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2008 年10月25日 高橋 俊二
ヌビア、コルドファンおよびアラビアの旅

( Reise in Nubien, Kordofan und Arabien 1822 - 1827. Frankfurt 1829)


 

エドウアルト ルッペルのジッダに関する簡潔な所見

 

「ヌビア、コルドファンおよびアラビアの旅」

 

ドイツ人科学者エドウアルト ルッペル(Eduard Rüppel)

1829年フランクフルトで出版

(Reise in Nubien, Kordofan und Arabien 1822 - 1827. Frankfurt 1829.)

 

ジッダに関する簡潔な所見

 

ジッダ(Jiddah)が無から偉大で、金持ちで、有名な商業市となったのは本当に運命の気まぐれであり、そこでは全てがどの様に意味深い集落の設立をも妨げていると想像させる。先ず、評価する様な本当の港が無い。投錨地は無く珊瑚礁に沿った停泊地があるだけだ。船はこの珊瑚礁を取り抜ける航路を困難と危険を伴いながら探し出さなければ成らなかった。港は町からかなり遠く離れており、小さい舟でさえ浅い水深の為に船に近づくには回り道をしなければ成らなかった。

 

汚れた飲み水は全ての住人に健康に良くない生活を強いた。周囲の完全な不毛と輸出可能な商品の欠如が海上交易の中心としてのこの市の基盤に克服できない障害を明らかに作る出していた。しかしながら、確かにジッダ(Jiddah)は最も有望で恐らく紅海岸で最も金持ちな市である。

 

 

 

この市の全ての家は石で作られ、数階建てであり、美しい正面玄関を持ち、快適な内装が施されていた。道路は真っ直ぐで広く、清潔であった。小塔と門を持つ高い壁が石造りの家並みよりも遙かに広い境界で市全体を囲っていた。自分の推定ではこの市の住人の数は4万人位である。幾つかの区域はこの町で必要となる全ての物資および外国への輸出可能な品を揃えた商店で占められている。これらの品はインド、中国および欧州の工場から輸入されている。10月と5月には食糧市はメッカ近傍の農場から来た様々な種類の緑野菜が十分に供給されている。遠くタイフ(Taif)からは葡萄、蜜柑およびアーモンドが売るために送られて来た。アラビア人達はこれらの土地の肥沃さをエデン(Eden)と記述しようと争っていた。

 

ジッダでは食糧が一般的に比較的高価なであり、従って労賃も高かった。ここでは全てが輸入され、消費者は魚を除いて基本的な物資は第三者を経由して手に入れなければ成らなかった。魚は数多く、手頃な価格で見つけられた。

 

「一般論として、ジッダの住人は特別に親切な性格で、人助けに熱心であり、同時に商人的な強欲さは殆ど見受けられなかった」と云うのが自分の見解である。

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