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2005月10月21日

花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)への訪問

(サウジアラビア王国南西地方)

その3空白地帯(the Empty Quarter)

に至る内陸地域

 

20051021

修正 201324

高橋 俊二



 

 

前書き

紹介

内陸地域訪問

1. 道路に沿っての調査

1.1 沙漠緑化の予備調査でのハマーシーンからの一周

1.2 熔岩地帯に挟まれた農村トゥルバ

1.3 長く延びた農地フルマから涸れ谷ランヤへ

1.4 白と赤の沙漠に花崗岩の尖塔

1.5 ナツメ椰子の谷と緑のビーシャ

1.6 長い登りの涸れ谷ヒルジャーブの村々

1.7 涸れ谷ジャジーラの峠とナツメの森の丁字路

1.8 ナツメ椰子の帯タスリース

1.9 赤い沙漠と楯状地の砂岩

2. 乳香の道を探っての沙漠横断

2.1 沙漠横断の動機と準備

2.2 沙漠へのアプローチ

2.3 沙漠への出発

2.4 カハル山(制圧山稜)の障壁

2.5 安易を求め深みに填る

2.6 軟砂地でのスタック

2.7 ムジャーヒディーン警官の先導で沙漠脱出

2.8 交通標識の有難味

後書き

 

ヒジャーズ南部

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アシール地方

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前書き

 

アシール山脈(ASir)の山稜であるサラート(Al Sarat)の山々から東の空白地帯沙漠(ルブア・ハーリー沙漠(Ar Rub' Al-Khali))に向けて大地に多くの筋を刻む涸れ谷群の流域がアシール内陸地域である。この涸れ谷群には涸れ谷ランヤ(Wadi Ranyah)、涸れ谷ビーシャ(Wadi Bishah)、涸れ谷タスリース(Wadi Tathlith)、涸れ谷ハブーナ(Wadi Habounah)および涸れ谷ナジュラーン(Wadi Najran)等が含まれている。この地域はアラビア楯状地(Arabian Shield)の南部分でもあり、花崗岩の隆起や古生代以前の砂岩の山々が連なり、空白地帯沙漠と共にサウジアラビア(Saudi Arabia)の中でも最も降雨量の少なく、山々の間を通る涸れ谷は乾燥し、殆ど厚く砂に被われている。この為に人の営みは希薄であり、話題に上がる事も余り無く、普段は忘れられている。

 

私がこの内陸地域を訪れたのは緑化事業の予備調査の為に19974月に涸れ谷ダワースィル(Wadi ad Dawasir)のハマーシーン(Khamasin)からナジュラーン(Najran)、ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)およびタスリース(Tathlith)を経て一周したのが初めであった。これだけ広大な地域に市らしい市としては僅かにビーシャ(Bishah)とタスリースしか無い。私自身もその後も更に西南のアブハー(Abha)やナジュラーン方面に何度も訪れているが、この地域ではビーシャとタスリースにそれぞれ一泊しただけであった。

 

20011220日にサウジ東北部のウラー渓谷(Al Ula)で岩壁画の素晴らしい群像に出会ったのを契機に岩壁画(Petroglyph or Rock Art)や碑文に私は興味を持ち始めた。その後、JICA(国際協力機構)がサウジ考古博物学庁(Deputy Ministry of Antiquities and Museums)と日サ考古学共同研究事業をしている事を知り、20022月にナジュラーン博物館に滞在してビイル・ヒマー(Bir Hima)の碑文調査をしているチームを訪れる機会を得た。その時に「アラビアには東西を結ぶシルクロードとは別に南北を結ぶ乳香(Frankincense)や没薬(Myrrh)を運ぶ道がある。この道は乳香の道と呼ばれて居り、イエメン(Yemen)のハドラマウト(Hadhramaut)からシバーム(Shibam)、ナジュラーンを通り、ビーシャやトゥルバ(Turubah)を抜け、マディーナ(Al Madinah)経由で地中海へと続いている。又、ビイル・ヒマーやタスリースではこの道から東海岸のジャルハー(Gerrha)へ向かう交易路と別れている」との話を聞き、これらの道を一度は辿ってみたいとは思った。その事から私はこの地域にも興味を持てる様に成った。

 

残念ながらこの地域に関するまとまった文献は無く、インターネットで調べても余り具体的な資料は手には入らなかった。それでもサウジで100万年以上も前の最古の手斧文化がアフリカから伝わって来た場所であり、近代には英国人フィルビィ(Harry St. John Philby)がタスリース上流域の岩壁画、碑文を発見する偉業を成した事や現在では鉱山資源開発が期待されている等が分かって来た。

 

紹介

 

前述の様にこの内陸地域は空白地帯沙漠と共にサウジアラビアでも最も降雨量の少ない地方ではあるが、それでも広く長い流域を持つ涸れ谷に位置して居るビーシャやタスリースは水が豊かで肥沃な土壌に恵まれたオアシスであり、それぞれの県の人口は13万人と10万人を多少上回っている。住人はビーシャ方面が主としてシャフラーン族(Shahran)でタスリース方面がカフターン族(Qahtan)である。ビーシャとタスリース以外の町村としてはビーシャからハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)への街道に沿った涸れ谷ヒルジャーブ(Wadi Hirjab)の中の部落やハイバル・ジャヌーブ(Khaybar Al-Janoub)およびハミース・ムシャイトからリヤード(Riyadh)への街道沿いに在るタリーブ(Tarib)、マッダ(Al-Maddah)やスバイハ(Al Subaykhah)等くらいしか見られない。その他、沙漠の中には遊牧や放牧の水場となる集落が点在し、ビーシャにはサウジアラビア最大のビーシャ・ダムもある。最近は探鉱活動も積極的に行われて居り、タスリースではその西20kmの場所でラキース(Laqeeth)と名付けられた貴金属鉱山が2003年に発見されている。

 

涸れ谷タスリース東岸のカハル山(Jibal Alqahr)の南にはシュワイヒティーヤ(Shuwayhitiyah)およびナジュラーンと並んで100万年以上も前の飛び抜けて古い旧石器時代の遺跡がある。他の二ヶ所がホモ・ハビリス (Homo habilis) と知られた旧人類が発展させた後期オルドワン文化(Developed Oldowan types)に属しているのとは異なり、この第三の遺跡は150万年少し前に現れたホモ・エレクトス(Homo erectus)と呼ばれる体型も大きく知能も発達した人類が発展させ、15万年前迄続いたアシュール文化(Acheulean)に属している。これらの遺跡が発見された地層の年代は164万年前に始まった更新世(Pleistocene)であり、ヨーロッパや北アメリカの北部が巨大な氷河に覆われたので氷河時代(Glacials)とも呼ばれている。この時代でもアラビア半島氷河に覆われる事は無く、氷河期には涼しく乾燥し、温暖な間氷河期には気候は温暖で湿気があり、涸れ谷構造の発達したこの地域の様な場所では川が流れて住み易い環境を作り出し人間の営みが活気付いたに違いない。

 

涸れ谷タスリースには旧石器から新石器時代の幾つかの遺跡に加えて、紀元前3,000年期以降の南アラビア文明を代表する遺跡、古代鉱山、岩壁画、碑文等がある。この時代にオアシス農業が始まり、2000年期を通じて確立した。これと並行して家畜化した駱駝の大規模な利用で長い距離の陸上交易が可能に成った。タヌーマ(Tanumah)とナマース(An Namas)の中間東約30km付近にある涸れ谷’イヤー(Wadi 'Iya)はビーシャ県でも最も古代遺跡の豊富な場所の一つである。今でも谷に沿って幾つかの村があり、家、砦、監視塔、モスク、墓に加えて幾つかの古い遺跡がある。監視塔や砦は様々な大きさの石で築かれ、屋根はアカシヤやナツメ椰子の丸太で作られ泥と麦藁で塗られ、幾つかの階があり、巧みな設計と円熟した技巧で作られている。

 

イスラーム以前のアシールには独立した部族はたくさん存在して居り、強い部族はその勢力範囲を越えて他の地域や場所を襲った。外部に対してはマッカからイエメンへ交易するクライシュ(Quraysh)族の隊商へ様々な税を課せる程に他の部族から畏敬の念を払われて居た。632年(ヒジュラ暦10年)に預言者はスラド・イブン・アブドゥッラー・アザディ-(Surad Ibn Abd Allah Al-Azadi)にイスラームの教義を広め、多神教徒と戦う様に促した。スラドはアシールの首都ミフラーフ・ジャラシュ(Mikhlaf Jarash)を目指した。激しい戦いの後、ジャラシュ(Jarash)地区を支配下に収め、そこの初代のムスリム(Muslim)統治者と成った。この様にしてイスラームが到来すると人々は厳格な宗教を取り入れ、イスラーム国家の旗に集結した。

 

その後、アシールは初代正統カリフ(Caliph)(アブー・バクル・スィッディーク(Abu Bakr Al-Siddiq))、ウマイヤ朝(Umayyad)、アッバース朝(Abbasids)、トゥールーン朝(Tulunid)、再びアッバース朝、イフシード朝(Ikhsids)、ファーティマ朝(Fatimids)の支配を受けた。12世紀にはカルマティア(Qarmatians)市民闘争がアラビア半島に勃興し、半島の相当部分を支配した。しかしながらアシールの人々は抵抗し、ビーシャでの凄まじい戦いの後、カルマティアを撃退した。1156年にアシールとその首長スライマーン・ムーサー(Sulayman Ibn Musa)はグーズ族(Ghuzz Tribe)の攻撃に直面し防戦した。アシールは1171年から1229年の間アイユーブ朝(Ayyubids)に支配された。その後は無政府状態と成り、多くの首長や部族長の支配が1517年(ヒジュラ暦923年)にマムルーク朝(Mamluks)が権力を掌握するまで続いた。

 

十六世紀からのオスマン帝国(Ottoman Empire)の統治下では信仰心の無さとイスラーム・シャリーア(Shariah)法の無視が一般化した為に力と権威を争う多くの競合する支配者が跋扈し、政治的分裂、混乱そして無秩序が広がり、部族は互いに敵対し、争いが絶えなかった。十九世紀のアシールはこの様な多くの首長(シェイフ(Sheikh))や君主(Prince)に分断支配され、シュクバーン(Salim ibn Al Shukban)がビーシャを支配していた。シュクバーンはタバブ(Tabab)のムタミ(al-Muhtami)と共にヒジュラ暦1215年(西暦1800/1801年)にディルイーヤ(Dir'iyah)を訪問してイスラームへの復帰の呼びかけへの支持を宣言し、それに抵抗する者への戦いの意志を表明した。二人はアシールに戻り、この呼びかけの普及に力を注ぎ、この首長国の勢力を広げた。

 

イブン・ムハンマド(Hamud ibn Muhammad)がティハーマ(Tihama)におけるディルイーヤの権威とイブン・サウード(Abdul-Aziz Ibn Abdul Rahman Al Saud)への臣従から独立して対抗するとイブン・サウードのアシール首長イブン・アミール('Abd al-Wahhab ibn 'Amir)はイブン・ムハンマドを服従させる為、ヒジュラ暦1225年(西暦1810/1811年)にワーディー・ビーシャ(Wadi Bisha)で戦い、勝利した。しかしながら、この戦いでイブン・アミール自身が殺された。この機に乗じてイブン・ウマル(Shareef Hamud ibn 'Umar)はヒジュラ暦1230年(西暦1814/1815年)以降、南のズバイド(Zubayd)からサラート山脈北までをティハーマの王として統治した。

 

ムハンマド・イドリーシー(Muhammad Ibn Ali Al-Idrisi)1818年(ヒジュラ1234年)にトルコに対して新たな戦役を始め、ミフラーフ・スライマーニー(Mikhlaf al-Sulaymani)地方のジーザーン(Jizan)の東にあるアブー・アリーシュ(Abu Arish)市で戦い、トルコ勢を敗北させた。その後もイドリーシーは勢力を広げ、1911年(ヒジュラ暦1329年)にオスマン帝国からの独立を宣言した。その死後、その親族同士の争いとなり、息子のアリー(Ali)はイブン・サウード王の総督と交渉し、その結果1930年にティハーマはサウジ領の一部と成った。

 

アシールはマトハミー(Al Mathami)出身の首長に1817年(ヒジュラ暦1233年)まで支配されて居た。その後でエジプト軍を率いたイブン・アウン(Al Sharif Muhammad Ibn Awn)がアシールを制圧してムハンマド・アリー・パシャ(Muhammad Ali Pasha)とマッカ首長の統治下に編入した。1822年(ヒジュラ暦1238年)にアシールの首長の一人であるサウド・イブン・ムサッラト(Said ibn Musallat Al-Mughaidi)がタバブ谷(Tabab valley)にあったイブン・アウンの砦まで行進し、その指導者を追放して自分の政府の独立を宣言した。その結果、バニー・ムガイド(Bani Mughaid)族が一世紀近くアシールを統治し北はバスルハマル族(Baslhamar)の区域から南はズバイド、西はカムハ(al-Qamhah)海岸、東はタスリースまでこの首長国の領域を広げた。

 

イスラームを支持し、献身した事で知られるアリー・イブン・ムジャースィル(Ali Ibn Mujathil Al-Mughidi)はこの部族の一番著名な人物の一人である。その死後、ムガイディー(Al Meri Al-Mughaidi)出身の他の首長達がオスマン帝国の名でアシールを統治した。アシールは1917年までオスマン帝国の県であった。それからアブハー首長のイブン・アイド(Hasan Ali Ibn Aid)よって支配された。同年1919年、イブン・サウード王はアシールに軍隊を送って制圧した。しかしイブン・アイドが再び反乱したのでファイサル(Faisal Ibn Abdul-Aziz Al Saud)王子がアブハーへと軍を率いて侵攻し、陥落させ、その時以降、アシールはサウジ領の一部と成った。

 

この地域に最初に訪れた西洋人はアラビアの研究、探検、地図作製、記述を45年間も行い、故イブン・サウード国王顧問を務めた英国人のフィルビィであった。イブン・サウードは1934年にイエメン首長(Imam of Yemen)と戦い、併呑した地域の国境確定の為にこの地方の地図を必要としていた。フィルビィはアシールおよびナジュラーンを探訪する為に喜んでこの地図作りを引き受けた。フィルビィは1935年に英国王立地理学会誌に掲載されたスターク女史(Freya Stark)のハドラマウト訪問記事を読み、コックス卿(Sir Percy Cox)が「ハドラマウトからナジュラーンまでの乳香の道の長さはアラビア半島のほんの一部でしか無いが全く探検されて居ない」とコメントしているのを知り、密かに地図作りとは関係無いナジュラーンからシャブワ(Shabwa)地方への旅を決意していた。地図作りを名目としたこの探検はフィルビィのアラビア旅行の中でも時間、距離或いは何万フィートという登坂の何れにおいても最も厳しく長い旅となった。

フィルビィは自らがルブア・ハーリー(Rub’ al Khali)の旅から戻ったこの内陸地方を通るルートでアシールへと向かった。ターイフの東120kmにあるトゥルバからは運転が忌まわしく成る程悪路の涸れ谷を通って南の荒涼としたビクーム熔岩地帯(Harrat al Buqum)を抜けてビーシャへと登り、ハミース・ムシャイト経由でアブハーに到着した。1936年当時には村々の集まりでしか無かったアブハーにはサウジの砦があり、ただ一人の医師である印度人も居た。その医者はフィルビィに岩壁画を見せ、ナジュラーンの北の軟らかいピンク色の岩にもっとたくさんある事を告げた。フィルビィはタスリース涸れ谷の上流地域の砂と山稜の迷路の地図を作り、印度人医師が述べた幾つかの岩壁画の描かれた砂岩の露頭を発見する為に北へと大回りをしてナジュラーンに向かった。

 

間違いなく印度人医師が述べた場所には多くの碑文と古代人の芸術のギャラリーがあった。フィルビィにはこれらがイスラーム以前の物である事は分かったがその碑文を読めず、A.F.L. ビーストン(A.F.L. Beeston)やリクマンス卿(Monseigneur Gonsague Ryckmans)に自分の粗雑な写しを見せるまでアラビアの歴史上の重要な発見に出会った事すら知らなかった。それよりもこの不毛の沙漠タスリース北部の後に訪れた緑の豊かなナジュラーンを天国の様に感じていた。

 

内陸地域訪問

 

1. 道路に沿っての調査

 

1.1 沙漠緑化の予備調査でのハマーシーンからの一周

 

199741819日と沙漠緑化の予備調査の為、涸れ谷ダワースィルのハマーシーンからこの地域を一周した。その2日目にナジュラーンからハミース・ムシャイトを訪れた。私に取ってハミース・ムシャイト訪問は二度目であったのでそれ程疲れて居なかった。しかしながら同行の研究者2人はカフジ(Al Khafji)からカルジ(Al Kharj)までの長距離ドライブした翌日にハマーシーンを経てナジュラーンまで空白地帯の西の端を調査し一泊した後、更にナジュラーンからサラートの山稜を抜けて来たのでかなり消耗していた。ハミース・ムシャイトに着いたのは正午を大分過ぎていた。

 

市中を流れる涸れ谷ビーシャの河川敷では河原の中に井戸が掘ってあり、水をポンプで汲み上げ灌漑して農耕作業をしている。河原に成った涸れ谷の周りには伝統的なアシール風の建物が並ぶ。この辺りは石作りの建物が圧倒的に多い。この日は晴れ後曇り一時雨で風が強くなり天気は荒れ模様であった。雨が降って来て、黒い雲の下へ入って行くので目的地迄着けるか心配である。かなり激しい雨ではあるが時々太陽がのぞく。黒い岩山の中に涸れ谷が点在し、涸れ谷の至る所が農地として盛土して囲んであり、平な河原ではコンクリートで囲んである場所もあった。

 

ハミース・ムシャイトから一時間程でリガワ(Righawah)(ビーシャへ分岐)を通過し、タニーブ(Tanib)の立体交差を過ぎる。タリーブの東に大きな山が現れてきた午後2時頃には雨が止み、平な涸れ谷に入って来た。メガル(Megal)には産業が無さそうなのに人が住んでいる。その先でマッダを通過した。午後3時には山と平地に囲まれた場所に出た。沖積盆地に広がる農村のスバイハだと思われる。そこは雨降りで一時的な池に成って居り、周囲の木は褪せてはいるが緑が生き返った様子である。この辺りでは駱駝は少なく山羊、驢馬が飼われ、山の中では涸れ谷に井戸を掘り、水を確保して暮らしている。農地らしい農地は殆ど見掛けない。岩山にへばりつく様な植生もある。その少し先でタスリースの入り口の立体交差を抜けると平地が広がり、白い砂漠になる。涸れ谷ダワースィルの手前200 km付近から沢筋は見られなくなり、植生も殆ど無く、遠くに山が見えて来た。

 

午後4時過ぎにアシール州とリヤード州の州境を越える。ワーディー・ダワースィルの手前35 km辺りから道の両側に円形農場が出てくる。牧草農場で駱駝に牧草を食べさせている。強力な農業用昇降機を備えた牧草小屋も見える。ハマーシーンの市の周囲にも円形農場はまだまだ続く。市中心の給水塔が見えてくると今夜の宿舎(Al-Khamasin Hotel)は近い。この宿は値段が高くは無いが多少不潔感があるのが難点だ。夜半過ぎに風が強く砂が強く吹き付ける。すごい風であり、空調を止めると風の音が一層強く聞こえる。

 

1.2 熔岩地帯に挟まれた農村トゥルバ

 

20001228日は薄曇り後晴、午後一時風の天気であった。標高 2,100mのバーハ(Al-Bahah)を午前7時に出発した。3時間程で211 km離れた標高 1,080mのトゥルバを通過した。その12km南西では道路の北西側に小山が沙漠から隆起しており、その奥のほうに連続したビクーム熔岩地帯の山影が見える。前述の様に「運転が忌まわしく成る程の荒涼とした熔岩地帯涸れ谷の悪路」とフィルビィが記述したのはこの辺りか。フィルビィはトゥルバから涸れ谷バイダー(Wadi Baydah)方面に遡行し、ビクーム熔岩地帯をジャラブ(Jarab)経由でビーシャに抜けたと思われる。

 

我々は反対に涸れ谷スバイウ(Wadi Subay)(涸れ谷トゥルバ・涸れ谷フルマ・涸れ谷スバイウ)を下って行った。道路の南東側は平らな沙漠に成っている。トゥルバは大きな農地を持つ大きな市ではあるが市場も小さく、大きな建物も無い。パン屋を見つけて車を止める。隣が食堂なので、羊の臓物のスーダン風カレーとフール(ひよこ豆の煮物)を注文し、焼たてのホブズ(Khubz)で朝食を取る。午前1025分、出発。北西側はハダン熔岩地帯(Harrat Hadan)の黒い礫に覆われているが、南東は涸れ谷スバイウの中、ナツメヤシ畑を主とした農地がフルマ(Al-Khurmah)方面に向けて続いている。

 

この時は熔岩地帯に居ると云う認識は無かったがトゥルバから北東20km付近で黒い礫があまりにも溶岩か噴出岩の様に見えるので確認する。やはり噴石と溶岩であるが基盤は片麻岩である。この火山性の岩石が西側のハダン熔岩帯のものか、東側のナワースィフ熔岩帯(Harrat Nawasif)のものかは分からない。涸れ谷スバイウの中に延びるナツメヤシを中心とした農地が二つの熔岩帯の集水能力と保水能力を物語っているように思える。ただ、火山性土壌の特徴とも言える芭蕉椰子(エダウチヤシ又はテベスドームヤシ(Dawn Palm or Hyphaene thebaica))は見当たらない。沙漠に生える灌木はタルフ(Talh)を小型化して枝が密集した様な特異な姿をして居り、葉の緑は濃く他では余り見無い種類である。

タルフの亜種

 

1.3 長く延びた農地フルマから涸れ谷ランヤへ

 

午前11時半頃バーハから308 km離れた標高 960 m のフルマに到着する。市は丁字路の交差点の南東にあり、道路から東に外れている。西は沙漠だが、東には農地が北北東から南南西に延び、住宅が広がっているだけで特に賑わいも無い単調な市だ。丁字路(標高 950 m)分岐を右に曲がると間もなく、幅を広げた涸れ谷スバイウを渡るが、この渡河点までは農地は延びていない。小さな礫が表面に転がる沙漠となるが南側の遠方にかすかに山影がみえる。背の低いタルフの疎林が続く。フルマの東30kmで一抱えもあるような石の転がる涸れ谷シャイーブ・ミアシャル・サラーブ(Sha'ib Mi'ashar Thallab)河原を通過する。道路脇の基盤岩は片麻岩である。フルマの南東72km、ランヤ(Ranyah)の北71km付近の涸れ谷スィルジュージュ(Wadi Sirjuj)(標高 900 km)で休憩する。ここは北側にも山があり、南側にも低い山がある。涸れ谷状の道路脇を南側に渡る。山の基盤の表面は多少の気泡が見られ、黒いが内部は青灰色で矩型に割れる特徴を持っている。安山岩が変成を受けて、矩型に割れる様になったと解釈したい。南は山。礫の転がる沙漠が続く。風が強く砂を流している。少し南に下ると道路の東に小山が数基、西は礫の転がる沙漠が続く。やがて道路の両側にゴロタの転がる場所を通過し、花崗岩の山地に入るが、道路脇は赤褐色の砂、基盤は片麻岩である。

 

   午後一時過ぎにフルマから143km南のランヤ(標高870m) に着く。花崗岩の山に遠く囲まれた平らな沙漠でナツメヤシの畑が目立ち、 沙塵を被ったモクマオウ(Casuarina)の防風林がサラートの山稜の森を旅して来たのに返って新鮮に感じる。街並みは街道筋のみ。トゥルバとランヤの間には11kmを越す熔岩の風穴があり、熱さ寒さを凌ぐベドウィンの避難所となっているのだそうだ。又、ランヤ付近の石切場から産出する淡いエメラルド・グリーンの御影石は「ソフトブルー」と言う商品名で日本でも販売されている。ランヤ周囲の沙漠の砂は白く、基盤は花崗岩である。ファールシー地図(Farsi Map)によればバーハの南の低くなった山稜の多くの涸れ谷を集めた涸れ谷ランヤがこの市を西から東へ抜け、涸れ谷ダワースィル方面へと流れる。

 

1.4 白と赤の沙漠に花崗岩の尖塔

 

ランヤの南17kmで直立した花崗岩の尖塔(Pinnacle)を見つけ撮影の為、路傍から東に少し入った花崗岩の岩山に登る。途中、鷲が羊の死骸を啄んで居るのに気が付かずに慌てさせる。飛び立つとさすがに大きい。この岩山は花崗岩ではあるが変成を受けているのか矩形に割れ目が入っており、直方体に分かれ、片麻岩と成っている。この岩山から沙漠をみると赤褐色が圧倒しているが一部白い沙漠であり、この様に赤褐色と白色が混ざっている沙漠は珍しい。

直立ピナクル-1

直立ピナクル-2

赤い沙漠と白い沙漠

 

東の方にかなり大きな砂丘が現れている。尖塔の裏側に回るとの麓が石切場になっているので尖塔も崩されてしまうのでは無いかと何となく気がかりではある。赤い沙漠にタルフが点々と生え、それを包むような曲線であっても屹立した黒い花崗岩の岩山と広い沙漠が対応し、絵のようであるが、写真ではそれを表せないのが残念だ。人間は頭の中で旨く調節して写真では平らにしか見えない山の高低を強調して全体の印象を作っているのだと私は思う。

 

午後2時頃ビーシャの北130km付近では西側の黒光りする花崗岩の山と東側の赤褐色をした砂丘の連なりにタルフの緑が加わり、美しい景観を作っている。この辺りの砂丘は基盤層の山を砂が覆って出来ている。その少し南の花崗岩の山地を通り抜けると再び片麻岩の山地となる。東側の岩山をたくさん飲み込んでいた砂丘の連なりが低くなり、西側の遠方に山影が並ぶ、山に遠く囲まれた赤い砂の沙漠になる。再び花崗岩の山地を通り抜けると同じく山に遠く囲まれた赤い砂の沙漠である。西側から花崗岩の山が一基近づく。ビーシャ北80km辺りで片麻岩の山地に入り、20km程で、再び礫の転がる遠く山に囲まれた沙漠となる。

 

1.5 ナツメ椰子の谷と緑のビーシャ(Bishah)

 

花崗岩の基盤が露出して来て花崗岩の山が連なった線上を通過するとビーシャ北30kmのマッカ州(Makkah Al Mukarramah)とアシール州の州境の検問所(Check-point)があり、その手前の山の反対側で休憩する。この辺りから白い沙漠となっている。ここを出発すると道路の東側には赤い砂岩の崖に挟まれた渓谷の中にナツメヤシの畑を主とした農地がビーシャまで長く続いている。崖は30m前後と高くは無いが渓谷の岩陰には家や小屋があり、のどかな風情を醸し出している。ファールシー地図では涸れ谷ビーシャが道路と平行して延びている。この地にこんなに大規模にナツメヤシが栽培されていたとはこれまで知らなかった。ビーシャの10km手前に円形農場が一基有るが動いていない。浅層水を使っているので浪水型の円形農業を営める程の量の水は湧いて無いのだろう。

ビーシャ北方の沙漠

ビーシャ北のマッカ州とアシール州の州境付近-1

ビーシャ北のマッカ州とアシール州の州境付近-2

 

午後4時前にバーハから624 km離れたビーシャ(標高 1,100 m)に到着した。トリカブトの意味も持つこの市の名からかっては勇猛な部族が居たのでは無いかと想像する。宿を探していると親切な地元のサウジ人が宿(Al-Zahrh Hotel)まで案内してくれる。この宿にはサウジ航空の乗務員が泊まるのだと言うがそれが本当には思えない程手入れされていない。まだ、ラマダーン(Ramadan)明けの休みイード・フィトル(Eid Al-Fitr)で殆ど店が開いていない。このため市の賑わいは分からなかった。

 

20001229日は晴れで時々強風が吹いた。午前650分に宿(Al-Zahrh Hotel)を出発し、ビーシャ空港の柵(Fence)に沿って南に向かう。ビーシャは予想していたよりも広がりの大きな市だ。この深層地下水(Ground Water)の無い、浅層地下水(Shallow Water)即ち涸れ谷の水だけでこれだけ大きな農村地帯が維持出来ているのは驚きであった。花崗岩の黒いダイナミックな隆起とナツメヤシの緑が調和して美しい景観を作り出している。涸れ谷ビーシャに水の流れがある時にはなお一層景観が引き立つだろう。ビーシャの南には予想外に農地は無く、片岩や花崗岩の山に囲まれたタルフの生える白い沙漠である。

 

1.6 長い登りの涸れ谷ヒルジャーブの村々

 

30 km程南に下ると東側は花崗岩の小さな岩山が並びその奥が片麻岩の丘の続く、山地へ入る。西側に南部州セメント工場(Southern Province Cement Factory)がある。道は緩く曲がりながら涸れ谷ヒルジャーブ(Wadi Hirjab)をなだらかに登って行く。花崗岩の岩山の帯を横切ったり、遠く山に囲まれた礫の転がる沙漠を横切ったりして行く。尖塔も幾つか目につくが昨日の景観に比べると山も低く沙漠も規模が小さく成っている。その分、逆に景観の変化が早い。花崗岩の岩山が天に向けて隆起し、それでいて丸みを帯びた陰影を作り出しているのが面白い。

 

午前7時半、ビーシャ南68 kmのフジュラ(Al Hujrah)(標高 1,330 m)を通過する。ナツメヤシを主として畑のある中規模な農村でこの農村から山地に入ってもナツメヤシが段々畑と成って100m 幅程度と成った涸れ谷ヒルジャーブに沿って続き、サッバ(Sabbah)、ホジョーン(Al-Hojoon)、コトマン(Kotman)等の部落を作っている。ビーシャ南76 kmのサマフ(Samakh)(標高 1,360 m)では表面が黒く、近づくと赤褐色の部分の多くそそり立つ花崗岩とナツメヤシの緑が調和し、絵画的農村風景を作り出している。この何となく箱庭的な風景はサウジアラビアらしくない。86 kmでは農村が途切れ涸れ谷カーアに沿って、花崗岩の岩山の帯を横切って、片麻岩の山地に入る。畑も家も無く、岩沙漠が続く。

 

1.7 涸れ谷ジャジーラの峠とナツメの森の丁字路

 

午前8時にビーシャから117 kmの峠(標高 1,560 m)を越える。わずかに降った所に小さな農家があり、その先から花崗岩の岩沙漠に入る。涸れ谷ジャジーラ(Wadi Jazirah) (標高 1,560 m)を越えたところの給油所の食堂でホブズを焼いているのを見つけ、焼きたてのホブズと紅茶だけの朝食をとる。建物等もアシール風になり、花崗岩の岩沙漠の中、最大限にナツメヤシを植えているが、手入れの悪さと立枯れが目立つ。また、人家も多いが人気が無く、生気の薄い感じがする。片麻岩も出ているが、ところどころ花崗岩の露岩の目立つ、大きな農村地帯になる。午前840分、ビーシャから151 kmの地点から道路を少し西へとハイバル・ジャヌーブ(標高 1,640 m)へのわき道を辿る。この町は環状道路には成っているが多少の商店がある程度で活気は無い。ところどころ花崗岩の露岩の目立つ岩沙漠で片麻岩も混じる。ナツメヤシの畑は続くが手入れが悪い。

 

午前9時前にビーシャから163km南に在るリガワ(Rigawah)の丁字路に出てくる。リヤードからハミース・ムシャイトの間道ではあるが立体交差に成っている。ここから西25kmに在るワーディー・イブン・ハシュバル(Wadi ibn Hashbal)で道は90度曲がって涸れ谷ビーシャの本流に沿ってハミース・ムシャイト方面へと南に下る。この曲がり角の少し西に東のマッダと同じ名の地名があり、私は一時期混乱していた。この丁字路を東に向かって花崗岩の山地に入るとナツメヤシの畑が点在する。ガウル(Gawl)の先の広くなった涸れ谷(標高 1,620 m)の砂利を引き詰めたような河原に降りて休憩する。シドル(SidrZiziphus spina-chrisri)の大木が林を作って森林公園と呼べそうな場所だ。風が無いので遠足気分になる。昨夜、ラマダーン(Ramadan Haj)が買って来てくれた手を付けなかった鶏の炭焼きを食べる。そこを出発して間も無く、何故か沙漠の中のタニーブでは道路が立体交差に成っている。ベドウィンが反対車線を走ってくるのは多分、立体交差の意味が分かって無いのだ。リガワの丁字路の36km東でリヤードとハミース・ムシャイト間の本道分岐の丁字路と東のマッダはうとうとしている間に過ぎてしまった。

ガウル付近の涸れ谷

 

1.8 ナツメ椰子の帯タスリース

 

午前10時半に上記の本道分岐の丁字路から62km北の検問所(標高 1,210 m)を通過する。周囲の山は全部、花崗岩となるが、片麻岩の様に見える場所もある。その先で峠を越えるとタスリースへの二股の分岐を通過する。分岐した道と本道との間にナツメヤシの畑が続く。本道と分かれ分岐道に入る。アシール風の建物は姿を消している。タスリースに近づくとナツメヤシ畑の緑の向こうに建物が白い帯の様に並んでいる。

 

タスリースの手前でビーシャへと道路標識が立つ交差(標高 1,020 m)に出てきた。この標識があまり立派なのでビーシャへの道を辿るが1kmも行かずにダート道となる。タスリース側は分かり易いがビーシャ側にはこの様な道路標識は無かったので出入り口は分からないのではないか。機会があればこの道を利用したい。100kmとの記載があるから2時間位と考えれば良い。この道に少し入った所で風化した岩の試料を取る。黒い風化した岩盤は直方体に小さく分離したり、剥離したりする場所もある。花崗岩が変成した片麻岩に間違いない。

 

交差点に戻り、次もロータリーを左に曲がり、この市街地を見下ろす様に建てられたコンクリート製の水槽がある岩山に登り、市街地を一望する。市の中心街は100m四方の公設市場とそれに併設された白い美しいモスク(Mosque)である。そばに近づくとラジヒ銀行(Rajhi Bank)とリヤード銀行(Riyad Bank)があり、ここが市の中心街である事を証明している。本道の検問所40km北の立体交差となったタスリースの入り口の分岐(標高 1,020 m)ではラマダーンは間違って直進し、沙漠に向かうが当然、道路終点となる。花崗岩の露出する砂沙漠で遠く岩山に囲まれている。

タスリース市全景

 

1.9 赤い沙漠と楯状地の砂岩

 

立体交差から北東50km付近(標高 970 m)からは砂は白いが次第に赤味を増し、表面は白く感じているが、殆ど赤褐色となる。15km位の間に周囲の砂は完全に赤褐色になる。タルフはきわめてまばらにしか生えていない。正午過ぎにタスリース入り口から73kmでキーラ(Al Qirah)(標高 870 m)を通過、その20km位先では青い空に鷹の番いが悠然と飛んでいる。検問所の10km位手前からナジュラーンで見たのと同じ水平な筋のある山並みが近づいて来る。タスリースから一時間、106kmで涸れ谷ダワースィルまで110kmのアシール州とリヤード州の州境検問所(標高 790 m)を通過する。(後述の図「乳香の道を辿って沙漠横断」参照)

 

水平な筋が幾重にもついている山に小さな尖塔が幾つも見えるので花崗岩が変成して出来た山だろうと考えたが、やはり、先入観は良くないと沙漠にかなり入って山肌を観察した。どうみても小さな礫を含んだ砂岩である。もっと、確実な証拠はないかと観察していると珊瑚、巻貝とスポンジらしい化石を見つける。遠目には黒く見えるが近づくと赤い部分が圧倒的に多い砂岩である。ナジュラーンでは謎だったこれと同じように水平に幾つも筋の入った山々は砂岩である事にほぼ、間違いない。55千年前から47千年前の間にアラビア半島の殆どが海に沈んだ時代に堆積した砂や泥がその後の氷河の浸食に耐えてアラビア楯状地に残された部分なのだろう。アラビア半島の堆積岩発達の大きさに改めて驚く。ルブア・ハーリーは空白地帯どころか堆積性資源の宝庫に成るのではないか。シャイバー(Shaibah)油田以外にも油田発見の可能性は大きい。その後、200327日の午後2時頃再びこの砂岩の山を訪れた時にはマントヒヒが一頭現れた。写真を撮ったり、ホブズ(アラビアのパン)をやったりしたが、ホブズには目も掛けないので水を置いてやる。こんな沙漠に孤立した中に何故マントヒヒが居るのか分からない。このバブーンのお尻の赤い部分が他の猿よりも異常に大きいから飼って居たのが病気で捨てられたのかも知れない。

ワーディー・ダワースィル南東45km付近の砂岩の山並み

砂岩の岩山に居た離れザル

 

州境から44kmで涸れ谷ダワースィル農業地帯の外れになり、山は遠のき赤い砂の沙漠に円形農場を主とした農業地帯が広がる。道に直角に鉄製のサイロ(Silo)が並び、平行に農業用昇降機(Country Elevator)の付いた巨大なコンクリート製のサイロが並ぶ(標高 620 km)。道路北側に軍用らしいの大きな集合住宅(Compound)を通過してハマーシーンに到着した。

 

2. 乳香の道を探っての沙漠横断

 

2.1 沙漠横断の動機と準備

 

   JICA(国際協力機構)の日サ考古学共同研究事業の一部としてのビイル・ヒマーの奥の沙漠にひっそりと隠れた岩壁画や碑文の谷々でのナジュラーン博物館(Najran Museum)との共同作業の現場を訪問する機会があり、ハドラマウトからナジュラーンやマディーナを抜け、地中海に至る乳香の道が私の身近にある事を知った。その道は今では全くの沙漠に埋まれて居り、その道を辿るにはこの地方をほぼ南北に走る国道とはほぼ直角に東西に横断しなければ成らない。沙漠に入る事は危険が多いので長い間避けて居たが沙漠ガイドのパトリック・ピエラード(Patrick Pierard)と知り合ってから私も沙漠へも入る様に成ってはいた。遭難を避ける為に沙漠へ入る条件としてランクル(Land Cruiser)の複数台動員、沙漠運転の習熟、ナビゲーションの確保を三原則にした。沙漠運転の習熟とナビゲーションに関しては自分で努力すれば何とかなるがランクルの複数台動員と云うのは自分の都合に合った同行の士を募らなくては成らないのでなかなか難しい。私の運転手と二台のランクルで沙漠に入る事もあったが、自ら運転するとナビゲーションの都度、停車しなければ成らず時間が掛かるので長距離走行は難しい。

 

乳香の道への同行の士を探してもなかなか見つからなかったがヒジャーズ鉄道の走破に同行したU氏(A号車)から参加しても良いと言われた。子供が三人居る家族なので途中で問題が起きた場合を考え、ルートを再検討した。ナジュラーンからタスリースもタスリースからビーシャも最大でも150km程度の離れたハイウェイに挟まれた沙漠なので方向さえ把握して居れば何処かに出る。沙漠でのビバーク(仮宿)さえ覚悟の上なら大事は無いと判断し計画を立てることにした。折角の南西部への旅行なのでアブハー、ナジュラーンを回ってヤダマ(Yadamah)タスリース、ビーシャ、バーハからターイフ(Taif)へ抜ける旅程を立てた。最終的にはもう一家(B号車)も参加し、ランクル3台での旅と成った。

 

2.2 沙漠へのアプローチ

 

   不思議な物で沙漠へ乗り込む前日には必ず、何か事件が起きる。この時も前日の夜遅く「妻が車酔いで腹も具合が悪いので明日どうするか」とA号車から相談を受ける。「とにかく、もう1日ホルディイン(Najran Holiday-Inn)で過ごして様子を見てはどうか」と薦める。A号車からB号車に連絡すると「コースを変えるのが構わないがリヤードに3日後には帰着したい」との事である。A号車には「もう1日ナジュラーン・ホリディインに滞在し、1日様子を見てそれでも調子が悪ければナジュラーンからリヤードまで奥様には飛行機に乗って貰い、我々はランクルでリヤードまで直接帰るしか無い」と助言する。ここまで来て残念ではあるが「沙漠は逃げないから又の機会を狙う」と気持ちに成る事が大切だ。その余裕が事故を防いでくれる気がしている。

 

2003210日(日曜日)は晴れてはいるが沙塵が多い。朝起きるとA号車から「妻が『何とか行ってみる』と言うので予定通り行動したい」と言われる。B号車の夫人が薬、食事を色々気遣って下さるのと顔色が悪くないので車酔いに注意して行くことで出発を決める。B号車の夫人にA号車に同乗して戴き、子供達はB号車に乗る事で積み替えを行う。午前8時少し前にナジュラーンのホリディインを出発する。20分程(44km)で涸れ谷ハブーナへと入るフサイニーヤ(Al Husayniyah)で検問を受け、上流へと遡上する。ナツメヤシに囲まれた畑が続き、ミカンも植えられている。20km西に入った場所が涸れ谷ハブーナの河原に西から続くタマリスク(Tamarisk)大群生の東の終わりでこの辺りから広い河原は一面にナツメヤシの畑とタマリスクで埋まっている様に見える。

 

ハイウェイの検問所から涸れ谷ハブーナを西へ32km遡上したダワース(Ad Dawas)の丁字路から北上する。A号車の夫人が車酔いしない様に時速60kmから80kmの徐行を維持する。道なりではサール(Thar)の農村へと進むので15kmで右折して更に北上する。道の西側に聳える一連の岩山の頂上付近はそこだけが高い為に砂岩が残っているらしく、平頂山が切り立った崖を見せて居る。この辺りの花崗岩は変成されて縦横に筋があり、四角く割れる片麻岩状態に成って居る。「山頂の絶壁を作り出す砂岩は前述の様に氷河の浸食を免れ、2,000万年前に始まった地殻変動で隆起した花崗岩に乗って今の高さまで持ち上げられた」と一応解釈するが花崗岩よりも古いこの地域の砂岩地層には謎が多い。

 

午前9時過ぎにビイル・ヒマーからカターンを抜け、州境のスファーフ(Sufah)に登る道との丁字路に出る。ここには検問所があり、そこから東に少し戻ると涸れ谷の中をヤダマへと北上する道が分岐している。涸れ谷から分かれ、峠を越すと山間の広い谷間に出てくる。花崗岩の岩山が美しい涸れ谷の河原で休憩する。A号車夫人は何とか車酔いせずに同乗している。午前10時過ぎにナジュラーンから168km離れたヤダマに到着する。

 

2.3 沙漠への出発

 

ヤダマに入り直ぐ右折しスークを抜け道路の終点からUターンし初めを更に右折して北に向かう。昨年、少しおぼつかない案内をしてくれたナジュラーン・ガイドのサイード・ジュマン(Saeed Jumann)と偵察に来た時にはタールマック舗装(Tarmac)の終点であったガソリンスタンドで給油する。その時に給水車が通行して居り、この先も道は大丈夫と考えた沙漠道にはタールマック舗装が更に先まで延長されている。話しかけて来たサウジに「タールマック舗装はどの位先まで続いて居るか」を尋ねると「20kmまででその先は沙漠だけだ」と言う。「何処へ行くか等」と聞くので不審に思われ警官を呼ばれると面倒なので「沙漠を見に来ただけだ」と答える。このタールマック舗装は北北東へ延びて居り、13kmで切れてしまった。北北西に進み始めると初老のサウジが近寄って来て、「何をしている」と尋ねるので「岩山を見に来た」と答える。何か言っているが去って言った。轍跡(Trail)を北から北北西に取り、この轍跡はしっかりしているので東西を塞ぐように聳える岩山も良い状態で抜けられると思った。

ガイドのサイード・ジュマンとヤダマのトレイル入り口付近

 

11時前にヤダマ37kmで少し登りに成った狭い岩の間を抜けると間もなく轍跡は北をむき始めた。(これ以降タスリース迄( )内の数字はヤダマからの車の走行距離を示す)アイン(Al 'Ayn)部落への轍跡に入った可能性も有るので確認の為、2km引き返す。車を止めて何本もある轍跡を徒歩で確認する。この辺りは涸れ谷スィリール(Wadi as Silil)の源頭でカハル山(Jibal Al Qahr) (標高1,794m)を含む涸れ谷タスリースとの間を南北に走る山稜が東に向かって口を開けた様な谷に成っている。ここからはむしろ西南西に向く轍跡を辿る方が問題は少ないがその方向への轍跡は見つからない。その間に若いサウジが数人乗った小型トラック(Pick-up)が側に来て「何か困っているのか?」と尋ねるのでA号車がアラビア語で「問題無い」と答えると去って行った。

 

2.4 カハル山(制圧の山稜)の障壁

 

岩山に沿って20km程、轍跡を西に辿ると北に向かう111549km で轍跡(Trail)が西に向く。112055kmで切り通しの様な場所を抜けた。私はここで涸れ谷タスリースの流域に出たと思ったのでここから北へ北へと轍跡を探しながら進む。実際にはカハル山(標高1,794m)を含む涸れ谷タスリースとの分水嶺を越えて居らず、その後は北北西に進むつもりが涸れ谷構造の為に北東へ北東へと進路を変えられてしまった。結果としてこの日は最後までカハル山稜に行く手を阻まれる事となった。

乳香の道を辿って沙漠横断

(ここをクリックすると図が拡大します。)

(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)

 

正午前、11km北に進んだ西側三方を岩山(66km)で囲まれた平らな場所を見つけ、車で東側から風を遮り、昼食にする。ホリディインのランチボックスは相変わらずボリウムが多く食べ切れ無い。又、A号車の長男は車酔いで食欲が無いが夫人の方はサンドイッチに手が出る程までに回復して来た。9個のランチボックスがあるので5個を開け、4個を非常用に残す。

 

弾帯を腰に巻き、銃を持ったベドウィンとダガー(Dagger)を帯びたベドウィンが小型トラック近寄って来て、「何をしている、仕事は何だ」と聞く。「沙漠に遊びに来ているので、昼を終えれば立ち去る」と告げる。写真を一緒には取ったがランチボックスを進呈しても「昼は食事をしない」と言って断られる。お茶にも誘わないから余り歓迎されては居ない様だ。何となく東を警戒している様なのでこのから10km位東にある前述のアイン部落の人間なのだろう。こちらも早々に立ち去る事にした。ここの岩山は麓がかなり黒色化しているが砂岩である。B号車夫人は相変わらず沙漠ダイヤを探しての石拾いに忙しい。

銃を持ったベドウィンとダガーを帯びたベドウィン

 

12時半に出発し、10分程で狭い渓谷(Gorge)を抜ける。この時は北に向かえば自然と涸れ谷タスリースに入って行くと考えていたが実際には真北に向かった後、東へと向かう涸れ谷イーハル(Wadi Iharah)に入ってしまった様だ。当時は2003年以降に発売された様な詳しい地図は無く、ファールシー(Farsi)の道路地図だけでは道の無い沙漠のルートを読むのは難しかった。7km程からは登りが多かったが轍跡が北を向いて居たので構わず進む。15分程で沙漠の中に給油所(77km)を見つける。この給油所の場所は明確ではないが、地図にはアイン・フワイズ('Ayn Huwayz)と記されて居る場所があり、そこだとすれば、位置的にはカハル山(標高1,794m)の10km位東になる。更に6kmほど進むと再び狭い渓谷(83km)を通過する。午後1時前に西側から涸れ谷が合流し、涸れ谷イーハルは向きを東に変える。ここで涸れ谷と別れ更に北に向かう(90km)。砂も深く気温(34)も上がって来る。

 

昼食を摂った岩山から北に30km進んだ場所に沙漠の給油所が左右に二軒ある(96km)。現在の地図で見るとズルク(Az Zurq)とアーバール・ナアーム(Abar Na'am)7km位の距離で東西に並んで居る。アーバール・ナアームの給油所の近くを通過したのはほぼ間違いないがズルクの給油所も眺めたか否かは定かでは無い。更に10km程(109km)北上するとタルフを見掛ける様になる。午後1時半涸れ谷ナアーム(Wadi Na’am)の狭く長い渓谷(117km)を通過する。この辺りでカハル山稜を越えるのを諦め、真っ直ぐ北上してタスリースの北東に出る事にして居た。磁石で北或いは北西を目指したが実際にはここから轍跡を辿って居る内に涸れ谷ナアームに沿って涸れ谷サマーラ(Wadi Samarah)に入ってしまった様だ。

 

2.5 安易を求め深みに填る

 

午後2時過ぎに轍跡が西北西から完全に西に向かった(146km)。本来はこの儘、殆どの轍が山越えを目指す西に向かえばキラーブ山(Jabal al Kilab)を越え、ムライガーン(Murayghan)を抜けてタスリースに着いたと思う。この時は「昼食を摂ったアインの10km位西から北に北にと80km進んで来たのでこれからわざわざカハル山稜の障壁のキラーブ山を通る西に向かわなくてもこの儘真っ直ぐに平地の開けて来る北に向かっても同じ位の距離でリヤードへ向かう幹線道路に出るので時間的には早い」と考えた。しかしながら実際には轍跡を辿る内に北東に向かう涸れ谷サマーラに入り込み、かなり東に偏向されて居たと考えるべきなのだろう。これは涸れ谷タスリースの流域とを分けるカハル山の山稜が高く低く成りながら北東へと向かって居り、結果的には行く手をこの障壁に阻まれてしまった事になる。判断としては「轍跡の殆どが向かっている西のキラーブ山を越え、ムライガーン(Murayghan)からタスリースへ抜けるべきだった」と思っている。

 

午後2時半、前方にモスクを伴った建物が見えてくる。轍跡はここの敷地(164km)に入ってしまった。沙漠治安部隊(Mujahideen)の詰め所である。敷地を出て更に北を目指すと沙漠治安部隊の警官がGMCの大型ピックアップ・トラックで追ってくる。「仕事は何でどの組織で働いているのか」、「何処から来たのか」、「何をしているのか」等定型の質問をし、イカーマ(Iqama)をチェックした。その後、道を教えて貰う。ファールシーの道路地図を見せるとアラビア語も併記してあるので分かって居る様だ。西の方角を差して「カハル山」と言った。又、涸れ谷ナアームも分かって居る。「涸れ谷ダワースィルへ行くのならこの儘、進め。」とも言う。残念ながらアラビア語が拙い私以上にアラビア語が分かる人間が居なかったのでのその時はこの警官の言って居る事が良く理解出来なかった。けれども、記録をつけながら地図を眺めると涸れ谷サマーラを辿れば涸れ谷ダワースィルまでそれ程の距離では無いし、その警官はテキパキと適切な説明を私にして居たのが良く分かる。「先ず道路に出て、それから涸れ谷ダワースィル経由リヤードに戻りたい」と言う事がやっと通じて、その警官は「13km真北に行って左に曲がる轍跡(Trail)に入って山の間を抜けて行け」と言う。

 

2.6 軟砂地でのスタック

 

真北に向かう砂地はかなり登りで砂が非常に軟らかくスタック防止にタールマックが撒いてあるがその殆どは既に崩れて居り、走行条件としては最悪だ。6km位進んだ所で振り返ると後続が来て居ない。ミニエル(Muniel)には更にスピードを上げる様に指示し、砂地を登り切った先でタールマックの残っている場所に停車させた。丘を下った所なのでムニエルをそこに残してシャベルを持って歩き出す。丘の上まで引き返すには相当な距離があった。丘の上から良く見るとA号車が砂地の登りの途中で傾いてスタックしている。B号車は姿も見えない。この儘では自分の車も危ないのでここは三台共、警察署まで引き返す事を決める。

 

ムニエルと車の向きを変え、手を挙げてレスキューを求めているA号車を横目で見ながら通り過ぎる。ここで止まると自分の車もスタックするので多少無情でも致し方無い。安全と思われるB号車の更に後の場所まで引き返し、まずはB号車をレスキューする。スタックの程度は浅いが、車輪を回し過ぎて車輪が焼け、更にエンジンを吹かし過ぎた為に給油系統から煙が出ている。これは冷めれば問題無い。ムニエルと一緒にB号車をまず救出する。B号車の運転手には砂地と道路では運転が違う事を何度言っているが理解出来ない様だ。運転プロの自分がヘマした事でかなり狼狽して居り、レスキューには全く役に立たない。私には逆にB号車の運転手が4WDを使いこなせないのが幸いしてスタックの程度が軽く、レスキューは比較的簡単であった。

 

その後、随分離れた場所にスタックしたA号車を救出に向かう。A号車からは「B号車の運転手が砂地でのスピードを怖がってブレークを踏み速度を落としたので横をすり抜けたけれど既に減速してしまって居た為にスタックした」と説明される。A号車は沙漠走行と4WDにはヒジャーズ鉄道跡の走行で慣れているのでスタックした後も脱出しようと自らのテクニックを駆使した。その為にスタックの程度は深刻だ。車は傾き、車体は砂に埋まってしまっている。A号車から自分達を助けずに通過して行った事を抗議されるが「ここで止まると私の車もスタックする危険があるし、沙漠では助け易い物を優先するのが原則だ」と説明してご納得戴く。実際、最初に丘の上からA号車を眺めた時には遠目にも状態が酷い上に、私がお貸ししていた車なので「自分で責任を持てば良い」との気持ちもあり、レスキューを半ば諦めていた。喉がからからなので、まず、水を貰い、持ってきたシャベルで車輪の下や燃料タンクの下をかなり掘り、車体を砂から切り離すが周りから砂が流れ込むのでなかなか思う様には成らない。ムニエルに空転させない様にゆっくりと車輪を回転させることをウルサク指示しギアをバックにさせてA号車とB号車の運転手を含め押すがビクともしない。再度、砂を掘り、A号車の夫人も子供達も応援して押す、私が「もうダメだ」と諦め掛ける寸前で奇跡的に何とか動く。

 

ムニエルがタールマックに載せようと直ぐハンドルを切った為に再びスタックさせる。ハンドルを真っ直ぐ保ち、切らないように指示し、再び押す。何とか二台ともレスキューしたが、私自身、相当に疲労してしまった。「先に進んでスタックを繰り返すのでは走行を続けることはとても無理だ」との判断を確信した。スタックする可能性もあるので先ずB号車の運転手に沙漠治安部隊の詰め所まで戻る様に言う。A号車はムニエルに運転させ、自分の車はA号車全員を乗せ自分で運転し詰め所まで戻る。この時に深い砂地で使ったダブルアクセルの有効さを私は改めて認識したし、A号車もその効果に驚いていた。

 

2.7 ムジャーヒディーン警官の先導で沙漠脱出

 

詰め所に戻るとダガーを差しトーブを着た若いサウジが出て来たので「北に行ったらスタックしたので北に行かないでタスリースに行く他の道は無いか?」と何度も尋ねるが「今のスタックした北への道しか無い」と言い、「轍跡の状態の良い場所を選べばスタックする心配は無い」と言う。そこに先程の警官が祈りを終え、モスクから戻る。「言われた通りに行ったら三台共スタックしてしまったので、キラーブ山を越え、ムライガーン(Murayghan)を抜けてタスリースに行く道を教えて欲しい」と言うと「今教えた道以外無い」と言う。「再度スタックされるとレスキューしている間に日が暮れる恐れもある。子供も居るのでここで一晩ビバークして明日の朝、北へ行く道を偵察してから出発する」等押し問答をしていると「途中まで伴走してやる」と言う。

 

午後4時過ぎに警官のGMC大型ピックアップ・トラックに先導され沙漠治安部隊詰め所(164km)を出発した。今回はB号車の運転手はブレーキを使わず、時速80100kmを越える速度で必死に警官に付いて行く。5分程(169km)で北西に向きを変える。そこから10分程で狭い峡谷に入り、更に5分程で山稜が両側から落ち込んだ切り通しの様な極めて狭い峠(176km)に出た。「この先は一本道であるのでここで自分は戻る」と警官は言う。午後4時半に子供と記念撮影をして警官と別れる。狭い峡谷の様に成った峠を通過した後、A号車が「4WDのクラッチが切れない」と言うのでムニエルに見させる。カハル山稜をここでやっと越す結果となった。その間に先を偵察すると轍跡は峠を越えると狭くて長い涸れ谷ジャブジャブ(Wadi Jabjab)を通り抜けて行く。15分程で狭い峡谷(195km)を抜けて西北西に進む。

沙漠治安部隊の私服警官

 

4km程で平地へと出る。正面にタワーが見える。街道を遠望しホッとした所で休憩する。午後515分ヤダマから209kmでハミース・ムシャイトとリヤード間の道路に出た。リヤード州との境界の検問所は北に500mの場所である。給油しているとタガーを差したムジャーヒディーン風のトヨタ・ランドクルーザー40004WDに乗った数人からイカーマの提示と「何処から来たか」を尋ねられる。沙漠から出てくるのを監視して居たのだろう。

 

午後6時タスリース北分岐の立体交差を右折して市内へ入って来る。直進するとビーシャとの道路標識が書いてある。道路に看板の出て居たタスリース・パレスホテル(Tathlith Palace Hotel)に電話で道を聞き、市場(Suq)に近い小さな丘に建つそのホテル)289km)を探し当てた。

 

宿帳を記入して部屋の割り当てを待っている間にその日の宿泊を予定して居たビーシャのホテルに連絡してキャンセルを頼む。ホテルのトイレはローカル風ではあるが部屋もベッドも清潔なのが嬉しい。フロントが片翼の4部屋を割り当ててくれたので戸を開けた儘で行き来出来るのも便利だ。B号車ご一家はアフリカにも長く駐在されていたのでこの程度のホテルでは全く動揺もされない。その上、ご夫人達は沙漠無事通過を祝って御飯と漬け物とみそ汁のパーティを提案してくださった。B号車夫人が車に積んだ籠は私が魔法の袋と渾名した位に必要な物が必要な時に出てくる。この時も白米と電気釜が出て来て驚かされた。ささやかではあったが沙塵の舞う事の無い場所での暖かい食事は長い沙漠を抜けて来た疲れには何よりのご馳走だった。

 

2.8 交通標識の有難味

 

   2003211日(火曜日)は朝の気温は17℃で晴れて居り、多少沙塵があったが、アシールの山に入り久しぶりに澄んだ青空を眺める。巡礼月明けエイドの朝一度だけのお祈りだと運転手もホテルの従業員もモスクに行ってしまい、珍しく全員揃っているのに7時半に成っても出発出来なかった。サウジアラビアでは宗教行事が最優先なのでこれに従うしかない。タスリース・パレス テル出発し、タスリースの西外れの給油所で満タンにする。新しく舗装道路が出来ている可能性も考えて居たので給油所でムニエルにビーシャへの道をウルドー語で聞かせると「南に少し行って西に曲がる」と言う。南に少し下ってそれらしき道が無いので再度聞かせるが、同じ答えだと言う。午前8時過ぎに10km程下ってもそれらしき道が無いのでB号車一家、A号車一家にはそこで朝食を取りながら待って貰い、偵察に更に南に下る。 西へのルーダフ(Rudah)への分岐で聞かせると又、同じ答えだ。ムニエルに「印度系はこちらが何か訊くと分からなくても適当に答える」から注意する様に言う。ムニエルは不満そうだが事実だ。引き返し朝食に参加する。ホテルで西洋式トイレが無く、アラビア式トイレで用の足せなかったB号車家の子供が我慢できずここでしゃがんで用を足したと言う。必要に迫られればそうなるものだ。

 

午前840分にタスリース西外れの給油所(41km)まで引き返した。交差点の向うにビーシャまで100kmの交通標示が立っている。ムニエルに「言った通りだろうこの給油所の従業員は訳の分からないまま教えたのだ。訊ね方も注意しろ」と言うとムニエルは「道路を行くなら南だと行ったのだと思う」と言う。どちらにせよ信用できない。地図にはこの給油所から東へ23km戻った交差点から道が付いて居る様に表示されている。しかし、「これだけ交通標示が明確なら間違いない」とそのダートの道を西へ入ると前回ラマダーンと偵察した時に休んだ岩盤のある所に出た。9時前にビーシャへ85kmの標識(47km)を見る。周囲の山は花崗岩とその変成風化した岩山ではあるが熔岩の様な石も見られる。昨日と異なり、沙漠の道路ではあるがブルドーザーで均され、交通標識もあるので全く迷うことが無い上に運転手が沙漠の運転に慣れたので全くスムースで周りの景色が印象に残る暇も無い。

タスリース・ビーシャ間の沙漠道

 

午前1020分(126km)に殆どビーシャが間近ではあるがご夫人達が運転したがるので暫く運転して貰った。B号車夫人は少し試乗して自分には無理と行って下りた。動き出すと両側にそれぞれ白いザレ場の様な白い小山が立ち、前方に街並みが見えだした。午前10時半(137km)でタールマック舗装の道路に出る。5分程で皿の上にデイツを載せたモニュメントとアブドゥッラー道路(Amir Abdullah Road)との標識がある本道との交差点に出てくる。少し下った給油所でバーハへの道を尋ねさせると「南がビーシャおよびバーハだ」と言う。A号車と中原領事に偵察して来る間の待機をお願いする。8km程北上しても埒が開かずに戻る。今度は売店で尋ねさせるとバーハへの道は北だと言う。ちょうど、そこに居たサウジが「そちらに向かうから後を付いて来い」と言うのでそれに従った。ナツメ椰子の並木のある街道を南に向かい、市街地外れから西側に入り、アシールへ登る道に出た。「やはりビーシャの北の地図にある轍跡の入り口に出た」のだと思う。沙漠を抜けて来た目にはアシールの緑は優しく感じる。正午近くに成っているので木陰の良さそうなサラムの樹を見つけ、涸れ谷(227km)に下りて食事する。この3日間砂の吹く中とか、木陰も無い砂漠ばかりでの食事が続いたので、澄んだ青空の下、風の無いサラム(Salam)の木陰の食事は楽しい雰囲気だ。

サラム(Salam)の木陰

 

後書き

 

この何も無い様な山沙漠地帯も調べてみると百万年以上も前から人が住み、かつては豊かな自然に恵まれていた事が分かる。フィルビィが探検した乳香の道も一般にあまり知られて居らず、現在でもこの地域を訪れる人は少ない。JICAとサウジ考古博物庁の合同チームは恐らく乳香の道に沿いに碑文の調査を済ませたとは思うがそれ以外はサウジ投資庁(SAGIA)ジャパンデスクの田中氏が今年の春にビーシャを訪れた便りを聞いた位である。雨水と浅層地下水に頼るこの地の農業や遊牧が大きな発展を遂げるとも思えないし、観光資源はアシールの他の地域と較べるべくも無いので余程大きな地下資源の発見でも無ければ今後も忘れられた土地として人口の少ないまま取り残されて行くのだと思われる。

 

私自身は今回、様々な条件を満たして、カハル山系に阻まれながらではあるが、ナジュラーン、タスリースからビーシャまでこの「砂と山稜の迷路」を不完全ながら横断した事でますますナジュラーン(Najran)、ヒマー(Hima)、ヤダマ(Yadamah)、タスリース(Tathlith)、ビーシャ(Bisha)、ジャラブ(Jarab)、クワーマ(Al Quwamah)、トゥルバ(Turbah)からターイフ(Taif)に至る乳香の道をゆっくり旅しながら岩壁画や遺跡を探してみたいとの思いを強くしている。空白地帯と異なり150kmも行けば道路があるこの地域では予備のガソリンも水も入らないのでスタックしない様にすれば楽に抜けられる。更にこの旅を反省し、その後はGPS(衛星利用位置測定装置)を必ず携帯し、コースに関してはほぼ着実に把握できる様に成ったのでナビゲーションは楽に成った。それでもやはり4WD単独での沙漠走行は避けるべきだし、土地の人間や治安警察との摩擦を避ける為に通訳を兼ねたサウジ人の同行も必要と考えている。従ってこれを実行に移す機会を得るのはなかなか難しい。

 

以上

 

 


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