、ネオ-アッシリア(Neo-Assyrian)およびペルシャ帝国(Persian Empire)の公用語ともなった。ヘレニズム時代(Hellenism Period, 323BC - 31/30BC)には阻害されたが、西暦7世紀のイスラーム教徒のペルシア征服(Islamic Conquest of Mesopotamina)まで変わらずにこの地方の共通語(Lingua Farnca)であり続けた。この為、アラム語(Aramaic Language)の使用は広く行き渡り、ユダヤ教(Judaism)、イスラム教(Islam)やキリスト教の一部の宗派の聖書や仏教(Buddhist)の経典はアラム文字(Aramaic Alphabet)から発展した文字で書かれている。例えばペルシア帝国の後期古アラム語(Late Old Aramaic Language)はシリア教会(Syriac Christianity)の言語となったローマのシリア属領の中期アラム語系シリア語(Middle Aramaic Syriac Language)に発展した。また、それに密接に関連して派生したのがナバタテン語(Nabataean)である。
アラム人(Aramaeans): アラム人(Aramaeans)は紀元前3,000年期以降パレスタイン(Palestine)からメソポタミア(Mesopotamia)に至る地域を征服していたアモリ人(Amorites)地域から出現した同じ北西セム語(Northwest Semitic languages)を話す牧畜部族で、「アッシリア(Assyria)の書字板ではアラム人(Aramaeans)の名はもっと昔の部族名マルトゥ(Mar.tu) (アムル人(Amorites)、(アモリ人(Amurru))、西方の人)の方が正確である」との記述もあり、「同じ民族が異なる名前で呼ばれた」との説が有力である。肥沃な三日月地帯(Mesopotamia)の文明化した都市の住人からは恐れと侮蔑を持って見られて居たが、紀元前2,000年期に駱駝による遊牧や隊商貿易で経済的に軍事的に強力な部族となり、紀元前11世紀頃までに、ユーフラテス川(The Euphrates)上流に定住した。その拠点としては、ティル・バルシップ(Til Barsip)、サマル(Sam’al)(現在のゼンジルリ(Zenjirli))、アルパド(Arpad)、ビト・アディニ(Bit-Adini)などが挙げられる。その後、シリア(Syria)に進出して新たな都市国家を形成し、当初はハマ(Hama)、その後はダマスクス(Damascus)がアラム人(Aramaeans)勢力の中心となった。紀元前1,000年期中頃までには肥沃な三日月地帯全体の共通語(Lingua Franca)がアラム語(Aramaic)成ってきた。駱駝を用いてシリア沙漠(Syrian Desert)などを舞台した隊商貿易はさらに拡大し、アラム語(Aramaic Language)は古代オリエント世界の商業語として定着した。フェニキア文字(Phoenician Alphabet)からアラム文字(Aramaic Alphabet)が作られ、西アジア・南アジア・中央アジアの様々な文字に影響を与えた。一方、特化された駱駝放牧者集団はやがてアラブ部族の祖先となった。紀元前9世紀から7世紀の間の北アラビア戦役についてのアッシリアの記録(Assyrian records)でも「部族的に組織されたアルブ(Arubu)すなはちアラブ(Arabs)が北および北西アラビアの沙漠とオアシスを占拠して居た」と述べられている。アルブ(Arubu)は戦場に大勢の駱駝騎乗戦士を送り込む能力を持ち、南西アラビアとの交易に従事していた。紀元前6世紀までに北西部のタイマ(Tayma)やデダン(Dedan)等が隊商町(caravan towns)として十分にその機能が確立して、遊牧民と定住民は物資だけでは無く、儲けの多い陸上交易の運営に対して相互依存する様に成って来た。
アラルヴェス(Alarves): アラビア人(Arabs)。
アラレネ(Ararenê): メッカ(Mecca)とメディナ(Medina)の間の遊牧民に帰属する大部分は沙漠の土地で、ガルス(Gallus)軍は紀元前24年にここを通過した。
アリー イブン・アビー ターリブ(Ali ibn Abu Talib): アリー イブン・アビー ターリブ(Ali ibn Abu Talib, 656-661)は第3代カリフのウスマーン('Uthman) (644-656)が暗殺された後、第4代正統カリフ(656-661)と成った。アリーは預言者ムハンマド(Muhammad)の父方の従弟で、彼の母もムハンマドの父の従姉妹である。後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマ(Fatimah)を娶った。ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。対抗勢力との戦いに追われ、アリーも661年に暗殺されてしまった。その後、アリーの支持派はシーア派(Shia)となり、アリーはシーア派によって初代イマーム(Imam)としてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。
アリアス(Ariath): アビシニア皇帝エッラ アトスベハ三世 (the Abyssinian Emperor, Ella Asbeha III)が525年に派遣したヒムヤル(Hymyar)討伐軍の指揮官であった。「ヒムヤル(Hymyar)の勢力を壊滅させ、アリアス(Ariathが指揮した軍隊は、この時に編成され、7,000人ではなく、70,000人であった」との記述もある。 又、アリアス(Ariath)はアブラハム(Abraham)の館であるマッカのカアバ(Kaaba)神殿を破壊した一人と考えられている。アリアス(Ariath)はアルヤト(Arethas、アルヤアド(Aryaad)、アレザス、エールヤト(Eryat)あるいはアルヤト(Arethas or Aryat)とも呼ばている。
アリ アビ ハシミ(Ali Abi Hashimi): 「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」の著者イブン アル-ムジャウィール(Ibn al-Mujawir, 1204 - 1291)は幾つかの出典で「北アフリカ人(マガリバ)(Magharibah)がジッダ(Jiddah)で首長(アミール)(Amir Ali ibn Fulayta ibn Qasim ibn Muhammad ibn Jafar ibn Abi Hashim)に(ギジヤ)(Giziya)(個人的貢ぎ物)を支払った」と記述している。
アリー イブン アビー ターリブ(Ali ibn Abi Talib, c. 600 - 661): アリーは預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の父方の従弟で、その母もムハンマドの父の従姉妹である。後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマ(Fatimah al-Zuhra, c. 605 or 615 - 632)を娶った。アリーはイスラーム教の第4代正統カリフ(4th Rashidum Caliphate, 656 - 661)であり、同教シーア派(Shi’a Muslims)はアリーを初代イマーム(First Imam)でアリーとその子孫がムハンマドの正統な後継者であると考えている。アリーはムハンマドの時代にイスラーム教聖域であるメッカのカアバ神域(Kaaba Sanctuary)で生まれた唯一の人物であった。父はアブー ターリブ(Abu Talib ibn Abd al-Muttalib, 549 - 619)で母はファーティマ(Fatima bint Asad, d. 626)であったが、ムハンマドがアブー ターリブの家で育てられた様にアリーもムハンマドの家で育った。ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとりで、その生涯をイスラームの大儀に捧げた。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。早くからムハンマドの後継者と見做されていた。第3代正統カリフのウスマーン(Uthman ibn Affan, c. 579 – 656)が暗殺された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤ(Muawiyah ibn Abi Sufyan, 602 – 680)との戦いに追われ、661年にハワーリジュ派(Kharijities)によって暗殺される。後にアリーの支持派はシーア派(Shi’a Muslims)となり、アリーはシーア派によって初代イマーム(First Imam)としてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。アリーとファーティマの間の息子ハサン(Hassan)とフサイン(Hussayn)はそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことからスンナ派にとってもサイイド(Sayyid)として尊崇されている。アリーの墓廟はイラクのナジャフ(Najaf)にあり、カルバラー(Karbala)とともにシーア派の重要な聖地となっている。(出典: ウィキペディアおよびWikipedia)
アリカ(Arikah): 軽く焼いたパン生地(dough)を丸いお盆の上に広げて、たっぷりと茶色の蜂蜜を塗る。
アリカンテ(Alicante): スペイン南東部ヴァレンシア(Valencia)自治州の地中海に面する県の県都で港町(27万)。
アリストテレス(Aristotle):アリストテレス(Aristotle, 384 BC – 322 BC)は古代ギリシャの哲学者プラトン(Plato)の弟子であり、またその超克者である。プラトンは事物の本質をイデアと名付け、超越的なものとしたが、アリストテレスはそれを形相(エイドス)となずけ、質料に内在するものとした。形相と質料は存在者を構成する不可分の2原理として、形相が現実態、質料が可能態とも呼ばれる。アテネにリュケイオン(Lykeion)という学校を開き、その研究は論理、自然、社会、芸術のあらゆる方面に及び、その学徒はぺリパトス(逍遥)学派(Peripatetics)と呼ばれた。「形而上学」、「自然学」を始め、論理学、倫理学、政治学、私学、博物学などに関する多数の著作がある。アレクサンダー(Alexander)大王の教師もつとめた。
アリー ベイ('Alī Bey): カフカス(Caucasusu)で生まれ、奴隷としてエジプトに売られた。奴隷傭兵の首長となり、1768年スルタンを宣言し、トルコから独立、シリアを征服し、アラビアの一部も征服し、エジプトの支配者(1728 - 73)となったが、裏切りにあって追放され、復位を試みて敗死した。
「アリ ベイ(Ali Bey)の1803年から1807年の間の旅行記」: ドミンゴ バディア イ レブリシュ(Domingo Badía y Leblich)著、「アリ ベイ(Ali Bey)のモロッコ、トリポリ、サイプロス、エジプト、シリア及びトルコにおける1803年から1807年の間の旅行記(Travels of Ali Bey in Morocco, Tripoli, Cyprus, Egypt, Arabia, Syria and Turkey between the Years 1803 and 1807)」は1816年ロンドンで出版された。原文はフランス語であり、1814年にパリで出版されている(The title of the original edition was Ali Bey Voyages en Aftique et en Asie, pendant les années 1803 à1807. Paris 1814.)。英語版はウェストミードで1870年に再版された(The English edition has been reissued in Westmead, 1870.)。
アルカーン(arkan): 文字通りでは柱であるが、カアバ神殿(Ka'bah)の4隅同様主要な4方向を示している。
アルギリウム(Argyrium): シシリー島の内陸部(in Interior of Sicily)。
アルゴア湾(Algoa Bay): 南アフリカ共和国東ケープ州(Eastern Cape)南部の湾で広く浅い入江。
アルコート(Arcot): インド南部タミルナードゥ(Tamil Nadu)州北部にある州都マドラス(Madras)の西南西にある市で人口4.5万人、1712年カルナティック(Carnatic)の首都、その後英仏で争奪が行われた。
RCAGステーション: Remote Center Air to Ground Facility (Saudi Arabia)
アルダッブ(Ardeb): 中東の数カ国で使われている単位で、エジプトで198リットルまたは米5.62ブシェル(bushels)に標準化された(Bushel=35.24 Liters)。
アルテミス (Artemis): ギリシャ神話の月と狩猟の女神でローマのディアーナ(Diana)に当たる。
アルフレッド ギョーム(Alfred Guilaume): ギヨーム(A. Guillaume)参照。
アルメニア(Armenia): コーカサス(Caucasus)山脈の南側に在る国(Republic of Armenia)で人口350万人。古代のアルメニア王国(Kingdom of Armenia)(大アルメニア(Greater Armenia) (聖書名はミニ或いはミンニ(Minni))は王国として独立するまではアケメネス朝(Achaemenid Empire, 550 BC - 330 BC)のアルメニア地域(Armenia)のサトラップ(Satrapy)であった。マケドニア(Macedonia, 800s BC - 146 BC)の手を借りてオロンテス朝(Orontid Dynasty, 6th Century - 72 AD)として独立した。セレウコス朝(Seleucid Empire, 312 BC - 63 BC)の崩壊の後、紀元前190年にアルタクセス1世(Artaxias I, 190 BC/189 BC - 160 BC/159 BC)によってヘレニズム(Hellenism)の影響を受けたアルメニア政権が誕生した。アルタクシアス朝(Artaxiad Dynasty, 189 BC - AD 12)のティグラネス2世(Tigranes II, BC 95 - BC 55)(大王(Tigranes the Great))が遠征を行った紀元前95年から紀元前66年の絶頂期にアルメニアは支配権をコーカサス(Caucasus or Caucas)を越えて、現在のトルコ東部(Eastern Turkey))からシリア(Syria)・レバノン(Lebanon)にまで及ぼし、アルメニア王国はその領土を最大範囲に広げた。しばらくの間はローマ東方の最も強大な国として存在していたが、アルメニアはしばしばローマとペルシアの間で論争の的となり、紀元前66年にはローマの影響下に入った。西暦一世紀になるとパルティア(Parthia, BC 247 – AD 228)は37年から47年までアルメニアを屈服させた。ローマはアルメニア王国の宗主権を取り戻そうと、ネロ(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus, AD 37 - AD 68)の治世下、ローマは同盟を結んだアルメニアに侵略してきたパルティアと55年から63年まで戦った。60年のアルメニア奪還と62年の喪失の後、ローマはシリア総督コルブロ(Gnaeus Domitius Corbulo, AD 7- AD 67)を派遣する。コルブロは63年、アルメニアの王位をティリダデス1世(Tiridates I of Armenia, AD 63 - unknown)に復位させる事でその兄でパルティア王のヴォロガセス1世(Vologases I of Parthia, 51 - 78)と和議を結んだ。 これ以来、アルメニア王国はアルサケス朝(Arsacid Dynasty, 54 - 428)(アルシャク朝 (Arshakuni Dynasty))の治世となり、パルティアが望む人物を王に就け、戴冠はローマ皇帝及びその代理が行うという両属体制が出来た。名目上はローマ帝国の属国で、実質はパルティアの属国という折衷案である。ヴォロガセス4世(Vologases I of Parthia, 147 - 191)がアルメニアに侵略し、旗下の将軍を王位に就けたことによって162年から165年までローマ共同皇帝ルキウス・ウェルス帝(Lucius Aurelius Verus, 161 - 169)の戦役が引き起こされた。パルティアの脅威に対し、ウェルスは東部辺境へ出発し、その軍勢は大勝を治めた。首都を取り返し、ローマ市民権を持ち、アルメニアの相続権利を持つソハエムス(Sohaemus)が傀儡王(Client King)として即位させた。三世紀に入いるとサーサーン朝ペルシア(Sassanid Dynasty, 226 – 651)が252年にアルメニアを占領し、ローマが287年に取り戻すまで保持した。ティリダテス大王(Tiridates the Great)としても知られるティリダテス3世(Tiridates III or Trdat III, 287 - c. 330)は301年にキリスト教(後のアルメニア教会(Armenian Orthodox Church))をアルメニアの国教としたが、これは世界初であった。アルメニア人の間にはキリスト教は浸透しており、ローマ側においても、ペルシア側に併合された地域でもキリスト教の信仰は衰える事はなかった。384年に王国は東ローマとペルシアの間で分裂した。西アルメニアは即座に小アルメニア(Armenia Minor)という名でローマの属州となった。405年に聖メスロプ マシュトツ(Saint Mesrop Mashtots, 361/362 - 440)によって紀元前2世紀までの大アルメニア(現在のカラバフ(Nagorno-Karabakh)を含む)で話されていたアルメニア語(Armenian language)の為のアルメニア文字(Armenian Alphabet)が創出された。現在のアルメニア人は直接の言語学的な子孫であると考えてよい。東アルメニア(Eastern Armenia)は428年までペルシアの内部でそのまま王国として残った(a Kingdom within Persia until 428)。その後地方貴族が王制を廃止、サーサーン朝が行政官(Governor)を送り込んだ。(原文はウィキペディア)
アルメニア人(Armenians): インドーヨーロッパ語族に属する独立した一派をなすアルメニア語を話すのがアルメニア人でアルメニア教会の信徒でもある。
アレキサンダー大王(Alexander the Great、336 BC – 323 BC): マケドニア王国フィリッポス2世(King Philip II of Macedon)の王子として誕生したアレクサンドロス(Aleksandros, BC356 – BC323)で、20歳で即位すると、父王の計画を引き継ぎ、東方遠征を開始する。兵力では圧倒的不利だったにもかかわらず、イッソス(the Battle at Issus, BC333)およびガウガメラ(the Battle of Gaugamela, BC 331)と二度の大戦で圧勝し、アケメネス朝(the Achaemenid dynasty, BC550 - BC330)を滅亡に追いやった。その後も快進撃を続け、西は現在のエジプト(Egypt)・ギリシャ(Greek)、東はインダス川(the Indus River)流域までに及ぶ大帝国を建設した。
アレクザンドリア(Alexandria): ナイル川デルタ(Nile Delta)の上の町でアレキサンダー大王(Alexander the Great) が紀元前332年に建設した古代世界の学問の中心地であった。今でもエジプト北部にあるエジプト第一の商港の町で人口340万人である。
アレサス(Arethas): 523年10月にヒムヤル (Himyar)国王ズ ヌワス(Yousuf Dhu Nuwas)がナジラン(Najran)を奪取し、冷酷に親アビシニア党を皆殺しにした「ナジランの戦い」の際のキリスト教徒指導者でAretas或いはHarithとも綴られる。
アレタス(Aretas): オボダス(Obodas)の血族でその支配していた土地は今日のメディナ(Medina)と思われる。
アレッポ(Aleppo): アラブ(Arab)名はハレブ(Haleb)或いはハラブ(Halab)で、シリア北部の市(160万)、古代名はベロエア(Beroea)。
アロエ(Aloe): ユリ科の多肉の常緑多年草で、葉は多肉で、橙赤色の筒形を花を開く。観賞用、薬用に栽培。広くはユリ科アロエ族植物であり、アフリカの乾燥地帯を中心に300種が分布し、有茎、無茎等、形態に変化が多く、その中の数種が多肉尺物と捨て栽培されている。別名を蘆薈(ろかい)、医者いらずと云う。
「暗黒大陸横断記」: アメリカの探検家スタンリー(Henry Morton Stanley 1841 - 1904)の著作。
アンサール族(Ansar): “助ける人(Helpers)”を意味するアラビア語で、預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)に協力したメディナの住民(Median Citizens or Medinans)をさす。610年ムハンマドは自ら預言者と自覚してメッカ(Mecca)で伝道を始めたが、当時メディナ(Medina)では、ハズラジ族(Banu Khazraj)とアウス族(Banu Aws)とが対立して内戦状態であった。たまたま620年にメディナからメッカの偶像神殿に来た巡礼がムハンマドの教えに共鳴し、そこで彼をメディナに招き、部族間の争いの調停を依頼しようとした。ムハンマドも激しい迫害でメッカに見切りをつけたので、その招きに応じ622年移住(ヒジュラ)を決行した。メッカから預言者に同行した移住者(ムハージルーン(Muhajirun))とアンサール(Ansar)はともに彼の指導する教団国家の重要な構成員であったが、この両者のあいだに微妙な対立があったらしく、預言者が死ぬと、アンサールは独自の指導者を擁立しようとした。結局ムハージルーン(Muhajirun)のアブー バクル(Abu Bakr As-Siddiq or Abdallah ibn Abi Quhafa, c. 573 - 634)がカリフ位(Prophet’s Sucessor or Khalifat Rasul Allah, 632 - 634)につき、その後アンサールは教団国家内の指導的地位から消えた。(出典: http://www.tabiken.com/history/doc/A/A272L200.HTMおよびWikipedia)
アンジェロ ペセ博士(Dr. Angelo Pesce): イタリアの地質学者の執筆家で過去25年以上にわたり、サハラ沙漠の中央部やオマン湾北岸等のアフリカおよび中近東に住んだり、旅行して精力的にアラブ世界を研究、視察して来た。同博士の著書には「ジッダ或るアラビアの町の描写(Portrait of an Aranian City, Jiddah , 1977)」の他に「アラブ父祖の地の色(Clours of Arab Fatherland, 1975.12)」、「アラブ馬の純血種 (The Pure Bred of Arabian Hose, 1984)」、「100年前のメッカ(Makkah, One Hundred Years, 1986.12)」があり、更にキース コウリ(Keithe Colie)との共著で「風の霊(Spirit of the Wind, 1982.9)」とエルヴィラ ガールバノ ペセ博士(Dr. Elvira Garbano Pesce)との共著で「沙漠の驚異(Marvel of the Desert, 1983.12)」と「サウジアラビアの駱駝(The Camel in Saudi Arabia)」がある。
安息香(Benzoin): エゴノキ科の落葉高木でスマトラやジャワ原産、樹皮は茶褐色、葉は卵形で鋭頭しており、夏に葉の付け根に赤色を帯びた小花を総状につける。タイ、スマトラで栽培された。本草和名は安息香の木と云う。安息香はこの木に樹皮から分布する樹脂で帯赤色または褐色の塊をしており、甘味を有し、その中に乳白色の顆粒を蔵し、熱すれば強い芳香を放つ。薫香に用い、安息香チンキは去痰剤、呼吸刺激剤である。
アンティオキア(Antioch): トルコ南部オロシティス(The Orontes)川の河口の都市でアンタキア(アンタキア)とも呼ばれている。セレウコス朝シリア(Seleucid Empire, 312 BC - 63 BC)の首都(BC. 300 - BC 64)で商業の中心地であった。アラビア語ではアンタキア(Antakiya)、トルコ語ではアンタキア(Antakya)と名付けられている。
アンドレア コルサリ(Andrea Corsali): リスボン(Lisbon)からインドへ行き、その航海記をフロレンス(Florence)の有名な支配家族のジュリアーノ(Giuliano)およびロレンゾ デイ メディチ(Lorenzo dei Medici)宛に二通の手紙で残した。コルサリ(Corsali)の人生のその他の詳細については何も分かってはいないが、この二通の手紙が歴史的な資料としては計り知れないほどの価値がある。それは特に同じ時代のポルトガル人作家に対する検証を行う時にあらわれる。二番目の手紙はロポ ソアレス デ アルベルガリア(Lopo Soares de Albergaria)の遠征と共に、1517年にコルサリ(Corsali)が紅海で行った航海について述べているので特に重要である。コルサリ(Corsali)は強風が自分の船を外界に引きずり出して艦隊との連絡が取れなくなる前に、ジッダが見える8リーグ(Leqague)(約24マイル)以内に来ていた。船長はカマラン(Kamaran)行きを決めていたが、水先案内の間違いで、コルサリ(Corsali)は替わりにエチオピアの海岸に着いた。そこでコルサリ(Corsali)は数日間を無駄にし、その乗組員は最終的にダハラク諸島(Dahlac)に着き、救助される迄に喉の渇きと飢えに途方もなく苛まれた。
アントワープ(Antwerp): ベルギー北部の北海に注ぐスケルト川(The Scheldt)河口に臨む港湾都市(46万)で同州の州都でもある。
イアムビア(Iambia): (イエンボ(Yenbo)参照。)
イアンニ(Giampietro Ianni): アンジェロ ペセ博士の写真撮影のアシスタント(Mr. Giampietro Ianni)。
イェニチェリ(Janissaries or Janizary): 「新しい兵士」を意味し、Odjaktとも呼ばれ、14世紀後半に創設された新軍(トルコ皇帝親衛隊(1300 - 1826)、トルコの近衛騎兵)で、オスマン帝国の常備軍団であり、帝国の領土拡張に大きく貢献した。戦争捕虜や徴用したキリスト教農民の子弟を教育し軍団員とした。18世紀末以降西洋化改革に反対し、1826年に廃止された。
イェニチェリ音楽(Janissary Music): シンバル、トライアングル、ベースドラムなどを多用するトルコ軍楽風の音楽。
イエメン条約: イエメン(Yemen)とサウディアラビア王国(Kingdom of Saudi Arabia)間に締結された1934年条約でアシール(Asir)およびティハマー(Tihamah)の国境紛争は終了した。アシール(Asir)の民はサウジ国民に成り、安全な生活の恩恵および過去の略奪や血みどろの争いからの解放を得た。それでも放牧権や部族の所有地を巡って論争している二つの部族の潜んだ対立が週市で遭遇した時に再燃する危険性は依然として十分あった。
イエンボ(Yenbo): 現在のヤンブー(Yanbu)であり、ヤムボー(Yambo)或いイエンボー(Yenbo)とも云う。ジェッダ(Jeddah)の北350km(北緯24°05′東経38°00′)に位置し、メディナ州(Al Madinah Province)にある紅海岸の主要な港である。2004年度の人口は188,430人であった。ヤンブーの歴史は香辛料(spice)と香料(incense)がイエメン(Yemen)からエジプト(Egypt)や地中海地域(Mediterranian region)に運ばれていた2500年前に遡る。オスマン帝国(Ottoman Emipre)時代は小さな港であったが、1975年にアラビア湾岸のジュバイル(Al Jubail)と共に2大工業地帯に指定されてから発展した。
イクシド朝(Ikhsids): トゥールーン朝(Tulunids)滅亡の後、西暦905年から941年までナイル谷は再びアッバース朝(Abbasids)に支配され、それを西暦973年までイクシド朝(Ikhsids)が引き継いだ。
イサ イブン フライタ首長(Amir Isa ibn Fulayta): 「ギジヤ(giziya)を制定したメッカ首長はイサ イブン フライタであった」とイブン-アル-ムジャウィール(Ibn al-Mujawir, 1204 - 1291)著「南アラビアの記述(Descripyio Arabiae Meridionalis)」に述べられている。
イサク(Issac): イサクはイスハーク(Ishaq)とも転写され、アラブ人の祖となったイスマーイール(Isma'il)*(イシュマエル(Ishmael))と共にアブラハム(Abraham)(イブラーヒーム(Ibrahim))の息子で共に預言者となった。イサクは双子の息子ヤコブ(Jacob)とエサウ(Esau)をもうけた。エサウ(Esau)は長子でありながら一杯のかゆの代償として相続権を弟ヤコブ(Jacob)に売った。ヤコブ(Jacob)はイスラエル12部族の祖となり、その系譜からはムーサー(Musa)(モーゼ(Moses))、ダーウード(Dawud)(ダビデ(David))、スライマーン(Sulayman)(ソロモン(Solomon))等多くの預言者があらわれている。(出典: ジーニアス英和大辞典および岩波イスラーム辞典)
イシャー礼拝(salat al-'isha'): サラート(salat)を参照。日没後の残照が完全に消えてからファジュル礼拝(salat al-fajr)までに行う。
イシュマエル(Ishmael): 一神教(Monotheism)の偉大な長老アブラハム(Abraham)とそのエジプト人妻ハジャール(Hajar)の子で、アラブ族の父と呼ばれ、イスラームの預言者の先祖でもあり、イスマーイール(Isma'il)とも転写されている。(イスマーイール(Isma'il)参照)
イスタハリ(Auctore Abu Ishak al-Farisi al -Istakhri): アブ ザイド アル-バルヒ(Abu Zayid al-Balkhi)の門下、ペルセポリス近くの村の出身であるイスタハリの人生についてはインダス谷のイブン ハウカルと出会い、それによって地理学的情報を交換し、それぞれの尊重する著作を比較しあった事を除いては実際的に何も分かっていない。950年頃に「タクウィム アル-ブルダン(国々の描写)(Takwin al-Buldan)」編集し、最新情報化し、増補した版を作った。
「イスタハリ版国々の描写」: (Viiae Regnorum. Descriptio Ditionis Moslemicae - Auctore Abu Ishak al-Farisi al -Istakhri)、M. J. デ ジョエジュ(M. J. de Goeje.)編集1927年ライデン(Leyden)で出版。
イスマーイール(Isma'il): クルアーン(Qur'an)に登場する預言者の1人であり、アブラハム(Abraham)(イブラーヒーム(Ibrahim))の息子でアラブ人(Arab)およびムハンマド(Muhammad)の祖先である。 イスマーイール(Isma'il)は聖書にはイシュマエル(Ishmael)とされているが、旧約聖書の記述とイスラーム(Islam)の教えのもっとも異なる点はアブラハム(イブラーヒーム)が息子を犠牲に捧げる様に命じられた故事において、その息子を旧約聖書がアラビア語ではイスハーク(Ishaq)であるイサク(Isaac)とするのに対して、イスラームではイスマーイールとする点である。犠牲に捧げるように言われたのが一人息子であった以上は、それは先に生まれたイスマーイール以外にありえないとしてイスラーム側はユダヤ教(Judaism)による歴史の改竄(かいざん)を批判している。イスマーイールの名はカルアーンには12ヶ所で言及されている。イスマーイールは父アブラハム(イブラーヒーム)と共にカアバ神殿(Ka'bah)の建設を行い、マッカ(Makkah)(メッカ(Mecca))に定着して、アラブ部族の女性と結婚し、アラブ化によるアラブ人の祖先になった。クルアーンではイスマーイールとイスハーク(Ishaq)(イサク(Isaac))は兄弟ともに預言者とし讃えられている。イスマーイールの系譜から最後の預言者ムハンマドが生まれるが、イスハークはその子ヤアクーブ(Ya'qub)(ヤコブ(Jacobus))を通じてイスラエル(Israel)の民の祖となり、その系譜からムーサー(Musa)(モーゼ(Moses))、ダーウード(Dawud)(ダビデ(David))、スライマーン(Sulayman)(ソロモン(Solomon))などの多くの預言者が現れた。(出典: 岩波イスラーム辞典)
イスマーイール派(Ismaili or Isma'ilite): イスマーイール派の信徒(Ismaili)はシーア派の第六代イマーム (Ja'far ibn Muhammad)の長子で父に後継者として任命されたが取り消されたイスマーイール(Isma'il ibn Ja'far)を第七代イマームであると唱え、秘密的哲学を信奉するイスラム教シーア派(Shi'ite)の一分派である。イスマイル派(Ismailiya)とも転写されている。なお、イスマーイール族(Isma'ilite)についてはクライシュ族(Quraysh)およびフバル神(Hubal)を参照されたい。
イスマイル シャー(Ismail Shah): 1513年にタブリーズ(Tabriz)付近で敗北し、1516年の春にオスマンとルコ(Ottoman Turks)のスルタン サリム一世(Sultan Salim I, 1516-1520)から最後の攻撃を被ったサファヴィー朝ペルシア(Safavid Dynasty of Persia, 1501 - 1736)の建国者で初代王(Shah Ismail I、1487 – 1524)。
イズミル(Izmir): トルコ西部、エーゲ海の入江イズミル湾を望む港湾都市(200万)で旧称スミルマ(Smyrna)。
イスラーム(Islam): イスラーム(イスラム)とは「絶対帰依すること」の意味で、唯一神アッラー(Allah)とその使徒であるムハンマドを信じ、聖典クルアーンの教えに従って生きることを意味する。そのため、狭義の宗教面に限らず、社会生活全体をイスラームが律するものとされる。(出典: 岩波イスラーム辞典)
「イスラム以前のアラビア史の研究」: 「イスラム以前のアラビア史の研究」(Etudes sur I'histoire des Arabes avant I'Islamisme)は1840年当時のフランスのジェッダ領事でアジア ジャーナル(Journal Asiatique)にも記事を載せている東洋通のフルジャンス フレネル(Fulgence Fresnel)が著作し、1836年にパリ(Paris)で出版された(Paris 1836)」。
イスラーム五行(Five Pillars of Islam):イスラーム五行(ごぎょう)とは、個々のイスラーム教徒(Muslim)に義務として課せられた信仰告白(シャハーダ(Shahadah)*)、礼拝(サラート(Salat or Salah)*)、喜捨(Zakat)*、断食(Sawn)*、巡礼(ハッジ(Hajj)*)の5つの行為である。詳細については各項目を参照戴きたい。
イスラム シャリーア法(Law of the Islam or Shariah): イスラム世界では宗教と世俗社会の両方に対する法律である。シャリーアのうち主に宗教に関わる部分をイバーダート(Ibadhat)(儀礼的規範)、世俗的生活に関わる部分をムアーマラート(Mu'amalat)(法的規範)と称する。イバーダート(Ibadhat)は個々人と神との関係を規定した垂直的な規範、ムアーマラート(Mu'amalat)は社会における諸個人間の関係を規定した水平的な規範と位置づけられる。
イスラム帝国(Caliphate): ヨーロッパの歴史家が長らく正統カリフ(Rightly Guided Caliphs or Righteous Caliphs)からアッバース朝(Abbasid Dynasty)までのイスラム国家に対する呼称として用いてきた「サラセン帝国(Saracen Empire)」をイスラム(Islam)と言い換えたもので、唐では大食(タージ)と呼んでいた政権である。
イスラムの征服(Islam Conquests): (ムスリムの征服(Muslim Conquests)参照。)
イチサヨファギ(Inchthyophagi): イチサヨファギは「現在のペルシアの南東部に当たるカルマニア(Carmania)およびパキスタン南西部のバルチスタン(Baluchistan)州の辺り一帯であるゲドロシア(Gedorosia)からエリュトゥラー海の一番遠い入江(紅海)まで広がった海岸に住んでいた野蛮人達」ととディオドロス(Diodorous)の著書「歴史叢書(Library of History)」で記述され、オールドファーザー(C.H. Oldfather)によって「魚を食べる人達」と翻訳されている ('Ichthyophagi' or Fish-eaters in Translation of C.H. Oldfather) 。
イッズッティン アイバック(Izz al-Din Aybak): アイユーブ朝(Ayyubid)の第7代スルタン(Sultan) サーリフ(Al-Malik as-Salih Najm al-Din Ayyub, 1240-1249)は1249年、ルイ9世(Louis IX)(1214-1270)1が指揮する第7回十字軍(Seventh Crusade 1248 - 1254)がエジプトに侵攻した際、肺病を罹い死亡し、軍団の統制がとれていなかった。この為、その元奴隷の妃シャジャルドゥッル(Shajar al-Durr)が3ヶ月間、味方の動揺を抑えるためにサーリフを生きているようにスルタンを暫定的に努めた。その間に、当時スルタン護衛隊長で後のマムルーク朝第5代目スルタンのバイバルス(Sultan Baybars, 1233-1277) (al-Malik al-Zahir Rukn al Din Baybars al Bunduqdari)が軍団長不在のバフリー・マムルーク軍(Bahri Mamluk)の指揮を取り、奮戦したお陰でマンスーラの戦い(Battle of El Mansurah)(1250年2月8日から11日)においてルイ9世を捕虜とする等、大勝利をおさめた。シャジャルドゥッル(Shajar al-Durr)は不和となった息子トゥーラーン シャー(Turanshah)を殺害し、アイユーブ朝を滅亡させ、マムルーク(奴隷出身の騎兵)を支持基盤とし、自分自身をスルターナ(Sultana)とするスンニー派イスラム王朝であるマムルーク朝(Mamluk Sultanate, 1250 - 1517)へと移行した。しかしながら、地方君主、将軍達、アッバース朝(Abbasid, 750 - 1258) のカリフ(Caliph)等の多くがスルターナ(Sultana)に反対した。この勢力に対抗する為に、当時、テュルク(Turkic peoples)系のマムルーク(奴隷軍人)(Mamluk)出身で、筆頭将軍であったイッズッティン アイバック(Izz al-Din Aybak)を味方につけて結婚し、スルタン(Sultan)の位を譲った。夫婦の仲は不和が続き、シャジャルドゥッルはイッズッティン アイバックを暗殺し、少年マンスール アリ(Al-Mansur Ali)を第2代目スルタンに擁立したが、モンゴル帝国軍の侵入を受けた。この戦いの最中の1259年11月に軍事態勢を強固にする為、将軍クトゥズ(Qutuz)は少年スルタンを廃して、自らマムルーク朝第3代目のスルタンとなった。翌年、クトゥズ(Qutuz)はアイン ジャールートの戦い(Battle of Ain Jalut)(1260年9月3日)でキト ブカ(Kitbuqa)率いるモンゴル帝国軍(Mongols in Palestine) ・キリスト教徒諸侯連合軍を破りモンゴル帝国の西進を阻止した。
イッフラム(Ihhram): ベドウィン(Bedouins)が腰の周りに纏う。
「偽りの旅人と東洋旅行の物語(Travelers in Disguise - Narratives of Eastern Travel)」: ポッジョ ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini)とリドヴィコ デ ヴァルセマ(Lidovico de Varthema)の著述はハクルート(Hakluyt)協会のジョン ウィンター ジョーンズ(John Winter Jones)が翻訳し、「偽りの旅人と東洋旅行の物語(Travelers in Disguise - Narratives of Eastern Travel)」との題名でL.D. ハモンド(L.D. Hammond)の紹介を付け、1963年にケンブリッジ(Cambridge, Mass)で出版された。その本の24頁にジッダ通過の最も貧弱な記述が掲載されている。
イード アドハー('Id al-Adha or Eid al-Adha): 犠牲祭('Id al-Adha)と転写されているこの祭りはマッカ巡礼(hajj)の最高潮の日であるデュール ヒジャー月(Dhu'l-Hijja or 12th month)の7日から10日に祝われ、大祭(Greater Bairam)とも呼ばれる。この祭りの際には家族毎に羊等を屠り、一族で食すると共に一部の肉を貧者に施したりする。(出典: 岩波イスラーム辞典、新イスラム事典およびリーダーズ新英和辞典)
イード イ クルバーン('id-i qurban): 元々はペルシア語(in Psersia)で犠牲祭('Id al-Adha or Faest of Sacrifice)をイード イ クルバーン('id-i qurban)と呼んでいたが、今では多くのイスラーム諸国語で犠牲祭をこの様に呼んでいる。
イード フィトル('Id al-Fitr): 断食明けの祭('Id al-Fitr) と転写されているこの祭りは断食月のあけたシャウワール月(Shawwal or 10th month)の1日から3日に祝われ、小祭(Lesser Bairam)とも呼ばれる。この祭りの際には周囲の貧者に特別な喜捨(Zakat al-Fitr)を与える。(出典: 岩波イスラーム辞典、新イスラム事典およびリーダーズ新英和辞典)
イドリシ(Idrisi): 第一次世界大戦中にジザン(Jizan)近くのサブヤ(Sabya)に行政府を構えたムハッマド イブン アリ アルーイドリシ(Muhammad ibn Ali al-Idrisi)がヒジャズ(Hijaz)のシャリフ フサイン(Sharif Husayn)同様にトルコ(Turk)に逆らい「英国側である」と宣言した。トルコがアラビアから撤退した時にはアシール(Asir)はイドリシ(Idrisi)の支配下にあった。1920年にイブン サウド(Ibn Saud)はアシール(Asir)および遠くフダイダー(Hudaydah)までのティハマー(Tihamah) をイドリシ(Idrisi)の名目支配の儘で保護領としてアブハ(Abha)を占領した。
イドリーシー (Idrisi): イドリーシー(通称 'ash-Sharīf al-Idrīsī, c 1098 – 1156)はシチリア王ロジャー(Roger) 2世に仕え、その勧めで旅を重ね世界地図及び地理書「世界横断を望む者の慰みの書」(1154)を完成した。中世におけるもう一人の主要なおそらく最も偉大なイスラムの宇宙構造論学者であったイドリーシーが西洋でも最も知られていた訳は世界を平面球形図で描いた一揃いの地図帳で補足されたイドリーシーの本が最初の主要なアラビア地理学者の著作としてヨーロッパ言語であるフランス語に翻訳された為である。モロッコ(Morocco)のテトゥアン(Tetouan)でフェス(Fez)の支配者(西暦791年 - 西暦926年)の家に生まれたが、ファーティマ朝(Fatimid)の迫害のために国を逃れ、かなりな時間をヨーロッパと小アジアを旅行して過ごした。この為にイドリーシーはコルドバで教育を受けている。啓発された元首で地理学愛好家であったロジャー二世(ノルマン族でシシリーの王)はイドリーシーの評判を知り、イドリーシーをパレルモの宮廷に招いた。イドリーシーはシシリー島に西暦1125年から1150年まで住み、そしてその地理学の著作と共に天球とその時代に分かっていた世界の円盤を作った。両方とも銀製であったので失われてしまった。イドリーシーはこの島に滞在している間に、イドリーシーはこの島を行き来する船乗りや商人そして記述は無いが恐らく帰還した十字軍戦士達から豊富な情報を得る事が出来た。更に、最新の地理学的知識を得て、イドリーシーがその著作を完成出来る様に、ロジャー王は様々な国に密偵を派遣して、観察させ、それを記録させ、そして正確な資料と写生図を持ち帰る任務を命じていた。この為にイドリーシーの有名な著作は次第に具体的にまとまり、次第に本の題名を「キタブ アル-ルジャリ(ロジャーの本)」或いは「ヌザト アル-ムシャタグ フィ イクティラク アル アファク(Nuzhat al-Mushtaq fi Ikhtiraq al-Afaq)(世界の様々な地方を放浪しようとする者達の喜び)」と名付けた。
「イドリーシーの地理(Géographie d'Edrisi)」: キタブ アル-ルジャリ(Kitab al-Rujari)(ロジャーの本)或いはヌザト アル-ムシャタグ フィ イクティラク アル アファク(Nuzhat al-Mushtaq fi Ikhtiraq al-Afaq)(世界の様々な地方を放浪しようとする者達の喜び)と名付けられた中世における最も偉大なイスラムの宇宙構造論学者であったイドリーシー (Idrisi, c 1098 – 1156))の著作で、「イドリーシーの地理(Géographie d'Edrisi)」としてA. ジョブール(A. Jaubert)によって翻訳・編集され、1836 - 1840年パリで出版さている(Tr. and ed. by A. Jaubert, Paris 1836 - 1840.)。
イハラム (Ihram): 巡礼用の衣で絹地以外の白い縫い目の無い2枚の布で構成される。ジッダ(Jiddah)はメッカ(Mecca)への途中でイハラム(Ihram)(Pilgrim's robe)に着替えるミカト(miqat)の1つである。
イブ (Eve): 人類の始祖Adamの妻、神が創造した最初の女。エバとも転写されている。
イフタール(iftar): 断食明けの食事で、断食者は日没確認後にイフタールをとる事になっているが、一般的にはマグリブ礼拝(salat al-maghrib)のアザーン(adhan)*を聞いてからイフタールをとる。(出典: 岩波イスラーム辞典)
イブの霊廟(Solid Mausoleum for Eve): ペルシア人達はイブの墓を煉瓦と石膏の漆喰で頑丈な霊廟し、この霊廟はヒジュラ暦621年、西暦1224年まで立って居たが、その時に崩壊し、復元される事は無かった。
イブラーヒーム(Ibrahim al-Khalil): クルアーン(Qur'an)に登場する預言者の一人であり、アッラーの友(カリール アッラー(Khalil Allah))と呼ばれる。旧約聖書ではアブラハム(Abraham)と呼ばれ、紀元前19 - 17世紀頃の人物と考えられるが、イスラームでは年代の確定に関心が薄い。イブラーヒームは純粋な一神教徒(hanif)*でイスラームではその再興に関心が集中している。イブラーヒームはユダヤ教徒でもキリスト教徒でも無く、帰依するのはハニーフ(hanif)*であり、多神教ではなかった。ムハンマド(Muhammad, c. 570 - 632)はハニーフのイブラーヒームの信仰に従う様に啓示を受け、純粋な一神教の再興としてイスラームを明確に位置づけている。イブラーヒームはメソポタミア(Mesopotamia)の出身で郷里の偶像崇拝を批判し、人々の反発を受け、迫害された。その後、イブラーヒームはシリア、パレスチナ、エジプトへと移住し、さらにアラビア半島に渡り、息子のイシュマエル(Ishmael)*と共にカアバ神殿を建設した。イシュマエル(イスマ’イル)はそこに残って定住し、アラブ人(Arabs)の祖先となった。一方、イブラーヒームのもう一人の息子イスハーク(Ishaq)(イサク(Isaac))の子孫はイスラエル(Israel)の民となった。ユダヤ教(Judaism)、キリスト教(Christianity)、イスラーム教はセム的一神教と云われ、イブラーヒーム系譜の一神教であり、「最後の啓示としてイスラームが生まれた」とイスラームではイブラーヒーム系譜が強調されている。(出典: 岩波イスラーム辞典)
イブラヒム パシャ(Ibrahim Pasha): イブラヒム パシャ(Ibrahim Pasha, 1789 - 1848)はオスマントルコのエジプト総督で半独立政権を樹立したムハンマド アリ(Muhammad Ali Pasha, 1769 - 1849)の子でエジプトの将軍であった。1818年9月9日にディライヤ(Diraiyah)を包囲し、陥落させ、第一次サウド侯国(1745 – 1819)を打倒した。1848年に父から総督を継承したが、短期間(March – November, 1848)で病死した。
イフラーム(ihram): イーラムとも転写されている。預言者によってその境界の輪郭を描かれた聖なる区域(holy orecinct or al-haram)に近寄る時には世界的に存在する不浄を身体から洗い流す為に巡礼は完全な洗い清めの儀式(al-ghusl)*を行わなければならない。それからそれぞれの巡礼は清められた状態を保つ為に二切れの継ぎ目のない白い布の巡礼用の衣裳(Dress of Pilgrimage)であるイフラーム(ihram)を着用しなければならない。その後は巡礼達は全てに邪悪な考え、世界の心配および性的な愛欲の喜悦も絶たなければならない。この状態でハッジを行おうとしているものはすっかり死ななければ成らない。イフラームの白い色は清浄を示すだけでは無く、精神的な死も示して居り、これが殆どの巡礼達が巡礼儀式の終わりにイフラームを自分の屍衣として使う為にしまって持ち帰る理由である。(イスラームでの屍衣も常に白色である。)イフラームは又、すべてのムスリムが審判の日(Day of Judgement)に行う様に神の前に立った最初の人類のありのままを示している。
イフワーン(Ikhwan): 同胞(信者仲間)(Brethren)は田舎の共同体で布教中心の構成員である。最初のイフワーン(Ikhwan)はワッハーブ派(Wahhabi)の再建者アブド カリム(Abd al-Karim)によって19世紀末に北部ナジド(Najd)のアルタウィーヤ(al-Artawiya)に創設された。後にイフワーン運動(Ikhwan movement)はイブン サウド(Ibn Saud)によって組織替えされ、イブン サウドのアラビア半島統一(1912 - 1930)の際に重要な働きをした。部族の枠をこえた宗教・軍事上の同胞組織となり、アラビアのオアシスを中心に分散して定住し、灌漑を進めると共にベドウイン(Bedouin)の定住化をはかり、宗教面までワッハーブ派の教義を浸透させた。しかし、1920年代後期にイフワーン(Ikhwan)の多くがアブドゥルアジズ王(King Abdulaziz)(イブン サウド)自身との利害の食い違い、又その権威に刃向かうだけの十分な力あると感じ、同王に対し公然と造反した。1930年代初めにはイフワーン達(Ikhwan)は弾圧・服従させられ、結果的にこの運動は解散させられ、後にサウジアラビア国防軍に吸収された。
イブン アイド(Ibn Aid): アシール(Asir)は1917年までオスマン帝国(Ottoman)の県であった。その後アブハ首長のハサン アリ イブン アイド(Hasan Ali Ibn Aid)が支配したが、1919年のイブン サウド王(Ibn Saud)はアシールに軍隊を送って制圧した。しかしイブン アイドが再び反乱したのでファイサル王子(Prince Faisal)がアブハ(Abha)へと軍を率いて、陥落させ、その時以降、アシールはサウジ領の一部と成った。
イブン アウン(Ibn Awn): アシール(Asir)はアル マサミ(Al Mathami)出身の首長に1817年(ヒジュラ暦1233年)まで支配されて居た。その後でエジプト軍を率いたアル シャリフ ムハッマド イブン アウン(Al Sharif Muhammad Ibn Awn)がアシールを制圧してムハッマド アリ パシャ(Muhammad Ali Pasha)とアリを支持するマッカー首長(Sharif of Mecca)の共同統治下に入れた。
イブン アミール(Ibn 'Amir): アシール首長であった‘アブド アル-ワッハブ イブン アミール('Abd al-Wahhab ibn 'Amir)はイブン ムハッマド(Ibn Muhammad)を服従させる為、ヘジラ暦1225年(西暦1810年/1811年)にワディ ビシャー(Wadi Bishah)で戦い、勝利した。しかしながら、この戦いでイブン アミール(Ibn 'Amir)自身が殺された。
イブン イシャク(Ibn Ishaq): ムハンマド イブン イシャク イブン ヤサール(Muḥammad ibn Isḥaq ibn Yasar, 704 – c. 767/770)はアラビア歴史家で聖人伝作者(Hagiographer)である。イブン イシャクは預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の最初の伝記の根拠となる口述の言い伝えを集めた。その伝記は通常、シラト ラスル アッラフ(Sirat Rasul Allah)と呼ばれ、「神の使いの一生(Life of God Messenger)」と翻訳されている。
イブン ウマル(Ibn 'Umar): シャリーフ ハムド イブン ウマル(Shareef Hamud ibn 'Umar)はワディ ビシャー(Wadi Bishah)の戦いでイブン アミール(Ibn Amir)自身が殺されたのに乗じて、ヘジラ暦1230年(1814 - 1815)以降、南のズバイド(Zubayd)から北のアル サラト山脈(Jibal al-Sarat)までをティハマー(Tihamah)の王として統治した。
「イブン カッリカン伝記」(Biography of Ibn Qalaqis): 「イブン カッリカン(Ibn Khallikan)伝記」の中の「ワファヤ アヤンとアンバ アブナ ザマン(Wafayat al-ayan wa anba abna az-zaman) in the biography of Ibn Qalaqis」はヴェステンフェルド(F. Wüstenfeld )により編集され、1835 - 1842年にゲティンゲン(Göttingen)で出版された。又、M. ナリノ(M. Nallino)が編集し1939年にローマ(Rome)で出版した「サウジ家のアラビア(L'Arabia Saudina)」の中にも引用されている。
イブン コールダドビ(Ibn Khordadbih、820 - 912) : 一番初期のアラブ地理学者の一人であり、バクダードのアッバース朝カリフ アル-ムタミド(Al Mu’tamod, 870 - 892)の宮廷学者であった。コールダドビはペルシアの出身でその頃、カルフの住居の在ったサマッラ(Samarra)に来る前は或る時期メディナの郵便局長を務めていた。公務員であったのでコールダドビは多くの貴重な統計的、旅行の情報を入手する事が出来た。そしてコールダドビの著作「キタブ アル−マサリク ワ’ル-ママリク(道路と王国の本)(Kitab al-Masalik wa'l-Mamalik (Book of the Roads and Kingdoms))」はアッバース朝の王子の為に西暦846年に編纂され、イスラム帝国の偉大な交易路の興味ある概要を含んでいた。
イブン サウド王(Ibn Saud): アブドル-アジズ イブン アブドル ラーマン アル サウド(Abdul-Aziz Ibn Abdul Rahman Al Saud, 1876 - 1953)はサウディアラビア(Saudi Arabia)を建国した初代国王である。イブン サウド(Ibn Saud)は18世紀以来ワッハーブ派運動(Wahhabi Movement))を支持しネジド沙漠(Nejid)を、第一次サウド候国(First Saudi State, 1744 - 1818)および第二次サウド候国(Second Saudi State, 1824 - 1891)を樹立し、支配したサウド家に生まれた。1902年1月15日に先祖伝来のリヤド(Riyadh)をラシード族(the Rashidi)から奪回し、1913年にはその支配をアラビア湾のハサ(Al Hasa)まで広げ、1921年11月迄にはラシッド族(the Rashids)が支配するハイール(Hail)tとシャンマル山塊(the Jebel Shammar)を抑え、「ナジドと属領のスルタン(Sultan of Najd and its Dependencies)」を名乗った。1922年までにジャウフ(Jawf)と涸れ谷シールハン(Wadi Sirhan)および偉大なナフド沙漠(the Great Nafud)の西のハイバール(Khaibar)およびテイマ(Teima)を獲得し、ネジド沙漠(Nejid)の支配を確立した。イスラムのカリフ(Caliph al-Islam)を自称したフサイン(Husayn)と1924年9月上旬に山岳都市タイフ(Tayif)で戦闘を始めた。1924年10月13日にメッカ(Mecca)に入城、1925年12月23日にジェダ(Jeddah)に入城してヒジャーズ(Hejaz))を征服した。1926年1月8日には住民の支持を得て、「ヒジャーズの王(the title of King of the Hejaz)」に戴冠した。1932年9月にイブン サウド(Ibn Saud)は自分の統一した領土を「サウジアラビア王国(Kingdom of Saudi Arabia)」と名付け、自らがその初代の国王に成る事を宣言した。その治世の後半の1938年には石油が発見され、第二次大戦終了後には大規模な石油開発推進の恩恵を受けた。
イブン ジャファール ハサニ(Ibn Jafar Hasani): イブン ハウカルはその著書「キタブ スラト アル-アルド(Kitab Surat al-Ard)(陸地の地形)(Configuration of the Earth)」に「ジュッダは繁栄し、経済的に栄え、非常に裕福であり、ヒジャーズに属さず、メッカから独立しており、豊かな富を持ち、多くの商取引を行って居た。その頃、この町の交易はペルシア人に握られていた。しかしながらイブン ジャファール ハサニ(Ibn Jafar Hasani)がおよそ西暦965年にメッカを征服し、地方の支配者として新たな王朝を建国し、覇権をジュッダにも及ぼすとジュッダの有力な市民は逃散し、この町の状況は不安定に成ってしまった (Conqueror of Mecca, circa 965)」と記述している 。(シャリフ(Sharifs)参照。)
イブン ジュバイル(Ibn Jubayr): アブ ’ル-フサイン イブン ジュバイル(Abu 'l-Husayn Muhammad ibn Ahmad ibn Jubayr)は「巡礼の年代記」の著者で西暦1145年9月1日にバレンシアの名家に生まれた。この家はメッカ近郊の元々キナナー部族(Kinnah tribe)出身で4世紀前にスペインに移住していた。イブン ジュバイルは巡礼に行こうと決心した時はグラナダ(Granada)のムーア人(Moors)総督の秘書であった。熱心で誠実なモスレム(Moslem)であったイブン ジュバイル(ibn Jubayr)はこの町の内科医(Physician)を同伴し、グラナダ(Granada)を1183年2月3日に出発し、途中でアレキザンドリア(Alexandria)とカイロ(Cairo)に立ち寄り、ナイル川(The Nile)をクス(Qus)まで下った。その後、イブン ジュバイルはエジプト(Egypt)の東沙漠をアイダブ(Aydhab)まで横断し、7月18日に紅海(the Red Sea)渡航に船出した。船は翌日にアイダブ(Aydhab)を離れ、荒れ気味の四日間掛けて、反対岸のジッダ(Jiddah)に到着した。その報告者はR.J.C. ブロードハースト(R.J.T. Broadhurst)によって翻訳されている。
「イブン ジュバイルの旅行記」: イブン ジュバイル(Ibn Jubayr)著の「イブン ジュバイルの旅行記(Travels of Ibn Jubayr」はブロードハースト(R.JC. Broadhurst)が翻訳し、1952年ロンドンで出版されている。
イブン ズバイル('Abd Allah ibn al-Zubayr, 624 - 692): 第2次内乱中のマッカ(Makkah)でカリフ(Caliph)を名のり、ウマイヤ朝(Umayyad, 661 - 750)に対抗した人物である。父はムハンマド(Muhammad)の従兄弟でクライシュ族(Quraysh Tribe)のズバイル イブン アウワーム(Zubayr ibn al-'Awwam, ? - 656)で母は初代正統カリフ(632 - 634) アブー バクル(Abu Bakr al-Siddiq, c.573 - 634)の娘アスマー(Asma')である。少年時代からアラブ(Arab)の大征服に参加し、シリア(Syria)やエジプト(Egypt)を転戦したといわれる。父ズバイルが第1次内乱で第4代正統カリフ(656 - 661)アリー('Ali ibn Abi Talib, c. 600 - 661) に反旗をひるがえし、656年のラダクの戦い(Battle of Camel)で敗死するとムハンマド(Muhammad)の妻で叔母のアーイシャ('A'isha bint Abi Bakr al-Siddiq)とマディーナ(Madina)へ帰還し、隠遁生活に入った。680年にウマイヤ朝初代カリフ(661 - 680) ムアーウィア(Mu'awiya ibn Abi Sufyan, c.602 - 680)が死ぬと後継者ヤズイード(Yazid ibn Mu'awiya, c642 - 683)に対する忠誠の誓いを拒否して、マッカに亡命した。さらにフサイン(Sayyid al-Shuhada' Abu 'Abd Allah Husayn ibn 'Ali, 626 - 680)がカルバラー(Karbala')で虐殺されると、イブン ズバイルは自らカリフを名乗り、ウマイヤ朝に対して公然と反乱を起こした。その後、ウマイヤ朝の劣勢に乗じて支配範囲を拡大し、イラクを掌中にした。クーファ(Kufa)で発生したムフタールの乱(Haraka al-Mukhtar, 685 - 687)を鎮圧し、一次はウマイヤ朝版図の過半を支配したが、ウマイヤ朝第5代カリフ(5th Caliph, 685 - 705) アブドゥルマリク(Abu al-Walid Ahd al-Malik ibn Marwan, 646/7 - 705)が派遣したハッジャージュ(Abu Muhammad al-Hajja ibn Yusuf al-Thaqafi, 661? - 714)の軍勢にマッカを攻撃され、敗死した。(出典: 岩波イスラーム辞典
イブン タイミヤ(Ibn Taymiyah): ハンバリー派(Hanbali)の宗教改革者(1263 - 1328)で個人も政府も儀式および司法の実践に最も厳しい強制を強要し、モスリム(Muslim)の最初の世代あるいは当初のイスラム(Islam)の教え以降に導入されたどのような信条(Belief)あるいは聖伝(Tradition)も拒否した。
イブン ハウカル(Ibn Hauqal): イブン ハウカルは偉大なイスラム旅行者の一人である。西暦943年5月15日に故郷のバクダードを離れて、北アフリカ、スペイン、それからシギルメサ(Sigilmessa in Morocco)とガーナ(Ghana)へ行き、それからエジプト(Egypt)、南メソポタミア(Southern Mesopotamia)、西ペルシア(Western Persia)、トランソザニア(Transoxania)を越えて、最後にシシリー(Sicily)へ着いた(西暦972年から973年)。イブン ハウカルの著書「キタブ スラト アル-アルド(Kitab Surat al-Ard)(陸地の地形(Configuration of the Earth))」は西暦988年に完結した。イブン ハウカル(Ibn Hauql)はイスタハリ(Istakhri)と共に偉大な地理学者アブ ザイド アル-バルヒ(Abu Zayid al-Balkhi)の門下であり、イスタハリ(Auctore Abu Ishak al-Farisi al -Istakhri)が950年頃に編集し、最新情報化し、増補した版を作ったイスタハリ版「国々の描写」はイブン ハウカル(Ibn Hauqal)によってその著作「陸地の地形」に取り込まれた。
イブン バットゥータ(Ibn Battuta): イブン バットゥータは1304年にタンジール(Tangier)で生まれ、21才で国を離れ、その後の28年間、ムハンマド イブン アブドッラ ラワティ(Muhammad ibn Abdallah al-Lawati)(1304-68/69)の別名で25年以上にわたってアフリカ、アジア、ヨーロッパ等のその時代に知られていた殆どの国々を訪れた旅行家で「アフリカ・アジア旅行記リハラ(Rihhlah)」を著した。
「イブン バットゥータ放浪の物語(Narrative of Ibn Battuta’s Wanderings)」: ムハンマド イブン ジュザイ(Muhammad ibn Juzay)によって記録され、ジュザイはバットゥータの記念碑的な業績を「このシャイク(Shaykh)は我々の時代の旅行者であり、イスラム域全ての旅行者と呼んでも真実を逸脱してはいない」との言葉で結んでいる。
「イブン バットゥータの旅行記(Travels of Ibn Battuta 1325-1354)」: ハクルート協会(Hakluyt Society) H.A.R. ギブ(H.AR. Gibb)が翻訳・編集し、1958年からケンブリッジ(Cambridge)で出版されたが、1973年までに4巻内の最初の3巻発行されたのみである (Tr. and ed. by U.A.R. Gibb (Hakluyt Society). Cambridge 1958-19. Four volume edition. Up to 1973 only the first three volumes have been issued)。
イブン ムジャウィール(Ibn al-Mujawir): イブン ムジャウィールは西暦1204年にダマスカスで生まれた。イブン ムジャウィールは印度に続いてアデン (Aden) 、ザービド(Zabid or Zebid) 、メッカそしてジッダを旅行した。イブン ムジャウィールは西暦1291年に没したが「タリハ ムスターシール(Tarikh al-Mustahsir)」副題「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」と云う著書を残した。
イブン ムハッマド(Ibn Muhammad): アブ ミスマル(Abu Mismar)の名で知られるハムド イブン ムハッマド(Hamud ibn Muhammad)は19世紀初めにティハマー(Tihamah)におけるディライヤー(Dir'iyah)の権威とアル サウド(Al-Sa'ud)への臣従から独立して対抗した。結果的にはアシール首長は彼を再度服従させる様に命じられた。
イマム ガザーリー(Imam al-Ghazali, 1058 - 1111): イスラムの思想家・神学者(リーダーズ英和辞典)
イマーム ハッサン(Imam al Hasan): ハッサン(al Hasan)は預言者ムハンマド(Muhammad, ca. 570 – 632)の孫で第4代正統カリフ(4th Rashidum Caliph)で初代シーア派イマーム(First Shi’ah Imam)アリー イブン アビー ターリブ(‘Ali ibn Abi Talib, 656 - 661)と預言者ムハンマドの娘ファーティマ(Fatima Al Zahraa, 606 or 614 – 632)の間に生まれ、スンナ派(Sunni Islam)第5代カリフ(Fifth Caliph)でシーア派(Shi’ah Islam)第2代イマーム(Second Imam)となったハサン イブン アリー イブン アビー ターリブ(Hasan ibn ‘Ali ibn Abi Talib, 624 - 669)である。
イマーム ラッシド(Imam Rassids): イエメン(Yemen)での初代ザイド派イマーム(First Zaidi Imam)でハッサン(al Hasan)の子孫ハディ ヤハヤ ビン フッサイン ビン カシム ラッシー(al-Hadi Yahya bin al-Hussain bin al-Qasim ar-Rassi)。(イマーム ハッサン(Imam al Hasan)を参照。)
イマーム ヤハヤ(Imam Yahya): イマーム ヤハヤ(Yahya Muhammad Hamidaddin, 1869 - 1948)は1904年にザイド イマーム政権(Zaidi Imamate)のイマーム(Imam)となり、1911年に山岳地帯の北イエメンでのイマーム ヤハヤの支配はオスマントルコ(Ottoman Turks)に認められ、その従属国となった。1918年に第一次世界大戦の終戦でオスマントルコが北イエメンの支配を喪失するとイマーム ヤハヤは1926年イタリアとのサン’ア条約(Treaty of San’a)のよって独立国となり、イマーム ヤハヤは北イエメンのイエメン・ムタワキエ王国(Mutawakkilite Kingdom of Yemen、Qasimid Dynasty, 1918 - 1962)の初代国王となった。1934年のサウド家(House of Saud)との戦いでは完敗したが、イブン サウド王(King Ibn Saud)は領土問題に触れることなく平和条約を提案した。1946年にイマーム ヤハヤに反対する勢力が組織され、イマーム ヤハヤは1948年に射殺された。イエメン・ムタワキエ王はその息子イマーム アハマド(Imam Ahmad)が継承したが、3代後のムハンマド11世(Muhammad XI)が1962年の革命で追放され、北イエメンのイマーム支配は終焉した。
イムル’ アル ガイス(Imru' al-Qais): 5世紀のアラブ部族の王であり、元々は今日のイラク領内のアル ヒラ(Al Hirah or Al Hira)の自領に住んでいたがデュマト アル ジャンダル(Dumat al-Jandal)に移住して来た。今日のジョルダン(Jordan)を凌駕し、ビザンチン帝国(Byzantine Empire)から’アガバ('Aqaba)湾の入り口にあるチラン(Tiran)島を占拠する程に同王の勢力は拡大した。ここで云うイムル’ アル ガイス(Imru' al-Qais)はラフム朝(Lakhmids)第2代国王(Imru' al-Qais I ibn 'Amr, 288 - 328)ではなく、第6代国王Nu'man I ibn Imru' al-Qais "the one-eyed"(403-431)又は第7代国王 al-Mundhir I ibn Nu'man ibn Imru' al-Qais(431-473)の何れではないかと私は思っているが、彼らがデュマト アル ジャンダルに移住した事を裏付ける文献は未だに探し出せないでいる。
イムル’ アル ガイス(Imru' al-Qais)(著名な古代アラビアの詩人): イムル ガイスはアメル ‘アル ガイス(Ameru’ al Qays)、イムル’ウ アル グアイス(Imru’u al Quais)又はイブン フジル アル キンディ(Ibn Hujir Al Kindi)とも転写されている。6世紀のアラビアの詩人であり、イスラム以前のアラビア韻文選集ムアラガト(Muallaqat)の著者でもある。イムル ガイスは最後のキンダ国王(Last King of Kindah)であったフジル(Hujr)の息子であり、501年前後に生まれ、544年前後に死亡した。母親のファトマ ビント ラビ‘ア(Fatmah bint Rabi'ah)は2人はよく知られているアラビア部族指導者クリブ(Kulib)とムハルフル(Al – Muhalhl)の妹であった。イムル ガイスは国王の息子だったのでぜいたくしていたが、父親の暗殺の後は王権を奪われ、彼は苦渋した。この為にイムル ガイスは喪失した国王(al Malek al Delleel)と呼ばれている。イムル ガイスは、父親の死を知らされた時には、「今夜は飲み明かし、明日は何が起きたか対処しよう(Alyooma Khamr, Ghadan Am)」と言った程ワイン(飲酒)を愛していた。「Alyooma Khamr, Ghadan Amr」と云う意味は「父の仇を討つ」との意味と思われるが、まわりの者達は到底、納得できなかった。イムル ガイスは、熱烈な愛の詩を書き、古代アラビアの詩の形式(Qasida or Classical Arabic Ode)を作り出したと考えられている。イムル ガイスの詩は多くのイスラム前の時代の詩と同じ様に強烈に主観的だった。イムル ガイスはユスティニアヌス朝(Justinian Dynasty)東ローマ帝国の皇女と不倫関係を持った為に同皇帝ユスティニアヌス1世(Justinian I, 485 - 565)から毒を仕掛けた外套を送られ、暗殺されたと考えられている。
イラサルス(Ilasarus): 現在のイエメン(Yemen)のサン’ア(San'a、サナ)の東にあった古代の国イラサルス(Ilasarus) 。(ガルス(Aelius Gallus)を参照。)
イーラム(Hiram or Ihram): イスラム教徒のメッカ巡礼(pilgrimage)を行う為に着るイーラム(the Hiram or Ihram)は一般的に白いインド製の綿糸で織った薄地の平織(cambric)の2つ長い布で構成され、1つは腰のまわりにもう1つは左の形に掛ける。
イラワディ川(Irrawaddy River): ヒマラヤ山脈(Himalayan Range)の南端を源泉としてミヤンマーを南流し、ベンガル(Bengal)湾に注ぎ、下流はデルタ地帯を成す。現在はエーヤワディー川(Ayeyarwady River)と呼称されている。
印(Shehed): 頭部の印(シェヘド(shehed)(witness))とは頭の位置を印したトルコ式の墓石である。
インジゴ(Indigo): マメ科コマツナギ属(Indigofera)の多年草の総称でその葉からインジゴを採るものを藍(Indigo)と云う。採取した染料は暗青色で今日ではアニリンを原料として合成される。
インダス川(The Indus River): チベットから西に流れ、パキスタンのパンジャブ地方(Punjab Region)・タール沙漠(Thar Desert)西辺を経て、アラビア海に注ぐ。全長2,900kmで流域には紀元前2300年から紀元前1800年の間にインダス文明(Indus Valley Civilization ,Mature Period 2600 BC - 1900 BC),が栄えた。
インダス谷(Valley of the Indus or Indus Valley): チベットから西に流れ、パキスタンを通ってアラビア海に注ぐインダス川(The Indus River)の渓谷。
「インドでの冒険事業(Enterprises of India)」: ギャスパー コリア(Gaspar Correa)著の原作はポルトガル語(Lendas da India)で、その題名の翻訳には「インドでの冒険事業(Enterprises of India)」と「インドの説話集(Legends of India)」と二通りに訳せるが、私は内容から冒険事業と解釈している。
「インドのコーチンに至る紅海およびペルシア湾の航海術について(Navigation in the Rea Sea and the Persian Gulf up to Cochin City of India)」: フロレンス(Florence)のアンドレア コルサリ(Andrea Corsali)から最も高名な皇族でシニョール(Signor)首長でもあるロレンゾ デ メディチ公(the Most Illustrious Prince and Lord the Signor Duke Lorrenzo de' Meddici)宛に1517年9月18日に書かれた手紙でラムシオ(G.B. Ramusio)著の「主要な航海の収録(Delle navizazioni et Viaggi Venezia)」に収録されている。
「インドのポルトガル人(Portuguese in Indea)」: ダンヴァーズ(Danvers, F.C.)著、ロンドン(Lodon)で1894年に出版された。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「同書には1510年代にアルボケルケがマニュエル国王宛てに出した手紙の一つが掲載されているが、ダンヴァーズ(Danvers)が残した日付は一般的年代記やその後のアルボケルケ(Alboquerque)の行動の続きと一致しない。ダンヴァーズはその出典を決して引用しないし、幾つかの例で明確な間違いが見られるので、ダンヴァーズの日付は正しくないと想像できる」と述べている。
ヴァキア(Vakia): (衡量単位)1/15ラットル(Rattle)で換算すると1.18oz.で34gである。(東洋交易(Oriental Commerce)ウィルアム ミルバーン(William Milburn)著1823年出版)
重量単位の換算
衡量単位 |
衡量単位 |
pound/oz. |
kg |
1ヴァキア(Vakia) |
1/15ラットル(Rattle) |
1.18oz. |
34g |
1ラットル(Rattle) |
1/2マウンド(Maund) |
1.11lbs |
0.51 |
1マウンド(Maund) |
1/10ファジル(Frazil) |
2.22lbs |
1.02kg |
1ファジル(Frazil) |
1/10バハール(Bahar) |
2.2.2lbs. |
10.1kg |
1バハール(Bahar) |
nearly |
222lbs. 6oz. |
101kg(約) |
1ポンド(pound) |
(ounces or oz.) |
16オンス |
454g(約) |
ヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama): ポルトガルの航海者・探検家(1460 - 1524)であり、喜望峰回りのインド航路を開拓した。ポルトガルの海上交易の覇権はこれによってその基礎が確立された。
「ヴァスコ ダ ガマのアラビア人水先案内人と15世紀アラビアの航海手引き書(Le pilote arabe de Vasco de Gama et les instructions nautique des Arabes au XV)」: この手引書はフェラーンド(G. Ferrand)によって著作され、1922年に出版された地理年代記172号(Annales de Géographie)に掲載された。
ヴァスコ ダ ガマの航海出発日: コリア(G. Correa) が「the Lendas da India of Gaspar Correa」(「ヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)の三回の航海と副王(The three Voyages of Vasco da Gama and his Viceroyalty)」)で記述している日付とこの遠征に参加した無名の士官によって記録され、雑誌ロテイロ(the Roteiro)に掲載されている日付(1497年3月25日)には著しい矛盾があるが、後者の日付はハクリート協会(Hakluyt Society)のレーヴンステイン(E. G. Ravenstein)が翻訳・編集し、1898年にLondonで出版した「ヴァスコ ダ ガマ の第一航海の日誌(A Journal of the First Voyage of Vasco da Gama)」に出てくるので、アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)はそれ(1497年3月25日)に習っている。
「ヴァスコ ダ ガマ の第一航海の日誌」(Journal of the First Voyage of Vasco da Gama)」: ヴァスコ ダ ガマ の第一航海に参加した無名の士官によって記録され、雑誌ロテイロ(the Roteiro)に掲載され記事をハクリート協会(Hakluyt Society)のレーヴンステイン(E. G. Ravenstein)が翻訳・編集し、1898年にLondonで出版 した。
「ヴァスコ ダ ガマの三回の航海と副王」(Three Voyages of Vasco da Gama and his Viceroyalty) : 1858年から1864年の間にリスボン科学学会に出版され、ヴァスコ ダ ガマのインド航路横断についてギャスパー コリア(Gaspar Correa)が記述した「インドでの冒険事業(Enterprises of India)或いはインドの説話集(Legends of India)」をハクリート協会(Hakluyt Society)に属していたスタンリー(Henry.E.J. Stanley)がポルトガル語を翻訳し、註釈と緒言を付けて「ヴァスコ ダ ガマの三回の航海と副王」と題して、ロンドン(London)で1896年に出版した。(副王は総督とも転写される。)
「ヴァレンシア卿(Lord Valentia)による1809年の出版」: 「1802年から1806年のインド、セイロン、紅海、アブシニア及びエジプトへの航海・旅行記」マウント ノリス伯爵ジョージ アンスレイの嗣子ヴァレンシア(George Annesley, Earl of Mount Norris, Viscount Valentia)著、1809年ロンドンで出版(Voyages and Travels to India, Ceylon, the Red Sea, Abysinia and Egypt in the Years 1802, 1803, 1804, 1805 and 1806, by George, Viscount Valentia, London 1809.)。
ヴィクトリア湖(Lake Victoria): アフリカ東部、タンザニア(Tanzania)、ケニア(Kenya)、ウガンダ(Uganda)にまたがる淡水湖でナイル川の水源。標高1,134m、面積は世界第三位6.9万km2、最大震度82m。
ヴィシエール(Visier): ジッダ(Jidda)に駐在するメッカ(Mecca)のシェリフ(the Sheriffe)を代表するシェリフの官吏。
ヴィチェンツァ(Vicenza): イタリア東北部ベネト(Veneto)州の町ベネチア(ベニス)(Venice)の西にある市で人口11万人。
ウィディアン堆積盆端部(Widyan Basin Margin): アラビア巨大堆積盆の一部で白亜紀(Cretaceous)後期のアルマ(Aruma)石灰岩層で覆われている。この堆積盆端部には流れの方向が東へ向いた多くの涸れ谷(Wadi)がある。その堆積層は初期および中期白亜紀(Cretaceous)の砂岩、石灰岩等で構成されている。
「ウィーン王立図書館所蔵のアラビア、ペルシャおよびトルコの古文書」: FLÜGEL, G. "Die Arabischen, Persischen und Turkischen Handschriften der K.K. Hofbibliothek zu Wien" Wien 1856、G. フリューゲル著、1856年ウィーンで出版。
ヴィンセント ソドレ(Vincent Sodré): 1503年2月12日の「カリカット(Calicut)艦隊との海戦」でヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)指揮するポルトガル艦隊の中から3艘の船と5艘のカラベル船(caravel)で編成され、岸沿いに航行したグループ(小艦隊)の指揮者。
「ヴェテリス イーヴィ アナレクタ(Veteris Aevi Analecta)」: アントニウス マッテウス(Antonius Mattaeus)著、ハーグ(Hague)で1738年に出版された。「(Veteris Aevi Analecta)」の中でアントニウス マッテウス(Antonius Mattaeus)は「紅海の旅行記(the Red Sea itineraries)」に言及している。
ヴェニス(Venice): ヴェネツィア(Comune di Venezia)は、イタリアの北東部に位置する基礎自治体コムーネ(commune)基礎自治体で、ヴェネト州(Veneto)の州都であり、中世にはヴェネツィア共和国の首都として盛えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」「アドリア海の真珠」など、数々の名声を我が物にしてきた。(ウィキペディア)
ウェルステド. J.R. (J.R. Wellsted): 英国人旅行家でロンドンで 西暦1838年に出版された「アラビアの旅行(Travel in Arabia)」の著者。
ヴォルヴィス湾(Walvis Bay): ナミビア中西部、大西洋岸にある南アフリカ共和国の飛領土で古来からの良港である。
ウカイディールの王国 (Kingdom of Ukaidir): ウカイディール(Ukaidir)は現在の南イラク(Southern Iraq)のヒラ(Al Hirah)地方のデュマ(Duma)と呼ばれる町に兄弟と住んでいた。ウカイディールと兄弟達は沙漠にカルブ(Kalb)族の叔父を訪ねるのが常だった。その旅行に使ったコースの一つで石造りの僅かな壁だけが残る荒廃し見捨てられた町に行き着いた。アラブは石をジャンダルと呼ぶ。伝説によれば兄弟達はそこに町を築き、オリーブを植え、自分達のヒラでの町の名であるデュマとたくさんの石に因んでデュマト ジャンダル(Dumat al-Jandal)と名付け定住した。イスラムの台頭期にはデュマト ジャンダルはキンダ(Kinda)部族出身のウカイディール ビン ’アブド マリク(al-Ukaidir bin 'Abd al-Malik)の支配の下にあった。ウカイディールはカルブ族を支配する為にヒムヤル族(Himyarites)によって置かれたキンダ族出身の王であった。カルブ族はカハタニ(Qahtani)部族のグダ’ア(Quda'a)支族の分家であり、当時はキリスト教を信仰していた。カルブ族はデュマト ジャンダルとその周辺のみならず遠く北西アラビアのタブク(Tabuk)にもその覇権を広げていた。ウカイディールは当時の大勢力であったビザンチン(Byzantine Empire)やササン朝ペルシア(Sasanian Iran)と連携を保っていた。回教徒(Muslin)の指揮官カリド ビン ワリド(Khalid bin al-Walid)が西暦633年にデュマト ジャンダルを攻撃していた時にウカイディールはビザンチン帝国の一勢力としてビザンチン帝国との国境地帯における部族が盟主としたガッサン朝(Ghassanids)と同盟し、その王イブン アイハム(Ibn al-Aiham)やその首長ジュディイイ ビン ラビ’ア(Judiyy bin Rabi'a)と密接な協力関係を持っていた。ウカイディールはビザンチン帝ヘラクリウス(Heraclius)を主君として受け入れていたので予言者ムハッマド(Muhammad)のデュマト ジャンダルへの最初の遠征はローマ帝国への攻撃を意味していた。ウカイディールはヒジラ暦(Hijra)12年/西暦633年の回教徒指揮者カーリド ビン ワリード(Khalid bin Walid)に征服された。
ウガンダ(Uganda): アフリカ東部赤道上にある内陸国でヴィクトリア湖(Lake Victoria)に接し、英連邦に属し、1962年に独立、面積24万km2、人口2,130万人で首都はカンパラ(Kampala)。
ウクーフ(wuquf): 巡礼でアラファの平原('Arafa)に逗留すること。「巡礼はアラファ('Arafa)なり」とのハディース(Hadith)があるようにウクーフ無しでは巡礼は成立しない。巡礼者は巡礼行程で巡礼月の9日の日の出から巡礼地ミナーの谷(Mina)より移動してアラファの平原('Arafa)に向かい、日没までアラファの平原に逗留する事が義務となる。ウクーフ(wuquf)の間、巡礼者は過去の罪を悔い改め、アッラー(Allah)に赦しを求め、アッラーの名を唱念し、祈願する。ズフル礼拝(salat al-zuhr)とアスル(salat al-'asr)礼拝(一日5回の礼拝の中の2回目と3回目)を短縮形で合同で行う。日没を過ぎると一斉にアラファ('Arafa)からムズダリファの谷(Muzdalifa)へ向かう。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ウコン(Turmeric): 鬱金はショウガ科の多年草で、アジア熱帯原産であり、沖縄でも栽培されている。根茎は肥大化して黄色で、葉は葉柄と共に長さ1mに及ぶ。夏・秋に花穂を生じ、卵形白色の苞を多く付け、各苞に3、4個ずつの淡黄色唇形花を開く、根茎を止血薬、健胃薬、香料やカレー粉、沢庵漬けの黄色染料とする。
失われたアラブ(Lost Arabs):「 消えた部族」ともいわれる「失われたアラブ(アルー’アラブ アルーバ’イダ(al-'Arab al-ba'ida))」に関する情報は伝説の形でしか分かって居ないがその中で幾つかはサウディ アラビアのイスラム以前の考古学的遺跡に残っている。この様な部族にはサムード(Thamud)、’アド('Ad)、’アマリグ('Amaliq)、イラム(Iram)、ハドラ(Hadura)、ジュールフム(Jurhum)とタスム(Tasm)とジャディス(Jadis)が含まれている。タスム(Tasm)とジャディス(Jadis)は当時はワディ アルー’イルド(Wadi al-'Ird)と呼ばれていたワディ ハニファー(Wadi Hanifah)を含むアルーヤママー(al-Yamamah)に住んで居たがイスラム到来の二世紀前にこの地にバヌ ハニファー(Banu Hanifah) 一門がやって来る前に死に絶えたと言われている。
ウステンフェルドF.(F. Wüstenfeld ): 「ヤクトの地理学辞書」を編集し、1866 - 1870年にライプチヒ(Leipzig)で出版 (Jacut's Geographisches Wörtebuch ed. by F. Wüstenfeld. Leipzig 1866 - 1870)。
ウスマン イブン アブ アル アアス(Uthman ibn Abu-al-Aas): タイフ(Taif)がイスラム(Islam)に敵対し始めた時のサキフ族(Banu Thaqif Tribe)の族長(Thaqif’I Chieftain)の一人であるが、631/632年にイスラムへの改宗を受けたタイフ市代表団の団長でもあった。(出典: Wikipedia)
ウスマン ビン アッファン(Caliph Uthman Ibn Affan): ウスマーン・イブン アッファーン(Caliph Uthman Ibn Affan)(574-656)は第3代正統カリフ(在位644-656)でイスラーム教(Islam)の聖典であるクルアーン(Qur’an)(コーラン(Koran))を完成させたり、651年にはサーサーン朝ペルシア(Sassanid Dynasty of Persia, 226 - 651)を滅ぼしてイスラーム帝国(Islamic Empire)の領土を拡大させるなど、大きな功績を残した。アラビア半島西部の都市マッカ(Makkah)(メッカ(Mecca))に住むクライシュ族(Quraysh Tribe)の支族であるウマイア家(Umayyad or Banu Umayya)の出身。もともと裕福な商人であったが、早くからイスラームに改宗し、のちにムハンマド(Muhammad)らと鋭く対立することとなったウマイヤ家では最初にムスリム(Muslim)となった人物とされる。預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の娘ルカイア(Ruqayya)と結婚し、マディーナ(Medina)に移住(ヒジュラ)して後に妻を亡くし、改めてムハンマドのもう一人の娘であるウンム・クルスーム(Umm Kulthum bint Muhammad)と結婚した。
「ウスルジーアダス(Os LusÍadas, Lusiadus or the Lusiads」: ポルトガルの詩人ルイズ ヴァズ カモンイス(Luis Vaz De Camōes) (Camoënes)(1524-1580)が1572年にインド航路の発見やヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)の第一回遠征を中心にポルトガル人航海者の冒険を物語った愛国的な大叙事詩。
宇宙構造論学者(Cosmographer): 自然現象に対する宇宙構造論による解釈(法)。
美しい肌の奴隷(Fair-skinned Slaves): 東ヨーロッパから連れて来られた奴隷。
ウバイドッラー マフディ(Ubayd Allah al-Mahdi Billah): ムハンマド(Prophet Muhammad)の娘で4代目カリフ アリー(4th Rightly Guided Caliph Ali)の妻ファーティマ(Fātima)の子孫であり、北アフリカに興り、909年にチュニス(Tunis)でシーア派(Shia or Shi’ite))のイスラム王朝を設立した。969年にエジプト(Egypt)を征服し、カイロ(Cairo)を建設し、都とし、ファーティマ朝(Fatimid)(909-1171)と称した。ファーティマ朝はアッバース朝(Abbasid Caliphate)に対抗し、東部地中海貿易を独占した。
ウバール(Ubar):「ウバーとも転写されるウバール(Ubar)は『千本柱の都市(City of a Thousand Pillars、Iram of the Pillars or Wabar)』である。この都市はアラビア半島南部の空白地帯沙漠(Rub al Khali Desert or Empty Quarter)にあって紀元前3000年から1世紀頃まで交易の中心として繁栄したが、歴史の中に忽然として消えた『伝説の失われた都市』である」と云われている。クルアーン(Qur’an)では「ウバールはノア(Noah)のひ孫のアド (Ad)(アード(A’ad))の一族が作った町で石の偶像神を崇拝する邪悪な人々が住んでいた。預言者フド(Hud)が『この町は頽廃し、繁栄を維持できなくなった』と警告するとアド (Ad)の息子で王であったシャッダド(Shaddad)はこれを無視し、反抗した。この為、神はこの町を滅ぼし、砂の中に埋めてしまわれた」と書かれていると云う。シャッダド(Shaddad)についての出来事はアラビアンナイト(Book of One Thousand and One Nights)の中でも語られている。この「伝説の失われた都市」を探す為に1980年代からナサの衛星写真(NASA Remote Sensing Images)等を使って乳香の道(Frankincense Route)を解析し、オマン(Oman)のドファール地方(Dhofar)にこの「伝説の失われた都市」の所在の可能性を見出した。1992年にラヌルフ ファインズ(Ranulph Fiennes)、ジュリス ザーリンス(Juris Zarins)等からなるアメリカ調査団がシスル(Ash Shisar or Ash Shisr)と云う泉の傍の16世紀にシス‘ル砦(Shis’r)のあった場所でその水源と成った鍾乳洞を発掘し、300年から500年の間に大きな鍾乳洞陥没で地下に埋没した建造物を発見した。この鍾乳洞は更に発掘中であるが、ほぼ、ウバール(Ubar)と特定されている。
ウフドの戦い(Ma'raka Uhud or Battle of Uhud): 625年3月(626年説もある)、マディーナ(Madina)北方5kmで行われたメッカ(Mecca)のクライシュ族(Quraysh Tribe)とムハンマド軍(Muhammad Army)の戦い。初期資料ではウフドの日(Yawm Uhud)と呼ばれている。バドルの戦い(Yawm Badr or Battle of Badr)*でムハンマドに敗北したクライシュ族(Quraysh Tribe)は復讐戦を挑むべくムーアウィヤ(Mu'awiya)の父アブー スフヤーン(Abu Sufyan)の指揮のもとで反撃軍を組織した。クライシュ族はまたシリア(Syria)への隊商路の安全を確保するためにも、隊商路を脅かすムハンマドの勢力を排除する必要性にかられていた。穀物の実る春になってクライシュ族のマッカ軍(メッカ軍)3,000名はマディーナ(メディナ)郊外のウフド山(Uhud)近くに進撃、駱駝と馬を穀物畑に放して荒らし、ムハンマドらマディーナ側を挑発した。ハズラジュ族(Banu al-Khazraj)のアブドゥッラー イブン ウバイイ(Abd-Allah ibn Ubayy, died 631)をはじめとするマディーナの有力者達は砦に籠もる防御戦を主張したが、穀物の被害を不面目と感じる若者達に押されてムハンマドは出陣を決定、マッカ軍の北に回り込みウフド山南斜面の高地を占め、戦場を有利に設定した。戦いは当初、ムハンマド軍の優勢に展開したが、左翼を守っていた弓兵がマッカ軍の野営地を略奪する友軍に加わろうと持ち場を放棄したため戦局は一変、マッカ軍右翼騎馬集団を率いていたハーリド イブン ワリード(Khalid ibn al-Walid)が側面と後部からその綻びを突破し、ムハンマド軍を潰走させた。さらにムハンマド自身が死亡したとの噂が流れ動揺に拍車をかけたが、辛うじてウフド山の高所で軍を再編成した。しかしながらクライシュ族を率いるアブー スフヤーン(Abu Sufyan)はこの好機を生かし切れず、その日の終わりのマッカに向け退却し、目的を達する事はできなかった。多くの死者を出したムハンマド側はこれを神による試練と評価しつつ、開戦直前に戦場を離脱したアブドゥッラー イブン ウバイイ(Abd-Allah ibn Ubayy)らを偽信徒(ムナーフィクーン(Munafiqun))として強く非難した。この結果、アブドゥッラー イブン ウバイイらやユダヤ教徒とムハンマドの対立が深まることとなった。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ウマイヤ朝(Umayyad Dynasty): 第4代正統カリフ(The Rightly Guided Caliphs or The Righteous Caliphs)であるアリー(Ali ibn Abi Talib, 656 - 661)との抗争において最終的に政権を獲得したシリア総督(Governor of Syria)ムアーウィヤ(Muawiyah I ibn Abi Sufyan, 602-680)が、西暦661年に自らカリフ(Caliph)となることにより成立し、その死後、カリフ位がウマイヤ家の一族によって世襲された。この最初のイスラム王朝(西暦661年から750年)はダマスカス(Damascus)を首都とし、ヨーロッパからインドへと広がる広大な帝国を支配した。この王朝はムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世 (Marwan II ibn Muhammad, ruled from Harran in the Jazira, 744 - 750 AD)までの14代存続し、西暦750年にアッバース朝に滅ぼされた。この時代をウマイヤ朝時代(Umayyad Period, 661 - 750)と呼ぶ。
ウマイヤ ビン アビ サルト(Umayyah bin Abi al-Salt): サキフ族のもっとも偉大な詩人で、ターイフ出身者でウマイヤを超える詩人は居なかった。ウマイヤの生まれた日も没した日も正確には判って居ないが、ウマイヤがその部族がイスラムに改宗した日、即ちマディーナから使徒(Apostle)が移住してから9年目、西暦631年までは生きていなかった様であり、ウマイヤはムスリムに成らないまま没したのは明らかである。ウマイヤは預言者に率いられたムスリム達に対抗したバドルの戦い(Battle of Badr)での戦死に対して賛辞を書いている点ではムハンマドへ初め敵対したクライシュ族(Quarish)の支援者であった。それでもウマイヤの詩には一神教霊感の哲学的で宗教的な観念持ち込まれている。時としてそれはクルアーンの概念に非常に近く、そしてウマイヤは自分の市の偶像神崇拝を拒否していた。ウマイヤの博学は遠くまで及び、そしてウマイヤは自分の論旨の幾つかを明らかに引き出していた「神のもっとも古い本即ち聖書(Bible)」を読んだ誉れを楽しんでいた。神は実にたびたびウマイヤの詩に記述され、そしてウマイヤの物事に対する驚きの表現としてあわれみや認識が作り出された。多分、ウマイヤの偉大さの最上の確認は、「歌の本(Kitab al-Aghani or Book of Songs)」第III巻190頁を信じるとすれば、預言者自身が時々ウマイヤの詩が自分に言及しているかを尋ねた事である。
ウマル・イブン カッターブ(Caliph Umar ibn al-Khattab): ウマル・イブン カッターブ(‘Umar ibn al-Khattab) (June 592 - November 644)は第2代正統カリフ(634 - 644)で、預言者の親戚で第一代カリフ(Caliph)のアブ バクル(Abu Bakr)の没後に第二代カリフ(西暦634年から644年)に就任し、正統四カリフ(Khulafa ar Rashidim or Rightfully guided caliphs)の第2代目とスンニー派信徒(Sunni Islam)から見なされている。スンニー派教徒には「真実と虚偽を判断する人」を意味するオマル ファルーク(Omar al Faruq)と呼ばれ、英語にはOmar 或いはUmarと転写されている。クライシュ族(Quraysh or Quraish)のバヌ アディ(Banu Adi)支族に属するアディー家(Banu Adi)の出身で、若い頃は武勇に優れた勇士として知られていた。610年頃、ウマルはクライシュ族の伝統的信仰を守る立場からモハンマド(Muhammad, 570 - June 8, 632))の布教活動を迫害する側に回り、モハンマドを殺そうとしたが、クルアーン(コーラン)(Qur’an, Quran, Koran or Alcoran)の章句に心を動かされて改悛し、イスラームに帰依した。632年にムハンマドが死去すると、アブー バクルを後継指導者に推戴し、ハリーファ(カリフ)(Caliph)の地位を帯びてイスラーム共同体を指導する慣行のきっかけをつくった。アブー バクルが2年後に死去するとその後継者に指名され、第2代目のカリフとなり、ヒジュラ紀元を定め、クルアーンとムハンマドの言行に基づいた法解釈を整備して、後の時代にイスラーム法(シャリーア)(Sharia)にまとめられる法制度を準備した 。又、アラビア半島のアラブの統一を背景に、シリア、イラク、エジプトなど多方面に遠征軍を送り出して「ムスリムの征服(Muslim Conquests)」を指導し、アラブ人主体の「アラブ帝国、サラセン帝国又はイスラム帝国)(Caliphate)」初期の国家体制を確立した。
ウム クワイン(Umm Al Quwain): アラブ首長国連邦の7首長国の一つ、オマーン岬の西側でペルシア湾に臨み、殆ど沙漠で人口1.2万人。
ウムラ(Umra or 'Umra): マッカ(Makkah or Mecca)巡礼の一種でハッジ(hajj)と区別されて小巡礼(hajj al-'umrah)と呼ばれている。但し、イスラーム五行(Five Pillars of Islam)の1つとは見なされていない。イフラーム(ihram)*着用などの義務はハッジと同様である。ハッジ期間以外ならいつでも実行が許される。課せられる儀礼もタワーフ(Tawaf)*とサアイ(sa'y)*のみである。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ウヤイナー(Al-Uyaynah): ウヤイナ(Al ‘Uyayna)はサウジアラビア(Saudi Arabia)中央の村で、リヤド(Riyadh)の北西30kmにある。ウヤイナはその信奉者がワッハーブ派(Wahhabis or Wahhabism)(イスラム原理主義者)と呼ばれるムハンマド イブン アブド ワッハブ(Muhammad ibn Abd al-Wahhab)の生まれ故郷である。今では隣村のジュバイラ(al-Jubayla)と合わせても人口4,000人の小さな村である。この村はディライーヤ (Dir'iyyah)やリヤド(Riyadh)方面に向かって南へと流れる涸れ谷ハニファ(Wadi Hanifa)の狭い干上がった河床にある。ウヤイナは632年のムハンマドの死後、その後継者を名乗ったムサイリマ(Musaylimah)の故郷であり、ムサイリマはハニファ族(Banu Hanifa)を率いて「ムスリムの征服(Muslim conquests, 632 - 732)」に対抗した。632年12月のムスリム軍の武将(Muslim General)ハールド イブン ワーリド(Khalid iban al Walid, 592 - 642)とのヤママの戦い(Battle of Yamama)はウヤイナのこの村の近くで起き、この戦いで戦死したムスリム戦死(Muslin Warriors)の墓がこの村の近傍にある。泉の愛称であるウヤイナ(Al ‘Uyayna)と云う名はこの時代のこの地域の住人には使われておらず、ヤクート(Yaqut al Hamawi, 1179 - 1229)の様なイスラム早期のアラビアの地理学者はこの村を‘アクラバ(‘Aqraba)、ブダ(Budha)およびハッダル(al Haddar)の村々と記述し、後には「ムサイリマ(Musaylimah)の故郷の村」と記述していた。しかしながら、地理学者等はこの地域の泉をウヤイン(al Uyayn)と記述し、そこからウヤイナ(Al ‘Uyayna)と名づけられたと思われる。15世紀にはバヌ タミン族(Banu Tamin)のム’アンマル一門(Al Mu’ammar)がバヌ ハニファ族(Banu Hanifa)の残党のヤジド一門(Al Yazid)からウヤイナ(Al ‘Uyayna)を買い取った。後にこの村は繁栄し、近傍から多くの定住者を引き付け、18世紀までにはネジド地方(Region of Nejd)の中心地となった。イスラム学者で宗教改革者のムハンマド イブン アブド ワッハブ(Muhammad ibn Abd al-Wahhab)がこの時代にこの村で生まれた。広範囲な旅行をした後にムハンマドは1740年にウヤイナに戻り、この地方の偶像崇拝の影響での堕落したイスラム礼拝方式の純粋化を呼びかけ始めた。特にムハンマドはウヤイナに墓があり、この地方に人々から尊敬されていた第2代正統カリフ ウマル(2nd Caliph Umar or Omar)の兄弟のザイド イブン カッタブ(Zayd ibn Khattab)の様なムスリム聖人(Muslim Saints)の崇拝を止める様に説教をした。ハンマドはウヤイナの領主(Amir of Uyayna)であるウスマン イブン ムア‘アンマル(Uthman ibn Mu’ammar)に自分の信仰の実施を説得し、ザイド(Zayd)の墓を潰してしまった。ザイド(Zayd)の遺骨が残っている墓は印も無く、今日では無視されてしまっている。ハサ(Al Hasa)を支配するバヌ ハリド族(Banu Khalid Tribe)はウヤイナに絶大な影響力をも持って居り、1744年にイブン ムア‘アンマルがハンマドを放逐せざるえなくさせた。ハンマドはウヤイナの南のディライヤー(Dir’iyyah)に近いサウド一門(Al Saud Clan)に身を寄せた。サウド家(Saudis)はハンマド イブン アブド ワッハブ(Muhammad ibn Abd al-Wahhab)の改革の名の下に周囲の町や村を征服し始めた。これらの戦乱の中で、特に疫病が襲った後ではウヤイナは殆ど破壊されたしまった。その後は見捨てられてしまっていたが、20世紀になって小さな村として復活した。(Wikipedia)
ウヤイナー(Al-Uyaynah): 「このオアシスはデュバ(Dhuba)の町の北およそ20 kmに位置し、その海岸にはナバテア(Nabataean)時代の有名な港で白い町を意味するルキ コマ(Luki Koma)があった。ルキ コマ(Luki Koma)の遺物は今でもマガアール アル コッファール(Maghaar Al Koffar)と呼ばれる泉の井戸近くのアイヌナー(Aynuah)オアシスで見つかる」と教育省考古庁出版の「サウディ アラビアの遺跡の紹介(An Introduction to Saudi Arabian Antiquities)」に記述されている。現地にもファールシ(Farsi)の地図にもこの場所にその様な地名は記されて無く、幻のウヤイナー(Al-Uyaynah)と私は呼んでいたが、「古代ローマ軍の古代南アラビア遠征路(http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/jeddah-2/Gallus%20Itinerary.JPG)」にも示したレウケ コメ(Leuke Kome)の位置とはほぼ一致している。
ウユニド王朝('Uyunids): 西暦1073年にハサ・オサシス(Hasa Oasis)北部のウユン(‘Uyun)出身のアブド・アル-カイス族(the 'Abd al-Qays)のリーダーの一人がセルジューク・トルコ(Seljuq Turks)の支援を得て、カールマティア(Qarmatians)を打ち破り、王朝を樹立した。そのウユニド王朝('Uyunids, 1073 – 1253 AD)は西暦1253年までアル-ハサ(al-Hasa)の支配を続けた。
ウラー渓谷(Al Ula): 高く聳える崖の谷の意味を持つメディナー州(Al Madinah Province)北部の渓谷でマダインサレー(Madain Salih)が在る事でも知られている。
ウルク(Uruq): ウルクとは細長い砂丘の重なりである。ルブ アル ハリ沙漠(Rub’ Al Khali)の南西部では100を越えるウルクが1.5kmから2.0km間隔で200kmにも渡って北東から南西へ平行に幾つも走っている。これらのウルクの中には高さが300mにも及ぶものもある。ウルクは北のナフド沙漠(Nefud)や帯状にナフド沙漠とルブ アル ハリ沙漠を結ぶダーナ砂漠(Dahna)やリヤド(Riyadh)北方のイルグ バンバン(Irq Banban)等でも見られる。私は「縦型砂丘(Longitudinal Dune)の成因である二方向の卓越風の成す角度が大きくなると変形した横型砂丘は更に細く長くなって重なる。その長々と延びた形をした砂丘が縦型砂丘(Linear Dune)あるいはアラビア語から剣砂丘(Sword)と呼ばれるウルクである。ウルクでは小規模なものを除けばファルジ(Falj)は殆ど見られない程、その幅が狭く細長いのでセイフ砂丘(Seif Dunes)と呼ばれる縦型砂丘(Longitudinal Dune)と区別されているのだ」と思う。
ウルク シャイバー(Uruq al Shaybah): ウルク シャイバー(Uruq al Shaybah)は現在のアラブ首長国連邦、サウディ アラビアとオマンとの国境のほぼ延長上を南から南南西へと百数十キロにわたって延びる砂丘の山脈である。20世紀末最大の油田開発だった生産量50万 BPDのシャイバー油田(Shaybah Field)はこの名に由来していると思われる。
ウルク沙漠(Uruq Desert): ウルク沙漠はサウジアラビアの五大砂丘地帯(Sand Dune)の一つである。その細長い延長は北のカシーム(Qaseem)地方から南の涸れ谷ファウ(Wadi al Faw)までの1,000 kmに及び、トワイク山脈(Jebel Tuwaiq)の西縁をこの山脈を挟んでその東縁に延びるダーナ沙漠(Dahna)とほぼ平行に並んでいる。ウルク沙漠は細長い砂丘地帯の集まりで、一番長い筋が北部はナフド シール砂丘地帯(Nafud al -Sirr)で南部はナフド ダヒ砂丘地帯(Nafud al Sirr)である。ナフド シール砂丘地帯(Nafud al Sirr)とトワイク山脈の間にはワシュム(Al-Washm)と呼ばれる扇形の地形を挟んで北にナフド ツワイラト砂丘地帯(Nafud al Thuwayrat)が横たわり、南にナフド グナイフィダア砂丘地帯(Nafud Qunayfidhah)が横たわる。
ウルリヒ ヤスパー ゼーッツェン(Ulrich Jasper Seetzen): ドイツ人の内科医(Physician)で植物学(Botany)、動物学(Zoology)および地質学(Geology)に素晴らしい知識を持っており、1802年に一連の東方旅行を計画した。指導的な科学者や貴族の後援を得て、ゼーッツェン(Seetzen)は一連の小アジア(Asia Mínor)の旅に出発し、1809年にカイロ(Cairo)に居た。ゼーッツェンのここまでの旅は「ゼーッツェンのシリア、パレスチナ、フェニキア、トランスヨルダン、アラビア半島及びエジプトの旅」としてクルーゼ(F. Kruse)によって編集され、1854 - 1859年にベルリンで出版されている(Ulrich Jasper Seetzen's Reisen durch Syrien, Palästina, Phönicien, die Transjordan Länder, Arabia Petraea und Unter-Aegypten ed. by F. Kruse. Berlin 1854 - 1859.) 。
漆(Lacquer): ウルシ科の落葉高木で中央アジア高原原産で高さ3m以上で樹皮は灰白色、葉は3 - 9対の小葉をもつ奇数羽状複葉、かぶれやすく、6月頃、葉腋に黄緑色の小花を多数総状に開く。雌雄異株、果実はゆがんだ扁平の核果で、10月頃成熟し、黄褐色となる。果を乾かした後しぼって蝋を採り、樹皮に傷を付けて生漆を採る。この生漆またはこれに着色剤・油・乾燥剤を加えて製した塗料(製漆)とする。
ウルワ イブン マス‘ド(Urwah ibn Mas'ud): タイフ(Taif)のムハンマド(Muhammmad)の仲間になったサキフ族長(Thaqif’I Chieftain)である。628年ムハンマド(Muhammad)が3,000人のムスリム(Muslim)を引き連れてメッカ(Makkah)巡礼に向かった。これを阻止しようとしたクライシュ族(Quraishi Tribe)はメッカ郊外のフダイビーヤ(Hudaibiyya)で交渉を行い、10年間の休戦が確認された。ウルワはこのフダイビーヤの和議(Peace of Hudaybiyah)に関してクライシュ族(Quraysh)に代って交渉に入った程のアラブの名士であった。ウルワの息子の一人(Dawud ibn Unwah)はムハンマドの妻の姪(Habibah bibte Ulbayd-Allah)と結婚していた。(出典: Wikipedia)
ウンマ(al-ummah): 特に宗教に立脚した共同体であるが、現代アラビア語では民族共同体をさす。アラビア語古典ではムハンマドの共同体とも呼ばれており、通例、イスラーム共同体(umma Islamiya)と言う。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ウンム アシャール(Umm Ashar): ウム シャール(Um Shar)とも呼ばれる。私の同僚だったモハマッドカラフ アル ムゼイニ(Mohamd Kharaf al Muzeini)は「アラビア語名はアシェル ボイェル(Asher Voyer)と云うが東部州ではウンム アシャール アシュ シャールキヤ(Umm Ashar Ash Sharqiyah)と呼び、この村にその名が付いている」と教えてくれた。さすがに長い名を付けるのが好きなサウジでもこの名はウンム アシャール(Umm Ashar)と短縮して使っている様だ。この低木は比較的太い多くの枝を地表部分から4、5m上へと直接伸ばし、木肌はワニの様な鱗があり、葉は厚くかさばり、実は野球のボール程で白っぽい緑色をしていて、そのどこかに切り口を作ると白いベタベタした乳液を浸みださせる。この低木は疎らなタル(Talh, Acacia Gerratdii)の林の中やその近傍に群生しているのをよく見掛ける。大川原博士によるとこの低木はCalotropis proceraと云う学名を持ち英語では「ソドムの林檎」と呼ばれ、日本には全く同じでは無いがガガイモ科の海岸煙草が同じ種類なのだそうだ。「未知の国アシール(Undiscovered Asir)」の著者サーリィ モジャー(Thierry Mauger)は「死海林檎」と呼んでいる。
ウンム アシャール村: ウンム アシャール村(Umm Ashar Village)へ行くにはマジマア(Al-Majma’ah) - クウェイト(Kuwait)道路のキングカリド王軍事都市(King Khalid Military City)への十字路から少し南に下ったプテイハニア(Puthihaniyah)の丁字路(ハファル アル バーティン(Hafar al Batin)の85km南)から西に進むと沙漠の緑は少なく成り代わりに地面に散らばる白っぽい角張った小石が増えて来る。プテイハニアの丁字路から60 km位行った所で数軒の住居と2、3の円形農場を持つ集落のある谷に降りる。この谷はアラビア盾状地の三大排水路の一つであるワディ アル バーティン(Wadi al Batin)の中流部でこの辺りでは連続した砂丘の東岸と低い断層崖の西岸に挟まれている。この連続した砂丘の帯はダハナ(Dahna)沙漠(北のナフド大砂漠(Nefud Desert)から南の空白地帯砂漠まで1,000 kmにも渡って続く砂の回廊)から舌状に延びて来ている。この村の正式名はウッム アシャル アシュ シャルギヤー(Umm Ashar Ash Sharqiyah)で「ソドムの林檎」或いは「死海林檎」ともよばれる低木の長い長い名が付けられている。
ウンム サミン(Umm al Samin): ウンム サミン(Umm al Samin)は1930年から1931年にかけて始めて空白地帯を横断した探検家バートラム トーマス(Bertram Thomas, 1892 - 1950)がベドウインから伝説の流砂地帯と聞いていた。この巨大な流砂地帯はオマン(Oman)国境に広がり、かつてワディ ダワシール(Wadi Dawasir)が流れ込んで居た大きな湖であった。現在ではその表面をサブカ(Sabkha、含塩平地)の薄い塩の表皮が覆って居て通行するのには非常にはまり安くアラビアで「毒の母」を意味するウンム サミン(Umm al Samin) と呼ばれている。
エ
英国ポンド: Pound Stering、英貨1ポンド。
「英国領事(Jago)の1883年のジェダの交易と商業に関する報告書」: この報告書は商工業等に対する女王陛下の領事からの報告の第3部12番に掲載されている(Reported by consul Jago on the trade and commerce of Jeddah for the year of 1883、in Reports from Her Majesty's consuls on the manufactures, commerce, etc. Part III. No.12)。
エイラト湾(Gulf of Eilat): アカバ湾(Gulf of Aqaba)は紅海の北奥、シナイ半島(Sinai peninsula)の東側にある、南北に細長く伸びる湾。チラン海峡(Straits of Tiran)より北部にある。両岸はエジプトとサウジアラビアであるが、最奥部にはイスラエルのエイラト(Eilat)、ヨルダンのアカバ(Aqaba)の各港があり、四か国の国境が集中している。イスラエルではエイラト湾(Eilat)とよばれている。地学的には、紅海から続く大地溝帯の一部であり、さらに死海へと連なっている。又、エーラト(Elat)はイスラエル南部アカバ湾('Aqaba)の最奥部にある海港、人口3万人、イスラエル唯一の紅海への出口。
エウゲニウス四世(Pope Eugenius IV): 法王エウゲニウス四世の本名はガブリエル コンドルマール(Gabriele Condulmer)(c. 1383-1447)であり、1431年にフス(Huss)(1369? - 1415)(チェコの宗教改革者で異端として火刑に処せられた)の異端思想と教皇至上権をめぐってスイスのバーゼルで開かれたバーゼル公会議(the Cóuncil of Básel, 1431-37)を解散させようとして失敗、ローマを追われた。その後、同会議は1449年迄続いたが、結局敗北して解散した。
エキゾティックな物資: 異国情緒一杯の商品(Exotic Goods)。
エクセター(Exceter): イングランド南西部デヴォン(Devon)州の州都。
エグラ(Egra): 紅海岸沿いにある現在のヤンブー(Yanbu)である
エジプト(Egypt or Aegypt): アフリカ北東部にある国で5,000年前に統一国家を形成し、古代文明発祥の地でピラミッド等の遺跡が多い。13世紀以降はイスラム世界の文化的中心であった。1882年に英国に占領されたが、1922年に立憲王国、1952年の革命で共和国となった。1958-61年はシリアとアラブ連合共和国を形成、1971年にエジプト・アラブ共和国に改称。
エジプトのスルタン(Sultan of Egypt): エジプトのイスラム教国君主で、サラディン(Saladin)が1174年にアイユーブ朝(Ayyubid Dynasty, 1174 – 1250)を建国し、マムルーク朝(Mamuluk Dynasty,1250-1517)(バフリ マムルーク朝(Bahri dynasty, 1250 -1382)およびブルジー マムルーク朝(Burji Dynasty, 1382 - 1517))が支配を掌握してから1517年にオスマントルコ(Ottoman Turky, 1299 - 1923)がエジプトを征服するまでの間の歴代君主。
エジプト・ワッハーブ戦争(Egyptian – Wahhabi War): オスマン・サウジ戦争(Ottoman – Saudi War)ともよばれる。サウド家(House of Saud)は第三代首長(Third Imam, 1803 - 1814)サウド(Sa’ud ibn ‘Abd al-‘Aziz)*の時代に勢力を拡大した。そしてそれを阻止しようとしたオスマン帝国エジプト総督との間に1811年から1818年まで続いたエジプト・ワッハーブ戦争(Egyptian – Wahhabi War)が勃発した。十九世紀初頭、オスマン帝国(Ottoman State)は外交に忙殺され、さらに渡り石工(Freemasons)が煽動する反乱の火の手の鎮火させようと多難であった。しかしながら第一次サウード侯国(First Saudi State, 1744 - 1818)*の非ワッハーブ派に対する迫害および無礼等の攻撃が容認できない程に激しくになって来た為に、カリフ(Caliph of Muslim) スルタン マハムド カーン アドリ2世(Sulatn Mahmud Khan ‘Adli II or rahmat-Allahi 'alaih)*は1811年(ヒジュラ暦1226年)にエジプト総督(Governor of Egypt, 1805 - 1848) ムハンマド アリ パシャ(Muhammad 'Ali Pasha or rahimah-Allahu ta'ala, 1769 - 1849)*に書簡で当時はムワヒディーン(Wahhabis or Muwahhideen)と呼ばれていた第一次サウード侯国の非ワッハーブ派に対する攻撃を懲らしめる様に命じた。ムハンマド アリ パシャはラマダン月(Month of Ramadan)に自分の息子トーソン パシャ(Tosun Pasha, 1794 – 1816)*指揮の下にエジプトから軍隊を派遣した。トーソン パシャはマディーナ(Medina)の海港ヤンブー(Yanbu’)を攻略したが、マディーナ(Medina)への侵攻の途中、1811年(ヒジュラ暦1226年巡礼月初日)にサフラ谷(Safra Valley)とジュダイダ峠(Judaida Pass)の間での激しい戦闘に破れた。トーソン パシャは傷一つ負わなかったけれどもオスマン帝国側のムスリム(Ottoman Muslims)の多くが殉教した。ムハンマド アリ パシャはこの不運を悲嘆する中、18門のカノン砲(Cannons)と3門の大砲を装備したもっと大掛かりな部隊を編成した。この部隊はサフラ谷(Safra Valley)とジュダイダ峠(Judaida Pass)を1812年(ヒジュラ暦1227年予言者の月)に通過し、断食の月には多くの村々を抵抗無しに攻略した。シャリフ ガリーブ エフェンディ(Sharif Ghalib Effendi, 1788 – 1803 & 1813 – 1827)*の助言を受けたムハンマド アリ パシャは降伏した村々に118,000リアルを配って戦果を勝ち取ると云う非常に聡明な行動をした。もし、トーソン パシャが父親の様にシャリフ ガリーブ エフェンディに相談していたら大軍を失わずに済んだだろう。シャリフ ガリーブ エフェンディはワッハーブ派(Wahhabis or Muwahhideen)によってメッカの首長(Amir of Mecca)に任命されていたが、シャリフ ガリーブ エフェンディは心からメッカ(Mecca)を暴力的なワッハーブ派から解放したいと願っていた。ムハンマド アリ パシャは安住の月(Dhu 'l-Qada)の末までにはマディーナ(Medina)も無血攻略した。これらの勝利はカリフ(Caliph)に報告する為にエジプトに送られた。エジプトの国民はこの勝利を三日三晩祝い、この勝利の朗報は全てのムスリムの国々に伝えられた。さらにムハンマド アリ パシャは一師団(a division)をジッダ(Jidda)経由でメッカ(Mecca)に送った。この師団はジッダに1813年1月初旬(ヒジュラ暦1228年戦いを禁ずる月)に着き、メッカに向けて行進した。この師団はシャリフ ガリーブ エフェンディ(Sharif Ghalib Effendi)が内密に立てた計画に従って容易にメッカに入城した。ワッハーブ派とその指導者はオスマン帝国の師団がメッカに近づきつつあるとのニュースを聞いて、この市から逃げ出し、山中に潜んだ。一方、サウド イブン アブド アル アジズ(Sa’ud ibn ‘Abd al-‘Aziz)*は1812年(ヒジュラ暦1227年)に巡礼(Pilgrimage)を終え、多くのムスリムの血が流れたターイフ(Ta’if)を訪問した後、根城のディライヤ(Dar’iyah, Diriyah or Dir’aiyah)に戻って行った。ディライヤに着くとサウドはマディーナ ムナウワラ(al-Madinat al-Munawwara)そして続いてマッカ ムカッラマ(al-Makkat al-Mukarrama)がオスマン帝国軍に攻略された事を知った。丁度、この頃にオスマン兵士達はターイフを攻撃したが、ターイフの僭主であったウスマン ムダイキ(‘Uthman al-Mudayiqi)とその軍隊が恐怖の為に逃げ出していたので、全く抵抗に会わなかった。朗報はイスタンブール(Istanbul)に居たカリフ(Caliph of Muslim) スルタン マハムド カーン アドリ2世(Sulatn Mahmud Khan ‘Adli II or rahmat-Allahi 'alaih)*に伝えられるとマハムド 2世は大変に喜び、神に平安あれ(アルラフ タ’アラ(Allahu ta’ala or Peace be upon him))と祝福しながらこの事に深く謝意を示した。マハムド 2世はムハンマド アリ パシャに謝意と贈り物を送り、ムハンマド アリ パシャにヒジャーズに再び赴き、ワッハーブ派を監視し、制圧する様に命じた。ムハンマド アリ パシャはスルタン マハムド 2世の命令に従って再びエジプトを出立した。この時にはシャリフ ガリーブ エフェンディ(Sharif Ghalib Effendi)はオスマン帝国の軍隊とターイフに居て血に染まった僭主ウスマン ムダイキ(‘Uthman al-Mudayiqi)の探索に忙しかった。組織だった探索の結果、ウスマンは捕縛され、エジプトに送られ、それからイスタンブール(Istanbul)へ護送された。ムハンマド アリ パシャはメッカに到着するとシャリフ ガリーブ エフェンディをイスタンブールへ送り、その兄弟のヤフヤ ビン マスド エフェンディ(Yahya bin Surour, 1803-1813 or Yahya ibn Masud Effendi (rahimah-Allahu ta’ala))をメッカのアミール(Amir)に任命した。もう一人の狼藉者ムバラク イブン マグヤン(Mubarak ibn Maghyan)も捕らえられ、1814年(ヒジュラ暦1229年戦いを禁ずる月)にイスタンブールへと護送された。何千と云うムスリム達の血を流した二人の狼藉者はさらし者としてイスタンブールの通りを引き回された後に罪に相当する刑罰を受けた。1788年から1803年まで26年間メッカのアミールを勤めたシャリフ ガリーブ エフェンデはイスタンブールで尊敬と愛をもって温かく迎えられ、そしてギリシャ第二の都市テサロニカ(Thessalonica)又はサロニカ(Salonica)に移送され1816年(ヒジュラ暦1231年)に没するまでそこに留まっていた。シャリフ ガリーブ エフェンデの霊廟は一般に開放されている。(別の資料ではシャリフ ガリーブ エフェンデ(Ghalib Efendi bin Musa'ed)は再度1813年から1827年までシャリフに復帰したとされて居る。後継シェリフの名(Abdulmutalib bin Ghalib, 1827-1827)からも私にはその方が正しい様に思える。)ヒジャーズ(Hijaz)の聖都から狼藉者達を排除した後、遠くイエメン(Yaman)までの地域を一掃する為に一個師団が派遣された。エジプト総督(Governor of Egypt, 1805 - 1848) ムハンマド アリ パシャ(Muhammad 'Ali Pasha or rahimah-Allahu ta'ala, 1769 - 1849)はこの師団を自らの軍隊を使って助け、この地域全体から狼藉者達を追い払った。ムハンマド アリ パシャはメッカに戻り、そこに1815年(ヒジュラ暦1230年神聖な月)までに滞在し、それから自分の息子ハサン パシャ(Hasan Pasha)*をメッカ知事に任命し、エジプトに戻った。サウド イブン アブド アル アジズ(Sa’ud ibn ‘Abd al-‘Aziz)*が1814年に没し、(但し、原文は1816年)その息子アブドゥッラー イブン サウド(‘Abdullah ibn Sa’ud)*が継承した。ムハンマド アリ パシャは息子イブラヒム パシャ(Ibrahim Pasha)*をアブドゥッラー イブン サウドへの討伐命令の下に一個師団と共に派遣した。アブドゥッラー イブン サウドはトースンパシャ(Tusun Pasha, 1794 – 1816)*と「アブドゥッラーをディライヤ(Diriyah, Dir’iyah or Dir’aiyah)の知事として認める代わりにオスマン帝国(Ottomans)に忠誠を誓う」との合意に達していたが、ムハンマド アリ パシャはこの合意を受け入れなかった。イブラヒム パシャは1816年11月(ヒジュラ暦1231年末)に向け、エジプトを出発し、1817年初め(ヒジュラ暦1232年の初め)にディライヤ(Dar’iyya)に到着した。アブドゥッラーはイブラヒムに対して全兵力を使って抵抗したが、1818年9月(ヒジュラ暦1233年の安住の月)での非常に血なまぐさい戦いの後に捕虜にされた。この朗報はエジプトでは城から7日間に渡って日夜、撃たれた100回の祝砲で歓迎された。全ての通りは旗で埋め尽くされた。嘆願(Takbirs and Munajat)は光塔(Minarets)から復唱された。(出典: Hizmet Books Online http://www.hizmetbooks.org/Advice_for_the_Muslim/wah-41.htm)
エシメファエウス(Esimephaeus):アビシニア皇帝エッラ アトスベハ三世 (the Abyssinian Emperor, Ella Asbeha III)が525年に派遣したヒムヤル(Hymyar)討伐軍の指揮官であったアリアス(Ariath)と同一人物と考えるのが自然であるが、「アリアス(Ariath)が総督となった」との記述はあっても「王座に着いた」との記述はないので私はそれを探し出していない。
エステヴァン ダ ガマ(Estevão da Gama): ヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)の息子で、1541年にゴア(Goa)からスエズ(Suez)まで航海し、これが16世紀にポルトガル人達が紅海に現れた最後となった。
エダウチヤシ(Dawn Palm): テベスドームヤシとも呼ばれ、英名はDoom Palm, Doum Palm or Dawn Palmで学名はHyphaene thebaicaであり、アフリカ産の大きな扇型の葉を付ける椰子で沙漠の土壌を安定させるのに重要な働きをし、その果実は林檎位の大きさで食用になる。私の経験ではサウジアラビアのエダウチヤシ(Dawn Palm)は熔岩地帯に生えている。私はこの木の名が分からなかった頃は芭蕉椰子とあだ名して呼んでいた。
エチオピア(Ethiopia or Aethiopia): アフリカ北東部の紅海に面したエジプト南部から今日のエチオピア北部に至る地域にあった古代国家であり、、「シバの女王の国」と称して世界最古の王国とされる。ギリシア語Aethiopsが語源でEthiop-(日焼けした顔)+-la(国名)で日焼けした人の住む国との意味となる。4世紀頃からキリスト強国となる。1936年にイタリアに征服されたが、1941年に独立を回復、1975年に帝政を廃止、面積110.4万、人口5,668万人(1995)、首都はアジズ アベバ(Addis Ababa)で旧称はアビシニア(Abyssinia)。
「エチオピアへのポルトガルの1520年外交使節団の物語(Narrative of the Portuguese Embassy to Ethiopia in 1520)」: プレスター ジョンの領土の真の関係(A True Relation of the Lands of the Prester John)についてのアルヴァレス神父(Alvarez)著書。「同書は1881年オールダーリー(Alderley)のスタンリー卿(Lord Stanley)が翻訳し、ケンブリッジ(Cambridge)のハクルート協会(Hakluyt Society)のベッキングハム(C.F. Beckingham)およびフンティングフォード(G.W.B. Huntingford)による追加資料を加えた改訂・編集版が1961年に出版されている。
「エデンの園、現在の景観(Garden of Eden: A Modern Landscape)」: エデンの園 (the Garden of Eden) にノア (Noah) の洪水以前に流れ込んでいたピソン川 (the Pishon) 、ギホン川 (the Gihon) 、ヒッデケル川 (the Hiddekel) およびユーフラテス川 (the Euphrates) の四つの川が実在した事を証明する作業の一部として「ピソン川 (the Pishon)、ギホン (the Gihon) およびヒッデケル (the Hiddekel) はそれぞれ、涸れ谷アル バーティン (Al-Batin)、カルン川 (the Karun River)およびチグリス川 (the Tigris) であり、チグリス川 (the Tigris) とユーフラテス川 (the Euphrates) は現在と殆ど同じ河川敷を流れていた。その当時は四つの川の合流点はアラビア湾の奥にあったが、その位置は今日では内陸に成ってしまっている」そして「涸れ谷ルマ/バータン(Rumah/Batin)が旧約聖書に記載されているエデンの園(the Garden of Eden)に注ぐ4つの川の一つのピソン (the Pishon)だ」との仮説をキャロル A. ヒル(Carol A. Hill)はPerspectives on Science and Christian Faith 52 (March 2000)の紙面に「エデンの園、現在の景観(the Garden of Eden: A Modern Landscape)」と云う検証報告を掲載している。
エフェソス(Ephesus): 小アジア西部のイオニアの古代都市。
エミリア ロマーニャ州(Emilia-Romagna): イタリア北部のポー川(Po)とアペニノ山脈とアドリア海で仕切られた州。
エミール バハル: エミール バハル(Chief of the Sea)或いはエミール エル バハル(Emir el Bahhr)と呼ばれ「海の首長」を意味する19世紀始めにジッダ港長(a habour master)を務めた官僚の称号であり、全ての船から或る額の投錨代を徴収していた。
エメラルド(Emerald): ベリリウムとアルミニウムを主成分とした珪酸塩鉱物で六方晶系、六角柱状の結晶で塊状・粒状でも産出する緑柱石の多くは緑色または淡青色で、やや透明、でガラス光沢がある。その中の深緑色透明の光沢ある特に美しいものをエメラルドと云い、緑柱玉、緑玉石、翠玉、緑玉、翠緑玉等とも呼ばれる。
エッラ アスベハ三世(Ella Asbeha III): 523年10月の「ナジランの戦い」でヒムヤル (Himyar)国王ズ ヌワス(Yousuf Dhu Nuwas)が冷酷に親アビシニア党を皆殺しにした。幾人かはズ ナワスの攻撃の前に逃亡し、コンスタンティノープル(Constantinople)のローマ皇帝(Roman Emperor)に助けを求めた。ローマ皇帝は「自分はその土地から余りに遠くにいる」としてアビシニア皇帝(the Ethiopian Emperor)エッラ アトスベハ三世(Ella Atsbeha III)に介入する様に促す書簡を出した。エッラ アスベハ三世は自分の守備隊が虐殺され、仲間のキリスト教徒が殺されたのでただでもそうしたいと思っていた。又、エッラ アトスベハ三世はナジランの戦いを「処刑された同盟者の死に対する正義の戦い」として利用する事で、アラビア半島全域を占領する為の好機と捕らえ、アリアス(Ariath) 指揮下で7,000人編成の軍を侵攻させ、ヒムヤル(Hymyar)の勢力を壊滅させた。エッラ アスベハ三世についてはアビシニア皇帝(Elesboas,Hellesthaeus,Kaleb or Caleb)あるいはアビシニア(Abyssinia)王ナガシ(Nagashi) やアビシニア(Abyssinia)王ネグス(the Negus)との記述もある。
エリュトゥラーの海(Erythraean Sea or Erythraean Máin): ローマ人に赤いと呼ばれた紅海はギリシャ人には伝説的なペルシアの王国のエリュトゥラ王(the king Erythras)に因んでエリュトゥラー(Erytheraean)と呼ばれていた。古代地理学ではエリュトゥラーの海(エリュトゥラー海)はもともとは紅海およびペルシア湾を含めたインド洋北西部の称であった。エリトゥロ(Erythros)はギリシャ語で赤を意味し、現在の名前は例えそれが現在では古代に集合的にエリュトゥラー海と呼ばれて居た内の僅かな部分に限られていたとしても古代から永続している。しかしながらこの名の語源と言う命題についてアガサルチデス(Agatharchides)はその著書「エリュトゥラー海に関する論文(A Treatise on the Erythraean Sea)」の第I巻5章(I, 5)に「これは紅海を意味して居らず、伝説的なペルシアの王国のエリュトゥラ王(King Erythras)を意味している」と言っている。アガサルチデスが引用している物語によれば「エリュトゥラーの名前はエリュトゥラ王の民によって王が統治していた岸辺の海に名付けられた」。
「エリュトゥラー海に関する論文(Treatise on the Erythraean Sea)」: アガサルチデス(Agatharchides) (紀元前170 -100年)著の同書は第1巻と第5巻からの広範囲な抜粋を除いて今では不幸にも全て失われてしまっている。短い断片は小アジアの古都で世界七不思議の一つアルテミス (Artemis) の所在地であったエフェソス(Ephesus)についてアルセミドルス(Arthemidorus)が紀元前104年頃(circa 104 B.C.)記述した文章の中に見つけられる。もっと広範囲にわたってはディオドロス シクロス(Diodorus Siculus)の文章の中での引用やフォティオス(Photius)の文章の中に見つけられる。
「エリュトゥラー海航海記(Periplus of the Erytheraean Sea)」: 「ペリプルス マリス エリュトラエイ(Periplus Maris Erythraei)」と呼ばれる西暦1世紀の後半に書かれたエジプトからザンジバルに至るアフリカ海岸、アラビアおよびインドからセイロンの作者不明の航海録である。スコフ(W.H. Schoff)がギリシャ語から翻訳し、注釈を付け、1921年ニューヨークで出版している。
エルヴィラ ガールバノ ペセ博士(Dr. Elvira Garbano Pesce): 「沙漠の驚異(Marvel of the Desert, 1983.12)」と「サウジアラビアの駱駝(The Camel in Saudi Arabia)」をアンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)共著している。
エルサレム(Jerusalem): アラビア語ではアル マクディスの家を意味する(Bait al-Makdis in Arabic)。 パレスティナ(Palestine)の中心的町でユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地。
エルデブ(Erdeb): エジプトのエルデブ(Erdeb)は約15英国ブシェル(English Bushels)に相当し、メッカでは50キイレ(Keyles)でマディナでは96キイレ(Keyles)で計算されていた (John Lewis Burchhardt)。(1 英ブッシェル = 36.36872 リットル = 8 英ガロン 、1 米ブッシェル = 35.23907017リットル= 8 米穀物ガロン ≈ 9.309177489 米液量ガロン )
エルドン ルッター(English Muslim, Eldon Rutter):ルッターはアラビア語を最初にマラヤ(Malaya)でそこに住んでいたアラビア人移住者達から学んだ後にエジプトで学んだ。1925年シリア出身のエジプト人巡礼を装い、ルッターはマッサワ(Massawah)からアブハ(Abha)の丁度西にあるアシール ティハマ(Tihamah of Asir)の小さな港であるカフマ(al-Qahmah)へと紅海を渡った。ティハマを北へと辿り、ルッターはメッカに着いた。そこでアブドルアジズ王に迎入れられると言う特別待遇を受けて、ルッターは巡礼の儀式を行った。その後、ルッターハ巡礼式典の旅を続けた。それにはマディーナへの旅ともう一つターイフへの旅が含まれていた。その様子をルッターは1928年にロンドンで発行した価値ある著書「アラビアの聖なる都市(The Holy Cities of Arabia)」の中に生き生きと記述している。
「L. デ マロルの旅行記(Cryptical Note of L. de.Marol)」: L. デ マロル(L. de Marol)の旅行記にはジッダ(Jidda)に関する記述を含んでいる。
オウグストゥス(Augustus): (アウグストゥス(Augustus)を参照。)
横断型砂丘(Transverse Dune): 横断型砂丘はバーチャン(Barchan)とも呼ばれ、卓越風向と直角に三日月型(Crescent Shape)を作り出す。バーチャンは移動しやすく徘徊する砂丘(Wandering Dune)とも呼ばれる。ジャフラー沙漠(Jafurah Desert)はダンマン(Damman)の南のアブカイク(Abqaiq)からルブ アル カリ(Rub' Al Khali)まで広がって居り、バーチャンで覆われている。この砂漠の砂は石英分が90%以下と少なく、サウジアラビア国内にある他の砂漠の様に砂が酸化鉄(Iron Oxide)で被覆されて居らず、その結果として砂の色が明るい赤では無く、青みがかった白である。
オウドカーム(Oudkham): ビーズ(beads)製作用の芳香のある木材(odoriferous wood)。
「王の人生と偉業(Da Vida e Feitos de el-Rey)」: ジェロニモ オソリオ (D. Manuel de Gerónimo Osório)が著作した初版本は1571年に出版された。同書は後にフェレイラ ポルト(J. Ferreira. Pôrto)によって編集され、1944年に再出版された(ed. by J. Ferreira. Pôrto 1944.)。
オカレ(Okales): シリア(Syria)ではカーン(Khans)と呼ばれる建物であり、ヒジャーズ(Hedjaz)ではホシュ(Hosh)と呼ばれ、エジプト方言では中庭(Courtyard)である。
オクデュード事件の物語(Al-Okdood Event Story): 業火がトンネルで燃やされ、そして人々が火の中へ送られ、そして最後にもう一度そこでユダヤ教への改宗を訊ねられた。しかし、それでも彼等は再び拒否し、最後に火の中に送り込まれた。赤ん坊に授乳(suckle)している婦人がこの火の前に連れて来られると突然「辛抱しなさい。おかあさん、貴女は正しいのだから」と赤ん坊が言った様に思えた。そして525年のその日に約2万人の人々が犠牲になり、そしてナジラン(Najran)はカリド イブン ワリード(Khalid Ibn Al-Waleed)によってイスラムに改宗したヒジュラ暦10年(西暦632年)までキリスト教を信仰し続けた。
オクデュードの発掘(Excavation of Al-Okdood): 文化担当文部省次官、アブドッラ ハサン マスリ博士(Dr. Abdullah Hasan Masry)の指示で考古博物部はオクデュード(Al Okhdood)で二回に渡る発掘を行い、その結果の幾つかは考古博物部の四季報アトラル(Atlal)の第5巻および第7巻に掲載されている。
オーストリア銀貨(Autrian Thalers): 15世紀から19世紀のドイツの銀貨で3 marksに相当する。マリーテレーズ(Marie-Thérèse)が刻まれているオーストリア銀貨(Autrian Thalers)は1840年のエジプトでは51/4フランス フラン(French Francs)、ヒジャーズ(Hejaz)海岸では61/2フランス フラン(French Francs)そしてヒジャーズ(Hejaz)内陸では7フランス フラン(French Francs)の価値があった。
オスマン一世(Osman I) :ビザンチン帝国の衰微に乗じてアナトリア西部にオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299-1922)を創設し、1453年コンスタンチノープルを攻略し、ビザンチン帝国(Byzantine Empire, 395 - 1453)を滅ぼし、サラセン帝国の領地はオスマン帝国に組み込まれて行った。オスマン帝国は16世紀に最盛期をむかえ。領土はアジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがったが、17世紀から衰退し、第一次大戦で敗れた後、トルコ革命によって滅亡した。
オスマン側の圧倒的な火力(Superior Firepower on Ottoman): マムルーク朝(Mamluks, 1250 - 1517)は騎士に相応しい火器は持っていた。時代錯誤の侮辱を持ち、火器兵に軍の下級の地位にしか与えて居なかった。自分達自身としては剣、槍、弓の様な英雄的な名誉ある武器を好んだ。
オスマン・サウジ戦争(Ottoman – Saudi War): エジプト・ワッハーブ戦争(Egyptian – Wahhabi War)を参照。
オスマン帝国(Ottoman Empire): オスマントルコ(Ottoman Turks, 1299-1922)とも呼称されるトルコ系イスラム国家で、西暦1299年にオスマン一世(Osman I or Othman I El-Gazi)がビザンチン帝国(Byzantine Empire, 395 - 1453)の衰微に乗じてアナトリア(Anatolia)(小アジア)西部に建国した。この国家は地中海周辺のアラブ諸地域、バルカン半島(Balkan)をも支配下におき、アッバース朝(Abbasids, 750 - 1258)滅亡後のイスラム世界の覇者として君臨した。西暦1453年にメフメト二世(Mehmed II Fath El-Istanbul)がコンスタンチノープル(Constantinople)を征服してそこに遷都した。16世紀のスレイマン大帝(Kanuni Sultan Süleyman, 1520 - 1566)の頃が最盛期で領土は西アジア・北アフリカ・バルカン半島にまたがったが、17世紀末から衰退に向かった。第一次世界大戦に同盟国側に加わって敗北し、1922年ケマル アタチュルク(Mustafa Kemal Atatürk)のトルコ革命(The Turkish War of Independence)によって滅亡した。オスマン帝国はオットマン帝国とも転写(てんしゃ、transcription)されている。
オスマン マザイフィ(Othman al-Madhayfi): オスマン メザイフェ(Othman el Medhayfe)とも転写されている。オスマン マザイフィはワッハーブ派(Wahaby)の著名な首長で、第一次サウド侯国(First Saudi State, 1745 - 1819)のイマム(Imam, 1803 - 1814)サウド(Saud ibn Abdul Aziz ibn Muhammad ibn Saud)がヒジャーズ(Hejaz)を征服する為の主要な先導役でもあった。シェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb)とは自分の姉妹と結婚した義理の兄弟であり、オスマン マザイフィ自身もアドウアン族シェイク(Sheikh of Adouan)であった。1802年にシェリフ ガレブ(Ghalib Efendii bin Musa'ed, 1788 – 1803 & 1813 - 1827)*との休戦交渉している中でネジド(Nejd)から進撃してきたサウド家(House of Saud)と同盟したワッハーブ派(Wahhabi)の軍隊を支援し、ターイフ(Taif)を陥落させた。ワハーブ派(Wahhabi)の軍隊は続いて、メッカ(Mecca)とメディーナ(Medina)に進撃した。オスマン マザイフィはシェリフ ガレブが築き、ワッハーブ派に破壊されたターイフの城砦に代わり三つの門を持つ不規則な四角形の城壁や溝でターイフを新たに囲った。オスマン マザイフィは1805/1806年にシャリフからゴンフェデ(Gonfede)を勝ち取り、ジェッダ(Djidda)からハリ(Haly)までの海岸全てがワッハーブ派の支配地とした。1811年にモハンメド アリ パシャ(Mohammed Aly Pasha)*はエジプトからトルコ軍と共にやって来て、ジェッダ(Djidda)とメッカ(Mekka)を奪回した。ムスタファ ベイ(Mustafa Bey)*はこの上首尾とタイフ(Tayf)の干し葡萄のワインに酔い、自分ひとりでワッハーブ派(Wahabi)を制圧できると思った。ムスタファ ベイ(Mustafa Bey)はワッハーブ派(Wahabys)の根拠地の一つであり、ターイフから70から80マイル(110kmから130km)東方にあるタラバ(Taraba)に向けて進軍したが、山岳地帯での抵抗に会い、400名から500名の犠牲を出して退却せざるを得なかった。オスマン マザイフィは自分の軽騎兵が手元に居たがこの間、行動をしなかった。オスマン マザイフィは国中の全ての方向に注意を向け、落伍者の退路を絶ち、時としてメッカとの交信を傍受し、1812年の夏の間中、ターイフ守備隊を牽制した。シェリフ ガレブはオスマン マザイフィの捕縛に5,000ドルの懸賞金を掛けた。オスマン マザイフィがある出撃でタイフの東4、5時間の山中に自分が築いた小さな城ビッセル(Byssel)で休息していた。それを聞いたシェリフ ガレブはタ-イフから強力な部隊を派遣した。その部隊はこの城を包囲すると火を放った。一番貧しいベドウイン(Bedouins)の衣装をまとったオスマン マザイフィと約30名の部下達はシェリフ ガレブの部隊に襲いかかり、逃げ道を切り開いた。しかしながら、シェリフ ガレブの乗った雌馬が傷つき、乗馬出来なくなった。オスマン マザイフィは追跡者達から徒歩で逃げ、翌日、アテイビ ベドウイン(Ateybe Bedouin)の天幕に助けを求めたが、そこで捕まり、シェリフ ガレブの前に引き連れていかれた。シェリフ ガレブは懸賞金をアテイビ ベドウインに支払い、オスマン マザイフィに鎖を付けた。オスマン マザイフィはジッダ(Djidda)、カイロ(Cairo)そして最終的にはコンスタンチノープル(Constantinople)に送られ、そこでモハンマド アリの末息子がこの高貴な捕虜を自分の支配者に聖なる都市の鍵と多くの高貴な贈り物と共に差し出した。恐らく、オスマン マザイフィはそこに着くと直ぐに打ち首になったと思われる。こうしてワッハーブ派はヒジャーズ(Hejaz)で最も活躍し、大胆な首長を失った。オスマン マザイフィが捕虜になったのは1812年9月であり、1813年にはシャリフ ガリーブ(Sharif Ghalib)*とトルコ将校ムスタファ ベイ(Mustafa Bey)*が指揮する分遣隊がターイフを奪回した。(注) 私は「ゴンフォデ(Gonfede)はクンフザ(Qunfudhah)でハリ(Haly)は涸れ谷ハリ(Hali)の河口である」と理解している。(出典: ブルクハルト(Johana Ludwig Burckhardt)著、「アラビアのヒジャーズ地方の旅(Travels in The Hedjaz of Arabia)」)
オソリオ(Osorio): ポルトガルの歴史家で、1509年2月3日にディウ(Diu)沖海戦での凶暴で無慈悲なフランシスコ ダルメイダ(Francisco d'Almeida)の行為を非難した。
オットマン帝国(Ottoman Turks): (オスマン帝国を参照)。
Opus: 作品、著作、Operaと同語源。
オボダス王(Obodas): シッラエウス(Syllaeus)が仕えたナバテア(Nabataeans)の王。(シッラエウス(Sillaeus) (Nabataean Guide Sillaeus、Nabataean Administrator)参照。)
オマル イブン カッタブ(Omar Ibn Al Khattab): (ウマル(the Caliph Umar ibn al-Khattab)参照)。
オリッサ(Orissa): インド東部ベンガル(Bengal)湾を臨む州で州都はブバネスワル(Bhubaneswar)。
オリュンピア(Olympiad): 古代ギリシャでオリュンピア競技祭で現代のオリンピック(Olympic)の発祥となった。
オールスパイス(Allspices): フトモモ科の落葉高木、またはその未熟果を乾燥した香辛料で、西インド諸島原産で主要な香辛料クローブ(丁字)、シナモン(肉桂)、ナツメッグの香気を併せ持つ。三香子とも云う。
オレマ(Olemas):学識経験者(Learned Men)。
カアバ神殿(Kaaba Building or Ka'bah): イスラム教徒にとって最も聖なる神殿でメッカの聖モスクの中にあり、ここに詣でるのが巡礼の最終目的である。元々は「無知や愚かさ」を意味するジャーヒリーヤ(Jahiliyah)と呼ばれるイスラム以前の多神教の偶像崇拝の時代にマッカ(Makkah)の中心であった立方体を意味する名の付いた神殿であった。セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr)は「神の家(House of God)とも呼ばれるアブラハム(Abraham)によって建てられたメッカ(Mecca)にある直方体の構造の建物である。カアバ(Ka'bah)とはアラビア語で立方体を意味する様にその立方体或いは殆ど立方体に近い建物は奥行き12m、幅10mで高さ16mであり、ピュタゴラス(Pythagorean)の調和の基づき互いに調和した関係にある。元々は天国にある神の寺院の地上での反映として現在の場所にアダム(Adam)によって最初の寺院が建てられた。」と述べている。
「回教徒の風習と習慣(Moeurs et coutumes des Musulmans)」: アフリカ探検家ゴーティエ(E.F. Gauthier)が著述し、1931年パリで出版された。
壊血病(Scurvy): ビタミンC欠乏症。
海産サソリ(Sea-Scorpion): カジカ(Sculpin)、(古生)海産サソリ。
カイバール ジャノウブ(Khaybar Al-Janoub): 長老を意味するこの町はカミス ムシャイト(Khamis Mushait)の北にあり、涸れ谷ジャジラー(Wadi Jazirah)に沿って並ぶ。
カイバルの戦い(Battle of Khaybar): ハイバル遠征(Expedition to Khaybar)とも転写されている。628年にムハンマド(Muhammad)はマッカ(Makkah)住人とフダイビーヤ(al-Hudaybiya)の盟約を結び、マディーナ(Madina)に戻ると、ユダヤ教徒のナディール族(Banu Nadir)が住むカイバル(Khaybar)の町に遠征した。1月程の包囲戦の後、住民は降伏し、ナツメヤシの実や穀物の収穫の半分を差し出すとの条件で住民はそのままカイバル(Khaybar)での居住が許された。しかしながら、第2代正統カリフのウマル イブン ハッターブ('Umar ibn al-Khattab)の時代に追放された。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ガイブ(ghayb): 目に見えない物(Invisible or al-ghayb)として引用している非顕在的な世界の言葉。
カイマカマト(Qaimaqamat)、カイマカム(Qaimaqam): ジッダ(Jiddah)のメディナ門(the Medina Gate)の左に見える傑出した建物。
カイム ジャウジヤ(Qayim al-Jawziyah): 1350年没、イブン タイミヤ(Ibn Taymiyah)の弟子。
カイン(Khayn): 背信行為(Treachery)。
花崗岩地帯(Granite Area): 花崗岩地帯はアラビア盾状地(Arabia Shield)の主要部である。この地域は緩やかに起伏しているが、ハイル(Hayi)lのアジャ山塊(Jibal Aja)等、場所によって大地が筋肉の様に盛り上がっている。この様な山塊はその赤黒い山肌と、その麓に生える緑の木々が青い空を背景にして素晴らしい調和を作り出している。麓の砂地に生えて居る木々はタルー(Gerrardi or Talh)、サムグー(Tortillis or Samgh)等のアカシア(Acacia)である。花崗岩の山(Granite Mountains)の3分の1はそのもともとの滑らかな山肌を残している。その他の3分の1はその山肌は比較的大きな4角に近い大石に割れている。タルーはその大石の割れ目でも生長し、まるで箱庭の絵の様な景色となる。残りの3分の1では風化され更に小さな四角張った小さな小石に割れ、山肌を非常に黒ずんだ黄土色に見せている。
火山岩地帯(Harrats): 火山岩地帯(ハラット)はヒジャーズ-アシール山脈(Hijaz - Asir Mountains)の東側に発達している。この地域は火山岩(Volcanic Rocks)、熔岩(Lava)、火山灰(Ash)で覆われており、火山がこの地域の至る所に散らばっている。これらの火山は死火山か休火山であり、活火山は見受けられない。ハイル(Hayil)南にあるタバー火口(Tabah)の割れ目の発達(Developing Crevasse)等、一般に知られているような火山活動は極めて限られている。これらの火山は高くも大きくもないが、タイフ(Taif)の北東にあるワハバ火口(Wahaba Crater)等はその周囲が11kmもある。ワハバ火口はその大きさばかりでは無く、その火口の底に湖の様に堆積した白い沈殿物や火口周囲の緑の豊かさでも有名である。粘性が低い為に熔岩は非常に長い距離を容易く流れ、広い範囲を薄い熔岩膜で覆っている。この薄い熔岩膜は土壌の水分の蒸発抑える為に、火山岩地帯では多くの植生が育っているのが見られ、その植生に依存する部落も散らばっている。
カシア(Cassia): 桂あるいはトンキンニッケイと呼ばれるクスノキ科の常緑高木で、原産地はインドシナ、華南で多く栽培され、高さは10mで、全体に報告があり、葉は革質、花は小さく白色、樹皮・枝は桂皮・桂枝と称し、芳香性健胃薬・鎮痛剤として使われ、桂皮油を取り芳香剤とする等、桂皮は肉桂(cinnamon)の代用品に使われる。
カースト(Caste): ヴァルナ(身分制度)とも云う。ヒンドゥー教の展開のなかで、ヴァルナ(Varuna)(四姓(varna)および四姓制度)が強く指摘される。カーストは基本的な分類が4つあるが、その中には非常に細かい定義があり非常に多くのカーストがある。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけで、生まれた後にカーストを変えることはできない。ただし、現在の人生の結果によって次の生など未来の生で高いカーストに上がることができる。基本的な4つのカーストとカースト外の身分には、以下のものがある。なお、カーストによる差別は1950年に憲法で禁止されている。@ バラモン(Brahman): ブラフミン(Brahmin)(婆羅門)とも云う。神聖な職についたり、儀式を行うことができる。「司祭」と翻訳される。A クシャトリヤ(Kshatriya): 刹帝利は王や貴族など武力や政治力を持つ。「王族」、「武士」と翻訳される。B ビアイシャ(vaishya): ヴァイシャとも云い、 商業や製造業などにつくことができる。「平民」と翻訳される。C スードラ(Shudra): シュードラ(首陀羅)とも云い、 一般的に人々の嫌がる職業にのみつくことが出来る。スードラはブラフミンの影にすら触れることはできない。「奴隷」あるいは「賎民」と翻訳されることがある。先住民族であるが、支配されることになった人々である。
カズラジ族(Tribe of Khazraj)についてはアンサール族(Ansar)およびブ‘アスの戦い(Battle of Bu’ath)等を参照。
カスル ビラル(Kasr Bilal): 私が1975年にハファル バーティンを訪れた時には町自体が大きくは無く、この城(カスル ビラル)が町の真ん中に聳えていた。屋根と壁の一部は無かったがその内部では当時の東アラビアの名産でハファル バーティンが集積地であるナジド種を含む羊の市が開かれていた。1998年に訪れた時には城は既に潰され、誰に尋ねてもその位置すら分からなかった。サウジの考古学博物館庁は解説等の看板を立てる事等はまったくしないにせよ文化的遺跡には柵をめぐらせて立ち入り禁止にして保護している。周囲のニッタア(Nitaa)、カリヤ アル ウルヤ(Qaryah Al Ulyah)、リナ(Linah)等がその様に保護されているのにこのビラル城(Kasr Bilal)は相当に古かったのに全く保護されなかったのを不思議に思っていた。ブレーン夫妻(Mr.& Mrs. Brain)によれば「ガイラン家(the House of Ghailan)発祥であるバニ ヒラル(Bani Hilal)族の首長が可愛がっていたビラル(Bilal)と云う名の奴隷がいた。ビラルは駱駝交易で大きな富を得て、カスル ビラル(Kasr Bilal)を築いた」とシェークスピア大尉(Captain William Henry Irvine Shakespear)は述べていると言う。その様に奴隷が築いたのであれば保護されない事にある程度は納得出来る様な気がする。
カスル ビン ラマン(Qasr bin Raman): カスル ビン ラマン城は1338年に代々タイマ(Tayma)の領主であったラマン一族(Al Raman)がタイマに築城し、20世紀に入ってイブン サウド(Ibn Saud)に服従した。城の入り口の大きな木製扉付近の男用の住居はかなり荒れているが中庭を挟んだ家族用の住居には石がふんだんに使われており、保存状態も良い。家族用住居の台所には小さな木製の鎧戸があってそこから直接城壁の外側に設けられた井戸から水を汲み上げられる仕組みになって居た。井戸が外敵に脅かされ易い城外に何故作られているのか疑問を感じた。カスルの周りはナツメヤシの林とその木陰を利用した伝統農園に成って居たが今はナツメヤシも焼かれて荒れるに任されている。
カタバ アブド アル-カリム首長(Amir Qataba ibn Idris Ibn Mutaim ibn Abd al-Karim): ヒジュラ暦586年(西暦1190年)に廃止された北アフリカ人に対して貢ぎ物の厳しく取り立てを再び賦課しようとしたがその死で挫折した。
カタバーン王国(Qataban): カタバーン王国(Qataban)はバイハン渓谷(Baihan Valley)に栄えたイエメンの古代王国の一つであり、紀元前1000年期後半における最も代表的南アラビア古代王国であった。他の南アラビアの王国と同じ様に祭壇(Atlar)で炊かれる乳香(Frankincense)と没薬(Myrrh or Myrrha)の交易で大きな富を得ていた。カタバーン王国(Qataban)の首都はティムナ(Timna)であり、ハドラマウト王国(Hadhramawt)、シバ王国(Sheba)およびマーイン(Ma'in)王国等他の南アラビア古代王国を通る交易路に位置していた。カタバーン王国の守護神は叔父を意味するアンム(Amm)であった為、その民は自らアンムの子供達(Children of Amm)と名乗っていた。カタバーン語はカタバーン人(Qatabanian)が用いたシバ語(Sabaean)である。
この王国は2世紀の後半にはハドラマウト王国によって属領化されてしまった。
カダル派(Qadariyah):ウマイヤ朝(Umayyad Period, 661 – 750)末期、シリア(Syria)のダマスカス(Damascus)において予定説に対して人間の自由意思説を唱えた一派である。神の予定(カダル(Qadar))と人間の自由意思に関する議論で、カダルは神ではなく人間の側にあるとすることから人間の行為能力、倫理責任と自由意思を強調した人達をカダル派という。一般にはカダー ワ カダル(Qada’ wa Qadar)と並べて使われ、神の予定・決定を意味するが、カダー(Qada’)は永遠の相のもとで捉えられた神の予定を意味するのに対してカダル(Qadar)は時間のもとで存在にもたらされる神の予定を意味することが多い。カダル派と対抗するのがジャブル派(al-Jabriya)であり、カダル派の自由意思説はムウタズィラ学派(Mutazilite)に継承された。カダルの問題は後に獲得理論によって解決されることになるという。(出典: 岩波イスラーム事典、Wikipedia等)
カタン(Qatan): ナジラン市(Najran)の北山地の涸れ谷ハボウナー(Wadi Habounah)の右股流域に在る部落であり、その名には「綿作り」と云う意味もあるが、この地域に勢力を張るカッタン族(Qattan)に因んだ地名だと思われる。その直ぐ上流には北へはヤダマー(Yadamah)、南へはサール(Thar)への分岐が在り、さらに上流には山間の農村が在る。
ガーツ山脈(Ghats): インドのデカン高原(Decan)の両側を走る二つの山脈で東ガーツ山脈(Eastern Ghats)および西ガーツ山脈(Western Ghats)と云う。
ガッサニド朝(Ghassanids): (ガッサーン朝(Ghassanids)参照)。
ガッサーン朝(Ghassanids): ガッサーン族(Ghassanids)は南アラビアのカハタン部族(Qahatan Tribes)のカハラン支族(Kahlan Branch)の一門で、三世紀始めにイエメン(Yemen)のマリブ(Ma’rib)からシリア(Syria)南部の火山性平原ハウラン(Hauran)、ヨルダン(Jordan)および聖地(Holy Land)(パレスチナの地)に移住し、そこでヘレニズム化したローマ人移住者(Hellenized Roman Settles)およびギリシャ語を話す原始キリスト教徒集団と婚姻関係を結んだ。ハウラン(Hauran)に定住したジャフナ イブン ‘アムル(Jafna ibn ‘Amr)の一族はガッサーン朝(Ghassanid)を創建し、土着のアラム人(Aramaeans)からキリスト教を受け入れた。ローマ人(Romans)はガッサーン朝(Ghassanids)をローマ領を侵す他のベドウイン(Bedouin)に対する緩衝地帯として同盟を結んだ。地理的にこの王国はシリア(Syria)、レバノン(Lenanon)のヘルモン山(Mount Hermon)、ヨルダン(Jordan)およびイスラエル(Israel) の大部分を占めており、その威光は部族同盟を介して北ヒジャーズ(Northen Hijaz)からはるか南の現在のメディナ(Medina)であるヤスリブ(Yathrib)までに住む他のアズド一門(Azds)に及んだ。「ローマ皇帝ピリップス アラブス(Phillip the Arab, 244 to 249)はガッサーン族(Ghassanids)の出ではないか」と云われている。ビザンティン帝国(Byzantine Empire)はもっと東に興味を持ち、ペルシア(Persians)との長期戦争が常に主要な関心事であった。ガッサーン朝(Ghassanids)は交易路の擁護者として支配を維持し、ベドウイン族を取り締まり、ビザンティン帝国陸軍に兵隊を供給していた。ガッサーン王ハリス イブン ジャバラ(al Harith ibn Jabalah, 529 - 569)はササン朝ペルシア(Sassanid Persia)に対抗するビザンティン帝国を支援し、皇帝ユスティニアヌス1世(Justinian I or Justinian the Great, 527 - 565)から西暦529年に国境部族国家の支配者(Phylarchs)の称号を与えられた。ガッサーン朝(Ghassanids)は経済的に繁栄しており、ペルシア(Persian)と同盟し、南イラクと北部アラビアに覇権を持つヒーラ(Hirah)のラフム朝(Lakhmids)に十分に対抗していた。ガッサーン朝(Ghassanids)はビザンティン帝国(Byzantine Empire)の隷属国(Vassal State)として七世紀に西暦636年のヤルモウクの戦い(Battle of Yarmouk)の戦いの後、その支配者がムスリム(Muslims)によって崩壊させられるまで続いた。この戦いで12,000人のガッサーン族アラブ(Ghassanid Arabs)がムスリム(Muslims)側に寝返った。ハリス イブン アビ シムル(al Harith ibn ani Shimr)の後継者であるジャバラ イブン アイハム(Jabalah ibn-al-Aiham)は私闘でウマル イブン ハッターブ(‘Umar ibn al Khattab, 592 - 644)に罰する様に命じられ、イスラムを棄教(apostatize)してビザンティン領(Byzantine's Land)に向かった。ガッサーン族(Ghassanids)の殆どがキリスト教への信仰を続け、レバント(Levant)に留まった。ジャバラ(Jabalah)とおよそ3万人のガッサーン族(Ghassanids)がシリア北部を離れ、新たなビザンティン国境領に定住した。建国を許されなかったが、高い地位を維持し、西暦802年から813年までビザンティン帝国(Byzantine Empire)を支配し、東ローマ帝国の偉大さを復元したニケポロス ビザンティン朝(Nikephoros Byzantine Dynasty)さえも生み出した。
ガッズ(ghazz): 文字通り戦闘(battle)であるが、多くの場合、生まれたばかりのイスラーム共同体(Islamic community or umma Islamiya)のイスラームを受け入れる前のメッカ住民(Meccan)とその同盟軍に対する初期の戦闘を意味する。
カッタブ モスク(Al-Khattab Mosque): デューマト アル−ジャンダル(Dumat al-Jandal)のマリド城(Qasr Marid)から町への入り口に石作りの回教寺院城がある。この回教寺院はサウジアラビア国内で最も古く、言い換えると世界中で一番古い回教寺院であるが、何度も何度も修復され現在も使われている。この寺院に付属する光塔(Minaret)は特徴のある細いピラミッド型をしている。
カッチ(Cutch): インド西部の旧州ブジ(Bhuj)で現在はグジャラート(Gujarat)州の一部。カッチ湾(the Gulf of Kutch)を臨む。
カッファ港(Caffa): 現在のウクライナ共和国(Republic of Ukraine)クリミア半島(Crimea Peninsula)にあるフェオドシヤ(Feodosia)であり、紀元前6世紀頃ギリシャ(Greeks)の植民市としテドシア(Theodosia)として建設され、穀物を輸出する重要な役割を果たした。ゲルマン民族(Germans)の攻撃で荒廃し、13世紀十字軍によってビザンチン帝国(Byzantine Empire)が一時滅亡した時期にジェノヴァ(Republic of Genoa)の支配を受け、カッファ港(Caffa)と改称した。18世紀待つロシア帝国(Russian Empire)に併合され、フェオドシヤ(Feodosiya)となった。
カッラク船(Carrack): 14 - 15世紀のスペイン人・ポルトガル人の武装ガレオン(Galleon)商船。
ガッルス(Aelius Gallus): (ガルス(Aelius Gallus)参照。)
カディージャ(Khadijah): ハディージャとも転写される。カディージャ(Khadija bint Khuwaylid, 555 - 619)は預言者ムハンマド(Muhammad)の妻で最初のイスラーム信者、メッカのクライシュ族(Quraish)アサド家(Asad)の女性で隊商貿易を経営した富裕な商人であった。ムハンマドはカディージャに雇われてシリアへの隊商に従事し、その人柄を見込まれ、カディージャから結婚を申し込まれた。当時25歳だったムハンマドよりも15歳年上のカディージャにとっては3度目の結婚であったが2人の間には2男4女が生まれた。残念な事にその中の男子は夭折した。ムハンマドが預言者としての「召命」を受けた時にカディージャ(Khadijah)は最初の入信者となり、その後もメッカで迫害されたムハンマドを良く助け、イスラームの確立を助けた。その没年にはムハンマドを保護していたハーシム家(Hashim)の長も亡くなり、この年は「悲しみの年」と呼ばれ、ムハンマドがメディナへ移住を決意する一因となった。カディージャは現代に至るまで良き信徒・良き女性の模範として語られている。(出典: 岩波イスラーム辞典)
カティーフ プロジェクト(Qatif Project): このプロジェクトは世界最大の原油生産施設の建設であり、この完成でアラムコはカティーフに原油処理量80万バレル/日(12.7万立方米/日)、随伴ガス処理量370mmcfd(1,000万立方米/日)、コンデンセート4万バレル/日(6千立方米/日)、硫黄生産量1,800トン/日の生産能力を保有する。
カディーブ(Khediveh): オスマントルコ政府派遣のエジプト総督(1867年から1914年の間)の称号。
カディール派(Qadiriyyah): カディール派はイスラ-ム教の神秘主義哲学であるスーフィズム(Sufism)*のもっとも古い修道会(Oldest Sufi Tariqas)の1つであり、その名はアブドゥル カディール ギラニ(Abdul Wadir Gilani, 1077 – 1166)に因んで付けられた。アブドゥル カディール ギラニはスンナ派四大法学派の一つであるハンバリ学派(Hanbali)*ペルシアの説教師であった。又、スーフィ(Sufi)の崇拝される賢人(Sheikh)であり、カディール スーフィ修道会の名目上の長でもあった。カディールは早期イスラ-ム教神秘主義哲学の偉大なペルシア人指導者の1人であるジュナイド バグダディ(Junayd Baghdadi, 830 – 910)から精神的なきずなを受け継いでおり、イスラーム世界(Muslin World)の思考に対する貢献でムヒユッディーン(Muhiyuddin)(信仰の復活者)の称号を得ている。1134年にはバクダッド(Bagdad)のハンバリ学派学校(Sunni Hanbalite School in Bagdad)の校長に任命されている。イスラーム世界ではスーフィ修道会(Sufi Order)がもっとも広く行き渡り、アフガニスタン(Afganistan)、インド(India)、バングラディシュ(Bangladesh)、パキスタン(Pakistan)、トルコ(Turkey)、バルカン諸国(Balkans)、中国(China)およびモロッコ(Morocco)等の東西アフリカで見出せる。又、欧米でも小さなグループがあり、著名な探検家で著述家のイサベル エベルハルド(Isabelle Eberhardt, 1877 – 1904)もカディール派修道会(Qadiri Order)に属していた。
ガドガダー(Al Qadqadah): アシール(Asir)から空白地帯(Empty Quarter)へと流れて出た涸れ谷ハブナー(Wadi Habunah)の古い河床は小さな玉石や砂利の原を意味するガドガダー(Al Qadqadah)と呼ばれているが、この涸れ谷の上流域のアシール山中には今日でも大きなタマリスク(Tamarisk、ギョリュウ)の群生がある。
ガーナ(Ghana): 現在のガーナは旧称は黄金海岸(Gold Coast)と云い、ギニア湾岸の英連邦の国で19世紀末英国保護領になり、20世紀始めに民族独立運動が興り、1957年独立、60年に共和国となった。主要産品はカカオで他に金、ダイヤモンド、マンガンを産し、面積23.8万km2、人口1,745万人(1995)で首都はアクラ(Accra)。又、セネガル(Senegal)東部、マリ(Mali)南西部、モーリタニア(Mauritania)南部等ギニア(Guinea)湾に臨むアフリカ西岸の一地方で現在のマリ西部ににまたがる地域に4 - 13世紀に栄えた別名ガーナ(Gana)と云う古代王朝があった。
カナノア(Cananore): マラバル海岸(Malabar Coast)でカリカット(Calicut)より帆船で3日間の航海分北に位置した港町で、16世紀にマラバル海岸のコーチン(Cochin)およびゴア(Goa) と共にのカリカット(Calicut)に準じる香辛料貿易港の1つであり、現在のケララ州(State of Kerala)カンヌール(Kannur)。
カナノール王国(Kingdom of Cananor): アフリカからインドへ渡る船は最初の陸地としてカナノア(Cananore)の北に堂々としたディリ山(Mount Dilli)すなはちデリ山(Mount Dely)が見た。これはインド海岸のカナノール王国(the kingdom of Cananor)にある大きな山で、この国の人々は自分達の言葉でデリエリー山(Mount Delielly)、すなわちネズミ、或いはデリー山(Mount Dely)と呼んだ。これはこの山にはこの国の人々が村を作れない程、多くのネズミが居た為である。
カナリア諸島(Canaries): アフリカ北西岸沖にある諸島で、スペインの自治州をなし、ラス パルマス(Las Palmas)とサンタクルス デ テネリフェ(Santa Cruz de Tenerife)の2県で構成されている。
「金持ち王マニュエルの年代記」: ポルトガルの歴史家ダミアン デ ゴイス(Damião de Gofs)が1566年に初版本出版、復刻版はコインブラ(Coimbra)で1949 - 1955年に出版された(Crónica do Felicíssimo Rei D. Manuel composta por Damião de Gois Nova edição conforme a primeira de 1566. Coimbra 1949 - 1955.)」。
カハタン族(Qahtan): カハタン族(Qahtan)は南セム族血統(South Semitic Sphere)の南方系アラブ人で転写も和文へはカハタニ族、カータン族、カハターン族、カハタン族、カフターン(Qahtan)、英文へはQahtani、Qahtanis、Qahtanite、Kahtan等、様々にされている。カハタン族(Qahtan)はノア(Noah)の息子セム(Shem)の子孫ヨクターン(Joktan)と同一視されているカハターン(Ya‘rub bin Yashjub bin Qahtan)の子孫で半島南部では一般的でとりわけイエメンおよびオマーンの一部に多い。放牧部族とは異なり、カハタン(Qahtan) 族は一定の地域に定住し生活基盤を持った農民であり、かつては南アラビアの古代農業文明を作り出した。カハタン(Qahtan)族は純粋のアラブ族(Pure Arabs)と呼ばれ、イシュマエル(Ishmael)*’を始祖とし、アラブ化したアラブ族(Arabized Arabs)と呼ばれ、北部、中部および西部アラビアに勢力を持つアドナン族(Adnan)と対峙していた。アラブ族のこの区分は恐らく南西アラビアの定住耕作者と中央および北部アラビアの遊牧民との間の二分化に反映され、南西部の古代南セミ語を話す部族と北部アラビアのアラム語(Aramaic)の影響を受けた方言を話す部族の間での言語的区分を思い出させる。カハタン(Qahtan) 族はヒムヤール(Himyar)族とカハラン(Kahlan)族に大別される。主なカハタン(Qahtan)族に属する部族としてはクダア‘ア族(Qudaa’a(t))、アズド族(Al-‘Azd)、ガッサーン族(Gassaan)、ラクム族(Lakhm)、キンダ(Kinda(t))、アワス族(Al ‘Awas)、カズラジ族(Al Khazraj)、タイイ族(Tay’)(シャンマル族(Shammar))、ハムダアン族(Hamdaan)等が挙げられる。
(出典: 岩波イスラーム辞典、Wikipedia)
カバ水井戸(Khaba): 現在のサウディ アラビア領のアラブ首長国連邦南西部に近い国境地帯ダファラ(Dhafara)のほぼ東南の外れにある水井戸で、少し塩辛いが飲料用に使える。
カハタン族(Qahtan): ノア(Noah)の息子の一人であるカハタンの子孫と信じられているカハタン部族は半島南部では一般的でとりわけイエメンおよびオマーンの一部に多い。放牧部族とは異なり、カハタン(Qahtan) 族は一定の地域に定住し生活基盤を持った農民であり、かつては南アラビアの古代農業文明を作り出した。カハタン(Qahtan)族は南アラビアのアラブ族全ての始祖であり、後にアラブ化した’アドナン('Adnan)まで家系を遡る北部のアラブ族と明確に区別される。アラブ族のこの区分は恐らく南西アラビアの定住耕作者と中央および北部アラビアの遊牧民との間の二分化に反映され、南西部の古代南セミ語を話す部族と北部アラビアのアラム語(Aramaic)の影響を受けた方言を話す部族の間での言語的区分を思い出させる。カハタン(Qahtan) 族はヒムヤール(Himyar)族とカハラン(Kahlan)族に大別される。主なカハタン(Qahtan)族に属する部族としてはクダア‘ア族(Qudaa’a(t))、アズド族(Al-‘Azd)、ガッサーン族(Gassaan)、ラクム族(Lakhm)、キンダ(Kinda(t))、アワス族(Al ‘Awas)、カズラジ族(Al Khazraj)、タイイ族(Tay’)(シャンマル族(Shammar))、ハムダアン族(Hamdaan)等が挙げられる。
ガハル山 (Jibal Alqahr): アシール州(Asir Province)内陸部にある「制圧」との意味を持つ名を付けられたの山で、北にある同名の山とで涸れ谷タスリス(Wadi Tathlith)との間を遮る山稜を成している。この山を源流として涸れ谷ナ‘アム(Wadi Na’am)が北へと同名の山方面に下っており、この山の南では100万年前以上アチュリアン(Acheulean)文明の遺跡が見付かっている。
カビール バク アンマール ザールカシ(Khabir Bak al-Ammar al-Djarkasi): ヒジュラ歴917年(1511 -1512)の頃のメッカ(Mecca)の首長(バシュ(Bash))。
カフ(Kaf): ツライフ(Turaif)から約130kmでクライヤト(Al Qurayyat)へ20km辺りの火山の麓に大きな砦(Qasr)が見えてくる。説明書きに1338年建造と記されている。砦(Qasr)の奥に相当大きな集落であったと思われる廃虚がナツメヤシの木陰に並んでいる。この廃村と砦(Qasr)から長円型に下っている火山の切り立った裾の間を抜けサブハ(Sabkha)に出て行く。そのサブハ(Sabkha)からは長円型の台地の様な火山が幾つも立ち上がっている。このサブハが涸れ谷シールハン(Wad`il Sirhan)がハッラト アル ラジル熔岩地帯(Harrat Al-Rajil)とも呼ばれるハッラ熔岩地帯(Harrat Al Harrah)と隣接している場所の様だ。
カフジ(Al Khafji): アラビア石油(株)が1960年に建設した鉱業所があったアラビア湾岸北部のクウェイト(Kuwait)国境の町で、東部州の伝統的な集落ではない。
カフタン(Caftan、Kaftan): トルコ人・アラビア人などの着る帯の付いた長袖の長衣。
ガブリエル(Angel Gabriel): イスラム教では天使ガブリエルはジブリール(Jibril)と呼ばれている。イスラム教ではジブリールがアッラーフ(Allah)の命を受け、預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)に『クルアーン(Qur’an)』をもたらしたとされるため、ジブリールは天使の中で最高位とされる。610年頃、ヒラー山の洞窟(Cave of Hira)でムハンマドが瞑想している時、天から大天使ジブリールが現れ、イスラム教の聖典クルアーンの啓示が始まったと伝えられている。それから二十三年間、ジブリールはムハンマドの元を度々訪れ、クルアーンの啓示を全て授けていった。イスラム教の伝承によると、ムハンマドはある夜ジブリールに起こされ、翼を持つブラークと呼ばれる動物にまたがり、ジブリールに導かれてエルサレムの夜の空の旅に出る。そこでムハンマドは天国と宇宙を訪れ、全ての預言者に出会い、彼らと共に礼拝を行い、その後再びブラークに乗り、メッカへと戻ってきた。イスラムの伝承では、ジブリールはハガル(Hagar)とイシュマエル(Ishmael)が荒野で死にかけていた時に、彼らのために決して減ることのない井戸をメッカに掘った。また、ジブリールは624年バドルの戦い(Battle of Badr)において、ムハンマドと彼の率いるイスラム教徒の軍勢と共に、反イスラム教の戦士たちを相手に戦い勝利を導いたといわれている。(出典:ウィキペディア)
カボヴェルデ諸島(Cape Verde Islands): 西アフリカのセネガル西方海上の諸島(39万)、1975年にカボヴェルデ共和国としてポルトガルから独立、首都はプライア(Praia)。
カボチャ: 野菜として広く栽培されているウリ科植物の総称(Squash)である。
ガボン(Gabon): アフリカ中部のギニア湾に臨み、1910年仏領赤道アフリカの一部であったが、1960年にフランスから独立した。原油産出国で面積26.7万km2、人口150万人(1996)、首都はルーブルヴィル(Liberville)で、ガボン川(Gabon River or Gabon Estuary)の北西部に位置する。
ガボン川(Gabon River or Gabon Estuary): ギニア湾(Gulf of Guinea))に流入するガボン北西部にある長く広い河口部でコモ川(River Komo)およびエベ川(Riber Ebe)が流れ込んでいる。。
カマシーン(Khamasin): 「熱い南からの季節風」の意味で、この季節風は砂嵐を伴うことが多い。激しいカマシーンでの砂嵐の中でも灌漑用の水撒きを行っている様な涸れ谷ダワシール(Wadi ad Dawasir)の状況ではその中心の町にこの名が付けられている理由が分かるような気がする。
カマラン島(Kamaran): アルボケルケ(Alboquelque)は1513年3月にアデン(Aden)を襲ったが、この市はアルボケルケが予想していた以上に堅固で、防御されており、アルボケルケの攻撃は撃退された。この失敗で憤慨したアルボケルケは途中で出会うアラビア船を燃やし、無防備の捕虜を八つ裂きにする等の残虐行為を行いながら紅海に入ったが、この危険な水域の知識に欠け、ジッダ(Jiddah)には到達出来ず、カマラン島(Kamaran Island)へ入港した。そこでは病気、戦闘、悲惨な気候および栄養不良等で多くの乗組員を失った。その時、アルボケルケはペリム島(the island of Perim)を探索したが、その理想的な位置にもかかわらず、水は全く無く、要塞としては不十分である事が分かった。アデンの戻ったアルボケルケはこの町が以前にも増して強固に防護されているのを見て、二回目の攻撃は行わず、最終的にインドへと横断した。1515年にライス スライマン(Rais Sulayman)の艦隊はフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)の艦隊を併合し自分達への命令を完了する為にジッダを出発した。彼等の最初の目標はポルトガル人達(Lusitanians)への戦争の前哨基地としてのイエメンの征服であり、そして戦略的に重要なアデン(Aden)が後に奇襲(coup-de-main)して反抗しない様に征服する事であった。第一段階として、スライマン艦隊はカマラン(Kamaran)に上陸し、この島に要塞を築いた。しかしながら、スライマン艦隊の行ったイエメンでの全ての戦闘は勝利した中で、アデンは城壁が砲撃で目に見える程にも損傷しているにもかかわらず、彼等の攻撃を退けた。ロポ ソアレス デ アルベアガリア(Lopo Soares de Albergaria)は1517年4月16日にジッダ海域を出航してカラマン(Karaman)へと航行した。ロポ ソアレスはカラマンでマムルーク朝(Mamluk)の要塞を撤去した。しかしながら、この荒涼と島の悲惨な宿泊の中でプレスター ジョン(the Prester John)への大使の指名を受けたドン ドゥアーテ ガルバン(Dom Duarte Galvão)を含む多くのポルトガル人達が病気と飢えに倒れ、一方でその中の17名が捕虜としてジッダに連れ去られた。
カミス ムシャイト(Khamis Mushayt): 「ムシャイト族の木曜の市」を意味する名が付けられたアシール州(Asir Province)第2の市である。以前に「火曜市」と記述を誤ったのでお詫びして訂正する。軍事基地もあるが今でもアシール州(Asir Province)を含む南西サウジアラビアの商業の中心であり、行政の州都アブハ(Abha)と対を成して居る。
神の家(House of God or bayt al-'atiq): バイト アティーク(神の家(House of God or bayt al-'atiq))は古代の家(Ancient House)ともアラブ族には呼ばれている。ムスリム(Muslims)はカアバ神殿(Ka'bah)の別称としてバイト アティーク(bayt al-'atiq)を使っている。
カメルーン(Cameroons): アフリカ中部、ギニア湾(Gulf of Guinea)奥にあり、英連邦に属す元ドイツ領、第一次大戦後英仏の信託統治領を経て、1960年に仏領、1972年英領も独立連合共和国結成し1984年にカメルーンと改称、面積47.5万km2、人口1,604万人(2004)、首都はヤウンデ(Yaoundé)。
カモンイス(Camões): ルイズ ヴァズ デ カモンイス(Luiz Vaz de Camões, c. 1524/1525 - 1580)、ポルトガルの詩人で1572年に大叙事詩「ウスルジーアダス(ウズ ルジアダス)(the Lusiads or Os Lusiadas)」を叙述した。「ウスルジーアダス(the Lusiads)はポルトガル人の意味であり、カモンイス(Camões)が作ったポルトガルの愛国的なこの大叙情詩ではインド航路の発見やヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)の第一回遠征を中心にポルトガル航海者の冒険が物語られている(10編99詩句)"Gidá, que ihe fallece agua das fontes doce, r cystallina. "Jiddah, scant-supplied - with fountain water sweet and crystalline"。
ガラシュ(Garash): ガラシュ(Garash)は英語にはJarashとも転写される。カミス ムシャイト(Khamis Mushayt)の南西20 kmにあるアハド ラフィダー(Ahad Rufaidah)の更に7、8 km南西のワディ ビシャー(Wadi Bishah)の南岸にあるジャラシュ(Jarash)には11世紀頃までイエメン(Yemen)からの巡礼交易路の重要な拠点であったイスラム以前やイスラム初期までの石造りの巨大建造物の遺構や泥作りの住居跡が残って居る。「このジャラシュ(Jarash)のハムマー山(Jabal Hamumah)の傍にシェバの女王(Queen of Sheba)がソロモン王(King Solomon)に会うための道中での野営地であったビルギス(Bilqis)があった」とこの地方では信じられている。
ガラ奴隷(Galla Slaves): 誤ってアビシニア人(Abyssinians)奴隷と呼ばれているが、ガラ(Galla)はエチオピア(Ethiopia)最大のオロモ族(Oromo)の蔑称である。エチオピアでの早期の近代国家と云われるカッファ王国(Kingdom of Kaffa, c.1390–1897)は金と麝香油(Civet Oil)と奴隷交易を経済の基盤としていた。
カラ ムスタファ パシャ(Kara Mustafa Pasha): トルコの大宰相(Grand Vizier) カラ ムスタファ パシャ(Kara Mustafa Pasha, ca 1635 - 1683)は1676年から1683年までジッダ(Jiddah)に赴任し、この市の東にある井戸から清水を運ぶ送水管、新しいカン(Khan)(隊商宿(caravanserai))、新しいハンマッム(hummam)(公共浴場)およびモスク(mosque)(回教寺院)を整備した。
カラムバク(Odoriferous Kalambac): 白檀 (the sandal wood)と共にインドから運ばれて来るその他の数珠(rosaries)の材料の一種で芳香がある。
カールヤト ファウ(Qaryat al-Faw): この遺跡はナジラン(Najran)の北北東289 kmでワディ アルーダワシール(Wadi al-Dawasir)の南80 kmに位置している。この城塞都市は駱駝隊商路に紀元前200年から紀元200年頃に栄えたキンダー族(Kinder)の支配下にあった。ここで裕福な部族都市の精巧な遺構が宮殿、寺院、防御壁、二階建てのスーグ(Suq、市場)、1 km x 2 kmの広さの住居地区、井戸群と灌漑された大きな農園と果樹園が共に発掘された。この遺構遺跡は紀元前二世紀から遅くとも紀元五世紀の時代のものと思われる。ガラス、宝石、金属細工、織物の切れ端、木工細工、青銅、石像、碑文や壁画も出土し、貨幣まで鋳造していたこの沙漠都市の持って居た高度な文明を証明している。
カルロ アルベルト ナリノ(Carlo Alberto Nallino): 現代以前(Premodern)の時代でのサウジアラビアへの最後の訪問者はナリノであった。ナリノはイタリア人(Italian)でローマ大学(University of Rome)のアラビア語教授であり、1938年に娘のマリア(Maria)と共にアブドゥルアジズ王(King Abdulaziz)の招待客としてサウジアラビアを訪問し、豊かで偉大な能力を持ってターイフ(Taif)やジェッダ(Jeddah)等についての非常に興味ある内容を詳細にわたって著述した。マリアは最終的に同大学のアラビア言語の議長を引継ぎ、父ナリノの死後、その著述を「公開文章と非公開文章の蒐集(a Raccolta di scritti editi ed inediti)」として編集し、1939年から1948年にイタリア オリエント協会(Istituto Italiano per I'Oriente)から出版した。その蒐集の初巻が「サウジアラビア(L'Arabia Sa'udiana)」であり、M. ナリノ(Maria Nallino)は原文を編纂し、ジェッダに居たアブドゥルアジズ王に謁見する途中でターイフとその周辺を訪問する許可を得た父ナリノがマッカ(Makkah)を通らずにターイフ(Taif)とジェッダ(Jeddah)の2つの市の間で辿らなければならなかった行程を説明している図等を描き直して1939年にローマで出版した。
カリカット(Calicut): インド南西部ケララ(Kerala)州のマラバール(Malabar)海岸にある港湾都市(人口45万)で植民地時代ヨーロッパ貿易(東西貿易)の重要な基地であった。1498年バスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)はこの地の北約25kmの地点に上陸した。又、明の鄭和の拠点でもあった。かつてはキャラコ(calico)の産地であったが、自然の港が無く、近代的な船は入港出来ず、その上、繰り返し破壊されたので、今ではコージコード(Kozhikode)として知られる小さな港に格下げされている。
カリフ(Caliph): ハリーファ(Khalifa)とも転写されるイスラム世界の最高権威者の称号。カリフはあくまで預言者の代理人に過ぎないため、イスラムの教義を左右する宗教的権限やクルアーン(コーラン)を独断的に解釈して立法する権限を持たず、かわりにこれらはウラマー(Ulma’)達(知識人・聖職者)の合意によって補われ、ただイスラーム共同体の行政を統括し、信徒にイスラームの義務を遵守させる役割しか持たない。(ウィキペディア)
カリファ(Kalifa): カリファの記録に基づきデュアルト バールボサ(Duarte Barbosa)とバロス(João de Barros)はカリカット(Calicut)の要塞(1514)とジッダの城壁が同じ時期に建設されたとの推論の根拠にしている。
ガリーブ エフェンディ ビン ムサ‘エド(Sharif Ghalib Efendii bin Musa'ed): シェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb)参照。
カリメール岬(Calimere): インド南東岸タミル ナドゥ(Tamil Nadu)州東部のポーク(Palk)海峡に臨む岬。
カリル ザヒリ(Khalil al-Zahiri): 近現代における著者で「ズブダ カシュフ ママリク(Zubdat Kashf al- mamalik)」を執筆、同書はP. ラヴァイッシ(P. Ravaisse)が編集し1894年にパリで出版された(KHALIL AL-ZAHIRI Zubdat Kashf al-mamalik er. by P. Ravaisse, Paris 1894.)。又、1970年にケンブリッジで出版された「ケンブリッジのイスラムの歴史」にも引用されている(quoated in the Cambridge History of Islam Cambridge 1970.)。
カリン(Al-Qarin): メッカとジュッダの間の水場。
カールキール(Al Kharkhir): 空白地帯の北緯19°東経51°付近にハールヒール(Kharkheer)と云う名の小さな部落があり、その場所は空白地帯沙漠を挟んでハラダ(Haradh)の南に対峙し、オマン領内のサナウ(Sanaw)やラミアト アイマー(Ramiat Aymah)から差ほど遠く無い場所である。2000年ジェダ条約(the 2000 Jeddah Treaty) でイエメンと国境が確定し、このカールキール(Al kharkhir)がサウジ領となった。これに伴い、ナジラン州のシャロウラ(Sharourah)からカールキールまでの沙漠が東部州から分離され、カールキール県(Al kharkhir governorate)としてナジラン州に併合された。この為、ナジラン州の面積は140,000平方kmから約360,000平方kmに増加した。ハラダ(Haradh)から2000年以降に作られた舗装道路が空白地帯(Empty Quarter)を南へヤブリーン(Yabrin)への道とほぼ平行してその東に延びており、道路脇の標識には「この道は150 km行って行き止まり」と表示されていた。この道路を南下してダンマン鉄道南線を越えた辺りに別の道路標識がありキン(Khin)へ93 km、ウム アスラー(Um Athlah)へ107 km、ハールヒール(Kharkheer、Khirkhir)へ620 kmと記されている。トレイルが一つ舗装道路の終点の近い廃棄された給油所のあるシャワラー(Shawalah)から空白地帯地帯東部の中心部にポッツンと一つある孤立した集落アル ウバイラー(Al Ubaylah)を通ってハールヒール(Kharkheer)まで通じている様だ。道路はハラダから15 km南でワディ サハバ’を渡る。ワディに沿って一つ又一つとナショナル農業開発会社(NADEC)の円形農場が並んでいる。もう一つの道路標識がワディの南10 km位に立って居りキン(Khin)へ81 km、ウム アスラー(Um Athlah)へ95 km、ハールヒール(Kharkheer)へ608 kmと記されている。ここか先には緑地帯は無いし道路脇の電線もここで終わった。ここから南がまさに空白地帯である。
カルジ(Al Kharj): カルジ(Al Kharj)はリヤドの南東80 kmに広がるオアシスで、サウジ国内では緑の象徴と成っている。ワディ サハバ’(Wadi Sahba)の三つの支流ワディ ニッサー(Wadi Nissah)、ワディ ハウター(Wadi Hawtah) およびワディ ビルク(Wadi Birk)がリヤドの南150km位の範囲でトワイグ崖地(Jabal Tuwayq)を北から順にそれぞれ東西に切り通して居り、それらの流れはカルジ(Kharj)で合流し、更にトワイグ崖地の東側を北から流れ込ん来たワディ ハニファー(Wadi Hanifah)もカルジ上流で支流のワディ ニサー(Wadi Nisah)に合流する。この為、このオアシスには地表水(Surface Water)が豊富に供給され、昔から豊かな緑が育まれてきた。「この様に幾つかの涸れ谷が集まるこのオアシスの形から鞍袋と云う意味の名がこの町に付けられた」と私には思える。
ガルス(Aelius Gallus): オウグストゥスの命令でローマのエジプト総督ガルス(the Perfect of Egypt, Aelius Gallus)の指揮下に強力な遠征軍が準備され、ガルス軍は南イエメンとドファールの芳香植物生産地帯に侵入し従属させる目的で紀元前24年にイエンボの北の重要な貿易の中心地レウケ コメに上陸した。ギリシア歴史家ストラボ(Strabo)はその著書「地理学(the Geography of Strabo)」の中で「エジプト総督ガッルスのアシール遠征(The Expedition to Arabia Felix)」を詳しく紹介している。
カルダモン(Cardamon): カルダモンはショウガ科の多年草で原産地はインド・マレーであり、日本名は小豆蔲(しょうずく)と言う。学名はAmomum cardamonであり、高さは2〜3mに達し、葉は披針形でミョウガに似、花茎は根生し葉がつかず、華は藍色の唇形で、花後、刮ハ(さくか)を結ぶ。実は1.5cm程度の長楕円形で3%の揮発製油を含み、種子が12〜20個入っている。外皮(緑色の部分)にはほとんど香味がなく、中の種子の香りが強く、樟脳に似た芳香で、刺激性のある快い味に特徴がある。インドの有名な香辛料で優れた芳香性健胃薬でもあり、インド・セイロンで栽培された。強い芳香があるので矯臭剤や口腔清涼剤等にも使われ、サウジアラビアではどこの家庭、迎賓館、レストラン、水タバコ喫茶屋(シシャー)でも常備している。
Cartography:地図作製。
カルナータカ州(Karnataka): アラビア海のマラバル海岸(Malabar Coarst)に面した州で州都は旧称マイソール(Mysore)のバンガロール(Bangalore)。
カルバラ(Karbalā): ケルベラ(Kerbela)とも云う。イラク中部の市でシーア派の聖地、人口30万。
ガルフ(Gulph): アラビア湾(ペルシア湾)。
カールマティア派(カルマト派)(Qarmatians): 9世紀の後半にアッバース朝支配(Abbasid control)は崩壊し始め、イスラーム世界は様々な反体制運動で引き裂かれた。反体制の多くはイスマイル派霊感(the Ismailites from Hosain al-Ahwaz)であった。イラクから起こったその様な運動の一つが東アラビアに定着した。カールマティア派(カルマト派)(Qarmatians)として知られ、彼等の初代のハッサン・カルマト(Hassan Qarmat)が指導者に成った後、西暦899年にカティーフ(Qatif)を占拠し、ザラ(Zara)を焼き、そしてハジャール(Hajar)の攻略に向かった。その後、カールマティア(Qarmatians)はその伝道師アブ・サイド・アル-ジャンナビ(Abu Sa'id al-Jannabi)の下にその首都をアル-ハサ(al Hasa)の町に置き、このオアシスの古い町ハジャール(Hajar)あるいはその少し外側を新たな根拠地に持つ、しっかりと組織された国造りに着手した。海岸地帯と内陸を緊密に結びつけ、南ナジドから東部州に最近移動して来た部族の支援を得てカールマティアン国(the Qarmatian state)はその支配と影響をイランやイラク南部に広げた。アル-ハサ(al-Hasa)のカールマティア衰退(Qarmatian decline)は北へのセルジューク・トルコ(Seljuq Turks, 1038 - 1194 AD)の台頭と同時に起きた。11世紀にセルジューク・トルコ(Seljuq Turks)は急速にその支配をイラン、イラクおよびシリア北部に確立した。西暦1073年にハサ・オサシス(Hasa Oasis)北部のウユン(‘Uyun)出身のアブド・アル-カイス族(the 'Abd al-Qays)のリーダーの一人がセルジューク・トルコ(Seljuq Turks)の支援を得て、カールマティア(Qarmatians)を打ち破り、王朝を樹立した。そのウユニド王朝('Uyunids, 1073 – 1253 AD)は西暦1253年まで支配を続けた。
カルマニアとゲドロシア(Carmania and Gedorosia): だいたい現在のペルシアの南東部からパキスタン南西部のバルチスタン(Baluchistan)州の辺り一帯。
カレー(Curry): 黄褐色で粉末状の辛味の強い混合香辛料、ウコン、コエンドロ(香菜)(Coentro or Coriander)、胡椒、唐辛子、オールスパイス、丁字等多種の香辛料を配合して作る。
ガレー船(Galley): 古代ギリシャの戦艦で、奴隷や囚人にこがせた2段又は3段オールの帆船。
ガレオン船(Galleon): ガレオン船(Galleon)は16-18世紀に主としてヨーロッパ諸国で使われた大きく複層甲板(Multi-decked)の大型帆船で、最後尾の檣(Mizzenmast)(通常は第3檣)だけに縦帆(大三角帆)(Lateen-rigged)が張られ、横帆(Square-rigged)を張られた3-5本の檣(mast)を持ち、完全に帆だけで推進力を得ていた。一般的に中型砲(Demi-culvein)を1-2列装備し、軍艦と商船の両方に使われた。ガレオン船(Galleon)は大西洋を航行する為の遠洋航海用にキャラック船(Carrack)から進化した。長い衝角(Beak)、低い船首楼(Forecastle)と船尾に張り出した四角い船尾楼(Aftcastle)等がガレオン船(Galleon)の目立った特長であり、長くした船体で海上ではこれまでに無く安定性が良く、前方からの風への抵抗が少ない上に喫水が浅いので船速が早く、操船が容易であった。一般的にはガレオン船(Galleon)は500トン以下であり、カリブ海(Caribbean Sea)の西インド諸島(West Indies)からスペインへ植民地の富を運んだ。例外的にはフィリンピン(Philippines)のマニラ(Manila)とメキシコ(Mexico)のアカプリコ(Acapulco)の間の太平洋を年に1-2回航海する交易船として使われたマニラ ガレオン船(Manila Galleon)には2,000トンにもなる大型船もあった。
涸れ谷アキーク(Wadi al Aqiq): この名の付く涸れ谷は二つあり、ひとつはマハッド アド ダハブ (Mahd adh Dhahab)の西でマディーナ(Al Madinah Al Munawwarah)から南へタイフ(Al Taif)へと南北に並ぶラハト溶岩地帯(Harrat Rahat)北端の西を北へマディーナに流れる涸れ谷アル アキークで、もう一つはこのラハト溶岩地帯の東をタイフに近い南端を南へと流れる涸れ谷アル アキークである。「エデンの園、現在の景観(the Garden of Eden: A Modern Landscape)」で引用している涸れ谷アル アキークは前者であると考える。そうだとすればこの本の中で述べられている地域はラハト溶岩地帯の北端部を指している。著者キャロル A. ヒル(Carol A. Hill)は「鉱山も無いのにアキークの名が付いているのは不思議だ」と述べているがサウジアラビアの溶岩地帯では溶岩トンネルが出来やすく、従って溶岩の中に瑪瑙等の鉱物結晶を作り出す熱水蒸気を封じ込める空洞が出来る確立は多いので瑪瑙を意味するアキークとの名が付くのはむしろあり得る。「涸れ谷アル バーティンの上流はマハド アド ダハブ (Mahd adh Dahab) と涸れ谷アル アキーク (Wadi al Aqiq) の古代の黄金と縞瑪瑙の地域を流れ、」と記述しているがこれは「涸れ谷アル バーティンの上流の涸れ谷ルマの支流涸れ谷アル ジャリール (the Wadi al Jarir)はマハド アド ダハブ (Mahd adh Dahab) と涸れ谷アル アキーク (Wadi al Aqiq) の古代の黄金と縞瑪瑙の地域に近く、乳香の道がそれらを通過して涸れ谷ルマ/アル バーティンに至っていた」と訂正すべきであると私は思う。1991年代にスーダンに移住したオサマ ビン ラーデン(Osama bin Laden)が1991 年のスーダン移住後、スーダンのゴム、トウモロコシ、ヒマワリ、ゴマなどの輸出をほぼ独占していた涸れ谷アルアキーク会社(Wadi al-Aqiq Company, Ltd.) と云う貿易会社を持ち、この会社の利益も同じくオサマの土木会社アルヒジラ(al-Hijira)等と共にアルカエダ(Al Qaeda)の資金源になっていた。アラビア語のアキークには渓谷(Canyon、Gorge、Ravine) と紅玉髄(carnelian-red)の意味があるが、オサマがこの涸れ谷の名を自分の企業に名づけたのは「渓谷」の意味では無く、この谷が聖地に近い上に、イスラムでは非常に貴重な石と考えられて居る「紅玉髄」の意味だったのだろう。
涸れ谷アサフィール(Wadi Asafir): タブク(Tabuk)東のジャバル シャルラ(Sharura)とヒスマ(Hisma or Hasma)山地の間の盆地に流れ込む涸れ谷の一つと思われる。
涸れ谷アラザ(Wadi Aradhah): 涸れ谷トルバ(Wadi Turbah)の源頭部の一つで北緯20°25′東経41°25′付近から北緯20°32′東経41°08′付近までの呼称。
涸れ谷’イトワド(Wadi 'Itwad):( 涸れ谷ダラ’(Wadi Dala')を参照)。
涸れ谷イハラー(Wadi Iharah): アシール州(Asir Province)東部をリヤド州(Riyadh Province)とナジラン州(Najran Province)との州境で涸れ谷シリ マドバグ(Wadi Siri al Madbagh)と合流し、空白地帯沙漠方面に西から東へと下る涸れ谷で、アル ’アイン(Al 'Ayn)および’アイン フワイズ('Ayn Huwayz)を上流域に含み、「恐れ谷」との意味の名が付けられている。
涸れ谷イブン ハシュバル(Wadi ibn Hashbal): リヤド-カミス ムシャイト道路(Riyadh - Khamis Mushayt Road)間道沿いにある部落および涸れ谷。
涸れ谷’イヤ(Wadi 'Iya): アシール州(Asir Province)ビシャー(Bishah)郡にある涸れ谷で最も古代遺跡の豊富な場所の一つである。
涸れ谷カア’(Wadi Al-Qa’): 涸れ谷ビシャー(Wadi Bishah)のビシャー(Bishah)で分岐する左股の涸れ谷ヒールジャブ(Wadi Hir Jab)がサマカ(Samakh)で分岐した左股で、「低地の谷」との意味の名が付けられている。
涸れ谷カハド(Wadi Qahad): 「涸れ谷ルマ(Wadi Rumah)は涸れ谷カハド(Wadi Qahad)と涸れ谷アル ジャリール(Wadi al Jarir)に分かれる」とキャロル A. ヒル(Carol A. Hill)はその調査報告書(Perspectives on Science and Christian Faith, March 2000)に述べているが、涸れ谷アル ジャリールと分かれるのは涸れ谷ルマの本流であり、その上流部枝沢の一つが涸れ谷カハドである。
涸れ谷カライス(Wadi Khalais): ジッダの北約70km余りにある涸れ谷。
涸れ谷サハバ’(Wadi Sahba): 300万年前から100年万年前までの200万年も続いた高降雨の時期には三つの大河が半島を西から東に横切りアラビア湾に注いで居た。その内の涸れ谷サハバ’はカルジ(Kharj) から190 km東のハラダ(Haradh)を通って更に東のアラビア湾(Arabian Gulf)へと中央アラビアへの降雨を排出し、その河口に広大な三角州を作り出して居た。そのワディ サハバ’の三角州はハラダから200km離れたアラビア湾まで続きその円弧はアハサ(Al Ahsa)の東65kmにある昔の港ウガイル(Al Uqair、不毛)からカタール(Qatar)半島の南まで150km以上に及ぶ。ワディ サハバ’(Wadi Sahba)はリヤド(Riyadh)の南150km位の範囲でトワイク崖地(Jabal Tuwaiq)を北から順にそれぞれ切り通しているその三つ支流であるワディ ニッサー(Wadi Nissah)、ワディ ハウター(Wadi Hawtah) およびワディ ビルク(Wadi Birk) の流れをリヤド南東80kmにあるカルジ(Kharj)で集めて居る。カルジ(Kharj)はリヤド南東80 kmにある王国内で緑を代表するオアシスである。
涸れ谷サマラー(Wadi Samarah): カール山(Jibal Al Qahr)から北へと下る涸れ谷ナ’アム(Wadi Na'am)が北ガール山(Jibal Al Qahr)の南で合流し、空白地帯西辺のフォ(Al Faw)へと下る「夜話の谷」と名付けられた涸れ谷。
涸れ谷シャ’イブ ミ’アシャール サッラブ(Sha'ib Mi'ashar Thallab): 「流れが分散した河原」と云う意味の名を持つこの涸れ谷はメッカ州(Makkah Province)東部の町クールマー(Al-Khurmah)の東30kmにあり、一抱えもあるような石の転がっている。
涸れ谷ジャジラー(Wadi Jazirah): 涸れ谷タスリス(Wadi Tathlith)右股の涸れ谷スフン(Wadi Thufun)の支流で、「島の谷」との意味の名が付けれれた涸れ谷。
涸れ谷ジャブジャブ(Wadi Jabjab): カハラー山(Jabal Qaharah)からリヤド-カミス ムシャイト道路(Riyadh - Khamis Mushayt Road)を越えて北へ涸れ谷タスリス(Wadi Tathlith)へと下る。「水槽の谷」と名付けられているのは恐らくは降雨時の水流を貯める水槽が設けられている谷だからなのだろう。
涸れ谷ジャリール(Wadi al Jarir): 「涸れ谷ジャリールは勾配を登り、まさに旧約聖書が『ピソン川はハヴィラの全ての土地を流域とし、そこには金が産出する』と言っている通り、マハド アド ダハブ金山 (Mahd adh Dhahab Gold Mine) 地域まで続いている」とキャロル A. ヒル(Carol A. Hill)は「エデンの園、現在の景観(the Garden of Eden: A Modern Landscape)」の中に述べているが、涸れ谷ルマ(Wadi Rumah)の支流の涸れ谷ジャリール(Wadi al Jarir)はリク アスワド山(Jibal Rik Al Aswad)とマールワ山(Jibal Al Marwah)が連なる山稜に阻まれてマハド アド ダハブ金山 (the Mahd adh Dhahab)までは至って居ない。但し、涸れ谷ジャリールの上流からこの山稜の南を抜けてワハバ火口(Wahba crate)で知られたキシュブ溶岩地帯(Harrat Kishb)の北を通ってマハド アド ダハブ金山への踏み跡(Trail)は現在でも存在している。従って、「この表現が間違いだ」とは言えないまでも距離的には150kmあるので正しいとも言えない。「マハド アド ダハブ金山 (the Mahd adh Dhahab gold mine) 地域まで続いている」との表現が余りに短絡的であるので「キャロル A. ヒル(Carol A. Hill)はこの辺りの地形を正確に認識していないか、資料が無かったのだ」と思う。
涸れ谷シールジュジ(Wadi Sirjuj): 「組み紐の谷」を意味するこの涸れ谷はメッカ州(Makkah Province)東部のクールマー(Al-Khurmah)南東72kmでランヤー(Ranyah)の北71km付近にある。
涸れ谷シリル(Wadi as Silil) : ナジラン(Najran)北方110kmのヤダマ(Yadamah)を上流域に含み、西から東へ空白地帯沙漠の西端にある検問所カシュム グラブ(Khashm Ghurab)へと下り、「子孫の谷」を意味する名が付けられた涸れ谷。
涸れ谷スバイ(Wadi Subay): ハダン熔岩地帯(Harrat Hadan)とナワシフ熔岩帯(Harrat Nawasif)に挟まれたメッカ州(Makkah Province)東部にある涸れ谷で本流にはクルマー(Al Khurmah)やトルバー(Turubah)等の町がある。この涸れ谷には「猛獣(補食動物)」を意味する名を付けられている。
涸れ谷タスリス(Wadi Tathlith): 涸れ谷ビシャーと共に広範囲に長い流域を持ち、アシール州内陸部を代表する涸れ谷の一つである。
涸れ谷ダワシール(Wadi Dawasir): 300万年前から100年万年前までの200万年も続いた高降雨の時期には三つの大河が半島を西から東に横切りアラビア湾に注いで居た。その内の涸れ谷ダワシールはシュライイル(Sulayyil)付近でトワイク崖地(Jabal Tuwaiq)を押し流し貫通し、その支流のワディ ヒヌ(Wadi Hinw)はガリヤト アル ファウ(Qariyat al Faw)遺跡付近でトワイク崖地(Jabal Tuwaiq)を貫いて居る。ワディ ダワシールは空白地帯盆地の広い範囲をアラビア盾状地から浸食され運ばれた土砂や瓦礫で埋めた。現在では厚く積もった漂砂の為にワディ ダワシールの下流域はハッキリして居ないがその時代にはそれ以前は海で覆われて居た空白地帯に低く横たわる三角州を形成した。空白地帯東部でUAE(アラブ首長国連合)に近いサウディ アラビア(Saudi Arabia)およびオマン(Oman)の国境地帯に広範囲に広がりウッム アス サミン(Umm as Samin)と呼ばれる平らな含塩低地(Sabkha、Salt Flat)はかなり最近までワディ ダワシールが流れ込んでいた湖であった。
涸れ谷ダラ’(Wadi Dala'): 涸れ谷ダラ’はアブハ(Abha)から涸れ谷ハリ(Wadi Hali)と涸れ谷バイシャ(Wadi Baysha)水系の分水地域を南西に山の崖地を転がり降りる様に標高差2,050mを直線的に海岸まで下り、紅海に注いでいる。この標高差の為にこの涸れ谷には熱帯から温帯まで広い範囲に及ぶ豊かな植生があり、これを利用したバナナ園まで含むティハマー山地(Tihamah) 棚畑農業の特徴を十分に観察する事が出来る。傾斜が少し緩くなるこのバナナ園の辺りで東側から合流する谷が本流の涸れ谷’イトワド(Wadi 'Itwad)である。涸れ谷ダラ’(Wadi Dala')にはテント生活をしている山羊飼いの部族のラビ’アー(Rabi'ah)族が住んでいる。動物では野生のマントヒヒが多い。涸れ谷ダラ’(Wadi Dala')には途中で本流の涸れ谷’イトワド(Wadi 'Itwad)と合流する部分も含め、アブハ(Abha)からティハマー(Tihamah)のアド ダールブ(Ad Darb)に下る主要道が作られていたが、1982年には大洪水が山腹を裂いて津波の様にこの涸れ谷水系になだれ込み、全ての岩屑、木々、動物、車や30以上の橋桁を洗い流してしまった。峡谷の壁には依然として壊滅的な洪水の跡が残って居り、その跡から洪水の波の高さは少なくとも30mはあった様だ。私が最後に訪問した2003年に至っても道路は修理されていなかった。
涸れ谷ナ’アム(Wadi Na'am): ガール山(Jibal Al Qahr)北辺のアバール ナ’アム(Abar Na'am)(駝鳥の井戸)を源頭として北へと下る涸れ谷サマラー(Wadi Samarah)支流の涸れ谷で「駝鳥の谷」を意味する名を付けられている。
涸れ谷バイシャ(Wadi Baysha): ティハマー海岸地域(Tihamah Coastal Area)では涸れ谷ハリ(Wadi Hali)と双璧を成す大きな涸れ谷である。バイシャ(Wadi Baysha)の名はジザン(Jizan)の北55kmに位置する町バイシュ(Baysh)をこの涸れ谷が通過する事に由来すると思われる。バイシュ(Baysh)から涸れ谷バイシャ(Wadi Baysha)は一旦北上し向きを東に変えてファールシャー(Al-Farshah)付近の南部ジバル サラト(Jibal al-Sarat)とアル ガール山(Jabal Al Qahr)、ハルブ山(Jabal Harub)、ファイファ山(Jabal Fayfa)やバニ マリク山(Jabal Bani Malik)等の山並みとの間に渓谷盆地作り出し、その源頭はダーラン ジャノウブ(Dhahran Al Janoub) まで更に東に延びている。
涸れ谷バイダー(Wadi Baydah):「死の谷」の意味するこの涸れ谷はメッカ州(Makkah Province)のトルバー(Turubah)から南にバハー州(Baha Province)州都バハー(Al Baha)方面に延びる涸れ谷スバイ(Wadi Subay)の左股で、乳香の道はこの谷に沿って付けられて居た。
涸れ谷ハボウナー(Wadi Habounah): アル サラト(Al Sarat)(アシール山脈(Asir Mountains))を水源とし、涸れ谷ナジラン(Wadi Najran)の北をほぼ平行に東へと空白地帯沙漠へと流れ込む涸れ谷で中流域に御柳 (ぎょりゅう)(Tamaricaceae)(タマリスク(tamarisk))の広大な群生の見られる。下流は小さな玉石や砂利の原を意味するアル ガドガダー(Al Qadqadah)と呼ばれる。さらに下流域は流紋岩(rhyolite)、斑岩(porphyry)、碧玉(jasper)や花崗岩の欠片が礫岩の上を覆う固い砂の中にモザイック模様を作り出しているジリダ(Jilida) と呼ばれる平原となる。涸れ谷ハボナーとも転写している。
涸れ谷ハリ(Wadi Hali): 険しい崖地アルーアスダール(al-Asdar)が起伏の多い脊稜から絶壁の峡谷、さらに丘陵性のティハマー(Tihamah)山地の麓の小丘へと続いている。険しい崖地と丘陵の間には涸れ谷ハリ(Wadi Hali)や涸れ谷バイシャ(Wadi Baysha)等がサラワト(Sarawat)の相当部分をほぼ平行する様に広い谷と成って発達している。涸れ谷ハリ(Wadi Hali)はアブハ(Abha)の西山麓のリジャル アル マ’ア(Rijal Al Ma'a)付近から北に向かい、アブハ(Abha)116 kmのタヌマー(Tanumah)(標高 2,080 m)の西側ではその支流が1,000m以上もの落差で落ち込む崖地(escarpment)をなし、涸れ谷本流は西に向かいハリ(Hali)で紅海に注いでいる。
涸れ谷ビシャー(Wadi Bishah): 「トリカブトの谷」を意味し、「昔は獰猛な部族が居たのでこの名が付いたのでは無いか」と私は想像している。遠くサラト アビダー(Sarat Abidah)とアハド ラフィダー(Ahad Rafidah)の中間で昔のアシール(Asir)の中心で在ったジャラシュ(Jarash)の15km位東を水源の一つとし、アル サラト(Al Sarat)から空白地帯砂漠へ流れる涸れ谷の中で最も長く広い流域を持って居り、アシール州内陸部では最大の涸れ谷。
涸れ谷ヒールジャブ(Wadi Hirjab): 狭い谷を意味するこの涸れ谷はビシャー(Bishah)から分岐する涸れ谷ビシャー(Wadi Bishah)の左股でカミス ムシャイト(Khamis Mushait)方面への道路はこの涸れ谷に沿っている。
涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima): ジッダの東北東70km余りの距離にあるジュムム(Jumum) およびアブ アルワ(Abu Arwa)辺りにもっとも肥沃な区域の1つを持っている。涸れ谷の河床の砂利の堆積で地下水が豊富で、この水は泉から渓谷にある広大な果樹園を灌漑する為に導かれている。(ファティマ(Great Wadi Fatima) 偉大な涸れ谷を参照。)
涸れ谷ファトメ(Wady Fatmé): ジッダ(Jeddah)の6、8マイル北にある涸れ谷。
涸れ谷マシル(Wadi Masil): リヤド(Riyadh)の西約240kmにあるダワドミ(Ad Dawadmi)の南の涸れ谷マシル(Wadi Masil)は壮観な黒い火山性の丘の間に有り、6世紀の南アラビアのシバ文字(Sabaean)(サバ文字)で書かれた三つの碑文がある。アラビア文字の出現以前には中央アラビアではこの様な碑文はサムード文字(Thamudic)で書かれるのが普通であり、このシバ文字(Sabaean)は非常に珍しい。この碑文は6世紀にサバ(Saba), ハドラマウト(Hadramaut)およびイエメン(Yemen)の王が遠征して来た事を記念して書かれて居る。当時、涸れ谷マシル(Wadi Masil)は南からの乳香と通商の為の隊商路の重要な位置にあり、イエメン(Yemen)人達はこの隊商路を守るためにここに二つの砦を築いた。現地の部族は時折この砦を攻撃して居り、イエメン(Yemen)の王は現地のマ‘ッド族(Ma'dd)を鎮圧する為にここまで遠征して来た。涸れ谷マシルには又、新石器時代の岩壁画もある。この岩壁画は碑文よりも上流にあり、動物や空に向かって手を振って居る人物像を描いている。或る人物像は剣と楯を持ち、他の人物像は肩まである仮面を付けて居る。この岩壁画は紀元1,000年の作と考えられて居る。
涸れ谷ムリー(Wadi Mulyh): タヌマー(Tanumah)の北で(標高 2,300 m)で渡る涸れ谷は涸れ谷ビシャー(Wadi Bishah)の支流涸れ谷タルジ(Wadi Tarj)の上流部である。
涸れ谷ヤバー(Wadi Yabah): 河口付近は三角州の様な地形し、海岸から20km位内陸のグズ(Al Quz)を中心とした小農業地帯となっている。グズ(Al Quz)から涸れ谷ヤバー(Wadi Yabah)は砂地を浅く刻む幅の広がった河床となる。涸れ谷ヤバー(Wadi Yabah)は余り知られては居ないが、かなり大きな涸れ谷でナマス(An Namas)からバニ アムロ(Bani Amro)、マシャイ’アー(Al Mashay'ah)、トウフ(At Tuf)に至るほぼ真っ直ぐに50km近く南北に延びるサラワト山脈(Sarawat Mountain Range) からティハマー(Tihamah or Tihama)に向かっては壁の様に落ち込む断崖絶壁(アスダール(al-Asdar))や急傾斜の谷の上流部分(アガバト(al-'Aqabat))を源頭としている。
涸れ谷ランヤー(Wadi Ranyah): バハー(Al Baha)の南からアル ガリシャー(Al Gharisha)に至る数多くの涸れ谷を集めて涸れ谷ダワシール(Wadi Al Dawasir)方面へと下る大きな涸れ谷。
涸れ谷ルマン・バティン(Wadi Rumah/Batin): 300万年前から100年万年前までの200万年も続いた高降雨の時期には三つの大河が半島を西から東に横切りアラビア湾に注いで居た。その内のワディ ルマン・バティン(Wadi Rumah/Batin)はサウジアラビア北部を排水し北東へと流れクウェイト(Kuwait)でアラビア湾(Arabian Gulf)に注いで居た。ワディ ルマン・バティンもクウェイト周辺を中心にアラビア半島北西部の大部分を被うディブディバー(Dibdibah)と呼ばれる大きな三角州を形成した。
カワス(Kawas): カワス(Kawas)はジッダでの在外公館の応接係で槍で武装した名誉的な護送・護衛兵。
カン(Khan): トルコなどの隊商宿(Caravansary)でアラブではInn。
カーン(Khán): 古代のタタール人の言葉であり、トルコでは偉大な人物(the Grand Signor)の肩書きの1つだが、アラビア語では「彼は裏切った」を意味する。
含塩低地(Sabkha、Salt Flat): 砂丘の間に横たわるサブカ(平らな含塩低地)は寒冷な気候であった時代に水は後退し塩が溜まり広大な乾燥した平原を作り出した事を示している。その平原はやがて砂で覆われ砂丘で埋められた。空白地帯の東部ではサブカ マッティ(Sabkha Mutti)やウッム アル サミン(Umm al Samin)の様な広大なサブカ(平らな含塩低地)が広がっている。
カンサウ ガウリ(Qansawh al-Ghawri): カンサウ ガウリ(Qansawh al-Ghawri, 1501 - 1516)はエジプトのブルジー マムルーク朝(Mamuluk-Buriji Dynasty, 1382 - 1517)の最後のスルタン(Sultan)。
甘松(かんしょう)(Spikenard): インド産の芳香のあるオメイナエシ科の植物(Nardostachys jatamansi)。
甘蔗糖(Cane-sugar):甘蔗(サトウキビ)の茎から製した砂糖で蔗糖とも云われる。
カンゾウ(Licorice): Sweetroot、甘草(カンゾウ)の根から製したエキスで薬草、醸造、製菓等に使用する。
カーンダクの戦い(Ma'raka al-Khandaq): 塹壕の戦い(Ma'raka al-Khandaq or Battle of Khandaq)は 627年4月のマッカ軍(メッカ軍(Meccan Army)によるマディーナ(Madina)(メディナ)包囲戦である。ムハンマド(Muhammad)が従来、アラブ(Arab)に知られていなかった塹壕を用いた事で知られている。この戦いで勝利を得られなかったマッカ軍はムハンマド軍に敵対する能力を失った。625年3月(626年説もある)のウフドの戦い(Ma'raka Uhud or Battle of Uhud)*でムハンマドの排除に失敗したマッカ軍は2年後に周辺の遊牧民を糾合して10,600騎の規模の軍を編成した。この報を受けたムハンマドは事前に穀物の収穫を済ませた。又、教友の1人サルマーン(Salman al-Farisi)の進言を受けてマディーナ北方に塹壕を6日間かけて掘った。他の3方面は熔岩地帯に守られて居るためにマッカ軍は北からマディーナ侵攻を試みた。しかし、塹壕に囲まれて主力の騎馬集団は無力化し、歩兵戦では防衛側のマディーナ軍が優勢であったため、情況は当初から停滞した。2週間程の睨み合いの末、遊牧民を抱えるマッカ軍は戦利品の無い膠着状態に耐えきれず、馬匹の飼い葉も欠乏し、自然に散開した。戦場設定に優れたムハンマド軍の特徴が典型的に発揮された戦いであった。直後にムハンマドは戦闘に非協力的であったユダヤ教徒(Judaist)クライザ族(Banu Qurayza)を攻略し、マディーナ内部の支配を万全にした。(出典: 岩波イスラーム辞典)
カンバヤ王(King of Cambaya): スルタン モホメト(Sldaõ Mahomet)とも呼ばれ、1458年から1511年までインド西部グジャラート(Gujarat)の王位にあったスルタン マハムド シャ(Sultan Mahamud Shah)である。
カンベイ(Cambay): インド西部グジャラート(Gujarat)州でアラビア海のカンベイ湾(Cambay)奥の町(7.7万)。
岩壁画(Petroglyph Rock Art or Stone Carving): 古代人は柔らかい砂岩の表面に描いた絵の方が硬い花崗岩の表面に描いた絵よりも古色化によって浸食や風化に耐え保存される事を知って居た。この為に岩壁画は鉄分を含んだ砂岩に描かれている。古色化(patination)とは錆びさせる事で、砂岩等の表面を人為的に傷つけるとその部分の鉄分が錆びて任意の文様を描ける。古色化(patination)即ち、錆の進行は傷つけてからの時間によって異なるので文様の新旧が明確に区別できる。
カンマレッディン(Kammared'din, & C): デリカテッセン(Delikatessen)でハム、ソーセージ等洋風の調理ずみの食品を売る店。
ギー(ヒンディー語、Ghee): インドやアフガニスタンなどで古くから作られ、食用にされている乳脂肪製品。澄ましバターの一種。バターに似ているが、加熱する過程で独特の香ばしい香りが生まれる。語源はサンスクリット語で「ふりかけられた」を意味する。(ウィキペディア)
キアジャ(Kiaja): ニーブール(M.[C.] Niebuhr)が訪れた時のジッダ知事(the Pasha of Jidda) の副官。
「消えた部族」: (失われたアラブ(Lost Arabs)参照)。
キオッジア(Chioggia): イタリア北東部ベネト(Veneto)州、ヴェネツイア(Venetian)潟湖南端の小島にある市。
喜捨(Zakat): イスラーム教徒(Muslim)に1年を通じて所有された財産に対して一定率の支払いが課せられるイスラーム五行(Five Pillars of Islam)の3番目の宗教的義務行為である。ザカート本来の意味は浄化および増加であり、現世の財の一部を差し出すことで宗教的罪を浄化し、来世での報酬を増加させる意味合いがある。喜捨を指す語としてはザカート(Zakat)とサダカ(Sadqah or Sadaqat)があり、現代においてはサダカを自由喜捨、ザカートを制度喜捨として区別している。ただし本来は両者とも自由な喜捨を意味した。預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)は「サダカ」という名で、神に仕える者の徳目として自由な喜捨を推奨していたが、義務ではなかった。後に(630年以後)新たに従った部族に対する喜捨の義務化がおこなわれ、初代正統カリフ(1st Rashidun Caliph, 632 – 634)のアブー バクル・スィッディーク(Abu Bakr As-Siddiq, c. 573 – 634)以降、現在につながる定義がウラマー(Ulama)らにより策定・法制化されていった。ただし、元来がムハンマド自身によっても区別されていなかったこともあり、とくに初期の文献には二つの混用が見られる。そのためサダカの性格を明らかにするため、サダカ アッタタッウー(Sadaqa al-Tatawwu’)(自発的サダカ)という二重化した言い回しが用いられることがある。シャリーア(Sharia)成文化の時代のウラマーたちは、サダカよりもザカートのほうがクルアーン(Qur’anに出てくる回数が多いことから、義務としての喜捨をザカート、自発的喜捨をサダカと呼んだのであろうと推測される。ザカートというのは内容的にはムスリムに課せられた財産税で、貧者の救済を主眼におく目的税であることから、救貧税と訳されることも多い。これには「喜捨という響きからは義務的・定率的なものが感じられず、社会学的な実態を反映できない」という主張からこの語を使う研究者もいるということも挙げられるかもしれない。ザカートとサダカが、宗教的な「施し・喜捨」の観念のもと一体化してイスラム共同体の社会福祉システムとして働いている現実などから「やはり喜捨と訳すべきだ」とも考えられる。(出典: 岩波イスラーム辞典、ウィキペディア等)
ギジヤ(Giziya):個人的貢ぎ物、個人的賛辞。(イブン-アル-ムジャウィール(Ibn al-Mujawir1、1204 - 1291)著「「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」にメッカ(Mecca)でのギジヤ(Giziya)の支払いに関する記述がある。)
ギシュラ(Ghishla): 以前はトルコ人達の兵舎(Barrackws)であり、その時にはジッダの軍司令部であった。その建物は未だにその原型を留めている。
キスワ(Kiswah): カアバ神殿(Ka'bah)は金文字でクルアーン(Qur’an)の韻文を書かれた黒い布(al-kiswah)被われている。神の神聖な家のこの被いは、ギリシャ・ローマ世界(Graeco-Roman World)では見られないセム族の古い伝統として、毎年、新調され、古いキスワ(Kiswah)は裁断され、カアバ神殿の「恵み(barakah)*」がこの布切れを戴いた者達に広まる様に配られた。イスラームの歴史では初期の世紀からキスワ(Kiswah)はエジプトで作られ、細心の注意を払ってメッカに運ばれたが、現在ではこの聖なる市の近くで作られている。
犠牲祭('Id al-Adha):イード アドハー('Id al-Adha)を参照。
季節風の理論(Monsoon Theory): 西洋世界に関する限り、アラビアと印度の船乗りは大洋の主要な気候的特徴を知っており、それを十分に利用していた。西暦45年頃にギリシャの先駆的商人ヒパルス(Hippalus)はインドの半島的特徴を知る様に成った。それは5月から10月に掛けてはエリュトゥラー海 (the Erythraean Sea)の膨大な広がりを横切って風が定常的に吹き、船をアラビアからインドへと運んだ。ヒパルスは更にその他の6ヶ月には風が方向を反対に変え北東から常に吹く事を知った。季節風の循環の発見で良く知られた出発点から同じ様に見慣れている陸影へと所々で直行する以外は遠回りな海岸線に沿った航路を辿る代わりにインド洋を横断して直接、インドとの往復航海が可能になり、貿易路が革命的に変わった。
キタダ ビン イドリス(Qitada bin Idris): キタダ ビン イドリス(Qatada ibn Idris al-Alawi al-Hasani, 1130 - 1220)は1201年から1220年までメッカのシャリフ(Sharif)であった。キタダ ビン イドリスはバヌ カタダ王朝(Banu Qatada Dynasty)を創設し、1925年まで続いた「シャリフ(Sharif)の子孫がメッカ(Mecca)をする」と云う伝統を確立した。
「キタブ アル−マサリク ワ’ル-ママリク」: [道路と王国の本(Kitab al-Masalik wa'l-Mamalik (Book of the Roads and Kingdoms))」はイブン コールダドビ (Ibn Khordadbih、820 - 912)によってアッバース朝(Abbasid Dynasty, 750 - 1258)の王子の為に西暦846年に編纂され、イスラム帝国の偉大な交易路の興味ある概要を含んでいた。
「キタブ ムジャム アル-ブルダン(Kitab mujam al-buldan)」: ヤクト(Yakut)著の「地理学辞書 (Geographic Dictionary)」は自然現象の価値のある記録を含み、真剣な事実に関する内容豊かで詳細な研究であり、場所の名前を地理的な位置にかかわり無く、アルファベット順に一覧表にされている。
ギッラー(Qirrah): リヤド-カミス ムシャイト道路(Riyadh - Khamis Mushayt Road)のタスリス(Tathlith)入り口から北73kmで、アシール/リヤド州境(Provincial Boundary between Riyadh and Asir)から南30kmにある「丘」との意味の名の付いた部落。
キナ ダム(Qina Dam): ジッダ創建以前のメッカの港シュアイバー (Shuaybah)港の為に涸れ谷を堰き止めていたダム。
キナナー部族(Kinnah tribe): 元々メッカ近郊に居住していたが、4世紀前にスペインに移住していた。 ハドラマウト(Hadramawt)出身のキンダ王国(the Royal Kindah)はナジラン(Najran)の北東のアル ファウ(Al Fau)を首都としたアラブ王国であった。この王国は建国者フジル アキル アル ムラール(Hujr Akil al Murar)の孫アル ハリス イブン アムル(al Harith ibn Amr)が領土を北へと広げ、イラクそしてアラブキリスト王国ラクミド(Lakhmid)の首都ヒラー(al-Hirahj)を一時的に攻略した。529年ヒラーはアラブキリスト教徒によって奪回され、アル ハリス王は50人の家族と共に殺された。アル ハリス王が殺害された後、キンダ王国はアサド(Asad)、タグリブ(Taghlib)、キナナー(Kinanah)およびカイス(Qays)分裂した。6世紀の著名な詩人イムル‘ アル カイス(Imru’ al Qays)はカイス王族の出である。又、イベリア半島(Iberian Peninsula)のアラブ アンダルシア(Arba Andalusia)にも大きな政治的影響力を持っていた。(出典: Dr. Abdullah Mohammad Sindi) なお、キナーナ(Kinanah)の祖についてはクライシュ族(Quraysh or , Quraish)を参照されたい。
ギニア(Guinea): アフリカ西部の大西洋岸の地方で、北はガンビアから南はアンゴラまでを指す。19世紀末より仏領西アフリカの一部で1958年独立した。高原国でボーキサイトを産し、面積24.5万km2、人口740万、首都はコナクリ(conakry)。
ギニア湾(Gulf of Guinea):アフリカ西海岸の大西洋に面したリベリア (Liberia)南東端のパルマス岬(Cape Palmas)からガボン(Gabon)のロペス岬(Cape Lopez)の間の大きな湾。で、ギニアはポルトガル語の「黒人の国(Guiné)」が原義。
絹(Silk): 蚕の繭からとった繊維で作った糸およびそれでおった織物。
キフティ(al-Qifti, ca. 1172 – 1248): 上エジプト出身のイスラム宗教学者で、哲学者(Philosophers)、医者(Physicians)および天文学者(Astronomers)414名を含む伝記集(Biographies)を1249年に著作した。
キブラ(qiblah): キブラ(qiblah)は唯一神に捧げられたメッカ(Mecca)にある神の家(House of God)即ちカアバ神殿(Ka'bah)の方向であり、全てのムスリム(Muslims)はこの方向に向かって日々の祈りを含む全ての祈りを捧げる。(ミフラブ(Mihrab) も参照)。
キブラ ウーラー (al-qiblah al-ula): エルサレム(Jerusalem)はムスリム(Muslims)にとって祈りを捧げる最初の方向(al-qiblah al-ula)であったが、預言者が622年に聖遷してメディナ(Medina)に移る前、まだメッカ(Mecca)に居た時代に神からメッカ(Mecca)、もっと正確にはカアバ神殿(Ka'bah)を祈り捧げる方向(al-qiblah)に変える様に命ぜられた。
喜望峰(Cape of Good Hope): アフリカ南西端の岬でケープ タウンの南50km。
「喜望峰岬等を往復航海する為の心得書」: 「東インド諸島、中国、新オランダ、喜望峰岬等を往復航海する為の心得書」、ジェームス ホルスバーグ(James Horsburgh)著、1809 - 11年にロンドンで出版」(Directions for sailing to and from East Indies, China, New Holland, Cape of Good Hope, etc. by James Horsburgh, London, 1809 - 11.)。
ギャスパー コリア(Gaspar Correa): 1512年に16歳でポルトガルを離れ、インドへ行った。そこで、3年間、ポルトガルの第2代インド総督アルフォンソ ダルボケルク(Alfonso d'Alboquerque)の秘書として働いた。その後、コリア(Correa)は1583年頃にゴア(Goa)で死亡している。コリア(Correa)の歴史に関する著述は53年間のポルトガルによる征服を網羅しており、1858年から1864年の間にリスボン科学学会(the Academy of Sciences of Lisbon)によって「ポルトガル征服史の未発表偉業選集(the Colecção de Monumentos Ineditos para a Historia das Conquistas dos Portuguezes)」の中で「インドでの冒険事業(the enterprises of India)、(Lendas da India)」と云う題名で出版されている。手書き原稿と挿し絵はポルトガル国立公文書館(Tôrre de Tombo)に保存されている。
キャムバイ湾(Gulf of Cambay):アラビア海の西岸に臨むインド西部グジャラト州(Gujarat)にある湾。
キャムペチェ材(Campeche Wood): ロッグウッド(Logwood)(Haematoxylon campechianum)とも云い、赤黒い心材となり、又赤い染料の材料ともなる。
キャムレット(Camlet): 中世のアジアの駱駝織りに似せてヨーロッパで絹・羊毛から作られた織物であったが、後に光沢のある薄地平織りの毛織物を意味する様になった。
キャラコ(Calico):元々は 南インド、カリカットから舶来し、織地が細かく薄く強い糊付け仕上げした光沢のある平織り白木綿布である。
キャラック船(Carrack): 15世紀にポルトガル(Portuguese)によって地中海で開発され、大航海時代を代表する帆船である。3から4本のマストを備え、複層式の船尾楼(Aftcastle)、船首楼(Forecastle)を有し、高く丸みを帯びた船尾(Stern)と船首(Stem)に突き出した帆柱状のやりだし(Bowsprit)を持つ。前檣(Foremast)と主檣(Mainmast)に横帆を張り(Square-rigged)、後檣(Mizzenmast)に大三角帆(縦帆)を張り(Lateen-rigged)、高度な帆走が可能であった。全長は30mから60m、全長と全幅の比は3:1とずんぐりして丸みを帯び、排水量は200トン以上で中には1500トンのものもあった。キャラック船(Carrack)は高波(Heavy-sea)でも船体の安定を保つだけの巨体と、長期航海での大量輸送に適した広い船倉を持ち、ヨーロッパで開発された最初の遠洋航海用の帆船(the first proper ocean going ship)である。15-16世紀にはポルトガル(Portuguese)とスペイン(Spain)で盛んに建造され、スペイン(Spain)で作られたものはナオ(Nao)と呼ばれる。
キャラベル船(Caravel): 13世紀にイスラム教国アンダルシア(Andalucía)が開発したエジプトのナイル川で使われていた帆船を原型としたカリブ船(Qarib)をポルトガル人達(Protuguese)が更に改造した帆船で、小型で、操船性能が優れた、縦帆(大三角帆)(Lateen-rigged)を張られた2-3檣(Mast)を持っていた。キャラベル船(Caravel)はポルトガル (Protuguese)とスペイン (Spanish)によって、15世紀での長期に渡る探検航海に使われた。キャラベル船(Caravel)は小型である為に、浅い沿岸海域から河川の上流までの調査が可能であった。キャラベル船(Caravel)が備え付けの縦帆(大三角帆)(Lateen-sails)で浅海域も素早く操船出来、強風でも航行可能で、横帆(Square-Atlantic type sail)を備えたキャラベル船(Caravel)は非常に快速であった。その経済性、速度、機敏さおよび能力でキャラベル船(Caravel)はこの時代のもっとも航行性能の良い船としての評判を得ていた。
キャルナイト(Carnaites): アラビアの隣の古代の国でエリュトゥラー海(Erythraean Sea)と長い距離で接していた国の内陸にはキャルナイト(Carnaites)と呼ばれる二つの言葉を喋る悪辣な民が住んでいた。この民は村や放牧の野営地に住み、航路へ出ようとする者達はこの民によって略奪され、難破して助かった者達は奴隷にされた。そしてこの民自身もアラビアの首長達や王達に頻繁に捕らえられ捕虜にされていた。
キャルヤンダ(Caryanda): 南西トルコ(Southwest Turkey)。
キャロル A. ヒル(Carol A. Hill): 地質コンスルタント(a Consulting Geologist)で、「世界の洞窟鉱物(Carve Minerals of the World)」、「カールズバッド洞窟群の地質(Geology of Carlsbad Cavern in New Mexico)」、「デラウェア堆積盆の地質(Geology of the Delaware Basin in West Texas and Southern New Mex)」を著作している。2002年10月1日には公共放送サービス (Public Broadcasting Service、略称:PBS)で放映した「洞窟の神秘の生命(Mysterious Life of Caves)」で特集された。その後、グランド・キャニオン'''(Grand Canyon)の地質学的研究を行っている。キャロルは夫で物理学者のアラン(Alan)と共にはカンバーランド長老教会(the Cumberland Presbyterian Church)に属して居り、日曜学校で「科学と聖書(Science and the Bible)を教えている。この事が「エデンの園、現在の景観(the Garden of Eden: A Modern Landscape)」を執筆した動機であると思われる。
キャンブリック(Cambric): 綿糸で織った薄地の平織。
旧メッカ街道(Old Mecca Road): リヤド(Riyadh)からデュルマ(Durma), シャグラ(Shaqra), ダワドミ(Dawadmi)やアフィーフ(Afif) を経由してザリーム(Zalim)に至る旧道は旧メッカ街道と呼ばれている。ザリーム(Zalim)から西側では二つの道路は合流して一つのメッカ街道となる。この二つの街道だけが広大なネフド沙漠の大地を東西に結んで居り、アラビア盾状地を横断して居る。
給油所コンプレックス(Gas Station Complex): 街道筋にあり、給油所、修理所、スパーマーケト、食堂、宿屋で構成される。
キュービット(Cubit): CurbitあるいはDhiraは肘から指先までの長さで、Dhira al-Ahmalは66.5cmと記述している。
裾礁(Flinging Reefs): 裾礁(キョショウ)、岸から続いて広がり海岸を縁取る珊瑚礁。
玉(Jade): 翡翠(ひすい)、深い緑色の石で翡翠輝石(jadeite)の他に軟玉(nephrite)を含む。原義はラテン語ilia(横腹、腰)で横腹の痛み(腎臓の痛み)は玉(jade)で治せるとの信仰に因んで付けられた。
玉髄 (Chalcedony): 玉髄(ぎょくずい)は火山性隠微晶質石英であり、珪石はほとんどが無水珪酸からなる硬い堆積性石英である。玉髄の内部には石英の微結晶は網の目状に集合しており、結晶の間には非常に小さな隙間が存在している。そのため、玉髄の密度は石英よりやや小さく、2.55〜2.64程度である(石英は2.65)。玉髄は地表あるいは地表近くで二酸化ケイ素に富んだ低温溶液から生成し乳白色ないし白色のものが多いが、酸化鉄が混ざっているためにピンク色を呈する事もある。玉髄には形状や色彩により宝石としての特別な名称で呼ばれるものが存在し不純物が多くて濃色のものは碧玉(へきぎょく)と呼ばれ、また、色や透明度の異なる縞模様を示すものは瑪瑙と呼ばれている。キャロル A. ヒル(Carol A. Hill)が、「エデンの園、現在の景観(the Garden of Eden: A Modern Landscape)」の中で、玉髄 (Chalcedony) および珪石 (Chert)を混同しているが、瑪瑙の話なのでここでの珪石 (chert)は玉髄 (Chalcedony)と読むべきである。アラビア半島の生い立ちからアラビア楯状地にカンブリア紀 (Precambrian)の堆積岩が存在するのは事実であり、実際にヒジャーズ・アシール山系の山頂地域に典型的堆積岩である砂岩が露出している場所は少なくない。キャロル A. ヒルは「先カンブリア紀 (Precambrian)の堆積岩の存在を否定する事は出来ないが、隠微晶質火山性石英と無水珪酸質堆積性石英は区別すべきである」と同書の中に述べている。又、キャロル A. ヒルは「結晶構造石英 (Cryptocrystalline quartz) に玉髄 (chalcedony) が形成され、大きな塊になるほど不透明でチャート(珪質堆積岩の一種、Chert)と呼ばれる種類の岩になる」とも述べている。瑪瑙は溶岩地帯び出来る空洞で形成される隠微晶質石英なので堆積性石英のチャートとは結びつかないので、これは誤解であると私は考える。
居住特権等の政府間協定(Capitulation): オスマン帝国(Ottoman Empire)内で外国人が享受した特別な特典はその根拠が公式な租借地(Concession)や居住特典(Capitulation)にあるとして一般に扱われていた。治外法権等の居住特典(Capitulation)はそれを含む長たらしく、もったいぶった多くの異なった見出しや特権(Capitula)の為にその様に呼ばれており、1453年のコンスタンティノープル(Constantinople)降伏の後、オスマン帝国の支配者によって西欧の国々に保証された。
ギヨーム(A. Guillaume): アフフレッド ギョーム(Alfred Guilaume,1888 - 1966)はアラブ専門家(Arabist)でイスラム学者(Islamic Scholar)である。オックスフォード大学(University of Oxford)で神学(Theology)と中近東語学(Oriental Languages)を学んだ後、アラビア語を専攻した。第一次世界大戦中はカイロ(Cairo)にあるフランスのアラビア局(Arab Bureau)に勤務した。英国に戻ったときにはイスラム学者に任命されていた。ギヨームはロンドン大学(University of London)の中近東学科の主任教授となった。その後、ベイルート(Beiruit)のアメリカ大学客員教授、バクダッド(Baghdad)やダマスカス(Damascus)の学会会員等に選ばれている。著作としてはペンギン書店(Penguin Book)から出版されたイスラム(Islam)が有名であり、又イブン イシャク(Ibn Ishaq, 704 – c. 767)著の「神の使いの一生(Sirat Rasul Allah or Life of Messenger of God)」の翻訳も行っている。
キラブ山(Jabal al Kilab): リヤド-カミス ムシャイト道路(Riyadh - Khamis Mushayt Road)を挟んでタスリス(Tathlith)の東に在る山で「犬の山」と名付けられている。
キリスト教徒煽動に関する碑文: 1950年代にナジラン(Najran)で発見されたその時代の碑文(inscription)には「この市はヒムヤル王国(the Kingdom of Himyar)に対するアビシニアのキリスト教徒煽動の温床(hotbed)であった。この煽動は忠実なイエメンの民(Yemenite)とユダヤ教徒を目標にした反乱をけしかけていた」と示されている。
「ギリシャとローマの地理辞典(Dictionary of Greek and Roman Geography) 」: W. スミス (W. Smith)によって(1873 -1878)にロンドンで編集された。
キールシュ(Al-Qirsh): ジッダ近郊のSprings(泉)。
ギル フェルナンデス(Gil Fernandes): カナノア(Cananore)の初代ポルトガル商館長(1503年2月のカリカット(Calicut)艦隊との海戦当時)。
ギレアドバルサムの木(Balm of Gilead): アジア・アフリカ産カンラン科ミルラノキ属(モツヤクジュ属)の常緑小樹で葉に傷をつけると芳香を発する。
キロン(Quilon): カリカットから南の遠くない場所ある15、16世紀の少し小さな商業の中心地の1つ。ヴァスコ ダ ガマ (Vasco da Gama)はカリカットから遠くない場所にこの様な少し小さな商業の中心地があるのを知っていた。それらの中では北にカナノア (Cananore)にあり、南にコーチン(Cochin)およびキロン(Quilon)があった。これらの市の現地支配者はカリカットの広大な商業活動をうらやましがって居り、自分より大きな勢力を持っつ近隣にある市とは永遠に反目し合っていた。
金(Gold): 重く柔らかく延性・展性に富み、空気中で錆びず、普通の酸に侵されず、王水に溶ける。光沢が美しく、貴金属随一で、貨幣・装飾・歯科治療等に使われる。
銀(Silver): 金よりやや軽く、白色の美しい光沢を持つ金属で、空気中では酸化市内が硫黄の化合物にあうと黒色に変わる。貨幣・装飾等に使われる。
キング アブドル アジズ空軍基地(King Abdul Aziz Military City): タブク(Tabuk)は王国内で唯一本当に僻地にある市であり、人口100,000人規模の小さな市場の中心に過ぎないが、キング アブドル アジズ(King Abdul Aziz)軍事都市の北部地区司令部、王国陸軍第7機甲旅団、第8歩兵旅団、第12機甲旅団および第14歩兵旅団、王国陸軍空挺旅団、王国陸軍機甲専門学校およびF-5第二飛行大隊を含むキング フィサル(King Faisal)空軍基地がある。キング フィサル(King Faisal)空軍基地はタブク(Tabuk)市の直ぐ南東の北緯28°21’55”東経36°37’08”に位置している。米国軍事訓練使節(The United States Military Training Mission) (USMTM)の住宅地もタブク(Tabuk)にあり、この住宅地には30棟の住宅と付属施設があり果樹園に囲まれている。
キングカリド空軍基地(King Khalid Air Base): カミス ムシャイト(Khamis Mushayt)の南にはサウディアラビア南方軍司令部があり、野砲および歩兵学校およびハリド国王空軍基地(King Khalid Air Base)があり、米軍軍事顧問団も駐在している。
キングカリド軍事都市(King Khalid Military City): 別名をエメラルドの町 (Emerald City) とも呼ばれるカリド国王軍事都市(King Khalid Military City)はリヤドの北約400kmでハファル アル バーティンの南60kmに北東国境防御の為に建設された。この軍事都市は3旅団から成る陸軍師団の為に設計され、65,000人の収容能力があり、米国陸軍および空軍の技術者が1960年代および1970年代にタイフ、KMMCおよびカミス ムシャイトを含む幾つかのサウジ軍事基地を設計・建設した中の一つである。1991年の湾岸戦争では「大規模で迅速な展開が必要であった沙漠の楯作戦を可能にする程にこれらの基地とその支援設備等の軍事的基盤が整備されていた」のを証明した。米軍や同盟国軍が去った後もKKMCはサウジの北方地域を防衛する重要な軍事基地である事には変わりはない。
キンダ族連合(Kinda Confederation): イスラム以前の数世紀の間での中央アラビアに対するイエメンのヒムヤール(Himyarites)の主な狙いは半島を越えてアラビア湾やメソポタミア(Mesopotamia)へ至る隊商路の確保であり、この目的の為にヒムヤール(Himyarites)は南ナジド(southern Najd)のキンダ族(Kinda)やムドヒジ族(Mudhhij)等の諸族と同盟或いは部族的関係を維持し、中央アラビア全体に影響を及ぼす或る種の従属関係を築いていた。ヒムヤール(Himyarites)はその重きを好戦的なキンダ族(Kinda)に置き、キンダ族(Kinda)はナジラン(Najran)の北の地域のカールヤト ファウ(Qaryat al-Faw)辺りに居住を定め、南アラブ部族に属して居たにもかかわらず、五世紀の後半には卓越したバクル(Bakr)グループを含む中央アラビアの諸族を一つの強い連合に結束させた。渾名がアキル アルームラール(Akil al-Murar)と呼ばれるキンダ(Kindite)の指導者フジル(Hujr)(Amr al-Mansur ibn Hudjr, 458-489)は西暦490年に没するまでに中央アラビアの殆どを支配し、ヒラー(Hirah)のアラブ部族首長ラクミド(Lakhmid)の影響下にある東アラビアのバクル(Bakr)の領土を自由に通行できた。フジル(Hujr)の孫のハリス イブン ’アムル(Harith ibn 'Amr)(Al-Harith Talaban ibn Amr, 489-528)はラフム(Lakhmids)を征服しその首都のヒラー(Hirah)を占領し、多くの部族と連合してビザンチン帝国の領土やササン朝のメソポタミアに侵攻した。さらにハリス(Harith)はビザンチン帝国との国境地帯における部族が盟主としたガッサーン朝(Ghassanid)の為政者を交代させた。ハリス(Harith)は生涯がキンダ族の興隆の最盛期を代表していたが、ハリス(Harith)の没した西暦528年までにササン朝(Sasanian)の援助を受けたラフム(Lakhmids)にその領土を奪回された。それでもハリス(Harith)の帝国はヒジャズ(Hijaz)、ナジド(Najd)、アルーヤママー(al-Yamamah)および東アラビアから成る広大な地域を確保できたが、息子達の血なまぐさい争いで崩壊した。キンダ族連合(Kinda Confederation)はキンダ(Kinda)部族同盟とも転写されている。二世紀から四世紀に掛けてはキンダ(Kinda) 部族同盟創設の中心としてキンダの町カールヤト ファウが傑出していた時代であった。
キンタル(Quintal): 重量の単位で英国では100lb (45.359237kg)であったが国によって違うがあり、後にメートル法では100kg(常衡で220.46 lb)と定義された(Refer to http://en.wikipedia.org/wiki/Quintal)。
キンマの葉(Betel Leaves): 蒟醤(キンマ)と云い、「本草啓蒙 」「和訓栞」に蛮語とあり、タイ語またはビルマ語の転訛である。マレーシア原産のコウショウ科の常緑蔓性低木で胡椒に似ており、葉は大きな心臓形で先端はとがり、光沢がある。夏に黄色の細花を開き、液果を結び、雌雄異株、葉・根・種子を健胃・去痰(きょうたん)薬とする。その葉を取って檳椰子(びんろいじ)(betel nut)・石灰と共に噛んで嗜好品にする。
金襴(Brocade): 金糸を絵緯(えぬき)として折り込み、それを主調として文様を表出した織物の総称で平地・綾地・繻子地等がある。
ク
クイロン(Quilon): 現在のケララ(Kerala)州コラム(Kollam)。
空白地帯(Empty Quarter): サウディの南部は空白地帯(Empty Quarter)或いはルブ アルハリ(Ar Rub' Al Khali)と云う名で知られた茫漠とした沙漠地帯である。東はオマーン山脈、南はアラビア海沿いの海岸山脈の奥にある台地、南西部はイエメンとアシールの山麓の丘に囲まれる盆地が空白地帯であり、長さが約1,200kmで最大幅が650 km近くある。その面積はフランス、ベルギーとオランダ三国を合わせたより大きく約650,000 sq km もあり、その中のベドウィン(Bedouin)は単にリマル(al-Rimal)と呼んでいる砂丘地帯は連続する砂沙漠としては世界最大である。
空白地帯周辺のベドウイン(Bedouins living in and around Empty Quarter): 空白地帯(Empty Quarter)周辺には西にアマリサー族(Amalisah)およびヤム族(Yam)、北にダワシール族(Dawasir)、スフル族(Suhul)およびムッラー族(Murrah)、東にマナシール族(Manasir)、バニ ヤス族(Bani Yas)、アワミール族(Awamir)およびマナヒル族(Manahil)そして南にバイト ヤマニ族(Bayt Yamani)、ラシド族(Rashid)およびサヤル族(Sayar)等のベドウイン部族が住んでいる。この中でも砂丘地帯と及ばれる空白地帯の中を住処にしているのはラシド族(Rashid)、アワミール族(Awamir)およびムッラー族(Murrah)のみである。探検家ウィルフレッド セシジャー(Wilfred Thesiger)は1945年に砂丘地帯のベドウイン(Bedouin)について「沙漠内部での究極的な服装としてラシド族(Rashid)の様なベドウインは長いアラブ服と沙漠の灌木の汁で柔らかい枯れた茶色に染めた頭飾りを纏っている。この男達は小さいが手際良く油断無く用心深い。その体付きは引き締まり強靱で灼熱の沙漠と信じ難く程の艱苦に鍛え抜かれている。この男達を見ていると世界中でもっと純粋な競争の中で育ち最も強靱で優れた者だけが生き残れる環境で生活して来ているのが分かる。この男達は純潔種の様に精細で鋭敏である」と記述している。
空白地帯の砂丘(Sands in Empty Quarter): アラビア半島北部のナフド沙漠(Nafud)から延々と続く砂の回廊ダフナ’沙漠(Dahna')は南に延びて空白地帯(Empty Quarter)に飲み込まれて居る。地元では単にリマル(al-Rimal)(the sands、砂丘地帯)と呼ばれる空白地帯は世界中で最も大きな連続する砂沙漠である。今日眺められる砂丘地帯は最近の極端に乾燥した数世紀の間に風に吹かれて移動した砂に表面を覆われているが更新世(Pleistocene、第四期洪積世160万年前から10万年前)に起きた数度の乾燥した時代に形成された沙漠を代表している。空白地帯の殆どを覆う現在の土壌は砂丘地帯であり、鮮新世(Pliocene、第三期最新世500万年前から160万年前)後期および更新世(Pleistocene、第四期洪積世)前期の湿った時代に水の流れで堆積層が作られた。この砂丘地帯はこの堆積層が乾燥して実際に形成されている。西部地域ではインド洋から吹いてくる卓越風が数百キロも延びるゆるやかに起伏する砂の尾根(私は砂丘列と呼ぶ)を作り出した。尾根の間に平行に並ぶ回廊では比較的容易に旅が出来る。中央地域では砂丘地帯の形はもっと複雑で予測し難いが最も劇的な眺望が見られるのは東部地域である。数百フィートの高さの赤い砂山が太古の海底であった平らな白い含塩平地からそびえ立っている。
グウワド(Quwwad): 司令官達(Commanders )。
供犠(くぎ)(Sacrifice or Dhabiha): 聖なる存在に対して儀礼的に家畜を屠る行為で、イスラーム(Islam)の場合は羊、山羊、牛、駱駝などが良く用いられる。
クザー’ア族(Banu Khuza’a): クザー’ア族はカハタニ(Qahtani)部族カハラン族(Kahlan Tribe)のアズド支族(Azd)の一門である。クザー’ア族は聖域(Haram)を征服し、その住人であったジュールフム族(Banu Jurhum)を追い出し、メッカ(Mecca)定住した。メッカに入城するとクザー’ア族(Khuza'ah)はアラブ部族の為に巡礼の中心としてこの市を保護し続け、そして自分達の有名な偶像神フバル(Hubal)を持ち込んできた。偶像神フバルはカアバ神殿の中に安置され、メッカの偶像神の主神となった。5世紀にクザー’ア族はカアバ神殿(Kaaba)に対する権威を失くし、首長の娘婿であるアドナーン(Adnani)系統に属するキナーナ族(Banu Kinana)を祖とするクライシュ族(Quraish)のクサイ イブン キラブ(Qusai ibn Kilab)にとって代わられた。クザー’ア族は「象の年(Year of Elephant, 570)」まではクライシュ族と同盟を結んでおり、共同してアブラハ(Abraha)の軍勢に対抗した。 630年にクザー’ア族はクライシュ族と同盟を結んでいたバクル族(Abu Bakr)に攻撃された。その少し前からムハンマド(Muhammad)と同盟を結んでおり、その攻撃はフダイビーヤの休戦協定(Truce of Hudaybiyah) に対する協定違反と見做された。この違反がイスラーム軍(Muslim Armies)によるメッカの無血征服につながった。
クサイ(Qusayy): クサイ イブン キラブ イブン ムッラー(Qusai ibn Kilab ibn Murrah, c. 400 - 480)(Qusayy or Kusayy)はハンマド(Muhammad)の祖父アブドゥル ムタッリブ(Abdul Mutallib)(シャイバ イブン ハシム(Sgaiba ibn Hashim))の曽祖父(Great-grandfather)即ち預言者ムハンマド(Muhammd)の5世代前の先祖であり、メッカの最高権力者となった。クサイは教友(Sahaba)達の先祖の1人でもあり、クライシュ族(Quraish)直系の先祖であった。クサイは成年になった時にカアバ神殿(Kaaba)*守護者であったクザー’ア族(Banu Khuza’a)*族長フライル(Hulail)の娘と結婚し、後にメッカの統治者でカアバ神殿(Ka'bah or Kaaba)*の守護者となった。クサイはその聡明さで偉大な名誉と高名を自分の部族にもたらしたと評価されている。クサイは荒廃していたカアバ神殿を再建し、神殿の周囲に同心の環状地帯を作り、住人をそれぞれの社会的な階級によって決められた環状に割り当て、メッカの市作りを行った。クサイは又、アラビア半島で最初の政庁舎(Town Hall)を建設したことでも知られている。異なった一門の家長達がこの政庁舎で社会的、商業的、文化的、政治的問題を議論するために会合を開いた。先見の明のあるクサイは法律を作り、市民から税金を徴収し、メッカを訪れる巡礼達が食料と水を受け取れる様にもした。
グジャラート(Gujaray): グゼラート(グジャラート)(Guzerat or Gujarat)はインド西部のグジャラート(Gujarati)語の使用される地域で、「グルジャラ族(Gujjar or Gurjar)の地」という意味である。地図上では、アラビア海(Arabian Sea)に突き出たサウラシュートラ半島 (Saurashtra Peninsula)(カーティヤワール半島(Kathiawar Peninsula))とその付け根部分にあたり、半島状のインド亜大陸 (Indian subcontinent)の北西の付け根でもある。グジャラート地方は、古来から西アジア(Middle East or Near East)との重要な交易地であって、インダス文明(Indus Valley Civilization, mature period 2600 - 1900 BCE)の港湾都市とされるロータル(Lothal)や近年発見されたドーラビーラ(Dholavira)などが栄え、しばしば北インドやデカン地方(Deccan Platea)の諸王朝の間で係争地になった。1世紀には、サカ族(Saka)とサータヴァーハナ朝(Satavahana Empire)、8世紀から9世紀には、北インドを支配したプラティハーラ朝(Pratihara、778 - 1018)とデカン地方(Deccan Platea)を支配したラーシュトラクータ朝(Rashtrakuta, 753 - 973)がその領有をめぐって争った。13世紀にはデリー・スルタン朝(Dehli Sultanate、1206 - 1526)のハルジー朝(Khalji, 1290 - 1320)の下でムスリム(イスラム教徒)(Muslim)がグジャラート(Gujarat)を征服、14世紀からアフマド シャーヒー朝(Zafar Khan Muzaffar, his son Ahmed Shah, etc.)がデリー(Delhi)から自立してアフマダーバード(Ahmadabad)を首都として栄えたが、16世紀にムガル帝国(Mughal Empire, 1526 - 1858)に併合された。近代にはインド独立の父マハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi)がこの地方で生まれている。グジャラートはインド独立後は旧ボンベイ(Bombay)州の一部であったが、1960年に旧ボンベイ(Bombay)州は言語の違いによって北のグジャラート州(Gujarat)と南のマハーラーシュトラ州(Maharashtra)に分割された。面積196,024 sq km、人口は5059万6992人(2001年)。
グジャラート人(Gujarati): インド西部の州でカンベイ(Cambay)湾の北および東を占める旧ボンベイ(Bombay)州の内、グジャラート語地域の住人。
クシュ(Kush): 現在の南エジプト(Southern Egypt)と北スーダン(Northen Sudan)に当たる北アフリカのヌビア(Nubia)地方を中心に繁栄したのがクシュ文明(Civilization of Kush)である。これは最も早い時代にナイル川(The Nile)流域で発達した文明の一つである。クシュ人の国はエジプトの領域内への進入の時期の後で発展した。クシュの文化は、並存していた期間は短いが、エジプト新王国(c. 1570B.C. - c.1070B.C.)と相互に影響を与え合っていた。この文明に与えられた名前は、旧約聖書に述べられた東北アフリカに移住したハム(Ham)の息子の一人クシュ(Kush)に由来している。聖書から、エジプト南部とエチオピアの一部を含む大きな地域がクシュ王国として知られていたことがわかる。聖書はしばしばクシュ王国について言及している。このクシュ王国というのは南アラビアにあったと主張する人もいる。(クシテとも転写されている。)(ウィキペディア)
クス(Qus): エジプト南部ナイル渓谷(Nile Valley)の全長を占めるケナ県(Quna Governorate)の県庁で、ナイル西岸にあり、対岸には古代のゲサ(Gesa)があった。古代には紅海への中継地として重要であった。
グズ(Al Quz): グズ(Al Quz)はグンフダー(Qunfudhah)の南東31kmに位置する涸れ谷ヤバー(Wadi Yabah)北岸の位置するメッカ州(Emirate of Makkah)の町で海岸道路はこの辺りでは内陸に少し入り込んで居り、町は道路かから海岸方向に少し西に入った場所にある。涸れ谷ヤバーの南東の対岸にはティハマー 海岸低地(the coastal Tihamah lowlands)に散在するその特徴でもある小熔岩帯と火口丘がある。
グスル(ghusl): 世界的に存在する不浄(大汚)を身体から洗い流す為の全身の完全な洗い清めの儀式。
グゼラート(Guzerat): (グジャラート(Gujaray)参照。)
クッバト アシャラ(Kubbat Asharah): 昔の英国大使館で現在のジェッダ市庁舎のある場所の直ぐ南の海岸には年間600万m3を生産していた脱塩装置が置かれた。但し、「1940年代後半に撤去された凝縮器の後に脱塩プラントが建設された」との記事を私は確認していないが、「1971年に年間600万m3を生産していた」とアンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は記述している。
クトゥブ ディン(Qutb ad-Din): 16世紀の歴史家で本名はムハンマド イブン アハマド ナハルワリ(Muhammad ibn Ahmad an-Nahrwali)であり、1511年頃メッカ(Mecca)で生まれ、ジッダ市(Jeddah)の創設に関する古文を残している。
クトバ(khutbah): フトバとも転写されている。宗教的特別な行事の際に行われる説教。金曜礼拝、二大祭礼拝('Ids)、雨乞いの礼拝など特別なイスラーム行事の際に行われる。(出典: 岩波イスラーム辞典)
グトラ(Ghutrah): スマダ(Sumadah)を参照。
「国々の知識の為の最適な一文(Fairest Division for Knowledge of Countries)」: アル-マクディシ(al-Makdisi)の著書でモスレム帝国について論じている。正確に百科辞典的に驚くほど最新の手法で論じている。アル-マクディシの著書の徹底的に系統的な正確さが、時代を越えて、アル-マクディシをアラビア地理学者の最も主要な人物として位置つけている。
「国々の本(Book of the Countries)」: ヤクビ (Yakubi)著の「キタブ アル-ブルダン(Kitab al-Buldan)(国々の本)」はウィト(G. Wiet)が翻訳し1937年にカイロで出版されている。(Yakubi Les Pays tr. by G. Wiet. Cairo 1937)。
クーファ体(Kufic Script): 原典コーランのかかれたアラビア文字の書体。
クーファ文字(Kufic Script): コウフィ モスナド手法(Koufi uosnad Handwriting)あるいはコフィ図案(Cofi's Patterns)とも呼ばれ、紀元前115年から紀元14年に在ったヘマイール国(Hemair State)で使われた。これらの図案の単文(simples)や歌唱(sings)はこれらがアラビア語と近いので解明されていた。(「ヒムヤルとヘマイール」を参照)。
クベバ(Cubeb): ヒッチョウカ(Java Pepper)の実で香味料・薬用・調味料として使われる。
クミン(Cummin): セリ科の一年草で種子でカレー粉の原料にする他、スペイン料理、チーズ・ソーセージ加工等に使われる香味料で薬用にも使われる。
グムルク(Gumruk): 関税(Customs)。
グムルクジイ(Gumrukdjy):税官吏。
クライシュ族(Quraysh or Quraish): クライシュ族は4、5世紀頃にメッカ(Mecca)を中心に勢力をもっており、イスラム以前にマッカー(Makkah)からイエメン(Yemen)へ交易する隊商を営んでいた。預言者ムハンマド(Muhammad)は同部族の祖クライシュから11代目の子孫であり、その名前Muhammad ibn Abdullah ibn Abdul-Muttalib ibn Hashim ibn Abd Manaf ibn Qusayy ibn Kilab ibn Murrah ibn Ka'b ibn Lu'ayy ibn Ghalib ibn Fihr ibn Malik ibn an-Nadr ibn Kinanah ibn Khuzaimah ibn Madrakah ibn Ilyas(Elijah) ibn Madher ibn Nazar ibn Ma'ad ibn Adnan ibn Add ibn Send ibn Napyot ibn Ishmael ibn Abraham ibn Azar(Terah) ibn Nahoor ibn Srooj ibn Ra'o ibn Phaleg ibn Aber ibn Shaleh ibn Arpheckshad ibn Sam ibn Noah ibn Lamek ibn Motoshaleh ibn Edres(Enoch) ibn Yared ibn Mehlaiel ibn Qenan ibn Anosh ibn Sheeth ibn Adam)が示すようにアダム(Adam)までを遡ると云う。部族的にはアブラハム(Abraham)の子イシュマエル(Ishmael)(イスマーイール(Ismail))の12人の息子で最初に生まれたナビト(Napyot, Nebaioth or Nabit)の子孫アドナン(Adnan)を祖とし、北部、中部および西部アラビアに勢力を持つアドナン族(Adnani Arabs)が生まれた。アドナン族はアラブ化した部族(Arabized Arabs)と呼ばれ、カハタン(Qahtan)を祖とし、南部および南東アラビアに勢力を持ち、純粋のアラブ(Pure Arab)と呼ばれるカハタン族(Qahtani or Qahtanite)カハタン(Qahtan)と対峙してきた。この他に消えたアラブ族(Perished Arabs)と呼ばれる‘アド(‘Ad)、サムード(Thamud)、タサム(Tasam)、ジャディス(Jadis)、イムラク(Imlaq)などの部族も居たがイスラーム以前に沙漠の中に消滅してしまっている。その後、ヒジャーズ(Hijaz)ではアドナン族(Adnani Arabs)の1氏族で預言者イルヤース(Ilyas)(エリヤ(Elijah))の孫クザイマ(Khuzaimah)の子キナーナ(Kinanah)を祖とするキナーナ族(Banu Kinanah)が生まれた。キナーナ(Kinanah)の曾孫フィフル イブン マーリク イブン ナドル イブン キナーナ(Fihr ibn Malik ibn an-Nadr ibn Kinanah) またの名クライシュ(Quraysh or , Quraish)がクライシュ族(Quraysh or Quraish) を共通の父祖とする部族はクライシュ族と称した。したがって、クライシュ族はキナーナ族の1氏族といえる。預言者ムハンマドを生んだハーシム家(Banu Hashim or Hashemites)はクライシュ族(Quraysh or , Quraish)のハシム(Hasim)を父祖とする一門で預言者ムハンマドはハシムの曾孫である。(出典: Wikipedia、 岩波イスラーム辞典等)
クライヤト(Al Qurayyat): クライヤトはサウジアラビアのヨルダン(Jordan)との西部国境の町で古来から地中海沿岸(the Mediterranean)とアラビア半島中央部や南部を結ぶ重要な隊商路(An Important Caravan Route)であった大回廊の窪地 ワディル シールハン (Wadi'l-Sirhan)の要地であった。クライヤト(Al Qurayyat)は塩の産地としても有名であり、ヨルダン(Jordan)との西部国境が全てクライヤト州(Al Qurayyat Governorate)として独立していた時代には州都でもあった。現在でもクライヤト(Al Qurayyat)は国境の町として重要であると同時にこの地域で盛んな農業・牧畜の中心でもある。クライヤト(Al Qurayyat)はAl `Aqaylah, Al `Uqaylah, Al `Uqaylah Kaf, Al `Uqaylah Kāf, Al-`Akejla, An Nabk, An Nabk Abu Nakhlah, Nabek等とも転写されて来ており、その語源ははっきりしないが「村落・集落」を意味する語ではないかと私は思っている。
グラナダ(Granada): スペイン南部地中海沿岸のアンダルシア(Andalicia)地方の町でムーア人(Moor)のグラナダ王国(Emirate of Granada, 1228 - 1492)の首都でスペイン(Spain)におけるムーア人最後の拠り所であった。14世紀に完成した「赤い城」を意味するイスラム教徒の王宮アルハンブラ宮殿(Alhambra)がある。
グラナダ王国(Emirate of Granada): スペイン(Spain)南部の地中海沿岸にあったムーア人(Moor)の王国(西暦1228年から西暦1492年)であった。同名の町は元グラナダ王国の首都で、スペインにおけるムーア人最後の拠り所であった。
グラルダフィ岬(Cape Guardafui): ソマリア北東部の岬で、アデン(Aden)湾の南の入り口にあたる。
クリアムリア諸島(Kuria Muria Islamds): アラビア海(Arabian Sea)のオマーン(Oman)南西岸沖に位置するオマーン領の5つの島。
クリミア半島(Crimea): ウクライナ共和国(Ukrainian People's Republic)にあり、幅5-8kmのペレコーブ地峡(Isthmus of Perekop)によって大陸とつながっている。位置は、北緯44度23分-44度23分(約322km)、東経32度30分-32度30分(約177km)で、面積は、約2万6100km2である。
クルアーン最初の啓示(First Revelations of Qur’an to Muhammad): ムハンマド(Muhammad)はマッカ(Makkah)郊外のヒラーの洞穴(Cave of Mount Hira)に時々こもるようになってから人間、宇宙、創造者、そして人間と創造者との関係について、それらの根本的な問題を考えるようになった。ムハンマドはこの世界に多くの神々が存在していろいろ違った役割を持っているとか、木や土から人間の手で作られた偶像が人間の運命に影響を与えるといったことを信じていなかった。ムハンマドは一体真理は何か、真実の神とはどんなものかと考えながら瞑想を続けた。610年のラマダーン月(Month of Ramadan)のある夜、当時40歳のムハンマドがヒラーの洞窟でいつものように瞑想していたとき、突然「読め!」という力強い声を耳にした。ムハンマドが驚いて平伏し、「読めません」と答えると、再びその声は「読め!」と繰り返した。「自分は読めないのです」ムハンマドが震えながら答えたのにも関わらず、その声は再び「読め!」と言う。とうとうムハンマドが「何を読めばよいのですか」と尋ねると、相手はムハンマドをやさしく抱きしめ、「読め、『創造されるお方、おまえの主の御名において、一凝血から人間を創られた』読め。『おまえの主は最高に尊く、(人間に)筆によって(書く事を)教えられた御方、人間に未知の物事を教えられた御方である』」と言った(クルアーン第96章1-5節)。これは、大天使ジブリール(Jibril)(ガブリエル(Gabriel))によって伝えられたクルアーン最初の啓示であった。ムハンマドは恐れおののき、家へ走って帰ると、妻に「私をくるんでくれ!」と叫び、毛布に包まって震えていた。妻ハディージャ(Khadijah)はこの出来事を聞くと、彼を優しくいたわりながら、「あなたはこれまで真直ぐに生きてきた正直な人ですから、神様がきっと守って下さるはずです。何も心配することはありません」と言って慰めた。その後しばらくして、ムハンマドが自分の身の上に起きたことの意味を理解し、預言者としての自覚を持つようになると、ハディージャはアッラー(Allah)に帰依し、その最初の人となった。この最初の啓示があってから、アッラーは大天使ジブリールを通してムハンマドに啓示をお与えになり、彼がアッラーの教えを広め、人々に正しい道を伝えるためにアッラーの使徒として選ばれたことを告げられた。この時から、一介の無学なアラブ人だったムハンマドは、全人類へのメッセンジャー(Messenger)として、神の唯一性、アッラーへの帰依、偶像崇拝の愚かさ、現世での行為がアッラーの前で裁かれる最後の審判の日の到来などを人々に説きはじめた。その当時の宗教は単なる信心だけで、人間や社会の堕落を正すこともできなかったが、ムハンマドは行動を伴わない単なる信心は無意味であることを人々に強く説いた。
(出典: http://islamcenter.or.jp/jpn/Muhammad.web.htm)
クルザード(Cruzado): ポルトガル(Portugal)の昔の金貨で裏面に十字架の図案が付いていた。実体の価値のポルトガル単位のまとまりである。
クルシュナ川(The Krishna or River Krishna): インド南部西ガーツ山脈(Western Ghats)から東に流れベンガル湾に注ぐ。旧称はキストナ(Kistan)川と云う。
クールマー(Al-Khurmah): メッカ州(Makkah Province)東部のハダン熔岩地帯(Harrat Hadan)とナワシフ熔岩帯(Harrat Nawasif)の二つの火山山脈に挟まれた谷(涸れ谷スバイ)から平地への東出口付近を少し南に入った農村で、「狭間」を意味する名が付けられている。
クレオパトラ(Cleopatra): クレオパトラ7世フィロパトル(Cleopatra VII Philopator , 69 - 30 B.C.)は古代エジプトのプトレマイオス朝(Ptolemaic dynasty, 305 B.C to 30 B.C)最後の女王(51 B.C - 49 B.C, 48 B.C – 30 B.C)で、ジュリアス シーザー(Julius Caesar, 100 or 102 B.C - 44.B.C)とマルクス アントニウス(Mark Antony, 83 B.C - 30 B.C)の愛人でもあった。
黒石(Black Stone): ハジャール アスワド(al-hajar al-aswad)を参照。
クロテンの毛皮(Sable): イタチ科で、頭胴長40cm、尾長15cm程、手色は黒ないし暗褐色でヨーロッパ・アジアの北部に分布し、その毛皮はセーブルと呼ばれ、最高級品。
クローブ(Clove): クローブ(Syzygium aramaticum、Syn. Eugenia aromatica、Clove)はフトモモ科の植物で、その開花前の花蕾を乾燥させた香辛料の名である。モルッカ群島(Maluku Islands, Moluccas, Moluccan Islands or Spice Islands)が原産地で、日本では丁子(ちょうじ)、丁香(ちょうこう)とも呼ばれる。肉料理によく使われるが、他の香辛料とブレンドして使用することが多い。生薬としての花蕾を丁子(ちょうじ)または丁香(ちょうこう)ということもあり、芳香健胃剤である。
クワイイヤ(Al Quwayiyah):クワイイヤは涸れ谷クワイイヤ(Wadi Al Quwayiyah)を挟んでリヤド(Riyadh)の西170 km、トワイク山脈(Tuwaiq escarpment)の西端から100 kmの場所にある。ここには洪水から町を守り、農業用水を確保する為のダムが造られ、適当な大きさの農地が涸れ谷の両側に広がって居る。アラビア湾岸から続いてきた中世代の広大な堆積層はここで終わり、これより西の大地はアラビア盾状地となり、暗い丘の連なりが現れて来る。ここまでの東の大地は平で、水平で色が薄かったがここから西は暗い灰色、暗い緑や黒い丘の連なりに変わる。これらの丘はギザギザの角を持ち、乱雑で尖って居る。
クワマー(Al Quwamah) : 乳香の道でビシャー(Bishah)、ジャラブ(Jarab)とトルバー(Turubah)の間のアル ブグム熔岩地帯を通過する途中にあるメッカ州(Makkah Province)側の部落で妻に対する夫の立場での保護者・後見人(Guardianship)との意味の名が付けられている。
クンフンダ(Al-Qunfundah or Confuda): 紅海岸のジッダ(Jiddah)南約230kmにあり、メッカ州(Emirate of Makkah)に属し、涸れ谷ガヌナー(Wadi Qanunah)の河口の町である。紀元前24年から行われたガルス(Aelius Gallus)が指揮するローマ帝国軍の古代南アラビア遠征では「富裕なアラビア(Arabian Felix)」あるいは「幸福なアラビア」の帰途に通過し、7つの井戸があったのでヘプタ-フェレアタ(Hepta Phreata)と呼ばれていた。オスマントルコ(Ottoman Turkey)の時代やサウディアラビア初期に発行された古い小切手等も保存されているのでこの辺りの統治の中心であった筈であるが、この町がどの様な歴史を歩んで来たのかいまだに文献を私は探し出せないでいる。現在の町並みでは夜間照明のあるサッカー場とそんなに大きく無いのに遠くからは高層ビルと見間違えた給水塔が目立つ存在である。涸れ谷ガヌナー(Wadi Qanunah)の河口の南では砂地から含塩平地(Sabkha、Salt Flat)に変わり、町外れにSCECOの発電所がある。
ケ
啓典の民(People of the Book): 啓典(けいてん)とはイスラム教において唯一神(アッラーフ)から諸預言者に下された四つの啓示の書物のことで、(1) ムーサー(Musa)(モーゼ(Moses))に下された「タウラート(Torah)」(「モーゼ五書(Five Books of Moses or Pentateuch)」)、(2) ダーウード(Daoud)(ダビデ(David))に下された「ザブール」(「詩篇(Psalms)」) (3) イーサー(Isa)(イエス(Jusus))に下された「インジール(Injil)」(「福音書(Gospel)」) (4) ムハンマド(Muhammad)に下された「クルアーン(Qur’an)」(「コーラン」)の4書であり、旧約聖書、新約聖書を内包する。啓典の民とは本来はこれら啓典(聖書、クルアーン)を元に成立するキリスト教徒、ユダヤ教徒、サービア教徒(Sabians)のみを指し、それ以外の異教徒には改宗を迫る(強制改宗)のが原則であった。しかし、イスラーム国家の拡張に伴い強硬な姿勢は維持できなくなる。そのため、時代と地域によって若干の異同はあるが、実質的にイスラーム国家の支配領域に住むほぼ全ての異教徒を指して啓典の民と呼ぶと考えてよい。啓典の民は通常の税金のほかに「ジズヤ(Jizya or Jizyah)」と呼ばれる人頭税の支払いの義務が生じるが、それを履行する限り「保護(ズィンマ(Dhimma)」が与えられ「被保護民(ズィンミー(Dhimmi)」として、厳しい制限付きではあったが信教の自由や民族的慣習の保持が許された。
桂皮・肉桂皮(Cinnamon): 肉桂はクスノキ科の常緑高木でインドシナ(Indochine)原産の香辛料植物であり、高さ10m、樹皮は緑黒色で芳香と辛味があり、葉は革質で厚く、長楕円形、6月頃葉腋に淡黄色の小花をつけ、楕円形黒色の核果を結ぶ、この樹皮(桂皮)を乾燥させたのがニッキ(シナモン)であり、香辛料・健胃薬・矯味矯臭薬として使われ、又、桂皮油を取る。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「肉桂皮(Cinnamon)あるいは白桂(Canella)(ハッケイ、西印度諸島産の肉桂に似た木)はセイロン島原産の植物(Cinnamomum zeilanicum)の小枝の接地或いは接地してない樹皮」と説明している。
KAIA: リヤド国際空港(King Abdul Aziz International Airport, Riyadh)
KFIA: ダンマン国際空港(King Fahad International Airport, Damman)
毛織物(Woollens): 羊・駱駝等の動物の毛で作った糸で織った織物で羅紗(raxa)・ネル(flannel)・セル(serge)等の類。
KKIA: ジェッダ国際空港(King Khalid International Airport, Jeddah)
ケシュム島(Island of Qeshm): ホルムズ(Hormuz)海峡にあるイラン領の島。
ケシュレ(Keshre): 豆の皮(Skin of Bean)から作った代用コーヒー。
ゲジラ地域(Gezira): スダーン東部白ナイル(White Nile)川と青ナイル(Blue Nile)川に挟まれた地域で大規模な灌漑計画により農業地域となった。又、16世紀から19世紀に掛けて王国(Funj Sultanate of Sinnar, 1504 - 1821)が栄えた。GeziraはAl Jazirah、SinnaはSennarとも転写される。
血讐(Blood Feud): 流血の復讐を繰り返す二族の反目(Blood Vengeance)。
ゲッルハ(Gerrha): (ジャルハ(Gerrha)を参照。)
ゲティンゲン(Göttingen): ドイツのニーダーザクセン(Niedersachsen、Lower Saxony)州にある市で人口13万人、中世ハンザ同盟の有力都市。
ケドラパイプ(Kedra): 喫煙に使われるペルシャパイプ(Persian Pipe)にはケドラ(Kedra)、シシャ(Shishe)およびブリ(Bury)の三種類があり、ケドラ(Kedra)が最大で三脚の上に置かれている。これは常にキチンと磨かれ、個人の家の中でしか見掛ける事は無い。
ケニア(Kenya): アフリカ東部、赤道上にあり、1895年以来英保護領、1963年に独立、英連邦に属し、コーヒー、茶を産し、観光業が盛ん、面積58万km2、人口3,052万人(1995)、首都はナイロビ(Nairobi)。
ケニ族(Kenite): ユダヤ教の聖書(Hebrew Bible)によればケニ族(Kenite or Cinites)はジェスロ(Jethro)の支配の下に聖職者ミディアン(Midian)へ送られた古代レヴァント地方(Ancient Levant)の遊牧民の一門である。ケニ族は古代イスラエルの歴史で重要な役割を演じた。ケニ族は銅細工師や金属細工師であった。モーゼ(Moses)の義理の父ジェスロ(Jethro)は羊飼いでケニ族の聖職者であった。ケニ族は明らかにイスラエル人社会に同化していたが、荒野で天幕生活し飲酒をしなかったレカブ人(Rechabite)の子孫であり、かなり長い間ハッキリした放牧生活を維持していた。モーゼは明らかにジェスロ(Jethro)の神の概念エル シャッダイ(El Shaddai)をイスラエル人の神ヤハウェ(Yahaweh)と同一視していた。ケニ族の憶測によれば「ヤハウェ(Yahaweh)は元々、ケニ族の族神であり、ユダヤ人(Hebrews)によって取り入れられ、順応させられた。(出典: Wikipedia)
ケブラ ナガスト(Kebra Nagast): 「王達の栄光の書(The Kebra Nagast or the Book of the Glory of Kings)」はハイレ セラシエ皇帝(Haile Selassie, A.D.1941 - A.D.1974)で知られるエチオピア帝国(Emperors of Ethiopia、A.D. 1270 - A.D. 1974)の古代イスラエル王(Kingdom of Israel, c. 1050 BCE - c. 930 BCE)ソロモン(Solomon, 971 - 931 BCE)系譜の血統を現在のエリトリア(Eritrea)および北部エチオピア(Northern Ethiopia)で使われていた古代南セム語(South Semitic language)の一つであるゲーズ語(Ge'ez)で書いた記述である。現存している版は少なくとも700年前の書で、多くのエチオピア キリスト教徒やラスタファアン教徒(Rastafarians)にとっては「神霊を感じ、たよりとなる記述である」と考えられている。この記述には「どの様にシバの女王(Queen of Sheba)がソロモン王(Solomon)と会ったのか」、「ソロモン王とシバの女王との間に生まれ、紀元前204年 - 紀元前179年頃に治世を行ったと伝えられるエチオピア初代王メネリク1世(Menelik I)がどの様のハマシエン(Hamasien)で生まれ、エチオピアへ『十戒が刻まれた石板を収めた聖櫃(せいひつ)(the Ark of the Covenant)』を運んだのか」等の記述を含むばかりでは無く、「エチオピアの民(Ethiopians)が太陽・月・星崇拝信仰からイスラエルの神(the "Lord God of Israel".)の信仰に改宗したのか」と云う記述も含んでいる。「ケブラ ナガストは単に文学作品では無く、ヘブライ人にとっての旧約聖書(the Old Testament to the Hebrews)であり、やアラブ人にとってのクルアーン(the Qur'an to the Arabs)であり、エチオピア人の国民感情と宗教感の安置所である」と云う人もいる。
ゲルハルト ロールフス(Gerhard Rohlfs): ドイツの探検家(1831 - 1896); 北アフリカ・サハラ・ナイジェリアを探検し、ドイツ皇帝の委託を受けてワダイ(Wadai)とアビシニア(Abyssinia)に遠征し、探検記(Drei Monate in der Libyschen Wüste (1875)、Quid novi ex Africa?(!886))等を書いた。
ゲルラ(Gerrha): (ジャルハ(Gerrha)を参照。)
ケルン(Cologne): ドイツ西部ノース ライン ウェストファリア(North Rhine-Westphalia)州のライン川(the Rhine)に臨む市(96万)。
ケレイス(Kheleys): ジッダ(Jeddah)とメディナ(Medina or Madinah)の間のメディナ道路沿いの集落。
ゴア(Goa): インド南西のマラバル海岸(Malabar Coarst)に臨む州で州都は人口4.3万人の港町パナジ(Panaji)でパンジム(Panjim)とも云う。ゴアはアラビア馬をインドへ輸入する陸揚げ地であり、マラバル海岸(Malabar Coarst) の造船中心地の1つであった。その上、島に位置していたので、アルボケルケ(Alboquerque)の計画には好都合であった。アルボケルケは1510年に最初の攻撃に成功したが、直ぐに引き上げた。しかしながら、アルボケルケは同じ年遅くに軍を引き返し、激しい戦いの後に永久に占拠し、直ちにこの市をポルトガルの拠点に変換した。ゴアはポルトガルインド帝国(Portuguese India)の首都として1961年12月18日までポルトガル領であった。この時までにゴアはゴアそれ自身およびダマン(Damão)とディウ(Diu)2つの小さな領地に縮まり、同1961年に故インド首相ネール(Jawahrlal Nehru)がこれらの領地を併合し、インド領と成った。
「ゴアからスエズすなわち紅海への航海日誌」: 「ゴアからスエズすなわち紅海への航海日誌 (Roteiro de Goa a Suez ou do Mar Roxo)」は1541年に「ジョアン デ カストロ航海日誌第III巻(Roteiros de D. João de Castro - III)」として作成され、初版はニュエス デ カルヴァルホ(A. Nunes de Carvalho)によって、1833年にパリで出版された。さらに1940年にはフォントウラ ダ コスタ(A. Fontoura da Costa)編集でリスボンで出版された(ed. by A. Fontoura da Costa. Lisboa 1940.)。
香(Incense): 香木または種々の香料を練り合わせたもの。
紅海(Red Sea or Sinus Arabicus): アフリカ東北部とアラビア半島とに挟まれた湾である。「エリュトゥラー海(Erythraean Sea)」とも言う。面積438,000km2、平均深度491m。海水は乾燥と日差しによる強い蒸発作用(少ない降雨)を受け、四季に渡って流入する河川が無く、インド洋(Indian Ocean)とは限られた循環しか無い等により塩分濃度が3.6%〜3.8%と高い。北部にはシナイ半島(Sinai Penins)があり、チラン海峡(Straits of Tiran)を通じてアカバ湾(Gulf of Aqaba)とつながっている。また、北西部にはスエズ湾(Gulf of Suez)があり、スエズ湾はスエズ運河(Suez Canal)を経て地中海(Mediterranean sea)とつながっている。また、南部はバブ・エル・マンデブ海峡(Strait of Bab el Mandeb)を経てアデン湾(Gulf of Aden)とつながっている。域内には大きな島嶼は無く、沿岸部に小島嶼が数多くある。その代表的なものとしてはエリトリア(Eritrea)のダフラク諸島(Dahlak Archipelago)、サウジアラビア(Saudi Arabia)のファラサン諸島(Farasan Islands)、イエメン(Yemen)のカマラン島(Kamaran Island)などがある。目立った河川が流れ込んでいないこともあり海水の透明度が高く、固有種も多いことからダイバーにとって憧れの対象である。とりわけ、エジプト(Egypt)がその恩恵を享受している。(ウィキペディア)紅海は水深が深く、大きな水の循環があるので珊瑚にとってはアラビア湾(Arabian Gulf or Persian Gulf)よりはもっと安定した海洋環境であり、一種の藻類の為に海水の色が紅を呈する事があるという。
「紅海航海日誌(Red Sea Roteiro)」: 1541年、ジョアン デ カストロ(Joān de Castro)著。
航海者ヘンリー王子(Prince Henry the Navigator): 航海王子エンリケ(Henrique o Navegador)はポルトガル王ジョアン一世(Joãn I)(1357 - 1433)の王子(1394 - 1460)でジブラルタル海峡(Strait of Gibraltar)北アフリカ岸のセウタ(Ceuta)を攻略して以後、航海の研究やアフリカ西岸の探検に尽力し、ポルトガル人のアフリカ周航およびインド航路開拓の先駆、母国の学術、文化の振興にも貢献した。但し、後に付けられたそのあだ名(Sobriquet)にもかかわらず、ヘンリー王子は海洋事業の実地の部分には加わらなかった。
「紅海とアデン湾の水先案内(Red Sea and Gulf of Aden Pilot)」: 「海軍の水路測量(Hydrographer)」イングランド南西部サマセット(Somerset)州トートン(Taunton)で1967年に出版、1971年に増補付きで再版。
「紅海とアビシニア」: デニ ドゥ リボワール(Denis de Rivoyre)著、1880年パリで出版(De Revoyre, D. Mer Rouge et Abyssinie Paris 1880.)。
「紅海とアビシニアの交易に関する注意」: (Notice sur le commerce de la Mer Rouge et de I'Abyssinie)はセオフィル ルフェーヴル(Thèophile Lefebvre)著、1845 - 1851年にパリで出版された「1839年から1843年のアビシニア旅行」(Lefebvre, T. Voyage en Abyssinie executé pendant les années 1839 - 1843. Paris s.d. [1845 - 1851].)の第II巻(in Appendixs to t. II.)の付属書である。
「紅海の旅行記(Red Sea Itineraries or Descriptio Maris Rubri)」: ルイス デル マルモル カルヴァハル(Luis del Mármol Carvajal)著の「アフリカの全般的記述(モハメット教の創設から1571年までの戦争と盛衰について)(Descripción general de Africa, sus guerras y vicisitudes, desde la fundación del Mahometismo el aňo 1571)」をアントニウス マッテウス(Antonius Mattaeus)は要約し、「紅海の旅行記(the Red Sea itineraries)」と云う題でラテン語(Latin)に翻訳し、1738年にハーグ(Hague)で出版した「(Veteris Aevi Analecta)」の中で言及している。
後期オルドワン文化(Developed Oldowan Types): 初期の人類でホモ ハニリス (Homo habilis) と知られた旧人類が200万年より少し前に最初に現れ、発展させたぶち切り器、多面体、長円体、円盤等を生み出した古石器文化。
紅玉髄(Cornelian): 赤瑪瑙・カーネリアン(Carnelian).
紅茶(Tea): 茶の樹の若葉を摘み取り、発酵させると紅褐色となり芳香を放ち、これを乾燥したもので、茶として淹れると紅色を帯びるので紅茶と呼ばれ、主としてインド(India)やスリランカ(Sri Lanka)で産する。
香菜(Coriander): セリ科の一年草で、南ヨーロッパ原産の香味料・薬用植物で高さ30cm - 60cm、茎・葉とも特異な芳香があり、カレー粉やクッキー等の加える。葉は細裂した羽状複葉で、互生、夏、小白花を複産形花序につける。果実は小円形で、香味料・健胃・去痰薬として用いる。香菜(Coriander)はポルトガル語ではコエンドロ(Coentro)と云う。
更新世(Pleistocene): 約164万年から約1万年前までの地質年代の一区分で、第四紀の前半にあたる。洪積世、最新世、氷河時代ともよばれる。ホモ・エレクトゥス(原人) (Homo erectus)が出現し、現代人の段階まで進化した時代であり、考古学上の編年では旧石器時代と縄文時代草創期に相当する。
コウフィヤ(Koufiyah): アラブ族が頭飾り(Headdress)として用いる絹や綿の色とりどりのネッカチーフ(Variegated Kerchiefs)。
後ウマイヤ朝(Caliphate of Córdoba): 後ウマイヤ朝(Caliphate of Córdoba, 756 - 1031)はイベリア半島(Iberia or Iberian Peninsula)に興ったイスラーム王朝(Islamic dynasty)で、ウマイヤ朝(Umayyad Dynasty, 661 - 750)がアッバース朝(Abbasids, 750 - 1258)に滅ぼされた後にウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世(Abd ar-Rahman I, 731 - 788)が756年、コルドバ(Cordoba)を都にして独立した。新ウマイヤ朝、または英主アブド アッラフマーン3世(Abd-ar-Rahman III, 912 - 929)がカリフ(Caliph)を称したことから西カリフ帝国とも呼ばれる。アブド アッラフマーン3世は、フランク王国(Francs)(カロリング朝(Carolingian Empire, 751 - 987))やノルマン人(Normanean)の侵入を防いで勢力を維持するのみならず、トレド(Toledo)攻略などの戦果も挙げた。学芸の中心地でもあったコルドバはヨーロッパ諸国の留学生も迎え入れて大いに繁栄した。ヒシャーム2世(976 – 1009, 1010 – 1013)の時代には、宰相でかつ名将であったアル マンスール(Al Mansur Ibn Abi Aamir)(西名アルマンソール(Almansor)))が、985年にカタルーニャ(Catalunya)まで攻め込み、997年にはガリシア(Galicia)の一部まで占領する勢いを示した。しかし、アル マンスールが1002年に死ぬと彼の息子たちの宰相位争いとスラブ系の豪族とバルベル系(Berbers)の豪族によるカリフ位の擁立合戦、継承争いで29年の間に10人のカリフが即位するという内憂によって衰退し、アラゴン王国(Crown of Aragon, 1035 -1715)・カスティーリャ王国(Kingdom of Castile, 1035 - 1715)に圧迫されるという外患の末、1031年に最後のカリフ、ヒシャーム3世(Hisham III, 1027 – 1031)が亡くなると大臣たちによる「評議会」によってカリフの廃位が決定されて滅亡した。以後は、各地の豪族たちが独立し、26とも30とも言われるタイファ(Taifas)と呼ばれる諸侯達が分裂割拠する時代となる。(ウィキペディア等)
香料の土地: Land of Spices.
小型のサメ(Dog-Fish): 沿岸に広く棲息するトラザメ科のサメでrough houndやsanddogとも云う。又、ツノザメ科、メジロザメ科、トラザメ科の各種のサメ類をdog-fishsと総称する事もある。
国際自然保護連合(IUCN): International Union fro Conservation of Nature and Natural Resources
黒檀(Ebony Wood): カキノキ科(Ebenaceae)の常緑高木(Diospyros ebenum)、インド南部およびセイロン島原産、高さ約6m、葉は長楕円形、水平の枝に2裂に互生。初夏、葉腋に淡黄色の柿に似た花を開き、雌雄同株、液果は球形、材は黒色で緻密、器具材に賞用、烏文木、烏木、黒木。
「コジャ アブドル カリム(Khoja Abdul Karim)の航海の記録の英訳」: ペルシャ語からF. グラドウィン(F. Gladwin)によって英訳され、カルカッタ(Cakcutta)で1783年に出版された(Memoirs of Khojeh Abdul-Kurreem tr. from the original Persian by F. Gladwin. Calcutta 1783)。
「コジャ アブドル カリム(Khoja Abdul Karim)の航海の記録の仏訳」: L. ラングレ(L. Langlè)によって翻訳され、1709年にパリで「旅の逸話の収集」として出版 ((a récit de voyage) Abdul Kerym Voyage de I'Inde à la Merque tr. by L. Langlè. Collection Portative des Voyages, Vol 1, Paris 1797.) 。
コジャムバール(Khojambar): 1503年2月12日のカリカット(Calicut)艦隊とヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)指揮するポルトガル艦隊との海戦で29隻のダウ船(dhow)で構成されるカリカット(Calicut)の艦隊の紅海部隊を指揮した偉大な名声を持つアラビア人船乗り。
胡椒(Pepper): コウショウ科の蔓性常緑木本、普通は雌雄同根で、時に両生花をつける。インド南部の原産とされる香辛料作物で、熱帯各地で栽培され、果実は豌豆大の液果で、熱すると赤くなる。この実を加工した香辛料を胡椒と云い、味は辛く、黒胡椒は未熟果を、白胡椒は成熟果の果皮を除いたものを乾燥し、粉末としたものである。アンジェロ ペセ博士(Dr. Angelo Pesce)は「胡椒は薮の中で育ち、時々4m以上となるパイパー ニグルム(Piper nigraum)と云う葉の多いつる植物(Vine)のしなびた液果(Berry)である。この香辛料は黒白2つの種類がある。黒胡椒は皮を剥かない液果全体をすりつぶして得られ、白胡椒は干した胡椒の実だけをすりつぶして得られる。胡椒の新鮮な液果(berry)は赤い色をしており、乾かすと黒色に変化する。胡椒はインドネシア(Indonesia)、インドシナ(Indochina)、マレイシア(Malaysia)および南インド(Southern India)で育つ」と説明している。
古代アラビア語(Old Arabian Language): 古代にはアラム人(Aramaean Sphere)と南セム族(South Semitic Sphere)との間の区別は厳格では無かった。紀元前9世紀から紀元前6世紀のアッシリア(Assyrian)やバビロニア(Babylonian)の碑文に記述の見られる北アラビアの部族(People of Northern Arabia)は疑いもなくこの二つのグループから特徴を分け合っていた。例えばタイマ(Tayma)の碑文は基本的には北アラビアでのサムディク(Thamudic)文字の言語の地域であったが、紀元前6世紀から紀元前5世紀にそこで両方の碑文が見つかっている様にアラム語(Aramaic)も使われ、その影響も受けていた。紀元前2世紀から紀元4世紀の北西アラビアのナバティア人(Nabataean)は自分達の言葉を書くのにアラム語(Aramaic)に極めて近い文字を使って居た。この文字はアラビア語とアラム語の合成であった。しかしながらナジド(Najd)ではアラム人文化(Armaean Culture)との繋がりは余り強くはなかった。紀元前500年から西暦500年の間に西および中央アラビア全体で北の強い北西セム語(Northwestern Semitic Speech or Aramaic Speech)を話す地域と南の強い南セム語(Southern Semitic Speech)を話す地域を結んでいた。西(Western Arabia)および中央アラビア(Central Arabia)におけるイスラム以前の言葉の分類はまだ研究の緒に過ぎないが、それはサムディク(Thamudic)の文字と言語の地域内にあった。古代アラビア語は多面な背景を持つ特徴のある中央および西アラビアでが発展したのは疑いも無い。南セム語と北西セム語は両方の特徴を共有する様に互いに混じり合った。これらの言語範囲の中で最終的には古代アラビアを作り出した多くのアラビア語の特徴を持つ母体が確認できる。従って、言語学的呼称でアラブと云う用語を当てはめるのであればこれらの言語を話す人達は早期アラブ部族であると当然考えられた。イスラム以前のナジド(Najid)の部族は勿論この言語に間違いなく含まれ、早期アラブ部族の中核を成していた。この為に紀元前1,000年期の半島のアラブ部族は文字と言語では二つの関連する伝統に属していた。この二つの伝統はナジドと西アラビアで混じり合った。まだ南と北の構成要素の観念はアラブ部族の伝統の中に非常に頑固の残って居たし、残って居る。アラブ部族は自分達を地理的にカータン族(Qahtan)出身の南グループと’アドナン族('Adnan)出身の北グループに常に分けて来た。イエメンのサイハド文明(Sayhad)を担ったのはカータン族(Qahtan)の子孫と考えられて居たし、’アドナン族('Adnan)は半島北部の出身だと考えられて居た。この部族の血筋(Genealogy)での基本的な区別はその起源をアラブ部族の早期歴史の中でアラム人(Aramaean Sphere)と南セム族血統(South Semitic Sphere)に遡る。
古代アラビア文字(Old Arabian Alphabet): アラビアで見つかったイスラム以前に使われた文字は古代南アラビア文字(南セム語(South Semitic))、サムード文字(Thamudic)とアラム文字(Aramaic)の三つの主要なグループに別れる。南アラビア碑文とも呼ばれる古代南アラビア文字はイエメン(Yemen)のシバ王国(Sabaean)、ミナ王国(Minaean)(マイーンMa`in)、カタバーン王国(Qatabanian)およびハドラマウト王国(Hadramautic)等のサイハド(Sayhad)文明で使われた文字であり、サムード語(Thamudic)はヒジャーズ(Hijaz)、中央アラビアおよびシナイ半島で使われた古代北アラビア方言である。第三のグループは古代シリア地方のセム語でキリストが用いたとされるアラム文字(Aramaic)とそれに密接に関連して派生したナバテア文字(Nabataean)である。第一グループの古代南アラビア文字と第二グループのサムード文字の間には相当な類似性があるが、「サムード文字は中央イエメン北部のサムード族(Tamud)の土地で、たまたま、最初に見つかったのでこの名が付けられているがサムード族とサムード文字には直接的な関係はない」と云われている等、その起源に関する疑問は興味を引く。この両方とも子音と標準の文字順を保って居り、この子音と標準の文字順は紀元前1,400年以前のレヴァント(Levant)の北西セム(Semitic)族言語と共有性がある。しかしながら、これらは紀元前1,000年以前に北西セム(Semitic)族言語からは省かれてしまっている。
古代南アラビア文字(Old South Arabian Alphabet):この文字は古代南アラビアのシバ王国(Sabaean)、ミナ王国(Minaean)(マイーンMa`in)、カタバーン王国(Qatabanian)およびハドラマウト王国(Hadramautic) の4つの緊密に関連した原語に使われた文字の総称で、サムディック文字(Thamudic alpabet)(サムード文字)共に、紀元500年頃からナジラン(Najran)北方のビール・ヒマ(Bir Hima)とヤダマ(Yadamah)間の地域等の岩壁碑文に使われた。古代南アラビア文字はフェニキア文字(Phoenician alphabet)から派生しており、最初はギリシャ文字(Greek alphabet)と一緒に発展したとの説もある位四角な文字であったが、回教紀元頃まで続いたイエメン(Yemen)のヒムヤル王国 (Hmyar or Himayarite)の影響を受け少し丸みがかって来ている。現在でもエチオピアの公用語であるアムハラ語(Amharic)の表記に用いられるゲージ文字(Ge'ez alphabet)として母音を付した形で残っている。
コーチン(Cochin): インド南西部マラバル海岸(Malabar Coarst)の港町で人口56万人、ヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)が1502年に建設した。1956年以来ケララ(Kerala)州の一部になっている。
コックス卿(Sir Cox): パーシイ コックス卿(Sir Percy Cox)はスターク女史(Freya Stark)が行った1935年のハドラマウト(Hadhramaut)への訪問の講演を解説し、「ハドラマウトからナジラン(Najran)までの乳香の道の長さはアラビア半島のほんの一部でしか無いが全く探検されて居ない」とコメントした。これがアシール(Asir)からハドラマウト(Hadhramaut)へ探検するハリー St. ジョン フィルビィ(Harry St. John Philby)の動機と成った。
コッセイール(Kosseir): サウジ側のワジュ(Al Wagh)の対岸のクサイル(al-Qusair)。
ゴーティエ(E.F. Gauthier): 有名なアフリカ探検家で1917年にイブの墓(the Tomb of Eve)を訪問し、頭から足まで205歩即ち約130mと述べている。1931年パリで出版された「回教徒の風習と習慣(Moeurs et coutumes des Musulmans)」を著述した。
コートジヴォアール(象牙海岸)(Ivory Coast): 名の由来は象牙の輸出で、アフリカ西部ギニア湾のリベリア(穀物海岸)とガーナ(黄金海岸)挟まれた地域で、1960年までフランス植民地、人口1,500万人、首都はアビジャン(Abidjan)であったが、1983よびヤムスクロ(Yamoussoukro)に遷都。
言葉の語源研究(Word's Etymology): 語源研究、語源学。
コトマン(Kotman): 涸れ谷ビシャー(Wadi Bishah)のビシャー(Bishah)で分岐する左股の涸れ谷ヒールジャブ(Wadi Hir Jab)沿いの小部落の一つ。
琥珀(Amber): 地質時代の樹脂等が地中に埋没して生じた一種の化石で、塊状・礫状で産し、おおむね黄色を帯び、脂肪光沢が著しく、透明ないし半透明で、煙管・装身具・香料等に用いられる。
琥珀織り(Taffeta): 光沢のあるやや堅い平織り。
「コビリヤンの旅行記(Covilha’s Travels descrived by Father Francisico Alvarez)」: ファランシスコ アルヴァレス神父(Father Francisico Alvarez)著、同神父はロドリゴ デ リマ(Rodrigo de Lima)の1520年の外交使節団と共にアビシニア(Abyssinia)に行き、そこでコビリヤン(Covilha)に会い、「コビリヤン(Covilha)の旅行記」を記述した。その中で「ペロ デ コビリヤン(Pero de Covilha)はアデム(Adem)(アデン(Aden))へ行き、そこからホルムズ(Hormuz)へ行き、引き返し、ジュダ(Juda)およびメカ(Meca)およびアル メディナ(Al-medina)を見て来た。そこからシナイ山(Mount Sinay)へ向かった」と述べている。
護符(Talisman): お守り。
コプタス(Coptus): ナイルの一つ運河に位置するテバイス(Thebais)の町。
コモリン岬(Cape Comorin): インド最南端(8°5′N 77°34′E)で、タミル ナードゥ州(Tamil Nadu State)のカンニヤークマリ(Kanyakumari)町に位置する聖地でもある。
ゴムの木の花(Gum-Tree Flowers): ユーカリの木(Eucalyptus)等でRubber TreeやRubber Plantとは別もの。
コラサン(Khorasan): 3世紀頃からの古代ペルシャ(Ancient Persia)の東部地域で現在のアフガニスタン(Afghanistan)、イラン(Iran)、タジキスタン(Tajikistan)、トルクメニスタン(Turkmenistan)、ウズベキスタン(Uzbekistan)を含む。
コリン クロー卿(Sir Colin Crowe): 1940年頃ジッダの航空写真を撮影した。
コール(Khohl): ミネラル化粧品(a Mineral Cosmetic)。
ゴルガーン(Gorgan): イラン北部カスピ海の南東岸地区にある市で旧称アステラバード(Asterabad)。
コルドバ(Cordoba): 中世に800年間ムーア人(Moor)の支配を受けたスペイン南部アンダルシア(Andalisia)地方の町でグアダルキビル川(Guadalquivir)河畔にあり、中世イスラム王国(756年から1031年)の首都であった。(後ウマイヤ朝を参照。)
コルドファン(Kordofan): スーダン中部の白ナイル(Nile)川の西・北にある地域である。
コルベット艦(Corvette): コルベット艦(Corvette)は古い平甲板一段砲装の木造帆装の軍艦であり、フリゲート艦(Frigate)よりも小さく、通常、1層の砲列甲板しか持たないスループ艦(小型帆走軍艦)(Sloop of War)よりも大きかった。17世紀のスループ艦およびコルベット艦の多くは全長が12-18mで排水量が36-64トン位の大きさであった。これらは単層甲板に4-8門の大砲を搭載していた。時代が経つに連れてコルベット艦(Corvette)と呼ばれる程度の大きさと収容能力を持ち、1800年までには全長30mで排水量は365-544トンに達した。コルベット艦(Corvette)はスループ艦(小型帆走軍艦)(Sloop of War)等の多くの種類の小型軍艦の1つであり、その軍務は沿岸警備、小規模戦争、大きな艦船の支援および参戦の象徴(Show-the-Flag-Mission)等であった。
ゴレアル(Gholeal): ジッダ郊外の南南東はずれの地区
コロマンデル海岸(Coromandel Coast): インド南東岸のベンガル湾 (the Bay of Bengal)地域で北はクルシュナ(Krishna)川の河口から南はカリメール(Calimere)岬まで。
コロンブス(Columbus): コロンブス(Christopher Columbus, 1451 - 1506)はイタリアの航海者で1492年にスペイン女王イサベル(Isabella)の援助を得てアメリカ大陸に到達した。
ゴンサルヴォ ヴァズ ゴエス(Gonsalvo Vaz Goes): ゴンサルヴォ ヴァズ ゴエス(Gonsalvo Vaz Goes)は、1507年にアラビア人がカナノア(Cananore)の要塞司令官ロレンソ ブリト(Lourenço Brito)から正規に得た安全通行証を見せたにもかかわらず、1艘のアラビア船を略奪し、沈め、その乗組員を帆に縫い合わせた。
コンスタンティノープル(Constantinople): もとのビザンティウム(Byzantium)は東ローマ帝国(ビザンティン帝国)(Eastern Roman Empire or Byzantine Empire, 330 - 1453)の首都。
ゴンダル(Condar): エチオピア(Ethiopia)北西部タナ湖(Tana)(青ナイルの水源)の北にあるアムハラ(Amhara)州の州都で、元はエチオピアの首都であった。
コンチニール(Cochineal): 臙脂虫(えんじむし)(Conchineal Insect)を乾燥して採る鮮紅色染料。
ゴンフォド(Gonnfode): クンフダー(Qunfudah)。
サ
サアイ(sa'y or sa’i): サアイ(sa'y)はハッジ(Hajj)およびウムラ(Umra)の行事の1つでサファーの丘(al-Safa)とマルワの丘(al-Marwah)の間を7回行き来する行。サアイ廊(sa'y)についてはサファーの丘(al-Safa)参照。
サアダ(City of Saadah): ジッダから紅海の海岸線に沿って637.5km南にあるイエメンの市。
サイ(Say): 紅海を航行するもっとも小さな船は岸近くまで接近出来た。
在外商館(Factory): 外国人商人が居住し、商品を貯蔵できる治外法権(Extra-Territorial)を持った要塞化された居住区域。
ザイド イマーム政権 (Zaidi Imamate): 893年にイマーム ハッサン(Imam al Hasan)の子孫であるラッシド(Rassids or RassI)がメディナ(Medina)からイエメン(Yemen)北部高原にこの地方の部族間の争いの調停者として招かれた。その後ハシド一門(Hashid)とバキル一門(Bakil)等ハムダン部族(Hamdan Tribes)の助力を得て、897年にサ‘ダ(Sa’da)にラッシド朝(Rassids)(ラッシー朝(Rassi))によるザイド イマーム政権 (Zaidi Imamate)を樹立した。ラッシド朝(Rassids)は1300年頃に滅亡したが、ザイド イマーム政権 (Zaidi Imamate)は1962年の革命で追放されるまで存続した。ザイド派(Zaidiyyah or Zaydism)は三つの分派に分かれており、イエメン(Yemen)におけるザイド イマーム政権 (Zaidi Imamate)の樹立は第1分派のジャルデュイヤ(Jarudiyya group)が創建したがスンナ派(Sunni Islam)のハナフィー学派(Hanafi)およびシャフィイ学派(Shafi‘i)との間の影響が大きくなり、実権はジャルデュイヤ(Jarudiyya group)から第2分派のシュライマニヤ(Sulaimaniyya)へ移り、次に第3分派のタビリイヤ(Tabiriyya)、ブトリイヤ(Butriyya)(サリヒイヤ(Salihiyya))へと移行した。(ザイド派(Zaidiyyah or Zaydism)、イマーム ハッサン(Imam al Hasan)およびイマーム ラッシド(Imam Rassids)を参照。)
サイード ジュマ(Saeed Jumann): ナジランホリディ-イン(Najran Holiday-inn)のガイド、教養・知識・経験でパトリック ピエラード(Patrick Pierard)と較べようも無いがARAMCOに勤めて居たので英語は出来る。サウジ人なので警察や治安部隊の検問への対応が出来るのが利点だがそれ以外は田舎の親父の域を出ない。
ザイド派(Zaidiyyah or Zaydism): ザイド派(Zaidiyyah or Zaydism)は十二イマーム派(Twelver)、イスナーイール派(Ismailism)と共にイスラーム シーア派(Shi’ah, Shi’a, Shi’ite or Shia Islam)の分派(Sect)で他のに2派と比べると小数はであり,シーア派初代イマーム アリー(‘Ali ibn Abi Talib, 4th Rashidun Caliph and First Shi’ah Imam)の曽孫ザイド(a Great-Grandchild) ザイド(Zayd ibn Ali, 675 - 740)の名に由来する。ザイドは第4代イマーム(Fourth Imam ‘Ali ibn Husayn, 656 - 712)の子で,穏健な兄である第5代イマーム(Fifth Imam) ムハンマド アルバーキル(Muhammad ibn ‘Ali al Baqir, 676 – 743))とは政策を異にし,積極的な政治運動によってウマイヤ朝(Umayyad Caliphate, 661 – 750)からシーア派に政権を奪取しようと努め,740年にイラク(Iraq)のクーファ(Kufa)で乱をおこしたが数日後に鎮圧され,彼は戦死した。この派は特異なイマーム論を主張し,シーア派主流の十二イマーム派(Twelver Imami Shi’ism)と一線を画している。アリー以前の3人の正統カリフ(Rashidun Caliphs)を,主流シーア派はアリーの権利の簒奪者として認めないのに対し,この派は折衷案を唱え,劣ったイマームとしながらもカリフの存在を合法的に認めた。しかし,この主張は主流に認められなかった。他の2派と分派したのは5代目のイマームの継承をめぐる問題であったので、五イマーム派(Fivers)と呼ばれることもある。イエメンの他にこの派はカスピ海南岸でもザイド朝(別名アリ朝)(864〜928)を樹立している。イエメンではラッシー朝(Rassids)(ラッシド朝(Rassids))(9世紀前半〜1300ごろ)が奉じられ,今日にいたるまでイエメンはザイド派の重要な中心で北イエメンの人口の半数以上は同派の信徒である。(ザイド イマーム政権 (Zaidi Imamate)を参照。)
サイード モハンマド エル マフロウキィ(Seyd Mohammed el Mahrouky): ニーブール (M.[C.] Niebuhr)がエジプトに滞在して居た時にカイロ一番の商人であり、ジッダ(Djidda)でもっとも金持ちの商人アラビィ デイラニィ(Araby Djeylany)宛の紹介状をニーブール (M.[C.] Niebuhr)の為に用意してくれた。
サイハド沙漠(Sayhad): サイハド沙漠は涸れ谷ハドラマウト(Wadi Hadhramaut)と涸れ谷ジョウフ(Wadi Jawf)に挟まれたイエメン(Yemen) 西部中央のラムラト サバ’アタイン(Ramlat Sab'atayn)にある。サイハド沙漠(Sayhad Desert)のマーリブ(Marib)地域では紀元前23世紀にはすでにアラビア半島南部を支配したカハターン族(Qahtanis)が簡単な土盛りのダムと水路をに建設し始めた。紀元前の終わり頃の世紀には地中海でのギリシャ・ローマの台頭と同時期にサイハド沙漠(Sayhad)に流れ込む涸れ谷の農民は巨大な都市国家群を基盤とする文明を築いた。これらの国家の統治者達は巨大な灌漑事業の工事を統轄した。その中で最も有名なのがサバ(Saba or Sheba)の首都マリブ(Marib)における巨大ダムの建設であった。サイハド沙漠(Sayhad)周辺の都市国家は印度洋を越えて当時地中海で大きな需要のあった香料や高級な商品を交易し富裕に成った。この都市群の繁栄がローマにこの地方をアラビア フィーリックス(Arabia Felix)すなはち富裕なアラビア(幸福なアラビア)と呼ばせた。この交易に彼等は自分達の自家製の産物を入れた。それらが有名な南アラビアの乳香(frankincense)と没薬(myrrh)である。
ザイール(Zaire): 旧ベルギー領コンゴで1960年に独立したコンゴ民主共和国(Democratic Republic of the Congo)、1971年にザイール共和国と称し、1997年にコンゴ民主共和国に戻した。面積234.4万km2、人口4,390万(1995)で首都はザイール川(Zaire)沿いのキンシャサ(Kinshasa)。
ザイール川(Zaire River): アフリカ中央部の川でザンビア(Zambia)に発し、コンゴ盆地に入り、南西に大きく方向を変えて大西洋に注ぐ、全長4,370kmでコンゴ川(Congo River)とも云う。
サイロ(Silo): 穀物貯蔵庫。
サウジアラビアの鉄道網計画(Saudi Railway Expansion Programme): サウジアラビアの鉄道網計画とはサウジ鉄道機構(Saudi Railway Organization, SRO)が計画・実施しているリヤド・ダンマン間の既存路線にリヤド・ジェッダ(Riyadh – Jeddah)間およびダンマン・ジュベール(Dammam - Jubail)間の路線を新設した半島横断鉄道(Saudi Land Bridge)、マッカ(メッカ)・ジェッダ・メディナの三都市を結ぶ聖都間高速鉄道(Haramain High Speed Rail Project)、南北鉄道(North-South Line)の三大鉄道プロジェクトである。この鉄道網計画はサウジアラビアの最高経済会議(Supreme Economic Council)によってヒジュラ暦1423年3月23日(西暦2002年)に鉄道拡張計画として承認されている。なお、計画当初の経緯からそれぞれ、東西連絡鉄道(East-West Rail Link)、巡礼鉄道(Western Railway to serve the holy cities of Makkah and Madinah or Makkah-Madinah Railway Lin)および北部鉱物鉄道(Northwest Mineral line)あるいは南北資源鉄道と転写されている記事も多い。
「サウジアラビアの教育(Education in Saudi Arabia)」: アブデル ワハブ アブデル ワシイ(Abdel Wahab Abdel Wassie) 著、ベイジングストーク(Basingstoke)で1970年にハウンドミルズ社(Houndmills)によって出版された。同書58頁に.アブドゥルアジズ大学開校の故ファイサル国王祝辞が掲載されている。
「サウジ家のアラビア(L'Arabia Saudina)」: カルロ アルベルト ナリノ(Italian, Carlo Alberto Nallin)は 現代以前(Premodern)の時代でのサウジアラビアへの最後の訪問者であった。ナリノはイタリア人でローマ大学(University of Rome)のアラビア語教授であり、1938年に娘のマリア(Maria)と共にアブドゥルアジズ王(King Abdullaaziz)の招待客としてサウジアラビアを訪問し、豊かで偉大な能力を持ってターイフ(Taif)やジェッダ(Jeddah)等についての非常に興味ある内容を詳細にわたって著述した。マリアは最終的に同大学のアラビア言語の議長を引継ぎ、父ナリノの死後、その著述を「公開文章と非公開文章の蒐集(a Raccolta di scritti editi ed inediti)」として編集し、1939年から1948年にイタリア オリエント協会(Istituto Italiano per I'Oriente)から出版した。その蒐集の初巻が「サウジアラビア(L'Arabia Sa'udiana)」であり、M. ナリノ(Maria Nallino)は原文を編纂し、ジェッダに居たアブドゥルアジズ王に謁見する途中でターイフとその周辺を訪問する許可を得た父ナリノがマッカ(Makkah)を通らずにターイフ(Taif)とジェッダ(Jeddah)の2つの市の間で辿らなければならなかった行程を説明している図等を描き直して1939年にローマで出版した。(2009年8月29日追記)
サウジ主要油田地帯の貯油構造(Geological Structures of Main Reservoirs in Saud Arabia): 500万年前に海が今日サッマン崖地(Summan escarpment)と呼ばれている崖を形作り、その後に後退して行った。この鮮新世(Pliocene)(500 - 160万年前)中頃の300万年前にアラビア半島での最後の地殻変動が始まり、ザグロス山脈(Zagros)を現在の標高に押し上げ、圧縮の力が堆積層に南北方向の緩やかな平行した一連の褶曲を作りだした。それと共に半島の西から東への傾きを更に増大させ、東側は海面下に沈み、今日のアラビア湾を生んだ。この時期に形成された褶曲が後に世界で最も豊かな油田地帯の貯油構造と成った。
サウジ人化政策(Saudaization): 原油価格の高騰と増産で2006年度の国家歳入は建国以来最高の水準にあるにもかかわらず、人口の急激な増加で若年失業者が深刻な社会問題化し、この10年、労働力のサウジ人化政策(Saudaization)とその為の教育改革はこの国の最重要優先政策になっている。ジュベイル第二工業都市(Jubail II)等々の工業化促進はサウジ人雇用確保政策の一環である。
サウジの金生産(Gold Production in Saudi Arabia): 1997年3月23日設立されたサウジアラビア国営鉱業会社(マアデン)の年間金生産量目標は10トンであるが、アス スカイビラト(As Sukhaybirat)、アル アマール(Al Amar)、ワディ ビダ(Wadi Bidah)、アル ハジャール(Al-Hajar)、アド デュワイヒ(Ad Duwayhi)、サムラン(Samran)、シェイバン(Shayban)、ザルム(Zalm)およびハムダ(Hamdah)の金鉱床を含めてもマハド アド ダハブ鉱山(the Mahd adh Dhahab gold mine)が金生産の主力鉱山であるのは今でも変わり無い。
サウダ(Sawda bint Zamat, died 674): サウダの父方はクライシュ族(Quraysh)*
出であったが、イスラームに改宗し為、メッカ(Mecca)の多神教徒から迫害を受け、最初の夫とアビシニア(Abyssinia)へ移住した。夫婦でメッカに戻ると夫は死に未亡人となった。ムハンマド(Muhammad)の女性教友カウラ(Khawla bint Hakim)の案配でカディージャ(Khadija bint Khuwaylid, ? - 619)*の没後の数日後にムハンマドと結婚した。サウダはムハンマドの死後、受け取った遺産を慈善事業に費やした。サウダは674年10月にメディナ(Medina)で亡くなった。
サウダー(Al-Sawdah): サウダー山(Jebel Sawdah)はジバル アル サラト(Jibal al-Sarat)の最高峰(標高2,910 m (9,550 ft))であると共に、百万エーカー(1 million acres or 450,000ha)のアシール国立公園(Asir National Park)の中心でもある。サウダー山の近くにはファス山(al-Fas)があり、アブハからサウダー山への間にはガワ山(Ghawa)が標高8,500 ftで聳えている。デュッラア山(Dhurrah)がアブハの南に高く聳え、タハッルル山(Tahallul)はサウダーの北に横たわる。アガバト シッアル('Aqabat Shi'ar)の近くにはバッルル山(Ba'rur)が立っている。サウダー山(al-Sawdah)の頂上一帯にはアル サウダー村が広がり、平らな高原の様に見える。この高原はティハマー側には急峻に下り、東には穏やかに下っている。伝統の村リジャルーアルマ’(Rijal Alma' or Rijjal Al Ma’a)とはサウダ山(Jebel Sawdah)から全長3,500m、標高差1,000 mと言うスイス製の観光用カーブルカーで結ばれ、柏槇(Juniper)に覆われたアル アガバト(al-'Aqabat)の壮大な渓谷美を楽しめる。ケーブルカーの軌道に沿って流れる谷に水流があり、滝や淵を作っている。残念なのは柏槇(Juniper)の立ち枯れが目立つことであるが、「柏槇(Juniper)は枯れて居るのでは無く、乾燥して行く気候に合わせて自らの大きさを小型化する様に調整している」のだそうだ。
サウダー山(Jebel Sawdah): (サウダー(Al-Sawdah)参照。)
サウード(Saud): サウード イブン アブドゥル アジズ(Saud Ibn Abdul Aziz Ibn Mohammed Ibn Saud)は父のアブドルアジーズ ビン ムハンメド(Abdul Azizi Ibn Mohammed Ibn Saud)が暗殺された後、ワッハーブ派(the Wahabys)とも呼ばれた第一次サウード侯国(First Saudi State, 1744 - 1818)の第三代首長(Third Imam, 1803 – 1814)となり、領土をさらに拡大しオーマン(Oman)、イエメン(Yemen)の大部分を併呑、メッカ(Mecca)、メディーナ(Medina)も掌中に収め、シリア(Syria)、イラク(Iraq)方面にも進撃した。1811年領地奪回の為にオスマントルコ帝国(Ottoman Empire, 1299 - 1923)はエジプト太守ムハンマド アリ(Muhammad Ali Pasha, 1805 - 1848)がワッハーブ派(the Wahabys)の鎮圧に乗り出した。エジプト軍の優れた兵器、弾薬の威力により数々の戦闘でワッハーブ派(the Wahabys)が打撃を受ける中、1814年にサウードは死亡した。(第一次サウード侯国(First Saudi State)を参照。)
サウド イブン ムサッラト(Said ibn Musallat): 1822年(ヒジュラ暦1238年)にアシールの首長の一人であるサウド イブン ムサッラト アル-ムガイディ(Said ibn Musallat Al-Mughaidi)がタバブ谷(the Tabab valley)にあったアル シャリフ ムハッマド イブン アウン(Al Sharif Muhammad Ibn Awn)の砦まで行進し、その指導者を追放して自分の政府の独立を宣言した。その結果、バニ ムガイド族(the tribe of Bani Mughaid)が一世紀近くアシールを統治し、北はバスルハマル(Baslhamar)族の区域から南はズバイド(Zubayd)、西はアル ガムハー(al-Qamhah)海岸、東はタスリス(Tathlith)までこの首長国の領域を広げた。
サウル(Saul): 紀元前10世紀頃のイスラエル王国初代の王(reigned 1047 - 1007 BC?)。
サカカ(Sakaka): ジャウフ州(Al Jawf Province)の州都、サカカの名は天と地の間の大気を意味するサカカ(Sakaka)に由来する。他の説としては道の交差点をもっともらしく意味するシッカ(Sikka)から派生したと言う。他にはシカカン(Sikakan)と言う言葉が一列を意味するのでから狭い場所に真っ直ぐ掘られた井戸群や一列に並べて築いた家並みに由来するとも言う。
サカ砂丘帯(Nafud as Sakha): (シッラ砂丘帯(Nafud as Sirrah)を参照。)
ザカート(ZakaT): 喜捨(Zakat)を参照。
サキーナ(Divine Peace or al-Sakinah): 神の平安で神の命によって信仰者に降りてくる。
砂岩地帯(Sandstone Area): 砂岩地帯では厚い山並みが発達している。砂岩は時として空想的な形の岩を作り出している。又、砂岩は多くの場所で絵画的な風景を作っている。冬のハイル(Hayil)では花崗岩の丘や砂岩の丘に囲まれた窪地に多くの小さな湖が現れる。その周囲には花や木々の緑が色づいている。この様な景色はハイル周辺のコッター(Al Khottah)、ジュッバ (Jubbah)、キナ(Qina)、フファイール(Al Hufair)、ラウダ(Ar Rawdhah)、ムフファール(Al Muhufar)、トルバ(Turbah)等多くの場所で見られる。雨が降ればハイルの北は本当に水の豊かな真の草地になる。カイベール火山岩地帯(Harrat Khayber)の黒ずんだ山や大地を北へと抜けると、突然、垂直な赤い崖に挟まれた’ウラ渓谷(Al 'Ula Canyon)の回廊に出くわす。その麓にはナツメ椰子の豊かな緑が広がり、その全部を抜けるように青い空が覆っている。遠目には、まるでこの世の楽園の様だ。ビシャ(Bishah)の北には大きな山は無いがもう一つの美しい場所である。赤い砂岩の切り立った丘の間の小さな回廊を進むとそこここにナツメ椰子の畑を持つ小さな村を見つける。これらの村は青い空に包まれた山々の陰に静かで美しい佇まいを見せている。砂岩は又、アブハ(Abha)の南にあるハバラ(Habalah)の様な切り立った崖をしばしば作り出す。砂岩はアブハのソウダ(As Soudah)、ダラガン(Al Dalaghan)、カリヤ(Al Qariyah)等、サウジアラビア国内の一番標高の高い場所を覆っている。
砂丘地帯(Sand Dune Area): サウジアラビアの地表の特徴の一つは広がったシート状や帯状の移動する砂である。この国の三分の一強が砂に覆われて居り、その面積は七十万平方キロに及ぶ。地図からは砂で覆われて居るのは五つの主要な場所である事が分かる。遠くて最も大きいのがルブ アル ハリ沙漠(Rub’Al Khali) (空白地帯沙漠)で、砂が五十五万平方キロを隙間無く覆っている世界最大の砂沙漠である。北の偉大なナフド沙漠(Nafud)も大きく六万平方キロある。この二つの間に横たわっているのがダーナ沙漠(Dahna)で、一千キロに及ぶ大きな弧型をして二つの砂の海を結んでいる。アラビア語でウルク沙漠(Uruq)と呼ばれる特色のある砂丘の細い帯がトワイク(Tuwaiq)崖地の西の縁をダーナ(Dahna)と平行して走っている。最後はジャフラア沙漠(Jafurah)でホフーフ(Hofuf)と南のルブ アル ハリ(Rub’Al Khali)沙漠の間に横たわる移動する砂丘の塊である。その他、至る所で小さな砂地が紅海岸のティハマ(Tihama)からネジド(Nejid)の岩だらけのワディ(Wadi)まで陸地の多くの部分を横切ってつぎはぎの様に散らばって居る。冬の雨は砂丘に貯えられ、その間の凹地(Depressions)に湧き出してジルフィ(Zilfi)西や、リヤド(Riyadh)西のカララ湖(Lake Qalara)、リヤド北のロウダット クライム(Rawdat Quraim)等の場所で小さな湖を作り出す。又、砂丘の凹地には砂丘に貯えられた水の湧き出す多くの井戸がある。これらの砂丘地帯は横断型砂丘(Transverse)、縦型砂丘(Longitudinal)、砂山型砂丘(Sand Mountain)およびウルク(Uruq)の4種類にほぼ分類できる。
サキフ族(Thaqif): バヌ サキフ族(Banu Thaqif)参照。
サーサーン朝(Sassanid Empire or Sasaniyan Empire, 224 - 651): イスラーム以前にイランを中心とする地域を支配していた王朝・帝国で、しばしばササン朝ペルシアとも呼ばれる。イラン高原(Iranian Plateau or Persian Plateau)ファールス地方(Fars or Pars)から興り、公用語は中世ペルシアのパファラヴィー語(Pahlavi)であり、始祖アルダシール1世(Ardashir I, ruled 224 - 240)がゾロアスター教(Zoroastrianism)の神官階層から出現したこともあって、ゾロアスター教が国のなかで重要な位置を占めていた。もっとも主要な都はクテシフォン(Ctesiphon)複合都市(アラビア語ではマダーイン(al-Madain)))であった。アルダシール1世は西暦224年に即位すると再びパルティア(Parthian)*との戦いに乗り出し、エリマイス王国(Elymais or Elamais, 247 BC - 221 AD)などイラン高原の諸国を次々制圧し、226年にはホルミズドの戦い(Battle of Hormizdeghan)でパルティア王(216 - 224)アルタバヌス4世(Artabanus IV of Parthia)と戦って勝利を収め、「諸王の王(Shahan-Shah or King of Kings)」というアルサケス朝(Arsacid Empire or Parthian Empire, 247 BC - 224 AD)の称号を引き継いで使用した。この勝利によってパルティアの大貴族がアルダシール1世の覇権を承認するようになった。230年にはメソポタミア(Mesopotamia)全域を傘下に納め、ローマ帝国(Roman Empire, 27 BC - 476 AD)の介入を排してアルメニア(Armenia)にまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝(Kushan Empire, 60 - 375)やトゥーラーン(Turan or Central Asia)の王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。以後サーサーン朝とローマ帝国(東ローマ帝国(Byzantine Empire or Eastern Roman Empire, 330 or 395 - 1453))はサーサーン朝が滅亡するまで断続的に衝突を繰り返した。アルダシール1世の後継者シャープール1世(Shapur I, c. 215 - 270/272)はこのローマとの戦いの初期に最大級の成功を収めた。244年、シリア地方の安全保障のためにサーサーン朝が占領していたジャズィーラ地方(Al-Jazira)のニシビス(Nisibis)などの都市を奪回すべくローマ皇帝(238 - 244)ゴルディアヌス3世(Marcus Antonius Gordianus Pius or Gordian III, 225 - 244)がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世はマッシナの戦い(Battle of Misiche, 244)でゴルディアヌス3世を戦死させた。そして軍人皇帝時代のローマで新しく皇帝(244 -o 249)となったフィリップス(Marcus Julius Phillippus or Philippus Arabs ,c. 204 - 249)との和平において莫大な賠償金を獲得した。後に同じく軍人皇帝時代のローマ皇帝(253 - 260)ヴァレリアヌス帝(Publius Licinius Valerianus or Valerian I)は再度サーサーン朝を攻撃したが、シャープール1世は260年のエデッサの戦い(Battle of Edessa, 259)でヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収める等、強固な支配をうちたてた。続く4世紀は比較的平穏に過ぎたが、5世紀になると白匈奴とも呼ばれる東方の遊牧民エフタル(Hephthalites)の侵入に苦しみ、また、5世紀末から6世紀初めにかけてはマズダク教(Mazdak)運動などがおこり社会が動揺した。ホスロー1世(Khosrau I or Khosnow I, Born c. 501, ruled 531 – 579)はマズダク教を徹底的に弾圧し、対外的にも、イエメン(Yemen)の占領や突厥(Gokturks)と結んでエフタルを破るなど積極策にでた。7世紀初め、ホスロー2世(Khosrau II or Khosnow II, ruled 590 – 628)治下で短期間ながら支配領域が最大になるが、628年にホスロー2世が亡くなると王朝は王位争いで弱体化した。637年頃のカーディスィーヤの戦い(Battle of Qadisya)、642年のニハーワンドの戦い(Battle of Nihawand)でアラブ・イスラーム軍(Arab Islam Army)に破れ、サーサーン朝のイラン支配は終焉を迎え、651年にヤズデギルド3世(Yazdegird III, ruled 632 - 651)が殺されて、王朝は滅亡した。サーサーン朝の支配領域は中央ペルシア王国(Middle Persian Kingdom)を意味するエーランシャフル(Eran Sahr)と呼ばれ、後のイル ハーン朝(Ilkhanate, 1256 - 1335)の領域とだいたい等しい。イスラーム文化との関連では「シャー ナーメ(Shah-nama)(ペルシアの民族・英雄叙事詩)」の基となる。いわゆるイラン的歴史観はこの時代に確立された。また。イスラーム時代でもホスロー1世時代前後は理想化して語られることが多い。宗教面ではゾロアスター教の他に3世紀にマニ教(Manichaeism)が興り、ユダヤ教(Judaism)やビザンチン帝国(Byzantine Empire or Eastern Roman Empire, 330 or 395 - 1453)では異端とされたネストリウス派(Nestorians)も信仰されていた。(出典: 岩波イスラーム事典、Wikipedia等)
サタディア(Stadia): スタディオン(Stadium)の複数でスタディオン(Stadium)は古代ギリシャの競技場の長さを基準にした単位でアテネ(Athens)では185.2mでオリュンピア(Olympia)では192.3mであった。
サッカト(Sakkat): ジェイラニ(Djeylany)と共に祖父達が最初にジッダ(Jiddah)に定住したマグリブ (Maggrebin)の出身者であり、15万から20万英ポンド(pounds sterling)の富を有する事で知られていた。
サッカルド(G. Saccardo): 古い写真を絵にする画家。
サッバー(Sabbah): 涸れ谷ビシャー(Wadi Bishah)のビシャー(Bishah)で分岐する左股の涸れ谷ヒールジャブ(Wadi Hir Jab)沿いの小部落の一つ。
サッラール(Sarrar): サッラール(Sarrar)はサジ(Thaj)の西に位置しており、現在は東部州中部の涸れ谷ミヤー (Wadi Al Miyah)の農業の集散地である。この町の東側には雨季になると周囲から水が集まり、大きな湖になるサブカ(Sabkha or Sebkhat)がある。
サテン(Satin): 繻子織り(Sateen)、柔らかく滑らかでつやのある表面をしている。
サトプラ山脈(Satpura Ránge): インド中西部を東西に走る山脈で北側をナルマダ川(the Narmada)、南側をタプティ川(the Tapti River)が西へと流れ、」アラビア海に注ぐ。
サヌア(Sana’a or Sanaa): (サン’ア(San’a)参照。)
サバ(Saba): (シバ王国(Sheba)を参照。)
ザ’バル城(Qasr Za'bal)(聳える岩山の城): サカカの南西部には白っぽい回教寺院があり、そう裏手に砂岩の高い岩山が立っている。その岩山の頂上からはみ出す様に砦が築かれている。このまるで空に向かって聳えている様な特有な姿しているのがザ’バル (Qasr Za'bal)城である。この城は元々はナバテア人(Nabataeans)が建てたのを何度も修復し、ごく最近まで実際に使っていた。この砦の前には座ったライオンの様な形のもう一つの小さな砂岩の岩山がある。その岩山のうなじに相当する部分が垂直の壁になっており、ラインダンスの様に女性の踊り子が十数体描かれている。その像は1m以上もあり、銅石時代岩壁画の像としては比較的大きい。その踊り子の頭からはこうもり傘の骨の様な筋が描かれている。言い換えると櫛の様な頭飾りをしている代わりに踊り子達の顔は描かれていない。又、岩山の麓にはナバテア時代の古い井戸(ビール セスラ(Bir Sesra))がある。井戸は直径が10-12mで、井戸の内側には水汲み用の階段が水面まで刻んであり、水面は砂岩基盤の地表から25m下にある。
ザビード(Zabid or Zebid): イエメン(Yemen)の西部、ティハーマ平野にある都市であり、紅海から16kmの内陸に位置する。現在約8,000人が居住する。「ワディ・ザビード(Wadi Zabid)」の名前で知られる涸れ谷の南に広がるこの町は、イエメンの中でも最古の都市であると同時に、13世紀から15世紀にかけて、イエメン王国(Ziyadid Dybasty, 819 – 1018 and Najahid Dynasty, 1022 - 1158)の首都であり、また、アラブ・イスラム世界において名声をはせたザビード大学(University of Zabid)もあったことから、教育・宗教の中心地でもあった。(ウィキペディア)ワディ・ザビードの河口が16世紀始めにバールスバイ (Barsbay)の分遺艦隊が駐留したイエメンの港と考えられる。
サビヤ(Sabiyah): クウェイト(Kuwait)のサビヤ(As Sabiyah)では1998年の発掘でウバイド期(Ubaid Period)の豊かな遺物が見つかった。それらの中でも紀元前5300年から4900年頃に葦とタール作られた、航海用としては最も古い舟の遺物は卓越している。
サビール(Sabeel): ジッダの旧市街の南東の外側に広がる地区。
サファイア(Sapphire): 酸化アルミニウム(アルミナ)からなる鉱物で鋼玉と呼ばれる。六方晶系で硬度9、金剛ないしガラスの光沢を持ち、青・赤・黄・褐灰色等透明あるいは半透明である。サファイアはルビー(Ruby)と共に鋼玉の一変種で青藍色を帯びた透明な宝石であり、青玉とも呼ばれ、淡い緑黄色のものもある。
サファヴィー朝ペルシア: サファヴィー朝(Safavids Persian, 1501/1502-1722)(ペルシア語Safaviyān)は16世紀から18世紀前半にかけて現在のイランを支配したイスラム王朝である。ホラーサーン(Khorasan)からメソポタミア(Mesopotamia)に至る歴史的イラン地域を支配した王朝としては初めてシーア派(Shī‘ah)の一派十二イマーム派(Twelver Shi'ism)を国教とし、現在のイランとアゼルバイジャン(Azerbaijan)、イラク南部で十二イマーム派が住民の大多数を占める状況を導いた。
サファーの丘(al-Safa): メッカの聖モスク(al-Masjid al-Haram)に隣接したサアイ廊(Sa'y)の南側にある岩丘。聖モスクの東側面にあるサアイ廊の南の端にサファーの丘があり、北の端にマルワの丘(al-Marwah)がある。サアイ廊は2階建てで幅20m長さ400m、2階から両丘を見下ろすことが出来る。もともとは両丘の間は谷であったが、現在は岩肌を露出している大岩である。(出典: 岩波イスラーム辞典)
「サファール ナメ(Safar Nameh、Book of Travel)」: ペルシア(Persia)の詩人、哲学者(Philosopher)、イスマーイール派学者(Isma’ili Scholar)で旅行者(Taveler)であったナシール-イ コスロウ(Nasir-i Khosrow, 1004 - 1088)が著述した旅行記。
サフェン(Al-Safen): ハーイル(Hayil or Hail)北西のジャバル アジャ(Jibal Aja)の小さな涸れ谷(Wadi)に在る。ここの重要な遺構は家畜の水飲みの為の溝や古代の掘り割りであり、その岩壁画から紀元前2,500年頃の遺構と思われる。
サブカ マッティ(Sabkha Mutti): サブハ マッティはアラビア湾岸のアラブ首長国連邦とサウジアラビアのカタールに近い国境地帯にあり、ワディ サハバ’(Wadi Sahba)が流れ込んでいる。マッティの意味はイラクでは驢馬であるがこのサブハは思ったよりずうっと内陸まで入り込んで居る為にこの地域のベドウインはゴムの様に伸びると云う意味に使っている。
サブハ(Salt Flat): サブハ(サブカ)(Sabkha or Sebkhat)は塩原(平らな含塩低地(Salt Flat))のアラビア語で、砂漠気候の海岸の潮上帯にできる蒸発岩と炭酸塩岩である。海水が高い気温の下で蒸発することにより、岩塩、石膏、霰石の沈殿層が表面から地下に向かって見られる。海岸ではある程度海水が陸地の砂に地下で浸み込んでおり、毛細管圧により水分が地表へ上昇する作用が働く。さらに続成作用により石膏は硬石膏に、霰石は苦灰石に変化する。大潮や強風による高波洪水も海水を補給し、サブカ層の厚さは最大1m程度になる。また、沙漠地域に特徴的な高塩分の地下水が海岸に達することによっても、塩分が供給される。(ウィキペディア)UAE国境のサブカ マッティ(Sabkha Mutti)の様にサウジアラビアではアラビア湾(Arabian Gulf)沿岸に広く見られ、中にはオマン(Oman)国境のウッム アル サミン(Umm al Samin)の様に内陸で大規模に発達している場所もある。
サフラン(Saffron or Saffraan): アヤメかの多年草で南ヨーロッパ原産、球形を持ち細長い葉を出す、10月頃、淡紫色6弁の花を開く、花柱は3裂して糸状、赤い色で紀元前15世紀頃すで香辛料・薬・染料に利用されていた。漢名は番紅花。
サブヤ(Sabya): ジザンの北30kmにある町で1911年にムハッマド イドリシ(Muhammad Al-Idrisi)が独立を宣言してからサウジアラビアに併合される1930年までイドリシの都であった。サブヤ(Sabya)に建てられた集会宮殿(Idrisi palace)は彫刻のある漆喰で豊かに飾られた四角形しており、アシール(Asir)建築の傑出した建物の一つであった。大きな町の広がりの割に、街道筋は寂しいが、花冠とスカート姿をしたティハミ カハタン族(Tihami Qahtan)の男が一般の買い物客に混じっている。群生なのか畑なのか、シドル(Sidr)がいっぱい植わっている場所がある。オーチェリ(Aucheri)の生える白い砂の低い砂丘地帯になる。西側では植生の疎らで開けた、砂の波だけの場所もある。その中に這い松の様な群生をしている低い灌木がたくさん植わっている。こんな一見のんびりした場所でイドリシ族は自らを滅ぼす様な骨肉の争いをして居たのだろうか。北東には火口丘を二つ持つ小さな熔岩地帯があり、この町の目印になっている。
サボス(Sabos): ガルス(Aelius Gallus)軍が紀元前24年にアラレネ(Ararenê)を通過した時のアラレネ(Ararenê)の王。
サマカ(Samakh): 涸れ谷ビシャー(Wadi Bishah)のビシャー(Bishah)で分岐する左股の涸れ谷ヒールジャブ(Wadi Hir Jab)から涸れ谷アル ガア’(Wadi Al-Qa’)分岐する辺りに在る「耳道」との意味の名が付けられた部落。
ザマクシャリ(Al-Zamakhshari): 西暦1075年にホラズム(Khwarizm)生まれ、西暦1144年に没したスンニー派(Sunni Islam)ム’タジラー学派(Mu’tazilite)の影響を受けた偉大な神学者 (a Distinguished Theologian) であった。
「様々な運命(De Varieate Fortunae)」: 法王エウゲニウス四世(Pope Eugenius IV)の命令でニコロ デ コンティ(Nicolò de' Conti)の冒険旅行をフィレツェ人(Florentine or Florence)の秘書ポッジョ ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini)が書いた物語である。イスラム圏へのコンティの旅の途中でコンティは回教徒に改宗したが、イタリアに到着した時に法王の釈罪を求め、法王はコンティがその冒険をブラッチョリーニに現実そのままに報告する事を条件に承諾した。この様に「様々な運命(De varieate fortunae)」は15世紀のヨーロッパ人旅行者による南アジアに関する最高の記録を基づいて書かれた事は敬意に値する。ニコロ デ コンティ(Nicolò de' Conti)には2編の英訳がある。新しい方が1857年ロンドンで出版されたハクルート(Hakluyt)協会のジョン ウィンター ジョーンズ(John Winter Jones)が翻訳・編集した「ニコロ デ コンティの本(The Book of Nicolò de' Conti)」と題された訳本である。
サマッラ(Samarra): イラクのほぼ中央部。首都バグダッドの北西およそ125kmにある古代からの町で836年、 アッバース朝(Abassid Caliphate, 750 - 1258)のカリフ ムータシム(Abu Ishaq al-Mu'tasim ibn Harun, 833 - 842)によって、 バグダットから遷都された地。 塁壁で囲まれた区画を、 ティグリス川(The Tigris)沿いに順次造営して作られた。 そのためサマッラの街は幅5km、長さ25kmもの範囲に広がり、 住民は数十万を数えた。 しかし建設後50年たつと放棄されてしまった。 建造物は全てレンガで作られたがほとんど残っていない。 南北440m、東西376mもの巨大なモスクは、 城壁と見まごう壁だけが修復された。 その北隣にはバベルの塔を彷彿とさせる高さ55mの螺旋形ミナレット(a Spiral Minaret)が建っている。。
サマルカンド(Samarkand): ウズベキスタン(Uzbekistan)東部の市、人口36万人。
サーマーン朝(Samanid Dynasty): 中央アジアから東部イランにかけて支配したイラン系王朝 (A.D. 874 - 999)でバルフ(Balkh)地方の地主サーマーン ホダー(Sāmān-khodā)を始祖とし、900年サッファール朝(Saffārids, 861 - 1003)を破って、キラーサーン(Khirāsān)を支配、文学と芸術を奨励して首都ブカラ(Bukhara)はイラン・イスラム文化の中心となったが、ガズナ朝(Ghaznavids, 963 - 1187)、カラハーン朝(Qarakhanids, 840 - 1212)に滅ぼされた。
サムエル(Samuel)は旧約聖書「サムエル記」に登場するユダヤ人の預言者で民族指導者。
ザムザム(Zamzam): カアバ神殿(Ka'bah)の直ぐ近傍にある聖なる泉。アブラハム(Abraham)は神の命により妻(Hagar)と子供(Isma'il)に幾らかの水とデイツ(dates)を残してメッカを離れた。妻ハガール(Hagar)は自分の息子(Isma'il)に授乳し、そして彼等は残された水を飲んだ。しかしながら、間もなく二人は激しい渇きに襲われ、子供は泣き出した。ハガールはサファー(Safa)とマールワ(Marwah)と名付けられた二つの小山の間を水を見つける為に走り始めた。ハガールは天使が自分の前に現れるまでこの往復を7回繰り返した。天使が自分の羽根で地面を打つとその結果としてザムザム(Zamzam)と云う泉が現れた。ムスリム(Muslims)は「ザムザム泉はほとばしり出る天国の水の支流である」と考えている。(出典: セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr))
サムード族(Thamud): サムード族(Thamud)は紀元前1000年期からムハンマド(Muhammad)の時代近くまで居た古代アラブ民族である。サムード族は南アラビアの出身と考えられている。例えば、歴史家で学者のイブン カルデュン(Ibn Khaldun, 1332 - 1406)もその著書「偉大な宇宙の歴史(物証の本)(Great Universal History)」で「ノアの民(Nuha's people)の末裔でウバール(Ubar)を首都としたアード族(‘Ad)の王家が消滅した時にその同族のサムード族(Thamud)が取って代わった。サムード族(Thamud)はその同族のアマレク族(Amalekite)に代わり、アマレク族(Amalekite)はその同族のヒムヤル族(Himyar)に代わった。ヒムヤル族(Himyar)はその一派のツッバス族(Tubba’s)に代わり、さらにアドワ族(Adhwa’)に代わり、それからムダール族(Mudar)が覇権を持つ様になった」と述べている。アラビアの伝説では「サムード族は北から移動してきてマダインサレー(Meda’in Saleh)近くのアスラブ山(Mount Athlab)に定住した」と云う。クルアーン(Qu’an)では「サムードはヒジャーズ地方(Hijaz)のヒジュル(Al-Hijr)に栄え、アッラーの怒りを買って滅ぼされたアラブの部族である。アッラーがアード族(‘Ad or A’ad)の絶滅の後、その後継者としてサムード族にその土地を与えた。サムード族は宮殿と城を築き、山を穿って住処を作り繁栄した。サムード族が邪悪や害悪を成したので、アッラーはサーリフ (Salih)を遣わされた。サーリフはサムード族に『我々の民よ、神は汝らをアード族の後継者としてこの土地を与えれれた。そのご加護を思い起こし、アラー(Allah)を崇拝せよ。アラーの他に神は居ない。』とアッラーへの信仰を呼びかけた。サムード族はこれに従わなかったので、アッラーは大音響が鳴り響かせ、サムード族を滅ぼされた」と記述されていると云う。
サムード文字(Thamudic Script): デダン文字(Dedanaite)やタイマ文字(Taimanite)の様な中央や西アラビアのサムディク(Thamudic)文字様式はイエメンの南アラビア碑文の文字様式より更に古い起源と思われる。これは紀元前1,500年の原始シナイ(Proto-Sinaitic)アルファベットと幾つかの文字様式が極めて似ている為である。この様にこの文字は「最も古いアラビア古代文字で、紀元前1500年頃から紀元前3 – 4世紀まで使われた」と云われている。たまたま、この文字はサムード(Thamud)として知られるイエメン中央北部地方で最初に確認され、それに因んで命名されてた。従って、サムード族(Thamud)とは直接的には関係ないにせよ、「古代南アラビア文字(South Arabia Script)の北方訛りである」との説も有力である。サムード文字はその殆どが岩壁や大石に刻まれ、アラビア半島北部(Northern Arabia)やシナイ半島(Sinai Peninsula)で見つかっている。その他にアラビア半島の多くの場所でも見つけられている。この文字はサムード語(Thamudic Language)を書くのに使われ、似たような文字はサムード語に近いサファー語(Safaitic)やリヒヤーン語(Lihyanite)でも使われていた。サムード文字(Thamudic Script)は28文字で構成され、他のセム語(Semitic Language)の文字と同様に右から左へと書かれるが、時には左から右に書かれ、上から下に書かれている事もある。
ザモリン(Zamorin): インドのカリカット(Calicut)および周辺を支配したヒンドゥー教徒の君主の称号である。ザモリン(Zamorin)とサムリ(Samuri)は英語化された言葉で、元々は「海の支配者(Lord of the Sea)」を意味するサンスクリット(Sanskirit)のスムンドリ(Samundri (Rajah))のポルトガル語訳(Çamorij)が語源である。
サラー イブン アッユブ(サラーフ アッディーン)(Salah al-Din Abu al-Muzaffar Yusuf ibn Ayyub): 「サラー イブン アッユブは 北アフリカ人達をジッダへの貢ぎ物と犬の血の代償から免除させる為にムクタール首長(Amir Mukhtar)へジッダ(Jiddah)とメッカ(Mecca)用の小麦6,000アルデブ(Ardeb)を送った」とイブン-アル-ムジャウィール(Ibn al-Mujawir, 1204 - 1291)著「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」に述べられている。
サラディン(Saladin): アラビア語ではサラーフッディーン或いはサラーフ アッディーン(Salah ad Din Yusuf ibn Ayyub, 1138-1193)と呼ばれ、エジプト(Egypt)のアイユーブ朝(Ayyubid Dynasty)の始祖であり、12世紀のイラク(Iraq)北部のティクリート(Tikrit)出身で、アルメニア(Armenia)のクルド人(Kurd)一族の出である。若い頃にセルジューク朝(Seljuq)系のザンギー朝(Zengid dynasty)第2代君主ヌールッディーン(Nur ad-Din, 1118-1174)に仕え、にヌールッディーンの3回に渡るエジプト遠征(1164, 1167 & 1169)に参加した。1169年上官であった叔父シール・クーフ(Shirkuh)が没するとその軍権を引継ぎ、さらにファーティマ朝(Fatimid Caliphate, 909-1171)の宰相にも就任してエジプト全土を掌握すると、カリフ・アーディド(al-‘Adid, 1160-1171)が世継ぎを儲けぬまま病没したことによりファーティマ朝は滅亡したので、同年にアイユーブ朝(Ayyoubid Dynasty, 1169-1171)を創設した。1174年ヌールッディーンがダマスクス(Damascus)で没するとサラディンはシリア方面へ領土を拡大し、諸軍を整備して王朝の軍事力を高めた。そしてそれをもってエルサレム王国(Kingdom of Jerusalem, 1099-1291)を攻撃し、1187年7月にハッティーンの戦い(Battle of Hattin)で十字軍の主力部隊を壊滅させたのち、エルサレム(Jerusalem)を同年10月までに奪還することに成功した。しかし、1189年にヨーロッパ諸国がエルサレム奪還のためにイギリスの獅子心王(Richard the Lionheart, or Cœur de Lion)・リチャード1世(Richard I)(1157-1199)を総司令とした第3回十字軍(Third Crusade, 1189-1192)を編成して、侵攻してくることになると、さすがのサラディンも一時、アッコン(Acre、Akko、Acco)を奪われるという窮地にまで追い詰められた。しかし、サラディンは敵の猛攻に耐え、1192年、十字軍と休戦条約を結ぶことに成功した。これにより、エルサレムをはじめとする広大な領土が、アイユーブ朝の領土として確定するとともに、十字軍も往時の勢いを失うこととなった。サラディンも翌年、ダマスカス(Damascus)にて病死した。
サラト(Al Sarat): 東部分が比較的平らな高原状のアシール山脈の山稜でこの西は切り立った崖(アルーアスダール(Al-Asdar))や目が眩むような険しい峡谷(’アガバト('Aqabat))に成っている。
サラート(Salat or Salah): イスラーム五行(Five Pillars of Islam)の2番目の義務として課せられている礼拝。ヒジュラ(Hijra or Hegira)の5年前頃にムハンマド(Muhammad)に起こった奇跡ミウラージュ(Mi'raj)(昇天)の際にムハンマドは正常な成人男女の信徒の義務として1日5回の礼拝をアッラー(Allah)から命じられた。5回の義務礼拝はファジュル礼拝(Salat al-Fajr)、ズフル礼拝(Salat al-Zuhr)、アスル礼拝(Salat al-'Asr)、マグリブ礼拝(Salat al-Maghrib)、イシャー礼拝(Salat al-'Isha')である。ファジュル礼拝(Salat al-Fajr)は夜が白みはじめてから日の出前までに行い、ズフル礼拝(Salat al-Zuhr)は南中過ぎからアスル礼拝までに行い、アスル礼拝(Salat al-'Asr)は物の影が本体と同じ長さに成った時から日没までに行い、マグリブ礼拝(Salat al-Maghrib)は日没直後からイシャー礼拝までに行い、イシャー礼拝(Salat al-'Isha')は日没後の残照が完全に消えてからファジュル礼拝までに行う。(出典: 岩波イスラーム辞典)
サラビヤ(Ath-Thalabiyah): アス-サラビヤ(Ath-Thalabiyah)はメッカ (Mecca) とユーフラテス (Euphrates) 下流クーファ (Kufa) の間の中継地であった。
サラム(Salam or Acacia tortilis): サラムはサバンナ・アカシアとも呼ばれるネムノキ科のアカシア・トルティリス(Acacia tortilis or Umbrella Thorn)である。駱駝等の動物が葉を食べるので、下の方に枝はなく、傘の様に高いところに刺だらけの枝を広げ、背の高いものでは、20mにも達する。枝は、鋭い刺が目立ち、葉が刺の間にあるように見える。サウジアラビアの中央背稜と云われるトワイク山脈(Jabal Tuwayq)よりも西に自生し、涸れ谷の谷底では林を作るが、比較的平らなアラビア楯状地の沙漠では水脈に沿って転々と一列並んでいる光景に特徴がある。
サラワト山脈(Sarawat): アラビア半島(Arabian Peninsula)の西の縁を形作り、紅海の東側に連なる山並みがヒジャーズ・アシール山脈(Hijaz-Asir Miuntains)即ちサラワト山脈(Sarawat Mountain range)であり、アラビア半島の西側に南のイエメン(Yemen)から北はアカバ湾(Gulf of Aqaba)まで続いている。山並みは南の方が高く、サウジアラビアではサウダー(al-Sawdah)山は海抜2,910 m (9,550 ft)で、イエメンでは3,400m(11,000ft)に達している。サラワト山脈は紅海を挟んで連なるエチオピア(Ethiopia)、ジブチ(Djibouti)、エレトニア(Eritrea)等アビシニア(Abyssinia)の山並みと対を成している。二つ平行して延びるこれらの山並みは紅海を含みアフリカ大陸の東側を南下する大地溝帯(The Great Rift Valley)と共に2千5百万年前から1千5百万年前の1千万年も続き、アフリカ大陸とアラビア半島を分離した地質的変動の連続で生み出された。又、サラワト山脈(Sarawat Mountain range)はジバル サラト(Jibal al-Sarat)とも呼ばれて居り、アシール州ではサラワトおよびジバル サラトはアシール山脈の呼称として使われている。
ザリーム(Zalim): ザリーム(Zalim)はタイフ(At Taif)の東250 km、リヤド(Riyadh)の西550kmにあるメッカ街道(Riyadh - Makkah Highway)にある給油所コンプレックスで旧メッカ街道に分かれる立体交差がある。このコンプレックスは巡礼のシーズンは巡礼者で一杯になる。この辺りには花崗岩の露頭は無く、平らな大地は小石で覆われて居る。
サール(Thar): ナジラン市(Najran)の北山地のカタン(Qatan)とダウサ(Ad Dawsa)の間にある農村で、「復讐」を意味する名が付けれれて居る。
ザルク(Zaruk): 1本帆柱(mast)で櫂と帆で推進する船長5mから7mで船首尾同形のボート(boat)である。ザルク(Zaruk)は沿岸の真珠採りを含む漁業に使われ、7、8名の乗員を運ぶ。
サルゴン二世(Sargon II): アッシリア(Assyria)の絶頂期を統治した王の一人 (紀元前722年から705年)。
サルマーン ファールシー(Salman al-Farisi): 預言者ムハンマド(Muhammad)の教友の1人(? - 655/656)でシーア派(al-Shi'a)運動の創始者の1人と見なされている。 その生涯は幾多の伝説に包まれ、その逸話を含めて、イスラーム(Islam)の文化に及ぼしている影響はきわめて大きい。とりわけ神秘主義(Sufism or tasawwuf)とシーア派(al-Shi'a)運動に対する精神的な影響は重要である。サルマーンは放浪の旅の途中で騙されてヤスリブ(Yathrib)のユダヤ教徒に奴隷として売られてしまう。ムハンマドに会い、直ちにムスリムに改宗し、その助けを得て奴隷から解放され、忠実な教友の1人となった。「627年の塹壕の戦いにおいてメッカ軍(Meccan Army)を敗退に追い込んだのはサルマーンの立てた塹壕作戦に負う」と言い伝えられている。(出典: 岩波イスラーム辞典) (注)セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr)はSalman al-Farsiと転写している。
サールミダ(Tharmida'): リヤドの西北西130km付近にある盆地の北の入り口の町でワシュム(Al-Washm)と呼ばれる扇形の地形の要でもある。涸れ谷アトク(Wadi 'Atk)とその支流の水流は周囲のトワイク山脈(Jabal Tuwaiq)の崖地(Escarpment)からサールミダ(Tharmida')に集まり、ワシュム(Al-Washm)を通ってウルク沙漠(Uruq Desert)の一部であるクナイフィダ沙漠(Nafud Qunayfidhah)に流れ出して居る。サールミダ(Tharmida')は涸れ谷ニサー(Wadi Nisah)渓谷の源流域で西側の崖地(Escarpment)は下が赤い砂、真ん中が黄土色で上部は白っぽい固い炭酸塩岩で覆われてり、東側の崖地(Escarpment)は赤く脆い堆積岩である。ここから上流のシャグラ(Shagra')に向かっては谷両側の棚状の丘は赤い砂丘に変わり、やがて低い棚状の丘に成る。サールミダ(Tharmida')では水は地表水に成ったり地下水に成ったりして農業が営める程に比較的豊富である。サールミダ(Tharmida')'はアラビアのオアシス農業発祥地の一つでもあり、ここでの営農や定住の歴史は新石器時代後期の紀元前4,000年前に遡ると思われる。涸れ谷(Wadi)が集まり、その通り道の崖地(Escarpment)を浸食した様な場所は集落を営むのに向いて居り、シャグラ(Shagra')やサールミダ(Tharmida')の様な町の出来た。サールミダ(Tharmida')の主な住人はシャッマル山地(Jabal Shammar)から移住してきたタミン族(Tamim Tribe)である。タミン族はバヌ ハニファ族(Banu Hanifah)から15世紀の中頃にウヤイナ('Uyaynah)を購入し、根拠地としている。第一サウジ王国が1819年に滅亡した後、1820年の後半にエジプトの新司令官フセイン ベイ(Husain Bey)はサールミダ(Tharmida')に要塞を築き、第二次サウジ王国(1824 - 1891)に対する攻撃の拠点とし、1838年にはエジプト総督クールシド パシャ(Khurshid Pasha)がサールミダ(Tharmida')を1840年までのエジプト占領下にあるナジド(Najd)統治の中心とした。
サン’ア (San'a): サヌア、サナアとも転写されているサン’ア(San'a)はイエメン西の中部の標高2200mの高原に在り、イエメンの首都である。サン’アは古代イエメン都市(Acient Yemen Cities)の一つでその始まりはシバ王国(Sabaean Kingdom, 8 century BC - AD 275)の治世下であった紀元前6世紀に遡る。碑文によればサン’アは紀元前2世紀末から西暦525年まで続いたヒムヤル王国(Himyarite Kingdom or Himyar)の首都であった。最後のヒムヤル国王(King Yousef Athar or Dhu Nuwas, 517/8 - 525)が勢力を張った時期にもサン’アにはエチオピア(Ethiopia)のアクスム帝国(Axumite Empire, 4 century BC - AD 6 century)総督府(Capital of Viceroys)があり、570年以降にはササン朝ペルシア(Sassanid Persia, 226 - 651)の総督府があった。イスラム前期(Dawn of Islam)からイスラム帝国(Islamic Caliphate)のイエメン支配が独立した小国に分裂するまでその総督府(Government of Caliph's Deputy)もサン’アにあった。又、オスマントルコ(Ottoman Turks, 1299 - 1923)の支配下にあった1538年から1635年および1872年から1918年の間にも州庁(Capital of Ottoman Vilayet or Ottoman Province)があった。1918年にサン’アは北イエメンを治めるイマーム ヤハヤ(Imam Yahaya)の首都となり、1962年のイマーム支配を追放した革命でイエメン アラブ 共和国(Yemen Atab Repubric)の首都となった。1990年に南北イエメンが統一された後も首都とされ,現在に至っている。(イマーム ヤハヤ(Imam Yahya)を参照。)
サンカッラム(Çancarram): ムハッマドの死体(Body of Muhammad)。
珊瑚(Coral): 珊瑚虫の群体の中軸骨格で、広義には珊瑚礁を構成するイシサンゴ類を含むが、一般には桃色珊瑚・赤珊瑚・白珊瑚等の真性珊瑚類の骨格をいい、装飾用等に加工される。
塹壕の戦い(Battle of Trench): カーンダクの戦い(Ma'raka al-Khandaq or Battle of Khandaq)を参照。
「32年間のイスラム国横断(Trente-deux Ans à travers I'Islam, 1832 - 1864)」:厳しい疑惑が向けられているレオン ロシュ(Léon Roches)著、1884 - 1885年にパリで出版された(Paris 1884 -1885).。
ザンジバル(Zanzibar): アフリカ東海岸沖の島で元英国保護領、1963年に独立し、翌1964年にタンガニーカ(Tanganyika)と統合してタンザニア(Tanzania)となる。この島の西岸にある同名の人口16万人の港町が中心都市。
サンスクリット(Sanskirit): インドーヨーロッパ語族の1つで、紀元前1200年ごろインドで文学語、宗教語として用いられた。中国・日本では梵語と云う。
サンブーク((Sambuk)(サンボウSambouk)): インド西部からアラビア沿岸にみられるダウ(Dhow)に似た小帆船。船形や艤装は船首や船首材に装飾や上部構造 (Superstructure) を持たない事を除けば小型のバッガラ(Baggalah)の似ている。サンブークは大きさに応じて15名から20名の乗員(crew)と15トンから60トンの貨物を運ぶ。又、サンブークはかつて真珠採り用の船として盛んに使われていた。
ザンビア(Zambia): アフリカ南部、英連邦の国で旧ローデシア(Rhodesia)、1850年英国人リビングストン(David Livingstone)が踏査、1924年に英国直轄植民地、1964年に独立、銅を中心に鉱物資源が多い。面積75.2万km2、人口937万人(1995)で首都はルサカ(Lusaka)。
「ザンベジ川とその支流」:イギリスの宣教師で探検家リヴィングストン(David Livingstone, 1813 - 1873)の著作(Zambezi Expedition)。
シェイク アブド グッダス アンサリ(Sheikh Abd al-Quddus al-Ansari):著名なサウジ人歴史家で、詩人で、教師であり、1970年代にはジッダ新聞の編集者でもあった 。1963年にジッダで最初に出版された「タリーク マディナー ジュッダ(ジッダ市の歴史)(History of the city of Jiddah)」を著作した。
シェイク ムハッマド(Shaykh Muhammad): シャイク ムハッマド イブン ’アブド ワッハブ(Shaykh Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab)は学問的なタミム(Tamim)族の出身で西暦1703年に’ウヤイナー('Uyaynah)で生まれた。学問に対しては早熟であり、西暦1723年にナジド(Najd)を離れ、勉学する為にヒジャズ(Hijaz)とバスラ(Basra)を訪れた。ハンバリ(Hanbali)学の過激な思想とその影響力が増して来た事でバスラ(Basra)から放逐され、アルーハサ(al-Hasa)で更に自分の勉学を続けた。その後、フライミラ(Huraymila)のガディ(Qadi)であった父の下に戻り父が没する西暦1740年までそこにとどまった。リヤド(Riyadh)のガディ(Qadi)のイブン スハイム(Ibn Suhaym)から「ムハンマド(Muhammad)の教え」への新しい運動に対して反対され、’ウヤイナー('Uyaynah)の為政者’ウスマン イブン ハマド アル ム’アッマール('Uthnab ibn Hamad Al Mu'ammar)の保護を求めた。そこでもその助成者で、アルーハサ(al-Hasa)の為政者であるバヌ カリド(Banu Khalid)に新しい運動への反対を受け、立ち退きを要求された。この為、シャイク ムハッマド(Shaykh Muhammad)はディール’イイヤー(Dir'iyyah)の為政者ムハッマド イブン サウド(Muhammad ibn Saud)の保護を求め、ムハッマド イブン サウドとの間に「シャイク(Shaykh)が支持と助言を保証する代わりに、為政者はシャイク(Shaykh)の教義を政治的に軍事的に支持する」と云う政教契約を交わした。これは西暦1745年の事であった。これが第一次サウド侯国の勢力台頭の始まりであると同時に為政者と為政者を特徴付ける宗教的指導者の間での協力の始まりでもあった。この運動の信奉者は創設者を鑑みてワッハビス(Wahhabis)と呼ばれているが、信奉者達自身は自分達を単にムスリム(Muslims)と呼んで居り、もう一つの呼び名は唯一神信仰者を意味するムワッヒドン(muwahhidun)である。
シェイク ムハンマド ナシフ(Sheikh Muhammad Nasif): ジェッダ(Jeddah)のナシフ邸(Nasif House)には6,000冊のアラビア語の蔵書が収められいる。その中には多くのきわめて貴重な記述、1924年以来の古い地方新聞の収集および稀少本が含まれている。この蔵書はムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)よって蒐集(put together)された。ムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)は1884年ジッダに生まれた高名な学者(scholar)で、蔵書家(bibliophile)で、新聞の編集者で、数年前に亡くなるまで、もてなし心豊かで交際好きなジッダ住人であった。すでにムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)の曾祖父の父親(grand-grandfather)が生存中に多くの貴重な写本(manuscript)を収集していた。これらはムハンマドが生まれた時には戸棚に封印してしまわれており、そこにおよそ40年間も残されていた。この期間にこれらの写本は虫食い(moths)によって破棄せざる得ない状態にまで傷められてしまった。ムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)の祖父(grandfather)であるオマール エッフェンディ ナシフ(Omar Effendi Nasif)は自らは学者では無く、3歳で孤児になったので自分が世話した甥の興味を援助していた(Second)だけであった。裕福な商人で地主であったこの家族の経済状態は本に対して多大な金を費やすのは可能にしていた。ムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)は若い時から宗教、言語および法律学に没頭して居り、ジッダ出身の何人かの家庭教師についていた。成年になってからは次第に自分の好みの勉強や市民運動(civic causes)に集中するよりも自分の家で高い地位のジッダ訪問者の全てをもてなしたりする事に日常の(mundane)の興味が向く様に自分自身で気持ちをそらせて行った。高い地位のジッダ訪問者としてはアブドラアジズ国王(King Abdulaziz)とローレンス(T.E. Lawrence)がムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)の客の中では有名であった。ムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)は今でも多くのつつましい巡礼達によって良く覚えられている。ムハンマド ナシフと意見を交わしたりする為にジッダにやって来ていた著名なイスラムの学者やアラブ学者(Arabist)を援助したが、それと同じ様に世界中からやって来る多くの巡礼も援助した。これらの図書の散逸を避け、この芸術的な建物を保存する事が国家にとって重要であるのを認識したサウジ政府の決定でナシフ邸(Nasif House)は最近、公共図書館になった。(アラムコワールド誌)
ジェイラニ(Djeylani or Djeylany): 偉大な商業組織を持つジッダの商人でサッカト(Sakkat)と共にその祖父達が最初にジッダに定住したマグリブ(Maggrebin)の出身者であり、15万から20万英ポンド(pounds sterling)の富を有する事で知られていた。
シェク(Schech): カイロのジャミア デ アシャール協会(Jamea-de-Ashar Academy)の主要会員の1人の秘書であった。シェク(Schech)はトルコのヨーロッパ領で生まれ、「科学に関してはヨーロッパ キリスト教徒が優れている」としばしば聞いており、情報を手に入れるのを熱望して居ていた。シェク(Schech)は眞に価値のある男で、完全に迷信(superstition)から開放され、全ての人種と友達であった。ニーブール(M.[C.] Niebuhr)はファルスカル(Mr. Forskal)共に植物学と天文学の初歩を教えた。シェク(Schech)の役割はニーブールにとって非常に有用であり、ニーブールはアラビア語の実践やシェックから聞かなければ知らなかった多くの事の説明を得た。ニーブール(M.[C.] Niebuhr)が訪れた時のジッダ知事(the Pasha of Jidda) の副官キアジャ(Kiaja)は若かった頃にシェクの講義を受けていたのでシェックとは知己であった。
シエスタ(Siesta): 昼寝。涼しいそよ風は北からしか来ないけれども、それでもアラビア人達はエジプト人達の様に自分達の家々でそれの恩恵を得ようとはして居なかった。エジプト人達の家々の主要な部屋は一般的に北に向いて開き、その恩恵を得ている。エジプトでは大きな換気装置が家々のテラスに設けられ、そしてこの装置は下の階全ての空気の流れを放散させている。この装置はヒジャーズ(Hedjaz)では知られていなかった。
ジェッダ(Jeddah): ジッダ(Jiddah) (ジュッダ(Juddah))はアラビア語や英語の発音の微妙な違いでの変化であって基本的には同じ町の名前である。Jaddahはジェッダの訛りで祖母を意味するジャッダの由来は恐らく「万人共通の祖母であるイブの墓場がこの町の傍にある」と云う伝説に由来する。この様な不確実さはヨーロッパの翻訳者によってこの市の名に当てはめられた名前の意味に困惑させられる事に反映されている。ここに幾つかの例を挙げるがその参照した文献はアンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)が「ジッダ或るアラビアの町の描写(Portrait of an Aranian City, Jiddah , 1977)」の中で引用してない場合にのみその文献の詳細を示した。(Such uncertainty is reflected in the perplexing range of meaning assigned to the city's name by European translators. Here are a few examples (refernce are given in fully only when the authors are not quated latter in ths book).
ジェッダの名前の意味の例:
a. ブルクハルト(J.L. Burckhardt)の29頁に「そのアラビア語名は金持ちを意味する」、
b. バートン(R.F. Burton)の1913年扁第2巻268頁に「水の欠乏した平原」、
c. ザデー(K.H. Zadeh)の19頁に「道、道路、神の家カーバ(Kaaba)へ導く道路にある市」、
d. フィルビー(H. St. John B. Philby)著「アラビアの心(The Heart of Araba, London 1922, t. I, p221)」やその他多くに「祖母(grandmother」、
e. ナリノ(C.A. Nallino)の155頁に「海辺(seashore)」、
f. イスラム百科辞典(Encyclopedia of Islam t.II, ライデン(Leyden) 1960-1965 P.572)に「錨地・停泊地(road)」
と記載されている。
ジェッダの名の読み方:
字訳・音訳(transliterations)に関しては既に近代的英語で記載された書式およびフランス語のDjeddah、Djiddah、DjuddahおよびDjouddahを除き、次の様な他の異なった字訳(幾つかは本当に遠くかけ離れている。)が記述可能だと思われる。
a. Zida (early Itarian, L. Varthema).
b. Zidem (early Itarian, A. Corsali and others).
c. Gedda (modern Italian).
d. Vida (Anonymous Narrative of the Voyage of Cabral, in The Voyage of Pedro Alvares Cabral to Barzil and India tr. and ed. by W. B. Greenlee (Hakluyt Society), London 1938, P. 83).
e. Grida (Anonymous Portugues Slave in R. Hakluyt's Pribcipal Navigations).
f. Judá (early Portuguese, D. Barbosa, G. Correa and others).
g. Gidá (early Portuguese, L.V. de Camōes).
h. Guida (early Spanish, P. Tafur).
i. Joada (English, W. Daniel).
j. Dsjidda (German, C. Niebuhr).
k. Djetta (German, E. Rüppel).
l. Dscheddah (modern German).
ジェデイデ(Djedeyde): ジッダとメイディナの間のメディナ道路沿いの集落。
ジェノヴァ(Genoa): イタリア北部リグリア(Liguria)州の州都で人口66万人、アペニノ山脈(Apennines)の麓でリグリア(Liguria)海のジェノヴァ湾(Gulf of Genoa)の奥に位置する港町で古代名ゲヌア(Genua)。
ジェームズ シルク バッキンガム: ジェームズ シルク バッキンガム(James Silk Buckingham, 1786 -1855)は英国の旅行家・ジャーナリストでアテナイオン ジャーナル(Athenaeum Journal)等幾つかの新聞を発刊し、旅行書を出版した (JS. Autobiography London 1855.) 。
シエラレオネ(Sierra Leone): アフリカ西岸で大西洋に接する英連邦の国で英国保護領を経て1961年に独立、面積7.1万km2、メンデ族、テムネ族および他の多部族等で人口451万人(1995)、首都はフリータウン(Freetown)。
ジェリコ(Jericho): エリコ(Arab Arīhā)とも転写されている。ヨルダン川(the Jordan River)西岸、死海の北西に位置するオアシス町でパレスチナ(Palestine)の古都、ヨシュア(Joshua, ca 1450 - 1370 BC)に率いられたイスラエル人(Israels)が攻略に成功した神の恵みを経験した地。
シェリフ(Sheriffe): (シャリフ(Sharifs)参照。)
シェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb): シャリフ ガリーブ(Sharif Ghalib)とも転写されている。シェリフ ガレブ(Ghalib Efendii bin Musa'ed)はオスマントルコのエジプト総督ムハンマド アリ(Muhammad Ali)と第一次サウジ公国(First Saudi State, 1744 – 1818)との戦争(Ottoman – Saudi War or Egyptian – Wahhabi War, 1811 – 1818)*を挟んで1788年から1803年および1813年から1827年の二期にわたってオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299 – 1923)治下のヒジャーズ(Hejaz)を統治したメッカ シェリフ(Sharifs of Mecca)である。(2009年11月2日修正)
シェリフ セロウル(Sherif Serour): セロウル(Surour bin Musa'ed, 1773–-1788)はメッカを統治した最後のシェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb)の前任のシェリフ(Sharifs of Mecca)で、ジッダの小さなモスクの1つを建てた。
ジェルバ(Jelba or Jalbut): ジェルバは7mから10mの長さの小さな客船で、通常は半甲板で1本マストである。 どこか少し混成の大きな物は全甲板で2枚の大三角帆を上げている。古典的なジェルバは四角い横梁の船尾(Square Transom Sterns)と垂直の船首(Verical Bows)をしている。これらは舵と舵柄(だへい)で操作され、帆と櫂で推進した。乗組員は4から6名である。ジェルバは古くからスエズ(Suez)の紅海の港、トール(Tor)、コッセイール(Kosseir)、スワイキン(Suwakin)、マッサワ(Massawa)、モカ(Moka)、イエンボ(Yembo)およびジッダ(Jiddah)の間で巡礼を往復輸送する為に使われていた。1183年に巡礼を行ったイブン ジュバイル(Ibn Jubayr)は「ジェルバ(Jelba)は木製舟なので、その舟の外側の平板は端と端をコイア ファイバー(Coir Fibre))(ココナツの繊維)で作られたより糸で縫い合わされ、ヤツメ椰子の裂片で詰めて水漏れを防ぎ、海狸(Castor)(ビーバー)あるいはサメの油が塗ってある」と記述している。同時に、巡礼達を安全基準を遙かに越えて詰め込むジェルバの船主達の貪欲さをジュバイルは酷評している。
ジェロニモ オソリオ(Gerónimo Osório): ジェロニモ オソリオ(Gerónimo Osório or Jerónimo Osório, 1506 - 1580)はポルトガルの歴史家(Portuguese Historian)で1564年にシルヴェス(Slives)の僧正となった。ジェロニモ オソリオはポルトガル王ドン マヌエル(Dom Manuel, Manuel I or Emmanuel I, 1495 - 1521)の功績を記録した歴史家であり、オソリオの著書には1586年出版の「エマヌエル王の治世の歴史(De rebus Emmanuelis or A History of the Reign of King Emanuel)」や初版が1571年出版の「エル-レイでの生活と出来事(Da Vida e Feitos de el-Rey)」等がある。
シガロス島(Island of Sygaros): プリニウス (通称Elder Pliny)(プリニウスウス)の博物誌(A.D. 77年)に「犬達が入る事の出来ない。もし犬を持ち込むと犬達は海岸で死ぬまで遠吠えする」と記述された島。
磁器(Porcelain): 素地(きじ)がよく焼き締まってガラス化した吸水性のない純白透明の焼き物。
シギルメサ(シジルマサ): アフリカ北西岸モロッコ(Morocco)のシギルメサ(Sigilmessa)(シジルマサ(Sijilmasa))はサハラ交易で8世紀から14世紀まで繁栄したオアシス都市であった。。
シーザー(Julius Caesar): カエサル(100-44 B.C.)とも呼ばれるローマの将軍・政治家で第1次三頭政治を行い(60 B.C.)、フランス・ベルギーを含むガリア(Gallia)(ゴール(Gaul))地方征服(58 - 50 B.C.)、大ブリテン島(Britain)島に侵攻(55-54 B.C.)、イタリア全土を支配(49 B.C.)、エジプト平定しクレオパトラ(Cleopatra)擁立(47 B.C.)、北アフリカ支配していた元老院派撃破しローマに凱旋した (46 B.C.)。翌年に終身独裁官となる(45 B.C.)が44 B.Cマルクス ブルータス(Marcus Brutus)とカッシウス ロンギノス(Cassius Longinus)により暗殺された。46 B.C.にシーザーがギリシャの天文学者・数学者ソシゲネス(Sōsigenēs)に改正し導入したユリウス歴(the Julian calender)は365日6時間を持って1年とし4年ごとに1日の閏を置いた。ユリウス歴は1582年グレゴリウス歴に代わるまで使われていた。(シーザーがローマの初代皇帝Caesar Augustusを指している場合もある。)
ジザン(Jizan): ジザン(Jizan)はJazan, Gizan 或いは Gazanとも転写されている。サウジアラビア最南西部のジザン州(Jizan Province)の州都で2004年の調査では人口100,694人であった。紅海に面し、ジェッダー(Jeddah)およびヤンブー(Yanbu)についで紅海岸では王国第三の港であり、後背地の広大な農業地帯の積み出し港になっている。現在は工業都市化と経済都市新設が図られている。(ジザン州参照。)
ジザン州(Jizan Emirate): ジザン(Jizan)(ジャザン(Jazan))は古代にはアル ミカラフ アル スリマニ(Al-Mikhalaf Al-Sulimani)と云う名で知られて居た。ジザンはサウディアラビアの南西部を占め、紅海に接し、平原と森と山岳地帯で構成されている。海岸の湿地帯の内陸に広がる肥沃な平原は川や洪水で山岳地帯から運ばれた堆積物で作られて来た。同じ様に洪水の賜であるアルハゾウン(the Alhazoun district)地区の森林地域は所々豊かな牧草地で途絶える森で構成されている。山岳地域はアラビア半島のゴツゴツした背骨に当たるサラワト山脈(Sarawat Mountain Range)の一部である。ジザンで一番高い峰はフィファ山(Fifa Mountain)で標高は3,300mに達する。ジザンの紅海岸の総延長は約300kmもあり100幾つかの島嶼を含んでいる。ジザンはサウジアラビアの最も豊かな農業地帯の一つで農産物の品質の高さと種類の多さで有名である。主な農産物としてはコーヒー豆、大麦、キビ、小麦の様な穀物、林檎、バナナ、葡萄、レモン、マンゴー、オレンジ、パパイヤ、プラムやタマリンド(Tamarind)の様な果物である。ジザン商業港はサウディアラビア東南部の主要港でありこの地域の発展に寄与している。桟橋は12あり大型の商船が横付け出来、近代的な積み卸し設備を整え様々な種類の貨物の倉庫も完備している。61mの高さの管制塔、品質管理実験室、コンピュターセンターもあり、2000年から2001年には180万トンの貨物を扱った。サウジ政府は最南西部の発展に力を入れており、アルミニューム精練所、鉄鋼の製鋼所、石油製油所、経済都市等の建設を実施しており、サウジ鉄道機構の鉄道計画(Saudi Landbridge)でもジェッダ(Jiddh)からジザン(jizan)への海岸鉄道を計画している。(注) 「フィファ山(Fifa Mountain)が標高3,300m」との記述はサウジアラビア外務省の紹介記事からの抜粋であるが、「標高約2,000mのファイファ山塊(Jabal Fayfa)」と云う記事がある上に私が訪れたファイファ センター(Fayfa Center)の標高が850 mなので「フィファ山の標高は約2,000mではないか」と私は考えている。
シシャ パイプ(Shishe Pipe): シリアではアルギル(Atgyle)とも呼ばれ、ケドラ(Kedra)よりも小さいサイズであるが同じようにリーフ(Lieh)と呼ばれる長い蛇の様な(Serpentine)管と接合されている。この管を通って喫煙される。
シシリー島(Sicily): メッシナ海峡(Messina)を隔ててイタリア半島に対する地中海最大の島(現在はイタリア領の自治区)。イタリア語名はSicilia。
ジッダ(jiddah): 「アダム(Adam)はメッカ(Mecca)で死にそこに埋められ、イヴ(Eve)はジェッダ(Jeddah)の海辺に埋められた」と云われている。ジェッダはいまだにイヴに因んでアラブ族(Arabic)の母系の先祖(maternal ancestor)を意味する「ジッダ(jiddah)」と呼ばれている。
ジッダウィ(Djiddawys): ジッダ市民。
「ジッダ港交易の統計的資料(Trade and Commerce of Jeddah)」: シャルル ユベール(Charles Huber)はその死後の1891年にパリで出版された「アラビア旅行日誌(Journal d'un voyage en Arabie)(1883-1884)」の中で「英国領事(Jago)の1883年のジェダの交易と商業に関する報告書」、何某かの「巡礼の動向に関する資料」およびその他の異なる出所から集めた情報に基づき「ジッダ港交易の統計的資料」を再版している。又、ユベールは1884年7月29日にラビグ(Rabigh)近くで自分の案内人に殺され、ジッダのヨーロッパ人墓地に埋葬されている。(HUBER, C. Journal d'un voyage en Arabie (1883 - 1884) Paris 1891, p. 754 - 757. Huber was entered in the Jiddah European Cemetery.)。
「ジッダについてアル-マクディシの記述」: アル-モカッダシ(Al-Moqaddasi) とも呼ばれるアル-マクディシ(Al Makdisi)のジェッダにつての記述はアラビア地理学会(Bibliotheca Geographorum Arabicorum)のM. J. デ ジョエジュ(M. J. de Goeje.)が編集し、1906年にライデン(Leyden)で出版されたアル-モカッダシ(Al-Moqaddasi)著の「モスレム帝国の記述」第III巻79頁に掲載されている。(Al-Moqaddasi Descriptio Imperii Moslemici ed. M.J. de Goeje. Bibliotheca Geographorum Arabicorum, t. III, Leyden 1906.)。
「ジッダの教育施設の概要」: 出典はTown Planning Officeの1970 - 1971年調査である。
ジッダ(Jiddah)の名前の出て来る詩: ハムダニ(al-Hamdani)がジッダが出てくると「アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab)」で引用している詩はヒジャーズ (Hejaz) の被害を及ぼしている干魃を終わらせる為の雨乞いであり、そのの要旨(Gist)は「ヒジャーズは常に豊かな緑に被われた丘と谷の土地であった。しかしながら、一年近くも雨が降っていない。メッカ (Mecca) の周囲のかつては緑であった丘も平原も今では焦がされ、黒焦げに成っている。彼はその時に雨を願おうとしていた。雨は乾き切った土地を干魃の前にそうであった様に豊かな土地に変えてくれる」と云う内容であった。
ジッダ港の難破船: ジッダでの記録されている最大の悲劇(Greatest Recorded Tragedy in Jiddah Port)は、(その地勢からの危険に関係しては居なかったが、)フランスの定期船アジア(Asia)号であり、それは巡礼の季節も終わる1929年5月21日に起きた。アジア(Asia)号が火災を起こした時には内投錨地に停泊し、イエメン(Yemen)に帰国する巡礼達をギュウギュウに詰め込んでいた。(この船は当然、フランス政府が責任を持つアルジェリアとモロッコの巡礼達の運搬の為に数日後に戻る予定であった。)火災は夜間に貯蔵区で発生した。この貯蔵区には南アメリカへの移民が使う1,000以上のマットレスが保管されていた。火災を鎮火する為の全ての対応が失敗した。これらのマットレスには非常に燃えやすい植物繊維が詰め込まれていた。警報が鳴った時には既に手遅れであった。巡礼達はパニックを起こし、救命ボートは下ろすことも出来なかったり、水面に降りる前にひっくり返ったりしてしまった。目撃者の証言によると乗務員は不埒にも(reprehensibly)船客に先んじて船を離れ様としており、たまたま近くに停泊していた英国商船、港湾当局および多くのボランティアによる死にものぐるいの救助活動にもかかわらず、火による皆殺しはショッキングであった。生きた儘で焼かれ、押し合いでツブされ、あるいは溺れた巡礼達の正確な数は確かめることが出来なかったが、1,000人を越えた。傾き、珊瑚礁に半分沈んだアジア(Asia)号の炭化した船体は内投錨地の中央左に見られていた。
「ジッダのバルコニー(Jiddah's Balconies)」: ハリー オールター(Harry Alter)著で同書は「 華麗な輝き(Splendid Bright)」としてアラムコワールルド(Aramco World Magazine)の第22巻5号9月・10月号(Vol. 22, No.5, Sept. - Oct. 1971, p. 29 - 32.)に掲載されている。
ジッダの古い検疫所(Old Qaurantine Installations): 古い検疫所はアブ サアド島(Abu Saad island)にある10棟余りの建物で構成されていた。その多くは1階建てで、2つの扉が建物の向かい合った端にあった。巡礼達は先ず、薫蒸室(Fumigation)を通り、それから長い廊下のどちらかの側の基部が上がっている清潔なコンクリートの土台の上に建てられたこれらの建物に暫くの間、滞在した。ここでは互いの間に荷物を積み上げて仕切にし、そしてこの限られたスペースにマットや絨毯を引いていた。伝染病(Contagious Disease)に被病している巡礼達は船から直接、近くのワシタ島(al-Wasitah)に移される。ワシタ島には彼等を治療する為に医者と看護婦が勤務する病院があった。
「ジッダ包囲の計画(Plan of Siege of Jiddah)」: サウド家の軍隊の特質と配置を示すジッダ包囲の計画は1928年にベイルート(Beirut)で出版されたアミン リハニ(Amin Rihani)著の「Tarikh Najd al-hadith wa mulhaqatibi]」の368頁に示されている。しかしながら、その印刷の品質は再コピーが出来ない程悪い。
シッライン(Al-Sirrayn): ヒジュラ暦473年、西暦1081年にアラブ族がやって来て、ジッダ(Jiddah)の町は包囲された。ジッダ(Jiddah)の住人は水が乏しく成ったので自分達自身の船に乗って逃走した。彼等は海を彷徨ったがその内の或る者達はアル-シッライン(Al-Sirrayn)、アル-ラハ(Al-Raha)およびアサール(Athar)に居を構えた。
シッラエウス(Sillaeus): ナバテア王オボダス二世(Obodas II)の首相シッラエウス(Syllaeus)(Nabataean Guide Sillaeus and Nabataean Administrator)は乳香貿易の富みをローマ(the Romans)が直接イエメンと交易する事で奪われるのを恐れた。この為にシッラエウスはローマ軍の遠征に対して面従腹背の態度を取り、ガルス(the Prefect of Egypt, Aelius Gallus)はを騙していた。シッラエウスは行軍の道案内をし、全ての補給品を供給して彼に協力すると約束していたけれども全てに対して裏切りを行った。海岸に沿っての安全な航海も陸路の安全な行軍もわざわざ道の無い場所に案内したり、遠回りさせたり,全てに事欠く場所を通させたり、港の無い岩礁の海岸や浅瀬や暗礁の多い海域や特に干満の差の大きな場所を航海させたりして大きな難儀をもたらした。その後にローマに対するこの裏切りで処罰された。この一件でのシッラエウスの裏切りとは友好に悪影響を及ぼしただけであったが別の件でシッラエウスはローマを怒らせ崖から投げ落とされ殺された。
シッラ砂丘帯(Nafud as Sirrah): 冬場には水の流れもある涸れ谷シッラ(Wadi As Sirrah)はリヤドの西340kmでメッカ街道(Riyadh - Makkah Highway)を横切る。これに平行して、メッカ街道の南には赤い砂丘の帯が横たわり、幾つかの目立って大きな砂山があるシッラ砂丘帯が南へと広がる。涸れ谷シッラの更に西10kmでメッカ街道に近づく赤い砂丘の帯がサカ砂丘帯(Nafud as Sakha)である。この砂丘帯は遠くでは広く大きな砂丘の連なりであるが、メッカ街道を横切る辺りでは僅か数十メートルの幅に成って居る。シッラ砂丘帯(Nafud as Sirrah)やサカ砂丘帯(Nafud as Sakha)等の赤い砂丘の帯がこの様に完全に火成岩で出来ているアラビア盾状地の奥深くに存在するのは私には大変不思議に思える。かってはウルク沙漠(Uruq Desert)やダーナ沙漠(Dahna)と同じ様にナフド沙漠から直接あるいはカシーム(Qaseem)付近で分岐してワジ ドワサー地方(Wadi Ad Dwasar)へと向かう北から南への砂の流れがあったのかも知れない。これらの砂の流れはイルク ワジ(Irq al Wadi)を含むおおきな砂原(Sand Erg)でウルク沙漠(Uruq Desert)と合流し、更に南へとナジラン(Najran)方面へと向かっていたのではないだろうか。
シドル(Sidr Tree): シドル(Sidr Tree)は私にとって長い間。何の木なのか謎であったが、後にナツメの木(Jujube Tree、Sidr)で学名はZizyphus spina-christi) の一種である事が分かった。この木はこの他、ナブク樹(Nabk Tress, Lote tree, Christ's Thorn or Jujube)とも呼ばれる。アダムが地上に降りて始めて口にした食物と言われており、さまざまな薬効がある。葉はハーブ石鹸やふけ、シラミの予防、目の腫れや膿瘍の治療、肥満防止に効用があり、樹皮や根も胃痛、盲腸等に効用があり、アストリンゼン(Astringent)や咳止めに使われる。シドルの蜜はサウジでは最高級の蜂蜜で様々な薬効はあると珍重され、市場での売値は1kgで少なくともSR 400 – 600以上もする。但し、この黒くドロッとした蜂蜜を私は苦手であった。シドルの木はサウジアラビア南部のアシール(Asir)、ナジラン(Najran)およびジザン(Jizan)にはごく普通に生えており、その蜂蜜はこれらの地方の特産物になっている。
シバ王国(Sheba): シバ王国(Sabaean Kingdom, 715BC - 570AD)は現在のイエメン(Yemen) 南西部のアシール(Asir or Aseer)にマリーブ(Ma'rib or Mareeb)(マリブ(Marib))に首都があった古代王国で、紀元前715年から「富裕のアラビア(Arabian Felix)(幸福のアラビア)」と呼ばれ、農業と香辛料および乳香(Frankincense)や没薬(Myrrh)を含む香料(Aromatics)の栽培と乳香交易で栄えた。紀元1世紀、航海術の進歩により、海のシルククロードの一つでもあった「乳香の道」の交易経路が陸上から紅海経由の海上輸送へと移った事でシバ王国の繁栄に陰りが見え始めた。3世紀のローマ世界の経済不振や西暦313年のローマ帝国キリスト教改宗による乳香・没薬等香料需要の落ち込みで、交易量は大きく減少した。交易収入の減少に加えて、ヒムヤル王国(Himyarite)、アクスム王国(Aksum)、ハドラマウト王国(Hadhramawt)等の外敵の攻撃も加わり、王国は衰退の一途をたどっていった。その終焉は「ヒムヤル国(Himyarites)によって紀元前25年に征服され、西暦115年頃にはマーリブ ダム(Ma'rib Dam)の所有権も奪われ、西暦275年に滅亡した」とされているが、「西暦525年にアビシニア(Abyssinia)のアクスム(Aksumite)王国がヒムヤル王国(Himyar)を打ち破ったので、シバ王国は復活した」とも云う。しかし、紀元前700年に建設され、101平方キロメートルの土地を灌漑し、千年以上に渡って、その農業基盤をなしていたマーリブ ダム(Ma'rib Dam)を補修・修復する経済力はそのシバ王国にはもはや無かった。マーリブダムの維持管理はおろそかになり、570年にダムがついに崩壊した。住民はこの古代王国を捨て方々に移住し、ここにシバ王国(Sheba)最終的に歴史から姿を消した。シバ王国(Sheba)は「14世紀間にわたって存在した」と云われるが、いまだに多くの謎を残しており、その解明は必ずしも十分ではない。その建国は紀元前2000年期前半(Early 2nd Millenium)とか紀元前10世紀から7世紀まで諸説があり、アラブの伝説によると「ノア(Noah)の長男でセム族の祖先であるセム(Shem)がマーリブにシバ王国(Sheba or Sh’va)、あるいはサバ王国(Saba)を創建した」と云う。支配者シバの女王(Queen of Sheba) はエチオピアの歴史、ヘブライ語の聖書、新訳聖書およびクルアーン(Qur'an)に言及され、旧約聖書では「紀元前10世紀にシバの女王がソロモン(Solomon or Sulayman)の知恵を試そうとエルサレムを訪れ、ソロモン大王と会見した」と記述されている。そのシバの女王はアビシニア(Abyssinia)ではマケダ(Makeda)、イスラムの伝説ではビルキス(Bilqis)、ローマの歴史家ヨセフス(Josephus)にはニカウラ(Nicaula)と呼ばれ、紀元前10世紀に実在していたと考えられているが、実在した人物かどうかについても疑問を持つ学者も多い。又、「シバ王国はアフリカのアビシニア(Abyssinia)にあった」と云う説にも説得力がある。
ジハード(jihad): イスラム世界で、信仰のための戦い。宗教的な迫害や布教妨害に対して武力を行使する事。聖戦(出典: 広辞苑)。原義は神のために自己を犠牲にして戦うこと(出典: 岩波イスラーム辞典)。(注)セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr)は「文字通り、神の道への努力で、聖戦(holy war)と転写されているのは誤りである」と述べている。
ジハード アクバル(al-jihad al-akbar or greater exertion): 魂の低次元で激しやすい性癖との内面の戦いを「神への道の大きなジハード(al-jihad al-akbar or greater exertion)」と名付けている。(出典: セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr))
ジハード アスガール(lesser jihad or al-jihad al-asghar): イスラーム(Islam)を守り、その国境を守る為の外との戦い。小ジハード(lesser jihad or al-jihad al-asghar)として新しく生まれた宗教共同体の将来を決めたバドルの戦い(Battle of Badr)から帰還した時に、聖なる預言者が支持したイスラームとその境界を防衛する為の通常のジハード(ordinary jihad)と比較する中で、聖なる預言者(Blessed Prophet)は神への道の大きなジハード(al-jihad al-akbar or greater exertion)として引き合いに出したのが小さな魂に打ち勝つためのこの戦いであった。(出典: セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr))
シバム(Shibam): 涸れ谷ハドラマウト(Hadramawt)はイエメン(Yemen)では例外的に肥沃であり、古代から人々が定住してきた。遠くから見ると摩天楼の様に見える高い日干し煉瓦の塔の様な家々がここの建築の最も顕著な特徴である。中でも八層以上の家々の並び、2000年以上の歴史を持つ、人口約7000人のシバム(シバーム)(Shibam)がそれを代表している。
ジバル アジャ(Jibal Aja): ハーイル(Hayil or Hail)から西南西に延びる花崗岩の山塊で巨大な腕の筋肉の様にどっしり盛り上がった山肌は滑らかではあるが曲がりくねり、黒ずむか朱色をしている。その麓にはタル(Talhs、Acacia Gerratdii)が密の生え、たくさんの森に成っている。多くの渓谷がジバル アジャ(Jibal Aja)に切り込みを入れている。これらの渓谷は一般的に中流は狭いが、山稜下の源頭部は広く平で農民がたくさんのナツメヤシを植えて畑にしている。
ジバル サラト(Jibal al-Sarat): アシール山脈(Asir Mountains)はアシール州(Asir Province)と区別する為にジバル サラト(Jibal al-Sarat)とも呼ばれる。これらの山々の中の最高峰サウダー(al-Sawdah)山は海抜2,910 m (9,550 ft)である。ジバル サラト(Jibal al-Sarat)地域の山々は分水嶺に成って居り、東に向かってはなだらかに空白地帯に向けて下り、北からワディ ランヤー(Wadi Ranyah)、ワディ ビシャー(Wadi Bishah)、ワディ タスリス(Wadi Tathlith)、ワディ ハボウナー(Wadi Habunah)およびワディ ナジラン(Wadi Najran)等の大水系を成している。反対にティハマーに向かっては壁の様に急であり、その断崖絶壁の崖地をアスダール(Al-Asdar)と呼び、ティハマー(Tihamah)に向かって下っている急傾斜の谷の上流部分をアガバト(Al-'Aqabat)と呼んで居る。
ジバル ティハマー(Jibal Tihamah): ジバル ティハマー(Jibal Tihamah)はジバル サラト(Jibal al-Sarat)とも呼ばれるアシール山脈(Asir Mountains)の聳え立つ山々と紅海岸との間の山塊で、各々の山が谷で分かれ、必ずしも連続しては居ない。この山々も紅海岸に沿って並ぶが、ジバル サラト(Jibal al-Sarat)の山並みよりも標高は低い。
縞瑪瑙(Onyx): 碧玉(Jasper)で縞模様のあるもの。良質なものでは、黒白、白褐・黒赤等の縞色が完全に区別されている。
シャー イスマイル(Shah Ismail): ペルシャ国王イスマイル(Ismail I, 1502 - 1524)( Shāh Ismā'il Abu'l-Mozaffar bin Sheikh Haydar bin Sheikh Junayd Safawī)は16世紀から18世紀前半にイラン(Iran)を中心にホラーサーン(Khorasan)からメソポタミア(Mesopotamia)ま(Ismail I, 1502 - 1524)での地域を支配したシーア派イスラム王朝(Shia dynasty)であるサファヴィー朝(Safavids, 1501 - 1722)の始祖である。
シャイータン(Shaytan): 悪魔(Satan, Demon or Devil)。
シャイターン ラジム(al-Shaytan al-rajim): 石が投げつけられる対象となる文字通り悪魔を意味する。
シャイバー油田(Shaibah Field): ダンマン(Dammam)南東800kmでアブダビ(Abu Dhabi)の南200kmの空白地帯沙漠のアラブ首長国とのオマーン領に近い国境に在り、1998年8月26日から生産を開始した幅12kmで長さ64kmの新鋭油田である。生産量50万BPDはアブケーク(Abqaiq)まで口径46"延長635kmのパイプラインで送油されている。
ジャウバ地域(Al-Jawba): 三角形の大きな窪地(al-Jawba)であるジャウバ地域は窪地或いは窪みとも呼ばれる。三角形をした窪地全体がジャウフ州(Al Jawf Province)の中に収まって居り、この州の中心でもある。大きな盆地でシールハン窪地(Wadi'l-Sirhan)の南端に近い。この窪地は底辺75kmで高さ60km程の少し弓なりのほぼ三角形で、周囲の平原から60mから150m陥没している。多分、太古の内陸海か湖だったと思われる。この窪地は北緯29°45'から30°30' 東経39°42'から40°30'に広がって居り、東に張り出した少し弓なりではあるがほぼ三角形をしている。南の底辺は偉大なナフド沙漠の北辺に接して居り、北の頂点はシュワイヒテイイヤ(Shuwaihitiyya)辺りとなり、東辺のシャルギ崖地(Jal Al-Jubat Al-Sharqi) と西辺のガールビ崖地( Jal Al-Jubat Al-Gharbi)に挟まれている。窪地の至る所に熔岩の噴出、噴火口や熔岩流等の火山活動の跡が残っている。
ジャウフ(Jawf): ジャウフは低い土地を意味して居り、それが州の名前(Al Jawf Province)にも成った。アブドルラフマン スダイリ(Amir 'Abd al-Rahman bin Ahmad al-Sudairi)元知事は「ジャウフ(Jawf)は腹の張った谷を意味し、北アラビアに住むベドウイン(Bedouin)がこの窪地に付けた古くから良く知られた渾名であり、ベドウインはジョウフの住人の客に対する過剰な程の歓待と別格の心遣いをこの渾名で表したのだろう。客に可能な限りの最上の食事を饗し、客が食べ止めたくても更に食べる様に勧めると云う気前の良さの習慣を偲ばせる表現としてこれ以上にふさわしい名前は無いだろう」と述べている。
ジャクリーヌ ピレンヌ(Jacqueline Pirenne,1918-1990): 2007年にオランダのエルゼビア社(Elsevier)から出版された考古学百科事典(Encyclopedia of Archaeology)の中の「主要遺跡、論争、問題等今日の考古学」を執筆した米考古学者K. キリス ハースト(K. Kris Hiirst)の紹介によると「仏考古学者ピレンヌは南アラビアでも特にイエメン(Yemen)」とエチオピア(Ethiopia)での発掘作業に長年にわたって従事していた。ピレンヌはルーヴァン大学(l'Université de Louvain)で教育を受け、フランス国立科学研究センター(French National Center for Scientific Research)(CNRS)のダイレクター(Director)を長い間勤めていた。1985年に退職するとストラスブール大学(University of Strasbourg)で学生達と働き始めた。ピレンヌは「原始的な南セム語(proto-South Semitic language)はエチオピアから南アラビアに広まり、その反対ではなかった」とイエメンの古代王朝カタバン(Qataban)での発掘と「エリュトゥラー海案内記(Periplus of the Erythraean Sea)」の記述に基づき、提起した事でよく知られている」と云う。(http://archaeology.about.com/bio/K-Kris-Hirst-3021.htm)and
(http://archaeology.about.com/od/pterms/g/pirennej.htm)
麝香(Musk): 麝香鹿の麝香嚢から製した黒褐色の粉末で、芳香が甚だ強く、薫物(たきもの)に用い、薬料としても使われる。主に中央アジア・雲南地方に産する。
シャジャルドゥッル(Shajar al-Durr): アイユーブ朝(Ayyubid)の第7代スルタン(Sultan) サーリフ(Al-Malik as-Salih Najm al-Din Ayyub, 1240-1249)の元奴隷の妃。(イッズッティン アイバック(Izz al-Din Aybak)参照)。
シャダ パレス(Shada Palace): 政府の省庁を中心に近代化されたビルの立ち並ぶアブハ(Abha)市内にもアミール庁裏の伝統的なスークが残されて居る。1927年に建てられ、1987年に民俗博物館となったシャダ パレス(Shada Palace)はスークに隣接し、アシール アミール(Amir of Asir)庁裏の大きなプールを見下ろす位置にある。この内装はアシールの典型で歴代の女主人が色を塗り、文様を描き、良く手入れして居た事を窺わせる。陳列されている農機具、什器、備品、洋服、装飾品、大砲、銃器、刀剣等民俗的な品物の保存状態も良い。この近くには絵画を制作販売する絵画村(Al-Mettaha Art Village)が保存されている。伝統的なスークには靴、銃刀剣ケース等革製品を販売修理する店もある。
シャター村とダビキ村(Shatah and Dabiki): エジプト北部のナイル川三角州に在るダミエッタ(Damietta)付近に在った二つの中世の村であり、両方の村共に豪華な織物で有名であり、モスレム帝国の全域に輸出されていた。 (Shatah and Dabiki were two medieval villages near Damietta, both famous for their production of luxury cloths, exported to the whole Moslem Empire.)
ジャディス(Jadis): ジャディス(Jadis)は家系的に密接な関係があるタスム(Tasm)と共に失われたアラブ(Lost Arabs)に含まれる。見張りや防御の為の高い望楼、がっちりとした要塞や広範囲な灌漑システムを築いて、アルーヤママー(al-Yamamah)に住んで居たが、四世紀に起きた干魃に加え、ヒムヤール(Himyarites)の侵入で、バヌ ハニファー(Banu Hanifah) 一門がこの地にやって来た五世紀までには死に絶えたと言われている。ジャディス(Jadis)の首都は「落ち込んだ平地」とか「ワディの谷底」の意味する名をつけられたジャウウ(Jaww)で、ジャウウ(Jaww)はキドリマー(Khidrimah)としても知られているので、今日のアルーカルジ(al-Kharj)にあったのでは無いかと思われる。消滅する前にはタスム(Tasm)の専制君主の支配下にあったが、その傲慢な振る舞いが両部族の間に論争を引き起こした。ジャディス(Jadis)は女予言者ザールガ’ アルーヤママー(Zarqa' al-Yamamah)の警告を無視した為にその町をヒムヤール(Himyarites)に破壊された。ヒムヤール(Himyarites)は女予言者を十字架に張り付けにし、その死体をジャウウ(Jaww)の城門に曝した。その後はこの女予言者に因んでジャウウ(Jaww)はヤママー(Yamamah)と呼ばれる様に成り、やがて町の名前がこの地方全体を指す様に成った。
ジャドコ(JADCO): 街道からは遠く離れては居るがタバールジャルの南西には縦50km横30kmにも及ぶジャウフ農業開発公社(Al Jouf Agricultural Development Co.)所有大農場がある。深夜に農場内の農道を走ると時速100kmで30分以上も周囲に全く灯火は見えず、50kmx30kmと云う土地の広大さを感じさせられた。
ジャニッサリ(Janissaries): オスマン帝国(Ottoman)はその防衛を奴隷部隊に頼っていた。その中でも精鋭部隊をジャニッサリ(Janissaries)と呼んでいた。この名はトルコ語の「イェニセリ(yeniceri)」即ち新軍「new army」を意味していた。その部隊の隊員は奴隷であり、殆どは少年時代に誘拐され、徹底的な訓練を受けていた。
シャハーダ(Shahadah): イスラーム五行(Five Pillars of Islam)の最初の義務として課せられているイスラーム(Islam)入信における信仰告白。シャハーダ(Shahadah)は「アッラー以外に神はなし」証言する事と「ムハンマドはアッラーの使徒である」と証言する事の2つの部分から成り、入信の儀式では2人の公正なムスリム(Muslims)の前でアラビア語で唱える。(出典: 岩波イスラーム辞典)
シャハラン族(Shahran):シャハラン族(シャーラン族)はカハタン族(Qahtan) (ガータン族)の有力部族で特にアシール(Asir)内陸部ではカハタン族と勢力を二分している。
ジャバル シャンマル(Jabal Shammar): ハーイル(Hayil or Hail)の西部、北部および東部の近傍を帯のような範囲で点在する火成岩の山々に付けられた呼称で、ジャバル シャンマルの山々はその麓を朱色の砂が厚く被うので実際には連続した山塊であるのに互いに離れ独立している様に見える。
ジャーヒリーヤ時代(Age of Ignorance or al-jahiliyyah): 無明時代、蒙昧時代あるいは前イスラーム時代と転写されている。ムハンマド(Muhammad)によってイスラームが布教される前のアラビア半島の時代あるいは状態で考古史料、碑文等を除けばこの時代を知る手がかりの多くはジャーヒリーヤ詩にある。(出典: 岩波イスラーム辞典、リーダース新英和辞典等)
蛇腹(Cornice): 古典建築ではエンタブレチュア(Entablature)とも言う最上部の突き出し水平帯で、一般には壁面の突き出した水平部分を指す。
ジャヒリイヤ時代(Jahiliyya): 無明(蒙昧)時代(無知の時代(the time of ignorance))と訳され、イスラム登場以前のアラビア半島の状態。
シャーフィイー学派(Shafi'i Madhhab): シャーフィイー(Imam Shafi'i)を始祖とする学派でスンナ派の四大法学派の一つである。シャーフィイーもまたアブー ハニーファ((Abu Hanif))やマーリク(Malik)に学んでおり、師への敬意は文書に残っている。(出典: ウィキペディア)
シャーフィイ モスク(Masjid ash-Shaf'i): ジッダのモスクの中でもっとも古く、もっとも美しい。シャーフィイ モスクはマズルム地区(Mahallat al-Mazlum)に建っている。言い伝えによれば、シャーフィイ モスクはウマル(the Caliph Umar ibn al-Khattab, A.D. 634 - 644)の時代に建築された。このモスクは旧市内の中央に位置しているが、その目立たないミナレット(Minaret)とそれを取り囲む狭い通りの迷路の為に簡単には見つからない。現在の周囲の状況が続く限りにおいては次の様な方向を観ながら辿ればこのモスクには問題無く到達できる。先ず、ファイサル王通り(King Faysal Street)の中央部東側にある古いバイシェン ビル(Baeshen)を見つける。このビルはラテン語で書かれた持ち主の名前のネオンサインと一階にある愛らしい黄土色の雷文細工(fretwork)のバルコニーで簡単に見分けられる。このビルの南側の狭い未舗装の道が初めは短い溝を形成し、ファイサル王通り(King Faysal Street)と直角に旧市内を切り裂くている。この狭い道をもう一つの道と交差する端まで辿るとこの交差点でシャーフィイ モスク (Masjid ash-Shaf'i)のミナレットが左直ぐ傍に見えてくる。
ジャブリド(Jabrids): バニ アミール(Bani ‘Amir)とも呼ばれる’アミール イブン サ’サ’アー('Amir ibn Sa' sa' ah)は広大なイスラム帝国建国(Arab Muslim conquests, 632–732)以降の大きな古代アラブ部族同盟(Ancient Arab Traibal Confederation)であった。バニ アミール(Bani ‘Amir)はナジド(Najd)を中心として勢力を張り、その祖先はアドナンAdnan)に遡る。十四世紀と十五世紀のワディ ハニファー(Wadi Hanifah)とカルジ(al-Kharj)の町の住人は’アミール イブン サ’サ’アー('Amir ibn Sa' sa' ah)から続くアル ハサ(al-Hasa)の為政者ウスフリド(Usfurid)に支配されていた。十五世紀半ばに同族一門の指導者家族であるジャブリド(Jabrids)が前任者のウスフリド(Usfurid)から支配を受け継いだ。ジャブリド(Jabrids)はその実力と敬虔さおよび公平さの尊重および’ウラマ’('Ulama')で名声を得て居た。ジャブリド(Jabrids)はカルジ(al-Kharj)周辺のナジド(Najd)のムガイラー(Al Mughirah)、ダワシール(Dawasir)、ファドル(Al Fadl)、’ア’イダ(Al 'A'idh)およびスバイ’(Subay')等殆どの遊牧民に向けて戦闘を行い、’アミール イブン サ’サ’アー('Amir ibn Sa'sa'ah)族の諸族やその同盟の部族の為に放牧地を諸部族から守った。それと共に、この戦闘には隊商路、巡礼路の安全を保障し、定住民の中の同盟部族を支援し、遊牧民と町住人の間の離反関係を罰する目的もあった。更に十五世紀はナジド(Najd)の定住民にとって政治的に順調な時代で、雨が多く干魃は殆ど無い良好な気候の時期でもあった。ジャブリド(Jabrids)は基本的には遊牧民の首領と云うよりは定住民の首長(amirs)であり、部族的忠誠を広範囲な為政者(’ウラマ’、'Ulama')への服従に代える事で分裂しがちな部族的状況に統一をもたらした。交易でも栄えたジャブリド(Jabrids)の著名な為政者’アジワド イブン ザミル ジャブリ('Ajwad ibn Zamil al-Jabri)はヤママー(al-Yamamah)を経由して西暦1472年に多くの人数、西暦1483年に駱駝20,000頭、西暦1488年に駱駝15,000頭のアラビア横断の大巡礼団をそれぞれ送った。この様な行事は敬虔さと同じ様にジャブリド(Jabrids)が東アラビアとナジド(Najd)にもたらした政治的支配と安定の証であった。
シャブワ地方(Shebwa or Shabwah): イエメン内陸中央から西へと広がるのサイハド沙漠(Sayhad)の東部地方で涸れ谷ハドラマウト(Hadhramaut)の西の入り口にあたる。行政州としては南はアデン湾(Gulf of Aden)の海岸を含んでいる。
ジャミヤト シ’アフ(Jamiyat al-Si'af): 公共援助の為の協会(Assocoation for Public Assisitance)である。ヒジャーズの人々による民間の発案でイエメンとの短期間の戦争の際の1934年に創設された。
シャーム オブホール(Sharm Obhor): シャーム オブホール(Sharm Obhor)はジッダ(Jiddah)北方約40kmにある狭い入江で、紅海岸から北東に入り込んでおり、幅は20mから1,400mである。
ジャムラ(Jamra, Jamarat or jamarah): マッカ(Makkah)のミナーの谷(Mina)にある。「悪魔」を象徴する3石柱(3 Stone Pillars) ジャムラ(Jamra)に対して巡礼の石投げの儀式を行う。ミナーの谷のメッカ(Mecca)よりから、大中小の3石柱が180m - 200m間隔で並んでいる。大ジャムラは場所の名を取りアカバのジャムラとも云う。現在、ジャムラ通りには橋が架けられ2層になり、地上と橋上から石投げの儀式が行うことができる。ジャムラはイブラヒーム(Ibrahim)(アブラハム(Abraham))の伝説と結びついており、神に命ぜられ子イスマーイール(Isma'il)(イシュマエル(Ishmael))を犠牲に捧げようとした時、悪魔がささやき邪魔したので、イブラヒームは大石柱の場所で石を投げ、悪魔を追い払った。妻ハジャール(Hajar)も中石柱の場所で悪魔を追い払った。そして最後にイスマーイールが小石柱の場所で悪魔を追い払ったと云う。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ジャラシュ(Jarash): カミス ムシャイト(Khamis Mushayt)の南西20 kmにあるアハド ラフィダー(Ahad Rufaidah)の更に7、8 km南西の涸れ谷ビシャー(Wadi Bishah)の源流南岸にあるジャラシュ(Jarash)は11世紀頃までイエメン(Yemen)からの巡礼交易路の重要な拠点であり、イスラム以前やイスラム初期までの石造りの巨大建造物の遺構や泥作りの住居跡が残って居る。「このジャラシュ(Jarash)のハムマー山(Jabal Hamumah)の傍にシェバの女王(Queen of Sheba)がソロモン王(King Solomon)に会うための道中での野営地ビルギス(Bilqis)があった」とこの地方では信じられている。この古代からの町はイスラム以前はアシールの首都でありミカラフ ジャラシュ(Mikhlaf Jarash)と呼ばれていた。
ジャラブ(Jarab): 乳香の道がブグム熔岩地帯(Harrat al Buqum)を横断する途中に在るバハー州(Al Baha Province)東北部の部落。「戦い」を意味する名前を付けられている。
ジャラル ディーン ルミー(Jalal al-Din Rumi): イランの神秘主義詩人(c.1207 - 1273)。
シャリーア法(Law of the Islam or Shariah): イスラーム法で、クルアーン(Qur'an)やハディース(Hadith or Hadith Nabawi)といった典拠から法学者の解釈行為を通じて法規定が導き出される。(出典: 岩波イスラーム辞典) イスラム世界では宗教と世俗社会の両方に対する法律である。シャリーアのうち主に宗教に関わる部分をイバーダート(儀礼的規範)(Ibadhat)、世俗的生活に関わる部分をムアーマラート(法的規範)(Mu'amalat)と称する。イバーダートは個々人と神との関係を規定した垂直的な規範、ムアーマラートは社会における諸個人間の関係を規定した水平的な規範と位置づけられる。
シャリキー人(Sharqis): 北アフリカのアラブ人。
シャリフ(Sharifs): シャリフ(Sharifs)はシェリフ(Sheriffe)と転写され、部族と財産、井戸、領地などの部族の財産の守護する者に伝統的に与えられてきたアラブ族の称号であり、「高貴な血筋の人」を意味するアラビア語でもある。イスラム以後は預言者ムハンマッドの親族の尊称として使われるようになり、スンナ派(Sunnis)では第5代カリフ、シーア派(Shi’ahs)では第2代イマームとあつかわれたムハンマド(Muhammad)の初孫ハサン イブン アリ(Hasan ibn Ali)の子孫をシャリフと呼んでいる。アッバース朝(Abbasid 750 - 1258.)の支配下のメッカ(Mecca)の統治 (Rule)は10世紀からクライシュ族(Quarish)支族(Banu Quraish)のバヌ ハシム氏族(Banu Hashim)が掌握し、初代のシャリフ(Sharifs)はムハンメド アブ ジャファール サラブ(Muhammed Abu-Jafar Al-Thalab, 967 - 980)であった。1201年からバヌ ハシム氏族(Banu Hashim)のハワシム家(Hawashim Clan)がメッカのシェリフ(Sharif of Makkah)を勤め、時としてヘジャーズ王と名乗っていた。フサイン イブン アリ(Sharif Hussein ibn Ali, 1916 - 1924)は1924年3月6日にトルコのカリフ統治(the Caliphate)を廃止されるとイスラムのカリフ(Caliph al-Islam)を自らが継承した。同年9月にタイフ(Tayif)でのイフワーン(Ikhwan)への敗北すると、ヒジャーズ(Hijaz)の多くの有力な市民達に退位(Abdication)を求められ、、1924年10月にジッダ(Jiddah)を出港し、アカバ(Aqaba)からキプロス(Cyprus)に亡命した。長男のアリ ビン フサイン(Ali bin Hussein, 1924 - 1925)が後を継いだが、ワッハーブ派(the Wahhabi)にジェッダ(Jeddah)を包囲されると抵抗を止め、、イラク(Iraq)に亡命する為にバスラ(Basrah)行きの船に乗った。家族の長く続いたメッカ統治は運命の大きな変化を伴いながら10世紀間に渡ってメッカ(Mecca)を支配してきたが、1925年12月23日にヒジャーズ(Hejaz)はイブン サウド(ibn Saud)に征服され、終焉した。この家族の子孫は現在のヨルダン ハシミテ 王国(Hashemite Kingdom of Jordon)の王族として残っている。
シャリフ アウン ラフィック(Sharif Aun ar-Rafiq): 1882年から1905年までヒジャーズ(Hejaz)を支配した改革志向のシャリフでイヴの墓を取り壊そうとしたが、地元民および駐在外交員の圧力に屈し、その事を忘れてしまった。
シャリフ ガリーブ(Sharif Ghalib): シェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb)参照。
ジャール(Al-Jar): ジャール(Al-Jar)はジッダの北方にあるヒジャーズ(Hejaz)の町でメディナ沿岸(Medina Littoral)の古代の陸揚げ港でエジプトの宝物庫。
ジャルア(Gerrha): (ジャルハ(Gerrha)を参照。)
ジャルハ(Gerrha): 都市国家ジャルハ(Gerrha)は紀元前700年から紀元後の初めの数世紀に渡って交易権益で栄え、東部州に覇を唱えた。東部州のダーラン(Dhahran)付近の墳墓(tumuli)の遺物もジャルハ(Gerrha)の商人達が残した物である可能性はあり得る。この都市国家の存在は同時代の地理学者や歴史家の記録や古代硬貨の発見によって確認されているが、その実在した正確な位置に関しては依然として確定できていない。ギリシャの地理学者のストラボ(Strabo, 64BC - AD21)は「ジャルア(Gerrha)はおおよそ紀元前6世紀あるいは7世紀に存在したのがダハラン(Dhahran)からの出土品からほぼ分かった」と記述している。ジャルア(Gerrha)存在するとされている場所には東部州のサジ(Thaj)、ガティーフ(Qatif)、ダハラン(Dhahran)、サフワ(Safwa) に近いアインジャワン('Ayn Jawan)、ウカイル('Uqayr)および’ウカイル('Uqayr)北の塩採集場(Salt Mine Site)がある。海岸にある’ウガイル('Uqayr)の北の広大なサブハ群(含塩平地、Sabkhas、Salt Flat)に近い塩採集場では同じ時代の遺物が幾つか出土して居り、「東部州のハサ(Al-Hasa)北東80kmにある廃港ウカイール(Uqair)付近にあった」との有力説もあるが、依然として謎に包まれている。この為、幻の古代都市とも言われる。ジャルハの英語への転写はGerrha、al-Jar' a、al-Jar'a'、al-Jarha等であるが、日本語への転写はこの町の存在を知って以来、私に正確に特定できないで居り、その時々でゲッルハ、ゲルラ、ジャルア、ジャル‘ア、ジャルハと幾つかに転写してきた。Wikipediaの2008年12月27日改定では「Gerrhaはアラビア語で は(Arabic جرحاء)と発音される」と述べられており、日本語ではジャルハ(al-Jarha)或いはジャル‘ア‘ (al-Jar'a')と転写されるのだと思われるが、これまでの記述で使ったその時々の転写は訂正してないのでご了承して戴きたい。
シャルジャ(Sharjah): アラブ首長国連邦の7首長国の一つ、ペルシア湾に臨み、人口16万人。
シャロウラー(Sharourah): ナジラン(Najiran)からイエメン(Yemen)国境に沿って東332 km付近に空軍基地シャロウラー(Sharourah)がある。ナジラン(Najiran)から248kmのカシュム グラブ(Khashm Ghurab)分岐の丁字路からシャロウラー(Sharourah)までの64kmは道路は砂丘列の稜線と平行に東北東/西南西方向に作られており、広い谷間を抜けている様な錯覚がする。丁字路から64 km東にポンプ小屋と高架水槽の設けられた水井戸がある。砂丘群は灼熱で干上がった場所との印象が一般的であるが砂丘群は乏しい雨を吸収しその底部の不浸透層の上に稀少な水源として貯えてくれる。この井戸もその様な浅層水を水源としているのだろう。道路はここから東北東から東南東に向きを変える。水井戸から20 kmで空軍基地の町シャロウラー(Sharourah)の北ゲートに到着した。この町は鉄条網のフェンスで完全に囲まれている。第19アル ファルーク旅団(Nineteenth Al Farooq Brigade Group)等シャロウラ軍の大規模な軍隊駐屯にサービスする4万人の市民がシャロウラには住んでおり、大きなシャロウラ基地軍事病院とは別の病院、ジェラート アイスクリーム(Gelato Ice-Cream)、都市村落省の水泳プール、建設中の五つ星ホテル等が見られる。又、動物の数は少ないが動物園もある。シャロウラ空港には軍用として使われている他、サウディア(民需用航空会社)も乗り入れている。シャロウラは戦略的な位置にあり、その費用はサウジ政府と一部の私企業が負担している。この地方での強いサウジ政府軍の存在が1934年のサウジ/イエメン戦争の終わりに失った領土奪回のイエメン試みを阻止して来た。
ジャンアン(Jannan): ハーイル(Hayil or Hail))の東65 km、ミリヒヤ(Milihiya)の北東30 kmにある三つの砂岩の露頭で銅鉄時代および青銅時代の動物相が描かれ、鉄器時代とイスラム以前の碑文が刻まれている。
ジャンク(戎克)(Junk): 中国で古くから用いられてきた木造帆船で、物資・貨客の輸送業務においては、19世紀以降蒸気船が普及したことにより衰退した。船体中央を支える構造材である竜骨(キール)が無く、船体が多数の水密隔壁で区切られている。また、横方向に多数の割り竹を挿入することによって、風上に近い方向へ切り上がる際の効率が優れており、一枚の帆全体を帆柱頂部から吊り下げることによって突風が近づいた時などに素早く帆を下ろすことを可能にしている。
シャンマル族(Shammar): ナジド(Najd) 4つの部族の一つで、ナフド沙漠(Nafud)の南端を先祖の故郷とする大シャンマル族(Shammar)の内の一部族である。大シャンマル族(Shammar)の北の分族はメソポタミア(Mesopotamia)に移住している。この部族の多くは町部に定着したけれども部族全体としては依然としてベドウイン(Bedouin)の性格を強く残して居り、その近年における首領がナジド(Najd)で一番勢力の強かったアミール モハメド イブン ラシド(Amir Mohammed ibn Rashid, 1892 - 1897)であり、一年の大半を自分の部族民と共に沙漠で過ごしていた。現国王アブドッラー陛下(Abdullah)の母方はこのシャンマル族(Shammar)であり、長年にわたって現国王の皇太子時代からの支配下にある国家親衛隊のほぼ半分はこの勇猛で知られる部族である。
シュアイバー (Shuaybah): アシュ-シュアイバー(ash-Shuaybah)は涸れ谷アル-ムカッラム(Wadi al-Mukharram)の河口にある大きな湾であり、ジッダ創建以前のメッカの港。ワーブ イブン ムナッビー(Wahb ibn Munabbih)は「船は嵐でシュアイバーへと押し流された。そこはヒジャーズの避難所でメッカの港であり、ジュッダへ来る船の投錨地である」と述べている。
「19世紀後半のメッカ」: 回教徒に改宗したオランダの偉大なアラビア学者クリスチアン スノウク フルグロニェ(Christian Snouck Hurgronje)著、「メッカ」は1888 - 1889年にハーグで出版(Snouck Hurgronje, C. Mekka Hague 1888 - 1889.)、同書はJ.H. モナハン(J.H. Monahan)によって英訳され「19世紀後半のメッカ」との題名で1931年にライデンとロンドンで出版された(An English translation of the second volume was made by J.H. Monahan and publish under the tiltle Mekka in the later part of the 19th Century Leyden - London 1931.)。 フルグロニェ(Hurgronje)の聖なる市についての見事な著述はいまだに標準参考書であり、その再版は1970年にライデンで出版されている(This has been recently reissued in Leyden (1970).)。
「17世紀末の紅海とその周辺の国々」: 「17世紀末の紅海とその周辺の国々 (Red Sea and Adjacent Countries at the close of Seventeen Century) 」、ジョセフ ピッツ(Joseph Pitts)、ウィリアム ダニエル(William Daniel)およびチャルル ジャック ポンセ(Charles Jacques Poncet)の記述をハクルート協会(Hakluyt Society)のウィリアム フォスター卿(Sir William Foster)が編集し、1949年にロンドンで発行した。ウィリアム フォスター卿(Sir William Foster)はこの原本と成ったフランス語版が何時初版されたか確認出来なかった。この本に掲載された英訳再版は翻訳者の名前を記述しない儘で1709年に出版されている。
終末論(Eschatology): 世界や人間の終末を論ずる神学で、死・最後の審判・天国・地獄の四つを論ずる。終末論思想はユダヤ教に見出せるが特に初期キリスト教では世の終わり、キリスト再来の信仰が強かった。(出典: 広辞苑) (注)ユダヤ教、キリスト教に共有するイスラームの特徴は、共有する聖書的伝統に基づく歴史観にある。それは人間の歴史を宗教的に有意味とし、直線的に捉えることである。歴史は唯一なる神による天地と人間の創造によって始まり、終末によっておわり、そして来世が始まる。終末にはさまざまな徴候がある。(出典: 岩波イスラーム辞典)
シュガイグ(As Shuqayq): シュケイク(As Shuqaiq)とも転写され、ジザン州(Jizan Emirate)に属し、州都ジザン(Jizan)の北北西約110kmでアブハ(Abha)の南西約70kmに位置する。ビルク熔岩地帯(Harrat al Birk)南端に近いハジル山(Jibal Hajil)南の海岸道路のムハイル(Muhayil)分岐で熔岩地帯は終わり、エダウチ椰子(Dawn Palm)の群生を南西へ抜け、涸れ谷‘アラムラム(Wadi ‘Aramram)を渡ると大きな干潟のある浅い湾にマングローブが生えている。このマングローブの群落ではカニ チドリ(Crab Plover)、小さなトサカのアジサシ(Lesser crested Tern)、ピンク色の背中のペリカン(Pink-backed Pelican)およびテレク イソシギ(Terek Sandpiper)を多く見られるそうである。このマングローブを開拓してエビ養殖が行われる様になったのは残念な気もする。その干潟に流れ込む涸れ谷リム(Wadi Rim)の河口の人口300名足らずのシュガイグ部落で小さな港もあった。1998年4月に訪れた時にはその少し西にサウジ淡水化公団(SWCC)の造水工場(Asir Desalination and Power Plant)の看板が出ているが広い海岸側の敷地には何も見え無かった。その後、12.8万KWで26MIGD(日産11.7万トン)の発電所・造水所が建設され、現在はシュケイク水・電力会社(Shuqaiq Water and Electricity Company:SqWEC)が第二期工事として発電量85万KWで日産47MIGD(21.2万トン)の逆浸透膜方式造水装置を三菱重工業に発注し、2010年の完成を目指している。
シュクデュフ(Shuqduf): 不格好な輿(Cumbersome Litter)を備えた駱駝、この輿(Litter)は駱駝の背中の瘤(Hump)を跨いで2つで釣り合い、太陽の熱から乗客を守る為にナツメヤシの葉を編んだ覆い(Matting)を備えている。
シュクル イブン アビ アル-フツー(Shukr ibn Abi al-Futuh): 「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」の著者イブン アル-ムジャウィール(Ibn al-Mujawir、1204 - 1291)が夢の中で見た、ヒジュラ暦473年、西暦1081年にジッダ(Jiddah)を征服したペルシャ人はムダール イブン ハシミ(Mudar ibn Hashim)では無く正確には. シュクル イブン アビ アル-フツー(Shukr ibn Abi al Futuh')であった様だ。
数珠(rosary or subhah): 「神の美しい99の美称(al-asma al-husma)」に因んでイスラーム教のお祈り用の数珠には99粒のビーズがある。
「ジュッダのマディナ通り(Tarik Madinah Juddah)」: アブド クッデュス アンサリ(Abd al-Quddus al-Ansari)の著、1963年ジッダ(Jiddah)で出版。同書の335 - 342頁のジッダ モスクの章に「スライマンに関する小史(as-silab wa'l-uddah fi tarikh bandar Judaah)」が引用されている。
ジュッバー(Jubbah): ハーイル(Hayil or Hail)の北西110 kmに位置し、旧石器時代中期、新石器時代、銅石時代、サムディック(Thamudic)時代そしてアラビア時代にわたり、人々が住み、その遺跡が残されている。
ジューファー(Al-Juhfah): ジューファー (Al-Juhfah)はメディナ (Medina) とメッカ (Mecca) の間に在った古代の村。
ジュベイルの教会跡(Remnant of Chirstian Church in Jubail): ジュベイル(Jubail)は四世紀にアラビア湾のこの地域にあった五つのネストリウス派(Nestorian)司教区の一つと関係した教会で以前はアル ブナイン(Al Bunain)と呼ばれていた。
シュメール(Sumer: シュメール(Sumer, Shumer, Sumeria, Shinar)は、メソポタミア(Mesopotamia)(現在のイラク(Iraq)・クウェート(Kuwait))南部を占めるバビロニア(Babylonia)の南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明であり、初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川(Tigris)とユーフラテス川(Euphrates)の間に栄えた。シュメールの名は、シュメール人が文明を築いてから、アッカド(Akkad)やバビロニアの支配を受けてシュメール人が姿を消し、さらにバビロニアがアケメネス朝ペルシャ帝国(Achaemenid Empire, ca. 550 – 330 BC)に併合されるまで続いた。シュメールの楔形文字が使われ始めたのは紀元前3500年頃とされており、書かれた物としては最も初期のものだと思われる。(出典: ウィキペディア)
ジュムム(Jumum): ジッダの東北東70km余りの距離にある涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)内の肥沃で地下水の豊富な村。
「主要な航海(Principal Navigation)」: およそ1580年にリチャード ハクルート(Ricard Hakluyt)が出版した有名な本でその中で活字化された名の知れないポルトガル人の奴隷の報告書は英語の文章のあちらこちらに現れる幾つかのイタリア語の単語から判断し、元々は他のヴェネツイア人の作品ではないかと思われる。これにはアレキザンドリアとカイロの市の様子、カイロからメッカへの巡礼路、巡礼の儀式およびメッカ、メディナ、ジッダの市の様子等が記述されている。その後「英国の主要な航海、旅行、交通および発見(Hakluyt, R. Principal Navigations Voyages Traffiques & Discoveries of the English Nation Glasgow 1903 - 1905, (the first edition is dated (1598 - 1600).」として1903 -1905年にグラスゴーで出版された。(同書の第V巻359 - 360頁(t. V, p. 359 - 360)参照。)
「主要な航海の収録(Delle Navizazioni et Viaggi Venezia)」: ラムシオ(G.B. Ramusio)はアンドレア コルサリ(Andrea Corsali)のジュリアーノ(Giuliano)およびロレンゾ デイ メディチ(Lorenzo dei Medici)宛二通の手紙を「主要な航海の収録」として最初に出版した。この二番目の手紙は1517年9月18日に書かれたフロレンス(Florence)のアンドレア コルサリ(Andrea Corsali)から最も高名な皇族でシニョール(Signor)首長でもあるロレンゾ デ メディチ公(the Most Illustrious Prince and Lord the Signor Duke Lorrenzo de' Meddici)宛の「インドのコーチン(Cochin City)に至る紅海およびアラビア湾(ペルシア湾)の航海術について」と題されており、ジッダ(Jiddah)(ジデム(Zidem))の抜粋を含んでいる。(Ramusio, G.B. Delle Navizazioni et Viaggi Venezia 1563 -1606, t. I, fol. 203.)
シュクバン(Al Shukban): 19世紀始めにビシャー(Bishah)を支配していたシュクバン(Al Shukban)はタバブ(Tabab)のアル ムタミ(al-Muhtami)と共にヘジラ暦1215年(西暦1800年/1801年)にディライヤー(Dir'iyah)を訪問してイスラムへの復帰の呼びかけへの支持を宣言し、それに抵抗する者への戦いの意志を表明した。
ジュールフム族(Jurhum or Banu Jurhum): ジュールフム族はアラビア半島のカハタニ部族(Qahtani)に属し、失われたアラブ(Lost Arabs)と呼ばれる古いアラブ族の1つで、メッカに移住する前の歴史的な拠点はイエメン(Yemenであった。アラブの史料のよればジュールフム族はアブラハム(Abraham)のエジプト人妻ハガル(Hagar)とその息子イシュマエル(Ishmael)を保護し、その関係はイシュマエルがジュールフム族の女性と結婚し固まった。ジュールフム族はカアバ神殿(Kaaba)周辺を中心とした信仰に加わっていたと言われている。カアバ神殿(Kaaba)はイシュマエル(Ishmael)とその父アブラハム(Abraham)によって再建された聖域であり、巡礼地として尊ばれ、そこに神殿が再び建てられた。或る言い伝えによれば南から移住してきたクザ’ア族(Khuza’a)にジュールフム族が追い出され、ジュールフム族カアバ神殿の守護権を失った。イスラーム(Islamic)の言い伝えではハガルとイシュマエルはメッカ(Mecca)でザムザム井(Zamzam Well)と云う泉を見つけ、ジュールフム族はその泉から飲料水を確保したいと望んだ。それはクザ’ア族によって追放された後の事であった。ジュールフム族はカアバ神殿に捧げられた宝物を取ってゆき、ザムザム井も破壊したので、誰もそれを見けられなかった。(出典: Wikipedia)
シュワイヒテイイヤ(Shuwaihitiyya): ジョウフ州 (Al-Jawf Province)の大きな三角形の窪地 (al Jawba)の中に在る寒村で、サカカー (Sakakah)の北35 - 40kmに位置する。1977年にサウディ王国内で最古の旧石器原人遺跡が発見され、それは西アジアでは非常に稀な旧石器前期の遺跡の一つでもある事が分かった。この遺跡はシュワイヒテイイヤ村に近いシュワイヒテイイヤ涸れ谷の支流の段丘に位置している。ここから発掘された石器は広く形を整えた傷跡や厚く古色化した表面を持つ珪石(Quartzite)から造られた割石や石片等である。発掘当初、この石器は石斧文化であるアシュール文化(Acheulean)の前期或いは先期に分類されていた。教育省考古学博物学部の調査が進むに連れてこの遺跡は100万年から130万年前の進化したオルドワンB (Developed Oldowan B)文化に属するとの結論と成った。更にアシュール文化期から新石器後期までの長い間、人類がこの地域に居住していたのが分かった。
巡礼(Hajj): ハッジ(Hajj)参照。
巡礼の季節の前に吹く季節風(Monsoon blowing before Pligrimage Season):イドリーシーの地理(Géographie d'Edrisi)で巡礼の季節の前に季節風が吹くと述べられている事には実際に二つの点で正確では無かった。先ず、モスレムの太陰暦に基づく巡礼の季節は年によって変わってくるのに季節風は一定の季節に吹く点である。第二に季節風はジッダの様な遙か北までは吹かないと云う点である。
「巡礼の年代記(Chronicler of the Pilgrimage)」: 12世紀に書かれたアブ ’ル-フサイン イブン ジュバイル(Abu 'l-Husayn Muhammad ibn Ahmad ibn Jubayr)の著作。
ショア王国(Kingdom of Shoa): 10世紀から16世紀にかけて回教徒の住む紅海の港とキリスト教徒の住む高原の間を交易していた伝説のエチオピア回教王国である。この王国のあった場所は定かでは無いが、2007年フランスの国立科学院(National Centre for Scientific Research)が「エチオピア(Ethiopia)のリフトバレー(Rift Valley)にある3つの町(Asbari, Masal, and Nora)でモクク、墓場、アラビア語碑文等を発見した」と発表している。(http://www.dailygalaxy.com/my_weblog/archeology/)
ジョアン ダ ノヴァ(João da Nova): ペドロ アルヴァレス カブラル(Pedro Alvares Cabral)提督指揮下のポルトガル第1艦隊が帰還する前であったが、ポルトガルの王はジョアン ダ ノヴァ(João da Nova) 提督指揮の下にインドへの喜望峰まわりルートのポルトガル第2艦隊を準備し、派遣した。
ジョアン デ カストロ(João de Castro): 1541年に「ジョアン デ カストロ航海日誌 (Roteiros de D. João de Castro」を作成し、後にインド総督(Viceroy of India)となった。
ジョアン デ バロス(João de Barros) : ポルトガルの歴史家(Portuguese Historian João de Barros, 1496 -1570)。「ジョアン デ バロスのアジア(Asia de João de Barros)」を著述した。バロスは1522年から1525年までは船長で、1525年から1528年まではインド局(Indian Department)の財務官で、それからインド家屋の仲買人そして最後はリスボン(Lisbon)の文書館の管理人であった。 バロスはマヌエル王(KIng Manuel)にポルトガルのアジアでの発見、征服を年代記にまとめる仕事では信頼されていた。バロスの歴史的な仕事の価値は王立文書館管理人の地位に依る所が多かった。それは王立文書館管理人にはインドの初期の航海家、探検家および官僚の航海日誌、書簡、議事録および報告書等を無制限に読むことが出来た為である(Asia de João de Barros - Dos feitos que os Portugueses fezerão no descobrimento e conquista dos mares e terras do Oriente, en 4 Decadas Lisboa-Madrod 1553 - 1615, Decada III, bk. I, ch 3, fol. )。
「ジョアン デ バロスのアジア(Asia de João de Barros)」: 1553年から1615年のリスボン マドリードを中心とした40年間における東洋の海岸と陸地のポルトガルによる発見と征服に関する出来事の記述、 (Dos feitos que os Portugueses fezerão no descobrimento e conquista dos mares e terra do Oriente, en 4 Decadas Lisboa-Madrid 1553-1615, Decada III, bk, I, ch. 3.)。
小アジア(Asia Minor): アナトリア(Anatolia)とも呼ばれるアジア西部の黒海・地中海およびマルマラ海(Marmara)の間の半島部で、トルコの大部分を含む。
ショウガ(Ginger): ショウガ科の多年草、原産地は熱帯アジアで世界で広く栽培されている。日本にも古く中国から伝わった。地下茎は横走して数個の塊をなし、黄色で辛味を有し、食用・香辛料、又、健胃剤・鎮嘔剤として使われる。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「東南アジアに幾つかの原産地があり、多年草のZingiber offlicinaleの乾かした根茎である」と説明している。
条件付き降伏、降伏文書(Capitulation): 1453年のコンスタンティノープル(Constantinople)降伏の後、トルコ政府が居留外国人に治外法権など許した協定書。
樟脳(Camphor): クスノキの幹・根。葉を蒸留し、その液を冷却し析出する結晶を精製し、再び昇化させて作る他に、ピネンを原料として合成もされる。分子式C10H16O無色半透明の光沢ある血漿で特異の芳香を持ち防虫剤、防臭剤の他、カンフル、カンファーとして医療用(強心薬・皮膚刺激薬)、セルロイド、無煙火薬に使われる。
「植物の祖(History of Plants)」: 植物学者のテオフラストス(Theophrastus, c. 372 BC - c. 287 BC)の著書。
ジョージ ファースター サドラー大尉(Captain George Forster Sadleir): サドラーはしばしばSadlierと間違って綴られるがこれは本人の日記に迂闊に長いスペルを間違っていた為である。アラビア半島の英国利権に責任を持っていたインド政府はイブラヒム パシャ(Ibrahim Pasha)がディライヤ(Diraiyah)を占領し破壊した時(1818年)にこの展開を歓迎した。そしてアラビア海岸の海賊へも共同して致命的な打撃を加えたいと考えた。その共同作業に必要な協定の協議とイブラヒム パシャ(Ibrahim Pasha, 1789 - 1848)にその勝利を祝う為にインド政府はジョージ ファースター サドラー(George Forster Sadleir)をハサ(Al-Hasa)へ派遣した。サドラーはホフーフ(Hofuf)から退却中のエジプト軍の縦隊に加わわり、メディナの近傍までイブラヒム パシャの後を追った。サドラーはイブラヒム パシャから「外交事項は父親であるムハンマド アリ(Muhammad Ali, Born 1769 & Reigh 1805- 1848)の特権であり、自分は個人的にはインド政府とどの様な特定の交渉を行う事は出来ない」と告げられ協定協議の任務は遂行できなかった。しかしながら、結果的にはアラビア半島を海岸から海岸までこの半島を最初に横断したヨーロッパ人となり、ジッダ(Jiddah)にも魅了された。サドラーの未知の国を横断しての旅行の簡潔な記録、部族や訪れた土地に対する所見およびサドラーの正確な方位の経路はアラビア探検者達の中でサドラーについて言及するだけの価値がある。
「ジョバンニ フィナティ(Giovanni Finati)の人生と冒険の物語」: イタリア語からの翻訳はフィナティ(Finati)の口述に従ってウィリアム ジョン バンクス卿(William John Bankes, Esq.)が編集しロンドンで出版した原本を我々は見る事が出来ない。元々のイタリア語の原文は喪失しており、イタリア語版はウィリアム ジョン バンクス卿英訳の翻訳を引用している(Vita ed adventure di Giovanni Finati tr. and ed. by William John Bankes, Rsq. 1941.)。
ジョンズ(H.L. Jones):「ストラボの地理学 (Geography of Strabo)」の英訳者で、英訳は1928年ロンドンで出版(Heinemann, London, 1928)。
ジョン フィルビィ卿(Harry St. John Philby): ジョン フィルビィ卿(Harry St. John Philby, 1885 - 1960)は1930年代にアラビア半島の中央部および北西部を探検した内陸地域に最初に訪れた西洋人である。アラビアの研究、探検、地図作製、記述を45年間も行い、故イブン サ’ウド国王顧問を務めた英国人でタスリス(Thathlith)上流域の岩壁画、碑文を発見した。Jack Philby or Sheikh Abdullahとしても知られている。
「ジョン ルイス ブルクハルトのアラビア旅行記」: ウィリアム ウスリーが編集し1829年にロンドンで出版された。その再版は1972年にベイルートで出版された(Travel in Arabia.by the late John Lewis Burckhardt. ed. by William Ousley London 1829 (reprinted Beirut 1972)。
シラズ(Shiraz): シラズ(シーラーズ)(Shiraz)はイラン南西部の都市(人口100万人)でザグロス山脈(Zagros Mountains)の中にあり、標高は1486m、14世紀イスラム文化の1中心地、1750年から1794年までザイド朝ペルシア(Zand dynasty, 1750 - 1794)の首都であった。モスクが多く、絨毯で知られる。又、シラズ市の北東60kmには約2500年前のアケメネス朝ペリシア(550 BC - 330 BC)の首都ペルセポリス(Persepolis)の遺跡がある。
シラックス(Scylax): キャルヤンダ(Caryanda)出身のギリシャ人で紀元前510年頃にアケメネス朝ペルシア(Achaemenid Persian Empire, 550BC -330 BC)王ハイスタスペス(Hystaspes, probably c. 530 BC - c. 522 BC becasuse his father Cyrus the Great died in 530 BC or 529 BC)の命令でインダス川(the Indus River)の流域を調査し、さらにその河口からインド洋を経て紅海の奥までのアジア大陸の海岸を偵察したとされているが、「シラックス(Scylax)は紀元前515年にハイスタスペスの息子ダレイオス1世(ダレイオス大王)(Darius I or Darius the Great, Born c. 549 BC & Reign 522 BC - 486 BC)がこの調査に派遣した」と(Wikipedia)は述べている。「ダレイオス1世が退位していた父ハイスタスペスを通じてシラックスに命じた」と云うのが私には自然に思われる。
シラト(Sirat or Sira): イブン イシャク(Ibn Ishaq, 704 – c. 767)*著の「神の使いの一生(Sirat Rasul Allah or Life of Messenger of God)*」である(出典: Wikipedia)。
ジラバ(Jilabah): 舟材を釘を使わず、ココナッツの繊維(Coconut Fiber)で作った紐でつなぎ合わせ、表面にグリーズ(grease)、ビーバーの脂(Supple)や鮫油(Shark Oil)を塗り、岩礁に対して舟体をしなやかに仕上げた沿岸用の舟で、ジェッダ港では航路に岩礁が多いので出入りする巡礼を運ぶ通舟等として使われた。
シラフ(Siraf): ペルシア湾(Arabian Gulf))イラン側の北海岸にある伝説の古代港で、シラズ(Shiraz)の南、ブシェール(Bushehr)の250km南東に位置する。シルクロード(Silk Road)の主要港であり、イスラム初期には極東や東アフリカとの貿易の重要な港でもあった。アラビア半島と印度を結ぶ小船による沿岸航路で重要な役割を担っていたのはイラン高原東北部に興ったダーハ氏族(the Daheans or Dahaeans)の1支流であるパルニ氏族(the Parns or Aparns)を中心とした遊牧民の長アルシャク一世(アルサケス一世)(Arsaces I, B.C. 247 - 211)が建国したアルシャック朝パルティア(アルサケス朝パルティア)(Arsacid Empire or Parthia Empire, B.C. 247 – 226 or 228 CE)に遡る。9世紀および10世紀にも東洋の海上交易の主要な中継ぎ港として豊かな商人の町であった。西暦977年の地震、競合する港の台頭および様々な政治要因が結びついてその殆ど全面的な失墜を招いた。
シラ ラスル アッラフ(Sirat Rasul Allah or Sirah Rasul Allah): 「神の使いの一生(Life of Messenger of God)」或は「シラ ナバウィイヤ(Sirat Nabawiyyah)(預言者の一生)」とも呼ばれ、シラ(Sira, Sirah or Sirat)と簡略しても呼ばれる。これはムハンマド(Muhammad)の様々なムスリム(Muslim)の伝統的伝記(Biographies)に対して使われる言葉である。このシラからムハンマドの人生や初期イスラム(Islam)関する歴史的資料の殆どが得られている(出典: Wikipedia)。
ジリダ(Jilida): 涸れ谷ハブナー(Wadi Habunah)が空白地帯(Empty Quarter)へと流れて出たのがガドガダー(Al Qadqadah)であり、ジリダ(Jilida)はガドガダーのさらに下流域となる。平原ジリダ(Jilida)では風で磨かれた流紋岩(rhyolite)、斑岩(porphyry)、碧玉(jasper)や花崗岩の欠片が礫岩の上を覆う固い砂の中にモザイック模様を作り出している。
シリル ノースコート パーキンソン(Cyril Norhtcote Parkinson): 英国の歴史家・経済学者(1909 - 93年)で第一法則「役人の数は仕事の量にに関係なく一定率で増える」、第二法則「政府の支出は収入に応じて増えて行く」と云うパーキンソンの法則を発表した。
シールダール イクバル シャー(Sirdar Ikbal Ali Shah): 1928年より少し前に巡礼にイヴ(Eve)訪れたアフガニスタン人のモスリム(回教徒)で、1928年にロンドンで出版された「メッカの西側(Westward of Mecca)」の著者である。
シールハン窪地(Wadi'l-Sirhan): この窪地は水の流れで出来た谷では無い。このシールハン窪地は北緯29°50'から31°30'、東経37°28'から39°30'にあり、幅は20km、延長380kmである。渓谷の様にギザギザした形をしており、アラビア半島の特徴である内陸型の閉じられた水系の例でもある。ジョウバ窪地と同じ様にシールハン窪地も太古の海か湖だろうと言われている。ここには広く知れている様に良質で大量な塩が産出できる鉱床があり、何世紀にも渡って塩生産地として大切にされて来た。この窪地はデュマト ジャンダル(Dumat al-Jandal)の西30km付近を南南東の起点としてハッラ熔岩地帯(Al Harrah)(ラジル熔岩原(Harrat Al Rajil))を含むシャマ熔岩地帯(Harrat Ash Shamah)に沿ってその南西側をヨルダンのアズラグ(Al-Azraq)まで北北西へと延びている。中には「この窪地はアンマン('Amman)付近まで延びており総延長480kmにも及ぶ」と主張する地質学者も居る。シールハン窪地の一番低い場所は国境の町クライヤト(Al Qurayyat)に近いイスラ(Ithra)やカフ(Kaf)付近で、標高は海抜約550mある。地質的にはこの地域は火山性であり、昔の火山活動の証である黒い玄武岩が多い。
新オランダ(New Holland): オーストリア大陸の旧称でオランダの航海家タスマン(Tasman)は1606年オランダ人に発見されていた現在のヨーク岬(Cape York)からオーストラリア大陸の沿岸を西に進み続けて今日のグレートオーストリア湾(Great Australian Bight(báit))(オーストラリア大陸南海岸の広大な湾)の半ばに達して南東に進め、のちのタスマニア(Tasmania)の南半分の沿岸に至る長大な探検を行った(1642 - 46)。この海図にオーストラリア大陸は新オランダ国(Compagnis Nieu Nederland)と記されていたが、やがてこれが新オランダ(New Holland )の名で知られて、オーストラリア西部、ないしはオーストラリア全土の呼称となった:英国の植民が始まった当時でもこの名称が用いられていたが、1820年代には英国政府内を除きオーストラリア(Australia)がの名称が一般的となり、新オランダ(New Holland )の呼称は消滅した。
神曲(La Divina Commedia or Divine Comedy): 13 - 14世紀イタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri,1265 – 1321)の代表作である。「地獄篇」・「煉獄篇」・「天国篇」の3部から成る、全14233行の韻文による長編叙事詩であり、聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成から、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられる。イタリア文学最大の古典とされ、世界文学史にも重きをなしている。当時の作品としては珍しく、ラテン語ではなくトスカーナ(Toscana)地方の方言で書かれていることが特徴である。原題は、イタリア語: La Divina Commedia(神聖なる喜劇)である、 ダンテ自身は、単にCommedia(喜劇)とのみ題した。あらすじは「西暦(ユリウス暦(Julian Calendar))1300年の聖金曜日(復活祭前の金曜日)、暗い森の中に迷い込んだダンテは、そこで出会った古代ローマの詩人ウェルギリウス(Virgil or Publius Vergilius Maro, 70 - 19 BCE)に導かれ、地獄・煉獄・天国と彼岸の国を遍歴して回る。ウェルギリウスは地獄の九圏を通ってダンテを案内し、地球の中心部、魔王ルチフェロ(Lucifero)の幽閉されている領域まで至る。そこから、地球の対蹠点に抜けて煉獄山にたどりつく。煉獄山では登るにしたがって罪を清められていき、煉獄の山頂でダンテはウェルギリウスと別れることになる。そしてダンテはそこで再会した永遠の淑女ベアトリーチェ(Beatrice)の導きで天界へと昇天し、各遊星の天を巡って至高天(エンピレオ(Empireo)へと昇りつめ、見神の域に達する」と云うものである。(出典: ウィキペディア)
沈香(ジンコウ): 沈香(ジンコウ)(Aloe-wood or éaglewòod or Aquilaria agallocha)は沈丁花(ジンチョウゲ)科の沈香の木から採取した天然香料である。花は白色、土中に生め、又は自然に腐敗させて香料を得る。(沈香の木を参照。)
新空路航行通信システムの近代化と更新プロジェクト:New Navigational Communication System Upgrading and Replacement Project (Saudi Arabia)
沈香の木(Agalawood, Agalwood or Liganaloes): 沈丁花(ジンチョウゲ)(Aquilaria agallocha)科沈香の木(ジンコウノキ)(Aloe-wood or éaglewòod)は常緑高木で熱帯アジアに産し、高さ10mにもなる。(沈香(ジンコウ)および沈香の材を参照。)
沈香の材(Agalawood, Agalwood or Liganaloes): 沈香の木(ジンコウノキ)(Aloe-wood or éaglewòod)は木質堅く、水に沈むので沈と云い、光沢ある黒色の優良品は伽羅(きゃら)(Agalloch)という。材は高級調度品にも用いる。(沈香の木を参照。)
ジンジ ランド(Zinj land): ジンジ(Zanji, Zenji or Zinji)はアラビア語やペルシア語では黒人を意味し、中世アラビアの地理学者はソマリア(Somalia)、タンザニア(Tanzania)、モザンビーク(Mozanbique)、マダガスカル(Madagascar)等の東アフリカの土地を指す用語として使っていた。
辰砂(朱)(Dragon-blood、Cinnabar): 水銀と硫黄との化合物で、深紅色の六方晶系の鉱物で、塊状で産する事が多い。水銀製造や赤色絵の具主要鉱石で朱砂(ずさ)、丹砂、丹朱とも呼ばれる。
真珠(Pearl): 貝類の胎内に形成される球状の塊で、貝殻を作る外套膜が異物によって刺激され、そのまわりに主として炭酸カルシウムから成り、少量の有機物を含む真珠質の薄膜を分泌して作られる。
深層地下水(Ground Water): サウジでは供給の無い深い地層に貯まって居る化石水を深層地下水と呼び、雨水の供給のある浅層地下水(Shallow Water)と区別している。日本では鉱泉が深層地下水に一番近い言葉と思われる。
シンド(Sind): パキスタン南部インダス(Indus)川下流の州(Karachi)。
新鋳ルピー(シッカルピー)(Sícca Rupée): 1793年から1836年に東インド会社のベンガル(Bengal)管区内で用いられた貨幣。
ス
水路バエチウス(Watercourse Baetius): 内陸のマコラバ(Macoraba)からバエチウス(Baetius)と呼ばれる水路が海岸まで流れ下っていた。明らかにこの地方を流れる本当の川は無かった(プトレマイオスは主要な排水路の特徴のみを紹介する目的で付け加えたと思われる。)
水銀(Quicksilver): 水銀は辰砂を焼いて作られる常温で液体の唯一の金属で、他の金属と容易に合金を作るので金の製錬等にも使われたり、温度計、昇汞・甘汞等の水銀塩、雷汞等の火薬、硫化水銀(赤色塗料)等の製造に使われる。
蘇芳(すおう)(Sapan-wood): 蘇方あるは蘇枋とも書かれるまめ科の小高木でインド・マレー原産の染料植物である。枝に小さい棘があり、葉は羽状複葉、黄色五弁花は円錐花序をなす。穂櫛津・楕円形の中に3-4個の種子を含む莢(さや)を生ずる。心材および莢は煎じて古くは重要な赤色染料とされた。源氏物語に蘇芳の花足(けそく)、蘇芳の織物等の記載がある。
スキフ(Skiff): この呼び名は多くの様々な型の小型船に使われてきた。船に関係する言葉は一般的に複雑な語源を持っており、スキフ(Skiff)は中世英語の小型軽装帆船(Skif)が語源で、船尾が平らな小さな平底の甲板の無い小舟で、帆と櫂で推進力を得ている。米国ではこの呼び名は小型遠洋漁船(Small Sea-going Fishing Boat)に適用されている。この呼び名は文学の中では歴史的にハーマンメルヴィル(Herman Melvile)(1819-1891)著の「モービーディック(白鯨)(Moby-Dick)」やアーネスト ヘミングウウェイ(Ernest Hemmingway)著の「老人と海(The Oid Man and The Sea)」に登場する。
スーク(Suq): アラビア語で市場を指し、イランのバザールと同じ意味である。
スクーナー: スクーネル(Schoener)とも呼ばれ、2本以上の檣(Mast)に竜骨(Keel)にほぼ平行に張る縦帆(Fore and Aft Sails)に特徴のある帆船である。スクーナー船(Schooner)は16ないし17世紀にオランダ(Dutch)によって最初に採用され、18世紀初期以降北アメリカで発達した。スクーナーとの名前は「水面すれすれを飛ぶ様に滑って行く(Skip or Skim)」と云うスコットランド語のスクーン(Scoon)が語源である。スクーナー船(Schooner)の帆の張り方では2本以上の檣(Mast)を使い、前方の檣(Mast)が後方の檣(Mast)と同じ高さか、多少低い。竜骨(Keel)にほぼ平行な縦帆(Fore and Aft Sails)を斜桁に吊るして張るのが一番伝統的な艤装(Gaff rigged)である。時として前方の檣(Mast)に中檣横帆(Square Topsail)が張られ、さらに斜桁に吊るして張った前檣縦帆(Gaff-Foresail)と共に前檣横帆(Square Fore-Course)が付け加えられる事もある。
スコフ(W.H. Schoff): 「エリュトゥラー海航海記(Periplus of the Erytheaean Sea)(1世紀の商人による印度洋での旅行と交易)」をギリシャ語から翻訳し、注釈を付け、1921年ニューヨークで出版した。
スダイリ財団('Abd al-Rahman al-Sudairi Foundation): スダイリ(Amir 'Abd al-Rahman bin Ahmad al-Sudairi)元ジャウフ(Jawf)知事が創立した財団でアル ラブマニイヤ モスク(Al-Rabmaniyya Mosque)、アル ヌスル ホテル(Al-Nusl Hotel)および私立図書館(ディール アル ジャウフ リル’ウルム(Dir al-Jawf lil-'Ulum))建造、運営し、ジャウフ(Jawf)地方に貢献している。
スターク女史(Freya Stark): フレヤー スターク女史(Freya Stark, 1893 - 1993)は英国人旅行作家で1935年に乳香の道を更に西へと辿ろうとしたが涸れ谷ハドラマウト(Hadhramaut)への最初の関所サブワ(Shabwa)で病に倒れ、行き着けなかった。その記事を同女史は英国地理学会誌に掲載した。
スタニスラス ラッセル中佐(Commander Stanislas Russel): ジッダのイヴの墓(Tomb of Eve)の構造を実際に測定した唯一の訪問者。
スタンリー(Henry.E.J. Stanley): ハクリート協会(Hakluyt Society)に属していたスタンリー(Henry.E.J. Stanley)は1858年から1864年の間にリスボン科学学会に出版されていた「Lendas da India」に註釈と緒言を付けてポルトガル語の「Lendas da India of Gaspar Correa」から「ヴァスコ ダ ガマの三回の航海と副王(Three Voyages of Vasco da Gama and his Viceroyalty)」を翻訳し、ロンドン(London)で1896年に出版した。
スタンリー(Henry Morton Stanley): アメリカの探検家(1841 - 1904)、英国で生まれ1871 - 1872年、1874 - 1877年、リヴィングストン(David Livingstone)救助の為にアフリカ奥地を横断し、「暗黒大陸横断記」を著述した。
ストラックス(Storax): エゴノキの樹脂(安息香の一種)。
ストラブール(Strasburg): フランス北東部アルザス地方(Alsace)のライン(Rhine)川に臨むバラン(Bas-Rhin)県の県庁所在地。
ストラボン(Strabon): ストラボン(Strabo, ca. 63 BC – ca. AD 24)は紀元前63年頃にポントス(Pontus)のアマシア (Amasia)に生まれた。古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家となり、ローマや古代ギリシアやクシュ(Kush)など地中海沿岸各地に旅行を行い、その見聞を元に17巻からなる「地理書(Geographica)」(邦訳「ギリシア・ローマ世界地誌」)を示した。ストラボンがエジプトを訪問した際にアエリウス・ガルス(Aelius Gallus)と共にナイル川 (the Nile) を第一瀑布 (the First Cataract) まで一緒に遡上した程、ストラボンはガルスとは親密な関係であった。
「ストラボンの地理学(Geography of Strabo)」: 第16巻4章22 - 24頁 (XVI, 4, 22-24)、ストラボンの総合的地理研究の最も優れた英訳版は「ストラボンの地理学 (Geography of Strabo)」 と云う題名の1959年から1961年に掛けてロンドンのジョンズ (H.L. Jones) が翻訳、編集した本である。「ガルス (Aelius Gallus) の遠征」は1961に書かれた第7巻の353頁から363頁に記載されている。(別の訳については「花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)への訪問(サウジアラビア王国南西地方)その2ティハマー海岸地域(Tihamah Coastal Area)付録1「エジプト総督ガッルスのアシール遠征」ストラボン(Strabo)著」を参照。)
砂山砂丘(Sand Mountains): 砂を運ぶ風が長い間に変化して数方向から吹くとその時々で形成された横断型砂丘が互いに重なり合い、時として基盤から300m以上にも聳え立つ砂山砂丘を形成する。ルブ アル ハリ沙漠(Rub’ Al Khali)の南東部やナフド沙漠(Nefud)の南東部には星形砂丘(Star Dunes)と呼ばれる砂山がある。小さいけれども星形砂丘と呼ばれ良く知られて居る砂山がリヤド北のイルク バンバン(Irq Banban)の真ん中にある。
ズ ヌワス(Yousuf Dhu Nuwas): ヒムヤル王国(Himyar)は民族あるいは改宗したユダヤ教徒の王達によって6世紀まで支配された。6世紀の初頭にアビシニア国(Abyssinia)はイエメンを征服し、ヒムヤル族(Himyarite)王ラビアン イブン ムザール(Rabian ibn Mudhar)を逃げ出させた。ユスフ ズ ヌワス(Yusuf Dhu Nuwas)がラビアン(Rabian)を引継ぎ、アビシニアに臣従する国の王権を握った。ズ ヌワス(Dhu Nuwas)自身の信仰も改宗した王達の系譜で民族的にユダヤ教徒の女性の子であり、ユダヤ教徒であった。王になるとズ ヌワス(Dhu Nuwas)はアビシニアの支配からイエメンを解放する疲れを知らない戦いを始めた。当時のナジラン市はヒムヤル王国(the Kingdom of Himyar)に対するアビシニアのキリスト教徒煽動の温床(hotbed)であった為に、ズ ヌワスはナジラン市を包囲し、親アビシニア扇動者を罰した。西暦523年10月にズ ヌワスはナジランを奪取し、冷酷に親アビシニア党を皆殺しにした(ナジランの戦い)。その一団はキリスト教徒のみであり、この町のキリスト教聖職権威者達を含んでいた。ユスフ アスアル(Yusuf As'ar)は髪を三つ編み或いはポニーテールにしていたのでユスフ ズ ヌワス(Yusuf Dhu Nuwas)、ズ ヌワス(Dzu Nuwas)、ソン ナワス(Thon Nawas)、ロシアの出典でのユダヤ教徒(Dunas) 、ジドヴィン(Zhidovin)或いはマスルク(Masruq)等と渾名されていた。
スバイカー(Al Subaykhah): リヤド-カミス ムシャイト道路(Riyadh - Khamis Mushait Road)のタスリス(Tathlith)とアル マッダー(Al-Maddah)の間の小さな農村。
スファー(Sufah): ナジラン市(Najran)の北山地の涸れ谷ハボウナー(Wadi Habounah)の右股流域に在るカタン(Qatan)部落の上流でアシール州(Asir Province)との州境山稜の道路終点で「岩棚」を意味する名が付けられている。
スーフィー(Sufi): スーフィー(アラビア語Sufi)とは、おもにイスラームの唯一神アッラー(Allah)との我執を滅却しての合一(ファナー(Fana’))を目指し、清貧行を主として様々な修行に励む人々を指す。スーフィーにイズムをつけてスーフィズム(Sufism)*とも呼ばれる。「スーフィー」の語源については、一般的に羊毛(スーフ)のぼろ着をまとって修行に励む人であることとされるが、他にも「(信仰の)清浄さ」(サファー Safa’)に由来するというものや、預言者ムハンマドの傍近くに陪席した高弟という意味で「ベンチ(ソファー)の人々」(アフル・アル スッファ Ahl al-Saffa)などのアラビア語による語源説やギリシア語(Greek)で「智恵、叡智」を意味するソフォス(Sophos)に由来するなども異説もある。(出典: ウィキペディア、岩波イスラーム事典等)
スーフィズム(Sufism): スーフィズム(Sufism)とはイスラーム教の神秘主義哲学である。この呼び名は担い手であるスーフィー(Sufi)*にイズムをつけて名付けられた。9世紀から10世紀頃、官僚化したウラマー(Ulama)(イスラーム諸学を治めた知識人)達の手によってイスラーム諸学が厳密に体系化され始めた頃、イスラームが日常生活から遊離したことの反発から成立した。形式化したシャリーア(Sharia)を批判し、内面性を重視したスーフィー達は、しばしばウラマーたちの批判の的になった。しかしイスラーム哲学(Islamic philosophy)の大家でスーフィーであったガザーリー(Abu Hamid Muhammad ibn Muhammad al-Ghazali, 1058 - 1111)らの影響により、スーフィズムはイスラム世界(Muslim World)において定位置を得るようになる。スーフィズムはその後イスラームの大きな潮流となり、特にインド・東南アジアのイスラム化において大きな役割を果たした。スーフィズムでは禁欲的で厳しい修行を行い、また白い布状の服を身につけて一心不乱に回る、回旋舞踊と呼ばれるものを行い、神との一体化を求めた。スーフィーは導師の指導の下、決められた修行(マカーマート(Maqamat))を段階的にこなし、準備を進める。最終段階では、雑念を捨て去り一心に神の事をのみ考え、神と合一したという悟りが訪れるのを待つ。この境地に至ったものは、時として聖者に認められ崇拝の対象となった。この境地をファナー(融合(Fana’)、バカー(持続(Baqa’))と言う。(出典: ウィキペディア、岩波イスラーム事典等)
「ズブダ カシュフ ママリク(Zubdat Kashf al-Mamalik)」: 近現代における著者カリル ザヒリ(Khalil al-Zahiri)が執筆、同書はP. ラヴァイッシ(P. Ravaisse)が編集し1894年にパリで出版された(Khalil Al-Zahiri Zubdat Kashf al-Mamalik er. by P. Ravaisse, Paris 1894.)。又、1970年にケンブリッジで出版された「ケンブリッジのイスラムの歴史」にも引用されている(quoated in the Cambridge History of Islam Cambridge 1970.)。
ズフル礼拝(Salat al-Zuhr): サラート(Salat)を参照。南中過ぎからアスル礼拝(Salat al-'Asr)までに行う。(南中とは天体が子午線を通過する現象で、天体高度はこの時に最大となる。)
スマダ(Sumadah): グトラ(Ghutrah)或はクフィヤ(Kuffiyeh)とも呼ばれる木綿製の四角いスカーフ状の布でアラビア人の男性はこれを折ったり巻きつけたりして頭に被る。主たる目的は日光の遮断であるが、沙嵐の時には口や鼻を覆うマスクにも使う。
スミルナ(Smyrna): 古代ギリシャの植民地であったイズミル(Izmir)の旧称で初期キリスト教の中心であった。現在のイズミルはトルコ西部、エーゲ海(Aegean Sea)の入江イズミル湾に臨む人口200万人の港湾都市である。
スーラ(surah): アラビア語では柵や壁で囲まれたものを指す語で、一般的にはクルアーン(Qur’an)の114の各章をさす。
「スライマンに関する小史(As-Silab wa'l-uddah fi tarikh bandar Judaah)」: アブド カディール イブン ファラジ(Abd al-Qadir ibn Faraj)著で、「スライマンに関する小史(as-silab wa'l-uddah fi tarikh bandar Judaah)」はシャリーフ ダオウド イブン スライマン(Sharif Daoud ibn Sulayman)に関して記述した小史である。この著者アブド カディール イブン ファラジ(Abd al-Qadir ibn Faraj)はこの小史の中でジッダ、その城壁、モスクおよび記念碑についての記述とヒジュラ歴951年(西暦1544年)までの短い歴史の紹介をしている。この題名は「海港ジッダの歴史に関する剣と楯」と訳され、元々のアラビア語は美しい韻を踏んでいる。ヨーロッパの図書館に幾つかの写本が残っている。その中でも一番優れているのがウィーン王立図書館(Imperial Library of Vienna)の蔵書であり、G. フリューゲル著「ウィーン王立図書館所蔵のアラビア、ペルシャおよびトルコの古文書(see: FLÜGEL, G. "Die Arabischen, Persischen und Turkischen Handschriften der K.K. Hofbibliothek zu Wien" Wien 1856)」として1856年ウィーンで出版されている。又、「スライマンに関する小史(as-silab wa'l-uddah fi tarikh bandar Judaah)」は1963年ジッダ(Jiddah)で出版されたアブド クッデュス アンサリ(Abd al-Quddus al-Ansari)の著作「ジュッダのマディナ通り(Tarik madinah Juddah)」引用された。(同書335 - 342頁のジッダ モスクの章を参照。アンサリに関する今後の全ての言及はこの章からである。)
スライマン カディム(Sulayman al-Khadim): 1538年にインドにいるポリトガル軍を攻撃する為にスエズ(Suez)に集結していたトルコ遠征艦隊の提督、ギリシャ人の宦官でオスマン トルコ(Ottoman Empire, 1299 - 1923)サリム一世(Salim I, 1512 - 1520)の元奴隷であり、カイロ総督でもあった。
スラト(Surat): 印度西部でグジャラート(Gujarat)州南東部の市で人口150万人、1612年に印度における英国の最初の拠点となる。
スラド イブン アブド アッラー アザディ(Surad Ibn Abd Allah Al-Azadi): スラドはアシールの初代ムスリム統治者であり、632年(ヒジュラ暦10年)に預言者はイスラムの教義を広め、多神教徒と戦う様にスラドを促した。
ズールグ(Az Zurq): ガール山(Jibal Al Qahr)北にあるアバール ナ’アム(Abar Na'am)(駝鳥の井戸)部落から約7km東にある「青」との意味の名を付けられた部落。
スルタン(Sultan or Soldan): イスラム帝国の君主、イスラム教国の支配者あるいは君主(Sultan)で、特にカイロの大スルタン(the Grand Sultan)であるエジプト王を指す。
スルタン アブデュルハミト2世(Sultan Abdul Hamit II, 1842 - 1918): アブデュルハミト2世はオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299 - 1923)の第34代皇帝(在位: 1876年 ‐ 1909年)で、即位した当時、オスマン帝国はバルカン半島(Balkan Peninsula)での諸反乱を巡りロシア(Russian Empire, 1721 - 1917)との関係が悪化しつつあり、諸外国の支持を取り付けるためにもさらなる近代化改革を行う意志を内外に示す必要に迫られていた。こうして憲法を制定することとなり、この結果ミザト パシャ(Midhat Pasha or Ahmet Sefik Mithat Pasha, 1822 - 1883)を制憲委員会の委員長、ついで大宰相に任命してアジア初の近代的憲法であるとも言われるオスマン帝国憲法(ミザト憲法)(Kanunuesasi or Basic Law in Ottoman Turkish)の発布にこぎつけた。憲法ではムスリム(イスラム教徒)(Muslim)と非ムスリム(Non Muslim)の平等が定められ、勅選の上院と民選の下院からなる議会も開設された。こうしてオスマン帝国における第一次立憲制が始まったものの、アブデュルハミト2世は皇帝権を強化したい意向を持っており、憲法によって皇帝権が制限されることに強い警戒感を抱いていた。このため、憲法には戒厳令の発令や危険人物の国外追放といった、強い君主大権が残された。即位して間もない1877年4月に露土戦争(Russo - Turkish War, 1877 - 1878)が始まる。戦争はオスマン帝国の敗北に終わり、1878年のロシアとの講和条約(サン・ステファノ条約)(Treaty of Sa Stefano)でセルビア(Kingdom of Serbia, 1882 - 1918)、モンテネグロ(Montenegro, 1878 - 1918)、ルーマニア(Romania, 1878 - 1918)の独立とブルガリア(Principality of Bulgaria, 1878 - 1908)への自治権付与を認めざるを得なくなってしまう。ただし、このような状況はヨーロッパ各国のロシアの南下政策に対する警戒感を招き、改めて戦後処理と調整の場としてベルリン会議(Congress of Berlin, 1878)が開催されることとなった。会議の結果、マケドニア(Macedonia)はオスマン帝国に返還されることになったものの、オスマン帝国がバルカン半島における領土の多くを失ったことに変わりはなく、帝国の重心は徐々にアナトリア(Anatolia)に移ることになる。既に開戦前にミドハト・パシャは憲法の君主大権に基づいて大宰相を罷免され、国外追放に処されていた。また1877年に開会された議会では、オスマン帝国にとって不利な戦況に対して容赦のない政府への批判が繰り返された。1878年2月、これらの批判に業を煮やしたアブデュルハミト2世は非常事態を口実に憲法を停止し、議会(下院)も閉鎖してしまう。こうして第一次立憲制は終焉をむかえ、以後30年に及ぶ専制体制が始まることになる。ミザト・パシャの失脚後、イスタンブル(Istanbul)のユルドゥズ宮殿(Yildiz Palace of Yildiz Sarayi)に引き籠もったアブデュルハミト2世は皇帝による専制政治の強化を行ない、秘密警察を結成して密告を奨励する。さらに国民の不満を抑えるために軍部を利用して厳しい弾圧を行なった。彼の治世中における弾圧で殺された者は数知れず、あるときは血が河になったこともあったとまで言われている。このため、「赤い流血の皇帝 (Kizil Sultan)」と称されて恐れられた。一方で、エルトゥールル号(Ottoman Frigate Ertugrul))の東洋派遣などの汎イスラーム主義的な宣伝にも努めたため、オスマン帝国外ではカリフ(Caliph)としての威信をある程度高めることに成功した。また対外戦争では、露土戦争で敗北したものの、1897年のギリシアとの戦争では勝利を収めている。また日本が明治維新後目覚ましい近代化を推進したことに共感を持ち、彼自身明治天皇を評価していた。しかし、厳しい独裁政治・恐怖政治を敷いたことから遂に国民の不満は爆発し、それが1908年、立憲政治の復活を求める統一と進歩委員会(青年トルコ党)のエンヴェル・パシャ(EnverPasha, 1881 - 1922)ら(後のケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Ataturk, 1881 - 1938)も参加していた)による革命という形で現われたのである。統一と進歩委員会による青年トルコ人革命が起きると、アブデュルハミト2世は要求を受け入れ、ひとまず憲法の復活を宣言した。しかし、翌年に「3月31日事件」と呼ばれる反革命クーデターが起こったことで、この動きへの皇帝の関与を疑った統一と進歩委員会は皇帝の廃位を決め、議会で廃位を決議した。こうしてアブデュルハミト2世はオスマン帝国史上初の、議会で廃位を決議された皇帝となった。この決議はシェイヒュルイスラーム(Sheikh ul-Islam or Shaykh al-Islam)の承認を得た上で実行に移され、後継の皇帝(1909 - 1918)に弟のメフメド・レシャド(メフメド5世)(Mehmed V Reshad, 1844 - 1918)が擁立された。廃位後はサロニカ(Salonica)に幽閉されていたが、バルカン戦争(Balkan Wars, 1912 - 1913)でサロニカを失ったためイスタンブルへ戻ることを許され、同地で1918年に77歳で死去した。アブデュルハミト2世の治世33年間にオスマン朝の負の遺産が作られ、滅亡を成す一因となったとの指摘がある一方、ヒジャーズ鉄道(Hejaz Railway)を建設し、電信網や近代的学校制度を整備したりするなど、西洋文明を多く取り入れて国家の近代化の基礎を築き上げたという意見もあり、今日においてもその評価はわかれていると言える。(出典: ウィキペディア)
スルタン エル グリ(Sultan El Guri): カルステン ニーブール(Carsten Niebuhr, 1733–1815)著のコペンハーゲン(Copenhagen)で1774 - 1778年に出版された「アラビアとその周辺の旅行記(Reisecbeschreibung nach Arabien und andern umliegenden Ländern) or (Travels through Arabia and Other Countries in the East)」には「スルタン エル グリはエジプトの君主で、1514年にポルトガル(Portugeses)からジッダを守る為にジッダを城壁で囲み、それがジッダが紅海で侮りがたい存在となった始まりであった」と述べられている。
スルタン サリム一世(Sultan Salim I): オスマントルコ(Ottoman Turks, 1299 - 1923)の第9代皇帝スルタン サリム一世(Sultan Salim I, 1512 - 1520)(セリム一世(Sultan Selim I))は1514年に中東でのシーア派イスラム(Shia Islam)擁護者であるサファヴィー朝(Safavid Emipre, 1501 - 1736)のイスマーイール一世(Shah Ismail, 1501 - 1524)に1514年のチャルディラーンの戦い(Battle of Chaldiran)で勝利し、ペルシア(Persia)方面からの脅威を無くすと1516年の春に突然、シリア(Syria)のマムルーク朝(Mamluks Burji dynasty, 1382 - 1517)領にに攻め込み、1517年にエジプト(Egypt)、パレスチナ(Palestine)を併合し、聖地メッカ(Mecca)と聖地マディナ(Medina)を保護下に置き、二つの聖堂の支配者(Ruler of Two Holy Shrines)となり、カディム ウル ハレメイン(Khadim ul Haremeyn)の称号を受け、スンニーー派イスラム(スンナ派イスラム)(Sunni Islam)の盟主となった。
スライマン イブン ムサ(Sulayman Ibn Musa): アシール族(Asir Tribe)首長でその同族と共に1156年にグッズ族(Ghuzz Tribe)の攻撃に直面し防戦した。
「スレイマーン ガジの旅行記(Sulaiman Ghazi’s Itinerary given by a Venetian Skipper)」: 1538年のスレイマーン ガジの旅行(Sulaiman Ghazi’s Itinerary)はベニス(Venetian)人の船長によって記録されている。
スレイマン大帝(Sulayman the Magnificient): スルタン・スレイマン1世(Kanuni Sultan Suleyman, 1494-1566)はオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299-1923)の第10代皇帝(1520-1566)。46年の長期にわたる在位の中で13回もの対外遠征を行い、数多くの軍事的成功を収めてオスマン帝国を最盛期に導いた。英語では、「壮麗者(Magnificent)」のあだ名で呼ばれ、トルコでは法典を編纂し帝国の制度を整備したことから「立法者(カーヌーニーKanuni)」のあだ名で知られている。(ウィキペディア)
スワイキン、ソウアキン或いはソワキン(Sowakin, Sawakin, Suwakin or Souakin): スーダンの紅海岸の港町。
スンナ(Sunna): イスラム教でムハンマドの言行にもとづく模範・先例・行為規範で、イスラム法の典拠としてコーランに次いで需要とされる。(出典: 広辞苑)
セ
ゼイア(Zeia): 粗末な穀物の一種。
セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr): 1933年4月にイランで生まれ、MIT(Massachusetts Institute of Technology)およびハバード大学(Harvard University)で教育を受け、今はジョージ ワシントン大学(George Washington University)のイスラーム研究の教授である。同博士は広くイスラーム世界、西欧、北米、中米、インド、日本および豪州で教え、講義してきている。ナスル博士はイスラームの芸術と敬神(Islamic Art and Spirituality)、イスラームの生活と思考(Islamic Life and Thought)、近代世界での伝統的イスラーム(Traditional Islam and Modern World)等20以上の著作がある。
「性格論(Characters)」: ギリシャ逍遥学派の哲学者で植物学の祖セオフラストス(テオフラトス)(Theophrastus, c. 372 B.C. - c. 287 B.C.)著。
セイド アリ オジャクリ(Seyd Ali Odjakly): 第二回ヒジャーズ戦争(1812 - 1815)のエジプト軍司令官トウソウン(Tousoun)に任命されたジッダ守備隊司令官でその父親は小アジア(Asia Minor)出身でイエニチェリ(Janissaries)軍団に属していたのでその息子はオジャクリ(Odjakly)とあだ名された。
正統4カリフの時代(Rashidun Empire, 632 - 661): イスラム帝国(Caliphate)の初代4カリフ(The first of the four Arab Caliphates)を正統4カリフの時代(Rashidun Empire, 632 - 661)と呼んでいる。この時代には預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の後継者である4人の正統カリフ(Rightly Guided Caliphs)によって統治されていた。この時代は預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の亡くなった632年に始まり、アブ バクリ(Abu Bakr, 632 - 634)、ウマル(Umar, 634 - 644)、ウスマン(Uthman, 644 - 656)、アリ(Ali, 656 - 661)と継承され、第4代正統カリフ アリの死によって終わった。正統4カリフの時代の最盛期にはイスラム共同体(ウンマ(Umma))の支配は北アフリカ(North Africa)、アラビア半島(Arabian Peninsula)およびイラン高原(ranian highlands)に及んだ。
「西部アラビアと紅海(Western Arabia and Red Sea)」: 1946年にオックスフォード(Oxford)で英国海軍省海軍情報局(British Admiralty - Naval Intelligence Division)発行。
聖フランチェスコ(St Farncis): アッシージ(Assisi)のイタリアの修道士(1181/82 - 1226)で本名フランチェスコ ディ ピエトロ ディ ベルナルドン(Francesco di Pietro di Bernardone)と云い、1209年にフランシスコ会(Franciscan)を創立した。
ゼイラ(Zeila): ソマリ(the Somali Republic)のジブティ(Djbouti)国境に近いアウダル州(Audal region)のアデン湾(Gulf of Aden)三方を海に囲まれている沿岸の港町で、アフリカ海岸の水や食糧の供給地。
西暦570年: アブラハ(Abraha)が軍隊をメッカ(Mecca)に進撃させた570年にムハンマドが生まれた。
セイロン(Ceylon): インド亞大陸南東岸の島で、スリランカ(Sri Lanka)の旧称。
セエレヂ(Seeredj)(セサムン(Sesamum)):エジプトから運ばれて来たランプ用のごま油(Seeredj)。
セオフラストス(Theophrastus): テオフラストス(Theophrastus, c. 372 BC - c. 287 BC.)、ギリシャ逍遥学派の哲学者で植物学の祖、「性格論(Characters)」を著述。
世界魚類センター(World Fish Center): CGIA(Consultative Group on International Agricultural Research)の下部組織で国連や世界銀行等の支援を得ている非営利の団体で魚ライブラリ(Library)も公表している。
世界自然保護監視センター: World Conservation Monitoring Center
「世界の鏡(Morro of the Wold)(ジハンーヌマ(Jihan-numa))」: 17世紀のトルコの地理学者ハジ カリファ(Hajj Khalifa)はその著書ジハンーヌマ(Jihan-numa)(世界の鏡(Morro of the Wold))にカラ ムスタファ パシャ(Grand Vizier Kara Mustafa Pasha, 1634/1645 - 1683)の功績を記述している。1818年にドイツ中部ゴータ(Gotha)で出版されたノーベルグ(M. Norberg)によって翻訳されたラテン語版の第II巻184頁に次の様に記されている。「その頃、水は乏しく、小さな耐久性のある水槽に集められていた。水を十分に確保する為、支配者であるムハンマド ビン イブラヒム(Muhammad ben Ibrahim)は高官ムスタファ カラ(his Grand Vizier Mustafa Kara)の命により、もっと多くの水を涸れる事の無い山から運んできた。更に、モスク(回教寺院)の隣に堂々とした公共宿舎を建設した(At parum ibi aquae: cisternis parvis et tenacibus. Quae vero ut sufficeret, inperante Muhammed ben Ibrahim, et provisu magni sui veziri Mustafa Kara, a montibus dissitis huc derivata fuit: condito item hic praeter templum et magnifico hospitio.)」。
赤道ギニア(Equatorial Guinea): アフリカ中部、ギニア湾(Gulf of Guinea))の奥の陸地でムビニ地区(Mbini or Rio Muni)と島嶼からなり、旧スペイン領で1968年に独立、面積2.8万km2、人口40万人(1995)、首都はマラボ(Malabo)。
セシジャー: ウィルフレッド セシジャー(Wilfred Thesiger, 1910 - 2003)は英国探検家(British Explorer)でアビシニア(Abyssinia)、スーダン(Sudan)、アラビア(Arabia)、イラク(Iraq)、ペルシア(Persia)、クルディスタン(Kurdistan)、仏領西アフリカ、パキスタン(Pakistan)、ケニヤ(Keniya)などを探検、イラン南部低地でMa'an族と暮らした体験もあり、ルブアルカリ沙漠を二回横断している。セシジャーはその体験をArabian Sands、The Marsh Arabsに次ぎ、1979年にDesert, Marsh and Mountainとして発表している。(Desert, Marsh and Mountainはその一部を2004年6月30日著作の「空白地帯と呼ばれる沙漠 ”ルブ’アル カリ(Rub' Al Khali)”」の中で紹介しているのでご参照戴きたい。)
石灰岩地帯(Limestone Area): 石灰岩地帯は半島の北部や東部を覆ったはてしない広がりに特徴がある。この地帯は一般的に平で退屈な大地であるが、石灰岩もサッマン崖地(Summan Escarpment)やトワイグ崖地(Tuwaiq Escarpment)の様な絶壁(Cliffs)を形成する。リヤド(Riyadh)の近郊にも「世界の果て(Edge of The World)」、「ファイサル尖塔(Faisal Pinnacle)」、「第一駱駝の切り通し(Camel Pass No.1)」等のその様な絶壁を眺める場所がある。それらの場所からの眺めは月世界の様である。石灰岩地帯のもう一つの特徴は泉、緑地、湖等が多い事であるが、円形農場の灌漑のために地下水のポンプによる汲み上げで地下水位が下り、今ではそれらが無くなってしまった。高々30年前にはダール ヒト(Dhal Hit)、カルジの泉(Eyins in Kharj)等その入り口まで豊富に水があったが、今では水位が80m以上下がってしまっている。最近ではリヤド南方のライラ南(Southern Layla)にある大小の湖が完全に干上がり、以前にカナト(Qanat)(地下水道)があったとはとても思えない状況に成っている。カナト(Qanat)はライラ(Layla)、デュマト アル ジャンダル(Dumat al Jandal)、タイマ(Tayma)、アル-アーサ(Al Ahsa)などでの最も重要な灌漑方法の一つであった。地上とは対照的に多くの鍾乳洞(Limestone Caves)が地下に発達して居る。その複雑な特徴が今日では多くの洞窟探検家(Cave Hunters)を魅了している。
ゼッキーノ(Sequins, Zecchino or Zechin): 古代ヴェネツィア(Venezia or Venice)・トルコ(Turkry)の金貨。
「ゼーッツェンの航海とアラビアの旅(Voyage de M. Seetzen sur la Mer Rouge et. dans i'Arabie)」: 「ゼーッツェンのシリア、パレスチナ、フェニキア、トランスヨルダン、アラビア半島及びエジプトの旅(Ulrich Jasper Seetzen's Reisen durch Syrien, Palästina, Phönicien, die Transjordan Länder, Arabia Petraea und Unter-Aegypten ed. by F. Kruse. Berlin 1854 - 1859.)」に掲載された以降の旅は「ゼーッツェンの航海とアラビアの旅」の中に一年間の旅としてその要約が出版されている(A summmary of these was published in the Annales des Voyager (Voyage de M. Seetzen sur la Mer Rouge et. dans i'Arabie) t. XXII. Paris 1813.)。
「ゼーッツェンのシリア、パレスチナ、フェニキア、トランスヨルダン、アラビア半島及びエジプトの旅」: リヒ ヤスパー ゼーッツェン(Ulrich Jasper Seetzen)がアジア(Asia Mínor)の旅に出発し、1809年にカイロ(Cairo)至るの旅はクルーゼ(F. Kruse)によって編集され、1854 - 1859年にベルリンで出版されている(Ulrich Jasper Seetzen's Reisen durch Syrien, Palästina, Phönicien, die Transjordan Länder, Arabia Petraea und Unter-Aegypten ed. by F. Kruse. Berlin 1854 - 1859.) 。
セデル(Seder): セデルはシドル(Sidr tree)の英語転写の一つと思われる。(シドル(Sidr tree)を参照。)
セナケリブ(Sennacherib): セナケリブ(センナケリブ)(Sennacherib, 704 - 681 BC)はサルゴン二世(Sargon II, 722 – 705 BC)の息子で新アッシリア(934 – 609 BC)の国王を継承した。イスラエル(Israel)を討ち(紀元前701年)、再三離反を繰り返した(Babylinian Throne)に遠征し、陥落させ、バビロン市(Babylon)を破壊した(紀元前689年)。
セネガル(Senegal): アフリカ西端で大西洋に接する元フランス領西アフリカの一部、1960年に独立、面積19.6万km2、人口831万人(1995)で首都はダカール(Dakar)。
セネガル川(Senegal River): マリ(Mali)を北西に流れ、セネガル(Senegal)、モーリタニア(Mauritania)国境をほぼ西流して大西洋に注ぎ、全長は1790kmである。
ゼノビア(Zenobia): 270年代にローマの東部諸県を席巻し、タドモール(Tadmor)(パルミラ帝国(Palmyra, 260- 273))をローマ帝国(Roman Empire or Imperium Romanum, 27 BC – AD 476/ AD 1453)から分離独立させたセプティミウス(Licius Septimius Odaenathus, 260 – 267)の後妻でタドモールを西暦267年から272年まで支配した有名なアラブの女王である。女王ゼノビアはデュマトジャンダル(Dumat al-Jandal)を襲撃したがこの城塞都市は女王ゼノビアの軍勢に取って強固に過ぎ、落城出来ずに引き上げた。デュマト ジャンダルの防塞戦に破れた女王ゼノビアは「マリド(Marid)城は反抗的であり、アブラグ(Ablaq)城は傲慢だ」と罵った。マリドはデュマト ジャンダルの城でアブラグは有名なタイマ(Tayma)の城である。この言葉が「3世紀には両都市は共に女王ゼノビアに対抗できる程十分に力を持って居た」と云う証でもある。
ゼバッタおよびバナトショール(Zebatta and Nabat Shawls): モスリン(平織のやわらかい綿織物)に絹を浮き織りにした綾織物。
セビリア(Sevilla)(セビーリャ(Seville)): スペイン南部アンダルシア(Andalicia)地方の中心都市でグアダルキビル川(The Guadalquivir River)に臨み、ヒラルダの塔(Giralda))やアルカサール宮殿(Royal Alcazars of Seville))等サラセン文化の遺跡に富み、15、16世紀のスペイン植民地貿易の中心地。
セム族(Semitic): セム語派はアフロアジア語族(Afro-Asiatic)に属し、アラビア語(Arabic)、アムハラ語(Amharic)、ヘブライ語(Hebrew)等を含み、アラビア人、エチオピア人、ユダヤ人が含まれ、ユダヤ教、キリスト教およびイスラム教を生んだ。
セラフ(Seráfs):両替商。
ゼリフェ パルカト(Xerif Parcat): メッカ首長バラカット二世(Barakat II bin Muhammed or Barakat Efendi, 1497 - 1525)。
セリム一世(Selim I, 1470 - 1520): オスマントルコ帝国(Ottoman Turks, 1299–1923)のスルタン(Sultan, 1512 - 1520)で父バヤジト二世(Bayezid II, 1481 -1512)を廃して即位し、父、兄弟、甥等を殺した。エジプト(Egypt)、シリア(Syria)等を征服し、メディナ(Medina)、メッカ(Mecca)等を取得し、アッバース朝(Abbasid Caliphate 750 - 1258)カリフ(Caliph)からイスラムの精神的首長としてのカリフの尊称を得た。文学研究者、古典詩人としても知られている。
セルジューク朝(Seljuq Dynasty): 始祖セルジューク(Seljuq)は今日の西南トルコ人の先祖である中央アジアに居たトルクメン遊牧集団(Turcoman Tribal Confederations)のオグズ族(Oghuz Turks)のセルジュークトルコ(Seljuq Turks)として知られた一支族の首長(Beg)であった。セルジュークは9世紀を中心に南ロシアの草原地帯で活動したアルタイ系遊牧民(Altaic Nomads)ハザル族軍(Khazar Army)の将校として経験を積んだ後、西暦1000年頃にセルジュークトルコ(Seljuq Turks)を建国した。伝承によればセルジュークにはミカイル(Mikaik)、ジュヌス(Junus)、ムサ(Musa)およびアルスラン(Arslan)と云う4人の息子がいた。ミカイルの息子のトグル(Toghul, 1037-1063)がペルシャ(Persia)(Buyid dynasty, 934 - 1055 & Ziyarid Dynasty, 928 - 1043)を11世紀中頃に征服し、セルジューク朝(Seljuq Dynasty, 1037-1157)を建国した。セルジューク朝はエーゲ海(Aegean Sea)から中央アジアに拡大し、第2代セルジュークスルタンのアルプ アルスラーン(Alp-Arslan, 1063-1072)の命令でアッバース朝(Abbasid, 750 - 1258)からイスラム世界の支配を奪った。西暦1071年にはビザンチン帝国(the Byzantium Empire)皇帝ロマヌス ディオジェネス4世(Romanos Diogenes IV, 1068 - 1071)をマンジケルト(Manzikert)で破り、アナトリア(Anatolia)への侵略を開始した。この西暦1071年が近代トルコとなるセルジューク帝国(Great Seljuq Empire)の始まりの年であると言える。しかし、これが西ヨーロッパに「トルコ人が聖地を占拠してキリスト教徒の巡礼を妨害している」という風評を呼び起こし、1096年に東ローマ皇帝アレクシオス一世ムネノス(Alexios I Komnenos, 1048 - 1118)がアナトリア(Anatolia)の領土奪回のためローマ教皇に対して援軍を要請し、1096年に第一回十字軍(First Crusade.)が編成されることになる。1153年にオグズ族(Oghuz Turks)が反乱を起こし、皇帝アハメド サンジャール(Ahmed Sanjar, 1118 - 1153)を捕らえた。サンジャールは3年後に逃亡したが、その一年後の1157年に死亡し、帝国は幾つかのセルジューク朝に分裂した。
セレウコス朝(Seleucid Empire, 312 - 63 BC)は、アレキサンダー大王(Alexander the Great、356 - 323 BC)のディアドコイ(後継者)(Diadochoi)の一人で、ニカトール(勝利王)(Nicator)と呼ばれた。セレウコス1世(Seleukos I, 358 - 281 BC)がオリエント(the Orient)地方に築いた王国。セレウコス朝シリア(Seleucid Empire, 312 - 63 BC)(シリア王国)とも言われる。はじめメソポタミア(Mesopotamia)地方に興り、シリア(Syria)、アナトリア(Anatolia)、イラン(Iran)などにまたがる広大な領域を支配した。都はアンティオキア(Antioch)に置いた。
セレオパトリス(Cleopatris):ローマ帝国のエジプト総督ガルス(Aelius Gallus)が紀元前24年から行われた富裕なアラビア(Arabian Felix)遠征した際に80隻以上の船を建造したナイル川(the Nile)から延長された古い運河の傍にある町で現在のスエズ(Suez)であると思われる。
セレンタノ(Dr. Giuseppe Celentano): 1970年代にナポリ大学東洋学科博士でアラビスト。ヤクト(Yakut)の引用した抜粋の翻訳については「ナポリ大学東洋学部のG. セレタノ博士に感謝する(We are indebted to Dr. G. Celentano of the Instituto Universitario Orientale - Napoli for Tranlation of Yakut's quoted excerpts.)」とアンジェロ ペセ博士は述べている。
セロリの種(Celery Seed): セリ科の一年生または二年生葉菜で、ユーラシア温帯に広く分布する野生種が起源である。オランダ三つ葉とも云われ、芳香・甘みがあり、食用であるが、その種は乾燥して薬味とする。
「千一夜物語(Arabian Nights)」: インド・イラン起源や近東諸地方の物語集でシェヘラザード(Scheherazade)という才女が面白い物語をササン朝ペルシア(Persian Sasanid, 226 - 651)のシャーリアール王(Shahryar)(架空の人物)に千一夜にわたって続けるという型式をとっている。はじめパフラビー語(Pahlavi)に訳され、8世紀後半にアラビア語に訳され、以後増補、著者は不明。アラビア夜話(Arabian Nights)、千夜一夜物語(One Thousand and One Night)ともいう。
「1910 - 1911年のメッカ巡礼物語(Relation d'un pèlerinage à la Mecque en 1910 - 1911)」: カゼム ザデー(Kazem H. Zadeh) 著、1912年パリで出版。
1971年にジッダに供給された水の量2,000万トン(2,000t of Water Supply to Jiddah in 1971): 涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)パイプラインは口径は800mm、500mmおよび300mmと均一ではないが、年間700万m3を供給した。涸れ谷(Wadi Khalais)パイプラインは口径800mmであり、同じ水量を供給した。クッバト アシャラ(Kubbat Asharah)の脱塩プラントは年間600万m3を生産していた。
「1968/1969年のジェッダ」: アフリカ大学印刷が1968年にナイロビで出版(Jeddah 68/69 University Press of Africa, Nairobi 1968.)。
「1510年代にアルボケルケがマニュエル国王宛てに出したもう一つ手紙(Afonso d'Alboquerque ‘s Another Letter addressed to King Manuel in 1510s)」: (ロンドン(Lodon)で1894年に出版されたダンヴァーズ(Danvers, F.C.)著、「インドのポルトガル人(The Portuguese in Indea)」の306頁を参照。)
扇状地(Allivial Fans):扇状地とは長い間に川によって三角形に残された堆積である。
浅層地下水(Shallow Water): 雨水が地下に貯えられた水源であり、日本で言う地下水であるがサウジでは川等の表層水とほぼ同列に扱われている。又、サウジのダムは洪水を一時的に貯めた後はこの浅層地下水のフィードに使っているケースが多い。
セント ヘレナ湾(St. Helena Bay): 喜望峰(Cape of Good Hope)の100マイル北にあり、カラハリ砂漠(Kalahari Desert)に住んでいたホッテントット(Hottentots)とも呼ばれるコイコイ人( Khoikhoi)と西洋人の混血グリグリクア(GrigriQua)が占拠していた1497年にヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)のポルトガル艦隊(the Portuguese seafare)が立ち寄り、帆を修理し、船体を清掃し、水・薪・果物・野菜・肉等を補給した。この湾では朝日と夕日が眺められ、海面は穏やかでコバルト色の海(a cobalt sea)に白い岩が映え、漁獲も豊富で、今日では南アフリカの観光地になっている。
センナ(Senna): 良質で小さいペルシア敷物で短いパイル糸を使った緻密な織りで全体を多う細かい模様、落ち着いた色調等が特徴。
センナ(Senna): マメ科カワラケツメイ属(cassia)の木本・草木の総称で乾燥したセンナ葉や実は緩下剤として使う。
センナの木(Senna): マメ科の低木、中近東原産の薬用植物、高さ1m、4、7対の小葉から成る羽状複葉が互生、秋に5弁の黄色花をつける。果実・葉の浸剤(しんざい)を健胃剤・下剤とする。
センナール(Sennaar or Sennar): 青ナイル(Blue Nile)川の河畔の町で人口1万、付近にあるセンナールダム(Sennar Dam)はスーダン東部の白ナイル(White Nile)川と青ナイル(Blue Nile)川に挟まれたゲジラ(Gezira)地域の灌漑用に建設された。ゲジラ(Gezira)地域では16世紀から19世紀に王国が栄えた。
「1858年のジッダ事件の当時の評価(Account of Jiddah Event and Considerable International Furore)」: この評価は1858年7月15日付けのロンドン タイムス(the London times)、1858年8月4日付けBombayのテレグラフ クーリエ紙(the Telegraph Courier)、1859年12月31日外務省文書(1858/1859年のジッダの騒乱)、トメス八世(Tomes VIII)とトメス四世(Tomes IX)の二人の年代記に示されている。個人的な考察を伴う簡潔な記事はバートン(R.F Burton)が1860年にロンドンで出版した「中央アフリカの湖沼地帯(The Lake Regions of Cemtral Aftica)」の付属書、第2巻の428 - 429頁にも示されており、全体の記述は後にアヴリル(A. d'Avril)によって1868年にパリで「メッカへの巡礼の記述を伴うアラビアの同時代」が出版され、その76 - 82頁に掲載されている。
「1831 - 1835年のアビシニア旅行記」: ドイツ人科学者のエドウアルト ルッペル(Eduard Rüppel)著、1838年フランクフルトで出版(Reise in Abyssinien 1831 - 1835 by Eduard Rüppel, Frankfurt 1838)。
「1839年から1843年のアビシニア旅行」: セオフィル ルフェーヴル(Thèophile Lefebvre)著、1845 - 1851年にパリで出版(LEFEBVRE, T. Voyage en Abyssinie executé pendant les années 1839 - 1843. Paris s.d. [1845 - 1851].)。第II巻の付属書「紅海とアビシニアの交易に関する注意」の6頁から12頁にジッダの交易(Jiddah Trade) について記載されている(in Appendixs to t. II (Notice sur le commerce de la Mer Rouge et de I'Abyssinie).)。
「1883年のジェダの交易と商業に関する報告書」: 英国領事(Jago)のチャールズ フーバー(Charles Huber)著、1891年パリで出版された「アラビア旅行日誌(Journal d'un voyage en Arabie, 1883 - 1884)」に記述されている「商工業についての女王陛下の執政官報告書中の1883年におけるジェッダの交易と商業関する領事による報告 (Reported by consul Jago on the trade and commerce of Jeddah for the year of 1883、in Reports from Her Majesty's consuls on the manufactures, commerce, etc.)」。(同報告第III部12章(Part III. No.12)を参照。)
センマル樹(Al-Semmar): センマル(Al-Semmar)とこの地方で呼ばれる樹木を私は特定できない。Sidr(Ziziphus spina-chrisri)でもTalh (Acacia gerrardii)でもSalam(Acacia tortilis)でも無く、木陰を作る一般的に沙漠に生える樹木であると云う。私がファハド王公園(King Fahad Park)を訪れた限りでは御柳(ギョリュウ)(Tamarisk)ではないかと思う。
ソウアキン(ソワキン)(Sowakin Suakin, Sawakin or Souakin): スーダンの紅海岸の港町。
象牙(Ivory): 象の発達して口外に突きだした門歯で堅くて淡黄色しており、飾り物・細工物・印材に珍重される。
象の年(Year of the Elephant): エチオピア(Ethiopia)のアクスム王国(Aksum)(紀元前4世紀から10世紀頃)のイエメン支配(Aksum’s Control of Yemen, 520 - 570)時代に将軍アブラハ(Abraha)は総督となり、その統治下の西暦543年にマーリブ ダム(Marib Dam)を修復し、ペルシアおよびビザンチンからの使節を受け入れた。アブラハは繁栄していたメッカ(Mecca)のクライシュ族(Quraysh)を制圧し、多神教偶像信仰の中心であるカーバ神殿(Al-Ka'bah)を取り壊そうと1頭ないし数頭の象を伴った大軍を派遣した。この侵攻は「象はメッカ(Mecca)の町外れから中に入るのを拒否した」とか、「鳥が焼き土の礫を象の軍隊に投げつけ」とか、沙漠の熱気とか、疫病とか原因はハッキリしていないが、奇跡が起きてアブラハの軍隊は戦わずして撤退している。この出来事はイスラム世界では「象の年(Year of the Elephant)」として知られ、「預言者ムハンマド(Muhammad)が生まれてた西暦570年かそれより数年前の起きた」と考えられている。「アブラハ(Abraha)自身は西暦553年に没している」と云う碑文もあり、又ササン朝の将軍ヴァハリズ(Vahriz)に侵略を受け、アクスム王国(Aksumite)のイエメン支配は西暦570年に終了しているので、私には570年よりももっと前の出来事ではないかと思える。
蘇合香(そごうこう)(Levant Storax): 楓(フウ)の樹皮から採る樹脂で医薬や香料に用いた。
ソコトラ島(Socotra): イエメン南東のインド洋すなわちアデン(Aden)湾の東にあるイエメン領の島でで中心都市はタムリダ(Tamrida)(別称ハディブ(Hadibu))である。アルボケルケ(Alboquerque)とトリスダン ダ クーニャ(Tristão da Cunha)の艦隊が1508年にソコトラ島を占領し、要塞を築いた。この島は後にポルトガルから廃棄され、アラビア人に戻され、アラビア人は要塞を破壊した。これが1517年2月8日にロポ ソアレス デ アルベアガリア(Lopo Soares de Albergaria)が到着した時の情況である。
ソマウリ海岸(Somawly): アビシニア(Abyssinia)とグラルダフィ岬(Cape Guardafui)間のアデン(Aden)とは向かい側の海岸。
ソマリ(Somaliland): ソマリア、ジブチおよびエチオピア南東部オガデン(Ogaden)地区を含む東アフリカの旧称。
ソマリア(Somalia): アフリカ東端でアデン湾(Gulf of Aden)とインド洋(Indian cean)に臨み、1960年に英国保護領ソマリランドとイタリア信託統治領ソマリア独立合併、面積63.7万km2、人口925万人(1995)で首都はモガディシュ(Mogadishu)。
ソロモン(Solomon): イスラエル賢王ソロモン(c.992 BC - c.938 BC)はイスラエル(Israel)の王ダビデ(David)の子で父の死後、アドニヤ(Adonijah)など他の王位継承を狙う者たちを打倒して王となった。ソロモンはエジプト(Egypt)のファラオの娘(Pharaoh's daughter)を娶り、ギブオン(Gibeon)で盛大なささげものをした。そこで神がソロモンの夢枕に立ち、「何でも願うものを与えよう」というと、ソロモンは知恵(Wisdom)を求めた。神はこれを喜び、多くのものを与えることを約束した。シバの女王(Queen of Sheba)もソロモンの知恵とエルサレム(Jerusalem)の繁栄を見て驚いたとされる。ソロモンのもとでイスラエル王国(Kingdom of Israel)は繁栄をきわめ、ソロモンは初めてエルサレム神殿(the First Temple)を築いた。晩年、臣民に重税を課し、享楽に耽ったため財政が悪化、ソロモンの死後、イスラエルは分裂、衰退していくことになる。その後は息子のレハブアム(Rehoboam)が継いだ。ソロモン(アラビア語ではスライマーン(Sulayman)であり、イスラム教においても預言者の一人とされる。スライマーンは知恵に満ちていたと同時に、アラブの民間伝承である精霊(ジン(Genie,Jinn or Djinn))を自由自在に操ったとされる。(ウィキペディアから要約)
ダイアモンド(Diamond): 等軸晶系で、多くは正八面体あるいは斜方十二面体の炭素だけなる鉱物で、硬度は鉱物の中で最も高く、光沢はたいへん美しく、無色透明あるいは青・黄・紅・緑・褐・黒色等である。光に対する屈折率が大きく、暗くても幾分の光輝がある。
第一次サウード侯国(First Saudi State): サウードデルイーヤ侯国(第一次サウード侯国、1744から1818年)の建国者ムハンメド ビン サウード(Muhammed ibn Saud, 1744 - 1765)の息子アブドルアジーズ ビン ムハンメド(Abdul Azizi Ibn Mohammed Ibn Saud, 1765 – 1803)は1773年にナジド全域を支配下に置き、1790年にはアラビア湾岸にハサー地方(Al Hasa)を征服したが、1803年にディルイーヤ(Diriyah))のモスクで暗殺された。その後を次いだ息子のサウード(Saud Ibn Abdul Aziz Ibn Mohammed Ibn Saud, 1803 - 1814)は領土をさらに拡大しオーマン(Oman)、イエメン(Yemen)の大部分を併呑、メッカ(Mecca)、メディーナ(Medina)も掌中に収め、シリア(Syria)、イラク(Iraq)方面にも進撃した。1811年領地奪回の為にオスマントルコ帝国(Ottoman Empire, 1299 - 1923)はエジプト太守ムハンマド アリ(Muhammad Ali Pasha, 1805 - 1848)に新興勢力のワッハーブ派(the Wahabys) の鎮圧を命じた。エジプト軍の優れた兵器、弾薬の威力により数々の戦闘でワッハーブ派(the Wahabys) が打撃を受ける中、1814年にサウードが死亡した。サウード家からの離反、寝返りが相次ぎ、ヒジャーズ(Hejaz)が奪回され、カシーム(Qasim)も落ち、1818年ムハンマド アリの子イブラヒーム(Ibrahim Basha, 1789 - 1848)に率いられたエジプト軍にデルイーヤは包囲、陥落させられ、首長アブドゥラー(Abdullah bin Saud, 1814 - 1818)はイスタンブールに送られ首を切られた。エジプト軍はデルイーヤを徹底的に破壊し、第一次サウード侯国は滅びた。
大君主(Grand Séignior): トルコのかってのスルタン(Sultan)の称号。
大使マッテウ(Mattew): 1515年4月7日にリスボン(Lisbon)を出航した新総督ロポ ソアレス デ アルベアガリア(Lopo Soares de Albergaria)の艦隊に乗り合わせたアビシニア皇帝(Emperor of Abyssinian)のアルメニア人(Armenian)の大使。
大シニョール港(Ports of Grand Signior): 大君主の港。
隊商宿(Khan or Kan): トルコなどの隊商宿(Caravansary)。
タイズ(Taiz): イエメン南西部の紅海岸のモカ港(Port of Mocha)に近い、標高1400mにある高原都市で人口は2003年調査で46万人、Ta’izzとも点はされている。
大地溝帯(Great Rift Valley): アフリカ大陸とアラビア半島を分離した地質的変動の連続は2千5百万年前から1千5百万年前の1千万年も続き、現在の紅海を含みアフリカ大陸の東側を南下する巨大な地溝帯を生み出した。この地下の動きで紅海岸の両側に沿って紅海を挟んで対を成す二つ平行して延びる山並みの障壁が出来た。この内の紅海の西側に連なるエチオピア(Ethiopia)、ジブチ(Djibouti)、エレトニア(Eritrea)等アビシニア(Abyssinia)の山々は高く聳え、その高さは1万2千フィート(3,660m)を越える物も少なくない。一方、アラビア半島の西の縁を形作り、紅海の東側に連なる山並みがサラワト(Sarawat)であり、アラビア半島の西側と南から北へと交差し、南のイエメン(Yemen)から北はアカバ湾(Gulf of Aqaba)まで続いている。同じ様に高く聳え、イエメンでは1万1千フィート(3,350m)に達している。
「第2代インド総督、偉大なアフォンソ ダルボケルケの実録(Commentaries of Great Afonso d'Alboquerque, Second Viceroy of India)」: この実録はアフォンソの実子によって編集された。その実子、ブラズ ダルボケルケ(Braz d'Alboquerque)は父親の死後、Afonsoの名を嗣いだ様だ。その初版は1557年に遡る。その後、1774年出版のポルトガル語編から註釈および序文と共にハクルート協会(Hakluyt Society)のグレイ バーチ(Gray Birch)氏が翻訳し、1875 - 1886年ロンドンで英文が出版された。
台所用品(Utensil): 家庭用品・台所用品・教会用器具等の用具・道具。
第二次サウード侯国(Second Saudi State, 1824 - 1891): 第一次サウード侯国(First Saudi State, 1744 - 1818)はオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299-1922)のエジプト総督ムハンマド アリ(Muhammad Ali Pasha, 1769 - 1849)の子イブラヒーム(Ibrahim Basha, 1789 - 1848)に率いられたエジプト軍にデルイーヤ(Diriyah or Dir’iyah)を包囲、陥落させられて1818年に滅びた。その後、1824年にサウド家(House of Saud)のトゥルキー イブン アブドゥッラー (Turki ibn Abdallah)がリヤド(Riyadh)をエジプト軍から奪回し、第二次サウード侯国としてワッハーブ派(the Wahabys)国家を再建した。この侯国でも第一次サウード侯国同様に首長がワッハ−ブ派イマームを兼ねたが、内紛が激しく、ナジュド(Najd or Nejd)北部のラシード家(Al Rashid Dynasty of Ha’il)に実権を奪われるようになり、1891年に最後の首長であるアブドゥルラハマーン イブン ファイサル アル サウード(Abdul Rahman ibn Faisal al Saud, 1850 - 1928)がラシ−ド家からの実権回復に失敗してリヤドを追われたために滅亡した。その後クウェートに逃れていたアブドゥルラハマーンの子アブドゥルアズィーズ イブン サウード(Abd al Aziz Al Saud, 1876 - 1953)が1902年にリャド奪還に成功し、1932年にサウジアラビア王国(Saudi Arabia)を建国した。(出典: ウィキペディア)
大ブリューゼル(Bruedhel the Elder): ピーター ブリューゼル(Pieter Bruedhel)(c 1525/30 - 1569)、フランドルの画家ジャン ブリューゼル(Jan Brueghel)(1568 - 1625)の父で16世紀フランドル最大の画家で風景が・農民生活の風刺がで有名であり、一般に大ブリューゼル(Brueghel the Elder)と呼ばれている。
ダイブル(Daibul): パキスタン南部インダス川(the Indus River)下流のシンド(Sind)州の主要な海港で州都カラチ(Karachi)の東64kmのインダス川河口にある。仏舎利塔(Budist stupa)が多く、アラビア語で屋根を指すダイブル(Daibul)の名が付けられている。
タイマ(Tayma): タイマ(Tayma)はタブク(Tabuk)の南東220 km、マディナ アル ムナッワラー (Madinah Al-Munawwarah)の北370 kmで北緯27°38”東経38°29”に位置している。この古代の町の遺跡遺物はサウジアラビア王国北西地域では最も卓越している。重厚な城壁がこの町の西側、南側および東側を囲っているが、北側は通行困難な乾燥した湖或いはサブハ(Sabkha)と成った昔からの自然の湿地帯によって保護されている。城壁は延長が10 kmに及び、石と泥と粘土で作られて居り、場所によっては最低の1 mの個所もあるがその高さはほぼ10 m以上あり、幅は1 mから2 mである。この囲い城壁は防御を目的として作られて居り、大きな石、小さな石それに日干し煉瓦等異なった材料が使われている。古代には乳香の道(Frankincense Route)の東ルートがビール ヒマ(Bir Hima)で分岐し、タスリス( Tathlith )、ビシャーオアシス(Bishah Oasis)、メディナ(Al-Madinah)およびタイマ(Tayma)を通ってワディ シルハーン(Wadi'l-Sirhan)で西ルートと合流し地中海へと抜けていた。タイマ(Tayma)の繁栄が頂点に達したのは紀元前555年から539年のバビロニア王(Babylonian King)ナブニディス(Nabunidis, 556BC - 539BC)の治世の紀元前552年に同王はタイマ(Tayma)にアブラグ(Ablaq)と云う大きな城を築き、この町を自分の首都として10年間にわたって支配した。又、西暦267年から272年までタドモール(Tadmor)(パルミラ(Palmyra))を支配したアラブの女王ゼノビア(Zenobia)はタイマを襲撃したが防塞戦に破れた。この為に「アブラグ(Ablaq)城は傲慢だ。」とゼノビアが罵った程、タイマは力を持っていた。この古いオアシスには先史時代からイスラム時代までの様々な考古学的遺跡があり、更に紀元前6世紀に遡る古代の碑文やイスラム初期のその他の遺跡も存在している。この町は多くの井戸や果樹園を伴い北へと広がる農業地帯に囲まれており、町自体がハッダジ(Haddaj)と呼ばれる偉大な井戸の周囲に発展している。
タイマ石柱(Tayma Stone): アラム文字(Aramaic)、リフヤン文字(Lihyanite)、サムード文字(Thamudic)およびナバテア文字(Nabataean)等で書かれた夥しい数の古代碑文がタイマ(Tayma)とその周辺部で見つかっている。重要な場所としてはジャバル グナイム(Jabal Ghunaym)、ミンタール イブン アティヤ(Mintar ibn Atiya)、ミンタール アルーディルヤト(Mintar al-Dhilyat)、タウィール サイード(Taweed Saeed)、ワディ ジュライダ(Wadi Jurayda)、アルーカブ アル シャールギ(Al-Khabu al Sharqi)およびワディ アルーカヌ アルーガールビ(Wadi Al-Kanu Al-Gharbi)がある。一番重要なのは切石に刻まれた碑文でルーブル博物館(Louvre)に展示されているタイマ(Tayma)石柱である。
ダヴィド ジョージ ホガース(David George Hogarth): 1904年にロンドンで「アラビアの侵攻(Penetration of Arabia)」を出版した英国の考古学者(1862 - 1927)で小アジア・シリア・エジプトの遺跡を発掘調査し、オックスファード大学(Oxford)アシュモール博物館(Ashmolean)長(1909 - 1927)を勤めた。その他著書には「ヒッタイトの紋章(Hittite Seals)」(1920)や「ヒッタイトの王達(Kings of the Hittites)」(1926)等がある。
ダウサ(Ad Dawsa): ナジラン州西南部の涸れ谷ハボウナー(Wadi Habounah)中流域で北へとサール(Thar)方面への道が分岐する交差点にある部落で、「森」を意味する名が付けられている。
ダウ船(Dhow): 1本マストに大三角帆をつけたアラブ人の沿岸貿易帆船ダウ船(dhow)であるが、一般的にはアラブ船を総称する固有名詞としても使われている。ダウ船には曲がった船首、船首像、無目(ドア・窓)のある船尾および住居用船尾展望台を備え、今では殆ど廃れてしまった交易船バグラ(Baghlas)、かつては一般的であったが今は殆ど稀にしか見られず、低く曲がった船首と高い船尾を備えている迅速な客船サムバック(Sambuks)、しばしば真珠漁に使われたジャルブート(Jalboots) やガンジャ(Ganjas)、コティア(Kotias) 等がある。
ダウティ(Doughty): 英国の作家で旅行家(Charles M. Doughty、1843-1926)で1888年に「アラビア沙漠の旅(Travels in Arabia Deserta)」を出版。
タウヒード(al-tawhid) : 原義は「1にすること」であるが、術語としては「神を唯一だと信じ、それを表明すること」、展示で神の唯一性」を意味する。(出典: 岩波イスラーム辞典)
タウヒドの原則(Tawhid Doctrine):イスラム教義核心の要約、すなわち、単一と唯一の神。これは誰にでも無く、王座にでも無く、力にでも無く、アッラーにのみへの忠誠を意味する。この様に、タウヒドの概念(Conception of Tawhid)は人間の尊厳(dignity)を心に描いている。
楕円坑形成(Elliptical Hole Conditions): 殆どの古生代層(Palaeozoic Formations)は外形が楕円形の坑井孔(Elliptical Well Bore Geometry)を作り出す可能性がある。この問題を克服し、孔隙率(Porosity Measurement)を測る為に、サウジアラムコ(Saudi Aramco)ではログ(Logs)の正確なデータが取れないリスクを少なくする為に90度のオフセット(Axes Offset at 90 Degrees)を持って二重密度およびニュートロン分析(Dual Density and Neutron Logs)を使う(South Rub Al Khali Company)。
ダオメー(Dahomey): ベニン(Benin)(ベナン)の旧称、アフリカ西部ギニア湾に面し、旧称ダオメー、フランス領から1960年に独立、面積11.2万km2、人口556万人(1996)、憲法上の首都はポルト ノヴァ(Porto-Novo)で事実上はコトヌー(Cotonou)、ベニン(Benin)。
ダガー(Dagger): 半月形の短刀、これを帯びるのがアシール(Asir)の男の象徴。
ダカット金貨(Gold Ducat): かつて、欧州大陸で使用された金貨(3.4909 Grams of .986 Gold)。
だき石(Jamb): 建築用語で出入り口、窓,炉等の両側にとりつけられている石。
ダギスタニ(Abdal-Majeed Ismail Daghistani): サウジアラビア情報省発行の「リヤド(Ar-Riyadh, 1985)」、「サウジアラビア王国(Kingdom of Saudi Arabia, 1983)」、「タイフ(At-Taif, 1981)」、「ジュベイルとヤンブー(Jubail and Yanbu ’, 1983)」、「ジェッダの都市成長の計画・管理(Urban Growth Management in Jeddah", Planning Outlook, 34 (1), England, 1991)」等の著者。
「タクウィム アル-ブルダン(Takwin al-Buldan)」: アブルフィダ(Prince Abulfida) 著で「国々の描写(Delineation of the Countries)」と訳されている。サーマーン朝(Samanid dynasty, 873 - 999)の廷臣であったアブ ザイド アル-バルヒ(Abu Zayid al-Balkhi)は余暇を地形学や地理学の調査に使い、短い地理的記述しか記されていない一続きの地図群で構成されたイスラム国地図帳を修正して居た。その作業を通じて、アル-バルヒはその時代に入手出来た情報や自分自身の広範囲にわたる旅行から得た知識でのイスラム国地図帳の補足を編纂した。その「タクウィム アル-ブルダン(国々の描写)(Takwim al Buldan or Delineation of the Countries) 」と云う題名の本の原本は失われたが、イスタハリ(Auctore Abu Ishak al-Farisi al -Istakhri)が950年頃に編集し、最新情報化し、増補した版を作った。その版は同様にイブン ハウカル(Ibn Hauqal)によってその著作に取り込まれた。M. レノー(M. Reinaud)はこれを翻訳・編集し、「アブルフィダ(Prince Abu'lfida)の地理」と云う題名で1848年にパリで出版している。
タクルリ人(Takhruri): タクルリ人(Takhruri)の複数形はタクリール人達(Takharir)であり、ナイジェリア人(Nigerians)或いは、もっと一般的に西アフリカの黒人(West Afriacn Negroes)を意味する。タクリール人達(Takharir)は巡礼の後、或いはヒジャーズ(Hejaz)の都市に住処を探して来た後でジッダ(Jiddah)を自分達の故郷にしようと決心していた。タクリール人達は町中での水運搬人や港での港湾労働者(stevedore)として働き、女達はバザアール(bazaar)で売っている陶器を作っていた。ナカツ(Nakatu)はタクルリ人(Takhruri)のたまり場(haunt)である。
ダゲスタン(Dafhestan or Dagestan): 露西亜の北コーカサス(Caucasus)のカスピ西岸にある共和国。
タジ アブル フォウトウー (Taj al-Maaly ibn Abul Foutouh): メッカ首長 (Amir of Mekka) (治世 西暦1038年から西暦1061年)で、メディナの宗主(Master of Medina)でもあった。ナシール-イ コスロウ(Nasir-I Khosrow)が西暦1050年9月にジッダ(Jiddah)に滞在した時に在位していた。タジ アブル フォウトウーはその在位期間から Sharif Shukrul-Din, 1039 – 1061)であると思う。
タスマン(Abel Janszoon Tasman, 1603 - 1659): オランダの航海者(Dutch Seafarer)で1642年から1644年の航海でタスマニア(Van Diemen’s Land or Tasmania)、ニュージランド(New Zealand)、フィジー(Fiji)にヨーロッパ人で初めて到達した。
タスム(Tasm): タスム(Tasm)は家系的に密接な関係があるジャディス(Jadis)と共に失われたアラブ(Lost Arabs)に含まれる。がっちりとした要塞や広範囲な灌漑システムを築いて、ワディ’イルド(Wadi al-'Ird)と呼ばれたワディ ハニファー(Wadi Hanifah)とやはり当時はワディ ウツル(Wadi al-Wutr)と呼ばれたワディ バサ(Wadi al-Batha)すなわち現在のリヤド(Riyadh)と同じ地域に定住していたと云われている。その中心の集落は十世紀にはハジル(Hajr)或いはカドラ ハジル(Khadra Hajr)と呼ばれた場所にあった。ハジル(Hajr)はクスール(Qusur)(カスル(Qasr))の疎らな集落又は防護を固めた住宅地と果樹園ではあったけれどもガールヤト ファウ(Qaryat al-Faw)で見つかっている様な町の中心となる要塞は無く、集落はバサ沈泥平原(Batha silt plain)の広い地域に散らばっていた様だ。ハジル(Hajr)は政治的な繋がりも薄く緩やかな中央集権であり交易よりも農業に重点があったと思われるが、四世紀に起きた干魃で疲弊した。その上、ジャディス(Jadis)も支配する様になったタスム(Tasm)の専制君主の傲慢な振る舞いが両部族の間に論争を引き起こし、イエメンのヒムヤール(Himyarites)の干渉と侵入を招き、バヌ ハニファー(Banu Hanifah) 一門がこの地にやって来た五世紀までには死に絶えたと言われている。
タスリス(Tathlith): アシール州(Asir Province)内陸部の町でタスリスの県庁がある。タスリスは三位一体と云う意味で聖書に関連つける記述もあるが乳香の道の隊商(Caravan)路の三叉路でここからアルハサ(Al Asha)の幻の都市ゲルラ(Gerrha)方面とマディナー(Madinah)方面への道が分かれて居た。
タスリス パレス ホテル(Tathlith Palace Hotel): 2003年2月にタスリスで宿泊したホテル(07-267-1110, 07-267-1112)。トイレはローカル(Local)式ではあるが、ベッドの敷布はクリーニングされており、温かいシャワーが出るのは冬の旅には有難かった。
タタ(Tahta): 上エジプトのソハグ県(Sohag Governorate)のナイル川(the Nile)西岸の町である。
タタール人(Tatar): モンゴル系の一部族タタール(塔塔児)の称、後にモンゴル民族全体の呼称、明代に北方に逃れた元朝の北元に対する明人の呼称、また、南ロシア一帯に居住したトルコ人ももともとモンゴルの治下にあった関係からその中に含める事もある。
縦型砂丘(Longitudinal Dune): セイフ砂丘(Seif Dunes)とも呼ばれる。「縦型砂丘は風向が変わる事で横型砂丘が変化して形成される」と考えられている。卓越風向が多少異なる二方向から交互に吹いてくると横型砂丘を変形させ、様々な形の低い砂丘から中位の高さの砂丘が連なる縦型砂丘を作り出す。ナフド沙漠(Nafud)では数キロから十数キロ幅の谷で分けられている高さ90m程の数十キロの長さの縦型砂丘が累々と重なり連なっている。ナフド沙漠の際だった特徴は縦型砂丘を形成する一つ一つの砂丘のファルジ(Falj)と呼ばれる凹地(Depressions)の形にある。ファルジはほぼ半楕円で、馬の蹄の巨大な跡の様な形をしている。縦型砂丘では砂は移動しても地形は殆ど変わらず、比較的安定して居り、その凹地(Depressions)はしばしばシュラブ(Shrubs)や草で厚く覆われて、ディカカ(Dikaka)とも呼ばれる植生のある砂漠を作り出す。この為、縦型砂丘地帯はディカカ(Dikaka)と呼ばれる代表的な場所となっている。
ダート道(Dirt Road): 沙漠道(Desert Road)。
タナ港(Tana): 現代名はアゾフ(Azov)で、ロシア連邦南部ドン川(the Don)沿いにあり、黒海内海のアゾフ海(Sea of Azov)までは約6kmと近い。ドン川の河口は交易上、重要な土地であり、紀元前3世紀頃ギリシア人達(Greeks)がここの植民都市をつくり、川を意味するタナイス(Tanais)と命名した。13 - 14世紀にこの地を支配したキプチャク汗国(欽察汗国)(Qipchaq))(金帳汗国(Golden Horde))の許可を得て、ヴェニス(Venice)とジェノヴァ(Genoa or Genova))の商人達がタナ(Tana)と云う植民都市を築き、定住したが、1471年にオスマン帝国(Ottoman Empire,1299 - 1923)の侵攻により占領された。
タニーブ(Tanib): 「天幕の綱」を意味する交差点はビシャー(Bishah)への分岐があるリヤド-カミス ムシャイト道路(Riyadh - Khamis Mushayt Road)間道のリヤド側への本道出口の少し西、交通量も無い沙漠なのに何故か立体交差に成っている。
タヌマー(Tanumah): アブハ(Abha)の北116 kmのタヌマー(Tanumah)は標高 2,080 mで、ジバル アル サラト(Jibal al-Sarat)の中でも特に見事な景観美を誇っている。町の西側では1,000m以上もの落差で紅海側の涸れ谷ハリ(Wadi Hali)へと落ち込む崖地(escarpment)を下まで覗き込める。東側には大きく開けた盆地の向かいに緑の樹林と白い壁をした家屋の帯の上に屹立した天狗の鼻の太くした様な花崗岩の露頭が聳え、迫って来ている。左からは雲が舞い上がり、右には抜ける様な青空にその上って来た白い雲が良く映えている。町の周囲では野生のマントヒヒの群や白っぽい鷲を良く見かける。町の北へは一枚岩の花崗岩の大きく盛り上がった岩山の脇から花崗岩の岩山群に挟まれた谷に入って行く。タヌマー(Tanumah)から北の山は花崗岩になり、傾斜も立って眺めも良くなる。タルー(Talh)に小さな葉の広葉樹が混じる様に成って来る反面、高山杉(柏槇、Juniper)が姿を消す。柏槇(ビャクシン)は花崗岩との相性が良くない様に思われる。涸れ谷ムリー(Wadi Mulyh)を渡ると高山杉(ビャクシン)は丸みを感じさせる。その丸い杉と上に向かって三角形を開いている様なタルー(Talh)が濃い緑と灰色掛かった緑の対比をさせて居る様だ。花崗岩の岩峯地帯が暫く北へと続く。
ダハラク諸島(Archipelago Dahlac): エリトリア(Eritrea)領海(Latitude: 15° 49' 60 N, Longitude: 40° 12' 0 E)に位置し、海洋生物保護区である。中生層は石油を含.むことが知られ、原油ガスの開発対象海域にもなっている。又、ポートランドーセメント製造. に適する石灰岩は多くの場所で発見されている。
ダハラン図書館: Dhahran Library of ARAMCO.
タバリ(Tabari): アブ ジャ’ファール ムハンマド イブン ジャリール タバリー(Abū Ja'far Muhammad ibn Jarīr at-Tabarī, c. 839 - 923)はアッバース朝(Abbasid Caliphate, 750 - 1258)時代の歴史学者・神学者で、名前はペルシャ(Persia)のタバリスタン(Tabaristan)に由来する。シリア(Syria)、エジプト(Egypt)などを広く旅して見聞を深め、後半生はバグダッド(Baghdad)に落ち着き名声を博した。アラビア語によるコーラン(Qur’an)の注解書はこの分野で権威とされた。
タバールジャル(Tabarjal): タバールジャルはシールハン窪地(Wadi'l-Sirhan)の幾つかの小さな涸れ谷(Wadi)が集まり、終焉する場所に位置している。ベドウイン(Beduin)は涸れ谷が集まる場所をリジラ(al-Rijla)と名付けて居り、幾つかの涸れ谷が集まる事からタバールジャルの名はリジラに由来して付けられている。古代には隊商路であった大回廊の窪地ワディ’ル シールハン(Wadi'i Sirhan)の要所であったが、現在ではシールハン窪地とその周辺の農業地帯の集散地になっている。
ダビデ(David, c.1037–970 BC): 聖書によれば2代目のイスラエル王(King of United Kingdom of Israel, reighed over Judah c.1007–1000 BC, over Judah and Israel c. 1000 – 970 BC)であり、旧約聖書(Old Testament)のサムエル記(Books of Samuel)、列王記(Books of Kings)に登場し、詩編(Psalms)の作者とされている。
タフォレア船(Taforeas): アジア(アラビア)の船であるが、1509年のディウの海戦(Battle of Diu)はポルトガル艦隊(Portuguese ships)に大小5隻のタフォレア船(taforeas)が使われた。
タブク州(Province of Tabuk): タブク州の北はサウディ/ジョルダン(Saudi/Jordanian)国境から南はマディナー ムナッワラー(Madinah Al Munawwarah)州の北部、西は紅海から東はジャフ州(Al Jawf)との州境にあり窪地を意味するフフラー(Al Hufrah)地方までの範囲に及び、ヒジャズ(Hijaz)山脈からタブク堆積盆を含む広大な堆積盆北部の平原地帯への境界部を占めている。この州は地下水が豊富であり、丘陵と涸れ谷(Wadi)に囲まれている。中でも重要な涸れ谷には緑の谷を意味するワディ アカダール(Wadi Al Akhdar)、集水の谷を意味するワディ ダム(Wadi Damm)およびワディ アサフィール(Wadi Asafir) がある。
タブク農業開発会社(TADCO): TADCO(Tabuk Agricultural Development Company)は1983年に設立され、350km2(35,000 ha)の土地を占有している。この内の110 km2(11,000 ha) が耕作されている。潅漑用水は地下1,000mからポンプで汲み上げられている。この地方の浅層地下水はこの3年間で150 m から 250 m まで下っているが、TADCOの水源は深層地下水なので影響を受けてはいない。設備としては 7,500 トンの冷蔵倉庫、自動プロセス、梱包装置を持っている。冷凍倉庫の貯蔵容量は馬鈴薯とタマネギ用として5,000トン、果物用として 5,000 トン、合計 10,000 トンである。
タブクの戦い(Battle of Tabuk): 預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)は紀元631年に3万人のムスリム(Muslims)兵士と共にマディナー(Madinah)を離れ、遠く東ローマ帝国(Byzantine Empire, 330 - 1453)領のシリア州(Province of Syria)に極めて近いタブク(Tabuk)まで行進した。予言者とそのムスリム(Muslims)軍の到着があまりに早かった為、大軍の集結が間に合わず、東ローマ皇帝は予言者との交戦を中止せざるをえなかった。予言者はタブク(Tabuk)に20日滞在し、ビザンチン帝国の政治的勢力下で人頭税を支払いその法に従っていた幾つかの衛星国に対しムスリム(Muslims)へ改宗する様に迫った。この為に多くのキリスト教徒の部族が喜んでイスラムに改宗した。この無血勝利でムスリム(Muslims)はローマとの長い戦いを始める前に内部の団結を強めるのに成功したばかりか、アラビア半島のムスリム(Muslims)を信じない者達やそれを装う者達の勢力を打ち砕いた。詳細は「預言者モハッメドのタブク遠征(http://www.jccme.or.jp/japanese/riyadh/riyadh_tavuk.cfm#3)を参照」をご参照戴きたい。
ダフナー沙漠(Ad Dahna): この沙漠はナフード(An Nafud)(砂の海沙漠)とルブアルハーリー(Ar Rub Al Khali)(空白地帯沙漠)の間を結ぶ1,000kmにも及ぶ砂の回廊であり、卓越風によってナフドからルブアルハーリーまで砂が運ばれている。
ダフラクバター(Dahlak Butter): マッサワ(Massouah or Massawa)から輸入されていた高級バター。
タブリーズ(Tabriz): タブリーズ(Tabriz)はイラン北西部の都市で、古代名はタウリス(Tauris)と云い、東アーザルバーイジャーン州(East Azarbai Province)(東アゼルバイジャン州(East Azerbaijan Province))の州都。人口は約140万人。テヘラン(Tehran or Teheran)から西北西へ約600kmで、サハンド山(Sahand, 3,710m)の北側に位置する。アゼルバイジャン地方(Azerbaijan)の中心都市で、住民の多くはアゼルバイジャン人(Azerbaijanis)である。この都市がいつ建設されたかには諸説あり、その歴史は少なくともサーサーン朝(Sassanid Empire, 226 - 651)まで遡ることが出来る。タブリーズ(Tabriz)の名は、297年にアルメニア王国(Kingdom of Armenia or Greater Armenia, 190 BC - AD 428) アルサケス朝(Arsacid Dynasty, 54 - 428)の王ティリダテス3世(Tiridates III or Tiridates the Great, 250s – ca 330)の名に因んでタウリス(Tauris)と呼ばれたことに由来する。地震で破壊されたが、8世紀のアッバース朝(Abbasid Caliphate, 750 - 1258)のカリフ(Caliph)であったハールーン・アッラシード(Harun ar-Rashid, 786 - 809)の妻の一人によって再建された。13世紀後期以降、イルハン朝(イル ハン国)(Ilkhanate or Il Khanate, 1259 -1335)および黒羊朝(カラ・コユンル朝)(Kara Koyunlu, 1375 -1468)の首都となり、さらに1469年に黒羊朝を追った白羊朝(アク・コユンル朝)(Ak Koyunlu, 1378 - 1508)の首都となった。さらに、白羊朝を滅ぼしたサファヴィー朝(Safavid Iranian Empire, 1501 -1736)も、1548年のガズヴィーン(Qazvin))への遷都まで首都とした。地震活動の活発な地域であり、歴史的な遺跡はあまり残っていない。イルハン朝の時代、13世紀初頭に建設された要塞の跡、アルゲ・タブリーズ(Ark e Tabriz)やマスジェデ・カブード(ブルー・モスク)(Masjed e Kabud or Blue Mosque)などが有名である。(ウィキペディア)
タホ港(Port Tejo): スペイン中部からポルトガルを経て大西洋に注ぐ、イベリア(Iberia)半島最長の川(テグス(Tagus)川、タホ(Tajo)川、テージョ(Tejo)川)河口の港町。
ダマ(Dama): ヨーロッパのゲームとは少し違うドラフトの一種(a kind of draughts or checkers)。
ダマスカス(Damascus): シリア南西部にあるこの国の首都で人口150万、現存する世界最古の都市の1つでもある。
タマリンド(Tamarind): 熱帯(中央アフリカ)原産のマメ科の常緑高木;実は清涼飲料・薬用(緩下剤)・調味料に用いられる。又、若い莢は食用になる。
ダミアン デ ゴイス(Damião de Gofs): ポルトガルの歴史家で「金持ち王マニュエル(Rei D. Manuel)の年代記」を著作し、1566年に初版本出版した。復刻版はコインブラで1949 - 1955年に出版された(Crónica do Felicíssimo Rei D. Manuel composta por Damião de Gois Nova edição conforme a primeira de 1566. Coimbra 1949 - 1955.)」。
ダミエッタ(Damietta): エジプト北部のナイル川三角州に在る町の名である。
タミーム族(Banu Tamim): 「強く頑丈」の部族名を持つタミーム族(Banu Tamim)はアラブ族(Arab Tribes)の中で最大の部族の1つでBani Tamim、Banu TaminあるいはBanu Tameemとも転写される。この部族の歴史はイスラーム以前に遡り、クライシュ族(Quraish、Quraysh)*とは姉妹関係の一門である。現在では数百万人の同族がアラビア半島とその周辺に居住しているが、元々はナジド沙漠(Najd)、イラク中央・南部、イラン領西部海岸中央のクーゼスターン州(Khuzestan)、イエメンのハドラマウト(Hadramaut)・タイズ(Ta’izz)等に住んでいた。イスラム征服(Muslim Conquests, 632 - 732)の時代にはモロッコ(Morocco)まで移住している。この部族の創始者タミーム イブン ムッラー イブン カ‘アブ(Tamim ibn Murrah ibn Ka'ab)は1世紀の人物でキリストの十二使徒(Jesus Christ’s Disciples)に会っていると言われている。タミームの兄弟キラブ(Kilab)は預言者ムハンマドの祖先であり、ムハンマドの母アミーナ(Aminah bint Wahb, died 577)もこの部族出身であった。この部族は祖先はアドナーン(Adnan)、預言者イシュマエル(Ishmael)*および預言者アブラハム(Abraham)*に行き着く。タミーム族(Banu Tamim)は文明化したアラビ族(Arab Tribes)で最大の部族であると言われてきた。タミーム族はヒジュラ(Hijira)の8年後にイスラームに奉じた。イラクのタミーム族の大半は19世紀までにスンナ派(Sunnism)からシーア派(Shi’ism)に改宗している。(出典: Wikipedia)(注)タミームの兄弟キラブ(Kilab)は4世紀の人物クサイ イブン キラブ イブン ムッラー(Qusai ibn Kilab ibn Murrah, c. 400 - 480)*の父親(Kilab Ibn Murrah Ibn Kaab)と考えられる。タミーム イブン ムッラー イブン カ‘アブ(Tamim ibn Murrah ibn Ka'ab)とは名前から兄弟である事が分かるが、キラブが3世紀から4世紀の人物であるのに対し、タミームが1世紀の人物であるとされている事で両者関係の整合性を無くしている。又、ヤスリブ(マディーナ)で生まれのムハンマドの母アミーナ(Aminah bint Wahb ibn `Abd Manaf ibn Zuhrah ibn Kilab ibn Murrah ibn Ka'b)は名前からするとクサイ(Qusayy)の兄弟の子孫と云うのが有力に思える(高橋記)。
タミル ナドゥ州(Tamil Nadu): インド南東部コロマンデル海岸(Coromandel Coast)沿いの州で州都は旧称マドラス(Madras)のチェンナイ(Chennai)。
ターラー銀貨(Thaler): 15世紀から19世紀に使われたドイツの銀貨(=3 Marks)
タラバ(Taraba): タイフ(Tayf)の後背地。
タラル殿下(Prince Talal): イブン サウド王(Ibn Saud)の息子の一人で、サウジアラビア有力企業家でもあり、国連開発機関のアラビア湾岸計画と総裁(president of Arab Gulf Program for UN Development Organization)(AGFUND)とアラブ オープン大学(Arab Open University)の総裁でもある。
ダリヤ(Dariyah): ダリヤ(Dariyah)はアラビア盾状地の臍に当たる位置にある。旧メッカ街道のビジャディヤ(Al Bijadiyah)の北西100 kmにあり, ビジャディヤの西22kmから枝道を北西に進むと赤い土の平原が限りなく続き、その所々に花崗岩の露頭が現れて居る。この辺りでは露頭の多くがコンクリートの土間の様に平に大地を覆って居り、その間に水を湛えたたくさんの浅いくぼ地がある。この平原には農地は無く、駱駝の群や羊の群が草を食べているだけである。この浅い涸れ谷(Wadi)が集まって谷と成り、道路はその谷に沿って進む。集落の大きさからすると何故こんなに人が集まっているのか不思議な程、多くの人が金曜礼拝でモスクに集まって居る。モスクのの集落を過ぎると花崗岩の大きな露頭が平原の中を南西から北東に直線に並んで居る。風化して板状に成った花崗岩に覆われたたくさんの丘が並んで居る。ダリヤ(Dariyah)の手前に小さめのダムが築かれ、部落の後ろにはは小型ヨットの三角帆の形をした特徴有る花崗岩の尖塔が聳えて居る。真新しい家が印象的に幾棟か建てられて居るが、どれも空き家である。政府の補助金を流用して、これらは誰かの隠退後の為に建てられて居ると思われる。この村にもナツメ椰子の畑はあるが人口を賄う様な生産はとても期待出来無い。サウディアラビアにはこの様にどうして生計を賄って居るのか疑問な町や村が多い。「これらは遊牧民(Bedouins)の基地だ」と言う人も居る。
「タリーク マディナー ジュッダ」: シェイク アブド グッダス アンサリ(Sheikh Abd al-Quddus al-Ansari)著の「ジッダ市の歴史(History of the city of Jiddah)」で1963年にジッダで最初に出版された。
「タリハ ムスターシール(Tarikh al-Mustahsir)」: イブン ムジャウィール(Ibn al-Mujawir, 1204 - 1291)の著作「タリハ ムスターシール(南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis))」は西暦1229年の直ぐ後に書かれた。この本は歴史的断章、旅行記と社会的習慣の記述そして南アラビアの町の種々雑多な地理的な情報から構成されていた。1970年代にはナポリ大学東洋学部博士でアラビストG. セレタノ博士(Dr. G. Celentano) がイブン ムジャウィール(Ibn al-Mujawir)の著作タリハ ムスターシール(Tarikh al Mustahsir)のジッダに関する章を校訂・翻訳した(Dr. G. Celentano of the Instituto Universitario Orientale - Napoli)。
タリーブ(Tarib): リヤド-カミス ムシャイト道路(Riyadh - Khamis Mushait Road)の本道とビシャー(Bishah)との分岐ある間道へ分かれの立体交差のあるタニーブ(Tanib)の22km南の本道沿いに「喜び」を意味する名を付けられた部落がある。アシール州(Asir)内陸地方では同じ名前や同じ様名前が比較的近い、村や集落に使われている事が多く、タニーブ(Tanib)からリヤド(Riyadh)方面へと北東に少し戻ったマッダー(Al-Maddah)との間にも同じ名が付けられた小さな部落がある。
タル(Talh or Acacia gerrardii): タルはサウジアラビアを代表するアカシア種の樹木で中央背稜と云われるトワイク山脈(Jabal Tuwayq)よりも西では涸れ谷の谷底ばかりでは無く、岩山の上や紅海の海岸際まで自生している。背高は大きいものでも5-6m位で水が少ない場所では1mにも満たない。サラムと異なり根元から幾つもの枝に分かれるが葉は樹冠に密集しており、山羊や羊には簡単に食べられない。東部州の北部、中部には自生しないのは石灰質土壌を嫌うのではないかと私なりに理解している。
ダルウィーシュ(Dervish): 神秘主義教団の修行者(激しい踊りや祈祷で法悦状態にはいる)、踊り狂う人。
ダルカンゲリ(Mrs. Mary Pope D'Arcangeli): アンジェロ ペセ博士のアシスタント。
タルビア(talbiyah): 巡礼(hajj)の最中に唱える言葉で、巡礼行事の移動中にも欠かさずタルビアを唱え、意識を巡礼にのみ集中させる。「アッラーよ貴方の御前にまえりました。・・・」(出典: 岩波イスラーム辞典)
ダルマティア(Dalmatia): バルカン(Balkan)半島西部のクロアチア (Croatia)を中心とするアドレア海(Adriatic Sea)沿岸地方。
タワーフ(Tawaf or Circumambulation): ハッジ(Hajj)およびウムラ('Umrah or Umra)の必要な儀式の一部であり、「神と人間との契約」の象徴である黒石がはめ込まれているカアバ神殿(Ka'bah)の南東の隅から出発してカアバ神殿(Ka'bah)の周囲を反時計回りに7回廻らなければならない。
タワーフ ジヤラ(Tawaf az-Ziyarah): ミナー谷(Mina)での石投げの儀式(Rite of Stone-throwing)が終わり、生け贄を屠る犠牲祭('Id or Sacrifice)が始る。この日(10日目)の内か、翌日に巡礼達は再び聖モスク(Masjid al Haram)を訪れ、カアバ神殿の周りを歩くタワーフ(Tawaf)*を行う。この儀式はタワーフ ジヤラ(Tawaf az-Ziyarah)あるいはタワーフ イファダ(Tawaf al-Ifadah)と呼ばれている。
タワーフ ワダー(Tawaf al-Wida or Wada): 11日目の午後とその翌12日目に再び、巡礼達は7つの小石をミナー(Mina)にある3体の石柱(Jamrat)*に投げなくてはならない。巡礼達すべては12日目にはミナー谷(Mina)を離れ、メッカ(Mecca)に戻り、その後にタワーフ ワダ(Tawaf al-Wada, Final Circumambulation)と呼ばれるお別れのタワーフ(Tawaf)*を行い、最終的にメッカを離れる。
タンザニア(Tanzania): アフリカ東部でインド洋に接する英連邦に属する国で1964年にタンガニーカ(Tanganyika)とザンジバル(Zanzibar)とが合併し成立、面積94.5万km2、人口3,659万人(2004)で首都はダル エス サラーム(Das es Salaam)。
断食(Sawn): イスラーム教の信仰行為の1つで暁から日没まで飲・食・性(食欲と性欲)を絶つ行為であり、喫煙も禁止される。特にラマダーン月(Ramadan)の断食は「義務の断食」と呼ばれ、イスラーム五行(Five Pillars of Islam)の1つであり、成年男女で健康な者は全員が1ヶ月間の断食を行わなければならない。断食によってアッラー(Allah)(神)が命じたこと行い、逆に禁止された全てから遠ざけることでタクワ(Taqwa)(神を意識すること)を増やす。断食を行うムスリム(Muslim)は多くの罪から助けられ、ジャハナム(Jahannam)(地獄)から守られる。イスラーム教の断食は単に食べ物と飲み物を断つだけではないと考えられ、断食は嘘をつく、騙す、下品な話、口論、喧嘩、淫らな思考をしないことも意味する。つまり、断食中は良い振る舞いをすることになる。また、断食によって貧乏で空腹な兄弟が感じるものを感じることで連帯感を生む。その上、ラマダーンの月は寄付を行い、日没後に食事を共にする。(出典: 岩波イスラーム辞典、ウィキペディア等)
断食明けの祭('Id al-Fitr): 断食月のあけたシャウワール月(Shawwal or 10th month)の1日から3日に祝われ、小祭(Lesser Bairam)とも呼ばれる。この祭りの際には周囲の貧者に特別な喜捨(zakat al-Fitr)を与える。(出典: 岩波イスラーム辞典、新イスラム事典およびリーダーズ新英和辞典)
タンジール(Tangier): モロッコ(Morocco)北端のジブラルタル海峡(the Strait of Gibraltar)に臨む港湾都市、人口67万人(2004)、紀元前15世紀にはフェニキア人(Phoenician)の交易地であった。
単性論キリスト教(Monophysitism Christian): エジプトから広まったキリストは神性と人性とが一帯に複合した単一性のものであると説く。
タンドゥール(Tandoor): インドで用いる炭火を底に置く円筒形の土製の竈である。
ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri,1265 - 1321): イタリアの都市国家フィレンツェ(Firenze or Florence)生まれの詩人、哲学者、政治家である。代表作は彼岸の国の旅を描いた叙事詩 神曲(La Divina Commedia or Divine Comedy)および詩文集 新生(La Vita Nuova or The New Life)がある。イタリア文学最大の詩人とされ、ルネサンス(Renaissance)の先蹤ともいわれる。(出典: ウィキペディア)
蛋白石(Opal): 塊状または腎臓状・鍾乳状などをなして産する半透明なうし不透明の鉱物で、成分は含水珪酸であり、硬度5.5 - 6.5、白・黄・紅・褐・緑・灰・青等の色を成し、ガラス光沢を持つ。貴蛋白石は宝石として用いる(オパール(Opal))。
「知恵の七柱(Seven Pillars of Wisdom)」: トーマス エドワード ローレンス(Thomas Edward Lawrence) (1888- 1935)著、アラビア反乱における自身の体験を記録した自伝的作品で1919年に完成した原稿を紛失、1922年に圧縮して私家版として出版している。1926年あるいは1935年に初版が出ているが1965年ロンドンで再出版された(LAWRENCE, T. E. Seven Pillar of Wisdom London 1965, (first published in 1965).)。
チェルケス人(Circassian): 北西カフカス語族(North-western Caucasus or Caucas)に属するCherkessとも云う。
「中世におけるレヴァントの交易の歴史」: W. ヘイド著、1885 - 1886年にライプチッヒで出版(HEYD, W. Histoire du Commerce du Levant au Moyen Age Leipzig 1885 - 1886.)。
「中東の人々と文化(People and Cultures of the Niddle East)」: 1970年にルイーズ E. スウィート(Louise E. Sweet)が編集し、ニュヨークで出版した。同書にはインド洋(the Indian Ocean)と紅海海域を航行していたバッガラ(Baggalah)、ブーム(Boom)、サンブーク(Sambuk)およびザルク(Zaruk)の主要な4つの型のアラブ船(Arab Ship)等について詳しく述べている。
ヂッダ(Djidda): ジェッダ(Jedda)。
「地名辞典(Exhaustive Gazetteer)」: プトレマイオス(Ptolemy)(ラテン語名はClaudius Ptolemaeus)の地理学ガイドの主要部分の地名辞典は地域によって整理された場所場所の余す所無く研究されていた。
チャアッラ(Chaalla): グンフダー(Al Qunfudhah)とジェッダー(Jeddah)の間の沙漠にあった村。
茶色の海藻類(Algae): カジメ昆布(Ecklonia radiata)はカジメ(Ecklonia cava)等と同じ昆布目(Laminariales)昆布科であり、ホンダワラ科(Sargassaceae)にはフシスジモク(Sargassum confusum)やヒジキ(Sargassum fusiforme)が含まれ、褐藻網(Phaephycease)カセモノリ目(Scytosophonales)にはフクロノリ(Colpomenia sinuosa)やワタモ(Colpomenia bullosa)が含まれる。
チャド(Chad): アフリカ中部、北部はサハラ沙漠の南に接し、南西部にはチャド湖(Lake Chad)を抱く、元フランス領で1960年に独立、面積128万km2、人口1,078万人(Estimated in 2007)、首都はウンジャメナ(N'Djamena)。
チャド湖(Lake Chad): チャド(Chad)、カメルーン(Cameroons)、ニジェール(Niger)、ナイジェリア(Nigeria)にまたがるアフリカ中部の湖で、素面の季節変動が激しく、流出河川が無い為に洪水時には世界最大の淡水湖の1つとなる。
チャドル(chador): ペルシア人女性(Persian Women)が公共の場や様々な宗教行事に参加する時に頭や身にまとう大きな布(Veil or Shawl)。
チャラクス(Charax): もともとアレキザンダー大王 (Alexander the Great) によって見つけられたチグリス (Tigris) とユーフラテス (Euphrates)河口の間の何処かにある町である。正確な位置は特定できないけれどもアバダン島(Abadan Island) の北の外れの場所だと言われている。
チャールズ モンタギュー ダウティ(Charles Montague Doughty): 英国の作家・旅行家(1843 - 1926)で1888年に「アラビア沙漠の旅行(Travels in Arabia Deserta」を著述した(但し、初版は1888年)(Doughty, C.M. Travels in Arabia Deserta London 1926. ) 。
中央アフリカ共和国(Central African Republic): アフリカ中部内陸高原に位置する旧フランス領で1960年に独立、面積62万km2、人口422万人(2007)、首都はバンギ(Bangui)。
中央均一傾斜帯(Northern Interior Homo-Cline): ハーイル(Hail or Hayil)東部からリヤド(Riyadh)へと延びて居り、古生代(Paleozoic)および中生代(Mesozoic)の堆積層で構成され、東北へと傾斜している。
鋳塊: Temsah or Ingots。
チュルニド朝(Tulunid):トゥールーン朝と転写されるこの王朝(Tulunid, 868 - 905)は西暦868年にエジプト総督であったアハメド イブン チュルン(Ahmed Ibn Tulun)(アフマド イブン トゥールーン)が弱体化したアッバース朝(Abbasid Caliphate, 750 - 1258)から真っ先に独立し、西暦905年までナイル谷(Nile Valley)を支配した。(トゥールーン朝(Tulunids)を参照。)
潮間帯(Intertidal Zone or Foreshore): 低潮位と高潮位の間に陸地に成る浜辺である。
丁字(Clove): モルッカ諸島(Moluccas)原産フトモモ科科の熱帯常緑高木で、枝は三叉状、葉は対生で革質、花は白・淡紅色で筒状、集散花序をなし、香りが高く、花後、長い楕円状の液果を結ぶ、蕾を乾燥した丁香(クローヴ)は古来有名な生薬・香辛料で果実からも油を取れ、その他に黄色の染料としても使われた。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「丁字(clove)は乾燥させた閉じたままのCarophyllus aromaticusの蕾であり、Carophyllus aromaticusは香料諸島(Spice Islands)とも呼ばれるモルッカ諸島(Moluccas)原産の常緑樹である」と説明している。
チョウル(Chaul): ボンバイ(Bombay)から南約60kmの曖昧な川の岸辺にあり、ディウ(Diu)からは帆船で1日の航海で行けた。1521年にポルトガル(Portuguese)が砦を築き、定住し、ポルトガル領インドの一部(a Part of Portuguese India's Northern Province)となった。
貯水槽(Birka): 涸れ谷の底に設けられた水溜めで雨期に貯めた水を乾期に飲料水等に使う。
貯槽(Cistern): (屋上等の)水槽、(天然の)貯水池。
「地理学ガイド(Geographic Guide)」: 8巻からなり、地理学ガイドの主要部分は地域によって整理された場所場所の余す所無く研究した地名辞典とそれらの場所に割り当てられた球面上の緯度経度である。二番目の部分は円錐形の投影で描かれた世界地図と地域地図で構成された地図帳である。プトレマイオス(Ptolemy)(ラテン語名はClaudius Ptolemaeus)は躊躇無く地球が球体である事を前提としていた。
チンバの歩行: 足のびっこ(Lameness)。
ツテナグ(Tutenague): マラーティー語(Marathi)(インド中西部マハラシュトラシュ州(Maharashtra)の公用語)でドイツ銀(German silver)に似た白色合金或いはインド方面から輸入した亜鉛を指す。
ツボサンゴ(Alum-Root): 北米産ユキノシタ科ツボサンゴ属で緑を帯びた白や赤味がかった鈴の形をした花を有する植物(Heuchera americans)の根。
ツマン ベイ(Tuman Bey): 1516年8月24日にアレッポ(Aleppo)近くのマルジ ダビク(Marj Dabiq)の平原でオスマントルコ(Ottoman)との戦いでエジプト側が粉砕され、カンサウ ガウリ(Qansawh al-Ghawri)が殺された後をスルタンを継承したが、1517年1月22日にカイロ(Cairo)はオスマン(Ottoman)側の手に落ち、ツマン ベイ(Tuman Bey)は裏切られ、処刑され、ここにマムルーク王朝(Mamluk Burji Dynasty, 1382 - 1517)は滅亡した。
ツムリ(Tumli): 高い場所に石を積んだケルンで墓と考えている専門家もいる。
ツライフ(Turaif): アラビア横断送油ライン(TAP Line)のヨルダン(Jordan)国境に近い町で、'アル'アル('Ar'ar)から243 kmの場所にある。町の入り口から少し入った北寄りにアラムコ(ARAMCO)の油槽所がある。ツライフ(Turaif)から西に向かうと10 km程で道路の正面に各々が独立した山が幾つも見えてくる。ハッラ熔岩地帯(Al Harrah)の火山性の山々である。
ツワイール(Al-Tuwair): サカカ(Sakaka)の南方約8kmの郊外に大きな砂岩の丘が迫り、その麓の小さな崖の上に廃墟が建っている場所がある。これが紀元前ナバテア(Nabataeans)時代の一世紀から紀元二世紀に掛けて繁栄したツワイール古城の在った場所で、その城は最後には一部屋砦と呼ばれた程に小さかった。それでもこの遺跡はアレキザンドリア(Alexandria)のプトレマイオス(Ptolemaios)(紀元二世紀)が記述したデューマト アルージャンダル(Dumat al-Jandal)地方の古代都市の一つと思われる。その廃墟の裏手に続く岩の丘を登ると、その東斜面には人間、馬、蛇、駱駝、足跡や古代アラビア碑文が見られる。その幾つかは一ヶ所にかたまって描かれ、又、幾つかは独立して描かれている。
ツワル(At Tuwal): ツワル(At Tuwal)はジザン州(Jizan Emirate)紅海岸道路のイエメン(Yemen)との国境の町で、その先に簡単な開閉機で道路を遮断した検問所があり、国管理事務所と税関の建物ガ並ぶ。ジザン(Jizan)からティハマー低地(Tihamah)を南へと下ると蒲とモロコシ(Sorghum)が目立ち、オーチェリ(Aucheri)も大きく成って生えている。円形農場は見あたらず、代わりに点在する大きな土饅頭は小さな葉の円い背の高い灌木(Bush)である。ジザン(Jizan)からツワルに向かって南に下ると46 kmでアハド マサラー(Ahad al Masarah)を通過する。この町は村程度の規模でクバー(Al-Khubah)への道が分岐する。東側に発電所があり、小さな円形農場(Center Pivot)がモロコシ(Sorghum)の畑の中に一基あらわれる。ジザン(Jizan)から62 kmでサミター(Samitah)と云う大きな町を通過する。モロコシ(Sorghum)の畑の中、シドル(Sidr)の木が点々と植わって疎林の様だ。ジザン(Jizan)から80 kmでツワル(At Tuwal)に到着する。
ディーウ(ディウ)(Diu): インドの西部、グラジャート州(Gujarat)のアラビア海(Arabian Sea)に突出するカーティヤワール半島(Kathiawar Peninsula)の南端に位置する小島で、面積は38.5km2、人口は約23,000人。オスマントルコ帝国(the Ottoman Empire)の支配下にあったが、1509年ポルトガルの艦隊がマムルーク朝(Mamluk)の艦隊とディーウ沖海戦(Battle of Diu)の末、これを打ち破り、印度洋の制海権を手にいれた。1535年にポルトガルはグジャラート王国(the Sultanate of Gijarat)とムガール帝国(the Mughal Empire)に対する防衛同盟を結び、ディーウに要塞を建設した。この同盟は直ぐに破棄され、ジャラート国王は1537年から1546年の間にポルトガルを駆逐しようとしたが失敗に終わった。1554年にはポルトガルがグジャラート王国(the Sultanate of Gijarat)からディーウ島の統治権を手にいれディーウはポルトガル領(Portuguese India)となった。が、しかし、1961年にインド軍の侵攻により、ポルトガルはディーウをインドに返還し、現在はダマン(Daman)地区と共にインド政府直轄地である。(原文:ウィキペディア)
ディオゴ カウン(Diogo Cão): 15世紀のポルトガルの探検家で、1482年にコンゴ川(the River Congo)の河口を発見し、1485年の第2航海では南半球熱帯の外れにあるナミビア(Namibia)のヴォルヴィス湾(Walvis Bay)まで航海した。
ディオゴ デュ アザムブヤ(Diogo de Azambuja): 1482年にギニア(Guinea)海岸のサン ジョルジュ ダ ミナ(Sao Jorge da Mina)に砦と工場を建設した。そこでは黄金の粉末が発見されていた。
ディオゴ ロペス デ セケイラ(Diogo Lopes de Sequeira): 1520年に危険を冒して紅海に入ったが、ポルトガル集落に対して海軍遠征で逆襲しているトルコ人達に遭遇せずに退却した。
ディオドロス シクロス(Diodorus Siculus): 紀元前1世紀のシチリア(シシリー島)の内陸のアルギリウム(Argyrium)で生まれのギリシアの歴史家で40巻からなる不朽の「歴史叢書(Library of History)」を著述した。その内の第1巻、第5巻、第11巻および第20巻しか現存していないが後世の仕事でその他25巻の断片から抜粋が見つかっている。
ディサー(Ad-Disah): この遺跡はラハ熔岩地帯(Harrat Ar Raha)の中のタブク(Tabuk)から約85 km南に位置し、城壁と住居跡と共にナバテア (Nabataean)およびイスラム初期の碑文が残っている。
ディップスロープ(Dip Slope): 地層面が作る斜面あるいは地層傾斜に調和的な斜面で組織地形の一種。この用語は、斜面の傾斜、形態、規模に関係なく使われる。画像から、より多くのディップスロープを判読し、走向・傾斜情報を抽出することにより、構造地質解析の基礎データが作成される。緩傾斜地域におけるディップスロープは、その反対側の斜面(フロントスカープ)より長いのが特徴であるが、傾斜が30を越える急斜面になると地形的にはホッグバック(hogback)となり、ディップスロープの判別は困難な例が多い。(ASTER SCiENCE PROJECT)
ディナール(Dinar): イスラム法(Islamic Law)では「ディナール金貨(Islamic Gold Dinar)の重さは22k金(917)で4.25グラム(grams)、ディルハム銀貨(Silver Dirham)の重さは純銀(pure silver)で3.0グラム(grams)」と定められて居り、更に、第2代正統カリフ(634 - 644)のカリフ ウマル イブン ハッターブ(Khalif `Umar ibn al-Khattab)によって、両コインの標準として「10ディルハム銀貨(Silver Dirham)の重さは7ディナール金貨(Islamic Gold Dinar)の重さと同じである」と決められている。
「ディバン(Divan、Collection of Poems)(詩集)」: ナシール-イ コスロウ(Nasir-i Khosrow) の編集した詩集。
ティハマー海岸地域(Tihamah Coastal Area): アシール(Asir)山岳地帯高原のサラト(Sarat)と呼ばれている西側の縁と紅海岸との間に挟まれた細長い地域である。海岸低地と云う名から単調ば景観をした地域と理解され、衛星写真でその様な印象にしか見えない。実際に訪れると断崖や穏やかに丘陵、火山、熔岩地帯、マングローブ湿地帯、多くの河川があり、更に海岸低地の多くの部分に地図には記載の無い数メートルの高さの小さな熔岩地帯が散在している等と地形は複雑である。しかしながら少し大まかに分けるとティハマー山地(Hilly Tihamah)、ティハマー海岸低地 (Coastal Tihamah lowlands)およびビルク熔岩地帯(Harrat al Birk)の三つの地方となる。ティハマー(Tihamah)の行政区分も南から北へと現在のジザン(Jizan)州、アシール(Asir)州、バハー(Bahah)州およびマッカー アル ムカッラマー(Makkah Al Mukarramah)州の南部分の範囲が複雑に入り込んで居る。これは昔からの細かく分かれた部族の領土の所為では無いかと私は思っている。実際に訪ねてみると涸れ谷の沢筋一つ一つに部族名と言うより家族名が付き、更に更に細かく分かれて居り、それを詳細に述べるのは難しい。部族には属さず自分達の村に忠誠向けられているアフリカ出身のフェラヒン(fellahin)と呼ばれる農民が全体の半数を占めるのもティハマーの大きな特徴だと思う。
ティハマー海岸低地(Coastal Tihamah Lowlands): 海岸低地は紅海と平行してその岸に沿ってほぼ南北に延びている。グンフダー(Qunfudhah)から北にジェッダー(Jeddah)までの海岸は殆ど湿地帯でありその内側の砂丘地帯でモロコシ(Sorghum)、ガマキビ(Bulrush Millet)、胡麻等が栽培されている。この低地は特にジザン(Jizan)の周辺では涸れ谷が山々を流れ下り海岸に辿り着く前に沖積扇状地として広がり、灌漑され豊かな農業地帯と成っている。但し、他の地域と異なり小規模なものを除けば円形農場は殆ど無く、伝統農業が中心で2003年頃までは農業労働者の中核もサウジ国籍者である。「記載の無い数メートルの高さの小さな熔岩地帯が散在する為に大規模農場が成り立たないのでは無いか」と私は思っている。
ティハマー山地(Hilly Tihamah): 起伏の多いサラワト山脈(Sarawat Mountain Range)の脊稜から険しい崖地(アスダール(al-Asdar))や急傾斜した谷の上流部分(アガバト(al-'Aqabat))が丘陵性のティハマー(Tihamah)山地の麓の小丘へと続き、ここでもティハマー(Tihamah)の高い山々が豊かな降雨をもたらしている。タイフ(Taif)から下った海岸から南へグンフダー(Gunfudah)辺りまではサラワト山脈(アシール山脈)から涸れ谷がほぼ垂直に直接紅海岸へと注いでいる。グンフダー(Gunfudah)から南へシュガイグ(Shuqayq)付近まではビルク(Al Birk)熔岩地帯の内陸側にムハイル(Muhayil)からリジャル アルマ’(Rijal Alma')方面にフグワ山(Jabal Faqwa)等の山並みがあり、アシール山岳地帯高原西側の縁サラト(Sarat)と平行に涸れ谷ハリ(Wadi Hali)が発達している。シュガイグ(Shuqayq)から南は涸れ谷’イトワド(Wadi 'Itwad) 等数本がサラワト山脈(Sarawat Mountain Range)と垂直に紅海岸に注ぎ、その南ではアル ファールシャー(Al-Farshah)付近のアシール山岳地帯高原の西側の縁サラト(Sarat)とアル ガール山(Jabal Al Qahr)、ハルブ山(Jabal Harub)、ファイファ山(Jabal Fayfa)やバニ マリク山(Jabal Bani Malik)等の山並みとの間に涸れ谷バイシャ(Wadi Baysha)の渓谷盆地がサラト(Sarat)とほぼ平行発達している。この渓谷盆地の紅海側では規模は少し小さいが幾つもの涸れ谷が紅海岸に垂直に注いでいる。
ティハミ カハタン族(Tihami Qahtan): 丘陵性ティハマー山地の遊牧民であるティハミ カハタン(Tihami Qahtan)の領地はファルシャー(Al-Farshah)を含むサラワト山脈(Sarawat Mountain Range)と紅海岸の海岸回廊の間にある。その領地であるガハタニ高原には棚畑の農場が散在する光景が広がる。その高原は深い谷間に刻まれた山々で構成されてはいるが、山羊を飼育するのが得意とするカハタン(Qahtan)族山羊飼いには十分に生活して行ける。気候の厳しさに加えて人々の好戦的な伝統でそこへ旅行するのは簡単では無かった。住人は領土保持の意識が非常に高かった。異邦人は歓迎されず、閉鎖された世界であった。カハタン(Qahtan)族でも特に羊飼いは美意識が強く、ジャスミン、バジリコ、ニガヨモギ(Wormwood)、フランス マリゴールド、パンヤの木の花(Fleurs de Kapokier)、セリ科の植物(Umbellifer)、カディ(Kadi)等広いレパートリーで髪を飾り立て「花飾りした男達」と呼ばれている。
ティムール朝(Timurids): ティムール朝は、中央アジアのに勃興したモンゴル帝国(Mongol Empire, 1206 - 1368)の継承政権の一つで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したスンニー派(Sunni)イスラム王朝(1370 - 1507)である。その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン(East Turkistan)、南東はガンジス川(the Ganges)、北東はヴォルガ川(the Volga)、南西はシリア(Syria)・アナトリア(Anatolia)方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇したので帝国と呼ばれる事もある。王朝の始祖ティムール(Timur or Temur, 1370 - 1405)は、チャガタイ汗国(Chaghatai, 1225 - 1687)に仕えるバルラス(Barlas)部族の出身で、言語的にテュルク語(Turkic speaking)を話し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員であった。ティムールの死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンド(Samarkand)とヘラート(Heart)の2政権が残った。これらは最終的に16世紀初頭にウズベク(Uzbek)のシャイバーン朝(Shaybanid dynasty, 1428-1468/1500-1599)によって中央アジアの領土を奪われるが、ティムール朝の王族のひとりバーブル(Babur, 1483-1531)はアフガニスタン(Afganistan)のカーブル(Kabul)を経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国(Mughal Empire, 1526-1858)を打ち立てた。(ウィキペディア)
ディヤ(Diya): メッカでの犬の血の代償。
ディライヤー(Dir'iyah):ディライヤー(Dir'iyah)はリヤド(Riyadh)北西の郊外にある遺跡で、第一次サウド公国(1744 – 1818)の首都であり、サウジ王室の発祥の地でもある。
ディルハム(Dirham): (ディナール(Dinar)参照)。
ディーン フィトラ(Din al-Fitrah): 人の基本的性格の宗教(Religion of one's Primordial Nature or Din al-Fitrah)とも呼ばれている。ディーン(Din)はもともと、裁き、習慣、宗教という異なる3つの意味を持つ語で、宗教という場合は特定の宗教ではなく、一般的な宗教や信仰を意味する。フィトラ(Fitra)は広義には人間が生まれ持った本性を、狭義にはすべての人間のもつ、生まれながらにしてムスリム(Muslim)であるという本性を意味する。後者の場合、すべての子供は神が定められた本性を持って生まれてくるが、その後、両親の影響でユダヤ教徒、キリスト教徒或いはゾロアスター教徒等になりうると解釈される。
ティンブクトゥ(Timbucktu):元フランス領スーダン(French Sudan)で1960年に独立した西アフリカの内陸国マリ(Mali)中部のニジェール川(Niger)左岸の町。
テオフラストス(Theophrastus): 植物学者テオフラストス(The botanist Theophrastus, 371 BC – c 287 BC)はアリストテレス(Aristotle, 384 BC – 322 BC)の弟子で「植物学の祖(a History of Plants)」の著者である哲学者・植物学者のテオフラストスは香料の灌木の分布を記述する中で南アラビアについての信頼できる情報を残した最初に人である。
デカン高原(Decan): デカン高原(Deccan Plateau)はインド半島(Indian Subcontinent)の大部分を占め、北辺をナルマダ川(the Narmada)(ヴィンディヤ山脈(Vindhya Range))、東西辺をそれぞれ東ガーツ山脈(Eastern Ghats)・西ガーツ山脈(Western Ghats)そして南辺をクリシュナ川(River Krishna)に囲まれた大きな台形をした肥沃な高原で、綿の産地である。
テグス(Tagus): (タホ港(Port Tejo)参照。)
テストン(Testoon): テューダー朝(Tudor dynasty, 1485 - 1603)初代のイングランド王ヘンリー7世(Henry VII, 1485-1509) の治下でシリング(Shilling)の先駆けとしてテストン銀貨(Testoon)が導入された。この硬貨は1489年頃に極めて限られた量が鋳造されただけであり、一般的には流通してなかった。テストン銀貨(Testoon)はヘンリー8世(Henry VIII, 1544-1551)の治世の後半に大量に鋳造された。この銀貨はこの時代のほかの硬貨同様に非常に質の悪い銀貨であった。ヘンリー8世の死後、テストン銀貨はタワー(Tower in London)、サウスワーク(Southwark)およびブリストル(Bristol)で鋳造されていた。ヘンリー8世の若い息子のエドワード6世(Edward VI, 1537 - 1553)はテストン銀貨の鋳造を続け、エドワード6世の時代に始めて、テストン銀貨はシリング(Shilling)と呼ばれる様になった。
デダン王国(Dedanite): (リヒヤーン(Lihyan)を参照。)
鉄石(Ironstone): 先カンブリア紀(Precambrian age)から古生代(Paleozoic)の鉄分の多い赤い砂岩の内部に変節作用で形成された縞模様の磁鉄鉱の挟みで旧石器の材料として使われていた。
テトゥアン(Tetouan): モロッコ(Morocco)北部の地中海に臨む港町・市で人口28万人、かつてはスペイン領モロッコの首都。
デナリイ(Denarii): 紀元前211年頃に鋳造された古代ローマの銀貨で最も一般的に流通していた貨幣(Coin)であった。
テバイス(Thebais): 古代エジプトの町 (Thebes) を指すと考えられる。テーベ(Thebes)はカイロの南675kmにあるナイル(Nile)中流の町で、中・新王国時代に首都として栄え、東岸にカルナック神殿(Karnak Temple)・ルクソール神殿(Luxor Temple)、西岸にデル-エル-バハリ宮殿(Deir el-Bahri)・王家の谷(Valley of the Kings)等の遺跡が多い。
デーメーテール(Demeter): 農業・豊饒・結婚・社会秩序の神でローマのケレス(Ceres)に当たる(Goddess of Crops)。
デュアニー(Duanee): クルース(Cruse)と共にジッダ(Jiddah)で使われた通貨単位で40デュアニー(Duanees)が1クルース(Cruse)である。
「デュアルト バールボサの本(Book of Duarte Barbosa)」: ハクルート協会(Hakluyt Society)のマンセル ロングワース ダイムス(Mansel Longworth Dames)が翻訳・編集し、1919/1921にロンドンで出版された。同書の第1巻47 - 49頁にはフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)のジッダ要塞化作業について述べられている。
デュカト(Ducats): 世界第一次大戦前までヨーロッパ(Europe)中の取引で使われた金貨で、その重さは.986金で3.4909 gramsあり、0.1107 try ounceに相当した。このコインは1140年シシリー(Sicily)のロッジャー二世(Roger II)の治世で最初に発行されたと考えられている。(1トロイオンスは正確に31.103 476 8グラム)
デュバ(Dhuba): タブク(Tabuk)の西170kmの紅海岸にある港町で、町の中心から北20kmにはエジプト(Egypt)との間を行き来するフェリー(Ferry)の港がある。
デュマト ジャンダル(Dumat al-Jandal): デュマト ジャンダルはサウジアラビア(Saudi Arabia)北西部ジャウフ州(Al Jawf Province)にある古代から続いてきた町である。予言者イスマ’イル(Isma`il)の子孫が紅海のティハマ海岸(Tihama Coast)でその数を増やしていった時にイスマ’イル(Isma’il)の息子のデュマ’(Duma’)はそこを離れ、最終的に今日のデュマト ジャンダルに辿り着いた。デュマ’はこの地に自分の砦を築いたのでその没後にこの地の名前となった。ジャンダルと云う通り名はこの砦が石で築かれて居た為にこの町の名前の語尾に付け加えられた。他の説としてはこの砦が単に石で造られていると云う事では無く、この地を支配したアル ガンダル家(al-Jandal or al-Gandal)の家名に由来しているとも言われている。アル ガンダルは北アラビアに覇権を持っていたベドウインの非常に古い家族の名である。アッシリア(Assyrian)の記録ではこの町はアデュッマツ(Adummatu)として記されて居り、ローマ(Rome)やビザンチン(Byzantine)の記録にはドマタ(Domata)、デュメサ(Dumetha)(デュマサ(Dumatha))等と記録されている。
テュール(At Tur): シナイ半島のトール (Tor in the Sinai)(トール(Tor)を参照。)
テュルニド朝(Tulunid): トゥールーン朝(Tulunid)とも転写されているこの王朝はエジプト・シリアにまたがり、西暦868年にエジプト太守であったアハメド イブン チュルン(Ahmed Ibn Tulun)が弱体化したアッバース朝から真っ先に独立し、西暦905年までナイル谷(Nile Valley)を支配したエジプト最初の独立モスレム王朝であったが、再びアッバース朝の支配下に入った。
デュール ヒジャー(Dhu'l-Hijjah): イスラーム太陰暦第12月(Lunar Islamic Calendar) でこの月にハッジ(Hajj)が行われる。
テル(Tell): 中東で古代都市遺跡の重なりからなる丘状遺跡。
テルナテ(Ternate): インドネシアのマルッカ(Molucca)諸島最大のハルマヘラ(Halmahera)島の西にある小島で、火山の南麓に港町テルナテがある。
天球(Celestial Sphere): 観測点から眺めた半径無限大の仮想球面で天体の見かけの方向を表示する座標を決める為に想定される。
伝統的なナジラン(Traditional Najran): ナジラン州には地形的に山岳地帯、平らな地方および砂丘地帯(sand region)等3つの異なる環境があり、伝統的なナジラン地方とはこの内の山岳地帯と平らな地方である。
「伝道旅行記(Missionary Travels and Resarches in South Africa, 1857 in London)」: イギリスの宣教師で探検家リヴィングストン(David Livingstone, 1813 - 1873)の著作。
デンマークのアラビア使節団(Scientific Mission of Danish Government to explore most fertile part of Arabia): 遠征隊(1761年 – 1767年)の隊員はドイツの旅行家で測量士兼天文観測者のカルステン ニーブール(Carsten (Karsten) Niebuhr (1733 - 1815)、医者で植物の生態に詳しい知識を持つペーター フォルスカル(Peter Forskal)、外科医で地質学者であるクリスチアン カール クライマー(Christian Karl Cramer)、言語学者でアラビア学者のフリードリッヒ チリステンセン(Friedrich Christian Von Haven)、 芸術家の(Georg Wilhelm Baurenfeind) で構成され、召使いは元フッサール(Hussar)のベールッグレン(Berggren)であった。
ト
銅(Copper): 自然銅としても産出する金属で展性・延性に富み、貨幣の製造に用いる青銅・黄銅等の銅合金や銅化合物の原料となる。
ドゥアー(Du'a'): 個人的な祈り。祈願、祈禱、祈念、時間や回数の他、所作や唱える言葉までほぼ定められたサラート(Salat)とは異なり、個人が自由に行う祈り。(出典: 岩波イスラーム辞典)アラビア語ではなく、各自の母国語で祈って差し支えない。
ドゥアルテ バルノナ(Duarte Barnona): バルノナはカナノア(Cananore)の初代ポルトガル商館長ギル フェルナンデス(Gil Fernandes)の甥でカナノアにフェルナンデスと共に留まり、マラバル(Malabar)の言葉をこの国の人間以上に離せる程、良く学んだ歴史家。
ドゥアルテ バルボサ(Duarte Barbosa): ドゥアルテ バルボサ(Duarte Barbosa)は若い時に東回りインド航路開拓者ヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)(1460 - 1524)の第2回遠征(1502)に加わり、1517年までインドに留まった。ポルトガル(Portugal)への帰途、大きな意味でのインド洋(the Indian Ocean)のポルトガルで知られている主要な場所全てについて、交易に関する興味ある情報と共に、一連の記述を編集した。「ドゥアルテ バルボサの本(the Lovro de Duarte Barbosa)」と呼ばれる初版は「海外知識の収集(the Colecçāo de Noticias da Naçōes Ultramarinas)」の第2巻として1813年にリスボン(Lisbon)の王立科学アカデミー(the Royal Academy of Sciences)によって出版された。
「ドゥアルテ バルボサの本(Book of Duarte Barbosa)」: ドゥアルテ バルボサ(Duarte Barbosa)著の「ドゥアルテ バルボサの本(the Lovro de Duarte Barbosa)」と呼ばれる初版は「海外知識の収集(the Colecçāo de Noticias da Naçōes Ultramarinas)」の第2巻として1813年にリスボン(Lisbon)の王立科学アカデミー(the Royal Academy of Sciences)によって出版された。その後、ハクルート協会(Hakluyt Society)のマンセル ロングワース ダイムス(Mansel Longworth Dames)が翻訳・編集し、1919/1921年にロンドンで再出版された。
ドゥカトーン(Ducatoons): 最初1598年に鋳造され、18世紀まで使われたオランダの銀貨で、17世紀から18世紀にかけて、リックス銀貨(silver rix-dollar)が標準硬貨として再確認された時に、実際にそれに替わるドゥカトーン(Ducatoons)が東洋のオランダ領では一般的に使われる様に成ってきた。「オランダドゥカトーン(Ducatoons)或いはリダー銀貨(silver rider)は1659年に最初に確定され、その価格はオランダ本国で63ストゥイベル(Silver Stuivers)だった」と云う。(Ceylon Coins and Currency by H.W. Codrington)。
唐辛子(Cayenne、Red Pepper): ナス科の一年草で、熱帯アメリカ原産で、果菜として世界で広く栽培されている。果実は未熟の間は濃緑色で、熟すると赤くなる。多くの栽培品種があり、辛味種は果皮・種子に刺激性の辛味を有し、乾燥して香辛料とする。甘み種はピーマンと呼ばれ、食用にされる。
トウソウン パシャ(Tousoun Pasha): 太守モハンメド アリ(Mohammed Aly Pasha, 1805 - 1848)の息子(1794 - 1816)でオスマントルコの地方長官(Pasha: 知事・総督、Bey)任官しており、1811年のヒジャーズ遠征司令官に任じられた。
ドウッラ或はデュラ(Dhourra, Dura or Durra):ドウッラとはアズキモロコシ(Sorghum vulgare)であり、これはアフリカ北東部からインドにかけて生育するイネ科の穀物・家畜飼料用モロコシでギニア コーン(Guinea Corn)、インドキビ(Indian Millet)、ジョワール(Jowar)とも云う。ジッダ(Jiddah)の市場で売られていたアズキモロコシ(Indian Millet)は小さな粒を有する種類はイエメンから運ばれたが、多くはヌビア(Nubia)内陸のタカ(Taka)からソワキン(Sowakin) 持ってこられ、ジッダへと運ばれた。
同盟国(Central Powers): 第一次大戦までのいわゆる三国同盟(1882年)を結んでいたドイツ(German)、イタリア(Italy)、オーストラリア・ハンガリー(Austria/Hungary)で第一次大戦中はドイツ、オーストラリア・ハンガリーで時にトルコ(Turkey)、ブルガリア(Bulgaria)を含む。
トゥールーン朝(Tulunids): エジプト・シリアにまたがるイスラム王朝(868 - 905)で、アッバース朝(Abbasids)によりエジプトに派遣されたトルコ系軍人アハマド イブン トゥールーン(Ahmad ibn Tulun)がそこで実権を握って独立し、905年に再びアッバース朝の支配下に入った。(チュルニド朝(Tulunid)を参照。)
「東洋インド情勢の記録(Livro do Estado da India Oriental)」: 1646年にペドロ バッレト デ レセンデ(Pedro Barreto de Resende)を執筆を完成した。
「東洋と幾つかのその他の国々の記述」: (Description of the East and some other Countries)、英国の旅行家リチャード ポーコック(Richard Pococke) (1704 - 1765)は1737年から1742年まで中東(Orient)を旅した紀行文を執筆し、ロンドンで1743 - 1745年に出版した。
「東洋交易(Oriental Commerce)」: ウィルアム ミルバーン(William Milburn)が著作 1813年に出版し、トーマス ソートン(Thomas Thornton)がその改訂版を1825年に出版した。「東洋交易(Oriental Commerce)」あるいは「東インド貿易の徹底指針(East Indian Trader's complete Guide)」はヨーロッパからの航海の途中にある東洋の島々(Eastern Islands)および交易港(Trading Stations)を含むインド、中国、日本およびその近隣の国々に海辺の地理的および航海に関する記述をも包含している。さらにこの本にはそれぞれの国々での交易、産物、貨幣、度量衡(Weights and Measures)、入港規則、関税(Duties)、料率(Rates)、料金(Charges)等の記事およびこれらの国々からの英国への輸入商品とそれに掛かる関税の記述も含まれている。それらと共に名誉ある東インド会社の故ウィルアム ミルバーン(William Milburn)が東インド業務(East Indian Service)に長年勤務し、インドと中国への7度の航海の途中で集めた多くのその他多くの情報を含んでいる。それらはトーマス ソートン(Thomas Thornton)著で1825年ロンドンのM.R.A.Sから出版された改訂版の56頁から64頁に同氏の遺言執行人のもとに残された報告書から入念に作成した抄訳および多くの追加された貴重な事項等が掲載されている。
「道路と王国の本」の訳本: アッバース朝の王子の為に西暦846年にイブン コールダドビ(Ibn Khordadbih)によって編纂され、イスラム帝国の偉大な交易路の興味ある概要を含んでいた「道路と王国の本 (Kitab al-Masalik wa'l-Mamalik, Liber Viarum et Regnorum or Book of the Roads and Kingdoms)はM. J. デ ジョエジュ(M.J. de Goeje)によって翻訳・編集され、1889年にライデン(Leyden)で出版されている(ed. and tr. by M.J. de Goeje. Bibiliotheca Geographorum Arabicorum, t. VI, Leyden 1889.)。
ドカン(Dokan): ヒジャーズのベドウイン達は熱烈にタバコを好み、タバコ(Tobacco)(ドカン(Dokan))としてでは無く、男の嗜好品と云う名で、自分の店でワッハーブ派(Wahabys)へは知れないように内密に売る者達が居た。
トーゴ(Togo): アフリカ西部ギニア湾に面し、ガーナ(Ghana)とベナン(Benin)に挟まれた元フランス信託統治領で1960年に独立、面積5.6万km2、人口は413万人(1995)で首都はロメ(Lomé)。
都市部軍事作戦: MOUT(Military Operations on Urban Terrain)
トーソン パシャ(Tosun Pasha): トーソン パシャ(Tosun Pasha、1794 - 1816)はツースン パシャ(Tusun Pahsa)とも転写される。1805年から1849年までオスマン帝国(Ottoman Empire)エジプト総督(Wali of Egypt)であったムハンマド アリ パシャ(1805 – 1849)の長男である。ムハンマド アリ パシャの継子で養子の著名なイブラヒム パシャ(Ibrahim Pasha)*とは異なってはいたが、トーソン パシャは幾つかの歴史的に重要な業績を上げている。1811年にワッハーブ派軍(Wahabbi Forces)によって引き起こされたアラビア半島の騒乱を鎮圧する為の軍事作戦を成功させた。歴史的な記録からトーソン パシャはムハンマド アリ パシャによってその遺産を引き継ぐように運命付けられていた。しかしながらその願いは1816年に恐らく病気でトーソン パシャが死亡した為に叶えられなかった。この為に軍事最高司令官としての地位は継子で養子のイブラヒム パシャ(Ibrahim Pasha)が引き継いだ。数年後の1848年にトーソン パシャの息子アッバス(Abbas)が祖父から直接、総督(Pasha)の地位を受け継ぎ、1854年に暗殺されるまで6年間その地位にあった。
トト(Thoth): エジプト神話でトキ(ibis)の頭部をもつ、知識・学芸等の支配者。
ドバイ(Dubai): アラブ首長国連邦の7首長国の一つ、連邦北東部でペルシャ湾に面し、石油採掘・商業が主産業で貿易港を有し、観光地としても発展し、人口27万人。
ドファール(Dhofar): オマーン南部の地方名でアラビア語名はズファール(Zufār)でイエメン(Yemen)と国境を接する。山の多い地域で面積は9.93万平方キロで人口は21.6万人あり、中心都市はサララー(Salalah)である。歴史的には世界中での乳香(Feankincense)の主要産地であった。
トマス ジョゼフ アルノー(Thomas Joseph Arnaud): 1843年パリで出版されたアジア ジャーナル(Journal Asiatique)の第4シリーズ第V巻および第VI薪に登場する「(In Journal Asiatique 4e Série, t. V & VI, Paris 1843.)。
トムバク(Tombak): バスラ(Basra)とバグダッド(Baghdad)等で産する少し質の落ちる種類のタバコで、その葉は薄い黄色であり、普通のタバコに較べて味が濃い。従って、味をまろやかにする為に前もって洗われる。埋葬(the Bury)に使われるトムバク(tombak)はイエメン(Yemen)から運ばれ、他のタバコと同じ種類で有るが、質が落ちる。この商品(Article)の交易は非常に多く、そのヒジャーズでの消費は殆ど信じられ無い程に多い。大きな量がエジプト(Egypt)向けに船積みされる。
ドミンゴ バディア イ レブリシュ(Domingo Badía y Leblich): スペインの旅行家(1766 - 1818)でイスラム教徒に変装してアリ ベイ アッバッシ(Aly Bey al-Abbassi)の偽名でモロッコ(Morocco)を踏査し、キリスト教徒として1807年に始めてメッカ(Mecca)に至る。エルサレム(Jerusalem)、コンスタンチノープル(Constantinople)を経て、帰国し、「アリ ベイ(Ali Bey)の1803年から1807年の間の旅行記」を著述し、1814年にパリ(Paris)で出版した。
トライデント ホテル(Trident Hotel): カミス ムシャイト(Khamis Mushayt)のトライデント ホテル(Trident Hotel)に私が最初に泊まったのは19987年の冬であった。このホテルは町中にあるのに豪華に改造され庭園もある立派な四つ星ホテルに成って居り、接待も快い。2003年の冬には三食付きの観光パックやガイド(guide)も整備していた。
トライリーム(Trireme): 古代ギリシャ・ローマ時代の三段オールのガレー船(Galley)。
ドラクマ(Drachma): 古代または現在ギリシャの重量単位(cf. Dram)で、現代ギリシアの通貨単位(100 Lepta)であり、古代ギリシアの銀貨(6 Obols)であった。(リーダース英和辞典)
ドラム(Dram): ドラム(Dram)は古代にはドラクム(Drachm)と綴られ、重量単位と通貨単位の両方に使われて来た。 古代ギリシャの重量単位ドラクム(Drachm)は100分の1ギリシャ マイン(Mine)で約4.37gであった(ローマ ドラクム(Roman Drachm)は3.41g)。現代のドラクム(Drachm)は1/16常用オンス=1.772g、1/8薬用オンス=3.888gで1/8液量オンス=0.0037lit.である。(ドラクマ(Drachma)を参照。)
トランソクシアナ(Transoxania): オクスス川(Oxus River)(現在のアムダリア川(Amu Darya))以北のブハラ(Bukhara)およびサマルカンド(Samarkand)を含むオアシス定住地域で古くはソグディアナ(Sogdaiana)と呼ばれた。
ドリオピセカス(Dryopithecus):中新世中期から鮮新世初期に生存していた化石類人猿でゴリラ(gorilla)、チンパンジー(chimpanzee)、人類共通の祖先と考えられている。
トリスタン ダ クーニャ(Tristão da Cunha): ポルトガルの航海者・探検家(1460? - 1540); インド遠征途上で1506年にトリスタン ダ クーニャ(Tristan da Cunha)諸島を発見し、後にマダガスカル(Magagascar)島、ソコトラ(Socotra)島等を探検した。
トリスタン ダ クーナ諸島(Tristan da Cunha): 南アフリカと南米の間の南大西洋にある4つの島からなる火山島群。
トリポリ(Tripoli): アラビア語でタラブルス(Ṭarābulus)と呼ばれ、東地中海沿岸に広がるレバノン(Lebanon)で人口50万の第二の都市であり、首都ベイルート(Beirut)と同じく港町である。(リビアの首都トリポリと同名なのでリビア側を「西トリポリ」と言うこともある。)トリポリは古くから東地中海有数の富裕な港として栄え、十字軍による破壊以前は「ダール・アル・イルム(Darb al Ilm or House of Knowledge)」という大図書館を有していた。第一回十字軍の際に陥落し、十字軍国家のトリポリ伯領(County of Tripoli, 1109 - 1289)となり、1289年マムルーク朝(the Mamluk Sultanate, 1250-1517)に滅ぼされ破壊されるまで数度にわたる十字軍の上陸・補給拠点として、またイタリア商人らによる通商の場として利用された。
トール(Tor): シナイ半島(Sinai Peninsula)のスエズ湾(Gulf of Suez)の湾口に近い湾岸部に位置するエジプト(Egypt)の都市。この名はモーゼ(Moses)が神から十戒の銘版(tablets)を授かったトール山(Jabal Al Tor)に由来する。
トルキー マディ宮殿: トルキー マディ宮殿(Turki Al Madi Palace)の入り口に掛けられた説明書きには「この宮殿はイスラム暦1362年(およそ西暦1943年)に公国政庁、裁判所および無線局として建てられた。その一部は公とその家族および護衛の為に占有されていた。この宮殿は当時のナジラン公(Prince of Najran)であったトルキー ビン モハンメド(Turki Ben Mohammed)の監督の下に計画・建設された。この宮殿は完全な城と考えれており、十分に満足できた。この公国を継承したのはトルキ ビン モハンメド マディ、ハマド ビン モハンメド マディ、アリ ムバラク イブラヒム ビン アブデュル ラハマン ナシミ、カリド ビン アハマド セダイリであった。この宮殿にある60部屋の内訳は4部屋が無線局、6部屋が武器庫、礼拝(Salah)呼びかけ役(Muazzin)とモスクの部屋、裁判所の部屋、政庁執務室5部屋、客の接待や公式行事を行うレセプションの部屋、診療室、食堂、コーヒールーム、貯蔵庫、公とその家族の住居17部屋、食料貯蔵庫と用具庫に6部屋、飼料貯蔵に4部屋、護衛兵宿舎(Al-Akhuia)12部屋である。中庭にはイスラム以前から掘られていた古い井戸がある。その深い部分はレンガで補強され、浅い部分は補修の際に石組みで補強されていた。この宮殿の4隅には円形の塔がある。ナジランの総合教育地区は教育総局アブデュル アジズ アハマド アイアディの監督の下にイスラム暦1406(およそ西暦1985年)年以前に建てられていた様にこの宮殿の再建に当たった」と述べられている。「Prince Turki Al Madi Palace: The Palace was built in 1362 AH to be princedom zone, the court and the wireless. A part of it was specified for the prince and his family and also the prince guards. The palace was planned and it was built under supervision of "Turki Ben Mohammed" Prince of Najran these days, the palace is considered a complete castle and it is sell satisfaction, the Following Princes sub/sequenced the princedom / one-Turki Ben Mohammed AlMadi. Hamad Ben Mohammed Almadi. Ali Almubarak. Ibrahim Ben Abdul Rahman Al Nashimi. Khalid Ben Ahmad Al Sedairi.The Place Contents sixty rooms were distributed as following: wireless building '4 rooms'. weapons store '6 rooms'. The mosque and the muazzin room. the court room. Official office '5 rooms. The main reception of the Prince to receive guests and for official occasions. Hospital room 'Dining room' Coffee room and a store room. The Prince and his family house '17rooms. Food stores and tools '6 rooms' Enimals folds '4 room'.'Gaurd house "Al-Akhuia" '12 rooms'. The inner courtyard has an old well it was dug since the days before Islam. its lower part was made form bricks and its upper part was made from stones during rebuilding. The palace has 4 towers in its corners. They are circular in shape. Najran general educational zone took care in reconstructing the palace as constructed before 1406 under Supervision of general director of education Mr. Abdul Aziz Ahmad Al Aiadi」
トルクメン(Turcoman): トルクメン(Turcoman, Turkmen or Turkman)は主としてトルクメン(Turkmenistan)、イラン北東部(North-Eastern Iran)のホラーサーン地方(Khorasan)およびアフガニスタン北部(Northern Afghanistan)地方に住むテュルク語系諸族(Turkic People)のトルクメン語(Turkmen language)を話し、伝統的に遊牧とオアシス農業を営んできた民族である。
トルクメニスタン(Turkmenistan): 中央アジア南西部でカスピ海(Caspian Sea)東南岸から東に広がる共和国。カラクム砂漠(Kara kum)が国土の85%を占めており、国民のほとんどは南部の山沿いの都市に住んでいる。豊富な石油・天然ガスを埋蔵する。首都はアシガバード(Ashgabat )でパルティア(Parthia、BC 247 - AD 226)(漢名「安息国」)の発祥地ニサ遺跡(Site of Nisa, Ancient Capital of Parthians)が近くにある。
トルコ交易兵(Trading Janissaries): 近衛兵に入り込んだまともな商人であり、軍隊の恩恵によってそうでなければ旅の途中で賦課される課税から免除されている。しかし、交易兵は兵役を負わないし、給与も支給されていない。この様な交易兵は民事統治者から独立しており、自分の所属している軍隊の将校以外の裁きには従わない。交易兵(Trading janissaries)も自分達の荷物と糧食を運び為のトランク1個と行李2個に対する免税も享受しており、交易兵はそれらの中に荷物と糧食ではなく自分達のもっとも価値のある商品を詰め込む。
トルバー(Turubah): マッカ州(Makkah Al Mukarramah Province)東部にあり、「沙塵・火山灰地」を意味する「トルバー(Turubah)」と名付けられた町である。この町はハダン熔岩地帯(Harrat Hadan)とナワシフ熔岩帯(Harrat Nawasif)に挟まれた涸れ谷スバイ上流に位置し、乳香の道がブグム熔岩地帯(Harrat al Buqum)を通り抜ける出入口と成って居た。
トレヴィサン(Miss Luisa Trevisan): アンジェロ ペセ博士のアシスタント。
トログロダイ族(Troglodytes): イエメンの対岸で、現在のジブチ(Djibouti )に住むと云われた裕福で強力であった部族で、シャルル ルイ・ド・モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu, 1689 - 1755)の書いた「ペルシア人の手紙(Persian Letter)」では「想像上のアラビアの部族で古代トログロディタエ族(Troglodytae)子孫だろう」と述べられている。トログロディタエ族(Troglodytae)はアフリカの紅海岸に住んでいた古代部族で穴居人の意味もある。
トワイク山脈(Jabal Tuwayq): トワイク山脈(Jabal Tuwayq)は空白地帯沙漠(Rub Al Khali)の南西部に近いムーダファン峡谷(Muhdafan Gap)の南からリヤド(Riyadh)へ向かって640km北上し、リヤド(Riyadh)付近で北西に方向を変え、スダイリ(Sudayr)の西の端まで更に延びて居り、ジルフィ(Zilfi)の市街を越えて、リヤド(Riyadh)から北西約270km辺りで、ダーナア沙漠(Dahna' sands)の砂丘の中に消えて行く。トワイク山脈の中心部はリヤド(Riyadh)付近であり、標高が1,070mもあり、その西側の崖地は荘厳な景観でその麓の平地から平均245mも屹立して居る。
ドン アルヴァーロ デ カストロ(Dom Alvaro de Castro): 1517年3月に紅海に入ったソアレス(Soares)提督指揮下のブリガンティン型帆船(Brigantine)の艦長で、幾つかの船を拿捕したが、その略奪品で積載過剰となり、沈没し、40名の乗り組員と共に溺れてしまった。
ドン アンリケ デ メンセス(Dom Anrique de Menses):1525年にポルトガルがカリカット(Calicut)の砦を放棄した時の総督。
ドン ジョアム デ リマ(Dom Joam de Lima): カリカット(Calicut)のポルトガルの砦の司令官で、1525年までに戦争を終わらせた。
ドン ジョアン ダ リスボア(Dom João da Lisboa): 1552年7月にピリ ライス(Piri Rais)がアラビア海経由でアラビア湾入りした時のポルトガル(Portugal)のオマーン(Oman)要塞司令官。
ドン ドゥアーテ ガルバン(Dom Duarte Galvão): 1515年4月7日にリスボン(Lisbon)を出航した新総督ロポ ソアレス デ アルベアガリア(Lopo Soares de Albergaria)の艦隊に乗り合わせたポルトガル(Portugal)のアビアシニア(Abyssinia)宮廷への新任大使。
ドン フランシスコ ダルメヤダ(Dom Francisco Dalmeyada): ポルトガルの初代インド総督(Viceroy of India)フランシスコ ダルメイダ (Francisco d'Almeida)の別称。
ドン ロレンソ ダルメイダ (Dom Lourenço d'Almeida): フランシスコ ダルメイダ(Francisco d'Almeida)の息子で1508年1月に3艘の船と5隻の(Light Caravel)の軽カラベル船から成る小艦隊でチョウル(Chaul) の港を訪れた際、フサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)に襲われ、戦いは2日目も3日目も続いたが、若いアルメイダ(Almeida)の死によって終わった。
ナイジェリア(Nigeria): アフリカ西部ギニア湾に面する英連邦の国で15世紀以来300年間がポルトガル(Portugal)、オランダ(Holland)、イギリス(UK)等の奴隷貿易の中心地で19世紀以来イギリス領であったが1960年に独立、面積92.3万km2、人口1億1,172万人(1995)で首都はアブジャ(Abuja)。
ナイブ(Naib): メッカ(Mecca)の副首長(Deputy or Lieutenant)。
ナオ船(Nao): カラック船(Caravel)に似た、それよりも大型の帆船で船体中央部に甲板がある。コロンブス(Columbus)の乗船したサンタ マリア(Santa Maria)号はナオ船(Nao)である。
ナジド(Najd): ナジド(Najd)とはアラビア半島中央部の台地を示す地理的な定義である。「大いなる砂の海」とも云われるナフド沙漠(Nafud)がナジドの北限で、空白地帯沙漠(Rub' Al Khali)がその南限である。ダハナ沙漠(Dahna')の砂山の長い尾根がナジドを東部州やアラビア湾(Arabian Gulf or Persian Gulf)から遮って居り、ヒジャズ・アシール山脈(Hijaz-Asir Mountains)がこの台地の西の外れであり、紅海(Red Sea)やティハマー低地(Tihamah)と遮っている。ナジド(Najd)は標高が762mから1,525mの高原であり、その東側(下ナジド)にはオアシス(Oasis)集落が多く、全体にはベドウイン(Bedouin)が疎らに散らばって遊牧生活を営んでいた。その経緯度は北緯20°から28°で東経41°から48°で東西880km、南北720kmの範囲である。この地域は西暦1899年から1912年にかけてアブドル アジズ イブン アブドル ラーマン イブン サウド(Abdul Aziz ibn Abdul Rhaman ibn Saud)の率いるワッハビ(Wahhabi)軍団がオットマン帝国(Ottoman Empire)から戦い取った地域であり、西暦1932年にはイブン サウド(Ibn Saud)が設立したサウディ アラビア(Saudi Arabia)の一州ととなり、首都リヤド(Riyadh)が置かれた。その後、1963年にサウディ アラビアが全土を西部州(Hijaz)、中央州(Najd)、西南州(Ashir)と東部州(Hasa)の四州に分けた内の中央州(Najd)でもあり、その主な行政区はジャバル シャッマール(Jabal Shammar)、カシム(Qasim)、スダイル(Sudayr)、ワシュム(Washm)、アリド(Arid)、アフラジ(Aflaj)、ハンク(Hank)、ヤママー(Yamamah)およびワディ ダワシール(Wadi Dawasir)であった。
ナジド4部族(4 Najd Tribes): ナジド(Najd)でオアシス農業(Oasis Farming)や遊牧(Nomadism)を営んでいたベドウイン(Bedouin)はシャンマル族(Shammar)、ハルブ族(Harb)、アテバ族(Ateba)およびムテール族(Muter)の4部族であった。。
ナシフ邸(Nasif House): ムハンマド ナシフ(Muhammed Nasif)は1884年ジッダに生まれた高名な学者(scholar)で、蔵書家(Bibliophile)で、新聞の編集者であり、その蔵書には曾祖父の父親(grand-grandfather)が生存中に収集していた多くの貴重な写本(Manuscript)も含まれ、アラビア語の蔵書の数は6,000冊に及んでいる。又、その屋敷はジッダ建設を代表する芸術的な建物であり、もてなし心豊かで交際好きなムハンマド ナシフは多くのつつましい巡礼達を始め、著名なイスラムの学者やアラブ学者(Arabist)を援助したり、そこで接待したりした。それらの訪問者の中にはアブデュラアジズ国王(King Abdulaziz)やローレンス(T.E. Lawrence)も含まれていた。サウジ政府は「この芸術的な建物を保存する事が国家にとって重要である」と認識し、ナシフ邸(Nasif House)を公共図書館として現在、活用・保存している。(アラムコワールド誌から抄訳)
ナシール-イ コスロウ(Nasir-i Khosrow): 伝説的なイスマイル派信者詩人で哲学者である。西暦1004年に生まれ、その「詩集ディバン(Divan、Collection of Poems)」とその著作「サファール ナメ(Safar Nameh、Book of Travel)」で知られている様にペルシア文学(Persian Literature)と思考に最も卓越した人物の一人であった。
ナジラン(Najran): ナジラン(Najran)は深い涸れ谷の谷底に延びる細長い古い町で、今はナジラン州の州都である。ナジランにはアラビア語で「扉を開閉する為の木枠」とか、「喉の渇き」との意味であるけれども、「削られた谷」との意味もある。この涸れ谷はそれを実証している様に険しいので私にはこれが相応しく思える。この涸れ谷はイエメン方面からも豊富な水を集めて沙漠の谷間に豊かな緑の園を生み出している。この町の上流にスイスの会社が建設したナジラン渓谷ダム((Al Madhiq Dam))は代表的なサウジの治水ダムである。Najran はNagran或いはNadjranと綴られる事もある。
ナジランのキリスト教への改宗(Religious Conversion of Najran People to Christianity): 「西暦250年以降ヒムヤル宗主権下でキンダ族同盟をむすびナジラン地方が優勢(Acendancy)であった間に、この地方の人々は偶像崇拝(Idol Worship)からキリスト教に改宗した」との説もあるし、「5、6世紀にこの地域を旅していた商人を通じてのキリスト教への改宗した」との説や、「ナジラン(Najran)に奴隷として売られてきた修道僧フィ モイン(Fi-moyn)が多くのカラマ(Karamah)(奇跡)を起こし、ナジランの人々はそれを見た時にキリスト教を受け入れた」との説やズ ナワス(Dhu Nawas)自身がアブドッラ ビン サミール(Abdullah b. Thamir)と云う名のナジランの男が連れて来たキリスト教修道士達の一人に魔術で破れ、人々がキリスト教を受け入れた」等様々な説がある。しかしながら、そのどれもが凄惨な虐殺に耐えた強固な宗教心を説明するだけの説得力に欠ける様に私には思える。
ナジラン博物館(Najran Museum): 乳香の道の宿場オクドード(Ukhdood)を敷地にして居る。この博物館はサウジ国内では古代ユダヤ教徒(ヒムヤル族(Himyarites))の存在を公に明記している珍しい場所の一つである。
ナジラン ホリディイン(Najran Holiday-Inn): 1987年の冬にナジランを訪れた時には泊まれる様な宿舎が無く、苦労したがこのホテルが開業したお陰で空白地帯西部への訪問の拠点が出来た。
ナツメグ(Nutmeg): 肉豆蔲(にくずく)はニクズク科の熱帯産常緑樹高木、マレー原産で高さ10m、葉は長楕円形、葉質は厚く、雌雄異株、雌花は滞黄白色の鐘形で、花後、球形の液果を結び、果皮は肉質、仮種皮は紅色で種子中の仁、すなわち肉豆蔲(にくずく)は香気があり、古くから健胃薬・香味料・矯臭薬であり、幻覚作用・神経麻痺作用がある。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「ナツメグ(nutmeg)も香料諸島(Spice Islands)とも呼ばれるモルッカ諸島(Moluccas) 原産のメース(Myristica muscata)と云う植物の果実の種である」と説明している。
ナツメの木(Christ's Thorn): アラビアではシドル(Sidr)あるいはジュジュベ(Jujube)と呼ばれる。他にナブク樹(Nabk Tress)、Lote tree,、Christ's Thorn、Jujube とも呼ばれ、学名はZiziphus spina-christiである。アダムが地上に降りて始めて口にした食物と言われており、さまざまな薬効がある。葉はハーブ石鹸やふけ、シラミの予防、目の腫れや膿瘍の治療、肥満防止に効用があり、樹皮や根も胃痛、盲腸等に効用があり、アストリンゼンや咳止めに使われる。シドルの蜜はサウジ(Saudi Arabia)では最高級の蜂蜜で様々な薬効はあると珍重され、1kgで少なくともSR 800以上する。但し、この黒くドロッとした蜂蜜を私は苦手であった。シドルの木はサウジアラビア南部のアシール(Asir)、ナジラン(Najran)およびジザン(Jizan)にはごく普通に生えており、その蜂蜜はこれらの地方の特産物になっている。
7ユスフィ/頭(7 Yusufi pro Capite): 「マガリバ(Magharibah)が巡礼でジェッダ(Jeddah)に到着したとき首長に支払ったギジヤ(Giziya)は一人当たり7ユスフィであった」とイブン-アル-ムジャウィール(Ibn al-Mujawir, 1204 - 1291)著「タリハ アル-ムスターシール(Tarikh al-Mustahsir)」(副題:「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」)に述べられている。(1ユスフィ(Yusufi)はメッカの交換所では13カラット(Carats)1グレイン(Grain)に相当した。)
ナバテア王国(Nabataean kingdom): 紀元前一千年代の最後の世紀にナバテア王国は現在のジョールダン(Jordan)にあるペトラ(Petra)を首都として、現在のマダー'イン サーリー(Mada’in Salih or Madain Saleh)であるアル−ヒジル(Al Hijr)、デューマット アル−ジャンダル(Dumat al-Jundal)およびワディ'ル−シールハーン(Wadi'l-Sirhan)を支配下に置いて、それ以前に継続していた北西アラビアの国々に取って代わった。ナバテアはこの地域全体の戦略的な場所に町を築き、そしてワディ'ル−シールハーンをナバテア王国の二ヶ所の広く離れた部分をつなぐ生命線と位置付けた。ナバテアはデューマット アル−ジャンダルおよびワディ'ル−シールハーンを自分達が支配したと言う書き物での記録は残さなかったが考古学的にはそのしっかりした証拠を裏付けられている。ギリシャ(Greek)の地理学者で歴史家のストラボ(Strabo)(紀元前64年-23年)はその著書「地理学」の中に「アエリウス ガルス(Gaius Aelius Gallus)(ローマンのエジプト総督(Roman Prefect of Egypt, 26 BC - 24 BC))の紀元前24年のアラビア遠征(Arabian Expedition)の時にナバテアはアル−ヒジルを支配していた。」と記録している。ナバテアがアル−ヒジルとデューマット アル−ジャンダルを支配下に置いたのは紀元前一世紀の中頃或いはそれより少し前で、古代においてこの二つの町は南西アラビアのイエメンの乳香(frankincense)と没薬(myrrh)交易等を支配し、一番繁栄していたと時代と思われる。ナバテア王国はトラジャン(Trajan)帝治世の西暦106年にローマに併呑され、その後はローマ帝国とその後継のビザンチン(Byzantines)帝国の時代を通じて大シリア(Great Syrian)沙漠の荒野に明確な国境は存在しなくなった。
ナバテア人(Nabataeans): ナバテア人は元々はアラブ部族の放牧民であり、主に交易によってその力を蓄え紀元前4世紀の終わり迄に次第に定住し国造りをして来た。ナバテア人は南アラビアと地中海の伝統的な都市を結ぶ隊商交易を担い繁栄した。紀元前1世紀にはナバテア王国はその首都を今日の南ジョルダン(Southern Jordan)のペトラ(Petra)に置き、北西アラビアに有った諸国に取って代わった。ナバテア人はその支配をヒジル(al-Hijr)、デュマト アル ジャンダル(Dumat al-Jandal)およびワディル シールハン(Wadi'l-Sirhan)へと拡大して行った。ヒジル(al-Hijr)とは現在のマダ’イン サレー(Mada'in Salih)である。ナバテア人はこの地域の戦略的位置にそれぞれ都市を建設した。ワディル シールハンは遠く分離したナバテア王国の領土を結ぶ生命線と成り、この時期に古代のヒジルやデュマト アル ジャンダルは最も繁栄していた。
ナフド沙漠(An Nafud): 偉大な砂の沙漠(Al-Nafud)は偉大なナフドとも呼ばれジャウフ州(Jawf)から南南東にハイル州(Hayil)および北部国境州(Northern Borders)へと広がっている。北緯27°00'から30°00'、東経39°00'から43°00'に位置して居り、サウディアラビア北西部の広大な変形した盆地を埋め、その面積は67,300平方キロに及ぶ。ナフド沙漠の砂丘の際だった特徴はファルジ(Falj)と呼ばれるその形にある。ファルジはほぼ半楕円で、馬の蹄の巨大な跡の様な形をしている。この沙漠の植生は安定しており、豊かなので遊牧に適して居る。ナフドの名前は 砂丘を意味するニフド(al-Nyhud)から次第に訛ってこの様に呼ばれる様に成った。
ナフド堆積盆: ナフド砂沙漠がタブーク堆積盆(Tabuk Basin)およびウィディアン堆積盆端部(Widyan basin margin)両方の大半を被っているのでこれらを合わせナフド堆積盆(Nafud Basin)と呼んでいる。この二つの堆積盆を分割する様にハーイル・ルトバー孤型地形(Hail-Rutbah Arch)がハーイル(Hayil or Hail)の東部付近から北へと延びている。タブーク堆積盆の古生代(Paleozoic)初期の堆積層はワディル シールハン(Wadi'l-Sirhan)堆積盆を構成する新生代(Cenozoic)の堆積層の南部の下部層へと広がっている。
ナポリ大学東洋学科: Istituto Universitario Orientale of the University of Naples.
ナミビア共和国(Republic of Namibia): 通称ナミビアは、大西洋に面したアフリカ南西部の国。首都はウィントフック(Windhoek)。北にアンゴラ(Angola)、北東にザンビア(Zambia)、東にボツワナ(Botswana)、南に南アフリカ共和国(Republic of South Africa)と国境を接し、また大西洋に面する。「ナミビア」の国名は、この国の南部に広がるナミブ砂漠(Namib Desert)に由来し、「ナミブ」は主要民族であるサン人(San, Khwe or Bushmen)の言葉で、「何もない」という意味である。当初ドイツ(Germany))(一部イギリス(UK))が植民地とし、植民地時代時代の名称は南西アフリカ。第一次世界大戦以後は南アフリカ連邦が委任統治を足がかりに国際法上違法な併合を行った。その後、1990年に独立を達成している。(ウィキペディア)
ナーヤル(Nair): ナーヤル(Nayar)とも呼ばれ、インド南西部ケララ(Kerala)州のマラバル(Malabar)海岸のカースト(caste)またはその一員で古くからこの地域を政治的・軍事的に支配していたが、9世紀ごろまでにヒンドゥー化され、英国に夜植民地化以前は典型的な母系社会を形成していた。
ナルマダ川(the Narmada): インド中部マディヤ プラデシュ州(Madhya Pradesh)東部に発し、サトプラ山脈(Satpura Ránge)山脈の北側を西に流れ、アラビア海のキャムバイ湾(Gulf of Cambay)に注ぐインドでガンジス(the Ganges)川に次ぐ聖なる川である。
名の知れないポルトガル人の奴隷(Anonymous Portuguese Slave): リチャード ハクルート(Ricard Hakluyt)がおよそ1580年に出版した有名な「主要な航海(Principal Navigation)」の中で活字化された名の知れないポルトガル人の奴隷の報告書の英語文章のあちらこちらに現れる幾つかのイタリア語の単語から判断し、元々は他のヴェネツイア人(Venetian)の作品ではないかと思われる。これにはアレキザンドリア(Alexandria)とカイロ(Cairo)の市の様子、カイロからメッカ(Mecca)への巡礼路、巡礼の儀式およびメッカ、メディナ(Medina)、ジッダ(Jiddah)の市の様子等が記述されている。オットマン スルタン国(Ottoman Sultan)の支配者としてのムラト三世(Murad III)との関係からこの報告者は1574年から1595年の間に書かれているが、前述した様にこれはハクルート(Hakluyt)によってその出所や著者に対する注解無しに出版されている。この奴隷巡礼者の頁から出たジッダの絵は非常に興味深く、原案はトルコによる防衛に一部貢献している。この奴隷はヒジャーズ(Hejaz)の都市を見ているに違いない。古い英語は読むのを少し難解ではあるが散文は聞いていて楽しい。
南京木綿(Nankins): 淡黄色の布地(Yellowish Cotton Cloth)でアラビア住民の大部分が使っている。
ニコロ デ コンティ(Nicolò de' Conti、1395 - 1469): ヴェニス(Venice)近傍のキオッジア(Chioggia)の生まれで、若いときからダマスカス(Dammascus)交易に従事し、コンティはそこでアラビア語を学んだ。1419年に、コンティはアラビア(Arabia)とペルシア(Persia)に向かう隊商に加わり、そこでの冒険の魅力と未知が次第にコンティを捕らえた。コンティは東洋に向かう船に乗り、25年間の放浪の後、やっと自分の母国に戻った。コンティはホルムズ(Hormuz)からインド(India)そしてセイロン(Ceylon)、ジャワ(Java)、スマトラ(Sumatra)及び南支那(South of China)に行った。帰路にコンティはビルマ(Burma)を訪問し、そこでコンティはイラワディ川(Irrawaddy River or Ayeyarwady River)をアヴァ(Ava)まで遡った。それから西インドのコーチン(Cochin)、カリカット(Calicut)およびカンベイ(Cambay)に立ち寄り、ソコトラ(Socotra)、アデン(Aden)およびベルベラ(Berbera)を越えて、ジッダ(Jiddah)に1438 or 1439年に着いた。シナイ山(Mount Sinai)でコンティはスペイン人(Spaniard)の旅行家ペロ タフール(Pero Tafur)に会っている。コンティはタフールに多くの体験を話している。その中にはエジプトのスルタンの領土を通過してカイロ(Cairo)へ通行する許可を得るために2年間もメッカで待っていた話の様にポッジョ ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini)に話していない物語もあったが、タフールの物語の信頼性には疑問がある。
「ニコロ デ コンティの本(Book of Nicolò de' Conti)」: 法王エウゲニウス四世(Pope Eugenius IV)の命令でニコロ デ コンティ(Nicolò de' Conti)の冒険旅行をフィレンツェ人(Firenzian or Florencian)の秘書ポッジョ ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini)が書いた「様々な運命(De varieate fortunae)」をハクルート(Hakluyt)協会のジョン ウィンター ジョーンズ(John Winter Jones)が翻訳・編集し、1857年ロンドンで「ニコロ デ コンティの本(The Book of Nicolò de' Conti)」と題し出版した。
ニジェール(Niger): アフリカ北部、サハラ沙漠南部の元仏領西アフリカの一部で、1960年に独立、面積126.7万km2、人口915万人(1995)、首都はニジェール川(Niger Rive)沿いのニアメ(Niamey)。
ニジェール川(Niger River): アフリカ西部の大河、ギニア(Guinea)の南西端に発し、マリ(Mali)を経てニジェール(Niger)西端を流れ、ナイジェリア(Nigeria)中央部を流下してギニア湾(the Gulf of Guinea)に注ぎ、下流には大デルタを形成している。沿岸にはマリ(Mali)の首都バマコ(Bamako)、ニジェール(Niger)の首都ニアメ(Niamey)がある。
二重帝国(Austria-Hungary Empire or Dual Monarchy): ハプスグルグ家(House of Habsburg)がハンガリーのマジャール(Magyars or Hungarians)貴族と妥協して、1867年ハンガリー王国の建設を認め、同君連合(オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる)もとに成立した二重帝国で第一次世界大戦に敗れ、1918年に解体した。
ニネヴェ(Nineveh or L Ninus): 古代アッシリア(Assyria)の首都で612年に帝国が滅亡して廃墟となった。現在はイラクのモスル(Mosul)のチグリス川(Tigris)の対岸に遺跡がある。
ニーブール(C. Neibuhr): ドイツの旅行家で、測量士兼天文観測者であったニーブール(Carsten (Karsten) Niebuhr, 1733 - 1815)はデンマーク政府が派遣したアラビア探検隊に参加し、最も肥沃な部分のアラビアすなわちイエメンを科学的に調査する使命を帯びて探検した。5人の科学者と1人の召使いの6人で構成され、1761年にコペンハーゲン(Copenhagen)を出発した。1762年10月29日にジッダ(Jiddah)に上陸した。イエメンおよびその後のインドへの航海での途中で仲間はマラリア(malaria)、疲労困憊、栄養失調で一人一人死んで行き、ニーブール(Niebuhr)は最後の4年間を一人で旅してコペンハーゲン(Copenhagen)に1767年末に戻り着いた。
「ニーブールの旅の物語」: カルステン ニーブール(Carsten Nieburhr)自身の著作で「アラビアとその周辺の旅行記(Reisecbeschreibung nach Arabien und Andern Umliegenden Ländern)」との題名を付け、コペンハーゲン(Copenhagen)で 1774 - 1778年に出版された。
「ニーブールの旅の物語」の英語の翻訳: カルステン ニーブール(Carsten (Karsten) Niebuhr)(1733 - 1815)著「アラビアとその周辺の旅行記(Reisecbeschreibung nach Arabien und andern umliegenden Ländern)」の英訳は「アラビアとその他の東方の国々の旅行(Travels through Arabia and other Countries in the East)」と題され、エディンバラ(Edinburgh)で1792年に出版された。この本は最近ベイルート(Beirut)で日付無しに再版されているが、「カルステン ニーブール(Carsten Niebuhr)とその仲間の冒険と業績」の英語による完全な記述はごく最近になって、デンマークの1761年から1767年も遠征についての記述として、「アラビアのフェリックス(Arabia Felix)」との題名を付けられ、、H. ソールキルド(H. Thorkild)によってロンドン(London)で1964年に出版された。
「ニーブールの旅の物語」の仏訳再版: 「アラビアと隣接するその他の国々へのニーブールの旅行記」と題されて、1779年にパリで出版された(Description de l'Arabie d'après les observations et recherches faites dans le pays même par M. Niebubr Paris 1779.) 。
「ニーブールの旅の物語」の蘭訳再版: M. ニーブール著、「アラビアと隣接するその他の国々への旅行記(Voyage en Arabie et en d'autres pays circonvoisins par M. Niebubr)」はアムステルダム(Amsterdam)で1776年に出版された。
乳香(Frankincense): 乳香はカンラン科 (Burseraceae) ボスウェリア属の乳香樹(Boswellia Thurifera or Boswellia caraterii)の樹皮から取れる樹脂である。乳香樹はアフリカ(Africa)のエチオピア(Ethiopia))、アラビア(Arabia)のイエメン(Yemen)、オマーン(Oman)などの痩せた土地に自生しており、樹皮に傷を付けて樹脂を採るが、樹液は始め乳白色の液体で、空気に触れると固化し、淡黄色の涙型の樹脂になる。その先端が女性の乳首によく似ており、乳香と命名された。古来神に捧げる薫香として、又大切な客様をもてなす時の香りとして、又香料の保留剤として用いられる。わずかにレモン様の心を落ち着かせるしっとりした香りで、この乳香の樹を巡って、シバの女王(Queen of Sheba)とソロモン王(King Solomon)の取引も行われた程の貴重な樹でもある。ヘブライ人(Hebrew)とエジプト人(Egyptian)は莫大な富を費やしてこれをフェニキア人(Phoenician)から輸入していた。液体(精油)状のものと、塊状のものがあり、塊状のものはトパーズ(Topaz)のように美しく、そのまま飾ったり、砕いてポプリに混ぜたりしても美しい。精油は、成熟肌に新たな活性を与え、しわを取るとも言われている。皮膚の強壮剤としても活躍し、皮脂の分泌のバランスをとるのにも役立つ。
乳香と没薬(Frankincense and Myrrh): 橄欖科(バルセラ)(Burseraceae)類のボスウェッリア(Boswellia) 属の樹木から産するのに没薬(Myrrh)とブデリウム(Bdellium)はコッミフォラ (Commiphora) から産する。ベデリウム(Bdellium)は没薬になんとなく似ており、没薬としてしばしば見做される。古代にはこの二つの明確な区別は無かった。アラビアで知られているブデリウム(Bdellium) はコッミファラ マクル(Commiphora mukul) とコッミフォラ シンペリ(Commiphora scimperi) である。
乳香樹: ボスウェリア(Boswellia serrata Boswellia Roxb. ex Colebr.)属はカンラン科(Burseraseae)で和名は:乳香樹であり、アラビアの俗名ではサライグッガル(Salai Guggal)と呼ばれる。 ボスウェリア属の木は種類により微妙に香りや成分が異なるが、いずれもフランキンセンス(Frankincense)(現地名オリバナムOlibanum)(和名、乳香)と呼ばれる樹脂(Fragrant Oleo-Gum-Resins)を産出する。フランキンセンスは木の幹を傷つけて得られる乳液状の液体が硬化した樹脂である。この種の樹脂は、植物が菌に対する防衛作用や自浄作用のために産出する。 この樹脂を香呂で焚いたアロマは伝統的に中近東やインドの寺院などの祭壇、公共施設、レストランなどで、儀式や除虫、除菌に広く利用されている。また蒸留抽出によって得られたピネン(Pinene)を主成分とする精油は医薬品、化粧品、アロマテラピーに利用する。ボスウェリア属の乳香の主成分としてはピネン(Pinene)類、ボスウェリア酸(Boswellic Acid) 、オリバノレセン(Olibanoresene) 、ボスウェリディニク酸(Boswellidinic Acid) 等が分類、命名されているが、アーユルヴェーダ医療(Ayurveda Treatment)、漢方では抗菌を目的に使用されている。
乳香の道(Frankincense Route): アラビア半島南部の香(Incense)が生産される地域から現在のサウジアラビア(Saudi Arabia)を通って、ヨルダン(Jordan)、シリア(Syria)、エジプト(Egypt)および地中海沿岸(Mediterranean Coast)へ至る古代隊商路(Ancient Caravan Route)である。主要な交易品としての香(Incense)には乳香(Frankincense or Olibanum)と没薬(Myrrh)があった。
ヌスル ホテル(Al-Nusl Hotel): ヌスル ホテル(Al-Nusl Hotel)はサカカ(Sakaka)に入って最初の大きなロータリーに荘厳なアル ラブマニイヤ モスク(Al-Rabmaniyya Mosque)、私立図書館(ディール アル ジャウフ リル’ウルム(Dir al-Jawf lil-'Ulum))とアル ヌスル ホテル(Al-Nusl Hotel)が並んでいる。アル ヌスル ホテルはサウジアラビア王国内で最も美しいホテルの一つで博物館を兼ねている。ホテルは二階建てで吹き抜けの七つのホールを持ち、各ホールを囲んで十数の客室がある。観光庁の副長官のスルタン アル スダイリ(Dr. Sulman Al-Sudairi)は頻繁にこのホテルを訪れ、ジャウフ州の副知事がこのホテルの二階を住居として使っており、その為にホテル全体が警官によって厳重に警護されている。
布製品(Cloth Good): 布地で作られた製品。
ヌビア(Nubia): エジプト南部アスワン(Aswan)からスーダン北部ハルトゥーム(Khartoum)に至るナイル(Nile)川流域の沙漠地方で6-14世紀ドゥンクラ(Dunqulah)を都とする黒人キリスト教徒の王国(Makuria or Dunqulah)があった。
「ヌビア、コルドファンおよびアラビアの旅」: ドイツ人科学者のエドウアルト ルッペル(Eduard Rüppel)著、1829年フランクフルトで出版された(Reise in Nubien, Kordofan and Arabien 1822 - 1827. Frankfurt 1829.)。
ヌビアのベルベル族(Berábera Nubians): ベルベル人(Berbers)。
ヌール ムハンマディー(Nur Muhammadi or MuHammadan Light): ムハンマド的光ともムハンマドの光ともいう。すでにクルアーン(Qur'an)において「ムハンマドは光り輝く灯明」と呼ばれ、またその光章にあらわれるランプもムハンマドを象徴すると考えられてきた。この解釈によるとムハンマドを通して神的光が世界を照らし、またムハンマドによって人類はこの光の光源へと導かれる。又、ムハンマドは「導きの光(Nur al-Huda)」の称号でも呼ばれる。ムハンマドの徳や奇蹟を称える後世の伝記文学の中では「ムハンマドは身体から光を放ち、影をもたなかった」と伝えられ、この光がムハンマドの預言者性の証拠の1つと考えられた。「この光はすでに父のアブドゥッラー('Abd Allah ibn 'Abd al-Muttalib)に見られ、この光はその妻アーミナ(Aminah)がムハンマドを身ごもるまでこの光で輝いていた」といわれる。ムハンマド的光の概念は「アダム(Adam)が水と土の間にあった時、ムハンマドはすでに預言者であった」とハディース(Hadith or Hadith Nabawi)によって示唆されている。アダムの創造以前から存在するムハンマドという概念と結びついた。この光は神によってアダムの腰におかれ、その後、代々子孫に移っていき、ムハンマドに至った。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ネ
ネグラナ(Negrana): 紀元前24年にアエリウス ガルス(Aelius Gallus)がマールシアバ(Marsiaba)からの帰路に戦ったのが現在のアブハのサ’ダー(Sa'dah)(ソウダー(Sawdah))に近いネグラナ(Negrana)であった。
ネグラニ市(City of Negrani): ネジラニ(Nejrani)とも云い、現在のナジラン(Najran)であるが、ギリシア歴史家ストラボ(Strabo)著の「地理学(the Geography of Strabo)」での「紀元前24年から行われたローマ帝国軍の古代南アラビア(ヒムヤル国)遠征」の記述から解釈すると「ここでネグラニと述べられている町はメッカ(Mecca)ではないか」と私はかねてから考えていた。同じ様な意見の掲載(http://12thharmonic.net/commentary/aelius-gallus/)があったのでここではメッカと特定する事にしたい。
ネストリウス派(Nestorianism): ネストリウス派は古代キリスト教の教派の一つで、現在でもアッシリア正教会(Holy Apostolic Catholic Assyrian Church of the East)にその教義が伝わっている。ネストリウス派の起源はコンスタンティノポリス(Constantinople)総主教ネストリオス(Nestorius, c.386 - c.451)により説かれ、ネストリウス派の教義ではキリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に分離されると考える。それゆえ、人性においてキリストを生んだマリア(Mary)が神の母であることを否定する。ネストリウス派の教義は431年のエフェソス公会議(Council of Ephesus)でカトリック(Roman Catholic Church)、東方正教会(もしくギリシャ正教)(Eastern Orthodox Church)、東方諸教会(Oriental Orthodoxy)、聖公会(Anglicanism or Anglican Church)、代表的なプロテスタントのルーテル教会(Lutheranism)等のキリスト教主流派から異端として排斥された。ネストリウスが公会議で破門された後、ネストリウス派は498年セレウキア・クテシフォン(Seleucia Ctesiphon)に新しい総大司教を立てた。現在はアッシリア(Assyria)地域に点在する他、アメリカやオーストラリアに移民を中心とする信徒がいる。又、ネストリウス派の教会の一部は17世紀にローマに帰一し、現在も中東、アフリカで活動している。中国へは、唐の太宗の時代にペルシア人司祭の阿羅本らによって伝えられ、景教と呼ばれた。 (Wikipedia)
ネブガドネザル(Nebuchadnezzar, c. 630 - 562 B.C.): 新バビロニア王(605 - 562 B.C.)でエルサレム(Jerusalem)を破壊して紀元前586年に王と住民をバビロニア(Babylonia)に幽閉した。
ノ
ハイスタスペス: ペルシア王ダリウス ハイスタスペス(Persian King Darius Hystaspes)はアケメネス朝ペルシア(Achaemenid Empire or Achaemenid Persian Empire, 550 BC – 330 BC)のダレイオス1世(Darius I, c. 552 BC – 486 BC)通称ダレイオス大王(Darius th Great)である。
バイト アティーク(bayt al-'atiq): 神の家(House of God or bayt al-'atiq)は古代の家(Ancient House)ともアラブ族には呼ばれている。ムスリム(Muslims)はカアバ神殿(Ka'bah)の別称としてバイト アティーク(bayt al-'atiq)を使っている。
ハイト バラカ(Habit Al Baraka): 祝福の種とされ、黒クミンとも呼ばれるキンポウゲ科ニオイクロタネソウ(Nigella sativa)である。
ハイバル遠征(Expedition to Khaybar): カイバルの戦い(Battle of Khaybar)を参照。
バイバルス(Sultan Baybars): バイバルス(Sultan Baybars、1260 - 1277) (al-Malik al-Zahir Rukn al Din Baybars al Bunduqdari)はアブ ファツーハ(Abu al Futuh)とあだ名されたマムルーク朝(Mamluk 1250 - 1517)の第5代スルタン(Sultan)で、ルイ九世(King Louis IX, 1226 - 1270)の率いる第七次十字軍(Seventh Crusade, 1248 - 1254)に壊滅的な打撃を与えたモスレム軍の司令官の一人であった。バイバルスはモンゴル(Mongol)に滅ぼされたアッバース朝(Abbasid Caliphate, 750 - 1258)のカリフを受け入れ、求心力を高め、マムルーク朝(Mamluk)の繁栄の基礎を作った。「バイバルスはトルコ系のキプチャック族(Kipchak Turk)でモンゴルに囚われ、奴隷として売られてきたが、馬術に秀でていたので奴隷兵部隊(Mamluk)に編入された」と言われている。マムルーク朝(Mamluk 1250 - 1517)はバフリー・マムルーク朝(Bahri dynasty or Bahriyya Mamluks, 1250 – 1382)とブルジー・マムルーク朝(Burji dynasty, 1382 - 1517)に分けられるが、バイバルスは前者の時代に属する。
バイリーム(Bireme): 古代ギリシャ・ローマ時代の奴隷や囚人にこがせた2段オール(Bireme)のガレー(Galley)で帆も装備しており、海戦用にも使われた。
ハーイル(Hail or Hayil): ハーイルはハーイル州の州都で、リヤド(Riyadh)から西北西へ600km離れた涸れ谷 アルダイーリ’(Wadi Al Dayri')西岸の緩やかに傾斜した平原の中にある。この平原はジバル アジャ(Jibal Aja)の北側でジャバル シャンマル(Jabal Shammar)の南側に広がり、両方の山塊は共に花崗岩で出来ているのでハーイルは花崗岩の山に囲まれた盆地とも言える。涸れ谷 アルダイーリ’の流れがその両側の住人が一緒になるのを妨げて居た故事からこの町はハーイルと命名された。
ハインリク フライヘール フォン モルツアン(Heinrich, Freiherr von Maltzan): メッカの中心へのキリスト教徒の立ち入り禁止令を避ける為にモスレム巡礼の振りをした西洋人の偉業の見直しでは余り述べられていないが、モルツアンがアルジェ(Algiers)のムーア人(Moor)に扮して旅をする事でそこに到達する貢献を行い、1873年にドイツのブラウンシュヴァイク(Braunschweig) で出版された「南アラビアへの旅(Von Maltzan, H. Reise nach Südarabien Braunschweig 1873.)」を著述した。
バウクホッル(Boukhorr): アラビア語の英語転写Boukhor(Bakhour)は仏語でEncensであり、香とマンネンロウ(Rosemary)の意味がある(University of Balamand Mise à jour Feb 1, 2007)。(マブカラ(Mabkharat)を参照。)
ハガール(Hagar): 一神教(Monotheism)の偉大な長老アブラハム(Abraham)のエジプト人妻で、ハジャール(Hajar)あるいはハジラ(Hajra)とも転写される。
バキー墓地((al-Baqi' cemetery): バキーウ アル ガルガド(Baqi' al-Gjarqad)と呼ばれるイスラーム(Islam)第2の聖地メディナ(Madina)にある墓地で、預言者モスク(Mosque of Prophet)から東に約200m離れた場所にあり、広さは450m x 250mであり、預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の時代から使用されている。教友第3代カリフ ウスマーン イブン アッファーン('Uthman ibn 'Affan)を始め1万人以上が埋葬されている。ムハンマドの親族では叔父のアッバース(Abbas)、息子のイブラヒーム(Ibrahim)、娘のファーティマ(Fatimah)、ウンム クルスーム(Umm Kulthum)、ルカイヤ(Ruqayya)、ザイナブ(Zaynab)、孫のハサン(Hasan)、妻のアーイシャ('A'isha)、サウダ(Sawda)、ハフサ(Hafsa)が埋葬されている。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ハーグ(Hague): ハーグ市はオランダ語でデン・ハーフ市(Den Haag)と云い、北海沿岸に位置するオランダ王国(the Netherlands)の都市。アムステルダム(Amsterdam)とロッテルダム(Rotterdam)に次ぐオランダ第三の都市である。人口は2006年1月時点で475,580人。13世紀にその原型が作られた騎士の館(リッデルザール)と称される建物が現在の国会議事堂となっている。そのほかに、王室の宮殿、中央官庁、各国の大使館などが置かれており、実質的には首都機能を持っている政治の中心都市である。1248年、ホラント伯(Count of Holland)のウィレム2世(William II)によって建てられた。スペインに対して反乱した80年戦争(オランダ独立戦争)に際しては、1608年よりこの地で和平交渉が行われ、翌1609年にアントワープ(Antwerp)で休戦条約が成立した。宗教戦争は終止符が打たれウェストファリア条約(Peace of Westphalia)によってネーデルラント連邦共和国の独立が承認された。(ウィキペディア)
バーク型帆船(Barque): 近代でのバーク(Barque)と云う用語はケルト語(Celtic Languages)を通じてフランスのガリア語(Gaulish)から来ている。19世紀以前にはバーク(Barque)或いはバージ(Barge)は沿岸や内陸水面で使われた帆または艪櫂で推進させる小さな舟を意味していた。18世紀末にバーク(Barque or Bark)と云う用語は3本以上の檣(Mast)を持ち、後檣(Mizzenmast)のみが縦帆で残りは横帆を張られる艤装を持った帆船に使われる様になった。3本檣(Mast)の木製バーク船(Barque)は19世紀中頃の外洋貨物船としては最も一般的に使われていた。20世紀初期には4本檣(mast)の鋼鉄製バーク船(Barque)が典型的な外洋貨物船となった。米国では3本の檣(MAST)に横帆が張られ、後檣(Mizzenmast)のみが縦帆が張られた艤装された4本檣(Mast) バーク船(Barque)をシペンティン型帆船(Shipentine)とも呼んでいる。
バグダディ館(Beit al-Baghdadi): この名前は最初の持ち主であったバグダディ(Al-Baghdadi)に因んでつけられている。バグダディ(Al-Baghdadi)はジッダ(Jiddah)の裕福な地主であり、バグダディ(Al-Baghdadi)が開発したバグダディ郊外地区(Al-Baghdadi Suburb)としてもその名が残っている。バグダディ館(Beit al-Baghdadi)は見応えのあるジッダ建築のもっとも洗練された例である。手彫りのよろい戸が窓を覆い、一連の荒れ果てた仕切のあるバルコニー(Balcony)で壊され、手彫りされ、そして塗料を塗られていないその壁はトルコの総督(Turkish Governor)が住んでいた頃から受け継がれてきた使い古した壮麗さの気配を伝えている。著名なアラビア探検家ジョン フィルビィ卿(H. St. John B. Philby)もかつてバグダディ館(Beit al-Baghdadi)に住んでおり、アラムコ(Aramco)のジッダでの最初の宿舎でもあった。
「博物誌(Histria Naturalis)」: ローマの博物誌家プリニウスウス(Gaius Plinius Secundus) (通称プリニウス(Elder Pliny)) がA.D. 77年に博物誌(Histria Naturalis)を著述した。
バグラー(Baggalh or Baghla): 2、3本のマストに縦帆を張るアラビアの帆船で、チーク材(Teak-Built)で作られた外航船で積載量数百トンの最大のアラブ帆船である。
バクリ(Arab geographer al-Bakri): 偉大なアラビア地理学者、「地理辞典(ムジャム マ イスタジャム)」を著述、スペイン生まれのバクリは1094年に没する。ヤクト(Yakut)が採用している場所の名前を地理的な位置にかかわり無く、アルファベット順に一覧表にする方式を開発した。
ハクルート(Hakluyt): ハクルート協会(Hakluyt Society)はロンドンに登録されている慈善組織(Regidtered Charity)で世界史の発展に貢献してきた。同協会は1846年にリチャード ハクリート(Richard Hakluyt, 1552-1616)によって設立され、出版としては「大航海時代(Age of Discovery or Age of Exploration)」が有名である。
「バクリの地理辞典(ムジャム マ イスタジャム)」: 「バクリの地理辞典(Mujam ma Istajam - Das Geographische Wörtetbuch des Abu 'Obeid 'Abdallah ben Abd al-Aziz el Bakri ed. by F. Wüstenfeld Göttingen-Paris 1877ヴステンフェルト ゲッテンゲン編集、1877年パリで出版」。(同書234頁参照。)
バクル族(Banu Bakr): ムハンマド(Muhammad)の時代にヒジャーズ(Hejaz)に居住していたアラブ族でメッカ(Mecca)のクライシュ族(Quraish)と同盟を結んでいた。フダイビーヤの休戦協定(Truce of Hudaybiyah) に対する協定違反についてはクザー’ア族(Banu Khuza’a)を参照。
パーケール(Percale or Rhassah): 緻密な上等綿布でシーツ等に用いられる。
ハサ碑文: 幻の町ゲッルハ(Gerrha)(ジャル‘ア(al-Jar' a))時代に使われた主要な文字はイスラーム(Islam)以前のイエメン(Yemen)のシバ人(Sabaean )が使った文字(the Sabaean script)と同じである。これはハサ語(the Hasaean language)を書くのに使われ、ハサ語は余り史跡には使われて無いにせよサウジアラビアの他のイスラーム以前の方言と密接に関連した言語であると見なされている。今日知られているハサ碑文(Hasaean Inscriptions)はサジ(Thaj)から殆ど出土している。他はヒンナ(Hinna)、カティーフ(Qatif)、ラス・タンヌラ(Ras Tannurah)、アブケイク(Abqaiq)、アイン・ジャワン('Ayn Jawan)および南イラクのウルク(Uruq)から出土している。殆ど全てのハサ碑文(Hasaean Inscriptions)は墓石であり、名前、部族関係等の情報を与えている。アラム碑文(Aramaic Inscription)およびギリシャ碑文も東部州で出土している。
バ サラマ(Ba Salamah): バ サラマはアラブの著述家であり、ターイフの南東約20kmにある涸れ谷スマラ(Wadi Thumalah)の流れを堰き止めているスッド サマッラキ(as-Sudd as-Samallaqi)について「アマレク人(Amalekites)*がターイフを占拠していた時代にこのダムは建設されたのは明らかであり、この建造者は力のある男であった」と言っている。ヒジュラ歴1349 - 1353年(1930 - 1935)に出版されたバ サラマ(Ba Salamah)著の「ハヤト サイイード アラブ(Hayat Sayyid al-Arab)」の第III巻「メッカからジェッダへ」編には「サマッラキ(al-Sudd al-Samallaqi or al-Sadd al-Samallaqi)は長さは140mで高さは中心で10mで厚さは8mである。ダムの方向は東西であり、両端は両側の丘の岩肌に接しており、涸れ谷の築堤を成している」と記述されている。
バザール(Bazzaar): ペルシア語の市場でアラビア語のスーク(Suq)と同意語。
ハサン パシャ(Hasan Pasha): ムハンマド アリ パシャ(Muhammad 'Ali Pasha or rahimah-Allahu ta'ala, 1769 - 1849)の息子の一人で、ムハンマド アリ パシャがオスマントルコの師団を助け、聖都メッカと聖都マディーナから遠くイエメン(Yemen or Yaman)まで狼藉者達を一掃した。ムハンマド アリ パシャはメッカ(Mecca)に戻り、1815年(ヒジュラ暦1230年神聖な月)までに滞在した。その後、ムハンマド アリ パシャはエジプトに帰還するに際して、ハサン パシャ(Hasan Pasha)をメッカ知事(Governor of Mecca)に任じた。
ハシェミテ シャリフ(Hashemite Sharif): メッカの支配階級クライシュ族(Quraysh Tribe or Quraish Tribe)の一家であるハーシム家(Hashemites of Clan of Hashim or Banu Hashim)の首長。
ハシシ(Hashysh): 大麻の雌株の花序と上部の葉から分泌される樹脂を製したもので、麻薬として喫煙したり、噛んだり飲んだりする。大麻の花についてはこの為に種の周りにあるシェラネク(Sheranek)と呼ばれる小さな葉を使う。普通の人はパイプに詰めたタバコ(Tabacco)の上にそれを少量を載せる。常習者(Higher Classes)は次の様な方法で作られたマアジョウン(Maadjoun)と呼ばれるジェリーかペーストにして食べる。大量の葉をバターと共に数時間煮て、それから圧力をかける。その様にして絞り出されたジュースと蜂蜜とその他の甘い薬物を混ぜ合わせる。この為の店のあるエジプトでは公然と販売している。ハシーシ(Hashysh)ペーストはバスト(Bast)と呼ばれ、それの売人は「気持ちよい(Cheerfulness)」を意味するバスティ(Basty)と呼ばれる。カイロの主要高官達(Principal Grandees)の或る高官の息子の結婚式を祝う祭りで、この町の全ての船舶が派手な行進に参加させられた時に、バスティ(Basty)が商売をするのは禁じられ、法律で有罪になるけれども、もっとも派手である。お偉方(First Rank)の殆どがある形その他でバスト(Bast)を使う。これは阿片(Opium)同様に激しく気分を浮き立たせ、想像力を高める。このパーストにシリア(Syria)から来るベンジ(Bendj)の種を混ぜる人達も居る。
ハジミ (Al-Hazimi): 有名なHafiz(コーラン朗読者)で西暦1153年にハマダン (Hamadan) で生まれ、西暦1188年にバクダー (Baghdad)で没した。
ハーシム家(Banu Hashim or Hashemites): 預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の曽祖父ハーシム(Hashim ibn Abd al-Manaf, died ca. 497 or 510)を祖とする一門でクライシュ族(Quraish)*に属する。ハーシムの息子アブドゥル ムッタリブ(Abdul Muttalib, Abd al-Muttalib or Shaiba ibn Hashim, c 497 -578)にはアブドゥッラー(Abd Allah or Abdullah, 545 - 570)、アブー ターリブ(Abu Talib, 549 - 619)、アッバース(Abbas, c. 566 – c. 653)等の息子たちがいた。この内、アブドゥッラーの息子の預言者ムハンマド(Muhammad)は男児に恵まれぬまま末娘ファーティマ(Fatimah, c. 605 or 615 – 632)とその夫でアブー ターリブの息子で第4代正統カリフ(4th Rashidun, 656 - 661)となったアリー(Ali ibn Abi Talib, 598/600 – 661)との間にのみ血統が残った。従って、ハーシム家はアリー家を含むアブー ターリブ家とアッバース朝(Abbasid Caliphate, 750 – 1258)を樹立したアッバース家に大きく分けることができる。アブー ターリブ家にはアリー(Ali)の他にジャアファル(Ja’far)、アキール(Aqeel)の家系があり、アリー家にはファーティマとの間に儲けた二人の息子、ハサン(Hasan)、フサイン(Husain)がおり、特にこれをファーティマ家と呼ぶ場合もある。アリー家には他にムハンマド ブン アリー(Muhammad ibn Ali)、アッバース イブン アリー(Abbas ibn Ali)、ウマル イブン アリー(Umar ibn Ali)の家系がある。ハーシム家をはじめ、預言者ムハンマドやアリーの一族は歴史的にムスリム社会で敬意を受け、さまざまな尊称で呼ばれて来たが、特に預言者の血筋を引くファーティマ、アリー家の人々の場合、フサイン家の成員にはサイイド(Sayyid)(シーア派(Shi’a)のイマーム(Imam)はこの系統)、ハサン家(Hasan)の成員にはシャリーフ(Sharif)という尊称がそれぞれ用いられて来た。
ハジム ジャラミド(Hazm Al Jalamid): ハジム ジャラミドはジョルダン(Jordan)、イラク南部(Southern Iraq)およびシリア(Syria))へと広がる大規模な燐酸鉱物埋蔵堆積地域(Phosphate Rock Deposit Region)の一部であるワディ’ル シルハン・ツライフ(Wadi Sirhan / Turaif Area)地区のジャラミド鉱床(Phosphate Rock Deposit in Al Jalamid)の南端に当たる。燐酸鉱石の確定埋蔵量2.13億トン有するジャラミド鉱床の開発はサウジアラビア(Saudi Arabia)の重要施策の一つである。この鉱床の開発はツライフ(Turaif)西に位置するウンム ウ'アル(Umm Wu’al)鉱床と共にマ’アデン(Ma'aden( the Saudi Arabian Mining Company))に任されている。マ’アデン(Ma'aden)は東部州カフジ(Al Khafji)南西130kmでジュベイル(Jubail)の北60kmラス・ゾウル(Ras Al Zawr)にアラビア湾海岸工業地帯の一部として大規模なアルミニウムおよび燐酸肥料の輸出プラントと鉱石専門港の建設しており、間も無く、年間生産量64万トンのアルミニウム精錬所と年間生産量300万トンの燐酸ニアンモニウムプラント(燐酸肥料工場)(Diammonium Phosphate Plant)が稼働し輸出を開始する。この鉱床開発の為にサウジアラビア政府はサウジアラビア鉄道機構(SRO,(Saudi Railways Organisation))にジャラミドからラス アル ゾウルまでの鉄道建設を指示しており、その建設はすでに実行に移されている。
ハジル ヤママー(Hajr al-Yamamah): 現在のリヤド(Riyadh)地区
パシャリク(Pashalik): パシャ(Pasha)の管轄権。
ハジャール アスワド(al-hajar al-aswad): カアバ神殿4つの柱(Pillars or al-Arkan)のうちの南東の隅にはめ込まれている黒石(Black Stone or al-Hajar al-Aswad)で、この石は隕石であり、地上の存在を超えている。アブラハム(Abraham or Ibrahim)とイシュマエル(Ishmael or Isma'il)*は「その隕石が地上に落下して以来、保管されていたメッカ近傍のアブ クバイス('Abu Qubays)にある丘から運んできた。この石は天国から牛乳よりも白い状態で落ちてきたが、アダム(Adam)の子供達の罪業の結果、元々の輝きの一端は残してはいるけれど、黒く変わってしまった」と言われている。この石は神とアダムおよびその子孫との間に交わされたミーサーク(Mithaq)(「神と人間との契約」)を象徴しており、契約が結ばれた以前の永久の間(Pre-eternal Moment or al-Azal)にその子孫達を通じて人類全てがこの契約を受け入れている。出典: セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr))
バシュ(Bash): 首長(Chief)。
芭蕉椰子: 私が芭蕉椰子と渾名しているエダウチヤシはテベスドームヤシとも呼ばれ、英名はDoom Palm, Doum Palm or Dawn Palmで学名はHyphaene thebaicaである。アフリカ産の大きな扇型の葉を付ける椰子で沙漠の土壌を安定させるのに重要な働きをする。その果実は林檎位の大きさで食用になる。サウディアラビアでは熔岩地帯でしかエダウチヤシの群生を見ていないので熔岩と群生の関係は深いと私には思われる。
パース(Purses): 500ピアストル(Piastres)、50ドル(Dollars)又は5ポウンド(Pounds)。
バストルマ(Bastorma): 小アジア(Asia Minor)産でパストラミ(Pastrami)とも云われ香辛料を利かせた塩漬けした燻製の牛肉。
ハスマ地方(Hasma Region): ハスマ地方(Hasma Region or Hisma Region)はタブク(Tabuk)市の西に位置して居り、その重要な考古学的遺跡はその北西部のラウズ山(Jabal Al-Lawz)の周辺にある。ラウズ山(Jabal Al-Lawz)はタブク(Tabuk)から西北西に125 km離れ、この地域では標高の一番高い山塊である。この山塊はタブク(Tabuk)の西から北へとサラワト山脈(Chain of Sarawat Mountains)へつながり、更に北へジョルダン(Jordan)のラム涸れ谷(Wadi Rumm)まで続いている。この地域にはサムード(Thamudic)、ナバテア (Nabataean)および早期イスラム碑文(Islamic Inscriptions))に加えて一万年前の岩壁画(Rock Art or Petroglyph)や碑文(Inscriptions)が散らばっている。ハスマ地方(Hasma Region)はその地理的な位置からナバテア時代(Nabataean Era)の紀元1世紀および紀元2世紀に通商が栄え、文明が発展した。それ以降にもこの地方の人々の為の通商は続きこの地域にアラビア人集落が永続的にあった事を示している。
バスマラ(Basmala): 「慈愛あまねく慈悲深きアッラー(Allah)の御名によって」と云う句で、この句を唱えることをタスミヤ(Tasmiya)と云う。
バスラ(Basrah): イラク南東部(Southeastern Iraq)シャッタルアラブ川(the Shatt-al-Arab)右岸の港湾都市、人口41万人。
パセリ(Parsley): セリ科の二年生草木(Petroselinum Orispus)で、子葉(シバ)以上は一年生葉菜または二年生葉菜である。地中海原産であり、生の葉は爽快な香味があり、洋食に添えてだす。オランダゼリとも呼ばれる。
ハタブ(Hatabu): ハタブはアラビア語ではオルタア(Ortaa)、英語ではJaubertia Aucheriと呼ばれる低木の根である。この根は火持ちが良く、天然の炭と呼ばれている。この根はスーク(Suq)(市場)で薪として売れ、小さなピックアップ一台分で4,000リアルもする。又、「この低木の葉は子供の腫れ物の治療や消化剤として使われる。」と言う。
ハダレーム(Hadáreme): 東洋の殆どすべてのかなりの規模の町ではそれぞれ特有のかつぎ人夫(Porters)の種族を持っていた。アレッポ(Aleppo)では小アジア(Asia Minor)山岳部のアルメニア人(Armenians)に、ダマスカス(Damascus)ではリバヌス山脈(Mount Libanus)の人々に、カイロ(Cairo)ではヌビア(Nubia)のベルベル族(Berábera Nubians)に、メッカ(Mekka)とジッダ(Djidda)ではシリア(Syria)と同じ様に山岳部族(Mountaineers)のハダレーム(Hadáreme)にこの役目が要求されている。アラビア人の中で他の種族よりも勤勉であるのはハドラマウト(Hadramaut)出身の人々であり、その正直さと勤勉さで他の者達よりも好まれていた。彼等はエル ハダレム(El Hadáreme)とも呼ばれ、多くは商人の邸で玄関番(Doorkeepers)、メッセンジャー(Messengers)やかつぎ人夫(Porters)等の召使いの仕事についていた。(Travels in The Hedjaz of Arabia by Johana Ludwig Burckhardt in 1829)
蜂蜜(Honey): 蜜蜂が花から採集し、巣に貯蔵した蜜で、白色透明あるいは帯黄色の粘った濃液で成分は殆ど糖分で栄養価が高く、食用・薬用にされる。
ハッカ(Mint): シソ科の多年草で、山地に自生するが、香料植物として大規模に栽培されている。夏・秋に葉腋に淡紅紫色の唇形花を叢生する。茎・葉共に薄荷油の原料となり、香料および矯味矯臭薬となる。メグサ、ミントとも呼ばれる。
バッガラ(Baggalah): バッガラはアラブ帆船(Arab Sailing Ships)では最大であり、昔はインド(India)、ペルシャ(Persia)、アラビア(Arabia)およびインド洋岸(Indian Ocean Coast)のアフリカ(Africa)の間の交易に使われた。紅海では最北はジッダ(Jiddah)まで訪れていた。バッガラは現在では消滅はしていないにせよ、極端に数が減っており、どこででもずうっと造船しやすい船で殆ど同じ量の貨物を運べる能力あるブーム(Boom)に取って代わられている。バッガラはチーク材(Teak Timber)で作られていた。チーク材は造船所で使われるもっとも補強され、もっとも耐久性のある材木であった。バッガラは堂々とした船尾梁(Transom Sterns)に特徴があった。バッガラの船尾梁は美しい曲線を持ち、時には金箔を被せており、ポルトガル(Portugal)が侵略してきた15、16世紀からインド洋(Indian Ocean)で見られた欧州帆船(European Sailing Ships)の影響を示していた。バッガラの丸い水切り(Cutwater)は微妙に張り出した船首材(Stem)に合体している。船首材の先端もへさきに突きだした中世風のガレー船(Galley)の衝角に似て曲がっている。バッガラの四角い船尾(Square Stern)は直角な左舷(Square Ports)の重なりで切られた突き出した船尾突出部(Counter)を持ち、そしてガレー船(Galley)の宿舎に似た突出物でそれぞれの宿舎が設備されている。通常は一隻のボートを横ざまに船尾(Stern)に吊している。バッガラは船首部(fore)と船尾部(aft)の甲板を張られ、通常は3ヶ所の昇降口を備えている。バッガラの2本マストは大三角帆(Lateen Sail)に適合している。大三角帆はアラブ船で唯一見られる艤装(Rig)である。大三角帆は三角形かで、補強され、接合された幾つかの長さの帆布で作られ、上に向かって細くなっている。帆は長い帆桁(Spar)に紐を通され、前方に傾斜している帆柱(Mast)に斜めに揚げられている。アラブ船(Arab Ship)の女王は80トンから300トンの貨物と20人から50人の乗員を運べる。船長は15mから55mで、船幅は4mから15mである。
ハッシ(Hassi): 1948年1月6日、セシジャー(Wilfred Thesiger)がマンワク(Manwakh)から二度目の空白地帯沙漠横断した際に案内のベドウインが「ワディ ドワシール(Wadi Dawasir)の町スライイル(Sulayyil)の南にあるハッシ(Hassi)と云う水井戸で駱駝に水を飲ませた事がありアラダ(Aradh)と云う南の砂丘地帯まで長く延びる石灰岩崖地にさえ辿り着けばその水井戸を探し出す自信がある」と記述がある。私もスライイル(Sulayyil)の涸れ谷に沿った住宅地の南には数メートルから十数メートル程度の石灰岩の崖に囲まれた幾つかの小さな農場があるのを確認し、そこから南南西へと延びるアスファルト舗装の新しい道を見つけた。「この道はこの地域では小さな緑地がファルシ(Farsi)の地図上に唯一記してあるシャ’イバル(Sha'ibal)とワディ アル ヒヌ(Wadi al Hinw)の中間に行く道だ」と私は直感した。アスファルト舗装はカルスト(karst)平原を道路脇に立つ電柱に架けられた電力線と共に続きスワイイルから南南西47 kmで終わっている。道の終わりの東側には5、6軒の家がありタマリスク(Tamarisk、ギョリュウ)の木立に囲まれている。この数軒の家は小綺麗で美しい色に塗られフェンスの囲みも無くどこかヨーロッパの集落を思わせる風情である。ここがセシジャー(Wilfred Thesiger)が苦労してイエメン(Yemen)から空白地帯を越えて最初に辿り着いた井戸ハッシ(Hassi)であったのが分かった。この涸れ谷の河床に沿って行けばカリヤト アル ファウ(Qariyat al Faw)までここから僅か60 km位の距離である。
ハッジ(hajj): マッカ巡礼(Annual Pilgrimage to Makkah or Mecca)を意味するが、小巡礼ウムラ(Umra or 'Umrah)と区別する必要のある場合には大巡礼と呼ばれる。ヒジュラ暦(Hijura or Hegira)の12月(デュール ヒジャー(Dhu'l-Hijjah))の8日から10日を中心にメッカ(Mecca)とその周辺地域でスケジュール(Schedule)に従って行われる一連の儀式でカアバ神殿(Ka'bah)におけるタワーフ(Tawaf)、サアイ(Sa'y)とアラファ('Arafa)におけるウクーフ(Wuquf)およびミナー(Mina)でのジャムラ(Jamra)への石投げ、供犠(くぎ)*から構成される。その実行の必要性はクルアーン(Qur'an)に記されており、イスラーム五行(Five Pillars of Islam)の1つである。だが全てのムスリム(Muslims)に課せられた他の行とは異なり、それを実行する体力、財力があるものだけが行えば良い。ハッジを済ませた者は男性はハーッジイー(Hajji)、女性はハーッジヤ(Hajjiyah)という尊称をえる。(出典: 岩波イスラーム辞典他)
ハーッジイー(Hajji): ハッジ(Hajj)を済ませた男性。
ハーッジヤ(Hajjiyah): ハッジ(Hajj)を済ませた女性。
ハッジャージュ(al-Hajjaj): ハッジャージュ(Abu Muhammad al-Hajja ibn Yusuf al-Thaqafi, 661? - 714)はウマイヤ朝(Umayyads, 661 - 750)中期の軍人であり、総督になった。ターイフ(Taif)の貧しい家に生まれ、若い頃は教師をしていたと云われる。第2次内乱中、ウマイヤ朝第5代カリフ(5th Caliph, 685 - 705) アブドゥルマリク(Abu al-Walid Ahd al-Malik ibn Marwan, 646/7 - 705)の治世に警察隊に入って頭角を現し、カリフのイラク侵攻軍に参加、功績を認められた。マッカ(Makkah)に拠っていたイブン ズバイル('Abd Allah ibn al-Zubayr, 624 - 692)討伐の総司令官に任命された。692年、巡礼客で賑わうカアバ神殿に弩砲を撃ち込む等、強引な戦法によってイブン ズバイルを討ち取り、第2次内乱を終結させた。694年にはウマイヤ家に反抗的なイラク地方の総督に任ぜられ、武断政治よって治安の回復に努めたが、反乱が相次ぎ情勢は安定しなかった。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ハッダ(Hadda): ジッダの東北東70km余りの涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)にあるハッダ(Hadda)ではこの涸れ谷は冬の間の緑に被われ、既に失われたジッダ(Jiddah)とメッカ(Mecca)を結ぶ駱駝隊商の時代に巡礼が野営する場所であった。
ハッダジの井戸(Haddaj Well): ハッダジの泉(Bir Haddaj)はアラビア半島で最大の泉であり、アラビアの歴史の中で最も有名な井戸でもある。「この井戸は洪水の沈泥で完全に埋められ一度は消滅し、スライマン ビン グナイム(Sulaiman Bin Ghunaim)と云う名の男がタイマ(Tayma)にやって来て掘り起こすまで数世紀にわたって埋もれたままであった」と云う。今日でもタイマ(Tayma)の人々の名の多くはこの男に因んで名付けられている。この井戸は切石で組まれ深さは約11 m - 12 mで、この井戸口は少し変形はしているが直径60 mある。水は31の石造りの地下水路(Qanat)に配水されている。この井戸の歴史は紀元前6世紀に遡る。
ハッド岬(Ras al-Hadd): アラビア海に臨むアラビア半島の最東端。
ハッラ熔岩地帯(Al Harrah): この火山地帯はラジル熔岩地帯(Harrat Al Rajil)とも呼ばれ、シャアム熔岩地帯(Harrat Ash Shaam)としても知られている玄武岩性の大きな火山地帯である。シリア(Syria)からヨルダン(Jordan)を抜け、北部サウジアラビア(Northern Saudi Arabia)まで広がる大規模なシャマ熔岩地帯(Harrat Ash Shamah or Harrat Ash Shaam)の南の三分の一である。シャアム熔岩地帯(Harrat Ash Shaam)のサウジアラビア領内の部分はジャウフ州(Al Jawf Province)から旧クライヤト州(Al Qurayyat)および北部国境州(Province of Northern Borders)に広がり、涸れ谷シールハン(Wadi Sirhan)の北東端にに接し、北西から南東に長さ270km、幅75kmで、その面積はサウジアラビア領内だけで15,200平方kmにもなる。その最高峰は標高1100mのアムド山(Jabal al Amud)である。この熔岩地帯の活動は中新世(Miocene)(2千3百万年から5百万年前)に始まり、一番最近の噴火は更新世後期(Late-Pleistocene)と完新世(Holocenne)に起きている。ハッラ熔岩地帯にはサウジアラビアで1986年に設立された野生生物保護委員会(NCWCD)が1987年に最初に設けた野生生物保護区があり、その面積は13,775km2に及ぶ。
ハディージャ (Khadijah): カディージャを参照。
ハディース(Al-Hadith or Hadith Nabawi): イスラム教の預言者ムハンマドの言行録。クルアーン(Qur’an, Quran or Koran)がムハンマド(Muhammad)への啓示というかたちで天使を通して神が語った言葉とされている。これに対して、ハディースはムハンマド自身が日常生活の中で語った言葉やその行動についての証言をまとめ、「預言者ムハンマドの言行」として記録したもので、原義は話、語り、言葉である。 (注)後世の学者によって正典として蒐集編纂されている。但し、クルアーンと異なり、一冊の本にまとまっているような類のものではない。伝えられる言行一つ一つがハディースである。
ハディース クドスイー(Hadith Qudsi): 「聖なるハディース」の意味で、預言者ムハンマドの言行録の中で「アッラーは私に何々を語った」との内容を持つハディースで、「アッラーの意図するところをムハンマドの言葉で語った」とされている。
ハディダ(Al-Hadidah): 空白地帯のベドウインは隕石衝突窪地(Crater)の存在を知っており、アラビア語で鉄を意味するハイダ(Al-Haida)と呼んでいた。(ウバール(Ubar)を参照。)
ハデイダ(Hadeyda): 19世紀始めに紅海で造船が可能であった港はスエズ(Suez)、モカ(Mokha)およびソマリア(Somalia)のハデイダ(Hadeyda)の3港のみであった。
バデオ(Badeo): W. スミス (W. Smith)によって1873 -1878にロンドンで編集された「ギリシャとローマの地理辞典 (a Dictionary of Greek and Roman Geography) 」は第I巻の368頁 (t. I, p. 368) にバデオ レギア (Badeo Regia) について「バデオ レギア (Badeo Regia、Ptol. VI par. 6) はキャッサニチ(Cassaniti) の首都(Metropolis)で、アラビアの西海岸の民が住み、ヘジャーズの現在の地域に含まれ、プリニウスウス(Pliny)によってヴァデイ(Vadei) と書かれ、大きな町であると記述されていた (VI 28. s. 32) 。フォースター(Forster) によってその著書『アラビアの歴史的地理(the Histrocal Geography of Arabia) 』の第II巻142 - 143頁 (Vol. II, pp. 142-3) にはジッダ(Jiddah)に近いベヤディイェ(Beyadhye) と特定され、ジッダ(Jiddah) 湾の南岬(South Promontory) もラス バド(Ras Bad) と呼ばれている」と記している。
バデュイムーア人(Badhuy Moors): ベドウイン(Bedouin)。
バド’(Al Bad'): 古代オアシスの町バド’(Al Bad')はタブク(Tabuk)の西方約145 kmをほぼ南北に走る涸れ谷’イファル(Wadi 'Ifal)の中にあり、マガイール シュアイブ(Maghair Shuaib)と呼ばれる岩山を刻んだナバテア人(Nabataean)の荘厳な墓がある。プトレマイオス(Ptolemy)はこの古代オアシスをアルーウヤイナー(Al-Uyaynah)と記述している。イスラム初期にはこの町はマルガタ(Al-Malqatah)として知られる地区にあり、墓と町の存在はこのオアシスが交易や農業の中心として栄え、異なった時代の異なった国の集落が絶え間無く営まれていた証拠である。
バドルの戦い(Yawm Badr or Battle of Badr): 624年3月中旬に行われた。ムハンマド軍(Muhammad Army)とメッカ軍(Meccan Army)(マッカ軍)の最初の大規模な戦い。この戦いに勝利したことによってムハンマド(Muhammad)はマディーナ(Madina)(メディナ)に於ける地位を確立した。624年3月ムハンマド(Muhammad)はシリア(Syria)から帰還するマッカ(Makkah)の隊商に対して300名程度の襲撃部隊を編成した。ムハンマド批判の急先鋒であったマッカ軍の実質的な指揮者のアブー ジャフル(Abu Jahr)はこれを知って急遽900名の軍を率いて援護に向かった。両者はマディーナ(Madina)南西の隊商路に位置するバドル(Badr)周辺で接触した。情報収集によってメッカ軍の行動を知ったムハンマドは先手を取って戦場を設定し、バドルの水飲み場を占拠した。これによってマッカ軍は飲み水を得るための行動を余儀なくされ、戦闘の主導権を奪われた。ムハンマドはこの戦いで歩兵弓兵が横列に並ぶ戦闘隊形をアラブで初めて採用したと云われる。戦場設定と陣形において優れたムハンマド軍はマッカ軍に勝利し、多くの戦利品を獲得した。又、これによってマハンマドはマディーナにおける移住者としての不安定要素を一掃し、政治的地位を確立した。確固とした生活基盤をもたなかったムハージルーン(al-Muhajirun)の経済的問題は戦利品によって好転し、協力的ではなかったメディナ住人の態度を変化させ、ムハンマドの発言力は強まった。(出典: 岩波イスラーム辞典)
バド マンデブ海峡(Strait of Bad al-Mandeb): アラビア半島のイエメン(Yemen)とアフリカ(Africa))のジブチ(Djibouti)の間の海峡で紅海の入口に当たる。アラビア語の意味は「涙の門(Gate of Tears)」で英語訳はMandab Strait。
ハドラマウト(Hadhramaut): イエメン(Yemen)の古代町国家群の在った涸れ谷の名前でギリシャ語(Greek)の要塞化が語源で隊商路の要塞化された水場のある宿場を意味する。近代のキャラバンサライ(Caravansary)は将にこれに相当する。
ハドラマウト王国(Hadramawt Kingdom): アラビア半島南部(Southern Arabian Peninsula)の涸れ谷ハドラマウト(Wadi Hadhramaut)に紀元前4世紀から3世紀の第4四半期まであった古代王国で、その首都は独特の高層ビルに特徴のあるシバーム(Shibam)である。
ハドラマウト海岸(Hadramaut Coast): アラビア半島南部(Southern Arabian Peninsula)のイエメン(Yemen)のアデン(Aden)以東のアラビア海(Arabian Sea)沿いの海岸沙漠地帯。
「ハドラマウトの旅(Reise in Hadramaut」: アドルフ フォン ヴレーデ(Adolf von Wrede)著で1870年にH.F. モルツアン(H.F. Maltzan)が編集し ブウンシュヴァイク(Braunschweig)で出版した(ed. by H.F. Maltzan Braunschweig 1870.)。
バートラム トーマス(Bertram Thomas): 探検家バートラム トーマス(Bertram Thomas)は1930年から1931年に掛けてオマーン(Oman)南部のアラビア海(Arabian Sea)の海岸にある町サララ(Salalah)からカタール半島(Peninsula of Qatar)まで西洋人としては初めてルブアルハリ砂漠(Rub Al Khali)を横断した。バートラム トーマス(Bertram Thomas)は伝説の流砂地帯ウッム アル サミン(Umm al Samin)についてはベドウインからと聞いていたと云う。
パトリック ピエラード(Patrick Pierard):パトリックはフランス陸軍(Armée de Terre française)出身の沙漠ガイドで、私のリヤド(Riyadh)駐在時代の友人の一人でもあり、マダインサレーホテル(Madain Salih Hotel)に常駐して居た。
ハナフィー学派(Hanafi Madhhab): 現在のイラク(Iraq)に居住していたアブー ハニーファ(Imam Abu Hanif)を始祖とする学派でスンナ派の四大法学派の一つである。活動時期はムハンマド(Muhammad)の没後さほど時を置いてのものではない。多くの師について学んだとされ、シーア派(Shia or Shi’a)イマーム(Imam)、ジャアファル サーディク(Ja’far ibn Muhammad al-Sadiq)もその一人といわれる。また、教友の一人マーリク イブン アナス(Anas ibn Malik)と会っており、弟子達(タービイーン(Tabiun))の一人となっている。(出典: ウィキペディア)
ハニーフ(Hanif or pl. Hunafa): 純粋な一神教信徒でユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなかった旧約聖書の預言者アブラハム(Abraham or Ibrahim)であり、又、イスラーム以前のアラビアで一神教を信仰した人々を意味している。クルアーンでは偶像崇拝者の信仰と対比してアブラハムの信仰の真正さが強調されている。歴史的にはアブラハムの純粋な一神教信仰はユダヤ教に含まれているが、クルアーンでは「ユダヤ教もキリスト教も啓示を歪め、純粋な信仰を失っている」と見なし、「イスラームの信仰のみがアブラハムの純粋な信仰を受け継いでいる」として強調いる。メッカのカアバ神殿(Ka'bah)がかつてアブラハムが立った場所として聖地化された事もイスラームとアブラハムの関係を示している。(出典: 岩波イスラーム辞典)
バニ マリク(Bani Malik): バニ マリク(Bani Malik)はジザン(Jizan)の東北東約95km付近のイエメン国境(Yemeni Border)となるサラワト山脈(The Chain of Sarawat Mountains)からティハマー低地(Tihamah)と落ち込む急傾斜の谷の上流部(アル アガバト(al-'Aqabat))が少し平らに成った渓谷の谷間の秘境で温泉湯治場がある。サブヤ(Sabya)からの道路を60km位辿ると国境警備隊(frontier force)の検問所があり、その先の道路終点のダイル(Al Dayr)の少し手前から南へ田舎じみた道を登ると手書きで温泉(Hot Spring)との一見分かり難い看板がある鞍部に着く。そこに居た検問所の兵士も開発事務所(Fayfa Development Authority)との看板のある建物の門番でスカート(Skirt)をはいた山岳部族の老人も「僅か18km道のりで舗装は無いけれど簡単に行ける」と言う。実際には鞍部からファイファ(Fayfa)と反対方向に谷を下り、再度山腹を登って行くが道路の右側の崖は千尋の谷の様相と成って来た。ブルドーザー(Bulldozer)で多少は土盛りしてくれては居ても所々は排水の為に空滝の様に谷へ口を開けて居る。坂は余りに急で車がデングル返しに成らないかと不安に成る。この上りを12km辿ると茶屋のある峠(標高 1,100 m)に登り着く。3.5km下った集落で再度、道を聞くと色の付いた頭布を巻いて、キルティング(Kilting)風のスカート(Skirt)をはき、短刀を差し、「ムジャヒディーン(Mujahideen)(内務省の管轄の平服の警備隊)」だと言う村人からは「案内料はお祭り(Eid)だからとSR50くれ」との請求された。サウディアラビアで道案内料を請求されたのは後にも先にもこの時だけだった。そこから更に山道を2.5km下りると大きな谷を渡った所が湯治場であった。この大きな谷は涸れ谷バイシャ(Wadi Baysha)の1支流の源頭部である。湯治場には背丈で、幅が10m、長40m位の屋根付きのプール(Pool)があり、子供三人と民族衣装の老人が温泉につかると言うより遊泳していた。一番奥はシャワートイレ(Shower Toilet)があり、その脇の方に10m x 20m位の滝壷のように周りの岩が三方切り立った崖になった凹みがあって、そこに岩肌から温泉が湧き出して居る。彼等との会話でこの谷はイエメン(Yemen)との国境の谷であり、反対側の山を登ればイエメン(Yemen)領である。このあたりは禁制のガット(Qatt)を栽培して、常用する人も居る。「日中はサウジ軍の駐在兵達が治安を守っているが、夜間はイエメンの部族民が支配している」と聞く。「初めからこんな場所と言われれば来てないけれど結果としてはこの秘境訪問は貴重体験だった」と思う。
バヌ アルーウカイディール(Banu al-Ukhaydir): アッバース朝(Abbasids, 750-1258)の衰退と共に九世紀後半には分離主義イスラム分派が中央および東アラビアにあらわれた。ムハッマド アルーウカイディール(Muhammad al-Ukhaydir)と云う名のアラウィー派(Alawite)(アリー)に従う者)のザイディ(Zaydi)反逆者が反乱に失敗しヒジャーズ(Hijaz)から引き上げて来た。ムハッマド アルーウカイディール(Muhammad al-Ukhaydir)はアルーヤママー(al-Yamamah)の政治的軍事的に空白に乗じてアルーカルジ(al-Kharj)に支配を確立し(AD 866)、キドリマー(Khidrimah)をその首都とした。バヌ アルーウカイディール(Banu al-Ukhaydir)の支配は少なくとも200年続いた。バヌ アルーウカイディールはこの間にワディ ハニファー(Wadi Hanifah)およびアルーヤママー(al-Yamamah)の伝来の北部地域であるワディ クッラン(Wadi Qurran)にクッラン(Qurran)やアルーヤママー(al-Yamamah)のその他の場所の人々を無理やりに移住させ、その支配を広げたと思われる。この移住はバヌ アルーウカイディールの支配の初期に起き、「バヌ アルーウカイディールは不当で圧制的な為政者であった。」との言い伝えがある。西暦928年にアルーハサ(al-Hasa)のカールマティアン(Qarmatians)はバヌ アルーウカイディール(Banu al-Ukhaydir)に重大な敗北を負わせたが、バヌ アルーウカイディール(Banu al-Ukhaydir)に限られては居たにせよその支配する領地を残すのを許した。これは「アラウィー派(Alawite)の教義とイスマ’イリ(Isma'ili)の教義の間の類似性がある為であった」と云われている。
バヌ サキフ族(Banu Thaqif): 預言者ムハンマッド時代(Muhammad’s Era)のアラビアの部族の一つで偶像女神ラト(al-Lat)を信仰していた。ターイフ周囲の肥沃な土地の広大な地域を占有し、大規模に定住していた農耕部族であり、ターイフ市(Taif)では人口の大多数も占める主要部族であった。バヌ サキフ族は自分達の土地を通過する大規模な隊商に保護と役務を提供できる利点を利用し、大変に繁栄していた。フナイン(Hunayn, February 1st 630 or 8H)の戦いから勝利の帰還をした後だった神の使者(Muhammad)はバヌ サキフ族の一時的な弱さを利用してターイフにイスラムを受け入れさせる事が出来ると感じ、この市を包囲した。重厚な市の外壁と頑丈に閉じられた門が剣、槍と弓でのみ武装した者達では対抗出来ず、この試みは成功しなかったが、一年後に6人のサキフ族代表がムハンマドを訪れ、サキフ族がイスラムに改宗すると宣言した
バヌ ダウス(Banu Daws): 預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の時代に活躍したアラビア半島の部族の一つであり、ティハマ(Tihama)出身でメッカ(Mecca)の南に住んでいた。弩(いしゆみ)(Catapult)の使い方を完全に熟知しており、高い要塞に対する攻城用タンクの経験も持っていた。バヌ ダウスの首領の一人ツファイル(Al-Tufayl ibn Amr al-Dawsi, died 633)はカイバール(Khaybar)の征服以来、常にムハンマドに従って、その要求に対応する準備を整えていた。ムハンマドの命令でツファイルは自分の部族の行動の迅速化を図り、戦備を整えた。630年にはタイフ(Taif)包囲が始って4日目にはタイフに到着し、直ちに弩(いしゆみ)(Catapult)を使い始めた。又、ツファイルはタンクも動員して来ており、その遮蔽の下に多くのバヌ ダウス族の戦士達を要塞化した城壁の攻撃に向かわせた。しかしながら、タイフ側の兵士達は如何すればバヌ ダウス族の戦士達を追い払えるかと云う事を良く心得ていた。真っ赤に熱した鉄片を飛翔体として使い、それをタンクめがけて投げつけタンクを炎上させた。タンクに遮蔽されていたモスリムの兵士達(Muslim Soldiers)はそこからのがれるか、生きながら焼かれた。タンクからのがれたモスリムの兵士達は矢で射られ、その多くが殺された。この新しい戦術に失敗し、「タイフの要塞を攻略出来ない」とムスリム軍(Muslim)は悟った。(出典: Wikipedia)
バヌ ハニファー(Banu Hanifah): 五世紀に’アドナン(Adnan)部族から別れた北方アラブ部族のラビ’アー (Rabi'ah) グループのバクル イブン ワ’イル族(Bakr ibn Wa'il)はヒジャズ(Hijaz)や上ナジド(Upper Najid)から半島を横断して東へ北へと移住した。そのバクル族(Bakr)の幾つかの族の一門がアルーヤママー(Al-Yamamah)と呼ばれる「ハジル(Hajr)を中心としたワディ アルー’イルド(Wadi al-'Ird、後のワディ ハニファー(Wadi Hanifah))」と「キドリマー(Khidrimah)を中心としたアルーカルジ(Al-Kharj)」からなる地方に定住した。伝説によれば「ハニファー(Hanifah)一門もこの時期にハジル(Hajr)の遺跡を含むタスム(Tasm)とジャディス(Jadis)の廃棄された集落を占拠した」と云う。キンダ族連合(Kinda Confederation)が西暦528年のハリス イブン ’アムル(Harith ibn 'Amr)の没後に崩壊するとアルーヤママー(Al-Yamamah)に政治的空白をもたらされた。それを埋めたのがバヌ ハニファー(Banu Hanifah)一門であった。六世紀後半までにはアラビア湾からイエメンに至る隊商路が蘇り、その交易の恩恵を受けたハジル アルーヤママー(Hajr al-Yamamah)はこの時までに既に軍事的武勇、定住と農業の強い伝統と結びついて中央アラビアの部族間の争議解決や同盟の結成等の出来事に巨大な影響力をふるう様に成っていた。七世紀前半の「預言者マハンマド(Prophet Mohammed, ca. 570 – 632)のイスラム信仰(Islam)」を呼びかけに対しては、アルーヤママー(Al-Yamamah)はキリスト教の影響があったと思われるムサイリマ(Musaylima)の伝道を信仰していたので、全く受け入れず、最も不屈の抵抗を続けた。ムサイリマ(Musaylima)はカリド イブン アルーワリド(Khalid ibn al-Walid)の軍勢と戦う為に40,000人以上の男達を結集させ、ワディ ハニファー(Wadi Hanifah)北部のジュバイラー(Jubaylah)に近い’アグラバ’('Aqraba')で激しく戦った。両者とも多くの戦死者を出し、ムスリム(Muslims)がアラビアで経験した最もすさまじい戦いとなった。この「アグラバ’('Aqraba')の戦い」は西暦634年であり、イスラムが勝利した。バヌ ハニファー(Banu Hanifah)とアルーヤママー(al-Yamamah)の人々はこの時からイスラムへに服従している。
バハー(Al-Baha): 「見通し平」を意味する名を持つバハー州(Al Baha Province)の州都、海抜2,138mの山岳台地で棚畑に囲まれ、豊かな農業地帯であると共に高山杉(ビャクシン、juniper)被われ、夏も涼しくリゾート地とも成っている。
ハバシュ(Habesh): エチオピア(Ethiopia)と云う国名はギリシャ語(Greek)の「日に焼けた」という意味のアエオティプスに因むが、これはエチオピア人の肌の色に由来して居り、別名のアビシニア(Abyssinia)は、アラビア語でエチオピア地方("Ityopp'ya")を指すアル・ハバーシュ(Al-Habesh)が転訛した呼び名である。紀元前11世紀から10世紀にかけてアジア系セム族(Asiatic Semites)がエチオピア地方("Ityopp'ya")を侵略し、住み着いた。その主たる部族が西アラビア南部(Western South Arabia)イエメン(Yemen)のハバシャ族(Habasha)であったので、この地方は「ハバシャ族の土地」を意味するハバーシュ(Habesh)と呼ばれた。今日でもエチオピア北部のアムハラ(Amhara)とティグライ・ティグリンヤ(Tigray-Tigrinya)地方のセム語を話す人々はハバシャ族と呼ばれており、その人口はエチオピア全体の36%に及ぶ。又、アビシニアもエチオピア北西部と中央部およびエリトリア(Eritrea)を一括して呼ぶ名として使われている。ハバシャ族がエチオピア地方へ侵略した時期は「ソロモン王(Solomon, 971 BCE – 931 BCE)が紀元前992 から952までアビシニアを支配した」と云われる時期と一致し、「シバの女王(Queen of Sheba, Makeda or Bilqis)が王座にいた」とされている紀元前約950年とも一致する。伝承によれば「古代イスラエル王ソロモンとシバとの女王の息子でエチオピアへ『契約の箱』を運んだメネリク1世(Menelik I)(エブナ・ラ・ハキム(Ebna la-Hakim, "Son of the Wise"), 知恵の息子)はシバの女王(Makeda)の死後、アビシニアの王中の王(Emperor and King of Kings of Ethiopia)としてエチオピアのソロモン王朝(Solomonic dynasty of Ethiopia)を建国した」と云われる。この王朝は途中での中断はあったものの3000年にわたり、225代ハイレ・セラシエ1世(Emperor Haile Selassi)が退位した1974年まで続いて来た。
バハー パレス ホテル(Al-Bahah Palace): 標高 2,100 mに建つバハー パレス ホテル(Al-Bahah Palace)はマクワー(Al Makhwahh)へ下る急坂の山岳ハイウェイを見下ろせる対岸の崖の上に有る。この周囲には野生のマントヒヒが多く、特に冬場の朝にはホテルの敷地内で日向ぼっこをしながら残飯を待っている。
ハバラー(Al-Habalah): ハバラー(Al-Habalah)はアブハ(Abha)から東南東約45km、アハド ルファイダー(Ahad Rufaydah)から南へ約15kmに入ったシャ’アフ(Al Sha'af)地区の断崖の真下に位置し、ティハマー(Tihamah)を眺望する聳え立つ山々に囲まれ、深く狭く閉じこめられた峡谷の奥にある。オスマン帝国(Ottoman Empire)の迫害を避けて、バニ マリーク(Bani Maleek)の一支族が住みつき、急峻な崖に住居を築き、コーヒー畑、ザクロの果樹園、ブドウ畑等を開墾して耕していた。海岸のティハマー(Tihamah)側からは傾斜が急過ぎて近づけず、この村への出入りは崖上のシャ’アフ(Al Sha'af)と縄梯子での往復のみであった。「バニ マリークの男達は急峻な山を上がり下りする為に体を自由自在に出来る様に下帯しかまとって居なかった」と云う。バニ マリーク族は全ての作物や果物をそこで栽培し、死体も洞穴に埋めていた。女子供が崖上に上がる事は無かった。故ファイサル イブン アブドル アジズ国王(the late King Faisal ibn 'Abd al-'Aziz)はその治世のヘジラ暦1400年(西暦1980年)に住居、学校、診療所、その他の公共施設を崖上に新たに築き、崖下の住人全員を移住させ、ファイサル国王村と称した。現在ではアブハ(Abha)の環状道路からジバル アル サラト(Jibal al-Sarat)の山陵を東に延びるアル ガラ’ア道路(Al-Qara'a Road)が作られ、アスダール(al-Asdar)と呼ばれる断崖絶壁やアガバト(al-'Aqabat)と呼ばれるティハマーに向かって下っている急傾斜谷の上流部分の景観を眺めながら、アシール国立公園センター(Asir National Park Head Quarters)、ハババー(Al Hababah)国立公園、ガラガン(Al Dalaghan)国立公園、ガラ’ア(Al-Qara'a)公園、タムニヤー(Tamniyah)、ガリヤー(Al Qariyah)山を辿りながらシャ’アフ(Al Sha'af)地区までのドライブを楽しめる。シャ’アフ(Al Sha'af)地区には立派な駐車場、展望台、休憩室、食堂、空中ケーブル等観光施設が整備されている。空中ケーブルカーはつい最近まで下帯だけの屈強な男達しか登り降りした出来なかったハバラー(Habalahへの出入りの崖に設けられ、崖下の部落跡まで降り、見学出来る様になっている。空中ケーブルカーに乗ると殆ど垂直に切り立った絶壁が良く観察できる。300 mの崖下には今でも割れ目のある屋根を持ち、乾いた石造りの家々が並んび、既に無人に成ってしまっているが、最近になって破棄された悲哀を漂わせた廃村である。
バハール(Bahars): (衡量単位)「東洋交易(Oriental Commerce)ウィルアム ミルバーン(William Milburn)著1823出版」によれば10ファジル(Frazils)で約222lbs. 6oz.(約101kg)である。
バブ フールダ門(Bab al-Furda): ペルシア人(Persian)が建設したジュッダ(Juddah)の4つの門の中の海側の1つ。
バブ マッカ門(Bab Makka): ペルシア人(Persian)が建設したジュッダ(Juddah)の4つの門のメッカ側の門。
ハファル バーティン(Hafar al-Batin): 涸れ谷バーティン(Wadi al-Batin)のクウェイト(Kuwait)国境に近い都市で、ナジド(Najd)沙漠の羊の集散地でもある。第一次湾岸戦争(1990 – 1991)の時に米国同盟軍がクウェイト奪回の為に最初に攻め込んだ突破口として日本にもその名を知られた。
バブ マドバガ門(Bab al Madbagha): ペルシア人が建設したジュッダの4つの門の1つ。
バブ ルマ門(Bab al-Ruma): シラフ(Siraf)の崩壊の後その住民の一部はジュッダ(Juddah)に到着して、そこに定住したペルシア人達(Persian)は石膏の漆喰 (gypsum mortar) で石の壁をこの町の周囲に建設し、4つの門が開けられた。その門の中のお守り(Talisman)が彫られた石が載せられ2つの門の1つ。
バフタ(Baftas): きめの粗い安物の綿織物。
ハマダン(Hamadan): イラン西部テヘラン(Tehran)の西南西に位置する市で人口41万人で古代名はエクバタナ(Ecbatana)。
ハーマン ビックネル(Herman Bicknell): ビックネルは外科医でカイロから巡礼を行う前に、ジャヴァ(Java)、チベット(Tibet)、ヒマラヤ(the Himalaya)、ペルシア(Persia)及びアンデス(Andes)を探検し、1875年に亡くなった。1862年8月25日付けのロンドンタイムズ(The Times)は回教徒に改宗したハーマン ビックネル(Herman Bicknell)からのアブド エル ワヒド(Abd El Wahid)と云う回教徒名で行った巡礼について述べた手紙を掲載している。
ハミス ムシャイト(Khamis Mushayt): カミス ムシャイト(Khamis Mushayt)はアブハ(Abha)の北東27 kmの山岳地帯内陸にあり、かつてはシャハラン族(Shahrani Tribe)の都であった。文字通り市の名前である「ムシャイト族の木曜市(Thursday Suq)」を意味する様に伝統的な商業都市であり、商圏としてはアブハ(Abha)と一体化している。特に農業生産物の取引が多い。標高は 1,880 mであり、人口は2004年の調査では446,467人である。その郊外には多くの外国人の居住する軍事基地(King Khalid Air Base)がある。
ハムダニ(al-Hamdani): ハサン ハムダニ(Al-Hassan Bin Ahmed Bin Yakob Al-Hamadani, 893 – 947 or 956)はイエメン(Yemen)出身の博識な地理学者で天文学者であり、その多彩な業績で広く名声を博した。ハムダニはアラビア半島に関する詳しい知識を持ち、特に南部に関する知識は自然地理学、地形学、広がり、風俗、家系にまで及んでおり、アラビア半島に関する最初の具体的な著述を行った。ハムダニ(al-Hamdani)は著作「アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab)(Description of the Island of the Arabs)」の中で「この国は三方を海に囲まれ、北部はユーフラテス川(The Euphrates) と地中海 (the Mediterranean sea) が国境であったので、アラブ族はこの国をJazirat al-Arab すなはち『アラブ族の島(Island of the Arabs)』と呼んでいた」と記述している。D.H. ミュラー(D.H. Müller)は「アラブ族の島(Sifat Jazirat al-Arab)」を翻訳・編集し、1884年から1891年にかけてライデン(Leyden)で出版した(Al Hamdanis Geographie der Arabischen Halbinsel ed. by D.H. Müller, ライデンLeyden 1884 - 1891.)。その他、多くの著述家達に引用され、同じ逸話がアラビアに関する様々な書物に繰り返し現れている。
刃物類(Cutlery): 刃物類およびナイフ・フォーク・スプーン類等。
氷河時代(Glacials): 地球の歴史の中で、極域の氷床が大きく発達した時代を指す。この時期には長期間にわたって、大気も海洋も今よりずっと冷たかった。第三紀後半から気温が下がり始め,地球がそのような氷河時代に最後にはいったのは、第四紀の初め約165万年前である。それからから現在までを氷河時代という。氷河が発達する氷期は数万から10万年の周期でおとずれ,その間に,現在よりむしろあたたかい間氷期があった。海水の氷結と融氷によって海面の高さもそれぞれ低下と上昇をくりかえした。更新世と最後の氷期が終わった約1万年前より現在までの完新世とに分けられる。大陸をおおっていた氷床は、約1万年前の更新世の終わりに、北アメリカ大陸やヨーロッパから退いた。しかし、科学者の多くは、第四紀氷河時代はまだ終わっているわけではなく、現在は、氷河期と氷河期の間にあたる間氷期だと考えられている。
パラ(Para or Párá): トルコの旧通貨単位パラ(Para or Párá)はトルコのもっとも少額の貨幣でヒジャーズ(Hedjaz)ではディワニ(Diwany)と呼ばれ、40パラ(Párá)が1ピアストル(Piastres)であった。パラ(Párá)はヒジャーズ全体に流通しており、同じ様にカイロで鋳造されているのも拘わらずピアストル(Piastres)よりも本来そなわっている価値が高かったので大きな需要があった。(注)1815年に太守は貨幣鋳造所(Mint)に年間7百万ピアストル(Piastres)の鋳造を請け負わせた(Farm out)。これは現在の交換レートで換算すると約20万英国ポンド(Pomds Sterling)に相当し、このピアストル(Piastres)貨幣は22、23枚で1ドルの価値しか無いのが良く知れ渡っているにも拘わらず、8枚でドル貨幣1枚と交換する様に人々に強制した。
バラカ(Baraka): バラカ(Baraka or Barakah) : イスラームで、本質的には神に由来する聖なる力、恵みの意味。物理的には豊饒さ、精神的には幸福を意味する。(出典: 岩波イスラーム辞典)
バラカト二世(Barakat II): 1517年にマムルーク帝国(Mamluk Empire)が滅び、その紅海州がオスマントルコ属領(A Province of Ottoman Turkey)と成った時の預言者の子孫で2つのモスクの守護者であるメッカ首長(the Sharif of Mecca) バラカト二世(Barakat II bin Muhammed of Barakat Efendi, 1497 - 1525)。
薔薇水(Rosewater): ばら香水。
ハラダ(Haradh): ダンマン(Damman)の250km、アハサ(Al Ahasa)から南142 kmに位置するダンマン鉄道南線の信号所駅で、寂れたガソリンスタンドとお粗末な自動車修理工場があるだけの場所であった。鉄道と平行した涸れ谷サハバ’(Wadi Sahba)の河床にはナショナル農業開発会社(NADEC)の円形農場が並んでいる。1998年には生産の始まったUAE東南国境のシャイバー(Shaybah)油田への補給路の一部と成った。又、2004年夏にアラムコ(ARAMCO)のマスターガス事業(MGS、Master Gas System)の一環としてハラダ(Haradh)にクフ層の非随伴性天然ガス16億立方フィート/日(1.6Bcf/day)を処理するハラダプラント(the Haradh plant)が完成した。このプラントでは、17万BPDのコンデンサート(Condensate)も生産している。同じく、2004年にサウディ アラビア政府は英蘭のシェル(Shell)、露西亜のルコイル(Lukoil)、中国のシノペック(Sinopec)および伊・西班牙のエニ・レソル連合(ENI/Repsol)と4つの合意書を締結し全体で32.1万平方キロ(その内21万平方キロがシェル)の空白地帯東北部のほぼ全域に及ぶガス利権区域の開発に乗り出し、やはりその補給路の一部となった。ハラダ(Haradh)から東に向かい、カタール半島の付け根のUAE西国境と直接結ぶ舗装道路が完成し、南に下ってウバイラ(Al Ubaylah)経由でナジラン州(Najran)のカールキール県(Al kharkhir governorate)県を結ぶ道路が作られている。ハラダ(Haradh)は寂れた信号駅であったが、空白地帯開発が進むと共に重要な交通の要所となると思われる。
ハラム(Haram): ハラムとはイスラム以前のアラビア(Pre-Islamic Arabia)にあった神域で中立地帯でもあり、その中での殺人は禁止され、一般的な部族間の敵対心は保留された。部族民は部族間の交渉や調停を平和的に行う事が出来た。イスラム以前のアラビアではその様な場所が商人達を明らかに魅了し、その様な場所を支配する聖家族は非常に影響力を持つようになった。
ハラム(Haram or Sacred Place): ハラムの原語は「禁ずる」であり、聖地では一般の地で許されて居ることが禁じられることから転じて聖地の意味となった。イスラームの二大聖地はマッカ(Mecca)とメディナ(Medina)であり、ハラマーン(Haramain)と呼ばれている。二大聖地(ハラマーン)では狩猟や自然草木の切断が禁じられている。現在は非ムスリム(Non-Muslim)が両聖地に入ることは禁止されている。ハディース(Hadith or Hadith Nabawi)に「イブラヒーム(Ibrahim)(アブラハム(Abraham))がマッカ(Makkah)をハラムと宣言し、ムハンマド(Muhammad)がマディーナ(Madinah)をハラムと宣言した」とある。ムハンマドはイブラヒームが定めたマッカのハラム領域を再確認して聖域とし、マディーナのハラム領域は新たに定め、聖域とした。マッカのハラム領域は聖モスク(マスジド ハラーム(al-Masjid al-Haram))から東に約30km、西に約35km、南北に約20kmに広がり、マディーナのハラム領域は預言者モスク(Mosque of Prophet)を中心にして約8 - 10km四方に広がる。マッカの住人はウムラ('Umra)の時にハラム領域から出てイフラーム(イーラム(Ihram))に着替える。第3の聖地としてエルサレム(Jersalem)がある。(出典: 岩波イスラーム辞典)
バラモン(Brahman): ブラーフマン(Brahman)、娑羅門とも呼ばれ、インド四姓中の最高階級である司祭者層を云う。
パーリア(Pariah): アチュート(Dalits)とも云い、カースト(Caste)外の「不可触民(Untouchable)」とも翻訳される。力がなくヒンドゥー教(Hindu)の庇護のもとに生きざるを得ない人々である。にも関わらず1億人もの人々がアチュートとしてインド国内に暮らしている。
パリア犬(Pariah Dog): インド(India)・アフリカ(Africa)等の半野生犬。
バリガザ(Barygaza): 印度キャムバイ湾の(Gulf of Cambay) 貿易の中心地(Major Emporium)で、ナルマダ川の河口(on the estuary of the Narmada) に在る現在のブロウチ (Today's Broach) である。
パリの国立図書館: Bibliothèque Nationale of Paris.
パルグラーヴ(Palgrave): パルグレイヴ卿とも転写されている英国の歴史家パルグラーヴ卿(Sir Francis Palgrave、1788-1861)の次男(William Gifford Palgrave, 1826-1888)で旅行家であり、外交官でもあった。イエスズ会(Societas Iesu, the Society of Jesus)士としてシリア(Syria)に派遣された後、ナポレオン3世(Napoleon III, also known as Louis-Napoleon Bonaparte, 1808 - 1873)の命で医者に変装してアラビアを探検した。
バルサム(Balm): 香油、香膏とも云われる芳香性樹脂で、カンラン科モツヤクジュ属(Commiphora)の熱帯産の木から採れ、特にギレアドバルサムの木(Balm of Gilead)を指す。鎮痛に用いる。ラテン語ではボールサモム(Balsamum)と云う。
バルザーン城(Barzan Palace): 1808年にムハンマド イブン アブドルムフセーン アリ(Muhammad bin Abdul-Muhsin Al Ali)が建設を初め、タラール イブン アブドッラ(Talal ibn Abdullah, 1848-1868)が完成させた「ハーイルにあった歴史的な城」で最後のラシード族首長(Al Rashid emir)が追放された1921年にイブン サウド(Ibn Saud or Abdul Aziz bin Abdul Rahman ibn Faisal Al Saud, 1880 - 1953)によって撤去されている。
バールスバイ(Barsbay): ディウ沖の交戦(1509年2月)での敗戦に対するポルトガルへの反撃を実行する為にマムルーク朝(Mamluk Dybasty, 1250 - 1517)提督ライス スライマン(Rais Sulayman)指揮下のスライマン艦隊は1515年にジッダを出航した。スライマン艦隊の最初の目標はポルトガル(Lusitanians)との戦争の前哨基地としてのイエメン(Yemen)の征服であり、そして戦略的に重要なアデン(Aden)が後になってスライマン艦隊を奇襲(Coup-de-Main)しない様に征服する事であった。第一段階として、スライマン艦隊はアデン(Aden)湾の東にあるカマラン島 (Kamaran)に上陸し、この島に要塞を築いた。スライマン艦隊はイエメンで行った全ての戦闘に勝利し、認知できる程にアデンの城壁を砲撃によって損傷させたにもかかわらず、アデンはスライマン艦隊の攻撃を退けた。マムルーク朝とオスマン トルコ(Ottoma Empire, 1299 – 1923)の間に起きた紛争に関する報告を受けて、スライマン艦隊は1516年秋にこの段階でジッダへの引き上げを決定した。スライマン艦隊はこの遠征の結果に失望し、イエメン人が修復に長い間をかけなければならなかった廃墟の通りに略奪品を残したままではあったが、それでも自分達と共に莫大な戦利品を運んでいた。又、イエメンにおいてマムルーク朝の政策を履行する為にライス スライマン(Rais Sulayman)は副官のバールスバイ(Barsbay)を分遺艦隊と共に駐留させた。
バルセロナ(Barcelona): スペイン北東部カタロニア(Catalonia)自治州の州都で海港(160万)。
バルトロメウ ディアシュ(Bartolomeu Diaz): 航海者ヘンリー王子(Prince Henry the Navigator, 1394 - 1460)の長期展望の指導の下にポルトガル人船長達(Peotuguese Captains)の継承がアフリカの西海岸を少しずつ、その沙漠の広がりを越えて、熱帯の植生、奇妙な生き物および妙な人々が多い国々まで下って行った。ディオゴ デュ アザムブヤ(Diogo de Azambuja, 1432 - 1518)が1482年にギニア(Guinea)海岸のサン ジョルジュ ダ ミナ(São Jorge da Mina)に砦と工場を建設した。そこでは黄金の粉末が発見されていた。同じ年ディオゴ カウン(Diogo Cão)がコンゴ川(the River Congo)の河口を発見し、1485年の第2航海では南半球熱帯の外れにあるナミビア(Namibia)のヴォルヴィス湾(Walvis Bay)まで航海した。1487年にポルトガル(Portugal)のジョアン二世王(King Joãn II, 1481 - 1495)の命でバルトロメウ ディアシュ(Bartolomeu Diaz, c. 1451 - 1500)は2艘のキャラベル船(caravel)と1艘の小さな貨物船から成る遠征部隊を指揮し、インド航路を見つける目的で、同年の半ばにテグス(Tagus)から出航した。ディアシュは勇敢にもアフリカ海岸を離れ、東へ向かう前に、確実に喜望峰(the Cape of Good Hope)の南まで帆走し、北へと向きを変え、現在のモッセル湾(Mossel Bay)の地域である東西への広がる海岸を眼にした。この海岸を辿り、ディアシュはアルゴア湾(Algoa Bay)に到着し、広大な水域が更に東へと広がっているのを知った。ディアシュのカラベル船(caravels)は今、インド洋に浮かんでおり、数十年間に及ぶ困難(strenuous)で不屈(stubborn)の探求の目標すなはちインドへの海路が殆ど掌中にあるのを良く分かっていたディアシュはその完全達成の押し通したいと思った。しかしながら、その乗組員は既に疲労し、減少した糧食を懸念しており、誰も航海した事の無い荒れ狂う、未知の水域への恐れから不安になり始めていた。ディアシュは引き返す様に説得された。ディアシュの失望は王へもたらす朗報によって和らげられた。なんといっても、この航海の壮大さおよび卓越したみごとさは、幾世紀にも渡ってヨーロッパ人の興味を燃え立たせて来た東洋の全ての地域に、ポルトガルが海路で直接通行できる可能性をもたらすだろう。ディアシュが自分が探し求めていた偉大な岬を眺めそしてそこに「嵐の岬(Cabo Tormentoso、Cape of Storms)」と名付けたのは帰路の途中であった。バルトロメウ ディアシュ(Bartolomeu Diaz)は1488年にリスボン(Lisbon)に到着したが、ポルトガルとスペインの紛争が1495年までディアシュの発見の活用を許さなかった。1495年に戴冠したマヌエル王(King Manuel, 1469 – 1521)はヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama, 1460 or 1469 - 1524)の指揮のインド遠征隊を組織し始めた。ディアシュが自分の後継者に与えた助言はこの遠征が成功する助けになった事が証明されている。
バルバリー(Barbary):エジプトを除く、北アフリカ一の旧称である。
ハールヒール(Kharkheer): (カールキール(Al Kharkhir)参照。)
バルフ(Balkh): アフガニスタン(Afghanistan)の都市。バルフ州(Balkh)に属する。かつては、ヘレニズム(Hellenism)国家の一つであったバクトリア王国(Bactria)(BC 255-BC139)の都バクトラ(Bactra or Balhika)としても繁栄した。古代より交易路の要所として発展したが、現在は小規模な都市となっている。
ハルブ族(Harb): ナジド(Najd) 4つの部族の一つで、おそらくアラビア半島のベドウイン(Bedouin)では一番大きな部族である。この部族は多くの分族に分かれて居り、そのいくつかはヒジャズ(Hijaz)のオアシスに定住しその他は遊牧生活を送っていた。その領域はカシム(Qasim)からマディナ (Madinah)の間の沙漠であり、マディナー(Madinah)とマッカー(Makkah)の間の巡礼路を横切って居たので巡礼を保護する事でトルコから莫大な補助金を得ていた。
パルティア(Parthian): カスピ海(the Caspian sea)南東部にアーリヤ人(Aryan)の言葉を話したすぐれた騎馬民族の長アルシャク(Arsaces I)(ギリシャ語形:アルサケス)がアレキサンダー大王(Alexander the Great)の後継者であるセレウコス朝(Seleucid Empire, 312 BC - 63 BC)から紀元前247年頃に独立して建てた王国アルシャック朝パルティア(Arsacid Empire or Parthia Empire, 247 BC - 226 or 228 AD)で、前1世紀には東西はユーフラテス川 (the Euphrates)からインダス川(the Indus)、南北はオクソス川(Oxus River)(現アムダリヤ川(the Amu Darya))からインド洋(the Indian Ocean)にいたる大帝国( Iran, Iraq, Turkey, Armenia, Georgia, Azerbaidzhan, Turkmenistan, Afghanistan, Tajikistan, Pakistan, Syria, Lebanon, Jordan, Palestine and Israel)となり、シルクロード(Silk Road)を支配した。おもな都市はセレウキア(Seleucia)とクテシフォン(Ctesiphon)である。前1世紀の中ごろからはローマ(the Roman Empire)との戦闘がくりかえされ、西暦224年に、ササン朝(Sassanid Dynasty, 226 - 651)の創始者アルダシール1世(Ardashir I, 226 - 241)に征服された。中国史書ではアルシャクの中国語への転写である安息(『史記』「大宛列伝」)と呼ばれる。
パルミラ国(Sate of Palmyra): アラビア語ではタドモール(Tadmor))と呼ばれるこの都市国家はダマスカス(Damascus)北東215km、ユーフラテス(Euphrates)南西120kmのシリア(Syria)中央に位置し、 紀元前1世紀から3世紀までは、シルクロード(Silkroad)の中継都市として発展し、交易の関税により都市国家として繁栄した。ローマ(Roman Empire)の属州となったこともあるが、「3世紀の危機(Crisis of the Third Century)」の中で、パルミラ市生まれのセプティミウス・オダエナトゥス(Septimius Odaenathus or Odenatus, 260 - 267)は自前の軍隊を率いてパルミラ国(Palmyrene Empire, 260 - 273)を建国し、サーサーン朝ペルシア(Sassanid Empire, 226 - 651)からの攻撃への防御に当たっていた。時のローマ皇帝ガリエヌス(Gallienus, c.218 - 268)はオダエナトゥスを東方全域の司令官に任命、オダエナトゥスはその期待に応えたが、267年に宴席で一族の者によって刺殺された。後妻ゼノビア(Zenobia240 - after 274)が一連の事態を収拾し、西暦270年頃にはゼノビア(Zenobia)女王として君臨した。その時代には106年にローマに吸収されたナバテア人(the Nabataeans)の通商権を引き継ぎ、エジプト(Egypt)の一部も支配下に置き、絶頂期に至った。しかし、ローマ皇帝のアウレリアヌス(Lucius Domitius Aurelianus, 270 - 275)は、パルミラの独立を恐れ、攻撃を開始。西暦272年に、パルミラは陥落し廃墟と化した。
ハールーン ラシード(Harun al-Rashid): ハールーン ラシード(763/766 - 809)、アッバース朝5代カリフ(786 - 809)、アラビアンナイトの主人公の1人とい云われる。
パレスタイン (Palestine): シリア(Syria)南部の地中海に面した地方で聖書でいうカナン(Cannan)の土地で、シオニズム(Zionism)およびイスラエル(Israe)lではイスラエルの土地(Eretz Israel or Land of Israel) と呼ぶ。
パレルモ(Palermo): イタリアの南部シチリア島(Island of Sicily)北西部に位置する都市。シチリア州の州都であり、パレルモ自治県の県庁所在地。気候は典型的な地中海性気候で夏は暑さと乾燥が顕著だが、冬は緯度の割りにあまり寒くない。独自の国際色豊かな文化を生み出した中世シチリア王国(Kingdom of Sicily)の古都。
バレンシア(Valencia): スペイン東部ツリア川(Turia)の河口で地中海に臨む港町で地中海に面し、温暖な地中海性気候で雨量も少ない。11世紀に築かれたムーア人(Moors)のバレンシア(Taifa of Valencia)の首都(1021年から1238年)であったが、現在はバレンシア州(Comunitat Valenciana)の州都で、バレンシア県(Provincia de Valencia)の県都でもある。人口はスペイン第3位の約80万人であり、バレンシア都市圏の人口を含めると173万人にも上る。観光地としては世界遺産に登録されている絹の交易所(La Lonja de la Seda)や国立陶器博物館(National Museum of Pottery and Sumptuary Arts)、大聖堂(Catedral of Valencia)などがあり、3月に開催される火祭りは著名でパエリア(Paella))発祥の地でもある。
バレンシア地方(Valencia): 中世のバレンシア(Valencia)は1010年から1238年までムスレム王朝と独立王朝が交互に支配していたが、その後はキリスト教国の領土と成り、アラゴン(Aragon)の王達によって統治された。その領域には変化があったがだいたいはスペイン東部の地中海を望むアリカンテ(Alicante)、カステリョン県(Castellón)およびバレンシア県(Valencia)であった。後ウマイヤ朝(Umayyad or Emir /Caliphate of Córdoba, 756 - 929 - 1031)が1010年に群小王朝(Taifa)に分裂した時にバレンシア(Valencia)はアブドルアジズ マンスール(Abd al Aziz Mansur, 1021 - 1061)の統治下となり独立した。その後継者のアブドル マリク(Abd al Malik, 1061 - 1065)はフェルナンド一世(Ferdinand I, 1037 - 1065)(Count of Castile, 1029 - 1037, King of Leon and Castile, 1037 - 1065 & Emperor of Spain, 1056 - 1065)の攻撃を受け、辛くも落城は免れたもののトレド(Toledo)の支配者アル マムン(Al Mamun, 1043 - 1075)からの保護を求める程の敗北をしていた。アル マムンはアブドル マリクを追放し、それからの10年間(1065 - 1075)はバレンシアはアル マムンの領土となった。その後継者のカディール(Al Qadir)は弱腰でバレンシアが再び独立を主張するのを許していた。アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1065 - 1109) (King of Leon, 1065 - 1070 & King of Reunited Castile and Leon, 1072 - 1109)が1085年の後半にトレドを占領した時にカディールを傭兵の支援を受けたバレンチア地方の傀儡政権として保護した。しかしながらムラービト朝(イスラム王朝)(Almoravid, 1040 - 1147)の侵略を阻止する為に傭兵が召還されると、西隣のサラゴサ(Zaragoza or Saragossa)のムスリム支配者と同盟していた北隣のバルセロナ(Barcelona)伯爵は1089年にバレンシアを包囲した。アルフォンソ6世はバレンシアの利権を国土回復運動(Reconquista)で活躍したカスティーリャ貴族(Castilian Nobleman)ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Díaz de Vivar)、通称エル・シド(El Cid, 1040 - 1099)に譲った。エル・シドはカディールから庇護料を取り立て擁護したが、1092年にバレンシアの住人達がカディールを暗殺し、ムラービト朝の保護の下で共和体制を確立しようとしたので、エル・シドはバレンシアを1094年からその死の1099年まで直接統治した。その後、1102年にはエル・シドの未亡人はムラービド朝に対してバレンシアを放棄しなくては成らなくなった。次の30年はバレンシアはムラービド朝の支配者によって統治されたが、ムワッヒド朝(イスラム王朝)(Almohads, 1121 - 1269)の到来に先立つ混乱期ではバレンシアはは再び独立性を大きく回復した。バレンシア人のイブン マールダニシュ(Ibn Mardanish, 1147 - 1172)が一時支配を掌握したが、キリスト教徒と同盟していた為に1151年にはムワッヒド朝の支援を受けてたバレンシア人達に反逆され、バレンシアはムワッヒド朝地方領主に支配に任されていた。アラゴン(Aragon)の征服王ハイメ一世(またはジャウメ一世)(King of Aragon, Count of Barcelona & Lord of Montpellier, 1213 - 1276)は1232年からバレンシアの征服を進め、1238年9月28日に首都を占領し、陥落させた。こうしてバレンシアは1238年から1258年までアラゴン王国のハイメ一世(またはジャウメ一世)に統治されており、その死後もアラゴン同盟(後のスペイン)内に留まった。(本項目はブリタニカ百科事典(Britannica)の記述を参考にして修正しました。 2009年04月04日)
ハワジン族(Hawazin, Hawaseen or Ha’wa zin): イスラム以前の強力なアラブ部族で、タイフ(Taif)の周辺に集中して居住していた。多くの部族民がシリア、イラク、エジプト、モロッコ、スパイン等へのイスラム征服(Muslim Conquests, 632 - 732)に参戦した。ハワジン族はアドナン族の一部であり、その先祖はアブラハム(Abraham)の息子イシュマエル(Ishmael)に遡る。(出典: Wikipedia))
ハンザ同盟(Hanseatic Leage): 14、15世紀北ドイツにおける商業都市の政治的商業的同盟。
半ディナール(Half a Dinar): 半ディナール(half a dinar)金貨はディナール金貨の半分の重さとなる。
ハンドレッドウェイト(Hundredweight)(記号: cwt):ヤード・ポンドにおける質量の単位である。イギリスでは112ポンド(50.802 345 44 kg)、アメリカ合衆国では100ポンド (45.359 237 kg)と定義されている。区別のため、イギリスのハンドレッドウェイトをロングハンドレッドウェイト(Long Hundredweight)、アメリカのハンドレッドウェイトをショートハンドレッドウェイト(Short Hundredweight)という。どちらの単位系においても、20ハンドレッドウェイトが1トンとなり、イギリスでは2240ポンド、アメリカでは2000ポンドが1トンとなる。元々、Hundredweightという言葉は「100倍の重さ」という意味であるが、15世紀以前のイギリスでは108ポンドを1ハンドレッドウェイトとしていた(よって1トンは2160ポンドとなる)。現在の112ポンドのハンドレッドウェイトはロンドンで使用されていたもので、次第に108ポンドの古いハンドレッドウェイトはロンドンのハンドレッドウェイトに置き換わっていった。イギリスでは、ポンドとハンドレッドウェイトの間にストーンという単位があり、1ストーンは14ポンド、1ハンドレッドウェイトは8ストーンである。因みに記号のcwtの"wt"はWeightの略語であり、cはローマ数字で100を意味する文字である。この単位は今でもアラブ社会ではキンタル(Qintar)として使われ、現在では非公式に50kgを示している。この単位は交易業者によってヨーロッパに逆輸入されている。
ハンバル学派(Hanbali Madhhab): アフマド イブン ハンバル(Imam Ahamad ibn Hanbal))を始祖とする学派でスンナ派の四大法学派の一つである。彼はシャーフィイー(Imam Shafi'i)に学んだ。シャーフィイー派とハンバル派の間には多くの類似点がある。 ワッハーブ派(Wahhabis)はハンバル学派に属している。(出典: ウィキペディア)
ハンブルグ(Hamburg): ドイツ北部のエルベ(Elbe)川に臨むドイツ最大の貿易港(170万)で1州を成すハンザ同盟の中心の都市であった。
バンヤン或はバンヨン人(Banian or Banyan): ヒンドゥー教徒で肉食を禁ちする特殊カーストに属する商人。
ピアストル(Piastres): エジプト・シリア・レバノンの通貨単位で1/100ポンド(Pound)。
東インド諸国(East Indies): インド・インドシナ・東インド諸島の総称的旧名。
「東インド・西インド渡航記(Navigatio ac Itinerarium)」: オランダの旅行家ジャン ホイヘンス フォン リンスホーテン(Jan Huyghen von Linschoten) (1563 - 1611)著、1599年にハーグ(Hague)で出版。
ビザンティン帝国(Byzantine Empire): 東ローマ帝国(Eastern Roman Empire) の別名。東ローマ帝国はローマ帝国が西暦395年に東西に分裂して以後、コンスタンティノープル(Constantinople)(もとのビザンティウム(Byzantium))を首都として始まった東方の帝国でビザンティン帝国(Byzantine Empire)とも呼ばれて存続したが、西暦1453年にオスマン帝国 (Ottoman Empire, 1281 - 1924) に滅ぼされた。
PCA : Presidency of Civil Aviation of the Kingdom of Saudi Arabia
ビジィール(Vizir): イスラム教国、特にトルコ帝国の高官や大臣を指したが、ヒジャーズ(Hejaz)ではシェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb, 1813 - 1827)の時代に警察を束ねる官吏で、ガレブが留守の時にはジッダ(Djiddah)の統治を任されていた。
ビジエール宮殿(Visier's Palace): ジュッダ(Judda)の税関を兼ね、海に臨む埠頭。
ビシャー(Bishah): 「トリカブトの意味を持つこの町の名には昔に獰猛な部族がすんでいた事に由来するのでは無いか」と私は想像している。この町は今はアシール州ビシャー県の県庁所在地であり、涸れ谷ビアシャー(Wadi Bishah)の赤い崖に挟まれた谷に沿ってナツメ椰子農園の続く農業の町である。
ヒジャーズ(Hedjaz or Hejaz): ヒジャーズ地方はマッカ(メッカ)、マディーナ(メディナ)の二大聖地を含む、アラブおよびイスラームにとって歴史的・宗教的・政治的に重要な地であった。またこの地域の最大都市ジッダ(ジェッダ)は聖地への海からの入口であるだけでなく、ヒジャーズの政治的中心となった事もあった。ヒジャーズは今日のサウジアラビア王国の北西部にあたり、ヒジャーズ地方とはヒジャーズ山脈を挟んだ両側を指している。ヒジャーズ山脈はアラビア半島の西端を走る一続きの山脈(サラワト山脈(Sarawat Mountain range))の北半分で、南半分はアシール山脈と呼ばれている。この一続きの山脈と紅海との間をアカバ湾(Gulf of Aqaba)からバブ エル マンデブ(Strait of Bab el Mandeb)まで延びる狭い海岸低地がティハーマ(Tehama)(ティハマー(Tihamah))である。但し、一般的には「ティハーマ」と云う呼称はジッダ(Jiddah)から南の紅海岸の海岸低地に対して使われており、その地域の主な都市としてはサウジアラビア領内のライス(Al Lith)、クンフダー(Al Qunfudhah)、ジーザーン(Jizan)とイエメン領内のザビド(Zabid)、モカ(Mocha)、ホデイダ(Al Hudaydah)等がある。サラワト山脈もティハーマ平地も一部イエメンにかかっており、両国間には国境や帰属をめぐる論争があった。この問題は1934年条約が締結され、一応は議論は終了したが、実際にはその後も国境問題は継続し、2000年にジェダ条約(the 2000 Jeddah Treaty)が締結されるまで、サウジアラビアとイエメンとの国境は確定していなかった。
「ヒジャーズでの6ヶ月」: ジョン フライヤー キーン(John Fryer Keane)著、1877年にロンドンで出版(KEANE, J.F. Six Months in the Hejaz London 1877.)。
「ヒジャーズの歴史(History of the Hedjaz)」: バイド アサミ(Vide Asami)著。同書には「州知事(Pasha)とメッカのシェリフ(Sherif of Mekka)の間で分けられ、トルコがアジアを征服し(subdue)始めた時にはシェリフ(Sherif)はこの歳入の1/3しか受け取って居らず、それはシェリフが1/2を受け取れる様に成ったヒジュラ暦(Hedjira)1042年まで続いた」と記されている。
「ヒジャーズへの巡礼の物語(Story of a Pligrimage to Hijaz)」: ナワブ スルタン ジャハン ベガム(Nawab Sultan Jahan Began)著、1913年カルカッタで出版された。
ヒジャーズ鉄道(Hejaz Railway): オットマン帝国(Ottoman Empire, 1299 - 1923)のスルタン アブデル ハミド二世(Sultan Abdel Hamid II、1842-1918))はダマスカス(Damascus)からの聖地マディナ (Madinah)およびの聖地マッカ (Makkah)へ数十万人の巡礼を運ぶ為の鉄道建設に情熱を燃やした。更にオスマン帝国の宗教に対する支配やヒジャーズ地方に対する軍事支配を強め、またダマスカスとヒジャーズ地方との交易を強化しようともしていた。総延長は1,308km、軌間は1,050mmで、オスマン帝国の鉄道網の一部をなしており、当初の計画では聖地メッカ(Mecca or Makkah)を終着駅にしていた。第二首相で鉄道の立案者であるイッゼト パシャ(Izzet Pahsa)はドイツ人技術者ハインリッチ
メイッスナー(Heinrich Meissner)を雇い、枕木やレールの敷設に7,000人のトルコ軍を動員した。更にダマスカスから左官工も動員されその高い技量は建設された排水路(Culvert)、橋、20 km毎に設けられた25人収容の砦および100人用の兵舎等の外観や強度に示されて居る。石材に使われた熔岩や石灰岩が美しく仕上げられ、その業績は今日でも鉄道敷き跡に沿って残っている。ダマスカスの左官達の熟練と技量は同じルートで鉄道よりも以前に作られたダマスカス(Damascus)からマッカ (Makkah)への巡礼路に建てられた頑丈なカラバンサライ(Caravanserais)としても残っている。建設工事の遅延の為、フランス人技術者ポール ゴダーン(Paul Gaudin)が雇われ物資調達や歩合制の導入等工事促進に貢献した。鉄道は1900年に建設開始され、1908年 9月1日にメディナ(Medina)まで完成し、外国報道陣を招待し始発列車が運行された。ダマスカス(Damascus)からマッカ (Makkah)までの1,302 kmを最高時速毎時60 kmで走りそれまで二ヶ月掛かっていたこの区間の旅を三日三晩に短縮し、多くの巡礼や兵士を南へ運んだ。しかしながら1914年に連盟側はドイツ帝国との開戦となり、1908年 9月1日にメディナまで完成し多くの巡礼や兵士を南へ運んだが、トルコの列車は第一次世界大戦時の1917年3月29日にアブ ナアム(Abu Naam)と同年4月5日にムダラジ(Muduraj)の北でローレンス(T.E. Lawrence)とイギリスの支援を受けたアラブ勢力の待ち伏せにあい、破壊され、路線のほとんどは以後再建されず、この輝かしい開通から14年後の1924年頃には戦乱の為に運行が中止され路線は荒れるに任されてしまった。
ヒジュラ(al-Hijra or al-Hegira): ムハンマド(Muhammad)とその信奉者達がマッカ(Makkah)からマディーナ(Madina)(ヤスリブ(Yathrib))に移住したことをヒジュラ(al-Hijra or Migration)といい、日本語には聖遷と転写されている。マッカ時代のムスリム(Muslims)は弱者、被抑制者が多く、先祖伝来の多神教を護符するクライシュ族(Quraysh Tribe)の弾圧にさらされた。ムハンマド自身は伯父で第4代正統カルフとなったアリー('Ali ibn Abi Talib, c600 - 661)の父アブー ターリブ(Abu Talib, ? - 619)の保護を受けていたが、部族的保護を受けられない者達の一部は迫害から身を避け、アビシニア(Abyssinia)へ移住した。これもヒジュラ(al-Hijra or Migration)の1つとされている。619年頃に伯父アブー ターリブ死去で保護者を失ったムハンマドはヤスリブ(Yathrib)の新人信徒達がムハンマドを調停者・指導者として受け入れることを表明した為、ヤスリブを新天地とする決意をした。ムハンマドはマッカから信徒達を脱出させ、最後に自分自身が後に初代正統カリフとなったアブー バクル(Abu Bakr, c573 - 634) と共にクライシュ族の暗殺計画を逃れて、ヤスリブ(Yathrib)に移住した。ヒジュラ(al-Hijra or migration)の結果、改称してマディーナとなったヤスリブにイスラーム共同体(Umma Islamiya)とムハンマドの統治権力が成立した。ここにイスラーム国家(Dawla Islamiya)の原型が生まれたため、イスラーム思想ではヒジュラ(al-Hijra or Migration)の重要性がしばしば強調される。ムハンマド達のヒジュラ以降もマッカを逃れてマディーナに移住するムスリムは続いた。マッカから移住してきたムスリムは皆、ムハージルーン(al-Muhajirun)(移住者)と呼ばれる。ヒジュラは篤信の行為として奨励されたが、630年のマッカ征服によって、ムハンマドは「今後、ヒジュラは必要ない」と宣言した。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ヒジュラ暦(Hijira Calender, Hijrah or Hegira): 西暦622年7月16日にムハンマド(Muhammadがメッカ(Mecca)市民の迫害からメディナ(Medina)に逃れた移住の意味でこの年をヒジュラ暦(Hijri Calenndar)元年とした。ヒジュラ暦はイスラーム暦(Islamic Calendar)とも呼ばれ、純粋な太陰暦であり、第2代正統カリフ ウマル イブン ハッターブ('Umar ibn al-Khattab, c.586 - 644)によって638年にイスラーム国家の公式の暦として制定された。(出典: 岩波イスラーム辞典等)
ヒジラー(Al Hijrah): 涸れ谷ビシャー(Wadi Bishah)のビシャー(Bishah)で分岐する左股の涸れ谷ヒールジャブ(Wadi Hir Jab)の源頭付近の部落で「移住」を意味する名が付けられている。
ピスタシオ(Pistachios): 南欧・小アジア原産のトネリバハゼノキ属(カイノキ属(Pistacia))の小木のピスタシオノキでその実は薄黄緑色をしており、ナッツとして食用にされる。
ピスタレーン(Pistareens of Philip V): 18世紀まで西インド諸島や米国で用いられたスペインのPeseta硬貨。
ビーストン(A.F.L. Beeston): タスリス(Wadi Tathlith)上流地域でフィルビィ(Harry St. John Philby)が見つけて、粗雑な写しを送った岩壁画や碑文がアラビアの歴史上の重要な発見である事を認知したオックスフォード(Oxford)の学者。
ヒゼキヤ(Hezekiah): 紀元前700年頃のユダ王国の王(12th King of Kingdom of Judah, regned 715/716 – 687 BC)で、ユダ王国屈指の名君といってよく、旧約聖書歴代第二書では「神の言葉に従順で、神の御目に適う事柄を行った」と記されている。当時は優秀な指導者の下に強国となったアッシリア(Assyrian)とうまく中立を保っていたが、やがてエジプト(Egypt)がアッシリアに対し戦争を起こすと、それに押される形でエジプト側についた。アッシリア王センナケリブ(Sennacherib, reighed 704 – 681 BC)はユダ王国へ侵攻したが、このときセンナケリブはユダ王国陥落目前にして突如軍を撤退させたという逸話がある。撤退の理由は詳しくはわかっていないが、この逸話と共にもともと信仰深かったヒゼキヤの人物像が重なり、旧約聖書では最高の名君であったと記されているが、おそらく誇張を含むと考えられる。ヒゼキヤの治世において特筆すべきなのは、地下水路の開発である。ユダ王国は、四方を山に囲まれており、防御は非常に堅かったが、兵糧攻めや断水といった手段をとられると弱かった。このため、ヒゼキヤは広大な地下水路を開削させ、恒常的な飲料水の確保に成功する。この水路は現在も残っており、「ヒゼキヤの泉(Hezekiah’s Tunnel」と呼ばれる。泉には当時の碑文も残されており、これが古代アラム語()Aramaic Language)の解読に貢献した「シロアム碑文(Siloam Inscription)」である。(出典: Wikipedia)
ヒパルス(Hippalus): 西暦45年頃に季節風の論理を発見したギリシャの先駆的商人。
ヒムヤル王国(Himyarite): 紀元前110年頃に建国された古代南アラビアの王国であり、紀元前25年にシバ王国(Saba)を倒し、西暦50年にはカタバーン王国(Qataban)、西暦100年にはハドラマウト王国(Hadramaut)を倒した。この王国は政治的にはシバ王国同様に盛衰を繰り返していたが、西暦280年頃に覇権が固まり、西暦525年までアラビア南西部で栄えた。その財政は農業と漁業で支えられ、その富は乳香と没薬の外国交易で得られていた。この王国は長年に渡り、東アフリカとローマ帝国等の地中海世界を結ぶ中継貿易の主要な役割も担っていた。アフリカ交易では象牙が主要交易品であり、ヒムヤルの交易船は東アフリカ海岸を航行し、東アフリカの港も支配していた。最後の支配者デュ ヌワス王(Dhu Nuwas、英名Tubba)はユダヤ教に改宗し、同王のヒムヤル王国内に居住していたエチオピアの(Ethiopian) のアクサム派キリスト教徒(Aksumite Christians)へ戦いを挑んだ。この戦いは「ナジラン(Najran)の虐殺」として有名であり、同王は更に、他のエチオピア人やヒムヤル人のキリスト教徒をザファール(Zafar)でも虐殺した。コンスタンティヌス ローマ皇帝(Emperor Constantine, 306-337 AD)はこの出来事をエチオピアのアクサム王国(Aksum)のカレブ王(King Kaleb)に通報し、対応を要求した。西暦525年頃にカレブ王はヒムヤル王国に侵入し、ユダヤ教のデュ ヌワス王を打倒した。この最初の勝利はアクサム王国の将軍アブラハ(Abraha)に奪われたが、アブラハはヒムヤル王国へのアクサム王国の宗主権を認めたのでその支配は西暦570年まで続いた。その後、イエメンの民(Yemenis)はペルシャ(Persians)と共同してアクサム王国が支配をする総督をペルシャ人総督に交代させたが、西暦632年にヒムヤル王国はイスラム帝国に併合された。
ヒムヤル族(Himyarites): アラビア西南部およびアフリカ対岸に居た古代人で高度な文明を持ちセム族(Semitic)に属するエチオピア語に近いアラビア方言を話していた。現在でもアラビア南部にその子孫が残っている。
ヒムヤルとヘマイールと(Himyar & Hemair): イエメン共和国政府国立広報センター(National Information Center, Republic of Yemen)はHimyar(BC110 to AD525)とHemair(BC 115 to AD 14)の両方を英語への転写に使っているが同じ言葉(Himyarite Kingdom)を意味していると私は解釈する。
ヒメウイキョウ(Caraway): セリ科ヒメウイキョウ(Carum carvi)でその実はパンの着色料や駆風薬として用いる。
ビャクシン属(柏槇属)(Junipers): ヒノキ科の針葉樹の一種。学名 Juniperus (シノニム Sabina)。 また、ネズミサシ属とも呼ばれる。樹高は、ハイネズの様な低潅木からイブキの様な高木まで様々である。匍匐性の品種も見られる。樹皮は赤褐色で、縦方向に薄く長く剥がれる。葉は短く茎に密着し、互いによりあって葉の付いた枝は棒状の外見を持つ。時に針状の葉を持つ枝が見られ1本の木に混在する。雌雄異株で、他の針葉樹と違い乾果ではなく、漿果状の球果をつける。この属の一種セイヨウネズの球果はジュニパーベリーと呼ばれ、ジンの香りづけに使われる。中国では檜(桧)と書かれ、日本で見られるヒノキは大陸には分布していない。バラ科ナシ亜科の果樹(梨、リンゴなど)の病害である赤星病の中間宿主となるため、これらの果樹園の付近には植栽しないことが望ましい。(出典: ウィキペディア)サウジアラビアではアシール山脈の高山部特にアル ソウダー(Al Soudah)国立公園等、広く柏槇(Juniper)ビヤクシンの森に覆われている。残念なのは立ち枯れが目立つことであるが、日サ協力事業で日本国際協力事業団(JICA)がアブハ(Abha)に専門家を派遣し柏槇(Juniper)の立ち枯れ問題を研究していた結果、「柏槇(Juniper)は枯れて居るのでは無く、乾燥して行く気候に合わせて自らの大きさを小型化する様に調整している」のだそうだ。
白檀(Sandalwood): ビャクダン科の半寄生常緑高木、インドネシア原産で近縁種と共に香料植物として栽培されている。高さ5m、葉は対生し黄緑色、雌雄異株、花は始め淡黄色、のち赤色、芯材は帯黄白色で香気が強い。薫き物とし、又、仏像・器具などを作る。樹皮も香料・薬科に供する。
ビャクダンの木(白檀)(Sandal-wood): ビャクダン(白檀)主に太平洋地域産のビャクダン科ビャクダン属(Santalum)の常緑高木の総称でビャクダン材は白ないし黄色で堅くて芳香があり工芸品・香料にに利用される。ビャクダンに似た木で特にシタン(紫檀)(Red Sandal Wood)を指す場合もある。インド産のコウキシタン(紅木紫檀)(Pterocarpus Santalinus)は染料として使われる。
ヒラ(Al Hira): イラク(Iraq)南部中央のクファ(al-Kufah)の南にあった古代都市。
ピラデルポス(Ptolemy II Philadelphus): フィラデルファス王(King Ptolemaeus Philadelphus)とも転写されている。アレクサンダー(Alexander)大王が中東やエジプト等を征服して樹立したマケドニア(Macedonia)王朝群の一つとして大王の死後、その武将プトレマイオス (Ptolemaeus I or Ptolemy I, 305 BC - 283 BC)がエジプトにプトレマイオス朝(Ptolemaic dynasty, 305 BC - 30 BC)を樹立した。ピラデルポスはプトレマイオス1世の息子としてマケドニア(Macedonia)のコス(Cos)に生れ、プトレマイオス二世 (Ptolemaeus II or Ptolemy II, 283 BC - 246 BC)として紀元前288年から父と共同統治をはじめた。姉であるアルシノエ2世(Arsinoe II)を妻とした為にピラデルポスと云う「姉弟愛」を意味する異名を付けられた。ピラデルポス(Ptolemy II Philadelphus)は積極的な外征でエーゲ海(Aegean Sea)の諸島を回復、東地中海に海軍力を樹立した。その一方で紀元前274年に元ローマ帝国属領リビア東北部キレナイカ (Cyrenaica or Cirenaica)のギリシャ王(Magas of Cyrene)との戦いやベッカー高原(Beqaa Valley)およびパレスチナ南部ユダヤ(Judea)を含むコイレ・シリア(Coele-Syria)の領有を望むセレウコス朝シリア(Seleucid Empire, 312 BC - 63 BC)のアンティオコス1世ソテル(Antiochus I Soter、281BC - 261 BC)との第一次シリア戦争(First Syrian War, 274 - 271)および第ニ次シリア戦争(Secondt Syrian War, 260 - 253)等、二度のシリア(Syria)遠征により領土を拡大した。更に世界の七不思議の一つであるアレクサンドリアの大灯台(Lighthouse of Alexandria)の建設の完成やミュス港(Myus Harbour or Mussel Harbour)の整備等を含め、アフリカとアラビアへの海路や隊商路を確保した。さらにファユーム(Fayoum, Faiyum or Fayum)の地を植民地として開発するに成功し、これをアルシノエ県(Arsinoe)と称した。内政面では宰相アポロニオス(Apollonius)により、ギリシア人(Greeks)を支配階層とする官僚的中央集権国家の生産独占組織と強力な統制経済機構を布き、国富は王朝の歴史を通じ最大となった。文化面でも父の遺業を継ぎ、学堂(Musaeum or Mouseion at Alexandria)と附属図書館(Library of Alexandria)に多数の学者、文人を招聘しアレクサンドリア文学の黄金時代を現出した。
ビラール(Bilal ibn Rabah): 初期イスラーム時代の教友(? - 638)、預言者のマッズイン(Mu'adhdhin)と呼ばれた。マッカのジュマフ族のエチオピア系の奴隷として出生し、ごく初期にムスリム(Muslim)となった。アブー バクル(Abu Bakr)に続いて成人男子2番目の入信者であったとされるが、奴隷であった為に苛酷な仕打ちや拷問を受けた。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ピリ ライス提督(Admiral Piri Rais): 16世紀前半に、オスマントルコの紅海艦隊を率いた高名な提督。(ライス スライマン(Rais Sulayman)参照。)
ビルク(Al-Birk): バハー(Al-Bahah)から256 kmの走行でビルク(Al-Birk)を通過する。メッカ州(Emirate of Makkah)の紅海岸で一番南の集落であるが、ビルク熔岩地帯(Harrat al Birk)の中心的な場所にあり、この熔岩地帯の名前にも成って居る。この熔岩帯には火口丘は多いが高さは余り無く、標高513mが最高峰の様だ。町の周辺でも低くい火口丘が幾つか見える。州境検問所(Check Point)があり、SWCC(塩水淡水化公団の工場)はあるが、人口3,000人程度のどちらかと云えば寂れつつある町だ。ビルク(Al-Birk)付近は沖合にたくさんの小さな島が見られる浅い海で、砂地と泥質の入り江が散在する長い砂質の帯状の洲にマングローブ(Mangrove)が生えている。町に入る前にマングローブはここで一時途絶え、町を南に外れると海岸にマングローブが戻る。海岸近くの陸地は砂と石の混ざった沙漠にアカシア(Talh、Acacia Gerratdii)が点々と並ぶ。
ビルク熔岩地帯(Harrat al Birk): ビルク熔岩地帯(Harrat al Birk or Harrah Birk)は火砕性火山錐(Pyroclastic Cones)が点々と並ぶ、ぞっとするような不吉な黒色をした玄武岩平原で、黒い沙漠とも呼ばれる。広がりはジザン(Jizan)北西のシュガイグ(Shuqayq)からグンフダー(Qunfudhah)に及び、その面積は約1,200平方キロである。ビルク熔岩地帯の一番古い部分の殆どは噴出岩(Effusive Rock)で構成され、海岸平原に位置している。円錐形をした顕著な火口丘である火山錐(Conspicuous Cones)は高さが400mに達するものもあり、数百個が火山地帯全体に散らばっている。アラビアのハッラト(Harrat)は2百万年から3千万年前に形成されてはいるが、現在でも火山活動は続いており、ビルク熔岩地帯での最後の噴火は1820年に起きたと考えられている。ビルク熔岩地帯(Harrat al Birk)で最も共通した物質は黒色或いは赤色をした、ゆるく、塊になっている、角ばった多孔質の岩滓(Sconia Cinder)であり、その中には気泡を持つ火山弾(Volcanic Bomb)も混じっている。火山岩滓は軽石に似た火山性の材料で市場では住宅の天然断熱材として売られているのが見られる。ハッラー(Harrah)の植物には生長を阻害されてはいるが美しく花を咲かせアカシヤ(Acacia)、熔岩地帯で顕著に見られる大きな扇型の葉を付けるエダウチ椰子(Doom Palm, Hyphaene thebaica)や多肉質で光っている槍の様な葉を持つソドムの林檎とも呼ばれる死海林檎(Calotropis procera)の木等がある。ビルク熔岩地帯の紅海岸は熔岩が広がるマングローブの湿地帯となっている。マングローブがあると云う事は汽水域の存在を示しており、近代まで真珠取りを行われて居たし、魚の宝庫であり、ここには渡り鳥の飛来も多い。残念なのはこの環境がエビの養殖に適している為に既に養殖場が出来始めている。マンジャハー遊牧民(Manjahah Nomad)の一部はビルク(Birk)とシュガイグ(Shuqayq)の間にあるこの火山性の沙漠に住んでいる。
ビール セスラ(Bir Sesra): (ザ’バル城(Qasr Za'bal)参照。)
ビール ヒマ(Bir Hima): ナジラン(Najran)の北北東80kmに位置するこの部落には「入り会い牧地の井戸」と云う名が付けられている。水場が有り、獲物が居て、砂岩が露出したこの場所は先史時代の人々に取っては最高の生活の場であった。1952年冬のフィルビィ(Harry St. John Philby)一行による「南西部の岩壁画および碑文探検」ではビール ヒマの西の地域で紀元前3000年代後期から紀元前2000年代後期の間を中心に最も多くの岩壁画や碑文を記録収集して居る。
ヒンドゥー教(Hinduism): 印度やネパール(Nepal)で多数派を占める世界最大の民族宗教であり、ヴェーダ聖典(Veda)・カースト制度(Caste)等、多くの特徴をバラモン教(Brahmanism)から引き継いだ多神教(Polytheism)であり、輪廻(Samsara)や解脱(Vimukti)といった独特な概念が特徴的である。三神一体(Trimurti)とよばれる近世の教義では、中心となる3神、すなわちブラフマー(Brahma)、ヴィシュヌ(Vishnu) およびシヴァ(Siva)は一体をなすとされる。
ヒンドスタン或はヒンドゥスタン(Hindostan or Hindustan): ヒンドゥスタンはインドのペルシャ語名であり、歴史的にインド北部を指す。インド亞大陸のヒンドゥー教地帯ではイスラム教地帯であるパキスタン地方に対してヒンドゥスタン(Hindustan)と云う呼称を用いる。又、ヒンドゥスタン(Hindustan)は15-16世紀に北インドにあった王国の名でもある。(2009年3月1日リーダーズ英和辞典に基づき修正)
ビンバーシ(Bimbashi): トルコの陸軍少佐。
檳榔子(びんろうじ)(Betel-Nut): 檳榔樹の果実、近世、薬用・染料として使われた。
檳榔樹(Betel Palm Tree or Areca Palm Tree): ヤシ科の常緑高木、インドネシア・マレー地方の原産、熱帯アジアや南太平洋諸島に広く栽培、幹は直立し、円柱形で環紋があり、高さ10-12m、幹頂から濃緑色の大羽状複葉が生え、肉穂花序には単性花を開く、芽は食用、果実は鶏卵大で、蒟醤(キンマ)(betel leaves)に包んで噛み嗜好品とする。薬用、染料、同科のビロウ(蒲葵)は別種。
フ
ファイサル(Faisal): サウジの第三代国王ファイサル イブン アブドル-アジズ アル サウド (Faisal Ibn Abdul-Aziz Al Saud)は初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン サウード(Abdul-Aziz Ibn Al Saud)の4番目の息子として、リヤド(Riyadh)で生まれた。母はムハンマド・イブン アブドゥルワッハーブ(Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab an-Najdi) (1703 - 1792)の子孫。1925年に、軍隊を指揮してヒジャーズ(Hejaz)で決定的勝利を得、 翌年ヒジャーズの知事に就任。サウジアラビア王国が正式に建国された後、1932年に外務大臣に就任した。パレスチナを国連が分割した後に、アブドゥルアズィーズ国王にアメリカとの国交断絶を呼びかけたが却下された。兄サウード国王の健康が衰えたとき、1964年3月4日に摂政に任命された。同年11月2日に即位した。即位後は女性の学校やテレビなどの改革を導入したが、これらの改革は多くのサウジアラビア人の反対に遭った。1973年、ファイサル国王はサウジアラビアの武力を増加させる計画を開始した。 10月17日に価格を4倍にして、世界市場からサウジアラビアの石油を引っ込めた。この結果、世界的な石油危機が発生した。国内の信望が扱ったが、1975年3月25日に、ファイサル国王は自分の甥ファイサル・ビン・ムサド王子に暗殺された。(ウィキペディア)
ファイファ(Fayfa): ジザン(Jizan)の東北東約70kmのファイファ山塊(Jabal Fayfa)の山陵にある山村で、フマイラー(Al-Humairah)付近等の麓から眺めると雲や霞の中に多くの白い家々が見える。まるで空中に村々が浮かんでいる様なので私は「空中都市」とあだ名した。標高約2000mのファイファ山塊(Jabal Fayfa)では海から吹いてくる風が山陵越える時、雨を降らすので灌漑水が得られる。この恩恵で山陵から谷に向かって段々畑が築かれ、昔から農業が営まれて来ている。これは標高約2430mにあるインカの遺跡マチュ・ピチュ(Machu Picchu)でも同じだと思う。サブヤ(Sabya)からの道路を60km位辿ると国境警備隊(frontier force)の検問所があり、その先の道路終点のダイル(Al Dayr)の少し手前から南へ田舎じみた道を登ると手書きで温泉(hot spring)との一見分かりにくい看板がある鞍部に着く。山陵の道路を西へと辿ると粗末なガソリンスタンド(gas station)位しか無い名ばかりのファイファ センター(Fayfa Center)(標高 850 m)に着く。更に上にはナイド アハール(Nayd Ahar)、ファールハー(Farhah)、カシュ’アー(Al-Khash'ah)等の村々で病院とTV塔がある。警察署の前でスカート(skirt)をはき、イエメン(Yemen)風の短刀(dagger)を帯びた老人に話を訊くと「昔から山岳農業を営んできた部族の子孫で、この山に暮らす限りあまり金は掛からない」と言う。周囲には山岳の石積みの段々畑がどこまでも続いている。灌漑用の天水により恵まれる山頂へ山頂へと家も農地も上げて来た結果、こんな険阻な山の上に住むような成ったのだと思う。ただ、険しいティハマー(Tihamah)山地の崩れた起伏に富む地形はその他にも幾つかの非常に隔離された地方社会を生み出し、高い山に隔絶された人々はその地域毎に部族名が付けられ、アハル ファイファ族(Ahl Fayfa)はその中でも特に有名なグループのひとつであると言う。
ファ’ガ(Fag’a): カマア(Kamaaa)とも呼ばれは沙漠で取れるトリフ(Desert Truffle)(日本では松露茸と云う。)の一種であり、「雨の恵み」とも云えるこのハイール(Hail)地方から東部州北部にかけての特産品である。天候さえ好ければ沙漠はファ’ガ狩りのサウジ女性で占められている筈で、アバヤと云う頭から足の先まですっぽりと被う黒い布を被った女達が何百人と沙漠を徘徊する姿はサウジ国内でも珍しい光景だ。女性の方がファ’ガを見つけたり採ったりするのに優れて居り、夫や近親の男達が彼女達からファ’ガを集めて道路脇で売っている。ファ’ガの競りは独特のやり方がある。先ず売り手が値を付けそれを買い手が競り上げて行き、一番高値が落札と成る。カフジ(Al Khafji)では縁が少し赤紫掛かった厚めの柔らかい葉を持つ西洋スミレの様な草(学名はMoltkiopsis ciliataと云う。)の群生の中で見つかる。ファ’ガはこの草の他に二種類の植物に寄生して育つと聞いている。この三種類の植物が同時に生育する場所でしかファ’ガは採れ無いらしい。(詳しくは「豊かなオアシスに恵まれた原油の宝庫サウジアラビア王国東部州)その3 北部 (古代シルクロード交易路)5.1 不思議な沙漠茸ファッガ)を参照。」
「ファシーシイ(Facetiae)」: イタリアの人文主義者ポッジョ ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini) (1380-1459)の著作。
ファジル(Frazils): (衡量単位)10マウンド(Maunds)で1/10バハール(Bahars)である。(ウィルアム ミルバーン(William Milburn)著1823年出版の「東洋交易(Oriental Commerce)」参照。)
ファージング(Farthing): 1961年に廃止された英国の小銅貨(1/4penny)。
ブ‘アスの戦い(Battle of Bu’ath): ブ‘アスの戦いは当時はヤスリブ(Yathrib)と云う名であったメディナ(Medina)のアラブ族の2つの一門であるアウス一門(Banu Aus or Banu Aws)とカズラジ一門(Banu al-Khazraj)の617年におけるユダヤ部族クライザ一門(Banu Qurayza)に帰属するメディナ オアシス(Median Oasis)南東地区での戦いであった。アウス一門はユダヤ部族のナディール一門(Banu Nadir)とクライザ一門およびムザイナ部族(Muzayna Tribe)のアラブ遊牧民に支援され、その同盟の指導者はフダイル イブン シマク(Hudayr ibn Simak)であった。アムル イブン ヌマン(Amr ibn al-Numan)が指揮する反対勢力はカズラジ一門の大半とジュハイナ族(Juhayna)とアシュジャ族(Ashja)の遊牧民で構成されていた。ハリサ族(Haritha)のアウシテ一門(Awste)とカズラジ一門首長アブドゥッラー イブン ウバイイ(Abdullah ibn Ubayy)は中立を保っていた。戦いの途中でアウス一門とその同盟軍は最初は退却したが、その後は反撃してカズラジ一門を打ち負かしたが、両軍とも指揮者が殺された。アウス一門は勝利したにもかかわらず、戦いの結果は明確な決着にはほど遠かった。(出典: Wikipedia)
ファジル(Fajr): イスラーム五行(Five Pillars of Islam)の2番目の義務として課せられている1日5回の礼拝の中、ファジュル礼拝(Salat al-Fajr)は夜が白みはじめてから日の出前までに行う。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ファゾム(Fathoms): 主に水深の単位「尋」で、6フィートで約1.83mである。
ファーティマ(Fatimah, c.606 - 633): ムハンマド(Muhammad)の娘で通常は輝ける者を意味するザフラ(Zahura)と呼ばれ、第4代正統カリフ アリ('Ali ibn Abi Talib, ? - 661)の妻となった。ファーティマは後世に理想の女性と見なされる様になった。(出典: リーダース英和辞典)
ファティマ(Great Wadi Fatima) 偉大な涸れ谷: ヒジャーズ(Hejaz)の幾つかの疑い無く認識できる土地の名前にはイアムビア(Iambia)、ヤトリッパ(Yatrippa)およびマコラバ(Macoraba)が含まれていた。バデオ(Badeo)は名前による地方性からジッダ(Jiddah)の位置に大変近かった。内陸のマコラバ(Macoraba)(プトレマイオスはメッカをマコラバと呼んでいたようだ。)からバエチウス(Baetius)と呼ばれる水路が海岸まで流れ下っていた。明らかにこの地方を流れる本当の川は無かった(プトレマイオスは主要な排水路の特徴のみを紹介する目的で付け加えたと思われる。)けれども偉大な涸れ谷ファティマ (Wadi Fatima)は見事に古代のバエチウス(Baetius)を代表していたのだろう。涸れ谷ファティマはメッカ方面から西南西へと流れ、ジェッダの南で紅海に流れ込んでいる。(涸れ谷ファティマ(Wadi Fatima)を参照)
ファーティマ カリフ朝(Fatimid Caliphate): ファーティマ カリフ朝(Fatimid Caliphate)はファティマ(Fatima)とアリ(Ali)の子孫と称し、イクシド朝(the Ikhsids)が滅びた後、ナイル谷を西暦1070年まで支配した。この王朝は北アフリカに興り、エジプト・シリア一帯を支配したシーア派 (Shi'a) の王朝(西暦909年 - 西暦1171年)で首都はカイロ(Cairo)に建設した。その宗教的活動はモロッコ(Morocco)からアラビア半島(Arabian Peninsula)、更にシチリア島(Sicily)および南イタリアまで広がったシーア派(Shiite Islam)帝国を確立した。中世アラビアでのこの王朝はリビヤ(Libya)、サウジアラビア(Saudi Arabia)を含むアラブ世界で一見したところは奇怪な交流を行う拠点であり、シーア派(Shiite Islam)の秘儀的で熱烈な分派の拠点であった。
ファユーム或はファイユーム(Fayoum, Faiyûm or Fayum): エジプト北部の市でカイロの南西130kmに位置し、25万人、第12王朝までさかのぼれる遺跡のある大オアシスの町である。
ファラオン(Dr. Gaith R. Pharaon): 「ジッダー(或るアラビアの町の描写)(Portrait of an Aranian City, Jiddah )(1977)」を書く動機をアンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)に与え、考えられる全ての援助を与えてくれた。
ファラジ(Falaj): 井戸を掘りその底を横穴で繋げた灌漑用の地下水路はイランではカレーズ(Karez)、北アフリカベルベル語でフォッガラ(Foggara)、古代アラビア語でガナト(Qanat)そしてアラビア語でファラジ(Falaj)と呼ばれる。ファラジ(Falaj)の複数形がアフラジ(Aflaj)であり、リヤド州(Ar Riyad Province)の町でリヤド(Riyadh)の南330kmに位置するライラ(Layla)等は古代からアル アフラジ(Al Aflaj)と呼ばれていた。
ファランズラ(Faranzulas): 重量単位ファランズラ=28.35gx172/3x140/7=10.017kg。
ファルサン(Farsan): ジザン(Ghisan or Jizan)港の西側にあり、給水の良さに加え、船にとって安全な錨地があった。
ファールサング(Farsang): 12km750mに相当する距離である。
ファルシ知事(Mayor Sheikh Muhammad Said Farsi): 1970年代のジッダ市庁ファルシ知事。
ファルシ地図(Farsi Map): サウジで最初に発行された道路地図。
ブイド王朝(Buyids): ブワイフ朝(al-Dawla al-Buwayhiya)とも転写されるブイド王朝((Buyids)は西暦942年にバクダッド(Bagdad)を掌握したシーア派(Shi'a)イスラム王朝(Islam Dynasty)(934 - 1062 AD)で一世紀以上もイラン(Iran)とイラク(Iraq)大部分を支配したが1055年にセルジュークトルコ(Seljuq Turks, 1037 - 1194)に敗れ、滅ぼされた。
フィラデルファス王(King Ptolemaeus Philadelphus): (ピラデルポス(Ptolemy II Philadelphus)参照。)
フィルビィ: ハリー St. ジョン フィルビィ(Harry St. John Philby, 1885 - 1960)はジャックフィルビィ(Jack Philby)或はシェイク アブドッラ(Sheikh Abdullah)としても知られている。1932年にアラビア半島の中央部および北西部を探検した内陸地域に最初に訪れた西洋人である。1936年にイエメンへの横断の途中でアシール(Asir)内陸地域を訪れ、タスリス(Thathlith)上流域の岩壁画、碑文を発見している。厳しい地で生きる為の知識、狡猾さ、堅忍不抜さおよび勇気が追跡者としての能力を始め、数々の伝説を生んだムッラー族(Al Murrah)をバートラム トマス(Bertram Thomas)と共に紹介し、空白地帯についても記述している。鳥の生態に対しても興味を持って居り、アラビアキツツキ(Arabian Woodpecker)の命名者でもある。この様にハリー St. ジョン フィルビィはアラビアの研究、探検、地図作製、記述を45年間も行い、故イブン サ’ウド国王顧問をも務めたが、「英国植民地局(British Colonial Office)で働く諜報要員(Intelligence Operative)でもあった」とも云われている。詳しくはその1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ2.13.2 「フィルビーのもっとも長い旅行(Into the Highlands)」および花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)その3空白地帯(the Empty Quarter)に至る内陸地域 紹介を参照して戴きたい。
フィレンツェ(Florence): イタリア中部トスカナ(Tuscany)州の州都、38万人。古代ローマ時代、花の女神フローラの町としてフロレンティア(Florentia)と名付けた事が語源とされている。フィレンツェは古代にエトルリア人(Etruscans)によって町として建設され、ローマ殖民都市がおかれた。次第に中小貴族や商人からなる支配体制が発展し、12世紀には自治都市となった。多少の内部抗争も起こったが、遠隔地との交易にくわえて、毛織物業を中心とする製造業と金融業でフィレンツェ市民は莫大な富を蓄積し、トスカーナ(Toscana)の大部分を支配したフィレンツェ共和国(Repubblica fiorentina)となった。。14〜15世紀にはミラノ(Milano)との戦争をくりかえしたが、1406年にアルノ川(the Arno)下流にあるピサ(Pisa)を獲得して待望の海を手にした。1433年に労働者との衝突でコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici)は追放されたが、翌年コジモは復帰し、共和国の真の支配者となった。その死後は、その子ピエロ((Piero di Cosimo de' Medici, 1416 - 1469)にその権力を継承し、孫のロレンツォ((Lorenzo de' Medici, 1449 - 1492)の時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。偉大なるロレンツォ((Lorenzo il Magnifico))とも呼ばれ、学問と芸術を保護し、ルネサンス文化(Renaissance)の中心地となった。ピエロの代でメディチ家(Medici)は一時失脚したが、1512年スペイン軍によって権力の座に復帰したメディチ家は、1527年ふたたび追放されたが、1531年には復帰し、1569年、教皇の手でトスカーナ大公(Grand Duchy of Tuscany)の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となったが、政治的・経済的に次第に衰退した。1737年に継承者がとだえ、メディチ家のトスカーナ支配はおわった。トスカーナ大公国はオーストリア(Austria)のハプスブルク家(House of Habsburg)に継承された。フェルディナンド3世(Ferdinand III)は、1799年フランスによって退位させられたが、1814年復帰した。1849年に追放されたレオポルド2世(Leopoldo II)はオーストリア軍とともに復帰したが、イタリアの独立をもとめる戦いが続き、1859年に退位した。結局、18世紀から19世紀までフィレンツェはナポレオン時代を除いてハプスブルク家の支配下にあったが、1860年にイタリア王国に合併され、1865年からヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II di Savoia)のおさめるイタリア王国(Kingdom of Italy)の首都となるものの、1871年首都はローマ(Rome)に移された。(資料: ウィキペディア)
フェス(Fez)はアフリカ北西部、モロッコ(Morocco)北部の市で人口45万人で、かつてはマリーン朝(Marinid Empire, 1215 - 1465)等の諸王朝の首都であった。
フェニキア(Phoenicia): 現在のシリアとレバノンの地域にあったシリア海岸のタイル(Tyre)、シドン(Sidon)などの紀元前2000年頃栄えた地中海沿岸の古代都市連合国家で商業・航海にすぐれ、カルタゴ(Carthage)などの植民地を建設した。
フェラヒン(Fellahin): フェラヒンはティハマー(Tihamah)低地の住民のおよそ半数を占め、どの部族にも属さないアフリカ出身の定住小農民のである。この地方のフェラヒン(Fellahin)と部族民との間に言葉や習慣で区別するものは無い程、このアフリカ出身の人々はティハマー(Tihamah)に非常に長い間暮らして来ている。これらのフェラヒン(Fellahin)の忠誠は部族では無く彼等の村に向けられている。これらの村々は灌漑された洪水平地にあり芝木の囲いの中にアフリカの伝統的な村々の建物を思わせる円形の芝木の家が建てられた特徴ある集落である。家々の枝で作られた骨組みは編み枝(Wattle)と泥の漆喰(Daub)で埋められ天井はロープで入念に編まれた固く詰められたモロコシの藁で作られた円錐形(Conical)或いは卵形(Ovoid)をしている。円屋根の下の壁には絵を描いた板を吊すフックが沢山付けられている。フックには花柄のエナメル塗装した板、彩色された魔法瓶、小カップやまったく異なる陳列物が列となって吊されている。特に大きく人口が密集した集落としてはジザン(Jizan)、サブヤ(Sabya)およびアブ アリシュ(Abu Arish)等がある。
フェラーラ(Ferrara): イタリア北部エミリア ロマーニャ(Emilia-Romagna)州フェラーラ(Ferrara)県の県都(14万人)。
楓合香(ふうこうし)(Copalm): モミジバフウ(Sweet Gum or Storax)の樹脂。
風車の高台(Hill of Windmills): ジェダ(Jeddah)の風車は現在では外務省が占めている少し高くなった場所に立っていた。
ブウンシュヴァイク(Braunschweig or Brunswich): ドイツ中北部ニーダーザクセン(Lower Saxony)州の市で人口25万人、旧ブウンシュヴァイク(Brunswich)公国の首都であった。
フェッラ(Fellah): 小百姓(Boor)を意味し、トルコ人達は隷属(Servitude)と抑制の最低の状態にあるエジプトの農夫に当てはめるのが常であった。
フォティオス(Photius): フォティオス(c. 820-891)は罷免されたイグナティウス(Ignattius)の代わりに東ローマ皇帝ミカエル三世(Michael III, 842 - 867)によりコンスタンティノープル (Constantinople)総主教に任じられた長老で根気の良い編集者でもあり、古代の著者達の多くの作品を保存し、後世に残すのに貢献した。
フォルスカル(Mr. Forskal): ニーブール(C. Neibuhr)の「アラビアおよびその他の東洋の国々の旅行記」に登場するニーブール(Niebhhr)が参加したデンマークのアラビア遠征隊の隊員であり、医者で植物の生態に詳しい知識を持つペーター フォルスカル(Peter Forskal)。
フォン ヘイヴン(Mr. Von Haven): ニーブール(Niebhhr)が参加したデンマークのアラビア遠征隊の隊員であり、言語学者でアラビア学者のフリードリッヒ チリステンセン(Friedrich Christian Von Haven)。
フカイヤン(Al-Fuqayyan): ジッダ近郊の泉。
ブカリ(Bukhari): 16世紀初頭に始まった中央アジアのブハラ(Bukhara)を中心としたイスラム国家(ブハラ ハン国(Khanate of Bukhara, 1500 - 1785))の民。
武器(Arms): 甲冑・刀槍・弓矢・鉄砲の類等の戦争に用いる諸種の器具。
ブグム熔岩地帯(Harrat al Buqum): 涸れ谷スバイ(Wadi Subay)と涸れ谷ランヤー(Wadi Ranyah)の間に延びるナワシフ熔岩地帯(Harrat Nawasif))の南西端でバハー(Al Baha)の東北東約120km辺りを中心にメッカ州(Makkah Province)とバハー州(Al Baha Province)のアシール州(Asir Province)に近い州境に広がる熔岩地帯。
フサイニヤー(Al Husayniyah): リヤド-ナジラン道路(Riyadh – Najran Road)の涸れ谷ハボウナー(Wadi Habounah)に架かる橋の北側検問所のある部落で、「砦」を意味する名が付けられている。
フサイン・イブン・アリー(Husain or Husayn ibn Ali): フッセイン・ビン・アリ(Hussein bin Ali)参照。
フサイン クルディ(Husayn al-Kurdi): 16世紀初頭エジプトのマムルーク朝(Mamuluk, 1250 - 1517)のスルタン カンサウ ガウリ(Sultan Qansawh al-Ghawri, 1501-1516)はポルトガル(Portuguese)機動作戦の最大の悪影響を受け、苦悩しているインド、南アラビアおよび東アフリカのイスラム支配者からの援軍の要請には応え、海軍遠征部隊を組織する決定を行った。そして側近で悪名高く、残酷なフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)をその指揮官に命じた。フサイン クルディ提督がヴェネツイア人(Venetian)の助力を得て、スエズで急いで建造した艦隊はアラビア人と約1,500名のキリスト教徒と奴隷船員が乗船した50艘余の帆船で構成されていた。これらは次第に古代の港トール(Tor) に集中して来て、それから1507年初めに戦闘の為に南にむかい、年末にはインド海域に到着した。フサイン クルディはポルトガル総督フランシスコ ダルメイダ(Francisco d'Almeida)がチョウル(Chaul)港に派遣したその息子ロレンソ ダルメイダ (Lourenço D'Almedida)が指揮する3艘の船と5隻の軽キャラベル船(light caravel)から成る小艦隊を襲った。ポルトガル小艦隊は凶暴さを持って反撃したが、無勢の為に恐ろしい殺戮合戦の末、壮絶な戦死をした。これが1508年1月に行われた「チョウルの戦い」である。「チョウルの戦い」での敗北はポルトガル人達にとってもの凄い復讐心を持たせる事であった。総督アルメイダは仕返しの襲撃を行う為に19艘の船が1509年初めにカナノア(Cananore)から出航した。敵対する支配者が統治していたダイブル(Daibul)の港に暫時停泊して略奪した後、1509年2月3日にディウ(Diu)沖でフサイン クルディ艦隊と交戦し、凶暴な海戦で血みどろの敗戦を被らせた。ジッダ(Jiddah)に敗退したフサイン クルディに対し、スルタン カンサウ ガウリは新提督ライス スライマン(Rais Sulayman)の指揮に副提督として従う様に指示した。スライマン艦隊がポルトガル(Lusitanians)の前哨基地イエメン(Yemen)に遠征している最中の1516年春にオスマントルコ(Ottoman Turks, 1299 - 1923)のスルタン サリム一世(Sultan Salim I, 1512-1520)が突然、マムルーク朝(Mamluks)領内に攻め込んだ。1517年1月22日にカイロ(Cairo)はオスマン(Ottomans)側の手に落ち、マムルーク朝(Mamluks)は滅びてしまった。メッカの若い首長(Young Sharif of Mecca)はサリム一世にフサイン クルディのジッダでの暴政を訴え、フサイン クルディを騙して捕縛しスライマンに引き渡した。フサイン クルディはその後、ボートに乗せられ、陸から遠く「魚の母親(ウンム サマク(Umm Samak)」と呼ばれる場所に運ばれ、舷側から溺れさす為に海に投げ込まれた。
フサミ フサイン クルディ(Al-Husami Husain al-Kurdi): ヒジュラ歴920年(1514 -1515)頃のジェッダ(Jeddah)のナイブ(Naib)(メッカ(Mecca)の副首長)。
フジャイラ(Fujairah): アラブ首長国連邦の7首長国の一つ、オマーン湾に面し、人口3.2万人。
ブシール(Bushire): イラン南西部()Southwestern Iran)のアラビア湾(ペルシア湾)に臨む港町、人口16.5万人。テヘラン(Tehran)南400kmに位置するイランの主要な海港である。アラビア湾を挟んでカフジ(Al Khafji)の対岸であり、エビ漁も盛んであった。暑く湿潤な気候で、住人もイランの中では背が低く浅黒く人達が多い。5世紀にはネストリウス派(Nestorian Christian)の拠点であった」と云われるが、1736年にアフシャール朝(Afsharid Dynasty, 1736 – 1750)ナーディル シャー(Nadir Shah, 1736 - 1747)によって創建された。1763年にはザンド朝(Zand Dynasty, 1750 - 1794)カリーム ハーン(Karim Khan, c. 1705 - 1779)がイギリス東インド会社(British East India Company)に交易所(Base & Trading Post開設を認め、1856年と1915年にはイギリスに占拠されている。1970年代にはイタリア スナムプロゲティ(Sanmprogetti)やフランスETPMの海洋石油開発用作業場や基地があった。近傍には原子力発電所が建設され、1995年ロシアが軽水炉を供給している。
フスタ船(Fusta): 船体が長く平底で帆とオールで推進する。
フダイビーヤの休戦(Truce of Hudaybiyyah): フダイビーヤの協定(Treaty of Hudaybiya)、フダイビーヤの和議或はフダイビーヤの盟約とも転写されている。ムハンマド(Muhammad)はイスラーム教徒達(Muslims)に巡礼(Hajj)を命ずるクルアーン(Qur’an)の聖節をすでに告げていたが、クライシュ族(Quraysh)*の敵意の為にイスラーム教徒達は巡礼を行えずにいた。628年シャッワル月(Shawwal)、信徒達(イスラーム教徒達)に生贄の動物を手に入れ、メッカ(Mecca)への巡礼(ウムラ(Umrah)*)の用意をする様に命じ、信徒達とメッカに向かった。1,400名(3,000名との説もある)のイスラーム教徒達が近づいているのを聞いて、クライシュ族はこれを阻止する為に騎兵隊200名を派遣した。ムハンマドはもっと険しいルートをとって、この騎兵隊をかわし、メッカの直ぐ外のフダイビーヤ(al-Hudaybiyyah)に到着した。早速、メッカとの間を行ったり来たりする使者を使ってクライシュ族との交渉を始めた。交渉が続いている間にイスラーム側の交渉人の一人、後の第3代正統カリフ(3rd Rashidun Caliph, 644 – 656)ウスマーン イブン アッファーン(‘Uthman ibn ‘Affan, c. 574 or 579 – 656)*がクライシュ族によって殺されたとのウワサが広まった。ムハンマド(Muhammad)は「もし、この形勢でメッカとの戦争になり、自分がどの様な決定をしようと逃げ出さず、自分から離れない」と誓うように巡礼達に呼びかけた.。巡礼達はこれに応じ、この誓いは「受諾の誓い(Pledge of Acceptance)あるいは樹の下の誓い(Pledge of under Tree)」として知られるようになった。幸い、ウスマーンが無事であるとのニュースで交渉は継続し、10年間の取り決めが最終的にイスラーム教徒達とクライシュ族の間で調印された。この取り決めの主な点には「敵対関係の停止」、「イスラーム教徒達の巡礼の翌年への延期」および「保護者の許可無くメディナへ行っているメッカ住人の送還」等が含まれていた。
フッセイン・ビン・アリ(Hussein bin Ali): フサイン・イブン・アリー(Husain or Husayn ibn Ali, 1854 – 1931)とも転写される。フサインはマッカのシャリーフ(Sharof of Mecca, 1908 – 1916)でオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299 – 1923)からのアラブ独立運動(Arab Revolt(1916 - 1918)の指導し、自らヒジャーズ国王(King of Hejaz, 1916年 – 1924)とカリフ(Caliph, 1924)を宣言した。第一次世界大戦中の1915年、イギリスのカイロ駐在の高等弁務官・マクマホン(High Commissioner Henry McMahon)と書簡を交換し、オスマン帝国に反旗を翻すときに支援するという協定「フサイン - マクマホン協定(McMahon – Hussein Correspondence)」を結んだ。そして、4人の息子と共に「アラブの反乱」を起こして1916年、独立を果たす。このときフサインはイラク・シリア・アラビア半島を含む大アラブ王国を構想していたが、イギリスはすでにサイクス・ピコ協定(Sykes – Picot Agreement)によりこの地域をフランスとともに分割する方針を決めており、アラビア半島のみのヒジャーズ王国(Kingdom of Hejaz))を創始することになったのである。1920年以降はオスマン帝国の脅威が消滅したためイギリスの援助も途絶え、1924年にはオスマン家のアブデュルメジト2世(Abdul Mejid II, 1868 – 1944)がカリフ(Caliph of Islam, 1922 – 1924)を廃位された機にイスラーム世界における権威を求め、カリフに即位する。しかし、ほとんど全イスラーム世界から黙殺されただけでなく、カリフ位を理由として重税を課したため、ヒジャーズ内部からも広範な反対を招くことになり、在地勢力からも見捨てられる。さらに以前からメッカ巡礼による経済効果とイスラム原理主義のひとつであるワッハーブ派(Wahhabi)のイマーム(Imam)としての立場から聖地併合を希求していたナジェド(Najd)のスルタン(Sultan)イブン・サウード(Abdul Aziz Ibn Saud, 1876 – 1953)(のちのサウジアラビア王国初代国王)に侵攻の大義名分を与えてしまい、マッカを奪われて孤立無援となる。さらに国民からフサインよりもサウード家が講和に応じる可能性が高い長男への譲位を要求されて、初めアカバに逃れるが、ワッハーブ軍がこの地に来ることを嫌がったイギリスによりさらにキプロス島への亡命を余儀なくされた。譲位のかいなくヒジャーズ王国そのものも翌1925年には滅び、ヒジャーズ王国はわずか9年で終わりを告げた。なお1926年、アブドゥルアズィーズ・イブン サウード(Abdul Aziz ibn Saud)がヒジャーズ王に即位する。1930年、キプロス島(Cyprus)で病に倒れると息子の治めるトランスヨルダン(Transjordanのアンマン(Ammam)へ移り、翌1931年、同地で死去した。フサインの子・ファイサル・イブン・フサイン(Faisal bin al-Hussein bin Ali al Hashemi, 1883 – 1933)はイラク王(King of Iraq, 1921 – 1933)に、アブドゥッラー・イブン・フサイン(Abudullah I bin al-Hussein, 1882 - 1951)はトランスヨルダンのアミール(Emir of Transjordan, 1921 – 1946)のちにヨルダン王(King of Joedan, 1946 - 1951)に、それぞれイギリスによって立てられている。現在のヨルダン王家(Hashemite Kingdom of Jordan)の直接の祖である。(出典: ウィキペディア)
プテイハニーア(Puteyhania)の給油所: クウェイト-リヤド(Kuwait-Riyadh)道路ハファル アル バーティン(Hafar al Batin)からは南90 kmで、カリド国王軍事都市へ入るの立体交差からは南35 kmにあるラフハ(Rafha)方面への丁字路の僅か北にある給油所で、春になるとその脇の方では小さな市が出来てファ’ガ(Fa'gas)(沙漠の茸)を競りで売買している。
ブデリウム(Bdellium): (ベデッリウム(Bdellium)を参照。)
フド(Hud): 預言者フド(Prophet Hud)はイスラムの預言者の名前で、旧約聖書(Old Testament)ではエベル(Eber)と記述されている。フドは時代は明らかではないがノア(Nuh or Noah)から5世代後に生まれたとされている。フドはクルアーン(Qur’an)の11章に記載されて居り、「150歳まで生き、紀元前2400年頃に預言者となった」と信じるムスリム(Muslims)も居る。クルアーン(Qur’an)には「フドは南アラビアのアード族(Ad)に警告を与える為に派遣された」と述べられている。フドの警告や忠告のもかかわらず、アード族は偶多神教の像神に固執した。アラー(Allah)はアード族を懲らしめる為に旱魃を起こした。旱魃の後もアード族は抵抗を止めなかったのでアラー(Allah)は大きな嵐でアード族を全滅させた。最近になって発見され、クルアーンにイラム(Iram)と記載のあるウバール(Ubar)はアード族の首都であったと信じられている。(出典: Wikipedia)
フトバ(khutbah): 宗教的特別な行事の際に行われる説教。金曜礼拝、二大祭礼拝('Ids)、雨乞いの礼拝など特別なイスラーム行事の際に行われる。(出典: 岩波イスラーム辞典)
プトレマイオス(Ptolemy): ラテン語名はクラウディウス プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus, AD 90 – AD 188)でギリシャ出身の2世紀のアレクサンドリア(Alexandria)の数学者・天文学者・地理学者で天動説 (Geocentric Theory) の代表者である。
プトレマイオス ソーテール二世: プトレマイオス ソーテール二世(Ptolemaeus Soter II, Ptolemy IX Soter II or Lathros(Grass Pea), 116 BC - 110 BC, 109 BC - 107 BC & 88 BC - 81 BC)は母親クレオパトラ三世(Cleopatra III)との共同統治であり、姉妹のクレオパトラ四世(Cleopatra IV)と結婚・離婚、妹のクレオパトラ セレーネ(Cleopatra Selene)と再婚等、母親と姉妹・兄弟の愛憎の中で弟のプトレマイオス十世 アレキサンダー一世(Ptolemy X Alexander I)、110BC - 109 BC & 107 BC - 88 BC)と交互にプトレマイオス朝(Ptolemaic Dynasty, 305 BC - 30 BC)の王位についている。若い国王プトレマイオス ソーテール二世(Ptolemaeus Soter II)には「エリュトゥラー海に関する論文(A Treatise on the Erythraean Sea)」の著者アガサルチデス(Agatharchides, c 170 BC - 100BC)が家庭教師として仕えていた。(本項目は時代考証に問題があり、Wikipediaを参考に修正しました。2009年4月8日)
「プトレマイオスによるアラビア半島のヤコポ ダンジオロによる写本(Arabian Peninsula according to Ptolemy, from the manuscript by Jacopo d'Angiolo)」: フィレツエ(Florence)のヤコポ ダンジオロ (Jacopo d'Angiolo)による写本はパリの国立図書館(the Bibliothèque Nationale of Paris)の蔵書の1つである。
フナインの戦い(Battle of Hunayn): ハッワジーン族(Hawazin)とサキフ族(Thaqif)の同盟軍に対する630年のタイフ(Taif)近傍のフナイン(Hunain or Hunayn)での戦いで預言者モハンマド(Prophet Mohammad)側のアラビアン ジャヒリヤ(Arabian Jahiliya)軍が決定的に勝利し、莫大な戦利品を獲得した。
ブハラ(Bukhara): ウズベキスタン南東部の市、人口24万人。16世紀初頭に始まった中央アジアのブハラを中心としたイスラム国家。(ブカリ(Bukhari)参照。)
フバル神(Hubal): イスラーム以前にはクライシュ族(Quraish)*はカアバ神殿(Kaaba)*の中と周囲に7体の偶像神を持っていた。その中でもっとも偉大なのがフバル神(Hubal)であり、アラビア特にメッカでイスラーム以前に崇拝されていた月の神であった。フバル(Hubal)は心霊を意味するアマレク語('Amaliq)*と云う学者もおり、死海東岸に沿った山岳回廊(Mountainous Strip)モアブ(Moab)のバアル神(Baal)(嵐と慈雨の神あるいは豊沃の神)が起源であるとの説がある。シュメール(Sumer)*ではアラビア北部のメソポタミア(Mesopotamia)最南端で月の神がバビロニア神話の創世記叙事詩「エヌマ エリシュ(Enuma Elish)」に登場しており、フバル神はその変形で古老神の中での最高神であるとの説もある。ナバテア碑文(Nabataean Inscription)ではフバル神(Hubal)は反偶像主義のデュ シャラー神(Du Shara)および運命(死)を司る女神マナワトゥ神(Manwatu)(マナート神(Manat))と共に記述されていた。また、フバル神(Hubal)は女神アッラト(Al-Lat)の息子でワッド神(Wadd)の兄弟であると考えられていた」との指摘もある。さらに最近の仮説では「フバル神(Hubal)はイスラーム以前のホオバル(Hoobal)と呼ばれたソマリア神が起源だろう」との見解もある。クザー’ア族(Banu Khuza’a or Banu Quda’a)の族長アムル イブン ラヒ クザ‘イ(Amr ibn Lahi ak-Khuza’i)*はこのフバル神(Hubal)をシリア(Syria)から持ち帰り、自分の支配の継続を象徴させるためにカアアバ神殿(Kaaba)に安置した。フバル神(Hubal)は長いあごひげをした老人の形をした紅玉髄(Carnelian)ないし赤瑪瑙(Red Agate)であった。クライシュ族(Quraish)に渡った時にはその右手は壊れて無くなっており、クライシュ族(Quraish)は代わりに黄金の腕を作った。最初にフバル神(Hubal)を立てたのはクライシュの曽祖父キナナ(Kinanah)の父クザイマ イブン ムドリカ イブン ヤ‘ス イブン ムダール(Khuzaymah ibn-Mudrikah ibn-al-Ya's' ibn-Mudar)であった(クライシュ族(Quraysh or Quraish)*を参照)。したがって、フバル神(Hubal)はクザイマのフバル神(Khuzaymah’s Hubal)とも呼ばれていた。フバル神(Hubal)はカアバ神殿(Kaaba)の中に立ち、生贄のための円蓋(Vault)を持ち、死者、処女と結婚に関する論争に射る7本の予言の矢が奉じられていた。その中の一本には純粋(Pure or Sarih)と書かれ、もう一本には同盟国人(Consociated Alien or Mulsag)と書かれていた。新生児の血統に疑いが生じた時にはフバル神(Hubal)に生贄を捧げ、それから矢をごちゃ混ぜにして投げる。「預言者ムハンマドの祖父アブド ムッタリブ(‘Abd al-Muttalib or Abdul al-Muttalib, c. 497 -578)が自分の誓いを守る為に生贄にしなければならなかった子供を10人の中から選ぶために予言の矢をごちゃ混ぜにして投げた。その矢は預言者ムハンマドの父親アブド アッラ イブン アブド ムッタリブ(Abd Allah ibn Abd al-Muṭṭalib, 545-570)を指名した」と言う。624年のウフドの戦い(Battle of Uhud)ではクライシュ族(Quraishites)の鬨の声は「女神ウッザー(‘Uzza’)の民、フバル神(Hubal)の民」であった。また、その軍司令官アブー スフヤーン(Abu Sufyan ibn Harb, 560 - 650)は「オー賞賛されるフバル神(Hubal)」と叫んでいた。630年にムハンマドによって宗教改革が行われる以前はカアバ神殿(Kaaba)は月の神と云われるフバル神(Hubal)に捧げられ、一緒に安置されていた偶像神360体の最高位にあった。ハンマド(Muhammad)は630年にメッカを征服すると直ちにカアバ神殿(Kaaba)に安置された360体の偶像神と共にフバル神(Hubal)の像を叩き壊し、クライシュ族(Quraish)の偶像神崇拝の伝統を終わらせ、この建造物を唯一神アッラー(Allah)に奉げた。(出典: Wikipedia)
ブーム(Boom): 船首尾同形の貨物船で通常、船長は12mから24mである。バッガラ(Baggalah)と同じ様に艤装されており、唯一の違いは船体の形である。円形の手すりを持つ船尾(stern)は尖っており、船首(bow)は長く突きだしており、恐らく男根崇拝(phallic)が起源である象徴的に丸く切られた船首材で終わって居り、それがこの型の船の顕著な特徴に成っている。ブーム(Boom)は通常は全体に適当な昇降口を持った甲板が張られている。船尾楼(poop)は少し上がっている。とがった船尾(stern)は帆桁(boom)を航行中、より安全にしている。乗員は15名から40名と様々で、積載量は通常は100トンを越えないが、約200トンの積載量を持つブームも存在する。アラビア海(Arabian Sea)の交易運搬や港湾の艀(lighter)として使われる。
ブラジルスオウ材(Brazilwood): 熱帯アメリカ産豆科ジャッケツイバラ属(Caesalpinia)の数種の木の総称で特にC. echinataの木材でバイオリンの弓、家具の材料に使われる。又、その心材からとれるブラジリン(Brazilin)は赤・ムラサキの染料に用いる。
プラッシーの戦い(Battle of Plassey): ロバート クライブ(Robert Clive)指揮下の600人イギリス兵、800人の印度傭兵、500人の水兵からなる英国東印度会社軍が34,000人のフランスとベンガル太守(the Nawab of Bengal)の連合軍を1757年6月23日にプラッシー(Plassey)で破り、ベンガル(Bengal)におけるイギリスの覇権が確立した。
プラト エル ハイラヌ(Plat El Hayrane): タイマ(Tayma)の南50 kmでアル ウラ(Al Ula)/ハイル(Hayil)分岐の北60 kmにある給油所の廃墟から東に3 - 4 kmにある東西に延びた台形をした平頂山の上に石作りの大きな構造物がある。この岩山の大部分は酸化し太陽光で変色したスレート状の砂岩で覆われているので遠目にはそれとはなかなか分からない。この構造物は紀元前2000年頃にベドウインが作った墳墓である。主墳墓は台地の東にあり、西側を頭に頂辺が20 mの三角形と脚部が直径30 mの円が積み石で石垣状に作られその間を幅5 m位の長い長方形の回廊を二つ置いた様な最長120 mの前方後円墳のくびれ部分を伸ばした様な形をしている。積み石の高さは後円墳部分で4 m、残りは1 mである。材料は山を覆う前述のスレートである。主墳墓も培墳墓も構造は壊されて居ないが盗掘は受けている。
フランシスコ会(Franciscan): 1209年にアッシージ(Assisi)の聖フランチェスコ(St Farncis )が創立した修道会でその灰色の修道服からグレイ フライア(Grey Friars)とも云う。
フランシスコ ダルメイダ(Francisco d'Almeida): ポルトガルの軍人フランシスコ ダルメイダ(Francisco d'Almeida, c. 1450 - 1510)は最初のインド総督(Viceroy of India, 1505-1509)として任命された。その1505年以来、コーチン(Cochin)やカナノア(Cananore)の商館を城塞に作り替え、現在のケララ(Kerala)州コラム(Kollam)であるクイロン(Quilon)にも要塞を後から作った。一方、マムルーク朝(Mamuluk, 1250 - 1517) スルタン カンサウ ガウリ(Sultan Qansawh al-Ghawri, 1501 - 1516)は目に余るポルトガル(Portuguese)の略奪・海賊行為や巡礼船に対する侮辱に対抗する為にフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)提督の遠征艦隊をインド海域に派遣した。1508年1月に行われた「チョウル(Chaul)の戦い」で小艦隊を指揮した息子ロレンソ ダルメイダ (Lourenço D'Almedida)がマムルーク朝遠征艦隊によって恐ろしい殺戮合戦の末、壮絶な戦死をさせられた。アルメイダ(Almeida)は仕返しの襲撃を行う為に19艘の船が1509年初めにカナノア(Cananore)から出航させ、敵対する支配者が統治していたダイブル(Daibul)の港に暫時停泊して略奪した後、1509年2月3日の「ディウ沖の交戦」でマムルーク朝遠征艦隊に凶暴な攻撃をしかけ、血みどろの敗戦を被らせた。アルメイダ(Almeida)の捕虜に対する無慈悲な振る舞いは後にポルトガルの歴史家の非難を浴びている。ディウの戦い(the battle of Diu)の前から、多くの権力が1人の手に長く集中するのを恐れていたポルトガル国王マヌエル一世(King Manuel I, 1469-1521)はインド総督アルメイダ(Almeida)にインド統治領(the Viceroyalty of India)の最高権威の事務所を第2代インド総督に任命したアフォンソ ダルボケルケ(Afonso d'Alboquerque, 1508 - 1515)に渡し、帰国する様に命令して解任した。ポルトガル帰国の途、1510年5月1日、喜望峰(Cape of Good Hope)近くのアフリカの海岸に上陸し、泉(Water Hole)で休息中であったアルメイダ(Almeida)の部下達はキャフレ族(Caffres)の暴徒達から小さな攻撃をこうむった。それに復讐をしようとしてアルメイダ(Almeida)は返り討ちにあい、65名の部下達と共にキャフレ族(Caffres)に殺された。(「無慈悲なアルメイダの死の予告」参照。)
フランシスコ マレコス(Farancisco Marecos): 1502年10月1日に起きたヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)指揮下でムーア人に対する略奪・残虐等海賊行為を行った部下の船長の一人。
フランク(Frank): アラビア語ではルメス(Rumes)やルム(Rum)は相当期間に渡って全ての東地中海民族を意味し、その他の西洋人はひとまとめにしてファランジ(Faranji)或いはフランクス(Franks)として引用していた。
ブリ (Bury): 磨かれていないココナッツ(Cococnut)の実の殻で作られており、水が貯えられている。太い葦が蛇管の役割をしている。このパイプは下層民や紅海の船員達全てによって常用されている。紅海の船員達はこの使用にもっとも尋常で無く耽っている。
ブリガンティン型帆船(Brigantine): 2本檣(MAST)で横帆を装備したブリグ型帆船(Brig)と2本以上の檣(Mast)で縦帆を装備したスクーナー型帆船(Schooner)の合いの子で「ハルマフォロダイト ブリグ(Hermáphrodite Brig)」或いは「ブリグ スクーナー(Brig Schooner)」と呼ばれる帆船で、2本檣(Mast)で前檣(Foremast)に張った横帆(SQUARE Sail)と主檣(Mainmast)に装備した斜桁に吊るした縦帆の主帆(Gaff Mainsail)の上に三角形の中檣帆(Topsail)を張るスクーナー(Schooner)艤装の組み合わせである。この様に代表的な帆の張り方を2種類組み合わせているので合いの子(Hermáphrodite)と名付けられ、英語ではこの型の帆船をブリガンティン型帆船(Brigantine)と呼んだ。。
プリニウス(Elder Pliny): ローマの博物誌家(西暦23年から79年)、ラテン名ガイウス・プリニウス・セクンドゥス (Gaius Plinius Secundus)、通称Pliny the Elder。北イタリアのコムム(Comm)(現在のコモ市(Como))に生まれた古代ローマの博物学者、政治家、軍人。甥に文人で政治家のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Caecilius Secundus)(小プリニウス、62A.D-114A.D)がおり、養子としている。小プリニウスと区別するため大プリニウスと呼ばれる。ローマ帝国の海外領土総督を歴任する傍ら「博物誌(Naturalis Historia)」を著した。地中海艦隊の司令官として南イタリアのミセヌム(Misenum)にいたとき、ヴェスヴィオ火山(Vesuvio)の噴火を目撃した。プリニウスは救助活動のため艦隊を率いてポンペイ(Pompeii)へ向かったが、その道中で病死した。病死ではなく、火山の観察を続けるうちに避難し遅れたのだとも言われている(ウィキペディア)。
ブリュージュ(Bruges): ベルギー北西部ウエストフランダース(West Flanders)州の州都(12万);中世毛織物業が発達、後にハンザ同盟の中心。
フール(Foul or Fuul): フール(小さい乾燥ソラマメ)を銅製の深い鍋で煮込んだ豆のスープでサウジでは暖かいまま、薬味と一緒に朝食に供される。
ブルクハルト(Johana Ludwig Burckhardt): ブルクハルト(Burckhardt, 1784 - 1817)はスイスの探検家で英国アフリカ協会に雇われエジプトを探検し、古代都市ペトラ(Petra)を発見、イスラム教徒に変装しメッカ(Mecca)やメディナ(Medina)を歴訪した。モハンメド アリ(Pasha Mohammed Aly, 1805 - 1848)は後におどけて「ブルクハルトの旅行への熱狂(Johana Ludwig Burckhardt's travelling madness)」とタイフ(Tayf)で名付けた。(ブルクハルトのアラビア・ヒジャーズ地方の旅参照http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/Jeddah-Burckhardt.html。)
「ブルクハルトの素晴らしい伝記」: 「SIM, K 沙漠の旅行者(ジョン ルイス ブルクハルトの一生)」と題され1969年にロンドンで出版された(An excellent Biography of Burckhardt has appeared recently, entitled: SIM, K. Desert Traveller: the life of John Louis Burckhardt London 1969.)。
ブール シャミー(Bur-Shamie): とげだらけに洋梨(Prickly Pear)とも呼ばれ、サボテンの一種オプンチア(Opuntia)である。
フルジャンス フレネル(Fulgence Fresnel): 1840年当時のフランスのジェッダ領事でアジア ジャーナル(Journal Asiatique)にも記事を載せている東洋通であり、「イスラム以前のアラビア史の研究 (Etudes sur I'histoire des Arabes avant I'Islamisme) 」を著作し、1836年にパリ(Paris)で出版している。
「ブルース(Bruce)の本」: 「1768年、1769年、1770年、1771年および1777年のジェームズ ブルース(James Bruce)によるナイルの水源の発見の旅」はエディンバラ(Edinburgh)で1790年に出版された。初版本を調べるのは不可能であるが、J.H. Castreraによる完全な仏訳(t. I, ch. XI)もパリで1790 - 1792年に出版された。エディンバラ(Edinburgh)で1873年に出版された「ブルースのアビシニアとヌビアの旅(Bruce, J. Travels in Abyssinia and Nubia)」と云う題名の修正版からは記録された旅行は劇的に削減されている。
ブルント島(Burnt Island): 鳥の島 (Bird Island) とも云われるジャバル アト−タイル (Jabal at-Tayr) であり、この島は紅海の真ん中の航路にある250m高さの火山島でイエメンの港ロヘイア(Loheia)の西約90kmに在る。
フレグ(Hulagu): フレグ(旭烈兀)(Hulagu, 1218-1265)はジンギス汗の子ツルイ(Tolui)の第6子で1253年兄モンケ(憲宗)の命により西征し、イラク・シリアに侵入し、アッバース朝を滅ぼした。モンケ(憲宗)の没後、自立し、タブリース(Tabriz)を国都と定め、イル汗国(1258-1353)を創始した。在位は1256-1265であった。
プレスター ジョン(Prester John): 中世の伝説上のキリスト教修道士でアジアまたはアフリカの国王.。プレスター ジョンの領土の真の関係(A True Relation of the Lands of the Prester John)についてアルヴァレス神父(Alvarez)はその著書「1520年のエチオピアへのポルトガルの外交使節団(the Portuguese Embassy)の物語」での記述している。同書は1881年オールダーリー(Alderley)のスタンリー卿(Lord Stanley)が翻訳し、ケンブリッジ(Cambridge)のハクルート協会(Hakluyt Society)のベッキングハム(C.F. Beckingham)およびフンティングフォード(G.W.B. Huntingford)による追加資料を加えた改訂・編集版が1961年に出版されている。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「"Prester (Presbyter) John"は"Preste João"の英語への転写であり、分かり難く、寓話的なアビシニア皇帝(Negus of Abyssinia)をポルトガル人達はこの名前で呼んでいた」と説明している。
「フレとガリニエのアビシニアへの航海(Ferret-Galinier Voyage en Abyssinie)」: アビシニア(Abyssinia)への使節の報告書であり、1847年パリで出版された (Paris 1847.)。
ブレーメン(Bremen): ドイツ北西部のブレーメン州はブレーメン(Bremen) とブレーマーハーフェン(Bremerhaven)の両市からなり、ブレーメン(Bremen)がヴァーザー(Weser川)に臨む同州の州都(55万)であり、かつてブレーメン(Bremen)はドイツ北部、ヴェーザー(Weser)川下流とエルベ(Elbe)川下流の間にあった公国の名でもあった。
フレーヤ ハルク(Freya Hark): 「ジッダー(或るアラビアの町の描写)」前書きの執筆者。
ブロウチ(Broach or Bharuch): アラビア海に臨むインド キャムバイ湾(the Gulf of Cambay)の貿易の中心地でナルマダ川の河口(Estuary of the Narmada)に在る町で昔のバリガザ(Barygaza)。
ブロードハーストR.J.C. (R.J.T. Broadhurst): 「イブン ジュバイルの旅行記(THe Travels of Ibn Jubayr)」を翻訳し1952年にロンドンで出版した (The Travel of Ibn Jubayry tr. R.J.T. Broadhurst, London 1952)。
フローレンス(Florence):イタリア中部アルノ(The Arno) 河畔の町であり、トスカナ(Tuscany)太公国の首都でもあった。イタリア名はフィレンツェ(Firenze)。
ブント門(Bab al-Bunt): 20世紀の初めにジッダ(Jiddah)の海側にあった門で、税関棟と一体化しており、スーク(suq)に向かって開けられていた。
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米国軍事指導使節: USMTM (The United States Military Training Mission)
米国陸軍航空技術援助実践部隊: TAFT (Army Aviation Technical Assistance Field Team)
米国陸軍サウジ ミサイル指令所: AMC-SA (Army Missile Command in Saudi Arabia)
平面球形図世界地図(Planisphere of World): アラブ人地図学者で地理学者のイドリーシー(Muhammad al-Idrisi, 1100 – 1165/1066)がこの手法を使って世界地図を描いた。
ベイルート(Beirut):レバノン(Lebanon)の首都であり、人口180万の同国最大の都市で、地中海に面した海港である。元々ベイルートは、紀元前15世紀から紀元前8世紀頃に海上交易で活躍したフェニキア人(Phoenician)によって、泉の街(Beroth)と名付けられた。ベイルートは、長きにわたって東地中海の交易の中心地であり続けた。中世のほとんどは、アラブ最大の交易の中心地としての地位をイスラエル北部の港町アッコ(Akko or Acco)に譲っていたが、18世紀になると、ベイルートは、ダマスカス(Damascus)の支援を得て、アッコによる交易の独占を打破することに成功し、瞬く間にアッコに代わってこの地域の取引の中心地となった。(ウィキペディア)
碧玉(Jasper): 不純物を含む石英で、緻密・不透明で、酸化鉄を含むもには緑色ないし紅色、水酸化物を含む物は黄褐色である。古くは曲玉、管玉等の素材となった。印材、指輪、簪等の装飾品に使用される。
ベクテル(Bechtel): International Bechtel Corporationはアラムコ(Arabian American Oil Comany)と共にサウジアラビアの外観を大きく変えた企業で、1925年に設立されて米国の建設・エンジニアリング会社であり、鉄道建設から道路・橋梁を手掛ける建設会社に成長、本社はサンフランシスコ(San Francisco)。
ベズレ カーン(Bezret Khan): 白檀(Sandal-Wood)の小さな粒(Small Nodules)でビーズを作るのに使われる。
臍部(Surrah): スッラ(Navel)はドーム(Qubba)で覆われて居る。
ベゾアール石(Bezour Stone): 奇妙な交易品の中でもベゾアール石は恐らく、一番興味をそそると思われるので、オランダの有名な旅行者ヒューゴー ヴァン リンスホーテン(Hugo van Linschoten, 1563 - 1611)著で1599年にハーグ出版の「旅行案内(Navigatio ac Itinerarium) (the Hague 1599, p. 87)」に記述された産地と性質をここの引用する。(同書87頁参照。)「ベゾアール石(Bezoar Stone)はペルシアのホラーサーン州(Khrassan)(イラン東北部で州都はマシュハド(Mashhad))およびインドの一地方で産する。この石は羊や山羊レイヨウ(Mountain Goat)の胃の中で藁の細片の周囲に形成される。かつてこの石が見つかると調査され証明された様に石は藁の細片に凝固物を作りながら付着する。この石そのものは非常に滑らかで透き通り、生き生きした色をしている。この石は毒に対して効果的で、重要な治療薬であり、ヨーロパにおいてサイの角が高価である以上に、インドではずば抜けて高価である。」リンスホーテン(Linschoten)は「ベゾアール石は山羊レイヨウ(Mountain Goat)を意味するペリシア語のパザン(Pazan)をポルトガル語(Portuguese)に転写する際に誤って、ベゾアールと訳されてしまった」と説明している。ヨーロッパではベゾアール石は万能薬(Cure-All)としてロケット(locket)に入れて首からぶら下げられていた。"Lapis Bezar, qui ex Persiae provincia Carassona, ac aliis Indiae terris advenit, in stomacho ovis aut birci nascitur, subjecto tenui stramine, quod in medio jacet, adherente lapide, ac cingente stramen, ut saepe experimentis cognitum est, eodem reperto. Lapis ipse extrinsecus planus est. ac nitidus, colore livido...Grande buic lapidi in India pretium est, contra venena validissimo ac praesentissimo remedio supra cornu Monocerotis in Europa".
ベッカ(Becca): バッカ(Bakkah)とも呼ばれ、狭い谷(Narrow Valey)を意味するメッカ(Mecca)の旧名でもある。
ペッティ(Prof. Maria Teresa Petti): 1970年代にナポリ大学東洋学科教授でアラビスト。
ベデッリウム(Bdellium): .ベデッリウム没薬(myrrh)に似た芳香のある樹脂で或る種のアジアやアフリカ産のバルサン属 (bursera, balsam)灌木或いはコンミフォラ(Commiphora)属の樹木から産する。乳香、没薬およびベデッリウムと云うガム樹脂の全ての種類は古代の中東では宗教的(香料)、化粧(香水)および医学目的で使われた。メソポタミアの楔型文字 (cuneiform text) には没薬(ベデッリウム)は頭の湿布 (poultice) 、目、鼻および耳の治療およびその他の医療目的に使われたと記録されている。又、シュメール (Sumerians) および バビロニア (Babylonian) では清める儀式として寺院の一部として香料が埋められた。没薬とベデッリウムが抽出される樹木は古代には南アラビアと北部ソマリア (Somaliland) でしか成長しなかった。アラビアの地理学者アル マグディシ (al-Maqdisi) は「ムグル (muql) と呼ばれるベデッリウムはどちらかと言えばイエメン北部のアル マールワ (al-Marwah) 地区で育った」と引用しているけれども南アラビアでは特に没薬(ベデッリウム)は現在のイエメンのアデン湾で北緯18°より南でしか育たなかった。時間と共に堅固な香料交易が南アラビアとメソポタミア、エジプト、イスラエルやジョルダンの様な中東地区の他の場所との間で発展した。なお、Yahoo!辞書ではベデッリウム(Bdellium)はブデリウム(Bdellium)と転写されている。
「ベドウインとワッハーブ派についてのメモ」: ジョン ルイス ブルクハルト(John Louis Burckhardt)の書いたこのメモは1831年にロンドンで日の目を見た(Burckhardt also wrote Notes on the Bedouins and Wahhabi which saw the light in London, 1831.)。
ペトラ(Petra): 死海(the Dead Sea)とアカバ湾(the Gulf of Aqaba)の間にある渓谷(Wadi Araba) の入り組んだ岩山の中にあるヨルダン(Jordan)の遺跡で、死海から約80km南に位置する。紀元前1200年頃から、セム語を話す部族(Semitic-Speaking Tribal Group)で死海の南のネゲブ沙漠(the Negev Desert )やアラバー渓谷(the Arabah valley)に住んでいたエドム人(the Edomites)たちがペトラ付近に居住していたと考えられている。エドム人たちの国は紀元前11世紀から8世紀には存在し、大いなる反乱(The Great Revolt)と呼ばれる第一次ユダヤ・ローマ帝国戦争(The first Jewish-Roman War , 66 - 73 A.D.)で終焉した。立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったナバテア人達(the Nabataean)が居住しはじめた。ナバテア人はセム語派のアラム語(Aramaic language)の方言であるナバテア語(Nabataean language)を話し、アラビア付近の貿易を独占した。それにともないペトラも古代ナバテア王国の首都として栄えた。紀元前64年から紀元前63年ごろ、ナバテア人はローマの将軍、ポンペイウス(Pompey the Great or Gnaeus Pompeius Magnus, 106 BC - 48 BC)により、その支配下におかれる。ローマは、ナバテアの自治は認めたものの、税を課した。また砂漠から進入してくる異民族の緩衝地帯とした。また、ローマ風の建築物の造営がこのころ始まった。西暦106年には、ローマ皇帝トラヤヌス(Marcus Ulpius Nerva Traianus or Trajan, AD 98 - AD 117)によりペトラとナバテア人はローマのアラビア属州として完全に組込まれる。(ウィキペディア)
ペドロ アルヴァレス カブラル(Pedro Alvares Cabral): ポルトガルの航海家(1467/68 - 1520)で、ヴァスコ ダ ガマ (Vasco da Gama)の成功裡での帰還の後、1500年3月9日にリスボン(Lisbon)を最初に出航したインドに向かう交易艦隊の提督であり、その途中でブラジルを発見した。これが偶然にせよ、故意にせよ、ブラジルはポルトガル王家の所有となった。
ペニーウェイト(Dwts. or Pénny-Wèight): ペニーウェイトは英国の金衡単位で24 Grains、1/20 Ounce (1.555g)。
ベニン(Benin): アフリカ西部で14 - 17世紀に栄えた王国で今のナイジェリア南部。
ベニン川(Benin River): ナイジェリア南部を流れ、ベニン湾に注ぐ川。
ヘプタ-フェレアタ(Hepta Phreata): 7つの井戸があるのでそう呼ばれていたグンフダー(Al Qunfudhah)。
ヘブライ紀元(A.H.) (Jewish Calender) : ユダヤ人が使う太陰太陽暦で19年に7度13ヶ月の閏年があり、紀元前3761年10月7日を創世紀元とし、西暦2001年9月18日から5762年が始まる。
ヘブロン(Hebron): ヨルダン(Jordan)川西岸地区の町、人口7.9万、聖書時代からの古い町でアラビア語ではエル カルイル(el Khalyl、el Khalil)(カルイリス(the Khalylis))と呼ばれる。
ペリム島(Island of Perim): イエメン(Yemen)南西部アデン(Aden)の西方の紅海入り口にある島で、昔、船舶給炭港があった。
ペルシア(Persia): 1935年に改称したイラン(Iran)の旧称で今も非公式には用いる。
「ペルシャ航海の歴史(History of Persian Navigation)」: ハディ ハサン(Hadi Hasan)著、1928年 ロンドンで出版、同書の147頁には「第2代インド総督アルボケルケ(Alboque, 1508 - 1515)がペルシア サファヴィー朝(Safavids, 1501 - 1722)始祖のシャー イスマイル(Shah Ismail, 1502 - 1524)を脅した件」について記述されている。
「ペルシャ湾のカティーフから航海のヤンブーまでの旅行記」: ジョージ ファースター サドラー大尉(Captain George Forster Sadleir, 1789 - 1859)著、メージャー ヴァン ケネディ編集、1823年出版のボンベイ文学協会会報第III巻の449 - 493頁(Account of a Journey from Katif on the Persian Gulf to Yamboo on the Red Sea by Captain G.F. Sadleir ed. by Major Vans Kennedy. Transaction of the Literary Society of Bombay. Vol. III, 1823, p. 449 - 493.)。
ペルシア湾(Persian Gulf)(Sinus Persicus): アラビア半島とイランの間に挟まれたアラビア海の湾入部分でサウジアラビアではアラビア湾と呼ぶ。
ペルセ(Peluse): プトレマイオス(Ptolemy AD 90 - AD 168)(ラテン語名はClaudius Ptolemaeus)が生まれたエジプト(Egypt)の町。
ペルセポリス(Persepolis): 古代ペリシャ帝国の首都、ダリウス一世(Darius, 522 BC – 486 BC) がアケメネス朝 (Achaemenid、550 - 330 B.C.) の首都として建設した。アレキサンダー大王 (Alexander the Great, 356 BC - 323 BC and AlexanderIII of Macedonia, 336 BC - 323 BC)がペルシア(Achaemenid Persia Empire, 550 BC – 330 BC)を征服した際に、焼かれて廃墟となった。その遺跡はイラン南西部シラズ(Shiraz)の近くにある。
ペルードル(Peru Dollars)(コブ ドル(Cobb Dollars)): スペイン領アメリカのペソ、不規則な形をしたスペイン領アメリカの粗製硬貨。
ベルベラ(Berbera): バールボラ(Barbora)とも転写されるソマリア(Somalia)北部のアデン(Aden)湾を望む港町(7万)。
ベルベル族(Berber): ベルベル語を話す北アフリカ山地に住むコーカソイド(Caucasoid)の人種の先住民族でアフロ=アジア(Afro-Asiatic)語族に属し、方言が著しい。7世紀後半以来アラブ化が進み、現在ではモロッコ(Morocco)のアトラス(Atlas)山中やリーフ山地(Rif Mountains)、アルジェリア(Algeria)のカビリー(Kabylite)地方を主な居住地とする。
ヘルメス(Hermes the Sage): 賢人ヘルメス(Hermes the Sage)は古代エジプト人が全ての科学を作り出したと考えていた伝説上の人物で、世界を気候風土的に7つの地域に分類した。それによれば、イエメン (Yemen) とヒジャーズ (Hejaz) は第2地域に入っていた。
ヘルメース(Hermes, L Hermēs, GK Hermés): (ギリシャ神話)ゼウス(Zeus)とマイア(Maia)[との子:神々の使者で翼のついた靴と帽子と杖(Caduceus)を身につけて描かれている。商業・学術・雄弁・発明・体育などを司り、また盗賊・羊の群・旅人の守護神でローマ神話のマーキュリー(Mercury)にあたる。
ヘルメース トリスメギストス(Hermés trismégistos): Hérmes Tris-me-gís-tus (GK Hermés trismégistos Hermes the thrice greatest)はグノーシス派(Gnosticism)がエジプトの神トト(Thoth)に与えた名でヘルメース(Hermes)と同一視され、魔術・占星術・錬金術に関する書物の著者とされた。
ベレニス(Berenice): 紅海のエジプト側にある港でその名前はフィラデルファス王(ピラデルポス又はプトレマイオス二世(King Ptolemaeus Philadelphus or Ptolemy II Philadelphus, , 283 BC - 246 BC))の母親に因んで付けられ、ファウル湾の岬 (at the head of Foul Bay) に位置している。
ベレン聖体顕示台(Belen Monstrance): ベレン(Belen)はスペイン語でキリスト(Christ)の誕生をかたどった人形飾りで、聖体とはキリストの体の称でパンと葡萄酒の形をとって現存するとされる。幼児キリスト、東方の三博士、その駱駝などの人形で降誕祭(クリスマス)から1月6日の主顕節まで飾り付けられる。
ペロ タフール(Pero Tafur): スペイン人の旅行家で 「ペロ タフールの1435年から1439年までの旅行と冒険(Travels and Adventures of Pero Tafur (1435-1439)」を著作した。
「ペロ タフールの1435年から1439年までの旅行と冒険」: スペインの旅行家ペロ タフール(Pero Tafur)が自分の旅行記を著作した。同書はブロードウェー旅行家シリーズ(Broadway Travellers Series)を書いたマルコム レッツ(Malcolm Letts)によって翻訳・編集され、ロンドンで1926年に出版されている(Travels and Adventures of Pero Tafur (1435-1439) Tr. and cd. by Malcolm Letts (Broadway Travellers Series), London 1926.)。
ペロ デ コビリヤン(Pero de Covilhã): コビリヤンはポリトガル王のジョアン二世(King João II)の斥候であった。ジョアン二世はアフォンソ デ パイヴァ(Afonso de Paiva)に伴わせて、香料の土地に関する知識と交易路を探り、将来の事業を期待して寓話的にポルトガル人(Portuguese)がプレスター ジョン(Prester John)と呼んでいたアビシニア皇帝(Negus of Abyssinia)と連絡をとるためにコビリヤンをパイヴァ(Paiva)と共にレヴァント(Levant)へ派遣した。二人は1487年5月7日にポルトガル(Portugal)を出発し、アレキザンドリア(Alexandria)とカイロ(Cairo)を目指した。ここで彼等はモロッコ(Morocco)から来た数人のムーア人(Moors)と会い、彼等と共にアラビア(Arabia)へ旅する様に手配した。1488年の春に彼等はスワキン(Suwakin)経由でアデン(Aden)へ航海し、到着した後、別れた。パイヴァ(Paiva)はエチオピア(Ethiopia)に向かい、コビリヤン(Covilhã)はカリカット(Calicut)へ向かった。カリカット(Calicut)は当時、インドで最も豊かな港でそこでは回教商人の大きな共同体が外国貿易特に香料貿易を支配していた。それに続き、ゴア(Goa)、ホルムズ(Hormuz)およびアデン(Aden)と旅した後で、コビリヤン(Covilhã)は再びカイロに到着した。そこでコビリヤン(Covilhã)はパイヴァ(Paiva)の死亡を知った。王からの新たな命令で、コビリヤン(Covilhã)はそれからホルムズ(Hormuz)に戻った。巡礼の服装でジェッダ(jeddah)に進み、そこからメッカ(Mecca)へと進んだ。このメッカとメディナ(Medina)への訪問は命令で指図されて居なかったが、コビリヤン(Covilhã)の冒険精神のせいである。メディナからコビリヤン(Covilhã)はシナイ(Sinai)に到着し、最終的に1493年にトール(Tor)およびゼイラ(Zeila)を通ってネグス(Negus)(エチオピア皇帝)の宮廷に着いた。
ヘロドトス(Herodotus): 紀元前5世紀のギリシャの歴史家(紀元前484年から420年)で小アジアに生まれ諸方を遊歴し著書「歴史」でペルシア戦争を中心に東方諸国の歴史・伝説、アテナイ(Athens)やスパルタ(Sparta)等の歴史を叙述し、「歴史の父」と呼ばれている。
ベンガル(Bengal): インド亞大陸(Indian Subcontinent)の北東部でガンジス川(The Ganges)河口部一帯とブラフマプトラ川(The Brahmaputra)の流域で1947年にパキスタン(Pakistan)とインド(India)で分割した。今は西ベンガル地方(West Bengal)はインド(India)領で東ベンガル地方(East Bengal)はバングラデシュ(Bangladesh)領である。
ベンジャミン(Benjamin): 安息香或いはベンゾイン樹脂(benzoin)とも呼ばれ、東南アジア(スマトラ・ジャワ原産)のエゴノキ科の落葉高木(安息香の木)の樹皮から分泌する樹脂で帯赤色または褐色の塊で甘味を有し、その中に乳白色の顆粒を蔵し、熱すると強い芳香を放つ、薫香に用い、去痰剤・呼吸刺激剤。
ベゾアール石(Bezour Stone): 奇妙な交易品の中でもベゾアール石は恐らく、一番興味をそそると思われるので、オランダの有名な旅行者ヒューゴー ヴァン リンスホーテン(Hugo van Linschoten)(1563 - 1611)著で1599年にハーグ出版の「旅行案内(Navigatio ac Itinerarium) (the Hague 1599, p. 87)」に記述された産地と性質をここの引用する。(同書87頁参照。)「ベゾアール石(Bezoar stone)はペルシアのホラーサーン州(Khrassan)(イラン東北部で州都はマシュハド(Mashhad))およびインドの一地方で産する。この石は羊や山羊レイヨウ(mountain goat)の胃の中で藁の細片の周囲に形成される。かつてこの石が見つかると調査され証明された様に石は藁の細片に凝固物を作りながら付着する。この石そのものは非常に滑らかで透き通り、生き生きした色をしている。この石は毒に対して効果的で、重要な治療薬であり、ヨーロパにおいてサイの角が高価である以上に、インドではずば抜けて高価である。」リンスホーテン(Linschoten)は「ベゾアール石は山羊レイヨウ(mountain goat)を意味するペリシア語のパザン(pazan)をポルトガル語(Portuguese)に転写する際に誤って、ベゾアールと訳されてしまった」と説明している。ヨーロッパではベゾアール石は万能薬(cure-all)としてロケット(locket)に入れて首からぶら下げられていた。"Lapis Bezar, qui ex Persiae provincia Carassona, ac aliis Indiae terris advenit, in stomacho ovis aut birci nascitur, subjecto tenui stramine, quod in medio jacet, adherente lapide, ac cingente stramen, ut saepe experimentis cognitum est, eodem reperto. Lapis ipse extrinsecus planus est. ac nitidus, colore livido...Grande buic lapidi in India pretium est, contra venena validissimo ac praesentissimo remedio supra cornu Monocerotis in Europa".
ヘンナ(Henna): シコウカ(Lawsonia)とも呼ばれる。ミソハギ科(Lythraceae)の熱帯性低木(Lawsonia inermis)で北アフリカ・西アジア原産であり、中国では古くから栽培され、一年中芳香のある白・淡紅・淡緑色の四弁花を開く。古来から黄色染料として使われて来た。頭髪・ヒゲ。爪など(赤)茶色に染めるのに使われる。古くはカムファイア(Camphire)とも云った。
ヘンリー王子(Prince Henry the Navigator): エンリケ航海王子(Infante Dom Henrique)(1394-1460) はポルトガル(Portugal)の王子であり、自らは航海しなかったが、大航海時代の初期における重要人物の1人である。アヴィシュ王朝(Dinastia de Avis, 1385-1580)を開いたジョアン1世(Joao I, 1385 - 1433)の子であり、探検事業家、後援者として航海者たちを援助するとともに指導し、それまで未知の領域だったアフリカ西岸を踏破させるなどしたことで、大航海時代の幕を開いた。1420年エンリケは聖地エルサレム(Jerusalem)への巡礼者を防衛、援助、救護する目的のために創設された騎士修道会(Knights Templar)の後継であるキリスト教騎士団の指導者となり、その死に到るまでその地位にあるとともに、莫大な資産を保有する騎士団による援助によって、自らの探検事業の強力な資金源とした。
「ヘンリー ルックの出版(Henry Rooke Travels to the Coast of Arabian Felix in a Series of Letters)」: 「ヘンリー ルック(Henry Rooke)が富裕なアラビア(Arabia Felix)の海岸を旅した時の幾つかの手紙」はリヴォルノ(Leghorn)で1788年に出版されたが、 初版はロンドンで1783年に既に出版されていた(Rooke. H. Travels to the Coast of Arabian Felix.... in a series of letters Leghorn 1788. The first edition was published in London, 1783.)。
防空部隊: ADA(Air Defense Artillery)
ボウリ(Boury): ココナッツで作られた普通のペルシャ煙管。
ポーク海峡(Palk Strait): インド南東部(Southeastern India)とセイロン(Ceylon or Sri Lanka)島北部の間の海峡。
ポーコック(Pococke): リチャード ポーコック(Richard Pococke, 1704 - 1765)は英国の旅行家でシリア(Syria)、メソポタミア(Mesopotamia)、エジプト(Egypt)等へ旅をし、紀行としてまとめた。アルピニスト(Alpinist)の草分けでもあり、アイルランド(Ireland)のオソリー(Ossory)の主教でもあった。ポーコック(Pococke)は1737年から1742年まで中東(the Orient)を旅した紀行文「東洋と幾つかのその他の国々の記述(A Description of the East and some other Countries)」を執筆し、ロンドン(London)で1743 - 1745年に出版した。
ボーサ(Boosa):酩酊させる((Intoxicate)飲み物。
ホジャ カッセム(Khoja Kassem): 1503年2月12日のカリカット(Calicut)艦隊とヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama)指揮するポルトガル艦隊との海戦でカリカット(Calicut)の艦隊のマラバール小艦隊を指揮した。
ホジョオン(Al-Hojoon): 涸れ谷ビシャー(Wadi Bishah)のビシャー(Bishah)で分岐する左股の涸れ谷ヒールジャブ(Wadi Hir Jab)沿いの小部落の一つ。
ボスウェッリア(Boswellia carterii): カンラン科 (Burseraceae) ボスウェリア属(Boswellia)の乳香樹(Boswellia Thurifera or Boswellia caraterii)、南アラビア(South Arabiaのドファール(Dhofar)や東アフリカ(East Africaのソマリ(Somaliland)でしか育たないこのボスウェリア(Boswellia)と言う大きな灌木からしみだす樹脂が乳香(Frankincense)であり、古代から交易の大きな対象であった。
ボスポラス海峡(Bosporus): トルコ(Turkey)のヨーロッパ部分(Occident)とアジア部分(Orient)を隔てる海峡。長さは南北約30km、幅は最も狭い地点でわずか800m程。
ポセイドン(Poseidon): ギリシャ神話の海の神。ゼウス(Zeus)に次ぐオリュムポスの神(Olympian Deitiy)であり、海の支配者で常に三つ又の戟(ほこ)を持ち、青銅のひづめと黄金のたてがみをもつ馬がひく戦車に乗り、海の怪物を従えて海原を走る、ローマ(Rome)のネプチューン(Neptune)にあたる (the god of the Ocean in Greek mythology)。
ポッジョ ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini): イタリア(Italy)の人文主義者(1380-1459)でドイツ(German)、フランス(France)、スイス(Swiss)等の修道院で多数の写本を発見した。晩年はフィレンツェ(Florence)に戻り書記官長で著作に「ファシーシイ(Facetiae)」等がある。
ポートレート(Prortrayal): 描画、描写、肖像画等。
ホディイダ(Hodeida): ホデイダ或はフダイダ(Hudaydah)と転写されるイエメン(Yemen)西部の紅海を臨む港湾都市(40万人)。首都サヌアの外港でモカ-コーヒーの輸出で有名。
ホマール(Homar): タマリンド(Tamarind)のジッダ(Jiddah)のスーク(Suq)での呼び名である。タマリンドは東インド諸国から運ばれ、黒人の国みたいにケーキ(cakes)には入れられず、もっと分解させて自然のままで食される。水に入れて煮沸すると清涼飲料となり、病人にはシチューに入れて肉と一緒に煮て供される。
ホモ ハビリス(Homo habilis): 初めて道具を作ったとされる直立猿人で200万年前の最古のヒト属と言われる。
ホラズム(Khwarizm): 西アジアのアム ダリヤ川(Amu Darya)の下流地域、古くは東西交通路の要衝で12世紀には強大な王国が栄えた。現在はウズベキスタン(Uzbekistan)とトルクメニスタン(Turkmenistan)の両国に属する。
ホリデイイン ナジラン(Holiday Inn Najran): 1990年代に建てられたホリデイイン系列(Holiday Inn chain) に属する4スターホテルである。開業当初は半分がナジラン州知事の公邸として使われていたので名声が高かった。リヤド(Riyadh)から南はアブハ(Abha)とカミス ムシャイト(Khamis Mushayt)を除けば国際級のホテルは無かったので、このホテルの完成で空白地帯へ西からシャロウラー(Sharourah)まで比較的簡単に入り込む事が可能になった。このホテルはナジラン州ナジランの中心から7km東で空港から西19kmにあり、82室を持つ5階建ての建物である。観光開発に熱心で遠く300km近く北のリヤド州カリアット ファウ遺跡(Qariyat al Faw)へのツアー(Tourist Tour)を2000年には始めていた。
ポルチコ(Portico): 屋根付き吹き放ちの玄関先の柱廊。
ポルトガル人(Portuguese): 南ヨーロッパ(South Europe)のイベリア半島(Iberian Peninsula)南西部の国、中世にサラセン(Saracens)の侵入を受けたが、12世紀に現領土を占めて独立王国と成った。ポルトガル人はイベリア半島の古代ローマの1州の名で現在のポルトガルとスペインの一部で、ポルトガルの古名ルシタニア(Lusitania)であることからルシタニア人(Lusitanians)とも呼ばれていた。
ボローニャ(Bologna): イタリア北部エミリア・ロマーニャ(Emilia-Romagna)州の州都で、アペニン山脈(Apennine Mountains)とポー川(Po River)の間にあるポー川谷に位置する。1088年にはボローニャ大学(University of Bologna)が創立される等、古くは文教の中心地であった。人口39万人。
マイム(Mime):1Mimeはドイツの銀貨(Thaler)36枚分の重さ。
マイーン王国(Minaean Kingdom or Ma'in Kingdom): セム族系(Shemite Tribes)の民族マイーン人(Minaean)で構成され、アラビア半島南部にあった古代王国。英語への転写ではthe sate of ma'eenやMaeenも使われている。マーイン人(Minaean people)はセム族系の古代イエメン4部族の1つであり、その他の3部族はシバ人(Sabaeans)、ハドラマウト人(Hadramites)およびカタバーン人(Qatabanians)であった。紀元前1千年期にこれら4部族はそれぞれ古代イエメンに地方王国を形成していた。マーイン王国(Minaeans)は北西で涸れ谷ジョウフ(Wadi al Jawf)の中に、シバ王国(Sabaeans)はその南東に、カタバーン王国(Qatabanians)はシバ王国の南東に、ハドラマウト王国はその東に位置していた。これらの王国郡のあるアラビア半島南部はギリシヤ(Greek)では「恵まれたアラビア」を意味する「アラビアの幸福(Arabia Eudaimon)」と呼ばれ、そしてラテン(Latin)(古代ローマ人)では「幸福なアラビア(Happy Arabai)」を意味する「富裕なアラビア(Arabia Felix)」と呼ばれていた。その富の源泉はこの地方で産する乳香(frankincense)、没薬(ミルラ)(myrrh)、桂皮(cassia)、肉桂皮(cinnamon)(シナモン)およびラブダナム(ladanum)(半日花から採った天然樹脂)であった。マーイン王国(Minaeans)も同時代の他のアラビアやイエメンの王国同様に非常に大きな利益のある香辛料交易、特に乳香(frankincense)および没薬(myrrh)の交易に従事し、紀元前4世紀から紀元前1世紀の間に最も栄えた。マーイン(Ma'in)王国の首都は中世アラビアの地理学者にはサイハド沙漠(Sayhad)と呼ばれている沙漠回廊(the strip of desert)の西の端で、涸れ谷ジョウフ(Wadi al-Jawf)の東端にあるカールナウ(Karna, Qarnawu or Qarnaw)であった。マーイン(Ma'in)王国のもう一つの著名な都市にはバラケッシュ(Baraqish)として知られるヤシル(Yathill)もあった。マーイン王国(Minaeans)が支配していた都市の殆どは涸れ谷ジョウフの上流部である涸れ谷マザブ(Wadi Madhab)に沿ったイエメン北西部であったが、マーイン(Minaic)の碑文は遠く離れたサウジアラビア北西部のウラ(Al 'Ula)(マダイン サーレ)やエジプトのデロス島(Island of Delos)でも発見されている。紀元前2世紀後半にマーイン王国(Ma'in)がシバ王国(Sabaean Kingdom)に敗れ、紀元前1世紀頃に滅び、マーイン語(Minaic language)は西暦100年頃に絶えた。やがて、シバ(Saba or Sheba)、カタバーン(Qataban)、アウサーン(Awsan)およびハドラマウト(Hadramawt)等古い南アラビア都市国家群の他の国々もイエメン山岳高地のザファール地方(Zafar)のヒムヤル族(Himyarite)と云う一地方勢力に併呑されてしまった。
マウンド(Maunds): インド・中東諸国等の衡量単位;通例は82.286 poundsで約37.3kgである(リーダーズ英和辞典)。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)が引用したウィルアム ミルバーン(William Milburn)著1823年出版の「東洋交易(Oriental Commerce)」では2ラットル(Rattles)で1/10フラジル(Frazil)と記述されており、換算すると2.22lbsで約1kgとなり、82.286 poundsで約37.3kgと一致しないが、この翻訳ではウィルアム ミルバーン(William Milburn)著1823年出版が引用したウィルアム ミルバーンの「東洋交易(Oriental Commerce)」での記述をヴァイカ(Vakia)、ラットル(Rattle)、マウンド(Maund)、フラジル(Frazil)、バハル(Bahar)との衡量単位換算では採用している。ウィルアム ミルバーンは同書に「トルコのやり方では全ての商品はさおばかり(Steelyard)で量られていたのでトルコ商人達同様にヨーロッパ人達も計量人が商人達に与えるのに適正であると考えた重さで満足せざるを得なかった。自分達の家での売り買いの時も商人達は自分達で商品を量る事は許されて居なかった。それで無くても計量する商品に或る程度の余裕を上乗せする不合理な習慣があった」とも述べているのでウィルアム ミルバーンが記述しているヴァイカ(Vakia)、ラットル(Rattle)、マウンド(Maund)、フラジル(Frazil)、バハル(Bahar)との衡量単位換算がどの程度正確であるかについては私は疑問に思っている。
マカーム イブラヒーム(Maqam Ibrahim): カアバ神殿(Ka'bah)東側の正面手前にはイブラヒームの立ち台と呼ばれ、ガラスケースに納められた石があり、その石にはイブラヒーム(アブラハム)の足跡が残っている。イブラヒームがカアバ神殿を建立する際にこの石を踏み台にしたといわれている。(出典: 岩波イスラーム辞典)
マガリバ(Magharibah): 北アフリカ人。
マガリバが殺した犬(Dog Magharibah had killed): イブン アル-ムジャウィール(Ibn al-Mujawir, 1204 - 1291)は「北アフリカ人達はメッカで口にパンの塊をくわえて運ぶ犬を殺した引き替えに特別な税(Diya) を支払った(North Africans were charged with a special tax (diya) for having killed in Mecca a dog who carried a bread loaf in his mouth.)」とのあまり知られて無い挿話的出来事(エピソード)に言及している。
マーキュリー(Mercury) (c1350 L Mercuri-us God of Merchandise or Merx Merchandise): (ローマ神話)メルクリウス、マーキュリー(神々の使いの神で、雄弁・職人・商人・盗賊の守護神;ギリシャ神話のヘルメース(Hermes)に当たる(天文:水星)。
楣石(まぐさ石)(Stone Head): 建築用語で窓または出入り口の上に水平に渡した石。
マクディシー(Al-Makdisi or Al-Moqaddasi): 10世紀のアラブの地理学者(Arab geographer al-Makdisi)でal-Moqaddasi とも呼ばれ、946年にエルサレムの建築家の家に生まれた。広く旅行をし、多くの博識を持ち、「国々の知識の為の最適な一文(The fairest division for knowledge of Countries)」を著述し、この時代の偉大な人物としての名声を得た (also spelled al-Moqaddasi in older references), born in 946 in Jerusalem from a family of atchitects.) 。
マグリブ(Maggrebin): 「日の沈む地すなはち西の住人」を意味し、東に住むアラビア人がバルバリー(Barbary)の国々の原住民をこの様に呼んだ。
マグリブの国々(Maghrib Countries): アフリカ北西部地中海沿岸のモロッコ(Morocco)、アルジェリア(Algeria)およびチュニジア(Tunisia)にまたがる地方。
マグリブ礼拝(Salat al-Maghrib): サラート(Salat)を参照。マグリブは西や日没を意味し、マグリブ礼拝は日没直後からイシャー礼拝(Salat al-'Isha')までに行う。
マクワー(Mokhowa): 石の壁と木の屋根の家が象徴するマクワー(Al Makhwah)はバハー(Al Baha)から南にティハマー(Tehamah)低地へと30 km下ったギルワー(Qilwah)への分岐(標高 365 m)の十字路を中心に広がる農村。
マコラバ(Macoraba): 神の館(House of the Lord)と呼ばれるメッカ(Mecca)の古い名前(Archaic Name)である。
マスカット(Maskat): オマーン国(Oman)の首都でアラビア半島の東部の港湾都市、インド洋(Indian Ocean)に面し、古くからの貿易基地。人口は109万人(2008年)。
マスカレンハス(Mascarenhas): 1538年にグジャラート(Gujarat)に最も近いポルトガルの要塞(citadel)であるディウ(Diu)を攻撃したトルコ帝国(Ottoman Empire, 1299 - 1923)スライマン カディム(Sulayman al-Khadim)提督指揮下の紅海艦隊に対して救助の艦隊が到着し、トルコ海軍の旗艦があわてて紅海に引き返すまで2ヶ月に及ぶ包囲と砲撃に持ちこたえた勇敢なポルトガル(Portuguses)の要塞司令官。
マスジッド ナビー(Masjid al-Nabi): メディナ(Medina)にある預言者モスク(Mosque of Prophet)を指す。このモスクが他の全てのモスクの原型となった。
マスチック(Mastic): 乳香樹(Mastic Tree)から採る天然乳香樹脂(液)で止血用収斂剤として用いたり、薫香料、漆(うるし)、ワニスやニスを作る。
マスチックの木(Mastic Tree): 地中海沿岸地方産でウルシ科カイノキ属トネリバハゼノキ(常緑小低木)で乳香樹(Lentisc or Lentisk (Pistacia lentiscus))とも云う。但し、カンラン科 (Burseraceae) ボスウェリア属の乳香樹(Boswellia Thurifera or Boswellia caraterii)とは別種である。
マスディ(Masudi): マスウーディー(Abu al Hasan Ali ibn al Husayn ibn Ali al Mas’udi, c. 896 - 956/957)はアラブの歴史家で旅行家であり、アラビアのヘロドトス(the Herodotus of the Arabs)と呼ばれた。
マストドン(Mastodon):古代生物で象に似た漸新世(Oligocene)から更新世(Pleistocene)に棲息したマンムト科マンムト(Mammut)属の大型哺乳動物。
マズハブ(Madhab or Madh’hab): マズハブ(Madh’hab or Islamic School of Law)はイスラム法学派を示すアラビア語であり、イスラム初期の150年間、各地に多くの学派が形成され、預言者ムハンマド(Muhammad)の教友ら自身によるものもあったと言われる。中でも著名なものはシリア(Syria)のダマスカス(Damascus)、イラク(Iraq)のクーファ(Kufa)およびバスラ(Basra)と聖都マディーナ(Medina)などで、後にマディーナはマーリク法学派(Maliki Madhhab)となり、イラクのものはハナフィー学派(Hanafi Madhhab)へと組織化された。あわせてシャーフィイー学派(Shafii)、ハンバル学派(Hanbali)、ザーヒル学派(Zahiri)などが形成される。またシーア派(Shia or Shi’a)は、6代イマーム(Imam)のジャアファル サーディク(Ja’far ibn Muhammad al-Sadiq)に名を取るジャアファル法学派(Fiqh or Ja’fari Jurisprudence)という独自の学派を有する。このうちスンナ派(Sunni)では特にハナフィー学派(Hanafi Madhhab)、マーリク学派(Maliki Madhhab)、シャーフィイー学派(Shafi'i Madhhab)およびハンバル学派(Hanbali Madhhab)の4学派を四大法学派とする。しかしながらこれらの法学派は、一般的な意味における宗派ではなく、イスラム史を通じて、相互にさまざまな交流・調和があった。(出典: ウィキペディア)
マダガスカル(Madagascar): アフリカ大陸南東方(Southeastern Coast of Africa)、インド洋西部(Western Indian Ocean)に位置する大きな島で元フランス領で1960年に独立、北東から南西に長くモンザビーク海峡(Mozambique Channel)で大陸と分離、面積58.7万km2、人口2,004万人(2008)、首都はアンタナナリヴォ(Antananarivo)。
マッカ ムカッラマ(Makkah al-Mukarramah): イスラームの伝統的なメッカ(City of Mecca)の呼称で、「祝福されたメッカ(Mecca Blessed)]を意味する。メッカ(Mecca)はアラビア半島西部の市で、イスラーム(Islam)第1の聖地、ムハンマド(Muhammad)の生地、カアバ神殿(Ka'bah)があり、イスラーム以前からの巡礼地であった。 一般的には単にメッカ(Makkah)とも呼ばれる。この都市は歴史的にいえばヒジャーズ地域(Hejaz Region)であるマッカ州(Makkah Province)の州都である。メッカ(Makkah)は別名をウンム・アル クラー(Umm al-Qur、町々の母)ともいう。日本語のもとでは長らくメッカと呼びならわされてきたが、近年は学術的な分野を中心に標準アラビア語の発音により近いマッカが好まれつつある。サウジアラビア政府は、1980年代に当市の名前の公式な英語訳を、西洋人が以前から一般に用いてきた綴りである Mecca から Makkahに改めた。人口は1,294,167人(2004年国勢調査)。ジェッダ(Jeddah)から73km内陸に入った、狭い砂地のアブラハムの谷(Abraham or Ibrahim)にあり、海抜277mである。紅海からは80km離れている。メッカはイスラム教最大の聖地とされており、当地へのハッジ(巡礼)(Hajj)は、体力と財力が許す限りあらゆるムスリム(イスラム教徒)(Muslim)が一生に一度は果たすべき義務である。ムスリムはマスジド・ハラーム(Masjid al-Haram)(聖なるモスク。カアバ(Ka’aba)を保護する。)を地上で最も神聖な場所と考えている。メディナ(Madinah)と並んでイスラム教二大聖域とされているため、メディナ同様イスラム教徒以外の入場はできず、通じる道路の手前にある検問所より先に行くことができない。「メッカ」という言葉は、宗教的な意味に限らず、重要な場所、人を引きつける場所、あるいはどっと押し寄せた人々を表す言葉として、イスラム教徒に限らず、世界中のどこででも用いられるようになっている。(出典: ウィキペディア等)
マッサワ(Massawa): 別名メスワ(Meçua)、(Mits'iwa)と呼ばれる紅海西岸の入江に臨むエリトリア(Eritrea)の海港(3.7万(2004))で、ジザン(Jizan)のほぼ対岸の北緯15° 36' 35″ 、東経39° 27' 0 ″に位置する。「エチオピア皇帝イシャク一世(Yeshaq I of Ethiopia, 1414 – 1429)が総督を送り統治していた」との記録があり、1557年にはオスマン トルコ(Ottoman Empire, 1299 - 1923)が占領した。オスマン トルコはベジャ族(Beja)に統治させていたが、19世紀にはエジプトのムハンマド アリ朝(Muhammad Ali Dynasty, 1805 - 1953)に統治を委ねたが、1885年にはイタリアの植民地となった。1885 - 1900年の間はイタリア植民地の首都であったが、第二次大戦後は再びエチオピア領となり、エリトリア独立戦争によって1993年にエリトリア領となった。.
マッソウア或いはマッソワ(Massoua or Massowah): (マッサワ(Massawa)を参照。)
マッダー(Al-Maddah): リヤド-カミス ムシャイト道路(Riyadh - Khamis Mushait Road)の本道とビシャー(Bishah)との分岐ある間道へ分かれの立体交差のあるタニーブ(Tanib)からリヤド(Riyadh)方面へと北東に少し戻った道路沿いにある「痛み・苦悩」を意味する名を付けられた部落。
マッラー族(Al Murrah): 幻の遊牧民マッラー族は空白地帯南西部の古代からの伝説の都市ナジラン(Najran)に近い地域に住むヤム族(Yam) 系のジュシャム族( Jusham)の出でカータン部族(Qahtan)に属して居る。マッラー族はアラビア半島の諸族の間では駱駝と共に厳しい遊牧生活を送って居るのが有名で、他の遊牧民の様に定住者に頼らず、駱駝と共に生活する事を誇りに思い、駱駝と人と真の共生関係を築き、アラビア語では「駱駝の人」を意味するアハル アル バ’イール(Ahl al-Ba'ir)とも呼ばれている。そのなわばり(Dirah)はアル アハサ(Al Ahsa)の南から空白地帯の北部および中央部であり、集落を持たず夏場に利用する井戸でさえ集落の近くには無く牧草を探して駱駝と年間に1,900 kmも驚異的な距離を移動するのは普通の事である。駱駝のミルクに米や乾燥したナツメ椰子の実やたまには狩りの獲物を加え食し渇きを癒しこの沙漠の奥でアル マッラーは遊牧を続けて来た。追跡と狩りの巧みさや方向感覚のすばらしさで他のベドウイン部族に非常に畏れられて居るアル マッラーは人が知る最も苛酷な環境の一つで生き残れる極端な頑強さとなわばり(Dirah)の地形や植物への深い知識を持っている。なわばり(Dirah)が他の遊牧民と重複していても自分達が専用に使用する沙漠の井戸を所有しているし他の遊牧民が牧草を求めて沙漠の奥深くに入り込んだとしても空白地帯のアル ムッラーのなわばりまで到達出来る者は居ない。この為他の部族との遭遇が殆ど無く時として「幻の遊牧民」とも呼ばれる。近代化と共にムッラーはその独自性を今では殆ど無くしてしまっている。
マディク ダム(Al Madhiq Dam): このダムはナジラン渓谷ダム(Najran Valley Dam)とも呼ばれ、その特別な位置とその美しく素晴らしい景観の為に、ナジラン地方の近代化を象徴する場所の一つとして先ず挙げられる。ナジラン渓谷のもっとも標高が高い地点は海抜2,890mであり、このダムの湖面も標高1,635mにある。長さ271mのダムの上には16mのブロックで幅4.5mの道路が設けられ、73mの高さから5平方kmの湖面を含む周囲の景観を眺められる。このダムはナジラン市から35kmしか離れて居らず、その機能的な利点に加え、多数の鳥を魅了する様々なナツメ椰子、花の咲く灌木、カンキツ属の様な木々がダムの両岸の駐車場に植えられ、ダムが観光的な呼び物にも成っている。
マディーナ ムナッワラ(Al-Madinah Al-Munawwarah): 単にマディーナ(Madinah)とも呼ばれるこの都市は、アラビア半島で、マッカ(メッカ)(Makkah or Mecca)に次ぐイスラームの第2の聖地である。メディナ(Medina)ともいう。アラビア半島紅海側のヒジャーズ地方(Hejaz region)に位置し、現在はサウジアラビアのマディーナ州(Al Madinah Province)の州都で、人口は130万人ほどである。マディーナはアラビア語で「預言者の町」を意味するマディーナ・アン ナビー(Madinat An-Nabi)の略である。預言者ムハンマドの墓を有する預言者のモスクが町の中心にあり、マッカとあわせて「二聖都(アル・ハラマイン(Al-Haramayn))」と称される。マッカの北約500kmの地にあって、ムハンマド(Muhammad)の時代以前は名前をヤスリブ(Yathrib)と言い、アラブ人の二部族(Arab Tribes)とユダヤ教徒の数部族(Jewish tribes)が住む町であった。622年、マッカで迫害を受けていたムハンマドは、ヤスリブの部族間の調停を依頼されたのを機にマッカを脱出し、ヤスリブに移住した(ヒジュラ(Hijra))。ムハンマドは現在の預言者のモスクの場所に住居を置き、イスラム共同体(ウンマ)(Umma Islamiya)の建設とマッカとの戦いを指揮し、ここで亡くなった。こうしてイスラム教の聖地となったメディナは、第四代カリフ(Rightly Guided Caliphs or Righteous Caliphs)のアリー(Ali ibn Abi Talib)(656 - 661 AD)がイラク(Iraq)のクーファ(Kufa)に移るまで、初期のイスラム共同体の首都として機能した。また、この地にはイスラム教史上初のクバー・モスク(Quba Mosque)もある。
(ウィキペディア)
「マディナとメッカへの巡礼の記念すべき私的な語り(Personal Narrative of a Pilgrimage to al-Madinah and Meccah - Memorial Edition)」: リチャード フランシス バートン卿(Sir Richard Francis Burton)著、1893年ロンドンで出版したが、その原版(Original edition)は1855 - 1856年に既に出版されていた。同書の第II巻263-269頁にはフレ(Ferret)とガリニエ(Galinier)についてリチャード F. バートン卿(Sir Richrad Burton)は「この二人の著者は高名な(Celebrated)アラビアの専門家はフルジャンス フレネル(Fulgence Fresnel)を権威として引用し、ジッダ交易の現状の表を出版した。そしてこれらの表は『アビシニアの生活(Life of Abyssinia) 』の著者(著者は無名であったが、マンスフィールド パーキンス(Mansfiled Parkins)であるのが後にわかった)によって翻訳されている」と言っている。
「マディナとメッカへの巡礼の自叙伝(Personal Narrative of Pilgrimage to al-Madinah and Mecca)」: リチャード フランシス バートン卿(Sir Richard Francis Button)著、1885 -1886年ロンドンで出版(Burton, Sir Richard F. Personal Narraitive of Pilgrimage to al-Madinah and Mecca London 1855-1856)。
マディーナ ナビ(Madinat al-Nabi): メディナ(Medina)は622年に預言者が移住した徳行によって神の都市となり、その年はヒジュラ暦(Hijira)(イスラーム暦)元年となった。メディナという名はアラビア語の意味は単に市であるが、実際には預言者の市(Madinat al-Nabi)の略として使われている。聖なる預言者(Blessed Prophet)がこの市に移住し、そこで最初のイスラーム共同体とモスク(Mosque)を設立した後に旧名ヤスリブ(Yathrib)はマディーナ ナビ(Madinat al-Nabi)に改名された。
マディーナ ムナウワラ(al Madinat al-munawwarah): 光り輝くメディナ(Medina the Radiant)はマディーナ(Madina)の伝統的なイスラームの名(traditional Islamic name)である。
マディヤ プラディーシュ(Madhya Pradesh): インド中部の州で州都は工業都市ボパール(Bhopal)であり、1984年に有毒ガス漏れ事故で2,000人以上が死亡した。
マデイラ(Madeira): アフリカ北西海岸沖カナリア(Canaries)諸島の北方にあるポルトガル領の島群および主島。
マドラス(Madras): インド南東部タミル・ナードゥ州(Tamil Nadu)の州都、人口380万人の港湾都市でタミル語名はChennai。
窓枠と窓ガラス(Window Frame and Glass): イエメンのモカ(Moka)、ホディイダ(Hodeida)やその他の市等ではこの地方で産し、素晴らしい効果を持った雪花石膏(Alabaster)の薄い平たい半透明な羽目板でガラスの代用にしていた。
マヌエル王(King Manuel): マヌエル一世(Manuel I, 1469 - 1521)或いはドン マニュエル(Dom Manuel)は1495年から1521年までポルトガル王であり、その治政下でのインド航路やブラジル発見によりポルトガルは海運国として繁栄し、マヌエル一世は通称を金持ち王(Fortunate' or Rei D. Manuel)と呼ばれた。
マハムド カーン アドリ2世(Mahmud Khan ‘Adli II): 1811年にエジプト総督(Governor of Egypt)のムハンマド アリ パシャ(Muhammad ‘Ali Pasha)へ書簡でワッハーブ派の狼藉を懲罰しする様に依頼したカリフ(Caliph of Muslim) スルタン マハムド カーン アドリ2世(Sulatn Mahmud Khan ‘Adli II or rahmat-Allahi 'alaih)はオスマン帝国第30代スルタン(30th Sultan, 1808 – 1839) マフムト2世(Sultan Mahmud II, 1785 – 1839)と考えられる。(高橋記)
マフシャール(Mahshar): イスラーム(Islam)の終末論*(Eschatology)によれば最後の審判の日(Day of Judgement)に復活(Resurrection)が具体的に起きた場所。(出典: セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr))
マフディー(Mahdi): 神意により正しく導かれた者の意味で、クルアーン(Qur'an)にはないが、初期には預言者ムハンマド(Muhammad)などを指す語として用いられ、その後、終末の前にこの世に現れ、邪悪によって乱されたムスリム社会(Muslim Society)の秩序を正し、真のイスラーム共同体(Umma Islamiya or Islamic Community)を築く救世主(masih or Messiah)を指す様になった。歴史的には685年にクーファ(Kufa)で起きた反ウマイヤ朝(Ummayad, 661 -750)反乱運動の際にアリー(Ali ibn Abi Tali, 600 - 661)の息子ムハンマド イブン ハナフィーヤ(Muhammad ibn al-Hanafiyyah)がマフディーとして奉じられたのが最初である。その後、マフディー思想はシーア派(Shi'a)とスンニー派(Sunni)とで異なった形で発展していった。(出典: 岩波イスラーム辞典)
マフド アド ダハブ鉱山(Mahd adh Dhahab or Mahul Dhahab): 3000年前に名付けられた「金の揺り籠」を意味する「ソロモン大王の鉱山」と言われる。現在は1997年3月23日に鉱物石油省傘下のペトロミン(Petromin)から独立し、アラビア語で鉱物を意味するマ’アデン(Ma’aden)と云う名を持つサウジアラビア国営鉱業会社に所有されている。金属鉱業事業団発行の「海外鉱業情報特集号世界の鉱業の趨勢 Vol.33 No.1 2003.05」には「この鉱山はジェッダの北東280km海抜1,238mの経度 :北緯23 度29 分、東経40 度51 分に位置し、地質は原生代ジッダン(Jiddah)層群の安山岩質集塊岩と、凝灰岩などよりなる火山岩質堆積岩層に貫入した流紋岩で、鉱床は火山岩質堆積岩層中の南北系の断層群に沿って発達する硫化物を伴う石英脈群により構成された酸化帯、富化帯および初生帯よりなる。採鉱法は坑内掘で、銅が精鉱中、金・銀は精鉱中および旧廃砕のヒープリーチング(Heap leaching)によって回収されている。1996 年末での埋蔵鉱量および品位は130万tでトン当たり金が20.8g、 銀が109g/含まれ、鉱石中に銅は鉱石中0.7%、亜鉛は2.3%gが含まれている」と述べられている。(ヒープリーチング(Heap leaching)とは鉱石に稀硫酸等の浸出溶液を散布し、鉱石中を浸透して下に集まった浸出液をポンプで循環させながら回収精製する方式である。)
マブカラ(Mabkharat): 仏語でEncensoirであり、吊り香炉と迷迭香(マンネンロウ(Rosemary))の二つ意味がある(出典: University of Balamand Mise à jour Feb 1, 2007)。吊り香炉には古代では乳香が使われたので乳香との解釈も有り得る。迷迭香(マンネンロウ(Rosemary))であれば常緑低木のシソ科の薬用植物で、全体に良い香りがあり,枝や葉を香料に用いる新鮮で甘い芳香とほろ苦さがある針状の代表的なハーブである。学名はRosmarinus officinalisで和名はマンネンロウであり、ローズマリー(Rosemary)の別名を持ち、花期は春から夏である。
マフムト2世: オスマン帝国第30代スルタン(30th Sultan, 1808 – 1839) マフムト2世(Sultan Mahmud II, 1785 – 1839)は第27代アブデュルハミト1世(Sultan Abdul Hamid I)の子であり、内外の危機的状況によって帝国の支配が揺らぐ中で即位し、中央集権化と西洋化を軸とする上からの改革を推し進めて帝国の再生をはかった皇帝であり、オスマン帝国における啓蒙専制君主と評価される。(出典: ウィキペディア& Wikipedia))
マホマの家(House of Mafoma): Mafoma或いはMafamedeを昔のポルトガルの歴史家達はMuhammadと綴っていた。16世紀のポルトガルの歴史家デュアルト バールボサ(Duarte Barbosa)を含めて、「ムハンマッド(Muhammad)の墓即ちマホマの家(the House of Mafoma)はメッカ(Mecca)にあり、ムスリム巡礼(the Moslem pilgrimage)の目標であった」と理解していた。
マムルーク朝(Mamluks): アイユーブ朝(Ayyubid Dynasty, 1174 – 1250)の下で力を付けた戦闘奴隷マムルーク(Mamuluk)がエジプトで独立し、西暦1250年から西暦1517年までエジプトおよびシリアを支配した。このトルコ系イスラム王朝(1250 - 1517)は君主が奴隷傭兵出身であったので奴隷王朝(the Mamluks)の名がある。マムルーク朝(Mamuluk Dynasty,1250-1517)はバフリ マムルーク朝(Bahri dynasty, 1250 -1382)およびブルジー マムルーク朝(Burji Dynasty, 1382 - 1517)の2つの時代に分けられ、西暦1517年にオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299 - 1923)がカイロを征服して滅亡させられた以降も実権を保持し、その属国として西暦1811年まで続いた。「マムルーク」とはイスラム教国の白人奴隷(トルコ人、モンゴル人、スラブ人等)や奴隷傭兵を意味した。
マヨラム(Marjoram): ハナハッカ、マージョラム或いはマヨラム(Marjoram)は香草の一種で、シソ科の多年草である。地中海地方原産で代表的なハーブの一種で葉・茎・花に芳香があり、肉料理等の香辛料の他、薬・化粧品に用いられる。
マラガ(Malaga): スペイン南部アンダルシア(Andalusia)自治州の県名で、その県都ジブラルタル(Gibraltar)の北東にある港湾都市・保養地の名でもある(53万)。
マーラ海岸(Coast of Mahra): マーラ(Mahra)はアラビア半島南部で現在のイエメン東部の地域とソコトラ(Socotra)島を領土としてかつてのマーラ スルターン国(Mhara Sultanate)の統治領で1967年に最後のスルタンが退位し、代わってイエメン人民民主共和国(People's Democratic Republic of Yemen)が成立した。
マーラ スルターン国(Mhara Sultanate): キシュンとソコトラのマハラ スルターン国(Mahra Sultanate of Qishn and Socotra)又はガイダおよびソコトラのマハラ スルターン国(Mahra Sultanate of Ghayda and Socotra)と呼ばれるこの首長国はイエメン(Yemen)の西端でオマーン(Oman)との国境地帯である歴史的なマハラ地方(Historical Region of Mahra)とインド洋(Indian Ocean)に浮かぶソコトラ島(Socotra)で構成されバヌ アフラール朝(Banu Afrar Dynasty)が統治していた。この首長国はマーラ国(Mahra State)と云う呼び方もされている。マーラ国の首都はマハラ地方ではキシュンであり、ソコトラ島ではタムリダ(Tamrida)として知られるハディーブー(Hadiboh)であった。1886年にこの首長国は英国保護国(British Protectorate)となり、その後、アデン保護領(Aden Protectorate)の一部となった。1976年にマーラ国はスルターン制を放棄し、新たに独立した南イエメン(South Yemen or People's Democratic Republic of Yemen)の一部と成った。南イエメンは1990年にイエメン・ムタワキエ王国(Mutawakkilite Kingdom of Yemen, 1918 - 1962)を継承した北イエメン(North Yemen or Yemen Arab Republic)と統一し、イエメン共和国(Republic of Yemen)となった。マハラ地方ではアラビア語に加えて、東イエメンと西オマーンでしか話されないメハリ語(Mehri or Mahri)が話されている。マハラ地方は隣のオマーンのドファール地方(Dhofar)と非アラブ語、乳香(Frankincense)の重要さ、地理、気候等共通している。特に気候は沙漠に囲まれているにもかかわらず、南東の季節風によって降雨に恵まれており、カリーフ(Khareef)と呼ばれている。
マラグ(Marag): Maragは血を意味するらしく、スコットランド(Scotland)のゲール族(Gaelic)の血のプディング(Pudding))とやはりスコットランド料理で羊や子牛の臓物を刻み、血、オートミール(Oatmeal)、香辛料と一緒に胃袋につめて煮たハギス(Haggis)がある。これとは別にアラビアから印度に伝わったと云う香辛料の効いたカレー或いはシチューがあり、トマトベースで様々な野菜が入っている。サウジアラビアではトマトが日本の醤油や味噌の様に調理のダシとして使われ、トマトベースのスープ一般的であるので、「ここでトウモロコシのパンに加えられたのはトマトベースのシチューである」と思う。
マラッカ(Malacca): マラッカはマレー半島(Malay Peninsula)西海岸南部に位置するマレーシア(Malaysia)の州及び州都で、東西交通の要衝マラッカ海峡(Strait of Malacca)に面する港市である。(ウィキペディア)
マラバル海岸(Malabar Coarst): インド南西部でカルナータカ(Karnataka)、ケララ(Kerala)両州にまたがり、ゴア(Goa)からコモリン岬までのアラビア海に臨む海岸。
マラバール小艦隊(Malabar Flotilla): 1503年2月12日のカリカット(Calicut)艦隊とヴァスコ ダ ガマ(Vasco da Gama, 1460 0r 1469 - 1524)指揮するポルトガル艦隊との海戦で紅海部隊(Red Sea division)と共にカリカット(Calicut)の艦隊を構成した数十艘のサンブーク(sambuk)から成る小艦隊。
マラブ(Mahlab): イエメン女性に化粧品として使われる種。
マリ(Mali): アフリカ北西部、旧仏領スーダン(French Sudan)の内陸国、1960年に独立、面積124万km2、人口1,079万人(1995)、首都はバマコ(Bamako)。
マリア キブティイヤ(Maria al-Qibtiyya): マリアはエジプト人のコプト正教徒(Coptic Christian)の奴隷で、ビザンティン帝国(Byzantine)のエジプト総督ムカウキス(Muqawqis)から628年に贈答品としてムハンマドに送られた。マリアは夭折したムハンマドの息子イブラヒム(Inrahim)を生んだので妻とされている。マリアはムハンマドの632年の死後、再婚せずにその5年後に亡くなった。
マリア ナリノ(Maria Nallino): カルロ アルベルト ナリノ(Carlo Alberto Nallino)を参照。
マーリク学派(Maliki Madhhab): マーリク イブン アナス(Imam Anas ibn Malik)を始祖とする学派でスンナ派の四大法学派の一つである。マーリクはアブ ハニーファ(Abu Hanif)に遅れてマディーナ(Medina)で生まれた。アブー ハニーファより若年ではあったが同時期に生き、相互の学識に深い敬意を払いあったことは有名である。実際に、のちにハナフィー派の基礎を固めるアブー ハニーファの弟子の一人はまたマーリクからも学んだのであった。(出典: ウィキペディア)
マリチャス(Malichas): ナバテア(Nabataean)の王(ca. AD 40 – AD 70)。
マリーテレーズ(Marie-Thérèse): マリーテレーズ(Marie-Thérèse, 1638-1683)はスペイン語名をMaria Teresa de Austriaと云い、フランス王Louis 14世の妃で スペイン王Philip 4世の娘であった。
マリド城(Qasr Marid): 「マーリド(Marid)」と言う言葉は傲慢、反抗、深刻、罪人等を意味する。それ故に、ガスル マーリド(Qasr Marid)は「強固に作られた城」を意味している。デューマト ジャンダル(Dumat al-Jandal)の要塞は預言者イスマ'イール(Prophet Isma’il)の息子でこの都市を創設したデューマ'(Duma)が建設したと云われるが、その起源は紀元前10世紀に遡ると思われる。この城はデューマト ジャンダル(Dumat al-Jandal)の歴史と共に今日まで残っており、現在はジャウフ博物館(Al Jawf Museum)の一部となっている。
マリンディ(Malindi): モンバサ(Mombasa)の少し北に位置するマリンディは15 - 16世紀にアフリカとインドの間の外洋を横断する為の通常の出港地であった。
マルグ(Al-Marg): アラビア語でマーガリン(Margarin)の転写は英語読みのままなのでここでは人造バターを指すと考えるのが妥当だと思うが、アシール(Asir)でパンに添えるのが蜂蜜、或いは脂肪なので「マルグ(Al-Marg)はアシールではアル ブッリ(al-Burri)と呼ばれる脂肪である」と思う。
マルコ ポーロ(Marco Polo):ヴェネツイア(Venezia or Venice)の旅行家(1254 - 1324)で中国各地を歴訪し、「東方見聞録」を口述した。
マルジ ダビク(Marj Dabiq): マムルーク朝(Mamluk Sultanate, 1250 - 1517)スルタン カンサウ ガウリ(Sultan Qansawh al-Ghawri, 1501-1516)とオスマントルコ(Ottoman Turks, 1299 - 1923)のスルタン サリム一世(Sultan Salim I, 1512-1520)が1516年8月24日に戦闘を開始したアレッポ(Aleppo)近くの平原。
マルセイユ(Marseille): フランス(French)最大の港湾都市で、2005年の人口は約82万人でパリ (Paris)に次ぎフランス第2位、都市圏人口ではパリとリヨン (Lyon)に次ぎ第3位の規模を誇る。マルセイユの都市名は、古代の名マッサリア(Massilia)が転じた物である。マルセイユの歴史は古く、小アジア(Anatolia)から来た古代ギリシアの一民族であるポカイア人(Phocaea)が紀元前600年頃頃に築いた植民市マッサリア(ラテン語でマッシリア)にその端を発する。このためフランスにおいてマルセイユはポカイア人の街(Cite Phoceenne)とも綽名されている。(ウィキペディア)
マールシアバ(Marsiaba): 現在のマリーブ (Marib)でサン‘ア(San’a)の東にあったイラサルス(Ilasarus)に従属するラッマニタエ部族(Rhammanitae)に帰属していた。紀元前24年から行われたエジプト総督ガルス(Aelius Gallus)の指揮下のローマ帝国軍による古代南アラビア(ヒムヤル国)遠征ではローマ帝国軍はこの町を急襲し、6日間で制圧したが水の不足の為にこの町の包囲を続けられなかった。捕虜の情報によれば、ガルスは本当に芳香植物(aromatics)を生産する国から僅か2日行程の場所に居た。しかしながら悪意の道案内人の為にすでにこの行軍に6ヶ月を使ってしまったので、ガルスは引き返すべき時である事実を認識した。
マルマラ海(Marmara): トルコ北西部の内海で東はボスポラス海峡(Bosporus)を経て黒海に西はダーダネルス海峡(Dardanelles)を経てエーゲ海(Aegean Sea)に通じ、古代名はプロポンティス(Propontis)と云った。
マルメロ(Quinces): バラ科マルメロ族の一種で洋梨形の芳香のある果実は堅く生食には適さず、ジャム、ジェリー、砂糖漬け等にする。
マルワの丘(al-Marwah): サファーの丘(al-Safa)参照。
マロサ(Malotha): 紀元前24年から行われたエジプト総督ガルス(Aelius Gallus)の指揮下のローマ帝国軍による古代南アラビア(ヒムヤル国)遠征の帰路にチャアッラ(Chaalla)と呼ばれる村に到着し、再び、川の近くに在るマロサ(Malotha)と呼ばれる別の村に着いた。マロサ (Malotha)は現在のジェッダ (Jeddah)である。
マンカバン潟湖(Al-Manqabah Lagoon): ジェッダ(Jeddah)の旧市街北北西に接し、海岸線から北東に入り込んだ長円形の湾の様な干潟。
マンガル(Mangal): アラビア人が一般的に戯れるチェスの一種。
マンジャハー族遊牧民(Maujahah Tribe): ビルク熔岩地帯(Harrat al Birk)で放牧を営む部族で、アシール(Asir)の「花飾りした男達」と同様にスカートを穿いているが、頭にはゴザで作った帽子を被っている。1993年にサーリィ モジャー(Thierry Mauger)著作出版した解説付きの写真集「未知の国アシール(Undiscovered Asir)」で紹介されているが部族的な所属は私には分からない。マンジャハー(Manjahah)族遊牧民は茣蓙(ゴザ)で作ったテントに住み移動していた。このゴザ製のテントは自生しているエダウチ椰子のトッフィ(Toffi)の編んだゴザで作った屋根を持ち、この屋根は僅かな微風でも持ち上げられた。自生のナツメ椰子から創意に富むここの人達は家、小屋、鞄、綱およびサンダル等の生活必需品を作り出す。小屋の中には人々がその上で食べて寝るサリール(Sarir)呼ばれる高いベンチ乃至チャールポイ(Charpoy)が置かれ、その脚の一つに乳攪拌の為の瓢箪垂直に吊される。山羊の道を外し注意深く埃カバーで包まれたライフル銃や彼の孫のプラスチック製機関銃に至るまであらゆる物が吊されている。マンジャハー遊牧民の茣蓙製のテントは大変ファンタジックであったが今ではこの様なテントは見られ無く成ってしまった。
マンダブ海峡(Strait of Bab al-Mandeb): アデン湾(Gulf of Aden)と紅海の間の海峡でジブチ(Djibouti)とイエメンの南西端に挟まれる。
マンディ(Mandi): タンドゥール(Tandoor)*窯で調理した肉をご飯にのせて供する料理をマンディ(Mandi)と呼んでいる。イエメン(Yemen)では地表から円筒の穴を掘って内側を粘土で被った窯が作られると云う。私がサウジ人(Saudi)に招待された折に供されたマンディ(Mandi)は「先ず、地表から円筒の穴を掘る。その穴の底に炭火を置いて周囲の砂を十分に熱してから炭火を取り出す。底には炭火の替わって容器に入れた米を置き、その上に主として羊1頭を縦に吊るす。穴の上部を丈夫な布で被い、その上に砂を被せて半日以上蒸し焼きにする。米は上に吊るされた羊の肉の肉汁で調理され、大きな皿にそのご飯を厚く敷き詰め、その上に蒸された羊を丸のまま載せて、レモンなどを絞り込みながら手で掴んでいただく」という料理であった。(タンドゥール(Tandoor)を参照。)
ミ
ミカト(Miqat): 宿場(Station)。
ミーカート(Miqat):不浄(大汚)を身体から洗い流す為の全身の完全な洗い清めの儀式グスル(Ghusl)*を行い、清められた状態を保つ為に二切れの継ぎ目のない白い布の巡礼用の衣裳イフラーム(Ihram)*に着替えるように指定されている場所はミーカート(Miqat)と呼ばれ、メディナ(Medina)方面のズ‘ル フラファ(Zu’l-Hulafa)、シリア(Syria)方面のジュフハ(Juhfa)、ナジド(Najd)方面のクム ‘ル マナージル(Qamu’l-Manazil)、イエメン(Yemen)方面のヤラムラム(Yalamlam)、メッカ(Mecca)方面のサネイム(Thaneim)、イラク(Iraq)方面のザーティ‘イルク(Zat-i-`Irq)、印度等海路で到着する旅行者のためのイブラヒーム ムルシーア(Ibrahim Mursia)等がある。
ミカラフ アル-シュライマニ(Mikhlaf al-Sulaymani): ジザン州の一地方で、ムハッマド イブン アリ アル-イドリシ(Muhammad Ibn Ali Al-Idrisi)が1818年(ヒジリ1234年)にトルコ(the Turks) に対して新たな戦役を始め、ミカラフ アル-シュライマニ(the Mikhlaf al-Sulaymani) 地方のジザン市(Jizan) の東にあるアブ アリシュ(Abu Arish) 市で戦い、トルコ勢を敗北させた。その後も勢力を広げ、1911年(ヒジュラ暦1329年)にオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299 -1923)からの独立を宣言した。その死後、その親族同士の争いとなり、息子のアリはアブドル-アジズ イブン アブドル ラーマン アル サウド(Abdul-Aziz Ibn Abdul Rahman Al Saud) 王の総督と交渉し、その結果1930年にティハマ-(Tihamah)はサウジ領と一部と成った。
ミカラフ ジャラシュ(Mikhlaf Jarash): ワディ ビシャー(Wadi Bishah)の源流に近い古代からの町でイスラム以前はアシール(Asir)の首都でありミカラフ ジャラシュ(Mikhlaf Jarash)と呼ばれていた。
ミーサーク(mithaq): 「神と人間との契約」セム的一神教ではまず神が啓示を与え、人間はそれを聴いて信仰するか否かを決断する。信仰とは啓示を与えた神を主と認め、神および神の啓示や命令に服従・帰依することを意味する。この神と信仰者の関係が契約である。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ミザト パシャ(Midhat Pasha, 1822 - 1883): オスマン帝国(Ottomah Turkish)の第一次立憲制(1876年 - 1878年)樹立時に大宰相(首相)として重要な役割を果たした政治家。オスマン帝国をアジアの国とするならアジア地域で最初の憲法であるオスマン帝国憲法はミザト・パシャ(Midhat Pasha or Ahmet Sefik Mithat Pasha, 1822 - 1883)が起草したものであることから、通称をミザト憲法という。1872年にはアブデュルアズィズ(Abd-ul Aziz 1861 – 1876)により政府首班である大宰相に任ぜられたが、自由主義的な政治傾向から宮廷と対立し中央から遠ざけられ、不遇の雌伏時代を送った。1876年、アブデュルアズィズが退位に追い込まれ、ムラト5世(Mehmed Murad V, 1876)が即位すると国家評議会議長に返り咲き、即位後のムラトが精神を病むと弟のアブデュルハミト2世(Abdul Hamit II, 1876 - 1909)を即位させ、新帝の勅令に基づいて設立された制憲委員会の委員長に就任した。こうして制憲委員会が起草したオスマン帝国憲法の草案は、心中では専制君主になりたいと考えていたアブデュルハミトの手による修正を組み入れて1876年12月23日に公布され、12月17日に大宰相に就任していたミザト・パシャは第一次立憲制最初の大宰相となった。しかし、アブデュルハミトによって加えられ、憲法公布を急ぐあまりミザト・パシャもそれを呑んだ、皇帝は国家にとっての危険人物を追放できるとの君主大権条項が結局ミザト自身の首を絞めることとなった。すなわち、憲法制定を巡る経過においてミザトが国内の改革派や外国からの支持を集めて政治家としての地歩を固めたことに反感をもった反ミザト派の政治家たちが専制復活を望むアブデュルハミトと結託して巻き返しをはかり、憲法公布から間もない1877年2月5日にミザト・パシャは憲法に定められた危険人物と断定され、大宰相を解任されて国外退去を命ぜられた。翌1878年2月14日には同じく憲法の定めた君主大権によって非常事態宣言に基づく憲法の停止が命ぜられ、ミザト・パシャの樹立した第一次立憲制はわずか1年2ヶ月で終焉させられた。その後、追放を解除されてシリア知事(Governor of Syria)、アイドゥン知事Governor of Aydin)などに任ぜられていミザト・パシャは、その後も憲政の復活をはかり、外国と連携して改革の継続を進めようとした。ここに至って1881年、アブデュルハミトはミザト・パシャを逮捕し、廃帝アブデュルアズィズ殺害の罪で死刑を宣告。ミザト・パシャは流刑先のアラビア半島のターイフで扼殺された。(出典: Wikipedia・ウィキペディア)
ミッザン(Al-Middhan): この台所用品は仕上げられた石で作られ、外側にハンドルと呼ばれる付属物が付けられている。これは特にラガシュ(Raqash)と呼ばれる肉スープを混ぜた食物を入れるのに使われる。ラカシュはナジランでは人気のある食事である。アル ミッザンは中の食物を出来るだけ長い間、暖かく保つのに使われる台所用品である。ラカシュはアルミッザンと共にピラミッドの様な形の蓋をかけられる。これでこの人気のある食物は何時でも何処へでも運んで行ける。
ミッラー(Mr. Kenneth Miller): アンジェロ ペセ博士のアシスタント。
ミディアン(Midian): ミディアン(Midian)又はメデヤンは一般的に北西アラビアのアカバ湾(Gulf of Aqaba)の東岸の土地を指すが、これは特定の地理的な名では無く部族名であるとの説もある。ミディアンとその住人については殆ど知られていないが、メデヤン陶器(Midianite Pottery)を含む考古学的な発掘から現在のイラク(Iraq)、ヨルダン(Joordan)、サウジアラビア(Saudi Arabia)およびイスラエル南部(Southern Israel)にかけて3,200年から3,300年前に文明があった事が示されている。旧約聖書にはミディアン(Midian)はアブラハム(Abraham)の息子の一人であると記述されており、メデヤン人(Midianites)はミディアンの子孫で北西アラビア(古代パレスチナのセム系民族(Semitic))の一部族と考えられている。(出典: Wikipedia)
ミディアンの土地(Land of Midian): パレスティナ南部から現在のサウジアラビア北西海岸付近と推定されるミディアン人の住んだ土地。
ミナ(Mina): ムナーとも云い、古代ギリシャ・エジプトの重量単位で訳1.2ポンド。
ミナ(Mina): アラビアの地理学者アル-マクディシ(al-Makdisi)は「ヒジャーズの重要な二つの港は中国とつながる海であるミナの市(Suq)とジュッダ(Juddah)およびメディナ(Madina)の古代の陸揚げ港でエジプトの宝物庫であったアル-ジャール(al-Jar)である」と述べている。
ミナーの谷(Mina): マッカ(Makkah or Mecca)の巡礼期間中、巡礼者がテント生活する巡礼地。この地で犠牲祭('Id al-Adha)に家畜の血を流すので血を流す事を意味するアムナーから転じてマナーと呼ばれるとの説や、この地でアダムが天使に「楽園を望んでいる」と言った事から望みを意味するアムニアから転じてミナーと呼ばれたとの説もある。ミナーの谷はマッカのマスジド ハラム(聖モスク)から東へ5km離れた岩山に囲まれた細長い谷間になっている。谷の長さは4km、ミナー谷に続いてムズダリファの谷(Muzdalifa)がある。ミナーの谷のマッカ寄りに大中小のジャムラ(Jamra or jamarah)がある。巡礼者は巡礼月の8日にミナーの谷に移りテント暮らしを始める。巡礼期間中以外は全く人気のない閑散とした場所である。(出典: 岩波イスラーム辞典)
南アフリカ(South Africa): アフリカの南端にあり、1652年以来オランダ人(Dutch People)が入植、1814年に英国が占領、1910年英国自治領として南アフリカ連邦(Union of South Africa)を組織、アパルトヘイト(Apartheid)で世界的非難を浴び、1961年に英連邦から脱退して国名を「南アフリカ共和国(Republic of South Africa)」に変え、共和国になる。1991年までに人種差別を全廃、金・ダイアモンドを産し、面積122万km2、人口4,790万人(2008)、行政府はプレトリア(Pretoria)、立法府はケープ タウン(Cape Town)で司法府はプルームファンテーン(Bloemfontein)。
「南アラビア海岸沖のポルトガル人達(Portuguese off the South Arabian Coast)」: サージャント(R. B. Serjeant)著、オックスフォード(Oxford)で1963年に出版。
「南アラビアの記述(Descripyio Arabiae Meridionalis)」: イブン ムジャウィール(Ibn al-Mujawir, 1204 - 1291)著の 「タリハ ムスターシール(Tarikh al Mustahsir)」をO. ロフグレン(O. Löfgren )が編集し、副題として「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」と名付けライデン(Leyden)で1951 - 1954年に出版した。
「南アラビアへの旅」: ハインリク、フライヘール フォン モルツアン(Heinrich, Freiherr von Maltzan)著、1873年にドイツのブラウンシュヴァイク(Braunschweig) で出版 (Von MALTZAN, H. Reise nach Südarabien Braunschweig 1873.)。
南セム語(South Semitic): 南セム語(South Semitic)は東セム語(East Semitic)および西セム語(West Semitic)と共に世界3大語族の一つであるアフロ・アジア語族(Afro-Asiatic Language)の一語派であるセム語派(Semitic Linguages)3大分派の一つである。南セム語(South Semitic)はアラビア半島(Arabian Peninsula)南岸を中心とした古代南アラビア語(Old South Arabian)とアフリカの角(Horn of Africa)の紅海岸で見られるエチオピア セム語(Ethiopian Semitic)の二つの主な分派に分けられる。少なくとも紀元前3,000年代にはシリア(Syria)および北アラビア沙漠地域でセム語(Semitic)を話す牧羊遊牧部族がいたが、紀元前2,000年期が終わりに近づくと密集放牧によって悪化した環境条件の為に農業に移行するか、さもなければ半島部から伝わって来た駱駝遊牧に移行して行かざるを得なかった。そう成るに連れて出現してきた南セム語に属する他のアラブ牧畜民や交易民は西アラビアと恐らく中央アラビアを通して広がり、紀元前15世紀から紀元前14世紀までにアラビア半島の北西とシナイ(Sinai)で南セム語(South Semitic)が確立した。その後の数世紀の間に南セム語は半島を通って南へと浸透して行き、紀元前500年迄にはシバ王国(Sabaean)、ミナ王国(Minaean)(マイーンMa`in)、カタバーン王国(Qatabanian)およびハドラマウト王国(Hadramautic)等イエメンのサイハド文化(Sayhad)の発展と共に古代南アラビア語(Old South Arabian)としてハッキリと分かれて確立された。古代南アラビア語はヒムヤル王国 (Hmyar or Himayarite)を通じてエチオピア セム語(Ethiopian Semitic)に影響を与えているが、それ自身は歴史の中にすでに消滅してしまった。
ミフラーブ(mihrab): モスク(Mosque)の内壁、マッカ(Mecca)側の壁に設けられた窪みでマッカの方向を示す。(出典: 岩波イスラーム辞典)(キブラ(Qibla)も参照。)
ミョス ホルモス(Myos Hormos): ムラサキ貝の港 (Mussel Harbour)或いはミュス港(Myus Harbour)は東アフリカ貿易と狩りの為にフィラデルファス王(King Ptolemaeus Philadelphus)によっておよそ紀元前274年 (circa 274 B.C.) に築かれ、再建された紅海の港(Red Sea ports) の一つであった。アラビアやインドからの香料が陸揚げされた港で、それから香料は駱駝に積まれてナイル(the Nile)の一つ運河に位置するテバイス(Thebais)のコプタス(Coptus)に運ばれ、それから川舟でアレキザンドリア(アレクサンドリア(Alexandria))に運ばれた。古代作家著書の「深紅色の山 (Scarlet Mountain) 」と云う作品との関連でこれが現在のコッセイル (Kosseir) の北のラス アブ サウマー(Ras Abu Sawmah)であると確認されている。
ミラージ(al-mi'raj): ミウラージュとも転写されている。神がムハンマド(Muhammad)を選び、夜の間に(Nocturnal Journey)大天使ガブリエル(Archangel Gabriel)の助けを得て、メッカ(Mecca)からエルサレム(Jersalem)そしてエルサレムから神の玉座へと昇天(al-mi'raj)させたのも聖都市メッカ(Blessed City of Mecca)からであった。エルサレムはムスリム(Muslims)にとって祈りを捧げる最初の方向(al-qiblah al-ula)であったが、預言者がメッカに居た間に後から神がこの市を祈り捧げる方向(al-qiblah)とする様に命ぜられた。昇天(mi'raj)が後の世代のモスリム全員に対し最初の祈りの方向と二番目の祈りの方向であるエルサレルとメッカとの宗教的な繋がりそしてそれぞれ全体として一神教の中心およびイスラム一神教であるのを再確認している。(出典: セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr))
ミリヒヤ(Milihiya): ハーイル(Hayil or Hail)東南東40km、ヤティブ山(Jabel Yatib)の東南東5 kmに位置し、新石器時代初期、銅石時代、青銅時代および鉄器時代の遺跡が残る。
「ミールハト ハラメイン(Morhat al-Haramein)」: イブラヒム リファト パッシャ(Ibrahim Rifat Pasha)著、ヒジュラ歴1344年(西暦1925年)カイロで出版された。
ミルラ(Myrrh): キリストが生まれたときに東方の三博士が乳香、没薬、金をたずさえキリストに会いに来たとされている。当時から非常に高価なもので香りは天然のカンフルを含みクレオパトラも香水に使用した記録が残っている。 数千年もの間、「東洋の宝」の1つに数えられてきたミルラはアラビアとソマリア(Somalia)、イエメン(Yeman)に生育するフウロソウ目 (Geraniales)欖科(Burseraceae)コンミフォラ属(Commiphora myrrha)(ミルラノキ属)の潅木の幹からとれる油性、ゴム質の樹脂である。古代エジプトの主婦は屋内でミルラ(Myrrh)の粒を燃やしてノミを駆除していた。民医療では、筋肉痛やリウマチの膏薬に配合された。 中国では没薬と呼ばれ、少なくとも唐の時代(西暦600年)から、主に傷薬あるいは活血薬として用いられていた。但し、中国の没薬と西洋の没薬とは薬品の種類(源植物が異なり漢方薬でハナ没薬(中国)、ソマリア産のものはネリ没薬と分けている。(没薬(mhyrr)を参照。)
ミロセム(Mirocem): ミール ホセム(Mir Hóçem)。(フサイン クルディ(Amir Husayn al Kurdi)を参照。)
ミロバラン(Myrobalan): 熱帯アジア産シクンシ科モモタマナ属の落葉高木の詞梨勒(Terminaria chebula)の乾燥させた実で、染料・インク・皮なめし剤の原料となる。
ムアーウィヤー(Muawiyah, 602 - 680): ムアーウィヤ(Mu'awiya ibn Abu Sufyan ibn Harb ibn Umayya)は第3代カリフ(Calif, 644 - 656)ウスマーン('Uthman)(c. 579 - 656)が暗殺されて第4代(Calif, 656 - 661)カリフにアリー('Ali)(598 or 600 - 661)が就任した当時はシリア総督だったが、ウマイヤ家(Umayyad Family)出身だったウスマーン(ムアーウィヤの又従兄弟にあたる)の血の復讐を叫んでアリーと対立した。ムアーウィヤ(Mu'awiya)はスィッフィーンの戦い(Battle of Siffin, May-July 657 CE)などでアリーと戦って次第に勢力を拡大し、660年にはエルサレム(Jerusalem)においてカリフ就任を宣言した。その後に本拠地シリアのダマスカス(Damascus)を首都に定め、カリフ位の実質的な世襲化を始めてウマイヤ朝(Umayyad Dynasty)(661-750)を開いた。ムアーウィヤを輩出したウマイヤ家はクライシュ族(Quraysh tribe)の名門で、ムアーウィヤの父アブー スフヤーン(Abu Sufyan, 560 - 650)はマッカ(メッカ)の有力者として預言者ムハンマド(Muhammad)に激しく敵対した人物であったが、ムハンマドがメッカを征服した後にイスラム教に改宗していた。
ムーア人(Moorish): 元来はマグリブの先住民のベルベル族を指していたが、アフリカ北西部のモロッコ(Morocco)からモーリタニア(Mauritania)地方に住むイスラム教徒でベルベル族(Berber)とアラビア人の混血部族を指す様になり、8世紀にはイベリア(Iberia)半島に侵入し征服したイスラム教徒を指す様になり、さらに11世紀以降にはイスラム教国を建設した北西アフリカのイスラム教徒の呼称となり、15世紀からは漠然とイスラム教徒一般を指す様になった。
ムアッズイン(Mu'adhdhin): 礼拝(サラート(Salat))の呼び掛け(アザーン(Adhan))をする者をムアッズイン(Mu'adhdhin)という。ムアッズイン(Mu'adhdhin)はイスラーム教徒(ムスリム(Muslim))で正常者であることが条件となる。女性にはその義務はない。望ましいのは声が通り、信頼がおけ、礼拝時刻を良く知っている者がなることである。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ムカッラー(Mukalla): イエメン東部アデン(Aden)湾に臨む港町で人口6.5万人、ハドラマウト(Hadramaut)地域の中心地。
ムガル帝国(Great Mogul or Mughal Empire): ムガル朝(Mogul)はムガル帝国(Mughal Empire, 1526 - 1858)とも云い、インドにおけるモンゴロイド系(Timurids of Turko-Mongol Descent)の最大のイスラム王朝で最後の帝国であった。ティムールの5世(6世との記述もある)の孫バーブル(Zahīr al-Dīn Muhammad Bābur, 1526 - 1530)が北インドを攻略して建国した。その孫アクバル(Jalaluddin Muhammad Akbar, 1556 - 1605)はアーグラ(Agra)に都し、帝国の基礎を固めた。18世紀初めまでが全盛で、以後分裂状態になった。英国東インド会社軍の現地傭兵であるセポイ(Sepoy)がメーラト(Meerut)・デリー(Delhi)で起こした暴動が北部インド各地に飛び火して内乱状態となったセポイの反乱(Indian Rebellion of 1857, 1857 - 1859)を理由に1858年イギリスによって最後の皇帝が退位させられ、滅亡した。
ムクタール首長(Amir Mukhtar): 「ギジヤ(giziya)を治世の最後の日まで施行したメッカ首長はムクタールであった」とイブン-アル-ムジャウィール(Ibn al-Mujawir)著「タリハ アル-ムスターシール(Tarikh al-Mustahsir)」(副題:「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」)には述べられている。
ムザ(Muza in Yemen): 紅海南域アラビア沿岸の小さな湾の中の海岸がムザと呼ばれ、法律で決められた市の立つの町が作らていた。ベレニス(Berenice)から南に航海して12,000サタディア(stada)の場所であった。
ムザヒミーヤ(Muzahimiyah): ウルク沙漠(Uruq Desert)に並ぶ砂丘の連なりの東端でリヤド(Riyadh)から70 kmの場所にあり、大リヤドへ蔬菜類を供給する近郊農業を営む村である。この村では農地を囲む防砂林の木麻黄(モクマオウ)(Casuarina)の並木が特に目立って居る。この町の郊外には科学技術都市(KACST)の実験農場があり、私はよく通った。
「無慈悲なアルメイダの死の予告(Alluding to the death of Francisco d'Almeida in chastisement of such inhumanity)」: ダミアン デ ゴイス(Damião de Gofs)は1509年2月3日にディウ(Diu)沖での凶暴な海戦での無慈悲なフランシスコ ダルメイダ(Francisco d'Almeida)の行為に対して死をほのめかしている。事実、ポルトガルに帰航の途中でアルメイダ(Almeida)は65名の部下と共に喜望峰(the Cape of Good Hope)近くのアフリカの海岸でキャフレ族(Caffres)の暴徒達に殺された。アルメイダ(Almeida)は泉(water hole)で部下がこうむった小さな攻撃への復讐をしようとしていた。それは1510年5月1日の出来事であった。
ムシャッガール(Mushaqqar): イスラムが始まる少し前にササン朝(the Sasanians)はハサ オアシス(Hasa Oasis)のハジャール(Hajar)に総督を築き、東部州を直接支配しようとしていた。これはササン朝が西暦570年に海から侵略して征服したイエメン(Yemen)占領下ではアラビアの同盟部族を直接的に支配する必要があった為と思われる。ササン朝のハジャール総督はムシャッガール(Mushaqqar)と呼ばれる砦を占領した。ムシャッガール(Mushaqqar)はムハッリン(Muhallim)のアラビア語であり、大きな水路が設けられている場所としてアラブ族に知られていた。ダニエル ポット(Daniel T. Potts)著の「セレウコス朝から正統カリフ時代の北東アラビア(Northeastern Arabia From the Seleucids to the Earliest Caliphs)」によればホフーフ(Hofuf')からムハッリン(Muhallim)までムランニマル川(Murannimal river)が流れていた。Landsat衛星写真によればムランニマル川の河口ムハッリン(Muhallim)は半月湾(Halfmoon Buy)の南部に位置していた様である。
ムジャヒディーン(Mujahideen): 内務省所属の辺境・沙漠治安部隊、平服の民兵も多く、辺境・沙漠の民に治安を担当させ、現金収入の道を与えている。辺境・沙漠では武器、アルコール、麻薬等のイエメン等からの密輸取締りが主な業務の様であるが都会では宗教警察と一緒に行動する事も多い。
ムジャーヒド(Mujahid) : 知的にそして精神的にジハード(Jihad)を行う者あるいは外部的にそして身体的にジハード(Jihad)を行う者あるいはその両者を指している。(出典: セイイェド ホッセイン ナスル博士(Dr. Seyyed Hossein Nasr))
ムシャラビヤ(Musharabiyah): ジェッダで簡単なバルコニーに使われた窓枠。
ムスタファ ベイ(Mustafa Bey): エジプト太守モハンメド アリ(Mohammed Aly Pasha)の義兄弟で1812年の第2次ワッハーブ派(Wahabys)掃討作戦で騎兵隊を率いてジッダ(Jidda)、メッカ(Mekka)およびタイフ(Tayf)に直接進軍し、殆ど無血で開城させた。
ムズダリファの谷(Muzdalifa): ミナーの谷(Mina)からアラファ('Arafa)までの間の谷の巡礼地。岩山に囲まれ、9kmの細長い谷まであり、中央にムズダリファ モスク(Muzdalifa Mosque)がある。巡礼月9日の日没より巡礼達はアラファからムズダリファへ移動する。ここにはテントが無く巡礼達は野宿の様な一夜を過ごす。ここで良く10日のジャムラ(Jamra)の石投げ行事に備え小石を拾い集める。(出典: 岩波イスラーム辞典)
ムスティエ文化 (Mousterian): ネアンデルタール人(Neanderthal)の化石は、ドイツのネアンデルタールで、1857年に発見された。かつては、現世人類(ホモ・サピエンス(Homo sapiens))とは別の種と考えられていたが、現在は、現世人類(ホモ・サピエンス)の一亜種とされ、学名は、「ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス(Homo sapiens neanderthalensis)」に変えられた。同類の化石は、ヨーロッパ、西南アジア、アフリカで出土している。また、類似体質の化石は、中国の各地でも発見されている。ネアンデルタール人は、旧石器時代中期のムステリアン文化(ムスティエ文化)の担い手である。ムステリアン文化の名は、南フランスのル ムスティエから代表的遺物が出土していることに由来する。石器製作技術が進歩した。主として剥片石器を用いたが、使用目的により形の違う石器を使い分けたようである。狩猟技術に長じ、マンモス(Mammoth)などの大きな獣をも狩った。火による調理も行った。穴を掘って死者を埋葬する風習があり、呪術や宗教心の芽生えがみられる。(http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-1/se-nean.htm)
ムスリム(Muslims): イスラーム教徒。イスラームの原義「帰依すること」であるが、ムスリムは「帰依する者」即ちイスラームの信徒を意味する。
ムスリムの征服(Muslim Conquests): イスラム征服やアラブ征服とも転写されているムスリムの征服(632 - 732)はイスラム預言者ムハンマド(Muhammad ibn ‘Abdullah, ca 570 - 632)の死後にを開始された。預言者ムハンマドはアラビア半島に新しい政治形態の統一国家を樹立した。この統一国家は正統カリフ時代(Rashidun, 632 - 661)とウマイヤ朝(Uamayyad Caliphates, 661 - 750)の治世の下で一世紀の内に拡大し、アラビア半島の枠を越え、北西インド(Northwest India)、中央アジア(Central Asia)、中東(Middle East)、北アフリカ(North Africa)、南イタリア(Southern Italy)そしてイベリア半島(Iberia Penninsula)はピレネー山脈(Pyrenees)まで広大な範囲に及んだ。ムスリムの征服はサーサーン朝ペルシア(Sassanid Empire, 226 - 651)の滅亡と東ローマ帝国(ビザンティン帝国)(Byzantine Empire, 395 - 1453)の領土の大幅な喪失を招いた。アラブの華々しい成功からその背景を理解するのは難しいが、「サーサーン朝と東ローマ帝国は何十年も互いに戦い、軍事的に疲弊し、沙漠から出撃してくる機動的なアラブ襲撃部隊を効果的に抑制出来なかった」と云う事実があった。さらに、両帝国の治世で抑圧されていた例えばペルシア(Persia)のユダヤ人(Jews)やキリスト教徒(Christians)とかシリア(Syria)の単性論派キリスト教徒(Monophysites)等の多くの人民が両帝国と宗教的に対立していたので、忠実でないばかりか、時にはアラブ侵入軍を歓迎した。(Wikipedia)
ム‘ターの戦い(Battle of Mu’tah): 預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)が派遣したイスラーム軍(Force of Muslims)と東ローマ帝国軍(Army of Byzantine Empire)は629年にヨルダン川(Jordan River)とカラク(Karak)東のム‘ター村(Village of Mu’tah)近くで戦った。3,000人のムスリム軍(Muslims)に対しローマ軍(Eastern Roman or Byzantine)が10万人余りと33倍の圧倒的に人数で優勢であったにも拘わらず破れた。この知らせは全アラビアと中東全域を震撼させた。この勝利を見てシリア(Syria)とその近隣に住む数千人の半独立のアラブ部族はイスラムに改宗した。一方で「この戦いは使者(Emissary)の命を奪った隷属国ガッサーン朝(Ghassanids)*に対する懲罰であったが、引き分け、両軍は安全に退却した」とする記述もあり、「この戦いでイスラーム軍はヨルダン東部のアラブ族征服に失敗した」との解釈の方が一般的になってきている。その後、ガッサーン朝の支配者は西暦636年のヤルモウクの戦い(Battle of Yarmouk)の戦いでイスラーム軍(Force of Muslims)によって崩壊させられた。(出典: Wikipediaおよびhttp://saudinomad.karuizawa.ne.jp/common/String%20Search.html)
ムタッウィフ(Mutawwif): 巡礼達に雇われる文字通りの周遊旅行業者(Circuit men)すなわちガイドであり、巡礼達の肉体的精神的快適さを世話する。ムタッウィフ(Mutawwif)は通常、自分に割り当てられた巡礼達の母国を知っており、その言葉を話す。
ムダッファール王(King al-Mudhaffar): アブド カディール イブン ファラジ(Abd al-Qadir ibn Faraj)はその著作「スライマンに関する小史(as-silab wa'l-uddah fi tarikh bandar Judaah)」の中に「ジェダ(Jeddah)のシャーフィイ モスク(Masjid ash-Shaf'i)は西暦1251年、ヒジュラ歴649年に没したムダッファール王(King al-Mudhaffar)即ちイエメン(Yemen)のアイユーブ朝(Ayyubid) (1169 - 1249)の王スライマン二世 ビン サアド ディン(Sulayman II bin Saad ad-Din)によって建てられた」と示唆している。
ムタミ(Al-Muhtami): 19世紀始めにタバブ(Tabab)のムタミ(al-Muhtami)はビシャー(Bishah)を支配していたシュクバン(Al Shukban)と共にヘジラ暦1215年(西暦1800年/1801年)にディライヤー(Dir'iyah)を訪問してイスラムへの復帰の呼びかけへの支持を宣言し、それに抵抗する者への戦いの意志を表明した。
ムタミド(Abbasid Caliph al Mutamid): イブン コールダドビ(Ibn Khordadbih, ca 820 - 912)が裁判所の学者として仕えたアッバース朝(Abbasid Caliphate, 750 - 1258)のカリフ(Caliph al Mu’tamid, 870 - 892)。
ムダール イブン ハシミ(Mudar ibn Hashim):「タリハ アル-ムスターシール(Tarikh al-Mustahsir)」(副題:「南アラビアの記述(subtitle: Descripyio Arabiae Meridionalis)」)著者イブン アル-ムジャウィール(Ibn al-Mujawir, 1204 - 1291)は「ヒジュラ暦473年、西暦1081年にジッダ(Jiddah)を包囲し、占拠したのはペルシア人(Persians)でその名がムダール イブン ハシミである」との夢を見た。
ムダンメス(Mudammes): ムダンマス(Mudammas)或はフール(Foul or Ful)とも呼ばれ、エジプトの人々の好む料理で、エジプト産のソラマメ(Horsebean)を水で茹でて、精製したバター脂肪(ghee)と胡椒を混ぜて食べる。サウジアラビアのホテルの朝食ビッフェには必ず、細かく刻んだ玉ねぎ、葉菜、オリーブ油を添えて大きな壷のような形の銅鍋に入れて供され、その味で調理人の腕が評価されていた。私の沙漠の旅では街道筋の一膳飯屋の様な食堂で暖かいホブツ(アラビアパン)にシャクショカ(トマト入りのオムレツ・スクランブルエッグ)とフールを添え、甘い紅茶を飲むのが朝食の定番であった。
ムテール族(Muter): ナジド(Najd) 4つの部族の一つであるムテール族はガシム(Qasim)からクウェイト方面の沙漠を占拠していた。
ムニエル(Muniel): 2003年2月に私に同行したインド人の運転手の名前。
ムハイル(Muhayil): アブハ(Abha)の北23kmの立体交差になったムハイル分岐から涸れ谷ハリ(Wadi Hali)の支流に沿った道を下ると、エンジンブレーキを目一杯効かせる程の急勾配がトンネルも含み12kmも続き、気温が上がるのを肌で感じる。その降りた地点からア’ドル アル ディード(A'dl Al Deed)、ア’ドル アル ハマシュ(A'dl Al Hamash)、ア’ドル ナヘイダー(A'dl Naheydah)、アル エイダー(Al-Eydah)、ガリーン(Qareen)、アル ザーラ(Al Zahra)と次々と地名が出てくるのは涸れ谷毎に水利権を有する家族が異なる為だと考えられる。部族と言うには余りにも細分化されているので家族と呼ぶ事にした。これもアシール(Asir)の特徴である。分岐から57km下るとムハイル(Muhayil)に着く。ムハイル(Muhayil)から北上する道は完全に山脈と山脈の間を通って居る。その道端では駱駝を使った臼で胡麻を轢いて胡麻油を売っているのはティハマー(Tihama)独特の光景である。ムハイル南6 kmにはトウダイグサ(euphorpia)やフグス(figus)の様な木が良く繁茂している小さいが素晴らしい場所があるそうだ。ここには小さな流れの涸れ谷ムハイル(Wadi Muhayil)があり、そのお陰でブルース緑ハト(Bruce's Green Pigeon)、シュモクドリ(Hamerkop)、金色羽シメ(Golden winged Grosbeak)(持つ円錐形のくちばしを持つ小鳥の総称アトリ科のシメ, キブタイシメ等)、白い顔のバンケン(ホトトギス科)(White browed Coucal)、灰色の頭のカワセミ(Grey headed Kingfisher)、白のどハチクイ(White throated Bee-eaters)、小さな緑ハチクイ(Little Green Bee-eaters)および青頬ハチクイ(Blue cheeked Bee-eater)、小さなサンカノゴイ(鷺科)(Little Bittern)、黒とさか夜鷺(Black crowned Night Herons)、灌木黒コマツグミ(Black Bush Robin)、ブラックスタート(Blackstart)、沙漠ヒバリ(Desert Lark)および肉桂胸ホウジロ(Cinnamon-breasted Bunting)等の多くの鳥が見られるそうである。
ムハージルーン(al-Muhajirun): 622年に預言者ムハンマド(Propjet Muhammad)と共にメッカ(Mecca)からメディナ(Medina)に移住した人々。
ムハンマド アリ(Muhammad Ali): ムハッマド アリ パシャ(Muhammad Ali Pasha) (1769 - 1849)はオスマン帝国(Ottoman)のエジプト総督(1805 - 1848)でエジプトを治め、エジプトに半独立政権ムハンマド・アリー朝(1805 - 1953)を樹立し、専制支配のもとで富国強兵政策を強行して近代エジプトの基礎を築いた。
ムハンマド アルマナ(Muhammad Almana)は1926年から1935年まで宮廷通訳を務め、その全期間をアブドゥルアジス王(King Abdul Aziz, 1932 - 1953)に捧げ、後にこの偉大な王とその人生についての著名な記録を残したサウジ人である。(出典: 在米サウジ大使館1966年出版物)
ムハンマド イドリシ(Muhammad Al-Idrisi): ムハッマド イブン アリ イドリシ(Muhammad Ibn Ali Al-Idrisi)は1818年(ヒジュラ暦1234年)にトルコ (the Turks) に対して新たな戦役を始め、ミカラフ シュライマニ (Mikhlaf al-Sulaymani) 地方のジザン (Jizan) の東にあるアブ アリシュ (Abu Arish) 市で戦い、トルコ勢を敗北させた。イドリシはその後も勢力を広げ、1911年(ヒジュラ暦1329年)にオスマン帝国(the Ottoman Empire)からの独立を宣言した。第一次世界大戦(1914 - 1918)中にジザン(Jizan)近くのサブヤ(Sabya)に行政府を構えたムハッマド イブン アリ イドリシ(Muhammad ibn Ali al-Idrisi)はヒジャズ(Hijaz)のシャリフ フサイン(Sharif Husayn)同様にトルコ(Turk)に逆らい「英国側である」と宣言し、トルコがアラビアから撤退した時にはアシール(Asir)はイドリシ(Idrisi)の支配下となった。1920年にイブン サウド(Ibn Saud)はアシール(Asir)および遠くフダイダー(Hudaydah)までのティハマー(Tihamah) をイドリシ(Idrisi)の名目支配の儘で保護領としてアブハ(Abha)を占領した。1922年にムハッマド イドリシ(Mohammad al-Idrisi)が没すると親族同士の争いとなり、イドリシの息子と兄弟に率いられた分族間の内戦が続いた。イエメン(Yemen)と新たに進出したサウジ土候国はこの衝突の各々の側に味方した。息子のアリはイブン サウド王の総督と交渉し、アシール(Asir)およびティハマー(Tihamah)をサウジアラビア王国(the Kingdom of Saudi Arabia)に編入すると云う形でこの内戦は最終的に解決した。その結果1930年にティハマー(Tihamah)はサウジ領の一部と成った。この為、イエメン(Yemen)とサウジアラビアの間に国境紛争は絶えず、1934年に「アシール(Asir)およびティハマー(Tihamah)をサウジアラビア王国に編入する」と云う1934年条約が締結され、両国間の国境紛争は一応は終了した。しかしながら、実際にはその後も国境問題は継続し、2000年にジェダ条約(the 2000 Jeddah Treaty)が締結されるまで、サウジアラビアとイエメンとの国境は確定しなかった。(注: 1818年にトルコ勢を敗走させたのはムハンマド イドリシ(Muhammad Ibn Ali Al-Idrisi)では無く、新神秘主義改革者(Neo-Sufi reformer)で祖父のアハマド イブン イドリス(Ahmad Ibn Idris、1760 - 1837)の様に私には思える。)
ムハッマド イブン ’アブド アルーワッハブ(Shaykh Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab):: (シャイク ムハッマド(Shaykh Muhammad)参照。)
ムハンマド イブン イシャク イブン ヤサール(Muḥammad ibn Isḥaq ibn Yasar): イブン イシャク(Ibn Ishaq)およびシラト ラスル アッラフ(Sirat Rasul Allah)参照。
ムバヒラ(Mubahila): 真実を確かめる古代の方法であり、宗教論争ではそれぞれの論争する側に「自分達が正しく正当である」との神聖な誓約が要求され、そして、もし、自分達が嘘をついた場合の神の激怒(wrath)が自分達に加えられる様に神に求め、「この様な場合、嘘つきは神の激怒に触れ、破滅してしまう」と信じられていた。
ムハンマド イブン ラシード(Muhammad Ibn Rashid): 19世紀後半にハイル(Hail)中央の強力勢力であったシャンマル族(Shammar)の族長であり、ラシード(Rashid)は強力な政権基盤を築き、その支配を殆どの首長国に広げた。1891年に敵対するサウジ侯国(Saudi Amirate)を殲滅する為にハサ(al-Hasa)を1871年に領有したオスマン帝国(Ottomans)および強大な勢力を持つハルブ族(Harb tribe)と同盟を結んだ。その1891年の後半にサウド家の従属するオアシス(Oasisi)であるカシーム(al-Qassim)が陥落させ、続いてリヤド(Riyadh)を落城させた。
ムハンマド フサイン ハイカル(Muhammad Husain Haikal, 1888 - 1956): エジプトの著述家、ジャーナルストで政治家であり、エジプトが王国(Kingdom of Egypt, 1922 – 1953)として独立した後にムハンマド マハモウド パシャ(Muhammad Mahmoud Pasha, 1877 – 1941)が組閣した第二次内閣(1937 - 1939)で内務担当国務相と教育相を歴任した。
ムハンマドを信奉する巡礼達(Mahommedan Pilgrims): イスラム教の巡礼達。
無名のヴェネツイアの船長(Anonymous Venetian Skipper): この船長はアレクサンドリア(Alexandria)で1537年投錨していた時に、オスマン帝国(Ottoman Turkish, 1299 - 1923)スレイマン大帝(Sulayman the Magnificent or Suleiman I, 1520 - 1566)とヴェネツイア共和国(Venetian Republic)の間で交戦状態となり、捕らえられた。1538年、スライマン カディム(Sulayman al-Khadim)指揮下のトルコ艦隊はインドにいるポルトガル軍を攻撃する為の遠征に備え、スエズ(Suez)に集結して居り、この船長は177人の仲間と共にこのトルコ艦隊で働く事を強要された。この無名の船長は停泊と日々の動きを数えた日誌を保管し、それを自分の訪れた土地土地と自分が巻き込まれた事件への熱心な観察で補った。この日誌もラムシオ(G.B. Ramusio)によって出版されている。題名だけがこの船乗りの経験の成り行きを説明している。
ムフタール(al-Mukhtar): ムフタール(al-Mukhtar ibn Abi ‘Ubayd al-Thaqafi, 622 AD - 687 AD)はフサイン イブン アリ(Husayn ibn Ali)の殺害の後にムスリム世界を支配していたウマイヤ朝(Umayyad Caliphate, 661 - 750)に対して謀反を指揮し失敗した初期イスラムの反乱者であった。ムハンマド(Muhammad)がメディーナ(Medina)に移住を始めた622年にムフタールはターイフで生まれた。ムフタールは最初のイスラム闘争(First Islamic Battles)の一つでの殉教者(Martyr)の息子であり、ムハンマドが支配したメディーナで成長した。第3代ウマイヤ朝カリフ(Third Umayyid Caliph)のヤジード グ(Yazid I Gu)が683年に権力を握った時に「不適格なムスリムで支配者である」と自分達が見做している男達の世襲による後継とその政府への不満を持つムスリム(Muslims)の数が増大した。686年に勃発した反乱はムスリム(Muslims)の一派に支援されていた。ムフタールは指揮した反乱は今のイラク(Iraq)のクファ(Kufa)から始った。「最後の正統カリフ(Last Rashidun Caliph, 656 – 661)アリ イブン アビ ターリブ(Ali ibn Abi Talib、600 – 661)の息子フサイン イブン アリ(Husain ibn Ali)がヤジード軍によってカルバラ(Karbala)で殉教しさせられた後、フサインに代わって反乱した」との云うのが風聞である。680年10月にカルバラでの悲劇(Tragedy of Karbala)が行われている間、ムフタールは投獄されており、出獄してカルバラでの出来事を知り、ムハンマドの孫の為に復讐を始めた。687年4月にクファ(Kufa)郊外でムサ‘アブ イブン ズバイール(Musa’ab ibn Al Zubair)指揮の軍隊に敗北し、殺され、そして多くのムフタールの追従者達も鎮圧掃討され、殺された。ムフタールの闘争は権力の為の反乱では無く、ムハンマドの家族殺害に対する復讐であった。ムフタールはムハンマドの家族を殺害するか、それを助けた人間、一人一人、そして全員を見つけ次第、殺した。ムフタールは刑を宣告されヤジードの総督に殺されようとしていた時でさえ、「自分はイマム アリ(Imam Ali)に言われた任務を終わらせていないので、誰も自分を殺せない」と言ったと云う。ムフタールの墓はクファのクファモスク(Masjid Kufa in Iraq)の中にある。
ムラサキ貝(Mussels): ムラサキイガイ類イガイ科(Mytilidae)の食用海水産二枚貝。
ムライガン(Murayghan): リヤド-カミス ムシャイト道路(Riyadh - Khamis Mushayt Road)を挟んでタスリス(Tathlith)の東に在る「沙塵」と云う意味の名を付けられた部落。
ムラト3世(Murad III, 1546-1595): オスマン帝国(Ottoman Empire or Ottoman Turkish, 1299 - 1923)の第12代スルタン(1574-1595)だが何もしなくても名宰相たちが政務をやってくれるという体制が続いた。ハレムに入り浸って快楽に溺れたために、自身の楽しみに乱費して、オスマン帝国の財政を悪化させ、帝国の衰退の原因を作り出してしまった
ムリガン(Mr. William E. Mulligan): アラムコ職員。
ムワッヒドン(Muwahhidun): シャイク ムハッマド イブン ’アブド アルーワッハブ(Shaykh Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab, 1703 - 1792)が広めた新しい運動で、この運動の信奉者は創設者を鑑みてワッハビ (Wahhabis)と呼ばれているが、信奉者達自身は自分達を単にムスリム(Muslims)と呼んで居り、もう一つの呼び名は唯一神信仰者を意味するムワッヒドン(Muwahhidun)である。改革運動の基本的な要旨は初期イスラムの根本である厳格さへの復帰、宗教的な革新の拒否、解釈の限定であった。後に第一次サウード侯国(First Saudi State, 1744 - 1818)*と呼ばれたサウド家(House of Saud)の勢力もオスマントルコ帝国(Ottoman Empire, 1299 - 1923)側からはムワヒディーン(Muwahhideen)或はワッハーブ派(Wahhabis)と呼ばれていた。
メイレット(Maillet): 18世紀後半にカイロに長く住んでいた人。
メガル(Megal):「目」を意味するこの交差点はビシャー(Bishah)への分岐があるリヤド-カミス ムシャイト道路(Riyadh - Khamis Mushayt Road)間道のリヤド側への本道出口。
メキシコ ドル(Mexican Dollars): メキシコ ペソ(peso)・ペソ硬貨。
メース(Mace): ナツメグ(Nutmeg)の仮種皮を乾燥したナツメグの副産物で香味料用・薬用(元の名はmacir)。アンジェロ ペセ博士 (Dr. Angelo Pesce)は「メース(Mace)もナツメグの副産物として、香料諸島(Spice Islands)とも呼ばれるモルッカ諸島(Moluccas)原産のメース(Myristica muscata)から採れる。これはナツメグを支えている内殻の周囲に形成される紐状の外被(Tegument)である」と説明している。
メソポタミア(Mesopotamia): 小アジア東部の山岳地帯からアラビア湾に至るチグリス川(the Tigris) およびユーフラテス川(the Euphrates)にはさまれた流域全体の総称で、世界最古の町文明の発祥地であり、現在のイラクはこの地方の大部分を含む。
メッカ太守(Sharif of Mecca): ヒジャーズ太守(Sherif of Hejaz)とも呼ばれ、アッバース朝(Abassid, 750 - 1258)が衰え始めた960年頃からメッカの宗教行事の世話、巡礼(Hajj)の安全確保およびヒジャーズの行政をアリー(Ali)の子ハッサン(al-Hassan ibn Ali)の系統が代々担当するようになった。この系統の一族(Hawashim or Hashemite)はムハンマド(Muhammad)の子孫である事から「高貴の者(noble)」を意味するシェリーフ(Sheriff or Sherif)と呼ばれた。シェリーフの中からメッカ総督に任命される者をメッカ太守(Sharif of Mecca)と呼び、その地位は1201年に確立し、1924年まで続いた。このシェリーフ政権(Sharifate)はファーティマ朝(Fatimids, 909-1171)、アイユーブ朝(Ayyubids, 1171-1249)、マムルーク朝(Mamelukes, 1250-1517)等エジプト・シリア(Egypt & Syria)を支配した王朝の保護下に置かれる場合が多く、完全に独立した政権であった時代はほとんど無かった。また近隣の地方政権とも絶えず争っていた。一方で、シャリーフは巡礼を通じてイスラム世界各地の支配者から贈り物を受け、またエジプトなどにイクター(徴税権)を授与されて収入を確保できた。又、メッカの諸施設のためのワクフ(寄進)もイスラム世界の各地に設けられていた。1517年以降はシャリーフ政権はオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299-1922)の保護下に入り、そのスルタン(Sultan)は「二聖都(ハマライン)の保護者」と称して、イスラム世界での政治的第一人者である事を誇った。オスマン帝国が任命した最後の太守であるシャリーフ フサイン(Hussein bin Ali, 1908-1916)は第一次大戦中、イギリスと結んび、オスマン帝国からの独立を宣言し、その軍はアラブの勢力を集めてシリア(Syria)のダマスクス(Damascus)を攻略した(Arab Revolt of 1916)。フセインはヒジャーズ王(King of Hejaz, 1916-1924)と称し、さらにイスラム世界のカリフ(Caliph)と称したが、1924年アブド アル アジーズ イブン サウード(Abdul Aziz Ibn Al Saud, 1876-1953)に敗れた。以後、メッカはサウード家(House of Saud))の王国の一部となった。(平凡社新イスラム事典、岩波イスラム辞典、Wikipedia等)
「メッカ市とその神殿の記述」: ウステンフェルド(Wüstenfeld, F.)の著書「メッカ市に関する歴史的記述の蒐集」の第二巻(Wüstenfeld, F. Die Chroniken der Stadt Mekka Leipzig 1856 - 1861. t. II (Deschichte der Stadt Mekka und ihres Temples) p. 79.)。
「メッカ市に関する歴史的記述の蒐集」: ウステンフェルド(Wüstenfeld, F.)は9世紀から16世紀のアラビアの年代記によるメッカ市に関する歴史的記述の蒐集をまとめ1856 - 1861年にライプチッヒ(Leipzig)で出版した(In WÜSTENFELD, F. Die Chroniken der Stadt Mekka Leipzig 1856 - 1861.) 。
「メッカとメディナの巡礼(Pèlerinage à la Mecque et à Medine)」: エジプト医師サーレ ソウッビ(Saleh Soubby)は1891年に巡礼を行い、殆ど所見の無いジッダに関する十数ページを含む本を書き、1894年にカイロで出版した(Soubhy, S. Pèlerinage à la Mecque et à Medine Cairo 1894.)。
「メッカの西側(Westward of Mecca)」: シールダール イクバルアリ シャー(Sirdar Ikbal Ali Shah)著、1928年にロンドンで出版された。
「メッカのキリスト教徒」: アウグストウス ラリ(Augustus Ralli)著、1909年ロンドンで出版(RALLI, A. Cheistians at Mecca London 1909)。
「メッカの大総督邸での滞在(Séjour chez Grand-Cherif de la Mecque)」: シャルル ディディエ(Didier, C)著、1857年にパリで出版(Paris 1857)。
「メッカの歴史(History of Mekka)」: コトベッディン(Kotobeddin)著の「メッカの歴史(History of Mekka)」には「エジプトのスルタン(Sultan of Egypt) カンソウエ エル ゴウリ(Kansoue el Ghoury)がヘブライ紀元917年に古代のジッダの壁を建てた」と記述されている。
メッカバルサム(Balsam of Mecca): アジア・アフリカ産カンラン科ミルラノキ属(モツヤクジュ属)の常緑小樹で葉に傷を付けると芳香を発するギレアドバウムノキ(Balm of Gilead)から採れるオレオ樹脂とこれから製する芳香のある軟膏をメッカバルサム(balsam of Mecca)とも云う。
「メッカへの巡礼(Pligrimage to Mecca)」: コボルド令夫人(Lady E, Cobbold)著、1934年ロンドンで出版。
「メッカへの旅」: フランス系アルジェリア人写真家ジュレ クローダン ジェルヴェ クールテルモン(Jules Claudin Gervais - Courtellemont)著、1899年パリで出版(Gervais –Courtellemont Mon voyage à la Mecque Paris 1899.)。
「メッカへの道(Road of Mecca)」: ムハンマド アサド(Muhammad Asad)著、1954年ロンドンで出版された。
Mediterranean Markets: 地中海市場。
メデヤン人(Midianites): ミディアン(Midian)参照。
瑪瑙(Agate): 石英・玉髄・蛋白石の混合物で、主成分は膠状珪酸である。樹脂光沢を有し、往々他の鉱物質が滲透して美しい赤褐色・白色など縞文様を表す。
メフメト2世: スルタン メフメト2世(Fatih Sultan Mehmed, 1432-1481)はオスマン帝国(Ottoman Empire, 1299–1923)の第7代皇帝で、コンスタンティノープル(Constantinople)を陥落させ、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)(Byzantine Empire, 395-1453)を滅ぼし、帝国の領土を大きく広げたので「征服者(ファーティフ)(Fatih)」と呼ばれた。メフメト2世はボスポラス海峡(the Bosporus)を閉鎖し、中央アジアを越える陸上交易路の黒海へのターミナル港であったクリミア半島(the Crimea)のカッファ港(Caffa)やアゾフ海(the Sea of Azov)のタナ港(Tana)等への通行を遮断した。これによって、紅海だけが安全で実用的な交易路として残され、この伝統的交易路を支配していたアラビア人とエジプト人が香辛料交易の事実上の独占権を完全に手にした。
メリウム(Merium): エジプトのスルタン所属の1艘の大型船。
メリク アズ(Melique Az): 16世紀初頭のグジャラート王国(Gujarat Sultanate, early 15th Century - 1573)ディウ(Diu)の支配者であったアッヤズ王(Malik Ayyaz or Malik Ayyãz)。
メルヴ(Merv): トルコメニスタン(Turkmenistan)の市で有名な図書館がある。
メルシスドゥク トゥヴノ(Melchisedeck Thévenot): 翻訳或いは原典から引用したこれまで出版された事のない様々な探検航海の記録を1672年にパリで出版した。(Relation de divers voyages curieux qui n'ont pas été publiés, et qu'on a traduits ou tirés des originaux... par Melchisedeck Thévenot Paris 1672)。
モアブ人(Moabites): モアブ(Moab)とは現在のヨルダン(Jordan)の死海東岸に沿った山の多い細長い土地の歴史的な名前である。古代にはこの土地にモアブ人の王国があり、頻繁に西となりのイスラエル人(Islaelite)(ユダヤ人(Jew))と争っていた。モアブ人は多くの考古学的な発見でその存在が証明されている歴史上の部族である。最も代表的な発見はモアブ人がユダヤの王オムリ(Omri, reigned 876 – 869 B.C.)の名前不詳の息子に勝った事を記述したメシヤ碑文(Mesha Stele of Moabite Stone)である。首都は現在のヨルダンの町ジバン(Dhiban)の隣のディボン(Dibon)であった。(出典: Wikipedia)
モカ港(Port of Moka): Mocha、MokahあるいはMukhāとも英語に転写されている。イエメン(Yemen)南西部の紅海に臨む港町で付近はコーヒーの山地の為にモカコーヒーの名で知られている。
木麻黄(モクマオウ): 被子植物科のモクマオウ科Casuarinaceae)に属するカジュアリーナ(Casuarina equisetifolia or Casuarina stricta)で、カジュアリーナ(Casuarina)は「Casuarius」という鳥の名前が語源で、原産地はオーストラリアである。アラビア半島では乾燥に強いので防砂林に良く使われてきたタマリスク(Tamarisk)と呼ばれる御柳(ギョリュウ)と同じ種類であるが、ネジ曲がらず真っ直ぐ生えるので、近年はタマリスクに代わって防砂林等に良く使われている。
モザンビーク(Mozambique): アフリカ南東部の国で人口1800万人、首都はマプート(Maputo)、元はポルトガル領東アフリカ(Portugueses East Africa)。
モザンビーク海峡(Mozambique Channel): インド洋西部のアフリカ大陸とマダガスカル島の間のモザンビーク海峡(Mozambique Channel)でそこを流れの早い暖海流のモザンビーク海流(Mozambique Current)が南流する。
モスリン(Muslins): 元モスルから産出した薄地綿布の総称で、普通は平織の柔らかい綿織物でターバン(turbans)や衣服に使われる。
モスレム帝国(Moslem Empire): アル-マクディシ(al-Makdisi)がその著書「国々の知識の為の最適な一文」で論じたイスラムの領域アラビアから始めてイラク、メソポタミア、シリア、エジプト、マグリブの国々そしてスペインに及び、これらはほとんど西領域として考えており、東領域としてはイランの様々な地方を含んでいる。
「モスレム帝国の記述(Descriptio Imperii Moslemici)」: アル-モカッダシ(Al-Moqaddasi)著、アラビア地理学会(Bibliotheca Geographorum Arabicorum)のM. J. デ ジョエジュ(M. J. de Goeje.)編集1906年にライデン(Leyden)で出版(Al-Moqaddasi Descriptio imperii moslemici ed. by M.J. de Goeje; Bibliotheca Geographorum Arabicorum, t. III. 1906.) 。
モーゼ(Moses): 紀元前13世紀のイスラエル民族の指導者。イスラーム(Islam)では預言者・使徒の1人でムーサー(Musa)と呼んでいる。エジプト(Egypt)に生まれ、ヤハウェ(Yahweh)に拠り苦役の銅棒を率いてエジプトを脱出し、シナイ山(Mt. Sinai)において「神と民の契約」を仲保し、律令を民に与え、約束の地に導いた。(出典: 広辞苑)
モーゼ五書(Pentateuch): 旧約聖書の初めの五書(創世記(Genesis)、出エジプト記(Exodus)、レビ記(Levitius)、民数記(Numbers)、申命記(Deuteronomy))でユダヤ今日ではこれを律法(Torah)とする。(出典: Wikipedia)
モッセル湾(Mossel Bay): 南アフリカ共和国(Western Cape)州南部のインド洋を臨む入江で、そこにある人口1.8万の港町の名でもある。
没薬: 没薬はミルラ(Myrrh)とも言い、アフリカ東北部、アラビア南部産カンラン科(Burseraceae) コミイフォラ属の没薬樹 (Commiphora Myrrha) の樹脂である。ギリシア神話(Greek Mythology)に出てくる、自分が亡くなった母に似ているが故に父に愛され、子まで身ごもってしまった哀しい王女ミルラが姿を変えた樹とも言われており、そのときできた子がビーナス(Venus)と恋に陥るアドニース(Adonis)であると言われている。その歴史は古く、紀元前2000年頃のエジプト(Egypt)のパピルス(Papyrus)にも書かれて居り、香料、化粧品、薫香として使われる他に、ミイラ(木乃伊)(Mummy、木乃伊)作りに用いられたのでミルラはミイラにも通じる。
「モハンマド教徒の宗教と風習についての正確な記録」: イギリス人ジョセフ ピッツ(Joseph Pitts)著、1704年イングランド南西部デヴォン州(Devon)のエクセター(Exeter)で出版(Pitts. J. True and Faithful Account of the Religion and Manners of the Mahometans Exeter 1704.)。
モプラ(Moplah): アラビア人の父とカリカット(Calicut)の現地女性との間に生まれた子供とその子孫。
モミジバフウ(Sweet Gum or Storax): 楓とは別種のマンサク科の落葉高木で中国・台湾に自生、高さ約10m、秋に高揚し春新緑と共に黄褐緑色の雌雄花を開き。棘のある球形の果実を結ぶ。樹脂を楓合香(ふうこうし)(Copalm)と呼び、薬用にする。
モーリシャス(Mauritius): マダガスカル(Madagascar)の東方、インド洋南西部上の島国、1968年英連邦の一国として独立、面積2,040 km2、人口112万人(1995)、首都はポート ルイス(Port Louis)。
モーリタニア(Mauritania): 西アフリカの大西洋に面する地方。
モーリタニア(Mauritania): アフリカ西部で大西洋に面する旧フランス植民地、1960年に独立、イスラム共和国、面積102.5万km2、人口228万人(1995)、首都はヌアクショット(Nouakchott)。
モルガン ザフェリ(Morgan az-Zaferi): 1517年3月14日にロポ ソアレス デ アルベアガリア(Lopo Soares de Albergaria)が到着した時のアデン(Aden)の首長で、その後ソアレスが1517年に再度、寄港した時には服従心を示さなかった。
モルッカ諸島(Moluccas): セレベス(Celebes)島とニューギニア(New Guinea)島の間にあるインドネシア領の島群で、モルッカ諸島(Moluccas)は別称を香料諸島(Spice Islands)とも云う。
モンバサ(Mombasa): ケニア南東岸沖の珊瑚礁からなる小島および同島と本土にまたがる港町(60万)。
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ヤウム タールウィヤ(yawm al-tarwiyah): ハッジ8日目の朝、全ての巡礼達はメッカ(Mecca)を離れ、ミナー谷(Mina)と呼ばれる市の郊外へ移動し、そこで一夜を明かす。8日目は次の日の為の水を用意する日なので給水の日(Day of Watering or Yawm al-Tarwiyah)とも呼ばれている。もし、何かの理由でこれが出来ない場合には巡礼は9日目にメッカ(Mecca)から直接、アラファ('Arafa)へ向かうことが出来る。
ヤクト(ヤクート)(Yakut): ヤクートは西暦1179年に生まれ、多くの時間をトルキスタン(Turkistan)のメルブ(Merv)の有名な図書館で研究に費やし、二つの伝記と地理の大辞典を書き、西暦1229年に没した12世紀から13世紀に掛けてのアラビア地理学のもう一人の偉大な人物である。
ヤクビ (Yakubi): 正確でまじめな編集が結果として多くの他の著者達によって使われた為にアラブ地理学の父と呼ばれ、「国々の本(キタブ アル-ブルダン(Kitab al-Buldan) )」 を著述した。ヤクビのその記述は西暦905年と日付のあるテュルニド朝(Tulunids, 868 - 905) の書に残っている。ヤクビ (Yakubi)についてはヤクト (Yakut)が「ヤグビはヒジュラ暦284年(西暦897年)に没した」と述べている以外は殆ど知られていない。
ヤダマ(Yadamah): この部落はナジラン州(Najran Province)西部中央のアシール州(Asir Province)の州境付近にあり、ナジラン(Najran)の北110kmに位置位置し、「皮なめしや染色等の手仕事」を意味する名が付けられている。ヤダマー(Yadamah)とビール ヒマ(Bir Hima)との間の「乳香の道」跡では岩壁画や碑文が多く発見されている。ヤダマーとも転写している。
ヤティブ山(Jabel Yatib): ハーイル(Hayil or Hail)東北東35 kmに位置し、様々な大きさのたくさんの石から成る砂岩の丘に紀元前500年頃にサムード(Thamudic)碑文が二度にわたり刻まれた。
ヤトリッパ(Yatrippa)(ヤスリブ(Yathrib)): メディナ (Medina) のイスラム以前の名前である。
ヤハヤ エフェンディ(Yahya Effendi): エジプト ムハンマド アリ朝(Muhammad Ali Dynasty, 1805 - 1953)創始者ムハンマド アリ パシャ(Muhammad Ali Pasha, 1805 - 1848)の息子トウソウン パシャ(Tousoun Pasha or Tusun Pasha, 1794 - 1816)の医者(Physician)。
ヤブリーン(Yabrin): ハラダ(Haradh)から空白地帯(Empty Quarter)を南100km下った孤立したオアシスがヤブリーン(Yabrin)で、多少の農地もあるが遊牧民基地の佇まいをした鄙びた部落である。1990年代に入り、ヤブリーン(Yabrin)周辺では世界最大のガワール油田(Ghawar Field)南地域の油田開発と空白地帯の農業開発が行われる様になった。調べてみると古代からの集落で、紀元前2,450年から紀元前1,700年頃にバハレイン島(Bahrain)をその主な中心として栄えたディルマン(Dilmun)文明の遺跡がヤブリン・オアシス(Yabrin Oasis)のウンム・アル-ヌッシ(Umm al Nussi)で見つかっている。2005年のサウジ地質測量会社(the Saudi Geological Survey)ルブアルハリ沙漠国際調査団のルートから「オマン(Oman)のドファール地方(Dhofar)にあったアド (Ad)(アード(A’ad))の一族が作り、紀元前3000年から1世紀頃まで交易の中心として繁栄した『伝説の失われた都市ウバール(Ubar)』から西へ向かい、カールキール(Al Kharkhir)付近から北上して隕石衝突跡であるワバール窪地(Warbar Crater)近傍のハディダ (Al-Hadidahを抜け、その北西約250kmのヤブリーン(Yabrin)を通り、紀元前700年から紀元後の初めの数世紀に渡って交易権益で栄え、東部州に覇を唱えた『謎の都市国家ジャルハ(Gerrha)』へ至る隊商路の存在した」と思われる。それまで私は「アラビア湾経由の乳香の道はウバール(Ubar)等から西に向かい、涸れ谷ハドラマウト(Wadi Hadramaut)やサイハド沙漠(Sayhad Desert)を通り、ナジラン(Najran)経由してビール ヒマ(Bir Hima)やタスリス(Tathlith)で地中海のレヴァント(the Levant)方面へのルートと分岐し、ヤブリーン(Yabrin)を通り、ジャルハ(Gerrha)へと向かうルートだけだ」と考えていたが、空白地帯(the Empty Quarter)を縦断して直接北に向かうルートがある方が自然に思われる。
ヤム族(Yam tribes): バヌ ヤム(Banu Yam)はナジラン地方(Najran)出身の主要な大きな部族であり、カハタン族(Qahtanite)に属し、東部州のハジャール族(Banu Hajer)やウジュマン族(Ujman)とは近い親族である。ヤム族の大半はエジプトのファティマ朝(the Fatimid Caliphate)時代(西暦909年から1171年)にシーア派(Shi’ite)の小分派であるイスマイル派(Isma’ili)に改宗したが、スンニー派(Sunni)に留まった部族民も居る。ヤム族は伝統的には空白地帯沙漠近傍を遊牧していたベドウインであり、ナジド(Najid)を繰り返し襲撃し、1775年の第一次サウジ公国設立の頃にはデュルマ(Dhruma)を攻撃している。ヤム族は移住によって特にジェッダ(Jeddah)やダンマン(Damman)等を中心にサウジ全国に散らばっている。
ヤーヤ(Yahya): 1803年からイブン サウード(Ibn Saoud, 1876 - 1953)にジッダ(Djidda)を包囲されたシェリフ ガレブ(Sherif Ghaleb) は1804年にワッハーブ派(the Wahabys)にメッカ(Mekka)を開城(serrender)し、公式に「自分自身がワッハーブ派(Wahabys)への改宗者(Proselyte)であり、ワッハーブ派首長に臣従する」と宣言した。ワッハーブ派(Wahabys)はうわべでもその教義に賛成を宣言したこの町には入らなかったが、この為にオスマン トルコ(Ottoman Empire, 1299 – 1923方は退却しなければ成らならず、1811年までにその権威はヒジャーズ(Hejaz)から完全に失われてしまった。1811年に太守モハンメド アリ(Mohammed Aly Pasha, 1805 - 1848)はワッハーブ派(Wahabys)に対抗する為にその息子のトウソウン ベイ(Tousoun Bey, 1794 - 1816)指揮下で軍事部隊(Body of Troops)を送った。この第一次遠征ではトウソウン ベイはイエンボ(Yembo)とメディナ(Medhina)の峠で敗北したが、1812年の第二次遠征はもっと成功し、トウソウン ベイがこの年の9月にメディナ(Madina)を奪回し、太守Pasha)の義理の兄弟のムスタファ ベイ(Mustafa Bey)がその指揮下の騎兵隊を率いてジッダ(Jidda)、メッカ(Mekka)およびタイフ(Tayf)に直接進軍し、殆ど無血で開城させた。シェリフ ガレブ(the Sherif Ghaleb)は太守モハンメド アリの遠征が成功すると察知すると、「自分自身が公にジッダに入城して来たトルコの友人である」と宣言した。ここではオスマン帝国(Osmanlys)即ちトルコ(Turks)がジッダに入城した後、太守(Pasha)とシェリフ(Sherif)の間で分けられるべき関税を現在の勢力の優位性から太守(Pasha)が全てを取った為に両者の間で争いが起きた。太守(Pasha)はシェリフ(Sherif)を囚人としてトルコに送り、そしてこの事件以降、この町は全て太守(Pasha)の裁量下となり、新しいシェリフのヤーヤ(Yahya)はトウソウン(Tousoun)から給料を貰う使用人の1人でしかなかった。(ヨハン ラドウィグ ブルクハルト(Johana Ludwig Burckhardt)著「アラビア・ヒジャーズ地方の旅(Travels in The Hedjaz of Arabia)」から抄訳)
ユスフィ(Yusufi): 1ユスフィ(Yusufi)はメッカの交換所では13カラット1グレイン相当に相当した(1 Yusufi is 13 Carats and 1 Grain.)。
ユダ王国最後の破局(Final Catastrophe for Kingdom of Judah): サウル(Saul, 1047 - 1007 BC)の後を継いだダビデ王(David, c.1037 - 967 BC)によって統一された古イスラエル王国(United Monarchy or Older Kingdom of Israel, c.1050 - c.930 BC)はソロモン王(Solomon, c.967 others 992 - c.938 BC others 953 BC)の死後、紀元前930年ごろ分裂した。南のユダ王国(Kingdom of Judah, c.930 - 586 BC)はユダ族(Tribe of Judah)とベニヤミン族(Tribe of Benjamin)から構成されており、北のイスラエル王国(Kingdom of Israel or Northern Kingdom, c.930 - 722 BC)はそれ以外の十部族からなっていた。ユダ王国の名はヤコブ(Jacob)の子であったユダ(Judah)の名前に由来している。しばしば南ユダ王国とも呼ばれ、単に南王国(Southern Kingdom)と呼ばれることもある。首都はエルサレム(Jerusalem)であった。もともとダビデの一族の支配から北のイスラエル王国が独立した形となったため、当初ユダ王国では北イスラエル王国を再び制圧して全土を統一しようという意気込みが強かった。そのため、分裂後の60年間は南北王国の間でたびたび戦いが繰り返された。その後は和解した両国の関係が安定し、ダマスカス(Damascus)などの共通の敵に対して共同戦線を張ることが多かった。紀元前8世紀の中ごろには両国とも力が充実し、ソロモンの最盛期にも匹敵するほどの国土を獲得した。しかし、アッシリア帝国(Assyrian Empire)が勃興すると紀元前722年に北のイスラエル王国は滅ぼされてしまった。その後ユダ王国はアッシリアに服属する形で存続していたが、最終的に紀元前597年に新バビロニア (カルデア王国)(Chaldea, 625 - 539BC)のネブカドネザル2世(Nebuchadnezzar II, c 630 - 562 BC)の前に屈した。なおしばらくは独立国としての存在が許されていたが、結局エジプト(Egypt)と結んでバビロニアと対抗しようという企てが失敗し、紀元前586年にエルサレム全体とエルサレム神殿(Temple in Jerusalem or Holy Temple)が破壊され、支配者や貴族たちは首都バビロニアへ連行されることになった。これをバビロン捕囚(Babylonian captivity or Babylonian Exile)という。(資料: Wikipedia) アビシニアのユダヤ教徒達はケブラ ナガスト(Kebra Nagast)の記述に「デュ ヌワス(Yousuf Dhu Nuwas)の失脚(西暦525年)がユダヤ教徒の王国(Kingdom of Judah, c.930 - 586 B.C.)の破局である」と記し、もう一つのアビシニア(Abyssinia)の本では「ヒムヤル族の本(Book of Himyar)」と云う題名でこの殺戮の話を述べている。
ユダヤ百科事典(Jewish Encyclopedia): 1901年から1906年にニューヨーク(NewYorkCity)のフンク エンド ワグナルス社(Funk and Wagnalls)により出版された百科事典であり、ユダヤ教(Judaisam)とユダヤ人(Jews)の歴史と1901年までの状況について12巻にわけ15,000件以上の項目が掲載されている。
預言者のモスク(Masjid ar-Rassoul or Prophet's Mosque): ナシール-イ コスロウ (Nasir-i Khosrow)が西暦1050年9月に訪れた時にはこのモスクを除いてジッダの町の外に建物は無かった。
預言者のモスク(Mosque of Prophet): 預言者のモスク(al-Masjid an-Nabawi, or Masjid al-Nabi)は、マディーナ(Madina)にあるイスラム教の礼拝堂・モスク(Mosque)で、イスラム教の第2の聖地で、預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)の霊廟でもある。そもそも預言者のモスクは622年の聖遷(ヒジュラ(Hijrah))の後に建てられた最初のモスクであり、ムハンマドの住居であり、イスラム共同体(Umma Islamiya)の本部たる所であった。その後、イスラム共同体(Umma Islamiya)の第4代正統カリフ(4th Rashidun Caliph, 656 - 661)のアリー(Ali ibn Abi Talib, 600 - 661)がイラク(Iraq)のクーファ(Kufa)に移るまではイスラム共同体の首都、その後はイスラム教の第2聖地として機能した。現在の10本のミナレット(Minaret)(尖塔)のある白亜の巨大な建物は1995年にできた。マッカ(Makkah)にあるマスジド・ハラーム(Masjid al-Haram)同様、100万人の収容が可能。ハッジ(Hajji)(巡礼)でついでに訪れるムスリム(Muslims)も多い。(出典:ウィキペディア)
預言者モハッメドのタブク遠征(Expedition led by Prophet Muhammad to Tabuk): ビザンチン(Byzantines)皇帝カエサル(Caesar)はム’タの戦い(Battle of Mu’ta, 629)の復讐とイスラムの浸透を防ぐ為にアラビア侵攻の軍備を命じた。預言者はこれに対し、「ここでムスリム(Muslims)の弱さを見せる事はフナインの戦い(Battile of Hunayn, 630)で圧倒的な打撃を受け敗北寸前のアラビアン ジャヒリヤ(Arabian Jahiliya)軍勢への統制が緩み、マディナー(Madinah or Medina)内外の偽善者達を勢いづかせる」と云う厳しい状況を認識し、神から与えられた自分の使命を果たす為に直ちに戦場でビザンチン軍(Byzantines)に立ち向かう決心をした。預言者は公にムスリム(Muslims)に戦いの準備を呼びかけ、「ローマは攻撃目標である」と宣言、預言者は紀元631年に3万人のムスリム(Muslims)兵士と共にマディナー(Madinah)を離れ、遠くビザンチン(Byzantine)帝国領のシリア州(Province of Syria)に極めて近いタブク(Tabuk)まで行進した。預言者とそのムスリム(Muslims)軍の到着があまりに早かった為、大軍の集結が間に合わず、ローマ皇帝は預言者との交戦を中止せざるをえなかった。
ヨシュア(Joshua): モーゼ(Moses)の後継者でイスラエルの民の指導者。
ヨッセール(Yosser): 紅海で育つ珊瑚の一種である。最高の種類はジッダ(Djidda)とゴンフォド(Gonnfode)の間で見つかり、不快黒い色をしており、素晴らしく磨き上げられる; 数珠(Rosaries)はヨッセール(Yosser)のビーズから作られた最高級品であり、これ用のビーズは100粒毎に紐で吊し、その大きさによって1から4ドル(Dollars)で売られている。これらのビーズはジッダ(Djidda)のろくろ師によって作られる。この為、ジッダの主要航路(Principal Lane)はホシュ ヨッセール(Hosh Yosser) と呼ばれている。
ヨハン ラドウィグ ブルクハルト(Johann Ludwig Burckhardt): スイスの探検家(1784 - 1817)で英国アフリカ協会に雇われてエジプトを探検し、古代都市ペトラ(Petra)を発見、イスラム教とに変装してメッカ(Mecca)やメディナ(Medina)を歴訪した。(「アラビア・ヒジャーズ地方の旅(Travels in The Hedjaz of Arabia)」(http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/Jeddah-Burckhardt.html)を参照。)
鎧兜(Armour): 防御の為の甲冑・具足類。
四大法学派(スンナ派)(4 Mainkine School of Sunni): スンナ派の四大法学派にはハナフィー学派(Hanafi Madhhab)、マーリク学派(Maliki Madhhab)、シャーフィイー学派(Shafi'i Madhhab)およびハンバル学派(Hanbali Madhhab)の四派がある。
ハナフィー学派(Hanafi Madhhab)は現在のイラク(Iraq)に居住していたアブー ハニーファ(Imam Abu Hanif)を始祖とする学派で、活動時期はムハンマド(Muhammad)の没後さほど時を置いてのものではない。多くの師について学んだとされ、シーア派(Shia or Shi’a)イマーム(Imam)、ジャアファル サーディク(Ja’far ibn Muhammad al-Sadiq)もその一人といわれる。また、教友の一人マーリク イブン アナス(Anas ibn Malik)と会っており、弟子達(タービイーン(Tabiun))の一人となっている。
マーリク学派(Maliki Madhhab)はマーリク イブン アナス(Imam Anas ibn Malik)を始祖とする学派で、マーリクはアブ ハニーファ(Abu Hanif)に遅れてマディーナ(Medina)で生まれた。アブー ハニーファより若年ではあったが同時期に生き、相互の学識に深い敬意を払いあったことは有名である。実際に、のちにハナフィー派の基礎を固めるアブー ハニーファの弟子の一人はまたマーリクからも学んだのであった。
シャーフィイー学派(Shafi'i Madhhab)はシャーフィイー(Imam Shafi'i)を始祖とする学派で、シャーフィイーもまたアブー ハニーファ((Abu Hanif))やマーリク(Malik)に学んでおり、師への敬意は文書に残っている。
ハンバル学派(Hanbali Madhhab)はアフマド イブン ハンバル(Imam Ahamad ibn Hanbal))を始祖とする学派。彼はシャーフィイー(Imam Shafi'i)に学んだ。シャーフィイー派とハンバル派の間には多くの類似点がある。 ワッハーブ派(Wahhabis)はハンバル学派に属している。(出典: ウィキペディア)
ライス(Al-Lith): 昔はゼレセン(Xeresen)あるいはキシュラン(Qishran)とも呼ばれ、紅海岸のジッダ(Jiddah)の南約180km、クンフンダ(al-Qunfundah)の北約150kmにある町。ライスには紅海岸の典型的な海岸塩湿地(coastal sabkha)が広がっている。
ライス スライマン(Rais Sulayman): 「ディウ沖の交戦(1509年2月)」でマムルーク朝(Mamluk Dynasty)の艦隊が完全に壊滅させられたのを知り、インドにおけるポルトガル(Lusitanians)の地位の拡大と強化を懸念したスルタン カンサウ ガウリ(Sultan Qansawh al-Ghawri, 1501-1516)はスエズで新しい艦隊を建造し、その司令官にライス スライマン(Rais Sulayman)を任命した。スライマンはサルマン ライス(Salman al-Rais)とも云い、トルコ出身の元奴隷で地中海の私掠船(corsair)海賊であった。この艦隊には30の様々な口径の火砲を備えたガレオン船(galleon)14艘と重火砲を船首と船尾に備えた6艘のガレー船(galley)が含まれていた。その乗組員はトルコ人(Turks)、アフリカ人(African)、マムルーク人(Mamluks)、イスラムに改宗したキリスト教徒(Christian renegades)等、3,000余人に及んだ。ライス スライマンはジッダへ赴き、そこのフサイン クルディ(Husayn al-Kurdi)の艦隊と合流し、スライマン自身が上陸部隊と全艦隊を指揮して、ポルトガル人達に対する再攻撃を開始する様に命令されていた。スライマン艦隊がジッダに到着すると、最悪の場合を恐れたフサイン クルディはこの計画を受け入れ、新しく任命された副司令官(Second-in -Command)の地位で協力できる事を喜んだ。彼等の意地の悪い、頑な性格の間の合意はお互いに相手を疑っており、短い期間しか続かないことが証明された。それにもかかわらず、彼等はこの市の防御を予め固めて、1515年にスライマン艦隊への命令を完了する為にジッダを出発した。スライマン艦隊の最初の目標はポルトガル人達(Lusitanians)への戦争の前哨基地としてのイエメン(Yemen)の征服であり、イエメンで行った戦闘はアデン(Aden)を陥落出来なかったもの全面的に勝利した。しかしながら1516年の春にオスマントルコ(Ottoman Turks, 1299 - 1923)のスルタン サリム一世(Sultan Salim I, 1512-1520)が突然、シリア(Syria)のマムルーク朝(Mamluks)領内に攻め込み、シリア北部のアレッポ(Aleppo)近くのマルジ ダビク(Marj Dabiq)の平原での1516年8月24日の戦闘でマムルーク朝(Mamluks)側を粉砕し、スルタン カンサウ ガウリ(Sultan Qansawh al-Ghawri, 1501-1516)を戦場で殺害した。この為にスライマン艦隊は1516年秋にこの段階でイエメンからジッダへの撤退を決定した。1517年1月22日にカイロ(Cairo)はオスマン トルコ(the Ottomans)側の手に落ち、ジェッダ(Jeddah)もオスマン トルコとメッカ首長(Sharif of Mecca)の支配を受ける事となった。若い首長アブ ヌマイイ(Abu Numayy)はフサイン クルディのジェッダでの暴政を糾弾し、捕縛した。フサイン クルディはライス スライマンに引き渡され、溺死させられた。ライス スライマンは1517年4月13日にロポ ソアレス デ アルベルガリア(Lopo Soares de Albergaria)総督指揮下のポルトガル艦隊が水平線に現れた時にはジッダの総指揮を握っていた。嵐と珊瑚礁で遮蔽された狭い水路と戦略的な砲の台座等によるポルトガル艦隊の消耗を恐れたソアレス総督がジェッダ攻略を諦め、撤退するのをライス スライマン提督は自軍を岸に沿って整然と見事に行進させながら見送っていた。
ライス族(Rayth): 「花飾りした男達」と呼ばれているティハミ カハタン族(Tihami Qahtan)の住むアルーファルシャー(al-Farshah)の南一帯に住むライス族(Rayth)も頭飾りをする。彼等の’ウシュシャー('Ushshah、Nest)と呼ぶ半円の小屋はカハタン(Qahtan)族の小屋に較べ横長である。
ライデン(Leyden or Leoden): オランダ西部南オランダ州(South Holland)のライン(Rhine)川分流に臨む市で人口12万人。同市には同名の大学がある。
ライラ(Layla): ライラ(Layla)はリヤド(Riyadh)の南300 kmでアス スライイル(As Sulayyil)の北北東204 kmに位置している。ワディ ハッダール(Wadi Haddar)沿いの農村であり、古代からアフラジ(Aflaj)と云うカレーズ(karez)を意味するアラビア語と呼ばれて来ており、サウディ アラビアの帯水層に関する研究書にもライラにある湖沼群の写真が少なからず掲載されて居る。しかしながら、この町を何回通過しても湖の痕跡さえ見られなかった。この為、2000年の12月29日にこの湖沼群確認の為にライラに逗留した。優しい女性の様な村名のこの村の住人の殆どは極めて厳格なワハビ派(Wahhabist)の回教徒でありムタッワ(Mutawwa、宗教警察の密偵)をたくさん見掛ける。ムタッワはサウディ人男性の衣服であるトーブ(Thawb)を短くして踝を出し黒い髭を長く伸ばして居る。この村に居るのが我々に取っては余り快適では無かったが、スーク(Suq)で12 km南に下りアスファルト舗装をさらに12km東へと入ったアル ガティン(Al Qatin)と云う場所がそれらしい事が分かった。翌朝、アル ガティン(Al Qatin)を訪れると、地表には湿った膨らし粉に似た石膏が露出している東側が「史跡につき立ち入るべからず」との看板が立っている。徒歩で土盛りとフェンスで囲いに入り、干上がった湖を見つけた。幾つかの大きなクレバスが東西に走って居りその幾つかは暗くて底が見えない程大きい。その深さは30-40 mでその長径は700 - 1,000 mで南へと少し東にドッグレッグしながら延びて居り短径は200 - 300 mである。ドッグレッグしている内側部分の湖底は二段に成って居り上段には直径10 m程の穴らしい黒い部分がある。多分鍾乳洞に通じる穴なのではないか。この場所が泉を示すアル アユン(Al Ayun)と云う名で呼ばれた湖沼群である。この湖沼群が涸れたのはそれ程昔では無いのは先程の幾つかの小屋は湖沼群とそれを取り巻く緑地の美しさを楽しむ為に作られたリゾートハウスである事からも分かる。この湖沼群は灌漑の為の地下水路の水源に成って居た。フェンスで囲われた遺跡はこの地で農業と隊商交易を営んだ古代国家或いは古代都市の跡だろう。
ライラ カドル(laylat al-qadr): 預言者ムハンマド(Prophet Muhammad)が初めて啓示を下された夜。力の夜、御稜威(みいつ)の夜、定命の夜ともいう。ハーディズ(Hadith)ではラマダーン(Ramadan)月の最後の10日の中の奇数日の1夜であるといわれているが、27日とする学者が多い。ムスリム(Muslim)には特別な日であり、敬虔なムスリムはラマダーン(Ramadan)月の月末の奇数日にはモスク(Mosque)にこもって礼拝やクルアーン読誦などを行う。
ラエアナ(Laeana)(アエラナ(Aelana)): 現在のアカバ(Aqaba)。
ラカディーヴ諸島(Laccadive Islands): ラッガディヴ(ラッカディブ)諸島(Laccadive)はインド南西岸沖320kmのアラビア海(Arabian Sea)またはインド洋(Indian Ocean)に浮かぶ27の珊瑚礁(Coral Reef)からなり、現在ではラクシャディープ諸島(Lakshadweep)と呼ぶのが一般的である。南端のミニコイ諸島(Minicoy)、北端のアミーンディービ諸島(Aminidivi)も含めインド連邦政府直轄地域ラクシャディープ諸島(Lakshadweep)を成す。人口は60,595人(2001年)。中心地はカバラティ島(Kavaratti)。ラクシャーディープ諸島のすぐ南方にはモルディブ(Maldives)がある。
ラギス(Laqeeth): 2003年に発見され、ラギス(Laqeeth)と名付けられたタスリス(Tathlith)の西20kmにある貴金属鉱山
駱駝の家畜化(Domestication of Camels): 駱駝は紀元前3,000年期の間に南アラビアで搾乳用の動物としてまず家畜化され、乾燥の始まりが駱駝の牧畜が広まるのを促した。駱駝の家畜化は、完全な搾乳用動物としての利用から始まり、負担に耐える動物としての利用され、紀元前2,000年期を通じてその前の紀元前3,000年期から始まったより範囲の広い遊牧とより定着した農業への分化の傾向が更に確立された。紀元前2,000年期の終わりから紀元前1,000年期初めにかけてのオアシス集落、駱駝輸送による長距離交易や駱駝に騎乗する部族が組織された。続いて紀元前1,000年期の終わり頃から騎乗用の動物としての比類の無い能力を発揮した。
「駱駝はロンドンに行かなければ成らない(Camel must go London)」: 1923年から1925年までジッダで過ごした英国領事リーダー バッラード卿(Sir Reader Bullard)が著述し、1961年にロンドンで出版された。
ラクミド朝 (Lakhmids): (ラフム朝(Lakhmids)参照。)
ラグワー(Ragwah): リヤド-カミス ムシャイト道路(Riyadh - Khamis Mushayt Road)間道のビシャー分岐(Branch to Bishah)の交差点で「泡」を意味する名が付けられている。
ラジャアジル遺跡(Al-Rajaajil): ラジャアジル遺跡はサカカ(Sakaka)の南東10kmでナフド沙漠(An Nafud)の北辺に位置している。この遺跡は考古学遺跡は銅石時代の紀元前3千年代の中期に属し、一番の特徴は立ち石群にある。その立ち石群の数は約50グループもあり、各グループは2基から19基の石の柱(立ち石)で構成されている。各立ち石の高さや幅は様々であり、その幾つかは高さが3.5mで幅が75cmある。各立ち石は元々柱の長手方向が南北を指す様に直線に並べられて居た。従って、立ち石の正面は東を向いている。
ラジル熔岩原(Harrat Al-Rajil): (ハッラ熔岩地帯(Al Harrah)参照。)
ラス アル ハイマ(Ras Al Khaimah): アラブ首長国連邦の7首長国の一つ、ペルシャ湾(Arabian Gulf or Persian Gulf)とオマーン湾(Gulf of Oman)の境界となるホルムズ(Hormuz)海峡に突きだした半島に位置し、人口12万人。語源は「テントの先端」。
ラスカル地方(Lascars): ラスカル(Lascars)は喜望峰より東の印度やその他の国々を指しているが、今では使われる事は無い。
ラスリド朝(Rasulids Dynasty): アイユーブ朝(Ayyubid, 1169-1250)がアラビア半島の南部州を放棄した後、イエメン(Yemen)とハドラマウト(Hadramawt)を支配したイスラム王朝(1229-1454)である。ラスリド朝(Rasulids Dynasty)は南アラビアの伝説的な族長であるカハタン(Qahtan)の子孫と称したが実際にはラスリドはトルクメン族(Turkmen)のオグズ(Oguz)の出であった。アッバース朝(Abbasid, 750-1258) のカリフ(Caliph)の伝令であったラスル(Rasul)の息子アリ(‘Ali)がイエメンのアイユーブ朝最後の総督の下でメッカの知事をしており、総督からイエメン全土を引き継いだ。ラスル(Rasul)の孫のウマル イブン アリ一世(‘Umar I ibn ‘Ali, 1229-1250)がティハマー低地(Tihamah)のザビド(Zabid)で建国し、その後山岳地帯のサナア(Sanaa)を首都とした。ヒジャーズ(Hejaz)は1252年以降、エジプトのマムルーク朝(Mamluk, 1250-1517)の属国と成っていたが、ウマル イブン アリ一世も聖都メッカ(Mecca)を支配していた。
ラック(lac): ラックカイガラムシが分泌した樹脂状物質、黄褐色であるが漂白して白ラックとする。アルコールやテレピン油に溶ける。精製した薄板状の物がシェラック(Shellac)でワニス等の原料。
(ラック貝殻虫染料の塊(Lac Gum) 、ラック貝殻虫染料の塊(lump-lac)、ラック貝殻虫の体表をおおう樹脂(Stick-Lac)。
ラッマニタエ部族(Rhammanitae): イラサルス(Ilasarus)に帰属する部族。(出典: ストラボ(Strabo)著の「地理学(the Geography of Strabo)」での「紀元前24年から行われたローマ帝国軍の古代南アラビア(ヒムヤル国)遠征」の記事)。「ラッマニタエ部族(Rhammanitae)はノア(Noah)の曾孫ラーマ(Raamah or Rama)の息子シバ(サバ(Sheba))の子孫でシバ族(Sabaeans)に含まれる」との記述もある。
ラテン(Laten): 噛み用のドロップ状の乳香。
ラトル(Rattle):(衡量単位)1ラトル(rattle)は15ヴァキア(Vakias)で1/2マウンド(Maunds)である。換算すると1.11lbsで約0.5kgとなる(ウィルアム ミルバーン(William Milburn)著1823年出版の「東洋交易(Oriental Commerce」参照。)
ラハ(Al-Raha): ヒジュラ暦473年、西暦1081年にアラブ族がやって来て、ジッダ(Jiddah)の町は包囲された。ジッダ(Jiddah)の住人は水が乏しく成ったので自分達自身の船に乗って逃走した。彼等は海を彷徨ったがその内の或る者達はシッライン(Al-Sirrayn)、ラハ(Al-Raha)およびアサール(Athar)に居を構えた。
ラハ熔岩地帯(Harrat Ar Raha): アラビア盾状地の北西に角にあってもトブク(Tabuk)は紅海から吹いてくる風から火山の黒い集団ハッラト アル ラハ(Harrat Ar Raha)に遮られ守られて居る。サラワト(Sarawat)の山稜が熔岩台地に成っている場所はタブク(Tabuk)とマダイン サレー(Madain Salih)の間のハッラト アル ラハ(Harrat ar Raha)やハラット ’ウワイリド(Harrat 'Uwayrid)およびその南のハッラト アズ ザビン(Harrat az Zabin)やハッラト ルナイイール(Harrat Lunayyir)、更にマディナー(Madinah)からタイフ(Taif)に至るハラット ラハート(Harrat Rahaht)等ヒジャーズ(Hijaz)山脈には広く一般的に見られる。これらは第四紀に形成された一連の熔岩地帯であり、ハッラト アル ラハ(Harrat Ar Raha)はその内の最も北西に位置し、タブク(Tabuk)とヒスマ(Hisma or Hasma)山地の南に位置する。この熔岩地帯はカンブリア紀(Cambrian)砂岩平原の上に流出した玄武岩質の熔岩で出来ており、550mの高さにも及んでいる。
ラバン(Leven): レヴァント(Levant)および北アフリカのヨーグルトに似た発酵乳。
ラバン ハメド(Leven-Hamed): 沸騰させ、強い酸を加えて酸味を出した非常に濃厚なミルク。
ラビ’アー族(Rabi'ah): 涸れ谷ダラ’(Wadi Dala')ではテント生活をしている山羊飼いの部族のラビ’アー(Rabi'ah)族が住んでいる。ラビ’アー(Rabi'ah)と云う部族名からは北方アラブのアドナーン部族(Adnanite Tribes)と思われる。ラビ’アー(Rabi'ah)族自身は「祖先をイエメン(Yemen)から来たアシュラフ アルーフサイニイヤー(Ashraf al-Husayniyyah)だ」と言っているが、ラビ’アー(Rabi'ah)族の敵は「ラビ’アー(Rabi'ah)族はツシガネス(Tsiganes or Gypsies)又はバグダッド(Baghdad)のハルン アルーラシド(Harun al-Rashid)宮廷の印度から来たダンサーを祖先とする北部アラビアの一部族である謎のスルッバ(Sulubba)族だ」と言う。ラビ’アー(Rabi'ah)族の絶対に間違いない視力が動物の営みの僅かな痕跡も見つけだす。この地方に出没する豹について明らかに彼等はそれを見るのを大変熱望している。豹のなめしてない毛皮を時々骨董品のガラクタを売る店で見かける事がある。バイト カッサフ(bayt khassaf)と呼ばれるラビ’アー族 (Rabi'ah)の移動テントの立派な骨組みの小屋の編み合わせられた覆いはどんな気象にも耐え、内部は居心地が良い。
ラヒーム(al-Rahim): ラフマーン(al-Rahman)参照。
ラフマーン(al-Rahman): アッラー(Allah)の別名であり、美称の1つで「慈悲あまねき者」。慈悲・慈愛を示す神の美称にはラフマーン(al-Rahman)とラヒーム(al-Rahim)があり、両者ともバスマラ(Basmala)*に含まれている。
ラフム朝(Lakhmids, 266 - 602): 二世紀にイエメン(Yemen)から移住してきたラフム族(Lakhum Tribe)のバヌ ラフム支族(Banu Lakhm)出身のアムル(`Amr)はムンナーザル族(Muntherids)とも呼ばれたイラク南部に住んでいたアラブキリスト教徒のグループを統合し、西暦266年にヒーラ(al-Hirah)を首都する王朝を建国した。この王朝はアムル(`Amr)の出身部族の名に因んでラフム朝(Lakhmid Kingdom)と名付けられ、その民はラフム族(Lakhmids)と呼ばれる様になった。詩人達はこれを地上の楽園と著述し、或るアラブ詩人はこの町の快適な気候と美しさを「ヒーラでの一日は一年の治療よりも優れている」と述べていた。その息子のイムル' カイス(Imru’ al Qais)がキリスト教に改宗するとヒーラ全体が次第にキリスト教に改宗した。イムル'カイス(Imru’ al Qais)は統一アラブの王国を夢めみて陸軍大部隊を編成する一方で、アラビア湾(Arabian Gulf or Persian Gulf)で活動する海軍力を発展させた。イムル'カイスはアラビアの多くの都市を奪い取ると共にサーサーン朝(Sassanid, 226 - 651)の王達の生まれ故郷であるパルス県(Province of Pars)を含むペルシア(Persia)の海岸都市も襲撃した。サーサーン朝はこれに対して西暦325年にシャープール二世(Shapur II, 309 – 379)が六万人のペルシア軍(Persians)を率いて、ラフム朝(Lakhmids)に侵攻した。イムル' カイス(Imru’ al Qais)はローマ皇帝(Roman Empire)コンスタンティウス二世(Constantius II, 317 – 361)に援軍を求めたが、その援軍は間に合わなかった。ペルシア軍はヒーラ(al-Hirah)とその周辺を凶暴に攻め立て、ラフム朝陸軍を壊滅させ、ヒーラを占領した。シャープール二世は復讐の為に捕虜達の肩に穴を開け、ロープを通して数珠繋ぎにした。この為にシャープールはアラビア語では肩を意味するゾル‘アクターフ(Zol ‘Aktaf)とも称される。シャープールはアウス イブン カルラム(Aus ibn Qallam)を擁立し、この都市に自治権を与え、ラフム朝(Lakhmids)をペルシア帝国本土とアラビア半島の他のアラブ部族(Arabs)の間の緩衝地帯とした。二年経った西暦330年に反乱が起き、アウス イブン カルラム(Aus ibn Qallam)は殺され、イムル' カイス(Imru’ al Qais)の息子が王位を継承した。その後のラフム朝(Lakhmidsの主な敵国はサーサーン朝(Sassanid)の宿敵のビザンティン帝国(東ローマ帝国(Byzantine Empire, 395 - 1453))に隷属していたガッサーン朝(Ghassanids, 3rd Century - 636)となった。五世紀の後半にキンダ王国(Kindah Kingdom)が中央アラビアの諸族を一つの強い連合に結束させ、指導者フジル(Hujr)はラフム朝(Lakhmids)の影響下にある東アラビアのバクル(Bakr)の領土を自由に通行する様になり、六世紀の始めにその孫のハリス イブン ’アムル(Harith ibn 'Amr)はラフム朝(Lakhmids)を征服し、首都のヒラー(Hirah)も占領した。ハリス(Harith)の没した西暦528年までにラフム朝(Lakhmids)はササン朝(Sasanian)の援助でその領土を奪回し、勢力を取り戻した。ラフム王国(Lakhmid Kingdom)はその勢力を六世紀末までは維持し、キリスト教ネストリウス派(Nestorian)の主要な中心ともなったが、ラフム王(Last Lakhmid King)ヌ‘マン三世(Nu’man III)がサーサーン朝(Sassanid) コスラウ二世(Khosrau II, 590 - 628)への裏切りの疑惑で西暦602年に死刑に処せられた。「実際にはコスラウ二世がヌ‘マン三世に娘をハーレムに差し出す様に要求し拒絶されたので象に踏み殺させたのだ」との説もある。ラフム王国(Lakhmid Kingdom)は滅亡し、サーサーン朝に併合された。ヒーラ(al-Hirah)は廃棄され、その資材はその疲弊した双子都市クーファ(Kufa)再建に使われた。これが「ムスリム アラブ(Muslim Arabs)へのサーサーン朝(Sassanid Dynasty)の陥落とイスラーム教徒のペルシア征服(Islamic Conquest of Persia)の裏にある重要な要素の一つである」と考えられており、「ハーリド イブン ワリード(Khalid ibn al Walid)による西暦633年5月のヒーラの戦い(Battle of Hira)にサーサーン朝が敗れた背後にはラフム朝(Lakhmids)残党のムスリム(Muslims)のスパイとして働きがあった」と云う。
ラマダーン(Ramadan): イスラーム太陰暦(Linar Islamic Calender)とも転写されるヒジュラ暦(Hijrah or Hegira)の9番目の月で、一年でもっとも聖なる月であり、その月の間は夜明けから日暮れまでムスリム(Muslims)は断食を行う。この月にクルアーン(Qur'an)の啓示があじまった。
ラマダン(Ramadan Haj): 2000年12月に同行したエリトリア人の運転手の名前。
ラマダン明けの休み: 断食月(Ramadan)明けの休みはイード フィトル(Eid Al-Fitr)と言い、断食明けを祝って3日間宴を行う。サウジの政府機関は普段の祝祭日は休まずに、巡礼月明けのイード アル アドハー(Eid Al Adha)と共にそれぞれ2週間位の休日をまとめて取る。
ラムシオ(G.B. Ramusio): ヴェニス(Venice)の上院の秘書であり、アンドレア コルサリ(Andrea Corsali)のジュリアーノ(Giuliano)およびロレンゾ デイ メディチ(Lorenzo dei Medici)宛二通の手紙を「主要な航海の収録」として最初に出版した。
ラワシン(Rawashin): ペルシャ語の形容詞rawshanの複数形で壮麗(splendid)、あざやか(bright)の意。
ランヤー(Ranyah): メッカ州(Makkah Province)東部の涸れ谷ランヤー(Wadi Ranyah)の下流域に在る町で、「喜び」の意味を含むこの町の名は魅力的な女性の名でもあり、化粧品の商品名に成って居たり、ハーレムの話の中に登場したりする。元キャリヤウーマンで高貴な美貌と洗練された感覚・知性を持つヨルダン(Jordan)のラニア王妃(Queen Rania)の名も同じ語源である。又、日本の「松下ガイアテクノ」と云う会社も「ニュー ブルー」との商品名で紹介している美しい色合いの淡いエメラルドグリーン色の御影石等の石材がランヤーの近くでは産出されている。
リヴィングストン(David Livingstone): イギリスの宣教師で探検家(1813 - 1873)、1841年以来アフリカ奥地の探検を続け、1871年にスタンリー(Henry Morton Stanley)との邂逅は著名、奴隷貿易の廃止に貢献、「伝道旅行記」、「ザンベジ川とその支流」等の著作がある。
リヴォルノ(Leghorn or Livorno): イタリア中部トスカナ(Tuscany)州のティレニア海(Tyrrhenian Sea)を臨む港町で人口17万人。
リーヴル ドウ トレゾア(Tesoretto or Li Livres dou Tresor): 1248年出版のゴティエ ドゥ メツ(Gautier de Metz or Gossuin de Metz)編纂の「世界の鏡(ル ミルワール デュ モンド(Le miroir de monde or Le mirouer du monde))」の後、中世ロワール川(River Loire)以北の北方フランス(Langued’oïl)で書かれた最初の百科事典(des premières encyclopédies)がイタリア語では宝典(Tesoretto)と名付けられたリーヴル ドウ トレゾア(Li Livres dou Tresor)であり、それを編纂したのはイタリア人ブルネット ラティーニ(Brunetto Latini, c. 1220 – 1294)であった。ラティーニはフェレンツェ(Florence)で1220年代に生まれた。政治に関与し、ローマ教皇(Bishop of Rome)を支持する教皇党(Guelfes)に加入した。1260年のモンテ アペルチの戦い(Bataile de Monte Aperti)で神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire)を支持する皇帝派(Gibelins)にフェイレンツ(Florence)の支配権を奪われ、ラティーニは亡命を余儀なくされる。ラティーニはフランスに定住し、上記のリーヴル ドウ トレゾア(Li Livres dou Tresor)と云う百科事典を編纂した。その時代の百科事典はほとんどはラテン語で書かれており、科学に関しては主として聖書やギリシャの哲学の原書の様な古代図書の中に見られる程度であった。1268年にはフィレンツェ(Florence)はドイツ皇帝派(Gibelins)から解放され、ラティーニは自分の故郷に戻った。彼は1294年に死亡し、サンタ マリア マッジョー教会(l'église Santa Maria Maggiore)に埋葬された。ラティーニは自分の亡命中にフィレンツェ(Florence)で生まれたダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri, 1265 – 1321)の先生でもあり、友達でもあった。そのダンテ(Dante)は最も敬愛する師として「神曲(La Divina Commedia)」にラティーニを登場させている。ダンテはおそらく青年時代に彼から修辞学などを学んだとされており、「神曲」地獄篇(l'Enfer)第15歌(chant XV)で、男色の咎(Sodomites)ゆえに炎熱地獄に配しながらも、「人間が生きる道」を教えてくれた旧師に対する敬慕を忘れていない。(出典: Lexilogos and Wikipedia)
リーカム インディ(Rihkam Indi): エジプトではタファリク(Tafarik)と云い、ジャワ(Jawa)からの輸入品の一つ。
「陸地の地形(Configuration of the Earth)」: イブン ハウカル(Ibn Hauqal)著作「陸地の地形(Configuration of the Earth)or(Configuration de la Terre」はJ.H. クレイマー(J.H. Kramers)とG. ワイト(G. Wiet)によって編集され、1964年にパリで出版されている(Kitab Surat al-Ard (Configuration de la Terre) tr. and ed. by J.H. Kramers and G. Wiet. Paris 1964, t. I. p. 31、Configuration of the Earth)(陸地の地形)。
リクマンス卿(Sir Ryckmans): ゴンザグ リクマンス卿(Sir Monseigneur Gonsague Ryckmans)はビーストン(A.F.L. Beeston)と共にフィルビィ(Harry St. John Philby)が手書きで送った岩壁画や碑文をアラビアの歴史上の重要な発見である事を認知したロウヴェイン(Loivain)の学者。
リグリア海(Liguria): 地中海北部コルシカ(Corsica)島北方の海域。
リジャル アルマ’(Rijal Alma' or Rijjal Al Ma’a): 丘陵性のティハマー山地(Hilly Tihamah or Tihamah Slopes)のリジャルーアルマ’(Rijal Alma')部族同盟の一つ村である。「現在のイエメン(Yemen)にあった古代王国サバ(Saba, 8th Century BC - AD 275) の都マリブ(Marib)から一団の人々が離れた。非常に厳しい旅の末に彼等はこの険しい地方に辿り着き村を築いた」と云い、1,000年もの伝統がある。その建築様式はイエメン(Yemen)に類似し、家々にはこの地方で採れる大理石が使われている。何層にも要塞の様に作られた家々は美しい石造りで、開口部を飾るのに石英が好まれており、格子縞模様がすべての窓と扉の上に付けられている。リジャル アルマ’(Rijal Alma')は元々、棚畑(terraced field)で小麦、大麦およびキビ等を栽培する農村であったが、サウディアラビア最高峰サウダ山(Jebel Sawdah)に近く、ソウダー国立公園から延長全長3,500m、標高差1,000 mの大きな観光用カーブルカーで結ばれてからは観光にも力を入れている。伝統的な家屋は村人達によって60棟保存され、村の中心には2,000点ものこの土地の習慣や伝統を展示する素晴らしい村立の博物館が整備された。村には観光客を相手に伝統料理を出す食堂も少なくは無い。残念ながらオサーマ・ビン・ラーデン(Osama bin Laden)の指示を受けたアル カイダア(Al-Qaeda)が2001年9月11日に起こしたアメリカ同時多発テロ事件の実行犯にはこの町の出身者が多かった事でも知られる様になった。
璃礁(Patch Reefs): 孤立して散在する小さな珊瑚礁。
リスボン(Lisbon): ポルトガル(Portogal)の首都であり、人口564,652人(2001年)。北緯38度43分、西経9度8分。ポルトガル名は「リジュボア」という。大西洋に流入するテージョ川(River Tagus)の河口に位置するポルトガル最大の港湾都市である。テージョ川沿いのすぐ近くまで丘が迫っており、市街地の多くはその丘の上に発達しているため別名「7つの丘の街」とも呼ばれる。夏は晴れた日が多くほとんど雨が降らない。時折アフリカ方面から来る熱波により40度近くなることもあるが、乾燥しているため日陰にはいると過ごしやすい。夜は気温が下がるので肌寒くなることもある。冬は、ぐずついた天気が多くなるが、それほど気温は低くならない。雪はめったに降ることはない。リスボンは古代からフェニキア人(カルタゴ人)などにより港として利用されてきた。当時はフェニキア語でアリス・ウボと呼ばれた。紀元前のギリシア人の集落跡が出土している。紀元前205年にローマの支配下に入り、オリピソの名で知られる。紀元前48年にはローマ都市の資格を与えられ、フェリキタス・ユリアと改名。属州ルシタニア(Lusitanian)の首都となった。719年にイスラム教徒であるムーア人に占領される。以後1147年に最初のポルトガル国王アフォンソ1世(Afonso Henriques I)がイスラム教徒徒を征服するまでイスラム教徒に支配された。1255年には、ポルトガル王国の首都となった。(ウィキペディア)
リーダー バッラード卿(Sir Reader Bullard): 1923年から1925年までジッダで過ごした英国領事で、1961年にロンドンで出版された「駱駝はロンドンに行かなければ成らない(the Camel must go London)」の著者。
リチャード ハクルート(Ricard Hakluyt): イングランドの地理学者(c. 1552 - 1616)で、1580年に有名な「主要な航海(Principal Navigation)」を出版した。
リチャード F. バートン(Sir Richrad Francis Burton): 英国の探検家(1821-1890)でオリエント学者であり、ヨーロッパ人として初めてタンガニーカ(Tanganyika)湖を発見した。又、千一夜物語(The Arabian Nights)の全訳を成し遂げた。
リチャード ポーコック(Richard Pococke): 英国の旅行家(1704 - 1765)でシリア、メソポタミア、エジプト等へ旅をし、紀行としてまとめた。アルピニストの草分けでもあり、アイルランドのオソリー(Ossory)の主教でもあった。ポーコック(Pococke)は1737年から1742年まで中東(the Orient)を旅した紀行文「東洋と幾つかのその他の国々の記述(A Description of the East and some other Countries)」を執筆し、ロンドンで1743 - 1745年に出版した。
リッベ(Ribbé): 上エジプトで産するタバコで葉は乾かしても緑である。
リノコルラ(Rhinocolura or Rhinocorura): エジプト北東部に近いフェニキア(Phoenicia)の古代エジプトとイスラエルの土地の間で地中海東岸南部の現在のエル アリッシュ(El-Arish)。
リバヌス山脈(Mount Libanus): レバノン山脈(Lebanon Mountains)の古代名。
リヒヤーン(Lihyan): アラビア半島北西部にあった古代アラビアの王国で、紀元前1700年から紀元前400年まで使われた古代北アラビア文字(Okd North Arabian)で知られている。この王国は前期にはその首都がデダン(Dedan)にあった為、デダン王国(Dedanite)との名が使われていた。デダンはアラビア半島北西部でタイマ(Teima)の南西110km付近にあり、現在はアル ウラ(Al ‘Ula)と呼ばれている。リヒヤーン王国(Lihyan Kingdom)については殆ど分かっていないが、アラブ系譜学では古代アラブのサムード族(Thamud)の子孫であるとされている。それでも今日、バヌ リヒヤン族(Banu Lihyan)は自分達をサムード族(Thamud)では無くジャルハム族(Jarham)の子孫のアラブ族であると考えている。古代のリヒヤーン族は旧約聖書にユダヤ人預言者として登場するエリヤ(Ilyas, Elijah or Elias)の孫リヒヤーン イブン ホサイル(Lihyan ibn Hothail)の息子達であり、彼らがサウジアラビア西部ヒジャーズ(Hijaz)のアドナン族(Adnanite)一派のバヌ ホサイル族(Banu Hothail)であった。リヒヤーン族(Lihyan)はクライシュ族(Quraish)が北西ヒジャーズ(North-wastern Hijaz)の支配者となる前の支配者であり、クライシュ族(Quraish)とコザ‘ア族と共に(Khoza’ah)ザムザム水(Zamazam)の井戸を所有していた。
リベリア(Liberia): アフリカ西部、大西洋に面し、1829年アメリカ植民協会が開放奴隷の入植地として買収、開放奴隷が移住し、建国、1847年に独立、便宜置籍船制度で世界一の商船保有国、面積11万km2、人口276万人、首都はモンロヴィア(Monrovia)。
竜涎香(りゅうぜんこう)(Ambergris): マッコウ鯨から採取される松脂に似た一種の香料、麝香(じゃこう)に似た風雅な芳香がある。
リヤド(Riyadh): 「多くの緑地」を意味する名を付けられたサウディアラビアの首都。
リューデリッツ(Luderitz): ナミビア共和国(Namibia)南部のカラス州(Karas Region)に位置する大西洋(Atlantic Ocean)に面した港町である。ロバート港(Robert Harbour)とシャーク島(Shark Island)の周辺に開発された小規模な良港がある。(ウィキペディア)
リューベック(Lübeck):ドイツ北部シュレスウィヒ ホルシュタイン(Schleswig- Holstein)州のバルト海(Baltic Sea)に臨む港湾・商工業都市(22万);中世の重要なハンザ同盟(Hanseatic League or Hansa)の都市。
緑青(Verdigris or Patina): 空気中の水分と二酸化炭素が作用して銅の表面に生ずる緑色の錆びで緑色顔料として使われる。
「旅行案内(Navigatio ac Itinerarium)」: オランダの有名な旅行者ヒューゴー ヴァン リンスホーテン(Hugo van Linschoten, 1563 - 1611)著で1599年にハーグ出版された。
「リラ ヒジャジヤ(Al-Rihlah Al-Hijaziyah)」: ムハンマッド ラビブ バタヌニ(Muhammad Labib al-Batanuni)著、ヒジュラ歴1329年(西暦1911年)カイロで出版された。
リンスホーテン(Linschoten): ジャン ホイヘンス フォン リンスホーテン(Jan Huyghen von Linschoten, 1563 - 1611) オランダの旅行家で「東インド・西インド渡航記(Navigatio ac Itinerarium)」を著述し、1599年にハーグで出版した。
ルイス デル マルモル カルヴァハル(Luis del Mármol Carvajal): グラナダ(Granada)生まれの歴史書の著者であり、1535年から22年間にわたってスペイン(Spain)のアフリカ事業全てに参加していた。
ルシタニア人(Lusitanians): ポルトガル人はイベリア半島の古代ローマの1州の名で現在のポルトガルとスペインの一部で、ポルトガルの古名ルシタニア(Lusitania)であることからルシタニア人(Lusitanians)とも呼ばれていた。
ルダー(Ar Rudah): タスリス(Tathlith)の西部地区にあり、「牧草地」と名付けられた部落。
ルテブ(Ruteb): 6月の終わりにナツメ椰子が結ぶ新しい実。
ルビー(Ruby): 酸化アルミニウム(アルミナ)からなる鉱物で鋼玉と呼ばれる。六方晶系で硬度9、金剛ないしガラスの光沢を持ち、青・赤・黄・褐灰色等透明あるいは半透明である。ルビーはサファイアと共に鋼玉の一変種で紅色を帯びた透明あるいは透明に近い宝石で、ミヤンマーに主に産出する。
ルブアルハリ(Ar Rub' Al-Khali): サウジアラビア(Saudi Arabia)の南部は空白地帯(the Empty Quarter)或いはルブアルハリ (Ar Rub' Al Khali)と云う名で知られた茫漠とした沙漠地帯である。東はオマーン山脈(Oman Mountains)、南はアラビア海(Arabian Sea)沿いの海岸山脈の奥にある台地に、南西部はイエメ(Yemen)ンとアシール(Asir)の山麓の丘に囲まれる盆地が空白地帯であり、長さが約1,200kmで最大幅が650 km近くある。その面積はフランス、ベルギーとオランダ三国を合わせたより大きく約650,000 km2 もあり、その中のベドウイン(Bedouin)が単にリマル(al-Rimal)と呼んでいる砂丘地帯は連続する砂沙漠としては世界最大である。
ルーム・セルジューク朝(Seljuk Sultanate of Rum, 1077 - 1308): セルジューク朝(Seljuq Dynasty)の地方政権として分裂して誕生しアナトリア(Anatolia)地方を中心に支配したテュルク人(The Turkic peoples)の王朝。首都は、1097年以降コンヤ(Konya)。「ルーム」とは「ローマ」の意味で、イスラム圏から見た東ローマ帝国(Byzantine Empire or Eastern Roman Empire, 395 - 1453)領であったため当時はアナトリア(Anatolia)の地を指す言葉として用いられた。アナトリア(Anatolia)を拠点としたことによる。住民も大半が正教会(Eastern Orthodox Church)を信仰するギリシャ人(Greeks)だった。(ウィキペディア)
ルメス(Rumes): アラビア語でローマ人(Romans)の意味であり、ビラド ルム(Bilad ar-Run)はアラビア人(Arabs)にとって自分達の国境に近いビザンティン帝国(the Byzantine empire)の土地であり、この用語は同じ土地がトルコ人の支配(Turkiish Rule)になっても使われた。ルム(Rum)は相当期間に渡って全ての東地中海民族を意味する様になった。(Mediterranean Sea was Bahar ar-Rum.)他の西洋人はひとまとめにしてファランジ(Faranji)或いはフランクス(Franks)として引用していた。このルム(Rum)と云う語をアラビア語からとったアルボケルケ(Alboque)はトルコ人(Turks)、マムルーク人(Mamluks)、アラビア人(Arabs)を区別せずにモスリム(Moslems)と同義語に使った。この様にして言語学的(philological)な妙な曲解の為に、アラビア語(Arabs)でローマ人(Roman)を意味する語はポルトガル人著者の一部の散文の中ではアラビア人自身を意味する様に成って来た。
レイシュ(Reysh): 瑪瑙のビーズ(Agatebeads)、「ヌビアの旅行記(Travels in Nubia)」のシェンディの章(Airticle Shendy)には「ボンベイから持って来られ、アフリカのまさに中心で使われる」との記述がある。
霊猫香(レイビョウコウ)(Civet Musk): ゼバド(Zebad)と呼ばれ、東南アジアに分布し、小動物や果実を食べる雑食製で夜行性の麝香猫(ジャコウネコ)は生殖器の近くに麝香腺を持ち、特殊な香りの分泌液を出す。
レヴァント(Levant):東部地中海およびその沿岸諸国の歴史的な名称。
レウケ コメ(Leucê Comê or Leuke Kome): 現在のヤンブー (Yanbu) であるイエンボ (Yenbo) 北にあり、白い村を意味するレウケ コメの正しい位置は明確では無いが当時のレウケ コメ (Leuke Kome) は乳香・没薬の産地である南イエメンおよびドファール (South Yemen and Dhofar) との貿易の中心地だった。リチャード フランシス バートン(R.F. Burton)は「ミディアンの土地(the Land of Midian) London 1879, t. II, p. 133-140」の中で「紅海のアラビア岸北緯25°6'(現在のウンム リッジ(Umm Lijj)の位置)にあるハウラ(al-Haura)である」と見なしている。この記述のためにバートンは実際にこの地域を訪れてはいるが「この様な場所が古代に繁栄した商業港の跡であると考えさせる証拠は無かった」と強調している。航海記(ペリプラス (Periplus))の初期の注釈者達は或る程度はal-Hauraも白を意味していた事もあってバートンの発見を支持する傾向にあった。そしてこのアラビア語の名前はプトレマイオス(Ptoplemy)(スコフ(W.H. Schoff)の引用書中 (op. cit.、opere citato、in the work cited) の101頁参照。)にやはり白を意味するアウアラ(Auara)としてあらわれている。ハウラ(Al-Haura)は現在の地図には記載されて居ないが、その緯度からはイェンボ (Yenbo) の北西135kmにあるウンム ルッジ(Umm Lujj)と一致する。
レオン ロシュ(Léon Roches): 1884 - 1885年にパリで出版された「32年間のイスラム国横断(Trente-deux Ans à travers i'Islam, 1832 - 1864)(Paris 1884 -1885).」の著者である。この本の中ではジッダについて148頁と154頁に二回述べられているだけである。「ロシュが訪れたとしている地方にに関する地理的な詳細が無く、メディナ(Medina)およびメッカ(Mecca)についての記述は明らかにブルクハルト(Burckhardt)(スイスの歴史家 1818 – 1897)からの盗作である。この為に、ロシュの巡礼に関しては厳しい疑惑が向けられており、従って、ロシュのジッダ訪問についても疑惑がある」とペセ博士(Dr. Angelo Pesce)は述べている。
「歴史叢書(Library of History)」の訳:ディオドロス シクロス(Diodorus Siculus)の著書歴史叢書の第1巻から第4巻はオールドファーザー(C. H Oldfather)によって英訳され、ロンドンとケンブリッジで1946年から1953年の間に出版されている。(Diodorus of Sicily Books I to IV with an English Translation by C. H Oldfather. London and Cambridge (Mass) 1946 - 1953, p. 123 - 131.)
レコンキスタ(Reconquista): 718年から1492年までに行われたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動のをレコンキスタ(Reconquista)と総称している。後ウマイヤ朝(Caliphate of Córdoba, 756 - 1031)による西ゴート王国(Visigoth, 415 - 711)の征服と、それに続くアストゥリアス王国(Kingdom of Asturias, 718 - 925)の建国から始まり、1492年のグラナダ(Granada)陥落で終わる。レコンキスタはスペイン語で「再征服」を意味する。ポルトガル語では同綴でルコンキシュタ(Reconquest)という。日本語では国土回復運動または、再征服運動と訳される。(ウィキペディア)
ロイン布(Breechcloth): 白と黄色の綿糸を混ぜて織った非常に精巧な織物で作られている。暑い国の男達が腰に巻き付ける一枚の布(腰巻き(loincloths))。
ロジャー二世(Roger II): 1095 - 1154年、ノルマン族でシシリーの王(1130 - 1154)(the Norman, King of Sicily)、1105 - 1130年はシチリア伯。
「ロジャーの本(Book of Roger)」: 「キタブ アル-ルジャリ(Kitab al-Rujari)(ロジャーの本(Book of Roger) )」或いは「ヌザト アル-ムシャタグ フィ イクティラク アル アファク(Nuzhat al-Mushataq fi Ikhtiraq al-Afraq)(世界の様々な地方を放浪しようとする者達の喜び(The delight of those who seek to wander through the regions of the world))」と名付けたイドリーシー(Idrisi)の有名な著作であり、「イドリーシーの地理(Géographie d'Edrisi)」としてA. ジョブール(A. Jaubert)によって翻訳・編集され、1836 - 1840年パリで出版さている。
ローズ(Cecil J. Rhides): イギリス植民地の政治家(1853 - 1902)、南アフリカのダイアモンド、金の採掘を独占し巨富を築き、ケープ植民地首相と成って、南アフリカを征服したが極端な侵略政策で失脚。
ロッジア(Loggia): 建物の正面や側面にあって、庭などを見下ろす柱廊。
ローデシア(Rhodesia): ローズ(Cecil J. Rhides)の名に因むアフリカ南部の旧イギリス植民地、1953年ローデシア・ニヤサランド連邦(Federation of Rhodesia and Nyasaland)(中央アフリカ連邦(Central African Federation))を結成、1964年北ローデシアはザンビア(Zambia)、ニアサランド(Nyasaland)はマラウィ(Malawi)として独立、南ローデシアは1965年に一方的に独立を宣言しローデシアと称したが、1980年ジンバブエ(Zimbabwe)として正式に独立した。
ロドヴィコ デ ヴァルテマ(Lodovico de Varthema): ボローニャ(Bolognese)出身の冒険家。ヴァルテマはヴェニス(Venice)を1502年12月に出発し、アレクサンドリア(Alexandria)、カイロ(Cairo)、ベイルート(Beirut)、ダマスカス(Damascus)、メディア、メッカ、ジザン(Jizan)アデン(Aden)、イエメン(Yemen)、エチオピア(Ehiopia)、ペルシア(Pedrsia)、ウズベキスタン(Uzbekistan)、インド(India)、ビルマ(Burma)、マラッカ(Malacca)、マレイシア(Malaysia)、セイロン(Ceylon)に行き、ポルトガル(Portuguese)が開いたケープ岬(Cape)経由の航路で帰国した。メディナ(Medina)およびメッカ(Mecca)へは奴隷傭兵(Mamluk)を装って訪れ、その著書「アラビアの沙漠に関して (Concerning Arabia Destrta)」で述べている様に預言者の墓、カーバ神殿(Kaaba)および巡礼の儀式を丹念に観察し、イスラムの聖地を記述した最初のヨーロッパ人となった。
「ロドヴィコ デ ヴァルテマの1502年から1508年までの旅行記」: 「ボローニャ(Bolognese)出身の冒険家ロドヴィコ デ ヴァルテマの1502年から1508年までの旅行記(Itinerary of Lodovico de Varthema of Bologna from 1502 to 1598)」は1510年にローマ(Rome)で出版され、そのイタリア語の原書をジョン ウィンター ジョーンズ(John Winter Jones)(古物協会(F.S.A))がハクルート協会(the Hakluyt Society)の為に行った翻訳がこの旅行記である。同旅行記には「ヴァルテマ(Varthema)とその南アジア旅行(a Discourse on Varthema and his Travel in Southern Asia)」に関するロンドンで出版されたリチャード カールナク テンプル卿(Sir Richard Carnac Temple)の1928年の論文の24-25頁も添えられている。ヴァルテマ(Varthema)の初期の英文翻訳は「ルイス ウェールトマンヌスの航海術と航海(The Navigation and Voyages of Lewis Wertomannus)」として1576年にリチャード エデン(Richarde Eden)によってラテン(Latine)から英語に既に翻訳されている。この初期の英文翻訳はエディンバラ(Edinburgh)のアウンジャーヴィル協会(the Aungervile Society)によって1884年に再版された。同再版本の62頁にジッダに関する記述がある。
ロトロ(Rotolo): 重量単位ロットロは約172/3オンス(Ounces)の重さ(Avoirdupois)で今ではこの重量単位は使われていない。ロットロは(1 ounces=1/16pound=454/16=28.375g)で換算すると約501.3g。
ローヌ(Rhône): フランス中東部ローヌアルプ(Rhône-Alpes)地域圏の県で県都はリヨン(Lyons)。
ローマ帝国(Romans): 27 B.C.にオウグストゥス シーザー(Augustus Caesar, 27 BC – AD 14)と尊称されたオクタヴィアヌス(Gaius Julius Caesar Octavianus)により建設され、395 ADに東西に分裂した。
ローマ帝国時代(Roman Empire): オクタヴィアヌス(Gaius Julius Caesar Octavianus)がアウグストゥス(Augustus)の尊称を戴いた紀元前27年からの西ローマ帝国滅亡した西暦476年までと一般的に言われているが、、ローマ帝国が東西に分裂した西暦395年、東ローマ帝国滅亡した西暦1453年等の説もある。
ローマ・ペルシャ戦争 (Roman-Persian Wars, 92 BC – 627 AD): この戦争はギリシャ・ローマ世界の諸国(Greco-Roman World)とペルシャの連続する 2 つの帝国との間で戦われた一連の戦役の総称である。ペルシャ(Persia)のパルティア帝国(Pathian Empire, 247 BC – 224 AD)と共和政ローマ(Roman Republic, 509 BC – 27 BC)とは紀元前 92 年に初めて接触した。パルティア帝国がササン朝ペルシャ帝国(Sassanid Emire, 224 - 651)に滅ぼされ、共和政ローマがローマ帝国(Roman Empire, 27 BC – AD 476/1453)になった後もこの戦争はローマ帝国とササン朝ペルシャ帝国の時代を通じて続いた。ローマ人とペルシャ人との間の戦いは 7 世紀にわたり続いたが、境界線が大きく動くことはなかった。どちらの側も、国境から遠く離れてこのような長期にわたる作戦を維持するだけの兵站力も人的資源も持ち合わせていなかった。そのため、どちらの側も、境界を延ばして手薄にし過ぎる危険を冒すことなしに、大きく前進することができなかったのである。両者とも境界を越えて占領をすることはあったが、ほとんど常に、時間が経つと元の均衡状態に戻った。両帝国にとって、ローマ・ペルシャ戦争の間に費やされた資源が、最終的に破滅を招いた。 6 世紀から 7 世紀にかけて戦いが長引き、激化したために、両帝国は疲弊して、イスラーム帝国(Rashidun Caliphate, 632 - 661)の突然の出現と拡大(Arab Muslim Invasions)に抵抗する力を失っていた。ローマとペルシャの間の最後の戦争の終結後わずか数年で、イスラム軍が両帝国を侵略した。イスラーム軍(Arab Muslim Army)はまたたく間にササン朝ペルシャ帝国の全域を征服し、東ローマ帝国(Eastern Roman Empire or Byzantine Empire, 330 - 1453)からレヴァント地域(Levant)の属領、カフカス(Caucasus)、エジプト(Egyput)および残りの北アフリカ(Rest of North Africa)を奪い取った。以後数世紀にわたり、旧東ローマ帝国領の大半はイスラーム勢力の支配下(Under Muslim Rule)に置かれた。(出典: Wikipedia)
ロヘイア(Loheia in Yemen): 「イエメンの港ロヘイア(Loheia in Yemen) の直ぐ下には牛、羊および駱駝を遊牧や放牧する平和な人々の住む地方が在る」とカルステン ニーブール(Carsten Nieburhr)がその著書「アラビアとその周辺の旅行記(Travels through Arabia and Other Countries in the East)」で紹介している。
ロポ ソアレス デ アルベアガリア(Lopo Soares de Albergaria): ポルトガルの第2代インド総督アルフォンソ ダルボケルク(Alfonso d'Alboquerque)の後継者として1515年4月7日にロポ ソアレス デ アルベアガリア (Lopo Soares de Albergaria)がインド総督に就任し、リスボン(Lisbon)を1,500名の兵士を乗せた15艘の船から成る小艦隊と共に出航した。紅海でマムルーク朝スルタンのエジプト艦隊に対する遠征を指揮する事になったソアレス総督は長く複雑な準備の後、1517年2月8日にゴアを37艘とも47艘とも云われる様々な型式の船と1,200人のポルトガル人兵士、800人の補助軍隊およびマラバル海岸(Malabar)からの800人の船乗りと共に出航した。1517年4月13日にソアレス総督麾下のポルトガル艦隊が水平線に現れた時にはマムルーク朝スルタンのエジプト艦隊ライス スライマン提督(Rais Sulayman)はジッダの総指揮を握っていた。ソアレス総督は「この港への出入りは珊瑚礁で遮蔽された狭い水路を通り抜ける必要があり、それに要する時間に自分達の船を戦略的な砲の台座から無気味に奮い立つ相当な力の砲火に対して非常な危険に晒してしまう」とジェッダ港への攻撃を分析した。その上、射程へ近づく船に対する警告の一斉射撃とスライマン提督の軍隊が岸に沿って見事な行進をする様子がソアレス総督に最悪の恐れを確信させた。2日間の「どんな犠牲を払っても上陸を試みたい」と願う艦長達との決定の無い、熱を帯びた議論の後に、ソアレス総督は帯同してきた国王の指示書を見せながら皆を鎮めた。その指示書には「攻撃はメッカ(Mecca)や利が少なく、危険の多いこの市ジェッダ(Jiddah)よりもむしろエジプト艦隊を目がけるべきである」と記されていた。狡猾なスライマン提督が座礁させていたので敵艦隊を攻撃できないまま、ソアレス総督は1517年4月16日にジッダ海域を出航してカラマン(Karaman)へと航行した。ソアレス総督はカラマンでマムルーク朝(Mamluk)の要塞を撤去した。しかしながら、この荒涼と島の悲惨な宿泊の中でプレスター ジョン(the Prester John)への大使の指名を受けたドン ドゥアーテ ガルバン(Dom Duarte Galvão)を含む多くのポルトガル人達が病気と飢えに倒れ、一方でその中の17名が捕虜としてジッダに連れ去られた。アデン(Aden)への攻撃が失敗した時にマムルーク朝(Mamluk)の艦隊に水や食糧を供給して居たので、ソアレス総督が略奪し、火をかけたアフリカ海岸のゼリラ(Zelia)を迂回した後で、ソアレスはこの市(アデン)へと横断した。そこでは、驚いた事に、ソアレス総督はもはや歓迎されなかった。熱心に働くアデンの住人は事実、要塞を修復し、アデン(Aden)の首長アミール モールガン ザフェリ(Amir Morgan az-Zaferi)はもはや服従する気持ちは無かった。ソアレス総督はこの弱った乗組員で攻撃するのは得策では無いと考え、そこを立ち去った。それからソアレス総督は麾下の船にソマリア北部のアデン(Aden)湾の港町ベルベラ(Berbera)に向かう様に指示した。ソアレス総督はゼリラ(Zelia)で行った様に、この海港(ベルベラ)を侵略し、焼け払おうと考えていたが、突然の嵐がソアレス総督の艦隊をバラバラにし、数百人が難破して死亡した。1517年7月にシルヴェス(Slives)の僧正で、ポルトガル国王ドン マニュエル(Dom Manuel or Manuel I, 1469-1521)の業績を記録した歴史家ジェロニモ オソリオ(Gerónimo Osório, 1506 - 1580)が出版した「王の人生と偉業(Da Vida e Feitos de el-Rey)」の文の中に「... 総督ロポ ソアレス デ アルベルガリア(Lopo Soares de Albergaria)はホルムズ(Hormuz)に帰ってきた。総督ソアレスはアデン(Aden)にポルトガルの要塞を築くのに失敗し、スルタンの艦隊を焼き払うのにも失敗し、ジッダでの戦いに失敗し、アビシニア皇帝(tEmperor of Abyssinians)の大使を安全な場所に上陸させるのにも失敗し、命令された任務を一つも達成出来なかった。その上、総督ソアレスは半分壊滅した艦隊とその乗組員達を連れ帰り、上陸した。乗組員達は海上の戦いで敵の残虐さと殆ど死の間際から逃れて来ており、飢え、渇き、悲惨で打ちのめされていた」と記述されている。
ローレンス(T.E. Lawrence):Thomas Edward Lawrence(1888 - 1935)、英国の考古学者・軍人・作家、「The Seven Pillars of Wisdom (1926)」。1914-1916年、オスマントルコ帝国(Ottoman Empire, 1299 - 1923)の支配に対するアラブ人の反乱を英国工作員として支援し、アラビアのローレンスと呼ばれた。
ローレンスのハラト アッマール攻撃(Lawrence’s attack in Halat Ammar): 1917年9月18日、ヨルダン(Jordan)国境のハラト アッマール(Halat Ammar)地区でローレンス(T.E. Lawrence)が二重連のドイツ製機関車に牽引されたトルコの列車を脱線させた。その列車には9車両に分乗した槍兵とオーストラリア人の砲術指南および家族と共に帰郷する将校達が乗って居た。その鉄道が止められた場所には今でも機関車一両とベルギー製の客車が残されている。この残骸はローレンスがその著作に述べている様には排水渠に近くには無い。ハラト アッマール地区(Halat Ammar Zone)での攻撃は主に今ではヨルダン領のムドワラ(Mudowara)等もっと北で行われた。西暦1917年、トルコは損傷し横倒しに成った台座を回収修理したいと望んでいた。恐らくは壊れた機関車はハラト アッマール駅(Halat Ammar Railway Station)の南300mに1919年から1924年まで放置されて居た。その期間にはこの領有問題で揉めて居た地域には無政府状態が続き、鉄道管理者はムドワラ(Mudowara)から南については法や秩序を強化する政治的権威を持って居なかった。
ロレンソ ブリト(Lourenço Brito): 1507年頃のカナノア(Cananore)のポルトガル要塞司令官。
ワクフ(Waqf): ワクフ(Waqf)は宗教的信託基金での非営利団体であり、経理帳簿上で収入と支出が釣り合う様にその活動が行われた。
ワダイ(Wadai): アフリカ北東部でイスラム教国の元独立国で現在はチャド共和国(Republic of Chad)東部。
ワッハビ(Wahhabis): シャイク ムハッマド イブン ’アブド アルーワッハブ(Shaykh Muhammad ibn 'Abd al-Wahhab)が広めた新しい運動で、この運動の信奉者は創設者を鑑みてワッハビ (Wahhabis)と呼ばれているが、信奉者達自身は自分達を単にムスリム(Muslims)と呼んで居り、もう一つの呼び名は唯一神信仰者を意味するムワッヒドン(Muwahhidun)である。改革運動の基本的な要旨は初期イスラムの根本である厳格さへの復帰、宗教的な革新の拒否、解釈の限定であった。ムスリム(Muslims)達はイスラム法の四つ正統な学校の最も保守的な九世紀の創始者であるイブン ハンバル(Ibn Hanbal)の教えを信奉した。ムスリム(Muslims)達は西暦1262 - 1328年のシリアン ハンバリ イブン タイミイヤー(Syrian Hanbali ibn Taymiyyah)の行跡を通してイブン ハンバル(Ibn Hanbal)の教え近づこうとした。シリアン ハンバリ イブン タイミイヤー(Syrian Hanbali ibn Taymiyyah)はクール’アン(Qur'an)、スンナ(Sunna)或いは予言者の言い伝えに迷う事無く拘泥し、聖者崇拝、聖堂崇拝およびその他の革新を非難した。改革の中心教義は単一神信仰或いは神の単一性を意味するタウヒド(tawhid)であり、従って自分達をムワッヒドン(muwahhidun)と呼んだ。神と較べ、近づき又は提携出来る物は無い。従って聖人のとりなし又は予言者の手引きを通しての神を崇拝しようとするのは多神教同様に異端であり、死に値する。これがムスリム(Muslims)達の聖堂や墓の破壊への厳格な熱情である
ワディ’アー(Al Wadi'ah): 土埃の沙漠とサブカ(salt flat)の中を通ってシャロウラー(Sharourah)から真南へとアル ワディ’アー(Al Wadi'ah)を目指す。アル ワディ’アー(Al Wadi'ah)からシャロウラー(Sharourah)方面には長い舌の様な形で土埃の沙漠がサブハを伴って北へと突き出している。この突き出しは砂に覆われては居ない。ベドウインの天幕が道路に沿って西側に並び東側には小さな砂丘列が道路と直角方向に並んでいる。シャロウラーから51 kmでアル ワディ’アーの入り口のアーチに着く。この辺りはサウジアラビア建国前にはイエメン領であり、乳香の道(the frankincense trail)を通る隊商がルブアルハリ沙漠を越える前に水を補給した最後の場所であった。そもそもアル ワディ’アー(Al Wadi'ah)は貯蔵を意味しており、昔から遊牧するベドウインの基地なのだろう。幾つかのワディもここに集まって来て居りこの地域の水場に成って居り村の入り口近くには4つの給水ノズルと高架水槽が設けられている。アル ワディ’アー(Al Wadi'ah)はイエメン領から近くサウディ アラビア領空白地帯の最南端に当たる。1948年1月6日、セシジャー(Wilfred Thesiger)はマンワク(Manwakh)から6人の現地人同行者と共に二度目の空白地帯沙漠横断に出発している。その出発前に、セシジャーはマンワク(Manwakh)の西にあるアブル(Al Abr)と云う井戸を訪れている。このアブル(Al Abr)が位置的に現在のワディア(Al Wadi'ah)である。
ワード(Mr. Philip Ward): アンジェロ ペセ博士のアシスタント。
ワハバ火口(Wahba Crater): アラビア半島の代表的な壮観な景観の一つとしてワハバ噴火口(Wahba Crater or Maqla Tamia)が挙げられる。この噴火口はタイフ(Taif)の254km北東の多くの火口丘を持つキシャブ熔岩地帯(Harrat Kishb)の西端にあり、中心が白い直径3Kmの火口が黒い熔岩流の固まった大地に深く落ち込んでいる。火口壁の高さは213m(700feet)もあり、タールマック(Tarmac)の簡易舗装道路が火口まで付けられる前には火口の縁に何の標識も無い為、夕闇の様な暗い中で近ずくと、非常に危険であった。「この火口が隕石衝突(Meteorite Impact)で作られた」との説もあるが、私が調査した限りでは「間違いなく火山活動で出来た火口丘の一部である」と思っている。「玄武岩を含む溶解したマグマ(Molten Basaltic Magma)が地下水(Subterranean Water)と接触し、地下水蒸気爆発(Underground Phreatic Eruption)を起こし形成された」と言う学者もいる。北側の火口壁の上の方に泡立ちながら湧き出す、鉱泉があり、その下の棚状に成った平地の池に流れ込んでいる。その池の周りにはナツメヤシ(Date Palm)が林となり、緑の草が厚く茂って、魅力的な景観を作っている。池の泥の中には蛙(Water Frog)や青い蛭(Green Leech)が生息している。空に鳴き声が響かせているヒヨドリ(Bulbul)で、太陽鳥(Sunbird)はこの火口の近くのアカシア(Acacia)の林に小さな巣を作り住んでいるので時々、その姿を見ることも出来る。火口湖には水は無く、白い火山性の結晶(White Sodium Phosphate Crystal)で覆われている。火口の底までナツメ椰子の林の中を伝って、登り降りする事も出来るが、飲料水、日差し避け、脚周り等万全の準備が必要である。特に、熱い夏場が注意しなくてはならない。又、11Kmある火口の縁を巡る歩くことも出来る。この火口で一晩夕暮れや夜明けの素晴らしい景観を眺める為に、泊まる事も出来る。火口を見おろせる岩棚には野営(Camping Site)に適した場所も多い。火口の周囲では火山活動で出来た光らない黒曜石(Obsidian)と半宝石の橄欖石(Peridot)を見つける事も出来る。火口の北と東の沙漠の中には表面の細波が今でもハッキリと識別できる古い熔岩の流れと熔岩が冷えて流れの止まった先端を見る事が出来る。この熔岩は比較的新しく、紀元後1256年にメディナ(Medina)の近くで爆発のあった火山活動と同時期の物と思われる。この火口から20Km北北東へ進むと3Km長さの湖があり、その周囲は不毛の地とはとても思えない様にアカシアの林と緑の潅木に覆われている。その静かな湖の泥水の中には小さな兜海老(Triops)が生息している。
ワバール窪地(Warbar Crater): 1932年にイギリス人探検家フィルビィ(Harry St. John Philby)が伝説の失われた都市ウバール(Ubar)の探索中に偶然、隕石衝突窪地(Meteorite Crater)であるワバール窪地(Warbar Crater)を発見した。(21º 30.153'N , 50º 28.445'E)(フィルビィはウバール(Ubar)をワバール(Wabar)と云う名に誤訳していた。)フィルビィは一ヶ月に及び過酷な沙漠を旅して500m四方に砂岩と黒いガラス質と鉄ニッケル隕石の破片が散らばり、二つの大きな砂に埋もれた円い窪地があるのを見つけた。フィルビィが持ち帰ったサンプルからワバール窪地(Warbar Crater)が隕石衝突窪地(Meteorite Crater)である事が判明した。1994年にオフロード運搬会社ザヒド トラックター(Zahid Tractor Corporation)が夏の空白地帯沙漠横断を行い、米国地質調査科学者ジェフレー ウィン(Jeffrey C. Wynn)が招かれて同行した。ザヒド トラックターは1994年と1995年に都合三回の横断を行った。1994年5月気温61℃に及ぶ中、途方も無く大きな砂丘の間にワバール窪地(Warbar Crater)を見つける事が出来た。この範囲は500m x 1000mの範囲に及び、フィルビィが発見した直径116mと64mの二つの穴に加えて、直径11mの第三番目の穴が見つかった。地表は一部、隕石衝突の衝撃で出来たガラス上の岩片(impactite)、漂白された白いきめの荒い石灰質の砂岩で部分的に構成され、黒いガラススラッグ(balck glass slag)とペレット(pellet)が散乱している。現場には隕石の破片のコブシ大の鉄が散らばっている。その中で一番大きなものは駱駝の瘤とあだ名され、1965年に発見された重さ2.2トンの鉄の塊である。 この塊は現在、リヤドのサウド大学(King Saud University in Riyadh)に展示されている。この隕石の衝突速度は4万から6万km/hで総重量は3.5千トンと推定されている。隕石の衝突は260年以内の出来事であり、1863年から1981年に掛けてリヤドで目撃された火の玉の一つであり、「1863年リヤド(Riyadh)上空を通過しワバール地点に向かった巨大な流星ではないか)と云われている。(Wikipediaから抄訳)
ワーブ イブン ムナッビー(Wahb ibn Munabbih): ペリシャ出身のイエメンの歴史家である(西暦634年 - 西暦732年)。ムナッビーはシュアイバー港(Port Shuaybah)について「船は嵐でシュアイバーへと押し流された。そこはヒジャーズの避難所でメッカの港であり、ジュッダへ来る船の投錨地である」と述べている。
ワリ(Wály): 統治者(Governnor)。