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2012月10月13日 高橋 俊二
 

花冠とスカート姿の男達が住むアシール(Asir)への訪問

(サウジアラビア王国南西地方)
その1ジバ-ル・サラート地域



 Jibal al Sarat



 

 

 

平成17531

修正 平成24908

高橋 俊二

 

目次

前書き

紹介

1. 北部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)

1.1 北部ジバ-ル・サラートへの訪問

1.2 アブハー(Abha)からタヌーマ(Tanumah)

1.2.1 マラーハ(Al Malahah)(ムハーイル分岐)

1.2.2 シャアル(Ash Sha'ar)

1.2.3 サバフ(Sabah)

1.2.4 バールラスマル(Ballasmer)

1.2.5 タヌーマ(Tanumah)

1.3 タヌーマ(Tanumah)からビーシャ(Bishah)分岐

1.3.1 ナマース(An Namas)

1.3.2 涸れ谷ザイダーン(Wadi Zeydan)

1.3.3 バニー・アムル(Bani Amro)

1.3.4 マシャーイア(Al Mashay'ah)

1.4 ビーシャ(Bishah)分岐からガリサ(Al Gharisah)

1.4.1 シャアーフ(Al Shaaf)

1.4.2 トゥーフ(At Tuf)、アジャバ(Ajaba)とカーディム(Al-Qadim)

1.4.3 ガリサ(Al Gharisah)

1.5 涸れ谷カヌーナ(Wadi Qanunah) と涸れ谷ランヤ(Wadi Ranyah)の源頭部

1.5.1 涸れ谷カヌーナ(Wadi Qanunah)の右叉アカバト(al-'Aqabat)

1.5.2 盆地に成った鞍部

1.5.3 涸れ谷カヌーナ(Wadi Qanunah)の左叉アカバト(al-'Aqabat)

1.5.4 空白地帯へと東に流れる涸れ谷ランヤ(Wadi Ranyah)の上流部

1.6 バルジュラシー(Baljurashi)からバーハ(Al-Bahah)

1.6.1 バルジュラシー(Baljurashi)

1.6.2 涸れ谷スラート(Wadi Thurat)上流

1.6.3 バーハ(Al-Bahah)

2. アブハー(Abha)地区

2.1 アブハー(Abha)

2.1.1 公園都市アブハーと周辺の国立公園

2.1.2女王ハトシェプスト(Hatshepsut)とアブハー(Abha)

2.1.3 シャダ・パレス(Shada Palace)と絵画村(Al-Mettaha Art Village)

2.1.4 アシール国立公園センター(Asir National Park Visitors Center)

2.2 ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)

2.2.1 ムシャイト族の火曜市

2.2.2 キング・ハーリド軍事都市

2.2.3 マハサマ(al-Makhasamah)遺跡

2.2.4 ジャラシュ(Jarash)

2.2.5 ウタイバ族(Otaibah)の伝統的アシール風泥造りの家

2.3 アブハーのホテル

2.3.1 ボウハイラ・ホテル(Al-Bouhaira Hotel)

2.3.2 アブハー・パレス・ホテル(Abha Palace Hotel)(標高 2,170 メートル)

2.3.3 インターコンチネンタル・ホテル(Intercontinental Hotel)

2.3.4 トライデント・ホテル(Trident Hotel)

2.4 スーダ(Soudah)山地

2.4.1 ムハーイル(Muhayil)への急峻な降り口

2.4.2 スーダ(Al Soudah)国立公園の空中ケーブル

2.4.3 スーダ(Al Soudah)国立公園の散策

2.5 ハバラ(Habalah)

2.5.1 ジャラシュ(Jarash)からハバラ(Habalah)

2.5.2 近代的観光施設と空中ケーブルカー

2.5.3 ハバラ(Habalah)絶壁の砂岩

2.5.4 カラアー道路(Al Qara’a Road)からハバラ(Habalah)

2.5.5 崖下の厳しい生活を思う

2.6 アブハー(Abha)南東の公園

2.6.1 カリーヤ(Al Qariyah)

2.6.2 カラアー(Al-Qara'a)国立公園

2.6.3 その他の国立公園

3. 南部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)

3.1 アブハー(Abha) からナジュラーン(Najran)への往復

3.1.1 始めてナジュラーン(Najran)往復

3.1.2 二回目のナジュラーン往復

3.1.3 エンジン・ブレーキの大切さ

3.1.4 花冠を被ったスカート姿との出会い

3.1.5 禁断のカフターン族部落

3.2 ナジュラーンからハミース・ムシャイト、アブハー方面へ

3.2.1 ナジュラーンからハミース・ムシャイトへ

3.2.2 ナジュラーンからアブハーへ

3.3 東西に走るナジュラーンからザハラーン・ジャヌーブへの支稜

3.3.1 採石場と20 キロ付近の峠

3.3.2 ナジュラーン(Najran)出入り口の検問所

3.3.3 山稜の水成岩と痩せ地の山羊

3.3.4 謎の多い地表の石

3.3.5 州境の検問所

3.3.6 交通の要所ザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)

3.4 ザハラーン・ジャヌーブからサラート・アビーダ(Sarat Abidah)

3.4.1 花崗岩が風化した丸石のゴロタの岩沙漠タルハ(Al Talhah)付近

3.4.2 ハルジャ(Al Harjah)とサラート・アビーダ間の山稜を覆う熔岩台地

3.4.3 川の流れる農村サラート・アビーダ(Sarat Abidah)

3.5 サラート・アビーダからアブハーへ

3.5.1 サラート・アビーダの西側

3.5.2 空白地帯への長い旅の始まり涸れ谷ビーシャの最上流部

3.5.3 軍事基地に遮られたアハド・ラフィーダ(Ahad Rufaydah/Rafidah)

3.5.4 ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)

3.6 ナジュラーン(Najran)から内陸バイパスを抜けハバラ(Habalah)

3.6.1ナジュラーン出入り口

3.6.2 バイパス分岐の堆積岩

3.6.3 段々畑の農業部落と涸れ谷ハブーナ方面へ間道

3.6.4迷い込んだ部族民達の道(tribal route)

3.6.5山岳道路の交通事故

3.7 ハバラ(Habalah)からナジュラーン(Najran)

3.7.1 ハバラからナジュラーンへの幹線道路へ

3.7.2 ハルジャ(Al Harjah) の赤い土砂

3.7.3 ザハラーン・ジャヌーブの東の砂質堆積岩

3.7.4 ナジュラーン・ホリディイン到着

4. サラート(Jibal al-Sarat)への出入り

4.1 ビーシャ(Bishah) からバーハ(Al-Bahah)への道

4.1.1 サプト・ウラーヤー(Sapt al Ulaya)への登り

4.1.2 分かり難い登り口

4.1.3 緑の木陰での快適な昼食

4.1.4 稜線の間道

4.2 紅海側の涸れ谷ディリア(Wadi Dala')を通りアブハー(Abha)への道

4.2.1直線的に海岸まで下っている涸れ谷

4.2.2 サウジ産バナナをカフジへ搬送

4.2.3 「道路」を意味する町ダルブ(Ad Darb)からの登り

4.2.4 立体交差の分岐

4.2.5 1982年の洪水被害

4.2.6 バナナ農園

4.2.7 道路脇のマントヒヒ

4.2.8 アブハー(Abha検問所)

4.2.9 涸れ谷ディリア(Wadi Dala')の山岳道路の下り

4.2.10 駱駝の胡麻挽きと芭蕉椰子

4.3 紅海側のマフワー(Al-Makhwah)経由バーハ(Al-Bahah)への道

4.3.1 バーハ(Al-Bahah)から山岳道路

4.3.2 中腹のUターンと谷底の

4.3.3 養蜂家と石造りの廃墟

4.3.4 マフワー(Al Makhwah)と小さな熱帯雨林

4.3.5 ムザイリフ(Muzaylif)

4.4 紅海側のムハーイル(Muhayil)を経由してアブハー(Abha)への道

4.4.1 4WDオートマティック(Automatic)車の通行禁止の間道

4.4.2 それでも急なムハーイル(Muhayil)への下り

4.4.3枝涸れ谷毎の水利権

4.4.4 ハミース・ムタイル(Khamis Mutair)経由の間道

4.5 涸れ谷ハブーナから内陸バイパスに至る間道

4.5.1 涸れ谷ハブーナ(Wadi Habounah)からの偵察

4.5.2 ハブーナー(Habounah)分岐の確認

後書き

 

 

前書き

 

私が最初にこの地方を訪問したのは1987年の冬であった。その時は写真でサウジアラビアにも川が流れ、山がある地方を知り興味を持って居たところを親しい先輩から誘われて出掛けた。纏まった休暇さえ有ればこの禁酒国から抜け出し酒を飲む事ばかりを考えていた私に取っては職場のあるカフジ(Al-Khafji)から2,000 キロ以上も離れたアシール(Asir)まで行く等、思いも寄らなかったのでかなり珍しい旅行であった。当時は外国人居留者の移動は厳しく制限されて居た上に、地図も無く、アブハー(Abha)とナジュラーン(Najran)間には武器・麻薬の密輸取締の為に4 キロ毎に検問所があり、秘密警察の密偵が至る所で目を光らせて居た。それでもナジュラーンまで往復し、ナジュラーン渓谷に広がる大規模なナツメヤシ園や岩山に残るローマ軍の遺跡を見学した。又、アブハーから洪水跡の生々しい谷道を下ってジーザーン(Jizan)のハヤット(Hyatt)ホテルまで足を延ばして紅海の魚を食べに行ったりもした。

 

その後、第一次湾岸戦争を経験し、その戦災の後始末をして1992年に帰任し、再びサウジアラビアに赴任したのは沙漠緑化事業の為で1997年の初めであった。その年の4月に沙漠偵察で、更に9月に一年先輩のご夫婦を案内してこの地方を訪れてから19984月、200012月、20022月、20032月と20037月末に帰任するまでに都合8回もこの地方を訪れて居り、一番親しみを感じると共に訪れる度にその変化の多様さの中に新たな発見をしている。この地方との触れあいがあった事で沙漠の植生、土質のみでは無く、地勢、地質、動物、考古学、歴史、民族、伝統等広い分野に渡って私はサウジアラビアに対して私は興味を持つ様に成った。

 

私のこの地方の訪問をジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)地域、ティハーマ海岸地域(Tihamah Coastal Area) および空白地帯(the Empty Quarter)に至る内陸地域の三編に分けて、先ずはジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)地域からご紹介したい。

 

紹介

 

ジバ-ル・サラート地域

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ナジュド地方南西部とアシール地方内陸部

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ヒジャーズ南部

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アシール地方

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25百万年前~15百万年前の1千万年も続き、アフリカ大陸とアラビア半島を分離した地質的変動の連続は現在の紅海を含みアフリカ大陸の東側を南下する大地溝帯(Great Rift Valley)を生み出した。この地下の動きで紅海岸の両側に沿って紅海を挟んで対を成す二つ平行して延びる山並みの障壁が出来た。この内の紅海の西側に連なるエチオピア(Ethiopia)、ジブチ(Djibouti)、エリトリア(Eritrea)等アビシニア(Abyssinia)の山々は高く聳え、その高さは3,600メートルを越える物も少なくない。一方、アラビア半島の西の縁を形作り、紅海の東側に連なる山並みがサラワート(Sarawat)であり、アラビア半島の西側と南から北へと交差し、南のイエメンから北はアカバ湾まで続いている。同じ様に高く聳え、イエメンでは3,300メートル以上に達している。このサラワート山脈(Sarawat)或いはアラート山脈(Sarat)と呼ばれ山並みの内でイエメン北部から北はバーハ(Bahah)州の州境のバーハ・ガーミド(Bahah Ghamid)までがアシール山脈('Asir)呼称されている。本編ではこのアシール(Asir)と呼ばれる山並みをアシール州と区別する為にジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)地域と称する。

 

ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)地域の山々は分水嶺に成って居り、東に向かってはなだらかに空白地帯に向けて下り、北から涸れ谷ランヤ(Wadi Ranyah)、涸れ谷ビーシャ(Wadi Bishah)、涸れ谷タスリース(Wadi Tathlith)、涸れ谷ハブーナ(Wadi Habunah)および涸れ谷ナジュラーン(Wadi Najran)等の大水系を成している。反対にティハーマに向かっては壁の様に急であり、その断崖絶壁の崖地をアスダール(al-Asdar)と呼び、ティハーマに向かって下っている急傾斜の谷の上流部分をアカバト(al-'Aqabat)と呼んで居る。

 

ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)地域はバーハ(Al-Bahah)とアブハー(Abha)の間をほぼ南北に延びる北部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)とアブハー(Abha)とザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)の間を東南東から西南西に延びる南部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)に分けられる。サラワート(Sarawat)はザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)から更にイエメン(Yemen)へと南に延びるが、サウジアラビア領内の主要道路はここから東へナジュラーン(Najran)へと繋がるので本編では便宜的にアブハー(Abha)からハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)を含み、ナジュラーン(Najran)に至る高原台地を南部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)と称する。スーダ(As Soudah)、ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)およびハバラ(Al Habalah)を含むアブハー(Abha)地区はジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)が幅を一杯に広げ、その山稜を南北に分ける要の部分に当たる。

 

ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)地域へ出入りする街道はそれ程多くは無く、主要道路はターイフ(At Taif)からバーハ(Al-Bahah)へ至る道とワーディー・ダワースィル(Wadi ad Dawasir)からそれぞれハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)或いはナジュラーン(Najran)に至る両道の計三本である。

 

これに加えて北部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)へは内陸のビーシャ(Bishah)からと紅海側からティハーマ(Tihamah)山地のマフワー(Al-Makhwah)を経由してバーハ(Al-Bahah)に至る道、同じくムハーイル(Muhayil)を経由してアブハー(Abha)に至る道がある。その他に間道としてはティハーマ(Tihamah)山地のヌマラ(Numarah)からバルジュラシー(Baljurashi)へ至る道およびスーダ(As Soudah)のザブナフ(Zabnah)およびタバブ(Tabab)から上記のムハーイル・アブハー道路(Muhayil – Abha Road)に出る幾つかの分岐道がある。確認はして無いが、同じくスーダ(As Soudah)のサラート・バニー・アウス(Sarat Bani Al ‘Aws)から涸れ谷アウス(Wadi Al 'Aws)に沿ってシュウバイン(Ash Shi'bayn)(シーバイン(Al Shu’bayn))への間道がある様だ。

 

南部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)に至る道は上記の二本の主要道路の他には涸れ谷ディリア(Wadi Dala')を通って紅海岸に沿って走るジェッダ・ジーザーン街道(Jeddah – Jizan Road)に抜ける道路およびイエメン(Yemen)から北上してザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)に至る道がある。しかしながらイエメン(Yemen)からの道路はサウジアラビアの国内旅行には使えない。アブハー・ナジュラーン間(Abha - Najran)にはハルジャ(Al Harjah)の北とザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)とナジュラーン(Najran)のほぼ中間を結ぶ内陸バイパスがあり、東の涸れ谷ハブーナからこのバイパスに至る間道があるのみである。その他は地図には無い未舗装で急峻なカフターン(Qattan)族が使うオフロードしか無い。

 

1. 北部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)

 

1.1 北部ジバ-ル・サラートへの訪問

 

山稜東側のゆったりした棚畑を持つ村々の美しい景色と山稜西側の柏槇(Juniper)の森の下に落ち込む凄まじく切り立ったアスダール(al-Asdar)と呼ばれる断崖絶壁やアカバト(al-'Aqabat)と呼ばれるティハーマに向かって下っている急傾斜谷の上流部分の景観とが好対照を成し、サウジアラビアでも最も緑も豊かで美しい地域である。この地域を縦貫するバーハ(Al-Bahah)とアブハー(Abha)の間の山岳道路はアシール(Asir)の銀座通りの様な存在である上にその印象も深いので何度も訪れている様な親しみを感じていた。しかしながら、実際にこの道を通ったのは199846日と20001227日に二回程アブハー(Abha)からバーハ(Al Bahah)に抜けているだけである事が記録から分かり意外な気がした。その他には2003211日(火)にビーシャ(Bishah)から登り、バーハ(Al Bahah) に抜けた際、ガリサ(Al Gharisah)の南16キロでバルジュラシー(Baljurashi)の東南東72 キロの小分岐からこの山稜を走行した事がある。その日は晴れ居り、気温も朝から17 - 20℃と冬にしては暖かかった。

 

1.2 アブハー(Abha)からタヌーマ(Tanumah)

 

1.2.1 マラーハ(ムハーイル分岐)

 

199846日の天気は快晴で宿舎のホテル(Abha Palace Hotel)(標高 2,160 メートル)を午前715分に出発し、標高3,000 メートルに及ぶスーダ(As Soudah)山地を経由し、午前905分にマラーハ(Al Malahah)(標高 2,070 メートル)のターイフ(Taif)への山岳道路とのT字路にやっと出た。スーダ(As Soudah)山地で1時間半以上費やしたことに成り、山道は意外と時間が掛かる事を再認識した。見張り塔(Symbol Tower)が直ぐ道の脇にあるので調べて見た。中は中空に成っては居るようだが登る為には作られて無いのが普通であり、一般的に塔の下から三分の一位に作られた窓の様な穴がどうやら入り口の様だ。長い四角錐又は長い円錐の上を平らに切った形が多く、どちらにするかは好みなのだろう。とにかく烽火台の意味は無い事は良く分かった。

 

1.2.2 シャアル(Ash Sha'ar)

 

アブハー(Abha)から23 キロのシャアル(Ash Sha'ar)ムサルト(Musalt))ではムハーイル(Muhayil)への道が分岐する。立体交差で立派な道である。

 

20001227日は薄曇り後快晴でジーザーン(Jizan)のハヤット(Al-Hayyat Hotel)を早朝に出発したが。途中スーダ(As Soudah)のインターコンチネンタル ・ホテル(Inter Continental Hotel)(標高 2,830 メートル)で一時間近く食事をしながらで休息した為、ムハーイル(Muhayil)分岐に着いたのは正午過ぎの1235分で、前回とは異なり北部ジバ-ル・サラートの通過は午後のドライブに成った。

 

アブハー(Abha)aから殆ど人家が絶えなかったが、教員訓練所(Training Center)を最後に片麻岩とその風化した土の山沙漠となる。200012月の時にはこの付近に駱駝50頭位放牧されて居た。数は多くは無いが、この辺りでは最大に大きな群と言える。

 

1.2.3 サバフ(Sabah)

 

涸れ谷マワイン(Wadi Al Mawain)を通過する。涸れ谷(Wadi)毎にサウジ人運転手のサウード(Saud Al Baq'awi)が教えて呉れるので名前を書き留める事にする。涸れ谷(Wadi)の名はその大きさよりその地方の人が道路標識に何と記載するかで決まるらしい。多くは如何にももっともらしい名前が付いて居るので気を付けないとその地方に大きな影響のある大きな涸れ谷と間違う恐れもある。この辺り山稜東側の涸れ谷(Wadi)は何れも涸れ谷ビーシャ(Wadi Bishah)の上流部である。

 

アブハー(Abha)を離れてから高山杉(柏槇、Juniper)を見掛け無く成ったが、アブハーの北63 キロのサバフ(Sabah)の少し南の標高 2,470 メートルの辺りから道路の高度が上がり一時的に姿を消した高山杉(柏槇、Juniper)が再び周囲の山に群生し始め、道路の両側共に眺めが良い。19984月の時にはそのこんもりとした杉の中に隠れる様にマントヒヒの群が居た。200012月の時にはこの辺りから雲が出て始め、マントヒヒの100頭ばかりの群が走っていた。サバフ(Sabah)(標高 2,500 メートル)を通過し、やっと地図に記載のある町が出て来た。中央分離帯に街路樹が植えてあるが、人口は100人程度の小さな部落だ。但し、沙漠と異なって周囲に農家ある為、実際はもっと大きいのかも知れない。この地方の農家の間隔は日本のそれを思わせる程、密集して居る。

 

1.2.4 バールラスマル(Ballasmer)

 

アブハーから85 キロのバールラスマル(Ballasmer)(標高 2,430 メートル)を通過する。大きな村の中心のようだが、市街地は無い。56キロ先のガシュラ(Gashrah)には人口一万人規模の市街地があるので間に合わせているのだろう。山の上の方は高山杉(柏槇、Juniper)が圧倒的に多いが、アブハー(Abha)の高山杉(ビャクシン)と比べると小振りでまだらだ。里近くではアカシヤ系のタルフ(Talh)が同じ数ぐらい混ざっている。棚田を広げているのは機械化の為なのだろう。

 

1.2.5 タヌーマ(Tanumah)

 

アブハーから116 キロのタヌーマ(Tanumah)(標高 2,080 メートル)に着く。200012月の時にはこの町の南手前でも7080頭のマントヒヒの群に会った。町の西側には1,000メートル以上もの落差で紅海側の涸れ谷ハリー(Wadi Hali)へと落ち込む崖地(Escarpment)の下まで覗き込める。東側には大きく開けた盆地の向かいに緑の樹林と白い壁をした家屋の帯の上に屹立した天狗の鼻の太くした様な花崗岩の露頭が聳え、迫って来ている。左からは雲が舞い上がり、右には抜ける様な青空にその上って来た白い雲が良く映えている。その景色を眺めながら崖かと思うような急斜面をエンジン・ブレーキ(engine brake)一杯に効かせながらゆっくり降りてゆく。白い雲母を多く含んだ片麻岩の露頭が出ている川で写真を撮りながら休憩する。

 

町の規模としては一万人規模と思うが、商店街は地味である。ヨセミテの観光写真を思わせる様な一枚岩の花崗岩の大きく盛り上がった岩山の脇から花崗岩の岩山群に挟まれた谷に入って行く。19984月の時には白っぽい鷲が上空に舞っていた。北部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)中でも特別に眺めの良いこの町でホテル(Hotel)が無いのが不思議な位だ。タヌーマ(Tanumah)から北の山は花崗岩になり、傾斜も立って眺めも良くなる。タルフ(Talh)に小さな葉の広葉樹が混じる様に成って来る反面、高山杉(柏槇、Juniper)が姿を消す。柏槇(ビャクシン)は花崗岩との相性が良くない様に思われる。

 

涸れ谷ムーリー(Wadi Mulyh)(標高 2,300 メートル)を渡る。この涸れ谷も涸れ谷ビーシャ(Wadi Bishah)の支流涸れ谷タルジ(Wadi Tarj)の上流部である。この付近の高山杉(ビャクシン)は丸みを感じさせる。その丸い杉と上に向かって三角形を開いている様なタルフ(Talh)が濃い緑と灰色掛かった緑の対比をさせて居る様だ。花崗岩の岩峯地帯を抜ける。

 

Tanumah市街地-1

Tanumah市街地-2

 

 

1.3 タヌーマ(Tanumah)からビーシャ(Bishah)分岐

 

Tanumah付近のマントヒヒの群れ

 

1.3.1 ナマース(An Namas)

 

アブハーから143キロのナマース(An Namas)(標高 2,270 メートル)を通過する。考古博物庁の調査ではこの地域は「バニー・ウマル(Bani 'Omar)と共にイスラーム以前や初期イスラーム碑文が岩石画と共に見つかって居り、岩石画は広く散らばり、野生山羊(Ibex)、駱駝、牛、駝鳥や人物が描かれている」と云うが、私は見て居ない。町はSCECOの発電所に始まり、道路が中央分離帯を持ち、広くなった所の病院、その先の疎らな新しい建物、喧噪の旧市街がある。周りの山は風化され、景観を作っては居ないのであまり感銘は受け無いが、新市街地へと車で抜けるのに12分も掛かった程、長い市街地を持つ大きな町であった。人口としては2万から3万人規模の市なのだと思う。

 

1.3.2 涸れ谷ザイダーン(Wadi Zeydan)

 

町の北12 キロ付近で涸れ谷ザイダーン(Wadi Zeydan)(標高 2,460 メートル)を渡る。この涸れ谷も同じく涸れ谷タルジ(Wadi Tarj)の上流部である。19984月の時には路傍の駐車場(標高 2,350 メートル)で50匹くらいのマントヒヒの群が残飯をあさって居た。そばに近づくと警戒して、少し、逃げて行く。200012月の時には雲が霧の様に立ちこめて来た。

 

1.3.3 バニー・アムル(Bani Amro)

 

ハラバー(Halabah)(標高 2,350 メートル)を通過する。1,000人規模のこの町からの登りを上がり切った所で左の崖地(Escarpment)の下まで流れ落ちるのかと思うような大きな橋で鞍部を越えると19984月の時も200012月の時も一時的に雲の中に入ってしまった。標高2300メートルから急坂を下ると盆地の様に成ったアブハー(Abha)から約180 キロ付近にあるバニー・アムル(Bani Amro)(標高 2,010 メートル)に着く。市街地は5,000人規模の町である。その先に、尖塔の様に突き出た花崗岩の岩峯が聳える。1998年の時には州政府(Emirate)事務所前を通り過ぎた辺りで大きな鷲が旋回し、町外れで19984月にはマントヒヒの50頭くらいの群そして200012月の時には霧の中で30頭位の群がここでも残飯をあさっていた。この先からはビャクシンの群生が再び見られ、霧も晴れて来た。

 

1.3.4 マシャーイア(Al Mashay'ah)

 

アブハー(Abha)から208 キロのマシャーイア(Al Mashay'ah)(標高 1,970 メートル)を通過する。山肌の岩に亀裂が入って、片岩に変わっている。高山杉(柏槇、Juniper)とタルフ(Talh)の結構大きな木の群生がみられる。200012月にここの駐車場を通過した時には小型トラック(Pick-up)のパキスタン人が30頭程のマントヒヒの群れにホブツをやっていた。人口はせいぜい100人程度だが、サプト・ウラーヤー(Sapt al Ulaya)を経由してビーシャ(Bishah)への道の分岐でもあり、交通の要所と成っている。

 

1.4 ビーシャ(Bishah)分岐からガリサ(Al Gharisah)

 

1.4.1 シャアーフ(Al Shaaf)

 

この先はタルフ(Talh)と高山杉(柏槇、Juniper)の疎林地帯に成っている。1998年の時には烏が四羽舞っていた。北部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)はどの山にも鷹や鷲よ烏が多い。シャアーフ(Al Shaaf)は標高 2,100 メートルのタルフ(Talh)と高山杉(柏槇、ビャクシン)疎林の山の上に有る100人程度の部落である。200012月に通過した時にはこの部落の外れのゴミ焼却場で30頭ばかりのマントヒヒが餌をあさっていた。この辺りから高山杉(ビャクシン)は姿を消し、オリーブに良く似た感じで全体が丸い広葉樹に変わる。

 

1.4.2 トゥーフ(At Tuf)、アジャバ(Ajaba)とカーディム(Al-Qadim)

 

トゥーフ(At Tuf)は標高 2,060 メートルで500人位の小さな部落である。高山杉(柏槇、Juniper)とタルフ(Talh)とオリーブもどきの疎林が背丈は低いながら大きく広がっている。アジャバ(Ajaba)ではオリーブもどきを採集した。アブハー(Abha)から235 キロでマシャーイア(Al Mashay'ah)の北27 キロにビーシャ(Bishah)からサプト・ウラーヤー(Sapt al Ulaya)への道から北への間道が合わさる。この辺りからビヤクシンが見えなくなる。20032月の訪問の時はビーシャ(Bishah)からこの間道を抜け、北部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)の山稜に入って来た。その先にこの5分程北のカーディム(Al-Qadim)辺りでチンバのボス猿に率いられたマントヒヒの群を見た。

 

1.4.3 ガリサ(Al Gharisah)

 

アブハー(Abha)から251 キロでガリサ(Al Gharisah)(標高 1,600 メートル)を通過し、山稜は北向きから西向きに方向を変える。ガリサは交通の要所ではあるが、給油所があるだけで周囲は農村に成っている。ここから涸れ谷カサーン(Wadi Khathan)が北へと涸れ谷ランヤ(Wadi Ranyah)の上流部へと下っている。山肌は一時花崗岩と成るが、再び片麻岩に戻る。この先は紅海側へと落ち込んでいる景色が雄大で素晴しいが、なかなか良い眺める場所が無い。

 

1.5 涸れ谷カヌーナ(Wadi Qanunah) と涸れ谷ランヤ(Wadi Ranyah)の源頭部

 

1.5.1 涸れ谷カヌーナ(Wadi Qanunah)の右叉アカバト(al-'Aqabat)

 

ここから下ると真南へとバーシュート(Bashout)を抜け、ヌマラ(Numarah)南のガーミド・ズィナード(Ghamid Az Zenad)で合流する涸れ谷カヌーナ(Wadi Qanunah)の長い右叉の源頭部すなはちアカバト(al-'Aqabat)と成っている。この右叉の西側に沿う様に長い切り立った尾根が南へと延びている。この南への登りの西側は緑豊かで急斜面が千メートル規模で涸れ谷カヌーナ(Wadi Qanunah)の長い右叉の谷に落ち込む場所は岩山と緑とが調和し景色が良く、アシールの中で好きな場所の一つである。ここから海が見下ろせるのでは無いかと通る毎に思うが、遠い谷底はいつも霞んで居る。20032月の訪問の際は風が強いが、車を降りて写真を撮る。ここでサウジの若者を満載した小型トラック(pick-up)が一台入って来て我々に混ざる。「一緒に写真を撮るか」と言うと喜んで一緒に収まる。英語が全く通じない。もっと、英語教育をするべきだと思う。若者達が去った後、マントヒヒの群を見る。

 

涸れ谷カヌーナ(Wadi Qanunah)右叉源頭部アカバト(al-'Aqabat)

 

1.5.2 盆地に成った鞍部

 

南へと登ったこの尾根の付け根部分から北に向かって山を下ると涸れ谷(Wadi)が流れる人口200人位の盆地の様な鞍部(標高 1,550 メートル)に出る。この涸れ谷も北へと流れる涸れ谷ランヤ(Wadi Ranyah)の上流部である。ここから再び真南に向かって長い坂を登り返した峠がアシール州(Asir Emirate)とバーハ州(Al Bahah Emirate)の州境である。

 

1.5.3 涸れ谷カヌーナ(Wadi Qanunah)の左叉アカバト(al-'Aqabat)

 

峠の少し先がガーミド・ズィナード(Ghamid Az Zenad)方面へ向けて典型的な断崖絶壁のアスダール(al-Asdar)と成って居り、その崖地(Escarpment)を撮影する。下の涸れ谷(Wadi)が白く幅広にくねっている。この涸れ谷はガーミド・ズィナード(Ghamid Az Zenad)を抜けてクンフザ(Qunfudhah)へ流れ下る涸れ谷カヌーナ(Wadi Qanunah)の源頭部である。

 

1.5.4 空白地帯へと東に流れる涸れ谷ランヤ(Wadi Ranyah)の上流部

 

アブハー(Abha)から288 キロのフマイド(Al Humayd)(標高 1,860 メートル)の前後には涸れ谷(Wadi)の渡河が多く、東から涸れ谷タルヤ(Wadi Al Taryah)、涸れ谷ジョウフ(Wadi Al Jouf)、涸れ谷ハバカ(Wadi Al Habaqah)、涸れ谷ガマ(Wadi Al Gamah)、涸れ谷アリマ(Wadi Al Arimah)、涸れ谷フェレ(Wadi Al Fereh)、涸れ谷サクラン(Wadi Al Sakran)、涸れ谷フマイド(Wadi Al Humayd)、涸れ谷ジャファフィン (Wadi Al Jafafin)、涸れ谷セド・エテレム(Wadi Sed Etelem)、涸れ谷ヘラフル(Wadi Al Herahru)、涸れ谷アブダン(Wadi Abdan)、涸れ谷バケイイ(Wadi Bakeii)が並び12 キロ毎に13回も涸れ谷(Wadi)を渡った。これらの涸れ谷はいずれも北に向かい、涸れ谷ダワースィル(Wadi ad Dawasir)へ流れる涸れ谷ランヤ(Wadi Ranyah)の上流部である。これらの涸れ谷(Wadi)にはたまたま名が付いていたから記録しているが、この後も頻繁にアラビア楯状地に流れ込む涸れ谷(Wadi)を渡って行くが、名が無いので記録してはいない。とにかく涸れ谷(Wadi)の多い場所ではある。

 

1.6 バルジュラシー(Baljurashi)からバーハ(Al-Bahah)

 

1.6.1 バルジュラシー(Baljurashi)

 

アブハーから303 キロには検問所(Check Point)があり、高山杉(ビャクシン)が再び現れる。アブハー(Abha)から307 キロでバルジュラシー(Baljurashi)(標高 1,910 メートル)を通過した。山の上に高層の病院の建っているのが印象的な人口30,000人を越す大きな町である。高山杉(ビャクシン)も生えている。地図にはヌマラ(Numarah)南にあるガーミド・ズィナード(Ghamid Az Zenad)からの間道がこの町に上がって来ているが、私は確認して居ない。この町の先から道は次第に北北西へと向きを変え、丸いまった御影石の大きな岩のゴロゴロした山沙漠となる。涸れ谷カヤサ(Wadi Khayasah)と涸れ谷マクムーク(Wadi Maqmooq)を続けて渡る。

 

1.6.2 涸れ谷スラート(Wadi Thurat)上流

 

バーハ(Al Bahah)20キロ付近から高度が再び2,000メートルを越え始め、稜線の疎林も高山杉(ビャクシン)が主体となり、花崗岩よりも片麻岩が多くなって来る。バーハ(Al Bahah)の直ぐ南でランヤ(Wadi Ranyah)の支流涸れ谷スラート(Wadi Thurat)上流の涸れ谷マフォールジャー(Wadi Al Maforjah)と涸れ谷マラド(Wadi Al Malad)を続けて渡った。

 

1.6.3 バーハ(Al-Bahah)

 

アブハー(Abha)から336 キロでバーハ州の州都バーハ(Al-Bahah)の市の中心(City Center) (標高 2,020 メートル)に至る。アブハー(Abha)と比べるとやはり一段と小さく、閑散として感じる。19984月の訪問の際は到着が午後15時と成ったのでアブハー(Abha)から6時間掛かり、平均時速は56 キロであった。20004月の訪問では午後1745分に到着し、バーハ・パレス(Bahah Palace)に宿泊した。所用時間は5時間10分で平均時速は64 キロだった。

 

2. アブハー(Abha)地区

 

この地域は政治の中心である人口10万人の州都のアブハー(Abha)や人口3.5万人の軍事基地のある商業都市ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)があり、アシール(Asir)の中心を成している。

 

アブハー地区

(ここをクリックすると図が拡大します。)

(クリックした後、左上にカーソルを置くと右下に拡大マークがでます。)

 

2.1 アブハー(Abha)

 

アブハー(Abha)は私がアシール(Asir)を訪れる時には「必ず」と言って良い程、立ち寄る場所で、最初に訪問したのは19987年の冬に次いで二回目は1997年の9月でその後も19984月、200012月、20022月、20032月と計6回もアブハー(Abha)を訪れている。

 

2.1.1 公園都市アブハーと周辺の国立公園

 

アブハー(Abha)は標高 2,050 メートルにあり、今年の322日に亡くなった丹下健三が設計したと言われる公園都市で登り降りのある環状道路が町を囲い、その高台毎に公園が設けられ、自然と景観を楽しめる様に成っている。アブハー(Abha)周辺の公園の数は50を越え、その中でもスーダ公園(Al-Sawdah)、カラアー公園(al-Qar'a)、ダラガーン公園(Dalaghan)、ジュッラ公園(Al-Jurrah)、マハーラ公園(Al-Maharah)、ハバラ公園(Al-Habalah)、ハヤル公園(Abu Khayal Park)およびハドバ公園(Al-Hadbah)等のアシール(Asir)の重要な観光地には施設が整備されている。(各公園の詳細に付いてはアシール紹介その1アブハーを参照戴きたい。)

 

アブハー(Abha)の環状道路は大きなコノカルプス(ConocarpusButton Mangrove)の緑の並木道と成っているので景観が一層引き立てられて居る。この環状道路を少し南西へ外れた涸れ谷ディリア(Wadi Dala')を見下ろす崖地にはアシール国立公園センター(Asir National Park Head Quarters)が設けられ、そこにはアシール(Asir)の自然や動物を紹介する小さな博物館があり、観光用大型ケーブルカーの発着場もある。このセンターの中の岩山には古代住居跡も保存され、その岩山からアブハーの人造湖(As Sad Lake)ディリア渓谷(Dala')の眺めには圧倒される。

 

2.1.2女王ハトシェプスト(Hatshepsut)とアブハー(Abha)

 

アブハー(Abha)の歴史は古いらしく「アシール(Asir)地方は古代には香料(incense)、香辛料(spice)や没薬(myrrh)の重要な交易路であり、古代エジプト女王ハトシェプスト(Hatshepsut, 1473-1458 B.C).は紅海を越えて大きな船をアブハー(Abha)に使わした」との記録がエジプトの古代寺院の壁に象形文字(Hieroglyphic)で残されている。

 

2.1.3 シャダ・パレス(Shada Palace)と絵画村(Al-Mettaha Art Village) 

 

政府の省庁を中心に近代化されたビルの立ち並ぶアブハー(Abha)市内にもアミール庁裏の伝統的なスークやそれに隣接する民俗博物館(Shada Palace)等が残されて居る。又、その近くには絵画を制作販売する地区が保存されている。200328日にハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)からアブハー市内に入った際にガイド(guide)が市の中心部に向かうのでおかしいと思ったらアミール庁裏の大きなプールを見下ろす位置にシャダ・パレス(Shada Palace)と名付けた民俗博物館があった。

 

この内装はアシールの典型で歴代の女主人が色を塗り、文様を描き、良く手入れして居た事を窺わせる。陳列されている農機具、什器、備品、洋服、装飾品、大砲、銃器、刀剣等民俗的な品物の保存状態も良い。

 

 

アブハー民俗館(シャダ・パレス(Shada Palace)(外観と内部)

 

シャダ・パレス(Shada Palace)のアミール庁と反対側は靴、銃刀剣ケース等革製品の販売修理スークで、同行の他の皆が買い物している間に横皮に穴の開いたブーツを直す。宛て皮をして接着剤と糸縫いできっちりと修理してくれた。

 

シャダ・パレス(Shada Palace)を出発し、右に折れて間も無く、絵画村(Al-Mettaha Art Village)に着く。金曜日のせいか一軒も開いていないが、絵を作成販売していると言う。道に出て、左折すると環状道路に出る。左折し、ダムの下(Abha Palace Hotelの前)を通過しスーダ(Soudah)へと登った。

 

2.1.4 アシール国立公園センター(Asir National Park Visitors Center)

 

200328日午後1時にアシール市の環状道路から外れてその2 キロ位南東にあるアシール国立公園センター(Asir National Park Visitors Center or Asir National Park Head Quarters)に到着する。この中に入るのは始めてである。それまでは門がいつも閉まって居り、我々だけだと中に入れなかったのでガイドも雇った価値があった。

 

このセンターの道路と反対側はジーザーンへの降り道を一望できる景観が広がり、それを眺めながら運行される観光用ケーブルカー(Cable Car)の発着駅がある。また、岩登りの人工ゲレンデが設けられ、貯水池を見下ろす岩の上には砦跡がある。展望台もトイレも展示室も良く整備されている。展示場にはこの地方の動物の標本が陳列されている。中ではアラビア・コブラが印象的であった。私もカフジ(Al-Khafji)の鉱業所のゴルフ・コースで一度白くて小さなコブラに会い、クラブで追い払った事があった。その時は印度から船にでも乗ったのが海岸に流れ着いたのだと思って居たが、アラビア半島にもコブラが棲息している事をここで始めて確認した。

 

Asir CenterCable Car

Asir CenterからJizan道路

 

2.2 ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)

 

2.2.1 ムシャイト族の火曜市

 

ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)はアブハー(Abha)の北東27 キロの山岳地帯内陸にあり、文字通り市の名前である「ムシャイト族の火曜市」を意味する様に伝統的な商業都市であり、特に農業生産物の取引が多い。標高は 1,880 メートルであり、人口は35万人位であるが、商圏としてはアブハー(Abha)と一体化している。

 

2.2.2 キング・ハーリド軍事都市

 

ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)の南にはサウジアラビア南方軍司令部があり、野砲および歩兵学校およびキング・ハーリド空軍基地(King Khalid Air Base)があり、米軍軍事顧問団も駐在している。

 

2.2.3 マハサマ(al-Makhasamah)遺跡

 

ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)の南でカラアー公園(al-Qar'a)への分岐付近には赤い花崗岩の丘陵地帯があり、大量の石造りの遺構や陶器の破片が散らばっている。これは紀元前3,000年期から2,000年期に遡るマハサマ(al-Makhasamah)遺跡である。

 

2.2.4 ジャラシュ(Jarash)

 

ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)の南西20 キロにあるアハド・ラフィーダ(Ahad Rafidah or Ahad Rufaidah)の更に78 キロ南西の涸れ谷ビーシャ(Wadi Bishah)の南岸にあるジャラシュ(Jarash)には11世紀頃までイエメン(Yemen)からの巡礼交易路の重要な拠点であったイスラーム以前やイスラーム初期までの石造りの巨大建造物の遺構や泥作りの住居跡が残って居る。「このジャラシュ(Jarash)のハムマ山(Jabal Hamumah)の傍にシバの女王(Queen of Sheba)がソロモン王(King Solomon)に会うための道中での野営地であったビルキース(Bilqis)があった」とこの地方では信じられている。

 

2.2.5 ウタイバ族(Otaibah)の伝統的アシール風泥造りの家

 

200328日(金曜日)ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)からアブハー(Abha)へ向かった12 キロ辺りで急に泥の道に入る。立体交差の道路に囲まれた交差点の中に泥作りの伝統住居が残っている。「これがウタイバ族(Otaibah)の泥造りの家(Al-Otaibi Mud House)だ」と言う。150年位前の物だが、不法占拠者が居るらしく保存状態も悪く、家も小さく観光資源と云うにはお粗末ではある。しかしながら内部の天然塗料での装飾は手つかず残って居り、手入れをすれば良くなると思う。

 

Oteebi Mud House

 

2.3 アブハーのホテル

 

2.3.1 ボウハイラ・ホテル(Al-Bouhaira Hotel)

 

最初に訪れた19987年の冬の時にはカフジ鉱業所の先輩3人と一緒にザハラーン(Dhahran)空港から発ってアブハー(Abha)空港に着いた。2時間以上も掛かった飛行時間で改めてサウジアラビアの広さを認識した。空港でレンタカーのカローラーを借り、ホテルに付いたら「舞踏会している」と云う事でホテル(Al-Bouhaira Hotel)は警官で厳重に警備されていた。飲み物もあるらしいきらびやかに感じた催しのざわめきを聞きいていた。今から思うと多分、結婚式だったのだろう。当時でもアブハー(Abha)の町中の住宅の壁は景観を配慮した絵が描かれ、それを下からの光で霧の中に浮かんでいたし、環状道路に沿った小高いの中腹には七色のサーチライトが設けられ、吹き上がる霧をライト・アップし、まるで霧のダンスを眺める思いがした。朝起きるとホテル(Al-Bouhaira Hotel)の下を抜けてダムの湖水(As Sad Lake)へと注ぐ川面を眺め、この国で見た最初の水の流れに感激した。

 

2002225日訪問ではスーダ(Soudah)山地から夕方、アブハー(Abha)に降りて来た。私はアブハー・パレス・ホテル(Abha Palace Hotel)に泊まる積もりで居たが、同行のM氏が「少し贅沢だ」と言うので人工湖(Lake As Sad)の対岸にある、1987年に泊まったボウハイラ・ホテル(Al-Bouhaira Hotel)に案内する。M氏がホテル(Al-Bouhaira)と交渉し、湖水を見下せ、眺める良い場所に建った4室のビラを借りる。ホテルの古さにも拘わらず、ロビーや食堂等の設備はキチンと整備されて居り、アブハー(Abha)への観光客の多い事を窺わせる。

 

2.3.2 アブハー・パレス・ホテル(Abha Palace Hotel)(標高 2,170 メートル)

 

三回目の訪問は199845日であり、当時は新築であったアブハー・パレス・ホテル(Abha Palace Hotel)に宿泊した。紅海側から午後3時頃にアブハー(Abha)入りした後、スーダ(Soudah)へ登る道路にこのホテル新築の宣伝があったのでスーダ(Soudah)への途中との先入感で間違えたが、人工湖(As Sad Lake)の南側に大規模な遊園地付きの大きなホテルらしい建物を見つけて近寄ってみた。外見からは大き過ぎてとてもホテル(Hotel)に見え無い。ロビーも客室も近代的豪華でしかも付帯施設が付き、しかも市街地にも直ぐの場所だし、ダム(As Sad Lake)の湖畔にあるのでアブハーに逗留するには良い場所だ。その上。コンドミニアム(Condominium)や観光空中ケーブルの発着所を含む本格的な遊園地が同じ敷地にあるし、入り口(Gate)には警官が見張って(Watch)居り、ムタワ(宗教警察の手先)との関わり合い(Trouble)も無いので今後の宿泊はこのホテルだと思った。そんな事がこのホテル(Hotel)の持ち主がここのアシール州知事(Governor)も含む王族(Prince)のファイサル家(Faisal)である理由なのだろう。

 

このホテルの窓から眺めるとアブハー(Abha)は何度訪れても美しい町だと思う。この辺りに片麻岩が多いのがビャクシンの広大な林と関係が有るのかも知れない。200328日(金曜日)の訪問の時には観光ガイドのハジ(Al Haj)が人工湖(Lake As Sad)を見下ろす丘の上に車を止めて「アブハー・パレス・ホテル(Abha Palace Hotel)は貯水池の水辺を独占して居り、敷地内からケーブルカー(cable car)が発着する等ユニークである」等と同行していた二家族に説明してくれる。

 

2.3.3 インターコンチネンタル・ホテル(Intercontinental Hotel)

 

インターコンチネンタル・ホテル(Intercontinental Hotel) は国際会議場と目を引く回教独特の円屋根の巨大なモスク(礼拝堂)を持つ、サウジ政府が国威をかけてこの標高3,000 メートルに建造したアラブ・マネーを代表すると云われて居たホテルである。経営をインターコンチネンタルに委託している為にこの名があり仕組みとしてはリヤードのインターコンチネンタル・ホテル(Intercontinental Hotel)と同じで同系列ある。このホテルの周囲の高山杉(ビャクシン)の森には広大な遊歩道が設けられ、特に夏の間、避暑の為に家族で貸しビラ(Villa)に滞在する逗留客には絶好の環境である。ホテルの更に上には国王の宮殿がある。このインターコンチネンタル(Intercontinental)はその設備の古さと従業員の接客態度(Service)を考えるとアブハー・パレスの様な新しい設備を持ち、新しいサービスを提供できるホテル(Hotel)と同じジャンル(Genre)で競争するのは無理だろう。ただ、インターコンチネンタル(Intercontinental)はサウジで一番高い標高3,000 メートル の場所にあるし、政府関係の会議場としての役割はあるので、アブハー・パレスの様に行楽地(Resort)として特化したホテル(Hotel)とは違っていると思う。

 

19987年の冬の時にはホテル(Al-Bouhaira Hotel)の前の坂を登り始めると急で狭い坂道を地元の車はどんどん追い越して行くが、普段は平らな広い道しか運転して無い私に取っては文字通り命懸けの様な気がした。それでも道路脇に立つ商店や宿屋に行楽地を思わせる趣があり、山を登るに連れて棚畑が開け、気分的にはなんとなくホットして来る。スーダ(Soudah)の山頂が近づくに連れ、霧で覆われ何も見えないが、高山杉(柏槇、Juniper)の森が道路を囲う中を登って行くと遊歩道が現れ、そこを左に登ると、黒灰色をした大理石で出来た巨大なインターコンチネンタル(Intercontinental)の建物が並ぶ。

 

二回目にアブハー(Abha)を訪れたのは1997年の9月で一年先輩のご夫婦とであった。鉱業所の在るカフジ(Al Khafji)から350キロにあるザハラーン(Dhahran)空港に夕方遅く着くと予約していたナジュラーン(Najran)空港への便は遅れて居て当分飛ぶ見込みが無いと云う。顔馴染みのあるザハラーン(Dhahran)空港ホテルの支配人が「何とか成ると思う」と言うのでその晩はそのホテルに泊まる事にして市中に久しぶりの中華料理を食べに出掛けた。ホテルに戻ると夜中の10時半頃、支配人が「アブハー(Abha)行きの便が10時間遅れで夜半過ぎに出るのでそれで行け」と言う。他に選択肢も無くその飛行機に乗り込むとアブハー(Abha)に着いたのは午前1時半を回って居た。

 

幸い空港にタクシーは居たので「インターコンチネンタル・ホテル(Intercontinental Hotel)と言うと暗い山道を一気に標高3,000 メートルまで連れて行ってくれた。翌朝は早朝から予めナジュラーン(Najran)空港へGMCの大型四輪駆動のサバーバン(Suburban)を運転させてヤーム族のアリー(Ali)を派遣していたのでアリー(Ali)の実家に電話して拙いアラビア語でアリー(Ali)Suburbanをアブハー(Abha)のインターコンチネンタル・ホテル(Intercontinental Hotel)まで回送する様に依頼した。ナジュラーン(Najran)から280 キロ離れたアブハー(Abha)へ山道を抜けて来るには5時間は掛かるのでこの午前中はスーダ(Soudah)のインターコンチネンタル・ホテル(Intercontinental Hotel)周囲の高山杉の森を散策したり、良く耕された棚田を眺めたりして過ごした。ホテルへ高山杉(ビャクシン)の木立の中では数人のカフターン(Qattan)族の男達が花冠とキルトスカートの姿で蜂蜜を売っていた。

 

20001227日にインターコンチネンタル・ホテル(Intercontinental Hotel)を訪れた時には昼食を摂りながら一時間近く休息出来た。2002225日訪問では午後3時半頃にインターコンチネンタル・ホテル(Intercontinental Hotel)到着した。コーヒーを飲もうとするとホテルは閉鎖されている。周囲のホテルも閉鎖されているので冬季は営業を止めているのが分かった。その次ぎに訪れたのは200328日(金曜日)午後12時半で、その時に雇っていた観光ガイドのハジに「アブハー(Abha)を訪れたからには、著名な国際会議も出来る標高3,000 メートルの山頂にあるホテルには寄るべき」と案内させる。しかしながら、観光ガイドのハジがインターコンチネンタル・ホテル(Intercontinental Hotel)について殆ど何も知らないので私が同行していた二家族に「この山頂の高さは3,040 メートルと3,300 メートルの二つの説があり、国王の離宮が一番高いところにあり、このホテルには設備としては国際会議場もあり、特に家族用のビラが素適だ」等を含め説明した。この時にもホテルは閉鎖されて居り、記念撮影をしただけの立ち寄りとなった。

 

2.3.4 トライデント ホテル(Trident Hotel)

 

19987年の冬の時には二日目にナジュラーン(Najran)まで往復した。その帰りに途中で見つけたハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)のトライデント ホテル(Trident Hotel)に泊まった。今では四星でこの地方の代表的なホテルであるが、その当時は町のシティ・ホテル(City Hotel)と云う印象しか無かった。夕食を兼ねてホテルから繁華街へ向かうと出稼ぎ労働者で歩くのも困難な程の雑踏である。そのむさ苦しい人達をかき分けてスーク(Suq)の傍にフィリッピン兼中華料理屋を見つける。サウジ人は中国料理を好むが、エスニックは好まないのでタイ、フィリッピン等の東南アジア系の店では中華料理の看板も併記する。そのみすぼらしい食堂で食べた料理は結構美味かった記憶があるが、何を食べたかは覚えて居ない。

 

200327日(木曜日)に涸れ谷ダワースィル(Wadi ad Dawasir)からハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)入りする。この日の行程には時間に余裕があり、午前中に涸れ谷ダワースィル(Wadi ad Dawasir)から東にルブア・ハーリー(空白地帯沙漠)へ入って偵察したのでハミース・ムシャイトに着いたのは日暮れだった。ホテルに電話すると屋上に看板が大きく出て居り、直ぐに分かると言う。ホテル近くまで行って捜すが、それらしい看板は無く、何度も行きつ、戻りつしてやっとホテルに辿り着いた。ホテル側がうっかり看板の照明を点け忘れた為にこの様な事が起きてしまった。

 

豪華に改造され庭園もある立派な四つ星ホテルに成って居り、接待も快い。三食付きの観光パックを利用したので食事の心配も無く快適な夜を過ごした。翌200328 (金曜日)は晴れ、一時曇りで気温1121℃と良い気候であった。このホテルでは観光ガイドを用意して居たので何か新しい発見があるかと云う期待と道に迷わない為にガイド(Guide)を雇うことにした。

 

午前8時に出発の用意が出来、ガイドの到着を待つ間、記念撮影をする。昨夜は着くのには戸惑ったが、ホテルの手入れもホスピタリティも良く、気持ちの良いサービスだった。観光ガイドの案内は博物館以外あまり真新しくは無かった。それでもアシール観光センターも案内してくれたし、スーダ(Soudah)での食事の設営もしてくれたのでそれなりではあった。でも、マダーイン・サーリフ・ホテル(Mada'in Salah Hotel)の観光ガイドのパトリック(Patrick Pierard)とは教養と知識で比較しようも無い。人柄も悪くは無いが、外国人(印度人)の割には観光資源に対して余りに勉強不足だと思う。この程度の知識で観光ガイドと言える辺りに観光庁まで設立した鳴り物入りのこの国の観光開発にもまだまだ限界がある。

 

2.4 スーダ(Soudah)山地

 

2.4.1 ムハーイル(Muhayil)への急峻な降り口

 

199846日の時は快晴の中アブハー・パレス(Abha Palace Hotel)から登りスーダ(Soudah)(標高 2,750 メートル)を通り、インターコンチネンタル(Intercontinental Hotel)の前で土壌試料(Soil Sample)とこの山に這い松の様に生えている高山杉(柏槇、juniper)を採集する。1997年の9月にはザブナフ(Zabnah)の何軒かの商店の有るT字路から下ろうとして検問所の警官に「オートマティック(Automatic)車は通行禁止だ」と厳しく言われた。「ムハーイル(Muhayil)にはこの急峻な坂道しかに下る道は無い」と思い込んで居たが、199846日にここを通過した際にこれは誤解でここからの道はムハーイル(Muhayil)への間道に過ぎない事が分かった。その先の人口100人程度の集落シャルマ(Sharmah)で涸れ谷タバブ(Wadi Tabab)と標識板を見つけた。その脇を流れる13 メートルの涸れ谷タバブ(Wadi Tabab)の流れに沿って道を辿った。タバブ(Tabab)からはアブハー(Abha)への簡易舗装の道が南東に分岐している。この涸れ谷タバブ(Wadi Tabab)はここでは北東に向いているが、その後東に向き180°向きを変え涸れ谷タイヤとなってムハーイル(Muhayil)への道に沿って西へと下り、涸れ谷ハリー(Wadi Hali)に合流している。スーダ(Soudah)を抜けるのに意外に時間が掛かり、1時間半以上を費やしてやっとターイフ・アブハー間の本道(Taif-Abha)にあるマラーハ(Al Malahah)(標高 2,070 メートル)のT字路に出た。山道は意外と時間が掛かる事を改めて再認識した。なお、マラーハ(Al Malahah) 北のムサルト(Musalt)で立体交差してムハーイル(Muhayil)への道が下っている。

 

2.4.2 スーダ(Al Soudah)国立公園の空中ケーブル

 

2002225日訪問では午後3時頃、東南東のハバラ(Habalah)方面からアブハー(Abha)に着いた。アブハーの環状道路は相変わらず美しい。その美しい町並の環状道路は休みのせいか空いており滞りがない。早速、アブハー・パレス(Abha Palace Hotel)とダム(As Sad Lake)を眺めながらスーダ(Soudah)へと登る。同行のM氏はスーダ(Soudah)山地の緑と段々畑にすっかり感激している。帰りに写真をとり、コンピューターで再現すると素晴らしく良く取れている。インターコンチネンタル・ホテル(Intercontinental Hotel)に立ち寄った後に、その先のスーダ(Al Soudah)国立公園のケーブルカー乗り場からスーダ(Al Soudah)の柏槇(Juniper)に覆われたアカバト(al-'Aqabat)の景色を眺める。その後で全長3,500メートル、標高差1,000 メートルと言うスイス製のケーブルカーに乗り、涸れ谷アウス(Wadi Al 'Aws)へ降りる事にした。この空中ケーブルが動いていたのは私に取ってはこの時だけで一度だけの体験だった。運転手のアラヴディーン(Aravudeen)M氏の助手は「空中ケーブルに乗るのは遠慮する」と言う。先程のハバラ(Habalah)の空中ケーブルが余程怖かったらしい。ケーブルカーは意外に早い速度で急な角度で降下して行く。その高さにM氏は「金玉が縮まる」と言っている。その表現がおかしく無いぐらいの高さのあるケーブルである。途中、鳥が巣でも作っているのかケーブルカーのゴンドラ(gondola)を盛んに追いかけて来る。でも、ケーブルカーの軌道に沿って流れる谷に水流があり、滝や淵を作っているのが楽しい。残念なのはビヤクシンの立ち枯れが目立つことである。但し、日サ協力事業で日本国際協力事業団(JICA)がアブハー(Abha)に専門家を派遣し、柏槇(Juniper)の立ち枯れ問題を研究していた日本国際協力事業団(JICA)の当時の永田サウジ事務所長の話では「研究の結果、柏槇(Juniper)は枯れて居るのでは無く、乾燥して行く気候に合わせて自らの大きさを小型化するように調整している」のだそうだ。ケーブルカーを降りて、下の駅から見上げると本当に急な勾配である。駅のベランダでアカバト(al-'Aqabat)景色を下から見上げながらお茶にした。

 

Al Soudahの空中Cableから見たビャクシンの森

 

2.4.3 スーダ(Al Soudah)国立公園の散策

 

200328日(金曜日)に訪れたのは午前10時を少し回った頃であった。この日は最初からスーダ(Al Soudah)国立公園のケーブルカー乗る積もりで居たが、ケーブルカーの乗り場は閉鎖され、空中ケーブルのゴンドラは稼働して居ない。観光ガイドのハジに調べに行かせ、その間、アカバト(al-'Aqabat)に設けられた遊歩道の散策を楽しんだ。ケーブルカーの駅と道路を挟んだ西側の展望台にはマントヒヒが座っていた。同行していた子供達が駆け寄ろうとするので止めるが、マントヒヒの方は人馴れしている様子で動きもしない。展望台の右下でケーブルカーの吊り索の真下にある食堂らしい建物屋根のテント地の上には小猿が数頭戯れている。角度のあるシートの上を良く滑らないで居られるものだ。ここからの眺めは高山杉(柏槇、Juniper)の森のせいもあり、又、姿を見えずに谷川を流れる水のせいか、何時見てもしっとりしている。何と行っても標高差2,000 メートルを一気に見下ろせる眺めは素晴らしい。

 

アカバト(al-'Aqabat)の柏槇(Juniper)の森の中で500 メートル位離れた場所に小高い展望台があり、同行のU氏が子供を連れてそちらに向かう。私も夫人の一人とその運転手とでそちらに向かう。我々の歩いている遊歩道と5 メートルも離れて居ない猿道をマントヒヒの群が一列で我々と並行して逆方向で、食堂らしい建物の方に移動している。どうも子供達の声を聞いて避難して居る様だ。こんな近い距離を多くの猿が我々に警戒もせず、移動して行くのはサウジ人が動物を虐めないからなのだろう。その夫人は観察熱心で植物を見ながら、「これがトマトか唐辛子なら良いのに」といいつつ、小さな黄色い実を取っている。また、柏槇(ビャクシン、Juniper)にぶら下がる苔の様な髭の様な白み掛かった緑の房の様な植物は「日本では茨城県から南にしか無い。今は絶滅が心配されているサルオガセと言う植物である。この植物は猿の居る森の松か杉にぶら下がり空中の水分で生育する植物だ」と言う。又、夫人が木の葉の化石を一生懸命に拾おうとしている事からこの一帯、スーダ(Soudah)の山の上は赤い砂岩に覆われて居る事に気が付く。ここに砂岩があるとは今まで考えても居なかった。何度かここを訪れたにも拘わらずこの事実を素直に観察して来なかった自分を少し恥ずかしく思った。

 

ガイドのハジが「ケーブルカーは正午から動く」と言うので弁当(Lunch Box)をつかいながら待つ事にした。ハジが展望台の石の手すりにテーブル・クロス(Table Cloth)を敷いて臨時の食卓を設えてくれる。サウジアラビアの四つ星以上のホテルがサービスしている観光パックと云うのには観光ツアーは含まれて居ないけれども三食付きなので今回の様に家族を二組同伴している団体旅行では便利だ。霧が出て来て視界が無くなり、幻想的に成った柏槇(ビャクシン、Juniper)の森の中での結構、豪華な弁当(Lunch Box)を使っての立食パーティと成った。サンドイッチ、チキンローストとタブーク・ミカンが特に旨い。傍に居るマントヒヒが全く手を出して来ないのは彼等が食糧を十分に手に入れている為だろう。ハジは「ケーブルカー(Cable Car)が動く為には職員がこれからケーブルカー(Cable Car)の切符をアブハー(Abha)まで取りに行って帰って来るのでさらに30分掛かる。」と二回目の予定を言う。これは当てに成らないとケーブルカー(Cable Car)に乗るのは諦め正午過ぎに出発する。

 

Soudah景観-1

 

2.5 ハバラ(Habalah)

 

2.5.1 ジャラシュ(Jarash)からハバラ(Habalah)

 

2002225日は晴れては居たが、沙塵(dust)で遠景が靄っていた。この日はナジュラーン(Najran)からアブハー(Abha)に向かっており、途中でアハド・ラフィーダ(Ahad Rufaydah)の南からの間道でカラアー道路(Al Qara’a Road)に入り、ハバラ(Habalah)に立ち寄る積もりで居た。アハド・ラフィーダ(Ahad Rufaydah)南の給油所で道を聞くが、埒が開かない。良く確認すると給油所の北から直ぐに西へ入る道があるのでこの道に入りを上り下りしながら進んだ。正午頃に丁字路出たのでそれを南に下る。大きな町ワーディヤン(al-Wadiyan)があり、昼飯用にホブツとフール(豆の煮物)を買い、道を尋ねると居合わせた34名のサウジ人が「アナトール(直進)」と言う。20分位で突然、目の前が切り立った絶壁になる。

 

2.5.2 近代的観光施設と空中ケーブルカー

 

その上に建てられている駐車場、展望台、休憩室、食堂、空中ケーブル等観光施設の余りの立派さに驚き、一瞬、スイスに来たかと錯覚した。空中ケーブルカーはつい最近まで下帯だけの屈強な男達しか登り降り出来なかったハバラ(Habalahへの出入りの崖に設けられ、崖下の部落跡まで降り、見学出来る様になっている。切符を買うと運転手のアラヴディーン(Aravudeen)が「高くて怖いから乗るのは嫌だ」と言う。「俺が払ってやるのだし、折角きたのだから」と言うが、頑なに拒んでいる。この印度人運転手は本気で怖がっていた。空中ケーブルカーに乗ると殆ど垂直に切り立った絶壁が良く観察できる。

 

2.5.3 ハバラ(Habalah)絶壁の砂岩

 

絶壁は砂岩であり、磁鉄鉱の縞の層までハッキリ確認できる。しかし、絶壁の下の急峻な斜面は火成岩の風化した砂礫である。サウジアラビア北西部のタブーク(Tabuk)からドゥバー(Dhuba)へ抜けた時にヒジャーズ(Al Hijaz)の分水嶺を越えて堆積岩が発達して居るのは確認して居たが、まさかサウジアラビア南西部の標高2,500メートル級のアシール山脈でサラート(Jibal al-Sarat)の分水嶺まで越えて紅海側へ落ち込んで場所に堆積岩が発達している等とは全く思わなかった。旧村落跡のケーブルカー乗り場に作られたキャフテリア(Cafeteria)でお茶を飲みながら分水嶺を越えのバニー・マリーク(Bani Maleek)族の男達が外界との交易の為に最近まで登り降りした切り立った断崖の景色を楽しみ、オスマン(Ottoman Turkish)帝国軍への恐怖からこんな不便な場所へ隠れ住んだ人々の生活に思いを馳せた。

 

Al Habalahの断崖-1

Al Habalahの断崖-3

 

2.5.4 カラアー道路(Al Qara’a Road)からハバラ(Habalah)

 

200328日(金曜日)に訪問した時にはアシール国立公園センター(Asir National Park Head Quarters)を午後1時半に出発し、カラアー道路(Al Qara’a Road)を東南東へと向かった。この道には鷲や鷹が多い。カリーヤ(Al Qariyah)経由でハバラ(Habalah)へ向かうと思って居たが、もっと東から広い大通りのワーディヤン(Al Wadiyan)町から回り込んで行く。観光ガイドのハジはハディーラ(Al Hadeelah)付近の小さな涸れ谷(Wadi)の対岸の泥造りの典型的なアシール建築の村を見せたかった様だ。ハバラ(Habalah)手前の登り道でマントヒヒの群が道を渡っているのに出くわした。

 

この時、ハバラ(Habalah)に着いたのは午後2時を少し過ぎていたが、ここではケーブルカー(Cable Car)が動いて居りホッとする。ケーブルカーに乗ると突然垂直の崖から空中に踊り出すと標高2,000 メートル下までの景観が開け、雄大である。

 

ハディーラ(Al Hadeelah)近傍の伝統家屋-1

 

2.5.5 崖下の厳しい生活を思う

 

昔の上り下りに使った道を探すとケーブルカーの駅の北側に何とか上れそうなチムニーと階段とに成った場所がある。今回は子供達と降りた駅の上の村落に入って見た。高所に弱い夫人の一人もその時は子供につられて一緒に来られ、ご主人が下から写真を撮って居る。この村落は崖下に沿ってかなり広がっており、今まで考えて居たよりも規模が大きい。建物は小さく狭く、ほぼ二階建てだ。でも、バニー・マリーク族(Bani Maleek)が毎日この急な斜面を登り下りした生活は想像より厳しいに違いない。棚畑はこの廃村にはるか下まで続いて居り、今でも畑作が行われている。ハバラ(Habalah)を午後3時に出発する。観光ガイドのハジに大きな通りの町ワーディヤン(Al Wadiyan)の直ぐ北からナジュラーン(Najran)街道のジャラシュ(Jarash)に出る道を行くように指示するが、どうも知らないのか安全を見たのかカラアー道路(Al Qara’a Road)本道に沿って大きく北上する。止めてもかえって時間を食うとそのままハジに従った。アハド・ラフィーダ(Ahad Rufaydah)の北でハジと分かれ東南に向かう。10分程で希望したジャラシュ(Jarash)分岐のガソリンスタンド前を午後3時に通過した。

 

Al HabalahBani Maleekの隠れ里-1

Al HabalahBani Maleekの隠れ里-2

 

2.6 アブハー(Abha)南東の公園

 

2.6.1 カリーヤ山(Al Qariyah)

 

2002225日訪問ではハバラ(Habalah)から1213 キロ西のカリーヤ山(Al Qariyah)に向かった。カリーヤ山(Al Qariyah)山の南にあるタムニーヤ(Tamniyah)を取り巻く東西に長い楕円形環状道路の南周りの道に入り、アリー(Al-Ali)の地名で道が間違いないのを確認する。この辺りの山も砂岩で覆われて居り、堆積岩が分水嶺を越え紅海側まで発達して居るのをここでも確認した。この辺りはビャクシンの森が美しい。やがて丁字路が現れ地図に沿って右に折れる。坂を下り始めると間もなく右からタムニーヤ(Tamniyah)の北側を通る道が丁字にぶつかって来る。

 

2.6.2 カラアー国立公園(Al-Qara'a)

 

2002225日訪問ではタムニーヤ(Tamniyah)からマスキー(Al-Masqi)を通り、北西に真っ直ぐにカラアー国立公園(Al-Qara'a)へと進んだ。やがて右から地図の通りY字方の丁字路があり、ロータリー(Rotary)が現れる。このロータリーを左へ回り込み、西南西へと進む。公園の入り口への右折は分かり難いが、それらしい車がたくさん曲がって行くフェンスに沿った道を右折する。公園は左右にあるが、右側は閉鎖されて居り、左側の門を入る。中は広く良く整備されゴミも目立たないのがうれしい。木立木立には駐車場が設けられその中ではバーベキュー等が出来る施設も整っている。日の射し込む木立の切り株に座り、子供の声を聞きながらビヤクシンの森でホブツ(平らで丸いアラビア パン)とフール(牛乳のクリーム)の昼食にする。一時間位休憩し、カラアー国立公園(Al-Qara'a)を出発した。

 

2.6.3 その他の国立公園

 

カラアー公園(Al-Qara'a)へのランダーバード(Roundabout)で方向を迷い軍事施設に入りそうになる。ランダーバードに戻り改めて北西に向かう。ここからはアシール独特の段々畑、ビヤクシンの森、街並みが続くき、約30 キロの道中にはダラガーン国立公園(Al Dalaghan)、ハダバ国立公園(Al-Hadabah Park)、アシール国立公園センター(Asir National Park Head Quarters)が並ぶ観光道路に成っている。残念ながら沿道のアシールの伝統的な建物はかなり荒廃してきている。順調な走りで意外に早くアブハーが近づく。

 

3. 南部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)

 

アブハー・ナジュラーン(Abha - Najran) 間のを旅したのは1987年の冬にアブハー(Abha)から日帰りで往復し、次いで二回目は1997年の9月に一泊二日で往復している。その年の419日にナジュラーンからハミース・ムシャイト経由で涸れ谷ダワースィルへも抜けた事もある。その後も200012月にナジュラーン(Najran)からジーザーン(Jizan)へ行く途中で通過し、20022月にはナジュラーン(Najran)から内陸側のバイパスを抜けてアブハー(Abha)へ旅している。又、20032月の午後遅くハバラ(Habalah)からナジュラーン(Najran)へ向かっている等、私としてはサウジアラビアでも最も頻繁に訪れた場所とは言えるが、その割に花冠とスカート姿の男達との接触が無かったのを残念に思う。

 

北から南へと延びるジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)の主稜はアブハーで幅を広げて南東へ向きを変えザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)に達する。ザハラーン・ジャヌーブで主稜は再び南へと向きを変えイエメンへと延びている。その一部はから東に向う支稜と成ってナジュラーンへ達している。南部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)の特徴はサラート・アビーダ(Sarat Abidah)とハルジャ(Al Harjah)の間の熔岩台地地帯とザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)からアシール(Asir)の山稜から東に分岐してナジュラーン(Najran)へ延びるこの支稜である。

 

3.1 アブハー(Abha) からナジュラーン(Najran)への往復

 

3.1.1 始めてナジュラーン(Najran)往復

 

始めて1987年の冬に往復した時にはナジュラーン(Najran)に一泊する積もりで出掛けた。当時はアシール(Asir)の伝統的建家が至る所に残って居り、空に向かって延び、上部を水平に切り取られた細長いピラミッド(pyramid)の様な形で互いに肩を寄せ合う様に部落を作っている。その様子が興味深かったので何度も写真を撮って居た。

 

その間、気が付かない内に近寄って来たアラブ服のやたらと目つきの鋭い男達が「何をしているのか」と尋問して来た。その上に「撮影禁止なのでフィルムを抜いてよこせ」と迫って来る。その有無を言わせない独特迫り方から秘密警察の密偵だと思った。その上、イエメン(Yemen)方面からの密輸、密入国を防ぐ為と思うが、45 キロ毎に検問所が設けられ、その検問所毎にうるさく尋問を受ける。

 

山道である事も重なり、240 キロ足らずの距離に思いがけなく時間が掛かった。ナジュラーン州(Najran)は今日でもサウジアラビアの中で検問の一番厳しい州であり、観光開発との掛け声の阻害要因だと思っている。この時はナジュラーン(Najran)に着いてその見事なナツメ椰子園やローマ軍の砦跡等を訪れた後、宿を探した。やっと見つけた宿がぬかった泥の上にベッドを置いた様な粗末な有様でとても宿泊出来る様な場所は無く、やむなく午後遅くアブハー(Abha)へと引き返す事にした。

 

3.1.2 二回目のナジュラーン往復

 

二回目に往復したのは1997年の9月だった。前述の様に往路の飛行機便でトラブったが、運転手がナジュラーン(Najran)のヤーム族出身のアリー・ヤーミー(Ali Al Yami)だったので、彼の顔で警官が見張りに立って居て通常は入れなかった、当時はサウジアラビアで最大のナジュラーン・ダム(Najran Dam)を訪れたり、イエメン国境の崖地下に広がる涸れ谷の森林公園を訪れたり出来た。この時までにはホリディイン(Holiday-Inn)が既に開業して居り、宿舎の確保には問題無かった。このホテルの一部が知事(アミール(Governor))の宿舎と成っていたので警備は厳重で検問はうるさいが、一旦ホテルに入ってしまえばむしろ安全で快適な一晩であった。

 

3.1.3 エンジン・ブレーキの大切さ

 

後日分かったのだが、問題はアリーの山坂に慣れて居ない運転でブレーキを踏み過ぎ、ブレーキ・シュー(Brake-shoe)を殆どすり減らしてしまった。ブレーキが道中の山道で利かない事は無かったにせよ危なかった。エンジン・ブレーキ(Engine Brake)の大切さをこの時も再認識し、それ以後は運転手任せにはせず、山道や沙漠での運転技術は先ず私自身が取得し運転手を指導する様にした。「サウジアラビアがこの様な山岳道路に対して長い経験と優れた建設技術や走行技術を持っている事はサウジアラビア国内ですら一般には知られて無い」と思う。しかしながら、長く延びた西海岸全部が標高差の大きい崖地である事を考えればこれは当然である。

 

3.1.4 花冠を被ったスカート姿との出会い

 

1997年の9月の往復は一泊二日だったので余裕があり、途中で何度も停車して景色を眺めている。当時はサラート・アビーダ(Sarat Abidah)とザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)の間では花冠を被ったスカート姿のカフターン族(Qahtan)の男達が道に出てきて蜂蜜を売って居た。彼等にカメラを向けると一斉に集まって来て「俺が一番きれいだろう」等と問いかけて来る。笑顔だし、小柄なのでそれほど怖いとは思わなかったが、全員ダガー(Dagger)と言う短剣を腹に差し、手足の筋肉は如何にも敏捷そうで「生まれながらの戦士である」と云われるのも分かる。花冠とスカートに較べ、彼等の着ているシャッの粗末さがチグハグでその上に上半身下着姿の男も居て全体の風貌は貧弱に見えた。

 

3.1.5 禁断のカフターン族部落

 

道路の両側に彼等の部落への小道があるが、いずれも「部族の土地(Tribal Area)につき立ち入り禁止」との看板が立っていた。まだ、政府の統治が完全では無かったのだろう。ファルシャ(Al Farshah)が立ち入り禁止だったかどうかは定かでは無いが、今にして思えばその時に訪れて居ればもっと花冠を被ったスカート姿の男達について知る事が出来たと思う。

 

Dahran al Janoub付近のQattan

 

3.2 ナジュラーンからハミース・ムシャイト、アブハー方面へ

 

3.2.1 ナジュラーンからハミース・ムシャイトへ

 

二回目に南部ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)を訪れたのは1997419日でナジュラーン(Najran)からハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)向かった。この日の天気は晴れ後、曇り一時雨であった。この時は緑化プロジェクトの為の半島縦断の植生土壌予備調査で訪れたので日程としては忙しかった。それにもかかわらず、前日のハルジュ(Al-Kharj)からの長旅で運転手のサウード・バクアーウィ(Saud Al Baq'awi)が寝坊して出発が大幅に遅れ午前920分になってしまった。ホリディイン(Najran - Holiday-Inn)が既に営業を開始して居り宿泊には問題無かった。ホテルの朝食でスクランブル・エッグ(Scramble Egg)を頼んだら、大きな皿にスライス(Slice)したパンをおいてその上に底径 10 センチ、高さ 5 センチのプリン(Pudding)型をしたスクランブル・エッグ(Scramble Egg)にトースト(Toast)を二枚添えて出して来た。同行者の大食漢もさすがにお腹が一杯になった様だ。

 

3.2.2 ナジュラーンからアブハーへ

 

二度目にナジュラーン(Najran)からハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)、アブハー(Abha)方面に向かったのは20001225日でこの日の朝は快晴で見通しも良かったが、後に雲多く風強くなった。1997419日の時は運転手がサウジ人であった為か、町中で迷いもせず、「ホテルを出て、いきなり山の中に入る」と云う感じであった。二度目の時には早朝、7時前出発したが、町の中心にあるナジュラーンホテル(Najran Hotel、標高 1,160 メートル)付近で警官に道を確認すると反対に色々詮索され居留証(Iqama)の提示も求められる。こんな対応では観光誘致には程遠い。一段と目立つの貯水塔のある軍の基地(Compound)の奥がアブハー(Abha)への道だが、道路標識もハッキリせず分かり難い。

 

3.3 東西に走るナジュラーンからザハラーン・ジャヌーブへの支稜

 

3.3.1 採石場と20 キロ付近の峠

 

ナジュラーンから山道に10 キロ位入った辺りの涸れ谷(Wadi)に採石場がある。土煙で霞んでいる中で砂利も採取している。そんな涸れ谷の中でも植物が岩肌に張り付いている。20 キロ付近でナジュラーン(Najran)から登り始めて最初の峠(標高 1,620 メートル)に着く。涸れ谷(Wadi)がここから始まっているのがハッキリわかる。周囲の山々はごつごつしているが、水平に幾重にも同じ位置に筋がついており、水成岩の山の様にも見える。ナジュラーン(Najran)からの登りの途中に花崗岩の露頭の特徴を示す丸みを帯びた黒い石と採石場があったのとの関係が不可解だ。

 

3.3.2 ナジュラーン(Najran)出入り口の検問所

 

30分、25 キロでナジュラーン(Najran)出入り口の検問所(Check-Point、標高 1,630 メートル)に着き、チェック(Check)を受ける。山に囲まれ平地、花崗岩のゴロタと露頭の岩沙漠である。山の上には植生は無いが、涸れ谷(Wadi)の側壁の岩場や花崗岩の風化土の様子を眺める。全体として黒い岩肌をして居り、石切場がある。石切場では有2メートル角程度の角石を切り出している。所々で山羊を放牧させている。山の上の道路は地図からの印象に較べると平坦である。

 

3.3.3 山稜の水成岩と痩せ地の山羊

 

ナジュラーン(Najran)から30 キロ付近で1997419日の時には一旦休憩し、写真を取る。遠くに三匹の山羊が居るのは野生の様にも見える。僅かに植生があり、付近の小さな涸れ谷(Wadi)内の木は高さがせいぜい35 メートルである。こんな不毛に近い所にも山羊は居るが、さすがに駱駝は居ない。

 

山の形が水成岩としか見えない露頭があり、近づく。この岩はオーバーハング(Overhang)が出来やすいらしく、ここもその自然のひさしを利用した山羊の囲い場に成っている。小礫の混じった水成岩であり、水で侵食された跡も水成岩の特徴を成している。ハーイル(Ha’il)の南のターバ(Tabah)で火山灰の堆積を水生岩とばかり思って居た事があったのでその可能性も否定出来ない。付近の山も同じ特徴をして居る。そうであれば火山灰の堆積が侵食されて今の山塊と成った筈である。それにしては範囲が広過ぎる気がする。

 

3.3.4 謎の多い地表の石

 

ナジュラーン(Najran)から45 キロ(標高 1,780 メートル)辺りの道路脇に片麻岩の露頭があり、その土被りには石英が混じっている。65 キロ辺りには再び砂岩らしい露頭がある。礫は含むが、化石は含まないので水成岩とは確定出来ない。土被りには気泡の跡のある火山弾の様な石も混じる。

 

3.3.5 州境の検問所

 

ナジュラーンから84 キロでナジュラーン州(Najran Emirate)とアシール州(Asir Emirate)の州境の検問所(check-point、標高 1,880 メートル)がある。ザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)までは更に24 キロの距離がある。この手前の涸れ谷ハブーナ(Wadi Habounah)への分岐がある筈だが、認識せずに通り過ぎて居た。山中でも運転手のサウード(Saud)120 キロ/hで飛ばして行く。曲がり(Curve)で速度を落としても80 キロ/hは維持している。峠までずうっと石原の連続だった。

 

3.3.6 交通の要所ザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)

 

108 キロを19974191時間半余りで午前1100分にザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)に着ているが、20001225日の時は途中観察して来た為か2時間半掛かってザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)に着いたのは午前915分であった。

 

標高 2,000 メートルあり、道路脇の崖は灰色の節理の入った岩と成る。又、この町の北の山塊には水平の筋が消えて、垂直の節理がある。山も丸みを帯びている。町の北側で、道路脇の岩を採集(Sampling)すると花崗岩を含む基盤岩である。基盤は灰色だが、片麻岩では無いかと思われる。

 

町中にはホテル(hotel)があり、涸れ谷の中に石垣を組み、畑を作って棚畑農業をしている。川には水流があるけれども灌漑用水は井戸を掘り確保している様だ。1997419日にはマントヒヒを見た。この辺りでも山羊を飼って居る。屋根に象徴的な(Symbolic)の凸の縁取りが付いているアシール(Asir)風の古い家が並び、赤い絵壁も見る。しかいながら古い家は新しい様式の家に変わりつつある。

 

博物考古学庁によれば「古代の交易路はザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)の東を通っていた。その交易路は豪雨による山津波を避ける様に設けられ、平な敷石がされて居り、所々に石積みの休憩所や井戸の跡が今日でも残っている」とされているが、私は確認した事が無い。

 

3.4 ザハラーン・ジャヌーブからサラート・アビーダへ

 

3.4.1 花崗岩が風化した丸石のゴロタの岩沙漠タルハ(Al Talhah)付近

 

道路が西から北へと向きを変え、10分位でタルハ(Al Talhah)付近を通過する。周りは黒く花崗岩が風化した山でハーイル(Ha’il)山中の岩肌に似ている。ザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)からハルジャ(Al Harjah)への途中の17 キロで標高 2,110 メートルの辺りに花崗岩が風化した大きな丸石のゴロタの岩沙漠があり、石切場が広がる。みんな丸石である。

 

周囲の山には花崗岩の上に5060メートルの厚さで白から赤褐色の層が同じ高度で連なり、その上が黒い熔岩、或いは噴出岩が堆積して様に見える。そんな山の上にも木が枯れずに生えている。いつから根付いたのか、どの様に水を得て生きているのか不思議だ。黒い山肌の山頂が堆積岩質の様な平頂山(テーブル・マウンティン)が多くなる。

 

Dahran al Janoub付近の風化した花崗岩

 

3.4.2 ハルジャとサラート・アビーダ間の山稜を覆う熔岩台地

 

ザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)から20分程で40 キロ北のハルジャ(Al Harjah)の検問所(標高 2,160 メートル)を通過する。町の北510キロで岩石試料を採集(Sampling)する。白と赤褐色の層は閃緑輝石の様でその上の黒い層は熔岩である。地図ではこの町の南からサラート・アビーダ(Sarat Abidah)の西まで熔岩地帯(Harrat)の印(Mark)が付けてあるが、熔岩は山塊の上の部分だけである。この33 キロ道程の熔岩台地の峠越えには途中二ヶ所、火口の印(Mark)があるが、目では確認出来なかった。

 

サラワート(Sarawat)の山稜が熔岩台地に成っている場所はタブーク(Tabuk)マダーインサーリフ(Madain Salih)の間のハッララハー(Harrat ar Raha)ハッラウワイリド(Harrat 'Uwayrid)およびその南のハッラザビン(Harrat az Zabin)やハッラルーナイル(Harrat Lunayyir)、更にマディーナ(Madinah)からターイフ(Taif)に至るハッラ・ラハート(Harrat Rahat)等ヒジャーズ(Hijaz)山脈には広く一般的に見られるが、アシール(Asir)山脈では他には見て無いので珍しいと思う。道路造りの為に削られた山肌には白、青白、赤等層が現れ、地表は噴石や熔岩に覆われて居る。

 

Al-Harjah510キロの熔岩地帯の閃緑輝石

 

3.4.3 川の流れる農村サラート・アビーダ(Sarat Abidah)

 

35分でこの熔岩地帯を抜け、サラート・アビーダ(Sarat Abidah、標高 2,220 メートル))に着く。タルフ(Talh)とゴロタの花崗岩の岩沙漠ではあるが、この辺りの谷には段々畑が造られている。礫の多い畑で、畑の中に井戸がある。今は農耕を止めている棚畑では石垣が崩れて居り、水があっても作付け不能だ。谷の中には水が流れている。この谷は農耕地の様子あり、行き止まりには土礫を積み上げた石垣式(Rock Fill)のアーチ型のダム(Dam)がある。川には水があるが、所々伏流と成って消えている。でも4月だから耕作は始まっている。周囲の黒い熔岩の岩肌に囲まれた白い建物の目立つ町ではあるが、町に入るとゴミゴミしている。ここでも伝統的なアシール風の家から新しい家に移りつつある。

 

3.5 サラート・アビーダからアブハーへ

 

3.5.1 サラート・アビーダの西側

 

サラート・アビーダ(Sarat Abidah)の町を出ると道路に沿った涸れ谷(Wadi)の流れが棚田へ水をやる為に所々を堰き止められている。道路の側面も土盛りがされ、雨水を貯める様に成っている。10分程で検問所がある。この辺りの農地と成る涸れ谷(Wadi)内に石垣は組んではあるが、放置されている様子で植生は灌木と僅かな下草のみある。ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)の山稜ではナジュラーン(Najran)と異なり、ナツメ椰子(Date)は栽培されて居ない。

 

3.5.2 空白地帯への長い旅の始まり涸れ谷ビーシャの最上流部

 

20分位で涸れ谷ビーシャ(Wadi Bishah)の最上流部となる涸れ谷テンダハ(Wadi Tendaha)でガソリンと食糧を補給する。この辺りが古い交易都市ジャラシュ(Jarash)の跡がある場所だ。20001225日にはサラート・アビーダ(Sarat Abidah)から38 キロ(標高 1,970 メートル)辺りの道路脇にマントヒヒの2030頭の群が近づいて来た。左側なので車を旋回させると大人しくして居たが、カメラ(Camera)を向けると逃げる。道路脇の涸れ谷(Wadi)の水たまりに水を飲みに来たらしい。同じその水たまりに山側から黒いアバヤを被った女性が降りて来た。マントヒヒの群を恐れている感じは全く無い。午前11時頃の木立の木漏れ日が水面に反射しその陰影がマントヒヒの群に囲まれた女性の黒い影を一層神秘的な存在に見せて居た。

 

Ahad Raf’dah西のマントヒヒの遊ぶ涸れ谷の水溜り

 

3.5.3 軍事基地に遮られたアハド・ラフィーダ(Ahad Rufaydah)

 

10分程でアハド・ラフィーダ(Ahad RafidahAhad Raf'dah or Ahad Rufaydah)を通過する。この時は山の上にレーダー・サイト(Radar Site)のある涸れ谷の町程度の認識しか無い。ここでザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)の南の山塊と同じ様に水平の筋を幾重にも持ち水成岩の特徴を持つ山肌の山が東側に幾つか並ぶ。岩山に囲まれた広がりの大きな町であるが、道路の東が町の中心(City Center)でもずうっと軍事施設らしい柵(Fence)で囲い込まれている。

 

3.5.4 ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)

 

新しい家の並ぶ軍事基地(King Faisal Military City)の前を通過する。1997419日の時はナジュラーン(Najran)から240 キロの山道に3時間半かかりハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)には午後1245分に着いた。20001225日の時は所用時間は4時間半でハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)に着いたのは午前11時半だった。

 

ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)では涸れ谷(Wadi)の河川敷で農耕作業をしている。灌漑は涸れ谷(Wadi)の河川敷に井戸が掘ってポンプ(Pump Up)で汲み上げている。涸れ谷の周りには伝統的なアシール(Asir)風の建物が並ぶ。1997419日の時には雨が降って来て、黒い雲の下へ入って行くので目的地のリヤード(Riyadh)まで迄着けるか心配だ。かなり激しい雨ではあるが、時々太陽がのぞく。ハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)からリヤード(Riyadh)まで994 キロもある。

 

3.6 ナジュラーン(Najran)から内陸バイパスを抜けハバラ(Habalah)

 

3.6.1ナジュラーン出入り口

 

2002225日は晴れては居たが、ダストで遠景が靄っていた。午前640分にナジュラーン・ホリディインを出発し途中ウフドゥード(オクデュード(Akhdood or Ukhdood)で同行のM氏と助手を乗せる。アブハー(Abha)への道をハッキリ覚えて無いが、ホリディインとウフドゥードの間を北に折れる筈なので大きな交差点を北に曲がった所でドッカン(サウジ式コンビニ)に入って確認する。外人労働者に聞いただけでは不安なのでサウジを探して尋ね確認する。「アナトール、真っ直ぐ」と言われ、先に進む。やがて何度かのナジュラーン(Najran)訪問で見慣れた町の北外れの石切場が現れ、そこから道路は狭まり西に曲がり登りに入る。

 

25 キロ地点の検問所では相変わらず無意味に居留証の提示を求められる。何しに来て何処の行くまたどこの会社で働いている等同じ様な質問だ。科学技術庁との合弁事業(KACST/PEC)の名刺を見せると暫く読んで行けと言う。本当に字が読めるかは疑問だ。

 

3.6.2 バイパス分岐の堆積岩

 

堆積岩のアシール山塊による隆起を確認したかったので本道から外れ東よりのバイパス道を行くことにした。分岐が予想していた距離よりも早く現れたので停車して何度か確認し、バドル・ジャヌーブ(Badr Al Janoub)の地名を見つける。この64 キロ地点の分岐を北上し始めると火成岩の隆起の上に砂岩が乗っている状況があちらこちらに見受けられる。64 キロ地点の曲がり角から少し入った砂岩の岩山の下で生クリームと蜂蜜とホブツの朝食にする。食事している辺りが堆積岩と火成岩の境界で上が堆積岩で下が火成岩である。同行のM氏のGPSでは北緯1732.626分東経4345.515分海抜2,126メートルと観測された。朝食を摂って出発。

 

3.6.3 段々畑の農業部落と涸れ谷ハブーナ方面へ間道

 

ハダーダ(Hadadah)は長いカーブした坂を下った農業部落で田圃の様に畑を区切っているのを見受ける。ファラ・ジャバル(Fara Al Jabal)付近では花崗岩が砂岩を高く押し上げており、山の上部は砂岩で中腹の上部から下が花崗岩等の火成岩に成って居る。ハーニク(Al-Khaniq)の町は涸れ谷を挟んで道路の東側に並んでいる。ナツメヤシと段々畑や仕切られた畑で作物を栽培している。岩で組んだアシール風の家屋も残っている。

 

64 キロ地点の分岐から37 キロ北の涸れ谷ハブーナ(Wadi Habounah)方面への分岐に出る。更に24 キロ北上し、バドル・ジャヌーブ(Badr Al Janoub)に着いた。地図では街道なのに町の入り口にダムが築かれて居る。出口の二股を右へと進む。道案内もハッキリせず、地図と磁石だけが頼りだ。この辺りから道路は西北西に向きを変える。砂岩が消え、岩山の頂上まで火成岩と成る。

 

3.6.4迷い込んだ部族民達の道(Tribal Route)

 

バドル・ジャヌーブ(Badr Al Janoub)20 キロ東のファイド(Al-Faid)分岐では舗装が切れ、同行のM氏が道を間違えたのでは無いかと言う。丁字路に右から道が交わりそちらの方が道路として整備されている。道を尋ねる為に停車するとM氏の助手)が突然走り出て周りの23人のベドウィンに断り無く写真を撮る。「本人は女性なのでまずい」と思う。案の定、不審に思われ検問が始まる。又、科学技術庁との合弁事業(KACST/PEC)の名刺を見せて何とか切り抜ける。

 

道に自信が無いのでその若いムジャーヒディーンかも知れないベドウィンを含め、片っ端からハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)の方角を尋ねると行く方向を指さして「アナトール、真っ直ぐ行け。」と言う。

 

やがて舗装は切れ工事現場の様な土漠の斜面を曲がりくねりながら土埃をたてながら進む。山崩れで、道が無くなった跡の臨時処置の様だ。ワーディー(涸れ谷)に入ると大雨で流され舗装して無い道路が続く。舗装道路にその度に再び出るが、簡易舗装に毛の生えた程度で道路標識等全く無いM氏の「道を間違えているかも」の言葉で不安は覚えるが、磁石と車の方向表示で間違いなく西を示して居る。ベドウィンが車で通る度に彼らに何度確認しも、「アナトール」との返事なので信じる事にした。地図には幹線と同じ等級の道路で標示されて居るが、いよいよ持って農家の裏庭を通るように成って来るとさすがに不安だ。ただ、道路が複線に成って居た跡を見つけ、少しホットすると間もなく遠く前方を左右に動く車の流れが見えてくる。

 

午前10時半頃にハルジャ(Al Harjah)の北で幹線に直角にぶつかる。幹線も複線が片側使用不能と成って居る。昨年、一昨年の豪雨の凄さを改めて知る。東側の道はそれに加えて長年補修されて無い為に舗装の無くなっている区間もかなりあるのだと思う。又、道路標識は古い道路であるために初めから無いのだと思う。それにしてもこんな道路に幹線マークは付けないで欲しい。その当時は地図を見ても洪水跡の物凄さでこの様に思って居たが、今にして思うと幹線がハルジャ(Al Harjah)に出るのはおかしいのでファイド(Al-Faid)分岐から真っ直ぐに東に向かう部族民達の道(Tribal Route)を来たのでは無いかと思う。ハルジャ(Al Harjah)の手前では幹線とこの未舗装道路の間には果樹園があったのでこの推理はほぼ間違いない。

 

3.6.5山岳道路の交通事故

 

ハルジャ(Al Harjah)の北の熔岩地帯(Harrat)の登りは赤い花崗岩に似た閃緑輝石岩の様に脆く崩れたザレ場が道路の斜面を形成している。やっと、幹線に入って順調に距離を稼ぎ始めたと思って居たら前に車が数珠つなぎに成ってその先で大型のトレーラーが止まり、その運転席がつぶれて周りにたくさんの消防(civil defense)や警察の車が止まっている。下り坂を回り切れずに道路脇のコンクリート・ブロックにぶつかったのか他の車とぶつかったのか分からない。レーバー(外国人の出稼ぎ労務者)がばらまかれた牧草を片づけている。幸い我々の方向の路肩が空いている為にゆっくりではあるが、通過出来た。午前11時頃にサラート・アビーダ(Sarat Abidah or Sarat Aubedah)を通過する。ここから約40キロ先のハバラ(Al Habalah)への分岐に気を付けながら進む。また、消防(Civil Defense)や警察の車が止まっている。こちらも大型トレーラーが下りカーブを曲がりきれずに少しした崖の下に落ちレッカーで吊り上げ様としている。

 

午前11時半頃にマルバ(Marba)分岐を南へ進む。フェンスに沿ってかなり入るが、西への分岐を確認できないので本道に戻る。ジャラシュ(Jarash)の給油所で訊ねても拉致があかない。その給油所の北側に西へと延びる舗装道路を見つけて入り込んだ。この道路はカラアー道路(Al Gara’a Road)と丁字路でぶつかって居た。

 

3.7 ハバラ(Habalah)からナジュラーン(Najran)

 

3.7.1 ハバラからナジュラーンへの幹線道路へ

 

200328 午後15時半にサラート・アビーダ(Sarat Abidah)の北にあるカラアー道路(Al Garah Road)と幹線の交差点でガイドのハジと分かれ南東へ向かう。10分程でジャラシュ(Jarash)分岐のガソリンスタンド前を通過する。伝統建築もキルビー(塗装波形薄鉄板)で補修してあるのが目立ち、興ざめだ。予想通り、ナジュラーンまで三ヶ所の検問所で外国人通過の記録を取る為にスタンバイさせられる。それでも、運転手には良い休憩となったと思う。予想以上の厳しさに同行のU氏は驚いている。それでも1990年代までの厳しさとは桁が違う程検問は緩和されて来て居る。

 

3.7.2 ハルジャ(Al Harjah) の赤い土砂

 

ハルジャ(Al Harjah) の町前後の土の赤い部分が何なのか昔から迷って居たけれどもスーダ(Soudah)の山頂が赤い砂岩である事から砂岩起源でも考える必要がある。赤い砂岩とその根元岩と成った岩、赤い砂岩を押し上げた花崗岩、赤い砂岩の上に乗った溶岩、噴石岩等の組み合わせ、成因等もう一度考え直さなければ成らないが、私自身にはこの町付近の赤い土砂は噴出岩起源に思える。

 

3.7.3 ザハラーン・ジャヌーブの東の砂質堆積岩

 

ザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)の町の東にも完全に砂岩と思われる石もある。砂岩の上に厚く堆積していても噴石が熔岩と考えるべきなのか、これから少し掘り下げる必要がある。砂岩から細長に縦横並行して割れる火成岩(片麻岩)に変わり。その後、その細長に縦横並行して割れる火成岩の下からの赤い砂岩の様な岩が見られる。当分この問題に私は頭を悩ますだろう。

 

3.7.4 ナジュラーン・ホリディイン到着

 

午後19時頃にナジュラーン北入り口のナジュラーン・ホリディイン到着、昨年、カルヤファーウで砂にスタックした時に一緒で運転手兼案内役をしていたマネージャーが歓迎してくれる。明日の為にサウジ人ガイドを頼む。顔見知りに成っているせいかサービスが良く、快適。夕食の後、マダム・スークへ買い物に行く同行の二家族につき合う。やっと、ホテルに戻って記録を付け始め11時近くになった頃、「ご夫人が具合悪くなったので明日の日程をどうするか」と同行のU氏が相談に来られる。結構、記録を付けて寝たのは午前1時半だった。

 

4. サラート(Jibal al-Sarat)への出入り

 

サウジアラビアでアシールと言えば誰もが思い浮かべるのはサラート(Jibal al-Sarat)であり、その四季を通じて涼しく水の流れる緑豊かな山稜は灼熱の乾燥した沙漠の国サウジアラビアでは特別な山岳地帯である。その山稜への二大アプローチはバーハ(Al-Bahah)とハミース・ムシャイト(Khamis Mushayt)であり、それに次ぐのがナジュラーン(Najran)である。これらアプローチについては既に前文で述べているのでここではそれ以外のアプローチを紹介する。又、前述のファイド(Al-Faid)からハルジャ(Al Harjah)へと抜ける部族の部族民達の道(Tribal Route)の様な未舗装の間道についてはその詳細は分からないし、イエメン(Yemen)サヌア(Sana'a)からザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)の道路は国境を越えるのでここでは触れて居ない。しかしながらバーハ(Al-Bahah)からアブハー(Abha)を通りザハラーン・ジャヌーブ(Dhahran Al Janoub)の間の500 キロ余りのこの山岳地域へ出入りする道が10本しか無いと言う事もこの山岳地帯が外の世界から隔絶されていた事を良く物語って居る。

 

4.1 ビーシャ(Bishah) からバーハ(Al-Bahah)への道

 

4.1.1 サプト・ウラーヤー(Sapt al Ulaya)への登り

 

この道はビーシャ(Bishah)から涸れ谷ビーシャ(Wadi Bishah)の支流の涸れ谷タバーラ(Wadi Tabalah)に沿ってサプト・ウラーヤー(Sapt al Ulaya)至る135 キロの登りである。私はサプト・ウラーヤーをアラビア語での「ウラーヤの土曜市」と言うよりはアラビア語での「登りの休憩所」の意味だと解釈している。サプト・ウラーヤー(Sapt al Ulaya)の南5 キロのマシャーイア(Al Mashay'ah)でバーハ(Al-Bahah)とアブハー(Abha)間の幹線につながる他にサプト・ウラーヤー(Sapt al Ulaya)の北にバーハ(Al-Bahah)方面へのバイパスもある。

 

4.1.2 分かり難い登り口

 

211 (火曜日)の晴れ日午前9時前に同行した二組の家族と共にタスリース(Tathlith)を朝に出て140 キロ位沙漠を横断してビーシャ(Bishah)に着く。位置の確認に手間取っていたら土地のサウジ人が「同じ方向に向かうから後を付いて来い」と言うのでそれに従った。彼は間道を通っていきなりサラート(Jibal al-Sarat)の登り口へ案内してくれた。沙漠を抜けて来た目にはアシールの緑は優しく感じる。

 

4.1.3 緑の木陰での快適な昼食

 

正午と成ったので木陰の良さそうな大きなサラム(Salam)の樹を見つけ、涸れ谷に下りて食事する。この場所はビーシャ(Bishah)から西へ80 キロ位の涸れ谷タルジ(Wadi Tarj)の支流が道を横切っている辺りである。この3日間砂の吹く中とか、木陰も無い吹きさらしの沙漠での食事ばかりが続いたので、澄んだ青空の下、風の無いサラムの木陰の食事は楽しい雰囲気だ。ホブツとクリームと蜂蜜を用意したら同行のご夫人達はカップヌードルとお茶を入れて下さった。U氏と子供達は近くに変成し風化した花崗岩の山に登り、景色に感激している。子供達の1人が「お母さんウンコ。」と言い終わらない内にしゃがんで用を足している。余りの速さに驚くが、子供の成長の活力を感じる。

 

4.1.4 稜線の間道

 

一時間程で後かたづけに入り、砂で皿を洗う事を子供達に教える。午後13時出発。30分位、ウトウトして居たら急に道を聞かれ「北へ」と答える。でも方向を確認出来るまでは少し気が重い。10分程でカーディム(Al-Qadim)の少し南で本道に出る。

 

4.2 紅海側の涸れ谷ディリア(Wadi Dala')を通りアブハー(Abha)への道

 

Dala’渓谷を行くバス

 

4.2.1直線的に海岸まで下っている涸れ谷

 

ティハーマに向かって下っている上流部分に急傾斜のアカバト(al-'Aqabat)を持つ涸れ谷の中でもサラート(Jibal al-Sarat)と海岸の間にティハーマ山地(Tihamah)がある為に直線的に海岸まで下っている涸れ谷は少ない。涸れ谷ディリア(Wadi Dala')は標高 2,050 メートルにあるアブハー(Abha)から文字通り標高0 メートルのティハーマ低地(Tihamah)まで一気に下っている。その景観のすばらしさばかりでは無く熱帯から温帯まで広い範囲に及ぶ豊かな植生とこれを利用したティハーマ山地(Tihamah) 棚畑農業の特徴を十分に観察する事が出来る。又、1982年の大洪水で流された橋が崖の見上げる様な高い場所に橋桁ごと張り付いて居たり、橋が分断されて残って居たりと鉄砲水の跡がその物凄さを教えてくれる。この洪水跡を残す中流部は私が最後に訪問した2003年に至っても修理されて居なかった。

 

Dala’渓谷からAbhaを望む-2

 

4.2.2 サウジ産バナナをカフジへ搬送

 

このルートを訪れたのはジーザーン(Jizan)へ往復の為に1987年の冬が初めであった。アブハーで着込んでいた防寒着は下るに連れて暑く着て居られなくなった。次ぎに訪問したのは1997年の9月で中流域のバナナ農園(標高 360 メートル)まで57 キロ下った。バナナ園は平地には見当たらず、この辺りからこの谷の中腹位までところどころで栽培されている。記念に房のたくさん付いた大きな枝を買って運転手のアリー(Ali Al-Yami)1,700 キロ離れたクウェイト南国境のカフジ鉱業所(Al Khafji)へ搬送させた。三日間の道中と車の揺れで殆ど腐ってカフジに無事着いたのは全体の3%にも満たなかった。十分に飴って居り見た目には美味しそうではあったが、試食すると実際はまずかった。バナナは収穫の後、常温で或る程度長期間に保存できる様に青い固い状態のままにして置き、こんな暑い場所さえ、ストーブを入れた室で熟成させ甘みと黄色みを増してから売っている事の意味が分かった。マントヒヒからどう守っているのか興味深い。個人の所有を示すらしいそれほど広く無い範囲で石垣が山の斜面に作られている。なんかせせこましい感じがする。

 

4.2.3 「道路」を意味する町ダルブ(Ad Darb)からの登り

 

快晴ではあったが、多少の霞のかかった199845日にこの涸れ谷を訪れたのは海岸からの登りであった。その時には午後14時頃に海岸低地の「道路」を意味する町ダルブ(Ad Darb)(標高 100 メートル)で町中の何処でも有る様な交差点のジーザーン(Jizan)分岐から登りに掛かる。その次には快晴で微風の中20001227日の午前9時前に同じくダルブ(Ad Darb)からアブハーへと上った。

 

4.2.4 立体交差の分岐

 

山地(標高 170 メートル)に入るとティハーマ(Tihamah)の砂地は直ぐに小石混じりの片麻岩の風化した土壌から片麻岩や花崗岩に変わって来る。15分で15 キロ上のリジャール・アルマア(Rijal Al Ma'a)分岐に差し掛かるとその分岐が立体交差に成っているのには驚く。

 

4.2.5 1982年の洪水被害

 

ここからアブハー(Abha)へは涸れ谷ディリア(Wadi Dala')を通る一本道になる。道が早くに作られたせいか1982年の洪水被害で99%以上の橋は土石流で破損、全壊し、道路もその殆どが仮設状態である。今朝、下ったバーハ(Al Bahah)とマフワー(Al Makhwah)の間の道路は山腹高く路床が作られ、涸れ谷(Wadi)本体を渡る個所を無くして居る。それに比べるとこのジーザーン道路(Jizan Road)は谷底に作られて、流れを幾度も渡り返して居た。この為、土石流の被害にも遭いやすい。又、隧道も一ヶ所位しかなく、山岳道路建設の技術進歩を目の当たりに見る感じである。

 

4.2.6 バナナ農園

 

リジャール・アルマア(Rijal Al Ma'a)分岐の先6 キロにある前述の大きなバナナを買った農園の前(標高 360 メートル)を過ぎる。この周囲の涸れ谷のあちらこちらには暖かい気候を利用したバナナ園が多く、気がつくとこの辺りの道路沿いに結構バナナ売りの店が出ている。20001227日の時には水の流れが出て来ており、鷺を見る。この辺りを過ぎると山道は傾斜が立ってくる。

 

4.2.7 道路脇のマントヒヒ

 

20001227日の時には分岐から42 キロでバナナ園から21 キロ上(標高 520 メートル)で50頭ばかりのマントヒヒが道路に出て来て餌をねだっていた。数匹は交通事故にあっているらしくちんばだ。山を登るにつれ、快晴に成り、景色がすばらしい。199845日の時は午後1440分に分岐から50 キロ付近の工事中だった道路で目の上をマントヒヒの群が横切って行くのを見た。ボスが先頭で全てを取り仕切っているようだ。対岸には仮設道路と弁座(Valve Station)が何カ所も作られている。アシール造水工場(Asir Desalination)で海水から作った清水を標高2,000メートル以上も上のアブハー(Abha)まで送水しているものと思われる。20001227日の時には午前1000分に分岐から64 キロ にある検問所(標高 1,120 メートル)を過ぎたところでも2030頭のマントヒヒを見た。この辺りからアブハー(Abha)を眺めるとそのアラビア語の意味の通りアブハー(壮観)である。

 

Dala’渓谷中流のマントヒヒ-2

 

4.2.8 アブハー(Abha検問所)

 

分岐から78 キロで急坂を登りつめ、紅白の遮断機のある大きな駐車場のあるアブハー(Abha検問所)に一時間余りで着く。到着時刻は199845日の時は1510分で20001227日の時には午前1020分だった。そこを過ぎると山稜の平らな高原に出て周囲が開け明るくなり、突然の様にアブハー(Abha)の緑と白い建物の目立つ、公園都市の環状道路に車は乗り入れる。

 

 4.2.9 涸れ谷ディリア(Wadi Dala')の山岳道路の下り

 

雲多く風強かった20001225日にこの涸れ谷を下った。正午少し前にアブハー(Abha)の検問所から(標高 2,050 メートル)から15分位でジーザーンへの道(Jizan Road)を一頻り下った所(標高 1,450 メートル)で休憩する。午後1230分に検問所(Check Point)を通過し、20分もすると谷は平に成ってくる。流れを挟んで東側に3040頭のマントヒヒの群がいる。川にバナナを投げると、水しぶきを上げながら2頭が近づいて来てバナナを食べる。群の他の猿は見向きもしない。食料が十分なのか、その直ぐ先の道路脇に居た群も特に食料をねだっては居ない。

 

午後1330分にアブハー(Abha)から63 キロ下ったアシール州(Asir Emirate)とジーザーン州(Jizan Emirate)の州境を通過する。涸れ谷は更に平らに成った辺りに鳶が数羽旋回している。鳶を見るのはティハーマだけであり、何故かサラワートを越えてそれより東には見た事が無い。15分程でリジャール・アルマア(Rijal Al Ma'a)への分岐(標高 140 メートル)の立体交差を通過する。

 

4.2.10 駱駝の胡麻挽きと芭蕉椰子

 

自動車修理所(Garage)見たいな日よけ(Sunshade)の中で駱駝に臼を引かせて胡麻を摩って油にして売っているので写真を撮り、一瓶購入する。風が強くなる。ここにも検問所があり、山地からタルフ(Talh)と灌木が繁茂した土漠に変わる。東側に岩山が二つ見える。

 

15 キロ離れたダルブ(Ad Darb)のカウズ(Al-Quz)への分岐(標高 50 メートル)を左折し南東に向かう。芭蕉椰子と私が渾名しているエダウチヤシ(Dawn Palm)が南側に自生している。エダウチヤシはアフリカ産の大きな扇型の葉を付ける椰子で沙漠の土壌を安定させるのに重要な働きをし、その果実は林檎位の大きさで食用になる。この椰子は又、テベスドームヤシとも呼ばれ、英文名はDoom Palm, Doum Palm or Dawn Palmであり、学名はHyphaene thebaicaである。ここからジーザーン(Jizan)までの間、この椰子が涸れ谷(Wadi)等にたくさん自生している。又、畑の中に植えられているものも少なくない。私の経験ではこのエダウチヤシが生えるのは熔岩地帯であるのでここも熔岩があるのだろう。土漠に礫が混じり、植生が疎らになる。

 

4.3 紅海側のマフワー(Al-Makhwah)経由バーハ(Al-Bahah)への道

 

Al-Baha – Al Makhwah Highway-2

 

4.3.1 バーハ(Al-Bahah)から山岳道路

 

この道は199845日に一度下っただけである。この日は快晴で多少の霞がかかって居た。午前800分にホテル(Al-Bahah Palace)(標高 2,100メートル)を出る。15分程でモーテル(otel Al-Bahah)の入り口の少し西側に設けられている検問所(標高 2,050 メートル)を通過し、急な山岳道路を下り始める。5分で昨日、偵察のため下った際に坂の途中で土砂崩れの復旧工事をしていた場所に出る。上の石が又崩れないとも限らない。崖を見上げている内にこの急花崗岩と片麻岩だけの崖にも澤筋があり、木も草も茂り、澤に成って水の流れのある涸れ沢も幾つかある事が分かった。この山岳道路はアブハー(Abha)涸れ谷ディリア(Wadi Dala')道路と違って最近出来たらしくこれまでに溜まった経験(Know-how)を新たに生かしている。この山岳道路は洪水の被害に合わない様に山腹の高い所に設置してあり、随所に隧道や窓開きの隧道、涸れ沢越えの橋が掛けられている。予想に反してアブハー(Abha)涸れ谷ディリア(Wadi Dala')道路よりもずうっと近代的である。

 

ホテルBaha Palace裏のマントヒヒの朝食

 

4.3.2 中腹のUターンと谷底の橋

 

30分程下った南へと下って来た山岳道路が北にユーターーン(U-Turn)する場所(標高 1,450 メートル)で休憩し、片麻岩とそれの風化した土を採る。この大きな涸れ谷の谷底付近では山腹や崗の上に石作りの住居跡が数多く見られる。更に20分下り、幅が広く川床の白く平らな谷底(標高 1,240 メートル)に架かった橋を渡る。石造りの廃虚が幾つか並んで居る。

 

4.3.3 養蜂家と石造りの廃墟

 

その一つの前で養蜂家がテントを張って居る。巣箱が円筒型でそれを56個平らに並べ、上を絨毯の古い様な布で覆っているのが珍しい。運転手のサウード(Saud Al-Baqawi)とそこの昨日から烽火台と呼んで居た石作りの四角の塔を調べる。入り口が無い様だ。サウードの話では多分、屋号の象徴らしい。又、住居と関係なく山稜等に建立されて居るのは道しるべと云う事の様だ。マダーイン・サーリフよりも以前からのものなので良くは分からないとサウードは言っているらしい。この広い涸れ谷の随所の小高い場所に石作りの廃虚があり、この涸れ谷の歴史を感じさせる。

 

4.3.4 マフワー(Al Makhwah)と小さな熱帯雨林

 

午後915分に涸れ谷の入り口(標高 690 メートル)に着く。涸れ谷の奥には採石所が二カ所あり、それの基地にでも成って居るのか。尖塔が高く尖って特色のあるモスクと白い邸宅が78軒並ぶ人口100人程度の部落がある。サクラン(Al-Sakran)(標高 510 メートル)を通過、サウードはエンジン・ブレーキ(Engine Break)の効きに満足したのか平らに成ってもさかんに使っている。

 

午前935分にバーハ(Al Bahah)から30 キロのキルワ(Qilwah)分岐(標高 365 メートル)に着く。農村がずうっと続いて居るのでマフワー(Al Makhwah)がどの範囲か分からないが商店の規模からすれば5,000人程度の町だがその周囲を入れれば10,000人規模になる。午前945分にマフワー(Al Makhwah)から9 キロの二股をジーザーン(Jizan)では無く右へメッカ(Makkah)への道を取る。

 

この二股を過ぎると涸れ谷に110メートル幅の水流が出て来た。その先では1516頭の背中に瘤のある茶色の牛が柵無しで放牧されている。水流は多くなり、幅をますます広げた川床には自生のタマリスクやシドルが緑をたわわに広がっている。大げさではあるが、小さな熱帯雨林の出現の様だ。道は緑一杯の涸れ谷(Wadi)と別れる。

 

4.3.5 ムザイリフ(Muzaylif)

 

午前1000分、(標高 130 メートル)、山地を抜け、丘陵地帯に入る。午前10時半にバーハ(Al Bahah)から84 キロのムザイリフ(Muzaylif)(標高 40 メートル)に着いた。人口5,000人程度の街道町と農村である。この町の少し北側でバーハ州(Al Bahah Emirate)マッカ・ムカッラマ(Makkah Al Mukarramah Emirate)の州境を再び越えているが、特に目印等には気が付いて居ない。

 

4.4 紅海側のムハーイル(Muhayil)を経由してアブハー(Abha)への道

 

4.4.1 4WDオートマティック(Automatic)車の通行禁止の間道

 

この道も一度しか下った事しかない。1997年の9月にはスーダ(Soudah)のザブナフ(Zabnah)の何軒かの商店の有るT字路から下ろうとして検問所の警官に「オートマティック(Automatic)車は通行禁止だ」と厳しく言われた事は前述した通りでその時は新車のGMC四輪駆動サバーバン・オートマティク(Suburban Automatic)に乗って居り、意味が分からず不満であった。でも、後にオートマティク(Automatic)ではエンジン・ブレーキが効かず、この警官の警告の正しい事を知った。199846日にここを通過した際にザブナフ(Zabnah)からの下りはムハーイル(Muhayil)への道への間道に過ぎない事が分かった。20001227日の正午頃にここを通過した時にはムハーイル(Muhayil)への下り口に100頭くらいのマントヒヒが群れて居た。その先にもアタファト(Al Atafat)、タバブ(Tabab)ハーミド(Al Hamid)等からもこの道につながる間道が幹線に出るマラーハ(Al Malahah)との間にある。この時は30分位掛かってザブナフ(Zabnah)からマラーハ(Al Malahah)に出た。そこでは駱駝を50頭位放牧して居り、数は多くは無いが、これでもこの地方では最大に大きな群と言える。

 

4.4.2 それでも急なムハーイル(Muhayil)への下り

 

2002226日は快晴ではあるが、夜中の靄が露になり外気に湿り気を与えていた。ターイフ(Taif)方面に向かい午前8時半過ぎに立体交差のムハーイル(Muhayil)分岐のムサルト(Musalt)に着く。運転手(Alavudeen)はこの山岳道路の下りの余りの急さに緊張を隠せない。エンジン・ブレーキを使う様に繰り返し指示する。気温が上がるに連れ、快晴の空も霞を増す。急勾配はトンネルも含み12キロ続いた。

 

Muhailへの道路

 

4.4.3枝涸れ谷毎の水利権

 

その降りた地点からア’ドル・ディード(A’dl Al Deed)、ア’ドル・ハマシュ(A’dl Al Hamash)、ア’ドル・ナヘイダー(A’dl Naheydah)、エイダ(Al-Eydah)、カリーン(Qareen)、ザハラ(Al Zahra)と次々と地名が出てくるのは枝涸れ谷毎に水利権を有する家族が異なる為だと考えられる。部族と言うには余りにも細分化されているので家族と呼ぶ事にした。この様に部族が細分化されているのもアシール(Ashir)の特徴である。

 

4.4.4 ハミース・ムタイル(Khamis Mutair)経由の間道

 

9時半過ぎに分岐の立体交差から57 キロ下ったムハーイル(Al-Muhayil)に着いたが、道路標識が全く無く分からない。道端に居たサウジの中年のオジさん達にバーハ(Al-Bahah)への道を聞くと「真っ直ぐ北上して左に折れろ」と教えてくれる。この道はムハーイル(Al-Muhayil)市内には入らずハミース・ムタイル(Khamis Mutair)経由の間道と後で分かる。道は完全に山脈と山脈の間を通って居る。駱駝を使った臼で胡麻を轢いて胡麻油を売っているティハーマ(Tihamah)独特の光景を同行のM氏は珍しがって居る。

 

Muhailの胡麻挽きの駱駝

 

4.5. 涸れ谷ハブーナから内陸バイパスに至る間道

 

4.5.1 涸れ谷ハブーナ(Wadi Habounah)からの偵察

 

2002221日は晴れては居たが、風強く一日中ダストであった。朝早くナジュラーン(Najran)を出発してヤダマ(Yadamah)を偵察した後、涸れ谷ハブーナ(Wadi Habounah)に沿った道路に出て来たのは午後1320分だった。給油をしたかったが、ちょうどお祈りの時間でガソリン・スタンドが営業していない。ハブーナー(Habouah)まで14キロなのでそのまま行くことにする。涸れ谷ハブーナ(Wadi Habounah)の川床には2030キロ続くタマリスク(Tamarisk)の大群生が豊かな幅で広がって居る。

 

午後13時半にハブーナー(Habounah)に着く。町入り口の切り通し南側の山にアラビアのお茶室用のあずま屋が立っている。ハブーナーは盆地状に広がる結構な大きさの町である。内陸バイパスに至る間道を探りたいので更に進もうとするとM氏の助手が「パスポートを忘れた」と云う。仕方無いので検問の厳しい西に進まず東に引き返す。ハブーナー(Habounah)から一時間程、涸れ谷ハブーナ(Wadi Habounah)を東に下るとリヤードへの街道に出る。

 

222日は晴れて居り、帰途ハブーナー(Habounah)への丁字路に出て来たので山岳道路を西回りで帰りたいが、M氏が「東周りが短い」と云うのでそれに従ったので間道を偵察出来なかった。

 

4.5.2 ハブーナー(Habounah)分岐の確認

 

2002225日は晴れては居たが、沙塵で遠くが靄っていた。アブハー(Abha)へ向かう途中、前述した様に内陸バイパスに入り込み、午前9時過ぎに幹線から北に37 キロ入ったジマ(Al-Jima)でハブーナー(Habounah)へに分岐を確認した。222日の帰路はここに出てナジュラーン(Najran)に帰る予定で居たが、この山道ではかなり時間が掛かり明るい内に帰り着けなかったと思う。

 

後書き

 

ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)はその主稜、支稜およびその周囲の断崖、渓谷、涸れ谷を合わせサウジアラビアで最も風光明媚で降雨にも恵まれた豊かな土地である。古代から農耕や交易が行われ遺跡史跡も多い地方でもある。残念な事にはこの地方の自然、環境、動植物、歴史、遺跡、伝統、民俗、風習や部族等に関してまとめて紹介する様な本は余りに限られて居り、まして観光案内のガイドブックは作られても居ない。又、ガイドも道路交通ガイドが主な仕事で専門的な知識と見識を持った有能な観光案内人は現在の状況からは望むべくも無い。アブハー、ハミース・ムシャイト、ナジュラーンおよびターイフに四つ星以上のホテルがあるのみで豊かな観光資源、ホテル立地を考えると余りにその数が少ない。

 

ジバ-ル・サラート(Jibal al-Sarat)とその周辺は何度訪れても飽きることは無く、訪れる度に新たな発見がある。高速道路やコンドミニアム等近代的な施設が整備されている一方で私の経験した1520年位の間であってさえ、余りに急速に民俗伝統が失われて居り、今では花冠とスカート姿の男達を目にする事も無いし、アシール独特の建物も廃墟化が進み、維持されていてもサイデリアやキルビーの様な軽量鉄板で暫定補修されている姿が痛々しい。野生動物と自然を声高に言われている程と現実は食い違い残飯で生き残れ得るマントヒヒ、鳶、烏、鷲が増えている一方で多くの野生動物が姿を消してしまっている。曲がりくねって通過も難しく時間の掛かる砂利道交じりの昔の自動車道も姿を変え高速度道路に成った。この事は時間の節約の面では大変有り難い反面、道々で遭遇する地元民や民俗との接点を無くしているばかりでなく特徴あるサラートの山や谷等の地形確認や何より2,000 メートルの高度さのある壮観な崖の景色を楽しむのを難しくしてしまった。

 

サウジも金銭的だけでは無く、文化的に豊かな時代に入って来ており、自然や環境と調和し、野生動植物を保護しながら観光開発含む国土開発を推進して行ける時代に成っていると思うのでただコンクリートと鉄で近代化するだけでは無く、自然保護、伝統、民俗を守りながらの今後の発展に期待したい。

 

以上


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