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花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)地方の紹介
(サウジアラビア王国南西地方) その2ティハーマ海岸地域 (Tihamah
Coastal Area) 2005年6月23日 修正版 2013年1月22日 高橋 俊二 |
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索引 前書き 紹介 ティハーマ海岸地域 (Tihamah Coastal Area)への訪問 1 ティハーマ海岸地域の概要 1.1 地形 1.2 ティハーマ(Tihamah)の歴史 1.3 ティハーマ海岸地域 (Tihamah Coastal Area) の住人 1.4 ティハーマ(Tihamah)の気候 1.5 ティハーマの動植物 1.6 ジーザーン州(Jizan Emirate) 2 北部ティハーマ海岸地域 (North Tihamah Coastal Area) 2.1 バーハ・パレス・ホテル(Al-Bahah Palace) 2.2 山岳ハイウェイ(バーハ・マフワー線) 2.3 石の壁と木の屋根の家が象徴するマフワー(Al Makhwah) 2.4 ティハーマ・シャームを代表するムザイリフ(Muzaylif) 2.5 イナゴの繁殖地 3. 熔岩が広がるマングローブの湿地帯 (the Harrah Birk) 3.1 七つの井戸のクンフザ(Qunfudhah) 3.2 涸れ谷ヤバー河口のクーズ(Al Quz) 3.3 大涸れ谷の河口ハリー(Hali) 3.4 エダウチヤシが群生するアマク(Amaq) 3.5 熔岩地帯の中心ビルク(Al-Birk) 3.6 州境のティルク(Al-Tirq) 3.7 海側と山側を火口丘で夾まれたカフマ(Al-Qamah) 3.8 マングローブのシュカイク(As Shuqayq) 3.9 交通の要所ダルブ(Ad Darb) 4 南部ティハーマ海岸地域 (South Tihamah Coastal Area) 4.1 涸れ谷ディリア(Wadi Dala' or Wadi Dili’) から涸れ谷イトワド(Wadi Itwad) 4.2 ダルブ(Ad Darb)の農村地帯 4.3 大涸れ谷の河口バイシャ(Baysh) 4.4 イドリーシー(Idrisi)の都サブヤー(Sabya) 4.5 港の町ジーザーン(Jizan) 4.6 イエメン国境のトゥワール(At Tuwal) 4.7 ティハーマの山麓 4.8 空中都市ファイファー(Fayfa) 4.9 温泉のある秘境バニー・マーリク(Bani Malik) 4.10 ジーザーン(Jizan)からアブハー(Abha)へ 5 ティハーマ山地(the Hilly Tihamah) 5.1 アブハー(Abha)からムハーイル(Muhayil)へ 5.2 ムハーイル(Muhayil)からハミース・ムタイル(Khamis Mutair) 5.3 ハミース・ムタイル(Khamis Mutair)からバーリク(Bariq) 5.4 バーリク(Bariq)からガーミド・ズィナード(Ghamid Az Zenad) 5.5 ガーミド・ズィナード(Ghamid Az Zenad)からバーハ(Bahah) 後書き 付録1「エジプト総督アエリウス・ガルスのアシール遠征」 付録2「アシール鳥類観察の旅」
前書き
私が初めてティハーマに入ったのは1987年の冬であった。アブハーから洪水跡の生々しい渓谷の道を下るに連れ気温が上昇し温度差が大きい事をまざまざと感じた。そして、その数年前の春節に厳冬期の北京から防寒服の儘まで飛行機に乗り重慶へ降りたってその湿気と暑さでうだってしまった時の事を思い出して居た。この時はジーザーン(Jizan)のハヤート・ホテル(Al Hayyat Hotel)まで足を延ばしている。たまたま雨の後でモロコシの藁や柴の屋根葺き円形の小屋の間も水たまりで黒人の子供達が水浴びしているのを眺めていた。余りにアフリカ的な光景であり、昔はジーザーン(Jizan)がアフリカから奴隷を連れてくる港であったと聞いては居たがそれを裏付けていると思った。浜には大きな貨物船が座礁した儘に成って放置されて居り如何にも打ち捨てられた辺境と云う印象であった。
その11年後の1998年4月にはバーハ(Al-Bahah) からマフワー(Al-Makhwah)に下り、海岸に沿ってシュカイク(Ash Shuqayq)まで南下し、涸れ谷’イトワド(Wadi 'Itwad)沿いを北上し左俣の涸れ谷ディリア(Wadi Dala')に入ってアブハー(Abha)へ向かった。その次ぎに訪れたのは2000年の12月でこの時はジーザーン(Jizan)に二泊してマラーキー・ダム湖(Malaki Dam Lake)を通ってファイファー(Fayfa)に登りそこから一旦下って谷に降りてから部族民の胸を突く様な山岳道路を再び登り山を越えてバニー・マーリク(Bani Malik)のイエメン(Yemen)国境にある湯治場を訪れた。この時は南西の辺境のジーザーン(Jizan)が港も町も10年余りの間に立派に整備されて居り、私の駐在していた北東の辺境カフジ(Khafji)の昔ながらの姿と比べて驚かされた。それから2002年2月にはアブハーからバーハに抜けるのにムハーイル(Muhayil)から涸れ谷ハリー(Wadi Hali)に沿ってマジャールダ(Al Majardrah)からマフワー(Al-Makhwah)経由するティハーマ山地の道を辿った。
この様に一度限りではあるけれど一応はティハーマの主な場所は全て訪れては居た。唯一リジャール・アルマア(Rijal Alma')を訪れて無いことを残念に思って居たら今回、資料を調べている内に スーダ(Sawdah or Soudah)のケーブルカーの下駅からリジャール・アルマア(Rijal Alma')が近いと云う事が分かった。知らなかったのは残念だった。リジャール・アルマア西のハミース・バフル(Khamis Al Bahr)を含めてやはり道路沿いに訪れて見たい。
紹介
ティハーマ海岸地域は行政区分も南から北へと現在のジーザーン(Jizan)州、アシール(Asir)州、バーハ(Bahah)州およびマッカ・ムカッラマ(Makkah Al Mukarramah)州の南部分の範囲が複雑に入り込んで居る。これは昔からの細かく分かれた部族の領土の所為では無いかと私は思っている。実際に訪ねてみると涸れ谷の沢筋一つ一つに部族名と言うより家族名が付き、更に細かく分かれて居り、それを詳細に述べるのは難しい。部族には属さず自分達の村に忠誠向けられているアフリカ出身のフェラーヒーン(Fellahin)と呼ばれる農民が全体の半数を占めるのもティハーマの大きな特徴だと思う。
当初ジーザーン州についてはアシール州とは別に紹介する積もりで居たがティハーマ(Tihamah)海岸低地を紹介するのにジーザーン州(Jizan Emirate)を割愛するのは難しいとの結論となり、ジーザーン州をティハーマ(Tihamah)海岸低地の一部として紹介する事にした。ティハーマ海岸地域 (Tihamah Coastal Area)の地形、歴史、住人、気候、動植物等に付いてはアシールの紹介(その1 アブハー)およびアシールの紹介(その2未知の国アシール)でかなり詳しく述べている。それでもティハーマ(Tihamah)海岸低地を知れば知るほどその多様性に驚かされる。従って訪問記の前に再度、復習を兼ねてティハーマ(Tihamah)海岸低地およびジーザーン州(Jizan Emirate)の概要を述べる事にした。 ジバ-ル・サラート地域 (クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)
アシール地方 (クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)
ティハーマ海岸地域 (Tihamah Coastal Area)への訪問
1 ティハーマ海岸地域の概要
1.1 地形
「アシールの紹介(その2未知の国アシール)」で述べた様にティハーマ海岸地域(Tihamah Coastal Area)とはアシール(Asir)山岳地帯高原のサラート(Sarat)と呼ばれている西側の縁と紅海岸との間に挟まれた細長い地域である。海岸低地と云う名から単調そうな地域と理解され、衛星写真でその様な印象にしか見えない。実際に訪れると断崖や穏やかな丘陵、火山、熔岩地帯、マングローブ湿地帯、多くの河川があり、更に海岸低地の多くの部分に地図には記載の無い数メートルの高さの小さな熔岩地帯が散在し、地形は複雑である。しかしながら少し大まかに分けるとティハーマ山地(the Hilly Tihamah)、ティハーマ海岸低地 (the Coastal Tihamah Lowlands)およびマングローブの湿地が広がるビルク熔岩地帯the Harrah Birk)の三つの地方となる。
Tihamah低地(衛星写真)
1.1.1 ティハーマ山地(the Hilly Tihamah)
険しい崖地アスダール(al-Asdar)が起伏の多い脊稜から絶壁の峡谷、さらに丘陵性のティハーマ(Tihamah)山地の麓の小丘へと続いている。ここでも又、崖地と同じ様にティハーマ(Tihamah)の高い山々が豊かな降雨をもたらしている。険しい崖地と丘陵の間には涸れ谷ハリー(Wadi Hali)や涸れ谷バイシャ (Wadi Baysha)等がアシール・ヒジャーズ(Asir/Hijaz)山脈であるサラワート山脈(Sarawat)とほぼ平行する様に広い谷と成って発達している。
タイフ(Taif)から下った海岸から南へクンフザ(Qunfudah)辺りまではアシール山脈から涸れ谷がほぼ垂直に直接紅海岸へと注いでいる。クンフザ(Qunfudah)から更に南へシュカイク(Shuqayq)付近まではビルク(Al Birk)熔岩地帯の内陸側にムハーイル(Muhayil)からリジャール・アルマア(Rijal Alma')方面にファクワ山(Jabal Faqwa)等の山並みがあり、アシール(Asir)山岳地帯高原の西側の縁サラート(Sarat)と平行に涸れ谷ハリー(Wadi Hali)が発達している。
シュカイク(Shuqayq)から南は涸れ谷’イトワド(Wadi 'Itwad) 等(涸れ谷ディリア(Wadi Dala')は涸れ谷’イトワド(Wadi 'Itwad)の支流である。)数本がアシール山脈と垂直に紅海岸に注ぎ、その南ではファルシャ(Al-Farshah)付近のアシール(Asir)山岳地帯高原の西側の縁サラート(Sarat)とカハル山(Jabal Al Qahar)、ハルーブ山(Jabal Harub)、ファイファー山(Jabal Fayfa)やバニー・マーリク山(Jabal Bani Malik)等の山並みとの間に涸れ谷バイシャ(Wadi Baysha)の渓谷盆地がサラート(Sarat)とほぼ平行発達している。この渓谷盆地の紅海側では規模は少し小さいが幾つもの涸れ谷が紅海岸に垂直に注いでいる。
1.1.2 海岸低地 ティハーマ(the Coastal Tihamah Lowlands)
海岸低地は紅海と平行してその岸に沿ってほぼ南北に延びている。クンフザ(Qunfudhah)から北にジェッダ(Jeddah)の海岸は殆ど湿地帯でありその内側の砂丘地帯でモロコシ(Sorghum)、ガマキビ(Bulrush Millet)、胡麻等が栽培されている。この低地は特にジーザーン(Jizan)の周辺では涸れ谷が山々を流れ下り海岸に辿り着く前に沖積扇状地として広がり、灌漑され豊かな農業地帯と成っている。但し、他の地域と異なり小規模なものを除けば円形農場は殆ど無く、伝統農業が中心で農業労働者の中核もサウジ国籍者である。私は前述した地図には記載の無い数メートルの高さの小さな熔岩地帯が散在する為に大規模農場が成り立たないのでは無いかと思っている。
1.1.3マングローブの湿地が広がる熔岩地帯(the Harrah Birk)
更に北のシュカイク(Shuqayq)とクンフザ(Qunfudhah)の間では広範囲に熔岩が広がり、玄武岩質の熔岩を噴出しそれが流れ出した範囲にぞっとするような不吉な黒い沙漠であるハッラ(Harrah)と呼ばれる熔岩地帯を作りだしている。火口丘の円錐形の列が地平まで辺りを圧倒している。最後の噴火は1820年に起きたと考えられている。マンジャハ遊牧民(Manjahah Nomad)の崖地が隠されているのはビルク(Birk)とシュカイク(Shuqayq)の間にあるハッラ・ビルク(the Harrat Al Birk)と名付けられた火山性の沙漠である。
2003年4月18日撮影のランドサット7からの衛星写真には暗い色の火山錐がサウジアラビア紅海岸に沿ったハッラ・ビルク(the Harrat Al Birk)と云う古代の熔岩地帯が写し出されている。ハッラ・ビルク(the Harrat Al Birk)は紅海に面したサウジアラビアの玄武岩質熔岩地帯である。アラビア半島にはこの様な熔岩地帯はたくさんある。各々に火山地帯は600から700くらいの火山錐を持ち、黒い多孔質の火山岩滓に覆われている。火山岩滓は軽石に似た火山性の材料でガスを含んだ玄武岩質の熔岩が噴火で突き上げられ出来る。火山岩滓は市場では住宅の天然断熱材として売られているのが見られる。アラビアのハッラ(Harrat)は2百万年から3千万年の古さである。
Harrat Al Birk(衛星写真) 提供Nasa、Image
Date: Apr 18, 2003、Image Source: Landsat 7
ハッラ・ビルクの海岸にはマングローブの湿地帯が形成されている。マングローブがあると云う事は汽水域の存在を示しており真珠取りを行われて居た様だ。マングローブの汽水域は魚の宝庫でありここには渡り鳥が多い。残念なのはこの環境がエビの養殖に適している為に既に養殖場が出来始めている。この方面の担当している私の友人でサウジ人博士の養魚研究者はエビ養殖の将来性を夢見ているが私は東南アジアのマングローブの様に自然収奪の乱開発になるのを恐れている。むしろ観光庁の進めている紅海岸リゾート計画でバード・ウオッチやダイビング・スポットの方が環境保全には良いと思う。
1.2 ティハーマ(Tihamah)の歴史
1.2.1 新石器および青銅文化
どの位古く南西アラビアの山岳高地および海岸低地に集落があったかは定かでは無いが、4000年以上前の新石器時代からであるとの確証は得ている。 文明は隣のイエメン(Yemen)と共通の発祥を分け合っている様である。イエメン(Yemen)では紀元前2200〜1700年頃に農業の定住が存在し、その青銅文化時代に作られた陶器はシリアやパレスタインの早期青銅文化の陶器と明確なつながりがあった。又、古代イエメン語が紀元前2世紀半ば以前のシバ族(Sabaean)の文章と言語の起源である事を強く示唆している。この時代の岩壁画で一番印象的なのがマフワー(al-Makhwah)近くのハリタ(al-Haritah)の彩色岩壁画遺跡であり、その原色である暗い茶色は今でも良く保存されている。この絵は約40mの高さの岩肌に描かれて居る。さまざまなアイベックス、短剣を持った人物像や駝鳥が岩肌の垂直な面に描かれている。
1.2.2 サバ(シバ)の時代
紀元前1000期の終わりにはイエメン(Yemen)のラムラト・サバアタイン(the Ramlat Sab'atayn)のサイハド沙漠(Sayhad)に流れ込む涸れ谷の農民は巨大な都市国家群を基盤とする文明を築き、その中で特に有名なのがサバ(シバ)(Saba or Sheba)の首都マアリブ(Marib)における巨大ダムの建設であった。これらの都市国家は印度洋を越えて当時地中海で大きな需要のあった香料や高級な商品を交易し幸福(富裕、フェリクス)(Arabia Felix、Happy Arabia)に成った。この交易に彼等は自分達の自家製の産物を入れた。それらが有名な南アラビアの乳香(Frankincense)と没薬(Myrrh)である。アラビア半島中にこの交易をアラビア湾、イラクおよび東地中海と結ぶためにオアシスを基地とする交易集落の交通網が築かれた。海路ではジーザーン(Jizan)に近いティハーマ(Tihamah)海岸には古代の港’アスル('Athr)があった。アシール(Asir)全体およびティハーマ(Tihamah)にある多くの碑文と岩壁画はここの人々がイスラーム以前のイエメンの人々と同じ文明に属していた事を示している。
1.2.3幸福なアラビア(Arabia Felix)の時代
フェリクス(Arabia Felix)と呼ばれる幸福な(富裕な)アラビアを作り出したのは交易であり、中でも乳香であった。その乳香交易の富を手にしようとするローマ軍の遠征(26 BC - 40 AD) とその既得権を持つナバテア(the Nabataeans)人達の抵抗についてのストラボン(Strabo, 63BC – AD24)の物語「エジプト総督アエリウス・ガルスのアシール遠征」を付録1として紹介したい。
アラビアの幸福(フェリックス(Arabia Felix))は3世紀のローマ世界の経済不振でその産物の需要が落ち込むまでの数世紀に渡って栄えていた。この時期にサバ(シバ)(Saba)、マイーン(Ma'in)、カタバーン(Qataban)、アウサーン(Awsan)およびハドラマウト(Hadramawt)等の古い都市国家群はイエメン山岳高地のザファール(Zafar)のヒムヤル(Himyarite)と云う一地方勢力に併呑されてしまった。紀元後1000期の初めには南西アラビアを離れて北や東に向かう部族の大移動が起きた。灌漑機構の失敗、グレコ・エジプトの船乗りによる長距離航海術の発展、需要の衰退および中央アラビア遊牧民の台頭等がイエメン文明を衰微させた。
1.2.4 サーサーン朝ペルシャ、ビザンチンとエチオピア
イスラーム以前の3世紀くらいの間にサーサーン朝ペルシャ(Sasanian Persia)、ビザンチン(Byzantium)およびエチオピア(Ethiopia)が南西アラビアへの影響を競い合った。この地方ではキリスト教(Christianity)、ユダヤ教(Judaism)およびラフマニズム(Rahmanism)等の様々な一神教が流行に対して余り執着しなかった。
1.2.5 イスラームの伝道
7世紀にイスラームが伝道されたが、それ以前の文化は完全には死滅せず、10世紀のハマダニ(al-Hamdani)の様な教育のあるイエメン人でさえ、依然として古いムスナド(Musnad)碑文を理解できた。ハマダニ(al-Hamdani)がアシール(Asir)で記録した集落や部族の様式から今日みられる農耕された景観や集落の様式は侵入や変動によって乱されずに依然として古代のまま残っている事が分かる。
1.2.6 イスラームの時代とオスマン帝国 イスラームの時代にはアシール(Asir)およびティハーマ(Tihamah)は外界からの影響を受けずに独自の生活様式を保ち、文化的に安定した長い期間が続いた。しかしながら1834年にアシール(Asir) およびティハーマ(Tihamah)はムハンマド・アリー・パシャ(Muhammad Ali Pasha)のエジプト遠征軍の侵入を受け、名目上はオスマン(Ottoman)帝国の宗主権の下に置かれた。オスマン(Ottoman)帝国の支配は第一次世界大戦でオスマン(Ottoman)帝国が解体するまで続いた。 ズィー・’アイン(Dhi 'Ain)村はここで育つ果物やバナナの栽培で有名である。この村は今から400年前のこのイスラーム時代に作られ、アガバ・バーハ('Aqabat al-Bahah)を横切ったバーハ(al-Bahah)南西24 kmの場所にあり、マフワー(al-Makhwah)から20 kmの道路右側の山頂に位置している。31軒の家と小さなモスクから成るこの村の家は2層から7層あり、石の壁と木の屋根で作られている。丸太は近くの森もアルアル('Ar'ar)の木から切り出された。バルコニーは三角形の石英で飾られている。監視塔が侵入者を見張りその攻撃から防ぐ為に村の中に作られている。
1.2.7 ムハンマド・イブン・アリー・イドリーシーの支配
第一次世界大戦頃からジーザーン(Jizan)近くのサブヤー(Sabya)に行政府を構えたムハンマド・イブン・アリー・イドリーシー(Muhammad ibn Ali al-Idrisi)がヒジャーズ(Hijaz)のシャリーフ・フサイン(Sharif Husayn)同様にトルコ(Turk)に逆らい「英国側である」と宣言した。トルコがアラビアから撤退した時にはアシール(Asir) およびティハーマ(Tihamah)はイドリーシー(Idrisi)の支配下にあった。 1922年にムハンマド・イブン・アリー・イドリーシー(Mohammad al-Idrisi)が没するとその息子と兄弟に率いられた分族間の内戦が続いた。イエメン(Yemen)と新たに進出したサウジ土候国はこの衝突の各々の側に味方した。
1.2.8 サウジ領への編入
イエメン(Yemen)とサウジアラビア王国(the Kingdom of Saudi Arabia)間にアシール(Asir)およびティハーマ(Tihamah)を王国に編入すると云う1934年条約が締結されアシール(Asir)およびティハーマ(Tihamah)の国境紛争は一応終了した。実際にはその後も国境問題は継続し、解決したのは21世紀に入ったごく最近の事である。
1.3 ティハーマ海岸地域 (Tihamah Coastal Area) の住人
1.3.1 カフターン族
丘陵性ティハーマ山地の遊牧民であるティハーマ・カフターン(Tihami Qahtan)の領地はファルシャ(Al-Farshah)を含むサラワート(Sarawat)高地と紅海岸の海岸回廊の間にある。その領地であるカフターン高原には棚畑の農場が散在する光景が広がる。その高原は深い谷間に刻まれた山々で構成されてはいるが山羊を飼育するのが得意とするカフターン(Qahtan)族山羊飼いは十分に生活して行ける。気候の厳しさに加えて人々の好戦的な伝統でそこへ旅行するのは簡単では無かった。住人は領土保持の意識が非常に高かった。異邦人は歓迎されず、閉鎖された世界であった。カフターン(Qahtan)族でも特に羊飼いは美意識が強く、ジャスミン、バジリコ、ニガヨモギ(Wormwood)、フランス マリゴールド、パンヤの木の花(Fleurs de Kapokier)、セリ科の植物(Umbellifer)、カディ(Kadi)等広いレパートリーで髪を飾り立て「花飾りした男達」と呼ばれている。カフターン(Qahtan)族の住むファルシャ(al-Farshah)の南一帯に住むライス(Rayth)族も頭飾りをする。彼等の’ウシュシャ('Ushshah、Nest)と呼ぶ半円の小屋はカフターン(Qahtan)族の小屋に較べ横長である。
1.3.2 リジャール・アルマア(Rijal Alma')族
スーダ国立公園のケーブルカーはサウジアラビア最高峰から20分足らずの素晴らしいの眺めの中を2,000mも下降する。地上駅の近くにあるのがリジャール・アルマア村である。1,000年もの伝統のある村であり、古代王国サバ(Saba) の都マアリブ(Marib)から一団の人々が離れ、非常に厳しい旅の末に彼等はこの険しい地方に辿り着き村を築いたと語り継がれている。石で何層にも要塞の様に作られた家々は美しい景観を残して居りその建築様式はイエメン(Yemen)に類似している。リジャール・アルマア(Rijal Alma')の古い村がこの地方で採れる大理石を使った美しい伝統的な石造り建築を際だって保護している。石英はここでも開口部を飾るのに好まれており、格子縞模様がすべての窓と扉の上に付けられている。この村の中心の素晴らしい建物がりジャール・アルマア博物館として改造されており、2,000点ものこの土地の習慣や伝統を展示してある。シュカイク(Shuqayq)北の熔岩地帯に住むマンジャハ族(Manjahah Tibe)長老のマンジャハ族特有帽子を被った画像もこの博物館に保存されている。この美しい建物を別にしてこの廃墟化され民俗化された環境の中の砦として費用を掛けず復活され保存されそして保守される為の保護プロジェクトは依然として一般的では無い。この様に伝統的な町であるがウサーマ・ビン・ラーデン(Usama bin Laden)の2001年9月11日攻撃にはこの町の出身者が多かった。
リジャール・アルマア付近とケーブルカー (Orijinal:Maps Atlas by Farsi Maps)
1.3.3 涸れ谷ディリアのラビーア族(the Rabi'ah of Wadi Dala')等
涸れ谷ディリア(Wadi Dala')全体に文明世界との境界でテント生活をしている山羊飼いの部族のラビーア(Rabi'ah)族が住んでいる。ラビーア(Rabi'ah)族はジプシー(Tsiganes、Gypsies)であると考えるのが一般的である。ラビーア族(Rabi'ah)の男は伝統的な刺繍の付いた上着を着て居り、若者は頭に花冠を被っている。 ラビーア族(Rabi'ah)の婦人は腕輪等伝統職人技能で装飾した服装をしている。ラビーア族(Rabi'ah)の居住する崖地では二つの木の間に広げられたふさ飾りの付いたテント地がバイト・ハーサフ(the Bayt Khassaf)と呼ばれる格子状の平行六面体をしたマット家屋の為の伝統的な住居の場所を確保している。バイト・ハーサフ(the Bayt Khassaf)は立派な骨組みでその小屋の編み合わせられた覆いはどんな気象にも耐え内部は居心地が良い。
1.3.4 マンジャハ族遊牧民
シュカイク(Shuqayq)北の熔岩地帯に住むマンジャハ(Manjahah)族遊牧民は茣蓙(ゴザ)で作ったテントに住み移動していた。このゴザ製のテントは自生しているエダウチ椰子のトッフィ(Toffi)の編んだゴザで作った屋根を持ち、この屋根は僅かな微風でも持ち上げられた。自生のナツメ椰子から創意に富むここの人達は家、小屋、鞄、綱およびサンダル等の生活必需品を作り出す。小屋の中には人々がその上で食べて寝るサリール(Sarir)呼ばれる高いベンチ乃至チャールポイ(Charpoy)が置かれ、その脚の一つに乳攪拌の為の瓢箪垂直に吊される。山羊の道を外し注意深く埃カバーで包まれたライフル銃や彼の孫のプラスチック製機関銃に至るまであらゆる物が吊されている。マンジャハ遊牧民の茣蓙製のテントは大変ファンタジックであったが今ではこの様なテントは見られ無く成ってしまった。その幻想的片鱗は現在のコンクリートブロックで作られた家の壁にも見られる。ただ、その多くは湿度で色が散らばり途方もなく汚れた出来合いの花弁模様の飾りになってしまっている。
1.3.5 ティハーマ低地(Tihamah Lowland)の人々
アフリカ出身のフェラーヒーン(Fellahin)と呼ばれる農民が全体の半数を占めるので海岸低地に降りると円形の灌木で作った小屋に住み、部族と無縁な定住小農民の村ばかりになる。この海岸にはアフリカの伝統的な村々の建物を思わせる小屋が散在している。枝で作られた骨組みは編み枝(Wattle)と泥の漆喰(Daub)で埋められ天井はロープで入念に編まれた固く詰められたモロコシの藁で作られた円錐形(Conical)或いは卵形(Ovoid)をしている。円屋根の下の壁には絵を描いた板を吊すフックが沢山付けられている。フックには花柄のエナメル塗装した板、彩色された魔法瓶、小カップやまったく異なる陳列物が列となって吊されている。
海岸地方の人々はほっそりして居り、一般的にサロン(Sarong)の様な綿の腰巻きをしている。男達はクーフィーヤ(Kufiyyah)と呼ばれる汗と垢で固くなったムスリムの頭部キャップも被る。このキャップは時々頭の周囲に幕布きれや大きなつばの付いた尖端を切った円錐形の帽子と時々交換される。顎髭や指の爪がヘンナ(Henna)で磨かれ彼等の目はコール(Kohl)でメーキャップされる。
ティハーマ(Tihamah)海岸低地の幾つかの地方では若者の中には丘陵性のティハーマ(Tihamah)山地の部族民の様に花飾りをし、前頭の上にマリゴット(Marigold、キンセンカ)を乗せたり、サフランの黄色の髪分けしたりする者もいる。真珠取りで鮫に襲われる為にファラサーン島(Farasan)には同じように手脚の無い人間もいる。太陽から顔を保護する為にアラビアと言うよりはメキシコの様にティハーマ男達も女達も広い麦藁帽子を被るのを好む。
ティハーマ(Tihamah)では瘤牛の雄が畑を鋤で耕し、洪水を灌漑水に変える為の長い土の堤防を築く両方の目的の為に使われている。ティハーマでは炭作りも行われて居りここで作られる炭は炊事や金属加工に広く使われている。漁業はそれ程一般的では無く浜辺は殆ど空いている。何艘かの時代遅れの船が砂の上に引き上げられているだけだ。
1.3.6 多くの部族
険しいティハーマ(Tihamah)山地の崩れた起伏に富む地形はその他にも幾つかの非常に隔離された地方社会を生み出した。それらの中でも最も有名なのは南ティハーマ(Tihamah)の高い山に隔絶された後に名付けられたグループであり、アフル ・ライス(Ahl al-Rayth)、アフル・ハルーブ(Ahl Harub)、アフル・ハク(Ahl al-Haqu)および特に有名なアフル・ファイファー(Ahl Fayfa)等がある。この様にティハーマ(Tihamah)の部族は多い上に細かく分かれておりその全部について前述同様に述べる事はとても出来ない。
主な部族には海岸沿いでは南から北へとアフリカ出身のフェラーヒーン(Fellahin)共にバニー・フンマド(Bani Hummad)、バニー・マルワーン(Bani Marwan)、バニー・シュバイル(Bani Shubayil)、バニー・シュウバ(Bani Shu'bah)、アフル・シュカイク(Ahl al-Shuqayq)、マクバーフとマンジャハ(Maqba'ah wa Manjahah)、バニー・ヒラール(Bani Hilal)、ムーサー(Al Musa)、キナーナ(Kinanah)、マカーティラ(Al-Maqatirah)、バニー・ザイド(Bani Zayd)、ズバイド(Zubayd)およびマシャイーハ・ヒヤラ(Mashayikh Khiyarah)等がいた。フェラーヒーン(Fellahin)はジーザーン(Jizan)に最も多く、北に行くに連れて減っている様に思える。
ティハーマ(Tihamah)山地の部族としてはやはり南から北へとバニー・フッラス(Bani al-Hurrath)、’アバディル(Al 'Abadil)、バニー・ガジ(Bani al-Ghazi)、アフル・ファイファー(Ahl Fayfa)、バニー・マーリク(Bani Malik)、アフル・ハルーブ(Ahl Harub)、アフル・ライス(Ahl al-Rayth)、アフル・ハグ(Ahl al-Haqu)、カフターン(Qahtan)、シャフラーン(Shahran)、バニー・ムガイド(Bani Mughayd)、ラビーア(Rabi'a)、マフルタ(Al-Makhlutah)、マギラバ(Al-Maghlabah)、リジャール・アルマア(Rijal Alma')、ワイルド・アスラム(Wild Aslam)、シャハーブ(Shahab)、アフル・カナ・ワル・バフル(Ahl Qana wal-Bahr)、アーシム(Al-'Asim)、ラビーアとリファイダー(Rabi'ah wa Ryfaydah)、バーリク(Bariq)、バニー・ヒジュル(ヒジル)(Bani Al-Hijr)、ナワシラ(Al-Nawashirah)、ラビーア・マカーティラ(Rabi'at al-Maqatirah)、バルカーン(Balqarn)、ハルブ(Harb)、シュムラーン(Shumran)、バニー・’イーサ(Bani 'Isa)、ガーミド・ズィナード(Ghamid al-Zinad)、ザハラーン(Zahran)等が居た。
1.4 ティハーマ(Tihamah)の気候
アシール(Asir)山岳地帯では降雨が比較的豊富であるのに対してティハーマ(Tihamah)の海岸低地では降雨が少ない。これはアシールでは起伏が高いほど多くの降雨がある為でスーダ山(Jabal Sawdah)地域では年平均57 cm降雨量があるのに対しティハーマ(Tihamah)の海岸低地では僅か年平均15 cm降雨量しかない。しかしながら山岳地帯に降った雨が涸れ谷を通って川や伏流水と成って流れ下って来るので灌漑用水は豊富である。川の水や伏流水は更に海に下って汽水を生み紅海岸に沿って多くのマングローブの林を作り出し、まだ真珠取りにも適して居たと思われる。特に伏流水は海岸に沿って広がる大小の熔岩地帯が水を浄化するので湧き出す水の水質は良好である。
アシール山岳地帯が涼しいのに対してティハーマ(Tihamah)の海岸低地は暑く湿度も高い。バールラスマル(Ballasmar)、ナマース(al-Nimas)およびアブハー(Abha)の年平均気温は14~15℃の涼しさであるのに対してティハーマ(Tihamah)の海岸低地のジーザーン(Jizan)では年平均気温30℃もあり、世界中でも最も暑い場所の一つであり湿度も高い。
1.5 ティハーマの動植物
今では鳥類を除けばマントヒヒと猛禽類を良く見かける以外は野生動物を余り見ないが昔は多かった事が記録されている。鳥類についてはアフリカからアジア・ヨーロッパを往復する渡りの重要な休息地でもある為に付録の「アシール鳥類観察の旅」で紹介する様に種類は実に多様である。又、植物は気候が熱帯から温帯まで広い分野に及んでいるのでその種類の多さばかりでは無く瓢箪がピンクの花を咲かせる木に成った様に見えるアデニウム(Adenium obesum)、竜の木(dragon tree)等ここでしか見られない種類も少なく無い。中でも野生の群生が目立つのはエダウチ椰子、マングローブ、ウム・シャール(Um Shar)とシドル(Sidr)等である。
Tihamah低地のSidr(ナツメ)
私が芭蕉椰子と渾名しているエダウチヤシはテベスドーム・ヤシとも呼ばれ英名はDoom Palm, Doum Palm or Dawn Palmで学名はHyphaene thebaicaである。アフリカ産の大きな扇型の葉を付ける椰子で沙漠の土壌を安定させるのに重要な働きをする。その果実は林檎位の大きさで食用になる。私はサウジアラビアでは熔岩地帯でしかエダウチヤシの群生しか見ていないので熔岩と群生の関係は深いと思われる。
ウム・シャール(Um Shar)は正式にはウッム・アシャル・シャルキーヤ(Umm Ashar Ash Sharqiyah)と云う長い名の付いた低木でサウジの殆どの沙漠地帯に多少水のある場所に群生している。 この低木は多くの枝を地表部分から4、5 m上へと直接伸ばしている。この枝は比較的太く木肌はワニの様な鱗がある。葉は厚くかさばり実は野球のボール程で白っぽい緑色をしている。この木のどこかに切り口を作ると白いベタベタした乳液を浸みださせる。この低木は疎らなタルフ(Talh, Acacia Gerratdii)の林の中やその近傍に群生しているのをよく見かける。大川原博士によるとこの低木はCalotropis proceraと云う学名を持ち英語では「ソドムの林檎」と呼ばれ、日本には全く同じでは無いがガガイモ科の海岸煙草が同じ種類でなのだそうだ。アラビア語名はアシェル・ボイェル(Asher Voyer)と云うが東部州ではウッム・アシャル・シャルキーヤ(Umm Ashar Ash Sharqiyah)と呼んでいるので私もそれに倣っている。
シドル(Sidr)と云う木の名はサウジアラビアで最も珍重される蜂蜜が採れると云う事で知った。シドルから採った蜂蜜は色が黒く粘性も強く私の好みでは無いが普通の果実から採った蜂蜜が1kg当たりSR 50~SR 150(1,500円~4,500円)なのにシドルから採った蜂蜜は1kg当たりSR 400~600(12,000〜18,000円)もする。長い間このシドルと云う木が何なのか私に取っては謎であったが最近ナツメの木(Jujube Tree、Sidr、Zizyphus spina-christi)の一種である事が分かった。
1.6 ジーザーン州(Jizan Emirate)
ジーザーン(Jizan)正しくはジャーザーン(Jazan)で、古代にはミハラフ・スリマニ(Al-Mikhalaf Al-Sulimani)と云う名で知られて居た。ジーザーンはサウジアラビアの南西部で紅海に接し、平原と森と山岳地帯で構成されている。海岸の湿地帯の内陸に広がる肥沃な平原は、川や洪水で山岳地帯から運ばれた堆積物で作られて来た。同じ様に洪水の賜であるハゾウン(the Alhazoun district)地区の森林地域は所々豊かな牧草地で途絶える森で構成されている。山岳地域はアラビア半島のゴツゴツした背骨に当たるサラワート山脈(Al Sarawat)の一部である。ジーザーンで一番高い峰はファイファー山(the Fifa Mountain)で標高は3,300m(一部の文献の記述であり私は誇張だと思う)に達する。ジーザーンの紅海岸の総延長は約300kmもあり100幾つかの島嶼を含んでいる。 ジーザーンはサウジアラビアの最も豊かな農業地帯の一つで農産物の品質の高さと種類の多さで有名である。主な農産物としてはコーヒー豆、大麦、キビ、小麦の様な穀物、林檎、バナナ、葡萄、レモン、マンゴー、オレンジ、パパイヤ、プラムやタマリンド(Tamarind)の様な果物である。ジーザーン商業港はサウジアラビア西南部の主要港でありこの地域の発展に寄与している。桟橋は12あり大型の商船が横付け出来、近代的な積み卸し設備を整え様々な種類の貨物の倉庫も完備している。61mの高さの管制塔、品質管理実験室、コンピュターセンターもあり、2000年から2001年には180万トンの貨物を扱った。 私として同じ様な規模の東北辺境のカフジは、ジーザーンからこの10年でその発展に大きく水を開けられたのをなんとなく残念に思う。何と云っても最大の違いはこの地方が多くの部族の故郷であるのに対してカフジには全くと言って良い程カフジ出身の部族は居ない。この辺りにサウジ政府の部族懐柔を念頭に置いた施策が現れて居る様に思える。 2 北部ティハーマ海岸地域 (North Tihamah Coastal Area)
2.1 バーハ・パレス・ホテル(Al-Bahah Palace)
1998年4月5日は快晴で朝方多少霞が掛かった。標高 2,100 m のバーハ・ パレス・ホテル(Al-Bahah Palace)はマフワー(Al Makhwahh)へ下る急坂の山岳ハイウェイを見下ろせる崖の上に有る。午前8時00分頃にホテルから山岳ハイウェイのイロハ坂(七曲がり坂)を写真に撮ろうと外にでる。昨日、坂途中の土砂崩れの復旧工事をしていた場所で会ったマントヒヒの群の様だが更に数が増え80頭位がホテルの別棟に成った建物の日溜まりに居る。多分残飯でもあさっているのだろう。従業員が近くに行くと危険だと注意して呉れる。その割にはホテルの従業員も改築工事の労務者も余り気に留めず普通に作業している。運転手のサウード(Saud)が迎えに来た頃にはそこにはマントヒヒ達はもう居なかった。ホテルの裏山で土壌試料を採集していると日溜まりを求めてマントヒヒの群が移動して来た。こちらから近寄ると何と無く逃げて行く。
Bahahのマントヒヒ その1
Bahahのマンとヒヒ その2
2.2 山岳ハイウェイ(バーハ・マフワー線)
午前8時15分に閉鎖中の空中モーテル(Motel Al-Bahah)の入り口の少し西側に設けられている検問所(Check Point)(標高 2,050 m)から出発する。5分程で昨日偵察に下って来た山岳道路の復旧工事現場を過ぎる。上の石が又崩れないとも限らないので山岳ハイウェイを下りながら崖を見上げて居るとこの急峻な花崗岩と片麻岩だけの崖にも木も草も茂り水の流れのある澤筋がある涸れ沢も幾つかある事が分かった。この山岳ハイウェイはアブハー・ジーザーン線(Abha/Jizan)と違って最近出来たらしくこれまでにサウジ交通省が蓄積して来た山岳ハイウェイに関する経験(Know-how)を新たに生かしている。山岳ハイウェイは洪水の被害に合わない様に山腹の高い所に設置してあり、随所に隧道や窓開きの隧道、涸れ沢越えの橋が掛けられている。旅行前の予想に反して、アブハー・ジーザーン線(Abha/Jizan)よりもずうっと近代的な山岳ハイウェイである。
Bahah/Makhwah道路
午前8時35分、ちょうど南へと下って来た山岳ハイウェイが北にU-ターンする場所(標高 1,450 m)で休憩し片麻岩とそれの風化した土の試料を採る。この大きな涸れ谷アフサバ(Wadi al Ahsabah)の谷底付近の山腹や崗の上に石作りの住居跡が数多く見られる。そこから暫く下った所でトンネルの新設工事を行って居り、その脇の比較的水量の多い沢でも休憩した。青い空を背景にバーハ(Bahah)を下から眺めるのは実に良い景色ではある。清澄な水で顔を洗うとスッキリと気分も爽快である。午前8時50分に標高 1,240m辺りに掛けられた橋で幅の広い川床の白く平らなに成った涸れ谷アフサバ(Wadi al Ahsabah)を渡り返す。
橋を渡った直ぐ上に石造りの廃虚が幾つか並んで居りその一つの前で養蜂家がテントを張って居る。巣箱が円筒型でそれを5~6個平らに並べ、上を絨毯の古い様な布で覆っているのが珍しい。シドル(Sidr)と呼ばれるナツメの蜜を採って居るのだろう。この蜜は黒く濃厚でサウジ人は好むが私には余り良い味には感じられ無い。サウード(Saud)とそこに建つ昨日から烽火台と私が呼んで居た石作りの四角の塔を調べる。入り口が無い様だ。サウード(Saud)の話では多分、屋号の象徴らしい。又、住居と関係なく山稜等に建立されて居るのは道しるべと云う事の様だ。マダーイン・サーリフ(Mada’in Salih)よりも以前からのものなので良くは分からないとサウード(Saud)は云っているらしい。この広い涸れ谷(Wadi)の随所の小高い場所に石作りの廃虚がありこの涸れ谷の歴史を感じさせる。
午後9時15分、涸れ谷(Wadi)の入り口(標高 690 m)の様に広く平になる。涸れ谷(Wadi)の奥には採石所が二カ所あり、それの基地にでも成って居るのか。尖塔が高く尖って特色のあるモスクと白い邸宅が7,8軒並ぶ人口100人程度の部落がる。午前9時25分のサクラン(Al-Sakran)(標高 510 m)を通過する。サウード(Saud)はエンジン・ブレーキ(Engine Break)の効きに満足したのか平らに成ってもさかんに使っている。
2.3石の壁と木の屋根の家が象徴するマフワー(Al Makhwah)
午前9時35分にバーハ(Al Bahah)から30 km下ったキルワ(Qilwah)への分岐(標高 365 m)の十字路に到着する。農村がずうっと続いて居るのでマフワー(Al Makhwah)がどの範囲か分からないが商店の規模からすれば5,000人程度の町だ。でもその周囲を入れれば10,000人規模になる。午前9時45分にバーハ(Al Bahah)から39 kmで二股になる。この二股をジーザーン(Jizan)では無く右へマッカ(Makkah)への道を取る。この二股を過ぎると涸れ谷に1~10m幅の水流が出て来た。午前9時55分に15、6頭の背中に瘤のある茶色の牛が柵無しで放牧されている放牧地を通過する。涸れ谷(Wadi)の水流は多くなり、幅をますます広げた川床には自生のタマリスク(ギョリュウ)やシドル(ナツメ)が緑をたわわにして広がっている。大げさではあるが小さな熱帯雨林の出現の様だ。道は緑一杯の涸れ谷アフサバ(Wadi al Ahsabahと別れる。
2.4 ティハーマ・シャームを代表するムザイリフ(Muzaylif)
午前10時00分、(標高 130 m)、山地を抜け、丘陵地帯に入る。これは涸れ谷ナーワーン(Wadi Nawan)の筈である。午前10時10分にナーワーン(Nawan)(標高 50 m)を通過すると大地に土が多くなる。午前10時25分にバーハ(Al Bahah)から84 kmのムザイリフ(Muzaylif)(標高 40 m)に到着した。人口5,000人程度の街道町で周囲は農村である。この町の少し東側でバーハ州(Al Bahah Emirate )とマッカ州(Makkah Al Mukarramah Emirate)の州境を再び越えている。のんきな事に特に気が付く様な目印等も無く、同じサウジの南西部でも検問の厳しいナジュラーン(Najran)州とは全く異なっている。平らな砂地の所々にお椀を伏せた様な直径10m以下の土塊が点在する。土塊の上には小さい葉ながら小判型の広葉の灌木(Shrub)が生えている。この灌木はこの辺りからジーザーン(Jizan)に掛けて良く見かけるが名前はいまだに特定出来て居ない。この道は主要道なのに通行する車の幅だけで両端の路肩の舗装が無いので追い越しの時が危険だ。私は3級国道と呼んでいるが主要道は最初に作られた所為かサウジの何処に行ってもこの3級国道が多い。
2.5 イナゴの繁殖地
午前10時30分にムザイリフ(Muzaylif)南10km辺りでティハーマ・シャーム(Tihamat ash Sham)の土壌試料(soil sample)を採集する。小さい灌木(Shrub)がたくさん生えた砂地はイナゴの繁殖地らしく、幼生が飛べずに地を這っている。サウジ東北辺境のカフジにすごい数で飛来して来るが死ぬばかりの感じの群と較べるとここのイナゴは全て元気だ。この砂地の平らな沙漠は町に近くには農地もあり、草やタルフ(Talh)が一面に生え、緑で結構、覆われている。お椀型の土塊は風で砂が積もった場所が降雨で洗い流され(Leaching)塩気が少なく植生が生える為、その植生に守られて砂の堆積が残ったのでは無いか。イナゴはアフリカから飛来するとばかり思って居たのでサウジ国内に繁殖地がある事を初めて知りすこし驚いた。
地図にはこの少し内陸にジーザーン州のサブヤー(Sabya)と同じ地名の町が記載されているがこちらは北に位置しイエメンとの国境紛争とも関係が無さそうなのでイドリーシー(Idrisi)の都のあったサブヤー(Sabya)では無いと私は考えている。
午前10時58分、モロコシ(Sorghum)が畑だか、自生だか判らない様な生え方をしている。熔岩(Lava)地帯の西側の海岸砂地はこのモロコシ(Sorghum)と蒲の穂の様な運転手のサウード(Saud)がダラ(Dhara)と呼ぶ穀物が多く植わっている。所々円錐型に束ねた茎と一緒に収穫されているから栽培しているのだろう。これから南の土塊の上は小判型の広葉の灌木(Shrub)からオーチェリ(Aucheri)類に変わる。地図ではクンフザ(Qunfudhah)とムザイリフ(Muzaylif)の間に熔岩地帯の記載は無いが実際には確認している。私の印象ではこの様な小さな熔岩地帯は紅海岸の至る所で見られる。
3 熔岩が広がるマングローブの湿地帯 (the Harrah Birk)
3.1 七つ井戸のクンフザ(Qunfudhah)
午前11時00分、131 km、クンフザ(Qunfudhah)(標高 5 m)、夜間照明のあるサッカー場がある。遠くから高層ビルと見間違えた建造物は近くで見るとそんなに大きく無い建築中の給水塔だった。他には高い建物は無い。古代からの歴史のありそうな場所にある町だし2000年前にローマの遠征軍も通過した記録もある。オスマン・トルコやサウジアラビア初期にはこの辺りの治世の中心であった事を示す古い小切手等も保存されているのは分かった。しかしながらこの町がどの様な歴史を歩んで来たのかいまだに文献を探し出せないでいる。
クンフザ(Qunfudhah)は涸れ谷カヌーナ(Wadi Qanunah)の河口でもある。涸れ谷カヌーナ(Wadi Qanunah)は「アシール訪問その1ジバール・サラート地域」でご紹介したガリサ(Al Gharisah)西のサラートにある鞍部で西側の涸れ谷カヌーナ(Wadi Qanunah) と東側のランヤ(Wadi Ranyah)のそれぞれの源頭部となった盆地から南に長く延びる尾根を挟んだ両側のアカバ(al-'Aqabat)やガーミド・ズィナード(Ghamid Az Zenad)からバルジュラシー(Baljurashi)への間道の途中までをその流域に含んで居る。
砂地から含塩平地(Sabkha、Salt Flat)に変わる。白鷺の様な鳥が十数羽飛んでいるのを見たが、それとは確認は出来なかった。町外れにSCECOの発電所がある。午前11時20分、タルフ(Talh、Acacia Gerratdii)の疎林が広がる。その南では草の生えタルフの疎林が更に広がる。その南では草の生えた砂地に変わり、その先では再び一抱えも有る石の転がるタルフの疎林となる。道の沿って白い乳液を出すウム・シャール(Um Shar)が所々に群生し始める。
3.2 涸れ谷ヤバー河口のクーズ(Al Quz)
午前11時30分、162 km、クーズ(Al-Quz)(カウズ(Al Qawz))入り口(標高 50 m)、右側に2、3の分岐があり、奥に集落が有るのが分かる。砂地を浅く刻む幅の広がった涸れ谷ヤバー(Wadi Yabah)をわたる。町の東側に涸れ谷ヤバーを挟んで並ぶ火山は確認して居ない。午前11時45分、多少、緩やかな起伏の有る砂の平地となる。所々に小さな砂丘が出来て居り、その南は小さいながら砂丘地帯となる。
涸れ谷ヤバー(Wadi Yabah)もかなり大きな涸れ谷であり、アシール訪問(その1ジバール・サラート地域)で紹介したナマース(An Namas)からバニー・アムル(Bani Amro, Bani Amruu or Bani Amr)、マシャーイア(Al Mashay'ah)、トゥーフ(At Tuf)に至るほぼ真っ直ぐに50km近く南北に延びる山稜(サラート)を源頭としている。
3.3 大涸れ谷の河口ハリー(Hali)
午前11時55分、ハリー(Hali)(標高 40 m)、殆どガソリンスタンド(SS)だけの集落ある。その北側にかかる3~4つの橋を渡る。大きな一つの涸れ谷(Wadi)の可能性がある。涸れ谷の川床は農地と成っている。後で分かるがこれがスーダ(Soudah)まで長く続く涸れ谷ハリー(Wadi Hali)であった。午前11時57分、カヤード(Kayad)(標高 40 m)、検問所(Check Point)のある1,000人程度の町。運転手のサウード(Saud)は住民全部が黒人の町だと云う。フェラーヒーン(Fellahin)と云う印も無いのにどうして分かるのか不思議だ。町の南は再びタルフ(Talh、Acacia Gerratdii)の疎林が広がるが、その中に一抱えもある岩や、人間の頭大の石が転がる。地図によれば熔岩(Lava)地帯の始まりだから、火山弾の可能性が大きい。海に向かって長く延びる農村地帯先端のムフシュシュ(Al Mukhshush)への道が右に分岐する。午後12時10分、検問所(Check Point)がある。前方に火山らしい低い崗が影を出して来る。この一帯はジェッダ(Jeddah)までティハーマ(Tihamah)と呼ばれる海岸低地が続くと思って居た。この海岸が低いながら火口丘が並ぶ熔岩地帯とは昨夜、地図で下調べするまでうかつにも気が付かなかった。
3.4 エダウチヤシが群生するアマク(Amaq)
午後12時20分、アマク(Amaq)(標高 10 m)、ヤツデの様な葉をした芭蕉椰子(エダウチ椰子)と私が仮に渾名したエダウチヤシが群生して居る。特に涸れ谷(Wadi)の中に多い。芭蕉椰子の群生で完全に熔岩地帯に入ったのを感じた。芭蕉椰子は町の街路樹に使われて居る時は幹が太く、途中、枝分かれして無いが自生の物は幹も細く、幹が枝分かれしている。アマク(Amaq)の南ではナツメ椰子もこの群生に混ざって自生しているのがアマク(Amaq)の北とは違う。海岸地帯の為かも知れ無い。
鷹の様な鳥が目の前を飛んで行く。この鳥は鷹の様な頭をして居て、鷲の様に嘴が曲がって居ない。体はいつも見かけて居る鷹よりも一回り大きい。羽が鳶に似て居り、何と云っても群れるのを見かけるのと群で死骸の上空を旋回するので鷹では無いと考える。鳶かどうかもハッキリしないが鷲でも鷹でも無い猛禽類としては鳶しか頭に浮かばない。ただ、鳶にしては頭が小さい。この鳶はサラワート(Sarawat)と呼ばれるアシール・ヒジャーズ(Asir/Hijaz)山脈のサラート(al-Sarat)の西側でしか見た事が無い。
アマク(Amaq)に流れ込む涸れ谷(Wadi)は幅20m程度の川に成っている。その水のせいか海岸にはマングローブ(Mangrove)が群生している。熔岩地帯は真水の恵まれるのかこの熔岩(Lava)地帯の海岸は殆どマングローブ(Mangrove)に覆われている。午前12時25分、別の水流の涸れ谷を渡る。海岸にはマングローブ(Mangrove)の群生が続く。熔岩が海水に洗われている海岸道路を行く。芭蕉椰子(エダウチヤシ)の群生に普通のナツメ椰子が混ざる。10m幅の水流を二カ所渡る。マングローブ(Mangrove)が群生の群生が一段と濃い。この熔岩地帯は涸れ谷が多く、それが汽水を生んでマングローブ(Mangrove)の生育に適した条件を作っているのだろう。
3.5 熔岩地帯の中心ビルク(Al-Birk) 午後12時50分、バーハ(Al-Bahah)から256 kmでビルク(Al-Birk)を通過する。この町は海岸にあるがこの熔岩地帯の中心的な場所にあり、この熔岩地帯の名前にも成った居る。この熔岩帯には火口丘は多いが高さは余り無く、標高513mが最高峰の様だ。検問所(Check Point)があり、SWCC(塩水淡水化公団の工場)はあるが人口3,000人程度のどちらかと云えば寂れつつある町だ。低くい火口丘が幾つか見える。ビルク(Al-Birk)付近は沖合にたくさんの小さな島がある浅い海であり、砂地と泥質の入り江が散在する砂質の長い帯状の洲にマングローブ(Mangrove)が生えている。町に入る前にマングローブはここで一時途絶え、町を南に外れると海岸にマングローブが戻る。海岸近くの陸地は砂と石の混ざった沙漠にアカシア(Talh、Acacia Gerratdii)が点々と並ぶ。 3.6 州境のティルク(Al-Tirq)
午後13時00分に涸れ谷ザフバーン(Wadi Dhahban)を渡る。芭蕉椰子(エダウチヤシ)の大きな林がある。鳶が飛んでいる。地図にはティルク(Al-Tirq)と記されマッカ州(Makkah Al Mukarramah Emirate)とジーザーン州(Jizan Emirate)の州境と成っている。12~13km内陸にはいるとアシール州(Asir)を含めた3州の分岐点がある。
3.7 海側と山側を火口丘で夾まれたカフマ(Al-Qahmah)
午後13時10分にカフマ(カハマ)(Al-Qahmah)を通過する。人口500人位の部落。部落の山側と海側にそれぞれ一つ火口丘がある。芭蕉椰子(エダウチ椰子)が群生している。タルフ(Talh)は見あたらない。
3.8マングローブのシュカイク(As Shuqayq) シュカイク(Shuqaiq)のおよそ20km北付近にはマングローブ(Mangrove)の群生があり、大きな干潟のある浅い湾にマングローブが生えている。午後13時32分、シュカイク(As Shuqayq)の西5kmでバーハ(Al-Bahah)から326 km付近でムハーイル(Muhayil)への道が分岐するとハーイル山(Jibal Hayil)の熔岩地帯を抜け熔岩が地表から一旦姿を消す。砂地に芭蕉椰子(エダウチ椰子)が群生している。シュカイク(As Shuqayq)の涸れ谷(Wadi)を渡ると300人程度の集落がある。鳶が十数羽上空を旋回して居る。鳶は黒っぽい褐色で羽が直線的では無い。午後13時45分にサウジ淡水化公団(SWCC)の造水工場(Asir Desalination and Power Plant)の看板が出ているが広い海岸側の敷地には何も見え無い。タルフ(Talh、Acacia Gerratdii)の疎林がその敷地にも陸側にも広がる。芭蕉椰子(エダウチ椰子)は姿を消す。
3.9 交通の要所ダルブ(Ad Darb)
ダルブ(Ad Darb)の西9km付近でティハーマ(Tihamah)の土壌試料(Soil Sample)を採る。土壌も土壌の表面に散らばる火成岩や熔岩が流れで丸く磨耗された小石もそこに自生するタルフ(Talh)もヤンブー(Yanbu)南の海岸地帯のタルフ(Talh)群生疎林と余り変わりは無い。午後14時00分にバーハ(Al-Bahah)から約368 kmでアブハー(Abha)から約83kmの位置にあるダルブ(Ad Darb)に到着する。この町は結構広がりもあり町並みも賑やかで人口も15,000人位は住んで居そうである。町中の何処でも有る様な交差点がアブハー(Abha)へとジーザーン(Jizan)への分岐だ。駱駝の胡麻挽きの小屋も見られティハーマ海岸地域 (Tihamah Coastal Area)の典型的な町の風情に戻った。
Tihamahの胡麻挽駱駝
4 南部ティハーマ海岸地域 (South Tihamah Coastal Area)
ここで云う南部ティハーマ海岸地域 (South Tihamah Coastal Area)とはアシール州の南部ジバール・サラート(Jibal al-Sarat)より紅海側の部分とジーザーン(Jizan)州の殆ど全域を指している。
4.1 涸れ谷ディリア(Wadi Dala' or Wadi Dili’) から涸れ谷イトワド(Wadi Itwad)
2000年12月25日午前11時55分に標高 2,050 mのアブハー(Abha)を出発する。ジーザーン道路(Jizan Road)を一頻り下った標高 1,450m辺りで休憩し、午後12時30分に検問所(Check Point)を通過する。涸れ谷ディリア(Wadi Dala')が涸れ谷イトワド(Wadi Itwad)と合流する手前の中流域で涸れ谷ディリア(Wadi Dala')を挟んで東側に30-40頭のマントヒヒの群が居る。川にバナナを投げると水しぶきを上げながら二頭が近づいて来てバナナを食べる。群の他の猿は見向きもしない。食料が十分なのかその直ぐ先の道路脇に居た群も特に食料をねだっては来ない。
ディリア渓谷
ディリア渓谷の橋
4.2 ダルブ(Ad Darb)の農村地帯
2000年12月25日は快晴で後雲多く風が強くなった。早朝ナジュラーン(Najran)を出発し、アブハー(Abha)経由で涸れ谷ディリア(Wadi Dala')を下り、 午後13時30分にアシール州(Asir Emirate)とジーザーン州(Jizan Emirate)の州境を通過すると涸れ谷イトワド(Wadi Itwad)が平らに成った辺りに鳶が数羽旋回している。午後13時45分頃アブハー(Abha)から63 kmにあるムハーイル(Muhayil)への分岐(標高 140 m)の立体交差を通過する。ダルブ(Ad Darb)の農村地帯に入るとガレージ(Garage)見たいな日除け(Sunshade)の中で駱駝に臼を引かせて胡麻を摩って油にして売っている。タルフ(Talh)とオーチェリ(Aucheri)の様な木の繁茂した土漠に入ると東側に岩山が二つ並んでいる。午後14時00分にアブハー(Abha)から78 kmの標高 50mの交差点でジェッダ方面との道から分かれ南東にジーザーン(Jizan)方面へ下る。芭蕉椰子と私が渾名しているエダウチヤシ(dawn palm)が南側に自生している。ここからジーザーン(Jizan)までの間ではこの椰子が涸れ谷等で豊富に自生している。又、畑の中に植えられているものも少なくない。私は芭蕉椰子のある所は必ず熔岩があると考えて居るが実際に道に沿って地図に記載の無い小さな熔岩地帯を幾つも見かけた。土漠に礫が混じり、植生が疎らになる。
4.3 大涸れ谷の河口バイシャ(Baysh)
午後14時25分にアブハー(Abha)から139 kmのバイシャ(Baysh)を通過する。小さな町ではあるが涸れ谷バイシャ(Wadi Baysha)が通って居る。涸れ谷バイシャ(Wadi Baysha)は、一旦北上し向きを東に変えてファルシャ(Al-Farshah)付近の南部ジバール・サラート(Jibal al-Sarat)とカハル山(Jabal Al Qahar)、ハルーブ山(Jabal Harub)、ファイファー山(Jabal Fayfa)やバニー・マーリク山(Jabal Bani Malik)等の山並みとの間に渓谷盆地作り出し、その源頭はザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub) まで更に東に延びている。この様に涸れ谷バイシャ(Wadi Baysha)はティハーマ海岸地域 (Tihamah Coastal Area)では涸れ谷ハリー(Wadi Hali)と双璧を成す大きな涸れ谷である。
コノカルプス(Conocarpus)の様な木や同じ様な木で葉っぱが笹をスターフルーツ(Star Fruit)の様に広げた格好をしている木等が大きく育って防風林と成っている。(他の地方ではモクマオウ(Casuarina equisitifolia、Beefwood)が防風林に使われている事が多い)普通のナツメ椰子(Date)の畑もあり、又、タルフ(Talh)とオーチェリ(Aucheri)で密林の様に成っている場所もある。東に山塊が見え、二つの山の姿だけが聳えている。土漠の植生はオーチェリ(Aucheri)のみと成る。モロコシ(Sorghum)の畑とその中に先を細く束ねた茎の枯れた束が目に付く。名は分からないが葉の円く小さい灌木の群生する土饅頭がたくさん隆起している。雑木の群生も多い。
4.4 イドリーシー(Idrisi)の都サブヤー(Sabya)
午後14時50分、アブハー(Abha)から163 kmのサブヤー(Sabya)(標高 20 m)を通過する。大きな町の広がりの割に、街道筋は寂しいが、カターン族(Qattan)の男が一般の買い物客に混じっている。群生なのか畑なのか、シドル(Sidr)がいっぱい植わっている場所がある。オーチェリ(Aucheri)の生える白い砂の低い砂丘地帯になる。西側では植生の疎らで開けた、砂の波だけの場所もある。その中に這い松の様な群生をしている低い灌木がたくさん植わっている。こんな一見のんびりした場所でイドリーシー族は自らを滅ぼす様な骨肉の争いをして居たのだろうか。北東には小さな熔岩地帯があり火口を持つ小火山が二つ記されている。午後15時15分、アブハー(Abha)から193 km(海抜 -20 m)の海岸にあるジーザーン(Jizan)に到着し、ハヤート・ホテル(Al Hayyat Hotel)を目指す。ホテルの上に鳶が輪を描いて居る。海岸なので高度計調整する。
Jizan海岸
4.5 港の町ジーザーン(Jizan)
2000年12月26日(薄曇り微風)午前6時55分にジーザーン(Jizan)のハヤート・ホテル(Al Hayyat Hotel)(標高 0 m)を出発する。朝から鳶が飛んでいる。道に迷い、飛行場(Jizan Air Port)に出た。この飛行場は町の中心(City Center)から近い。飛行場から町の中心(City Center)のアテェール・ホテル(Atheel Hotel)のある楕円形交差点(Roundabout)に戻る。町は大きく埋め立て区画をしているが盛土せずに水の溜まった場所が目立つ。イエメン国境のトゥワール(At Tuwal)まで80kmの標識をやっと見つける。市街地を出ると東側に昨日から眺めている火山の山影を見る。周囲のティハーマ(Tihamah)と呼ばれるアカバ湾(Gulf of Aqabah)口からイエメン(Yemen)に至る紅海岸の海岸低地の土漠は冬のせいもあって緑(Green Cover)に被われて居るように見える。それでも空から見ればやはり土漠なのだろう。
4.6 イエメン国境のトゥワール(At Tuwal)
昨日から見ている蒲とモロコシ(Sorghum)が目立つ。又、オーチェリ(Aucheri)が大きく成って生えている。円形農場は見あたら無い。点在する大きな土饅頭は小さな葉の円い背の高い灌木(Bush)である。午前8時頃にジーザーン(Jizan)から46 kmのアハド・マサーリハ(Ahad al Masarah)を通過する。この町は村程度の規模でフーバ(Al-Khubah)への道が分岐する。東側に発電所があり、小さな円形農場(Center Pivot)がモロコシ(Sorghum)の畑の中に一基あらわれる。ジーザーン(Jizan)から62 kmでサーミタ(Samitah)と云う大きな町を通過する。モロコシ(Sorghum)の畑の中、シドル(Sidr)の木が点々と植わって疎林の様だ。午前8時25分、ジーザーン(Jizan)から80 kmでトゥワール(At Tuwal)に到着する。小さな町で直ぐに国境の出入国管理事務所と税関のある検問所の開閉機を越えそうになり、引き返す。町を出ると白い羊(黒のブチのあるのも居る。) を放牧しているのに出会う。この数も少なく、一つの群もせいぜい20~30頭規模である。帰路はアハド・マサーリハ(Ahad al Masarah) (標高 50 m)からジーザーン(Jizan)に戻らずアブー・アリーシュ(Abu Arish)に向かう事にした。
4.7 ティハーマの山麓
アハド・マサーリハ(Ahad al Masarah) でフーバ(Al-Khubah)への分岐付近でまごつくが、町の北の二叉路を右へと北に向かう。一番広い農業地帯であるが灌木(bush)の草原状に繁茂しその中に半分くらいの面積で モロコシ(Sorghum)の畑が広がる。円形農場(Center Pivot)は見あたらない。午前9時15分、ジーザーン(Jizan)の東25 kmのアブー・アリーシュ(Abu Arish)の町の南を東へと曲がる。間もなく小さな熔岩地帯(Harrat)を通過する。道路を挟んで南北にそれぞれ火口を持った小さな火山があり、対峙している。その直ぐ東側にマラーキー・ダム(Malaki Dam)と云う貯水池がある。大きな水量の様なのでダムを見たいが門番(Bawarb)が立ち入り禁止と言って中に入れてくれない。その奥にある大きなゴミ消却場の上を鳶が何羽も群れて旋回しているのが印象的である。
Jizanの農村
午前9時50分、ジーザーン(Jizan)の東50 kmでアーリダ(Al-Areda)への分岐を通過する。この分岐から5km東のアーリダ(Al-Areda)ではさらに東への道路と南への道路が分岐する。分岐には国境警備隊のおおきな宿舎がある。地図に記載された東への道より南への踏み跡(Trail)の方が立派な舗装道路である為、「アーリダ(Al-Areda)は未だ先だ」と思って進む。午前10時00分、水の流れのある涸れ谷の河床をわたる。山との対象で絵画的(Picturesque)風景である。その先の涸れ谷は更に水も澄み、美しい。道路を洪水で激しく洗い流された三本目の涸れ谷を渡っても町らしい家並みは見えて来ない。道は山に近づかずに南に延びて居り果てが知れないので引き返す。後でフーバ(Al-Khubah)へ行く道と分かる。午前10時20分、ジーザーン(Jizan)の東55kmのアーリダ(Al-Areda)から南に7,8kmで休憩しティハーマの山麓の景色を堪能する。空は多少霞んではいるが晴れ渡り足元の清澄な水の流れ越しに山麓に広がる緑を眺める。高い山の裾に広がる丘には家が点々として人の営みの長さを感じさせる。アーリダ(Al-Areda)からの舗装した道が信じがたい急な勾配で山に登っている。後での経験を予知すべくも無く、「凄い難所を車で登り降りしている」と感心する。
Tihamah山麓 その1
Tihamah山麓 その2
Tihamah山麓 その3
4.8 空中都市ファイファー(Fayfa)
午前10時35分、分岐アーリダ(Al-Areda)から北に向かう。傾斜した斜面の東側は岩山で西側は農地に灌木(Bush)が半分以上混じる。オーチェリ(Aucheri)とタルフ(Talh)の中間の様なアカシア(Acacia)科の木の葉を数頭の群の駱駝が食べている。午前10時45分、フマイラ(Al-Humairah)分岐を通過すると高原道路の感じに成って来た。地上には家が全く無いのに東の山の上にかかる雲や霞の中に白い建物がたくさん並んでいる。まるで空中に村々が浮かんでいる様だ。
Fayfa その1
この時はこの建物群は別荘かとも思ったがファイファー(Fayfa)からさらに登ったナイド・アハール(Nayd Ahar)、ファルハフ(Farhah)、ハシュア(Al-Khash'ah)等の村々で病院とTV塔がある。「何でこんなに高いところに人が住んでいるのか。」と疑問が消えなかったが例の石積みの段々畑跡が並んで居るので、長い歴史の中、山岳農業を営んで来た山岳部族の子孫である事が分かる。この辺りの男は花冠をしてないがカターン族(Qattan)と同じ様なスカート(Skirt)をはいている。ガソリンスタンド(Gas Station)を過ぎたところでマイトヒヒ(Baboon)の20~30頭の群に会う。相変わらず写真は嫌いのようだ。
午前11時00分、ジーザーン(Jizan)から70km付近でサブヤー(Sabya)への丁字路を右折する。道路の両側の斜面に家が散在し、奥多摩を思わせる風情だ。丁字路を少し北に入った所に国境警備隊(Frontier Force)の検問所があるが登りでは何の検査も受けなかった。午前11時20分、ファイファー(Fayfa) への分岐ではダーイル(Al Dayr)への道が直進しているので分岐を行き過ぎ、その奥の二叉のガソリンスタンド(Gas Station)で確認し引き返す。引き返して初めてのガソリンスタンド(Gas Station)から南へ田舎じみた道に入る。午前11時30分、ファイファー局(Fayfa Authority)、ファイファー開発局(Fayfa Development Authority)との指導標識とその脇に手書きで温泉(Hot Spring)との一見分かりにくい看板がある鞍部に付いた。開閉機の付いた検問所を通過する。この事務所(Authority)は何を開発しているのだろうか。
午前11時35分、ジーザーン(Jizan)から95kmにあるファイファー・センター(Fayfa Center)(標高 850 m)に着く。センターとは名ばかりでガソリンスタンド(Gas Station)位しか設備が無い。車線のある道路はそこで途切れるが細いタールマック舗装の道は更に上にと続いている。この上に何があると聞くと、テレビ局と病院であると言う。少し引き返し、スカート(Skirt)をはき、イエメン(Yemen)風の短刀(Dagger)を帯びた老人に「この辺りは何で生計を立てているのか」と訊ねさせるが、学校とか、警察、軍隊とか、市役所とか、建設等々と要領を得ない。周囲の撮影をする内に山岳の石積みの段々畑跡を見つけ、「昔から山岳農業を営んできた部族の子孫なのだ」と知る。灌漑用の天水により恵まれる山頂へ山頂へと家も農地も上げて来た結果、こんな険阻な山の上に住むような成ったのだと思う。又、一度住み着くと「貨幣経済との不整合、言い換えればこの山に暮らす限りあまり金は掛からない」と云う事なので未だに子孫達もこの山村を離れないのだろう。
Fayfa その4
4.9 温泉のある秘境バニー・マーリク(Bani Malik)
午前11時45分、ジーザーン(Jizan)から90kmにあるファイファー局(Fayfa Authority)の看板のある鞍部の検問所(Check Point)の兵隊にそこの手書きの小さな看板の出ている温泉(Hot Spring)はどう行くのかと訊ねると、「この谷を下って18km行った場所だ」と言う。そんなに遠くは無さそうだし、「サウジアラビアの温泉とはどんな場所なのか」興味を誘うので行くこととした。谷を降りた所で二叉と成っているのでファイファー 開発事務所(Fayfa Development Authority)との看板のある建物の門番に場所を確認する。運転手のラマダーン(Ramadan)は「このWadiを下って温泉の看板を左側に登った所でここから18kmだ」と聞いてくる。このスカート(Skirt)をはいた山岳部族の老人の話は確かであったが聞いた方が余りに気楽に考えて居たのでその後、苦労する事と成った。木々の大きく育った狭い谷間の道は川底を通っているが一ヶ所大きく高巻きし、その場所の道幅の狭さと急峻さに恐ろしさを感じる。
谷間を上流に向かい温泉(Hot Spring)への分岐の手書き看板の掛かった所を左へと登る。精々50mも行けば現れると考えて居た温泉場は登っても、登っても現れない。道路はファイファー局(Fayfa Authority)の看板の立つ検問所の兵隊が「舗装してないよ」と、念を押したので有る程度は覚悟したもののこんなにも急峻で狭いとは思わなかった。道路の右側の崖は千尋の谷の様相と成って来た。ブルドーザー(Bulldozer)で多少は土盛りしてくれては居ても所々、排水の為に、空滝の様に谷へ口を開けて居る。ランドクルザー(Land Cruiser)の変速歯車(Mission)が故障したらこの斜面ではとても助かりそうにもない。車がデングル返しに成らないかと不安に成る。運転手のラマダーン(Ramadan)も緊張した面持ちなので、坂が緩んだ場所で休憩する。
ラマダーンは上の方を徒歩で少し偵察し、「多分、山頂に温泉があるのだ」と言う。奥多摩の御獄等の印象でなんとなくそんな感じを持った。「山頂までだとまだかなりあるけど大丈夫か」と聞くと「ここまでが難所であって緊張したがこの先はそれ程でも無い」と言う。これは単にラマダーンの希望だった事が後で分かる。再び登り始めるが、急峻で道の狭い事には変わり無く車の変速歯車(Mission)に頼る他は無いと諦める。山頂手前の道の更に狭く成ったところに駐車してある小型トラック(Pick-up)を交わすときは、片側、千尋の谷がまともに眼下にあり胆を冷やした。タイヤ幅半分だけのギリギリでどうにかそこを抜ける。
Fayfa その2
午後12時25分、峠に着く。峠の売店で道を聞くとラマダーンと同じエリトリア(Eritrea)人で親切に教えては呉れたが「峠から更に6km下ったところだ」と言う。「時間が掛かるなら引き返す」と言うと「いや何、すぐだ」と言う。下り始めは「エンジン・ブレーキ(Engine Break)が効かないかも」と心配するがここは覚悟を決める。奥多摩の林道を思い出しながら下る。下の村には結構、道が走っているからもっと楽な、多分、タールマック舗装(Tarmac)の道が有るだろう等と安易に考える。村の入り口の粗末な石作りの民家で主人がサラート(Sarah)(日に五回の回教との祈り)を行っているので、祈りの終わるのを待って道を訊ねると「ここからかなり遠い」と言う。案内を頼むと「案内料はお祭り(Eid)だからとSR50くれ」と請求された。ラマダーンはそれをSR20に値切る。サウジアラビアで道案内料を請求されたのは後にも先にもこの時だけだった。そこから更に山道を2.5km下りると大きな涸れ谷を渡った所が温泉場であった。
午後13時00分、随分長い距離を来た様に感じて居たがファイファー局(Fayfa Authority)の看板のある峠の検問所(Check Point)から将に18kmでバニー・マーリク(Bani Malik)に到着した。この案内してくれた村人は色の付いた頭布を巻いて、キルティング(Kilting)風のスカート(Skirt)をはき、短刀を差し、ムジャーヒディーン(Mujahideen)(内務省所属辺境治安部隊)だと言う。内務省の管轄のムジャーヒディーン(Mujahideen)とこの山奥の村人とどう繋がるのか。訊けば村人みんながムジャーヒディーン(Mujahideen)だと言う。それが本当なら収入を与えるための方策だと思う。帰りは今来た道を引き返すのは危険なのでもっと楽な別の道が無いか確かめる。「この部落への道はこの一本だけだ」という。温泉には逗留に使う予定だったらしい建物とその向かいに屯場がある。そこから門番が降りてきて初めは「入れない」と言うが「写真をとってはダメ」と変化した。
温泉のある秘境バニー・マーリク(Bani Malik)
場内には背丈で、幅が10m、長40m位の屋根付きのプール(Pool)があり、子供三人と民族衣装の老人が温泉につかると言うより遊泳の様である。一番奥はシャワー・トイレ(Shower Toilet)があり、その脇の方に10m x 20m位の滝壷のように周りの岩が三方切り立った崖になった凹みがあって、そこに岩肌から温泉が湧き出して居る。彼等との会話でこの谷はイエメン(Yemen)との国境の谷であり、反対側の山を登ればイエメン(Yemen)領である。このあたりは禁制のカット(Qatt)を栽培して、常用する人も居る。考えてみれば、ナジュラーン(Najran)からアブハー(Abha)の間で「警察権も及ばないから、タールマック舗装(tarmac)の脇道に入るな」と言われている。その地域よりも危険な場所に来たのかも知れ無い。初めからこんな場所と言われれば来てないけれど体験としては貴重だと思う。
午後13時40分、バニー・マーリク(Bani-Malik)から7km戻った峠(標高 1,100 m)に着く。峠の売店のエリトリア(Eritrea)人がお茶を飲んで行けと進める。彼はここに6年も勤めていて一番気に入って居るのは金が掛からず稼いだだけ貯金出来る事で既にエリトリア(Eritrea)に家を建てたそうだ。空白地帯で沙漠の中でガソリンスタンドを経営するスーダン人と同じ様な事を言って居る。ジーザーン(Jizan)にはエリトリア(Eritrea)公使館があってたまには顔を出すと言う。明日からのお祭り(Eid)は二日間休みにして山を下り、エリトリア(Eritrea)人の仲間と休日を過ごすそうだ。ここでお茶を飲みながら周囲の谷を見下ろす気分は最高だ。
Fayfa その3
午後14時00分、峠を出発、少し下った、例の駐車している小型トラック(Pick-up)を交わす場所では今度は谷側を見下ろし落ちたら本当に命が無いと思うが、そこから斜めに登る道は殆ど車輪の幅だけなのにトヨタ・ジープ(Jeep)が二台も駐車していて驚く。その向かいの山の登りは更に急峻だ。それらを見ている内にこの坂も恐い物には思えなくなった。午後14時10分、峠から5kmで谷間に下りて来る。往路で怖かった谷道の高巻きの場所等は全く目にも入らない程、楽に感じる。慣れとは恐ろしい。午後14時30分、谷を6km下ってファイファー局(Fayfa Authority)(標高 820 m)の看板の立つ検問所に戻った。国境警備隊員(Frontier Guard)に道案内の礼を言う。往復2時間45分、36kmの登り降りであった。
午後14時35分、ダーイル(Al Dayr)分岐(標高 650 m)に戻る。午後14時50分、検問所(Check Point)(標高 390 m)では「先ほど入山したのは確認しているが規則だ」という事で麻薬や武器の密輸入の取締りをする国境警備隊員に荷物検査を受ける。イエメン(Yemen)との国境に行ったのだから致し方ない。高地を抜け出て周りの山も低くなる。水の流れのある涸れ谷に沿って下る。午後14時55分にアーリダ(Al-Areda)への分岐の丁字路(標高 320 m)まで戻る。警官と国境警部隊が組んで駐屯する検問所(Check Point)で涸れ谷と分かれる。小さな熔岩地帯(Small Harrat)(標高 100 m)を通過すると道の北側に噴火口を持つ小さい火山が二つ並ぶ。午後15時30分、サブヤー(Sabya)(標高 50 m)を通過する。午後16時00分、ジーザーン(Jizan)のハヤート・ホテル(Al-Hayyat Hotel)に戻った。ホテルと道路は挟んだ向かい側の丘にあるオスマン・トルコ時代に建てられた砦跡見学した。バイト・アユブ(Bait Ayub)と言う名だそうであるが古いとだけしか分からない。
バイト・アユブ(Bait Ayub)
4.10 ジーザーン(Jizan)からアブハー(Abha)へ
2000年12月27日(薄曇り後快晴、微風)午前7時00分にジーザーン(Jizan)のハヤート・ホテル(Al-Hayyat Hotel)を出発する。ティハーマ(Tihamah)の土地を緑に被っている植物(ground cover plants)の主な4種類の写真を撮影しながらアブハー(Abha)に向かう事にする。その4種類は仮称だが1. タルフ(Talh)もどき、2. オーチェリ(Aucheri)、3. 這え松に似た小さい土饅頭を作る灌木(Bush)、4. 小さな円い葉の大きな土饅頭を作る灌木(Bush)である。撮影はジーザーン( Jizan)とサブヤー(Sabya)の間で殆ど終わる。午前7時50分、サブヤー(Sabya)(標高 30m)を通過する。その北にタルフ(Talh)もどきが密林の様に群生している場所がある。葉の小さい灌木(Bush)の土饅頭もある。タルフ(Talh)も生えており、モロコシ(Sorghum)の畑が多い。タルフ(Talh)もどきの林に枝の大きく垂れ下がった植物が混じっているが一度植物の専門家を連れて来ないと種類を特定出来ない。
Jizan/Tihamah海岸
午前8時20分、バイシャ(Baysh)(標高 60m)を通過する。上記4種類の被覆植物(Ground Cover Plants)がまばらな場所が多いが灌木(Shrub)がそのまばらを埋めている。涸れ谷に沿って芭蕉椰子と渾名したエダウチ椰子とタルフ(Talh)が生えており、地表も石ころに覆われてくる。ティハーマ(Tihamah)低地の筈だが火山性土壌の疑いが出て来る。ダルブ(Ad Darb)の南5kmでは道路の直ぐ東に二つの小火山が並んでいる。地図に記載は無いが熔岩地帯(Harrat)だ。午前8時55分、ダルブ(Ad Darb)(標高 100 m)を通過し、右(東)へと曲がり上がりにかかる。午前9時10分、ダルブ(Ad Darb)から21km(標高 360 m)付近でバナナ園を幾つか目にする。バナナ園は平地には見あたらず、この辺りからこの谷の中腹位までところどころで栽培されている。マントヒヒからどう守っているのか興味深い。午前10時20分、アブハー(Abha)出入検問所(Check Point)(標高 2,140 m)に到着した。
5 ティハーマ山地(the Hilly Tihamah)
5.1 アブハー(Abha)からムハーイル(Muhayil)へ
2003年2月26日午前7時45分にアブハー(Abha)のブーハイラ・ホテル(Al-Bouhaira Hotel)を出発する。町の中で少し迷った後、午前8時45分ムハーイル分岐(ムサルト)に着いた。涸れ谷ハリー(Wadi Hali)の支流に沿った道だから分かるとは思ってはいたがムハーイル(Muhayil)分岐は道路標識に明確に表示されて居たのでやはりホットする。運転手のアラブディーン(Alavudeen)はこの下り道の勾配の余りの急さに緊張を隠せない。エンジン・ブレーキを使う様に繰り返し指示する。気温が上がるに連れ、快晴の空も霞を増す。急勾配はトンネルも含み12km続いた。その降りた地点からアドル・ディード(A’dl Al Deed)、アドル・ハマシュ(A’dl Al Hamash)、アドル・ナヘイダ(A’dl Naheydah)、エイダ(Al-Eydah)、ガリーン(Qareen)、ザハラ(Al Zahra)と次々と地名が出てくるのは涸れ谷毎に水利権を有する家族が異なる為だと考えられる。部族と言うには余りにも細分化されているので家族と呼ぶ事にした。これもアシール(Asir)の特徴である。
5.2 ムハーイル(Muhayil)からハミース・ムタイル(Khamis Mutair)
午前9時35分にムハーイル(Al-Muhayil)に着くが道路標識が全く無く分からない。道端に居たサウジの中年のオジさん達にバーハ(Al-Bahah)への道を聞くと「真っ直ぐ北上して左に折れろ。」と教えてくれる。この道はムハーイル(Al-Muhayil)市内には入らずハミース・ムタイル(Khamis Mutair)経由の間道と後で分かる。道は完全に山脈と山脈の間を通って居る。駱駝を使った臼で胡麻を轢いて胡麻油を売っているティハーマ(Tihama)独特の光景を同行のM氏は珍しがって居る。午前9時50分、「直進ライシュ(Ar Raysh)で右に曲がるとフルシャト(Furshat)、その先の右への曲がりはメシュウェル(Al-Meshwel)」との道路標識がある。その傍らで駱駝臼を回して居り、M氏が写真を撮っている間に位置を確認する。この辺りの道路標識は極端に近い場所しか示して居ない。
5.3 ハミース・ムタイル(Khamis Mutair)からバーリク(Bariq)
午前10時00分にハミース・ムタイル(Khamis Mutair)の町の手前でハーダ山(Jabal Hada)への道が右に曲がり、タロイシュ(Taroish)への分岐が左に分け、クワイド山(Jabal Qawaid)への分岐が右に曲がる。とにかく枝道が多い。右側の山の山腹が道路工事で無惨めに斜めに大きく切られて居る。日本でも林野庁が同じ事をやっており、林野庁の自然破壊を私は批判して居り「林業の自立は諦め林野保護事業に切り替えて早く環境庁に編入すべきである」と言う意見に賛成だ。午前10時15分にサルス ・マンザル(Thaluth al Manzar)を通過する。道の両側が市場に成って居り、大変な賑わいで日用品、衣類、野菜、牧草等を売っている。間もなくムハーイル・バーリク(Muhayil/Bariq)道路に丁字にぶつかる。右へ進む。涸れ谷に水の流れがある。ムハーイル・マフワー(Muhayil/Al-Makhwah)の本道に出る。
午前10時30分にクライハ(Al-Qurayhah)への分岐を右に分け、2分後にサアーバーン(Sa’baan)への分岐を左に分ける。続いてアイシ(Al-Aishi)を左にマスラマ(Al-Maslamah)を右に分ける。6分後にバーリク(Bariq)の中心を通過する。右にウスルブ(Uthrub)への道が分岐する谷間のちょっとした村で赤いコルゲートのヒサシの店が街道に沿って並ぶ。ルブア・アジュマ(Rub Al-Ajumah)への道が左へ分岐する辺りで駱駝臼が競争でもするかの様に十数基が道路を挟んで回って居る。M氏が「胡麻が取れるのか」と質問するので「段々畑は標高差があり畑の高度に応じて殆どの作物が取れる筈だ」と答える。M氏は「動物性油しか摂取しないここの人々に取って食用油はとても貴重な筈だ」等と言う。
5.4 バーリク(Bariq)からガーミド・ズィナード(Ghamud Az Zenad)
畑が消え、タルフの生える山沙漠が続く。その中に公害を考慮していると思うが養鶏場が営まれて居る。水系が涸れ谷ハリー(Wadi Hali)から涸れ谷ヤバー(Wadi Yabah)に変わる。午前10時50分にマジャールダ(Al-Majardan)への分岐を右に分けると検問所がある。その先の二叉路を道路標識が無いので状態の良い左へと入る。道路は簡易舗装に成り、方向も南を指す。多分間違いと思い、川原で休みがてら道路を確認する。この涸れ谷 ハラー(Wadi Hala)には水が豊かに流れ小魚が一杯泳いでいる。涸れ谷ハラー(Wadi Hala) は涸れ谷ヤバー(Wadi Yabah)の支流である。先程の二叉路を右に行くべきとの結論で引き返す。午前11時20分マジャールダ(Al-Majardan)への分岐の少し北にある二叉路で道の確認とガソリンの補充、昼食用の食べ物を買いに給油所に立ち寄る。ホブツもクリームも無く、袋に入った一食分の四角く長いパンとレモンジュースを買う。アシール州(Asir)とバーハ州(Bahah)の州境を越える。
水の流れる涸れ谷ハラー
家並みが再び戻って来ると沙漠にゴミが目立ち始める。アシール(Asir)とバーハ(Bahah)の州境を挟んで環境へ取り組みの違いを明確に物語って居る。アミール(州知事)のプリンス達に環境や自然保護問題で是非がんばって貰いたい。両側を山脈で挟まれ、シドル(Sidr)の大木の多い段々畑の農村が続く。午前11時46分にスライバーン(Thurayban)(サブト・シュムラーン(Sabt Shumran))を通過する。ここでも道に沿ってマーケットが並ぶ。検問所を通過して山地に入る。道は登りで磁石は車の進行方向南を指している。地図で方向に間違い無い事を確認する。午後12時00分にガーミド・ズィナード(Ghamud Az Zenad)南東のマアカス(Al Mu’aqas)を通過する。家屋や畑が出て来ると広く開けた盆地状の場所で道路標識での表示は無いが間違い無くガーミド・ズィナード(Ghamud Az Zenad)と思う。検問所がある。
5.5 ガーミド・ズィナード(Ghamud Az Zenad)からバーハ(Bahah)
10分後に二叉路を左に折れて涸れ谷アフサバ(Wadi al Ahsabah)に入る。涸れ谷が大きくなり農地と家屋が現れる。平地の畑もたんぼの様に区切られて居る。10分ばかり行くと河原が石で覆われた場所を通過すると広い広い涸れ谷一杯にタルフ(Talh)の群生が現れる。午後12時25分にムザイリフ・バーハ(Bahah/Muzaylif)の道に丁字路でぶつかる。右折すると畑と家の並ぶ涸れ谷の登りと成る所に検問所がある。午後12時30分にマフワー(Al-Makhwah)を通過する。街並みは町の左側に広がり、右側はマーケットと成っている。道はキング・ファハド通り(King Fahd Roodと)命名されて居る。以前、来た時にはこの道は未だ工事中であった。
南ロアナ(South Roana)、アウファ(Al-Awfah)、サクラン(Sakran)、ライヤナ(Raiyanah)、ジャワ(Jawah)と地名が1~2分位で変わる。やはり、M氏も「涸れ谷の水利権で家族が固まって居り、細かい支族に別れるので地名も多い」と言う。河原には段々畑が並び小さな丘と言うか岩峰にはシンボル・タワー(Symbol Tower)や重なって砦の様な石組の構築物が建てられて居る。バナナの畑を見ると前に来た時に工事中だったトンネルを抜ける。午後13時10分にバーハ(Al-Bahah)への20kmの登り始めで休憩する。運転手(Alavudeen)の目の慣れを兼ねてパンとジュースで昼食にする。道は右に大きく進み左に大きく返し更に右に大きく返し坂の上の検問所で終点である。途中の駐車場には残飯目当てのマントヒヒの群を三つ見かける。数は増えているものの以前より逞しさも無くなり、毛並みを悪く成って居るような気がする。アラボディーン(Alavudeen)が急坂の運転を怖がるので左右を見ずに真っ直ぐに道路だけを見る様に言う。こうすると恐怖感は相当薄れる。午後14時10分に急坂を登り切りバーハ(Al Bahah)に入る。
後書き
ティハーマ海岸地域は複雑な風土である上にアフリカの影響を強く受けたと云うより紅海を含む大地溝帯を挟んで地形、動植物生および文化が双子の様に発展して来たと云う。実際幅狭く陸地に挟まれた紅海を渡るのは湖を渡るに等しく古代から往来があった上に東西交易に果たした役割も大きい。ローマ時代のストラボン(Strabo, 63BC – AD24)も「古くから人が住み、文明が営まれて居た」と記述している。自然も高低差の他に大地溝帯の端の熔岩地帯であり、水も豊富で地形的にも特異である。更に空中の村や山間や熔岩に隠された秘境も多い。動物植物もアフリカとのつながりで豊かな特徴がある。海、山、川、火山、段々畑、森や草原等と何と云ってもサウジアラビアの中では日本的風物の一番多く親しみのある地域でもある。出来るだけティハーマの輪郭を掴みたかったので前三編と多少重複して記述した個所もあるのはご容赦戴きたい。残念な事に昔からの歴史が有り、地形が特異で動植物に特徴がある割には文献に乏しく私の手元に現在ある資料は余りにも不足して居る。ティハーマ海岸地域は今後も参考文献を出来るだけ集め広範囲な知識を持った上で再度訪れて詳細に調査した場所ではある。
アシールの紹介(その2未知の国アシール)でティエリー・モジャー(Thierry Mauger)のアシール地図を紹介した。この地図は地図が出版されて無い時代にしては本当に良く出来て居ると思う。今回は最近の出版されている地図に基づいて大分修正を行った。今後も地名の変更等様々に修正が必要だと思われるがこれはサウジアラビアにおける地図の出版の歴史が浅い為で致し方無いと思う。
以上
付録1「エジプト総督アエリウス・ガルスのアシール遠征」 ストラボン(Strabo)著
幸福なアラビア人達が独占していた乳香交易に目を付けたアウグストゥス(Augustus Caesar, BC63 – AD14)は乳香の産地イエメン(Yemen)までの交易路を求めて居た。紀元前26年にアウグストゥスはアフリカ経由の交易路を求めエジプト総督アエリウス・ガルス(Aelius Gallus)に命じ南エジプトに遠征させた。アエリウス・ガルスはイエメンの対岸で穴居人(Troglodytae)を見つけたが人々は余りにも裕福で強力であり友好を結ぶか敵対するしか無かった。穴居人は現在のジブチ(Djibouti )と思われる。 次ぎにアウグストゥスはナバテア人(the Nabataeans)を道案内としてアラビア側を通過するイエメン遠征をアエリウス・ガルスに指示した。当時のナバテア王オボダス二世(Obodas II)の首相シッラエウス(Syllaeus)は乳香貿易の富みをローマ(the Romans)が直接イエメンと交易する事で奪われるのを恐れた。この為にシッラエウスはローマ軍の遠征に対して面従腹背の態度を取り、案内の途中でその配下と共に様々な妨害を狡猾に行った。アエリウス・ガルスは指揮下のローマ軍を先ずエジプトからアラビアに移さなければ成らなかった。ローマ軍が直接、海路でイエメンに下れる事を知る事を恐れたシッラエウスは舟の建造から航海してアラビアに渡るまで様々に工作し、「イエメンには駱駝に頼って陸路で行くしか無い」とローマに思い込ませた。アエリウス・ガルスはシッラエウスの妨害工作あいながらも50日以上掛けてナバテア最大の市レウス・コメ(Leuce-Come)に到着した。 シッラエウスがレウス・コメ(Leuce-Come) へアエリウス・ガルスの軍団の為に派遣した駱駝部隊の隊員達は背信の邪念を持ち体が大きい上に従順では無かった。シッラエウスの駱駝部隊が意識的に案内する悪路にもめげず、アエリウス・ガルスは多くの日数は費やしたけれどもアテタス(Atetas)に到着した。アテタス(Atetas)は今日のメディナ(Medina)と思われる。そこで友好的な歓待を受けた後、30日掛かってこの国を抜けた。次は遊牧民の沙漠の国でサボス(Sabos)と云う名の王に支配されるアラレネ(Ararene)と云う国であった。アエリウス・ガルスは50日掛けてこの国を通過し平和で豊かなネジラニ(Nejrani)と云う町に着いた。これは現在のメッカ(Mecca)である。王が逃げたので最初の攻撃で奪取した。 その後6日間の行軍でミナエ(Minae)と云う地方の川に出た。そこで野蛮な部族の攻撃を受けたが相手が戦闘に不慣れで武器も満足では無かったので自軍の損害2名に対し10,000人を失わせる勝利を収めた。その直ぐ後に当時アスカ(Asca)と呼ばれた王に放棄されたライス(Al-Lith、Al-Laith)を奪取した。そこから多分現在のアブハー(Abha)と思われるアスルラ(Athrula)と呼ばれる町に抵抗される事も無く入城し砦を置く為に奪取した。アエリウス・ガルスは次の行軍の為の糧食の準備をそこで行い現在のイエメン(Yemen)のサヌア(San'a、サナ)の東にあったイラサルス(Ilasarus)の属国であるラーマ(Rhammanitae)に帰属するナツシアバ(Matsiaba)と云う町まで進んだ。そこを攻撃し6日間で攻落した。水が不足していたので捕虜から聞いた2日行程の水のある地方へと移動した。 アエリウス・ガルスはナバテアの案内人の裏切りでこの行軍に6ヶ月も掛かったので帰路は別の道を選んだ。それでも自分に対する裏切りに気付くにはまだ時間が掛かりこの道中にそれが分かった。9日間掛かって現在のスーダ(Sa'dah)に近いネグラナ(Negrana)で戦った。その後、11日間で7つの井戸があるのでそう呼ばれていたクンフザ(Al Qunfudhah)に着いた。それから沙漠を行軍しチャアッラ(Challa)と云う村を通り、当時は川の流れるマロサス(Malothas)と呼ばれたジェッダ(Jeddah)に着いた。そこから僅かに数カ所の水場しか無い沙漠を通りナバテア王オボダス二世(Obodas II)の領地で海沿いの現在のヤンブー(Yanbu)であるエグラ(Egra)と云う村に帰着した。アエリウス・ガルスがこの行軍の往路が6ヶ月掛かったのに対して復路は僅か60日で戻った。エグラ(Egra)と云う村からミュス・ホールムス(Myus Hormus)までは11日間の行軍であり、コプツス(Coptus)経由で時間を大きく節約してアレサンドリア(Alexandria)に戻った。 アエリウス・ガルスは戦闘では僅かに7名の死者しか出さなかったが病気、疲労、空腹や悪路の行軍で多くを失い、この遠征は後世に残る様な功績と成らなかった。この失敗を招いた原因であったナバテア王オボダス二世(Obodas II)の首相シッラエウス(Syllaeus)はその後にローマに対するこの裏切りで処罰された。この一件でのシッラエウスの裏切りとは友好に悪影響を及ぼしただけであったが別の件でシッラエウスはローマを怒らせ崖から投げ落とされ殺された。
付録2「アシール鳥類観察の旅」 この付録はバンダル・ファイサル殿下(Prince Bandhar al Faisal Ibn Abdul Aziz)の招待でマイク・エジコム(Mike Edgecombe)、ベロランド・スチエゲール(Roland Stieger)、トルダ・オデール(Truda Oder)、ジョン・グレゴリ(John Gregory)等が2002年5月4日から11日の僅かな期間であったがアシールで鳥類の観察旅行を行った。この付録はその旅行中の観察をまとめた「アシール鳥類観察の旅の報告」の抜粋である。サラワートを一部含むティハーマではこんなに短い時間と限られた場所でさえこれ程多くの種類の鳥が観察出来る程、鳥類の種類が多い事を知って戴く為にここに掲載した。 ライダ崖地保護区(Raydah Escarpment Reserve) スーダ道路(Al-Sooda road)をアブハーから15km登った最上級の場所である。この場所は西向きの非常に険しい岩山の斜面である。気候は涼しく湿気がある。斜面の一番上にはユーロパ・オリーブ (Olea europa)が生える主としてビャクシン(Juniperus excelasa) の手つかずの森でこの崖地は守られている。斜面の下の方は青々とした落葉する植生が生えている。 この場所には一番一般的なイエメン・ムネアカヒワ(Yemen Linnet)やイエメン・ツグミ(Yemen Thrush)等のこの地方特有の種が多い。ここはアラビア・ヤマウズラ(Arabian Partridge)やイエメン・ズグロムシクイ(Yemen Warbler)を観察する最上の場所である。この他にここで見られる種類としてはアフリカ天国ヒタキ(African Paradise Flaycatcher)、白胸白目ズグロムシクイ(White breasted White eye Warbler)、茶色森林ズグロムシクイ(Brown Woodland Warbler)、オリーブ・ハト(Olive Pigeon)、浅グロカメ・ハト(Dusky Turtle Dove)、トリストラム・ムクドリ(Tristrams Grackle)、茶首ワタリガラス(Brown necked Raven)、扇尾ワタリガラス(Fan-Tailed Raven)、パレスタイン・ タイヨウチョウ(Palestine Sunbird)等が居る。 崖地の上部ではフィルビー・ヤマウズラ(Philby's Partridge)、アラビア・セイオウチョウ( Arabian Serin)、ボッタ・ハシグロヒタキ(Botta's Wheatear)、青白岩ツバメ(Pale Crag Martin)、長嘴タヒバリ(Long billed Pipit)が観察出来る。この崖地を取り巻く農地ではズアカモズ(Woodchat)やノビタキのフェリックス種(the felix race of Stonechat)が探し出して観察する価値がある。 涸れ谷 マハラー(Wadi Mahalah) 植生の豊かなこの涸れ谷はアブハーの北10kmにあり、フットボール場から小道を辿れる。この涸れ谷には溜まり水があり多くの種類の鳥を魅了している。ここを二回訪れて観察した鳥の重要な種類には: アラビア・ハシゴロヒタキ(Arabian Wheatear)、アラビア・セイオウチョウ (Arabian Serin)、ヨーロッパ・黒灌木コマドリ(Black bush Robin)、灰色頭カワセミ(Grey headed Kingfisher)、ルッペル・ハタオリドリ(Ruppell's Weaver)、ガムバガ・ヒタキ(Gambaga Flycatcher)、シナモン胸ホオジロ( Cinnamon breasted Bunting)、平地ヨタカ(Plain Nightjar)、仮面モズ(Masked Shrike)、長嘴タヒバリ(Long billed Pipit)、アラビア・チメドリ(Arabian Babbler)、小さな緑ハチクイ( Little green Bee-eater)、アラビア・カエデチョウ(Arabian Waxbill)およびアフリカ 銀色平嘴(African Silverbill)が居る。 タヌーマとシャッラル・ダフナ(Tanumah and Shallal al Dahna) タヌーマ(Tanumah)はアブハーの約100kmに位置し、しっかりした良い道で結ばれている。ビャクシン(juniperus)とアカシア(acacia)で覆われ、壊された花崗岩の丘にこの町はある。シャッラル・ダフナ(Shallal al Dahna)はこの国の幾つかの半永久的な滝と池を含んでいる。この地域ではアシール・カササギ(Asir Magpie)およびアラビア・キツツキ (Arabian Woodpecker) と共にライダ崖地(Raydah)で見られる全ての種類の鳥を観察出来る。タヌーマ(Tanumah)ではフィルビー・ヤマウズラ(Philby's Partridge)とアラビア・ヤマウズラ(Arabian Partridge)がアラビア・シオウチョウ(Arabian Serin)とイエメン・セイオウチョウ(Yemen Serin)と共に見られる。この場所はライダ崖地(Raydah)よりは険しくないので鳥観察が幾らか楽であった。シロエリ・ハゲワシ(Griffon Vulture)が我々の泊まったホテル近くの崖で卵をかえしていた。予期しない追加事項としては斑点のあるワシフクロウとアフリカ・スコウプフクロウの不自由な(有害な)光景であった。 シャッラル・ダフナ(Shallal al Dahna)は多くの種類の鳥を引き寄せる池で楽しませてくれた。アラビア・ハシグロヒタキ(Arabian Wheatear)、シナモン胸ホオジロ(Cinnamon breasted Bunting) および小さな岩ツグミ(Little Rock Thrush)は全て卵をかえしていた。アラビア・キツツキ(Arabian woodpecker)、二羽のアシール・カササギ(two Asir Magpie)および一羽のシュモクドリ(Hamerkop)を見たのは予期しない贈り物であった。ここは比較的たくさん生息するこの土地に特有のハマドリアス・マントヒヒ(Hamadryas Baboon、Papio hamadryas)を眺める絶好の場所でもあった。この土地で記録されたその他の種類には茶色森ズグロムシクイ(Brown Woodland Warbler)、アラビア・カエデチョウ(Arabian Waxbill)、青白岩ツバメ(Pale Crag Martin)、赤尻ツバメ(Red rumped Swallow)、長嘴タヒバリ(Long billed Pipit)、イエメン・ツグミ(Yemen Thrush)、小さくすばしこいワタリガラス(Little Swift)および茶首ワタリガラス(Brown necked Raven)等が含まれていた。 マラーキー・ダムと涸れ谷ジャワー アブー・アリーシュ(Abu Arish)の真東15kmのアシール山麓の端に大きな湖がある。この湖には主に4つの涸れ谷が注いでいる。水位の深い湖の部分は約10平方キロである。この貯水池の北は玄武岩質の熔岩原と接しており、幾つかの岩の多い露頭が涸れ谷ジャワ(Wadi Jawah)との境を成している。周囲を囲むアカシアとサルヴァドラ(Salvadora)の低木地帯にはタマリスク(Tamarix or Tamarisk)が散在する。周囲の丘は家畜を放牧したり耕されたりしている。この湖とその周囲のちいきはアラビアで卵をかえす鳥達が一番種類の多い場所の一つである。多くはアフリカ熱帯種である。この場所が主要な渡りの経路である事実と共に記録された種類は非常に多い。 ここで見かけた主な種類にはアブディムス・コウノトリ(Abdims Stork)、桃色脊中ペリカン(Pink-backed Pelican)、白コウノトリ(White Stork)、カンムリアオサギ(Squacco Heron)、見掛けの良いトキ(Glossy Ibis)、黒肩トビ(Black shouldered Kite)、ソウゲンワシ(Tawny Eagle)、白翼黒アジサシと髭アジサシ(White-winged Black and Whiskered Terns)、マダライシチドリ(Spotted Thick-knee)、リチェンスタイン・サケイ(Lichenstein's Sandgrouse)、アビシニア・ローラーカナリア(Abyssinian Roller)、兜ホロホロチョウ(Helmeted Guineafowl)、白喉ハチクイ(White throated Bee-eater)、褐色ヤブコマツグミ(ロビン)(Rufous Bush Robin)、黒冠フィンチヒバリ(Black crowned Finch Lark)、ブルース緑ハト(Bruce's Green Pigeon)、赤目ハト(Red eyed Dove)、白顔バンケン(White browed Coucal)、アフリカ・カエデチョウ(スズメ科)(African Silverbill)およびナイル谷・タイヨウチョウ(Nile Valley Sunbird)等が含まれる。 我々は見て居ないがその他にここで記録されている種類にはダルマワシ(アフリカ産の尾の短いワシ)(Bateleur)、ガボール・オオタカ(Gabor Goshawk) およびヌビア・ヨタカ(Nubian Nightjar)が含まれる。 シュカイク マングローブ(Shuqaiq Mangroves) シュカイク(Shuqaiq)のおよそ20km北の紅海の南海岸にあるマングローブの群生。大きな干潟のある浅い湾にアビセンナ(Avicenna) マングローブが生えている。 多くの渡り鳥を魅了する池を持ったこの地方のエビ養殖場がある。鳥達はここではこの場所とビルクの間の我々が居る道路側に典型的に多い。この湾はしかしながらカニ チドリ(Crab Plover)を観察するには絶好の場所であり、小さなトサカのアジサシ(Lesser crested Tern)、ピンク色の背中のペリカン(Pink-backed Pelican)およびテレクイソシギ(Terek Sandpiper)を多く見られた。近くのエビ養殖場には多くの渡り鳥とスス色カモメ(Sooty Gul)が二羽のほっそりした嘴のカモメ(Slender-billed Gull)と共に見られた。 紅海岸のビルク(Red Sea Coast - Al Birk) 海岸に沿った平地帯は全体に鳥観察には素晴らしかった。マングローブの生えた砂地と泥質の入り江が散在する長い砂質の帯状の土地)沖合にはアジサシ(Breeding Tern)の類や多分大型オアサギ(Goliath Heron)、カニチドリ(Crab Plover) 等も繁殖するたくさんの小さな島がある。海岸全体は見事な珊瑚礁を持つ浅い海である。海岸近くの陸地は砂と石の混ざった沙漠にアカシアが点々と生えている。 この海岸で見られたのは大型オアサギ(Goliath Heron)、茶色のカツオドリ(Brown
Booby)、煤色カモメ(Sooty Gull)、白目カモメ(White
eyed Gulls)、 この地域は渉禽類の渡り鳥(passage waders)や大きい千鳥と小さい千鳥(Greater and Lesser Sandplovers)を見るにも良い場所である。テレックイソシギ(Terek Sandpiper)やキョウジョシギ(Turnstone)はケント州千鳥(Kentish Plover)と共に一般的である。沙漠地帯には黒いとさかのフィンチヒバリ(Black crowned Finch-Lark)や栗腹サケイ(Chestnut bellied Sandgrouse)が居る。
涸れ谷ムハーイル(Wadi Muhayil) ムハーイル南6 kmの小さいが素晴らしい場所でトウダイグサ(Euphorpia)やフグス(Figus)の様な木が良く繁茂している。ここには小さな流れがあり、そのお陰で多くの魅力的な種が居る。最も興味を引かれる鳥にはブルース・緑ハト(Bruce's Green Pigeon)、シュモクドリ(Hamerkop)、金色羽シメ(Golden winged Grosbeak)(持つ円錐形のくちばしを持つ小鳥の総称アトリ科のシメ, キブタイシメ等)、白い顔のバンケン(ホトトギス科)(White browed Coucal)、灰色の頭のカワセミ(Grey headed Kingfisher)、白のどハチクイ(White throated Bee-eaters)、小さな緑ハチクイ(Little Green Bee-eaters)および青頬ハチクイ(Blue cheeked Bee-eater)、小さなサンカノゴイ(鷺科)(Little Bittern)、黒鶏冠夜鷺(Black crowned Night Herons)、灌木黒コマツグミ(Black Bush Robin)、ブラックスタート(Blackstart)、沙漠ヒバリ(Desert Lark)および肉桂胸ホウジロ(Cinnamon-breasted Bunting)等が含まれる。
以上
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